Soranoha

福沢諭吉

ふくざわゆきち

高山 毅

この伝記物語でんきものがたりを読よむまえに――――――――――――

「天てんは人ひとの上うえに人ひとをつくらず、

人ひとの下したに人ひとをつくらず。」

明治めいじのはじめ、「学問がくもんのすすめ」で、いちはやく

人間にんげんの自由じゆう・平等びょうどう・権利けんりのとうとさをとき、

あたらしい時代じだいにむかう日本人にほんじんに、

道みちしるべをあたえた人ひと。

それまでねっしんにまなんだオランダ語ごをすてて、

世界せかいに通用つうようする英語えいごを、独学どくがくでまなんだ人ひと。

アメリカやヨーロッパに三度どもわたり、

自分じぶんの目めでじっさいにたしかめた、

外国がいこくのすすんだ文化ぶんかや思想しそうをしょうかいし、

大おおきなえいきょうをあたえた人ひと。

上野うえのの戦争せんそうのとき、砲声ほうせいをききながら、

へいぜんと講義こうぎをつづけた人ひと。

福沢諭吉ふくざわゆきちは、ながい封建制度ほうけんせいどにならされた人々ひとびとを

目めざめさせるのは、学問がくもんしかないと、

けわしい教育者きょういくしゃの道みちをえらびました。

いま、慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがくの図書館としょかんには、

「ペンは剣けんよりも強つよし。」

のことばが、ラテン語ごで書かかれています。

諭吉ゆきちの一生いっしょうは、この理想りそうでつらぬかれました。

日本にっぽんの民主主義みんしゅしゅぎを考かんがえるとき、

わたしたちはいつも、

諭吉ゆきちにたちかえらなければなりません。

1 勉強べんきょうはごめんだ

びんぼうどっくりをさげた少年しょうねん

夏なつのはじめのある日ひの午後ごごのことでした。

十二、三さいになる少年しょうねんが、九州きゅうしゅうの中津なかつ(大分県おおいたけん)の町まちを、むねをはってあるいていました。こしに大小だいしょうの刀かたなをさしているので、士族しぞく(さむらいの家いえがら)の子こどもとすぐわかりますが、ふるぼけたふろしきづつみを左ひだりの小こわきにかかえ、小ちいさなとっくりをその手てにさげています。どうやら少年しょうねんは、町まちに買かいものにきたかえりのようでした。

町人ちょうにんたちは、さも、ふしぎなものをみたといわんばかりに、少年しょうねんのうしろすがたをゆびさして、ささやきあいました。

「おさむらいの子こが、まっ昼間ぴるま、どうどうと、びんぼうどっくりをさげて、買かいものにくるとは、おどろいたな。」

「まったくだ。ちかごろは、おさむらいも、ふところぐあいがよくないとみえて、一しょう(一・八リットル)どっくりをさげて買かいにみえるが、はずかしそうにほおかむりをして、しかも、日ひのくれがたとか、夜よるになってから、買かいにくるというのが、ふつうだからな。」

「まあ、おさむらいには、士族しぞくとしての体面たいめん(せけんにたいするていさい)があるからな。それを、あのようにどうどうと……いったい、どこの子こどもだろう。」

町人ちょうにんたちがはなしている、その少年しょうねんは、じりじりとてりつける太陽たいようにあせばんだのか、ときおり、右手みぎてで、ひたいのあせをふきながら、士族しぞくやしきへかえっていきました。

やがて、少年しょうねんがたちどまったのは、門もんこそありますが、ふるぼけた、そまつなかやぶきやねの家いえでした。

「ただいま、かえりました。」

少年しょうねんが、げんかんからはいると、

「おかえり、諭吉ゆきち。ごくろうだったね。とちゅうで、知しりあいの人ひとにあわずにすんだかね。」

と、お母かあさんのお順じゅんがやさしくむかえました。

「ええ、だれにもあいませんでした。でも、だれかにあったって、わたしはへいきです。自分じぶんの金かねで、ものを買かうんですから、すこしもはずかしいことはありません。」

「そうとも、そうとも。よくいってくれました。母かあさんは、そのことばをきいて、とてもうれしいんだよ。うちがびんぼうでも、おまえがいじけないでそだってくれるということがね。……そうそう、かえってきてすぐでわるいけれど、たんすがあかなくなったから、ちょっとなおしてもらえないかしら。」

「いいですとも。あかなくなったのは、どのたんすですか。」

諭吉ゆきちのひとみは、きゅうにいきいきとかがやき、刀かたなをいつものところにおくと、たんすのある部屋へやにかけこむようにしてはいっていきました。

「このたんすのひきだしなんだけどね。」

あとからついてきたお母かあさんのいうのをきいて、諭吉ゆきちは、そのひきだしのあちらこちらをしらべはじめました。それから、かぎをつっこんで、まわしてみましたが、なかなかあきません。

「これは、かぎがこわれたんですね。くぎでなければ、あかないかもしれません。」

「そうかい。では、くぎをつかって、あくようにしておくれ。」

お母かあさんは、台所だいどころのほうへさっていきました。

諭吉ゆきちは、くぎをもってきて、そのさきをまげて、かぎあなにさしこんで、あっちにまわしてみたり、こっちにまわしてみたり、いろいろとくふうをこらしました。顔かおのあたりを、かが四、五ひき、うるさくとんでいるのを手てでおいはらいながら、かんがえこんでいます。両足りょうあしをかわりばんこにあげているのは、かにさされないためでもありますが、便所べんじょにいきたいのをがまんしているためでもありました。それほど、ひきだしをあけるのにいっしょうけんめいになっていたわけです。

そのうち、ひきだしがすっとあきました。

「お母かあさん、あきましたよ。」

といったとたん、こらえていることができなくなったのでしょう、諭吉ゆきちはバタバタと便所べんじょへはしりました。

なんだ、石いしころじゃないか

ところが、そのとき、兄にいさんの三之助さんのすけが、ほご紙し(ものをかきそこなって、不用ふようになった紙かみ)を部屋へやいっぱいにひろげて、整理せいりをしていました。

いつもなら諭吉ゆきちは、便所べんじょへいくのに、その部屋へやをとおらないのですが、いまはいそいでいるものですから、近道ちかみちをして、つい、ほご紙しをふんでしまったのです。すると、

「こりゃ、まてっ、諭吉ゆきち。」

と、兄にいさんが大おおきな声こえでしかりつけました。

「おまえは、目めがみえぬのか。これをみなさい。なんとかいてある。奥平大膳大夫おくだいらだいぜんのだいぶと、とのさまのお名なまえがかいてあるではないか。」

と、えらいけんまくです。八つ年上としうえの兄にいさんのいうことですから、しかたがありません。諭吉ゆきちは、

「ああ、そうでございましたか。でも、わたしは、つい、しらなかったものですから。」

と、いいわけをしました。

「しらなかったで、すむか。目めがあればみえるはずだ。とのさまのお名なまえを足あしでふむとは、なんたることか。臣子しんしの道みち(けらいや、子このまもるべきこと)をわきまえない、ふこころえものだぞ、おまえは。」

「わたしは、とのさまを足あしでふんだわけではありません。たまたま、わたしのふんだほご紙しに、とのさまのお名なまえがかいてあっただけのことです。」

「だまれっ、とのさまのお名なまえのかいてあるものを、足あしでふみつけたことは、とのさまをふみつけたとおなじことだ。お父上ちちうえが生いきておられたら、これをなんといわれるか、かんがえてみるがよい。」

日ひごろは弟思おとうとおもいの兄にいさんが、ほんとうにかんかんになっておこっているのです。諭吉ゆきちは便所べんじょにはやくいきたいので、いまは、あやまるよりほかに方法ほうほうがないとおもいました。

「これは、わたしがわるうございました。これからは気きをつけますから、かんにんしてください。」

と、おじぎをしてあやまり、いそいで便所べんじょにいきました。やっと、ときはなされたような気持きもちになりました。

しかし、気きがおちついてくると、兄にいさんのことばには、なっとくのできないものがあります。

(なんだ、とのさまの頭あたまをふんだというのではない。ただ、名なをかいてあるほご紙しをふんだだけのことだ。紙かみの上うえの字じなど、かまうことはないじゃないか。それを、兄にいさんはあんなにおこったりして……。)

と、諭吉ゆきちはふまんにおもい、そして、紙かみの上うえの文字もじを、ただたいせつにするということに、うたがいがわいてきました。

兄にいさんがいうように、とのさまの名なのかいてあるほご紙しをふみつけてわるいのなら、神かみさまの名なまえのかいてあるおふだをふんだら、どうなるだろうか。こうかんがえた諭吉ゆきちは、さっそく、その夜よ、神かみだなから、おふだを一まいとって、こっそり足あしでふんでみました。ところが、べつにかわったことはおこりませんでした。

(うん、なんともない。これはおもしろいぞ。よし、こんどは、便所べんじょにもっていって、ためしてみよう。)

おもいきって、便所べんじょの中なかへおとしてみました。なにごとかおこったら、すぐとびだせるように用意よういして、こわさのために手足てあしのふるえるのをがまんして、じっとようすをみていました。しかし、やはりなにごともおこりません。

(そうれ、みろ。兄にいさんがよけいなことをいってしかったが、あんなことをいうのはおかしいんだ。)

と、諭吉ゆきちはあんしんもし、また、かたくしんじることができたので、とくいにもなりました。

しかし、こればかりは、兄にいさんにはもちろん、お母かあさんにもねえさんにもはなせません。はなせば、きっとしかられるにちがいありませんから、一人ひとりでそっと、自分じぶんの心こころの中なかにしまっておきました。

諭吉ゆきちは、兄にいさんのいうことになっとくがいかず、それをそのままにしておかずに、じっさいにためしてみて、自信じしんをえたわけでした。すると、もっと、いろいろなことをためしてみたくなりました。

諭吉ゆきちのおじさんの家いえの庭にわのかたすみに、おいなりさんをまつった小ちいさなほこらがありました。それを、大人おとなたちは、しんみょうな顔かおつきでおがんでいますが、いったい、おいなりさんの正体しょうたいはどんなものか、それをしりたくてたまりません。しかし、大人おとなたちは、神かみさまの正体しょうたいをみるなどということは、だいそれたことで、ばちがあたって目めがつぶれたり、手てや足あしがまがってしまうぞ、とおどかすばかりで、諭吉ゆきちによくわかるようなせつめいをしてくれません。そこで、

(よし、ぼくがみてやろう。)

と、ある日ひ、あたりに人ひとのいないのをみすますと、いなりのほこらのとびらを、そっとひらいてみました。おっかなびっくりであけたのですが、そのとたんに、

「なあんだ、石いしころじゃないか。」

と、おもわず声こえをだしたほどでした。ほこらの中なかには、なんのへんてつもない石いしころが、一つはいっているだけではありませんか。

みたところ、道みちばたにころがっている石いしころと、ちっともかわったところはありません。これに、なにかとくべつに神かみさまの力ちからがやどっているのでしょうか。もし、そうだとすれば、この石いしころをほうりだして、そのへんにころがっているべつの石いしをほこらにいれたら、どんなことになるでしょうか。大人おとなたちは、にせのおいなりさんをありがたがらなくなるでしょうか。

諭吉ゆきちは、それをためしてみるために、ほこらの石いしをとりかえておきました。

べつだん、なんのかわったこともおこりません。それどころか、あくる朝あさ、おいなりさんをみにいくと、近所きんじょのおばあさんが、おみきとあぶらあげをそなえて、なにやら口くちの中なかでぶつぶつとなえながら、しんみょうにおがんでいるではありませんか。

(あっはっはっ。ばかなおばあさんだな。ぼくの入いれた石いしころに、おみきとあぶらあげをあげておがむなんて……。)

と、諭吉ゆきちは、おかしさをこらえて、その場ばをたちさりました。

けれども諭吉ゆきちは、このことを、だれにもはなしませんでした。はなせば、しかられるにきまっているし、自分じぶんでも、けっしてよいことをしたとはおもっていなかったからです。それでも、このいたずらによって、神かみさまのばちがあたるなどということは、ありはしないのだということを、諭吉ゆきちははっきりとしることができました。

勉強べんきょうなんて、だいきらい

諭吉ゆきちは、このように、自分じぶんでなっとくのできないことについては、自分じぶんでじっさいにためしてみるという、しっかりした少年しょうねんでした。おまけに手てさきがきようなので、家いえではたいへんちょうほうがられていました。

いどにものがおちたといえば、どういうふうにしてあげたらよいか、その方法ほうほうをかんがえだして、わけなくひきあげました。しょうじをはることなど、うまいもので、家いえのしょうじはもちろん、しんるいからたのまれて、はりにいくこともありました。げたのはなおもすげれば、たたみばりを買かってきて、たたみのおもてがえまでやりました。ですから、ひまさえあれば、木きのきれをけずって、なにかをつくっていました。

あのおいなりさんの正体しょうたいをみてからも、諭吉ゆきちの生活せいかつには、べつだんかわったことがありませんでした。

一年ねんたって、また夏なつがやってきました。

ある日ひ、お母かあさんがせんたくをしようとして、たらいをもちあげると、たががゆるんでいたのでしょうか、ばらばらにこわれてしまいました。あたらしいたらいを買かうほかないとおもわれました。しかし、諭吉ゆきちは、このばらばらにこわれたたらいをなおす役やくをひきうけました。

たけをわって、たがのわをつくるのは、たいへんむずかしい仕事しごとですが、諭吉ゆきちはいろいろとかんがえて、とうとう、もとどおりのたらいになおしてしまいました。自分じぶんながら、よくやれたものだと、いささかとくいになって、

「どうです、お母かあさん。こんなにりっぱになりましたよ。みてください。」

といいました。

お母かあさんやねえさんは大おおよろこびでしたが、兄にいさんは、あまりよい顔かおをしません。

「諭吉ゆきち、たらいのたがをなおすのもよいけれど、すこし勉強べんきょうをしたらどうだ。さむらいの子こが、字じをならわず、まるで職人しょくにんがやるようなことばかりしているのは、みっともないぞ。」

せっかく、いい気持きもちになっているところへ、このようにきびしくいわれたので、諭吉ゆきちはむっとしました。

「兄にいさんは、わたしに勉強べんきょうしろというんですか。いやなことだ。勉強べんきょうなんて、わたしはだいきらいです。」

「では、きくが、おまえは、これからさき、なんになるつもりだ。」

「そうですね。まあ、日本にっぽん一の大金持おおがねもちになって、おもうぞんぶんお金かねをつかってみたいものですね。」

「なにっ、大金持おおがねもちになりたいだと? 諭吉ゆきち、おまえは、それでもさむらいの子こか。さむらいの子こというものは、お金かねもうけなどかんがえてはならんぞ。おまえは、まだ小ちいさかったからおぼえてもいまいが、お父上ちちうえはな、さむらいの子こが金かねかんじょうなどならうものじゃないといって、わたしがかよっていた手てならいの先生せんせいが、かけざんの九九くくをおしえたら、そんな先生せんせいのところへ子こどもをあずけられないといって、おこられたことがあるくらいだ。お父上ちちうえは、りっぱな学者がくしゃだった。その血ちをひいたおまえが、勉強べんきょうはだいきらいだなんていって、はずかしいとおもわぬか。」

「わたしは、勉強べんきょうがきらいなんですから、しかたがないじゃありませんか。それに、さむらいの子こがお金かねのことをいって、どうしてわるいんですか。うちだって、もっとお金かねがあったら、どんなにいいか。兄にいさんだって、心こころの中なかでは、そうおもっているくせに。」

「へりくつをいうな。おまえのさきざきのことをかんがえて、勉強べんきょうするようにすすめてやっているのに、おまえは、それがわからんのか。なんというばかものだ。そこへすわれ、お父上ちちうえにかわって、おまえのしょうね(こころね)をたたきなおしてやるから。」

兄にいさんは、そばの木刀ぼくとうをとって、諭吉ゆきちのほうへ、あらあらしい足あしどりでつめよりました。このとき、

「おまちなさい、三之助さんのすけっ。」

と、お母かあさんが、中なかにわってはいりました。

「兄弟きょうだいげんかはいけません。諭吉ゆきちの勉強べんきょうぎらいは、母かあさんにもせきにんがあります。家いえがまずしいものだから、つい、諭吉ゆきちに家いえの手てだすけばかりをしてもらっていました。諭吉ゆきちには、母かあさんから勉強べんきょうするようにいいきかせますから、この場ばはかんにんしてやっておくれ。」

木刀ぼくとうをもってたっている兄にいさんの足あしもとに、お母かあさんはきちんとすわって、頭あたまをたたみにすりつけんばかりにして、たのみました。兄にいさんも、こしをおろして、木刀ぼくとうをかたわらにおき、お母かあさんのまえに、だまって頭あたまをさげていました。お母かあさんのうしろには、諭吉ゆきちがおなじように、頭あたまをさげていました。

女おんなこじきをいたわるお母かあさん

それから二週間しゅうかんもたったでしょうか。よくはれた日ひのお昼ひるちかくに、着物きものはぼろぼろ、かみはぼうぼうの女おんなこじきが、諭吉ゆきちの家いえの門もんの外そとにたち、はいろうか、はいるまいかと、ためらっていました。それを、せんたくものをほしていた諭吉ゆきちのお母かあさんが、目めざとくみつけました。

「まあ、おチエじゃないか。ひさしぶりだね。さあ、こちらへおはいり。」

と、庭にわのほうへよびいれました。おチエはすなおに庭にわのほうへはいってきましたが、右手みぎてで頭あたまをなんべんもかいています。

「おや、おチエは、また、しらみをわかしたとみえるな。さあ、そこへおすわり。わたしがとってあげるから。」

と、庭にわの草くさの上うえにすわらせ、

「諭吉ゆきちや、ちょっときて、てつだっておくれ。」

と、土間どまで木きぎれをけずっている諭吉ゆきちに声こえをかけました。諭吉ゆきちは、すぐにでてきましたが、

「ああ、また、しらみたいじですか。おチエは、からだがくさいから、いやだなあ。」

と、鼻はなをおさえながらいいました。

お母かあさんはいつも、おチエのしらみをとってやるのでした。そのとったしらみを、庭石にわいしの上うえにおきます。しらみははいだそうとします。それを、小石こいしをもってつぶすのが、諭吉ゆきちの役目やくめでした。諭吉ゆきちは、こればかりは、きたなくて、きたなくて、むねがわるくなるようでした。でも、お母かあさんのいいつけなので、いつもがまんして、てつだいました。

おチエは、中津なかつの町まちでは、だれからもばかにされていました。それなのに、諭吉ゆきちのお母かあさんは、士族しぞくとしての身分みぶんなどにこだわらず、よくおチエのめんどうをみてやるのでした。

「まあ、こんなに、しらみがうようよわいていては、おチエもかゆかったろうね。これからは、かみをよくあらうようにして、しらみをわかすんじゃないよ。」

と、まるでおさない子こどもにでもいうように、おチエに教おしえさとしながら、しらみをつぎつぎにとります。諭吉ゆきちも、いそがしくしらみをつぶします。

おチエは、さもうれしそうに、ときおり、にたっとわらってみせています。そのうち、頭あたまがかゆくなくなって、気持きもちがよくなったのか、おチエは、ねむたそうに、こっくりをはじめました。

「さあ、そっとしておいてやりましょう。諭吉ゆきち、おチエの顔かおをみてごらん。よいゆめでもみているのか、うれしそうな顔かおをして、まるでほとけさまみたいじゃないか。」

と、お母かあさんがいいました。諭吉ゆきちは、

「ええっ。」

とおどろきましたが、そういわれて、おチエの顔かおをみると、なるほど、お母かあさんのいうことがわかるような気持きもちがしました。

これまで女おんなこじきをいたわるお母かあさんを、ふうがわりなお母かあさんだとおもっていたのですが、人間にんげんは、わけへだてなくしんせつにしなければならないということがわかり、

