Soranoha

真珠夫人

しんじゅふじん

菊池 寛

奇禍

一

汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈はげしくなって行く焦燥もどかしさで、満たされていた。国府津こうづ迄までの、まだ五つも六つもある駅毎ごとに、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持を可なり、いら立たせているのであった。

彼は、一刻も早く静子に、会いたかった。そして彼の愛撫あいぶに、渇かつえている彼女を、思うさま、いたわってやりたかった。

時は六月の初はじめであった。汽車の線路に添うて、潮のように起伏している山や森の緑は、少年のような若々しさを失って、むっとするようなあくどさで車窓に迫って来ていた。たゞ、所々植付けられたばかりの早苗さなえが、軽いほのぼのとした緑を、初夏の風の下に、漂わせているのであった。

常ならば、箱根から伊豆いず半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になっている筈はずの二等室も、春と夏との間の、湯治には半端はんぱな時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句あげくである為ためとで、それらしい乗客の影さえ見えなかった。たゞ仏蘭西フランス人らしい老年の夫婦が、一人息子らしい十五六の少年を連れて、車室の一隅を占めているのが、信一郎の注意を、最初から惹ひいているだけである。彼は、若い男鹿おじかの四肢のように、スラリと娜しなやかな少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とに迭かたみに話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしていた。此この一行の外には、洋服を着た会社員らしい二人連と、田舎娘とその母親らしい女連が、乗り合わしているだけである。

が、あの湯治階級と云いったような、男も女も、大島の揃そろいか何かを着て、金や白金プラチナや宝石の装身具を身体からだのあらゆる部分に、燦きらめかしているような人達が、乗り合わしていないことは信一郎にとって結局気楽だった。彼等は、屹度きっと声高に、喋しゃべり散らしたり、何かを食べ散らしたり、無作法に振舞ったりすることに依よって、現在以上に信一郎の心持をいら〱させたに違いなかったから。

日は、深く翳かげっていた。汽車の進むに従って、隠見する相模灘さがみなだはすゝけた銀の如ごとく、底光を帯おびたまゝ澱よどんでいた。先刻さっきまで、見えていた天城あまぎ山も、何時いつの間にか、灰色に塗り隠されて了しまっていた。相模灘を圧している水平線の腰の辺りには、雨をでも含んでいそうな、暗鬱あんうつな雲が低迷していた。もう、午後四時を廻っていた。

『静子が待ちあぐんでいるに違いない。』と思う毎に、汽車の廻転が殊更ことさら遅くなるように思われた。信一郎は、いらいらしくなって来る心を、じっと抑え付けて、湯河原の湯宿に、自分を待っている若き愛妻の面影を、空くうに描いて見た。何よりも先まず、その石竹色に湿うるんでいる頬に、微笑の先駆として浮かんで来る、笑靨えくぼが現われた。それに続いて、慎つつましい脣くちびる、高くはないけれども穏やかな品のいゝ鼻。が、そんな目鼻立よりも、顔全体に現われている処女らしい含羞性シャイネス、それを思い出す毎に、信一郎自身の表情が、たるんで来て、其処そこには居合わさぬ妻に対する愛撫の微笑が、何時の間にか、浮かんでいた。彼は、それを誰かに、気付かれはしないかと、恥しげに車内を見廻わした。が、例の仏蘭西の少年が、その時、

「お母親さんママン!」と声高に呼びかけた外には、乗合の人々は、銘々に何かを考えているらしかった。

汽車は、海近い松林の間を、轟々ごうごうと駆け過ぎているのであった。

二

湯の宿の欄干に身を靠もたせて、自分を待ちあぐんでいる愛妻の面影が、汽車の車輪の廻転に連れて消えたりかつ浮かんだりした。それほど、信一郎は新しく婚した静子に、心も身も与えていたのである。

つい三月ほど前に、田舎で挙げた結婚式のことを考えても、上京の途みちすがら奈良や京都に足を止めた蜜月旅行ホネムーンらしい幾日かの事を考えても、彼は静子を獲えたことが、どんなに幸福を意味しているかをしみ〲と悟ることが出来た。

結婚の式場で示した彼女の、処女らしい羞はずかしさと、浄きよらかさ、それに続いた同棲どうせい生活に於おいて、自分に投げて来た全身的な信頼、日が経たつに連れて、埋もれていた宝玉のように、だん〱現れて来る彼女のいろ〱な美質、そうしたことを、取とめもなく考えていると、信一郎は一刻も早く、目的地に着いて初々ういういしい静子の透き通るようなくゝり顎あごの辺あたりを、軽く撫パットしてやりたくて、仕様がなくなって来た。

『僅わずか一週間、離れていると、もうそんなに逢あいたくて、堪たまらないのか。』と自分自身心の中で、そう反問すると、信一郎は駄々っ子か何かのように、じれ切っている自分が気恥しくないこともなかった。

が、新婚後、まだ幾日にもならない信一郎に取っては、僅わずか一週間ばかりの短い月日が、どんなにか長く、三月も四月もに相当するように思われた事だろう。静子が、急性肺炎の病後のために、医者から温泉行を、勧められた時にも、信一郎は自分の手許てもとから、妻を半日でも一日でも、手放して置くことが、不安な淋さびしい事のように思われて、仕方がなかった。それかと云いって、結婚のため、半月以上も、勤先を欠勤している彼には休暇を貰もらう口実などは、何も残っていなかった。彼は止やむなく先週の日曜日に妻と女中とを、湯河原へ伴うと、直すぐその日に東京へ帰って来たのである。

今朝着いた手紙から見ると、もうスッカリ好よくなっているに違いない。明日の日曜に、自分と一緒に帰ってもいゝと、云い出すかも知れない。軽便鉄道の駅までは、迎えに来ているかも知れない。いや、静子は、そんなことに気の利きく女じゃない。あれは、おとなしく慎しく待っている女だ、屹度きっと、あの湯の新築の二階の欄干にもたれて、藤木川に懸っている木橋をじっと見詰めているに違いない。そして、馬車や自動車が、あの橋板をとゞろかす毎ごとに、静子も自分が来たのではないかと、彼女の小さい胸を轟とどろかしているに違いない。

信一郎の、こうした愛妻を中心とした、いろ〱な想像は、重く垂下がった夕方の雲を劈つんざくような、鋭い汽笛の声で破られた。窓から首を出して見ると、一帯の松林の樹きの間から、国府津こうづに特有な、あの凄味すごみを帯びた真蒼まっさおな海が、暮れ方の光を暗く照り返していた。

秋の末か何かのように、見渡すかぎり、陸や海は、蕭条しょうじょうたる色を帯びていた。が、信一郎は国府津だと知ると、蘇よみがえったように、座席を蹴けって立ち上った。

三

汽車がプラットホームに、横付けになると、多くもなかった乗客は、我先きにと降りてしまった。此この駅が止まりである列車は、見る〱裡うちに、洗われたように、虚むなしくなってしまった。

が、停車場は少しも混雑しなかった。五十人ばかりの乗客が、改札口のところで、暫しばらく斑まだらにたゆたった丈だけであった。

信一郎は、身支度をしていた為ために、誰よりも遅れて車室を出た。改札口を出て見ると、駅前の広場に湯本行きの電車が発車するばかりの気勢けはいを見せていた。が、その電車も、此の前の日曜の日の混雑とは丸切り違って、まだ腰をかける余地さえ残っていた。が、信一郎はその電車を見たときにガタリガタリと停留場毎ごとに止まる、のろ〱した途中の事が、直ぐ頭に浮かんだ。その上、小田原で乗り換えると行く手にはもっと難物が控えている。それは、右は山左は海の、狭い崖端がけはなを、蜈蚣むかでか何かのようにのたくって行く軽便鉄道である。それを考えると、彼は電車に乗ろうとした足を、思わず踏み止とどめた。湯河原まで、何どうしても三時間かゝる。湯河原で降りてから、あの田舎道をガタ馬車で三十分、どうしても十時近くなってしまう。彼は汽車の中で感じたそれの十倍も二十倍も、いらいらしさが自分を待っているのだと思うと、何うしても電車に乗る勇気がなかった。彼は、少しも予期しなかった困難にでも逢あったように急に悄気しょげてしまった。丁度その時であった。つか〱と彼を追いかけて来た大男があった。

「もし〱如何いかがです。自動車にお召しになっては。」と、彼に呼びかけた。

見ると、その男は富士屋自動車と云いう帽子を被かぶっていた。信一郎は、急に援たすけ舟にでも逢ったように救われたような気持で、立ち止った。が、彼は賃銭の上の掛引のことを考えたので、そうした感情を、顔へは少しも出さなかった。

「そうだねえ。乗ってもいゝね。安ければ。」と彼は可なり余裕よゆうを以もって、答えた。

「何処どこまでいらっしゃいます。」

「湯河原まで。」

「湯河原までじゃ、十五円で参りましょう。本当なれば、もう少し頂くのでございますけれども、此方こっちからお勧めするのですから。」

十五円と云う金額を聞くと、信一郎は自動車に乗ろうと云う心持を、スッカリ無くしてしまった。と云って、彼は貧しくはなかった。一昨年法科を出て、三菱みつびしへ入ってから、今まで相当な給料を貰もらっている。その上、郷国くににある財産からの収入を合わすれば、月額五百円近い収入を持っている。が十五円と云う金額を、湯河原へ行く時間を、わずか二三時間縮める為に払うことは余りに贅沢ぜいたく過ぎた。たとい愛妻の静子が、いかに待ちあぐんでいるにしても。

「まあ、よそう。電車で行けば訳はないのだから。」と、彼は心の裡で考えている事とは、全く反対な理由を云いながら、洋服を着た大男を振り捨てゝ、電車に乗ろうとした。が、大男は執念しゅうねく彼を放さなかった。

「まあ、一寸ちょっとお待ちなさい。御相談があります。実は、熱海あたみまで行こうと云う方があるのですが、その方と合乗あいのりして下さったら、如何でしょう、それならば大変格安になるのです。それならば、七円丈だけ出して下されば。」

信一郎の心は可なり動かされた。彼は、電車の踏み段の棒にやろうとした手を、引っ込めながら云った。「一体、そのお客とはどんな人なのだい?」

四

洋服を着た大男は、信一郎と同乗すべき客を、迎えて来る為ために、駅の真向いにある待合所の方へ行った。

信一郎は、大男の後姿を見ながら思った。どうせ、旅行中のことだから、どんな人間との合乗でもたかが三四十分の辛抱だから、介意かまわないが、それでも感じのいゝ、道伴みちづれであって呉くれゝばいゝと思った。傲然ごうぜんとふんぞり返るような、成金風の湯治階級の男なぞであったら、堪たまらないと思った。彼はでっぷりと肥ふとった男が、実印を刻んだ金指環ゆびわをでも、光らせながら、大男に連れられて、やって来るのではないかしらと思った。それとも、意外に美しい女か何かじゃないかしらと思った。が、まさか相当な位置の婦人が、合乗を承諾することもあるまいと、思い返した。

彼は一寸ちょっとした好奇心を唆そそられながら、暫しばらくの伴侶はんりょたるべき人の出て来るのを、待っていた。

三分ばかり待った後だったろう。やっと、交渉が纏まとまったと見え、大男はニコ〱笑いながら、先きに立って待合所から立ち現れた。その刹那せつなに、信一郎は大男の肩越に、チラリと角帽を被かぶった学生姿を見たのである。彼は同乗者が学生であるのを欣よろこんだ。殊ことに、自分の母校――と云いう程の親しみは持っていなかったが――の学生であるのを欣んだ。

「お待たせしました。此この方です。」

そう云いながら、大男は学生を、信一郎に紹介した。

「御迷惑でしょうが。」と、信一郎は快活に、挨拶あいさつした。学生は頭を下げた。が、何なんにも物は云わなかった。信一郎は、学生の顔を、一目見て、その高貴な容貌ようぼうに打たれざるを得なかった。恐らく貴族か、でなければ名門の子弟なのだろう。品のよい鼻と、黒く澄み渡った眸ひとみとが、争われない生れのけ高さを示していた。殊に、け高く人懐ひとなつかしそうな眸が、此の青年を見る人に、いゝ感じを与えずにはいなかった。クレイヴネットの外套がいとうを着て、一寸した手提鞄かばんを持った姿は、又なく瀟洒しょうしゃに打ち上って見えた。

「それで貴君あなた様の方を、湯河原のお宿までお送りして、それから引き返して熱海あたみへ行くことに、此方こちらの御承諾を得ましたから。」と、大男は信一郎に云った。

「そうですか。それは大変御迷惑ですな。」と、信一郎は改めて学生に挨拶した。やがて、二人は大男の指し示す自動車上の人となった。信一郎は左側に、学生は右側に席を占めた。

「湯河原までは、四十分、熱海までは、五十分で参りますから。」と、大男が云った。

運転手の手は、ハンドルにかゝった。信一郎と学生とを、乗せた自動車は、今発車したばかりの電車を追いかけるように、凄すさまじい爆音を立てたかと思うと、まっしぐらに国府津の町を疾駆した。

信一郎は、もう四十分の後には、愛妻の許もとに行けるかと思うと、汽車中で感じた焦燥もどかしさや、いらだたしさは、後なく晴れてしまった。自動車の軽動ジャンに連れて身体からだが躍るように、心も軽く楽しい期待に躍った。が、信一郎の同乗者たるかの青年は、自動車に乗っているような意識は、少しもないように身を縮めて一隅に寄せたまゝその秀ひいでた眉まゆを心持ひそめて、何かに思い耽ふけっているようだった。車窓に移り変る情景にさえ、一瞥いちべつをも与えようとはしなかった。

五

小田原の街に、入る迄まで、二人は黙々として相並んでいた。信一郎は、心の中では、此この青年に一種の親しみをさえ感じていたので、何どうにかして、話しかけたいと思っていたが、深い憂愁にでも、囚とらわれているらしい青年の容子ようすは、信一郎にそうした機会をさえ与えなかった。

殆ほとんど、一尺にも足りない距離で見る青年の顔付は、愈々いよいよそのけ高さを加えているようであった。が、その顔は何うした原因であるかは知らないが、蒼白そうはくな血色を帯びている。二つの眸ひとみは、何かの悲しみのため力なく湿うるんでいるようにさえ思われた。

信一郎はなるべく相手の心持を擾みだすまいと思った。が、一方から考えると、同じ、自動車に二人切りで乗り合わしている以上、黙ったまゝ相対していることは、何だか窮屈で、かつは不自然であるようにも思われた。

「失礼ですが、今の汽車で来られたのですか。」

と、信一郎は漸ようやく口を切った。会話のための会話として、判わかり切ったことを尋ねて見たのである。

「いや、此の前の上りで来たのです。」と、青年の答えは、少し意外だった。

「じゃ、東京からいらっしたんじゃないんですか。」

「そうです。三保の方へ行っていたのです。」

話しかけて見ると、青年は割合ハキ〱と、然しかし事務的な受け答をした。

「三保と云いえば、三保の松原ですか。」

「そうです。彼処あすこに一週間ばかりいましたが、飽きましたから。」

「やっぱり、御保養ですか。」

「いや保養と云う訳ではありませんが、どうも頭がわるくって。」と云いながら、青年の表情は暗い陰鬱いんうつな調子を帯びていた。

「神経衰弱ですか。」

「いやそうでもありません。」そう云いながら、青年は力無さそうに口を緘つぐんだ。簡単に言葉では、現わされない原因が、存在することを暗示するかのように。

「学校の方は、ズーッとお休みですね。」

「そうです、もう一月ばかり。」

「尤もっとも文科じゃ出席してもしなくっても、同じでしょうから。」と、信一郎は、先刻さっき青年の襟に、Lと云う字を見たことを思い出しながら云った。

青年は、立入って、いろ〱訊きかれることに、一寸ちょっと不快を感じたのであろう、又黙り込もうとしたが、法科を出たものの、少年時代からずっと文芸の方に親しんで来た信一郎は、此の青年とそうした方面の話をも、して見たいと思った。

「失礼ですが、高等学校は。」暫しばらくして、信一郎はまたこう口を切った。

「東京です。」青年は振り向きもしないで答えた。

「じゃ私と同じですが、お顔に少しも見覚えがないようですが、何年にお出になりました。」

青年の心に、急に信一郎に対する一脈の親しみが湧わいたようであった。華やかな青春の時代を、同じ向陵むこうがおかの寄宿寮に過ごした者のみが、感じ合う特殊の親しみが、青年の心を湿うるおしたようであった。

「そうですか、それは失礼しました。僕は一昨年高等学校を出ました。貴君あなたは。」

青年は初めて微笑を洩もらした。淋さびしい微笑だったけれども微笑には違いなかった。

「じゃ、高等学校は丁度僕と入れ換わりです。お顔を覚えていないのも無理はありません。」そう云いながら、信一郎はポケットから紙入を出して、名刺を相手に手交した。

「あゝ渥美あつみさんと仰おっしゃいますか。僕は生憎あいにく名刺を持っていません。青木淳じゅんと云います。」と、云いながら青年は信一郎の名刺をじっと見詰めた。

六

名乗り合ってからの二人は、前の二人とは別人同士であるような親しみを、お互に感じ合っていた。

青年は羞はにかみ家やであるが、その癖人一倍、人懐ひとなつこい性格を持っているらしかった。単なる同乗者であった信一郎には、冷めたい横顔を見せていたのが、一旦いったん同じ学校の出身であると知ると、直すぐ先輩に対する親しみで、懐なついて来るような初心うぶな優しい性格を、持っているらしかった。

「五月の十日に、東京を出て、もう一月ばかり、当あてもなく宿とまり歩いているのですが、何処どこへ行っても落着かないのです。」と、青年は訴えるような口調で云いった。

信一郎は、青年のそうした心の動揺が、屹度きっと青年時代に有勝ありがちな、人生観の上の疑惑か、でなければ恋の悶もだえか何かであるに違いないと思った。が、何どう云って、それに答えてよいか分らなかった。

「一層いっそのこと、東京へお帰りになったら何どうでしょう。僕なども精神上の動揺のため、海へなり山へなり安息を求めて、旅をしたことも度々ありますが、一人になると、却かえって孤独から来る淋さびしさ迄までが加わって、愈いよいよ堪たえられなくなって、又都会へ追い返されたものです。僕の考えでは、何かを紛まぎらすには、東京生活の混乱と騒擾そうじょうとが、何よりの薬ではないかと思うのです。」と、信一郎は自分の過去の二三の経験を思い浮べながらそう云った。

「が、僕の場合は少し違うのです。東京にいることが何うにも堪たまらないのです。当分東京へ帰る勇気は、トテもありません。」

青年は、又黙ってしまった。心の中の何処かに、可なり大きい傷を受けているらしい青年の容子は信一郎の眼にもいたましく見えた。

自動車は、もうとっくに小田原を離れていた。気が付いて見ると、暮れかゝる太平洋の波が、白く砕けている高い崖がけの上を軽便鉄道の線路に添うて、疾駆しているのであった。

道は、可なり狭かった。右手には、青葉の層々と茂った山が、往来を圧するように迫っていた。左は、急な傾斜を作って、直ぐ真下には、海が見えていた。崖がやゝ滑かな勾配こうばいになっている所は蜜柑みかん畑になっていた。しら〲と咲いている蜜柑の花から湧わく、高い匂においが、自動車の疾駆するまゝに、車上の人の面おもてを打った。

「日暮までに、熱海あたみに着くといゝですな。」と、信一郎は暫しばらくしてから、沈黙を破った。

「いや、若もし遅くなれば、僕も湯河原で一泊しようと思います。熱海へ行かなければならぬと云う訳もないのですから。」

「それじゃ、是非湯河原へお泊りなさい。折角お知己ちかづきになったのですから、ゆっくりお話したいと思います。」

「貴方あなたは永く御滞在ですか。」と、青年が訊きいた。

「いゝえ、実は妻が行っているのを迎えに行くのです。」と、信一郎は答えた。

「奥さんが!」そう云った青年の顔は、何故なぜだか、一寸ちょっと淋しそうに見えた。青年は又黙ってしまった。

自動車は、風を捲まいて走った。可なり危険な道路ではあったけれども、日に幾回となく往返ゆきかえりしているらしい運転手は、東京の大路を走るよりも、邪魔物のないのを、結句気楽そうに、奔放自在ほんぽうじざいにハンドルを廻した。その大胆な操縦が、信一郎達をして、時々ハッと息を呑のませることさえあった。

「軽便かしら。」と、青年が独語ひとりごとのように云った。いかにも、自動車の爆音にもまぎれない轟々ごうごうと云う響が、山と海とに反響こだまして、段々近づいて来るのであった。

七

轟々ととゞろく軽便鉄道の汽車の音は、段々近づいて来た。自動車が、ある山鼻を廻ると、眼の前にもう真黒な車体が、見えていた。絶えず吐く黒い煙と、喘あえいでいるような恰好かっこうとは、何かのろ臭い生き物のような感じを、見る人に与えた。信一郎の乗っている自動車の運転手は、此この時代遅れの交通機関を見ると、丁度お伽噺とぎばなしの中で、亀かめに対した兎うさぎのように、いかにも相手を馬鹿ばかにし切ったような態度を示した。彼は擦れ違うために、少しでも速力を加減することを、肯がえんじなかった。彼は速力を少しも緩めないで、軽便の軌道と、右側の崖壁がいへきの間とを、すばやく通り抜けようと、ハンドルを廻しかけたが、それは、彼として、明かな違算であった。其処そこは道幅が、殊更ことさら狭くなっているために、軽便の軌道は、山の崖近く敷かれてあって、軌道と岩壁との間には、車体を容いれる間隔は存在していないのだった。運転手が、此の事に気が付いた時、汽車は三間と離れない間近に迫っていた。

「馬鹿! 危い! 気を付けろ!」と、汽車の機関士の烈はげしい罵声ばせいが、狼狽ろうばいした運転手の耳朶じだを打った。彼は周章あわてた。が、遉さすがに間髪を容れない瞬間に、ハンドルを反対に急転した。自動車は辛く衝突を免れて、道の左へ外れた。信一郎はホッとした。が、それはまたゝく暇もない瞬間だった。左へ躱かわした自動車は、躱し方が余りに急であった為ため、機はずみを打ってそのまゝ、左手の岩崖を墜落しそうな勢いを示した。道の左には、半間ばかりの熊笹くまざさが繁しげっていて、その端はずれからは十丈に近い断崖だんがいが、海へ急な角度を成していた。

最初の危機には、冷静であった運転手も、第二の危険には度を失ってしまった。彼は、狂人のように意味のない言葉を発したかと思うと、運転手台で身をもがいた。が、運転手の死物狂いの努力は間に合った。三人の生命を託した車台は、急廻転をして、海へ陥おちることから免れた。が、その反動で五間ばかり走ったかと思うと、今度は右手の山の岩壁に、凄すさまじくぶっ突つかったのである。

信一郎は、恐ろしい音を耳にした。それと同時に、烈しい力で、狭い車内を、二三回左右に叩たたき付けられた。眼が眩くらんだ。しばらくは、たゞ嵐あらしのような混沌こんとんたる意識の外、何も存在しなかった。

信一郎が、漸ようやく気が付いた時、彼は狭い車内で、海老えびのように折り曲げられて、一方へ叩き付けられている自分を見出みいだした。彼はやっと身を起した。頭から胸のあたりを、ボンヤリ撫なで廻わした彼は自分が少しも、傷付いていないのを知ると、まだフラ〱する眼を定めて、自分の横にいる筈はずの、青年の姿を見ようとした。

青年の身体からだは、直すぐ其処そこにあった。が、彼の上半身は、半分開かれた扉から、外へはみ出しているのであった。

「もし〱、君! 君!」と、信一郎は青年を車内に引き入れようとした。その時に、彼は異様な苦悶くもんの声を耳にしたのである。信一郎は水を浴びたように、ゾッとした。

「君! 君!」彼は、必死に呼んだ。が、青年は何とも答えなかった。たゞ、人の心を掻かきむしるような低いうめき声が続いている丈だけであった。

信一郎は、懸命の力で、青年を車内に抱き入れた。見ると、彼の美しい顔の半面は、薄気味の悪い紫赤色しせきしょくを呈している。それよりも、信一郎の心を、脅おびやかしたものは、唇の右の端から、顎あごにかけて流れる一筋の血であった。而しかもその血は、唇から出る血とは違って、内臓から迸ほとばしったに違いない赤黒い血であった。

返すべき時計

一

信一郎が、青年の身体からだをやっと車内に引き入れたとき、運転手席から路上へ、投げ出されていた運転手は、漸ようやく身を起した。額の所へ擦り傷の出来た彼の顔色は、凡すべての血の色を無くしていた。彼はオズ〱車内をのぞき込んだ。

「何処どこもお負傷けがはありませんか。お負傷はありませんか。」

「馬鹿ばか! 負傷どころじゃない。大変だぞ。」と、信一郎は怒鳴りつけずにはいられなかった。彼は運転手の放胆な操縦が、此この惨禍さんかの主なる原因であることを、信じたからであった。

「はっはっ。」と運転手は恐れ入ったような声を出しながら、窓にかけている両手をブル〱顫ふるわせていた。

「君! 君! 気を確たしかにしたまえ。」

信一郎は懸命な声で青年の意識を呼び返そうとした。が、彼は低い、ともすれば、絶えはてそうなうめき声を続けている丈だけであった。

口から流れている血の筋は、何時いつの間にか、段々太くなっていた。右の頬が見る間に脹はれふくらんで来るのだった。信一郎は、ボンヤリつッ立っている運転手を、再び叱しかり付けた。

「おい! 早く小田原へ引返すのだ。全速力で、早く手当をしないと助からないのだぞ。」

運転手は、夢から醒さめたように、運転手席に着いた。が、発動機の壊こわれている上に、前方の車軸までが曲っているらしい自動車は、一寸いっすんだって動かなかった。

「駄目です。とても動きません。」と、運転手は罪を待つ人のように顫え声で云いった。

「じゃ、一番近くの医者を呼んで来るのだ。真鶴まなづるなら、遠くはないだろう。医者と、そうだ、警察とへ届けて来るのだ。又小田原へ電話が通ずるのなら、直すぐ自動車を寄越すように頼むのだ。」

運転手は、気の抜けた人間のように、命ぜらるゝ儘ままに、フラ〱と駈かけ出した。

青年の苦悶くもんは、続いている。半眼に開いている眼は、上ずッた白眼を見せているだけであるが、信一郎は、たゞ青年の上半身を抱き起しているだけで、何どうにも手の付けようがなかった。もう、臨終に間もないかも知れない青年の顔かたちを、たゞ茫然ぼうぜんと見詰めているだけであった。

信一郎は青年の奇禍を傷いたむのと同時に、あわよく免れた自身の幸福を、欣よろこばずにはいられなかった。それにしても、何うして扉が、開いたのだろう。其処そこから身体が出たのだろう。上半身が、半分出た為ために、衝突の時に、扉と車体との間で、強く胸部を圧おし潰つぶされたのに違いなかった。

信一郎は、ふと思いついた。最初、車台が海に面する断崖だんがいへ、顛落てんらくしようとしたとき、青年は車から飛び降りるべく、咄嗟とっさに右の窓を開けたに違いなかった。もし、そうだとすると、車体が最初怖おそれられたように、海中に墜落したとすれば、死ぬ者は信一郎と運転手とで、助かる者は此この青年であったかも知れなかった。

車体が、急転したとき、信一郎と青年の運命も咄嗟に転換したのだった。自動車の苟かりそめの合乗あいのりに青年と信一郎とは、恐ろしい生死の活劇に好運悪運の両極に立ったわけだった。

信一郎は、そう考えると、結果の上からは、自分が助かるための犠牲になったような、青年のいたましい姿を、一層あわれまずにはいられなかった。

彼は、ふとウィスキイの小壜こびんがトランクの中にあることを思い出した。それを、飲ますことが、こうした重傷者に何う云う結果を及ぼすかは、ハッキリと判わからなかった。が、彼としては此の場合に為なし得る唯一ゆいいつの手当であった。彼は青年の頭を座席の上に、ソッと下すとトランクを開けて、ウィスキイの壜を取り出した。

二

口中に注ぎ込まれた数滴のウィスキイが、利きいたのか、それとも偶然そうなったのか、青年の白く湿うるんでいた眸ひとみが、だん〱意識の光を帯び始めた。それと共に、意味のなかったうめき声が切れ切れではあるが、言葉の形を採り始めた。

「気を確たしかにしたまえ! 気を! 君! 君! 青木君!」信一郎は、力一杯に今覚えたばかりの青年の名を呼び続けた。

青年は、じっと眸を凝こらすようであった。劇はげしい苦痛の為ために、ともすれば飛び散りそうになる意識を懸命に取り蒐あつめようとするようだった。彼は、じいっと、信一郎の顔を、見詰めた。やっと自分を襲った禍わざわいの前後を思い出したようであった。

「何うです。気が付きましたか。青木君! 気を確にしたまえ! 直すぐ医者が来るから。」

青年は意識が帰って来ると、此この苟かりそめの旅の道連みちづれの親切を、しみ〲と感じたのだろう。

「あり――ありがとう。」と、苦しそうに云いいながら、感謝の微笑を湛たたえようとしたが、それは劃しきりなく襲うて来る苦痛の為ために、跡なく崩れてしまった。腸はらわたをよじるような、苦悶くもんの声が、続いた。

「少しの辛抱です。直ぐ医者が来ます。」

信一郎は、相手の苦悶のいた〱しさに、狼狽ろうばいしながら答えた。

青年は、それに答えようとでもするように、身体からだを心持起しかけた。その途端だった。苦しそうに咳せき込んだかと思うと、顎あごから洋服の胸へかけて、流れるような多量の血を吐いた。それと同時に、今迄いままで充血していた顔が、サッと蒼あおざめてしまった。

青年の顔には、既に死相が読まれた。内臓が、外部からの劇しい衝動の為に、内出血をしたことが余りに明かだった。

医学の心得の少しもない信一郎にも、もう青年の死が、単に時の問題であることが分った。青年の顔に血色がなかった如ごとく、信一郎の面おもてにも、血の色がなかった。彼は、彼と偶然知己になって、直ぐ死に去って行く、ホンの瞬間の友達の運命を、じっと見詰めている外はなかった。

太平洋を圧している、密雲に閉ざされたまゝ、日は落ちてしまった。夕闇ゆうやみの迫っている崖端がけはなの道には、人の影さえ見えなかった。瀕死ひんしの負傷者を見守る信一郎は、ヒシ〱と、身に迫る物凄ものすごい寂寥せきりょうを感じた。負傷者のうめき声の絶間には、崖下の岩を洗う浪なみの音が淋さびしく聞えて来た。

吐血をしたまゝ、仰向けに倒れていた青年は、ふと頭を擡もたげて何かを求めるような容子ようすをした。

「何です! 何です!」信一郎は、掩おおいかぶさるようにして訊きいた。

「僕の――僕の――鞄トランク!」

口中の血に咽むせるのであろう、青年は喘あえぎ喘ぎ絶え入るような声で云った。信一郎は、車中を見廻した。青年が、携たずさえていた旅行用の小形の鞄トランクは座席の下に横倒しになっているのだった。信一郎は、それを取り上げてやった。青年は、それを受け取ろうとして、両手を出そうとしたが、彼の手はもう彼の思うようには、動きそうにもなかった。

「一体、此の鞄トランクを何うするのです。」

青年は、何か答えようとして、口を動かした。が、言葉の代りに出たものは、先刻さっきの吐血の名残りらしい少量の血であった。

「開けるのですか。開けるのですか。」

青年は肯うなずこうとした。が、それも肯こうとする意志だけを示したのに、過ぎなかった。信一郎は鞄トランクを開けにかゝった。が、それには鍵かぎがかゝっていると見え、容易には開かなかった。が、此場合瀕死の重傷者に、鍵の在処ありかを尋ねるなどは、余りに心ないことだった。信一郎は、満身の力を振って、捻ねじ開けた。金物に付いて、革がベリ〱と、二三寸引き裂かれた。

三

「何を出すのです。何を出すのです。」

信一郎は、薬品をでも、取り出すのであろうと思って訊きいた。が、青年の答は意外だった。

「雑記帳ノートブックを。」青年の声は、かすかに咽喉のどを洩もれると、云いう程度に過ぎなかった。

「ノート?」信一郎は、不審いぶかりながら、鞄トランクを掻かき廻した。いかにも鞄トランクの底に、三帖じょう綴つづりの大学ノートを入れてあるのを見出みいだした。

青年は、眼で肯うなずいた。彼は手を出して、それを取った。彼は、それを破ろうとするらしかった。が、彼の手は、たゞノートの表紙を滑べり廻る丈だけで、一枚の紙さえ破れなかった。

「捨てゝ――捨てゝ下さい! 海へ、海へ。」

彼は、懸命に苦しげな声を、振りしぼった。そして、哀願的な眸ひとみで、じいっと、信一郎を見詰めた。

信一郎は、大きく肯いた。

「承知しました。何か、外に用がありませんか。」

信一郎は、大声で、而しかも可なりの感激を以もって、青年の耳許みみもとで叫んだ。本当は、何か遺言ゆいごんはありませんかと、云いたい所であった。が、そう云い出すことは、此このうら若い負傷者に取って、余りに気の毒に思われた。が、そう云ってもよいほど青年の呼吸は、迫っていた。

信一郎の言葉が、青年に通じたのだろう。彼は、それに応ずるように、右の手首を、高く差し上げようとするらしかった。信一郎は、不思議に思いながら、差し上げようとする右の手首に手を触れて見た。其処そこに、冷めたく堅い何かを感じたのである。夕暮の光に透すかして見ると、青年は腕時計をはめているのであった。

「時計ですか。此時計を何どうするのです。」

烈はげしい苦痛に、歪ゆがんでいる青年の面に、又別な苦悶くもんが現われていた。それは肉体的な苦悶とは、又別な――肉体の苦痛にも劣らないほどの――心の、魂の苦痛であるらしかった。彼の蒼白まっさおだった面おもては微弱ながら、俄にわかに興奮の色を示したようであった。

「時計を――時計を――返して下さい。」

「誰にです、誰にです。」信一郎も、懸命になって訊き返した。

「お願い――お願い――お願いです。返して下さい。返して下さい。」

もう、断末魔らしい苦悶の裡うちに、青年は此世に於おける、最後の力を振りしぼって叫んだ。

「一体、誰にです? 誰にです。」

信一郎は縋すがり付くように、訊いた。が、青年の意識は、再び彼を離れようとしているらしかった。たゞ、低い切れ切れのうなり声が、それに答えただけだった。信一郎は、今此の答えを得て置おかなければ永劫えいごうに得られないことを知った。

「時計を誰に返すのです。誰に返すのです。」

青年の四肢が、ピクリ〱と痙攣けいれんし始めた。もう、死期の目睫もくしょうの間に迫っていることが判わかった。

「時計を誰に返すのです。青木君! 青木君! しっかりし給たまえ。誰に返すのです。」

死の苦しみに、青年は身体からだを、左右にもだえた。信一郎の言葉は、もう瀕死ひんしの耳に通じないように見えた。

「時計を誰に返すのです。名前を云って下さい。名前を云って下さい。名前を!」

信一郎の声も、狂人のように上ずッてしまった。その時に、青年の口が、何かを云おうとして、モグ〱と動いた。

「青木君、誰に返すのです?」

永久に、消え去ろうとする青年の意識が、ホンの瞬間、此世に呼び返されたのか。それとも死際しにぎわの無意味な囈語うわごとであったのだろうか。青年は、

「瑠璃子るりこ! 瑠璃子!」と、子供の片言のように、口走ると、それを世に残した最後の言葉として、劇しい痙攣が来たかと思うと、それがサッと潮の引くように、衰えてしまってガクリとなったかと思うと、もう、ピクリともしなかった。死が、遂ついに来たのである。

四

信一郎は、ハンカチーフを取り出して、死者の顎あごから咽喉のどにかけての、血を拭ぬぐってやった。

だん〱蝋色ろういろに、白んで行く、不幸な青年の面かおをじっと見詰めていると、信一郎の心も、青年の不慮の横死を悼いたむ心で一杯になって、ほた〱と、涙が流れて止まらなかった。五年も十年も、親しんで来た友達の死顔を見ている心と、少しも変らなかった。何と云いう、不思議な運命であろうと、信一郎は思った。親しい友達は、元より、親兄弟、いとしき妻つま夫おっと、愛児の臨終にさえ、いろ〱な事情や境遇のために、居合わさぬ事もあれば、間に合わぬ事もあるのに、ホンの三十分か四十分の知己しりあい、ホンの暫時ざんじの友人、云わば路傍の人に過ぎない、苟かりそめの旅の道伴みちづれでありながら、その死床に侍して、介抱をしたり、遺言を聞いてやると云うことは、何と云う不思議な機縁であろうと、信一郎は思った。

が、青年の身になって、考えて見ると、一寸ちょっとした小旅行の中途で思いがけない奇禍に逢あって、淋さびしい海辺の一角で、親兄弟は勿論もちろん親しい友達さえも居合わさず、他人に外ならない信一郎に、死水を――それは水でなく、数滴のウィスキイだったが――取られて、望み多い未来を、不当に予告なしに、切り取られてしまった情なさ、淋しさは、どんなであっただろう。彼は、息を引き取るとき、親兄弟の優しい慰藉いしゃの言葉に、どんなに渇かつえたことだろう。殊ことに、母か姉妹か、或あるいは恋人かの女性としての優しい愛の言葉を、どんなに欲しただろう。彼が、口走った瑠璃子と云う言葉は、屹度きっと、そうした女性の名前に違いないと思った。

その裡うちに、信一郎の心に、青年の遺のこした言葉が考えられ始めた。彼は、最初にこう疑って見た。他人同然の彼に、何どうして時計のことを云ったのだろう。若もし、時計が誰かに返さるべきものなら名乗り合ったばかりの信一郎などに頼まないでも、遺族の人の手で、当然返さるべきものではなかろうか。が、信一郎は、直すぐこう思い返した。青年はノートの内容も、時計を返すことも、遺族の人々には知られたくなかったのだろう。親兄弟には、飽くまでも、秘密にして置きたかったのであろう。而しかも秘密に時計を返すには、信一郎に頼む外には、何の手段もなかったのだ。人間が人間を信じることが一つの美徳であるように、此この青年も必死の場合に、心から信一郎を信頼したのだろう。いや、信頼する外には、何の手段もなかったのだ。

信一郎は、青年の死際しにぎわの懸命の信頼を、心に深く受け入れずにはおられなかった。名乗り合ったばかりの自分に、心からの信頼を置いている。人間として、男として、此の信頼に背く訳には、行かないと思った。

人が、臨終の時に為なす信頼は、基督正教カトリックの信徒が、死際しにぎわの懺悔ざんげと同じように、神聖な重大なものに違いないと思った。縦令たとい、三十分四十分の交際であろうとも、頼まれた以上、忠実に、その信頼に酬むくいねばならぬと思った。

そう思いながら、信一郎は死者の右の手首から、恐る恐る時計を脱はずして見た。時計も、それを腕に捲まく腕輪も、銀か白銅ニッケルらしい金属で出来ていた。ガラスは、その持主の悲惨な最期さいごに似て、微塵みじんに砕け散っていた。夕暮の光の中で、透して見ると、腕輪に附いている止め金が、衝突のとき、皮肉を切ったのだろう。軽い出血があったと見え、その白っぽい時計の胴に、所々真赤な血が浸にじんでいた。今までは、興奮のために夢中になっていた信一郎も、それを見ると、今更ながら、青年の最期の、むごたらしさに、思わず戦慄せんりつを禁じ得なかった。

五

が、時計を返すとして、一体誰に返したらいゝのだろうかと、信一郎は思った。青年が、死際に口走った瑠璃子と云いう名前の女性に返せばいゝのかしら。が、瑠璃子と云ったのは、時計を返すべき相手の名前を、云ったのだろうか。時計などとは何の関係もない、青年の恋人か姉か妹かの名ではないのかしら。

『時計を返して呉くれ。』と云ったとき、青年の意識は、可なり確たしかだった。が、息を引き取る時には、青年の意識は、もう正気を失っていた。

『瑠璃子!』と、叫んだのは、たゞ狂った心の最後の、偶然な囈語うわごとで、あったかも知れなかった。が、瑠璃子と云う名前は、青年の心に死の刹那せつなに深く喰い入った名前に違いなかった。丁度、腕時計が、死の刹那に彼の手首の肉に、喰い入っていたように。

信一郎は、再度その小形な腕時計を、手許てもとに迫る夕闇ゆうやみの中で、透して見た。じっと、見詰めていると最初銀かニッケルと思った金属は、銀ほどは光が無くニッケルほど薄っぺらでないのに、気が付いた。彼は指先で、二三度撫なでて見た。それは、紛まぎれもなく白金プラチナだった。しかも撫でている指先が、何かツブ〱した物に触れたので、眸ひとみを凝こらすと、鋭い光を放つ一顆かの宝石が、鏤ちりばめられていた。而しかもそれは金で象眼された小さい短剣の柄つかに当っていた。それは希臘風ギリシヤふうの短剣の形だった。復讐ふくしゅうの女神ネメシスが、逆手さかてに掴つかんでいるような、短剣の形だった。信一郎は、その特異な、不思議な象眼に、劇はげしい好奇心を、唆そそられずにはいられなかった。時計の元来の所有者は、女性に違いなかった。が、その象眼は、何と云う女らしからぬ、鋭い意匠いしょうだろう。

日は、もうとっぷりと、暮れてしまった。海上にのみ、一脈の薄明が、漂うているばかりだった。運転手は、なか〱帰って来なかった。淋さびしい海岸の一角に、まだ生あたゝかい死屍ししを、たゞ一人で見守っていることは、無気味な事に違いなかった。が、先刻から興奮し続けている信一郎には、それが左程、厭いとわしい事にも気味の悪い事にも思われなかった。彼はある感激をさえ感じた。人として立派な義務を尽しているように思った。

信一郎は、ふとこう云う事に気が付いた。たとい、青年からあゝした依託を受けたとしても、たゞ黙って、此この高価な白金プラチナの時計を、死屍から持ち去ってもいゝだろうか。もし、臨検の巡査にでも、咎とがめられたら、何と返事をしたらいゝだろう。死人に口なく、死に去った青年が、自分のために、弁解して呉くれる筈はずはない。自分は、人の死屍から、高貴な物品を、剥はぎ取る恐ろしい卑いやしい盗人ぬすっとと思われても、何の云い訳もないではないか。青年の遺言を受けたと抗弁しても、果して信じられるだろうか。

そう考えると、信一郎の心は、だん〱迷い始めた。妙ないきがかりから、他人の秘密にまで立ち入って、返すべき人の名前さえ、判然とはしない時計などを預って、つまらぬ心配や気苦労をするよりも、たゞ乗り合わした一個の旅の道伴みちづれとして、遺言も何も、聴かなかったことにしようかしら。

が、こう考えたとき、信一郎の心の耳に、『お願いで――お願いです。時計を返して下さい。』と云う青年の、血に咽むせぶ断末魔の悲壮な声が、再び鳴り響いた。それに応ずるように、信一郎の良心が、『貴様は卑怯ひきょうだぞ。貴様は卑怯だぞ。』と、低く然しかしながら、力強く囁ささやいた。

『そうだ。そうだ。兎とに角かく、瑠璃子と云う女性を探して見よう。たとい、それが時計を返すべき人でないにしろ、その人は屹度きっと、此の青年に一番親しい人に違いない。その人が、屹度時計を返すべき本当の人を、教えて呉れるのに違いない。又、自分が時計を盗んだと云うような、不当な疑いを受けたとき、此人が屹度弁解して呉れるのに違いない。』

信一郎は、『瑠璃子』と云う三字を頼りにして、自分の物でない時計を、ポケット深く、蔵おさめようとした。

その時に、急に近よって来る人声がした。彼は、悪い事でもしていたように、ハッと驚いて振り返った。警察の提灯ちょうちんを囲んで、四五人の人が、足早に駈かけ付けて来るようだった。

六

駈け付けて来たのは、オド〱している運転手を先頭にして、年若い巡査と、医者らしい袴はかまをつけた男と、警察の小使らしい老人との四人であった。

信一郎は、彼等を迎えるべく扉を開けて、路上へ降りた。

巡査は提灯を車内に差し入れるようにしながら、

「何どうです。負傷者は?」と、訊きいた。

「先刻さっき、息を引き取ったばかりです。何分胸部をひどく、やられたものですから、助からなかったのです。」と、信一郎は答えた。

暫らくは、誰もが口を利きかなかった。運転手が、ブル〱顫ふるえ出したのが、ほの暗い提灯の光の中でも、それと判わかった。

「兎とも角かく、一応診みて下さい。」と、巡査は医者らしい男に云った。運転手は顫えながら、車体に取り付けてある洋燈ランプに、点火した。周囲が、急に明るくなった。

「お伴つれじゃないのですね。」医者が検視をするのを見ながら、巡査は信一郎に訊いた。

「そうです。たゞ国府津こうづから乗合わしたばかりなのです。が、名前は判って居ます。先刻名乗り合いましたから。」

「何と云いう名です。」巡査は手帳を開いた。

「青木淳じゅんと云う文科大学生です。宿所は訊かなかったけれど、どうも名前と顔付から考えると、青木淳三と云う貴族院議員のお子さんに違いないと思うのです。無論断言は出来ませんが、持物でも調べれば直すぐ判るでしょう。」

巡査は、信一郎の云う事を、一々肯うなずいて聴いていたが、

「遭難の事情は、運転手から一通り、聴きましたが、貴君あなたからもお話を願いたいのです。運転手の云うことばかりも信ぜられませんから。」

信一郎は言下に「運転手の過失です。」と云い切りたかった。過失と云うよりも、無責任だと云い切りたかった。が、戦おののきながら、信一郎と巡査との問答を、身の一大事とばかり、聞耳を澄ましている運転手の、罪を知った容子ようすを見ると、そう強くも云えなかった。その上、運転手の罪を、幾何いくら声高に叫んでも、青年の甦よみがえる筈はずもなかった。

「運転手の過失もありますが、どうも此方このかたが自分で扉を、開けたような形跡もあるのです。扉さえ開ひらかなかったら、死ぬようなことはなかったと思います。」

「なるほど。」と、巡査は何やら手帳に、書き付けてから云った。「いずれ、遺族の方から起訴にでもなると、貴君にも証人になって戴いただくかも知れません。御名刺を一枚戴きたいと思います。」

信一郎は乞こわるゝまゝに、一枚の名刺を与えた。

丁度その時に、医者は血に塗まみれた手を気にしながら、車内から出て来た。

「ひどく血を吐きましたね。あれじゃ負傷後、幾何いくらも生きていなかったでしょう。」と、信一郎に云った。

「そうです。三十分も生きていたでしょうか。」

「あれじゃ助かりっこはありません。」と、医者は投げるように云った。

「貴君あなたもとんだ災難でした。」と、巡査は信一郎に云った。「が、死んだ方に比くらぶれば、むしろ命拾いをしたと云ってもいゝでしょう。湯河原へ行らっしゃるそうですね。それじゃ小使に御案内させますから真鶴まなづるまでお歩きなさい。死体の方は、引受けましたから、御自由にお引き取り下さい。」

信一郎は、兎に角当座の責任と義務とから、放たれたように思った。が、ポケットの底にある時計の事を考えれば、信一郎の責任は何時いつ果されるとも分らなかった。

信一郎は車台に近寄って、黙礼した。不幸な青年に最後の別れを告げたのである。

巡査達に挨拶あいさつして、二三間行った時、彼はふと海に捨つるべく、青年から頼まれたノートの事を思い出した。彼は驚いて、取って帰した。

「忘れ物をしました。」彼は、やゝ狼狽ろうばいしながら云った。

「何です。」車内を覗のぞき込んでいた巡査が振り顧かえった。

「ノートです。」信一郎は、やゝ上ずッた声で答えた。

「これですか。」先刻さっきから、それに気の付いていたらしい巡査は、座席の上から取り上げて呉くれた。信一郎は、そのノートの表紙に、ペンで青木淳とかいてあるらしいのを見ると、ハッと思った。が、光は暗かった。その上、巡査の心にそうした疑うたがいは微塵みじんも存在しないらしかった。彼は、やっと安心して、自分の物でない物を、自分の物にした。

七

真鶴まなづるから湯河原迄までの軽便の汽車の中でも、駅から湯の宿までの、田舎馬車の中でも、信一郎の頭は混乱と興奮とで、一杯になっていた。その上、衝突のときに、受けた打撃が現われて来たのだろう、頭がズキ〱と痛み始めた。

青年のうめき声や、吐血の刹那せつなや、蒼白あおじろんで行った死顔などが、ともすれば幻覚となって、耳や目を襲って来た。

静子に久し振に逢あえると云いったような楽しい平和な期待は、偶然な血腥ちなまぐさい出来事のために、滅茶苦茶めちゃくちゃになってしまったのである。静子の初々ういういしい面影を、描こうとすると、それが何時いつの間にか、青年の死顔になっている。「静子! 静子!」と、口の中で呼んで、愛妻に対する意識を、ハッキリさせようとすると、その声が何時の間にか「瑠璃子! 瑠璃子!」と、云う悲痛な断末魔の声を、想おもい浮べさせたりした。

馬車が、暗い田の中の道を、左へ曲ったと思うと、眼の前に、山懐やまふところにほのめく、湯の街の灯影ほかげが見え始めた。

信一郎は、愛妻に逢う前に、何どうかして、乱れている自分の心持を、整えようとした。なるべく、穏やかな平静な顔になって、自分の激動ショックを妻に伝染うつすまいとした。血腥い青年の最期さいごも、出来るならば話すまいとした。それは優しい妻の胸には、鋭すぎる事実だった。

藤木川の左岸に添うて走った馬車が、新しい木橋を渡ると、橋袂はしたもとの湯の宿の玄関に止まった。

「奥様がお待ち兼でございます。」と、妻に付けてある女中が、宿の女中達と一緒に玄関に出迎えた。ふと気が付くと、玄関の突き当りの、二階への階段の中段に、降りて出迎えようか(それともそれが可なりはしたない事なので)降りまいかと、躊躇ためらっていたらしい静子が、信一郎の顔を見ると、艶然にっこりと笑って、はち切れそうな嬉うれしさを抑えて、いそ〱と駈かけ降りて来るのであった。

「いらっしゃいませ。何うして、こう遅かったの。」静子は一寸ちょっと不平らしい様子を嬉しさの裡うちに見せた。

「遅くなって済まなかったね。」

信一郎は、劬いたわるように云い捨てゝ、先に立って妻の部屋へ入った。

その時に、彼はふと青年から頼まれたノートを、まだ夏外套がいとうのポケットに入れているのに、気が付いた。先刻真鶴まで歩いたとき、引き裂いて捨てよう〱と思いながら、小使の手前、何うしても果し得なかったのである。当惑の為ために、彼の表情はやゝ曇った。

「御気分が悪そうね。何うかしたのですか。湯衣ゆかたにお着換えなさいまし。それとも、お寒いようなら、褞袍どてらになさいますか。」

そう云いながら静子は甲斐々々かいがいしく信一郎の脱ぐ上衣うわぎを受け取ったり、襯衣シャツを脱ぐのを手伝ったりした。

その中うちに、上衣を衣桁いこうにかけようとした妻は、ふと、

「あれ!」と、可なりけたゝましい声を出した。

「何どうしたのだ。」信一郎は驚いて訊きいた。

「何でしょう。これは、血じゃなくて。」

静子は、真蒼まっさおになりながら、洋服の腕のボタンの所を、電燈でんとうの真近に持って行った。それは紛ぎれもなく血だった。一寸四方ばかり、ベットリと血が浸にじんでいたのである。

「そうか。やっぱり付いていたのか。」

信一郎の声も、やゝ顫ふるいを帯びていた。

「何うかしたのですか。何うかしたのですか。」気の弱い静子の声は、可なり上ずッていた。

信一郎は、妻の気を落着けようと、可なり冷静に答えた。

「いや何うもしないのだ。たゞ、自動車が崖がけにぶっ突つかってね。乗合わしていた大学生が負傷したのだ。」

「貴君あなたは、何処どこもお負傷けがはなかったのですか。」

「運がよかったのだね。俺は、かすり傷一つ負わなかったのだ。」

「そしてその学生の方は。」

「重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ奇禍きかと云うんだね。」

静子は、夫が免れた危険を想像する丈だけで、可なり激しい感動に襲われたと見え、目を刮みはったまゝ暫しばらくは物も云わなかった。

信一郎も、何だか不安になり始めた。奇禍に逢ったのは、大学生ばかりではないような気がした。自分も妻も、平和な気持を、滅茶々々にされた事が、可なり大きい禍わざわいであるように思った。が、そればかりでなく、時計やノートを受け継いだ事に依よって、青年の恐ろしい運命をも、受け継いだような気がした。彼は、楽しく期待した通り静子に逢いながら、優しい言葉一つさえ、かけてやる事が出来なかった。

夫と妻とは、蒼白まっさおになりながら、黙々として相対していた。信一郎は、ポケットに入れてある時計が、何か魔の符ふでもあるように、気味悪く感ぜられ始めた。

美しき遅参者

一

青年の横死は、東京の各新聞に依よって、可なり精くわしく伝えられた。青年が、信一郎の想像した通り青木男爵だんしゃくの長子であったことが、それに依って証明された。が、不思議に同乗者の名前は、各新聞とも洩もらしていた。信一郎は結局それを気安いことに思った。

信一郎が、静子を伴って帰京した翌日に、青木家の葬儀は青山の斎場で、執り行われることになっていた。

信一郎は、自分が青年の最期さいごを介抱した当人であると云いう事を、名乗って出るような心持は、少しもなかった。が、自分の手を枕まくらにしながら、息を引き取った青年が、傷いたましかった。他人でないような気がした。十年の友達であるような気がした。その人の面影を偲しのぶと、何となくなつかしい涙ぐましい気がした。

遺族の人々とは、縁もゆかりもなかった。が、弔われている人とは、可なり強い因縁が、纏まつわっているように思った。彼は、心からその葬とむらいの席に、列つらなりたいと思った。

が、その上、もう一つ是非とも、列るべき必要があった。青年の葬儀である以上、姉も妹も、瑠璃子るりこと呼ばるゝ女性も、返すべき時計の真の持主も、(もしあれば)青年の恋人も、みんな列っているのに違ちがいない。青年に、由縁ゆかりのある人を物色すれば、時計を返すべき持主も、案外容易に、見当が付くに違ちがいない。否いな、少くとも瑠璃子と云う女丈だけは、容易に見出みいだし得るに違ちがいない、信一郎はそう考えた。

その日は、廓然かくぜんと晴れた初夏の一日だった。もう夏らしく、白い層雲が、むく〱と空の一角に湧わいていた。水色の空には、強い光が、一杯に充みち渡って、生々の気が、空にも地にも溢あふれていた。たゞ、青山の葬場に集まった人丈だけは、活々いきいきとした周囲の中に、しめっぽい静かな陰翳いんえいを、投げているのだった。

青年の不幸な夭折ようせつが、特に多くの会葬者を、惹ひき付けているらしかった。信一郎が、定刻の三時前に行ったときに、早くも十幾台の自動車と百台に近い俥くるまが、斎場の前の広い道路に乗り捨てゝあった。控席に待合わしている人々は、もう五百人に近かった。それだのに、自動車や俥が、幾台となく後から〱到着するのだった。死んだ青年の父が、貴族院のある団体の有力な幹部である為ために、政界の巨頭は、大抵網羅しているらしかった。貴族院議長のT公爵の顔や、軍令部長のS大将の顔が、信一郎にも直すぐそれと判わかった。葉巻を横銜よこぐわえにしながら、場所柄をも考えないように哄笑こうしょうしている巨漢は、逓信ていしん大臣のN氏だった。それと相手になっているのは、戦後の欧洲おうしゅうを、廻って来て以来、風雲を待っているらしく思われているG男爵だった。その外首相の顔も見えた。内相もいた。陸相もいた。実業界の名士の顔も、五六人は見覚えがあった。が、見渡したところ信一郎の知人は一人もいなかった。彼は、受附へ名刺を出すと、控場ひかえじょうの一隅へ退いて、式の始まるのを待っていた。

誰も彼に、話しかけて呉くれる人はなかった。接待をしている人達も、名士達の前には、頭を幾度も下げて、その会葬を感謝しながら、信一郎には、たゞ儀礼的な一揖いちゆうを酬むくいただけだった。

誰からも、顧みられなかったけれども、信一郎の心には、自信があった。千に近い会葬者が、集まろうとも、青年の臨終に侍したのは、自分一人ではないか。青年の最期を、見届けているのは、自分一人ではないか。青年の信頼を受けているのは自分一人ではないか。その死床に侍して介抱してやったのは、自分一人ではないか。もし、死者にして霊あらば、大臣や実業家や名士達の社交上の会葬よりも、自分の心からな会葬を、どんなに欣よろこぶかも知れない。そう思うと、信一郎は自分の会葬が、他の何人なんぴとの会葬よりも、意義があるように思った。彼はそうした感激に耽ふけりながら、じっと会葬者の群を眺めていた。急に、皆が静かになったかと思うと、戞々かっかつたる馬蹄ばていの響がして、霊柩れいきゅうを載せた馬車が遺族達に守られて、斎場へ近づいて来るのだった。

二

霊柩を載せた馬車を先頭に、一門の人々を載せた馬車が、七八台も続いた。信一郎は、群衆を擦り脱ぬけて、馬車の止まった方へ近づいた。次ぎ〱に、馬車を降りる一門の人々を、仔細しさいに注視しようとしたのである。

霊柩の直すぐ後の馬車から、降り立ったのは、今日の葬式の喪主であるらしい青年であった。一目見ると、横死した青年の肉親の弟である事が、直ぐ判わかった。それほど二人はよく似ていた。たゞ学習院の制服を着ている此この青年の背丈が、国府津こうづで見たその人の兄よりも、一二寸高いように思われた。

その次ぎの馬車からは、二人の女性が現われた。信一郎は、その孰いずれかゞ瑠璃子と呼ばれはしないかと、熱心に見詰めた。二人とも、死んだ青年の妹であることが、直ぐ判った。兄に似て二人とも端正な美しさを持っていた。年の上の方も、まだ二十を越していないだろう。その美しい眼を心持泣き脹はらして、雪のような喪服を纏まとうて、俯うつむきがちに、しおたれて歩む姉妹の姿は、悲しくも亦また美しかった。

それに、続いてどの馬車からも、一門の夫人達であろう、白無垢しろむくを着た貴婦人が、一人二人宛ずつ降り立った。信一郎は、その裡うちの誰かゞ、屹度きっと瑠璃子に違いないと思いながら、一人から他へと、慌あわただしい眼を移した。が、たゞいら〱する丈だけで、ハッキリと確める術すべは、少しもなかった。

霊柩が式場の正面に安置せられると、会葬者も銘々に、式場へ雪崩なだれ入った。手狭な式場は見る見る、一杯になった。

式が始まる前の静けさが、其処そこに在った。会葬者達は、銘々慎しみの心を、表に現わして紫や緋ひの衣を着た老僧達の、居並ぶ祭壇を一斉に注視しているのであった。

式場が静粛に緊張して、今にも読経どきょうの第一声が、この静けさを破ろうとする時だった。突如として式場の空気などを、少しも顧慮しないようなけたゝましい、自動車の響が場外に近づいた。祭壇に近い人々は、遉さすがに振向きもしなかった。が、会葬者の殆ほとんど過半が、此無遠慮な闖入者ちんにゅうしゃに対して叱責しっせきに近い注視を投げたのである。

自動車は、式場の入口に横附けにされた。伊太利イタリー製らしい、優雅な自動車の扉が、運転手に依よって排せられた。

会葬者の注視を引いた事などには、何の恐れ気もないように、翼を拡ひろげた白孔雀くじゃくのような、け高さと上品さとで、その踏段から地上へと、スックと降り立ったのは、まだうら若い一個の女性だった。降りざまに、その面おもてを掩おおうていた黒い薄絹のヴェールを、かなぐり捨てゝ、無造作に自動車の中へ投げ入れた。人々の環視の裡に、微笑とも嬌羞きょうしゅうとも付かぬ表情を、湛たたえた面おもては、くっきりと皎しろく輝いた。

白襟紋付の瀟洒しょうしゃな衣きぬは、そのスラリとした姿を一層気高く見せていた。彼女は、何の悪怯わるびれた容子ようすも見せなかった。打ち並ぶ名士達の間に、細く残された通路を、足早に通り抜けて、祭壇の右の婦人達の居並ぶ席に就いた。

会葬者達は、場所柄の許す範囲で、銘々熱心な眼で、此の美しい無遠慮な遅参者の姿を追った。が、そうした眼の中でも、信一郎のそれが、一番熱心で一番輝いていたのである。

彼は、何よりも先きに、此女性の美しさに打たれた。年は二十はたちを多くは出ていなかったゞろう。が、そうした若い美しさにも拘かかわらず、人を圧するような威厳が、何処どこかに備わっていた。

信一郎は、頭の中で自分の知っている、あらゆる女性の顔を浮べて見た。が、そのどれもが、此婦人の美しさを、少しでも冒おかすことは出来なかった。

泰西の名画の中からでも、抜け出して来たような女性を、信一郎は驚異に似た心持で暫しばらくは、茫然ぼうぜんと会衆の頭越しに見詰めていたのである。

三

信一郎が、その美しき女性に、釘付くぎづけにされたように、会葬者の眸ひとみも、一時は此この女性の身辺に注がれた。が、その裡うちに、衆僧が一斉に始めた読経どきょうの朗々たる声は、皆の心持を死者に対する敬虔けいけんな哀悼あいとうに引き統すべてしまった。

が、此女性が、信一郎の心の裡に起した動揺は、お経の声などに依よって却々なかなか静まりそうにも見えなかった。

彼は、直覚的に此女性が、死んだ青年に対して、特殊な関係を持っていることを信じた。此女性の美しいけれども颯爽さっそうたる容姿が、あの返すべき時計に鏤刻るこくされている、鋭い短剣の形を想おもい起さしめた。彼は、読経の声などには、殆ほとんど耳も傾けずに、群衆の頭越しに、女性の姿を、懸命に見詰めたのである。

が、見詰めている中うちに、信一郎の心は、それが瑠璃子であるか、時計の持主であるかなどと云いう疑問よりも、此の女性の美しさに、段々囚とらわれて行くのだった。

此の女性の顔形は、美しいと云っても、昔からある日本婦人の美しさではなかった。それは、日本の近代文明が、初はじめて生み出したような美しさと表情を持っていた。明治時代の美人のように、個性のない、人形のような美しさではなかった。その眸は、飽くまでも、理智りちに輝いていた。顔全体には、爛熟らんじゅくした文明の婦人に特有な、智ち的な輝きがあった。

婦人席で多くの婦人の中に立っていながら、此の女性の背後丈だけには、ほの〲と明るい後光が、射さしているように思われた。

年頃から云えば娘とも思われた。が、何処どこかに備わっている冒しがたい威厳は、名門の夫人であることを示しているように思われた。

信一郎が、此の女性の美貌びぼうに対する耽美たんびに溺おぼれている裡に、葬式のプログラムはだん〱進んで行った。死者の兄弟を先に一門の焼香が終りかけると、此の女性もしとやかに席を離れて死者の為ために一抹いちまつの香を焚たいた。

やがて式は了おわった。会葬者に対する挨拶あいさつがあると、会葬者達は、我先にと帰途を急いだ。式場の前には俥くるまと自動車とが暫しばらくは右往左往に、入り擾みだれた。

信一郎は、急いで退場する群衆に、わざと取残された。彼は群衆に押されながら、意識して、彼かの女性に近づいた。

女性が、式場を出外ではずれると、彼女はそこで、四人の大学生に取り捲まかれた。大学生達は皆死んだ青年の学友であるらしかった。彼女は何か二言ふたこと三言みこと言葉を換すと乗るべき自動車に片手をかけて、華やかな微笑を四人の中の、誰に投げるともなく投げて、その娜しなやかな身を飜ひるがえして忽たちまち車上の人となったが、つと上半身を出したかと思うと、

「本当にそう考えて下さっては、妾わたくし困りますのよ。」と、嫣然えんぜんと云い捨てると、扉ドアをハタと閉じたが自動車はそれを合図に散りかゝる群衆の間を縫うて、徐おもむろに動き始めた。

大学生達は、自動車の後を、暫らく立ち止まって見送ると、その儘まま肩を揃そろえて歩き出した。信一郎も学生達の後を追った。学生達に話しかけて、此女性の本体を知ることが時計の持主を知る、唯一ゆいいつの機会であるように思ったからである。

学生達は、電車に乗る積つもりだろう。式場の前の道を、青山三丁目の方へと歩き出したのであった。信一郎は、それと悟られぬよう一間ばかり、間隔を以もって歩いていた。が、学生達の声は、可なり高かった。彼等の会話が、切れ切れに信一郎にも聞えて来た。

「青木の変死は、偶然だと云えばそれまでだが、僕は死んだと聞いたとき、直すぐ自殺じゃないかと思ったよ。」と、一番肥ふとっている男が云った。

「僕もそうだよ。青木の奴やつ、やったな! と思ったよ。」と、他の背の高い男は直ぐ賛成した。

四

「僕の所へ三保から寄越した手紙なんか、全く変だったよ。」と、たゞ一人夏外套がいとうを着ている男が云った。

信一郎は、そうした学生の会話に、好奇心を唆そそられて、思わず間近く接近した。

「兎とに角かく、ヒドく悄気しょげていたことは、事実なんだ。誰かに、失恋したのかも知れない。が、彼奴あいつの事だから誰にも打ち明けないし、相手の見当は、サッパリ付かないね。」と、肥ふとった男が云いった。

そう聞いて見ると、信一郎は、自動車に同乗したときの、青年の態度を直すぐ思い出した。その悲しみに閉された面影がアリ〱と頭に浮んだ。

「相手って、まさか我々の荘田しょうだ夫人じゃあるまいね。」と、一人が云うと、皆高々と笑った。

「まさか。まさか。」と皆は口々に打ち消した。

其処そこは、もう三丁目の停留場だった。四人連の内の三人は、其処に停車している電車に、無理に押し入るようにして乗った。たゞ、後に残った一人丈だけ、眼鏡をかけた、皆の話を黙って聴いていた一人だけ、友達と別れて、電車の線路に沿うて、青山一丁目の方へ歩き出した。信一郎は、その男の後を追った。相手が、一人の方が、話しかけることが、容易であると思ったからである。

半町ばかり、付いて歩いたが、何どうしても話しかけられなかった。突然、話しかけることが、不自然で突飛であるように思われた。彼は、幾度も中止しようとした。が、此この機会を失しては、時計を返すべき緒いとぐちが、永久に見付け得られないようにも思った。信一郎は到頭思い切った。先方が、一寸ちょっと振り返るようにしたのを機会に、つか〱と傍へ歩き寄ったのである。

「失礼ですが、貴君あなたも青木さんのお葬とむらいに?」

「そうです。」先方は突然な問を、意外に思ったらしかったが、不愉快な容子ようすは、見せなかった。

「やっぱりお友達でいらっしゃいますか。」信一郎はやゝ安心して訊きいた。

「そうです。ずっと、小さい時からの友達です。小学時代からの竹馬の友です。」

「なるほど。それじゃ、嘸さぞお力落しでしたろう。」と云ってから、信一郎は少し躊躇ちゅうちょしていたが、「つかぬ事を、承わるようですが、今貴君あなた方と話していた婦人の方ですね。」と云うと、青年は直ぐ訊き返した。

「あの自動車で、帰った人ですか。あの人が何どうかしたのですか。」

信一郎は少しドギマギした。が、彼は訊き続けた。

「いや、何うもしないのですが、あの方は何と仰おっしゃる方でしょう。」

学生は、一寸信一郎を憫あわれむような微笑を浮べた。ホンの瞬間だったけれども、それは知るべきものを知っていない者に見せる憫れみの微笑だった。

「あれが、有名な荘田夫人ですよ。御存じなかったのですか。曾かつて司法大臣をした事のある唐沢男爵だんしゃくの娘ですよ。唐沢さんと云えば、青木君のお父様と、同じ団体に属している貴族院の老政治家ですよ。お父様同士の関係で、青木君とは近しかったんです。」

そう云われて見ると、信一郎も、荘田夫人なるものゝ写真や消息を婦人雑誌や新聞の婦人欄で幾度も見たことを思い出した。が、それに対して、何の注意も払っていなかったので、その名前は何うしても想おもい浮ばなかった。が、此の場合名前まで訊くことが、可なり変に思われたが、信一郎は思い切って訊たずねた。

「お名前は、確か何とか云われたですね。」

「瑠璃子ですよ、我々は、玉桂たまかつらの瑠璃子夫人と云っていますよ。ハヽヽヽ。」と、学生は事もなげに答えた。

五

葬場に於おける遅参者が、信一郎の直覚していた通とおり、瑠璃子と呼ばるる女性であることが、此この大学生に依よって確められると、彼はその女性に就いて、もっといろ〱な事が、知りたくなった。

「それじゃ、青木君とあの瑠璃子夫人とは、そう大したお交際つきあいでもなかったのですね。」

「いやそんな事もありませんよ。此半年ばかりは、可なり親しくしていたようです。尤もっともあの奥さんは、大変お交際つきあいの広い方で、僕なぞも、青木君同様可なり親しく、交際している方です。」

大学生は、美貌びぼうの貴婦人を、知己の中に数え得ることが、可なり得意らしく、誇らしげにそう答えた。

「じゃ、可なり自由な御家庭ですね。」

「自由ですとも、夫の勝平氏を失ってからは、思うまゝに、自由に振舞っておられるのです。」

「あ! じゃ、あの方は未亡人ですか。」信一郎は、可なり意外に思いながら訊きいた。

「そうです。結婚してから半年か其処そこらで、夫に死に別れたのです。それに続いて、先妻のお子さんの長男が気が狂ったのです。今では、荘田家はあの奥さんと、美奈子みなこと云いう十九の娘さんだけです。それで、奥さんは離縁にもならず、娘さんの親権者として荘田家を切り廻しているのです。」

「なるほど。それじゃ、後妻に来られたわけですね。あの美しさで、あの若さで。」と、信一郎は事毎ごとに意外に感じながらそう呟つぶやいた。

大学生は、それに対して、何か説明しようとした。が、もう二人は青山一丁目の、停留場に来ていた。学生は、今発車しようとしている塩町行の電車に、乗りたそうな容子を見せた。

信一郎は、最後の瞬間を利用して、もう一歩進めて見た。

「突然ですが、ある用事で、あの奥さんに、一度お目にかゝりたいと思うのですが、紹介して下さる訳には……」と、言葉を切った。

大学生は、信一郎のそうしたやゝ不自然な、ぶっきら棒な願いを、美貌の女性の知己になりたいと云う、世間普通な色好みの男性の願と、同じものだと思ったらしく、一寸ちょっと嘲笑ちょうしょうに似た笑いを洩もらそうとしたが、直ぐそれを噛かみ殺して、

「貴君あなたの御身分や、御希望を精くわしく承らないと、僕として一寸紹介して差上げることは出来ません。尤も、荘田夫人は普通の奥さん方とは違いますから、突然尋ねて行かれても、屹度きっと逢あって呉くれるでしょう。御宅は、麹町こうじまちの五番町です。」

そう云い捨てると、その青年は身体からだを捷すばしこく動かしながら、将まさに動き出そうとする電車に巧に飛び乗ってしまった。

信一郎は、一寸おいてきぼりを喰ったような、稍々やや不快な感情を持ちながら、暫しばらく其処そこに佇立ちょりつした。大学生に話しかけた自分の態度が、下等な新聞記者か何かのようであったのが、恥しかった。どんなに、あの女性の本名が知りたくてももっと上品な態度が取れたのにと思った。

が、そうした不愉快さが、段々消えて行った後に、瑠璃子と云う女性の本体を掴つかみ得た満足が其処にあった。而しかも、瑠璃子と云う女性が、今も尚なおハンカチーフに包んで、ポケットの底深く潜ませて、持って来た時計の持主らしい、凡すべての資格を備えていることが何よりも嬉うれしかった。短剣を鏤ちりばめた白金プラチナの時計と、今日見た瑠璃子夫人の姿とは、ピッタリと合いすぎるほど、合っていた。今日にでも夫人を訪ねれば、夫人は屹度、死んだ青年に対する哀悼あいとうの涙を浮べながら、あの時計を受取って呉れるに違ちがいない。そして、自分と青年との不思議な因縁に、感激の言葉を発するに違ない。そう思うと、信一郎の瞳ひとみにあざやかな夫人の姿が、歴々ありありと浮かんで来た。彼は一刻も早く、夫人に逢いたくなった。其処へ、彼のそうした決心を促うながすように、九段両国行きの電車が、軋きしって来た。此電車に乗れば、麹町五番町迄までは、一回の乗換さえなかった。

六

電車が、赤坂見附から三宅坂みやけざか通り、五番町に近づくに従って、信一郎の眼には、葬場で見た美しい女性の姿が、いろいろな姿勢ポーズを取って、現れて来た。返すべき時計のことなどよりも、美しき夫人の面影の方が、より多く彼の心を占めているのに気が付いた。彼は自分の心持の中に、不純なものが交りかけているのを感じた。『お前は時計を返す為ために、あの夫人に逢あいたがっているのではない。時計を返すのを口実として、あの美しい夫人に逢いたがっているのではないか。』と云いう叱責しっせきに似た声を、彼は自分の心持の中に感じた。それほど、瑠璃子と呼ばれる女性の美しさが、彼の心を悩まし惑わしたが、信一郎は懸命にそれから逃れようとした。自分の責任は、たゞ青年の遺言通どおりに、時計を真の持主に返せばいゝのだ。荘田瑠璃子が、どんな女性であろうとあるまいと、そんな事は何の問題でもないのだ。たゞ、夫人が本当に時計の持主であるかどうかゞ、問題なのだ。自分はそれを確めて、時計を返しさえすれば、責任は尽きるのだ。信一郎は、そう強く思い切ろうとした。が、幾何いくら強く思い切ろうとしても、白孔雀くじゃくを見るような、﨟ろうたけた若き夫人の姿は、彼が思うまいとすればするほど、愈いよいよ鮮明に彼の眼底を去ろうとはしなかった。

青い葉桜の林に、キラ〱と夏の風が光る英国大使館の前を過ぎ、青草が美しく茂ったお濠ほりの堤どてに沿うて、電車が止まると、彼は急いで電車を降りた。彼の眼の前に五番町の広い通とおりが、午後の太陽の光の下に白く輝いていた。彼は、一寸ちょっとした興奮を感じながらも、暫しばらくは其処そこに立ち止まった。紳士として、突然訪ねて行くことが、余りにはしたないようにも思われた。手紙位で、一応面会の承諾を得る方が、自然で、かつは礼儀ではないかと思ったりした。が、そうした順序を踏んで相手が、会わないと云えば、それ切りになってしまう。少しは不自然でも、直截ちょくさいに訪問した方が、却かえって容易に会見し得るかも知れない。殊ことに、今は死んだ青年の葬儀から帰ったばかりであるから、此この夫人も、きっと青年のことを、考えているに違ちがいない。其処へ、自分が青年の名に依よって尋ねて行けば、案外快く引見するに違いない。そう考えると信一郎は崩くずれかゝった勇気を振い興おこして、五番町の表通と横町とを軒並のきなみに、物色して歩いた。彼は、五番町の総すべてを漁あさった。が、何処どこにも、荘田と云う表札は、見出みいださなかった。三十分近く無駄に歩き廻った末、彼は到頭通り合わした御用聴らしい小僧に尋ねた。

「荘田さんですか。それじゃあの停留場の直すぐ前の、白煉瓦れんがの洋館の、お屋敷がそれです。」と、小僧は言下に教えて呉くれた。

その家は、信一郎にも最初から判わかっていた。信一郎は、電車から降りたとき、直ぐその家に眼を与やったのであるが、花崗岩みかげいしらしい大きな石門から、楓かえでの並樹なみきの間を、爪先つまさき上りになっている玄関への道の奥深く、青い若葉の蔭かげに聳そびえる宏壮こうそうな西洋館が――大きい邸宅の揃そろっている此界隈かいわいでも、他の建物を圧倒しているような西洋館が荘田夫人の家であろうとは夢にも思わなかった。

彼は、予想以上に立派な邸宅に気圧けおされながら、暫らくはその門前に佇立ちょりつした。玄関への青い芝生の中の道が、曲線カーブをしている為に車寄せの様子などは、見えなかったが、ゴシック風の白煉瓦の建物は瀟洒しょうしゃに而しかも荘重な感じを見る者に与えた。開け放した二階の窓にそよいでいる青色の窓掩おおいが、如何いかにも清々すがすがしく見えた。二階の縁側ヴェランダに置いてある籐椅子とういすには、燃えるような蒲団クションが敷いてあって、此家の主人公が、美しい夫人であることを、示しているようだ。

入ろうか、入るまいかと、信一郎は幾度も思い悩んだ。手紙で訊きき合して見ようか、それでも事は足りるのだと思ったりした。彼が、宏壮な邸宅に圧迫されながら思わず踵きびすを廻かえそうとした時だった。噴泉の湧わくように、突如として樹この間まから洩もれ始めた朗々たるピアノの音が信一郎の心をしっかと掴つかんだのである。

七

樹の間を洩れて来るピアノの曲は、信一郎にも聞き覚えのあるショパンの夜曲ノクチュルンだった。彼は、廻かえそうとした踵きびすを、釘付くぎづけにされて、暫しばらくはその哀艶あいえんな響に、心を奪われずにはいられなかった。嫋々じょうじょうたるピアノの音は、高く低く緩やかに劇はげしく、時には若葉の梢こずえを馳かけ抜ける五月の風のように囁ささやき、時には青い月光の下に、俄にわかに迸ほとばしり出いでたる泉のように、激した。その絶えんとして、又続く快い旋律が、目に見えない紫の糸となって、信一郎の心に、後から後から投げられた。それは美しい女郎蜘蛛ぐもの吐き出す糸のように、蠱惑こわく的に彼の心を囚とらえた。

彼の心に、鍵盤キイの上を梭おさのように馳けめぐっている白い手が、一番に浮かんだ。それに続いて葬場でヴェールを取り去った刹那せつなの白い輝かしい顔が浮んだ。

彼は時計を返すなどと云いうことより、兎とに角かくも、夫人に逢あいたかった。たゞ、訳もなく、惹ひき付けられた。たゞ、会うことが出来さえすれば、その事丈だけでも、非常に大きな欣よろこびであるように思った。

躊躇ちゅうちょしていた足を、踏み返した。思い切って門を潜くぐった。ピアノの音に連れて、浮れ出した若き舞踏者のように、彼の心もあやしき興奮で、ときめいた。白い大理石の柱の並んでいる車寄せで、彼は一寸ちょっと躊躇した。が、その次の瞬間に、彼の指はもう扉ドアの横に取付けてある呼鈴に触れていた。

茲ここまで来ると、ピアノの音は、愈いよいよ間近く聞えた。その冴さえた触鍵タッチが、彼の心を強く囚えた。

呼鈴を押した後で、彼は妙な息苦しい不安の裡うちに、一分ばかり待っていた。その時、小さい靴の足音がしたかと思うと扉ドアが静かに押し開けられた。名刺受の銀の盆を手にした美しい少年が、微笑を含みながら、頭を下げた。

「奥さまに、一寸お目にかゝりたいと思いますが、御都合は如何いかがでございましょうか。」

彼は、そう云いながら、一枚の名刺を渡した。

「一寸お待ち下さいませ。」

少年は丁寧に再び頭を下げながら、玄関の突き当りの二階を、栗鼠りすのように、すばしこく馳かけ上った。

信一郎は少年の後を、じっと見送っていた。骰子さいは投げられたのだと云ったような、思い詰めた心持で、その二階に消える足音を聞いていた。

忽たちまちピアノの音が、ぱったりと止やんだ。信一郎は、その刹那に劇しい胸騒ぎを感じたのである。その美しき夫人が、彼の姓名を初めて知ったと云うことが、彼の心を騒がしたのである。彼は、再びピアノが鳴り出しはしないかと、息を凝こらしていた。が、ピアノの鳴る代りに、少年の小さい足音が、聞え始めた。愛嬌あいきょうのよい微笑わらいを浮べた少年は、トン〱と飛ぶように階段を馳け降りて来た。

「一体、何どう云う御用でございましょうか、一寸聞かしていたゞくように、仰おっしゃいました。」

信一郎は、それを聞くと、もう夫人に会う確な望みを得た。

「今日、お葬式がありました青木淳じゅん氏のことで、一寸お目にかゝりたいのですが……」と、云った。少年は、又勢いよく階段を馳け上って行った。今度は、以前のように早くは、馳け降りて来なかった。会おうか会うまいかと、夫人が思案している様子が、あり〱と感ぜられた。五分近くも経たった頃だろう。少年はやっと、二階から馳け降りて来た。

「御紹介状のない方には、何方どなたにもお目にかゝらないことにしてあるのですが、貴君様あなたさまを御信用申上げて、特別にお目にかゝるように仰しゃいました。どうぞ、此方こちらへ。」と、少年は信一郎を案内した。玄関を上った処ところは、広間だった。その広間の左の壁には、ゴヤの描いた『踊り子』の絵の、可なり精緻せいちな模写が掲げてあった。

女王蜘蛛ぐも

一

信一郎の案内せられた応接室は、青葉の庭に面している広い明るい部屋だった。花模様の青い絨氈じゅうたんの敷かれた床の上には、桃花心木マホガニイの卓子テーブルを囲んで、水色の蒲団クションの取り附けてある腕椅子アームチェイアが五六脚置かれている。壁に添うて横よこたわっている安楽椅子いすの蒲団クションも水色だった。窓掩おおいも水色だった。それが純白の布で張られている周囲の壁と映じて、夏らしい清新な気が部屋一杯に充みちていた。信一郎は勧められるまゝに、扉ドアを後にして、椅子に腰を下すと、落着いて部屋の装飾を見廻した。三方の壁には、それぞれ新しい油絵が懸っていた。左手ゆんでの壁にかゝっているのは、去年の二科の展覧会にかなり世評を騒がした新帰朝のある洋画家の水浴する少女の裸体画だった。此この家の女主人公が、裸体画を応接室に掲げるほど、社会上の因襲に囚とらわれていないことを示しているように、画中の少女は、一糸も纏まとっていない肉体を、冷たそうな泉の中に、その両膝ひざの所迄まで、オズ〱と浸しているのであった。その他卓子テーブルの上に置いてある灰皿にも、炉棚マンテルピースの上の時計にも、草花を投げ入れてある花瓶にも、此家の女主人公の繊細な鋭い趣味が、一々現われているように思われた。

杜絶とだえたピアノの音は、再び続かなかった。が、その音の主は、なか〱姿を現わさなかった。少年が茶を運んで来た後は、暫しばらくの間、近づいて来る人の気勢けはいもなかった。三分経たち、五分経ち、十分経った。信一郎の心は、段々不安になり、段々いら〱して来た。自分が、余りに奇を好んで紹介もなく顔を見たばかりの夫人を、訪ねて来たことが、軽率であったように、悔いられた。

その裡うちに、ふと気が付くと、正面の炉棚マンテルピースの上の姿見に、自分の顔が映っていた。彼が何気なく自分の顔を見詰めていた時だった。ふと、サラ〱と云いう衣擦きぬずれの音がしたかと思うと、背後うしろの扉ドアが音もなく開かれた。信一郎が、周章あわてて立ち上がろうとした時だった。正面の姿見に早くも映った白い美しい顔が、鏡の中で信一郎に、嫣然えんぜんたる微笑の会釈えしゃくを投げたのである。

「お待たせしましたこと。でも、御葬式から帰って、まだ着替えも致していなかったのですもの。」

長い間の友達にでも云うような、男を男とも思っていないような夫人の声は、媚羞びしゅうと狎々なれなれしさに充ちていた。しかも、その声は、何と云う美しい響と魅力とを持っていただろう。信一郎は、意外な親しさを投げ付けられて最初はドギマギしてしまった。

「いや突然伺いまして……」と、彼は立ち上りながら答えた。声が、妙に上ずッて、少年か何かのように、赤くなってしまった。

深海色ふかみいろにぼかした模様の錦紗縮緬きんしゃちりめんの着物に、黒と緑の飛燕ひえん模様の帯を締めた夫人は、そのスラリと高い身体からだを、くねらせるように、椅子に落着けた。

「本当に、盛んなお葬式でしたこと。でも淳じゅんさんのように、あんなに不意に、死んでは堪たまりませんわ。あんまり、突然で丸切り夢のようでございますもの。」

初対面の客に、ロク〱挨拶あいさつもしない中うちに、夫人は何のこだわりもないように、自由に喋しゃべり続けた。信一郎は、夫人からスッカリ先手を打たれてしまって、暫らくは何なんにも云い出せなかった。彼は我にもあらず、十分受け答もなし得ないで、たゞモジ〱していた。夫人は、相手のそうした躊躇ちゅうちょなどは、眼中にないように、自由で快活だった。

「淳さんは、たしかまだ二十四でございましたよ。確か五黄ごおうでございましたよ。五黄の申さるでございましょうかしら。妾わたしと同じに、よく新聞の九星を気にする方でございましたのよ。オホヽヽヽヽ。」

信一郎は、美しい蜘蛛の精の繰り出す糸にでも、懸ったように、話手の美しさに酔えいながら、暫らくは茫然ぼうぜんとしていた。

二

夫人は、口でこそ青年の死を悼いたんでいるものゝ、その華やかな容子ようすや、表情の何処どこにも、それらしい翳かげさえ見えなかった。たゞ一寸ちょっとした知己しりあいの死を、死んでは少し淋さびしいが、然しかし大したことのない知己の死を、話しているのに過ぎなかった。信一郎は、可なり拍子抜けがした。瑠璃子るりこと云いう名が、青年の臨終の床で叫ばれた以上、如何いかなる意味かで、青年と深い交渉があるだろうと思ったのは、自分の思い違いかしら。夫人の容子や態度が、示している通り、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己に、過ぎないのかしら。そう、疑って来ると、信一郎は、青年の死際しにぎわの囈語うわごとに過ぎなかったかも知れない言葉や、自分の想像を頼りにして、突然訪ねて来た自分の軽率な、芝居がかった態度が気恥しくて堪たまらなくなって来た。彼は、夫人に会えば、こう云おうあゝ云おうと思っていた言葉が、咽喉のどにからんでしまって、たゞモジ〱興奮するばかりだった。

「妾わたくし、今日すっかり時間を間違えていましてね。気が付くと、三時過ぎでございましょう。驚いて、自動車で馳はせ付けましたのよ。あんなに遅く行って、本当にきまりが悪うございましたわ。」

その癖、夫人はきまりが悪かったような表情は少しも見せなかった。あの葬場でも、それを思い出している今も。若い美しい夫人の何処に、そうした大胆な、人を人とも思わないような強い所があるのかと、信一郎はたゞ呆気あっけに取られている丈だけであった。先刻からの容子を見ると、信一郎が何のために、訪ねて来ているかなどと云うことは、丸切り夫人の念頭にないようだった。信一郎の方も、訪ねて来た用向をどう切り出してよいか、途方にくれた。が、彼は漸ようやく心を定きめて、オズ〱話し出した。

「実は、今日伺いましたのは、死んだ青木君の事に就てでございますが……」

そう云って、彼は改めて夫人の顔を見直した。夫人が、それに対してどんな表情をするかゞ、見たかったのである。が、夫人は無雑作だった。

「そう〱取次の者が、そんなことを申しておりました。青木さんの事って、何でございますの?」

帝劇で見た芝居の噂話うわさばなしをでもしているように夫人の態度は平静だった。

「実は、貴方あなたさまにこんなことをお話しすべき筋であるかどうか、それさえ私には分らないのです、もし、人違ひとちがいだったら、何どうか御免下さい。」

信一郎は、女王の前に出た騎士のように慇懃いんぎんだった。が、夫人は卓上に置いてあった支那しな製の団扇うちわを取って、煽あおぐともなく動かしながら、

「ホヽヽ何のお話か知りませんが大層面白くなりそうでございますのね。まあ話して下さいまし。人違いでございましたにしろ、お聞きいたしただけ聞き徳でございますから。」と、微笑を含みながら云った。

信一郎は、夫人の真面目まじめとも不真面目とも付かぬ態度に揶揄からかわれたように、まごつきながら云った。

「実は、私は青木君のお友達ではありません。只ただ偶然、同じ自動車に乗り合わしたものです。そして青木君の臨終に居合せたものです。」

「ほゝう貴君あなたさまが……」

そう云った夫人の顔は、遉さすがに緊張した。が、夫人は自分で、それに気が付くと、直すぐ身を躱かわすように、以前の無関心な態度に帰ろうとした。

「そう! まあ何と云う奇縁でございましょう。」

その美しい眼を大きく刮みひらきながら、努めて何気なく云おうとしたが、その言葉には、何となく、あるこだわりがあるように思われた。

「それで、実は青木君の死際の遺言ゆいごんを聴いたのです。」

信一郎は、夫人の示した僅わずかばかりの動揺に力を得て突っ込むようにそう言った。

「遺言を貴君あなたさまが、ほゝう。」

そう云った夫人のけだかい顔にも、隠し切れぬ不安がアリ〱と読まれた。

三

今迄いままでは、秋の湖のように澄み切っていた夫人の容子が、青年の遺言と云う言葉を聴くと、急に僅わずかではあるが、擾みだれ始めた。信一郎は手答えがあったのを欣よろこんだ。此この様子では、自分の想像も、必ずしも的まとが外れているとは限らないと、心強く思った。

「衝突の模様は、新聞にもある通とおりですが、それでも負傷から臨終までは、先まず三十分も間がありましたでしょう。その間、運転手は医者を呼びに行っていましたし、通りかゝる人はなし、私一人が臨終に居合わしたと云うわけですが、丁度息を引き取る五分位前でしたろう、青木君は、ふと右の手首に入れていた腕時計のことを言い出したのです。」

信一郎が、茲ここまで話したとき、夫人の面おもては、急に緊張した。そうした緊張を、現すまいとしている夫人の努力が、アリ〱と分った。

「その時計を何どうしようと、云われたのでございますか。その時計を!」

夫人の言葉は、可なり急せき込んでいた。其その美しい白い顔が、サッと赤くなった。

「その時計を返して呉れと云われるのです。是非返して呉れと云われるのです。」信一郎も、やゝ興奮しながら答えた。

「誰方どなたにでございましょうか。誰方に返して呉れと云われたのでございましょうか。」

夫人の言葉は、更に急き込んでいた。一度赤くなった顔が、白く冷たい色を帯びた。美しい瞳ひとみまでが鋭い光を放って、信一郎の答えいかにと、見詰めているのだった。

信一郎は、夫人の鋭い視線を避けるようにして云った。

「それが誰にとも分らないのです。」

夫人の顔に現れていた緊張が、又サッと緩ゆるんだ。暫しばらく杜絶とだえていた微笑が、ほのかながら、その口辺に現われた。

「じゃ、誰方に返して呉れとも仰おっしゃらなかったのですの。」夫人は、ホッと安堵あんどしたように、何時いつの間にか、以前の落着を、取り返していた。

「いやそれがです。幾度も、返すべき相手の名前を訊きいたのですが、もう臨終が迫っていたのでしょう、私の問には、何とも答えなかったのです。たゞ臨終に貴女あなたのお名前を囈語うわごとのように二度繰り返したのです。それで、万一貴女に、お心当りがないかと思って参上したのですが。」

信一郎は、肝腎かんじんな来意を云ってしまったので、ホッとしながら、彼は夫人が何う答えるかと、じっと相手の顔を見詰めていた。

「ホヽヽヽヽ。」先ず美しいその唇から、快活な微笑ほほえみが洩もれた。

「淳じゅんさんは、本当に頼もしい方でいらっしゃいましたわ。そんな時にまで私わたくしを覚えていて下さるのですもの。でも、私腕時計などには少しも覚えがございませんの。お持ちなら、一寸ちょっと拝見させていたゞけませんかしら。」

もう、夫人の顔に少しの不安も見えなかった。澄み切った以前の美しさが、帰って来ていた。信一郎は、求めらるゝまゝに、ポケットの底から、ハンカチーフに括くるんだ謎なぞの時計を取り出した。

「確か女持には違いないのです。少し、象眼の意匠が、女持としては奇抜過ぎますが。」

「妹さんのものじゃございませんのでしょうか。」夫人は無造作に云いながら、信一郎の差し出す時計を受取った。

信一郎は断るように附け加えた。

「血が少し附いていますが、わざと拭ふいてありません。衝突の時に、腕環うでわの止金とめがねが肉に喰い入ったのです。」

そう信一郎が云った刹那せつな、夫人の美しい眉まゆが曇った。時計を持っている象牙ぞうげのように白い手が、思い做なしか、かすかにブル〱と顫ふるえ出した。

四

時計を持っている手が、微かすかに顫えるのと一緒に、夫人の顔も蒼白あおじろく緊張したようだった。ほんのもう、痕跡こんせきしか残っていない血が、夫人の心を可なり、脅おびやかしたようにも思われた。

一分ばかり、無言に時計をいじくり廻していた夫人は、何かを深く決心したように、そのひそめた眉まゆを開いて、急に快活な様子を取った。その快活さには、可なりギゴチない、不自然なところが、交っていたけれども。

「あゝ判わかりました。やっと思い付きました。」夫人は突然云いい出した。

「私此この時計に心覚えがございますの。持主の方も存じておりますの。お名前は、一寸ちょっと申上げ兼ますが、ある子爵ししゃくの令嬢でいらっしゃいますわ。でも、私あの方と青木さんとが、こうした物を、お取り換かわしになっていようとは、夢にも思いませんでしたわ。屹度きっと、誰方どなたにも秘密にしていらしったのでございましょう。だから青木さんは臨終の時にも、遺族の方には知られたくなかったのでございましょう。道理で見ず知らずの貴方あなたにお頼みになったのでございますわ。その令嬢と、愛の印としてお取り換しになったものを、遺品かたみとしてお返しになりたかったのでは、ございませんかしら。」

夫人は、明瞭めいりょうに流暢りゅうちょうに、何のよどみもなく云った。が、何処どことなく力なく空々しいところがあったが、信一郎は夫人の云うことを疑う確たしかな証拠は、少しもなかった。

「私も、多分そうした品物だろうとは思っていたのです。それでは、早速その令嬢にお返ししたいと思いますが、御名前を教えていたゞけませんでしょうか。」

「左様でございますね。」と、夫人は首を傾かしげたが、直すぐ「私を信用していたゞけませんでしょうか、私が、女同士で、そっと返して上げたいと思いますのよ。男の方の手からだと、どんなに恥しくお思いになるか分らないと、存じますのよ。いかゞ?」と、承諾を求めるように、ニッコリと笑った。華やかな艶美えんびな微笑だった。そう云われると、信一郎はそれ以上、かれこれ言うことは出来なかった。兎とに角かく、謎なぞの品物が思ったより容易に、持主に返されることを、欣よろこぶより外はなかった。

「じゃ、貴女あなたさまのお手でお返し下さいませ。が、その方のお名前丈だけは、承ることが出来ませんでしょうか。貴女さまを、お疑い申す訳では決してないのでございますが。」と、信一郎はオズ〱云った。

「ホヽヽヽ貴方様あなたさまも、他人の秘密を聴くことが、お好きだと見えますこと。」夫人は、忽たちまち信一郎を突き放すように云いった。その癖、顔一杯に微笑を湛たたえながら、「恋人を突然奪われたその令嬢に、同情して、黙って私に委まかして下さいませ。私が責任を以もって、青木さんの霊たましいが、満足遊ばすようにお計はからいいたしますわ。」

信一郎は、もう一歩も前へ出ることは出来なかった。そうした令嬢が、本当にいるか何どうかは疑われた。が、夫人が時計の持主を、知っていることは確かだった。それが、夫人の云う通とおり、子爵の令嬢であるか何うかは分らないとしても。

「それでは、お委せいたしますから、何うかよろしくお願いいたします。」

そう引き退さがるより外はなかった。

「確たしかにお引き受けいたしましたわ。貴方さまのお名前は、その方にも申上げて置きますわ。屹度、その方も感謝なさるだろうと存じますわ。」

そう云いながら、夫人はその血の附いた時計を、懐ふところから出した白い絹のハンカチーフに包んだ。

信一郎は、時計が案外容易に片づいたことが、嬉うれしいような、同時に呆気あっけないような気持がした。少年が紅茶を運んで来たのを合図のように立ち上った。

信一郎が、勧められるのを振切って、将まさに玄関を出ようとしたときだった。夫人は、何かを思い付いたように云った。

「あ、一寸ちょっとお待ち下さいまし。差上げるものがございますのよ。」と、呼び止めた。

五

信一郎が、暇いとまを告げたときには何とも引き止めなかった夫人が、玄関のところで、急に後から呼び止めたので、信一郎は一寸意外に思いながら、振り顧かえった。

「つまらないものでございますけれども、之これをお持ち下さいまし。」

そう云いながら、夫人は何時いつの間に、手にしていたのだろう、プログラムらしいものを、信一郎に呉くれた。一寸開いて見ると、それは夫人の属するある貴婦人の団体で、催される慈善音楽会の入場券とプログラムであった。

