Soranoha

西洋人情話 英国孝子ジョージスミス之伝

せいようにんじょうばなし えいこくこうしジョージスミスのでん

三遊亭 円朝

一

御免を蒙こうむりまして申上げますお話は、西洋人情噺にんじょうばなしと表題を致しまして、英国えいこくの孝子こうしジョージ、スミスの伝、これを引続いて申上げます。外国あちらのお話ではどうも些ちと私わたくしの方にも出来かねます。又お客様方にお分り難にくいことが有りますから、地名人名を日本にほんにしてお話を致します。英国のリバプールと申しまする処で、英国いぎりすの竜動ろんどんより三時間で往復の出来る処、日本にっぽんで云えば横浜のような繁昌はんじょうな港で、東京とうけいで申せば霊岸島れいがんじま鉄砲洲てっぽうずなどの模様だと申すことで、その世界に致してお話をします。スマイル、スミスと申しまする人は、彼国あちらで蒸汽の船長でございます。これを上州じょうしゅう前橋まえばし竪町たつまちの御用達ごようたしで清水助右衞門しみずすけえもんと直してお話を致します。其の子ジョージ、スミスを清水重二郎じゅうじろうという名前に致しまして、其の姉のマアリーをおまきと云います。エドワルド、セビルという侠客おとこだてがございますが、これを江戸屋えどやの清次郎せいじろうという屋根屋の棟梁とうりょうで、侠気おとこぎな人が有ったというお話にします。又外国あちらでは原語でございますとジョン、ハミールトンという人が、ナタンブノルという朋友ともだちの同類と、かのスマイル、スミスを打殺うちころしまして莫大ばくだいの金を取ります。このナタンブノルを井生森又作いぶもりまたさくと致しジョン、ハミールトンを前橋の重役で千二百石取りました春見丈助利秋はるみじょうすけとしあきという者にいたしてお話を此方こちらのことに直しましただけの事で、原書をお読み遊ばした方は御存じのことでございましょうが、これは或る洋学先生が私わたくしに口移しに教えて下すったお話を日本にほんの名前にしてお和やわらかなお話にいたしました。そのおつもりでお聴きの程を願います。徳川家が瓦解がかいになって、明治四五年しごねんの頃大分だいぶ宿屋が出来ましたが、外神田松永町そとかんだまつながちょう佐久間町さくまちょうあの辺には其の頃大きな宿屋の出来ましたことでございますが、其の中に春見屋はるみやという宿屋を出しましたのが春見丈助という者で、表構おもてがまえは宏高こうこうといたして、奥蔵おくぐらがあって、奉公人も大勢使い、実に大たいした暮しをして居ります。娘が一人有って、名をおいさと申します。これはあちらではエリザと申しまするのでお聞分きゝわけを願います。十二歳になって至って親孝行な者で、その娘を相手にして春見丈助は色々の事に手出しを致したが、皆失敗しくじって損ばかりいたし、漸ようように金策を致して山師やましで威おどした宿屋、実に危あぶない身代で、お客がなければ借財方しゃくざいかたからは責められまするし、月給を遣やらぬから奉公人は暇いとまを取って出ます、終ついにはお客をすることも出来ません、適たまにお客があれば機繰からくりの身上しんしょうゆえ、客から預かる荷物を質入しちいれにしたり、借財方に持って行ゆかれますような事でございますから、客がぱったり来ません。丁度十月二日のことでございます。歳はゆかぬが十二になるおいさという娘が、親父おやじの身代しんだいを案じましてくよ〱と病気になりましたが、医者を呼びたいと思いましても、診察料も薬礼やくれいも有りませんから、良いい医者は来て呉れません。幸い貯えて有りました烏犀角うさいかくを春見が頻しきりに定木じょうぎの上で削って居ります所へ、夕景に這入はいって来ました男は、矢張やはり前橋侯の藩で極ごく下役でございます、井生森又作という三十五歳に相成あいなりましてもいまだ身上みのうえが定さだまらず、怪しい形なりで柳川紬やながわつむぎの袷あわせ一枚で下にはシャツを着て居りますが、羽織も黒といえば体ていが好いいけれども、紋の所が黒くなって、黒い所は赤くなって居りますから、黒紋の赤羽織といういやな羽織をまして[#「まして」は「きまして」の誤記か]兵児帯へこおびは縮緬ちりめんかと思うと縮緬呉絽ちりめんごろうで、元は白かったが段々鼠色になったのをしめ着て、少し前歯の減った下駄に、おまけに前鼻緒まえばなおが緩ゆるんで居りますから、親指で蝮まむしを拵こしらえて穿はき土間から奥の方へ這入って来ました。

又「誠に暫しばらく」

丈「いや、これは珍らしい」

又「誠に存外の御無音ごぶいん」

丈「これはどうも」

又「一寸ちょっと伺うかゞわなけりゃならんのだが、少し仔細しさい有って信州へ行って居りましたが、長野県では大おおきに何も彼かもぐれはまに相成って、致し方なく、東京までは帰って来たが、致方いたしかたがないから下谷金杉したやかなすぎの島田久左衞門しまだきゅうざえもんという者の宅に居候いそうろうの身の上、尊君そんくんにお目に懸かゝりたいと思って居て、今日きょう図はからず尋ね当りましたが、どうも大たいした御身代で、お嬢様も御壮健でございますか」

丈「はい、丈夫でいるよ、貴公もよく来てくれたなア」

又「いやどうも、成程これだけの構えでは奉公人なども大勢置かんならんねえ」

丈「いや奉公人も大勢置いたが、宿屋もあわんから奉公人には暇いとまを出して、身上しんしょうを仕舞おうと思って居いるのさ」

又「はてね、どういう訳で」

丈「さア色々仔細有って、実に負債ふさいでな、どうも身代が追付おっつかぬ、先まずどうあっても身代限しんだいかぎりをしなければならぬが、身代限をしても追付かぬことがある」

又「そりゃア困りましたな、就ついちゃア僕がそれ君にお預け申した百金は即刻御返金を願いたい、直すぐに返しておくんなさえ」

丈「百円今こゝには無い」

又「無いと云っては困ります、僕が君に欺あざむかれた訳ではあるまいが、これをこうすればあゝなる、この機械を斯こうすれば斯ういう銭儲ぜにもうけがあると、貴君きくんの仰おっしゃり方が実まことしやかで、誠に智慧ちえのある方の云うことだから、間違いはなかろうと思って、懇意の所から色々才覚をして出した所が目的が外はずれてしまって仕方がないが、百円の処は、是だけは君がどうしても返して呉れなければ、僕の命の綱で、只今斯かくの如き見る影もない食客しょっかくの身分だから、どうかお察し下さい」

丈「返して呉れと云っても仕方がないわ、それに此の節は勧解沙汰かんかいざた[#「勧解」に欄外校注:裁判官が説諭して示談にせしむること]が三件もあり、裁判所沙汰が二件もあるし、それに控訴もあるような始末だから、何と云っても仕方がない」

又「裁判沙汰が十とお有ろうが八つ有ろうが、僕の知ったことではない、相済まぬけれども是だけの構えを一寸ちょっと見ても大たいしたものだ、それに外を廻って見ても、又座敷で一寸茶を入れるにも、それその銀瓶ぎんびんがあって、其の他ほか、諸道具といい大した財産だ、あの百金は僕の命の綱、これがなければ何どうにも斯こうにも方ほうが付かぬ、君の都合は僕は知らないから、此の品を売却しても御返金を願う」

丈「この道具も皆抵当になっているから仕方がないわさ」

又「御返金がならなければ止やむを得んから、旧来御懇意の君でも勧解かんかいへ持出さなければならぬが、どうも君を被告にして僕が願立ねがいたてるというのは甚はなはだ旧友の誼よしみに悖もとるから、したくはないが、拠よんどころない訳だ」

丈「今と云っても仕方が無いと申すに」

又「はて、是非とも御返金を願う」

と云って坐り込んで、又作も今身代限しんだいかぎりになる訳でいると云うから、身代限りにならぬうちに百円取ろうとする。春見は困り果てゝ居ります所へ入って来ましたのは、前橋竪町の御用達の清水助右衞門という豪家ごうかでございます。此の人も色々遣やり損そこなって損そんをいたして居りますが、漸々よう〱金策を致しまして三千円持って仕入れに参りまして、春見屋へ来まして。

助「はい、御免なさいまし、御免下さいまし」

丈「どなたか知らぬが、用があるならずっと此方こっちへ這入っておくんなさい」

助「御免を蒙こうむります、誠に御無沙汰しました、助右衞門でございます」

丈「おゝ〱、どうもこれはなつかしい、久々で逢った、まア〱此方こっちへ、いつも壮健で」

助「誠に存外御無沙汰致しましたが、貴方様あなたさまにも何時いつもお変りなく、一寸ちょっと伺いたく思いやすが、何分にも些ちと訳あって取紛とりまぎれまして御無沙汰致しましたが、段々承れば宿屋店やどやみせをお出しなすったそうで、世界も変れば変るもので、春見様が宿屋になって泊り客の草履ぞうりをお直しなさるような事になって、誠にお傷いたわしいことだ、それを思えば助右衞門などは何をしても好いい訳だと思って、忰せがれや娘に意見を申して居ります、旦那様もお身形みなりが変りお見違みちげえ申す様ようになりました、誠にまアあんたもおふけなさいました」

丈「こう云う訳になって致方いたしかたがない、前橋の方も尋ねたいと思って居たが、何分貧乏暇なしで御無沙汰になった、よく来た、どうして出て来たのだ」

助「はい、私わしも人に損を掛けられて仕様がねい、何かすべいと思っていると、段々聞けば県庁が前橋へ引けるという評判だから、此所こゝで取付とりつかなければなんねいから、洋物屋ようぶつやをすれば、前には唐物屋とうぶつやと云ったが今では洋物屋と申しますそうでござりやすが、屹度きっと当るという人が有りますから、此処こゝで一息ひといき吹返ふきかえさなければなんねいと思って、田地でんじからそれにまア御案内の古くはなったが、土蔵を抵当にしまして、漸々よう〱のことで利の食う金を借りて、三千円資本もとでを持って出て参ったでがんすから、宿屋へ此の金を預けて仕入しいれをするのだが、滅多に来きねえから、馴染なじみもねえ所へ預けるのも心配しんぺえだから、身代の手堅い処がと、段々考かんげえたところが、春見様が宿屋店やどやみせを出しておいでなさると云うから、買出かいだしするにも安心と考かんげえてまいりました、当分買出しに行ゆきますまで、どうか御面倒でも三千円お預かり下さるように願います」

丈「成程左様か」

と話をしていると、井生森又作は如才じょさいない狡猾こうかつな男でございますから、是だけの宿屋に番頭も何もいないで、貧乏だと悟られて、三千円の金を持って帰られてはいけないと思って、横着者おうちゃくものでございますから直すぐに羽織を脱いでそれへ出てまいり。

又「お初にお目に懸りました、手前は当家の番頭又作と申すもので、旦那から承わって居りましたが、ようこそお出いでゞ、此の後ごとも幾久しく宜よろしゅう願います、えゝ当家も誠に奉公人も大勢居りましたが、女共を置きましたところが何かぴら〱なまめいてお客が入りにくいから、皆一同に暇いとまを出して、飯焚男めしたきおとこも少々訳が有って暇ひまを出しまして、私わたくし一人いちにんに相成りました、どうかお荷物をお預けなすったら、何は久助きゅうすけは何処どこへ行ったな」

助「横浜でも買出しをして、それから東京でも買出しをして、遅くもどうかまア十一月中頃までに帰けえろうと、こう心得まして出ました」

丈「成程、それでは兎も角も三千円の金を確かに預かりましょう」

助「就つきましては、誠に斯様かような事を申しては済みませんが、私わしの身に取っては三千円は実に大たいした金で、今は大でかい損をした暁あかつきのことで、此の三千円は命の綱で大事な金でがんすから、此方こちらにお預け申して、さア旦那様を疑ぐる訳じゃ有りませんが、どうか三千円確かに預かった、入用にゅうようの時には渡すという預あずかり証文を一本御面倒でも戴きたいもので」

丈「成程これはお前の方で云わぬでも当然の事で、私の方で上げなければならん、只今書きましょう」

と筆を取って金きん三千円確かに預かり置く、要用よう〱の時は何時なんどきでも渡すという証文を書いて、有合ありあわした判をぽかりっと捺おして、

丈「これで好いいかえ」

助「誠に恐入ります、これでもう大丈夫」

とこれを戴いて懐中物の中へ入れます。紙入かみいれも二重になって居て大丈夫なことで、紙入も落さんようにして、

助「大宮から歩いて参りまして草臥くたびれましたから、どうかお湯を一杯戴きたいもので」

又「誠に済みませんが、〔「※」は「「箍」で下「手へん」のかわりに「木へん」をあてる」〕たがが反はねましてお湯を立てられません、それに奉公人が居りませんから、つい立てません、相済みませんが、此の先さきに温泉がありますから、どうかそれへお出いでなすって下さい」

助「温泉というと伊香保いかほや何かの湯のような訳でがんすか」

又「なアに桂枝けいしや沃顛よじいむという松本先生が発明のお薬が入って居りまして、これは繁昌はんじょうで、其の湯に入ると顔が玉のように見えると云うことでございます」

助「東京へは久しぶりで出てまいって、それに又様子が変りましたな、どうも橋が石で出来たり、瓦かわらで家うちが出来たり、方々ほう〲が変って見違えるように成りました、その温泉は何処どこらでがんすか」

又「此処こゝをお出いでになりまして、向うの角かどにふらふが立って居ります」

助「なんだ、ぶら〱私わしが歩くか」

又「なアに西洋床せいようどこが有りまして、有平あるへい見た様ような物が有ります、その角に旗が立って居りますから、彼処あすこが宜しゅうございます」

助「私わしはこれ髻まげがありますから、髪も結ゆって来ましょうかねえ」

又「行って入らっしゃいまし、残らず置いて入らっしゃいまし」

丈「証書の入った紙入を持って行って、板の間に取られるといけないよ」

助「板の間に何が居りますか」

丈「なアに泥坊がいるから取られてはいけん」

助「これはまア私わしが命の綱の証文だから、これは肌身離されません」

主「それでも湯に入るのに手に持っては行ゆけないだろう」

助「事に依よったら頭へ縛り付けて湯に入ります、行ってめえります、左様なら」

又「いって入いらっしゃいまし……とうとう出掛けたが、是は君、えゝどうも、富貴ふうき天に有りと云うが、不思議な訳で、君は以前お役柄やくがらで、元が元だから金を持って来ても是程に貧乏と知らんから、そこで三千円という大金を此の苦しい中へ持って来て、纒まとまった大金が入るというのは実に妙だ、それも未まあだ君にお徳が有るのさ、直すぐ其の内を百金御返金を願う」

丈「これさ、今持って来たばかりで酷ひどいじゃアないか」

又「此の内百金僕に返しても、此の金かねは一時じに持って往ゆくのじゃない、追々おい〱安い物が有れば段々に持って往く金だから、其の中うちに君が才覚して償つぐのえば宜しい、僕には命代いのちがわりの百円だ、返し給え」

丈「それじゃア此の内から返そう」

と百円包づゝみになって居るのを渡します。扨さて渡すと金が懐へ入りましたから、気が大きくなり

又「どうだい、番頭の仮色こわいろを遣つかって金を預けさせるようにした手際てぎわは」

まア愉快というので、お酒を喫たべて居りますとは清水助右衞門は少しも存じませんから、四角よつかどへまいりまして見ると、西洋床というのは玻璃張がらすばりの障子しょうじが有って、前に有平あるへいのような棒が立って居りまして、前には知らない人がお宮と間違えてお賽銭さいせんを上げて拝みましたそうでございます。助右衞門は成程有平の看板がある、是だなと思い、

