Soranoha

細雪

ささめゆき

谷崎 潤一郎

一

幸子さちこは去年黄疸おうだんを患わずらってから、ときどき白眼しろめの色を気にして鏡を覗のぞき込む癖がついたが、あれから一年目で、今年も庭の平戸の花が盛りの時期を通り越して、よごれて来る季節になっていた。或ある日彼女は所在なさに、例年のように葭簀張よしずばりの日覆ひおおいの出来たテラスの下で白樺しらかばの椅子にかけながら、夕暮近い前栽せんざいの初夏の景色を眺ながめていたが、ふと、去年夫に白眼の黄色いのを発見されたのがちょうど今頃いまごろであったことを思い出すと、そのまま下りて行って、あの時夫がしたように平戸の花のよごれたのを一つ一つ毟むしり始めた。彼女のつもりでは、夫がこの花のよごれたのを見るのが嫌きらいなので、もう一時間もしたら帰宅する筈はずのその人の眼を喜ばすために、庭先を綺麗きれいにしておきたかったのであるが、ものの三十分もそうしていると、うしろに庭下駄にわげたの音が聞えて、へんに取り済ました顔つきをしたお春が、手に名刺を持ちながら飛び石を伝わって来た。

「この方が、御寮人様ごりょうんさんにお目に懸りたい仰おっしゃっていらっしゃいます」

見ると、奥畑の名刺であった。―――たしか、一昨年の春であったか、一度この青年が来訪したことはあったけれども、平素出入りを許している訳ではないし、女中達などの前ではその名を云うことさえ控えているくらいなのであるが、お春のこう云う取り済まし方は、明かにあの新聞の事件を知り、この青年と妙子との関係を察していて、気を廻しているものに違いなかった。

「今行きます。応接間にお通ししときなさい」

手が花の蜜みつでべとべとしているので、彼女は洗面所へ行って蜜を洗い落して、二階でちょっと顔を直してから出た。

「えらいお待たせ致しまして、………」

一と目で純英国製と知れる、殆ほとんど白無地に近い明るいホームスパンの上衣に鼠ねずみのフランネルのズボンを穿はいた奥畑は、這入はいって来た幸子の姿を見ると、少しわざとらしい感じのする、仰々しい急激な動作で椅子から立ち上りながら「気を付け」のような姿勢をした。妙子より三つか四つ年上であった筈であるから、今年三十一二ぐらいになるであろうか、この前会った時はまだ幾分か少年時代の面影を留めていたのに、この一二年の間に大分肥満したらしいのは、追い追い紳士型の体つきに変りつつあるところなのであろう。でも、あいそ笑いをして此方こちらの顔色を窺うかがい窺い、心持ち頤あごを突き出して訴えるような鼻声で話しかける様子に、矢張「船場せんばの坊ぼんち」らしい甘ったるさが残ってはいた。

「どうも御無沙汰ごぶさたしてしまいまして、………一遍お伺いせんならん思うてましてんけど、お許しのないのんに上ってええのんやらどうやら思うて、………お宅の前までは二三遍参ったんですが、よう這入らんとしまいましてん。………」

「まあ、気の毒に。何で寄ってくれはれしません」

「僕、心臓弱いもんですさかい、………」

奥畑は早くも心安そうに、うふ、ふ、ふ、と鼻の先で薄笑いをして見せた。

奥畑の方では何と思っているか知れないけれども、幸子の彼に対する気持は、前に訪問を受けた時とは多少異なるものがあった。それと云うのが、もう奥畑の啓坊けいぼんは昔のような純真な青年ではなくなっているらしいと云うことを、近頃しばしば夫から聞かされるからなのであるが、貞之助は附合いの関係でいろいろの機会に花柳界へ足を蹈ふみ入れることがあるので、よくそう云う方面から奥畑の噂うわさを聞いて来る。その話に依よると、奥畑は始終宗右衛門そえもん町辺に出没するばかりでなく、どうやら馴染なじみの女などがあるらしいと云うのであった。で、啓坊がああ云う風になっていることを、こいさんは知っているのだろうか、もしこいさんが今もなお、雪子ちゃんが何処どこかへ縁づくのを待って啓坊と結婚するつもりでい、啓坊もそんな約束をしているのであるなら、お前からこいさんに注意した方がよくはあるまいか、啓坊のああ云う行いが、こいさんとの結婚が容易に許して貰もらえないで待ちくたびれた結果の焼けであるとすれば、酌量しゃくりょうの余地がないでもないが、それでは「真面目まじめな恋愛」だと称している看板に偽りがあることにもなり、第一今日の非常時に不謹慎であると云うべきで、今迄までは蔭かげの同情者であった自分達としても、あれを改めてくれない限り、将来二人を一緒にすることに骨を折ると云う訳には行かない、―――と、貞之助はそう云って、内々気を揉もんでいる様子だったので、幸子はそれとなく妙子に聞いてみたことがあった。妙子はしかし、啓ちゃんの一家は先代のお父さんの時から花柳界に親しむ傾向があり、啓ちゃんの兄さんや伯父さんなどもお茶屋遊びが好きなので、啓ちゃん一人がそうと云う訳ではない、それに啓ちゃんの場合は、貞之助兄さんのお察しの通り私との結婚問題がすらすら運ばないところから、つい其方へ足が向くようにもなるので、そのくらいなことは啓ちゃんの若さでは已やむを得ないと、私は思っていた、馴染の芸者があるなどと云うことは初耳だけれども、恐らく噂にとどまることで、はっきりした証拠でもあるなら格別、私にはそれは信じられない、但ただしこの事変下に不謹慎であると云う批難は免まぬかれないし、誤解を招くもとでもあるから、これからは是非お茶屋遊びを止やめるように忠告しよう、私の云うことなら何でも聴く人だから、止めてほしいと云えば止めるに違いない、と云うようなことで、別にそのために奥畑を悪く思う風でもなく、そんなことぐらい前から分っていたことだ、驚くには当らないと云ったように落ち着き払っていたので、幸子の方が顔負けをした程であった。貞之助は、それほどこいさんが啓坊を信じているなら、何もわれわれが余計なお切匙せっかいをすることはないと云っていたものの、矢張気に懸ると見えて、その後も機会があるとその方面の女たちに様子を聞いてみることは怠らなかったが、妙子が忠告した結果かどうか、最近にはあまり花柳界での噂を聞かないようになったので、内心喜んでいたところ、今から半月ばかり前の或る晩の十時頃、梅田新道から客を送って大阪駅へ行く途中で、自動車が投げるヘッドライトの圏の中に、酔った足取りで女給じょきゅうらしい女に寄り添いながら歩いて行く奥畑の姿をちらと捉とらえたことがあったので、さては近頃はこう云う方面で潜行的に享楽を追っているのだなと心づいた。幸子はその晩夫からそのことを聞いた時に、こいさんには何も云わんと置きなさいと云われたので、もう妙子には話さなかったが、こうして今この青年に向い合って見ると、気のせいか、顔つきや物の云い方にも何処となく真率を欠いたところがあって、「どうも近頃のあの男には好意が持てない」と云う夫の言葉に同感したくなるのであった。

「―――雪子ちゃんですか、―――はあはあ、―――いろいろなお方が心配してくれはりまして、絶えず話はありますねんけど」

幸子は奥畑が、しきりに雪子の縁談の模様を聞きたがるのは、自分の方も早くしてくれと云う間接の催促なのであろう、どうせそれが目的で来たのに違いないので、今にそのことを云い出すのであろうが、そうしたら何と答えようか、この前の時も単に「聞いて置く」と云う態度で終始したつもりで、何も言質げんちを取られている覚えはないが、今度は夫の考が前と変って来ているとすれば、尚更なおさら注意して物を云わなければならない、私達は二人の結婚の邪魔をする気はないけれども、最早や二人の恋の理解者であるとか同情者であるとか云う風に思われたくはないのであるから、そう云う思い違いをされないだけの挨拶あいさつをする必要があろう、と、内々そんな心づもりをしていると、奥畑は急にちょっと居ずまいを改めて、口付の煙草の灰を拇おやゆびでトントンと灰皿に弾はじき落しながら、

「実は僕、今日はこいさんのことで此方こちらの姉さんにお願いせんならんことが出来まして、お邪魔に上ったんですが、………」

と、相変らず幸子のことを「姉さん」と呼んで話し始めた。

「さあ、どんなことでございましょうか」

「………姉さんは勿論もちろん御承知のことと存じますけど、近頃こいさんは玉置徳子の学校へ通うて洋裁の稽古けいこしてはりますな。それはまあええとしましても、そのために人形の製作の方がだんだん不熱心になって来て、最近殆ど仕事らしい仕事してはれしません。そんで僕、どう云う考か知らん思うて聞いてみましたら、もう人形みたいなもん厭いやになった、もっとみっちり洋裁を習うて、将来はその方を専門にやる、今のところ、人形の方もたんと注文受けているし、弟子もあるさかい、一遍に止めることは出来んけど、追い追い弟子に跡を譲ることにして、自分は洋裁の方で立って行きたい、それには姉さん達の諒解りょうかいも得て、半年か一年ぐらい仏蘭西フランスへ遣やらしてもろて、彼方で修業したと云う肩書を得て来んならん思うてる、云うてはりますねん。………」

「へえ、こいさんそんなこと云うておりますか」

幸子は妙子が人形製作の余暇に洋裁の稽古をしていることは聞いていたけれども、今奥畑が云ったようなことは全く初耳なのであった。

「そうですねん。―――僕こいさんのしやはることに干渉する権利あらしませんけど、折角こいさんが自分の力であれだけのものにしやはって、世間でもこいさん独得の芸術として認めるようになった仕事を、今ここで止めてしまやはる云うことはどうですやろうか。それもただ止める云うだけやったら分ってますけど、洋裁をする云うのんが、分りませんねん。何でもその理由の一つとして、人形やったら何ぼ上手に作ったかて、ほん一時の流行に過ぎん、直きに世間から飽かれてしもて、今に買うてくれる人もないようになる、洋裁やったら実用的なものやさかい、いつになっても需要が衰えん云やはりますねんけど、何でええとこのお嬢さんが、そんなことしてお金儲もうけんならんのですやろか。もう直き結婚しやはる人が、自活の方法講じんかてええやありませんか。僕が何ぼ甲斐性かいしょうなしでも、まさかこいさんにお金の不自由さすようなことせえしませんよってに、職業婦人みたいなことはせんと置いてほしいんです。そら、こいさんは手先の器用な人ですさかい、何か仕事をせずにはおれん云う気持は分りますけど、お金儲けが目的でのうて、趣味としてやる云うのんやったら、仮にも芸術と名の付くものの方が、どのくらい品もええし、人聞きもええか。人形の製作なら、ええとこのお嬢さんや奥さんの余技として、誰に聞かれたかて耻はずかしいことあれしませんけど、洋裁は止めてほしいんですねん。恐らくこれは僕ばかりやない、本家や此方でもきっと僕と同意見に違いない、僕請うけ合うとくさかいに相談してみなされ云うてましてんけど、………」

平素の奥畑はいやにゆっくりゆっくりと物を云う男で、そこに何か、大家の坊々ぼんぼんとしての鷹揚おうようさを衒てらう様子が見えて不愉快なのであるが、今日は興奮しているらしく、いつもよりも急せき込んだ口調で云うのであった。

「それはまあ、御親切に御注意下さいまして有難うございます。何にしましても、一遍こいさんによう聞いてみませんことには、………」

「はあ、何卒どうぞ是非お聞きになって下さい。こんなこと迄まで申し上げたら出過ぎてるかも知れませんけど、もしほんとうにそない考えてはるのんやったら、何とか一つ、姉さんからも意見して下さって、思い止まらして戴いただくこと出来しませんやろうか。それから、洋行のことですけど、僕は仏蘭西へ行ったらいかん云うのんやあれしません。何かもっと有意義なことを勉強しに行かはるのんやったら、一遍行って来やはるのもええことですし、そう云うては失礼ですが、費用ぐらい出さして戴きます。そして、僕かて一緒に附いて行きます。ただ洋裁を習うために出かける云うことは、どうしても感心出来ませんので、まさかそんなこと、許さはる筈はない思いますけど、何卒それだけは止めさせて下さるようにお願いしたいのです。まあ洋行したいのやったら、結婚してからでも晩おそくはないのですし、僕としてはその方が都合がええのんですが、………」

幸子は実際、妙子に質ただしてみないことには、彼女がどう云う考でそんなことを云っているのか諒解に苦しむ点が多いのであったが、それは兎とに角かく、この青年が妙子の将来の夫たることを既に公然と認められているような口の利きき方をするのに、軽い反感と滑稽こっけいとを覚えながら聞いていた。奥畑のつもりでは、自分がこのことをお願いに上ったと云えば、大いに幸子から同情もされ、打ち明けた相談もして貰えるものと思い込み、巧うまく行けば貞之助にも紹介して貰えるものと期待して、わざと今頃の時間を狙ねらって来たのであるらしく、「お願いの件」を話してしまっても、なかなか簡単には引き取ろうとしないで、あれかこれかと此方の心持に探りを入れて来るのであったが、幸子はなるべく要点を外して応対をし、いろいろ妹のことについて御注意を戴いて有難いと云った風に、此方からは努めて他人行儀な口を利いた。と、夫が帰って来たらしく、表に靴くつの音がしたので、彼女は慌あわてて飛んで行って、

「ちょっと! 啓坊が来てはるねんわ」

と、玄関のドーアを開けながら云った。

「何の用で」

貞之助は土間に立ったまま、妻が手短かに耳元で囁ささやくのを聞き取ってしまうと、

「それやったら、僕は会う必要ないやないか」

「あたしかてそない思いますねん」

「何とか云うて帰って貰いなさい」

でも奥畑はそれからまだ三十分もぐずぐずしていて、とうとう貞之助が出て来る様子がないと見ると、やっと慇懃いんぎんな挨拶をして立ち上ったが、

「何のおあいそものうて、えらい失礼いたしまして、―――」

と、幸子はそう云って送り出しただけで、夫が会わなかったことについては、わざと言訳をしないでしまった。

二

奥畑の話が本当とすれば腑ふに落ちかねることなのであるが、妙子は近頃も矢張仕事が忙しいと云っていて、朝は大概貞之助や悦子と前後して出かけ、戻りはいつも一番おそく、三日に一度は外で夕飯を済まして帰宅するという風であった。で、幸子はその晩は話をする折がなかったので、翌朝夫と悦子とが出かけた後から、妙子がつづいて出て行こうとするのを、

「ちょっと」

と止めて、

「こいさんに聞きたいことがあるねん」

と、応接間へ連れて行って話した。

妙子は自分のことについて奥畑が姉に告げたこと、―――人形の製作を洋裁に乗り換えようと欲していること、そのために短期間でも仏蘭西へ修業に行きたいと思っていること、等々を否定しようとはしなかった。しかしだんだん尋ねて行くと、それには一つ一つ相当な理由があって、妙子としてはなかなかよく考えた結果であることが分った。

人形の製作に飽きた訳と云うのは、自分ももう大人になったのであるから、いつ迄までも少女のするようなたわいのない仕事をするよりは、何かもっと社会的に有意義なことをやりたい、そしてそれには、自分の天分なり、嗜好しこうなり、技術修得の便宜なりから、洋裁が一番よいと考えるに至った。なぜなら、洋裁には早くから趣味を持っていて、ミシンを使うことも上手であるし、ジャルダン・デ・モードやヴォーグなどと云う外国の雑誌を参考にして、自分の服は勿論もちろんのこと、幸子や悦子の物などをも縫っていたくらいで、習うと云っても、全然初歩から始めるのではないから、上達も早く、且かつこれならば将来一人前の腕になれるという自信が持てるからであった。彼女は人形の製作が芸術で洋裁が品の悪い職業だと云う奥畑の意見を一笑に附して、自分は芸術家などと云う虚名は欲しくない、洋裁が品が悪いなら悪くても構わぬ、いったい啓ちゃんがそんなことを云うのは時局への認識が足りないからで、今は子供欺だましの人形などを拵こしらえて喜んでいられる時代ではあるまい、女性と雖いえどももっと実生活につながりのある仕事をしなければ耻はずかしい時ではないか、と云うのであったが、幸子は、そう云う風に云われてみると如何いかにも尤もっともで、一言も反対する余地はないように感じた。しかし察するところ、妙子がそう云う健気けなげなことを心がけるに至った裏面には、内々奥畑と云う青年に対する愛憎あいそ尽かしが含まれているのではあるまいか、つまり、奥畑との間は、新聞にまで謡うたわれた仲であって、義兄や姉たちや世間に対する意地もあるから、そう簡単に彼を捨ててしまう訳にも行かないので、口では負け惜しみを云っているのであるが、事実はもうあの青年に見きりを付け、時機を待って結婚の約束を解消したいのが本心なのではあるまいか、それで洋裁を習いたいと云うのは、そうなった場合に自分は自立するより外に道がないと見て、その時に備えるつもりなのであろう、奥畑には妙子のそう云う深い底意が分らないので、「ええとこのお嬢さん」が何でお金儲もうけをしたがったり、職業婦人になりたがったりするのか、合点が行かないのであろう、と、幸子は一往そう解釈した。そして、そう解釈すると、仏蘭西へ行きたいと云う意味も頷うなずけるのであって、妙子の腹は、洋裁を習うと云うこともあろうけれども、それよりは洋行を機会に奥畑と離れることが、主たる目的なのであろう、だから奥畑に附いて来られては工合が悪い訳で、恐らく何とか口実を設けて、一人で行くことを主張するであろうと思えた。

けれども猶なおよく話して行くと、幸子のこの推察は半ば当っているようでもあり、半ば外れているようでもあった。彼女は妙子が他から説得されるのでなしに、自発的に奥畑を見限るようになってくれれば、それが一番望ましいことでもあるし、又妙子にはそのくらいの分別はあるものと信じてもいたので、なるべく気に触ることは云わないようにしながら、少しずつ遠廻しに尋ねただけなのであるが、それが果して本心なのか、負け惜しみの見せかけなのかははっきりしないけれども、妙子が表面何気ないようにして洩もらす言葉のふしぶしを綜合そうごうすると、兎に角今のところでは、奥畑を見限る心などはなく、矢張近い将来に彼と結婚する気でいるものと判断するより外はなかった。彼女に云わせると、自分は今日では啓ちゃんと云う人間が典型的な船場の坊々ぼんぼんであって、ほんとうに取柄のない詰まらない男であることを誰よりもよく知っているので、今更そのことについて貞之助兄さんや中姉なかあんちゃんに注意を受ける迄もない、尤も、今から八九年前、始めて啓ちゃんを恋した頃には、自分はまだ思慮の足りない小娘であったから、実は啓ちゃんがこんな下らない人間であるとは知らなかった訳であるが、しかし恋愛と云うものは、相手の男が見込みがあるからとか、下らないからとか云うことのみで、成り立ったり破れたりするものではあるまい、少くとも自分は、なつかしい初恋の人をそう云う功利的な理由で嫌きらいにはなれない、自分は啓ちゃんのような下らない人を恋するようになったのも何かの因縁と思うばかりで、後悔はしていない、ただ啓ちゃんと結婚するについて、心配なのは生活の問題である、啓ちゃんは株式組織になっている奥畑商店の重役をしている[#「している」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「してゐ、」]その外にも、結婚すれば長兄から分けて貰もらえる筈はずの動産や不動産があるのだそうで、当人は世の中と云うものを甘く考え、一向心配していないけれども、自分はどうも、啓ちゃんと云う人はゆくゆく財産をなくす人であるような気がしてならない、現に今日でも、啓ちゃんは決して経済的に辻褄つじつまの合う生活をしているのではなく、毎月のお茶屋の勘定とか、洋服屋や雑貨屋の支払とか云うものが可なりの額に上るので、いつも母親に泣き付いて臍繰へそくりを融通して貰うのだと聞いている、が、それも母親の在生中[#「在生中」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「存生中」]だけで、彼女に万一のことがあったら、必ず長兄はそんな贅沢ぜいたくをさせてはおくまい、奥畑家にどれ程の資産があるにしても、啓ちゃんはその家の三男坊であって、既に兄の代になっているとすれば、そう多くの分け前を期待する訳には行くまいし、殊ことにその兄が妙子との結婚に余り賛成でないような場合には尚更なおさらである、仮に相当のものを分けて貰ったとしても、株に手を出すとか、人に欺されるとか、云うようなことに引っかかり易やすい性格であるから、しまいには兄弟たちにも見放されて食うにも困るような日が来ないとも限らない、自分にはどうもその不安があり、そうなった時に「それ見たことか」と世間の人に後指をさされたくないから、生活の点で全然啓ちゃんと云うものを当てにしないで行けるだけの、―――反対に、自分がいつでも啓ちゃんを食べさせて行けるだけの、―――職業を身につけ、初めから啓ちゃんの収入に頼らないでやって行きたい、自分が洋裁で自立することを思い付いた動機の一つは此処ここにある、と云うのであった。

尚又、幸子は妙子の話のうちに、彼女が最早や東京の本家へは決して引き取られない覚悟でいることも、ほぼ察しがついた。尤もこのことは、本家の兄や姉たちも雪子一人をさえ持て余しているくらいで、さしあたり妙子を呼び寄せる意志はないらしいと云うことを、いつぞや雪子も云っていたのであるが、今日となっては、たとい本家が呼び寄せようとしても、恐らく妙子はそれに応じないであろうと思えた。彼女は義兄が東京へ移住して以来一層締まり屋になったと云う噂うわさを聞くにつけても、自分は多少の貯えも出来ており、人形の方で収入もあることだから、もっと月々の仕送りを減らして貰ってもよいと思っている、本家も六人の子供達が追い追い成長するし、雪姉きあんちゃんのことも見て上げなければならないし、なかなか経費が懸るであろうから、何とかして兄さんや姉ちゃんの負担を軽くして上げたいと思っているので、そのうちには全然仕送りを断ってもやって行けるようになるであろう、ただ、兄さんや姉ちゃんに是非聴き入れて貰いたいのは、来年あたり仏蘭西へ修業に行くことを許可してくれることと、お父さんから預かっている筈の私の結婚の支度金の一部、もしくは全部を、その洋行費として出してくれることである、自分は兄さんが自分のために預かっているものが何程あるかよく知らないが、半年か一年間の巴里滞在費と往復の船賃ぐらいには事を欠かないであろうから、何卒どうぞ是非それを出して貰いたい、自分は万一洋行のためにその全額を費してしまって、結婚の支度に一文も残らないようになっても文句は云わない、で、以上に述べた自分の考や計画を、今直ぐでなくとも、適当な時に中姉ちゃんから本家へ伝えて諒解りょうかいを得て貰いたい、自分もそのことを頼むためになら、一度東京まで話しに行ってもよい。そう云って彼女は、奥畑が洋行の費用を出して上げると云っていることなどは、てんで問題にもしなかった。啓ちゃんはいつも、洋行しやはるならお金は僕が出さして貰うと云っているのだが、今の啓ちゃんにそんな実力があるかないか、当人よりも私の方が知っている、啓ちゃんはお母さんに泣き付いて出して貰うつもりかも知れないが、まだ結婚もしないうちからそんな恩恵を受けるのは厭いやである、又結婚してからにしても、啓ちゃんの財産には自分は一切手を付けたくないし、啓ちゃんにも手を付けさせないつもりでいる、自分は何処どこ迄も自分のお金で、単独で行きたい、そして啓ちゃんには、自分が洋行から帰って来るまで何とか大人しく待っているように、今後は中姉ちゃんの所へうるさいことを云って来ないように、よく云い聴かせて納得させるから、何卒構わないでおいて貰いたい、と、そう彼女は云うのであった。

貞之助は、こいさんがそこ迄考えているなら余計な差出口はしない方がよい、ただ自分達としては、こいさんのその決心が何処まで真剣でしっかりしたものであるかをもう少し見極め、これなら大丈夫と云う見通しが付いた上で、本家へ取次ぐなり何なり、積極的に尽力しよう、と云い、それで一と先ずその問題は治まったが、妙子はその後も依然として忙しい生活をつづけていた。奥畑の話だと、最近の彼女は人形の製作に不熱心だと云うことであったが、彼女自身はそれを否定して、いや、自分は本当はもう製作をしたくないのだけれども、方々から注文があるのと、少しでも貯金を殖やしたいのと、生活費も相当に懸るのと、いろいろの理由でこの頃は前より一層働いている、自分としても早晩この仕事を止めるについては、一つでも多く立派な作品を作って置きたいと思って張り切っている、と、そう云っていた。そしてその間に、毎日一二時間ずつ本山村の野寄にある玉置徳子女史の洋裁学院に通うばかりでなく、山村舞の稽古けいこもずっと続けていると云う活動ぶりであった。

舞についても彼女は単に趣味で習うのではなく、将来は名取の免状を貰って、その方でも一人前の師匠として立てるようになりたい、と云った風な野心を持っているらしかった。その時分、彼女は二代目山村さく、―――四代目市川鷺十郎さぎじゅうろうの孫女まごむすめに当るので俗に「鷺さくさん」と呼ばれた、大阪に「山村」を名告なのる舞の家筋が二三軒ある中で最も純粋な昔の型を伝えていると云われていた人の稽古場へ、大体週に一回ずつ通っていたが、その稽古場と云うのは、島の内の畳屋町たたみやまちの狭い路次を這入はいった芸者屋の二階にあった。何分そう云う場所柄であるから、通って来る者の大半はくろうとで、しろうとの弟子、―――分けても堅儀な家の「娘とうちゃん」と云っては数える程しかいなかったが、妙子はいつも舞扇と和服を入れた小型の鞄かばんを提げて来て、稽古場の隅すみで洋服を和服に着換え、自分の番を待ちながらくろうとたちの間に交って相弟子の稽古を見物したり、顔馴染かおなじみの芸者や舞妓まいこに話しかけたりすると云う風なので、実際の歳を考えれば別に不思議はないのだけれども、おさく師匠を始め誰も彼女を漸ようやく二十歳前後と見、それにしては落ち着きのある如才のないお嬢さんだと思っているらしいのを、妙子自身は擽くすぐったく感じていた。そこへ習いに来る弟子達は、くろうとでもしろうとでも、近頃だんだん上方の舞が東京の踊に圧倒されて行く傾向のあるのを慨なげき、このままでは衰微してしまう郷土芸術の伝統を世に顕あらわしたいと云う考から、山村舞に異常な憧あこがれを寄せている人々が多く、特に熱心な支持者達は郷土会と云うものを組織し、神杉と云う弁護士の未亡人の家に集って月に一回お浚さらいをする例になっていたが、妙子はその会にも出席して、自分もしばしば舞うと云う程の打ち込み方であった。

貞之助や幸子達も、妙子が舞う時は雪子や悦子などを連れて見物に行ったものなので、自然その会の人々とも昵懇じっこんを重ねるようになったが、そんな関係から、妙子が幹事の人に頼まれたと云って、六月の会場に蘆屋あしやのお宅を貸して戴いただけないでしょうかと云う話を持って来たのは、今年の四月の末であった。実は郷土会も、去年の七月以来時局に遠慮して暫しばらく中止していたところ、そう云う研究的な質素な集りのことであるから、この際自粛して催すのなら差支えないであろうと云う者が出て来、神杉さんのお宅も毎度のことで御迷惑であろうから、一遍場所を変えてみたらと云う意見なども現れたと云う訳なのであったが、幸子たちも好きな道なので、神杉さんのお宅のような十分な設備は整わないけれども、それさえお構いなかったらと、部屋を提供することにした。で、神杉家では置き舞台の用意などがあるのだけれども、それを大阪から蘆屋まで運んで来るのは厄介やっかいであるから、蒔岡まきおか方では階下の二た間つづきの洋間の家具を取り払い、食堂のうしろに金屏風きんびょうぶを立てて其方を舞台にし、応接間の方を見物席として、絨毯じゅうたんの上に坐すわって見て貰うことにする。楽屋には二階の八畳の座敷を当てる。会は六月の第一日曜日、五日の午後一時から五時頃まで。妙子も当日は出さして貰って、「雪」を舞う。と云うようなことが取り極められたので、五月に這入ると、妙子は週に二三回も稽古場へ通って練習を励み出したが、特に二十日から一週間のあいだ、おさく師匠の方から毎日蘆屋の家へ出向いて稽古を附けてくれた。本年五十八歳になるおさく師匠は、元来が蒲柳ほりゅうの質であるところへ、腎臓の持病があり、めったに出稽古などに来てくれる人ではないのに、もう初夏の暑い日ざかりに、大阪の南みなみの方から阪急電車で出向いて来てくれると云うのは、破格の好意なのであって、それは一つには、妙子が全くの「娘とうちゃん」でありながらくろうとに交って精進する熱心さに絆ほだされたせいもあるが、一つには山村舞の頽勢たいせいを挽回ばんかいするには、従来のような引っ込み思案では駄目だめであることを悟るようになった結果でもあるらしかった。だがそうなると、今迄は稽古場の関係で諦あきらめていた悦子までが習いたいと云い出したので、娘ちゃんが稽古おしやすのであったらこれから月に十日ぐらいは上らして戴いてもよろしいと、勧め上手に云ってくれるおさく師匠の口添えもあって、彼女もこの機会に手ほどきをして貰うことになった。

おさく師匠の来る時刻は、その日その日で違っていて、大体明日は何時に来ますと云う約束をして帰るのだけれども、時間が一向正確でなく、一時間も二時間も狂うことがあり、天気が悪いと来ないでしまうことなどもあるので、忙しい中を早くから来て待つようにしていた妙子も、しまいには馴なれて、おさく師匠が見えてから電話で知らして貰い、悦子が稽古している間に夙川しゅくがわから駈かけ付けると云うようにした。でも病身なおさく師匠は、事実此処まで出かけて来るのが容易なことではなかったのであろう。先ず応接間で一服しながら二三十分も幸子と世間話などをして、やがて徐おもむろに、テーブルや椅子を片寄せた食堂の板の間で稽古するのであったが、口三味線で地を唄いながら型を示すのに、息ぎれがしていかにも苦しそうに見える折があったり、昨夜から又少し腎臓の気があるのだと云って、むくんだ青い顔をしていることがあったりした。しかしそのわりには元気にしていて、「わての体は舞で保もってまんねん」などと云って、そんなに病気を苦にしている様子もなかったが、謙遜けんそんのつもりか本気でそう思っているのか、「わては口下手や」と自分では云っていながら、実は非常な話術家で、人の真似まねをするのが殊に上手で、ちょっとした雑談の間にも幸子たちをひどく可笑おかしがらせた。恐らくそれは、この師匠の祖父にあたると云う四代目市川鷺十郎あたりから伝わった才能なのであろう。そう云えばおさく師匠の顔は、小柄な身長の割合に大作りな面長な顔で、一見して明治期の俳優の血筋を引いていることが窺うかがわれ、こう云う人が昔に生れて、眉まゆを落し、鉄漿かねをつけ、裾すそを曳ひいていたらどんなに似つかわしかったであろうと思われるのであったが、彼女が人真似をする時は、その大きな顔が千変万化して、真似ようと思う人の表情を、恰あたかも仮面めんを着けたように自由自在に浮かべるのであった。

悦子は学校から帰って来ると、毎年お花見の時より外にはめったに着ることのない和服を着て、足に合わない大ぶりの足袋たびを穿はいて、観世水かんぜみずに四君子しくんしの花丸の模様のある山村流の扇をかざして、

弥生やよいは御室おむろの花ざかり

三味しゃみは太鼓[#「三味は太鼓」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「三味太鼓」]ではやす幕の内

互に見合わす顔と顔

と云ったような文句で始まる「十日戎とおかえびす」の替え唄の舞を教わるのであったが、日の長い時分のことなので、悦子が済んで妙子が「雪」を舞う頃になっても、庭はまだ明るく、平戸の花の遅咲きの分がぱっと燃えるように芝生の青に照り映えていた。お隣のシュトルツ氏の子供たち、―――ローゼマリーとフリッツとは、近頃は殆ほとんど毎日、悦子の帰りを待ち受けて此処の応接間で遊ぶようになっていたのが、さしあたり好い遊び場と遊び相手を奪われた形で、不思議そうにテラスの所から覗のぞき込みながら、悦子たちの舞の手振を眺ながめていたが、しまいには兄のペータアまでが見物に来るようになった。或る日フリッツはとうとう稽古場へ上って来て、幸子たちがおさく師匠のことを「おッ師匠しょはん、おッ師匠はん」と呼ぶのを真似て、

「おッ師匠はん」

と呼んだので、おさく師匠は剽軽ひょうきんに、

「はあーい」

と、声を長く引っ張って返事をした。と、ローゼマリーも面白がって、

「おッ師匠はん」

と、呼んだ。

「はあーい」

「おッ師匠はん」

「はあーい」

おさく師匠は真顔になっていつ迄でも「はあーい」「はあーい」と返事をしながら、碧あおい眼を持つ少女と少年の相手をしているのであった。

三

「こいちゃん、写真屋さんが這入はいらしてもろても構いませんか云うてはるよ」

悦子は今日の会の御愛嬌あいきょうに、「弥生は御室の花ざかり」を一番最初に舞わされたのであったが、まだその着附と化粧のままで、楽屋になっている二階の八畳へ上って来た。

「何卒どうぞ、―――」

「雪」の衣裳いしょうの着附がすっかり出来上ったところで、転こけないように右手で床柱に掴つかまりながら、立ったままでお春に足袋を穿はかせて貰もらっていた妙子は、潰つぶし嶋田しまだの首は動かさずに、宙に据すえていた眼だけをちらと其方そちらへ向けた。悦子はいつも洋服を着ているこの若い叔母が、用意のために十日ほど前から日本髪に結って和服を着出したのを知ってはいたものの、さすがに今日の変り方には呆気あっけに取られたように眼を見張った。妙子が着ている衣裳と云うのは、実は本家の姉の鶴子が昔婚礼の時に用いた三枚襲がさねの一番下の一と襲ねなのである。妙子は、今日のはお浚さらいと云っても小人数の集りであるし、それでなくてもそう云うことは差控えるべき時局下であるから、新しく衣類を調える迄までもないと考えて、幸子と相談した結果、本家の姉のこの衣裳がまだ上本町の蔵に置いてあることを思い出して、それを借りることにしたのであったが、父が全盛時代に染めさせたこの一と揃そろいは、三人の画家に下絵を画かせた日本三景の三枚襲ねで、一番上は黒地に厳嶋いつくしま、二枚目は紅地に松嶋、三枚目は白地に天あまの橋立はしだてが描いてあるのであった。今から十六七年前の大正の末年頃、姉が結婚した時に一度手を通しただけの衣裳であるから、殆ほとんど新しい物と同じようにしゃんとしているのであるが、故金森観陽かなもりかんようの筆に成る橋立の景色の一と襲ねに、黒繻子くろじゅすの帯を締めた妙子は、化粧の加減か、いつものような娘らしさがなくなって、大柄な、立派に成育し切った婦人に見え、そう云う純日本式のつくりをすると、顔が一層幸子に似て来て、ふっくらと頬ほおのふくらんだところに、洋装の時には見られない貫禄が添そわっていた。

「写真屋さん、―――」

と、悦子は、階段の中途に立ちながら二階の廊下へ首だけ出して妙子の姿を覗のぞき込んでいる二十七八の青年に云った。

「―――あの、何卒どうぞ這入って下さいて」

「『写真屋さん』云うたら悪いわ、悦ちゃん。『板倉さん』云いなさい」

妙子がそう云っている暇に、板倉は「御免やす」と云いながら這入って来て、

「こいさん、その儘ままじっとしてとくなさい。―――」

と、直ぐ閾際しきいぎわに膝ひざを衝ついてライカを向けた。そしてつづけざまに、前から、後から、右から、左から、等々五六枚シャッターを切った。

階下の会場では、悦子の次に「黒髪」、「桶取おけとり」、「大仏」が出たあとで、五番目に「作さくこう」と云う名取の娘の「江戸みやげ」が済み、今休憩の時間に這入ってお茶やちらし鮨ずしの接待が始まっていた。見物席に当てられた応接間には、今日舞う人達の家族の外にはわざと案内を出さないようにしたために、精々二三十人ほどの頭数が見えているだけであったが、その中に交ってローゼマリーとフリッツとが、最前列に席を占めて、ときどき膝を崩くずしたり胡坐あぐらを掻かいたりしながらも、大人しく座布団ざぶとんの上にすわって、一番最初の悦子の舞から見物していた。外のテラスには、この二人の母であるヒルダ・シュトルツ夫人もいた。彼女は今日の催しのことを子供達から聞いて、是非見に行くと云っていたのであるが、さっき悦子のが始まる時にフリッツが知らせに行ったので、庭の方から這入って来たのであった。そして、何卒お上りと云うのを、いえ、わたし此処ここの方がよろしいですと、テラスへ籐椅子とういすを出して貰って、そこから舞台の方を見ていた。

「フリッツさん、今日はえらい大人しおまんな」

と、白襟しろえりに裾すそ模様のある縫い紋を着たおさく師匠が、舞台の金屏風きんびょうぶの蔭から出て来てフリッツに云った。

「ほんになあ、何処どこの国のお子達でんねん」

と、見物席の中にいた神杉未亡人が云った。

「此処の娘とうちゃんのお友達で、独逸ドイツのお方のお子達でんねん。わてとえらい仲好しで、いつも『おッ師匠しょはんおッ師匠はん』云うてくれはりまんねんで」

「そうでっか。そんでも感心によう見てはりまんなあ」

「それにまあ、ちんと行儀ようすわりやはって、―――」

と、誰かが云った。

「ええと、独逸の娘とうちゃん、あんさんのお名前何とやら云やはりましたな、―――」

と、おさく師匠はローゼマリーと云う名が思い出せないで、

「―――あんさんも、フリッツさんも、そないしてはったらお御足みあが痛いことおへんか。痛かったらお御足みあお出しやしたら」

そう云われてもローゼマリーとフリッツとは、どう云う訳か今日はまるで別人のように済まし込んで、むずかしい顔つきで黙りこくっていた。

「奥さん、あなたそれお上りになりますか」

と、貞之助は、シュトルツ夫人が膝の上にちらし鮨の皿を載せて、不器用に箸はしを使い始めたのを見つけると云った。

「あなたそんな物お上りになれんでしょう。御迷惑だったら止やめて下さい」

そう云って貞之助は、

「おいおい、何かもっと、シュトルツさんの奥さんに食べられそうなもんないのんか」

と、見物席にお茶を配って廻っているお花に云った。

「ケーキか何かあったやないか。あのお鮨貰うて来て、外のもん持ってって上げなさい」

「いえ、わたし食べます。………」

と、シュトルツ夫人は、お花が鮨の皿を貰おうとするのを拒みながら云った。

「ほんとうですか、奥さん、あなたそれお食べになるんですか」

「ええ、食べます、わたしこれ好き。………」

「そうですか、お好きなんですか。………おいおい、そしたら匙さじか何ぞ持ってって上げなさい」

シュトルツ夫人は本当にちらし鮨が好きであるらしく、お花から匙を受け取ると、その皿のものを一粒も残さず平げてしまった。

休憩時間の次は妙子の「雪」の番なので、貞之助はさっきから気が気でなく、何度も階段を上ったり降りたりしていたが、階下で暫しばらく客の相手をしていたかと思うと、又上って来て楽屋を覗いた。

「おい、もうそろそろ時間やで」

「この通り、支度出来てますねん」

―――八畳の間では、幸子と、悦子と、板倉写真師とが、椅子に腰かけた妙子を取り巻いて坐りながら、ここでも四人がちらし鮨を食べていた。妙子は衣裳を汚さないように膝の上にナフキンをひろげて、分厚い唇くちびるの肉を一層分厚くさせつつ口をOの字に開けて、飯のかたまりを少しずつ口腔こうこうへ送り込みながら、お春に茶飲み茶碗ぢゃわんを持たせて、一と口食べてはお茶を啜すすっているのであった。

「あんさん、どないです」

「僕今下で食べて来た。―――こいさんそんなに食べてええのんかいな。『腹が減っては戦が出来ぬ』云うことは聞いてるけど、舞を舞うのんにお腹なか張ってたら苦しいことないやろか」

「そうかて、この人、お昼御飯もあんじょう食べてえへんのんで、ふらふらで舞うたら引っくり覆かえる云いますねん」

「文楽の太夫たゆうは語ってしまうまで何も食べん云うやないか。舞と義太夫とは違うにしたかて、あまり食べんと置く方がええで」

「兄さん、うち、そんなに食べてえしませんねんで。口紅に触らんように少しずつ何遍も持って行くよってに、たんと食べてるみたいに見えますねん」

「僕さっきから、こいさんのお鮨食べはるのん感心して見てまんねん」

と、板倉が云った。

「何で」

「何でて、こう、金魚が麩ふウをぱくつくみたいに、口を円くあけはって、えらい窮屈そうにしながら、そのわりにたんと食べはりますな」

「何や、人の口元ばかり見てる思うたわ」

「そうかて、ほんまやわ、こいちゃん」

と、悦子が声を挙げて笑った。

「そんでも、こないして食べるもんや云うこと、教おせてもろてん」

「誰に」

「おッ師匠はんとこへ来る芸者の人に。―――芸者が京紅きょうべに着けたら、唇を唾液つばきで濡ぬらさんようにいつも気イ付けてるねんて。物食べる時かて、唇に触らんように箸で口の真ん中へ持って行かんならんよってに、舞妓まいこの時分から高野豆腐こうやどうふで食べ方の稽古けいこするねん。何でか云うたら、高野豆腐は一番汁気を吸うよってに、あれで稽古して、口紅落さんようになったらええねん」

「ふうん、えらいこと知ってはりまんなあ」

「板倉君は、今日は見物に来たのかね」

と、貞之助が聞いた。

「なかなか。―――見物もさして貰いますけど、写真撮らして貰いに来てまんねん」

「今日の写真も絵端書にするのんか」

「絵端書にはせえしません。―――こいさんが日本髪に結やはって、舞まい舞まやはる姿なんかめったに見られしませんよってに、記念のために写さして貰おう思うて」

「今日のは板倉さんのサーヴィスでんねん」

と、妙子が云った。

板倉と云うのは、阪神国道の田中の停留所を少し北へ這入った所に「板倉写場」と云う看板を掲げて、芸術写真を標榜ひょうぼうした小さなスタディオを経営している写真館の主人であった。もとこの男は奥畑商店の丁稚でっちをしていたことがあって、中学校も出ていないのであるが、その後亜米利加アメリカへ渡ってロスアンジェルスで五六年間写真術を学んで来たと云うのだけれども、実はハリウドで映画の撮影技師になろうとして機会を掴つかみ得なかったのだと云う噂うわさもある。そして帰朝してから間もなく、今の場所に開業するに際しては、奥畑商店の主人、―――啓坊けいぼんの兄が多少の資金を出してやったり、得意先を世話してやったり、いろいろ庇護ひごを加えてやった縁故があるので、啓坊も贔屓ひいきにしていたところ、ちょうど妙子が自分の製作品を宣伝するために然しかるべき写真師を捜していたので、啓坊の紹介でこの男に頼むようになった。で、それ以来、妙子の製作品の写真は、パンフレット用のも絵端書用のも、板倉が一手で引き請うけて撮影していると云う訳で、板倉は始終妙子から仕事の注文を貰っている上に、広告もして貰っているようなものであったし、それに啓坊との関係も知っているので、妙子に対しても啓坊に対するのと同じような口の利きき方をしてい、端はたから見ると主従のように思われることもあった。貞之助たちと懇意になったのも、妙子との繋つながりからであることは勿論もちろんで、亜米利加仕込みの、隙間すきまがあれば何処へでも喰くい込んで行くと云った風な如才ない男であるから、今では此処の家庭へも何となく入り込んでしまった形で、女中たちなどにも満遍なく愛嬌あいきょうを振り蒔まき、今に御寮人ごりょうんさんにお願いしてお春どんをお嫁に貰うのだなどと冗談を云っていた。

「サーヴィスやったら僕等も写して貰おうやないか」

「そうですなあ、一つ撮らして貰いましょかなあ。―――こいさんを中に挟はさんで、そこへ皆さんで列ならんで下さい」

「どんな風に列びましょ」

「旦那さんと御寮人ごりょうんさんと、こいさんの椅子の後にお列び下さい。―――そうですそうです、それから悦子娘とうさんはこいさんの右側に立って下さい」

「お春どんも入れて貰い」

と、幸子が云った。

「そんなら、お春どんは左側に。―――」

「東京の姉ちゃんがいやはったらええのになあ」

不意に悦子がそう云ったので、

「ほんに」

と、幸子も云って、

「後で姉ちゃんに知らしたげたら、どんなに残念がるやろか」

「何でお母かあちゃん、姉ちゃんを呼んだげへなんだの。今日のことは先月から分ってたんやないの」

「そない思わんでもなかったけど、四月に帰って行ったばかりやさかいにな。―――」

ファインダアを覗いていた板倉は、幸子の瞳ひとみが急に微かすかに潤うるんだような気がしたので、はっとして顔を上げた。貞之助も同時にそれに心づいたが、でも、何のために妻の表情が俄にわかにそんな風になったのか、―――あの三月の失敗以来と云うもの、折に触れては胎児のことを思い出して涙ぐむのが癖になっていて、時々それで驚かされることはあるにしてからが、今のはそれではないようであるし、ちょっと見当が付きかねる、―――こうして椅子に掛けている妙子の今日の装いを見るにつけても、本家の姉がこの衣裳を着て式を挙げた遠い昔の日のことを想い起して感慨無量になったとでも云うのか、そうでなかったら、こう云う浮いたことではなしに、妙子が晴れの装いを凝らして嫁ぐようになるのはいつの日であろうかと思い、まだその前に雪子と云うものがあることなどにも思い及んで、悲しくなったとでも云うのであろうか、恐らくそれらの総すべてのことが妻の心頭に湧わいたのかも知れないと、貞之助は察した。それにしても、今日の妙子のこの姿を見たがっている者が、雪子の外にもう一人いる筈はずだと思うと、流石さすがに貞之助はその男の心中を可哀かわいそうにも感じたが、そう云えば板倉が写真を撮りに来ているのは、事に依よると啓坊の云い付けなのではあるまいかと、ふっとそんな風に気が廻った。

「里勇さとゆうさん」

と、妙子は撮影が済んでしまうと、部屋の向うの隅すみの姿見の前で、「雪」のあとに出る「茶音頭」の支度をしている、二十三四歳の芸者と見える人を呼んだ。

「―――済みませんけど、あんたにお願いがありますねん」

「何でんねん」

「あのなあ、ちょっと彼方あっちの部屋まで来とくなされしませんか」

今日舞う人達の中には四五人のくろうと、―――舞の師匠を職業にしている名取の婦人たちと、芸者が二人交っていたが、里勇と云うのは宗右衛門町から出ている妓こで、おさく師匠から特別に可愛がられている山村流の舞い手であった。

「うち、裾曳ひいて舞うたことないよってに、よう舞うかどうか心配やねん。ちょっと彼方で裾のさばき方教おせて貰うて来るわな」

妙子はそう云うと立って里勇のところへ行って、何かこそこそと耳打ちをして、

「わてかて頼りのうおまんねんで」

と、里勇が云っているのを、「ちょっと頼みます、ちょっと、………」と云いながら廊下の向うへ引っ張って行った。

階下ではもう地方じかたが並んだと見えて、胡弓こきゅうと三味線の調子を合わす音がきこえた。

妙子はそれから二十分ばかり里勇と二人襖ふすまを立てきって自分の居間に這入り込んでいたが、

「こいさん、旦那さんが早よしなさい云うてはりまっせ」

と、板倉が迎えに行った途端に、

「ふん、もうええねん」

と云いながら襖を開けた。そして、

「板倉さん、この裾持って来て、―――」

と、板倉に着物の裾を持たせながら階段を降りた。

貞之助も、幸子も、悦子も、妙子の後からぞろぞろ繋がって降りて行ったが、貞之助は舞が始まると、そうっと見物席の中へ這入って、一生懸命に舞台の妙子を見上げている独逸の少年の肩を叩たたいた。

「フリッツさん、あの人、誰か分りますか。―――」

フリッツは矢張むずかしい顔をしたまま、それでもちらと振り返って点頭てんとうして見せたが、直ぐ又舞台の方へ向き直った。

四

その舞の会があってから、ちょうど一箇月目の七月五日の朝の事であった。

いったい今年は五月時分から例年よりも降雨量が多く、入梅になってからはずっと降り続けていて、七月に這入はいってからも、三日に又しても降り始めて四日も終日降り暮していたのであるが、五日の明け方からは俄にわかに沛然はいぜんたる豪雨となっていつ止やむとも見えぬ気色であった。が、それが一二時間の後に、阪神間にあの記録的な悲惨事を齎もたらした大水害を起そうとは誰にも考え及ばなかったので、蘆屋あしやの家でも、七時前後には先まず悦子が、いつものようにお春に附き添われながら、尤もっとも雨の身拵みごしらえだけは十分にしたことだけれども、大して気にも留めないで土砂降りの中を学校へ出かけて行った。悦子の学校は阪神国道を南へ越えて三四丁行ったあたりの、阪神電車の線路よりも又南に当る、蘆屋川の西岸に近い所にあって、いつもならお春は国道を無事に向う側へ渡してしまうと、そこで引き返して来ることが多いのであるが、今日はそう云う大雨なので、学校まで悦子を送り届けて置いて、帰って来たのは八時半頃であっただろうか。途中彼女は、余り降り方が物凄ものすごいのと、自警団の青年などが水の警戒に駈かけ歩いているので、廻り道をして蘆屋川の堤防の上へ出、水量の増した川の様子を見て戻って来て、業平なりひら橋の辺は大変でございます、水が恐ろしい勢でもうすぐ橋に着きそうに流れておりますなどと語っていたが、それでもまだそんな大事に至ろうとは予想すべくもなかった。で、お春が帰ってから十分か二十分の後に、今度は妙子がエメラルド色のオイルシルクの雨外套あまがいとうを着、護謨靴ゴムぐつを穿はいて出かけようとした際にも、こいさん、まあえらい時に出かけるねんなあと、幸子が云ったことは云ったけれども、今朝は妙子は夙川しゅくがわではなしに、午前中に本山村野寄の洋裁学院へ行く日だったので、これぐらいな雨何でもあれへん、水が出たら却かえって面白いわ、などと冗談を云い云い出て行ったのを、止めないでしまった。ただ貞之助だけは今少し小降りになるのを待つ積りで、書斎で調べ物などをしながらぐずぐずしていると、やがてけたたましいサイレンの音を聞いたのであった。

その時雨は最も激しく降り出していたが、貞之助が見ると、此処ここの邸内で一番低いと思われる、ちょっとした雨にもよく水が溜たまる書斎の庭の東南の隅すみの、梅の木の下が二坪ばかり池のようになっている外には、自分の家には何の異状も認められなかったし、それに此処は蘆屋川の西の岸から七八丁は離れているので、別に危険が迫っているとは感じられなかった。しかし悦子の行っている小学校は、此処よりはずっと川の近くにあるので、もし堤防でも切れたとすればどの辺が切れたであろうか、あの小学校は大丈夫であろうかと云うことが、第一に彼の頭に来たが、幸子に無用な心配をさせまいと云う心づかいから、わざと落ち着いて、少し時間を置いて離れから母屋の方へ来た。(その、離れから母屋へ渡る五歩か六歩の間にもびしょ濡ぬれになった)そして、今のサイレンは何ですやろうと幸子が云うのを、さあ、何か分らないが大したことではないやろうと云いながら、兎とも角かくもその辺まで出て見るつもりで、薩摩絣さつまがすりの単衣ひとえの上に洋服のレインコートを纏まとって玄関の方へ行こうとすると、えらいことでございますと、お春が顔の色を変えて、腰から下を泥どろまみれにして裏口から駈かけ込んで来た。彼女はさっき増水の様子を見てから、何となく小学校の方面が気になっていたところへサイレンが鳴ったので、途端に外へ飛び出して行ったのであると云う。と、水は直ぐこの家の一つ東の辻まで来ていて、山手から海の方へ、―――北から南へ、滔々とうとうたる勢で流れている。彼女は試みにその水の中を東へ向って進みかけたが、最初は脛すねを没する程度であったのが、二三歩行くと膝ひざまで漬かってしまい、危く足を浚さらわれそうになったと思ったら、人家の屋根の上から、こらッ、と怒鳴る者があった。こらッ、この水の中を何処へ行く、女の癖に無茶なことすなと、えらい剣幕で怒鳴られたので、誰かと思って見たら、自警団員らしい服装はしているけれども顔見知りの八百常やおつねの若主人であった。何やねん、あんた八百常さんかいなと云うと、向うも気が付いて、お春どん、あんた何処へ行かはるねん、この水の中を気でも違うたんか、これから先は男でも行かれへん、川の近くは家が潰つぶれたり人が死んだりしてえらいこっちゃがなと云う。だんだん聞いてみると、蘆屋川や高座川の上流の方で山崩やまくずれがあったらしく、阪急線路の北側の橋のところに押し流されて来た家や、土砂や、岩石や、樹木が、後から後からと山のように積み重なってしまったので、流れが其処そこで堰せき止められて、川の両岸に氾濫はんらんしたために、堤防の下の道路は濁流が渦うずを巻いていて、場所に依よっては一丈ぐらいの深さに達し、二階から救いを求めている家も沢山あると云う。お春は何よりも小学校が心配なので、あの辺はどうであろうかと云うと、さあ、あの方面の様子はよく分らないが、いったいに国道から上の方がひどくやられているらしいから、川下の方はそんなでもないかも知れない、それに被害は東岸の方が甚はなはだしいので、西岸は東岸程ではないと云う噂うわさだが、あの小学校の辺は如何であろうかと云う。そんな話では心もとないから何とか廻り道をしてでも学校まで行ってみたいのだがと云うと、いや、何処をどう廻っても水に漬からずには行く道がない、而しかも東へ行けば行くほど水が深くなる、深いだけならよいが、流れが早いので足を浚われる危険があり、上から大きな材木だの石だのが押し流されて来るから、そんな物に打ぶつかったらそれきりで、悪くすれば海まで流されて行ってしまう、自警団員なら綱にでも掴つかまって必死[#「必死」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「決死」]の覚悟で渡って行くけれども、とても女などがそんな恰好かっこうで行けるものではないと云われて、仕方なしに一と先ず帰って参りましたと、そうお春は云うのであった。

貞之助は直ぐに小学校へ電話を懸けてみたけれども、既に不通になっていた。よし、そんなら僕行って来る、と、彼は幸子に云ったが、幸子が何と答えたかは覚えていない。ただ玄関を出ようとする時、一杯涙を溜めた眼をじーッと此方に注ぎながら一瞬間しっかりと抱き着いたのを覚えているだけである。彼は和服を一番悪い洋服に着換えて護謨ゴムの長靴を穿き、レインコートに防水帽を被かぶって出かけたが、半丁ほど行って振り返ると、後からお春が尾ついて来るのに心づいた。彼女は先刻アッパッパのようなワンピースを泥だらけにして濡れ鼠ねずみで帰って来たのであるが、今度は浴衣ゆかたに襷たすきを掛け、臀端折しりはしょりをして紅い腰巻を出していた。何や、お前は附いて来んかてええ、帰んなさいと怒鳴ると、はい、其処まで行かして戴いただきますと云いながら追って来て、旦那さん、其方へいらしったらあきません、此方の方がよろしゅうございますと、東へ行かずに、南へ真っ直ぐに下って行くので、貞之助もそれに従って国道まで出た。そしてなるべく南の方へと迂回うかいして、阪神電車の線路の北一二丁程のところまでは、大して水に漬からずに来ることに成功したが、小学校へ達するのには、その辺でどうしても東へ横切らなければならなかった。が、幸いその辺は水が浅くて長靴とすれすれぐらいの深さしかなく、阪神の線路を越えて旧国道の手前まで来ると、意外にも一層浅くなっていた。その時漸ようやく行く手に小学校の建物が見え、生徒たちが二階の窓から顔を出しているのが分ったが、ああ、学校は別状[#「別状」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「別条」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「別條」]ない、ああよかったと、後の方でひどく興奮した声で独語ひとりごとを云う者があるので、気が付いて見ると、お春がまだ尾いて来ているのであった。さっきは貞之助がお春の後から来たのであるが、何処でお春を追い越したのか覚えがない。彼は流れが相当に早いので一歩々々蹈ふみしめて行かなければならないのと、長靴の中へ水が這入って足が重くなっているのとで、歩くのに気を取られていたのであったが、貞之助より身長の低いお春は、紅い腰巻を殆ど全部泥水に漬け、蝙蝠傘こうもりがさをさすことを断念してそれを杖つえの代りに衝つき、流れに足を取られないように電信柱や人家の塀へいに掴まりながら、ずっと後おくれて来るのであった。彼女の独語は有名で、映画などを見に行っても、ああええなあとか、あの人どないするのんやろとか、ひとりで感心したり訝いぶかしんだり手を叩たたいたりする癖があるので、お春どんと映画館へ行くのは閉口やと云われているのであるが、今この際きわどい流れの中でその癖を出しているのかと思うと、貞之助は可笑おかしくなった。

幸子は夫が出て行ったあと、自分も何かじっとしてはいられなくなって、いくらか雨が小降りになったのを幸いに門の前まで出て見ると、そこへ蘆屋川駅前のガレージの運転手が通りかかって挨拶あいさつをしたので、小学校の様子を先ず尋ねた。すると、自分は行って見ないけれども、あの小学校は恐らく一番安全であったらしい、彼処あそこへ行く迄までの間には水の出た区域があるけれども、あの小学校の所は位置が高いので浸水していないと云う話であるから、多分大丈夫でしょうと云う答であった。幸子はそう聞いて少しほっとしたが、運転手はそれに附け加えて、蘆屋川もひどいけれども、住吉川の氾濫の方が遥はるかにひどいと云う噂が専もっぱらである、電車は阪急も省線も国道も皆不通なので、はっきりしたことは分らないが、西の方から歩いて来る人達に聞いてみると、此処から省線の本山駅あたりまでは、出水もそれ程ではなく、線路の上を伝わって行けば水に漬からずに行けるけれども、あれから先は、西へ行くほど一面に茫々ぼうぼうたる濁流の海で、山の方から大きな波が逆捲さかまきつつ折り重なって寄せて来て、いろいろな物を下流へ押し流している、人が畳の上に乗ったり木の枝に掴まったりして助けを呼びながら流れて行くけれども、どうすることも出来ない有様だと云うことです、と云う話に、今度は寧むしろ妙子の安否が気遣われて来た。彼女の通っている本山村野寄の洋裁学院と云うのは、国道の甲南女学校前の停留所の辺を少し北へ這入った所にあって、住吉川の岸から直径二三丁に過ぎないので、今の運転手の話だと、どうしてもその濁流の海の中にあるらしく思える。彼女が洋裁学院へ行く時は、国道の津知つじまで歩いて出て、そこからバスで行くのであるが、そう云えばさっきお宅のこいさんが国道の方へ下りて行かはるのと、僕そこで擦すれ違いました、青いレインコート着たはりましたな、あの時刻に出かけはったんやったら、向うへ着かはってから間もなく水が出たぐらいやったかも知れません、小学校よりも野寄の方がずっと心配でっせと、運転手も云うのである。幸子は何と云う訳もなしに慌あわてて門の内へ駈け込みながら力一杯の声で、

「お春どん」

と呼んで見たが、お春どんは旦那様のあとから出て行ったきりまだ帰って来ませんと云う。途端に幸子は子供のように顔を歪ゆがめて泣き出してしまった。

お秋とお花とがびっくりしたように黙って泣き顔を視詰みつめているので、少しきまりが悪くなって応接間からテラスへ逃げて来て、まだしくしくと噦しゃくり上げながら、幸子が庭の芝生の方へ降りて行った時であった。シュトルツ夫人が境界の金網の上から首を出して、これも青ざめた顔をしながら、

「奥さん」

と呼んだ。

「奥さん、あなたの旦那さんどうしましたか。エツコさんの学校どうですか」

「わたしの旦那さん、今悦子を迎えに行きました。悦子の学校は多分大丈夫らしいのです。奥さんの所の旦那さんは?」

「わたしの旦那さん、ペータアとルミーを迎えに神戸へ行きました。大変心配です」

シュトルツ氏の三人の子供たちのうち、フリッツはまだ幼いので学校へ行っていなかったが、ペータアとローゼマリーとは神戸の山手にある独逸人倶楽部クラブ附属の独逸小学校へ通っていた。父親のシュトルツ氏の通勤先も神戸なので、以前にはよく親子三人で出かける姿を見たものであるが、支那事変が始まってからは商売の方が暇になったと云うことで、父親は出たり出ないだりしていたので、最近では子供二人だけが毎朝揃そろって出て行くようになっていた。で、今朝も父親は家にいたのであるが、子供達の身の上が案じられるので、何とかして神戸まで行って見ると云って、さっき出かけたところである、勿論もちろんその時は出水と云っても程度が分らず、電車が不通であることも知らずに出かけたのであるが、途中で間違いでもなければよいがと、夫人はそれを心配し出しているのであった。夫人の日本語は子供達ほど上手でないので、会話をするのに骨が折れたが、幸子は覚束おぼつかない英語を交ぜてようよう意味を通じさせながら、出来るだけ夫人を安心させるように慰めたり宥なだめたりした。そして、

「あなたの旦那さん、きっときっと無事でお帰りになりますわ。それにこの水は蘆屋や住吉辺だけで、神戸がやられている筈はずはありませんから、ペータアさんやルミーさんは大丈夫に極まっていますわ。私ほんとうにそう信じます、きっと安心していらっしゃい」