「御親切に対する御礼は、妾わたくしから、致そうと存じておりますけれど、これはホンのお知己ちかづきになったお印に差し上げますのよ。」

そう云いながら、夫人は信一郎に、最後の魅するような微笑を与えた。

「いたゞいて置きます。」辞退するほどの物でもないので信一郎はその儘ままポケットに入れた。

「御迷惑でございましょうが、是非お出いで下さいませ、それでは、その節またお目にかゝります。」

そう云いながら、夫人は玄関の扉ドアの外へ出て暫しばらくは信一郎の歩み去るのを見送っているようであった。

電車に乗ってから、暫らくの間信一郎は夫人に対する酔えいから、醒さめなかった。それは確かに酔心地よいごこちとでも云うべきものだった。夫人と会って話している間、信一郎はそのキビ〱した表情や、優しいけれども、のしかゝって来るような言葉に、云い知れぬ魅力みりょくをさえ感じていた。男を男とも思わないような夫人に、もっとグン〱引きずられたいような、不思議な欲望をさえ感じていたのである。

が、そうした酔が、だん〱醒めかゝるに連れ、冷たい反省が信一郎の心を占めた。彼は、今日の夫人の態度が、何となく気にかゝり始めた。夫人の態度か、言葉かの何処どこかに、嘘うそ偽りがあるように思われてならなかった。最初冷静だった夫人が、遺言と云う言葉を聞くと、急に緊張したり、時計を暫らく見詰めてから、急に持主を知っていると云い出したりしたことが、今更のように、疑念の的になった。疑ってかゝると、信一郎は大事な青年の遺品かたみを、夫人から体ていよく捲まき上げられたようにさえ思われた。従って、夫人の手に依よって、時計が本当の持主に帰るかどうかさえが、可なり不安に思われ出した。

その時に、信一郎の頭の中に、青年の最後の言葉が、アリ〱と甦よみがえって来た。『時計を返して呉れ』と云う言葉の、語調までが、ハッキリと甦って来た。その叫びは、恋人に恋の遺品かたみを返すことを、頼む言葉としては、余りに悲痛だった。その叫びの裡うちには、もっと鋭い骨を刺すような何物かゞ、混じっていたように思われた。『返して呉れ』と云う言葉の中に『突っ返して呉れ』と云うような凄すごい語気を含んでいたことを思い出した。たとい、死際しにぎわであろうとも、恋人に物を返すことを、あれほど悲痛に頼むことはない筈はずだと思われた。

そう考えて来ると、瑠璃子夫人の云った子爵ししゃく令嬢と青年との恋愛関係は、烟けむりのように頼りない事のようにも思われた。夫人はあゝした口実で、あの時計を体よく取返したのではあるまいか。本当は、自分のものであるのを、他人のものらしく、体よく取返したのではあるまいか。

が、そう疑って見たものゝ、それを確める証拠は何もなかった。それを確めるために、もう一度夫人に会って見ても、あの夫人の美しい容貌ようぼうと、溌剌はつらつな会話とで、もう一度体よく追い返されることは余りに判わかり切っている。

信一郎は、夫人の張る蜘蛛くもの網にかゝった蝶ちょうか何かのように、手もなく丸め込まれ、肝心な時計を体よく、捲き上げられたように思われた。彼は、自分の腑甲斐ふがいなさが、口惜くやしく思われて来た。

彼の手を離れても、謎なぞの時計は、やっぱり謎の尾を引いている。彼は何どうかして、その謎を解きたいと思った。

その時にふと、彼は青年が海に捨つるべく彼に委託したノートのことを思い出したのである。

六

青年から、海へ捨てるように頼まれたノートを、信一郎はまだトランクの裡うちに、持っていた。海に捨てる機会を失なくしたので、焼こうか裂こうかと思いながら、ついその儘ままになっていたのである。

それを、今になって披ひらいて見ることは、死者に済まないことには違ちがいなかった。が、時計の謎なぞを知るためには、――それと同時に瑠璃子夫人の態度の謎を解くためには、ノートを見ることより外に、何の手段も思い浮ばなかった。あんな秘密な時計をさえ、自分には託したのだ、その時計の本当の持主を知るために、ノートを見る位は、許して呉くれるだろうと、信一郎は思った。

でも家に帰って、まだ旅行から帰ったまゝに、放り出してあったトランクを開いたとき、信一郎は可なり良心の苛責かしゃくを感じた。

が、彼が時計の謎を知ろうと云いう慾望は、もっと強かった。美しい瑠璃子夫人の謎を解こうと云う慾望は、もっと強かった。

彼は、恐る恐るノートを取り出した。秘密の封印を解くような興奮と恐怖とで、オズ〱表紙を開いて見た。彼の緊張した予期は外れて、最初の二三枚は、白紙だった。その次ぎの五六枚も、白紙だった。彼は、裏切られたようなイラ〱しさで、全体を手早くめくって見た。が、何の頁ページも、真白な汚よごれない頁ページだった。彼が、妙な失望を感じながら、最後までめくって行ったとき、やっと其処そこに、インキの匂においのまだ新しい青年の手記を見たのである。それは、ノートの最後から、逆にかき出されたものだった。

信一郎は胸を躍らしながら、貪むさぼるようにその一行々々を読んだのである。可なり興奮して書いたと見え、字体が荒すさんでいる上に、字の書き違ちがいなどが、彼処かしこにも此処ここにもあった。

――彼女は、蜘蛛くもだ。恐ろしく、美しい蜘蛛だ。自分が彼女に捧ささげた愛も熱情も、たゞ彼女の網にかゝった蝶ちょうの身悶みもだえに、過ぎなかったのだ。彼女は、彼女の犠牲の悶えを、冷やかに楽しんで見ていたのだ。

今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと云って、一個の腕時計を呉れた。それを、彼女の白い肌から、直すぐ自分の手首へと、移して呉れた。彼女は、それをかけ替のない秘蔵の時計であるようなことを云った。彼女を、純真な女性であると信じていた自分は、そうした賜物たまものを、どんなに欣よろこんだかも知れなかった。彼女を囲んでいる多くの男性の中で、自分こそ選ばれたる唯ただ一人であると思った。勝利者であると思った。自分は、人知れず、得々として之これを手首に入れていた。彼女の愛の把握が其処にあるように思っていた。彼女の真実の愛が、自分一人にあるように思っていた。

が、自分のそうした自惚うぬぼれは、そうした陶酔とうすいは滅茶苦茶めちゃくちゃに、蹂ふみ潰つぶされてしまったのだ。皮肉に残酷に。

昨日自分は、村上海軍大尉たいいと共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待っていた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲まくり上げて、腕時計を出して見ているのに気が附いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似しているのである。自分はそれとなく、一見を願った。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外した時の駭おどろきは、何どんなであったろう。若もし、大尉が其処に居合せなかったら、自分は思わず叫声を挙げたに違ちがいない。自分が、それを持っている手は思わず、顫ふるえたのである。

自分は急せき込んで訊きいた。

「これは、何処どこからお買いになったのです。」

「いや、買ったのではありません。ある人から貰もらったのです。」

大尉の答は、憎々しいほど、落着いていた。しかも、その落着の中に、得意の色がアリ〱と見えているではないか。

七

――その時計は、自分の時計と、寸分違ってはいなかった。象眼の模様から、鏤ちりばめてあるダイヤモンドの大きさまで。それは、彼女に取ってかけ替のない、たった一つの時計ではなかったのか。自分は自分の手中にある大尉の時計を、庭の敷石に、叩たたき付けてやりたいほど興奮した。が、大尉は自分の興奮などには気の付かないように、

「何どうです。仲々奇抜な意匠でしょう。一寸ちょっと類のない品物でしょう。」と、その男性的な顔に得意な微笑を続けていた。自分は、自分の右の手首に入れているそれと、寸分違たがわぬ時計を、大尉の眼に突き付けて大尉の誇プライドを叩き潰つぶしてやりたかった。が、大尉に何の罪があろう。自分達立派な男子二人に、こんな皮肉な残酷な喜劇を演ぜしめるのは、皆彼女ではないか。彼女が操る蜘蛛くもの糸の為ためではないか。自分は、彼女が帰り次第、真向から時計を叩き返してやりたいと思った。

が、彼女と面と向って、不信を詰責きっせきしようとしたとき、自分は却かえって、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如ごとく、飜弄ほんろうされ、奴隷どれいの如く卑いやしめられた。而しかも、美しい彼女の前に出ると、唖のようにたわいもなく、黙り込む自分だった。自分は憤いきどおりと恨うらみとの為に、わな〱顫ふるえながら而も指一本彼女に触れることが出来なかった。自分は力と勇気とが、欲しかった。彼女の華奢きゃしゃな心臓を、一思いに突き刺し得る丈だけの勇気と力とを。

が、二つとも自分には欠けていた。彼女を刺す勇気のない自分は、彼女を忘れようとして、都を離れた。が、彼女を忘れようとすればするほど、彼女の面影は自分を追い、自分を悩ませる。

手記は茲ここで中断している。が半頁ページばかり飛んでから、前よりももっと乱暴な字体で始まっている。

何うしても、彼女の面影が忘れられない。それが蝮まむしのように、自分の心を噛かみ裂く。彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態びたいを惜しげもなく、示しているかと思うと、自分の心は、夜の如く暗くなってしまう。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか、二つに一つだと思う。

又一寸中断されてから、

そうだ、一層いっそ死んでやろうかしら。純真な男性の感情を弄もてあそぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせてやるために。そうだ。自分の真実の血で、彼女の偽いつわりの贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅わずかに残っている良心を、恥はずかしめてやるのだ。

手記は、茲ここで終っている。信一郎は、深い感激の中に読み了おわった。これで見ると、青年の死は、形は奇禍であるけれども、心持は自殺であると云いってもよかったのだ。青年は死場所を求めて、箱根から豆相ずそうの間を逍遥さまよっていたのだった。彼の奇禍は、彼の望み通どおりに、偽りの贈り物を、彼の純真な血で真赤に染めたのだ。が、その血潮が、彼女の心に僅かに残っている良心を、恥しめ得るだろうか。『返して呉くれ』と云ったのは『叩き返して呉れ』と云う意味だった。信一郎は果して叩き返しただろうか。

彼女が、瑠璃子夫人であるか何うかは、手記を読んだ後も、判然とは判わからなかった。が、たゞ生易なまやさしく平和の裡うちに、返すべき時計でないことは明あきらかだった。その時計の中に含まれている青年の恨みを、相手の女性に、十分思い知らさなければならない時計だったのだ。たゞ、ボンヤリと返しただけでは青年の心は永久に慰なぐさめられていないのだ。信一郎はもう一度瑠璃子夫人の手から取り返して、青年の手記の中の所謂いわゆる『彼女』に突き返してやらねばならぬ責任を感じたのである。

が、『彼女』とは一体誰であろう。

そのかみの事

一

「あら! お危あぶのうございますわ。」と、赤い前垂掛の女中姿をした芸者達に、追い纏まとわれながら、荘田しょうだ勝平は庭の丁度中央まんなかにある丘の上へ、登って行った。飲み過ごした三鞭酒シャンペンしゅのために、可なり危かしい足付をしながら。

丘の上には、数本の大きい八重桜が、爛漫らんまんと咲乱れて、移り逝ゆく春の名残りを止とどめていた。其処そこから見渡される広い庭園には、晩春の日が、うら〱と射さしている。五万坪に近い庭には、幾つもの小山があり芝生があり、芝生が緩やかな勾配こうばいを作って、落ち込んで行ったところには、美しい水の湧わく泉水があった。

その小山の上にも、麓ふもとにも、芝生の上にも、泉水の畔ほとりにも、数奇すきを凝らした四阿あずまやの中にも、モーニングやフロックを着た紳士や、華美な裾すそ模様を着た夫人や令嬢が、三々伍々さんさんごご打ち集つどうているのだった。

人の心を浮き立たすような笛や鼓つづみの音が、楓かえでの林の中から聞えている。小松の植込の中からは、其処に陣取っている、三越みつこしの少年音楽隊の華やかな奏楽が、絶え間なく続いている。拍子木が鳴っているのは、市村座の若手俳優の手踊りが始まる合図だった。それに吸い付けられるように、裾模様や振袖ふりそでの夫人達が、その方へゾロ〱と動いて行くのだった。

勝平は、そうした光景や、物音を聞いていると、得意と満足との微笑が後から後から湧いて来た。自分の名前に依よって帝都の上流社会がこんなに集まっている。自分の名に依って、大臣も来ている。大銀行の総裁や頭取も来ている。侯爵こうしゃくや伯爵の華族達も見えている。いろ〱な方面の名士を、一堂の下に蒐あつめている。自分の名に依って、自分の社会的位置で。

そう考えるに付けても、彼は此この三年以来自分に振りかゝって来た夢のような華やかな幸運が、振り顧かえりみられた。

戦争が始まる前は、神戸の微々たる貿易商であったのが、偶々たまたま持っていた一隻せきの汽船が、幸運の緒を紡つむいで極端な遣繰やりくりをして、一隻一隻と買い占めて行った船が、お伽噺とぎばなしの中の白鳥のように、黄金の卵を、次ぎ次ぎに産んで、わずか三年後の今は、千万円を越す長者になっている。

しかも、金の出来るに従って、彼は自分の世界が、だん〱拡ひろがって行くのを感じた。今までは、『其処にいるか』とも声をかけて呉くれなかった人々が、何時いつの間にか自分の周囲に蒐まって来ている。近づき難いと思っていた一流の政治家や実業家達が、何時の間にか、自分と同じ食卓に就くようになっている。自分を招待したり、自分に招待されたりするようになっている。その他、彼の金力が物を云いうところは、到いたる処ところにあった。緑酒紅燈こうとうの巷ちまたでも、彼は自分の金の力が万能であったのを知った。彼は、金さえあれば、何でも出来ると思った。現に、此の庭園なども、都下で屈指の名園を彼が五十万円に近い金を投じて買ったのである。現に、今日の園遊会も、一人宛あて百金に近い巨費を投じて、新邸披露として、都下の名士達を招よんだのである。

聞えて来る笛の音も、鼓の音も奏楽の響も、模擬店もぎてんでビールの満を引いている人達の哄笑こうしょうも、勝平の耳には、彼の金力に対する讃美さんびの声のように聞えた。『そうだ。凡すべては金だ。金の力さえあればどんな事でも出来る』と、心の裡うちで呟つぶやきながら、彼が日頃の確信を、一層強めたときだった。

「いや、どうも盛会ですな。」と、ビールの杯コップを右の手に高く翳かざしながら、蹌踉ひょろひょろと近づいて来る男があった。それは、勝平とは同郷の代議士だった。その男の選挙費用も、悉ことごとく勝平のポケットから、出ているのだった。

「やあ! お蔭かげさまで。」と、勝平は傲然ごうぜんと答えた。『茲ここにも俺の金の力で動いている男が一人いる。』と、心の中で思いながら。

二

「よく集まったものですね。随分珍しい顔が見えますね。松田老侯までが見えていますね。我輩わがはい一昨日は、英国大使館の園遊会ガードンパーティに行きましたがね。とても、本日の盛況には及びませんね。尤もっとも、此この名園を見る丈だけでも、来る価値ねうちは十分ありますからね。ハヽヽヽ。」

代議士の沢田は真正面からお世辞を云いうのであった。

「いゝ天気で、何よりですよ。ハヽヽヽヽ。」と、勝平は鷹揚おうように答えたが、内心の得意は、包隠つつみかくすことが出来なかった。

「素晴らしい庭ですな。彼処あすこの杉林から泉水の裏手へかけての幽邃ゆうすいな趣は、とても市内じゃ見られませんね。五十万円でも、これじゃ高くはありませんね。」

そう云いながら、沢田は持っていたビールの杯コップを、またグイと飲み乾ほした。色の白い肥ふとった顔が、咽喉のどの処ところまで赤くなっている。彼は、転げかゝるように、勝平に近づいて右の二の腕を捕えた。

「主人公が、こんな所に、逃げ込んでいては困りますね。さあ、彼方あっちへ行きましょう。先刻も我党の総裁が、貴方あなたを探していた。まだ挨拶あいさつをしていないと云って。」

沢田は、勝平をグン〱麓ふもとの方へ、園遊会の賑にぎわいと混雑の方へ引きずり込もうとした。

「いや、もう少しこの儘ままにして置いて下さい。今日一時から、門の処で一時間半も立ち続けていた上に、先刻三鞭酒シャンペンしゅを、六七杯も重ねたものだから。もう暫しばらく捨てゝ置いて下さい。直すぐ行きますよ、後から直ぐ。」

そう云って、捕えられていた腕を、スラリと抜くと、沢田はその機はずみで、一間ばかりひょろひょろと下へ滑って行ったが、其処そこで一寸ちょっと踏み止とどまると、

「それじゃ後ほど。」と云ったまゝ空になった杯コップを、右の手で振り廻すようにしながら、ふら〱丘の麓にある模擬店の方へ行ってしまった。

園内の数ヶ所で始まっている余興は、それ〲に来会した人々を、分け取りにしているのだろう。勝平の立っている此の広い丘の上にも五六人の人影しか、残っていなかった。勝平に付き纏まとっていた芸妓げいぎ達も、先刻さっき踊りが始まる拍子木が鳴ると、皆その方へ馳かけ出してしまった。

が、勝平は四辺あたりに人のいないのが、結局気楽だった。彼は、其処に置いてある白い陶製の腰掛に腰を下しながら、快い休息を貪むさぼっていた。心の中は、燃ゆるような得意さで一杯になりながら。

彼が、暫らく、ぼんやりと咲き乱れている八重桜の梢こずえ越しに、薄青く澄んでいる空を、見詰めている時だった。

「茲ここは静かですよ。早く上っていらっしゃい。」と、近くで若い青年の声がした。ふと、その方を見ると、スラリとした長身に、学校の制服を着けた青年が、丘の麓を見下しながら、誰かを麾さしまねいている所だった。

青年は、今日招待した誰かゞ伴って来た家族の一人であろう。勝平には、少しも見覚えがなかった。青年も、此の家の主人公が、こんな淋さびしい処に、一人いようなどとは、夢にも気付いていないらしく、麓の方を麾いてしまうと、ハンカチーフを出して、其処にある陶製の腰掛の埃ほこりを払っているのだった。

急に、丘の中腹で、うら若い女の声がした。

「まあ、ひどい混雑ですこと。妾わたしいやになりましたわ。」

「どうせ、園遊会なんてこうですよ。あの模擬店の雑沓ざっとうは、何どうです。見ている丈だけでも、あさましくなるじゃありませんか。」と、青年は丘の中腹を、見下しながら、答えた。

それには何とも答えないで、昇って来るらしい人の気勢けはいがした。青年の言葉に、一寸傷つけられた勝平は、じっと其方を、睨にらむように見た。最初、前髪を左右に分けた束髪の頭の形が見えた。それに続いて、細面の透き通るほど白い女の顔が現れた。

三

やがて、女は丘の上に全身を現した。年は十八か九であろう。その気高い美しさは、彼女の頭上に咲き乱れている八重桜の、絢爛けんらんたる美しさをも奪っていた。目も醒さむるような藤納戸色ふじなんどいろの着物の胸のあたりには、五色の色糸のかすみ模様の繍ぬいが鮮かだった。そのぼかされた裾すそには、さくら草が一面に散り乱れていた。白地に孔雀くじゃくを浮織にした唐織の帯には、帯止めの大きい真珠が光っていた。

「疲れたでしょう。お掛けなさい。」

青年は、埃ほこりを払った腰掛を、女に勧めた。彼女は勧められるまゝに、腰を下しながら、横に立っている青年を見上げるようにして云った。

「妾わたし来なければよかったわ。でも、お父様が一緒に行こう〱云って、お勧めになるものですから。」

「僕も、妹のお伴ともで来たのですが、こう混雑しちゃ厭いやですね。それに、此この庭だって、都下の名園だそうですけれども、ちっともよくないじゃありませんか。少しも、自然な素直な所がありゃしない。いやにコセ〱していて、人工的な小刀細工が多すぎるじゃありませんか。殊ことに、あの四阿あずまやの建て方なんか厭ですね。」

年の若い二人は、此日の園遊会の主催者なる勝平が、たゞ一人こんな淋さびしい処ところにいようなどとは夢にも考え及ばないらしく、勝平の方などは、見向きもしないで話し続けた。

「お金さえかければいゝと思っているのでしょうか。」

美しい令嬢は、その美しさに似合わないような皮肉な、口の利きき方をした。

「どうせ、そうでしょう。成金と云いったような連中は、金額と云う事より外には、何にも趣味がないのでしょう。凡すべての事を金の物差で計ろうとする。金さえかければ、何でもいゝものだと考える。今日の園遊会なんか、一人宛ずつ五十円とか百円とかを、入れるとか何とか云っているそうですが、あの俗悪な趣向を御覧なさい。」

青年は、何かに激しているように、吐き出すように云った。

先刻から、聞くともなしに、聞いていた勝平は、烈はげしい怒いかりで胸の中が、煮えくり返るように思った。彼は、立ち上りざま、悪口を云っている青年の細首を捕えて、邸やしきの外へ放り出してやりたいとさえ思った。彼は若い時、東京に出たときに労働をやった時の名残りに、残っている二の腕の力瘤ちからこぶを思わず撫なでた。が、遉さすがに彼の位置が、つい三四分前まで、あんなに誇らしく思っていた彼の社会的位置が彼のそうした怒を制して呉くれた。彼は、ムラ〱と湧わいて来る心を抑えながら、青年の云うことを、じっと聞き澄していた。

「成金だとか、何とかよく新聞などに、彼等の豪奢ごうしゃな生活を、謳歌おうかしているようですが、金で贏かちうる彼等の生活は、何どんなに単純で平凡でしょう。金が出来ると、女色にょしょくを漁あさる、自動車を買う、邸を買う、家を新築する、分りもしない骨董こっとうを買う、それ切りですね。中に、よっぽど心掛のいゝ男が、寄附をする。物質上の生活などは、いくら金をかけても、直すぐ尽きるのだ。金で、自由になる芸妓などを、弄もてあそんでいて、よく飽きないものですね。」

青年は、成金全体に、何か烈しい恨みでもあるように、罵ののしりつゞけた。

「飽きるって。そりゃどうだか、分りませんね。貴方あなたのように、敏感な方なら、直ぐに飽きるでしょうが、彼等のように鈍い感じしか持っていない人達は、何時迄いつまで同じことをやっていても飽きないのじゃなくって!」女は、美しい然しかし冷めたい微笑を浮べながら云った。

「貴方あなたは、悪口は僕より一枚上ですね。ハヽヽヽヽヽ。」

二人は相顧みて、会心の笑いを笑い合った。

黙って聞いていた勝平の顔は、憤怒ふんぬのため紫色になった。

四

まだ年の若い元気な二人は、自分達の会話が、傍に居合す此邸このやしきの主人の勝平にどんな影響を与えているかと云いう事は、夢にも気の付いていないように、無遠慮に自由に話し進んだ。

「でも、お招よばれを受けていて、悪口を云うのは悪いことよ。そうじゃなくって。」

令嬢は、右の手に持っている華奢きゃしゃな象牙骨ぞうげぼねの扇を、弄まさぐりながら、青年の顔を見上げながら、遉さすがに女らしく云った。

「いや、もっと云ってやってもいゝのですよ。」と、青年はその浅黒い男性的な凜々りりしい顔を、一層引き緊しめながら、「第一華族階級の人達が、成金に対する態度なども、可なり卑いやしいと思っているのですよ。平生門閥もんばつだとか身分だとか云う愚にも付かないものを、自慢にして、平民だとか町人だとか云って、軽蔑けいべつしている癖に、相手が金があると、平民だろうが、成金だろうが、此方こっちからペコ〱して接近するのですからね。僕の父なんかも、何時いつの間にか、あんな連中と知己しりあいになっているのですよ。此間も、あんな連中に担かつがれて、何とか云う新設会社の重役になるとか云って、騒いでいるものですから、僕はウンと云ってやったのですよ。」

「おや! 今度は、お父様にお鉢が廻ったのですか。」女は、青年の顔を見上げて、ニッコリ笑った。

「其処そこへ来ると、貴女あなたのお父様なんか立派なものだ。何処どこへ出しても恥かしくない。いつでも、清貧に安んじていらっしゃる。」青年は靴の先で散り布しいている落花を踏み躙にじりながら云った。

「父のは病気ですのよ。」女は、一寸ちょっと美しい眉まゆを落し「あんなに年が寄っても、道楽が止やめられないのですもの。」そう云った声は、一寸淋さびしかった。

「道楽じゃありませんよ。男子として、立派な仕事じゃありませんか。三十年来貴族院の闘将として藩閥政府と戦って来られたのですもの。」

青年は、女を慰めるように云った。が、先刻成金を攻撃したときほどの元気はなかった。二人は話が何時か、理に落ちて来た為ためだろう。孰どちらからともなく、黙ってしまった。青年は、他の一つの腰掛を、二三尺動かして来て、女と並んで腰をかけた。生あたゝかい晩春の微風が、襲って来た為だろう。花が頻しきりに散り始めた。

勝平は先刻から、幾度此の場を立ち去ろうと思ったか、分らなかった。が、自分に対する悪評を怖おそれて、コソ〱と逃げ去ることは、傲岸ごうがんな彼の気性が許さなかった。張り裂けるような憤怒ふんぬを、胸に抑えて、じっと青年の攻撃を聞いていたのであった。

彼は、つい十分ほど前まで、今日の園遊会に集まっている、凡すべての人々は自分の金力に対する讃美者さんびしゃであると思っていた。讃美者ではなくとも、少くとも羨望者せんぼうしゃであると思っていた。否いな少くとも、自分の持っている金の力丈だけは、認めて呉くれる人達だと思っていた。今日集まっている首相を初め、いろ〱な方面の高官も、M公爵こうしゃくを筆頭に多くの華族連中も、海軍や陸軍の将官達も、銀行や会社の重役達も、学者や宗教家や、角力すもうや俳優達も、自分の持っている金力の価値丈だけは認めて呉れる人だと思っていた。認めていて呉れゝばこそやって来たのだと思っていた。それだのに、歯牙しがにもかけたくない、生若い男女の学生が、たとい貴族の子女であるにしろ、今日の会場の中央まんなかで、たとい自分の顔を見知らぬにせよ、自分の目前で、自分の生活を罵ののしるばかりでなく、自分が命綱いのちづなとも思う金の力を、頭から否定している。金を持っている自分達の生活を、否人格まで、散々に辱はずかしめている。そう考えて来ると、先刻まで晴やかに華やかに、昂たかぶっていた勝平の心は、苦い韮にらを喰ったように、不快な暗いものになってしまった。彼は、かすり傷を負った豹ひょうのような、凄すごい表情をしながら、二人の後姿を睨にらんでいた。もう一言何とか云って見ろ。そのまゝには済まさないぞ。彼の激昂げっこうした心がそうした呻うめきを洩もらしていた。

五

そうした恐ろしい豹が、彼等の背後に蹲うずくまっていようとは、気の付いていない二人は、今度は四辺あたりを憚はばかるように、しめやかに何やら話し始めた。

もう一言、学生が何か云いったら、飛び出して、面と向って云ってやろうと、逸はやっていた勝平も、相手が急に静しずかになったので、拍子抜がしながら、而しかもその儘まま立ち去ることも、業腹ごうはらなので、二人の容子ようすを、じっと睨にらみ詰めていた。

自分に対する罵詈ばりのために、カッとなってしまって、青年の顔も少女の顔も、十分眼に入らなかったが、今は少し心が落着いたので、二人の顔を、更あらためて見直した。

気が付いて見れば見るほど、青年は男らしく、美しく、女は女らしく美しかった。殊ことに、少女の顔に見る浄きよい美しさは、勝平などが夢にも接したことのない美しさだった。彼は、心の中で、金で購あがなった新橋や赤坂の、名高い美妓びぎの面影と比較して見た。何と云う格段な相違が其処そこにあっただろう。彼等の美しさは、造花の美しさであった。偽にせ真珠の美しさであった。一目丈だけは、ごまかしが利きくが二目見るともう鼻に付く美しさであった。が、この少女は、夜毎ごとに下る白露に育はぐくまれた自然の花のような生きた新鮮な美しさを持っていた。人間の手の及ばない海底に、自然と造り上げられる、天然真珠の如ごとき輝きを持っていた。一目見て美しく、二目見て美しく、見直せば見直す毎に蘇よみがえって来る美しさを持っていた。

勝平が、今迄いままで金で買い得た女性の美しさは、此この少女の前では、皆偽物だった。金で買い得るものと思っていたものは、皆贋物にせものだったのだ。勝平は此少女の美しさからも、今迄の誇プライドを可なり傷きずつけられてしまった。

それ丈だけではなかった。此二人が、恋人同士であることが、勝平にもすぐそれと判わかった。二人の交している言葉は、低くて聞えなかったが、時々お互に投げ合っている微笑には、愛情が籠こもっていた。愛情に燃えていながら、而しかも浄く美しい微笑だった。

二人の睦むつまじい容子を見ている裡うちに、勝平の心の中の憤怒ふんぬは何時いつの間にか、嫉妬しっとをさえ交えていた。『凡すべての事は金だ。金さえあればどんな事でも出来る。』と思っていた彼の誇は、根柢こんていから揺り動かされていた。此の二人の恋人が、今感じ合っているような幸福は、勝平の全財産を、投じても得られるか、何どうか分らなかった。少女の顔に浮ぶ、浄いしかも愛に溢あふれた微笑の一つでさえ、購うことが出来るだろうか。いかにも、新橋や赤坂には、彼に対して、千の媚こびを呈し、万の微笑を贈る女は、幾何いくらでもいる。が、その媚や微笑の底には、袖乞そでごいのような卑いやしさや、狼おおかみのような貪慾どんよくさが隠されていた。此の若い男女が交しているような微笑とは、金剛石と木炭のように違っていた。同じ炭素から成っていても、金剛石が木炭と違うように、同じ笑でも質が違っていたのだ。

青年が、勝平の金力をあんなに、罵倒ばとうするのも無理はなかった。実際彼は、金力で得られない幸福があることを、勝平の前で示しているのだった。

青年の罵倒が単なる悪口でなく、勝平に取っては、苦い真理である丈だけに、勝平の恨みは骨に入った。また、罵倒した後で、罵倒する権利のあることを、勝平にマザ〱と見せ付けた丈だけに、勝平の憤いきどおりは、肝に銘じた。彼は、一突き刺された闘牛のように、怒っていた。もう、自制もなかった。彼が、先刻まで誇っていた社会的位置に対する遠慮もなかった。彼は樫かしの木に出来る木瘤きこぶのような掌てのひらを握りしめながら、今にも青年に飛びかゝるような身構えをしていた。

その時に、蹲うずくまっていた青年がつと立ち上った。女も続いて立ち上りながら云った。

「でも、何か召し上ったら何う。折角いらしったのですもの。」

「僕は、成金輩ばらの粟ぞくを食はむを潔いさぎよしとしないのです。ハヽヽヽ。」

青年は、半分冗談で云ったのだった。が、憤怒に心の狂いかけていた勝平にとっては、最後の通牒つうちょうだった。彼は、寝そべっていた獅子ししのように、猛然と腰掛から離れた。

六

勝平の激怒には、まだ気の付かない青年は、連の女を促して、丘を下ろうとしているのだった。

「もし、もし、暫しばらく。」勝平の太い声も、遉さすがに顫ふるえた。

青年は、何気ないように振返った。

「何か御用ですか。」落着いた、しかも気品のある声だった。それと同時に、連の女も振返った。その美しい眉まゆに、一寸ちょっと勝平の突然な態度を咎とがめるような色が動いた。

「いや、お呼び止めいたして済みません。一寸御挨拶ごあいさつがしたかったのです。」と、云いって勝平は、息を切った。昂奮こうふんの為ために、言葉が自由でなかった。二人の相手は、勝平の昂奮した様子を、不思議そうにジロ〱見ていた。

「先刻、皆様に御挨拶した筈はずですが、貴君あなた方は遅くいらしったと見えて、まだ御挨拶をしなかったようです。私が、此この家の主人の荘田勝平です。」

そう云いながら、勝平はわざと丁寧に、頭を下げた。が、両方の手は、激怒のために、ブル〱と顫えていた。

遉に、青年の顔も、彼に寄り添うている少女の顔もサッと変った。が、二人とも少しも悪怯わるびれたところはなかった。

「あゝそうですか。いや、今日はお招きに与あずかって有難うございます。僕は、御存じの杉野直ただしの息子です。茲ここに、いらっしゃるのは、唐沢男爵だんしゃくのお嬢さんです。」

青年の顔色は、青白くなっていたが、少しも狼狽ろうばいした容子は見せなかった。昂然とした立派な態度だった。青年に紹介されて、しとやかに頭を下げた令嬢の容子にも、微塵みじん狼狽うろたえた様子はなかった。

「いや、先刻から貴君の御議論を拝聴していました。いろ〱我々には、参考になりました。ハヽヽ。」

勝平は、高飛車に自分の優越を示すために、哄笑こうしょうしようとした。が、彼の笑い声は、咽喉のどにからんだまゝ、調子外れの叫び声になった。

自分の罵倒ばとうが、その的の本人に聴かれたと云うことが、明かになると、青年も遉さすがに当惑の容子を見せた。が、彼は冷静に落着いて答えた。

「それはとんだ失礼を致しました。が、つい平生の持論が出たものですから、何とも止やむを得ません。僕の不謹慎はお詫わびします。が、持論は持論です。」

そう云いながら、青年は冷めたい微笑を浮べた。

自分が飛び出して出さえすれば、周章狼狽しゅうしょうろうばいして、一溜ひとたまりもなく参ってしまうだろうと思っていた勝平は、当が外れた。彼は、相手が思いの外に、強いのでタジ〱となった。が、それ丈だけ彼の憤怒ふんぬは胸の裡うちに湧わき立った。

「いや、お若いときは、金なんかと云って、よく軽蔑けいべつしたがるものです。私なども、その覚えがあります。が、今にお判わかりになりますよ。金が、人生に於おいてどんなに大切であるかが。」

勝平は、出来る丈だけ高飛車に、上から出ようとした。が、青年は少しも屈しなかった。

「僕などは、そうは思いません。世の中で、高尚な仕事の出来ない人が、金でも溜めて見ようと云うことに、なるのじゃありませんか。僕は事業を事業として、楽しんでいる実業家は好きです。が、事業を金を得る手段と心得たり、又得た金の力を他人に、見せびらかそうとするような人は嫌いです。」

もう、其処そこに何等の儀礼もなかった。それは、言葉で行われている格闘だった。青年の顔も蒼あおざめていた。勝平の顔も蒼ざめていた。

「いや、何とでも仰おっしゃるがよい。が、理窟りくつじゃありません。世の中のことは、お坊ぼっちゃんの理想通どおりに行くものではありません。貴君あなたにも金の力がどんなに恐ろしいかが、お判りになるときが来ますよ。いや、屹度きっと来ますよ。」

勝平は、その大きい口を、きっと結びながら青年を睨にらみすえた。が、青年の直すぐ傍かたわらに、立ち竦すくんだまゝ、黙っている彫像のような姿に目を転じたとき、勝平の心は、再びタジ〱となった。その美しい顔は勝平に対する憎悪ぞうおに燃えていたからである。

七

青年が、何かを答えようとしたとき、女は突如いきなり彼を遮さえぎった。

「もういゝじゃございませんか。私達が、参ったのがいけなかったのでございますもの。御主人には御主人の主義があり貴君あなたには貴君の主義があるのですもの。その孰いずれが正しいかは、銘々一生を通じて試して見る外はありませんわ。さあ、失礼をしてお暇いとましようじゃありませんか。」

少女は、青年より以上に強かった。其処そこには火花が漏れるような堅さがあった。それ丈だけ、勝平に対する侮辱ぶじょくも、甚だしかった。こんな男と言葉を交えるのさえ、馬鹿々々ばかばかしいと、云いった表情が、彼女の何処どこかに漂っていた。孔雀くじゃくのように美しい彼女は、孔雀のような襟度を持っているのだった。

青年も、自分の態度を、余り大人気ないと思い返したのだろう。女の言葉を、戈ほこを収める機会にした。

「いや、飛んだ失礼を申上げました。」

そう云い捨てたまゝ、青年は女と並んで足早に丘を下って行った。敵に、素早く身を躱かわされたように、勝平は心の憤怒ふんぬを、少しも晴さない中うちに、やみ〱と物別れになったのが、口惜くやしかった。もっと、何とか云えばよかった。もっと、青年を恥しめてやればよかったと、口惜しがった。睦むつまじそうに並んで、遠ざかって行く二人を見ていると、勝平は自分の敗れたことが、マザ〱と判わかって来た。青年の罵倒ばとうに口惜しがって、思わず飛び出したところを、手もなく扱われて、うまく肩透かたすかしを喰ったのだった。どんな点から、考えて見ても、自分にいゝ所はなかった。敗戦だった。醜みにくい敗戦だった。そう思うと、わざ〱五万を越す大金を消つかって、園遊会をやったことまでが、馬鹿らしくなった。大臣や総裁や公爵こうしゃくなどの挨拶あいさつを受けて、有頂天にまで行った心持が、生若い男女のために地の底へまで引きずり込まれたのだ。

彼の憤いきどおりと恨みとが、胸の中で煮えくり返った時だった。その憤りと恨みとの嵐あらしの中に、徐々に鎌首かまくびを擡もたげて来た一念があった。それは、云うまでもなく、復讐ふくしゅうの一念だった。そうだ、俺の金力を、あれほどまで、侮辱した青年を、金の力で、骨までも思い知らしてやるのだ。青年に味方して、俺にあんな憎悪ぞうおの眼を投げた少女を、金の力で髄までも、思い知らしてやるのだ。そう思うと、彼の胸に、新しい力が起った。

青年の父の杉野直ただしと云う子爵も、少女の父の唐沢男爵も、共に聞えた貧乏華族である。黄金の戈ほこの前に、黄金の剣の前には、何の力もない人達だった。

が、何どうして戦ったらいゝだろう。彼等の父を苛いじめることは何でもないことに違いない。が、単なる学生である彼等を、苛める方法は容易に浮かんで、来なかった。その時に、勝平の心に先刻の二人の様子が浮かんだ。睦じく語っている恋人同士としての二人が浮かんだ。それと同時に、電いなずまのように、彼の心にある悪魔的な考えが思い浮かんだ。その考えは、電のように消えないで、徐々に彼の頭に喰い入った。

まだ、春の日は高かった。彼が招いた人達は園内の各所に散って、春の半日を楽しく遊び暮している。が、その人達を招いた彼丈だけは、たゞ一人怏々おうおうたる心を懐いだいて、長閑のどかな春の日に、悪魔のような考えを、考えている。

「あら、まだ茲ここにいらしったの、方々探したのよ。」

突如、後に騒がしい女の声がした。先刻の芸妓げいぎ達が帰って来たのである。

「さあ! 彼方あっちへいらっしゃい。お客様が皆、探しているのよ。」二三人彼のモーニングコートの腕に縋すがった。

「あゝ行くよ行くよ。行って酒でも飲むのだ。」彼は、気の抜けたように、呟つぶやきながら、芸妓達に引きずられながら、もう何の興味も無くなった来客達の集まっている方へ拉らっせられた。

父と子

一

『またお父様と兄様の争いが始まっている。』そう思いながら、瑠璃子るりこは読みかけていたツルゲネフの『父と子』の英訳の頁ページを、閉じながら、段々高まって行く父の声に耳を傾けた。

『父と子』の争い、もっと広い言葉で云いえば旧時代と新時代との争い、旧思想と新思想との争い、それは十九世紀後半の露西亜ロシアや西欧諸国丈だけの悩みではなかった。それは、一種の伝染病として、何時いつの間にか、日本の上下の家庭にも、侵入しているのだった。

五六十になる老人の生活目標と、二十年代の青年の生活目標とは、雪と炭のように違っている。一方が北を指せば、一方は西を指している。老人が『山』と云っても、青年は『川』とは答えない。それだのに、老人は自分の握っている権力で、父としての権力や、支配者としての権力や、上長者としての権力で、青年を束縛しようとする。西へ行きたがっている者を、自分と同じ方向の、北へ連れて行こうとする。其処そこから、色々な家庭悲劇が生れる。

瑠璃子は、父の心持も判わかった。兄の心持も判った。父の時代に生れ、父のような境遇に育ったものが、父のような心持になり、父のような目的のために戦うのは、当然であるように想おもわれた。が、兄のような時代に生れ、兄のような境遇に育ったものが、兄のように考えるのも亦また当然であるように思われた。父も兄も間違ってはいなかった。お互に、間違っていないものが、争っている丈に、その争いは何時が来ても、止やむことはなかった。何時が来ても、一致しがたい平行線の争いだった。

母が、昨年死んでから、淋さびしくなった家庭は、取り残された人々が、その淋しさを償つぐなうために、以前よりも、もっと睦むつまじくなるべき筈はずだのに、実際はそれと反対だった。調和者ピイスメイカアとしての母がいなくなった為ため、兄と父との争いは、前よりも激しくなり、露骨になった。

「馬鹿ばかを云え! 馬鹿を云え!」

父のしわがれた張り裂けるような声が、聞えた。それに続いて、何かを擲なげうつような物音が、聞えて来た。

瑠璃子は、その音をきくと、何時も心が暗くなった。また父が兄の絵具を見付けて、擲っているのだ。

そう思っていると、又カンバスを引き裂いているらしい、帛きぬを裂く激しい音が聞えた。瑠璃子は、思わず両手で、顔を掩おおうたまゝかすかに顫ふるえていた。

芸術と云ったようなものに、粟粒あわつぶほどの理解も持っていない父が悲しかった。絵を描くことを、ペンキ屋が看板を描くのと同じ位に卑いやしく見貶みくだしている父の心が悲しかった。それと同じように、芸術をいろ〱な人間の仕事の中で、一番尊たっといものだと思っている、兄の心も悲しかった。父から、描けば勘当だと厳禁されているにも拘かかわらず、コソ〱と父の眼を盗んで、写生に行ったり、そっと研究所に通ったりする兄の心が、悲しかった。が、何よりも悲劇であることは、そうしたお互に何の共鳴も持っていない人間同士が、父と子であることだった。父が、卑しみ抜いていることに、子が生涯を捧ささげていることだった。父の理想には、子が少しも同感せず、子の理想には父が少しも同感しないことだった。

カンバスが、引き裂かれる音がした後は、暫しばらくは何も聞えて来なかった。争いの言葉が聞えて来る裡うちは、それに依よって、争いの経過が判った。が、急に静しずかになってしまうと、却かえって妙な不安が、聞いている者の心に起って来る。瑠璃子はまた父が、興奮の余り心悸しんきが昂進こうしんして、物も云えなくなっているのではないかと思うと、急に不安になって来て、争いの舞台シーンたる兄の書斎の方へ、足音を忍ばせながらそっと近づいて行った。

二

瑠璃子は、そっと足音を立てないように、縁側ヴェランダを伝つとうて兄の書斎へ歩み寄った。とゞろく胸を押えながら縁側ヴェランダに向いている窓の硝子ガラス越しに、そっと室内をのぞき込んだ。彼女が予期した通りの光景が其処そこにあった。長身の父は威丈高に、無言のまゝ、兄を睨にらみ付けて立っていた。痩やせた面長な顔は、白く冷めたく光っている。腰の所へやっている手は、ブル〱顫ふるえている。兄は兄で、昂然こうぜんとそれに対していた。たゞさえ、蒼白あおじろい顔が、激しい興奮のために、血の気を失って、死人のように蒼ざめている。

父と子とは、思想も感情もスッカリ違っていたが、負けぬ気の剛情なところ丈だけが、お互に似ていた。父子おやこの争いは、それ丈激しかった。

二人の間には、絵具のチューブが、滅茶苦茶めちゃくちゃに散っていた。父の足下には、三十号の画布カンバスが、枠に入ったまゝ、ナイフで横に切られていた。その上に描かれている女の肖像も、無残にも頬の下から胸へかけて、一太刀浴びているのだった。

そうした光景を見た丈で、瑠璃子の胸が一杯になった。父が、此この上兄を恥はずかしめないように、兄が大人しく出て呉くれるようにと、心私ひそかに祈っていた。

が、父と兄との沈黙は、それは戦いの後の沈黙でなくして、これからもっと怖おそろしい戦いに入る前の沈黙だった。

画布カンバスまでも、引き裂いた暴君のような父の前に、真面目まじめな芸術家として兄の血は、熱湯のように、沸いたのに違いなかった。いつもは、父に対して、冷然たる反抗を示す兄だったが、今日は心の底から、憤いきどおっているらしかった。憤怒ふんぬの色が、アリ〱とその秀ひいでた眉まゆのあたりに動いていた。

「考えて見るがいゝ。堂々たる男子が、画筆などを弄もてあそんでいて何どうするのだ。」父は、今迄いままで張り詰めていた姿勢を、少しく崩しながら、苦い物をでも吐き出すように云った。

「考えて、見る迄もありません。男子として、立派な仕事です。」兄の答えも冷たく鋭かった。

「馬鹿ばかを云え! 馬鹿を!」父は、又カッとなってしまった。「画えなどと云うものは、男子が一生を捧ささげてやる仕事では決してないのだ。云わば余戯なのだ。なぐさみなのだ。お前が唐沢の家の嗣子ししでなければ、どんな事でも好き勝手にするがいゝ。が、俺わしの子であり、唐沢の家の嗣子である以上、お前の好き勝手にはならないのだ。唐沢の家には、画描きなどは出したくないのだ。俺の子は、画描きなどにはなって貰もらいたくないのだ!」

父は、そう叫びながら、手近にある卓デスクの端を力委まかせに二三度打った。瑠璃子には、父が貴族院の演壇で獅子吼ししくする有様が、何処どことなく偲しのばれた。が、相手が現在の子であることが、父の姿を可なり淋さびしいものにした。

「お前は、父が三十年来の苦闘を察しないのか。お前は、俺わしの子として、父の志こころざしを継ぐことを、名誉だとは思わないのか、俺の志を継いで、俺が年来の望みを、果させて呉れようとは思わないのか。お前は、唐沢の家の歴史を忘れたのか、お前にいつも話している、お祖父様じいさまの御無念を忘れたのか。」

それは、父が少し昂奮こうふんすれば、定きまって出る口癖だった。父は、それを常に感激を以もって語った。が、子はそれを感激を以て聞くことが、出来なかった。唐沢の家が、三万石の小大名ではあったが、足利あしかが時代以来の名家であるとか、維新の際には祖父が勤王の志が、厚かったにも拘かかわらず、薩長さっちょうに売られて、朝敵の汚名おめいを取り、悶々もんもんの裡うちに憤死したことや、その死床で洩もらした『敵かたきを取って呉れ。』という遺言を体して、父が三十年来貴族院で、藩閥政府と戦って来たことなど、それは父にとって重大な一生を支配する生活の刺戟しげきだったかも知れない。が、子に取っては、彼の画題となる一茎けいの草花に現われている、自然の美しさほどの、刺戟も持っていなかった。時代が違ってい、人間が違っていた。何の共通点もない人間同士が、血縁でつながっていることが、何より大きい悲劇だった。

「黙っていては分らない。何とか返事をなさい!」日本の大正の王キングリアは、こう云いって石のように黙っている子に挑んだ。

三

「お父さん!」兄は静しずかに頭を擡あげた。平素いつもは、黙々として反抗を示す丈だけの兄だったが、今日は徹底的に云いって見ようという決心が、その口の辺に動いていた。「貴方あなたが、幾何いくら仰おっしゃっても、僕は政治などには、興味が向かないのです。殊ことに現在のような議会政治には、何の興味も持っていないのです。僕は、お父さんの仰おっしゃるように、法科を出て政治家になるなどと云うことには、何の興味もないのです。」兄の言葉は、針のように鋭く澄んで来た。

「もう少し待って下さい。もう少し、気長に私のすることを見て居て下さい。その中うちに、画えを描くことが、人間としてどんなに立派な仕事であるか、堂々たる男子の事業として恥かしくないかを、お父さんにも、お目にかけ得る時が来るだろうと思うのです。」

「あゝよして呉れ!」父は排はらい退のけるように云った。「そんな事は聞きたくない。馬鹿ばかな! 画描きなどが、画を描くことなどが、……」父は苦々しげに言葉を切った。

「お父さんには、幾何いくら云っても解わからないのだ。」兄も投げ捨てるように云った。

「解ってたまるものか。」父の手がまたかすかに顫ふるえた。

二人が、敵かたき同士のように黙って相対峙あいたいじしている裡うちに、二三分過ぎた。

「光一!」父は改まったように呼びかけた。

「何です!」兄も、それに応ずるように答えた。

「お前は、今年の正月俺わしが云った言葉を、まさか忘れはしまいな。」

「覚えています。」

「覚えているか、それじゃお前は、此この家にはおられない訳だろう。」

兄の顔は、憤怒ふんぬのために、見る〱中に真赤になり、それが再び蒼あおざめて行くに従って、悲壮な顔付になった。

「分りました。出て行けと仰おっしゃるのですか。」怒のために、兄はわな〱顫えていた。

「二度と、画を描くと、家には置かないと、あの時云って置いた筈はずだ。お前が、俺わしの干渉を受けたくないのなら、此家を出て行く外はないだろう。」父の言葉は鉄のように堅かった。

瑠璃子は、胸が張り裂けるように悲しかった。一徹な父は、一度云い出すと、後へは引かない性質たちだった。それに対する兄が、父に劣らない意地張だった。彼女が、常々心配していた大破裂カタストロフがとうとう目前に迫って来たのだった。

父の言葉に、カッと逆上してしまったらしい兄は、前後の分別もないらしかった。

「いや承知しました。」

そう云うかと思うと、彼は俯うつむきながら、狂人のように其処そこに落ち散っている絵具のチューブを拾い始めた。それを拾ってしまうと、机の引き出しを、滅茶苦茶に掻かき廻し始めた。机の上に在った二三冊のノートのようなものを、風呂敷ふろしきに包んでしまうと、彼は父に一寸ちょっと目礼して、飛鳥のように室へやから駈かけ出そうとした。

父が、駭おどろいて引き止めようとする前に、狂気のように室内に飛び込んだ瑠璃子は、早くも兄の左手ゆんでに縋すがっていた。

「兄さん! 待って下さい!」

「お放しよ。瑠璃ちゃん!」

兄は、荒々しく叱しっするように、瑠璃子の手をもぎ放した。

瑠璃子が、再び取り縋ろうとしたときに、兄は下へ行く階段を、激しい音をさせながら、電光の如ごとく馳かけ下っていた。

「兄さん! 待って下さい!」

瑠璃子が、声をしぼりながら、後から馳け下ったとき、帽子も被かぶらずに、玄関から門の方へ足早に走っている兄の後姿が、チラリと見えた。

四

兄の後姿が見えなくなると、瑠璃子はよゝと泣き崩れた。張り詰めていた気が砕けて、涙はとめどもなく、双頬そうきょうを湿うるおした。

母が亡なくなってからは、父子おやこ三人の淋さびしい家であった。段々差し迫って来る窮迫に、召使の数も減って、たゞ忠実な老婢ばあやと、その連合つれあいの老僕とがいる丈だけだった。

それだのに、僅わずかしか残っていない歯の中から、またその目ぼしい一本が、抜け落ちるように、兄がいなくなる。父と兄とは、水火のように、何処どこまで行っても、調和するようには見えなかったけれども、兄と瑠璃子とは、仲のよい兄妹だった。母が亡くなってからは、更に二人は親しみ合った。兄はたゞ一人の妹を愛した。殊ことに父と不和になってから、肉親の愛を換かわし得るのはたゞ妹だけだった。妹もたゞ一人の兄を頼った。父からは、得られない理解や同情を兄から仰いでいた。瑠璃子には父の一徹も悲しかった。兄の一徹も悲しかった。

が、何よりも気遣われたのは、着のみ着の儘ままで、飛び出して行った兄の身の上である。理性の勝った兄に、万一の間違があろうとは思われなかった。が、貧乏はしていても、華族の家に生れた兄は、独立して口を糊のりして行く手段を知っている訳はなかった。が、一時の激昂げっこうのために、カッと飛び出したものゝ屹度きっと帰って来て下さるに違ちがいない。或あるいは麻布あざぶの叔母さんの家にでも、行くに違ない。やっと、そう気休めを考えながら、瑠璃子は涙を拭ぬぐい拭い、階段を上って行った。二階にいる父の事も、気がかりになったからである。

父はやっぱり兄の書斎にいた。先刻と寸分違わない位置にいた。たゞ、傍にあった椅子いすを引き寄せて、腰を下したまゝじっと俯うつむいているのだった。たった一人の男の子に、背き去られた父の顔を見ると、瑠璃子の眼には新しい涙が、また一時に湧わいて来るのであった。此この頃、交じりかけた白髪しらがが急に眼に立つように思った。

『歯が脱ぬけて演説の時に声が洩もれて困まる』と、此頃口癖のように云う通とおり、口の辺あたりが淋しく凋しなびているのが、急に眼に付くように思った。

一生を通じて、やって来た仕事が、自分の子から理解せられない、それほど淋しいことが、世の中にあるだろうかと思うと、瑠璃子は、父に言葉をかける力もなくなって、その儘まま床の上に、再び泣き崩れた。

最愛の娘の涙に誘われたのであろう。老いた政治家の頬にも、一条の涙の痕あとが印せられた。

「瑠璃子!」父の声には、先刻さっきのような元気はなかった。

「はい!」瑠璃子は、涙声でかすかに答えた。

「出て行ったかい! 彼あれは?」遉さすがに何処となく恩愛の情が纏まつわっている声だった。

「はい!」彼女の声は前よりも、力がなかった。

「いやいゝ。出て行くがいゝ。志こころざしを異にすれば親でない、子でない、血縁は続いていても路傍ろぼうの人だ。瑠璃子! お前には、父さんの心持は解わかるだろう。お前丈だけは、俺わしの心持は解るだろう。お前が男であったら、屹度お父さんの志を継いで呉くれるだろうとは、平生思っているのだが。」父は元気に云いった。が、声にも口調にも力がなかった。

瑠璃子は、それには何とも答えなかった。が、瑠璃子の胸に、一味焼くような激しい気性と、父にも兄にも勝るような強い意志があることは、彼女の平生の動作が示していた。それと同じように、貴族的な気品があった。昔気質かたぎの父が時々瑠璃子を捕えて『男なりせば』の嘆を漏もらすのも無理ではなかった。

まだ父が、何か云おうとする時であった。邸前の坂道を疾駆して馳かけ上る自動車の爆音が聞えたかと思うと、やがてそれが門前で緩んで、低い警笛アラームと共に、一輛りょうの自動車が、唐沢家の古びた黒い木の門の中に滑り入った。

五

父子の悲しい淋さびしい緊張は、自動車の音で端なく破られた。瑠璃子は、もっとこうしていたかった。父の気持も訊きき、兄に対する善後策も講じたかった。彼女は、自分の家の恐ろしい悲劇を知らず顔に、自動車で騒々しく、飛び込んで来る客に、軽い憎悪ぞうおをさえ感じたのである。

老婢ばあやは、何かに取り紛れているのだろう、容易に取次ぎには出て来ないようだった。

「老婢はいないのかしら!」そう呟つぶやくと、瑠璃子は自分で、取次ぎするために、階段を下りかけた。

「大抵の人だったら、会えないと断るのだよ。いゝかい。」

そう言葉をかけた父を振り顧かえって見ると、相変らず蒼あおい顫ふるえているような顔色をしていた。

瑠璃子が、階段を下りて、玄関の扉を開けたとき、彼女は訪問者が、一寸ちょっと意外な人だったのに駭おどろいた。それは、彼女の恋人の父の杉野子爵ししゃくであったからである。

「おや入らっしゃいまし。」そう云いいながら、彼女は心の中で可なり当惑した。杉野子爵は、彼女にとっては懐なつかしい恋人の父だった。が、父と子爵とは、決して親しい仲ではなかった。同じ政治団体に属していたけれども、二人は少しも親しんでいなかった。父は、内心子爵を賤いやしんでいた。政商達と結託して、私利を追うているらしい子爵の態度を、可なり不快に思っているらしかった。公開の席で、二三度可なり激しい議論をしたと云う噂うわさなども、瑠璃子は何時いつとなく聴いていた。

そうした人を、こんな場合、父に取次ぐことは、心苦しかった。それかと云って、自分の恋人の父を、情すげなく返す気にもなれなかった。彼女が躊躇ちゅうちょしているのを見ると、子爵は不審いぶかしそうに訊きいた。

「いらっしゃらないのですか。」

「いゝえ!」彼女は、そう答えるより外はなかった。

「杉野です。一寸お取次を願います。」

そう云われると、瑠璃子は一も二もなく取次がずにはいられなかった。が、階段を上るとき、彼女の心にふとある動揺どよめきが起った。『まさか』と、彼女は幾度も打ち消した。が、打ち消そうとすればするほど、その動揺どよめきは大きくなった。

杉野子爵の長男直也なおやは、父に似ぬ立派な青年だった。音楽会で知り合ってから、瑠璃子は知らず識しらずその人に惹ひき付けられて行った。男らしい顔立と、彼の火のような熱情とが、彼女に対する大きな魅惑だった。二人の愛は、激しく而しかも清浄だった。

二人は将来を誓い合った。学校を出れば、正式に求婚します。青年は口癖のように繰返した。

青年は今年の四月学習院の高等科を出ている。『学校を出ると云うことが、学習院を出ることを、意味するなら。』そう考えると瑠璃子は踏んでいる足が、階段に着かぬように、そわ〱した。まだ一度も、尋ねて来たことのない子爵が、わざ〱尋ねて来る。そう考えて来ると、瑠璃子の小さい胸は取り止めもなく掻かき擾みだされてしまった。

が、つい此この間青年と園遊会で会ったとき、彼はおくびにも、そんなことは云わなかった。正式に突然求婚して、自分を駭おどろかそうと云う悪戯いたずらかしら。彼女は、そんなことまで、咄嗟とっさの間に空想した。

が、苦り切っている、父の顔を見たとき彼女の心は、急に暗くなった。縦令たとい、それが瑠璃子の思う通りの求婚であったにしろ、父がオイソレと許すだろうか。心の中で、賤いやしんでいる者の子息に、最愛の娘を与えるだろうか。子は子である。父は父である。之これ位の事理の分らない父ではない。が、兄が突然家出して、さなきだに淋しい今、自分を手離して、他家よそへやるだろうか。そう思うと、瑠璃子の心に伸びた空想の翼は、また忽たちまち半なかば以上切り取られてしまった。が、万一そうなら、又万一父が容易に承諾したら?

「あの! 杉野子爵がお見えになりました。」彼女の息は可なりはずんでいた。

六

父は娘の心を知らなかった。杉野子爵ししゃくの突然の来訪を、迷惑がる表情があり〱と動いた。

「杉野! ふーむ。」父は苦り切ったまゝ容易に立とうとはしなかった。

父が、杉野子爵に対してこうした感情を持っている以上、又兄の家出と云いう傷いたましい事件が起っている以上、縦令たとい子爵の来訪が、瑠璃子の夢見ている通とおりの意味を持っていたにしろ、容易に纏まとまる筈はずはなかった。そう考えると、彼女の心は、墨を流したように暗くなってしまった。

「仕方がない! お通しなさい!」

そう云ったまゝ、父は羽織を着るためだろう、階下したの部屋へ下りて行った。

瑠璃子は、恋人の父と自分の父との間に、まつわる不快な感情を悲しみながら、玄関へ再び降りて行った。

「お待たせいたしました、何どうぞお上り下さいませ。」

「いや、どうも突然伺うかがいまして。」と、子爵は如才なく挨拶あいさつしながら先に立って、応接室に通った。

古いガランとした応接室には、何の装飾もなかった。明治十幾年に建てたと云う洋館は、間取りも様式も古臭く旧式だった。瑠璃子は、客を案内する毎ごとに、旧式の椅子いすの蒲団クションが、破れかけていることなどが気になった。

父は、直すぐ応接室へ入った。心の中の感情は可なり隔たっていたが、面と向うと、遉さすがに打ち解けたような挨拶をした。瑠璃子は、茶を運んだり、菓子を運んだりしながらも、主客の話が気にかゝった。が、話は時候の挨拶から、政界の時事などに進んだまゝ用向きらしい話には、容易に触れなかった。

立ち聞きをするような、はしたない事は、思いも付かなかった。瑠璃子は、来客が気になりながらも、自分の部屋に退いて、不安な、それかと云って、不快ではない心配を続けていた。

恋人の顔が、絶えず心に浮かんで来た。過ぎ去った一年間の、恋人とのいろ〱な会合が、心の中に蘇よみがえって来た。どの一つを考えても、それは楽しい清浄な幸福な思出だった。二人は火のような愛に燃えていた。が、お互に個性を認め合い、尊敬し合った。上野の音楽会の帰途に、ガスの光が、ほのじろく湿うるんでいる公園の木下暗このしたやみを、ベエトーフェンの『月光曲』を聴いた感激を、語り合いながら、辿たどった秋の一夜の事も思い出した。新緑の戸山ヶ原の橡とちの林の中で、その頃読んだトルストイの『復活』を批評し合った初夏の日曜の事なども思い出した。恋人であると共に、得難い友人であった。彼女の趣味や知識の生活に於おける大事な指導者だった。

恋人の凜々りりしい性格や、その男性的な容貌ようぼうや、その他いろ〱な美点が、それからそれと、彼女の頭の中に浮かんで来た。若もし子爵の来訪の用向きが、自分の想像した通りであったら、(それが何と云う子供らしい想像であろう)とは、打消しながらも、瑠璃子の真珠のように白い頬は、見る人もない部屋の中にありながら、ほのかに赤らんで来るのだった。

が、来客の話は、そう永くは続かなかった。瑠璃子の夢のような想像を破るように、応接室の扉ドアが、父に依よって荒々しく開かれた。瑠璃子は、客を送り出すため、急いで玄関へ出て行った。

見ると父は、兄の家出を見送った時以上に、蒼あおい苦り切った顔をしていた。杉野子爵はと見ると、その如才のないニコニコした顔に、微笑の影も見せず、周章として追われるように玄関に出て、ロクロク挨拶もしないで、車上の人となると、運転手を促し立てゝ、あわたゞしく去ってしまった。

父は、自動車の後影を憎悪ぞうおと軽蔑けいべつとの交まじった眼付で、しばらくの間見詰めていた。

「お父様どうか遊ばしたのですか。」瑠璃子は、おそる〱父に訊きいた。

「馬鹿ばかな奴やつだ。華族の面汚つらよごしだ。」父は唾つばでも吐きかけるように罵ののしった。

七

杉野子爵ししゃくに対する、父の燃ゆるような憎悪ぞうおの声を聞くと、瑠璃子は自分の事のように、オドオドしてしまった。胸の中に、ひそかに懐いだいていた子供らしい想像は、跡形もなく踏み躙にじられていた。踏んでいた床が、崩れ落ちて、其儘そのまま底知れぬ深い淵ふちへ、落ち込んで行くような、暗い頼りない心持がした。之迄これまででさえ、父と父との感情に、暗い翳かげのあることは、恋する二人の心を、どんなに傷いたましめたか分らない。それだのに、今日はその暗い翳が、明らさまに火を放って、爆発を来きたしたらしいのである。

「一体何どうしたのでございます。そんなにお腹立ち遊ばして。」

瑠璃子は、父の顔を見上げながら、オズ〱訊きいた。父は、口にするさえ、忌々いまいましそうに、

「訊くな。訊くな。汚けがらわしい。俺わし達を侮辱している。俺わしばかりではない、お前までも侮辱しているのだ。」と、歯噛はがみをしないばかりに激昂げっこうしているのだった。

自分までもと、云いわれると、瑠璃子は更に不安になった。自分のことを、一体何どう云ったのだろう。自分に就いて、一体何を云ったのだろう。恋人の父は、自分のことを、一体何う侮辱したのだろう。そう考えて来ると、瑠璃子は父の機嫌を恐れながらも、黙っている訳には行かなかった。

「一体どんなお話が、ございましたの。妾わたくしの事を、杉野さんは何う仰おっしゃるのでございますか。」

「訊くな。訊くな。訊かぬ方がいゝ。聞くと却かえって気を悪くするから。あんな賤いやしい人間の云うことは、一切耳に入れぬことじゃ。」

やゝ興奮の去りかけた父は、却って娘を宥なだめるように優しく云いながら、二階の居間へ行くために階段を上りかけた。父は、杉野子爵を賤しい人間として捨てゝ置くことが出来た。が、瑠璃子には、それは出来なかった。どんなに、子爵が賤しくても、自分の恋人の父に違ちがいなかった。その人が、自分のことを、何う云ったかは、瑠璃子に取っては是非にも訊きたい大事な事だった。

「でも、何と仰おっしゃったか知りたいと思いますの。妾わたくしのことを何と仰おっしゃったか、気がかりでございますもの。」

瑠璃子は、父を追いながら、甘えるような口調で云った。娘の前には、目も鼻もない父だった。母のない娘のためには、何物も惜しまない父だった。瑠璃子が執拗しつように二三度訊くと、どんな秘密でも、明しかねない父だった。

「なにも、お前の悪口を云ったのじゃない。」

父は憤怒ふんぬを顔に現しながらも、娘に対する言葉丈だけは、優しかった。

「じゃ、何うして侮辱になりますの、あの方から、侮辱を受ける覚えがないのでございますもの。」

「それを侮辱するから怪けしからないのだ。俺を侮辱するばかりでなく、清浄潔白せいじょうけっぱくなお前までも侮辱してかゝるのだ。」

父は、又杉野子爵の態度か言葉かを思い出したのだろう、その人が、前にでもいるように、拳こぶしを握りしめながら、激しい口調で云った。

「何うしたと云うのでございます、お父様、ハッキリと仰おっしゃって下さいまし、一体どんなお話で、あの方が、私の事を何う仰しゃったのです。一体どんな用事で、入いらしったのでございます。」

瑠璃子も、可なり興奮しながら、本当のことを知りたがって、畳みかけて訊いた。

「彼あの男は、お前の縁談があると云って来たのだ。」父の言葉は意外だった。

「妾わたくしの縁談!」瑠璃子は、そう云ったまゝ、二の句が次げなかった。彼女は化石したように、父の書斎の入口に立ち止まった。父は、瑠璃子の駭おどろきに、深い意味があろうとは、夢にも知らずに、興奮に疲れた身体からだを、安楽椅子いすに投げるのであった。

買い得るか

一

父から、杉野子爵ししゃくの来訪が、縁談の為ためであると、聞かされると、瑠璃子るりこは電火にでも、打たれたように、ハッと駭おどろいた。

やっぱり、自分の子供らしい想像は当ったのだ。杉野子爵は子のために、直接話を進めに来たのだ。その話の中に、子爵の不用意な言葉か、不遜ふそんの態度かが、潔癖な父を怒らせたに違ちがいない。そう思うと、瑠璃子はあまりに潔癖過ぎる父が急に恨めしくなった。少しも妥協性のない、一徹な父が恨めしかった。自分の一生の運命を狂わすかも知れない、父の態度が、恨めしかった。瑠璃子は父に抗議するように云いった。

「縁談のお話が、何どうして妾わたくしを、侮辱することになりますの。またそんなお話なら、一応妾にも、話して下さってから、お断りになっても、遅くはないと思いますわ。」

瑠璃子は、誰に対しても、自己を主張し得る女だった。彼女は、父にでも兄にでも恋人にでも、自己を主張せずには、いられない女だった。

瑠璃子の抗議を、父は憫あわれむように笑った。

「縁談! ハヽヽヽヽ。普通の縁談なら、無論瑠璃さんにも、よく相談する。が、あの男の縁談は、縁談と云う名目で、貴女あなたを買いに来たのじゃ。金を積んで、貴女を買いに来たのじゃ。怪けしからん! 俺わしの娘を!」

父の眼は、激怒のために、狂わしいまでに、輝いた。そう云われると、瑠璃子は、一言もなかったが、そうした縁談の相手は、一体誰だろうかと、思った。

「彼あの男が来て娘をやらんかと云う。平素から、快く思っていない男じゃが、折角来て呉くれたものだから、無碍むげに断るのもと、思ったから、与やらんこともないと云うと、段々相手の男のことを話すのじゃ。人を馬鹿ばかにして居る。四十五で、先妻の子が、二人まであると云うのじゃ。俺は、頭から怒鳴り付けてやったのじゃ。すると、彼あの男が、オズ〱何を云い出すかと思うと、支度金は三十万円まで出すと、云うのじゃ。俺は憤然と立ち上って、彼の男を応接室の外へ引きずり出したのだ。」父の声は、わな〱顫ふるえた。

「此この年になるまで、こんな侮辱を受けたことはない。貧乏はしている。政戦三十年、家も邸やしきも抵当に入っている。が、三十万円は愚か、千万一億の金を積んでも、娘を金のために、売るものか。」

父は、傍はたの見る眼も、傷いたましいほど、激昂げっこうしている。年老いた肉体は、余りに激しい憤怒ふんぬのために今にも砕けそうに、緊張している。瑠璃子も、胸が一杯になった。父の怒いかりを、尤もっともだと思った。が、その怒を宥なだむべき何の言葉も、思い浮ばなかった。

が、それに付けても、杉野子爵は、何の恨うらみがあって、こうした侮辱を、年老いた父に与えるのだろう。そう思うと、瑠璃子の胸にも、張り裂けるような怒りが、湧わいて来た。が、それが恋人の父であると、思い返すと、身も世もないような悲しみが伴った。

「彼の男は、金のために、あんなに賤いやしくなってしまったのだ。政商連づれと結託して、金のためにばかり、動いているらしいのだ。今日の縁談なども、纏まとまれば幾何いくらと云う、口銭が取れる仕事だろう。ハヽヽヽヽ。」父は、怒を嘲あざけりに換えながら、蔑さげすむように哄笑こうしょうした。

「何でも、今日の縁談の申込み手と云うのが、ホラ瑠璃さんも行ったゞろう。此間園遊会をやった荘田しょうだと云う男らしいのだ。」

父は何気なく云った。が、荘田と云う名を聞くと、瑠璃子は直すぐ、豹ひょうの眼のように恐ろしい執拗しつようなその男の眼付を思い出した。冷静な、勝気な、瑠璃子ではあったけれども、悪魔に頬を、舐なめられたような気味悪さが、全身をゾク〱と襲って来た。

二

荘田と云いう名前を聴くと、瑠璃子が気味悪く思ったのも、無理ではなかった。彼女は、その人の催した園遊会で、妙な機はずみから、激しい言葉を交かわして以来、その男の顔付や容子ようすが、悪夢の名残りのように、彼女の頭から離れなかった。

太いガサツな眉まゆ、二段に畳まれている鼻、厚い唇、いかにも自我の強そうな表情、その顔付を思い出して見る丈だけでも、イヤな気がした。そんな男と、云い争いをしたことが、執念深い蛇とでも、恨を結び合ったように、何となく不安だった。処が、その男が意外にも自分に婚を求めている。そう思う丈でも、彼女は妙な悪寒おかんを感じた。よく伝説の中にある、白蛇などに見込まれた美少女のように。

瑠璃子は、相手の心持が、容易には分らなかった。容易に、その事を信ずることが出来なかった。

「本当でございますの? 杉野さんが、本当に荘田と仰おっしゃったのでございますの?」

「確かに、あの男だと云わないが、何どうも彼奴あいつの事らしい。杉野はお前の話を始める前に、それとなく荘田の事を賞ほめているのだ。何うも彼奴らしい。金が出来たのに、付け上って、華族の娘をでも貰もらいたい肚はららしいが、俺の娘を貰いに来るなんて狂人の沙汰さただ!」

父は相手の無礼を怒ったものゝ、先方に深い悪意があろうとは思わないらしく、先刻から見ると余程機嫌が直っているらしかった。

が、瑠璃子はそうではなかった。此この求婚を、気紛きまぐれだとか、冗談だとか、華族の娘を貰いたいと云うような単なる虚栄心だとは、何うしても思われなかった。父の一喝いっかつに逢あって、這々ほうほうの体ていで、逃げ帰った杉野子爵ししゃくは、ほんの傀儡かいらいで、その背後に怖おそろしい悪魔の手が、動いていることを感ぜずにはいられなかった。そう思って来ると、八重桜の下で、自分達二人を、睨にらみ付けた恐ろしい眼が、アリアリと浮んで来た。そう思って来ると、自分の恋人の父を、自分に対する求婚の使者にした相手のやり方に、悪魔のような意地悪さを、感ぜずにはいられなかった。

瑠璃子は思った。自分が傷つけた蛇は、ホンの僅わずかな恨を酬むくいるために猛然と、襲いかゝっているのだと。が、そう思うと、瑠璃子は却かえって、必死になった。来るならば来て見よ。あんな男に、指一つ触れさせてなるものか。彼女は心の中うちでそう決心した。

「いや、杉野の奴やつ一喝してやったら、一縮みになって帰ったよ。あゝ云って置けば、二度と顔向けは出来ないよ。」

父は、もう凡すべてが済んでしまったように、何気なく云った。が、瑠璃子にはそうは思われなかった。一度飛び付き損そこなった蛇は、二度目の飛躍の準備をしているのだ。いや、二度目どころではない。三度目四度目五度目十度目の準備まで整っているのかも知れない。そう思うと、瑠璃子は又更に自分の胸の処女の誇ほこりが、烈火のように激しく燃えるのを感じた。

「本当に口惜くやしゅうございます。あんな男が妾わたくしを。それに杉野さんが、そんな話をお取次ぎになるなんて、本当にひどいと思いますわ。」

瑠璃子は、興奮して、涙をポロ〱落しながら云った。それは口惜しさの涙であり、怒いかりの涙だった。

「だから、聴かない方が、いゝと云ったのだ。そうだ! 杉野が怪けしからんのだ。あんな馬鹿ばかな話を取次ぐなんて、彼奴あいつが怪しからんのだ。が、あんな堕落だらくした人間の云うことは、気に止めぬ方がいゝ。縁談どころか、瑠璃さんには、何時いつまでも、茲ここにいて貰いたいのだ。殊ことに、光一があゝなってしまえば、お父様の子はお前丈だけなのだ。百万円はおろか、お父様の首が飛んでも、お前を手離しはしないぞ。ハヽヽヽ。」

父は、瑠璃子を慰めるように、快活に笑った。瑠璃子の心も、父に対する愛で、一杯になっていた。何時までも、父の傍にいて、父の理解者であり、慰安者であろうと思った。

「妾わたくしもそう思っていますの。何時までも、お父様のお傍そばにいたいと思っていますの。」

そう云って瑠璃子は初めてニッコリ笑った。嵐あらしの過ぎ去った後の平和を思わせるような、寂しいけれども静かな美しい微笑ほほえみだった。

三

二つの忌いまわしい事件が、渦を捲まいて起った日から、瑠璃子の家は、暴風雨の吹き過ぎた後のような寂しさに、包まれてしまった。

家出した兄からは、ハガキ一つ来なかった。父は父でおくびにも兄の事は云いわなかった。人を頼んで、兄の行方を探すとか、警察に捜索願を出すなどと云うことを、父は夢にも思っていないらしかった。自分を捨てた子の為ためには、指一つ動かすことも、父としての自尊心が許さないらしかった。

こうした父と兄との間に挟まって、たゞ一人、心を傷いためるのは瑠璃子だった。彼女は、父に隠れて兄の行方をそれとなく探って見た。兄が、その以前父に隠れて通ったことのある、小石川の洋画研究所も尋ねて見た。兄が、予かねてから私淑ししゅくしている二科会の幹部のN氏をも訪ねて見た。が、何処どこでも兄の消息は判わからなかった。

兄の友達の二三にも、手紙で訊きき合して見た。が、どの返事も定きまったように、兄に暫しばらく会ったことがないと云うような、頼りない返事だった。縦令たとい父とは不和になっても、自分丈には安否位は、知らせて呉くれてもよいものと、彼女は兄の気強さが恨めしかった。が、彼女の心を傷ましめることは外にもう一つあった。それは、これまで感情の疎隔そかくしていた父と杉野子爵ししゃくとの間が、到頭最後の破裂に達したことである。あんな事件が起った以上、再び元通りになることは、殆ほとんど絶望のように思われた。従って、自分達の恋が、正式に認められるような機おりは、永久に来ないように思われた。自分が、恋を達するときは、やっぱり兄と同じように、父に背かなければならぬ時だと思うと、彼女の心は暗かった。

突然な非礼な求婚が、斥しりぞけられてから、それに就いては何事も起らなかった。十日経たち二十日経った。父は、その事をもうスッカリ忘れてしまったようだった。が、瑠璃子にはそれが中断された悪夢のように、何となく気がかりだったが、一度限ぎりで何の音沙汰おとさたもないところを見ると、その求婚を、恐ろしい復讐ふくしゅうの企てでもあるように思ったのは、自分の邪推であったようにさえ、瑠璃子は思った。

その裡うちに五月が過ぎ六月が来た。政治季節の外は、何の用事もない父は、毎日のように書斎にばかり、閉じ籠こもっていた。瑠璃子は何うかして、父を慰めたいと思いながらも、父の暗い眉まゆや凋しなびた口の辺あたりを見ると、たゞ涙ぐましい気持が先に立って、話しかける言葉さえ、容易に口に浮ばなかった。兄がいる裡は、父と時々争いが起ったものゝ、それでも家の中が、何となく華やかだった。父娘おやこ二人になって見ると、ガランとした洋館が修道院か何かのように、ジメ〱と淋さびしかった。

六月のある晴れた朝だった。兄が家出した悲しみも、不快な求婚に擾みだされた心も、だん〱薄らいで行く頃だった。瑠璃子は、その朝、顔を洗ってしまうと平素いつもの通り、老婢ばあやが自分の室へやの机の上に置いてある郵便物を、取り上げて見た。

父宛あてに来た書状も、一通り目を通すのが、彼女の役だった。その朝は、父宛の書留が一通雑まじっていた。それは内容証明の書留だった。裏を返すと、見覚えのある川上万吉と云う金貸業者の名前だった。

『あゝまた督促かしら。』と、瑠璃子は思った。そうした書状を見る毎ごとに、平素は感じない家の窮状が彼女にもヒシ〱感ぜられるのであった。

彼女は、何気なく封を破った。が、それは平素の督促状とは、違っていた。簡単な書式のようなものだった。一寸ちょっと意外に思いながら読んで見た。最初の『債権譲渡ゆずりわたし通知書』と云う五字から、先まず名状しがたい不快な感じを受けた。

債権譲渡通知書

通知人川上万吉は被通知人に対して有する金弐万五千円の債権を今般都合に依より荘田勝平殿に譲渡し候そうろうに付き通知候也なり

大正六年六月十五日

通知人  川上万吉

被通知人  唐沢光徳みつのり殿

荘田勝平と云う名前が、目に入ったとき、その書式を持っている瑠璃子の手は、その儘まましびれてしまうような、厭いやな重くるしい衝動ショックを受けずにはいられなかった。

悪魔は、その爪つめを現し始めたのである。

四

相手が、あの儘まま思い切ったと思ったのは、やっぱり自分の早合点はやがてんだったと瑠璃子は思った。求婚が一時の気紛きまぐれだと思ったのは、相手を善人に解し過ぎていたのだ。相手はその二つの眼が示している通り、やっぱり恐ろしい相手だったのだ。

が、それにしても何と云いう執念ぶかい男だろう。父が負うている借財の証書を買入れて、父に対する債権者となってから、一体何どうしようと云う積りなのかしら。卑怯ひきょうにも陋劣ろうれつにも、金の力であの清廉せいれんな父を苦しめようとするのかしら。そう思うと、瑠璃子は、女ながらにその小さい胸に、相手の卑怯を憤いきどおる熱い血が、沸々と声を立てゝ、煮え立つように思った。

父の借財は多かった。藩閥内閣打破の運動が、起る度に、父はなけ無しの私財を投じて惜しまなかった。藩閥打破を口にする志士達に、なけ無しの私財を散じて惜しまなかった。父が持って生れた任侠にんきょうの性質は、頼まるゝ毎ごとに連帯の判も捺おした。手形の裏書もした、取れる見込のない金も貸した。そうした父の、金に対する豪快な遣やり口は、最初から多くはなかった財産を、何時いつの間にか無一物にしてしまった。が、財産は無くなっても、父の気質は無くならなかった。初めは親類縁者から金を借りた。親類縁者が、見放してしまうと、高利貸の手からさえ、借ることを敢あえてした。住んでいる家も、手入は届いていないが、可なりだゞっ広い邸地も、一番も二番もの抵当に入っていることを、瑠璃子さえよく知っている。

金力と云ったものが、丸切り奪われている父が、黄金魔と云ってもよいような相手から、赤児あかごの手を捻ねじるように、苛責いじめられる。そう思って来ると、瑠璃子はやるせない憤りと悲しみとで、胸が一杯になって来た。金さえあれば、どんな卑いやしい者でもが、得手勝手なことをする世の中全体が、憤ろしく呪のろわしく思われた。

瑠璃子は、今の場合、こうした不快な通知書を、父に見せることが、一番厭いやなことだった。父が、どんなに怒り、どんなに口惜くやしがるかが余りに見え透いていたから。

でも、こうした重要な郵便物を、父に隠し通すことは出来なかった。瑠璃子は、重い足を運びながら、父の寝室へ行って見た。が、父はまだ起きてはいなかった。スヤ〱と安らかな呼吸をしながら名残りの夢を貪むさぼっている父の窶やつれた寝顔を見ると、瑠璃子は出来る丈こうした不快な物を父の眼には触れさせたくはなかった。彼女は、そっと忍び足に枕元まくらもとに寄り添って、枕元の小さい卓子テーブルの上に置いてある、父の手文庫の中にその呪われた紙片を、そっと音を立てずに入れた。何時までも、父の眼には触れずにあれ、瑠璃子は心の中で、そう祈らずにはいられなかった。

その日、食事の度毎に顔を合せても、父は何とも云わなかった。夜の八時頃、一人で棊譜きふを開いて盤上に石を並べている父に、紅茶を運んで行ったときにも、父は二言ふたこと三言みこと瑠璃子に言葉をかけたけれど、書状のことは、何も云わなかった。

願わくは、何時までも、父の眼に触れずにあれ、瑠璃子は更にそう祈った。どうせ、一度は触れるにしても、一日でも二日でも先きへ、延ばしたかった。

が、翌日眼を覚まして、瑠璃子が前の日の朝の、不快な記憶を想おもい浮べながら、その朝の郵便物に眼をやったとき、彼女は思わず、口の裡うちで、小さい悲鳴を挙げずにはいられなかった。其処そこに、昨日と同じ内容証明の郵便物が、三通まで重ねられていたのである。

それを取り上げた彼女の手は、思わずかすかに顫ふるえた。もう、父に隠すとか隠さないとか云う余裕は、彼女になかった。彼女はそれを取り上げると、救いを求むる少女のように、父の寝室に駈かけ込んだ。

父は起きてはいなかったが、床の中で眼を覚ましていた。

「お父様! こんな手紙が参りました。」瑠璃子の声は、何時になく上ずッていた。

「昨日のと同じものだろう。いや心配せいでもえゝ、お前が心配せいでもえゝ。」

父は、静かにそう云った。昨日の書状も、父は何時の間にか、見ていたのである。

瑠璃子は、今更ながら、自分の父を頼もしく思わずにはいられなかった。

五

唐沢の家を呪詛じゅそするような、その不快な通知状は、その翌日もその又翌日も、無心な配達夫に依よって運ばれて来た。

初はじめほどの驚駭ショックは、受けなかったけれども、その一葉々々に、名状しがたい不快と不安とが、見る人の胸を衝ついた。

「なに、捨てゝ置くさ。同一人に債権の蒐あつまった方が、弁済をするにしても、督促を受くるにしても手数が省はぶけていゝ。」

父は何気ないように、済ましているようだったが、然しかし内心の苦悶くもんは、表面うわべへ出ずにはいなかった。殊ことに、父は相手の真意を測りかねているようだった。何のために、相手がこれほど、執念深く、自分を追窮して来るのか、判わかりかねているようだった。

が、瑠璃子には相手の心持が、判っている丈、わずかばかりの恨を根に持って、何処どこまでも何処までも、付き纏まとって来る相手の心根の恐ろしさが、しみ〲と身に浸しみた。通知状を見る度に、相手に対する憎悪ぞうおで、彼女の心は一杯になった。彼の金力を罵ののしった自分達丈を苦しめる丈なら、まだいゝ、罪も酬むくいもない老いた父を、苦しめる相手の非道を、心の底より憎まずにはいられなかった。

こうして、父が負うている総額二十万円に近い負債に対する数多い証書が、たった一つの黒い堅い冷たい手に、握られてしまった頃であった。

ある朝、彼女は平生いつものように郵便物を見た。――こうした通知状の来ない前は、それは楽しい仕事に違いなかった。其処そこには恋人からの手紙や、親しい友達の消息が見出みいだされたから――。が、今では不安な、いやな仕事になってしまった。

彼女は、その朝もオズ〱郵便物に目を通した。幾通かの手紙の一番最後に置かれていた鳥の子の立派な封筒を取り上げて、ふと差出人の名前に、目を触れたとき、彼女の視線はそこに、筆太に書かれている四字に、釘付くぎづけにされずにはいなかった。それは紛まぎれもなく荘田勝平の四字だったのである。

黒手組の脅迫状を受けたように、悪魔からの挑戦状を受けたように、瑠璃子の心は打たれた。反感と、憎悪とある恐怖とが、ごっちゃになって、わく〱と胸にこみ上げて来た。

彼女は、その封筒の端をソッと、醜い蠑螈いもりの尻尾しっぽをでも握るように、摘つまみ上げながら、父の部屋へ持って行った。

父は差出人の名前を、一目見ると、苦々しげに眉まゆをひそめた。暫しばらくは開いて見ようとはしなかった。

「何と申して参ったのでございましょう。」瑠璃子は、気になって、急せかすように訊きいた。

父は、荒々しく封筒を引き破った。

「何だ!」父の声は、初から興奮していた。

「――此度このたび小生に於おいて、買占め置き候そうろう貴下に対する債権に就ついて、御懇談ごこんだんいたしたきこと有之これあり、且かつ先日杉野子爵ししゃくを介して、申上げたる件に付きても、重々の行違ゆきちがい有之これあり、右釈明旁々かたがた近日参邸いたし度く――あゝ何と云う図々ずうずうしさだ。何と云う! 獣のような図々しさだ。よし、やって来い。やって来るがいゝ。来れば、面と向って、あの男の面皮めんぴを引き剥むいて呉くれるから。」

父は、そう云いながら、奉書の巻紙を微塵みじんに引き裂いた。老い凋しなんだ手が、怒いかりのために、ブル〱顫ふるえるのが、瑠璃子の眼には、傷いたましくかなしかった。

六

父も瑠璃子も、心の中に戦いの準備を整えて、荘田勝平の来るのを遅しと待っていた。

手紙が来た日の翌日の午前十時頃、瑠璃子が、二階の窓から、邸前の坂道を、見下していると、遥はるかに続いているプラタナスの並樹なみきの間から、水色に塗られた大形の自動車が、初夏の日光をキラ〱と反射しながら、眩まぶしいほどの速力で、坂を馳かけ上ったかと思うと、急に速力を緩めて、低いうめくような警笛の音を立てながら、門前に止まるのを見たのである。覚悟をしていたことながら、瑠璃子は今更のように、不快な、悪魔の正体をでも、見たような憎悪ぞうおに、囚とらわれずにはいられなかった。

自動車の扉は、開かれた。ハンカチーフで顔を拭ふきながら、ぬっとその巨おおきい頭を出したのは、紛れもないあの男だった。何が嬉うれしいのか、ニコ〱と得体の知れぬ微笑を浮べながら、玄関の方へ歩いて来るのだった。

瑠璃子は、取次ぎに出ようか出まいかと、考え迷った。顔を合わしたり、一寸ちょっとでも言葉を交すのが厭いやでならなかった。が、それかと云いって、平素気が付けば取次ぎに出る自分が、此この人に限って出ないのは、何だか相手を怖おそれているようで彼女自身の勝気が、それを許さなかった。そうだ! あんな卑いやしい人間に怯おそれてなるものか。彼あの男こそ、自分の清浄な処女おとめの誇ほこりの前に、愧はじ怯れていゝのだ。そう思うと、瑠璃子は処女おとめにふさわしい勇気を振い興おこして、孔雀くじゃくのような誇と美しさとを、そのスラリとした全身に湛たたえながら、落着いた冷たい態度で、玄関へ現れた。

勝平は、瑠璃子の姿を見ると、此間会った時とは別人ででもあるように、頭を叮嚀ていねいに下げた。

「お嬢さまでございますか、先日は大変失礼を致しまして、申訳もございません。今日は、あのう! お父様はお在宅いででございましょうか。」

こうも白々しく、――あゝした非道なことをしながら、こうも白々しく出られるものかと、瑠璃子が呆あきれたほど、相手は何事もなかったように、平和で叮嚀であった。

瑠璃子は、一寸拍子抜けを感じながらも、冷たく引き緊しめた顔を、少しも緩めなかった。

「在宅いますことは、在宅いますが、お目にかゝれますかどうか一寸伺って参ります。」

瑠璃子は、そう高飛車に云いながら、二階の父の居間に取って返した。

「やって来たな。よし、下の応接室に通して置け。」

瑠璃子の顔を見ると、父は簡単にそう云った。

応接室に案内する間も、勝平は叮嚀に而しかも馴々なれなれしげに、瑠璃子に話しかけようとした。が、彼女は冷たい切口上で、相手を傍へ寄せ付けもしなかった。

「やあ!」挨拶あいさつとも付かず、懸声とも付かぬ声を立てながら、父は応接室に入って来た。父は相手と初対面ではないらしかった。二三度は会っているらしかった。が、苦り切ったまゝ時候の挨拶さえしなかった。瑠璃子は、茶を運んだ後も、はしたないとは知りながら、一家の浮沈に係る話なので、応接室に沿う縁側の椅子いすに、主客には見えないように、そっと腰をかけながら、一語も洩もらさないように相手の話に耳を聳そばだてた。

「此の間から、一度伺おう〱と思いながら、つい失礼いたしておりました。今度、閣下に対する債権を、私が買い占めましたことに就ついても、屹度きっと私を怪けしからん奴やつだと、お考えになったゞろうと思いましたので、今日はお詫わび旁かたがた、私の志のある所を、申述べに参ったのです。」

勝平は、いかにも鄭重ていちょうに、恐縮したような口調で、ボツリ〱話し始めたのであった。丁度暴風雨の来る前に吹く微風のように、気味の悪い生あたゝかさを持った口調だった。

「うむ。志! 借金の証書を買い蒐あつめるのに、志があるのか。ハヽヽヽヽヽヽ。」父は、頭から嘲あざけるように詰なじった。

「ございますとも。」相手は強い口調で、而も下手から、そう云い返した。

七

「初はじめから申上げねば分りませんが、実は私は閣下の崇拝者です。閣下の清節を、平生から崇拝致している者であります。」

そう云いって、勝平は叮嚀に言葉を切った。老狐ろうこが化ばかそうと思う人間の前で、木の葉を頭から被かぶっているような白々しさであった。人を馬鹿ばかにしている癖に、態度丈だけはいやに、真剣に大真面目おおまじめであるようだった。

「殊ことに近頃になって、所謂いわゆる政界の名士達なるものと、お知己ちかづきになるに従って、大抵の方には、殆ほとんど愛想を尽つかしてしまいました。お口丈は立派なことを云っていらしっても、一歩裏へ廻ると、我々町人風情ふぜいよりも、抜目がありませんからな。口幅くちはばったいことを、申す様でございますが、金で動かせない方と云ったら、数える丈しかありませんからね。」

父は黙々として、一言も発しなかった。いざと云う時が来たら、一太刀に切って捨てようとする気勢けはいが、あり〱と感ぜられた。が、勝平は相手の容子ようすなどには、一切頓着とんちゃくしないように、臆面おくめんもなく話し続けた。

「いつか、日本倶楽部クラブで、初めて閣下の崇高なお姿に接して以来、益々ますます閣下に対する私の敬慕の念が高くなったのです。多年の間、利慾りよく権勢に目もくれず、たゞ国家のために、一意奮闘していらっしゃる。こう云うお方こそ、本当の国士本当の政治家だと思ったのです。」

父が、面と向ってのお世辞に、苦り切っている有様が、室外にいる瑠璃子にもマザ〱と感ぜられた。

「御存じの通り、私は外に能のある人間でありません。たゞ、二三年来の幸運で、金丈だけは相当儲もうけました。私は、今何に使っても心残りのない金を、五百万円ばかり現金で持っています。あゝ使え、こう寄附しろと云って呉くれる人もありますが、私は閣下のようなお方に、後顧こうこの憂うれいなからしめ、国家のために思い切り奮闘していたゞけるようにする事も、可なり意義のある立派な仕事だと思ったのです。それには、是非ともお交際つきあいを願って、いろ〱な立ち入った御相談にも、与あずからせて戴いただきたいと、それで実はあんな突然なお申込を……」

そう云って、言葉を切った、がいかにも恐縮に堪たえないと云う口調で、

「ところが、その申込が杉野さんの思い違ちがいで、と云うよりも、あの方の軽率から、私がお嬢さまをお望み致したなどととんでもない。ハヽヽヽ。御立腹遊ばすのは当然です。五十に近い私が、お嬢さまに求婚するなどと笑い話にもなりません。実は、当人と申すのは私の倅せがれ、今年二十五になります。亡妻の遺児わすれがたみです。」

一寸ちょっと殊勝らしく声を落しながら、

「その倅とても、年こそお嬢様に似合いでございますが、いやもう一向下らない人物です。が、若もし万一お嬢様を下さるような事がありましたら、これほど有難い――私の財産を半分無くしても惜しくはない――仕合せだと思いますのですが。が、そのお話は、兎とも角かく、閣下の御債務は凡すべて、私に払わせていたゞきたいと思いましたから、一月あまりも心掛けて、もう大抵は買い蒐あつめた積りでございますが、縁談のお話などとは別に、これ丈は私の寸志です。どうか御心置きなく、お受取り下さるように。」そう云いながら、父の負うている借財の証書の全部を一つの袋に収めて父の前に差し出したらしかった。

虚心平気に、勝平の云い分を聴けば、無躾ぶしつけなところは、あるにせよ、成金らしい傲岸ごうがんな無遠慮なところはあるにせよ、それほど、悪意のあるものとは思われなかった。が、瑠璃子にはそうではなかった。瑠璃子と、その恋人とを思い知らせるために、悪魔は、瑠璃子を奪って、自分の妻に――名前丈だけは妻でも、本当はその金力を示すための装飾品に――しようとした。が、瑠璃子の父が、予想以上に激怒したのと、年齢の余りな相違から来る世間の非難とを慮おもんぱかって、自分の名義で買う代りに、息子の名義で買おうとする、瑠璃子を商品と見ている点に於おいては、何の相違もない。瑠璃子と彼女の恋人とを思い知らせようとする、蛇のような執念には何の相違もない。正面から飛びかゝって父から、手ひどく跳付はねつけられた悪魔は、今度は横合から、そっと騙たぶらかそうと掛っているのだった。

八

瑠璃子には、相手の心が十分に見透かされている。が、相手の本心を知らない父は、その空々しい上部うわべの理由丈だけに、うか〱と乗せられて、もしや相手の無躾ぶしつけな贈り物を、受け取りはしないかと、瑠璃子はひそかに心を痛めた。縁談などとは別にと、口で美しく云いうものゝ、父が相手の差し出す餌えさにふれた以上、それを機しおに、否応いやおうなしに自分を、浚さらって行こうとする相手の本心が、彼女には余りに明かであった。

父を何どうにか騙だまして娘を浚って行く、それで娘にも、彼女の恋人にも、苦痛を与えればよいのだと相手が謀たくらんでいるらしいのが、瑠璃子には、余りに判わかり過ぎているように思えた。

が、瑠璃子の心配は無駄だった。父は相手が長々と喋しゃべり続けたのを聞いた後で、二三分ばかり黙っていたらしいが、急に居ずまいを正したらしく、厳格な一分も緩みのない声で云った。

「いや、大きに有難う。あなたの好意は感謝する。が、考うる所あって、お受けすることは出来ない。借財は証文の期限通どおりに、ちゃんと弁済する。それから、縁談の事じゃが、本人が貴方あなたであろうが御子息であろうが、お断りすることには変りがない。何うか悪あしからず。」

父は激せず熱せず、毅然きぜんとした立派な調子で云い放った。父の立派な男らしい態度を、瑠璃子は蔭かげながら、伏し拝まずにはいられなかった。何と云う凜々りりしい態度であろう。どんなに此この先苦しもうとも、あゝした父を、父としていることは、何という幸福であろうかと思うと、熱い涙が知らず識しらず、頬を伝って流れた。

真向から平手でピシャッと、殴なぐるような父の返事に、相手は暫しばらくは、二の句が、次つげないらしかった。が、暫らくすると、太い渋い不快な声が聞え始めた。

「ふゝむ。これほど申し上げても、私の好意を汲くんで下さらない。これほど申上げても、私の心がお分りになりませんのですか。」

相手の言葉付は、一眸いちぼうの裡うちに変っていた。豹ひょうが、一太刀受けて、後退あとじさりしながら、低くうなっているような無気味な調子だった。

「はゝゝゝ、好意! はゝゝゝ、お前さんは、こんなことを好意だと、云い張るのですか。人の顔に唾つばを吐きかけて置いて、好意であるもないものだ、はゝゝゝゝゝゝ。」父は、相手を蔑さげすみ切ったように嘲笑あざわらった。

「はゝゝ、閣下も、貧乏をお続けになったために、何時いつの間にか、僻ひがんでおしまいになったと見える。此の荘田が、誠意誠心申上げていることが、お分りにならない。」

相手も、負けてはいなかった。豹が、その本性を現して、猛然と立ち上ったのだった。

「はゝゝゝゝ、誠意誠心か! 人の娘を、金で買うと云う恥知らずに、誠意などがあって、堪たまるものか。出直してお出いでなさい!」父は、低い力強い声で、そう罵ののしった。