「お母かあさんはえらいな。」

と、あらためてお母かあさんをそんけいしたくなりました。

「諭吉ゆきちや、母かあさんは、このあいだから、おまえにいってきかせようとおもっていたことがあります。おまえは、兄にいさんに、なんになるつもりだときかれて、大金持おおがねもちになりたいとこたえましたね。けれど、兄にいさんのいわれるように、勉強べんきょうはやはりしてもらいたいとおもいます。なくなられたお父とうさまは、おまえをおぼうさんにしたいといわれていたんですよ。」

「えっ、わたしをおぼうさんにするって、ほんとうですか、お母かあさん。」

「ほんとうですとも。それには、すこし、わけをはなさなければ、おまえには、わからないかもしれないが……。」

こういって、お母かあさんがはなしてくれたのは、つぎのようなことでした。

お父とうさんのえがいたゆめ

諭吉ゆきちのお父とうさんは、福沢百助ふくざわひゃくすけといい、中津なかつのとのさまのけらいでした。ひじょうにしょうじきで、まじめな人ひとであり、また、学問がくもんのすきな、すぐれた漢学者かんがくしゃでした。けれども、身分みぶんがひくいために、つまらない役職やくしょくにがまんしていなければなりませんでした。

それは、江戸幕府えどばくふのおわりにちかいころでしたが、そのころの日本にっぽんの社会しゃかいは、まだ、さむらいがいちばんえらいとされていました。町人ちょうにんやひゃくしょうたちは、いつも、さむらいにいじめられていました。

さむらいの家いえに生うまれたものは、どんなにつまらない人間にんげんでもさむらいになり、いばることができました。町人ちょうにんやひゃくしょうの子こどもは、いくらすぐれた人間にんげんでも、さむらいにはなれませんでした。また、さむらいの中なかでも、身分みぶんのたかいものと、ひくいものとにわけられていて、身分みぶんのひくいさむらいの子こは、身分みぶんのたかいさむらいの子こより上うえの役目やくめにつくということは、ゆるされませんでした。

そんなわけで、諭吉ゆきちのお父とうさんは、りっぱな人ひとでしたが、つまらない役目やくめにしか、つくことができませんでした。

中津なかつのとのさまは、大阪おおさかの堂島どうじまにくらやしきをかまえていました。このくらやしきは、どこのとのさまももっていたもので、自分じぶんの国くにでとれる米こめや、名産めいさん・特産とくさんの品々しなじなを、このくらやしきにおくってきて、それを大阪おおさかの商人しょうにんに売うりわたして、自分じぶんの国くにの財政ざいせいをまかなうことになっていました。

諭吉ゆきちのお父とうさんは、そのくらやしきにつとめて、回米方かいまいかたという役やくについていました。回米方かいまいかたというのは、このくらやしきにおくりこまれてきた米こめの見みはりの番ばんをしたり、商人しょうにんに売うったりする仕事しごとで、ずいぶん、せきにんのおもい役目やくめでした。けれども、そのころのさむらいは、刀かたなをつかうような役やくにつくものはだいじにされますが、お金かねのかんじょうなどをする役目やくめのものはみさげられていました。この回米方かいまいかたもまた、みさげられる役目やくめだったのです。

諭吉ゆきちは、そのお父とうさんのすえっ子ことして大阪おおさかで生うまれました。いちばん上うえが兄にいさんの三之助さんのすけで、その下したに三人にんのねえさんがありました。女おんなの子こが三人にんつづいたあとに、男おとこの子こが生うまれたのですから、お父とうさんは大おおよろこびでした。

「おまえが生うまれたときは、やせてはいたけれど、ほねぶとで、じょうぶそうな大おおきなあかちゃんだったものだから、さんばさんが、『ちちをたくさんのませれば、りっぱにそだちますよ。』というのをきいて、お父とうさまは、たいへんおよろこびになってね、『これはよい子こだ。十とおか十一になったら、お寺てらへやって、りっぱなおぼうさんにしよう。』とおっしゃったのですよ。そののちも、口くちぐせのように、『おぼうさんにしたい。』とおっしゃっていました。

ところが、おまえがかぞえ年どしで三つのときに、お父とうさまはなくなられました。それで、母かあさんは、おまえたちをつれて、中津なかつへかえってきたわけだけどね。もし、お父とうさまが生いきておられたら、おまえは、いまごろは、どこかのお寺てらの小こぞうさんになっているところだよ。」

と、お母かあさんがいいました。

「でも、わたしは、おぼうさんはきらいです。お父上ちちうえは、どうして、わたしを、おぼうさんにしようとなさったのですか。」

「さあ、それは、母かあさんにも、よくわかりませんがね。まあ、りっぱなおぼうさんになるには、勉強べんきょうをうんとしなければなりません。お父とうさまは、学問がくもんのすきなかたでしたから、おまえに勉強べんきょうをしてもらいたかったのじゃないかとおもいます。どうだろ、おぼうさんになっては……。」

「おぼうさんになるのだけは、かんべんしてください。そのかわりに……。」

「そのかわりに?」

「勉強べんきょうをします。」

諭吉ゆきちのしんけんな顔かおつきをみて、お母かあさんは、いかにもうれしそうに、にっこりとしました。

「さあ、それでは、おチエがまもなく目めをさますでしょう。おにぎりでもつくってやることにしましょう。わたしたちも、お食事しょくじをしなくてはならないしね。」

気持きもちよさそうにひるねをしているおチエの顔かおをみながら、お母かあさんは、台所だいどころのほうへはいっていきました。あとにのこった諭吉ゆきちは、おぼうさんにならずにすんだので、ほっとしました。

勉強べんきょうをすることは、このあいだ、兄にいさんからいわれて、なるほどとおもい、自分じぶんでも、やらなければならないな、とかんがえるようになっていたので、それほど苦くにはならなかったのです。勉強べんきょうなんてだいきらいだといっていた諭吉ゆきちが、すすんで勉強べんきょうするといいだしたことを、お母かあさんからきいて、兄にいさんはとてもよろこびました。

といっても、いまのような学校がっこうはありませんから、勉強べんきょうするといえば、ちかくにある塾じゅく(むかしの学校がっこう)にかようほかありません。そこへかよって、漢字かんじがいっぱいつまった中国ちゅうごくの本ほんをならうのです。それを漢学かんがくといいました。生徒せいとは、七、八さいの小ちいさな子こから十三、四さいまでのものばかりで、諭吉ゆきちがいちばん年上としうえですから、たいへんきまりがわるいことでした。けれども、負まけん気きのつよい諭吉ゆきちは、

「なあに、いまにみろ、みんなにおいついてやるから。」

と、心こころをふるいたたせて、むちゅうで勉強べんきょうにはげみました。そのため、みるみるうちに、おなじ年としごろの子こどもたちにおいつき、やがて、その子こどもたちをおいこしてしまいました。

塾じゅくは二、三回かい、かわりましたが、その中なかで、いちばんたくさん本ほんをならったのは、白石常人先生しらいしつねひとせんせいでした。漢学かんがくがおもでしたが、諭吉ゆきちは歴史れきしがすきで、すきな本ほんは、何回なんかいもよみ、暗記あんきしてしまうほどでした。

十五、六さいごろになると、諭吉ゆきちは、ふるいおきてや、わるいならわしにたいして、まえよりもいっそう、ぎもんをもつようになりました。身分みぶんのちがいということは、子こどもどうしの中なかにもあったからでした。第だい一に、ことばづかいがちがうのです。諭吉ゆきちたち下したっぱの家いえのものは、身分みぶんの上うえの家いえの子こにむかっては、

「あなたが、ああおっしゃった、こうなさった。」

と、ていねいにいわなければならないのにたいして、あいては、

「きさまは、ああいった、こうしろ。」

といったちょうしです。

塾じゅくのせいせきは、諭吉ゆきちのほうが上うえですし、からだもつよくしっかりしていながら、頭あたまがあがりません。それは、親おやの家いえがらや身分みぶんがちがうためにできたわけへだてでした。それが、諭吉ゆきちにはくやしくてくやしくてたまりません。すると、お父とうさんが、自分じぶんをおぼうさんにしようとした気持きもちがわかってくるようでした。

諭吉ゆきちのお父とうさんは、学問がくもんのあるりっぱな人ひとでしたが、身分みぶんがひくいために、つまらない役目やくめにがまんしていなければなりませんでした。ところが、おぼうさんだけは、出世しゅっせする道みちがあったのです。たとえ、さかな屋やのむすこや、ひゃくしょうの子こであっても、いっしんふらんに勉強べんきょうし、しゅぎょうをすれば、えらいおぼうさんになる道みちがひらけていました。そうなれば、さむらいはもとより、もっと上うえにいるとのさまや将軍しょうぐんにも、せっきょう(ときおしえること)をすることができますし、とうとばれ、うやまわれもしたのです。

お父とうさんは、そこに目めをつけて、

(子こどもに、自分じぶんとおなじように、いきのつまりそうにきゅうくつで、ふこうな一生しょうをおくらせたくない。もって生うまれたさいのう⦅生うまれつきの力ちから⦆を、のびるだけのばさせてやりたい。)

きっと、そうかんがえられたのだ、と諭吉ゆきちはおもいました。

(おお、そうだったのか。それに気きがつけば、もっとはやく勉強べんきょうにとりかかるのだったのに。これはぼやぼやしておれないぞ。だが、わたしがおぼうさんになれば、わたし自身じしんはすくわれるかもしれない。けれども、おなじような人ひとがせけんにはたくさんいるのだ。それらの人々ひとびとのふこうをほうっておくわけにはいかない。

いちばんだいじなことは、このようなふるいおきてや、わるいならわしを、一日にちもはやくうちやぶることだ。封建制度ほうけんせいどをなくすことだ。封建制度ほうけんせいどこそ、お父とうさんのかたきだ。にくいにくいかたきだ。)

と、諭吉ゆきちは、はっきりかんがえるようになりました。

中津なかつの町まちからでていきたい

ところが、封建制度ほうけんせいどというものは、ながいあいだにきずきあげられたものですから、ちっとやそっとの力ちからでくずれるものではありません。そのころの日本にっぽんは、どの土地とちも、このふるいおきてでおさめられていましたが、とりわけ、九州きゅうしゅうのいなかである中津なかつは、それがつよいのでした。

ですから、この町まちをとびだして、すこしでも自由じゆうなところにいかなければ、一生しょう、このままでおわってしまう、と諭吉ゆきちはしみじみとかんがえるようになりました。

兄にいさんの三之助さんのすけは、お父とうさんのあとをついで、下したっぱの役人やくにんになっていました。いとこたちも、仕事しごとについているものは下したっぱの役人やくにんばかりでした。三、四人にんあつまると、身分みぶんのたかい家いえのむすこが、たいした力ちからもないのに、よい役やくについていばるとか、自分じぶんたちは、力ちからがあっても、どうにもならぬのだ、とふへいをもらしあいました。

諭吉ゆきちも、そのふへいにはおなじ思おもいでしたが、ぐちのいいあいになったのでは、いみのないことだとおもいました。そこで、こういうのでした。

「まあ、そんな話はなしはやめようじゃありませんか。この中津なかつにいるかぎりは、なんべん、そんなことを、ぐずぐずいっても、役やくにたちませんよ。ふへいがあったら、でていくことですね。でていかないのなら、ふへいをいったってはじまりませんよ。」

「いったな、諭吉ゆきち。ばかに大おおきな口くちをきくではないか。それなら、きみは、中津なかつをでていくというのか。」

「さあ、それは、なんともいえませんがね。」

あまり、はっきりしたことをいえば、どんなうるさいことがおこるかもしれませんから、諭吉ゆきちはことばをにごしました。しかし、このころから、心こころの中なかでは、中津なかつからでていくことを決心けっしんして、その決心けっしんを、なんとしてでも実行じっこうしようと、おもいさだめました。

そうして、ひそかにじゅんびをはじめたのでした。ちょうど、白石先生しらいしせんせいのところでいっしょに勉強べんきょうしている生徒せいとの中なかに、諭吉ゆきちよりももっとまずしい人ひとが二人ふたりいました。その二人ふたりは、あんまを内職ないしょくにして、勉強べんきょうしているのでした。

そのことをきいて、諭吉ゆきちは、

(これは、よいことをきいた。自分じぶんも、そのうち中津なかつからとびださなければならないが、あんまを内職ないしょくにすれば、兄にいさんからお金かねをだしてもらわなくてもすむ。)

そうおもって、さっそく、その二人ふたりに、あんまをおしえてもらい、しきりにけいこをしました。もともと、手てさきがきようなので、すぐこつをおぼえ、お母かあさんをじっけんのあいてにしました。

「白石先生しらいしせんせいのところでは、学問がくもんばかりおしえるのかとおもっていたら、あんまのやりかたもおしえてくださるのかね。ああ、いい気持きもちだ。諭吉ゆきちのうでまえは、なかなかたいしたものだよ。」

と、お母さんは大おおよろこびです。

もとより、お母かあさんは諭吉ゆきちが中津なかつをとびだそうとしていることをしりません。けれども、諭吉ゆきちは、その日ひのくるのを、じっとまっていたのでした。

そうして、諭吉ゆきちがかんがえていることのあらわれる日ひが、目めにみえないところで、すすんでいました。時代じだいが大おおきくうごいてきていたのです。

2 ほこりたかき書生しょせい

西洋せいようのまど、長崎ながさき

諭吉ゆきちのまちのぞんでいたときが、やがておとずれました。それは、諭吉ゆきちが二十一さいとなった、安政あんせい元がん(一八五四)年ねん二月がつのことでした。

そのまえの年としの六月がつに、アメリカから、ペリーが軍艦ぐんかん四せきをひきいて浦賀うらが(神奈川県かながわけん)にやってきて、

「国くにをひらいて、ぼうえきをしようではないか。」

と、はげしくせまりました。いやだというなら、大砲たいほうをうちこんでも、うんといわせるといういきおいでした。これは、江戸幕府えどばくふにとっては、たいへんむずかしいもんだいでした。

というのは、江戸幕府えどばくふは、それまで、およそ三百年ねんちかくのあいだ、外国がいこくとのつきあいをせず、品物しなもののとりひきなどもしないことにしていました。ですから、世界せかいの国々くにぐにのようすは、なにもわかりませんし、また、どうなっているかをしろうともしませんでした。これを「鎖国さこく」といいます。つまり、国くにをとじて、外国がいこくをしめだしてしまったわけでした。ただ、中国ちゅうごくとオランダとだけは、長崎ながさきでぼうえきをすることがゆるされていました。

なぜ、幕府ばくふが国くにをとざしたかといいますと、それは、キリスト教きょうが日本にっぽんにはいってくるのをおそれたからでした。中国ちゅうごくとはとなりどうしで、まえまえからのつきあいであり、キリスト教きょうの国くにではないから、そのままつきあったのですが、オランダとは、キリスト教きょうを日本にっぽんへひろめないというやくそくで、ぼうえきをしていました。

ところが、こんど、キリスト教きょうをしんずるアメリカが、日本にっぽんに国くにをひらかせて、自由じゆうにぼうえきをやろうといってきたのです。こまった幕府ばくふは、ペリーのさしだしたアメリカ大統領だいとうりょうからの手紙てがみだけをうけとりました。ペリーは、へんじは一年ねんのちにもらうからといって、かえっていきました。

さあ、それからがたいへんでした。国くにをひらこうという考かんがえの人ひとと、外国人がいこくじんはみなおいはらえという考かんがえの人ひとと、日本にっぽんは二つにわかれました。しかも、京都きょうとの天皇てんのうのがわは、国くにをひらきたくない考かんがえだったので、幕府ばくふは、外国がいこくとの板いたばさみになったかっこうでした。

でも、ぐずぐずしてはいられません。一年ねんたったら、ペリーがまたやってきます。もしも、「アメリカのいうとおりにはできない。」というへんじをすれば、軍艦ぐんかんから大砲たいほうをうってくるかもしれません。そこで、幕府ばくふは、品川しながわのおきに、砲台ほうだい(大砲たいほうをすえたじん地ち)をつくって、江戸えど(いまの東京とうきょう)の城しろをまもろうとしました。そのためには、砲術ほうじゅつ(大砲たいほうのつかいかた)をまなばなければならないと、やかましくいわれはじめました。

あちこちのとのさまたちのあいだでも、けらいに砲術ほうじゅつをまなばせることがはやってきました。もちろん、中津なかつにも、このことがつたわってきました。人々ひとびとは、にわかに砲術ほうじゅつというものに心こころをむけはじめました。

その砲術ほうじゅつをまなぶには、オランダからまなぶよりほかありません。それには、どうしてもまずオランダ語ごを勉強べんきょうして、オランダ語ごでかいた本ほんがよめるようにならなければなりません。

ある日ひ、兄にいさんの三之助さんのすけが、諭吉ゆきちをよんで、いいました。

「どうだ、諭吉ゆきち。オランダ語ごを勉強べんきょうして、原書げんしょ(外国語がいこくごでかかれた本ほん)をよんでみる気きはないか。」

いきなり、こんなことをいわれたので、諭吉ゆきちは、目めをまるくしました。それに、原書げんしょということばははじめてきいたことばなので、

「その原書げんしょっていうのは、なんですか。」

とききかえしました。

「オランダ語ごでかいた本ほんのことだよ。日本語にほんごにも、かなりほんやくされているけれども、だいじなところだけをみじかくかいたり、ときには、まちがってほんやくしたところがあるそうだ。だから、砲術ほうじゅつをほんとうにしるには、自分じぶんで、その原書げんしょをよまなければならないんだ。」

「ずいぶんむずかしいんでしょうね。」

「それは、むずかしいにきまっているさ。けれども、原書げんしょをよむことができれば、ほんとうのことがわかるからおもしろいぞ。どうだ、やってみないか、諭吉ゆきち。」

「やりましょう。どうせ、人ひとのよむものなら、横文字よこもじであろうが、なんであろうが、やれないということはないでしょうから。」

諭吉ゆきちの負まけずぎらいな気持きもちが、むくむくと、むねの中なかにわきあがって、そういわせました。

「そうだとも。おまえなら、その気きにさえなれば、きっとやれるとおもうよ。」

と、兄にいさんは、にっこりわらいました。

けれども、中津なかつには原書げんしょもなければ、おしえてくれる先生せんせいもありません。オランダのことばを勉強べんきょうするには――それを蘭学らんがくといっていました――、長崎ながさきへいかなければなりません。長崎ながさきだけが、そのころの西洋せいようの文明ぶんめいがながれこむ、一つのまどのようなところだったのです。

さいわいなことに、兄にいさんが、役所やくしょの用事ようじで長崎ながさきへでかけることになったので、諭吉ゆきちもいっしょにいくことになりました。

(中津なかつからとびだしたい。)

という諭吉ゆきちのきぼうは、こうしてかなえられたのでした。

数日すうじつののち、長崎ながさきについた諭吉ゆきちは、桶屋町おけやちょうの光永寺こうえいじという寺てらにいきました。ちょうどそのころ、中津なかつの家老かろう(大名だいみょう・小名しょうみょうのけらいの長ちょう)の子この奥平壱岐おくだいらいきというわかいさむらいが、砲術ほうじゅつの研究けんきゅうのためにやってきて、ここにとまっていたからです。それで、この人ひとにたのんで、お寺てらにやっかいになりましたが、半年はんとしほどのちには、やはり壱岐いきのせわで、砲術研究家ほうじゅつけんきゅうかの山本物次郎やまもとものじろうという人ひとの家いえで、はたらきながら、オランダの学問がくもんをまなぶことになりました。

ところが、山本先生やまもとせんせいは目めがわるくて、本ほんをよむことが不自由ふじゆうなので、諭吉ゆきちは、世よの中なかのうごきなどについて、いろいろな先生せんせいがたの漢文かんぶんでかいたものをよんであげたり、手紙てがみをかわりにかいてあげたりしなければなりません。また、山本先生やまもとせんせいにはむすこが一人ひとりありましたが、その子こに漢文かんぶんをおしえる家庭教師かていきょうしの役やくも、仕事しごとの一つでした。

