Soranoha

神鑿

しんさく

泉 鏡花、泉 鏡太郎

朱鷺船ときふね

一

濡色ぬれいろを含ふくんだ曙あけぼのの霞かすみの中なかから、姿すがたも振ふりもしつとりとした婦をんなを肩かたに、片手かたてを引担ひつかつぐやうにして、一人ひとりの青年わかものがとぼ〱と顕あらはれた。

色いろが真蒼まつさをで、目めも血走ちばしり、伸のびた髪かみが額ひたひに被かゝつて、冠物かぶりものなしに、埃塗ほこりまみれの薄汚うすよごれた、処々ところ〲釦ボタンの断ちぎれた背広せびろを被きて、靴くつ足袋たびもない素跣足すはだしで、歩行あるくのに蹌踉々々よろ〱する。

其それが婦をんなを扶たすけ曳ひいた処ところは、夜一夜よひとよ辿々たど〱しく、山路野道やまみちのみち、茨いばらの中なかを徉徜さまよつた落人おちうどに、夜よが白しらんだやうでもあるし、生命懸いのちがけの喧嘩けんくわから慌あはたゞしく抜出ぬけだしたのが、勢せいが尽つきて疲果つかれはてたものらしくもある。が、道行みちゆきにしろ、喧嘩けんくわにしろ、其その出でて来きた処ところが、遁にげるにも忍しのんで出でるにも、背後うしろに、村むら、里さと、松並木まつなみき、畷なはても家いへも有あるのではない。山やまを崩くづして、其その峯みねを余あました状さまに、昔むかしの城趾しろあとの天守てんしゆだけ残のこつたのが、翼つばさを拡ひろげて、鷲わしが中空なかぞらに翔かけるか、と雲くもを破やぶつて胸毛むなげが白しろい。と同おなじ高たかさに頂いたゞきを並ならべて、遠近をちこちの峯みねが、東雲しのゝめを動うごきはじめる霞かすみの上うへに漾たゞよつて、水紅色ときいろと薄紫うすむらさきと相累あひかさなり、浅黄あさぎと紺青こんじやうと対向むかひあふ、幽かすかに中なかに雪ゆきを被かついで、明星みやうじやうの余波なごりの如ごとく晃々きら〱と輝かゞやくのがある。……此この山中さんちゆうを、誰たれと喧嘩けんくわして、何処どこから駆落かけおちして来こやう? ……

婦をんなは、と云いふと、引担ひつかつがれた手ては袖そでにくるまつて、有ありや、無なしや、片手かたてもふら〱と下さがつて、何なにを便たよるとも見みえず。臘らふに白粉おしろいした、殆ほとんど血ちの色いろのない顔かほを真向まむきに、ぱつちりとした二重瞼ふたへまぶたの黒目勝くろめがちなのを一杯いつぱいに睜みひらいて、瞬またゝきもしないまで。而そして男をとこの耳みゝと、其その鬢びんと、すれ〱に顔かほを並ならべた、一方いつぱうが小造こづくりな方はうではないから、婦をんなの背せが随分ずいぶん高たかい。

然さうかと思おもへば、帯おびから下したは、げつそりと風ふうが薄うすく、裙すそは緊しまつたが、ふうわりとして力ちからが入はいらぬ。踵かゝとが浮ういて、恁かう、上うへへ担かつぎ上あげられて居ゐさうな様子やうす。

二人ふたりとも、それで、やがて膝ひざの上うへあたりまで、乱みだれかゝつた枯蘆かれあしで蔽おほはれた上うへを、又また其その下したを這はふ霞かすみが隠かくす。

最もつとも路みちのない処ところを辿たどるのではなかつた。背後うしろに、尚なほ覚果さめはてぬ暁あかつきの夢ゆめが幻まぼろしに残のこつたやうに、衝つと聳そびへた天守てんしゆの真表まおもて。差懸さしかゝつたのは大手道おほてみちで、垂々下だら〱おりの右左みぎひだりは、半なかば埋うもれた濠ほりである。

空濠からぼりと云いふではない、が、天守てんしゆに向むかつた大手おほての跡あとの、左右さいうに連つらなる石垣いしがきこそまだ高たかいが、岸きしが浅あさく、段々だん〱に埋うもれて、土堤どてを掛かけて道みちを包つゝむまで蘆あしが森もりをなして生茂おひしげる。然しかも、鎌かまは長とこしへに入いれぬ処ところ、折をりから枯葉かれはの中なかを透すいて、どんよりと霞かすみの溶とけた水みづの色いろは、日ひの出でを待まつて、さま〲の姿すがたと成なつて、其それから其それへ、ふわ〱と遊あそびに出でる、到いたる処ところの、あの陽炎かげらふが、こゝに屯たむろしたやうである。

其その蘆あしがくれの大手おほてを、婦をんなは分わけて、微吹そよふく朝風あさかぜにも揺ゆらるゝ風情ふぜいで、男をとこの振ふらつくとゝもに振ふらついて下おりて来きた。……若もしこれで声こゑがないと、男女ふたりは陽炎かげらふが顕あらはす、其その最初さいしよの姿すがたであらうも知しれぬ。

が、青年わかものが息切いきゞれのする声こゑで、言ものいふのを聞きけ。

「寐ねるなんて、……寐ねるなんて、何どうしたんだらう。真個まつたく、気きが着ついて自分じぶんでも驚おどろいた。白しらんで来きたもの。何時いつの間まに夜よが明あけたか些ちつとも知しらん。お前まへも又また何なんだ、打ぶつてゞも揺ゆすぶつてゞも起おこせば可いいのに――しかし疲つかれた、私わたしは非常ひじやうに疲つかれて居ゐる。お前まへに分わかれてから以来このかた、まるで一目ひとめも寐ねないんだから。……」

とせい〱、肩かたを揺ゆすぶると、其その響ひゞきか、震ふるへながら、婦をんなは真黒まつくろな髪かみの中なかに、大理石だいりせきのやうな白しろい顔かほを押据おしすえて、前途ゆくさきを唯たゞ熟じつと瞻みまもる。

二

「考かんがへると、能よくあんな中なかで寐ねられたものだ。」

と男をとこは尚なほ半なかば呟つぶやくやうに、

「言いつて見みれば敵てきの中なかだ。敵てきの中なかで、夜よの明あけるのを知しらなかつたのは実じつに自分じぶんながら度胸どきやうが可いい。……いや、然さうではない、一時いちじ死しんだかも分わからん。

然さうだ、死しんだと言いへば、生死いきしにの分わからなかつた、お前まへの無事ぶじな顔かほを見みた嬉うれしさに、張詰はりつめた気きが弛ゆるんで落胆がつかりして、其それつ切きりに成なつたんだ。嘸さぞお前まへは、待まちに待まつた私わたしと云いふものが、目めの前まへに見みえるか見みえないに、だらしなく、ぐつたりと成なつて了しまつて、どんなにか、頼たのみがひがないと怨うらんだらう。

真個まつたく、安心あんしんの余あまり気絶きぜつしたんだと断念あきらめて、許ゆるしてくれ。寐ねたんぢやない。又また、何どうして寐ねられる……実じつは一刻いつこくも疾はやく、此この娑婆しやばへ連出つれだすために、お前まへの顔かほを見みたらば其その時とき! 壇だんを下おりるなぞは間弛まだるツこい。天守てんしゆの五階ごかいから城趾しろあとへ飛下とびおりて帰かへらう! 其その意気込いきごみで出懸でかけたんだ、実際じつさいだよ。

が、彼あの頂上ちやうじやうから飛とんだ日ひには、二人ふたりとも五躰ごたいは微塵みじんだ。五躰ごたいが微塵みぢんぢや、顔かほも視みられん、何なんにも成ならない。然さうすりや、何なにを救すくふんだか、救すくはれるんだか、……何なにを言いふんだか、はゝはゝ。」

と取留とりとめもなく笑わらつた拍子ひやうしに、草くさを踏ふんだ爪先下つまさきさがりの足許あしもとに力ちからが抜ぬけたか、婦をんなを肩かたに、恋こひの重荷おもにの懸かゝつた方はうの片膝かたひざをはたと支つく、トはつと手てを離はなすと同時どうじに、婦をんなの黒髪くろかみは頬摺ほゝずれにづるりと落おちて、前伏まへぶしに、男をとこの膝ひざへ背せなが偃のめつて、弱腰よわごしを折重をりかさねた。

「あつ!」と慌あはたゞしく、青年わかものは其その帯おびの上うへへ手てを掛かけて、

「危あぶない。あゝ、何なんて事ことだ。――お浦うら、」

と言いつたは婦をんなの名なで。

「怪我けがはしないか、何処どこも痛いためはしなかつたか。可よし、何なんともない。」

婦をんなが、あ、とも言いはず、声こゑの無ないのを、過失あやまちはせぬ事こと、と頷うなづいて、さあ、起たたうとすると些ちつとも動うごかぬ。

「起たたないか、こんな処ところに長居ながゐは無益むえきだ。何どうした。」

と密そつと揺ゆすぶる、手てに従したがつて揺ゆすぶれるのが、死しんだ魚うをの鰭ひれを摘つまんで、水みづを動うごかすと同おなじ工合ぐあひで、此方こちらが留やめれば静じつと成なつて、浮うきも沈しづみもしない風ふう。

はじめて驚おどろいた色いろして、

「何どうかしたか、お浦うら。はてな、今いま転ころんだつて、下したへは落おとさん、怪我けがも過失あやまちも為しさうぢやない。何なんだか正体しやうたいがないやうだ。矢張やつぱり一時いちじに疲労つかれが出でたのか。あゝ、然さう言いへば前刻さつきから人ひとにばかりものを言いはせる。確乎しつかりしてくれ、お浦うら、何どうしたんだ。」

と今いまは慌あはたゞしく成なつた。青年わかものは矢庭やにはに頸うなじを抱だき、膝ひざなりに背せを向むかふへ捻廻ねぢまはすやうにして、我わが胸むねを前まへへ捻ひねつて、押仰向おしあふむけた婦をんなの顔かほ。

今いまも目めは塞ふさがず、例れいの眸みはつて、些さの顰ひそむべき悩なやみも無なげに、額ひたひに毛けばかりの筋すぢも刻きざまず、美うつくしう優やさしい眉まゆの展のびたまゝ、瞬またゝきもしないで、其そのまゝ見据みすえた。

其その顔かほと、此この時とき、引返ひきかへした身動みじろぎに、飜ひるがへつた褄つまの乱みだれに、雪ゆきのやうに顕あらはれた円まるい膝頭ひざがしら……を一目ひとめ見みるや、

「うむ、」と一声ひとこゑ、摚だうと枯蘆かれあしに腰こしを落おとして、殆ほとんど痙攣けいれんを起おこした如ごとく、足あしを投出なげだしてぶる〱と震ふるへて、

「違ちがつた〱。造つくりものだ、拵こしらへものだ、彫像てうざうだ。昨夜ゆふべ持もつて行いつた形代かたしろだ、こりや、……おゝ。」

戦おのゝく手てに、婦をんなの胸むねを確乎しつかと圧おせば、膨ふくらかな襟ゑりのあたりも、掌てのひらに堅かたく且かつ冷つめたいのであつた。

「何なんだ、又またこれを持もつて帰かへるほどなら、誰たれが命いのちがけに成なつて、這麼こんなものを拵こしらへやう。……誑たぶらかしやあがつたな! 山猫やまねこめ、狐きつねめ、野狸のだぬきめ。」

と邪慳じやけんに、胸先むなさきを取とつて片手かたてで引立ひつたてざまに、渠かれは棒立ぼうだちにぬつくり立たつ。可憐あはれや艶麗あでやかな女をんなの姿すがたは、背筋せすぢを弓形ゆみなり、裳もすそを宙ちうに、縊くびられた如ごとくぶらりと成なる。

三

青年わかものは半狂乱はんきやうらんの躰ていで、地韜ぢだんだを踏ふんで歯噛はがみをした。

「おのれえ、魔までも、鬼おにでも、約束やくそくを違たがへる、と言いふ不都合ふつがふがあるか、何なんと言いつた、何なんと言いつた。」

と詰なじるが如ごとくに掠かすれ声ごゑして、手てを握にぎつて、空くうを打うつて、天守てんしゆの屋根やねを睨にらんで喚わめいた。大手筋おほてすぢを下切おりきつた濠端ほりばたに――まだ明果あけはてない、海うみのやうな、山中さんちゆうの原はらを背後うしろにして――朝虹あさにじに鱗うろこしたやうに一方いつぱうの谷たにから湧上わきあがる向むかふ岸ぎしなる石垣いしがき越ごしに、其その天守てんしゆに向むかつて喚わめく……

喚わめくが、しかし、一騎いつき朝蒐あさがけで、敵てきを詈のゝしる勇いさましい様子やうすはなく、横歩行よこあるきに、ふら〱して、前まへへ出でたり、退すさつたり、且かつ蹌踉よろめき、且かつ独言ひとりごとするのである。

「畜生ちくしやう、人ひとの女房にようばうを奪うばつた畜生ちくしやう、魔物まものに義理ぎりはあるまいが、約束やくそくを違たがへて済すむか、……何なんと言いつて約束やくそくした――婦をんなの彫像てうざうを拵こしらへろ、其その形代かたしろを持もつて来こい。お浦うらを返かへすと言いつたのを忘わすれたか、忘わすれたのか。」

と其その握拳にぎりこぶしで、己おのが膝ひざを礑はたと打うつたが、力ちから余あまつて背後うしろへ蹌踉よろける、と石垣いしがきも天守てんしゆも霞かすみに揺ゆれる。

「待まてよ。雖然けれども、自分じぶんの製作こしらへた此この像ざうだ、これが、もし価値ねうちに積つもつて、あの、お浦うらより、遥はるかに劣おとつて居ゐたら何どうする。まるで取替とりかへる価あたひがないと言いへば其それまでだ、――あゝ、其それがために、旧通もとどほりお浦うらを隠かくして、此この木像もくざうを突返つきかへしたのか。己おれは夢中むちゆうで、此これを恋こひしい婦をんなだ、と思おもつて、うか〱抱だいて返かへつたのか、然さうかも知しれん。

其それでは、劣作れつさくだと言いふのだな、駄物だものだ、と言いふのだな、劣作れつさくか、駄物だものか、此奴こいつ。」

と首くびを引向ひきむけ胸むねに抱いだいて、血走ちばしつた目めで屹きつと其その顔かほを。

「己おれが、此この心こゝろも知しらずに、けろりとして済すました面つらよ。おのれ石いしでも、己おれが此この心こゝろを汲くんで、睫毛まつげに露つゆも宿やどさないか。霞かすみにも曇くもらぬ瞳ひとみは、蒟蒻玉こんにやくだま同然どうぜんだ。――其それも道理だうりよ、血ちも通かよはない、脉みやくもない、魂たましひのない、たかゞ木屑きくづの木像もくざうだ。」

と興覚顔きようざめがほして、天守てんしゆを仰あふいで、又また俯向うつむき、

「何なんだ、これは、魔物まものが言いひさうな事ことを己おれが言いふ、自分じぶんが言いふ、我われと我わが口くちで詈のゝしるな。おゝ、自然しぜんと敵てきの意いを体たいして、自みづから、罵倒ばたうするやうな木像もくざうでは、前方さきが約束やくそくを遂とげんのも無理むりはない……駄物だもの、駄物だもの、駄物だもの、」

と三舎さんしやを避さける足取あしどりで、たぢ〱と後退あとずさりして、

「さあ、恁かうなれば、お浦うらの紀念かたみの方はうが大事だいじだ。よくも、おのれ、ぬく〱と衣服きものを着きた。」と言いふ〱挘むしるが如ごとく衣紋えもんを開ひらいて帯おびをかなぐり、袖そでを外はづすと、柔やはらかな肩かたが下さがつて、二にの腕うでがふらりと垂たれる。双さうの玉たまの乳房ちぶさにも、糸一条いとひとすぢの綾あやも残のこさず、小脇こわきに抱いだくや、此この彫刻家てうこくかの半身はんしんは、霞かすみのまゝに山椿やまつばきの炎ほのほが𤏋ぱつと搦からんだ風情ふぜい。

其その下襲したがさねの緋鹿子ひがのこに、足手あしての雪ゆきが照映てりはえて、女をんなの膚はだえは朝桜あさざくら、白雲しらくもの裏うら越こす日ひの影かげ、血ちも通かよふ、と見みる内うちに、男をとこの顔かほは蒼あをく成なつた。――女をんなの像ざうの片腕かたうでが、肱ひぢの処ところから、切きれ目め赤あかう、さゝら立だつて折をられて居ゐた。

「わツ、」と叫さけんで、其その咽喉のどを掴つかんだまゝ、投なげ附つけやうとして振挙ふりあげた手ての、筋すぢが釣つつて棒ぼうの如ごとくに衝つと挙あげると、女をんなの像ざうは鶴つるのやうに、ちら〱と髪かみ黒くろく、青年わかものの肩越かたごしに翼つばさを乱みだして飜ひるがへつた。

が、其そのまゝには振飛ふりとばさず。濠ほりを越こして遥はるかな石垣いしがきの只中たゞなかへも叩たゝきつけさうだつた勢いきほひも失うせて――猶予ためらふ状さまして……ト下したを見みる足許あしもとを、然さまで下くだらず、此方こなたは低ひくい濠ほりの岸きしの、すぐ灰色はいいろの水みづに成なる、角組つのぐんだ蘆あしの上うへへ、引上ひきあげたか、浮うかべたか、水みづのじと〱とある縁へりにかけて、小船こぶねが一艘いつそう、底そこつた形かたちは、処ところがら名なも知しれぬ大おほいなる魚うをの、がくり、と歯はを噛かんだ白髑髏しやれかうべのやうなのがある。

四

処ところが其その小船こぶねは、何なんの時ときか、向むかふ岸ぎしから此この岸きしへ漕寄こぎよせたものゝ如ごとく、艫ともを彼方かなたに、舳みよしを蘆あしの根ねに乗据のつすえた形かたちに見みえる、……何処どこの捨小船すてをぶねにも、恁かう逆ぎやくに攬もやつたと言いふのは無なからう。まだ変かはつた事ことには、舷ふなばたを霞かすみが包つゝんで、ふつくり浮上うきあがつたやうな艫ともに留とまつて、五位鷺ごゐさぎが一羽いちは、頬冠ほゝかぶりでも為しさうな風ふうで、のつと翼つばさを休やすめて向むかふむきにチヨンと居ゐた。

城趾しろあとの此この辺あたりは、人里ひとざとに遠とほいから、鶏にはとりの声こゑ、鴉からすの声こゑより、先まづ五位鷺ごゐさぎの色いろに夜よが明あけやう。其それに不思議ふしぎは無ないが、如何いかに人ひとを恐おそれねばとて、直すぐ其その鶏冠とさかの上うへで、人一人ひとひとり立騒たちさはぐ先刻さつきから、造着つくりつけた躰ていにきよとんとして、爪立つまだてた片脚かたあしを下おろさうともしなかつた。

此この船ふねの中なかへ、どさりと落おとした。

女をんなの像ざうは胴どうの間まへ仰向あふむけに、肩かたが舷ふなべりにかゝつて、黒髪くろかみは蘆あしに挟はさまり、乳ちの下したから裾すそへ掛かけて、薄衣うすぎぬの如ごとく霞かすみが靡なびけば、風かぜもなしに柔やはらかな葉摺はずれの音おとがそよら〱。で、船ふねが一揺ひとゆすれ揺ゆれると思おもふと、有繋さすがに物駭ものおどろきを為したらしい、艫ともに居ゐた五位鷺ごゐさぎは、はらりと其その紫むらさきがゝつた薄黒うすぐろい翼つばさを開ひらいた。

開ひらいたが、飛とびはしない、で、ばさりと諸翼もろつばさ搏はうつと斉ひとしく、俯向うつむけに頸くびを伸のばして、あの長ながい嘴くちばしが、水みづの面もへ衝つと届とゞくや否いなや、小船こぶねがすら〱と動うごきはじめて、音おともなく漕こいで出でる。

見みるものは呆あきれ果はてゝ、どかと濠端ほりばたに腰こしを掛かけた。

五位鷺ごゐさぎの働はたらくこと。船ふね一艘いつそう漕こぐなれば、蘆あしの穂ほの風かぜに散ちる風情ふぜい、目めにも留とまらず、ひら〱と上下うへしたに翼つばさを煽あふる。と船ふねの方はうは、落着済おちつきすまして夢ゆめの空そらを辷すべるやう、……やがて汀みぎはを漕こぎ離はなす。

蘆あしの枯葉かれはをぬら〱と蒼あをぬめりの水みづが越こして、浮草うきぐさの樺色かばいろまじりに、船脚ふなあしが輪わに成なる頃ころの、五位鷺ごゐさぎの搏はうちやう。又また一ひとしきり烈はげしく急きふに、滑なめらかな重おもい水みづに響ひゞいて、鳴渡なりわたるばかりと成なつたが。

余あまりの労働はたらき、羽はねの間あひだに垂々たら〱と、汗あせか、潵しぶきか、羽先はさきを伝つたつて、水みづへぽた〱と落おちるのが、血ちの如ごとく色いろづいて真赤まつかに溢あふれる。……

「火ひの粉こだ、火ひの粉こだ。」と濠端ほりばたで、青年わかものが驚おどろき叫さけんだ。

果はたして血ちの汗あせを絞しぼる、と見みえたは、翼つばさを落おちる火ひであつた。

「飛とばつせえ船ふねの人ひと、船ふねの人ひと、飛とばつせえ、飛込とびこむのだえ!」

と野良調子のらでうしの高声たかごゑを上あげて、広野ひろのの霞かすみに影かげを煙けぶらせ、一目散いちもくさんに駆附かけつけるものがある。

驚駭おどろきのあまり青年わかものは、殆ほとんど無意識むいしきに、小脇こわきに抱いだいた、其その一襲ひとかさねの色衣いろぎぬを、船ふねの火ひに向むかつて颯さつと投なげる、と水みづへは落おちたが、其処そこには届とゞかず、朱しゆを流ながしたやうに火ひの影かげを宿やどす萍うきくさに漂たゞよふて、袖そでを煽あふり、裳もすそを開ひらいて、悶もだへ苦くるしむが如ごとくに見みえつゝ、本尊ほんぞんたる女をんなの像ざうは、此この時とき早はやく黒煙くろけむりに包つゝまれて、大おほきな朱鷺ときの形かたちした一団いちだんの燃もえ立たつ火ひが、一羽いちは倒さかさまに映うつつて、水底みなぞこに斉ひとしく宿やどる。舷ふなばたにも炎ほのほが搦からんだ。

「えゝ! 飛込とびこめい、水みづは浅あさい。」

と此この時とき濠端ほりばたへ駆かけつけたは、もつぺと称となへる裁着たつゝけやうの股引もゝひきを穿はいた六十むそじ余あまりの背高せたかい老爺おやぢで、腰こしから下したは、身躰からだが二ふたつあるかと思おもふ、大おほきな麻袋あさぶくろを提さげたのを、脚あしと一所いつしよに飛とばして来きて、

「あゝ、埒らちあかぬ。」と呟つぶやいて落胆がつかりする。

艫ともの鷺さぎの炎ほのほは消きえて、船ふねの板いたは、ばらりと開ひらいた。一ひとつ一ひとつ、幅広はゞひろい煙けむりを立たてゝ、地獄ぢごくの空そらに消きえて行ゆく、黒くろい帆ほのやう、――女をんなの像ざうは影かげも失うせた。

「やれ、後おくれた。水みづは浅あさいで、飛込とびこめば助たすかつたに。――何なんと申まをさうやうもない、旦那だんながお連つれの方かたでがすかの。」

青年わかものは肩かたを揺ゆすつて、唯たゞ大息おほいきを吐つくのであつた。

「飛とんだ事ことぢや、こんな怪あやしげな処ところへござつて、素性すじやうの知しれぬ船ふねに乗のると云いふ法はふがあるかい。お剰まけにお前様めえさま、五位鷺ごゐさぎの船頭せんどうぢや……狸たぬきの拵こさへた泥船どろぶねより、まだ〱危あぶないのは知しれた事ことを。」

五

目めが覚さめた、と言いふでもなしに、少時しばらくすると、青年わかものの瞳ひとみは稍やゝ定さだまつた。

「何なに、心配しんぱいには及およばん、船ふねに居ゐたのは活いきた人間にんげんでは無ないのだから。」

木樵躰きこりていの件くだんの老爺ぢゞいは、没怪もつけな顔かほして、

「や、活いきた人間にんげんで無なうて何なんでがす……死骸しがいかね、お前様めえさま。」

「死骸しがいは酷ひどい。……勿論もちろん、魔物まものに突返つゝかへされて、火葬くわさうに成なつた奴やつだから、死骸しがいも同然どうぜんなものだらう。ものだらうが、私わたしの気きぢや死骸しがいではなかつた。生命いのちのある、価値ねうちのある、活いきたものゝ積つもりだつた。老爺ぢいさん、今いまのは、彼あれは、木像もくざうだ、製作つくつた木彫きぼりの婦をんななんだ。」

「木彫きぼりの? はて、」

と腕うでを組くんで、

「えい、其それは又また、変かはつたもんだね。船ふねと一所いつしよに焼やけたものは、活いきた人ひとで無なうて、私わし先まづ安堵あんどをしたでがすが、木彫きぼりだ、と聞きけば尚なほ魂消たまげる……豪えれえ見事みごとな、宛然まるで生身しやうじんのやうだつけの。背後うしろの野原のはらさ出でて見みた処ところで、肝玉きもたまの宿替やどがへした。――あれ一面いちめんの霞かすみの中なか、火ひと煙けむりに包つゝまれて、白しろい手足てあしさびいく〱為しながら、濠ほりの石垣いしがきへ掛かけて釣つるし上あがるやうに見みえたゞもの。地獄ぢごくの釜かまの蓋ふたを取とつて、娑婆しやばへ吹上ふきあげた幻燈うつしゑか思おもふたよ。

尋常じんじやうな、婦をんなの人ひとほどに見みえつけ。等身とうしんのお祖師様そしさまもござれば丈六ぢやうろくの弥陀仏みだぶつも居ゐさつしやる。――これ人形にんぎやうは、はい、玩具箱おもちやばこウ引転返ひつくりかへした中なかからばかり出でるもんではねえで、其その、見事みごとなに不思議ふしぎは無ないだが、心配しんぱいするな木彫きぼりだ、と言いはつしやる、……お前様めえさまが持もつて来きて、船ふねの中なかへ置おかしつたかな。」

「何なに、打棄うつちやつたんだ。」と青年わかものは口惜くやしさうに言いつた。

「打棄うつちやらしつたえ、持重もちおもりが為したゞかね。」

とけろりとして、目めを離はなれた白しろい眉まゆをふつさり揺ゆする。

青年わかものはじり〱と寄よつた。

「で、老爺ぢいさん、何なにか、君きみは活いきた人間にんげんで無ないから安堵あんどしたと言いつたね、今いまの船ふねには係合かゝりあひでもある人ひとか。」

「係合かゝりあひにも何なんにも、私わし船ふねの持主もちぬしでがすよ。」

「此この、魔物まもの。」

と青年わかものは、然さ知しつた見得みえに、後退あとずさりしながら身構みがまへして、

「嬲なぶるな。人ひとが生死いきしにの間あひだに彷徨さまよふ処ところを、玩弄おもちやにするのは残酷ざんこくだ。貴様きさまたちにも釘くぎの折をれほど情なさけが有あるなら、一思ひとおもひに殺ころして了しまへ。さあ、引裂ひきさけ、片手かたてを捥もげ……」とはたと睨にらむ。

「旦那々々だんな〱、」

「何なにが旦那だんなだ。捕虜ほりよと言いへ、奴隷どれいと呼よべ、弱者じやくしやと嘲あざけれ。夢ゆめか、現うつゝか、分わからん、俺おれは迚とても貴様達きさまたちに抵抗てむかひする力ちからはない。残念ざんねんだが、貴様きさまに向むかふと手足てあしも痺しびれる、腰こしも立たたん。

が、助たすけ出だす筈はづだつた女房にようばうを負おぶつてなら……麓ふもとの温泉をんせんまでは愚おろかな事こと、百里ひやくり、二百里にひやくり、故郷こきやうまでも、東京とうきやうまでも、貴様きさまの手てから救すくふためには、飛とんでも帰かへるつもりで居ゐた。彫像てうざう一個ひとつ抱だいて歩行あるくに持重もちおもりがして成なるものか! ……

何故なぜ、様ざまを見みろ、可気味いゝきみだ、と高笑たかわらひをして嘲弄てうろうしない。俺おれが手てで棄すてたは棄すてたが、船ふねへ彫像てうざうを投なげたのは、貴様きさまが蹴込けこんだも同然どうぜんだい。」と握にぎつた拳こぶしをぶる〱震ふるはす、唇くちびるは白しろく戦おのゝく。

老爺ぢゞいは遣瀬無やるせない瞬またゝきして、

「芸げいもねえ、譫あだけた事ことを言いはつしやるな。成程なるほど、船ふねを焼やいたは悪わるいけんど、蹴込けこんだとは、何なんたる事ことだの。」

「おゝ、船ふねを焼やいたは貴様きさまだな。それ見みろ、それ見みろ。汝うぬ、魔物まもの。山猫やまねこか、狒々ひゝか、狐きつねか、何なんだ! 悪魔あくま、女房にようばうを奪うばつた奴やつ。せめて、俺おれに、正体しやうたいを見みせてくれ。一生いつしやうの思出おもひでだ。さあ、のつぺらぱうか、目一めひとつか、汝おのれ其その真目まじ〱とした与一平面よいちべいづらは。眉まゆなんぞ真白まつしろに生はやしやがつて、分別ふんべつらしく天窓あたまの禿はげたは何事なにごとだ。其その顱巻はちまきを取とれ、恍気とぼけるな。」と目めが逆立さかだつて、又またじり〻と詰寄つめよる。

老爺ぢゞいは己おのが面つらを、ぺろりと一ひとつ撫下なでさげた。

六

いや、様子やうすが如何いかにも、我わが顔かほながら不気味ぶきみさうに見みえた。――眉まゆを顰ひそめて、

「ま、ま、少わけえ旦那だんな、落着おちつかつせえ、気きを静しづめさつせえまし。……魔物まものだ、鬼おにだ喚わめいて、血相けつさうを変かへてござる……何どうも見みた処ところ、――未まだ此この上うへに逆上のぼせあがらつしやるなよ――何どうやら取逆とりのぼせて居ゐさつしやるが、はて、」

と上下うへした、天守てんしゆを七分しちぶ、青年わかものを三分さんぶに見較みくらべ、

「もの、此処こゝさ城趾しろあとの、お天守てんしゆへ上あがらつしやりは為しねえかの。」

「為しねえかぢや無なからう。昨夜ゆふべ貴様きさまに何処どこで逢あつた?」

「先まづ、むゝ、其それで分わかつた。」

「分わかつたか。いや昨夜さくやは失礼しつれいしたよ、魔物まものの隊長たいちやう。」

「はて、迷惑めいわくな、私わしう魔物まものだと思おもはつしやる。」

「魔物まもので無なくて、魔物まもので無なくて、汝おのれ、五位鷺ごゐさぎが漕出こぎだして、濠ほりの中なかで自然しぜんに焼やける……不思議ふしぎな船ふねの持主もちぬしが有あるものか。」

「成程なるほど、何なにも仔細しさいを知しらつしやらぬお前様めえさまは、様子やうすを見みても、此処等こゝらの人ひとではござらつしやらぬ。」

「那様そんな事ことを言いつて何どうする、貴様きさまは奪うばつて行いつた俺おれの女房にようばうの、町処ちやうところまで知しつてるでは無ないか。」

「急せかつしやるな。此この山裾やますその、双六温泉すごろくをんせんへ、湯治たうぢに来きさつせえた人ひとだんべいの。」

「知しれた事ことを、貴様きさまがお浦うらを掴出つかみだした、……あの旅籠屋はたごやに逗留とうりうして居ゐる。」

「そんなら、はい、無理むりはねえだ。」

と莞爾につこりして、草鞋わらぢの尖さきで向直むきなほつた。早はや煙けむりの余波なごりも消きえて、浮脂きらに紅蓮ぐれんの絵ゑも描かかぬ、水みづの其方そなたを眺ながめながら、

「あの……木葉船こツぱぶねはの、丁ちやんと自然ひとりでに動うごくでがすよ……土地とちのものは知しつとります。で、鷺さぎの船頭せんどうと渾名あだなするだ。それ、見みさしつた通とほり、五位鷺ごゐさぎが漕こぐべいがね。」

「漕こぐのは鷺さぎでも鳶とんびでも構かまはん。漕こがせるのは人間にんげんぢや無ないのだらう。」

余計よけいなことを、と投なげ調子てうし。

「いんや、お前様めえさま、お天守てんしゆの、」

と声こゑを密ひそめて、

「……魔まの人ひとが為業しわざなら、同一おなじ鷺さぎが漕こぐにして、其その船ふねは光ひかりを放はなつて、ふわ〱雲くもの中なかを飛行ひぎやうするだ。

……たか〲人間にんげんの仕事しごとだけに、羽はねの有ある船頭せんどうを使つかふても、水みづの上うへを浮ういて行いくだよ。何なにも希有けうがらつしやるには当あたらぬ。あの船ふねは、私わしが慰楽なぐさみに造つくるでがす。」

「えゝ、拵こしらへる、而そして魔物まものでは無ないと言いふのか。」

「随意まゝにさつしやりませ。すつとこ被かぶりをした天狗様てんぐさまがあつて成なろかい。気きを静しづめさつしやるが可いい。嘘うそだ思おもふなら、退屈たいくつせずに四日よつか五日いつか、私わしが小屋こやへ来きて対向さしむかひに座すはつてござれ、ごし〱こつ〱と打敲ぶつたゝいて、同一おなじ船ふねを、主ぬしが目めの前まへで拵こさへて見みせるだ。」

「ふん、」と返事へんじを呑込のみこんだが、まだ其その息いきは発喘はずむのであつた。

「何どうして作つくる。」

「何どうして作つくる? ……つひ一寸ちよつくら手真似てまねで話はなされるもんではねえ。此この胸むねに、機関からくりを知しつとります。」

「機関からくりか。」

「危険けんのんな機関からくりだで、小ちひさく拵こさへて、小児こどもの玩弄おもちやにも成なりましねえ。が、親譲おやゆづりの秘伝ひでんものだ、はツはツはツ、」

と浮世うきよを忘わすれた笑わらひを行やる。

「お待まち、親譲おやゆづりの秘伝ひでんと言いふと……」

と言いひ方かたは迫せまつたが、声こゑの調子てうしは大分だいぶ静しづまる。

「何なにも、家伝かでんの秘法ひはふの言いふて、勿体もつたいを附つけるでねえがね……祖父おんぢいの代だいから為した事ことを、見みやう見真似みまねに遣やるでがすよ。」

「其それぢや、三代さんだい船大工ふなだいくか。」

と些少すこし落着おちついて青年わかものが聞きいた。

雪枝ゆきえ、菊松きくまつ

七

「何なんの、お前様めえさま、見みさる通とほり二十八方仏子柑にじふはつぱうぶしかんの山間やまあひぢや。木きを伐出きりだいて谿河たにがはへ流ながせば流ながす……駕籠かごの渡わたしの藤蔓ふぢづるは編あむにせい、船大工ふなだいくは要いりましねえ。――私等わしらが家うちは、村里町むらざとまちの祭礼まつりの花車人形だしにんぎやう。木偶之坊でくのばうも拵こしらへれば、内職ないしよくにお玉杓子たまじやくしも売うつたでがす。獅子頭しゝがしら、閻魔様えんまさま、姉様あねさまの首くびの、天狗てんぐの面めん、座頭ざとうの顔かほ、白粉おしろひも塗ぬれば紅べにもなする、青絵具あをゑのぐもべつたりぢや。