「よろしい! 出直して参りましょう。閣下、覚えて置いて下さい! 此の荘田は、好意を持っておりますと同時に、悪意も人並に持っているものでございますから。お言葉に従って、いずれ出直して参りますから。」そう云い捨てると、相手は荒々しく扉ドアを排して、玄関へ出て行った。

瑠璃子が、急いで応接室に駈かけ込んだとき、父はそこに、昂然こうぜんと立っていた。半白の髪が、逆立さかだっているようにさえ見えた。

「お父様!」瑠璃子は、胸が一杯になりながら、駈け寄った。

「あゝ瑠璃子か。聞いていたのか。さあ! お前もしっかりして、飽くまでも戦うのだ。強くあれ、そうだ飽くまでも強くあることだ!」

そう云いながら父は、彼の痩やせた胸懐むなぶところに顔を埋うずめている娘の美しい撫肩なでがたを、軽く二三度叩たたいた。

罠わな

一

羊の皮を被かぶって来た狼おおかみの面皮めんぴを、真正面から、引き剥はいだのであるから、その次ぎの問題は、狼が本性を現して、飛びかゝって来る鋭い歯牙しがを、どんなに防ぎ、どんなに避くるかにあった。

が、その狼の毒牙どくがは、法律に依よって、保護されている毒牙だった。今の世の中では、国家の公正な意志であるべき法律までが、富める者の味方をした。

勝平に買い占められた証書の一部分の期限はもう十日と間のない六月の末であった。今までは、期限が来る毎ごとに、幾度も幾度も証書の書換をした。そのために、証書の金額は、年一年増ふえて行ったものゝ、何どうにか遣繰やりくりは付いていた。が、それが悪意のある相手の手に帰して、こちらを苛責いじめるための道具に使われている以上、相手が書換や猶予ゆうよの相談に応ずべき筈はずはなかった。

六月の末日が、段々近づいて来るに従って、父は毎日のように金策に奔走した。が、三万を越している巨額の金が、現在の父に依って容易に、才覚さるべき筈もなかった。

朝起きると、父は蒼あおざめながらも、眼まなこ丈だけは益ますます鋭くなった顔を、曇らせながら、黙々として出て行った。玄関へ送って出る瑠璃子るりこも、

「お早くお帰りなさいまし。」と、挨拶あいさつする外は何の言葉もなかった。が、送り出す時は、まだよかった。其処そこに、僅わずかでも希望があった。が、夕方、その日の奔走が全く空に帰して、悄然しょうぜんと帰って来る父を迎えるのは、何うにも堪たまらなかった。父と娘とは、黙って一言も、交わさなかった。お互の苦しみを、お互に知っていた。

今迄いままでは、元気であった父も、折々は嗟嘆さたんの声を出すようになった。夕方の食事が済んで、父娘おやこが向い合っている時などに、父は娘に詫わびるように云いった。

「皆、お父様が悪かったのだ。自分の志ばかりに、気を取られて、最愛の子供のことまで忘れていたのじゃ。俺わしの家を治めることを忘れたために、お前までがこんな苦しい思いをするのだ。」

父の耿々こうこうの気が――三十年火のように燃えた野心が、こうした金の苦労のために、砕かれそうに見えるのが、一番瑠璃子には悲しかった。

父の友人や知己は、大抵は、父のために、三度も四度も、迷惑をかけさせられていた。父が、金策の話をしても、彼等は体よく断った。断られると、潔癖な父は、二度と頼もうとはしなかった。

六月が二十五日となり、二十七日となった。連日の奔走が無駄になると、父はもう自棄やけを起したのであろう。もう、ふッつりと出なくなった。幡随院長兵衛ばんずいいんちょうべえが、水野の邸やしきに行くように、父は怯わるびれもせず、悪魔が、下す毒手を、待ち受けているようだった。

今年の春やっと、学校を出たばかりの瑠璃子には、父が連日の苦悶くもんを見ても、何うしようと云う術すべもなかった。彼女は、たゞオロ〱して、一人心を苦しめる丈だけだった。

彼女の小さい胸の苦しみを、打ち明けるべき相手としては、たゞ恋人の直也なおやがある丈だった。が、彼女は恋人に、まだ何も云っていなかった。

家の窮状を訴えるためには、いろ〱な事情を云わなければならない。荘田しょうだの恨みの原因が、直也の罵倒ばとうであることも云わなければならない。直也の父が、不倫ふりんな求婚の賤いやしい使者を務つとめたことも云わなければならない。それでは、恋人に訴えるのではなくして、恋人を責めるような結果になる。潔癖な恋人が、父の非行を聴いて、どんなに悲嘆するかは、瑠璃子にもよく分っていた。自分のふとした罵倒が、瑠璃子父娘おやこに、どんなに禍わざわいしているかと云うことを聴けば、熱情な恋人は、どんな必死なことをやり出すかも分らない。そう思うと、瑠璃子は、出来る丈は、自分の胸一つに収めて、恋人にも知らすまいと思った。

父や瑠璃子の苦しみなどとは、没交渉に、否いな凡すべての人間の喜怒哀愁きどあいしゅうとは、何の渉かかわりもなく、六月は暮れて行った。

二

もう、明日が最後の日という六月二十九日の朝だった。荘田勝平の代理人と云いう男が、瑠璃子の家を訪ずれた。鷲わしの嘴くちばしのような鼻をした四十前後の男だった。詰襟の麻の洋服を着て、胸の辺あたりに太い金の鎖を、仰々しくきらめかしていた。

父は、頭から面会を拒絶した。瑠璃子が、その旨むねを相手に伝えると、相手は薄気味の悪い微笑をニヤリと浮べながら、

「いや、お会い下さらなくっても、結構です。それでは、お嬢様から、よろしくお伝え下さい。外の事ではございませんが、今度手前共の主人が、拠よん所ない事情から、買入れました、此方こちらの御主人に対する証文の中うち、一部の期限が明日に当っていますから、是非ともお間違なくお払い下さるように、当方にも事情がございまして、何分御猶予ごゆうよいたすことが出来ませんから、そのお積りで、お間違のないよう。もし、万一お間違がありますと、手前共の方では、直すぐ相当な法律上の手段に訴えるような手筈てはずに致しておりますから。後でお怨うらみなさらないように。」と、云ったが、此の冷たそうな男の胸にも、美しい瑠璃子に対する一片の同情が浮んだのであろう。彼は急に、口調を和やわらげながら、

「どうかお嬢様、こんなことを申上げる私の苦しい立場もお察し下さい。怨うらみも報むくいもない御当家へ参って、こんなことを申上げる私は可なり苦しい思いを致しているのでございます。然しかし、これも全く、使われています主人の命令でございますから。それでは、いずれ明日改めて伺いますから。」

瑠璃子が、大理石で作った女神の像のように、冷たく化石したような美しい顔の、眉まゆ一つ動かさず黙って聞いているために、男はある威圧を感じたのであろう。そう云ってしまうと、コソコソと、逃ぐるように去ってしまった。

父に、この督促を伝えようかしら。が伝えたって何なんにもならない。何万と云う金が、今日明日に迫って、父に依よって作られる筈はずがなかった。が、もし払わないとすると、向うでは直ぐ相当な法律上の手段に、訴えると云う。一体それはどんなことをするのだろう。そう考えて来ると、瑠璃子は自分の胸一つには、収め切れない不安が湧わいて来て、進まないながら、父の部屋へ、上って行かずにはいられなかった。

「うむ! 直ぐ法律上の手段に訴える!」

父はそう云って、腕を拱こまぬいて、遉さすがに抑え切れない憂慮の色が、アリ〱と眉の間に溢あふれた。

「執達吏を寄越すと云うのだな。あはゝゝゝゝ、まかり違ったら、競売にすると云うのかな。それもいゝ、こんなボロ屋敷なんか、ない方が結句気楽だ! はゝゝゝゝ。」

父は、元気らしく笑おうとした。が、それは空むなしい努力だった。瑠璃子の眼には、笑おうとする父の顔が、今にも泣き出すように力なくみじめに見えた。

「何どうにかならないものでございましょうか、ほんとうに。」

父の大事などには、今迄いままで一度も口出しなどをしたことのない彼女も、恐ろしい危機に、つい平生のたしなみを忘れてしまった。

父も、それに釣り込まれたように、

「そうだ! 本多さえ早く帰っておれば、何どうにかなるのだがな。八月には帰ると云うのだから、此この一月か二月さえ、何うにか切り抜ければ――」

父は、娘に対する虚勢も捨てたように、首をうな垂れた。そうだ、父の莫逆ばくぎゃくの友たる本多男爵だんしゃくさえ日本におればと、瑠璃子も考えた。が、その人は、宮内省くないしょうの調度頭ちょうどのかみをしている男爵は、内親王の御降嫁ごこうかの御調度買入れのために、欧洲おうしゅうへ行っていて、此の八月下旬でなければ、日本へは帰らないのだった。

住んでいる家に、執達吏が、ドヤ〱と踏み込んで来て家財道具に、封印をベタ〱と付ける。そうした光景を、頭の中に思い浮べると、瑠璃子は生きていることが、味気ないようにさえ思った。

父も娘も、無言のまゝに、三十分も一時間も坐すわっていた。いつまで、坐っていても父娘おやこの胸の中の、黒いいやな塊かたまりが、少しもほぐれては行かなかった。

その時である。また唐沢家を訪おとなう一人の来客があった。悪魔の使であるか、神の使であるかは分らなかったけれど。

三

父と娘ことが、差し迫まる難関に、やるせない当惑の眉まゆをひそめて、向い合って坐っている時に、尋ねて来た客は、木下と云いう父の旧知だった。政治上の乾分こぶんとも云うべき男だった。父が、日本で初はじめての政党内閣に、法相の椅子いすを、ホンの一月半ばかり占めた時、秘書官に使って以来、ズッと目をかけて来た男だった。長い間、父の手足のように働いていた。父も、いろ〱な世話を焼いた。が、二三年来父の財力が、尽きてしまって、乾分の面倒などは、少しも見ていられなくなってから、此この男も段々、父から遠ざかって行ったのだ。

が、父は久し振ぶりに、旧知の尋ねて来たことを欣よろこんだ。溺おぼるゝ者は、藁わらをでも掴つかむように、窮し切っている父は、何処どこかに救いの光を見付けようと、焦あせっているのだった。その男は、今年の五月来た時とは、別人のような立派な服装なりをしていた。

「何どうだい! 面白い事でもあるかい!」

父は、心の中うちの苦悶くもんを、此の来客に依よって、少しは紛ぎらされたように、淋さびしい微笑を、浮べながら応接室へ入って行った。

「お蔭かげさまで此の頃は、何うにかこうにか、一本立で食って行けるようになりました。もう、二年お待ち下さい! その中うちには、閣下への御恩報じも、万分の一の御恩報じも、出来るような自信もありますから。」

そう云いながら、得意らしく哄笑こうしょうした。此の場合の父には、そうした相手のお世辞さえ嬉うれしかった。

「そうかい! それは、結構だな、俺わしは、相変らず貧乏でのう。年頃になった娘にさえ、いろ〱の苦労をかけている始末でのう。」

父はそう云いながら、茶を運んで行った瑠璃子の方を、詫わびるように見た。

「いや、今に閣下にも、御運が向いて来る時代が参りますよ。此の頃ポツ〱新聞などに噂うわさが出ますように、若もし××会中心の貴族院内閣でもが、出来るような事がありましたら、閣下などは、誰を差し措おいても、第一番の入閣候補者ですから、本当に、今暫しばらくの御辛抱です。三十年近い間の、閣下の御清節が、報むくわれないで了おわると云うことは、余りに不当なことですから。……いやどうも、閣下のお顔を見ると、思わずこうした愚痴が出て困ります。いや、実は本日参ったのは、一寸ちょっとお願いがあるのです。」

そう云いながら、その男は立ち上って、応接室の入口に、立てかけてあった風呂敷包ふろしきづつみを、卓テーブルの上に持って来た。その長方形な恰好かっこうから推して、中が軸物じくものであることが分っていた。

「実は、之これを閣下に御鑑定していたゞきたいのです。友人に頼まれましたのですが、書画屋などには安心して頼まれませんものですから。是非一つ閣下にお願いしたいと思うたものですから。」

瑠璃子の父は、素人しろうと鑑定家として、堂に入っていた。殊ことに北宗画南宗画に於おいては、その道の権威だった。

「うむ! 品物は何なんなのだな。」父は余り興味がないように云った。書画を鑑定すると云ったような、落着いた気分は、彼の心の何処にも残っていなかったのである。

「夏珪かけいの山水図です。」

「馬鹿ばかな。」父は頭から嘲あざけるように云った。「そんな品物が、君達の手にヒョコ〱あるものかね。それに、見れば、大幅じゃないか。まあ黙って持って帰った方がいゝだろう。見なくっても分っているようなものだ。ハヽヽヽヽヽ。」

父は、丸切まるきり相手にしようとはしなかった。相手は、父にそう云われると、恐縮したように、頭をかきながら、

「閣下に、そう手厳てきびしく出られると、一言もありません。が、諦あきらめのために見て戴いただきたいのです。贋物にせものは覚悟の前ですから。持っている当人になると、怪しいと思いながら、諦められないものですから。ハヽヽヽヽヽヽ。」

四

久し振で、訪ねて来た旧知の熱心な頼みを聞くと、父は素気すげなく、断りかねたのであろう、それかと云いって、書画を鑑定すると云ったような、静かな穏かな気持は、今の場合、少しも残ってはいないのだった。

「見ないことはないが、今日は困るね、日を改めて、出直して来て貰もらいたいね。」父は余儀なさそうに云った。

「いや決して、直すぐ只今ただいま見て下さいなどと、そんな御無理をお願いいたすのではありません。お手許てもとへおいて置きますから、一月でも二月でも、お預けしておきますから、何どうかお暇な時に、お気が向いたときに。」相手は、叮嚀ていねいに懇願こんがんした。

「だが、夏珪かけいの山水なんて、大した品物を預っておいて、若もしもの事があると困るからね。尤もっとも、君などが、そうヒョックリ本物を持って来ようなどとは、思わないけれども、ハヽヽヽヽ。」

父は、品物が贋物であることに、何の疑いもないように笑った。

「いやそんな御心配は、御無用です。閣下のお手許に置いて置けば、日本銀行へ供託きょうたくして置くより安全です、ハヽヽヽ。閣下のお口から、贋だと一言仰おっしゃって下さると当人も諦めが、付くものですから。」

相手に、そう如才なく云われると、父も断りかねたのであろう。口では、承諾の旨むねを答えなかったけれども、有耶無耶うやむやの裡うちに、預ることになってしまった。

その用事が、片付くと客は、取って付けたように、政局の話などを始めた、父は暫しばらくの間、興味の乗らないような合槌あいづちを打っていた。

客が、帰って行くとき、父は玄関へ送って出ながら、

「凡およそ何時いつ取りに来る?」と訊きいた。やっぱり、軸物じくもののことが少しは気になっているのだった。

「御覧になったら、ハガキででも、御一報を願えませんか、本当にお気に向いた時でよろしいのですから。当方は、少しも急ぎませんのですから。」

客は幾度も繰返しながら、帰って行った。応接室へ引き返した父は、瑠璃子を呼びながら、

「之これを蔵しまって置け、俺わしの居間の押入へ。」と、命じた。が、瑠璃子が、父の云い付つけに従って、その長方形の風呂敷包を、取り上げようとした時だった。父の心が、急にふと変ったのだろう。

「あ、そう。やっぱり一寸ちょっと見て置くかな。どうせ贋に定きまっているのだが。」

そう云いながら、父は瑠璃子の手から、その包みを取り返した。父は包みを解といて、箱を開くと遉さすがに丁寧に、中の一軸を取り出した。幅三尺に近い大幅だった。

「瑠璃さん! 一寸掛けて御覧。その軸の上へ重ねてもいゝから。」

瑠璃子は父の命ずるまゝに、応接室の壁に古くから懸っている、父が好きな維新の志士雲井龍雄たつおの書の上へ、夏珪の山水を展開した。

先まず初め、層々と聳そびえている峰巒ほうらんの相すがたが現れた。その山が尽きる辺から、落葉し尽くした疎林そりんが淡々と、浮かんでいる。疎林の間には一筋の小径こみちが、遥々はるばると遠く続いている。その小径を横ぎって、水の乾かれた小流さながれが走っている。その水上に架する小さい橋には、牛に騎した牧童が牧笛を吹きながら、通り過ぎている。夕暮が近いのであろう、蒼茫そうぼうたる薄靄うすもやが、ほのかに山や森を掩おおうている。その寂寞せきばくを僅わずかに破るものは、牧童の吹き鳴らす哀切なる牧笛の音であるのだろう。

父は、軸が拡ひろげられるのと共に、一言も言葉を出さなかった。が、じっと見詰めている眸ひとみには感激の色がアリ〱と動いていた。五分ばかりも黙っていただろう。父は感に堪たえたように、もう黙ってはいられないように云った。

「逸品いっぴんだ。素晴らしい逸品だ。此この間、伊達侯爵だてこうしゃく家の売立に出た夏珪かけいの『李白観瀑りはくかんばく』以上の逸品だ!」

父は熱に浮かされたように云っていた。夏珪の『李白観瀑』は、つい此間行われた伊達家の大売立に九万五千円と云う途方もない高価たかねを附せられた品物だった。

五

「不思議だ! 木下などが、こんな物を持って来る!」父は暫しばらくの間は魅せられたように、その山水図に対して、立っていた。

「そんなに、此この絵がいゝのでございますか。」瑠璃子も、つい父の感激に感染して、こう訊きいた。

「いゝとも。徽宗きそう皇帝、梁楷りょうかい、馬遠ばえん、牧渓もっけい、それから、この夏珪、みんな北宗画の巨頭なのだ、どんな小幅だって五千円もする。この幅などは、お父様が、今迄いままで見た中での傑作だ。北宗画と云いうのは、南宗画とはまた違った、柔かい佳いい味のあるものだ。」

父は、名画を見た欣よろこびに、つい明日に迫る一家の窮境を忘れたように、瑠璃子に教えた。

「そうだ。早く木下に知らせてやらなければいけない。贋物にせものだからいくら預っていても、心配ないと思って預かったが、本物だと分ると急に心配になった。そうだ瑠璃さん! 二階の押入れへ、大切に蔵しまって置いておくれ!」

父は十分もの間、近くから遠くから、つくづくと見尽した後、そう云った。

瑠璃子は、それを持って、二階への階段を上りながら思った。自分の手中には、一幅十万円に近い名画がある。此の一幅さえあれば一家の窮状は何の苦もなく脱することが出来る。何んなに名画であろうとも、長さ一丈を超えず、幅五尺に足らぬ布片に、五万十万の大金を投じて惜しまない人さえある。それと同時に、同じ金額のために、いろ〱な侮辱や迫害を受けている自分達父娘おやこもある。そう思うと、手中にあるその一幅が、人生の不当な、不公平な状態を皮肉に示しているように思われて、その品物に対して、妙な反感をさえ感じた。

その日の午後、二階の居間に閉じ籠こもった父は、何どうしたのであろう。平素いつもに似ず、檻おりに入れられた熊くまのように、部屋中を絶間なしに歩き廻っていた。瑠璃子は、階下の自分の居間にいながら、天井に絶間なく続く父の足音に不安な眸ひとみを向けずには、いられなかった。常には、軽い足音さえ立てない父だった。今日は異常に昂奮こうふんしている様子が、瑠璃子にもそれと分った。暫しばらく音が、絶えたかと思うと、又立ち上って、ドシ〱と可なり激しい音を立てながら、部屋中を歩き廻るのだった。瑠璃子はふと、父が若い時に何かに激昂げっこうすると、直すぐ日本刀を抜いて、ビュウビュウと、部屋の中で振り廻すのが癖だったと、亡なき母から聞いたことを思い出した。

あんなに、父が昂奮しているとすると、若もし明日荘田の代理人が、父に侮辱に近い言葉でも吐くと短慮な父は、どんな椿事ちんじを惹ひき起さないとも限らないと思うと、瑠璃子は心配の上に、又新しい心配が、重なって来るようで、こんな時家出した兄でも、いて呉くれゝばと、取止めもない愚痴さえ、心の裡うちに浮んだ。

その日、五時を廻った時だった。父は、瑠璃子を呼んで、外出をするから、車を呼べと云った。もう、金策の当あてなどが残っている筈はないと思うと、彼女は父が突然出かけて行くことが、可なり不安に思われた。

「何処どこへ行らっしゃるのでございますか。もう直ぐ御飯でございますのに。」瑠璃子は、それとなく引き止めるように云った。

「いや、木下から預った軸物が急に心配になってね。これから行って、届けてやろうと思うのだ。向うでは、あゝした高価なものだとは思わずに、預けたのだろうから。」父の答えは、何だか曖昧あいまいだった。

「それなら、直ぐ手紙でもお出しになって、取りに参るように申したら、如何いかがでございましょう。別に御自身でお出かけにならなくても。」瑠璃子は、妙に父の行動が不安だった。

「いや、一寸ちょっと行って来よう。殊ことに此この家は、何時いつ差押えになるかも知れないのだから。預って置いて差押えられたりすると、面倒だから。」父は声低く、弁解するように云った。そう云えば、父が直ぐ返しに行こうと云うのにも、訳がないことはなかった。

が、父が車に乗って、その軸物の箱を肩に靠もたせながら、何処いずこともなく出て行く後姿を見た時、瑠璃子の心の中の妙な不安は極点に達していた。

六

到頭呪のろわれた六月の三十日が来た。梅雨つゆ時には、珍らしいカラリとして朗ほがらかな朝だった。明るい日光の降り注いでいる庭の樹立こだちでは、朝早くから蝉せみがさん〱と鳴きしきっていた。

が、早くから起きた瑠璃子の心には、暗い不安と心配とが、泥のように澱よどんでいた。父が、昨夜遅く、十二時に近く、酒気を帯びて帰って来たことが、彼女の新しい心配の種だった。還暦かんれきの年に禁酒してから、数年間一度も、酒杯を手にしたことのない父だったのだ。あれほど、気性の激しい父も、不快な執拗しつような圧迫のために、自棄やけになったのではないかと思うと、その事が一番彼女には心苦しかった。

つい此間来た、鷲わしの嘴くちばしのような鼻をした男が、今にも玄関に現れて来そうな気がして、瑠璃子は自分の居間に、じっと坐すわっていることさえ、出来なかった。あの男が、父に直接会って、弁済を求める。父が、素気すげなく拒絶する。相手が父を侮辱するような言葉を放つ。いら〱し切っている父が激怒する。恐ろしい格闘が起る。父が、秘蔵の貞宗さだむねの刀を持ち出して来る。そうした厭いやな空想が、ひっきりなしに瑠璃子の頭を悩ました。が、午前中は無事だった。一度玄関に訪おとなう声がするので驚いて出て見ると、得体の知れぬ売薬を売り付ける偽癈兵にせはいへいだった。午後になってからも、却々なかなか来る様子はなかった。瑠璃子は絶えずいら〱しながら厭な呪わしい来客を待っていた。

父は、朝食事の時に、瑠璃子と顔を合わせたときにも、苦り切ったまゝ一言も云いわなかった。昨日きのうよりも色が蒼あおく、眼が物狂わしいような、不気味な色を帯びていた。瑠璃子もなるべく父の顔を見ないように、俯うつむいたまゝ食事をした。それほど、父の顔は傷いたましく惨みじめに見えた。昼の食事に顔を合した時にも、親子は言葉らしい言葉は、交さなかった。まして、今日が呪われた六月三十日であると云ったような言葉は、孰どちらからも、おくびにも出さなかった。その癖、二人の心には六月三十日と云う字が、毒々しく烙やき付けられているのだった。

が、長い初夏の日が、漸ようやく暮れかけて、夕日の光が、遥はるかに見える山王台の青葉を、あか〱と照し出す頃になっても、あの男は来なかった。あんなに、心配した今日が、何事も起らずに済むのだと思うと、瑠璃子は妙に拍子抜けをしたような、心持にさえなろうとした。

が、然しかし悪魔に手抜かりのある筈はずはなかった。その犠牲いけにえが、十分苦しむのを見すまして、最後に飛びかゝる猫のように瑠璃子父子おやこが、一日を不安な期待の裡うちに、苦しみ抜いて、やっと一時逃れの安心に入ろうとした間隙すきに、かの悪魔の使者は護謨輪ゴムわの車に、音も立てず、そっと玄関に忍び寄ったのだった。

「いや、大変遅くなりまして相済みません。が、遅く伺いました方が、御都合が、およろしかろうと思いましたものですから、お父様は御在宅でしょうか。」

瑠璃子が、出迎えると、その男は妙な薄笑いをしながら、言葉丈だけはいやに、鄭重ていちょうだった。

来る者が、到頭来たのだと思いながらも、瑠璃子はその男の顔を見た瞬間から、憎悪ぞうおと不快とで、小さい胸が、ムカムカと湧わき立って来るのだった。

「お父様! 荘田の使が参りました。」

そう父に取り次いだ瑠璃子の声は、かすかに顫ふるえを帯びるのを、何どうともする事が出来なかった。

「よし、応接室に通して置け。」

そう云いながら、父は傍の手文庫を無造作に開いた。部屋の中は可なり暗かったが、その開かれた手文庫の中には、薄紫の百円紙幣の束たばが、――そうだ一寸にも近い束が、二つ三つ入れられてあるのが、アリ〱と見えた。

瑠璃子は、思わず『アッ』と声を立てようとした。

七

父の手文庫に思いがけなくも、ほのかな薄紫の紙幣の厚い束を、発見したのであるから、瑠璃子が声を立てるばかりに、駭おどろいたのも無理ではなかった。駭くのと一緒に、有頂天になって、躍り上って、欣よろこぶべき筈はずであった。が、実際は、その紙幣を見た瞬間に云いい知れぬ不安が、潮の如ごとくヒタ〱と彼女の胸を充みたした。

瑠璃子は、父がその札束を、無造作に取り上げるのを、恐ろしいものを見るように、無言のまゝじっと見詰めていた。

父が、応接室へ出て行くと、鷲鼻わしばなの男は、やんごとない高貴の方の前にでも出たように、ペコ〱した。

「これは、これは男爵様だんしゃくさまでございますか。私はあの、荘田に使われておりまする矢野と申しますものでございます。今日止やむを得ません主命で、主人も少々現金の必要に迫られましたものですから止むを得ず期限通りにお願い致しまする次第で、何の御猶予ごゆうよも致しませんで、誠に恐縮きょうしゅく致しておる次第でござります。」父は、そうした挨拶あいさつに返事さえしなかった。

「証文を出して呉くれたまえ。」父の言葉は、匕首あいくちのように鋭く短かった。

「はあ! はあ!」

相手は、周章あわてたように、ドギマギしながら、折鞄おりかばんの中から、三葉の証書を出した。

父は、じっと、それに目を通してから、右の手に、鷲掴づかみにしていた札束を、相手の面前に、突き付けた。

相手は、父の鋭い態度に、オド〱しながら、それでも一枚々々算かぞえ出した。

「荘田に言伝ことづてをしておいて呉れたまえ、いゝか。俺わしの云うことをよく覚えて、言伝をして、おいて呉れ給たまえ。此この唐沢は貧乏はしている。家も邸やしきも抵当に入っているが、金銭のために首の骨を曲げるような腰抜けではないぞ。日本中の金の力で、圧迫されても、横に振るべき首は、決して縦には動かさないぞと。いゝか。帰って、そう云うのだ! 五万や十万の債務は、期限通どおり何時いつでも払ってやるからと。」

父は、犬猫をでも叱咤しったするように、低く投げ捨てるような調子で云った。相手は何と、罵ののしられても、兎とに角かく厭いやな役目を満足に果し得たことを、もっけの幸と思っているらしく、一層丁寧に慇懃いんぎんだった。

「はあ! はあ! 畏かしこまりました。主人に、そう申し聞けますでござります。どうも、私の口からは、申し上げられませんが、成り上り者などと云う者は、金ばかりありましても、人格などと云うものは皆目かいもく持っていない者が、多うございまして、私の主人なども、使われている者の方が、愛想を尽かすような、卑いやしい事を時々、やりますので。いや、閣下のお腹立はらだちは、全く御尤ごもっともです。私からも、主人に反省を促すように、申します事でございます。それでは、これでお暇いとま致します。」

丁度烏賊いかが、敵を怖おそれて、逃げるときに厭な墨汁を吐き出すように、この男も出鱈目でたらめな、その場限りの、遁辞とんじを並べながら、怱卒そうそつとして帰って行った。

そうだ! 父は最初の悪魔の突撃を物の見事に一蹴いっしゅうしたのだった。この次ぎの期限までには、半年の余裕がある。その間には、父の親友たる本多男爵も帰って来る。そう思うと、瑠璃子はホッと一息ついて安心しなければならない筈だった。が、彼女の心は、一つの不安が去ると共に、又別な、もっと性質たちのよくない不安が、何時の間にか入れ換っていた。

「瑠璃さん! お前にも心配をかけて済まなかったのう。もう安心するがいゝ。これで何事もないのだ。」

父は、客が帰った後で、瑠璃子の肩に手をかけながら慰め顔にそう云った。

が、瑠璃子の心は、怏々おうおうとして楽しまなかった。

『お父様! あなたは、あの大金を何どうして才覚なさったのです。』

そう云う不安な、不快な、疑いが咽喉のどまで出かゝるのを、瑠璃子は、やっと抑え付けた。

ユージット

一

一家の危機は過ぎた。六月は暮れて、七月は来た。が、父の手文庫の中に奇蹟きせきのように見出みいだされた、三万円以上の、巨額な紙幣に対する、瑠璃子るりこの心の新しい不安は、日の経たつに連れても、容易には薄れて行かなかった。

七月も半なかばになった。庭先に敷き詰めた、白い砂利の上には、瑠璃子の好きな松葉牡丹ぼたんが、咲き始めた。真紅しんくや、白や、琥珀こはくのような黄や、いろ〱変った色の、少女おとめのような優しい花の姿が、荒れた庭園の夏を彩いろどる唯一ゆいいつの色彩だった。

荘田しょうだの、思い出す丈だけでも、憤いきどおろしい面影も、だん〱思い出す回数が、少くなった。鷲鼻わしばなの男の顔などは、もう何時いつの間にか、忘れてしまった。凡すべてが、一場の悪夢のように、その厭いやな苦い後感も何時しか消えて行くのではないかと思われた。

が、それは瑠璃子の空むなしい思違おもいちがいだった。悪魔は、その最後の毒矢を、もう既に放っていたのだった。

七月の末だった。父は、突然警視総監のT氏から、急用があると云いって、会見を申し込まれた。父は、T氏とは公開の席で、二三度顔を合せた丈で、私交のある間ではなかった。殊ことに、父は政府当局からは常に、白眼を以もって見られていたのだから。

「何の用事だろう?」

父は、一寸ちょっと不審ふしんそうに首を傾けた。警視総監と云ったような言葉丈でも、瑠璃子には妙に不安の種だった。

が、父は何か考え当る事があったのだろう、割合気軽に出かけて行った。が、掻かき乱された瑠璃子の胸は、父の車を見送った後も、暫しばらくは静まらなかった。

父は、一時間も経たぬ間に帰って来た。瑠璃子は、ホッと安心して、いそ〱と玄関に出迎えた。

が、父の顔を一目見たとき、彼女はハッと立竦たちすくんでしまった。容易ならぬ大事が、父の身辺に起ったことが、直すぐそれと分った。父の顔は、土のように暗く蒼あおざめていた。血の色が少しもないと云ってよかった。眼丈だけは、平素いつものように爛々らんらんと、光っていたが、その光り方は、狂人の眼のように、物凄ものすごく而しかも、ドロンとして力がなかった。

「お帰りなさいまし。」と、云う瑠璃子の言葉も、しわがれたように、咽喉のどにからんでしまった。瑠璃子が、父の顔を見上げると、父は子に顔を見られるのが、恥しそうに、コソ〱と二階へ上って行こうとした。

父の狼狽ろうばいしたような、血迷ったような姿を見ると、瑠璃子の胸は、暗い憂慮で一杯になってしまった。彼女は、父を慰めよう、訳を訊きこうと思いながら、オズ〱父の後から、随ついて行った。

が、父は自分の居間へ入ると、後から随いて行った瑠璃子を振り返りながら云った。

「瑠璃さん! どうか、お父様を、暫らく一人にして置いて呉くれ!」

父の言葉は、云い付けと云うよりも哀願あいがんだった。父としての力も、権威もなかった。

それにふと気が付くと、そう云った刹那せつな、父の二つの眼には、抑えかねた涙が、ほた〱と湧わき出しているのだった。

父が涙を流すのを見たのは、彼女が生れて十八になる今日まで、父が母の死床に、最後の言葉をかけた時、たった一度だった。

瑠璃子は、父にそう云われると、止やむなく自分の部屋に帰ったが、一人自分の部屋にいると、墨のような不安が、胸の中を一杯に塗ぬり潰つぶしてしまうのだった。

夕食の案内をすると、父は、『喰べたくない』と云ったまゝ、午後四時から、夜の十時頃まで、カタと云う物音一つさせなかった。

十時が来ると、寝室へ移るのが、例だった。瑠璃子は、十時が鳴ると父の部屋へ上って行った。そして、オズ〱扉ドアを開けながら云った。

「もう、十時でございます。お休み遊ばしませ。」黙然としていた父は、手を拱こまねいたまゝ、振向きもしないで答えた。

「俺わしは、もう少し起きているから、瑠璃さんは先きへお寝なさい!」

そう云われると、瑠璃子は、愈いよいよ不安になって来た。寝室へ退しりぞくことなどは愚か、父の部屋を遠く離れることさえが、心配で堪たまらなくなって来た。瑠璃子は、階段を中途まで降りかけたが、烈はげしい胸騒ぎがして、何どうしても足が、進まなかった。彼女は、足音を忍ばせながら、そっと、引き返した。彼女は、灯ひもない廊下の壁に、寄り添いながら立っていた。父が、寝室へ入るまでは、何うにも父の傍を離れられないように思った。

二

二十分経たち三十分経っても、父は寝室へ行くような様子を見せなかった。そればかりではなく、部屋の中からは、身動きをするような物音一つ聞えて来なかった。瑠璃子も、息を凝こらしながら、ずっとほの暗い廊下の暗やみに立っていた。一時間余りも、立ち尽したけれども、疲労も眠気も少しも感じなかった。それほど、彼女の神経は、異常に緊張しているのだった。じじと鳴く庭前にわさきの、虫の声さえ手に取るように聞えて来た。

十二時を打つ時計の音が、階下の闇やみから聞えて来ても、父は部屋から出て来る様子はなかった。

夜が、深くなって行くのと一緒に、瑠璃子の不安も、だん〱深くなって行った。十二時を打つのを聞くと、もうじっと、廊下で待っていられないほど、彼女の心は不安な動揺に苛さいなまれた。彼女は、無理にも父を寝させようと決心した。云いい争ってでも、父を寝室へ連れて行こうと決心した。彼女が、そう決心して、扉ドアの白い瀬戸物の取手に、手を触れたときだった。何時いつもは、訳もなくグルリと廻転する取手が、ガチリと音を立てたまゝ、彼女の手に逆さからうように、ビクリともしなかった。

『内部うちから鍵かぎをかけたのだ!』

そう思った瞬間に、瑠璃子は鉄槌てっついで叩たたかれたように、激しい衝動ショックを受けた。気味の悪い悪寒おかんが、全身を水のように流れた。

「お父様!」彼女は、我を忘れて叫んだ。その声は、悲鳴に近い声だった。が、瑠璃子が、そう声をかけた瞬間、今迄いままで静しずかであった父が、俄にわかに立ち上って、何かをしているらしい様子が、アリ〱と感ぜられた。

「お父様! お開けなすって下さい! お父様!」

瑠璃子が、続けざまに、呼びかけても、父は返事をしなかった。父が、何とも返事をしないことが彼女の心を、スッカリ動顛どうてんさせてしまった。恐ろしい不安が、彼女の胸に、充みち溢あふれた。彼女は、扉ドアを力一杯押した。その細い、華奢きゃしゃな両腕が、折れるばかりに打ち叩いた。

「お父様! お父様! お開けなすって下さい!」

彼女の声は、狂女のそれのように、物凄ものすごかった。魔物に、その可憐かれんな弟を奪われて、鉄の扉ドアの前で、狂乱するタンタジールの姉のように、命掛の声を振搾ふりしぼった。

「お父様! 何どうして茲ここをお閉めになるのです。茲をお閉めになって何う遊ばそうとなさるのです。お開け下さい! お開け下さい。」

が、父は何とも返事をしなかった。父が返事をしない事に依よって、瑠璃子は、目が眩くらむほど恐ろしい不安に打たれた。彼女は、ふと気が付いて、窓から入ろうと、電いなずまのように、ヴェランダへ走って出た。が、ヴェランダに面した窓には、丈夫な鎧戸よろいどが掩おおわれていた。彼女は、死物狂いになって、再び扉ドアの所へ帰って来た。そして、必死に、そのかよわい、しなやかな身体からだを、思い切り扉ドアに投げ付けて見た。が、扉ドアは無慈悲に、傲然ごうぜんと彼女の身体を突き返した。

彼女は、血を吐かんばかりに叫んだ。

「お父様! なぜ、開けて下さらないのです。何う遊ばそうと云うのです。此この瑠璃を捨てゝ置いて何う遊ばそうと云うのです。万一の事をなさいますと、瑠璃も生きていないつもりでございますよ。お父様! お恨みでございます。どんな事情がございましょうとも、私に一応話して下さいましても、およろしいじゃございませんか。お父様の外に、誰一人頼る者もない瑠璃ではございませんか。お開け下さいませ。兎とに角かく、お開け下さいませ。万一の事でもなさいますと、瑠璃はお父様をお恨みいたしますよ。」

狂ったように、扉ドアを掻かき、打ち、押し、叩いた後、彼女は扉ドアに、顔を当てたまゝよゝと泣き崩れた。

その悲壮な泣き声が、古い洋館の夜更よふけの闇を物凄く顫ふるわせるのだった。

三

よゝと泣き崩れた瑠璃子は、再び自分自身を凜々りりしく奮い起して、女々しく泣き崩れているべき時ではないと思った。彼女は、最後の力、その繊細な身体からだにある丈だけの力を、両方の腕にこめて、砕けよ裂けよとばかりに、堅い、鉄のように堅い扉ドアを乱打した後、身体全体を、烈はげしい音を立てゝ、それに向って、打ち付けた。その時に、何かの奇蹟きせきが起ったように、今迄いままではガタリとも動かなかった扉ドアが軽々と音もなく口を開いた。機はずみを喰った彼女の身体からだは、つゝと一間ばかりも流れて、危く倒れようとした。その時、父の老いてはいるけれども、尚なお力強い双腕もろうでが、彼女の身体を力強く支えたのである。

「お父様!」と、上ずッた言葉が、彼女の唇くちびるを洩もれると共に、彼女は暫しばらくは失神したように、父の懐ふところに顔を埋うずめたまゝ烈しい動悸どうきを整えようと、苦しさにあえいでいた。

気が付いて見ると、父の顔は涙で一杯だった。卓テーブルの上には、遺書かきおきらしく思われる書状が、数通重ねられている。

「瑠璃さん! あわれんでお呉くれ! お父さんは死に損ってしまったのだ! 死ぬことさえ出来ないような臆病者おくびょうものになってしまったのだ! お前の声を聞くと、俺わしの決心が訳もなく崩されてしまったのだ! お前に恨まれると思うと、お父様は死ぬことさえ出来ないのだ。」

父は、瑠璃子の昂奮こうふんが、漸ようやく静まりかけるのを見ると、呟つぶやくように語り始めた。

「まあ、何を仰おっしゃるのでございます、死ぬなどと。まあ何を仰しゃるのでございます。一体何どうしたと云って、そんな事を仰しゃるのでございます。」

「あゝ恥しい。それを訊きいて呉れるな! 俺わしはお前にも顔向けが出来ないのだ! 彼奴あいつの恐ろしい罠わなに、手もなくかゝったのだ。あんな卑いやしい人間のかけた罠に、狐きつねか狸たぬきかのように、手もなくかゝったのだ。恥しい! 自分で自分が厭いやになる!」

父は、座にも堪たえないように、身悶みもだえして口惜くやしがった。握っている拳こぶしがブル〱と顫ふるえた。

「彼奴あいつと仰しゃりますと、やっぱり荘田でございますか。荘田が、何をいたしましたのでございますか。」

瑠璃子も烈しい昂奮に、眼の色を変えながら、父に詰め寄って訊いた。

「今から考えると、見え透いた罠だったのだ。が、木下までが、俺わしを売ったかと思うと俺は此この胸が張り裂けるようになって来るのだ!」

父は、木下が眼前めのまえにでもいるように、前方を、きっと睨にらみながら、声はわな〱と顫えた。

「へえ! あの木下が、あの木下が。」と、瑠璃子も暫しばらくは茫然ぼうぜんとなった。

「金かねは、人の心を腐らすものだ。彼奴あいつまでが、十何年と云いう長い間、目をかけて使ってやった彼奴迄が、金のために俺を売ったのだ。金のために、十数年来の旧知を捨てゝ、敵の犬になったのだ。それを思うと、俺は坐すわっても立ってもおられないのだ!」

「木下が、何どうしたと云うのでございます。」

瑠璃子も、父の激昂げっこうに誘われて桜色に充血した美しい顔を、極度に緊張させながら、問い詰めた。

「此間、彼奴あいつが持って来た軸物じくものを、何だと思う、あれが、俺わしを陥おとしいれる罠だったのだ。あれは一体誰のものだと思う。友達のものだと云う、その友達は誰だったと思う。」

父は、眼を熱病患者のそれのように光らせながら、じっと瑠璃子を見下した。

「あれは誰のものでもない、あの荘田のものなのだ。荘田のものを、空々しく俺わしの所へ持って来たのだ。」

「何の為ためでございましたろう。何だってそんなことを致したのでございましょう。でも、お父様はあの晩、直すぐお返しになったではございませんか。」

瑠璃子が、そう云うと父の顔は、見る〱曇ってしまった。彼は、崩れるように後の腕椅子いすに身を落した。

「瑠璃さん! 許しておくれ! 罠をかける者も卑しい。が、それにかゝる者もやっぱり卑しかったのだ。」

父は、そう云うと肉親の娘の視線をも避けるように、面おもてを伏せた。

四

暫らくは、強い緊張の裡うちに、父も子も黙っていた。が、父はその緊張に堪たえられないように、面を俯うつむけたまゝ、呟つぶやくように云いった。

「瑠璃さん! お前にスッカリ云ってしまおう。俺わしはな、浅墓あさはかにも、相手の罠わなにかゝって飛んでもないことをしてしまったのだ。あの木下の奴やつ! 彼奴迄あいつまでが、荘田の犬になっていようとは夢にも悟らなかったのだ。お前に云うのも恥しいが、俺わしは木下が、あの軸物を預けて行ったとき、フラ〱と魔がさしたのだ。一月ひとつきでも二月ふたつきでも何時いつまででも預けて置くと云う、此方こっちが通知しない中うちは、取りに来ないと云う。俺は、そう聴いたときに、此この一軸で一時の窮境を逃れようと思ったのだ。素晴らしい逸品だ、殊ことに俺の手から持って行けば、三万や五万は、直すぐ融通ゆうずうが出来ると思ったのだ。果して融通は出来た。が、それは罠の中の餌えさに、俺が喰い付いたのと、丁度同じだったのだ。彼奴は、俺を散々餓かつえさした揚句、俺の旧知を買収して、俺に罠をかけたのだ。飢えていた俺は、不覚にも罠の中の肉に喰い付いたのだ。罠をかける奴の卑いやしさは、論外だが、かゝった俺の卑しさも笑って呉くれ。三十年の清節も、清貧もあったものではない!」

父は、のたうつように、椅子いすの中で、身を悶もだえた。之これを聞いている瑠璃子も、身体中からだじゅうが、猛火の中に入ったように、烈はげしい憤怒ふんぬのために燃え狂うのを感じた。

「それで、それで、何どうなったと云うのでございます。」

彼女は、身を顫ふるわしながら訊きいた。卓テーブルの上にかけている白い蝋ろうのような手も、烈しい顫えを帯びていた。

「あの軸物の本当の所有者は荘田なのだ。彼奴あいつは、俺わしに対して横領の告訴を出しているのだ。」

父は吐くように云った。蒼白あおじろい頬が烈しく痙攣けいれんした。

「そんな事が罪になるのでございますか。」

瑠璃子の眼も血走ってしまった。

「なるのだ! 逆に取って、逆に出るのだから、堪たまらないのだ。預っている他人の品物は、売っても質入してもいけないのだ。」

「でも、そんなことは、世間に幾何いくらもあるではございませんか。」

「そうだ! そんなことは幾何でもある、俺わしもそう思ってやったのだ。が、向うでは初はじめから謀はかってやった仕事だ。俺が少しでも、蹉つまずくのを待っていたのだ。蹉けば後から飛び付こうと待っていたのだ。」

瑠璃子の胸は、荘田に対する恐ろしい怒いかりで、火を発するばかりであった。

「人非人奴にんぴにんめ! 人非人奴! どれほどまで執念しゅうねく妾達わたしたちを、苦しめるのでございましょう。あゝ口惜くやしい! 口惜しい!」

彼女は、平生のたしなみも忘れたように、身を悶えて、口惜しがった。

「お前が、そう思うのは無理はない。お父様だって、昔であったら、そのまゝにはして置かないのだが。」

父の顔は益ますます凄愴せいそうな色を帯びていた。

「あゝ、男でしたら、男に生れていましたら。残念でございます。」

そう云いながら、瑠璃子は卓テーブルの上に、泣き伏した。

何処どこかで、一時を打つ音がした、騒がしい都の夏の夜も、静寂に更ふけ切って、遠くから響いて来る電車の音さえ、絶えてしまった。瑠璃子の泣き声が絶えると、深夜の静けさが、しん〱と迫って来た。

「それで、その告訴は何どうなるのでございますか。まさか取上げにはなりませんでしょうね。」

瑠璃子は泣き顔を擡もたげながら、心配そうに訊いた。

涙に洗われた顔は、一種の光沢を帯びて、凄艶せいえんな美しさに輝いているのであった。

五

「さあ! 其処そこなのだ! 今日警視総監が、個人として俺わしに会見を求めたのは、その問題なのだ。総監が云いうのには、この位なことで、貴方あなたを社会的に葬ほうむってしまうことは、何とも遺憾なことなので告訴を取り下げるように懇々こんこん云って見たが、頑として聴かない。そして唐沢氏本人がやって来て、手を突いて謝まるならば告訴を取り下げようと云うのだ。何どうも先方では貴方あなたに対して何か意趣を含んで居るらしい。貴方も快くはあるまいが、此この際先方に詫わびを入れて、内済ないさいにして貰もらったら何うかと云うのだ。貴方もあんな男に詫びるのは、不愉快だろうが、然しかし、貴方の社会的地位や名誉には換えられないから、此際思い切って謝罪して見たら何うかと云って呉くれるのだ。先方が告訴を取り下げさえすれば、検事局では微罪として不起訴にしようと云っていると云うのだ。」

父は低くうめくように云って来たが、茲ここまで来ると急に烈はげしい調子に変りながら、

「だが、瑠璃子考えておくれ。あんな男に、あんな卑いやしい人間に、謝罪はおろか、頭一つ下げることさえ、俺わしに取ってどんな恥辱であるか。俺わしは、それよりも寧むしろ死を選みたいのだ。然しかし謝罪しないとなると、何うしても起訴を免れないのだ。起訴されると、お前此罪は破廉恥罪はれんちざいなのだ! 爵位しゃくいも返上を命ぜられるばかりでなく、俺わしの社会的位置は、滅茶苦茶めちゃくちゃだ! あれ見い! 貴族院第一の硬骨と云われた唐沢が、あのザマだと、世間から嘲笑ちょうしょうされることを考えておくれ。死以上の恥辱だ。何の道を選んでも、死ぬより以上の恥辱なのだ。瑠璃子、俺わしが死のうと決心した心の裡うちを、お前は察して呉れるだろう。」

瑠璃子は、父の苦しい告白を、石像のように黙って聴いていた。火のように熱した身体中からだじゅうの血が今は却かえって、氷のように冷たくなっていた。

「俺わしが死ねば、彼奴あいつの迫害の手も緩むだろうし、それに依よって、汚名を流さずして済む。つまり、俺は悪魔の手に買い取られた俺の社会的名誉を、血を以もって買い戻そうと思ったのだ。お前のことを、思わないではない。父の外には頼る者もないお前のことを思わないではない。が、破廉恥の罪人になることを考えると、泥棒と同じ汚名を被こうむることを考えると、何も考えておられなくなったのだ。」

父は、そう云いながら、心の裡の苦しさに堪たえられないように、頻しきりに身を悶もだえた。

「が、扉ドアの外でお前が突然叫び出した声を聞くと、刀を持っていた俺わしの手が、しびれてしまったように、何どうしても俺の思い通どおりに、動かないのだ。未練だ! 未練だ! と、心で叱しかっても、手が何うしても云うことを聴かないのだ。俺は、今初めてお前に対する父としての愛が、名誉心や政治上の野心などよりも、もっと大きいことが分ったのだ。俺は、社会上の位置を失っても、お前の為ために生き延びようと思ったのだ。破廉恥罪の名を被きても、お前の父として、生き延びようと思ったのだ。名誉や位置などは、なくなっても、お前さえあれば、まだ生き甲斐がいがあると云うことが、分ったのだ。いや名誉や野心のために、生きるのよりも、自分の子供のために、生きる方が人間として、どれほど立派であるかと云うことが、今やっと分ったのだ。俺わしは、今光一を追出したことを後悔する。親の野心のために、子を犠牲にしようとしたことを後悔する。瑠璃子! お前のために、どんな汚名を忍んでも生き延びるのだ。お前も、罪人のお父様を見捨てないで、いつまでも俺の傍を離れて呉れるな。」

父の顔は今、子に対する愛に燃えて、美しく輝いていた。彼は、子に対する愛に依って、その苦しみの裡から、その罪の裡から、立派に救われようとしているのだった。

六

そうだ! 子の心は、凄すさまじい憤怒ふんぬと復讐ふくしゅうの一念とに、湧わき立った。父が、子に対する愛のために、敵の与えた恥辱を忍ぼうとするのに拘かかわらず、子の心は敵に対する反抗と憎悪ぞうおとのために、狂ってしまった。

「お父様、それでいゝのでございましょうか。お父様! 金さえあれば悪人がお父様のような方を苦しめてもいゝのでございましょうか。而しかも、国の法律までが、そんな悪人の味方をするなどと云う、そんなことが、許されることでございましょうか。」

瑠璃子は、平生のおとなしい、慎つつましやかな彼女とは、全く別人であるように、熱狂していた。父は子の激昂げっこうを宥なだめるように、「だが瑠璃子! 悪人がどんな卑いやしい手段を講じてもお父様さえ、しっかりしていればよかったのだ。国の法律に触れたのはやっぱり俺わしの不心得だったのだ。」

「いゝえ! 妾わたくしは、そうは思いません。」瑠璃子は、昂然こうぜんとして父の言葉を遮ぎった。「荘田のやりましたような奸計かんけいを廻めぐらしたならば、どんな人間をだって、罪に陥おとすことは容易だと思います。お父様が信任していらっしゃる木下をまで、買収してお父様を罠わなに陥し入れるなど、悪魔さえ恥じるような卑怯ひきょうな事を致すのでございますもの。もし、国に本当の法律がございましたら、荘田こそ厳罰に処せらるべきものだと思います。荘田のような悪人の道具になるような法律を、妾わたくしは心から呪のろいたいと思います。」

眦まなじりが、裂けると云いったらいゝのだろう。美しい顔に、凄じい殺気が迸ほとばしった。父も、子の烈はげしい気性に、気圧けおされたように、黙々として聴いていた。

「お父様、あんな男に起訴されて、泣寝入りになさるような、腑甲斐ふがいないことをして下さいますな。飽くまでも戦たたかって、相手の悪意を懲こらしめてやって下さいませ。あゝ妾わたくしが男でございましたら、……本当に男でございましたら……」

瑠璃子は、熱に浮かされたように、昂奮こうふんして叫び続けた。

「が、瑠璃子! 法律と云うものは人間の行為の形丈だけを、律するものなのだ。荘田が、悪魔のような卑しい悪事を働いても、その形が法律に触れていなければ、大手を振って歩けるのだ。俺わしは切羽詰って一寸逃れに、知人の品物を質入れした。世間に有り触れたことで、事情止やむを得なかったのだ。が、俺の行為の形は、ちゃんと法律に触れているのだ。法律が罰するものは、荘田の恐ろしい心ではなくして、俺の一寸した心得違ちがいの行為なのだ。行為の形なのだ!」

「若もし、法律がそんなに、本当の正義に依よって、動かないものでしたら、妾わたくしは法律に依ろうとは思いません。妾の力で荘田を罰してやります。妾の力で、荘田に思い知らせてやります。」

気が狂ったのではないかと思うほど、瑠璃子の言葉は烈しくなった。父は呆気あっけに取られたように、子の口もとを見詰めていた。

「金の力が、万能でないと云うことをあの男に知らせてやらねばなりません。金の力で動かないものが、世の中に在ることを知らせてやらねばなりません。このまゝで、お父様が、有罪になるような事がございましたら、荘田は何と思うか分りません。世の中には、法律の力以上に、本当の正義があることを、あの男に思い知らせてやらねばなりません。金の力などは、本当の正義の前には土塊つちくれにも等しいことを、あの男に思い知らせてやりたいと思います。」

そう云いながら、瑠璃子は父の顔をじっと見詰めていたが、思い切ったように云った。

「お父様! お願いでございます。瑠璃子を、無い者と諦あきらめて、今後何を致しましょうと、妾わたくしの勝手に委まかせて下さいませんか。」

瑠璃子の顔に、鉄のように堅い決心が閃ひらめいた。父は、瑠璃子の真意を測りかねて、茫然ぼうぜんと愛児の顔を見詰めていた。

「お父様? 妾わたくしは、ユージットになろうと思うのでございます。」

七

「ユージット?」老いた父には、娘の云いった言葉の意味が分らなかった。

「左様でございます。妾わたくしはユージットになろうと思うのでございます。ユージットと申しますのは猶太ユダヤの美しい娘の名でございます。」

「その娘になろうと云うのは、どう云う意味なのだ?」父は、激しい興奮から覚めて、やゝ落着いた口調になっていた。

「ユージットになろうと申しますのは、妾わたくしの方から進んで、あの荘田勝平の妻になろうと云うことでございます。」

瑠璃子の言葉は、樫かしの如ごとく堅く氷の如く冷やかであった。

「えーッ。」と叫んだまゝ、父は雷火に打たれた如く茫然ぼうぜんとなってしまった。

「お父様! お願いでございます。どうか、妾わたくしをないものと諦あきらめて、妾の思うまゝに、させて下さいませ!」

瑠璃子は、何時いつの間にか再び熱狂し始めた。

「馬鹿ばかなッ!」父は、烈はげしい、然しかし慈愛の籠こもった言葉で叱責しっせきした。

「馬鹿なことを考えてはいけない! 親の難儀を救うために子が犠牲になる。親の難儀を救うために娘が、身売をする。そんな道徳は、古い昔の、封建時代の道徳ではないか。お前が、そんな馬鹿なことを考える。聡明そうめいなお前が、そんな馬鹿なことを考える。お父様とうさんを救おうとして、お前があんな豚のような男に身を委まかす。考える丈だけでも汚けがらわしいことだ! お前を犠牲にして、自分の難儀を助かろうなどと、そんなさもしいことを考える父だと思うのか。俺わしは、自分の名誉や位置を守るために、お前の指一本髪一筋も、犠牲にしようとは思わない。そんな馬鹿々々しいことを考えるとは、平生いつものお前にも似合わないじゃないか。」

父は、思いの外に、激昂げっこうして、瑠璃子をたしなめるように云った。が、瑠璃子は、ビクともしなかった。

「お父様! お考え違いをなさっては、困ります。お父様の身代りになろうなどと、そんな消極的な動機から、申上げているのではありません。妾わたくしは、法律の網を潜くぐるばかりでなく、法律を道具に使って、善人を陥おとしいれようとする悪魔を、法律に代って、罰してやろうと思うのです。一家が受けた迫害に、復讐ふくしゅうするばかりでなく、社会のために、人間全体のために、法律が罰し得ない悪魔を罰してやろうと思うのです。お父様の身代りになろうと云うような、そんな小さい考えばかりではありません。」

瑠璃子は、昂然こうぜんと現代の烈女と云ってもいゝように、美しく勇ましかった。

「お前の動機は、それでもいゝ。だが、あの男と結婚することが、何どうしてあの男を罰することになるのだ。何うして、一家が受けた迫害を、復讐することになるのだ。」

「結婚は手段です。あの男に対する刑罰と復讐とが、それに続くのです。」瑠璃子は凜然りんぜんと火花を発するように云った。

「お父様、昔猶太ユダヤのベトウリヤと云う都市が、ホロフェルネスと云う恐ろしい敵の猛将に、囲まれた時がありました。ホロフェルネスは、獅子ししを搏てうちにするような猛将でした。ベトウリヤの運命は迫りました。破壊と虐殺ぎゃくさつとが、目前に在りました。その時に、美しい少女が、ベトウリヤ第一の美しい少女が、侍女をたった一人連れた切りで、羅衣うすものを纏まとった美しい姿を、虎とらのようなホロフェルネスの陣営に運んだのです。そしてこの少女の、容色に魅せられた敵将を、閨中けいちゅうでたった一突きに刺し殺したのです。美しい少女は、自分の貞操を犠牲にして、幾万の同胞の命と貞操とを救ったのです。その少女の名こそ、今申し上げたユージットなのでございます。」

八

瑠璃子の心は、勇ましいロマンチックな火炎で包まれていた。牝め獅子の乳で育ったと云いう野蛮人の猛将を、細い腕かいなで刺し殺した猶太ユダヤの少女おとめの美しい姿が、勇ましい面影が、蝕画エッチングのように、彼女の心にこびりついて離れなかった。少女に仮装して、敵将を倒した日本武尊やまとたけるのみことよりも、本当の女性である丈だけに、それ丈だけ勇ましい。命よりも大切な、貞操を犠牲にしている丈だけに、限りなく悲壮であった。

「妾わたくしはユージットのように、戦って見たいと思うのです。」

二千有余年も昔の、猶太ユダヤの少女おとめの魂が、大正の日本に、甦よみがえって来たように、瑠璃子は炎の如ごとく熱狂した。

が、父は冷静だった。彼は、熱狂し過ぎている娘を、宥なだめるように、言葉静かに説き諭さとした。

「瑠璃子! お前のように、そう熱しては困る。女の一番大事な貞操を、犠牲にするなどと、そんな軽率なことを考えては困る。数万の人の命に代るような、大事な場合は、大切な操みさおを犠牲にすることも、立派な正しいことに違いない。が、あんな獣けだもののような卑いやしい男を、懲こらすために、お前の一身を犠牲にしては、黄金を土塊つちくれと交換するほど、馬鹿ばか々々しいことじゃないか。」

「だが、お父様!」と、瑠璃子は直すぐ抗弁した。

「相手は、お父様の仰おっしゃる通り、取るに足りない男には違いありません。が、現在の社会組織では人格がどんなに下劣でも、金さえあれば、帝王のように強いのです。お父様は、相手を『獣のように卑しい男』とお蔑さげすみになっても、その卑しい男が、金の力で、お父様のような方に、こんな迫害を加え得るのですもの。妾わたくしが、戦わなければならぬ相手は荘田勝平と云う個人ではありません。荘田勝平と云う人間の姿で、現れた現代の社会組織の悪です。金の力で、どんなことでも出来るような不正な不当な社会全体です。金さえあれば、何なんでも出来ると云ったような、その思想です。観念です。妾わたくしは、それを破って見たいと思うのです。」

瑠璃子は、処女らしい羞恥心しゅうちしんを、興奮のために、全く振り捨てゝしまったように、叫びつゞけた。

父は、子の烈はげしい勢を、持ち扱ったように、黙って聞いていた。

「それに、お父様! ユージットは、操を犠牲にしましたが、それは相手が、勇猛無比なホロフェルネス、操を捨てゝかからなければ、油断をしなかったからです。妾わたくしは、妻と云う名前ばかりで、相手を懲し得る自信があります。何どうか妾を無いものと、お諦あきらめになって、三月か半年かの間、荘田の許もとへやって下さいまし。匕首あいくちで相手を刺し殺す代りに、精神的にあの男を滅ぼして御覧に入れますから。」

其処そこには、もう優しい処女おとめの姿はなかった。相手の卑怯ひきょうな執念深い迫害のために、到頭最後の堪忍かんにんを、し尽して、反抗の刃やいばを取って立ち上がった彼女の姿は、復讐ふくしゅうの女神その物の姿のように美しく凄愴せいそうだった。

「瑠璃さん! あなたは、今夜は何どうかしている。お父様とうさんも、ゆっくり考えよう。あなたも、ゆっくりお考えなさい。あなたの考えは、余り突飛だ。そんな馬鹿なことが今時……」

「でも、お父様!」瑠璃子は少しも屈しなかった。「妾わたくしは、毒に報むくいるのには毒を以もってしたいと思います。陰謀に報いるには、陰謀を以てしたいと思います。相手が悪魔でも恥じるような陰謀を逞たくましくするのですもの。此方こっちだって、突飛な非常手段で、懲しめてやる必要があると思います。現代の社会では万能な金の力に対抗するのには、非常手段に出るより外はありません。妾は、自分の力を信じているのでございます。あんな男一人滅ほろぼすのには余る位の力を、持っているように思います。お父様! どうか妾を信じて下さいまし。瑠璃子は、一時の興奮に駆られて無謀なことを致すのではありません。ちゃんと成算があるのでございます。」

瑠璃子の興奮は何処どこまでも、続くのだった。父は黙々として、何も答えなくなった。父と娘との必死な問答の裡うちに、幾時間も経たったのであろう、明け易やすい夏の夜は、ほのぼのと白みかけていた。

美奈子みなこ

一

「はゝゝゝ、唐沢の奴やつ、面喰めんくらっているだろう。はゝゝゝ。」

荘田しょうだは、籐製とうせいの腕椅子いすの裡うちで、身体からだをのけ反ぞるようにしながら、哄笑こうしょうした。

「どうも、貴方あなたも人間が悪くていけない。あんないゝ方を苛いじめるなんて、何どうも甚だ宜よろしくない。貴方が、持って行けと云いったから、つい持って行ったものゝ、どうも寝覚ねざめが悪くっていけない。私は随分唐沢さんにお世話になったのですからね。」

木下は、遉さすがに烈はげしい良心の苛責かしゃくに堪たえられないように、苦しげに云った。

「あゝいゝよ。分っているよ。君の苦衷くちゅうも察しているよ。俺わしだって、何も唐沢が憎くって、やるのじゃないんだ。つい、意地でね。妙な意地でね。一寸ちょっとした意地でやり始めたのだが、やり始めると俺の性質でね、徹底的にやり徹とおさないと気が済まないのだ。親を苛める気は、少しもないのだ。あの美しい娘に対する色恋からでもないんだ。はゝゝゝゝ、誤解して呉くれちゃ困るよ。はゝゝゝゝゝ。」

荘田は、その赤い大きい顔の相好そうごうを崩しながら、思惑が成功した投機師のように、得意な哄笑を笑い続けた。

「どうだ! 俺わしが云った通とおりだろう。君は、高潔な人格の唐沢さんは、決してそんな事はしないとか何とか云って、反対したじゃないか。何うだ! 人間は、金に窮すればどんなことでもするだろう。金に依よって、保護されていない人格などは、要するに当あてにならないのだ。清廉潔白せいれんけっぱくなど云うことも、本当に経済上の保証があって出来ることだよ。貧乏人の清廉潔白なんか、当になるものか、はゝゝゝゝゝ。」

(此この世をばわが世とぞ思う望月もちづきの欠けたることの)無いように、勝平は得意だった。

「だが、私は気になります。私は唐沢さんが自殺しやしないかと思っているのです。何うもやりそうですよ。屹度きっとやりますよ。」木下は、心からそう信じているように、眉まゆをひそめながら云った。

「うむ! 自殺かね。」遉さすがに荘田も、一寸誘われて眉をひそめたが、直すぐ傲岸ごうがんな笑いで打ち消した。

「はゝゝゝゝ、大丈夫だよ。人間はそう易々やすやすとは、死なないよ。いや待っていたまえ。今に、泣きを入れに来るよ。なに、先方が泣きを入れさえすれば、そうは苛いじめないよ。もと〱、一寸した意地からやっていることだからね。」

「それでも、もしお嬢さんをよこすと云ったら御結婚になりますかね。」

「いや、それだがね。俺わしも考えたのだよ。いくら何だと言っても、二十五六も違うのだろう。世間が五月蠅うるさいからね。只ただでさえ『成金! 成金!』と、いやな眼まなこで見られているんだろう。それだのに、そんな不釣合な結婚でもすると、非難攻撃が、大変だからね。それで、俺わしが花婿はなむこになることは思い止とどまったよ。倅せがれの嫁にするのだ。倅の嫁にね。あれとなら、年丈だけは似合っているからね。その事は先方へも云って置いたよ。」

「御子息の嫁に!」

そう云ったまゝ、木下は二の句が継げなかった。荘田の息、勝彦かつひこと云うその息は、二十はたちを二つ三つも越していながら、子供のようにたわいもない白痴だった。白痴に近い男だった。そうだ! 年丈だけは似合っている。が、瑠璃子の夫としては、何と云う不倫ふりんな、不似合な配偶だろう。金のために旧知を売った木下にさえ、荘田の思い上った暴虐ぼうぎゃくが、不快に面憎つらにくく感ぜられた。

「なに、俺わしがあのお嬢さんと結婚する必要は、少しもないのだ。金の力で、あのお嬢さんを、左右してやればそれでいゝのだよ。金の力が、どんなに大きいかを、あのお嬢さんと、あゝそう〱、もう一人の人間とに、思い知らしてやればいいのだよ。」

荘田は、何物も恐れないように、傲然ごうぜんと云い放った。

丁度、その時だった。荘田の背後うしろの扉ドアが、ドン〱と、激しく打ち叩たたかれた。

「電報! 電報!」と、誰かゞ大声で叫んだ。

二

「電報! 電報!」

扉ドアは、続け様に割れるように叩たたかれた。今迄いままで、傲然ごうぜんと反り返っていた荘田は、急に悄気しょげ切ってしまった。彼はテレ隠しに、苦笑しながら、

「おい! 勝彦! おい! よさないか、お客様がいるのだぞ。おい! 勝彦!」

客を憚はばかって、高い声も立てず、低い声で制しようとしたが、相手は聴かなかった。

「電報! 電報!」強い力で、扉は再び続けざまに、乱打された。

「まあ! お兄様! 何を遊ばすのです。さあ! 彼方あっちへ行らっしゃい。」優しく制している女の声が聞えた。

「電報だい! 電報だい! 本当に電報だよ。美奈みなさん。」男は抗議するように云った。

「あら! 電報じゃありません、お客様の御名刺じゃありませんか、それなら早くお取次ぎ遊ばすのですよ。」

そうした問答が、聞えたかと思うと、扉ドアが音もなく開いて、十六――恐らく七にはなるまい少女が姿を現した。色の浅黒い、眸ひとみのいきいきとした可愛かわいい少女だった。彼女は、兄の恥を自分の身に背負ったように、顔を真赤にしていた。

「お父様! お客様でございます。」

客に、丁寧に会釈えしゃくをしてから、父に向って名刺を差し出しながら、しとやかそうに云いった。傲岸ごうがんな父の娘として、白痴の兄の妹として、彼女は狼おおかみに伍ごした羊のように、美しく、しとやかだった。

「木下さん。これが娘です。」

そう云った荘田の顔には、娘自慢の得意な微笑が、アリ〱と見えた。が、彼の眼が、開かれた扉ドアの所に立って、キョトンと室内を覗のぞいている長男の方へ転ずると、急にまた悄気てしまった。

「あゝ美奈さん。兄さんを早はよう向うへ連れて行ってね。それから、杉野さんをお通しするように。」

娘に、優しく云い付けると、客の方へ向きながら、

「御覧の通りの馬鹿ばかですからね。唐沢のお嬢さんのような立派な聡明そうめいな方に、来ていたゞいて、引き廻していたゞくのですね。はゝゝゝゝ。」

馬鹿な長男が去ると、荘田は又以前のような得意な傲岸な態度に還かえって行った。

其処そこへ、小間使に案内されて、入って来たのは、杉野子爵ししゃくだった。

「やあ! 荘田さん! 懸賞金はやっぱり私のものですよ。到頭、先方で白旗しらはたを上げましたよ、はゝゝゝ。」

「白旗をね、なるほど。はゝゝゝゝ。」荘田は、凱旋がいせんの将軍のように哄笑こうしょうした。

「案外脆もろかったですね。」木下は傍から、合槌あいづちを打った。

「それがね。令嬢が、案外脆かったのですよ。お父様が、監獄へ行くかも知れないと聞いて、狼狽ろうばいしたらしいのです。父一人子一人の娘としては、無理はないとも思うのです。私の所へ、今朝そっと手紙を寄越したのです。父に対する告訴を取り下げた上に、唐沢家に対する債権を放棄して呉くれるのなら荘田家へ輿入こしいれしてもいゝと云うのです。」

「なるほど、うむ、なるほど。」

荘田は、血の臭においを嗅かいだ食人鬼のように、満足そうな微笑を浮べながら、肯うなずいた。

「ところが、令嬢に註文があるのです。荘田君! お欣よろこびなさい! 私に対する懸賞金は倍増ばいましにする必要がありますよ、令嬢の註文がこうなのです。同じ荘田家へ嫁ぐのなら、息子さんよりも、やっぱりお父様のお嫁になりたい。男性的な実業家の夫人として、社交界に立って見たいとこう云ってあるのです。手紙をお眼にかけてもいゝですが。」

そう云いながら、子爵はポケットから、瑠璃子るりこの手紙を取り出した。丁度敵かたきから来た投降状でも出すように。

三

凱旋がいせんの将軍が、敵の大将の首実検をでもするように、荘田は瑠璃子が杉野子爵ししゃく宛あてに寄越した手紙を取り上げた。得意な、満ち足りたと云いったような、賤いやしい微笑が、その赤い顔一面に拡ひろがった。

「うむ! 成る程! 成る程!」

舌鼓したつづみをでも打つように、一句々々を貪むさぼるように読み了おわると、彼は腹を抱えんばかりに哄笑こうしょうした。

「はゝゝゝゝ。強いようでも、やっぱり女子は弱いものじゃ。はゝゝゝゝ。なにも、あのお嬢さんを嫁にしようなどとは、夢にも考えていなかったが、こうなると一番若返るかな、はゝゝゝゝ、じゃ、杉野さん、どうかよろしくね。あの証文全部は、お嬢様に、結婚マリエジの進物プレゼントとして差しあげる。そうだ! 差し上げる期日は、結婚式の当日と云うことにしよう。それから、支度金は軽少だが、二万円差し上げよう。そう〱、貴君あなた方に対するお礼もあったけ。」

王女のように、美しく気高い処女を、到頭征服し得たと云う欣よろこびに、荘田は有頂天になっていた。彼は、呼鈴ベルを鳴らして女中を呼ぶと、

「お嬢さんに、そう云うのだ、俺わしの手提てさげ金庫に小切手帳が入っているから持って来るように。」と命じた。

良心を悪魔に、売り渡した木下と杉野子爵とは、自分達の良心の代価が、幾何いくらになるだろうかと銘々心の裡うちで、荘田の持つ筆の先に現れる数字を、貪慾どんよくに空想しながら、美奈子が小切手帳を持って、入って来るのを待っていた。

「十八の娘にしては、なか〱達筆だ! 文章も立派なものだ!」

荘田は、尚なお飽かず瑠璃子の手紙に、魂を擾みだされていた。

が、丁度その同じ瞬間に、瑠璃子の手紙に依よって、魂を擾されていたのは荘田勝平丈だけだけ「荘田勝平丈だけだけ」はママではなかった。

瑠璃子は、杉野子爵に宛てゝ、一通の手紙を書くのと同時に、その息子の杉野直也なおやに対しても、一通の手紙を送った。杉野子爵に対する手紙は、冷たい微笑と堅い鉄のような心とで書いた。直也に送った手紙は、熱い涙と堅い鉄のような心とで書いた。

荘田勝平が、一方の手紙を読んで、有頂天うちょうてんになったと同じに、直也は他の一方の手紙を読んで、奈落ならくに突落されたように思った。

父を恐ろしい恥辱より救い、唐沢一家を滅亡より救う道は、これより外にはないのでございます。……

法律の力を悪用して、善人を苦しめる悪魔を懲こらしめる手段は、これより外にはないのでございます。妾わたくしの行動を奇嬌ききょうだとお笑い下さいますな。芝居気があるとお笑い下さいますな。現代に於おいては、万能力を持っている金に対抗する道は、これより外にはないのでございます。……名ばかりの妻、そうです、妾はありとあらゆる手段と謀計とで以もって、妾の貞操をあの悪魔のために汚けがされないように努力する積つもりです。北海道の牧場では、よく牡牛おうしと羆ひぐまとが格闘するそうです。妾と荘田との戦いもそれと同じです。牡牛が、羆の前足で、搏うたれない裡に、その鉄のような角を、敵の脾腹ひばらへ突き通せば牡牛の勝利です、妾も、自分の操みさおを汚されない裡に、立派にあの男を倒してやりたいと思います。

妾の結婚は、愛の結婚でなくして、憎しみの結婚です。それに続く結婚生活は、絶えざる不断の格闘です。……

が、どうか妾わたくしを信じて下さい。妾には自信があります。半年と経たたない裡に精神的にあの男を殺してやる自信があります。

直也様よ、妾わたくしのためにどうか、勝利をお祈り下さい。

手紙は尚続いた。

四

妾わたくしは、勝利を確信しています。が、それは実質の勝利で、形から云いえば、妾は金のために荘田に購あがなわれる女奴隷おんなどれいと、等しいものかも知れません。妾が、自分の操みさおを清浄しょうじょうに保ちながら、荘田を倒し得ても、社会的には妾は、荘田の妻です。何人なんぴとが妾の心も身体からだも処女であることを信じて呉くれるでしょう。妾は貴君あなた丈には、それを信じて戴きたいと思います。が、妾にはそれを強いる権利はありません。

男性化マンリファンと言う言葉があります。妾わたくしの現在はそれです。妾は女性としての恋を捨て、優しさを捨て慎つつましやかさを捨てゝ、たゞ復讐ふくしゅうと膺懲ようちょうのために、狂奔する化物のような人間になろうとしているのです。顧みると、自分ながら、浅ましく思わずには、いられません。が、悪魔を倒すのには、悪魔のような心と謀計とが必要です。

貴君を愛し、また貴君から愛されていた無垢むくな少女は、残酷な運命の悪戯いたずらから、凡すべての女性らしさを、自分から捨ててしまうのです。凡ての女性らしさを、復讐の神に捧ささげてしまうのです。愛も恋も、慎しやかさも淑しとやかさも、その黒髪も白き肌はだえも。

次ぎのことを申上げるのは、一番厭いやでございますが、荘田からの最初の申込みを取り継がれた方は、貴君あなたのお父様です。従って、求婚に対する妾わたくしの承諾も、順序として、貴君のお父様に、取次いでいたゞかねばなりません。妾は、貴君に対する、この不快な恐ろしい手紙を書いた後に、貴君のお父様宛あてに、もう一つの、もっと不快な恐ろしい手紙を書かねばなりません。

それを思うと、妾わたくしの心が暗くなります。が、妾はあくまで強くなるのです。あゝ、悪魔よ! もっと妾の心を荒すさませてお呉れ! 妾の心から、最後の優しさと恥しさを奪っておくれ!

一句一句鋭い匕首あいくちの切先で、抉えぐられるように、読み了おわった直也は最後の一章に来ると、鉄槌てっついで横ざまに殴り付けられたような、恐ろしい打撃を受けた。

最初は、縦令たといどんな理由があるにしろ、自分を捨てゝ、荘田に嫁ごうとする瑠璃子が恨めしかった。心を喰い裂くような烈はげしい嫉妬しっとを感じた。が、だん〱読んで行く裡うちに、唐沢家に対する荘田の迫害の原因が、荘田に対する自分の罵倒ばとうであったことが、マザ〱と分って来た。瑠璃子を唐沢家から奪おうとするのは、つまり自分の手から奪おうとするのだ。荘田が、自分に対する皮肉な恐ろしい復讐なのだ。意趣返しなのだ。瑠璃子は、復讐と膺懲の手段として、結婚すると云う。が、それを自分が漫然と見ていられるだろうか。かよわい女性が、貞操の危険を冒おかしてまで、戦っている時に、第一の責任者たる自分が、茫然ぼうぜんと見ていられるだろうか。が、そんなことは兎とに角かく直也には、自分の恋人が縦令たとい操は許さないにしても、荘田と――豚のように不快な荘田と、形式的にでも夫と呼び妻と呼ぶことが、堪たまらなかった。瑠璃子は、飽くまでも、操を汚けがさないと云うが、そんなことは、聡明そうめいではあるにしろ、まだ年の若い彼女の夢想的ロマンチックな空想で、縦令たとい彼女の決心が、どんなに堅かろうとも、一旦いったん結婚した以上、獣のように強い荘田の為ために、ムザ〱と蹂ふみ躙にじられてしまいはせぬか。どんなに強い精神でも、鉄のように強い腕には、敵せない時がある。瑠璃子の心が火のように烈しく、石のように堅くても、羅衣うすものにも堪えないような、その優しい肉体は、荘田の強い把握はあくのために、押し潰つぶされてしまいはせぬか。そう考えると、直也の心は、恐ろしい苦悶くもんと焦燥しょうそうのために、烈しく動乱した。が、それよりも、自分の父が自分の恋人を奪う悪魔の手下であることを知ると、彼は憤怒ふんぬと恥辱とのために、逆上した。

彼は瑠璃子の手紙を握りながら、父の部屋へかけ込んだ。父の姿は見えないで、女中が座敷を掃除していた。

「お父様は何どうした。」

彼は女中を叱咤しったするように云った。

「今しがた、荘田様へ行らっしゃいました。」

瑠璃子の承諾の手紙を読むと、鬼の首でも取ったように、荘田の所へ馳かけ付けたのだと思うと、直也の心は、恐ろしい憤怒のために燃え上った。

五

美奈子が、小切手帳を持って来ると、荘田は、傍かたわらの小さい卓デスクの上にあった金蒔絵まきえの硯箱すずりばこを取寄せて不器用な手付で墨を磨すりながら、左の手で小切手帳を繰拡ひろげた。

「はゝゝゝゝ、貴方あなたにも、お礼をうんと張り込むかな。」彼は、そう得々と哄笑こうしょうしながら、最初の一葉に、金二万円也なりと、小学校の四五年生位の悪筆で、その癖溌剌はつらつと筆太に書いた。それは無論、支度料として、唐沢家へ送るものらしかった。

その次ぎの一葉を、木下も杉野も、爛々らんらんと眼を、梟ふくろうのように光らせて、見詰めていた。荘田は、無造作に壱万円也と書き入れると、その次ぎの一葉にも、同じ丈の金額を書き入れた。

「何どうです。これで不足はないじゃろう。はゝゝゝゝ。」と、荘田は肩を揺ゆるがせながら笑った。

食事を与えられた犬のように、何の躊躇ちゅうちょもなく、二人がその紙片に手を出そうとしている時だった。荘田の背後うしろの扉ドアが、軽く叩たたかれて、小間使が入って来て、

「旦那様だんなさま! あの杉野さんと云いう方が、御面会です。」と、云った。

「杉野!」と、荘田は首を傾かしげながら云った。「杉野さんなら茲ここにいらっしゃるじゃないか。」

「いゝえ! お若い方でございます。」

「若い方? いくつ位?」と、荘田は訊きき返した。

「二十三四の方で、学生の服を着た方です。」

「うゝむ。」と、荘田は一寸ちょっと考え込んだが、ふと杉野子爵ししゃくの方を振向きながら、

「杉野さん! 貴君の御子息じゃないかね。」と、云った。

「私の倅せがれ、私の倅がお宅へ伺うことはない。尤もっとも、私にでも用があるのかな。そうじゃありませんか。私に会いたいと云うのじゃありませんか。」

子爵は小間使の方を振り向きながら云った。小間使は首を振った。

「いゝえ! 御主人にお目にかゝりたいと仰おっしゃるのです。」

「あゝ分った! 杉野さん! 貴君あなたの御子息なら、僕の所へ来る理由が、大おおいにあるのです。殊ことに今の場合、唐沢のお嬢さんが、私に屈伏しようと云う今の場合、是非とも来なければならない方です。そうだ! 私も会いたかった。そうだ! 私も会いたかった! おい、お通しするのだ。主人もお待ちしていましたと云ってね。貴君方は、別室で待っていたゞくかね。いや、立会人があった方が、結局いゝかな。そうだ! 早くお通しするのだ!」

興奮した熊くまのように、荘田は卓テーブルに沿うて、二三歩ずつ左右に歩きながら、叫んだ。

杉野子爵には、荘田の云った意味が、十分に判わからなかった。何の用事があって、自分の息子が、荘田を尋ねて来るのか見当も立たなかった。が、それは兎とも角かく、自分が荘田から、邪やましい金を受け取ろうとする現場へ、肉親の子――しかも、その潔白な性格に対しては、親が三目も四目も置いている子が――突然現れて来ることは、いかにも愧はずかしいキマリの悪い事に違いなかった。彼は顔には現さなかったが、心の裡うちでは、可なり狼狽ろうばいした。荘田が、早く気を利きかして、小切手帳をしまって呉くれればいゝ、呉れるものは、早く呉れて、早く蔵しまって呉れゝばいゝと、虫のいゝことを、考えていたけれど、荘田は妙に興奮してしまって、小切手帳のことなどは、念頭にもないようだった。マザ〱と見えている壱万円也と云う金額が、杉野や木下等の罪悪を、歴々ありありと語っているように、子爵には心苦しかった。

「一体、私の倅は何だって、貴方をお尋ねするのです。前から御存じなのですか。何の用事があるのでしょう。」杉野子爵は、堪たまらなくなって訊いた。

「いや、今に直すぐ判わかります。やっぱり、今度の私の結婚に就てです。が、媒介ばいかいの手数料コンミッションを貰もらいに来るのでないことは、確たしかですよ。はゝゝゝゝ。」

と、荘田は腹を抱えるように哄笑こうしょうした。その哄笑が終らない中うちに、彼の背後うしろの扉ドアが、静かに開かれて、その男性的な顔を、蒼白そうはくに緊張させている、杉野直也が姿を現した。

六

直也の姿を見ると、荘田の哄笑が、ピタリと中断した。相手の決死の形相が、傲岸ごうがんな荘田の心にも鋭い刃物に触れたような、気味悪い感じを与えたのに違ちがいなかった。が、彼はさり気なく、鷹揚おうように、徹頭徹尾勝利者であると云いう自信で云った。

「いやあ! 貴君あなたでしたか。いつぞやは大変失礼しました。さあ! 何どうか此方こっちへお入り下さい! 丁度、貴君のお父様も来ていらっしゃいますから。」

外面うわべ丈だけは可なり鄭重ていちょうに、直也を引いた。直也は、その口を一文字に緊ひきしめたまゝ、黙々として一言も発しなかった。彼は、父の方をなるべく見ないように――それは父に対する遠慮ではなくして、敬虔けいけんな基督キリスト教徒が異教徒と同席する時のような、憎悪ぞうおと侮蔑ぶべつとのために、なるべく父の方を見ないように、荘田の丁度向い側に卓テーブルを隔てゝ相対した。

「何う云う御用か、知りませんが、よく入いらっしゃいました。貴君があんなに軽蔑なさった成金の家へも、尋ねて来て下さる必要が出来たと見えますね。はゝゝゝゝ。」

荘田は、直也と面と向って立つと、直ぐ挑戦ちょうせんの第一の弾丸を送った。

直也は、それに対して、何かを云い返そうとした。が、彼は烈はげしい怒りで、口の周囲まわりの筋肉が、ピク〱と痙攣けいれんする丈で、言葉は少しも、出て来なかった。

「何どう云う御用です。承ろうじゃありませんか。何う云う御用です。」

荘田はのしかゝるように畳かけて訊きいた。直也は、心の裡うちに沸騰ふっとうする怒りを、何う現してよいか、分らないように、暫しばらくは両手を顫ふるわせながら、荘田の顔を睨にらんで立っていたが、突如として口を切った。

「貴君あなたは、良心を持っていますか。」

「良心を!」と、荘田は直すぐ受けたが、問が余りに唐突であったため暫らくは語ことばに窮した。

「そうです。良心です。普通の人間には、そんなことを訊く必要はない。が、人間以下の人間には、訊く必要があるのです。貴君は良心を持っていますか。」

直也は、卓テーブルを叩たたかんばかりに、烈しく迫った。

「あはゝゝゝゝ。良心! うむ、そんな物はよく貧乏人が持ち合わしているものだ。そして、それを金持に売り付けたがる。はゝゝゝ、私も度々買わされた覚えがある。が、私自身には生憎あいにく良心の持ち合せがない、はゝゝゝ。いつかも、貴君に云った通り、金さえあれば、良心なんかなくても、結構世の中が渡って行けますよ。良心は、羅針盤らしんばんのようなものだ。ちっぽけな帆前ほまえや、たかが五百噸トンや千噸の船には、羅針盤が必要だ。が、三万とか四万とか云う大軍艦になると、羅針盤も何も入りやしない、大手を振って大海が横行出来る。はゝゝゝ。俺わしなども、羅針盤の入らない軍艦のようなものじゃ。はゝゝゝ。」

荘田は、飽くまでも、自分の優越を信じているように、出来る丈だけ直也を、じらすように、ゆっくりと答えた。

それを聴くと、直也は堪たまらないように、わなわなと身体からだを顫わせた。

「貴君は、自分がやったことを恥だとは思わないのですか。卑劣ひれつな盗人ぬすっとでも恥じるような手段を廻めぐらして、唐沢家を迫害し、不倫ふりんな結婚を遂げようと云うような、浅ましいやり方を、恥ずかしいとは思わないのですか。貴君は、それを恥ずる丈の良心を持っていないのですか。」

直也は、吃々きつきつとどもりながら、威丈高いたけだかに罵ののしった。が、荘田はビクともしなかった。

「お黙りなさい。国家が許してある範囲で、正々堂々と行動しているのですよ。何を恥じる必要があるのです。貴方は、白昼公然と、私の金の力を、あざ嗤わらった。が、御覧なさい! 貴君は、金の力で自分のお父様を買収され、あなたの恋人を、公然と奪われてしまったではありませんか。貴君こそ、自分の不明を恥じて、私の前でいつかの暴言を謝しなさい! 唐沢のお嬢さんは、もう此この通り、ちゃんと前非ぜんぴを悔くいている。御覧なさい! 此の手紙を!」

そう云いながら、荘田は得々として、瑠璃子の手紙を直也に突き付けたとき、彼の心は火のような憤いきどおりと、恋人を奪われた墨のような恨うらみとで、狂ってしまった。

七

「御覧なさい! 私は、自分の息子の嫁に、するために、お嬢さまを所望したのだが、お嬢さまの方から、却かえって私の妻になりたいと望んでおられる。有力な男性的な実業家の妻として、社会的にも活動して見たい! こう書いてある。あはゝゝ。何どうです! お嬢様にも、ちゃんと私の価値が判わかったと見える。金の力が、どんなに偉大なものかが判ったと見える! あはゝゝ。」

荘田は、得々とその大きい鼻を、うごめかしながら、言葉を切った。

直也は、湧わき立つばかりの憤怒ふんぬと、嵐あらしのような嫉妬しっとに、自分を忘れてしまった。彼は瑠璃子の手紙を見たときに、荘田と媒介人たる自分の父とに、面と向って、その不正と不倫ふりんとを罵ののしり、少しでも残っている荘田の良心を、呼び覚して、不当な暴虐ぼうぎゃくな計画を思い止とどまらせようと決心したのだが、実際に会って見ると、自分のそうした考えが、獣に道徳を教えるのと同じであることを知った。そればかりでなく、荘田の逆襲的嘲弄ちょうろうに、直也自身まで、獣のように荒すさんでしまった。彼の手は、いつの間にか知らず識しらず、ポケットの中に入れて来た拳銃ピストルにかかっていた。その拳銃ピストルは、今年の夏、彼が日本アルプスの乗鞍のりくらヶ岳から薬師ヶ岳へ縦走したときに、護身用として持って行って以来、つい机の引出しに入れて置いた。彼は激昂げっこうして家を出るとき、ふと此この拳銃ピストルの事が、頭に浮んだ。荘田の家へ、単身乗り込んで行く以上、召使や運転手や下男などの多数から、どんな暴力的な侮辱を受けるかも知れない。そうした場合の用意に持って来たのだが、然しかし今になって見ると、それが直也に、もっと血腥ちなまぐさい決心の動機となっていた。

暴に報むくゆるには暴を以もってせよ。相手が金を背景として、暴を用いるなら、こちらは死を背景とした暴を用いてやれ。憤怒と嫉妬とに狂った直也は、そう考えていた。そうした考えが浮ぶと共に、直也の顔には、死そのもののような決死の相が浮んでいた。

「貴君あなたの、この不正な不当な結婚を、中止なさい。中止すると誓いなさい! でなければ……でなければ……」そう云いったまゝ、直也の言葉も遉さすがに後が続かなかった。

「でなければ、何うすると云うのです。あはゝゝゝゝゝ。貴君あなたは、この荘田を脅迫きょうはくするのですな。こりゃ面白い! 中止しなければ、何うすると云うのです。」

直也は、無我夢中だった。彼は、自分も父も母も恋人も、国の法律も、何もかも忘れてしまった。ただ眼前数尺の所にある、大きい赤ら顔を、何うにでも叩たたき潰つぶしたかった。

「中止しなければ……こうするのです。」

そう叫んだ刹那せつな、彼の右の手は、鉄火の如ごとくポケットを放れ、水平に突き出されていた。その手先には、白い光沢つやのある金属が鈍い光を放っていた。

「何! 何をするのだ。」と、荘田が、悲鳴とも怒声とも付かぬ声を挙げて、扉ドアの方へタジ〱と二三歩後ずさりした時だった。

直也の父は、狂気のように息子の右の腕に飛び付いた。

「直也! 何をするのだ! 馬鹿ばかな。」

その声は、泣くような叱しかるような悲鳴に近い声だった。

父の手が、子の右の手に触れた刹那だった。轟然ごうぜんたる響は、室内の人々の耳を劈つんざいた。

その響きに応ずるように、荘田も木下も子爵ししゃくも「アッ」と、叫んだ。それと同時に、どうと誰かが崩れるように倒れる音がした。帛きぬを裂くような悲鳴が、それに続いて起った。その悲鳴は、荘田の口から洩もるゝような、太いあさましい悲鳴とは違っていた。

八

父の手が直也の手に触れた丁度その刹那せつなに、発せられた弾丸たまは、皮肉にも二十貫に近い荘田の巨躯きょくを避けて、わずかに開かれた扉ドアの隙すきから、主客の烈はげしい口論に、父の安否を気遣って、そっと室内をのぞき込んでいた荘田の娘美奈子の、かよわい肉体を貫ぬいたのであった。

荘田は娘の悲鳴を聞くと、自分の身の危さをも忘れて飛び付くように、娘の身体からだに掩おおいかゝった。

美奈子は、二三度起き上ろうとするように、身体を悶もだえた後に、ぐったりと身体を、青い絨毯じゅうたんの上に横えた。絶え入るような悲鳴が続いて、明石縮あかしちぢみらしい単衣ひとえの肩の辺に出来た赤黒い汚点しみが、見る見る裡うちに胸一面に拡ひろがって行くのだった。

「美奈子! 気を確たしかに持て! おい! 繃帯ほうたいを持って来い! なければ白木綿だ! 近藤さんを呼べ! そうだ! 自動車を迎えにやれ! いなかったら、誰でもいゝ外科の博士を。そうだ! その前に、誰でもいゝから、近所の医者を呼んで来い! 早く、早く、早くだ!」

狼狽ろうばいして、前後左右にたゞウロ〱する、召使の男女を荘田は声を枯して叱咤しったした。彼はそう云いいながらも、右の掌てのひらで、娘の傷口を力一杯押えているのだった。

直也は、自分の放った弾丸が、思いがけない結果を生んだのを見ながら、彼は魂を奪われた人間のように、茫然ぼうぜんとして立っていた。色は土の如ごとく蒼あおく、眼は死魚のそれのように光を失った。彼はまだ短銃ピストルを握ったまゝ、突っ立っていた。直也の父も、木下も、此この犯人の手から、短銃ピストルを奪い取ることさえ忘れていた。殊ことに、子爵ししゃくの顔は子のそれよりも、血の気がなかった。彼は自分の罪が、ヒシ〱と胸に徹こたえて来るのを感じた。自分の野卑な、狡猾こうかつな行為が、子の上に覿面てきめんに報むくいて来たことが、恐ろしかった。彼は、子の短慮と暴行とを叱しっすべき言葉も、権威も持っていなかった。彼の身体を支えている足は、絶えずわな〱と顫ふるえた。

荘田は、娘の肩口を繃帯で、幾重にもクルクルと、捲まいてしまうと、やっと小康を得たように、室内へ帰って来た。その巨おおきい顔は殺気を帯びて物凄ものすごい相を示した。

「お蔭かげで傷は浅いです。可哀かわいそうに、あれは大層親思いですから、あんな飛沫とばしりを喰うのです。」

彼は、氷のような薄笑いを含んで、直也の顔をマジ〱と見詰めながら云った。赤手にして一千万円を超ゆる暴富を、二三年の裡うちに、攫取かくしゅした面魂つらだましいが躍如として、その顔に動いた。

「いや、私は暴に報いるに、暴を以もってしません。たゞ、国の公正なる法律に、あなたの処分を委まかせる丈です。杉野さん! お気の毒ですが、御子息は直すぐ、警察の方へお引き渡ししますから、そのおつもりでいて下さい。おい警視庁の刑事課へ電話をかけるのだ。そして、殺人未遂の犯人があるから、直ぐ来て呉れと。いゝか。」

荘田は、冷然として、鉄の如く堅く冷かに、商品の註文をでもするような口調で、小間使に命じた。

小間使の方が恐ろしい命令に、躊躇ちゅうちょして、ウロ〱している時だった。仮の繃帯が了おわって、自分の部屋へ運ばれようとしていた美奈子が、父の烈しい言葉を、そのかすかな聴覚で、聞きわけたのであろう。彼女は、ふり搾しぼるような声を立てた。

「お父様! お願いでございます。何どうぞ、内済にして下さいませ! 妾わたくしが、短銃ピストルで打たれましたなどは、外聞が悪うございますわ。どうぞ! どうぞ!」

彼女は、哀願するように、力一杯の声を出した。

荘田は、娘からの思いがけない抗議に、狼狽うろたえながら、尚なおも頑然として云った。

「お前さんの知ったことじゃない。お前さんは、そんなことは、一切考えないで、気を落着けているのだ。いゝか。いゝか。」

「いゝえ! いゝえ! 妾わたくしを打ったために、あの方が牢ろうへ行かれるようなことが、ございましたら、妾は生きては、おりません。お父様! どうぞ、どうぞ、内済にして下さいませ。」

美奈子は、息を切らしながら、とぎれ〱に云った。傲岸不屈ごうがんふくつな荘田も、遉さすがに黙ってしまった。

直也の二つの眼には、あつい湯のような涙が、湧わくように溢あふれていた。初めて、顔を見たばかりの少女の、厚い情なさけに対する感激の涙だった。

心の武装

一

記憶のよい人々は、或あるいは覚えているかも知れない。大正六年の九月の末に、東京大阪の各新聞紙が筆を揃そろえて報道した唐沢男爵だんしゃくの愛嬢瑠璃子るりこの結婚を。それは近年にない大評判センセイショナルな結婚であった。

此この結婚が、一世の人心を湧わかし、姦かまびすしい世評を生んだ第一の原因は、その新郎新婦の年齢が恐ろしいほど隔っていた為ためであった。二三の新聞は、第二の小森幸子事件であると称して、世道人心に及ぼす悪影響を嘆いた。小森幸子事件とは、ついその六七年前、時の宮内くない大臣田中伯が、還暦を過ぎた老体を以もって、まだ二十はたちを過ぎたばかりの処女――爵位と権勢に憧あこがるゝ虚栄の女と、婚約をした為に一世の烈はげしい指弾と抗議とを招いた事件だった。

無論、新郎の荘田しょうだ勝平は、当時の田中伯よりも若かった。が、それと同時に、新婦の唐沢瑠璃子は小森幸子などとは比較にならないほど美しく、比較にならないほど名門の娘であり、比較にならないほど若かった。