それから、山本先生やまもとせんせいの家いえはくらしむきは大おおきいのですが、びんぼうで借金しゃっきんがあるものですから、そのいいわけをしたり、ときにはお金かねをかりにいかなければなりません。下男げなん(男おとこの使用人しようにん)が病気びょうきになれば、水みずくみもしました。女中じょちゅう(女おんなのおてつだいさん)にさしつかえがあれば、台所だいどころのてつだいもしました。ふきそうじはもちろん、先生せんせいがふろにはいられると、せなかをながしてあげたり、生いきもののすきなおくさんの飼かっているいぬやねこのせわもしなければなりません。

こんなに、うちの中なかのざつようでもなんでも、諭吉ゆきちは、すこしもいやな顔かおをしないで、かいがいしくはたらくので、先生せんせいばかりでなく、おくさんにも、女中じょちゅうにも、家いえじゅうで、たいへんちょうほうがられました。

そのころの砲術家ほうじゅつかは、じっさいに大砲たいほうをつくったり、大砲たいほうのうちかたのけいこをするわけではありませんでした。ただオランダの砲術ほうじゅつの本ほんをいろいろもっているということと、それをよんでせつめいができるというだけでした。

その本ほんをお礼れいをとってかしたり、それをうつしたいといえば、うつすためのお礼れいをとるというわけで、そのお礼れいが山本家やまもとけの収入しゅうにゅうになります。その本ほんをかすのも、うつすのも、山本先生やまもとせんせいは目めがわるいので、みな諭吉ゆきちがかわってやりました。

大砲たいほうをつくるための設計図せっけいずがほしいとか、出島でじまのオランダやしきをみたいとかいってくる人ひとがあります。それらのせわをするのも山本先生やまもとせんせいの仕事しごとでした。設計図せつけいずなど、諭吉ゆきちは、じっさい大砲たいほうをうつのはみたこともないのですが、図面ずめんをひくだけなら、もともと手てさきがきようなものですから、わけはありません。さっさと図ずをひいたり、せつめいをかいてわたします。

諭吉ゆきちは、全国ぜんこくからあつまってくる人ひとたちをあいてにして、まるでもう、十年ねんもまえから砲術ほうじゅつをまなんだ、りっぱな砲術家ほうじゅつかだとおもわれるほどに、人ひとにあってこたえられるようになりました。

こうした、いそがしい仕事しごとを、てきぱきとやってのけるあいまには、諭吉ゆきちは自分じぶんの勉強べんきょうをもわすれませんでした。もともと長崎ながさきにでてきたもくてきは、原書げんしょがよめるようになるということでしたから、オランダ流りゅうの医者いしゃや、オランダ語ごのつうやくをする人ひとの家いえなどにいって、いっしんふらんに原書げんしょの勉強べんきょうをしました。諭吉ゆきちは、原書げんしょというものをはじめてみて、

(これはむずかしいぞ。)

とおもいました。それはむりもありません、アルファベット二十六字じをおぼえてしまうのに、三日みっかもかかったのですから。けれども、五十日にち、百日にちと日ひがたつにつれて、だんだんよめるようになり、いみもわかるようになってきました。

こうなると、おもしろくないのは、奥平壱岐おくだいらいきでした。壱岐いきは身分みぶんのたかい家老かろうのむすこで、諭吉ゆきちより十さいぐらい年上としうえです。はじめはせんぱいぶって、あれこれとおしえてくれていたのですが、そのうちに、砲術ほうじゅつについても、オランダ語ごについても、諭吉ゆきちのほうが上うえになって、壱岐いきはそれまでとはあべこべに、諭吉ゆきちからおそわらなければならなくなりました。それが、壱岐いきにはしゃくのたねでした。

それなら、いっしょうけんめいに勉強べんきょうすればよいはずですが、なにしろおぼっちゃんのことですから、自分じぶんでどりょくするということがありません。ただ、諭吉ゆきちが目めの上うえのこぶのようにおもわれてきました。そこで、わるぢえをおもいつきました。

家老かろうのむすこのわるぢえ

諭吉ゆきちが長崎ながさきへきてから、一年ねんあまりたったときでした。中津なかつの藤本元岱ふじもとげんたいという、医者いしゃをしているいとこから、とつぜん手紙てがみがとどきました。

「お母上ははうえさまが、おもい病気びょうきになられました。すぐかえってこられるように。」

といういみの手紙てがみでした。よんでいく諭吉ゆきちの顔かおからは、みるみるうちに血ちのけがひいていきました。

兄にいさんの三之助さんのすけは、なくなったお父とうさんとおなじように、大阪おおさかのくらやしきにつとめており、三人にんのおねえさんはみなよめ入いりして、ふるさとの中津なかつのうちには、年としをとったお母かあさんのお順じゅんが一人ひとりいるだけなのです。

それにしても、あんなにじょうぶなお母かあさんが、いったいどうなさったのかと、うそのようにおもわれてなりません。けれども、どうじに、一人ひとり心こころぼそくねておられるお母かあさんのすがたをおもうと、諭吉ゆきちは、じっとしていられないほどでした。その手紙てがみをくりかえしよんで、諭吉ゆきちは男おとこなきになきました。

ところが、ふと、いとこからは、もう一通つうの手紙てがみがきていることに気きがつきました。それをいそいでよんだ諭吉ゆきちの顔かおには、血ちのけがよみがえってきました。

「お母上ははうえさまのご病気びょうきというのは、うそです。じつは、こういうわけがあって……。」

と、その手紙てがみには、つぎのようなことがかかれていました。

それは、奥平壱岐おくだいらいきのしくんだひきょうなはかりごとだったのです。諭吉ゆきちが長崎ながさきへきたとき、壱岐いきはおなじ中津なかつのものだというので、めんどうもみてくれたし、なつかしがりもしました。けれども、自分じぶんよりも身分みぶんのひくい諭吉ゆきちが、勉強べんきょうがどんどんすすんでいき、ひょうばんのよくなっていくのをみて、これでは、自分じぶんのねうちがさがってしまうとおもいこみました。

なんとかして、諭吉ゆきちを長崎ながさきからおいだしてしまおうとかんがえて、そのことを中津なかつの父親ちちおやにしらせてやったのでした。父親ちちおやというのは家老かろうですが、自分じぶんのむすこにたいしてはとてもあまい親おやばかでしたから、諭吉ゆきちのいとこ藤本元岱ふじもとげんたいをよびつけて、

「諭吉ゆきちが長崎ながさきにいては、せがれ壱岐いきの出世しゅっせのじゃまになるから、中津なかつへよびもどしてくれ。ただし、そのりゆうには、母ははが病気びょうきだといってやれ。」

と、きびしいめいれいです。家老かろうじきじきのめいれいですから、ことわるわけにいきません。

「かしこまりました。」

とこたえて、諭吉ゆきちのお母かあさんにも話はなしをして、そうだんのけっか、おもてむきは、家老かろうのめいれいどおりの手紙てがみをかいて、もう一通つうには、このいきさつをかいて、

「ほんとうは、お母かあさんは元気げんきですから、けっして心配しんぱいするな。」

とかいてやったのでした。

これをよんだ諭吉ゆきちのむねは、いかりのために、ばくはつしそうになりました。

(なんというひきょうなわるぢえだ。よしっ、この手紙てがみをみせて、壱岐いきをとっちめてやろう。)

と、いちじはかっとなりましたが、

(いやいや、まてよ。いま、ここでけんかをしたところで、身分みぶんがちがうから、こっちがまけるにきまっている。それに、壱岐いきだって、それほど悪人あくにんではないのだ。)

と、ぐっとがまんをしました。

(けれども、こういうことをきいては、この長崎ながさきにもいたくない。お母かあさんがお元気げんきなんだから、中津なかつへかえることもない。どうすればよいか。)

と、さんざんにかんがえこんだすえ、

(そうだ、江戸えどへいこう。江戸えどにも、りっぱな先生せんせいがおられるはずだ。)

こう決心けっしんした諭吉ゆきちは、なにもしらないふりをして、壱岐いきのところへ、おわかれのあいさつにいきました。

「じつは、中津なかつのいとこから、母ははがきゅうに病気びょうきになったから、すぐかえってくるようにとしらせてまいりました。ふだんは、いたってじょうぶなほうでしたが、わからないものです。いまごろはどういうようすでしょうか。とおくはなれていますと、気きになってなりません。」

と、心配しんぱいそうに、いろいろのべたてますと、壱岐いきも、さもおどろいたような顔かおをして、

「それは、きのどくなことじゃ。さぞ心配しんぱいであろう。とにかく、一日にちもはやくかえったほうがよかろう。しかし、母上ははうえの病気びょうきがなおったら、また、長崎ながさきへこられるようにしてやるから。」

と、なぐさめ顔がおにいうのでした。

「それでは、おさしずどおり、さっそく国くにへかえりますが、お父上ちちうえさまにおことづてはございませんか。いずれかえりましたら、お目めにかかります。また、なにかおとどけする品物しなものがありましたら、もってまいります。」

と、一どわかれをつげて、つぎの朝あさ、またいってみますと、壱岐いきは自分じぶんの家いえにやる手紙てがみをだして、これをやしきへとどけてくれ、それからお父上ちちうえにあったら、これこれつたえてくれといい、またべつに、諭吉ゆきちのお母かあさんのいとこにあたる大橋六助おおはしろくすけという人ひとにあてた手紙てがみをとりだして、

「これを大橋おおはしのところへもっていけ。そうすると、きさまがまた長崎ながさきへでてくるのにつごうがよいだろう。」

といって、わざとその手紙てがみにふうをせずに、あけてみよといわぬばかりにしてありますから、

「なにもかも、いさいしょうちいたしました。」

と、ていねいにわかれをつげました。うちにかえって、ふうなしの手紙てがみをあけてみますと、

「諭吉ゆきちは母ははの病気びようきにつき、どうしても国くにへかえるというから、しかたなしにかえらせるが、まだ勉強べんきょうのとちゅうの身みのうえだから、また長崎ながさきへでてくることができるように、そちが、よくとりはからってやれ。」

というもんくです。諭吉ゆきちは、これをみて、ますます、しゃくにさわりました。

(いまごろは、けいりゃくがうまくいったと、とくいになっているにちがいない。このさるまつ⦅壱岐いきのあだ名な⦆めっ、ばかやろう。)

と、はらの中なかで、さんざんののしりました。けれども山本先生やまもとせんせいにも、ほんとうのことはいえません。もし、この話はなしがわかって、奥平おくだいらというやつはひどいやつだというようなことにでもなれば、わざわいはかえって諭吉ゆきちの身みにふりかかって、どんなめにあうかしれません。それがこわいので、

「母ははが病気びょうきになりましたので、中津なかつへかえらなければならなくなりました。」

といって、いとまごいをしました。

ただしい勉強べんきょうの第だい一歩ぽ

ちょうどそのとき、中津なかつからくろがね屋や惣兵衛そうべえという商人しょうにんが長崎ながさきにきていて、用事ようじがすんだので、中津なかつへかえることになっていました。諭吉ゆきちは、その男おとこといっしょにかえろうとやくそくをしておいたのですが、もとより中津なかつへかえるつもりはありません。心こころは江戸えどへむかっていました。といっても、江戸えどにはたよっていくところがありません。

さいわい、江戸えどから長崎ながさきへ勉強べんきょうにきている書生しょせいなかまに、岡部おかべという青年せいねんがいました。しっかりした人物じんぶつですし、そのお父とうさんは、江戸えどで医者いしゃをしていました。

「ひとつ、きみにおねがいがあるんだけど。もし、わたしが江戸えどへいったら、きみのお父とうさんの家いえのげんかん番ばんにしてくれるよう、きみからたのんでもらえまいか。」

とたのみますと、

「いいとも。日本橋にほんばしにいって、医者いしゃの岡部おかべときいてもらえば、すぐわかるよ。」

と、さっそく手紙てがみをかいてくれました。

こうして、三月がつのなかばごろのある日ひ、諭吉ゆきちたちは長崎ながさきをたって、諫早いさはや(長崎県ながさきけん)へむかいました。そこへついたのは、月つきのあかるいばんでしたが、諭吉ゆきちは、くろがね屋やにむかっていいました。

「ところで、くろがね屋や。おれは長崎ながさきをでるときに、中津なかつへかえるつもりであったが、きゅうにかえるのがいやになった。これから下関しものせきへでて大阪おおさかへむかい、それから江戸えどへいくことにした。ついては、めんどうでも、このにもつと手紙てがみをとどけてはもらえまいか。」

「それは、とんでもないことです。あなたのような年としのわかい、旅たびになれないおぼっちゃんが、一人ひとりで江戸えどへおいでになるなんて。」

と、くろがね屋やは、びっくりしてとめました。けれども、諭吉ゆきちはかたく決心けっしんしたことです。くろがね屋やとわかれて、一人旅ひとりたびをつづけ、下関しものせきから船ふねにのりました。

ところが、この船ふねは、京きょう・大阪おおさかなどを見物けんぶつにでかける人々ひとびとをのせた船ふねでしたから、そのとちゅうでも、あちらこちらのみなとによって、見物けんぶつをしたり、船ふねの中なかでは、ごちそうをひろげて酒さかもりをしてさわいだり、まことに船ふねのすすみぐあいがおそいのです。

諭吉ゆきちは、勉強べんきょうにでかけようとはりきっているのですから、ばかばかしくてしかたがありません。十五日にちめに、やっと明石あかし(兵庫県ひょうごけん)についたとき、船ふねからおろしてもらいました。これから大阪おおさかまであるこうというのです。それでも船ふねよりははやく大阪おおさかにつくことがわかったので、船ふねからおろしてもらったのでした。

大阪おおさかまでは十五里り(やく六十キロ)あるとききました。お金かねがないものですから、すきばらをかかえて、とぼとぼとあるきつづけました。宿屋やどやにとまることもできません。夜よるになって、さびしいくらい道みちをとおっているときなど、

(わるいやつがでてこなければよいが。)

と、おもわず、刀かたなのつかをにぎっていることもありました。足あしをひきずりながら、やっとの思おもいで大阪おおさかの兄にいさんのところにたどりついたのは、夜よるの十時じすぎでした。

兄にいさんは、たいへんおどろきましたが、くわしいわけをきくと、

「そうだったのか、よくわかった。だが、長崎ながさきからここにくるには、中津なかつによってくるのが道みちのじゅんというものだ。それを、おまえはお母かあさんのおられる中津なかつをよけてきた。まあ、わたしがここにいなければともかく、おまえとここで顔かおをあわせながら、このまま江戸えどへいかせたとあっては、まるで兄弟きょうだいがぐるになってやったようで、お母かあさんにもうしわけないではないか。お母かあさんは、それほどにはおもわれないかもしれないが、どうしてもわたしの気きがすまない。江戸えどへいかなくとも、大阪おおさかにだって、よい先生せんせいがありそうなものだ。そのことをかんがえてみてくれ。が、今夜こんやは、おまえはつかれているだろうから、ゆっくりやすんだらよかろう。」

と、やさしくいたわってくれました。

諭吉ゆきちは、かぞえ年どしで三つのときに、中津なかつへかえり、こんど十八、九年ねんぶりで、大阪おおさかへきたのですが、くらやしきのまわりには、まだ諭吉ゆきちのことをおぼえているものがたくさんありました。ですから、あくる日ひになると、諭吉ゆきちがきたことをしって、これらの人々ひとびとがあつまってきました。

「おお、ほんとに大おおきくなられた。やっぱり、あかちゃんのときのおもかげが、どこかにのこっていますね。」

などといって、なみだをながさんばかりに、よろこんでくれる人ひともいました。諭吉ゆきちのおもりをしてくれた武八ぶはちじいさんは、自分じぶんのまごがきたようなよろこびかたで、堂島どうじまのあたりをあるきながら、

「のう、わかぼっちゃま。おまえさまのお生うまれなすったとき、このわしは夜中よなかに、あの横町よこちょうのさんばさんのところへむかえにいったもんです。そのさんばさんは、いまもたっしゃにしておるようです。それから、よくおまえさまをだいて、毎日毎日まいにちまいにち、すもうのけいこ場ばをのぞきにいったものですが、あれがそうです。」

と、ゆびさしておしえてくれました。それをきいていると、諭吉ゆきちは、むねがいっぱいになって、おもわずなみだをこぼしました。

こんなわけで、諭吉ゆきちは、自分じぶんが旅たびにある身みとはおもえず、ほんとうに、ふるさとにかえったような気持きもちがしました。

そこで、兄にいさんのすすめもあることだし、大阪おおさかで勉強べんきょうすることにし、緒方洪庵おがたこうあんという先生せんせいの塾じゅくにはいることになりました。

塾じゅくは「適塾てきじゅく」といい、船場せんばの過書町かいしょまち(いまの東区ひがしく北浜きたはま三丁目ちょうめ)にありました。緒方先生おがたせんせいはすぐれた町医者まちいしゃで、オランダ語ごとオランダ医学いがくをおしえていて、おおぜいの書生しょせいがいました。

諭吉ゆきちが適塾てきじゅくにはいったのは、安政あんせい二(一八五五)年ねん三月がつのことでした。先生せんせいは諭吉ゆきちにむかって、

「いままで、どんな勉強べんきょうをしてこられたのかね。」

とたずねました。

「はい、きまった先生せんせいはございません。長崎ながさきで、いろいろな先生せんせいからならいました。」

「では、これをよんでごらん。」

先生せんせいがさしだした本ほんを、諭吉ゆきちはしばらくみていましたが、やがてよみはじめました。これまでに勉強べんきょうしたことをおもいだしながら、日本語にほんごにほんやくしていきました。

「ほほう。本場ほんばの長崎ながさきで勉強べんきょうしただけあって、きみは、よみかたがうまい。」

とほめてくれたので、諭吉ゆきちがおもわずにっこりしますと、

「だが、どうも、きみは正式せいしきな勉強べんきょうをしてないようだね。土台どだいがしっかりしていない。外国語がいこくごのいみをただしくくみとるには、文法ぶんぽう、つまりことばのきまり、やくそくだね、それをよくしっていなければいけない。文法ぶんぽうは文章ぶんしょうの土台どだいだ。きみは、文法ぶんぽうを、あたらしく第だい一歩ぽからやりなおすひつようがあるね。」

といわれ、がっかりしてしまいました。

けれども、そのまま、へこたれてしまうような諭吉ゆきちではありません。

「ようし、はじめからやりなおしだ。」

もちまえの負まけじだましいをだして、がんばりましたから、諭吉ゆきちの勉強べんきょうはどんどんすすんでいきました。兄にいさんはいつも、そばではげましてくれたり、いろいろと力ちからになってくれました。

ところが、つぎの年としの正月しょうがつごろから、兄にいさんがリューマチという病気びょうきをわずらって、右手みぎての自由じゆうがきかなくなりました。

そのうちに、こんどは諭吉ゆきちが腸ちょうチフスにかかりました。それは、適塾てきじゅくの兄あにでしである岸きしという人ひとが、腸ちょうチフスにかかったのをかんびょうしていて、うつったのでした。たいへんおもくて、これでもう死しんでしまうのではないかとおもわれる日ひが、いく日にちもつづきました。

緒方先生おがたせんせいは、ひじょうに心配しんぱいして、いろいろとめんどうをみてくれました。そのおかげで、四月がつごろには外そとにでてあるくことができるようになりました。兄にいさんも、だいぶんよくなりました。

ちょうど、そのころ、兄にいさんの役所やくしょのつとめがおわり、中津なかつの町まちへかえることになったので、諭吉ゆきちも、なつかしいお母かあさんのそばで、病後びょうごのからだをやしなうことになりました。

兄にいさんといっしょに船ふねにのってかえったのは、五、六月がつのことでした。

(もう二どと中津なかつへなんか、かえるものか。)