と、繰り返して元気づけてから、

「では又後で」

と云って、応接間へ戻ると、間もなく先刻開け放しにして置いた表門から、貞之助とお春が悦子を連れて這入って来た。

矢張悦子の小学校は完全に水害から免まぬかれていたのであった。ただ学校の周囲が悉ことごとく水浸しになってしまい、尚なお刻々に増水するけはいが見えたので、授業を休んで、生徒を全部二階の教室に集合させて置いたところ、追い追い子供の安否を気遣って身柄を引き取りに来る父兄達が現れたので、そう云う人達には一々子供を渡していた。だから悦子は、自分自身は何等恐い思いもせず、却かえって家の方がどうなったであろうかと案じていた折柄、父親とお春が駈け付けて来たと云う訳で、家庭から迎えが来たのでは、悦子などが早い方であり、貞之助の後からぽつぽつと方々の迎えの人達が続いて来つつあった。貞之助は校長や先生に見舞とお礼の言葉を述べて悦子を受け取り、大体来た時の路を通って帰途に就いたが、その時になってお春が一緒にいてくれたことが非常に役に立った。彼女は学校の廊下で悦子の無事な姿を見ると、お嬢ちゃん、と、泥まみれの着物で獅噛しがみ着いて周囲の人々をびっくりさせたが、帰りには彼女が流れの先頭を切って、貞之助を庇かばうようにしながら行った。と云うのは、来た時よりも水が又一二寸殖え、水勢も強くなっていたので、貞之助は短い区間ではあったが、悦子を背負わなければならなかった。ところが背負ってみるととても歩きにくく、忽たちまち足を取られそうになるので、お春が激しい水の勢を体で割いて進んで行くその蔭に添いながら行くのでなければ、危険で一歩も足が出なかった。先頭を切るお春の方も、深い所では腰の辺まで漬かってしまうので、容易なことではなかった。水は北から南へ向って落ちつつあるので、東西の道路を西へ向って行くようにしたが、二三箇所で四つ辻を横切った時が最も緊張を要した。或る所では綱が渡してあったのでそれに掴まって渡り、或る所では警戒中の自警団員が助けてくれたが、或る一箇所では何もそう云う便宜がなかったので、二人は体をぴったりと寄せ合い、お春の衝いている蝙蝠傘を力と頼んで、辛うじて渡った。

幸子はそれでも、悦子の無事を喜んだり夫やお春に感謝したりする余裕などはなかった。彼女は夫から以上の話を聞き取る間ももどかしそうに、

「あんた、こいさんが、………」

と云って、再び泣き出したのであった。

五

貞之助が小学校へ行って帰って来る迄までの時間は、いつもなら三十分も懸らない所なのであるが、その日は一時間以上も懸ったことであろう。その間に住吉川の氾濫はんらんの状況がやや伝わって来て、国道の田中から以西は全部大河のようになって濁流が渦巻うずまいていること、従って野寄、横屋、青木おおぎ[#ルビの「おおぎ」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「あおぎ」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「あをぎ」]等が最も悲惨であるらしいこと、国道以南は甲南市場も、ゴルフ場もなくなって、直ちに海につながっていること、人畜の死傷、家屋の倒潰流失が夥おびただしいらしいこと、等々がぼんやり分って来たが、要するに幸子たちの耳にする報道は悲観の材料ばかりであった。

しかし貞之助は、関東震災の時に東京に居合せた経験があって、こう云う場合の風説が如何いかに針小棒大に伝播でんぱするものであるかを知っていたので、その例を引いたりして、妙子について半ば絶望的な気分にさえなっている幸子を宥なだめた。そして、鉄道線路を伝われば本山駅までは行けると云うのであるから、兎とに角かく行けるところまで行って、自分の眼を以て確かめて来よう、ほんとうに噂うわさのような水勢だとすれば、自分が行ってもどうにもなりはしないけれども、恐らくそんなではないような気がする、震災の時でも分っているが、天変地異に際会して人間が死ぬ率と云うものは案外少い、端はたから想像してとても助かる筈はずがないと思えるような場合でも、大概助かっているものである、何にしても今から泣いたり喚わめいたりするのは早計であるから、気を落ち着けて自分の帰りを待っているがよい、尚なお又、多少帰りが遅くなるようなことがあっても、自分については心配しないで貰もらいたい、自分は向う見ずな冒険はしない、前進不可能と見れば何処どこからでも引き返して来る、と、貞之助はそう云って、腹が減った時の用心に握飯を作らせ、少量のブランデーと薬品を二三種類ポッケットに入れ、長靴ながぐつは懲こりたので半靴にニッカアズボンを穿はいて、又出かけた。

鉄道線路に沿うて行くとして、野寄までは一里強ぐらいなものであろうか。散歩好きな貞之助はあの辺の地理をよく知っており、洋裁学院の建物の前も度々通っているのであるが、彼に一つ希望を抱かせたことと云うのは、その建物は、省線の線路が本山駅を出て西へ十数丁行ったあたりの直すぐ南側に、一本の道路を隔てて甲南女学校がある、その女学校から少し西へ寄った所、線路から云えば南へ直径一丁ほどの地点にあるので、もし線路上をその女学校の附近まで伝わって行けるものとすれば、或は洋裁学院へも到達し得るかも知れず、し得ない迄も、その建物の被害程度を探ることぐらいは出来そうに思えたのであった。貞之助が門を出ると、お春が又無謀にも追いかけて来たが、いや、今度こそお前は来てはならぬ、それより幸子と悦子だけでは家の方が心許こころもとないから、しっかり留守番をするように頼むと、きびしく云い付けて追い返して、家から半丁ほど北のところで線路へ上った。と、それから数丁の間は全然水を見ず、纔わずかに森の辺から両側の田圃たんぼが、二三尺の深さで浸水している程度であった。森を出て田辺へかかると、水は却かえって線路の北側だけになり、南側は平日の通りであったが、本山駅へ近づくに従って次第に南側にも水を認めるに至った。でもまだ線路の上は安全で、貞之助は歩いて行くのに格別の危険も困難も感じなかったけれども、時々甲南高等学校の生徒が二三人ずつかたまって来るのに行き遇あい、呼び止めて様子を聞くと、この辺は何でもありません、本山駅から先が本当に大変なのです、もう少し歩いていらっしゃれば向うが全部海のようになっているのが見えますと、誰も同じような答をする。野寄の、甲南女学校の西の方へ行きたいのですがと云うと、さあ、あの辺は恐らく一番ひどいのではないでしょうか、僕等が学校を出て来る時分にもまだ増水していましたから、今頃は線路の上も、西の方は埋没してしまったかも知れません、などと云う。やがて本山駅へ来てみると、成る程この辺は水勢が物凄ものすごい。貞之助は暫しばらく足を休めるつもりで線路から駅の構内へ這入はいったが、既に駅前の道路には水が一杯になっており、構内にも刻々浸入しつつあるので、入口に土嚢どのうや蓆むしろを積み上げて、駅員だの学生だのが代る代る、隙間すきまから漏れて来る水を帚木ほうきで掃き出している。貞之助は、そこらにうろうろしていれば自分も帚木を持って手伝わなければならないので、一服吸うと、又ひとしきり強くなり出した雨を冒して、再び線路の上を進んだ。

水は黄色く濁った全くの泥水で、揚子江ようすこうのそれによく似ている。黄色い水の中に折々饀あんのような色をした黒いどろどろのものも交っている。いつか貞之助はその水の中を歩いているので、おや、と思って心づくと、散歩の時に覚えのある田中の小川が氾濫していて、それに架した鉄橋の上にさしかかっていた。鉄橋を渡って少し行くと、線路の上は又水がなくなったが、両側の水面は大分高くなっている。貞之助はそこで立ち止まって前方を眺ながめた時、さっき甲南学校の生徒が「海のようだ」と云ったのは、今自分の眼前にあるこの景観のことなのだなと合点が行った。雄大とか豪壮とか云う言葉を使うのはこの場合に不似合のようだけれども、事実、最初に来た感じは、物凄いと云うよりはそう云う方に近く、驚くよりは茫然ぼうぜんと見惚みとれてしまった。いったいこの辺は、六甲山の裾すそが大阪湾の方へゆるやかな勾配こうばいを以て降りつつある南向きの斜面に、田園があり、松林があり、小川があり、その間に古風な農家や赤い屋根の洋館が点綴てんてつしていると云った風な所で、彼の持論に従えば、阪神間でも高燥こうそうな、景色の明るい、散歩に快適な地域なのであるが、それがちょうど揚子江や黄河こうがの大洪水を想像させる風貌ふうぼうに変ってしまっている。そして普通の洪水と違うのは、六甲の山奥から溢あふれ出した山津浪やまつなみなので、真っ白な波頭を立てた怒濤どとうが飛沫ひまつを上げながら後から後からと押し寄せて来つつあって、恰あたかも全体が沸々と煮えくり返る湯のように見える。たしかにこの波の立ったところは川でなくて海、―――どす黒く濁った、土用波が寄せる時の泥海である。貞之助の立っている鉄道の線路は、その泥海の中へ埠頭ふとうの如ごとく伸びていて、もう直き沈没しそうに水面とすれすれになっているところもあり、地盤の土が洗い去られて、枕木まくらぎとレールだけが梯子はしごのように浮かび上っているところもある。ふと貞之助は、足許に小蟹こがにが二匹ちょろちょろ歩いているのを見つけたが、大方この蟹どもは今の小川が氾濫したので、線路の上へ逃げて来たのであろう。もしこの場合、自分一人しか歩いている者がいなかったら、恐らくこの辺で引き返したのであるが、ここでも彼は甲南学校の生徒たちと道づれになった。彼等は今朝、登校して一二時間たった時分にこの騒ぎになり、授業が休みになったので、水禍すいかの中を岡本駅まで逃げて来て見ると、阪急は不通であると云われて、更に省線の本山駅まで来たのであるが、省線も矢張駄目だめであることが分ったので、暫く駅で休んでいた。(さっき構内の水掃きを手伝っていたのは彼等なのであった)が、水はだんだん増して来るし、そうしていても不安なので、神戸方面へ帰る者と大阪方面へ帰る者と二組に分れ、兎も角も線路を伝わって歩いて行くことに極めたのであると云う。この連中はいずれも元気な青少年たちのことであるから、そんなに危険を感じてもいず、一人が水に篏はまり込んだりすると、可笑おかしがって喚声を挙げている。貞之助は彼等のあとに喰くっ着きながら、浮かび上って宙ぶらりんになった線路の上を、枕木から枕木へ飛び越えつつ辛うじて渡り切ったが、下には眼も眩くるめく速さで激流が流れていた。と、水の音と雨の音に掻かき消されて、その時迄は分らなかったのであるが、何処かで「おーい、おーい」と呼ぶ声がしている。見ると、つい半丁程先のところに、列車が立ち往生をしていて、その窓の中から、同じ学校の生徒たちが首を出して此方の連中を呼んでいるのである。君等は何処へ行くつもりだ、もうこの先はとても危険だ、住吉川は大変な出水で渡れるどころではないそうだから、まあ此処へ上って来いと云う。で、貞之助も仕方なく彼等と一緒にその汽車の中へ上り込んだ。

それは下り急行車の三等室で、甲南の生徒の外にもいろいろの人間が避難していた。中でも幾組かの朝鮮人の家族が一とかたまりになっていたのは、多分家を流されて命からがら此処へ駈かけ込んで来たのであろう。病人らしい血色をした、女中を連れたお婆ばあさんがいたが、これは間もなく口のうちで念仏を称となえ出した。背負い呉服を売り歩く商人らしい男が、麻の襦袢じゅばんと半股引はんももひき一つでふるえながら、泥だらけになった大きな反物の風呂敷包を横に置き、濡ぬれた単衣ひとえと毛糸の腹巻を腰掛の背に懸けて干していた。生徒たちは仲間が殖えたせいか一層元気になってしゃべり出した。或ある者はポッケットからキャラメルを出して、友達にも分けてやっている。或る者は長靴を脱いで倒さかさまにして、一杯たまった砂や泥水を吐かせたり、沓下くつしたを脱いで白くふやけた自分の足を視みつめたりしている。或る者はびしょびしょになった制服やシャツを搾しぼったり、裸になって体を拭ふいたりしている。或る者は服が濡れているので、腰掛に掛けるのを遠慮して突っ立っている。彼等は代る代る窓の外を覗のぞいて、ほら、屋根が流れて来た、畳が流れて来た、材木だ、自転車だ、おや、自動車が来た来た、などと騒いでいたが、そのうちに一人、

「おい、犬がいるぞ」

と云った者があった。

「―――あの犬、助けてやろやないか」

「何や、屍骸しがいと違うのんか」

「違う違う、生きてるねん、ほれ、その線路の上に、―――」

中ちゅうぐらいの大きさの、テリア系の雑種の犬が一匹、毛を泥まみれにして、なるたけ雨に打たれないように汽車の車輪の蔭に身をひそめながら、ぶるぶる顫ふるえて蹲踞うずくまっているのを、二三人の生徒が助けてやれ助けてやれと云いながら、降りて行って引っ張り上げて来た。犬は室内へ入れられると、ぶるん、と首を振って体じゅうの水を払ってから、助けてくれた少年の前へ来ておとなしく跪ひざまずいた。そして、驚いたような、恐怖に満ちた眼でじっと少年を視上げた。誰かが鼻先へキャラメルを持って行ってやったが、ちょっと匂においを嚊かいただけで食べようともしない。

貞之助も、雨が洋服に滲しみ透って寒くなって来たので、レインコートと上衣を脱いで腰掛の背に懸け、ブランデーを一二杯飲んでから煙草に火をつけた。腕時計は一時を示していたが、一向腹が減って来ないので、弁当を開く気にはなれなかった。彼が腰かけている席から山手の方を望むと、ちょうど本山第二小学校の建物の水に漬かっているのが真北に見え、一階南側に列ならんでいる窓が恰も巨大な閘門こうもんのように夥おびただしい濁流を奔出させているのであったが、あの小学校が彼処あそこに見えるとすると、今この列車の停っている位置は甲南女学校を東北に距へだたること僅々きんきん半丁程の地点であることは明かであり、従って、此処ここから目的の洋裁学院へは、平日ならば数分を出でずして到達出来る訳であった。が、そうこうするうちに車内の生徒たちもだんだん前のような元気がなくなり、誰も申し合せたように真剣な顔つきになり始めた。と云うのは、実際事態が笑いごとでなくなりつつあることが、血気盛な若者達の眼にも否いなみ難くなって来たからであった。貞之助が首を出して見ると、さっき自分が生徒たちと一緒に通って来た路みち、―――本山駅とこの列車との間の線路は、完全に水に没し去って、この列車のある所だけが嶋のように残っていた。しかし此処もいつ浸水するか分らないし、悪くすれば線路の下の地盤が揺ゆるぎ出すかも知れない。見たところ、この辺の線路の土手の高さは六七尺ぐらいはあるであろうが、それが今では次第に浸されつつあって、山の方から激しい勢でまともに打つかる濁流が、磯いそに波が砕けるように、どどん、どどん、と云うしぶきを上げ、車室の中までびしょびしょになるので、皆慌あわてて窓を締めた。窓の外では濁流と濁流とが至る所で衝突し、盛り上り、渦を巻き、白泡を立てているのが見えた。その時突然、前方の車台から郵便配達夫が此方の車台へ逃げ込んで来、つづいてどやどやと十五六人の避難者が這入って来たが、直ぐその後から車掌が来て、

「皆さん、もう一つ後の車へ行って下さい、前の方の線路に水が上って来ましたから」

と云った。皆大急ぎで荷物を持ったり、干してあった着物を抱えたり、長靴をぶら提げたりして後方の車台へ移った。

「車掌さん、この寝台使わしてもろてもええやろか」

そんなことを云う者があったが、成る程そこは三等寝台車なのであった。

「構わんでしょう、こう云う際のことですから、―――」

しかし、ちょっと寝台へ横になってみた生徒などがあったけれども、矢張落ち着かないらしく、又起き上って窓の外を眺める者が多かった。ごうごうと云う水の音がいよいよ激しく、車内にいても耳を聾ろうするようになった。さっきのお婆さんが今も熱心に念仏を称えているのに交って、不意に朝鮮人の子供たちの泣き声が聞えた。

「あ、水が線路へ上ったぞ」

誰かがそう云うと、皆立ち上って北側の窓の方へ行った。水はまだこの下り線のところまでは来ていないけれども、土手の縁ふちをひたひたと浸して、隣の上りの線路まで寄せて来かかっているのであった。

「車掌さん、此処は大丈夫でしょうか」

と、阪神間の住人らしい三十恰好かっこうの奥さんが云った。

「さあ、………もっと安全な場所へ逃げられたらお逃げになった方がいいでしょうけれども、………」

貞之助は渦巻の中をリヤカーが一台廻転しながら流れて行くのを、ぼんやり眺めていた。彼は家を出る時、自分は冒険的なことはしない、危いと見れば途中から引っ返すと云って来たのに、いつの間にかこう云う状態の中へずるずると這入り込んでしまった形であったが、でもまさか「死」と云うことは考えられなかった。女や子供ではないのだし、いざとなったらどうにかなると云う高を括くくった気持が何処かにあった。それよりも彼は、妙子の行っている洋裁学院の建物が、大部分平屋であったことをその時ふっと思い出して、ひどく不安にさせられていた。そう云えば先刻の妻の大袈裟おおげさな心配の仕方は、少し常識を外れているようにあの時は感じたが、やはり肉身の間柄で虫が知らしたのではなかったであろうか。―――今から一箇月前、先月の五日に「雪」を舞った時の妙子の姿が、異様な懐なつかしさとあでやかさを以て脳裡のうりに浮かんだ。あの日彼女を中心にして家族が写真を撮ったこと、あの時も妻が何と云う理由もなく涙ぐんだこと、などが一つ一つ回想された。それにしても、事に依よると今頃はあの建物の屋根にでも上って助けを呼んでいる最中かも知れないのに、つい目と鼻の距離まで来ていながら何とかならないものであろうか。自分は此処にいつ迄こうしていなければならないのか。此処まで来てしまったからには、少々の危険は冒しても、何とかして彼女を連れて帰らなければ妻に申訳がないような気がする。………その時の妻の感謝に満ちた顔と、さっきのあの絶望的な泣き顔とが、かわるがわる眼の前にちらついた。

が、彼がそんなことを考えながら一心に外を見守っていた間に、はっと胸を躍らせるようなことが起っていた。と云うのは、いつの間にか線路の南側の方の水が減って行って、ところどころ砂が露あらわれて来たのである。反対に北側の方はいよいよ水が殖え、波が上りの線路を越えて、此方の線路へ打ち寄せつつあった。

「此方側は水が減ったぞ」

と、生徒の一人が叫んだ。

「あ、ほんとうだ。おい、これなら行けるぞ」

「甲南女学校まで行こうや」

生徒たちが真っ先に跳び出すと、大部分の人が鞄かばんを提げたり風呂敷包を背負ったりして後に続いた。貞之助もその中の一人であったが、彼が夢中で土手の下へ駈け降りたのと同時に、非常な大波が北側から列車の方へ襲いかかった。水が凄すさまじい音を立てて滝のように頭上へ崩くずれて来、材木が一本にゅっと横あいから突き出た。彼は辛うじて濁流から逃れて、水の干上った所へ来たが、いきなり脚が砂の中へずぶずぶと膝ひざの上まで漬かった。ずぽッと脚を抜いた途端に片一方の靴が脱げた。ずぽッ、ずぽッ、と脚を抜きながら五六歩行くと、再び幅一間ばかりの激流があった。前を行く人が何度も流されそうになりつつ渡って行く。その流れの強いことは、さっき悦子を背負いながら渡った時の比ではない。中途で彼は、もう流される、もう駄目だと二三度観念した。漸く向う側へ着いたら、又砂の中へずぽッと腰の上まで漬かった。慌てて電信柱に抱き着いて這い上った。甲南女学校の裏門がつい鼻の先五六間の所にあるので、そこへ駈け込むより外はないのだが、その五六間の間に又一条の流れがあって、見えていながら容易に向うへ行き着けなかった。と、門の扉が開いて熊手のようなものをさし出してくれた人があった。貞之助はそれに掴つかまってどうにか門の内へ引きずり込んで貰った。

六

その日、雨の勢がほんとうに衰え出したのは午後一時過ぎであったろうか。でもまだ水は一向減る様子もなかったが、漸ようやく三時頃になって雨が全く止やみ、ところどころに青空が覗のぞき始めると、次第に少しずつ退ひいて行った。

幸子は日があたって来たので、テラスの葭簀張よしずばりの下へ出て見たが、雨のあとでひとしお青々としている庭の芝生の上に、白い蝶ちょうが二匹舞っており、ライラックと栴檀せんだんの樹の間の、雑草の中の水溜みずたまりに鳩はとが降りて何かを漁あさり歩いているのが、いかにものんびりした光景で、此処ここばかりはそんな山津浪やまつなみの痕跡こんせきなどは何処どこにもない。電気と、瓦斯ガスと、水道が停ったことだけは、被害地並なみであるけれども、此処の家には水道の外に井戸もあって、飲料その他の使い水には不自由をしないので、彼女は夫達が泥塗どろまみれになって帰宅することを予想しつつ、先刻風呂を焚たくように命じて置いた。悦子はお春に誘われてその辺まで水見物に出かけて行き、家の中は暫しばらくひっそりとしていた。ただ勝手口に、隣近所の男衆や女中達が代る代る水を貰もらいに来るらしく、モーターが止ったので釣瓶つるべをばちゃんと落す音や、お秋やお花を相手に被害の噂うわさをしている声が折々聞えた。

四時頃になって、上本町の家を預かっている「音やん」の忰せがれの庄吉が大阪から訪ねて来てくれたのが、見舞としては一番早かった。南海の高嶋屋に勤めている庄吉は、大阪の方は格別のこともなかったので阪神間がそう云う災禍さいかに遭あったろうとは夢にも想像していなかったところ、正午頃に号外が出、住吉川と蘆屋川あしやがわ沿岸の惨害が甚大じんだいであることを知って、午後から店の方を休んで、取る物も取り敢あえず飛び出したのが、今迄までかかって着いたのであった。途中或る所では阪神電車、或る所では国道電車、阪国バスなどを乗り継いだり、貨物自動車やタキシーを掴つかまえて無理に乗せて貰ったり、乗物の利きかない所は歩いたり渡渉としょうしたりして来たと云うことで、食料品を入れたリュックサックを背負い、泥だらけになったズボンを膝ひざの上までたくし上げ、靴くつをぶら提げて徒歩跣かちはだしになっていたが、業平なりひら橋附近の惨状を見てはお宅もどんなであろうかと胸を痛めておりましたのに、この通りへ来ると、まるで譃うそのように平穏なので、何だか阿呆あほらしい気が致しましたと、先まず幸子に喜びの挨拶あいさつを述べた。と、そこへ悦子が帰って来たので、まあ、娘とうちゃん、よろしゅうございましたなあと、―――平素から口数の多い、表情たっぷりな物云いをする男なので、―――わざと鼻を詰まらせたような作り声を出して云った。それから庄吉はやっと気が付いたように、何か私で出来ますことなら御用をさせて戴きますがと云って、旦那だんなさんやこいさんはどうなさいましたと云い出したので、幸子はそのことで今朝から案じている次第を、また事新しく細々こまごまと語った。

尤もっとも、幸子の心痛が今朝より一層募っていたのには、あれから又いろいろと聞き込んだことがあるからであった。たとえば住吉川の上流、白鶴はくつる美術館から野村邸に至るあたりの、数十丈の深さの谷が土砂と巨岩のために跡形もなく埋ってしまったこと、国道の住吉川に架した橋の上には、数百貫もある大きな石と、皮が擦すり剥むけて丸太のようになった大木とが、纍々るいるい[#「※[#「儡のつくり/糸」、第3水準1-90-24]々」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「累々」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「※[#「儡のつくり/糸」、第3水準1-90-24]々」]と積み重なって交通を阻害していること、その手前二三丁の南側の、道路より低い所にある甲南アパートの前に多くの屍骸しがいが流れ着いていること、それらの屍骸は皆全身に土砂がこびり着いていて顔も風態ふうていも分らぬこと、神戸市内も相当の出水で、阪神電車の地下線に水が流れ込んだために乗客の溺死できし者が可なりあるらしいこと、―――これらの風説には臆測や誇張も加味されていたに違いないのであるが、就中なかんずく、幸子のと胸を衝ついたものは、甲南アパートの前の屍骸云々うんぬんの件であった。なぜと云って、妙子の行っている洋裁学院は、ちょうど国道を間に挟はさんで、そのアパートの向い側を北へ半丁程這入はいった辺にあるのであった。そして、そのアパートの前にそんなに多くの屍骸が流れ着いていると云うことは、その真北にあたる野寄方面に死者が沢山あることを物語っているからであった。幸子のこの忌いまわしい推測は、今しがた悦子と一緒に戻って来たお春の報告に依よって一段と確実性を帯びるに至った。お春は矢張幸子と同じ思いであったので、会う人毎に野寄方面の被害状況を聞いてみたのであるが、誰の云うところも、住吉川の東岸ではあの辺が一番ひどくやられているらしいと云うことに一致してい、他の方面は既に著しく減水し始めたけれども、あの方面だけは未だに減水の兆候がなく、所に依っては丈余の深さに達している、と云うのであった。

幸子は夫が無謀な行動をするような性質でないことを信じてもいたし、出かける時に冒険はしないと云っていた言葉もあるしするので、夫については格別心配もしていなかったのであるが、時刻が移るにつれて、妙子ばかりでなく夫のことも気遣われて来た。野寄がそんなにひどいとすれば行ける訳はないのであるから、途中で引き返して来そうなものだのに、未だに帰って来ないのはどうしたのであろう。もう少し、………もう少し、………と思いながら、知らず識らず危険区域へ足を蹈ふみ入れて、水に取り巻かれてしまった、と云うようなことはないであろうか。それとも又、夫は用心深い代りに、思い立ったことはなかなか諦あきらめないたちであるから、何とかして目的地へ着こうとして、此方の道が駄目だめなら彼方の道からと云うように、いろいろな方角から進んで見たり、一時何処かで水の減るのを待って見たりしているのでもあろうか。仮に目的地に到達して妙子を救い出すことに成功したとしても、水の中を歩いて帰って来るのであるから、時間が懸るのは当り前で、六時七時になったとしても不思議はないようなものの、幸子には最善から最悪に至るあらゆる情景が想像される中で、ややともすると悪い方の場面ばかりが一番有りそうなことのように考えられるのであった。で、そんなことがある筈はございませぬけれども、それほどお案じなさいますなら、私が行って見て参りましょうと庄吉が云うので、巧うまく行き遭うかどうか分らない迄も、いくらかでも気休めになると思って、そんなら御苦労さんですけど、………と、早速身支度をして出かける庄吉を、裏門のところまで送って行ったのが五時ちょっと前頃であった。

この家は表門と裏門とが別の街路に面しているので、幸子はその足で運動かたがた裏から表へ一と廻りして、今日はベルが利かないために開け放しにしてある表門を這入り、玄関の前から直ぐ庭の方へ歩いて行くと、

「奥さん、―――」

と、その時又シュトルツ夫人が金網の垣かきから首を出した。

「エツコさんの学校、大丈夫でした。あなた安心ですね」

「ありがとございます。悦子の方は無事でしたけれど、妹の方がえらい心配なのです。わたしの旦那さん、今迎えに行っているのですけれど、………」

幸子はそこでシュトルツ夫人に分るような云い方で、もう一遍庄吉に語ったと同じことを語った。

「おお、そう、―――」

シュトルツ夫人は眉まゆを顰しかめてチュッ、チュッと舌打ちをしながら、

「あなたの心配、わたし分ります。わたし、あなたに同情します」

「ありがとございます。そして、奥さんのところの旦那さんは?」

「わたしの旦那さん、まだ帰って来ません、わたし大変心配です」

「まあ、そんならほんとうに神戸へいらしったのでしょうか」

「わたしそう思います。―――しかし神戸も水出ました。灘なだも、六甲も、大石川も、皆水、水、水。………わたしの旦那さん、ペータア、ローゼマリー、皆どうしましたか、………何処にいますか、………わたし、大変々々心配。………」

この夫人の夫、シュトルツ氏と云う人は、体格の立派な、見るから頼もしそうな偉丈夫であり、理智の発達した独逸ドイツ人のことでもあるから、多少の水に出遭ったぐらいでめったなことがあるであろうとは、幸子には考えられないし、ペータアやローゼマリーにしても、彼等の通っている学校と云うのは神戸でも高台の方にあるのだから、恐らく災害を受けていないに違いなく、ただ水のために帰路を塞ふさがれているだけのように思えるのであったが、夫人の身になると矢張いろいろな場合が想像されるらしく、幸子がいくら安心するように云ってみても、いいえ、わたし聞きました、神戸の水大変です、沢山々々人死にました、と、なかなか気休めの言葉などは耳にも入れない。その涙ぐんだ顔を見ると、幸子も他人事ひとごととは思えないながら、しまいには何と云ってよいか分らなくなって、きっと大丈夫です、………心から皆さんの御無事を祈っています、………と、気の利かない極まり文句を繰り返すより外はなかった。

彼女がシュトルツ夫人を慰めるのに手を焼いている時、表門の方に人のけはいがしてジョニーが駈かけて行ったので、さては夫たちが、………と、幸子は胸をときめかしたが、紺背広にパナマ帽を被かぶった人影が、植え込みの向うを玄関の方へ歩いて行くのがちらと見えた。

「誰方どなた?」

と、幸子は、テラスから庭へ降りて来るお春の方へ、此方から寄って行きながら聞いた。

「奥畑さんでございます」

「そう、―――」

幸子はちょっと狼狽うろたえた様子を見せた。今日奥畑が見舞いに来るであろうと云うことは、つい考え及ばなかったけれども、いかさま、これはそうあるべきが当然であった。が、それにしてもどう扱ったらよいものか知らん、実はこの間のこと以来、今度からは訪ねて来ても出来るだけ余所々々よそよそしくして、玄関で会って帰す程度にしたいと、自分でも思い、夫にもそう云い付けられていたのであるが、今日の場合は、こいさんの安否が分るまでは此処で待たして戴いただきたいと云うかも知れないし、そう云われたらそれを無下むげに断るのも人情に欠けているような気がする、正直のところ、今日ばかりは奥畑を待たせて置いて、妙子の無事な顔を見せてもやりたいし、自分たちと一緒に喜んでも貰いたい。………

「あの、こいさんはいやはりますか仰おっしゃいますよってに、まだお帰りになりません申しましたら、そんならちょっと奥さんに、仰っしゃっていらっしゃいますけど、………」

彼と妙子とのいきさつは幸子を除く家族の者には秘密にしてあると云うことは、彼も知っている筈はずであるのに、あの取り済ました、おっとりした奥畑が、焦慮の余り平生の嗜たしなみも忘れて、そんなことを取次の女中に聞いたと云うことも、今日に限って幸子には許せるように思えるし、彼がそれほど度を失っていることに、寧むしろ好感が持てさえした。

「兎とに角かく上って戴きなさい」

彼女はそれをよいしおに、垣根のところからまだ首を出していたシュトルツ夫人に、

「お客様でございますから、………」

と、断りを云って、今朝から何度か泣いたりして脹はれぼったくなっている眼の縁を直すために二階へ上った。

電気冷蔵庫が役に立たなくなっているので、井戸で冷やした麦茶を持って行かせなどして、暫く待たせてから幸子が応接間へ這入って行くと、奥畑は又この間のように立ち上って気を付けの姿勢をした。その、真っ直ぐに揃そろえた紺サアジのズボンには、正しい折目がついていて、殆ほとんどハネも上っていない。さっき泥まみれになって来た庄吉の姿とは余りな違い方であったが、たった今しがた阪神電車が大阪から青木まで開通したと聞いて、それに乗って阪神の蘆屋まで来、そこから此処まで十丁余の路を歩いただけである、その途中まだ水の退ひき切らない部分も少しはあったが、大したこともなかったので、そこの所だけ靴を脱いでズボンをまくり上げて渡った、と、そう奥畑は云って、

「―――もっと早うお伺いせんならんのですけど、僕、号外が出たことをちょっとも知らんと、ついさっき聞きましてん。それにしても、今日は朝から洋裁学院へ行かはる日イやけど、まだ出かけはらんうちやったろうか、そうであったらええなあ思うてたんですが、………」

ありていに云うと、幸子が奥畑を請じ入れたのには、今の場合の自分の心痛を一番よく察してくれるであろうこの相手を掴つかまえて、自分がどんなに夫や妹の身の安全を祈っているかと云うことを聞いて貰いでもしたら、自分のこの、今か今かと待ち焦こがれつつある、居ても立ってもいられない気持が、少しは紛れるであろうと云う底意も働いていたのであったが、卓を隔てて向い合って見ると、矢張打ち解け過ぎない方がよくはないかと云う反省が湧わいた。それと云うのが、奥畑としても妙子の消息を知りたがっている心持に偽りはないであろうけれども、その心配そうな表情や口の利き方に何処となくわざとらしさがあって、こう云う機会に此処の家庭に入り込んでやろう、と云ったような気があるのではないかと、早くも幸子に警戒心を抱かせたからであった。で、一と通り彼の質問に答えて、水が出たのは妙子が彼方へ着いて間もない頃であったこと、あの洋裁学院の附近が最も被害激甚げきじんであって、妙子が無事であるかどうか頗すこぶる心許こころもとないこと、憂慮のあまり夫に頼んで、兎も角も行ける所まで行って見て貰うことになり、夫が出かけて行ったのが今朝の十一時頃であったこと、今から一時間程前に、上本町から見舞いに来た庄吉と云う者が又出かけて行ったこと、それきりまだ誰も戻って来ないのでいよいよ気を揉もんでいること、等々を、彼女は努めて事務的に話して聞かせた。と、案の定、そんなら暫く待たせて戴けないでしょうかと、そう云ってモジモジしているので、何卒どうぞ、と彼女は快く承知して、それでは御ゆっくりと、挨拶をして自分は二階へ上ってしまった。

お客様が暫くお待ちになるそうだから、何か読む物でも差上げるようにと、幸子は新刊の雑誌を二三種類持って行かせ、紅茶を入れさせなどして、自分はそれきり降りて行かなかったが、悦子がさっきからお客の人柄に好奇心を抱いて、時々廊下から応接間を覗き込んでいたことを思い出して、

「悦ちゃん、ちょっといらっしゃい」

と、階段の降り口から声をかけて二階へ呼んだ。

「悦ちゃん、あんた悪い癖やわ、何でお客様が見えてはる時に、応接間覗くのん?」

「悦子覗いたりせえへんよ」

「譃うそ云いなさい、お母ちゃん見て知ってます。お客様に失礼やないの」

悦子は赧あかい顔をして上眼を使いながら俯向うつむいたが、直ぐ又降りて行きそうにした。

「降りたらいかん、二階にいらっしゃい」

「何で」

「二階で宿題の勉強しなさい、悦ちゃんの学校は明日も授業があるのんやろ」

幸子が悦子を、無理に六畳の部屋へ押し込めて、教科書や筆記帳を当てがって、机の下へ蚊遣かやり線香を入れてやってから、八畳の間の縁側に出て夫たちが帰って来るであろう往来の方を眺めている時であった。突然シュトルツ氏の邸の方で、「おうッ」と云う太い声がしたので、其方を見ると、シュトルツ氏が手を上げて[#「上げて」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「挙げて」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「擧げて」]「ヒルダ! ヒルダ!」と夫人の名を呼びながら、表門から裏庭の方へ廻ったところであった。シュトルツ氏の後にはペータアもローゼマリーもいた。裏庭で何かしていた夫人は、これも「ほうッ」と云うような甲高い声で叫んだかと思うと、いきなりシュトルツ氏に抱き着いて続けざまに接吻せっぷんしている。日が暮れかかっているけれども、庭はまだ明るいので、境界の青桐あおぎりと栴檀せんだんの葉の隙間すきまから、西洋映画でよく見るところの抱擁ほうようの場面が見えた。夫婦がぱっと離れると、次にはペータアとローゼマリーとが、又代る代る夫人に跳び着いている。欄干に靠もたれて蹲踞うずくまっていた幸子は、そっと縁側から障子の内へ隠れたが、夫人は見られていたことに気付かなかったらしく、ローゼマリーを手から放すと、嬉うれし紛れに垣根から此方へ首を出して、

「奥さん」

と、庭をキョロキョロ見廻しながら頓興とんきょうな声で呼んだ。

「奥さん、わたしの旦那さん帰りました。ペータアもローゼマリーも帰りました。………」

「まあ、ようございましたわねえ」

幸子が思わず障子の蔭から飛び出して欄干のところに立ち上るのと同時に、隣の部屋で勉強していた悦子も鉛筆を抛ほうり出して、窓際まどぎわへ駈け寄った。

「ペータアさん、ルミーさん、………」

「ばんざあい」

「ばんざあい」

三人の子供たちが上と下とで手を振り合うと、シュトルツ氏も、シュトルツ夫人も、手を振り翳かざした。

「奥さん」

と、今度は二階から幸子が叫んだ。

「あなたの旦那さん、神戸までいらしったんですか」

「わたしの旦那さん、神戸へ行く道でペータアとルミーに遇いました。そして一緒に帰りました」

「まあ、道でお遇いになったんですか、ようございましたわねえ。………ペータアさん」

と、幸子は、夫人の日本語ではまどろっこしいので、ペータアに云った。

「あなた、パパさんと何処でお遇いになりましたの」

「国道の徳井の近所です」

「まあ、神戸から徳井まで歩いておいでになりましたの」

「いいえ、違います。三宮から灘まで省線電車がありました」

「ああ、灘まで運転しているんですか」

「そうです。わたし、ルミーを連れて灘から徳井まで歩いて来たらパパに遇いました」

「それでもようパパさんにお遇いになりましたわねえ。徳井から此処までは何処を通って来ましたの」

「国道を通りました。しかしそうでない所も通りました。省線の線路の上や、それよりもっと山手の方や、道のない所や、………」

「それは大変でしたわねえ。まだ水の退かない所が沢山ありますの」

「沢山と違いますね、………少しだけ、………ところどころ、………」

ペータアの云うことも、問い詰めて行くと矢張たよりないところがあって、何処をどう云う風に通って来たのか、どの辺が水が退かないのか、途中の状況はどんな工合であったか、等々のことは余り判然としないのであるが、ローゼマリーのような幼い少女までが無事に歩いて来たのを見ても、又この三人の服装がそんなにひどく泥でよごれていないのを見ても、彼等が此処まで到達するのにそう甚はなはだしい危険や困難に遭遇したろうとは考えられない。とすると、幸子は、夫や妹が未だに帰って来ないことについて、いよいよ不審が深まるのであった。こう云う少年少女たちでさえ、神戸から此処までの距離を今迄の時間に蹈破とうはすることが出来たとすれば、当然夫や妹も疾とうに戻っていなければならない筈であるのに、それが戻って来ないと云うのは、何かしら間違いがあったものと思わなければならない。而しかもその間違いは、妙子の一身に起ったことで、夫も、そして事に依ると庄吉も、妙子を救い出すとか捜し出すとか云うことのために手間取っているのではないであろうか。………

「奥さん、あなたの旦那さん、妹さん、どうしましたか、まだ帰りませんか」

「まだ帰りません。シュトルツさんたちがお帰りになったのに、どうしたんでしょう。わたし、心配で溜たまりません」

幸子はそう云っているうちに、自分の声が泣き声になって行くのをどうすることも出来なかったが、顔の一部が桐の葉の蔭に隠れているシュトルツ夫人は、例のチュッ、チュッと、しきりに舌を鳴らしていた。

「御寮人様ごりょうんさん」

と、その時お春が上って来て閾際しきいぎわに手をつかえた。

「―――奥畑さんが、僕もこれから野寄の方へ行って見るよってに、ちょっと奥さんに申し上げてくれ仰っしゃっていらっしゃいます」

七

幸子が降りて行くと、もう奥畑は玄関の土間に立って、金きんの金具の光っている秦皮とねりこのステッキを衝ついていた。

「僕、今の話聞いてましたけど、あんな西洋人の子供かて帰って来るのんに、何でこいさん帰らはれしませんのやろ」

「さあ、わたしかてそない思いますねん」

「何にしましても、あまり遅過ぎますさかい、その辺まで様子見に行って来よう思います。―――都合で又お寄りするかも知れませんが、―――」

「有難うございますけど、………暗うなって参りましたよってに、もうちょっと此処ここでお待ちになったら、………」

「そうかて、何やじっとしていられしません。待ってる間まに行って来た方が早い思います」

「まあ、そうでございますか。………」

幸子は今の場合、妹のことを親身になって案じてくれる人でさえあれば、誰彼なしに感謝したい気持がしているので、ついこの青年に対しても涙を見せずにはいられなかった。

「そんなら、行って参ります。………姉さんも、そないに心配なさらん方がよろしおまっせ。………」

「有難うございます。そしたら気をお付けなさって、………」

彼女は自分も土間へ降りながら、

「あの、懐中電燈持っていやはりますか」

と聞いたが、

「持ってます」

と、式台のところに伏せてあったパナマ帽の下から、慌あわてて奥畑は何か二た品を取り出すと、一つを手早くポッケットに入れた。一つは懐中電燈であったが、ポッケットに入れた方は確かにライカかコンタックスに違いなく、こんな時にそんなものを持っているのをバツが悪いと感じたのであろう。

奥畑が行ってしまったあと、幸子は暫しばらく門柱に靠もたれて夕闇ゆうやみの中を視詰みつめながら彳たたずんでいたが、矢張夫たちの帰って来そうなけはいがないので、応接間に戻って、苛々いらいらする気分を落ち着けるように、蝋燭ろうそくに灯をつけて、椅子にかけてみた。お春が這入はいって来て、御飯の支度が出来ておりますがと、顔色を見い見い恐る恐る尋ねたので、晩飯の時刻が疾とうに過ぎていることに心付いたが、とても食卓に向う気はなく、あたしはよいから、悦子だけ先に食べさせて上げてと、云ったけれども、二階へ聞きに行ったお春は直すぐ降りて来て、お嬢ちゃんも後になさるそうでございますと云う。いつも独ひとりで二階にいることを淋さびしがる悦子が、もう勉強も済んだ時分だのに珍しく部屋に引き籠こもったきり大人しくしているのが不思議であるが、こう云う時にうるさく母に附き纏まとうと剣突を食うことがあるのを承知して、近寄らないようにしているのであろう。幸子は二三十分もそうしていたものの、又落ち着かなくなって来たらしく、何を思ったか二階へ上って行ったが、悦子には声をかけないで、そっと妙子の部屋へ這入って燭台しょくだいを点ともした。そして、南側の欄間に懸っている額の下へ、吸い着けられるように寄って行って、中に篏はまっている四枚の写真を一つ一つ眺ながめ始めた。

それはこの間、先月五日の郷土会の時に板倉が写した妙子の「雪」の写真であった。板倉はあの日、妙子が舞っている間始終レンズを向けて矢鱈やたらに撮っていたが、晩方、彼女が衣裳いしょうを脱ぐ前に又もう一度金屏風きんびょうぶを背にして立って貰もらい、いろいろと姿態の注文を附けて、何枚も撮った。この額に収めてあるのは、沢山現像して持って来た中から、妙子が自分で四枚だけ選び出して四つ切の大きさに引き伸ばさせたものであるが、この四つは明かに後で特別に注文を附けて写したものの方に属する。板倉はこれらを撮影する時、大騒ぎをして光線の効果などにひどく苦心を払っていたが、感心なことには、余程熱心に舞を見ていたものらしく、姿態の注文を出すのにも、「こいさん、『凍る衾ふすまに』云うとこがおましたな」とか、「『枕まくらにひびくあられの音』云うとこの恰好かっこうして下さい」とか、文句や振りを覚えていて、自分でその形をして見せたりした。そんな工合で、この写真は板倉の傑作と云ってもよい出来栄えなのであったが、幸子は今見ると、あの日妙子の何の気なしに云ったことや、したこと、―――ちょっとした動作や眼づかいや言葉づかいなど迄までが、妙にはっきりと憶おもい出せて来るのであった。妙子はあの日公開の席で始めて「雪」を舞ったのであるが、そのわりにはなかなか上手に舞った。幸子がそう感じたばかりでなく、おさく師匠も褒ほめてくれたくらいで、それは勿論もちろん師匠が毎日遠い所を出向いて来てくれた丹精のお蔭かげには違いないけれども、一つには子供の時分に舞を習った経験があるのと、生れつき筋がよいせいなのではあるまいかと、そう云っては身贔屓みびいきになるかも知れないが、幸子には思えたのであった。何事に依よらず感激すると直きに涙が出る彼女は、あの日も妙子の舞うのを見ながらこんなにもこいさんが上達したのかと、涙が出て仕方がなかったが、その時の感激が今またこの写真に対して湧わき上って来るのであった。彼女は四枚ある舞姿の中で、「心も遠き夜半の鐘」のあとの合の手のところ、―――傘かさを開いたままうしろに置き、中腰に両膝ひざを衝いて、上体を斜め左の方に浮かせ、両袖そでを合わせ小首をかしげて、遠く雪空に消えて行く鐘の音に聴き入っているところ、―――を撮ったものが一番好きであった。稽古けいこの時にも、妙子が師匠の口三味線に載ってこの恰好をするのをたびたび見、ここのところが最も気に入っていたのであるが、あの当日には、衣裳や髪かたちのせいもあって、稽古の時よりは又数倍立ち勝って見えた。幸子は、どう云う訳でここのところがそんなに好きなのだか自分にもよく分らないのだけれども、恐らくそれは、いつものハイカラな妙子には全然見られないしおらしいものが、この恰好の中に出ているからであるかも知れない。彼女は妙子と云うものを、自分たち姉妹の中では一人だけ毛色の変った、活溌かっぱつで進取的で、何でも思うことを傍若無人にやってのける近代娘であると云う風に見、時には憎らしくさえなることがあるのだけれども、この舞姿を見ていると、矢張妙子にも昔の日本娘らしいしとやかさがあることが分って、今迄とは違った意味で可愛らしくもいとおしくもなって来るのである。そして、結いつけない髪に結い、旧式な化粧を施しているせいで常とは変って見える顔つきに、持ち前の若々しさや溌剌はつらつさが消えていて、実際の年齢にふさわしい年増美と云ったようなものが現れているのにも、一種の好感が持てるのであった。が、今から思うとちょうど一箇月前に、あの妹がこんな殊勝な恰好をしてこんな写真を撮ったと云うことが、何だか偶然ではないような、不吉な予感もするのであった。そう云えばあの日、貞之助と幸子と悦子とが妙子を中央に取り囲んで写したのもあったが、事に依るとあれが恐ろしい記念の写真になるのではあるまいか。幸子はあの時、姉の婚礼の衣裳を着けた妹の姿に、何と云うこともなく感傷的にさせられて、泣きそうになって困ったことを覚えているが、この妹がいつかはこう云う装いを凝らして嫁に行く光景を見たいと願っていたことも空しくなって、この写真の姿が最後の盛装になったのであろうか。―――彼女は努めてその考を打ち消しながら、あまり額を視詰めていると不気味になって来るので、床脇とこわきの違い棚だなの方へ眼を移した。と、そこにも、妙子の最近の製作に成る羽根の禿かむろの人形があった。六代目が大阪の歌舞伎座でこれと浮かれ坊主とを出した時、妙子が何度も通ったのはもう二三年前のことになるが、あの時分に六代目の踊を実によく観察していたと見えて、この人形は、顔はそんなに似せてないけれども、体つきの何処かしらに、六代目の感じが髣髴ほうふつとして来るように巧みに癖を捉とらえてある。ほんとうに、何をさせてもこんな風に器用な妹なのであるが、………末っ児に生れて一番不仕合せに育ったせいか、自分達の誰よりも世故に長たけていて、自分や雪子などの方が却って妹扱いされるくらいなのであるが、………自分は兎角雪子を不憫ふびんに思う余り、この妹を多少疎うとんじる傾きがあったのはよくなかった。もうこれからはこの妹も雪子と同じように思おう。勿論ひょんなことなんぞがある筈はないが、無事であってくれさえしたら、夫を説き付けて洋行にも行かして上げようし、奥畑とも一緒にさせて上げよう。………

おもてはすっかり日が暮れてしまって電燈の点ともらない夜が一層暗くひろがってい、遠くの方で物静かな蛙かえるの鳴き声さえ聞えていたが、庭の葉越しにぱっと明りがさして来たので、幸子が縁側へ出て見ると、シュトルツ氏の家の食堂に蝋燭が点ったのであった。シュトルツ氏が何か甲高い調子でしゃべっているのに交って、ペータアやローゼマリーらしい声も聞える。彼等の一家は今打ち揃そろって食卓を囲みながら、父親と、息子と、娘とが、代る代る今日の冒険譚たんを母親に物語っているのでもあろう。幸子は隣家の幸福な晩餐ばんさんの有様を、その蝋燭のまたたきに依って察しることが出来るにつけても、又不安が萌きざして来たが、その時ジョニーが芝生の上を走って行く足音がして、

「只今ただいま」

と、玄関の方で庄吉の勢い込んだ声が聞えた。

「お母ちゃん」

と、隣室の悦子がけたたましく叫んだが、

「あ、帰った」

と、幸子も云った。そして次の瞬間には二人とも階段を駈かけ降りていた。

玄関が暗いので様子がよく分らないけれども、

「只今」

と云う庄吉のあとから、

「帰ったで」

と云う夫の声がした。

「こいさんは」

「こいさんもいるで」

夫が直ぐにそう答えたが、妙子が返事をしないのが気にかかるので、

「どうした、こいさん?―――どうした?―――」

と、幸子が土間を覗のぞき込んだ時、お春がうしろから手燭てしょくをさしかけた。蝋燭の炎のゆらめきが、少しずつその辺の彼方此方を照らし出す中で、幸子はついぞ見馴みなれない、今朝出て行った時とは全く違う銘仙の単衣ひとえを着て、大きな瞳ひとみを一直線に此方に据えて立っている妙子を見た。

「中姉なかあんちゃん、………」

と、妙子は感極まったような顫ふるえ声で云った途端に緊張が弛ゆるんだらしく、はあッと、喘あえぎながら泣き出したかと思うと、倒れかかるように式台に顔を伏せた。

「どうした、こいさん?………怪我でもした?」

「怪我はせえへん」

と、又夫が答えた。

「………えらい目に遭おうたけど、板倉に助けて貰うてん」

「板倉に?―――」

幸子は三人のうしろを見たが、………板倉はそこらにはいなかった。

「ま、バケツに水でも持って来てくれ。………」

貞之助は全身泥まみれになって、靴をどうしてしまったのか、素足に下駄を突っかけていたが、その下駄も、足も、脛すねも、泥で一と色に塗り潰つぶされていた。

八

妙子の遭難の顛末てんまつについては、その夜当人と貞之助とが交〻こもごも幸子に語ったことであったが、今そのあらましを記すと次のような訳であった。

その朝、悦子を学校へ送って行ったお春が帰宅してから程なく、八時四十五分頃に妙子は家を出て、いつものように国道の津知つじの停留所からバスに乗った。まだその時刻には、非常な豪雨であったけれどもバスは運転していたので、彼女は平常通り甲南女学校前で下り、そこからほんの一と跨またぎの所にある洋裁学院の門をくぐったのは、九時頃であった。が、学院と云っても、のんきな塾のようなものであったし、何しろそう云う悪天候のことではあり、水が出そうだなどと云って騒いでいる場合であったから、欠席者が[#「が」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「も」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「が」]多く、出て来た者も落ち着かない有様なので、今日はお休みにしましょうと云うことになり、みんな帰ってしまったが、彼女だけは、妙子さん、珈琲コーヒーを飲んで行かない、と、玉置女史にすすめられて、別棟になっている女史の住宅の方で暫しばらく話していた。女史と云うのは、妙子より七つ八つ年長の人で、工学士で住友伸銅所の技師をしている良人おっととの間に小学校へ行っている息子が一人あり、自分も神戸の某百貨店の婦人洋服部の顧問をしつつ洋裁学院の経営をしているのであった。それで学院の隣に別な小さな門があって、そこに平屋建ての、西班牙スペイン風な瀟洒しょうしゃな住宅があったが、学院の校舎とは庭つづきで行け行けになっていた。妙子は先生と弟子と云う以上に女史に可愛がられていたので、いつもこんな風に招かれることがあるのであったが、その時も応接間に通されて、女史から仏蘭西フランス行きの参考になるような話を聞きかけていた。巴里パリで数年間修業をした経験を持つ女史は、妙子にも是非一度行って来るようにすすめ、自分も及ばずながら紹介の労を取るからなどと云いながら、眼の前でアルコールランプを点じて珈琲を沸かしていたが、その間も雨は恐ろしく降りつづけていたので、まあ、どうしましょう、これではよう帰りません、………いいじゃないの、小降りになったら私も出かけますから、もう少し休んでいらっしゃいよ、などと云い合っていた時であった。只今ただいま、と云いながら十になる息子の弘が息を切らして這入はいって来た。おや、学校どうしたの、と云うと、今日は一時間で授業がお休みになったんだよ、水が出ると帰り路みちが危険になるからこれで帰って宜よろしいって云ったんだよ、へえ、水が出そうなのかい? と、女史がそう云うと、何云ってるんだい、僕が歩いて来る後から水がどんどん追っかけて来たんで、僕、追い付かれないように一生懸命駈かけて来たんだ、と、弘少年が云っているうちに、もうざあッと音がして、庭へ泥水の奔流が浸入して来、見る間に床へ上って来そうなので、女史と妙子とで慌あわてて其方側の扉とびらを締めた。と、今度は反対側の廊下の方で潮騒しおさいのようなざわめきが聞えて、今弘少年が這入って来た戸口から水が室内へ流れ込んで来た。

扉を中から締めたぐらいでは直ぐに開けられてしまうので、三人の体で暫く押さえつけていたが、それでもどしん、どしん、と、戸を叩たたき割るように打ぶつかって来る。三人は協力して、テーブルや椅子などで突っかい棒をして堰せき止めていたが、やがて、安楽椅子を戸の内側へぺったり寄せつけてその上に胡坐あぐらを掻かいて頑張がんばっていた弘少年が、「やあ」と大声で笑い出した。と云うのは、忽たちまち戸が開いて、安楽椅子が、坐すわっている少年ぐるみ浮き上ったのであった。まあ、大変だわ、レコードを濡ぬらさないようにしてよ、と女史が云うので、大急ぎでキャビネットからレコードを出して、何処どこか高い所へ置くと云っても棚たなも何もないので、もう水に漬かっているピアノの上へ積み上げたりしていたが、そうこうするうちにお腹ぐらいの深さになって、三つ組のテーブルだの、珈琲沸かしのグラスの球だの、砂糖壺だの、カーネーションの花だの、いろいろなものが室内の彼方此方にぽかりぽかり浮き始めた。女史が、あら、妙子さん、その人形大丈夫か知らと、煖炉だんろ棚の上に載っている、妙子の作った仏蘭西人形を気にしたので、大丈夫でっしゃろ、まさかそんなに来けえしませんやろ、などと云っていたが、実際まだその時分には三人ながらいくらか面白半分にきゃッきゃッと云っていた。弘少年が学校の鞄かばんが流れて行くのを掴つかまえようとして体を伸ばした弾はずみに、浮いて来たラジオの角へ頭をコツンと打つけて「あ痛ア」と云った時なんか、女史も、妙子も、頭を押さえている当人も、可笑おかしくて笑いこけたりした。そして、何でも半時間ぐらいはそんな風に騒いでいたのであったが、或る瞬間から、急に三人申し合せたように真剣な顔つきになって黙り込んでしまった。妙子が記憶するところでは、あッと思う間に乳の辺まで水が来たので、カーテンに掴まって壁に寄り添っていると、多分そのカーテンが触ったのであろう、頭の上から額が落ちて来て眼の前に浮かんだ。それは女史が秘蔵している岸田劉生りゅうせいの麗子ちゃんの像であったが、その額がぶくぶくと浮きつ沈みつ部屋の隅すみの方へ流れて行くのを、女史も妙子も恨めしそうに見送っているより外はなかった。弘や、大丈夫かい、と、女史がさっきとは全く違う声を出した。うん、―――少年は一と言そう云って、背が立たなくなって来たので、ピアノの上に登っていた。妙子は幼年の頃に見た西洋映画の探偵劇で、探偵が突然地下室へ落される、と、その室は四方密閉されている箱のような部屋で、刻々に水が浸入して来、探偵の体が一寸々々と水中に没して行く、―――あの場面を思い出していた。その時三人の位置はバラバラに離れていて、弘少年は東側のピアノの上、妙子は西側の窓際のカーテンの所、玉置女史は突っかい棒にしたテーブルが部屋の中央へ押し戻されて来ていたので、その上に上っていた。妙子も背が立たなくなる危険を感じて、カーテンに掴まりながら何か蹈ふみ台になりそうなものを足で間探まさぐっていると、好い塩梅あんばいに三つ組のテーブルの一つが触ったので、それを横に倒して、その上に乗った。(後に分ったことであるが、その時の水は濃厚な泥水で、大部分が土砂であったので、却かえって物を固着させる作用をした。水が退いてから見ると、テーブルだの椅子だのと云うものが、土砂に埋まって一つ所に動かなくなっていた。家なども内部に一杯土砂が詰まったために流失や倒潰を免れたのが多かった)部屋の外へ逃げると云う方法も考えないではなかったし、窓枠まどわくを破ることぐらいは出来たかも知れないけれども、妙子が窓の外を窺うかがうと、(そこは上げ下げになった窓で、さっき雨が降り込むので上の方一二寸を残して締めたのであった)外部も室内と同じくらいの水位になっており、且かつ室内の水は次第に沼のように澱よどんで来るのに反し、ガラス一枚外は非常な激流が流れていた。そして、窓から四五尺離れたところに西日を防ぐための藤棚がある外には、その辺は芝生になっていて、高い樹も建物もない。もし窓の外へ跳び出して、何とかして藤棚まで泳ぎ着くことが出来、その棚の上へ攀よじ登ることが出来れば締めたものであるが、棚に達する迄の間に押し流されてしまうことは明かであった。弘少年は、ピアノの上に突っ立って手を伸ばして天井を撫なで廻していたが、確かに、天井を破って屋根の上へ出ることが出来れば、それがこの際一番よい方法に違いないけれども、少年や女たちの力では如何いかんともしようがなかった。兼かねやはどうしたか知ら、お母さん、と、弘少年がふとそんなことを云った。さあ、さっき女中部屋にいたようだったが、どうしたか知ら、―――女史がそう云うと、でも声もなんにもしないじゃないか、―――と、少年が又云ったが、女史はそれきり答えなかった。三人は無言で、それぞれの間を隔てている水の面を視詰みつめていると、水面が又少し高まって、天井との間の空間が三四尺ぐらいに縮まった。妙子は横倒しにしていたテーブルを普通の位置に立て直して、その上に乗り、(立て直す時テーブルが泥に埋まって重くなっていて、足に絡からみ着いた)窓の頂辺てっぺんのカーテンの金具をしっかり握っていたが、纔わずかに首だけが水面から出ている程度であった。中央のテーブルの上に立っている女史も大体同様であったが、これは都合よく頭の上に、太い三本の鎖で吊つるされている、間接照明の、杯を仰向けにしたようなジュラルミン製のシャンデリヤが垂れていたので、倒れそうになるとそれに掴つかまっていた。お母さん、僕死ぬの? と、弘少年が云った。ねえお母さん、―――と、女史が黙っているので、少年は重ねて云った。―――僕死ぬんだね、死ぬね?―――死ぬなんて、そんなこと、………女史が何とか云ったようであったが、その先はもぐもぐと口を動かしただけで、恐らく自分でもどんなことを云ってよいのか分らなかったのであろう。妙子は水面に首だけ出している女史を見ながら、死の運命が寸前に迫った人間の顔はああ云うものなんだなと思ったが、自分も今あれと同じ顔をしていることがよく分っていた。そして又、人間は、もうどうしても助からない、もう死ぬのだと云う時になると、案外落ち着いて、恐くも何ともなくなるものであることも分った。………

妙子がそう云う状態にいた間は、非常に長い時間、―――三時間も四時間ものような気がしたけれども、実際は一時間にも足りなかったであろう。彼女は、自分が取り縋すがっている窓のガラス戸の上方が、さっきも云うように一二寸程開いていて、そこから外の濁流が浸入して来るので、片手でカーテンを掴みながら、片手で一生懸命にそのガラス戸を締めようとしていると、ちょうどその時に、―――いや、実はその少し前から、自分のいる部屋の頭の上、―――屋根をみしりみしり人が歩くような足音がしていたが、その時ひらりと屋根の方から藤棚の上へ飛び移った人影があった。おや、と思うと、人影は藤棚の一番東側、つまり妙子が覗のぞいている窓に一番近い方の端へやって来て、棚の縁に掴まりながら濁流の中へ降りるのであった。勿論全身が水に漬かって、今にも流されそうになるので、手は片時も棚を掴まえて放さずにいるのであったが、そうしながら窓の方へ体を捻ねじ向けて、妙子と顔を見合わした。彼はチラリと窓の中の妙子に一瞥いちべつを与えて、それから何か動作を始めた。最初妙子には彼が何をしようとしているのだか呑のみ込めなかったが、間もなくそれは、片手で藤棚を掴みつつ激流を横切って何とかして片手を窓へ届かせようとしているのであることが分った。途端に、革のジャンパーを着て、飛行家の被かぶるような革の帽子を被って、眼ばかりパチクリさせているその男が、板倉写真師であることに、妙子は心づいたのであった。

この革のジャンパーは板倉がアメリカ時代にしばしば着ていたものだそうであるが、妙子は彼がこう云う服装をしたのを見たことがなかったし、顔がそんな風に帽子で隠されていたし、こんな時にこんな所へ板倉が出現しようとは夢にも思い設けなかったし、豪雨と激流とでその辺が濛々もうもうと煙ってもいたし、それに何よりも気が顛倒てんとうしていたので、ちょっとの間板倉であることに心付かなかったのであった。が、そう心付くと、あ、板倉さん、と大声で叫んだが、それは板倉に向って云うよりも、室内にいる女史と弘少年とに、救助者が現れたことを知らせて彼等を力づけるためであった。彼女が次にしたことは、渾身こんしんの力を振って、水で固くなっている窓を、―――彼女はたった今それを上へ突き上げようとしていたのであるが、逆に下へおろして、体を出せるだけ開けることであった。彼女は辛うじてそこを開けた。と、眼の前に板倉の手が伸びて来たので、上半身を乗り出して、右手でそれを掴まえた。同時に体が凄すさまじい勢で激流に浚さらわれかけた。左手はまだしっかりと窓の金具を握っていたけれども、その手が今にも金具を放しそうになった。そっちの手を放しなさい、と、板倉が始めて物を云った、―――こっちの手を持ってたげるよって、そっちを放しなさい、―――妙子は運を天に任せて云われる通りにした。一瞬間、板倉の腕と妙子の腕とが鎖を伸ばしたように一杯に伸び、下流へ向って押し流されて行くかと見えたが、次の瞬間に、板倉が妙子の体をぐっと手許てもとへ引き寄せた。(それは自分にもよくこんな力があると思われた程の死力を出して引っ張ったのであると、後に板倉は語った)ここへ掴まってらっしゃい、僕と同じようにしてと、又板倉が云った。妙子は彼のしている通りに、両手を伸ばして藤棚の縁に掴まったけれども、室内にいた時よりはずっと危険で、今にも流されそうであった。うち、あかんわ、流されるわ、―――ちょっとの間辛抱しなさい、放したらあきませんで、しっかりそこに掴まってなさい、―――云いながら板倉は、激流と闘いつつ藤棚の上へ攀じ登った。そして藤蔓ふじづるを押し分けて、棚の一部分に穴を開けて、そこから下へ両手を伸ばして、妙子を棚の上へ引っ張り上げた。