新聞紙に並べられた新郎新婦の写真を見た者は、男性も女性も、等しく眉まゆを顰ひそめた。が、此の結婚が姦しい世評を産んだ原因は、たゞ新郎新婦の年齢の相違ばかりではなかった。もう一つの原因は、成金、荘田勝平が、唐沢家の娘を金で買ったと云いう噂うわさだった。或ある新聞紙は貴族院第一の硬骨を以て、称せらるゝ唐沢男爵に、そうした卑いやしい事のあるべき筈はずはないと、打消した。他の新聞紙は宛あたかも事件の真相を伝える如ごとくに云った、曰いわく『荘田勝平は唐沢男に私淑ししゅくしているのだ。彼は数十万円を投じて唐沢家の財政上の窮状を救ったのだ。唐沢男が、娘を与えたのは、その恩義に感じたからである。』と。他の新聞紙は、またこんな記事を載せた。結婚の動機は、唐沢瑠璃子の強い虚栄からである。彼女は学習院の女子部にいた頃から、同窓の人々の眉を顰めさせるほど、虚栄心に富んだ女であった、と。そうした記事に伴って女子教育家や社会批評家の意見が紙面を賑にぎわした。或者は、成金の金に委まかせての横暴が、世の良風美俗を破ると云って憤慨した。或者は、米国の富豪の娘達が、欧洲おうしゅうの貴族と結婚して、富と爵位との交換を計るように、日本でも貧乏な華族と富豪が頻々ひんぴんとして縁組を始めたことを指摘して、面白からぬ傾向である、華族の堕落であると結論した。

が、そうした轟々ごうごうたる世論を外よそに、荘田は結婚の準備をした。春の園遊会に、十万円を投じて惜しまなかった彼は、晴の結婚式場には、黄金の花を敷くばかりの意気込であった。彼は、自分の結婚に対して非難攻撃が高くなればなるほど、反抗的に公然おおぴらに華美に豪奢ごうしゃに、式を挙げようと決心していた。

彼は、あらゆる手段で、朝野の名流を、その披露ひろうの式場に蒐あつめようとした。彼は、あらゆる縁故を辿たどって、貴族顕官の列席を、頼み廻った。

九月二十九日の夕ゆうべであった。日比谷ひびや公園の樹この間に、薄紫のアーク燈とうが、ほのめき始めた頃から幾台も幾台もの自動車が、北から南から、西から東から、軽快な車台で夕暮の空気を切りながら、山下門の帝国ホテルを目指して集まって来た。最新輸入の新しい型の自動車と交っては、昔ゆかしい定紋じょうもんの付いた箱馬車に、栗毛くりげの駿足しゅんそくを並べて、優雅に上品に、軋きしらせて来る堂上華族も見えた。遉さすがに広いホテルの玄関先も、後から〱蒐まって来る馬車や自動車を、収め切れないではみ出された自動車や馬車は往来に沿うて一町ばかりも並んでいた。

祝宴が始まる前の控場ひかえじょうの大広間には、余興の舞台が設けられていて、今しがた帝劇の嘉久子かくこと浪子なみことが、二人道成寺ににんどうじょうじを踊り始めたところだった。

二

新郎の勝平は、控室の入口に、新婦の瑠璃子と並び立って、次ぎ次ぎに到着する人々を迎えていた。

彼は嘘うそから出た真まことと云いう言葉を心の裡うちで思い起していた。本当に、彼の結婚は嘘から出た真であった。彼は、妙にこじれてしまった意地から、相手を苦しめる為ために、申込んだ結婚が、相手が思いの外に、脆もろかった為、手軽に実現したことが少しくすぐったいようにも思った。それと同時に、名門のたった一人の令嬢をさえ、自分の金の力で、到頭買い得たかと思うと、心の底からむら〱と湧わく得意の情を押えることが出来なかった。

が、結婚の式場に列つらなるまで、彼は瑠璃子を高価たかねで購あがなった装飾品のようにしか思っていなかった。五万円に近い大金を投じて、落藉ひかした愛妓あいぎに対するほどの感情をも持っていなかった。『此このお嬢さん屹度きっとむずがるに違いない。なに、むずかったって、高の知れた子供だ。ふゝん。』と云ったような気持で神聖なるべき式場に列った。

が、雪のように白い白紋綸子りんずの振袖ふりそでの上に目も覚むるような唐織錦にしきの裲襠うちかけを被きた瑠璃子の姿を見ると、彼は生れて初めて感じたような気高さと美しさに、打たれてしまって、神官が朗々と唱え上げる祝詞のりとの言葉なども耳に入らぬほど、じっと瑠璃子の姿に、魅せられていた。その輪廓の正しい顔は凄すごいほど澄みわたって、神々こうごうしいと云ってもいゝような美しさが、勝平の不純な心持ちをさえ、浄きよめるようだった。

式が、無事に終って、大神宮から帝国ホテルまでの目と鼻の距離を、初めて自動車に同乗したときに云い知れぬ嬉うれしさが、勝平の胸の中に、こみ上げて来た。彼は、どうかして、最初の言葉を掛けたかった。が、日頃傲岸不遜ごうがんふそんな、人を人とも思わない勝平であるにも拘かかわらず、話しかけようとする言葉が、一つ〱咽喉のどにからんでしまって、小娘か何かのように、その四十男の巨おおきい顔が、ほんの少しではあるが、赤らんだ。彼は、唐沢家をあんなにまで、迫害したことが、後悔された。瑠璃子が、自分のことを一体何どう思っているだろうと、云うことが一番心配になり始めた。

式服を着換えて、今勝平の横に立っている瑠璃子は、前よりもっと美しかった。御所解模様ごしょどきもようを胸高に総縫にした黒縮緬ちりめんの振袖が、そのスラリとした白皙はくせきの身体からだに、しっくりと似合っていた。勝平は、こうして若い美しい妻を得たことが、自分の生涯を彩いろどる第一の幸福であるようにさえ思われた。今までは、彼の唯ただ一つの誇は、金力であった。が、今はそれよりも、もっと誇っていゝものが、得られたようにさえ思った。

大臣を初め、政府の高官達が来る。実業家が来る。軍人が来る。唐沢家の関係から、貴族院に籍を置く、伯爵はくしゃくや子爵が殊ことに多かった。大抵は、夫人を同伴していた。美人の妻を持っているので、有名な小早川伯爵が来たとき、勝平は同伴した伯爵夫人を、自分の新妻にいづまと比べて見た。伯爵夫妻が、会釈えしゃくして去った時、勝平の顔には、得意な微笑が浮んだ。虎とらの門もん第一の美人として、謳うたわれたことのある勧業銀行の総裁吉村氏の令嬢が、その父に伴われて、その美しい姿を現わしたとき、勝平はまた思わず、自分の新妻と比べて見ずにはいられなかった。無論、この令嬢も美しいことは美しかった。が、その美しさは、華美な陽気な美しさで、瑠璃子のそれに見るような澄んだ神々しさはなかった。

『やっぱり、育ちが育ちだから。』勝平は、口の中で、こんな風に、新しい妻を讃美さんびしながら、日本中で、一番得意な人間として、後から後からと続いて来る客に、平素いつもに似ない愛嬌あいきょうを振り蒔まいていた。

来客の足が、やゝ薄らいだ頃だった。此の結婚を纏まとめた殊勲者である木下が新調のフロックコートを着ながら、ニコニコと入って来た。

「やあ! お目出度うございます。お目出度うございます!」

彼は勝平に、ペコ〱と頭を下げてから、その傍の新夫人に、丁寧に頭を下げたが、今迄いままでは凡すべての来客の祝賀を、神妙に受けていた瑠璃子は木下の顔を見ると、その高島田に結った頭を、昂然こうぜんと高く持したまゝ、一寸は愚か一分も動かさなかった。勝手が違って、狼狽ろうばいする木下に、一瞥いちべつも与えずに、彼女は怒れる女王の如ごとき、冷然たる儀容を崩さなかった。

三

祝宴が開かれたのは、午後七時を廻っていた時分だった。集合電燈シャンデリアの華やかな昼のような光の下に五百人を越す紳士とその半分に近い婦人とが淑しとやかに席に着いた。紳士は、大抵フロックコートか、五つ紋の紋付であったが、婦人達は今日を晴と銘々きらびやかな盛装を競きそっていた。

花嫁と云いったような心持は、少しも持たず、戦場にでも出るような心で、身体からだには錦繍きんしゅうを纏まとっているものの、心には甲冑かっちゅうを装よそおうている瑠璃子ではあったが、こうして沢山の紳士淑女の前に、花嫁として晒さらされると、必死な覚悟をしている彼女にも、恥しさが一杯だった。列席の人々は、結婚が非常な評判センセイションを起した丈だけ、それ丈、花嫁の顔を、ジロ〱と見ているように、瑠璃子には思われた。金かねで操みさおを左右されたものと思われているかも知れないことが、瑠璃子には――勝気な瑠璃子には、死に勝まさる恥のようにも思われた。が、彼女は全力を振って、そうした恥しさと戦った。人は何とも思え、自分は正しい勇ましい道を辿たどっているのだと、彼女は心の中で、ともすれば撓たわみがちな勇気を振い起した。

が、苦しんでいるものは、瑠璃子丈だけではなかった。新郎の勝平と、一尺も離れないで、黙々と席に就いている父の顔を見ると、瑠璃子は自分の苦しみなどは、父の十分の一にも足りないように思った。自分は、自分から進んで、こうした苦痛を買っているのだ。が、父は最愛の娘を敵に与えようとしている。縦令たとい、それが娘自身の発意であるにしろ、男子として、殊ことに硬骨な父として、どんなに苦しい無念なことであろうかと思った。

が、苦しんでいる者は、外にもあった。それは今宵こよいの月下氷人を勤めている杉野子爵ししゃくだった。子爵は、瑠璃子が自分の息子の恋人であることを知ってから、どれほど苦しんでいるか分らなかった。瑠璃子に対する荘田の求婚が、本当は自分の息子に対する、復讐ふくしゅうであったことを知ってから、彼はその復讐の手先になっていた、自分のあさましさが、しみ〲と感ぜられた。殊に、そのために、息子が殺傷の罪を犯したことを考えると、彼は立っても坐すわっても、いられないような良心の苛責かしゃくを受けた。

日比谷ひびや大神宮の神前でも、彼は瑠璃子の顔を、仰ぎ見ることさえなし得なかった。彼は、瑠璃子親子の前には、罪を待つ罪人のように、悄然しょうぜんとその頭を垂れていた。

今宵の祝賀の的まとであるべき花嫁を初め、親や仲人なこうどが、銘々の苦しみに悶もだえているにも拘かかわらず、祝賀の宴は、飽くまでも華やかだった。価あたい高い洋酒が、次ぎから次ぎへと抜かれた。料理人が、懸命の腕を振った珍しい料理が後から後から運ばれた。低くはあるが、華やかなさゞめきが卓から卓へ流れた。

デザートコースになってから、貴族院議長のT公爵こうしゃくが立ち上った。公爵は、貴族院の議場の名物である、その荘重な態度を、いつもよりも、もっと荘重にして云った。

「私は、茲ここに御列席になった皆様を代表して、荘田唐沢両家の万歳を祈り、新郎新婦の前途を祝したいと思います。何どうか皆様新郎新婦の前途を祝いおうて御乾杯を願います。」

公爵は、そう云いながら、そのなみ〱と、つがれた三鞭酒シャンペンしゅの盃さかずきを、自分と相対して立っている逓相ていしょうの近藤男爵の盃に、カチリと触れさせた。

それと同時に、公爵の音頭おんどで、荘田唐沢両家の万歳が、一斉に三唱された。

丁度その時であった。その祝辞を受くるべく立ち上ろうとした唐沢男爵の顔が、急に蒼あおざめたかと思うと、ヒョロ〱とその長身の身体が後に二三歩よろめいたまゝ、枯木の倒れるように、力なく床の上に崩れ落ちた。

四

唐沢男爵の突然な卒倒は、晴の盛宴を滅茶苦茶めちゃくちゃにしてしまった。遉さすがに、心の利きいた給仕人は、手早く一室に担かつぎ込んだが、列席の人々の動揺は、どうともすることが出来なかった。瑠璃子は、花嫁である身分も忘れて、父の傍かたわらに馳かけ付けたまゝ、晴着の振袖ふりそでを気にしながら、懸命に介抱した。

給仕人が、必死になって最後のコーヒを運ぶのを待ち兼ねて、仲人の杉野子爵は立って来客達に、列席の労を謝した。それを機会に、今まで浮腰になっていた来客は、潮の引くように、一時に流れ出てしまって、煌々こうこうたる電燈でんとうの光の流れている大広間には、勝平を初めとし四五人の人々が寂しく取り残された丈だった。

瑠璃子の父は、幸さいわいに軽い脳貧血であった。呼びにやった医者が来ない前に、もう、常態に復していた。が、彼は黙々として自分を取り囲んでいる杉野や勝平には、一言も言葉をかけなかった。

父が、用意された自動車に、やっと恢復かいふくした身体を乗せて、今宵こよいからは、最愛の娘と離れて、たゞ一人住むべき家へ帰って行く後姿を見ると、鉄のように冷くつぼんでいる瑠璃子の心も、底から掻かき廻わされるような痛みを感ぜずにはいられなかった。

瑠璃子は、父の自動車に身体をピッタリと附けながら、小声で云いった。

「お父様暫しばらく御辛抱して下さいませ。直きにお父様の許もとへ帰って行きます。どうぞ、妾わたくしを信じて待っていて下さいませ。」

遉さすがに彼女の眼にも、湯のような涙が、ほたほたと溢あふれた。

父は、瑠璃子の言葉を聴くと大きく肯うなずきながら、

「お前の決心を忘れるな。お父さんが、今宵受けた恥を忘れるな。」

父が低く然しかし、力強くこう呟つぶやいた時、自動車は軽く滑り出していた。

父を乗せた自動車が、出いで去った後の車寄に附けられた自動車は、荘田がつい此この間、伊太利イタリーから求めた華麗なフィヤット型の大自動車であった。新郎新婦を、その幾久しき合衾ごうきんの床に送るべき目出度き乗物だった。

瑠璃子は、夫――それに違いはなかった――に招かるゝまゝ、相並んで腰を降した。が、その美しい唇は彫像ちょうぞうのそれのように、堅く〱結ばれていた。

勝平は、何どうにかして、瑠璃子と言葉を交えたかった。彼は、瑠璃子の美しさがしみ〲と、感ぜられゝば感ぜられる丈、たゞ黙って、並んでいることが、愈いよいよ苦痛になり出した。

彼は、瑠璃子の顔色を窺うかがいながら、オズ〱口を開いた。

「大変沈んでおられるようじゃが、そう心配せいでもようござんすよ。俺わしだって貴女あなたが思っているほど、無情な人間じゃありません。貴女のお父様を、苛いじめて済まんと思っているのです。罪滅ぼしに、出来る丈だけのことはしようと思っているのです。貴女も、俺を敵かたきのように思わんでな。これも縁じゃからな。」

勝平は、誰に対しても、使ったことのないような、丁寧な訛なまりのある言葉で、哀願するような口調でしみ〲と話し出した。が、瑠璃子は、黙々として言葉を出さなかった。二人の間に重苦しい沈黙が暫らく続いた。

「実は恥を云わねばならないのだが、今年の春、俺わしの家の園遊会で、貴女を見てから、年甲斐としがいもなく、はゝゝゝゝ。それで、つい、心にもなく貴女のお父様までも、苦しめて、どうも何とも済まないことをしました。」

勝平は、瑠璃子の心を解こうとして心にもない嘘うそを云いながら、大きく頭を下げて見せた。

その刹那せつなに、美しい瑠璃子の顔に、皮肉な微笑が動いたかと思うと、彼女の容子ようすは、一瞬の裡うちに変っていた。

「そんなに云って下さると妾わたくしの方が却かえって痛み入りますわ。妾わたくしのような者を、それほどまでして、望んで下さったかと思うと、ほゝゝゝゝ。」

と、車内の薄暗うすやみの裡うちでもハッキリと判わかるほど、瑠璃子は勝平の方を向いて、嫣然えんぜんと笑って見せた。勝平は、その一笑を投げられると、魂を奪われた人間のように、フラ〱としてしまった。

五

瑠璃子の嫣然たる微笑を浴びると、勝平は三鞭酒シャンペンしゅの酔よいが、だん〱廻って来たその巨おおきい顔の相好そうごうを、たわいもなく崩してしまいながら、

「あゝ、そうでがすか。貴女あなたの心持はそうですか、それを知らんもんですから、心配したわい。」

彼は余りのうれしさに、生れ故郷の訛なまりを、スッカリ丸出しにしながら、身体からだに似合わない優しい声を出した。

「貴女が心の中から、私のところへ、欣よろこんで来て下さる。こんな嬉うれしいことはない。貴女のためなら俺わしの財産をみんな投げ出しても惜しみはせん。あはゝゝゝゝ。」

荘田は、恥しそうに顔を俯ふしている瑠璃子の、薄暗の中でも、くっきりと白い襟足を、貪むさぼるように見詰めながら、有頂天になって云った。

「貴女が来て下されば、俺わしも今迄いままでの三倍も五倍もの精力で、働きますぞ。うんと金を儲もうけて、貴女の身体をダイヤモンドで埋うずめて上げますよ。あはゝゝゝゝゝ。」

荘田は、何どうかして、瑠璃子の微笑と歓心とを贏かちえようと、懸命になって話しかけた。

十時を過ぎたお濠端ほりばたの闇やみを、瑠璃子を乗せた自動車を先頭に、美奈子みなこを乗せた自動車を中に、召使達の乗った自動車を最後に、三台の自動車は、瞬またたく裡に、日比谷ひびやから三宅坂みやけざかへ、三宅坂から五番町へと殆ほとんど三分もかゝらなかった。

瑠璃子が、夫に扶たすけられて、自動車から宏壮こうそうな車寄に、降り立った時、遉さすがにその覚悟した胸が、烈はげしくときめくのを感じた。単身敵の本城へ乗り込んで行く、刺客のような緊張と不安とを感じた。勝平に扶けられている手が、かすかに顫ふるえるのを、彼女は必死に制しようとした。

瑠璃子が、勝平に従って、玄関へ上がろうとした時だった。其処そこに出迎えている、多数の召使の前に、ヌッとつッ立っている若者が、急に勝平に縋すがり付くようにして云った。

「お父さん! お土産みやげだい! お土産だい!」

勝平は、縋り付かれようとする手を、瑠璃子の手前、きまり悪そうに、払い退のけながら、

「あゝ分っている、分っている。後で、沢山やるからな。さあ! 此方へおいで。お前の新しいお母様が出来たのだからな。挨拶あいさつをするのだよ。」

勝平は、その若者を拉らっしながら先に立った。若者は、振り向き〱瑠璃子の顔をジロ〱と珍らしそうに見詰めていた。

勝平は先きに立って、自分の居間に通った。

「美奈子も、茲ここへおいで。」

彼は、娘を呼び寄せてから、改めて瑠璃子に挨拶させた後、勝平はその見るからに傲岸ごうがんな顔に、恥しそうな表情を浮べながら、自分の息子を紹介した。

「これが俺わしの息子ですよ。御覧の通とおりの人間で、貴女あなたにさぞ、御面倒をかけるだろうと思いますが、ゼヒ、面倒を見てやっていたゞきたいのです。少し足りない人間ですが、悪気はありませんよ。極く単純で、此方こっちの云うことは可なり聴くのです。おい勝彦かつひこ! これが、お前のお母様だよ。さあ〱挨拶するのだ。」

勝彦は、瑠璃子の顔を、ジロ〱と見詰めていたが、父にそう促うながされると急に気が付いたように、

「お母様じゃないや。お母様は死んでしまったよ。お母様は、もっと汚きたない婆ばばあだったよ。此この人は綺麗きれいだよ。此人は美奈ちゃんと同じように、綺麗だよ。お母様じゃないや、ねえそうだろう、美奈ちゃん。」彼は妹に同意を求めるように云った。妹は顔を、火のように赤くしながら、兄を制するように云った。

「お母様と申上げるのでございますよ。お父様のお嫁になって下さるのでございますよ。」

「何んだ、お父様のお嫁! お父様は、ずるいや。俺わしに、お嫁を取って呉くれると云っていながら、取って呉れないんだもの。」

彼は、約束した菓子を貰もらえなかった子供のように、すねて見せた。

瑠璃子は、その白痴な息子の不平を聞くと、勝平が中途から、世間体を憚はばかって、自分を息子の嫁にと、云い出したことを、思い出した。金で以もって、こんな白痴の妻――否いな弄もてあそび物に、自分をしようとしたのだと思うと、勝平に対する憎悪ぞうおが又新しく心の中に蒸し返された。

六

勝彦と美奈子とが、彼等自身の部屋へ去った頃には、夜は十一時に近く、新郎新婦が新婚の床に入るべき時刻は、刻々に迫っていた。

勝平は、先刻さっきから全力を尽くして、瑠璃子の歓心かんしんを買おうとしていた。彼は、急に思い出したように、

「おゝそう〱、貴女あなたに、結婚進物マリエイジプレゼントとして、差し上げるものがありましたっけ。」

そう云いいながら、彼は自分の背後に据え付けてある小形の金庫から、一束の証書を取り出した。

「貴女のお父様に対する債権の証文は、みんな蒐あつめた筈はずです。さあ、これを今貴女に進上しますよ。」

彼は、その十五万円に近い証書の金額に、何の執着もないように、無造作に、瑠璃子の前に押しやった。

瑠璃子は、その一束を、チラリと見たが、遉さすがにその白い頬に、興奮の色が動いた。彼女は、二三分の間、それを見るともなく見詰めていた。

「あのマッチは、ございますまいか。」彼女は、突如そう訊きいた。

「マッチ?」勝平は、瑠璃子の突然な言葉を解し得なかった。

「あのマッチでございますの。」

「あゝマッチ! マッチなら、幾何いくらでもありますよ。」彼は、そう云いながら、身を反そらして、其処そこの炉棚マンテルピースの上から、マッチの小箱を取って、瑠璃子の前へ置いた。

「マッチで、何をするのです。」勝平は不安らしく訊たずねた。

瑠璃子は、その問を無視したように、黙って椅子いすから立ち上ると、鉄盤で掩おおうてあるストーヴの前に先刻三度目に着替えた江戸紫の金紗縮緬きんしゃちりめんの袖そでを気にしながら、蹲うずくまった。

「貴君あなた、瓦斯ガスが出ますかしら。」彼女は、其処で突然勝平を、見上げながら、馴々なれなれしげな微笑を浴びせた。

初めて、貴君あなたと呼ばれた嬉うれしさに、勝平は又相好そうごうを崩しながら、

「出るとも、出るとも。瓦斯ガスは止めてはない筈ですよ。」

勝平が、そう答え了おわらない裡うちに、瑠璃子の華奢きゃしゃな白い手の中に燐寸マッチは燃えて、迸ほとばしり始めた瓦斯ガスに、軽い爆音を立てゝ、移っていた。

瑠璃子は、その火影ほかげに白い顔をほてらせて、暫しばらく立っていたが、ふと身体を飜ひるがえすと、卓の上にあった証書を、軽く無造作に、薪まきをでも投げるように、漸ようやく燃え盛さかりかけた火の中に投じてしまった。

呆気あっけに取られている勝平を、嫣然にっこりと振り向きながら、瑠璃子は云った。

「水に流すと云うことがございますね。妾わたくし達は、此この証文を火で焼いたように、これまでのいろいろな感情の行き違いを、火に焼いてしまおうと思いますの……ほゝゝゝ、火に焼く! その方がよろしゅうございますわ。」

「あゝそう〱、火に焼く、そうだ、後へ何も残さないと云うことだな。そりゃ結構だ。今までの事は、スッカリ無いものにして、お互に信頼し愛し合って行く。貴女あなたが、その気でいて呉くれゝば、こんな嬉しいことはない。」

そう云いながら、勝平は瑠璃子に最初の接吻せっぷんをでも与えようとするように、その眸ひとみを異常に、輝かしながら、彼女の傍へ近よって来た。

そう云う相手の気勢けはいを見ると、瑠璃子は何気ないように、元の椅子に帰りながら、端然たんぜんたる様子に帰ってしまった。

その時に、扉ドアが開いた。

「彼方あちらの御用意が出来ましたから。」

女中は、淑しとやかにそう云った。

絶体絶命の時が迫って来たのだ。

「じゃ、瑠璃さん! 彼方あちらへ行きましょう。古風に盃事さかずきごとをやるそうですから、はゝゝゝゝゝ。」

勝平が、卑いやしい肉に飢えた獣けだもののように笑ったとき、遉さすがに瑠璃子の顔は蒼あおざめた。

が、彼女の態度は少しも乱れなかった。

「あの、一寸ちょっと電話をかけたいと思いますの。父のその後の容体が気になりますから。」

それは、此の場合突然ではあるが、尤もっともな希望だった。

七

「電話なら、女中にかけさせるがいゝ。おい唐沢さんへ……」

と、勝平が早くも、女中に命じようとするのを、瑠璃子は制した。

「いゝえ! 妾わたくしが自身で掛けたいと思いますの。」

「自身で、うむ、それなら、其処そこに卓上電話がある。」

と、云いいながら、勝平は瑠璃子の背後うしろを指し示した。

いかにも、今迄いままで気が付かなかったが、其処の小さい桃花心木マホガニイの卓の上に、卓上電話が置かれていた。

瑠璃子は、淑しとやかに椅子いすから、身を起したとき、彼女の眉宇びうの間には、凄すさまじい決心の色が、アリアリと浮んでいた。

「あのう。番町の二八九一番!」

瑠璃子は、送話器にその紅の色の美しい唇を、間近く寄せながら、低く呟つぶやくように言った。

「番町の二八九一番!」

そう繰り返しながら、送話器を持っている瑠璃子の白い手は、かすかに〱顫ふるえていた。彼女は暫しばらくの間、耳を傾けながら待っていた。やっと相手が出たようだった。

「あゝ唐沢ですか。妾わたくし瑠璃子なのよ、貴女あなたは婆ばあや。」

相手の言葉に聞き入るように、彼女は受話器にじっと、耳を押し付けた。

「そう。あなたの方から、電話を掛けるところだったの。それは、丁度よかったのね。それでお父様の御容体は。」

そういい捨てると、彼女は又じっと聞き入った。

「そう!……それで……入沢さんが、入らしったの!……それで、なるほど……」

彼女は、短い言葉で受け答をしながらも、その白い面おもては、だん〱深い憂慮ゆうりょに包まれて行った。

「えぃ! 重体! 今夜中が……もっと、ハッキリと言って下さい! 聞えないから。なに、なに、お父様は帰って来てはいけないって! でもお医者は何と仰おっしゃるの? えぃ! 呼んだ方がいゝって! 妾わたくし! 何どうしようかしら。あゝあゝ。」

彼女は、もうスッカリ取り擾みだしてしまったように、身を悶もだえた。

「何どうしたのだ。何うしたのだ。」

勝平は、遉さすがに色を変えながら、瑠璃子の傍に、近づいた。

「あのう、お父様が、宅の玄関で二度目の卒倒を致しましてから、容体が急変してしまったようでございますの。妾わたくしこうしてはおられませんわ。ねえ! 一寸ちょっと帰って来ましてもようございましょう。お願いでございますわ。ねえ貴方あなた!」

瑠璃子は、涙に濡ぬれた頬に、淋さびしい哀願あいがんの微笑を湛たたえた。

「あゝいゝとも、いゝとも。お父様の大事には代えられない。直すぐ自動車で行って、しっかり介抱して上げるのだ。」

「そう言って下さると、妾わたくし本当に嬉うれしゅうございますわ。」

そう云いながら、瑠璃子は勝平に近づいて、肥ふとった胸に、その美しい顔を埋うずめるような容子ようすをした。勝平は、心の底から感激してしまった。

「ゆっくりと行っておいで、向うへ行ったら、電話で容体を知らして呉くれるのだよ。」

「直ぐお知らせしますわ。でも、此方こちらから訊たずねて下さると困りますのよ。父は、荘田へは決して知らせてはならない。大切な結婚の当夜だから、死んでも知らしてはならないと申しているそうでございますから。」

「うむよし〱。じゃ、よく介抱して上げるのだよ。出来る丈だけの手当をして上げるのだよ。」

自動車の用意は、直ぐ整った。

「容体がよろしかったら、今晩中に帰って参りますわ。悪かったら、明日になりましても御免あそばしませ。」

瑠璃子は、自動車の窓から、親しそうに勝平を見返った。

「もう遅いから、今宵は帰って来なくってもいゝよ。明日は、俺わしが容子を見に行って上げるから。」

勝平は、もういつの間にか、親切な溺愛できあいする夫になり切ってしまっていた。

「そう。それは有難うございますわ。」

彼女は、爽さわやかな声を残しながら、戸外の闇やみに滑り入った。が、自動車が英国大使館前の桜並樹なみきの樹下闇このしたやみを縫うている時だった。彼女の面おもてには、父の危篤きとくを憂うれうるような表情は、痕あとも止とどめていなかった。人を思う通とおりに、弄もてあそんだ妖女ウィッチの顔に見るような、必死な薄笑いが、その高貴な面に宿っていた。

護まもりの騎士

一

名ばかりの妻、これは瑠璃子るりこが最初考えていたように、生易なまやさしいことではなかった。彼女は、自分の操みさおを守るために、あらゆる手段と謀計とを廻めぐらさねばならなかった。

結婚後暫しばらくは、父の容体を口実に、瑠璃子は荘田しょうだの家に帰って行かなかった。勝平は毎日のように、瑠璃子を訪れた。日に依よっては、午前午後の二回に、此この花嫁の顔を見ねば気が済まぬらしかった。

彼は訪問の度毎ごとに、瑠璃子の歓心を買うために、高価な贈物おくりものを用意することを、忘れなかった。

それが、ある時は金剛石ダイヤ入りの指輪だった。ある時は、白金プラチナの腕時計だった。ある時は、真珠の頸飾くびかざりだった。瑠璃子は、そうした贈物を、子供が玩具おもちゃを貰もらうときのように、無邪気に何の感謝なしに受取った。

が、父の容体を口実に、いつまでも、実家に止とどまることは、許されなかった。それは、事情が許さないばかりでなく、彼女の自尊心が許さなかった。敵を避けていることが、勝気な彼女に心苦しかった。もっと、身体を危険に晒さらして勇ましく戦わなければならぬと思った。形式的にでも、結婚した以上、形の上丈だけでは飽くまでも、妻らしくしなければならないと思った。敵の卑怯ひきょうに報むくいるに卑怯を以もってしてはならない。此方こちらは、飽くまでも、正々堂々と戦って勝たねばならない。そう思いながら、彼女は勝平が迎えの自動車に同乗した。

久しぶりに、瑠璃子と同乗した嬉うれしさに、勝平は訳もなく笑い崩れながら、

「あはゝゝゝゝ。そんなに、実家おさとを恋しがらなくてもいゝよ。親一人子一人のお父様に別れるのは淋さびしいだろう。が、何も心配することはないよ。俺わしを恐こわがらなくってもいゝよ。俺わしだって、こんな顔をしているが、お前さんを取って喰おうと云いうのじゃないよ。娘! そうだ、美奈子みなこに新しい姉が出来たと思って、可愛かわいがって上げようと思うのだ。あはゝゝゝゝ。」と、勝平は何どうかして、瑠璃子の警戒を解こうとして、心にもないことを云った。

勝平の言葉を聴くと、今迄いままで捗々はかばかしい返事もしなかった瑠璃子は、甦よみがえったように、快活な調子で云った。

「おほゝゝ、ほんとうに、娘にして下さるの、妾わたくしのお父様になって下さるの! 妾本当にそうお願いしたいのよ。ほんとうのお父様になっていたゞきたいのよ。」

そう言いながら、彼女はこぼるゝような嬌羞きょうしゅうを、そのしなやかな身体からだ一面に湛たたえた。

「あゝ、いゝとも、いゝとも。」勝平は、人の好よい本当の父親てておやのように肯うなずいて見せた。

「ほゝゝゝ、それは嬉しゅうございますわ、本当に、妾わたくしを娘にして下さいませ。それも、ほんの少しの間ですの。お約束しますわ。半年、本当に半年でいゝのよ。でも、そうじゃございませんか。妾、まだ年弱の十八でございましょう。学校を出てから、まだ半年にしかなりませんのですもの。それに、今度の話でございましょう、それに、いろ〱な事件で、興奮して、まだその興奮が続いているのでございましょう。結婚生活に対する何の準備も出来なかったのでございますもの。貴君あなたの本当の妻になるのには、もう少し心の準備が欲しいと思いますの。貴君に対する愛情と信頼とを、もっと心の中で、準備したいと思いますの。だから、暫らくの間、本当に美奈子さんの姉にして置いて下さいませ。『源氏物語』に、末摘花すえつむはなと云うのがございましょう。あれでございますの。」

そう云いながら、瑠璃子は嫣然にっこりと笑った。勝平は、妖術ようじゅつにでもかゝったように、ぼんやりと相手の美しい唇を見詰めていた。瑠璃子は相手を人とも思わないように傍若無人ぼうじゃくぶじんだった。

「ねえ! お父様! 妾わたくしの可愛いお父様! そうして下さいませ。」

そう云いながら、彼女はそのスラリとした身体を、勝平にしなだれるように、寄せかけながら、その白い手を、勝平の膝ひざの上に置いて静しずかに軽く叩たたいた。

瑠璃子の処女の如ごとく慎つつましく娼婦しょうふの如く大胆な媚態びたいに、心を奪われてしまった勝平は、自分の答が何どう云うことを約束しているかも考えずに答えた。

「あゝいゝとも、いゝとも。」

二

勝平は心の裡うちで思った。どうせ籠かごの中に入れた鳥である。その中うちには、自分の強い男性としての力で征服して見せる。男性の強い腕の力には、凡すべての女性は、何時いつの間にか、掴つかみ潰つぶされているのだ。彼女も、しばらくの間、自分の掌中しょうちゅうで、小鳥らしい自由を楽しむがいゝ。その裡に、男性の腕の力がどんなに信頼すべきかが、だん〱分って来るだろう。

勝平はそうした余裕のある心持で、瑠璃子の請こいを容いれた。

が、それが勝平の違算であったことが、直すぐ判わかった。十日経たち二十日経つ裡に、瑠璃子の美くしさは勝平の心を、日に夜についで悩した。若い新鮮な女性の肉体から出る香においが勝平の旺盛おうせいな肉体の、あらゆる感覚を刺戟しげきせずにはいなかった。

その夜も、勝平は若い妻を、帝劇に伴った。彼はボックスの中に瑠璃子と並んで、席を占めながら眼は舞台の方から、しば〱帰って来て、愛妻の白い美しい襟足えりあしから、そのほっそりとした撫肩なでがたを伝うて、膝ひざの上に、慎つつましやかに置かれた手や、その手を載せているふくよかな、両膝を、貪むさぼるように見詰めていた。彼は、こうして妻と並んでいると、身も心も溶けてしまうような陶酔を感じた。そうした陶酔の醒さめ際ぎわに、彼の烈はげしい情火が、ムラ〱と彼の身体からだ全体を、嵐あらしのように包むのだった。

瑠璃子は、勝平のそうした悩みなどを、少しも気が付かないように、雲雀ひばりのように快活だった。彼女は、勝平との感情の経緯いきさつを、もうスッカリ忘れてしまったように、ほんとうの娘にでも、なりきったように、勝平に甘えるように纏まつわっていた。

「おい瑠璃さん。もう、お父様ごっこも大抵にしてよそうじゃないか、貴女あなたも、少しは私が判っただろう。はゝゝゝゝ。約束の半年を一月とか二月とかに、縮めて貰もらえないものかねえ!」

勝平は、その夜自動車での帰途、冗談のように、妻の柔かい肩を軽く叩たたきながら、囁ささやいた。

「まあ! 貴君あなたも、性急せっかちですのねえ。妾達わたくしたちには約婚時代というものが、なかったのですもの。もっと、こうして楽しみたいと思いますもの。何かが来ると云うことの方が、何かが来たと云うことよりも、どんなに楽しいか。それに妾本当はもっと処女でいたいのよ。ねえ、いいでしょう。妾のわが儘ままを、許して下さってもいゝでしょう!」

そう云う言葉と容子とには、溢あふれるような媚こびがあった。そうした言葉を、聴いていると、勝平は、タジ〱となってしまって、一言でも逆うことは出来なかった。

が、その夜、勝平は自分一人寝室に入ってからも、若い妻のすべてが、彼の眼にも、鼻にも、耳にもこびり付いて離れなかった。眼の中には、彼女の柔い白い肉体が、人魚のように、艶なまめかしい媚態びたいを作って、何時までも何時までも、浮んでいた。鼻には、彼女の肉体の持っている芳香ほうこうが、ほのぼのと何時までも、漂っていた。耳には、そうだ! 彼女の快活な湿しめりのある声や、機智きちに富んだ言葉などが、何時までも何時までも消えなかった。

彼は、そうした妄想もうそうを去って、何どうかして、眠りを得ようとした。が、彼が努力すれば努力するほど、眼も耳も冴さえてしまった。おしまいには、見上げて居る天井てんじょうに、幾つも〱妻の顔が、現れて、媚びのある微笑を送った。

『彼女は、たゞ恥かしがっているのだ。処女としての恥かしさに過ぎないのだ。それは、此方こちらから取り去ってやればそれでいゝのだ!』

彼は、そう思い出すと、一刻も自分の寝台にじっと、身体を落ち着けていることが出来なかった。子供らしい処女らしい恥らいを、その儘に受け入れていた自分が、あまりにお人好ひとよしのように思われ始めた。

彼は、フラ〱として、寝台を離れて、夜更よふけの廊下へ出た。

三

廊下へ出て見ると、家人達はみんな寝静まっていた。まだ十月の半なかばではあったが、広い洋館の内部には、深夜の冷気が、ひや〱と、流れていた。が、烈はげしい情火に狂っている勝平の身体からだには、夜の冷たさも感じられなかった。彼は、自分の家の中を、盗人ぬすびとのように、忍びやかに、夢遊病者のように覚束おぼつかなく、瑠璃子の部屋の方向へ歩いた。

彼女の部屋は、階下に在った。廊下の燈火とうかは、大抵消されていたが、階段に取り付けられている電燈が、階上にも階下にも、ほのかな光を送っていた。

勝平は、彼女に与えた約束を男らしくもなく、取り消すことが心苦しかった。彼女に示すべき自分の美点は、男らしいと云いう事より、外には何もない。彼女の信頼を得るように、男らしく強く堂々と、行動しなければならない。それが、彼女の愛を得る唯一ゆいいつの方法だと勝平は心の中で思っていた。それだのに、彼女に一旦いったん与えた約束を、取り消す。男らしくもなく破約する。が、そうした心苦しさも、勝平の身体全体に、今潮のように漲みなぎって来る烈しい慾望を、何どうすることも出来なかった。

階段を下りて、左へ行くと応接室があった。右へ行くと美奈子みなこの部屋があり、その部屋と並んで瑠璃子に与えた部屋があった。

瑠璃子の部屋に近づくに従って、勝平の心には烈しい動揺があった。それは、年若い少年が初めて恋人の唇を知ろうとする刹那せつなのような、烈しい興奮だった。彼は、そうした興奮を抑えて、じっと瑠璃子の部屋へ忍び寄ろうとした。

丁度、その時に、勝平は我を忘れて『アッ』と叫び声を挙げようとした。それは、今彼が近づこうとしたその扉ドアに、一人の人間が紛れもない一人の男性が、ピッタリと身体を寄せていたからである。冷たい悪寒おかんが、勝平の身体を流れて、爪つめの先までをも顫ふるわせた。彼は、電気に掛けられたように廊下の真中へ立ち竦すくんでしまった。

が、相手は勝平の近づくのを知っている筈はずだのに、ピクリとも身体を動かさなかった。扉ドアに彫り付けられている木像か何かのように、闇やみの中にじっと立ち尽しているようだった。

『盗賊どろぼう!』最初勝平は、そう叫ぼうかとさえ思ったが、彼の四十男に相当した冷静が彼の口を制したが、その次ぎに、ムラ〱と彼の心を閉したものは、漠然たる嫉妬しっとだった。一人の男性が、妻の寝室の扉ドアの前に立っている。それだけで、勝平の心を狂わすのに十分だった。

彼は、握りしめた拳こぶしを、顫わしながら、必死になって、一歩々々扉ドアに近づいた。が、相手は気味の悪いほど、冷静にピクリとも動かない。勝平が、最後の勇気を鼓して、相手の胸倉を掴つかみながら、低く、

「誰だ!」と、叱しっした時、相手は勝平の顔を見て、ニヤリと笑った。それは紛れもなく勝彦かつひこだったのである。

自分の子の卑いやしい笑い顔を見たときに、剛愎ごうふくな勝平も、ガンと鉄槌てっついで殴られたように思った。言い現し方もないような不快な、あさましいと云った感じが、彼の胸の裡うちに一杯になった。自分の子があさましかった。が、あさましいのは、自分の子丈だけではなかった。もっと、あさましいのは、自分自身であったのだ。

「お前! 何をしているのだ! 茲ここで。」

勝平は、低くうめくように訊きいた。が、それは勝彦に訊いているのではなく、自分自身に訊いているようにも思われた。

勝彦は、離れの日本間の方で寝ている筈なのだ。が、それがもう夜の二時過であるのに、瑠璃子の部屋の前に立っている。それは、勝平に取っては、堪たえられないほど、不快なあさましい想像の種だった。

「何をしているのだ! こんな処ところで。こんなに遅く。」何時いつもは、馬鹿ばかな息子に対し可なり寛大である父であったが、今宵こよいに限っては、彼は息子に対して可なり烈しい憎悪ぞうおを感じたのである。

「何をしていたのだ! おい!」

勝平は、鋭い眼で勝彦を睨にらみながら、その肩の所を、グイと小突こづいた。

四

「茲ここに何をしていたのだ、茲に!」

父が、必死になって責め付けているのにも拘かかわらず、勝彦はたゞニヤリ〱と、たわいもなく笑い続けた。薄気味のわるいとりとめもなき子の笑いが、丁度自分の恥しい行為を、嘲笑あざわらっているかのように、勝平には思われた。

彼は、瑠璃子やまた、直すぐ次ぎの扉ドアの裡うちに眠っている美奈子の夢を破らないようにと、気を付けながらも、声がだんだん激しくなって行くのを抑えることが出来なかった。

「おい! こんなに遅く、茲ここに何をしていたのだ。おい!」

そう云いながら、勝平は再び子の肩を突いた。父にそう突き込まれると、白痴相当に、勝彦は顔を赤あからめて、口ごもりながら云いった。

「姉さんの所へ来たのだ。姉さんの所へ来たのだ。」姉さん、勝彦はこの頃、瑠璃子をそう呼び慣ならっていた。

「姉さん! 姉さんの所へ!」

勝平は、そう云いながらも、自分自身地の中へ、入ってしまいたいような、浅ましさと恥しさとを感じた。が、それと同時に、韮にらを噛かむような嫉妬しっとが、ホンの僅わずかではあるが、心の裡に萌きざして来るのを、何どうすることも出来なかった。が、父のそうした心持を、嘲あざけるように、勝彦は又ニタリ〱と愚かな笑いを、笑いつゞけている。

「姉さんの所へ何をしに来たのだ。何の用があって来たのだ。こんなに夜遅く。」

勝平は、心の中の不愉快さを、じっと抑えながら、訊きく所まで、訊き質たださずにはいられなかった。

「何も用はない。たゞ顔を見たいのだ。」

勝彦は、平然とそれが普通な当然な事ででもあるように云った。

「顔を見たい!」

勝平は、そう口では云ったものの、眼が眩くらむように思った。他人は、誰も居合わさない場所ではあったが、自分の顔を、両手で掩おおい隠したいとさえ思った。

彼は、もう此この上、勝彦に言葉を掛ける勇気もなかった。が、今にして、息子のこうした心を、刈り取って置かないと、どんな恐ろしい事が起るかも知れないと思った。彼は不快と恥しさとを制しながら云った。

「おい! 勝彦これから、夜中などに、お姉さんの部屋へなんか来たら、いけないぞ! 二度とこんな事があると、お父様が承知しないぞ!」

そう云いながら、勝平は、わが子を、恐ろしい眼で睨にらんだ。が、子はケロリとして云った。

「だって、お姉さまは、来てもかまわない! と云ったよ。」勝平は、頭からガンと殴なぐられたように思った。

「来てもかまわない! 何時いつ、そんな事を云った? 何時そんなことを云った?」

勝平は、思わず平常ふだんの大声を出してしまった。

「何時って、何時でも云っている。部屋の前になら、何時まで立っていてもいゝって、番兵になって呉れるのならいゝって!」

「じゃ、お前は今夜だけじゃないのか。馬鹿ばかな奴やつめ! 馬鹿な奴め!」

そう云いながらも、勝平は子に対して、可なり激しい嫉妬を懐いだかずにはいられなかった。

それと同時に、瑠璃子に対しても、恨うらみに似た烈しい感情を持たずにはいられなかった。

「そんな事を姉さんが云った! 馬鹿な! 瑠璃子に訊いて見よう。」

彼は、息子を押し退のけながら、その背後うしろの扉ドアを、右の手で開けようとした。が、それは釘付くぎづけにでもされたように、ピタリとして、少しも動かなかった。彼は声を出して、叫ぼうとした。

その途端に、ガタリと扉ドアが開く音がした。が、開いたのはその扉ドアではなくして、美奈子の寝室の扉ドアであった。

純白の寝衣ねまきを付けた少女はまろぶように、父の傍に走り寄った。

「お父様! 何と云うことでございます。何も云わないで、お休みなさいませ。お願いでございます。お姉様にこんなところを見せては親子の恥ではございませんか。」

美奈子の心からの叫びに、打たれたように、勝平は黙ってしまった。

勝彦は、相変らず、ニヤリ〱と妹の顔を見て笑っていた。

丁度此の時、扉ドアの彼方あなたの寝台の上に、夢を破られた女は、親子の間の浅ましい葛藤かっとうを、聞くともなく耳にすると、其その美しい顔に、凄すごい微笑を浮べると、雪のような羽蒲団はねぶとんを又再び深々と、被かぶった。

五

自分の寝室へ帰って来てからも、勝平は悶々もんもんとして、眠られぬ一夜を過してしまった。恋する者の心が、競争者の出現に依よって、焦あせり出すように、勝平の心も、今迄いままでの落着、冷静、剛愎ごうふくの凡すべてを無くしてしまった。競争者、それが何と云いう堪たまらない競争者であろう。それが自分の肉親の子である。肉親の父と子が、一人の女を廻めぐって争っている。親が女の許もとへ忍ぶと子が先廻りしている。それは、勝平のような金の外には、物質の外には、何物をも認めないような堕落だらくした人格者に取っても堪らないほどあさましいことだった。

もし、勝彦が普通の頭脳があり、道義の何物かを知っていれば、罵ののしり恥かしめて、反省させることも容易なことであるかも知れない。(尤もっとも、勝平に自分の息子の不道徳を責め得る資格があるか何どうかは疑問であった。)が、勝彦は盲目的な本能と烈はげしい慾望の外は、何も持っていない男である。相手が父の妻であろうが、何であろうが、たゞ美しい女としか映らない男である。それに人並外れた強力ごうりきを持っている彼は、どんな乱暴をするかも分らなかった。

その上に、勝平は自分の失言に対する苦い記憶があった。彼は、一時瑠璃子を勝彦の妻にと思ったとき、その事を冗談のように勝彦に、云い聴かせたことがある。何事をも、直すぐ忘れてしまう勝彦ではあったが、事柄が事柄であった丈に、その愚な頭の何処どこかにこびり付かせているかも知れない。そう考えると、勝平の頭は、愈いよいよ重苦しく濁ってしまった。

『そうだ! 勝彦を遠ざけよう。葉山の別荘へでも追いやろう。何とか賺すかして、東京を遠ざけよう。』勝平はわが子に対して、そうした隠謀をさえ考え始めていた。

興奮と煩悶はんもんとに労つかれた勝平の頭も、四時を打つ時計の音を聴いた後は、何時いつしか朦朧もうろうとしてしまって、寝苦しい眠りに落ちていた。

眼が覚めた時、それはもう九時を廻っていた。朗かな十月の朝であった。青い紗しゃの窓掛を透すかした明るい日の光が、室中に快い明るさを湛たたえた。

朝の爽さわやかな心持に、勝平は昨夜の不愉快な出来事を忘れていた。尨大ぼうだいな身体を、寝台から、ムクムクと起すと、上草履うわぞうりを突っかけて、朝の快い空気に吸い付けられたように、縁側ヴェランダに出た。彼は自分の宏大こうだいな、広々と延びている庭園を見ながら、両手を高く拡ひろげて、快い欠伸あくびをした。が、彼が拡げた両手を下した時だった。十間ばかり離れた若い楓かえでの植込の中を、泉水の方へ降りて行く勝彦の姿を見た。彼に似て、尨大な立派な体格だった。が、歩いて行くのは勝彦一人ではなかった。勝彦の大きい身体の蔭かげから、時々ちら〱美しい色彩の着物が、見えた。勝平は、最初、それが美奈子であることを信じた。勝彦は白痴ではあったが、美奈子丈だけには、やさしい大人しい兄だった。勝平は何時もの通り兄妹きょうだいの散歩であると思っていた。が、植込の中の道が右に折れ、勝平の視線と一直線になったとき、その男女は相並んで、後姿を勝平に見せた。女は紛れもなき瑠璃子だった。而しかも彼女の白い、遠目にも、くっきりと白い手は、勝彦の肩、そうだ、肩よりも少し低い所へ、そっと後から当てられているのだった。

それを見たとき、勝平は煮えたぎっている湯を、飲まされたような、凄すさまじい気持になっていた。ニヤリ〱と悦えつに入っているらしいわが子の顔が、アリ〱と目に見えるように思った。彼は、縁側ヴェランダから飛び降りて、わが子の顔を思うさま、殴り付けてやりたいような恐ろしい衝動を感じた。

が、それにも増して、瑠璃子の心持が、グッと胸に堪えて来た。昨夜ゆうべの騒ぎを知らぬ筈はずがない、親子の間の、浅ましい情景シーンを知らぬ筈がない。隣の部屋の美奈子さえ、眼を覚しているのに、瑠璃子が知らない筈はない。知っていながら、昨夜ゆうべの今日勝彦をあんなに近づけている。

そう思うと、勝平は、瑠璃子の敵意を感ぜずにはいられなかった。そうだ! 自分が小娘として、つまらない油断や、約束をしたのが悪かったのだ。云わば降伏した敵将の娘を、妻にしているようなものである。美しい顔の下に、どんな害心を蔵しているかも知れない。

が、そう警戒はしながら、瑠璃子を愛する心は、少しも減じなかった。それと同時に、眼前の情景シーンに対する嫉妬しっとの心は少しも減じなかった。

六

勝平が、縁側ヴェランダの欄干に、釘付くぎづけにされながら、二人の後姿が全く見えなくなった若い楓かえでの林を、じっと見詰めている時に、その林の向うにある泉水の畔ほとりから、瑠璃子の華やかな笑いが手に取るように聞えて来た。

それは、雲雀ひばりの歌うように、自由な快活な笑いだった。結婚して以来、もう一月以上の日が経たつ内、勝平に対しては決して笑ったことのないような自由な快活な笑い声であった。茲ここからは見えない泉水のほとりで、縦令たとえ馬鹿ばかではあるにしろ年齢としだけは若い、身体丈だけは堂々と立派な勝彦が、瑠璃子と相並んで、打ち興じている有様が、勝平の眼に、マザ〱と映って来るのであった。

彼は苦々しげに、二人に向ってでも吐くように、唾つばを遥はるかな地上へ吐いてから、その太い眉まゆに、深い決心の色を凝こめながら、階下へ降りて行った。

勝平は、抑え切れない不快な心持に、悩まされつゝ、罪のない召使を、叱しかり飛ばしながら、漸ようやく顔を洗ってしまうと、苦り切った顔をして、朝の食卓に就いた。いつも朝食を一緒にする筈はずの瑠璃子はまだ庭園から、帰って来なかった。

「奥さんは何どうしたのだ。奥さんは!」勝平は、オド〱している十五六の小間使を、噛かみ付けるように叱り飛した。

「お庭でございます。」

「庭から、早く帰って来るように云いって来るのだ。俺わしが起きているじゃないか。」

「ハイ。」小さい小間使は、勝平の凄すさまじい様子に、縮み上りながら、瑠璃子を呼びに出て行った。

瑠璃子が、入って来れば、此この押え切れない憤いきどおりを、彼女に対しても、洩もらそう。白痴の子を弄もてあそんでいるような、彼女の不謹慎ふきんしんを思い切り責めてやろう。勝平はそう決心しながら、瑠璃子が入って来るのを待っていた。

二三分も経たない裡うちに、衣きぬずれの音が、廊下にしたかと思うと、瑠璃子は少女のようにいそいそと快活に、馳かけ込んで来た。

「まあ! お早う! もう起きていらしったの。妾わたくしちっとも、知らなかったのよ。お寝坊の貴方あなたの事だから、どうせ十一時近くまでは大丈夫だと思っていたのよ。昨夜ゆうべあんなに遅く帰って来たのに、よくまあ早くお目覚めざめになったこと。この花美しいでしょう。一番大きくて、一番色の烈はげしい花なのよ。妾これが大好き。」

そう云いながら、瑠璃子は右の手に折り持っていた、真紅しんくの大輪のダリヤを、食卓テーブルの上の一輪挿いちりんざしに投げ入れた。

勝平は、何うかして瑠璃子をたしなめようと思いながらも、彼女の快活な言葉と、矢継早の微笑に、面と向うと、彼は我にもあらず、凡すべての言葉が咽喉のどのところに、からんでしまうように思った。

「昨夜、よくお眠りになって? 妾わたくし芝居で疲れましたでしょう、今朝まで、グッスリと寝入ってしまいましたのよ。こんなに、よく眠られたことはありませんわ、近頃。」

昨夜の騒ぎを、親子三人のあさましい騒ぎを、知っているのか知らないのか、瑠璃子はその美しい顔の筋肉を、一筋も動かさずに、華奢きゃしゃな指先で、軽く箸はしを動かしながら、勝平に話しかけた。

勝平は、心の裡に、わだかまっている気持を、瑠璃子に向って、洩すべき緒いとぐちを見出みいだすのに苦しんだ。相手が、昨夜の騒ぎを、少しも知らないと云うのに、それを材料として、話を進めることも出来なかった。

彼は、瑠璃子には、一言も答えないで、そのいら〱しい気持を示すように、自棄やけに忙せわしく箸を動かしていた。

勝平の不機嫌を、瑠璃子は少しも気に止めていないように、平然と、その美しい微笑を続けながら、

「妾わたくし、今日三越みつこしへ行きたいと思いますの。連れて行って下さらない?」

彼女は、プリ〱している勝平に、尚なお小娘か何かのように、甘えかゝった。

「駄目です。今日は東洋造船の臨時総会だから。」

勝平は、瑠璃子に対して、初めて荒々しい言葉を使った。彼女はその荒々しい語気を跳ね返すように云った。

「あら、そう。それでは、勝彦さんに一緒に行っていたゞくわ。……いゝでしょう。」

七

勝彦の名が瑠璃子の唇を洩もれると、勝平の巨おおきい顔は、益ますます苦り切ってしまった。

相手のそうした表情を少しも眼中に置かないように、瑠璃子は無邪気にしつこく云いった。

「勝彦さんに、連れて行っていたゞいたらいけませんの。一人だと何だか心細いのですもの。妾わたくし一人だと買物をするのに何だか定きまりが付かなくって困りますのよ。表面うわべ丈だけでもいゝからいゝとか何とか合槌あいづちを打って下さる方が欲しいのよ。」

「それなら、美奈子と一緒に行らっしゃい。」

勝平は、怒った牡牛おうしのようにプリ〱しながら、それでも正面から瑠璃子をたしなめることが出来なかった。

「美奈子さん。だって、美奈子さんは、三時過ぎでなければ学校から、帰って来ないのですもの。それから支度をしていては、遅くなってしまいますわ。」

瑠璃子は、大きい駄々っ子のような表情を見せながら、その癖顔丈だけは、微笑を絶たなかった。勝平は又黙ってしまった。瑠璃子は追撃するように云った。

「何どうして勝彦さんに一緒に行っていたゞいては、いけませんの。」

勝平の顔色は、咄嗟とっさに変った。その顳顬こめかみの筋肉が、ピク〱動いたかと思うと、彼は顫ふるえる手で箸はしを降しながら、それでも声丈だけは、平静な声を出そうと努めたらしかったが、変に上ずッてしまっていた。

「勝彦! 勝彦勝彦と、貴女あなたはよく口にするが、貴女は勝彦を一体何だと思っているのです。もう、一月以上此この家にいるのだから、気が付いたでしょう。親の身として、口にするさえ恥かしいが、あれは白痴ですよ。白痴も白痴も、御覧の通とおり東西も弁じない白痴ですよ。あゝ云う者を三越に連れて行く。それは此の荘田の恥、荘田一家の恥を、世間へ広告して歩くようなものですよ。貴女も、動機は兎とも角かく、一旦いったん此の家の人となった以上、こう云う馬鹿ばか息子があると云うことを、広告して下さらなくってもいゝじゃありませんか。」

勝平は、結婚して以来、初めて荒々しい言葉を、瑠璃子に対して吐いた。が、象牙ぞうげの箸を飯椀めしわんの中に止めたまゝ、じっと聴いていた瑠璃子は、眉まゆ一つさえ動かさなかった。勝平の言葉が終ると、彼女は駭おどろいたように、眼を丸くしながら、

「まあ! あんなことを。そんな邪推じゃすいしていらっしゃるの。妾わたくし勝彦さんを馬鹿だとか白痴だとか賤いやしめたことは、一度もありませんわ。あんな無邪気な純な方はありませんわ。それは、少し足りないことは足りないわ。それは、お父様の前でも申し上げねばなりません。でも、あんなに正直な方に、妾初めてお目にかゝりましたのよ。それに妾の云ったことなら、何でもして下さるのですもの。此間、お家が広いので、夜寝室の中に、一人いると何だか寂しく心細くなると、申しますと、勝彦さんは、それなら毎晩部屋の外で番をしてやろうと仰おっしゃるのですよ、妾冗談だとばかり、思っていますと、一昨夜二時過ぎに、廊下に人の気勢けはいがするので、扉ドアを開けて見ますと、勝彦さんが立っていらっしゃるじゃありませんか。それが、丁度中世紀の騎士ナイトが、貴婦人を護まもる時のように、儼然げんぜんとして立っていらっしゃるのですもの。妾可笑おかしくもあれば、有難くも思ったわ。妾此の頃、智恵ちえのある怜悧れいりな方には、飽き〱していますの。また、その智恵を、人を苦しめたり陥おとしいれたりする事に使う人達に、飽き〱していますのよ。また、人が傷きずつけ合ったり陥れ合ったりする世間その物にも、愛想あいそが尽きていますのよ。妾、勝彦さんのような、のんびりとした太古の心で、生きている方が、大好きになりましたのよ。貴方あなたの前でございますが、何うして勝彦さんを捨てゝ、貴方を選んだかと思うと、後悔していますのよ。おほゝゝゝゝゝ。」

爽さわやかな五月さつきの流が、蒼あおい野を走るように、瑠璃子は雄弁だった。黙って聴いていた勝平の顔は、怒いかりと嫉妬しっとのために、黒ずんで見えた。

余りに脆もろき

一

勝平は、冗談かそれとも真面目まじめかは分らないが、人を馬鹿ばかにしているように、からかっているように、勝彦かつひこを賞める瑠璃子るりこの言葉を聞いていると、思わずカッとなってしまって、手に持っている茶碗ちゃわんや箸はしを、彼女に擲なげつけてやりたいような烈はげしい嫉妬しっとと怒とを感じた。が、口先ではそんな厭いやがらせを云いいながらも、顔丈だけは此この頃の秋の空のように、澄み渡った麗うららかな瑠璃子を見ていると、不思議に手が竦すくんで、茶碗を投げ付くることは愚か、一指を触るゝことさえも、為なし得なかった。

が、勝平は心の中で思った。此の儘ままにして置けば、瑠璃子と勝彦とは、日増に親しくなって行くに違いない。そして自分を苦しめるのに違いない。少くとも、当分の間、自分と瑠璃子とが本当の夫婦となるまで、何どうしても二人を引き離して置く必要がある。勝平は、咄嗟とっさにそう考えた。

「あはゝゝゝゝ。」彼は突然取って付けたように笑い出した。「まあいゝ! 貴女あなたがそんなに馬鹿が好きなら連れて行くもよかろう。貴女のようなのは、天邪鬼あまのじゃくと云うのだ。あはゝゝゝゝ。」

勝平は、嫉妬と憤怒ふんぬとを心の底へと、押し込みながら、何気ないように笑った。

「何うも、有難う。やっと、お許しが出ましたのね。」瑠璃子も、サラリと何事もなかったように微笑した。

その時に、勝平は急に思い付いたように云った。

「そう〱。貴女あなたに話すのを忘れていた。此間中頭が重いので、一昨日おととい、近藤に診みて貰もらうと、神経衰弱の気味らしいと云うのだ。海岸へでも行って、少し静養したら何うだと云うのだがね、そう云われると、俺わしも此の七月以来会社の創立や何かで、毎日のように飛び廻っていたものだからね、精力主義の俺わしも可なりグダ〱になっているのだ。神経衰弱だなんて、大したこともあるまいと思うが、まあ暫しばらく葉山へでも行って、一月ばかり遊んで来ようかと思うのだ。尤もっとも、彼処あそこからじゃ、毎日東京に通っても訳はないからね。それに就いては、是非貴女に一緒に行っていたゞきたいと思うのだがね。」勝平は、熱心に、退引のっぴきならないように瑠璃子に云った。

「葉山へ!」と云ったまゝ、遉さすがに彼女は二の句を云い淀よどんだ。

「そうです! 葉山です。彼処に、林子爵ししゃくが持っていた別荘を、此春譲って貰ったのだが、此夏美奈子みなこが避暑に行った丈だけで、俺わしはまだ二三度しか宿とまっていないのだ。秋の方が、静しずかでよいそうだから、ゆっくり滞在したいと思うのだが。」

勝平は、落着いた口調で言った。葉山へ行くことは、何の意味もないように云った。が、瑠璃子には、その言葉の奥に潜んでいる勝平のよからぬ意思を、明かに読み取ることが出来た。葉山で二人丈だけになる。それが何う云う結果になるかは瑠璃子には可なりハッキリ分るように思った。が、彼女はそうした危機を、未然に避くることを、潔いさぎよしとしなかった。どんな危機に陥っても、自分自身を立派に守って見せる。彼女には、女ながらそうした烈しい最初の意気が、ピクリとも揺いでいなかった。

「結構でございますわ、妾わたくしも、そんな所で静かな生活を送るのが大好きでございますのよ。」

彼女は、その清麗な面に、少しの曇も見せないで、爽さわやかに答えた。

「あゝ行って呉くれるのか。それは有難い。」

勝平は、心から嬉うれしそうにそう云った。葉山へさえ、伴って行けば、当分勝彦と引き離すことが出来る上に、其処そこでは召使を除いた外は、瑠璃子と二人切りの生活である。殊ことに、鍵かぎのかかり得るような西洋室はない。瑠璃子を肉体的に支配してしまえば、高が一個の少女である。普通の処女がどんなに嫌い抜いていても、結婚してしまえば、男の腕に縋すがり付くように、彼女も一旦いったんその肉体を征服してしまえば、余りに脆もろき一個の女性であるかも知れない。勝平はそう思った。

「それなら丁度ようございますわ。三越みつこしへ行って、彼方あちらで入用な品物を揃そろえて参りますわ。」

彼女は、身に迫る危険な場合を、少しも意に介しないように、寧むしろいそ〱としながら云った。

二

愛し合った夫であるならば、それは楽しい新婚旅行である筈はずだけれども、瑠璃子の場合は、そうではなかった。勝平と二人限きりで、東京を離れることは、彼女に取っては死地に入ることであった。東京の邸やしきでは、人目が多い丈だけに、勝平も一旦いったん与えた約束の手前、理不尽な振舞に出ることは出来なかったが、葉山では事情が違っていた。今迄いままでは敵と戦うのに、地の利を得ていた。小さいながらも、彼女の城廓じょうかくがあった。殊ことに盲目的に、彼女を護まもっている勝彦と云いう番兵もあった。が、葉山には、何もなかった。彼女は赤手にして、敵と渡り合わねばならなかった。勝敗は、天に委まかせて、兎とに角かくに、最後の必死的な戦いを、戦わねばならなかった。

そうした不安な期待に、心を擾みだされながらも、彼女はいろ〱と、別荘生活に必要な準備を整えた。彼女は、当座の着替や化粧道具などを、一杯に詰め込んだ大きなトランクの底深く、一口ひとふりの短剣を入れることを忘れなかった。それが、夫と二人限きりの別荘生活に対する第一の準備だった。

父の男爵だんしゃくが、瑠璃子の烈はげしい執拗しつような希望に、到頭動かされて、不承々々に結婚の承諾を与えて、最愛の娘を、憎み賤いやしんでいた男に渡すとき、男爵は娘に最後の贈り物として、一口の短剣を手渡した。

「これは、お前のお母様が家へ来るときに持って来た守り刀なのだ。昔の女は、常に懐刀ふところがたなを離さずに、それで自分の操みさおを守ったものだ。貴女あなたも普通の結婚をするのなら、こんなものは不用だが、今度のような結婚には、是非必要かも知れない。これで、貴女の現在の決心を、しっかりと守るようになさい。」

父の言葉は簡単だった。が、意味は深かった。彼女はその匕首あいくちを身辺から離さないで、最後の最後の用意としていた。そうした最後の用意が、如何いかなる場合にも、彼女を勇気付けた。牡牛おうしのように巨おおきい勝平と相対していながら、彼女は一度だって、怯おそれたことはなかった。

瑠璃子が暫しばらく東京を離れると云うことが分ると、一番に驚いたのは勝彦だった。彼は瑠璃子が準備をし始めると、自分も一緒に行くのだと云って、父の大きいトランクを引っ張ぱり出して来て、自分の着物や持物を滅茶苦茶めちゃくちゃに詰め込んだ。おしまいには、自分の使っている洗面器までも、詰め込んで召使達を笑わせた。彼は、瑠璃子に捨てゝ置かれないようにと、一瞬の間も瑠璃子を見失わないように後あとへ〱と付き纏まとった。

それを見ると、勝平は眉まゆを顰ひそめずにはいられなかった。

出立しゅったつの朝だった。自分が捨てゝ置かれると云うことが分ると、勝彦は狂人のように暴あばれ出した。毎年一度か二度は、発作的に狂人のようになってしまう彼だった。彼は瑠璃子と父とが自動車に乗るのを見ると、自分も跣足はだしで馳かけ降りて来ながら、扉ドアを無理矢理に開けようとした。執事や書生が三四人で抱き止めようとしたが、馬鹿ばか力の強い彼は、後から抱き付こうとする男を、二三人も其処そこへ振り飛ばしながら、自動車に縋すがり付いて離れなかった。

白痴でありながらも、必死になっている顔色を見ると、瑠璃子は可なり心を動かされた。主人に慕い纏まつわって来る動物に対するようないじらしさを、此この無智むちな勝彦に対して、懐いだかずにはいられなかった。

「あんなに行きたがっていらっしゃるのですもの。連れて行って上げてはいけないのですか。」

瑠璃子は夫を振返りながら云った。その微笑が、一寸ちょっと皮肉な色を帯びるのを、彼女自身制することが出来なかった。

「馬鹿な!」

勝平は、苦り切って、一言に斥しりぞけると、自動車の窓から顔を出しながら云った。

「遠慮をすることはない。グン〱引き離して彼方あっちへ連れて行け。暴れるようだったら、何時いつかの部屋へ監禁してしまえ。当分の間、監視人を付けて置くのだぞ、いゝか。」

勝平は、叱しかり付けるように怒鳴ると、丁度勝彦の身体からだが、多勢の力で車体から引き離されたのを幸さいわいに、運転手に発車の合図を与えた。

動き出した車の中で瑠璃子は一寸居ずまいを正しながら、背後うしろに続いている勝彦のあさましい怒号に耳を掩おおわずにはいられなかった。

三

葉山へ移ってから、二三日の間は、麗うららかな秋日和びよりが続いた。東京では、とても見られないような薄緑の朗かな空が、山と海とを掩おおうていた。海は毎日のように静かで波の立たない海面は、時々緩やかなうねりが滑かに起伏していた。海の色も、真夏に見るような濃藍のうらんの色を失って、それ丈だけ親しみ易やすい軽い藍色あいいろに、はる〲と続いていた。その端はてに、伊豆いずの連山が、淡くほのかに晴れ渡っているのだった。

十月も終に近い葉山の町は、洗われたように静かだった。どの別荘も、どの別荘も堅く閉されて人の気勢けはいがしなかった。

御用邸に近い海岸にある荘田しょうだ別荘は、裏門を出ると、もう其処そこの白い砂地には、崩くずれた波の名残りが、白い泡沫ほうまつを立てているのだった。

勝平は、葉山からも毎日のように、東京へ通っていた。夫の留守の間、瑠璃子は何人なんぴとにも煩わずらわされない静寂の裡うちに、浸っていることが出来た。

瑠璃子はよく、一人海岸を散歩した。人影の稀まれな海岸には、自分一人の影が、寂しく砂の上に映っていた。遥はるかに〱悠々と拡ひろがっている海や、その上を限かぎりなく広大に掩うている秋の朗かな大空を見詰めていると、人間の世のあさましさが、しみ〲と感ぜられて来た。自分自身が、復讐ふくしゅうに狂奔きょうほんして、心にもない偽りの結婚をしていることが、あさましい罪悪のように思われて、とりとめもなく、心を苦しめることなのであった。

葉山へ移ってから、三四日の間、勝平は瑠璃子を安全地帯に移し得たことに満足したのであろう。人のよい好々爺こうこうやになり切って、夕方東京から帰って来る時には、瑠璃子の心を欣よろこばすような品物や、おいしい食物などをお土産にすることを忘れなかった。

葉山へ移ってから、丁度五日目の夕方だった。其その日は、午ひる過ぎから空模様があやしくなって、海岸へ打ち寄せる波の音が、刻一刻凄すさまじくなって来るのだった。

海に馴なれない瑠璃子には、高く海岸に打ち寄せる波の音が、何となく不安だった。別荘番の老爺おやじは暗く澱よどんでいる海の上を、低く飛んで行く雲の脚を見ながら、『今宵こよいは時化しけかも知れないぞ。』と、幾度も〱口ずさんだ。

夕刻になるに従って、風は段々吹き募って来た。暗く暗く暮れて行く海の面おもてに、白い大きい浪なみがしらが、後から〱走っていた。瑠璃子は硝子戸ガラスどの裡から、不安な眉まゆをひそめながら、海の上を見詰めていた。烈はげしい風が砂を捲まいて、パラ〱と硝子ガラス戸に打ち突けて来た。

「あゝ早く雨戸を閉めておくれ。」

瑠璃子は、狼狽ろうばいして、召使に命じると、ピッタリと閉ざされた部屋の中に、今宵に限って、妙に薄暗く思われる電燈でんとうの下に、小さく縮かまっていた。人間同士の争いでは、非常に強い瑠璃子も、こうした自然の脅威の前には、普通の女らしく臆病おくびょうだった。海岸に立っている、地形の脆弱ぜいじゃくな家は、時々今にも吹き飛ばされるのではないかと思われるほど、打ち揺いだ。海岸に砕けている波は、今にも此この家を呑のみそうに轟々ごうごうたる響を立てゝいる。

瑠璃子には、結婚して以来、初めて夫の帰るのが待たれた。何時いつもは、夫の帰るのを考えると、妙に身体からだが、引き緊しまってムラ〱とした悪感おかんが、胸を衝ついて起るのであったが、今宵に限っては、不思議に夫の帰るのが待たれた。勝平の鉄のような腕かいなが何となく頼もしいように思えた。逗子ずしの停車場から自動車で、危険な海岸伝いに帰って来ることが何となく危あやぶまれ出した。

「こう荒れていると、鐙摺あぶずりのところなんか、危険じゃないかしら。」と女中に対して瑠璃子は、我にもあらず、そうした心配を口に出してしまった。

その途端に、吹き募った嵐あらしは、可なり宏壮こうそうな建物を打ち揺すった。鎖で地面へ繋つながれている廂ひさしが、吹きちぎられるようにメリ〱と音を立てた。

四

「こんなに荒れると、本当に自動車はお危のうございますわ。一層こんな晩は、彼方あちらでお宿とまりになるとおよろしいのでございますが。」

女中も主人の身を案ずるようにそう云いった。が、瑠璃子は是非にも帰って貰もらいたいと思った。何時いつもは、顔を見ている丈でも、ともすればムカ〱して来る勝平が、何となく頼もしく力強いように感ぜられるのであった。

日が、トップリ暮れてしまった頃から、嵐あらしは益ますます吹き募つのった。海は頻しきりに轟々ごうごうと吼ほえ狂った。波は岸を超え、常には干乾ひからびた砂地を走って、別荘の土堤どての根元まで押し寄せた。

「潮が満ちて来ると、もっと波がひどくなるかも知れねえぞ!」

海の模様を見るために出ていた、別荘番の老爺おやじは、漆のように暗い戸外から帰って来ると、不安らしく呟つぶやいた。

「まさか、此この間のような大暴風雨おおあらしにはなりますまいね。」

女中も、それに釣り込まれたように、オド〱しながら訊きいた。皆の頭に、まだ一月ひとつきにもならない十月一日の暴風雨の記憶がマザ〱と残っていた。それは、東京の深川本所に大海嘯おおつなみを起して、多くの人命を奪ったばかりでなく、湘南しょうなん各地の別荘にも、可なりヒドイ惨害さんがいを蒙こうむらせたのであった。

「まさか先度せんどのような大暴風雨おおあらしにはなるまいかと思うが、時刻も風の方向むきもよく似ているでなあ!」

老爺おやじは、心なしか瑠璃子達を脅おどすように、首を傾かしげた。

夜に入ってから、間もなく雨戸を打つ雨の音が、ボツリ〱と聞え出したかと思うと、それが忽たちまち盆を覆くつがえすような大雨となってしまった。天地を洗い流すような雨の音が、瑠璃子達の心を一層不安に充みたしめた。

恐ろしい風が、グラ〱と家を吹き揺すったかと思う途端に、電燈でんとうがふっと消えてしまった。こうした場合に、燈火あかりの消えるほど、心細いものはない。女中は闇やみの中から手探りにやっと、洋燈ランプを探し当てゝ火を点じたが、ほの暗い光は、一層瑠璃子の心を滅入めいらしてしまった。

暗い燈火あかりの下に蒐あつまっている瑠璃子と女中達を、もっと脅かすように、風は空を狂い廻り、波は断しきりなしに岸を噛かんで殺到した。

風は少しも緩みを見せなかった。雨を交えてからは、有力な味方でもが加わったように、益々ますます暴威を加えていた。風と雨と波とが、三方から人間の作った自然の邪魔物を打ち砕こうとでもするように力を協あわせて、此建物を強襲した。

ガラ〱と、何処どこかで物の砕け落ちる音がしたかと思うと、それに続いて海に面している廂ひさしが吹き飛ばされたと見え、ベリ〱と云う凄すさまじい音が、家全体を震動した。今迄いままでは、それでも、慎つつましく態度の落着を失っていなかった瑠璃子もつい度を失ったように立ち上った。

「何どうしようかしら、今の裡うちに避難しなくてもいゝのかしら。」

そう云う彼女の顔には、恐怖の影がアリ〱と動いていた。人間同士の交渉では、烈女のように、強い彼女も、自然の恐ろしい現象に対しては、女らしく弱かった。

女中達も、色を失っていた。女中は声を挙げて別荘番の老爺おやじを呼んだけれども、風雨の音に遮さえぎられて、別荘番の家までは、届かないらしかった。

ベリ〱と云う廂の飛ぶ音は、尚なお続いた。その度に、家がグラ〱と今にも吹き飛ばされそうに揺いだ。

丁度、此の時であった。瑠璃子の心が、不安と恐怖のどん底に陥って、藁わらにでも縋すがり付きたいように思っている時だった。凄じい風雨の音にも紛れない、勇ましい自動車の警笛サイレンが、暗い闇を衝ついてかすかに〱聞えて来た。

「あゝお帰りになった!」瑠璃子は甦よみがえったように、思わず歓喜に近い声を挙げた。その声には、夫に対する妻としての信頼と愛とが籠こもっていることを否定することが出来なかった。

五

風雨の烈はげしい音にも消されずに、警笛サイレンの響は忽たちまちに近づいた。門内の闇やみがパッと明るく照されて、その光の裡うちに雨が銀糸を列つらねたように降っていた。

瑠璃子と女中達二人とは、その燦然さんぜんと輝く自動車の頭光ヘッドライトに吸われたように、玄関へ馳かけ付けた。

微醺びくんを帯びた勝平は、その赤い巨おおきい顔に、暴風雨あらしなどは、少しも心に止めていないような、悠然たる微笑を湛たたえながら、のっそりと車から降りた。

「お帰りなさいまし、まあ大変でございましたでしょうね。お道が。」

瑠璃子のそうした言葉は、平素いつものように形式丈だけのものではなく、それに相当した感情が、ピッタリと動いていた。

「なに、大したことはなかったよ。それよりもね、貴女あなたが蒼あおくなっているだろうと思ってね。此この間の大暴風雨おおあらしで、みんなビク〱している時だからね。いや、鎌倉かまくらまで一緒に乗り合わして来た友人にね、此の暴風雨あらしじゃ道が大変だから、鎌倉で宿とまって行かないかと、云いわれたけれどもね。やっぱり此方こっちが心配でね。是非葉山へ行くと云ったら、冷かされたよ。美しい若い細君を貰もらうと、それだから困るのだと、はゝゝゝゝゝ。」

凄すさまじい風の音、烈しい雨の音を、聞き流しながら、勝平は愉快に哄笑こうしょうした。自然の脅威を跳ね返しているような勝平の態度に接すると、瑠璃子は心強く頼もしく思わずにはいられなかった。男性の強さが、今始めて感ぜられるように思った。

「妾わたくし何どうしようかと思いましたの。廂ひさしがベリベリと吹き飛ばされるのですもの。」

瑠璃子は、まだ不安そうな眼付をしていた。

「なに、心配することはない。十月一日の暴風雨あらしの時だって、土堤どてが少しばかり、崩された丈だけなのだ。あんな大暴風雨が、二度も三度も続けて吹くものじゃない。」

勝平は、瑠璃子が後から、着せかけた褞袍どてらに、くるまりながら、どっかりと腰を降ろした。

が、勝平のそうした言葉を、裏切るように、風は刻々吹き募って行った。可なり、ピッタリと閉されている雨戸迄までが、今にも吹き外されそうに、バタ〱と鳴り響いた。

「さあ! お酒の用意をして下さらんか、こうした晩は、お酒でも飲んで、大おおいに暴風雨と戦わなければならん、はゝゝゝ。」

勝平は、暴風雨の音に、怯おびえたように耳を聳そばだてゝいる瑠璃子にそう云った。

酒盃さかずきの用意は、整った。勝平は吹き荒すさぶ暴風雨の音に、耳を傾けながら、チビリ〱と盃さかずきを重ねていた。

「妾わたくし、本当に早く帰って下さればいゝと思っていましたのよ。男手がないと何となく心細くってよ。」

「はゝゝ、瑠璃子さんが、俺わしを心から待ったのは今宵こよいが始めてだろうな、はゝゝゝゝ。」

勝平は機嫌よく哄笑した。

「まあ! あんなことを、毎日心からお待ちしているじゃありませんか。」

瑠璃子は、ついそうした心易こころやすい言葉を出すような心持ちになっていた。

「何どうだか。分りゃしませんよ。老爺おやじめ、なるべく遅く帰って来ればいゝのに。こう思っているのじゃありませんか。はゝゝゝゝ。」

瑠璃子の今宵に限って、温かい態度に、勝平は心から悦えつに入っているのだった。

「それも、無理はありません。貴女あなたが内心俺わしを嫌っているのも、全く無理はありません。当然です、当然です。俺わしも嫌がる貴女あなたを、何時いつまでも名ばかりの妻として、束縛そくばくしていたくはないのです。これが、どんな恐ろしい罪かと云うことが分っているのです。所がですね。初めはホンの意地から、結婚した貴女が、一旦いったん形式丈だけでも同棲どうせいして見ると、……一旦貴女を傍に置いて見ると、死んでも貴女を離したくないのです。いや、死んでも貴女から離れたくないのです。」

余程酒が進んで来たと見え、勝平は管くだを捲まくようにそう云った。

六

風は益々ますます吹き荒れ雨は益々降り募っていた。が、勝平は戸外のそうした物音に、少しも気を取られないで、瑠璃子が酌ついでやった酒を、チビリ〱と嘗なめながら、熱心に言葉を継いだ。

「まあ、簡単に云いって見ると、スッカリ心から貴女あなたに惚ほれてしまったのです! 俺わしは今年四十五ですが、此この年まで、本当に女と云うものに心を動かしたことはなかったのです。勝彦や美奈子の母などとも、たゞ、在来ありきたりの結婚で、給金の入いらない高等な女中をでも、傭やとったように考うて、接していたのです。金が出来るのに従って、金で自由になる女とも沢山接して見ましたが、どの女もどの女も、たゞ玩具おもちゃか何かのように、弄もてあそんでいたのに過ぎないのです。俺わしは女などと云うものは、酒や煙草たばこなどと同じに、我々男子の事業の疲れを慰めるために存在している者に過ぎないとまで高を括くくっていたのです。所がです、俺のそうした考えは貴女に会った瞬間に、見事に打ち破られていたのです。男子の為ために作られた女でなくして、女自身のために作られた女、俺は貴女に接していると、直すぐそう云う感じが頭に浮かんだのです。男の玩具として作られた女ではなくして、男を支配するために作られた女、俺は貴女を、そう思っているのです。それと一緒に、今まで女に対して懐いだいていた侮蔑ぶべつや軽視は、貴女に対してはだん〱無くなって行くのです。その反対に、一種の尊敬、まあそう云った感じが、だん〱胸の中に萌きざして来たのです。結婚した当座は、何の此の小娘が、俺を嫌うなら嫌って見ろ! 今に、征服してやるから。と、こう思っていたのです。所が、今では貴女の前でなら、どんなに頭を下げても、いいと思い出したのです。貴女の愛情を、得るためになら、どんなに頭を下げても、いゝと思い始めたのです。何どうです、瑠璃子さん! 俺の心が少しはお分りになりますか。」

勝平は、そう云って言葉を切った。酔ってはいたが、その顔には、一本気な真面目まじめさが、アリ〱と動いていた。こうした心の告白をするために、故意わざと酒盃さかずきを重ねているようにさえ、瑠璃子に思われた。

「俺わしは、世の中に金より貴いものはないと思っていました。俺は金さえあれば、どんな事でも出来ると思っていました。実際貴女を妻にすることが、出来た時でさえ、金があればこそ、貴女のような美しい名門の子女を、自分の思い通どおりにすることが出来るのだと思っていたのです。が、俺が貴女を、金で買うことが出来たと想おもったのは、俺の考違かんがえちがいでした。金で俺の買い得たのは、たゞ妻と云う名前丈だけです。貴女の身体からだをさえ、まだ自分の物に、することが出来ないで苦しんでいるのです。まして、貴女の愛情の断片きれはしでも、俺の自由にはなっていないのです。俺わしは貴女の俺に対する態度を見て、つく〲悟さとったのです。俺の全財産を投げ出しても、貴女の心の断片きれはしをも、買うことが出来ないと云うことを、つく〲悟ったのです。が、そう思いながらも、俺は貴女を思い切ることが出来ないのです。俺は金で買い損ったものを、俺の真心で、買おうと思い立ったのです。いや、買うのではない、貴女の前に跪ひざまずいて、買うことの出来なかったものを哀願しようとさえ思っているのです。また、そうせずにはいられないのです。先刻さっきも申しました通とおり、もう一刻も貴女なしには生きられなくなったのです。」

変に言葉までが改まった勝平は、恋人の前に跪いている若い青年か、何かのように、激していた。彼の巨おおきい真赤な顔は、何処どこにも偽いつわりの影がないように、真面目に緊張していた。彼は大きい眼を刮むきながら、瑠璃子の顔を、じっと見詰めていた。敵意のある凝視なら、睨にらみ返し得る瑠璃子であったが、そうした火のような熱心の凝視には却かえって堪たえかねたのであろう、彼女は、眩まぶしいものを避けるように、じっと顔を俯うつむけた。

「何うです! 瑠璃子さん! 俺わしの心を、少しは了解して下さいますか。」

勝平の声は、瑠璃子の心臓を衝つくような力が籠こもっていた。

七

酒の力を借りながら、その本心を告白しているらしい勝平の言葉を、聴いていると、今までは獣的ブルータルな、俗悪な男、精神的には救われるところのない男だと思い捨てゝいた勝平にも、人間的な善良さや弱さを、感ぜずにはいられなかった。

あれ丈だけ、傲岸ごうがんで黄金の万能を、主張していた男が、金で買えない物が、世の中に儼げんとして存在していることを、潔いさぎよく認めている。金では、人の心の愛情の断片かけらをさえ、買い得ないことを告白している。彼は、今自分の非を悟って、瑠璃子の前に平伏して彼女の愛を哀願している。敵は脆もろくも、降くだったのだ。そうだ! 敵は余りにも、脆くも降ったのだ、瑠璃子は心の裡うちで思わず、そう叫ばずにはいられなかった。

「瑠璃子さん! 俺わしはお願いするのだ。俺は、俺の前非を悔いて貴女あなたに、お願いするのじゃ。貴女は、心から俺の妻になって下さることは出来んでしょうか。これまでの偽りの結婚を、俺の真心で浄きよめることは出来んでしょうか。俺は、この結婚を浄めるために、どんなことをしてもいゝ。俺の財産を、みんな投げ出してもいゝ。いや俺の身体からだも生命いのちもみんな投げ出してもいゝ。俺は、貴女から、夫として信頼され愛されさえすれば、どんな犠牲を払ってもいゝと思っているのです。俺は、先刻さっき自動車から降りて、貴女と顔を見合せた時、俺は結婚して以来初めて幸福を感じたのです。今日丈だけは、貴女が心から俺を迎えて呉くれている。貴女の笑顔が心からの笑顔だと思うと、俺は初めて結婚の幸福を感じたのです。が、それも落着いて考えて見ると、貴女が俺を喜んで迎えて呉れたのも、夫としてではない、たゞこんな恐ろしい晩に必要な男手として喜んでいるのだと思うと、又急に情なくなるのです。俺が貴女を、賤いやしい手段で、妻にしたと云う罪を、俺の貴女に対する現在の真心で浄めさせて下さい!」

勝平は、酒のために、気が狂ったのではないかと思われるほどに激昂げっこうしていた。瑠璃子は相手の激しい情熱に咽むせたように何時いつの間にか知らず〱、それに動かされていた。

「瑠璃子さん、貴女も今までの事は、心から水に流して、俺わしの本当の妻になって下さい。貴女が心ならずも、俺わしの妻になったことは、不幸には違いない。が、一旦いったん妻になった以上、貴女が肉体的には、妻でないにしろ、世間では誰も、そうは思っていないのです。社会的に云えば、貴女は飽くまでも、荘田勝平の妻です。貴女も、こうした羽目に陥ったことを、不幸だと諦あきらめて、心から俺の妻になって下さらんでしょうか。」

勝平の眼は、熱のあるように輝いていた。瑠璃子も、相手の熱情に、ついフラ〱と動かされて、思わず感激の言葉を口走ろうとした。が、その時に彼女の冷たい理性が、やっとそれを制した。

『相手が余りに脆いのではない! お前の方が余りに脆いのではないか。お前は、最初のあれほど烈はげしい決心を忘れたのか。正義のために、私憤ではなくして、むしろ公憤のために、相手を倒そうと云いう強い決心を忘れたのか。勝平の口先丈だけの懺悔ざんげに動かされて、余りに脆くお前の決心を捨てゝしまうのか。お前は勝平の態度を疑わないのか。彼は、お前に降伏したような様子を見せながら、お前を肉体的に、征服しようとしているのだ。兜かぶとを脱いだような風を装よそおいながら、お前に飛び付こうとしているのだ。お前が、勝平の告白に感激して、お前の手を与えて御覧! 彼は、その手を戴いただくような風をしながら、何時の間にかお前を蹂ふみ躙にじってしまうのだ。お前は敵の暴力と戦うばかりでなく、敵の甘言とも戦わなければならぬ。敵は、お前の誇プライドに媚こびながら、逆にお前を征服しようとしているのだ。余りに脆いのは敵でなくしてお前だ。』

瑠璃子の冷たい理性は、覚めながらそう叫んだ。彼女は、ハッと眼が覚めたように、居ずまいを正しながら云った。

「あら、あんな事を仰おっしゃって? 最初から、本当の妻ですわ。心からの妻ですわ。」

そう云いながら、彼女は冷たい、然しかしながら、美しい笑顔を見せた。

嵐あらしを衝ついて

一

勝平は、瑠璃子るりこの言葉だけは、打ち解けていても、笑顔は氷のように冷たいのを見ると、絶望したように云いった。

「あゝ貴女あなたは、何どうしても俺わしを理解して下さらぬのじゃ。俺わしの最初の罪を何うしても許して下さらぬのじゃ。貴女は、俺と勝彦とを、操あやつって俺に、畜生道の苦しみを見せようとしているのじゃ。よい、それならよい! それならそれでよい! 貴女が、何時いつまでも俺を敵かたきと見るのなら、俺も、俺も敵になっていてもいゝ。俺が貴女の前に、跪ひざまずいてこれほどお願しているのに、貴女は俺の真心を受け容いれて下さらんのじゃから。」

もう先刻さっきから、一升以上も飲み乾ほしている勝平は、濁った眸ひとみを見据えながら、威丈高に瑠璃子にのしかゝるような態度を見せた。相手が下手したでから出ると、ついホロリとしてしまう瑠璃子であったが相手が正面からかゝって呉くれゝば、一足だって踏み退しりぞく彼女ではなかった。

相手の態度が急変すると、瑠璃子は先刻の勝平の神妙な態度は、たゞ自分を説き落すための、偽りの手段であったことが、ハッキリしたように思った。

「あら、あんな事を仰おっしゃって、貴君あなたの真心は、初はじめから分っているじゃありませんか。」

瑠璃子は、相手の脅おどしを軽く受け流すように、嫣然にっこりと笑った。

「あゝ、貴女のその笑顔じゃ。それは俺を悩ますと同時に、嘲あざけり恥しめ罵ののしっているのじゃ。あゝ俺は貴女のその笑顔に堪たえない。俺は貴女のその笑顔を、初はどんなに楽しんでいたか分らないが、だん〱見ていると、貴女のその美しい笑顔の皮一つ下には、俺に対する憎悪ぞうおと嘲笑ちょうしょうとが、一杯に充みちているのだ。貴女の笑顔ほど皮肉なものはない。貴女の笑顔ほど、俺の心を突き刺すものはない。貴女は、その笑顔で俺を悩まし殺そうとしているのだ。いや、俺ばかりじゃない! あの馬鹿ばかの勝彦をまで悩ましておるのじゃ。」

勝平の態度には、愈々いよいよ乱酔の萌きざしが見えていた。彼の眸は、怪しい輝きを帯び、狂人か何かのように瑠璃子をジロ〱と見詰めていた。

風も雨も、海岸の此この一角に、その全力を蒐あつめたかのように、益々ますます吹き荒すさび降り増まさった。が瑠璃子は人と人との必死の戦いのために、そうした暴風雨の音をも、聞き流すことが出来た。

「疑心暗鬼と云うことがございますね。貴君のは、それですよ。妾わたしを疑ってかかるから、妾の笑顔迄までが、夜叉やしゃの面か何かのように見えるのでございますよ。」

そう云いながらも、瑠璃子はその美しい冷たい笑いを絶たなかった。勝平は、その巨おおきい身体からだをのたうつようにして云った。

「貴女は、俺を飽くまでも、馬鹿にしておられるのじゃ。貴女は人間としての俺を信用しておられんのじゃ。貴女は、俺の人格を信じておられないのじゃ。俺に人間らしい心のあることを信じておられないのじゃ。よし、貴女が俺を人間として扱って下さらないなら、俺は獣けだものとして、貴女に向って行くのじゃ。俺は獣のように、貴女に迫って行くのじゃ。」

勝平の眸は燃ゆるように輝やいた。

「そうだ! 俺は獣として貴女に迫って行く外はない!」

そう云ったかと思うと、勝平は羆ひぐまが人間を襲う時のように、のッと立ち上った。

瑠璃子も弾はじかれたように、立ち上った。

立ち上った勝平は、フラ〱と蹌よろめいてやっと踏み堪こらえた。彼はその凄すさまじい眸を、真中に据えながら、瑠璃子の方へジリ〱と迫って来た。

かよわい瑠璃子の顔は、真蒼まっさおだった。身体はかすかに顫ふるえていたけれども、怯わるびれた所は少しもなかった。その美しい眉宇びうは、きっと、緊ひきしまって、許すまじき色が、アリ〱と動いた。

丁度、その時だった。風に煽あおられた大雨が一頻ひとしきり沛然はいぜんとして降り注いで来た。

二

荒るゝまゝに、夜は十二時に近かった。

台所にいる筈はずの女中達は、眠りこけてでもいるのだろう、話声一つ聞えて来なかった。ただ吹き暴あるゝ大風雨の裡うちに勝平と瑠璃子と丈だけが、取り残されたように、睨にらみながら、相対していた。

空に風と雨とが、戦っているように、地に彼等は戦っているのだった。瑠璃子は戦うべき力もなかった。武器も持ってはいなかった。たゞ彼女の態度に備る天性の美しい威厳一つが、勝平の獣的な攻撃を躊躇ちゅうちょさせていた。が、その躊躇も、永く続く筈はなかった。勝平の眼が、段々狂暴な色を帯びると共に、彼は勢いきおい猛もうに瑠璃子に迫って来た。彼女は、相手の激しい勢に圧おされるようにジリ〱と後退あとずさりをせずにはいられなかった。

勝平の今少し前の懺悔ざんげや告白が、こうした態度に出るまでの径路であった――一旦いったん下手から説いて見て、それで行かなければ腕力に訴える――かと思うと、勝平に対して、懐いだいていた一時の好感は、煙のようになくなって、たゞ苦い苦い憎悪ぞうおの滓かす丈が、残っていた。指一つ触れさせてなるものか、そうした堅い決意が、彼女の繊細な心臓を、鉄のように堅くしていた。

が、彼女の精神的な強さも、勝平の肉体の上の優越に打ち勝つことが出来なかった。何時いつの間にか追い詰められたように、部屋の一方に、海に面した硝子戸ガラスどの方へ、逃るゝ道のない硝子戸の方へ、瑠璃子は圧し付けられている自分を見出みいだした。

其処そこで、追い詰められた牝鹿めじかと獅子ししとのように、二人は暫しばらくは相対していた。

暴風雨は、少しも勢いを減じていなかった。岸を噛かんで殺到する波濤はとうの響が、前よりも、もっと恐ろしく聞えて来た。が、相争っている二人の耳には、波の音も風の音も聞えては来なかった。

「何をなさるのです。貴君あなたは?」

勝平が、その堅肥かたぶとりの巨おおきい手を差し出そうとした時、瑠璃子は初めて声を出して叱しっした。

「何をしようと、俺わしの勝手だ。夫が妻を、生いかそうが殺そうが。」

勝平は、そう云いいながら、再び猿臂えんぴを延して、瑠璃子の柔かな、やさ肩を掴つかもうとしたが、軽捷けいしょうな彼女に、ひらりと身体を避けられると、酒に酔った足元は、ふら〱と二三歩蹌よろめいて、のめりそうになった。

「恥をお知りなさい! 恥を! 妻ではございましても奴隷どれいではありませんよ。暴力を振うなんて。」

彼女は、汚れた者を叱するように、吐き捨てるように云った。彼女の声は、遉さすがにわな〱と顫ふるえていた。

「なに! 恥を! 恥も何もあるものか、俺はもう獣になり切っているのじゃ。」

勝平は、そう云ったかと思うと前よりももっと烈はげしい勢で瑠璃子に迫った。こうしたあさましい人間の争いを、讃美さんびするかのように、風は空中に凄すさまじい歓声を挙げ続けている。

瑠璃子は、ふとその時護まもり刀のことを思い出した。こうした非常な場合には、それを抜き放って自分を護る外はない。が、そう思い付いたものの、それはトランクの底深く、蔵しまってあるので、急場の今は、何の援たすけにもならなかった。

彼女は、最後の手段として、声を振り搾しぼって女中を呼んだ。が、彼女の呼び声は、風雨の音に消されてしまって、台所の方からは、物音も聞えて来なかった。

瑠璃子が、愈いよいよ窮したのを見ると、勝平は愈威丈高になった。彼は、獣そのまゝの形相を現していた。ほの暗い洋燈ランプの光で、眼が物凄ものすごく光った。

「あれ!」と、瑠璃子が身を避けようとした時、勝平の強い腕は、彼女の弱い二の腕を、グッと握り占めていた。

「何をするのです。お放しなさい!」

彼女は必死になって、振りほどこうとした。が、強い把握はあくは、容易に解けそうもなかった。

「何を! 何をするのです!」

瑠璃子は、死者狂いになって突き放した。が、突き放された勝平は、前よりも二倍の狂暴さで、再び瑠璃子に飛びかゝった。

その時だった。瑠璃子の背後うしろの雨戸と硝子戸とが、バタ〱と音を立てゝ外れると、恐ろしい一陣の風が、サッと室へやの中へ吹き込んだ。

洋燈は忽たちまちに消えてしまった。が、灯の消える刹那せつなだった。風と共に飛び込んで来た一個の黒影が今瑠璃子に飛びかゝろうとする勝平に、横合からどうと組み付くのが、灯の消ゆるたゆたいの瞬間に瞥見べっけんされた。