助「御免なさいまし、〱、〱、此処こちらが髪結床かみゆいどこかね」

中床なかどこさんが髭ひげを抜いて居りましたが、

床「何なんですえ、広小路ひろこうじの方へ往ゆくのなら右へお出いでなさい」

助「髪結床は此方こちらでがんすか」

床「両国の電信局かね」

助「こゝは、髪結う所か」

と云っても玻璃障子がらすしょうじで聞えません。

床「何ですえ」

助「髪を結って貰いたえもんだ」

床「へいお入はいんなさい、表の障子を明けて」

助「はい御免、大でけい鏡だなア、髪結うかねえ」

床「此方こちらは西洋床ですから旧弊頭きゅうへいあたまは遣やりません…おや、あなたは前橋の旦那ですねえ」

助「誰だ、何うして私わしを知っているだ」

床「私わっしやア廻りに歩いた文吉ぶんきちでございます」

助「おゝそうか、文吉か、見違みちがえるように成った、もうどうも成らなかったが辛抱するか」

文「大辛抱おおしんぼうでございます旦那どうもねえ、前橋にいる時には道楽をして、若い衆の中へ入って悪いことをしたり何かして御苦労を掛けましたから、書ければ一寸ちょっと郵便の一本も出すんでげすが、何うも人を頼みに往ゆくのもきまりが悪くて、存じながら御無沙汰をしました、宜よく出てお出いでなすった、東京見物ですかえ」

助「なアに、当時は己おれも損をして商売替しょうべいげえをしべいと思って、唐物とうぶつを買出しに来たゞが、馴染なじみが少ないから横浜へ往って些ちっとべい買出しをしべいと思って東京でも仕入れようと思って出て来た」

文「へい、商売替しょうばいがいですか、洋物ようぶつは宜ようがすねえ、これから開ひらけるのだそうでげすなア、斬髪ざんぱつになってしまえば、香水こうずいなども売れますぜ、お遣やりなさい結構でげすな、それに前橋へ県が引けると云うからそうなれば、福々ふく〱ですぜ、宿屋は何処どこへお泊りです」

助「馬喰町ばくろちょうにも知った者は有るが、家うちを忘れたから、春見様が丁度彼所あすこに宿屋を出して居るから、今着いて荷を預けて湯に入はいりに来た」

文「何なんでげす、春見へ、彼処あすこはいけません、いけませんよ」

助「いかねえって、どうしたんだ」

文「あれは大変ですぜ、身代限りになり懸って、裁判所沙汰が七八つとか有ると云って、奉公人にも何なんにも給金を遣やらないから、皆みんな出て行ってしまって、客の荷でも何でも預けると直すぐに質に入れたり何なにかするから、泊人とまりてはございません、何か預けるといけませんよ」

助「それは魂消たまげた、春見様は元御重役だぜ」

文「御重役でもなんでも、今はずう〲しいのなんて、米屋でも薪屋まきやでも、魚屋でも何でも、物を持って往ゆく気づかいありません」

助「そりゃア知んねえからなア」

文「何か預けた物がありますか」

助「有るって無ねえって、命と釣替つりげえの」

と云いながら出に掛ったが、玻璃がらすでトーンと頭を打ぶっつけて、慌あわてるから表へ出られやしません。

文「玻璃戸が閉っていて外が見えても出られませんよ、怪我けがをするといけませんよ」

助「なに此の儘まゝでは居いられない」

と云うので取って返して来て、がらりと明けて中へ這入って。

助「御免なせえまし」

と土間から飛上って来て見ると、其処そこらに誰も居りませんから、つか〱と奥へ往ゆきますと、奥で二人で灯火あかりを点つけて酒を飲んでいたが、此方こちらも驚いて。

丈「やアお帰りか」

助「先刻さっきお預け申しました三千円の金を、たった今直すぐにお返しを願います」

と云うから番頭驚いて。

又「あなたは髪も結わず、湯にもお入りなさらんで何うなさいました」

助「髪も湯も入りません、今横浜に安い物が有るから、今晩の中うちに往って居おらなければならんから、直ぐに行ゆくから、どうか只今お預け申しました鞄かばんを証書とお引換ひきかえにお渡しを願います」

と紙入から書付を出して春見の前へ突付けて。

助「どうか三千円お戻しを願います」

丈「それは宜いいが、まア慌てちゃいけん、横浜あたりへ往って、あの狡猾世界こうかつせかいでうか〱三千円の物を買えば屹度きっと損をするから、慌てずにそういう物があるか知らぬけれども、是から往って物を見て値を付けて、そこで其の内を五百円買うとか二百円買うとか仕なければ、固もとより慣れぬ商売の事だから、慌てちゃアいかん、何ういう訳だかまア緩ゆっくりと昔話も仕たいから、まア泊とまんなさい」

又「只今主人の申します通り、横浜は狡猾な人の多く居ります所だから、損をするのは極きまって居りますゆえ、三千円一度に持って往って損をするといけないから、まア〱今晩は緩ゆるりとお泊りなさいまし、して明日みょうにち十二時頃からお出いでなすって、品物を見定めて、金子も一時いちじに渡さずに、徐々そろ〱持って往って、追々とお買出しをなすった方が宜しゅうございます」

助「それは御尤様ごもっともさまでございますが、親切な確かな人に聞いた事でございます、今夜の内に何うしても斯うしても横浜まで往ゆかなければ成らぬ、売れてしまわぬ前に私わしが往ゆけば安いというので、確かなものに聞きました、どうかお願いでございますからお返しなすって下せい、成程文吉の云った通り是だけの大でかい家うちに奉公人が一人も居ねいのは変だ」

丈「何を」

助「へい、なに三千円お返し下さい」

丈「返しても宜しいけれどもそんなに慌てゝ急がんでも宜いいじゃないか、先まず其の内千円も持って行ったら宜よかろう」

助「へい急ぎます、金がなければならぬ訳でがんすから、何うかお渡し下さい」

と助右衞門は何うしても聞き入れません。こゝが妙なもので、三千円のうち、当人に内々ない〱で百円使い込んで居いるとこでございますから、春見のいう言葉が自然におど付きますから、此方こちらは猶更なおさら心配して、

助「さアどうかお返しなすって下せえ、今預ったべいの金だから返すことが出来ないことはあんめい」

丈「金は返すには極きまって居る事だから返すが、何ういう訳だか慌てゝ帰って来たが、お前が損をすると宜よくないからそれを心配するのだ」

又「只今主人のいう通り、慌てずに緩ゆっくりお考えなさい」

助「黙ってお在いでなせい、あんたの知ったことじゃアない、三千円の金は通例の金じゃアがんせん、家蔵いえくらを抵当にして利の付く金を借りて、三千円持ってまいります時、婆ばゞあや忰せがれがお父とっさん慣れないことをして又損をしやすと、今度は身代限りだから駄目だ、止よした方が宜よかろうと云うのを、なアに己おれも清水助右衞門だ、確かに己が儲けるからと云って、私わしが難かしい才覚を致してまいった三千円で、私が命の綱の金でがんすから、損を仕ようが、品物を少なく買おうが多く買出ししようが私の勝手だ、あなた方の口出しする訳じゃねえから、どうか、さア、どうか返して下さい」

丈「今は此処こゝにない蔵にしまって有るから待ちなさい」

と云いながら往ゆこうとすると逃げると思ったから、つか〱と進んで助右衞門が春見の袖にぴったりと縋すがって放しませんから。

丈「これ何をする、これさ何をするのだ」

助「申し、春見様、私わしが商法をしまして是で儲かれば、貴方あなたの事だからそりゃア三百円ぐらいは御用達ごようだてますが、今は命より大事の三千円の金だからそれを返して下さらなけりゃア国へ帰けえれません」

と云うので、一生懸命に袖へ縋られた時には、是は自分の身代の傾いた事を誰かに聞いたのだろう、罪な事だが是非に及ばん、今此の三千円が有ったら元の春見丈助になれるだろうと、有合ありあわせた槻けやきの定木じょうぎを取って突然いきなり振向くとたんに、助右衞門の禿はげた頭をポオンと打ったから、頭が打割ぶちわれて、血は八方へ散乱いたして只たった一打ひとうちでぶる〱と身を振わせて倒れますと、井生森又作は酷ひどい奴で、人を殺して居る騒ぎの中で血だらけの側にありました、三千円の預り証文をちょろりと懐ふところへ入れると云う。これがお話の発端でございます。

二底本では脱落

清水助右衞門は髪結かみゆい文吉の言葉を聞き、顔色変えて取ってかえし、三千両[#「三千円」の誤記か]の預り証書を春見の前へ突き出し、返してくれろと急の催促に、丈助は其の中うち已すでに百円使い込んで居いるから、あとの金は残らず返すから、これだけ待ってくれろと云えば仔細は無かったのだが、此の三千円の金が有ったなら、元の如く身代も直り、家も立往たちゆくだろう、又娘にも難儀を掛けまいと、むら〱と起りました悪心から致して、有合ありあう定木じょうぎをもって清水助右衞門を打殺うちころす。側にいた井生森又作は、そのどさくさ紛まぎれに右三千円の預り証書を窃取ぬすみとるというお話は、前日お聞きになりました所でござりますが、此の騒ぎを三畳の小座敷で聞いて居りましたのは、当年十二歳に相成るおいさと云う孝行な娘でございますから、お父様とっさまは情なさけない事をなさる、と発明な性質ゆえ、袖を噛んで泣き倒れて居ります。春見は人が来てはならんと、助右衞門の死骸を蔵へ運び、葛籠つゞらの中へ入れ、血のりの漏もらんように薦こもで巻き、すっぱり旅荷のように拵こしらえ、木札きふだを附け、宜いい加減の名前を書き、井生森に向い。

丈「金子を三百円やるから、どうか此の死骸を片附ける工風くふうはあるまいか」

又「おっと心得た、僕の縁類えんるいが佐野さのにあるから、佐野へ持って往って、山の中の谷川へ棄てるか、又は無住むじゅうの寺へでも埋めれば人に知れる気遣きづかいはないから心配したもうな」

と三百円の金を請取うけとり、前に春見から返して貰った百円の金もあるので、又作は急に大尽だいじんに成りましたから、心勇んで其の死骸を担かつぎ出し、荷足船にたりぶねに載せ、深川扇橋ふかがわおうぎばしから猿田船やえんだぶねの出る時分でございますから、此の船に載せて送る積りで持って往ゆきました。扨さてお話二つに分れまして、春見丈助は三千円の金が急に入りましたから、借財方しゃくざいかたの目鼻を附け、奉公人を増し、質入物しちいれものを受け出し、段々景気が直って来ましたから、お客も有りますような事で、どんどと十月から十二月まで栄えて居りました。此方こちらは前橋竪町の清水助右衞門の忰せがれ重二郎や女房は、助右衞門の帰りの遅きを案じ、何時いつまで待っても郵便一つ参りませんので、母は重二郎に申付もうしつけ、お父様とっさまの様子を見て来いと云うので、今年十七歳になる重二郎が親父おやじを案じて東京へ出てまいり、神田佐久間町の春見丈助の門口かどぐちへ来ますと、二階には多人数たにんずのお客が居りますから、女中はばた〱廊下を駆かけて居ります。

重「御免なせい〱、〱」

女「はい入らっしゃいまし、まア此方こちらへお上あがんなさいまし」

重「春見丈助様のお宅は此方でございやすか」

女「はい春見屋は手前でございますが、何方どちらから入いらっしゃいました」

重「ひえ、私わしは前橋竪町の清水助右衞門の忰せがれでござりやすが、親父おやじが十月国を出て、慥たしか此方こちらへ着きやんした訳になって居りやんすがいまだに何なんの便たよりもございませんから、心配して尋ねてまいりましたが、塩梅あんべいでも悪くはないかと、案じて様子を聞きにまいりましたのでがんすと云って、どうかお取次を願いていもんです」

女「左様でございますか、少々お控えを願います」

と奥へ入り、暫しばらくして出てまいり。

女「お前さんねえ、只今仰おっしゃった事を主人へ申しましたら、そう云うお方は此方こちらへはいらっしゃいませんが、門違かどちがいではないかとの事でございますよ」

重「なんでも此方へ来ると云って家うちを出やんしたが…此方へは来きねえですか」

女「はい、お出いではございません宿帳にも附いて居りません」

重「はてねえ、何どうした事だかねえ、左様なら」

と云いながら出ましたが、外ほかに尋ねる当あてもなく、途方に暮れてぶら〱と和泉橋いずみばしの許もとまでまいりますと、向うから来たのは廻りの髪結い文吉で、前橋にいた時分から馴染なじみでございますから。

文「もし〱其処そこへお出いでなさるのは清水の若旦那ではありませんか」

重「はい、おや、やア、文吉かえ」

文「誠にお久し振でお目にかゝりましたが、見違みちげえるように大きくお成んなすったねえ、私わっちが前橋に居りやした時分には、大旦那には種々いろ〱御厄介ごやっかいになりまして、余り御無沙汰になりましたから、郵便の一つも上げてえと思っては居りやしたが、書けねえ手だもんだから、つい〱御無沙汰になりやした、此間こないだお父とっさんが出ていらっしゃいやしたから、お前さんも東京を御見物に入らしったのでございやしょう」

重「親父おやじの来たのを何うしてお前は知っているだえ」

文「へい、先々月お出でなすって、春見屋へ宿をお取んなすったようで」

重「宅うちへもそう云って出たのだが、余あんまり音信おとずれがないから何処どこへ往ったかと思っているんだよ」

文「なに春見屋で来こねえって、そんな事はありやせん、前々月せん〱げつの二日の日暮方ひくれかた、私わっちは海老床えびどこという西洋床を持って居りますが、其処そこへ旦那がお出いでなすったから、久し振でお目にかゝり、何処どこへお宿をお取りなさいましたと云うと、春見屋へ宿を取り、買出しをしに来たと仰しゃるから、それはとんでもない事をなすった、あれは身代限しんだいかぎりになり掛っていてお客の金などを使い込み、太ふてい奴でございます、大きな野台骨やたいぼねを張っては居りますが、月給を払わないもんだから奉公人も追々おい〱減ってしまい、蕎麦屋でも、魚屋でも勘定をしねえから寄附よりつく者はねえので、とんだ所へお泊りなすったと云うと、旦那が権幕けんまくを変えて、駈け出してお出いでなさったが、それ切りお帰りなさらないかえ」

重「国を出た切り帰けえらねえから心配しんぺいして来たのだよ」

文「それは変だ、私わしが証拠人だ、春見屋へ往って掛合ってあげやしょう旦那は来たに違いねえんだ、春見屋は此の頃様子が直り、滅法景気が宜よくなったのは変だ」

重「文吉、汝われ一緒に往って、確しっかり掛合ってくれ」

文「さアお出いでなさい」

と親切者でございますゆえ、先に立って春見屋へ参り。

文「此間こないだは暫しばらく、あの清水の旦那が此方こちらへ泊ったのは私わっちが慥たしかに知ってるが、先刻さっき此の若旦那が尋ねて来たら、来こねえと云ったそうだから、また来やしたが、此の文吉が証拠人だ、なんでも旦那は入らしったに違いないから、お取次を願います」

女「はい一寸ちょっと承って見ましょう」

と奥へまいり、此の事を申すと、春見はぎっくり胸に当りましたが、素知らぬ顔にもてなして、此方こっちへと云うので、女中が出てまいり、

女「まア、お通りなさいまし」

と云うから、文吉が先に立ち、重二郎を連れて奥へ通りました。

丈「さア〱此方こちらへお這入はいり」

重「誠に久しくお目にかゝりませんでございました」

丈「どうも見違えるように大きくおなりだねえ、今女どもが取次をしたが、新参で何も心得んものだから知らんが、お父とっさんは前々月せん〱げつの二日に一寸ちょっと私の所へお出いでになったよ」

重「左様でございますか、先刻せんこくお女中が此方こちらへ来きねえと云いましたから、はてなと思いやしたのは、宅うちを出る時は春見様へ泊り、遅くも十一月の末には帰ると云いましたのが、十二月になっても便たよりがありやせんから、母も心配して、見て来るが宜いいというので、私わしが出て参りまして」

丈「成程、だが今云う通り一寸ちょっとお出でになり、どう云う訳だか取急ぎ、横浜へ買出しに往ゆくと云って、直すぐ往ゆこうとなさるから、久振ひさしぶりで逢って懐かしいから、今晩一泊なすって緩々ゆる〱お話もしたいと留とめても聞入れず、振り切って横浜へいらしったが、それっ切り未まだお宅たくへ帰らんかえ」

重「へい、そんなら親父おやじは来たことは来たが、此方こちらには居ねえんですか困ったのう、文吉どん」

文「もし旦那、御免なせえ、私わっちは元錨床いかりどこと云って西洋床をして居りました時、此方こちらの二階のお客に旧弊頭きゅうへいあたまもありますので、時々お二階へ廻りに来た文吉という髪結かみゆいでございます」