と、かくごをきめていた諭吉ゆきちですが、お母かあさんのつくってくださるりょうりをいただいていると、目めにみえてけんこうをとりもどしてきました。兄にいさんのリューマチも、いますぐあぶないというようすもないので、八月がつにふたたび大阪おおさかにもどって、勉強べんきょうをはじめました。

ところが、秋あきになってまもない九月がつ十日とおかごろ、お母かあさんから、九月がつ三日みっかに兄にいさんがなくなったから、すぐかえってくるようにとの知しらせがありました。びっくりした諭吉ゆきちは、すぐさま中津なかつへかえりました。そうしきはおわっていましたが、かわいいあととりむすこをなくしたお母かあさんと、やさしい兄にいさんをなくした諭吉ゆきちとは、手てをとりあって、かなしみあいました。

築城書ちくじょうしょをこっそりうつす

兄にいさんがなくなったので、諭吉ゆきちは、福沢家ふくざわけのあととりとなり、中津藩なかつはんの役所やくしょに毎日まいにち、つとめなければならなくなりました。けれども、心こころの中なかでは、中津なかつにいることが、いやでいやでたまりません。

ある日ひ、おじさんのところでなんの気きなしに、大阪おおさかへまたいきたいとはなしますと、

「ばかなことをいうな。福沢家ふくざわけのあととりとなったからには、この中津なかつで、役所やくしょの仕事しごとにはげまなければいけない。よそへいって、おまけに、せけんできらわれているオランダの学問がくもんをしたいなんて、とんでもない話はなしだ。」

と、おそろしいけんまくで、しかられてしまいました。

そのころ、中津藩なかつはんの空気くうきは大だいの西洋せいようぎらいでしたから、諭吉ゆきちの気持きもちなどさっしてくれるものがないのも、むりはありません。そこで、諭吉ゆきちは、お母かあさんにさんせいしてもらうほかに方法ほうほうがないとかんがえ、そのゆるしをえるじきをねらっていました。

そうしたある日ひ、諭吉ゆきちは、長崎ながさきからかえってきた奥平壱岐おくだいらいきのところへあいさつにいきました。壱岐いきは諭吉ゆきちを長崎ながさきからおいだした人ひとですが、家老かろうのむすこですから、しらぬ顔かおをしているわけにもいきません。ひさびさのあいさつをかわし、よもやまの話はなしに花はなをさかせているうちに、壱岐いきは、一さつの原書げんしょをとりだして、

「ときに、どうじゃ。この本ほんは、長崎ながさきで手てに入いれたオランダの築城書ちくじょうしょ(城しろのつくりかたの本ほん)だ。めずらしいものじゃろうが。なにしろ、わずか二十三両りょうで買かったほりだしものだからな。」

と、じまんそうにみせました。

諭吉ゆきちは、大阪おおさかの適塾てきじゅくで、医学いがくや物理ぶつりの本ほんをみたことはありますが、まだ築城書ちくじょうしょをみたことはありません。それに、ペリーがきてからは、日本国にっぽんこくじゅうで、海うみのまもりや、陸りくの城しろづくりの話はなしで大おおさわぎをしているときでしたから、諭吉ゆきちは、いっそうこの本ほんをよんでみたくなりました。しかし、かせといったところで、かしてくれるはずはありません。でも、うまくおだてたら、ひょっとしたら、という考かんがえがうかんだので、

「いや、これは、まったくすばらしい本ほんです。それを二十三両りょうでお買かいになったなんて、ほんとうにほりだしものです。オランダ語ごの勉強べんきょうがうんとすすまれたから、こういうほりだしものをみつけられたんですね、きっと。わたしなどには、一年ねんや二年ねんでよみとおせるものではございません。けれども、せめて、絵図えずともくじだけでも、一ひととおりはいけんしたいものですが、いかがでしょう、四、五日にち、かしていただけませんか。」

おもいきって、こう、きいてみました。すると、壱岐いきは、ほめられたのが、よほどうれしかったとみえて、

「ああ、いいとも。四、五日にちでよいなら、もっていきなさい。」

といいました。よろこんだ諭吉ゆきちは、壱岐いきの気持きもちがかわらぬうちにと、原書げんしょをだいじにかかえて、いそいで家いえにかえってきました。

さっそく、羽はねペンと墨汁ぼくじゅうと紙かみを用意よういして、二百ページあまりの築城書ちくじょうしょを、かたっぱしからうつしはじめました。なにしろ、人ひとにしられてはたいへんなので、家いえのおくにひっこみ、だれにもあわず、昼ひるも夜よるも、力ちからのかぎり、むちゅうになってうつしました。

このとき諭吉ゆきちは、城しろの門番もんばんをするつとめがありました。三日みっかに一どは、その番ばんがまわってきます。その日ひだけは、昼ひるはうつすことができません。しかし、夜よるになると、こっそりとはじめて、朝あさ、城しろの門もんがあくまでうつしました。顔かおははれぼったくなり、病人びょうにんのようにみえました。

横文字よこもじをうつすこともたいへんですが、もしも、このことが壱岐いきにわかったら、ただ原書げんしょをとりかえされるだけではすまないかもしれません。いろいろとむずかしいことになるだろうとおもうと、その心配しんぱいは一ひととおりではありません。

(まるで、どろぼうをしているようなものだ。)

と、壱岐いきにたいして、わるいとおもいましたが、

(でも、壱岐いきはわるだくみで、自分じぶんを長崎ながさきからおいだしたんだから、まあ、これで、あいこというものだ。)

と、自分じぶんで自分じぶんのやっていることをいいわけしてなぐさめ、とうとう、二十日はつかばかりでうつしおえました。

「せっかくおかしいただいたのですが、もくじをみても、ちんぷんかんぷんで、なにがかいてあるのか、よくわかりませんでした。それで、つい、おそくなってしまいました。」

諭吉ゆきちが、こういってかえしますと、壱岐いきは、かえって、うれしそうな顔かおつきをしました。これで、壱岐いきには、なにもしられずにすみ、諭吉ゆきちはほっとしました。

とどうじに、諭吉ゆきちは、このぬすみうつした築城書ちくじょうしょをよんでみたくなりました。それには、大阪おおさかへいって、みっちり勉強べんきょうしなければなりません。けれども、年としとったお母かあさんが、どんなにさびしがるだろうとおもうと、諭吉ゆきちの心こころはまよいました。でも、おもいきって諭吉ゆきちがはなしますと、お母かあさんは、気持きもちよくゆるしてくださいました。

大阪おおさかへいくとなると、あとのしまつをしておかなければなりません。兄にいさんの病気びょうきなどで、借金しゃっきんがだいぶありました。そこで、家いえのどうぐなどを売うりはらって、それをかえしてしまいました。

しかし、諭吉ゆきちは、これまでとはちがって、福沢家ふくざわけのあととりとなったのですから、藩はんのゆるしがなければ、中津なかつから一歩ぽも外そとへでることができません。蘭学らんがくの勉強べんきょうにいきたいというねがいをだしました。すると、したしくしているかかりの人ひとが、

「蘭学らんがくしゅぎょうというのは、さきにれいがないし、ぐあいがわるい。砲術ほうじゅつしゅぎょうにいきたいというねがいにしたほうがよい。」

と注意ちゅういしてくれました。

「しかし、緒方洪庵先生おがたこうあんせんせいといえば、大阪おおさかでもゆうめいな医者いしゃですよ。その医者いしゃのところへ砲術ほうじゅつしゅぎょうにいくというのは、おかしいではありませんか。」

諭吉ゆきちがたずねますと、

「いや、そうしたほうがよい。そうでないと、なかなかゆるしがでないから。」

というのでした。

かたちやていさいだけにこだわる役所やくしょのやりかたをばかばかしくおもいましたが、とにかく、そういうねがいにかきかえてだしますと、かかりの人ひとがいったとおり、ゆるしがでました。

ほこりたかきばんカラ書生しょせい

大阪おおさかへふたたびやってきた諭吉ゆきちは、すぐ緒方先生おがたせんせいのところへいきました。二か月げつぶりにあった先生せんせいに、諭吉ゆきちは、中津なかつであったいろいろなことをほうこくし、かりた原書げんしょをうつしてしまったこともはなしました。

「そうか。それは、ちょっとのあいだに、けしからぬことをしたような、また、よいことをしたようなものじゃな。はっはっは。」

とわらいながら、ことばをつづけて、

「ところで、いまの話はなしで、おまえには、どうしても学資がくし(勉強べんきょうするためのお金かね)がでないことがわかったから、わたしがせわをしてやりたい。しかし、ほかにも書生しょせいがいることだし、おまえ一人ひとりにえこひいきするようにみられては、おたがいによくない。どうだろうな、その、おまえがうつしたという築城書ちくじょうしょは、おもしろそうだから、それをおまえにほんやくしてもらうということにしては……。うん、それがよい。そうしなさい。」

と、しんせつにいってくれました。

諭吉ゆきちは、よろこんで、その日ひから、適塾てきじゅくにねとまりして、勉強べんきょうすることになりました。ここには、日本にっぽんじゅうのあちこちから、西洋医学せいよういがくの勉強べんきょうをこころざす青年せいねんや、諭吉ゆきちのように、医学いがくではなく、ただ蘭学らんがくをまなびたいという青年せいねんたちが、八、九十人にんもあつまってきておりました。塾じゅくにねとまりしているものもおおぜいいました。

この塾じゅくでは、はじめて入学にゅうがくしたものには、上級生じょうきゅうせいが、ガランマチカ(文法ぶんぽう)をおしえ、やさしい文ぶんのよみかたとやくしかたをおしえました。これがすむと、セインタキス(文章法ぶんしょうほう)をおしえ、すこしむずかしい文ぶんをならわせます。この二つがわかるようになると、あとは、自分じぶんで勉強べんきょうをすすめていくのです。

勉強べんきょうのていどによって、クラスが七つか八つにわかれていて、クラスごとに五人にんとか十人にんとかがあつまって、一人ひとりずつじゅんばんに原書げんしょをよんで、日本語にほんごにやくします。これを会読かいどくといいますが、わからないところがあっても、だれにもきくことはできません。ただ、ドクトル=ズーフというオランダ人じんのつくった、大おおきな「ハルマ」という字引じびきをひいて、自分じぶんでかんがえるのでした。

原書げんしょといっても、塾じゅくにあるのは、物理学ぶつりがくと医学いがくの本ほんだけで、一つのしゅるいのものは一さつずつしかなく、ぜんぶで十さつばかりでした。そこで、おおぜいの生徒せいとが勉強べんきょうするには、くじで、じゅんばんをきめて、めいめいに原書げんしょを半紙はんしに四、五まいぐらいうつしとるわけでした。それに字引じびきは一さつしかありませんから、たいへんでした。

会読かいどくは、毎月まいつききまった日ひに六回かいぐらいおこなわれました。よくできた人ひとには白しろまる、できなかった人ひとには黒くろまる、わりあてられた文章ぶんしょうがぜんぶできたものには、白しろい三角かくのしるしをつけます。これで三か月げつつづけて白しろい三角かくをもらった人ひとは、一つ上うえのクラスにすすむことがゆるされました。ですから、ふだんは兄弟きょうだいのようになかのよい生徒せいとたちも、このときばかりは、はげしいきょうそうになりました。

諭吉ゆきちは、まえに勉強べんきょうしていたので、こんどは中級ちゅうきゅうのクラスにはいりました。夕食ゆうしょくをすますと、すぐ一ひとねむりして、夜よるの十時じごろに目めをさまし、それからずっと本ほんをよみます。明あけがた、台所だいどころのほうで朝食ちょうしょくのしたくのはじまる音おとをきくと、もう一どねむり、朝食ちょうしょくができあがるころにおきて、すぐ朝あさぶろにいき、かえって朝食ちょうしょくをすますと、また本ほんをよむといったありさまでした。

そのため、せいせきはぐんぐんあがって、とうとう、塾じゅくにある本ほんをぜんぶよんでしまい、力ちからもついてきました。こうして、三年ねんたつうちに、諭吉ゆきちは、先生せんせいからみとめられて、塾長じゅくちょうになりました。

けれども、諭吉ゆきちは勉強べんきょうの虫むしになったわけではありません。おおいに勉強べんきょうするとともに、かなりないたずらもやってのけ、おおいにあそんだのです。

新入生しんにゅうせいは、緒方先生おがたせんせいに入門料にゅうもんりょうをおさめますが、そのとき塾長じゅくちょうの諭吉ゆきちにも、いくらかのお礼れいをもってきます。月つきに新入生しんにゅうせいが四、五人にんもあれば、ちょっとした金額きんがくになります。これでなかまをさそって牛肉屋ぎゅうにくやへいって、牛ぎゅうなべをつつきながら、酒さけをのみました。そのころ牛ぎゅうなべをつつくのは、品ひんのわるいものがやることで、いれずみをした町まちのごろつきと、適塾てきじゅくの書生しょせいとにかぎられていました。諭吉ゆきちは、子こどものときからの酒さけずきだったものですから、ずいぶんお酒さけをのみました。

こづかいがなくなると、ズーフの字引じびきをうつします。あちこちの藩はんから、字引じびきをうつしてくれという注文ちゅうもんがありますので、そのうつし代だいをかせぐわけです。それでも、こづかいにこまって、しかも、酒さけがのみたいというときには、こんなこともやりました。

道修町どしょうまちのくすり屋やにくまがとどいて、そのくすり屋やの主人しゅじんが、適塾てきじゅくの書生しょせいさんに、かいぼうをしてみせてもらいたいと、たのんできました。それはおもしろいというので、諭吉ゆきちは医者いしゃしぼうではないからいきませんでしたが、塾じゅくから七、八人にんがそろってでかけていって、かいぼうにとりかかり、これがしんぞうで、これが肺はい、これがかんぞうだ、とせつめいしてやると、

「まことに、ありがとうございました。」

といって、くすり屋やの主人しゅじんは、さっさとかえってしまいました。これは、適塾てきじゅくの書生しょせいにかいぼうしてもらえば、くすりにするくまのきもが、うまくとれるとかんがえてしくんだものですから、くまのきもさえとれれば、用事ようじがすんだわけでした。

塾じゅくの書生しょせいたちには、このことがわかっていますから、おさまりません。諭吉ゆきちが中心ちゅうしんとなって、くすり屋やにかけあう手紙てがみをかき、使者ししゃにいくのはだれ、おどかすのはだれ、と、それぞれの役やくをきめて、かけあいにいきました。くすり屋やの主人しゅじんも、これにはこまったとみえて、ひらあやまりにあやまり、酒さけを五しょうに、にわとりとさかななどをお礼れいとしてだしました。

「これはしめた。」

とばかり、その夜よる、諭吉ゆきちたちがおおいにのんだのは、いうまでもありません。

ところが、この酒さけのみのことで、諭吉ゆきちは大だいしっぱいをやりました。夏なつの夜よるのことでした。大阪おおさかの夏なつはあついので、諭吉ゆきちたちは、まるはだかでねることにしていました。諭吉ゆきちが二かいの部屋へやにねていますと、下したから女おんなの人ひとの声こえで、

「福沢ふくざわさん、福沢ふくざわさん。」

とよびます。諭吉ゆきちは夕ゆうがた酒さけをのんで、いまねたばかりです。

「うるさいなあ。いまごろ、なんの用ようがあるのか。」

と、むっとして、まるはだかのままとびおきて、はしごだんをおりて、

「なんの用ようだ。」

と、ふんぞりかえったところ、なんと、緒方先生おがたせんせいのおくさんではありませんか。にげようにもにげられず、諭吉ゆきちは酒さけのよいがいっぺんにさめてしまいました。おくさんも、きのどくにおもったのか、なにもいわず、おくのほうにひっこんでしまわれました。

諭吉ゆきちは、そこではんせいをしました。

(酒さけをのんでいたから、こんなしっぱいをしたのだ。よしっ、酒さけをやめてしまおう。)

それから、ぷっつりと酒さけをやめました。なかまのものは、びっくりしました。中なかには、

「なあに、三日みっかぼうずで、すぐにのみだすにちがいない。」

と、ひやかし半分はんぶんにみているものもありましたが、十日とおかたち、十五日にちたっても、酒さけをのみません。

高橋たかはしという親友しんゆうが、

「きみのしんぼうはたいしたものだ。みあげてやるぞ。しかし、人間にんげんというものは、たとえわるいならわしでも、きゅうにやめることはよくない。きみが、いよいよ酒さけをのまぬことに決心けっしんしたのなら、そのかわりにたばこをはじめたらどうか。人間にんげんには、なにか一つぐらいたのしみがなくてはいけないぞ。」

と、しんせつらしくいってくれました。

諭吉ゆきちは、たばこはだいきらいで、これぐらい、なんのたしにもならぬものはないと、さんざんにわる口くちをいっていたのですが、高橋たかはしのいうことも一つのりくつだとおもい、たばこをはじめました。はじめのうちは、からくてくさくて、いやでしたが、だんだんになれていき、一か月げつもたつうちには、たばこのみになってしまいました。

いっぽう、酒さけのほうもわすれることができません。いけないとはしりながら、ちょいと一ぱいやってみました。すると、もう一ぱいのみたくなります。けっきょく、酒さけはまたのむようになり、たばこものむようになってしまいました。

諭吉ゆきちたちのやることは、せけんの人々ひとびとからみると、いたずらとしかみえませんが、じつは研究けんきゅうねっしんのせいでした。諭吉ゆきちたちは、いつも原書げんしょと首くびっぴきでじっけんにはげみました。

あるとき、ろしゃ(塩化えんかアンモニウムのべつの名な)をつくってみることになりました。それにはまず、アンモニアをつくらなければなりません。アンモニアはほねからとりますが、ほねのかわりに、うまのつめのけずりくずを、たくさんもらってきて、とっくりの中なかに入いれ、外そとがわに土つちをぬりました。

また、すやきの大おおきなかめを買かってきて、しちりんのかわりにし、火ひをどんどんおこして、その中なかへ、とっくりを三本ぼんも四本ほんも入いれて、うちわでバタバタあおぎました。すると、とっくりの口くちにつけたくだのさきから、たらたらと液えきがながれてきました。これがアンモニアですが、そのくさいこと、くさいこと、塾じゅくのせまい庭にわでやっているのですから、たまりません。

緒方先生おがたせんせいのうちのほうでも、気持きもちがわるくなって、ごはんもたべられない、ともんくがでました。いやなにおいが着物きものにしみこんでしまって、夕ゆうがた、ふろ屋やにいくと、着物きものばかりか、からだにまでくさいにおいがしみついていて、みんなからはいやがられるし、いぬさえもほえついてきました。

「このごろ、適塾てきじゅくの書生しょせいさんたちは、酒さけどっくりをちっともかえしてくれないが、どうしてだろう。」

酒屋さかやのおやじさんが、こっそりさぐらせると、なにかひどくくさいにおいのするもののじっけんにつかっているというのです。

酒屋さかやはその後ご、なんといっても酒さけをもってこなくなりました。これには、みんなこまりました。

このときのじっけんでは、アンモニア水すいをつくれたものの、かたまらず、かんぜんなろしゃになりませんでしたし、あまりくさいので、いったんうちきることにしました。しかし、せっかくできかかったものをやめてしまうのは、学者がくしゃのふめいよだというので、二、三人にんのものは、淀川よどがわに船ふねをうかべて、じっけんをつづけました。

ところが、風かざむきによって、そのくさいにおいが、川かわから町まちのほうへながれていくので、またそこからもんくがでました。それで、川上かわかみのほうへのぼったり、川下かわしものほうへくだったりしながら、研究けんきゅうをつづけるというありさまでした。

このように、適塾てきじゅくの書生しょせいたちは、ときにしっぱいしたり、ときには、せけんの人々ひとびとからしかられるようなこともしましたが、どれもこれも、青年せいねんらしい、あたらしいことをしりたいという、はげしい気持きもちのあらわれでした。自分じぶんたちだけが、西洋せいようのすすんだ学問がくもんにせっしているのだというほこりが、みんなの心こころの中なかにありました。そうして、本ほんをよむだけでなく、じっさいに自分じぶんでやってみて、あたらしい知識ちしきを身みにつけ、世よの中なかに役やくだつ学問がくもんをすすめようと、勉強べんきょうにうちこんでいるのでした。