そんなものさ、甘干あまぼしの柿かき見みたやうに、軒のきへぶら下さげて売うりましつけ、……水損すゐそん、山抜やまぬけ、御維新ごゐしん以来このかた、城趾しろあとへ草くさが生はへる、濠ほりが埋うまる、村むらも里さとも無なくなりました処ところへ、路みちが変かはつて、旅人たびびとも通とほらぬけえに、根ねつから家業かげふに成ならんでの、私わしら、木挽こびき木樵きこりも遣やる。温泉場をんせんばに普請ふしんでも有ある時ときには、下手へたな大工だいくの真似まねもする。閑ひまな日ひには鰌どぜうを掬しやくつて暮くらすだが、祖父殿おんぢいどんは、繁昌はんじやうでの、藩主様とのさまさ奥御殿おくごてんの、お雛様ひなさまも拵こさへさしたと……

其その祖父殿おんぢいどんはの、山伏やまぶしの姿すがたした旅たびの修業者しゆげふじやが、道陸神だうろくじんの傍そばに病倒やみたふれたのを世話せわして、死水しにみづを取とらしつけ……其その修業者しゆげふじやに習ならつた言いひます。

轆轤首ろくろくびさ、引窓ひきまどから刎はねて出でる、見越入道みこしにふだうがくわつと目めを開あく、姉様あねさまの顔かほは莞爾につこり笑わらふだ、――切支丹宗門キリシタンしうもんで、魔法まはふを使つかふと言いふて、お城しろの中なかで殺ころされたとも言いへば、行方知ゆくへしれずに成なつたとも言いふ。

はじめは、不思議ふしぎな機関からくりを藩主様とのさま御前ごぜんで見みせい言いふて、お城しろへ召めされさしけえの、其時そのとき拵こさへたのが、五位鷺ごゐさぎの船頭せんどうぢや。

それ、船ふねを浮うかべたのは、矢張やはり此この濠ほり。」

と言いひかけて、水みづには臨のぞまず、却かへつて空そらを指ゆびさした老爺ぢいの指ゆびは、一ひとつの峰みねと相対あひむかつて、霞かすみの高たかい、天守てんしゆの棟むねに並ならんで見みえた。

「これは、其その三重濠さんぢゆうぼりで、二にの丸まるの奥おくでがす。お殿様とのさまは、継上下つぎかみしもの侍方さむらひがた、振袖ふりそでの腰元衆こしもとしゆづらりと連つれて出でて御見物ごけんぶつぢや。

『町人ちやうにん、此この船ふねを何どうするな。』

『御意ぎよいにござります。舳みよしに据すえました其その五位鷺ごゐさぎが翼つばさを帆ほに張はり、嘴くちばしを舵かぢに仕つかまつりまして、人手ひとでを藉かりませず水みづの上うへを渡わたりまする。』

と申上まをしあげたて。……なれども唯たゞ差置さしおいたばかりでは鷺さぎが翼つばさを開ひらかぬで、人ひとが一人ひとり乗のる重量おもみで、自然おのづから漕こいで出でる。……一体いつたいが、天上界てんじやうかいの遊山船ゆさんぶねに擬なぞらへて、丹精たんせい籠こめました細工さいくにござるで、御斉眉おかしづきの中なかから天人てんにんのやうな上﨟じやうらう御一方おひとかた、と望のぞんだげな。

当時たうじ飛鳥とぶとりも落おちると言いふ、お妾めかけが一人ひとり乗のつて出でたが、船ふねの焼出やけだしたのは、主ぬしが見みさしつた通とほりでがす。――其その妾めかけと言いふのが、祖父殿おんぢいどんの許嫁いひなづけで有あつたとも言いへば、馴染なじみだとも風説うはさしたゞね。

処ところで、綾錦あやにしきへ燃もえつく時とき、祖父殿おんぢいどんが手てを挙あげて、

『飛込とびこめ、助たすかる。』

と我鳴がならしつけが、お妾めかけは慌あはてもせず、珠たまの簪かんざしを抜ぬくと、舷ふなばたから水中すゐちうへ投込なげこんで、颯さつと髪かみの毛けを捌さばいたと思おもへ。……胴どうの間まへ突伏つゝぷして動うごかぬだ。

裸はだかで飛込とびこんだ、侍方さむらひがた、船ふねに寄よりは寄よつたれども、燃もえ立たつ炎ほのほで手てが出だせぬ。漸やつとの思おもひで船ふねを引ひつくら返かへした時分じぶんには、緋鯉ひごひのやうに沈しづんだげな。――これだもの、お前様めえさま、祖父殿おんぢいどんは家うちへ帰かへりごと有あるめえがね。

お剰まけに家中うちぢう、無事ぶじなものは一人ひとりも無なかつた。が不思議ふしぎに私わしだけが助たすかりました。

御時世ごじせいが変かはつてから、古葛籠ふるつゞらの底そこで見みつけました。祖父殿おんぢいどんが工夫くふうの絵図面ゑづめん、暇ひまにあかして遣やつて見みて、私わしが先まづ乗のつて出でたが、案あんの定ぢやう燃出もえだしたで、やれ、人殺ひとごろし、と……はツはツはツ、水みづへ入はいつて泳およいで遁にげた。

困こまつた事ことには、私わしが腹はらからの工夫くふうでねえでの、焼やくまいやうに手てを抜ぬくと、五位鷺ごゐさぎが動うごかぬ。濠ほりの真中まんなかで燃もえ出だすを合点がつてんの向むきには、幾度いくども拵こさへて乗のせて進しんぜる。其処そこで、へい、麓ふもとのものは承知しようちして、私わしがことを鷺さぎの船頭せんどう、埒らちもない芸当げいたうだあ。」

と蹲しやがんで、腰こしの煙草入たばこいれを捻ひねり出だす。

聞きくものは、目めを閉とぢて恍惚ぼうとした。

八

「処ところが、聞きかつせえまし。」

と、すぱ〱と煙けむりを吹ふかす。近ちかい煙草たばこに遠霞とほがすみで、天守てんしゆを包つゝんだ鬱蒼うつさうたる樹立こだちの蔭かげが透すいて来くる。

「段々だん〱村むらが遠退とほのいて、お天守てんしゆが寂さびしく成なると、可怪あやし可恐おそろしい事ことが間々まゝ有あるで、あの船ふねも魔まものが漕こいで焼やくと、今いまお前様めえさまが疑うたがはつせえた通とほり……

私わしが拵こさへものと思おもひながら、不気味ぶきみがつて、何なにか魔まの人ひとが仕掛しかけて置おく、囮おとりのやうに間違まちがへての。谿河たにがはを流ながす筏いかだの端はしへ鴉からすが留とまつても気きに為するだよ。

誰たれも来きて乗のらぬので、久ひさしい間あひだ雨曝あまざらしぢや。船頭せんどうも船ふねも退屈たいくつをした処ところ、又またこれが張合はりあひで、私わしも手遊おもちやが拵こさへられます。

旦那だんな、嘸さぞお前様めえさま吃驚びつくりさつせえたらうが、前刻いましがた船ふねと一所いつしよに、白しろい裸骸はだかの人ひとさ焼やけるのを見みた時ときは、やれ、五十年百年目ごじふねんひやくねんめには、世よの中なかに同おなじ事ことが又また有あるか、と魂消たまげましけえ。其それで無なうてさへ、御時節ごじせつの有難ありがたさに、切支丹キリシタンと間違まちがへられぬが見みつけものゝ処ところぢや。あれが生身いきみの婦をんなで無なうて、私わしもチヨン斬ぎられずに済すんだでがす……

が、お前様めえさまは又また、一躰いつたいどうさつせえた訳わけでがすの。」

と、ちよこなんとした割膝わりひざの、真中まんなかどころへ頤あごを据すえて、啣煙管くはへぎせるで熟じつと眺ながめる。……老爺ぢゞいの前まへを六尺ろくしやくばかり草くさを隔へだてゝ、青年わかものはばつたり膝ひざを支ついて、手てを下さげた。……此この姿すがたを、天守てんしゆから見みたら、虫むしのやうな形かたちであらう。

「失礼しつれいしました。御老人ごらうじん、貴下あなたは大先生だいせんせいです。何どうか、御高名ごかうめいをお名告なのり下ください。私わたくしは香村雪枝かむらゆきえと言いつて、出過ですぎましたやうですが、矢張やつぱり木きを刻きざんで、ものゝ形かたちを拵こしらへます家業かげふのものです。」とはツと額着ぬかづく。

「是これは、」

と同おなじく草くさにつけた双さうの掌てを上あげたり下さげたり、臀いしきを揉もんでもじついて、

「旦那だんな、はて、お前様めえさま、何なに言いはつしやる。何どうさつしやる……気きを静しづめてくらつせえよ。」

「否いゝえ、何どうぞ、失礼しつれいながらお名告なのり下ください。御覧ごらんの通とほり、私わたくしは何どうかして居ゐる。……夢ゆめなんだか、現うつゝなんだか、自分じぶんだか他人たにんだか、宛然まるで弁別わきまへが無ないほどです――前刻さつきからお話はなし被為なすつた事ことも、其方そちらでは唯たゞあはあは笑わらつて居ゐらつしやるのが、種々いろ〱な言ことばに成なつて、私わたくしの耳みゝに聞きこえるのかも分わかりません。が、其それに為してもお聞きかせ下ください。お名なが此この耳みゝへ入はいれば、私わたくしは私わたくしだけで、承うけたまはつたことゝ了見れうけんします。香村雪枝かむらゆきえつて言いふんです。先生せんせい、真個まつたくは靱負ゆきへと言いつて、昔むかしの侍さむらひのやうな名ななんですが、其それを其そのまゝ雪ゆきの枝えだと書かいて、号がうにして居ゐる若輩じやくはいものです。」

「えゝ〱、困こまつたな、これは。名なを言いへなら、言いふだけれど、改あらたまつては面目めんもくねえ。」

と天窓あたまを撫なでざまに、するりと顱巻はちまきを抜ぬいて取とり、

「へい、些ちつと爺ぢゞいには似合にあひましねえ、村むらの衆しゆも笑わらふでがすが、八才やつつぐれえな小児こどもだね、へい、菊松きくまつつて言いふでがすよ。」

「菊松先生きくまつせんせい、貴下あなたは凡人ぼんじんでは居ゐらつしやらない。」

「勘弁かんべんして下くらつせえ。うゝとも、すうとも返答へんたふ打うつ術すべもねえだ…私わし、先生せんせいと言いはれるは、臍ほぞの緒を切きつては最初はじめてだでね。」

「何なんとも御謙遜ごけんそんで、申上まをしあげやうもありません。大先生だいせんせい、貴下あなたで無なくつて、何どうして、彼あの五位鷺ごゐさぎが刻きざめます。あの船ふねが動うごかせます。而そして、其その秘密ひみつを人ひとに知しらせまいために、天てんの火ひで焚やくと見みせて、船ふねをお秘かくしなさるんでせう。」

「お前様めえさまもの、祖父殿おんぢいどんの真似まねをするだ、で、私わしが自由じいうには成なんねえだ。間違まちがへて先生せんせいだ、師匠ししやうだ言いはつしやるなら、祖父殿おんぢいどんを然さう呼よばらつせえ。」

「同おなじ事ことです、大名だいみやうの子孫しそんが華族くわぞくなら、名家めいかの御子孫ごしそんも先生せんせいです。特とくに私わたくしは然さう申まをさなければ成なりません。

私わたくしが今いまの此この仕事しごとを為するやうに成なりましたのは、貴下あなたか、或あるひは其その祖父様ぢいさまの御薫陶ごくんたうに預あづかつたと言いつて宜よろしい。」……

技芸天ぎげいてん

九

「父ちゝは或県あるけんの書記官しよきくわんでした。」

と雪枝ゆきえは衣兜かくしに手てを挟はさんだ。

「一年あるとし、此この地ちを巡廻じゆんくわいした事ことが有あります。私わたくしが七才なゝつの時ときです。未まだ其その頃ころは、今いまの温泉をんせんは無なかつたやうですね。」

「温泉をんせんの開ひらけたのは近ちかい頃ころの事ことでがすよ。然さうでがすとも。前まへから寂さびれては居ゐましつけえ、お城しろの居ゐまはりに、未まだ、町まちの形かたちの残のこつた頃ころは、温泉をんせんは無なかつけの。

地震ぢしんが豪えらく押おつぱだかつて、しやつきり残のこつたのはお天守てんしゆばかりぢや。人間にんげんも家いへも押転おつころばして、濠ほりも半分はんぶんがた埋うまりましけ。冬ふゆの事ことでの、其その前兆ぜんてうべい、八尺余はつしやくよも積つもつた雪ゆきが一晩ひとばんに融とけて、びしや〱と消きえた。あれ松まつが蒼あをいわ、と言いふ内うちに、天てんも地ちも赤黒あかぐろく成なつて、活いきものと言いふ活いきものは、泥どろの上うへを泳およいだての。

其その響ひゞきで、今いまの処ところへ、熱湯ねつたうが湧出わきだいた。ぢやがさ、天道てんだう人ひとを殺ころさずかい。生命いのちだけは助たすかつても、食くはう飲のまうの分別ふんべつも出でなんだ処ところ温泉をんせんが昌さかつて来きたで、何どうやら娑婆しやばの形かたちに成なつた。其そのかはり、旧もとから噂うはさの高たかかつたお天守てんしゆの此この辺へんは、人ひとの寄附よりつかぬ凄すごい処ところに成なりましたよ。見みさつせえ、いまに太陽様おてんとうさまが出でさつせえても、濠端ほりばたかけて城跡しろあとには、お前様めえさまと私等わしらが他ほかには、人間にんげんらしい影かげもねえだ。偶々たま〱突立つゝたつて歩行あるくものは、性しやうの善よくねえ、野良狐のらぎつねか、山猫やまねこだよ。

こんな処ところへ、主ぬしは何なんとして又また姉様あねさまの人形にんぎやう連つれて来きさつせえた。」

「其それを順じゆんにお話はなししませう、」

と雪枝ゆきえは一度いちど塞ふさいだ目めを、茫乎ばうと開あけて、

「父ちゝが此この処ところを巡廻じゆんくわいした節せつ、何処どこか山蔭やまかげの小ちひさな堂だうに、美うつくしい二十はたちばかりの婦をんなの、珍めづらしい彫像てうざうが有あつたのを、私わたくしの玩弄おもちやにさせうと、堂守だうもりに金子かねを遣やつて、供とものものに持もたせて帰かへつたのを、他ほかに姉妹きやうだいもなし、姉あねさんが一人ひとり出来できたやうに、負おぶつたり抱だいたり為しました。大おほきな像ざうで、飯めしの時ときなんぞ、並ならんで坐すはる、と七才なゝつの年としの私わたくしの芥子坊主けしばうずより、づゝと上うへに、髪かみの垂さがつた島田しまだの髷まげが見みえたんです。衣服きものは白無垢しろむくに、水浅黄みづあさぎの襟ゑりを重かさねて、袖口そでくちと褄つまはづれは、矢張やつぱり白しろに常夏とこなつの花はなを散ちらした長襦袢ながじゆばんらしく出来できて居ゐて……其それが上うへから着きせたのではない。木彫きぼりに彩色さいしきを為したんです。が、不思議ふしぎなのは、其その白無垢しろむく、何どうして置おいても些ちつとでも塵埃ほこりが溜たまらず、虫むしも蠅はいも、遂ついぞ集たかつたことが無ない。花畑はなばたけへでも抱だいて出でると、綺麗きれいな蝶々てふ〱は、帯おびに来きて、留とまつたんです、最もう一ひとつ不思議ふしぎなのは、立像りつざうに刻きざんだのが、膝ひざ柔やはらかにすつと坐すはる。

袖そでは両方りやうはうから振ふりが合あつて、乳ちゝのあたりで、上下うへしたに両手りやうてを重かさねたのが、ふつくりして、中なかに何なにか入はいつて居ゐさうで、……駆かけて行いつて、

『姉ねえさん、』と捉つかまつた時ときなぞ、肩かたが揺ゆれると、ころりん、ころりんと其それは実じつに……何なんとも微妙びめうな音ねが為して幽かすかに鳴なる、……父母ふたおやをはじめ、見みるほどのものは、何なんだらう何なんだらう、と言いひ〱したが、指ゆびを折をらなくては分わからないから、無論むろん開あけては見みず仕舞じまひ。

とう〱其その彫像てうざうを――何なんです――父ちゝが暖炉ストーブに燻くべて焼やいたまでも分わからなかつたんです。

ちら〱雪ゆきの降ふる晩方ばんがたでした。……私わたくしは、小児こどもの群食むらぐひで、欲ほしくない。両親りやうしんが卓子ていぶるに対向さしむかひで晩飯ばんめしを食たべて居ゐた。其処そこへ、彫像てうざうを負おぶつて入はいつたんですが、西洋室せいやうまの扉ひらきを開あけやうとして、

『姉ねえさん、』と仰向あふむくと上うへから俯向うつむいて見みたやうに思おもふ、……廊下らうかの長ながい、黄昏時たそがれどきの扉ひらきの際きはで、むら〱と鬢びんの毛けが、其時そのときは戦そよいだやうに思おもひました。ぱつちりした目めが、眉まゆの下したで、睫毛まつげを黒くろく瞬またゝいたやうで。……」

見みながら、其そのまゝ、扉ひらきを開あける、と小児こどもの背せなに、裾すそを後抱うしろだきにして居ゐた彫像てうざうの丈たけが反そつて、髷まげが、天井裏てんじやううらの高たかい処ところに見みえた。

ト半靴はんぐつの先さきを反そらした、母親はゝおやの白しろい足あしが卓子掛ていぶるかけと絨氈じうたんの間あひだで動うごいた。窓まどの外そとは雪ゆきが其その光ひかりを撫なでゝ、さら〱音おとが為しさうに、月つきが有あつて、植込うゑこみの梢こずえがちら〱黒くろい。烈々れつ〱と燃もえる暖炉だんろのほてりで、赤あかい顔かほの、小刀ナイフを持もつたまゝ頤杖あごづゑをついて、仰向あふむいて、ひよいと此方こちらを向むいた父ちゝの顔かほが真蒼まつさをに成なつた。

十

「東京とうきやう駿河台するがだいに家うちがあつた、其その二階にかいでした。」

と言いひかけて、左右さいうを見みる、と野のと濠ほりと草くさばかりでは無なく、黙だまつて打傾うちかたむいて老爺ぢゞいが居ゐた。其それを、……雪枝ゆきえは確たしかめ得えた面色おもゝちであつた。

「父ちちが矗乎すつくりと立たつと……

『おのれ!』と言いつて、つか〱と来きましたが。私わたくしの身躰からだが一ひとつ、胴廻どうまはりを為すると、肩かたから倒さかさまに婦をんなが落おちた。裙すそが未まだ此この肱ひぢに懸かゝつて、橋はしに成なつて床ゆかに着つく、仰向あふむけの白しろい咽喉のどを、小刀ナイフでざつくりと、さあ、斬きりましたか、突ついたんですか。

『きやつ、』と言いつて、私わたくしは鉄砲玉てつぱうだまのやうに飛出とびだしたが、廊下らうかの壁かべに額ひたひを打ぶつて、ばつたり倒たふれた。……気きの弱よわい母はゝもひきつけて了しまつたさうです。

母はゝは、父ちゝが、其その木像もくざうの胴どうを挫折ひしをつた――其それが又また脆もろく折をれた――のを突然いきなり頭あたまから暖炉ストーブへ突込つゝこんだのを見みたが、折口をれくちに偶ふと目めが着つくと、内臓ないざうがすつかり刻込きざみこんであつた。まるで生しやうのものを見みるやうに腸はらわたも長ながく、青あをい火ひが其それに搦からんだので、余あまりの事ことに気絶きぜつしたんだ、と後のちに言いひます。

父ちゝは年とし経たつて亡なくなるまで、其時そのときの事ことに就ついては一言いちごんも何なんにも言いはない。最もつとも当坐たうざ二月ふたつきばかりは、何どうかすると一室ひとまに籠こもつて、誰たれにも口くちを利きかないで、考事かんがへごとをして居ゐたさうですが、別べつに仔細しさいは無なかつたんです。

但たゞし其時そのときから、両親りやうしんは私わたくしを男をとこにしました。其それまで、三人さんにんも出来できた児こが皆みんな育そだたなかつたので、私わたくしを女をんなにして置おいたんです。名なも雪枝ゆきえと言いふ女をんなのやうな。

其その名なを直すぐに号がうにして、今いま、こんな家業かげふを為するやうに成なつたのも、小児こどもの時ときから、其その像ざうの事ことが、目めにも心こゝろにも身躰からだにも離はなれなかつた為せゐなんです。

こんな辺鄙へんぴな温泉をんせんへ参まゐつたのも、実じつは忘わすれられない可懐なつかしい気きが為したゝめです。何処どこか知しらんが、其その木像もくざうは、父ちゝが此この土地とちから持もつて帰かへつたと言いふぢやありませんか。

山やまも谷たにも野のも水みづも、其処そこには私わたくしの師匠ししやうがある、と信しんじ居ゐた。果はたして貴下あなたにお目めにかゝつた。――あの、白無垢しろむくに常夏とこなつの長襦袢ながじゆばん、浅黄あさぎの襟ゑりして島田しまだに結ゆつた、両りやうの手てに秘密ひみつを蔵かくした、絶世ぜつせの美人びじんの像ざうを刻きざんだ方かたは、貴下あなたの其その祖父様おぢいさんでは無ないでせうか。」

雪枝ゆきえは熟じつと対手あひてを視ながめた。

「え、貴下あなたかも分わからん、貴下あなたかも知しれません。先生せんせい、仰有おつしやつて下ください、一生いつしやうのお願ねがひです。」

「若わけえ旦那だんな、祖父殿おんぢいどんが事ことは私わしも知しらんで、何なにか言いはつしやりますやうな悪戯いたづらを為したかも分わからねえ。私わしは早はや、獅子鼻しゝばなや団栗目どんぐりめ、御神酒徳利おみきどつくりの口くちなら真似まねも遣やるが、弁天様べんてんさまは手てに負おえねえ……まあ、そんな事ことは措おかつしやい。ぢやが、お前様めえさまは山やまが先生せんせい、水みづが師匠ししやうと言いふわけ合あひで、私等わしらが気きにや天上界てんじやうかいのやうな東京とうきやうから、遥々はる〲と……飛騨ひだの山家やまがまでござつたかね。」

と掻蹲かつゝくばひ、両腕りやううでを膝ひざに預あづけたまゝ啣煙管くはへぎせるで摺出すりだす躰ていは、嘴くちばし長ながい鷺さぎの船頭せんどう化ばけたやうな態さまである。

雪枝ゆきえは、しばらく猶予ためらつた。

「仮かりにも先生せんせいと呼よんだ貴下あなたに向むかつて、嘘うそは言いへません。……一度いちど来こやう、是非ぜひ見みたい。生うまれない以前いぜんから雪枝ゆきえの身躰からだとは、許嫁いひなづけの約束やくそくがあるやうな此この土地とちです。信者しんじやが善光寺ぜんくわうじ、身延みのぶへ順礼じゆんれいを為するほどな願ねがひだつたのが、――いざ、今度こんど、と言いふ時とき、信仰しんかうが鈍にぶつて、遊山ゆさんに成なつた。

其それが悪わるかつたんです……

家内かないと二人連ふたりづれで来きたんです、然しかも婚礼こんれいを為したばかりでせう。」

盃さかづきを納をさめるなり汽車きしやに乗のつて家いへを出でた夫婦ふうふの身体からだは、人間にんげんだか蝶てふだか区別くべつが附つかない。遥々はる〲来きた、と言いはれては何なんとも以もつて極きまりが悪わるい。気きも魂たましひもふら〱で、六十余州ろくじふよしう、菜なの花はなの上うへを舞まひ歩行あるいても疲つかれぬ元気げんき。其それも突つゝかけに夜昼よるひるかけて此処こゝまで来きたなら、まだ〱仕事しごとの手前てまへ、山やまにも水みづにも言訳いひわけがあるのに……彼方あつちへ二晩ふたばん此方こつちへ三晩みばん、泊とまり泊とまりの道草みちくさで、――花はなには紅くれなゐ、月つきには白しろく、処々ところ〲の温泉をんせんを、嫁よめの姿すがたで彩色さいしきしては、前後左右ぜんごさいう、額縁がくぶちのやうな形かたちで、附添つきそつて、木きを刻きざんで拵こしらへたものが、恁かう行いくものか、と自みづから彫刻家てうこくかであるのを嘲あざける了見れうけん。

十一

斧をのも鑿のみも忘わすれたものが、木曾きそ、碓氷うすひ、寐覚ねざめの床とこも、旅たびだか家うちだか差別さべつは無ない気きで、何なんの此この山やまや谷たにを、神聖しんせいな技芸ぎげいの天てん、芸術げいじゆつの地ちと思おもはう。

来きて見みぬ内うちこそ、峯みねは雲くもに、谷たには霞かすみに、長とこしへに封ふうぜられて、自分等じぶんら、芸術げいじゆつの神かみに渇仰かつがうするものが、精進しやうじんの鷲わしの翼つばさに乗のらないでは、杣そま山伏やまぶしも分入わけいる事ことは出来できぬであらう。流ながれには斧をのの響ひゞき、木きの葉はには鑿のみの音おと、白しろい蝙蝠かはほり、赤あかい雀すゞめが、麓ふもとの里さとを彩いろどつて、辻堂つじだうの中うちなどは霞かすみが掛かゝつて、花はなの彫物ほりものをして居ゐやうとまで、信しんじて居ゐたのが、恋こひしい婦をんなと一所いつしよに来きたゝめ、峯みねが雲くもに日ひを刻きざみ、水みづが谷たにに月つきを鑿ほつた、大彫刻だいてうこくを眺ながめても、婦をんなが挿さした笄かんざしほども目めに着つかないで、温泉宿をんせんやどへ泊とまつた翌日よくじつ、以前もとならば何なによりも前さきに、しか〲の堂だうはないか、其それらしい堂守だうもりは居ゐまいか、と父ちゝが以前いぜん持帰もちかへつた、其その神秘しんぴな木像もくざうの跡あとの、心当こゝろあたりを捜さがす処ところ、――気きにも掛かけないまで忘わすれて了しまつて、温泉宿をんせんやどの亭主ていしゆを呼よんで、先まづ尋たづねたのが、世よに伝つたへた双六谷すごろくだにの事ことだつた。

「老爺おぢいさん。」

と雪枝ゆきえは嗟歎さたんして言いつた。

温泉いでゆの町まちの、谿流けいりうについて溯さかのぼると、双六谷すごろくだにと言いふのがある――其処そこに一坐いちざの大盤石だいばんじやく、天然てんねんに双六すごろくの目めの装もられたのが有あると言いふが、事実じじつか、と聞きいたのであつた。

亭主ていしゆが答こたへて、如何いかにも、此この辺へんで噂うはさするには、春はるの曙あけぼののやうに、蒼々あを〱と霞かすんだ、滑なめらかな盤石ばんじやくで、藤色ふぢいろがゝつた紫むらさきの筋すぢが、寸分すんぶん違たがはず、双六すごろくの目めに成なつて居ゐる。

『丁ちやうど、先まづ其その工合ぐあひと思おもはれまする。』と掌てのひらを畳たゝみに着つけて指ゆびさして見みせた。

其時そのとき坐すはつて居ゐた蒲団ふとんが、蒼味あをみの甲斐絹かひきで、成程なるほど濃こい紫むらさきの縞しまがあつたので、恰あだかも既すでに盤石ばんじやくの其その双六すごろくに対向さしむかひに成なつた気きがして、夫婦ふうふは顔かほを見合みあはせて、思おもはず微笑ほゝえんだ。

……と雪枝ゆきえは言いふ。

けれども、其それは神かみの斧をのの、微妙いみじき製作せいさくを会得ゑとくした嬉うれしさではなかつた。其その実じつ、矢叫やさけびの如ごとき流ながれの音おとも、春雨はるさめの密語さゝやきぞ、と聞きく、温泉いでゆの煙けむりの暖あたゝかい、山国やまぐにながら紫むらさきの霞かすみの立籠たてこもる閨ねやを、菫すみれに満みちた池いけと見る、鴛鴦えんわうの衾ふすまの寝物語ねものがたりに――主従しゆじうは三世さんぜ、親子おやこは一世いつせ、夫婦ふうふは二世にせの契ちぎりと聞きく……

『全まつたく未来みらいでも添そへるのでせうか。』と他愛たあいのない言ことを新婦しんぷが言いつた。

二世にせは愚おろか三世さんぜまでもと思おもふ雪枝ゆきえも、言葉ことばあらそひを興きようがつて、

『何なに二世にせなぞがあるものか、魂たましひは滅ほろびないでも、死しねば夫婦ふうふはわかれわかれだ。』

とはぐらかすと、褄つまを引合ひきあはせながら、起直おきなほつて、

『私わたしは此この世よばかりでは厭いやです。』

とツンとした。

『それでは二人ふたりで、一世いつせか、二世にせか賭かけをしやう。』

苟いやしくも未来みらいの有無うむを賭博かけものにするのである。相撲取草すまうとりぐさの首くびつ引ぴきなぞでは其その神聖しんせいを損そこなふこと夥おびたゞしい。聞きけば此この山奥やまおくに天然てんねんの双六盤すごろくばんがある。其その仙境せんきやうで局きよくを囲かこまう。

で、其その勝敗しようはいを紀念きねんとして、一先ひとまづ、今度こんどの蜜月みつゞきの旅たびを切上きりあげやう。けれども双六盤すごろくばんは、唯たゞ土地とちの伝説でんせつであらうも知しれぬ。実際じつさいなら奇蹟きせきであるから、念ねんのためと、こゝで、其その翌日よくじつ旅店りよてんの主人あるじに聞きいたのが、……件くだんの青石あをいしに薄紫うすむらさきの筋すぢの入はいつた、恰あたかも二人ふたりが敷しいた座蒲団ざぶとんに肖にて居ゐると言いふ其それであつた。

『案内者あんないしやでも雇やとへやうか。』

亭主ていしゆが飛とんでもない顔色かほつきで、二人ふたりを視ながめたも道理だうり。

十二

双六すごろくは確たしかにあり。天工てんこうの奇蹟きせきの故ゆゑに、四五六しごろくまた双六谷すごろくだにと其処そこを称となへ、温泉をんせんも世よの聞きこえに、双六すごろくの名なを負おはするが、谷たにを究きはめて、盤石ばんじやくを見みたものは昔むかしから誰だれも無ない。――土地とちの名所めいしよとは言いひながら、なか〱以もつて、案内者あんないしやを連つれて踏込ふみこむやうな遊山場ゆさんばならず。双六盤すごろくばんの事ことは疑無うたがひなけれど、其その是これあるは、月つきの中なかに玉兎ぎよくとのある、と同おんなじ事こと、と亭主ていしゆは語かたつた。

土地とちのものが、其方そなたの空そらぞと視ながめ遣やる、谷たにの上うへには、白雲はくうん行交ゆきかひ、紫緑むらさきみどりの日影ひかげが添そひ、月明つきあかりには、黄きなる、又また桃色もゝいろなる、霧きりの騰のぼるを時々ときどき望のぞむ。珠たまか、黄金こがねか、世よにも貴たうとい宝什たからが潜ひそんで、気きの群立むらだつよ、と憧憬あこがれながら、風かぜに木きの葉はの音信たよりもなければ、もみぢを分入わけいる道みちも知しらず……恰あたかも燦爛さんらんとして五彩ごさいに煌きらめく、天上てんじやうの星ほしを指ゆびさしても、手てに取とられぬ、と異かはりはない。

唯たゞ山深やまふかく木きを樵こる賤しづが、兎ともすれば、我わが伐木ばつぼくの谺こだまにあらぬ、怪あやしく、床ゆかしく且かつ幽かすかに、ころりん、から〱、と妙たへなる楽器がくきを奏かなづるが如ごときを聞きく――其時そのときは、森もりの枝えだが、一ひとつ一ひとつ黄金こがね白銀しろがねの線いとに成なつて、其その音ねを伝つたふるが如ごとくに感かんずる……思おもふに魔神まじんが対向むかひあつて、采さいを投なげる響ひゞきであらう……何なんにつけても、飛騨谷ひだだに第一だいいちの隠かくれ場所ばしよ、近ちかづき難がたい魔所ましよである、と猶なほ亭主ていしゆが語かたつたのである。

二人ふたりは、聞きくが如ごとき他界たかいであるのを信しんずると共ともに、双六すごろくの賭かけが弥いやが上うへにも、意味いみの深ふかいものに成なつた事ことを喜よろこんだ……勿論もちろん、谷たにへ分入わけいるに就ついて躊躇ちうちよを為したり、恐怖おそれを抱いだいたりするやうな念ねんは聊いさゝかも無なかつた。

と雪枝ゆきえは続つゞいて言いつた。

「其その上うへ好奇心かうきしんにも駆かられたでせう。直すぐにも草鞋わらぢを買かはして、と思おもつたけれども、彼是かれこれ晩方ばんがたに成なつたから、宿やどの主人あるじを強しゐて、途中とちゆうまで案内者あんないしやを着つけさせることにして、其その日ひの晩飯ばんめしは済すませました。」

双六谷すごろくだにへは、翌早朝よくさうてうと言いふ意気組いきぐみ、今夜こんやも二世にせかけた勝敗しようはいは無なしに、唯たゞ睦むつまじいのであらうと思おもふ。宵寐よひねをするにも余あまり早はやい、一風呂ひとふろ浴あびた後あと……を、ぶらりと二人連ふたりづれで山路やまみちへ出でて見みたのが、丁ちやうど……狐きつねの穴あなには灯あかりは点つかぬが、猿さるの店みせには燈ともしびの点つく時分じぶん、何なにとなく薄うすら寒さむい、其処等そこらの霞かすみも、遠山とほやまの雪ゆきの影かげが射さすやうで、夕餉ゆふげの煙けむりが物寂ものさびしう谷たにへ落おちる。五六軒ごろくけんの藁屋わらやならび、中なかにも浅間あさまな掛小屋かけこやのやうな小店こみせを開あけて、穴あなから商売しやうばいをするやうに婆ばあさんが一人ひとり戸との外そとを透すかして居ゐた。其その店みせで獣けものの皮かはだの、獅子頭しゝがしら、狐きつね猿さるの面めん、般若はんにやの面めん、二升樽にしやうだるぐらゐな座頭ざとうの首くび、――いや其それが白しろい目めをぐるりと剥むいて、亀裂ひゞの入はいつた壁かべに仰向あふむいた形かたちなんぞ余あんまり気味きみの可いいものではなかつた。誰たれか拵こしらへるものが居ゐて、直すぐ其それを売うるらしい。破莚やれむしろの上うへは、藍あゐの絵具ゑのぐや、紅殻べにがらだらけ――婆ばあさんの前垂まへだれにも、ちら〱霜しものやうに胡粉ごふんがかゝつた。其その他た角細工つのざいくも種々いろ〱ある。……