先ず自分だけは助かった、―――妙子が咄嗟とっさに感じたことはそれであった。今に棚の上まで水が来ないとは限らないけれども、此処からなら屋根の方へも逃げられるし、どんなことがあっても板倉が何とかしてくれよう。―――彼女は今まで狭い一室の中で踠もがいていたので、外部の変化は想像もし得なかったのであるが、その時始めて棚の上に立って、さっきから僅々きんきん一二時間の間に如何なる現象が起ったのかを明瞭めいりょうに看取したのであった。彼女がその時見たものは、あの貞之助が田中の小川の鉄橋を越えたあたりで、省線の線路の上から見たところの「海のような」景観と、恐らく同一のものであったろう。ただ貞之助の場合にはその海を東の岸から展望したのであるが、妙子はその海の殆ど真ん中に立って、四方を取り巻く怒濤どとうを見渡した訳であった。彼女は今しがた助かったと思ったばかりであるが、荒れ狂う自然の猛威を見ては、助かったのは一時のことで、結局助からないのではないか、自分も板倉も、どうしたらこの水の包囲から脱け出ることが出来るであろうか、と云う気がした。が、さしあたり女史と弘少年のことが案じられるので、まだ先生と弘さんがいたはるねん、どないぞしたげて、―――と、しきりに急せき立てている時に、どーん、と、藤棚を揺す振ったものがあった。それは一本の丸太が流れて来て打ぶつかったのであったが、よし、と云うと、板倉は又水の中へ降りて行って、その丸太で藤棚から向うの窓へ橋を架け始めた。丸太の一方の端を窓の中へ押し込み、此方の端を、妙子も手伝って藤棚の柱に藤蔓で縛りつけて、橋が出来上ると、彼はそれを伝わって向う側へ渡り、窓の中へ這入って行ったきり可なり長い間姿を見せなかったが、後で聞くと、窓のところでカーテンのレースを引き裂いて紐ひもを作っていたのであった。彼がその紐を、比較的窓に近い位置にいる女史に向って投げると、女史がそれを受取って遠い壁際のピアノの上にいる弘少年に投げた。彼は二人をそれに掴まらせて最初に窓際まで引っ張り寄せて置き、次に弘少年を、丸太を伝わって藤棚まで引き寄せ、次に棚の上へ抱き上げた。それから又窓際へ戻って行って、女史を同じ方法で救い出した。

こう云う板倉の活躍も、相当の時間を費したようでもあるし、割合に短時間であったようでもあるし、実際どのくらいの間そんなことをしていたのであるか、後になって考えてみてもよく分らない。当時板倉は、これもアメリカで買った、自動的に発条ぜんまいの懸る、水に漬けても大丈夫と云う自慢の腕時計をしていたけれども、それがいつの間にか用をなさなくなっていた。兎に角三人が一往救い出されたところで、藤棚の上で暫く立ったり居たりしていた間も、雨は猛烈に降っていたし、水もまだ増して来つつあった。で、藤棚も危いと云うので、又丸太の橋を渡って、屋根の上へ逃げた。(丸太のところに更に材木が二三本流れ寄って筏いかだのように重なったのが、大変役に立った)妙子が、こんな危急の場合に忽然こつぜんと天から降ったように板倉が出現した不審について、彼に質問をする余裕を持ったのは、その屋根の上へ移ってからであるが、板倉が答えたところに依よると、彼にはその朝から今日あたり水が出そうだと云う予感があったのであると云う。なおもう一つ溯さかのぼると、阪神間には大体六七十年目毎に山津浪やまつなみの起る記録があり、今年がその年に当っていると云うことを、既に春頃に予言した老人があって、板倉はそれを聞き込んでいた。彼はそのことが頭にあったところへ、連日の豪雨でこの間から危惧きぐしていたのであるが、今朝になると案の定近所が騒がしく、住吉川の堤防が決潰けっかいしそうだと云う噂うわさが耳に這入ったり、自警団員などが警戒に走ったりしているので、何かじっとしていられなくなって、自分も様子を見て来るつもりで、住吉川の辺まで出かけた。そして川の両岸を見て歩き、これは大事が起りそうだと悟って、水道路すいどうみちを野寄の方まで引き返して来た時に水に出遭ったのであると云う。それにしても、いったい彼が、(たとい水の出ることを予想していたとしても)最初から革のジャンパーなどで身ごしらえをして出かけたり、ことさらに野寄の辺をウロウロしていたと云うのは、少しおかしい。妙子が今朝は玉置の洋裁学院に来る日であることを知っていた筈の彼として、妙子の身に万一の危険が迫った場合には自分が真っ先に駈かけ付けようと云う下心を、もう家を出る時から抱いていたのではないであろうか。―――と云う疑問も起るのであるが、今はそのことには触れずに置こう。何にしても藤棚の上で妙子が聞いたのは、水に追われて彼方へ逃げ此方へ逃げしているうちに、偶〻たまたまこいさんが洋裁学院に来たはることを思い出したので、これは万難を排しても救助に行って上げなければならん、と心づき、遮二無二しゃにむに濁流の中を駈け付けた、と云うのであった。彼が学院の建物へ辿たどり着く迄までの決死的な奮闘については、あとで妙子は頗すこぶる詳細な話を聞かして貰うことが出来たけれども、それもここに記す必要はあるまい。ただ、彼も貞之助と同じように一旦鉄道線路に上り、甲南女学校の方角から駈け付けたのであったが、彼の方が貞之助より一二時間早かったために、何とか水を乗っ切ることが可能であったらしい。尤もっとも彼自身に云わせると、自分は三度押し流されて死に損ねた、当時自分以外にあの激流の中へ飛び込んだ者は一人もなかったと云うのであって、それも満更偽りではないであろう。そして、彼が辛うじて学院の建物へ取り着いた後に於いて、津浪が絶頂に達したのであった。彼は暫く校舎の屋上に上って茫然ぼうぜんとしていたが、ふと気が付くと、玉置女史の住宅の方の、女中部屋の屋根の上に立って頻しきりに手を振っている者があって、それが女中の「兼や」であった。兼やは板倉が自分に気が付いてくれたと分ると、応接間の窓の方を指さし、それから指を三本出して見せ、それから空くうに片仮名でタエコと書いて見せた。板倉はそれに依って、その窓の中に人が三人いることと、三人の中の一人が妙子であることとを理解するや否いなや、再び激流の中に躍り込み、半ばは流され、半ばは溺おぼれ、半ばは泳ぎつつあの藤棚へ来ることに成功したのであるが、この最後の死闘が分けても冒険的なものであったこと、これこそ彼の生命を賭とした働きであったことは察するに難くないのである。

九

板倉が上に述べたような救助作業をしていた時間は、ちょうど貞之助が列車の中に避難していた時間に相当するであろう。貞之助は、辛うじて甲南女学校に逃げ込んで、そこの二階の、一般罹災りさい民の臨時休憩所に当てられていた一室に収容されて、午後三時頃まで休ませて貰もらっていたが、やがて雨が止やみ、水が徐々に退ひき始めたので、そこから僅わずかな距離にある洋裁学院へ出かけて行った。尤もっともその日は平日のように容易たやすく行き着けた訳ではない。退いたとは云っても、跡には土砂がそっくり残ってい、その堆積たいせきが所に依よっては軒を埋める程の深さに達していて、何のことはない、雪にとざされた北国の町景色そのままであった。そして始末が悪いことには、うっかりその上を歩きかけると、人喰ひとくい沼のように何処どこまでもずぶずぶと体が呑のまれて行くのである。貞之助はさっきもそう云う泥沼に篏はまり込んで片一方の靴くつを取られてしまっていたので、残る一方の靴も脱ぎ捨て、靴下だけの足袋跣足たびはだしになって行ったが、いつもなら一二分のところを行くのに、実に二三十分を要したのであった。

行き着いて見ると、洋裁学院のあったあたりは異様に変り果てていた。学院の門は殆ほとんど埋没して纔わずかに門柱の頭が少しばかり地面に露出しているに過ぎず、平屋建ての校舎も、スレート葺ぶきの屋根だけを残して埋うずまっていた。貞之助はその屋根の上に避難しているであろう妙子達の姿を空想に描いていたのであったが、生徒たちはどうしてしまったのか、―――巧うまく逃げ終おおせたのか、流されたのか、砂の下にでも埋まっているのか、屋上には一人の人影もなかった。彼は失望しながら、(その辺の土砂も相当に危険で、一歩々々に股またぐらいまで漬かるのであった)校舎の南の、以前は花壇や芝生などのある庭になっていた所を横切り、玉置女史の住宅のある方へ行った。と、藤棚ふじだなが、藤蔓ふじづるの絡からんだ棚の部分だけ地面とすれすれに残ってい、その傍に流木が二三本積み重なったまま動かなくなっていたが、その時思いがけなくも、住宅の赤瓦あかがわらの屋根の上に、妙子と、板倉と、玉置女史と、弘少年と、そしてもう一人、女中の兼やもそこへ来て一緒になっているのを見たのであった。

板倉は貞之助に、自分が三人を救い出した手柄話をしてから、もうこのように減水したので蘆屋あしやへこいさんを送って行って上げようと思いながら、一つはこいさんが甚はなはだしく疲労しているのと、一つは玉置先生や坊々ぼんぼんが自分が行ってしまうのを心もとながるものだから、今暫しばらく様子を見ることにして休んでいたのであると語った。実際そう云う目に遭あった経験のある人でなければ分らないが、当時は、女史も、妙子も、弘少年も、後から考えると滑稽こっけいな程、ひどい恐怖症に取り憑つかれていて、眼前に空の晴れるのを見、水の退いて行くのを見つつ、なお身の安全を信じ切れず、容易に体じゅうの戦慄せんりつが止まらないと云った風であった。現に妙子は、旦那さんや御寮人様が心配しておいでなさるでしょうから、早くお宅へお帰りにならなければいけますまい、僕がお送りして行きますと、板倉にも促され、自分でもそう心付きながら、屋根の下に直ぐつづいている地面の上へ、―――軒まで届いているのだから訳なく降りられる土砂の上へ、―――何かそこにも危難が待ち構えているように思えて、ちょっとは降りて行く勇気がなかった。それに玉置女史も、妙子さんと板倉さんが行ってしまったら、自分たちはどうしたらよかろう、今に主人が駈け付けてくれるだろうけれども、こうしているうちに日が暮れたら、今夜はこの屋根の上で夜を明かさなければならないのだろうか、などと心細そうなことを云ったりするので、弘少年や兼やまでが、まあもう少しいてくれるようにと、頻りに板倉にせがんでいるところへ、貞之助が現れたと云う訳であった。しかし貞之助も、屋根の上へ上って行って一と息つき、疲れ切った体を投げ出すと、当分は起き上る気力もなかった。で、一時間以上も仰向けに倒れたまま、だんだん日が照り出して来る青空を見上げていたが、多分四時半ぐらいと思われる頃(貞之助の腕時計も破れてしまっていた)御影みかげ町の玉置家の親戚しんせきから、女史と少年の安否を気遣って男衆おとこしゅを見舞いに寄越したので、それをしおに、貞之助と板倉とは妙子を労いたわりながら帰路に就いた。妙子はまだ体力が恢復かいふくしておらず、意識もいくらかぼんやりしているように見え、始終貞之助や板倉に靠もたれかかったり背負われたりしたが、住吉川の本流がすっかり涸かれ上ってしまった代りに、東の方に別の住吉川が出来、それが国道の甲南女学校前あたりから田中あたり迄の間を塞ふさいで流れ落ちているので、いずれにしてもそこを通り越すのはなかなか難渋なのであった。彼等はその川の中流まで達した時に、東の方から渡渉して来た庄吉と都合よく行き遇あって、そこから一行四人になった。田中へ来ると、近い所だから僕の家で一と休みなすっていらっしゃいませんか、僕も実は自分の家がどうなっているか心配なのですと、板倉が云うので、貞之助は帰りを急いでもいたけれども、妙子がそんな風であるから、彼女を休息させるために板倉方で又一時間程くつろがして貰った。独身の板倉は妹と二人で暮してい、二階を撮影室その他の仕事場、階下を住宅に当てているのであったが、行って見ると、彼の家も床上一尺ぐらいまで浸水していて、相当の被害はあるらしかった。貞之助たちは二階の撮影室に請ぜられて、泥水の中から引き上げて来たサイダの接待に与あずかったりしたが、妙子はその間に泥と雨水の滲しみ透ったヴォイルの服を脱いで体を拭ふき、板倉の注意で、彼の妹の銘仙の単衣ひとえを借りて着た。貞之助も亦また、これまで跣足であったのが、そこを出る時に板倉の薩摩下駄さつまげたを借りて穿はいた。板倉は、もう庄吉もいることだし大丈夫だからと、貞之助が云うのを押し切って、その辺までお送りしましょうと又附いて来たが、田中を出はずれたあたりで引き返して行ったのであった。

幸子は、何処かで妙子と行き違いになったらしい奥畑が、恐らく後で又問い合せに来るのではないかと心待ちにしていたが、その夜はとうとう現れないで、翌朝になって、代理として板倉を寄越した。聞けば昨夜板倉が妙子を送って帰宅してから、やや暫くして啓坊けいぼんが彼の家に訪ねて来、自分は今夕蘆屋の蒔岡まきおかの家に寄せて貰ってこいさんの帰りを待っていたのだが、余り遅いので、そこらまで迎えに行って見るつもりで国道を歩き出したら、ついこの辺まで来てしまった、出来れば野寄まで行って見たいのだけれども、もう真っ暗になって来たし、これから先は往来が川になっているので、彼処あそこをじゃぶじゃぶ渡って行くのも大変であるから、君の所で様子を聞いたら分りはしないかと思って寄ってみた、と云うことだったので、それなら安心なさって下さい、実はこれこれしかじか[#「しかじか」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「しか/\」]ですと、板倉は朝からの一部始終を語った。それで啓坊は、そしたら僕は真っ直ぐに大阪へ帰る、蘆屋の方へは、もう一度寄らなければ悪いのだけれども、様子を聞いて安心したからお寄りしないで帰ったと云うことを、明日の朝でも君が行って伝えて欲しい、それにこいさんも今朝はどうしておられるか、怪我はされなかったとしても風邪でも引いておられはしないか、僕の代りにお見舞をして来るようにと云われましたので伺いました、と、そう云う口上なのであった。

妙子は今朝はもう元気になっていて、幸子と一緒に応接間へ出て来て改めて昨日の礼を云うやら、あの危かった一二時間のことを回想して語り合うやらした。それにしても、あの屋根の上へ逃れてからでも二時間ぐらいは夏服一枚で土砂降りの雨を浴びていた訳であるのに、風邪も引かないでしまったと云うのは、自分でも不思議のようであったが、ああ云う時には気が張り詰めてはるのんで、却ってどうもないんですな、と、板倉はそんな話をして、直きに帰った。しかし妙子は、何と云っても水と格闘した時に体に無理をしたと見えて、その明くる日あたりから方々の節々が痛く、殊ことに右の腋わきの下が疼うずいて、肋膜ろくまくにでもなるのではないかと云う不安を感じたが、好い塩梅あんばいにそれも数日間で直ってしまった。ただ、あれから二三日目にちょっとした夕立があった時、彼女はざあざあと云う雨の音を聞くと慄然りつぜんとした。雨が恐いなどと云うことは全く生れて始めての経験であったが、矢張あの時の恐怖症が心の何処かに潜在的に残っていたものらしく、その数日後、夜半に雨が降り出した時にも、又水が来るのではないかと思って、彼女は一と晩じゅう眠れなかった。

十

阪神間の人々は翌日の新聞に依よって始めて惨害さんがいの全貌ぜんぼうを知り、再び驚きを新たにした。蘆屋あしやの幸子の家にもそれから四五日の間は、毎日のように視察と見舞とを兼ねた訪問客が絶えないので、その応接に忙しい思いをさせられたが、日を逐おうて電話や電燈や瓦斯ガス水道等の諸機関が旧に復するに従い、物騒がしさも静まって行った。尤もっとも、至る所に堆積たいせきしている土砂の取り片附けだけは、事変のために人手や貨物自動車が不足している折柄で、早急には運びようがなく、炎天の往来を行く人々が皆真っ白に埃ほこりを浴びている光景は、往年の大震災後の東京の街が再現したようであった。阪急の蘆屋川駅なども、以前にあったフォームが土砂に埋没したので、土砂の山の上に仮のフォームを設け、橋の上に又高い橋を架けて、そこへ電車を走らせるような工事を始めた。その阪急の橋と、国道の業平なりひら橋に至る間は、川床が殆ほとんど両岸の道路の高さに持ち上ってしまって僅わずかな雨にも氾濫はんらんする危険が感じられ、一日も捨てて置けないので、大勢の土工が幾日も幾日も土砂を掘り返していたが、蟻ありが砂糖の山を崩くずすようでなかなか埒らちが明かず、あたら堤防の松を砂煙で汚していた。それに生憎あいにくと、水禍すいかから以後はすっかり天候が恢復して日照りがつづくので、一層埃が立ち迷って、名だたる高級住宅地の蘆屋の風致も、今年ばかりは見る影もなかった。

雪子がざっと二箇月半ぶりに東京から戻ったのは、そう云う埃っぽい夏の一日のことであった。

東京では水害のあった当日、夕刊にその記事が出たけれども、委くわしい様子が分らないので渋谷の家では可なり心痛したのであった。新聞で見ても、住吉川と蘆屋川の沿岸が最も被害激甚げきじんであることは明かであったが、甲南小学校の生徒の死んだことなどが載っているのを読んだ雪子は、何よりも悦子の安否を知りたかった。すると翌日、貞之助が大阪の事務所から電話をかけて来たので、鶴子と雪子とが代る代る出て、聞きたいと思うことを一と通り聞いた。その際雪子は、心配なので明日にも立とうと思っていたところであったことを語り、どうしたものであろうかと相談を持ちかける風であったが、貞之助は、来たくて来るのは差支えないけれども、そんな訳だからわざわざ見舞いに来て貰もらう程のことはないし、大阪から西はまだ鉄道も復旧しないような状態だから、と、そう云って電話を切った。しかしその晩、幸子と東京の噂うわさをした時に、雪子ちゃんが来たそうに云っていたから、それには及ばないと云って置いたけれども、見舞と云う口実もあることだし、どうもやって来そうな口ぶりであった、と云っていたが、案の定その数日後に幸子へ宛あてて手紙が来、九死に一生を得たと云うこいさんの顔も見たいし、思い出の深い蘆屋の里がどんな風に荒らされてしまったのか、実際の有様も見たいし、矢張一度行かないことには気が済まない、ついては近日突然立って行くかも知れない、と云って来ていたのであった。

彼女はそう云う前触れをして置いたので、その日はわざと電報も打たずに「つばめ」で東京を立って来た。そして大阪で乗り換えて阪神の蘆屋で下りると、工合よく自動車があったので、六時少し前に幸子姉の家に着いた。

「いらっしゃいませ」

出て来たお春に衣裳鞄いしょうかばんを渡すと、そのまま応接間へ這入はいって行ったが、家の中がひっそりしているけはいなので、

「中姉なかあんちゃんいたはるのん」

お春は扇風機の風を雪子の方へ向けながら、

「はあ、あの、ちょっとシュトルツさんのお宅まで、―――」

「悦ちゃんは」

「お嬢ちゃんもこいさんも、―――皆さん今日はシュトルツさんへお茶に呼ばれていらっしゃいました。もうお帰りになる時分でございますけど、お呼びして参りましょう」

「ええわ、放ほっときなさい」

「それでも今日あたりおいでになるやろう仰おっしゃって、お嬢ちゃんがえらいお待ち兼ねでございましたよってに、ちょっとお呼びして、―――」

「好ええ、好え、放っといて、お春どん」

ついシュトルツ家の裏庭の方で、子供たちの声がしているのでお春が呼びに行こうとするのを、雪子は止めて、ひとりテラスの葭簀張よしずばりの下へ出て、白樺しらかばの椅子に掛けた。

さっき此処ここへ来る途々みちみち、自動車の窓からちらと見ただけでも、業平橋附近の惨状さんじょうが想像以上であったのに彼女は驚いたのであったが、こうして此処を眺ながめた感じは昔の通りで、一木一草も損われてはいない。ちょうど夕凪ゆうなぎの時刻なので風がぱったり死んでいるのが、暑いことは暑いけれども、静止している樹々の色合がひとしお鮮あざやかで、芝生の緑が眼に沁しみ入るようである。この春彼女が東京へ立って行った頃にはライラックと小手毬こでまりが満開で、さつまうつぎや八重山吹はまだ咲いていなかったが、今はもう霧島や平戸も散ってしまい、わずかに咲き残った梔子くちなしの花が一つ二つ匂におっているばかり。シュトルツ家との境界にある栴檀せんだんと青桐あおぎりの葉はおびただしく繁しげって、その二階建ての洋館を半ば蔽おおい隠していた。

境界の金網の垣根かきねの向う側では子供たちが電車遊びをしているのであろう、姿は見えないが、ペータアが車掌の口真似くちまねをして、

「次は御影みかげ、次は御影でございます。………」

と云っているのが聞える。

「………皆さん、この電車は御影から蘆屋までは停りません。住吉、魚崎、青木、深江の方々はお乗り換えを願います」

そう云っているのが、全く阪神電車の車掌の口調そっくりで、とても西洋人の子供が真似ているようではない。

「ルミーさん、そしたら京都へ行きましょう」

と、今度は悦子の声がして、

「そうですねえ、東京へ行きましょうねえ」

と云っているのはローゼマリーである。

「東京と違います、京都です」

ローゼマリーは京都と云う地名を知らないらしく、いくら悦子が「京都」と教えても「東京」と云うので、悦子は懊じれて、

「違います、ルミーさん、京都です」

「東京へ行きましょうねえ」

「違います、東京までやったら百停ります」

「そうですねえ、明後日みょうごにち着きますねえ」

「何ですか、ルミーさん」

「明後日東京へ着きますねえ」

ミョウゴニチと云うローゼマリーの発音が舌に縺もつれるせいもあるが、アサッテと云う言葉を使い馴なれている悦子は、突然そんな言葉を云われたので聞き取れないのであろう。―――

「何のことですか、ルミーさん、そんな日本語ありません」

と云っている。

「エツコさん、この樹日本語で何と云いますか」

その時不意に青桐の葉をガサガサと鳴らして、そう云いながらペータアがそれに攀よじ登り始めた。この青桐は枝を境界の向う側へさし出しているので、いつも子供たちはシュトルツ家の方から垣根の金網に足をかけて枝に掴つかまり、幹に登って行くのであった。

「それ青桐です」

「アオギリギリですか」

「アオギリギリと違います、アオギリです」

「アオギリギリ、………」

「アオギリ」

「アオギリギリ、………」

ペータアはふざけているのか本当に云えないのか、どうしても「アオギリギリ」と云って「アオギリ」と云わない。悦子は又癇かんを立てて、

「ギリギリと違います。ギリ一遍です」

と云っている。それが「義理一遍です」と聞える可笑しさに、雪子は怺こらえきれなくなって吹き出してしまった。

十一

シュトルツ家の子供たちと悦子とは、間もなく暑中休暇になったので、毎日呼んだり呼ばれたりしていた。朝夕の涼しい時刻には庭の青桐あおぎりや栴檀せんだんの樹のあたりで、電車ごっこや木登りをして遊ぶのであるが、日中は家の中で、少女たちばかりの時は飯事ままごとをし、ペータアやフリッツが加わる時は戦争ごっこをする。応接間の長椅子や安楽椅子の重いのを、四人がかりで彼方此方へ動かして繋つなぎ合せたり積み重ねたりして堡塁ほうるいや特火点を作り、空気銃を擬してそれを攻撃する。ペータアが上官になって号令をかけると、他の三人が一斉射撃をする。そんな時に独逸ドイツの少年たちは、まだ小学校へも行かないフリッツのような幼童までが、敵のことを必ず「フランクライヒ、フランクライヒ」と云うので、初め幸子たちは何のことだか分らなかったが、それは独逸語で仏蘭西フランスと云うことだと貞之助に教えられて、今更のように独逸人の家庭の躾方しつけかたを思いやった。しかし蒔岡家では、この遊戯のために西洋間の家具の飾り付けが始終滅茶々々にされるのには、少からず迷惑した。突然の訪問客などがあると、女中たちは先まず客を玄関に待たして置いて、総掛りでこれらの堡塁や特火点を片附けなければならない。或ある時偶然シュトルツ夫人がテラスから部屋を覗のぞき込んで、この有様に[#「に」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「を」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「に」]呆あきれながら、ペータアやフリッツはいつもお宅へ遊びに来てこんなことをするのでしょうかと尋ねたので、幸子が仕方なく肯定すると、夫人は苦笑いをして行ってしまったが、後で子供たちを叱しかってくれたのかどうか、彼等の跋扈跳梁ばっこちょうりょうぶりは一向改まる様子もなかった。

幸子を始め三人の姉妹たちは、西洋間の方を子供たちの遊び場所に明け渡して、昼間は大概食堂の西隣の、六畳の日本間へ来てごろごろしていた。そこは廊下を挟はさんで風呂場と向い合っているので、着物を脱いだり洗濯物を束ねて置いたりする場所に使われていて、南側が庭に面してはいるけれども、庇ひさしが深くて薄暗い行燈あんどん部屋のような所なのであるが、日が遠いのと、西側の壁に低い掃き出し窓が開いているのとで、日中でも冷え冷えとした風が通り、家じゅうで一番涼しい部屋とされているので、三人は争ってその窓の前へ寄り集って、畳に臥ねそべるようにしながら最も暑い午後の二三時間を過した。毎年の例として、彼女達は土用になると食慾が減退して「B足らん」になり、夏痩なつやせをするのであるが、分けても平素から痩せている雪子の細り方は著しかった。彼女は今年は六月時分から脚気かっけが起ってなかなか直りそうもないので、一つはそのための転地療養をも兼ねて出て来た訳であったのに、此方へ来てから一層脚が重くなったので、絶えずベタキシンの注射を姉や妹にして貰もらっていたが、幸子や妙子も皆多少ずつその気けがあるので、お互に注射をし合うのが、近頃での日課になっていたと云ってもよい。幸子は疾とうから裸の背中が見えるような、後うしろの割れたワンピースを着ていたが、七月も廿五六日頃になると、雪子の洋服嫌ぎらいまでがとうとう我を折って、観世縒かんぜよりで編んだ人形のような胴体にジョウゼットの服を着始めた。妙子も、三人のうちでは誰よりも活動的な筈はずであるのが、あの水の日の衝撃からまだ十分に恢復かいふくしきっていないらしく、今年の夏はいつものような元気がなかった。尤もっとも洋裁学院も、あれからずっと休みなのであったが、夙川しゅくがわの松濤しょうとうアパートの方は幸いに水禍すいかを免れたので、製作の仕事を続ける分には差支えないのだけれども、ここ暫しばらくはその方にも気分が向かない様子で、めったに仕事部屋へも出かけなかった。

板倉はあれから後もよく訪ねて来た。水から此方こっち写真を撮りに来る客がなく、商売の方が当分暇になったので、災害地の実況を撮影して歩き、水害記念アルバムを作るのだと云って、天気さえ好ければ毎日半ズボンを穿はいてライカを提げながらそこらじゅうを視みて廻っているらしく、日焦ひやけ[#「日焦け」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「日焦げ」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「日焦け」]した顔に汗をにじませて不意に駈かけ込んで来るや否いなや、先ず勝手口へ廻って行って、

「お春どん、水や水や」

と呼ぶので、お春がコップに氷を割って水を注いで渡してやる。と、そいつを一と息に飲み乾してから、真っ白に埃ほこりを浴びた上衣やズボンを丹念に叩たたいて、そのまま台所から上って、幸子たちのいる六畳の間へ通って話し込んで行く。その話が又、今日は布引ぬのびき方面へ行って来たとか、六甲山方面とか、越木こしき岩方面とか、有馬温泉方面、箕面みのお方面、とか云う風な各地の水害視察談で、時には写真を現像して持って来たりして、彼独特の奇警な観察や感想などを交えながら説明するのであった。どうかすると、

「御寮人様ごりょうんさん、海水浴へ行きなされしませんか」

と、怒鳴りながら部屋へ這入はいって来て、

「さ、起きなはれ起きなはれ、そんなにごろごろしてはったら毒でっせ」

などと云うこともあった。そして幸子たちが生返事をしていると、ちょっと蘆屋の海岸まで何でもないやありませんか、脚気ぐらい泳ぎはったら直ってまいまんがと、手を取って引き起さんばかりにして、お春どん、御寮人様や皆さんの海水着出したげとくなはれ、それから自動車呼んどくなはれ、海岸の海水浴場迄までやで、と、自分でとっとと云い付けて、三人の姉妹に悦子までも車に乗せて運んで行く。幸子は悦子を泳ぎに連れて行ってやりたくても大儀で気が進まない時などには、板倉に附いて行って貰うことがしばしばあった。そんな調子で、日増しに懇意になるにつれて、言葉づかいなどもへんに心やすだてに、ぞんざいになり、勝手にそこいらの押入を開けたりすると云う風で、眼に余るところも見えては来たものの、用を頼めばどんなことでも厭いやな顔をせずに足してくれて重宝なのと、話が面白くて愛嬌あいきょうがあるのとが取柄であった。

或る日三人が六畳の間に臥ころびながら、いつものように掃き出し窓から流れて来る冷たい風を受けていると、庭から大きな蜂はちが一匹舞い込んで来て、最初に幸子の頭の上でぶんぶん云いながら輪を描き始めた。

「中姉なかあんちゃん、蜂やで」

と、妙子が云うと、幸子が慌あわてて起き上ったが、蜂は雪子の頭の上から妙子の頭の上へ、―――そして又幸子の方へと、次々に三人の頭上を舞い舞いするので、裸も同然の身なりをしている三人は、部屋の中を彼方へ逃げ此方へ逃げして歩き廻った。蜂は三人を嬲なぶるかのように、幸子たちが逃げる方へ逃げる方へと附いて行くので、三人がわあわあ云いながら廊下へ跳び出すと、蜂も跡を追って出た。

「あ、来たで来たで」

わあッ、わあッと云う声を挙げて、廊下から食堂へ、食堂から応接間へと駈け込んで来たので、ローゼマリーと飯事ままごとをしていた悦子がびっくりして、

「何やねん、お母ちゃん」

と云っている途端に、又ぶうんと来て、窓硝子まどガラスに打ぶつかった。

「あ、来たわ来たわ」

今度はローゼマリーに悦子までが面白半分それに加わった。五人は蜂と鬼ごっこでもしているように、きゃッきゃッと云いながら室内を逃げ廻ったが、蜂は一層その騒ぎに興奮させられて狼狽うろたえるのか、それともそう云う習性があるのか、庭へ飛び去りそうにしては又舞い戻って追って来る。五人は又食堂から廊下を通って六畳へ駈け込む。そんな風に家中いえじゅうを行ったり来たりして揉もみに揉んでいるところへ、

「何やねん、あの騒ぎは」

と、ひょっこり板倉が勝手口から這入って来て、台所と廊下の境界の暖簾のれんの間から首を出した。今日も海へ誘い出すつもりと見えて、海水着の上に浴衣ゆかたを着、海水帽を被かぶって手拭てぬぐいを襟えりに巻き着けていた。

「お春どん、何やねん」

「蜂に追いかけられてはるねん」

「うえッ、何と云う派手な………」

そう云っている板倉の鼻先を、五人が一とかたまりになって駈け足の練習でもしているように握り拳こぶしを両腋わきに附けながら走って通った。

「今日は。―――えらいこッてすなあ」

「蜂や、蜂や、板倉さん、早よ掴つかまえて、―――」

幸子が金切り声を挙げながらも休まずに駈けて行った。皆口を開いて歯を露あらわし、眼を光らして、笑っているように見えながら、へんに真剣な、引攣ひっつった顔をしていた。板倉は直ぐに海水帽を脱いで、それで蜂をパタパタ扇あおぎ出しながら、応接間から庭へ追い払った。

「ああ驚いた、何と云う執拗ひつこい蜂やろ」

「阿呆あほらしい、蜂の方が驚いてまっせ」

「そうかて、笑いごとやあれへん、さっきはほんまに恐かったわ」

雪子がまだ息をはあはあ弾ませて、青ざめた顔に無理に笑いを浮かべながら云った。彼女の脚気の心臓がドキドキ動悸どうきを打って[#「打って」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「搏つて」]いるのが、ジョウゼットの服の上から透いて見えた。

十二

山村のおさく師匠の腎臓病が悪くなって近所の病院へ入院したと云う端書が、弟子の一人から妙子宛あてに届いたのは八月に這入はいって間もなくであった。

いったい山村舞の稽古けいこは、毎年七八月は休むのが例なのであるが、今年は六月に郷土会の催しがあった当時おさく師匠の健康がすぐれなかったので、それから引き続きに九月まで休むと云うことになっていた。それで妙子は、おさく師匠の体のことを気にしないでもなかったものの、つい無沙汰ぶさたがちに過していたと云うのは、何分師匠の住宅と云うのが天下茶屋てんがちゃやの方にあって、阪急の蘆屋からは、大阪を北から南へ突き抜けて、難波なんばから又南海電車に乗らなければならなかったし、稽古は嶋の内の稽古場の方へ行けばよかったので、まだ一遍もその家を訪ねたことがなかったからであった。ところへ突然そんな通知を受け取ったと云う訳であったが、腎臓病から尿毒症になったとあるので、相当重い容態であることは察しられた。

「どんな様子か、こいさん明日見舞いに行ったげてくれへん? いずれ私も行くけれども、―――」

幸子は、何よりも今年の五六月頃に、妙子や悦子のために遠い所を毎日出稽古に来てくれたことが障ったのではあるまいか、あれが発病の遠因を成していなければよいが、と云うことが気に懸った。彼女はあの時分、おさく師匠が妙にむくんだ青い顔をしていたり、稽古を附けながら忙せわしい息づかいをしていたりするのに心づいて、自分の健康は舞で保もっているのだと御当人は云っているものの、腎臓病に体を動かすことは実は禁物な筈はずであるから、出稽古に来て貰もらうことを辞退した方がよくはなかろうかと思いながら、折角意気込んでいる娘や妹を落胆させることもいとおしく、それに誰よりも師匠自身が、ひどく身を入れてくれているのに絆ほだされて、結局そうも云い出しかねてしまったのであるが、今になれば矢張あの時止とめなかったことが後悔せられた。で、自分も近日訪ねて行くとして、取り敢あえず端書が来た翌日に、妹を遣やって見ることにした。

妙子は朝の涼しいうちにと云っていたのが、見舞いに持って行く品物の詮議せんぎや何やかやに時間を潰つぶして、生憎あいにく午後の日盛りに出かけるようなことになった。そして五時頃にふうふう云いながら帰って来て、大阪のあの辺は何と云う暑い所やろと云い云い六畳の間に這入って、汗で肌はだに粘り着いた服を、皮を剥はぐように頭からすっぽり脱ぎ、ブルーマー一つの素っ裸になって洗面所へ隠れたが、暫しばらくすると濡ぬれ手拭てぬぐいで鉢巻はちまきをし、湯上り用タオルを腰に巻いて出て来て、四つ入りの浴衣ゆかたを出して引っ掛けた。が、帯は締めずに、

「御免やすや」

と、二人の姉の前を通って扇風機の傍にすわり、襟えりをはだけて胸もとへ風を入れながら、漸ようやくおさく師匠の病状を語った。

―――お師匠さんは体の工合が悪い悪いと云いながらも、先月中は別にどうと云う程のこともなかったのであるが、日頃弟子に名取の免状を出すことを余り好まない人であったのが、七月三十日に、或るお嬢さんに名取を許すことになって、その式を自宅で挙げた。その時お師匠さんは、暑い折柄であるにも拘かかわらず、きちんと紋服を着けて先代の写真を祭り、その前で祖母譲りの方式に依よって盃事さかずきごとを厳重にしたが、翌三十一日にそのお嬢さんの家へ挨拶あいさつに行った時には何となく顔色がすぐれなかった。そして翌八月の一日に倒れたのであると云う。いったいに南海電車の沿線は阪神間と違って樹木が少く、こまこました家が建て詰まっているので、妙子は病院を捜し当てる迄に好い加減汗びっしょりになったが、その病院の、お師匠さんの病室と云うのが又西日の当る暑そうな部屋で、お師匠さんは弟子の一人に看病されながらそこで淋さびしそうに臥ねていた。水腫すいしゅはそんなにひどくはなく、顔も思った程むくんではいなかったが、妙子が枕まくらもとに畏かしこまって挨拶しても、もう分らないらしい様子であった。看病している人の話だと、たまに意識を回復することもあるけれども、大概は昏睡こんすい状態をつづけていて、ときどき譫語うわごとを洩もらすのが、舞に関係した事柄ばかりであると云う。妙子は三十分程いて暇いとまを告げたが、出て来る時にその弟子の人が廊下まで送って来て、お医者さんも、とても今度はあかんように云うておられます、と云うような話をした。それは妙子にも、容態を見て大凡おおよそ分っていたことであったが、彼女は炎天の路みちを喘あえぎ喘ぎ再び汗を掻かいて戻って来ながら、たまに一日往復するさえこんなに大儀であるのにと思うと、おさく師匠があの体でここを毎日往き通いした労苦が、沁しみ沁じみ察しられたのであった。

幸子はそう聞くと、もう一度妙子に附き合って貰ってその明くる日に見舞いに行ったが、それから五六日過ぎて逝去せいきょの通知が来た。その時始めて、二人は悔みを述べるために亡なくなった師匠の家を訪れる機会を持ったのであるが、これが大阪で由緒正しい山村流の伝統を伝えていた唯一ゆいいつの人、昔南地なんちの九郎右衛門くろえもん町に住んでいたので九山村と云われた家柄の、二代目を受け継いだ師匠の住居であろうかと驚かれるような、そう云っても佗わびしい長屋のような家であった。これでは落魄らくはくと云ってもよいような細々ほそぼそとした暮しをしていたとしか思われなかったが、それと云うのも、故人が芸術的良心に忠実で、昔からの舞の型を崩くずすことを極端に嫌きらい、時代に順応することをしなかった、一と口に云えば世渡りの下手な人だったからであろうか。聞けば初代の鷺さぎさくさんは嘗かつて南地の演舞場の師匠をしてい、あしべ踊の振付をしていた人なので、初代が死んだ時に二代目のおさくさんにも廓くるわの師匠となってくれるように話があったのだそうであるが、故人は真っ平御免だと云って断った。と云うのは、当時は藤間や若柳わかやぎの派手な踊が全盛の頃で、廓附きの師匠になれば自然廓の役員からさまざまの干渉を受け、当世風に舞の手振を改変することを余儀なくされる、それが故人は厭いやだったからだそうであるが、故人のそう云う狷介けんかいな性質が、処世的には大いに禍わざわいしたのであろう。そんな風なので弟子の数も少なかったが、幼い時から祖母の手一つで育てられて、両親もなく、芸者時代に落籍してくれた旦那はあったそうだけれどもこれと云う定まった夫もなければ子供もないと云う、家庭的にも至って恵まれなかった人なので、亡くなったと云っても近親の人達が寄り集って来るでもなかった。葬儀も残暑の厳しい日に、阿倍野でほんの小人数で営まれたが、その人達が殆どそっくり居残って隣の火葬場へ送って行き、お骨が焼けるのを待っている間に故人を偲しのぶいろいろの話が出た。―――お師匠さんは乗物が嫌いで、取分け自動車と船とが苦手であったこと。それでも信仰心が篤あつくて、毎月廿六日には欠かさず阪急沿線の清荒神きよしこうじんへ参詣さんけいしたこと。又百二十八社巡めぐりと云って、住吉、生玉いくたま、高津こうづの三社とその末社とへ月詣つきまいりをしたこと。節分には上町うえまちの寺々の地蔵巡りをして、自分の歳の数だけ餅もちを供えて廻ったこと。稽古は熱心で、要所々々の心持を丁寧に教えたが、「汐汲しおくみ」の、「君にや誰かつげの櫛くし、さし来る汐を汲もうよ汲み分けて」のところなどやかましく云って、「月は一つ影は二つ」で桶おけの中に月のある思いをせよと云ったこと。「鉄輪かなわ」の「今更さこそ悔しかるらめ、さて懲こりや思い知れ」と金槌かなづちで釘くぎを打ち付ける様をする時は、腰を折って執心する眼に注意するようにと教えたこと。万事に旧弊で退嬰たいえい的な人ではあったが、近来上方舞が時勢に取り残されて行くのを見ては流石さすがにじっとしていられず、機会があれば東京へ打って出ようと云う考が動いていたこと。まだ御当人は死ぬなどとは思わず、本卦還ほんけがえりの歳になったら南の演舞場を借りて花々しい会を催すのだと云っていたことなど。………尤も妙子は、わりに新しく入門した弟子で、ようよう近年おさく師匠と親しくなったに過ぎないので、人々の話を幸子と二人で慎つつましく聴いていただけであったが、それにしては師匠も特別に眼をかけてくれ、自分もいつかは名取にして貰おうと云う下心がないでもなかったのに、今はその望みも空しくなったのであった。

十三

「お母ちゃん、シュトルツさんが独逸ドイツへ帰らはるねんて。―――」

或ある日、シュトルツ家へ呼ばれて行って夕方まで遊んでいた悦子が、帰って来るとそんな話をした。

子供の云うことで、少し頼りないような気がしたので、翌朝幸子は庭の境界の金網越しにシュトルツ夫人と顔が合った時、昨日悦子からちょっと伺いましたけれども、ほんとうですかと、念を押してみると、ほんとうですと云う答であった。夫人の云うのには、わたしの旦那だんなさん、日本が事実上の戦争を始めてからさっぱり商売がありません、神戸の店、今年になってから殆ほとんど休んでいるようなものです、直きに戦争が終るかと思って今日まで待ってみましたけれども、まだいつ終るか分りません、わたしの旦那さん、いろいろ考えました、そして独逸へ帰ることにきめました、と云うのであった。彼女はなお言葉を継いで、自分の夫はもとマニラで商売をしていたのが、二三年前に神戸へ渡って来たのであるが、折角東洋を根拠にして地盤を築き上げたのに、数年の努力を水の泡あわにしてこの際帰国すると云うのは残念でならない、それに私と子供たちとは、あなた方のようなよい隣人を持ったことをこの上もなく仕合せに感じていたのに、そのあなた方と別れなければならないことも、大変辛つらい、私よりも子供たちの方が一層それを辛がっている、と云うような話をした。で、彼等の予定では、父親のシュトルツ氏と長男のペータアとが今月のうちに先発して、亜米利加アメリカ経由で帰国する、夫人はローゼマリーとフリッツとを伴って、来月一旦マニラへ渡り、同地の妹の家に暫しばらく滞在して、それから欧洲おうしゅうへ立つことにする、と云うのは、その妹の家族も今回帰国することになったのであるが、妹は目下本国で病気に罹かかって臥ねているので、夫人が妹の家の後始末をつけ、荷纏にまとめをして、自分の子供の外に妹の子供三人を連れて引き揚げることになったのだと云う。そんな訳で、夫人やローゼマリーの出発にはまだ二十日ばかり間があるけれども、シュトルツ氏とペータアとは既に船室の予約までした、それは八月の下旬に横浜を出帆するエムプレス・オブ・カナダであると云う、全く急な話なのであった。

蒔岡まきおか方では、悦子が七月の末あたりから、去年ほどではないけれども又少し神経衰弱と脚気かっけの気味があって、食慾が衰え、不眠症を訴え始めたので、あまり病気が昂こうじないうちに一度東京へ連れて行って専門の大家に診みて貰もらおう、まだ東京を知らない彼女は、学校の同級生で二重橋を拝んでいるのは誰さんと誰さんだなどと云って羨うらやましがっているくらいであるから、連れて行って方々を見物させてやれば、それだけでもどんなに喜ぶであろう、それに幸子も渋谷の本家を訪ねたことがないのだから、ちょうど好い機会でもある、と云うことになって、幸子と雪子と悦子の三人で八月怱々そうそうに立つ積りでいたところ、おさく師匠の病気のことなどがあって延び延びになり、もう今月は行けるかどうか分らないと云っていたのであった。でも、ペータア父子おやこが近日横浜を出帆するなら、それを見送りがてら行くのもよいと、幸子はそうも思い付いたが、生憎あいにくと又、出帆の当日が地蔵盆に引っかかるので、彼女はどうしても本家の姉の代理として、毎年行われる上本町のお寺の施餓鬼せがきへ行かなければならなかった。で、仕方がないので十七日の日にペータアのために送別のお茶の会をして、ペータア、ローゼマリー、フリッツ等を招いたが、一日置いて、十九日には、シュトルツ家で子供たちのために名残のお茶の会が催され、ペータアやローゼマリーの友達である独逸の少年少女たちが集った中に、唯一ゆいいつの日本人として悦子も呼ばれた。その翌日の午後、ペータアはひとりで蒔岡家へサヨナラを云いに来、家族の者に一々握手をして、自分は明日の朝パパと一緒に三宮さんのみやから横浜へ向けて立つことになった、亜米利加を廻って独逸へ着くのは九月の上旬になると思うが、独逸ではハンブルクに住む筈はずであるから、どうか今度はあなた方の方から是非ハンブルクへ来て下さい、と云うような挨拶あいさつをしたが、亜米利加を通る時に何かエツコさんに買って送って上げたいから、欲しい物があったら云って下さい、と云うことだったので、悦子は母と相談して、靴くつを送ってくれるように頼んだ。するとペータアは、そんならエツコさんの靴をちょっと貸して下さいと云って、借りて帰ったが、直すぐ又紙と鉛筆と巻尺まきじゃくを持って戻って来、ママに話したら、靴を借りるよりもエツコさんの足の大きさを測って来た方がよいと云われたので、測りに来たと云い、自分で紙をひろげて悦子の足をその上に載せ、ママに云い付けられた通りに型と寸法とを取って帰った。

悦子は二十二日の朝、雪子に連れられてシュトルツ父子を三宮駅まで見送ったが、その晩、夕食の卓を囲みながら父子の噂うわさをして、今朝はペータアさんが大そう名残惜しそうにしていた、エツコさんいつ東京へ行きますか、来られたら船まで来てくれませんか、二十四日の夜の出帆ですから、私達は会おうと思えばまだもう一度会えるのですと、汽車が動き出すまで繰り返して云っていたのが、何だか可哀かわいそうのようであった、と、そんな話が出たのが切掛きっかけで、それなら悦子、横浜へ行ってペータアさんに会うたげなさいなと、幸子が云い出した。お母ちゃんは二十四日を済まさなければ立たれないから、悦子は姉ちゃんと明日の夜汽車で立ち、明後日の朝横浜で下りて真っ直ぐ船へ行ったげたらどう? お母ちゃんも二十六日頃には行くから、東京見物でもさせて貰うて、渋谷で待っていたら、………ふん、そないしてもええなあ、………と、急にそう云う相談になった。

「どう、雪子ちゃん、明日の晩立って貰えるやろか」

「いろいろ買い物があるねんけど、………」

「明日じゅうに出来んやろか」

「さあ、………あんまり遅い汽車やったら悦ちゃんが睡ねむがるやろうし、………明後日の朝早うに立っても間に合わんことないねんで」

幸子は雪子が、この場になっても一日でも多くこの家に泊っていたがる心持を、いじらしいものに感じながら、

「ほんに。そしたらまあ明後日のことにしてもええわな」

と、さりげなく云ったが、

「えらい早いお立ちやわな、この間来たばかりやのんに」

と、妙子がちょっと冷やかすような口調で云った。

「もっとゆっくりしてたいねんけど、悦ちゃんとペータアさんのためやったら、仕方ないわ。―――」

雪子は七月に出て来る時に、大体二箇月ぐらいは此方に置いて貰えようかと云う腹があったのに、明後日立たなければならないとすると、聊いささか当てが外れるので、内心萎しょげているところもあった。尤も今度は悦子が一緒だし、後から幸子も来ると云うので、ひとりで帰るような佗わびしさはないけれども、幸子母子はそう長いこと滞在する筈はなく、悦子の学校が始まる頃には帰西するに違いないので、それから先、自分は又当分東京に残らなければならない。そう思うと雪子は、自分が蘆屋にいたいと云うことは、中姉の家族と一緒に暮したいからでもあるけれども、それにも増して関西の土地そのものに対する愛着心の結果であり、東京が厭いやと云うことは、本家の兄と肌はだが合わないせいでもあるが、一つには関東の水そのものが性に適しないのであることが、自分にもよく分るような気がするのであった。

幸子にはその辺の事情が察しられたので、明くる日になっても、わざと何とも云い出さずにいて、まあどうするか、雪子と悦子とで好きなように極めたらよいと思っていると、雪子は朝のうちは家でぐずぐずしていたが、悦子が頻しきりに行きたがっている様子を見て、午後になってから独ひとりでそわそわと身支度をし、例の注射を妙子に一本打って貰い、誰にも何とも云わないで、お春を連れてふらりと何処どこかへ出かけて行った。そして夕方の六時過ぎに、神戸の大丸や元町あたりの商店の包紙に包まれた物を一杯提げて帰って来て、

「これ買うて来た」

と、帯の間から翌朝の「ふじ」の特急券を二枚出した。これだと、大阪を午前七時前に立って横浜へ午後三時前に着くから、三時ちょっと過ぎには突堤へ行けるであろう、そうすれば少くとも二三時間は会う余裕があろう、と云うので、それからぱたぱたと話が極まり、慌あわてて荷拵にごしらえをするやら、シュトルツ夫人の所へその旨むねを知らせに行くやらした。

雪子は、悦子が興奮して容易に寝ようとしないのを、明日の朝が早いから寝なさい寝なさいと、無理に二階へ上らせてしまってから、徐おもむろに自分の衣裳鞄いしょうかばんを詰め、それが済むと、貞之助がまだ書斎の方で調べ物をしているので、姉と妹を掴まえて十二時過ぎまで応接間で話していたが、やがて妙子が、

「もう寝よう、雪姉きあんちゃん」

と、無作法に大きな欠あくびをした。この妹は三人の中で一番行儀が悪い点で雪子と対照を成すのであるが、暑い季節には殊ことにそれが甚はなはだしく、今夜も風呂から上ってからは浴衣ゆかた一枚の帯ひろ裸はだかで、ときどき胸を露あらわにして、団扇うちわで涼を納いれながらしゃべっていたのであった。

「睡たかったら、こいさん先へ寝なさい」

「雪姉ちゃん、睡くないのん?」

「今日はあたし、あんまり動いたせいか、芯しんが疲れ過ぎてるみたいで、睡いことないねん」

「もう一本注射したげよか」

「明日の朝、出がけにしてもろた方がええか知らん」

「今度は気の毒やったわな、雪子ちゃん、―――」

と、幸子は、雪子の顔に例のシミが久し振にうっすらと現れているのを看みて取りながら云った。

「―――今年のうちにもう一遍出て来て貰うようなことがあって欲しい思うてるねんで。来年は雪子ちゃん厄年やくどしやさかいにな」

シュトルツ父子は三宮駅から立ったのであるが、雪子と悦子とは少しでも朝を遅らすために大阪から乗ることにしてあった。それでもそれに間に合わすためには、六時には省線電車に駈かけ付けなければならないので、幸子は門口まで送って行って済ますつもりでいたのであったが、シュトルツ夫人が子供たちを連れて蘆屋駅まで見送ると云うので、その明くる朝は、彼女も、妙子も、お春も、皆出かけた。

「わたし、昨夜船へ電報打ちました。汽車の時間知らせました」

と、電車を待っている間にシュトルツ夫人が云った。

「ペータアさん、きっと甲板デッキに出ててくれはりますやろなあ」

「ええ、そう思います。エツコさん、大変親切、ありがとございますね」

そう云って夫人は、ローゼマリーやフリッツにも、

「エツコさんに有難うダンケシェーンと仰おっしゃい」

と、独逸語で命じたが、幸子たちにはその「ダンケ、シェーン」と云うところだけが分った。

「そしたら、お母ちゃん、早よいらっしゃいよ」

「ああ、二十六日か七日にはきっと行くよ」

「きっとやなあ」

「きっとや」

「エツコさん早く帰って来て下さい。―――」

と、ローゼマリーは動き出した電車を追いかけながら云った。

「―――アウフ、ウィーダアゼーエン!」

「アウフ、ウィーダアゼーエン!」

と、悦子もいつの間にか覚え込んだ独逸語で云いながら手を振って答えた。

十四

二十七日の朝の「かもめ」で立つことにしていた幸子は、前の晩に荷纏にまとめをしてみると、渋谷へ持って行く土産物や何やかやで鞄かばんが大小三つ程になり、自分一人では不便なので、こう云う機会にお春にも東京見物をさせてやることを思いついた。貞之助の身の周りの世話は、妙子が留守をしてくれるので心配はないとすると、此方はお春を連れて行く方がいろいろの点で便利である、と云うのは、事に依よったら、学校の始まる時分までにお春を附けて悦子を先に帰すことにして、自分は暫しばらくあとに残りたい、久し振に東京へ行くのであるから、少しはゆっくりして、芝居なども見て帰りたい、―――と、幸子は内々そんな目算を立てたのであった。

「あ、お春はあどんも来たのん」

雪子と、本家の長男の輝雄と、三人で東京駅へ出ていた悦子は、母のあとから思いがけなくお春が降りて来たのを見ると、歓声を挙げた。そしてタキシーへ乗る間にも、

「あれが丸ビル、あの向うが宮城きゅうじょうやで」

と、もういっぱし先輩顔をしながら、頻しきりにはしゃいだ。幸子は僅わずかな間だけれども、悦子の色つやが目立って健康そうになり、頬ほおの肉がいくらか豊かになったように感じながら、

「悦ちゃん、今日は富士山がよう見えたで。―――なあお春どん」

「はあ、ほんとうに、上から下まで雲が一ひとッつものうて、―――」

「こないだは少し曇ってて、上の方が見めえへなんだ」

「まあ、そうでございますか、そしたらお春はるどんは運がよかったのでございますね」

お春は悦子に対する時だけ、自分のことを「お春どん」と云うのであった。

車がお濠端ほりばたへ来ると、輝雄が帽子を取ったのを合図に、

「ほら、お春はあどん、彼処あそこが二重橋、―――」

「こないだは彼処で自動車を降りて、最敬礼したんよ」

と、雪子が云った。

「ふん、ふん、そうやわ、お母ちゃん、―――」

「いつのこと」

「こないだ、―――二十四日の日、シュトルツさんとペータアさんと、姉ちゃんと、悦子と、彼処に整列して最敬礼したんやわ」

「へえ、シュトルツさん等ら、二重橋へ来きやはったん」

「姉ちゃんが連れて来やはったんよ」

「そんな暇があったのん」

「時間がキチキチや云うて、時計ばかり見てはって、気が気やなかったけど、―――」

あの日、雪子と悦子とが大急ぎで突堤へ駈かけ付けると、シュトルツ父子はもうさっきから甲板に出て待ち焦こがれていたところであった。雪子が出帆の時間を尋ねると、夜の七時と云うことだったので、それならまだ四時間足らずあるから、ニュウグランドのお茶にでもと思ったけれども、お茶には今から早過ぎるので、いっそ東京まで来ないであろうか、電車の往復が一時間と見て、三時間ほど余裕がある訳だから、自動車で一と廻りすれば丸の内辺を見物することぐらいは出来る、と、そう提議した。と云うのは、ペータアは勿論もちろん、父のシュトルツ氏もまだ東京へ行ったことがないことを、雪子は知っていたからであった。するとシュトルツ氏はやや躊躇ちゅうちょする体であったが、大丈夫ですか、大丈夫ですかと、二三度念を押してから承知した。四人は直ぐに桜木町へ乗り付けて、有楽町で下り、最初に帝国ホテルでお茶を飲み、四時半にホテルを出て、一時間の予定で自動車を飛ばした。先ず二重橋前に行って、車から下りて最敬礼をし、陸軍省、帝国議会、首相官邸、海軍省、司法省、日比谷ひびや公園、帝国劇場、丸ビル等々を、或あるいは車の上から、或はちょっと降りたりして、最大急行で見物し、五時半に東京駅に着いた。そして雪子と悦子とは、もう一度横浜まで附いて行って、出帆を見送るつもりであったが、シュトルツ氏が再三辞退することでもあり、その日は早朝から活動しているのにこの上帰りが遅くなっては悦子を疲らせる心配もあるので、先方の云うままに東京駅頭で別れたのであった。

「ペータアさん喜んではったか」

「東京が立派やのんで驚いたらしいわ。なあ悦ちゃん」

「ふん、大きなビルディングがあるのんで、眼エきょろきょろさしてはったわ」

「パパさんは欧羅巴ヨーロッパ知ってはるけど、ペータアさんは[#「ペータアさんは」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「ペータアさんは、」]マニラと、神戸と、大阪より知れへんねんさかいにな」

「流石さすがに東京やなあ思うたらしい様子やったわ」

「悦ちゃんかてそうやったやろ」

「悦子日本人やないの、見ん前さきから分ってたよ」

「何せ、東京知ってるのんはあたし一人やさかい、説明するのんに骨折ったわ」

「姉ちゃん、日本語で説明したの?」

と、輝雄がきいた。

「それがなあ、あたしがペータアさんに話して、ペータアさんがパパさんに通訳するねんけど、帝国議会やたら首相官邸やたら云うのん、ペータアさん分らへんねんわ。そんで、ところどころ英語使うたりして、………」

「帝国議会だの首相官邸だのって英語、姉ちゃんよく知ってたなあ」

輝雄はひとりアクセントの正しい東京弁を使っていた。

「日本語の間に片言の英語交ぜるねんわ。帝国議会は覚えてたけど、首相官邸は、『此処ここが近衛このえさんのいやはるとこ』と日本語で云うてん」

「悦子独逸語使うたよ」

「アウフ、ウィーダアゼーエン云うたんか」

「ふん、東京駅で別れる時に何遍も云うたわ」

「シュトルツさんも英語で頻しきりに礼言[#「言」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「云」]うてはったけど、………」

幸子は、平素から言葉数の少い、引っ込み思案の雪子が、友禅模様の羅衣うすものを着、洋装の悦子の手を引いて、外国人の紳士と少年とを案内しながら、帝国ホテルのロビーだの、丸の内の官衙街かんががいだのビルディング街だのに現れた光景を想像すると、いかにそれが不思議な組み合せであったろうかと思えるのであった。そして、子供のお附合いに喰くっ着いて来たシュトルツ氏が、言葉の通じない不自由さを忍び、絶えず気にして腕時計を見ながら、黙々として引っ張り廻されていたであろう恰好かっこうが、どんなに間の抜けた、当人にして見ればどんなに迷惑なものであったか、凡およそ推量出来るのであった。

「お母ちゃん、あの絵画館見たことあるのん」

と、車が外苑がいえん前にさしかかった時、悦子が云った。

「あるよ、お母ちゃんは。―――お上りさん扱いせんときなさい」

だが、そう云う幸子も、そんなに東京をよく知っている訳ではなかった。ずうっと昔、十七八の娘時代に父に連れられて上京し、築地采女つきじうねめ町の旅館に暫く泊っていたことが一二回あって、その時分には随分方々を見て歩いたものだけれども、それは大正十二年の大震災の前のことで、復興後の帝都へは、箱根へ新婚旅行に来た帰りに帝国ホテルに二三泊したことがあるに過ぎない。と、そう思ってみると、悦子が生れてからの九年間と云うものは、全然東京を見ていないのであった。彼女はさっき、悦子やペータアのことを冷やかしたけれども、実は彼女自身、列車が新橋駅を出て東京駅に至る間に、高架線の両側に聳そびえる高層建築の景観を目睹もくとした時は、久し振に帝都の威容と云うようなものに接した気がして、多少の興奮を覚えないでもなかった。大阪も近頃は御堂筋みどうすじなどが拡張されて、中之嶋から船場せんば方面に近代的建築が続々そそり立つようになり、朝日ビルの十階、アラスカの食堂あたりから俯瞰ふかんすると、流石に壮観であるけれども、何と云っても東京には及ばない。幸子はこの前、復興後まだ日の浅い帝都を見たのが最後であって、それからの発展の様相を心に描いていなかったのであるが、その高架線の上からの眺ながめは、彼女の知っている東京とは違ったもののように見えた。彼女は、列車の窓が次々に送り迎える巍然ぎぜんたる街衢がいく、その街衢と街衢との切れ目毎にちらつく議事堂の尖塔せんとうを遠望すると、今更に九年の歳月と云うものの長さ、―――その間には帝都の変貌へんぼうのみならず、自分や自分の身の周りにもさまざまな推移のあったことが回顧された。

しかし正直なことを云うと、彼女はそんなに東京が好きなのではなかった。瑞雲棚引ずいうんたなびく千代田城のめでたさは申すも畏かしこいこととして、東京の魅力は何処どこにあるかと云えば、そのお城の松を中心にした丸の内一帯、江戸時代の築城の規模がそのまま壮麗なビル街を前景の裡うちに抱え込んでいる雄大な眺め、見附みつけやお濠端の翠みどり色、等々に尽きる。寔まことに、こればかりは京都にも大阪にもないもので、幾度見ても飽きないけれども、外にはそんなに惹ひき着けられるものはないと云ってよい。銀座から日本橋界隈かいわいの街通りは、立派と云えば立派だけれども、何か空気がカサカサ乾枯ひからびているようで、彼女などには住みよい土地とは思えなかった。分けても彼女は東京の場末の街の殺風景なのが嫌きらいであったが、今日も青山の通りを渋谷の方へ進んで行くに従い、夏の夕暮であるにも拘かかわらず、何となく寒々さむざむとしたものが感じられ、遠い遠い見知らぬ国へ来てしまったような心地がした。彼女は前に東京のこのあたりを通ったことがあったかどうか覚えていないが、眼前に見る街の様子は、京都や大阪や神戸などとは全く違った、東京よりもまだ北の方の、北海道とか満洲まんしゅうとかの新開地へでも来たような気がする。場末と云ってもこの辺はもう大東京の一部であり、渋谷駅から道玄坂に至る両側には、相当な店舗が並んでいて、繁華な一区域を形作っているのであるが、それでいて、何処かしっとりした潤うるおいに欠けてい、道行く人の顔つき一つでも変に冷たく白ッちゃけているように見えるのは何故なぜであろうか。幸子は自分の住んでいる蘆屋あたりの空の色や土の色の朗かさ、空気の肌触はだざわりの和やかさを想い浮かべた。これが京都の市中などであると、たまたま始めての街筋へ出ても、前から知っていた街のような親しみを覚え、ついその辺の人に話しかけてみたくもなるのに、東京と云うところは、いつ来て見ても自分には縁もゆかりもない、余所々々よそよそしい土地なのである。そして幸子は、こう云う都会のこう云う区域に、生粋の大阪ッ子であり、紛う方なき自分の姉である人が、今現に住んでいると云うことが、どうしても信じられないことのような、………夢の中などで全然見覚えのない街を歩いて行って、母だとか姉だとかが住んでいる家に行き着いたりして、ああ、こんな所にお母ちゃんや姉ちゃんはいやはったのかいなあと思ったりする、………ちょうどあれに似た気持がするのであったが、それにしてもよくまあ姉がこう云う街で暮していられるものよと思い、実際そこに行き着くまではまだ本当でないようにも感じられた。