丈「はアお前が文吉さんか、誠に久しく逢いませんでした」

文「先々月の二日清水の旦那が此方こちらへお泊りなすって、荷物をお預け申して湯に入はいるって錨床へ入いらしったところが、私わっちが上州を廻っている時分御厄介になった清水の旦那だから、何御用でというと金を持って仕入れに来たが、泊る所に馴染なじみがねえから、春見屋へ泊ったと仰おっしゃったから、それはとんでもねえ処へ、いえなに宜よい処へお泊りなすったという訳でねえ」

丈「一寸ちょっとお出いでにはなったが、取急ぎ横浜へ往ゆくと云ってお帰りになった」

文「もし先々月の二日でございますぜ」

丈「左様そうよ」

文「あの清水の旦那が金を沢山どっさり春見屋へ預けたと仰しゃるから、それはとんだ処へ、いえなにどうも誠にどうもねえ」

丈「来たことは来たが、お連つれか何か有ると見え、いくら留とめても聞入れず、買出しの事故ゆえそうはいかんと云って荷物を持って取急いでお帰りになったが、それ切り帰られないかえ」

文「それ清水の旦那が荷をお前さんへ預け、床へ来ると私わっちがいて、旦那どうして此方こちらへ出ていらしったと云うと、商売替しょうべいげえをする積りで、滅法界めっぽうけい金を持って来て、迂濶うっかり春見屋へ預けたと云うから、それはとんだ、むゝなに、一番宜よい処へお預けなすったという訳で、へい」

丈「今もいう通り直すぐに横浜へ往ゆくと云って、お帰りなすったよ」

文「ふん、へい、十月二日に、旦那が此方こっちへ……」

丈「幾度云っても其の通り来たことは来たが、直すぐにお帰りになったのだよ」

重「仕様がありませんなア」

文「だって旦那え、まアどうも、…へい左様なら」

と取附く島もございませんから、そとへ出て重二郎は文吉に別れ、親父おやじが横浜へ往ったとの事ゆえ、横浜を残らず捜しましたが居りませんので、また東京へ帰り、浅草、本郷と捜しましたが知れません。仕方がないから重二郎は前橋へ立帰りました。お話跡へ戻りまして、井生森又作は清水助右衞門の死骸を猿田船やえんだぶねに積み、明くれば十月三日市川口いちかわぐちへまいりますと、水嵩みずかさ増して音高く、どうどうっと水勢すいせい急でございます。只今の川蒸汽かわじょうきとは違い、埓らちが明きません。市川、流山ながれやま、野田のだ、宝珠花ほうしゅばなと、船を附けて、関宿せきやどへまいり、船を止めました。尤もっとも積荷つみにが多いゆえ、捗はかが行ゆきませんから、井生森は船中で一泊して、翌日は堺さかいから栗橋くりはし、古河こがへ着いたのは昼の十二時頃で、古河の船渡ふなとへ荷を揚あげて、其処そこに井上いのうえと申す出船宿でふねやどで、中食ちゅうじきも出来る宿屋があります。井生森は其処へ入り、酒肴さけさかなを誂あつらえ、一杯遣やって居りながら考えましたが、これから先人力じんりきを雇って往ゆきたいが、此の宿屋から雇って貰っては、足が附いてはならんからと一人で飛出し、途中から知れん車夫くるまやを連れてまいり、此の荷を積んでどうか佐野まで急いでやってくれと、酒を呑ませ、飯を喰わせ、五十銭の酒手を遣やりました。車夫しゃふは年頃四十五六しじゅうごろくで小肥満こでっぷりとした小力こぢからの有りそうな男で、酒手さかてを請取うけとり荷を積み、身支度をして梶棒かじぼうを掴つかんだなり、がら〱と引出しましたが、古河から藤岡ふじおかまでは二里余よの里程みちのり。船渡を出たのは二時頃で、道が悪いから藤岡を越す頃はもう日の暮れ〲で、雨がぽつり〱と降り出しました。向うに見えるは大平山おおひらさんに佐野の山続きで、此方こちらは都賀村つがむら、甲村こうむらの高堤たかどてで、此の辺は何方どちらを見ても一円沼ばかり、其の間には葭よし蘆あしの枯葉が茂り、誠に物淋しい処でございます。車夫しゃふはがら〱引いてまいりますと、積んで来た荷の中の死骸が腐ったも道理、小春なぎの暖あたゝかい時分に二晩ふたばん留とめ、又打うちかえって寒くなり、雨に当り、いきれましたゆえ、臭気甚はなはだしく、鼻を撲うつばかりですから、

車「フン〱、おや旦那え〱」

又「なんだ、急いで遣やってくれ」

車「なんだか酷ひどく臭くさいねえ、あゝ臭い」

又「なんだ」

車「何だか知んねえが誠に臭い」

と云われ、又作はぎっくりしましたが、云い紛まぎらせようと思い、

又「詰つまらん事をいうな、此の辺は田舎道だから肥こいの臭においがするのは当然あたりまえだわ」

車「私わしだって元は百姓でがんすから、肥こいの臭くさいのは知って居りやんすが、此処こゝは沼ばかりで田畑でんぱたはねえから肥の臭においはねえのだが、酷ひどく臭う」

と云いながら振り返って鼻を動かし、

車「おゝ、これこれ、此の荷だ、どうも臭いと思ったら、これが臭いのだ、あゝ此の荷だ」

と云われて又作愈々いよ〱驚き、

又「何を云うのだ、なんだ篦棒べらぼうめ、荷が臭いことが有るものか」

車「だって旦那、臭いのは此の荷に違いねえ」

又「これ〱何を云うのだ」

と云ったが最もう仕方がありませんから、云いくろめようと思いまして、

又「これは俗に云う干鰯ほしかのようなもので、田舎へ積んで往って金儲けを仕ようと思うのだ、実は肥こいになるものよ」

車「肥こいの臭においか干鰯の臭いかは在所の者は知ってるが、旦那今私わしが貴方あんたの荷が臭いと云った時、顔色が変った様子を見ると、此の中は死人しびとだねえ」

又「馬鹿を云え、東京から他県へ死人しびとを持って来るものがあるかえ、白痴たわけたことを云うなえ」

車「駄目だ、顔色を変えてもいけねい、己おれ今でこそ車を引いてるが、元は大久保政五郎おおくぼまさごろうの親類で、駈出かけだしの賭博打ばくちうちだが、漆原うるしはらの嘉十かじゅうと云った長脇差ながわきざしよ、ところが御維新ごいっしんになってから賭博打を取捕とっつかめえては打切ぶっきられ、己も仕様がないから賭博を止やめ、今じゃア人力車くるまを引いてるが、旦那貴方あんたは何処どこのもんだか知んねえが、人を打殺ぶっころして金を奪とり、其の死人しびとを持って来たなア」

又「馬鹿を云え、とんでもない事をいう、どう云う次第でそんな事を云うのだ」

車「おれ政五郎親分の処にいた頃、親方おやぶんが人を打殺ぶちころして三日の間番をさせられた時の臭においが鼻に通って、いまだに忘れねえが、其の臭いに違ちげえねいから隠したって駄目だ、死人しびとなら死人だとそう云えや、云わねえと己おれ了簡りょうけんがあるぞ」

又「白痴たわけた奴だ、どうもそんな事を云って篦棒べらぼうめ、手前てめえどう云う訳で死人しびとだと云うのだ、失敬なことを云うな」

車「なに失敬も何もあるものか、古河の船渡で車を雇うのに、値切ねぎりもしずに佐野まで極きめ、其の上五十銭の祝儀もくれ、酒を呑ませ飯まで喰わせると云うから、有あり難がてい旦那だと思ったが、唯たゞの人と違い、死人しびとじゃ往ゆけねえが、併しかし死人だと云えば佐野まで引いて往ってくれべいが、隠しだてをするなら、後あとへ引返ひきけえして、藤岡の警察署へ往って、其の荷を開ひらいて検あらためて貰うべい」

又「馬鹿なことを云うな、駄賃は多分に遣やるから急いで遣れ」

車「駄賃ぐらいでは駄目だ、内済事ねえせえごとにするなら金を弐拾両にじゅうりょうよこせ」

又「なに弐拾両、馬鹿なことを云うなえ」

車「いやなら宜いいわ」

と云いながら梶棒を藤岡の方へ向けましたから、井生森又作は大おおきに驚き慌てゝ、

又「おい車夫くるまや、待て、これ暫しばらく待てと云うに、仕様のない奴だ、太ふてえ奴だなア」

車「何方どっちが太ふてえか知れやしねえ」

又「そう何もかも手前てめえに嚊かぎ附けられては止やむを得ん、実は死人しびとだて、就ついては手前てま[#「てまえ」あるいは「てめえ」か]に金子二拾両遣やるが、何卒どうぞ此の事を口外してくれるな、打明けて話をするが、此の死骸は実は僕が権妻ごんさい同様のものだ」

車「それなら貴方あんたの妾か」

又「なに僕の妾というではない、去る恩人の持ちものだが、不図ふとした事から馴れ染め、人目を忍んで逢引あいびきをして居ると、その婦人が懐妊したので堕胎薬おろしぐすりを呑ました所、其の薬に中あたって婦人は達たっての苦くるしみ、虫が被かぶって堪たまらんと云って、僕の所へ逃出にげだして来て、子供は産うまれたが、婦人は死んでしまった所密通をした廉かどと子を堕胎おろした廉が有るから、拠よんどころなく其の死骸を旅荷に拵こしらえ、女の在所へ持って往ゆき、親達と相談の上で菩提所ぼだいしょへ葬ほうむる積りだが、手前てまえにそう見顕みあらわされて誠に困ったが、金を遣やるから急いで足利在あしかゞざいまで引いてくれ」

車「そう事が定きまれば宜いいが…なんだって女子おんなッこと色事をして子供を出かし、子を堕胎おろそうとして女が死んだって…人殺しをしながら惚気のろけを云うなえ、もう些ちっと遣よこしても宜いいんだが、二十両に負けてくれべい、だが臭くせい荷を引張ひっぱって往ゆくのは難儀だアから、彼処あすこの沼辺ぬまべりの葦よしの蔭かげで、火を放つけて此の死人しびとを火葬にしてはどうだ、そうして其の骨を沼の中へ打擲ぶっぽり込んでしまえば、少しぐれえ焼けなくっても構った事はねえ、もう来月から一杯いっぺいに氷が張り、来年の三月でなければ解けねえから、知れる気遣きづかえはねえが、どうだえ」

又「これは至極妙策、成程宜いい策だが、ポッポと火を焚たいたら、又巡行の査官さかんに認められ、何故なぜ火を焚くと云って咎とがめられやしないか」

車「大丈夫でいじょうぶだよ、時々私わしらが寒くって火を焚く事があるが、巡査おまわりがこれなんだ、其処そこで火を焚いて、消さないか、と云うから、へい余あんまり寒うございますから火を焚いて烘あたって居りますが、只今踏消して参りますと云うと、そんなら後あとで消せよと云って行ゆくから、大丈夫だいじょうぶだ、さア此処こゝへ下おろすべい」

と之これから車を沼の辺へりまで引き込み、彼かの荷を下おろし、二人で差担さしかつぎにして、沼辺ぬまべりの泥濘道ぬかるみみちを踏み分け、葭よし蘆あし茂る蔭かげに掻かき据すえまして、車夫は心得て居りますから、枯枝かれえだなどを掻き集め、燧まっちで火を移しますると、ぽっ〱と燃え上る。死人しびとの膏あぶらは酷ひどいから容易には焼けないものであります。日の暮れ方の薄暗がりに小広い処で、ポッポと焚く火は沼の辺へり故ゆえ、空へ映うつりまして炎々えん〱としますから、又作は気を揉もみ巡査は来やしないかと思っていますと、

車「旦那、もう真黒まっくろになったろうが、貴方あんた己おれがにもう十両よこせよ」

又「足元を見て色々な事を云うなえ」

車「足元だって、己おれはア女の死骸と云って己おれを欺だまかしたが、こりゃア男だ、女の死骸に□□〔欠〕があるかえ」

と云われて又驚き、

又「えゝ何を云うのだ」

車「駄目だよ、お前めえは人を打殺ぶちころして金を奪とって来たに違ちげえねえ、もう十両呉れなけりゃア又引き返そうか」

又「仕方がない遣やるよ、余程よっぽど狡猾こうかつな奴だ」

車「汝われ方ほうが狡猾だ」

と云いながら人力車くるまの梶棒を持って真黒になった死骸を沼の中へ突き込んでいます。又作は近辺あたりを見返ると、往来はぱったり止まって居りますから、何かの事を知った此の車夫しゃふ、生いけて置いては後日ごにちの妨さまたげと、車夫の隙すきまを伺うかゞい、腰の辺あたりをポオーンと突く、突かれて嘉十はもんどり切り、沼の中へ逆さかとんぼうを打って陥おちいりましたが、此の車夫は泳ぎを心得て居ると見え、抜手ぬきでを切って岸辺へ泳ぎ附くを、又作が一生懸命に車の簀蓋すぶたを取って、車夫の頭を狙ねらい打たんと身構えをしました。是からどういう事に相成りますか、一寸ちょっと一息ひといき致しまして申上げましょう。

三

さて春見丈助は清水助右衞門を打殺うちころしまして、三千円の金を奪い取りましたゆえ、身代限りに成ろうとする所を持直もちなおしまして、する事為す事皆当って、忽たちまち人に知られまする程の富豪ものもちになりました。又一方かた〱は前橋の竪町で、清水助右衞門と云って名高い富豪ものもちでありましたが、三千円の金を持って出た切ぎり更に帰って来ませんので、借財方から厳しく促はたられ遂ついに身代限りに成りまして、微禄びろくいたし、以前に異かわる裏家住うらやずまいを致すように成りました。実に人間の盛衰は計られぬものでございます。春見が助右衞門を殺します折おりに、三千円の預り証書を春見の目の前へ突付け掛合う中うちに、殺すことになりまして、人を殺す程の騒ぎの中なかですから、三千円の証書の事には頓とんと心付きませんでしたが、後あとで宜よく考えて見ますと、助右衞門が彼あの時我が前に証書を出して、引換えに金を渡せと云って顔色を変えたが彼かの証書の、後あとにないところを見れば、他ほかに誰たれも持って行ゆく者はないが、井生森又作はあア云う狡猾こうかつな奴だから、ひょっと奪とったかも知れん、それとも助右衞門の死骸の中へでも入っていったか、何しろ又作が帰らなければ分らぬと思って居りましたが、三ヶ年の間又作の行方ゆくえが知れませんから、春見は心配で寝ても寝付かれませんから、悪い事は致さぬものでございますが、凡夫ぼんぷ盛んに神祟たゝりなしで、悪運強く、する事なす事儲かるばかりで、金貸かねかしをする、質屋をする、富豪ものもちと云われるように成って、霊岸島川口町れいがんじまかわぐちちょうへ転居して、はや四ヶ年の間に前の河岸かしにずうっと貸蔵かしぐらを七つも建て、奥蔵おくぐらが三戸前みとまえあって、角見世かどみせで六間間口の土蔵造どぞうづくり、横町よこちょうに十四五間の高塀たかべいが有りまして、九尺くしゃくの所に内玄関ないげんかんと称となえまする所があります。実に立派な構えで、何一つ不自由なく栄燿栄華えいようえいがは仕ほうだいでございます。それには引換え清水助右衞門の忰せがれ重二郎は、母諸共もろともに千住せんじゅへ引移りまして、掃部宿かもんじゅくで少し許ばかりの商法を開ひらきました所が、間まが悪くなりますと何をやっても損をいたしますもので、彼あれをやって損をしたからと云って、今度は是これをやると又損をして、遂ついに資本しほんを失なくすような始末で、仕方がないから店をしまって、八丁堀亀島町はっちょうぼりかめじまちょう三十番地に裏屋住うらやずまいをいたして居りますと、母が心配して眼病を煩わずらいまして難渋なんじゅうをいたしますから、屋敷に上げてあった姉を呼戻し、内職をして居りましたが、其の前年まえのとしの三月から母の眼がばったりと見えなくなりましたゆえ、姉はもう内職をしないで、母の介抱ばかりして居ります。重二郎は其の時廿三歳でございますが、お坊さん育ちで人が良うございますから智慧ちえも出ず、車を挽ひくより外ほかに何も仕方がないと、辻へ出てお安く参りましょうと云って稼いで居りましたが、何分にも思わしき稼ぎも出来ず、遂ついに車の歯代はだいが溜たまって車も挽けず、自分は姉と両人で、二日ふつかの間は粥かゆばかり食べて母を養い、孝行を尽つくし介抱いたして居りましたが、最もう世間へ無心に行ゆく所もありませんし、何どうしたら宜よろしかろうと云うと、人の噂に春見丈助は直じき近所の川口町にいて、大たいした身代に成ったという事を聞きましたから、元々馴染なじみの事ゆえ、今の難渋を話して泣付なきついたならば、五円や十円は恵んで呉れるだろうというので、姉と相談の上重二郎が春見の所へ参りましたが、家の構えが立派ですから、表からは憶おくして入れません。横の方へ廻ると栂つがの面取格子めんとりごうしが締しまって居りますから、怖々こわ〲格子を開けると、車が付いて居りますから、がら〱〱と音がします。驚きながら四辺あたりを見ますと、結構な木口きぐちの新築で、自分の姿なりを見ると、単物ひとえものの染そめっ返しを着て、前歯の滅へりました下駄を穿はき、腰に穢きたない手拭てぬぐいを下げて、頭髪あたまは蓬々ぼう〱として、自分ながら呆あきれるような姿なりゆえ、恐る〱玄関へ手を突いて、

