Soranoha

樹木とその葉

じゅもくとそのは

若山 牧水

武藏むさしから上野かうづけへかけて平原を横切つて汽車が碓氷うすひにかゝらうとする、その左手の車窓に沿うて仰がるゝ妙義山の大岩壁は確かに信越線中での一異景である。丁度そのあたり、横川驛で機關車は電氣に代る。そして十分か十五分の停車時間がある。辨當賣の喧しい聲々の間に窓を開いて仰ぐだけに、空を限つて聳え立つたこの異樣な山の姿が一層旅心地を新たにする樣だ。

驛から發車して間もなく、同じ左手にかなり強い角度を以て碓氷川へ傾斜してゐる桑畑か何ぞの中に坂本といふ舊い宿場が見下さるゝ。今は横川驛の影響でゝもあるか、幾らか賑つて居る樣に見ゆるが、まだ汽車が蒸氣機關車の煤煙と共に碓氷の隧道トンネルに走り入つてゐた頃は、まるで白晒しらされた一本の脊髓骨の捨てゝある樣な、荒れ果てた古驛であつた。明治四十一年の眞夏、私は輕井澤を午後に立つて碓氷の舊道を歩いて越え、日沒頃にその坂本に入つた。碓氷峠を挾んで西と東、輕井澤と共に昔の中山道では時めいた宿場だつたに相違ない其處なので一軒位ゐはあるであらうとあてにして來た宿屋がまるで無かつた。ただ一軒、蔦屋といつたと思ふ、木賃宿があつた。爺さんと婆さんとに一度斷られたのを無理に頼んで泊めて貰ふことになつた。

酒を取つて來て貰つたが酸くて飮めない。麥酒を頼んだが、そんな物はないといつて取合はない。せめて葡萄酒でもと今度は自分で探しに出たが、全く何も無かつた。そして代りに燒酎を買つて來た。酸くないだけでも遙かにましであつた。夏も火を斷たぬ大圍爐裡で爺さんを相手に飮んで床に入つた。宿は爺婆だけで、他に誰もゐなかつた。息子も娘もあるのだが、土地には何もする用がないので皆出稼ぎに行つてゐるのださうだ。

ほんのとろ〱としたと思ふと眼が覺めた。湧く樣な蚤の襲撃である。一度眼が覺めたと共にもうどうしても眠れない。時計を見るとまだ宵の口だ。私は戸をあけて、月の出た石ころ道を少し歩き下つてまた燒酎を買つて來た。も少し醉つて眠らうとしたのである。

翌朝、まだ月のあるうちにその宿を立つた。そして近道をとつて妙義山へ登らうとした。一度碓氷川を渡つて少しゆくと、また一つの谷を渡らねばならなかつた。其處には橋が流れ落ちてゐた。二三日前の豪雨のためで、まだ其時の水量が相當に殘つてゐた。殘りは爺さんの置土産にしようと思つて買つて來た燒酎をあらかた私は飮んでしまつてゐたので、其頃もまだ充分に醉つてゐた。普通ならばあと戻りをしたであらうが、その醉が躊躇なく私を裸體にした。そして頭に着物と荷物とを押し頂いて、しかも下駄を履いたまゝその谷川の瀬の中へ入つて行つた。

山谷の事で、流の中に隱れてゐる石は二抱へ三抱への荒石ばかり、少年の頃の經驗からその岩の頭を拾つて足を運ばうとしてゐたのであつたが、洪水の名殘は思ひのほかに激しく、僅か七八歩も踏み出したと思ふと、忽ち私は途方に暮れた。そして自信力の失せると共に、何の事もなく私は横倒しに倒れてしまつた。倒れたまゝ三四間が間くる〱と押し流された。辛うじて瀬の中に表れた大きな岩と岩との間に踏み止つた時には、私の手には帶でくるんだ着物だけが僅かに殘つてゐた。書籍手帳其他を入れた手馴の旅行袋も、帽子も下駄も、面白い勢ひで二三間さきをくる〱と流れて行きつゝあつたが、もう手を出す勇氣は無かつた。見れば其處から七八間下を碓氷川の本流が中高に白渦を卷きながら流れて下つてゐた。其處まで落ちてゆけば、荷物はおろか、自分自身の運命も大抵想像出來るのであつた。