こうした適塾てきじゅくの生徒せいとの中なかから、わかい革命家かくめいかの橋本左内はしもとさない、軍人ぐんじん・政治家せいじかの村田蔵六むらたぞうろく(のちの大村益次郎おおむらますじろう)、医療いりょうの制度せいどをあらためた長与専斎ながよせんさい、日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃをつくった佐野常民さのつねたみなど、のちに幕末ばくまつから明治めいじにかけてかつやくした人ひとたちがでました。

むろん、諭吉ゆきちも、その中なかの一人ひとりでした。勉強べんきょうをすればするほど、諭吉ゆきちは西洋せいようの学問がくもんのすすんでいることがわかり、日本にっぽんも、おそかれはやかれ、これをもっとねっしんにとり入いれなければならない日ひがくるにちがいない、とかんがえるようになってきました。

3 西洋せいようの旅たびみやげ

オランダ語ごの先生せんせいとなったが

適塾てきじゅくでねっしんに勉強べんきょうしている諭吉ゆきちのもとへ、とつぜん、江戸えどの中津藩奥平家なかつはんおくだいらけのやしきから、使つかいのものがやってきました。それは安政あんせい五(一八五八)年ねんの秋あきの日ひのことで、諭吉ゆきちは二十五さいになっていました。こんど蘭学らんがくの塾じゅくをひらくことになったから、その先生せんせいになってほしいというのです。これは藩はんのめいれいですから、諭吉ゆきちはしょうちして、いよいよ江戸えどへいくことになりました。

諭吉ゆきちは、べつにけらいなどいりませんが、藩はんからけらい一人ひとりぶんの旅費りょひがでましたので、塾じゅくのなかまに、だれか江戸えどへいきたいものはないかといいますと、岡本周吉おかもとしゅうきちと原田磊蔵はらだらいぞうという友人ゆうじんが、いっしょにつれていってくれともうしでましたので、三人にんで東海道とうかいどうをあるいて、江戸えどへむかいました。江戸えどについたのは、十月がつもおわりごろで、もう、すこしうすらさむいきせつでした。

木挽町汐留こびきちょうしおどめ(いまの新橋しんばしのふきん)にある奥平おくだいらやしきにいきますと、鉄砲洲てっぽうず(築地つきじ)にある中なかやしきの長屋ながやをかしてくれるということでした。諭吉ゆきちは岡本おかもとと二人ふたりでそこにすんで、塾じゅくをひらくことになりました。

もう一人ひとり、いっしょにきた原田はらだは、下谷したやの大槻おおつきというお医者いしゃのところへいきました。

諭吉ゆきちのところへは、そのうちに、オランダ語ごをならいに、生徒せいとがぼつぼつやってきはじめました。中津藩なかつはんの子こどもばかりでなく、ほかからも入門にゅうもんするものがあって、十人にんあまりの生徒せいとに、諭吉ゆきちは、毎日まいにちオランダ語ごをおしえていました。

ところで、この長屋ながやは、そのときから八十八年ねんまえの明和めいわ八(一七七一)年ねんに、前野良沢まえのりょうたくや杉田玄白すぎたげんぱくたちが、オランダのかいぼう学がく(生物せいぶつのからだをきりひらいて研究けんきゅうする学問がくもん)の本ほんを、くしんしてやくした場所ばしょなのでした。それは「解体新書かいたいしんしょ」といって、日本にっぽんのあたらしい医学いがくにたいへん役やくだちました。

そのことをきいた諭吉ゆきちは、ふかいかんげきをおぼえ、

「よしっ、この塾じゅくを、江戸えどでいちばんりっぱな蘭学塾らんがくじゅくにしてみせるぞ。」

とはりきりました。

それにつけても、江戸えどの蘭学者らんがくしゃたちの力ちからはどれほどのものであろうか、それをしっておきたいとおもいました。

ある日ひ、島村鼎甫しまむらていほという蘭学者らんがくしゃをたずねてみました。島村しまむらはやはり緒方先生おがたせんせいのところでまなんだことのある医者いしゃで、江戸えどにきて、オランダの本ほんのほんやくなどをしているのでした。ですから、二人ふたりはすぐしたしくなりましたが、このとき、島村しまむらは、生理学せいりがく(生物せいぶつのからだのはたらきを研究けんきゅうする学問がくもん)の原書げんしょをほんやくしているところで、その本ほんをもってきて、

「ここのところが、どうもわからなくてよわっていたところだ。きみ、ひとつ、やってみてくれないか。」

といいました。諭吉ゆきちがよんでみますと、なるほどやくしにくいところでした。

「ほかの人ひとにも、そうだんしてみましたか。」

「ええ、もう、友ともだち五、六人にんにはなしてみたんだが、どうしてもわからないというんだ。」

そこで諭吉ゆきちは、三十分ぷんばかりかんがえているうちに、ちゃんとわかってきたので、島村しまむらにせつめいしてやりますと、

「なるほど、そうか。やはり、大阪おおさかじこみはたいしたものだ。」

と、諭吉ゆきちの力ちからをほめてくれました。これで、蘭学らんがくは大阪おおさかのほうがすすんでいたことがわかり、諭吉ゆきちは、心こころの中なかでほっとあんしんしました。

それからのちも、諭吉ゆきちは、原書げんしょの中なかから、むずかしい文章ぶんしょうをひっぱりだして、

「ここは、むずかしくてわかりませんが、どうやくしたらよいでしょうか。」

ともちかけて、いろいろな学者がくしゃたちの力ちからを、それとなくためしてみましたが、あまりすぐれた人ひとはみあたりませんでした。

ですから、諭吉ゆきちが、やがて江戸えど一番ばんのひょうばんをとるようになったのも、あたりまえのことといわなければなりません。諭吉ゆきちはまことによい気持きもちでした。てんぐにさえなっていました。ところが、諭吉ゆきちのそのてんぐの鼻はなをへしおるような、たいへんなことがおこったのです。

さあ、こんどは英語えいごの勉強べんきょうだ

嘉永かえい六(一八五三)年ねんの六月がつに、アメリカからペリーがやってきて、開国かいこくをせまったことは、まえにかいておきましたが――幕府ばくふは、一年ねんのちに神奈川かながわ(いまの横浜よこはま)で、アメリカとのあいだに和親条約わしんじょうやく(おたがいになかよくしようというとりきめ)をむすびました。ところが、それだけでは、日本にっぽんをほんとうに開国かいこくさせたということにならないので、アメリカは、ぜひ、修好通商条約しゅうこうつうしょうじょうやく(商売しょうばいのとりきめ)をむすぼうとかんがえるようになりました。そのため安政あんせい三(一八五六)年ねんに、ハリスがアメリカの総領事そうりょうじとして、伊豆いずの下田しもだ(静岡県しずおかけん)へやってきて、幕府ばくふとこうしょうしました。

けれども、日本にっぽんの中なかでは、外国人がいこくじんをおいはらえといううんどうがさかんになり、幕府ばくふとしては、これをおさえる力ちからがなく、なかなかはっきりしたたいどがきまりません。京都きょうとの朝廷ちょうてい(天皇てんのうがた)も、修好通商条約しゅうこうつうしょうじょうやくをむすぶことにははんたいでした。いっぽう、ハリスからのさいそくはつよくなりました。そこで、大老たいろうの井伊直弼いいなおすけは、自分じぶんだけの考かんがえで、この条約じょうやくにはんをおしてしまいました。

その日ひは、諭吉ゆきちが江戸えどへでてくる四か月げつほどまえの、安政あんせい五(一八五八)年ねん六月がつ十九日にちのことでした。

つづいて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスの四か国こくとも条約じょうやくをむすび、すでに日米和親条約にちべいわしんじょうやくで開港かいこうされていた下田しもだ・箱館はこだて(函館はこだて)にくわえて、ちかいしょうらい、神奈川かながわ(横浜よこはま)・長崎ながさき・新潟にいがた・兵庫ひょうご(神戸こうべ)のみなとをひらくことがきめられました。

よく年ねんには、横浜よこはまに外国人がいこくじんがやってきて、ぼうえきをすることがゆるされました。これまでは、小ちいさな漁村ぎょそんだったのですが、きゅうにいきいきとした町まちになりました。このあたらしくひらけた横浜よこはまを、諭吉ゆきちはぜひみておきたいとおもいました。

そこで諭吉ゆきちは、ま夜中よなかの十二時じごろに江戸えどをでて、夜よるの東海道とうかいどうをあるいて、夜明よあけごろに横浜よこはまにつきました。さっそく海岸かいがんのほうへいってみました。けれども、みなととしてひらけたばかりなので、まだ外国人がいこくじんのすがたもすくなくて、きゅうごしらえのそまつな西洋館せいようかんが、ぽつぽつたてられ、店みせがいくつかならんでいるだけでした。

それらの店みせを、諭吉ゆきちはめずらしそうに、きょろきょろとみまわしながら、あるいているうちに、

「はてな。」

と、首くびをひねりました。どの店みせのかんばんをながめても、店みせさきにならんでいるしなものをみても、かいてあることばが、さっぱりよめないではありませんか。外国人がいこくじんどうしがはなしていることばも、諭吉ゆきちのとくいなオランダ語ごとはちがっているようで、なにがなにやら、すこしもいみがわかりません。

さんざんあるきまわったすえ、ある一けんの店みせによって、オランダ語ごではなしかけてみました。すると、店みせの主人しゅじんはドイツ人じんでしたが、さいわい、オランダ語ごのわかる人ひとでした。

諭吉ゆきちの発音はつおんがわるいので、うまくつうじませんが、紙かみにかけばわかるというので、諭吉ゆきちがかいてみせますと、

「おお、あなたは、オランダ語ご、なかなかうまいことあるね。でも、ここでは、まったく役やくにたたない。英語えいごでなければだめ。みんな、英語えいごしゃべっている。かんばんも、なにもかも英語えいごばかりね。」

と、店みせの主人しゅじんからいわれました。

「そうか、英語えいごでなければだめか。」

と、諭吉ゆきちはかんがえこんでしまいました。

店みせの主人しゅじんがすすめたオランダ語ごと英語えいごとの会話かいわの本ほんなど、二、三さつを買かうと、諭吉ゆきちは、おもい足あしをひきずって、江戸えどへかえってきました。

ちょうど夜中よなかの十二時じちかくでしたから、まるまる二十四時間じかん、諭吉ゆきちはあるいていたわけで、へとへとにつかれきっていました。けれども、それは、あるきつかれたからだけではありません。五、六年ねんもかかって、いっしょうけんめい勉強べんきょうしたオランダ語ごが、なんの役やくにもたたないことを、じっさいにしって、がっかりさせられたからでした。

「なんというばかなことをしたものだ。」

と、諭吉ゆきちはなきたいくらいでしたが、

「でも、くよくよしていてもはじまらぬ。よし、こんどは英語えいごの勉強べんきょうをするんだ。」

諭吉ゆきちは、そのつぎの日ひから、英語えいごの勉強べんきょうにとりかかりました。

とはいっても、いったい、どこで、だれに英語えいごをおそわったらいいのか、さっぱりけんとうがつきません。そのころの江戸えどには、英語えいごをおしえてくれる先生せんせいなど、一人ひとりもいませんでした。でも諭吉ゆきちは、あきらめないで、あちこちたずねているうちに、耳みみよりな話はなしをききました。それは、長崎ながさきでつうやくをしている森山多吉郎もりやまたきちろうという人ひとが、いま江戸えどにきて、幕府ばくふのご用ようをつとめているが、英語えいごができるといううわさをきいたのです。

諭吉ゆきちはたいへんよろこんで、さっそく、森山もりやまをたずねていきました。森山もりやまは、諭吉ゆきちのねっしんなたのみをきいてはくれましたが、幕府ばくふの仕事しごとがいそがしくて、おしえてくれる時間じかんがなかなかありません。

「それでは、まあ、せっかくならいたいということですから、毎日まいにち、朝あさはやくおいでください。役所やくしょへでかけるまえに、おしえてあげましょう。」

といってくれました。

そこで、諭吉ゆきちは、朝あさはやくおきて、鉄砲洲てっぽうずから森山先生もりやませんせいのすんでいる小石川こいしかわまで、八キロメートルあまりを、てくてくとあるいてかよいはじめました。ところが、森山先生もりやませんせいの家いえについてみると、

「きょうはおきゃくがきているから。」とか、

「もうすぐ役所やくしょへでかけなければならないから。」

といってことわられ、毎朝まいあさのように、むだ足あしをふみつづけました。それでも、諭吉ゆきちは、こんきよくかよいました。森山先生もりやませんせいはこれをみて、きのどくにおもい、

「どうも朝あさはだめだから、あすからは、ばんにきてみてください。」

といいました。

それで諭吉ゆきちは、こんどは夕ゆうがたにかよいはじめましたが、森山先生もりやませんせいは、あいかわらずいそがしくて、おしえてくれるひまがありません。およそ三か月げつほどかよいましたが、とうとう、なにもおしえてもらえませんでした。おまけに、森山先生もりやませんせいも、それほど英語えいごができるわけでもないことがわかりましたから、諭吉ゆきちは、森山先生もりやませんせいからおそわることをあきらめてしまいました。

それからは、小ちいさい字引じびきを手てに入いれて、自分じぶん一人ひとりで英語えいごの勉強べんきょうに力ちからをそそぎました。けれども、おもうようにはすすみません。

(これは、一人ひとりではだめだ。おなじようななやみをもっている友ともだちをみつけて、いっしょに勉強べんきょうすれば、きっとすすむにちがいない。)

こうおもった諭吉ゆきちは、友ともだちの神田孝平かんだたかひらにあってはなしてみますと、

「じつは、わたしもやってみたのだが、さっぱりわからない。もう、こりごりだ。まあ、きみは、いつでも元気げんきがいいから、おおいにやってみることだね。」

と、あいてになってくれません。

そこで、こんどは、村田蔵六むらたぞうろく(のちの大村益次郎おおむらますじろう)にすすめてみました。すると、

「なにも、そんなくろうをすることないじゃないか。やめたほうがよい。ひつような本ほんなら、オランダ人じんがほんやくするから、それをよめばよいじゃないか。」

といわれてしまいました。

これではしかたがないので、三番ばんめに原田敬策はらだけいさくのところへいってはなしてみますと、

「そうか、それはおもしろい。ぜひやろう。二人ふたりならば気きがつよい。どんなことがあっても、やりとげようじゃないか。」

と、さんせいしてくれました。

こうして、なかまをみつけることのできた諭吉ゆきちは、それからというものは、すこしでも英語えいごをしっている人ひとがあれば、すぐにたずねていって、おしえてもらうといったありさまでした。

だんだん勉強べんきょうをしていくうちに、英語えいごがオランダ語ごにかなりにていることがわかってきました。そうして、英語えいごの力ちからがめきめきとすすんでいきました。

アメリカの旅たび、ヨーロッパの旅たび

「このたび、アメリカへいかれるそうですが、わたしをぜひつれていってください。」

と、諭吉ゆきちはつてをもとめて、はじめてあった幕府ばくふの軍艦奉行ぐんかんぶぎょう木村摂津守喜毅きむらせっつのかみよしたけに、しんけんにたのみこんでいました。それは、安政あんせい六(一八五九)年ねんの冬ふゆのある日ひのことでした。うん、うんと諭吉ゆきちのことばをきいていた木村きむらは、

「よろしい。それほどのぞまれるのなら、つれていってあげよう。」

と、その場ばでしょうちしてくれました。

じつは、幕府ばくふは、まえにとりきめたやくそくにしたがって、条約書じょうやくしょをとりかわすために、アメリカへ新見豊前守しんみぶぜんのかみ・村垣淡路守むらがきあわじのかみ・小栗豊後守おぐりぶんごのかみの三人にんを使節しせつとして、おくることになりました。この使節しせつたちは、アメリカからむかえにきた船ふね、ポーハタン号ごうにのって太平洋たいへいようをわたるわけですが、それといっしょに、幕府ばくふは、日本にっぽんの軍艦ぐんかん咸臨丸かんりんまるをアメリカへいかせることにしました。それにのりこむのは、軍艦奉行ぐんかんぶぎょうの木村摂津守喜毅きむらせっつのかみよしたけです。

軍艦ぐんかんというからには、たいそう大おおきな船ふねのようにきこえますが、わずか二百五十トンで、みなとの出ではいりだけにじょうきをたき、あとはただ、風かぜをたよりにすすんでいかなければならない、ちっぽけな船ふねでした。

乗組員のりくみいんは艦長かんちょうの勝麟太郎かつりんたろう(海舟かいしゅう)ら九十六人にん、ほかに日本にっぽんの近海きんかいを測量そくりょうにきて、なんぱしたアメリカの海軍士官かいぐんしかんブルック大尉たいいら十人にんがのりました。

咸臨丸かんりんまるは、万延まんえん元がん(一八六〇)年ねん一月がつ十九日にち、使節しせつたちをのせた船ふねよりも一足ひとあしさきに浦賀うらがを船出ふなでしました。

冬ふゆのことですから、北風きたかぜがつよく、くる日ひもくる日ひも、あらしにおそわれました。船ふねは木この葉はのようにゆれ、たかい波なみはかんぱんにおどりあがり、うっかりしていると、人間にんげんもころがされるしまつで、みんな青あおい顔かおをしていました。けれども、日本人にほんじんが自分じぶんたちの軍艦ぐんかんで、はじめて太平洋たいへいようをわたるのだというほこりがあるので、みんな力ちからをあわせて、あらしとたたかいました。こうして、日本暦にほんれきで二月がつ二十六日にちに、ぶじにサンフランシスコにつきました。

サンフランシスコの人々ひとびとは、たいへんなかんげいぶりをみせました。ちょんまげに、はおりはかまをつけ、こしに刀かたなをさした日本人にほんじんのかっこうが、ものめずらしかったせいもありましょうが、ちっぽけな船ふねで太平洋たいへいようのあら波なみとたたかってきたということに、よりおおく感動かんどうしたのにちがいありません。馬車ばしゃにのせて、りっぱなホテルにあんないし、町まちのおもだった人々ひとびとが、あとからあとからとおしかけて、下したにもおかないもてなしぶりでした。あらしにもまれてこわれた咸臨丸かんりんまるも、ただでなおしてくれました。

諭吉ゆきちは、西洋せいようの本ほんをたくさんよんでいたので、だいたいのようすはしっていたのですが、じっさいに目めでみるのははじめてです。そうして、百聞ぶんは一見けんにしかず、ということわざのとおりだと、つくづくかんじました。

日本にっぽんではとても高価こうかなじゅうたんが、部屋へやいっぱいにしきつめてあって、アメリカ人じんがその上うえをくつのまま、へいきであるいているのにもおどろきましたが、どの家いえにもガス灯とうがついていて、夜よるも昼ひるのようにあかるいのを、うらやましくおもいました。また、いろいろのあつまりで、アメリカ人じんが、男おとこと女おんなと手てをくんでダンスをやるのをみて、びっくりしました。

諭吉ゆきちは、電信でんしんや、めっき工場こうじょう、さとうの製造所せいぞうしょなどもみてまわりましたが、みな本ほんでよんでいることばかりなので、そのしくみにはさほどおどろきませんでした。

わからないのは、政治せいじや社会しゃかいのしくみでした。ある日ひ、諭吉ゆきちはたずねてみました。

「ワシントンの子孫しそんのかたは、いまどうしていますか。」

「さあ、どうしていますかねえ。ワシントンにはたしか、むすめがいたはずですから、だれかのおくさんになってるんでしょうね。」

このへんじには、おどろいてしまいました。

アメリカの初代大統領しょだいだいとうりょうのジョージ=ワシントンといえば、日本にっぽんでは鎌倉幕府かまくらばくふをひらいた源頼朝みなもとのよりともか、江戸幕府えどばくふをひらいた徳川家康とくがわいえやすとおなじようなものです。徳川家とくがわけのものがずっと将軍しょうぐんをついでいる日本にっぽんとくらべて、なんというちがいでしょう。