三

硝子戸ガラスどの外れるのと共に、室へやの中へ吹き入った風と雨とは、忽たちまちに、二十畳に近い大広間に渦うず巻いた。床の間の掛軸が、バラ〱と吹き捲まくられて、跳はね落ちると、ガタ〱と烈はげしい音がして、鴨居かもいの額が落ちる、六曲の金屏風きんびょうぶが吹き倒される。一旦いったん吹き込んだ風は逃れ口がないために、室内の闇やみを縦横に馳かけ廻めぐって、何時いつまでも何時までも狂奔した。

而しかも、此この風雨の暴あれ狂う漆黒の闇の中に、勝平は飛び込んだ黒影と、必死の格闘を続けていたのだ。

「貴様は誰だ! 誰だ!」

不意の襲撃に驚いたらしく勝平は、狼狽ろうばいして怒号した。が、相手は黙々として返事をしなかった。

肉と肉とが、相搏あいうつ音が、風雨の音にも紛まぎれず、凄すさまじい音を立てた。身体と身体とが、打ち合う音、筋肉と筋肉とが、軋きしみ合う音、それは風雨の争いにも、負けないほどに恐ろしかった。

其その中うちにどうと家中を揺がせる地響を打って、一方が投げ出される音が聞えた、それに続いて転がり合いながら、格闘する凄じい音が続いた。

「強盗だ! 強盗だ! 早く老爺じいやを呼んで来い! 瑠璃子! 瑠璃子!」

戦いが不利と見えて、勝平の声は悲鳴に近かった。

瑠璃子は、物事の烈しい変化に、気を奪とられたように、ボンヤリ闇の中に立っていた。身に迫った危険を、思いがけなく脱し得た安心と、新しく突発した危険に対する不安とで、心が一種不思議な動乱の中に在った。

勝平の悲鳴を聴いていると、助けてやらねばならぬと思いながら、一種の小気味よさを感ぜずにはいられなかった。自分に獣の如ごとく迫って来た彼が、突然の侵入者に依よって、脆もろくも取って伏せられている。そう思うと瑠璃子の動乱した胸にも皮肉な快感が、ぞく〱とこみ上げて来る。

格闘は尚なお続いた。組み合いながら、座敷中をのたくっている恐ろしい物音が絶えなかった。

「瑠璃子! 瑠璃子! 早く、早く。」

援たすけを呼ぶ勝平の声は、だん〱苦しそうに喘あえいで来た。

瑠璃子の心の裡うちに、もっと勝平を苦しませてやれ、こうした不意の出来事に依って、もっと彼を懲こらしてやれと云いう、勝平に対する憎悪ぞうおの心持と、平生の憎悪は兎とに角かく、不時の災難に苦しんでいる相手を、援けてやろうと云う人間的な心持とが、相争った。

其裡に、ゼイ〱と息も絶えそうに、喘ぎ始めた勝平の声が、聞え出した。

「苦しい! 苦しい! 人殺し! 人殺し!」

勝平は、到頭最後の悲鳴を出してしまった。そうした声を聞くと、瑠璃子の心にも、勝平に対する憐憫あわれみが湧わかずにはいなかった。彼女は、始めて我に返ったように、台所の方に駆け出しながら、大声を出した。

「老爺じいや! 老爺! 早く来ておくれ! 泥棒! 泥棒!」

瑠璃子の声も、スッカリ上ずッてしまっていた。が、そう叫んだ時、彼女の頭の中に突然恋人の直也なおやの事が閃ひらめいた。彼は、勝平を射うとうとして誤って、美奈子みなこを傷つけた為ため、危く罪人となろうとしたのを、勝平に対する父の子爵ししゃくの哀訴のために、告訴されることを免れた。が、彼は敵かたきの勝平からそうした恩恵を受けたことを、死ぬほど恥しがって、学業を捨ててしまって、遠縁の親戚しんせきが経営しているボルネオの護謨ゴム園に走ろうとしている。瑠璃子は、そんな噂うわさを、耳にはさんでいる。が、あの多血性な恋人は、そうした逃避的な態度を、捨てゝ、その恋の敵を倒すために、再び風雨の夜に乗じて迫ったのであろうか。否いな、自分に訣別けつべつするため、外よそながら自分を見ようとした時、偶然自分が危難に遭遇したため、前後の思慮もなく飛び込んだのではないだろうか。

強盗! 泥棒! 強盗や泥棒が、あゝした襲撃を為なすだろうか。もし、あれが直也だったら、縦令たとい、勝平を倒したにしろ、彼の一生はムザ〱と埋れてしまうのだ。尤もっとも、今でも自分のために、半分埋れかけているのだが。

そう思うと、瑠璃子は老爺を呼ぶ声も出なくなってしまって、再び其処そこへ立ち竦すくんだ。

が、瑠璃子の声に騒ぎ立った女中は、声を振り搾しぼって老爺を呼んだ。

四

叫び立てる女中達の声に、別荘番の老爺は驚いて馳かけ付けて来た。強盗だと聴くと、いきなり取って返して、古い猟銃用の村田銃を持って来た。彼は手早く台所の棚から、カンテラを取り出すと、取り乱す容子もなく、灯を点じて、戸外同様に風雨の暴あれ狂う広間の方へと、勇ましく立ち向った。もう六十を越した老人ではあったが、根が漁師育ちである丈けに、胆力たんりょくはガッシリと据っていた。

瑠璃子は、勝平と相搏うっている相手が、もしや恋人の直也でありはしないかと思うと、此この一徹の老人が、一気に銃口を向けやしないかと思う心配で、心が怪しく擾みだれた。それかと云いって、強盗であるかも知れぬ闖入者ちんにゅうしゃを、庇かばうような口は利きけなかった。台所に顫ふるえている女中を後に残しながら、固唾かたずを飲みながら、老人の後から、随ついて行った。

座敷は、風雨で滅茶苦茶めちゃくちゃになっていた。室の中に渦巻く風のために、硝子戸ガラスどが三枚も外れていた。其処そこから吹き入る雨のために、水を流したように、濡ぬれた畳が、カンテラの光に物凄ものすごく映っていた。今にも、天井が吹き抜かれるように、バリ〱と恐ろしい音を立てゝ、鳴り続けた。

老人は、カンテラの光を翳かざしながら、

「旦那だんな! 旦那! 喜太郎が参りましたぞ!」と次ぎの間から、先まず大声で怒鳴った。

が、勝平はそれに対して、何とも答えなかった。たゞ勝平が発しているらしい低いうめき声が聞える丈だった。

「旦那! 旦那! しっかりなさい!」

そう云いながら、喜太郎は暗い座敷の中を、カンテラで照しながら、駈かけ込んだ。その光で、ほの暗く照し出された大広間の中央まんなかに、勝平は仰向に打ち倒れながら、苦しそうにうめいているのだった。

「旦那! 旦那! しっかりなさい! 喜太郎が参りましたぞ! 泥棒は何どうしただ!」

喜太郎は、勝平の耳許みみもとで勢よく叫んだ。が、勝平はたゞ低く、喘息ぜんそく病みか何かのように咽喉のところで、低くうめく丈だった。

「旦那! 怪我けがをしたか。何処どこだ! 何処だ!」

老人は、狼狽ろうばいしながら、その太い堅い手で、勝平の身体を撫なで廻した。が、何処にも傷らしい傷はなかった。が、それにも拘かかわらず、半眼に開かれている勝平の眼は、白く釣り上がっている。

「あゝ! こりゃいけねえ。奥様、こりゃいけねえぞ。」

そう云いながら、老人は勝平の身体を半なかば抱き起すようにした。が、巨おおきい身体は少しの弾力もなく石の塊かたまりか何かのように重かった。

瑠璃子は、遉さすがに驚いた。

「もし、貴君あなた! もし貴君! 貴君!」

彼女は、名ばかりの夫の胸に、縋すがり付くようにして叫んだ。が、勝平の身体に残っている生気は、こうしている間にも、だん〱消えて行くように思われた。

おず〱顫えながら、座敷へ近づいて来た女中を顧みながら、瑠璃子はハッキリと少しも取り擾みださない口調で云った。

「ブランデーの壜びんを大急ぎで持っておいで。それから、吉川様へ直すぐお出いで下さるように電話をおかけなさい! 直ぐ! 主人が危篤きとくでございますからと。」

女中の一人は、直ぐブランデーの壜を持って来た。瑠璃子は、それをコップに酌つぐと、甲斐甲斐かいがいしく勝平の口を割って、口中へ注ぎ入れた。

勝平の蒼あおざめていた顔が、心持赤く興奮するように見えた。彼の釣り上った眼が、ほんの僅かばかり、人間の眼らしい光を恢復かいふくしたように見えた。

「旦那! 旦那! 相手は何うしただ。強盗ですか。何方どちらへ逃げました。」

老人の別荘番は、主人の敵かたきを取りたいような意気込で訊きいた。

勝平はその大きい声が、消えかゝる聴覚に聞えたのだろう、口をモグ〱させ初めた。

「何でございますか。何でございますか。」

瑠璃子も、勝平を励ますために、そう叫ばずにはいられなかった。

その時に、室へやの薄暗い一隅で、何者とも知れずカラ〱と悪魔の嗤わらうように声高く笑った。

五

カンテラの光の届かない部屋の一隅から、急にカラ〱と頓狂とんきょうに笑い出す声を聴くと、元気のある度胸の据った喜太郎迄までが、ハッと色を変えた。村田銃の方へ差し延した左の手が、二三度銃身を掴つかみ損っていた。勝気な瑠璃子の襟元をも、気味の悪い冷たさが、ぞっと襲おそって来た。

「誰だ! 誰だ!」

喜太郎は狼狽うろたえながら、しわがれた声で闇やみの中の見知らぬ人間を誰何すいかした。が、相手はまだ笑い声を収めたまゝ、じっとしている。

「誰だ! 誰だ! 黙っていると、射うち殺すぞ!」

相手が黙っているので、勢いを得た喜太郎は、村田銃を取り上げながら、その方へ差し向けた。

暗い片隅に蹲うずくまっている人間の姿が、差し向けられたカンテラの灯で、朧おぼろげながら判わかって来た。

「誰だ! 誰だ! 出て来い! 出て来い! 出て来ないと射つぞ!」

喜太郎は、益々ますます勢を得ながらそれでも飛び込んで行くほどの勇気もないと見えて、間を隔へだてながら、叫んでいた。

相手が、割に落着いているところを見ると、それが強盗でないことは、判っていた。が、不意に耳を襲った頓狂な笑い声に依よっては、それが何人なんぴとであるかは、瑠璃子にも判らなかった。彼女は、じっと眸ひとみを凝こらして、それが自分の怖おそれている如ごとく、恋人の直也ではありはしないかと、闇の中を見詰めていた。

丁度その時に、喜太郎の大きい怒声に依って、朧気な意識を恢復したらしい勝平は、低くうめくように云いった。

「射つな、射ったらいけないぞ!」

それは、一生懸命な必死な言葉だった。そう云ってしまうと、勝平はまたグタリと死んだようになってしまった。

主人の言葉を聴くと、喜太郎は何かを悟さとったように鉄砲を、投げ出すと、じり〱と見知らぬ男の方に近づいた。男は、喜太郎が近づくと、だん〱蹲まったまゝで、身を退ひかしていたが、壁の所まで、追い詰められると、矢庭に、スックと立ち上った。瑠璃子は、また恐ろしい格闘の光景シーンを想像した。が、瑠璃子の想像は忽たちまち裏切られた。

「やあ! 若旦那わかだんなじゃねえか!」

喜太郎は、驚駭おどろきとも何とも付かない、調子外れの声を出した。

瑠璃子も、その刹那せつな弾はじかれたように立ち上った。

「奥様! 若旦那だ! 若旦那だ。」

喜太郎は、意外なる発見に、狂ったように叫び続けた。瑠璃子も思わず、瀕死ひんしの勝平の傍を離れると、二人が突っ立ちながら、相対している方へ近づいた。

いかにも、その男は勝彦だった。何時いつも見馴みなれている大島の不断着が、雨でズブ濡ぬれに濡れている。髪の毛も、雨を浴びて黒く凄すごく光っている。日頃は、無気味グロテスクな顔ではあるが、何となく温和であるのが、今宵こよいは殺気を帯びている。それでも、瑠璃子の顔を見ると、少し顔を赤あからめながら、ニタリと笑った。

暫しばらくの間は、瑠璃子も言葉が出なかった。が、凡すべては明かだった。東京の家に監禁せられていた彼は、瑠璃子を慕うの余り、監禁を破って、東京から葉山まで、風雨を衝ついて、やって来たのに違いなかった。

「お父様をあんなにしたのは、貴君あなたでしたか。」

瑠璃子は、可なり厳粛げんしゅくな態度でそう訊きいた。

勝彦は、黙って肯うなずいた。

「東京から、一人で来たのですか。」

勝彦は黙って肯いた。

「汽車に乗ったのですか。」

勝彦は、又黙って肯いた。

「お父様を、何どうしてあんなにしたのです。何うしてあんなにしたのです。」

瑠璃子に、そう問い詰められると、勝彦は顔を赤めながら、モジ〱していた。もし勝彦が、聡明そうめいな青年であったならば、簡単に率直に、しかも貴夫人を救った騎士ナイトのように勇ましく、

『貴女を救うために。』と答え得たのであるが。

六

瑠璃子から、何と訊きかれても、勝彦は何とも返事はしないで、たゞニタリ〱と笑い続けている丈だった。

老人の喜太郎は、張り詰めていた勇気が、急に抜け出してしまったように云いった。

「仕様のない若旦那わかだんなだ。こんな晩に東京から、飛び出して来て、旦那をとっちめるなんて、理窟りくつのねえ事をするのだから、始末に了おえねえや。奥様! こんな人に介意かまっているよりか旦那の容体が大事だ!」

喜太郎は、勝彦を噛かんで捨てるように非難しながら、座敷の真中に、生死も判わからず横よこたわり続けている勝平の方へ行った。

が、瑠璃子は喜太郎のように心から勝彦を、非難する気には、なれなかった。口では勝彦を咎とがめるようなことを云いながら、心の中では此この勇敢な救い主に、一味いちみ温かい感謝の心を持たずにはいられなかった。

丁度、その時に、勝平のうめき声が、急に高くなった。瑠璃子は思わず、その方に引き付けられた。

彼の顔面の筋肉が、頻しきりに痙攣けいれんし、太い巨おおきい四肢は、最後のあり丈の力を籠こめたように、烈はげしく畳の上にのたうった。

「水! 水!」

勝平は、苦しそうな呻うめき声を洩もらした。

女中が、転がるように持って来た水を、コップのまゝ口へ注ごうとしたが、思い通どおりにはならないらしい口辺の筋肉は、当あてがわれたコップの水を、咽喉のどの辺から胸にかけて滾こぼしてしまった。瑠璃子は、それを見ると、コップの水を一息飲みながら、口移しに勝平の口中へ注いでやった。名ばかりではあるが、妻としての情であった。

水に依よって、湿うるおされた勝平の咽喉は、初めてハッキリした苦悶くもんの言葉を発した。

「あゝ苦しい。胸が苦しい。切ない。」

彼は、そう叫びながら、心臓の辺あたりを幾度も掻かきむしった。

「直すぐ医者が参ります。もう少しの御辛抱です。」

瑠璃子も、オロ〱しながら、そう答えた。瑠璃子の言葉が、耳に通じたのだろう。彼は、空虚うつろな視線を妻の方に差し向けながら、

「瑠璃子さん、俺わしが悪かった。みんな、俺が悪かった。許して下さい!」

彼は、身体中からだじゅうに残った精力を蒐あつめながら、やっと切々に云った。つい一時間前の告白を疑った瑠璃子にも、男子のこうした瀕死ひんしの言葉は疑えなかった。瑠璃子の冷たく閉じた心臓にも、それが針のように刺し貫いた。

「あゝ苦しい。切ない! 心臓が裂けそうだ!」

勝平は、心臓を両手で抱くようにしながら、畳の上を、二三回転げ廻った。

「美奈子! 美奈子はいないか!」

彼は、突如いきなり苦しそうに、半身を起しながら、座敷中を見廻した。併しかし美奈子が其処そこにいる訳はなかった。二三秒間身体を支え得た丈で、またどうと後へ倒れた。

「美奈子さんも直ぐ来ます。電話で呼びますから。」

瑠璃子は、耳許みみもとに口を寄せながら、そう云った。

「あゝ苦しい! もういけない! 苦しい! 瑠璃子さん! 頼みます、美奈子と勝彦のこと。貴女あなたは、俺を憎んでいても、子供達は憎みはしないでしょう。貴女を頼むより外はない! 俺の罪を許して子供達を見てやって下さい! 頼みます! 勝彦! 勝彦!」

彼は、そう云いながら、再び身体を起そうとした。愚かなる子に、最後の言葉をかけようとしたのであろう。が、愚なる子は、父の臨終の苦しみを外よそに、以前のまゝに、ケロリとして立ったまゝ、此場の異常な光景シーンを、ボンヤリと凝視している丈であった。

「あゝ苦しい! 切ない!」

勝平は最後の苦痛に入ったように、何物かを掴つかもうとして、二三度虚空こくうを掴んだ。瑠璃子は、その時始めて心から、夫のために、その白い二つの手を差し延べた。勝平は、瑠璃子の白い腕に触れるとそれを生命いのちの最後の力で握りしめながら、また差し延べられた手に、瑠璃子からの宥ゆるしを感じながら、妻からの情を感じながら、最後の呼吸いきを引き取ってしまったのである。

七

勝平の最後の息が絶えようとしている時に、医師がやって来た。レインコートの下へまで、激しい雨が浸しみ入ったと見え、洋服の所々から、雫しずくがタラ〱と落ちていた。

「車で来ようと思ったのですが、家を二間ばかり離れると、直すぐ吹き倒されそうになりましたから、徒歩で来ました。風が北へ廻ったようですから、もう大丈夫です。まさか、先度のようなことはありませんでしょう。」

医師は、遉さすがに職業的な落着を見せながら、女中達の出迎えを受けて、座敷へ通って来た。

「お電話じゃ十分判わかりませんでしたが、何どうなさったのです。強盗と組打ちをなさったと云いうのは本当ですか。」

医師は、横わっている勝平の傍近く、膝行いざり寄りながら、瑠璃子にそう訊きいた。

瑠璃子は、遉に落着きを失わなかった。

「いゝえ! 女中が狼狽うろたえて、そんなことを申したのでございましょう。強盗などとは嘘うそでございます。お恥かしいことでございますが、つい息子と……」

そう云ったものの、後は続け得なかった。医師は直ぐその場の事情を呑のみ込んだように、勝平の身体に手をやって、一通ひととおり検あらためた。

「何処どこもお負傷けがはないのですね。」

「はい! 負傷はないようでございます。」瑠璃子は静かに答えた。

「御心配はありません。何処か打ち所が悪くって気絶をなさったのです。」

医師は事もなげにそう云いながら、その夜目にも白い手を脈に触れた。五秒十秒、医師はじっと耳を傾けていた。それと同時に、彼の眸ひとみに、勝平の蒼あおざめて行く顔色が映ったのだろう。彼は、急に狼狽ろうばいしたように前言を打ち消した。

「あゝこりゃいけない!」

そう云いながら、彼は手早く聴診器ちょうしんきを、鞄かばんの中から、引きずり出しながら、勝平の肥ふとり切った胸の中の心臓を、探るように、幾度も〱当がった。

「あゝこりゃいけない!」

彼は再び絶望したような声を出した。

「いけませんでございましょうか。」

そう訊いた瑠璃子の声にも、深い憂慮うれいが含まれていた。

「こりゃいけない! 心臓麻痺まひらしいです。何時いつか診察したときにも、よく御注意して置いた筈はずですが、可なり酷ひどい脂肪心だから、よく御注意なさらないと、直ぐ心臓麻痺を起し易やすいと、幾度も云った筈ですが。喧嘩けんかだとか格闘だとか、興奮するようなことは、一切してはならないと、注意して置いたのですがね。」

医師は、いかにも、自分の与えた注意が守られなかったのが、遺憾いかんに堪たえないように、耳は聴診器に当がいながら、幾度も繰り返した。

「心臓の周囲に、脂肪が溜たまると、非常に心臓が弱くなってしまうのです。火事の時などに、駈かけ出した丈で、倒れてしまう人があるのです。それに酒を召し上っていたのですね。酒を飲んでいる上に、烈はげしい格闘をやっちゃ堪たまりません。お子さんとなら、また何だって早くお止めにならなかったのです。」

そう云われると、瑠璃子の良心は、グイと何かで突き刺されるように感じた。

「もう駄目だとは思いますが、諦あきらめのために、カンフル注射をやって見ましょう。」

医師は、手早くその用意をしてしまうと、今肉体を去ろうとして、たゆとうている魂を、呼び返すために、巧みに注射針を操あやつって、一筒のカンフルを体内に注いだ。

医師は、注射の反応を待ちながらも、二三度人工呼吸を試みた、が、勝平の身体は、刻一刻、人間特有の温みと生気とを失いつゝあった。その巨おおきい顔に、死相がアリ〱と刻まれていた。

「お気の毒ですが、もう何とも仕方がありません。」

医師は、死に対する人間の無力を現すように、悄然しょうぜんと最後の宣告を下した。

八

戦は終った。不意に突然に意外に、敵は今彼女の眼前に、何の力もなく何の意地もなく土塊つちくれの如ごとくに横わっている。

彼女は見事に勝った。勝ったのに違いなかった。傲岸ごうがんな、金の力に依よって、人間の道を蔑なみしようとした相手は倒れている。そうだ! 勝利は明かだ。

が、勝平の死顔をじっと見詰めている時に、彼女の心に湧わいて来たものは、勝の欣よろこびではなくしてむしろ勝の悲しみだった。勝利の悲哀だった。確に勝っている。が、勝平の肉体に勝った如く、彼の精神にも勝ち得ただろうか。勝平は、その瀕死ひんしの刹那せつなに於おいて、精神的にも瑠璃子に破られていただろうか。

否いな! 否! 瑠璃子自身の良心が、それを否定している。愈々いよいよ、死が迫って来た時の勝平の心は、彼の一生の凡すべての罪悪を償つぐない得るほどに、美しく輝いていたではないか。

彼は、自分の容ゆるしを瑠璃子に乞こうた上、二人の愛児の行末を、瑠璃子に頼んでいる。彼は名ばかりの妻から、夫として堪たえがたき反抗を受けながら、尚なお彼女に美しき信頼を置こうとしている。

それよりも、もっと瑠璃子の心を穿うがったものは、彼が臨終の時に示した子供に対する、綿々たる愛だった。格闘の相手が――従って彼の死の原因が――勝彦であることを知りながらも、此この愚なる子の行末を、苦しき臨終の刹那に気遣っている。彼の人間らしい心は、その死床に於て、燦然さんぜんとして輝いたではないか。

彼を敵として結婚し、結婚してからも、彼に心身を許さないことに依って、彼に悶々もんもんの悩みを嘗なめさせ、それが半ば偶然であるとは云いえ、勝彦を操ることに依って、畜生道の苦しみを味わせた自分を死の刹那に於て心から信頼している。そうした言葉を聴いたとき、瑠璃子の良心は、可なり深い痛手を負わずにはいられなかった。

悪魔だと思って刺し殺したものは、意外にも人間の相を現している。が、刺し殺した瑠璃子自身は、刺し殺す径路けいろに於て、刺し殺した結果に於て、悪魔に近いものになっている。

自分の一生を犠牲にして、倒したものは、意外にも倒し甲斐がいのないものだった。恋人を捨てゝ、処女としての誇を捨てゝ、世の悪評を買いながら、全力を尽くして、戦った戦いは、戦い栄ばえのしない無名の戦いくさだった。

負けた勝平は、負けながら、その死床に人間として救われている。が、見事に勝った瑠璃子は、救われなかった。

自分の一生を賭としてかゝった仕事が、空虚な幻影であることが、分った時ほど、人間の心が弛緩しかんし堕落することはない。

彼女の心は、その時以来別人のように荒すさんだ。清浄しょうじょうなる処女時代に立ち帰ることは、その肉体は許しても、心が許さなかった。敵と戦うために、自分自身心に塗った毒は、いつの間にか、心の中うち深く浸しみ入って消えなかった。

その上に、もっと悪いことには、名ばかりの妻として、擅ほしいままにした物質上の栄華が、何時いつの間にか、彼女の心に魅力を持ち始めていた。

彼女は、荒んだ心と、処女としての新鮮さと、未亡人としての妖味ようみとを兼ね備えた美しさと、その美を飾るあらゆる自由とを以もって、何時となく、世間のあらゆる男性の間に、孔雀くじゃくの如く、その双翼を拡ひろげていた。

怪頭醜貌かいとうしゅうぼうの女怪ゴルゴンは、見る人をして悉ことごとく石に化せしめたと希臘ギリシヤ神話は伝えている。

黒髪皎歯こうし清麗真珠の如く、艶容えんよう人魚の如き瑠璃子は、その聡明そうめいなる機智きちと、その奔放自由なる所作とを以て、彼女を見、彼女に近づくものを、果して何物に化せしめるであろうか。

魅惑

一

奇禍のために死んだ青年の手記を見た後も、美しき瑠璃子るりこ夫人は、尚なお信一郎の心に、一つの謎なぞとして止とどまっていた。手記に依よれば、青年を飜弄ほんろうし、彼をして、形は奇禍であるが、心持の上では、自殺を遂げしめた彼女なる女性が、瑠璃子夫人であるようにも思われた。が、夫人その人は、信一郎の目前で、青年の最後の怨うらみが籠こもっている筈はずの、時計の持主であることを否定していた。

信一郎は、夫人の白いしなやかな手で、軽く五里霧中の裡うちへ、突き放されたように思った。血腥ちなまぐさい青木淳じゅんの死と、美しい夫人とを、不思議な糸が、結び付けて、その周囲を、神秘な霧が幾重にも閉ざしている。その霧の中に、チラ〱と時折、瞥見べっけんするものは、半面紫色になった青年の死顔と、艶然えんぜんたる微笑を含んだ夫人の皎玉こうぎょくの如ごとき美観とであった。

青年から、瀕死の声で、返すことを頼まれた時計は、――青年の怨みを籠めて、返さなければならぬ時計は、あやふやな口実のもとに、謎の夫人の手に、手軽に手渡されている。信一郎は、死んだ青年に対する責任感からも、此この謎を一通ひととおりは解かねばならぬと思った。時計が、その真の持主に、青年の望んだ通の意味で、返されることの為ために、出来る丈は尽さねばならぬことを感じた。

が、その謎を解くべき、唯一ゆいいつの手がかりなる時計は、既に夫人の手に渡っている。たゞ、それの受取のように、夫人から贈られた慈善音楽会の一葉の入場券が、信一郎の紙入に、何の不思議もなく残っている丈である。

が、此の何の奇もない入場券と、『是非お出いで下さいませ。その節お目にかゝりますから。』と云いう夫人の言葉とが、今の場合夫人に近づく、従って夫人の謎を解くべき唯一の心細い頼りない手がかりだった。夫人と信一郎とを結び付けている細い〱蜘蛛くもの糸のような、継つなぎであった。尤もっとも、どんなに細くとも、蜘蛛の糸には、それ相応の粘着力はあるものだが。

音楽会の期日は、六月の最後の日曜だった。その日の朝までも、信一郎の心には、妙に躊躇ちゅうちょする心持もあった。お前は、青年に対する責任感からだと、お前の行為を解釈しているが、本当は一度言葉を交えた瑠璃子夫人の美貌びぼうに惹ひき付けられているのではないか。彼の心の裡で、反噬はんぜいするそうした叫びもあった。その上、今日までは、こうした会合へ出るときは、屹度きっと新婚の静子を伴わないことはなかった。が、今日は妻を伴うことは、考えられないことだった。会場で出来る丈、夫人に接近して夫人を知ろうとするためには、妻を同伴することは、足手纏まといだった。

昼食を済ましてからも、信一郎は音楽会に行くことを、妻に打ち明けかねた。が、外出をするためには、着替をすることが、必要だった。

「一寸ちょっと散歩に。」と云ってブラリと、着流しのまま、外出する訳には行かなかった。

「一寸音楽会に行って来るよ。着物を出しておくれ。」

そうした言葉が、何どうしても気軽に出なかった。それは、何でもない言葉だった。が、信一郎に取っては、妻に対して吐かねばならぬ最初の冷たい言葉だった。

「音楽会に行くから、お前も支度をおしなさい。」

そうした言葉丈しか、聞かなかった静子には、それが可なり冷たく響くことは、信一郎には余りによく判わかっていた。

彼は、ぼんやり縁側に立っているかと思うと、また、何かを思い出したように二階へ上った。が、机の前に坐すわっても、少しも落着かなかった。彼は、思い切って妻に云う積りで、再び階下したへ降りて来た。

が、解ほどき物をしながら、階段を降りて来る夫の顔を見ると、心の裡の幸福が、自然と弾み出るような微笑を浮べる妻の顔を見ると、手軽に云って退のける筈はずの言葉が、またグッと咽喉のどにからんでしまった。

「あら! 貴君あなた、先刻さっきから何をそんなに、ソワソワしていらっしゃるの?」

無邪気な妻は夫の図星を指してしまった。指さゝれてしまうと、信一郎は却かえって落着いた。

「うっかり忘れていたのだ。今日は専務が米国へ行くのを送って行かなければならないのだった!」

彼は、咄嗟とっさに今日出発する筈の専務のことを思い出したのだ。

「何時の汽車? これから行っても、間に合うのでございますか?」

静子は一寸心配そうに云った。

「間に合うかも知れない。確か二時に新橋を立つ筈だから。」

そう云いながら、信一郎は柱時計を見上げた。それは、一時を廻ったばかりだった。

「じゃ、早くお支度なさいまし。」解き物を、掻かきやって、妻は、甲斐々々かいがいしく立ち上った。

信一郎は、最初の冷たい言葉を云う代りに、最初の嘘を云ってしまった。その方が、ズッと悪いことだが。

二

その日の音楽会は、露西亜ロシアのピアニスト若きセザレヴィッチ兄妹の独奏会だった。

去年から今年にかけて、故国の動乱を避けて、漂泊さすらいの旅に出た露西亜の音楽家達が、幾人も幾人も東京の楽壇を賑にぎわした。其中そのなかには、ピアノやセロやヴァイオリンの世界的名手さえ交っていた。セザレヴィッチ兄妹もやっぱり、漂泊の旅の寂しさを、背負っている人だった。殊ことに、妹のアンナ・セザレヴィッチの何処どこか東洋的な、日本人向きの美貌びぼうが、兄妹の天才的な演奏と共に、楽壇の人気を唆さらっていた。その日の演奏は、確か三四回目の演奏会だった。上流社会の貴夫人達の主催にかゝる、その日の演奏会の純益は、東京にいる亡命ぼうめいの露人達の窮状を救うために、投とうぜられる筈だった。

信一郎が、その日の会場たる上野の精養軒の階上の大広間の入口に立った時、会場はザッと一杯だった。が、人数は三百人にも足らなかっただろう。七円と云いう高い会費が、今日の聴衆を、可なり貴族的に制限していた。極楽鳥のように着飾った夫人や令嬢が、ズラリと静粛せいしゅくに並んでいた。その中に諸所瀟洒しょうしゃなモオニングを着て、楽譜を手に持っている、音楽研究の若殿様と云ったような紳士が、二三人宛ずつ交じっていた。信一郎は聴衆を一瞥いちべつした刹那せつなに、直すぐ油に交じった水のような寂しさを感じた。こうした華やかな群グループの中に、女王クインのように立ち働いている荘田しょうだ夫人が、自分に――片隅に小さく控えている自分に、少しでも注意を向けて呉くれるかと思うと、妻の手前を繕ろってまで、出席した自分が、何だか心細く馬鹿々々ばかばかしくなって来た。

信一郎が、席に着くと間もなく、妹の方のアンナが、華やかな拍手に迎えられて壇上に現われた、スラヴ美人の典型と云ってもいゝような、碧あおい眸ひとみと、白い雪のような頬とを持った美しい娘だった。彼女は微笑を含んだ会釈えしゃくで喝采かっさいに応こたえると、水色のスカートを飜ひるがえしながら、快活にピアノに向って腰を降した。と、思うと、その白い蝋ろうのような繊手は、直ぐ霊活な蜘蛛くもか何かのように、鍵盤けんばんの上を、駈かけ廻り始めた。曲は、露西亜の国民音楽家の一人として名高いボロディンの譚歌バラッドだった。

その素朴な、軽快な旋律に、耳を傾けながら、信一郎の注意は、半ば聴衆席の前半の方に走っていた。彼は、若い婦人の後姿を、それからそれと一人々々検あらためた。が、たった一度、相見た丈の女は、後姿に依よっては、直ぐそれと分りかねた。

妹の演奏が終ると、美しい花環はなわが、幾つも幾つも、壇上へ運ばれた。露西亜の少女は、それを一々溢あふれるような感謝で受取ると、子供のように欣よろこびながら、ピアノの上へ幾つも〱置き並べた。余り沢山置き並べるので、演奏の邪魔になりそうなので、司会者が周章あわてて取り降した。聴衆が、此この少女の無邪気さをどっと笑った。信一郎も、少女の美しさと無邪気さとに、引きずられて、つい笑ってしまった。

丁度その途端、信一郎の肩を軽く軟打パットするものがあった。彼は駭おどろいて、振り顧かえった。そこに微笑する美しき瑠璃子夫人の顔があった。

「よくいらっしゃいましたのね。先刻からお探ししていましたのよ。」

信一郎の言うべきことを、向うで言いながら、瑠璃子は、信一郎と並んで其処そこに空いていた椅子いすに腰を下した。

「あまりお見えにならないものですから、いらっしゃらないのかと思っていましたのよ。」

信一郎の方から、改めて挨拶あいさつする機会のないほど、向うは親しく馴々なれなれしく、友達か何かのように言葉をかけた。

「先日は、何どうも失礼しました。」

信一郎は、遅ればせに、ドギマギしながら、挨拶した。

「いゝえ! 妾わたくしこそ。」

彼女は、小波さざなみ一つ立たない池の面か何かのように、落着いていた。

丁度、その時に兄のニコライ・セザレヴィッチが壇上に姿を現した。が、瑠璃子夫人は立とうとはしなかった。

「妾、暫しばらく茲ここで聴かせていただきますわ。」

彼女は、信一郎に云うともなく独語ひとりごとのように呟つぶやいた。

三

丁度その時、兄のセザレヴィッチの奏ひき初めた曲は、ショパンの前奏曲プレリュウドだった。聴衆は、水を打ったような静寂しじまの裡うちに、全身の注意を二つの耳に蒐あつめていた。が、その中で、信一郎の注意丈は、彼の左半身の触覚に、溢あふれるように満ち渡っていた。彼の左側には、瑠璃子夫人が、坐すわっていたからである。彼女は、故意にそうしているのかと思われるほどに、その華奢きゃしゃな身体を、信一郎の方へ寄せかけるように、坐っていた。

信一郎は、淡彩に夏草を散らした薄葡萄色うすぶどういろの、金紗縮緬きんしゃちりめんの着物の下に、軽く波打っている彼女の肉体の暖かみをさえ、感じ得るように思った。

彼女は、演奏が初まると、直すぐ独語のように、「雨滴レインドロップスのプレリュウドですわね。」と、軽く小声で云いった。それは、いかにもショパンの数多い前奏曲の中うち、『雨滴の前奏曲』として、知られたる傑作だった。

彼女は、演奏が進むに連れて、彼女の膝ひざの、夏草模様に、実物剥製はくせいの蝶ちょうが、群れ飛んでいる辺あたりを、其処そこに目に見えぬ鍵盤けんばんが、あるかのように、白い細い指先で、軽くしなやかに、打ち続けているのだった。而しかも、それと同時に、彼女の美しい横顔プロフィイルは、本当に音楽が解わかるものゝ感ずる恍惚こうこつたる喜悦で輝いているのだった。其処そこには日本の普通の女性には見られないような、精神的な美しさがあった。思想的にも、感覚的にも、開発された本当に新しい女性にしか、許されていないような、神々こうごうしい美しさがあった。

信一郎は、時々彼女の横顔を、そのくっきりと通った襟足を、そっと見詰めずにはいられないほど、彼女独特の美しさに、心を惹ひかされずにはいられなかった。

曲が、終りかけると、彼女は何人なんぴとよりも、先に慎つつましい拍手を送った。

快い緊張から夢のように醒さめながら、彼女は信一郎を顧みた。

「妹の方が、技巧は確ですけれども、どうも兄の方が、奔放で、自由で、それ丈天才的だと思いますのよ。」

「僕も同感です。」信一郎も、心からそう答えた。

「貴君あなた、音楽お好き? ほゝゝゝ、わざ〱来て下さったのですもの、お好きに定きまっていますわね。」

彼女は、二度目に会ったばかりの信一郎に、少しの気兼もないように、話した。

「好きです。高等学校にいたときは、音楽会の会員だったのです。」

「ピアノお奏ひきになって?」

「簡単なバラッドや、マーチ位は奏けます。はゝゝゝゝ。」

「ピアノお持ちですか。」

「いいえ。」

「じゃ、妾わたくしの宅へ時々、奏きにいらっしゃいませ。誰も気の置ける人はいませんから。」

彼女は、薄気味の悪いほど、馴々なれなれしかった。その時に、壇上には、妹のアンナが立っていた。

「バラキレフの『イスラメイ』を演やるのですね。随分難しいものを。」

そう云いながら、彼女は立ち上った。

「みんなが、妾を探しているようですから、失礼いたしますわ。会が終りましたら、階下したの食堂でお茶を一緒に召上りませんか。約束して下さいますでしょうね。」

「はあ! 結構です。」

信一郎は、何かの命令をでも、受けたように答えた。

「それでは後ほど。」

彼女は、軽く会釈えしゃくすると、静まり返っている聴衆の間の通路を、怯わるびれもせず遥はるか前方の自分の席へ帰って行った。信一郎は可なり熱心な眼付で、彼女を見送った。

彼女が、席に着こうとしたとき彼女の席の周囲にいた、多くの男性と女性とは、彼女が席に帰って来たのを、女王でもが、帰還したように、銘々に会釈した。彼女が多くの男性に囲まれているのを見ると、信一郎の心は、妙な不安と動揺とを感ぜずにはいられなかったのである。

四

それから、演奏が終ってしまうまで、信一郎は、ピアノの快い旋律せんりつと、瑠璃子夫人の残して行った魅惑的な移り香との中に、恍惚こうこつとして夢のような時間を過してしまった。

最後の演奏が終って、華やかな拍手と共に、皆が立ち上ったとき、信一郎は夢から、さめたように席を立ち上った。

彼は、自分から先刻さっきの約束を守るために、瑠璃子夫人を探し求めるほど大胆ではなかった。それかと云いって、その儘まま帰ってしまうには、彼は夫人の美しさに、支配され過ぎていた。彼は聴衆に先立って階段を降りたものゝ、階段の下で誰かを待ってでもいるように、躊躇ちゅうちょしていた。

美しい女性の流れが、暫しばらくは階段を滑っていた。が、待っても、待っても夫人の姿は見えなかった。

彼が、待ちあぐんでいる裡うちに、聴衆は降り切ってしまったと見え、下足の前に佇たたずんでいる人の数がだん〱疎まばらになって来た。

彼は『一緒にお茶を飲もう。』と云うことが、ただ一寸ちょっとした、夫人のお世辞であったのではないかと思った。それを金科玉条のように、一生懸命に守って、待ちつゞけていた自分が、少し馬鹿ばからしくなった。夫人は、屹度きっと混雑を避けて、別の出口から、もうとっくに帰り去ったに違いない。そう思って、彼は軽い失望を感じながら、踵きびすを返そうとした時だった。階段の上から、軽い靴音と、やさしい衣擦きぬずれの音と、流暢りゅうちょうな仏蘭西フランス語の会話とが聞えて来た。彼が、軽い駭おどろきを感じて、見上げると、階段の中途を静に降りかかっているのは、今日の花形スタアなるアンナ・セザレヴィッチと瑠璃子夫人とだった。その二人の洗い出したような鮮さが、信一郎の心を、深く深く動かした。一種敬虔けいけんな心持をさえ懐いだかせた。白皙はくせきな露西亜ロシア美人と並んでも、瑠璃子夫人の美しさは、その特色を立派に発揮していた。殊ことに、そのスラリとして高い長身は、凡すべての日本婦人が白人の女性と並び立った時の醜さから、彼女を救っていた。

信一郎は、うっとりとして、名画の美人画をでも見るように、暫らくは見詰めていた。

それと同じように、彼を駭かしたものは瑠璃子夫人の暢達ちょうたつな仏蘭西フランス語であった。仏法出の法学士である信一郎は、可なり会話にも自信があった。が、水の迸ほとばしるように、自然に豊富に、美しい発音を以もって、語られている言葉は、信一郎の心を魅し去らずにはいなかった。

瑠璃子は、階段の傍に、ボンヤリ立っている信一郎には、一瞥いちべつも与えないで、アンナを玄関まで送って行った。

其処そこで、後から来た兄のセザレヴィッチを待ち合わすと、兄妹が自動車に乗ってしまう迄まで、主催者の貴婦人達と一緒に見送っていた。彼女一人、兄妹を相手に、始終快活に談笑しながら。

兄妹を乗せた自動車が、去ってしまうと、彼女は、初めて信一郎を見付けたように、いそいそと彼の傍へやって来た。

「まあ! 待っていて下さいましたの。随分お待たせしましたわ。でも兄妹を送り出すまで、幹事として責任がございますの。」

彼女は、そう云いながら、帯の間から、時計を取り出して見た。それはやっぱり白金プラチナの時計だった。それを見た刹那せつな、不安ないやな連想が、電火いなずまのように、信一郎の心を走せ過ぎた。

「おやもう、六時でございますわ。お茶なんか飲んでいますと、遅くなってしまいますわ。如何いかがでございます。あのお約束は、またのことにして下さいませんか。ねえ! それでいゝでございましょう。」

「はあ! それで結構です。」

信一郎は、従順な僕しもべのように答えた。

「貴君あなた! お宅は何方どちら!」

「信濃町しなのまちです。」

「それじゃ、院線で御帰りになるのですか。」

「市電でも、院線でも孰どちらでゞも帰れるのです。」

「それじゃ、院線で御帰りなさいませ。万世橋でお乗りになるのでしょう。妾わたくしの自動車で万世橋までお送りいたしますわ。」

彼女は、それが何でもないことのように、微笑しながら云った。

五

わずか二度しか逢っていない、而しかも確かな紹介もなく妙な事情から、知己しりあいになっている男性に――その職業も位置も身分も十分分っていない男性に、突然自動車の同乗を勧める瑠璃子夫人の大胆さに、勧められる信一郎の方が、却かえってタジ〱となってしまった。信一郎は、一寸ちょっと狼狽ろうばいしながら、急いでそれを断ろうとした。

「いゝえ恐れ入ります。電車で帰った方が勝手ですから。」

「あら、そんなに改まって遠慮して下さると困りますわ。妾わたくし本当は、お茶でもいたゞきながら、ゆっくりお話がしたかったのでございますよ。それだのに、ついこんなに遅くなってしまったのですもの。せめて、一緒に乗っていたゞいて、お話したいと思いますの。死んだ青木さんのことなども、お話したいことがございますのよ。」

「でも御迷惑じゃございませんか。」

信一郎は、もう可なり、同乗する興味に、動かされながら、それでも口先ではこう云いって見た。

「あら、御冗談でございましょう。御迷惑なのは、貴君あなたではございませんか。」

夫人の言葉は、銘刀のように鮮かな冴さえを持っていた。信一郎が、夫人の奔放な言葉に圧せられたように、モジ〱している間に、夫人はボーイに合図した。ボーイは、玄関に立って、声高く自動車を呼んだ。

暮れなやむ初夏の宵の夕暗ゆうやみに、今点火したばかりの、眩まぶしいような頭光ヘッドライトを輝かしながら、青山の葬場で一度見たことのある青色大型の自動車は、軽い爆音を立てながら、玄関へ横付になった。会衆は悉ことごとく散じ去って、供待する俥くるまも自動車一台も残っていなかった。

「さあ! 貴君から。」

信一郎の確な承諾をも聴かないのにも拘かかわらず、夫人はそれに定きまった事のように、信一郎を促した。

そう勧められると、信一郎は不安と幸福とが、半分宛ずつ交ったような心持で、胸が掻かき乱された。彼は、心から同乗することを欲していたのにも拘わらず、乗ることが何となく不安だった。その踏み段に足をかけることが、何だか行方知らぬ運命の岐路へ、一歩を踏み出すように不安だった。

「あら、何をそんなに遠慮していらっしゃるの。じゃ、妾が御先に失礼しますわ。」

そう云うと、夫人は軽やかに、紫のフェルトの草履ぞうりで、踏台ステップを軽く踏んで、ヒラリと車中の人になってしまった。

「さあ! 早くお乗りなさいませ。」

彼女は振り顧かえって、微笑と共に信一郎を麾さしまねいた。

相手が、そうまで何物にも囚とらわれないように、奔放に振舞っているのに、男でありながら、こだわり通しにこだわっていることが、信一郎自身にも、厭いやになった。彼は、思い切って、踏台ステップに足を踏みかけた。

信一郎は、車中に入ると、夫人と対角線的に、前方の腰かけを、引き出しながら、腰を掛けようとした。

夫人は駭おどろいたように、それを制した。

「あら、そんなことをなさっちゃ、困りますわ。まあ、殿方にも似合わない、何と云う遠慮深い方でしょう。さあ此方こちらへおかけなさい! 妾と並んで。そんなに遠慮なさるものじゃありませんよ。」

信一郎を、窘たしなめるように、叱しかるように、夫人の言葉は力を持っていた。信一郎は、今は止やむを得ないと云ったように、夫人と擦れ〱に腰を降した。夫人の身体を掩おおうている金紗縮緬きんしゃちりめんのいじり痒かゆいような触感が、衣服きもの越しに、彼の身体に浸しみるように感ぜられた。

給仕やボーイなどの挨拶あいさつに送られて、自動車は滑るように、玄関前の緩い勾配こうばいを、公園の青葉の闇やみへと、進み始めた。

給仕人達の挨拶が、耳に入らないほど、信一郎は、烈はげしい興奮の裡うちに、夢みる人のように、恍惚こうこつとしていた。

六

つい知り合ったばかりの女性、しかも美しく高貴な女性と、たった二度目に会ったときに、もう既に自動車に、同乗すると云いうことが、信一郎には、宛さながら美しい夢のような、二十世紀の伝奇譚ロマンスの主人公になったような、不思議な歓よろこびを与えて呉くれた。万世橋駅迄までの三四分が、彼の生涯に再び得がたい貴重な三四分のように思われた。彼の生涯を通じて、宝石のように輝く、尊い瞬間のように思われた。彼は、その時間を心の底から、享うけ入れようと思っていた。が、そう決心した刹那せつなに、もう自動車は、公園の蒼あおい樹下闇このしたやみを、後に残して、上野山下に拡ひろがる初夏の夜、そうだ、豊に輝ける夏の夜の描けるが如ごとき、光と色との中に、馳かけ入っているのだった。時は速い翼を持っている。が、此この三四分の時間は、電光その物のように、アッと云う間もなく過ぎ去ろうとしている。

試験の答案を書く時などに、時間が短ければ短いほど、冷静に筆を運ばなければならないのに、時間があまりに短いと、却かえってわく〱して、少しも手が付かないように、信一郎も飛ぶが如くに、過ぎ去ろうとする時間を前にして、たゞ茫然ぼうぜんと手を拱こまぬいている丈だった。

然しかるに、瑠璃子夫人は悠然と、落着いていた。親しい友達か、でなければ自分の夫とでも、一緒に乗っているように、微笑を車内の薄暗うすやみに、漂わせながら、急に話しかけようともしなかった。

丁度、自動車が松坂屋の前にさしかゝった時、信一郎は、やっと――と言っても、たゞ一分間ばかり黙っていたのに過ぎないが――会話の緒いとぐちを見付けた。

「先刻、一寸ちょっと立ち聴きした訳ですが、大変仏蘭西フランス語が、お上手でいらっしゃいますね。」

「まあ! お恥かしい。聴いていらしったの。動詞なんか滅茶苦茶めちゃくちゃなのですよ。単語を並べる丈。でもあのアンナと云う方、大変感じのいい方よ。大抵お話が通ずるのですよ。」

「何どうして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。」

信一郎は心でもそう思った。

「まあ! お賞ほめに与あずかって有難いわ。でも、本当にお恥かしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古けいこした丈なのですよ。貴君あなたは仏法の出身でいらっしゃいますか。」

「そうです。高等学校時代から、六七年もやっているのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へ仏蘭西人が来ると、私丈が仏蘭西語が出来ると云うので、応接を命ぜられるのですが、その度毎ごとに、閉口するのです。奥さんなんか、このまゝ直すぐ外交官夫人として、巴里パリー辺の社交界へ送り出しても、立派なものだと思います。」

信一郎は、つい心からそうした讃辞さんじを呈してしまった。

「外交官の夫人! ほゝゝ、妾わたくしなどに。」

そう云ったまゝ、夫人の顔は急に曇ってしまった。外交官の夫人。彼女の若き日の憧あこがれは、未来の外交官たる直也なおやの妻として、遠く海外の社交界に、日本婦人の華として、咲き出いずることではなかったか。彼女が、仏蘭西語の稽古をしたことも、みんなそうした日のための、準備ではなかったか。それもこれも、今では煙の如く空むなしい過去の思出となって了しまっている。外交官の夫人と云われて、彼女の華やかな表情が、急に光を失ったのも無理はなかった。

瞬間的な沈黙が、二人を支配した。自動車は御成おなり街道の電車の右側の坦々たんたんたる道を、速力を加えて疾駆しっくしていた。万世橋迄は、もう三町もなかった。

信一郎は、もっとピッタリするような話がしたかった。

「仏蘭西文学は、お好きじゃございませんか。」

信一郎は、夫人の顔を窺うかがうように訊きいた。

「あのう――好きでございますの。」

そう云ったとき、夫人の曇っていた表情が、華やかな微笑で、拭ぬぐい取られていた。

「大好きでございますの。」

夫人は、再び強く肯定した。

七

「仏蘭西フランス文学が大好きですの。」と、夫人が答えた時、信一郎は其処そこに夫人に親しみ近づいて行ける会話の範囲が、急に開けたように思った。文学の話、芸術の話ほど、人間を本当に親しませる話はない。同じ文学なり、同じ作家なりを、両方で愛していると云いうことは、ある未知の二人を可なり親しみ近づける事だ。

信一郎は、初めて夫人と交すべき会話の題目が見付かったように欣よろこびながら、勢よく訊きき続けた。

「やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。」

「はい、近代のものとか、古典クラシックスとか申し上げるほど、沢山はよんでおりませんの。でも、モウパッサンなんか大嫌いでございますわ。何どうも日本の文壇などで、仏蘭西文学とか露西亜ロシア文学だとか申しましても、英語の廉価版チープエジションのある作家ばかりが、流行はやっているようでございますわね。」

信一郎は、瑠璃子夫人の辛辣しんらつな皮肉に苦笑しながら訊いた。

「モウパッサンが、お嫌いなのは僕も同感ですが、じゃ、どんな作家がお好きなのです?」

「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌いではありませんわ。」

「メリメは、どんなものがお好きです。」

「みんないゝじゃありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になってしまいましたが、原作はほんとうにいゝじゃありませんか。」

「あの女主人公ヒロインを何うお考えになります。」

「好きでございますよ。」

言下にそう答えながら、夫人は嫣然にっこりと笑った。

「妾わたくしそう思いますのよ。女に捨てられて、女を殺すなんて、本当に男性の暴虐ぼうぎゃくだと思いますの。男性の甚だしい我儘わがままだと思いますの。大抵の男性は、女性から女性へと心を移していながら、平然と済していますのに、女性が反対に男性から男性へと、心を移すと、直すぐ何とか非難を受けなければなりませんのですもの。妾、ホセに刺し殺されるカルメンのことを考える度毎ごとに、男性の我儘と暴虐とを、憤いきどおらずにはいられないのです。」

夫人の美しい顔が、興奮していた。やゝ薄赤くほてった頬が、悩しいほどに、魅惑的チャーミングであった。

信一郎は生れて初めて、男性と対等に話し得る、立派な女性に会ったように思った。彼は、はしなくも、自分の愛妻の静子のことを考えずにはいられなかった。彼女は、愛らしく慎つつましく従順貞淑な妻には違いない。が、趣味や思想の上では、自分の間に手の届かないように、広い〱隔へだたりが横わっている。天気の話や、衣類の話や、食物の話をするときには立派な話相手に違いない。

が、話が少しでも、高尚になり精神的になると、もう小学生と話しているような、もどかしさと頼りなさがあった。同伴の登山者が、わずか一町か二町か、離れているのなら、麾さしまねいてやることも出来れば、声を出して呼んでやることも出来た。が、二十町も三十町も離れていれば、何うすることも出来ない。信一郎は、趣味や思想の生活では、静子に対してそれほどの隔を感ぜずにはいられなかった。

が、彼は今までは、諦あきらめていた。日本婦人の教養が現在の程度で止まっている以上、そうしたことを、妻に求めるのは無理である。それは妻一人の責任ではなくして、日本の文化そのものの責任であると。

が、彼は今瑠璃子夫人と会って話していると、日本にも初めて新しい、趣味の上から云っても、思想の上から云っても優に男性と対抗し得るような女性の存在し始めたことを知ったのである。夫人と話していると、妻の静子に依よって充みたされなかった欲求が、わずか三四分の同乗に依って、十分に充たされたように思った。

そう思ったとき、その貴い三四分間は、過ぎていた。自動車は、万世橋の橋上を、やゝ速力を緩めながら、走っていた。

「いやどうも、大変有難うございました。」

信一郎は、そう挨拶あいさつしながら、降りるために、腰を浮かし始めた。

その時に、瑠璃子夫人は、突然何かを思い出したように云った。

「貴君あなた! 今晩お暇じゃなくって?」

八

「貴君! 今晩お暇ひまじゃなくって?」

と、云いう思いがけない問に、信一郎は立ち上ろうとした腰を、つい降してしまった。

「暇と云いますと。」

信一郎は、夫人の問の真意を解げしかねて、ついそう訊きき返さずにはいられなかった。

「何かお宅に御用事があるかどうか、お伺いいたしましたのよ。」

「いゝえ! 別に。」

信一郎は夫人が、何を云い出すだろうかと云う、軽い好奇心に胸を動かしながら、そう答えた。

「実は……」夫人は、微笑を含みながら、一寸ちょっと云い澱よどんだが、「今晩、演奏が済みますと、あの兄妹の露西亜ロシア人を、晩餐ばんさん旁かたがた帝劇へ案内してやろうと思っていましたの。それでボックスを買って置きましたところ、向うが止やむを得ない差支さしつかえがあると云って、辞退しましたから妾わたくし一人でこれから参ろうかと思っているのでございますが、一人ボンヤリ見ているのも、何だか変でございましょう。如何いかがでございます、もし、およろしかったら、付き合って下さいませんか。どんなに有難いか分りませんわ。」

夫人は、心から信一郎の同行を望んでいるように、余儀ないように誘った。

信一郎の心は、そうした突然の申出を聴いた時、可なり動揺どうようせずにはいなかった。今までの三四分間でさえ彼に取ってどれほど貴重な三四分間であるか分らなかった。夫人の美しい声を聞き、その華やかな表情に接し、女性として驚くべきほど、進んだ思想や趣味を味わっていると、彼には今まで、閉されていた楽しい世界が、夫人との接触に依よって、洋々と開かれて行くようにさえ思われた。

そうした夫人と、今宵こよい一夜を十分に、語ることが出来ると云うことは、彼にとってどれほどな、幸福と欣よろこびを意味しているか分らなかった。

彼は、直すぐ同行を承諾しようと思った。が、その時に妻の静子の面影が、チラッと頭を掠かすめ去った。新橋へ、人を見送りに行ったと云う以上、二時間もすれば帰って来るべき筈はずの夫を、夕餉ゆうげの支度を了おえて、ボンヤリと待ちあぐんでいる妻の邪気あどけない面影が、暫しばらく彼の頭を支配した。その妻を、十時過ぎ、恐らく十一時過ぎ迄も待ちあぐませることが、どんなに妻の心を傷いたませることであるかは、彼にもハッキリと分っていた。

「如何でございます。そんなにお考えなくっても、手軽に定きめて下さっても、およろしいじゃありませんか。」

夫人は躊躇ちゅうちょしている信一郎の心に、拍車はくしゃを加えるように、やゝ高飛車にそう云った。信一郎の顔をじっと見詰めている夫人の高貴ノーブルな厳おごそかに美しい面が、信一郎の心の内の静子の慎つつましい可愛かわいい面影を打ち消した。

「そうだ! 静子と過すべき晩は、これからの長い結婚生活に、幾夜だってある。飽き〱するほど幾夜だってある。が、こんな美しい夫人と、一緒に過すべき機会がそう幾度もあるだろうか。こんな浪漫的ロマンチックな美しい機会が、そう幾度だってあるだろうか。生涯に再びとは得がたいたゞ一度の機会であるかも知れない。こうした機会を逸しては……」

そう心の中で思うと、信一郎の心は、籠かごを放れた鳩はとか何かのように、フワ〱となってしまった。彼は思い切って云った。

「もし貴女あなたさえ、御迷惑でなければお伴いたしてもいゝと思います。」

「あらそう。付き合って下さいますの。それじゃ、直ぐ、丸の内へ。」

夫人は、後の言葉を、運転手へ通ずるように声高く云った。

自動車は、緩みかけた爆音を、再び高く上げながら、車首を転じて、夜の須田町すだちょうの混雑の中を泳ぐように、馳かけり始めた。

電車道の、鋪石ペーヴメントが悪くなっている故せいか、車台は頻しきりに動揺した。信一郎の心も、それに連れて、軽い動揺を続けている。

車が、小川町の角を、急に曲ったとき、夫人は思い出したように、とぼけたように訊いた。

「失礼ですが、奥様おありになって?」

「はい。」

「御心配なさらない! 黙って行らしっては?」

「いゝえ。決して。」

信一郎は、言葉丈は強く云った。が、その声には一種の不安が響いた。

九

帝劇の南側の車寄の階段を、夫人と一緒に上るとき、信一郎の心は、再び動揺した。この晴れがましい建物の中に、其処そこにはどんな人々がいるかも知れない群衆の中へ、こうした美しい、それ丈人目を惹ひき易やすい女性と、たった二人連れ立って、公然と入って行くことが、可なり気になった。

が、信一郎のそうした心遣いを、救たすけるように、舞台では今丁度幕が開いたと見え、廊下には、遅れた二三の観客が、急ぎ足に、座席シートへ帰って行くところだった。

夫人と並んで、広い空むなしいボックスの一番前方に、腰を下したとき、信一郎はやっと、自分の心が落着いて来るのを感じた。舞台が、煌々こうこうと明るいのに比べて、観客席が、ほの暗いのが嬉うれしかった。

夫人は席へ着いたとき、二三分ばかり舞台を見詰めていたが、ふと信一郎の方を振り返ると、

「本当に御迷惑じゃございませんでしたの。芝居はお嫌いじゃありませんの。」

「いゝえ! 大好きです。尤もっとも、今の歌舞伎かぶき芝居には可なり不満ですがね。」

「妾わたくしも、そうですの。外に行く処ところもありませんからよく参りますが、妾達の実生活と歌舞伎芝居の世界とは、もう丸きり違っているのでございますものね。歌舞伎に出て来る女性と云いえば、みんな個性のない自我のない、古い道徳の人形のような女ばかりでございますのね。」

「同感です。全く同感です。」

信一郎は、心から夫人の秀すぐれた見識を讃嘆さんたんした。

「親や夫に臣従しないで、もっと自分本位の生活を送ってもいゝと思いますの。古い感情や道徳に囚とらわれないで、もっと解放された生活を送ってもいゝと思いますの。英国のある近代劇の女主人公が、男が雲雀スカイラークのように、多くの女と戯たわむれることが出来るのなら、女だって雲雀スカイラークのように、多くの男と戯れる権利があると申しておりますが、そうじゃございませんでしょうか。妾もそう思うことがございますのよ。」

夫人は、周囲の静けさを擾みださないように、出来る丈信一郎の耳に口を寄せて語りつゞけた。夫人の温い薫かおるような呼吸が、信一郎のほてった頬を、柔かに撫なでるごとに、信一郎は身体中からだじゅうが、溶とろけてしまいそうな魅力を感じた。

「でも、貴君あなたなんか、そうした女性は、お好きじゃありませんでしょうね。」そう、信一郎の耳に、あたゝかく囁ささやいて置きながら、夫人は顔を少し離して嫣然にっこりと笑って見せた。男の心を、掻かき擾みだしてしまうような媚こびが、そのスラリとした身体全体に動いた。

夫人の大胆な告白と、美しい媚のために、信一郎は、目が眩くらんだように、フラ〱としてしまった。美しい妖精ようせいに魅せられた少年のように、信一郎は顔を薄赤く、ほてらせながら、たゞ茫然ぼうぜんと黙っていた。

夫人は、ひらりと身を躱かわすように、真面目まじめなしんみりとした態度に帰っていた。

「でも、妾、こんな打ち解けたお話をするのは、貴君が初めてなのよ、文学や思想などに、理解のない方に、こんなお話をすると、直すぐ誤解されてしまうのですもの、妾、かねてから、貴君のようなお友達が欲しかったの、本当に妾の心持を、聴いて下さるような男性のお友達が、欲しかったの、二人の異性の間には、真の友情は成り立たないなどと云うのは嘘でございますわね、異性の間の友情は、恋愛への階段だなどと云うのは、嘘でございますわね。本当に自覚している異性の間なら、立派な友情が何時いつまでも続くと思いますの。貴方と妾との間で、先例を開いてもいゝと思いますわ。ほゝゝゝ。」

夫人は、真の友情を説きながらも、その美しい唇は、悩ましきまでに、信一郎の右の頬近く寄せられていた。信一郎は、うっとりとした心持で、阿片アヘン吸入者が、毒と知りながら、その恍惚こうこつたる感覚に、身体を委まかせるように、夫人の蜜みつのように甘い呼吸と、音楽のように美しい言葉とに全身を浸していた。

客間の女王

一

帝劇のボックスに、夫人と肩を並べて、過した数時間は、信一郎に取っては、夢とも現うつつとも分ちがたいような恍惚こうこつたる時間だった。

夫人の身体全体から出る、馥郁ふくいくたる女性の香が、彼の感覚を爛ただらし、彼の魂を溶かしたと云いってもよかった。

彼は、其その夜、半蔵門迄まで、夫人と同乗して、其処そこで新宿行の電車に乗るべく、彼女と別れたとき、自動車の窓から、夜目にもくっきりと白い顔を、のぞかしながら、

「それでは、此この次の日曜に屹度きっとお訪ね下さいませ。」と、媚こびるような美しい声で叫んだ夫人の声が、彼の心の底の底まで徹するように思った。彼は、其処に化石した人間のように立ち止まって、葉桜の樹下闇このしたやみを、ほの〲と照し出しながら、遠く去って行く自動車の車台の後の青色の灯を、何時いつまでも何時までも見送っていた。彼の頬には、尚なお夫人の甘い快い呼吸いきの匂においが漂うていた。彼の耳の底には、夫人の此世ならぬ美しい声の余韻が残っていた。彼の感覚も心も、夫人に酔うていた。

彼の耳に囁ささやかれた夫人の言葉が、甘い蜜みつのような言葉が、一つ〱記憶の裡うちに甦よみがえって来た。『自分を理解して呉くれる最初の男性』とか、『そんな女性をお好きじゃありませんの』と云ったような馴々なれなれしい言葉が、それが語られた刹那せつなの夫人の美しい媚こびのある表情と一緒に、信一郎の頭を悩ました。

自分が、生れて始めて会ったと思うほどの美しい女性から、唯ただ一人の理解者として、馴々しい信頼を受けたことが、彼の心を攪乱かくらんし、彼の心を有頂天にした。

彼の頭の裡には、もう半面紫色になった青木淳じゅんの顔もなかった。謎なぞの白金プラチナの時計もなかった。愛している妻の静子の顔までが、此の﨟ろうたけた瑠璃子るりこ夫人の美しい面影のために、屡々しばしば掻かき消されそうになっていた。

十二時近く帰って来た夫を、妻は何時ものように無邪気に、何の疑念もないように、いそいそと出迎えた。そうした淑しとやかな妻の態度に接すると、信一郎は可なり、心の底に良心の苛責かしゃくを感じながらも、しかも今迄は可なり美しく見えた妻の顔が、平凡に単純に、見えるのを何どうともすることが出来なかった。

その次ぎの日曜まで、彼は絶えず、美しい夫人の記憶に悩まされた。食事などをしながらも、彼の想像は美しい夫人を頭の中に描いていることが多かった。

「あら、何をそんなにぼんやりしていらっしゃいますの、今度の日曜は何日? と云ってお尋ねしているのに、たゞ『うむ! うむ!』と云っていらっしゃるのですもの。何をそんなに考えていらっしゃるの?」

静子は、夫がボンヤリしているのが、可笑おかしいと云いながら、給仕をする手を止めて、笑いこけたりした。夫が、他の女性のことを考えて、ボンヤリしているのを、可笑しいと云って無邪気に笑いこける妻のいじらしさが、分らない信一郎ではなかったが、それでも彼は刻々に頭の中に、浮んで来る美しい面影を拭ぬぐい去ることが出来なかった。

到頭夫人と約束した次ぎの日曜日が来た。その間の一週間は、信一郎に取っては、一月も二月もに相当した。彼は、自分がその日曜を待ちあぐんでいるように、夫人がやっぱりその日曜を待ち望んでいて呉れることを信じて疑わなかった。

夫人が、自分を唯一人の真実の友達として、選んで呉れる。夫人と自分との交情こうじょうが発展して行く有様が、いろ〱に頭の中に描かれた。異性の間の友情は、恋愛の階段であると、夫人が云った。もしそれがそうなったら、何うしたらよいだろう。あの自由奔放な夫人は、屹度きっと云うだろう。

「それが、そうなったって、別に差支さしつかえはないのよ。」

夫のない夫人はそれで差支がないかも知れない。が、自分は何うしたらいゝだろう。妻のある自分は。結婚して間もない愛妻のある自分は。

信一郎は、そうした取りとめもない空想に頭を悩ましながら、七月の最初の日曜の午後に、夫人を訪ねるべく家を出た。

夫人を訪ねるのも、二度目であった。が、妻を欺あざむくのも二度目であった。

「社の連中と、午後から郊外へ行く約束をしたのでね。新宿で待ち合わして、多摩川へ行く筈はずなのだよ。」

帽子を持って送って出た静子に、彼は何気なくそう云った。

二

電車に乗ってからも、妻を欺いたと云いう心持が、可なり信一郎を苦しめた。が、あの美しい夫人が自分が尋ねて行くのを、じっと待っていて呉れるのだと思うと、電車の速力さえ平素いつもよりは、鈍いように思われた。

夫人と会ってからの、談話の題目などが、頭の中に次から次へと、浮んで来た。文芸や思想の話に就ても、今日はもっと、自分の考えも話して見よう。自分の平生の造詣ぞうけいを、十分披瀝ひれきして見よう。信一郎はそう考えながら、夫人のそれに対する溌剌はつらつたる受答や表情を絶えず頭の中に描き出しながら何時いつの間にか五番町の宏壮こうそうな夫人の邸宅の前に立っている自分を見出みいだした。

お濠ほりの堤どての青草や、向う側の堤の松や、大使館前の葉桜の林などには、十日ほど前に来たときなどよりも、もっと激しい夏の色が動いていた。

十日ほど前には、可なりビク〱と潜くぐった花崗石みかげいしらしい大石門を、今日は可なり自信に充みちた歩調で潜ることが出来た。

楓かえでを植え込んである馬車廻しの中に、たゞ一本の百日紅さるすべりが、もう可なり強い日光の中に、赤く咲き乱れているのが目に付いた。

遉さすがに、大理石の柱が、並んでいる車寄せに立ったとき、胸があやしく動揺するのを感じた。が、夫人が別れ際ぎわに、再び繰り返して、

「本当にお暇なとき、何時でもいらしって下さい。誰も気の置ける人はいませんのよ。妾わたくしがお山の大将をしているのでございますから。」と、言った言葉が、彼に元気を与えた。その上に、あれほど堅く約束した以上、屹度きっと心から待っていて呉くれるに違ない。心から、歓よろこび迎えて呉れるに違ない。そう思いながら、彼は「押せプッセ!」と、仏蘭西フランス語で書いてある呼鈴に手を触れた。

この前、来たときと同じように、小さい軽い靴音が、それに応じた。扉ドアが静に押し開けられると、一度見たことのある少年が、名刺受の銀の盆を、手にしながら、笑靨えくぼのある可愛かわいい顔を現した。

「あのう、奥様にお目にかゝりたいのですが。」

信一郎が、そう言うと少年は待っていたと言わんばかりに、

「失礼でございますが、渥美あつみさまとおっしゃいますか。」

信一郎は軽く肯いた。

「渥美さまなら、直すぐ何どうかお通り下さいませ。」

少年は、慇懃いんぎんに扉ドアを開けて、奥を指ゆびさした。

「何うか此方こちらへ。今日は奥の方の客間にいらっしゃいますから。」

敷き詰めてある青い絨毯じゅうたんの上を、少年の後から歩む信一郎の心は、可なり激しく興奮した。自分の名前を、ちゃんと玄関番へ伝えてある夫人の心遣いが、嬉うれしかった。一夜夫人と語り明したことさえ生涯に二度と得がたい幸福であると思っていた。それが、一夜限りの空むなしい夢と消えないで、実生活の上に、ちゃんとした根を下して来たことが、信一郎には此この上なく嬉しかった。彼は絨毯の上を、しっかりと歩んでいた積つもりであったが、もし傍観者があったならば、その足付が、宛然まるきり躍っているように見えたかも知れない。夫人と、美しい客間で二人限ぎり、何の邪魔もなしに、日曜の午後を愉快に語り暮すことが出来る。そうした楽しい予感で、信一郎の心は、はち切れそうに一杯だった。

長い廊下を、十間ばかり来たとき、少年は立ち止まって、其処そこの扉を指した。

「此方こちらでございます。」

信一郎は、その中に瑠璃子夫人が、腕椅子いすに身体を埋ませるように掛けながら、自分を待っているのを想像した。

彼は、興奮の余り、かすかに顫ふるえそうな手を扉の把手ハンドルにかけた。彼が、胸一杯の幸福と歓喜とに充されて、その扉を静かに開けたとき、部屋の中から、波の崩れるように、ワーッと彼を襲って来たものは、数多い男性が一斉に笑った笑い声だった。

彼は、不意に頭から、水をかけられたように、ゾッとして立ち竦すくんだ。

三

彼がハッと立ち竦すくんだ時には、もう半身は客間の中に入っていた。

凡すべてが、意外だった。瑠璃子夫人の華奢きゃしゃなスラリとした、身体の代りに、其処そこに十人に近い男性が色々な椅子いすに、いろいろな姿勢で以もって陣取っていた。瑠璃子夫人はと見ると、これらの惑星に囲まれた太陽のように、客間の中央に、女王のような美しさと威厳とを以て、大きい、彼女の身体を埋うずめてしまいそうな腕椅子に、ゆったりと腰を下していた。

楽しい予想が、滅茶々々になってしまった信一郎は、もし事情が許すならば、一目散に逃げ出したいと思った。が、彼が一足踏み入れた瞬間に、もうみんなの視線は、彼の上に蒐あつまっていた。

「あゝ、お前もやって来たのだな。」と、云いったような表情が、薄笑いと共に、彼等の顔の上に浮んでいた。信一郎は、そうした表情に依よって可なり傷つけられた。

瑠璃子夫人は、遉さすがに目敏めざとく彼を見ると、直すぐ立ち上った。

「あ、よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ。お掛け下さいまし。先刻からお待ちしていました。」

そう云いながら、彼女は部屋の中を見廻して、空椅子を見付けると、その空椅子の直ぐ傍にいた学生に、

「あゝ阿部あべさん一寸ちょっとその椅子を!」と、云った。

するとその学生は、命令をでも受けたように、

「はい!」と、云って気軽に立ち上ると、その椅子を、夫人の美しい眼で、命ずるまゝに、夫人の腕椅子の直ぐ傍へ持って来た。

「さあ! お掛けなさいませ。」

そう云って、夫人は信一郎を麾さしまねいた。孰どちらかと云えば、小心な信一郎は、多くの先客を押し分けて、夫人の傍近く坐すわることが、可なり心苦しかった。彼は、自分の頬が、可なりほてって来るのに気が付いた。

信一郎が椅子に着こうとすると夫人は一寸押し止めるようにしながら云った。

「そう〱。一寸御紹介して置きますわ。この方、法学士の渥美信一郎さん。三菱みつびしへ出ていらっしゃる。それから、茲にいらっしゃる方は、――そう右の端から順番に起立していたゞくのですね、さあ小山さん!」

と彼女は傍若無人と云ってもよいように、一番縁側の近くに坐っている、若いモーニングを着た紳士を指した。紳士は、柔順すなおにモジ〱しながら立ち上った。

「外務省に出ていらっしゃる小山男爵だんしゃく。その次の方が、洋画家の永島龍太さん。其その次の方が、帝大の文科の三宅さん、作家志望でいらっしゃる。その次の方が、慶応の理財科の阿部さん、第一銀行の重役の阿部保さんのお子さん。その次の方が日本生命へ出ていらっしゃる深井さん、高商出身の。その次の方が、寺島さん、御存じ? 近代劇協会にいたことのある方ですわ。其の次の方は、芳岡さん! 芳岡伯爵の長男でいらっしゃる。彼処あそこに一人離れていらっしゃる方が、富田さん! 政友会の少壮代議士として有名な方ですわ。みんな私のお友達ですわ。」

夫人は、夫人の眼に操られて、次から次へと立ち上る男性を、出席簿でも調べるように、淀よどみなく紹介した。

信一郎は、可なり激しい失望と幻滅とで、夫人の言葉が、耳に入らぬ程不愉快だった。自分一人を友達として選ぶと云った夫人が、十人に近い男性を、友人として自分に紹介しようとは、彼は憤怒ふんぬと嫉妬しっととの入り交じったような激昂で、眼が眩くらめくようにさえ感じた。彼は直ぐ席を蹴けって帰りたいと思った。が、何事もないように、こぼれるように微笑している夫人の美しい顔を見ていると、胸の中の激しい憤怒が春風に解くるように、何時いつの間にか、消えてゆくのを感じた。

コロネーションに結った黒髪は、夫人の長身にピッタリと似合っていた。黒地に目も醒さめるような白い棒縞ぼうじまのお召が、夫人の若々しさを一層引立てゝいた。白地の仏蘭西縮緬フランスちりめんの丸帯に、施された薔薇ばらの刺繍ししゅうは、匂におい入りと見え、人の心を魅するような芳香が、夫人の身辺を包んでいる。

信一郎の失望も憤怒も、夫人の鮮あざやかな姿を見ていると、何時の間にか撫なでられるように、和んで来るのだった。

四

「渥美さん! 今大変な議論が始まっているのでございますよ。明治時代第一の文豪は、誰だろうと云いう問題なのでございますよ。貴君あなたの御説も伺わして下さいませな。」

夫人は、信一郎を会話の圏内けんないに入れるように、取り做なして呉くれた。が、初めて顔を合わす未知の人々を相手にして、直すぐおいそれ! と文学談などをやる気にはなれなかった。その上に、夫人から、帝劇のボックスで聴いた「こんなに打ち解けた話をするのは、貴君が初めてなのよ。」と、云うような、今となっては白々しい嘘うそが、彼の心を抉えぐるように思い出された。

「だって奥さん! 独歩には、いゝ芽があるかも知れません。が、然しかしあの人は先駆者だと思うのです。本当に完成した作家ではないと思うのです。」

信一郎が、何も云い出さないのを見ると、三宅と云う文科の学生が、可なり熱心な口調でそう云った。先刻から続いて、明治末期の小説家国木田独歩を論じているらしかった。

「それに、独歩のような作品は、外国の自然派の作家には幾何いくらでもあるのだからね。先駆者と云うよりも、或ある意味では移入者だ。日本の文学に対して、ある新鮮さを寄与したことは確だが、それがあの人の創造であるとは云われないね。外国文学の移植なのだ。ねえ! そうではありませんか、奥さん!」

モーニングを着た小山男爵だんしゃくは、自分の見識に対する夫人の賞讃しょうさんを期待しているように、自信に充みちて云った。

「でも妾わたくし、可なり独歩を買っていますのよ。明治時代の作家で、本当に人生を見ていた作家は、独歩の外にそう沢山はないように思いますのよ。ねえ、そうじゃございませんか。渥美さん。」

夫人は、多くの男性の中から、信一郎丈を、選んだように、信一郎の賛意を求めた。が、信一郎は不幸にも、独歩の作品を、余り沢山読んでいなかった。四五年も前に、『運命論者』や『牛肉と馬鈴薯ばれいしょ』などを読んだことがあるが、それが何どう云う作品であったか、もう記憶にはなかった。が、夫人に話しかけられて、たゞ盲従的もうじゅうてきに返答することも出来なかった。その上、彼は周囲の人達に対する手前、何か彼かにか自分の意見を云わねばならぬと思った。

「そうかも知れません。が、明治文壇の第一の文豪として推すのには、少し偏しているように思うのです。やはり、月並ですが、明治の文学は紅葉などに代表させたいと思うのです。」

「尾崎紅葉!」小山男爵は、『クスッ』と冷笑するような口調で云った。

「『金色夜叉やしゃ』なんか、今読むと全然通俗小説ですね。」

文科の学生の三宅が、その冷笑を説明するように、吐出すように云った。

瑠璃子夫人は、三宅の思い切った断定を嘉納かのうするように、ニッと微笑びしょうを洩もらした。信一郎は初めて、口を入れて、直ぐ横面よこっつらを叩たたかれたように思った。瑠璃子夫人までが、微笑で以もって、相手の意見を裏書したことが、更に彼の心を傷けた。彼は思わず、ムカ〱となって来るのを何どうともすることが出来なかった。彼は、自分の顔色が変るのを、自分で感じながら、死身になって口を開いた。

「『金色夜叉』を通俗小説だと云うのですか。」

彼の口調は、詰問きつもんになっていた。

「無論、それは読む者の趣味の程度に依よることだが、僕には全然通俗小説だと思われるのです。」

若い文科大学生は、何の遠慮もしないで、彼の信念を昂然こうぜんと語った。

「それは、貴君あなたが作品と時代と云うことを考えないからです。現在の文壇の標準から云えば、『金色夜叉』の題目テーマなんか、通俗小説に違ちがいないです。が、然しそれは『金色夜叉』の書かれた明治三十五年から、現在まで二十年も経過していることを忘れているからです。現在の文壇で、貴君が芸術的小説だと信じているものでも、二十年も経たてば、みんな通俗小説になってしまうのです。過去の作品を論ずるのには、時代と云うことを考えなければ駄目です。『金色夜叉』は今読めば通俗小説かも知れませんが、明治時代の文学としては、立派な代表的作品です。」

信一郎は、思いの外に、スラ〱と出て来る自分の雄弁に興奮していた。

「過去の文学を論ずるには、やはり文学史的に見なければ駄目です。」

彼は、きっぱりと断定するように云った。

「それもそうですわね。」

瑠璃子夫人は、信一郎の素人しろうと離れした主張を、感心したように、しみ〲そう云った。信一郎は俄にわかに勇敢になって来た。

五

瑠璃子夫人が、新来の信一郎、殊ことに文学などの分りそうもない会社員の信一郎の言葉に、賛成したのを見ると、今度は三宅と小山男爵だんしゃくとの二人が、躍気になった。

殊に青年の三宅は、その若々しい浅黒い顔を、心持薄赤くしながら可なり興奮した調子で云いった。

「時代が経たてば、どんな芸術的小説でも、通俗小説になる。そんな馬鹿ばかな話があるものですか。芸術的小説は何時いつが来たって、芸術的小説ですよ。日本の作家でも、西鶴さいかくなどの小説には、何時が来ても亡ほろびない芸術的分子がありますよ。天才的な閃ひらめきがありますよ。それに比べると、尾崎紅葉なんか、徹頭徹尾通俗小説ですよ。紅葉の考え方とか物の観方みかたと云うものは、常識の範囲を、一歩も出ていないのですからね。たゞ、洗煉せんれんされた常識に過ぎないのですよ。例えば『三人妻』など云う作品だって如何いかにも三人の妻の性格を描き分けてあるけれども、それが世間に有り触れた常識的型タイプに過ぎないのですからね。紅葉を以もって、明治時代の文学的常識を、代表させるのなら差支さしつかえないが、第一の文豪として、紅葉を推す位なら、むしろ露伴柳浪美妙、そんな人の方を僕は推したいね。」

三宅の語り終るのを待ち兼ねたように、小山男爵は、横から口を入れた。

「第一『金色夜叉やしゃ』なんか、あんなに世間で読まれていると云うことが、通俗小説である第一の証拠だよ。万人向きの小説なんかに、碌ろくなものがある訳はないからね。」

二人の、攻撃的な挑戦的な口調を聴いていると、信一郎もつい、ムカ〱となってしまった。瑠璃子夫人はと見ると、その平静な顔に、嗾けしかけるような微笑を湛たたえて、『貴君あなたも負けないで、しっかりおやりなさい。』と、云うように信一郎の顔を見ていた。

「それは可笑おかしいですな。」

そう云いながら、信一郎は何処どこか貴族的な傲慢ごうまんさが、漂ただようている小山男爵の顔をじっと見た。

「そんな暴論はありませんよ。広く読まれているのが、通俗小説の証拠ですって、そんな暴論はないと思いますね。そう云う議論をすれば、沙翁シェクスピアの戯曲だって、通俗戯曲だと云うことになるじゃありませんか。ホーマアの詩だって、ダンテの神曲だって、みんな広く読まれていると云う点で、通俗的作品と云うことになりそうですね。僕は、そうは思いませんよ。それと反対に、立派な芸術的作品ほど、時代が経てば、だん〱通俗化して行くのだと思うのですね。トルストイの作品が日本などでも段々通俗化して来たように、通俗化して行かない作品こそ、却かえって何かの欠陥があると思うのですね。御覧なさい! 馬琴でも西鶴でも、通俗化して行けばこそ、後代に伝わるのじゃありませんか。『金色夜叉』が通俗化しているからと云って、あの小説の芸術的価値を否定することは出来ませんよ。僕は芸術的に秀すぐれていればこそ、民衆の教養が進むに従って、段々通俗化して行ったのだと思うのです。紅葉の考え方や、観方はいかにも常識的かも知れません。が、然し作品全体の味とかその表現などにこそ、却って芸術的な価値があるのじゃありませんか。あの作品の規模きぼの大きさから云っても、画面的に描き出す手腕から云っても、明治時代無二の作家と云ってもよいと思うのです。いや、あの鼈甲牡丹べっこうぼたんのように、絢爛けんらん華麗な文章丈を取っても、優に明治文学の代表者として、推す価値が十分だと思うのです。」

信一郎は、可なり熱狂して喋しゃべった。法科に籍を置いていたが、高等学校に入学の当時には、父の反対さえなければ、欣よろこんで文科をやった筈はずの信一郎は、文学に就ては自分自身の見識を持っていた。

信一郎の意外な雄弁に、半可な文学通に過ぎない小山男爵は、もうとっくに圧倒されたと見え、その白い頬を、心持赤くしながら、不快そうに黙ってしまった。

三宅は、云い込められた口惜しさを、何どうかして晴そうと、駁論ばくろんの筋道を考えているらしく口の辺りをモグ〱させていた。

「渥美さんは、本当に立派な文芸批評家でいらっしゃる。妾わたくし全く感心してしまいましたわ。」

瑠璃子夫人は、心から感心したように、賞讃しょうさんの微笑を信一郎に注いだ。

信一郎は、女王の御前仕合で、見事な勝利を獲えた騎士のように、晴れがましい揚々たる気持になっていた。

「然し……」と、三宅と云う青年が、必死になって駁論を初めようとした時だった。

廊下に面した扉ドアを、外からコツ〱と叩たたく音がした。

六

「誰方どなた?」

夫人は、扉を叩たたく音に応じてそう云いった。

「僕です。」

外の人は明晰めいせきな、美しい声でそう答えた。

「あら、秋山さんなの。丁度よいところへ。」

夫人は、そう云いながら、いそ〱と椅子いすを離れた。信一郎が、入って来たときは、夫人はたゞ椅子から、腰を浮かした丈だったのに。

夫人が、手ずから扉を開けると、『僕です。』と、名乗った男は、軽く会釈えしゃくをしながら、入って来た。信一郎は、一目見たときに、何処どこかで見覚えのある顔だと思ったが、一寸ちょっと思い出せなかった。が、一目見た丈で、作家か美術家であることは、直すぐ解わかった。白い面長な顔に、黒い長髪を獅子ししの立髪か何かのように、振り乱していた。が、頭は極端に奔放であるにも拘かかわらず、薩摩さつま上布の衣物きものに、鉄無地の絽ろの薄羽織を着た姿は、可なり瀟洒しょうしゃたるものだった。夫人はその男とは、立ちながら話した。

「暫しばらく御無沙汰ごぶさた致しました。」

「ほんとうに長い間お見えになりませんでしたのね。箱根へお出いでになったって、新聞に出ていましたが、行らっしゃらなかったの。」

「いや、何処へも行きやしません。」

「それじゃ、やっぱり例の長篇で苦しんでいらしったの。本当に、妾わたくしの家へいらっしゃる道を忘れておしまいになったのかと思っていましたの。ねえ! 三宅さん。」

夫人は、三宅と云う学生を顧みた。

「やあ!」

「やあ!」

三宅とその男とは顔を見合して挨拶あいさつした。

「本当に、暫らくお見えになりませんでしたね。貴君あなたが、いらっしゃらないと、此処ここの客間サロンも淋さみしくていけない。」

三宅は、後輩が先輩に迎合するような、口の利きき方をした。

「さあ! 秋山さん! 此方こっちへお掛けなさいませ。本当によい所へ入いらしったわ。今貴君に断定を下していたゞきたい問題が、起っていますのよ。」

そう云いながら、今度は夫人自ら、空いた椅子を、自分の傍へ、置き換えた。

「さあ! お掛けなさいませ! 貴君の御意見が、伺いたいのよ。ねえ! 三宅さん!」

信一郎に、説き圧おされていた三宅は、援兵を得たように、勇み立った。

「さあ、是非秋山さんの御意見を伺いたいものです。ねえ! 秋山さん、今明治時代の第一の小説家は、誰かと云う問題が、起っているのですがね、貴君のお考えは、何どうでしょう。こう云う問題は、専門家でなければ駄目ですからね。」

三宅は、最後の言葉を、信一郎に当てこするように云った。瑠璃子夫人までが、その最後の言葉を説明するように信一郎に云った。

「此この方、秋山正雄さん、御存じ! あの赤門派あかもんはの新進作家の。」

秋山正雄、そう云われて見れば、最初見覚えがあると思ったのは、間違っていなかったのだ。信一郎が一高の一年に入った時、その頃三年であった秋山氏は文科の秀才として、何時いつも校友会雑誌に、詩や評論を書いていた。それが、大学を出ると、見る間に、メキ〱と売り出して、今では新進作家の第一人者として文壇を圧倒するような盛名を馳はせている。その上、教養の広く多方面な点では若い小説家としては珍らしいと云われている人だった。

信一郎は、自分が有頂天になって、喋しゃべった文学論が、こうした人に依よって、批判される結果になったかと思うと、可なりイヤな羞はずかしい気がした。有頂天になっていた彼の心持は忽たちまち奈落ならくの底へまで、引きずり落された。場合に依っては、此の教養の深い文学者――しかも先輩に当っている――と、文学論を戦わせなければならぬかと思うと、彼は思わず冷汗が背中に湧わいて来るのを感じた。

信一郎の心が、不快な動揺に悩まされているのを外よそに、秋山氏は、今火を点つけた金口の煙草たばこを燻くゆらしながら、落着いた調子で云った。

「それは、大問題ですな。僕の意見を述べる前に、兎とに角かく皆様の御意見を承わろうじゃありませんか。」

そう云いながら、秋山氏は額ひたいに掩おおいかゝる長髪を、二三度続けざまに後へ掻かき上げた。

七

「大分いろ〱な御意見が出たのですがね。茲ここにいらっしゃる渥美あつみ君、確かそう仰おっしゃいましたね。」三宅は、一寸ちょっと信一郎の方を振り顧かえった。「大変紅葉をお説きになるのです。紅葉を措おいて明治時代の文豪は、外にないだろうと、こう仰しゃるのです。文章丈を取っても、鼈甲牡丹べっこうぼたんのような絢爛けんらんさがあるとか何とか仰しゃるのです。」

三宅が、秋山氏に信一郎の持説を伝えている語調の中には、『此この素人しろうとが』と云いった語気が、ありありと動いていた。秋山氏は、いかにも小説家らしく澄んだ眼で、信一郎の方をジロリと一瞥いちべつしたが、吸いさしの金口の火を、鉄の灰皿で、擦り消しながら、「鼈甲牡丹の絢爛さ! なるほど、うまい形容だな。だが、擬まがいの鼈甲牡丹なら三四十銭で、其処そこらの小間物屋に売っていそうですね。」

瑠璃子夫人を初め、一座の人々が、秋山氏の皮肉を、どっと笑った。

「紅葉山人の絢爛さも、きィちゃん、みィちゃん的読者を欣よろこばせる擬の鼈甲牡丹じゃありませんかね。一寸見は、光沢つやがあっても、触って見ると、牛の骨か何かだと云うことが、直すぐ分りそうな。」

秋山氏が、文壇での論戦などでも、自分自身の溢あふれるような才気に乗じて、常に相手を馬鹿ばかにしたような、おひゃらかしてしまうような態度に出ることは、信一郎は予々かねがね知っていた。それが、妙な羽目から、自分一人に向けられているのだと思うと、信一郎は不愉快とも憤怒とも付かぬ気持で、胸が一杯だった。が、こうした文学者を相手に、議論を戦わす勇気も自信もなかった。相手の辛辣しんらつな皮肉を黙々として、聴いている外はなかった。たゞ、文壇の花形ともある秋山氏が、自分などの素人を捕えて、真向から皮肉を浴びせているのが、可なり大人気ないようにも思われて、それが恨めしくも、憤いきどおろしくもあった。

「第一『金色夜叉やしゃ』なんか、今読んで見ると全然通俗小説ですね。」

秋山氏は、一刀の下に、何かを両断するように云った。

瑠璃子夫人は、『おや。』と云ったような軽い叫びを挙げながら云った。

「三宅さんも、先刻そんなことを云ったのよ。あ、分った! 三宅さんのは秋山さんの受売だったのね。」

三宅は、赤面したように、頭を掻かいた。一座は、信一郎を除いて、皆ドッと笑った。

秋山氏は、皮肉な微笑を浮べながら、

「いや、三宅君と期せずして意見を同じくしたのは、光栄ですね。」

一座は、秋山氏の皮肉を、又ドッと笑った。その笑が静まるのを待ち兼ねて、三宅が云った。

「今僕が、その『金色夜叉』通俗小説論を持ち出したのです。すると、渥美さんが云われるのです。現在の我々の標準で律すれば、『金色夜叉』は通俗小説かも知れない。が、作品を論ずるには、その時代を考えなければならない。文学史的に見なければならない。こう仰しゃるのです。」

「文学史的に見る。それは卓見たくけんだ。」秋山氏は、ニヤ〱と冷笑とも微笑とも付かぬ笑いを浮べながら云った。

「だが、紅葉山人と同時代の人間が、みんな我々の眼から見て、通俗小説を書いているのなら、『金色夜叉』が通俗小説であっても、一向差支さしつかえないが、紅葉山人と同時代に生きていて、我々の眼から見ても、立派な芸術小説をかいている人が外にあるのですからね。幾何いくら文学史的に見ても、紅葉を第一の小説家として、許すことは僕には出来ませんね。文学史的に見れば、紅葉山人などは、明治文学の代表者と云うよりも、徳川時代文学の殿将でんしょうですね。あの人の考え方にも、観方みかたにも描き方にも、徳川時代文学の殻が、こびりついているじゃありませんか。」

遉さすがの信一郎も、黙っていることは出来なかった。

「そう云う観方をすれば、明治時代の文学は、全体として徳川時代の文学の伝統を引いているじゃありませんか。何も、紅葉一人丈じゃないと思いますね。」

「いや、徳川時代文学の糟粕そうはくなどを、少しも嘗なめないで、明治時代独特の小説をかいている作家がありますよ。」

「そんな作家が、本当にありますか。」

信一郎も可なり激した。

「ありますとも。」

秋山氏は、水の如ごとく冷たく云い放った。

汝なんじ妖婦ようふよ!