「はツはツ、婆様ばあさまが家うちぢや。」と老爺ぢゞいは不意ふいに笑わらひ懸かけて、

「茶ちやでも飲あがつてござつたかの。」

雪枝ゆきえは不図ふと心着こゝろづいたらしく調子てうしを変かへて、

「あゝ、お知己ちかづきの店みせなんですか。」

「昔むかしの恋こひでがす。彼あれでもの、お前様めえさま、新造盛しんざうざかりの事ことも有あつけ。人形あねさまを欲ほしがる時分じぶんぢや。なんぼ山鳥やまどりのおろのかゞみで、頤髯あごひげさ撫なでた処ところで、木きの枝えだで、鋸のこぎりを使つかひ〱、猿さるの脚あしと並ならんだ尻しりを、下したから見みせては落おつこちねえ。其処そこで、人形にんぎやうやら、おかめの面めんやら、御機嫌取ごきげんとりに拵こしらへて持もつて行つては、莞爾につこりさせて他愛たあいなく見惚みとれて居ゐたものでがす。はゝゝ、はじめの内うちは納戸なんどの押入おしいれへ飾かざつての、見みるな見みるな、と云いふ。恐おそろしい、男をとこを食くつて骨ほねを秘かくす、と村むらのものが嬲なぶつたつけの……真個ほんの孤屋ひとつやの鬼おにに成なつて、狸婆たぬきばゞあが、旧もとの色仕掛いろじかけで私わしに強請ゆすつて、今いまでは銭おあしにするでがすが、旦那だんな、何なにか買かはしつたか、沢山たんと直切ねぎらつしやれば可よかつけな。」

采さい

十三

「おゝ、老爺おぢいさんが、あの、種々いろ〱なものを。」

と雪枝ゆきえは目めの覚さめた顔色かほつきして、

「面めんも頭かしらも、お製作こしらへに成なつたんですか。……あゝ、いや、鷺さぎのお手際てぎはを見みたので分わかる。軒のきに振ぶら下さがつた獅子頭しゝがしらや、狐きつねの面めんなど、どんな立派りつぱなものだつたか分わからない。が、其それに気きが着つく了見れうけんなら、こんな虚気うつけな、――対手あひてが鬼おににしろ、魔まにしろ、自分じぶんの女房にようばうを奪うばはれる馬鹿ばかは見みない。

失礼しつれいながら、そんなものは目めも留とめないで、

『采さいは無ないか。』

『お媼ばあさん、あの、采さいはありませんか。』

と同伴つれの婦をんなも聞きいたんです。」……

双六巌すごろくいはで振ふらうと云いふ、よく考かんがへれば夢ゆめのやうなことだつた。

『一六いちろく、三五さんごの采粒さいつぶかの、はい、ござります。』と隅すみの壁かべへ押着おつゝけた、薬箪笥くすりだんすの古ふるびたやうな抽斗ひきだしを開あけると、鼠ねづみの屎ふんが、ぱら〱溢こぼれる。其その中なかから、畳紙たとうがみを出だして、ころ〱と手てで揺ゆすりながら軒のきの明前あかりさきへ持もつて出でた。

『猪ゐのしゝの牙きばで拵こさへました、ほんに佳いい采さいでござります、御覧ごらうじまし。』と莞爾々々にこ〱しながら、掌てのひらを反そらして載のせた処ところを、二人ふたりで一個ひとつづゝ取とつた。

采さいは珠たまのやうに見みえた。綺麗きれいに磨みがいたのが透通すきとほるばかりに出来できて、点々ぽち〱打うつた目めの黒くろいのが、雪ゆきの中なかに影かげの顕あらはれた、連つらなる山々やま〱、秀ひいでた峯みね、深ふかい谷たにのやうに不図ふと見みえた。

『可愛かあいぢやありませんか。』

と同伴つれの女をんなは一寸ちよいと摘つまんだが、掌てのひらへ据すえ直なほして、

『お媼ばあさん、思おもふ目めが出でませうか。』と右みぎの手てを蓋ふたで胸むねへつけて、ころ〱と振ふつて試みる。

と背中せなかから抱だき締しめて、づる〱と遠とほくへ持もつて行ゆかれたやうに成なつて、雪枝ゆきえは其時そのときの事ことを思出おもひだした。

「其その時ときの事ことと言いふのは、父ちゝが此この土地とちの祠ほこらから持もつて帰かへつた、あの、掌てのひらに秘密ひみつを蔵かくした木像もくざうです。」

「おゝ、」と頷うなづく、老爺ぢいは腕組うでぐみを為した肩かたを動うごかす。

「あゝ、それぢや、木彫きぼりの美人びじんが、父ちゝのナイフに突刺つきさされて、暖炉ストーブの中なかに焼やかれた時ときまで、些ちつとも其その秘密ひみつを明あかさなかつた、微妙びめうな音ねのしたものは、同一おなじ、此この采さいであつたかも知しれない。

時ときに、傍そばに立たつた家内かないの姿すがたが、其それに髣髴そつくりだ、と思おもふと、想像さうざうが遠とほく昔むかしへ返かへつて、不思議ふしぎなもので、袖そでを並ならべたお浦うらの姿すがたが、づゝと離はなれて遥はるかな向むかふへ……」

と雪枝ゆきえは語かたつて、押遣おしやるやうに手てを振ふつた。

「其時そのときの事ことを思おもふと、老爺おぢいさん、恁かう言いふ内うちにも貴方あなたの身体からだも遠とほくへ行ゆく……ふら〱と間あひだが離はなれる。」……

而そして、婆ばあさんの店みせなりに、お浦うらの身体からだが向むかふへ歩行あるいて、見みる間まに其それが、谷たにを隔へだてた山やまの絶頂ぜつちやうへ――湧出わきでる雲くもと裏表うらおもてに、動うごかぬ霞かすみの懸かゝつた中なかへ、裙袂すそたもとがはら〱と夕風ゆふかぜに靡なびきながら薄うすくなる。

あの辺あたりへ、夕暮ゆふぐれの鐘かねが響ひゞいたら、姿すがたが近ちかく戻もどるのだらう、――と誰たが言いふともなく自分じぶんで安心あんしんして、益々ます〱以前もとの考かんがへに耽ふけつて居ゐると、榾ほだを焚たくか、炭すみを焼やくか、谷間たにまに、彼方此方かなたこなた、ひら〱、ひら〱と蒼白あをじろい炎ほのほが揚あがつた。

思おもはず彫像てうざうを焼やいた暖炉ストーブの火ひに心着こゝろづいて、何故なぜか、急きふに女をんなの身みが危あやぶまれて来きた。

『お浦うら。』

と呼よんだが返事へんじをしない。

『お浦うら、お浦うら。』と言いつたが、返事へんじを為しない。雪枝ゆきえ最もうきよろ〱し出だした、其それで二足三足ふたあしみあしづゝ、前後左右ぜんごさいうを、ばた〱と行いつたり、来きたり……

慌あはたゞしく成なつて来きた。

第一だいいち、お浦うらばかりぢやない、其処そこに居ゐた婆ばあさんも見みえなければ、其それらしい店みせもない。

いや、これは可怪おかしいぞ。一人ひとりばかり居ゐないのなら、女をんなが何どうかしたのだらうが、店みせも婆ばあさんもなくなつた、とすると……前方さきが攫さらはれたのぢやなくつて、自分じぶんが魅つままれたものらしい。

『おゝい、おゝい。』

と智恵ちゑのない声こゑをしながら、無暗むやみに人ひとを呼よんで、雪枝ゆきえは山路やまみちを駆かけづり廻まはつた。

十四

「段々だん〱暗くらくなる、最もう目めは眩くらむ、風かぜが吹出ふきだす。此この風かぜは……昼間ひるま蒼あをく澄すんだ山やまの峡かひから起おこつて、障さはつて来くる樹きの枝えだ、岩角いはかど、谷間たにあひに、白しろい雲くものちぎれて鳥とりの留とまるやうに見みえたのは未まだ雪ゆきが残のこつたのか、……と思おもふほど横面よこづらを削けづつて冷つめたかつた。

『ま……、何処どこへござらつしやる、旦那だんな。』

とすた〱小走こばしりに駆かけて来きて、背後うしろから袂たもとを引留ひきとめた、山稼やまかせぎの若わかい男をとこがあつた。

『お城趾しろあとへ行ゆかしつては成なりましねえだよ。日ひも暮くれたに、当事あてこともねえ。』と少すこし叱しかつて言いふ。

煙けむりが立たつて、づん〱とあがる坂さか一筋ひとすぢ、やがて、其その煙けむりの裙すそが下伏したぶせに、ぱつと拡ひろがつたやうな野末のずゑの処ところへ掛かゝつて居ゐました。」

雪枝ゆきえは胸むねを伸上のしあげて、岬みさきが突出つきでた湾わんの外そとを臨のぞむが如ごとく背後状うしろざまに広野ひろのを視ながめた。……東雲しのゝめの雲くもは其その野末のずゑを離はなれて、細ほそく長ながく縦たてに蒼空あをぞらの糸いとを引ひいて、上のぼつて行ゆく、……人ひとも馬うまも、其処そこを通とほつたら、ほつほつと描ゑがかれやう、鳥とりも飛とばゞ見みえやう、――けれども天守てんしゆの屋根やねは森もりが包つゝんで、霞かすみがくれに尚なほ暗くらい。其その上うへ、野のの果はてを引上ひきあげる雲くもも此方こなたをさして畳たゝまつて来くるやうで、老爺ぢゞいと差向さしむかつた中空なかぞらは厚あつさが増ます。其その濃こく暗くらい奥おくから、黄金色こがねいろに赤味あかみの注さした雲くもが、むく〱と湧出わきだす、太陽たいやうは其処そこまで上のぼつた――汀みぎはの蘆あしの枯かれた葉はにも、さすがに薄うすい光ひかりがかゝつて、角つのぐむ芽生めばえもやゝ煙けぶりかけた。此この煙けむりは月夜つきよのやうに水みづの上うへにも這はひ懸かゝる。船ふねの焼やけた余波なごりは分解わかず……唯たゞ陽炎かげらふが頻しきりに形かたちづくりするのが分解わかる。――やがて、此これが、野のの一面いちめんの草くさを伝つたはつて、次第しだいにひら〱と、麓ふもとに下おりて遊行ゆぎやうしやう。……さて、日ひも当あたれば、北国ほくこくの山中さんちゆうながら、人里ひとざとの背戸せど垣根かきねに、神かみが咲さかせた桃もゝ桜さくらが、何処どことも無なく空そらに映うつらう。まだ、朝早あさまだき、天守てんしゆの上うへから野のをかけて箕みの形かたちに雲くもが簇むらがつて、処々ところ〲物凄ものすさまじく渦うづを巻まいて、霰あられも迸ほとばしつて出でさうなのは、風かぜが動うごかすのではない。四辺あたりは寂寞ひつそりして居ゐる……峰みねに当あたり、頂いたゞきに障さはつて、山々やま〱のために揺ゆれるのである。

雲くもの動うごく時とき、二人ふたりの形かたちは大おほきく成なつた。静じつとする時とき、渠等かれらの姿すがたは小ちひさく成なつた。――飛騨ひだの山やまの此このあたりは、土地とちが呼吸こきうをするのかも分わからぬ。

雪枝ゆきえは伸上のびあがつた時とき、膝ひざを草くさに支ついて居ゐた。

「其その時とき来懸きかゝつたのは、何どうも、此この原はらの、向むかふの取着とつゝきであつたらしい。

『お城趾しろあとの方はうさ行いつては成なんねえだ。』と云いつて其その男をとこが引取ひきとめました……私わたくしは家内かないの姿すがたを高たかい山やまの端はで見失みうしなつたが、何どうも、向むかふが空そらへ上あがつたのではなく、自分じぶんが谷底たにそこへ落おちてたらしい。其処そこで疵きづだらけに成なつて漸々やう〱出でて来きた処ところが、此この取着とつゝきで、以前いぜん夫婦ふうふづれで散歩さんぽに出でた場所ばしよとは、全然まるで方角はうがくが違ちがう、――御存ごぞんじの通とほり、温泉をんせんは左右さいうへ見上みあげるやうな山やまを控ひかへた、ドン底ぞこから湧わきます。

で、婆ばあさんの店みせの有あつたのは南みなみの坂さかで、此この城趾しろあとは北きたの山路やまみちから来くるのでせう。

土地とちの男をとこに様子やうすを聞きいて、

『あゝ、魅つままれた……魅つままれたんだ。いや、薄髯うすひげの生はへた面つらで、何なんとも面目めんぼく次第しだいもない。』

と頻しきりに面目めんもくながる癖くせに、あは〱得意とくいらしい高笑たかわらひを行やつた。家内かないの無事ぶじを祝福しゆくふくする心こゝろでは、自分じぶんの魅みせられたのを、却かへつて幸福かうふくだと思おもつて喜よろこんだんです。

『豪えらい、東京とうきやうの客きやくを魅だますのは豪儀がうぎだ。ひよい、と抱だいて温泉宿をんせんやどの屋根越やねごしに山やまを一ひとつ、まるで方角はうがくの違ちがつた処ところへ、私わたしを持もつて来きた手際てぎはと云いふのは無ない。何なにか、此この辺へんに、有名いうめいな狐きつねでも居ゐるか。』

と酔よつぱらひのやうな言ことを云いつて、ひよろ〱為しながら、其その男をとこに導みちびかれて引返ひきかへす。

『狐きつねや狸たぬきではござりましねえ、お天守てんしゆにござる天狗様てんぐさまだのエ、時々とき〲悪戯いたづらをさつしやります。』

『何なに天狗てんぐ。』

と云いふと慌あはたゞしく袂たもとを曳ひいて、

『えゝ、大おほきな声こゑをさつしやりますな、聞きこえるがのエ』と、蒼あをい顔かほして、其その男をとこは、足許あしもとを樹きの梢こずゑから透すいて見みえる、燈ともしびの影かげを指ゆびさしたんです。」

谺こだま

十五

で、其処そこが温泉宿をんせんやどだ、と教をしへて、山間やまあひの崖がけを樹きの茂しげつた細ほそい路みちへ、……背負せをつて居ゐた、丈たけの伸のびた雑木ざうきの薪まきを、身躰からだごと横よこにして、ざつと入はいつて行ゆく。

しばらく、ざわ〱と鳴なつて居ゐた。

急きふに何なんだか寂さびしく成なつて、酔ゑひざめのやうな身震みぶるひが出でた。急いそいで、燈火ともしびを当あてに駆下かけおりる、と思おもひがけず、往ゆきには覚おぼえもない石壇いしだんがあつて、其それを下切おりきつた処ところが宿やどの横よこを流ながれる矢やを射ゐるやうな谿河たにがはだつた。――驚おどろいたのは、山やまが二ふたわかれの真中まんなかを、温泉宿をんせんやどを貫つらぬいて流ながれる、其その川かはを、何時いつの間まに越こへて、此この城趾しろあとの方はうへ来きたか少すこしも覚おぼえが無ない。

岸きしづたひに、岩いはを踏ふんで後戻あともどりを為して、橋はしの取着とつゝきの宿やどへ帰かへつた、――此これは前刻さつき渡わたつて、向むかふ越ごしで、山路やまみちの方はうへ、あの婆ばあさんの店みせへ出でた橋はしだつた。

『お帰かへりなさいまし。』

と向むかふ廊下らうかから早足はやあしで、すた〱来懸きかゝつた女中ぢよちゆうが一人ひとり、雪枝ゆきえを見みて立停たちとまつた。

『御緩ごゆつくり様さまで、』と左側ひだりがはの、畳たゝみ五十畳ごじふでふ計ばかりの、だゞつ広ぴろい帳場ちやうば、……真中まんなかに大おほきな炉ろを切きつた、其その自在留じざいとめの、ト尾鰭をひれを刎はねた鯉こひの蔭かげから、でつぷり肥ふとつた赤あから顔がほを出だして亭主ていしゆが言いふ。

『同伴つれは帰かへつたらうね。』と聞きいた時とき、雪枝ゆきえは其その間違まちがひの無ない事ことを信しんじながら、何なんだか胸むねがドキ〱した。

『奥方様おくがたさまで、はゝ、何なにや、一寸ちよいとお見申みまをせ。』と頤あごを向むけると、其処そこに居ゐた女中ぢよちゆうが、

『御一所ごいつしよでは無なかつたのでございますか。』

で、ばた〱と廊下らうかを、直すぐに二階にかいへ駆上かけあがつた。

何故なぜか雪枝ゆきえは他人たにんを訪問はうもんに来きたやうな心持こゝろもちに成なつて、うつかり框際かまちぎはの広土間ひろどまに突立つゝたつて居ゐた。

山路やまみちから、後あとを跟つけて来きたらしい嵐あらしが、袂たもとをひら〱と煽あふつて、颯さつと炉傍ろばたへ吹込ふきこむと、燈ともしびが下伏したぶせに暗くらく成なつて、炉ろの中なかが明あかるく燃もえる。これが赫くわつと、壁かべに並ならんだ提灯ちやうちんの箱はこに映うつる、と温泉いでゆの薫かをりが芬ぷんとした。

五六段ごろくだん階子はしごを残のこして、女中ぢよちゆうが廊下らうかの高たかい処ところへ顔かほを出だして、

『まだ、お帰かへり遊あそばしません。』

『下おりて来きて、ちやんと申まをさぬかい、何なんぢや、不作法ぶさはふな。』と亭主ていしゆが炉端ろばたから上睨うはにらみを行やる。

雪枝ゆきえは一文字いちもんじに其その前まへを突切つゝきつて、階子段はしごだんを駆上かけあがり状ざまに、女中ぢよちゆうと摺違すれちがつて、

『そんな筈はづは無ない。そんな、お前まへ、』と躾たしなめるやうに言いひ〱飛上とびあがつたのであつた。

『それともお湯ゆへお出いでなさいましてですか、お座敷ざしきには居ゐらつしやいませんですよ。』と小走こばしりに跟ついて来くる。

固もとより女中ぢよちゆうが串戯ぢやうだんを言いふわけは無ない。居ゐないものは居ゐないので、座敷ざしきを見みると、あとを片附かたづけて掃出はきだしたらしく、きちんと成なつて、点つけたての真しんを細ほそめた台洋燈だいらんぷが、影かげを大おほきく床とこの間まへ這ははして、片隅かたすみへ二間ふたまに畳たゝんだ六枚折ろくまいをりの屏風びやうぶが如何いかにも寂さびしい。

而そして誰たれも居ゐない八畳はちでふの真中まんなかに、其その双六巌すごろくいはに似にたと言いふ紫縞むらさきじまの座蒲団ざぶとんが二枚にまい、対坐さしむかひに据すえて有あつたのを一目ひとめ見みると、天窓あたまから水みづを浴あびたやうに慄然ぞつとした。此処こゝへも颯さつと一嵐ひとあらし、廊下らうかから追おつて来きて座敷ざしきを吹抜ふきぬけて雨戸あまどをカタリと鳴ならす。

恁かうして、お浦うらに別わかれるのが極きまつた運命うんめいでは無なからうかと思おもつた……

「浴室ゆどのだ、浴室ゆどのだ。見みておいで。と女中ぢよちゆうを追遣おひやつて、倒たふれ込こむやうに部屋へやに入はいつて、廊下らうかを背後向うしろむきに、火鉢ひばちに掴つかまつて、ぶる〱と震ふるへたんです。……老爺おぢいさん。」

と雪枝ゆきえは片手かたてで胸むねを抱だいた。

「亭主ていしゆが上あがつて来きました。

『えゝ、一寸ちよいとお引合ひきあはせ申まをしまする。此この男をとこが其その、明日みやうにち双六谷すごろくだにの途中とちゆうまで御案内ごあんないしまするで。さあ、主ぬし、お知己ちかづきに成なつて置おけや。』と障子しやうじの蔭かげに蹲しやがんで居ゐた山男やまをとこに顔かほを出ださせる、と此これが、今いましがたつひ其処そこまで私わたしを送おくつてくれた若わかいもの、……此方こつちは其処そこどころぢや無ない。」

十六

「恁かう成なると、最もう外聞ぐわいぶんなんぞ構かまつては居ゐられない。魅つままれたか誑たぶらかされたか、山路やまみちを夢中むちゆうで歩行あるいた事ことを言出いひだすと、皆みなまで恥はぢを言いはぬ内うちに……其その若わかい男をとこが半分はんぶんで合点がつてんしたんです。」

さあ、亭主ていしゆも飛とんでも無ない顔かほをする。捜さがすのに、湯殿ゆどのや小用場こようばでは追着おつつかなく成なつた。

『権七ごんしちや、主ぬしは先まづ、婆様ばあさまが店みせへ走はしれ、旦那様だんなさま、早速さつそく人ひとを出だしますで、お案あんじなさりませんやうに。主ぬしも働はたらいてくれ、さあ、来こい、』

と若わかいものを連つれて、どたばた引上ひきあげる時分じぶんには、部屋へやの前まへから階子段はしごだんの上うへへ掛かけて、女中ぢよちゆうまじりに、人立ひとだちがするくらゐ、二階にかいも下したも何なにとなく騒さはぎ立たつ。

雨戸あまどを開あけて欄干らんかんから外そとを見みると、山気さんきが冷ひやゝかな暗やみを縫ぬつて、橋はしの上うへを提灯ちやうちんが二ふたつ三みつ、どや〱と人影ひとかげが、道みちを右左みぎひだりへ分わかれて吹立ふきたてる風かぜに飛とんで行ゆく。

真先まつさきに案内者あんないしや権七ごんしちの帰かへつて来きたのが、ものゝ半時はんときと間あひだは無なかつた。けれども、足あしを爪立つまだつて待まつて居ゐる身みには、夜中よなかまでかゝつたやうに思おもふ。

婆ばあさんに聞きけば、夫婦ふうふづれの衆しゆは、内うちで采粒さいつぶを買かはつしやると、両方りやうはうで顔かほを見合みあひながら後退あとしざりをして、向むかふ崖がけの暗くらい方はうへ入はいつたまで。それからは覚おぼえて居をらぬ。目めは踈うとし、暮方くれがたではあり、やがて暗くらくなつて了しまつた、と権七ごんしちが言いふ。

のみ、手懸てがゝりは何なんにも無ない。

『矢張やつぱり何なにか私わたしのやうに、魅つままれて路みちを迷まよつたらうか。』

『然さうでもござりやすめえ、奥様おくさまは、其そのお前様めえさまを捜さがし歩行あるいて、其それで未まだ、お帰かへりが無ないのでござりやせうで、天狗様てんぐさまも二人一所ふたりいつしよに攫さらはつしやることは滅多めつたにねえ事ことでござります。今いまにお帰かへりに成なるでござりやしやう。宿やどでも心配しんぱいをして居をりますで、夜一夜よつぴて寐ねねえで捜さがしますで、お前様めえさまは、まあ、休やすまつしやりましたが可ようござります。』

気きが気きでは無ない。一所いつしよに捜さがしに出でかけやうと言いふと、いや〱山坂やまさか不案内ふあんないな客人きやくじんが、暗やみの夜路よみちぢや、崖がけだ、谷たにだで、却かへつて足手絡あしてまとひに成なる。……案内者あんないしやに雇やとはれるものが、何なにも知しらない前まへに道案内みちあんないを為したと言いふも何なにかの縁えんと思おもふ。人一倍ひといちばい精出せいだして捜さがさうから静しづかに休やすめ、と頼母たのもしく言いつて、すぐに又また下階したへ下おりた。

一時ひとしきり騒々さう〲しかつたのが、寂寞ひつそりばつたりして平時いつもより余計よけいに寂さびしく夜よが更ふける……さあ、一分いつぷん、一秒いちびやう、血ちが冷ひえ、骨ほねが刻きざまれる思おもひ。時ときが経たてば経たつだけ、それだけお浦うらの帰かへる望のぞみが無なくなると言いつた勘定かんぢやう。九時くじが十時じふじ、十一時じふいちじを過すぎても音沙汰おとざたが無ない。時々とき〲、廊下らうかを往通ゆきかよふ女中ぢよちゆうが、通とほりすがりに、

『何どう遊あそばしたのでございませう、』

『うむ、』

『御心配ごしんぱいでございます。』

『あゝ、』

――返答へんたふが出来できないで、溜息ためいきを吐つく顔かほを見みて、遁にげるやうに二三人にさんにん摺すり抜ぬけた。

やがて十二時じふにじを打うつた。女中ぢよちゆうが床とこを取とりに来きて、一ひとつ伸のべて、二ふたつ並ならべやうと為したので、

『そりや可よからう、』と言いつた時ときは我われながら変へんな声こゑだと思おもつた。……勿論もちろん寐ねもせず、枕元まくらもとへ例れいの紫縞むらさきじまのを摺ずらして、落着おちつかない立膝たてひざで何なにを聞きくとも無なく耳みゝを澄すますと、谿河たにがはの流ながれがざつと響ひゞくのが、落おちた、流ながれた、打当ぶちあてた、岩いはに砕くだけた、死しんだ――と聞きこえる。

『あゝつ、』と忌いまはしさに手てで払はらつて、坐すはり直なほして其処等そこらを眴みまはす、と密そつと座敷ざしきを覗のぞいた女中ぢよちゆうが、黙だまつて、スーツと障子しやうじを閉しめた。――夜よが更ふけて寒さむからうと、深切しんせつに為したに違ちがひないが、未練みれんらしい諦あきらめろ、と愛想尽あいさうつかしを為されたやうで、赫くわつと顔かほが熱あつくなる。

背中せなかがぞつと寒さむく成なる……背後うしろを見みる、と床とこの間まに袖畳そでだゝみをした女をんなの羽織はおり、わがねた扱帯しごき、何なにとなく色いろが冷つめたく成なつて紀念かたみのやうに見みえて来きた、――持主もちぬしが亡なくなると、却かへつてそんなものが、手てん手でに活いきて来きたやうに思おもはれて、一寸ちよいと触さはるのも憚はゞかられる。

何処どこか、しゆつ〱と風かぜが通とほる……

十七

「うら悲かなしい、心細こゝろぼそい、可厭いやな声こゑで、

『お客様きやくさまあゝ、』

『奥様おくさま、』と呼よぶのが、山颪やまおろしの風かぜに響ひゞいて、耳みゝへカーンと谺こだまを返かへしてズヽンと脳なうを抉えぐる。

『お客様きやくさま、』

『奥方様おくがたさま。』……は情なさけない。少すこし裏山うらやまへ近ちかく成なつたと思おもふと、女をんなの声こゑが交まじつて、

『奥様おくさまやあ、』と呼よんだ。ヒイと之これが悲鳴ひめいを上あげるやうで、家内かないが絞殺しめころされる叫さけびに聞きこえる、最もう堪たまりません。

廊下らうかを跣足はだしで出でて、階子段はしごだんの上うへから倒さかさまに帳場ちやうばを覗のぞいて、

『御主人ごしゆじん、御主人ごしゆじん、』

と、海うみが凪ないだ後あとを、ぶる〱震ふるへる波なみのやうな畳たゝみの上うへに、男をとこだか女をんなだか、二人ふたりばかり打上うちあげられた躰ていで、黒くろく成なつて突伏つゝぷした真中まんなかに、手酌てじやくでチビリ〱飲やつて居ゐた亭主ていしゆが、むつくり頭あたまを上あげて、

『まだ御寐およりませんかな。』と言いひ〱四五段しごだん上のぼつた、中途ちゆうとの上下うへしたで欄干てすり越ごしに顔かほを合あはせた。

『又また入いれ替かはつて出でてくれたのかね、あゝ言いつて呼よんでるのは、』

『へい、否いゝえ、山深やまふかく参まゐつたのが、近廻ちかまはりへ引上ひきあげて来きたでござります。』

『まだ、知しれんのだね、あゝして呼立よびたてゝ居ゐるのを見みると。』

『へい、何なにしろ、早はや、山やまも谷たにも数すうが知しれん処ところでござりますけにな。……』

と歎息たんそくを為したが、面つらを振ふつて、嚏くしやみをした。

『しかし、あれでござりましよ。何分なにぶん夜よが更ふけましたで、道みちを教をしへますものも明方あけがたまで待まちませうし、又また……奥方様おくがたさまも、何どの道みちお草臥くたびれでござりませうで、いづれにも夜よが明あけましたら、分わかるに相違さうゐござりません。』

『分わかるつて? 死骸しがいか、』

『えゝ?』

『死しんだら其それまでだ。』と自棄やけを言いつて寐床ねどこへ帰かへつて打倒ぶつたふれた。……

『お客様きやくさま、』

『奥様おくさま、』と呼よぶのが十声とこゑばかりして、やがて、ガラ〱と門かどの戸とが大おほきく鳴なつて開あく。私わたしは襟ゑりを被かぶつて耳みゝを塞ふさいだ! 誰だれが無事ぶじだ、と知しらせて来きても、最もう聞きくまい、と拗すねたやうに……勿論もちろん、何なんとも言いつては来きません。

其癖そのくせ、ガラ〱と又また……今度こんどは大戸おほどの閉しまつた時ときは、これで、最もう、家内かないと私わたしは、幽明いうめい処ところを隔へだてたと思おもつて、思おもはず知しらず涙なみだが落おちた。…

ト前刻さつき、止よせ、と云いつて留とめたけれども、其それでも女中ぢよちゆうが伸のべて行いつた、隣となりの寐床ねどこの、掻巻かいまきの袖そでが動うごいて、煽あふるやうにして揺起ゆりおこす。

『おゝ、』と飛附とびつくやうな返事へんじを為して顔かほを出だしたが、固もとより誰たれも居ゐやう筈はずは無ない。枕まくらばかり寂さびしく丁ちやんとあり、木賃きちんで無ないのが尚なほうら悲かなしい。

熟じつと視詰みつめて、茫乎ぼんやりすると、並ならべた寐床ねどこの、家内かないの枕まくらの両傍りやうわきへ、する〱と草くさが生はへて、短みじかいのが見みる〱伸のびると、蔽おほひかゝつて、萱かやとも薄すゝきとも蘆あしとも分わからず……其その中なかへ掻巻かいまきがスーと消きえる、と大おほきな蛇へびがのたりと寐ねて、私わたしの方はうへ鎌首かまくびを擡もたげた。ぐつたりして手足てあしを働はたらかす元気げんきもない。首くびを締しめて殺ころさば殺ころせで、這出はひだすやうに頭あたまを突附つきつけると、真黒まつくろに成なつて小山こやまのやうな機関車きくわんしやが、づゝづと天窓あたまの上うへを曳ひいて通とほると、柔やはらかいものが乗のつたやうな気持きもちで、胸むねがふわ〱と浮上うきあがつて、反身そりみに手足てあしをだらりと下さげて、自分じぶんの身躰からだが天井てんじやうへ附着くつつく、と思おもふとはつと目めが覚さめる、……夜よは未まだ明あけないのです。

同おなじやうな切せつない夢ゆめを、幾度いくたびとなく続つゞけて見みて、半死半生はんしはんせいの躰ていで漸やつと我われに返かへつた時とき、亭主ていしゆが、

『御国許おくにもとへ電報でんぱうをお掛かけ被成なさりましては如何いかゞでござりませう。』と枕許まくらもとに坐すはつて居ゐました。

『馬鹿ばかな。』

と一言いちごんのもとに卻しりぞけたんです。」

十八

「怪我けが、過失あやまち、病気びやうきなら格別かくべつ、……如何いかに虚気うつけなればと言いつて、」

雪枝ゆきえは老爺ぢゞいに此これを語かたる時とき、濠端ほりばたの草くさに胡座あぐらした片膝かたひざに、握拳にぎりこぶしをぐい、と支ついて腹はらに波立なみたつまで気兢きほつて言いつた。

「女房にようばうが紛失ふんしつした、と親類しんるゐ知己ちきへ電報でんぱうは掛かけられない。

『何なにしろ、最もう些ちつと手懸てがゝりの出来できるまで其それは見合みあはせやう。』

『で、ござりまするが、念ねんのために、お国許くにもとへお知しらせに成なりましては如何いかゞなもので、』

『可いゝから、死骸しがいでも何なんでも見着みつかつた時ときにせう。』

『其その、へい……死骸しがいが何どうも、』

『何なんだ、死骸しがいが分わからん。』

私わたしは胸むねが裂さけるほど亭主ていしゆの言葉ことばが気きに障さはつた。最もう死骸しがいに成なつてる、と言いつたやうな、奴やつの言種いひぐさが何なんとも以もつて可忌いまはしい。

『己おれが見着みつけて持もつて帰かへる、死骸しがいの来くるのを待まつて居をれ。』と睨にらみつけて廊下らうかを蹴立けたてゝ出でた――帳場ちやうばに多人数たにんず寄合よりあつて、草鞋穿わらぢばきの巡査じゆんさが一人ひとり、框かまちに腰こしを掛かけて居ゐたが、矢張やつぱり此この事ことに就ついてらしい。

痘痕あばたのある柔和にうわな顔かほで、気きの毒どくさうに私わたしを見みた。が口くちも利きかないでフイと門かどを、人ひとから振ふりもぎる身躰からだのやうにづん〱出掛でかけた。」

雲くもは白しろく山やまは蒼あをく、風かぜのやうに、水みづのやうに、颯さつと青あをく、颯さつと白しろく見みえるばかりで、黒髪くろかみ濃こい緑みどり、山椿やまつばきの一輪いちりん紅色べにいろをした褄つまに擬まがふやうな色いろさへ、手てがゝりは全然まるでない。

目めが眩くらむほど腹はらが空すけば、よた〱と宿やどへ帰かへつて、

『おい、飯めしを食くはせろ。』

で、又また飛出とびだす、崖がけも谷たにもほつゝき歩行あるく、――と雲くもが白しろく、山やまが青あをい。……外ほかに見みえるものは何なんにもない。目めが青あをく脳なうが青あをく成なつて了しまつたかと思おもふばかり。時々とき〲黒くろいものがスツスツと通とほるが、犬いぬだか人間にんげんだか差別さべつがつかぬ……客人きやくじんは変へんに成なつた、気きが違ちがつた、と云いふ声こゑが嘲あざける如ごとく、憐あはれむ如ごとく、呟つぶやく如ごとく、また咒咀のろふ如ごとく耳みゝに入はいる……

『お客様きやくさま、』

『奥様おくさま』と呼よぶのが峯みねから伝つたはる。谺こだまを返かへして谷たにへカーンと響ひゞく、――雲くもが白しろく、山やまが青あをく、風かぜが吹ふいて水みづが流ながれる。

『客人きやくじんは気きが違ちがつた、』と言いふのが分わかる。

「可よし、何なんとでも言へ、昨日きのふ今日けふ二世にせかけて契ちぎりを結むすんだ恋女房こひにようばうがフト掻消かきけすやうに行衛ゆくゑが知しれない。其それを捜さがすのが狂人きちがひなら、飯めしを食くふものは皆みな狂気きちがひ、火ひが熱あついと言いふのも変へんで、水みづが冷つめたいと思おもふも可笑をかしい。温泉をんせんの湧出わきだすなどは、沙汰さたの限かぎりの狂気山きちがひやまだ、はゝゝはゝ、」

と雪枝ゆきえは額髪ひたひがみを揺ゆするまで、膝ひざを抱かゝへて、高笑たかわらひを遣やつた。

雲くもが動うごいて、薄日うすびが射さして、反そらした胸むねと、仰あふいだ其その額ひたひを微かすかに照てらすと、ほつと酔よつたやうな色いろをしたが、唇くちびるは白しろく、目めは血走ちばしるのである。

老爺ぢゞいは小首こくびを傾かたむけた。

急きふに又また雪枝ゆきえは、宛然さながら稚子おさなごの為するやうに、両掌りやうてを双さうの目めに確しかと当あてゝ、がつくり俯向うつむく、背中せなかに雲くもの影かげが暗くらく映さした。

「其その中うちに四辺あたりが真暗まつくらに成なつた。暗くらく成なつたのは夜よるだらう、夜よるの暗くらさの広ひろいのは、田たか畠はたけか平地ひらちらしい、原はらかも知しれない……一目ひとめ其その際限さいげんの無ない夜よるの中なかに、墨すみが染にじんだやうに見みえたのは水みづらしかつた……が、水みづでも構かまはん、女房にようばうの行衛ゆくゑを捜さがすのに、火ひの中なかだつて厭いとひは為しない。づか〱踏込ふみこまうとすると、