重「お頼み申します〱」

男「どーれ」

と利助りすけという若い者が出てまいりまして、

利「出ないよ」

重「いえ乞食こじきではございません」

利「これは失敬、何処どこからお出いでになりました」

重「私わしア少し旦那様にお目にかゝって御無心申したい事がありまして参りました」

利「何処からお出でゞございますか」

重「はい、私わしア前橋の竪町の者でございまして、只今は御近辺に参って居りますが、清水助右衞門の忰せがれが参ったと何卒どうぞお取次を願います」

利「誠にお気の毒でございますが、此の節は無心に来る者が多いから、主人も困って、何方どなたがお出でになってもお逢いにはなりません、種々いろ〱な名を附けてお出でになります、碌々ろく〱知らんものでも馴々なれ〱しく私は書家でございます、拙筆せっぴつを御覧に入れたいと、何か書いたものを持って来て何なんと云っても帰らないから、五十銭も遣やって、後あとで披あけて見ると、子供の書いたような反故ほごであることなどが度々たび〱ありますから、お気の毒だが主人はお目にかゝる訳にはまいりません」

重「縁のない所からまいった訳ではありません、前橋めえばし竪町の清水助右衞門の忰重二郎が参ったとお云いなすって下さいまし」

利「お気の毒だが出来ません、それに旦那様は御不快であったが、今日はぶら〱お出掛になってお留守だからいけません」

重「どうか其様そんなことを仰おっしゃらないでお取次を願います」

利「お留守だからいけませんよ」

と頻しきりに話をしているのを、何なんだかごた〱していると思って、そっと障子しょうじを明けて見たのは、春見の娘おいさで、唐土手もろこしでの八丈はちじょうの着物に繻子しゅすの帯を締め、髪は文金ぶんきんの高髷たかまげにふさ〱と結ゆいまして、人品じんぴんの好よい、成程八百石取った家のお嬢様のようでございます。今障子を開けて、心付かず話の様子を聞くと、清水助右衞門の忰せがれだから驚きましたのは、七年前あと自分のお父とっさんが此の人のお父とっさんを殺し、三千円の金を取り、それから取付いて此様こんなに立派な身代になりましたが、此の重二郎はそれらの為に斯かくまでに零落おちぶれたか、可愛かわいそうにと、娘気むすめぎに可哀かあいそうと云うのも可愛かわいそうと云うので、矢張やはり惚ほれたのも同じことでございます。

い「あの利助や」

利「へい〱、出ちゃいけませんよ、〱」

い「あのお父とっさんは奥においでなさるから其の方かたにお逢わせ申しな」

利「お留守だと云いましたよ、いけませんよ」

い「そんな事を云っちゃアいけないよ、お前は姿なりのいゝ人を見るとへい〱云って、姿の悪い人を見ると蔑さげすんでいけないよ、此の間も立派な人が来たから飛出して往って土下座したって、そうしたら菊五郎きくごろうが洋服を着て来たのだってさ」

利「どうも仕方がないなア、此方こちらへお入はいり」

と通しまして直すぐに奥へまいり、

利「えゝ旦那様、見苦しいものが参って旦那様にお目にかゝりたいと申しますから、お留守だと申しましたところが、お嬢さまがお逢わせ申せ〱と仰おっしゃいまして困りました」

丈「居ると云ったら仕方がないから通せ」

利「此方へお入り」

重「はい〱」

と怖々こわ〲上あがって縁側伝いに参りまして、居間へ通って見ますと、一間いっけんは床の間、一方かた〱は地袋じぶくろで其の下に煎茶せんちゃの器械が乗って、桐の胴丸どうまるの小判形こばんがたの火鉢に利休形りきゅうがたの鉄瓶てつびんが掛って、古渡こわたりの錫すゞの真鍮象眼しんちゅうぞうがんの茶托ちゃたくに、古染付ふるそめつけの結構な茶碗が五人前ありまして、朱泥しゅでいの急須きゅうすに今茶を入れて呑もうと云うので、南部の万筋まんすじの小袖こそでに白縮緬しろちりめんの兵子帯へこおびを締め、本八反ほんはったんの書生羽織しょせいばおりで、純子どんすの座蒲団ざぶとんの上に坐って、金無垢きんむくの煙管きせるで煙草を吸っている春見は今年四十五歳で、人品じんぴんの好いい男でございます。只と見ると重二郎だから恟びっくりしましたが、横着者でございますから

丈「さア〱此方こちらへ」

重「誠に暫しばらく御機嫌宜しゅう」

丈「はい〱、誠に久しく逢いません、私も此方こちらへ転居して暫く前橋へも往ゆきませんが、お変りはないかね、お父とっさんは七年前あと帰らんと云って尋ねて来た事があったが、お帰りに成ったかね」

重「其の後ごいまだに帰りませんし便たよりもありませんで、死んだか生きて居るか分りません、御存じの通り三千円の金を持って出て、それも田地でんじや土蔵を抵当に入れて才覚したものでござりやんすから、貸方かしかたから喧やかましく云われ、抵当物は取られ、お母ふくろと両人ふたりで手振編笠てぶりあみがさで仕方がねえから、千住せんじへまいって小商こあきないを始めましたが、お母が長々なが〱の眼病で、とうとう眼がつぶれ、生計くらしに困り、無心を云う所も無ねえで、仕方なく亀島町の裏屋ずまいで、私わしは車を挽ひき、姉は手内職をして居りましたが、段々寒くなるし、車を引いても雨降り風間かざまには仕事がなく、実に翌日にも差迫さしせまる身の上に成りまして、何うしようと思っていた処、春見様が此方こっちにおいでなさるという事が知れましたから、願ったら出来ようかと思って姉と相談の上で出ましたが、親子三人助かりますから、どうかお恵みなすって下さいまし」

と泣きながらの物語に春見も気の毒千万な事に思い、せめては百円か二百円恵んで遣やろうかと思ったが、いや〱〔「※」は「「愍」で「民」のかわりに「求」をあてる」〕なまじいに恵み立てをすると、彼あの様な見苦しい者に多くの金を恵むのは変だという所から、其の筋の耳になって、七しちヶ年前ねんぜんの事が顕あらわれては遁のがれ難がたき我わが身の上ゆえ、寧いっそ荒々しく云って帰した方が宜よろしかろうと思いまして、

丈「重二郎さん、誠に気の毒だが貸す事は出来ない、そう云う事を云って歩いても貸す人はないよ、難儀をするものは世間には多人数たにんずあって、僕は交際も広いから一々恵み尽つくされません、そうして故ゆえなく人に恵みをすべきものでもなく、又故なく貰うべきものでもなく、其の儀は奉公人にも言い付けてあることで、誠に気の毒だが出来ません、お前も血気な若い身分でありながら、車を挽ひいてるようではならん、当節は何をしても立派に喰える世の中だのに、人の家に来て銭ぜにを貰うとは余り智慧ちえのないことだお前はお坊さん育ちで何も知るまいが、人が落目おちめになった所を〔「※」は「「愍」で「民」のかわりに「求」をあてる」〕なまじいに助ければ、助けた人も共に倒れるようになるもので、たとえば車に荷を積んで九段のような坂を引いて上あがって力に及ばんで段々下へ落おちる時、只たった一人でそれを押えて止めようとすると、其の人も共に落ちて来て怪我をするようになるから、それよりも下くだり掛った時は構わないで打棄うっちゃって置いて其の車が爼橋まないたばしまで下ってから、一旦いったん空車からぐるまにして、後あとで少しばかりの荷を付けて上げた方が宜よろしいようなもので、今〔「※」は「「愍」で「民」のかわりに「求」をあてる」〕なまじいに恵むものがあってはお前のためにならん、人の身は餓死するようにならんければ奮発する事は出来ない、それでなければお前の為にならん」

重「誠にお恥かしい事でございますが、一昨々日さきおとついから姉も私わしもお飯まんまを喫たべません、お粥かゆばかり喫べて居ります、病人の母が心配しますから、お飯があるふりをしては母に喫べさせ、姉も私も芋を買って来て、お母ふくろが喫べて余ったお粥の中へ入れ、それを喫べて三日以来このかた辛抱して居りましたが、明日あすしようがねえ、何うしたら宜よかろうかと思って、此方こちらへ出ました訳でございますから、若もしお恵みが出来なければ、私だけ此方こちらの家うちへ無給金で使って呉れゝば私一人いちにんの口が減るから、そうすれば姉が助かります、どうか昔馴染むかしなじみだと思って」

丈「これ〱昔馴染とは何なんの事だ、屋敷にいる時は手前の親を引立ひきたってやった事はあるが、恩を受けたことは少しもない、それを昔馴染などとは以もっての外ほかのことだ、一切いっせつ出来ません、奉公人も多人数たにんず居って多過ぎるから減へらそうと思っているところだから、奉公に置く事も出来ません帰えって下さい、此の開明の世の中に、腹の減るまでうか〱として居るとは愚を極きわめた事じゃねえか、それに商業繁多はんたでお前と長く話をしている事は出来ない、帰って下さい」

と云い捨て、桑の煙草盆を持って立上り、隔へだての襖ふすまを開けて素気そっけなく出て往ゆきます春見の姿を見送って、重二郎は思わず声を出して、ワッとばかりに泣き倒れまして、

重「はい、帰ります〱、貴方あんたも元は御重役様であった時分には、私わしが親父おやじは度々たび〱お引立ひきたてになったから、貴方を私が家うちへ呼んで御馳走をしたり、立派な進物も遣つかった事がありますから、少しばかりの事を恵んでも、此の大でけえ身代しんでいに障さわる事もありますまい、人の難儀を救わねえのが開化の習ならいでございますか、私は旧弊の田舎者で存じませぬ、もう再び此の家うちへはまいりません只今貴方の仰おっしゃった事は、仮令たとえ死んでも忘れません、左様なら」

と泣々なく〱ずっと起たって来ますと、先刻せんこくから此の様子を聞いていまして、気の毒になったか、娘のおいさ「おいさ」は底本では「おさい」と誤記が紙へ三円包んで持ってまいり、

い「もし重二郎さん、お腹も立ちましょうが、お父とっさんは彼あの通りの強情者でございますから、どうかお腹をお立ちなさらないで下さいまし、これは私わたくしの心ばかりでございますが、お母っかさんに何か暖あったかい物でも買って上げて下さい」

重「いゝえ戴きません、人は恵む者がある内は、奮発の附かないものだと仰おっしゃった事は死んでも忘れません」

い「あれさ、そんな事を云わないでこれは私わたしの心ばかりでございますから、どうかお取り下さい」

と無理に手へ掴つかませてくれても、重二郎は貰うまいと思ったが、これを貰わなければ明日あしたからお母ふくろに食べさせるのに困るから、泣々なく〱貰いまして、あゝ親父おやじと違って、此の娘は慈悲のある者だと思って、おいさの顔を見ると、おいさも涙ぐんで重二郎を見る目に寄せる秋の波、春の色も面おもてに出いでゝ、真しんに優しい男振りだと思うも、末に結ばれる縁でございますか。

い「どうかお母っかさんに宜よろしく、お身体をお大切になさいまし」

と云って見送る。重二郎も振返り〱出て往ゆきました。其の跡へ入って来たのは怪しい姿なりで、猫の腸ひゃくひろのような三尺さんじゃくを締め、紋羽もんぱの頭巾ずきんを被かぶったまゝ、

男「春見君は此方こちらかえ〱」

利「はい、何方どなたですえ」

男「井生森又作という者、七しちヶ年ねん前ぜんに他県へ参って身を隠して居たが、今度東京へ出て参ったから、春見君に御面会いたしたいと心得て参ったのだ、取次いでおくんなせえ」

利「生憎あいにく主人は留守でございますから、どうか明日みょうにちお出いでを願いとうございます」

又「いや貧乏暇なしで、明日みょうにち明後日みょうごにちという訳にはいかないから、お気の毒だがお留守なら御帰宅までお待ち申そう」

利「これは不都合な申分もうしぶんです、知らん方を家うちへ上げる訳にはゆきません、主人に聞かんうちは上げられません」

又「何なんだ僕を怪しいものと見て、主人に聞かんうちは上げられないと云うのか、これ僕が春見のところへまいって、一年や半年寝ていて食って居ても差支さしつかえない訳があるのだ、一体手前てめえ妙な面つらだ、半間はんまな面だなア、面が半間だから云う事まで半間だア」

利「おや〱失敬な事を云うぜ」

又「さア手前てめえじゃア分らねえ、直すぐに主人に逢おう」

利「いけません、いけません」

又「いけんとは何なんだ、通さんと云えば踏毀ふみこわしても通るぞ」

利「そんな事をすると巡査を呼んで来ますよ」

又「呼んで来い〱、主人に逢あおうと云うのだ、何を悪い事をした、手前てめえの知った事じゃアねえ」

と云いながら又作が無法に暴れながら、ずッと奥へ通りますと、八畳の座敷に座布団の上に坐り、白縮緬しろちりめんの襟巻えりまきをいたし、咬くわえ烟管ぎせるをして居ります春見丈助利秋の向むこうへ憶おくしもせずピッタリと坐り、

又「誠に暫しばらく、一別已来いちべついらい御壮健で大悦至極たいえつしごく」

丈「これさ誰たれか取次をせんか、ずか〱と無闇に入って来て驚きましたわな」

又「なにさ、僕が斯様かような不体裁ふていさいな姿なりでまいったゆえ、君の所の雇人奴やといにんめが大おおきに驚き、銭貰いかと思い、怪けしからん失敬な取扱いをしたが、それはまア宜よろしいが、君はまア図はからざる所へ御転住ごてんじゅうで」

丈「いや実にどうも暫しばらくであった、どうしたかと思っていたが、七しちヶ年ねん以来このかた何なんの音信おとずれもないから様子が頓とんと分らんで心配して居ったのよ」

又「さア僕も此の頃帰京いたしお話は種々いろ〱ありますが、何しろ雇人の耳に入っては宜しくないから、久々だから何処どこかで一杯やりながら緩々ゆる〱とお話がしたいね」

丈「此方こっちでも聞きてえ事もあるから、有合物ありあいもので一盞いっぱいやろう」

と六畳の小間こまへ這入はいり、差向い、

丈「此処こゝは滅多に奉公人も来ないから、少しぐらい大きな声を出しても聞きこえることじゃアねえ、話は種々いろ〱あるが、七年前旅荷にして持出もちだした死骸は何うした」