と、自動車は道玄坂を殆ほとんど上り切ったあたりで、左の方の閑静な住宅街へ曲って行ったが、途端に十歳ぐらいを頭に、二三人の子供達がバラバラと車を取り巻きながら駈かけて来た。

「叔母ちゃん、叔母ちゃん」

「叔母ちゃん、叔母ちゃん」

「お母ちゃん待ってはるで」

「僕の家すぐそこやで」

「危い、危い、もっと其方へ寄ってなさい」

と、徐行し始めた車の中から雪子が云った。

「あれ、姉ちゃんとこの子達かいな。―――あの一番大きいのん、哲雄ちゃんか」

「秀雄ですよ」

と、輝雄が云った。

「―――秀雄と、芳雄と、正雄ですよ」

「みんな大きゅうなったわなあ。大阪弁使うてくれなんだら、何処の子達やら分らへん」

「彼奴等あいつらみんな東京弁が巧うまいんだけれど、叔母さんに歓迎の意を表して、大阪弁を使ってるんですよ」

十五

渋谷の姉一家の生活の様子は、毎々雪子から聞かされていたけれども、子供たちのために何処どこの部屋も乱雑にされ、足の蹈ふみ場もないくらいに取り散らかされている工合は、想像の外であった。なるほど家は新建ちであるから、明るいと云えないことはないが、柱の細い、根太ねだの悪い、見るからに粗末な借家普請ぶしんで、子供たちが梯子段はしごだんを駈かけ降りてさえ家じゅうがぐらぐらする。襖ふすまや障子の至るところ破れているのが、新しい、白ッちゃけた安手な建具であるだけに、一層哀れっぽく、情なく見える。幸子は上本町の家の、間取りが旧式で、薄暗いのが嫌きらいであったが、矢張昔の格式のある家の方が、こう云う家よりは落ち着きがあった。薄暗いと云っても、あの家にはささやかながら中前栽なかせんざいがあって、奥の茶の間にいると、その前栽の植え込みを透かして、土蔵の戸前の見える風情ふぜいが、今もなつかしく眼前に描かれるのであるが、この家には表と裏の塀際へいぎわに植木鉢うえきばちが置けるくらいな空地が取ってあるだけで、庭と呼べるようなものは附いていない。姉は幸子のために、階下は子供たちがうるさいからと云って、この家では兎とも角かくも客を通す座敷となっている二階の八畳を空けて置いてくれたので、先まずその部屋に旅行鞄かばんを運び込んだ彼女は、それでも床の間に大阪から持って来た栖鳳せいほうの鮎あゆの軸が掛っているのを見た。亡なくなった父はひとしきり栖鳳のものを集めていたのを、整理の時に大概手放してしまって、これは僅わずかに一二幅残してあったうちの一つなのであるが、見覚えのある品はこれだけではなかった。その軸の前に置いてある朱塗の八足はっそく台の卓しょくも、欄間にかかっている頼春水らいしゅんすいの書も、壁に寄せてある蒔絵まきえの棚たなも、その棚の上の置時計も、皆その一つ一つを見れば、それらが置いてあった上本町の家の隈くまが幻影のように浮かぶのである。姉がこう云うものをわざわざ大阪から持って来たのは、昔の栄華の形見としてこれだけでも身近に眺ながめていたいのであろう。そして一つには、客間と云うには余りにも殺風景なこの部屋の装飾にと云うつもりなのであろう。が、どう見てもそれらの物はこの座敷を引き立てる役には立っていないで、反対の効果を齎もたらしていた。それらの調度があるために座敷はひとしお安普請が目立ち、調度はそれが亡き父親の遺愛の品々であるだけに、東京の場末のこんな所へ持って来られて置いてあるのがいかにも奇妙で、恰あたかも姉その人の境遇を象徴しているようであった。

「そんでも、よくまあ荷物が収まったわなあ、姉ちゃん」

「ほんに。―――荷物が此処ここへ届いた時は、これだけの品物が収まるやろうか思うたけど、何処へどう這入はいったんか、どうぞこうぞ片附いてしもうた。家云うもんは、狭いようでも詰めたら詰まるもんやわな」

その夕方、幸子を二階へ案内すると、そのままそこに坐すわり込んでそんな風に話し出す姉であったが、そう云う間にも、もう子供たちが上って来て二人の襟首えりくびに取り縋すがるので、暑苦しい、下へ行ってなさい、叔母ちゃんのべべが皺しわになるがなと、姉は絶えず叱しかりつづけつつ言葉を継がなければならなかった。

「さ、正雄ちゃん、あんた下へ行って、叔母ちゃんに早う冷たいもん持って来たげるように、お久どんに云うといで。さ、正雄ちゃん、お母ちゃんの云うこと聴きなさい。―――」

そう云って姉は、四つになる梅子を膝ひざの上に抱き取りながら、

「芳雄ちゃんは下へ行って団扇うちわ取って来なさい。秀雄ちゃん、あんた兄ちゃんやないか、兄ちゃんが先に下へ行かないけません。さ、お母ちゃんは久し振で叔母ちゃんと話があるのんに、そない引っ着かれたら話が出来でけしませんやないか」

「秀雄ちゃんはいくつになるのん」

「僕九つや」

「九つにしたら大きいなあ、さっき門かどで遇おうた時、哲雄ちゃんか思うたわ」

「柄は大きゅうても、この通りお母ちゃんの傍にばかり喰くっ着いてて、ちょっとも兄ちゃんらしいことあれへんねん。………哲雄になると、もうそろそろ中学校の準備があるさかい、勉強の方が忙しいて、そんなにやんちゃなこともないねんけど、………」

「女中はお久どん一人やてなあ」

「ふん、こないだまではお美代どんもいてたけど、大阪へ帰らしてほしい云うし、梅子がよう一人歩きするようになったよってに、子守もいらんことや思うて、………」

それでも幸子は、さぞかし姉が所帯窶やつれをしているであろうと想像していたのに、思ったよりは髪かたちも小綺麗こぎれいに、身なりを整えているのを見ては、どんなになっても嗜たしなみを忘れないところのある姉に、感心しないではいられなかった。十五を頭に、十二、九つ、七つ、六つ、四つと云う六人の子女と夫の世話をして、女中を一人しか使っていないのでは、もっともっと取り乱した、見えも外聞もない風体をし、実際の歳より十ぐらいは老ふけて見えてもよいところだのに、ことし三十八になる筈はずのこの人も、さすがにこの姉妹たちの姉だけあって、五つ六つは若く見える。いったい蒔岡家の四人の姉妹のうち、総領の姉と三女の雪子とが母親似、次女の幸子と末子の妙子とが父親似なのであるが、母は京都の人だったので、姉と雪子の顔立には何処か京女らしい匂においがあった。ただ姉と雪子の異なる点は、姉の方が総すべての輪郭が大作りに出来ていた。幸子から下へ順々に背が低くなっているその同じ比例で、姉は幸子より又一層上背うわぜいがあり、小柄な義兄と並んで歩くと姉の方が高く見えるくらいであったが、それだけに四肢ししの肉づきもゆたかで、京女と云っても雪子のように骨細な傷々いたいたしい感じはなかった。幸子は姉の結婚式に当時二十一の娘として席に列つらなったのであったが、あの時の姉が世にも美しく、そうして立派であったことを今も忘れない。目鼻立がはっきりしている上に、顔の寸が長く、髪はと云えば昔の平安朝の人などのように立つと地に着くくらいあるのを、つややかに島田に結い上げた姿は、実に堂々として、艶麗えんれいでありながら威厳があり、こんな人に十二単衣ひとえを着せたらばどんなであろうかと思ったものであった。そして幸子たちは、その頃義兄が素晴らしいお嬢さんのところへ婿むこに貰もらわれて行ったと云われて、郷里や会社で評判になっていることを聞いて、そのくらいに云われるのが当り前であると、妹同士で囁ささやき合ったものであった。姉はそれから十五六年の変遷へんせんを経て、六人の子を生み、暮し向きもだんだん以前のように楽ではなくなり、何かと辛労が多くなって来たので、もうあの頃の精彩はないけれども、しかしそれだけの身長と肉体とに恵まれていたからこそ、今もこの程度の若さを保っていられるのであろう。幸子はそう思って、抱かれた梅子が平手でぴたぴた叩たたいている姉の胸元の、まだたるみのない皮膚のつやと色の白さとを打ち眺めた。

貞之助は幸子が出て来る時に、子供連れで渋谷へ泊っては姉さんに気の毒だから、一と晩か二晩厄介やっかいになったら、あとは築地の浜屋にしたらどうであろう、都合で僕から浜屋の女将へ電話を懸けるなり手紙を出すなりして、頼んで上げるからと云ってくれたけれども、幸子は夫と一緒なら兎に角、悦子と二人で旅館に泊るのも気が進まなかったし、久々で姉と四方山よもやまの話をするには姉の家の方が便利であると考えた訳であった。それで、お春を連れて来たのなども、自分達が厄介になっている間、少しは台所の手伝いをさせようと云う積りもあったのであるが、二日程そうしているうちに、彼女は矢張夫の言葉に従った方がよかったことに心付いた。いつもは子供達がうるさいと云ってもこれ程ではない、今は暑中休暇でみんな朝から家にいるのでこんなに騒々しいのだけれども、二三日すれば昼間はひとしきり静かになると、姉はそう云うのであるが、しかし芳雄から下の三人はまだ学校へ行かないのであるから、ほんとうに姉の手が空く時はありそうにもなかった。そのくせ姉は、相間を見ては二階へ話しに来るのであるが、直きに後からその三人が上って来て纏まつわり着く。云っても聴かないと掴つかまえて臀しりを叩いたりして折檻せっかんするので、そのために騒ぎがなお大きくなり、泣き喚わめく声で耳ががんがんするようなことが大概日に一二度はある。幸子は姉が子供に対して手が早いのを大阪時代から見て知っていたし、又そのくらいにしなければ、とてもこれだけの子供の母として切り廻して行けないことも分っていたけれども、そんな有様なので、くつろいで話をする暇などはなかった。悦子も二三日の間は、雪子に連れられて靖国やすくに神社や泉岳寺などを見て廻っていたけれども、暑い時分にそうそう出歩くことも出来ないし、間もなく退屈するようになった。幸子は兄弟の味を知らない悦子が、歳下の女の児を珍しがるところから、こう云う機会に従妹いとこと親しませようと云う考もあったので、それも旅館を避けた理由の一つだったのであるが、生憎梅子はひどいお母さん児で、雪子にさえもなつかないと云う風なので、悦子にはちょっと手に負えなかった。で、もう学校も始まる時分やし、早く帰らないとルミーさんもマニラへ立ってしまうし、………と、悦子はぽつぽつ母に耳こすりをする始末であった。それに彼女は、自分がそう云う躾方しつけかたをされたことがないので、伯母の折檻が始まると、脅おびえたような眼つきをして伯母の顔を盗み視みるのであった。幸子は、自分達姉妹のうちで一番と云ってもよいくらい優しいところのある姉を、そんなことで悦子が悪く思うようになりはしまいか、又それが彼女の神経衰弱に変な影響を及ぼしはしまいか、と云うようなことも心配になって来て、旁〻かたがた先にお春を附けて帰すに越したことはないと思ったのであるが、困ったことには、櫛田くしだ医師から紹介状を貰って来た東大の杉浦博士が目下旅行中で、九月上旬でなければ帰京しないと云うことなので、それを待たなければ、悦子を東京へ連れて来た目的が果たされないのであった。

幸子は考えて、まだ滞在が長びくのであったら、旅館へ移る方がよいかも知れない、浜屋と云う家は行ったことはないけれども、そこの女将はもと大阪の播半はりはんの仲居をしていた人で、亡くなった父もよく知っていたし、自分も「娘とうさん」時代から顔見知りの仲であるから、始めての旅館へ泊るようなものではあるまい、夫の話では、もと待合であったのを旅館に直したので、部屋数も少く、お客と云うのも大部分は気心の分った大阪の人達であり、女中にも大阪弁を使う者が多いと云った風で、泊っていても家庭的で、東京にいるような気がしない、と云うように云っていたから、いっそそうした方が、………とも思ったけれども、姉が何かと心を遣ってもてなしてくれるのを見ては、そうも云い出しにくかった。それに義兄も、家ではゆっくり晩飯もたべられないからと云って、東京では聞えている店だとか云う道玄坂の二葉と云う洋食屋へ案内してくれたり、矢張その近所の北京亭ペキンていと云う支那料理屋へ、悦子のために自分の子供達も連れて行って小宴会を催してくれたりする、と云う款待振かんたいぶりであった。もともと義兄は人を奢おごることが好きな方ではあったが、近頃締まり屋になったと云っても、そんなところは昔と変らないのであろうか。それとも小姑こじゅうとめに勤める癖が今も残っていて、特別に大切にしてくれるのであろうか。―――幸子には孰方どちらとも分らなかったが、義兄にしてみれば、義妹たちとの折合がよくないと云う世評があるのを気に病んでいるところもあって、或あるいはそれがこう云う形で現れるのかも知れなかった。そして義兄は、幸子ちゃん達は播半だとかつる屋だとか云う立派な料理屋しか知らないだろうけれども、道玄坂には花柳界を目あてのちょっとした小料理屋が沢山ある、東京は一流の会席料理屋よりも却かえってそう云う腰掛の家の方がおいしい物を食べさせるので、奥様やお嬢さん連れのお客も始終見かける、幸子ちゃんも、何も経験だからまあ僕に附き合うて、東京の気分を味おうて見給え、などと云って、姉には留守をさせて、幸子と雪子とを引っ張り出して、気軽に近所のうまいものやなどへ連れ込んだりもした。幸子は昔、この義兄が養子に来たばかりの頃、妹たちとぐるになってちょいちょい意地悪をしてやったり、それが分って姉を泣かしたりしたことがあったのを懐なつかしく想い出したが、義兄の気の弱い人の好い方面や、姉以上に神経を使ってくれている様子などが眼に見えるにつけて、まさか娘時代のような意地悪も出来ないし、矢張今度は此処に泊っているより仕方があるまい、この上は杉浦博士の診察が済みさえしたら一日も早く関西へ立ちたい、と、そう思いつつ八月じゅうはとうとう渋谷で暮してしまった。

十六

すると、その明くる日、九月一日の夜のことであった。

その晩は、六人の子供達と悦子とが一と立て済ましたあとで、義兄夫婦と幸子と雪子とが家で夕食をしたためながら、ちょうどその日が震災記念日に当っていたので、地震の話からこの間の山津浪やまつなみの話を持ち出し、妙子の遭難のいきさつ、板倉と云う若い写真師の活躍等々を食卓の話題に上せたが、その折幸子は、あたしは好運にも恐い目に遭あわなかったので、みんなこいさんに聞いたのだけれども、………と、そう前置きをして当時のことを委くわしく語った。と、その言葉が讖しんを成したのでもあるまいが、恰あたかもその夜、大正何年以来と云う猛烈な颱風たいふうが関東一帯を襲って、幸子は自分に関する限り、生れて始めてと云ってよい恐怖の二三時間を経験したのであった。

風の害の少い関西に育った幸子は、そんな凄すさまじい風もあるものだと云うことを知らなかったので、そのためになお驚きが大きかったのでもあろう。尤もっとも、四五年前、昭和九年の秋であったか、大阪の天王寺の塔が倒れ、京都の東山が裸にされた時の烈風は彼女も知っており、二三十分ほど恐いと思った覚えもあるけれども、でもあの時は、蘆屋あしや辺は大したことはなかったので、天王寺の塔が倒れたことを新聞で読んで、それほどひどい風だったのかと意外に感じたくらいであり、勿論もちろん今度東京で経験したのとは、比べられるようなものではなかった。実を云うと、あの時の記憶があったので、あの程度の風でも五重塔が倒れたのだから、とてもこの風ではこの家が保もつまいと云う気がして、恐怖が倍加されたのであった。尚なお又、風の勢も強かったには違いないが、たまたま泊っていた渋谷の家が安普請やすぶしんであったことが、その勢を五倍にも十倍にも感じさせたのであった。

風が吹き出したのは、まだ子供たちが寝床に這入はいる前であったから、宵の八九時頃でもあろうか。そして非常な物凄ものすごさになったのは、十時頃からであったろうか。幸子は悦子と雪子の三人で、二階の八畳に寝ることになっていたので、その晩も、初めのうちは三人で二階にいたが、あまりひどく家が揺れるので、悦子がひしと彼女にしがみ着き、姉ちゃん此方へいらっしゃいと云って、雪子をも母の寝床の方へ引っ張り寄せて、自分は間へ挟はさまりながら両手で二人の首っ玉へかじり着くようにしていた。幸子も雪子も、「恐い」と悦子が悲鳴を挙げる度に、恐いことはあれへん、直き止むよって安心しなさいと、最初はそう云っていたのであったが、だんだん悦子がしがみ着くのと同じ力で自分達の方からもしがみ着き、三人がぴったり顔を寄せ着けて、一つのかたまりになって抱き合っていた。二階には八畳に三畳の次の間と、廊下を隔てて四畳半とがあって、その四畳半に輝雄と哲雄が寝ていたが、起きて来て八畳の間を覗のぞきながら、叔母ちゃん、下へ行きませんか、と、輝雄が誘った。下へ行った方が幾らか安全じゃないでしょうか、ねえ、下へ行きましょうよ、下でもみんな騒いでいるようですよ、―――停電していて真っ暗なので、輝雄の顔は分らなかったけれども、そう云う声に尋常でないものがあった。幸子は悦子を恐がらせまいために口に出すことを控えていたのだが、この家が倒潰とうかいしはしないかと云う危険はさっきから感じてい、屋台骨がぐらぐらする毎に、今度こそ今度こそと思って冷汗を湧わかしていたところだったので、輝雄の言葉を聞くと一も二もなかった。雪子ちゃん、悦ちゃん、下へ行こうと云って、彼女を先頭に、三人つながりながら輝雄のあとに附いて階段を降りかけたが、途中まで来た時、今度こそ家が潰つぶれたかと思う一陣の風が家を揺すった。彼女の感じでは、平生でもミシミシ撓しなうヘギのような梯子段はしごだんが、両側から帆のように膨らむ壁と壁に挟まってメリメリ壊れかけて来たと思えた。柱と壁の隙間すきまが離れてそこから風が砂塵さじんと共に吹きつけた。彼女は自分の体が壁に挟撃きょうげきされそうな気がし、輝雄を突き落さんばかりに転げ落ちながら駈かけ降りた。二階にいた時は、風の呻うなりと、木の葉や、枝や、ブリキや、看板のようなものや、いろいろの物が空中を飛んで行く音に掻かき消されて聞えなかったが、降りて来て見ると、恐いよう、恐いよう、と云う声が階下に満ちていた。秀雄から下の四人の子供達は、義兄夫婦の寝間になっている六畳の間に集って、両親の周囲にかたまっていたが、幸子たちがそこへ来て坐ると、叔母ちゃん、と云って芳雄と正雄とが幸子の両肩に取り縋すがったので、悦子は仕方なく雪子に抱き着いた。姉は梅子を両手で覆うように抱きながら袂たもとを秀雄に取られていた。(秀雄の恐がり方は奇妙で、風が止やんでいる間は母の袂をシッカリと捩よじれるように捉とらえながら耳を澄ましてい、やがて遠くからごうと云う呻りが聞えて来ると、慌あわてて袂を放し、「恐いようッ」―――と、非常に低い、力の籠こもった掠かすれ声で云って、両手で耳の孔あなを塞ふさぎ、眼を潰って、顔を畳へ打つ俯ぶしにするのであった)そう云う風に、四人の大人と七人の少年少女とがそこに蹲踞うずくまっていた恰好かっこうは、恐怖の群像のように見えたでもあろうが、義兄の辰雄は別として、鶴子と、幸子と、雪子の三人は、こうして皆一緒に潰されるなら仕方がないと、言わず語らず覚悟していた。そして、ほんとうに、あの風がもう少し長く、もう少し強く吹いたならば、あの家は潰れたに違いなかった。なぜと云って、幸子はさっき階段を駈け降りた時は、半分は自分の恐怖からそんな妄想もうそうを描いたのだと思ったのであるが、事実、風がごうッと吹き付ける度に、この家の柱と壁の隙間が一二寸離れるのを、その六畳の部屋へ来てはっきり目撃したのであった。部屋には懐中電燈が一つ燈ともっていただけなので、その薄暗い明りで見ると、五寸か一尺ぐらいもの隙間が開くように感じられたが、正直に云って、一二寸と云うのは誇張でなかった。それが開いたきりになるのではなくて、風が止むと隙間が合わさり、吹き出すと又開くのである。そして一回は一回と開きかたがひどくなるのである。幸子は丹後の峰山の地震の時に大阪の家が随分揺れたのを記憶しているが、地震の場合は瞬間的で、風のように時間が長くはないし、何にしても柱と壁が離れたり合わさったりすると云うようなことは始めてであった。

皆が顫ふるえている中で努めて泰然としていた辰雄も、その壁の様子を見て不安になったらしく、ここの家だけがこんなに揺れるのと違うだろうか、隣近所は普請がええからまさかこんなことはあるまい、………と、そう云い出したので、小泉さんの所なんかきっと大丈夫だよ、あの家は頑丈がんじょうだし、平屋だから、………と、輝雄がその尾について云った。ねえ、お父さん、小泉さんとこへ避難しようじゃないか、此処にいて潰されてしまっちゃ詰まらないじゃないか、………まさか潰れもしないだろうが、或は避難する方が安全かも知れん、―――しかし寝てる所を起すのも悪かないだろうか、………と、辰雄は躊躇ちゅうちょしたが、そんなこと云うてる場合やあれしませんで、………この大嵐おおあらしに小泉さんとこかて起きてはりますがな、と、鶴子が云うと、それを切掛きっかけに誰も彼も避難しよう避難しようと云い出した。小泉と云うのは、裏の塀へい一重向うの家で、勝手口から出ればその家の裏門が一と跨またぎの所にあった。主人は退職の官吏とやらで、老夫婦に息子一人の三人暮しをしているのであったが、たまたまその息子の通っている中学が、輝雄の今度転校した中学と同じ学校だった関係から、便宜を計ってくれたことなどがあって、辰雄も輝雄も、二三度その家の応接間へ通ったことがあるのであった。と、女中部屋にいたお春とお久とが、何かこそこそ相談し合っている風であったが、その時出て来て、そんならちょっと、小泉さんとこまでお久どんと二人で様子を見に行って参りましょう、と、お春が云った。そして都合に依よったら、あんじょうお頼みして参りますわ、―――お春は「小泉さん」などと云ってもその家が何処どこにあるのだかも知っている訳はなかったが、そう云うことには自信があるところから、お久に連れて行って貰もらいさえすれば、あとは自分が頼み込んで来ると云う積りらしいのであった。よろしゅうございます、そう致しましょう、なあお久どん、風が止んでる間に行って見よやないか、と、お春は奥でよいとも悪いとも云わないうちに自分ひとり承知して、怪我したらあかんで、吹き飛ばされんように気イ付けなさいや、と、鶴子と幸子が心配するのを聞き流しながら、お久を促して裏口から出て行ったが、やがて戻って来て、ちょっとも構いませんよってに何卒どうぞお出いで下さい仰おっしゃっていらっしゃいます、さあ、早う避難なさいませ、ほんに輝雄坊ちゃんの仰っしゃる通り、あのお宅はこの風でもピリッともしてやございません、彼方あちらはまるで譃うそのようですわ、………と云いながら悦子の方へ背中を向けて、お嬢ちゃん、私が負うて参りましょう、とてもえろうて歩けるどこやあれしません、お春どんかて二度ばかり押し戻されて、這ほうて行きましたわ、いろいろなもんが飛んで来ますよってに、怪我せんように布団ふとんか何ぞお被かぶりにならなんだらいけません、と云うのであった。辰雄は、そしたらまあお前達は行きなさい、僕は留守番してよう、と云って動じないので、最初に輝雄と、哲雄と、幸子と、雪子と、悦子と、お春とが先ず避難した。鶴子は夫を置いて行くのも気懸りなので、どうしてよいか迷っていると、お春が一人引っ返して来て、さあ坊ちゃん参りましょうと云って、とッとと正雄を背負って行き、又引っ返して芳雄を背負って行こうとするので、とうとうじっとしていられなくなって、自分が梅子を抱き、芳雄をお久に背負わせて避難した。その間、お春の活躍は最も目ざましく、二度目に引っ返して来た時などは、何処かの物干台が路次へ崩くずれ落ちて来て、もう少しで下敷きになるところであった。彼女はお久が芳雄を背負ったのを見ると、秀雄坊ちゃんいらっしゃいと云って、―――その児は大きいから宜よろしいと云うのも聴かずに、―――怯おびえている秀雄を背中に乗せて走った。

そんな風にして、お久までが逃げて来てしまったので、それから三十分程立つと、何と思ったか辰雄もバツの悪そうな顔をしながら、私もお邪魔に伺いましたと云って、勝手口から這入って来た。風はその後もひとしきり吹き募って、戸外には相変らず物凄い呻りが聞えていたが、実際小泉方へ来て見ると、柱も壁もしゃんとしていて、家が潰れはしないかなどと云う懸念けねんは、全然起りようもなく、普請の良い悪いでこんなにも安全感が違うものかと、不思議に思えるくらいであった。そして蒔岡家の一同は、明くる朝の四時頃、風が漸ようよう収まるのを待ってその忌いま忌いましい脆弱ぜいじゃくな家へ、まだ何となくビクつきながら戻って来たと云う訳であった。

十七

颱風たいふう一過した翌朝は、俄にわかに秋らしい青空になったが、幸子は恐ろしい昨夜の記憶が悪夢[#「悪夢」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「夢魔」]のように頭にこびり着いていて忘れることが出来ず、それに何よりも、悦子が怯おびえ切って、神経過敏になっている様子を見ると、今は躊躇ちゅうちょしている場合でないので、午前中に大阪の夫の事務所を急報で呼び出し、築地つきじの浜屋へ部屋を申し込んでくれるように頼んだ。そして、なるべくならば今日のうちにも変りたいと思っていると、夕刻浜屋から渋谷の方へ懸って来、先程大阪の旦那様からお電話を戴いただきまして、お部屋を用意してございます、と云って来たので、そしたら姉ちゃん、晩のご飯は彼方あっちへ行って食べるさかいに、お春どんだけもう三四日預かってほしいわ、姉ちゃんも一遍来てほしい、と、挨拶あいさつもそこそこにして築地へ出かけた。

雪子とお春が宿まで送って来てくれたので、皆で銀座へ散歩に出て洋食でも食べようと云うことになったが、そんなら尾張町のローマイヤア云う店へいらしって御覧なさりませと、女将が教えてくれたので、そこへ行ってお春にも相伴しょうばんをさせてやり、帰りに夜店を冷やかしてから服部はっとりの角で二人に別れて、幸子と悦子とが浜屋へ歩いて戻ったのは九時過ぎであったろうか。幸子は、夫を家に残して娘と二人旅先の宿に泊るなどと云うことは、これも始めての経験であるところへ持って来て、夜が更ふけるに連れて、昨夜の恐怖が又もや思い出されて来るので、アダリンを飲んでみたり、持薬に持って来たブランデーを舐なめてみたりしたけれども、容易に眠ることが出来ず、明け方の電車の音が聞える時分までまんじりともしないでしまった。悦子も矢張そうであったと見え、寝られない寝られないと云って頻しきりに懊じれ、お母ちゃん悦子明日帰るよ、杉浦博士に診みてもうええ、こないしてたら神経衰弱ひどうなるばかりやわ、悦子それより早う帰ってルミーさんに会いたいねん、………と、駄々だだを捏こねたりしたが、それでも朝になってから鼾いびきを掻かいてよく眠った。幸子は七時頃に、自分はとても寝られないと諦あきらめて、悦子の睡ねむりを破らないようにそうっと起きて新聞を取り寄せ、築地川の見える廊下に出て、籐椅子とういすにかけた。

彼女は近頃世界の視聴を集めている亜細亜アジアと欧羅巴ヨーロッパの二つの事件、―――日本軍の漢口進攻作戦とチェッコのズデーテン問題、―――の成行がどうなるであろうかと、朝な朝なの新聞を待ち兼ねるくらいにして読むのであるが、東京へ来てからは大朝や大毎で読むのとは違って、馴染なじみのうすい此方の紙面で読むせいか、記事が頭へ這入はいりにくく、何となく親しみが湧わいて来ないので、直きに新聞にも飽きて、ぼんやりと川の両岸の人通りを眺ながめていた。昔、娘の時分に父と泊っていた采女うねめ町の旅館と云うのも、つい川向うの、此処ここから今も屋根が見えているあの歌舞伎座の前を這入った横丁にあったので、このあたりは全然知らない土地ではなく、ちょっと懐なつかしい気持もして、道玄坂とは一緒にならないが、でもあの頃には東京劇場とか演舞場とか云うようなものは建っていず、この川筋の景色も今とは可なり違っていた。それに、父に連れられて来たのはいつも三月の休暇の時で、九月の今頃東京にいたことはないのであるが、こうしていると、こんな街のまん中でも、風の肌触はだざわりが冷え冷えとして、いかにももう秋だと云う感が深い。阪神間ではまだこんなことはないであろうが、矢張東京は寒い土地柄だけに秋の訪れが早いのであろうか。或あるいは颱風後の一時的現象で、又暑さがブリ返すのであろうか。それとも旅先の風は故郷の風よりも身に沁しみて感じられるのであろうか。………何にしても、さしあたり杉浦博士の診察を受ける迄までまだ四五日はあるのだが、その間をどう過したらよいか。幸子は実は、九月になれば菊五郎の芝居が開くものと思い、ちょうど好い折だから悦子も連れて行ってやることにしよう、悦子は舞が好きであるからきっと所作事を喜ぶであろうし、それに、彼女が成人する時分にはもう歌舞伎劇の伝統なども崩くずれてしまうかも知れないから、今のうちに菊五郎あたりを見せて置いてやらなければ、………と、幼少の頃父に連れられて興行毎に鴈治郎がんじろうを見に行った自分の身に引き比べなどして、そんなことを考えていたのであったが、新聞で見ると、九月にはまだ一流の歌舞伎劇は何処も始まっていないことが分った。とすると、毎晩銀座の散歩でもするより外に、格別行ってみたいものもない。そう思うと何だか急に里心がついて、悦子の云い草ではないが、診察などは今度のことにして、今日にも立ってしまいたくなるのであったが、たまに一週間程やって来てさえこんなにも関西が恋しいとすると、雪子があの道玄坂の家にいて、蘆屋へ帰りたさにしくしく泣くと云う気持が、ほんとうに察しられるのであった。

と、お春から十時頃に電話が懸って、これから此方の御寮人ごりょうんさんがお伺いしたいと仰おっしゃっていらっしゃいますのんで、私がお供して参ります、旦那様からお手紙が参っておりますのんで持って参りますが、外に何ぞ持って参りますものは? と云って来たので、持って来て貰もらうものはないけど、姉ちゃんに此方でお昼の御飯食べるつもりで早ういらっしゃい云うてほしい、と、そう云って電話を切ったが、悦子はお春に預けることにして、姉と二人で久々にゆっくり食事をするには何処がよかろう、と考えた末、姉は鰻うなぎが好きであったことを思い出した。ついては昔、父と一緒に蒟蒻嶋こんにゃくじまとか云う所の大黒屋と云う鰻屋へたびたび行ったことがあったので、今もその家があるかどうかを聞かしてみると、さあ、どうでございますやろ、小満津こまつなら聞いておりますがと、女将が電話帳を繰ってくれたが、なるほど、大黒屋ございますわ、と云うことなので、部屋を申し込んで置いて貰い、姉を待ち受けて、悦ちゃんはお春どんと三越へでも行ってみなさい、と、云い置いて出かけた。

姉は雪子がようようのことで梅子を賺すかして二階へ連れて上った隙すきに、大急ぎで身支度をして出て来たとやらで、きっと今頃は雪子ちゃんが難儀しているやろう、それでも出て来てしもうたからには今日はゆっくりさして貰う、と云いながら、

「此処は大阪に似てるなあ、東京にもこんなとこがあるのんかいな」

と、座敷の外を取り巻いている川の流れを見廻した。

「ほんに大阪見たいやろ。―――娘の時分に東京へ来ると、いつもお父さんが此処へ連れて来やはってん」

「蒟蒻嶋云うて、此処は嶋になってるのん?」

「さあ、どうやろか。―――たしか前には、こんな川附きの座敷はなかったような気イするけど、場所は此処に違いないわ。―――」

幸子もそう云って障子の外に眼を遣やった。昔父と来た時分には、この河岸通りは片側町になっていたのに、今では川沿いの方にも家が建ち、大黒屋は道路を中に挟はさんで、向う側の母屋から、川附きの座敷の方へ料理を運ぶようになっているらしかったが、昔よりも今のこの座敷の眺めの方が、一層大阪の感じに近い。と云うのは、座敷は川が鍵かぎの手に曲っている石崖いしがけの上に建っていて、その鍵の手の角のところへ、別に又二筋の川が十の字を描くように集って来ているのが、障子の内にすわっていると、四よつ橋ばし辺の牡蠣船かきぶねから見る景色を思い出させるのである。そして此処でも、その十文字の川から川へ、四つは架っていないけれども、三つは橋が架っていた。ただ惜しいことに、江戸時代からあるらしいこのあたりの下町も、震災前には大阪の長堀辺に似た、古い街に共通な落ち着きがあったものだけれども、今では人家も橋梁きょうりょうも鋪装道路も皆新しくなり、而しかもそのわりに人通りが閑散で、何となく新開地の気分がするのであった。

「おサイダでも持って参りましょうか。―――」

「はあ、あの、………」

と、幸子は姉の顔を見ながら、

「どないする、姉ちゃん、………」

「サイダでもよろしいなあ、お昼やさかいに、………」

「ビールぐらいええやないの」

「幸子ちゃんが半分手伝うてくれたら、………」

幸子はこの姉が、自分たち四人の姉妹のうちでは一番行ける口であるのを知っていた。姉のは本当に好きなのであって、しみじみ飲みたいと思う時があるらしく、嗜好しこうは日本酒が第一であったが、ビールもなかなか嫌きらいではなかった。

「姉ちゃんこの頃は、お酒もゆっくり飲んでられへんやろなあ」

「そうでもないで。毎晩兄さんのお相手で、少しぐらいは飲んでまっせ。それに時々お客さんがあるさかいに、―――」

「お客さんて、どんな人?」

「麻布あざぶの兄さんが来やはったら、きっとお酒やねんわ。あんなむさくろしい家で、子供が騒いでる中で飲むのんもおいしい云やはって、―――」

「姉ちゃんが大変やないの」

「そんでも、子供等と一緒のもんで、お酒当てごうとくだけやさかい、ちょっとも手エは懸れへんねん。―――お数のことやったら、あたしが一々云わんかて、お久どんがようするよってにな」

「ほんに、あの娘こはよう間に合うようになったわなあ」

「最初のうちはあたしと一緒で、東京が厭いやや厭や云うて、泣いてなあ。―――大阪へ帰らしてほしい、帰らしてほしい云うてたけど、この頃云わんようになったわ。まあお嫁に行く迄は、どないぞしていてて貰わんならん」

「お春と孰方どっちが上やろか」

「お春どん幾つやねん」

「廿歳はたちやわ」

「そしたら同い歳かいな。―――幸子ちゃんも、あのお春どん云う娘こ、放したらあかんで。あの娘はきっと置いときなさいや」

「あの娘は十五の歳から、足かけ六年になるねんもん、なかなか余所よそへ行きなさい云うたかて、行くこッちゃないねん。けど、ほんまのとこは見かけ倒しで、そんなに感心する程のことないねんわ」

「そら、雪子ちゃんに聞いてることもあるけど、それにしたかて、一昨日の晩のあの働きはどうや。あないなったら、お久どんはうろうろしてるばかりで、お春どんとえらい違いやわ。あれには兄さんもびっくりしやはって、ま、何と云うえらい娘やろ云うて、―――」

「それがなあ、ああ云う時には、ほんとうに親切で、情があって、気転が利きいて、―――いつかの水の時かてそうやってんけど、―――」

姉の注文した中串ちゅうぐしと、幸子の注文した筏いかだが焼けて来る間、ビールの肴さかなに、幸子はひとしきりお春の店卸たなおろしをした。

自分の使っている小間使が褒ほめられることは、主人としても鼻が高く、決して悪い心地はしないし、好んで人の欠点を吹聴ふいちょうするにも及ばないので、幸子はいつもお春のことを良く云われると、別に否定もせずに聞いているのが常であったが、又そう云っても、お春ぐらい外で評判のよい女中も珍しかった。それと云うのが、交際上手で万事に如才がない上に、ひどく気前のよいところがあり、自分の物でも主人の物でも、構わず人にくれて遣ると云う風なので、出入りの商人や職人の間では、お春さんお春さんと云って大した持て方なのであるが、悦子の学校の受持の教師や、幸子の友達の奥さん達迄が、実に感心な女中さんだと、わざわざ伝言をして寄越すのには、幸子は開いた口が[#「口が」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「口の」]塞ふさがらないことがしばしばあった。幸子のこの気持を一番よく知っているのはお春の継母に当る婦人で、彼女は尼崎あまがさきの家から時々御機嫌ごきげん伺いに来ては、誰が何と申しましょうとも、あのような手数のかかる厄介やっかいな娘こを、女中に置いて使うて下さる此方こちら様の御恩は忘れません、あの娘のためには今迄私わたくしも散々泣かされておりますので、どんなに奥様も手を焼いていらっしゃいますか、お察し申し上げているのでございます、と、そう云い云いして、万一此方でお暇が出たら、とてもあんな者を置いて下さるお家はございませぬから、何卒御迷惑でも御辛抱なすってお使い下さいますように、―――お給金などは戴いただかずとも宜よろしゅうございますし、どのようにお叱しかり下さいましても結構でございます、あの娘はちょっとでも甘えさせましたらいけませぬので、叱って叱って叱り続けて戴くくらいがちょうどよいのでございます、―――と、幸子を掴つかまえてそんな風に頼み込んでは帰るのであった。幸子は最初、洗張屋あらいはりやの張惣はりそうの主人が十五になるお春を置いてやってくれと云って連れて来た時、目鼻立が可愛らしいので使って見る気になったのであるが、ものの一と月も立つうちに、大変な娘を雇い込んでしまったことをだんだんと思い知らされて、母親の「あの持て余し者」と云った言葉が、決して一と通りの謙遜けんそんの辞でないことを悟るようになった。分けても家族の者共が一番弱らされたのは、この少女の不潔なことであった。尤もっとも目見えに来た時から、手足がひどく真っ黒で垢あかじみていることは分っていたけれども、それが境遇のせいではなくて、入浴することや洗濯することの大嫌いな、当人の物臭ものぐさな性質から来ていることが、間もなく明かになったのであった。幸子は何とかしてその悪い癖を改めさせようと、随分口やかましく注意したけれども、少しでも眼を放していると駄目であった。外の奉公人たちは一日の用事を済ましてから皆風呂に入ることを怠らないのに、彼女は夜になれば女中部屋で転寝うたたねをして、そのまま寝間着にも着換えずに寝てしまう。肌着類を洗うことを億劫おっくうがって、幾日でも垢だらけの物を平気で着ている。彼女を清潔にさせて置くためには、誰かが傍に附いていて、そのつど無理に裸にさせて風呂へ入れてやるとか、時々行李こうりの中を調べて、突っ込んである不潔な襦袢じゅばんや腰巻などを引っ張り出して、見ている前で洗濯させるとか、云うくらいにしなければならないので、自分の娘を仕附けるよりも手数が懸る。で、幸子よりも直接の被害者である傍輩ほうばいの女中達の方が真っ先に悲鳴を挙げた。お春どんが来てからは女中部屋の押入に汚れ物が一杯溜たまるようになって、穢きたなくて仕様がない、自分ではどうしても洗わないので、私達が洗ってやろうと思って、それらの汚れ物を引っ張り出して見たら、中から御寮人様のブルーマーが出て来たのにはびっくりした、あの人は洗濯するのが面倒臭さに、お上のものまで穿はいていたのだ、とか、あの人の傍へ寄ると臭くて溜らぬ、体が臭いばかりでなく、始終買い食いや摘み食いをするので、胃を悪くしていると見えて、息の臭いのが鼻持ちがならない、夜一緒に寝る時が一番困る、とか、とうとうあの人から虱しらみを移された、とか、そう云う苦情が絶えないので、幸子も当人に因果を含めて尼崎へ帰したことが幾度かあったが、いつも父親と母親とが代る代るやって来て、巧うまいこと詑わびを云って、否応いやおうなしに又置いて行ってしまう。尼崎の家には彼女の下に二人弟妹がいるのだそうであるが、彼女だけが先妻の遺わすれ形見で、素質が悪く、学校の成績なども弟妹に比べて著しく劣るところから、父親にすれば後妻への遠慮があり、継母にすれば父親への気がねがあって、彼女を家に置いておくと風波が絶えない、そんな事情でございますから、行く行く当人が嫁に参ります年頃まで、何とかして御当家へ置いて下さいますように、と、父親も母親もそう云って幸子を拝み倒す。殊ことに母親は、あの児は隣近所での評判が馬鹿によく、弟や妹たちまでがあの児の味方をする始末で、ややともすると自分一人が継子ままこ扱いでもしているように誤解される、あの児にはこれこれの不良な性質があるのですと云っても、父親さえも信じてくれないで、蔭かげであの児を庇かばう風があるのが心外でならない、と、よくそんな愚痴をこぼして、奥様だけはきっとお分りになって下さいますでしょうと云ったりしたが、そう云われると、なるほど継母の割の悪い立ち場が幸子には理解出来るので、あべこべに同情してしまう結果になった。

「何せ、だらしないことと云うたら、あの着物の着かた見たかて分るやろ。お春どんは前も何も丸出しにしてる云うて、外の女中たちが笑うたもんやったけど、今かてちょっとも直ってえへん。生れつき云うもんは、何ぼ叱言こごと云うたかてあかんもんやなあ」

「そうかて、綺麗きれいな顔してるやないか」

「顔だけ大事にして、内証でお化粧するねん。あたし等のクリームや紅棒こっそり使うたりして、―――」

「可笑おかしな娘こやわな」

「お久どんやったら黙っていたかて、御飯のお数なんかちゃんと自分で考えて拵こしらえるのんに、あの娘は六年も奉公してながら、未だにあたしがこないこないせえ云わなんだら、何一つよう拵えへん。御飯時にお腹空かして帰って来て、何ぞしといてくれたかいな云うと、いいえまだでございます云うねんもん」

「そうかいなあ、口をきかすと、ほんまに利根りこうそうに「利根そうに」はママ見えるけど」

「阿呆あほ云うのんとは違うけど、つまり、人と応対するのんが好きで、家の中の細々こまごました用事するのんが嫌いやねんな。座敷の掃除なんか、毎日の事やのんに、あたし等が見てなんだら、直ぐ手エを抜くねん。朝かて未だに起さなんだら起きて来けえへんし、夜は相変らず着物のまま転寝するし、………」

そんな風に話しているうちに、幸子はいろいろなことを思い出して、面白半分に語りつづけた。意地が穢くて、摘み食いをするのが得意であり、台所から食堂まで料理を運んで来る間に、栗くりの甘煮などが一つ二つ減っていたりするのは始終であること。台所にいる時は絶えず何かを頬張ほおばっているので、不意に呼ばれると眼を白黒させ、慌あわてて後向きになりながら返事をすることがしばしばあること。夜按摩あんまをさせると、十五分も揉もむか揉まないのに、先ず幸子の上へ靠もたれかかって居睡りをし、だんだん図々しく脚を崩くずして横になり出し、最後に幸子の布団の上へ伸び伸びと寝倒れてしまうこと。瓦斯ガスを附け放しにして寝たり、電気アイロンを消すのを忘れて焼け焦こげを作ったり、火事を出しそうにしたことが再三あったので、その時ばかりは断然帰って貰おうと思ったけれども、矢張親達にあんじょう宥なだめられてしまったこと。使に出すと方々で油を売って来るので、非常に時間が懸ること。―――

「ほんとうに、あんなで今にお嫁に行ったらどないするやろ」

「そう思うけど、お嫁に行って子供でも出来たら、そんなもんでもないねん。―――まあ、そない云わんと、置いといてやり。可愛いとこがあるやないか」

「そら、六年もいられて見ると、自分の娘と一緒やわ。狡こすいとこもあるけど、継子育ちのようなひねくれたとこがのうて、素直で、情愛があって、つくづく厄介な女や思いながら憎む気イせえへんねん。やっぱりあの娘こは人徳があるねんな」

十八

大黒屋から浜屋の座敷へ引き揚げて、姉は夕方まで話して帰ったが、子供を助けて貰もらったことからすっかりお春に打ち込んでしまった彼女は、その労を犒ねぎらう意味もあって、この際お春とお久とを日光見物に行かしてやりたいがどうであろう、と云う提議をした。姉は、実はお久が大阪へ帰りたがるのを引き留めるために、そのうち日光へ行かしてやるからと云う条件を附けたのであるが、恰好かっこうな同伴者が見付からないので、延び延びになっていたのである、それで、ちょうど好い折であるから、お春どんに附き合うて貰おうではないか、あたしも日光は知らないけれども、浅草から出る東武電車とやらに乗れば、降りてからバスの連絡があって、東照宮から華厳けごんの滝、中禅寺湖まで見物して日帰りで行って来られるそうな、兄さんも是非そうしてやってほしい、費用はあたしの方で出さして貰うと云っている、と、そう云うのであった。

幸子は、それではお春が巧うまいことをし過ぎるようにも思ったけれども、彼女を行かしてやらないとお久も行かれなくなるのでは、お久が気の毒であるし、それにもう、内々様子を聞いたらしくて、すっかり当人は喜んでしまっていると云うのに、許してやらないのも罪なようなので、兎とも角かくも姉の計らいに任せた。と、その翌々日の朝姉から電話で、昨夜二人に日光行きのことを話したら、夜の眼も寝ずに楽しみにして、今日早朝に立って行ったこと、万一の用意はさせてやったけれども、今夜の七八時頃迄までには帰って来られる予定であること、これから雪子がそちらへ行くと云っていること、等々を知らせて来たので、雪子が来たら三人で美術院と二科展でも見に行こうか、などと思いながら受話器を置いたが、その時女中が襖ふすまの間から速達郵便を差入れて行ったのを、悦子が変な顔つきをして受け取りながら裏を返して見て、黙って母親の凭よりかかっている卓上に置いた。見ると四角な西洋封筒に、明かに夫の手とは違う筆蹟ひっせきで、「浜屋旅館方、蒔岡幸子様、親展」と記してある。夫より外に東京のこの旅館へ宛あてて手紙を寄越す人はない筈はずだがと、不思議に感じたが、差出人は「大阪市天王寺区茶臼山ちゃうすやま町二三奥畑啓三郎」なのであった。

彼女は悦子の眼を避けるようにしながら、急いで封を切った。そして、裏表へぎっしりと書かれている、紙質の硬い三枚の洋風書簡箋しょかんせんが、四つ折になっているものを中から取り出すと、発声映画の場面で聴くような、バリバリと云う強い音をたててその紙をひろげた。

その内容はまことに思いがけないもので、彼女が読んだ全文は左の如ごとくであった。―――

拝啓

突然斯様かような手紙を差上げる失礼をお許し下さい。姉上がこの手紙を御覧になって驚かれることは分っているのですが、それでも僕はこの機会を逃すことが出来ないのです

僕はこの間から一遍姉上に手紙を上げようと思っていました。しかし途中でこいさんに取られてしまう心配があるので、差控えていましたところ、今日夙川しゅくがわで久し振にこいさんにお目に懸り、御上京中の姉上が目下悦子さんと二人ぎりで築地の浜屋に泊っておられることを聞きました。浜屋は僕の友人が上京すると泊る家なので、僕は番地を知っていました。それで、今ならこの手紙が確実に姉上の手に届くであろうと思い、失礼を顧みず急いでこれを書くところです

出来るだけ簡単にしたいと思いますので、最初に僕が抱いている疑念を申し上げてしまいましょう。と云いますのは、現在のところでは全く僕一人の疑念に過ぎないのですが、近頃こいさんは板倉と何かあるのではないでしょうか。―――と云っても、勿論もちろんそれは精神的の意味で、それ以上に深入りしているものとは、僕はこいさんの名誉のためにも考えたくありませんけれども、少くとも二人の間に恋愛の萌芽ほうがのようなものがきざしているのではないでしょうか

僕がこのことを感づいたのは、あの水害の時以来です。当時のことを後になって考えて見ますと、あの時板倉がこいさんの救助に駈かけ付けたことはどうも変です。あの場合、何で板倉は自分の家や妹を捨てて生命の危険を冒してまでこいさんを助けに行ったのか、どうもただの親切とは思えません。第一僕に云わせれば、彼がこいさんがあの時刻に洋裁学院に行っておられたことを知っていたことや、玉置女史ともえらく懇意であるらしいことが、不思議でなりません。彼はそれ迄までにもたびたび洋裁学院に出入りしており、彼処あそこでこいさんと落ち合うとか、連絡を取るとかしていたのではないでしょうか。僕はそれについて調べたこともあり、証拠もあるのですけれども、ここには記しません。必要とあれば申し上げますが、それより姉上御自身で、僕とは別にお調べになって下さい。恐らくいろいろと意外なことを御発見になると思います

僕はこの疑念を抱くようになってから、こいさんをも板倉をも責めてみましたが、二人とも固く事実を否定しています。しかしおかしいのは、僕がそのことを口に出してから、こいさんは妙に僕に会うことを避けておられるのです。夙川へはめったに出て来られませんし、蘆屋のお宅へ電話をかけても、うそかほんとうか、お春どんが出て来て只今ただいまお留守でございますと云われることが多いのです。板倉もまた、こいさんにはあの水以来一二遍しかお目に懸っていない、今後もそう云うお疑いを受けないように注意する、などと云うのがきまり文句なのですが、そんなことを云っても僕はちゃんと手を廻して調べているのです。現にあの水以来、彼は殆ほとんど毎日蘆屋のお宅へ伺っているではありませんか。又こいさんと二人で海水浴にも行ったではありませんか。僕は或る方法を以て事実を一々知ることが出来るのですから、隠しても駄目だめなのです。板倉は或は、僕とこいさんとの連絡係を勤めるように僕から命ぜられているのだと、あなた方に思わせているかも知れませんが、僕はそんなことを彼に命じたことはありません。彼がこいさんに会う必要があるとすれば、写真撮影の打ち合せだけですが、僕は最近彼がこいさんの仕事をすることを禁じましたから、もうその用件もなくなった訳なのです。にも拘かかわらず、彼は近頃いよいよ頻繁ひんぱんにお宅に出入りしています。そしてこいさんはさっぱり夙川へ出て来られません。それでも姉上御夫婦の監督の眼が届くうちはいいのですが、不幸にして今度のような場合、―――兄上も昼間は御不在、そして姉上も、悦子さんも、お春どん迄も上京中と云うような場合、どう云うことが起るであろうかと憂慮に堪えません。(定めし御存知ないでしょうが彼は姉上のお留守中も毎日お宅にお邪魔しているようです)こいさんはしっかりしておられるから間違いはないと思いますけれども、板倉と云う人物には全然信用が置けません。何しろアメリカ三界さんがいを渡り歩いていろいろなことをして来た人間です。御承知の如く手蔓てづるを求めて何処どこの家庭へでもずるずるべったりに入り込むことには妙を得ている男です。金を借りたり女を欺だましたりすることにかけては定評があります。僕は彼を丁稚でっち時代から知っているので、何も彼も分っています

僕とこいさんとの結婚問題についてもお願いしたいことがいろいろあるのですが、それは他日に譲るとして、今は板倉と云うものをこいさんから遠ざけることが先決問題です。仮にこいさんが僕との婚約を解消されるつもりとしても、(こいさんはそんなつもりはないと云っておられますが)あんな男と妙な噂うわさが立つようなことがあったら、それこそこいさんの身の破滅です。まさかこいさんも、蒔岡家のお嬢様として板倉などを本気で相手にされるつもりはないでしょうが、僕も最初にあの男を紹介した責任がありますので、監督者たる姉上に、何とかして僕の疑念をそっと打ち明けて御注意申し上げる義務を感ずるに至ったのです

姉上には姉上としてのお考もあり、対策もおありになると存じますが、何かこのことにつきまして、僕でお役に立つことがありましたら御一報次第いつでもお伺い致します

最後にくれぐれもお願い申し上げたいことは、僕がこんな手紙を差上げたことを何卒なにとぞこいさんに秘密にしておいて戴きたいのです。もしこいさんに知られますと、一層悪い結果を招くことはあっても決して好転する筈はないと思います

以上、姉上が浜屋におられる間にこの手紙が着くようにと思って大急ぎで書きました。乱筆にて御判読なさりにくいでしょうが何卒事情御諒察りょうさつ下さい。順序もなく思いつくままを書きましたので頭の悪い書き方になりましたが、失礼な言辞などもあったかも知れませんが、幾重にもお許しを願います

九月三日夜したたむ

奥畑啓三郎

蒔岡姉上様

侍史

幸子は卓上に肘ひじを衝つき、両手の中へその書簡箋を抱え込むようにしながらところどころ繰り返して読んだが、悦子の探るような視線から逃れるために、読み終るとそれを封筒に収めて、二つに折って、帯の間に入れ、縁側に出て、籐椅子とういすに掛けた。

余り不意討ちだったので、彼女は先ず動悸どうきを押し静め、気を落ち着けてかからなければ、何事をも考えられなかった。それにしてもこの手紙に書いてあることは何処までほんとうであろうか。………なるほど、そう云われて見ればたしかに自分達は人が好過ぎたかも知れない。自分達はあの板倉と云う青年に少し気を許し過ぎていた。何の用もないのに始終遊びにやって来るのを、不思議とも思わず、好きなようにさせていたのは、油断と云えば云えないことはない。が、それと云うのも、自分達はあの青年をそう云う意味では全然問題にしていなかったからであった。自分達はあの青年の氏も素姓も知らないのだし、知っているのは彼が奥畑商店の丁稚上りだと云うことだけである。まあ、正直のところ、あの青年は自分達とは階級の違う人間と云う頭が最初からあった。あの青年自身も、お春どんを嫁に貰おうかなどと云っていたくらいで、まさかこいさんに対してそんなことを考えていようとは思えなかったが、ああ云うことを云っていたのが手だったのであろうか。仮にまた、あの青年にそんな気があったとしても、こいさんがそれに応じることがあろうとは、考えられもしなかった。少くともこいさんに関する限り、奥畑の手紙を読んだ現在でも、そんなことは考えられない。なんぼこいさんが過去に過ちを犯したからと云って、それほどまでに誇を捨てて自暴自棄になるには及ばないではないか。痩やせても枯れても、こいさんも蒔岡家の娘ではないか。(幸子はそこまで考えて来ると、ひとりでに眼に涙が溜った)奥畑となら、なんぼ相手が甲斐性かいしょうなしだからと云って、そう云うことも有り得るであろうし、又許せもするが、まさかこいさんが、あの青年とそんな間柄になるであろうとは。………あの青年に対するこいさんの態度、口のききよう、なども、下の階級の人間として扱っていたことは明かであるし、あの青年もそれに甘んじていたではないか。………

しかしそれなら、この手紙の内容は大した根拠のないものであろうか。調べたとか証拠があるとか云っていながら、その証拠を一つも明示していないのは、ただ奥畑の漠然とした疑念に過ぎないのであろうか。そう云う間違いが起ってはならないと思って、わざと大袈裟おおげさに警告しているのではないであろうか。奥畑はどう云う方法を以て事実を探ったのか知れないが、たとえばこいさんが板倉と二人で海水浴に行ったなどと云う「事実」はない。自分はいくら気を許しているからと云って、そんな不取締りなことはしない。板倉と二人きりで行ったのは悦子である。こいさんが行った時は、いつも自分達、―――雪子や悦子などが一緒であった。その外の時でも、こいさんと板倉と二人きりでいたことは余りなかった。自分達は別に監督すると云うような気持ではなしに、板倉の話が面白いので、彼が来れば大概その周囲に集ったが、こいさんや彼の素振を怪しいと感じたことは一遍もなかった。要するに、奥畑は近所の無責任な噂か何かを基にして、勝手な幻影を描いているのではないであろうか。………

幸子は、努めてそう云う風に考えて打ち消してしまいたくはあったが、それでも、さっきこの手紙を読んだ瞬間、何かしらはっと胸を衝くものがあったことも否いなめなかった。ありていに云うと、彼女は板倉と云うものを、そう云う点では自分達と交渉のない階級に属する人間であると、極め込んでいたには違いなかったが、それならこの手紙に書いてあるようなことをまるきり想像もしなかったかと云えば、そうではなかった。少くとも彼が妙子に対して献身的の奉仕をしたこと、あれから此方頻繁に出入りするようになったことの裏には、何かあるかも知れないと、ぼんやり気付いてはいたのであった。彼女は又、自分が妙子の身になったとして、ああ云う際に一命を助けて貰った若い女の感動が如何いかに大きいものであるか、助けてくれた人に対して如何に深い感謝の念を持つようになるか、と云うことも察しられない訳ではなかった。ただ何処までも「身分の違い」と云う先入主があったために、気が付いていながら取り上げるに足らぬこととして深くも突き止めようとしなかった、―――寧むしろ突き止めることを避けていた、と云うのが本当であった。だから今の手紙は、自分が見まいとしていたこと、見るのを恐れていたことが、不意に奥畑に依よって無遠慮に鼻先へ突き付けられた、と云う点に於いても彼女を狼狽ろうばいさせたのであった。

それでなくても帰心矢の如ごとくであった彼女は、こう云う手紙を手にした以上一日も東京にぐずぐずしてはいられない気がした。何を措おいても帰宅早々事の真相を明かにしなければならないが、これを調べるにはどんな方法を以てしたらよいか、当人達を興奮させないようにして問い質ただすにはどう云う風に切り出すべきか、いったいこのことは夫に相談したものであろうか、いやいや、これは最後迄自分一人の責任として、夫にも雪子にも打ち明けないで秘密の裡うちに真相を突き止めるべきではなかろうか、そして、不幸にして事実であった場合にも、当人達に疵きずをつけないように、誰にも知られないようにして手を切らせるのが最上の策ではないであろうか、―――等々のことが交〻こもごも頭に浮かんだが、それよりも、さしあたり自分が帰る迄の間、板倉を宅へ寄せ着けないようにするにはどうしたらよいか、と云うことが、一層焦眉しょうびの問題として考えられた。なぜと云って、今しがた読んだ手紙の中で、「彼は姉上のお留守中も毎日お宅にお邪魔しているようです」とあった文句が、分けても彼女を狼狽させたからであった。実際もし二人の間に恋愛の萌芽のようなものが潜在していたとしたら、今はその萌芽が成長するのに絶好の機会である。「兄上も昼間は御不在、そして姉上も、悦子さんも、お春どん迄も上京中と云うような場合、どう云うことが起るであろうかと憂慮に堪えません」と云う語は、何よりも彼女を顛倒てんとうさせた。全く自分は何と云う迂濶うかつなことをしたものであろう。留守を妙子一人に預けて、雪子や悦子を連れ、お春までも連れて東京へ出ることを思い付いたのは、誰でもない、自分ではないか。自分はまるで二人のために恋愛の温床を作ってやったようなものだ。こう云う機会に恵まれれば、萌芽のなかった所にだって萌芽が発生せずにはいない。これで間違いが起ったとしても、責められるのは二人でなくて自分ではないか。何としても、これは片時も捨て置けない。こうしている間も気懸りである。………彼女は堪え難い焦躁しょうそうを感じた。悦子を伴って帰る迄にまだ一両日を要するとすれば、その間を如何にして防止したらよいか。手っとり早い方法は、今直ぐ夫に電話を懸けて、兎も角も自分が留守の間は、妙子が板倉に会うことを禁じて貰うことである。だが、それは矢張面白くない。何とかして夫に知らせずに済ましたい。已やむを得なければ雪子にだけ打ち明けて、今夜の夜行ででも立って貰い、それとなく監督をして貰うと云う方策もあるが、―――夫に知られるよりはまだその方が気が楽であるが、それも避け得られるものならば避けたい。第一雪子は諒解してくれるとしても、渋谷へ帰って来たばかりで又慌あわただしく関西へ立つ口実がない。とすると、この場合お春を一と足先に立たせるのが、最も自然で、当り障りのない方法である。無論お春に何も打ち明けるのではないが、妙子の側にお春がいてくれたら、板倉の来訪を防止することは出来ない迄も、二人の接近を牽制けんせいするぐらいの効能はあろうか。

―――幸子はしかし、お春がひどく口の軽い女であることを思うと、この最後の策を用いるのをも躊躇ちゅうちょした。お春を介在させるとして、二人の間に何の怪しいこともなかった場合にはよいが、何かしら彼女に感付かれるような行為があったとしたら、あのおしゃべりがどんな噂を方々へ撒まき散らさないものでもない。それでなくてもそう云うことには割に気の廻る女であるから、自分が何のために一と足先に帰らされたかと云うことを、自然考え付くかも知れない。それにあの女では却かえって妙子達に買収されそうな心配もある。愛想がよくて如才がない代りには、そう云う誘惑には懸り易やすいたちであるから、あの口の巧うまい板倉などには直ぐ丸め込まれるであろう。そんな風に思って来ると、幸子はどうしてもこの事件を他人任せにはして置けなかった。矢張自分が早く帰れるように手筈をして、今日明日にも診察が済んだら、どんな遅い夜汽車ででもその日のうちに立つ、と云うことにするより外はなかった。