『あゝ、深ふかいぞ、誰たれぢや、水みづへ……』

と其時そのとき、暗くらがりから、しやがれた声こゑを掛かけて、私わたしを呼留よびとめたものがあります。

暗やみに透すかすと、背せの高たかい大おほきな坊主ばうずが居ゐて、地ちから三尺さんじやくばかり高たかい処ところ、宙ちうで胡座あぐら掻かいたも道理だうり、汀みぎはへ足代あじろを組くんで板いたを渡わたした上うへに構込かまへこんで、有あらう事ことか、出家しゆつけの癖くせに、……水みづの中なかへは広ひろい四手網よつであみが沈しづめてある。」

老爺ぢゞいは眉毛まゆげをひくつかせた。

「はての。」

城じやうヶ沼ぬま

十九

「其その入道にふだうの、のそ〱と身動みうごきするのが、暗夜やみの中なかに、雲くもの裾すそが低ひくく舞下まひさがつて、水みづにびつしより浸染にじんだやうに、ぼうと水気すゐきが立たつので、朦朧もうろうとして見みえた。

『沼ぬまぢや、気きを着つけやれ』と打切ぶつきつたやうに言いひます。

『沼ぬまでも海うみでも、女房にようばうが居ゐれば入はいらずに置おけない。』

苛々いら〱するから、此方こつちはふてくされで突掛つゝかゝる。

と入道にふだうが耳みゝを貫つらぬいて、骨髄こつずゐに徹とほる事ことを、一言ひとこと。

『はゝあ、此処こゝなは、御身おみが内儀ないぎか、』

と言いふ。

『此処こゝなは……私わたしの……女房にようばうだと? ……』

『おゝ、私わしが今いま出逢であふた、水底みなぞこから仰向あふむけに顔かほを出だいた婦人をんなの事ことぢや。』

『や、溺おぼれて死しんだか。』

とばつたり膝ひざを支つく、と入道にふだうは足代あじろの上うへから、蔽被おつかぶさるやうに覗のぞいて、

『待まて、待まて、死骸しがいを見みたでは無ない。ぢやが、正しやうのものでもなかつた……謂いはゞ影かげぢやな。声こゑの有ある色いろの有ある影法師かげぼふしぢや……其そのものから、御身おみに逢あふて話はなしてくれい、と私わしが托言ことづけをされたよ。……

何なにかな、御身おみは遠方ゑんぱうから、近頃ちかごろ此この双六すごろくの温泉をんせんへ、夫婦ふうふづれで湯治たうぢに来きて、不図ふと山道やまみちで其その内儀ないぎの行衛ゆくゑを失うしなひ、半狂乱はんきやうらんに捜さがしてござる御仁ごじんかな。』とつけ〱訊たづねる。

女房にようばうが失うせて半狂乱はんきやうらん、」

と雪枝ゆきえは、思出おもひだすのも、口惜くやしさうに歯噛はがみをした。

「察さつして下ください、……唯たゞ其その音信たよりの聞ききたさに、

『えゝ、其そのものです』と返事へんじを為しました。

『やれ〱、気きの毒どく。』

とさら〱と法衣ころもの袖そでを掻合かきあはせる音おとがして、

『私わしは旅たびのものぢやが、此この沼ぬまは、城じやうヶ沼ぬまと言いふげぢやよ。』

老爺おぢいさん、其処そこは城じやうヶ沼ぬまと言いふ処ところだつた。」

雪枝ゆきえは息いきせはしく成なつて一息ひといき吐つく。ト老爺ぢいは煙草たばこを払はたいた。吸殻すゐがらの落おちた小草をぐさの根ねの露つゆが、油あぶらのやうにじり〱と鳴なつて、煙けむりが立たつと、ほか〱薄日うすびに包つゝまれた。雲くもは稍やゝ薄うすく成なつたが、天守てんしゆの棟むねは、聳そびえ立たつ峯みねよりも空そらに重おもい。

「えゝ、城じやうヶ沼ぬまの。はあ、夢中むちゆうで其処そこら駆廻かけめぐらしつたものと見みえる……それは山やまの上うへでは無ない。お前様めえさまが温泉をんせんへ来きさつしやつた街道端かいだうばたの、田畝たんぼに近ちかい樹林きはやしの中なかにある大おほきい沼ぬまよ。――何なにが、其その水みづは谿河たにがはの流ながれを堰せいて溜ためたでは無なうて、昔むかしから此この……此処こゝな濠ほりの水みづが地ちの底そこを通かよふと言いふだね。……

お天守てんしゆの下したへも穴あなが徹とほつて、お城しろの抜道ぬけみちぢや言いふ不思議ふしぎな沼ぬまでの、……私わしが祖父殿おんぢいどんが手細工てざいくの船ふねで、殿様とのさまの妾めかけを焼やいたと言いつけ。其そん時ときはい、其その影かげが、城じやうヶ沼ぬまへ歴然あり〱と映うつつて、空そらが真黒まつくろに成なつたと言いふだ。……其それさ真個ほんとうか何どうか分わからねども、お天守てんしゆの棟むねは、今以いまもつて明あきらかに映うつるだね。水みづの静しづかな時ときは大おほきい角つのの龍りうが底そこに沈しづんだやうで、風かぜがさら〱と吹ふく時ときは、胴中どうなかに成なつて水みづの面おもてを鱗うろこが走はしるで、お城しろの様子やうすが覗のぞけるだから、以前いぜんは沼ぬまの周囲まはりに御番所ごばんしよが有あつた。最もつともはあ、殺生せつしやう禁制きんせいの場所ばしよでがしたよ。

其その上うへ、主ぬしが居ゐて住すむ、と云いふて、今以いまもつて誰一人たれひとり釣つりをするものはねえで、鯉こひ鮒ふなの多いかい事こと。……

お前様めえさまが温泉ゆの宿やどで見みさしつけな、囲炉裡ゐろりの自在留じざいどめのやうな奴やつさ、山蟻やまありが這はふやうに、ぞろ〱歩行あるく。

あの、沼ぬまへ、待またつせえ、」

と又また眉まゆをびく〱遣やつた。

「四手場よつでばを拵こさえて網あみを張はるものは近郷近在きんがうきんざい、私わしの他ほかに無ないのぢやが、……お前様めえさまが見みさしつた、城じやうヶ沼ぬまの四手場よつでばの足代あじろの上うへの黒坊主くろばうずと……はてな……其その坊様ばうさまは大おほきい割わりに、色いろが蒼あをざめては居をらんかの。」

二十

「あゝ、蒼あをざめた、」

と雪枝ゆきえは起直おきなほつて言いつた。

「鼻はなの円まるい、額ひたひの広ひろい、口くちの大おほきい、……其その顔かほを、然しかも厭いやな色いろの火ひが燃もえたので、暗夜やみに見みました。……坊主ばうずは狐火きつねびだ、と言いつたんです。」

「それ〱、其その坊様ばうさまなら、宵よひの口くちに私わしが頼たのんで四手場よつでばに居ゐて貰もらふたのぢや……、はあ、其処そこへお前様めえさまが行逢ゆきあはしつたの。はて、どうも、妙智力めうちりき、旦那様だんなさまと私わしは縁えんが有あるだね。」

「確たしかに師弟していの縁えんが有あると思おもひます、」

と雪枝ゆきえは慇懃ゐんぎんに言いふ。

「まあ、串戯じやうだんは措おかつせえ。……時ときに其その坊様ばうさまは何なんと云いふでがすね。」

「えゝ、……

『私わしは旅たびから旅たびをふら〱と経廻へめぐるものぢやが、』と坊様ばうさまが言いふんです。

『日ひが暮くれて此処こゝを通とほりかゝると、今いま、私わしが御身おみに申まをしたやうに、沼ぬまの水みづは深ふかいぞ、と気きを注つけたものがある。此この四手場よつでばに片膝かたひざで、暗やみの水みづを視詰みつめて居ゐた老人らうじんぞや。さて漁れうはあるか、と問とへば、漁れうは有あるが、魚さかなは一向いつかうに獲とれぬと言いふ。

希有けうな事ことを聞きくものぢや、其その理由いはれは、と尋たづねると、老人らうじんの返事へんじには、』

と其その坊主ばうずが話はなしたんです。……ぢや、老爺おぢいさん――老人らうじんが貴下あなたなら、貴下あなたが坊主ばうずに話はなされた、と云いふ、城じやうヶ沼ぬまの鯉こひ鮒ふなは、網あみで掬すくへば漁れうはあるが、畚びくに入いれると直すぐに消きえて、一尾いつぴきも底そこに留たまらぬ。鰌どぜう一尾いつぴき獲物えものは無ない。無ないのを承知しやうちで、此処こゝに四よツ手でを組くむと言いふのは、夜よが更ふけると水みづに沈しづめた網あみの中なかへ、何なんとも言いへない、美うつくしい女をんなが映うつる。其それを見みたい為ために、独ひとり恁かうやつて構かまへて居ゐる、……とお話はなしがあつたやうに、其その時とき坊主ばうずから聞きいたんです……それは真個ほんとうの事ことですか? 老爺おぢいさん。」

一切いつさい、事実じじつだ、と老爺ぢゞいは答こたへたのである。

はじめの内うち、……獲えた魚うをは畚びくの中なかを途中とちゆうで消きえた。荻尾花道をぎをばなみち、木きの下路したみち、茄子畠なすびばたけの畝あぜ、籔畳やぶだゝみ、丸木橋まるきばし、……城じやうヶ沼ぬまに漁すなどつて、老爺ぢゞいが小家こやに帰かへる途中とちゆうには、穴あなもあり、祠ほこらもあり、塚つかもある。月夜つきよの陰かげ、銀河ぎんがの絶間たえま、暗夜やみにも隈くまある要害えうがいで、途々みち〱、狐きつね狸たぬきの輩やからに奪うばひ取とられる、と心着こゝろづき、煙草入たばこいれの根附ねつけが軋きしんで腰こしの骨ほねの痛いたいまで、下したつ腹ぱらに力ちからを籠こめ、気きを八方はつぱうに配くばつても、瞬またゝきをすれば、一ひとつ失うせ、鼻はなをかめば二ふたつ失うせ、嚏くしやみをすればフイに成なる。……で、未まだも途中とちゆうまで畚びくの重おもい内うちは張合はりあひもあつた。けれども、次第しだいに畜生ちくしやう、横領わうりやうの威ゐを奮ふるつて、宵よひの内うちからちよろりと攫さらふ、漁すなどる後あとから嘗なめて行ゆく……見みる〱四よつ手網であみの網代あじろの上うへで、腰こしの周囲まはりから引奪ひつたくる。

最もつとも其その時ときは、何なにとなく身近みぢかに物ものの襲おそひ来くる気勢けはひがする。左ひだりの手てがびくりとする時とき、左ひだりから丁手掻ちよつかいで、右みぎの腕うでがぶるつと為する時とき、右みぎの方はうから狙ねらふらしい。頸首ゑりくび脊筋せすぢの冷ひやりと為するは、後うしろに構かまへてござる奴やつ。天窓あたまから悚然ぞつとするのは、惟おもふに親方おやかたが御出張ごしゆつちやうかな。いや早はや、其それと知しりつゝ、さつ〱と持もつて行ゆかれる。最もつとも身体からだを蓋ふたに為して畚びくの魚さかなを抱だいてゞも居ゐれば、如何いかに畜生ちくしやうに業通ごふつうが有あつても、まさかに骨ほねを徹とほしては抜ぬくまい、と一心いつしんに守まもつて居ゐれば、沼ぬまの真中まんなかへひら〱と火ひを燃もやす、はあ、変へんだわ、と気きが散ちると、立処たちどころに鯉こひが失うせる。其その術てで行ゆかねば、業わざを変かへて、何処どことも知しらず、真夜中まよなかにアハヽアハヽ笑わらひをる、吃驚びつくりすると鮒ふなが消きえる、――此方こつちも自棄腹やけばらの胴どうを極きめて、少々せう〱脇わきの下したを擽くすぐられても、堪こらへて静じつとして畚びくを守まもれば、さすが目めに見みせて、尖とがつた面つら、長ながい尻尾しつぽは出ださぬけれど、さて然さうして見みた日ひには、足代あじろを組くんで四手よつでを沈しづめて、身体からだを張はつて、体ていよく賃無ちんなしで雇やとはれた城じやうヶ沼ぬまの番人ばんにん同然どうぜん、寐酒ねざけにも成ならず、一向いつかうに市いちが栄さかえぬ。

二十一

魚うをが寄よると見みれば、網あみを揚あげる、網あみを両手りやうてで、ぐい、と引ひいて、目めも心こゝろも水みづに取とられる時ときの惨憺みじめさ。ガサリなどゝ音おとをさして、畚びくを俯向うつむけに引繰返ひきくりかへす、と這奴しやつにして遣やらるゝはまだしもの事こと、捕とつた魚うをが飜然ひらりと刎はねて、ざぶんと水みづに入はいつてスイと泳およぐ。

余あまりの他愛たあいなさに、効無かひない殺生せつしやうは留やめにしやう、と発心ほつしんをした晩ばん、これが思切おもひきりの網あみを引ひくと、一面いちめん城じやうヶ沼ぬまの水みづを飜ひるがへして、大四手おほよつでが張裂はりさけるばかり縦たてに成なつて、ざつと両隅りやうすみから高たかく星ほしの空そらへ影かげが映さして、沼ぬまの上うへを離はなれる時とき、網あみの目めを灌そゝいで落おちる水みづの光ひかり、霞かすみの懸かゝつた大おほきな姿見すがたみの中なかへ、薄うつすりと女をんなの姿すがたが映うつつた。

「よく、はい、噂うはさに聞きくお客様きやくさまが懸かゝつたやうだね。恁かう、其その網あみを引張ひつぱつて、」

老爺ぢゞいは手てで掴つかんで腰こしを反そらして言いふのである。

「引ひき懸かけた処ところでがんしよ……鮒ふな一尾いつぴき入はいつた手応てごたへもねえで、水みづはざんざと引覆ぶつけえるだもの。人間にんげんの突入つゝぺえつた重おもさはねえだ。で、持もつたまま大揺おほゆりに身躰からだごと網あみを揺ゆれば、矢張やつぱり揺ゆれて、衣服きものだか鰭ひれだか、尾毛しつぽだか、網あみの中なかの婦をんなの姿すがたがふら〱動うごくだ。はて、変へんだと手てを離はなすと、ざぶりと沈しづむだ。其その網あみの底そこの方はう……水みづン中なかに、ちら〱と顔かほが見みえる……其そのお前様めえさま、白しろい顔かほが正的まともに熟じつと此方こちらを見みるだよ。

や、早はや其時そのときは畚びくが足代あじろを落おつこちて、泥どろの上うへに俯向うつむけだね。其奴そいつが、へい、足あしを生はやして沼ぬまへ駆込かけこまぬが見みつけものだで、畜生ちくしやうめ、此この術てで今夜こんやは占しめをつた。

何なんのつけ、最もう二度にどと来くる事ことではない、とふつ〱我がを折をつて帰かへりましけえ。怪㤉をかしな事ことには、眉まゆが何どう、目めが何どう、と云いふ覚おぼえはねえだが、何なんとも言いはれねえ、其その女をんなの容色きりやうだで……色いろも恋こひも無なけれども、絵ゑを見みるやうで、何なんとも其その、美うつくしさが忘わすれられぬ。

化ばけたなら化ばけたで可よし、今夜こんやは蛇じやに成ならうも知しんねえが、最もう一晩ひとばん出懸でかけて見みべい。」……

で、又またてく〱と沼ぬまへ出向でむく、と一刷ひとはけ刷はいた霞かすみの上うへへ、遠山とほやまの峰みねより高たかく引揚ひきあげた、四手よつでを解といて沈しづめたが、何どの道みち持もつては帰かへられぬ獲物えものなれば、断念あきらめて、鯉こひが黄金きんで鮒ふなが銀ぎんでも、一向いつかうに気きに留とめず、水みづに任まかせて夜よを更ふかす。

風かぜが吹ふき、風かぜが凪なぎ、水みづが動うごき、水みづが静しづまる。大沼おほぬまの刻限こくげんも、村里むらざとと変かはり無なう、やがて丑満うしみつと思おもふ、昨夜ゆふべの頃ころ、ソレ此処こゝで、と網あみを取とつたが、其その晩ばんは上うへへ引揚ひきあげる迄までもなく、足代あじろの上うへから水みづを覗のぞくと歴然あり〱と又また顔かほが映うつつた。

と老爺ぢゞいが話はなす。

「聞きかつせえまし、肩かたから胸むねの辺あたりまで、薄うつすらと見みえるだね、試ためして見みろで、やつと引ひき揚あげると、矢張やつぱり網あみに懸かゝつて水みづを離はなれる……今度こんどは、ヤケにゆつさゆさ引振ひつぷるふと、揉消もみけすやうにすツと消きえるだ――其処そこでざぶんと沈しづめる、と又また水みづの中なかへ露あらはれる。……

三夜みよさ四夜よよさと続つゞいたが、何時いつも其その時刻じこくに屹きつと映うつるだ。追々おひ〱馴染なじみが度重たびかさなると、へい、朝顔あさがほの花はな打沈ぶちしづめたやうに、襟ゑりも咽喉のども色いろが分わかつて、口くちで言いひやうは知しらぬけれど、目附めつきなり額ひたひつきなり、押魂消おつたまげた別嬪べつぴんが、過般中いつかぢゆうから、同おなじ時分じぶんに、私わしと顔かほを合あはせると、水みづの中なかで莞爾につこり笑わらふ。……

や、其その笑顔ゑがほを思おもふては、地韜ぢだんだ踏ふんで堪こらへても小家こやへは寐ねられぬ。雨あめが降ふれば簑みのを着きて、月つきの良いい夜よは頬被ほゝかぶり。つひ一晩ひとばんも欠かかさねえで、四手場よつでばも此この爺ぢいも、岸きしに居着ゐつきの巌いはのやうだ――扨さて気きが着つけばひよんな事こと、沼ぬまの主ぬしに魅入みいられた、何なにか前世ぜんせの約束やくそくで、城じやうヶ沼ぬまの番人ばんにんに成なつたゞかな。何処どこで死しぬ身みと考かんがえる、と心細こゝろぼそい身みの上うへぢやが、何なんと為しても思切おもひきれぬ……

いけ年どしを為した爺ぢゞいが、女色いろに迷まよふと思おもはつしやるな。持もたぬ孫まごの可愛かあいさも、見みぬ極楽ごくらくの恋こひしいも、これ、同おなじ事ことと考かんがえたゞね。……

さて困こまつたは、寒さむければ、へい、寒さむし、暑あつければ暑あつい身躰からだぢや、飯めしも食くへば、酒さけも飲のむで、昼間ひるま寐ねて夜よる出懸でかけて、沼ぬまの姫様ひいさま見みるは可ええが、そればかりでは活いきて居ゐられぬ。」

雲くもの声こゑ

二十二

譬たとへば幻まぼろしの女をんなの姿すがたに憧あこがるゝのは、老おひの身みに取とり、極楽ごくらくを望のぞむと同おなじと為する。けれども其その姿すがたを見みやうには、……沼ぬまへ出掛でかけて、四よつ手場でばに蹲つくばつて、或ある刻限こくげんまで待またねばならぬ。で、屋根やねから月つきが射さすやうな訳わけには行ゆかない。其処そこで、稼かせぎも為せず活計くらしも立たてず、夜毎よごとに沼ぬまの番ばんの難行なんぎやうは、極楽ごくらくへ参まゐりたさに、身投みなげを為するも同おなじ事こと、と老爺ぢゞいは苦笑にがわらひをしながら言いつた。

そんなら、四よつ手場でばを留やめにして、小家こやで草鞋わらぢでも造つくれば可いゝが、因果いんぐわと然さうは断念あきらめられず、日ひが暮くれると、そゝ髪立がみたつまで、早はや魂たましひは引窓ひきまどから出でて、城じやうヶ沼ぬまを差さしてふわ〱と白しろい蝙蝠かはほりのやうに徉徜さまよひ行ゆく。

待まてよ、恁かうまで、心こゝろを曳ひかるゝのは、よも尋常たゞごとでは有あるまい。伝つたへ聞きく沼ぬまの中なかへは古城こじやうの天守てんしゆが倒さかさまに宿やどる……我わが祖先そせんの術じゆつの為ために、怪あやしき最後さいごを遂とげた婦をんなが、子孫しそんに絡まつはる因縁事いんねんごとか。其それとも弔とむらはれず浮うかばぬ霊れいが、無言むごんの中うちに供養くやうを望のぞむのであらうも知しれぬ。独ひとりでは何なにしろ荷にが重おもい。村むらの誰たれにかも見みせて、怪あやしさを唯たゞ潵しぶきの如ごとく散ちらさう、と人ひとに告つげぬのでは無ないけれども、昼間ひるまさへ、分わけて夜よるに成なつて、城じやうヶ沼ぬまの三町四方さんちやうしはうへ寄附よりつかうと言いふ兄哥せなあは居をらぬ。

殆ほとんど我身わがみを持もて余あました頃ころの、其その夜よ……

「お前様めえさまが逢あはしつた坊主ばうずが来きて、のつそり立たつた。や、これも怪あやしい。顔色かほいろの蒼あをざめた墨すみの法衣ころもの、がんばり入道にふだう、影かげの薄うすさも不気味ぶきみな和尚をしやう、鯰なまづでも化ばけたか、と思おもふたが、――恁かく〱の次第しだいぢや、御出家ごしゆつけ、……大方おほかたは亡霊ばうれいが廻向えかうを頼たのむであらうと思おもふで、功徳くどくの為ため、丑満うしみつまで此処こゝにござつて引導いんだうを頼たのむでがす。――旅たびの疲労つかれも有あらつしやらうか、何なんなら、今夜こんやは私わしが小家こやへ休やすんで、明日あすの晩ばんにも、と言いふたが、其それには及およばぬ……若もしや、其それが真実しんじつなら、片時へんしも早はやく苦艱くかんを救すくふて進しんぜたい。南無南無なむなむと口くちの裡うちで唱となうるで、饗応振もてなしぶりに、藁わらなど敷しいて坐すはらせて、足代あじろの上うへを黒坊主くろばうずと入替いれかはつた。

さあ、身代みがはりは出来できたぞ! 一目ひとめ彼あの女をんなを見みされ、即座そくざに法衣ころもを着きた巌いはと成なつて、一寸いつすんも動うごけまい、と暗やみの夜道よみちを馴なれた道みちぢや、すた〱と小家こやへ帰かへつてのけた……

翌朝あけのあさ疾はやく握飯にぎりめしを拵こしらへ、竹たけの皮かは包つゝみに為して、坊様ばうさまを見舞みまひに行ゆきつけ…靄もやの中なかに影かげもねえだよ。

はあ、よもや、とは思おもふたが、矢張やつぱり鯰なまづめが来うせたげな。えゝ、埒らちもない、と気きが抜ぬけて、又また番人ばんにんぢや、と落胆がつかりしたゞが、其その晩ばんもう一度いちど行ゆく、と待まつとも無なう夜よるが更ふけても、何時いつもの影かげは映うつらなんだ。四手よつでを上あげても星ほしも懸かゝらず、鬢びんの香かのする雫しづくも落おちぬ。あゝ、引導いんだうを渡わたしたな。勿躰もつたいない、名僧智識めいそうちしきで有あつたもの、と足代あじろの藁わらを頂いたゞいたゞがの、……其それでは、お前様めえさまが私わしの後あとへござつて、其その坊主ばうずに逢あはしつたものだんべい。

……までは、はあ、分わかつたが、私わしが城じやうヶ沼ぬまの水みづの映うつる女をんなを見みはじめたは久ひさしい以前いぜんぢや。お前様めえさま湯治たうぢにござつて、奥様おくさまの行方ゆきがたが知しれなく成なつたは、つひ此この頃ごろの事ことではねえだか、坊様ばうさまは何処どこで聞きいて、奥様おくさまの言ことづけを為したゞがの。」

「其それを坊様ばうさんが言いつたんです。其その出家しゆつけの言いふには、

『……人ひとは知しらぬが、此処こゝに居ゐた老人らうじんに、水みづの中なかへ姿すがたを顕あらはす幻まぼろしの婦をんなに廻向えかうを、と頼たのまれて、出家しゆつけの役やくぢや、……宵よひから念仏ねんぶつを唱となへて待まつ、と時刻じこくが来きた。

大沼おほぬまの水みづは唯たゞ、風かぜにも成ならず雨あめにも成ならぬ、灰色はいいろの雲くもの倒たふれた広ひろい亡体なきがらのやうに見みえたのが、汀みぎはからはじめて、ひた〱と呼吸いきをし出だした。ひた〱と言いひ出だした。幽かすかにひた〱と鳴出なりだした。

町方まちかた、里近さとちかの川かはは、真夜中まよなかに成なると流ながれの音おとが留やむと言いふが反対あべこべぢやな。此この沼ぬまは、其時分そのじぶんから動うごき出だす……呼吸いきが全躰ぜんたいに通かよふたら、真中まんなかから、むつくと起おきて、どつと洪水こうずゐに成なりはせぬかと思おもふ物凄ものすごさぢや。

と其その中なかに何なにやら声こゑがする。』……と坊主ばうずが言いひます。」

二十三

其その声こゑが、五位鷺ごゐさぎの、げつく、げつくとも聞きこえれば、狐きつねの叫さけぶやうでもあるし、鼬いたちがキチ〱と歯はぎしりする、勘走かんばしつたのも交まざつた。然さうかと思おもふと、遠とほい国くにから鐘かねの音ねが響ひゞいて来くるか、とも聞取きゝとられて、何なんとなく其処等そこらががや〱し出だす……雑多ざつたな声こゑを袋ふくろに入いれて、虚空こくうから沼ぬまの上うへへ、口くちを弛ゆるめて、わや〱と打撒ぶちまけたやうに思おもふと、

『血ちを洗あらへ、』

『洗あらへ』

『人間にんげんの血ちを洗あらへ。』

『笘しもとで破やぶつた。』

『鞭むちで切きつた。』

『爪つめで裂さいた。』

『膚はだを浄きよめろ、』

『浄きよめろ。』

と高たかく低ひくく、声々こゑ〲に大沼おほぬまのひた〱と鳴なるのが交まざつて、暗夜あんやを刻きざんで響ひゞいたが、雲くもから下おりたか、水みづから湧わいたか、沼ぬまの真中まんなかあたりへ薄うすい煙けむりが朦朧もうろうと靡なびいて立たつ……

『煮殺にころすではないぞ。』

『うでるでない。』と言いふ。

『湯加減ゆかげん、湯加減ゆかげん、』

『水加減みづかげん。』と喚わめいた……

『沼ぬまの湯ゆは熱あついか。』とぼやけた音おんで聞きくのがある……

『熱湯ねつたう。』と簡単かんたんに答こたへた。

『人間にんげんは知しるまいな。』

『知しるものか。』と傲然がうぜんとした調子てうしで言いつた。

『沼ぬまから何なんで沸湯にえゆが出でる。』

『此この湯ゆが沸わいて殺ころさぬと、魚うをが殖ふへて水みづが無なくなる、沼ぬまが乾かはくわ。』

と言いつた。

『嘵舌しやべるな、働はたらけ。』

『血ちを洗あらへ、』

『傷きづを洗あらへ』

『小袖こそでを剥はがせ』

『此この紫むらさきは?』

『菖蒲あやめよ、藤ふぢよ。』

『帯おびが長ながいぞ。』

『蔦つた、桂かつら、山鳥やまどりの尾をよ。』

『下着したぎも奪うばへ、』

『此この紅くれなゐは、』

『もみぢ、花はな。』

『やあ、此この膚はだえは、』

『山陰やまかげの雪ゆきだ。』

ひいツ、と魂消たまぎつて悲鳴ひめいを上あげた、糸いとのやうな女をんなの声こゑが谺こだまを返かへして沼ぬまに響ひゞいた。

坊主ばうずが此処こゝまで言いつた時とき、聞きいてた私わたしは熱鉄ねつてつのやうな汗あせが流ながれた。」

と雪枝ゆきえは老爺ぢゞいに語かたりながら唇くちびるを戦おのゝかせて、

「尚なほ坊主ばうずが続つゞけて、話はなす。

さあ何なにものかゞ寄よつて集たかつて、誰たれかを白裸まるはだかにした、と思おもへば、

『犬いぬよ、犬いぬよ。』と呼よんだのがある。

びやう、びやう、うおゝ、うおゝ、うゝ、と遥はるかに犬いぬが長吠ながぼえして、可忌いまはしく夜陰やいんを貫つらぬいたが、瞬またゝく間まに、里さとの方はうから、風かぜのやうに颯さつと来きて、背後うしろから、足代場あじろばの上うへに蹲うづくまつた――法衣ころもの袖そでを掠かすめて飛とんだ、トタンに腥なまぐさい獣けものの香にほひがした。

水みづの上うへで、わん、わん、と啼なく……

『男をとこは知しるまい。』

『うゝ、』と犬いぬの声こゑ。

『不便ふびんな奴やつだ。』

『びやう、』と又また啼ないた。

此この間あひだ、ざぶり〱と水みづを懸かける音おとが頻しきりにした。

『やがて可いいか、』

『血ちは留とまつた。』

『又また鞭打むちうつて、』

『又また洗あらはう。』

『やあ、己おれが手て、』

『我わが足あし、』

『此この面つらに絡まつはるは。』

『水みづに拡ひろがる黒髪くろかみぢや、』

『山やまの婆々ばゞの白髪しらがのやうに、すく〱と痛いたうは刺ささぬ。』

『蛇へびよりは心地こゝちよやな。』と次第しだいに声こゑが風かぜに乗のり行ゆく……

二十四

びやう〱と凄すごい声こゑで、形かたちは見みえず、沼ぬまの上うへで空そらざまに犬いぬが啼なく。

『犬いぬよ、犬いぬよ。』

『おう。』と吠ほえた。

『人間にんげんの目めには見みえぬ……城山しろやまの天守てんしゆの上うへに、女をんなは梁うつばりから釣つるして置おく、と男をとこに言いへ!』

『何なにが、彼あの耳みゝへ入はいらう。』

『わん、と啼ないたら、犬いぬだと思おもはう、彼あの痴漢たわけが。』

と嘲あざける声こゑ。傍かたはらから老ふけた声こゑして、

『……其その言附ことづけは、犬いぬでは不可いかぬ。時鳥ほとゝぎすに一声ひとこゑ啼なかせろ。』

『まだ〱、まだ〱、山やまの中なかの約束やくそくは、人間にんげんのやうに間違まちがはぬ。今いまは未まだ時鳥ほとゝぎすの啼なく時節じせつで無ない。』

『唯たゞ姿すがただけ見みせれば可いい。温泉宿ゆのやどの二階にかいは高たかし。あの欄干らんかんから飛込とびこませろ、……女房にようばうは帰かへらぬぞ、女房にようばうは帰かへらぬぞ、と羽はねで天井てんじやうをばさばさ遣やらせろ。』

『男をとこは、女をんなの魂たましひが時鳥ほとゝぎすに成なつた夢ゆめを見みて、白しろい毛布けつとで包つゝんで取とらうと血眼ちまなこで追駆おつかけ回まはさう……寐惚面ねぼけづら見みるやうだ。』

どつと笑わらつて、天守てんしゆの方はうへ消きえた後あとは、颯々さつ〱と風かぜに成なつた。

が、田畠野たばたけのの空そらを、山やまの端は差さして、何なんとなく暗やみながら雲くもがむくむくと通とほつて行ゆく。其その気勢けはひが、やがて昼間ひるま見みた天守てんしゆの棟むねの上うへに着ついた程ほどに、ドヽンと凄すごい音おとがして、足代あじろに乗のつた目めの下した、老人らうじんが沈しづめて去いつた四よつ手網であみの真中まんなかあたりへ、したゝかな物ものの落おちた音おと。水みづが環わに成なつて、颯さつと網あみを乗出のりだして展ひろげた中なかへ、天守てんしゆの影かげが、壁かべも仄白ほのじろく見みえるまで、三重さんぢうあたりを樹きの梢こずゑに囲かこまれながら、歴然あり〱と映うつつて出でた。

不思議ふしぎや、其その天守てんしゆの壁かべを透すいて、中なかに灯ひを点つけたやうに、魚うをの形かたちした黄色きいろい明あかりのひら〱するのが、矢間やざまの間あひから、深ふかい処ところに横開よこひらけで、網あみの目めが映うつるのか凡およそ五十畳ごじふでうばかりの広間ひろまが、水底みずそこから水面すゐめんへ、斜なゝめに立懸たてかけたやうに成なつて、ふわ〱と動うごいて見みえる。

他ほかに何なにも無なく誰だれも居をらぬ。灯あかり唯たゞ一ひとつ有ある。其その灯あかりが、背中せなかから淡あはく射さして、真白まつしろな乳ちゝの下したを透すかす、……帯おびのあたりが、薄青うすあをく水みづに成なつて、ゆら〱と流ながれるやうな、下したが裙すそに成なつて、一寸ちよつと灯ひの影かげで胴どうから切きれた形かたちで、胸むねを反そらした、顔かほを仰向あふむけに、悚然ぞつとするやうな美うつくしい婦をんな。

処ところで、水みづへ映うつる影かげと言いへば、我わが面影おもかげを覗のぞくやうに、沼ぬまに向むかつて、顔かほを合あはせるやうに見みえるのであらう、と思おもふたが違ちがう。――黒髪くろかみが岸きしへ、足あしが彼方かなたへ、たとへば向むかふの汀みぎはから影かげが映さすのを、倒さかさまに視ながめる形かたち。つく〲と見みれば無残むざんや、形かたちのない声こゑが言交いひかはした如ごとく、頭かしらが畳たゝみの上うへへ離はなれ、裙すそが梁うつばりにも留とまらずに上うへから倒さかさまに釣つるして有ある……

と身みを悶もがくか水みづが揺ゆれるか、わな〱と姿すがたが戦おのゝく――天守てんしゆの影かげの天井てんじやうから真黒まつくろな雫しづくが落おちて、其その手足てあしに懸かゝつて、其そのまゝ髪かみの毛けを伝つたふやうに、長ながく成なつて、下したへぽた〱と落おちて、ずらりと伸のびて、廻まはりつ畝うねりつするのを、魚うをの泳およぐのか、と思おもふと幾条いくすぢかの蛇へびで、梁うつばりにでも巣すをくつて居ゐるらしい。

然さうかと思おもふと、膝ひざのあたりを、のそ〱と山猫やまねこが這はつて通とほる。階子はしごの下したから上あがつて来くるらしく、海豚いるかが躍をどるやうな影法師かげぼふしは狐きつねで。ひよいと飛上とびあがるのもあれば、ぐる〱と歩行あるき廻まはるのもあるし、胴どうを伸のばして矢間やざまから衝つと出でて、天守てんしゆの棟むねで鯱立しやちほこだちに成なるのも見みえる。

時々とき〲ひら〱と烏からすが出でて、翼つばさで、女をんなの胸むねを払はたく……

中なかに見みる目めも恐おそろしかつたは、――茶ちやと白大斑しろおほまだらの獣けものが一頭いつとう、天守てんしゆの階子はしごを、のし〱と、蹄ひづめで蹈ふんで上あがつて、畳たゝみを抱だいて人ひとのやうに立上たちあがつた影法師かげぼふしが、女をんなの上うへを横よこに通とほると、姿すがたは隠かくれて、颯さつと蒼あをく成なつた面影おもかげと、ちらりと白しろい爪尖つまさきばかりの残のこつた時ときで――獣けものが頓やがて消きえたと思おもふと、胸むねを映うつした影かげが波立なみだち、髪かみを宿やどした水みづが動うごいた……