もちろん、諭吉ゆきちはアメリカが共和国きようわこくで、大統領だいとうりょうが四年ねんごとの選挙せんきょでかわることはしっていました。が、じっさいにアメリカ人じんからきいて、なんともふしぎな気きがしました。

諭吉ゆきちは、いっしょにいった中浜万次郎なかはままんじろうとはなしあって、ウェブスターの辞書じしょを一さつずつ買かいました。これが日本にっぽんにウェブスターの辞書じしょがはいったはじめです。

中浜万次郎なかはままんじろうは、ジョン=マンともいい、土佐とさ(高知県こうちけん)のりょうしでした。あらしにあってひょうりゅうしているところを、アメリカの捕鯨船ほげいせんにすくわれ、アメリカで勉強べんきょうして運うんよく日本にっぽんにかえり、幕府ばくふにつかえ、つうやくとしてのりくんでいたのです。

すこしおくれて、サンフランシスコについた条約じょうやくとりかわしの使節しせつたちが、ワシントンへいくのとはんたいに、諭吉ゆきちたち咸臨丸かんりんまるの一行こうは、日本にっぽんへひきかえすことになり、五十日にちあまりをすごしたサンフランシスコをあとにして、とちゅうハワイによってから、日本にっぽんへもどりました。なつかしい日本にっぽんにかえりついたのは、もう木々きぎのわか芽めが、みどりの葉はにかわる五月がつのはじめのことでした。

諭吉ゆきちがいなかったわずかのあいだに、日本にっぽんのようすはとてもかわっていました。京都きょうとの朝廷ちょうていと江戸幕府えどばくふとのあらそいがはげしくなり、国くにをひらくことにさんせいの人ひとと、外国人がいこくじんをおいはらえという人ひとたちのあいだには、いまにもたたかいがおこりそうな、ふあんな空気くうきがただよっていました。そうして、この年としの三月がつ三日みっかには、桜田門外さくらだもんがいで、水戸みとの浪士ろうし(主人しゅじんをもたないさむらい)が、幕府ばくふが開国かいこくしたことをおこって、そのせきにん者しゃである大老たいろうの井伊直弼いいなおすけをおそうというじけんまでありました。

しかし、アメリカのりっぱな文明ぶんめいを自分じぶんの目めでみてきた諭吉ゆきちは、これを日本にっぽんにとり入いれなければならないとおもいました。

そこで、諭吉ゆきちは、鉄砲洲てっぽうずの塾じゅくにもどると、もうオランダ語ごをおしえることはやめて、英語えいごばかりおしえることにしました。しかし、英語えいごをおしえるといっても、諭吉ゆきちは、字引じびきをたよりに、一人ひとりで勉強べんきょうしたわけですから、英語えいごを自由じゆうによみこなすことはできません。ですから、生徒せいとにおしえながら、自分じぶんもいっしょに勉強べんきょうするのでした。

そうしているうちに、木村摂津守きむらせっつのかみのせわで、諭吉ゆきちは、幕府ばくふの外国方がいこくかた(いまの外務省がいむしょうのような役所やくしょ)のほんやくがかりとしてつとめることになりました。それは、外国がいこくからさしだしてくる文書ぶんしょを、日本語にほんごになおす役やくでした。おかげで、世界せかいの国々くにぐにのようすがよくわかりますし、英語えいごの勉強べんきょうにも役やくだちました。

この年としがくれて、文久ぶんきゅう元がん(一八六一)年ねんになると、諭吉ゆきちは、おなじ中津藩なかつはんの上級士族じょうきゅうしぞく、土岐太郎八ときたろはちの次女じじょ錦きんとけっこんしました。

ところが、その十二月がつに、諭吉ゆきちはヨーロッパへいくことになりました。それは、幕府ばくふがこんどはヨーロッパ各国かっこくへ使節しせつをおくることになり、諭吉ゆきちはほんやくがかりとして、くわわることをめいぜられたからです。外国奉行がいこくぶぎょうの竹内下野守たけうちしもつけのかみ・松平石見守まつだいらいわみのかみ・京極能登守きょうごくのとのかみの三人にんが使節しせつで、その役目やくめは、まえにやくそくしていた江戸えど・大阪おおさか・兵庫ひょうご(神戸こうべ)・新潟にいがたでとりひきをはじめるのを、すこしのばしたいという話はなしあいをするためでした。

使節しせっの一行こうは、イギリスの軍艦ぐんかんオージン号ごうにのりこみ、品川しながわから出発しゅっぱつしました。一行こうは四十人にんたらずでしたが、外国がいこくでは、たべものが不自由ふじゆうだろうというので、白米はくまいを何日なんにちぶんも船ふねにつみこんだり、宿やどがくらくてはこまるとおもい、ろうかにつける金かなあんどんや、ちょうちん・ろうそくまでそろえてもっていきました。まるで、大名だいみょうが東海道とうかいどうをとおって、宿屋やどやにとまるときとおなじような用意よういをしたわけでした。

ところが、パリについてみると、まったくむだなじゅんびをしたことに気きがつきました。あんないされたのは、ホテル=デ=ローブルという、五かいだての、お城しろのように大おおきいホテルでした。部屋へやが六百、はたらいている人ひとが五百人にんもおり、おきゃくも千人にんぐらいはとまれるほどの広ひろさでした。部屋へやには、冬ふゆだというのに、あたたかな空気くうきがほかほかとここちよくながれ、部屋へやにもろうかにも、ガス灯とうがいっぱいついていて、夜よるもまるで昼ひるのようにあかるいのです。それに、すばらしいごちそうがでました。

ですから、せっかく用意よういしてきた金かなあんどんや、ちょうちんなどは、はずかしくてだせません。また、たくさんの白米はくまいも、すっかりじゃまものになってしまいました。そこで、せわがかりの下役したやくの男おとこに、ただでもらってもらうというありさまでした。

シガー(たばこ)とシュガー(さとう)をまちがえて、たばこを買かいにやったら、さとうを買かってきたというような、わらい話ばなしのようなしくじりもありましたが、もっとけっさくもうまれました。

ある夜よ、諭吉ゆきちがホテルのろうかをあるいていくと、使節しせつのけらいが、ろうかでしゃちこばって、ぼんぼりをもって番ばんをしているではありませんか。なにごとかとおもってよくみると、使節しせつの一人ひとりが、大便だいべんをしに便所べんじょにいったおともでした。便所べんじょの二つもあるドアはみなあけはなされ、そのおくでは、いまや一人ひとりの使節しせつが、日本流にほんりゅうに用ようをたしているのが、まる見みえです。ろうかは、外国がいこくの男女だんじょがいききしているのですから、はずかしいったらありません。

びっくりした諭吉ゆきちは、そのおもてにたちふさがって、ものもいわずにドアをしめ、それから、けらいにわけをはなしてやりました。

こうしたしくじりをやりながら、使節しせつの一行こうは、フランス・イギリス・オランダ・ドイツ・ロシアの国々くにぐにをたずねて、やく一年間ねんかん、ヨーロッパの旅たびをつづけました。イギリスでは、議会ぎかいがあって、政党せいとうというものが、おたがいに政治せいじのやりかたや、意見いけんのうえであらそい、せんきょによって勝かったほうの政党せいとうが国くにの政治せいじをやるしくみになっているときかされましたが、諭吉ゆきちには、よくのみこめませんでした。

しかし、こんどの旅行りょこうではじめて鉄道てつどうにのって、そのべんりなことがわかり、すべての点てんで、西洋せいようがすすんでいることをじっさいにしったので、諭吉ゆきちは、政治せいじのやりかたについても、きょうみをもちました。

ロシアでは、医者いしゃが病人びょうにんのしゅじゅつをするところをみせてくれました。諭吉ゆきちは、だいたんな人間にんげんであるくせに、子こどものときから、血ちをみるのがだいきらいだったものですから、医者いしゃがメスを入いれて、ぱっと血ちがとびだすのをみると気持きもちがわるくなり、気きがとおくなってしまいました。いっしょにいったものが、諭吉ゆきちを外そとにつれだし水みずをのませると、やっと正気しょうきにかえりました。

ところが、使節しせつのつとめは、うまくいきませんでした。話はなしあいやかけひきが、へただったせいもありましょうが、そのころの日本にっぽんの国内こくないでは、外国人がいこくじんをおいはらえといううんどうがさかんで、外国人がいこくじんをただむやみにきったりきずつけたりするじけんが、いくつかおこったからです。

そのため、はじめフランスへいったときには、ひじょうによろこんでむかえられたのに、各国かっこくをまわって、ふたたびフランスへもどったときには、まるで、にくいかたきにでもあったように、つめたいあつかいをうけなければなりませんでした。

それは、ちょうどこのとき、日本にっぽんで生麦なまむぎじけんがおこったという知しらせが、フランスへつたえられたからでした。

薩摩さつま(いまの鹿児島県かごしまけん)のとのさまの行列ぎょうれつが、江戸えどをたって国くにへかえることになり、東海道とうかいどうの生麦村なまむぎむら(いまは横浜市内よこはましない)をとおっていたとき、横浜よこはまにきていたイギリス人じんがうまにのってやってきて、ばったりぶつかったのです。

そのころ、大名行列だいみょうぎょうれつといえば、道みちばたの家いえは雨戸あまどをおろし、とおりかかったものは道みちをよけて、とおくから土つちの上うえにすわって、とのさまののったかごをおがまなければならないほどでした。そんなことをイギリス人じんはしりませんから、行列ぎょうれつをよこぎろうとしたのです。それを、ぶれいものというので、きりころしてしまいました。

これにたいして、イギリスは幕府ばくふにこうぎをしましたが、フランスも、このような日本人にほんじんのやりかたをふんがいしたからです。

あぶないせとぎわにたつ日本にっぽん

諭吉ゆきちは、このヨーロッパ旅行りょこうで、日本にっぽんは国くにをひらいて、西洋せいようの文明ぶんめいをとり入いれなければならないという考かんがえをつよめました。そこで、役所やくしょからうけとったお金かねの大だいぶぶんで、原書げんしょをたくさん買かってかえってきました。

けれども、日本にっぽんではあべこべに、外国人がいこくじんをおいはらえといううんどうがさかんになり、諭吉ゆきちのように、外国がいこくの本ほんをよみ、ヨーロッパがえりの人間にんげんだといえば、いつ、なにをされるかわからない、ぶっそうな世よの中なかになっていました。こういううごきは、まえまえからあったのですから、諭吉ゆきちは、べつにこわいともおもっていなかったのですが、友ともだちのいく人にんかが、じっさいにあぶないめにたびたびあっているので、

(これは気きをつけなければいけない。)

とかんがえなおしました。

そうしたある日ひ、本ほんをよみふけっている諭吉ゆきちの部屋へやに、女中じょちゅうがあわててはいってきました。

「みょうなおきゃくさまがいらっしゃいました。」

「どんな人ひとかね。」

「大おおきなかたで、目めはかた目めで、ながい刀かたなをさしています。」

「そりゃ、ぶっそうな人ひとのようだが、名なはおたずねしたか。」

「はい、おききしましたが、お目めにかかればわかるからとおっしゃって……。」

どうも、うすきみがわるいとおもったので、諭吉ゆきちは、しょうじのすきまから、そっとげんかんのほうをのぞいてみました。すると、そこには、緒方先生おがたせんせいのところでいっしょに勉強べんきょうしていたことのある原田水山はらだすいざんという友ともだちがたっているではありませんか。ほっとした諭吉ゆきちは、げんかんへでていって、おもわず、大おおきな声こえで、

「このばかやろう。なぜ、名なをいわなかったんだ。こわい思おもいをさせやがって、ひどいやつだ。」

とどなりつけました。

そのあとで、二人ふたりは大おおわらいをしましたが、西洋せいようの学問がくもんをしていた人々ひとびとは、いつも、こんな思おもいをくりかえしていたのです。まことに、あぶない世よの中なかでした。それとどうじに、日本にっぽんの国くにも、ひじょうにあぶないせとぎわにたたされていました。

外国人がいこくじんをおいはらえという人々ひとびとは、ちょっとしたことがあると、すぐ外国人がいこくじんをきりころすようならんぼうをしました。生麦なまむぎじけんもその一つで、これは尾おをひきました。イギリスは、つよい艦隊かんたいをおくって、幕府ばくふにたいしてへんじをもとめ、フランスもいっしょになって、おそろしいたいどで、幕府ばくふをせめたてました。

イギリスからの文書ぶんしょを、諭吉ゆきちはほんやくさせられましたが、イギリスがどんなにつよい決心けっしんをもっているかがわかり、どうなることかと心配しんぱいになりました。いつ、戦争せんそうになるかもしれないありさまでした。

けれども、幕府ばくふが、イギリスのいいぶんをきき入いれて、たくさんのお金かねをはらったので、さいわい戦争せんそうにはなりませんでした。でも、幕府ばくふのよわい外交がいこうをふんがいした地方ちほうの藩はんでは、外国がいこくの軍艦ぐんかんにいくさをしかけて、けっきょく、さんざんなめにあわされるようなじけんが、ひきつづいておこりました。

このようなさわがしさの中なかで、緒方洪庵先生おがたこうあんせんせいが、急病きゅうびょうでなくなりました。それは、文久ぶんきゅう三(一八六三)年ねん六月がつ十日とおかのことでした。緒方先生おがたせんせいは幕府ばくふのおかかえ医者いしゃとなって、大阪おおさかから江戸えどにきて、下谷したやにすんでいました。諭吉ゆきちは、二、三日にちまえに先生せんせいをたずね、元気げんきな先生せんせいと、いろいろ話はなしをしてきたばかりでした。そのお通夜つやには、緒方先生おがたせんせいの教おしえをうけたものが、たくさんあつまってきました。その中なかに、村田蔵六むらたぞうろく(のちの大村益次郎おおむらますじろう)もいましたので、諭吉ゆきちが、

「おい、村田むらたくん、いつ、長州ちょうしゅう(いまの山口県やまぐちけん)からかえってきたんだ。下関しものせきでは、たいへんなさわぎをおこしたようだな。じつにばかなことをしたもんだよ。あきれかえった話はなしじゃないか。」

とはなしかけますと、村田むらたは、目めにかどをたてて、いいました。

「なんだと。外国がいこくの軍艦ぐんかんをほうげきしたのがわるいというのか。」

「そうとも。まるできちがいざたじゃないか。」

「き、きちがいとはなんだ。けしからんことをいうな。長州ちょうしゅうでは、外国人がいこくじんをおっぱらうことに、藩はんのほうしんがきまっているんだ。あんな外国がいこくのやつらに、わがままをされてたまるものか。外国人がいこくじんはぜんぶおいはらうにかぎるよ。」

と、えらいけんまくです。これでは、まるで話はなしになりません。

諭吉ゆきちは、村田むらたとはなすことをやめました。そうして、いっしょに西洋せいようの学問がくもんをまなんだ村田むらたでさえ、このように外国人がいこくじんをおいはらえというありさまですから、いよいよ、自分じぶんのことばやおこないに気きをつけて、このあらしの時代じだいを生いきていかなければならないと、かくごをしました。

(国民こくみんのみんなが、世界せかいのようすをよくしり、日本にっぽんが、どんなに文明ぶんめいにおくれているかがわかったならば、きっと、ゆうきをふるいおこして、あたらしく力ちからづよい日本にっぽんをつくろうと、どりょくするにちがいない。それには、国民こくみんが、もっとものしりにならなければならない。そうだ、国民こくみんを教育きょういくしなければだめだ。よし、わたしは、その教育者きょういくしゃになろう。さいわい、こんどまた、アメリカへいってくることになった。いろいろと見みききしてこよう。)

諭吉ゆきちは、アメリカに注文ちゅうもんした軍艦ぐんかんを、ひきとりにいく幕府ばくふの使節しせつの一行こうにくわわって、二どめのアメリカの旅たびにでかけていきました。ときに、慶応けいおう三(一八六七)年ねんの正月しょうがつのことでした。

諭吉ゆきちは、そのまえに、大小だいしょうの刀かたな一本ぽんずつをのこして、あとはぜんぶ売うりはらってしまいました。

(これからの世よの中なかは刀かたななんていらない。)

とかんがえたからです。

4 明治めいじのともしび

ここまで、たまはとんでこない

「先生せんせいっ、たいへんです。上野うえののほうがくで黒くろいけむりがたちのぼっています。火ひの手ても、ちらちらともえあがりました。」

かけこんできた生徒せいとの一人ひとりが、いきをはずませてしらせました。それまでしずかだった講堂こうどうが、きゅうにざわめいてきました。

ドカーン、ドドドーン。

はげしい大砲たいほうの音おとが、それにわをかけました。

「あっ、また、大砲たいほうだ。」

と、耳みみに手てをやる生徒せいともあれば、本ほんをおいて、いきなり、外そとへとびだそうとする生徒せいともありました。

このとき、諭吉ゆきちは、生徒せいとたちを講堂こうどうにあつめて、経済学けいざいがくの講義こうぎをしているところでしたが、

「しょくん、おちつきたまえ。ここまで、たまはとんできはせん。」

と、一ひとこというと、あとはなにごともなかったように、講義こうぎをつづけていました。生徒せいとたちも、それにつりこまれて、いつのまにか、外そとのさわぎも、大砲たいほうの音おとも気きにならず、講義こうぎに耳みみをかたむけていました。そうして、やがて、時間じかんとなりました。

「さあ、やねの上うえにあがって、上野うえののけむりでもみたまえ。ペンの力ちからは剣けんの力ちからよりもつよいということを、よくかみしめてね。」

諭吉ゆきちは、講義こうぎをおわって、にっこりわらい、講堂こうどうからでていきました。生徒せいとたちは、

「わっ。」とばかり、かけだしました。

自分じぶんの部屋へやへもどった諭吉ゆきちは、たいへんまんぞくそうでした。生徒せいとたちが外そとの大おおさわぎの中なかで、ねっしんに講義こうぎをきいてくれたことが、うれしかったのです。それは、慶応けいおう四(一八六八)年ねんの五月がつ十五日にちのことでした。

この日ひ、上野うえのでは、江戸えどへはいった官軍かんぐんと彰義隊しょうぎたいとのあいだに戦争せんそうがあり、そこから八キロメートルばかりはなれた慶応義塾けいおうぎじゅくまで、大砲たいほうの音おとがきこえてきました。生徒せいとたちは塾じゅくのやねの上うえにあがって、しきりに上野うえののほうをみているようすですが、諭吉ゆきちは、慶応義塾けいおうぎじゅくをこの新銭座しんせんざにうつしたことが、いかによかったかと、ひそかにかんがえるのでした。

諭吉ゆきちは、そのまえの年としの六月がつにアメリカからかえってきましたが、そのかえりの船ふねの中なかで、幕府ばくふのわる口くちをいったというので、きんしん(きまったすまいから、ある期間きかん、外出がいしゅつをきんじられること)をめいじられました。家いえの中なかではなにをしてもよいが、役所やくしょへでてきてはならないというのです。諭吉ゆきちにとっては、かえって生徒せいとにおしえるのにぐあいがよいくらいでした。

幕府ばくふは、その十月がつに、政権せいけん(政治せいじをおこなうけんり)を朝廷ちょうていにかえしました。源頼朝みなもとのよりともが、鎌倉かまくらに幕府ばくふをひらいてからは、日本にっぽんの政治せいじは武士ぶしがおさめていて、天皇てんのうはただのかざりにすぎなかったのですが、このときから、天皇てんのうを上かみにいただくあたらしい政府せいふが政治せいじをとることになりました。