やがて、彼女は、歌舞伎座の方から橋を渡って河岸かし通りを此方へ歩いて来る雪子の日傘ひがさが眼に留まると、徐しずかに座敷の中へ這入はいって、自分の顔色を見るために、次の間の鏡台の前に坐った。そして紅の刷毛はけを取って二三度頬の上を撫なでたが、ふと心づいて、傍かたわらにあった化粧鞄かばんを、悦子に聞かれないように金具の音を立てずに開けて、ポッケット用のブランデーの罎びんを出すと、それを蓋ふたのコップの中に三分の一ほど滴たらして飲んだ。

十九

幸子はもう展覧会へ行く興味などなくなっていたが、でもそんなものでも見たら気が紛れるであろうかと思って、午後から三人で上野へ出かけた。そして二つの展覧会を見るとくたくたに疲れてしまったが、悦子の懇望で動物園も見ることになり、くたびれた足を引き擦ずって簡略に一と廻りして、帰ったのは夕刻六時過ぎであった。実は何処どこかで晩の御飯をと云うつもりもあったが、それより早く宿でくつろぎたくなったので、雪子も連れて戻って来て、一と風呂浴びてから部屋で夕飯を食べていると、そこへ「只今ただいま帰りました」と、お春が汗で真まっ紅かになった顔をして、明石縮あかしちぢみをよれよれにして這入はいって来た。彼女は今、日光からの帰りがけで、お久と一緒に雷門から地下鉄に乗ったのであるが、ちょっと御寮人様にお目に懸って今日のお礼を申さなければと思いまして、尾張町おわりちょうで自分だけ下りてお伺い致しました、と、そう云って、これはお嬢ちゃんにと、日光羊羹ようかんを三棹さおと絵端書とを出した。

「このお土産、折角やけど、うちより渋谷の方へ持って行ったげなさいな」

「はあ、はあ、彼方へも買うて参りました。お久どんが先に持って帰りましたのでございます」

「それはまあ、こんなに沢山に、………」

「華厳の滝見た? お春はあどん」

と、悦子が絵端書をひろげながら聞いた。

「はい、東照宮から、華厳の滝から、中禅寺湖まで、………お蔭様で何から何まで見物さして戴いただきました。………」

ひとしきり日光見物の話が栄えたが、お春が「富士山も見えましてございます」と云い出したのが問題になった。

「へえ、富士山が?」

「はい」

「何処で見えたん」

「東武電車の中でございます」

「東武電車で富士山見える所とこあるやろか」

「ほんまかいな、お春どん、富士山の恰好かっこした山と違うか」

「いいえ、たしかでございます。お客さん達が、みんな富士山が見える見える云うてはりましたよって、そうに違いございません」

「そうかなあ、そしたら何処かで見えるのんやろか」

幸子は今朝から気に懸けていたことなので、お春に云い付けて卓上から杉浦博士の家を呼び出させた。と、折よく今しがた旅行先から帰ったところで、明六日の朝自宅の方へお越し下されば診察致しましょうという挨拶あいさつである。五日に帰るとは云っていたけれども、どうせ二三日は延びるであろうと予期していたのが、意外にも早く済まされることになったので、それならと又宿の帳場を呼び出させて、明日の晩の寝台券を三枚、なるべくならば同じ車台の、続いた番号のを取ってくれるように頼んだ。中姉なかあんちゃん、明日帰るのん? と、雪子はびっくりしたように云ったが、明日午前中に診察が受けられるなら、少し忙せわしないけれども午後に買い物などをして、夜の汽車で立てなくはない、あたしは格別急ぐ用もないけれども、悦子の学校が始まっているのにそういつ迄までも休ませる訳に行かないから、早く帰った方がよいと思う、それで雪子ちゃんも、お春どんも、明日のお午ひる頃までに此処ここへ来て貰もらいたい、あたし等もそれ迄には杉浦博士の所から帰って来て、午後に皆で買い物に出かけよう、もう一度渋谷へも顔出しをしなければ悪いのだけれども、とても行っている暇がないから、兄さんにも姉ちゃんにも宜よろしく云って置いてほしい、と、彼女はそう云って夕飯後二人を帰した。

その明くる日は可なり忙しい慌あわただしい一日であった。先まず朝のうちに本郷西片ほんごうにしかた町にある杉浦博士邸を訪ねて診察を受け、本郷薬局へ廻って処方箋しょほうせんを示して調剤を乞い、赤門前からタキシーを拾って浜屋へ戻ると、雪子とお春とが来て待っていた。雪子は第一に診察の結果を尋ねたが、杉浦博士の見るところも大体辻博士と同じようなことであった。ただ、こう云う風な神経質の少年少女には得て天才肌はだな、学術の優秀な児が多い、だからこのお児さんなども導きように依よっては或る一点で常人を凌しのぐようにならないとも限らないので、さほど心配なさるには及ぶまい、要はこのお児さんの才能がどの方面に秀でているかを見出みいだして上げて、一つの事に精神を集注するように仕向けることであると、そう云われた、そして専もっぱら食餌しょくじ療法に依るようにと云うことで、処方も書いてくれたが、その処方だけが辻博士のとえらく違っていた、と、幸子はそんな話をした。午後には四人で池の端はたの道明どうみょう、日本橋の三越、海苔のり屋の山本、尾張町の襟円えりえん、平野屋、西銀座[#「西銀座」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「酉銀座」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「西銀座」]の阿波屋あわや等を廻って歩いたが、生憎あいにく残暑のぶり返した、風はあるけれども照り付ける日であったので、三越の七階、ジャアマンベーカリー、コロンバン等々、方々で一と休みしては渇かわきを癒いやさねばならなかった。お春は夥おびただしい買物の包を持たされて、荷物の中から首を出したようになりながら、今日も顔じゅうに汗を沸かして三人の跡から附いて来たが、三人も皆めいめいに一つか二つ提げていた。そしてもう一度尾張町へ出、最後に服部はっとりの地下室で又幾つかの買い物をすると夕飯の時刻になったので、ローマイヤアは気が変らないからと、数寄屋橋際すきやばしぎわのニュウグランドへ上ったのは、宿へ帰って食べるよりも時間が省けるからでもあったが、一つには、今夜限りで又暫しばらくは会えなくなるであろう雪子のために、彼女の好きな洋食の卓を囲み、生ビールを酌くんで当座の別れを惜しもうと思ったからであった。それから大急ぎで宿へ帰り、荷纏にまとめをし、東京駅へ駈かけつけて、見送りに来ていた姉と待合室で五分ばかり立ち話をし、午後八時三十分発急行の寝台車へ乗り込んだ。姉と雪子とはフォームまで附いて来たが、悦子が外へ降りて来て雪子としゃべっている隙すきに、姉はデッキに立っている幸子の方へ寄って行きながら、

「雪子ちゃんの縁談、あれきりかいな。………」

と、小声で云った。

「あれきりやわ、………そのうちに又あるやろとは思うけど。………」

「今年のうちに何とか極まらんと、来年は厄やくやさかいにな」

「そない思うて、方々へ頼んであるねんわ。………」

「左様なら、姉ちゃん」

と、悦子がデッキへ上って来て薔薇ばら色のジョウゼットのハンカチを翳かざした。

「今度はいつ来る、姉ちゃん」

「さあ、いつ行けるか知らん。………」

「早う来てね」

「ふん」

「きっとよ、姉ちゃん、………ええか、きっとよ、………」

寝台は上段が一つに下段が二つ、続いた番号のが取れたので、悦子とお春とを向い合せに寝かすことにして自ら上段を選んだ幸子は、直ぐに上って長襦袢ながじゅばんのまま横になった。どうせ足腰を伸ばすだけで、眠れないことは分っているので、無理に眠ろうとも努めなかったが、ぼんやりと眼をつぶっている眼瞼まぶたの裡うちに、今しがた姉と雪子の涙を溜ためながらじっと此方を見送っていた顔が、いつ迄も浮かんでいた。考えて見ると、先月の廿七日に立ってから今日で十一日になる訳であるが、今度の東京滞在ぐらい、落ち着かない、そわそわした旅行をしたことはない。最初は姉の家に泊って子供達が騒ぐのに悩まされた揚句颱風たいふうに脅やかされ、這ほう這うの体で浜屋へ避難してほっとする暇もなく奥畑の手紙で爆弾に見舞われたような思いをした。いくらかでもゆっくりしたのは、姉と一緒に大黒屋へ行った日一日ぐらいなものであった。でもまあ、杉浦博士の診察が受けられたので、一番大切な用件だけは果たすことが出来たようなものの、とうとう芝居一つ覗のぞかないでしまった。そして昨日から今日へかけては、埃ほこりっぽい東京の街を日中に彼方此方歩き廻って大活躍をした。ほんとうに何と云う目まぐるしい二日間だったろう。僅わずかな時間にこんなに方々駈けずり廻るなんと云うことは、全く旅先ででもなければ出来ることではない。彼女はそう思うだけで疲労が一層身にこたえた。何か、高い所から抛ほうり出されでもしたようで、臥ねると云うよりは打ぶっ倒れている気持であったが、それでいて眼は冴さえて来るばかりであった。ブランデーを舐なめたら幾らかとろとろ出来そうでもあったが、起きてその罎びんを取り出す気力もなかった。彼女の眠れない頭の中には、帰宅早々自分の裁断を待っている厄介な事件、―――昨日からの持ち越しの問題が、さまざまの疑念や憂慮の形を取って結ぼれては消えた。あの手紙のことは確かに事実なのであろうか。………事実であったらどう処置したらよいであろうか。………悦子は何か変に思ってはいないであろうか。………彼女は奥畑から手紙が来たことを雪子にしゃべりはしなかったであろうか。………

二十

悦子は帰って来た日一日だけ休んで、翌日から学校へ通い始めたが、幸子は二三日の間と云うもの、日が立つほどだんだん疲労が出て来るようなので、按摩あんまを取ったり昼寝をしたりして暮した。そして退屈すると、ひとりテラスの椅子に腰かけて庭を眺ながめては時を過した。

ここの庭は、秋よりは春の花を好む女主人の趣味を反映しているのか、纔わずかに築山つきやまの蔭に貧弱な芙蓉ふようが咲いているのと、シュトルツ邸の境界寄りに、一叢ひとむらの白萩しらはぎがしなだれている外には、今は格別人眼を惹ひくような色どりもない。夏の間に思いきり葉を繁しげらした栴檀せんだんと青桐あおぎりとが暑苦しそうな枝をひろげ、芝生が一面に濃い緑の毛氈もうせんを展のべている景色は、彼女が先日東京へ立って行った当時と大した変りはないのであるが、それでも幾分か日射しが弱くなり、仄ほのかながら爽涼そうりょうの気が流れている中に、何処どこからか木犀もくせいの匂においが漂うて来たりして、さすがにこの辺にも秋の忍び寄ったことが感じられる。もうこのテラスに渡してある日覆ひおおいの葭簀張よしずばりも、近日取り除のけなければならない。―――彼女はそんなことを思いながら、いつも見馴みなれている我が家の庭を、この二三日はひどく懐なつかしく眺めるのであった。ほんとうに、たまには旅行もして見るものである。ほんの十日ばかり家を空けたに過ぎないけれども、旅馴れないせいか、何だか一と月も留守にしていたような気がして、久し振に我が家へ帰った喜びがしみじみと湧わく。と、彼女は又しても、雪子が滞在中、ともすればさも懐しそうに、―――或あるいは名残惜しそうに、―――この庭の彼方此方に彳たたずむことがあるのを想い起した。こうして見ると、雪子ばかりではない。自分も矢張生粋の関西人であり、どんなに深く関西の風土に愛着しているかが分る。別に取り立てて風情ふぜいもない詰まらないこの庭だけれども、此処に彳んで松の樹の多い空気の匂を嗅かぎ、六甲方面の山々を望み、澄んだ空を仰ぐだけでも、阪神間ほど住み心地のよい和やかな土地はないように感じる。それにしてもあのざわざわした、埃ほこりっぽい、白ッちゃけた東京と云う所は何と云う厭いやな都会であろう。東京と此方とでは風の肌触はだざわりからして違うと、雪子が口癖のように云うのも尤もである。ああ云う所に移転しないで済まされる自分は、姉や雪子に比べてどんなに幸福であるか知れない。―――幸子はその感想に浸ることがこの上もなく楽しいのであったが、

「お春どん、あんたは日光見物までさしてもろて、ええことしたけど、あたしは東京と云う所とこ、ちょっともええことあれへんなんだ。やっぱり自分の家が一番やわ」

と、お春を掴つかまえて云ったりした。

妙子は夏じゅう休んでいた製作の仕事を、この間から始めようと思いながら、留守中は外出することを控えていたのであると云って、幸子が帰った明くる日から夙川しゅくがわへ通い出した。洋裁学院の方はまだいつ始まるか分らず、山村の師匠もああ云うことになってしまって、さしあたり製作より外に仕事がないので、こう云う機会にかねてから考えていた仏蘭西フランス語の稽古けいこをしようかと思うのだけれども、―――などとも云ったが、それならマダム塚本に来て貰もらおう、あたしも雪子ちゃんが止めてから止めているけれど、こいさんが始めるなら始めてもよい、と幸子が云うと、うちは初歩から習うのだから一緒では工合が悪い、それに仏蘭西人は月謝が高いから、と云って笑った。板倉は一度、妙子の不在の時に立ち寄って、御寮人様がお帰りになったので御挨拶あいさつに伺いましたと、テラスで二三十分幸子の相手をし、台所へ廻ってお春に日光の話を聞いて帰ったきりであった。実は幸子は、疲労の恢復かいふくを待つ一方、好い折を窺うかがっていたのであったが、そう云う風にして日が立つうちに、奇妙なことには東京から持ち越しの疑念が次第にうすらいで行きつつあった。あの朝浜屋の一室で手紙を開けた時の驚き、その翌日も引き続いて犇ひしと胸を締めつけていた憂慮、寝台へもぐり込んでからも夢魔のように夜じゅう自分を苦しめた問題、―――あの時はあんなに急迫した、一日も捨て置けない事件であると感じられたのに、不思議にも我が家へ戻って朗かな朝を迎えた瞬間から、だんだん緊張が弛ゆるみ始めて、そう慌あわてないでもよいように思われ出して来た。いったい幸子は、もし問題が雪子の素行に関することであったなら、誰が何と云って来ても最初から取り上げる筈はずはなく、根もない中傷であるとして斥しりぞけてしまうに極まっているが、妙子は前に一度事件を起したことがあり、自分や雪子とはちょっと心臓の搏うち方の違ったところがある妹なので、まあ、露骨に云えば、全幅的には信用していない点があった。さればこそあの手紙に狼狽ろうばいさせられた訳であるが、帰宅してから妙子の態度に何の変化も認められず、晴れやかな顔つきをしているのを見ると、この妹にそんな後暗いことがありそうもないと云う気分の方が強くなって、あの時あんなに慌てたのが可笑おかしくさえ思えて来るのであった。どうも、今から考えると、自分も東京にいた間は悦子の神経衰弱が感染していたのかも知れない。実際東京のあの苛々いらいらした空気の中にいれば、自分のような者は神経が変にならずにはいない。矢張あの時心配したのは病的だったので、今の判断が正しいのではないであろうか。………

で、帰って来てから一週間ほど過ぎた或る日、彼女がその事を妙子に切り出す機会を捉とらえたのは、そんな風に大分気持が楽になっていた時であった。

その日妙子は割合に早く夙川から戻って、二階の自分の居間へ上って、今しがた仕事部屋から持って帰った、小紋こもんの石持こくもちを着た年増の女の、庭下駄にわげたを穿はいて石燈籠いしどうろうの下に蹲踞うずくまっている人形―――それは「虫の音」という題で、女が虫の音に聴き入っている感じを出すのだと云って、かねてから苦心していた作であったが、―――を、卓の上に置いて見入っていたが、そこへ幸子は、

「まあ、よう出来てるわな。………」

と云いながら這入はいって行った。

「ええやろ、これ」

「ええわ、ほんまに。近頃の傑作やわ。………若い女にせんと、年増にしたのんが、ええ考やったわな、淋さびしい感じが出て。………」

そして彼女は、なお二つ三つ批評を加えて、ちょっと言葉を途切らしてから、

「こいさん」

と云った。

「―――あたし、実はこないだ、東京に行ってた時にけったいな手紙貰うてんわ」

「誰から」

と妙子は、まだ人形の方へ眼を据すえたまま何気なく云ったが、

「啓坊けいぼんからやわ」

と幸子が云うと、

「ふうん」

と云って姉の方へ向き直った。

「これやけどな、―――」

幸子は西洋封筒のままその手紙を懐ふところから取り出しながら、

「これ、どんなことが書いてあるか、こいさん分るやろか」

「大概分ってる、―――板倉のことと違うやろか」

「そうやわ、まあ読んで御覧」

妙子はこんな場合に余り顔色などを変えない、悠々ゆうゆう迫らずと云った風な落ち着き払ったところがあって、端はたから腹を窺いにくいのであるが、今も幸子が見ていると、三葉の書簡箋しょかんせんをしずかに卓の上に展べ、眉まゆ一つ動かさずに一枚々々裏を返してじっくりと読んだ。

「阿呆あほらしい。―――この手紙のことやったら、中姉なかあんちゃんに云付いつけてやる云うて、こないだから嚇おどかされててんわ」

「あたしは全く寝耳に水やったのんで、どんなにびっくりさされたか」

「こんなこと、相手にせんと置いてほしい」

「自分から手紙上げたこと、こいさんには云わんといて下さいと書いてあるけど、誰に相談するよりも、直じかにこいさんに打ぶつかるのんが一番早い思うよってに、聞くねんわ。まさか本当やないのんやろ」

「啓ちゃんは自分が浮気するよってに、人までそんな風に疑うねん」

「それでもこいさん、板倉をどう思うてるのん」

「あんな人、問題にしてへんわ。うち、啓ちゃんの云うような意味と違うけど、板倉には感謝してるねん。命助けられた恩人のこと、悪く思うたら済まんさかいに」

「それやったら、分ってる。きっとそうやろう思うてたわ」

妙子の話だと、奥畑が彼女と板倉との間を疑い出したのは、手紙には「水害の時以来」とあるけれども実際はその前からであるらしく、彼女には遠慮していたが、板倉にはちょいちょい厭味を云っていたのであることが、ずっと後になってから分った。最初板倉は、自分だけが蘆屋の家へ自由に出入りすることを許されていて、奥畑には許されていないと云う事実、―――それが奥畑は何となく癪しゃくに触って、妬やけてならないので、子供じみた忿懣ふんまんを洩もらすのだと思って、軽く聞き流していたのであったが、水害以来急に云い方があくどくなり、且かつ妙子にも疑念を打ちまける迄までになった。でも奥畑は、これは君にだけ聞いて見るので板倉は知らないことだから、彼奴あいつには黙っていてほしいと云っていたし、又実際自尊心の強い奥畑が、まさか板倉には云っていまいと思えたので、妙子はそのことについて直接板倉と話し合うことを避けていたが、板倉も亦また、彼が責められていることを妙子には話さずにいたのであった。そして妙子は、そのことが原因で奥畑とちょっとした諍いさかいをし、電話が懸っても拗すねて出なかったり、わざと会う機会を与えなかったりしたことがあったが、あまり奥畑の気の揉もみ方が真剣なので、可哀そうになって来て、ごく最近、―――と云うのは、この手紙にもある通り今月の三日に久し振で会った。(いつも彼女が奥畑と会うのは、仕事部屋へ往復する途中に待ち合わす場所があるらしく、奥畑の手紙にも「夙川でお目に懸った」旨むねを記しているが、どう云う風にして何処で落ち合うのか、委くわしい様子は語ったことがない。幸子が聞くと、あの辺の松林を散歩しながら話をして別れるのだ、と云っていた)その時奥畑は、いろいろ証拠が挙っていると云って、この手紙にあるようなことを持ち出して妙子を詰なじり、板倉と絶交してくれなどと云ったが、妙子は命の恩人である人と絶交するのは道でないからと、それは拒絶して、今後なるべく会わないようにすること、余り板倉が蘆屋を訪問しないように仕向けること、仕事の上の関係(宣伝写真の委嘱)は完全に絶縁すること、等々を約束した。で、その約束を履行するには、結局板倉に理由を説明しなければならなくなったので、彼女は自分の一存で始めて彼に事情を話したのであったが、話して見ると板倉は板倉で口止めをさせられ、同じような約束を迫られていることが分った。―――まあそう云ったような訳なので、その約束をしてから以後、つまり今月の三日以来と云うもの、自分は一度も板倉に会っていないし、板倉も自分を訪ねて来ない、ただ、中姉ちゃんも帰りやはったのに、急にぱったり伺わないようになっても変だからと云って、先日挨拶に見えたのだけれども、それもわざと自分のいない時刻を選んで来たのである、と、そう妙子は云うのであった。

しかし、妙子の方はそれでよいとして、板倉は妙子をどう思っているのであろうか。奥畑が妙子を疑うのは謂いわれがないとしても、板倉を疑うのは無理のないところもある。奥畑に云わせると、妙子は何も板倉に助けて貰ったことを恩に着るには及ばない。なぜと云って、板倉の英雄的行動には最初から目的があったのだ。あの狡猾こうかつな男が、何か偉大なる報酬を予想することなしにああ云う危険を冒す筈がない。彼はあの朝早くから身支度をしてあの辺をウロウロしていたと云うが、左様に彼の行動は全く計画的だったのだ。そう云う身の程知らずの野望を抱くような男に、感謝する理由が何処にあろうか。第一彼自身、旧主の恋人を横取りしようなどと、忘恩のことを考えているではないか。―――と云うのだそうであるが、板倉は又、それを極端に否定する。啓坊の云やはることはえらい誤解だ。僕がこいさんを助けて上げたのは、こいさんが啓坊の恋人であるからだ。僕は昔の御主人の御恩を忘れないからこそ、命懸けで忠義を尽したつもりだのに、そんな風に取られては遣やり切れない。僕だって常識があるから、自分のような者の所にこいさんが来てくれはるかどうかぐらい、分っている。―――と、そう云うのであると云う。それなら妙子はこの二人の云い分をどう判断しているかと云うと、正直のところ、うちは板倉のほんとうの気持をうすうす感じていないではない、板倉も利根りこうだから「利根だから」はママ、そんなことを色にも出しはしないが、あれ迄の冒険をしてうちを助けてくれたのは、多分単純な旧主人への恩返しや忠義ばかりではないであろう、彼自身それを意識しているかどうかは別として、啓坊に忠義を尽すよりはうちに忠義を尽しているのかも知れない、が、仮にそうであったとしても何も差支えない訳である、彼が埒らちを越えない限り此方も知って知らん顔していたらよい、あの通り中々重宝な男で小まめに用足しをしてくれるから、精々利用したらよいし、向うも利用されることを光栄に思っているのだから、そう思わせて置いたらよい、―――と云うのであって、彼女はその腹で彼と附合っていたのであるが、啓ちゃんが気が小さくて、嫉妬やきもちを焼くので、詰まらない誤解を受けるのも厭だから、絶交したのではないけれどもなるべく往き来しないように話合いを附けたのである。だからもう啓ちゃんも疑念を晴らして安心している。恐らく今では中姉なかあんちゃんにこんな手紙を書いたことを後悔しているであろう。―――

「板倉みたいなもん、うちをどないぞ思うてるなら思わしといたらええのんに、可笑しいわ、啓ちゃんは」

「こいさんみたいに腹が出来てたら何でもないけど、啓坊やったらそんな訳に行かんやろなあ」

妙子は、もう近頃は幸子の前でおおびらになっているので、帯の間から白鼈甲しろべっこうの煙草入を出して、昨今では貴重な舶来の金口きんぐちを一本取って、ライタアを点じた。そして、彼女の特長である肉の厚い唇くちびるをまん円く開けて、輪を順々に吹き送りながら暫しばらく思案していたが、

「そう云えば、洋行の話、………」

と、幸子の方へ横顔を見せたままで云った。

「………中姉ちゃん、考えてくれたか知らん」

「ふん、そのことも考えてはいるねんけど、………」

「東京で、そんな話出えへんなんだ?」

「姉ちゃんといろいろ話した時に、口元まで出かかったけど、お金の問題が絡からんでるさかいにあんじょう云い出さなんだらあかん思うて、今度は何も云わんと置いた。云うのんやったら貞之助兄さんから云うて貰おう」

「貞之助兄さんはどう云うてはるのん」

「こいさんの意志さえ真面目まじめでしっかりしてるのんやったら、取次いで上げてもええとは云うてはるねんけど、欧羅巴ヨーロッパに戦争始まりはせんか云うて、心配してはるねん」

「始まるやろか」

「どうか分らんけど、もうちょっと形勢を見てからにしたらどないやろう、云うてはるねん」

「それもそうやけど、玉置先生が近いうちに行かはることになったんやわ。そんで、行くのんやったら連れてったげる、云うてくれはるよってに、―――」

実は幸子も、こうなって来ては板倉とは勿論もちろんのこと、奥畑とも一時妙子を遠ざけるに越したことはないので、洋行させるのも一策であると思っていたのであった。が、欧洲おうしゅうの風雲がますます急を告げていることは新聞で見ても明かなので、そう云う所へ妹を一人旅立たせるのは彼女としても不安であり、本家も許す筈がないので躊躇ちゅうちょしていたのであるが、玉置女史が同行してくれると云うなら、考え直す余地はあった。妙子の云うのには、玉置女史もそんなに長く行っているつもりではない。女史が往年巴里パリへ行ったのは大分前のことなので、機会があったらもう一度出かけて最新の流行を研究して来たいと思っていた矢先、今度の水害で校舎の改築をしなければならなくなったので、その期間を利用して出かけることにしたのであるから、大体半年ぐらいで帰朝するのである。で、ほんとうならば妙子さんは一二年間滞在して修業した方がよいけれども、後に残るのが心細かったら私と一緒に帰っていらっしゃい、半年でも行けば行っただけのことはあるし、私が運動して何とか肩書ぐらいは貰えるようにして上げよう、今のところでは、来年の正月に立って七八月頃に帰る予定なので、まあ短期間のことであるから、その間に戦争が起りもしまいが、起ったら起ったで運を天に任せよう、そんな場合にも二人なら心強いし、幸い私は独逸ドイツや英吉利イギリスにも知人があるから、いざと云う時には避難先にも困らない、と、そう云ってくれているので、こんな好い折は又とないから、自分も多少の危険を覚悟の上で連れて行って貰いたいと思う。

「今度は啓ちゃんも、板倉のことがあるよって洋行に賛成してるねんわ」

と、そう妙子は云うのであった。

「あたしかて賛成してもええけど、貞之助兄さんが何と云やはるか、兎とに角かく相談して見よう」

「是非賛成して、本家を説き付けてくれはるように、頼んでほしいねんわ」

「お正月やったら、そう急ぐことないわな」

「早い方がええことはええけど、今度はいつ東京へ行かはるやろ」

「今年のうちにもう一二遍は行かはるやろう。―――まあ、こいさんは仏蘭西語の稽古してなさい」

と、幸子は云った。

二十一

シュトルツ夫人はその月の十五日、ローゼマリーとフリッツとを連れてプレシデント・クーリッジ号でマニラへ出帆することになった。ローゼマリーは悦子の東京滞在期間が思いの外延びたので、エツコさんまだですか、なぜ早く帰って来ませんと、毎日留守宅の妙子や女中達を手古摺てこずらせる始末であったが、悦子の帰宅後は、彼女が学校から戻るのを待ちかねるようにして、残る僅わずかな日数を、一日も欠かさず一緒に遊び暮していた。先まず、悦子が応接間へ鞄かばんを置くと、例の金網の垣根かきねの下へ走って行って、

「ルミーさん、来れコム!」

と、片言の独逸ドイツ語で呼ぶ。するとローゼマリーが現れて、垣根を躍り越えて此方の庭へ来、跣はだしになって芝生の上で縄跳なわとびをする。それにフリッツや、幸子や妙子なども加わることがある。悦子は、

「一アインス、二ツワイ、三ドライ、四フィール、………」

などと、一から二三十ぐらい迄までは独逸語で数を云い、

「早くシュネル! 早くシュネル!」

とか、

「ルミーさん、何卒ビッテ」

とか、

「未だいけないノッホニヒト!」

とか、そんな程度のことはその外にもいろいろ使った。或ある日のこと、境界の植込みの繁しげみの方で、

「エツコさん、御機嫌ごきげんよう!」

と、ローゼマリーが日本語で云うと、

「アウフ、ウィーダアゼーエン!」

と、悦子が独逸語で云い、

「ハンブルクへ行ったらきっと手紙下さいね」

「エツコさんも手紙下さい!」

「ええ、上げます、きっと、きっと!………ペータアさんに何卒どうぞ宜よろしく!」

「エツコさん、………」

「ルミーさん、フリッツさん、………」

と呼び合う声がしていたかと思うと、突然「ドイッチュラント、ユーベル、アルレス」の合唱が、ローゼマリーとフリッツの声で聞え始めた。幸子がテラスへ出て見ると、青桐あおぎりの幹の程よい高さの所に姉娘と弟の幼童とが登って、枝の上に立ってハンカチを振っている下で、悦子がそれに答えながら、船出の光景を演じているのであった。

「まあ」

幸子も早速青桐の下へ駈かけて行って、

「ルミーさん、フリッツさん、………」

と云いながら、埠頭ふとうに立った心持でハンカチを振った。

「エツコさんのママさん、アウフ、ウィーダアゼーエン!」

「アウフ、ウィーダアゼーエン! 御機嫌ようルミーさん、きっと又日本へいらっしゃいね」

「エツコさんのママさん、エツコさん、ハンブルクへ来て下さい」

「ええ、行きますよ。………今に悦子が大きゅうなったらきっと行きますよ。ルミーさんも達者でいて下さい。………」

幸子はそう云っているうちに、子供相手の遊戯であると思いながらも眼頭が熱くなるのを覚えた。

シュトルツ夫人は子供の躾しつけなども規則的でやかましく、ローゼマリーが悦子の家に遊びに来ていても、一定の時間になると必ず「ルミー」と云って垣根の向うから呼んだものであるが、この十日ばかりの間は、幼い同士が最後の名残を惜しむ気持に特別の心遣いをしているらしく、いつものように厳しくも云わなかったので、日が暮れると二人は又家の中で遊んだ。例の如ごとく応接間に裸の人形を並べて、いろいろな衣裳いしょうを着せる。しまいには「鈴」を掴つかまえて来て、人形の代りにそれへ着せる。或る時は二人で代る代るピアノを弾いたが、

「エツコさん、何卒もう一つ下さい」

と、ローゼマリーはよくそう云った。それは「何卒もう一曲弾いて下さい」の意味なのであった。

夫人は夫シュトルツ氏の出発が慌あわただしかったので、後の荷物の整理、家財道具の処分等、一切の残務を一人で片附けているらしく、毎日忙しそうに立ち働いているのが、幸子の家の二階からも窺うかがわれた。そう云えば幸子は、この独逸人の一家が隣へ引き移って来て以来、ことさら覗のぞいて見る訳ではなくとも、朝夕二階の縁側から庭の方を瞰みおろす度に自然とその家の裏口が眼に這入はいるところから、夫人やアマの働き振りだの台所の様子だのを、手に取るように知ってしまったのであるが、いつ見てもコック場の器物がきちんと整頓せいとんしていることは驚くべきものであった。料理用のストーブと調理台とを中心にして、その周囲にアルマイトの湯沸しやフライパンなどが、大きいのから順々に、必ず一定の場所に置いてあり、それらが孰いずれも綺麗きれいに研みがかれて武器のようにぴかぴかしていた。そして、洗濯、掃除、風呂の焚たき付け、食事の支度等々の時間が毎日判で捺おしたように正確で、幸子の家の者達は、隣家の人達のしている仕事を見れば時計を見る必要がない程であった。アマは若い日本人の女が二人いたが、彼女達については一度幸子の家との間にちょっとした事件を惹ひき起したことがあった。それは今雇われているアマ達の前にいた人達の時分のこと、―――そのアマ達は、幸子などが見れば骨身を惜しまずによく働く寔まことに忠実な人々であったが、でも彼女達にして見ると、夫人の人使いが余り激しいのが、かねてから不満だったのであろう、うちの奥様は自分が先に立って、一分の時間も無駄むだにしないように段取りを附けて用をなさるので、私達も一つの仕事を済ませると直すぐ次の仕事へと追い立てられる、私達は日本人の家庭に雇われるよりは沢山お給金も貰もらっているし、家事についていろいろ為めになることも教えて貰うが、何しろ一日じゅう、息つく暇がない、全くうちの奥さんは主婦としては偉い奥さんで敬服させられてしまうけれども、使われる身になっては遣やり切れない、と、そう云い云いしたものであった。ところが或る朝、このアマ達の日課になっているシュトルツ邸の塀へいの外周りの掃除を、幸子方の下働きのお秋が、此方の塀外を掃除するついでに、してしまったことがあった。お秋にすれば毎度シュトルツさんのアマさん達が此方の家の外周りを掃いてくれるので、たまに、たった一回お礼心に掃いてやったのに過ぎないのであったが、シュトルツ夫人がそれを見付けて、自分達の受持の仕事を余所よその女中さんにして貰うとは何と云うふしだらなことかと、ひどくアマ達を叱しかったので、アマ達も負けてはいなかった。何も自分達は仕事をずるけた訳でもなければお秋さんに頼んだのでもない、お秋さんが好意でしてくれた迄で、それも今朝だけのことなのだから、悪ければ二度として貰わない、と、彼女達は云うのであったが、言葉の通じないせいもあって、夫人が容易に許さないので、それならお暇を戴いただきましょう、―――宜しい、どうぞ出て行って下さい、と云うところ迄来てしまった。幸子はお秋から事情を聞いて、仲裁に這入ろうとしたけれども、そうなるとアマ達の方が却かえって強硬で、いいえ、有難うございますが、此方さんの関係したことではないのですから、何も仰おっしゃらないで下さい、実は今日のことばかりではないのです、私達は随分一生懸命に働いているつもりなのですが、うちの奥さんはそれを少しも認めて下さらないで、二た言目にはあなた方は頭が悪い頭が悪いと云われます、それは成る程、私達はとてもあの奥さんの頭の良さには敵かないませんけれども、私達がどれだけ忠実な、役に立つ人間であったかと云うことは、外の人を雇って御覧になればお分りになる時があるでしょう、あの奥さんが御自分から気が付いて、私が悪かったからとでも仰っしゃるなら格別、そうでなかったら好い機会ですから出て行くことに致しましょうと云うのであったが、夫人もとうとう引き止めようとしなかったので、二人が一時に暇を取った。それから間もなく今のアマ達が来るには来たけれども、矢張前のアマ達はああ云って憤慨しただけのものはあって、頭の働きも、仕事の能率も、二人ながら群を抜いていたので、夫人も後になってから、わたし、あの人達に暇を出したのは間違いでしたと、幸子に洩もらしたことがあった。夫人の主婦振りがどんなものであるかはこの一事でも明かであるが、だからと云って、規則ずくめの厳格一方の人ではなくて、情愛の深い優しい半面もあることは、あの水の時に、近所の交番へ泥どろまみれになった罹災者りさいしゃが二三人も逃げて来たと聞いて、早速シャツや下着類を持たせてやり、あなた方も浴衣ゆかたがあったら贈ってお上げなさいとアマ達にも熱心に勧めたこと、夫や子供たちの安否を気遣い、悦子のことまでも心配してくれて、真っ青な顔に涙を浮かべていたこと、夕方夫たちが無事に戻ったのを知ると、狂気したような歓声を挙げて駈かけ出したこと、等々を見ても分る。幸子は今でも、あの栴檀せんだんの葉越しに見た、夫人が喜びに我を忘れてシュトルツ氏に犇ひしと抱き着いた光景をはっきり覚えているのであるが、ほんとうに、あんな情熱的なところもあるのは感心ではないか、一般に独逸の夫人は偉いと云っても悉ことごとくがシュトルツ夫人と同様だと云う訳ではあるまい、矢張これだけよく出来た人はなかなか得難いに違いなく、こう云う人を隣人に持ったのは自分の仕合せであったのに、それにしては余り呆気あっけない交際であった、いったい西洋人の家庭は日本人との近所附合いをしたがらないものであるが、この一家はそう云う点も如才なく、越して来た時に見事なピラミッドケーキを挨拶あいさつ代りに配ったくらいであるから、此方からも打ち解けて、子供達の附合いだけでなく、もっと親密に往き来をし、料理や菓子の作り方なども教えて貰えばよかった、と、今になって幸子は惜しい気がするのであった。

夫人がそんな風であるから、幸子達の外にも名残を惜しむ隣人が少くなかったが、出入りの商人達の中には、ミシンとか電気冷蔵庫とか云うようなものを格外に安く分けて貰って喜んでいる者もあった。夫人は不必要な家具類を、成るべく知人や出入りの者などに廉価れんかで譲るようにして、希望者のない品物だけを全部家具屋に売り払ってしまい、纔わずかにピクニック用の籠かごに這入った食器類を残して置いて、

「もうこの家には何もありません。私達、船に乗るまでこのバスケットのナイフやフォークで食事します」

と、そう云って笑っていた。隣近所の人々は、夫人が独逸へ帰ったら記念のために日本間を作ってそこへ日本の土産物を飾るつもりであると聞いて、それぞれ書画や骨董こっとう類を贈ったので、幸子も祖父母の時代からある、表に御所車の刺繍ししゅうをした帛紗ふくさを贈った。そしてローゼマリーから悦子へ、自分が平素可愛がっていた人形と、人形の乳母車を贈ったのに対して、悦子からもローゼマリーへ、この間舞を舞った時の写真に彩色をしたものと、その時に着た桃色の綸子縮緬りんずちりめんに花笠はながさの模様のある振袖ふりそでを贈った。

明日はいよいよ乗船すると云う前の晩には、ローゼマリーは特に許されて悦子の部屋に泊ったが、その夜の二人の燥はしゃぎようと云ったらなかった。悦子はローゼマリーのために自分の寝台を空け、自分は雪子の藁布団わらぶとんを借りることにしたのであったが、二人はなかなか寝るどころではなかった。貞之助は彼女達の喚わめき声と廊下をばたばた駈け擦ずり廻る音で一睡も出来ず、

「えらい騒ぎやなあ」

と云いながら布団を頭から被かぶっていたが、だんだん暴れ方が激しくなるので、しまいに首をむっくり擡もたげて枕元まくらもとの電燈の鎖を引いた。

「おい、もう夜中の二時やないか」

「ええ、もうそんな!」

と、幸子もびっくりしたように云った。

「あまり興奮さしたらいかんことないか。シュトルツの奥さんに怒られるで」

「今夜一と晩だけやさかい、まあ宜しいがな。奥さんかて今夜は大目に見やはりますが、………」

そう云っている所へ、

「お化けエ、………」

と云う声がして、急に寝室の方へ足音が近づいて来て、

「お父さん!」

と、悦子が襖ふすまの外から怒鳴った。

「お父さん! お化け云う独逸語どう云うのん」

「あんた、お化け云う独逸語やて。知ってたら教えたげなさい。………」

「ゲシュペンステル!」

貞之助は、何年か前に習ったそんな独逸語を覚えていたのが不思議だったので、つい大声を出して云った。

「お化けと云う独逸語はゲシュペンステル、………」

「ゲシュペンステル」

と、悦子は一遍云って見て、

「ルミーさん、これ、ゲシュペンステル、………」

「おお、わたしもゲシュペンステルになります。………」

それから一層騒々しくなって、

「お化けエ、………」

「ゲシュペンステル!」

と云い合いながら二階じゅうを駈け廻り、とうとう貞之助達夫婦の寝間へ、ローゼマリーが先に立って闖入ちんにゅうして来た。見ると二人ともシーツを頭から被って、お化けの恰好かっこうをしているのであった。そして、「お化けエ」「ゲシュペンステル」と、げらげら笑いながら云いつづけて、寝床の周りを二三遍廻って又廊下へ出て行った。それから漸ようやく、午前三時頃になって寝間に這入ったが、案の定二人ながら興奮し過ぎていつ迄も寝付かなかった。ローゼマリーは里心が付いたものか、私これからママさんの所へ帰ります、などとむずかり出したので、夫婦はそれを宥なだめるために代る代る起きて来たりして、やっと明け方に寝入らせることが出来た。

悦子は出帆の当日、母と妙子に連れられて花束を持って埠頭ふとうへ行ったが、船の出るのが夜の七時過ぎだったので、子供達の見送りは割に少く、ローゼマリーの友達では独逸側にたった一人インゲと云う少女、―――悦子もシュトルツ家のお茶の会でたびたび一座したことがあって、蔭で「隠元豆々々々」と云っていた児、―――が見えた外に、日本人では悦子が来ただけであった。シュトルツ家の一行は昼間のうちに乗り込んでいたので、悦子達は夕飯を早めに済まして出かけ、阪神の三宮からタキシーを飛ばしたのであったが、税関の前を通り過ぎると、忽たちまちイルミネーションを附けたプレシデント・クーリッジ号の姿が不夜城の如ごとく埠頭に聳そびえているのが見えた。彼女達は直ぐシュトルツ夫人の船室を尋ねあてた。部屋は壁も、天井も、窓掛も、寝台も、一様に乳白色がかった緑色をしてい、寝室は数々の花束で埋まっていて眼の覚めるような明るさであった。夫人がローゼマリーを呼んで、エツコさんに船の中を見せてお上げなさいと命じたので、ローゼマリーは彼方此方を案内して歩いたが、悦子はもうあと十四五分しかないと思うと気が気でなく、ただ素晴らしく贅沢ぜいたくな船であったことと、何度も階段を上ったり下りたりしたことぐらいしか覚えていない。彼女が船室へ戻って見ると、別れの言葉を交しながら夫人も泣き、母も泣いていた。そして間もなく、彼女達は合図の鉦かねの音に追い立てられて下船した。

船が埠頭を離れると、

「まあ、綺麗な。百貨店が動き出した見たい、―――」

と、妙子が、海岸の夜の秋風に白いブラウスの肩を縮めながら云った。それから可なり長い間、甲板に立っている夫人達の姿がイルミネーションの光の中に浮き出て、小さくなりながら見えていたが、しまいに誰が誰やら見分けが付かないようになっても、まだ、

「エツコさあん、―――」

と、根気よく呼びつづけるローゼマリーの細い甲高い声が、暗い海の上を伝って聞えた。

二十二

一九三八年九月三十日、マニラに於いて

親愛なる蒔岡御令閨れいけい様

今月は日本は颱風たいふうの多い月なので、私はあなた方のことを一心にお案じ申しております。私はあなた方が、過去数箇月間に既に沢山の災害にお遇あいになったので、これ以上そんな目にお遇いにならないように望んでおります。もうあの岩石や土砂の山々も、国道や蘆屋あしや附近からすっかり取り除かれましたでしょうね。そして交通も再び常態に復し、人々も再び生活を楽しんでいるでございましょうね。そしてあの私達が住んでいた家も借り手が出来、あなた方もまたよい隣人をお持ちになったことでしょうね。私はあの家の可愛らしい庭と、それから私の子供達が自転車を乗り廻して遊んだあの閑静な街のことを、実にしばしば思い出すのです。ほんとうに、彼等はいつも愉快な時を過しました。そして彼等は、あなたのお宅で何と云う数々の面白い目をさして戴いただいたことでしょう。私はもう一度、あなたが私の子供達に与えて下すった御親切の総すべてに対して、感謝致したく存じます。彼等は実にしばしばあなた方御一家のお噂うわさをし、時とするとあなたやエツコさんに対して郷愁を感じております。ペータアは船から手紙を寄越しましたが、彼等はあなたの妹さんやエツコさんと東京見物をして、非常に楽しい時を過したそうですね。それは本当によいことをして下さいました。厚く厚くお礼を申します。彼等は無事安全にハンブルクへ着いたと云うことで、先日私は電報を受け取りました。彼等は今私の妹の所に寄寓きぐうしておりますが、妹には三人の子供がありますので、ペータアがその四人目の子になるでありましょう

私達は当地ではとても大家内です。此処ここには子供が八人おりまして、而しかも私が籠かごの中のたった一羽の牝鶏めんどりなのです。時々子供達はお互に喧嘩けんかしますが、それでも大概は皆仲好く遊んでおります。ローゼマリーは一番年長で、又そのことを知っております。私達は毎日のように、午後になると自転車を駆って素晴らしい遊歩道の方へ参り、そこでアイスクリームを食べます

それではあなた方、皆さんお達者でお暮し下さい。何卒あなたの御良人にも、妹さんにも、そして愛らしいエツコさんにも、私から宜よろしくと仰おっしゃって下さい。欧羅巴ヨーロッパの総べての状態が再び平穏になりましたら、あなた方は独逸ドイツへいらしって私達を訪問なさるのです。今は彼の地到る所で剣戟けんげきの響が致しますが、如何いかなる国民も戦争は好みませんから、結局戦争にはならないでしょう。チェッコ問題はヒットラーが処理してくれることと、私は確信しております

ではあなたの御健康をお祈り申します。何卒私があなたを敬愛しておりますことをお忘れにならないで

敬具

ヒルダ・シュトルツ

これと同便であなたへフィリッピン刺繍ししゅう[#「刺繍」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「剌繍」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「刺繍」]の小裂こぎれをお送り申しました。お気に召せばよいがと思っております

英文で認したためたシュトルツ夫人のこう云う手紙が、幸子の許もとへ届いたのは十月十日頃であった。追白に書いてある刺繍の小裂なるものも二三日遅れて届いたが、それは極めて精巧な手縫いをしたテーブル掛けであった。幸子はそのうちに返事を出そうと思いながら、書くには書いても誰に訳して貰もらったらよいか、夫は面倒がって堪忍かんにんしてくれと云うし、ちょっと適当な人が見付からないので、つい億劫おっくうで延び延びになっていたが、或る夕方蘆屋川の堤防を散歩していると、嘗かつてシュトルツ夫人に紹介されたことのある、日本人でヘニングと云う独逸人の奥さんになっている人に行き遇ったので、ふと思い出して相談すると、お安いことです、私は巧うまく書けませんけれども、娘は独逸語も英語も書けますから、娘に翻訳ほんやくさせましょうと云って、ヘニング夫人は引き請けてくれた。それでも幸子は、遠い国外へ手紙を出すと云うことが何となくぴんと来ないので、又暫しばらく捨てて置いて、漸ようやく或る日自分も認め、悦子にも認めさせて、それをヘニング夫人の許へ送り届けたのであった。

と、その直すぐ後で、紐育ニューヨークから悦子に宛あてて小包が来たのを解いて見ると、それはペータアが亜米利加アメリカ経由で帰国する途中、約束の靴くつを買って送って寄越したのであった。だがその靴は、どうしたことか、あんなに寸法まで測って行ったのに、悦子の足には小さ過ぎて篏はまらなかった。悦子はそれが上質のエナメル革の、余所よそ行き用の立派な靴であっただけに、諦あきらめかねて何度も足を突っ込んで見たが、辛うじて這入るには這入るけれども、固くてどうにもならないのであった。

「惜しいわなあ、大き過ぎるのんやったらええのんに。………」

「ペータアさん、何で間違えはったんやろ。余り寸法にきっちり合わせ過ぎはったんか知らん」

「悦ちゃんの足が、あの時より大きゅうなってるのんかも知れん。子供の靴は少し大ぶりのにせないかん云うこと、注意しといたらよかったわなあ。ママさんが一緒やったら気イ付かはるねんけど」

「残念やわなあ。―――」

「もう止やめなさい、何遍そんなことするのん」

幸子は悦子が又しても靴を当てがって見ようとするのを、笑いながら制して云ったが、その折角の贈り物に対しては何と挨拶してよいかも分らないので、とうとう礼状も出さないでしまった。

その時分、妙子は方々から注文を受けている人形の製作を、洋行する迄に全部仕上げるのだと云って一日も休まず仕事部屋に[#「仕事部屋に」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「仕事部屋へ」]通い、かたわら仏蘭西語の会話を、玉置女史の紹介で、巴里に六年居たと云う洋画家別所猪之助いのすけ氏夫人に、週に三回で拾円と云う特別に安い月謝で教えて貰っていたので、彼女は殆ほとんど毎日、昼間は家にいることがなかった。悦子は学校から帰って来ると、あれ以来空家になっている旧シュトルツ家の境界の金網の方へ行って、今は徒いたずらに雑草の繁しげみの中に虫が鳴いている裏庭を、なつかしそうに網の目の間から覗のぞいたりしていた。彼女は今迄、あまり近い所に恰好かっこうな友達が出来たために学校の同級生とはそんなに遊ぶ折もなく、だんだん疎遠になっていたので、こうなると寂寥せきりょうに堪えないらしく、ぽつぽつ新しい仲好しを作るようにはしていたけれども、急には気の合った相手も見付からず、又そのうちに裏の家へルミーさんのような児のある人が来ないか知らん、などと云い云いしたが、外人向きに建てた借家であるから日本人は借りようとせず、かと云って西洋人は、世界中に動乱の兆きざしが見える昨今、皆シュトルツ氏と同じような理由で東亜を引き揚げようとする者が多いので、当分その家は塞ふさがりそうもなかった。幸子もしょざいなさに習字の稽古をしたり、お春に琴の手ほどきをしてやったりして日を送ったが、「淋さびしいのは悦子ばかりではありません。私も何だかこの秋ばかりは物の哀れを感じていますが、今迄春の方が好きでしたのに、秋のこう云う哀れさの中にも趣があることを、今年始めて感じるようになったのは矢張年のせいでしょうか、………」と、彼女は或る時雪子へ宛てた手紙の端にそんなことを書いた。

いったい今年は、春に雪子の見合いの件があってから、六月には舞の会があり、引き続いてあの大水害、妙子の遭難、おさく師匠の逝去せいきょ、シュトルツ一家の帰国、東京行き、関東大暴風、奥畑の手紙が捲まき起した暗雲、………と、今迄随分いろいろな事件が多かったのに、それが此処ここへ来て一遍に静かになったので、一つはそのために、何かぽかんと穴の開いた、手持無沙汰ぶさたな気がするのであろう。それにつけても、幸子は自分の生活が、内的にも外的にも、如何いかに二人の妹達と密接に結び着いているかを、感じない訳には行かなかった。幸いにして彼女の家庭は、夫婦の間も円満に行っているし、悦子は多少手のかかる児であるにしてからが一人娘のことであるし、本来ならば余りにも波瀾はらんに乏し過ぎる、平和な親子三人の暮しなのであるが、今迄それに絶えずさまざまな変化を与えていたものは、二人の妹なのであった。だがそう云っても、それは二人の存在が煩わずらわしいと云う意味ではなくて、反対に、二人のお蔭で常に家庭の色彩が豊富にされ、雰囲気ふんいきが花やかにされているのを、幸子は喜んでいたのであった。なぜかと云って、亡なくなった父親の陽気で派手な性質を誰よりも濃く受け継いでいる彼女は、家の中の淋しいことが大嫌だいきらいで、いつも賑にぎやかに若やいで暮して行きたかったからであった。であるから、妹達が本家を嫌って二番目の姉の家の方でより多くの月日を送りたがるのを、彼女は姉夫婦の手前、決して此方から勧誘することはしなかったけれども、心の底には歓迎する気持があった訳なので、本家のように子供の多い所で暮させるよりは、家が広いわりに小人数な自分の手元に預かる方が自然であるようにも感じていたのであった。尤もっともそれには、貞之助が矢張本家に気がねしながらも、妻のそう云う性質に理解ある態度を示して、快く義妹達を受け容いれていたせいもあろう。が、まあそんなような次第で、彼女と二人の妹達の間柄は、ちょっと普通の姉妹の観念では律し難いものであった。彼女はしばしば、貞之助のことや悦子のことよりも、雪子のことや妙子のことを心に懸けている時間の方が多いのではないかと思って、自ら驚くことがあったが、正直に云って、この二人の妹は彼女に取って、悦子にも劣らぬ可愛い娘であったと同時に、無二の友人でもあったと云えよう。彼女は今度一人ぼっちになって見て、始めて自分が、友達らしい友達を持っていないこと、―――形式的な交際以外には奥様同士の附合いと云うものを余りしていないこと、―――に心づいて、不思議に感じたのであるが、考えて見れば、それは二人の妹がいたためにその必要がなかったからであった。そうして今や、ローゼマリーを失った悦子と同じように、頓とみに彼女も寂寥を覚え出したのであった。

妻のしょんぼりしている様子を疾とうから看みて取っていた貞之助は、十月の末に新聞の演芸欄を覗きながら、

「おい、来月は六代目が大阪へ来るで」

と、そう云って、五日目あたりに行こうではないか、今度は鏡獅子かがみじしが出るそうだから、こいさんも来られないか知らん、などと云ったが、妙子は来月も上旬は殊ことに忙しいから、自分は別の日に行くと云うことだったので、その日夫婦は悦子を連れて三人で出かけた。幸子は九月に東京で見られなかった不満を充たし、且かつは悦子にも菊五郎の所作事を見せてやりたいと思っていた願いを果たしたことであったが、その夜、鏡獅子の後の幕間に、彼女が廊下へ立って行って不意に涙を落したのを、悦子は気が付かなかったけれども貞之助が見咎みとがめた。そして、何事にも感激性の強い妻ではあるが、それにしても変だと思ったので、

「どうしたんや、………」

と、そっと隅すみの方へ引っ張って行って尋ねると、又つづけざまにはらはらと落して、

「あんた、もう忘れてなさる?………あれは三月の今日やってんわ。あんなことがあれへなんだら、今月がちょうど十月とつきやのんに、………」

と、そう云って、膨らんで来る涙の玉を払うために指の先で睫毛まつげを摘つまんだ。

二十三

妙子は玉置女史の出発が正月だと云うのに、もう十一月の上旬も過ぎてしまうので気が気でなく、貞之助兄さんはいつ東京へ行かはるやろうと、それとなく幸子に尋ねたりしたが、生憎あいにく貞之助は、大概二た月に一度ぐらいは上京の用事が出来るのだけれども、ここ暫しばらく機会がなくて過ぎていたところ、鏡獅子かがみじしを見た数日後に、二三日の予定で立つことになった。

出かける時はいつも急なので、幸子はそれを前日の午後、他の用件で事務所から電話が懸ったついでに聞かされたのであったが、どう云う風に話して貰もらったものか、よく考を練って置く必要があるので、仕事部屋へ行っている妙子を呼び出して、直すぐに帰って来るように命じた。と云うのは、一人前の洋裁師になるために仏蘭西フランスへ修業に行きたい、と云う妙子の願望にはもう一つ奥があって、なぜ洋裁師になりたいかと云えば、将来奥畑と結婚した時に、自分が奥畑を養って行く場合が起りそうだから、―――と云う前提に基づいているのである。そこで順序を蹈ふむとすれば、その前提条件、奥畑との結婚から承認して貰うことが先決問題なのであるが、そうなると事が面倒で、今の間には合わないであろうし、取次をする貞之助も、そう云う重い使命を負わされることは厭いやがるであろう。又妙子としても、さしあたり洋行さえ出来ればよいので、好んで事件を紛糾させたくはないのであるから、この際結婚の話は伏せて置く方が良策ではあるまいか。それならどう云う風に持ち込むかと云うと、自分は過去に恋愛問題で新聞にまで謳うたわれてしまったのだから、僻ひがむ訳ではないが、立派な所へなんかお嫁に行けそうもない気がするので、職業婦人として身を立てたい、と云って見てはどうか。尤もっとも、そう云っても、良い縁があれば行きもするが、それにしても身に職を付けて置く方が、いくらか条件が有利になる、洋行迄までして一廉ひとかどの肩書を持って帰朝すれば、自分を不良少女と云うように見ていた人も見直してくれるであろうから、一種の名誉回復になる、だから是非許可して貰いたい、そしてその費用を出してくれたら、今後結婚することがあっても支度金を貰おうとは思わない、と云う風に話し込んだらどうであろうか。―――これは主として幸子の提案なのであったが、妙子もそれに異議はなく、どうとでも中姉なかあんちゃんの好いと思う方法で頼んで欲しい、と云うことになった。

しかし幸子は、その晩夫にその使命を依頼する時、自分の一存で猶なお一つ二つ云い添えた事柄があった。と云うのは、なるべく妙子を板倉や奥畑から遠ざけた方がよいと考えている彼女は、妙子自身とは別な理由からも、妙子の洋行を熱心に望んでいるのであったが、板倉の件は夫にも誰にも嘗かつて口外したことがないので、奥畑のことだけを、附け加えて話してくれるように夫に頼んだ。つまり、最近奥畑が妙子との結婚問題について諒解りょうかいを求めに一二回蘆屋あしやへ現れたこと、幸子が会って見たところでは、表面真面目まじめらしい態度を装っているが、どうも昔の純真さがなくなっているように思えること、貞之助が内々調べたところでも、盛に花柳界やカフェエなどに出没する様子であり、前途有望な青年とは受け取れぬ節が多いこと、等々の事情を話して貰い、この際妙子の気持が洋裁の技術習得の方へ向いているのは結構であるから、いっそその希望を容いれてやって洋行させたら如何いかがであろうか、妙子ももう二十八にもなって、まさかあの頃のような無分別はする筈はずもないが、一度間違いがあったことだから、暫くでもあの青年の手の届かない土地に置く方が安全と思う、―――と云う風に持ちかけて貰う。彼女の考では、お金は妙子自身のものを出して貰えばよいので、本家の腹は痛まない筈であるけれども、何事にも退嬰たいえい的な本家が、女の洋行などと云うことを簡単には許しそうにもないので、又駈落かけおちでもされたら大変であるから、―――と、多少嚇おどかすような意味合で話して貰う、と云う訳であった。で、貞之助はそのため特に滞在期間を一日延ばして、三日の午後二時頃と云う時間を選んで渋谷へ行ったが、それは義兄よりは義姉の方が話しよいように思えたからであった。姉は一と通り聞いてしまうと、趣意はよく分りましたけれども私には何とも云えないから、辰雄の意見を聞いた上で、追って幸子ちゃんの方へ手紙で返事することにしましょう、その手紙も、こいさんが急いでいるなら成るべく早く出すようにしましょう、毎度ながら妹たちのことであなたにまでいろいろ御心配をかけて申訳がないと、そんな風な挨拶あいさつであったが、無論即答が得られる筈のものではないので、貞之助はそう云う姉の言葉を齎もたらして帰って来たに過ぎなかった。幸子は、そうは云っても悠長ゆうちょうな姉のことではあり、義兄も事を決定するのに手間の懸る方であるから、直ぐには返事が来ないであろうことを予期していたが、それきり十日以上たっても何の音沙汰おとさたもなく、十一月もとうとう下旬になってしまった。あなたから一遍催促して見てと、貞之助に云っても、僕は皮切りをしたのだから後は知らないと、逃げを打つので、幸子から、こいさんの話はどうなったでしょうか、行くとすれば出発は正月なのだから、と云ってやったけれども、矢張梨なしの礫つぶてであった。こないなったら、こいさん東京へ行って来なさい、その方が話が早いで、と幸子が云うので、妙子もそれに極め、二三日中に出かけるつもりにしていると、漸ようやく十一月三十日になって、次のような手紙が届いた。―――

その後御無沙汰していますがお変りもありませんか。悦ちゃんの神経衰弱は経過よろしき由貞之助さんから伺って安心しました。もう本年も残り僅わずかになり、私は東京で二度目のお正月を迎えることになりますが、又あの恐ろしい冬が近づいて来たと思うと、ぞっとします。麻布あざぶの姉さんの話では、東京の寒さに馴なれる迄には三年かかる、姉さんも東京へ移って来られて三年間は風邪を引きつづけたとのこと。それにつけても蘆屋のような土地に住んでいる幸子ちゃんは仕合せです

さて、先日はこいさんのことにつきお忙しき中を貞之助さんが態々わざわざ見えられて段々とのお話まことに有難く、いつもながら妹たちのことで御心配をかけ済まない気持がしております。実はもっと早く御返事する筈でしたが、例の通り毎日子供の世話に追われ落ち着いて筆を執る暇がなくておくれてしまいました。と申すのも、折角ながら兄さんの意見はあなた方に反対なので、つい書きづらく、一日延ばしに延ばしていたような次第です。[#「です。」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「です、」]悪しからずお赦ゆるし下さい

兄さんの反対の理由を一と口に云ってしまいますと、何もこいさんはあの新聞の事件についてそんなにいつ迄も引け目を感じるには及ばない。あんなことは八九年も前のことで、もう帳消しになっている。そのためにお嫁の口がないとか職業婦人になろうなどと考えるなら、それはこいさんが僻ひがみ過ぎる。身内の者をそう云っては可笑おかしいけれども、器量と云い、教養と云い、才能と云い、こいさんなら立派なお嫁さんになれることは請うけ合いだから、何卒どうぞくれぐれもひねくれた考を持たないようにと云うのです。そう云う訳で今預かっているお金を出せと云われても困る、別にこいさんの名義になっているお金と云うものがあるのではない、こいさんが婚礼の式を挙げるような場合を考えて除のけてあるものがないでもないが、理由の如何いかんを問わず請求されたら出す、と云うようなお金は預かっていないそうです。兄さんはこいさんが職業婦人めいて来ることには絶対に不賛成で、将来良縁を求めて正式に結婚し、良妻賢母となることを何処どこ迄も理想としてほしいのです。もし余技としてやるなら矢張人形の製作の方にして貰いたく、洋裁などは好もしくないと云っています

それから啓坊のことは、今のところ賛否を云うべき時期でないから、全然白紙にして置きたいのです。尤もこいさんももう一人前の大人ですから、私等もそう以前のようにやかましいことは云いません。幸子ちゃん達が蔭で監督してくれたら、時々交際するくらいなことは大目に見てもよいと思います。それよりは職業婦人になろうと云う考の方を、くれぐれも警戒してほしいのです

折角仲へ這入はいって下すった貞之助さんに済みませんけれども、何卒そう云う訳ですから、幸子ちゃんからこいさんによく話して下さい。そんな風にこいさんがいろいろ迷うのも結婚がおくれているからだと思うと、尚更雪子ちゃんの縁談が急がれます。ほんとうに一日も早く雪子ちゃんの身が固まってくれるとよいのですが、今年もとうとう縁が纏まとまらずに終るのでしょうか

まだ書きたいことがたんとあるような気がしますけれども今日はこれぐらいにしておきます。では貞之助さん、悦ちゃん、こいさん、皆さんによろしく

十一月廿八日

鶴子

幸子様

「その手紙、あんたどう思いなさる」

幸子は妙子に話す前に、その晩それを先ず貞之助に見せたのであった。

「お金の話、こいさんの考えてることと本家の云うことと、多少喰くい違うてるみたいやないか」

「それでっしゃがな、問題は」

「お前は一体どう云う風に聞いてるねん」

「こないなって来ると、どっちの云うことが本当かあたしかて分らへん。何でも兄さんが、お父さんから預かっているものがある云うことは聞いてるねんけど。………このことは今こいさんに云わんと置いとく方がええことおませんか」