一

「誰です。一体その人は。」

信一郎は、可なり急せき込んで訊きいた。

が、秋山氏は落着いたまゝ、冷然として云いった。

「然しかし、こう云う問題は、銘々めいめいの主観の問題です。僕が、此この人がこうだと云っても、貴君あなたにそれが分らなければ、それまでの話ですが、兎とに角かく云って見ましょう。それは、誰でもありません。あの樋口ひぐち一葉です。」

秋山氏は、それに少しの疑問もないように、ハッキリと云い切った。

瑠璃子るりこ夫人は、それを聴くと、躍り上るようにして欣よろこんだ。

「一葉! 妾わたくしスッカリ忘れていましたわ。そう〱一葉がいますね。妾が、今まで読んだ小説の女主人公の中で、あの『たけくらべ』の中の美登利みどりほど好きな女性はないのですもの。」

「御尤ごもっともです。勝気で意地っ張なところが貴女あなたに似ているじゃありませんか。」

秋山氏は、夫人を揶揄やゆするように云った。

「まさか。」

と、夫人は打ち消したが、其その比較が、彼女の心持に媚こび得たことは明かだった。

「一葉! そう〱あれは天才だ、夭折ようせつした天才だ! 一葉に比べると、紅葉なんか才気のある凡人に過ぎませんよ。」

小山男爵だんしゃくは、信一郎に云い伏せられた腹癒はらいせがやっと出来たように、得々として口を挟んだ。

「そうだ! 『たけくらべ』と『金色夜叉やしゃ』とを比べて見ると、どちらが通俗小説で、どちらが芸術小説だか、ハッキリと分りますね。渥美あつみさんの御意見じゃ、『金色夜叉』よりも六七年も早く書かれた『たけくらべ』の方が、もっと早く通俗小説になっている筈はずだが、我々が今読んでも『たけくらべ』は通俗小説じゃありませんね。決してありませんね。」

三宅も、信一郎の方を意地悪く見ながら、そう云った。

其処そこにいた多くの人々も、銘々に口を出した。

「『たけくらべ』! ありゃ明治文学第一の傑作ですね。」

「ありゃ、僕も昔読んだことがある。ありゃ確にいゝ。」

「あゝそう〱、吉原よしわらの附近が、光景になっている小説ですか、それなら私も読んだことがある。坊さんの息子か何かがいたじゃありませんか。」

「女主人公が、それを潜ひそかに恋している。が、勝気なので、口には云い出せない。その中うちに、一寸ちょっとした意地から不和になってしまう。」

「信如しんにょとか何とか云う坊さんの子が、下駄げたの緒を切らして困っていると、美登利が、紅入友禅か何かの布片きれを出してやるのを、信如が妙な意地と遠慮とで使わない。あの光景なんか今でもハッキリと思い出せる。」

代議士の富田氏までが、そんなことを云い出した。こうした一座の迎合を、秋山氏は冷然と、聴き流しながら、最後の断案を下すように云った。

「兎に角、明治の作家の中うちで、本当に人間の心を描いた作家は、一葉の外にはありませんからね。硯友社けんゆうしゃの作家が、文章などに浮身を窶やつして、本当に人間が描けなかった中で、一葉丈は嶄然ざんぜんとして独自の位置を占めていますからね。一代の驕児きょうじ高山樗牛ちょぎゅうが、一葉丈には頭を下げたのも無理はありませんよ。僕は明治時代第一の文豪として一葉を推しますね。」

秋山氏は、如何いかにも芸術家らしい冷静と力とを以て、昂然こうぜんとそう云い放った。

信一郎は、もう先刻からじり〱と湧わいて来る不愉快さのために、一刻もじっとしてはいられないような心持だった。凡すべてが不愉快だった。凡てが、癪しゃくに触った。樫かしの棒をでも持って、一座の人間を片ッ端から、殴り付けてやりたいようにいら〱していた。

そうした信一郎の心持を、知ってか知らずにか、夫人は何気ないように微笑しながら、

「渥美さん! しっかり遊ばしませ。大変お旗色が悪いようでございますね。」

二

信一郎が、フラ〱と立ち上るのを見ると、皆は彼が大おおいに論じ始めるのかと思っていた。が、今彼の心には、樋口ひぐち一葉も尾崎紅葉もなかった。たゞ、瑠璃子夫人に対する――夫人の移り易やすきこと浮草の如ごとき不信に対する憎みと、恨みとで胸の中が燃え狂っていたのだった。

彼は一刻も早く此この席を脱したかった。彼は其処そこに蒐あつまっている男性に対しても、激しい憎悪ぞうおと反感とを感ぜずにはいられなかった。

「奥さん! 僕は失礼します。僕は。」

彼は、感情の激しい渦巻のために、何と挨拶あいさつしてよいのか分らなかった。

彼は、吃どもりながら、そう云ってしまうと、泳ぐような手付で、並んだ椅子いすの間を分けながら扉ドアの方へ急いだ。

遉さすがに一座の者は固唾かたずを飲んだ。今まで瑠璃子夫人を挟さしはさんで、鞘当さやあて的な論戦の花が咲いたことは幾度となくあったが、そんな時に、形もなく打ち負された方でも、こんなにまで取り擾みだしたものは一人もなかった。

真蒼まっさおな顔をして、憤然として、立ち出いでて行く信一郎を、皆は呆気あっけに取られて見送った。

信一郎は、もう美しい瑠璃子夫人にも何の未練もなかった。後に残した華やかな客間を、心の中で唾棄だきした。夫人の艶美えんびな微笑も蜜みつのような言葉も、今は空くうの空なることを知った。否いな、空の空なるか、ではなくして、その中に恐ろしい毒を持っていることを知った。それは、目的のための毒ではなくして、毒のための毒であることを知った。彼女は、目的があって、男性を翻弄ほんろうしているのではなく、たゞ翻弄することの面白さに、翻弄していることを知った。自分の男性に対する魅力を、楽しむために、無用に男性を魅していることを知った。丁度、激しい毒薬の所有者が、その毒の効果を自慢して妄みだりに人を毒殺するように。

『汝なんじ妖婦ようふよ!』

信一郎は、心の中で、そう叫び続けた。彼は、客間から玄関までの十間に近い廊下を、電光の如ごとくに歩んだ。

周章あわてゝ見送ろうとする玄関番の少年にも、彼は一瞥いちべつをも与えなかった。

彼は突き破るような勢いで、玄関の扉に手をかけた。

が、その刹那せつなであった。

信一郎の興奮した耳に、冷水を注ぐように、

「渥美さん! 渥美さん! 一寸ちょっとお待ち下さい。」と、云う夫人の美しい言葉が聞えて来た。信一郎はそれを船人の命を奪う妖魚サイレンの声として、そのまゝ聞き流して、戸外へ飛び出そうと思った。が、彼のそうした決心にも拘かかわらず、彼の右の手は、しびれたように、扉の把手ハンドルにかゝったまゝ動かなかった。

「何どうなすったのです。本当にびっくりいたしましたわ。何をそんなにお腹立ち遊ばしたの。」夫人は小走りに信一郎に近づきながら、可愛かわいい小さい息をはずませながら云った。

心配そうに見張った黒い美しい眸ひとみ、象牙彫ぞうげぼりのように気高い鼻、端正な唇、皎しろい艶つややかな頬、こうした神々こうごうしい﨟ろうたけた夫人の顔を見ていると、彼女の嘘、偽りが、夢にもあろうとは思われなかった。彼女の微笑や言葉の中に、微塵みじん賤いやしい虚偽が、潜んでいようとは思われなかった。

「何うして、そんなに早くお帰り遊ばすの。妾わたくし、皆さんがお帰りになった後で、貴君あなたと丈で、ゆっくりお話していたかったの。秋山さんと云う方は、本当にあまんじゃくよ。反対のために反対していらっしゃるのですもの。それをまた、みんなが迎合するのだから、厭いやになってしまいますわね。客間サロンにいらっしゃるのがお厭なら、図書室ライブラリーの方へ、御案内いたしますわ。あなたのお好きな『紅葉全集』でも、お読みになって、待っていらっしゃいませ。妾、もう三十分もすれば、何とか口実を見付けて、皆さんに帰っていたゞきますわ。ほんの少しの間、待っていて下さらない?」

三

『ほんの少し待っていて下さらない?』と、云いう夫人の言葉を聴くと、『汝なんじ妖婦ようふよ!』と、心の中で叫んでいた信一郎の決心も、またグラ〱と揺ごうとした。

が、彼は揺ごうとする自分の心を、辛うじて、最後の所で、グッと引き止めることが出来た。お前はもう既に、夫人の蜜みつのような言葉に乗ぜられて、散々な目にあったではないか。再びお前は、夫人から何を求めようとしているのだ。お前が夫人の言葉を信ずれば、信ずるほど、夫人のお前に与うるものは、幻滅げんめつと侮辱との外には、何もないのだ。男性の威厳を思え! 今日夫人から受けた幻滅と侮辱とは、まだ夫人に対するお前の幻覚を破るのに足りなかったのか。男性の威厳を思え! 夫人の言葉をスッパリと突き放してしまえ! 信一郎の心の奥に、弱いながら、そう叫ぶ声があった。

信一郎は、心の中に夫人の美しさに、抵抗し得る丈の勇気を、やっと蒐あつめながら云った。

「でも、奥さん! 私、このまゝお暇いとまいたした方がいゝように思うのです。あゝした立派な方が蒐あつまっている客間には、私のような者は全く無用です。どうも、大変お邪魔しました。」

信一郎は、可なりキッパリと断りながら、急いで踵くびすを返そうとした。

「まあ! 貴君あなた、何をそんなにお怒り遊ばしたの、何か妾わたくしが貴君のお気に触るようなことをいたしましたの、折角いらして下すって、直すぐお帰りになるなんて、余あんまりじゃありませんか。客間に蒐まっていらっしゃる方なんて、妾仕方なくお相手いたしておりますのよ。妾が、妾の方から求めてお友達になりたいと思ったのは、本当は貴君お一人なのですよ。」

信一郎は、そう云いながら、何事もないように、笑っている夫人の美しさに、ある凄味すごみをさえ感じた。夫人の口吻くちぶりから察すれば、夫人は周囲に集まっている男性を、蠅はえ同様に思っているのかも知れない。もし、そうだとすると、信一郎なども、新来の初心な蠅として、たゞ一寸ちょっとした珍しさに引き止められているのかも知れない。そうした上部うわべ丈けの甘言に乗って、ウカ〱と夫人の掌上てのうえなどに、止まっている中には、あの象牙ぞうげ骨の華奢きゃしゃな扇子か何かで、ビシャリと一打ひとうちにされるのが、当然の帰結であるかも知れないと信一郎は思った。

「でも、今日は帰らせていたゞきたいと思います。又改めて伺いたいと思いますから。」

信一郎は、可なり強くなって、キッパリと云った。

夫人も、遉さすがにそれ以上は、勧めなかった。

「あらそう。何どうしてもお帰りになるのじゃ仕方がありませんわ。やっぱり、妾の心持が、貴君あなたにはよく分らないのですね。じゃ、左様なら。」

夫人は、淡々として、そう云い切ると、グルリと身体を廻めぐらして、客間の方へ歩き出した。

夫人から引き止められている内は、それを振切って行く勇気があった。が、こうあっさりと軽く突き放されると、信一郎は何だか、拍子抜けがして淋さみしかった。

夫人と別れてしまうことに依よって、異常な絢爛けんらんな人生の悦楽を、味う機会が、永久に失われてしまうようにも思われた。自分の人生に、明けかゝった冒険ロマンスの曙あけぼのが、またそのまゝ夜の方へ、逆戻りしたようにも思われた。

が、危険な華やかな毒草の美しさよりも、慎つつましい、しおらしい花の美しさが、今彼の心の裡うちによみがえった。

淋しいしかし安心な、暗いしかし質素な心持で、彼は大理石の丸柱の立った車寄を静に下った。もう此この家を二度と訪おとなうことはあるまい。あの美しい夫人の面影に、再び咫尺しせきすることもあるまい。彼がそんなことを考えながら、トボ〱と門の方へ歩みかけた時だった。彼はふと、門への道に添う植込みの間から、左に透けて見える庭園に、語り合っている二人の男性を見たのである。彼は、その人影を見たときに、ゾッとして其処そこに立ち止まらずにはいられなかった。

四

信一郎が、駭おどろいて立ち竦すくんだのも、無理ではなかった。玄関から門への道に添う植込の間から、透けて見える、キチンと整った庭園の丁度真中に、庭石に腰かけながら、語り合っている二人の男を見たのである。

二人の男を見たことに、不思議はなかった。が、その二人の男が、両方とも、彼の心に恐ろしい激動を与えた。

彼の方へ面を向けて、腰を下している学生姿の男を見た時に、彼は思わず『アッ!』と、声を立てようとした。品のよい鼻、白皙はくせきの面、それは自分の介抱を受けながら、横死した青木淳じゅんと瓜うり二つの顔だった。それが、白昼の、かほど、けざやかな太陽の下の遭遇でなかったならば、彼はそれを不慮の死を遂げた青年の亡霊と思い過あやまったかも知れなかった。

が、彼の理性が働いた。彼は一時は、駭いたものの直すぐその青年が、いつかの葬場で見たことのある青木淳の弟であることに、気が付いた。

然しかし、彼が最初の駭きから、やっと恢復かいふくした時、今度は第二の駭きが彼を待っていた。青年と相対して語っている男は、紛まぎれもなく海軍士官の軍服を着けている。海軍士官の軍服に気が付いたとき、信一郎の頭に、電光のように閃ひらめいたものは、村上海軍大尉たいいという名前であった。青年が、遺のこして行った手記の中に出て来る村上海軍大尉と云いう名前だった。

青木淳が、烈はげしい忿恨ふんこんを以もって、ノートに書き付けた文句が、信一郎の心に、アリ〱と甦よみがえって来た。

『昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待っていた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲まくり上げて、腕時計を出して見ているのに気が付いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似こくじしているのである。自分はそれとなく、一見を願った。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外したときの駭きは、何どんなであったろう。若もし、大尉が其処そこに居合せなかったら、自分は思わず叫声を挙げたに違ない。』

信一郎は、青木淳の弟と語っている軍服姿の男を見たときに、それが手記の中の村上大尉であることに、もう何の疑もなかった。もし、それが、村上海軍大尉であるとしたならば、青木淳と大尉との双方に、同じ白金プラチナの時計を与えて、『これは、妾わたくしの貴君あなたに対する愛の印として、貴君に差し上げますのよ。本当は、かけ替のない秘蔵の品物ですけれど。』と、云いながら二人を翻弄ほんろうし去った女性が、果して何人なんぴとであるかが、信一郎にはもうハッキリと分ってしまった。

『汝なんじ妖婦ようふよ!』

彼は心の中うちで再びそう声高く、叫ばずにはいられなかった。

が、信一郎の心を、もっと痛めたことは、兄が恐ろしく美しい蜘蛛くもの糸に操られて、悲惨な横死を――形は奇禍であるが、心は自殺を――遂げたと云うことを夢にも知らないで、その肉親の弟が、又同じ蜘蛛の網に、ウカ〱とかゝりそうになっていることだった。いや恐らくかゝっているのかも知れない。いや、兄と同じように、もう白金の時計を貰もらっているのかも知れない。あゝして、話している中に、相手の海軍大尉の腕時計に、気が付くのかも知れない。兄の血と同じ血を持っている筈はずの弟は、それを見て兄と同じように激昂げきこうする。兄と同じように自殺を決心する。

そう考えて来ると、信一郎は、烈々と輝いている七月の太陽の下に、尚なお周囲あたりが暗くなるように思った。兄が陥った深淵しんえんへ又、弟が陥おちかかっている。それほど、悲惨なことはない。そう思うと、信一郎は、

『おい! 君!』と、高声に注意してやりたい希望に動かされた。が、それと同時に、血を分けた兄弟を、兄に悲惨な死を遂げしめた上に、更に弟をも近づけて、飜弄しようとする毒婦を憎まずにはいられなかった。

『汝妖婦よ!』彼は、心の中でもう一度そう叫んだ。が、信一郎が、これほど心を痛めているにも拘かかわらず、当の青年は、何が可笑おかしいのか、軽く上品に笑っているのが、手に取るように聞えて来た。

信一郎は、見るべからざるものを見たように、面を背そむけて足早に門を駈かけ出いでたのである。

五

新宿行の電車に乗ってからも、信一郎の心は憤怒ふんぬや憎悪ぞうおの烈はげしい渦巻で一杯だった。

瑠璃子夫人こそ、白金の時計を返すべき当の本人であることが解わかると、夫人の美しさや気高さに対する讃嘆さんたんの心は、影もなくなって、憎悪と軽い恐怖とが、信一郎の心に湧わいた。

青木淳じゅんの死の原因が、直接ではなくても、間接な原因が、自分であることを知りながら、嫣然えんぜんとして時計を受け取った夫人の態度が、空恐しいように思い返された。『妾わたくしが預って本当の持主に返して上げます。』と、事もなげに云いい放った夫人の美しい面影が、空恐ろしいように想おもい返された。

『が、彼女と面と向って、不信を詰責きっせきしようとしたとき、自分は却かえって、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如ごとく、翻弄ほんろうされ、奴隷どれいの如く卑いやしめられた。而しかも美しい彼女の前に出ると、唖のようにたわいもなく、黙り込む自分だった。自分は憤いきどおりと恨うらみとの為ためにわな〱顫ふるえながら而も指一本彼女に触れることが出来なかった。自分は力と勇気とが、欲しかった。彼女の華奢きゃしゃな心臓を、一思いに突き刺し得る丈の力と勇気とを。……彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態びたいを惜しげもなく、示しているかと思うと、自分の心は、夜の如く暗くなってしまう。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか二つに一つだと思う。……そうだ、一層いっそ死んでやろうかしら。純真な男性の感情を弄もてあそぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせてやるために。そうだ、自分の真実の血で、彼女の偽の贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅わずかに残っている良心を、恥しめてやるのだ。』

青木淳の遺のこして逝いった手記の言葉が、太陽の光に晒さらされたように、何の疑点もなくハッキリと解わかって来た。彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑いもなかった。純真な青年の感情を弄んで彼を死に導いた彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑いもなかった。

『汝なんじ妖婦ようふよ!』

信一郎は、十分な確信を以もって、心の中でそう叫んだ。青年は、彼女に対して、綿々の恨を呑んで死んだのである。白金の時計を『返して呉くれ。』と云うことは、『叩たたき返して呉れ。』と云うことだったのだ。彼女の僅に残っている良心を恥かしめてやるために、叩き返して呉れと云うことだった。

そうだ! それを信一郎は、瑠璃子夫人のために、不得要領に捲まき上げられてしまったのである。

『取り返せ。もう一度取り返せ! 取り返してから、叩き返してやれ!』

信一郎の心に、そう叫ぶ声が起った。『それで彼女の僅に残っている良心を恥かしめてやれ。お前は死者の神聖な遺託いたくに背いてはならない。これから取って返して、お前の義務を尽さねばならない。あれほど青年の恨の籠こもった時計を、不得要領に、返すなどと云うことがあるものか。もう一度やり直せ。そしてお前の当然な義務を尽せ。』

信一郎の心の中うちの或ある者が、そう叫び続けた。が、心の中の他の者は、こう呟つぶやいた。

『危きに近寄るな。お前は、あの美しい夫人と太刀打が出来ると思うのか。お前は、今の今迄いままで危く夫人に翻弄されかけていたではないか。夫人の張る網から、やっと逃れ得たばかりではないか。お前が血相を変えて駈付かけつけても、また夫人の美しい魅力のために、手もなく丸められてしまうのだ。』

こうした硬軟二様の心持の争いの裡うちに、信一郎は何時いつの間にか、自分の家近く帰っていた。停留場からは、一町とはなかった。

電車通を、右に折れたとき、半町ばかり彼方かなたの自分の家の前あたりに、一台の自動車が、止まっているのに気が付いた。

六

信一郎の興奮していた眸ひとみには、最初その自動車が、漠然と映っている丈だった。それよりも、彼は自分の家が、近づくに従って、『社の連中と多摩川へ行く。』などと云いう口実で、家を飛び出しながら、二時間も経たたない裡うちに、早くも帰って行くことが、心配になり出した。また早く、帰宅したことに就いて、妻を納得させる丈の、口実を考え出すことが、可なり心苦しかった。彼は、電車の中でも、何処どこか外で、ゆっくり時間を潰つぶして、夕方になってから、帰ろうかとさえ思った。が、彼の本当の心持は、一刻も早く家に帰りたかった。妻の静子の優しい温順な面影に、一刻も早く接したかった。危険な冒険を経た者が、平和な休息を、只管ひたすら欲するように、他人との軋轢あつれきや争いに胸を傷つけられ、瑠璃子夫人に対する幻滅で心を痛めた信一郎は、家庭の持っている平和や、妻の持っている温味あたたかみの裡に、一刻も早く、浴したかったのである。縦令たとい、もう一度妻を欺あざむく口実を考えても、一刻も早く家に帰りたかったのである。

が、彼が一歩々々、家に近づくに従って、自分の家の前に停っている自動車が、気になり出した。勿論もちろん、此この近所に自動車が、停っていることは、珍らしいことではなかった。彼の家から、つい五六軒向うに、ある実業家の愛妾あいしょうが、住っているために、三日にあげず、自動車がその家の前に、永く長く停まっていた。今日の自動車も、やっぱり何時いつもの自動車ではないかと、信一郎は最初思っていた。が、近づくに従って、何時もとは、可なり停車の位置が違っているのに気が付いた。何どうしても、彼の家を訪ねて来た訪客が、乗り捨てたものとしか見えなかった。

が、段々家に近づくに従って、恐ろしい事実が、漸ようやく分って来た。何だか見たことのある車台だと云う気がしたのも、無理ではなかった。それは、紛まぎれもなくあの青色大型の、伊太利イタリー製の自動車だった。信一郎も一度乗ったことのある、あの自動車だった。そうだ、此の前の日曜の夜に、荘田しょうだ夫人と同乗した自動車に、寸分も違っていなかった。

夫人が、訪ねて来たのだ! そう思ったときに、信一郎の心は、烈はげしく打ち叩たたかれた。当惑と、ある恐怖とが、胸一杯に充みち満ちた。

出先で、妖怪ようかいに逢あい這々ほうほうの体で自分の家に逃げ帰ると、その恐ろしい魔物が、先廻りして、自分の家に這入はいり込んでいる。昔の怪譚かいだんにでもありそうな、絶望的な出来事が、信一郎の心を、底から覆くつがえしてしまった。瑠璃子夫人の美しい脅威に戦おののいて、家庭の平和の裡に隠れようとすると、相手は、先廻りして、その家庭の平和をまで、掻かき擾みだそうとしている。静かな慎つつましい家庭と、温和な妻の心をまでも掻き擾そうとしている。

信一郎は、当惑と恐怖とのために、暫しばらくは、道の真中に立ち竦すくんだまゝ、何うしてよいか分らなかった。その裡に、信一郎の絶望と、恐怖とは、夫人に対する激しい反抗に、変って行った。

温和おとなしい妻が、美しい、溌剌はつらつたる夫人の突然な訪問を受けて狼狽ろうばいしている有様が、あり〱と浮んで来た。自分が、妻に内密で、ああした美しい夫人と、交りを結んでいたと云うことが、どんなに彼女を痛ましめたであろうかと思うと、信一郎は一刻も、じっとしてはいられなかった。温和しい妻が夫人のために、どんなに云いくるめられ、どんなに飜弄ほんろうされているかも知れぬと思うと、一刻も逡巡しゅんじゅんしているときではないと思った。自分の彼女に対する不信は、後でどんなにでも、許しを乞こえばいゝ。今は妻を、美しい夫人の圧迫から救ってやるのが第一の急務だと思った。

それにしても、夫人は何の恨みがあって、これほどまで、執拗しつように自分を悩ますのであろう。自分を欺いて、客間へ招よんで恥を掻かせた上に、自分の家庭をまで、掻き擾そうとするのであろうか。今は夫人の美しさに、怖おそれているときではない。戦え! 戦って、彼女の僅わずかに残っているかも知れぬ良心を恥しめてやる時だ! そうだ! 死んだ青木淳じゅんのためにも、弔とむらい合戦を戦ってやる時だ! そう思いながら、信一郎は必死の勇を振って、敵の城の中へでも飛び込むような勢で、自分の家へ飛び込んだのである。

七

玄関先に立っている、もしくは客間に上り込んでいる妖艶ようえんな夫人の姿を、想像しながら、それに必死に突っかゝって行く覚悟の臍ほぞを固めながら、信一郎は自分の家の門を、潜った。

見覚えのある運転手と助手とが、玄関に腰を下しているのが先まず眼に入った。信一郎は、彼等を悪魔の手先か何かを見るように、憎悪ぞうおと反感とで睨にらみ付けた。が、夫人の姿は見えなかった。手早く眼をやった玄関の敷石の上にも、夫人の履物はきものらしい履物は脱ぎ捨てゝはなかった。信一郎は、少しは救われたように、ホッとしながら、玄関へ入ろうとした。

運転手は素早く彼の姿を見付けた。

「いやあ。お帰りなさいまし。先刻さっきからお待ちしていたのです。」

彼は、馴なれ〱しげに、話しかけた。信一郎はそれが、可なり不愉快だった。が、運転手は信一郎を、もっと不愉快にした。彼は、無遠慮に大きい声で、奥の方へ呼びかけた。

「奥さん! やっぱり、お帰りになりましたよ。何処どこへもお廻りにならないで、直ぐお帰りになるだろうと思っていたのです。」

運転手は、いかにも自分の予想が当ったように、得意らしく云いった。運転手が、そう云うのを聴いて、信一郎は冷汗を流した。運転手と妻とが、どんな会話をしたかが、彼には明かに分った。

「御主人はお帰りになりましたか。」

運転手は、最初そう訊たずねたに違いない。

「いゝえ、まだ帰りません。」

妻は、自身若もしくは女中をしてそう答えさせたに違いない。

「それじゃ、お帰りになるのをお待ちしていましょう。」

運転手は、そう云ったに違いない。

「あの、会社の人達と一緒に、多摩川へ行きましたのですから、帰りは夕方になるだろうと思います。」

何も知らない、信一郎を信じ切っている妻は、そう答えたに違いない。それに対して、この無遠慮な運転手はこう云い切ったに違いない。

「いゝえ、直ぐお帰りになります。只今ただいま私の宅からお帰りになったのですから、外よそへお廻りにならなければ三十分もしない裡うちに、お帰りになります。」

初めて会った他人から、夫の背信はいしんを教えられて、妻は可なり心を傷けられながら赤面して黙ったに違いない。そう思うと、突然運転手などを寄越す瑠璃子夫人に、彼は心からなる憤怒ふんぬを感ぜずにはいられなかった。

信一郎は、可なり激しい、叱責しっせきするような調子で運転手に云った。

「一体何の用事があるのです?」

運転手は、ニヤ〱気味悪く笑いながら、

「宅の奥様のお手紙を持って参ったのです。何の御用事があるか私には分りません。返事を承わって来い! お帰かえりになるまで、お待して返事を承わって来い! と、申し付けられましたので。」

運転手は、待っていることを、云い訳するように云った。

手紙を持って来たと聴くと、信一郎は可なり狼狽ろうばいした。妻に、内密ないしょで、ある女性を訪問したことが露顕ろけんしている上に、その女性から急な手紙を貰もらっている。そうしたことが、どんなに妻の幼い純な心を傷けるかと思うと、信一郎は顔の色が蒼あおくなるまで当惑した。彼は、妻に知られないように、手早く手紙を受け取ろうと思った。

「手紙! 手紙なら、早く出したまえ!」

信一郎は、低く可なり狼狽した調子でそう云った。

運転手が、何か云おうとする時に、夫の帰りを知った妻が、急いで玄関へ出て来た。彼女は、夫の顔を見ると、ニコ〱と嬉うれしそうに笑いながら、

「お手紙なら、此方こちらにお預りしてありますのよ。」と、云いながら、薄桃色の瀟洒しょうしゃな封筒の手紙を差し出した。暢達ちょうたつな女文字が、半ば血迷っている信一郎の眼にも美しく映った。

面罵めんば

一

妻から、荘田しょうだ夫人の手紙を差し出されて見ると、信一郎は激しい羞恥しゅうちと当惑とのために、顔がほてるように熱くなった。平素は、何の隔てもない妻の顔が、眩まぶしいもののように、真面まともから見ることが出来なかった。

が、静子の顔は、平素いつもと寸分違たがわぬように穏かだった。春のように穏かだった。夫の不信を咎とがめているような顔色は、少しも浮んでいなかった。見知らぬ女性から、夫へ突然舞い込んで来た手紙を、疑っているような容子は、少しも見えなかった。夫の帰宅を、いそ〱と出迎えている平素いつもの優しい静子だった。

信一郎は、妻の神々こうごうしい迄までに、慎つつましやかな容子を見ると、却かえって心が咎められた。これほどまでに自分を信じ切っている妻を欺あざむいて、他の女性に、好奇心を、懐いだいたことを、後悔し心の中で懺悔ざんげした。

妻が差出した夫人の手紙が、悪魔からの呪符じゅふか何かのように、厭いとわしく感ぜられた。もし、人が見ていなかったら、それを、封も切らないで、寸断することも出来た。が、妻が見て居る以上、そうすることは却って彼女に疑惑を起させる所以ゆえんだった。信一郎は、おず〱と封を開いた。

手紙と共に封じ込められたらしい、高貴な香水の匂においが、信一郎の鼻を魅するように襲った。が、もうそんなことに依よって、魅惑せらるゝ信一郎ではなかった。

彼は敵からの手紙を見るように警戒と憎悪ぞうおとで、あわたゞしく貪むさぼるように読んだ。

『先刻は貴君あなたを試したのよ。妾わたくしの客間へ、妾と戯恋フラートしに来る多くの男性と貴君が、違っているか何どうかを試したのですわ。妾は戯恋することには倦あき〱しましたのよ。本当の情熱がなしに、恋をしているような真似まねをする。擬似恋愛フラーテイション! 妾は、それに倦き〱しましたのよ。身体や心は、少しも動かさないで、手先丈で、恋をしているような真似をする。恋をしているような所作丈をする。恋をしているような姿勢丈を取る。妾は、妾の周囲に蒐あつまっている、そうした戯恋者ぎれんしゃのお相手をすることには、本当に倦き〱しましたのよ。妾は真剣な方が、欲しいのよ。男らしく真剣に振舞う方が欲しいのよ。凡すべての動作を手先丈でなく心の底から、行う方が欲しいのよ。

貴君が忿然ふんぜんとして座を立たれたとき、妾が止めるのも、肯きかず、憤然として、お帰り遊ばす後姿を見たとき、この方こそ、何事をも真剣になさる方だと思いましたの! 何事をなさるにも手先や口先でなく、心をも身をも、打ち込む方だと思いましたの。妾が長い間、探たずねあぐんでいた本当の男性だと思いましたの。

信一郎様!

貴方あなたは妾の試テストに、立派に及第遊ばしたのよ。

今度は、妾が試される番ですわ、妾は進んで貴方に試されたいと思いますの。妾が、貴方のために、どんなことをしたか、どんなことをするか、それをお試しになるために、直すぐ此この自動車でいらしって下さい!瑠璃子るりこ』

手紙の文句を読んでいる中うちに、瑠璃子夫人の怪しきまでに、美しい記憶が、殺されそこなった蛇か何かのように、また信一郎の頭の中に、ムク〱と動いて来た。

夫人の手紙を、読んで見ると、夫人の心持が、満更虚偽ばかりでもないように、思われた。あの美しい夫人は、彼女を囲む阿諛あゆや追従ついしょうや甘言や、戯恋に倦き〱しているのかも知れない。実際彼女は純真な男性を、心から求めているかも知れない。そう思っていると、夫人の真紅の唇や、白き透き通るような頬が、信一郎の眼前に髣髴ほうふつした。

が、次ぎの瞬間には青木淳じゅんの紫色の死顔や、今先刻見たばかりの、青木淳の弟の姿などが、アリアリと浮んで来た。

二

手紙を読んだ刹那せつなの陶酔とうすいから、醒さめるに従って、夫人に対する憤いきどおろしい心持が、また信一郎の心に甦よみがえって来た。こうした、人の心に喰い込んで行くような誘惑で、青木淳を深淵しんえんへ誘ったのだ。否いな青木淳ばかりではない、青木淳の弟も、あの海軍大尉たいいも、否彼女の周囲に蒐あつまる凡すべての男性を、人生の真面目まじめな行路から踏み外させているのだ。彼女を早くも嫌って恐れて、逃れて来た自分にさえ、尚なお執念深く、その蜘蛛くもの糸を投げようとしている。恐ろしい妖婦ようふだ! 男性の血を吸う吸血鬼ヴァンパイアだ。そう思って来ると、信一郎の心に、半面血に塗まみれながら、

『時計を返して呉くれ。』

と絶叫した青年の面影が、又歴々ありありと浮かんで来た。そうだ! あの時計は、不得要領に捲上まきあげらるべき性質の時計ではなかったのだ! 青年の恨みを、十分に籠こめて叩たたき返さなければならぬ時計だったのだ! 殊ことに、青年の手記の中うちの彼女が、瑠璃子夫人であることが、ハッキリと分ってしまった以上、自分にその責任が、儼げんとして存在しているのだ。恐ろしいものだからと云いって、面を背けて逃げてはならないのだ! 青年に代って、彼が綿々の恨みを、代言してやる必要があるのだ! 青年に代って、彼女の僅わずかしか残っていぬかも知れぬ良心を恥かしめてやる必要があるのだ! そうだ! 一身の安全ばかりを計って逃げてばかりいる時ではないのだ! そうだ! 彼女がもう一度の面会を望むのこそ、勿怪もっけの幸である。その機会を利用して、青年の魂を慰めるために、青年の弟を、彼女の危険から救うために、否凡すべての男性を彼女の危険から救うために、彼女の高慢な心を、取りひしいでやる必要があるのだ。

信一郎の心が、こうした義憤的な興奮で、充みたされた時だった。妻の静子は、――神の如ごとく何事をも疑わない静子は、信一郎を促すように云った。

「急な御用でしたら、直すぐいらしっては、如何いかがでございます。」

妻のそうした純な、少しの疑惑をも、挟さしはさまない言葉に、接するに付けても、信一郎は夫人に叩き返したいものが、もう一つ殖えたことに気が付いた。それは、夫人から受けた此この誘惑の手紙である。妻に対する自分の愛を、陰ながら、妻に誓うため、夫人の面に、この誘惑の手紙を、投げ返してやらねばならない。

信一郎の心は、今最後の決心に到達した。彼は、その白い面を、薄赤く興奮させながら、妻に云うともなく、運転手に命ずるともなく叫んだ。

「じゃ直ぐ引返すことにしよう。早くやってお呉れ!」

彼は、自分自身興奮のために、身体が軽く顫ふるえるのを感じた。

「畏かしこまりました。七分もかゝりません。」

そう云いながら、運転手と助手とは、軽快に飛び乗った。

「じゃ、静子、行って来るからね。ホンの一寸ちょっとだ! 直ぐ帰って来るからね。」

信一郎は、小声で云い訳のように云いながら、妻の顔を、なるべく見ないように、車中の人となった。

が、ガソリンが爆発を始めて、将まさに動き出そうとする時だった。信一郎は、周章あわてて窓から、首を出した。

「おい! 静子! おれの本箱の下の引き出しの、確か右だったと思うが、ノートが入ってる。それを持って来ておくれ!」

「はい。」と云って気軽に、立ち上った妻は、二階から大急ぎで、そのノートを持って降りて来た。

『これが、武器だ!』信一郎は、妻の手からそれを受けとりながら、心の中でそう叫んだ。

爪黒つまぐろの鹿しかの血と、疑着ぎちゃくの相ある女の生血とを塗った横笛が、入鹿いるかを亡ほろぼす手段の一つであるように、瑠璃子夫人の急所を突くものは、青木淳の残した此のノートの外にはないと、信一郎は思った。

三

五番町までは、一瞬の間だった。

こうした行動に出たことが、いゝか悪いか迷う暇さえなかった。信一郎の頭の中には、瑠璃子夫人の顔や、妻の静子の顔や、非業ひごうに死んだその男の顔や、今日客間サロンで見たいろ〱な人々の顔が、嵐あらしのように渦巻いている丈だった。が、その渦巻の中で彼は自ら強く決心した。『彼女の誘惑を粉砕せよ!』と。

もう再びは潜くぐるまいと決心した花崗岩かこうがんの石門に、自動車は速力を僅わずかに緩めながら進み入った。もう再びは、足を踏むまいと思った車寄せの石段を、彼は再び昇った。が、先刻は夫人に対する讃美さんびと憧あこがれの心で、胸を躍らしながら、が、今は夫人に対する反感と憤怒ふんぬとで、心を狂わせながら。

取次ぎに出たものは、あの可愛かわいい少年の代りに、十七ばかりの少女だった。

「奥様がお待ちかねでございます。さあ、どうかお上り下さいませ。」

信一郎は、それに会釈えしゃくする丈の心の余裕もなかった。彼は黙々として、少女の後に従った。

少女は先刻の客間サロンの方へ導かないで、玄関の広間ホールから、直すぐ二階へ導く階段を上って行った。

「あの、お部屋の方にお通し申すように仰おっしゃっていましたから。」

信一郎が一寸ちょっと躊躇ちゅうちょするのを見ると、少女は振り返ってそう言った。

階段を昇り切った取っ付きの部屋が、夫人の居間だった。少女は軽く叩ノックしたが、内から応ずる気勢けはいがしなかった。

「あら! いらっしゃらないのかしら。それではどうか、お入りになって、お待ち下さいませ。屹度きっと、お化粧部屋の方にいらっしゃるのですから。」

そう云いって、少女は扉ドアを開けた。

信一郎は、おそる〱その華麗な室内に足を踏み入れた。部屋の中には、夫人の繊細せんさいな洗煉せんれんされた趣味が、隅から隅まで、行き渡っていた。敷詰めてある薄桃色の絨毯じゅうたんにも、水色の窓掩おおいにも、ピアノの上に載せてある一輪挿の花瓶にも、桃花心木マホガニイの小さい書架に、並べてある美しい装幀そうていの仏蘭西フランスの小説にも、雪のように白い絹で張りつめられた壁にかゝっているクールベエらしい風景画にも炉棚マンテルピースの上の少女の青銅像ブロンズにも、夫人の高雅な趣味が光っていた。凡すべての装飾が、金で光っている丈ではなく、その洗煉された趣味で光っているのだった。

信一郎は、部屋の装飾に、現われている夫人の教養と趣味とに、接すると、昂たかめよう〱としている反感が、何時いつの間にか、その鋭さを減じて行くような危険を、感ぜずにはいられなかった。

が、こうした美しい部屋も、彼女の毒の花園なのだ。彼女が、異性を惑わす魅力の一つなのだ。信一郎は、そう云う風に考え直しながら、青色の羽蒲団はねぶとんの敷いてある籐椅子とういすに、腰をおろしていた。窓からは、宏大こうだいな庭園が、七月の太陽に輝いているのが見えた。

夫人は、なか〱姿を見せなかった。小間使が氷の入った果実汁シロップを持って来た後も、なか〱姿を見せなかった。

彼は、所在なさに、室内の装飾をあれからこれへと、見直していた。その裡うちに、ふと三尺とは離れていない卓デスクの上に、眼が付いた。其処そこには、先刻信一郎が受け取ったのと同じ色のレタアペイパアと、金飾の華やかな婦人持の万年筆とが、置かれていた。先刻の手紙は、恐らくこの桃花心木マホガニイの小さい卓で書いたのに違いない。そう思って見ている中に、ふと一枚のレタアペイパアに、英語か仏蘭西語かが書かれているのに気が付いた。彼の好奇心は、動いた。彼は、少し上体を、その方に延ばしながら、それを読んだ。

(Shinichiro)

彼は、自分の名前が書かれているのに驚いた。が、その次ぎの二字を見たときに、彼の駭おどろきは十倍した。

(Shinichiro, my love!)

『信一郎、わが恋人マイラヴよ!』

而も、その同じ句がそのレタアペイパアの上に、鮮かな筆触で幾つも〱走り書きされているのだった。

四

『信一郎、わが恋人マイラヴよ!』

信一郎の頭は、この短い文句でスッカリ掻き擾されてしまった。彼は十七八の少年か何かのように、我にも非あらず、頬が熱くほてるのを感じた。夫人に対して、張り詰めていた心持が、ともすれば揺ぎ始めようとする。

彼は、心の中で幾度も叫んだ。夫人の技巧の一つだ。誘惑の技巧の一つだ。自分の眼に入るように、わざとこんな文句を、書き散して置いたのだ。見え透いた技巧なのだ! が、そう云いう考えの後から、又別な考えが浮んで来た。あの悧巧りこうな聡明そうめいな夫人が、こんな露骨な趣味の悪い技巧を弄ろうする訳はない! やっぱり、夫人の本心から出た自然の書き散しに違いない。信一郎の心の中の男性に共通な自惚うぬぼれが、ムク〱と頭を擡もたげようとする。あの先刻受け取った手紙も、こうして見ると、夫人の本心を語っているのかも知れない。夫人を妖婦ようふのように思うのも、みんな自分の邪推かも知れない。彼女は、男性との恋愛ごっこに飽き〱しているのだ。彼女の周囲に、蒐あつまる胡蝶こちょうのような戯恋者に、飽き〱しているのだ。本当に、心をも身をも捨てゝかゝる、真剣な異性の愛に飢えているのかも知れない。世馴よなれた色男風ダンディふうの男性に、慊あきたらない彼女は、自分のような初心うぶな生真面目きまじめな男性を求めていたのかも知れない。

夫人に対する信一郎の敵意がもう半なかば崩れかけている時だった。

「御免下さいまし。」

銀鈴に触れるような爽さわやかな声と共に、夫人は静かに扉をあけて入って来た。

湯上りらしく、その顔は、白絹か何かのように艶々つやつやしく輝いていた。縮緬ちりめんの桔梗ききょうの模様の浴衣ゆかたが、そのスッキリとした身体の輪廓りんかくを、艶美えんびに描き出していた。

わずか四五尺の間隔で、じっとその美しい眸ひとみを投げられると、信一郎の心は、催眠術にでもかゝったような、陶酔を感ずるのを、何どうともすることが出来なかった。

「まあ! 本当によくいらっしゃいましたこと。妾わたくし、もうあれ切りかと思いましたの。もう、あれ切り来て下さらないのかと思っていましたよ。」

信一郎が、彼女の入って来たのを見て、立ち上ろうとするのを、制しながら、信一郎と向きあって小さい卓を隔てながら、腰を下した。

信一郎は、ともすれば後退あとじさりしそうな自分の決心に、頻しきりに拍車を与えながら、それでも最初の目的通どおり、夫人と戦って見ようと決心した。

「先刻は大変失礼しましたこと。あの方達を帰してしまった後で、ゆっくり貴君あなたとお話がしたかったのよ。差し上げました御手紙御覧下すって?」

「見ました。」

信一郎は、自分の決心を、動かすまいと、しっかりと云い放った。

「何うお考え遊ばして?」

夫人は、追窮ついきゅうするように、美しく笑いながら訊きいた。信一郎は、可なりハッキリした口調で云った。

「貴女あなたの本当のお心持が、分らないものですから、何うお答えしてよいか当惑する丈です。」

「あれでお分りにならないの。あれで、十分分って下すってもいゝと思いますの。妾が、貴君のことを何う考えていますか。」

夫人の顔に可なり、真剣な色が動いた。信一郎も、ある丈の力を以もって云った。

「奥さん! 何うか記憶して置いて下さい! 僕には妻がありますから、家庭がありますから、貴女の危険なお戯たわむれのお相手は出来ませんから。」

信一郎は、妻の静子の面影や、青木淳の死相を心の味方として、この強敵に向ってハッキリと断言した。

五

その刹那せつな、夫人の顔が、遉さすがに鋭く緊張した。

「あら、貴君あなたまでが、そんなことを考えていらっしゃるの。妾わたくしが貴君の家庭を擾みだすような女だと思っていらっしゃるの。貴君にも、やっぱり妾の真意が分って下さらないのですわね。妾が、何を求めているかが、やっぱり分って下さらないのですわね。妾は、妾の周囲の戯恋者には飽き〱したと申しているではありませんか。妾は戯恋の相手ではなく、本当のお友達が欲しいのです。本当の男性らしい男性のお友達が欲しいのです。妾が、この方こそと思ってお選みした貴君からそんな誤解を受けるなんて、妾には忍びがたい恥辱ですわ。」

そう云いっている夫人の顔には、もうあの美しい微笑は浮んでいなかった。少しく、忿怒ふんぬを帯びた顔は、振い付きたいような美しさで、輝いていた。

美しい夫人の顔に、忿怒の色が浮ぶのを見ると、信一郎は心の中で、可なりタジ〱となった。が、彼は自分のため、青木淳じゅんのため、また夫人その人のためにも、夫人の妖婦ようふ的な魂と、戦わねばならぬと決心した。彼は、夫人の美しい顔から、出来るだけ面を背けながら云った。

「いや! 貴女あなたのお心が、分らないのではありません。僕を、真のお友達として、多くの男性から選んで下さる。それは僕として、光栄です。が、奥さん! 僕は貴女から選まれると云うことが可なり危険なことであるような気がするのです。僕は、安穏あんのんな家庭の幸福で、満足している平凡な人間です。何どうか僕を、このままに残して置いて下さい!」

信一郎の語気は、可なり強かった。

「まあ! 何と云うことを仰おっしゃるのです。妾を、爆弾か何かのように、触ることさえ、お嫌いだと云うのですね。」

夫人は、半ば冗談のように、云おうとしたが、信一郎の心の中の敵意を、アリ〱と感じたと見え、先刻までの夫人とは、丸切違ったような鋭さが、その美しさの裏に、潜ひそみ初めていた。

「いや! 奥さん、こんなことを申し上げては、失礼かも知れませんが、僕は貴女に選まれて飛んだ目にあったある男性のことを知っているのです。その男も、真面目まじめな初心うぶな男でしたから、僕が貴女に選まれたのと、同じような意味で、貴女に選まれたのではないかと思うのです。若もし、同じような意味で選まれたとすると、その男が飛んだ目に逢あったように、僕も何時いつかは、飛んだ目に逢いそうです。はゝゝゝ。」

信一郎は、懸命な勇気を以もって、云い終ると調子外れの笑い方をした。彼は烈はげしい興奮のために、妙に上ずッてしまっていたのである。

夫人の顔色が、一寸ちょっと変った。が、少しも取り擾す容子はなかった。彼女は、信一郎の顔を、じっと見詰めていたが、憫笑びんしょうするような笑いを、頬の辺に浮べると、一寸腰を浮かして、傍の卓の上の呼鈴を押しながら云った。

「貴君と妾とは、やっぱり縁なき衆生しゅじょうだったのですわね。やっぱりあれっ切りにして置けばよかったのですわね。妾の思い違いよ。貴君を、スッカリ見損っていたのですわね。貴君の躊躇ちゅうちょや、臆病おくびょうを、妾反対に解釈していたのですわ。妾男性の中で臆病な方が、一等嫌いなのですわ。差し出された女の唇に、接吻せっぷんを与えるほどの勇気さえないような男性が、一等嫌いなのでございますよ。おほゝゝゝゝ。妾自身、御覧の通のお転婆てんばでございますから、やっぱり強い男性の方が、一等好きなのでございますよ。」

信一郎の攻撃に対する夫人の反撃は、烈しかった。信一郎は夫人の真向からの侮辱に、目が眩くらんだ。彼は屈辱と忿怒とのために、胸がくらくらするように煮えた。信一郎が口籠くちごもりながら何か云おうとしたときに、呼鈴に応じて先刻の小間使が顔を出した。夫人は冷静な口調で、ハッキリと云った。

「お客様がお帰りになるそうだから、自動車の支度をするように。」

六

西洋では、厭いやな来客を追い帰すとき、又来客と喧嘩けんかしたとき、『扉ドアを指さし示す』ことが、習慣である。直ぐ出て行って呉くれと云いう意味である。客に対する絶大の侮辱であり、挑戦である。

が、来客の前で、勝手に帰り支度を、整えてやることも、『扉を指さし示す』ことと同じ程度の侮辱に違いない。

夫人は、自分の好意を、相手が跳ね返したと知ると、それを十倍もの烈はげしさで、跳ね返し得る女であった。

信一郎は、平手で真向から顔を、ピシャリと、叩たたかれたような侮辱を感じた。もし、相手が女性でなかったら、立ち上りざま殴り付けてでもやりたいような激怒げきどを感じた。それと同時に、突き放されたような淋さみしさが、激怒の陰に潜んでいることをも、感ぜずにはいられなかった。

信一郎の顔が、激怒のために、真赤に興奮しているのにも拘かかわらず、夫人はその白い面が、心持蒼あおんでいる丈で、冷然として彫像か何かのように動かなかった。

信一郎も、相手から受けた、余りに思いがけない侮辱の為ために、暫しばらくは、口さえ利きけなかった。

夫人も、黙々として一語も洩もらさなかった。その中に、バタ〱と廊下に軽い足音がしたかと思うと、先刻の女中が、顔を出した。

「あの、お支度が出来ましてございます。」

「そう。」と、夫人は軽く会釈えしゃくして、女中を去らせると、静かに信一郎の方を振向きながら、彼女の最後の通牒つうちょうを送った。

「それでは、どうかお帰り下さいませ。妾わたくしがお呼び立ていたした罪は、幾重にもお詫わびいたしますわ。でも、お互に理解しない者同士が、何時いつまで向い会っていても、全く無意味だとも思いますわ。何どうか安穏な御家庭で何時までも平和にお暮し遊ばせ!」

夫人は、一寸ちょっと皮肉な微笑を浮べると、静に立って信一郎に、扉の方を指さし示した。

信一郎の心は、激しい恥辱のために、裂けんばかりに、張り詰めていた。このまゝ、帰ってしまえば、徹頭徹尾てっとうてつび全敗である。どんなに、相手が美しい夫人であるとは云え、男性たるものが、こうも手軽に、人形か何かのように飜弄ほんろうせられることは、何うにも堪たまらないことだと思った。今こそ全力を尽して彼女と、戦うべき日であると思った。激怒のために、波立つ胸を、彼はじっと抑え付けながら云った。

「奥さん! 折角ですが、僕にはまだ帰られない用事があります。」

信一郎の言葉は、可なり顫ふるえを帯びていた。

「おや! 御用事。それじゃ直すぐ承わろうじゃありませんか。妾、またこんな部屋には、一刻もお止とどまりになるお心はなくなったのだろうと思っていました。」

夫人は、凄すごいほどに、落着いていた。

信一郎は、蒼白まっさおになりながら、懸命に冷静な態度を失うまいとした。

「奥さん! 帰るときが来れば、お指図を待たなくっても帰ります。が、只今ただいま伺ったのは、貴女あなたのお手紙の為ためばかりじゃないのです。僕がどんなに軽薄な人間でも、一度席を蹴けって帰った以上、貴女のお召状丈で、ノメ〱とやっては来ません。」

「おや! それでは、妾はその点でも飛んだ思違いをしていましたのね。」

夫人は、針のような皮肉を含みながら、冷やかに笑った。信一郎はいらだった。

「貴女に申し上ぐべきこと、当然お願いすべき用事があればこそ参ったのです。それが済むまでは、貴女が幾ら帰れと仰おっしゃったって、帰れません。貴女も一度僕と会った以上、自分の用事丈が、済んだと云って、そう手軽に僕を追い返す権利はありません。」

「大変御尤ごもっともな仰おおせです。それではその用事とかを承わろうじゃありませんか。」

夫人の皮肉な態度は突き刺すようなトゲ〱しさを帯び初めた。

七

夫人の皮肉なトゲに、突き刺されながらも、信一郎は、やっと自分自身を支えることが出来た。

「用事と云って、外ほかではありませんが、いつか貴女あなたにお預けして置いたあの白金プラチナの時計を、返していたゞきたいと思うのです。死んだ青木君から遺託いたくを受けたあの時計をです。」

信一郎は、一生懸命だった。彼は、身体が激昂のために、わなゝこうとするのをやっと、抑えながら喋しゃべった。が、その声は変に咽喉にからんでしまった。

夫人の冷たさは、愈々いよいよ加わった。その美しい面は、象牙ぞうげで彫きざんだ仮面か何かのように、冷たく光っていた。『何を!』と云いったような利きかぬ気の表情が、その小さい真赤な唇のあたりに動いていた。

「あら、あれは妾わたくしにお預けして下さったのじゃないのですか。一旦いったんお預けして下さった以上、男らしくもないじゃありませんか。また返せなどと仰おっしゃるのは。」

信一郎を揶揄からかっているように、冷かしているように、夫人の語気は、ます〱辛辣しんらつになって行った。

「いや、お預けしたことは、お預けしました。が、それは返すべき相手が分らなかったからです。また、何どう云う心持で返すのかが、分らなかったからです。今こそ、返すべき女性がハッキリと分ったのです。また、何う云う態度で、あの時計を返すべきかも、ハッキリと分ったのです。僕は、あの時計を貴女から返していたゞいて、その本当の持主に、一番適当な態度で、返さねばならぬ責任を青木君に対して、感じているのです。どうか直すぐお返しを願いたいと思います。」

夫人の顔は、遉さすがに少しく動揺した。が、信一郎が予想していたように、狼狽ろうばいの容子は露ほども見せなかった。

「そんなに、面倒臭い時計なのですか、それじゃ、お預りするのではなかったわ。それじゃ只今ただいま直ぐお返しいたしますわ。」

夫人は、手軽に、借りていたマッチをでも返すように、手近の呼鈴ベルを押した。

二人は、黙々として、暫しばらく相対している裡うちに、以前の小間使が、扉を静に開けた。

「あのね。応接室の、確か炉棚マンテルピースの上の手文庫の中だったと思うのだがね。壊れた時計がある筈はずだから持って来て下さいね。若もし手文庫の中になかったら、あの辺を探して御覧! 確かあの近所に放り散かして置いた筈だから。」

信一郎が、あれほどまでに、心を労していた時計を、夫人は壊れた玩具か何かのように、放りぱなしにしていたのだった。青木淳じゅんが臨終にあれほどの恨うらみを籠こめた筈の時計は、夫人に依よって、意味のない一個の壊れ時計として、炉棚の上に、信一郎から預かった時以来忘れられていたのである。

夫人から、そんなにまで手軽く扱われている品物に就いて、返すとか返さないとか、躍起になっていることが、信一郎には一寸ちょっと気恥しいことのように思われた。

が、夫人のあゝした言葉や態度は、心にもない豪語であり、擬勢ぎせいである、口先でこそあんなことを云いながらも、彼女にも人間らしい心が、少しでも残っている以上、心の中では可なり良心の苛責かしゃくを受けているのに違ない。信一郎は、やっとそう思い返した。

小間使は、探すのに手間が取れたと見え、暫らくしてから帰って来た。そのふっくらとした小さい手の裡には、信一郎には忘れられない時計が、薄気味のわるい光を放っていた。

夫人は小間使から、無造作にそれを受取ると、信一郎の卓の上に軽く置きながら、

「さあ! どうぞ。よく検あらためてお受取り下さいませ! お預りしたときと、寸分違っていない筈ですから。」

夫人は、毒を喰くらわば皿までと云ったように、飽くまでも皮肉であり冷淡であった。

八

信一郎は、差し出されたその時計を見たときに、その時計の胴にうすく残っている血痕けっこんを見たときに、弄もてあそばれて非業ひごうの死方をした青年に対する義憤の情が、旺然おうぜんとして胸に湧わいた。それと同時に、青年を弄んで、間接に彼を殺しながら而しかも平然として彼の死を冷視している――神聖な遺品かたみの時計をさえ、蔑さげすみ切っている夫人に対して、燃ゆるような憎しみを、感ぜずにはいられなかった。

信一郎は、かすかに顫ふるえる手で、その時計を拾い上げながら、夫人の面を真向から見詰めた。

「いや、確にお受取りしました。お預けした品物に相違ありません。」

彼の言葉も、いつの間にか、敵意のある切口上に変っていた。

「ところが、奥さん!」信一郎は、満身の勇気を振いながら云いった。

「一旦いったんお返し下さった此この時計を――改めて、そうです、青木君の意志として――私は、改めて貴女あなたに受取っていたゞきたいのです。」

そう云って、信一郎は、夫人の顔をじっと見た。どんなに厚顔な夫人でも、少しは狼狽ろうばいするだろうと予期しながら。が、夫人の顔は、やゝ殺気さっきを帯びているものゝ、その整った顔の筋肉一つさえ動かさなかった。

「何だか手数のかゝるお話でございますのね。子供のお客様ごっこじゃありますまいし、お返ししたものを、また返していただくなんて、もう一度お預かりした丈で、懲々こりごりいたしましたわ。」

夫人は噛かんで捨てるように云った。

信一郎は、夫人の白々しい態度に、心の底まで、憎にくしみと憤怒ふんぬとで、煮え立っていた。

「いや、此度このたびはお預けするのではないのです。いや、最初から此の時計は貴女にお預けすべきでなくお返ししなければならぬ時計だったのです。時計の元の持主として、貴女に受取っていたゞくのです。貴女は、此の品物を当然受取るべきお心覚えがあるでしょう。ないとは、まさか仰おっしゃれないでしょう。」

信一郎も、女性に対する凡すべての遠慮を捨てゝいた。二人は男女の性別を超えて、格闘者として、相対していた。

信一郎に、そう云い切られると、夫人は暫しばらく黙っていた。白い瓢ひさごの種のような綺麗きれいな歯で、下唇を二三度噛んだがやがて気を換えたように、

「それでは、貴君あなたは此時計の元の持主を、妾わたくしだと仰しゃるのですか。」

「そうです。それを確信してもよい理由があるのです。」信一郎は凜りんとしてそう云い放った。

「おやそう!」夫人は事もなげに応うけながら、「貴君が、そうお考えになりたければ、そうお考えになっても、別に差支さしつかえはございませんよ。それでは、この時計もお受取りして置こうじゃありませんか。どうせ一度は、お預かりした品物ですもの。」

夫人の態度は、愈いよいよ逆になり、愈々毒を含んでいた。

「それで、御用事と仰しゃるのはこれ丈!」

夫人は信一郎と一刻でも長く同席することが不快で堪たまらないように急せき立てるように附け加えた。

信一郎は、夫人の自分に対する烈はげしい憎悪ぞうおに傷きながら、しかも勇敢に彼の陣地を支えた。

「いや、大変お手間を取らして相済みません。が、もう一言、そうです、青木君の言伝ことづてがあるのです。時計の元の持主にこう伝えて呉くれと頼まれたのです。」

信一郎は、そう云って言葉を切った。

夫人は遉さすがに、緊張した。やさしく烟けむっている眉まゆを、一寸ちょっと顰しかめながら、信一郎が何を云い出すかを待っているようだった。

彼女の云分いいぶん

一

遺言と云っても、信一郎は青木淳じゅんの口ずから受けているのではない。が、彼は青木淳の死前の恨うらみの籠こもったノートを受け継いでいる。

『彼女の僅わずかに残っている良心を恥かしめてやる』べき、以心伝心の遺託を、受けているのだった。

「いや、遺言と云っても、外ではありません。この時計を返すときに元の持主にこう云って呉くれと頼まれたのです。青木君が瀕死ひんしの重傷に苦しみながら、途切れ〱に云ったことですから、ハッキリとは分りませんが、何でもこう云う意味だったと思うのです。純真な男性の感情を弄もてあそぶことがどんなに危険であるかを伝えて呉れ。弄ぶ女に取っては、それは一時の戯たわむれであるかも知れぬが、弄ばれる男に取っては、それが死であると。奥さん! 貴女あなたは、こう云う話を御存じですか。池の中に多くの蛙かえるが浮んでいると、子供達が来て石を投げ付ける、その時に蛙が何て云ったか御存じですか。蛙はこう云ったのです。貴君方あなたがたに取って遊戯であることが、我々に取っては死である、と。青木君の死際しにぎわの云分も、つまりそれなのです。貴女は、青木君の死を単なる奇禍きかだと思ってはいけません。形は奇禍ですが、心持に於おいては立派な自殺です。たゞ自動車の偶然の衝突があの人の死を、二三日早めたのに過ぎないのです。貴女は青木君の死を奇禍だと考えることに依よって、貴女の良心を欺あざむいてはなりません。正しく自殺です。而しかも池の中の蛙が、子供が戯れに投げた石に当って死んだように、貴女が戯れに与えた白金プラチナの時計に依って死んだのです。蛙が若もし人間としての働きがあったならば、その石を子供に投げ返すように、僕は青木君に代って、此この時計を貴女に投げ返すのです。そうです、貴女の良心に向って投げ返すのです。貴女の心に僅かにでも、良心が残っているのなら、貴女はそれで此の時計を受け止めて下さい。そうしてその受け止めた痛みに依って、貴女の心を浄きよめていたゞきたいと思うのです。そうして、男性に対する貴女の危険な戯れを、今日限り廃よしていたゞきたいと思うのです。それが青木君の死に対する貴女のせめてもの償つぐないです。僕が、先刻貴女のお戯れの相手をするのは危険だと云ったのはこう云う意味です。青木君の場合はまだ独身ですから、貴女の戯れの犠牲になるものは一人で済むのですが、僕のような既婚者の場合は被害者が複数ですからね。」

信一郎の興奮は、彼を可なりな雄弁家にしてしまった。夫人はと見ると、遉さすがに彼の言葉が一々肺腑はいふを衝ついていると見えて、うなだれ気味に、黙々と聴いていた。信一郎は、自分の心が、少しでも夫人の心を悔い改めしめているかと思うと、内心ある感激を感ぜずにはいられなかった。そうだ! 此の美しき女性をたゞ恥かしめる丈が、能ではない。自分の言葉に依って、夫人の心を、少しでも浄くし改めてやりたいと思った。

「いや! 奥さん。僕は何も貴女に恩怨おんえんがあるのではありません。恩怨がないばかりでなく、ある点では貴女を敬慕しているものです。貴女のその秀すぐれた美しさと、貴女の教養や趣味に対して、心から敬慕しているものです。が、僕は貴女がそうした天分や教養を邪道に使っているのを見ると、本当に心が暗くなるのです。僕は青木君の為ためにばかりでなく、貴女自身のために、僕の云ったことをよく玩味がんみしていたゞきたいと思うのです。」

こう信一郎が、述べ来きたった時、今まで傾聴しているような態度をしていた夫人は、つと頭を上げた。

「あの、お言葉中で恐れ入りますが、御忠告なら、御免を蒙こうむりたいと思います。御用事丈を承わる筈はずであったのでございますから。」

鋼鉄のような凜りんとした冷たさが、その澄んだ声の内に響いていた。

二

『御忠告ならば、御免を蒙る。』と、夫人がきっぱりと云いい放つのを聴くと、信一郎は夫人に対して、最後の望みを絶った。青木淳は、『僅わずかに残っている良心』と、書いている。が、僅に残っている良心どころか良心らしいものは、片かけらさえ残っていない。女らしい、つゝましい心の代りに、そこに翼を拡ひろげているものは、恐ろしい吸血鬼ヴァンパイヤである。純真な男性の血を好んで嗜たしなむ怪物である。夫人の良心に訴えて、少しでも彼女を、いゝ方に改めさせてやろうと思ったのは、悪魔に基督キリストの教を説くようなものであると思った。

信一郎は外面如菩薩げめんにょぼさつと云う古い言葉を、今更らしく感心しながら、暫しばらくは夫人の顔を、じっと見詰めていたが、

「いや、これは飛んだ失礼をしました。青木君の遺言丈だけを伝えれば、僕の責任は尽きていたのでした。」

彼は、そう云って潔いさぎよく此この部屋から出ようとした。が、その時に、彼は青木淳の弟の姿を思い浮べた。そうだ! あの青年を、夫人の危険から救ってやることは、自分の責任だと思った。

「だが、奥さん! 僕は僕の責任として、貴女あなたにもう一言云わなければならぬことがあるのです。これは貴女に対するおせっかいな忠告じゃないのです。青木君に対する僕の責任の一部として、申し上げるのです。畢竟ひっきょうは青木君の遺言の延長として申上げるのです。それは、外でもありません。貴女が如何いかなる男性の感情を、どんなに弄もてあそぼうが、それは貴女の御勝手です。いや御勝手と云うことにして置きましょう。だが、青木君の弟の感情を、弄ぶこと丈は、僕が青木君に代って、断然お断りして置きます。まさか、貴女も少しでも、人情がお有りでしたら、兄を深淵しんえんへ突き陥おとした後で、その肉親の弟をも、同じ処ところへ突き陥すような残酷なことはなさるまいとは思いますけれども、念のためにお願して置くのです。いやどうもお邪魔しました。」

夫人の顔が、遉さすがに蒼白そうはくに転ずるのを尻目しりめにかけながら、信一郎は、素早く部屋を出ようとした。が、それを見ると、夫人は屹きっとなって呼び止めた。

「渥美あつみさん! お待ちなさい!」

その凜りんとした声には、女王のような威厳いげんが備わっていた。

「貴君あなたは、自分の仰おっしゃることさえ仰しゃってしまえば、それでお帰りになってもいゝとお考えになるのですか。貴君が、妾わたくしに御用事がある中うちは、貴君に帰る権利が、妾になかったように、妾が貴君に申上げることが残っている以上貴君はお帰りになる権利はありません。妾は一言丈貴君に申上げることが残っています。」

美しい眉まゆは吊つり上り、黒い眸ひとみは、血走っていた。信一郎を、屹と見詰めて立っている姿は、『怒れる天女』と云ったような、美しさと神々こうごうしさとがあった。

「貴君は、今青木さんの遺言ゆいごんとやらを、長々しく仰しゃいましたが、それを妾が受けると思っていらっしゃるのですか。時計こそ、お受けしましたが、そんな御遺言なんか、一言半句だって、お受けする覚えはありません。そんなお言伝を、青木さんから承わるような覚えは、さら〱ありません。今承わったお言葉全部を、そのまゝ御返上します。」

夫人の声にも、憎みと怒りとが、燃えていた。が、信一郎はたじろがなかった。

「死人に口がないと思って、そんなことを仰しゃっては困ります。貴女を、今日訪問した客に村上と云う海軍大尉たいいがあった筈はずです。まさか、ないとは仰しゃいますまいね。」

「よく御存じですね。」

夫人は、平然として答えた。

「それなら、青木君の遺言を受ける責任と義務とがあります。貴女に、もし少しでも良心が残っていらっしゃるのなら、今貴女にお目にかけるものを、平然と読めるかどうか試して御覧なさい!」

そう云いながら、信一郎はポケットに曲げて入れていたノートを夫人の眼前めのまえに突き付けた。

三

信一郎が、眼の前に突き付けたノートを、夫人は事もなげに受取った。ノートの重さにも堪たえないような華奢きゃしゃな手で、それを無造作に受け取った。

鋼鉄の如ごとき心と云いうのは、恐らく今の場合の夫人の心を云うのだろう。鬼が出るか蛇が出るか分らないそのノートを、受け取りながら、一糸紊みだれたところも、怯ひるんだところも見せなかった。

「おや、青木さんのノートでございますのね。」

夫人は、平然と云いながら、最初の頁ページから繰り初めた。繰っているその白い手は、落着きかえっている。

が、信一郎は思った。今に見ろ、どんなに白々しい夫人でも、血で書いた青木淳の忿恨ふんこんの文字に接すると、屹度きっと良心の苛責かしゃくに打たれて、女らしい悲鳴を挙げる。彼女の孔雀くじゃくの如ごとき虚飾の驕おごりを擾みだされて、女らしい悔恨に打たれるに違いない。そう思いながら、頁を繰る夫人の手許てもとと、やゝ蒼あおんでいる美しい面から、一瞬も眼も放たず、じっと見詰めていた。

その裡うちに、夫人はハタと、青木淳が書き遺した文字を見付けたらしい。遉さすがに美しい眸ひとみは、卓の上に開かれたノートの頁の上に、釘付くぎづけにされたように、止ってしまった。

美しい面が、最初薄赤く興奮して行った。が、それがだん〱蒼白そうはくになり、唇の辺りが軽く痙攣けいれんするように動いていた。

夫人が、深い感動を受けたことは、明かだった。信一郎は、今にも夫人が、ノートの上に瓦破がばと泣き伏すことを予期していた。泣き伏しながら、非業ひごうに死んだ青年の許しを乞こうことを想像した。彼女の美しい目から、真珠のような涙が、ハラ〱と迸ほとばしることを待っていた。悔恨かいこんと懺悔ざんげとの美しい涙が。

が、信一郎の予期は途方もなく裏切られてしまった。一時動揺したらしい夫人の表情は、直すぐ恢復かいふくした。涙などは、一滴だって彼女の長い睫まつげをさえ湿うるおさなかった。

彼女は、一言も云わずに、ノートを信一郎の方へ押しやった。

信一郎は、夫人の必死的デスペレートな態度に圧せられて、此この上何か云う勇気をさえ挫くじかれた。

二人は、二三分の間、黙々として相対していた。信一郎は、その険しい重くるしい沈黙に堪えかねた。

「如何いかがです。此のノートを読んで、貴女あなたは何ともお考えにならないのですか。」

信一郎の声の方が、却かえってあやしい顫ふるえをさえ帯びていた。

夫人は、黙して答えなかった。

信一郎は、畳みかけて訊きいた。

「貴女は、青木君が血を以もって書いた、此のノートを読んで、何ともお考えにならないのですか。青木君の云い草じゃないが、貴女の少しでも残っている良心は、此のノートを読んで、顫い戦おののかないのですか。貴女の戯たわむれの作った恐ろしい結果に戦慄せんりつしないのですか。」

信一郎は、可なり興奮して突きかゝった。

が、夫人は冷然として、氷の如く冷かに黙っていた。

「奥さん! 黙っていらしっては分りません。貴女は! 貴女は此ノートを読んで何ともお考えにならないのですか。」

信一郎は、いらだって叫んだ。

「考えないことはありませんわ。」

彼女の沈黙が冷かな如く言葉そのものも冷かであった。

「お考えになるのなら、そのお考えを承わろうじゃありませんか。」

信一郎は益々ますますいらだった。

「でも、死んだ方に悪いのですもの。」

「死んだ方に悪い! 貴女はまだ死者を蔑さげすもうとなさるのですか。死者を誣しいようとなさるのですか。」

信一郎は火の如く激昂した。

その激昂に、水を浴びせるように夫人は云った。

「でも、妾わたくし、此ノートを読んで考えましたことは、青木さんも普通の男性と同じように、自惚うぬぼれが強くて我儘わがままであると云うこと丈ですもの。」

四

夫人の言葉は、信一郎を唖然あぜんたらしめた。彼は呆気に取られて、夫人の美しい冷かな顔を見詰めていた。どんな妖婦ようふでも、昔の毒婦伝に出て来るような恐ろしい女でも、自分を恨んで死んだ男の遺書かきおきを、こうまで冷酷に評し去る勇気はないだろう。自分を恨んでいる、血に滲にじんだ言葉を自惚うぬぼれと我儘わがままだと云いって評し去る女はないだろう。

が、一時の驚きが去ると共に、信一郎の心に残ったものは、夫人に対する激しい憎悪ぞうおだった。女ではない。人間ではない。女らしさと、人間らしさとを失った美しい怪物である。その人を少しでも人間らしく考えた自分が、間違っていたのだ。彼は心の中の憎悪を吐き捨てるように云った。

「いやもう、なにも言いたくありません。貴女あなたは、貴女のお考えで、男性を弄もてあそぶことをおつゞけなさい! その中に、純真な男性の怒が、貴女を粉微塵こなみじんに砕く日が来るでしょう。」

信一郎は、床を踏み鳴らさんばかりに、激昂しながら、叫んだ。

が、信一郎が激すれば、激するほど、夫人は冷静になって行った。彼女は、冷たい冷笑をさえ頬の辺りに、浮べながら、落着き返って云った。

「男性を弄ぶ! 貴君あなたは、女性が男性を弄ぶことを、そんなに恐ろしい罪悪のように考えていらっしゃるのですか。だから、妾わたくしが男性の我儘だと云うのですわ。若もし、男性を弄ぶ女性を、純真な男性の怒りが、粉微塵に砕くとしたなら、今の世間の大抵の男性は、純真な女性の怒りに依よって、粉微塵に砕かれる資格があるでしょう、貴君だって、貴君の純真な奥さんのお心の前に、少しも、恥かしいと思うことはありませんか、貴君が妾の良心にお訴えになったように、妾も貴君の良心に、それを伺いたいと思いますの。」

夫人の態度は、明あきらかに熱していた。赤く熱すると云うよりも、白く冷たく而しかも極度に熱していた。

「女性が男性を弄ぶと貴君方男性は、直すぐ妖婦だとか毒婦だとか、あらん限りの悪名を浴びせかける。貴君などは、眼の色を変えてまで、叱責しっせきなさろうとする。が、御覧なさい! 世間の男性がどんなに女性を弄んでいるかを。女性が男性を弄ぶに致しましたところで、それは男性の浮動し易やすい心を、弄ぶのに過ぎないじゃありませんか。男性が女性を弄ぶ場合は、心も肉体も、名誉も節操も、蹂躙じゅうりんし尽すじゃありませんか。眼にこそ見えませんが、この世間には男性に弄ばれた女性の生きた惨むごたらしい死骸しがいが、幾つ転がっているかも分りません。貴君の眼の前にいる女性なども、案外にもそうした生きた死骸の一つだか分りませんよ。」

夫人の美しい眸ひとみは爛々らんらんと輝いた。その美しい声は、烈はげしい熱のために、顫ふるえていた。

「男性は女性を弄んでよいもの、女性は男性を弄んでは悪いもの、そんな間違った男性本位の道徳に、妾は一身を賭としても、反抗したいと思っていますの。今の世の中では、国家までが、国家の法律までが、社会のいろ〱な組織までが、そうした間違った考え方を、助けているのでございますもの。御覧なさい! 世の中には、お女郎屋だとか待合だとかお茶屋だとか、男性が女性を公然と弄ぶ機関が存在しているのですもの。そう云うものを国家が許し、法律が認めているのですもの。また、そう云うものが存在している世の中に、住みながら、教育家とか思想家などと云う人達が、晏然あんぜんとして手を拱こまぬいているのですもの。女性ばかりに、貞淑であれ! 節操を守れ! 男性を弄ぶな! そんなことを、幾何いくら口を酸すくして説いても、妾はそれを男性の得手勝手だと思いますの。男性の我儘だと思います。丁度此この青木さんのノートが、男性の我儘を示しているように。」

虐しいたげられたる女性全体の、反抗の化身であるように、夫人の態度は、跳ね返る竹の如ごとき鋭さを持っていた。

五

夫人は、心の中に抑えに抑えていた女性としての平生の鬱憤うっぷんを、一時に晴してしまうように、烈しく迸ほとばしる火花のように喋しゃべり続けた。

「人が虎とらを殺すと狩猟と云いい、紳士的な高尚な娯楽としながら、虎が偶々たまたま人を殺すと、兇暴きょうぼうとか残酷とかあらゆる悪名を負わせるのは、人間の得手勝手です。我儘わがままです。丁度それと同じように、男性が女性を弄もてあそぶことを、当然な普通なことにしながら、社会的にも妾めかけだとか、芸妓げいしゃだとか、女優だとか娼婦しょうふだとか、弄ぶための特殊な女性を作りながら、反対に偶々一人か二人かの女性が男性を弄ぶと妖婦ようふだとか毒婦だとか、あらゆる悪名を負わせようとする。それは男性の得手勝手です。我儘です。妾わたくしは、そうした男性の我儘に、一身を賭として反抗してやろうと思っていますの。」

彼女は、一寸ちょっと言葉を途切らせてから、

「青木さんとの事だって、そうでございますわ。貴君あなたなどは、凡すべての責任を妾に負わせようと遊ばす。妾が、清浄無垢しょうじょうむくな青木さんを迷わしたようなことをお云いになる。が、あの時計だって、妾が青木さんに、どうかお受け取りになって下さいと云って、差し出したものじゃあございませんわ。青木さんが、幾度も呉くれ〱と仰おっしゃったから差し上げたのよ。自分がおねだりなすったことなどは、ちっとも書いておありにならないのですもの。だから、自惚うぬぼれが強くって我儘だと申したのですわ。またあの方が、幾何いくら自殺をすると書いておありになっても、それはあの方の詠嘆えいたんに過ぎませんわ。もし、自動車が転覆しなかったら、あの方は今日あたりは、妾の客間サロンへお見えになったかも知れませんよ。また縦令たとい自殺の決心が、本当でおありになったとしても、それを妾一人の責任のように、御解釈なさることは、御免蒙こうむりたいと思いますわ。だって、あの方の性格の弱さに対してまで、妾は責任を持ちたくありませんもの。妾との戯恋フラアテイションの一寸した幻滅で、自殺をなさるような方は、男子としての生存的意志を、持っていないと申上げてもいゝのですもの。妾とのいきさつで、自殺なさらなくっても、又なにか別なことで、直すぐ自殺してしまう方ですもの。」

信一郎は、夫人の言葉を聴いている中に、それを夫人の捨鉢な不貞腐ふてくされの言葉ばかりだとは、聞きながされなかった。彼は、その美しい夫人の裡うちに、如何いかなる男性にも劣らないような、鋭い理智りちと批判とを持った一個の新しい女性、如何なる男性とも、精神的に戦い得るような新しい強い女性を認めたのである。

彼の夫人に対する憎悪ぞうおは、三度四度目に、又ある尊敬に変っていた。旧道徳の殻を踏み躙にじっている夫人を、古い道徳の立場から、非難していた自分が、可なり馬鹿ばからしいことに気が付いた。

夫人の男性に対する態度は、彼女の淫蕩いんとうな動機からでもなく、彼女の妖婦的な性格からでもなく、もっと根本的な主義から思想から、萌きざしているのだと思った。

「妾、男性がしてもよいことは、女性がしてもよいと云うことを、男性に思い知らしてやりたいと思いますの。男性が平気で女性を弄ぶのなら、女性も平気で男性を弄び得ることを示してやりたいと思いますの。妾一身を賭して男性の暴虐ぼうぎゃくと我儘とを懲こらしてやりたいと思いますの。男性に弄ばれて、綿々の恨みを懐いだいている女性の生きた死骸しがいのために復讐ふくしゅうをしてやりたいと思いますの。本当に妾だって、生きた死骸のお仲間かも知れませんですもの。」

そう云いながら、夫人は一寸頭をうなだれた。緊張し切っていた夫人の顔に、悲しみの色が、サッと流れた。

六

物凄ものすごいと云ってよいか、死身と云ってよいか、兎とに角かく、烈々たる夫人の態度は、信一郎の心を可なり振盪しんとうした。

これほどまで、深い根拠から根ざしている夫人の生活を、慣習的な道徳の立場から、非難しようとした自分の愚かさを、信一郎はしみじみと悟ることが出来た。夫人をして彼女の道を行かしめる外はない。縦令たとい、その道が彼女を、どんな深淵しんえんに導こうとも、それは彼女に取って覚悟の前の事に違いない。多くの男性を飜弄ほんろうした報いのために、縦令彼女自身を亡ほろぼすとも、それは、彼女としては、主義に殉ずることであり、男性に対する女性の反抗の犠牲となることなのだ。

「いや! 奥さん、僕は貴女あなたのお心が、始めて解わかったように思います。僕はそのお心に賛成することは出来ませんが、理解することは出来ます。貴女に忠告がましいことを言ったのを、お詫わびします。貴女が、一身を賭として、貴女の思い通り、生活なさることを、他はたからかれこれ云うことの愚さに気が付きました。が、奥さん、僕は、今お暇いとまする前に、たった一つ丈お願いがあるのです。聴いて下さるでしょうか。」

「どんなお願いでございましょうか。妾わたくしにも出来ることでございましたら。」

信一郎が夫人の本心を知ってから、可なり妥協的な心持になっているのにも拘かかわらず、夫人の態度の険しさは、少しも緩ゆるんでいなかった。

「外でもありません。先刻も申しました通り、青木君の弟丈を、貴女の目指す男性から除外していたゞきたいと思うのです。青木君の死をまざ〱と知っている丈、あの方の弟までが、貴女の客間に出入することは、僕の心を暗くするのです。青木君の死の責任が孰どちらにありましょうとも、青木君が貴女を恨んで死んだ以上、青木君の弟に対して丈は、慎んでいたゞきたいと思うのです。」

「貴君あなたは、御忠告をなさらないと云う口の下から、またそう云うことを仰おっしゃっていらっしゃるのですね。」そう云いながら、遉さすがに夫人は一寸ちょっと苦笑ともなく微笑ともなく笑った。「自分の生活丈を自分の思い通どおりにしようとするものは、利己主義ではない、他人の生活をまで、自分の思い通にしようとするものこそ、本当の利己主義だと、ある人が申しましたが、貴君などこそ、本当の利己主義でいらっしゃいますわね。青木さんの弟が妾を慕したっていらっしゃるとする。そう仮定したとしても、それがあの方としては、一番本当の生活じゃございませんでしょうかしら。それが、あの方として一番本当の生き方じゃございませんかしら。そう云う他人の真剣な生活を、貴君が傍から心配なさることは少しもないと思いますわ。妾のために、あの方が、一身を犠牲にするような事があったとしても、あの方としては一番本当の生き方をしたと云う事になりは致しませんでしょうか。」

夫人の考え方は、凡すべての妥協と慣習とを踏み躙にじっていた。

「果してそんなものでしょうか。僕は断じてそうは思いません。」

信一郎は可なり激しく、抗議せずにはいられなかった。

「それは、銘々の考え方の違ですわ。妾は、妾の考え方に依よって生きる自由を持っています。」

夫人は、この長い激論を打ち切るように云った。

「そうです。それはそうかも知れません。が、貴女が貴女の考えに依って生きる自由があるように、僕も僕の考えを実行する自由を主張するのです。奥さん! 青木君の弟を、あなたの脅威きょういから救うことに、僕は相当の力を尽すつもりです。それは死んだ青木君に対する僕の神聖な義務だと思うのです。」

「どうか、御随意に。」夫人は、冷然と云った。

「青木さんの弟に取っては、本当に有難迷惑だとは思いますが、然しかし止やむを得ませんわ。貴君が躍起になった御忠告が、あの方の妾に対するお心を、どの位醒さまさせるか、ゆっくり拝見したいと思いますわ。」

夫人は、最後の止とどめを刺すように、高飛車に冷然と笑いながら、云い放った。

初恋

一

瑠璃子るりこ夫人を、あの太陽に向って、豪然と咲き誇っている向日葵ひまわりに譬たとえたならば、それとは全く反対に、鉢の中の尺寸の地の上に、楚々そそとして慎つつましやかに花を付けるあの可憐かれんな雛罌粟ひなげしの花のような女性が、夫人の手近にいることを、人々は忘れはしまい。それは云いうまでもなく、彼の美奈子みなこである。

父の勝平が死んだとき十七であった美奈子は、今年十九になっていた。その丸顔の色白の面は、処女そのものの象徴のような、浄さと無邪気あどけなさとを以もって輝いていた。

男性に対しては、何の真情をも残していないような瑠璃子夫人ではあったが、彼女は美奈子に対しては母のような慈愛と姉のような親しさとを持っていた。

美奈子も亦また、彼女の若き母を慕っていた。殊ことに、兄の勝彦が父に対する暴行の結果として、警察の注意のため、葉山の別荘の一室に閉じ込められた為ために、彼女の親しい肉親の人々を凡すべて彼女の周囲から、奪われてしまった寂しい美奈子の心は、自然若い義母に向っていた。若き母も、美奈子を心の底から愛した。

二人は、過去の苦にがい記憶を悉ことごとく忘れて、本当の姉妹のように愛し合った。瑠璃子が、勝平の死んだ後も、荘田しょうだ家に止とどまっているのは、一つは、美奈子に対する愛のためであると云ってもよかった。この可憐な少女と、その少女の当然受け継ぐべき財産とを、守ってやろうと云う心も、無意識の裡うちに働いていたと云ってもよかった。

従って瑠璃子は、美奈子を処女らしく、女らしく慎しやかに育てゝ行くために、可なり心を砕いていた。彼女は彼女自身の放縦な生活には、決して美奈子を近づけなかった。

彼女を追う男性が、蠅はえのように蒐あつまって来る客間サロンには、決して美奈子を近づけなかった。

従って、美奈子は母の客間サロンに、どんな男性が蒐まって来るのか、顔丈も知らなかった。無論紹介されたことなどは、一度もなかった。たゞ門の出入などに、そうした男性と、擦れ違うことなどはあったが、たゞ軽い黙礼の外は口一つ利きかなかった。

母が日曜の午後を、華麗な客間で、多くの男性に囲まれて、女王のように振舞っているのを外よそに、美奈子は自分の離れの居間に、日本室の居間に、気に入りの女中を相手に、お琴や挿花さしばなのお復習さらいに静かな半日を送るのが常だった。

時々は、客間に於おける男性の華やかな笑い声が、遠く彼女の居間にまで、響いて来ることがあったが、彼女の心は、そのために微動だにもしなかった。そうした折など、女中達が、瑠璃子夫人の奔放な、放恣ほうしな生活を非難するように、

「まあ! 大変お賑にぎやかでございますわね。奥様もお若くていらっしゃいますから。」

などと、美奈子の心を察するように、忠勤ぶった蔭口かげぐちを利く時などには、美奈子は、その女中をそれとなく窘たしなめるのが常だった。

が、日曜の午後を、彼女はもっと有意義に過すこともあった。それは、青山に在る父と母とのお墓にお参りすることであった。

彼女は、女中を一人連れて、晴れた日曜の午後などを、わざと自動車などに乗らないで、青山に父母の墓を訪ねた。

彼女は夢のような幼い時の思出などに耽ふけりながら、一時間にも近い間、父母の墓石の辺に低徊ていかいしていることがあった。

六月の終りの日曜の午後だった。その日は死んだ母の命日に当っていた。彼女は、女中を伴って、何時いつものようにお墓参りをした。

墓地には、初夏の日光が、やゝ暑くるしいと思われるほど、輝かしく照っていた。墓地を劃しきっている生籬いけがきの若葉が、スイ〱と勢いよく延びていた。美奈子は裏の庭園で、切って来た美しい白百合しらゆりの花を、右手めてに持ちながら、懐なつかしい人にでも会うような心持で、墓地の中の小道を幾度も折れながら、父母の墓の方へ近づいて行った。

二

晴れた日曜の午後の青山墓地は、其処そこの墓石の辺にも、彼処かしこの生籬いけがきの裡うちにも、お墓詣まいりの人影が、チラホラ見えた。

清々すがすがしく水が注がれて、線香の煙が、白くかすかに立ち昇っているお墓なども多かった。

小さい子供を連れて、亡なき夫のお墓に詣るらしい若い未亡人や、珠数じゅずを手にかけた大家の老夫人らしい人にも、行き違った。

荘田家の墓地は、あの有名なN大将の墓から十間と離れていないところにあった。美奈子の母が死んだ時、父は貧乏時代を世帯しょたいの苦労に苦しみ抜いて、碌々ろくろく夫の栄華の日にも会わずに、死んで行った糟糠そうこうの妻に対する、せめてもの心やりとして、此処ここに広大な墓地を営んだ。無論、自分自身も、妻の後を追うて、直すぐ其処に埋められると云いうことは夢にも知らないで。

亡き父の豪奢ごうしゃは、周囲を巡っている鉄柵てつさくにも、四辺あたりの墓石を圧しているような、一丈に近い墓石にも偲しのばれた。

美奈子は、女中が水を汲くみに行っている間、父母の墓の前に、じっと蹲うずくまりながら、心の裡で父母の懐なつかしい面影を描き出していた。世間からは、いろ〱に悪評も立てられ、成金に対する攻撃を、一身に受けていたような父ではあったが、自分に対しては、世にかけ替のない優しい父であったことを思い出すと、何時いつものように、追慕の涙が、ホロ〱と止めどもなく、二つの頬を流れ落ちるのだった。

女中が、水を汲んで来ると、美奈子は、その花筒の古い汚れた水を、浚乾かえほしてから、新しい水を、なみなみと注ぎ入れて、剪きり取ったまゝに、まだ香の高い白百合しらゆりの花を、挿入れた。こうしたことをしていると、何時の間にか、心が清浄しょうじょうに澄んで来て、父母の霊が、遠い〱天の一角から、自分のしていることを、微笑ほほえみながら、見ていて呉くれるような、頼もしいような懐しいような、清々しい気持になっていた。

美奈子は、花を供えた後も、じっと蹲まったまゝ、心の中で父母の冥福めいふくを祈っていた。微風が、そよ〱と、向うの杉垣の間から吹いて来た。

「ほんとうに、よく晴れた日ね。」

美奈子は、やっと立ち上りながら、女中を見返ってそう云った。

「左様でございます。ほんとうに、雲の片かけ一つだってございませんわ。」

そう云いながら、女中は眩まぶしそうに、晴れ渡った夏の大空を仰いでいた。

「そんなことないわ。ほら、彼処あすこにかすったような白い雲があるでしょう。」

美奈子も、空を仰ぎながら、晴々しい気持になってそう云った。が、美奈子の見附けたその白いかすかな雲の一片を除いた外は、空はほがらかに何処どこまでも晴れ続いていた。

「今日は余りいゝお天気だから直ぐ帰るのは惜しいわ。ぶら〱散歩しながら、帰りましょう。」

そう云いながら、美奈子は女中を促うながして、懐しい父母の墓を離れた。

何時もは、歩き馴なれた道を、青山三丁目の停留場に出るのであったが、其その日は清い墓地内を、当あてもなくぶら〱歩くために、わざと道を別な方向に選んだ。

自分の家の墓地から、三十間ばかり来たときに、美奈子はふと、美しく刈り込まれた生籬に囲まれた墓地の中に、若い二人の兄妹きょうだいらしい男女が、お詣りしているのに気が付いた。

美奈子は、軽い好奇心から、二人の容子を可なり注意して見た。兄の方は、二十三四だろう。銘仙らしい白い飛白かすりに、袴はかまを穿はいて麦藁むぎわらの帽子を被かぶった、スラリとした姿が、何処となく上品な気品を持っていた。妹はと見ると、まだ十五か十六だろう、青味がかった棒縞ぼうじまのお召にカシミヤの袴を穿いた姿が、質素な周囲と反映してあざやかに美しかった。

美奈子達が、段々近づいてその墓地の前を通り過ぎようとしたとき、ふと振り返った妹は、美奈子の顔を見ると、微笑を含みながら軽く会釈えしゃくした。

三

妹らしい方から会釈されて、美奈子も周章あわてながら、それに応じた。が、相手が誰だか、容易に思い出せなかった。長い睫まつげに掩おおわれたその黒い眸ひとみを、何処どこかで見たことのあるように思った。が、それが何どうしても美奈子には思い出せなかった。

「人違いじゃないのかしら。」

そう思って、美奈子は一寸ちょっと顔を赤くした。

が、美奈子がその墓地の前を通り過ぎようとして、二度ふたたびその兄妹らしい男女を見返ったとき、今度は兄の方が、美奈子の方を振り返っていた。恐らく妹が、挨拶あいさつしたので、一寸した興味を持った為ためだろう。美奈子の眸は、当然その青年の顔を、正面から見た。その刹那せつな美奈子は、若い男性と、咄嗟とっさに顔を見合わした恥かしさに、弾はじかれたように、顔を元に返した。

それはホンの一瞬の間だった。が、その一瞬の間に一目見た青年の顔は、美奈子の心に、名工が鑿のみを振ったかのように、ハッキリと刻み付けられてしまった。

彼女は、今まで異性の顔に、自分から注意を向けたことなどは、殆ほとんどなかった。が、今見た青年の顔は、彼女の注意の凡すべてを、支配するような不思議な魅力を持っていた。

白いくっきりとした顔、妹によく似た黒い眸、凜々りりしく引きしまった唇、顔全体を包んでいる上品な匂におい。

お墓参りの後の、澄み渡ったような美奈子の心持は、忽たちまち掻かき擾みだされてしまった。彼女ののんびりとしていた歩調は、急に早くなった。彼女の心は、強い力で後へ引かれながら、身体丈けは彼女の意志とは反対に、前へ〱と急いでいた。丁度、恐ろしいものからでも逃れるように。

彼女の擾みだれていた心が、だん〱和なごんで来るのに従って、先刻の妹の方から受けた挨拶のことを、考えていた。先方は、自分を知っているに違ない。少くとも、妹の方丈は、自分を知っていて呉くれるに違ない。が、そうは思って見るものの、妹が誰であるか何うしても思い出されなかった。

が、通り過ぎた時に、チラと見た所に依ると、二人が、つい近く失ったばかりの肉親のお墓詣まいりをしていたこと丈は、明かだった。幾本も立っている卒都婆そとばが、どれもこれも墨の匂が新しかった。

美奈子は、知人の家で、最近に不幸のあった家を、それからそれと数えて見た。が、何うしても兄妹の所属は判わからなかった。

妹の方が、人違をしたのかも知れない。そう思うことは美奈子は、何だか淋さみしかった。やっぱり、此方こちらが思い出せないのだ。その中には、また屹度きっとあの人達と顔を合せる機会があるに違いない。屹度機会が来るに違いない。

「お嬢様! 何方どっちへ行らっしゃるのでございます?」

そう云いって呼び止める女中の声に驚いて、美奈子が我に帰ると、美奈子は右に折れるべき道を、ズン〱前へ、出口のない小径こみちの方へと、進んでいるところだった。

「其方そちらへいらっしゃいますと突き当りでございますよ。」

そう言いながら、女中は笑った。

「おや! おや! 妾わたしぼんやりしていたわ。」

美奈子も、てれかくしに笑った。

二人は何時いつの間にか霞町かすみちょうの方へ近づいていた。

「霞町から乗って、青山一丁目で乗換えすることにいたしましょうか。」

女中の発議に委まかしたように、美奈子は黙って霞町の方へ、だら〱した坂を降くだっていた。心の中では、まだ一心に、その妹の顔と兄の顔とを等分に考えながら。

塩町行の電車の昇降台しょうこうだいの棒に、美奈子が手をかけたとき、彼女は低く、

「あゝそう〱!」と、自分自身に言った。

彼女は、やっと妹を思い出した。お茶の水で確か三年か二年か下の級にいた人だ。そう〱! 先刻見たときバンドをしていたのをスッカリ忘れていた。向うでは此方こっちの顔丈を覚えていて呉れたのだ。そう思うと、美奈子は兄妹に対して一入ひとしおなつかしい心が湧わいて来た。

四

少女の顔丈は、やっと思い出したけれども、名前は何どうしても思い出せなかった。家へ帰ってからも、美奈子は、お茶の水にいた頃の校友会雑誌の『校報』などを拡ひろげて、それらしい名前を、思い出そうとしたけれども、やっぱり徒爾むだだった。

自分ながら、何うしてあの兄妹に、不思議に心を惹ひかされるのか、美奈子には分らなかった。が、兄の方の白い横顔や、妹の会釈えしゃくした時の微笑などが何うしても忘れられなかった。自分にも、あんなに親しい兄があったら、兄の勝彦が、もう少し普通の人間であったら、などと取り止めもないことを、考えながら、やっぱり忘れられないのは、一目顔を見合わせた丈の兄妹だった。否いな、本当に忘れられないのは、兄の方一人丈だったかも知れない。たゞ兄を想おもい出すごとに、妹は影の形に伴うごとく、彼女の記憶の裡うちに、甦よみがえって来るのかも知れなかった。異性の兄の方丈を考えることは、彼女の慎つつましい処女性が、彼女自身にそれを許さなかった。彼女は、自身でも兄妹のことを考えているように、言訳しながら、本当は兄丈のことを考えていたのかも知れなかった。

美奈子は、兄の方の美しい凜々りりしい姿を、心の裡で、じっと噛かみしめるように、想い出しているとほの〲と夜の明けるように、心の裡に新しい望のぞみや、新しい世界が開けて行くように思った。今まで夢にも知らなかったような、美しい世界が開けて行くように思った。

が、それと一緒に、兄妹の名前が、ハッキリと知れないことが、寂しかった。あの時に、偶然逢あったばかりで、今後永く〱、否一生逢わずに終るのではないかと思ったりすると、淡い掴つかみどころのないような寂しさが、彼女の心を暗くしてしまうのだった。

彼女は、新しい望みと、寂しさとを一緒に知ったと云いってもよかった。否彼女の心の少女らしい平和は、永久に破られたと云ってもよかった。

美奈子は、以前よりも温和おとなしい、以前よりも慎しい少女になっていた。

その裡に、彼女の心にも、少女らしい計画プランが考えられていた。そうだ! 此この次の日曜にも、お墓詣まいりをして見よう。もし、あの新しい墓の主が、兄妹に取って親しい父か母かであったならば、此次の日曜にも二人は屹度きっと、お詣りをしているのに違ない。

そう考えて来ると、美奈子には次の日曜が廻って来るのが、一日千秋のように、もどかしく待たれた。

が、待たれたその日曜が来て見ると、昨夜ゆうべからの梅雨つゆらしい雨が、じめ〱と降っているのだった。

「今日はお墓詣りに行こうと思っていたのですけれども。」

美奈子は、朝母と顔を見合すと、運動会の日を雨に降られた少女か何かのように、滾こぼすように言った。瑠璃子には美奈子の失望が分らなかった。

「だって! 美奈さんは、前の日曜にもお参りしたのじゃないの。」

「でも、今日も何だか行きたかったの。妾わたくし楽しみにしていたのです。」

「そう! じゃ、自動車くるまで行って来てはどう。自動車を降りてから、三十間も歩けばいゝのですもの。」

瑠璃子は、優しく言った。

「でも!」そう言って、美奈子は口籠くちごもった。

雨を衝ついてでも、風を衝いてでも、自分は行ってもいゝ。が、先方むこうは? そう思うと、美奈子は寂しかった。普通にお墓詣りをする人が、こんな雨降りの日に出かけて来る訳はない。そう思って来ると、雨降りにでも行こうと云う自分の心、否お墓詣りと云うことを、ダシに使おうとしている自分の心が、美奈子は急に恥かしくなった。彼女は、われにも非あらず顔を赤くした。

「おや! 美奈さん。何がそんなに恥しいの。お墓詣りするのが、そんなに恥しいの?」

明敏な瑠璃子は、美奈子の表情を見逃さなかった。

「あら! そうではありませんわ。」

と、美奈子は周章あわてゝ、打ち消したが、彼女の素絹しらぎぬのように白い頬は、耳の附根まで赤くなっていた。

五

その次の日曜は、珍らしい快晴だった。洗い出したような紺青色ウルトラマリンの空に、眩まぶしい夏の太陽が輝かしい光を、一杯に漲みなぎらしていた。

美奈子は、朝眼が覚めると、寝床ベッドの白いシーツの上に、緑色の窓掩カーテンを透して、朝の朗かな光が、戯たわむれているのを見ると、急に幸福な感じで、胸が一杯になった。今日は何だか、楽しい嬉うれしい出来事に出逢であいそうな気がした。彼女は、いそ〱として、床を離れた。

午前中は、いろ〱な事が手に付かなかった。母に勧められて、母のピアノにヴァイオリンを合せたけれども、美奈子は何時いつになく幾度も幾度も弾ひき違えた。

「美奈さんは、今日は何どうかしているじゃないの?」と、母から心の裡の動揺を、見透されると、美奈子の心は、愈々いよいよ掻かき擾みだされて、到頭中途で合奏を止やめてしまった。

午後になるのを待ち兼ねたように、美奈子はお墓詣まいりに行くための許しを、母に乞こうた。何時もはあんなに気軽に、口に出せることが、今日は何だか、云いいにくかった。

墓地は、何時ものように静かだった。時候がもうスッカリ夏になった為ためか、此この前来たときのように、お墓詣りの人達は多くはなかった。が、周囲は、静寂であるのにも拘かかわらず、墓地に一歩踏み入れると同時に、美奈子の心は、ときめいた。何だか、そわ〱として、足が地に付かなかった。恐こわいような怖おそろしいような、それでいて浮き立つような唆そそられるような心地がした。

父母のお墓の前に、じっと蹲うずくまったけれども、心持はいつものように、しんみりとはしなかった。こんな心持で、お墓に向ってはならないと、心で咎とがめながらも、妙に心が落着かなかった。

彼女は、平素いつもとは違って、何かに周章あわてたように、父母の墓前から立ち上った。

「すみや、今日も霞町かすみちょうの方へ出て見ない!」

美奈子は、一寸ちょっと顔を赤あからめながら何気ないように女中に云った。女中は黙って従ついて来た。

美奈子の心は、一歩毎ごとにその動揺を増して行った。彼女は墓石と墓石との間から、今にも麦藁帽むぎわらぼうの端か、妹の方のあざやかな着物が、チラリとでも見えはせぬかと、幾度も透して見た。が、その辺あたりは妙に静まり返って、人気さえしなかった。

彼女が、決心して足を早めて、心覚えの墓地に近づいて行ったとき、彼女の希望は、今朝からの興奮と幸福とは、煙のようにムザ〱と、夏の大空に消えてしまった。

心覚えの墓地は、空むなしかった。新しい墓の前には、燃え尽きた線香の灰が残っている丈であった。供えた花が、凋しおれている丈であった。美奈子の心を、寂しい失望が一面に塞とざしてしまった。

せめて墓に彫り付けてある姓名から、兄妹の姓名を知りたいと思った。が、生籬いけがき越に見た丈では、それが何うしても、確められなかった。それかと云って、女中を連れている手前、それを確かめるために、墓地の廻りを歩いたりすることも出来なかった。

美奈子は、満されざる空虚を、心の裡うちに残しながら、寂しくその墓地の前を通り過ぎた。

彼女は、その途端ふと学校で習った『株くいぜを守って兎うさぎを待つ』と、云う熟語を思い出した。約束もしない人が、何うして一定の時日に、一定の場所に来ることがあるだろう。そう思って来ると、自分の子供らしさが、恥しいと同時に、寂しい頼りない気がした。或あるいは、あれ切りもう一生逢あわれない人かも知れない。