『御身おみが女房にようばうの光景ありさまぢや。』と坊主ばうずが私わたしの顔かほの前まへへ、何故なぜか大おほきな掌てのひらを開ひらけて出だした。」

誂あつらへ物もの

二十五

「私わたしは息いきを引ひいて退すさつたんです。」と雪枝ゆきえは尚なほ語かたり続つゞけた。

「……水みづの中なかからともなく、空そらからともなく、幽かすかに細々ほそ〲とした消きえるやうな、少わかい女をんなの声こゑで、出家しゆつけを呼よんだ、と言いひます。

而そして、百年ひやくねん以来いらい、天守てんしゆに棲すむ或ある怪あやしいものゝ手てを攫さらはれて、今いま見みらるゝ通とほりの苦艱くげんを受うける……何なにとぞ此この趣おもむきを、温泉をんせんに今いまも逗留とうりうする夫をつとに伝つたへて、寸時すんじも早はやく人間界にんげんかいに助たすけられたい。救すくふには、天守てんしゆの主人あるじが満足まんぞくする、自分じぶんの身代みがはりに成なるほどな、木彫きぼりの像ざうを、夫をつとの手てで刻きざんで償つくなふ事ことで。其その他ほかに助たすかる術すべはない……とあつた。

『都みやこの人ひと、唯たゞ私わしが口くちから言いふたでは、余あまりの事ことに真まこととされまい。……あはれな犠牲いけにえの婦人をんなも、唯たゞ恁かう申まをしたばかりでは、夫をつとも心こゝろに疑うたがひませう……今いま其その印しるしを、と言いふてな、色いろは褪あせたが、可愛かあいい唇くちびるを動うごかすと、白歯しらはに啣くはえたものがある。白魚しらうをの目めのやうな黒くろい点々ぽち〱が一ひとつ見みえた……口くちからは不躾ぶしつけながら、見みらるゝ通とほり縛いましめの後手うしろでなれば、指ゆびさへ随意まゝには動うごかされず……あゝ、苦くるしい。と総身そうしんを震ふるはして、小ちひさな口くちを切せつなさうに曲ゆがめて開あけると、煽あふつ水みづに掻乱かきみだされて影かげが消きえた。戞然かちりと音おとして足代あじろの上うへへ、大空おほぞらからハタと落おちて来きたものがある……手てに取とると霰あられのやうに冷つめたかつたが、消きえも解とけもしないで、破やぶれ法衣ごろもの袖そでに残のこつた。

『印しるしはこれぢや。』

と私わたしの掌てのひらを開あけさせて、ころりと振ふつて乗のせたのは、忘わすれもしない、双六谷すごろくだにで、夫婦ふうふが未来みらいの有無ありなしを賭かけ為しやうと思おもつて買かつた采さいだつたんです。

『都みやこの人ひと、』

と坊主ばうずは又また更あらためて、

『御身おんみは木彫きぼりを行やるかな。』

『行やります!』

と答こたへた時とき、私わたしは蘇生よみがへつたやうに思おもつた。水みづも白しろく夜よも明あかるく成なつた……お浦うらの行方ゆくへも知しれ、其その在所ありかも分わかり、草鞋わらぢや松明たいまつで探さぐつた処ところで、所詮しよせん無駄むだだと断念あきらめも着つく……其それに、魔物まものの手てから女房にようばうを取返とりかへす手段しゆだんも出来できた。我わが手てに身代みがはりの像ざうを作つくれと云いふ。敢あへて黄金こがねを積つめ、山やまを崩くづせ、と命めいずるのでは無ないから、前途ぜんとに光明くわうめいが輝かゞやいて、心こゝろは早はや明あきらかに渠かれを救すくふ途みちの第一歩だいいつぽを辿たどり得えた。

草くさを開ひらいて、天守てんしゆに昇のぼる路みちも一筋ひとすぢ、城じやうヶ沼ぬまの水みづを灌そゝいで、野山のやまをかけて流ながすやうに足許あしもとから動うごいて見みえる。

我わが妻つま、聞きくが如ごとくんば、御身おんみは肉にくを裂さかれ、我われは腸はらわたを断たつ。相較あひくらべて劣おとりはせじ。堪こらへよ、暫時しばし、製作せいさくに骨ほねを削けづり、血ちを灌そゝいで、…其その苦痛くつうを償つくなはう、と城じやうヶ沼ぬまに対たいして、瞑目めいもくし、振返ふりかへつて、天守てんしゆの空そらに高たかく両手りやうてを翳かざして誓ちかつた。

其その時とき、お浦うらが唇くちびるを開ひらいて、僧そうの手てに落おとしたと云いふ、猪ゐのしゝの牙きばの采さいを自分じぶんの口くちに含ふくんで居ゐた。が、同おなじ舌したの尖さきに触ふれた、と思おもふと血ちを絞しぼつて湧わき出いづる火ひのやうな涙なみだとゝもに、ほろり、と采さいが手てに落おちた。其その掌たなごゝろを忘わするゝばかり心こゝろを詰つめて握占にぎりしめた時とき、花はなの輪わが渦うづまくやうに製作せいさくの興きようが湧わいた。――閉とづる、又また開ひらく、扇あふぎの要かなめを思着おもひついた、骨ほねあれば筋すぢあれば、手ても動うごかう、足あしも伸のびやう……風かぜある如ごとく言ものいはう…と早はや我わが作つくる木彫きぼりの像ざうは、活いきて動うごいて、我わが身みながらも頼母たのもしい。さて其その要かなめは、……手てに握にぎつた采さいであつた。

天てんが命めいじて、我われをして為なさしむる、我わが作なす美女たをやめの立像りつざうは、其その掌てのひらに采さいを包つゝんで、作さくの神秘しんぴを胸むねに籠こめやう。言いふまでも無なく、其その面影おもかげ、其その姿すがたは、古城こじやうの天守てんしゆの囚とりこと成なつた、最惜いとをしい妻つまを其そのまゝ、と豁然くわつぜんとして悟さとると同時どうじに、腕うでには斧をのを取とる力ちからが籠こもつて、指ゆびと指ゆびとは鑿のみを持もたうとして自然ひとりで動うごく――時ときなる哉かな、作さくの頭こうべに飾かざるが如ごとく、雲くもを破やぶつて、晃々きら〱と星ほしが映うつつた。

星ほしの下したを飛とんで帰かへつて、温泉いでゆの宿やどで、早はや準備じゆんびを、と足あしが浮うく、と最もう遠とほく離はなれた谿河たにがはの流ながれが、砥石といしを洗あらふ響ひゞきを伝つたへる。

二十六

然さうすると、心こゝろに刻きざんで、想像さうざうに製つくり上あげた……城しろの俘虜とりこを模型もけいと為した彫像てうざうが、一団いちだんの雪ゆきの如ごとく、沼縁ぬまべりにすらりと立たつ。手てを伸のべよ、と思おもへば伸のべ、乳ちゝを蔽おほへと思おもへば蔽おほひ、髪かみを乱みだせと思おもへば乱みだれ、結むすべよ、と思おもへば結むすばる――さて、衣きぬを着きせやうと思おもへば着きる。

作さくの出来栄できばえを予想よさうして、放はなつ薫かほり、閃ひらめく光ひかりの如ごとく眼前がんぜんに露あらはれた此この彫像てうざうの幻影げんえいは、悪魔あくまが手てに、帯おびを奪うばはうとして、成ならず、衣きぬを解とかうとして、得えず、縛いましめられても悩なやまず、鞭むちうつても痛いたまず、恐おそらく火ひにも焼やけず、水みづにも溺おぼれまい。

見みよ〱、同おなじ幻まぼろしながら、此この影かげは出家しゆつけの口くちより伝つたへられたやうな、倒さかさまに梁うつばりに釣つるされる、繊弱かよはい可哀あはれなものでは無ない。真直まつすぐに、正たゞしく、美うるはしく立たつ。あゝ、玉たまの如ごとき肩かたに、柳やなぎの如ごとき黒髪くろかみよ、白百合しろゆりの如ごとき胸むねよ、と恍惚くわうこつと我われを忘わすれて、偉大ゐだいなる力ちからは、我わが手てに作つくらるべき此この佳作かさくを得えむが為ため、良匠りようしやうの精力せいりよくをして短みじかき時間じかんに尽つくさしむべく、然しかも其その労力らうりよくに仕払しはらふべき、報酬はうしうの量りやうの莫大ばくだいなるに苦くるしんで、生命いのちにも代かへて最惜いとをしむ恋人こひびとを仮かりに奪うばふて、交換かうくわんすべき条件でうけんに充あつる人質ひとじちと為したに相違さうゐない。

卑怯ひけうなる哉かな、土地祇とちのかみ、……実まことに雪枝ゆきえが製作せいさくの美人びじんを求もとめば、礼れいを厚あつくして来きたり請こはずや。もし其その代価だいかに苦くるしむとならば、玉たまを捧さゝげよ、能あたはずんば鉱石くわうせきを捧さゝげよ、能あたはずんば巌いはほを欠かいて来きたり捧さゝげよ。一枝ひとえだの桂かつらを折をれ、一輪いちりんの花はなを摘つめ。奚なんぞみだりに妻つまに仇あだして、我われをして避さくるに処ところなく、辞じするに其その術すべなからしむる。……汝等なんじら、此処こゝに、立処たちどころに作品さくひんの影かげの顕あらはれたる此この幻まぼろしの姿すがたに対たいして、其その礼れい無なきを恥はぢざるや……

と背後うしろから視ながめて意気いき昂あがつて、腕うでを拱こまぬいて、虚空こくうを睨にらんだ。腰こしには、暗夜あんやを切きつて、直たゞちに木像もくざうの美女たをやめとすべき、一口ひとふりの宝刀ほうたうを佩おびたる如ごとく、其その威力ゐりよくに脚あしを踏ふんで、胸むねを反そらした。

「本気ほんきの沙汰さたではない、世よにあるまじき呵責かしやくの苦痛くつうを受うけて居ゐる、女房にようばうの音信おとづれを聞きいて、赫くわつと成なつて気きが違ちがつたんです。」

我われと我わが想像さうざうに酔よつて、見惚みとれた玉たまの膚はだえの背せなかを透とほして、坊主ばうずの黒くろい法衣ころもが映うつる、と水みづの中なかに天守てんしゆの梁うつばりに釣下つりさげられた、其その姿すがたを獣けものの襲おそふ、其その俤おもかげを歴然あり〱と見みた。無惨むざんの状さまに、ふつと掻消かきけした如ごとく美うるはしいものは消きえた。

『呼よぶわ、呼よぶわ。』

と云いつた坊主ばうずの声こゑ。

『おゝい〱、』

『お客様きやくさま、お客様きやくさま。』

と叫さけぶのが、遥はるかに、弱よわい稲妻いなづまのやうに夜中よなかを走はしつて、提灯ちやうちんの灯ひが点々ぽつ〱畷なはてに徉徜さまよふ。

『お客様きやくさま。』

『旦那だんな、』

『奥方様おくがたさま。』

あゝ、又また奥方様おくがたさまをくはせる……剰あまつさへ、今いま心着こゝろづいて、耳みゝを澄すませて聞きけば、我われ自みづからも、此この頃ごろでは鉦太鼓かねたいここそ鳴ならさぬけれども、土俗どぞくに今いまも遣やる……天狗てんぐに攫さらはれたものを探さがす方法しかたで、あの通とほり呼立よびたて居をる――成程なるほど然さう思おもへば、何時いつ温泉をんせんの宿やどを出でて、何処どこを通とほつて、城じやうヶ沼ぬまに来きたか覚おぼえて居をらぬ。

『御身おみを呼よぶぢやろ、去いなつしやい。』と坊主ばうずが、はつと又また其その掌てのひらを拡ひろげた。此この煽動あふりに横顔よこがほを払はらはれたやうに思おもつて、蹌踉よろ〱としたが、惟おもふに幻覚げんかくから覚さめた疲労ひろうであらう、坊主ばうずが故意こいに然さうしたものでは無ないらしい。

『御身おみが内儀ないぎの言ことづけを忘わすれまいな。』

『忘わすれない。』

と奮然ふんぜんとして答こたへた。既すでに鬼神きじんに感応かんおうある、芸術家げいじゆつかに対たいして、坊主ばうずの言語げんごと挙動きよどうは、何なんとなく嘗なめ過すぎたやうに思おもはれたから……其そのまゝ肩かたを聳そびやかして、三みつ四よつ輝かゞやく星ほしを取とつて、直たゞちに額ひたひを飾かざる意気組いきぐみ。背せを高たかく、足あしを踏ふんで、沼ぬまの岸きしを離はなれると、足代あじろに突立つゝたつて見送みおくつた坊主ばうずの影かげは、背後うしろから蔽覆おつかぶさる如ごとく、大おほひなる形かたちに成なつて見みえた。

二十七

温泉いでゆの宿やどを差さして、城じやうヶ沼ぬまから引返ひきかへす途中とちゆうは、気きも漫そゞろに、直すぐにも初はじむべき――否いな、手ては既すでに何等なにらか其それに向むかつて働はたらく……新あらたな事業じげふに対たいする感興かんきようの雲くもに乗のるやう、腕かひなが翼はねに成なつて、星ほしの下したを飛とぶが如ごとき心地こゝちした。

恁かうまで情じやうの昂たかぶつた処ところへ、はたと宿やどから捜さがしに出でた一行いつかう七八人しちはちにんの同勢どうぜいに出逢であつたのである……定紋じやうもんの着ついた提灯ちやうちんが一群いちぐんの中なかに三みツばかり、念仏講ねんぶつかうの崩くづれとも見みえれば、尋常じんじやう遠出とほでの宿引やどひきとも見みえるが、旅籠屋はたごやに取とつては実際じつさい容易よういな事ことでは無なからう、――仮初かりそめに宿やどつた夫婦ふうふが、婦をんなは生死しやうしも行衛ゆくゑも知しれず、男をとこは其それが為ために、殆ほとんど狂乱きやうらんの形かたちで、夜昼ひるよるとも無なしに迷まよひ歩行あるく……

不面目ふめんもくゆゑ、国許くにもとへ通知つうちは無用むよう、と当人たうにんは堅かたく留とめたものゝ、唯はい、然さやうで、とばかりで旅籠屋はたごやでは済すまして居ゐられぬ。

で、宿やどの了見れうけんばかりで電報でんぱうを打うつた、と見みえて其処そこで出逢であつた一群いちぐんの内うちには、お浦うらの親類しんるゐが二人ふたりも交まざつた、……此この中なかに居ゐない巡査じゆんさなどは、同おなじ目的もくてきで、別べつの方面はうめんに向むかつて居ゐるらしい。

畝路あぜみちで出合であひがしらに、一同いちどうは騒さわぎ立たてた。就中なかんづく、わざ〱東京とうきやうから出張でばつて来きた親類しんるゐのものは、或あるひは慰なぐさめ、或あるひは励はげまし、又また戒いましめなどする種々いろ〱の言葉ことばを、立続たてつゞけに嘵舌しやべつたが、頭あたまから耳みゝにも入いれず……暗闇くらやみの路次ろじへ入はいつて、ハタと板塀いたべいに突当つきあたつたやうに、棒立ぼうだちに成なつて居ゐたが、唐突だしぬけに、片手かたての掌てのひらを開あけて、ぬい、と渠等かれらの前まへへ突出つきだした。坊主ばうずが自分じぶんに向むかつて同おなじ事ことを為したのを、フト思出おもひだしたのが、殆ほとんど無意識むいしきに挙動ふるまひに出でた。ト尠すくなからず一同いちどうを驚おどろかして、皆みなだぢ〱と成なつて退すさる。

ト此この鑿のみを持もち、鏨たがねを持もつべき腕かひなは、一度ひとたび掌てのひらを返かへして、多勢たせいを圧あつして将棊倒しやうぎだふしにもする、大おほいなる権威けんゐの備そなはるが如ごとくに思おもつて、会心くわいしん自得じとくの意こゝろを、高声たかごゑに漏もらして、呵々から〱と笑わらつた。

『御苦労ごくらう御苦労ごくらう、真まことに御骨折ごほねをりを懸かけて誰方どなたにも相済あひすまん。が、最もう御心配ごしんぱいには及およばんのだ。――お聞ききなさい、行衛ゆくゑの知しれなかつた家内かないは、唯今たゞいま其その所在ありかが分わかつた。……ナニ、無事ぶじか? 無事ぶじかではない。考かんがえて見みたつて知しれます。繊弱かよわい婦をんなだ、然しかも蒲柳ほりうの質しつです。一寸ちよいと躓つまづいても怪我けがをするのに、方角はうがくの知しれない山やまの中なかで、掻消かきけすやうに隠かくれたものが無事ぶじで居ゐやう筈はづはないではないか。

決けつして安泰あんたいではない。正まさに其その爪つめを剥はぎ、血ちを絞しぼり、肉にくを毮むしり骨ほねを削けづるやうな大苦艱だいくかんを受うけて居ゐる、倒さかさまに釣つられて居ゐる。…………………』

と戦おのゝいたが、すぐ肩かたを聳そびやかした。

『何処どこに居ゐる? 何なに、お浦うらの所在ありかは何処どこだ、と言いふのか。いや、君方きみがたに、其それは話はなしても分わかるまい。水みづの底そこのやうな、樹きの梢こずゑのやうな、雲くもの中なかのやうな、……それぢや分わからん、分わからない、と言いふのかね、勿論もちろん分わかりませんとも!

吾輩わがはいには丁ちやんと分わかつて居ゐる。位置ゐちも方角はうがくも残のこらず知しつてる、――指ゆびさして言いへば、土地とちのものは残のこらず知しつてる。けれども其それを話はなすとなると、それ行ゆけ、救すくへで、松明たいまつを振ふり、鯨波ときの声こゑを揚あげて騒さわぐ、騒さわいだ処ところで所詮しよせん駄目だめです。

誰たれが行いつても何者なにものが騒さわいでも、迚とても彼かれは救すくひ出だせない。

おゝ! 君達きみたちにも粗ほゞ想像さうざう出来できるか、お浦うらは魔まに攫さらはれた、天狗てんぐが掴つかんだ、……恐おそらく然さうだらう。……が、私わたしは此これを地祇神とちのかみの所業しよげふと惟おもふ。たゞし、鬼おににしろ、神かみにしろ、天狗てんぐにしろ、何なにのためにお浦うらを攫さらつたか、其その意味いみが分わかるまい、諸君しよくんには知しれなからう。

独ひとりこれを知しるものは吾輩わがはいだよ。而そして此これを救すくふものも又また吾輩わがはいでなければ不可いけない。然しかも彼かれを連つれ返かへる道みちは、丁ちやんと最もう着ついて居ゐるんだ。唯たゞ少時しばらくの辛抱しんばうです。いや〱、決けつして貴下方あなたがたが御辛抱ごしんばうなさるには及およばん。辛抱しんばうをするのはお浦うらだ、可哀想かあいさうな婦をんなだ。我慢がまんをしてくれ、お浦うら、腕うでは確たしかだ。』

と、掌てのひらを開ひらいて、ぱつ、と出だす。と一同いちどうはどさ〱と又また退すさつた。吃驚びつくりして泥田どろたへ片脚かたあし落おとしたのもある、……ばちやりと音おとして。……

『気きが違ちがつた。』

『変へんだ。』

『真物ほんものだ。』……と囁さゝやき合あふ。

祠ほこら

二十八

狂気きやうきした、変へんだ、と云いふのは言葉ことばの切目毎きれめごとに耳みゝに入はいつた。が、これほど確たしかな事ことを、渠等かれらは雲くもを掴つかむやうに聞きくのであらう。我われは手てに握にぎつて、双さうの眼まなこで明あきらかに見みる采さいの目めを、多勢たぜいが暗中あんちゆうに摸索もさくして、丁ちやうか、半はんか、生せいか、死しか、と喧々がや〱騒さわぎ立たてるほど可笑をかしな事ことは無ない。

『はゝゝ、大丈夫だいじやうぶ、心配しんぱいは無ないと云いふに、――お浦うらの所在ありかも、救すくふ路みちも、すべて掌たなごゝろの中うちに在ある。吾輩わがはいが掴つかんで居ゐる。要えうは唯たゞ掴つかんだ此この手てを開ひらく時間じかんを待まつ事ことだ。――今いま開ひらけ、と云いつても然さうは不可いかん。唯たゞ、開ひらくのではない、開ひらいてお浦うらの掌てのひらへ返かへすんだ、いや〱彫像てうざうの拳こぶしに納おさめるんだ。』

と、益々ます〱こんがらかつて、自分じぶんにも分わからなく成なる。先方さきのきよとつくだけ此方こつちは苛立いらだつ。言いへば言いふほど枝葉えだはが茂しげつて、路みちが岐わかれて谷たにが深ふかく、野のが広ひろく、山やまが高たかく成なつて、雲くもが湧わき出だす、霞かすみがかゝる、果はては焦込じれこんで、空くうを打うつて、

『皆みんな、これだ。』

と高たかい処ところから揮下ふりおろした拳こぶしの中なかに、……采さいを掴つかんで居ゐた事ことは云いふまでも無ない。

『……狂人きちがひでも何なんでも構かまはん。自分じぶんが生命いのちがけの女房にようばうを自分じぶんが救すくふに間違まちがひは有あるまい。凡すべて任まかして貰もらはう。何なんでも私わたしのするまゝに為さして下ください。……

処ところで、私わたしが、お浦うらを救すくふ道みちとして、進すゝむべき第一歩だいいつぽは、何処どこでも可いい、小家こいへを一軒いつけん探さがす事ことだ。小家こやでも可いゝ、辻堂つじだう、祠ほこらでも構かまはん、何なんでも人ひとの居ゐない空屋あきやが望のぞみだ。

何なに、そんな処ところにお浦うらが居ゐるか、と……詰つまらん事ことを――お浦うらの居処ゐどころは居処ゐどころで話はなしが違ちがう。空家あきやを探さがすのは私わたしが探さがして私わたしが其処そこへ入はいるんだ。――所帯しよたいを持もつのぢやない。……えゝ、落着おちついて、聞きかなければ不可いかん。

宜よろしいかね、此これを要えうするに、少すくなくとも空屋あきやに限かぎる……有ありますか、人ひとの居ゐない小家こやはあるか。有あれば、其処そこへ行ゆく。これから此この足あしで直すぐに行ゆきます。――宿やどへ帰かへつて一先ひとまづ落着おちつけ? ……呑気のんきな事ことを。落着おちついて相談さうだんと? ……此この上うへ何なんの相談さうだんを為するんです。お浦うらを救すくふのには一刻いつこくを争あらそふ、寸秒すんべうを惜をしむ。早速さつそくさあ、人ひとの居ゐない小家こや、辻堂つじだう、祠ほこら、何なんでも構かまはん、其処そこへ行ゆかう。行いつて直すぐに仕事しごとにかゝる。が、誰たれも来きては不可いけない、屹きつと来きては不可いけない、いづれ、やがて其その仕事しごとが出来できると、お浦うらと一所いつしよに、諸共もろともにお目めに懸かゝつて更あらためて御挨拶ごあいさつをする。

しかし、恁かう言いふのを信しんじないで、私わたしに任まかせることを不安心ふあんしんと思おもふなら、提灯ちやうちんの上うへに松明たいまつの数かずを殖ふやして、鉄砲てつぱう持参じさんで、隊たいを造つくつて、喇叭らつぱを吹ふいてお捜さがしなさい、其それは御勝手ごかつてです。』

と嘲あざけるやうに又またアハアハ笑わらふ。いや、気味きみの悪わるい……

『あれ、天狗様てんぐさまが憑移のりうつらしやつた。』

『魔道まだうに墜おちさしたものだんべい。』

と密ひそめいて言いふのが聞きこえた。

が、最もう、そんな事ことに頓着とんぢやくしない。人間にんげんなどには目めも懸かけないで、暗くらい中なかを矢鱈やたらに、其処等そこいらの樹きを眺ながめた。刻きざむに佳いい枝えだや、幹みきや、と目めを光ひからす……これも眼前がんぜん、魔まに心こゝろを通かよはす挙動きよどうの如ごとくに見みえたであらう。

けれども言出いひだした事ことは、其その勢いきほひだけに誰一人たれいちにん深切しんせつづくにも敢あへて留とめやうとするものは無なく、……其その同勢どうぜいで、ぞろ〱と温泉宿をんせんやどへ帰かへる途中とちゆう、畷なはてを片傍かたわきに引込ひつこんだ、森もりの中なかの、とある祠ほこらへ、送込おくりこんだ……と言いふよりは、づか〱踏込ふみこんだ。後あとに踵ついて来きて、渠等かれらは狐格子きつねがうしの外そとで留とまつたのである。

提灯ちやうちんを一個ひとつ引奪ふんだくつて、三段さんだんばかりある階きざはしの正面しやうめんへ突立つゝたつて、一揆いつきを制せいするが如ごとく、大手おほてを拡ひろげて、

『さあ、皆みんな帰かへれ。而そして誰たれか宿屋やどやへ行いつて、私わたしの大鞄おほかばんを脊負しよつて来きて貰もらはう。――中なかにすべて仕事しごとに必要ひつえうな道具だうぐがある。……私わたしは最もう、あの座敷ざしきへ入はいつて、脱ぬいである衣服きもの、解といてある紅あかい扱帯しごきを見みるに忍しのびん。……彼かれが魔物まものの手てに懸かゝつて、身悶みもだへしながら、帯おびからはじめて解とき去さらるゝのを目めの前まへに見みるやうだから。』

親類しんるゐの一人いちにん、インバネスを着きた男をとこが真前まつさきに立たつて、皆みなぞろ〱と帰かへつた。……其その影かげが潜くゞつて出でる、祠ほこらの前まへの、倒たふれかゝつた木きの鳥居とりゐに張はつた、何時いつの時ときのか、注連縄しめなはの残のこつたのが、二ふたツ三みツのたくつて、づらりと懸かゝつた蛇へびに見みえた……

二十九

はて、面白おもしろい。あれが天井てんじやうを伝つたふ朽縄くちなはなら、其その下したに、しよんぼりと立たつた柱はしらは、直すぐにお浦うらの姿すがたに成なる……取とつて像ざうを刻きざむ材料ざいりやうに遣つかうと為しやう。鋸のこぎりで挽ひいて、女をんなの立像りつざうだけ抜ぬいて取とる、と鳥居とりゐは、片仮名かたかなのヰの字じに成なつて、祠ほこらの前まへに、森もりの出口でぐちから、田甫たんぼ、畷なはて、山やまを覗のぞいて立たつであらう。

と凝じつと視ながめる、と最もう其その鳥居とりゐの柱はしらの中なかへ、婦をんなの姿すがたが透すいて映うつる……木目もくめが水みづのやうに膚はだに絡まとふて。

『旦那様だんなさま、お荷物にもつな持もつて参めえりやした、まあ、暗くれえ処とこに何なにを為してござらつしやる。』

成程なるほど、狐格子きつねがうしに釣つつて置おいた提灯ちやうちんは何時いつまでも蝋燭らふさくが消たたずには居をらぬ。……気きが着つくと板椽いたえんに腰こしを落おとし、段だんに脚あしを投なげてぐつたりして居ゐた。

鞄かばんを脊負しよつて来きたのは木樵きこりの権七ごんしちで、此この男をとこは、お浦うらを見失みうしなつた当時たうじ、うか〱城趾しろあとへ徉徜さまよつたのを宿やどへ連つれられてから、一寸々々ちよい〱出でて来きては記憶きおくの裡うちへ影かげを露あらはす。此これと、城じやうヶ沼ぬまの黒坊主くろばうずの蒼あをざめた面影おもかげを除のぞいては、誰たれの顔かほも判然はつきり覚おぼえて居ゐなかつた。

『燈明とうみやうを点つけさつしやりませ。洋燈らんぷでは旦那様だんなさまの身躰からだ危あぶないと言いふで、種油たねあぶら提さげて、燈心とうしん土器かはらけを用意よういして参めえりやしたよ。追附おつつけ、寝道具ねだうぐも運はこぶでがすで。気きを静しづめて休やすまつしやりませ。……私等わしらも又また、油断ゆだんなく奥様おくさまの行衛ゆくゑな捜さがしますだで、えら、心こゝろを狂くるはさつしやりますな。』

と言いふ〱燈心とうしんを点ともして、板敷いたじきの上うへへ薄縁うすべりを伸のべたり、毛布けつとを敷しく……

『私わしが頼たのまれましたけに、ちよく〱見廻みまはりに参めえりますだ。用ようがあるなら、言着いひつけてくらつせえましよ。』

と背後うしろむきに踵かゝとで探さぐつて、草履ざうりを穿はいて、壇だんを下おりて、てく〱出でて行ゆく。

『待まて、待まて。』と追おつて出でて、鳥居とりゐをする〱と撫なでゝ見みせた。

『村一同むらいちどうへ言ことづけを頼たのまう。此この柱はしらを一本いつぽん頂いたゞく……此この鳥居とりゐのな。……後あとで幾いくらでも建立こんりふするから、と然さう言いつてな。』

『はい、……えゝ、東京とうきやうからござつた旦那方だんながたも其そのつもりで相談さうだん打ぶたしつた。奥様おくさまの居ゐさつしやる処ところの知しれるまでは、何なんでもお前様めえさまする事ことに逆さからはねえやうにと言いふだで、随分ずゐぶん好すき次第しだいにさつしやるが可ようがんす。だが、もの、鳥居とりゐの木柱きばしらな何どうするだね。』

『此これを刻きざんで像ざうを造つくる、婦をんなのな、それは美うつくしい、先まづ弁天様べんてんさまと言いつたもんだ、お前まへにも見みせて遣やらう、吃驚びつくりするなよ。』

と其その呆あきれ顔がほを掌てのひらでべたりと撫なでる。と此処こゝへ一人ひとりで遣やつて来くるほど性根しやうねの据すはつた奴やつ、突然いきなり早腰はやごしも抜ぬかさなんだが、目めを蔽おほふて、面おもてを背そむけて、

『いとしぼげな、御道理ごもつともでござります。』

とのそ〱帰かへる……矢張やつぱりお浦うらを攫さらはれた為ために、気きが違ちがつたと思おもふらしい。いや、是これだから人間にんげんの来くるのは煩うるさい!

「……しかし、其その後のちとも三度さんどの食事しよくじ、火ひなり、水みづなり、祠ほこらへ来きて用ようを達たしてくれたのは其その男をとこで。時ときとすると、二時三時ふたときみときも傍そばに居ゐて熟じつと私わたしの仕事しごとを見みて居ゐる。口くちも出ださず邪魔じやまには成ならん。

で、下仕事したしごとの手伝てつだひぐらゐは間まに合あつたんです。」

と雪枝ゆきえは更あらためて言いつた。

「処ところで、一刻いつこくも疾はやく仕上しあげにしやうと思おもふから、飯めしも手掴てづかみで、水みづで嚥下のみおろす勢いきほひ、目めを据すえて働はたらくので、日ひも時間じかんも、殆ほとんど昼夜ちうやの見境みさかひはない。……女をんなの像ざうの第一作だいいつさくが、まだ手足てあしまでは出来できなかつたが、略ほゞ顔かほの容かたちが備そなはつて、胸むねから鳩尾みづおちへかけて膨ふつくりと成なつた、木材もくざいに乳ちゝが双ならんで、目鼻口元めはなくちもとの刻きざまれた、フトした時とき……

『どうだ、大分だいぶものに成なつたらう、』と聊いさゝか得意とくいで。丁ちやうど居合ゐあはせた権七ごんしちの顔かほを目めを挙あげて恁かう見みると……日ひに焼やけた色いろの黒くろいのが又また恐おそろしく真黒まつくろで、額ひたひが出でて、唇くちびるが長ながく反そつて、目めががつくりと窪くぼんだ、其その目めがピカ〱と光ひかつて、ふツふツ、はツはツ、と喘あへぐやうな息いきをする。……

供揃ともぞろへ

三十

いや、其その息いきの臭くさい事こと……剰あまつさへ、立たつでもなく坐すはるでもなく、中腰ちゆうごしに蹲しやがんだ山男やまをとこの膝ひざが折をれかゝつた朽木くちぎ同然どうぜん、節ふしくれ立だつてギクリと曲まがり、腕組うでぐみをした肱ひぢばかりが胸むねに附着くつつき、布子ぬのこの袖そでの元もとへ窄せばまつて両方りやうはうへ刎はねた処ところが、宛然さながらの翼つばさ。

『権七ごんしちぢやない! 小天狗こてんぐが、天守てんしゆから見張みはりに来きたな。』

思おもはず突立つゝたつと、出来できかゝつた像ざうを覗のぞいて、角つのを扁平ひらたくしたやうな小鼻こばなを、ひいくひいく、……ふツふツはツはツと息いきを吹ふいて居ゐたのが、尖とがつた口くちを仰様のけざまに一ひとつぶるツと振ふるふと、面めんを倒さかさまにしたと思おもへ。

彫像てうざうの眼球がんきうをグサリと刺さした。

はつと思おもへば、烏からすほどの真黒まつくろな鳥とりが一羽いちは虫蝕むしくひだらけの格天井がうでんじやうを颯さつと掠かすめて狐格子きつねがうしをばさりと飛出とびだす……

目め一ひとつ抉えぐられては半身はんしんをけづり去さられたも同おなじ事こと、是これがために、第一だいいちの作さくは不用ふように帰きした。

……余あまりの仕儀しぎに唯たゞ茫然ばうぜんとして、果はては涙なみだを流ながしたが、いや〱、爰こゝに形かたちづくられた未製品みせいひんは、其その容かたち半なかばにして、早はやくも何処どこにか破綻はたんを生しやうじて、我わが作さくを欲ほつするものゝ、不満足ふまんぞくを来きたしたのであらう――いかさまにも一ひとつ残のこつた瞳ひとみを見みれば、お浦うらの其それより情なさけを宿やどさぬ、露つゆも帯おびぬ、……手足てあし既すでに完まつたうして斧をのを以もつて砕くだかれても、対手あひてが鬼神きじんでは文句もんくはない筈はづ。力ちからを傾かたむけ尽つくさぬうち、予あらかじめ其その欠点けつてんを指示さししめして一思ひとおもひに未練みれんを棄すてさせたは、寧むしろ尠すくなからぬ慈悲じひである……

で、直たゞちに木材もくざいを伐更きりあらためて、第二だいにの像ざうを刻きざみはじめた。が、又また此この作さくに対たいする迫害はくがいは一通ひととほりではないのであつた。猫ねこが来きて踏ふんで行抜ゆきぬける、鼠ねずみが噛かじる。とろ〱と睡ねむつて覚さめれば、犬いぬが来きてぺろ〱と嘗なめて居ゐる……胴中どうなかを蛇へびが巻まく、今いま穴あなを出でたらしい家守やもりが来きて鼻はなの上うへを縦たてにのたくる……やがては作者さくしやの身躰からだを襲おそふて、手てをゆすぶる、襟頸ゑりくびを取とつて引倒ひきたふす、何者なにものか知しれずキチ〱と啼ないて脇わきの下したをこそぐり掛かける。

無残むざんや、其その中なかにも命いのちを懸かけて、漸やつと五躰ごたいを調とゝのへたのが、指ゆびが折をれる、乳首ちくびが欠かける、耳みゝが挘もげる、――これは我わが手てに打砕うちくだいた、其その斧をのを揮ふるつた時とき、さく〱さゝらに成なり行ゆく像ざうは、骨ほねを裂さく音おとがして、物凄ものすごく飛騨山ひだやまの谺こだまに響ひゞいた。

其その夜更よふけから、しばらく正躰しやうたいを失うしなつたが、時ときも知しらず我われに返かへると、忽たちまち第三番目だいさんばんめを作つくりはじめた、……時ときに祠ほこらの前まへの鳥居とりゐは倒たふれて、朽くちたる縄なはは、ほろ〱と断きれて跡あともなく成なる。……