又「それに就ついて種々いろ〱話があるが、彼あの時死骸を荷足船にたりぶねで積出つみだし、深川の扇橋から猿田船やえんだぶねへ移し、上乗うわのりをして古河の船渡ふなとへ上あがり、人力車へ乗せて佐野まで往って仕事を仕ようとすると、其の車夫は以前長脇差の果はてで、死人しびとが日数ひかずが経たって腐ったのを嗅かぎ附け、何なんでも死人に相違ないと強請ゆすりがましい事を云い、三十両よこせと云うから、止やむを得ず金を渡し、死人を沼辺ぬまべりへ下おろして火葬にして沼の中へ投ほうり込んでしまったから、浮上うきあがっても真黒まっくろっけだから、知れる気遣きづかいないが、彼かの様子を知った車夫、生かして置いてはお互いの身の上と、罪ではあるが隙すきを窺うかゞい、沼の中へ突き落おとし、這はい上あがろうとする所を人力車くるまの簀葢すぶたを取って額を打据うちすえ、殺して置いて、其の儘まゝにドロンと其処そこを立退たちのき、長野県へ往ってほとぼりの冷さめるのを待ち、石川県へ往ったが、懐に金があるから何もせず、見てえ所は見、喰いてえ物は喰い、可なり放蕩ほうとうも遣やった所が、追々おい〱金が乏とぼしくなって来たから、商法でも仕ようと思い、坂府さかふへ来た所、坂府は知っての通り芸子げいこ舞子まいこは美人揃ぞろい、やさしくって待遇もてなしが宜いいから、君から貰った三百円の金はちゃ〱ふうちゃに遣つかい果はたして仕方なく、知らん所へ何時いつまで居るよりも東京へ帰ったら、又どうかなろうと思い、早々そう〱東京へ来て、坂本二丁目の知己しるべの許もとに同居していたが、君の住所は知れずよ、永くべん〱として居るのも気の毒だから、つい先々月亀島町の裏長屋を借り請うけ、今じゃア毎夜鍋焼饂飩なべやきうどんを売歩うりあるく貧窮然ひんきゅうぜんたる身の上だが、つい鼻の先の川口町に君が是これだけの構いをして居るとは知らなかったが、今日はからず標札を見て入って来たのだが、大たいした身代になって誠に恐悦きょうえつ」

丈「あれからぐっと運が向き、為する事なす事間まがよく、是まで苦もなく仕上げたが、見掛けは立派でも内幕は皆機繰からくりだから、これが本当の見掛倒しだ」

又「金は無いたって、あるたって、表構おもてがまえで是だけにやってるのだから大たいしたものだねえ、時に暫しばらく無心を云わなかったが、どうか君百円ばかりちょっと直すぐに貸して呉れ給え、斯こうやって何時いつまで鍋焼饂飩も売っては居おられんじゃないか、これから君が後立うしろだてになり、何か商法の工夫をして、宜よかろうと思うものを立派に開店して、奉公人でも使うような商人にして下せえな」

丈「商人にして呉れろって、君には三百円という金を与えたのに、残らず遣つかってしまい、帰って来て困るから資本もとでを呉れろとは、負おぶえば抱かろうと云うようなもので、それじア誠に無理じゃアないか」

又「なにが、無理だと、何処どこが無理だえ」

丈「そんなに大きな声をしなくても宜よろしいじゃねえか」

又「君が是だけの構かまえをして居いるに、僕が鍋焼饂飩を売って歩き、成程金を遣つかったから困るのは自業自得とは云うものゝ、君が斯こうなった元はと云えば、清水助右衞門を殺し、三千円の金を取り、其の中うち僕は三百円しか頂戴せんじゃねえか、だから千や二千の資本しほんを貸して、僕の後立うしろだてになっても君が腹の立つ事は少しもあるめえ」

丈「如何いかにも貸しも仕ようが、見掛ばかりで手元には少しも金はねえから、其の内君の宅へ届けようか」

又「届けるって九尺弐間くしゃくにけんの棟割長屋むねわりながやへ君の御尊来ごそんらいは恐入るから、僕が貰いに来ても宜よろしい」

丈「そんな姿なりで度々たび〱宅へ来られては奉公人の手前もあるじゃねえか」

又「さア当金とうきん百円貸して、後金あときん千円位の資本を借りてもよかろう」

丈「それじゃア貸しても遣やろうが、何時迄いつまでもぐず〲しても居いられめえから、何か商法を開ひらき、悪い事を止やめて女房にょうぼでも持たんければいかんぜ、早く身を定めなさい、時に助右衞門を殺して旅荷に拵こしらえた時、三千円の預り証書を君が懐へ入れて、他県へ持って往ったのだろうな」

又「どうも怪けしからん嫌疑けんぎを受けるものだねえ」

丈「いや、とぼけてもいけねえ、彼あの事は君より他ほかに知ってる者はないのに、後あとで捜してもねえからよ、彼《あ》の証書が人の手に入れば君も僕も身の上に係わる事だぜ」

又「それは心得てるよ、僕も同意してやった事だから、露あらわれた日にゃ同罪さア」

丈「隠してもいけねえよ」

又「隠しはしねえ、僕が真実ほんとに預り証書を持って居ても、これを証しょうにして訴える訳にはいかん、三百円貰ったのが過あやまりだから仕方がねえ、役に立たぬ証書じゃねえか」

丈「君が若もし彼あの証書を所持して居いるなら千円やるから僕にそれを呉れたまえよ」

又「ねえと云うのに、僕の懐に若もし其の証書があれば、千や二千の破れ札さつを欲しがって来きやアしねえ、助右衞門は僕が殺したのではねえ、君が殺したのだから、君が重罪で僕も同類だけれど、其の証書をもって自訴じそすれば僕の処分は軽い、君と僕と遣やりっこにすればそうだから、証書があれば否応いやおうなしに五六千円の金を出さなければなるめえ、又預り証書があれば御息女のおいささんを女房にょうぼに貰うか、入婿いりむこにでもなって幅を利きかされても仕方がねえ身の上じゃねえか、貸したまえ、今千円の札さつを持って帰っても、これ切り参りませんという銭貰いじゃアねえ、金が有れば遣つかってしまい、なくなれば又借りに来る、是これだけの金主きんしゅを見附けたのだから僕の命のあらん限かぎりは君は僕を見捨みすてることは出来めえぜ」

丈「明後日あさっては晦日みそかで少し金の入る目的めあてがあるから、人に知れんような所で渡してえが、旨い工夫はあるまいか」

又「それは訳わきゃアねえ、僕が鍋焼饂飩を売ってる場所は、毎晩高橋たかばし際ぎわへ荷を降おろして、鍋焼饂飩と怒鳴どなって居るから、君が饂飩を喰う客の積つもりで、そっと話をすれば知れる気遣きづかいはあるめえ」

丈「そんなら遅くも夜の十二時頃までには往ゆくから、十一時頃から待ってゝくれ」

又「百円は其の時屹度きっとだよ、千円もいゝかね」

丈「千円の方は遅くも来月中旬までには相違なく算段するよ、これだけの構かまえをしていても金のある道理はない、七ヶ年の間皆遣やり繰くりでやって来たのだからよ」

又「じゃア飯を喰って帰けえろう」

とずう〱しい奴で、種々いろ〱馳走になり、横柄おうへいな顔をして帰りました故、奉公人は皆不思議がって居りました。これから助右衞門の女房にょうぼうや忰せがれが難儀を致しますお話に移りますのでございますが、鳥渡ちょっと一息吐つきまして申上げます。

四

春見丈助は清水助右衞門を殺し、奪取うばいとった三千円の金から身代を仕出し、大たいしたものになりましたのに引替え、助右衞門の忰せがれ重二郎は人力を挽ひいて漸々よう〱其の日〱を送る身の上となりましたから、昔馴染むかしなじみの誼よしみもあると春見の所へ無心に参れば、打って変った愛想あいそづかし、実に悪にくむべきは丈助にて、それには引替え、娘おいさの慈悲深く恵んでくれた三円で重二郎は借金の目鼻を附け、どうやら斯うやら晦日みそかまで凌しのぎを附けると、晦日には借金取が来るもので、お客様方にはお覚えはございますまいが、我々どもの貧乏社会には目まぐらしい程まいります。

米屋「はい御免よ、誠に御無沙汰をしました、時にねえ余り延々のび〱に成りますから、今日は是非お払いを願いたいものだ」

まき「誠にお気の毒さまで、毎度おみ足を運ばせて済みませんが、御存じの通り母が眼病でございまして、弟おとゝも車を挽ひいて稼ぎますが」

米「おい〱お母っかさんが眼病で、弟御おとうとごが車を挽く事はお前さんが番毎ばんごと云いなさるから、耳に胼胝たこのいる程だが、姉ねいさんまアお母さんはあゝやって眼病で煩わずらってるし、兄にいさんは軟弱かぼそい身体で車を挽いてるから気の毒だと思い、猶予ゆうよをして盆の払いが此の暮まで延々のび〱になって来たのだが、来月はもう押詰おしつまり月づきではありませんか、私も商売だから貸すもいゝが、これじゃア困るじゃアないか、私は人が好いいから、お前方も顔向けが出来まいと察して来ないのだが、私が米を売らなけりゃお前さん喰わずに居ますかえ、それもこれだけ払うから後あとの米を貸して下さいと云えば、随分貸してもやろうが、間まが悪いと云って外ほかの米屋で買うとは何なんの事だえ、勧解かんかいへでも持出さなければならない、勘定をしなさい」

ま「それでは誠に困ります」

重「あの姉さん少しお待ちなさい、貴方あんたの方のお払いは何程なにほど溜たまって居りやすか」

米「えゝ二円五十銭でございます」

重「此処こゝに一円二十銭ありやんすが、これをお持ちなすってお帰けえんなすって、あとの米を又少しの間拝借が出来ますならば、命から二番目の大事な金でございやすが、これを上げますから、あとの米を壱円いちえんべい送って戴きていもんでござりやす」

米「壱円弐拾銭あるのか、篦棒べらぼうらしい、商売だからお払いさえ下されば米は送ります」

と金を撿あらため請取うけとりを置いて出て往ゆきますと、摺違すれちがって損料屋そんりょうやが入ってまいりました。

ま「おや、又」

損「なんです、おや又とは」

ま「いえ、あの能よくいらっしゃいましたと申したのでございます」

損「嘘を云いなさんな、今米屋が帰った跡へ直すぐに私が催促さいそくに来たから、おや又と云ったのだろう、借金取を見ておや又とは甚はなはだ失敬だ、私も困りますから返して下さい、料銭りょうせんを払わないと止やむを得ないから蒲団を持って往ゆくよ」

ま「でも此の通り寒くなって母が困りますから、最もう少々貸して置いて下さいまし」

損「其方そっちも困るだろうが私も困らアね、引続いて長い間留とめて置き、蒲団は汚よごし料銭は少しも払わず、何どうにも斯こうにも仕方がないから、私わたしゃア蒲団を持って往ゆきますよ」

ま「何卒どうぞ御勘弁を願います」

損「勘弁は出来ません」

と云いながら、ずか〱と慈悲容赦なさけようしゃも荒々しく、二枚折にまいおりの反故張屏風ほごばりびょうぶを開け、母の掛けて居りまする四布蒲団よのぶとんを取りにかゝりますから、

重「何をなさる、被きて居いるものを取ればまるで追剥おいはぎですなア」

損「これ何をいうのだ、私の物を私が持って往ゆくのに追剥という事があるものか、料銭が溜たまったから蒲団を持って往くのが追剥ぎか」

重「誠に相済みません、何卒どうぞ御勘弁を」

と云っているのを、同じ長屋にいるお虎とらという婆さんが見兼みかねて出てまいり、

虎「まアお待ちなさいな、斯こうやってお母っかさんが眼が悪く、兄にいさんが一生懸命に人力を挽ひいて稼いでも歯代はだいがたまって困ると云うくらいだから、料銭の払えないのは尤もっともな話だのに、可愛かわいそうに病人が被きているものを剥はいで往ゆくとは余あんまり慈悲なさけないじゃないか」

損「お虎さん、お前さんは知らないのだが、蒲団を貸して二ヶ月料銭を払わないから、損料代が四円八十銭溜って居りますよ」

重「へい、そんなになりますかえ」

損「なりますとも、一晩ひとばん四布よのが五銭に、三布布団みのぶとんが三銭、〆しめ八銭、三八さんぱ二円四十銭しじっせんが二ヶ月で四円八十銭に成りますわねえ」

虎「高いねえ、こんな穢きたない布団でかえ」

損「穢い布団じゃアなかったのだが、段々此の人達が被古きふるして汚よごしたので、前は新しかったのです」

虎「成程御尤ごもっともですが、其処そこがお話合はなしあいで、私も斯こうやって仲へ入り、口を利いたもんだから三円だけ立替たてかえて上げたら、お前さん此の布団を貸してやって下さるかえ、此の汚れたのは持って帰って小綺麗こぎれいなのと取替えて持って来て貸して下さるか」

損「それは料銭さえ払って下されば貸して上げますともさ」

虎「それじゃア持合もちあわせていますから私が立替えて上げるが、端銭はしたはまけて置いておくれな、明日あした一円上げますからさ」

損「宜ようございます、八十銭の損だが、お虎さんにめんじて負けて置きましょう、そんならさっぱりとしたのと取替えて来ます、左様なら」

虎「屹度きっと持って来ておくれ、左様なら」

と損料屋の後姿うしろすがたを見送って、おまきに向い、

虎「まアおまきさん御覧よ、酷ひどい奴じゃないか、彼奴あいつはもと番太郎で、焼芋やきいもを売ってたが、そのお前芋が筋が多くて薄く切って、そうして高いけれども数が余計にあるもんだから、子供が喜んで買うのが売出しの始めで、夏は金魚を売ったり心太ところてんを売ったりして、無茶苦茶に稼いで、堅いもんだから夜廻りの拍子木ひょうしぎも彼あの人は鐘をボオンと撞つくと、拍子木をチョンと撃つというので、ボンチョン番太と綽名あだなをされ、差配人さはいにんさんに可愛かわいがられ、金を貯ためて家うちを持ち、損料と小金こがねを貸して居るが、尻けつの穴が狭くて仕様のない奴だよ」

ま「叔母おばさんがお出いでなさらないと私わたくしはどう仕ようかと思いました、毎度種々いろ〱御贔屓ごひいきになりまして有り難うございます」

虎「時にねえまアちゃんや、私わたしゃ悪い事は云わないから、此間こないだ話した私の主人同様の地主様で、金貸かねかしで、少し年は取っていますが、厭いやなのを勤めるのが、そこが勤めだから、厭いやでも応うんと云って旦那の云うことを聞けば、お母っかさんにも旨い物を食べさせ、好いいものを着せられ、お前も芝居へも往ゆかれるから、私の金主きんしゅで大事の人だから、彼あの人の云うことを応うんと聞いて囲者かこいものにおなりよ」

ま「有り難う存じますが、なんぼ零落おちぶれましても、まさかそんな事は出来ません」

虎「まさかそんな事とは何なんだえ、それじゃアどう有っても否いやかえ」

ま「私わたくしも元は清水と申して、上州前橋で御用達ごようたしをいたしました者の娘、如何いかに零落おちぶれ裏店うらだなに入っていましても、人に身を任せて売淫じごく同様な真似をして、お金を取るのは、母もさせる事ではありませんし、私も死んでも否いやだと思って居ります」

虎「はい、お立派でございますねえ、御用達のお嬢さんだから喰わずに居ても淫売じごく同様な真似はしないと、よく御覧、近辺の小商あきないでもして、可なりに暮して居るものでも、小綺麗こきれいな娘があれば皆みんな旦那取りをして居るよ、私なんぞも若い時分には旦那が十一人あったが、まだ足りなくって小浮気こうわきもしたことがあった位だから、お前だって大事のお母っかさんに孝行したいと思うならばねえ」

ま「誠に有り難う存じますが、そればかりはお断り申します」

虎「否いやなら無理にお願い申しませんよ、それじゃア私の金主きんしゅの八木やぎさんから拝借した三円のお金を、今損料屋が来てお母っかさんの被きている蒲団を引剥ひっぱぎにかゝったから、お気の毒だと思い、立替えたが、今の三円は直すぐ返して下さいな、さアお前が応うんとさえ云えば又旦那に話の仕様もあるが、否いやだと云い切っては何も気を揉もんで昨今のお前さんに金を貸す訳はないから返して下さい」

ま「お金がないのを見かけ、無理に立替えて返せと仰おっしゃっても致方いたしかたがございません」

虎「そんな不理窟ふりくつを云ったっていけないよ、損料屋が蒲団を持っていったら此の寒いのに病人を裸体はだかで置くつもりかえ、さっさと返して下さいな」

重「小母おばさんお待ちなすって下さい、姉あねさまが人さまの妾にはならないと云うのも御尤ごもっともな次第、と云って貴方あんたに返す金はありやせんから、何卒どうぞ私わしを其の旦那の処で、姉の代りに使って下さいますめえか」

虎「おふざけでないよ、お前さんがいくら器量が好よくても、今は男色かげまはお廃はいしだよ」

重「いゝえ左様ではございませぬ、どのような御用でもいたしやすから願いやす」

婆「これサ、旦那の処で一月ひとつき働いたって三円の立前たちまいは有りゃアしねえ「しねえ」は底本では「しえね」と誤記、一日弐拾銭出せば力のある人が雇えるから、お前さんなぞを使うものかねえ、返して下さいよ」