けれども、諭吉ゆきちは、あたらしい政府せいふに不安ふあんをもっていました。なぜなら、朝廷ちょうていは、まえから、国くにをひらくことにはんたいしていたからです。もしも、そのあたらしい政府せいふが、外国がいこくをきらい、外国人がいこくじんをおいはらえといいだしたなら、どうなるでしょうか。外国がいこくと戦争せんそうをひきおこすようなことになり、よわくて小ちいさい日本にっぽんは、つよくて大おおきい外国がいこくに、うちまかされてしまうにちがいありません。

(そうなったら、あの小ちいさい子こどもたちがかわいそうだ。)

諭吉ゆきちは、庭にわであそんでいるわが子この一太郎いちたろうと捨次郎すてじろうのすがたをみながら、かんがえこみました。

(この子こどもたちには、戦争せんそうというかなしいめにあわせたくない。日本にっぽんが、一日にちもはやく、平和へいわなあかるい文明国ぶんめいこくになってくれるとよい。まあ、いまの大人おとなたちはだめだが、わかい人々ひとびとは、きっと、自分じぶんのこういう気持きもちをわかってくれるにちがいない。よし、わたしは、わかい人ひとたちのために、あたらしい教育きょういくの仕事しごとをしよう。それには本ほんをたくさんかいて、西洋せいようのようすをしってもらわなければならない。)

このように決心けっしんした諭吉ゆきちは、まえよりも塾じゅくをさかんにしようとかんがえました。

ところが、塾じゅくのある鉄砲洲てっぽうずの奥平家おくだいらけのやしきは、外国人がいこくじんのすむところになるというので、幕府ばくふにとりあげられることになりました。そこで、諭吉ゆきちは、芝しばの新銭座しんせんざに有馬ありまというとのさまの土地とちを買かって、塾じゅくをたてたのでした。

そのころ、幕府ばくふがたの勝海舟かつかいしゅうと、朝廷ちょうていがたの西郷吉之助さいごうきちのすけ(隆盛たかもり)の話はなし合あいによって、江戸城えどじょうはぶじにあけわたされましたが、それにはんたいの人々ひとびとがかなりあって、彰義隊しょうぎたいと名なのり、上野うえのの山やまにたてこもったりしていました。ですから、いまにも戦争せんそうがはじまりそうで、江戸えどの市中しちゅうはざわついていました。

こんなときに、ひろい土地とちを買かい、大おおきな家いえをたてようとするのですから、人々ひとびとはおどろいてしまいました。しかし、仕事しごとのないときですから、大工だいくたちはよろこんでやすいちんぎんではたらいてくれ、なかなかりっぱな塾じゅくができあがりました。それに年号ねんごうをとって、「慶応義塾けいおうぎじゅく」と名なづけたのでした。

そうして、五月がつ十五日にち、上野うえのでは、官軍かんぐんと彰義隊しょうぎたいのあいだに戦争せんそうがはじまり、彰義隊しょうぎたいは、まけてちりぢりばらばらになり、寛永寺かんえいじもやけてしまいました。しかし、慶応義塾けいおうぎじゅくでは、しずかに講義こうぎがおこなわれたのでした。諭吉ゆきちの教育きょういくの仕事しごとは、こうして戦火せんかをくぐりぬけて、しだいにくりひろげられていくことになりました。

彰義隊しょうぎたいの負まけいくさにおわったあと、幕府ばくふがわの人ひとたちは、東北地方とうほくちほうにのがれ、二本松にほんまつや会津若松あいづわかまつや、北海道ほっかいどう箱館はこだて(函館はこだて)の五稜郭ごりょうかくなどで、官軍かんぐんにてむかい、つぎつぎにやぶれていきました。幕府ばくふの海軍かいぐんのせきにん者しゃだった榎本武揚えのもとたけあきも、この五稜郭ごりょうかくでとらえられたのでした。

このように世よの中なかがさわがしかったので、幕府ばくふの学校がっこうはつぶれてしまっていましたし、あたらしい政府せいふは、まだ学校がっこうをつくることまでには手てがまわりませんでした。慶応義塾けいおうぎじゅくだけが、西洋せいようのあたらしい学間がくもんをおしえていたわけです。そこで、生徒せいとの数かずも、二百人にん、三百人にんをかぞえるようになりました。

そのころのある日ひのことでした。九州きゅうしゅうから、慶応義塾けいおうぎじゅくにはいりたいと、はるばるやってきた青年せいねんがありました。りっぱな身みなりからかんがえて、さむらいの子こであることはまちがいありません。青年せいねんは、ちょうどであった町人ちょうにんふうの男おとこに道みちをたずねました。

「これこれ、慶応義塾けいおうぎじゅくへは、どういけばよいのか。」

きかれた男おとこは、じつにていねいにおしえてくれました。おしえられたとおりにいくと、いどがあって、そのそばで、一人ひとりのおやじがまきわりをしていました。

「これこれ、おやじ、慶応義塾けいおうぎじゅくはここか。そうして入いり口ぐちはどこか。」

とたずねると、これまた、しんせつにおしえてくれました。

こうして、塾じゅくの中なかへはいってくると、さきほど、道みちをおしえてくれた町人ちょうにんふうの男おとこが、塾頭じゅくとうの小幡先生おばたせんせいで、まきわりをしていたおやじが、なんと福沢先生ふくざわせんせいではありませんか。その青年せいねんは、あなでもあればはいりたいほど、ひやあせをかきました。

慶応義塾けいおうぎじゅくは、こんなふうに、民主的みんしゅてきなふんいきをもっていました。そうして、明治めいじ四(一八七一)年ねんに、慶応義塾けいおうぎじゅくは、新銭座しんせんざから三田みたへうつりました。

あんさつ者しゃが、そこにもいた

諭吉ゆきちは、三田みたに慶応義塾けいおうぎじゅくをうつしたとき、自分じぶんのすむ家いえもたてましたが、大工だいくにたのんで、家いえのゆかをふつうよりたかくして、おし入いれの中なかからゆか下したへもぐってにげだせるようにしました。それは、そのころ、ふるい考かんがえをもつ人ひとが、西洋せいようのあたらしい学問がくもんをしているゆうめいな人ひとをころすことがはやっていたからです。慶応義塾けいおうぎじゅくをひらいた諭吉ゆきちは、しだいにひょうばんのまとになってきたので、日ひごろから、けいかいをしていたわけでした。

そのまえの年としの明治めいじ三(一八七〇)年ねん、諭吉ゆきちは、いのちにかかわるような腸ちょうチフスにかかりました。まだすっかりなおりきらないからだで、東京とうきょうへお母かあさんをよぶために、中津なかつへでかけました。中津なかつは、ふるさとでもあるし、しんるいやしっている人ひともおおいので、気きをゆるしていました。ところが、この町まちでも、諭吉ゆきちはねらわれていたのです。

諭吉ゆきちのまたいとこに、増田宋太郎ますだそうたろうという青年せいねんがありました。十三、四さいばかり年としが下したで、家いえもちかく、朝あさばん、にこにこしてやってくるので、諭吉ゆきちは、

「宋そうさん、宋そうさん。」

とよんで、したしくつきあっていました。この宋そうさんが、じつは、諭吉ゆきちのようすをさぐるためにやってきていたのでした。

あるばんのこと、諭吉ゆきちのところにしりあいのおきゃくがあって、お酒さけをのみながら、二人ふたりはさかんにはなしあっていました。そのとき、そっと庭にわにしのびこんで、このようすをうかがっている青年せいねんがありました。青年せいねんは、おきゃくがはやくかえっていって、諭吉ゆきちがねるのをまっていたのですが、話はなしはなかなかおわりそうになく、十二時じがすぎ、一時じがすぎても、おきゃくはかえりそうにもありません。

青年せいねんは、とうとうあきらめて、たちさっていきましたが、これこそ、諭吉ゆきちのねこみをおそってころそうとたくらんでいた宋太郎そうたろうだったのです。諭吉ゆきちは、それをこのときにはしらなかったのですが、四、五年ねんたってからきかされて、びっくりしました。自分じぶんの身みのまわりに、いのちをねらうものがいたのでした。

そればかりではありません。家いえの中なかのかたづけをおわって、諭吉ゆきちは、お母かあさんとめいとをつれて、東京とうきようへかえることになり、船ふねにのるため、中津なかつから四キロメートルほど西にしの鵜うの島しままでいって、宿屋やどやにとまりました。宿屋やどやのわかい主人しゅじんは、これをみると、使つかいのものをこっそりと中津なかつへはしらせ、

「今夜こんやこそ、福沢ふくざわをころすのにもってこいの機会きかいだ。」

としらせました。

ところが、この知しらせをうけて、中津なかつでは、だれが諭吉ゆきちをころしにいくかで、あらそいがおこり、ぎろんをしているうちに、夜よがあけてしまいました。これで諭吉ゆきちは、ぶじに船ふねにのり、いのちびろいをしたわけですが、神戸こうべの宿屋やどやについてみると、東京とうきょうの塾頭じゅくとうの小幡おばたから、手紙てがみがきていました。

「きくところによりますと、ちかごろは大阪おおさかや京都きょうともおだやかでなく、先生せんせいをつけねらっているものがあるそうですから、神戸こうべについたら、なるべく人ひとにしられないように気きをつけて、すぐ東京とうきょうへかえってきてください。」

諭吉ゆきちは、お母かあさんに、京都きょうとや大阪おおさかなどを、ゆっくり見物けんぶつさせて、よろこばせてあげようとおもっていただけに、がっかりしました。でも、お母かあさんに、ほんとうのことをはなしたら心配しんぱいするので、きゅうな用事ようじができたことにして、見物けんぶつをやめ、いそいで東京とうきょうにかえりました。

諭吉ゆきちがねらわれたのは、このときだけではありません。それから二年ねんほどたって、諭吉ゆきちが関西かんさいにでかけたとき、宋太郎そうたろうは大阪おおさかにきていて、ひそかに諭吉ゆきちをころそうとするけいかくをたてていました。ところが、宋太郎そうたろうは、ふるさとのお母かあさんがおもい病気びょうきになったので、きゅうに中津なかつへかえらなければなりませんでした。そこで、なかまの朝吹英二あさぶきえいじに、この仕事しごとをたのんでかえりました。

朝吹あさぶきは、ちょうど諭吉ゆきちがとまった、諭吉ゆきちのいとこの医者いしゃの家いえで書生しょせいをしていました。ですから、諭吉ゆきちは、大阪おおさかにいるあいだは、この朝吹あさぶきを自分じぶんのおともにしていたのです。

(これはうまくいくぞ。)

と、朝吹あさぶきは、すきをうかがって、あんさつしようとしていました。

たまたま、諭吉ゆきちは、わかいころせわになった緒方先生おがたせんせいの家いえによばれて、朝吹あさぶきをつれていきました。先生せんせいはもうなくなられていたわけですが、先生せんせいのおくさまと、なつかしい思おもい出話でばなしをしているうちに、夜よもふけて十時じごろになりました。おくさまのすすめで、諭吉ゆきちはかごにのり、そのわきに朝吹あさぶきがついていました。もう人ひとどおりはなく、さびしい夜よふけの町まちに、かご屋やの足音あしおとばかりが音おとをたてていました。

(いまだ。)

と、朝吹あさぶきは刀かたなに手てをかけて、すっと、かごにしのびよりました。そのとたんに、

ドドドド、ドンドン。

と、たいこがなりました。ふいの音おとに、朝吹あさぶきはびっくりしてしまい、手てをひっこめてしまいました。それは、ちかくのよせ(落語らくごや講談こうだんなどのかかる小屋こや)のたいこの音おとで、かえりの人ひとがぞろぞろでてきたので、朝吹あさぶきはもうどうすることもできませんでした。諭吉ゆきちは、なにもしらず、家いえへかえることができました。

こんなことがあってから、朝吹あさぶきは、諭吉ゆきちの話はなしをいろいろときいて、ときにはぎろんをしましたが、だんだん、この人ひとはほんとうに日本にっぽんのためをおもっている人ひとだ、とかんがえるようになりました。そうして、自分じぶんのかんがえていたこと、やろうとしていたことが、まちがっているようにおもわれたので、諭吉ゆきちにすっかりはなしてあやまり、慶応義塾けいおうぎじゅくにはいりました。

これをきいて、宋太郎そうたろうは、

「朝吹あさぶきはけしからんやつだ。」

と、はらをたてましたが、その宋太郎そうたろうも、自分じぶんのわるかったことをさとって、諭吉ゆきちにあやまり、やがて慶応義塾けいおうぎじゅくにはいってきました。

「自分じぶんのわるかったことに気きがついて、あらためるというのは、りっぱなことだ。」

と、諭吉ゆきちは、二人ふたりをほめました。

このように諭吉ゆきちは、一どは自分じぶんをにくんで、ころそうとまでした人間にんげんでも、わるいとさとってあやまってくれば、すなおにゆるしてやり、勉強べんきょうさせたり、身みのうえのこまかいめんどうもみてやったのでした。そうして宋太郎そうたろうは、のちに西南せいなんの役えきで西郷隆盛さいごうたかもりの部下ぶかとなり、城山しろやまで死しんだのですが、朝吹あさぶきは慶応義塾けいおうぎじゅくをさかんにするうえで、なくてはならぬ人ひとになりました。

人間にんげんのいのちはたいせつだ

諭吉ゆきちは、ただしくないこと、ひきょうなこと、いくじなし、男おとこらしくないことは、だいきらいでした。ですから、そういうことをみたりきいたりすると、かんしゃく玉だまをばくはつさせて、じっとしていることができませんでした。仙台せんだいの洋学者ようがくしゃ大童信太夫おおわらしんだゆうをたすけだしたり、千葉ちばの長沼村ながぬまむらの人々ひとびとのために、力ちからをつくしたこともありますが、ここでは、その一つのれいとして、榎本武揚えのもとたけあきをすくった話はなしをとりあげておきます。

榎本武揚えのもとたけあきが、北海道ほっかいどうの五稜郭ごりょうかくにたてこもって、あたらしい政府せいふにてむかい、とらえられたことは、まえにかきましたが、そののち、武揚たけあきは東京とうきようにおくられ、とりしらべをうけてから、ろうやに入れられていました。

ところが、武揚たけあきの家いえにはなんのたよりもなく、ゆくえさえはっきりしらされていませんでしたから、年としのいったお母かあさんや、ねえさんやおくさんは、たいへん心配しんぱいしていました。

そこで、武揚たけあきの妹いもうとのおっとである江連えづれという人ひとから、諭吉ゆきちのところへ手紙てがみでといあわせてきました。江連えづれは幕府ばくふの外国奉行がいこくぶぎょうをしていたので、諭吉ゆきちとはしりあったなかでした。江連えづれは当時とうじ、榎本えのもとの家族かぞくといっしょに静岡しずおかにすんでいたのですが、手紙てがみには、つぎのようにかいてありました。

「榎本えのもとはどうしているのでしょうか。江戸えどにきているといううわさは風かぜのたよりにきいたのですが、それもたしかめることができません。母ははやきょうだいが心配しんぱいしていますので、江戸えどのしんるいにといあわせましたが、だれも、自分じぶんが政府せいふににらまれるのをおそれてか、ただの一どもへんじをくれません。あなたにきいたら、なにかようすがわかるだろうと、かんがえて、お手紙てがみをさしあげるわけです。ごぞんじのことがあったら、どうぞおしらせください。」

よみおわった諭吉ゆきちは、きのどくだな、とおもいました。ことに、年としとったお母かあさんがかわいそうでなりませんでした。

もともと、諭吉ゆきちは、榎本武揚えのもとたけあきという人間にんげんをしってはいましたが、ふかいつきあいをしたことはありません。ですから、武揚たけあきがろうやに入いれられているといううわさはきいたことがありますが、べつに、それいじょうは気きにもとめていなかったのです。しかし、江連えづれの手紙てがみをみて、しんるいのものたちが、政府せいふににらまれるのをおそれて、へんじをよこさないということをしって、そのひきょうなたいどにふんがいしました。

(なんというはくじょうな、ひれつなやつらだ。幕府ばくふの人間にんげんは、みな、これだからいけない。よし、おれが一人ひとりでひきうけてやる。)

こうおもいたった諭吉ゆきちは、すぐに、あちらこちらに手てをまわしてしらべました。さいわい、武揚たけあきはまだころされず、ろうやにとらわれの身みとなっていました。

「ころされるかどうか、そこのところはどうもわかりませんが、とにかく、ただいまのところは、病気びょうきもせず、元気げんきでいます。」

としらせてやりました。すると、江連えづれから、

「母ははと姉あねが、東京とうきょうへいきたいといいますが、いってもよいでしょうか。」

といってきました。

「わたしは、政府せいふからにらまれてもかまわないから、どうぞ、東京とうきょうへでていらっしゃい。」

諭吉ゆきちが、こうへんじをかいたので、二人ふたりはよろこびいさんで、諭吉ゆきちのところにやってきました。そうして、武揚たけあきのようすをたずねたり、ひつようなものをさし入いれたりしているうちに、武揚たけあきのお母かあさんは、一どでいいから、むすこにあいたいといいだしました。

諭吉ゆきちは、なんとかして、あわせてやりたいとおもいましたが、どうしたら、あわせられるのか、それがわかりません。あれやこれやとかんがえたすえ、武揚たけあきのお母かあさんにあいがん書しょというものをかいてださせることをおもいつきました。その文章ぶんしょうは、お母かあさんがかいたもののようにして、諭吉ゆきちがかいてやりました。

「せがれの釜次郎かまじろう(武揚たけあきのこと)が、朝廷ちょうていのお心こころにそむきまして、つみをおかしたことは、まことにおそれおおいことでございますが、釜次郎かまじろうはひじょうな親思おやおもいもので、父ちちが病気びょうきのときはよくかんびょうしてくれました。この親思おやおもいものが、あんなに大おおきなつみをおかしましたのは、あくまのしわざでございましょうか、いまさらなげきかなしんでも、もはや、とりかえしのつくことではございません。死刑しけいになりましても、けっしておうらみはいたしません。けれども、わたくしのいのちも、もうながくはございません。できることなら、せがれの身みがわりにしていただきたいところですが、せめて、一ど、あわせてはいただけないでしょうか。」

こんなことを、こまごまとかいて、それをねえさんが清書せいしょをし、お母かあさんが、つえをついて、とぼとぼと役所やくしょまであるいていってさしだしました。これをよんだ役人やくにんは、たいへん心こころをうごかされて、すぐに面会めんかいをゆるしてくれました。

さあ、そうなると、諭吉ゆきちは、なんとかして武揚たけあきのいのちをたすけてやりたいとおもいました。すると、たいへんつごうのよいことがおこりました。

ある日ひ、政府せいふの役人やくにんが、オランダ語ごのノートをもってきて、ぜひ、日本語にほんごにほんやくしてほしいとたのみました。諭吉ゆきちは、それをめくってよんでいくうちに、

「これは、しめたぞ。」

とよろこびました。このノートは、武揚たけあきが、オランダへ学問がくもんをしにいったとき、勉強べんきょうした航海術こうかいじゅつの講義こうぎをうつしたものでした。武揚たけあきは五稜郭ごりょうかくにたてこもったときにも、これをだいじにもっていましたが、いよいよこうさんしたとき、

「国家こっかのために役やくだたせてください。」

という手紙てがみをそえて、官軍かんぐんの参謀さんぼう黒田清隆くろだきよたかにおくったのでした。諭吉ゆきちは、そのノートだとわかりましたので、これをうまくつかって、武揚たけあきをたすけようとおもいついたのです。

そこで、諭吉ゆきちは、はじめのほうだけすこしほんやくして、

「これは、航海こうかいになくてはならぬりっぱなものです。しかし、ざんねんなことに、これは講義こうぎをきいてかいたものですから、その本人ほんにんでないと、わからないところがあります。本人ほんにんはだれだかしりませんが、これがぜんぶほんやくできたら、わが国くににとってたいへん役やくにたつものとおもわれます。」