と今度こんどのは完成くわんせいした。而そして本堂ほんだうの正面しやうめんに、支さゝえも置おかず、内端うちはに組くんだ、肉にくづきのしまつた、膝ひざ脛はぎの釣合つりあひよく、すつくりと立たつた時とき、木きの膚はだえは小刀こがたなの冴さえに、恰あたかも霜しもの如ごとく白しろく見みえた。……が扉とびらを開ひらいて、伝説でんせつなき縁起えんぎなき由緒ゆいしよなき、一躰いつたい風流ふうりうなる女神によしんのまざ〱として露あらはれたか、と疑うたがはれて、傍かたはらの棚たなに残のこつた古幣ふるぬさの斜なゝめに立たつたのに対たいして、敢あへて憚はゞかるべき色いろは無なかつた。

折をりから来合きあはせた権七ごんしちに見みせると、色いろを変かへ、口くちを尖とがらせ、目めを光ひからせて視ながめたが、其その面つらは烏からすにも成ならず、……脚あしは朽木くちきにも成ならず、袖そでは羽はねにも成ならぬ。

其処そこで、自分じぶんで引背負ひつしよふなり、抱だくなりして、其その彫像てうざうを城趾しろあとの天守てんしゆに運はこぶ。……途中とちゆうの塵ちりを避さけるため蔽おほひがはりに、お浦うらの着換きがえを、と思おもつて、権七ごんしちを温泉宿をんせんやどまで取とりに遣やつた。

あとで、此この祠ほこらに籠こもつてから、幾日いくかの間あひだか鳥居とりゐより外そとへは出でない、身躰からだを伸々のび〱として大手おほでを振ふつて畝路あぜみちから畷なはてへ出でた――然さまで遠とほくもない城じやうヶ沼ぬまの方はうへ、何なにとなく足あしが向むいて、ぶらり〱と歩行あるいたが、我わが住居すまゐを出でて其処等そこら散歩さんぽをする、……祠ほこらの家いへにはお浦うらが居ゐて留主るすをして、我わがために燈火ともしびのもとで針仕事はりしごとでも為して居ゐるやうな、つひした楽たのしい心地こゝちがする。……細ほそい杖ステツキを持もたないのが物足ものたりないくらゐなもので。

風かぜもふわ〱と樹きの枝えだを擽くすぐつて、はら〱笑わらはせて花はなにしやうとするらしい、壺つぼの中なかのやうではあるが、山国やまぐにの夜よは朧をぼろ。

三十一

譬たとへば城じやうヶ沼ぬまを裏返うらがへして、空そらへ漲みなぎらした夜よるの色いろ――寝ねをびれて戸惑とまどひをしたやうな肥ふとつた月つきが、田たの水みづにも映うつらず、山やまの姿すがたも照てらさず……然さうかと言いつて並木なみきの松まつに隠かくれもせず、谷たにの底そこにも落おちないで、ふわりと便たよりのない処ところに、土器色かはらけいろして、畷なはても畝あぜも茫ばうと明あかるいのに、粘ねばつた、生暖なまぬるい小糠雨こぬかあめが、月つきの上うへからともなく、下したからともなく、しつとりと来きて、むら〱と途中とちゆうで消きえる……と髪かみも衣きものも濡ぬれもしないで、湿しめつぽい。が、手てで撫なでゝ見みても雫しづくは分わからぬ。――雨あめが降ふるのではない、月つきが欠伸あくびする息いきがかゝるのであらう……そんな晩ばんには獺かはをそが化ばけると言いふが、山国やまぐにに其それは相応ふさはぬ。イワナが化ばけて坊主ばうずになつて、殺生禁断せつしやうきんだんの説教せつけうに念仏ねんぶつ唱となへて辿たどりさうな。……

処ところを、歩行あるく途中とちゆう、人一人ひとひとりにも逢あはなんだ、が逢あへば婦をんなでも山猫やまねこでも、皆みな坊主ばうずの姿すがたに見みえやうと思おもつた。

こん〱と狐きつねが啼ないた。……犬いぬの声こゑではない。唯とある松まつの樹きの蔭かげで、つひ通とほりかゝつた足許あしもとで。

こん〱こん〱と啼なくのに、フト耳みゝを傾かたむけて、虫むしを聞きくが如ごとく立停たちどまると、何なにかものを言いふやうで、

『コンクワイ、クワイ、来こぬかい、来こぬかい。』と恁かう啼なく。

『来こぬかい、来こぬかい、来こぬかい、案山子かゝし、来こぬかい案山子かゝし、』と又また聞きこえる。

聞きく中うちに、畝あぜの蔭かげから、ひよいと出でて立たつた、藁束わらたばに竹たけの脚あしで、痩やせさらばへたものがある。……凩こがらしに吹ふかれぬ前まへに、雪国ゆきぐにの雪ゆきが不意ふいに来きて、其そのまゝ焚附たきつけにも成ならずに残のこつた、冬ふゆの中うちは、真白まつしろな寐床ねどこへ潜もぐつて、立身たちみでぬく〱と過すごしたあとを、草枕くさまくらで寐込ねこんで居ゐた、これは飛騨山ひだやまの案山子かゝしである。

此この親仁おやぢ、破やぶれ簑みのの毛けを垂たらして、しよぼりとした躰ていで、ひよこひよこと動うごいて来きて、よたりと松まつの幹みきへ凭よりかゝつて、と其処そこへ立たつて留とまる。

『来こんかい、案山子かゝし、来こんかい、案山子かゝし………』と例れいの声こゑが尚なほ続つゞけて呼よぶ。

些ちと離はなれた畝あぜを伝つたつて、向むかふから又また一ひとつ、ひよい〱と来きて、ばさりと頭かしらを寄よせて同おなじく留とまる。と素直まつすぐな畷筋なはてすぢを、別べつに一個ひとつよたよた〱〱と、其それでも小刻こきざみの一本脚いつぽんあし、竹たけを早はやめて急いそいで近寄ちかよる。

此この後あとのなんぞは、何処どこで工面くめんをしたか、竹たけの小笠をがさを横よこちよに被かぶつて、仔細しさいらしく、其その笠かさを歩行あるくに連つれてぱく〱と上下うへしたに揺ゆすつたもので。

三個みつつが、……其それから土瓶どびんを釣つつて番茶ばんちやでも煮にさうな形かたちに集あつまると、何なにかゞ又また啼なき出だす。

『コー〱〱、急いそがう急いそがう。』

ばさ〱、と左右さいうへ分わかれて、前後あとさきに入乱いりみだれたが、やがて畷なはてへ三個みつつで並ならぶ。

其時そのとき樹きの上うへから、何なにやら鳥とりの声こゑがして、

『何処どつけえ行く、何処どつけえ行く!』

で、がさりと枝えだを踏ふんだ音おとがした。何どうやらものゝ、嘴くちばしを長ながく畷なはてを瞰下みおろす気勢けはひがした。

『ほこらだ。』

『ほこら、』

『ほこらへ行いくだ。』

とひよつこり、ひよこり、ひよつこりと歩行あるき出だす……案山子かゝしどもの出向でむくのが、祠ほこらの方はうへ、雪枝ゆきえの来きた路みちの方角はうがくに当あたる。向むかふを指さして城じやうヶ沼ぬまへ身投みなげに行ゆくのでは無ないらしい。

待まて、よくは分わからぬ、其処等そこらと言いふか、祠ほこらと言いふか、声こゑを伝つたへる生暖なまぬるい夜風よかぜもサテぼやけたが、……帰かへり路みちなれば引返ひきかへして、うか〱と漫歩行そゞろあるきの踵きびすを返かへす。

『く、く、く、』

『ふ、ふ、』

『は、は、は、』と形かたちも定さだめず、むや〱の海鼠なまこのやうな影法師かげぼふしが、案山子かゝしの脚あしもとを四よツ五いつツむら〱と纒まとふて進すゝむ。

「それは狐きつねか犬いぬらしい、其それとも何なにか鳥とりが居ゐて、上うへをふわ〱と飛とんだのかも分わかりません。」

と雪枝ゆきえは老爺ぢゞいに言いふのであつた……

三十二

「忘わすれもしない、温泉をんせんへ行ゆきがけには、夫婦ふうふが腕車くるまで通とほつた並木なみきを、魔物まものが何どうです、……勝手次第かつてしだいな其その躰ていでせう。」

来くる時ときは気きがつかなかつたが、時ときに帰かへりがけに案山子かゝしの歩行あるく後うしろから見みると、途中とちゆうに一里塚いちりづかのやうな小蔭こかげがあつて、松まつは其処そこに、梢こずえが低ひくく枝えだが垂たれた。塚つかの上うへに趺坐ふざして打傾うちかたむいて頬杖ほゝづゑをした、如意輪によいりんの石像せきざうがあつた。と彼あのたよりのない土器色かはらけいろの月つきは、ぶらりと下さがつて、仏ほとけの頬ほゝを片々かた〱照てらして、木蓮もくれんの花はなを手向たむけたやうな影かげが射さした。

其その前まへを、一列ひとならびに、ふら〱と通懸とほりかゝつて、

『御許ごゆるされ』と案山子かゝしの一ひとつが言へば、

『御許ごゆるされ。』

と又また一ひとつが同おなじ言ことを繰返くりかへす。

『御許ごゆるされ、御許ごゆるされ。』と声こゑが交まじつて、喧々がや〱と嘵舌しやべつた、と思おもはれよ。

『大儀たいぎぢや』

と正まさしく如意輪によいりんが仰あふせあつた……

『はツ、』と云いふと一個ひとつ、丁ちやうど石高道いしだかみちの石磈いしころへ其その一本竹いつぽんだけを踏掛ふみかけた真中まんなかのが、カタリと脚あしに音おとを立たてると、乗上のりあがつたやうに、ひよい、と背せが高たかく成なつて、直すぐに、ひよこりと又また同おなじ丈たけに歩行あるき出だす。

人間にんげんが前まへへ出でた時とき、如意輪によいりんの御姿おすがたは、スツと松蔭まつかげへ稍やゝ遠とほく、暗くらく小ちひさく拝をがまれた。

雨あめがやゝ頻しきつて来きた。

案山子かゝしの簑みのは、三みつつともぴしよ〱と音おとするばかり、――中なかにも憎にくかつたは後あとから行ゆく奴やつ、笠かさを着きたを得意とくいの容躰ようだい、もの〱しや左右さいうを眴みまはしながら前途ゆくてへ蹌踉よろめく。

果はたして祠ほこらを指さしたらしい。

横よこへ切きれて田畝道たんぼみちを、向むかふへ、一方いつぱうが山やまの裙すそ、片傍かたはらを一叢ひとむらの森もりで仕切しきつた真中まんなかが、茫ぼうと展ひらけて、草くさの生はへが朧月おぼろづきに、雲くもの簇むらがるやうな奥おくに、祠ほこらの狐格子きつねがうしを洩もれる灯ひが、細雨こさめに浸にじむだのを見みると――猶予ためらはず其方そちらへ向むいて、一度いちど斜はすに成なつて折曲をれまがつて列つらなり行ゆく。

其時そのとき気きに懸かゝつたのは、祠ほこらの前まへを階きぎはしから廻廊くわいらうの下したへ懸かけて、たゞ三みツ五いつツではない、七なゝ八やツ、それ〱十とウにも余あまる物ものの形かたちが、孰どれも土器色かはらけいろの法衣ころもに、黒くろい色いろの袈裟けさかけた、恰あだかも空摸様そらもやうのやうなのが、高たかい坊主ばうずと低ひくい坊主ばうずと大おほきな坊主ばうずと小ちひさな坊主ばうずと、胡乱々々うろ〱動うごいて、むら〱居ゐる……

『やあ、お浦うらを嬲なぶる、』

と前まへへ行ゆく案山子かゝしどもを、横よこに掠かすめて、一息ひといきに駆かけ着つけて、いきなり階きざはしに飛附とびついて、唯と見みると、扨さても、寄よつたわ、来きたわ。僧形そうぎやうに見みえた有ありたけの人数にんずは、其それも是これも同おなじやうな案山子かゝしの数々かず〱。――割わつて通とほつた人間にんげんの袖そでの煽あふりに、よた〱と皆みな左右さいうに散ちつた、中なかには廻廊くわいらうに倒たふれかゝつて、もぞ〱と動うごくのもある。

正面しやうめんに伸上のびあがつて見みれば、向むかふから、ひよこ〱来くる三個みつゝの案山子かゝしも、同おなじやうな坊主ばうずに見みえた。

扉とびらを入はいると、無事ぶじであつた。お浦うらを其そのまゝの彫像てうざうは、灯ひの影かげにちら〱と瞳ひとみも動うごいて、人待顔ひとまちがほに立草臥たちくたびれて、横よこに寝ねたさうにも見みえたのである。

下したに敷しいた白毛布しろけつとの上うへには、所狭ところせまく鑿のみも鉋かんなも散ちらかり放題はうだい。初手しよては此この毛布けつとに包くるんで、夜路よみちを城趾しろあとへ、と思おもつたが、――時鳥ほとゝぎすは啼なかぬけれども、然さうするのは、身みを放はなれたお浦うらの魂たましひを容いれたやうで、嘗かつて城じやうヶ沼ぬまの縁ふちで旅僧たびそうの口くちから魔界まかいの暗示あんじを伝つたへられたゝめに――太いたく忌いまはしかつたので、……権七ごんしちに取寄とりよせさした着換きがえの衣きぬは、恰あたかも祠ほこらの屋根やねに藤ふぢの花はなが咲さきかゝつたのを、月つきが破廂やぶれひさしから影かげを落おとしたやうに届とゞいて居ゐた。然しかも燃もえ立たつばかりの緋ひの扱帯しごきは、今いましも其その腰こしのあたりをする〱と辷すべつた如ごとく、足許あしもとに差置さしおかるゝ。

縋着すがりつけば、ころ〱と其その掌たなそこに秘ひめた采さいが鳴なつた。

『ござるか。』

『…………』

『ござるか、ござるか。』

と蚯蚓みゝずの這はふやうな声こゑが階きざはしの処ところで聞きこえる。

『誰たれだ。』

と、うつかり、づゝと出でると、つひ忘わすれた……づらりと其処そこに案山子かかしども。

バサリ

三十三

其その中なかの孰いづれが言ものいふ? 中気病ちゆうきやみのやうな老ふけた、舌したつ不足たらずで、

『おねんぎよ。』と言いふ。

『おねんご。』

と又また訴うつたうる。……

糠雨ぬかあめの朧夜おぼろよに、小ちひさき山廓さんかくの祠ほこらの前まへ。破やぶれ簑みののしよぼ〱した渠等かれらの風躰ふうてい、……其その言いふ処ところが、お年貢ねんぐ、お年貢ねんぐ、と聞きこえて、未進みしんの科条くわでうで水牢みづらうで死しんだ亡者もうじやか、百姓一揆ひやくしやういつきの怨霊おんりやうか、と思おもひ附つく。其その莚旗むしろはたを挙あげたのが此この祠ほこらであらうも知しれぬ。――が、何なにを求もとむる? 其その意いを得えない。熟じつと瞻みつむれば、右みぎから左ひだりから階きざはしの前まへへ、ぞろ〱と寄よつた……簑みのの摺合すれあふ音おとして、

『うけとろ、』

『受うけ取とらう。』

『おねんご受取うけとろ。』と言いふのが、何処どこから出でる声こゑか、一本竹いつぽんだけで立たつた地ちの中なかから、ぶる〱湧出わきだす。

『おゝ、』

と思おもはず合点がつてんした。

『人形にんぎやうか、此この彫像てうざうを受うけ取とらうと言いふのか?』

中なかにも笠かさある案山子かゝしの頷うなづくのが、ぱく〱動うごく。其それは途中とちゆうからの馴染なじみらしい。

『おゝさう、おぶおう、おぶさう。』と野良のらな音おん。恰あたかも、おゝ、然さう負おぶはう、負おぶされ、と云いふが如ごとし。

『可よし、可よし、』

で、衣服きものを被かけ、彫像てうざうを抱いだいたなり、狐格子きつねがうしを更あらためて開ひらいて立出たちいでたつる、

『おい、案山子かゝしども、』

と真面目まじめに遣やつた。今いま思おもへば、……言いふまでも無なく何どうかして居ゐる。

『御苦労ごくらう、御厚意ごかういは受取うけとつたが、己おれの刻きざんだ此この婦をんなは活いきとるぞ。貴様きさまたちに持運もちはこばれては血ちの道みちを起おこさう、自分じぶんでおんぶだ。』

と高笑たかわらひをして、其処そこで肩かたの上うへに揺上ゆすりあげた。抱だいても腕うでに乗のつたのに……と肩越かたごしに見上みあげた時とき、天井てんじやうの蔭かげに髪かみも黒くろく上うへから覗込のぞきこむやうに見みえたので、歴然あり〱と、自分じぶんが彫刻師てうこくしに成なつた幼おさない時ときの運命うんめいが、形かたちに出でて顕あらはれた……雨あめも此この朧夜おぼろよを、細ほそく微かすかな雪ゆきのやうに白しろく野山のやまに降懸ふりかゝつた。

『出懸でかけるぞ、案内あんないするか、続つゞいて来くるか。』

案山子かゝしどもは藁わらの乱みだれた煙けむりの如ごとく、前後あとさきにふら〱附添つきそふ。……而そして祠ほこらの樹立こだちを出離ではなれる時分じぶんから、希有けうな一行いつかうの間あひだに、二ふたツ三みツ灯あかりが点ついたが、光ひかりが有ありとも見みえず、ものを映うつさぬでも無ない。たとへば月つきの其その本尊ほんぞんが霞かすんで了しまつて、田毎たごとに宿やどる影かげばかり、縦たてに雨あめの中なかへふつと映うつる、宵よひに見みた土器色かはらけいろの月つきが幾いくつにも成なつて出でたらしい。

其それが案山子かゝしどもの行ゆく方はうへ、進すゝめば進すゝみ、移うつれば移うつり、路みちを曲まがる時ときなぞは、スイと前まへへ飛とんで、一寸ちよいと停とまつて、土器色かはらけいろを赫くわつとして待まつ。ともすれば曇くもることもあつた。此この灯ひはひく〱呼吸いきを吐つく、と見みえた。

低ひくい藁屋わらやが二三軒にさんげん、煙出けむだしの口くちも開あかず、目めもなしに、暗やみから潜出もぐりだした獣けもののやうに蹲つくばつて、寂しんと寝ねて居ゐる前まへを通とほつた時とき。

『ばツさ、ばツさ。』

簑みのを鳴ならしたのではない。案山子かゝしの一ひとつが、最もう耳みゝに馴なれて遠慮ゑんりよのない口くちを開あけた。

『ばつさよ、ばつさよ。』

『コーコー、来こーい、来こい。』

と最一もひとつ嘵舌しやべつた。

ばさりと言いふのが、ばさりと聞きこえて、ばさりと鳴なつて、其その藁屋わらやの廂ひさしから、畷なはてへばさりと落おちたものがある、続つゞいて又また一ひとつばさりとお出でやる。

鳥とりか獣けものか、こゝにバサリと名なづくるものが住すんで、案山子かゝしに呼出よびだされたのであらう、と思おもつたが、やがて其それが二ふたつが並ならんで、真直まつすぐにひよいと立たつ、と左右さいうへ倒たふれざまに、又またばさりと言つた。が、名なではない。ばさりと称となへたは其その音おとで、正体しやうたいは二本にほんの番傘ばんがさ、ト蛇じやの目めに開ひらいたは可いゝが、古御所ふるごしよの簾すだれめいて、ばら〱に裂さけて居ゐる。

三十四

唯と見みると、両方りやうはうから柄えを合あはせて、しつくり組くむだ。其その破やぶれ傘がさが輪わに成なつて、畷なはてをぐる〱と廻まはつて丁ちやうと留とまる。

案山子かゝしが三みツ四よツ、ふら〱と取巻とりまいて、

『乗のつされ。』

『お人形にんぎやう、乗のつせえ。』と言いふ。

『はゝあ、載のせろ、と言いふのか、面白おもしろい。』

案あんずるに、此この車くるまを以もつて、我わが作品さくひんを礼れいするのであらう。其その厚志かうし、敢あへて、輿こしと駕籠かごと破やぶれ傘がさとを択えらばぬ。其処そこで彫像てうざうの脇わきを抱だいて、傘からかさの柄えに腰こしを据すえると、不思議ふしぎや、裾すそも開ひらかず、肩かたも反そらず……膠にかはで着つけたやうに整然ちやんと乗のつた、同時どうじにくる〱と傘からかさが廻まはつて、さつさと行ゆく……

やがて温泉いでゆの宿やどを前途ゆくてに望のぞんで、傍かたはらに谿河たにがはの、恰あたかも銀河ぎんがの砕くだけて山やまを貫つらぬくが如ごときを見みた時とき、傘からかさの輪わは流ながれに逆さからひ、疾とく水車みづぐるまの如ごとくに廻転くわいてんして、水みづは宛然さながら其その破やぶれ目めを走はしり抜ぬけて、斜なゝめに黄色きいろな雪ゆきが散ちつた。や、何どうも案山子かゝしの飛とぶこと、ひよろつく事こと!

此これを見みよ、人々ひと〲。――

で、月つきが三みツ四よツ出でて路みちを照てらすのも、案山子かゝしが飛とぶのも、傘からかさの車くるまも、其その車くるまに、と反身そりみで、斜しやに構かまへて乗のつた像ざうの活いけるが如ごときも、一切すべて自分じぶんの神通力じんつうりきの如ごとくに感かんじて、寝静ねしづまつた宿屋やどやの方はうへ拳こぶしを突出つきだして呵々から〱と笑わらつた。

『此これを見みよ、人々ひと〲。』

其時そのとき車くるまを真中まんなかに、案山子かゝしの列れつは橋はしにかゝつた。……瀬せの音おとを横切よこぎつて、竹たけの脚あしを、蹌踉よろめく癖くせに、小賢こざかしくも案山子かゝしの同勢どうぜい橋板はしいたを、どゞろ〱とゞろと鳴ならす。

『寝ねて居ゐるに騒さわがしい。』

と欄干らんかんが声こゑを懸かけた。

『あゝ、気きの毒どくだ。』

とうつかり人間にんげんの雪枝ゆきえが答こたへた。おや、と心着こゝろづくと最もうざんざと川水かはみづ。

まだ可怪おかしかつたのは、一行いつかうが、其それから過般いつかの、あの、城山しろやまへ上のぼる取着とつつきの石段いしだんに懸かゝつた時ときで。是これから推上おしあがらうと云いふのに一呼吸ひといきつくらしく、フト停とまると、中なかでも不精ぶせうらしい簑みのの裾すその長ながいのが、雲くものやうに渦うづまいた段だんの下したの、大木たいぼくの槐えんじゆの幹みきに恁懸よりかゝつて、ごそりと身動みうごきをしたと思おもへ。

『わい、擽くすぐつてえ。』と樹きが喚わめいた。

傘からかさはぐる〱と段だんにかゝる、と苦くもなく攀上よぢのぼるに不思議ふしぎはない。濃こまやかな夜よの色いろが段だんを包つゝんで、雲くもに乗のせたやうにすら〱と辷すべらし上あげる。気きの疾はやい、身軽みがるなのが、案山子かゝしの中なかにもあるにこそ。二ふたツ三みツ追続おつつゞいて、すいと飛とんで、車くるまの上うへを宙ちうから上のぼつたのが、アノ土器色かはらけいろの月つきの形かたちの灯ともしびをふわりと乗越のりこす。

段だんの上うへで、一体いつたいの石地蔵いしぢざうに逢あつた。

『坊ばうちやま、坊ばうちやま。』と一ひとツが言いふ。

『さても迷惑めいわく、』

と仰有おつしやつたが、御手おんての錫杖しやくぢやうをづいと上あげて、トンと下おろしざまに歩行あゆび出でらるゝ……成程なるほど、御襟おんゑりの唾掛よだれかけめいた切きれが、ひらり〱と揺ゆれつゝ来こらるゝ。

「此この野原のはらに来きた時ときです。」

と雪枝ゆきえは老爺ぢいに向むかいて、振返ふりかへつて左右さいうを視ながめた。

陽炎かげらふが膝ひざに這はつて、太陽たいやうはほか〱と射さして居ゐる。空そらは晴はれたが、草くさの葉はの濡色ぬれいろは、次第しだいに霞かすみに吸取すひとられやうとする風情ふぜいである。

「其その地蔵尊ぢざうそんが、前まへの方はうから錫杖しやくぢやうを支ついたなりで、後うしろに続つゞいた私わたしと擦違すれちがつて、黙だまつて坂さかの方はうへ戻もどつて行ゆかるゝ……と案山子かゝしもぞろ〱と引返ひきかへすんです。

番傘ばんがさは、と見みると、此これもくる〱と廻まはつて返かへる。が、まるで空からに成なつて、上うへに載のせた彫像てうざうがありますまい。

……つひ向むかふを、何どうです、……大牛おほうしが一頭いつとう、此方こなたへ尾をを向むけてのそりと行ゆく。其その図体づうたいは山やまを圧あつして此この野原のはらにも幅はゞつたいほど、朧おぼろの中なかに影かげが偉おほきい。其その背中せなかにお浦うらの像ざうが、紅くれなゐの扱帯しごきを長ながく、仰向あふむけに成なつて柔やはらかに懸かゝつて居ゐる。」

三十五

「破やぶれ傘がさの車くるまでは、別べつに侮あなどられ辱はづかしめられるとも思おもはなかつたが、今いま牛うしの背せに懸かけられたのを見みると、酷むごたらしくて我慢がまんが出来できない! 木きを刻きざんだものではあるが、節ふしから両岐ふたまたに裂さかれさうに思おもはれて、生身なまみのお浦うらだか、像ざうの女をんなだか、分別ふんべつも着つかないくらゐ。

『あツ、』と叫さけんで、背後うしろから飛蒐とびかゝつたが、最もう一足ひとあしの処ところで手てが届とゞきさうに成なつても、何どうしても尾をに及およばぬ……牛うしは急いそぐともなく、動うごかない朧夜おぼろよが自然おのづから時ときの移うつるやうに悠々いう〱とのさばり行ゆく。

しばらくして、此この大手筋おほてすぢを、去年きよねん一昨年おととしのまゝらしい、枯蘆かれあしの中なかを縫ぬつた時ときは、俗ぞくに水底みづそこを踏ふんで通とほると言いふ、どつしりしたものに見みえた。背せなの彫像てうざうの仰向あふむけの胸むねに采さいを握にぎつた拳こぶしが、苦くるしんで空くうを掴つかむやうに見みえて堪たへられない。

後あとを喘あへぎ〱、はあ〱と呼吸いきして続つゞく。

「其その牛うしが、老爺おぢいさん、」

と雪枝ゆきえは聞きくものを呼懸よびかけた。

天守てんしゆの礎いしずゑの土つちを後脚あとあしで踏ふんで、前脚まへあしを上うへへ挙あげて、高たかく棟むねを抱いだくやうに懸かけたと思おもふと、一階目いつかいめの廻廊くわいらうめいた板敷いたじきへ、ぬい、と上のぼつて其その外周囲そとまはりをぐるりと歩行あるいた。……音おとに鎗やりヶ嶽だけと中空なかぞらに相聳あひそびえて、月つきを懸かけ太陽ひを迎むかふると聞きく……此この建物たてものはさすがに偉大おほきい。――朧おぼろの中なかに然さばかり蔓はびこつた牛うしの姿すがたも、床ゆか走はしる鼠ねずみのやうに見みえた。

ぐるりと一廻ひとまはりして、一いつヶ所しよ、巌いはほを抉えぐつたやうな扉とびらへ真黒まつくろに成なつて入はいつたと思おもふと、一ひとつよぢれた向むかふ状ざまなる階子はしごの中なかほどを、灰色はいいろの背せを畝うねつて上のぼる、牛うしは斑まだらで。

此この一階目いつかいめの床ゆかは、今いま過よぎつた野のに、扉とびらを建たてまはしたと見みるばかり広ひろかつた。短みじかい草くさも処々ところ〲、矢間やざまに一ひとツ黄色きいろい月つきで、朧おぼろの夜よも同おなじやう。

と黒雲くろくもを被かついだ如ごとく、牛うしの尾をが上口あがりくちを漏もれたのを仰あふいで、上うへの段だん、上うへの段だんと、両手りやうてを先さきへ掛かけながら、慌あはたゞしく駆上かけあがつた。……月つきは暗くらかつた、矢間やざまの外そとは森もりの下闇したやみで苔こけの香かが満みちて居ゐた。……牛うしの身躰からだは、早はや又また段だんの上うへへ半なかばを乗越のりこす。

ぐる〱と急いそいで廻まはつて取着とつついて追おつて上のぼる。と此この矢間やざまの月つきは赤あかかつた。魔界まかいの色いろであらうと思おもふ。が、猶予ためらふ隙ひまもなく直たゞちに三階目さんがいめを攀よぢ上のぼる……

最もう仰あふいでも覗のぞいても、大牛おほうしの形かたちは目めに留とまらなく成なつたゝめに、あとは夢中むちゆうで、打附ぶつゝかれば退すさり、床ゆかあれば踏ふみ、階子はしごあれば上のぼる、其その何階目なんかいめであつたか分わからぬ。雲くもか、靄もやか、綿わたで包つゝんだやうに凡およそ三抱みかゝえばかりあらうと思おもふ丸柱まるばしらが、白しろく真中まんなかにぬつく、と立たつ、……と一目ひとめ見みれば、其その柱はしらの根ねに一人ひとり悄然しよんぼりと立たつた婦をんなの姿すがた……

『お浦うら……』と膝ひざを支ついて、摺寄すりよつて緊乎しつかと抱だいて、言いふだけの事ことを呼吸いきも絶々たえ〲に我われを忘わすれて嘵舌しやべつた。声こゑが籠こもつて空そらへ響ひゞくか、天井てんじやうの上うへ――五階ごかいのあたりで、多人数たにんずうのわや〱もの言いふ声こゑを聞ききながら、積日せきじつの辛労しんらうと安心あんしんした気抜きぬけの所為せゐで、其そのまゝ前後不覚ぜんごふかくと成なつた。……

『や』

心着こゝろづく、と雲くもを踏ふんでるやうな危あぶなつかしさ。夫婦ふうふが活いきて再ふたゝび天日てんじつを仰あふぐのは、唯たゞ無事ぶじに下したまで幾階いくかいの段だんを降おりる、其そればかり、と思おもふと、昨夜ゆふべにも似にず、爪先つまさきが震ふるふ、腰こしが、がくつく、血ちが凍こほつて肉にくが硬こはばる。

『気きを着つけて、気きを着つけて、危あぶない。』と両方りやうはうの脚あしの指ゆび、白しろいのと、男をとこのと、十本じふぽんづゝを、ちら〱と一心不乱いつしんふらんに瞻みつめながら、恰あたかも断崖だんがいを下おりるやう、天守てんしゆの下したは地ちが矢やの如ごとく流ながるゝか、と見みえた。……

雪枝ゆきえは語かたり続つぐ声こゑも弱よわつて、

「漸やつとの思おもひで此処こゝまで来きて……先まづ一呼吸ひといきと気きが着つくと、あの躰ていだ。老爺おぢいさん、形代かたしろの犠牲にえに代かへて、辛からくもです、我わが手てに救すくひ出だしたとばかり喜よろこんだのは、お浦うらぢやない、家内かないぢやない。昨夜ゆふべ持もつて行いつた彫像てうざうを其そのまゝ突返つゝかへされて、のめ〱と担かついで帰かへつたんです。然しかも片腕かたうで捩もぎつてある、あの采さいを持もたせた手てが。……あゝ、私わたしは五躰ごたいが痺しびれる。」と胸むねを掴つかんで悶もだへ倒たふれる。

天守てんしゆの下した

三十六

聞きき果はてつ。……

飛騨国ひだのくにの作人さくにん菊松きくまつは、其処そこに仰あふぎ倒たふれて今いまも悪わるい夢ゆめに魘うなされて居ゐるやうな――青年せいねんの日向ひなたの顔かほ、額ひたひに膏汗あぶらあせの湧わく悩なやましげな状さまを、然さも気きの毒どくげに瞻みまもつた。

「聞きけば聞きくほど、へい、何なんとも言いひやうはねえ。けんども、お前様めえさま、お少わけえに、其その位くらゐの事ことに、然さう気きい落おとさつしやるもんでねえ。たかゞあれだ、昨夜ゆふべ持もつて行ゆかしつた其その形代かたしろの像ざうが、お天守てんしゆの…何様なにさまか腑ふに落おちねえ処ところがあるで、約束やくそくの通とほり奥様おくさまを返かへさねえもんでがんしよ。だで、最もう一ひとツ拵こさえさつせえ。美うつくしい婦をんなの木像もくざうさ又また遣直やりなほすだね。えゝ、お前様めえさま、対手あひてが七六しちむづヶしいだけに張合はりえゝがある……案山子かゝしぢや成なんねえ。素袍すはうでも着きた徒てあひが玉たまの輿こし持もつて、へい、お迎むかへ、と下座げざするのを作つくらつせえ。えゝ! と元気げんきを出ださつしやりまし。」

「其処そこです、老爺おぢいさん、」

と雪枝ゆきえは草くさを掴つかんで起直おきなほつて、

「現在げんざい、其その苦くるしみを為して居ゐるお浦うらを救すくはんために製作こしらへたんです。有ありつたけの元気げんきも出だした、力ちからも尽つくした。最もう為しやうがない。しかし此処こゝで貴老あなたに逢あつたのは天てんの引合ひきあはせだらうと思おもふ。

いや、其それよりも此この土地とちへ来きて、夢ゆめとも現うつゝとも分わからない種々いろ〱の事ことのあるのは、別べつではない、婦をんなのために、仕事しごとを忘わすれた眠ねむりを覚さまして、謹つゝしんで貴老あなたに教をしへを受うけさせやうとする、芸げいの神かみの計はからひであらうも知しれない。私わたしは跪ひざまづく、其その草鞋わらぢを頂いたゞく……何どうぞ、弟子でしにして下ください、教をしへて下ください、而そしてお浦うらを救すくつて下ください。」

「いや、前刻さつき船ふねの中なかで焚やけるのを向むかふから見みた時ときな、活いきた人ひとだと吃驚びつくりしつけの。お前様めえさま一廉ひとかどの利きゝものだ。別べつに私等わしらに相談さうだん打ぶたつしやるに及およぶめえが、奥様おくさまのお身みの上うへぢや、出来できる手伝てつだひなら為しずには居ゐられぬで、年としの功こうだけも取処とりどこがあるなら、今度こんど造つくらつしやるに助言ぢよごんな為すべいさ。まあ、待またつせえよ、私わしが今いま、」と狸たぬきのやうな麻袋あさぶくろをふらりと、腰こしを伸のして、のつそりと立たつた。

旭あさひさす野のを一人ひとり、老爺ぢゞいは腰骨こしぼねに手てを組くんで、ものを捜さがす風ふうして歩行あるいたが、少時しばらくして引返ひきかへした。拾ひろつて来きたのは雄鹿をじかの角つのの折をれ、山やま深ふかければ千歳ちとせの松まつの根ねに生おふると聞きく、伏苓ふくれうと云いふものめいたが、何なに、別べつに……尋常たゞの樹きの枝えだ、女をんなの腕かひなぐらゐの細ほそさで、一尺いつしやく有余いうよ也なり。

ト件くだんの麻袋あさぶくろの口くちを開あけて、握飯にぎりめしでも出だしさうなのが、一挺いつちやう小刀こがたなを抽取ぬきとつて、無雑作むざうさに、さくりと当あてる、ヤ又また能よく切きれる、枝えだはすかりと二ふたツに成なつた。

「鯉こひとも思おもふが、木きが小ちつこい。鰌どぜうでは可笑をかしかんべい。鮒ふなを一ひとツ製こさへて見みせつせえ。雑ざつと形かたちで可ええ。鱗うろこは縦横たてよこに筋すぢを引ひくだ、……私わしも同おなじに遣やらかすで、較くらべて見みるだね。ひよつとかして、私わしの方はうさ出来できが佳よくば、相談対手さうだんあひてに成なれるだでの、可いゝか、さあ、ござらつせえ。」