と云って中々聞き入れません。此の婆ばゞあは元は深川の泥水育ちのあば摺ずれもので、頭の真中まんなかが河童の皿のように禿はげて、附け髷まげをして居ますから、お辞儀をすると時々髷が落ちまする、頑丈がんじょうな婆さんですから、金がなけりゃ此れを持って往ゆくと云いながら、彼かの損料蒲団へ手を掛けようとすると、屏風の中うちから母が這はい出して。

母「御尤ごもっともでございますが、私の宅うちの娘は年は二十五にもなり、体格なりも大きいけれども、是迄屋敷奉公をして居りやしたから、世間の事を知らねえ娘で、中々人さまの妾になって旦那さまの機嫌気づまを取れる訳でもございやせん、と申して、お借り申した三円のお金は返さねえでは済みませんが、金はなし、損料布団を取られては私が誠に困りますから」

と云いながら手探てさぐりにて取出したのは黒塗くろぬりの小さい厨子ずしで、お虎の前へ置き。

母「これは私わしが良人おやじの形見でございまして、七ヶ年前あと出た切ぎり行方ゆくえが知れませんが、大方死んだろうと考えていますから、良人の出た日を命日として此の観音さまへ線香を上げ、心持こゝろもちばかりの追善供養ついぜんくようを致しやして、良人に命があらば、何卒どうぞ帰って親子四人よったり顔が合わしていと、無理な願掛がんがけをして居りやんした、此の観音さまは上手じょうずな彫物師ほりものしが国へ来た時、良人が注文して彫らせた観音さまで金無垢きんむくでがんすから、潰つぶしにしても大えらく金になると、良人も云えば人さまも云いやすが、金才覚かねさいかくの出来るまで三円の抵当かたに此の観音さまをお厨子ずしぐるみ預かって、どうか勘弁して下さいやし」

ま「お母っかさん、とんでもない事を仰おっしゃる、それを上げて済みますか、命から二番目の大切な品では有りませんか」

母「えゝ命から次の大事なものでも拠よんどころない、斯こういう切迫詰せっぱつまりになって、人の手に観音様が入ってしまうのは、親子三人神仏かみほとけにも見離されたと諦めて、お上げ申さなければ話が落着おちつかねえではないか、あゝ早く死にてい、私わしが死ねば二人の子供も助かるべいと思うが、因果と眼も癒なおらず、死ぬ事も出来ましねえ、お察しなすっておくんなさい」

と泣き倒れまする。

虎「誠にお気の毒ですねえ、おや大層まア立派な観音さま、何なんだか知りませんが、まア〱金の抵当かたに預って置きましょう、成程丈たけも一寸八分いっすんはちぶもありましょう、これなれば五円や十円のものはあろう」

と云いながら艶消つやけしの厨子ずしへ入ったまゝ懐へ入れて帰りました。お虎婆ばゞあは夜よに入いって楽たのしみに寝酒を呑んでいます所へ入って来たのは、鉄砲洲新湊町てっぽうずしんみなとちょうに居りまする江戸屋えどやの清次せいじという屋根屋の棟梁とうりょうで、年は三十六で、色の浅黒い口元の締った小さい眼だが、ギョロリッとして怜悧相りこうそうで垢脱あかぬけた小意気こいきな男でございます。形なりは結城ゆうきの藍微塵あいみじんに唐桟とうざんの西川縞にしかわじまの半纒はんてんに、八丈の通とおし襟えりの掛ったのを着て門口かどぐちに立ち。

清「お母っかア宅うちか、お虎宅かえ」

虎「誰だえ、おや棟梁さんか、お上あがんなさい」

清「滅法めっぽう寒くなったのう、相変らず酒か」

虎「棟梁さんは毎いつも懐手ふところでで好いい身の上だねえ」

清「己おれは遊人あそびにんじゃアねえよ、此の節は前とは違って請負うけおい仕事もまご〱すると損をするのだ、むずかしい世の中になったのよ」

虎「棟梁さんは今盛りで、好いい男で、独ひとり置くのは惜しいねえ、姉あねさんの死んだのは歳年いくねんに成りましたっけねえ」

清「もう五年に成るがお母っかアが最もう些ちっと若ければ女房にょうぼに貰うんだがのう」

虎「調子の宜いいことを云ってるよ」

清「女房にょうぼで思い出したが、此の長屋の親孝行な娘は好いい器量だなア」

虎「あれは本当にいゝ娘だよ」

清「顔ばかりじゃねえ、何処どこから何処まで申分もうしぶんがねえ女だが、あれを女房にょうぼに貰いていが礼はするが骨を折って見てくれめえか、そうすれば親も弟も皆みんな引取っても宜いいが、どうだろう」

虎「いけないよ、年は二十五だが、男の味を知らないで、応うんとさえ云えば、立派な旦那が附いて、三十円遣やるというのに、まさか囲者かこいものには成らないと云うのだよ、何ういう訳だか、本当に馬鹿気ばかげているよ」

清「いくら苦しくても其の方が本当だ、其のまさかと云う処が此方こっちの望みだ」

虎「外ほかの好いい少女すもるを呼んで遊んでおいでな、あんなものを□□〔欠〕て寝ても石仏いしぼとけを□□〔欠〕て寝るようなもので、些ちっとも面白くもなんともないよ」

清「己おれはそれが望みだ、あの焼穴やけあなだらけの前掛けに、結玉むすびったまだらけの細帯で、かんぼ窶やつして居るが、それで宜いいのだから本当にいゝのだ」

虎「棟梁は余程よっぽど惚ほれたねえ、だが仕方がないよ」

清「己も沢山たんとは出せねえが、只たった一度で十円出すぜ」

虎「え、十円……鼻の先に福がぶら下さがってるに、三円の金に困ってるとは、本当に馬鹿な女だ」

と話している所へおまきが門口へ立ちまして、

ま「伯母おばさん、御免なさい」

虎「はい、どなたえ」

ま「あのまきでございますが」

という声を聞き。

虎「おい棟梁、一件が来たよ、隣のまアちゃんが来たってばさア」

清「なに来たア極きまりが悪わりいなア」

虎「はい、只今明けますよ、棟梁さん早く二階へ上あがっておいでよ、はい今明けますよ、棟梁さん早く二階へ上ってお出いでよ「お出《い》でよ」は底本では「お出《い》よ」と誤記…はい今明けますよ…私が様子を宜よくして、あの子を欺だまして二階へ上げるから、お前さんが彼あの娘の得心するように旨く調子よく、そこは棟梁さんだから万一ひょっとして岡惚れしないものでもないよ、はい只今明けますよ…あの道は又乙おつなものだから…はいよ、今明けますよ…あの子の頸玉くびたまへ□□〔欠〕り附いて無理に□〔欠〕いておしまいよ…今明けますよ…早く二階へお上あがり」

と云われ、清次は煙草盆を手に提さげ二階へ上るのを見て、婆ばゞあは土間へ下おり、上総戸かずさどを明け。

虎「さアお入り、まアちゃん先刻さっきは悪い事をいって堪忍かんにんしておくれよ、詰らねえ事を催促さいそくして、何なんだかお母っかさんの大事なものだって…お厨子入ずしいりの仏さまを本当に持って来なければ宜よかったと思っていたが、私もつい酔った紛まぎれでした事だが、堪忍しておくれよ、まア宜く来たねえ」

ま「はい、先程は折角御親切に云って下さいましたのに、承知致しませんでお腹立はらだちもございましょうが、まさか母や弟おとゝの居ります前で結構な事でございますから、何卒どうぞ妾にお世話を願いますとは伯母さん、申されませんでしたが、実に今年の暮も往ゆき立ちませんで、何かと母も心配して居りますから、私の様ような者でも一晩お相手をして些ちっとでもお金を下されば、母の為と思いまして、どの様ようにも御機嫌を取りましょうから、貴方あなた宜よいお方をお世話なすって、先程母のお預け申した観音様のお厨子を返しては下さいませんか」

と云われ、お虎はほく〱悦よろこび。

虎「何かい、お前は彼あのお母っかさんの為に…どうも感心、宜よくまア本当に孝行だよ、仕方がないから諦めたのだろうが、否いやなお爺さんでは私も無理にとも云い難にくいが、鉄砲洲の屋根屋の棟梁で、江戸屋の清次さんという粋いきな女惚れのする人が、お前の親孝行で、心掛こゝろがけが宜く、器量も好いいから、己おらアほんとうに女房にょうぼに貰いたいと云ってるんだが、只たった一晩でお金を五円あげるとさ、私わたしゃア誰にも云わないよ、丁度今二階に棟梁が来て居るから往って御覧、好よい男だよ」

ま「それでは其のお方様に私が身を任せれば、お金を五円下さいますか、そうすれば其の内三円お返し申しますからどうか観音様を返して下さいまし」

虎「それは直すぐにお厨子はお返し申しますがね、そんなら少し待っておいで」

と婆ばゞあはみし〱と二階へ上あがってまいりまして。

虎「棟梁、フヽフン、彼あの子も苦し紛まぎれに往生して、親の為になる事なら旦那を取ろうと得心をしたよ、ちょいと今あの子も切迫詰せっぱつまり、明日あすに困る事があるのだが、拾円のお金を遣やっておくれな」

清「それは遣るよ」

虎「彼あの子の云うには、私もねえ元は立派な御用達ごようたしの娘でございますから、淫売じごくをしたと云われては世間へ極きまりが悪いから、惚合ほれあって逢ったようにして、□〔欠〕寝をされた事は世間へ知れない様にして下さいと云うから其の積りで、そうして棟梁も拾円遣やったなんぞ「なんぞ」は底本では「なぞん」と誤記と云うと、彼の娘は人が好いいから真赤まっかになって、金を置いて駆出かけだすから、金の事は何も云っちゃアいけないよ、今あの子を連れて来るから、お金を拾円お出しよ」

清「さア持って往ゆきねえ、したが昔ならお大名へお妾に上げて、支度金したくきんの二百両と三百両下がる器量を持って、我々の自由になるとは可愛かあいそうだなア」

虎「それじゃアあの子が二階へ上あがったら私は外はずしてお湯に往ゆくよ、先刻さっき往ったがもう一遍往ゆくよ、早くしておくれでないといけねえよ」

と梯子はしごを降おりながら拾円の中うちを五円は自分の懐へ入れてしまい、おまきに向い、

虎「今棟梁に話した所がねえ、大たいそうに悦よろこんで、己おれも仕手方してかたを使い、棟梁とも云われる身の上で淫売じごくを買ったと云われては、外聞げいぶんが悪いから、相対あいたい同様にしてえと云って、お金を五円おくれたからお前もお金の事を云っちゃアいけねえよ、安っぽくなるから、宜いいかえ」

ま「伯母さん誠に有り難うございます」

虎「黙って沢山たんと貰った積りでおいでよ、人が来るといけないから早く二階へお上あがりよ」

ま「何卒どうぞ観音様のお厨子を…はい有り難うございます、拝借のお金はこれへ置きます、伯母さん何処どこへいらっしゃいます」

虎「早くお上り」

と無理に娘おまきを二階へ押上げお虎は戸を締めて其の儘まゝ表へ出て参りました。おまきは間まがわるいから清次の方へお尻をむけて、もじ〱しています。清次も間が悪いが声をかけ、

清「姉ねえさん、此方こっちへお出いでなさい、何なんだか極きまりが悪いなア、姉さんそう間を悪がって逃げてゝはいけねえ、実はねえ、私わっちアお前さんを慰なぐさみものに仕ようと云ったのではない、お母っかさんが得心すれば嫁に貰っても宜いいんだが、女房にょうぼになってくれる気はねえかえ」

と云われて、おまきは両手を附き、首を垂たれ、

ま「私わたくしも親父おやじが家出を致して、いまだに帰りませんから、親父が帰った上、母とも相談致さなければ亭主は持たない身の上でございますから、そんな事はいけません、傍そばへお出いでなすってはいけませんよ」

清「なんだなア、いけませんでは困るじゃないか、冗談云っちゃアいけねえぜ」

ま「誠に棟梁さん相済みませんが、下の伯母さんに三円お金の借かりがございまして、そのお金の抵当かたに、身に取りまして大事な観音様をお厨子ずしぐるみに取られ、母は眼病でございまして、其の観音様を信じ、又親父が遺のこしてまいりました遺物かたみ同様の大事な品でございますから、是を取られては神仏かみほとけにも見離されたかと申して泣き倒れて居りまして、余あんまり泣きましては又眼にも身体にもさわろうかと存じまして、子の身として何うも見ては居おられませんから、実は旦那を取りますからお厨子を返して下さいと伯母さんには済みませんが嘘をつき、五円戴いたゞいた内で、三円伯母さんにお返し申し、お厨子を返して貰いましたから、弐円の金子は棟梁さんにお返し申しますから、あと三円のところは、何卒どうぞお慈悲に親子三人不憫ふびんと思召おぼしめし、来年の正月までお貸しなすって下さる訳には参りますまいか、申し何うぞお願いでございます」

清「えゝ、それは誠にお気の毒だ、お前の云うことを聞いて胸が一杯になった、三円の金に困って、お父とっさんの遺物かたみの守りを婆さんに取られ、旦那取だんなどりをすると云わなければお母っかさんが歎なげくと云って、正直に二円返すから、あとの三円は貸して呉れろと、そう云われては貸さずには居いられない、色気も恋も醒さめてしまった、余あんまり実地過じっちすぎるが、それじゃア婆ばゞあが最もう五円くすねたな、太ふてえ奴だなア、それはいゝが、その大事な観音様と云うのはどんな観音様だえ、お見せ」

ま「はい、親父おやじの繁昌はんじょうの時分に彫ほらせたものでございます」

と云いながら差出す。

清「結構なお厨子だ、艶消つやけしで鍍金金物めっきがなものの大たいしたものだ」

と開ひらいて見れば、金無垢きんむくの観音の立像りつぞうでございます。裏を返して見れば、天民てんみん謹つゝしんで刻こくすとあり、厨子の裏に朱漆しゅうるしにて清水助右衞門と記しるして有りますを見て、清次は小首を傾け。

清「此の観音さまは見た事があるが、慥たしか持主もちぬしは上州前橋の清水という御用達ごようたしで、助右衞門様のであったが、何うしてこれがお前の手に入はいったえ」

ま「はい、私わたくしは其の清水助右衞門の娘でございます」

と云われ清次は大おおいに驚きましたが、此の者は何者でございますか、次に委くわしく申上げましょう。

五

家根屋やねやの棟梁清次は、おまきが清水助右衞門の娘だと申しましたに恟びっくりいたしまして、

清「えゝ、清水のお嬢様じょうさんですか、これはまアどうも面目次第もねえ」

とおど〱しながら、

清「まア、お嬢様じょうさま、おまえさんはお少ちいさい時分でありましたから、顔も忘れてしまいましたが、今年で丁度十四年前あと、私わっちが前橋にくすぶっていた時、清水の旦那には一通ひととおりならねえ御恩を戴いた事がありましたが、あれだけの御身代のお娘子むすめごが、何どうして裏長家うらながやへ入っていらっしゃいます、その眼の悪いのはお内儀かみさんでございやすか」

ま「はい〱七年以来このかた微禄びろくしまして、此様こんな裏長屋に入りまして、身上しんしょうの事や何かに心配して居りますのも、七年前まえに父が東京へ買出しに出ましたぎり、今だに帰りませず、音も沙汰もございません故、母は案じて泣いて計ばかり居りましたのが、眼病の原もとで、昨年から段々重くなり、此の頃はばったり見えなくなりましたから、弟おとゝと私わたくしと内職を致して稼ぎましても勝手が知れませんから、何をしても損ばかりいたし、お恥かしい事でございますが、お米さえも買う事が出来ません所から、お金の抵当ていとうに此処こゝの伯母さんに此の観音様を取られましたから、母は神仏かみほとけにも見離されたかと申して泣き続けて居りますから、どうか母の気を休めようと思い、旦那を取ると申しまして、実は伯母さんから観音様を取返したのでございます」

清「どうも誠にどうも思いがけねえ事で、水の流れと人の行末ゆくすえとは申しますが、あれ程な御大家ごたいけが其様そんなにお成りなさろうとは思わなかった、お父様とっさまは七年前あと国を出て、へいどうも、何しろお母っかさんにお目にかゝり、委くわしいお話も伺うかゞいますが、私わっちは家根屋の清次と云って、お母さんは御存じでございやすが、此様こんな三尺に広袖ひろそでではきまりが悪いから、明日あしたでも参ってお目にかゝりましょう」