這ひ上つた岩は自分の渡らうとした向う岸に近かつた。必死の覺悟で、再び流の中に入つてゆくと、速く下駄をぬげばよかつたと悔まれたほど、意外に樂に渡り上ることが出來た。渡り上ると共に濡れた着物を乾かす智慧も出ず、長い間私は石の上につき坐つて息を入れた。そして束ねたまゝで雫の垂れるそれを着て――財布と時計とが袂の中から出て來たのが無闇に嬉しく勇氣をつけて呉れた――とぼとぼと歩き出した。

其處は妙義の麓の、かなり深い雜木林に當つてゐた。雨のあとの、それでなくとも濕つぽい林の中の道を濡れそぼたれた白地の浴衣で、下駄も履かず、ぴしや〱ぴしや〱歩いてゆく姿は、われながら年若いあはれな乞食を想はせられた。幸ひに人に逢はなかつたが、半道も歩いた頃、向うから大きな笊ざるを提げて來る年寄の百姓を見た。初め彼は氣がつかなかつたが、行き違はうとする頃になつて私の姿を見て喫驚した。お互ひに默禮して行き違ひさまに見るとその笊ざるには桃がいつぱい入れてあつた。何の氣なく行きすぎたが、私は急にその爺さんに聲がかけて見度くなつた。そして、其儘そのまま振返つて見ると、爺さんも丁度こちらを見やうとした所であつた。

『ア、ちよつと、お爺さん!』

爺さんは明らかにびくりとした。が、流石に私の聲を聞いて走り出すまでにはならなかつた。返事はしなかつたが、立止つて不安さうに振返つた。

『その桃を二つ三つ賣つて呉れませんか。』

さう言ひながら、二三歩私は歩き戻つた。

『桃かね。』

爺さんもさう言つて、無理に笑はうとした。

『今朝、宿屋で御飯を待たずに出て來たのでおなかがすいて困るのです。それに、其處の谷で斯んなになつて……』

袂をあげて見ると、まだしと〱と濡れてゐた。

『ハヽア、さうかね、其處の谷でかね……』

爺さんの聲も漸く落ちついて來た。そして私が財布をとり出すと、

『二つ三つなら錢はいらねエ、たゞ上げますべえよ。』

と齒の無い、皺深い顏で、ニコ〱と笑ひながら片手で桃を掴んで呉れた。

『いゝえ、それぢア困る……、ではこれだけ取つといて下さいな。』

つまみ出した十錢銀貨もまだ露つぽかつた。

『うゝん、そんなにヤいらねエ、おつりもねエ。』

爺さんは惶てゝ手を振つた。

『ではもう二つこれを下さい。』

と手づから私は桃を取つた。そして、何といふことなく爺さんを其處に呼びとめておく事が氣の毒になつたので、

『どうも難有ありがたう、お蔭で元氣が出ましたよ、左樣なら!』

と帽子のない頭を下げながら、急ぎ足に歩み出した。爺さんはなほ暫く立つてゐたが、やがてこれも、あちら向きにしよぼ〱と歩き出した。

私は惶てゝ一つの桃に齒をあてた。大口に噛み缺かれた桃の頭は、實に滴る樣な鮮かな紅ゐの色をしてゐた。全く打ち續けてその汁を啜り取る樣に私は口をつけた。

一つ二つと夢中に噛んで、ひよつと上を見るといつか疎らになつた林の眞上いつぱいに例の妙義の岩山が眞黒い樣に聳え立つてゐるのが見えた。

底本 / Source edition

底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月14日修正
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若山 牧水「樹木とその葉──26 桃の実」(旧字旧仮名)、底本『若山牧水全集 第七卷』雄鷄社、1958年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 002219_000162, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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