と小刀こがたなを添そへて突着つきつけた。雪枝ゆきえは胡座あぐらを組直くみなほした。

「一ひイ二ふウ三みイ、はじめるぞ、はゝゝはゝ駆競かけつくらのやうだの。何なにも前後あとさきに構かまひごとはねえだよ。お前様めえさま串戯じやうだんごとではあんめえが、何なんでも仕事しごとするには元気げんきに限かぎるだで、景気けいきをつけるだ。――可えゝかの、一ひイ二ふウ三みイで、遣やりかけるだ。一ひイ二ふウ三みイ! はツはツはツ。」

笑わらひかけて、済すまして遣やり出だす。老爺ぢゞいの手てにも小刀こがたなが動うごく、と双ならんで二挺にちやう、日ひの光ひかりに晃々きら〱と閃きらめきはじめた……掌たなそこの木きの枝えだは、其その小刀こがたなの輝かゞやくまゝに、恰あたかも鰭ひれを振ふるふと見みゆる、香川雪枝かがはゆきえも「香川雪枝も」はママ、さすがに名なを得えた青年わかものであつた。

と此この老爺ぢゞいと雪枝ゆきえとが、旭あさひに向むかつて濠端ほりばたに小刀こがたなを使つかふ。前面ぜんめんの大手おほての彼方かなたに、城址しろあとの天守てんしゆが、雲くもの晴はれた蒼空あをぞらに群山ぐんざんを抽ぬいて、すつくと立たつ……飛騨山ひださんの鞘さやを払はらつた鎗やりヶ嶽だけの絶頂ぜつちやうと、十里じふりの遠近をちこちに相対あひたいして、二人ふたりの頭上づじやうに他たの連峯れんぽうを率ひきゐて聳そびゆる事ことを忘わすれてはならぬ。

件くだんの天守てんしゆの棟むねに近ちかい、五階目ごかいめあたりの端近はしぢかな処ところへ出でて、霞かすみを吸すひつゝ大欠伸おほあくびを為した坊主ばうずがある。

双六盤すごろくばん

三十七

雪枝ゆきえは合掌がつしようして跪ひざまづいた。

渠かれの前まへには、一座いちざ滑なめらかな盤石ばんじやくの、其その色いろ、濃こき緑みどりに碧あをを交まじへて、恰あだかも千尋せんじんの淵ふちの底そこに沈しづんだ平たひらかな巌いはを、太陽ひの色いろも白しろいまで、霞かすみの満みちた、一塵いちぢんの濁にごりもない蒼空あをぞらに、合あはせ鏡かゞみして見みるやうな……大おほきさは然されば、畳たゝみ三畳さんでふばかりと見みゆる、……音おとに聞きく、飛騨国ひだのくに吉城郡よしきごふり神宝かんたからの山奥やまおくにありと言いふ、双六谷すごろくだにの名なに負おへる双六巌すごろくいはは是これならむ。巌いはの面おもてに浮模様うきもやう、末すそを揃そろへて、上下うへしたに香かうの図づを合あはせたやうな柳条しまがあり、虹にじを削けづつて画ゑがいた上うへを、ほんのりと霞かすみが彩いろどる。

背後うしろを囲かこつた、若草わかくさの薄紫うすむらさきの山懐やまふところに、黄金こがねの網あみを颯さつと投なげた、日ひの光ひかりは赫耀かくやくとして輝かゞやくが、人ひとの目めを射ゐるほどではなく、太陽たいやうは時ときに、幽かすかに遠とほき連山れんざんの雪ゆきを被かついだ白蓮びやくれんの蕋しべの如ごとくに見みえた。……次第しだいに近ちかく此処こゝに迫せまる山やまと山やま、峯みねと峯みねとの中なかを繋つないで蒼空あをぞらを縫ぬふ白しろい糸いとの、遠とほきは雲くも、やがて霞かすみ、目前まのあたりなるは陽炎かげらふである。

陽炎かげらふは、爾しかく、村里むらざと町家まちやに見みる、怪あやしき蜘蛛くもの囲ゐの乱みだれた、幻影まぼろしのやうなものでは無なく、恰あだかも練絹ねりぎぬを解といたやうで、蝶てふ〱のふわ〱と吐つく呼吸いきが、其その羽はねなりに飜々ひら〱と拡ひろがる風情ふぜいで、然しかも皆みな美うつくしい女をんなの姿すがたを象かたどる。其その或あるものは裳もすそ黄きに、或あるものは袖そで紫むらさきに……

紫むらさきなるは菫すみれの影かげで、黄きなるは鼓草たんぽゝの花はなの映うつり添そふ色いろであつた。

巌いはのあたりは、此この二種ふたいろの花はな、咲さき埋うづむばかり満みちて居ゐる……其等それら色いろある陽炎かげらふの、いづれ手てにも留とまらぬ女をんなの風情ふぜいした中なかに、唯たゞ一人いちにん濃こまやかに雪ゆきを束つかねたやうな美女たをやめがあつて、巌いはの彼方かなたに恰あだかも卓つくえに向むかつて立たつ状さまして彳たゝずんだ。

雪枝ゆきえは其その美女たをやめを前まへに盤石ばんじやくを隔へだてゝ蹲うづくまつたのである……

双六巌すごろくいはの、其その虹にじの如ごとき格目こまめは、美女たをやめの帯おびのあたりをスーツと引ひいて、其処そこへも紫むらさきが射さし、黄きが映うつる……雲くもは、霞かすみは、陽炎かげらふは、遠近をちこちに尽こと〲く此この美女たをやめを形かたちづくるために、濃こくも薄うすくも懸かゝるらし。其その形かたちの厳おごそかなるは、白銀しろがねの鎧よろひして彼かれを守護しゆごする勇士いうしの如ごとく、其その姿すがたの優やさしいのは、姫ひめに斉眉かしづく侍女じぢよかと見みえる。

美女たをやめの背後うしろに当あたる……其その山懐やまふところに、唯たゞ一本ひともと、古歌こかの風情ふぜいの桜花さくらばな、浅黄あさぎにも黒染すみぞめにも白妙しろたへにも咲さかないで、一重ひとへに颯さつと薄紅うすくれなゐ。

色いろが美女たをやめの瞼まぶたにさし、影かげが美女たをやめの衣きぬを通とほす……

雪枝ゆきえが路みちを分わけ、巌いはを伝つたひ、流ながれを渉わたり、梢こずゑを攀よぢ、桂かつらを這はつて、此処こゝに辿たどり着ついた山蔭やまかげに、はじめて見みたのは此この桜さくらで。……

一行いつかうは、渠かれと、老爺おやぢと、別べつに一人ひとり、背せの高たかい、色いろの蒼あをい坊主ばうずであつた。

是これより前さき、雪枝ゆきえは城趾しろあとの濠端ほりばたで、老爺ぢいと並ならんで、殆ほとんど小学生せうがくせいの態度たいどを以もつて、熱心ねつしんに魚うをの形かたちを刻きざみながら、同時どうじに製作せいさくしはじめた老爺ぢいの手振てぶりを見みるべく……密そつと傍見わきみして、フト其その目めを外そらした時とき、天守てんしゆの矢間やざまを湧わいて出でるやうな黒坊主くろばうずの姿すがたを見みたが、烏からすか、梟ふくろうか、と思おもつた。

が、大牛おほうしが居ゐる、妻つまの囚とらはれた魔まの城しろである……よし其それが天狗てんぐでも、気きを散ちらす処ところでない。爰こゝに一刀いつたうを下おろすは、彼かれを救すくふ一歩いつぽである、と爽さはやかに木削きくづを散ちらして一思ひとおもひに刻きざみ果はてた。

『どう、見みせさつせえ。』

疾とく我わが小刀こがたなを袋ふくろに納をさめて、頤杖あごづゑして待まつて居ゐた老爺ぢいは、雪枝ゆきえの作品さくひんを掌てに据すえて煙管きせるを啣くはえた。

『おゝ、出来できた。ぴち〱と刎はねる……いや、恁かうあらうと思おもふた……見事みごとなものぢや、乾かはかして置おくと押死おつちぬべい、それ、勝手かつてに泳およげ!』とひよいと、放はふると、濠ほりの水みづへばちやりと落おちた。が、腹はらを出だして浮脂きらの上うへにぶくりと浮うく。

三十八

『そりや少わかい魚うをの元気げんきを見習みならへ。汝ぬしも、ばちや〱と泳およげい。』

で、老爺ぢいは今度こんどは自分じぶんの刻きざんだ魚うをを、これは又また、不状ぶざまに引握ひんにぎつたまゝ斉ひとしく投なげる、と潵しぶきが立たつたが、浮草うきくさを颯さつと分わけて、鰭ひれを縦たてに薄黒うすぐろく、水際みづぎはに沈しづんでスツと留とまる。ト雪枝ゆきえの作品さくひんと並ならべた処ところは、恰あだかも釣糸つりいとに繋かけた浮木うきが魚さかなを追おふ風情ふぜいであつた。……

何なにをか試こゝろむる、と怪あやしんで、身みを起おこし汀みぎはに立たつて、枯蘆かれあしの茎くき越ごしに、濠ほりの面おもてを瞻みつめた雪枝ゆきえは、浮脂きらの上うへに、明あきらかに自他じたの優劣いうれつの刻きぎみ着つけられたのを悟得さとりえて、思おもはず……

『はつ、』と歎息たんそくした。

老爺ぢいは、もつぺの膝ひざの小刀屑こがたなくづを払はたきながら、眉まゆをふさ〱と揺ゆすつて笑わらひ、

『はつはつはつ一ひイ二ふウ三みい! 私等わしらが勝かちぢや。見みさつせえ、形かたちは同おなじやうな出来できだが、の、お前様めえさまの鮒ふなは水みづに入いれると腹はらを出だいたで、死おちた魚いをよ、……私等わしらが鮒ふなは、泳およぎ得えいでも、鰭ひれを立たてたれば活いきた奴やつ。何なんとした処ところで、俎まないたに乗のせれば、人間にんげんの口くちに食くへいでも、翡翠かはせみが来きて狙ねらふたら、ちよつくら潜もぐつて遁にげべいさ。

囲炉裏ゐろりの自在竹じざいだけに引懸ひつかける鯉こひにしても、水みづへ放はなせば活いきねばならぬ。お前様めえさまの鮒ふなのやうに、へたりと腹はらを出だいては明あかねえ。木きを削けづる時ときの釣合つりあひ一ひとつで、水みづに入いれた時とき浮うき方かたが違ちがふでねえかの、縦たてに留とまれば生しやうがある、横よこに寝ねれば、死しんだりよ。……煩むづヶ敷しい事ことではねえだ。

が、お前様めえさま、此この手際てぎはでは、昨夜ゆふべ造つくり上あげて、お天守てんしゆへ持もつてござつた木像もくざうも、矢張やつぱり同おなじ型かたではねえだか。……寸法すんぽふが同おなじでも脚あしの筋すぢが釣つつて居をらぬか、其それでは跛足びつこぢや。右みぎと左ひだりと腕うでの釣合つりあひも悪わるかつたんべい。頬ほつぺたの肉にくが、どつちか違ちがへば、片かたがりべいと言いふ不具かたわぢや、それでは美うつくしい女をんなでねえだよ。

もし、へい、五体ごたいが満足まんぞくな彫刻物ほりものであつたらば、真昼間まつぴるま、お前様めえさまと私わしとが、面つら突合つきあはせた真中まんなかに置おいては動出うごきだしもすめえけんども、月つきの黄色きいろい小雨こさめの夜中よなか、――主ぬしが今いま話はなさしつた、案山子かゝしが歩行あるく中なかへ入いれたら、ひとりで褄つまを取とつて、しやなら、しやならと行やるべい。何なにも、破やぶれ傘がさの化ばけ車ぐるまに骨ほねを折をらせて運はこばせずと済すむ事ことよ。平時いつもなら兎とも角かくぢや、お剰まけに案山子かゝしどもが声こゑを出だいて、お迎むかひ、と言いふ世界せかいなら、第一だいゝちお前様めえさまが其その像ざうを担かついで出でる法ほふはあるめえ。何なんではい、歩行あるけ、さあ、木像もくざう、と言いふ腹はらに成ならしやらぬ。……

其それでは魔物まものが不承知ふしようちぢや。前方さきに些ちつとも無理むりはねえ、気きに入いるも入いらぬもの……出来でき不出来ふできは最初せえしよから、お前様めえさまの魂たましひにあるでねえか。

其処そこへ懸かけては我等わしらが鮒ふなぢや。案山子かゝしが簑みのを捌さばいて捕とらうとするなら、ぴち〱刎はねる、見事みごとに泳およぐぞ。老爺ぢいが広言くわうげんを吐はくではねえ。何なんの、橋はしの欄干らんかんが声こゑを出だす、槐えんじゆが嚏くしやみをすべいなら、鱗うろこを光ひからし、雲くもを捲まいて踊をどりを踊をどらう。

遣直やりなほさつしやい、新あらたにはじめろ、最一まひとつ作つくれさ。

何どうやらお前様めえさまより増ましだんべいで、出来できる事ことさ助言じよごんも為しべい、為して可いい処ところは手伝てつだふべい。

腰こしにつけて道具だうぐも揃そろふ。』

と箙えびらの如ごとく、麻袋あさぶくろを敲たゝいて言いつた。

『すかりと斬きれるぞ。残のこらず貸かすべい。兵粮へうらうも運はこぶだでの! 宿やどへも祠ほこらへも帰かへらねえで、此処こゝへ確乎しつかり胡座あぐらを掻かけさ。下腹したはらへうむと力ちからを入いれるだ。雨露あめつゆを凌しのぐなら、私等わしらが小屋こやがけをして進しんぜる。大目玉おほめだまで、天守てんしゆを睨にらんで、ト其処そこに囚とられてござるげな、最惜いとをしい、魔界まかいの業苦がうくに、長ながい頭髪かみのけ一筋ひとすぢづゝ、一刻いつこくに生血いきちを垂たらすだ、奥様おくさまの苦脳くなうを忘わすれずに、飽あくまで行やれさ、倒たふれたら介抱かいはうすべい。』

雪枝ゆきえは満面まんめんに紅くれなゐを濯そゝいで、天守てんしゆに向むかつて峯みねより高たかく握拳にぎりこぶしを衝つと上あげた。

『少わかいものを唆そゝのかして要いらぬ骨ほねを折をらせるな、娑婆しやばツ気けな老爺おやぢめが、』

と二人ふたりの背後うしろにぬいと立たつた……

苔こけかと見みゆる薄毛うすげの天窓あたまに、笠かさも被かぶらず、大木たいぼくの朽くちたのが月夜つきよに影かげの射さすやうな、ぼけやた色いろの黒染すみぞめ扮装でたちで、顔かほの蒼あをい大入道おほにうだう!

振向ふりむいた老爺おやぢの顔かほを瞰下みおろして、

『覚おぼえて居ゐるか、暗やみの晩ばんを、』と北叟笑ほくそゑみした頬ほゝが暗くらい。

人ひとさし指ゆび

三十九

『おゝ、御坊ごばう?』

『何日いつかの晩ばんの!』

雪枝ゆきえと老爺ぢいは左右さいうから斉ひとしく呼よばわる。

『御身おみも其その時ときの少わかい人ひとな。』と雪枝ゆきえに向むいて、片頬かたほゝを又また暗くらうして薄笑うすわらひを為した。

『血気けつきに逸はやつて、うか〱と老爺ぢいの口くちに乗のらぬが可いい。……其その気きで城趾しろあとに根ねを生はやいて、天守てんしゆと根較こんくらべを遣やらうなら、御身おみは蘆あしの中なかの鉋屑かんなくづ、蛙かへるの干物ひものと成果なりはてやうぞ……此この老爺ぢいはなか〱術てがある! 蝙蝠かはほりを刻きざんで飛とばせ、魚うをを彫ほつて泳およがせる代かはりには、此この年紀としをして怪けしからず、色気いろけがある、……あるは可いいが、汝うぬが身みで持余もてあました色恋いろこひを、ぬつぺりと鯰抜なまづぬけして、人ひとにかづけやうとするではないか。城じやうヶ沼ぬまの暗夜やみを思おもへ!

何なにか、自分じぶんに此この天守てんしゆの主人あるじから、手間賃てまちんの前借まへがりをして居をつて、其その借かりを返かへす羽目はめを、投遣なげやりに怠惰なまけを遣やり、格合かくかうな折をりから、少わかいものを煽あふり立たつて、身代みがはりに働はたらかせやう気きかも計はかられぬ。』

『これ、これ、御坊ごばう、御坊ごばう、』と言いつて締しまつた口くちを尖とがらかす。

相対あひたひする坊主ばうずの口くちは、三日月形みかづきなりに上うへへ大おほきい、小鼻こばなの条すぢを深ふかく莞にやつて、

『いや、暗やみの夜よを忘わすれまい。沼ぬまの中なかへ当あての無ない経きやう読よませて、斎非時ときひじにとて及およばぬが、渋茶しぶちや一ひとつ振舞ふるまはず、既すんでの事ことに私わしは生涯しやうがい坊主ばうずの水車みづぐるまに成ならうとした。』

『む、まづ出家しゆつけの役やくぢや……断念あきらめさつしやい。然さう又また一慨いちがいに説法せつぽふされては、一言いちごんもねえ事ことよ。……けんども、やきもきと精出せいだいて人ひとの色恋いろこひで気きを揉もむのが、主ぬしたち道徳だうとくの役やくだんべい、押死おつちんだ魂たましひさ導みちびくも勤つとめなら、持余もてあました色恋いろこひの捌さばきを着つけるも法ほふではねえだか、の、御坊ごばう。』

『然さればな……いや口くちの減へらぬ老爺ぢゞい、身勝手みがつてを言いふが、一理いちりある。――処ところでな、あの晩ばん四よつ手網であみの番ばんをしたが悪縁あくえんぢや、御身おみが言いふ通とほり色恋いろこひの捌さばきを頼たのまれた事ことと思おもへ。

別べつではない、此この少わかい人ひとの内儀ないぎの事ことでな、』

雪枝ゆきえは屹きつと向直むきなほつた。

流盻しりめに掛かけつゝ尚なほ老爺ぢいに、

『……其その夜よ、夢幻ゆめまぼろしのやうに言托ことづけを頼たのまれて、采さいを験しるしに受取うけとつたは、さて此方衆こなたしゆ知しつての通とほりだ。――頼たのまれた事ことは手廻てまはしに用済ようずみと成なつたでな、翌朝あけのあさ直すぐにも、此処こゝを出発しゆつぱつと思おもふたが、何なにか気きに成なる……温泉宿おんせんやど、村里むらざとを托鉢たくはつして、何なにとなく、ふら〱と日ひを送おくつた。其その様子やうすを聞きけば、私わしが言托ことづけを為した通とほり、何なにか、内儀ないぎの形代かたしろを一心いつしんに刻きざむと聞きく、……其それが成就じやうじゆしたと言いふ昨夜ゆふべぢや。少わかい人ひとが人形にんぎやうを運はこんで行ゆく後あとになり前さきになり、天守てんしゆへ入はいつて四階目しかいめへ上のぼつた、処ところ、柱はしらの根ねに其その木像もくざうを抱緊だきしめて、死しんだやうに眠ねむつて居をる。

はてな、内儀ないぎを未まだ返かへさぬか、一体いつたいどんな魔物まものが棲すむぞ。――其処そこへ行ゆくまでには何なにも目めに着ついたものは無なかつたに因よつて――尚なほ此この上うへか、と最一もうひとツ五階ごかいへ上のぼつて見みた。様子やうすは知しれた。』

と頷うなづいて言いつた。

『何なにが、何者なにものが居ゐるんだ。』と雪枝ゆきえは苛立いらだつて犇ひしと詰寄つめよる。

遮さへぎる如ごとく斜しやに構かまへて、

『いや、何なにか分わからん、ものは見みえん。が、五階ごかいへ上のぼり切きつて、堅かたい畳たゝみの上うへに立たつた。冷つめたい風かぜが冷ひやりと来くると、左ひだりの腕うでがびくりと動うごく、と引立ひつたてたやうに、ぐいと上あがつて、人指指ひとさしゆびがぶる〲と振ふるふとな、何なにかゞ口くちを利きくと同おなじに、其その心こゝろが耳みゝに通つうじた。……

天守てんしゆの主人あるじは、御身おみが内儀ないぎの美艶あでやかな色いろに懸想けさうしたのぢや。理りも非ひもない、業ごふの力ちからで掴取つかみとつて、閨ねや近ちかく幽閉おしこめた。従類じうるゐ眷属けんぞく寄よりたかつて、上あげつ下おろしつ為して責せめ苛さいなむ、笞しもとの呵責かしやくは魔界まかいの清涼剤きつけぢや、静しづかに差置さしおけば人間にんげんは気病きやみで死しぬとな……

言いふまでもない肉にくを屠ほふつて其その血ちを啜すゝるに仔細しさいはないが、夫をつとは香村雪枝かむらゆきえとか。天晴あつぱれ一芸いちげいのある効かひに、其その術わざを以もつて妻つまを償あがなへ! 魔神まじんを慰なぐさめ楽たのしますものゝ、美女びじよに代かへて然しかるべきなら立処たちどころに返かへし得えさする。――

可いいかな、此この心こゝろは早はや御身おみが内儀ないぎに、私わしが頼たのまれて、御身おみに伝つたへた。』

四十

『活いけて視ながめうと思おもふ花はなを、苞つとのまゝ室へやに寝ねかせて置おいて、待搆まちかまへた償つくなひの彼かれは何なんぢや! 聾つんぼの、唖をうしの、明盲人あきめくらの、鮫膚さめはだで腰こしの立たたぬ、針線はりがねのやうな縮毛ちゞれつけ、人膚ひとはだの留木とめきの薫かをりの代かはりに、屋根板やねいたの臭にほひの芬ぷんとする、いぢかり股またの、腕脛うですねの節ふしくれ立たつた木像女もくざうをんなが何なにに成なる! ……悪わるく拳こぶしに采さいを持もたせて、不可思議ふかしぎめいた、神通じんつうめいた、何なにとなく天地あめつちの、言いふに言いはれぬ心こゝろを籠こめたらしい所業しわざが可笑をかしい。笑止千万せうしせんばんな大白痴おほたはけ!』

『ヌ、』とばかりで、下唇したくちびるをぴりゝと噛かんで、思おもはず掴懸つかみかゝらうとすると、鷹揚おうやうに破法衣やぶれごろもの袖そでを開ひらいて、翼つばさの目潰めつぶし、黒くろく煽あふつて、

『と、な、……天守てんしゆの主人あるじが言いはるゝのぢや……それが何なにもない天井てんじやうから、此この指ゆびにぶる〱と響ひゞいて聞きこえた。』

衝つと、天守てんしゆの棟むねを切きつて、人指指ひとさしゆびを空そらに延のばすと、雪枝ゆきえは蒼あをく成なつて、ばつたり膝支ひざつく。

負まけぬ気きの老爺ぢいは、前屈まへこゞみに腰こしを入いれて、

『分わかつた、分わかつたよ、御坊ごばう。お前様めえさまが、仏ほとけでも鬼おにでも、魔物まものでも、唯たゞの人間にんげんの坊様ばうさまでも可ええ。言いはつしやる事ことは腑ふに落おちた……疾はやい話はなしが、此この人ひとな持もつて行いつたは、腹はらを出だいた鮒ふなだで、美うつくしい奥様おくさまとは取替とりかへぬ。……鰭ひれを立たてた魚うをを持もち来こい、返かへして遣やると、恁かうだんべい。

さ、其処そこぢやい! 其処そこどころぢやに因よつて私わしが後見かうけん助言じよごんの為して、勝すぐれた、優まさつた、新あたらしい、……可いゝかの、生命いのちのある……肉附にくづきもふつくりと、脚腰あしこしもすんなりした、膚はだの佳いい、月つきに立たてば玉たまのやう、日ひに向むかへば雪ゆきのやうな、へい、魔王殿まわうどのが一目ひとめ見みたら、松脂まつやにの涎よだれを流ながいて、魂たましひが夜這星よばひぼしに成なつて飛とぶ……乳ちゝの白しろい、爪紅つめべにの赤あかい奴やつを製作こさへると言いはぬかい!

少わかいものを唆そゝのかして、徒労力むだぼねを折をらせると何故あぜで言いふのぢや。御坊ごばう、飛騨山ひだやまの菊松きくまつが、烏帽子えばうしを冠かぶつて、向顱巻むかふはちまきを為して手伝てつだつて、見事みごとに仕上しあげさせたら何なんとする。』

『然されば、言いふ通とほりに仕上しあがつて、其処そこで其その木像もくざうが動うごくかな、目めを働はたらかすかな、指さす手ては伸のび、引ひく手ては曲まがるか、足あしは何どうじや、歩行あるくかな。』

と皆みなまで言いはせず、老爺ぢいが其その眉まゆ、白銀しろがねの如ごとき光ひかりを帯おびて、太陽ひに向むかふ目めを輝かゞやかした。手拍子てべうし拍うつやう、腰こしの麻袋あさぶくろをはた〱と敲たゝいたが、鬼おにに向むかつて臀いしきを掻かく、大胆不敵だいたんふてきの状さまが見みえた。

『天守てんしゆの魔物まものは何時いつから棲すむよ。飛騨国ひだのくにの住人じうにん日本につぽんの刻彫師ほりものし、尾をヶ瀬せ菊之丞きくのじやう孫まごの菊松きくまつ、行年ぎやうねん積つもつて七十一歳しちじふいつさい。極楽ごくらくから剰銭つりせんを取とる年としで、城じやうヶ沼ぬまの女をんなの影かげに憂身うきみを窶やつすお庇かげには、動うごく、働はたらく、彫刻物ほりものは活いきて歩行あるく……独ひとりですら〱と天守てんしゆへ上あがつて、魔物まものの閨ねやに推参すゐさんする、が、張はりも意地いぢも着ついて居をるぞ、其その時とき嫌きらはれぬ用心ようじんさつせえ、と御坊ごばうに言托ことづけを頼たのまうかい。』

『可よい、可よい。』

ニヤ〱と両りやうの頬ほゝを暗くらくして、あの三日月形みかづきなりの大口おほぐちを、食反くひそらして結むすんだまゝ、口元くちもとをひく〱と舌したの赤あかう飜かへるまで、蠢うごめかせた笑わらひ方かたで、

『面白おもしろい! 旅たびのものぢやが、其それも聞きいた。此方こなたが手遊てあそびに拵こしらえる、五位鷺ごゐさぎの船頭せんどうは、翼つばさで舵取かぢとり、嘴くちばしで漕こいで、水みづの中なかで火ひを吐はくとな………』

『天守てんしゆの上うへから御覧ごらんなされ、太夫たいふほんの前芸まへげいにござります、ヘツヘツヘツ』とチヨンと頭かしらを下さげて揉手もみでを為して言いふ。

『おゝ、其その面魂つらだましひ頼母たのもしい。満更まんざらの嘘うそとは思おもはん。成程なるほど此方こなたが造つくつた像ざうは、目めも瞬またゝかう、歩行あるかう、厭いやなものには拗すねもせう。……然されば御身おみは、少わかいものゝ尻圧しりおしして石いしに成なるまでも働はたらけ、と励はげますのぢや。で、唆そゝのかすとは思おもふまい。徒労力むだぼねをさせるとは知しるまい。が、私わしは、無駄むだぢや留やめい、と勧すゝめる……其その理由わけを言いうて聞きかさう。

其処そこで、老爺おやぢ、』

『おい、』

『御身おみが言いふ、其その像ざうには血ちが通かよふか、』

『血ちが通かよふだ?』と聞返きゝかへす。

『然さればよ、針はりの尖さきで突ついても生命いのちを絞しぼる、其その、あの人間にんげんの美うつくしい血ちが通かよふかな。』

『…………』と老爺ぢいの眉まゆがはじめて顰ひそむ。

四十一

黒坊主くろばうずは嵩かさに懸かゝつて、

『まだ聞ききたい。御身おみが作さくの其その膚はだは滑なめらかぢやらう。が、肉にくはあるか、手てに触ふれて暖味あたゝかみがあるか、木像もくざうの身みは冷つめたうないか。』

『はてね、』と問とひを怪あやしむ中なかに、些ちとひるんだのが、頬ほに出いづる。

『第一だいゝち肝要かんえうなは口くちを利きくかな、御身おみの作さくは声こゑを出だすか、ものを言いふかな。』

『馬鹿ばかな事ことを、無理無躰むりむたいぢや。』

と呆果あきれはてた様子やうすであつた。

『理りも非ひもない。はじめから人ひとの妻つまを掴つかみ取とつてものを云いふ、悪魔あくまの所業しわざぢや、無理むりも無躰むたいも法外ほふぐわいの沙汰さたと思おもへ。

此所こゝを聞きけよ、二人ふたりの人ひと。……御身達おみたちが、言いふ通とほり、今いま新あたらしく遣直やりなほせば、幾干いくらか勝すぐれたものは出来できやう、がな、其それは唯たゞ前まへのに較くらべて些ちと優まさると言いふばかりぢや。

其それも可よからう、何なにも持もたぬ、空むなしい乏とぼしいものに取とつたら、御身達おみたちが作つくり更あらためると云いふ其その木像もくざうでも、無ないよりは増ましぢや、品しなに因よつて、美うつくしいとも、珍めづらしいとも思おもはうも知しれぬ。

けれどもな、天守てんしゆの主人あるじは、最もう手ての内うちに、活いきた、生命いのちある、ものを言いふ、血ちの通かよふ、艶麗あでやかな女をんなを握にぎつて居ゐるのぢや。可よいか、其それに代かへやうと言いふからには、蛍ほたると星ほし、塵ちりと山やま、露つゆ一滴いつてきと、大海だいかいの潮うしほほど、抜群ばつぐんに勝すぐれた立優たちまさつたもので無ないからには、何なにを又また物好ものずきに美女びぢよを木像もくざうと取とり代かへやう。

彫刻ほりした鮒ふなの泳およぐも可よい。面白おもしろうないとは言いはぬが、煎にる、焼やく、或あるひは生なまのまゝ其その肉にくを噉くらはうと思おもふものに、料理りやうりをすれば、炭すみに成なる、灰はひに成なる、木きの切きれを何なににせい、と言いふ了見れうけんだ。

悪魔あくまは今いま其その肉にくを欲ほつする、血ちを求もとむる……仏ほとけが鬼女きぢよを降伏がうぶくしてさへ、人肉じんにくのかはりにと、柘榴ざくろを与あたへたと言いふでは無ないか。

既すでに目指めざす美女びぢよを囚とらへて、思おもふがまゝに勝矜かちほこつた対手あひてに向むかふて、要いらぬ償つくなひの詮議せんぎは留やめろ。

何どうぢや、それとも、御身達おみたちに、煙草たばこの吸殻すゐがらを太陽たいやうの炎ほのほに変かへ、悪魔あくまの煩脳ぼんなうを「煩脳を」はママ焼亡やきほろぼいて美女びぢよを助たすける工夫くふうがあるか、すりや格別かくべつぢや。よもあるまい。有あるか、無なからう。……

それ、徒労力むだぼねと言いふ事ことよ! 要えうもない仕事三昧しごとざんまい打棄うつちやつて、少わかい人ひとは妻つまを思切おもひきつて立帰たちかへれえ。老爺おやぢも要いらぬ尻押しりおしせず、柔順すなほに妻つまを捧さゝげるやうに、少わかいものを説得せつとくせい。

勝手かつてに木像もくざうを刻きざまば刻きざめ、天晴あつぱれ出来でかしたと思おもふなら、自分じぶんに其それを女房にようぼうのかはりにして、断念あきらめるが分別ふんべつの為処しどころだ。見事みごとだ、美うつくしいと敵手あひてを強しゆるは、其方そつちの無理むりぢや、分わかつたか。』

と衝つと指ゆびを上あげて雲くもを指さした。

『天守てんしゆの主人あるじの言托ことづけは此この通とほり。更あらためて其その印しるしを見みせう、……前刻さきにも申まをした、鮫膚さめはだの縮毛ちゞれけの、醜みにくい汚きたない、木像もくざうを、仔細しさいありげに装よそほふた、心根こゝろねのほどの苦々にが〱しさに、へし折をつて捻切ねぢきつた、女をんなの片腕かたうで、今いま返かへすわ、受取うけとれ。』

と法衣ころもの破目やぶれめを潜くゞらす如ごとく、懐ふところから抜ぬいて、ポーンと投出なげだす。

途端とたんに又また指ゆびを立たてつゝ、足あしを一巾ひとはゞ、坊主ばうずが退さがつた。孰いづれも首垂うなだれた二人ふたりの中なかへ、草くさに甲かうをつけて、あはれや、其それでも媚なまめかしい、優やさしい腕かひなが仰向あふむけに落おちた。

雪枝ゆきえは唯たゞ肩かたを抱いだいて身みを絞しぼつた。

老爺ぢいは、さすがに、まだ気丈きじやうで、対手あひてが然さまでに、口汚くちぎたなく詈ののしり嘲あざける、新弟子しんでしの作さくの如何いかなるかを、はじめて目前まのあたり験ためすらしく、横よこに取とつて熟じつと見みて、弱よわつたと言いふ顰ひそみ方かたで、少時しばらくものも言いはなんだ。薄うすうは成なつたが、失うせ果はてない、底光そこひかりのする目めを細ほそうして、

『いや、御出家ごしゆつけ。』

と調子てうしを変かへて……

『虫むしの居所ゐどころで赫くわつとも為したがの、考かんがえて見みれば、お前様めえさまは、唯たゞ言托ことづけを頼たのまれたばかりの事ことよ。何なにも喰くつて懸かゝるには当あたらなんだか。……又またお前様めえさまとても何なにもこれ、此この少わかい人ひとに怨うらみも恩おんも報むくひもあらつしやる次第しだいでねえ。……処ところでものは相談さうだんぢやが、何なんとかして、其その奥様おくさまを助たすけると言いふ工夫くふうはねえだか、のう、御坊ごばう、人助ひとだすけは此方こなたの勤つとめぢや、一ひとつ折入をりいつて頼たのむだで、勘考かんかうしてくらつせえ。』とがらりと出直でなほる。

四十二

これを聞きくと、然さもあらむ、と言いふ面色おもゝちした坊主ばうずの気色きしよくやゝ和やわらいで、

『然されば、然さう言いはれると私わしも弱よわる。天守てんしゆからは、よく捌さばけ、最早もはや婦をんなを思おもひ切きるやう少わかい人ひとを悟さとせとある……御身達おみたちは生命いのちに代かへても取戻とりもどしたいと断たつて言いふ。

で、其それを取戻とりもどす唯一たゞひとつの手段てだてと言いふのが、償つくなひの像ざうを作つくるにある、其その像ざうが、御身おみたちに、』

『えゝ、えゝ、最もう、能よう分わかつた。何なんぼ私わしが顱巻はちまきしても、血ちの通かよふ、暖あたゝかい彫刻物ほりものは覚束おぼつかないで、……何なんとか別べつの工夫くふうを頼たのむだ、最もう此こなものは、』と手てにした腕かひなを、思切おもひきつたしるしに、擲たゝきつけやうとして揮上ふりあげた、……其その拳こぶしを漏もれて、ころ〱と采さいが溢こぼれて。一いちか六ろくか、草くさの中なかに、ぽつりと蟋蟀こほろぎの目めに留とまんぬ。