ま「いゝえ、母は目が見えませんから知れません、お馴染なじみならば母に逢って、どうぞ力になって下さいまし」

清「そんなら一緒に参りましょう、とんでもねえ話だが、此処こゝの婆ばゞアがお前さんに金を拾円上げましたかえ」

ま「いゝえ、五円戴きました、三円お金の借りを返しまして弐円残って居りますから、あなたへ弐円お返し申したのでございます」

清「太ふてえ婆だ十円取って五円くすねたのだ仕様のねえ狡猾婆こうかつばゞあだ、そんなら御一緒にお前さんの家うちへ行ゆきましょう」

とこれから二人連立って外へ出ると、一軒置いて隣は清水重二郎の家うちでございます。

ま「お母っかさん只今帰りました」

母「何処どこへ往ったのだえ」

ま「はい桂庵けいあんのお虎さんの所へ参りました」

と云いながら清次に向い。

ま「あなた、此方こちらへお入り遊ばしまし」

清「えい御免なせえ」

と上あがって見ると、九尺二間くしゃくにけんの棟割長屋むねわりながやゆえ、戸棚もなく、傍かたえの方へ襤褸夜具ぼろやぐを積み上げ、此方こちらに建ってあります二枚折にまいおりの屏風びょうぶは、破れて取れた蝶番ちょうつがいの所を紙捻かんぜよりで結びてありますから、前まいへも後うしろへも廻る重宝ちょうほうな屏風で、反古張ほごばりの行灯あんどんの傍そばに火鉢ひばちを置き、土の五徳ごとくに蓋ふたの後家ごけになって撮つまみの取れている土瓶どびんをかけ、番茶だか湯だかぐら〱煮立って居りまして、重二郎というおとなしい弟おとゝが母の看病をして居ります。

清「えゝ、お母ふくろさん〱」

母「はい、何方どなたでがんすか」

ま「あの此の方はお虎さんの家うちに来ていらっしゃった家根屋の棟梁さんで、お母っかさんを知っていらっしゃいまして、何うしてこんな姿におなりだお気の毒な事だと云って、見舞に来て下すった、前橋にいた時分のお馴染なじみだという事でございます」

母「はい、私わしは眼がわるくなりやんして、お顔を見ることも出来ませんが、何方どなたでございましたか」

清「えゝ、お内室かみさんあんたはまアどうして此様こんなにお成りなさいました、十四年前あとお宅で御厄介になりやした家根屋の清次でございやす」

母「おゝ、清次か、おゝ〱まアどうもまア、思いがけない懐かしい事だなア、此様こんなに零落おちぶれやしたよ、恥かしくって合あわす顔はございやせんよ」

清「えゝ御尤ごもっともでございやす、あれだけの御身代が東京へ来て、裏家住うらやずまいをなさろうとは夢にも私わっちは存じやせんでした、お嬢様も少ちいさかったから私も気が付かなかったが、観音様のお厨子に旦那のお名前があって分りましたが、承われば旦那には七年前あとお国を出たぎり帰らないとの事、とんだ訳でございやす、忘れもしやせん、私が道楽をして江戸を喰詰くいつめ前橋へまいって居おって、棟梁の処から弁当を提さげて、あなたの処へ仕事に往った時、私わっちアあのくらいな土庇どびしはねえと、いまだに眼に附いています、椹さわらの十二枚八分足はちぶあしで、大たいしたものだ、いまだに貴方あなたのお暮しの話をして居りますが、あの時私わっちア道楽の罰ばちで瘡かさをかいて、医者も見放し、棟梁の処に雑用が滞たまり、薬代やくだいも払えず、何うしたらよかろうと思ってると、旦那が手前てめえの病気は薬や医者では治らねえから、是これから直すぐに湯治とうじに往ゆけ、己おれが二十両遣やると仰おっしゃってお金を下すった、其の時分の弐拾両はたいしたものだ、其の金を貰って草津へ往ゆき、すっかり湯治をして帰りに沢渡さわたりへ廻り、身体を洗って帰けえって来た時、旦那が、清次、手前てめえの病気の治るように此の観音様を信心して遣やったから拝めと、お前様まえさんもそう云って他人の私を子か何かのように親切にして下さいやして、誠に有難いと思い、其の時の御恩は死んでも忘れやせん、私わっちゃアこれから東京へ帰けえったが、此の時節に成りやしたから大阪へ往ったり、又少ちっとばかり知る者があって長崎の方へ往って、くすぶって居て、存じながら手紙も上げず、御無沙汰をしやしたが、漸々よう〱此方こっちへ帰けえり、今では鉄砲洲の新湊町に居り、棟梁の端くれをいたし、仕手方してかたを使う身分に成りましたから、前橋の方へ御機嫌伺いにまいりましょうと思って居りやす所へ、嬉しい一生懸命で拝んだ観音様だから忘れは仕ません、その観音様から清水様のお嬢さんという事が分り、誠に不思議な事でございます、大たいした事も出来ませんが、是から先は及ばずながら力になります心持こゝろもちでございます、気を落してはいけません、確しっかりしておいでなさい、旦那は七年前あと東京へお出でなされ、お帰りのないのに捜しもしなさらないのかね」

母「はい、能よくまア恩を忘れず尋ねておくんなさいました、今まで情なさけを掛けた者はあっても、此方こっちが落目おちめになれば尋ねる者は有りませんが貴方あんたも知ってる通り、段々世の中が変って来て、お屋敷がなくなったから御用がない所から、止よせばえゝに、種々いろ〱はア旦那どんも手を出したが皆みんな損ばかりして、段々身代しんでいを悪くしたんだア、するともう一旗揚げねえばなんねえと云って、田地でんじも家いえも蔵も抵当とやらにして三千円の金を借り、其の金を持って唐物屋とうぶつやとか洋物屋ようぶつやとかを始めると云って横浜から東京へ買けえ出しに出たんだよ、ところが他に馴染なじみの宿屋がねえと云って、春見丈助様は前橋様めえばしさまの御重役で、神田の佐久間町へ宿屋を出したと云うから、其処そこに泊っていて買けえ出しをすると云って、家うちを出たぎり帰けえらず、余あんまり案じられて堪たまんねえから、重二郎を捜しにやった所が、此方こっちへ来た事は来たが、直すぐ横浜へ往ったが、未まアだ帰けえらねえかと云われ、忰せがれも驚いて帰けえり、手分てわけをして諸方を捜したが、一向に知れず、七年以来このかた手紙も来こねえからひょっと船でも顛覆ひっくりかえって海の中へ陥没ぶちはまってしまったか、又は沢山金を持って居りやしたから、泥坊に金を奪とられたのではないかと、出た日を命日と思っていたが、抵当に入れた田地家蔵でんじいえくらは人に取られ、身代限りをして江戸へ来ても馴染がねえから、何をしても損をしたんだよ、貧乏の苦労をするせいか、とうとう終しまいに眼は潰つぶれ、孝行な子供二人に苦労を掛けやんす、清次どん力になって、どうぞ子供等ら二人を可愛かわいがっておくんなさいよ」

と涙ながらに物語りましたから、清次も貰い泣きをして。

清「へい〱それはまアお気の毒な訳で、及ばずながら、何の様ようにもお世話を致しますが、私わっちも貧乏で有りやすから大たいした事も出来ますめえが、あなた方三人ぐれい喰わせるのに心配は有りません」

と云いながら、おまきに向い。

清「お嬢さん、此処こゝにいらっしゃるのは御子息様でございやすか、始めてお目にかゝります」

重「私わしは重二郎と申しやす不調法ぶちょうほうものですが、どうか何分宜しく願います」

清「へい〱及ばずながらお世話致しましょう、私わっちはもう帰けえりやす、沢山たんとの持合もちあわせはございませんが此処こゝに金が十円有りますから、置いてまいります、お足しには成りますめえが、又四五日の内に手間料が取れると持って来ます」

重「これはどうも戴いては済みません」

と推返おしかえすを又押戻おしもどして。

清「あれさ取って置いて下せえ、七年前あとに出た旦那が帰けえらねえのは不思議な訳だが、其処そこへ泊って買出しをすると云った、春見屋という宿屋が怪しいと思いますが、過去すぎさった事だから仕方がない、早く私わっちが知ったらば、調べ方も有ったろうに、えゝ仕様がねえ、何しろ私は外ほかに用がありますから、又近ちかえ内にお尋ね申しやす、時節を待っておいでなさい」

母「茶はないがお湯でも上げて、何なんぞ菓子でも上げてえもんだが、貧乏世帯びんぼうじょたいだから仕方がない、どうか又四五日内にお出いでなすって下さい」

清「又良いいお医者様が有ったらばお世話致します、お構いなすって下さいますな」

と云いながら立上るから、誠に有難うございますと娘と忰は見送ります。

清「左様なら」

と清次は表へ出て、誠にお気の毒だと、真実者ゆえ心配しながら、鉄砲洲新湊町へ帰ろうと思いますと、ちらり〱雪の花が降り出しまして、往来はぱったりと途絶え、夜よも余程更けて居ります。川口町から只今の高橋の袂たもとへかゝりますと、穿はいて居りました下駄げたを、がくりと踏みかえす途端に横鼻緒よこばなおが緩ゆるみました。

清「あゝ痛いてえ〱、下駄を横に顛覆ひっくりけえすと滅法界めっぽうけえ痛いたえもんだ、これだこれじゃア穿はく事が出来ねえ」

と独語ひとりごとを云いながら、腰を掛かけるものがないから、河岸かしに並んで居ります、蔵の差さしかけの下で、横鼻緒をたって居りますと、ぴゅーと吹掛けて来る雪風ゆきかぜに、肌が裂きれるばかり、慄ふるいあがる折おりから、橋の袂たもとでぱた〱〱と団扇うちわの音が致しまして、皺枯しわがれ声で

商「鍋焼饂飩なべやきうどん」

と呼んで居ります所へ、ぽかり〱と駒下駄こまげた穿はいて来る者は、立派な男で装なりは臘虎らっこの耳つきの帽子を冠かぶり、白縮緬しろちりめんの襟巻えりまきを致し、藍微塵あいみじんの南部の小袖こそでに、黒羅紗くろらしゃの羽織を着て、ぱっち尻からげ、表附きの駒下駄穿き、どうも鍋焼饂飩などを喰いそうな装なりでは有りませんが、ずっと饂飩屋の傍そばへ寄り。

男「饂飩屋さん一杯おくれ」

饂「へい只今上げます」

と云いながら顔を見合わせ、

饂「え是は」

男「大おおきに待遠まちどおだったろうな、もっと早く出ようと心得たが、何分なにぶん出入でいりが多人数たにんずで、奉公人の手前もあって出る事は出来なかった」

饂「待つのは長いもので、おまけに橋の袂たもとだから慄ふるえ上あがるようで、拳骨げんこつで水鼻みずッぱなを摩こすって今まで待っていたが、雪催ゆきもよおしだから大方来なかろう、そうしたら明日あしたは君の宅うちへ往ゆく積りだった」

男「此間こないだ君が己おれの宅うちへ、まア鍋焼饂飩屋の姿で、ずか〱入って来たから、奉公人も驚き、僕も困ったじゃアないか」

又「何なんで困る、君は今川口町四十八番地へあの位な構えをして、其の上春見と人にも知られるような身代になりながら、僕は斯様こんな不体裁ふていさいだ、身装みなりが出来るくらいなら君の処へ無心には往ゆかんが、実は身の置処おきどころがなくって饂飩屋になった又作だ、こゝで千円の資本もとでを借り、何か商法に取附とりつくのだ、君も又貸したって、宜よろしいじゃアねえか」

丈「それも宜いいが、郵便を遣よこすにも態わざと鍋焼饂飩屋又作と書かれては困るじゃねえか」

又「そうしなければ君が出て来こねえからだ、若もし来なければ態わざと何本も〱郵便を遣やる積りだ、まア宜いいじゃねえか、あれだけの構かめえで、千円ぐらい貸しても宜い訳だ、元は一つ屋敷に居り、君は大禄たいろくを取り、僕は小身しょうしんもの、御維新ごいっしんの後のち、君は弁才があって誠しやかに斯こういう商法を遣やれば盛大に成ろうと云うから、僕が命の綱の金を君に預けた所、商法は外はずれ、困ってる所へ三千円の金を持って出て来た清水助右衞門を打殺ぶちころし……」

丈「おい〱静かにしたまえ」

又「だから云やアしないから千円の金を貸したまえと斯こう云うのだ」

丈「それが有るから斯うやって金を貸す方ほうで、足手あしてを運んで、雪の降るのに態々わざ〱橋の袂たもとまで来たのだから、本当に宜いい金貸かねかしをもって仕合しあわせではないか」

又「僕も金箱かねばこと思ってるよ、じたばたすれば巡査が聞付けて来るように態わざと大きな声をするぞ、事が破れりゃア同罪だ」

丈「静かに〱、生憎あいにく今日は晦日みそかで金円きんえんが入用いりようで、纒まとまった金は出来んが、此処こゝへ五十円持って来たから、是だけ請取うけとって置いてくれ、残金あときんは来月五日の晩には遅くも十二時までに相違なく君の宅たくまで持って往ゆくから待って居てくれたまえ」

又「だから百円だけ持って来てくれというに、刻きざむなア、五十円ばかりの破れ札さつだが、受取って置こう、そんなら来月五日の晩の十二時までに、宜よろしい心得た、千円だぜ」

丈「千円の所は遣やるめえもんでもないが、君、助右衞門を殺した時三千円の預り証書を着服したろうから、あれを返して呉れなければいかんぜ」

又「そんなものは有りゃアしねえが、又君が軽く金を持って来て、此の外ほかに百円か二百円遣やるからと云えば、預り証書も出めえもんでもねえから、五日の晩には待ち受けるぜ」

丈「もう宅うちへ帰るか」

又「五十円の金が入へいったから、直すぐに帰ろう、えゝ寒かった、一緒に往ゆこう」

丈「君は大きな声で呶鳴どなるから困るじゃアないか、僕は先へ往ゆくよ」

又「どうせ彼方あっちへ帰るんだ、一緒に往ゆこう」

と鍋焼饂飩と立派な男と連れ立って往ゆきます。此方こなたに最前さいぜんから図はからず立聞きを致しております清次は驚きました。最も細かい事は小声ですから能よくは分りませんが、清水助右衞門を殺した時に三千円を、という事を慥たしかに聞いて、さては三千円の金を持って出た清水の旦那を殺した悪人は、彼等かれら二人ににんに相違ない、何処どこへ行ゆくかと、見え隠がくれに跡を附けてまいりますと、一人ひとりは川口町四十八番地の店蔵みせぐらで、六間間口ろっけんまぐちの立派な構かまえの横町よこちょうの方にある内玄関ないげんかんの所を、ほと〱と叩くと、内から開ひらきを明け、奉公人が出迎えて中へ入る。饂飩屋は亀島橋を渡って、二丁目三十番地の裏長屋へ入るから、窃そっと尾ついて往ゆくと、六軒目の長屋の前へ荷を下おろして、がちりっと上総戸かずさどを明けて入るから、清次は心の内で、此奴こいつ此処こゝに住んでるのか、不思議な事もあるものだ、清水重二郎様のお宅たくは此処から丁度四軒目しけんめで、一つ長屋に敵同志かたきどうしが住んで居ながら、是これでは知れない筈はずだ、よし〱五日の晩には見現みあらわして、三千円の金を取返して、清水の旦那の仇あだを復かえさずに置くものか、と切歯はぎしりをしながら其の夜よは帰宅致しまして、十二月五日の夜よ明店あきだなに忍んで井生森又作の様子を探さぐり、旧悪きゅうあくを見顕みあらわすという所はちょっと一息ひといきつきまして、直すぐに申上げます。