彼女は、怏々おうおうとして、暗いむすぼれた心持で電車に乗った。今までは楽しく明るい世の中が、何だか急に翳かげって来たようにさえ思われた。

が、美奈子の乗った九段両国行の電車が、三宅坂みやけざかに止まったとき、運転手台の方から、乗って来る人を見たとき、美奈子は思わずその美しい目を眸みはった。

六

美奈子が、駭おどろいて目を眸みはったのも、無理ではなかった。車内へツカ〱と、這入はいって来て、彼女の直すぐ斜前へ腰を降ろしたのは、紛まぎれもない、墓地で見た彼かの青年であった。美奈子が二週間もの間、外よそながらもう一度見たいと思っていたあの青年であった。彼女は、一目見たばかりではあったが、上品なその目鼻立を見ると、直ぐそれと気が付いた。

その青年に、つい目と鼻の位置に坐すわられると、美奈子は顔を赧あからめて、じっと俯うつむいてしまう女だった。が、心の裡うちでは思った、何と云いう不思議な偶然チャンスだろう。その人に逢あえると思った場所では、逢えないで、悄然しょうぜんと帰って来る電車の中で、ヒョックリ乗り合わす。何と云う不思議な偶然だろう。そう思うと同時に、不思議な偶然の向うには、思いがけない幸福でもが、潜んでいるように思われて、先刻まで凋しおれかえっていた美奈子の心は、別人のように晴れやかに、弾んで来た。が、美奈子は顔を上げて、相手の顔を、じっと見詰める丈の勇気はなかった。車台の床に投げられている彼女の視線には、青年が持っている細身の籐とうのステッキの尖端はしだけしか映っていなかった。

あの方は、自分の顔を覚えていてくれるかしら。美奈子はそんなことを、わく〱する胸で、取り止めもなく考えていた。兎とに角かく、妹が挨拶あいさつをした以上、自分の顔丈位は、覚えていて呉くれるかしら。覚えていて呉れゝば、どんなに幸福であろうかなどと思ったりした。

電車は、直ぐ半蔵門で止った。もう、自分の家までは二分か三分かの間である。動き出せば直ぐ止る、わずかの距離であった。美奈子は、もっと〱此この電車に乗っていたかった。そうだ! 青年の乗っている限り、此の電車に乗っていたいと思った。

彼女は、女中をそれとなく先へ降して、神田辺に買物があると云って、此のまゝずっと乗り続けていようかと思ったりした。が、そうした大胆な計画をなすべく、彼女はあまりに純だった。

その内に、電車はもう半蔵門の停留場を離れていた。英国大使館の前の桜青葉の間を、勢よく走っていた。美奈子は電車が、平素いつもの二倍もの速力で走っているように思った。彼女は、最後の一瞥いちべつを得ようとして、思い切って顔を持ち上げた。青年は、此の前見たときと同じような白い飛白かすりの着物に絽ろセルらしい袴はかまを穿はいていた。近く見れば見るほど、貴公子らしい凜々しい面影が、美奈子の小さい胸を圧おし付けるように、迫って来るのだった。美奈子は、此の青年と向い合って坐りながら、もっともっと九段までも両国までも、いな〱もっと遥はるかに遥かに遠い処ところまで、一緒に乗って行きたいような、切ない情熱が、胸に湧わいて来るのを何どうすることも出来なかった。このまゝ別れてしまうと、また何時いつ会われるか分らない。二年も三年も、いな一生もう二度と会われないのではあるまいかなどと思ったりすると、美奈子は、何うしても座席が離れられなかった。が、女中のすみやは、そんなことは少しも頓着しなかった。

五番町の停留場の赤い柱が見え出すと、主人よりも先きに立ち上った。

「参りましたよ。」

彼女は主人を促うながすように云った。美奈子がそれに促されて、不承々々に席を離れようとしたときだった。降りそうな気勢けはいなどは、少しも見せなかった青年が、突然立ち上ると男らしい活溌さで、素早く車掌台へ出ると、まだ惰力だりょくで動いている電車から、軽くヒラリと飛び降りた。

『おや!』女中が、傍にいなかったら、彼女は駭おどろいて声を出したかも知れなかった。

『御近所の方かしら。』そう思った美奈子は、電車を降りながら美しい眸ひとみを凝こらして、その後姿を見失うまいと、眼も放たず見詰めていた。

七

美奈子より先に、電車を飛び降りた青年は、その後姿を、じっと彼女から見詰められているとは少しも気が付かないように、籐とうの細身のステッキを、眩まぶしい日の光の裡うちに、軽く打ち振りながら、グン〱急ぎ足で歩いた。

美奈子は、一体此この青年が、近所のどの家に入るのかと、わざと自分の歩調を緩めながら、青年の後姿を眼で追っていた。

その時に、彼女を駭おどろかすような思いがけないことが、起った。

「おや! あの方、家へいらっしゃるのじゃないかしら。」

美奈子は、思わずそう口走らずにはいられなかった。

九段の方へグン〱歩いて行くように見えた青年は、美奈子の家の前まで行くと、だん〱その門に吸い付けられるように歩み寄るのであった。

青年は、門の前で、ホンの一瞬の間、佇立ちょりつした。美奈子は、やっぱり通りがかりに、一寸ちょっと邸内の容子を軽い好奇心から覗のぞくのではないかと思った。が、佇たたずんで一寸何か考えたらしい青年は、思い切ったように、グン〱家の中へ入って行った。ステッキを元気に打ち振りながら。

「お客様ですわ、奥様の。」

女中は、美奈子の前の言葉に答えるように言った。

いかにも、女中の言う通とおり、母の客間サロンを訪おとなう青年の一人に違いないことが美奈子にも、もう明かだった。

「お前、あの方知っているの?」

美奈子は、心の裡の動揺を押しかくすようにしながら、何気なく訊きいた。

「いゝえ! 存じませんわ。妾わたくしはお客間の方の御用をしたことが、一度もないのでございますもの。きくやなら、きっと存じておりますわ。」

きくやと云いうのは、母に従ついている小間使の一人だった。

美奈子は、兎とに角かくその青年が、自分の家に出入りしていると云うことを知ったことが、可なり大きい欣よろこびだった。自分の家に出入りしている以上、会う機会、知己しりあいになる機会が、幾何いくらでも得られると思うと、彼女の小さい胸は、歓喜のために烈はげしく波立って行くのだった。が、それと同時に、母が前から、その青年と知り合っていること、その青年とお友達であることが、不思議に気になり出した。今までは、母が幾何若い男性を、その周囲に惹ひき付けていようとも、それは美奈子に取って、何の関係もないことだった。が、この青年までが、母の周囲に惹き付けられているのを知ると、美奈子は平気ではいられなかった。かすかではあるが、母に対する美奈子の純な濁にごらない心持が、揺ぎ初めた。

美奈子が、心持足を早めて、玄関の方へ近づいて見ると、青年は取次が帰って来るのを待っているのだろう。其処そこに、ボンヤリ立っていた。

彼は不思議そうに、美奈子をジロ〱と見たが、美奈子が此の家の家人であることに、やっと気が付いたと見え、少し周章あわて気味に会釈えしゃくした。

美奈子も周章て、頭を下げた。彼女の白いふっくりとした頬は、見る〱染めたように真赤になった。その時に丁度、取次の少年が帰って来た。青年は待ち兼ねたようにその後に従いて入った。

美奈子が、玄関から上って、奥の離れへ行こうとして客間の前を通ったとき、一頻ひとしきり賑にぎやかな笑い声が、美奈子の耳を衝ついて起った。今までは、そうした笑い声が、美奈子の心を擦かすりもしなかった。本当に平気に聞き流すことが出来た。が、今日はそうではなかった。その笑い声が、妙に美奈子の神経を衝つき刺した。美奈子の心を不安にし、悩ました。あの青年と、自由に談笑している母に対して、羨望せんぼうに似た心持が、彼女の心に起って来るのを何どうともすることも出来なかった。

八

その日曜の残りを、美奈子はそわ〱した少しも落着かない気持の裡うちに過さねばならなかった。かの青年が、自分の家の一室にいることが、彼女の心を掻かき擾みだしてしまったのだ。

今までは、一度も心に止めたことのない客間サロンの方が、絶えず心にかゝった。青年が母に対してどんな話をしているのか、母が青年にどんな答をしているかと云いったようなことを、想像することが、彼女を益々ますます不安にさせ、いら〱させた。

彼女は、到頭部屋の中に、じっと坐すわっていられないようになって、広い庭へ降りて行った。気を紛まぎらすために、庭の中を歩いて見たい為ためだった。が、庭の中を彼方此方と歩いている裡に、彼女の足は何時いつの間にか、だん〱洋館の方へ吸い付けられて行くのだった。彼女の眸ひとみは、時々我にもあらず、客間の縁側ヴェランダの方へ走るのを、何どうともすることが出来なかった。その縁側からは、時々思い出したように、華やかな笑い声が外へ洩もれた。若い男性の影が、チラホラ動くのが見えた。が、その人らしい姿は、到頭見えなかった。

大抵は、その日の訪問客を引き止めて、華美はでに晩餐ばんさんを振舞う瑠璃子るりこであったが、その日は何うしたのか、夕方が近づくと皆客を帰してしまって、美奈子とたった二人限きり、小さい食堂で、平日のように差し向いに食卓に就いた。

その夜の瑠璃子は、これまでの通り、美奈子に取って母のような優しさと姉のような親しみとを持っていた。が、美奈子は母に、ホンのかすかではあるが、今までに持たなかったような感情を持ち初めていた。母の若々しい神々こうごうしいほどの美貌びぼうが、何となく羨うらやましかった。母が男性と、殊ことにあの青年と、自由に交際つきあっているのが、何となく羨ましいように、妬ねたましいように思われて仕方がなかった。が、美奈子はそうしたはしたない感情を、グッと抑え付けることが出来た。彼女は平素いつもの初々ういういしい温和おとなしい美奈子だった。

順々に運ばれる皿数コーセスの最後に出た独活アスパラガスを、瑠璃子夫人がその白魚のような華奢きゃしゃな指先で、摘つまみ上げたとき、彼女は思い出したように美奈子に云った。

「あゝそう〱! 美奈さんに相談しようと思っていたの。貴女あなた此この夏は何処どこへ行きましょうね。四五日の裡に、何処かへ行こうと思っているの。今日なんかもう可なり暑いのですもの。」

「妾わたし、何処だっていゝわ。貴女のお好きなところなら何処だっていゝわ。」美奈子は、慎つつましくそう云った。

「軽井沢は去年行ったし、妾今年は箱根へ行こうかしらと思っているの。今年は電車が強羅ごうらまで開通したそうだし、便利でいゝわ。」

「妾箱根へはまだ行ったことがありませんの。」

「それだと尚なおいゝわ。妾温泉では箱根が一番いゝと思うの。東京には近いし景色はいゝし。じゃやっぱり箱根にしましょうね。明日でも、富士屋ホテルへ電話をかけて部屋の都合を訊きき合せましょうね。」

そう云って、瑠璃子は言葉を切ったが、直すぐ何か思い出したように、

「そう〱、まだ貴女にお許しを願わなければならぬことがあるの。女手ばかりだと何かに付けて心細いから、男のお友達の方に、一人一緒に行っていたゞこうと思うの。貴女、介意かまわなくって?」

「介意いませんとも。」美奈子はそう答えた。もし、昨日の美奈子であったら、それをもっと自由に快活に答えることが出来たであろう。が、今の美奈子はそう答えると共に、胸が怪しく擾れるのを、何うともすることが出来なかった。

「温和しい学生の方なの。いろ〱な用事をして貰もらうのにいゝわ。」

瑠璃子は、いかにもその学生を子供扱いにでもしているような口調で云った。

学生と聴くと、美奈子の胸は更に烈はげしく波立った。押え切れぬ希望と妙な不安とが、胸一杯に充みち満ちた。

箱根行

一

「御機嫌よく行ってらっしゃいませ。」

玄関に並んだ召使達が、口を揃そろえて見送りの言葉を述べるのを後にして、美奈子みなこ達の乗った自動車は、門の中から街頭へ、滑かにすべり出した。

乾燥した暑い日が、四五日も続いた七月の十日の朝だった。自動車の窓に吹き入って来る風は、それでも稍やや涼しかったが、空には午後からの暑気を思わせるような白い雲が、彼方此方あちらこちらにムク〱と湧わき出していた。

美奈子は、母と並んで腰をかけていた。前には、母の気に入りの小間使と自分の附添の女中とが、窮屈そうに腰をかけていた。

美奈子は、母から箱根行のことを訊きかされてから、母が一緒に伴ともなって行くと云いう青年のことが、絶えず心にかゝっていた。が、母の方からはそれ以来、青年のことは何とも口に出さなかった。母が口に出さない以上、美奈子の方から切り出して訊くことは、内気な彼女には出来なかった。

出立しゅったつの朝になっても、青年の姿は見えなかった。美奈子は、母が青年を連れて行くことを中止したのではないかとさえ思った。そう思うと美奈子は、失望したような、何となく物足りないような心持になった。

自動車が、日比谷ひびや公園の傍のお濠端ほりばたを走っている時だった。美奈子は、やっと思い切って母に訊いて見た。

「あの、学生の方とかをお連れするのじゃなかったの?」

瑠璃子は、初めて気が付いたように云った。

「そう〱。あの方を美奈さんに紹介して置くのだったわ。貴女あなたまだ御存じないのでしょう。」

「はい! 存じませんわ。」

「学習院の方よ。時々制服を着ていらっしゃることがあってよ。気が付かない?」

「いゝえ! 一度もお目にかゝったことありませんわ。」

「青木さんと云う方よ。」

母は何気ないように云った。

「青木さん!」美奈子は一寸ちょっと駭おどろいたように云った。「その方は此この間、亡なくなられたのではございませんの。」

美奈子も、母の男性のお友達の一人なる青木某なにがしが、横死したと云うことは、薄々知っていた。

「いゝえ! あの方の弟さんよ。兄さんは、帝大の文科にいらしったのよ。」

茲ここまで聴いたとき美奈子にはもう凡すべてが、判わかっていた。此の旅行の同伴者が、何人なんぴとであるかがもうハッキリと判った。新しく兄を失った青木と云う青年が、彼女が青山墓地で見たその人であることに、もう何の疑うたがいも残っていなかった。

美奈子の心は、嵐あらしの下の海のように乱れ立った。かの青年と、少くとも向う一箇月間一緒に暮すと云うことが、彼女の心を、取り乱させるのに十分だった。それは嬉うれしいことだった。が、それは同時に怖おそろしいことだった。それは、楽しいことだった。が、それは同時に烈はげしい不安を伴った。

美奈子の心の大きな動揺を、夢にも知らない瑠璃子るりこ夫人は、その真白な腕首に喰い入っている時計を、チラリと見ながら独言ひとりごとのように呟つぶやいた。

「もう、九時だから、青木さんは屹度きっと来ていらっしゃるに違いないわ。」

そうだ! 青年は、停車場で待ち合わせる約束だったのだ。もう、二三分の後にその人と面と向って立たねばならぬかと思うと、美奈子の心は、とりとめもなく乱れて行くのだった。

が、美奈子は少女らしい勇気を振い起して、自分の心持を纏まとめようとした。あの青年と会っても、取り乱すことのないように、出来る丈自分の心持を纏めて置こうと思った。美奈子の心持などに、何の容赦もない自動車は、彼女の心が少しも纏まらない内に、もう彼女を東京駅の赤煉瓦あかれんがの大きい建物の前に下していた。

二

美奈子等の自動車の着くのを、先刻さっきから待ち受けていたかのように、駅の群集の間から、五六人の青年紳士が、自動車から降り立ったばかりの、瑠璃子夫人の周囲を取り囲むのであった。

「お見送りに来たのですよ。」

皆は、口を揃そろえて云いった。

夫人は軽い快い駭おどろきを、顔に表しながら云った。

「おや! 何どうして御存じ?」

「はゝゝ、お駭きになったでしょう。お隠しになったって駄目ですよ。我々の諜報局ちょうほうきょくには、奥さんのなさることは、スッカリ判わかっているのですからね。」

外交官らしい、霜降りのモーニングを着た三十に近い紳士が、冗談半分にそう云った。

「それは驚きましたね、小山さん! 貴君あなた間諜スパイでも使っているのじゃないの? おッほゝゝ。」

夫人も華やかに笑った。

「使っておりますとも。女中さんなんかにも、気を許しちゃいけませんよ。」

「じゃ! 行先も判って?」

「判っていますとも。箱根でしょう。而しかも、お泊りになる宿屋まで、ちゃんと判っているのです。」

今度は、長髪に黒のアルパカの上着を着て、ボヘミアンネクタイをした、画家らしい男が、そう附け加えた。

「おや! おや! 誰が内通したのかしら?」

夫人は、当惑とうわくしたらしい、その実は少しも当惑しないらしい表情でそう答えた。

若い男性に囲まれながら、彼等を軽く扱あしらっている夫人の今日の姿は、又なく鮮かだった。青磁色の洋装が、そのスラリとした長身に、ピッタリ合っていた。極楽鳥の翼で飾った帽子が、その漆のように匂におう黒髪を掩おおうていた。大粒の真珠の頸飾りが、彼女自身の象徴シンボルのように、その白い滑らかな豊かな胸に、垂れ下っていた。

平素いつも見馴みなれている美奈子にさえ、今日の母の姿は一段と美しく見えた。駅の広間ホールに渦巻いている群衆の眼も、一度は必ず夫人の上に注がれて、彼等が切符を買ったり手荷物を預けたりする忙がしい手を緩めさせた。

美奈子は、母を囲む若い男性を避けて、一間ばかりも離れて立っていた。彼女は、最初その男達の間に、あの青年のいないのを知った。一寸ちょっと期待が外れたような、安心したような気持になっていた。その内に、母を見送りの男性は、一人増え二人加った。が、かの青年は何時いつまで待っても見えなかった。その男性達は、美奈子の方には、殆ほとんど注意を向けなかった。たゞ美奈子の顔を、外よそながら知っている二三人が軽く会釈えしゃくした丈だった。

「奥さん! まだ判っていることがあるのですがね。」

暫しばらくしてから、紺の背広を着た会社員らしい男が、おず〱そう云った。

「何です? 仰おっしゃって御覧なさい。」

夫人は、微笑しながら、しかも言葉丈は、命令するように云った。

「云っても介意かまいませんか。」

「介意いませんとも。」

夫人は、ニコ〱と絶えず、微笑を絶たなかった。

「じゃ申上げますがね。」彼は、夫人の顔色を窺うかがいながら云った。「青木君を、お連れになると云うじゃありませんか。」

それに附け加えて、皆は口を揃えるように云った。

「何うです、奥さん。当ったでしょう。」

皆の顔には、六分の冗談と四分の嫉妬しっとが混じっていた。

「奥さん、いけませんね。貴女あなたは、皆に機会均等だと云いながら、青木君兄弟にばかり、いやに好意を持ち過ぎますね。」

小山と云う外交官らしい男が、冗談半分に抗議を云った。

美奈子は、母が何と答えるか、じっと聞耳を立てゝいた。

三

「まあ! 青木さんを連れて行くって。嘘うそばっかり。青木さんなんか、まだ兄さんの忌いみも明けていない位じゃありませんか。」

瑠璃子るりこ夫人は、事もなげに打消した。美奈子は、母が先刻自分に肯定こうていしたことを、こうも安々と、打ち消しているのを聴いたとき、内心少からず驚いた。自分に対しては可なり親切な、誠意のある母が、こうも男性に向っては白々しく出来ることが、可なり異様に聞えた。

「忌もまだ明けないだろうって。奥さんにも似合わない旧弊なことを仰おっしゃるのですね。忌位明けなくったって、いゝじゃありませんか。殊ことに、奥さんと一緒に行くんだったら、死んだ兄さんだって、冥土めいどで満足しているかも知れませんよ。死んだ青木淳じゅん君の瑠璃子夫人崇拝は人一倍だったのですからね。あの男の貴女あなたに対する態度は、狂信に近かったのですからね。」

長髪の画家が、一寸ちょっと皮肉らしく言いった。

夫人は、美しい顔を、少し曇らせたようだったが、直すぐ元の微笑に帰って、

「まあ! 何とでも仰しゃいよ。でも青木さんのいらっしゃらないのは本当よ。論より証拠青木さんは、お見えにならないじゃありませんか。」

「奥さん! そんなことは、証拠になりませんよ。発車間際まぎわに姿を現して、我々がアッと云っている間に、汽笛一声発車してしまうのじゃありませんか。貴女のなさることは、大抵そんなことですからね。」

此この内で、一番年配らしい三十二三の夏の外套がいとうを着た紳士が、始めて口を入れた。

「御冗談でございましょう! 富田さん。青木さんをお連れするのだったら、そうコソ〱とはいたしませんよ。まさか、貴君あなたが赤坂の誰かを湯治に連れていらっしゃるのとは違っていますから。」

瑠璃子夫人の巧みな逆襲ぎゃくしゅうに、みんなは声を揃そろえて哄笑こうしょうした。富田と呼ばれた紳士は苦笑しながら言った。

「まあ、青木君の問題は、別として、僕も、近々箱根へ行こうと思っているのですが、彼方あちらでお訪ねしても、介意かまいませんか。」

瑠璃子夫人は、微笑を含みながら、而しかも乱麻を断つように答えた。

「いゝえ! いけませんよ。此の夏は男禁制! 誰かの歌に、こんなのが、あるじゃありませんか。『大方の恋をば追わず此の夏は真白草花白きこそよけれ』妾わたくしも、そうなのよ、此の夏は、本当に対人間の生活から、少し離れていたいと思いますの。」

「ところが、奥さん。その真白草花と云うのが、案外にも青木弟ジュニョルだったりするのじゃありませんか。」

小山と呼ばれた外交官らしい紳士が、突込んだ。

「まあ! 執念深い! 発車するまでに、青木さんが、お見えになったら、その償つぐないとして、皆さんを箱根へ御招待しますわ。御覧なさい、もう切符を切りかけたのに、青木さんはお見えにならないじゃありませんか。」

夫人はそう言いながら、美奈子達を促うながして改札口の方へ進んだ。若い紳士達は、蟻ありの甘きに従つくように、夫人の後から、ゾロ〱と続いた。

夫人が、汽車に乗った後も、青木と呼ばれる青年は姿を現さなかった。若い男達は、やっと夫人の言葉を信じ初めた。

「向うから、お呼び寄せになるか何どうかは別として、今日同行なさらないこと丈は、信じましたよ。はゝゝゝゝ。」

小山と云う男が、発車間際になって、そう言った。

「まだそんな負惜しみを、言っていらっしゃるの!」

夫人は、そう言いながら、嫣然にっこりと笑って見せた。

美奈子は、何が何だったか、判わからなくなった。母の自動車の中の言葉では、青木と云う青年が――墓地で逢あった彼あの人に相違ない青年が――東京駅で待っているようだった。而も母は、今そのことをきっぱり打ち消している。

美奈子は安心したような、而も失望したような妙な心持の混乱に悩んでいた。

汽車が出るまで、到頭青木は姿を、見せなかった。

四

汽車が動き初めても、青木の姿は、到頭見えなかった。

「それ御覧なさい! 疑いはお晴れになったでしょう!」

夫人は、車窓から、その繊細せんさいな上半身を現しながら、見送っている人達に、そうした捨台辞すてぜりふを投げた。

男性達が、銘々いろ〱な別辞を返している裡うちに、汽車は見る〱駅頭を離れてしまった。

「まあ! うるさいたらありはしないわ。こんな小旅行トリップの出発を、わざ〱見送って呉れたりなどして。」

夫人は美奈子に対する言い訳のように呟つぶやきながら席に着いた。

母を囲む男性達が、青木の同行を気にかけている以上に、もっと気にかけていたのは美奈子だった。その人と一緒に汽車に乗ったり、一緒に宿屋に宿とまったり、同じ食卓に着いたりすることを考えると、彼女の小さい心は、戦おののいていたと云いってもよかった。それは恐ろしいことであり、同時に、限りなき歓喜でもあったのだ。が、その人は到頭姿を現わさない。母も前言を打ち消すような事を言っている。美奈子の心配はなくなった。それと同時に、彼女の歓喜も消えた。たゞ白々しい寂しさ丈が、彼女の胸に残っていた。

美奈子の心持を少しも知らない瑠璃子は、美奈子が沈んだ顔をしているのを慰めるように言った。

「美奈さんなんか、何どうお考えになって。妾達わたしたち女性を追うているあゝ云う男性を。あゝ云う女性追求者と云ったような人達を。」

美奈子は黙って答をしなかった。母が交際つきあっている人達を、厭いやだとも言えなかった。それかと言って、決して好きではなかった。

「あんな人達と結婚しようなどとは、夢にも考えないでしょうね。男性は男性らしく、女性なんかに屈服しないでいる人が、頼もしいわね。」

美奈子も、ついそれに賛成したかった。が、青木と呼ばれるらしい青年も、やっぱりそうした男性らしくない女性追求者の一人かと思うと、美奈子はやっぱり黙っている外はなかった。

「妾達を、追うて来る人でも、身体と心との凡すべてを投じて、来る人はまだいゝのよ。あの人達なんか遊び半分なのですもの。狼おおかみの散歩旁々かたがた人の後から従ついて行くようなものなのよ。つい、蹉つまずいたら、飛びかゝってやろう位にしか思っていないのですもの。」

美奈子は、母の辛辣しんらつな思い切った言葉に、つい笑ってしまった。男性のことを話すと、敵か何かのように罵倒ばとうする母が、何故なぜ多くの男性を近づけているかが、美奈子にはたゞ一つの疑問だった。

「青木さんと云う方、一緒にいらっしゃるのじゃないの?」

美奈子は、やっと、心に懸っていたことを訊きいてみた。母は、意味ありげに笑いながら言った。

「いらっしゃるのよ。」

「後からいらっしゃるの?」

「いゝえ!」母は笑いながら、打ち消した。

「じゃ、先にいらっしゃったの?」

「いゝえ!」母は、やっぱり笑いながら打ち消した。

「じゃ何時いつ?」

母は笑ったまゝ返事をしなかった。

丁度その時に、汽車が品川駅に停車した。四五人の乗客が、ドヤ〱と入って来た。

丁度その乗客の一番後から、麻の背広を着た長身白皙はくせきの美青年が、姿を現わした。瑠璃子夫人の姿を見ると、ニッコリ笑いながら、近づいた。右の手には旅行用のトランクを持っていた。

「おや! いらっしゃい!」

夫人は、溢あふれる微笑を青年に浴びせながら言った。

「さあ! おかけなさい!」

夫人はその青年のために、座席シートを取って置いたかのように、自分の右に置いてあった小さいトランクを取り除のけた。

五

美奈子は、駭おどろきに目を眸みはりながら、それでもそっと青年の顔を窃ぬすみ見た。それは、紛れもなく彼の青年であった。墓地で見、電車に乗り合わし、自分の家を訪ねるのを見た彼の青年に違いなかった。

美奈子は、胸を不意に打たれたように、息苦しくなって、じっと面を伏せていた。

が、美奈子のそうした態度を、処女に普通な羞恥しゅうちだと、解釈したらしい瑠璃子は、事もなげに云いった。

「これが先刻お話した青木さんなの。」

紹介された青年は、美奈子の方を見ながら、丁寧に頭を下げた。

「お嬢様でしたか。いつか一度、お目にかゝったことがありましたね。」

そう云われて、『はい。』と答えることも、美奈子には出来なかった。彼女はそれを肯定こうていするように、丁寧に頭を下げた丈けだったが、青年が自分を覚えていて呉くれたことが、彼女をどんなに欣よろこばしたか分らなかった。

青年は、瑠璃子の右側近く腰を降した。

「貴君あなた、大変だったのよ。今東京駅でね。皆知っていらっしゃるのよ。妾わたしが今日立つと云うことを。そればかりでなく貴君が一緒だと云うこと迄まで知っていらっしゃるのよ。だから、極力打ち消して置いたのよ。若もし青木さんが一緒だったら、その償つぐのいとして皆さんを箱根へ御招待しますって。それでも皆善人ばかりなのよ、おしまいには妾の云うことを信じてしまったのですもの。だから、妾が云わないことじゃないでしょう。品川か新橋か孰どちらかでお乗りなさいと。妾、貴君が妾の云うことを聴かないで、ひょっくり東京駅へ来やしないかと思って、ビク〱していましたの。」

夫人は、弟にでも話すように、馴々なれなれしかった。青年は姉の言葉をでも、聴いているように、一言一句に、微笑しながら肯いた。

それを、黙って聴いている美奈子の心の中に、不思議な不愉快さが、ムラ〱と湧わいて来た。それは彼女自身にも、一度も経験したことのないような、不快な気持だった。彼女は、母に対して、不快を感じているのでなく、青年に対して、不快を感じているのでなく、たゞ母と青年とが、馴々しく話しあっていることが、不思議に、彼女の心に苦い滓おりを掻かき乱すのであった。殊ことに青年が人目を忍ぶように、品川からたゞ一人、コッソリと乗ったことが、美奈子の心を、可なり傷けた。母と青年との間に、何か後暗い翳かげでもあるように、思われて仕方がなかった。

「何どうして、僕が奥さんと一緒に行くことが分ったのでしょう。僕は誰にも云ったことはないのですがね。」

青年は一寸ちょっと云い訳のように云った。

「何分っていてもいゝのですよ。薄々分っている位が、丁度いゝのですよ。貴君となら、分っていてもいゝのですよ。」

夫人は、軽い媚こびを含みながら云った。

「光栄です。本当に光栄です。」

青年は冗談でなく、本当に心から感激しているように云った。

母と青年との会話は、自由に快活に馴々しく進んで行った。美奈子は、なるべくそれを聴くまいとした。が、母が声を低めて云っていることまでが、神経のいらだっている美奈子の耳には、轟々ごうごうたる車輪の、響にも消されずに、ハッキリと響いて来るのだった。

母と青年との一問一答に、小さい美奈子の胸は、益々ますます傷けられて行くのだった。時々母が、

「美奈さん! 貴女あなたは何う思って?」

などと黙っている彼女を、会話の圏内けんないに入れようとする毎ごとに、美奈子は淋さみしい微笑を洩もらす丈だった。

美奈子は、青年の姿を見ない前までは、青年の同行することは、恐ろしいが同時に限りない歓喜がその中に潜んでいるように思われた。が、それが実現して見ると、それは恐ろしく、寂しく、苦しい丈であることが、ハッキリと分った。此この先一月も、こうした寂しさ苦しさを、味わっていなければならぬかと思うと、美奈子の心は、墨を流したように真暗になってしまった。

六

汽車は、美奈子の心の、恋を知り初そめた処女の苦しみと悩みとを運びながら、グン〱東京を離れて行った。

夫人と青年との親しそうな、しめやかな、会話は続いた。夫人は久し振に逢あった弟をでも、愛撫あいぶするように、耳近く口を寄せて囁ささやいたり、軽く叱しっするように言ったりした。青年は青年で、姉にでも甘えるように、姉から引き廻されるのを欣よろこぶように、柔順に温和に夫人の言葉を、一々微笑しながら肯きいていた。

美奈子は、母と青年との会話を、余り気にしている自分が、何だか恥しくなって来た。彼女は、成るべく聞くまい見まいと思った。が、そう努めれば努めるほど、青年の言葉やその白皙はくせきの面に浮ぶ微笑が、悩ましく耳に付いたり、眼についたりした。

青年の面には、歓喜と満足とが充みち溢あふれているのが、美奈子にも感ぜられた。彼の眼中には、瑠璃子夫人以外のものが、何も映っていないことが、美奈子にもあり〱と感ぜられた。母の傍にいる自分などは、恐らく青年の眼には、塵ちりほどにも、芥あくたほどにも、感ぜられてはいまいと思うと、美奈子は烈はげしい淋さみしさで胸が掻かき擾みだされた。

が、それよりも、もっと美奈子を寂しくしたことは、今迄いままで愛情の唯一ゆいいつの拠より処どころとしていた母が、たとい一時ではあろうとも、自分よりも青年の方へ、親しんでいることだった。

大船を汽車が出たとき、美奈子は何どうにも、堪たまらなくなって、向う側の座席が空いたのを幸に、景色を見るような風をして、其処そこへ席を移した。

母と青年との会話は、もう聞えて来なくなった。が、一度掻き擾された胸は、たやすく元のようには癒いえなかった。

彼女は、こうした苦しみを味わいながら、此この先一月も過さねばならぬかと思うと、どうにも堪らないように思われ出した。そうだ! 箱根へ着いて二三日したら、何か口実を見付けて自分丈け帰って来よう。美奈子は、小さい胸の中でそう決心した。

丁度、そう考えていたときに、

「美奈子さん! 一寸ちょっといらっしゃい!」

と、母から何気なく呼ばれた。美奈子は淋しい心を、じっと抑えながら、元の座席へ帰って行った。顔丈には、強いて微笑びしょうを浮べながら。

「貴女あなた! 青木さんと、青山墓地で、会ったことがあるでしょう!」

母は、美奈子が坐すわるのを待ってそう言った。青年の顔を、チラリと見ると、彼もニコ〱笑っていた。美奈子は、何か秘密にしていたことを母に見付けられたかのように、顔を真赤にした。

「貴女は覚えていないの?」

母は、美奈子をもっとドギマギさせるように言った。

「いゝえ! 覚えていますの。」

美奈子は周章あわててそう言った。

美奈子は、青年が自分を覚えていて呉くれたことが、何よりも嬉うれしかった。

「青木さんの妹さんが、よく貴女を知っていらっしゃるのですって。ねえ! 青木さん。」

夫人は賛成を求めるように、青木の方を振り顧かえった。

「そうです。たしか美奈子さんより二三年下なのですが、お顔なんかよく知っているのです。此間も『あれが荘田しょうださんのお嬢さんだ』と言うものですから一寸驚いたのです。僕の妹を御存じありませんか。」

青年は、初めて親しそうに、美奈子に口を利きいた。

「はい、お顔丈は存じていますの。」

美奈子は、口の裡うちで呟つぶやくように答えた。が、青年から親しく口を利かれて見ると、美奈子の寂しく傷いていた心は、緩和薬バルサムをでも、塗られたようになごんでいた。今まで、恐ろしく寂しく考えられていた避暑地生活に、一道の微光が漂って来たように思われた。

七

それから汽車が、国府津こうづへ着くまで、青年は美奈子に、幾度も言葉をかけた。平素いつも妹を相手にしていると見えて、その言葉には、女性――殊ことに年下の女性に対する親しみが、自然に籠こもっていた。青年の一言々々は、美奈子のこじれかかろうとした胸を春風のように、撫なでさするのであった。美奈子は最初陥っていた不快な感情から、いつの間にか、救われていた。自分が、妙にひがんで、嫉妬しっとに似た感情を持っていたことを、はしたないとさえ思い始めていた。

国府津へ着いたとき、もう美奈子は、また元の処女らしい、感情と表情とを取り返していた。

国府津のプラットフォームに降り立った時、瑠璃子は駆け寄った赤帽の一人に、命令した。

「あの、自動車を用意させておくれ!――そう、一台じゃ、窮屈だから――二台ね、宮の下まで行って呉くれるように。」

赤帽が命を受けて馳かけ去ったときだった。今まで他の赤帽を指図して手荷物を下させていた青年が驚いて瑠璃子の方を振り顧った。

「奥さん! 自動車ですか。」

青年の語気は可なり真面目まじめだった。

「そうです。いけないのですか。」

瑠璃子は、軽く揶揄やゆするように反問した。

「あんなにお願いしてあったのに聴いて下さらないのですか。」

温和おとなしい青年は、可なり当惑したように、暗い表情をした。

瑠璃子は、華やかに笑った。

「あら! まだ、あんなことを気にしていらっしゃるの。妾わたし貴君あなたが冗談に云いっていらしったのかと思ったのですよ。兄さんが、自動車で死なれたからと云って、自動車を恐こわがるなんて、迷信じゃありませんか。男らしくもない。自動車が衝突しょうとつするなんて、一年に一度あるかないかの事件じゃありませんか。そんなことを恐れて、自動車に乗らないなんて。」

夫人は、子供の臆病おくびょうをでも叱しっするように云った。

「でも、奥さん。」青年は、可なり懸命になって云った。「兄が、やっぱり此この国府津から自動車に乗ってやられたのでしょう。それからまだ一月も経たっていないのです。殊に、今度箱根へ行くと云うと、父と母とが可なり止めるのです。で、やっと、説破せっぱして、自動車には乗らないと云う条件で、許しが出たのです。だから、奥さんにも、自動車には乗らないと云ってあれほど申上げて置いたじゃありませんか。」

「お父様やお母様が、そうした御心配をなさるのは、尤もっともと思いますわ。でも貴君迄までが、それに感化かぶれると云うことはないじゃありませんか。縁起などと、云う言葉は、現代人の辞書にはない字ですわね。」

「でも、奥さん! 肉親の者が、命を殞おとした殆ど同じ自動車に、まだ一月も経つか経たないかに乗ると云うことは、縁起だとか何とか云う問題以上ですね。貴女あなただって、もし近しい方が、自動車であゝした奇禍にお逢あいになると、屹度きっと自動車がお嫌いになりますよ。」

「そうかしら。妾は、そうは思いませんわ。だってお兄さんだって妾には可なり近しい方だったのですもの。」

そう云って夫人は淋さみしく笑った。

「でも、いゝじゃありませんか。妾と一緒ですもの。それでもお嫌ですか。」

そう云って、嫣然えんぜんと笑いながら、青年の顔を覗のぞき込む瑠璃子夫人の顔には、女王のような威厳と娼婦しょうふのような媚こびとが、二つながら交っていた。

瑠璃子の前には、小姓か何かのように、力のないらしい青年は、極度の当惑に口を噤つぐんだまま、その秀ひいでた眉まゆを、ふかく顰ひそめていた。背丈こそ高く、容子こそ大人びているが、名門に育った此の青年が対人的にはホンの子供であることが、瑠璃子にも、マザ〱と分った。

ある三角関係

一

その裡うちに、美奈子みなこ達の一行は改札口を出ていた。駅前の広場には、赤帽が命じたらしい自動車が二台、美奈子達の一行を待っていた。

青年は、瑠璃子るりこ夫人の力に、グイ〱引きずられながらも、自動車に乗ることは、可なり気が進んでいないらしかった。

彼は哀願するように、オズ〱と夫人に云いった。

「何どうです? 奥さん。僕お願いなのですが、電車で行って下さることは出来ないでしょうか。兄の惨死ざんしの記憶が、僕にはまだマザ〱と残っているのです。兄を襲った運命が、肉親の僕に、何だか糸を引いているように、不吉な胸騒ぎがするのです。何だか、兄と同じ惨禍に僕が知らず識しらず近づいているような、不安な心持がするのです。」

青年は、可なり一生懸命らしかった。が、瑠璃子は青年の哀願に耳を傾けるような容子も見せなかった。彼女は、意志の弱い男性を、グン〱自分の思い通に、引き廻すことが、彼女の快楽かいらくの一つであるかのように云った。

「まあ! 貴君あなたのように、そうセンチメンタルになると、いやになってしまいますよ。妾わたしは運命だとか胸騒ぎだとか云うような言葉は、大嫌いですよ。妾は徹底した物質主義者マテリアリストです。電車なんか、あんなに混んでいるじゃございませんか。さあ、乗りましょう。いゝじゃございませんの。自動車が崖がけから落おっこちても、死なば諸共もろともですわ。貴君、妾と一緒なら、死んでも本望じゃなくて? おほゝゝゝゝゝ。」

夫人は、奔放にそう云い放つと、青年が何う返事するかも待たないで、美奈子を促うながしながら、一台の自動車に、ズン〱乗ってしまった。

此この時の青年は、可なりみじめだった。瑠璃子夫人の前では、手も足も出ない青年の容子が、美奈子にも、可なりみじめに、寧むしろ気の毒に思われた。

彼は、泣き出しそうな硬こわばった微笑を、強いて作りながら、美奈子達の後から乗った。

「そんなにクヨ〱なさるのなら、連れて行って上げませんよ。」

夫人は、子供をでも叱しかるように、愛撫あいぶの微笑を目元に湛たたえながら云った。

青年は、黙っていた。彼は、夫人の至上命令のため、止やむなく自動車に乗ったものの、内心の不安と苦痛と嫌悪けんおとは、その蒼白あおじろい顔にハッキリと現われていた。臆病おくびょうなどと云うことではなくして、兄の自動車での惨死が、善良な純な彼の心に、自動車に対する、殊ことに箱根の――唱歌にもある嶮けわしい山や、壑たにの間を縫う自動車に対する不安を、植え付けているのであった。

美奈子は、心の中から青年が、気の毒だった。

母が故意に、青年の心持に、逆らっていることが、可なり気の毒に思われた。

自動車が、小田原の町を出はずれた時だった。美奈子は何気ないように云った。

「お母様。湯本から登山電車に乗って御覧にならない。此間の新聞に、日本には始めての登山電車で瑞西スイスの登山鉄道に乗っているような感じがするとか云って、出ていましたのよ。」

美奈子には、優しい母だった。

「そうですね。でも、荷物なんかが邪魔じゃない?」

「荷物は、このまゝ自動車で届けさえすればいいわ。特等室へ乗れば自動車よりも、楽だと思いますわ。」

「そうね。じゃ、乗り換えて見ましょうか。青木さんは、無論御賛成でしょうね。」

瑠璃子は、青年の顔を見て、皮肉に笑った。青年は、黙って苦笑した。が、チラリと美奈子の顔を見た眼には美奈子の少女らしい優しい好意に対する感謝の情が、歴々ありありと動いていた。

二

富士屋ホテルの華麗な家庭部屋の一つの裡うちで、美奈子達の避暑地生活は始まった。

『暮したし木賀底倉に夏三月』それは昔の人々の、夏の箱根に対する憧憬あこがれであった。関所は廃すたれ、街道には草蒸し、交通の要衝としての箱根には、昔の面影はなかったけれども、温泉いでゆは滾々こんこんとして湧わいて尽きなかった。青葉に掩おおわれた谿壑けいがくから吹き起る涼風は、昔ながらに水の如ごとき冷たさを帯びていた。

殊ことに、美奈子達の占めた一室は、ホテルの建物の右の翼の端はずれにあった。開け放たれた窓には、早川の対岸明神岳明星岳の翠微すいびが、手に取るごとく迫っていた。東方、早川の谿谷けいこくが、群峰の間にたゞ一筋、開かれている末遥はるかに、地平線に雲のいぬ晴れた日の折節には、いぶした銀の如く、ほのかに、雲とも付かず空とも付かず、光っている相模灘さがみなだが見えた。

設備の整ったホテル生活に、女中達が不用なため、東京へ帰してからは、美奈子達三人の生活は、もっと密接になった。

美奈子は、最初青年に対して、口も碌々ろくろく利きけなかった。たゞ、折々母を介して簡単な二言三言を交える丈だった。

母が青年と話しているときには、よく自分一人その場を外して、縁側ヴェランダに出て、其処そこにある籐椅子とういすに何時いつまでも何時までも、坐すわっていることが、多かった。

又何かの拍子で、青年とたゞ二人、部屋の中に取り残されると、美奈子はまた、じっとしていることが出来なかった。青年の存在が、息苦しいほどに、身体全体に感ぜられた。

そうした折にも、美奈子は、やっぱりそっと部屋を外して、縁側に出るのが常だった。とにかく、彼女の小さい胸は、息やすらう暇いとまもない水鳥の脚のように動いていた。

彼女に一番楽しいのは、夕暮の散歩かも知れなかった。晩餐ばんさんが終ってから、美奈子は母と青年との三人で、よく散歩した。早川の断崖だんがいに添うた道を、底倉から木賀へ、時には宮城野みやぎのまで、岩に咽むせぶ早川の水声に、夏を忘れながら。

箱根へ来てから、五日ばかり経たったある日の夕方だった。美奈子達が、晩餐が終ってから、食堂を出ようとしたとき、瑠璃子はふとその入口で、その日来たばかりの知合の仏蘭西フランス大使の令嬢と出会った。日本好ずきの此この令嬢は、瑠璃子とは可なり親しい間柄だった。彼女は思いがけない処ところで、瑠璃子に会ったのを可なり欣よろこんだ。瑠璃子は誘われるまゝに、大使令嬢の部屋を訪ねて行った。

美奈子と、青年とは部屋に帰ったものの、手持無沙汰ぶさたに、ボンヤリとして、暮れて行く夕暮の空に対していた。

二人は、心の中では銘々に、瑠璃子の帰るのを待っていた。が、二十分経っても三十分経っても、瑠璃子は帰りそうにも見えなかった。

青年は平素いつものように、散歩に出たいと見え、ステッキを持ったり、帽子を手にしたりしながら、瑠璃子の帰るのを待っているらしかった。が、瑠璃子は却々なかなか帰って来なかった。

青年はやゝ待ちあぐみかけたらしかった。彼はもう明るく電燈でんとうの点ついた部屋の中を、四五歩宛ずつ行ったり来たりしていたが、半なかば独語のように美奈子に云いった。

「お母様は、却々お帰りになりませんね。」

「はい。」

窓に倚よって輝き初めた星の光をボンヤリ見詰めていた美奈子は、低い声で聞えるか聞えないかのように答えた。青年は、自分一人で出て行きたいらしかったが、美奈子を一人ぼっちにして置くことが、気が咎とがめるらしかった。彼は、到頭云い憎くそうに云った。

「美奈子さん。如何いかがです、一緒に散歩をなさいませんか。お母様をお待ちしていても、なかなかお帰りになりそうじゃありませんから。」

青年は、口籠くちごもりながらそう云った。

「えゝっ!」

美奈子は彼女自身の耳を疑っているかのように、つぶらなる目を刮みはった。

三

美奈子に取っては、青年から散歩に誘われたことが、可なり大きな駭おどろきであった。四五日一緒に生活して来たと云いうものの、二人向い合っては、短い会話一つ交したことがなかった。

その相手から、突然散歩に誘われたのであるから、彼女が駭きの目を刮みはったまゝ、わく〱する胸を抑えたまゝ、何とも返事が出来なかったのも、無理ではなかった。

青年は、美奈子の返事が遅いのを、彼女が内心当惑している為ためだと思ったのであろう。彼は、自分の突然な申出の無躾ぶしつけさを恥じるように云った。

「いらっしゃいませんですか。じゃ、僕一人行って来ますから。僕は、日の暮方には、どうも室へやの中にじっとしていられないのです。」

青年は、弁解のように、そう云いながら室を出て行こうとした。

美奈子は、胸の内で、青年の勧誘に、どれほど心を躍らしたか分らなかった。青年とたった二人切りで、散歩すると云うことが、彼女にとってどんな駭きであり欣よろこびであっただろう。彼女は、駭きの余りに、青年の初めの勧誘に、つい返事をし損じたのであった。彼女は、どんなに青年が、もう一度勧めて呉くれるのを待ったであろう。もう一度、勧めてさえ呉れゝば、美奈子は心も空に、青年の後から従ついて行くのであったのだ。

が、青年には美奈子の心は、分らなかった。彼には、美奈子が返事をしないのが、処女らしい恥しさと後退しりごみのためだとより、思われなかった。彼は、最初から誘わなければよかったと思いながら、一寸ちょっと気まずい思いで、部屋を出た。

青年が、部屋を出る後姿を見ると、美奈子は取返しの付かないことをしたように思った。もう再びとは、得がたい黄金の如ごとき機会を、永久に失うような心持がした。その上、青年の勧めに、返事さえしなかったことが、彼女の心を咎とがめ初めた。それに依よって、相手の心を少しでも傷けはしなかったかと思うと、彼女は立っても坐すわっても、いられないような心持がし初めた。

一二分、考えた末、彼女は到頭堪たまらなくなって部屋を出た。長い廊下を急ぎ足に馳かけすぎた。ホテルの玄関で、草履ぞうりを穿はくと、夏の宵闇よいやみの戸外へ、走り出いでた。

玄関前の広場にある噴水のほとりを、透して見たけれども、その人らしい影は見えなかった。彼女は、到頭宮の下の通に出た。

青年の行く道は、分っていた。彼女は、胸を躍らしながら、底倉の方へと急いだ。

温泉いでゆ町の夏の夕は、可なり人通が多かった。その人かと思って近づいて行くと、見知らない若い人であったりした。

が、美奈子が宮の下の賑にぎやかな通を出はずれて、段々淋さみしい崖がけ上の道へ来かゝったとき、丁度道の左側にある理髪店の軒端のきばに佇たたずみながら、若い衆が指している将棋を見ている青年の横顔を見付けたのである。

青年に近づく前に、彼女の小さい胸は、どんなに顫ふるえたか分らなかった。でも、彼女はあり丈の勇気で、近づいて行った。

「茲ここにいらっしたのですか。妾わたくしも、散歩にお伴いたしますわ。母は、帰りそうにもありませんですから。」

彼女は、低い小さい声で、途切れ〱に言った。青年は、駭いて彼女を振り返った。投げた礫つぶてが忘れた頃に激しい水音を立てたように、青年は自分の一寸した勧誘が、少女の心を、こんなに動かしていることに、駭いた。が、それは決して不快な駭きではなかった。

「じゃ、お伴しましょうか。」

そう言いながら、青年は歩き初めた。美奈子は二三尺も間隔を置きながら従った。夢のような幸福な感じが、彼女の胸に充みち満ちて、踏む足も地に付かないように思った。

四

初め、連れ立ってから、半町ばかりの間、二人とも一言も、口を利きかなかった。初めて、若い男性、しかも心の奥深く想おもっている若い男性とたゞ二人、歩いている美奈子の心には、散歩をしていると云いったような、のんきな心持は少しもなかった。胸が絶えず、わく〱して、息は抑おさえても〱弾むのであった。

青年も、黙っていた。たゞ、黙ってグン〱歩いていた。二人は、散歩とは思われないほどの早さで、歩いていた。何処どこへ行くと云う当あてもなしに。

早川の谿谷けいこくの底遥はるかに、岩に激している水は、夕闇ゆうやみを透してほのじろく見えていた。その水から湧わき上って来る涼気は、浴衣ゆかたを着ている美奈子には、肌寒く感ぜられるほどだった。

青年が、何時いつまでも黙っているので、美奈子の心は、妙に不安になった。美奈子は自分が後を追って来たはしたなさを、相手が不愉快に思っているのではないかと、心配し始めた。自分が思い切って後を追って来たことが、軽率ではなかったかと、後悔し初めた。

が、二人が丁度、底倉と木賀との間を流れている、蛇骨川じゃこつがわの橋の上まで、来たときに、青年は初めて口を利いた。立ち止って空を仰ぎながら、

「御覧なさい! 月が、出かゝっています。」

そう云われて、今迄いままで俯うつむきがちに歩いて来た美奈子も、立ち止って空を振り仰いだ。

早川の対岸に、空を劃くぎって聳そびえている、連山の輪廓りんかくを、ほの〲とした月魄つきしろが、くっきりと浮き立たせているのであった。

相模灘さがみなだを、渡って来た月の光が今丁度箱根の山々を、照し初めようとしている所だった。

「まあ! 綺麗きれいですこと。」

美奈子もつい感嘆の声を洩もらした。

「旧の十六日ですね、きっと。いゝ月でしょう。空が、あんなによく晴れています。東京の、濁ったような空と比べると何どうです。これが本当に緑玉エメラルドと云う空ですね。」

青年は、心ゆくように空を見ながら云った。美奈子も、青年の眸ひとみを追うて、大空を見た。夏の宵の箱根の空は、磨いたように澄み切っていた。

「本当に美しい空でございますこと。」

美奈子も、しみ〲とした気持でそう云った。丁度、今までかけられていた沈黙の呪のろいが解かれたように。

「やっぱり空気がいゝのですね。東京の空と違って、塵埃じんあいや煤煙ばいえんがないのですね。」

「山の緑が映っているような空でございますこと。」

美奈子も、つい気軽になってそう云った。

「そうです。本当に山の緑が映っているような空です。」

青年は、美奈子の云った言葉を噛かみしめるように繰り返した。

二人は、また暫しばらく黙って歩いた。が、もう先刻のようなギゴチなさは、取り除かれていた。美しい自然に対する讃美さんびの心持が、二人の間の、心の垣を、ある程度まで取り除のけていた。美奈子は、青年ともっと親しい話が出来ると云う自信を得た。青年も、美奈子に対してある親しみを感じ初めたようだった。

四五尺も離れて歩いていた二人は、何時の間にか、孰どちらからともなく寄添うて歩いていた。

美奈子は、相手に話したいことが、山ほどもあるようで、しかもそれを考えに纏まとめようとすると、何も纏まらなかった。唖が、大切な機会に喋しゃべろうとするように、たゞいら〱焦あせり立っているばかりだった。

「そう〱、貴女あなたに申上げたいことがあったのです。つい、此この間中から機会がなくて。」

青年は、大切なことをでも、話すように言葉を改めた。動き易やすい少女の心は、そんなことにまで烈はげしく波立つのだった。

五

相手がどんなことを云いい出すのかと、美奈子は、胸を躍らしながら待っていた。

青年は、一寸ちょっと云い憎そうに、口籠くちごもっていたが、やっと思い切ったように云った。

「此間中から、お礼を申上げよう申上げようと思いながら、ついその儘ままになっていたのです。此間はどうも有難うございました。」

夕闇ゆうやみに透いて見える彼の白い頬が、思い做なしか少し赤らんでいるように思われた。美奈子も相手から、思いがけもない感謝の言葉を受けて、我にもあらず、顔がほてるように熱くなった。彼女は、青年から礼を云われるような心覚えが、少しもなかったのである。

「まあ! 何でございますの! わたくし!」

美奈子は、当惑の目を刮みはった。

「お忘れになったのですか。お忘れになっているとすれば、僕は愈々いよいよ感謝しなければならぬ必要があるのです。お忘れになりましたですか。来る道で僕があんなに自動車に乗ることを厭いやがったのを。はゝゝゝゝゝ。自分ながら、今から考えると、余り臆病おくびょうになり過ぎていたようです。お母様から後で散々冷かされたのも無理はありません。が、あの時は本当に恐こわかったのです。妙に気になってしまったのです。ベソを掻かきそうな顔をしていたと、後でお母様に冷かされたのですが、本当にあの時は、そんな気持がしていたのです。それに、荘田しょうだ夫人と来ては、極端に意地がわるいのですからね。僕が恐がれば恐がるほど、しつこく苛いじめようとするのですからね。本当にあの時の、貴女あなたのお言葉は地獄に仏だったのです。はゝゝゝ。考えて見れば、僕も余り臆病すぎたな。とんだ所を貴女方に見せてしまった!」

青年は、冗談のように云いながらも、美奈子に対する感謝の心だけは、可なり真面目まじめであるらしかった。

「まあ! あんなことなんか。妾、本当に電車に乗りたかったのでございますわ。」

美奈子は、顔を真赤にしながら、青年の言葉を打ち消した。が、心の中はこみ上げて来る嬉うれしさで一杯だった。

「あの時、僕は本当に貴女の態度に、感心したのです。あの時、露骨に僕の味方をして下さると、僕も恥しいし、お母様も意地になって、あゝうまくは行かなかったのでしょうが、貴女の自然な無邪気な申出には、遉さすがの荘田夫人も、直すぐ賛成しましたからね。僕は、今まで荘田夫人を、女性の中で最も聡明そうめいな人だと思っていましたが、貴女のあの時の態度を見て、世の中には荘田夫人の聡明さとは又別な本当に女性らしい聡明さを持った方があるのを知りました。」

「まあ! あんなことを。妾お恥かしゅうございますわ。」

そう云って、美奈子は本当に浴衣ゆかたの袖そでで顔を掩おおうた。処女らしい嬌羞きょうしゅうが、その身体全体に溢あふれていた。が、彼女の心は、憎からず思っている青年からの讃辞さんじを聴いて、張り裂けるばかりの歓よろこびで躍っていた。

山の端はを離れた月は、此の峡谷に添うている道へも、その朗かな光を投げていた。美奈子はつい二三尺離れて、月光の中に匂におうている青年の白皙はくせきの面を見ることが出来た。青年の黒い眸ひとみが、時々自分の方へ向って輝くのを見た。

二人は、もう一時間前の二人ではなかった。今まで、遠く離れていた二人の心は、今可なり強い速力で、相求め合っているのは確かだった。

二人は、また黙ったまゝ、歩いた。が、前のような固くるしい沈黙ではなかった。黙っていても心持丈は通っていた。

「もっと歩いても、大丈夫ですか。」

木賀を過ぎて宮城野みやぎの近くなったとき、青年は再び沈黙を破った。

「はい。」

美奈子は、慎つつましく答えた。が、心の裡うちでは、『何処どこまでも〱』と云う積つもりであったのだ。

六

木賀から、宮城野まで、六七町の間、早川の谿谷けいこくに沿うた道を歩いている裡うちに、二人は漸ようやく打ち解けて、いろ〱な問を訊きいたり訊かれたりした。

美奈子の処女らしい無邪気な慎しやかさが、青年の心を可なり動かしたようだった。それと同時に青年の上品な素直な優しい態度が、美奈子の心に、深く〱喰い入ってしまった。

宮城野の橋まで来ると、谿たには段々浅くなっている。橋下の水には水車が懸っていて、銀しろがねの月光を砕きながら、コト〱と廻り続けていた。

月は、もう可なり高く上のぼっていた。水のように澄んだ光は、山や水や森や樹木を、しっとり濡ぬらしていた。二人は、夏の夜の清浄しょうじょうな箱根に酔いながら、可なり長い間橋の欄干に寄り添いながら、佇たたずんでいた。

美奈子の心の中には、青年に対する熱情が、刻一刻潮のように満ちわたって来るのだった。今までは、どんな男性に対しても感じたことのないような、信頼と愛慕との心が、胸一杯にヒシ〱とこみ上げて来るのだった。

話は、何時いつの間にか、美奈子の一身の上にも及んでいた。美奈子は到頭、兄の悲しい状態まで話してしまった。

「そう〱、そんな噂うわさは、薄々聴いていましたが、お兄さんがそんなじゃ、貴女あなたには本当の肉親と云いったようなものは、一人もないのと同じですね。」

青年は悵然ちょうぜんとしてそう云った。心の中の同情が、言葉の端々に溢あふれていた。そう云われると、美奈子も、自分の寂しい孤独の身の上が顧みられて、涙ぐましくなる心持を、抑えることが出来なかった。

「母が、本当によくして呉くれますの。実の母のように、実の姉のように、本当によくして呉れますの。でも、やっぱり本当の兄か姉かが一人あれば、どんなに頼もしいか分らないと思いますの。」

美奈子は、つい誰にも云わなかった本心を云ってしまった。

「御尤ごもっともです。」青年は可なり感動したように答えた。「僕なども、兄弟の愛などは、今までそんなに感じなかったのですが、兄を不慮に失ってから、肉親と云うものの尊さが、分ったように思うのです。でも、貴女なんか……」そう云って、青年は一寸ちょっと云い淀よどんだが、

「今に御結婚でもなされば、今のような寂しさは、自然無くなるだろうと思います。」

「あら、あんなことを、結婚なんて、まだ考えて見たこともございませんわ。」

美奈子は、恥かしそうに周章あわてて打ち消した。

「じゃ、当分御結婚はなさらない訳ですね。」

青年は、何故なぜだか執拗しつように再びそう訊いた。

「まだ、本当に考えて見たこともございませんの。」

美奈子は、益々ますます狼狽ろうばいしながらも、ハッキリと口では、打ち消した。が、青年が何どうしてそうした問題を繰り返して訊くのかと思うと、彼女の顔は焼けるように熱くなった。胸が何とも云えず、わくわくした。彼女は、相手が何うして自分の結婚をそんなに気にするのか分らなかった。が、彼女がある原因を想像したとき、彼女の頭は狂うように熱した。

彼女は、熱にでも浮されたように、平生の慎みも忘れて云った。

「結婚なんて申しましても、妾わたくしのようなものと、妾のような、何の取りどころもないようなものと。」

彼女の声は、恥かしさに顫ふるえていた。彼女の身体も恥かしさに顫えていた。

七

美奈子の声は、恥かしさに打ち顫ふるえていたけれども、青年は可なり落着いていた。余裕よゆうのある声だった。

「貴女あなたなんかが、そんな謙遜けんそんをなさっては困りますね。貴女のような方が結婚の資格がないとすれば、誰が、どんな女性が結婚の資格があるでしょう。貴女ほど――そう貴女ほどの……」

そう云いいかけて、青年は口を噤つぐんでしまった。が、口の中では、美奈子の慎つつましさや美しさに対する讃美さんびの言葉を、噛かみ潰つぶしたのに違いなかった。

美奈子は、青年が此この次に、何を言い出すかと云う期待で、身体全体が焼けるようであった。心が波濤はとうのように動揺した。小説で読んだ若い男女の恋の場ラヴシーンが、熱病患者の見る幻覚のように、頭の中に頻しきりに浮んで来た。

が、美奈子のもしやと云う期待を裏切るように、青年は黙っていた。月の光に透いて見える白い頬が、やゝ興奮しているようには見えるけれども、美奈子の半分も熱していないことは明かだった。

美奈子も裏切られたように、かすかな失望を感じながら、黙ってしまった。

沈黙が五分ばかりも続いた。

「もう、そろ〱帰りましょうか。まるで秋のような冷気を感じますね。着物が、しっとりして来たような気がします。」

青年は、そう言いながら欄干らんかんを離れた。青年の態度は、平生の通りだった。優しいけれども、冷静だった。

美奈子は夢から覚めたように、続いて欄干を離れた。自分だけが、興奮したことが、恥しくて堪たまらなかった。自分の独合点ひとりがてんの興奮を、相手が気付かなかったかと思うと、恥しさで地の中へでも隠れたいような気がした。

が、丁度二三町も帰りかけたときだった。青年は思い出したように訊きいた。

「お母様は何時いつまで、あゝして未亡人でいらっしゃるのでしょうか。」

青年の問は、美奈子が何と答えてよいか分らないほど、唐突だしぬけだった。彼女は、一寸ちょっと答に窮した。

「いや、実はこんな噂うわさがあるのです。荘田夫人は、本当はまだ処女なのだ。そして、将来は屹度きっと再婚せられる。屹度再婚せられる。僕の死んだ兄などは、夫人の口から直接聴いたらしいのです。が、世間にはいろ〱な噂があるものですから、貴女にでも伺って見れば本当の事が分りゃしないかと思ったのです。」

「妾わたくし、ちっとも存じませんわ。」

美奈子はそう答えるより外はなかった。

「こんなことを言っている者もあるのです。夫人が結婚しないのは、荘田家の令嬢に対して母としての責任を尽したいからなのだ。だから、令嬢が結婚すれば、夫人も当然再婚せられるだろう。こう言っている者もあるのです。」

青年は、ホンの噂話のようにそう言った。が、青年の言葉を、噛かみしめている中うちに、美奈子は傍の渓間たにまへでも突落されたような烈はげしい打撃を感ぜずにはいられなかった。

青年が、自分の結婚のことなどを、訊いた原因が、今ハッキリと分った。自分の結婚などは、青年にはどうでもよかったのだ。たゞ、自分が結婚した後に起る筈はずの、母の再婚を確めるために、自分の結婚を、口にしたのに過ぎないのだ。それとは知らずに、興奮した自分が、恥しくて恥しくて堪らなかった。彼女の処女らしい興奮と羞恥しゅうちとは、物の見事に裏切られてしまったのだ。

彼女は、照っている月が、忽たちまち暗くなってしまったような思おもいがした。青年と並んで歩くことが堪らなかった。彼女の幸福の夢は、忽ちにして恐ろしい悪夢と変じていた。

彼女はそれでも、砕かれた心をやっと纏まとめながら返事だけした。

「妾、母のことはちっとも存じませんわ。」

彼女の低い声には、綿々たる恨うらみが籠こもっていた。

夜の密語

一

青年との散歩が、悲しい幻滅げんめつに終ってから、避暑地生活は、美奈子みなこに取って、喰わねばならぬ苦い苦い韮にらになった。

開きかけた蕾つぼみが、そうだ! 周囲の暖かさを信じて開きかけた蕾が、周囲から裏切られて思いがけない寒気に逢あったように、傷つき易やすい少女の心は、深い〱傷を負ってしまった。

それでも、温和おとなしい彼女は、東京へ一人で帰るとは云わなかった。自分ばかり、何の理由も示さずに、先きへ帰ることなどは、温和しい彼女には思いも及ばないことだった。

彼女は止とどまって、而そうして忍ぶべく決心した。彼女の苦しい辛つらい境遇に堪たえようと決心した。

青年の心が、美奈子にハッキリと解わかってからは、彼女は同じ部屋に住みながら、自分一人いつも片隅にかくれるような生活をした。

青年と母とが、向い合っているときなどは、彼女は、そっと席を外した。その人から、想おもわれていない以上、せめてその人の恋の邪魔になるまいと思う、美奈子の心は悲しかった。

そう気が付いて見ると、青年の母に対する眸ひとみが、日一日輝きを増して来るのが、美奈子にもありありと判わかった。母の一顰一笑いっぴんいっしょうに、青年が欣よろこんだり悲しんだりすることが、美奈子にもありありと判った。

が、それが判れば判るほど、美奈子は悲しかった。寂しかった。苦しかった。

一人の男に、二人の女、或あるいは一人の女に、二人の男、恋愛に於おける三角関係の悲劇は、昔から今まで、数限りもなく、人生に演ぜられたかも判らない。が、瑠璃子るりこと青年と美奈子との三人が作る三角関係では、美奈子丈が一番苦しかった。可憐かれんな優しい美奈子丈が苦しんでいた。

「美奈さん! 何どうかしたのじゃないの?」

美奈子が、黙ったまゝ、露台バルコニーの欄干に、長く長く倚よっているときなど、母は心配そうに、やさしく訊たずねた。が、そんなとき、

「いゝえ! どうもしないの。」

寂しく笑いながら答える、小さい胸の内に、堪えられない、苦しみがあることは、明敏な瑠璃子にさえ判らなかった。

青年も、美奈子が、――一度あんなに彼に親しくした美奈子が、また掌てのひらを飜かえすように、急に再び疎々うとうとしくなったことが、彼の責任であることに、彼も気が付いていなかった。

夕暮の楽しみにしていた散歩にも、もう美奈子は楽しんでは、行かなかった。少くとも、青年は美奈子が同行することを、厭いやがってはいないまでも、決して欣んではいないだろうと思うと、彼女はいつも二の足を踏んだ。が、そんなとき、母はどうしても、美奈子一人残しては行かなかった。彼女が二度も断ると母は屹度きっと云った。

「じゃ、妾達わたしたちも行くのを廃よしましょうね。」

そう云われると、美奈子も不承々々に、承諾した。

「まあ! そんなに、おっしゃるのなら参りますわ。」

美奈子は口丈は機嫌よく云って、重い〱鉛のような心を、持ちながら、母の後から、従ついて行くのだった。

が、ある晩、それは丁度箱根へ来てから、半月も経たった頃だが、美奈子の心は、何時いつになく滅入めいってしまっていた。

母が、どんなに云っても、美奈子は一緒に出る気にはならなかった。その上、平素いつもは、青年も口先丈では、母と一緒に勧めて呉くれるのが、その晩に限って、たった一言も勧めて呉れなかった。

「妾わたくし、今夜はお友達に手紙を書こうと思っていますの。」

美奈子は、到頭そんな口実を考えた。

「まあ! 手紙なんか、明日の朝書くといゝわ。ね、いらっしゃい。二人丈じゃつまらないのですもの! ねえ、青木さん!」

そう云われて、青年は不服そうに肯いた。青年のそうした表情を見ると、美奈子は何うしても断ろうと決心した。

二

「でも、妾わたくし、今晩だけは失礼させて、いたゞきますわ。一人でゆっくり、お手紙をかきたいと思いますの。」

美奈子が、可なり思い切って、断るのを見ると、母はさまでとは、云いい兼ねたらしかった。

「じゃ、美奈さんを残して置きましょうか。」

母は青年に相談するように云った。

そう聴いた青年の面に、ある喜悦きえつの表情が、浮んでいるのが、美奈子は気が付かずにはいられなかった。その表情が、美奈子の心を、むごたらしく傷けてしまった。

「じゃ、美奈さん! 一寸ちょっと行って来ますわ。寂しくない?」

母は、平素いつものように、優しい母だった。

「いゝえ、大丈夫ですわ。」

口丈は、元気らしく答えたが、彼女の心には、口とは丸切り反対に、大きい大きい寂しさが、暗い翼を拡ひろげて、一杯にわだかまっていたのだ。

母と青年との姿が、廊下の端はずれに消えたとき、扉ドアの所に立って見送っていた美奈子は、自分の部屋へ駈かけ込むと、床に崩れるように、蹲うずくまって、安楽椅子いすの蒲団クションに顔を埋めたまゝ、暫しばらくは顔を上げなかった。熱い〱涙が、止め度もなく流れた。自分丈けが、此この世の中に、生き甲斐がいのないみじめな人間のように、思われた。誰からも見捨てられたと云ったような寂しさが、心の隅々を掻かき乱した。

友達にでも、手紙を書けば、少しでも寂しさが紛まぎらせるかと思って、机の前に坐すわって見たけれども纏まとまった文句は、一行だって、ペンの先には、出て来なかった。母と青年とが、いつもの散歩路みちを、寄り添いながら、親しそうに歩いている姿だけが、頭の中にこびり付いて離れなかった。

その中に、寂しさと、彼女自身には気が付いていなかったが、人間の心に免れがたい嫉妬しっととが、彼女を立っても坐っても、いられないように、苛さいなみ初めていた。彼女は、高い山の頂きにでも立って、思うさま泣きたかった。彼女は、到頭じっとしてはいられないような、いら〱した気持になっていた。彼女は、フラ〱と自分の部屋を出た。的あてもなしに、戸外に出たかった。暗い道を何処どこまでも何処までも、歩いて行きたいような心持になっていた。が、母に対して、散歩に出ないと云った以上、ホテルの外へ出ることは出来なかった。彼女は、ふとホテルの裏庭へ、出て見ようと思った。其処そこは可なり広い庭園で、昼ならば、遥はるかに相模灘さがみなだを見渡す美しい眺望ちょうぼうを持っていた。

美奈子が、廊下から、そっとその庭へ降り立ったとき、西洋人の夫妻が、腕を組合いながら、芝生の小路を、逍遥しょうようしている外は、人影は更に見えなかった。

美奈子は、ホテルの部屋々々からの灯影ほかげで、明るく照し出された明るい方を避けて出来る丈、庭の奥の闇やみの方へと進んでいた。

樹木の茂った蔭かげにある椅子ベンチを、探し当てゝ、美奈子は腰を降した。

部屋々々の窓から洩もれる灯影も、茲ここまでは届いて来なかった。周囲は人里離れた山林のように、静かだった。止宿している西洋の婦人の手すさびらしい、ヴァイオリンの弾奏が、ほのかにほのかに聞えて来る外は、人声も聞えて来なかった。

闇の中に、たった一人坐っていると、いら〱した、寂しみも、だん〱落着いて来るように思った。殊ことにヴァイオリンのほのかな音が、彼女の傷きずついた胸を、撫なでるように、かすかにかすかに聞えて来るのだった。それに、耳を澄している中に、彼女の心持は、だん〱和らいで行った。

母が帰らない中に、早く帰っていなければならぬと思いながらも、美奈子は腰を上げかねた。三十分、四十分、一時間近くも、美奈子は、其処に坐り続けていた。その時、彼女は、ふと近づいて来る人の足音を聴いたのである。

三

美奈子は、最初その足音をあまり気にかけなかった。先刻さっきちらりと見た西洋人の夫妻たちが通り過ぎているのだろうと思った。

が、その足音は不思議に、だん〱近づいて来た。二言三言、話声さえ聞えて来た。それはまさしく、外国語でなく日本語であった。しかも、何だか聞きなれたような声だった。彼女は『オヤ!』と思いながら、振り返って闇やみの中を透すかして見た。

闇の中に、人影が動いた。一人でなく二人連だった。二人とも、白い浴衣ゆかたを着ているために、闇の中でも、割合ハッキリと見えた。美奈子は、じっと二人が近よって来るのを見詰めていた。十秒、二十秒、その裡うちにそれが何人なんぴとであるかが分ると、彼女は全身に、水を浴びせられたように、ゾッとなった。それは、夜の目にも紛れなく青年と母の瑠璃子るりことであったからである。而しかも、二人は、彼等が恋人同志であることを、明かに示すように、身体が触れ合わんばかりに、寄り添うて歩いているのである。闇の中で、しかとは判らないが、母の左の手と、青年の右の手とが、堅く握り合せられているように、美奈子には感ぜられた。

美奈子は、恐ろしいものを見たように、身体がゾク〱と顫ふるえた。彼女は、地が口を開いて、自分の身体を此このまゝ呑のんで呉くれゝばいゝとさえ思った。悲鳴を揚げながら、逃げ出したいような気持だった。が、身体を動かすと母達に気付かれはしないかと思うと、彼女は、動くことさえ出来なかった。彼女は、そのまゝ椅子に凍こおり付いたように、身体を小さくしながら、息を潜めて、母達が行き過ぎるのを待っていようと思った。が、あゝそれが何と云いう悪魔の悪戯いたずらだろう! 母達は、だん〱美奈子のいる方へ歩み寄って来るのであった。彼女の心は当惑のために張り裂けるようだった。母と青年とが、若もし自分を見付けたらと思うと、彼女の身体全体は、益々ますます顫え立って来た。

が、母と青年とは、闇の中の樹蔭こかげの椅子ベンチに、美奈子がたった一人蹲うずくまっていようとは、夢にも思わないと見え、美奈子のいる方へ、益々近づいて来た。美奈子は、絶体絶命だった。母達が気の付かない内に、自分の方から声をかけようと思ったが、声が咽喉にからんでしまって、何どうしても出て来なかった。が、美奈子の当惑が、最後の所まで行った時だった。今まで、美奈子の方へ真直まっすぐに進んで来ていた母達は、つと右の方へ外れたかと思うと、其処そこに茂っている樹木の向う側に、樹木を隔てゝ美奈子とは、背中合せの椅子に、腰を下してしまった。

美奈子は、苦しい境遇から、一歩を逃れてホッと一息した。が、また直すぐ、母と青年とが、話し初める会話を、何うしても立聞かねばならぬかと思うと、彼女はまた新しい当惑に陥おちていた。彼女は母と青年とが、話し初めることを聞きたくなかった。それは、彼女にとって余りに恐ろしいことだった。殊ことに、母と青年とが、ああまで寄り添うて歩いているところを見ると、それが世間並の話でないことは、余りに判りすぎた。彼女は、自分の母の秘密を知りたくなかった。今まで、信頼し愛している母の秘密を知りたくなかった。美奈子は、自分の眼が直ぐ盲になり、耳が直ぐ聾ろうすることを、どれほど望んでいたか判らなかった。若し、それが出来なければ、一目散に逃げたかった。若し、それも出来なかったら、両手で二つの耳を堅く〱掩おおうていたかった。

が、彼女がどんなに聴くことを、厭いやがっても、聞えて来るものは、聞えて来ずには、いなかったのである。夜の静かなる闇には、彼等の話声を妨げる少しの物音もなかったのである。

四

夜は静だった。母と青年との話声は、二間ばかり隔っていたけれども、手に取るごとく美奈子の耳――その話声を、毒のように嫌っている美奈子の耳に、ハッキリと聞えて来た。

「稔みのるさん! 一体何なの? 改まって、話したいことがあるなんて、妾わたしをわざ〱こんな暗い処ところへ連れて来て?」

そう言っている母の言葉や、アクセントは、平生いつもの母とは思えないほど、下卑げびていて娼婦しょうふか何かのように艶なまめかしかった。而しかも、美奈子のいるところでは、一度も呼んだことのない青年の名を、馴々なれなれしく呼んでいるのだった。こうした母の言葉を聞いたとき、美奈子の心は、止とどめの一太刀を受けたと云いってもよかった。今まで、あんなに信頼していた母にまで裏切られた寂しさと不快とが、彼女の心を滅茶々々めちゃめちゃに引き裂いた。

瑠璃子に、そう言われても、青年は却々なかなか話し出そうとはしなかった。沈黙が、二三分間彼等の間に在った。

母は、もどかしげに青年を促した。

「早く、おっしゃいよ! 何をそんなに考えていらっしゃるの。早く帰らないといけませんわ。美奈子が、淋さみしがっているのですもの。歩きながらでは、話せないなんて、一体どんな話なの! 早く言って御覧なさい! まあ、自烈じれったい人ですこと。」

美奈子は、自分の名を呼ばれて、ヒヤリとした。それと同時に、母の言葉が、蓮葉はすはに乱暴なのを聴いて、益々ますます心が暗くなった。

青年は、それでも却々話し出そうとはしなかった。が、母の気持が可なり浮いているのにも拘わらず、青年が一生懸命であることが、美奈子にも、それとなく感ぜられた。

「さあ! 早くおっしゃいよ。一体何の話なの?」

母は、子供をでも、すかすように、なまめいた口調で、三度みたび催促さいそくした。

「じゃ、申上げますが、いつものように、はぐらかして下さっては困りますよ。僕は真面目まじめで申しあげるのです。」

青年の口調は、可なり重々しい口調だった。一生懸命な態度が、美奈子にさえ、アリ〱と感ぜられた。

「まあ! 憎らしい。妾が、何時いつ貴君あなたを、はぐらかしたのです。厭いやな稔さんだこと。何時だって、貴方あなたのおっしゃることは、真面目で聴いているではありませんか。」

そう言っている母の言葉に、娼婦のような技巧があることが、美奈子にも感ぜられた。

「貴女あなたは、何時もそうなのです。貴女は、何時も僕にそうした態度しか見せて下さらないのです。僕が一生懸命に言うことを、何時もそんな風にはぐらかしてしまうのです。」

青年は、恨みがましくそう言った。

「まあ、そんなに怒らなくってもいゝわ。じゃ、妾貴君の好きなように、聴いて上げるから言って御覧なさい!」

母は、子供を操るように言った。

母の態度は、心にもない立聞をしている美奈子にさえ恥しかった。

青年は、また黙ってしまった。

「さあ! 早くおっしゃいよ。妾こんなに待っているのよ。」

母が、青年の頬近く口を寄せて、促うながしている有様が、美奈子にも直すぐ感ぜられた。

「瑠璃子さん! 貴女には、僕の今申し上げようと思っていることが、大抵お解わかりになってはいませんか。」

青年は、到頭必死な声でそう云った。美奈子は、予期したものを、到頭聴いたように思うと、今までの緊張が緩ゆるむのと同時に、暗い絶望の気持が、心の裡うち一杯になった。それでも彼女は母が、一体どう答えるかと、じっと耳を澄していた。

五

瑠璃子は青年をじらすように、落着いた言葉で云いった。

「解わかっているかって? 何がです。」

ある空々しさが、美奈子にさえ感ぜられた。瑠璃子の言葉を聴くと、青年は、可なり激してしまった。烈はげしい熱情が、彼の言葉を、顫ふるわした。

「お解りになりませんか。お解りにならないと云うのですか。僕の心持、僕の貴女あなたに対する心持が、僕が貴女をこんなに慕っている心持が。」

青年は、もどかしげに、叫ぶように云うのだった。陰で聞いている美奈子は、胸を発矢はっしと打たれたように思った。青年の本当の心持ちが、自分が心私ひそかに思っていた青年の心が、母の方へ向っていることを知ると、彼女は死刑囚が、その最後の判決を聴いた時のように、身体も心も、ブル〱顫えるのを、抑えることが出来なかった。が、母が青年の言葉に何と答えるかが、彼女には、もっと大事なことだった。彼女は、砕かれた胸を抑えて、母が何と云い出すかを、一心に耳を澄せていた。

が、母は容易に返事をしなかった。母が、返事をしない内に、青年の方が急せき立ってしまった。

「お解りになりませんか。僕の心持が、お解りにならない筈はないと思うのですが、僕がどんなに貴女を思っているか。貴女のためには、何物をも犠牲にしようと思っている僕の心持を。」

青年は、必死に母に迫っているらしかった。顫える声が、変に途切れて、傍聞わきぎきしている美奈子までが、胸に迫るような声だった。

が、母は平素いつものように落着いた声で云った。

「解っていますわ。」

母の冷静な答に、青年が満足していないことは明かだった。

「解っています。そうです、貴女は何時いつでも、そう云われるのです。僕が、何時か貴女に申上げたときにも、貴女は解っていると仰おっしゃったのです。が、貴女が解っていると仰しゃるのと、解っていないと仰しゃるのと、何処どこが違うのです。恐らく、貴女は、貴女の周囲に集まっている多くの男性に、皆一様に『解っている』『解っている』と仰しゃっているのではありませんか。『解っている』程度のお返事なら、お返事していたゞかなくても、同じ事です。解っているのなら、本当に解っているように、していたゞきたいと思うのです。」

青年が、一句一語に、興奮して行く有様が、目を閉じて、じっと聴きすましている美奈子にさえ、アリ〱と感ぜられた。

が、母は、何と云う冷静さだろうと美奈子でさえ、青年の言葉を、陰で聴いている美奈子でさえ、胸が裂けるような息苦しさを感じているのに、面と向って聴いている当人の母は、息一つ弾はずませてもいないのだった。青年が、興奮すればするほど、興奮して行く有様を、じっと楽しんででもいるかのように、落着いている母だった。

「解っているようにするなんて? 何どうすればいゝの?」

言葉丈はなまめかしく馴々なれなれしかった。

母の取り済した言葉を、聴くと、青年は火のように激してしまった。

「何うすればいゝの? なんて、そんなことを、貴女は僕にお聞きになるのですか。」青年は、恨めし気に云った。「貴女は僕を、最初から、僕を玩具おもちゃにしていらっしゃるのですか。僕の感情を、最初から弄もてあそんでいらっしゃるのですか。僕が折に触れ、事に臨んで、貴女に申上げたことを、貴女は何と聴いていらっしゃるのです。」

青年の若い熱情が――、恋の炎が、今烈々と迸ほとばしっているのであった。

六

青年が、段々激して来るのを、聴いていると、美奈子はもう此この上、隠れて聴いているのが、堪たまらなかった。

彼女の小さい胸は、いろ〱な烈はげしい感情で、張り裂けるように一杯だった。青年の心を知ったための大きい絶望もあった、が、それと同時に、青年の烈しい恋に対する優しい同情もあった。母の不誠意な、薄情な態度を悲しむ心も交っていた。どの一つの感情でも、彼女の心を底から覆くつがえすのに十分だった。

その上、他人の秘密、他人ひとの一生懸命な秘密を、窃ぬすみ聴きしていることが、一番彼女の心を苦しめた。彼女は、もう一刻も、坐すわっていることが出来なかった。その椅子ベンチが針の蓆むしろか、何かでもあるように、幾度も腰を上げようとした。が、距離は、わずかに二間位しかない。草を踏む音でも聞えるかも知れない。殊ことに樹木の蔭かげを離れると、如何いかなる機はずみで母達の眼に触れるかも知れない。母達が、自分がいたことに気が付いたときの、駭おどろきと当惑とを思うと、美奈子の立ち上ろうとする足は、そのまゝすくんでしまうのだった。

美奈子が、退のっ引ぴきならぬ境遇に苦しんでいることを、夢にも知らない瑠璃子は、前のように落着いた声で静に云いった。

「だから、解わかっていると云っているのじゃないの。貴君あなたのお心は、よく解っていると云っているのじゃないの。」

青年の声は、前よりももっと迫っていた。

「本当ですか。本当ですか。本心でそう仰おっしゃっているのですか。まさか、口先丈で云っていらっしゃるのじゃありますまいね。」

青年が、そう訊きき詰めても母は、黙っていた。青年は、愈々いよいよ焦あせった。

「本心ならば、証拠を見せて下さい。貴女あなたのお言葉丈けは、もう幾度聴いたか分らない。貴女は、それと同じような言葉を、僕に幾度繰返したか分らない。僕は言葉丈ではなく、証拠を見せて貰もらいたいのです。本心ならば、本心らしい証拠を見せていたゞきたいのです。」

青年が、焦あせっても激しても、動かない母だった。

「証拠なんて! 妾わたくしの言葉を信じて下さらなければ、それまでよ。お女郎じゃあるまいし、まさか、起請きしょうを書くわけにも行かないじゃないの。」

母の貴婦人レディらしからぬ言葉遣いが、美奈子の心を傷いたましめた。

「証拠と云って、品物を下さいと云うのじゃありません。僕が、先日云ったことに、ハッキリと返事をしていたゞきたいのです。たゞ『待っていろ』ばかりじゃ僕はもう堪らないのです。」

「先日云ったことって、何?」

母は、相手を益々ますますじらすように、しかもなまめかしい口調で云った。

「あれを、お忘れになったのですか、貴女は?」

青年は憤然ふんぜんとしたらしかった。

「あんな重大なことを、僕があんなに一生懸命にお願いしたのを、貴女はもう忘れて、いらっしゃるのですか。じゃ、繰り返してもう一度、申上げましょう。瑠璃子さん、貴女は僕と結婚して下さいませんか。」

結婚と云う思いがけない言葉を聴くと、美奈子は、最後の打撃を受けたように思った。青年の母に対する決心が、これほど堅く進んでいようとは夢にも思っていないことだった。

「あのお話! あれには貴君、ハッキリとお答えしてあるじゃないの。」

母は、青年の必死な言葉を軽く受け流すように答えた。

「あのお答えには、もう満足出来なくなったのです。」

母のハッキリした答えと云うのは、どんな内容だろうと思うと、美奈子は悪い〱と思いながらじっと耳を澄まさずにはいられなかった。

七

「あんなお答には、僕はもう満足出来なくなったのです。あんな生ぬるいお答には、もう満足出来なくなったのです。貴女あなたは、美奈子さんが、結婚してしまうまで、この返事は待って呉くれと仰おっしゃる。が、貴女のお心丈をお定きめになるのなら、美奈子さんの結婚などは、何の関係もないことではありませんか。僕に約束をして下さって、たゞ、時期を待てと仰しゃるのなら僕は何時いつまでも待ちます。五年でも十年でも、二十年でも、否いな生涯しょうがい待ち続けても僕は悔いないつもりです。貴女のはたゞ『返事を待て』と仰しゃるのです、お返事丈ならば、美奈子さんが結婚しようがしまいが、それとは少しも関係なしに、貴女のお心一つで、何どうともお定めになることが、出来ることじゃありませんか。僕に約束さえして下されば、僕は欣よろこんで五年でも七年でも待っている積りです。」

青年の声は、だん〱低くなって来た。が、その声に含まれている熱情は、だん〱高くなって行くらしかった。しんみりとした調子の中に、人の心に触れる力が籠こもっていた。自分の名が、青年の口に上る度に、美奈子は胸をとゞろかせながら、息を潜ひそめて聞いていた。

母が何とも答えないので、青年は又言葉を続けた。

「返事を待て、返事を待って呉れと、仰しゃる。が、その返事がいゝ返事に定まっていれば、五年七年でも待ちます。が、もし五年も七年も待って、その返事が悪い返事だったら、一体何どうなるのです。僕は青春の感情を、貴女に散々弄もてあそばれて、揚句あげくの端はてに、突き離されることになるのじゃありませんか。貴女は、僕を何どちらとも付かない迷いの裡うちに、釣って置いて、何時までも何時までも、僕の感情を弄ぼうとするのではありませんか。僕は、貴女のなさることから考えると、そう思うより外はないのです。」

「まさか、妾わたしそんな悪人ではないわ。貴君あなたのお心は、十分お受けしているのよ。でも、結婚となると妾考えるわ。一度あゝ云いう恐ろしい結婚をしているのでしょう。妾結婚となると、何か恐ろしい淵ふちの前にでも立っているようで、足が竦すくんでしまうのです。無論、美奈子が結婚してしまえば、妾の責任は無くなってしまうのよ。結婚しようと思えば、出来ないことはないわ。が、その時になって、本当に結婚したいと思うか、したくないか、今の妾には分らないのよ。」

母は、初めて本心の一部を打ち明けたように云った。

「が、それは貴女の結婚に対するお考えです。僕が訊ききたいと思うのは、僕に対する貴女のお考えです。貴女が結婚するかしないかよりも、貴女が僕と結婚するかしないかが、僕には大問題なのです。言葉を換えて云えば、僕を、結婚してもいゝと思うほど、愛していて下さるか何うかが、僕には大問題なのです。」

青年の言葉は、一句々々一生懸命だった。

「つまり、こう云うことをお尋ねしたのです。貴女が、もし、将来結婚なさらないで終るのなら、是非もないことです。が、もし結婚なさるならば、何人なんぴとを措おいても、僕と結婚して下さるかどうかを訊いているのです。時期などは、何時でもいゝ、五年後でも、十年後でも、介意かまわないのです、たゞ、若もし貴女が結婚しようと決心なさったときに、夫として僕を選んで下さるか何うかをお訊たずねしているのです。」

青年の静かな言葉の裡には、彼の熾烈しれつな恋が、火花を発していると云ってもよかった。

事理の徹とおった退引のっぴきならぬ青年の問に、母が何と答えるか、美奈子は胸を顫ふるわしながら待っていた。

母は、暫しばらく返事をしなかった。夜は、もう十時に近かった。やゝ欠けた月が、箱根の山々に、青白い夢のような光を落していた。

約束の夜に

一

「そのお返事は、出来ないことはないと思うのです。否いなか応か、孰どちらかの返事をして下さればいゝのです。貴女あなたが、今まで僕に示して下さったいろ〱な愛の表情に、たゞ裏書をさえして下さればいゝのです。貴女の将来のお心を訊きいているのではないのです。現在の、貴女のお心を訊いているのです。現在の、貴女自身のお心が、貴女に分らない筈はずはないと思うのです。たゞ、現在の貴女のお心をハッキリお返事して下さればいゝのです。将来、結婚と云いう問題が貴女のお考えの裡うちに起ったときには、僕を夫として選ぼうと現在思っているかどうかを訊かしていたゞきたいのです。」

青年の問には、ハッキリとした条理が立っていた。詭弁きべんを弄ろうしがちな瑠璃子るりこにも、もう云い逃れる術すべは、ないように見えた。

「妾わたし、貴君あなたを愛していることは愛しているわ。妾が、此この間中から云っていることは、決して嘘うそではないわ。が、貴君を愛していると云うことは、必ずしも貴君と結婚したいと云うことを意味していないわ。けれど、貴君に、結婚したいと云う希望が、本当におありになるのなら、妾は又別に考えて見たいと思うの。」

瑠璃子の、少しも熱しない返事を訊くと、青年は又激してしまった。

「考えて見るなんて、貴女のそう云うお返事はもう沢山です。『考えて見る』『解わかっている』そう云う一時逃れのお返事には、もうあき〱しました。僕は、全か若もしくは無を欲するのです。徹底的なお返事が欲しいのです。貴女が、若し『否』と仰おっしゃれば、僕も男です。失恋の苦しみと男らしく戦って、貴女に決して未練がましいことは云わないつもりです、僕は貴女に、承諾しょうだくして呉くれとは云わないのです。孰どちらでも、ハッキリとしたお返事が欲しいのです。こんな中途半端はんぱな気持の中うちに、いつまでも苦しんでいたくないのです。僕は、貴女の全部を掴つかみたいのです。でなければ僕はむしろ、貴女の全部を失いたいのです、恋は暴君です、相手の占有を望んで止やまないのです。」

青年は、男らしく強くは云っているものの、彼が瑠璃子に対して、どんなに微弱であるかは、その顫ふるえている語気で明かに分った。

「一体考えて見るなんて、何時いつまで考えて御覧になるのです。五六年も考えて見るお積つもりなのですか。」

青年は、恨うらみがましくやゝ皮肉らしく、そう云った。

「いゝえ。明後日まで。」

瑠璃子の答は、一生懸命に突っ掛って来た相手を、軽く外したような意地悪さと軽快さとを持っていた。

青年は、手軽く外されたために、ムッとして黙ったらしかったが、然しかし、答そのものは、手答があるので、彼は暫しばらくしてから、口を開いた。

「明後日! 本当に明後日までですか。」

「嘘は云いませんわ。」

瑠璃子の返事は、殊勝だった。

「じゃ、そのお返事は何時聴けるのです。」

青年の言葉に、やっと嬉うれしそうな響きがあった。

「明後日の晩ですわ。」

瑠璃子の本心は知らず、言葉丈けにはある誠意があった。

「明後日の晩、やっぱり二人切りで、散歩に出て下さいますか。貴女は、何時でも、美奈子みなこさんをお誘いになる。美奈子さんが、進まれない時でも、貴女は美奈子さんを、いろ〱勧すすめてお連れになる。僕がどんなに貴女と二人切の時間を持ちたいと思っている時でも、貴女は美奈子さんを無理にお勧めになるのですもの。」

聴いている美奈子は、もう立つ瀬がなかった。彼女の頬には、涙がほろ〱と流れ出した。

二

美奈子さんを連れ過ぎると、青年が母に対して恨んでいるのを聴くと、もう美奈子は、一刻も辛抱が出来なかった。口惜しさと、恨うらめしさと、絶望との涙が、止めどもなく頬を伝って流れ落ちた。自分が、心私ひそかに想おもいを寄せていた青年から、邪魔物扱いされていたことは、彼女の魂を蹂ふみ躙にじってしまうのに、十分だった。もう一刻も、止とどまっていることは出来なかった。逃げ出すために、母達に、見付けられようが、見付けられまいが、もうそんなことは問題ではなかった。そんなことは、もう気にならないほど、彼女の心は狂っていた。彼女は、どんなことがあろうとも、もう一秒も止まっていることは出来なかった。

彼女は、それでも物音を立てないように、そっと椅子から、立ち上った。立ち上った刹那せつなから、脚がわな〱と顫ふるえた。一歩踏み出そうとすると、全身の血が、悉ことごとく逆流を初めたように、身体がフラ〱とした。倒れようとするのをやっと支えた。最後の力を、振い起した。わなゝく足を支えて、芝生の上を、静に〱踏み占め、椅子から、十間ばかり離れた。彼女は、そこまでは、這はうように、身体を沈ませながら辿たどったが、其処そこに茂っている、夜の目には何とも付かない若い樹木の疎林そりんへまで、辿り付くと、もう最後の辛抱をし尽したように、疎林の中を縫うように、母達のいる位置を、遠廻りしながら、ホテルの建物の方へと足を早めた。否いな馳かけ始めた。恐ろしい悪夢から逃げるように。恐ろしい罪と恥とから逃げるように。彼女は、凡すべてを忘れて、若い牝鹿めじかのように、逃げた。

夢中に、庭園を馳けぬけ、夢中に階段を馳け上り、夢中に廊下を走って、自分の寝室へ馳け込むと彼女は寝台へ身体を瓦破がばと投げ付けたまゝ、泣き伏した。

涙は、幾何いくら流れても尽きなかった。悲しみは、幾何泣いても、薄らがなかった。

凡ては失われた。凡ては、彼女の心から奪われた。新しく得ようとした恋人と一緒に、古くから持っていたたゞ一人の母を。彼女の愛情生活の唯一ゆいいつの相手であった母を。

春の花園のように、光と愛と美しさとに、充みちていた美奈子の心は、此この嵐あらしのために、吹き荒されて、跡には荒寥こうりょうたる暗黒と悲哀の外は、何も残っていなかった。

恋人から、邪魔物扱いされていることが、悲しかった。が、それと同じに、母が――あれほど、自分には優しく、清浄しょうじょうである母が、男に対して、娼婦しょうふのように、なまめかしく、不誠実であることが、一番悲しかった。自分の頼み切った母が、夜そっと眼を覚して見ると、自分の傍には、いないで、有明の行燈あんどんを嘗なめているのを発見した古い怪譚かいだんの中の少女のように、美奈子の心は、あさましい駭おどろきで一杯だった。

自分に、優しい母を考えると、彼女は母を恨むことは出来なかった。が、あさましかった。恥かしかった。恨めしかった。

母と青年とから、逃れて来たものの、美奈子は本当に逃れているのではなかった。山中で、怪物に会って、馳け込んだ家が、丁度怪物の棲家すみかであるように、母と青年とから逃れて来ても、彼等は相つづいて、同じ此の部屋に帰って来るのだった。

そう思うと、いっそ美奈子は、此の部屋から逃げ出したかった。遠く〱何人なんぴとにも見出みいだされない、山の中へ入って、此の悲しみを何時いつまでも何時までも泣き明したかった。いな、少くとも此夜丈けでも、母と青年との顔を見たくなかった。母と青年とが、並んで帰って来るのを見たくなかった。いな、青年から邪魔物扱いされている以上、もう部屋に止まりたくなかった。が、此の部屋を離れて、いな母を離れて、彼女は一人何処どこへ行くところがあろう。たゞ一人、縋すがり付く由縁よすがとした母を離れて何処いずこへ行くところがあろう。そう思うと、美奈子の頭には、死んだ父母の面影が、アリ〱と浮んで来た。

三

死んだ父母の面影が、浮んで来ると、美奈子は懐なつかしさで、胸がピッタリと閉された。

今の彼女の悲しみと、苦しみを、撫なでさすって呉くれる者は、死んだ父母の外には、広い世の中に誰一人ないように思われた。

そう思うと、亡なき父が、あの強い腕かいなを差し伸べて、自分を招いていて呉れるように思われた。その手は世の人々には、どんなに薄情に働いたかも知れないが、自分に対しては限りない慈愛が含まれていた。美奈子は、父の腕が、恋しかった。父の、その強い腕に抱かれたかった。そう思うと、自分一人世の中に取り残されて、悲しく情ない目に会っていることが、味気あじきなかった。