「いや、そう云う大切なことは、思い違いのないように早う知らしとく方がええで」

「それからあんた、啓坊のことどんな風に話しやはりましたん?………近頃は昔のようにええことない云うこと、よう云うてくれはりましたん?」

「ふん、僕等の見たとこを一と通りは云うたけど、奥畑のことには余り触れとうない様子見えたよってに、そんなに突っ込んではよう云わなんだ。まあ今のとこ、なるべく交際ささん方がええでしょうとは云うといたけど、僕等は結婚さすことに不賛成やとは、云えへなんだ。聞かれたら云うつもりやってんけど、その話になると避けてしまやはるよってに、………」

「啓坊の問題は白紙にしときたいと書いてあるけど、姉ちゃん等、ほんまは啓坊と結婚さしたいのんと違いますやろか」

「そうやろうな。僕もそんな感じ受けた」

「それやったら、結婚問題から先に持ち出した方がええことなかったか知らん」

「どうやろかなあ。それにしたかて、結婚するなら尚更洋行の必要はない、云うことになるで」

「ほんになあ」

「兎とに角かく、そんなややこしい話やったら、こいさんが行って直かに打ぶつかって見ることや。僕はもう御免やで」

と、貞之助は云った。

幸子は、従来から本家に対して雪子以上に悪感情を抱いている妙子に、姉夫婦の意向をありのままに伝えることは一往躊躇ちゅうちょしたけれども、隠さない方がよいと云う夫の意見もあるので、翌日その手紙を読ませたところ、結果は案じていた通りであった。妙子の云い分は、自分は既に子供ではないのだから、身の振り方を定めるについて、兄さん達の指図は受けない、自分のことは誰よりもよく自分が知っている、一体職業婦人になることがどうしてそう悪いのであろう、兄さん達は未だに家柄とか格式とかに関かかずらわって、一家一門の中から女洋裁師が出ることを、ひどく不名誉か何ぞのように思うのであろうが、それこそ時代後おくれの嗤わらうべき偏見ではないか、こうなったら自分が行って堂々と所信を述べ、兄さん達の誤った考を説破してやる、と云うのであったが、金の問題についての憤激は非常なもので、そう云うことを兄さんに云わして置く姉ちゃんが悪い、と、今迄義兄を攻撃しても姉を批難したことはなかったのに、今度は専もっぱら鉾先ほこさきを姉に向けた。なるほど、名義は私のものになっていないかも知れないが、将来私に与えるべきものとして兄さんが預かっているものがあることは、富永の叔母ちゃんからも聞いているし、姉ちゃんもいつかそう云ったではないか、それを今になって、そんな曖昧あいまいなことを云うのは怪しからない、本家は子供が殖える一方で暮しが懸るものだから、兄さんもいつの間にか気が変ったのであろうが、姉ちゃん迄がそれを平気で取次ぐと云う法があろうか、よろしい、本家がそう云うなら此方にも覚悟がある、きっとそのお金は取るようにして取って見せる、と、泣いて敦圉いきまく始末なので、幸子はそれを宥なだめるのに一と汗掻かかねばならなかった。まあ、貞之助兄さんの云い方も拙まずかったのかも知れないから、そう一途いちずになられては困る、こいさんの云うことも分るけれどもあたし等の立ち場も考えて貰いたい、直かに談判しに行くのもよいが、話すなら穏かに話したらどうか、本家に対してこいさんが喧嘩腰けんかごしになられたら、私等が迷惑する、私等はそんなつもりでこいさんの味方をしたのではないのだから、―――と、こうも云い、ああも云いして言葉を尽したが、妙子も一時忿懣ふんまんの余り感情の掃け口を求めた迄で、さすがにそれを実行する迄の勇気はないらしく、二三日するとだんだん興奮が静まって、いつもの落ち着いた妙子になった。そして、それきりそのことをふっつり口にしなくなったので、ほっとしながらも幸子が内心気にしていると、十二月の中旬頃であったか、或る日突然、午後早く帰宅して、

「うち、仏蘭西語の稽古けいこ止やめにしたわ」

と云った。

「そうか」

と、幸子が当らず触らずに受けると、

「洋行も止めにするわ」

と、云うのであった。

「そうか。………そらまあ、こいさんも折角思い立ったことやけど、本家があない云うのんやったら、止めた方がええやろな」

「うち、本家がどない云おうと構かめへんけど、玉置先生が止めにしやはることになってん」

「へえ、何でえな」

「お正月から洋裁学院が始まるねんて。そんで、洋行してる暇ないようになりはってん。―――」

玉置女史が洋行しようと云うのは、野寄の洋裁学院を改築しなければならないので、その間に、と云う訳だったのであるが、その後被害の状況を調べると、殆どもとの建物は役に立たなくなっており、根本的に建て直す必要のあることが分った。しかしそうなると、人手や資材の不足な時節柄、経済的にも時間的にも容易な仕事ではないので、この間から思案中であったところ、幸い阪急の六甲に大した費用を懸けないでもそのまま学院に利用出来る格安な洋館の売り物が見附かり、それを買うことになったのであるが、そう云う建物が手に入って見ると、直ぐにも再び学院を経営したくなったことが一つ。それと、女史の夫君が、矢張欧洲の動乱と云うことを心配し出して、洋行を中止するように勧告したことが一つ。何でも夫君の意見と云うのは、最近欧洲から帰朝した或ある武官の説なのだそうであるが、それに依よると、その後独逸ドイツと英仏との関係は、去る九月末のミュンヘン会議以来表面小康を保っているけれども、決して相互が真の諒解に到達したのではない、英国はまだ戦備が整っていないので、一時独逸を油断させるために妥協したに過ぎず、独逸も亦また英国の意図を察してその裏を掻こうとしているから、戦争は必ず近いうちに起ると云うので、まあそれやこれやの理由から、結局女史も思い止まることにしたのであった。それで妙子は、女史が止めるのでは仕方がないから、自分も止める、但ただし洋裁師になることは、本家が何と云おうとも止めない、お正月から洋裁学院が始まるなら、自分も亦稽古に通おうと思う、自分は今度のことで、一日も早く本家の仕送りを完全に断って自立する必要のあることを、ひとしお痛切に感じるに至ったから、そう云う点からも技術の習得を急がなければならない、と云うのであった。

「こいさんはそれでええやろけど、洋裁の稽古止めて貰わなんだら、あたし等が本家に対して言訳立たんようになるわ」

「中姉なかあんちゃんは知らんことにしといて欲しい」

「そんな訳に行くやろか」

「製作の方かてまだ表面は続けてるよってに、洋裁はあれきり止めたらしい、云うといてえな」

「知れた時に難儀やわ。―――」

幸子は妙子が、頻しきりに自立しようと焦あせっていることと、本家に預けてあると云う金を、多少不穏の態度に出ても取り立てようとしていることの中に、何か危険思想が潜んでいるような、そして、やがて自分達が板挟いたばさみになって困らされる時が来るような気がして、その日は何を云われても、

「難儀やわ」

とばかり云っていた。

二十四

いったい妙子が職業婦人の実力と資格を身に付けたがっている真の理由は、何処どこにあるのであろうか。もし当人の云う通り、今もなお奥畑と結婚することを望んでいるなら、それとこれとは両立しないのではあるまいか。当人に云わせると、啓ちゃんのような甲斐性かいしょうなしに連れ添うのには、もしもの時に自分が夫を食べさせる用意が必要だから、と云うのだけれども、奥畑はあの通り何不足ない若旦那わかだんなの身分で、食うに困るなんと云うことは、それこそほんとうに「もしもの時」である。そんな薄弱な理由で洋裁を習いたがったり、洋行したがったりするのはどうも不自然で、それよりは愛する人と新家庭を持つ日が早く来るようにと、願わねばならないところであろう。昔から早熟で、老成した、用心深い一面を持つ妙子のことであるから、結婚するのにも先の先まで考えて準備して置くと云うことは分るが、それにしても何となく腑ふに落ちかねる点がある。―――そう云う風に考えて来ると、幸子はいつかも感じたこと、つまり、妙子の真意は奥畑を嫌きらって、体よく彼との結婚を解消したいのではないのか、そして洋行はその第一歩であり、職業婦人になることは、奥畑と切れた後の処世の手段なのではないか、と云う疑いが再び濃くなって来るのであった。

板倉の件についての疑念も、まだほんとうには釈然としないものがあった。あれから後、板倉は訪ねて来たことがなく、電話や手紙の遣やり取りなどもしている様子は見えないけれども、何分妙子は一日の大部分を外で暮しているのであるから、何処でどう云う風な絡繰からくりをしていないものでもない。あれきり板倉が全然姿を現わさなくなったと云うことは、却かえって尋常でないようにも思われ、蔭で交際しているのではないかと云う邪推も起る。幸子のそんな風な疑念は極めて漠然としたもので、拠よりどころのあるものではないけれども、それだけになお日が立つに連れてますます深く濃くなって来、どうしてもそうに違いないような気がすることもあった。それには、幸子の眼から見て、妙子と云うものの外貌がいぼう、―――その人柄や、表情や、体のこなしや、言葉づかいや、―――そう云うものが、この春あたりからだんだん変って来つつあるように思えることも、そんな疑いを持たせる理由の一つになった。と云うのは、もともと妙子は四人の姉妹のうちで、一人だけ挙措進退がはっきりしていて、よく云えば近代的、と云えるところがあったのであるが、その傾向が近頃妙な工合に変貌へんぼうして、不作法な柄の悪い言語動作をちらつかせるようになった。人に肌はだを見せることは可なり平気で、女中達のいる所でも、帯ひろ裸の浴衣ゆかたがけで扇風機にかかったり、湯から上って長屋のおかみさんのような恰好かっこうでいたりすることは珍しくない。すわるのにも横っ倒しにすわったり、ひどい時は胡坐あぐらを掻かくような形をして前をはだけさせたりする。長幼の順序を守らないで、姉達より先に物を食べたり、出這入ではいりをしたり、上座に就いたりすることは始終なので、来客のある時、外出した時など、幸子はハラハラさせられることが多かった。今年の四月、南禅寺の瓢亭ひょうていへ行った時にも、一番先に座敷へ通って雪子より上にすわってしまい、お膳ぜんが出ると誰よりも先に箸はしをつけたので、後で幸子は、こいさんと一緒にお料理屋へ行くのは御免やと、雪子に囁ささやいたことがあったが、夏に北野劇場へ行った時にも、食堂で、雪子がお茶を入れて皆の前へ配っているのに、妙子は見ながら手伝おうとせず、黙ってそのお茶を飲んでいた。そんな風な行儀の悪さは、前から幾らかあったけれども、最近に至って特に甚はなはだしく眼につくようになった。この間の晩も、幸子が何気なしに台所の前の廊下を通ると、そこの障子が半開きになっており、風呂の焚たき口から風呂場へ通じる潜くぐり戸が又五六寸開いていて、湯に漬かっている妙子の肩から上の姿が、隙間すきまからちらちら見えるので、

「ちょっとお春どん、風呂場の彼処あそこ締めなさい」

と命じたが、お春がそこを締めに行くと、

「いかんいかん、締めたらいかん」

と、妙子が湯槽ゆぶねの中から怒鳴った。

「おや、此処ここは開けとくのでございますか」

「そうやねん。うち、ラジオ聴くのんでわざと開けとくねん」

そう云われてみると、ちょうど今、応接間のラジオが新響の演奏を放送中なのであったが、彼女は応接間から風呂場までにある戸障子を皆少しずつ開けて置いて、湯に漬かりながらそれを聴いているのであった。それから、あれは今年の八月であったか、或る日小槌屋こづちや呉服店の若主人が誂あつらえ物を持って来たので、食堂で午後のお茶を始めていた幸子は、暫しばらく妙子を応接間へ出して相手をさせながら、二人がしゃべるのを此方の部屋で聞いていたことがあったが、

「娘とうちゃんは肥こえてはりますさかい、単衣ひとえのべべをお召しになると、お臀いどを切られまっせ」

と、小槌屋が云うと、

「切られへんけど、大勢あとに尾ついて来るわ」

と、妙子が云っている。小槌屋は、

「そうでおまっしゃろなあ」

と云って、えへらえへら笑っていたが、幸子は聞いていて厭いやな気がした。彼女は妙子の言葉づかいがだんだん品が悪くなるのに疾とうから心づいてはいたが、まさかこんな口のききようをするとは思っていなかった。小槌屋は平素お得意先の奥様やお嬢様にこんな風な物言いをする男ではないので、寧むしろ妙子の方に、何処か相手を打ち解けさせる隙があるのだと想像された。恐らく幸子達の知らない所では、妙子はいつもこんな柄の悪い会話を誰とでも取り交しているのではあるまいか。いったい妙子は、人形の製作をし、舞を習い、洋裁を稽古けいこする、と云った風に多方面の仕事を持っており、姉妹達の誰よりも社会の各層に接触するので、自然それだけ下情にも通じ、一番末の妹の癖に一番世間を知っているのであるが、幾らかそれを自慢する風があって、ややもすると幸子や雪子をお嬢さん扱いするのを、今迄までは一種の愛嬌あいきょうとしてほほ笑ましく見過していたのだけれども、こうなって来ては幸子も捨てて置けない気がした。彼女は本家の姉ほどには昔気質むかしかたぎでなく、旧式の思想に囚とらわれていないつもりであったが、それでも自分の姉妹達の中に、こう云う口のきき方をする娘がいることは不愉快であった。そして、妙子のそう云うような傾向は、誰か彼女に特定の感化を及ぼす人間が蔭にいることを、暗示しているように思えたが、そう気が付くと、板倉のあの冗談の云い方や、観察の仕方や、その他の言語動作の上の品の悪さが、彼女のそれと一脈通じるかの如ごとく見えて来るのであった。

だが一方から考えると、妙子が四人の姉妹達の中で一人そう云う変り種になったことについては、尤もっともな理由もあるので、当人を責めるのは無理なところもないではなかった。なぜかと云って、四人のうちで末っ児の彼女一人だけは、亡なき父親の全盛時代の恩恵を、十分には受けていないのであった。姉妹達の母親は、妙子が漸ようやく小学校へ上った頃亡くなったので、彼女はその人の面影について、朧おぼろげな記憶しか持っていない。そして父親と云う人は、派手好みの豪奢ごうしゃな人であったから、娘達にもあらゆる贅沢ぜいたくをさせてくれたらしいのだけれども、彼女は自分がどれだけのことをして貰もらったか、身に沁しみて覚えていることはないと云ってもよいくらいである。僅わずかな年齢の相違でも、雪子となると父親についていろいろな思い出があり、あの時にああもして貰った、こうもして貰ったと、よくそんな話をするのであるが、妙子は余りに幼な過ぎて、して貰ったことがあったとしても、それが本当に身に着いてはいなかった。せめて舞の稽古でも続けていたらよかったのに、それも母親が亡くなってから一二年で止やめた。彼女は寧ろ、妙子の奴やつは真っ黒な顔をしていて一番汚いと、父親に云われ云われしたことを覚えているのであるが、それはその筈はずで、父親の晩年時代には、まだ女学校在学中であったから、紅お白粉しろいも着けず、男の児だか女の児だか分らないような服装をした、薄汚い少女であったに違いない。当時彼女は、早く卒業して姉ちゃん達のように着飾って出歩ける年頃になりたい、そしたら自分も綺麗きれいな衣裳いしょうを拵こしらえて貰えるであろうと思っていたが、その望みが叶かなわないうちに父が亡くなり、それと同時に蒔岡家の栄華も終りを告げた。と、その後間もなく、奥畑との間に「新聞の事件」が起ったのであった。

だから雪子に云わせると、あの事件なども両親の愛情に浴することが最も薄く、親の歿後も義兄との折合が巧うまく行かず、家庭的に面白くない月日を送っていた結果、物に感じ易やすい乙女心がああ云う風に発展したのである、誰の責任でもないか知れないが、要するに環境の罪である、学校の成績などだって、こいさんはあたし達に比べて少しも劣ってはいなかったし、数学などは一番よく出来たではないか、と云うのであるが、でもあの事件が妙子の経歴に一種の烙印らくいんを捺おしたことに依よって、一層彼女を偏かたよらせるようになったことも確かであった。そして今日に於いても、彼女は決して本家の兄から雪子と同等の待遇は受けていなかった。早くから彼女を一門の異端者視していた義兄は、同じ折合が悪いと云っても、雪子には親愛の情を示したけれども、彼女は厄介者やっかいもの扱いにしている様子が見えたが、いつの間にかその差別観が、月々の小遣いとか、衣裳持ち物の末にまで、はっきり現れるようになった。雪子はいつ何時お嫁に行ってもよいように、箪笥たんすに一杯支度して貰っているけれども、彼女はこれと云う金高なものを余り拵えて貰ったことがなく、今持っている目ぼしい物は、大概自分が稼かせいだお金で拵えたか、そうでなければ二番目の姉が買ってくれた物が多いのであった。尤も妙子にはそう云う風に別途の収入があるので、雪子と同等に待遇しては却かえって不公平になる、と、本家は云い、妙子自身も、私はお金に困らないから雪姉きあんちゃんにして上げてと云っていたが、事実現在では妙子が本家に負担を懸けている程度は、雪子の半分にも足りないであろう。そして、そう云えば又、毎月相当の稼ぎ高があるとは云うものの、一方で貯金をしながら一方では洋服に最新の流行を追い、装身具などにも可なりの贅を尽している妙子の遣繰やりくりの巧さには、どうしたらああやれるものかと、幸子は毎々感心しているのであったが、(幸子は彼女の頸飾くびかざりとか指輪の中には、奥畑貴金属店の陳列棚だなから出た物もあるのではないかと、密ひそかに疑ったこともあった)お金の有難さをしみじみ知っていることに於いても、四人のうちで妙子が出色だったであろう。その点にかけては、父の全盛期に育った幸子が一番駄目だめで、妙子には家の没落した時のみじめさが一番骨身にこたえているのであった。

幸子は早晩、この変り種の妹が何か又事件を惹ひき起しはしまいかと思うと、自分達がそれに捲まき込まれるのが辛つらいので、出来れば彼女を本家へ引き渡してしまう方がよかったが、当人がそれを肯がえんじないのは勿論もちろんとして、本家も今では引き取ろうと云わないであろうことが予想された。現に今度なども、そう聞いては妙子をそちらへ預けて置くのは心配だから、手元へ呼び寄せて監督する、と云い出しそうなところであるのに、一向そんなことは云って来ない。それと云うのが、義兄が世間体を気にして義妹達の分家へ行きたがることを嫌ったのは昔の話なので、今ではそうでもなくなっているのであったが、それには経済問題が絡からんでいることは明かで、今日になれば、本家から見た妙子と云うものは既に半分独立しているようなものであるから、月々僅かな仕送りをしていれば済むのであった。その事情を察している幸子には、一面妙子を不憫ふびんがる気持もあって、迷惑なことに思いながらも今更突き放してしまう訳にも行かなかったが、それならそれで、もう一度当人に打つかって、日頃疑問にしている点をもっとよく質ただして置く必要があった。

年が改まって、松の内が過ぎてからであった。妙子はわざと幸子には知らせないで、再び洋裁学院に通い始めたが、様子でそれを感付いていた幸子は、或る朝彼女が出かけようとする時、

「玉置さんの学校、始まってるのん」

と聞いた。妙子は、

「ふん」

と云いながら玄関へ出て靴くつを穿はきかけたが、

「ちょっと、こいさん、少し話があるよってに、―――」

と、幸子は彼女を応接間へ呼び入れて、差向いに煖炉だんろを囲んだ。

「洋裁のこともやけど、実は外にも、一遍こいさんによう聞いて見んならん思うてることがあるねん。そんで、今日は、考えてることを遠慮なしに云うよってに、こいさんもあたしには何も隠さんと、ほんとうのことを云うて欲しい」

「………」

妙子は脂あぶらの乗った光沢つやのよい頬ほおに煖炉の火照ほてりを受けながら、じっと息を詰めるようにして燃えさかる薪まきを見守っていた。

「そしたら、啓坊けいぼんのことから聞くけど、こいさん今でも、ほんとうに啓坊と結婚する気イやのん?」

最初妙子は、どう聞かれても黙って考え込んでいるばかりであったが、幸子がこの間じゅうからの不審を、いろいろに言葉を変えて尋ねるにつれて、涙が一杯眼に潤うるんで来た。そして突然、ハンカチを顔へ持って行きながら、

「うち、啓ちゃんに欺だまされててんわ」

と、鼻を詰まらせて云い放った。

「中姉なかあんちゃんいつやったか、啓ちゃんに馴染なじみの芸者あるらしい云う話、してたことがあったわな」

「ふん、ふん、貞之助兄さんが南のお茶屋で聞いて来やはった、―――」

「あれ、やっぱりそうやってん。―――」

そう云って妙子は、それからぽつぽつ質問に応じ出して、次のような告白をした。

彼女はこの五月にその話を幸子から聞かされた当時、そんなことは風説に過ぎないと云って表面否定し去ったけれども、実はあの頃からそれが問題になっていたのであった。尤も奥畑のお茶屋遊びは前からのことではあったが、当人は、これも君との結婚を許して貰えない憂さ晴らしだから、大目に見てくれ、但ただし僕のは女達を集めて無邪気に酒を飲むだけだ、決して節操を汚すようなことはしないから、それは信じてくれと云っていたので、その程度のことは諒解してやっていたのであった。それと云うのが、あの時にも話したように、彼処あそこの家の一族は兄さん達でも叔父さんなどでも皆一廉ひとかどの極道ごくどう者であり、そう云う妙子自身の父も、よく遊ぶ人であったのを幼い時から見て知っているので、それくらいは啓ちゃんとしても仕方があるまいと、節操さえ守ってくれるなら野暮やぼは云わないつもりでいたところ、奥畑の云うことは真っ赤な譃うそで、完全に人を欺していたのであることが、ふとした事件から次々に知れて来た。次々と云うのは、宗右衛門そえもん町の芸者の外にも、或る踊り子と関係して、子まで生ませていたのであった。奥畑はそれが知れたと分ると、巧いことの有りったけを並べて詑わびを云い、踊り子の方は昔のことで今は切れている、子供と云うのも、実は誰の子だか分らないのを僕が背負い込まされたので、これも綺麗に親子の縁を切ってある、宗右衛門町のだけは寔まことに申訳がないが、今後は誓って関係を絶つ、などと云ったが、その時の態度なども、何か非常に上っ調子な、譃をつくことを何とも思わない破廉耻はれんちな人間のようなところが見えて、もうどうしても信用する気になれなかった。踊り子母子の方は手切金の証文まで持って来て見せたから、まさか譃ではないであろうが、芸者の方は、切れたと云っても証拠のないことで分らないし、この外にもまだ何があるか知れたものではなかった。それでも奥畑は、こいさんと結婚したい熱意に変りはないと云い、僕のこいさんに捧ささげる愛情は、そんな女達に対する気持とは一緒にならないなどと云ったが、彼女はどうも、自分も一時の慰みにされてしまいそうな気がして、正直のところは、その前後から嫌悪けんおを感じるようになった。彼女はただ、姉達を始め世間の人達から、それ見たことか、あんな男の云うことを真に受けて結局欺されたではないか、と云われるのが口惜くやしさに、約束を解消すると云うところまでは容易に決心がつきかねたけれども、暫くでも彼と離れて、ゆっくり考えて見たかったのであった。それで洋行はその手段として考え付いたものに違いなく、又洋裁を志望したのも、本当は他日独身生活をする場合を予想し、それに備えんがためであったことは、幸子の察した通りであった。

そんな事情で彼女が奥畑との結婚について人知れず思い悩んでいる時に起ったのが、あの水害の事件であった。彼女はあの時迄は板倉と云うものを、忠実な下僕ぐらいにしか考えていなかった、とまあ云うのであるが、それが、あれから此方、急激にあの男を見る眼が変るようになった。こんなことを云うと、中姉なかあんちゃんや雪姉きあんちゃんは、うちをえらい物好きな女のように思うであろうが、それは自分が実際にあの危難に遭遇し、万に一つも助からない筈の命を助けて貰った感激を、体験しないからである、と、そう彼女は云って、啓ちゃんはあの日の板倉の行動を、目的があってしたことだとか何だとかケチを附けるけれども、仮にそうであってもよい、兎に角板倉があれだけの危険に身を曝さらすには、何よりも先ず自分の命を投げ出して懸ったことであるのに、そう云う啓ちゃんはあの時どんなことをしたか、命を投げ出すどころではない、何一つ親身の情愛を示してくれなかったではないか、と云うのであるが、彼女が心から奥畑に愛憎あいそを尽かすに至ったのも、あの時以来なのであった。なぜと云って、幸子も知っている通り、あの日奥畑は漸く阪神電車が通じるようになってから蘆屋まで訪ねて来、案じられるから様子を見に行って来ますなどと云いながら、結局国道の田中まで来て、僅かな水が出ているために彼処を渡れないでうろうろした揚句、板倉の家へ寄って彼女の無事なことを聞くと、それきり大阪へ帰ってしまったのではないか。あの夕方板倉方へ現れた時の奥畑は、パナマ帽に瀟洒しょうしゃとした紺背広を着、秦皮とねりこのステッキにコンタックスを提げて、こんな時にこんな風をして擲なぐられはしまいかと思うような身なりをしていたそうであるが、あの田中の所の水が渡れなかったのも、折目の附いたズボンを濡ぬらすのが厭だったのではあるまいか。それを貞之助や、板倉や、庄吉までが彼女を救い出すために泥どろまみれになって働いてくれたのと比べると、余りな相違ではないか。彼女は奥畑のお洒落しゃれなことを知っているから、何も泥まみれになってくれと云いはしないが、あれでは普通の人情さえないのである。もし奥畑に、彼女が無事に助かったことを喜ぶ真情があるならば、もう一度蘆屋へ引っ返して、彼女の顔を見て帰ろう、と云う気になるのが当然である。彼は自分でも、又後で寄せて戴いただきますと云って出て行ったのだそうであるし、幸子も無論彼が帰りに立ち寄るものと予想して、心待ちにしていたと云うのに、無事と云うことを確かめさえすれば、義理は済んだつもりなのであろうか。それにしても、人間の真価はああ云う際にほんとうによく分るものである。妙子は奥畑が浪費家であるとか、浮気者であるとか、甲斐性なしであるとか、云う程度のことだけなら、何も縁であるから辛抱しようと云う考がないでもなかったが、未来の妻のためにズボンを汚すことさえも厭いとう軽薄さを見ては、すっかり望みを失ったのであった。

二十五

ここ迄までは妙子は、始終両頬ほおに涙の条すじを引きながら、時々洟はなを擤かんだりしたけれども、割合に落ち着いて、理路整然と、事細かに話した。が、このあとの板倉とのいきさつに就いては、だんだん口が重くなって、なるべく幸子に言葉数を多く費させ、自分はそれを肯定したり否定したりすれば済むように努めたので、幸子はところどころ想像で穴を填うめながら聞いて行かなければならなかった。そう云う訳なので、以下の話には幸子の補綴ほていと解釈とが加わっているのである。―――

そこで、板倉と云うものが、いろいろの点で奥畑と好箇の対照をなして妙子の眼に映り出したのであるが、彼に対する彼女の感情は非常な速度で高まって行った。本家のことを嗤わらう彼女にも、矢張家柄とか門地とか云う観念はあるので、板倉のような者を相手にする自分の立ち場の滑稽こっけいなことも考えられ、自制の念も働かないではなかったけれども、そう云う自分の頭の旧ふるさに反抗する心の方が、一層強く作用した。尤もっとも彼女は、どう云う場合にも冷静を失わない性質なので、板倉を恋いするようになっても、そのために盲目になりはしなかった。殊ことに奥畑の時で懲こりているので、今度は先の先迄も慮おもんぱかり、損得の打算もして見、随分如才なく商量した上で、どうしても板倉と結婚するのが自分を幸福にする道であると、思うようになったのであった。幸子は実は、板倉と妙子との関係についてさまざまな臆測を下してはいたものの、まさか妙子が結婚の覚悟までしていようとは思いも寄らなかったので、その告白を聞いた時の驚きは一方ならぬものがあったが、妙子は板倉が丁稚でっち上りの無教育な男であることも、岡山在の小作農の忰せがれであることも、亜米利加アメリカ移民に共通な欠点を持つ粗野な青年であることも、よく知っていて、それらを差引勘定して、この決心に到達した、と云うのであった。彼女に云わせると、彼はああ云う男ではあるが、奥畑のような坊々ぼんぼんに比べれば、人間として数等上である、兎に角彼にはこの上もなく強靭きょうじんな肉体があり、いざとなれば火の中へでも飛び込む勇気がある、そして、何と云っても自分で自分や妹を養って行ける技能を持っていることが第一の強みで、お袋や長兄の脛すねを噛かじりつつ贅沢ぜいたくをしている人間とは違う、彼は裸一貫で亜米利加三界へ飛び出して行って、誰に仕送りをして貰もらったのでもなく、自ら苦学力行してその技能を習得したのである、而しかもそれは、相当の頭脳を必要とする芸術写真の分野であり、彼がその方面で一人前の腕になり得たと云うことは、正規の教育こそ受けないけれども、彼に一と通りの理智と感覚とがあることを示している、少くとも自分の査定に依よれば、関大卒業の肩書を持つ奥畑よりは、彼の方が学問の頭もあるように思える、と云うのであって、彼女はもう、家柄とか、親譲りの財産とか、肩書だけの教養とか云うものには少しも誘惑されなくなった、そう云うものが如何いかに無価値であるかと云うことが、奥畑を見てよく分ったから、自分はそれよりも実利主義で行く、自分の夫となるべき人は、強健なる肉体の持主であることと、腕に職を持っていることと、自分を心から愛してくれ、自分のためには生命をも捧ささげる熱情を有していること、この三つの条件にさえ叶かなう人なら、外のことは問わない、と云うのであった。然しかるに板倉は、その条件が揃そろっているばかりでなく、なおよいことには、田舎に兄が三人もあるので、彼には親兄弟の面倒を見る責任がなかった。(今同居している妹は、家事や営業を手伝って貰うために呼び寄せてあるので、嫁を迎えれば帰すことになっていた)つまり板倉は本当の独ひとりぼっちであるから、誰に遠慮もなく思う存分可愛がって貰えるので、それが妙子には、どんな家柄の、どんな資産家の夫人になるよりも、結局気楽でよいと云うのであった。

勘の早い板倉は、可なり前から妙子の気持を以心伝心的に悟っていたらしく、言語動作にそれを露骨に現わしていたが、それでも彼女がはっきりした言葉で意中を告げたのは、そんなに古いことではなかった。たしかあれは去年の九月の上旬、幸子が東京へ行っている留守の間に、奥畑に感付かれて一時二人が交際を差控える仕儀になり、その相談をしたことがあったが、その折始めて妙子の方から打ち明けたので、結果から云えば奥畑の干渉が一層二人を接近させてしまったのであった。板倉は、彼女の言葉が単なる恋愛の表示でなく、結婚の申込みであると分った時、ちょっと自分の耳を疑うようなドギマギした様子を見せたが、それはわざと殊勝らしく装ったのか、でなければ、彼も流石さすがにそこまでは予期していなかったからなのであろう。その時彼は、僕はそんなことは夢にも考えていなかったので、余り突然で、何と御返事してよいか分りませんから、二三日考えさして下さい、と云ったが、しかしそう云う口の下から、僕としては有難過ぎて好いも悪いもありませんが、こいさんが後で後悔なさらないように、もっと熟考なさっては如何でしょうか、などとも云い、そんなことをしたら、僕が奥畑家に出入りが出来なくなるのは勿論、こいさんも本家や分家から見放されるようになるでしょう、その上二人共、社会からあらゆる誤解と迫害を受けるでしょう、僕はそれと闘って行く勇気がありますが、こいさんはよう辛抱なさるでしょうか、などとも云った。それから又、僕はきっと蒔岡家の娘とうさんを巧うまいこと蕩たらし込んで身分違いの結婚をした、と云う風に云われるでしょうが、世間が云うのは構わないとして、啓坊にそう思われるのが一番辛つらい、などとも云い、又語調を変えて、でも啓坊の誤解を解くことは到底出来ないから、もうどう思われても仕方がない、本当のことを云うと、奥畑家は僕の主筋に違いないが、僕が実際にお世話になったのは先代の大旦那と、今の旦那(啓三郎の兄)と、お家いえさん(啓三郎の母)だけだ、啓坊はただ旧主の家の坊々ぼんぼんであると云うだけで、直接恩を受けてはいない、それは、考えように依っては、僕がこいさんと結婚したら、啓坊は憤慨するであろうが、お家さんや旦那さんは、却って僕がよいことをしてくれたと思われるかも知れない、なぜならお家さんや旦那さんは、多分今でもこいさんと啓坊との結婚に賛成しておられないからだ、啓坊はそうは云わないけれども、僕の見るところではどうもそうだ、などとも云った。そんな工合で、結局彼は一往も二往も躊躇ちゅうちょすると見せかけながら、ずるずるに妙子の申込みを承諾したような形になった。

二人はさしあたって、自分達が結婚の約束をしたことは当分の間誰にも絶対に秘密にして置くこと、それより先決問題は妙子が奥畑との婚約を取消すことであるが、それも性急な手段を避けて、徐々に奥畑に分らせるように、出来れば奥畑が自発的に断念するように仕向けること、その最良の方策として、妙子は是非洋行すること、自分達が結婚するのはまだ二三年先でよいが、その場合方々から経済的圧迫を加えられるようなことがあるかも知れないから、今からそれに対抗する用意をして置くこと、その用意の一つとしても妙子は洋裁の技術習得に精進すること、等々を申し合せてそれを実行するつもりであったが、間もなくハタと当惑してしまった。と云うのは、妙子の洋行の計画が、本家の反対と玉置女史の予定変更のために実現不可能になったからであった。妙子の腹では、奥畑が自分を追い廻すのは、一つは板倉に対する意地があるのだから、自分が日本にいる間はなかなか絶縁する訳には行くまい、それで巴里パリへ行った後に、自分のことは諦あきらめてくれろと云う意味の手紙を出して暫しばらく姿を晦くらましていれば、奥畑もしまいには諦めるであろう、と云うのであったが、洋行が駄目だめとなると、恐らく奥畑は、それも板倉がいるために止めたのだと云う風に、一層曲解していよいよ彼女を追い廻すであろうと思えた。それに彼女は、遠い外国に離れているなら、板倉と半年や一年会わずにいるのは我慢出来るが、つい目と鼻の所にいて、一方では絶えず奥畑に着き纏まとわれながら、板倉と会わずに暮すと云うことは堪え難かった。で、最近では、洋行が駄目ならもう仕方がない、とてもこのままでこれ以上奥畑の眼や世間の眼を胡麻化ごまかして行くことはむずかしいから、いっそ各方面との摩擦まさつを覚悟の上で、一日も早く結婚してしまおう、と云う方へ、だんだん考が傾いて来ている、ただ目下のところ、妙子にも板倉にも、まだ経済上の準備が十分出来ていないのと、それから、彼等自身はどんな社会的制裁でも受けるが、雪子が飛ばっちりを浴びてますます縁遠くなっては気の毒であるから、どうしても雪子の縁づく迄待たなければならないのと、それだけの理由で躊躇している、と云うのが実状なのであった。

「そしたら、………こいさん板倉とそんな口約束しただけで、それ以上何もないのんやろか?」

「ふん。………」

「きっとそうに違いないのん?」

「ふん。………それ以上のこと、何もあれへん」

「それやったら、その約束実行する云うこと、もう一遍よう考えてみてくれへん?」

「………」

「なあ、こいさん、………こいさんにそんなことされたら、本家にも世間にも、あたしが顔向け出来んようになるよってに。………」

幸子は俄然がぜん眼の前に陥穽おとしあなが開いたような気がした。今では却かえって妙子は度胸を据すえてしまい、幸子の方がすっかり興奮させられて、上ずった声を出していた。

二十六

それから二三日の間、毎朝夫と悦子とが出かけたあとで、幸子は妙子を呼び入れては決心の程度を打診してみたが、妙子の腹はもう極まっていて動くけはいもなかった。幸子は、奥畑と絶縁すると云うことは、本家は兎とに角かく、私達は賛成なのだから、場合に依よっては貞之助兄さんに這入はいって貰もらって、今後啓ちゃんが着き纏まとわないように、きっぱり話を附けて上げてもよい、洋裁の稽古けいこのことも、今のところ公然と賛成する訳には行きかねるが、見て見ない振をしているぐらいは差支えないし、将来職業婦人になると云うことも、私達は敢あえて妨害はしない、本家に預けてあると云うお金のことも、今直すぐでは困るが、他日何か理由の立つ用途に当てるのであったら、適当の時期を見て、こいさんの手へ渡るように口添えをして上げてもよい、とまで云って、板倉と結婚することだけは思い止まるように説いて見たのであったが、妙子の口吻は、自分達は直ぐにも結婚したいところを、雪姉きあんちゃんのために待って上げているのだから、何卒どうぞそれを最大の譲歩と思って欲しい、そして一日も早く雪姉ちゃんの縁を纏めて欲しい、と云わんばかりなのであった。幸子は又、身分とか階級とか云うことは別にしても、板倉と云う人間はどうも私には信用出来ない、それは丁稚でっちから写真館の主にまでなったのだから、啓ちゃんのような坊々ぼんぼんとは違うだろうけれども、それだけに、そう云っては悪いが、世間擦ずれのした狡猾こうかつさを持っているような気がする、頭の程度も、こいさんはそう云うけれども、私達が話して見た工合では、詰まらないことを偉がったり自慢したりする癖があって、非常に単純で、低級のように思われるし、趣味とか教養とか云う方面も、成っていないように感じられる、ああして見ると、あれぐらいな写真の技術は、職業的な才能と器用さがあれば出来ることなのではないか、今のこいさんにはあの男の欠点が眼に付かないのであろうが、ほんとうによく考えて見る必要がありはしないか、私の見るところでは、生活の水準が全然違っている同士結婚して、永続きする訳がない、正直のところ、こいさんのような分別のある人があんな程度の低い人間を、どうして夫に持つ気になったのか、私には不思議で仕様がないが、ああ云う相手では直きに食い足りなくなって後悔することは、分り切っているように思う、私なんぞには、ああ云う騒々しいガラガラした人間は、ちょっとは面白いけれども一二時間も一緒にいたら辛抱がならない、と、そんな風にも云って見たが、妙子に云わせると、少青年時代から奉公に出たり移民になったりして世間を渡り歩いたのだから、多少擦れているような点もあるか知れないが、それは境遇上已やむを得ないことである、あれで案外純真な、正直なところもあって、お腹の中はそう猾こすっ辛からい人間ではない、つまらぬことを自慢する癖があるのは事実で、そのために人に嫌きらわれることもあるけれども、それも見ようでは、無邪気で子供らしいところのある証拠ではないか、教養が足りないとか、程度が低いとか云うことは、或あるいはそうであろうけれども、それは承知の上なのだから構わないで置いて欲しい、うちは高尚な趣味だの理窟りくつだのが分る人でなくてもよいし、ガラガラした粗雑な人間でも差支えない、却かえって自分より低級な相手の方が、扱い易やすくて、気を遣わない、と云うのであった。そして、中姉なかあんちゃんはそう云うけれども、板倉はうちをお嫁に迎えることを非常な名誉に感じている、当人ばかりでなく、田中の家にいる妹も、田舎にいる親達も、兄達も、そう云うお宅の娘とうちゃんに来て戴いただいたら自分達も鼻が高いと云って、涙を流して喜んでいる、うちが田中の家へ行くと、板倉は妹を掴つかまえて、お前等まえらそんな所とこからこいさんに挨拶あいさつする身分やあれへんねん、昔やったら次の間に手ェつかえて物云うたんやで、と云ったりして、兄妹でうちを下へも置かないようにする、などと、しまいには惚気のろけ交りにそんなことを云う始末であった。幸子はそう云う話を聞くと、僕は蒔岡家のこいさんを嫁に貰うんやでと、例の調子で得意になっている板倉の様子が眼に見えるようであったが、当分秘密にするなどと云いながら、もうそのことを田舎へ行って吹聴ふいちょうしているのかと思うと、いよいよ不愉快になるのであった。

それでも妙子は、この前のあの新聞の事件が雪子に飛んだ傍杖そばづえを食わせたところから、今度は雪姉きあんちゃんが縁づく迄は軽はずみなことはしないと云っているので、そう急に破局が迫っているのでないことが、幾らか幸子を安堵あんどさせた。彼女はさしあたり、強しいて抑え付けようとすれば反動的に激発する恐れもある、どうせ雪子の身が極まるのは早くても半年ぐらいは先であろうから、その間に気長に妙子を説得もし、工作も施して、徐々に心境を変化させるように指導しよう、と思案をきめて、今のところは一往妙子の意志を認め、なるべく逆らわないようにするより外はなかったが、そうなると又、雪子の立ち場が可哀かわいそうに見えて来るのであった。雪子の心になって見れば、自分のために妙子が待ってくれている、と云う風に感じ、それを恩に着ることは厭いやであるに違いない。なぜと云って、もともと彼女が婚期を逸したのは、他にも原因はあるけれどもあの新聞の事件と云うものが飛沫ひまつを及ぼしたのであることを思えば、妙子に恩を着る筋などは少しもないからであった。それよりも何よりも、雪子としては、自分は決して結婚を焦あせってはいないし、こいさんの飛ばっちりを受けたことなんか恨んでもいない、自分の運命はそんな下らない事件の影響で左右されはしないから、こいさんは私に気がねしないで先に結婚してくれたらよい、と云うでもあろう。と云って妙子も、恩に着せるようなつもりはないに極まっているが、雪子の結婚がおくれているのに痺しびれを切らしていることは事実で、抑〻そもそもあの新聞の事件にしても、あの時分に雪子が既に縁づいているか、直きに縁づくような形勢であったら、彼女がいくら若かったとしても、好んでああ云う非常手段に出なかったことは確かであった。要するに、この姉妹たちは仲が好いので決して諍いさかいにはならないのであるが、冷静に観察すれば、雪子と妙子の間には可なり険しい利害の対立が潜んでいるのであった。

幸子はあれから、―――と云うのは去年の九月、奥畑の手紙で驚かされてから、今日まで妙子と板倉との問題を誰にも洩もらさずに来たのであるが、こうなっては、自分の胸一つに収めて置くには余り重荷であることを感じた。今日になって見ると、妙子のために自分が常に同情ある理解者を以て任じ、人形の製作に声援を与えたり、夙川しゅくがわアパートを借りてやったり、奥畑との交際を黙認したり、何事か起る度に本家との間に這入はいって庇かばってやっていたことが、総すべて仇あだとなって報いられた形で、妙子の仕方に忿懣ふんまんを禁じ難いところもあるが、しかし一方、兎とにも角かくにも自分が中に立って舵かじを取っていたからこそ、この程度で済んで来たので、そうでなかったらもっと悪い方へ発展して、又何か世間を騒がすようなことが出来ていたかも知れない、と云う気もした。でもそんなことは自分がそう思うだけで、世間の人や本家の姉達はそうは見てくれないであろう。何よりも幸子の恐れるのは、雪子の縁談が持ち上る度に、興信所などが此方の身元調べをするので、そんな機会に妙子の昨今の行状が洗い浚ざらい世間へ知れることであった。ありていに云うと、幸子も妙子の行状を、―――彼女が奥畑と板倉との間をどう云う風に泳いで行きつつあるのかと云うことを、―――具体的には何も知らないのであるが、見ように依よっては随分不良らしくも見える筈はずなので、一般の人から誤解されてもいるであろうことは、想像に難くないのであった。もともと蒔岡家の側では、雪子が純潔であることは誰の眼にも明かであるし、他にこれと云って、調べられて困るような弱点はなく、ただ妙子と云う毛色の変った妹が一人あることが、人々の注意を惹ひき易いところから、調べる者も本人の雪子よりは、疑問の多い妙子の方を調べようとする風があるので、彼女のことは身内の者が知らなかったり庇ったりする割に、案外世間は知っていそうに思えるのであるが、そう云えば幸子は、方々へ雪子の縁談を頼んであるにも拘かかわらず、去年の春以来何処どこからも話を持って来てくれる者がなくなったのは、ひょっとすると妙子の良くない噂うわさが立っており、それが今度も妨げをしているのではないか、とも案じられて来た。もしそうならば雪子のためにも捨てて置けないし、それに、そんな噂が、蔭でこそこそ囁ささやかれているうちはまだよいけれども、廻り廻って本家の耳へ這入った場合、自分一人が責められなければならないのは、辛つらいことであった。貞之助や雪子なども、そんな事件になっていたのなら、なぜ打ち明けて相談してくれなかったのかと云うであろうし、妙子を飜意ほんいさせるのにも、自分一人の力では覚束おぼつかないので、貞之助と、雪子と、三人で代る代る諭さとして見たら利きき目がありそうにも考えられた。

「ふうん、………それ、一体いつのことやねん?………」

貞之助は、廿日はつか正月も過ぎた或る日の夕方、離れの書斎で新刊の雑誌をめくっているところへ、幸子が何か様子ありげに這入って来て坐すわったので、不思議そうに顔を擡もたげると、やがてその話になったのであった。

「そんな約束したのんは、去年あたしが東京へ行ってた間や云うねんわ。あの時分、あたしも、悦ちゃんも、お春どんもおらなんだよってに、毎日板倉が家に来てたらしいねんけど、………」

「そしたら僕も責任がある訳か」

「そんなことないけど、あんた、ちょっとも気イ付きなされへんなんだ?」

「僕はちょっとも気イ付かなんだ。………けど、そない云われると、水の前から、えらい馬が合うてるみたいな所とこがあったな」

「そうかて、あの男、誰とでもあんな風ですねん。こいさんだけと違うねんわ」

「そう云えばそうやけど。………」

「水の時はどないでしたん」

「あの時は実に至れり尽せりで、あんな親切な、よう気の付く男ない思うて、つくづく感心してしもうた。こいさん、あれが身に沁しみて嬉うれしかったんやな」

「それにしたかて、どうしてこいさんみたいな人に、あの男の低級さが分らんのんか、ほんまに不思議やわ。あたしがそれを云い出すと、こいさんたらムキになって、そない云うけどこう云うええ所とこもある、こう云う所もある云うて弁護するのんで、阿呆あほらしいなって来て。………あれでこいさんは、何と云うても娘とうちゃん育ちで、人の好ええとこあるさかいに、あんじょう円められてますねんわ」

「いや、こいさんはよう考えてるんねんで。まあ云うて見たら、ちょっとぐらい人間が低級でも、体が丈夫で、苦労に堪えられて、頼もしそうな男やったらええと云う、実利主義やねんな」

「自分でも、うちは実利主義で行くのんや、云うてますねん。………」

「そしたら、それも一つの考えようやないか」

「あんた、何云うてなさるねん、あんな男と結婚してもええ思うてなさるのんか?」

「そうでもないけど、奥畑と結婚するのんと孰方どっちか云うたら、まだ板倉の方がええやろうな」

「あたしはそれと反対やわ」

夫婦はそこまで話し合って来て、図らずも考が別々であることを見出した。幸子が奥畑を嫌きらい出したのは、貞之助の意見に影響されたのが始まりで、今では確かに好感を持っていないのだけれども、しかし板倉と比較しては、いくら何でも奥畑が可哀そうだと云う頭なのであった。それは坊々ぼんぼん育ちの極道者かも知れないし、甲斐性かいしょうなしであることも事実であろうし、見るから軽薄な、感じの悪い青年であることは分っているけれども、もともと彼女とは幼な馴染なじみの、船場せんばの旧家の生れであり、同じ人種のようなものであって見れば、好きも嫌いもその範囲内でのことである。彼と妙子とを正式に結婚させる分には、さきざきどんなに困るようなことがあるにしても、さしあたって世間の手前は悪くないが、妙子が板倉と自由結婚すると云うことになれば、これは明かに、社会的に嘲笑ちょうしょうを招くであろう。だから、奥畑との結婚を切り離して考えれば、決して望ましいことではないが、板倉との問題が生じて見れば、それを防止するために寧むしろ前者を択えらんだ方がよいくらいである。―――と、そう云うのが幸子の意見であるが、貞之助はその点進歩的で、家柄と云うこと一つを除けば、奥畑が板倉に勝っているところは何もない、結婚の条件としては正しくこいさんの云う通り、愛情と、健康と、自活する力との三つを備えていることが何よりも大切であり、板倉はそれが試験済みであるとすれば、家柄だの教養だのにそうこだわる必要もないではないか、と云うのであった。尤もっとも、貞之助もそんなに板倉が気に入っているのではなく、奥畑との比較に於いて板倉を取ると云うだけなので、本家がそれを許す筈はずのないことも知っており、自分が進んで本家との間を斡旋あっせんしようと云う程の好意も持ってはいないのであるが、彼に云わせると、こいさんと云う人は性格から云っても、過去の経歴から云っても、習慣的な方法で結婚するなんて云うことに向かない人だ、あの人は自分で好きな相手を見付けて自由結婚をするように出来ているのだ、又その方が、こいさんの場合には普通の結婚をするよりも有利である、こいさん自身もそれを知っていればこそそう云うのだから、なまじわれわれが干渉しない方がよかろう、これが雪子ちゃんとなると、とても世間の荒波の中へ放り出せるような人ではないから、われわれが何処迄どこまでも面倒を見、然しかるべき順序を蹈ふんで良縁を求めてやらなければならず、そうなれば又、血統とか、財産とか云うことも問題にしなければならないが、こいさんは違う、あの人は突き放されてもどうにか独ひとりで遣やって行ける人だ、と云うのであった。が、貞之助の態度は飽く迄も消極的で、意見を聞かれればそう答えるより外はないが、これはお前にだけ云うのである、決して僕の考はこれこれだなどと、本家は勿論、こいさんにも云ってくれては困る、僕はこの問題には徹頭徹尾局外者でありたい、と、そう云うので、

「何でですねん」

と、幸子が詰なじると、

「どうもこいさん云う人は、性格が複雑で、僕にはちょっと分らんとこがあるのんで、………」

と、口籠くちごもりながら云った。

「ほんに。………あたしかて、こいさんのためには味方になって、自分が誤解されてまで尽したげた積りやのに、人に煮え湯呑のますようなことするねんさかいに、………」

「まあ、そない云うけど、ああ云う性格も特色があって面白いで。………」

「………それならそうと、早う打ち明けてくれたらええのんに、巧うまいこと人を欺だましてた思うたら、今度ばかりは腹が立って、………腹が立って、………」

幸子は泣く時に腕白じみた童顔になるので、貞之助は真まっ紅かに上気して口惜くやし涙を浮かべている妻の顔に、いつもこんな表情をして姉妹喧嘩げんかをしたであろう遠い昔の、幼い日の姿をなつかしく想いやった。

二十七

妙子が端はたの迷惑や人の思わくも構わないで、自分の好きなように振舞うのに反して、全然能動的に動く力を欠いているような雪子の、あれ以来東京の空で佗わびしく暮しているであろう様子が、頻しきりに幸子の念頭に浮かんだ。去年の九月、本家の姉と東京駅頭で別れた時に、くれぐれも雪子ちゃんの縁談を頼むと云われたこと、今年は雪子の厄年やくどしに当るので、何とかして去年中にと思っていたのが空しくなったこと、せめて今年の節分迄までにはと云っていたその節分も、もう一週間の後に迫ったこと、そして、もしも自分の推量のように、妙子の評判の芳かんばしからぬことが雪子の縁談を妨害しているのであるとすれば、自分にも一半の責任があること、等々を考えると、愈〻いよいよ雪子に対して済まなく感じられて来るのであった。幸子は昨今の妙子に抱いている自分の不満を、一番よく理解してくれるのは雪子であろうと思うにつけ、彼女を呼び寄せて聞き役になって貰もらおうと云う気は、実は疾とうからあったにも拘かかわらず、妙子の新しい恋愛事件を打ち明けることに依よって、彼女に及ぼすであろう心理的影響を顧慮するところから、つい差控えて来たのであったが、かと云って、それを何処どこ迄も隠していて、端はたから雪子に知れた場合の気まずさも考えられた。それに、折角智慧ちえを借りる積りでいた貞之助に、ああ云う風に云われてしまうと、残る相談相手としては雪子より外にないので、何とか口実を構えても彼女を呼び寄せたい所であったが、それには好都合にも、亡なくなったおさく師匠の追善の舞の会が、来月の下旬に大阪三越の八階ホールで催されることになったのであった。―――

山村さく
師匠追善
 山村流舞の会

日時    昭和十四年二月廿一日(午後一時開催)

場所    高麗橋こうらいばし三越八階ホール

出しもの  袖香炉そでごうろ(手向)、なのは、黒髪、すり鉢ばち、八嶋、江戸土産、鉄輪かなわ、雪、芋かしら、都鳥、八景、茶音頭おんど、ゆかりの月、桶取おけとり(次第不同)出演者名及番組は当日呈す

会費    不要(当日招待券無き方は謝絶す)

申込期日  二月十九日限り会員及御家族に限る

右御来会御希望の方は往復ハガキにて申込まれたし、復のハガキを以て招待券として返信す

主催  山村さく門下郷土会

後援  「大阪」同人会

幸子は二月早々に、郷土会が印刷したこの案内状を封入して、本家の姉と雪子に宛あてて書面を出した。姉の方へは、あれから一遍雪子ちゃんに来て貰おうと思いながら、そのうちに機会があることと心待ちにしていたけれども、去年もとうとう何処からも好い話がなく、今年ももう節分が来てしまった、ついては、別に用事があるのではないが、私も久しく雪子ちゃんの顔を見ないし、雪子ちゃんもそろそろ此方が恋しくなった時分であろうから、差支えなかったら、何と云うこともなく暫しばらく寄越してくれないであろうか、ちょうど幸い同封したような山村舞の会があって、こいさんも出演することになり、是非雪子ちゃんに見て貰いたいと云っているから、―――と、簡単にそう書いてやったが、雪子の方へは少し細々こまごまと、今度の会は故師匠の追善と云う名目なのであるが、こう云う催しも時局への遠慮から追い追い困難になるらしいので、今のうちに一遍見て置いたらどうかと云うこと、こいさんも、何分急な話ではあり、あれきり稽古けいこを怠ってもいるので、一往辞退したのだけれども、これきり当分舞う折もないことを思い、且かつは亡きお師匠さんへの供養くようでもあると思って承諾したような訳であること、だから今度を外すと、もうこいさんの舞を見る機会もないであろうこと、そんな事情で、こいさんの出し物はとても新しいものを準備する時日がないので、去年手がけた「雪」を、又大急ぎで稽古して出すことにしたこと、衣裳いしょうだけはこの前のものを使う訳にも行かないので、去年あたしが小槌屋こづちやで染めさせたあの小紋、あれならお誂あつらえ向きであるから、あれを着せることにしたこと、こいさんの稽古を見てくれる人は、故師匠の高弟で、大阪の新町に稽古場を持っている「さく以年いね」と云う人であること、それやこれやで、こいさんはこのところ毎日新町へ稽古に通うやら、帰って来ると私に地を弾かしてもう一度おさらいをするやら、その間に仕事部屋へも詰めるやら、相変らずの活躍を続けていること、私も毎日地を弾かされるので忙しいが、「雪」の三味線は覚束おぼつかないので、琴で弾いていること、そんな風にしていると、こいさんも憎めないけれども、この人のためには近来何かと気を遣わされることが多いので、手紙にはちょっと書けないが、雪子ちゃんが来てくれたらいろいろ聞いて貰いたいことがあること、悦子も、去年の舞の会の時にも姉ちゃんはいなかったから、今度はどうしても見に来なければいけないと云っていること、等々を云ってやった。が、鶴子からも、雪子からも、何の返事も来ないので、又この前のように不意に来るのではないか知らん、などと話し合っていたが、紀元節の日の夕方、妙子が今日は衣裳を附けて裾すそを引いて舞って見ると云って、洋間で稽古していると、

「あ、姉ちゃん」

と悦子が、誰よりも先に呼鈴の音を聞き付けて駈かけて出た。

「入らっしゃいませ。皆さん此方こちらにおいででございます。―――」

と、後からお春も立って行って、応接間のドーアを開けた。

雪子が這入はいって来て見ると、長椅子一つだけを残して、テーブルや肘掛ひじかけ椅子を全部取り除のけ、絨毯じゅうたんを一方へグルグル巻きにして片寄せ、妙子が部屋の中央に、潰つぶし嶋田に鴇色ときいろの手絡てがらを掛けた頭で、この間の手紙にあった衣裳、―――葡萄紫えびむらさきに雪持ちの梅と椿つばきの模様のある小紋を着て、傘かさを持って立っていた。そして幸子が隅すみの方に、床板に直かに座布団ざぶとんを敷き、光琳菊こうりんぎくの蒔絵まきえのある本間ほんけんの琴を横たえて坐すわっていた。

「何ぞ始まってるらしい思うたわ。………」

雪子は、大嶋の二枚襲がさねの裾からメリヤスのパッチを覗のぞかせながら長椅子に掛けて見物している貞之助に、軽く目礼をしてから云った。

「………遠くからお琴の音が聞えてたよってに。………」

「雪子ちゃん何とも云うて来けえへんのんで、どないするのんか思うててん。………」

幸子は絃げんの上に琴爪ことづめを篏はめた手を載せたまま、あれからざっと半年間会わなかった雪子の様子を見上げたが、内気なようで花やかなことの好きなこの妹が、汽車で疲れたらしい青い顔をして這入って来て、この光景に出遇であった今、急に眼元を綻ほころばしたのを見逃さなかった。

「姉ちゃん、『つばめ』で来たのん」

と、悦子が聞いたが、雪子はそれには答えないで、

「その頭、鬘かつらやのん」

と、妙子に云った。

「ふん、今日ようよう出来て来てん」

「よう似合うわ、こいさん」

「この鬘、あたしも時々髷まげに結うて被かぶらして貰おう思うて、こいさんと共同で拵こしらえてん」

「よろしかったら、雪姉きあんちゃんにも貸したげるわ」

「お嫁入りの時に被りなさい」

「阿呆あほらしい、あたしの頭に合うかいな」

幸子が冗談を云ったのを、雪子は機嫌きげんの好い笑顔で受けた。そう云えば彼女の頭の鉢は、毛が豊かなので見たところでは分らないけれども、飛び抜けて容積が小さいのであった。

「雪子ちゃん、ええ所とこへ来た」

と、貞之助が云った。

「―――今日はこいさん鬘が出来て来たのんで、一遍ちゃんと衣裳を附けて舞うて見よう云うことになってん。それに廿一日は火曜日やのんで、僕見に行けるかどうか分らんよってに、今日本式に舞うて見せて貰おう思うて」

「悦子も廿一日は行かれへんねん、残念やわ」

「ほんに。何で日曜にせえへんのんやろ」

「時節柄、余りぱっとせんように、云う趣意かも知れんな」

「そんなら、中姉なかあんちゃん、―――」

と妙子が、傘を開いて柄を真っ直ぐに、右の手に持ちながら云った。

「―――今のとこ、もう一遍弾いて見て欲しい」

「そんなこと云わんと、初めからやりなさい」

貞之助が云う尾に附いて悦子も云った。

「そうやわ、こいちゃん、姉ちゃんに見せたげて、―――」

「二遍舞うたら、こいちゃんもうへとへとやわ」

「まあ、稽古や思うて、もう一遍初めから舞い。―――」

と、幸子も云った。

「―――あたしかて板の間に坐ってたら、冷えて叶かなわんけど」

「御寮人様ごりょうんさん、懐炉を入れて参りましょうか」

と、お春が云った。

「―――腰の所へお当てになりましたら、お違いになるやろうと存じますが」

「そしたら、入れて来て貰おうか」

「うち、その間に一と休みさして貰おう」

と、妙子は傘を床に置いて、褄つまを取りながらゆっくりゆっくりと長椅子の側へ歩み寄って、貞之助に並んで掛けた。そして、

「済みませんけど、一本下さい」

と、ゲルベゾルテを一本貰って火を点じた。

「私もちょっと顔洗って来よう」

と、雪子も洗面所へ出て行ったが、

「雪子ちゃんは、こう云うことやったらいつもニコニコしてるわ」

と、幸子は云って、

「あんた、今日は雪子ちゃんも来たことやし、こいさん何遍も舞わしたさかいに、晩は何ぞ奢おごりなさい」

「僕が御祝儀出すのんか」

「そうやわ、それぐらいな義務ありまっせ。今夜はそのつもりで何も支度してあれしません」

「うち、何でも御馳走ごちそうになりまっせ」

「何がええ、こいさん。与兵よへいか、オリエンタルのグリルか」

「うちは孰方どっちでもええわ、雪姉きあんちゃんに聞いて見て、―――」

「長いこと東京に行いてたよってに、鯛たいの新しいのんが食べたいやろうで」

「そんなら、雪子ちゃんのために白葡萄酒しろぶどうしゅを一本提げて、与兵へ行くか」

と、貞之助が云った。

「さあ、御祝儀が出るのんやったら、一生懸命舞わんならん。―――」

懐炉を持ってお春が戻って来たのを見ると、妙子は口紅の痕あとの着いた吸いかけを灰皿の縁に置いて、小褄こづまを取った。

二十八

貞之助は、今月は或ある会社の整理の仕事が忙しく、二十一日には行けそうもないと云っていたが、当日の朝事務所から電話で、こいさんの「雪」だけでも見たいと思うから、「雪」が始まる少し前に知らせてくれるように幸子に云って来た。と、今から来やはったらちょうど好い時分ですと、幸子から知らせて来たのが二時半頃であったが、出ようとするところへ来客があって三十分ばかり用談をしていると、大急ぎでお越しにならなんだら間に合いませんと、お春の声で又懸って来たので、あたふたと客を追い帰して、堺筋さかいすじ今橋の事務所から、一と跨またぎの距離なので帽子も被かぶらずに昇降機に走り込み、電車通りを横切って向う角の三越へ駈かけ付けた。そして、八階ホールの会場へ上って見ると、舞台ではもう妙子が舞っているのであった。幸子の話だと、今日の会は郷土会の会員の外に、「大阪」同人会の方の会員と、その会が発行している機関雑誌の読者などが主で、一般に公開するのではないから、そんなに大勢は来ないであろうと云うことであったが、近頃珍しい催しなので、手蔓てづるを求めて招待券を都合した者が多いらしく、椅子席は殆ほとんど満員で、うしろの方に立って見物している一群もあった。貞之助も、席を捜している時間がないので、立っている人々の肩の間から覗のぞいていたが、ふと気が付くと、一間ばかり離れたところに、見物人の最後列に立って、ライカを舞台の方に向けて、ファインダーに顔を押し着けている男のいるのが、板倉に紛れもなかった。貞之助ははっとして、先方から見付けられないうちに遠い隅すみの方へ逃げて来て、時々こっそり窺うかがうと、板倉は外套がいとうの襟えりを立てて顔を埋め、めったにキャメラから首を挙げないで、つづけざまに妙子を撮っている。が、当人は人目を避ける積りでわざと外套を着ているのであろうが、その外套と云うのが、ロスアンジェルス時代のものらしい映画俳優好みの派手な柄なので、却かえって目立っているのであった。