三人さんにんが熟じつと視ながめた。

坊主ばうずが先まづ、

『老爺おやぢ……』と心こゝろありげに呼よんだ。

『はあ、是これぢや、』

と采さいの上うへで蓋ふたするやうに、老爺ぢいは眉まゆの下したへ手てを翳かざして、

『ちよつくら気きが着ついた事ことがある、待またつせえ、御坊ごばう……』

『…………、』

『少わかい人ひとも何どう思おもふ。お前様めえさまが小児こどもの時とき、姉様あねさまにして懐なつかしがらしつたと言いふ木像もくざうから縁えんを曳ひいて、過日こないだ奥様おくさまの行方ゆきがたが分わからなく成なつた時ときから廻まはり繞めぐつて、采粒さいつぶが着つき絡まとふ、今いま此処こゝに采さいがある……此この山奥やまおくに双六すごろくの巌いはがある。其処そこも魔所ましよぢやと名なが高たかい。時々とき〲山やまが空くうに成なつて寂しんとすると、ころころと采さいを投なげる音おとが木樵きこりの耳みゝに響ひゞくとやら風説ふうせつするで。天守てんしゆにも主人あるじがあれば双六巌すごろくいはにも主ぬしが棲すまう……どちらも膚合はだあひの同おなじ魔物まものが、疾はええ話はなしが親類附合しんるゐつきあひで居ゐやうも知しれぬだ。魔界まかいは又また魔界まかい同士どうし、話はなしの附つけ方かたもあらうと思おもふ、何どうだね、御坊ごばう。』

坊主ばうずも二三度にさんど頷うなづいた。で、深ふかく其その広ひろい額ひたひを伏ふせた。

『いや、可いい処ところに気きが着ついた、……何なんにせい、此この上うへは各々おの〱我がを張はらずに人頼ひとだのみぢや。頼たのむには、成程なるほど其その辺へんであらうかな。』

『行いつて見みべい。方角はうがくは北東きたひがし、槍やりヶ嶽だけを見当けんたうに、辰巳たつみに当あたつて、綿わたで包つゝんだ、あれ〱天守てんしゆの森もりの枝下えださがりに、峯みねが見みえる、水みづが見みえる、又また峯みねが見みえて水みづが曲まがる、又また一ひとつ峯みねが抽出ぬきでて居をる。あの空そらが紫立むらさきだつてほんのり桃色もゝいろに薄うすく見みえべい。――麻袋あさふくろには昼飯ひるめしの握にぎつた奴やつ、余あまるほど詰つめて置おく、ちやうど僥幸さいはひ、山やまの芋いもを穿ほつて横噛よこかじりでも一日いちにち二日ふつかは凌しのげるだ。遣やりからかせ、さあ、ござい。少わかい人ひと。……お前様めえさま、其その采さいを拾ひろはつしやい。御坊ごばう、』

『乗のりかゝつた船ふねぢや、私わしも行ゆく。……』

で、連立つれだつて、天守てんしゆの森もりの外そとまはり、壕ほりを越こえて、少時しばらく、石垣いしがきの上うへを歩行あるいた。

爾時そのとき、十八九人じふはつくにんの同勢どうぜいが、ぞろ〱と野のを越こえて駆かけて来きた。中なかには巡査じゆんさも交まじつたが、早はや壕ほりの向むかふの高たかい石垣いしがきの上うへに、森もりの枝えだを伝つたふ躰ていの雪枝ゆきえの姿すがたを、小ちひさな鳥とりに成なつて、雲くもに入いり行ゆく、と視ながめたであらう。……

手てを挙あげ、帽ばうを振ふり、杖ステツキを廻まはしなどして、わあわつと声こゑを上あげたが、其その内うちに、一人ひとり、草くさに落おちた女をんなの片腕かたうでを見みたものがある。それから一溜ひとたまりもなく裏崩うらくづれして、真昼間まつぴるまの山やまの野原のばらを、一散いつさんに、や、雲くもを霞かすみ。

森もりの幕まくが颯さつと落おちて、双六谷すごろくだにが舞台ぶたいの如ごとく眼前めのまへに開ひらかれたやうに雪枝ゆきえは思おもつた。……悪処あくしよ難路なんろを辿たどりはしたが、然さまで時ときが経たつたとも思おもはず、別べつに其それが為ために、と思おもふ疲労つかれも増まさない。で、足あしを運はこぶ内うちに至いたり着ついたので、宛然さながら、城址しろあとの場所ばしよから、森もりを土塀どべいに、一重ひとへ隔へだてた背中合せなかあはせの隣家となりぐらゐにしか感かんじない。――最もつとも案内あんないをすると云いふ老爺ぢいより、坊主ばうずの方はうが、すた〱先さきへ立たつて歩行あるいたが。

時ときに、真先まつさきに、一朶いちだの桜さくらが靉靆あいたいとして、霞かすみの中なかに朦朧もうろうたる光ひかりを放はなつて、山懐やまふところに靡なびくのが、翌方あけがたの明星みやうじやう見みるやう、巌陰いはかげを出でた目めに颯さつと映うつつた。

四五六谷しごろくだに

四十三

「叱しつ!」

と老爺ぢいが警蹕けいひつめいた声こゑを、我われと我わが口くちへ轡くつわに懸かける。

トなだらかな、薄紫うすむらさきの崖がけなりに、桜さくらの影かげを霞かすみの被衣かつぎ、ふうわり背中せなかから裳すそへ落おとして、鼓草たんぽゝと菫すみれの敷満しきみちた巌いはを前まへに、其その美女たをやめが居ゐたのである。

少時しばらく、一行いつかうは呼吸いきを凝こらした。

見みよ! 見みよ! 巌いはの面めんは滑なめらかに、質しつの青あをい艶つやを刻きざんで、花はなの色いろを映うつしたれば、恰あたかも紫むらさきの筋すぢを彫ほつた、自然しぜんに奇代きたいの双六磐すごろくいは。磐面ばんめんには花はなを摘つんだ、大輪だいりんの菫すみれと鼓草たんぽゝとが、陽炎かげらふの輝かゞやく中なかに、鼓草たんぽゝは濃こく、菫すみれは薄うすく、美うつくしく色いろを分わかつて、十二輪じふにりん、十二輪じふにりん、二十四輪にじふしりんの駒こまなるよ……向むかふ合あはせに区劃くぎりを隔へだてゝ、二輪にりん、一輪いちりん、一輪いちりん、二輪にりん、空そらに蒔絵まきゑした星ほしの如ごとく、浮彫うきぼりしたやう並ならべられた。

美女たをやめは、やゝ俯向うつむいて、其その駒こまを熟じつと視ながめる風情ふぜいの、黒髪くろかみに唯たゞ一輪いちりん、……白しろい鼓草たんぽゝをさして居ゐた。此この色いろの花はなは、一谷ひとたにに他ほかには無なかつた。

軽かるく其その黒髪くろかみを戦そよがしに来くる風かぜもなしに、空そらなる桜さくらが、はら〱と散ちつたが、鳥とりも啼なかぬ静しづかさに、花片はなびらの音おとがする……一片ひとひら……二片ふたひら……三片みひら……

「三みツつ」と鶯うぐひすのやうな声こゑ、袖そでのあたりが揺ゆれたと思おもへば、蝶てふが一ひとツひら〱と来きて、磐ばんの上うへをすつと行ゆく……

「一ひとつ、」

と美女たをやめは又また算かぞへて、鼓草たんぽゝの駒こまを取とつて、格子かうしの中なかへ、……菫すみれの花はなの色いろを分わけて、静しづかに置替おきかへながら、莞爾につこと微笑ほゝゑむ。……

気高けだかい中なかに其その優やさしさ。

「は、」と、思おもはず雪枝ゆきえは、此方こなたに潜ひそみながら押堪おしこらへた息いきが発奮はづんだ。

「誰たれ? ……」

と美女たをやめの声こゑが懸かゝる。

老爺ぢいは咳しはぶきを一ひとつ故わざとして、雪枝ゆきえの背中せなかを丁とんと突出つきだす。これに押出おしだされたやうに、蹌踉よろめいて、鼓草たんぽゝ菫すみれの花はなを行ゆく、雲くも踏ふむ浮足うきあし、ふらふらと成なつたまゝで、双六すごろくの前まへに渠かれは両手りやうてを支ついて跪ひざまづいたのであつた。

坊主ばうずは懐中ふところの輪袈裟わげさを取とつて懸かけ、老爺ぢいは麻袋あさふくろを探さぐつた、烏帽子えぼうしを丁チヨンと冠かぶつて、更あらためてづゝと出でた。

美女たをやめは密そと鬢びんを圧おさへた。

声こゑも出だせぬ雪枝ゆきえに代かはつて、老爺ぢいが始終しゞうを物語ものがたつた……

坊主ばうずは、時々とき〲眼まなこを開ひらいて、聞澄きゝすます美女たをやめの横顔よこがほを窺うかゞひ見みる。

「お姫様ひめさま、」

と語かたり果はてゝ老爺ぢいが呼よんで、

「お助たすけを遣つかはされ、さあ、少わかい人ひと、願ねがへ。」

「姫様ひいさま、」

と雪枝ゆきえは、窶やつれに窶やつれた人間にんげんの顔かほして見上みあげた。

「上﨟じやうらうどの、」と坊主ばうずも言足いひたす。

美女たをやめは引合ひきあはせた袖そでを開ひらいた。而そして、

「天守てんしゆのお使者つかひ、天守てんしゆのお使者つかひ。」

と二声ふたこゑ呼よばるゝ。

「やあ、拙僧わしが事ことか、」と、間まを措おいて坊主ばうずが答こたへた。

「あの、其その指ゆびをお指さしになれば、天守てんしゆの方かたの、お心こゝろが通つうじますかえ。」

「如何いかにも。」と片手かたてを握にぎつて、片手かたてを其その蒼あをい頬ほゝげたに並ならべて、横よこに開ひらいて応おうじたのである。

「双六すごろくを打うつて賭かけませう。私わたしは其その他ほかの事ことは何なんにも知しらねば……而そして、私わたしが負まけましたら、其切それきり仕方しかたがありません。もし、あの、私わたしが勝かちとなれば、此このお方かたの其その奥様おくさまを、恙つゝがなう、お戻もどしになりますやうに……お約束やくそくが出来できませうか。」

と物優ものやさしいが力ちからある声こゑして聞きく。

坊主ばうずは言下ごんかに空くうを指さした。

「天守てんしゆに於おいては、予かねて貴女あなたと双六すごろくを打うつて慰なぐさみたいが、御承知ごしようちなければ、致いたしやうも無なかつた折をりから……丁ちやうど僥倖さいはひ、いや固もとより、固もとより望のぞみ申まをす処ところ……とある!」

四十四

美女たをやめは世よにも嬉うれしげに……早はや頼たのまれて人ひとを救すくふ、善根ぜんこん功徳くどくを仕遂しとげた如ごとく微笑ほゝゑみながら、左右さいうに、雪枝ゆきえと老爺ぢいとを艶麗あでやかに見みて、清すゞしい瞳ひとみを目配めくばせした。

「そんなら、私わたしが勝かちましたら、奥様おくさまをお返かへしなさいますね。」

「御念ごねんに及およばぬ、城じやうヶ沼ぬまの底そこに湧わく……霊泉れいせんに浴ゆあみさせて、傷きづもなく疲労つかれもなく苦悩くなうもなく、健すこやかにしてお返かへし申まをす。」

美女たをやめは、十二じふにの数かずの、黄きと紫むらさきを、両方りやうはうへ、颯さつと分わけて、

「天守てんしゆのお方かた。どちらの駒こまを……」

「赫耀かくやくとして日ひに輝かゞやく、黄金わうごんの花はなは勝色かちいろ、鼓草たんぽゝを私わしが方はうへ。」

と痩やせた頬ほゝげたの膨ふくらむまで、坊主ばうずは浮色うきいろに成なつて笑ゑみを含ふくんで、駒こまを二ふたつづゝ六行ろくぎやうに。

同おなじく二ふたつづゝ六行ろくぎやうに……紫むらさきの格子かうしに並ならべた。

「紫むらさきは朱あけを奪うばふ、お姫様ひめさま菫すみれの花はなが、勝負事しようぶごとには勝色かちいろぢや。」

と老爺ぢいは盤面ばんめんを差覗さしのぞいて、坊主ばうずを流盻しりめに勇いさんだ顔色かほつき。

これに苦笑にがわらひ為して口くちを結むすんだ、坊主ばうずは心急こゝろせく様子やうすが見みえて、

「ざ! 上﨟じやうらう、」

「お客きやくなれば貴僧あなたから、」

「や、采さいは、上﨟じやうらう。」と高声たかごゑで言いつた。

「空そらを行ゆく雲くもの数かづ、」

と眉まゆを開ひらいて見上みあぐる天てんを、白しろい雲くもが来きては消きえ、白しろい雲くもが来きては消きえする。

「桜さくらの花はなの散ちるのを数かぞへ、舞まひ来くる蝶てふの翼つばさを算よんで、貴僧あなた、私わたしと順々じゆん〱に。」

坊主ばうずは頷うなづいて袈裟けさを揺ゆすつた。

「言いふ目め。」

と高たかく美女たをやめが。

「乞目こひめ、」

と坊主ばうずが、互たがひに一声ひとこゑ。鶯うぐひすと梟ふくろふと、同時どうじに声こゑを懸合かけあはせた。

「一ひとつ来きて、二ふたつぢや。」

と鶴つるの姿すがたの雲くもを睨にらんで、鼓草たんぽゝは格子かうしを動うごく。

ト美女たをやめは袂たもとを取とつて、袖そでを斜なゝめに、瞳ひとみを流ながせば、心こゝろある如ごとく桜さくらの枝えだから、花片はなびらがさら〱と白しろく簪かざしの花はなを掠かすめる時とき、紅くれないの色いろを増まして、受うけ取とる袖そでに飜然ひらりと留とまつた。

「右みぎが三みつつ、」

と袖そでを返かへして、左ひだりの袂たもとを静しづかに引ひくと、また花片はなびらがちらりと来くる。

「一ひとつと二ふたつ、」

と菫すみれの花はなが白しろい指ゆびから格子かうしへ入はいつた。

「雲くもよ、雲くもよ、雲くもよ、」

と呼よんで、気色けしきばんで、やゝ坊主ばうずがあせり出だした。――争あらそひの半なかばであつた。

「雲くもが来くる、花はなが降ふる。や、此この采さいは気きが長ながいぞ。見みて居ゐる内うちに斧をのの柄えが朽くち、玉手箱たまてばこが破やぶれうも知しれぬが。少わかい人ひと、其その采さいを……其その采さいを出ださつしやい。うつかり見惚みとれて私わしも忘わすれた。」

と目めの覚さめたやうに老爺ぢいが言いつた。

青年わかものは疾とくから心着こゝろづいて、仏舎利ぶつしやりのやうに手てに捧さゝげて居ゐたのを、密そつと美女たをやめの前まへへ出だした。

「一ひとつ振ふつたり、」

と老爺ぢいが傍かたはらから、肝入きもいれして、采さいを盤石ばんに投なげさせた。

「お姫様ひいさま、それ〱、星ほしが一ひとつで、梅うめが五ごぢや。瞬またゝきする間まに、十度とたびも目めが出でる。早はやく、もし、其それで勝負しようぶを着つけさつせえまし。」

「天下てんかの重宝ちやうほう、私わしもつひ是これに気きが着つかなんだ。」

と坊主ばうずは手早てばやく拾ひろひ取とる。

「いえ、急いそいでは成なりません、花はなの数かず、蝶てふの数かず、雲くもの数かずで無なくつては。」と美女たをやめは頭かしらを振ふつた。

「えゝ、お姫様ひいさまの! 何どうやら今いままでの乞目こひめでは、一度いちどに一年いちねんも懸かゝりさうぢや。お庇かげと私等わしらは飢ひもじうも、だるうも無なけれど、肝心かんじん助たすけ取とらうと云いふ、奥様おくさまの身みをお察さつしやれ。一息ひといきに血ち一点ひとたらし、一刻いつこくに肉にく一分いちぶは絞しぼられる、削けづられる……天守てんしゆの梁うつばりに倒さかさまで、身みの鞭むちに暇ひまはないげな。」

「其その通とほり。」と傲然がうぜんとして、坊主ばうずは身構みがまへ為して袖そでを掲かゝげた。

四十五

美女たをやめの顔かほの色いろは早はや是非ぜひなげに見みえた。

一いちが起おき、六ろくが出いで、三さんに変かはり、二にに飜かへり、五ごが並ならぶ。天てんに星ほしの輝かゞやく如ごとく、采さいの目めの疾とく、駒こまの烈はげしく動うごくに連つれて、中空なかぞらを見みよ、岫しうを湧わき、谷たにを飛とぶ、消きえた雲くもが残のこり、続つゞく雲くもが累かさなり、追おふ雲くもが結着むすびついて、雲くもはやがて厚あつく、雲くもはやがて濃こく、既すでにして近ちかくなり、低ひくく成なつた。……

忽たちまち一片いつぺん、美女たをやめの面おもてにも雲くもの影かげが映さすよと見みれば、一谷ひとだには暗くらく成なつた。

鋭するどき山颪やまおろしが颯さと来くると、舞下まひさがる雲くもに交まじつて、漂たゞよふ如ごとく菫すみれの薫かほりが𤏋ぱつとしたが、拭ぬぐひ去さつて、つゝと消きえると、電いなづまが空くうを切きつた。……坊主ばうずの法衣ころもは、大巌おほいはの色いろの乱みだれた双六すごろくの盤ばんを蔽おほふて、四辺あたりは墨すみよりも蔭かげが黒くろい。

ト暗夜あんやの如ごとき山懐やまふところを、桜さくらの花はなは矢やを射ゐるばかり、白しろい雨あめと散ちり灌そゝぐ。其その間あひだをくわつと輝かゞやく、電光いなびかりの縫目ぬいめから空そらを破やぶつて突出つきだした、坊主ばうずの面つらは物凄ものすさましいものである……

唯と見みれば、頭かしらに、無手むづと一本いつぽんの角つの生おひたり。顔面がんめん黒くろく漆うるしして、目めの隈くま、鼻頭はなづら、透通すきとほる紫陽花あぢさゐに藍あゐを流ながし、額ひたひから頤あぎとに掛かけて、長ながさ三尺さんじやく、口くちから口くちへ其その巾はゞ五尺ごしやく、仁王にわうの顔かほを上うへに二ふたつ下したに三みつ合あはせたばかり、目めに余あまる大おほきさと成なつて、カチ〱と歯はの鳴なる時とき、鰐わにかと思おもふ大口おほぐちを赫くわつと開ひらいて、上頤うはあごを嘗なめる舌したが赤あかい。

「騒さわぐまい、時々とき〲ある……深山幽谷しんざんいうこくの変へんじや。少わかい人ひと、誰たれの顔かほも何どの姿すがたも、何どう変かはるか知しんねえだ! 驚おどろくと気きが狂くるふぞ、目めを塞ふさいで踞せぐゝまれ、蹲しやがめ、突伏つゝふせ、目めを塞ふさげい。」

と老爺ぢいが呼よばはる。

雪枝ゆきえはハツと身みを伏ふせて、巌いはに吸込すひこまれるかと呼吸いきを詰つめたが、胸むねの動悸だうきが、持上もちあげ揺上ゆりあげ、山谷さんこく尽こと〲く震ふるふを覚おぼえた。

殷々ゐん〱として雷らいが響ひゞく。

音おとの中なかに、

「切きらう!」

と思切おもひきつた美女たをやめの、細ほそい透とほる声音こはねが、胸むねを抉えぐつて耳みゝを貫つらぬく。

「何なにを、切きればと言いふて早はや今いまは……乞目こひめ!」

と誇立ほこりたつた坊主ばうずの声こゑが響ひゞいたが。

「やあ、勝かつた。」

と叫さけんで、大音だいおんに呵々から〱と笑わらふと斉ひとしく、空そらを指さした指ゆびの尖さきへ、法衣ころもの裙すそが衝つと上あがつた、黒雲くろくもの袖そでを捲まいて、虚空こくうへ電いなづまを曳ひいて飛とぶ。

と風かぜの余波なごりに寂しんとして、谷たには瞬またゝく間まに、もとの陽炎かげらふ。

が、日ひの光ひかりやゝ弱よわく、衣きぬのひた〱と身みに着つく処ところに、薄うすい影かげが繊細かほそくさして、散乱ちりみだれた桜さくらの花はなの、背せに頸くびにかゝつたまゝ、美女たをやめは、手てを額ひたひに当あてゝ、双六盤すごろくばんに差俯向さしうつむいて、ものゝ悩なやましげな風情ふぜいであつた。

「お姫様ひめさま、」

と風かぜに曲ゆがんだ烏帽子えばうしの紐ひもを結直ゆひなおしたが、老爺ぢいの声こゑも力ちからが無なかつた。

「姫様ひいさま。」

と膝行いざり寄よつて、……雪枝ゆきえが伸上のびあがるやうに膝ひざを支ついて、其その袖そでのあたりを拝をがんだ。

「頼たのまれたのに、済すみません。」

二筋ふたすぢ三筋みすぢ、後毛をくれげのふりかゝる顔かほを上あげて、青年わかものの顔かほを凝じつと視ながめて、睫毛まつげの蔭かげに花はなの雫しづく、衝つと光ひかつて、はら〱と玉たまの涙なみだを落おとす。

老爺ぢいも鼻はなを詰つまらせた。

雪枝ゆきえは身みを絞しぼつて湧出わきいづるやうに、熱あつい、柔やはらかい涙なみだが流ながれた。

「断念あきらめます、……断念あきらめる……私わたくしはお浦うらを思切おもひきります。何どうぞ、其その代かはり、夢ゆめでも可いい、夢ゆめなら何時いつまでも覚さめずに、私わたくしを此処こゝに、貴女あなたの傍そばにお置おき下ください。

貴下あなた、生効いきがひのない私わたくし、罰ばちも当あたれ、死しんでも構かまはん。」

と前倒まへたふしに身みを投なげて、犇ひしと美女たをやめの手てに縋すがると、振ふりも払はらはず取添とりそへて、

「雪様ゆきさま。」

と優やさしく言いふ。

「え、」

いや、老爺ぢいも驚おどろくまいか。

獅子しゝの頭かしら

四十六

「お懐なつかしい。私わたしは貴下あなたが七歳なゝつの年紀とし、お傍そばに居ゐたお友達ともだち……過世すぐせの縁えんで、恋こひしう成なり、いつまでも〱、御一所ごいつしよにと思おもふ心こゝろが、我知われしらず形かたちに出でて、都みやこの如月きさらぎに雪ゆきの降ふる晩ばん。其その雪ゆきは、故郷ふるさとから私わたしを迎むかひに来きたものを、……帰かへる気きは些ちつとも無なしに、貴下あなたの背せなに凭よりかゝつて、二階にかいの部屋へやへ入はいりしなに、――貴下あなたのお父様とうさまが御覧ごらんの目めには、……急きふに貴下あなたが大おほきく成なつて、年としごろも対つゐくらゐ、私わたしと二人ふたりが夫婦ふうふのやうで熟じつと抱合だきあふ形かたちに見みえて、……怪あやしい女をんなと、直すぐに其その場ばで、暖炉ストーブの灰はいにされましたが、戸との外面そともからひた〱寄よる……迎むかひの雪ゆきに煙けむりを包つゝんで、月つきの下したを、旧もとの此この故郷ふるさとへ帰かへりました。

非情ひじやうのものが、恋こひをした咎とがめを受うけて、其その時ときから、唯たゞ一人ひとりで、今いままでも双六巌すごろくいはの番ばんをして、雨露あめつゆに打うたれても、……貴下あなたの事ことが忘わすれられぬ。

其その心こゝろが通つうずるのか、貴下あなたも年月としつき経たち、日ひが経たつても、私わたしの事ことをお忘わすれなさらず、昨日きのふまでも一昨日おとゝひまでも、思おもひ詰つめて居ゐて下くださいましたが、奥様おくさまが出来できたので、つひ余所事よそごとになさいました。

それをお怨うらみ申まをすのではない。嫉妬ねたみも猜そねみもせぬけれど、……口惜くちをしい、其それがために、敵かたきから仕事しごとの恥辱ちじよくをお受うけ遊あそばす。……雲くも、花片はなびらの数かずを算よめば、思おもふまゝの乞目こひめが出でて、双六すごろくに勝かてたのに、……唯たゞ一刻いつこくを争あらそふて、焦あせつてお悶もだへ遊あそばすから、危あぶないとは思おもひながら、我儘わがまゝおつしやる可愛かあいらしさに、謹慎つゝしみもつひ忘わすれ、心こゝろが乱みだれて、よもやに曳ひかされ、人間にんげんの采さいを使つかつたので、効かひなく敵かたきに負まけました。貴下あなたも、悪わるい、私わたしも悪わるい。

あゝ、花はなも恁かう乱みだれぬうち、雲くもの中うちから奥様おくさまを助たすけ出だし、こゝへ並ならべて、蝶てふの蔭かげから、貴下あなたの喜よろこぶ顔かほを見みて、其その後あとで名告なのりたうごさんした。」

としめやかに朱唇しゆしんが動うごく、と花はなが囁さゝやくやうなのに、恍惚うつとりして我われを忘わすれる雪枝ゆきえより、飛騨ひだの国くにの住人じゆうにん以もつての外ほか畏縮ゐしゆくに及およんで、

「南無三宝なむさんぽう、あやまり果はてた。」と烏帽子えばうしを掻かいて猪頸ゐくびに窘すくむ。

「いえ〱此これも定さだまる約束やくそく。……しかし、尚なほ懐なつかしい。奥様おくさまを思切おもひきり、世よを捨すてゝも私わたしの傍そばに命いのちをかけて居ゐやうとおつしやる。其そのお言葉ことばで奥様おくさまは救すくはれます……私わたしも又また命いのちにかけても、お望のぞみを遂とげさせましやう。

さあ、貴下あなた、あらためて、奥様おくさまを償つくなふための、木彫きぼりの像ざうをお作つくり遊あそばせ、勝すぐれた、優まさつた、生命いのちある形代かたしろをお刻きざみなさい。

屹きつと敵かたきに不足ふそくは言いはせぬ。花片はなびらを雪ゆきにかへて、魔物まものの煩悩ぼんなうのほむらを冷ひやす、価値ねうちのあるのを、私わたくしが作つくらせませう、……お爺ぢいさん、」

と見返みかへつて、

「貴翁あなたがお家いへ重代じゆうだいの、其その小刀こがたなを、雪様ゆきさまにお貸かし下くださいまし。」

「心得こゝろえました。」

と謹つゝしんで持もつて寄よる、小刀こがたなを受取うけとると、密そと取合とりあつた手てを放はなして、柔やはらかに、優やさしく、雪枝ゆきえの手ての甲かうの、堅かたく成なつて指ゆびも動うごかぬを、撫なでさすりつゝ、美女たをやめが其その掌てのひらに握にぎらせた。

四辺あたりを眴みまはし、衣紋えもんを直なほして、雪枝ゆきえに向むかつて、背後向うしろむきに、双六巌すごろくいはに、初はじめは唯と腰こしを掛かける姿すがたと見みえたが、褄つまを放はなして、盤ばんの上うへへ、菫すみれ鼓草たんぽゝの駒こまを除よけて、采さいを取とつて横よこに寐ねた。

陽炎かげらふが裳もすそに懸かゝつた。

美女たをやめの風采ありさまは、紫むらさきの格目こまめの上うへに、虹にじを枕まくらした風情ふぜいである。

雪枝ゆきえは、倒たふれたと見みて、つゝと起たつた。

「……雪様ゆきさま、私わたしの目めを、私わたしの眉まゆを、私わたしの額ひたひを、私わたしの顔かほを、私わたしの髪かみを、此このまゝに……其その小刀こがたなでお刻きざみなさいまし。」

「や、」と老爺ぢいが吃驚びつくりして、歯はの抜ぬけた声こゑを出だして、

「成程なるほど、お天守てんしゆで不足ふそくは言いふまい、が、当事あてこともない、滅法界めつぽふかいな。」

「雪様ゆきさま、痛いたくはない。血ちも出でぬ、眉まゆを顰ひそめるほどもない。突ついて、斬きつて、さあ、小刀こがたなで、此このなりに、……此このなりに、……」

「思切おもひきる、断念あきらめた、女房にようばうなんぞ汚けがらはしい。貴女あなたと一所いつしよに置おいて下ください、お爺ぢいさんも頼たのんで下ください、最もう一度いちど手てを取とつて、」

戞然からりと、どき〱した小刀こがたなを投出なげだす。

「其そのお心こゝろの失うせない内うち、早はやく小刀こがたなをお取とりなさいまし。……そんな事ことをおつしやつて、奥様おくさまは、今いま何どうして居ゐらつしやいます。」

それを聞きくや、

「わつ、」と泣ないて、雪枝ゆきえは横様よこざまに縋すがりついた、胸むねを突伏つゝふせて、唯たゞ戦おのゝく……

徐やをら、其その背せを、姉あねがするやう掻撫かいなでながら、

「恁かう成なるのが定さだまり事ごと、……人ひとの運うんは一ひとつづゝ天てんの星ほしに宿やどると言いひます。其それと同おなじに日本国中にほんこくちゆう、何処どこともなう、或年あるとし或月あるつき或日あるひに、其その人ひとが行逢ゆきあはす、山やまにも野のにも、水みづにも樹きにも、草くさにも石いしにも、橋はしにも家いへにも、前まへから定さだまる運うんがあつて、花はなならば、花はな、蝶てふならば、蝶てふ、雲くもならば、雲くもに、美うつくしくも凄すごくも寂さびしうも彩色さいしきされて描かいてある…手てを取合とりあふて睦むつみ合あふて、もの言いつて、二人ふたり居ゐられる身みではない。

唯たゞ形かたちばかり、何時いつ何処いづくでも、貴方あなたが思おもふ時とき、其処そこに居ゐる、念ねんずる時とき直すぐに逢あへます、お呼よび遊あそばせば参まゐられます。

早はや、小刀こがたなを……、小刀こがたなを……、」

「帰命頂礼きみやうてうらい、南無不可思議なむふかしぎ、帰命頂礼きみやうてうらい、南無不可思議なむふかしぎ。」

と唱となへながら、老爺ぢいが拾ひろつて渡わたした時とき、雪枝ゆきえは犇ひしと小刀こがたなを取とつた。

「一刀一拝いつたういつぱい、拝をがめ、頼たのめ、念ねんじて、念ねんじて、」

と励はげまし教をしうるが如ごとくに老爺ぢいが言いふ。

「姫ひめ、姫ひめ、」

と勇いさましく、

「疵きづを附つけたら、私わたしも死しぬ。」

と熟じつと見みて、小刀こがたなを取直とりなほした。

美女たをやめの姿すがたありのまゝ、木彫きぼりの像ざうと成なつた時とき、膝ひざに取とつて、雪枝ゆきえは犇ひしと抱締だきしめて離はなし得えなんだ。

老爺ぢいが其その手てを曳ひいて起おこして、さて、かはる〲負おひもし、抱だきもして、嶮岨けんそ難処なんしよを引返ひきかへす。と二時ふたときが程ほどに着ついた双六谷すごろくだにを、城址しろあとまでに、一夜ひとよ、山中さんちゆうに野宿のじゆくした。

其その夜よの星ほしの美うつくしさ。

中なかにも山やまの端はに近ちかいのが、美女たをやめの像ざうの額ひたひを飾かざつて輝かゞやいたのである。

翌朝あけのあさ、棟むねの雲くもの切きれ間まを仰あふいで、勇いさましく天守てんしゆに昇のぼると、四階目しかいめを上切のぼりきつた、五階ごかいの口くちで、フト暗くらい中なかに、金色こんじきの光ひかりを放はなつ、爛々らん〱たる眼まなこを見みた、

一目め見みて、

「やあ、祖父殿おんぢいどんが、」

と老爺ぢいが叫さけぶ、……其それなるは、黄金こがねの鯱しやちの頭かしらに似にた、一個いつこ青面せいめんの獅子しゝの頭かしら、活いけるが如ごとき木彫きぼりの名作めいさく。櫓やぐらを圧あつして、のつしとあり。角つのも、牙きばも、双六谷すごろくだにの黒雲くろくもの中なかに見みた、其それであつた。……

祖父おほぢの作さくに、久ひさしぶりの話はなしがある、と美女たをやめの像ざうを受取うけとつて、老爺ぢいは天守てんしゆに胡座あぐらして後あとに残のこつた。時ときに、祖父おほぢが我わがまゝの佗わびだと言つて、麻袋あさぶくろを、烏帽子えばうし入いれたまゝ雪枝ゆきえに譲ゆづつた。

さて、温泉宿ゆのやどに帰かへつたが、人々ひと〲は、雪枝ゆきえの顔かほの色いろの清々すが〱しいのを視ながめて、はじめて渡わたした一通いつつうの書信しよしんがある。

途中とちゆうより、としてお浦うらの名なで、二人ふたりが結婚けつこんを為しない前まへから、契ちぎりを交かはした少年せうねんの学生がくせいが一人ひとりある。此この度たびの密月みつゞきの旅たびの第一夜だいいちやから、附絡つきまとふて、隣となりの部屋へやに何時いつも宿やどる……其それさへも恐おそろしいのに、つひ言葉ことばのはづみから、双六谷すごろくだにに分入わけいつて、二世にせの契ちぎりを賭かけやうとする、聞きけば名高なだかい神秘しんぴの山奥やまおく、迚とても罪深つみふかさに堪たへないため、諸もろともに身みを隠かくす、とあつた。

渠かれは神色しんしよく自若じゞやくとした。

あはれ、神かみは、香村雪枝かむらゆきえを守まもらせ給たまふ!

然さうで無ないと、恁かくまでに恋慕こひしたつた女をんな、気きが狂くるはずには居ゐなかつたのである。

東京とうきやうに帰かへつて後のち、呼よべば応こたへて顕あらはるゝ、双六谷すごろくだにの美女たをやめの像ざうを、唯たゞ目めを開ひらいて見みるやうに、すら〱と刻きざみ得えた。麻袋あさふくろの鑿のみ小刀こがたなは、如意によい自在じざいに働はたらく。

彫像てうざうの成なつた時とき、北きたの一天いつてん、俄にはかに黒雲くろくもを捲起まきおこして月夜つきよながら霰あられを飛とばした。

年とし経たつて、再ふたゝび双六すごろくの温泉をんせんに遊あそんだ時とき、最もう老爺ぢいは居ゐなかつた。が、城址しろあとの濠ほりには船ふねがあつて、鷺さぎではない、老爺ぢいの姿すがたが、木彫きぼりに成なつて立たつのを見みて、渠かれは蘆間あしまに手てを支つかえて、やがて天守てんしゆを拝はいした。

船ふねに乗のれば、すら〱と漕こいで出でて、焼やけない処どころか、もとの位置ゐちへすつと戻もどる……伝つたへ聞きく諾亜ノアの船ふねの如ごときものであらう。

底本 / Source edition

底本:「新編 泉鏡花集 第八巻」岩波書店
2004(平成16)年1月7日第1刷発行
底本の親本:「神鑿」文泉堂書房
1909(明治42)年9月16日
初出:「神鑿」文泉堂書房
1909(明治42)年9月16日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「をんせん」と「おんせん」、「城趾」と「城址」、「鎗《やり》ヶ|嶽《だけ》」と「槍《やり》ヶ|嶽《だけ》」の混在は底本の通りです。
※「魚」に対するルビの「うを」と「いを」、「水底」に対するルビの「みずそこ」と「みづそこ」、「灰」に対するルビの「はひ」と「はい」、「烏帽子」に対するルビの「えばうし」と「えぼうし」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「神鑿《しんさく》」となっています。
※初出時の署名は「鏡花小史」です。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2007年8月12日作成
2016年2月22日修正
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/043467_000050/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/043467_000050/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/043467_000050/

泉 鏡花、泉 鏡太郎「神鑿」(新字旧仮名)、底本『新編 泉鏡花集 第八巻』岩波書店、2004年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043467_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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