諭吉ゆきちは、その本人ほんにんが武揚たけあきであることを、ちゃんとしってはいましたが、わざとしらないふりをして、そのノートを政府せいふにかえしました。そうすれば、武揚たけあきのいのちがたすかるかもしれないとかんがえたからです。

それとどうじに諭吉ゆきちは、黒田清隆くろだきよたかとはしりあったなかでしたから、

「どうでしょうか。榎本えのもとという男おとこは、たいへんなさわぎをやったのだから、死刑しけいになっても、しかたがないのだけれども、一どいのちをとれば、あとからどうすることもできない。人間にんげんのいのちというものは、なによりもたいせつなものですから、いのちだけはたすけてやったほうが、よいのじゃないですか。」

ともちかけました。

「わしも、榎本えのもとという男おとこのえらいところはしっている。だが、ろうやに入いれられて、生いきながらえている気持きもちが気きにくわない。どうして、いさぎよく死しなぬのだろうか。」

「とんでもない。武揚たけあきが死しんでしまえば、それっきりです。しかし、あれほどの人間にんげんを生いかしておけば、日本にっぽんの国くにのために、どれほど役やくにたつかしれません。」

「なるほど、きみのいうことも、一つのりくつだな。」

黒田くろだは、諭吉ゆきちの話はなしに心こころをうごかされ、武揚たけあきをたすけるために、力ちからになってくれることをやくそくしてくれました。

こうして、明治めいじ五(一八七二)年ねん、武揚たけあきは、ゆるされてろうやからでてきました。けれども、そのお母かあさんは、病気びょうきですでになくなっていました。武揚たけあきは、その後ご、公使こうしや大臣だいじんになって、日本にっぽんの国くにに役やくだつ人ひとになりましたが、その武揚たけあきをたすけだしたのは、諭吉ゆきちその人ひとでした。

天てんは人ひとの上うえに人ひとをつくらず

諭吉ゆきちは、慶応義塾けいおうぎじゅくであたらしい教育きょういくをし、「文部省もんぶしょうは竹橋たけばしにあり、文部大臣もんぶだいじんは三田みたにいる。」と、せけんでいわれたほどですが、それとどうじに、出版しゅっぱんに力ちからを入いれました。本ほんをだして、一人ひとりでもおおくの人ひとに、自分じぶんの考かんがえをわかってもらい、西洋せいようのすすんだ文明ぶんめいをとり入いれてもらいたいと、いっしょうけんめいにげんこうをかきました。そうして出版社しゅっぱんしゃにまかせておいたのでは、そのいいなりのお礼れいしかもらえないことがわかりましたので、自分じぶんで出版社しゅっぱんしゃをつくりました。

その出版社しゅっぱんしゃは慶応義塾けいおうぎじゅくのしき地ちの中なかにたてて、主任しゅにんには、いつか大阪おおさかで諭吉ゆきちをねらった朝吹英二あさぶきえいじをあて、職工しょっこうをたくさんやとい入いれ、製本所せいほんじょもつくりました。諭吉ゆきちのかいた本ほんばかりでなく、すぐれたものはどんどん出版しゅっぱんしました。

諭吉ゆきちが本ほんをかくのは、日本人にほんじんの考かんがえかたをあたらしくするのがもくてきでしたから、できるだけやさしい文章ぶんしょうをかくようにどりょくしました。そうしてできあがった文章ぶんしょうは、ばあやによんできかせて、わかるかどうかをたしかめてから、はっぴょうするというやりかたでした。

諭吉ゆきちのかいた本ほんはたくさんありますが、その中なかでゆうめいなのは、「西洋事情せいようじじょう」「世界国尽せかいくにづくし」「学問がくもんのすすめ」などです。これらの本ほんは、どれもやさしくていねいに、だれにでもわかるようにかかれていたので、ひっぱりだこで、人々ひとびとによまれました。

ことに大おおきなえいきょうをあたえたのは、

「天てんは人ひとの上うえに人ひとをつくらず、人ひとの下したに人ひとをつくらずといえり……。」

ということばではじまる「学問がくもんのすすめ」でした。

この本ほんで、諭吉ゆきちは、人間にんげんはだれもがびょうどうでなければならないことを、はっきりとかきました。地位ちいとか家いえがらとか、お金かねのあるなしで、さべつがつけられてはならないというのです。そうして、かりに、人間にんげんとしてとうといとか、いやしいとかのくべつがあるとするならば、それは学問がくもんをしたか、しないかのちがいであるから、だれでも学問がくもんをするようにどりょくしようではないか、というのでした。

その学問がくもんというのは、ただむずかしい文字もじをおぼえたり、わかりにくいふるくさい文章ぶんしょうをよんだり、和歌わかをよんだり、詩しをつくったりするようなことではなく、「人間にんげんふつう日用にちようにちかき実学じつがく」だといいました。そうでない学問がくもんは、なぐさみの学問がくもんにすぎないというわけでした。

近代的きんだいてきな考かんがえかたを、そのものずばりにはっきりいったので、ふるい考かんがえかたの人々ひとびとは、まっかになっておこりました。しかし、それらの人々ひとびとの中なかにも、これをよんでいくうちに、諭吉ゆきちのかたよらない考かんがえかたや、ただしい意見いけんに感心かんしんしてくるものもでてきました。

あたらしい政府せいふも、いままでの外国がいこくぎらいをやめて、諭吉ゆきちの「西洋事情せいようじじょう」をさんこうにして、アメリカやヨーロッパの文明ぶんめいをとり入いれて、あたらしい政治せいじをおこなうようになりました。

明治めいじ四(一八七一)年ねんには、いままでの藩はんをやめて、あたらしく県けんをおくことになりました。とのさまも、政府せいふの役人やくにんとおなじになったわけです。そうして、諭吉ゆきちにたいしては、役人やくにんになって、政府せいふの仕事しごとをやってもらいたいと、しきりにたのんできました。諭吉ゆきちは、病気びょうきといって、ことわりつづけました。

神田孝平かんだたかひら・柳川春三やながわしゅんさんは、諭吉ゆきちとおなじ洋学者ようがくしゃでしたが、政府せいふからたのまれて、役人やくにんになっていました。その神田孝平かんだたかひらが、ある日ひ、諭吉ゆきちをたずねてきて、

「どうだ、福沢ふくざわ、もう一どかんがえなおして役人やくにんになってくれないか。そうすれば、ぼくと柳川やながわは、とてもたすかるんだ。幕府ばくふとちがって、すぐれたものはどんどん出世しゅっせもできるし、政府せいふの身分みぶんのたかい人ひとも、きみにぜひきてほしいといっているのだ。」

と、ねっしんにすすめました。

「いや、わたしはごめんだね。役人やくにんにはなりたくないし、役人やくにんで出世しゅっせしたいなど、一どもかんがえたことはない。わたしは平民へいみん、ただの国民こくみんでいいのだ。」

と、諭吉ゆきちは、きっぱりとこたえました。

「どうして、きみは役人やくにんをきらうのかね。」

「そうだね。まず第だい一に気きにいらないのは、役人やくにんがからいばりをするからだ。

第だい二に、きみのまえではいいにくいことだが、役人やくにんぜんたいが下品げひんなことだ。

第だい三には、幕府ばくふにちゅうぎそうな顔かおをしていたものが、幕府ばくふがつぶれると、すぐさまあたらしい政府せいふのほうへついて、すこしでもよい地位ちいをえようと血ちまなこになっていることだ。そうして地位ちいがあがると、いばりちらす。そこのところが気きにくわない。

第だい四には、国民こくみんだ。士族しぞくはもちろん、ひゃくしょうや町人ちょうにんの子こどもでも、すこしばかり文字もじがわかるやつは、みんな役人やくにんになりたがっている。役人やくにんになれぬまでも、政府せいふにちかづいていって、なにか金かねもうけをしようとたくらんでいる。そうして、せっかくあたらしい世よの中なかになったのに、国民こくみんは役人やくにんにへいこらしている。しっかりとひとりだちをして、自分じぶんをたっとぶという精神せいしんがない。これでは、日本にっぽんはひらけない。

わたしは、役人やくにんにならないで、ほんとうに自由じゆうで、ほんとうのひとりだちの生活せいかつとは、こういうものだと、せけんの人々ひとびとに、ひろくみせてやりたいとおもうのだ。」

「いやに、役人やくにんをやっつけるじゃないか。まるで、ぼくに役人やくにんをやめさせようとしているみたいだ。」

「そんなことはない。きみは、それでいいんだ。きみの考かんがえどおり役人やくにんになったんだからね。自分じぶんの考かんがえどおりにものごとをおこなうのが、ほんとうに男おとこらしい人間にんげんなんだ。わたしは、役人やくにんがきらいだから、役人やくにんにはならない。きみが役人やくにんになったのを、わたしがさんせいするように、きみは、わたしが役人やくにんにならないのをみとめてくれなくっちゃ、いけない。」

「なるほど、きみのりくつにあっては、まけだ。」

神田かんだは、あきらめて、わらいながらかえっていきました。

こういった諭吉ゆきちですから、ある人ひとが、諭吉ゆきちのてがらをたたえて、政府せいふがひょうしょうしなければならないといいますと、諭吉ゆきちは、

「とんでもない。わたしは、自分じぶんがすきだから、塾じゅくをひらいたり、本ほんをかいたりしてきたわけだ。それをほめるとか、むくいるとかいうのは、おかしい。とうふ屋やがとうふをつくり、車屋くるまやが車くるまをひくのと、おなじことではないか。わたしをひょうしょうするというのなら、そのまえに、となりのとうふ屋やからひょうしょうしてもらいたいものだね。」

と、いかにも平民へいみんらしい答こたえかたをしました。

諭吉ゆきちは、このように役人やくにんにはならず、せけんのいっぱんの人々ひとびととともに生いきながら、教育者きょういくしゃとして、また本ほんをかいて、自由じゆうと民主主義みんしゅしゅぎの光ひかりをたかくかかげて、どうどうとすすんでいきました。西南せいなんの役えきもおわった明治めいじ十二(一八七九)年ねんの七月がつには、国会論こっかいろんをかきあげて、慶応義塾けいおうぎじゅくの出身者しゅっしんしゃがへんしゅうしている報知新聞ほうちしんぶんに、社説しゃせつとして一週間しゅうかんほど、毎日まいにちはっぴょうしました。

福沢諭吉ふくざわゆきちの名なまえはださないで、文章ぶんしょうも諭吉ゆきちがかいたのだと、わからないようにくふうしてのせました。これはたいへんなひょうばんになって、国会こっかいをひらかなければならないというぎろんが、ひじょうにたかまってきました。

そのため、政府せいふも、明治めいじ十四(一八八一)年ねんに、国会こっかいを明治めいじ二十三(一八九〇)年ねんにいよいよひらくというやくそくを、しなければならなくなったほどでした。

諭吉ゆきちは、さらに明治めいじ十五(一八八二)年ねんに、「時事新報じじしんぽう」という新聞しんぶんを発行はっこうし、政治せいじ・教育きょういく・外交がいこう・軍事ぐんじ・婦人ふじんもんだいなどについて、論文ろんぶんをのせました。

女おんなの子こでどうしてわるいか

「ああ、また、しょうじをやぶったな。なかなか元気げんきがあって、見みこみがあるぞ。」

「まあ、元気げんきがあってよいなんておっしゃって。女おんなの子こですから、もうすこし、おとなしくしてくれるといいんですが……。」

「いやいや、女おんなの子こだって、元気げんきがあるほうがいいよ。」

諭吉ゆきちは、自分じぶんのむすめが、しょうじをやぶるのをながめながら、おくさんと、こんな話はなしをかわしながら、よろこんでいました。ふつうのうちのお父とうさんだったら、子こどもがしょうじをやぶったり、いたずらをしたりしたら、たいていは大おおきな声こえでしかるものですが、諭吉ゆきちはちがっていました。

明治めいじ十六(一八八三)年ねん、諭吉ゆきちは五十さいになっていましたが、この年としの夏なつ、四男なんの大四郎だいしろうが生うまれたので、諭吉ゆきちは四男なん五女じょ、あわせて九人にんという、おおぜいの子こだからにめぐまれました。その子こどもたちを、わけへだてなく、かわいがったのはいうまでもありません。

子こどもたちは自由じゆうでかっぱつであったほうがいい、と諭吉ゆきちはかんがえていましたから、おくさんともよくはなしあったうえ、きるものはそまつにしても、えいようだけはじゅうぶんにとらせるように気きをつけました。

ですから、家いえの中なかで、子こどもがあばれまわっても、いっこうにしかりません。勉強べんきょうよりも、からだをじょうぶにすることのほうがだいじだ、と諭吉ゆきちはかんがえていたからです。そこで、子こどもが、八、九さいになるまでは、おもうままにあばれさせて、からだをじょうぶにすることだけを、いちばんのもくひょうにしました。七、八さいになると、はじめて勉強べんきょうをさせることにしましたが、もちろん、からだのことは、いつも気きをつけました。したがって、福沢家ふくざわけでは、

「きょうは、おとなしくよく勉強べんきょうしたね。」

などといって、ほめられることはありませんでした。それよりも、小ちいさな子こどもが、

「きょうは、遠足えんそくがあって、とてもとおかったけれど、がんばってあるいて、先生せんせいにほめられました。」

とか、その上うえの子こが、

「きょうは、たいそうがあって、走はしりきょうそうで一ばんになりました。」

とかいうと、

「それはえらかったね。では、ごほうびをあげよう。」

こういったちょうしで、勉強べんきょうよりも、うんどうができたほうが、ほめられるのでした。

それから、家いえの中なかでは、ひみつなことはいっさいないということにしていました。なんでも、ざっくばらんにはなしあうことにしていました。ですから、諭吉ゆきちが子こどものわるいところをとがめると、子こどものほうも、諭吉ゆきちのわるいところをいうというありさまで、ほんとうにあかるい家庭かていでした。

そのころ、しつけのきびしい家いえでは、主人しゅじんが外出がいしゅつするときは、家いえじゅうのものがげんかんにおくってでて、手てをついておじぎをしたり、かえってきたときには、また、げんかんにでむかえるというのがならわしでしたが、諭吉ゆきちは、けっして、そんなことはやらせませんでした。諭吉ゆきちは外出がいしゅつするといっても、げんかんからでるとはきまっていません。台所だいどころからさっさとでていくことだってありました。かえるときも、そのとおりで、そのときの足あしのむいたほうからでていったり、はいったりしていました。

あるとき、出入でいりの商人しょうにんがきて、いいました。

「先生せんせい、わたしのうちには、また女おんなの子こが生うまれました。こんどこそ、男おとこの子こが生うまれてほしいとおもっていましたので、がっかりしました。」

これをきいた諭吉ゆきちは、

「女おんなの子こで、どうしてわるいのかね。じょうぶでさえあれば、いいじゃないか。せけんでは、男おとこの子こが生うまれると、『たいそうめでたい。』といい、『女おんなの子こであってもじょうぶなら、まあまあめでたい。』などといっているが、わたしは、そんなつもりでいっているのではない。男おとこの子こと女おんなの子このちがいがあろうわけがない。そこにかるいおもいはないはずだ。わたしは、九人にんの子こがみんな女おんなの子こだって、すこしもざんねんとはおもわないね。ただ、男おとこの子こが四人にん、女おんなの子こが五人にんというふうに、半分はんぶんずつで、いいあんばいだと、おもうだけだ。女おんなの子こが生うまれて、がっかりすることなんてないな。」

「先生せんせいのお話はなしをおききしていましたら、なるほど、女おんなの子こでもわるくないという気きがしてきました。じつは、家内かないが、女おんなの子こが生うまれたというんで、わたしいじょうにがっかりしているところです。ありがとうございました。さっそく、家いえにかえって、家内かないに先生せんせいのお話はなしをきかせてやって、元気げんきをつけてやります。」

その商人しょうにんは、いそいそとかえっていきました。

諭吉ゆきちは、口くちさきでいうだけではなく、毎日まいにちの生活せいかつでも、ざいさんをわけるときにも、男おとこの子こと女おんなの子こをすこしもくべつせず、まったくおなじでした。それは、諭吉ゆきちが、女性じょせいを見みくだしたりはけっしてしなかったからにちがいありません。そこで諭吉ゆきちは、おくさんをそんけいし、諭吉夫婦ゆきちふうふはひじょうになかよく、むつまじくくらしました。諭吉ゆきちは一夫ぷ一婦ぷをしゅちょうし、もちろん、自分じぶんでもそれを実行じっこうしました。

このように諭吉ゆきちは、民主主義みんしゅしゅぎというものをよくりかいし、これを、せけんの人々ひとびとにわかりやすい文章ぶんしょうでといただけではなく、自分じぶんで実行じっこうしたのでした。それを、すべてのことにわたって、つらぬきとおしていました。

諭吉ゆきちは、くんしょうだの、しゃくい(きぞくのくらい)だのというものが、だいきらいでした。くんしょうをぶらさげていても、どうということはないとおもっていましたし、明治めいじになって、やっと身分みぶんからかいほうされたのに、またまた、しゃくいをつくって、身分みぶんのくべつをつけるというのは、こっけいなことだとおもっていたからです。

明治めいじ三十一(一八九八)年ねんに、諭吉ゆきちは脳出血のうしゅっけつでたおれ、いのちがあぶないとつたえられたとき、政府せいふは、諭吉ゆきちに、しゃくいをさずけようとしました。その知しらせがあったとき、家族かぞくをはじめ、慶応義塾けいおうぎじゅくの人々ひとびとは、諭吉ゆきちの考かんがえをよくしっていましたので、そうだんのうえ、それをことわりました。

諭吉ゆきちは、さいわい、よくなりましたが、この話はなしをきいて、

「ああ、よくことわってくれた。」

と、心こころのそこからよろこびました。

こうして、明治めいじ三十四(一九〇一)年ねん、諭吉ゆきちは、六十八さいの正月しょうがつをむかえました。それは、あたらしい世紀せいき、二十世紀せいきのはじめの年としでした。

慶応義塾けいおうぎじゅくのわかい学生がくせいたちは、ふるい十九世紀せいきをおくり、あたらしい二十世紀せいきをむかえるために、一九〇〇年ねん十二月がつ三十一日にち、にぎやかな会かいをひらきました。そのうちに夜よはあけて、一月がつ一日ついたち、年始ねんしのあいさつにきた人々ひとびとに、諭吉ゆきちはいいました。

「いよいよ二十世紀せいきだ。十九世紀せいきの日本にっぽんは、封建制度ほうけんせいどがつづき、これをなくするために、ずいぶん、ごたごたした世よの中なかだった。けれども、日本にっぽんはあたらしい世よの中なかをむかえたのだ。ふるいことはみんなわすれさって、かくごをあらたにしてがんばろうではないか。」

諭吉ゆきちの目めはあかるくかがやき、希望きぼうにみちた顔かおは、とてもわかわかしくみえました。ですから、

「福沢先生ふくざわせんせいは、元気げんきになられた。」

と、だれもがあんしんをし、よろこんだのでした。

ところが、その一月がつもおわりにちかいころ、諭吉ゆきちは、きゅうに病気びょうきでたおれました。脳出血のうしゅっけつが、ふたたびおこったのでした。そうして二月がつ三日みっか、とうとうその一生しょうをおわりました。

おもえば、福沢諭吉ふくざわゆきちこそ、民主主義みんしゅしゅぎの光ひかりをかかげた、明治めいじの大おおきなともしびでありました。いや、明治めいじだけではなく、大正たいしょう、昭和しょうわとつづき、今日こんにちのわたくしたちにとっても、なお大おおきなともしびであるといわなければなりません。(おわり)

底本 / Source edition

底本:「福沢諭吉」講談社火の鳥伝記文庫、講談社
1981(昭和56)年11月19日第1刷発行
2009(平成21)年2月9日第51刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/052212_001541/

高山 毅「福沢諭吉──ペンは剣よりも強し」(新字新仮名)、底本『福沢諭吉』講談社火の鳥伝記文庫、講談社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 052212_001541, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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