妙子の「雪」は去年も一度出しているので、することにソツはなかったが、何分あれ以来稽古けいこを怠っていて、今度の出演が決定してから急に一箇月程練習しただけであり、それに、今迄までは郷土会と云っても神杉邸の日本座敷の置き舞台か、蘆屋の家の洋間で舞ったぐらいなことで、こう云う本式の観客席を前にした舞台で舞うのは始めてなので、何となく幅の足りない、周りに空間が有り過ぎると云った感じがするのは是非もなかった。当人もかねてそれを懸念けねんしたらしく、地方じかたで舞を引き立てるように、今日は特に幸子の琴の師匠である菊岡検校けんぎょうの娘を煩わずらわして、三味線に出て貰もらったのであったが、それでも決して上あがったり気怯きおくれがしたりするのではなかった。貞之助が見ていると、持ち前の落ち着きを失わないで、何処迄も悠々ゆうゆうと舞っている態度が、とても一箇月やそこらの練習で、始めてこう云う晴れがましい舞台に立った人のようではない。それが、一般の観客はどうか分らないが、貞之助には、如何いかにも人を食った、褒ほめられようが腐くさされようが構わないと云った風な、度胸で舞っている感じがして、小面こづら憎くさえ思えるのであったが、でも考えれば、彼女は今年二十九と云う大年増で、もう芸者ならば老妓ろうぎと云ってもよい年頃だとすると、そのくらいな度胸があっても不思議はない訳であった。そう云えば彼は、去年の舞の会の時にも、平素は十以上も若く見える妙子が、その日に限って年増の地金じがねを露あらわしているように感じたのであるが、こうして見ると、日本のこう云う徳川時代的服装は、大体に女を老ふけさせるのであろうか。それともこれは妙子に限ったことなので、一つには平素の溌剌はつらつとした洋装に対照させる古典的服装のせいでもあるが、一つには彼女が舞の時に示す舞台度胸のせいでもあろうか。………

と、貞之助は、舞が終った途端に、慌あわててライカを小脇こわきに挟はさんで急ぎ足に廊下へ出て行く板倉を認めたが、彼の姿が扉とびらの向うへ消えたのと間髪を入れずに、観客席の何処からか一人の紳士が非常な勢で走り出て、派手な外套の後影を追うように、その同じ扉に体でどんと突き当りつつ出て行ったのを見た。咄嗟とっさの動作だったので、貞之助は呆気あっけに取られたが、次の瞬間に、今の紳士が奥畑であったと心付くと、彼も直すぐあとから廊下へ出た。

「………何でこいさんの写真撮った。………撮らん云う約束したやないか。………」

奥畑は流石さすがにあたりに気がねしながら、動ややもすると大声になりたがるのを自みずから制するようにして詰なじっていた。板倉はむっと面を膨らしてはいるけれども、叱しかられていると云う恰好かっこうに、頸くびを垂れて大人しく聞いていた。

「そのキャメラ僕に貸せ。………」

そう云うと奥畑は、刑事が通行人を検しらべるように板倉の体を撫なで廻して外套のボタンを外すと、上衣のポッケットへ手を挿さし入れて、素早くライカを引っ張り出した。それから、それを、自分のポッケットへ突っ込みかけたが、何と思ったか又取り出して、指先をがたがた顫ふるわせながらレンズの部分を一杯に引き伸ばすと、コンクリートの床の上へ、カチンと、力任せに叩たたき着けて、後をも見ずに行ってしまった。あっと云う間の出来事だったので、居合せた人々が気が付いた時分には、もう奥畑の影は見えず、板倉が投げ飛ばされた写真機を拾い上げて、すごすご立ち去るところであった。それにしても板倉は、始終の間直立不動の姿勢をして下を向いたきり、旧主の坊々ぼんぼんの前に出ては全く頭が上らない形で、日頃命よりも大切にしているライカが床に転がるのを見つつも自慢の体力や腕力に物を云わせず、じっと怺こらえてしまったのであった。

貞之助はちょっと楽屋へ顔を出して人々に挨拶あいさつをし、妙子の労を犒ねぎらった後で、直ぐに事務所へ引っ返したので、その時は何の話もしなかったが、その晩おそく、悦子や義妹達が寝間へ引き取ってから、妻にだけ昼間目撃した事件を告げた。そして、自分の見るところでは、板倉は自発的にか、或はこいさんに頼まれてか、「雪」の舞台面を撮影する目的で、時間を測ってこっそり入り込んだのであろう、が、目的を達して怱々そうそう引き揚げようとする間際まぎわに、それまで観客席の何処かに潜んでいた奥畑に抑えられたと云う訳であろう、奥畑はいつから入場していたのか分らないが、多分板倉が来ていないかと思ってキョロキョロしていたに違いないから、早くも彼を見付け出して、舞が終るまでの間、ちょうど貞之助が遠くから様子を窺っていたのと同じ時間に、奥畑も亦また何処かの隅から眼を光らして板倉を監視してい、彼が退場しようとする機を逸せず掴つかまえたのであろう、どうも、あの場の光景から判断すると、前後の事情がそうであるらしく思える、と、そう語ったが、それにしても、あの廊下に於ける寸劇を貞之助が傍で見ていたことに、二人共気が付いていなかったのか、或は気が付きながら極まりが悪いので素知らぬ風を装ったのか、その点はよく分らなかった。幸子の話では、自分も実は今日の会に啓坊が見に来はしないかと思い、会場で話しかけられたりしたら面倒だと云う気があったが、こいさんに聞くと、今日のことは啓ちゃんには何もしゃべらないから、多分知らないであろう、それに啓ちゃんは、日曜以外の日は、毎日午後の二三時間店で執務することになっていて、いつでも出られると云う体ではない、と云っていた、それでも自分は、今日の催しのことは新聞の演芸欄にも二三行の記事が載ったから、啓坊もあれを読んだかも知れないし、読んだとすれば当然こいさんの出演と云うことにも考え及ぶであろうから、ひょっとしたら何処かで招待券を手に入れて、見に来ているであろうと思って、時々観客席の方へ気を配っていたけれども、「雪」が始まる前には確かに見かけなかった、殊ことに雪子ちゃんは、楽屋よりは観客席に多くいたので、来ていれば気が付く筈であるが、何とも云っていなかったところを見ると、或はあなたと前後して入場したか、でなければ、啓坊にも何か魂胆があって、此方に見付けられないように、隠れて見物していたか、孰方どちらかであろう、それで、板倉が来たことも、こいさんはどうか分らないが、自分や雪子ちゃんは知らなかったし、ましてそんな活劇があったことなどは尚更なおさら知らない、と云うのであった。

「ええ塩梅あんばいに、楽屋では誰も知らなんだらしいけど、知れたらほんまに体裁が悪いわ」

「ま、板倉は下手したでに出てるよってに大した事にもならなんだけど、こいさんのために、二人の男が場所柄も忘れて喧嘩けんかするなんて云うことは、あんまり見っともええこッちゃないな。こんなことが世間へぱっとせんうちに、何とか解決しとく方がええで」

「そない云やはるのんやったら、あんたかて心配してほしいわ」

「心配はしてるけど、僕の出る幕やない思うよってに。―――雪子ちゃんは、板倉のこと知らんのんか」

「今度雪子ちゃんを呼んだんは、相談相手になって貰おう云う気イもあってんけど、まだ話してないねん。―――」

幸子は実はこの舞の会が済んでからと思っていたのであったが、夫婦の間にこんな話が出た二三日後、或る朝妙子が、この間の舞姿を写真に撮って置きたいからもう一遍あの衣裳を貸してくれと云って、畳紙たとうの包を取り揃そろえて衣裳行李いしょうごうりに入れ、それと、鬘かつらの箱と、あの時の傘かさとを自動車に積んで出掛けたあと、折よく二人きりになったので、

「きっとこいさん、あの荷物持って板倉の所とこへ写しに行くねんで」

と云うようなことからしゃべり出して、去年の九月東京で奥畑の警告を受け取った驚きから、最近の舞の会に於ける廊下の活劇に至る迄を、掻かい摘つまんで語った。

「そんなら、あのライカ壊れたやろか」

と、雪子は一と通り聞いてしまうと、先ずそんな風なことを云った。

「さあ、どうやろか。貞之助兄さんは、あれやったら少くともレンズに疵きずが附いたやろう云うてはったけど」

「フィルムもあかんようになったのんで、撮り直すのんと違うやろか」

「ほんに、そうかも知れんわな。―――」

幸子は雪子が今の話を至って平静に聴いた様子を看みて取りながら云った。

「あたしも今度と云う今度は、あんじょうこいさんに裏切られた云う気イして、考えると腹が立つねんわ。―――云い出したら長いことになるけど、あたしだけやあれへん、雪子ちゃんにかて、昔からあの人ぐらいいろいろなことで迷惑かけてる人はあれへんやないの」

「あたしはどうもないけど、………」

「そんなことはあれへん。いつかの新聞の事件から始めて、どれぐらいあたし等は迷惑してるか。………雪子ちゃんの縁談かて、こない云うたら雪子ちゃんの気に触るかも知れんけど、どれぐらいこいさんのことが邪魔してるか。………その癖いつも味方になって庇かぼうて上げてるのんに、人に一言いちごんの相談もせんと、あんな板倉みたいなもんとそんな約束してしもうて、………」

「貞之助兄さんには話したのん」

「ふん、どうにもあたし一人の胸に収めとく訳に行かんようになったよってに。………」

「そんなら、どない云やはるのん」

「僕は意見もないことはないけど、この事件には局外者でありたい、云やはるねん」

「何でやろ」

「僕にはこいさんの性格がよう分らん、………つまり、こいさんは信用出来んよってに、関係しとうない、云うとこやねんな。………けど、ここだけの話やけど、貞之助兄さんのほんまの考は、こいさんみたいな人は端はたから世話を焼かん方がええ、一人で突っ放して当人の思い通りに、板倉と結婚したいのんやったらそれもええやろうし、どうなと好きなようにさせたらええ、あの人は一人でよう遣って行くよってに、その方が向いてる、云やはるのんで、あたしとは考がころッと違うさかいに、相談してもあかんねんわ」

「あたしから一遍、ようこいさんに云うて見ようか」

「是非そないして欲しいねんわ。あたしと雪子ちゃんとで、何とか思い直すように代る代る云うて見るより外、方法ないねん。尤もっともこいさんも、雪子ちゃんが結婚するまで待つとは云うてるねんけど、………」

「もっとどうにかした相手やったら、先に結婚してくれたかてちょっとも構かめへんけど」

「板倉では極端やさかいにな」

「一体こいさんが、少し低級なとこあるのんと違うやろか」

「そうかも知れんわな」

「あたしかて、板倉みたいなもん弟に持つのんは叶かなわんわ」

幸子は雪子が、必ず自分と同意見であろうことを予想していたのであったが、控え目な人がこれだけはっきり云うからには、彼女の方が自分よりも反対の度が強いのだなと感じた。板倉に比べれば寧むしろ喜んで奥畑を取ると云う考に於いても、彼女は幸子と一致していて、この上は何としてでも啓坊と結婚するように、私からも精々説いて見ようと云うのであった。

二十九

蘆屋あしやの家も、雪子が戻って来てからは久し振に以前のような花やかな家庭になりつつあった。口数の少い、いるのかいないのか分らないようにひっそりしている雪子が一人殖えたからと云って、格別家の中が賑にぎやかになる訳もないのだけれども、こうして見ると淋さびしい彼女の人柄の中にも、矢張明るさが潜んでいるのであろう。それと一つには、三人の姉妹が同じ屋根の下に集ると云うことが、それだけで家の中に春風を生ぜしめるので、この三人の中の誰が欠けても諧調かいちょうが失われるのであろう。そう云えば、あれから長い間空家になっていた旧シュトルツ邸も、漸ようやく借り手がついて、夜な夜なコック場の硝子戸ガラスどの中から燈火が洩もれるようになった。主人と云うのは瑞西スイス人だそうで、名古屋の或る会社の顧問とかをしていて、始終[#「始終」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「終始」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「始終」]留守がちであり、家には、姿は西洋人臭いけれども容貌ようぼうはフィリッピン人か支那人のように見える若い夫人が、アマを使って暮していた。子供がないのでシュトルツ時代のような陽気さはなく、森閑と静まり返っていることが多かったが、それでも、垣かき一と重向うの、荒れて化物屋敷じみて来かかっていた洋館に、人が住むようになったことはえらい違いであった。隣家に再びローゼマリーのような児が来てくれることを望んでいた悦子は、その点では失望したけれども、既に彼女には同級生の親しい友達が何人も出来ていて、少女は少女なりに、お茶の会とか誕生日のお祝とか、彼女達だけの交際社会を形作って招いたり招かれたりし合っていた。妙子は相変らず忙しそうで、家で暮す時間よりは外で暮す時間の方が多く、三日に一度は夕飯の食卓に顔を見せないことがあったが、彼女は多分、家にいると幸子や雪子に口説かれるのがうるさいので、それを避けている気味もあるのではないかと、貞之助は察した。それにしても、今度ばかりは妙子と二人の姉との間に感情の疎隔が生じはしまいか、殊ことに雪子との間がどうであろうかと、内々貞之助は案じていたが、或ある日、夕方帰宅した彼は、幸子が見えなかったので、捜すつもりで浴室の前の六畳の部屋の襖ふすまを開けると、雪子が縁側に立て膝ひざをして、妙子に足の爪つめを剪きって貰もらっていた。

「幸子は」

と云うと、

「中姉なかあんちゃん桑山さん迄まで行かはりました。もう直すぐ帰らはりますやろ」

と、妙子が云う暇に、雪子はそっと足の甲を裾すその中に入れて居ずまいを直した。貞之助は、そこらに散らばっているキラキラ光る爪の屑くずを、妙子がスカートの膝ひざをつきながら一つ一つ掌てのひらの中に拾い集めている有様をちらと見ただけで、又襖を締めたが、その一瞬間の、姉と妹の美しい情景が長く印象に残っていた。そして、この姉妹たちは、意見の相違は相違としてめったに仲違なかたがいなどはしないのだと云うことを、改めて教えられたような気がした。

三月に這入はいってから間もない時分、或る夜眠りに就いた貞之助は、ふと、妻の涙が自分の頬ほおを伝わって流れるのを感じて眼を覚ますと、暗がりの中で妻の微かすかに嗚咽おえつする声を聞いたことがあった。

「どないしたん、………」

貞之助がそう云うと、

「今夜やわ、………あんた、………今夜がちょうど一周忌やわ。………」

と云いながら、幸子は一層はっきりと噦しゃくり上げた。

「もうあのことは忘れなさい。………いつ迄まで云うてみたかて仕方がない。………」

貞之助は、妻の眼からとめどもなく溢あふれ出る涙を唇くちびるに受けて呑のみ込みながら、寝る前迄朗かであった妻が、夜中に突然そんなことを云い出したのに驚かされたが、成る程そう云われて見れば、去年雪子が陣場夫婦の紹介で野村と云う人と見合いをしたのがたしか今月のことであるから、今日あたりがあの流産から満一年になるのかも知れなかった。が、自分は全く気に懸けてもいないのに、妻が未だに心中深く悲しみを蔵しているのは無理もないとして、こう云う風にいつもそれが発作的に襲来するのは不思議であった。去年の花見に嵐山あらしやまへ行った時にも、秋に大阪歌舞伎座へ鏡獅子かがみじしを見に行った時にも、彼は渡月橋とげつきょうの上だの劇場の廊下だので、こんな工合に、妻が不意に涙を落すのを見、又その後でケロリと直ってしまうのを見たのであったが、その時も矢張そうで、明くる朝になると、幸子は夜中に泣いたことなど忘れたような顔をしていた。

キリレンコの妹のカタリナが、豪華船シャルンホルスト号に乗って独逸ドイツへ立ったのも、その月のうちのことであった。貞之助たちは、一昨年おととし夙川しゅくがわの彼等の家へ招かれてから、一度お返しをしなければと云いながらそのままに過してしまって、時々電車などで顔を合わす外には往き来したこともなかったけれども、妙子を通じて、あの「お婆ばあちゃん」や、キリレンコ兄妹や、ウロンスキー等の消息は絶えず聞かされていた。あれから此方、カタリナは人形製作の仕事にひとしきり程の熱意は持たないようになったが、と云って全く放棄してしまったのではなく、忘れた時分にひょっこり妙子の仕事部屋に現れ、近作を示して批評や指導を乞うと云う風で、二三年の間に技術も相当進歩していた。が、いつ頃から始まったことか分らないが、そののち彼女にはルドルフと云う独逸人の「好い人」が出来て、それとの交際が面白いらしく、人形製作への熱意の減退もそれから来ているもののように妙子には思えた。ルドルフと云うのは独逸系の某会社の神戸支店に勤めている青年社員で、妙子も嘗かつて元町の街上で紹介されたことがあり、それからも始終二人が散歩するのに行き合わすのであるが、見るからに独逸式面貌の、好男子と云うよりは素朴で剛健な感じのする、背の高いがっしりした男であった。で、今度カタリナが独逸へ行く決心をしたのは、ルドルフと相識るようになってから独逸が好きになったのと、ルドルフの斡旋あっせんで、伯林ベルリンにいる彼の姉の許もとへ身を寄せることが出来るようになったのと、そんなことから思い立ったのだそうであるが、しかしカタリナの終局の目的は、前の夫との間に出来た幼い娘が住んでいる英国に渡ることにあって、伯林へ行くのは、旅費その他の関係から、一旦欧洲おうしゅう大陸の一角に辿たどり着いた上で、そこを蹈台ふみだいにしようと云う訳なのであった。

「ふうん、そしたら『湯豆腐』も一緒の船で行くのんと違うのん?」

「湯豆腐」と云うのは、ルドルフのことを妙子が冗談にそう呼び始めた渾名あだななのであるが、今では幸子達までが、まだ会ったこともないその人のことを「湯豆腐々々々」と云うようになっていた。

「『湯豆腐』は日本にいるねん。カタリナは『湯豆腐』に姉さんに宛あてた紹介状書いて貰もろうて、それを持って独ひとりで行くねん」

「そんでも、英吉利イギリスへ行って自分の娘取り戻したら、又伯林へ帰って来て、『湯豆腐』の帰国を待ち合わすのんと違うやろか」

「さあ、………多分そうと違うやろ思うわ」

「そんなら、『湯豆腐』とはもうこれぎりかいな」

「そうやないやろか」

「えらいあっさりしてるねんな」

「本当にそんなものかも知れんな、―――」

と、その話の出た晩の食卓で、貞之助も口を挟はさんだ。

「―――もともと彼等のは、恋愛ではのうて遊戯やさかいに」

「あの人等、独身で日本に住んでたら、お互にそんな風にでもせなんだら、何なんや工合悪いことあるのんと違うやろか」

と、妙子が弁護するように云った。

「ところで、船はいつ出るねん」

「明後日の正午出帆ですねん」

「あんた、明後日都合つかへん?」

と、幸子が云った。

「―――あんたも見送りに行ったげなさいな。―――悪いわ、あれぎりお返しもせんとおいて」

「とうとう御馳走ごちそうになりっ放しになってしもうたな」

「そやよってに行ったげなさい。悦子は学校がありますけど、外の者はみんな行くつもりにしてますねん」

「姉ちゃんも行くのん?」

悦子がそう云うと、

「姉ちゃんはシャルンホルスト号見に行くねん」

と、雪子は肩をすぼめながらニヤニヤした。

その日貞之助は、午前中一時間程事務所へ出て神戸へ直行し、キチキチに波止場へ駈かけ着けたので、カタリナとはゆっくり話す暇もなかった。見送りは「お婆ちゃん」と、兄のキリレンコと、ウロンスキーと、幸子達三姉妹と、あれがその人だと云って妙子がそっと姉達に教えたルドルフと、外に見知らぬ日本人や外人が二三人いたばかり。船が出たあとで、貞之助達がキリレンコの一行と話しながら桟橋さんばしを歩いて来、海岸通で別れを告げた時分には、もうルドルフも外の人達も見えなくなっていた。

「あのお婆ちゃん、いくつか知らんけど、ちょっとも歳を取らんようやないか」

貞之助は、あの、鹿のような軽快な歩調でチョコチョコと歩いて行く、特に後姿の若く見える「お婆ちゃん」の影を見送りながら云った。

「あのお婆ちゃん、又カタリナと会える時節があるやろか」

と、幸子が云った。

「―――なんぼしっかりしてるみたいでも、歳やさかいにな」

「そんでも、涙一つこぼさはれへなんだわ」

と、雪子が云った。

「ほんに、あたし等の方が泣いてるのんで、却って極まり悪かったわ」

「今にも戦争が始まりそうな欧羅巴ヨーロッパへ独りで出かけて行く娘もえらいが、出してやるお婆ちゃんもえらいもんやな。尤もあの人等は、革命で散々苦労しぬいてるよって、案外平気かも知れんけど」

「露西亜ロシアで生れて、上海シャンハイで育って、日本へ流れて来た思うたら、今度は独逸から英吉利へ渡るねんな」

「英吉利嫌いのお婆ちゃん、又御機嫌ごきげんが悪かったやろうな」

「『わたし、カタリナ、いつもいつも喧嘩けんかします。カタリナ行ってしまいます、わたし悲しごぜえませんでごぜえます。わたし、ウレシごぜえます』云うてはったわ」

久しく出なかった[#「出なかった」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「でなかつた」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「出なかつた」]妙子の「お婆ちゃん」の真似まねが出たので、今しがた聞いた本物と思い合せて皆が街上で腹を抱えた。

三十

「カタリナはこの前会うた時分より女っぷりが一段上ったのと違うか知らん。僕、さっき、こんなに綺麗きれいかったかいな思うて、びっくりしたぐらいやで」

貞之助達は海岸通から生田前まで歩いて、今朝席を申し込んで置いた与兵の暖簾のれんをくぐったが、幸子、貞之助、雪子、妙子の順に椅子を列ならべて掛けながら、まだその話をつづけていた。

「そんなこともないねんけど、お化粧の工合やわ。それに今日は特別お洒落しゃれしてましてんで」

「『湯豆腐』と友達になってから、お化粧の仕方変えたよってに、顔の感じがすっくり違うて来たわ」

と、妙子があとを引き取って云った。

「―――当人はえらい自信持ってて、妙子さん、見てて下さい、わたし欧羅巴ヨーロッパへ行ったら、きっとお金持の男見付けて結婚します、云うてたけど」

「そんなら、大したお金も持たんと行くねんな」

「上海シャンハイで看護婦してたことがあるのんで、わたし、困ったら看護婦になります、云うてたわ。きっと当分のお小遣いぐらいしか持ってえへんのやろ」

「やっぱり『湯豆腐』とは今日で縁が切れたんやね」

「そうでっしゃろう」

「最後の心づくしとして、姉の所へ女を泊めてやってくれるように手紙を附けてやるなんか、『湯豆腐』もちょっとええとこがあるやないか。甲板の女の方へ手を挙げて、二三遍振ったと思うたら、飄然ひょうぜんと身を飜ひるがえして僕等より先に行ってしもうたりして」

「ほんに、日本人同士やったらああは行かしませんやろな」

「日本人が真似まねたら『酢豆腐すどうふ』になるがな」

幸子達には、この貞之助の洒落は分らなかったらしかった。

「何や、仏蘭西フランスの小説にでもありそうやわ」

「フェレンツ・モルナアルやないのか」

と、貞之助が云った。

狭い店内は客が鍵かぎの手に十人も椅子を連ねることが出来たであろうか。貞之助達の外に、この近所の株屋街の旦那だんならしいのが店員を二三名連れたのと、その向うの端に、花隈はなくまの芸者らしいのが姐ねえさん株を頭に三人いるのと、それだけでもうぎっしりで、客達のうしろと壁との間には、人一人が辛うじて通れる通路しか空いていなかった。それでも時々表の障子を開けては満員の店内をジロジロ見渡して、何とか都合して貰もらえないだろうかと懇願する―――哀願さえもする―――客が絶えないが、この店の親爺おやじもよくある鮨屋すしやの親爺の型で、無愛想を売り物にしており、常連のお客でも予あらかじめ申込を聞いていない限り、這入はいれるかどうか見たら分るだろうと云う顔をして、突慳貪つっけんどんに断ってしまう。そんな風だから、振りのお客は余程間拍子のよい時でなければ入れて貰えない。常連の、ちゃんと電話で申し込んであるお客でも、時間が十五分か二十分おくれると断られたり、一時間ばかりその辺を散歩して来てくれ、などと云われる。もとこの親爺は、今はなくなったが明治時代に有名であった東京両国の与兵衛で修業した男なので、「与兵」と云う名はそれに因ちなんだのだそうであるが、鮨そのものは昔の両国の与兵衛鮨とは趣を異にしていた。それと云うのが、親爺は東京で修業したものの、生れは神戸の人間なので、握り鮨ではあるけれども、彼の握るのは上方趣味の頗すこぶる顕著なものであった。たとえば酢は東京流の黄色いのを使わないで、白いのを使った。醤油しょうゆも、東京人は決して使わない関西の溜たまりを使い、蝦えび、烏賊いか、鮑あわび等の鮨には食塩を振りかけて食べるようにすすめた。そして種は、つい眼の前の瀬戸内海で獲れる魚なら何でも握った。彼の説だと、鮨にならない魚はない、昔の与兵衛の主人などもそう云う意見だったと云うので、その点で彼は東京の与兵衛の流れを汲くんでいるのであった。彼の握るものは、鱧はも、河豚ふぐ、赤魚あかお、つばす、牡蠣かき、生うに、比目魚ひらめの縁側、赤貝の膓わた、鯨くじらの赤身、等々を始め、椎茸しいたけ、松茸まつたけ、筍たけのこ、柿かきなどに迄及んだが、鮪まぐろは虐待して余り用いず、小鰭こはだ、はしら、青柳あおやぎ、玉子焼等は全く店頭に影を見せなかった。種は煮焼きしたものも盛に用いたが、蝦と鮑は必ず生きて動いているものを眼の前で料理して握り、物に依よっては山葵わさびの代りに青紫蘇あおじそや木の芽や山椒さんしょうの佃煮つくだになどを飯の間へ挟はさんで出した。

妙子はこの親爺とは可なり前からの馴染なじみで、或は与兵の発見者の一人であったかも知れない。外で食事することの多い彼女は、神戸も元町から三宮さんのみや界隈かいわいに至る腰掛のうまいもの屋の消息には実によく通じていて、まだこの店が今の所に移る前、取引所の筋向うの細い路次の、今よりもっと小さな所で商売を始めた頃に早くも此処ここを見付け出して、貞之助や幸子達にも紹介したのであった。彼女に云わせると、此処の親爺は「新青年」の探偵小説の挿絵さしえなどにある、矮小わいしょうな体躯たいくに巨大な木槌頭さいづちあたまをした畸形児きけいじ、―――あれに感じが似ていると云うことで、貞之助達は前に彼女から屡〻しばしばその描写を聞かされ、彼がお客を断る時のぶっきらぼうな物言い、庖丁ほうちょうを取る時の一種興奮したような表情、眼つきや手つき、等々を仕方話で委くわしく説明されていたが、行って見ると、又本物が可笑おかしいほど彼女の真似まねによく似ていた。親爺は先まず、客をずらりと並べて置いて、一往何から握りましょうと注文を聞きはするけれども、大概自分の仕勝手のよいように、最初に鯛たいなら鯛を取り出して、頭数だけ切り身を作って、お客の総すべてに一順それを当てがってしまい、次には蝦、次には比目魚と云う風に一種類ずつ片附けて行く。二番目の鮨が置かれる迄の間に、最初の鮨を食ってしまわないと、彼は御機嫌ごきげんが斜めである。当てがわれた鮨を二つも三つも食べずに置くと、まだ残っていますよと、催促することもある。種は日によっていろいろだけれども、鯛と蝦とは最も自慢で、どんな時でも欠かしたことはなく、いつも真っ先に握りたがるのは鯛であった。トロはないか、などと云う不心得な質問を発するお客は、決して歓迎されなかった。そして気に入らないことがあると、恐ろしく山葵を利きかして客をあッと跳び上らせたり、ポロポロ涙を零こぼさせたりして、ニヤニヤしながら見ているのが癖であった。

取り分け鯛の好きな幸子が、妙子に此処を紹介されてから、忽たちまちこの鮨に魅了されて常連の一人になったのは当然であるが、実は雪子も、幸子に劣らないくらいこの鮨には誘惑を感じていた。少し大袈裟おおげさに云うならば、彼女を東京から関西の方へ惹ひき寄せる数々の牽引力けんいんりょくの中に、この鮨も這入っていたと云えるかも知れない。彼女がいつも東京に在って思いを関西の空に馳はせる時、第一に念頭に浮かぶのは蘆屋の家のことであるのは云う迄もないが、何処か頭の隅すみの方に、折々は此処の店の様子や、親爺の風貌ふうぼうや、彼の庖丁の下で威勢よく跳ね返る明石鯛や車海老くるまえびのピチピチした姿も浮かんだ。彼女は孰方どちらかと云えば洋食党で、鮨は格別好きと云う程ではないのだけれども、東京に二た月三月もいて、赤身の刺身ばかり食べさせられることが続くと、あの明石鯛の味が舌の先に想い出されて来、あの、切り口が青貝のように底光りする白い美しい肉の色が眼の前にちらついて来て、それが奇妙にも、阪急沿線の明るい景色や、蘆屋の姉や妹や姪めいなどの面影と一つもののように見え出すのであった。そして、貞之助夫婦も、雪子の関西に於ける楽しみの一つがこの鮨にあることを察していて、大概彼女の滞在中に一二度は此処へ誘うのであるが、貞之助はそんな時に、幸子と雪子の席の間に自分の席を占めるようにして、時々、目立たぬように、妻と二人の義妹たちへそっと杯を廻してやるのであった。

「おいしい、とてもおいしい、………」

と、妙子はさっきから溜息ためいきをつきつき食べていたが、雪子があたりへ気がねしながら廻って来た杯の方へ身を屈かがめている向うから、

「貞之助兄さん」

と、声をかけた。

「―――こんなにおいしいもん、あの人等にも食べさせたげたら宜よろしゅおましたなあ」

「ほんに」

と、幸子も云った。

「キリレンコやお婆ちゃんも誘うたらよかったわ」

「それは僕かて気イ付かんでもなかったけど、急に人数が殖えてもどうか思うたし、あの人等、こんなものをよう食べるかどうか思うて、………」

「何云うてはりまんねん」

と、妙子が云った。

「西洋人かて何ぼでもお鮨食べまっせ。なあおっさん」

「へえ、食べます」

と、親爺は今、俎板まないたの上で暴れ廻る蝦を、水でふやけた太い五本の指をひろげて、手の中へ押さえ付けながら、

「うちの店へも時々西洋人が見えまっせ」

「あんた、シュトルツさんの奥さんかて散らし鮨を食べはったやおませんか」

「そやけど、あの散らしには魚の生身なまみが這入ってえへなんだよってに、………」

「生身かてよう食べます。………尤もっとも、食べるもんと食べんもんとありますな。鮪はあんまり食べしまへんな」

「へえ、何でやろ」

と、株屋の旦那が口を挟はさんだ。

「何でか知りませんけど、鮪、鰹かつお、ああ云うものは食べしまへん」

「ほら、姐さん、あのルッツさん、―――」

と、若い芸者が神戸言葉を丸出しにして、小声で老妓ろうぎに話しかけた。

「―――あの人、白身のお作りばっかり食べとって、赤身はちょっとも食べとってやないわ」

「ふん、ふん」

と、老妓は爪楊枝つまようじを手で囲かこって使いながら、芸者の方へ頷うなずいて置いて、

「西洋のお方は、赤身のお魚は気味悪う思やはるのんでっしゃろ、あんまりお上りになれしませんな」

「成る程な」

株屋の旦那がそう云った後から、貞之助も云った。

「西洋人になって見ると、真っ白な御飯の上に正体の分らん真っ赤な生の魚の肉が載ってるのんは、確かに気味が悪いやろうな」

「なあこいさん、―――」

と幸子は、夫と雪子の向うにいる妙子を覗のぞき込みながら、

「キリレンコのお婆ちゃんに此処のお鮨食べさせたら、どんなこと云うやろか」

「あかん、あかん、此処では出えへん」

と、妙子は「お婆ちゃん」の真似がしたくなるのを怺こらえながら云った。

「今日は皆さん、船へお越しでしたんですか」

そう云いながら、親爺は蝦の肉を開いて、飯のかたまりの上へ載せると、五六分ぐらいの幅に庖丁を入れた。そして、妙子と雪子の前に一つ、貞之助と幸子の前に一つ、その鮨を置いた。頭を除いた大きな車海老の一匹がそのまま鮨になっているのを、一人で一つ食べてしまうと、あとの鮨が這入らなくなるので、貞之助達は一つを二人で食べることにしているのであった。

「ふん、ちょっと人を見送りかたがた、シャルンホルスト号を見物に。―――」

貞之助は食塩の容器を倒さかさにして、味の素を混和したサラサラに乾いた粉末を、まだ肉が生きて動いている車海老の上へ振りかけると、庖丁の目のところから一と切れ取って口に入れた。

「独逸の船は豪華船云うても、亜米利加のんとえらい感じが違うわな」

幸子がそう云うと、

「ほんに」

と、妙子が云った。

「いつかのあの、プレシデント・クーリッジとはえらい違いやわ。あの船は何処もかも白い明るい色してたけど、独逸の船は塗ってある色が陰気で、何や軍艦みたいやわ」

「娘とうさん、どうぞ早うお上り下さい」

と、親爺が例の癖を出して、まだ手を着けずに眼の前の鮨を見守っている雪子に云った。

「雪姉きあんちゃん、何してるのん」

「この蝦、まだ動いてるねんもん。………」

雪子は此処へ食べに来ると、外のお客達と同じ速力で食べなければならないのが辛つらかった。それに、切り身にしてまで蝦の肉が生きてぶるぶる顫ふるえているのを自慢にする所謂いわゆる「おどり鮨」なるものが、鯛にも負けないくらい好きなのではあるが、動いている間は気味が悪いので、動かなくなるのを見届けてから食べるのであった。

「その動いてるのんが値打やがな」

「早よ食べなさい、食べたかて化けて出えへんが」

「車海老のお化けなんか、出たかて恐いことあれしまへんで」

と、株屋の旦那が半畳を入れた。

「車海老やったら恐いことないけど、食用蛙がえるは恐かったわなあ、雪子ちゃん」

「へえ、そんなことがあったんか」

「ふん、あんさん知りなされへんけど、いつか渋谷に泊ってた時に、兄さんがあたしと雪子ちゃんを道玄坂の焼鳥屋へ誘うてくれはりましてん。そしたら、焼鳥のうちはよろしゅおましたけど、しまいに食用蛙を殺して焼くねんわ。その時蛙がぎゃッと云うたんで、二人とも青うなってしもて、雪子ちゃんはその晩とうとうその声が夜じゅう耳について、………」

「ああ、その話止めて、―――」

雪子はそう云って、もう一度しげしげと蝦の肉を透かして見て、「おどり鮨」が躍らなくなったのを確かめてから箸はしを取った。

三十一

四月中旬の土曜日曜に、貞之助と三姉妹と悦子の五人は吉例の京都行きをしたが、その帰りの電車の中で悦子が俄にわかに高熱を発した。尤もっとも悦子は一週間程前から何となく体がしんどいと云っていて、京都でも余り元気がなかったのであるが、その晩帰宅してから測ると四十度近い体温なので、取り敢あえず櫛田くしだ医師の来診を求めたところ、猩紅熱しょうこうねつの疑いがあるから明日あしたなおよく診みましょうと云って帰った。と、明くる日には、口の周りを除いて満面紅潮を呈して来たので、もう疑いがない、こう云う風に、口の周囲だけを残して顔が猿さるのようになるのが猩紅熱の特長ですと、櫛田医師は云って、隔離室のある病院へ入院するようにすすめたが、悦子がひどく入院を嫌いやがるので、伝染病と云っても大人はめったに感染しない病気であるし、そう一軒の家に患者が続出する例は稀まれでもあるから、なるべく家族の方が出入りなさらないように病室を隔離することが出来るなら、家庭で治療されても、と云うことになった。幸いそれには、貞之助の書斎が離れになっているので、此処ここを取り上げられては困ると貞之助は不服を唱えたけれども、幸子が無理に承知をさせて当分書斎を母屋の方へ移して貰もらい、そこを病室に当てることにした。と云うのは、嘗かつて四五年前、幸子が重い流感を患わずらった時にも一度使ったことがあるからなので、そこは全然別棟の、母屋から下駄で行き通いするようになっている、六畳に三畳の次の間の附いた一と棟で、瓦斯ガスや電熱の設備もあり、一層都合の好いことには幸子の時に水道までも取り附けて簡単な煮焚にたきぐらいは出来るような造作がしてあるのであった。で、貞之助が夫婦の寝室になっている二階の八畳へ机や手文庫や書棚しょだなの一部などを運び、邪魔な物は納屋なやや押入へ片附けてしまった跡へ、悦子が看護婦を連れて引き移って行き、一往母屋との交通を断つようにはしたが、それが完全に行われる訳はなく、病人や看護婦の食事など、一々此方から運ばなければならないので、どうしても一人連絡係を置く必要があった。それには食器などを扱う下働きの下女は危険で、さしあたりお春が最も適任であり、当人も亦また、伝染病を恐れないことにかけては誰よりも勇敢なところから、喜んでその役を買って出たが、二三日勤めさせて見ると、自分が恐がらないのはよいとして、病室の出入りに消毒することを実行せず、病人に触った手で何にでも触ると云う風なので、あれでは病菌をバラ播まくようなものだと、第一に雪子から苦情が出た。そして結局、お春が罷やめられて雪子が任に当るようになったが、これはこう云うことには馴なれたものなので、注意が甚はなはだ細心であり、と云って徒いたずらに恐がるのではなく、看護も実によく行き届いた。彼女は病室用の食器類は全然下女達の手を藉かりず、煮焚きから持ち運びから、洗滌せんじょうまでを自分が担当し、高熱が続いた一週間程の間は、夜は看護婦と交代して二時間置きに氷嚢ひょうのうを取り換えなどして、殆ほとんど眠らない日が多かった。

病状は順調な経過を辿たどり、一週間後には熱も漸ようやく下って行ったが、それでもこの病気は、体じゅうの紅いぶつぶつが乾かせて、瘡蓋かさぶたが落ちるようになり、全身が一と皮剥むけてから全快するので、それ迄には四五十日は懸る、と云うことなので、京都行きを済ませたら間もなく立つ積りでいた雪子は、当分足止めを食わされた形になった。彼女は東京へ訳を云ってやって、衣更ころもがえの衣類を取り寄せなどして、看護に身を打ち込んでいたが、そんな役目を引き請うけてでも、東京に帰るよりは此方で暮す方が楽しいらしかった。そして、自分以外の者が離れの方へ来ることをやかましく云って、中姉なかあんちゃんは病気には負け易やすいよってにと、幸子をさえも病室から遠ざけるようにしたので、幸子は病人の児を抱えながら何の苦労もなく、手持無沙汰ぶさたな日を送ったが、悦ちゃんは心配ないさかい歌舞伎座見に行って来なさいなどと、雪子は云った。それと云うのが、今月は又菊五郎が大阪へ来て道成寺を出しているからなので、幸子は菊五郎の所作事のうちでも女形の踊が、取り分け道成寺が好きであるところから、今月はどんなことがあっても逃さないつもりでいたのに、生憎あいにくの事件が持ち上ったことを悲観していた際であったので、雪子の言葉は図星を刺した訳であった。が、いくら何でも芝居見物は母親として呑気のんきらしいので、舞台の六代目を偲しのぶよすがに、和風の道成寺の音盤を懸けて纔わずかに腹の虫を治めたが、妙子だけは、あたしは止やめとくけどこいさん行って来なさいと云われて、一人でこっそり見に行ったらしかった。

病室の方でも、悦子が快方に赴くに従い、無聊ぶりょうに苦しむようになったので、毎日のように蓄音器を鳴らしたが、旧シュトルツ邸へ越して来た瑞西人の所から、少し遠慮して貰えないであろうかと、或る日故障を云って来た。この瑞西人は大分気むずかしい人だと見えて、今から一箇月ばかり前にも、犬が吠ほえて眠れないから何とかして貰えないかと申し込んで来たことがあった。そう云う時には、直接ではなく、彼が住んでいる洋館の家主で、幸子の家から一軒置いて隣に当る佐藤家を介して云って来るので、同家の女中が、かの瑞西人が英語で二三行したためた紙片を持って来るのである。犬の時には、

親愛なる佐藤様

誠にお気の毒ですが、私は隣家の犬のことについて貴下を煩わずらわしたいのです。私はあの犬が夜じゅう吠えるために毎夜眠ることが出来ません。何卒なにとぞ貴下からその旨むねを隣家に伝えて注意を喚起して下さい

と記してあったが、今度の紙片には、

親愛なる佐藤様

誠にお気の毒ですが、私は隣家の蓄音器のことについて貴下を煩わしたいのです。近頃隣家では毎日朝も晩も蓄音器を懸けるので、甚はなはだうるさくて迷惑します。もしも貴下がその旨を隣家に伝えて、何とかするように忠告して下さるなら大変有難く存じます

と記してあった。佐藤家の女中はいつも気の毒そうな顔をして、「ボッシュさんからこんなことを云って来られましたから、兎とも角かくもお見せ申します」と、笑いながらそれを置いて行くのであるが、犬の時は、ジョニーが夜じゅう吠えたのはほんの一と晩か二晩のことだったので、構わず放って置いたけれども、今度はそうも行かなかった。と云うのは、悦子が病室に使っている離れ座敷、―――平素貞之助の書斎になっているその一と棟は、金網の垣根かきねとは違う別の板塀いたべいで、全く覗のぞかれないように囲ってあるけれども、距離的には一番裏の家に近いので、もとシュトルツ一家がいた頃には、貞之助の方が屡〻しばしばペータアやローゼマリー等の騒ぐ声に悩まされたものであった。だからそこで蓄音器を懸ければ、やかましやの瑞西人ボッシュ氏の癇かんに触れることは当然であった。なおついでだから此処でちょっとボッシュ氏のことに及んで置くと、前にも云った通りこの人は名古屋の方に勤め口を持っているらしいのであるが、こんな叱言こごとを云って来るのでも明かなように、時たま此方へ帰って来て滞在することもあるのであった。が、彼がどんな人であるか、蒔岡方ではまだ誰も彼の正体を見届けた者がなかった。シュトルツ時代には、主人シュトルツ氏以下、夫人や子供達が始終露台に現れたり裏庭へ出て来たりしたものだけれども、ボッシュ氏になってからは、夫人が時々姿をちらつかせるぐらいなもので、ボッシュ氏その人は嘗かつて現れたことがない。そのくせ、露台へ椅子を持ち出して、密ひそかにそれに腰掛けている折もあるらしいのだけれども、今度露台の鉄柵てつさくの内側へ、ちょうど椅子に掛けた人の頭の高さぐらいに、板囲いをしてしまった。つまりボッシュ氏は、人に見られることを甚しく恐れているに違いなく、何にしても余程の変人なることは明かであったが、佐藤家の女中の話では、非常に病身な、神経質な人で、毎夜不眠症に悩まされているのだと云うことでもあった。それかあらぬか、或る時刑事が蒔岡方へ来て、あの外人は瑞西人と自称しているけれども本当のことは明かでなく、どうも行動不審であるから、注意してくれ、万一怪しい素振があったら直すぐ警察へ知らせてくれと云って帰ったが、主人が国籍不明の人で年中旅行ばかりしており、細君が支那人の混血児らしく見えるのでは、そう云う疑いの眼で見られても仕方のないところがあった。それに刑事の話だと、その支那人の混血児らしく見える婦人は正式の細君ではなくて、仮初かりそめの同棲者どうせいしゃらしいのだと云うことであった。そして彼女の国籍が又明瞭めいりょうを欠いていた。日本人が見ると彼女の容貌ようぼうは最も支那人に近いにも拘かかわらず、彼女自身は支那生れと云うことを否定して、南洋の方の産だと云うのであるが、南洋の何処どこと云うことは明かにしない。幸子が一度招かれて行った時、彼女の部屋へ這入って見ると、すべて紫檀したん製の支那式家具が置いてあったと云うから、矢張事実は支那人であって、それを秘しているのかも知れない。ただ明かなことは、彼女が東洋的魅惑と西洋的均整とを兼ね備えた妖婦ようふ型であることで、一と昔前の亜米利加アメリカの映画女優にアンナ・メイ・ウォンと云う仏蘭西フランス人と支那人の混血児がいたが、あれにちょっと感じが似ている、或る種の欧羅巴ヨーロッパ人に気に入りそうな異国趣味の美人なのであった。彼女は夫の旅行中徒然つれづれに暮す日が多いので、何卒奥さんに遊びに来て下さいと、アマを介して云って寄越したり、路みちで遇あった時に誘ったりして、幸子に交際を求めるのだけれども、幸子は刑事の話を聞いてから、係りあいになることを恐れて成るべく近寄らないようにしていた。

お嬢ちゃんが御病気の時ぐらい蓄音器かけたかてええやありませんか、あの西洋人は近所附合い云うこと知らんのですやろかと、お春は憤慨したが、まあまあボッシュさんは変り者やよってに仕方ない、それに朝から蓄音器を鳴らすのは時節柄面白うない、と、貞之助が制したので、悦子はそれからは毎日トランプをして遊んだ。しかしこのトランプ遊びにも雪子から故障が出たと云うのは、猩紅熱は恢復期かいふくきに這入って瘡蓋が盛に脱落する時が最も伝染し易いのである、悦子はその時期にいるのだから、今が一番警戒を要するので、トランプなどをしては相手に移す危険があると云うのであったが、いつもその相手をするのは看護婦の「水戸ちゃん」とお春なのであった。「水戸ちゃん」と云うのは大船の女優水戸光子に似ているので悦子がそう呼んでいるのであるが、この看護婦は自分が一度猩紅熱に罹かかったことがあって、免疫性になっていた。お春は又、あたしは移ったかてちょっとも恐いことあれしませんと云って、病人が食べ残した鯛たいの刺身などを、外の女中達は手も出さないのに彼女一人はこの時とばかり貪むさぼり食べると云う風で、最初のうちこそ雪子にやかましく云われ云われして近寄らないようにしていたけれども、悦子が淋さびしがって頻しきりに呼びに寄越すのと、そんなに用心しないでもめったに移るものじゃありませんなどと「水戸ちゃん」が云うのとで、雪子の叱言こごともそうそう利きかないようになって、この頃では一日病室に入り浸っていた。そしてトランプの相手ならまだしも、「水戸ちゃん」と二人で悦子の手だの足だのを掴つかまえて、瘡蓋を剥はがしては面白がっていた。お嬢ちゃん、まあ見て御覧、こんな工合に何ぼでも剥がれますねんと云いながら、瘡蓋の端を摘まんで引き剥がすと、ずるずると皮が何処迄でも捲めくれて行く。その瘡蓋を拾い集めて手の中へ入れて、母屋の台所へ戻って来て、ほら、お嬢ちゃんの体からこんなに皮が剥むけるねんと、それを下働きの女中達に見せびらかして気味悪がらすのであったが、しまいには皆が馴れて恐がらないようになった。

妙子が何と思ったのか、今の間にちょっと東京へ行って来る、と云い出したのは、悦子の病気がそう云う風に日増しに快癒しつつあった五月上旬のことであった。彼女が云うのには、自分はどうしても一遍本家の兄さんに直じか談判をして、お金の問題を解決しないことには気が済まない、自分は洋行は止めにしたし、今急に結婚すると云うのでもないが、少し計画していることがあるので、貰えるものなら早く貰いたいし、又どうしても兄さんが出してくれないのなら、そのように考え直さなければならない、勿論もちろんこのことについては中姉なかあんちゃんや雪姉きあんちゃんに迷惑が懸らないように、単独で、穏便に掛け合うつもりであるから、心配しないで貰いたい、ついては、別に今月でなければならないと云う訳でもないが、雪姉ちゃんが此方に来ている間の方が、泊めて貰うにも都合がよいと思うので、ふっとその気になったのである、自分はそんな狭い家の、子供が大勢騒いでいる所になんぞ、ゆっくり泊っていたくはないから、用が済んだら直ぐ帰って来る、見たいと思うのは芝居ぐらいなものだけれども、それもこの間此方で道成寺を見たばかりだから、今月はどうでもよい、と云うのであった。幸子は、掛け合うと云っても誰を相手に掛け合うのか、計画していることと云うのはどんなことなのか、などと尋ねたが、近頃はややともすると二人の姉達に反対されるので、容易に腹を割らないようになっている妙子は、そうはきはきとは質問に応じないで、掛合いの相手には先ず鶴子を選ぶつもりであること、それで埒らちが明かなかったら、直接義兄に打ぶつかることも敢あえて辞しないらしいことを洩もらしただけで、「計画」なるものが何であるかは余り明かにしたがらなかった。が、重い口から少しずつ幸子が聞き出したところでは、何か玉置女史の後援を得て、婦人洋服店の小規模のようなものを始めてみたい考があって、その資本金に金が欲しいのであるらしかった。とすると、折角だけれども妙子の希望は恐らく受け容いれられないものと、幸子には思えた。義兄にして見れば、彼の承認を経た正式の結婚以外には金を出さないと云う云い分に、今も変りがある筈はずはなく、まして妙子が職業婦人になることにはあんなに強硬に反対なのであるから、左様な計画は以ての外だと云うであろう。しかし、それなら全然出来ない相談であるかと云うと、ここに一つ微かすかながら可能性があるのは、妙子が直接義兄に打つかって話す機会に恵まれた場合である。なぜと云って、義兄は生れつき小心なところへ持って来て、若い時分から幸子以下の小姑こじゅうとめたちに意地められつけて来たので、蔭でこそ強硬な意見を吐くけれども、面と向っては腰が弱く、少し此方が強く押せば折れてしまうと云う風であるから、妙子がちょっと嚇おどかして懸ればどう云う結果にならないとも限らなかった。妙子もそれが狙ねらいであり、それに一縷いちるの望みをつないで東京行きを思い立ったのに違いないので、義兄は彼女に掴つかまえられないように逃げ廻るであろうが、彼女もさるもので、掴まえる迄は幾日でも頑張がんばる覚悟かも知れなかった。

幸子は、妙子が突然こんな時に上京すると云い出したのは、今なら幸子も雪子も一緒に附いて来る筈がないのを見越し、わざとそう云う時期を選んだのではないかとも推測出来るので、そう考えると、又心配になって来るのであった。妙子は口では穏便に掛け合うと云っているけれども、次第に依よってはこれで本家と絶縁しても構わないと云うくらいな気で、義兄に打つかる下心があるのではないか。それだから、幸子や雪子に附いて来られては困るのではないか。そう云ってもそう過激なことはと思うけれども、時の弾みでどんな工合に脱線しないものでもない。もしそんなことになったとすると、義兄は義兄で、幸子が自分を苦しめるために妙子を一人で出して寄越したと云う風に、曲解しないものでもあるまい。こう云う話で妙子が上京すると云うのに、幸子が附いて来ないと云うことは、彼女が努めてこの問題に無関係でありたいことを示すものでもあるが、解釈のしようでは、義兄が苦境に陥るのを高みから見物してやろうと云う、意地の悪い気があるのだとも取れなくはあるまい。義兄にそう思われるのはなお忍ぶべしとしても、姉までが、幸子ちゃんはこいさんが出て来るのを止めてでもくれることか、あんな乱暴なことを云わせに寄越した、とでも思って恨むようなことがあったら、幸子として立つ瀬がなかった。それならと云って、悦子のことはこの際雪子に任せて置き、妙子の計略の裏を掻かいて自分も東京へ附いて行くと云う手を打つとすると、金を繞めぐっての兄妹の争いの中へ捲まき込まれることは必然であり、そして一層困ったことには、その場合孰方に味方をしてよいか、彼女自身の腹が極まっていないのであった。雪子に云わせると、洋服店を経営すると云うこいさんの計画の蔭には板倉が干与していることは明かで、邪推をすれば、それは本家から金を引き出すための口実であり、金さえ取ってしまえば又どんな風に計画を変更しないものでもない、こいさんはああ見えても、案外お人好しの一面があるから、恐らく板倉の云うなり次第に利用されているのであろう、だからこいさんが板倉と切れない限り、お金なぞ出してやらない方がよい、と云うので、それも一つの観察ではあるが、幸子にして見れば、妙子があれほど意気込んで懸っているものを、横合いから邪魔をしてまで不成功に終らせるには忍びないところもあった。彼女は妙子が自分達の忠告に従わないで、板倉との約束を貫徹する気でいるらしいことに不満は感じているけれども、かと云って、若い女の身空で誰の世話にもならず、一本立ちをしようとする健気けなげな妹の志を思えば、徒いたずらに義兄の味方をして弱い者いじめをしたくはなかった。その使い方がどうであるにしろ、兎に角それを独立の資金に充あてようと云うのであり、又妙子ならば実際それだけに使いこなす能力を持っているのであるから、義兄が預かっているものがあるなら、出してやって欲しいと云う気が、彼女にはあった。然しかるに、妙子に同行して東京へ出かければ、否いやでも応おうでも本家と妙子との間に立たされる羽目になり、ややもすれば姉に口説かれて、心ならずも本家に味方せざるを得なくなるであろう。彼女はそれも厭いやであるが、さればとて、判然と妙子の側に立って姉夫婦を圧迫する程の義侠心ぎきょうしんは尚更ない、と云うのが正直なところなのであった。

三十二

雪子はもともと妙子をひとりで上京させることには反対で、いずれにしても中姉なかあんちゃんが附いて行かないと云う法はない、悦ちゃんの病気はあんな風でもうほんとうに大丈夫なのだし、留守はあたしが預かるから安心して行っていらっしゃい、そんなに急いで帰らないでも、ゆっくり泊って来たら宜よろしいとまで云ってくれたが、妙子は幸子が附いて来ると聞くと、ちょっと妙な顔をした。尤もっとも幸子は、私は本家の思わくを考えて同行することにしただけなので、決してこいさんの妨害をするつもりはないから、こいさんはどうなと自由行動を取って、誰にでも打つかって見るがよい、兄さんや姉さんは私にも立ち会ってくれと云うであろうけれども、それは私の本意でないから、努めて避けるようにする、よくよく断り切れない場合には席に連なることもあろうが、公平な第三者たる立ち場を守って、こいさんの不利になるような行動は慎しむからと云い、東京の方へも、妙子が今度どう云う目的で上京するかと云う大体の輪郭を云ってやって、私も附いて行くには行くが、こいさんは私が介入することを好まない様子であるし、私自身もこの問題には関係したくないと思うので、どうかこいさんと直接の話にして貰もらいたいと、予あらかじめ姉に宛あててそう云い送って置いたのであった。

幸子は今度も築地つきじの浜屋を宿にしたが、妙子は彼女と策謀しているような形になるのを避けて、用談を片附けるまでは渋谷に泊り込み戦術を取ることにした。で、大阪を「かもめ」で立って、着いた日の夕方、取り敢あえず幸子は妙子を連れて浜屋まで行き、姉を電話に呼び出して、これからこいさんを送って行きたいのだけれども、あたしは今日は疲れているので、よう行かない、こいさん一人では道が不案内だから、勝手ながら輝雄ちゃんか誰かを迎えに寄越してくれないであろうか、と云うと、それなら、あたしが迎えに行ってもよい、まだ晩の御飯前だったら、何処どこかで三人落ち合って一緒に食べたいから、銀座あたりまで出向いてほしい、と姉は云った。妙子は銀座まで出かけるなら、話に聞いているニュウグランドかローマイヤアへ行きたいと云うので、ローマイヤアと云うことにしたが、あたしも行ったことないねん、数寄屋橋すきやばしで降りてどう行くのん、と、姉が却かえって幸子に尋ねる始末であった。

それでも、二人が一と風呂浴びて出かけて行くと、姉は先に来てテーブルの予約をして待っており、今日はあたしが奢おごるからと云った。いつもこう云う時には、幸子の方が金廻りがよいところから、彼女が勘定を受け持つことに極まっているのであったが、今夜は姉が特別にあいそがよく、妙子に対してもいろいろと労いたわりの言葉を掛け、こいさんのことも忘れている訳ではないが、何しろ家が狭いものだから、雪子ちゃん一人をさえ持て扱っているような次第で、そのうちにこいさんも呼んで上げたいと思いながら、なかなか手が廻らないなどと、言訳とも付かないことを頻しきりに云った。そして、三人が独逸ドイツビールのジョッキーを一人で一つ宛ずつ空けて、ローマイヤアを出てから初夏の夜の銀座通を新橋の方へそぞろ歩きしたが、幸子は新橋駅前まで二人を送って行って別れた。

彼女は妙子が用談を済ませる二三日の間は、本家へ寄り着かないようにして、ひとりで何とか時間を過さなければならないので、女学校時代の同窓で東京に縁付いている友達の家を訪ねてでも見ようかなどと思っていたが、翌朝部屋で新聞を読んでいると、これからちょっと行ってもよいかと、妙子から懸って来た。何か相談でもあるのかと聞くと、そうではないが、退屈だからと云う。用談の方はどうなったのか、と云うと、今朝姉ちゃんに一と通り聴いて貰ったのだけれど、今週は兄さんが忙しいので、その話は来週まで延期になった、その間こうしていても仕様がないから、其方へ遊びに行きたいのだと云う。幸子は今日の午後、青山のお友達を訪問する約束をしたから、夕刻までは不在になるが、五六時頃には戻るからと云って電話を切ったが、青山でえらく引き留められて夕飯の馳走ちそうになり、七時過ぎに戻って来ると、同時に妙子が這入はいって来た。実は今日、輝雄が学校から帰るのを待ち受けて、明治神宮へ案内して貰い、さっき、五時頃に二人で一度此処ここへ来たのだが、幸子がなかなか戻って来ないし、そのうちにお腹も減って来たので、女将が御飯を差上げましょうかと云ってくれたけれども、昨夜の独逸ビールの味が忘れられず、今夜は妙子が輝雄にローマイヤアを奢った、そして今しがた尾張町おわりちょうで輝雄と別れて来たのである、と云って、どうやら彼女は浜屋へ泊めて貰うことに極めているらしいのであった。なおよく聞くと、渋谷では義兄も姉も、妙子を下へも置かぬような款待かんたいぶりで、義兄は今朝も出がけに、こいさん折角来たのだから、今度はゆっくりして行ってくれ、狭い所で気の毒だけれども今は雪子ちゃんが留守だから、どうにか繰合せが付かなくはない、生憎あいにく僕は此処のところ忙しいが、五六日すれば暇になるから何処どこへでも案内しよう、尤も昼は一時間休みがあるから、今日でも正午に丸の内の方へ来てくれたら昼食ぐらいは附き合ってもよい、などと云ってくれ、今日丸ビルのプレイガイドで歌舞伎の切符を取って上げるから、二三日中に、鶴子と、幸子ちゃんと、三人で行って来給えなどと、気味が悪い程の上機嫌じょうきげんで、今迄までこんなに義兄から親切に云われたことはないくらいであった。彼女は義兄や子供達が出かけたあとで、早速姉を掴まえて一時間ばかり懸って用件を可なり委くわしく話したが、姉は少しも厭いやな顔をせず、終始熱心に聴いてくれた。そして、まあ兄さんが何と云やはるか、相談して見るが、実は今度兄さんの銀行が合同することになったので、兄さんは大変忙しく、夜も帰りが遅いような有様だから、暫しばらく待って貰いたい、来週になったら多分話が出来ると思うから、それまで呑気のんきに遊んでいたらよいだろう、こいさんも久し振にお上りさんになった積りで、輝雄に方々案内でもさせたらどうか、それに幸子ちゃんも一人で退屈だろうから、築地へも行って上げなさい、と云われたので、どんなことになるか分らないけれども、一往姉の言葉に任せて待つことにした、と云うのであった。妙子は昨日、汽車が沼津辺へ来た時に富士が大部分雲に隠れているのを見て、どうも前兆がよくないなどと冗談を云っていたくらいで、今度の上京の目的が達し得られるかどうかについては、今も自信を持っていないばかりでなく、本家の夫婦に籠絡ろうらくされてはならないと云う警戒心も強いのであったが、それでも夫婦から珍しくちやほやされたことが満更でもないらしく、あんなことを云ってペテンにかけたら承知しないなどと云いながらも、嬉うれしそうな様子であった。

昨夜ほんとうの一人ぼっちで浜屋の二階に眠った幸子は、旅の空とは云えいかにも心細い気がして、夜じゅう寝られないでしまったので、これが五六日も続く佗わびしさを考えていたのであったが、その晩は又ゆくりなくも十畳の座敷に妙子と二人、何年ぶりかで姉妹が枕まくらを並べて横になった。思えば、船場時代から娘盛りの年頃になるまで、彼女達は何年となく一つ部屋に起き臥ふししたもので、その習慣は幸子が貞之助と結婚するつい前の晩まで続いたのであった。尤も、ずうっと昔のことは知らず、彼女が女学校の時分から、上の姉だけは別の部屋に寝て、幸子以下の三人が二階の六畳に寝ることになっていたので、妙子と二人きりのことはめったになく、大概二人の間に雪子が挟はさまり、どうかすると、部屋が狭いので二つの寝床に三人が寝たりしたこともあった。そして、雪子は寝像のよい娘で、暑い晩でもきちんと掻巻かいまきを胸のあたりまで掛け、少しも寝姿を崩くずさずに眠るのが常であったが、幸子は今もこうしていると、あの頃の光景がなつかしく想い出されて来、自分と妙子の間に挟まって行儀正しく眠っている雪子の、痩やせた、ほそぼそとした恰好かっこう迄が髣髴ほうふつと見えて来るのであった。