が、それよりも、彼女はこの部屋に止とどまっていて、母と青年とが、何知らぬ顔をして、帰って来るのを迎えるのに堪たえなかった。何処どこでもいゝ、山でもいゝ、海でもいゝ、母と青年とのいないところへ逃れたかった。彼女は、泣き伏していた顔を、上げた。フラ〱と寝台を離れた。浴衣ゆかたを脱いで、明石縮あかしちぢみの単衣ひとえに換えた。手提てさげを取り上げた。彼女の小さい心は、今狂っていた。もう何の思慮も、分別も残っていなかった。たゞ、突き詰めた一途いちずな少女心おとめごころが、張り切っていた丈である。

彼女が、着物を着換えてしまう間、幸に母と青年とは帰って来なかった。

彼女は、部屋を馳かけ出そうとしたとき、咄嗟とっさに兄のことを考えた。兄は、白痴の身を、監禁同様に葉山の別荘に閉じ込められている。が、他の世間の人々に対しては、愚かなあさましい兄であるが、その愚かさの裡うちにも、肉親に対する愛だけは、残っている。彼女は、彼女が時々兄を訪おとなうときに、兄がどんなに嬉うれしそうな表情をするかを、覚えている。縦令たとい、自分の現在の苦しみや、悲しみを理解し得る兄ではないにしろ、兄の愚かな、然しかしながら純な態度は、屹度きっと自分を慰めて呉れるに違ない。少くとも、あの愚かな兄丈は、何時いつ行っても屹度、自分に、あの人のよい、愚かしいが然し浄きよい親愛の情を表して呉れるに違ない。そう思うと、美奈子は急に、兄に会いたくなった。夜は十時に近かったがまだ湯本行の電車はあるように思った。もし、横須賀よこすか行の汽車に間に合わなかったら、国府津こうづか小田原かで、一泊してもいゝとさえ思った。

部屋の扉ドアを、そっと開けて、彼女は廊下を窺うかがった。西洋人の少年少女が二人連れ立って、自分の部屋へ、帰って行くらしいのを除いた外には人影はなかった。

彼女は、廊下を左へ取った。その廊下を突き当って左へ降りると、ホテルの玄関を通らないで、広場へ出ることを知っていた。

彼女は、廊下を馳け過ぎた。階段を、一気に馳け降りた。そして、階段の突き当りにある、扉を押し開いて、夜の戸外へ、走り出ようとした。

が、その扉を押し開いた刹那せつなであった。

「おや!」戸外に、叫ぶ声がした。戸外からも、扉を開けようとした人が、思わず内部から開いたので、駭おどろいて発した声だった。美奈子は、直すぐ、そう叫んだ人と、顔を面して立たなければならなかった。それは、正しく母だった。母の後に、寄り添うように立っているのは、もとより彼かの青年だった。

「美奈さんじゃないの!」

母は、可なり駭いていた。狼狽ろうばいしていたと云ってもよかった。美奈子は、全身の血が、凍ってしまったように、じっと身体を縮ませながら、立っていた。

「何どうしたの? こんなに遅く?」

青年との会話には、あんな冷静を保っていた母が、別人ではないかと思うほど、色を変えていた。

美奈子が、黙っていると、母は益々ますます気遣わしげに云った。

「一体何うしたの、こんなに遅く、着物を着換えて、手提なんか持って。」

四

母に問い詰められて、美奈子は、漸ようやくその重い唇を開いた。

「あの、手紙を出しに、郵便局まで行こうと思っていましたの。」

彼女は、生れて最初の嘘うそを、ついてしまった。彼女の、蒼あおい顫ふるいを帯びた顔色を見れば、誰が彼女が郵便局へ行くことを、信ずることが出来よう。

「郵便局!」瑠璃子は、反射的にそう繰返したが、その美しい眉まゆは、深い憂慮のために、暗くなってしまった。「こんなに遅く郵便局へ!」

瑠璃子は、呟つぶやくように云った。が、それは美奈子を咎とがめていると云いうよりも、自分自身を咎めているような声だった。

母子おやこの間に、暫しばらくは沈黙が在った。美奈子は、たゞ黙って立っている外は、何どうすることも出来なかった。

「郵便局! 郵便局なら、僕が行って来て上げましょう。」

母の後に立っていた青年は、此この沈黙を救おうとしてそう云った。

美奈子は、一寸ちょっと狼狽ろうばいした。託すべき手紙などは持っていなかったからである。

「いゝえ。結構でございますの。」

美奈子は、平素いつもに似ず、きっぱりと答えた。その拒絶には、彼女の、芽にして、蹂ふみ躙にじられた恋の千万無量の恨が、籠こもっていたと云ってもよかった。

聡明そうめいな瑠璃子には、美奈子の心持が、可なり判わかったらしかった。彼女は、涙がにじんではいぬかと思われるほどの、やさしい眸ひとみで、美奈子を、じっと見詰めながら云った。

「ねえ! 美奈さん。今晩は、よして呉くれない。もう十時ですもの、あした早く入れに行くといゝわ。ねえ美奈さん! いゝでしょう。」

彼女は、美奈子を抱きしめるように、掩おおいながら、耳許みみもと近く、子供でもすかすように云った。

平素いつもなら、母の一言半句にも背かない美奈子であるが、その夜の彼女の心は、妙にこじれていた。彼女は、黙って返事をしなかった。

「何うしても、行くのなら、妾わたしも一緒に行くわ。青木さんは、部屋で待っていて下さいね。ねえ! 美奈さん、それでいいでしょう。」

そう云いながら、瑠璃子は早くも、先に立って歩もうとした。

美奈子は、一寸進退に窮した。母と一緒に郵便局へ行っても、出すべき手紙がなかった。それかと云って、今まで黙っていながら、今更行くことをよすとも、言い出しかねた。

その裡うちに、青年は此の場を避けることが、彼にとって、一番適当なことだと思ったのだろう。何の挨拶あいさつもしないで、建物の中へ入ると、階段を勢よく馳かけ上ってしまった。

母一人になると、美奈子の張り詰めていた心は、弛ゆるんでしまって、新しい涙が、頬を伝い出したかと思うと、どんなに止めようとしても止まらなかった。到頭、しく〱と声を立てゝしまった。

美奈子が泣き始めるのを見ると、瑠璃子は、心から駭おどろいたらしかった。美奈子の身体を抱えながら叫ぶように云った。

「美奈さん! 何うしたの、一体何うしたの。何が悲しいの。貴女あなた一人残して置いて済まなかったわ。御免なさいね、御免なさいね。」

青年に対しては、あれほど冷静であった母が、本当に二十前後の若い女に帰ったように、狼狽うろたえているのであった。

「貴女、泣いたりなんかしたら、厭いやですわ。今迄いままで貴女の泣き顔は、一度だって、見たことがないのですもの。妾、貴女の泣き顔を見るのが、何よりも辛つらいわ。一体何うしたの。妾が、悪かったのなら、どんなにでもあやまるわ。ねえ、後生だから、訳を云って下さいね。」

そう云っている母の声に、烈はげしい愛と熱情とが、籠っていることを、疑うことは出来なかった。

五

その夜は、美奈子も強いて争いかねて、重い足を返しながら、部屋へ帰って来た。

翌日になると、夜が明けるのを待ち兼ねていたように、美奈子は母に云いった。

「お母様、妾わたし葉山へ行って来ようかと思っているの。兄さんにも、随分会わないから、どんな容子だか、妾見て来たいと思うの。」

が、母は許さなかった。美奈子の容子が、何となく気にかゝっているらしかった。

「もう二三日してから行って下さいね。それだと、妾も一緒に行くかも知れないわ。箱根も妾何だか飽あき〱して来たから。」

その日一杯、平素いつもは快活な瑠璃子は、妙に沈んでしまっていた。青年には、口一つ利きかなかった。美奈子にも、用事の外は、殆ほとんど口を利かなかった。たゞ一人、縁側ヴェランダにある籐椅子とういすに、腰を降しながら、一時間も二時間も、石のように黙っていた。

瑠璃子の態度が、直すぐ青年に反射していた。瑠璃子から、口一つ利かれない青年は、所在なさそうに、主人から嫌われた犬のように、部屋の中をウロ〱歩いていた。彼のオド〱した眼は、燃ゆるような熱を帯びながら、瑠璃子の上に、注がれていた。美奈子は、青年の容子に、抑え切れぬ嫉妬しっとを感じながらも、然しかし何となく気の毒であった。犬のように、母を追うている、母の一挙一動に悲しんだり欣よろこんだりする青年の容子が、気の毒であった。

その日は、事もなく暮れた。平素いつものように、夕方の散歩にも行かなかった。食堂から帰って来ると三人は気まずく三十分ばかり向い合っていた後に、銘々自分の寝室に、まだ九時にもならない内に、退いてしまった。

翌あくる日が来ても、瑠璃子の容子は前日と少しも変らなかった。美奈子には、時々優しい言葉をかけたけれども、青年には一言も言わなかった。青年の顔に、絶望の色が、段々濃くなって行った。彼の眼は、恨うらめしげに光り初めた。

到頭、夜が来た。瑠璃子と青年との間に、交された約束の夜が来た。

美奈子は、夜が近づくに従って、青年が自分の存在を、どんなに呪のろっているかも知れないと思うと部屋にいることが、何どうにも苦痛になって来た。

晩餐ばんさんの食堂から、帰るときに、美奈子は、そっと母達から離れて、自分一人ホテルの図書室へでも行こうと思った。そうすれば、青年は彼の希望通り、母とたった二人限きりで、散歩に行くことが出来るだろう。母も、自分に何の気兼なしに青年とたった二人、散歩に出ることが出来るだろう。

美奈子は、そう思いながら、そっと母達から離れる機会を待っていた。が、母は故意にやっていると思われるほど、美奈子から眼を離さなかった。美奈子は、仕方なしに、一緒に部屋へ帰って来た。

部屋に帰ってから、暫しばらくの間、瑠璃子は黙っていた。五分十分経たつに連れて、青年がじり〱し初めたことが、美奈子の眼にも、ハッキリと判わかった。而しかも、青年がいら〱していることが、自分がいるためであると思うと、美奈子は何うにも、辛抱しんぼうが出来なかった。自分が、青年の大事な〱機会の邪魔をしていると思うと、美奈子は何うにも、辛抱が出来なかった。

「妾、お母様、図書室へ行って来ますわ。一寸ちょっと本が読みたくなりましたから。」

美奈子は、そう云って、母の返事をも待たず、つか〱と部屋を出ようとした。

母は、駭おどろいたように呼び止めた。

「図書室へ行くのなんかおよしなさいね。昨夕ゆうべは出なかったから、今日は散歩に出ようじゃありませんか。」

美奈子は、一寸駭いて足を止めた。ふと気が付くと、青年の顔は烈はげしい怒りのために、黒くなっていた。

六

美奈子は、母の真意を測はかりかねた。

母も、確に青年とたった二人限きり、散歩する約束をした筈はずである。そして、あの大切な返事を青年に与える約束をした筈である。それだのに、なぜ自分を呼び止めるのであろう。そうした機会を、彼等に与えようとして、席を外そうとする、自分を呼び止めるとは。

「えゝっ!」美奈子は、つい返事とも、駭おどろきとも何とも付かぬ言葉を出してしまった。

「ねえ! 図書室なんか、明日いらっしゃればいゝのに。今夜は強羅ごうら公園へ行こうと思うの。ねえ! いゝでしょう。」

母はいつもよりも、もっと熱心に美奈子に勧めた。

「でも。」

美奈子は、躊躇ちゅうちょした。彼女は、そうためらいながらも、青年の顔を見ずにはいられなかったのである。彼は、部屋の一隅の籐椅子とういすに腰を下していたが、その白い顔は、烈はげしい憤怒ふんぬのために、充血していた。彼は、爛々らんらんたる眸ひとみを、恨めしげに母の上に投げていたのである。美奈子は、そうした青年の容子を見ることが、心苦しかった。彼女は、青年のために、心の動顛どうてんしている青年のためにも、母の勧めに、おいそれと従うことは出来なかった。

「いゝじゃありませんの。図書室なんか、今晩に限ったことはないのでしょう。ねえ! いらっしゃい。妾わたしお願いしますから。」

母は、余儀ないように云いった。そう云われゝば、美奈子は、同行を強いて断るほどの口実は何もなかった。たゞ彼女には、自分を極力同行せしめようとする母の真意が、何どうしても分らなかった。

「ねえ! 青木さん! 美奈さんと、三人でなければ面白くありませんわねえ。二人限きりじゃ淋さみしいし張合がありませんわねえ!」

母は、青年に同意を求めた。

何もかも知っている美奈子は、母のやり方が、恐ろしかった。青年が、嫌いだと云うものを、グン〱咽喉のどに押し込むような、母の意地の悪い逆な態度が、恐ろしかった。美奈子は、ハラ〱した。青年が、母の言葉を、何う取るかと思うと、ハラ〱せずにはいられなかった。青年は、果してカッとなったらしかった。それかと云って、美奈子の前では、何の抗議を云うことも出来ないらしかった。

「僕! 僕! 僕は、今日は散歩に行きたくありません。失礼します、失礼します。」

それが、青年の精一杯の反抗であった。青年の顔は、今蒼白そうはくに変じ、彼の言葉は、激昂げきこうのために、顫ふるえた。

「何故なぜ?」瑠璃子は詰問きつもんするように云った。

「何故いらっしゃらない。だって、貴君あなたは先刻さっき食堂で、今夜は強羅まで行こうと仰おっしゃったのじゃないの。今になって、よそうなんて、それじゃ故意に、妾達の感情を害しようとなさっているのだわ。」

青年は、唇をブル〱顫ふるわした。が、美奈子の前では、彼は一言も、本当の抗議は云えなかった。

『貴女あなたは約束と違うじゃありませんか。なぜ、美奈子さんをお連れになるのです。』それが、青年の心に、沸々ふつふつと湧わき立っている云い分であった。が、それを、何うして美奈子の前で口にすることが出来るだろう。

青年の、籐椅子の腕に置いている手が、わなわな顫えるのが、美奈子は、先刻から気が付いていた。

母の皮肉な逆な態度が、どんなに青年の心を虐しいたげているかが、美奈子にもよく判わかった。美奈子は、もう一度、青年を救ってやりたいと思った。

「妾わたくしやっぱり、図書室へ参りますわ。今日急に、お関所の歴史が知りたくなりましたの。」

七

「お関所の歴史なんか、今夜じゃなくてもいゝじゃないの。」

瑠璃子は、美奈子が、再度図書室へ行こうと云いうのを聴くと、少しじれたように、そう云った。

「何どうして妾わたしと一緒に行くのが、お嫌いなの。美奈さんも、青木さんも、今夜に限って何うしてそんなに煮え切らないの。」

瑠璃子は、青年の火のような憤怒ふんぬも、美奈子の苦衷くちゅうも、何も分らないように、平然と云った。

「ねえ! 美奈さん、お願いだから行って下さいね。貴女あなたが、行きたがらないものだから、青木さんまでが、出渋るのですわ。ねえ! そうでしょう、青木さん!」

弱い兎うさぎを、苛責いじめる牝豹めひょうか何かのように、瑠璃子は何処どこまでも、皮肉に逆に逆に出るのであった。美奈子は、青年の顔を見るのに堪たえなかった。青年がどんなに怒っているか、また美奈子がいるために、その怒を少しも洩もらすことが出来ない苦しさを察すると、美奈子は気の毒で、顔を背けずにはいられなかった。

瑠璃子には、青年の憤怒などは、眼中にないようだった。それでも、暫しばらくしてから、青年をなだめるように云った。

「さあ! 三人で機嫌よく行こうじゃありませんか。ねえ! 青木さん。何をそんなに、気にかけていらっしゃるの。」

そう、可なり優しく云ってから、彼女は意味ありげに附け加えた。

「妾わたし此この間中から、考えていることがあって、くさ〱してしまったの。散歩でもして、気を晴らしてから、もっとよく考えて見たいと思うの。」

それは、暗に青年に対する云い訳のようであった。まだ、十分に考えが纏まとまっていないこと、従って今夜の返事を待って呉くれと云う意味が、言外に含まれているようだった。

それを聴くと、青年の怒りは幾分、解けたらしかった。彼は不承々々に椅子いすから、腰を離した。

美奈子も、やっと安心した。やっぱり、母は、真面目まじめに、此二三日口も利きかずに、青年の申出を、考えたに違いない。それが、到頭纏りが付かないために、返事の延期を、青年にそれとなく求めたに違いない。それを、青年が不承々々ではあるが、承諾した以上、今夜の約束は延ばされたのだ。そう思うと、自分が母達に同伴することが、必ずしも青年の恋の機会の邪魔をすることではないと思うと彼女は漸ようやく同伴する気になった。

三人は、それ〲に、いつもよりは、少しく身拵みごしらえを丁寧にした。

「往ゆきと帰りは、電車にしましょうね。歩くと大変だから。」

瑠璃子は、そう云いながら、一番に部屋を出た。青年も美奈子も、黙ってそれに続いた。

三人が、ホテルの玄関に出て、ボーイに送られながら、その階段を降りようとしたときだった。暮れなやむ夏の夕暮のまだほの明るい暗やみを、煌々こうこうたる頭光ヘッドライトで、照し分けながら、一台の自動車が、烈はげしい勢で駈かけ込んで来た。

美奈子は、塔の沢か湯本あたりから、上って来た外人客であろうと思ったので、あまり注意もしなかった。

が、美奈子と一緒に歩いていた母は、自動車の中から、立ち現われた人を見ると、急に立ち竦すくんだように目を眸みはった。いつもは、冷然と澄している母の態度に、明かな狼狽ろうばいが見えていた。夕暗の中ではあったが、美しい眼が、異様に光っているのが、美奈子にも気が付いた。

美奈子も、駭おどろいて相手を見た。母をこんなに駭かせる相手は、一体何だろうかと思いながら。

一条の光

一

相手は、まだ三十になるかならない紳士だった。金縁の眼鏡が、その色白の面に光っていた。純白な背広が、可なりよく似合っていた。彼は一人ではなかった。直すぐその後から、丸顔の可愛かわいい二十ばかりの夫人らしい女が、自動車から降りた。

美奈子みなこは、夫婦とも全然見覚えがなかった。

瑠璃子るりこが、相手の顔を見ると、ハッと駭おどろいたように、紳士も瑠璃子の顔を見ると、ハッと顔色を変えながら、立竦んでしまった。

紳士と瑠璃子とは、互に敵意のある眼付を交しながら、十秒二十秒三十秒ばかり、相対して立っていた。それでも、紳士の方は、挨拶あいさつしようかしまいかと、一寸躊躇ためらっているらしかったが、瑠璃子が黙って顔を背けてしまうと、それに対抗するように、また黙って顔を背けてしまった。

が、瑠璃子から顔を背けた相手は、彼女の右に立っている青年の顔を見ずにはいなかった。青年の顔を見たときに、紳士の顔は、前よりも、もっと動揺した。彼の駭きは、前よりも、もっと烈はげしかった。彼は、声こそ出さなかったが、殆ほとんど叫び出しでもするような表情をした。

彼は、狼狽あわてたように瑠璃子の顔を見直した。再び青年の顔を見た。そして、青年の顔と瑠璃子の顔とを見比べると、何か汚けがらわしいものをでも見たような表情をしながら、妻を促うながして、足早に階段を上ってしまった。

美奈子は、何だかその不知人ストレンジャーが、気になったが、母に訊きくことが、悪いように思って、何どうしても口に出せなかった。すると、ホテルの門を出た頃に、先刻から黙っていた青年が初めて瑠璃子に口を利きいた。

「一体今の人は誰です。御存じじゃありませんか。」

「いゝえ! ちっとも、心当りのない方ですわ。でも、可笑おかしな人ですわね。妾達わたしたちを、じっと見詰めたりなんかして。」

瑠璃子は、何気なく云いったらしかった。が、声が平素いつものように、澄んだ自信の充みち満ちた声ではなかった。

「そうですか、御存じないのですか。でも、先方は、僕達のことをよく知っているようですねえ。」

青年は、不審いぶかしげにそう云った。が、瑠璃子は、聞えないように返事をしなかった。

三人は、底気味の悪い沈黙を、お互の間に醸かもしながら、宮の下の停留場から、強羅ごうら行の電車に乗った。

が、電車に乗っても、三人は散歩に行くと云ったような気持は少しもなかった。美奈子は、人身御供ひとみごくうにでもなったような心持で、たゞ母の意志に従っていると云うのに過ぎなかった。

青年は、無論最初から滅入めいっていた。大事な返事を体よく延ばされたことが、彼にとっては、何よりの打撃であったのだ。彼が楽しんでいる筈はずはなかった。

瑠璃子も、最初は二人を促して、散歩に出たのであったが、玄関で紳士に逢あってからは、隠し切れぬ暗い翳かげが、彼女の美しい顔の何処どこかに潜ひそんでいるようだった。

夜の箱根の緑の暗やみを、明るい頭光ヘッドライトを照しながら、電車は静かな山腹の空気を顫ふるわして、轟々ごうごうと走りつゞけたかと思うと直ぐ終点の強羅に着いていた。

電車を去ってから、可なり勾配こうばいの急な坂を二三町上ると、もう強羅公園の表門に来た。

電車が、強羅まで開通してからは、急に別荘の数が増し、今年の避暑客は可なり多いらしかった。

公園の表門の突き当りにある西洋料理店レストランの窓から、明るい光が洩もれ、玉を突いているらしい避暑客の高笑いが、絶え間なく聞えていた。

夜の公園にも、涼を求めているらしい人影が、彼方かなたにも此方こなたにもチラホラ見えた。

二

三人は、西洋料理店の左から、コンクリートで堅めた水泳場の傍を通って、段々上の方に登って行った。

公園は、山の傾斜に作られた洋風の庭園であった。箱根の山の大自然の中に、茲ここばかり一寸ちょっと人間が細工をしたと云ったような、こましゃくれた、しかし、厭味いやみのない小公園だった。

園の中央には、山上から引いたらしい水が、噴水となって迸ほとばしって、肌寒いほどの涼味を放っていた。

三人は、黙ったまゝ園内を、彼方此方あちらこちらと歩いた。誰も口を利きかなかった。皆が、舌を封ぜられたかのように、黙々としてたゞ歩き廻っていた。

三人が、少し歩き疲れて、片陰の大きい楢ならの樹きの下の自然石じねんせきの上に、腰を降した時だった。先刻から一言も、口を利かなかった瑠璃子が、突然青年に向って話し出した。しかも可なり真剣な声で。

「青木さん! 此この間のお話ね。」

青年は、瑠璃子が何を云いっているのか、丸切り見当が付かないらしかった。

「えっ! えっ!」彼は可なり狼狽ろうばいしたように焦っていた。

「此間のお話ね。」

瑠璃子は、再びそう繰り返した。彼女の言葉には、鋼鉄のような冷たさと堅さがあった。

「此間の話?」

青年は、如何いかにも腑ふに落ちないと云ったように、首を傾かしげた。

丁度その時、美奈子は母と青年との真中に坐すわっていた。自分を、中央にして、自分を隔てゝ母と青年とが、何だかわだかまりのある話をし始めたので、彼女は可なり当惑した。が、彼女にも母が、一体何を話し出すのか皆目見当が付かなかった。

「お忘れになったの。先夜のお話ですよ。」

瑠璃子の声は、冗談などを少しも意味していないように真面目まじめだった。

「先夜って、何時いつのことです。」青年の声が、だん〱緊張した。

「お忘れになったの? 一昨日おとといの晩のことですよ。」

青年が色を変えて駭おどろいたことが、美奈子にもハッキリと感ぜられた。美奈子でさえ、あまりの駭きのために、胸が潰つぶれてしまった。母は、果して一昨日の夜のことを、美奈子の前で話そうとしているのかしら、そう思った丈で、美奈子の心は戦おののいた。

「一昨日の晩!」青年の声は、必死であった。彼は一生懸命の努力で続けて云った。

「一昨日の晩? 何か特別に貴女あなたとお話をしたでしょうか。」

必死に、逃路にげみちを求めているような青年の様子が、可なり悲惨ひさんだった。美奈子は、他人事ならず、胸が張り裂けるばかりに、母が何と云い出すかと待っていた。

「お忘れになったの。」

瑠璃子は、静に冷たく云った。冗談を云っているのでもなければ、揶揄からかっているのでもなければ、じらしているのでもなかった。彼女も、今夜は別人のように真面目であった。

「忘れる? 一昨日の晩!」青年は首を傾げる様子をした。が、彼の態度は如何にも苦しそうであった。「僕には、ちっとも解わかりません。一昨日の晩、僕が何か申上げたでしょうか。」

青年の声は、わな〱と顫ふるえた。彼はその言葉を、瑠璃子に投げ付けるように云った。

が、その投げ付けたつもりの言葉の裡うちに、みじめな哀願の調子が、アリ〱と響いていた。

青年の哀願の調子を跳はね付けるように、瑠璃子の言葉は、冷たく無情だった。

「一昨日の晩のお話のお返事を、妾わたし今夜致そうと思いますの。」

風が、少し出た故せいだろう、冷たい噴水の飛沫ひまつが三人の上に降りかゝって来た。

三

瑠璃子の言葉は、これから判決文を読み上げようとする裁判長の言葉のように、峻厳しゅんげんであった。

青年は瑠璃子の言葉を聴くと、もう黙ってはいられなかった。『抜く抜く』と云いう冗談が、本当の白刃になったように、彼はもうそれを真正面から受止める外はなかった。

「奥さん、貴女あなたは何を仰おっしゃるのです。貴女は、お約束をお忘れになったのですか。あれほど僕がお願いしたお約束をお忘れになったのですか。」

美奈子が、真中にいることも、もうスッカリ忘れたように、青年は我を忘れて激昂げきこうした。興奮に湧わき立った温かい呼吸いきが、美奈子の冷い頬に、吐き付けられた。

「お約束? お約束を忘れないからこそ、今夜お返事すると云っているのじゃありませんか。」

「何! 何! 何と仰しゃるのです。」

青年はスックと立ち上った。もう美奈子を隔てゝ、話をするほどの余裕よゆうもなくなったのであろう、彼は、激しく瑠璃子の前に詰めよった。

美奈子は、浅ましい恐ろしい物を見たように、面を伏せてしまった。

「奥さん! 貴女は、貴女は何を仰しゃるのです。僕! 僕! 僕が、一昨夜申上げたこと、あのお返事を今、なさろうとするのですか。あの、あのお返事を!」

激しい興奮のために、彼の身体は顫ふるえ、彼の声は裂け、彼の言葉は咽喉のどにからんで、容易には出て来なかった。

「まあ! お坐りなさい! そう、貴君あなたのように興奮なさっては、話が、ちっとも分らなくなりますわ。まあ! 坐ってお話しなさいませ。妾わたし、今夜はよくお話したいと思いますから。」

瑠璃子の態度は、水の如ごとく冷たく澄んでいた。たしなめられて、青年は不承々々に元の席に復したが、彼の興奮は容易には去らない。彼は火のように、熱い息を吐いていた。

「坐ります。坐ります。が、あのお話を、今茲ここでなさるなんて、あんまりではありませんか。あれは、僕丈の私事です。私事的プライヴェートな事です。それを今茲でお話しになるなんて、あんまりではありませんか。あの晩、僕が何と申上げたのです。あの晩申上げた事を、貴女は覚えていて下さらないのですか。」

青年は、美奈子が聴いていることなどは、もう介意かまっていられないように、熱狂して来た。

美奈子は、真中でじっと聴いているのに堪たえられなくなって来た。彼女は、勇気を鼓舞しながら、口を開いた。

「あのう、お母様! 妾わたくしは一寸ちょっと失礼させていたゞきたいと思いますわ。お話が、お済みになった頃に帰って参りますから。」

美奈子は、皮肉でなく真面目まじめにそう云わずにはいられなかった。

溺おぼれる者は、藁わらをでも掴つかむように、青年はもう夢中だった。

「そうです。奥さん! もし貴女が、あの晩の話のお返事をして下さるのなら、失礼ですが、美奈子さんに、一寸失礼させていたゞきたいのです。あれは、僕の私事です。あのお返事なら、僕一人の時に承わりたいのです。」

興奮した青年に、水を浴せるように、瑠璃子は云った。

「いゝえ! 妾、美奈さんにも、是非とも聞いていたゞきたいのですわ。一昨夜も、あんなお話なら美奈さんに立ち合っていたゞきたいと思ったのです。あんなお話は、二人切りで、すべきものではないと思いますもの。たゞさえ、妾色々な風評の的になって、困っているのですもの。あゝいうお話はなるべく陰翳いんえいの残らないように、ハッキリと片を付けて置きたいと思いますの。ねえ、美奈さん、貴女このお話の、証人ウィットネスになって下さるでしょうねえ。」

「あ! 奥さん! 貴女は! 貴女は!」

青年は、狂したように叫びながら立ち上ると、続けざまに、地を踏み鳴らした。

四

青年が、狂気したように、叫び出したのにも拘かかわらず、瑠璃子は、冷然として、語りつゞけた。

「美奈さん、貴女あなたには、お話しなかったけれども、妾わたし青木さんから、一昨日の晩、突然結婚の申込を受けたのです。そうして、それに対する諾否だくひのお返事を、今晩しようと云いうお約束をしたのです。結婚の申込を直接受けたことを、妾本当に心苦しく思っているのです。せめて、お返事をするとき丈でも貴女に立ち合っていただきたいと思いましたの。」

美奈子は、何と返事をしてよいか、皆目分らなかった。たゞ、彼女にも、ボンヤリ分ったことは、美奈子が母と青年の密語を、立ち聴きしたことを、母が気付いていると云うことだった。美奈子が、居堪いたたまれなくなって逃げ出したときの後姿を、母が気付いたに違いないと云うことだった。

そう思うと、自分の心持が、明敏な母に、すっかり悟られているように思われて、美奈子は一言も返事をすることさえ出来なかった。

青年の顔は、真蒼まっさおになっていた。眼ばかりが、爛々らんらんと暗やみの中に光っていた。

「ねえ! 青木さん。それでは、よく心を落ち着けて聴いて下さいませ! 妾、あの、大変お気の毒ではございますけれども、よく〱考えて見ましたところ、貴君あなたのお申出もうしいでに応ずることが出来ないのでございます。」

瑠璃子の言葉に、闘牛が、止とどめの一撃を受けたように、青年の細長い身体が、タジ〱と後へよろめいた。

彼は、両手で頭を抱えた。身体を左右に悶もだえた。呟つぶやきとも呻うめきとも付かないものが口から洩もれた。

美奈子は、見ているのに堪たえなかった。もし、母が傍にいなかったら、走り寄って、青年の身体を抱えて、思うさま慰めてやりたかった。

二分ばかり、青年の苦悶くもんが続いた。が、彼はやっと、その苦悶から這はい上って来た。

母から受けた恥辱のために、彼の眼は血走り、彼の眥まなじりは裂けていた。

「あなたのは、お断りになるのではなくて、僕を恥しめるのです。僕がそっとお願いしたことを、美奈子さんの前で、貴女にはお子さんかも知れないが、僕には他人です、その方の前で、恥しめるのです。拒絶ではなくして、侮辱です。僕は生れてから、こんな辱はずかしめを受けたことはありません。」

青年は、血を吐くように叫んだ。青年の言葉は、恨みと忿いかりのために狂い始めていた。

「貴女は、妖婦ようふです、僕は敢あえて、そう申上げるのです。貴女を、貴婦人だと思って、近づいたのは、僕の誤りでした。僕に、下さった貴女の愛の言葉を、貴女の真実だと思ったのが、僕の誤りでした。真実の愛を以もって、貴女の真実な愛を購あがなうことが出来ると思ったのは、僕の間違でした。奥さん! 貴女は、あらゆる手段や甘言で、僕を誘惑して置きながら、僕が堪らなくなって、結婚を申し込むと、それを恐ろしい侮辱で、突き返したのです。此この恨みは、屹度きっと晴らしますから、覚えていて下さい。覚えていて下さい。」

青年は、狂ったように、瑠璃子を罵ののしりつゞけた。

瑠璃子は、青年の罵倒ばとうを、冷然と聞き流していたが、青年の声が、漸ようやく絶えた頃に、やっと口を開いた。

「青木さん! 貴君のように、そう怒るものじゃなくってよ。妾の貴君に対する愛が、丸切り嘘うそだと云うのは、余りヒドいと思いますわ。妾が、貴君を愛していることは本当ですわ。たゞ、その愛は夫に対するような愛ではなくて、弟に対するような愛なのです。妾、昨日今日考えて、やっとそれが分ったのです。妾、貴君を弟に持ちたいと思うわ。が、貴君を夫にしようとは、夢にも思ったことはないわ。が、夫以外の一番親しいものとして、妾貴君に何時いつまでも、何時までも、交際つきあっていたゞきたいと思うのよ。ねえ! 美奈さん。貴女に妾の心持は分らない!」

瑠璃子は、意味ありげに、美奈子を顧みた。今まで少しも、分らなかった今夜の瑠璃子の心持が、闇やみの中に、一条の光が生れたように、美奈子にもほの〲と分って来たように思えた。

五

美奈子には、母の心持が、朝霧の野に、日の昇るように、ようやく明かになって来た。

母は自分の心持をスッカリ気付いたのだ。青年に対する自分の心持をスッカリ知って了しまったのだ。

母が、自分の面前で、何のにべもないように、青年を斥しりぞけたのも、みんな自分に対する義理なのだ。自分に対する母の好意なのだ。自分に対する母の心づくしなのだ。そう思うと、烈はげしい恥かしさを感じながら、母に対する感謝の心が、しみ〲と、胸の底深くにじんで出た。

母は、やっぱり自分を愛して呉れる、自分のためには、どんなことでも、しかねないのだ。そう思うと、美奈子は、母に対して昨日今日、少しでも慊あきたらなく思ったことが、深く悔いられた。

母の心持は、もっと露骨になって来た。

「青木さん。貴君あなたが、妾わたしと結婚なさろうなんて、それは一時の迷いです。貴君のお若い心の一時の出来心ウイムです。貴君には妾の心が少しも分っていないのです。いゝえ、妾の本体が少しも分っていないのです。妾の心が、どんなに荒すさんでいるかそれが貴君には、少しも分っていないのです。妾が、貴君を本当に愛しているかどうかさえ、貴君には分らないのです。そう〱、ワイルドの警句に、『結婚の適当なる基礎は相方の誤解なり。』と云いう皮肉な言葉がありますが、貴君の妾に対する、結婚申込なんか、本当に貴君の誤解から出ているのです。」

青年には、瑠璃子の言葉などは、少しも耳に入っていないようだった。彼は、烈しい怒のために、口が利きけなくなったように、たゞ身体を顫ふるわせている丈だった。

が、そんなことは少しも意に介せないように、瑠璃子は落着いた口調で、話しつゞけた。

「貴君は、妾の心持が分らないばかりでなく、貴君に対する誰の心持も分っていないのです。貴君には、まだ、本当に人の心が分らないのです。真珠のような美しい――いゝえ、どんな宝石にも換えがたいような、美しい心を持った処女が、貴君に恋しても、貴君には、それが分らないのです。貴君はもっと足を地上に降して、しっかり物を見なければならないと思います。」

美奈子は、母の言葉を聴くと、地の中へでも消えてしまいたいような恥かしさと、母の自分に対する真剣な心づくしに対する有難さとで、心の中が一杯になってしまった。

が、茲ここまで黙って聴いていた青年は、憤然ふんぜんとして、立ち上った。

「奥さん! もう沢山です。貴女あなたは、僕を散々恥しめて置きながら、此この上何を仰おっしゃろうと云うのです。男として、堪たえられないような恥辱を僕に与えて置きながら、此上何を云おうと仰しゃるのです。貴女に対する僕の要求は、全か無かです。弟に対する愛、そんな子供だましのようなお言葉で、いつまで僕を操あやつろうとなさるのです。奥さん、僕はこれで失礼します。二度と貴女には、お目にかゝらない心算つもりです。男性に対する貴女の態度が、何時いつまで天罰を受けずにいるか外よそながら拝見しているつもりです。僕の貴女に対する恋、それは、僕に取っては初恋です。大切な懸命な初恋でした、凡すべてを犠牲にしてもいゝと思った初恋です。が、それが……」

青年は、茲まで云うと、自分自身で、こみ上げて来る口惜しさに堪え切れなくなったように、ハラ〱と涙を落した。

「……それが貴女のために、ムザ〱と蹂ふみ躙にじられてしまったのだ。覚えていらっしゃい! 奥さん。」

彼は、自分の感情を抑え切れなくなったように、こう叫んだ。

立っている華奢きゃしゃな長身が、いたましくわなわなと顫えて、男泣きの涙が、幾条いくすじとなく地に落ちた。先刻さっきから美奈子は、青年の容子を見ているのに、堪えないように、目を伏せていたが何と思ったのか此時ふと顔を上げた。

「お母様!」

彼女はかすれたような声で、初めて口を開いた。

六

「お母様!」

そう叫んだ美奈子の言葉には、思い切った処女の真剣さが、籠こもっていた。

「お母様、あのう、もう一度、どうぞもう一度、ゆっくりお考え下さいませ。青木さんが何どう仰おっしゃったのか知りませんが、もう一度考え直して下さいませ。妾わたくし、妾……」

美奈子は、もっと何か云いいたそうだったが、烈はげしい興奮のために、胸が迫せまったのだろう、そのまゝ口籠くちごもってしまった。

去りかけようとした青年は、美奈子の言葉を聴くと、一寸ちょっとためらいながら、美奈子の方を振り返った。

「美奈子さん。貴女あなたの御厚意は、大変有難うございます。が、もう凡すべては終ったのです。僕の心は、蹂ふみ躙にじられたのです。僕の心には、今悲みと怨うらみとがあるばかりです。さようなら、貴女には、いろ〱失礼しました。」

そう云い捨てると、青年は弾はじかれたように、身体を飜ひるがえすと、緩い勾配こうばいの芝生の道を、一気に二十間ばかり、馳かけ降りると、その白い浴衣ゆかたを着た長身で、公園の闇やみを切る姿を見せていたが、直ぐ樹立こだちの蔭かげに見えずなった。

美奈子は、淋しみとも悲しみとも、あきらめとも付かぬ心で、消えて行く青年の姿を追うていた。

瑠璃子も、一寸青年の後姿を見ていたようだったが、直ぐ思い返したように立ち上ると、美奈子の傍に寄って来て、すれ〱に腰をかけた。

「美奈子さん! 駭おどろいて?」

軽く左の手を、美奈子の肩にかけながら、優しく訊きいた。

「はい。青木さんが、お気の毒でございますわ。」

美奈子は、消え入るような声で云った。彼女は暫しばらく考えていたが、

「青木さんなんかよりも、妾美奈さんに済まないと思っていますの。どうぞ、堪忍かんにんして下さい。どうぞ。」

母の声には、深い本心が、アリ〱と動いていた。美奈子でさえ、一度も聴いたことのないようなしんみりとした、心の底からにじみ出たような声だった。

「美奈さん。間違っていたら、御免なさい。妾、貴女のお心が分ったの。青木さんに対する貴女のお心が。」

そう、心の底を見抜かれると、美奈子は、サッと色を変えながら、うつ伏してしまった。

「美奈さん、貴女は、一昨日の晩、妾と青木さんとが、話したことをすっかり、お聴きになったのでしょう。いゝえ、貴女がお聴きになったのではなく、貴女がいらっしゃるとは知らずに、妾達がいろ〱なことを話しましたでしょう。妾、あの晩部屋へ帰ろうとして、外出なさろうとする貴女のお顔を見たときに、もう凡すべてが分ったような気がしたのです。絶望その物のような貴女のお顔を見て、妾は、凡てが分ったような気がしたのです。妾は、それまでにもしやと思ったことが、一二度あったのです。そのもしやが、本当だと云うことが分ると、妾は、大変なことが起ったと思ったのです。妾の犯おかした失策が、取り返しのつかないものだと云うことを知ったのです。」

母の言葉が、ます〱真剣な悲痛な響を帯びて来た。

美奈子は、俎上そじょうに上ったような心持で、母の言葉をじっと聴いている外はなかった。恥かしさと悲しさとで、裂けるような胸を持ちながら。

「妾、今度のことで、妾の生活が全然破産したことを知ったのです。男性に向って吐いた唾つばきが、自分に飛び返って来たことを知ったのです。どうか、美奈さん。妾の懺悔ざんげを聴いて下さい。」

快活な、泣き言などは、ちっとも云ったことのない母の声が、悲しみに湿うるんでいた。

七

「青木さんなんかに、妾わたし初めから、何の興味も持っていなかったのです。青木さんを箱根へ連れて来たのなども、妾のホンの意地からなのです。ある別な男の方に対する妾の意地からなのです。ある男の方が、妾に、青木さん丈けは、誘惑して呉くれては困ると言ったような、おせっかいなことを言ったものですから、妾はつい反抗的に、意地であの方を箱根へ連れて来たくなったのです。外よそながら、そのおせっかいな人に思い知らせて、やりたくなったのです。美奈子さん、それが妾の性分なのです。今までの妾の生活、貴女あなたのお家うちへ来たことなども、みんな妾のそう云いった性分が、妾を動かしたのです。」

母は何時いつになく、しんみりとした沈んだ調子になっていた。短い沈黙の後で、母は再び口を開いた。

「それは、自分でも何どうともすることが出来ない性分です。誰かから抑えられると、その二倍も三倍もの烈はげしさで、跳返はねかえしたいような気になるのです。それが、妾の性格の致命的フェータルな欠陥かも知れません。妾は自分のそうした性分のために、自分の一生を犠牲にしたのではないかとさえ、此この頃考えているのです。」

母は、こう言って悵然ちょうぜんとしたが、また直すぐ言葉を続けた。

「子供が、触ってはいけないと言われた草花に、却かえって触りたくなるような心持で、青木さんを、わざと箱根へ連れて来たのです。あの人に何の興味があったと云う訳でもないのです、おせっかいなことを言った人に対する意地で、ついそんなことをしてしまったのです。それから、恐ろしい罰を受けようとは夢にも知らなかったのです。」

母の言葉は、沈み切っていた。強い悔くいが、彼女の心を苛さいなんでいることを示していた。

「妾の想像が違ったら、御免下さい。貴女の清浄しょうじょうな純な心に映った男性を妾が奪うと云う恐ろしいことをしていたのです。美奈さん! 許して下さい。美奈さん。」

涙などは、今まで一度も流したことのない母の声が、湿うるんでいた。

「貴女に対して、何とお詫びしていゝか分らないのです。貴女の心に萌んだ美しい想おもいの芽を妾が蹂躙じゅうりんしていようとは、妾が! 貴女を何物よりも愛している妾が。」

瑠璃子の眼に、始めて涙が光った。

「取り返しの付かない、恐ろしいことです。妾が、たゞホンの悪戯いたずらのために、ホンの意地の為めに、宝石にも換えがたい貴女の純な感情を蹂ふみ躙にじっていようとは、思い出す丈でも、妾の心は張り裂けるようです。美奈さん! 許して下さい。どうぞ、妾の罪を許して下さい!」

瑠璃子は苛責かしゃくに堪たえないように、面を伏せて終った。

「まあ! お母様、何を仰おっしゃるのです。許して呉れなんて、妾、何も……」

美奈子は、烈しい恥しさに堪えながら、母を慰めようとした。

「こんなことは、許しを願えるようなものではないかも知れません。本当に、許しがたいことです。『許し難いことイントレランス』です。貴女が許して下さっても、妾の心は何時までも、何時までも苦しむのです。妾が、世の中で一番愛している貴女に、恐ろしい不幸を浴びせていようとは恐ろしいことです。恐ろしいことです。」

冷静な母の態度も、心の烈しい其その苛責の為めに、だん〱乱れて行った。

美奈子は、最初自分の心を母からマザ〱と指摘された恥しさで、動乱していたが、それが静まるに連れて、母の自分に対する愛、誠意にだん〱動かされ初めた。

八

「妾わたしが、男性に対する意地と反感とでしたことが、男性を傷きずつけないで、却かえって女性、しかも妾には、一番親しい、一番愛している貴女あなたを傷けようとは、夢にも思わなかったのです。何と云いう皮肉でしょう。何と云う恐ろしい皮肉でしょう。」

母の心の悶もだえは、益々ますます烈はげしくなって行くようだった。

「妾の生活が、破産する日が、到頭来たのです。妾の生活の罰が、妾の最も愛する貴女の上に振りかかって来ようとは。」

瑠璃子の声はかすかに顫ふるえていた。

「妾は、今までどんな人から、どんなに妾の生活を非難されても、ビクともしなかったのです。妾の生活態度のために、犠牲者が出ようとも、ビクともしなかったのです。妾は、孔雀くじゃくのように勝ち誇っていたのです。凡すべての男性を蹂ふみ躙にじっていたのです。が、男性ばかりを蹂み躙っているつもりで、得意になっていると、その男性に交って、女性! しかも妾には一番親しい女性を蹂み躙っていたのです。」

瑠璃子は、そう云い切ると、じっと面を垂れたまゝ黙ってしまった。

美奈子は、母の真剣な言葉に依よって、胸をヒタ〱と打たれるように思った。母が、自分のために何物をも犠牲にしようと云う心持、自分を傷きずつけたために、母が感じている苦悶くもん、そうしたものが美奈子に、ヒシ〱と感ぜられた、自分をこれほど迄まで、愛して呉くれる母には、自分も凡てを犠牲にしてもいゝと思った。

「お母様! もう何も、仰おっしゃって下さいますな、妾、青木さんのことなんか、ほんとうに何でもないのでございます。」

美奈子は、白い頬を夜目よめにも、分るほど真赤にしながら、恥かしげにそう云った。

「いゝえ! 何でもないことはありません。処女の初恋は、もう二度とは得がたい宝玉です。初恋を破られた処女は、人生の半なかばを蹂み潰つぶされたのです。美奈さん、妾にはその覚えがあります。その覚えがあります。」

そう云ったかと思うと、あれほど気丈な凜々りりしい瑠璃子も、顔に袖そでを掩おおうたまゝ、しばらく咽むせび入ってしまった。

「妾には、その覚えがありますから、貴女のお心が分るのです。身に比べてしみ〲と分るのです。」

母にそう云われると、今まで抑えていた美奈子の悲しみは、堤をきられた水のように、彼女の身体を浸ひたした。彼女の烈しいすゝり泣きが、瑠璃子の低いそれを圧してしまった。

瑠璃子までが、昔の彼女に帰ったように、二人はいつまでも〱泣いていた。

が、先に涙を拭ぬぐったのは、美奈子だった。

「お母様! 貴女は、決して妾にお詫わびをなさるには、当りませんわ。本当に悪いのは、お母様ではありません。妾の父です。お母様の初恋を蹂躙じゅうりんした父の罪が、妾に報いて来たのです。父の犯した罪が子の妾に報いて来たのです。お母様の故せいでは決してありませんわ。」そう云いながら、美奈子はしく〱と泣きつゞけていたが、「が、妾今晩、お母様の妾に対するお心を知ってつく〲思ったのです。お母様さえ、それほど妾を愛して下されば、世の中の凡ての人を失っても妾は淋さみしくありませんわ。」

そう云いながら、美奈子は母に対する本当の愛で燃えながら、母の傍にすり寄った。瑠璃子は、彼女の柔いふっくりとした撫肩なでかたを、白い手で抱きながら云った。

「本当にそう思って下さるの。美奈さん! 妾もそうなのよ。美奈さんさえ、妾を愛して下されば、世の中の凡ての人を敵にしても、妾は寂しくないのです。」

二人は浄きよい愛の火に焼かれながら、夏の夜の宵闇よいやみに、その白い頬と白い頬とを触れ合せた。

火を煽あおる者

一

青年の身体は、燃えた。

烈はげしい憤怒ふんぬと恨みとのために、火の如ごとく燃え狂った。

彼は、その燃え狂う身体を、何物かに打ち突けたいような気持で走った。闇やみの中を、滅茶苦茶めちゃくちゃに走った。闇の中を、礫つぶてのように走った。滅茶苦茶に、走りでもする外、彼の嵐あらしのような心を抑える方法は何もなかった。樹きにでも、石にでも、当れば当れ、川にでも渓たににでも陥おちらば陥れ、彼はそうした必死的デスペレエトな気持で、獣のように風のように、たゞ走りに走った。

強羅ごうらの電車停留場まで、一気に馳かけ降りたけれども、其処そこには電車の影は、なかった。彼は、そこに二三分間待ったが、心の底から沸々ふつふつと湧わき上っている感情の嵐は、彼を一分もじっとさせていなかった。電車を待っているような心の落着は、少しもなかった。彼は、宮の下まで、走りつゞけようと決心した。そう決心すると、前よりは、もっと烈しい勢で、別荘が両方に立ち並んだ道を、一散に馳け始めた。

初め馳けている間、彼の頭には、何もなかった。たゞ、彼をあんなに恥しめた瑠璃子るりこの顔が、彼の頭の中で、大きくなったり、小さくなったり、幾つにも分れて、巴ともえのように渦巻いたりした。

が、だん〱走りつゞけて、早川の岸に出たときには、彼の身体が、疲れるのと一緒に、疲労ひろうから来る落着が、彼の狂いかけていた頭を、だん〱冷静にしていた。

彼の走る速力が緩むのと同時に、彼の頭は、だん〱いろ〱な事を考え初めていた。

彼が、死んだ兄と一緒に、荘田しょうだの家へ、出入し初めた頃のことなどが、ぼんやりと頭の中に浮んで来た。

荘田夫人の美しい端麗たんれいな容貌ようぼうや、その溌剌はつらつとして華やかな動作や、その秀すぐれた教養や趣味に、兄も自分も、若い心を、引き寄せられて行った頃の思い出が、後から〱頭の中に浮んで来た。

夫人が、多くの男性の友達の中から、特に自分達兄弟を愛して呉れたこと、従って自分達も、頻しきりに夫人の愛を求めたこと、その中うちに、兄が夫人に熱狂してしまったこと、兄が夫人の愛を独占しようとしたこと、自分が兄に対して軽い嫉妬しっとを感じたこと、そうしたことが、とりとめもなく、彼の頭の中に浮んだ。

実際、自分の兄が、夫人に対して、熱愛を懐いだいていることを知ったとき、彼は兄に対する遠慮から心ならずも、夫人に対する愛を抑えていた。

突然な兄の死は、彼を悲しませた。が、それと同時に、彼の心の裡うちの兄に対する遠慮を取り去った。彼は、兄に対する遠慮から、抑えていた心を、自由に夫人に向って放った。

夫人は、それを待ち受けていたように、手をさし延べて呉れた。兄の偶然な死は、夫人と彼とを忽たちまち接近せしめてしまった。

彼は、夫人から、蜜みつのような甘い言葉を、幾度となく聴いた。彼は、夫人が自分を愛していて呉れることを、疑う余地は、少しもなかった。

彼は直截ちょくさいに夫人に結婚を求めた。

「妾わたしも、ぜひそうしていたゞきたいのよ。でも、もう少し考えさせて下さいよ。貴君あなた、箱根へ一緒に行って下さらない。妾、此この夏は、箱根で暮そうと思っていますのよ。箱根へ行ってから、ゆっくり考えてお答えしますわ。」

夫人は、美しい微笑でそう云いった。

箱根へ同行を誘って呉れる! それは、もう九分までの承諾しょうだくであると彼は思った。

箱根に於おける避暑生活は、彼に取って地上の極楽である筈はずであった。

思いきや、其処に地獄の口が開かれていようとは。

「裏切者め!」

青年は、走りながら、思わず右の手のステッキを握りしめた。

二

ホテルの門に辿たどり着いたときにも、長い道を馳かけ続けたために、身体こそやゝ疲れていたものの、彼の憤怒ふんぬは少しも緩んではいなかった。部屋へ飛び込めば、直すぐ鞄トランクの中へ、凡すべてのものを投げ込むのだ。もう、こんな土地には一分だっていたくない。彼女が、帰って来ない裡うちに、一刻も早く去ってしまうのだ。

彼は心の裡で、そうした決心を堅めながら、烈はげしい勢で、玄関へ駈かけ上った。其処そこに立っていたボーイが、彼の面色を見ると、駭おどろいて目を眸みはった。それも、無理はなかった。彼の眼は血走り、色は蒼あおざめ、広い白い額に、一条の殺気が迸ほとばしって、温和な上品な平素いつもの彼とは、別人のような、血相を示していたからである。が、ボーイが、駭こうが駭くまいが、そんなことはどうでもよかった。彼は駭いたボーイを尻目しりめにかけながら、廊下を走るように馳け過ぎて、廊下の端にある二階への階段を、烈しく駆け上ろうとしたときだった。彼は余りに急いだため、余りに夢中であったため、丁度その時、上から降りようとした人に、烈しく打ぶっ衝つかってしまった。

余りに強く衝つき当ったため、彼の疲れていた身体は、ひょろ〱として、二三段よろけ落ちた。

「いやあ。失礼!」

相手の人は、駭いて彼を支えた。が、衝突しょうとつの責任は、無論此方こっちにあった。

「いゝえ。僕こそ。」

彼は、そう答えると、軽く会釈えしゃくしたまゝで、相手の顔も、碌々ろくろく見ないで、そのまゝ階段を馳け上った。

が、彼が六七段も、馳け上ったときだった。まだ立ち止まって、じっと彼の後姿を見ていた相手の男が、急に声をかけた。

「青木君! 青木君じゃありませんか。」

不意に、自分の名を呼ばれて、青年は駭いた。彼は、思わず階段の中途に、立ち竦すくんでしまった。

「えゝっ!」

青年は、返事とも駭きとも分らないような声を出した。

「間違っていたら御免下さい! 貴君あなたは、青木君じゃありませんか。あの、青木淳じゅん君の弟さんの。」

相手は、階段の下から、上を見上げながら、落着いた声でそう訊きいた。青年は、やゝほの暗い電燈の光で、振り上げた相手の顔を見た。意外にも、それは先刻散歩へ出るときに、玄関で逢あった、彼の見知らない紳士であった。彼は、どうして此の男が、自分の名前を知っているのだろうかと、不審ふしんに思いながら答えた。

「そうです。青木です。ですが、貴君は……」

青年は、一寸ちょっと相手が、無作法に呼び止めたことを咎とがめるように訊き返した。

「いや、御存じないのは、尤もっともです。」

そう云いいながら、紳士は階段を二三段上りながら、青年に近づいた。

「お兄さんの知人と云っても、ホンのお知合になったと云う丈けに過ぎないのですが、然しかしその……」

紳士は、一寸云い澱よどんだ。青年は、自分がいら〱し切っているときに、何の差し迫せまった用もなさそうな人から、たゞ兄の知人であると云った理由丈で、呼び止められるのに堪たえなかった。

「そうですか。それでは、又いずれ、ゆっくりとお話しましょう。一寸只今ただいまは、急いでいますから。」

そう云い捨てると、青年は振り切るように、残った階段を馳け上ろうとした。

すると、紳士は意外にも、しつこく青年を呼び止めた。

「あゝ一寸お待ち下さい。私も急に、貴君にお話したいことがあるのです。」

三

「急に話したいことがある。」未知の男からしつこく云いわれると、青年はむっとした。何と云う執拗しつような男だろう。何と云う無礼な男だろうと腹立たしかった。

「いや、どんな急なお話かも知れませんが、僕はこうしてはいられないのです。」

青年は、そう云い切ると、相手を振り払うように、階段を馳かけ上ろうとした。が、相手はまだ諦あきらめなかった。

「青木君! 一寸ちょっとお待ちなさい。貴君あなたは、お兄さんからの言伝ことづてを聴こうとは思わないですか。そうです、貴君に対する言伝です。特に、現在の貴君に対する言伝です。」

そう云われると、青年は遉さすがに足を止めずにはいられなかった。

「言伝! 死んだ兄から、そんな馬鹿ばかな話があるものですか。」

青年は嘲あざけるように、云い放った。

「いや、あるのです。それがあるのです。私は、貴君のお顔の色を見ると、それを云わずにはいられなかったのです。貴君は、今可なり危険な深淵しんえんの前に立っている。私は貴君がムザ〱その中へ陥おちいるのを見るに忍びないのです。お兄さんに対する私の義務として、どうしても一言だけ、注意をせずにはいられないのです。」

そう云いながら、相手は青年と同じ階段のところまで上って来た。

「危険な深淵! そうです。貴君のお兄さんが、誤って陥った深淵へ貴君までが、同じように陥おちようとしているのです。」

青年は、改めて相手の顔を見直した。相手が可なり真面目まじめで、自分に対して好意を持っていて呉くれることが、直すぐ分った。が、相手が妙に、意味ありげな云い廻しをすることが、彼のいら〱している神経を、更にいら立たせた。

「それが一体何どう云うことなのです。僕には少しも分りませんが。」

青年は、腹立たしげに、相手を叱しっするように云った。

「それでは、もっと具体的に云いましょう。青木君! 貴君は、一日も早く、荘田しょうだ夫人から遠ざかる必要があるのです。そうです。一日も早くです。あの夫人は、貴君の身体を呑んでしまう恐ろしい深淵です。貴君のお兄さんは、それに呑まれてしまったのです。」

紳士は、そう云って、じっと青年の顔を見詰めた。

「貴君は、兄さんの誤を再び繰り返してはなりません。これは、私の忠告ではありません、死んだ兄さんのお言伝です。よくお心に止めて置いて下さい!」

そう云うかと思うと、紳士は一寸青年に会釈えしゃくしたまゝ、階段をスタ〱と降りかけた、もう云う丈けのことは、スッカリ云ってしまったと云う風に。

今度は、青年の方が、狼狽ろうばいして呼び止めた。

「待って下さい! 待って下さい! そんなことを本当に兄が云ったのですか。」

紳士は顔丈けを振り向けた。

「文字通どおりに、そう云われたとは云いません。が、それと同じことを私に云われたのです。」

「何時いつ! 何処どこで?」

青年は、可なり焦あせって訊きいた。

「お兄さんが死なれる直ぐ前です。」

そう云って、紳士は淋さみしい微笑を洩もらした。

「死ぬ直ぐ前? それでは貴君は、兄の臨終に居合したと云うのですか。」

青年は、可なり緊張して訊いた。

「そうです。貴君のお兄さんの臨終に居合したたった一人の人間は私です。お兄さんの遺言ゆいごんを聴いたたった一人の人間も私です。」

紳士は落着いて、静に答えた。

「えゝっ! 兄の遺言を。一体兄は何と云ったのです。何と云ったのです。その遺言を貴君が、今まで遺族いぞくの者に、隠しているなんて!」

青年は、相手を詰問きつもんするように云った。

「いや、決して隠してはいません。現在貴君に、その遺言を伝えているじゃありませんか。」

四

紳士の言葉は、もう青年の心の底まで、喰い入ってしまった。

「本当に、貴君あなたは兄の臨終に居合したのですか。それで、兄は何と云いいました。兄は死際しにぎわに何と云いました?」

青年は、昂奮こうふんし焦あせった。

「いや、それに就いて、貴君にゆっくりお話したいと思っていたのです。茲ここじゃ、どうもお話しにくいですが、いかゞです僕の部屋へ。」

紳士は可なり落着いていた。

「貴君さえお差支さしつかえなけれや。」

「じゃ、僕の部屋へ来て下さい。丁度妻は、湯に入っていますので誰もいませんから。」

紳士の部屋は、階段を上ってから、左へ二番目の部屋だった。

紳士は、青年を自分の部屋に導くと、彼に椅子いすを勧めて、自分も青年と二尺と隔へだたらずに相対して腰を降した。

「申し遅れました。僕は渥美あつみと云うものですが。」

そう云って紳士は、改めて挨拶あいさつした。

「いや、実は避暑に出る前に、貴君に一度是非お目にかゝりたいと思っていたのです。貴君にお目にかけたいもの、貴君に申上げたいこともあったのです。それで、それとなく貴君のお宅へ電話をかけて、貴君の在否を探さぐって見ると、意外にも宮の下へ来ていられると云うのです。それで、実は私は小涌谷こわくだにの方へ行くつもりであったのですが、貴君にお目にかかれはしないかと云う希望があったものですから、二三日、此処へ宿とまって見る気になったのです。それが、意外にもホテルの玄関で貴君にお目にかゝろうとは、貴君ばかりでなく荘田夫人にお目にかゝろうとは。」

紳士は一寸ちょっと意味ありげな微笑を洩もらしながら、

「実は、お兄さんが遭難されたとき、同乗していたと云う一人の旅客は私なのです。」

「えゝっ!」

思わず、青年は、駭おどろきの目を眸みはった。

「お兄さんの死は、形は奇禍きかのようですが、心持は自殺です。私は、そう断言したいのです。お兄さんは、死場所を求めて、三保から豆相ずそうの間を彷徨さまよっていたのです。奇禍が偶然にお兄さんの自殺を早めたのです。」

紳士の表情は、可なり厳粛であった。彼が、いゝ加減なことを云っているとは、どうしても思われなかった。

「自殺! 兄はそんな意志があったのですか。」

青年は駭おどろきながら訊きいた。

「ありましたとも。それは、貴君にも直すぐ判わかりますが。」

「自殺! 自殺の意志。もしあったとすれば、それは何のための自殺でしょう。」

「ある婦人のために、弄もてあそばれたのです。」

紳士は苦々にがにがしげに云った。

「婦人のために、弄ばれる。」

そう繰り返した青年の顔は、見る〱色を変えた。彼は、心の中で、ある恐ろしい事実にハッと思い当ったのである。

「それは本当でしょうか。貴君は、それを断言する証拠がありますか。」

青年の眼は、興奮のために爛々らんらんと輝いた。

「ありますとも。お兄さんの遺言と云うのも、お兄さんを弄んだ婦人に対して、お兄さんの恨みを伝えて呉れと云うことだったのです。」

「うゝむ!」

青年は、低く呻うなるように答えた。

「実は、私はその恨みを伝えようとしたのです。が、その婦人は、恨を物の見事に跳はねつけてしまったのです。そればかりでなく、死んだお兄さんを辱はずかしめるようなことまでも云ったのです。その婦人はお兄さんを弄んで、間接に殺しながら、その責任までも逃れようとしているのです。青木さんが、自殺の決心をしたとしても、それは私の故せいではありません、あの方の弱い性格の故せいだと、その婦人は云っているのです。そればかりではありません……」

紳士も、自分自身の言葉に可なり興奮してしまった。

五

紳士は興奮して叫び続けた。

「そればかりではありません。青木君を弄んで間接に殺しながらまだそれにも懲こりないで、青木君の弟である……」

「あゝもう沢山です。」青年は、相手に縋すがり付くような手付をして云いった。「判わかりました、よく判りました。が、証拠がありますか? 兄が弄ばれて、自殺を決心したと云う証拠がありますか?」

青年の眸ひとみは必死の色を浮べていた。

「ありますとも。お見せしましょう。が、そう興奮しないで、ゆっくり気を落着けて下さい。」

そう云いながら、紳士は椅子いすを離れると、部屋の片隅に置いてある大きな鞄トランクに近づいて、それを開きながら、中から一冊のノートを取り出した。

「これです。此この筆蹟ひっせきには覚えがあるでしょう。」

そう云いながら、相手はノートを、籐とうの卓子テーブルの上に置いた。青年は、焼き付くような眼で、それをじっと見詰めた。表紙の青木淳じゅんと云う字が、いかにも懐なつかしい兄の筆蹟だった。

「じゃ、拝見します。」

彼はかすかに、顫ふるえる手付で、そのノートを取り上げた。

恐ろしい沈黙が部屋の中に在った。ノートの頁ページのめくられる音が、時々気味悪くその沈黙を破った。

二分三分、青年は、だまって読みつゞけた。その中に、青年の腰かけている椅子が、かすかな音を立て初めた。見ると、青年の身体が、怒のために激しく顫えていたのである。

「何うです! これほど、確な証拠はないでしょう。遭難当時のお兄さんの心持が、ハッキリ解わかっているでしょう。途中で、奇禍に逢われなかったら、お兄さんは屹度きっと、熱海あたみか何処どこかで、自殺をしておられる筈はずです。」

紳士は、ノートを覗のぞき込むようにしながら云った。

青年の顔は、恐ろしい感情の激発げきはつのために、紫色にふくらんでいた。

紳士は、青年の感情をもっと狂わすように云った。

「其処そこに白金プラチナの時計のことが、書いてあるでしょう。お兄さんは、死なれる間際まぎわに、その時計を返して呉くれと云われたのです。偶然にも、その時計は、その偽りの贈物は、お兄さんの血で、真赤に染められていたのです。衝突のときに、硝子ガラスが壊れたと見え、血が時計の胴に浸にじんでいたのです。」

「それを何どうしました。それを何うしました。」

青年は、激情のために、半なかば狂っていた。

「無論、それを返したのです。私は、お兄さんの心持を酌くんで、それを叩たたき返してやろうと思ったのです。それを返しながら、お兄さんの怨うらみを、知らせてやろうと思ったのです。ところが、残念にも、私はそれを、手もなく捲まき上げられてしまったのです。あの方は、妖婦ようふです。僕達には、とても真面まともに太刀打は出来ない人です。」

「妖婦! 妖婦!」

青年は狂ったように、口走った。

「いや、その点で私はお兄さんの、委託いたくに背いてしまったのです。取返しの付かないことをしてしまったのです。が、その代り、私は貴君あなたを何うかして、救いたいと思ったのです。お兄さんに対する僕の責任として、貴君が同じ過あやまちを犯すのを、何うかして救いたいと思ったのです。私は、そのために、あの方に頼んだのです。青木君に対する貴女あなたの後悔として、青木君の弟丈は弄んで呉れるな。弟さん丈は何うか、誘惑して呉れるな。私は、そう云って事を別わけて頼んだのです。それだのに、彼女はそれを冷然と跳はね付けたのです。いや、跳付けたばかりではありません。私のそうした依頼を嘲あざけるように、いやそれに対する意地のように、わざと貴君を一緒に連れて来ているのです。」

六

青年の面が、火のような激憤で、埋まるのを見ると、紳士はそれを宥なだめるように云いった。

「いや、貴君あなたがお怒りになり、お駭おどろきになるのも尤もっともです。が、あゝした人には、近よらないのが万全の策です。貴君が怒って先方にぶつかって行くと、いよ〱相手の術策に陥ってしまうのです。あの方の張っている蜘蛛くもの網の中で手も足も出なくなってしまうのです。たゞ、一刻も早く茲ここを去られるのが得策です。いや、茲ばかりではありません。夫人の周囲から、絶対に去られるのが得策です。触らぬ神に祟たたりなしと云う言葉があります。まして、相手は特別、恐ろしい女神ですから。はゝゝゝゝゝゝ。」

紳士は軽く笑った、話が、余り緊張して来たのを、わざと緩ゆるめようとして。

「然しかし、兎とに角かく私としては、これでお兄さんに対する責任を少しは尽したように思うのです。そう云う意味で、貴君が僕の云うことを、よく聴いて下さったのを有難く思うのです。いや、私が一歩遅かったら、貴君もどんな目に逢あっているかも知れなかったのです。」

紳士は、自分の忠告が間に合ったことを、欣よろこぶような顔色を示した。が、彼の忠告は間に合っただろうか。いな、彼の忠告は、後の祭ツーレートだった。一時間だけ、遅れ過ぎた。

彼の忠告は、災禍の火を未然に消す風とならずして、却かえってその火を煽あおり立てた。彼が、夫人の危険を説いたときに、青年はもう、夫人から弄もてあそばれていたのだ。否いな、弄ばれたと思っていたのだ。夫人から、弄ばれた恨と憤いきどおりとに、燃えていた青年の心を、彼はいやが上に煽った。

『お前ばかりではない、お前の肉親の兄も、あの女に弄ばれて、身を過あやまったのだ! 身を亡ほろぼしたのだ!』と。

「いや! 御忠告ありがとう! 御忠告ありがとう!」

青年は、そう云いながら立ち上った。が、あまり興奮した為ためだろう、彼は、眼が眩くらんだように、よろめいた。

紳士は、周章あわてて、青年の身体を支えた。

「いや、あまりに興奮なさっては困りますよ。お心を落着けて、気を静めて!」

が、青年はそれを振切った。

「いや、捨てゝ置いて下さい! 大丈夫です、大丈夫です!」

そう云いながら、青年は廊下へよろめきながら出た。『大丈夫です!』と、口では云ったものの、彼はもう決して、大丈夫ではなかった。

彼の頭の中には、激情の嵐あらしが吹き荒れた。怒と恨との洪水こうずいが漲みなぎった。理性の燈火は、もうふッつりと消えてしまっていた。

「兄を弄んだ上に、この俺を!」

そう思うと、彼の全身の血は、怒のためにぐん〱と煮え返った。

「兄を弄んで間接に、殺して置きながら、まだ二月と経たたない今、この俺を! 箱根まで誘い出して、謂いわれのない恥辱を与える!」

そう考えると、彼の頭の裡うちは、燃えた。身体中からだじゅうの筋肉が、異様に痙攣けいれんした。

もう世の中の他の凡すべては、彼の頭から消え去った。国家も社会も法律も、父も母も妹も、恐怖も羞恥しゅうちも、愛も同情も。たゞ恐ろしい憎にくしみ丈が残った。その憎みは、爆発薬のような烈はげしさで、彼の胸の裡を縦横にのたうった。

そうした彼の心の裡に、焼き付いたように残っているのは、先刻さっき読んだ兄の手記中の一節だった。

『そうだ、一層いっそ死んでやろうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思い知らせるために。』

が、兄が死んでも彼女は、少しも思い知ろうとはしなかった。兄の死を冷眼視するほど、彼女が厚顔無恥であるとしたならば、彼女を思い知らせるには、そうだ! 彼女を思い知らせるには。

そう考えたとき、彼の全身の血は、海嘯つなみのように、彼の狂いかけた頭へ逆上して来た。

破裂点

一

強羅ごうら公園で、お互の心からなる浄きよい愛に、溶け合った美奈子みなこと瑠璃子るりことが、其処そこに一時間以上も費して、宮の下へ帰って来たのは、夜の十時を廻った頃だった。

二人とも、心の裡うちでは、青年のことが気になっていたけれども、それを口に出すことを避け合った。

が、部屋へ入ったとき、瑠璃子は遉さすがに青年の寝室の扉ドアに立ち寄って、そっと容子を窺うかがった。

「もう、青木さんは寝たのかしら。」

そう云いって、彼女は扉に手をかけて見た。それは平素いつもになく内部から、鍵かぎが、かけられたと見え、ビクリとも動かなかった。

「あゝ。もう、寝ていらっしゃる!」

瑠璃子は、やっと安堵あんどしたように云った。

美奈子と瑠璃子とが、同じ寝室に入って、寝台ベッドの中に横わったのは、もう十一時を廻った頃だった。

電燈を消してからも、美奈子は母と暫しばらくの間、言葉を交えた。その裡に、十二時が鳴った。彼女は、駭おどろいて眠に入ろうとした。が、その夜の烈はげしい経験は、――彼女が生れて以来初めて出会ったような複雑な、烈しい出来事は、彼女の神経を、極度に掻かき擾みだしていた。彼女が、いくら眠ろうとあせっても、意識は冴さえ返って、先刻の恐ろしい情景が、頭の中で幾度も幾度も、繰り返された。青年の凄すごいほど、緊張した顔が、彼女の頭の中を、巴ともえのように馳かけ廻った。

眠ろう眠ろうとあせればあせるほど、神経が益々ますますいらだって来た。記憶が、異常に興奮して、自分の生い立ちや、母の死や父の死や、兄の事などが、頭の中に次ぎ次ぎに思い浮んで来た。

その裡に一時が鳴った。

瑠璃子も、寝台ベッドの中で、暫らくの間は、眠り悩んでいたようだったが、その裡に、おだやかな鼾いびきの声が聞え初めた。

母が、眠に就いたのを知ると、美奈子は益々あせっていた。口の中で、数を算かぞえて見たり、深呼吸をして気持を落ち着けようと試みたりした。が、それもこれも無駄だった。先刻聴いたばかりの青年の怨うらみの声が、落ち着こうとする美奈子の心の裡に、幾度も〱甦よみがえって来た。

その裡に、二時が鳴った。

烈しい興奮のために、頭脳あたまも眼も、疲れ切っていながら、それが妙にいら〱して、眠は何どうしても来なかった。

その裡に、到頭三時が鳴った。

遉さすがに、彼女の意識は疲れてしまった。不快な、重くるしい眠が、彼女のぐた〱になった頭脳を蝕むしばみ始めていた。現うつつともなく夢ともないような、いやな半睡半醒はんすいはんせいの状態が、暫らく続いた。彼女はとろとろとしたかと思うと、ハッと気が付いたり、気が付いたかと思うと、深い泥沼の中に、引きずり込まれるように、いやな眠りの中に、陥って行ったりした。

彼女が、砂を噛かむような現と、胸ぐるしい悪夢との間に、さまよっていたときだった。彼女は、何者かが自分を襲おそって来るような、無気味な感じがした。寝室の扉が、かすかに動いているような感じがした。自分に襲いかゝっている人の足音を聴くような気がした。が、それが夢であるか現であるか確める気にもなれないほど、彼女の意識は混沌こんとんとしていた。

到頭、悪夢が、彼女を囚とらえてしまった。彼女は母と一緒に田舎路みちを歩いていた。それが、死んだ母のようでもあり、現在の母であるようにも思われた。ふと、地平の端に白い何物かが現れた。それが矢のような勢いで、彼女達の方へ向って来た。つい、目の前の小川を飛び越したとき、それが白い牡牛おうしであることが、判わかった。狼狽ろうばいしている美奈子達を目がけて激しい勢いで殺到した。美奈子は悲鳴を挙げながら、逃げた。牡牛は、逃げ遅れた母に迫った。美奈子が、アッと思う間もなく、牡牛の鉄のような角は、母の脇腹わきばらを抉えぐっていた。母の、恐ろしい呻うなり声が美奈子の魂を戦おののかしたが、母の呻うめき声を聴いた途端に、悪夢は断きれた。が、不思議に呻き声のみは、尚なお続いていた。

二

悪夢の裡うちに聴いた呻き声を、美奈子は夢現ゆめうつつの間に聞き続けていた。

「うゝむ! うゝむ!」

腸はらわたを断つような呻き声が、段々彼女の耳の近くに聞え初めた。彼女の意識が、醒さめかゝるに連れてその呻き声は段々高くなった。

「うゝむ! うゝむ!」

彼女は、到頭寝台の上に醒めた。醒めたと同時に、彼女は冷水を浴びたような悪寒おかんを感じた。

「うゝむ! うゝむ!」

ひきしぼるような悲鳴は、彼女の身辺からマザ〱と起っているのであった。

「お母様!」

それは、悲鳴だった。

「お母様! お母様!」

美奈子は、つゞけ様に、縋すがり付くような悲鳴を揚げた。

母の答はなかった。

低い、しぼり出るような悲鳴が、物凄ものすごく闇やみの中に起っているだけだった。

「あ! お母様!」

美奈子は、堪たまらなくなって、寝台から転まろび落ちた。

母の寝台は、二尺とは離れていなかった。彼女が、顫ふるえる手を、寝台の一端にかけたとき、生あたたかい液体が、彼女の手にベットリと、触れた。

「お母様!」彼女の声は、わな〱と顫えていた。

彼女の手は、母の胸に触れた。母の華奢きゃしゃな肉体が、手の下でかすかにうごめいた。

「お母様! お母様! 何どう遊ばしたのです。」彼女は、懸命の声を揚げた。

低い呻うめき声が、しばらく続いていた。

「お母様! お母様! 気を確になさいませ。」美奈子は、狂ったように叫んだ。

母は、烈しい苦悩の下から、しぼり出すように答えた。

「燈火あかりを! 燈火を!」

傷きずつける者、死なんとする者が、第一に求めるものは光明だった。

美奈子は立上って電燈を探し求めた。狼狽あわてている故せいか、電燈がなか〱手に触れなかった。

が、ようやくスイッチを捻ひねったとき、明るい光は、痛ましい光景を、マザ〱と照し出した。母の白い寝衣ねまき、白いシーツ、白い毛布に、夜目には赤黒く見える血潮が、ベタ〱と一面に浸にじんでいる。

「あっ!」

美奈子は、一眼見ると床の上に、よろめきながら打ち倒れた。が、母を気遣う心が、直すぐ彼女を起たち上らせた。

「お母様! しっかりなさいませ!」

彼女は、そう叫びながら、母に縋り付いた。致命の傷を負いながら、彼女は少しも取り乱した様子はなかった。右の脇腹わきばらの傷口を、両手でじっと押えながら、全身を掻かきむしるほどの苦痛を、その利きかぬ気で、その凜々りりしい気性で、じっと堪こらえているのだった。

彼女のかよわい肉体の血は、彼女が抑えている両手の間から、惜しげもなく流れ出しているのだった。

美奈子も一生懸命だった。自分の寝台のシーツを取ると、それを小さく引き裂いて、母の傷口を幾重にも幾重にもくゝった。

「お母様! 気を確になさいませ。直ぐ医者を呼びますから。」

彼女は、母の耳元に口を寄せて、必死に呼んだ。それが、耳に入ったのだろう、母は、かすかに頭を動かした。大理石のように、光沢のあった白い頬は、蒼あおざめて、美しい眼は、にぶい光を放ち、眉まゆは釣り上がり、唇くちびるは刻一刻紫色に変っていた。

美奈子が、寝室を出て、居間の方にある卓上の電話を取り上げたときだった。彼女は、青年の寝室の扉ドアが開かれて、其処そこに寝台が空むなしく横たわっているのを知った。

恐しい悲劇の実相が、彼女に判然と判わかった。

三

医者が来るまで、瑠璃子は恐ろしい苦痛に悶もだえていた。が、彼女はその苦痛を、じっと堪えていた。華奢きゃしゃな身体に、致命の傷を負いながら、彼女は悲鳴一つ揚げなかった。たゞ抑え切れない苦痛を、低いうめき声に洩もらしているだけであった。

美奈子の方が、却かえって逆上していた。彼女は、母の胸に縋すがりながら、

「お母様! しっかりして下さい。しっかりして下さい!」と、おろ〱叫んでいるだけだった。

その裡うちに、瑠璃子は、ふと閉していた眼を開いた。そして、異様な光を帯び初めた眸ひとみで、じっと美奈子を見詰めた。

「お母様! お母様! しっかりして下さい!」

美奈子は、泣き声で叫んだ。

「美奈さん!」

瑠璃子は、身体に残っている力を、振りしぼったような声を出した。

「わーたーし、わたし今度は、もう――駄目かも知れないわ。」

一語二語、腸はらわたから、しぼり出るような声だった。

「お母様! そんなことを! 大丈夫でございますわ、大丈夫でございますわ。」

「いゝえ! わたし、覚悟していますの。美奈さんには、すみませんわね。」

そう云いった母の顔は、苦痛のために、ピク〱と痙攣けいれんした。

美奈子は、わあっ! と泣き出さずにはいられなかった。

「それで、わたし貴女あなたに、お願いがあるの。あの、電報を打つときに、神戸へも打っていたゞきたいの!」

瑠璃子は、恐ろしい苦痛に堪えながら、途切れ〱に話しつゞけた。

「神戸! 神戸って、何方どなたにです?」

美奈子は、怪しみながら訊きいた。

「あの、あの。」瑠璃子は苦痛のために、云い澱よどんだようだったが、「あの、杉野直也なおやです。わたし、新聞で見たのです。月初に、ボルネオから帰って、神戸の南洋貿易会社にいる筈はずです。死ぬ前に一度逢あえればと思うのです。」

瑠璃子は、やっと喘あえぎながら云い終ると、精根が全く尽きたように、ガクリとくずおれてしまった。

二年の間、恋人のことを忘れはてたように見せながらも、真は心の底深く思い続けていたのであろう。恋人の消息を、外よそながら、貪むさぼり求めていたのであろう。

医者が、来たのは夏の夜が、はや白々とあけ初める頃であった。

一時間近くもかゝったために、瑠璃子は、多量の出血のために、昏々こんこんとして人事不省の裡にあった。

内科専門のまだ年若い医者は、覚束おぼつかない手付で、瑠璃子の負傷を見た。

それは、可なり鋭い洋刀ナイフで、右の脇腹わきばらを一突き突いたものだった。傷口は小さかったが、深さは三寸を越していた。

「重傷です。私は応急の手当をしますから、直ぐ東京から、専門の方をお呼び下さい。今のところ生命には、別条ないと思いますが、然しかし最も余病を併発し易やすい個所ですから、何とも申せません。」

医者の眉は、憂うれわしげに曇った。

いたいけな美奈子には、背負い切れないような、大切な仕事を、彼女は烈はげしい悲嘆と驚きとの裡に処理せねばならなかった。その中で、一番厭いやだったのは、医者が去るのと、入れ違いに入って来た巡査との応答だった。

「加害者は、逃げたのですか。」

美奈子は、何とも答えられなかった。

「その青木と云う学生と、貴女のお母様は何どう云う御関係があったのです。」

美奈子は、何とも答えられなかった。

「何か兇行きょうこうをするに就て、最近の動機ともなったような事件がありましたでしょうか。」

美奈子は、何とも答えられなかった。たゞ、彼女自身、恐ろしい罪の審問しんもんを受けているように、心が千々に苛さいなまれた。

四

夜は明け放れた。今日も真夏の、明るい太陽が、箱根の山々を輝々ききとして、照し初めた。が、人事不省の裡うちに眠っている瑠璃子は、昏々こんこんとして覚めなかった。生と死の間の懸崖けんがいに、彼女の細き命は一縷いちるの糸に依よって懸っていた。

その日の二時過ぐる頃、美奈子の打った急電に依って、予かねて美奈子の傷を治療したことのある外科の泰斗たいと近藤博士が、馳かけ付けた。が、博士に依って、あらゆる手当が施ほどこされた後も、瑠璃子の意識は返って来なかった。

その前後から、烈はげしい高熱に襲われ初めた瑠璃子は、取りとめもない囈言うわごとを云いいつゞけた。その囈言の中にも、美奈子は、母が直也と呼ぶのを幾度となく聴いた。

夕暮になって、瑠璃子の父の老男爵だんしゃくが馳け付けた。瑠璃子の近来の行状を快く思ってはいなかった男爵は、その娘と一年近くも会っていなかった。が、死相を帯びながら、瀕死ひんしの床に横わっている瑠璃子を見ると、老いた男爵の眼からは、涙が、潸然さんぜんとしてほうり落ちた。娘のこうした運命が、九分までは自分の責任だと思うと、娘の額に手をやった男爵の手は、わな〱顫ふるえずにはいなかった。

美奈子は、母の兄なる光一にも、電報を打ったけれども、恐らく彼は東京を離れていたのだろう、夜になっても姿を見せなかった。

東京から急を聴いて馳け付けた女中や、執事しつじなどで、瑠璃子の床は賑にぎやかに取巻かれた。が、母を――肉親は繋つながっていなくとも心の内では母とも姉とも思う瑠璃子を、失おうとする美奈子の心細さは、時の経たつと共に、段々募つのって行った。

丁度夜の十時に近い頃だった。母はやゝ安眠に入ったと見え、囈言が、暫しばらく杜絶とだえて、いやな静けさが、部屋の裡に、漂っていたときだった。廊下に面した扉ドアを、低く、聞えるか聞えないかに、トン〱と打つ音がした。女中が立ってそれを開いたが、直すぐ美奈子の所へ帰って来た。

「あの、お嬢さま。ホテルの支配人の方が、一寸ちょっとお目にかゝりたいと申しております。」

美奈子は、立ち上って扉の所へ行った。

「どうか、一寸こちらへ。」

支配人は、美奈子に廊下へ出ることを求めた。美奈子が、一寸不安な気持に襲われながら、続いて廊下へ出ると、支配人は声をひそめた。

「お取込みの中を、大変恐れ入りますが、今箱根町から電話がかゝっているのです。実は蘆あしの湖で今夕水死人の死体が上ったと云うのですが、それが二十三四の学生風の方で、舟の中に残して置いた数通の遺書で見ると、富士屋ホテルにて、青木、と書いてあったと云うのです。」

そこまで、聴いたとき、美奈子は自分の立っている廊下の床が、ズーッと陥込おちこむような感じがしたかと思うと、支配人が駭おどろいて彼女の右の肩口を捕えていた。

「あゝ危い! しっかりして下さい!」

彼女は、最後の力で、自分のよろめく足を支えた。が、暫らくの間、天井と床とがグル〱廻るような気がした。

「いや、お駭かせしてすみません、たゞ青木さんの東京のお処ところだけが承りたかったのです。」

美奈子が、顫える声で、それに答えると、支配人は幾度も詫わびながら、倉卒そうそつとして去った。

もう、美奈子の弱い心は、人生の恐ろしさに、打ち砕かれてしまっていた。彼女が部屋へ帰って来たとき、彼女の顔色は、傷きずついている瑠璃子のそれと少しも変っていなかった。

が、丁度その時に、瑠璃子は長い昏睡こんすいから覚めていた。美奈子の顔を見ると、彼女は懐なつかしげな眸で物を云いたそうにした。

「お母様! お気が付きましたか。」

少し明るい気持になりながら、美奈子は母の耳許みみもとで叫んだ。

「あゝ、美奈さん。まだ? まだ?」

五

消えかゝる灯ともしびのように、瑠璃子の命は、絶えんとして、又続いた。

翌日になって、彼女の熱は段々下って行った。傷の痛みも、段々薄らいで行くようだった。が、衰弱が、いたましい衰弱が、彼女の凄艶せいえんな面に、刻一刻深く刻まれて行った。

彼女の枕頭ちんとうに、殆ほとんど附き切っている近藤博士の顔は、それにつれて、憂うれわしげに曇って行った。

「何どうでしょう、助かりましょうか。」

父の男爵だんしゃくは、傍に誰もいないのを見計みはからって、囁ささやくように訊きいた。

「希望はあります。けれど……」

そう答えたまゝ、博士の口は重く噤つぐまれてしまった。

美奈子は、そうした問を発することが、恐ろしかった。彼女はたゞ、力一杯、心と身体との力一杯消え行こうとする母の魂に、縋すがり付いている外はなかった。昨夜中、眠らなかった美奈子の身体は綿のように疲れていた。が、彼女は誰が何と勧めても母の病床を去ろうとはしなかった。

瑠璃子は、昏睡こんすいから覚める度に、美奈子の耳許近く、同一の問を繰返していた。が、その人は容易に、来なかった。電報が運よく届いているかどうかさえ、判然はっきりしなかった。

午後三時頃だった。瑠璃子は、その衰えた視力で、美奈子をじっと見詰めていたが、ふと気が付いたように云った。

「青木さんは?」

美奈子は愕然ぎょっとした。彼女は、暫しばらくは返事が出来なかった。

「青木さんは?」

母は、繰り返した。美奈子は、顫ふるえる声で答えた。

「何処どこへ行かれたか分りませんの。あの晩からずうっと分りませんの。」

が、瑠璃子は、美奈子の表情で凡すべてを悟さとったらしかった。寂しい微笑らしい影が、その唇のほとりに浮んだ。

「美奈さん、本当を云いって下さい。妾わたし覚悟していますから。どうせ助からないのですから。」

美奈子は、何とも口が利きけなかった。

「自首したの?」

美奈子は、首を振った。瑠璃子の衰えた顔に、絶望的な色が動いた。

「じゃ、自殺?」

美奈子は、黙ってしまった。彼女の舌は、釘付くぎづけられたように動かなかった。

「そう! 妾、そうだと思っていたの。でも今度丈は、妾悪意はなかったの。」

そう云いながら、瑠璃子は目を閉じた。美奈子に凡すべてが判わかっていた。母は、美奈子に対する義理として、青年をあれほど、露骨に斥しりぞけたのだった。美奈子に対する彼女の真心が、彼女を、この恐ろしい結果に導いたのだと云ってもよかった。そう思うと、美奈子は身も世もないような心持がした。

日暮に近づくに従って、瑠璃子の容態は、険悪になった。熱が、反対にぐん〱下って行った。呼吸が――それも何の力もない――愈々いよいよせわしくなって行った。

博士は、到頭今夜中が危険だと云うことを、宣言した。

瑠璃子に対して、死の判決文が読まれたときだった。ホテルの玄関に、横着よこづけになった一台の自動車があった。それは昔の恋人の危急に駭おどろいて、瀕死ひんしの床を見舞うべく駈かけ付けて来た直也だった。熱帯地に於おける二年の奮闘は、彼の容貌ようぼうをも変えていた。一個白面の貴公子であった彼は、今や赭あかぐろい男性的な顔色と、隆々たる筋肉を持っていた。見るからに、颯爽さっそうたる風采ふうさいと面魂つらだましいとを持っていた。その昔ながらに美しい眸ひとみは、自信と希望とに燃えていた。

六

直也が瑠璃子の部屋に入って来たとき、瑠璃子は夢ともなく現うつつともないように眠っていた。

生命そのもの、活動そのものと云ったような直也の姿と、死そのもの、衰弱そのものと云ったような瑠璃子の蒼あおざめた瀕死ひんしの姿とは、何と云う不思議な、しかしあわれな、対照をしただろう。青春の美しさと、希望とに輝きながら、肩をならべて歩いた二年前の恋人同士として、其処そこに何と云うおそろしい隔へだたりが出来たことだろう。

美奈子は、看護婦達を遠ざけた。そして、母の耳許みみもとに口を寄せて叫んだ。

「お母さま、あの、直也様がいらっしゃいました。」

段々、衰えかけている瑠璃子の聴覚には、それが容易には聞えなかった。美奈子は再び叫んだ。

「お母さま、直也様がいらっしゃいました。」

瑠璃子の土のように蒼あおい面かおの筋肉が、かすかに、動いたように思った。美奈子の声が漸ようやく聞えたのである。美奈子は、三度目に力を籠こめて叫んだ。

「お母様、直也様がいらっしゃいました。」

ふと母の頬が、――二日の間に青白く萎しなびてしまった頬が、ほのかにではあるがうす赤く染まって行ったかと思うと、その落窪おちくぼんだ二つの眼から、大粒の涙がほろ〱と、止めどもなく湧わき出いでた。と、今まで毅然きぜんとして立っていた、直也の男性的な顔が、妙にひきつッたかと思うと、彼の赭あかぐろい頬を、涙が、滂沱ぼうだとして流れ落ちた。

美奈子は、恋人同士に、二人限きりの久し振りの、やがて最後になるかも知れない会見を与えようと思った。

「お母様! それでは、妾わたくしはお次ぎへ行っておりますから。」

そう云って、美奈子は次ぎの部屋に去ろうとした。すると、意外にも瑠璃子は、瀕死の声を揚げて云った。

「美奈さん! あなたも――どうか〱いて下さい。」

それは、かすかな、僅わずかに唇くちびるを洩もるゝような声だった。

「お母様、妾もいるのですか。妾もいるのですか。」美奈子は、再び訊きいた。母は、肯いた。いな肯くように、その重い頭を、動かそうとしたのだ。

やがて、瑠璃子は、その衰えはてた眸ひとみを持ち上げながら、何かを探るような眼付をした。

「瑠璃さん! 僕です、僕です。分りますか。杉野ですよ。」

直也も、激して来る感情に堪たえないように叫びながら、瑠璃子に掩おおいかぶさるように、その赭い顔を、瑠璃子の顔に触れるような近くへ持って行った。

瀕死の眼にも恋人の顔が分ったのだろう、彼女の衰えた顔にも嬉うれしげな微笑の影が動いた。それは本当に影に過ぎなかった。微笑ほほえむ丈の力も、彼女にはもう残っていなかったのだ。

「直也さん!」

瑠璃子は、消えんとする命の最後の力を、ふりしぼったのだろう、が、しかし、それはかすかな、うめくような声として、唇を洩れたのに過ぎなかった。

「何です? 何です?」

直也は、瑠璃子の去らんとする魂に、縋すがり付くように云った。

「わ――た――し、あなたには何も云いませんわ。たゞお願いがあるのです。」

それだけ続けるのが、彼女には精一杯だった。

「願いって何です?」

「聴いてくれますか。」

「聴きますとも。」

直也は、心の底から叫んだ。

「あの――あの――美奈さんを、貴君あなたにお頼みしたいのです。美奈さんは――美奈さんは――みなし――みなし――みなしご……」

そこまで、云ったとき、彼女の張り詰めた気力の糸が、ぶつりと切れたように、彼女はぐったりとなってしまった。

母が、直也を呼んだことが、彼女自身のためではなく、母が一番信頼する直也に、自分の将来を頼む為ためであったかと思うと、美奈子は母の真心に、その死よりも強き愛に、よゝとばかり、泣き伏してしまった。

その夜、瑠璃子の魂は、美しかりし彼女の肉体を永久に離れた。烈々たる炎の如ごとき感情の動くまゝに、その短生を、火花の如く散らし去った彼女の勝気な魂は、恐らく何の悔くいをも懐いだくことなく縹渺ひょうびょうとして天外に飛び去ったことだろう。

七

母を失った美奈子の悲嘆は、限りもなかった。彼女は、世の中の凡すべてを失うとも、母さえ永らえて呉くれゝばと、嘆き悲しんだ。

母の亡骸なきがらが、棺に納められた後、彼女は涙の裡うちに母の身辺のものを、片づけにかゝっていた。そして、最後に、母が刺されたその夜に、身に付けていた、白い肌襦袢はだじゅばんに、手を触れなければならなかった。それには、所々血が滲にじんでいた。美奈子は、それに手を触れるのが恐ろしかった。が、母が身に付けたものを、他人の手にかけるのは、厭いやだった。彼女は、恐る〱それを手に取り上げた。そのときに、彼女はふとその襦袢の胴のところに、布類とは違った堅い手触りを感じた。彼女は駭おどろいて見直した。其処そこには何か紙片かみきれのようなものが、軽く裏側から別に布を掩おおうて、縫い付けられていた。彼女はそれを見ようか見まいかと思いまどった。母の秘密を、死後に暴あばくことになりはしないかと恐れたが、彼女はそれが母の大切な遺書か、何かのようにも思われた。彼女は、思い切って、おそる〱それを取り出して見た。意外にも、それは台紙を剥はがした一葉の写真だったのである。写真は、絶えず母の肌と触れていたために、薄れてはいたけれども、まぎれもなく直也が、学生時代の姿だった。

美奈子は、その写真を見たときに、母の本当の心が判わかったように思った。母が、黄金の力のために偽いつわりの結婚をしたときも、美しき妖婦ようふとして、群がる男性を翻弄ほんろうしていたときにも、彼女の心の底深く、初恋の男性に対する美しき操みさおは、汚けがれなき真珠の如ごとく燦然さんぜんとして輝いていたのであった。いな、彼女は初恋の人に対する心と肉体との操を守りながら、初恋を蹂ふみ躙にじられた恨を、多くの男性に報いていたと云いってもよかった。

美奈子は、母に対する新しい感激の涙に咽むせびながら、隣室にいた直也を呼ぶと、黙ってその写真と肌襦袢とを示した。

暫しばらく、それを見詰めていた直也は、溢あふれ出ずる涙が、美奈子の手前一寸ちょっとは支えていたが、到頭堪えきれなくなったと見え、男泣きに泣き出してしまった。

*        *        *

青木稔みのると瑠璃子との死に就いて、都下の新聞紙は、その社会部面の過半を割いて、いろ〱に書き立てた。が、そのどれもが、瑠璃子夫人を男の血を吸う、美しき吸血魔ヴァンパイアとすることに一致した。中には、夫人の死を、妖婦カルメンの死に比しているものもあった。夫人の華麗奔放、放縦不羈ほうじゅうふきの生活を伝聞していた人々は、新聞の報道を少しも疑わなかった。夫人の美しさを頌たたえると同時に、夫人の態度を非難する嵐あらしのような世評の中に在って、夫人の本当の心、その本当の姿を知っているものは、美奈子と直也の外にはなかった。

が、世の中の千万人から非難されようとも、彼女がこの世の中で愛した、たった二人の男性と女性とから、理解されていることは、大輪の緋牡丹ひぼたんの崩るゝ如く散り去った彼女に取って、さぞ本望であっただろう。

*        *        *

記憶のよい読者は、去年の二科会に展覧された『真珠夫人』と題した肖像画が、秋の季節シーズンを通じての傑作として、美術批評家達の讃辞さんじを浴びたことを記憶しているだろう。

それは、清麗高雅、真珠の如き美貌びぼうを持った若き夫人の立姿であった。而しかも、この肖像画の成功はその顔に巧みに現わされた自覚した近代的女性に特有な、理智りち的な、精神的な、表情の輝きであると云われていた。その絵を親しく見た人は、画面の右の端に、K. K. と署名サインされているのに気が付いただろう。それは、妹の保護のもとに、芸術の道に精進していた唐沢光一が、妹の横死を悼いたむ涙の裡に完成した力作で、彼女に対する彼が、唯一ゆいいつの手向たむけであったのであろう。

*        *        *

瑠璃子を失った美奈子の運命が、此先何うなって行くか、それは未来のことであるから、此の小説の作者にも分らない。が、われ〱は彼女を安心して、直也の手に委まかせて置いてもいゝだろうと思う。

底本 / Source edition

底本:「真珠夫人(上)」新潮文庫、新潮社
2002(平成14)年8月1日発行
「真珠夫人(下)」新潮文庫、新潮社
2002(平成14)年8月1日発行
初出:「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」
1920(大正9年)6月9日~12月22日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「甲斐々々《かいがい》しく」と「甲斐甲斐《かいがい》しく」の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:トレンドイースト、門田裕志、Juki
2014年5月14日作成
2016年9月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/004822_000083/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/004822_000083/

菊池 寛「真珠夫人」(新字新仮名)、底本『真珠夫人(下)』新潮文庫、新潮社、2002年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004822_000083, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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