で、その明くる朝は、娘時代によくそうしたように、寝床の中で眼を覚ましながら暫くたわいもないことをしゃべり合った。

「こいさん、今日はどないしょう」

「どないしょう」

「こいさん何処ぞ、行って見たいとこないのん」

「みんな東京々々云うけど、行って見たいとこもあらへんなあ」

「やっぱりあたし等ら、大阪や京都の方がええなあ。―――昨夜のローマイヤアどないやった?」

「昨夜は料理が違うてたわ。ウィンナシュニッツレルがあったで」

「輝雄ちゃん喜んでたやろ」

「うちと輝雄ちゃんと食べてたら、向うの隅に輝雄ちゃんの学校友達が来てるねんわ、お父さんやお母さんに連れられて。―――」

「ふん」

「輝雄ちゃんその友達に見られて、真まっ赧かな顔して、困った困った云うねん。何でか云うたら、こいさんと一緒やったら、あれ僕の叔母さんや云うたかて本真ほんまにせえへん、………」

「成る程なあ」

「第一ボーイが、あなた方お二人さんですか云うて、けったいな顔して、うちがビール持って来てほしい云うたかて、『えっ』と云うて、不思議そうにジロジロ見てるねん。うちを子供や思うたらしいわ」

「こいさんあの洋服着てたら、輝雄ちゃんの姉さんにも見めえへんぐらいやわ。きっと、不良少女や思われたんやな」

午ひる少し前に渋谷から電話で、明日の歌舞伎の切符が取れたことを知らして来たが、今日は一日することがないので、午後から銀座に出てお茶を飲み、尾張町でタキシーを拾って、靖国やすくに神社から永田町、三宅坂みやけざか辺へんを一と周りして日比谷ひびや映画劇場へ着けた。妙子は日比谷の交叉点こうさてんを横切る時に、窓の外の通行人を眺ながめながら、

「東京はえらい矢絣やがすりが流行はやるねんなあ。今ジャアマンベーカリーを出てから日劇の前へ来る迄に七人も着てたわ」

「こいさん、数えてたのん」

「ほら、見て御覧、彼処あそこにも一人、彼処にも一人、―――」

などと云ったが、暫くすると何と思ったか、

「中学生が両手をポッケットに入れたまま歩くのん危いなあ。―――」

などとも云った。

「―――何処やったか、関西の中学校で、制服のズボンにポッケット附けさせないとこがあったけど、あれ、ええことやわな」

幸子はこの妹が、小娘の時から老ませたことを云う癖があるのを知っていたが、もう実際にそんな云い方が似合う年頃になっているのだなあ[#「だなあ」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「だな」]と感じながら、

「ほんになあ」

と、合槌あいづちを打ったりした。

三十三

その明くる日の歌舞伎座で、最後の吃又どもまたの幕が開く少し前、舞台の方の拡声機が絶えずいろいろな人の名前を、―――「本所ほんじょ緑町の誰々さあん」、「青山南町の誰々さあん」、―――と呼び立てるのを聞いていた時であった。「西宮にしのみやの誰々さあん」、「下関の誰々さあん」などと云うのが飛び出して来て、しまいに「フィリッピンの誰々さあん」と呼ぶので、さすがに歌舞伎座は日本全国どころやない、南洋のお客さんまで集ってるねんなと、感心していると、妙子が俄にわかに、

「ちょっと!」

と云って、二人を制しながら聴き耳を立てた。

「蘆屋あしやのマキオカさあん、―――」

成る程、確かに拡声機はそう呼んでいるのであったが、

「兵庫県蘆屋のマキオカさあん、―――」

と、三度目にはそう云い直した。

「何やろう、こいさん出て見てくれへん」

幸子に云われて立って行った妙子は、暫しばらくすると戻って来て、自分の席のハンドバッグとレースの肩掛とを取って、

「中姉なかあんちゃん、ちょっと」

と、幸子を廊下へ連れ出した。

「何やねん」

「今、浜屋の女中が表へ来てんわ」

妙子の云うのは、こうであった。―――

蒔岡さんに御面会の方が来ておられますと云うことなので、正面の入口に出て見ると、階段のところに浜屋の女中が立っていて、先程蘆屋のお宅から電話が懸って参りましたよってに(と、その女中も大阪訛なまりのある言葉で云った)そのことを申し上げようと、何遍も歌舞伎座へ電話致しましたけど、話中でどうしても懸らんものでございますから、それよりあんたが一と走り行って来なさいと、お上さんが申されまして、………と云う。どんな電話があったのかと聞くと、電話にはお上さんが出やはりましたのんで、私わたくしが伺ったのではございませんけど、何か、御病人の御容態がえらいお悪いような話でございます、尤もっとも御病人と申しますのんはお嬢ちゃんのことと違いますそうで、………何でもこの間からお嬢ちゃんが猩紅熱しょうこうねつでお臥やすみになっていらっしゃいますそうですが、病人と云うのんは、そのお嬢ちゃんのことやのうて、耳鼻咽喉じびいんこう科へ入院してなさるお方のことで、こいさんがよう御承知やさかいに、それをお間違えにならんようにと、くれぐれも念をお押しになったそうで、………お上さんが、只今ただいま御寮人様もこいさんも歌舞伎座へ行っていらっしゃいますが確かにそのことは直ぐにお伝え申します、御用はそれだけでございますか申しましたら、こいさんだけでも、なるべく今夜の夜行でお帰りになりますように、もしそれまでに時間があったら、こちらから電話をお懸け下さるようにと、仰おっしゃったそうでございます、と、そう云う話であったと云う。

「そんなら、板倉のことかいな」

幸子は板倉が耳の手術をしたと云うことを、来がけに汽車の中で妙子からちらと聞いていた。その時の話だと、四五日前から板倉は中耳炎で耳だれが溜たまり、神戸の中山手の磯貝いそがいと云う耳鼻咽喉科へ通っていたが、一昨日になって乳嘴にゅうし突起炎を起したから手術しなければいけないと云われ、昨日その医院へ入院して手術をした、幸い経過良好で、当人は至極元気にしており、僕に構わんと東京へ行っていらっしゃいと云ってくれるので、折角支度したことでもあるし、平素から頑健がんけんな、殺しても死にそうもない男のことで、心配もないと思うから立つことにした、と云っていたのであるが、その板倉の容態に何か急変があったのだと見える。電話は中なかこいさんがお懸けになったらしゅうございますと云うので、多分板倉の妹か誰かが医院の方から知らせて来たので、雪子としても捨てて置けず、直ちに此方へ通じたのであろう。乳嘴突起炎は手術をすれば別に心配はない筈はずだけれども、手後ておくれになると往々脳を侵されるので、一命に関わる場合もあり得る。兎とに角かくあの男が、わざわざ雪子から電話で知らせて来るような状態になったとすると、経過が面白くないに違いない。

「どないする、こいさん」

「うち今直ぐに浜屋へ帰って、立つことにするわ」

妙子は顔色も変えず、いつもの落ち着いた調子であった。

「あたしはどうしょう」

「中姉なかあんちゃんはしまいまで見てなさい。姉ねえちゃんひとり放ほっといたら悪いわ」

「姉ちゃんにどない云うとこう」

「どないなと云うといて」

「こいさん今度、板倉のこと姉ちゃんに話したのん」

「話さへん」

妙子は玄関のところでクリーム色のレースを肩に掛けながら、

「………けど、話してくれても構かめへんねん」

と、云い捨てて階段を降りて行った。

幸子が席に戻った時はもう吃又の幕が開いており、姉は熱心に舞台を[#「を」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「に」]見入っていて一と言も物を云わないのが、幸子には都合が好かったが、芝居が跳はねて、人ごみに揉もまれながら正面玄関へ吐き出されて行った時に、姉は始めて、

「こいさんは」

と、聞いた。

「さっきちょっと、友達の人が面会に来やはって、連れ出して行かはったらしい」

幸子は取り敢あえずそう答えて、銀座通まで姉を送って行き、尾張町で別れて宿へ戻ったが、今こいさんが一と足違いでお立ちになりましたと、女将が云った。そして、実はああ云うお電話でございましたので、兎も角も今夜の寝台券を一枚買わせておきましたところ、歌舞伎座からお帰りになりまして、それではその寝台で帰るからと仰っしゃって、大急ぎでお立ちになったのでございます、その間に蘆屋のお宅とも電話でお話しになったようでございますが、委くわしいことは伺うておりません、ただ電話ではよう分らないけれども、手術の時に悪い黴菌ばいきんが這入はいったらしいて、えらい苦しがってる云うことやさかい、あたしはこの汽車で三宮へ直行して、明日の朝駅から直ぐに病院へ行くよってに、そない姉さんに云うといてほしい、それから、渋谷の方にも小さな鞄かばんが一つ置いてあるよってに、お帰りになります時にそれをお持ち帰り下さいと仰っしゃってでございました、と、女将はうすうす病人と妙子との関係を察したらしく云うのであったが、幸子も何かじっとしていられない気持になり、又急報で蘆屋を申し込んで貰って、雪子を呼び出した。と、何を云うのやら、雪子の云うことが聴き取りにくくてさっぱり分らない。それは電話が遠いのではなく[#「なく」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「なくて」]、雪子の地声が小さいせいなので、彼女にすれば一生懸命咽喉のどを振り搾しぼっているのだけれども、「果敢はかない」と云う形容詞がよく当て篏はまる、細い弱々しい声であるから、電話だと実に明瞭めいりょうを欠くのであった。で、平素から雪子ちゃんの電話ぐらい癇かんの立つものはないと云うことになっており、彼女自身も電話は苦手で、大概誰かに代って出て貰うのであるが、今日は板倉に関することなので、お春にも云い付けられず、と言[#「言」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「云」]って貞之助にも頼めず、仕方なく自分が出ているのらしかった。幸子は、少し話していると直きに蚊かの鳴くような細さになるので、しゃべっている時間より「もしもし」と云っている時間の方が長いように感じられたが、漸ようやくきれぎれに聴き取り得たところでは、今日の午後四時頃「板倉の妹でございます」と云って電話があり、板倉が耳の手術のために入院していたこと、経過は良かったのであるが、昨夜あたりから、容態が急変したことを知らせて来た、と云うのであった。急変と云うのは脳を侵されたのだろうか、と云うと、そうではないかと思ったけれど、脳はどうもない、脚だと云うのであると云う。脚がどうしたのかと云うと、どうなのかはっきり分らないが、えらい苦しみ方で、ちょっと触っても跳び上るように痛がり、痛い痛いと身を踠もがいて呻うめき続けているそうだと云う。それで、当人は痛い痛いを繰り返すばかりで、こいさんを呼んでくれとも何とも云っている訳ではないが、あの苦しみ方はただごとではないような気がする、恐らくもう耳鼻咽喉科の領分ではなくなっているらしいので、誰か外の先生に診みて貰いたいのだけれども、自分の一存ではどうすることも出来ず、思案に余ってお電話致しましたと、そう妹は云うのであると云う。その後の様子は分らないかと云うと、さっきこいさんから今夜立つと云う電話があったので、そのことを知らせてやった時の話では、ますます悪く、狂人のように悶もだえつづけている、国の方へも電報を打ったから、明日の朝は親達も来るだろうと思います、と云うことであったと云う。幸子は妙子が今立って行ったこと、自分も後に残っていても仕様がないので、明日じゅうには立つ積りであること、等々を語って、電話を切りしなに悦子の様子を尋ねると、これはもう元気になり過ぎて、病室に大人しくしていることが出来ず、ふらふらその辺へ飛び出したがって始末に負えない、瘡蓋かさぶたも体じゅう殆ほとんど剥はがれて、纔わずかに足の蹠うらに少し残っているだけである、と云うのであった。

幸子は自分も怱々そうそうに立つとして、姉にどう云う挨拶あいさつをして行ったものか当惑したが、どう考えてもこの場合を巧うまく云い繕う口実がないので、いくらか変に思われても仕方がないと度胸を極めて、翌朝電話で、昨夜妙子が急用が出来て関西へ帰ったことを告げ、自分も今日帰ることにしたので、何処かでちょっと会いたいが、此方から渋谷へ出向こうかと云うと、それならあたしが行こうと云って、間もなく妙子の鞄を持って姉が浜屋へ現れた。姉は姉妹の中でも一番おっとりしたところがあり、妹たちから「神経が鈍い」と云われているだけに、妙子の急用と云うのが何であるのか、別に聞こうともしないのであったが、それでも厄介やっかいな用談を提げて来た末の妹が、回答を待たないで帰ってしまったので、ひそかに胸を撫なでおろしているらしいことは、様子にも窺うかがわれた。そして、今日はもう直ぐ帰ると云いながらも、宿屋の座敷で幸子と二人昼食を取ったが、

「こいさんこの頃、啓坊けいぼんと附き合うてるのんかいな」

と、ふっとそんな風に云った。

「ふん、たまに附き合うてるらしい」

「啓坊の外にも、誰かあるのんやてな」

「そんなこと、誰に聞いたん」

「この間、雪子ちゃんを貰いたい云うのんで、あたし等の身許みもとを調べた人があってんわ。尤もその話は破れたよってに、雪子ちゃんには云わんと置いたけど」

―――姉は、その縁談の橋渡しをしてくれた人が、自分達に好意で教えてくれたので、委くわしくは聞かなかったけれども、近頃こいさんが啓坊とも違う身分の低い青年と懇意にしておられるそうで、その男と妙な噂うわさが立っているのを御存知ですか、勿論もちろん風説に過ぎないでしょうがちょっと御注意申しますと云われた、それで、その時の話が破談になったのも、雪子ちゃんには申分ないのだが、こいさんのそう云う噂が祟たたったのかと思われる、と、そう云って、私は幸子ちゃんやこいさんを信用しているから、そんなことが何処まで本当か、その青年と云うのがどんな人間か、何も聞きたくはないけれども、実を云うと兄さんも私も、今となってはこいさんが啓坊と結婚してくれることが一番望ましいので、いずれ雪子ちゃんの身が固まったら、何とか先方へ話をして見たいのである、だから今度のお金のことは、いつかも手紙で云ったような訳で、応じるつもりはないのだけれども、こいさんのあの意気込みでは、下手をすると又兄さんと喧嘩けんかになるので、まあよく考えて返事をするから、とでも云って、ここのところは一と先ず穏便に帰って貰うに越したことはないと思い、それを得心させるにはどんな工合に持って廻ったものだろうかと、この間から頭を悩ましていたのであったが、と、さすがにほっとしたように云うのであった。

「ほんに、啓坊と一緒になってくれるのんが一番ええねんわ。―――あたしも雪子ちゃんもその考で、いつもこいさんに勧めてるねんけど」

幸子のそう云ったのが言訳らしくひびいたのか、姉はそれには取り合わないで、食事の間に自分の云いたいだけのことを云って、

「御馳走さん」

と、箸はしを置くと直きに身支度をして、

「そんなら、もう帰らして貰いまっせ。今夜は見送りによう行かんかも知れへんよってに、―――」

と、食休みもしないで帰って行った。

三十四

翌朝幸子が帰宅して、雪子の口から聞いたところの概略を記すと、―――

一昨日の夕方、板倉さんの妹さんと云う方から雪子娘とうさんにお電話でございますと云われた時、雪子は板倉が入院しているとは知らなかったし、その妹と云う人ともまだ会ったことがなかったので、妙子の間違いではないかとも思ったが、いいえ雪子娘とうさんにと申しておられます、と云うことなので、出て見ると、こいさんが東京へ行ってはりますことも存じておりますので、えらい失礼でございましたけど、実は兄がしかじか[#「しかじか」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「しか/\」]こうこうでございまして、と云うのであった。耳の手術をしたのは妙子が立った前日で、その日妙子が見舞いに来た時分には機嫌きげんよくしていたのだけれども、夜になってから脚が痒かゆいと云い出したのが始まりで、最初は掻かいてやりなどしていたが、その明くる朝あたりから「痒い」が「痛い」になり、だんだん痛みが激しくなって来た。そして、そう云う状態で三日を経過したのであるが、ますます苦痛を訴えるばかりで良くならない。にも拘かかわらず、院長は病人がそうなってから、手術の痕あとはきれいに直って来ている、と云うだけで取り合ってくれない。午前中に一回、ガーゼを詰め変えに来ると急いで出て行ってしまって、今日でまる二日と云うもの、こんなに苦しがる病人を放ったらかしたままなのであるが、看護婦などは、この手術は院長先生の失敗です、ほんとうにお気の毒ですと云っている。妹は板倉の容態が悪化してから、田中の家に鍵かぎをかけてずっと附き切っていたのだけれども、こうなると誰か相談相手が欲しく、万一のことがあっては自分の責任でもあると思い、至急妙子に帰って来て貰もらうより外にないと考えて、兎とも角かくも蘆屋へ電話を懸けた(何処どこか病院以外の所から懸けているらしかった)と云う訳で、わたくし、勝手にこんな電話を懸けて、後で兄に叱しかられるかも知れませんけれどもと、電話口で泣き声を出しているのであった。雪子が例の、先方にばかりしゃべらせて、唯ただはあはあと受け答えしたであろうことは想像に難くないのであるが、それでも妙子から聞いているところでは、田舎育ちの、まだ都会馴なれない二十一二の娘だと云うその妹が、兄の身を案じるあまり非常な決断と勇気を以て懸けて来た電話であることは、その息づかいと語調に依よっても察しられたので、承知しました、直すぐ東京へ云ってやりますと云って、早速彼女はあの処置を取ったのであった。それから昨日、三宮駅から病院へ直行した妙子が、夕方ちょっと戻って来て、一時間程して又出かけたが、その時の話だと、平素あれほど我慢強い、泣き言など洩もらしたことのない板倉が、あんな意気地のない声を出して、「痛い痛い」と云い続ける様子は、見ても恐ろしいような気がすると云っていた。今朝も妙子が病室へ這入はいって行った時、妹が寝台の側へ寄って、「こいさんが帰って来やはりましたで」と云ったけれども、病人は苦しそうな眼を妙子の方へちらと向けて、ただ「痛い痛い」と云うばかり。それは痛みを怺こらえることに渾身こんしんの努力を要するので、他に注意を振り向ける余裕がないのであるらしかった。そんな風だから、夜よる昼ひる打ぶっ通しに呻うなるのみで、一睡もせず、食事も取らない。そのくせ、見たところでは脹はれても膿うんでもいないので、何処が痛むのか分らないのであるが、疾患部は左脚の膝ひざの辺から爪先つまさきまでであるらしく、寝返りを打っても、肌はだにそうっと触っても、大変な疼うずき方をするものと見え、そんな時には特別の叫び声を挙げる。雪子は、いったい何が原因でそうなったのか、耳の手術と脚の痛みとどう云う関係があるのかと聞いたが、それは妙子にもよく分っていなかった。と云うのは、院長がさっぱり説明を与えてくれないばかりでなく、患者が苦しみ出してからは、逃げを打って成るべく寄り付かないようにしているからであったが、看護婦が洩らした言葉やしろうと考で想像すると、手術の時に何か悪性の黴菌ばいきんが這入って、その毒が脚の方へ循まわったものであるらしかった。しかしそのうちに、今朝早く国から出て来た老父母や嫂あによめなどが病室の外の廊下で相談し始めたので、磯貝院長も捨てて措おけなくなり、午後になってから某外科病院の院長に来診を乞い、一室に籠こもって二人で暫しばらく凝議していたが、やがてその外科の院長が辞去したと思うと、今度は又別な外科医が現れて、それも診察後磯貝院長と何かこそこそ話し合って引き揚げてしまった。看護婦に聞くと、此処ここの院長が自分の手に負えなくなったので、神戸で一番名声の高い外科医に来て貰ったところ、大腿部だいたいぶから以下を切断しなければならないのだけれども、それも手後ておくれであると云われたので今更慌あわて出し、第二の外科医を招いたのであるが、その外科医も匙さじを投げて帰ったのだと云うことであった。妙子はそれに附け加えて、自分は今朝病人の状態を見、妹から経過を聞いた時に、これは一刻も猶予ゆうよはならない、院長に気がねなどしている場合でないから、即座に信用ある医師の来診を求めて善処すべきであると思ったけれども、何しろ田舎の年寄たちは気が長いので、徒いたずらに額を鳩あつめてどうしようこうしようと云うばかりで一向決断に至らない。そんな風にして時間を空費することが、取り返しの付かない結果になるのは分っていたけれども、自分は今日がその人達と初対面であるから、あまり出過ぎたことも云えず、云って見ても、へえ、そうでございますかなあと云うだけで、動いてくれないので、歯痒はがゆくてならなかった、と云うのであった。

以上が昨日の夕方の話であるが、妙子は今朝六時頃に又一度帰宅し、二時間程休息して出かけて行ったので、その時に聞くと、昨夜おそく院長が又一人鈴木と云う外科医を引っ張って来たところ、結果については保証出来ないがそれで宜よろしければ、と云うことで手術することを承諾した、しかしそうなってもまだ親達の方の決心が付かないのだと云うことであった。親達、殊ことに母親は、どうせ助からないものならそんなむごたらしいことをしないで、満足な体で死なしてやりたいと云い、妹は助からない迄も出来るだけの手段[#「手段」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)では「手術」、『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「手段」]を尽してみるのが当然であると云うので、妹の意見の方が正しいことは明瞭めいりょうであるけれども、それが年寄たちにはなかなか呑のみ込めない。尤もっとも妙子は、孰方どちらにしてももう完全に手後れになったに違いないから、自分は既に諦あきらめているとも云っている[#「云っている」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「云つてゐた」]。尚なお又、板倉に附き添っている看護婦と云うのが、何か院長に反感を持っているらしく、ややもすると院長の悪口を云うので、何処まで信を置いてよいか分らないけれども、この院長と云うのは大酒家の上に年のせいもあってアルコール中毒に罹かかっており、手先が顫ふるえるところから時々手術に失敗があり、今迄にも患者をこんな目に遭あわせた例が一二度ある、とのことであった。後に妙子はこの時のいきさつを櫛田くしだ医師に語ったが、櫛田医師の説では、耳の手術から黴菌が這入って四肢ししを侵すと云うようなことは、たとい一流の専門医が注意に注意して手がけても往々あり得ることで、医師も神様でない以上、絶無を期する訳には行かない、但ただし、手術の後で万が一にも黴菌が這入った疑いがある場合、患者が身体の何処かに些いささかでも疼痛とうつうを感じたような場合には、間髪を入れず外科医を招いて処置しなければ手後れになる危険がある、それは実に寸秒を争うのである、と云っていた。だから磯貝院長が手術に失敗したことは恕ゆるすべしとしても、呻うめき苦しむ患者を放置して三日間も顧みなかった一事は、怠慢とも、不誠意とも、不親切とも云いようのないことで、患者の親たちが何も知らない農村の老夫婦でなかったならば、或は無事に納まらなかったであろうに、格別の事件にもならずに済んだのは磯貝院長の好運と云わなければならない。同時に又、板倉がそう云ういかがわしい医師と知らずに、その医院へ治療を受けに行ったことは当人の不運と云うより外はない。

―――が、[#「外はない。(改行)―――が、」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「外はない。―――(改行)が、」]それは後の話である。

幸子は雪子からこれらの事情を一と通り聴き終ると、次に尋ねたことは、雪子が板倉の妹と電話で話したのは何処の部屋であったか、その電話の内容はお春を始め女中達に知れたであろうか、貞之助は知っているのか、等々の事柄であった。雪子は、最初の電話の時は自分とお春とが離れにいたので、離れの方へ懸って来、悦子と、「水戸ちゃん」と、お春とが聞いていたこと、「水戸ちゃん」とお春とは変な顔をして黙っていたけれども、悦子が、板倉がどうしたのん? 何でこいさんが帰って来るのん? と、うるさく尋ねるのに閉口したこと、そして、どうせお春に聞かれたからには女中達にしゃべるであろうし、それはこの場合或る程度仕方がないが、「水戸ちゃん」に聞かれることは好ましくないと考えたので、二度目からは母屋の電話で話したこと、貞之助兄さんには、電話のことも自分が取った処置のことも報告して諒解りょうかいを得てあること、などを語ったが、なお貞之助も蔭ながら心配をし、今朝は出がけに妙子から委しく経過を聞いて、それは是非とも外科の手術を受けて見るように勧めてやりなさい、と、そう云って出たくらいである、と云うことであった。

「あたしもちょっとぐらい見舞いに行ってやりたいけど、………」

「さあ、………貞之助兄さんに電話で相談してみたら、………」

「兎に角寝てからのことにするわ」

幸子は夜汽車で眠れなかったのを取り返すために、暫く二階の八畳で横になって見たが、何となく気に懸って寝付かれないので、あきらめたらしく降りて来て顔を洗い、お昼の御飯を早くするように台所に声をかけておいて、電話口へ貞之助を呼んだ。―――板倉の病気に、こいさんが呼ばれて駈かけ付けると云うことは事情已やむを得ないとしても、あたし迄が顔を出しては、二人の関係をおおびらに認めたような結果になるので面白くないと思うけれども、水害の時にこいさんが世話になったことなどもあるのに、知っていながら見舞いにも行かずにいて、これきりになったら寝ざめが悪いような気がする、それに、どうも板倉は助からないのではあるまいか、あの男は頑丈がんじょうな体をしているけれども、何処か薄命の相があるように思える、と、幸子が云うと、僕も何となくそんなような気がするから、ちょっとぐらいなら見舞いに行ってやっても差支えないが、………と貞之助も云ったが、しかし、奥畑もやって来るのではないであろうか、それだとお前が行かない方がよくはないか、などとも云い、結局、奥畑に打つかる心配がなければ行くのもよいが、長居ながいをしないで帰って来なさい、なるべくならこいさんも、そういつ迄も附けて置かないで、お前が帰る時に連れて帰りなさい、と云うような意見に落ち着いた。で、今度は妙子を呼び出して、啓坊に打つかりはしないであろうか、と云うと、今のところ親兄弟の外には誰も来ていないし、誰にも知らしてないが、たとい容態がどうなるにしろ、奥畑の方へ知らす必要はないであろう、殊ことに啓坊に来られると、病人を興奮させるような結果にならないとも限らないから、うちが反対して、そんなことはさせないようにする、と云い、それよりも実は、中姉なかあんちゃんに来て貰うように此方から頼もうかと思っていたのである、と云うのは、外科へ渡そうかどうしようかで未だに相談が纏まとまらないでごたごたしている、うちと妹とは外科医に委ゆだねることを熱心に主張しているのであるが、親たちが煮え切らないので埒らちが明かない、中姉ちゃんが来て口添えをしてくれると助かるのだけれども、―――と云うのであった。

そんなら御飯を食べて直きに行くから、と、そう云って電話を切った幸子は、雪子と二人でいつもより早い昼食を取りながら、この際看護婦の口から妙子のことなどが世間へ洩もれては宜しくないし、もう昨今では殆ど悦子の遊び相手をしているようなもので、何の用事もないのであるから、今日で「水戸ちゃん」に帰って貰ったら、と考えつき、そのことを雪子に相談すると、「水戸ちゃん」自身も、もうお暇を戴いただきましょうかと云っているのだと云うことなので、そしたら急のようだけれども、今日、あたしが戻る迄いて貰って、晩の御飯でも食べてから帰るように雪子ちゃんから話しといて、と云い置いて、病院まで直行することにして十二時に自動車を命じた。

行って見ると、中山手の電車通を山手の方へ半丁程上った細い坂路さかみちの中途にある、病院と云っても二階建ての見すぼらしい医院で、階上に日本間の病室が二つ三つあるに過ぎなかった。板倉の部屋は六畳間で、窓の外に裏側の家の物干台が近接してい、洗濯物が何枚も吊つるしてあるのが鬱陶うっとうしく、セルの単衣ひとえの頃なので、四五人の人間がそこらに坐すわったり腰掛けたりしている風通しの悪い室内が汗臭くいきれていたが、病人は、右手の壁に寄せつけてある鉄の寝台に、壁の方を向いて、背中を少し円くして臥ねていた。幸子は此処へ這入った時から、その病人が、低い、しかし非常な早口で、「痛い痛い痛い痛い」と一秒間の休みもなしに云いつづけているのを聞いたが、それは彼女が妙子の紹介で病人の両親や、嫂や、妹などと挨拶あいさつを取り交している間じゅうそうであった。妙子は紹介が済むと、寝台の枕もとへ両膝を衝ついて、

「米よねやん」

と、小声で云った。

「―――中姉なかあんちゃんが来てくれはったで」

「痛い痛い痛い痛い」

病人は矢張背中を此方に向けて壁の一点を視詰みつめたまま、そう云っていた。幸子は妙子の後に立って恐る恐る覗のぞき込んだが、右を上にして臥ている横顔は、そんなに窶やつれてもいず、血色も思った程悪くはなかった。毛布を腰のあたりまで剥はいで、ガーゼの寝間着一枚でいるのであるが、はだけた襟元えりもとやまくれ上った袖口そでぐちから見える胸や二の腕の逞たくましさなども変りはなく、ただ、繃帯ほうたいが耳のところで十文字に、一つは顱頂部ろちょうぶから頤あごへかけて、一つは額から後頭部へかけて巻いてあった。

「米やん」

と、妙子がもう一度云った。

「―――中姉ちゃんが来てくれはった。―――」

幸子は、妙子が板倉のことを「米やん」と呼ぶのを始めて聞いた。蘆屋の家で妙子が彼の噂うわさをする時はいつも「板倉」と云っており、幸子も、雪子も、悦子までも、蔭では「板倉々々」と呼び捨てにしているのであるが、彼の本名は「板倉勇作」で、「米やん」と云うのは、奥畑商店に丁稚でっち奉公をしていた時分、「米吉」と呼ばれていたところから起ったのであった。

「板倉さん」

と、幸子が云った。

「えらい目エに遭あやはったわなあ。あんた見たいな人がそない痛い痛い云やはるのんやったら、………」

そう云いかけて、ハンカチで鼻を摘つまんだ。

「兄さん、蘆屋の御寮人様ごりょうんさんでっせ」

と、妹も寄って来て云ったが、

「まあ、そない云わんと置きなさい」

と、幸子は制して、

「痛いのんは左の脚や云うことやないか」

「そうやねん。―――右の耳を手術したよってに、右を上にして臥んならんのんで、痛い方の脚が下になるねん」

「えらい都合が悪いねんなあ」

「そんで、なおのこと痛がるねんわ」

病人の肌理きめの粗あらい額には、痛苦を怺こらえる脂汗あぶらあせが一杯に滲にじみ出ていた。さっきから蠅はえが一匹、ときどき病人の顔に来てとまるのを、妙子がしゃべりながら手で追い払ってやっていたが、突然、病人が「痛い痛い」と云うのを止めて、

「おしっこや」

と云った。

「お母かあさん、兄さんおしっこ」

妹が云うと、向うの壁に凭よりかかっていた母親が立って来て、

「御免下さりませ」

と、小腰を屈かがめ、寝台の下に新聞紙に包んであった溲瓶しゅびんを取って、病人の毛布の間に挿さし入れた。

「それ、又えらいで」

母親がそう云う途端に、

「痛いッ、―――」

と、病人は、今迄の譫語うわごとのような調子とは全然違う狂気じみた声を発した。

「―――痛いッ、痛いッ、痛いッ、―――」

「痛うても仕方ない、辛抱しなさい」

「痛いッ、痛いッ、―――触ったらあかん、触ったら、―――」

「辛抱しなさい、こうせなんだらおしっこ出来んやないか」

幸子は、あの板倉の何処を押せばこう云う卑屈な音ねが出るのかと、不思議な気がして、又改めて病人の姿をしげしげと眺ながめた。病人は左の脚の位置を一尺ほど変え、体を少し仰向けにひねらせるのに二三分を要した。そして、姿勢が極まったところで暫く沈黙して息づかいを整え、呼吸の静まるのを待って用を弁じたが、そうしながら、ぽかんと口を開けて、嘗かつて見たことのない怯懦きょうだな眼つきをして、その辺にいる人達の顔をジロジロ見廻した。

「何ぞ、食べはりますのん」

と、幸子が母親に聞いた。

「それがなあ、ちょっとも食べませんのんで、………」

「レモネエドばかり飲むねんわ。そやよってにおしっこが出るねん」

幸子は、病人の痛む方の脚が毛布の間から出ているのを見た。実際それは何の変ったところもあるようではなく、ただ少しばかり血管が怒張して青く透いて見えるだけであったが、それも幸子の気のせいかも知れなかった。病人は又、姿勢をもとへ戻すのに前にも劣らぬ騒ぎ方をしたが、今度は「痛い痛い」と云う台詞せりふの間に、

「ええいッ、もう死にたい、死なしてくれ、………」

とか、

「早う殺せ、殺せ」

とか云うのであった。

板倉の父親と云う人は、口数の少い、おどおどした眼つきをした老人で、自分の意見などと云うものは持ち合せない淳朴じゅんぼくな好々爺こうこうやのようであるが、母親と云う人は父親よりは大分しっかりしたところがあるらしい。寝不足なのか、泣いたせいなのか、それとも眼病を患わずらってでもいるのか、眼瞼まぶたが脹はれて垂れ下っているために始終眼をつぶっているような顔つきをした、従って表情の鈍い、呆ぼけかかった老婆ろうばのような外貌がいぼうではあるけれども、さっきから幸子が見ていると、専もっぱら病人の身の周りの世話をしてやっているのはこの母親なのであった。病人も亦また母親に甘えるような風があり、彼女の云うことなら何を云われても黙って聴いていた。妙子の話だと、病人を外科へ移す相談が停頓ていとんしているのは、実際はこの老婆一人が「うん」と云わないからなのだそうであるが、幸子が来てからも、一方では父親と母親、一方では妙子と妹とが二組に分れてときどき部屋の隅すみの方へ行ったり、外の廊下へ出て行ったりして、こそこそと囁ささやき合い、中に這入って双方を執とり成しているらしい嫂が又、彼方へ呼ばれたり此方へ呼ばれたりしていた。老夫婦の云っていることはひどく小声で、幸子には聞き取れないけれども、母親が何か頻しきりに歎息するような口調で云うのに、父親も動かされながら耳を傾ける様子である。妙子と妹とはその間に嫂を掴つかまえて、外科的手段を取らずに殺しては親兄弟の越度おちどになることをくどくどと云い聞かせて、何とかして母親を納得させてくれるように頼んでいる。嫂は二人に口説かれると、それも尤もと思うらしく、母親のところへ立って行って、いろいろ云って見るけれども、母親は、どうせ死ぬなら満足な体で死なしてやってくれの一点張りで、それを押し切って頼むと、そんなむごたらしいことをして、きっと助かると云う保証をしてくれるかと逆襲する。嫂は又引き退って来て、とても私が云ったんではお母さんは承知しない、年寄にそう云う理窟りくつを云っても分らないのだからと、今度は妹を宥なだめにかかる。すると妹が自分で母親のところへ立って行き、お母さんはただ可哀そうだとかむごたらしいとか、目前の辛つらさばかりを考えて、ほんとうに親としての道を尽そうとしない、助かる助からないは兎に角として、あとに思い残りがないように、出来るだけの方法を取って見るのが私達の責任ではありませんかと、泣き声を出して老婆の頑冥がんめいを攻撃する。―――要するに、そう云う風なことをいつ迄も繰り返しているのであった。

「中姉ちゃん、………」

と、妙子はしまいに幸子を呼んで、廊下の一番遠くの方へ引っ張って行った。

「………田舎の人云うもんは、何でああ気が長いのんか、呆あきれてしまうわ」

「けど、お母さんの身になったら、あない云やはるのんも無理のないとこかも知れんわな」

「もうどうせ手後れや思うて、うちは諦あきらめてるねんわ。けど妹が、何卒なにとぞ一遍御寮人様からお母さんに云うて戴くようにお願いして下さい云うねん。あのお母さんは家うちの者には強情やけど、偉えらい人の前へ出たら、何もよう云やはらんと、左様でございますか云うて、納得してしまやはるねんて」

「私あたしが偉い人かいな。………」

幸子は正直のところ、他人が余計な差出口をして、結果が面白くなかった場合、あのお婆さんの調子では後でどんなに恨まれるか分らないし、而しかも十中の八九まで不成功に終るであろうことは見えているとすると、とてもそう云う相談に係り合う気にはなれなかった。

「………まあ待ってて御覧、あない云うてはるけど、結局皆の云う通りにせんならん云うことは分ってはるねんが。ただ気の済むまで、あんな風に愚痴をこぼしてはるねん。………」

彼女はそんなことよりも、これで義理も済んだのであるから、何とかして妙子をも連れて帰らなければと思いながら、好いしおが見付からないので困っているところなのであった。

と、看護婦が上って来て、病室の方へ行きかけたが、廊下に妙子がいるのを見ると、

「あのう、院長先生が、御近親の方にちょっと御面会なさりたいそうですが、………」

と云った。

「………誰方どなたかお一人、おいでになって下さいませんか」

妙子がそれを取次ぐために這入って行くと、病人の寝台の頭の方に嫂と妹が蹲踞うずくまってい、脚の方に老人夫婦がいた。そしてこの時も、お前が行くか私が行くかで年寄達は暫くモジモジしてから、二人連れ立って出かけて行ったが、十五分もすると戻って来て、父親はさも当惑したように溜息ためいきを吐ついて坐すわり、母親は泣きながら、何かぶつぶつと父親の耳の端はたへ来て呟つぶやいていた。二人が院長にどんな風なことを云われたのかはよく分らないのであるが、後でその時の様子を聞くと、院長は此処の病院でこのまま病人に死なれたのでは厄介やっかいなことになると思い、何としても外科の手術を受けなければならないように、余程上手に老人夫婦に持ちかけたらしいのであった。院長の云い分は、御子息さんの耳の方の処置は、自分に於いて最善を尽し、消毒等も完全にして執り行ったので、治療に手落ちがあったろうとは考えられない、して見れば御子息さんの脚の疾患と云うものは、耳の病気とは別の物である、御子息さんは御覧の通り耳の方は良くなられたのであるから、最早や当医院に入院しておられる必要はないのである、当医院に於いても他の部分に疾患のある方をお預かりして置いて万一のことがあってはならないと思うので、昨夜鈴木先生に処置を御依頼し、御承諾を得たような訳であるが、親御さん達の御決心が付きかねるとか云うことで大切な時間を空費した、既に今でも時機を失したかと思うのであるが、これ以上愚図々々しておられて大事になるようなことがあっても当医院は責めを負わない云々うんぬん、と云うようなことで自分の越度おちどは棚たなに上げて、いかにも親たちが躊躇ちゅうちょしていたために手後れになったかのような云い方をし、予防線を張っていたと云う。老人夫婦は院長の云うことを唯ただはいはいと聴いて、それでは宜しくお願い申します、と挨拶して引き退ったのであるが、母親は部屋へ戻って来てから、院長に巧うまく云いくるめられたのは父親の罪ででもあるかのように口叱言くちこごとを云っているのであった。しかし幸子の見た通り、母親にしても悲歎の余りいろいろな愚痴が出るのだけれども、結局外科に引き渡さなければならないことは観念していたものらしく、それを切掛きっかけに折れてしまった。

鈴木病院と云うのは上筒井かみつつい六丁目の、昔の阪急の終点附近にあったが、漸ようやくそこへ病人を担かつぎ出す段取りが付いたのは、暗くなりかかった頃であった。その時も磯貝院長の仕方は不親切を極め、話がそうと決定してからはいかにも厄介払いをしたと云う態度で、自分は一切姿を現わさず、挨拶にも出て来ないので、病人を運搬するについての世話は、総すべて鈴木病院から出張した医師や看護婦が担当した。病人は、親兄弟たちが寄り寄り相談し合っていたこの数時間のあいだ、自分の脚が切断されることに関して議が凝らされているのであることを知っていたのかいないのか、全く唯「痛い痛い」と云いつづけるところの、何か、人間離れのした、一箇の呻く怪物の如き存在に化してしまっていたが、―――そして親兄弟たちも、彼等の息子であり、弟であり、兄であるところのものを、最早やそう云う奇妙な存在になったと見做みなし、彼の意向を質ただすとか彼に因果を含めるとか云うことは問題にしていないかのようであったが、最も懸念けねんされたことは、病室から寝台自動車へ移す時にその怪物がどんな物凄ものすごい怒声を発するであろうか、と云うことであった。なぜと云って、その病室の外の廊下は普通の住宅のそれのような三尺幅のものであり、階段も亦また狭い上に踊り場がなくて螺旋らせん状に曲っているので、担架で階下へおろす際に、小便をするのにさえあんな喚き方をする病人に非常な苦痛を与えるであろうことは明かだからであった。親兄弟たちは、病人を気の毒がるよりもその時の鋭い叫び声を聞かされるのが遣り切れないのでヒヤヒヤしたが、何とかして戴けないものでしょうかと、幸子が見かねて看護婦に云うと、いや、その御心配には及びません、注射をして運び出しますから、―――と、そう云う鈴木医師の答だったので、皆ほっとした。事実病人は注射されてから稍やや安静になり、医師と、看護婦と、母親に附き添われて運ばれて行った。

三十五

父親と、嫂あによめと、妹とが、病室の跡片附けをしたり支払いを済ましたりしている暇に、幸子は妙子を蔭かげへ呼んで、あたしはこれで帰ろうと思うがこいさんも一往帰ってはどうか、貞之助兄さんも、なるべく私が帰る時にこいさんを連れて帰るように云っているのだが、―――と、誘いをかけて見たのであったが、兎とに角かく手術の結果を見届ける迄までは、と云うことなので、幸子は仕方なく、四人を自動車に乗せて鈴木病院へ送り届け、自分はその車で蘆屋あしやへ帰ることにした。車が病院の前で停った時にも、彼女は降りて行く妙子をもう一度呼び止めて、こいさんとしては附き添っていたい場合であろうが、見たところ、病人も、親兄弟たちも、あたし等らに遠慮しているのかどうか、そんなにこいさんを必要としていないようでもあるから、巧うまく脱けて来られたら来るように、―――そう云ってもその時の事情に依よることだけれども、何卒くれぐれも、あたし等の最も恐れるのは、病人とこいさんとの間に許嫁いいなずけの関係でもあったかの如ごとく世間から誤解されることにあるのだと云うことを、どんな場合にも忘れないでくれるように、―――蒔岡まきおかの家名と云うこと、取り分け雪子ちゃんへの影響と云うことを、念頭に置いて行動してくれるように、―――と、少しくど過ぎるくらいに云った。彼女のつもりでは、こいさんが板倉と実際に結婚するものなら已やむを得ないけれども、今板倉が死んでしまうのなら、彼との間に約束があったことなどは世間に知れない方がよい、と云うことを、精々婉曲えんきょくに云ったのであったが、妙子は大方言外の意味を了得したに違いなかった。

幸子は、この間から自分が何よりも苦に病んでいた問題、―――自分の肉身の妹が、氏も素姓も分らない丁稚でっち上りの青年の妻になろうとしている事件が、こう云う風な、予想もしなかった自然的方法で、自分に都合よく解決しそうになったことを思うと、正直のところ、有難い、と云う気持が先に立つのを如何いかんとも制しようがなかった。人の死を希ねがうような心が、自分の胸の奥の何処どこかに潜んでいると考えることは、不愉快でもあり浅ましくもあるけれども、どうやらそれは事実なのである。だが、今の場合、こう云う気持を抱く者は自分ばかりではないであろう、雪子は勿論もちろんのこととして、貞之助も同感であろうし、もし啓坊がこの出来事を聞き知ったならば、恐らく誰よりも小踊りして喜ぶものは彼であろうとも思えるのであった。

「えらい遅かったやないか」

もう事務所から帰宅していた貞之助は、応接間で妻の帰りを待っていたらしく、彼女が這入はいって来るのを見ると云った。

「―――お午ひる頃出かけた云うのんに、あんまり遅過ぎるよって、今病院へ電話かけさしたとこやってん」

「それがなあ、こいさんを連れて帰ろう思うさかいに、だんだんと後おくれてしもうて、………」

「こいさんも一緒に戻ったのんか」

「戻らしません。―――手術が済む迄附いていたい云うのんで、それも無理がない思うて、………」

「手術することになったんか」

「はあはあ、―――あたしが行ってからも、しようかしまいかで長いこと相談して、ようよう極まったのんで、今鈴木病院迄みんなを送り届けて来ましてん」

「それで、どないや、助かるらしいか」

「さあ、―――多分あきませんやろうな」

「おかしいなあ、いったい脚がどないなってるねん」

「それが分れしませんねん」

「何と云う病気か、病名を聞いたか」

「病名を聞いても磯貝いそがいさんはこそこそと逃げてしまやはるし、鈴木さんも磯貝さんに遠慮してはるらしいて、はっきりしたことは云うてくれはれしませんねんて。敗血症とか、壊血病とか云うようなもんと違いますやろか」

幸子は、看護婦の「水戸ちゃん」がもうさっきから身支度をして待っていると云うので、彼女に会って四十日間の労を犒ねぎらって暇を遣やってから、夫と雪子とで夕飯の卓を囲んだが、その最中に鈴木病院から電話が懸ったので立って行った。貞之助たちが食堂で聞いていると、妙子と話しているらしく、なかなか長い電話であったが、手術が済んで目下のところは小康を保っていること、しかし輸血の必要が起りそうなので、老夫婦を除いて皆が血液型の検査を受けたこと、そうしたら病人と妹とがA型、妙子がO型であったこと、だからさし当りは妹の血を給血すればよいのであるが、なお一両人給血者がほしいのであること、妙子もO型であるから給血者の資格はある訳だけれども、それは親兄弟たちも敢あえて要求していないこと、ただここに困ったのは、妹の発議で、板倉の古い同僚である奥畑商店の店員二三人に事実を知らせてやることになったので、間もなくその人達が見える筈はずであること、自分はその人達に遇あいたくないし、それに又、啓坊が聞き込んで一緒にやって来る可能性もあるので、彼との邂逅かいこうを避けるために一遍帰宅することにしたこと、それらの店員達は板倉の丁稚時代の旧友なので、妹は給血者を求める下心から彼等に知らせようと云い出したのであること、で、自分はひどく疲れているので、病院まで自動車を迎えに寄越して貰いたいこと、帰ったら直ぐ風呂に這入はいって御飯を食べられるよう、支度さしておいて欲しいこと、―――大体妙子の云っていることはそんなことであるらしく聞えた。

「そう云えば、いったい、―――」

と、貞之助は、幸子が食卓へ戻るのを待って、一段声をひそめながら云った。

「板倉の親兄弟たちは、こいさんと啓坊とのいきさつを知ってるのやろうか」

「親たちは何も知らへんのんと違いますやろか。知ってたらこいさんを忰せがれの嫁に貰う云うこと、許す筈がないやありませんか」

「そうやわ、きっと知らんのやわ」

と、雪子も云った。

「―――啓坊とのことは、親に話してないねんわ」

「妹だけは、知ってるかも知れませんけど、―――」

「その奥畑商店の店員達云うのんは、始終田中の板倉の所とこに出入りしてたのと違うか知らん」

「どうですやろ。そんな旧ふるい友達がいるなんてこと、聞いたこともあれしませなんだけど」

「そう云う人達がいたのんやったら、こいさんと板倉のことは相当世間に知れ渡ってると思わんならんな」

「ほんに。―――啓坊が、僕は手を廻して調べてるよってに何でも知ってます云うてたのんは、その人達のことと違うかいな」

迎えの車はあれから直ぐに往った筈であったが、妙子は一時間以上もしてから帰って来た。聞けば彼女は自動車が往き路みちでパンクしたために病院で長いこと待ったのであった。それはよいが、その間に店員達が来てしまい、よもやと思っていた啓坊が来たので、生憎あいにく皆に遇うようなことになってしまった。(啓坊はその時刻には店にいない筈であるが、多分店員が電話で知らしたのであろうと妙子は云った)尤も、妙子は努めて啓坊から遠ざかるようにしていたし、啓坊も場合が場合故慎しんでいたようであった。ただ妙子の帰りしなに、こいさんもっといててやったらええやないかと、傍へ寄って来て親切めかしく耳こすりしたのが、皮肉と取れば取れなくもなかった。彼は、店員達が自ら進んで血液型の検査を受けることを申し出た時、僕も見て下さいと云って、検しらべて貰っていた。それはどう云う料簡りょうけんなのか分らないけれども、彼には一体そう云う風なおっちょこちょいの所があるので、ただ何となくそんなことを云い出したのに過ぎないであろうと、妙子には思えた。妙子が血液型の検査を受けたのは、嫂あによめや妹が受けたので、勢い自分も受けなければ工合が悪いようになったからであったが、親たちを始め嫂も妹も、こいさんはお止めになって下さいと、頻しきりにそう云ったくらいであった。

「脚は何処から切ったのん」

三人は、湯上りの寝間着姿で食卓に就いている妙子の周りに集って、又暫くその話を続けたが、幸子が聞くと、

「この辺からやわ。―――」

と、妙子はテーブルの下から脚を出して、寝間着の上から掌てのひらで大腿部だいたいぶを切る真似まねをして見せ、又慌あわててそこを祓はらう真似をした。

「こいさんそれを見てたのん」

「ちょっとぐらい見たわ」

「こいさん、手術に立ち会うたんか」

「うち、手術室の隣の部屋で待ってましてん。―――そんなら、そこが硝子戸ガラスどになってたよってに、手術してるとこが見えるねんわ」

「見えたにしたかて、ようそんなとこ見てられたなあ、こいさんは」

「見んようにしてるねんけど、恐い思うたらつい見とうなって、ちらと見てしまうねん。―――板倉の心臓が、えらい凄すごさで波を打って、胸がぐうッと盛り上ったりぐうッと凹へこんだりしてたけど、全身麻酔云うたらあないなるもんか知らん。中姉なかあんちゃんやったら、あれだけかて見てられへんわ」

「もうその話止め!」

「うち、それぐらいは平気やったけど、とうとうえらいもん見てしもうてん。―――」

「止め! 止めんかいな!」

「当分牛肉の鹿の子のとこ―――」

「止めえな、こいさん」

と、雪子が叱しかった。

「そう云えば、病名が分りましたで」

と、妙子は貞之助に云った。

「脱疽だっそですねんて。―――鈴木さん、磯貝医院にいてた間は云うてくれはれしませなんだけど、自分の病院へ連れて来てから、云うてくれはりましてん」

「ふうん、脱疽云うたら、そんなに痛いもんかいな。―――やっぱり耳を弄いろうたのが原因でそないなったんやろか」

「さあ、どうなのか、それは分りませんけど、―――」

この鈴木病院の院長と云うのも、余り同業者間の評判の芳かんばしくない医師であったことが後に知れたのであるが、いったい、土地の一流の外科医が二人迄も絶望と認めて手術を拒否した病人を、成功は保証しないと云う条件附きで引き受けるなどと云うことは、考えて見れば少し変のようで、そこらあたりにこの院長の芳しくない所以ゆえんがあったのかも知れない。妙子はその晩はそんなことには気が付かなかったが、でも、広い建物のわりに、外に一人も入院患者がないらしくひっそり閑としていたので、余程はやらない病院らしいとは思ったのであった。それに一つはその建物と云うのが、昔外人の邸宅だったのを直したものらしい、明治時代を偲しのばせる旧式な洋館であったせいか、廊下の足音が高い天井に谺こだまするような感じの、がらんとした、化物屋敷じみた病院で、妙子は一歩を中に蹈ふみ入れた最初の瞬間に、何となく寒々とした、陰鬱いんうつな空気に襲われたことも事実であった。病人は、手術後病室へ運ばれて、麻酔から覚めると、枕まくらもとにいる妙子を見上げて、ああ、僕は跛足びっこや! と、悲痛な声を洩もらしたが、それでも磯貝医院以来呻き続けてばかりいた病人が、尋常な物云いをしたのはその時が始めてであった。そればかりでなく、病人は、今の一語に徴すると、あの呻く怪物のように見えていた折にも、自分が現在どのような状態にあるのかをちゃんと意識しており、自分の傍でどんな相談が進行しているのかをも、よく知っていた訳なのであった。何にしても妙子は、病人がもう「痛い痛い」と[#「と」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「を」]云わないようになり、前よりずっと楽になったらしいのを見て、ほっとした。そして、このまま片脚を失っただけで助かるのではないかとも思い、松葉杖まつばづえを衝ついて歩く恢復かいふく後の姿を想像したりもしたことであったが、実際は、そのほんの二三時間のあいだだけ、纔わずかに病人は安静を得ていたのであった。奥畑商店の店員達や啓坊などが駈け付けて来たのはちょうどその期間であったが、妙子も一往容態を見届けたので、出て来るのにも工合が好かった。それに板倉の妹だけは、妙子と啓坊と兄との間のごたごたを知っていたので、妙子を早く外はずさせるようにしてくれたのでもあった。尤も妙子は、玄関まで送って来た妹に、急変があったらいつでも知らしてくれるように云い置き、迎えの自動車の運転手にも、事に依ったら今夜のうちにもう一遍起きて貰うかも知れないと、頼んで置いたのではあるが、………

疲れた疲れたと云いながらも、妙子は三人にこんな話をいろいろしてから寝に就いたが、翌朝四時に、予期の如く病院からの電話で起されて、呼び戻された。幸子は明け方、自動車が門の前を軋きしみ出るのを夢うつつのうちに聞いて、ああこいさんが出掛けるのだなと思いながらうとうとしていたが、それからどのくらい立った時分か、襖ふすまを一寸ばかり開けて、

「御寮人さん、―――」

と云うお春の声がした。

「―――只今こいさんからお電話で、板倉さんが今亡なくなられましたよって、ちょっとお知らせして置きます、云うことでございました」

「今何時?」

「六時半頃と存じますが、………」

幸子はもう一と寝入りしようとしたが、巧うまい工合に寝付かれないでしまった。そして貞之助も、その電話は聞いていた訳であったが、離れに寝ていた雪子と悦子とは、八時頃に起きて、お春から聞いた。

午頃に帰って来た妙子は、あれから再び容態が悪化し、妹や店員達が代る代る輸血したけれども遂ついに効果がなかったこと、病毒は、脚の疼痛とうつうから解放された病人の、胸部や頭部を侵して来、病人は恐ろしい苦悶くもんの裡うちに絶命したこと、妙子はあんなに苦しんだ人の最期を見たことがなかったこと、意識は臨終の間際まぎわ迄はっきりしていて、枕頭に見守っている人々、親、兄弟、友人等に、一人々々別れを告げ、啓坊にも、妙子にも、それぞれ生前の恩を謝したり将来の幸福を祈ったりしたこと、蒔岡家の家族たちのことも、―――旦那さん、御寮人さん、雪子娘とうさん、悦子お嬢ちゃん、―――と、一々名を呼び、「お春どん」の名まで呼んで、何卒皆さんに宜よろしく仰おっしゃって下さいと云ったこと、徹夜で附き添っていた奥畑の店員達は、勤めがあるので病院から直ぐに引き取ったが、啓坊は親兄弟と一緒に田中の家まで遺骸いがいに附いて行ったこと、妙子も附いて行って今帰って来たのであるが、啓坊はまだ後に残って、親兄弟たちから「若旦那々々々」と云われながら何かと世話を焼いていたこと、今夜と明日の晩と通夜をして、明後日田中の家で告別式をするのであること、等々を語ったが、こんな時にも妙子は、看護疲れと寝不足とで顔に窶やつれは見せていたものの、表情動作はまことに落ち着き払ったもので、涙一滴見せるのではなかった。

お通夜には、その明くる日の夕方妙子が一時間程出ただけであった。彼女はもう少し勤めたかったのであるが、一昨夜以来いつも啓坊が来ていて、隙すきがあれば何か話しかけようとするけはいが見えるので、それを警戒したのであった。貞之助は、告別式には自分達も行ってやらなければ悪いのだが、と云ったが、今日となっては、矢張二人の義妹たちの将来の利益と云うことが第一に考えられ、式場でいろいろな人と顔を合わすこと、―――殊ことに、あの新聞の事件以来の奥畑の一家と、そう云う場所で打ぶつかることは面白くなく思われるので、結局自分は差控えることにして、幸子だけを、わざと時間外に弔問させた。妙子も告別式には出たが、火葬場へは行かないでしまった。彼女は帰って来て、案外多くの参会者があったこと、おやと思うような人の顔も見え、板倉がいつの間にそんな方面にまで交際の手をひろげていたのか、彼女でさえも意外に感じたこと、その日も啓坊がおっちょこちょいを発揮して、店員達と一緒に棺側に列ならんだことなどを話した。遺骨は親兄弟たちが郷里の寺へ持って行って埋葬すると云うことであったが、彼等が田中の板倉写真館を閉じて引き揚げて行った時にも、蒔岡方へ何の挨拶にも来なかったのは、多分これ以上の交際を遠慮したのであろう。妙子は三十五日までは、七日々々にひとりでこっそり故人の郷里へ行き、しめやかにお墓詣まいりをして親兄弟の家へも寄らずに帰って来るようにしていたが、幸子もうすうすそのことは知っていないでもなかった。

雪子と悦子とは、「水戸ちゃん」がいなくなってから離れの方に二人で寝るのは淋さびしいので、夜はお春に泊りに来て貰っていたが、それも僅わずか二た晩で、ちょうど板倉の告別式の前日に床上げをし、母屋の方へ寝室を移した。そして、離れはホルマリンで消毒されて、貞之助の書斎に戻った。

そう云えば、こんな工合にさまざまな事件が起りつつあった最中、と云うのは五月下旬のことであるが、或る日シベリヤ経由の一通の書面が蒔岡家に届いたことを、ついでに此処に書き添えて置こう。それはマニラからハンブルクへ帰ったシュトルツ夫人から、幸子に宛あてて来た英文の手紙なのである。―――

一九三九年五月二日、ハンブルクに於いて

親愛なる蒔岡御令閨れいけい様

私はあなたの大変懇ねんごろなお手紙に対してもっと早くお返事を差上げなかったことを、非常に相済まなく思います。しかし実際私は、マニラにいた時も航海中も、全然暇がありませんでした。私は、妹が病気で今も独逸ドイツにいますので、彼女の代りに沢山の荷物をすっかり纏まとめなければなりませんでした。そして私は彼女の三人の子供を連れて来ましたので、つまり私は五人の子供の面倒を見たのでした。私はジェノアからブレーメルハーフェンに着く迄殆ほとんど休む暇がありませんでした。私の夫はブレーメルハーフェンに来ており、私達は皆が無事に帰国したことを喜びました。私の夫は大層元気そうに見えましたが、ペータアも亦また同様で、彼は私の親戚しんせきや友人たちとハンブルクの停車場に出迎えていました。私はまだ私の年老いた父親や他の姉妹たちには会っておりません。私達は先ず私達の住居を作りたいのですが、それがなかなか手間が懸るのです。私達は家を何軒も見て歩き、結局私達に適当な、これならばと思うのを見付けましたので、只今ただいま家具や台所道具などを購入中ですが、二週間もしましたら万事用意が整うだろうと思います。私達が送り出した大きな貨物類はまだ着きませんが、十日間ぐらいのうちに着くことと思います。ペータアとフリッツはまだ友達の所に泊っています。ペータアは学校で非常に沢山の仕事をしていますが、彼はあなた方皆さんに宜よろしく申してくれと云っております。五月には、私達の友人で日本へ帰る人達があります。彼等はエツコさんに些細ささいな進物を持って行きますが、何卒それを、あなた方皆さんに対する私達の友情のささやかなる印とお思いになって下さい。あなた方はいつ独逸へおいでになるでしょう。私はあなた方にハンブルクをお見せして自慢したいのです。それは素晴らしい都会なのですから。―――

ローゼマリーがエツコさんに手紙を書きました。エツコさんよ、あなたも何卒又書いて下さい。英語の間違いを気になさることはありません。私だって沢山間違えます。あの、佐藤氏所有の家には今誰が住んでいるでしょうか。私は実に屡〻しばしばあの愛すべき場所を思い出すのです。何卒佐藤氏に私から宜しくとお伝え下さい。さてそれから、あなたの御家族の方々にも宜しくお伝えになって下さい。エツコさんはペータアが紐育ニューヨークから送った靴くつをお受け取りになったでしょうか。私はあなたが、あのために税金をお払いになるようなことはなかったであろうと思います

敬具

ヒルダ・シュトルツ

以上がシュトルツ夫人の文面であるが、別に、「これは私が独逸語から英語に訳したローゼマリーの手紙です」として、次の一葉が同封してあった。―――

一九三九年五月二日、火曜日

親愛なるエツコさん

私は長いことあなたにお便りをしませんでした。今私はあなたにお手紙を書きます。私はフォン・プスタン夫人の家に泊っている日本人を知っていますが、彼は横浜正金しょうきん銀行の人です。彼の奥さんと三人の子供も今此方こちらへ来ています。彼等の名前は今井と云うのです。マニラから独逸までの旅行は大変面白うございました。私達はたった一度、スエズ運河で沙漠の嵐あらしに遭あっただけでした。私の従兄弟いとこたちはジェノアで船から下りました。そして彼等のお母さんが、汽車で彼等を独逸へ連れて行きました。私達は船でブレーメルハーフェンまで行きました

私達が泊っている下宿屋の、私達の寝室の窓の下で一羽の黒鳥くろとりが巣を作っています。最初に彼女は卵を生みました。そして今、彼女はそれを孵かえさなければならないのです。或る日私が見ていましたら、鳥のお父さんが蠅はえを一匹嘴くちばしに咬くわえて来ました。鳥のお父さんはそれを鳥のお母さんに与えようとしたのですが、鳥のお母さんは飛んで行ってしまいました。鳥のお父さんは大変賢くて、蠅の屍骸しがいを巣に落して飛び去りました。鳥のお母さんは直きに帰って来ました。そしてその蠅を食べ、そして再び卵の上にすわりました

もうすぐ私達は新しい家を持ちます。私達の住所は

オーフェルベック街十四番地、地階左側

です

親愛なる[#「親愛なる」は、『谷崎潤一郎全集 第十九巻』(中央公論新社2015年6月10日初版発行)と『谷崎潤一郎全集 第十五卷』(中央公論社1968年1月25日発行)では「親愛な」]エツコさん、何卒又すぐお手紙を下さい

皆さんに宜しく

ローゼマリー

昨日私達はペータアに会いましたが、彼も皆さんに宜しくと云っていました

底本 / Source edition

底本:「細雪(中)」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年10月30日発行
2011(平成23)年3月20日95刷改版
2016(平成28)年1月25日101刷
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十五卷」中央公論社
1968(昭和43)年1月25日発行
※「手エ」と「手ェ」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「細雪《ささめゆき》 中巻」となっています。
※底本巻末の編者による注解は省略しました。
※誤植を疑った箇所に、底本の親本の表記が入力者により併記されています。また、私家版校正刷の著者による修正も参照して校合した(586頁)「谷崎潤一郎全集 第十九巻」中央公論新社、2015年6月10日初版発行の表記も入力者により併記されています。
入力:砂場清隆
校正:いとうおちゃ
2020年6月27日作成
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TEI
/works/057416_001383/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/057416_001383/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/057416_001383/

谷崎 潤一郎「細雪──02 中巻」(新字新仮名)、底本『細雪(中)』新潮文庫、新潮社、1955年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 057416_001383, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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