六

さて重二郎は母の眼病平癒へいゆのために、暇さえあれば茅場町の薬師やくしへ参詣さんけいを致し、平常ふだんは細腕ながら人力車じんりきを挽ひき、一生懸命に稼ぎ、僅わずかな銭ぜにを取って帰りますが、雨降り風間かざまにあぶれることも多い所から歯代はだいが溜たまりまして、どうも思うように往ゆき立ちません所へ、清次から十円という纒まとまった金を恵まれましたので息を吹返し、まア〱これでお米を買うが宜よろしいとか、店賃たなちんを納めたが宜よかろうとか、寒いから質に入れてある布子ぬのこを出して来たら宜かろうと、母子おやこ三人が旱魃かんばつに雨を得たような、心持こゝろもちになり、久し振で汚れない布子を被きて、重二郎が茅場町の薬師へお礼参りにまいりました。丁度十二月の三日の夕方でございます。薬師様のお堂へまいり、柏手かしわでを打って頻しきりに母の眼病平癒を祈り、帰ろうといたしますと、地内じないに宮松みやまつという茶屋があります。是これは棒の時々飛込むような、怪しい茶屋ではありません。其処そこから出て来た女は年頃三十八九で色浅黒く、小肥こぶとりに肥ふとり、小ざっぱりとした装なりをいたし人品じんぴんのいゝ女で、ずか〱と重二郎の傍そばへ来て、

女「もし貴方あなたはあのなんでございますか、あの清水重二郎様と仰おっしゃいますか」

重「はい私わしは清水重二郎でございますが、あなたは何処どこのお方ですか」

女「あのお手間は取らせませんから、ちょっと此の二階までいらっしって下さいまし」

重「はい、なんでがんすか、私わしア急ぎやすが、何処どこのお方でがんすえ」

女「いえ、春見のお嬢様でございますが、一寸ちょっとお目にかゝりお詫わび事ごとをしたいと仰しゃってゞすが、お手間は取らせませんから、ちょっと此の二階へお上あがんなさいましよ」

重「先達さきだっては御恵おめぐみを受け、碌々ろく〱お礼も申上げやせんでしたが、今日は少々急ぎますから」

と云いながら往ゆきにかゝるを引き留め。

女「お急ぎでもございましょうが、まアいらっしゃいまし」

と無理に手を取って、宮松の二階へ引上げました、重二郎も三円貰った恩義がありますから、礼を云おうと思ってまいりました。

女「此方こちらへお這入はいんなさいまし」

と云われ重二郎は奥の小座敷へ這入ると、文金ぶんきんの高髷たかまげに唐土手もろこしでの黄八丈きはちじょうの小袖こそでで、黒縮緬くろちりめんに小さい紋の付いた羽織を着た、人品じんぴんのいゝ拵こしらえで、美くしいと世間の評判娘、年は十八だが、世間知らずのうぶな娘が、恥かしそうにちょい〱と重二郎の顔を見ては下を俯むいて居まして、

いさ「此方こちらへお這入り遊ばしまし、どうぞ〱此方へ」

重「此間こないだは私わしお宅たくへ出やした時、あなたが可愛相かわいそうだと云って金をお恵み下され、早速さっそくお返し申そうと思いましたが、いまだにお返けえし申す時節がまいりません、どうか遅くも押詰おしつまりまでには御返金致します心持ちで、お礼にも出ませんでした」

い「此間こないだは折角お出いで遊ばしましたが、父はあの通り無愛相ぶあいそうものですからお前さんにお気の毒な、まア素気そっけない事を申しましたから嘸さぞお腹が立ちましたろうと、実は蔭かげでお案じ申して居りましたが、今日は貴方あなたが薬師様へお参りに入いらっしゃるという事を聞きましたから、兼かねと二人で、のう兼」

兼「本当でございますよ。お嬢様が貴方のことを案じて、何どうかして何処どこかでお目にかゝりたいもんだが、何うしたら宜よかろうかといろ〱私にお聞きなさいますから、私も困りましたが、貴方のお宅の近所で聞いたら、貴方は間まさえあれば薬師様へお参りにいらっしゃるとの事ゆえ、今日は貴方のお参りにいらっしゃるお姿をちらりと見ましたから、駈けて帰り、宅うちの方は宜よいようにして、お嬢様と一緒に先刻から此処こゝにまいって待って居りましたが、本当に宜くいらっしゃいました、嬢さまが頻しきりに心配なすっていらっしゃいますよ」

い「兼や、あの御膳ごぜんを」

と云えば、おかねはまめまめしく。

兼「あなたお急ぎでございましょうが、嬢さまが一ひと口くち上げて、御膳を上げたいと仰おっしゃいますから」

重「私わしゃアお飯まんまはいけません、お母ふくろが待って居ますから直すぐに帰けえります」

兼「なんでございますねえ、本当にお堅いねえ、嬢様が余程よっぽどなんしていらっしゃいますのに、貴方お何歳いくつでいらっしゃいますえ」

重「私わしゃア二十三でございます」

か「本当に御孝行ですねえ、嬢様は貴方の事ばかり云っていらっしゃいますよ、そうして嬢様はひとさわがしいがや〱した事はお嫌いで、余所よその姉ねえさん達のように俳優やくしゃを大騒ぎやったりする事はお嫌いで、貴方の事ばかり云っていらっしゃいますから、本当に貴方、嬢様を可愛かわいそうだと思って、お参りにお出いでのたびに一寸ちょっと逢って上げて下さい、此方こっちでも首尾しゅびして待って居りますから、それも出来ずば、月に三度宛ずつも嬢様に逢って上げてくださるように願います」

重「とんでもない事を仰しゃいます、お嬢様は御大家ごたいけの婿取むことり前の独ひとり娘、私わしゃア賤いやしい「賤しい」は底本では「践しい」と誤記身の上、たとえ猥いやらしい事はないといっても、男女なんにょ七歳にして席を同じゅうせず、今差向さしむかいで話をして居いれば、世間で可笑おかしく思います、若もし新聞にでも出されては私ア宜ようがんすが、あなたはお父様とっさまへ御不孝になりやんすから、そんな事の無い内に私ア帰けえります」

兼「あなた、お厭いやなら仕方がありませんが、嬢様何なんとか仰おっしゃいな、何故なぜ此方こっちへお尻を向けていらっしゃいます、宅うちでばかり斯こう云おう、あゝ云おうと仰しゃって本当に影弁慶かげべんけいですよ、そうして人の前では何も云えないで、私わたくしにばかり代理を務つとめさせて、ほんとうに困りますじゃア有りませんか、ようお嬢様」

い「誠に申しにくいけれども、どうか御膳ごぜんだけ召上ってください、若もしお厭いやならばお母様っかさまはお加減が悪くていらっしゃるから、お肴さかなを除のけて置いて、あのお見舞に上げたいものだねえ」

兼「あなた召上らんでも、お帰りの時重箱は面倒だから、折詰おりづめにでもして上げましょう、嬢様お話を遊ばせ、私は貴方あなたのお母っかさんのお眼の癒なおるよう、嬢様の願いの叶かなうように、一寸ちょっと薬師様へお代参だいさんをして、お百度を五十度ばかりあげて帰ってまいって、まだ早い様なれば、又五十度上げて来ます、直すぐに往って来ます」

と仲働なかばたらきのお兼が気をきかし、其の場を外はずして梯子はしごを降りる、跡には若い同士の差向さしむかい、心には一杯云いたい事はあるが、おぼこ気きの口に出し兼ね、もじ〱して居ましたがなに思いましたか、おいさは帯の間あいだへ手を入れて取出す金包かねづゝみを重二郎の前に置き。

い「重さん、これは誠にお恥かしゅうございまして、少しばかりでございますが、お母っかさまが長い間お眼が悪く、貴方あなたも御苦労をなさいますと承わりましたから、お足たしになるようにと思いますが、思うようにも行届ゆきとゞきませんが、これでどうぞ何かお母さんのお口に合った物でも買って上げて下さいまし、ほんの少しばかりでございますが、お見舞の印しるしにお持ちなすって下さいまし」

重「へい〱此間こないだはまア三円戴き、それで大おおきに私わしも凌しのぎを附けやしたが又こんなに沢山金を戴いては私済みやせんから、これを戴くのは此間の三円お返し申した上のことゝ致しましょう」

い「そんなことを仰しゃいますな、折角持って来たものですからどうか受けてください、お恥かしい事でございますが、私わたくしは貴方あなたを心底しんそこ思って居りまして済みません、あなたの方ほうでは御迷惑でも、それは兼が宜よく存じて居ります、此の間あいだお別れ申した日から片時かたときも貴方の事は忘れません」

と云いながら指環ゆびわを抜取りまして、重二郎の前へ置き。

い「これは詰らない指環でございますが、貴方あなたどうぞお嵌はめなすって、そうして貴方の指環を私わたくしにくださいまし、あなた若もし嵌めるのがお厭いやなら蔵しまって置いてくださいまし、私は何も知りませんが、西洋とかでは想った人の指環を持って居おれば、生涯其の人に逢う事がなくても亭主と思って暮すものだと申します、私はほんとうに貴方を良人おっとと思って居りますから、どうぞこれを嵌めてください」

と恥かしい中から一生懸命に慄ふるえながら、重二郎の手へ指環を載せ、じっと手を握りましたが、此の手を握るのは誠に愛の深いもので、西洋では往来で交際の深い人に逢えば互たがいに手を握ります、追々おい〱開ひらけると口吸こうきゅうするようになると云いますが、是は些ちと汚きたないように存じますが、そうなったら圓朝などはぺろ〱甞なめて歩こうと思って居ります。今おいさにじっと手を握られた時は、流石さすがに物堅き重二郎も木竹きたけでは有りませんから、心嬉しく、おいさの顔を見ますと、蕾つぼみの花の今半なかば開ひらかんとする処へ露つゆを含んだ風情ふぜいで、見る影もなき重二郎をば是ほどまでに思ってくれるかと嬉しく思い、重二郎も又おいさの手をじっと握りながら、

重「おいさゝん、今仰おっしゃった事がほんとうなら飛立とびたつ程嬉しいが、只今も申す通り、私わしは今じゃア零落おちぶれて裏家住うらやずまいして、人力を挽ひく賤いやしい身の上、お前さんは川口町であれだけの御身代のお嬢様釣合わぬは不縁の元、迚とてもお父とっさんが得心して女房にょうぼにくれる気遣きづかいもなければ、又私が母に話しても不釣合ふつりあいだから駄目だと云って叱られます、姉も堅いから承知しますめえ、と云って親の許さぬ事は出来ませんが、あなたそれ程まで思ってくださるならば、人は七転ななころび八起やおきの譬たとえで、運が向いて来て元の様ようになれんでも、切せめて元の身代の半分にでも身上しんしょうが直ったらおいささん、お前と夫婦に成りましょう、私も女房を持たずに一生懸命に稼かせぎやすが、貴方あなたも亭主を持たずに待って居てください」

い「本当に嬉しゅうございます、私わたくしは一生奉公いっしょうぼうこうをしても時節を待ちますから、お身を大事に重二郎さん、あなた私を見捨てると聴きませんよ」

と慄声ふるえごえで申しましたが、嬉涙うれしなみだに声塞ふさがり後あとは物をも云われず、さめ〲とし襦袢じゅばんの袖で涙を拭いて居ります。想えば思わるゝで、重二郎も心嬉しく、せわ〱しながら。

重「私わしはもう帰けえりますが、今の事を楽たのしみに時節の来るまで稼かせぎやすよ」

い「御身代の直るように私も神信心かみしんじんをして居ります、どうぞお母様っかさまにお目にはかゝりませんが、お大事になさるように宜よく仰おっしゃってくださいまし」

重「此の包つゝみは折角の思召おぼしめしでございますから貰って往ゆきます」

と云っている処へお兼が帰ってまいり、

兼「もう明けても宜よろしゅうございますか、お早ければ最もう一遍往ってまいります」

と云いながら隔へだての襖ふすまを明け、

兼「なんだかお堅い事ねえ、本当に嬢様は泣虫なきむしですよ、お気が小さくっていらっしゃいますから、あなた不憫ふびんと思って時々逢って上げて下さいまし、あの最もうお帰りですか、又お参りにいらっしゃって、間まさえあれば毎日でも首尾しゅびを見て此処こゝにいますから、時々逢って上げて下さいよ、どうも素気そっけないことねえ、表は人が通りますから、裏からいらっしゃいまし、左様なら」

と重二郎は宅うちへ帰りまして、母にも姉にも打明けて云われず、と云って問われた時には困りますから、其の指環を知れないように蔵しまう処はあるまいかと考え、よし〱と云いながら紙へくるんで腹帯はらおびの間あいだへ挟はさんで「挟んで」は底本では「狭んで」と誤記、時節を待ち、真実なおいさと夫婦になろうと思うも道理、二十三の水の出花でばなであります。お話変って、十二月五日の日暮方ひくれがた、江戸屋の清次が重二郎の居ります裏長屋の一番奥の、小舞こまいかきの竹と申す者の宅たくへやってまいり、

清「竹、宅うちか」

竹「やア兄い、大おおきに御無沙汰をして、からどうも仕様がねえ、貧乏暇ひまなしで、聞いておくんねえ、此間こねえだ甚太じんたッぽうがお前めえさん世話アやかせやがってねえ、からどうも喧嘩けんかっ早ぱえいもんだからねえ、尤もっとも金次きんじの野郎が悪わりいんでございやさアねえ、湯屋ゆうやでもってからに金次の野郎が挨拶しずにぐんとしゃがむと、お前めえさん甚太っぽーの頭へ尻を載のせたんでごぜいやす、そうすると甚太っぽーが怒って、下から突いたから前めえへのめって湯を呑んだという騒ぎで、此の野郎と云うのが喧嘩のはじまりで、甚太っぽーの顳顬こめかみを金次が喰取くいとって酸すっぺいって吐出はきだしたのです、後あとで段々聞いて見ると梅干が貼はって有ったのだそうで、こりゃア酸すっぺいねえ」

清「詰らねえ事を云ってるな、少し頼みがあるが、襤褸ぼろの蒲団ふとんと小さな火鉢ひばちへ炭団たどんを埋いけて貸してくれねえか、夫それを人に知れねえ様に彼処あすこの明店あきだなへ入れて置いてくれ」

竹「なんです、火でも放つけるのかえ」

清「馬鹿ア云うなえ、火を放ける奴がある者か」

小舞こまいかきの竹は勝手を知っていますから、明店あきだなの上総戸かずさどを明けて中へ這入はいり、菰こもを布しき、睾丸火鉢きんたまひばちを入れ、坐蒲団ざぶとんを布きましたから、其の上に清次は胡座あぐらをかき。

清「用があったら呼ぶから、もういゝや」

竹「時々茶でも持って来ようかねえ」

清「一生懸命の事だから来ちゃアいけねえ」

と云われ、竹は其の儘まゝそっと出て往ゆく。隣りは又作の住すまいですが、未まだ帰らん様子でございます、暫しばらくたつと、がら〱下駄を穿はいて帰って参り、がらりとがたつきまする雨戸を明けて上へあがり、擦附木すりつけぎでランプへ火を点ともし、鍋焼饂飩なべやきうどんの荷の間から縁へりのとれかゝった広蓋ひろぶたを出し、其の上に思い付いて買って来た一升の酒に肴さかなを並べ、其の前に坐り、

又「何時いつまで待っても来こんなア」

と手酌てじゃくで初める所を、清次はそっと煙管きせるの吸口すいくちで柱際はしらぎわの壁の破れを突つッつくと、穴が大きくなったから。破穴やぶれあなから覘のぞいていますが、これを少しも知りませんで、又作はぐい飲み、猪口ちょくで五六杯あおり附け、追々酔えいが廻って来た様子で、旱魃ひでりの氷屋か貧乏人が無尽むじんでも取ったというようににやり〱と笑いながら、懐中から捲出まきだしたは、鼠色だか皮色だか訳の分らん胴巻様どうまきようの三尺さんじゃくの中から、捻紙こよりでぎり〱巻いてある屋根板様やねいたようのものを取出し、捻紙を解き、中より書附かきつけを出し、開ひらいてにやりと笑い、又元の通り畳んで、ぎり〱巻きながら、彼方あちら此方こちらへ眼を附けていますから、何をするかと清次は見ていると、饂飩粉うどんこの入っています処の箱を持出し、饂飩粉の中へ其の書附様かきつけようのものを隠し、蓋ふたを致しまして襤褸風呂敷ぼろぶろしきにて是を包み、独楽こまの紐ひもなど継つぎ足した怪しい細引ほそびきで其の箱を梁はりへ吊つるし、紐の端はしを此方こっちの台所の上あがり口の柱へ縛り附け、仰あおぬいて見たところ、屋根裏が燻くすぶっていますから、箱の吊つるして有るのが知れませんから、先まずよしと云いながら、またぐび〱酒を呑んで居ます中うちに、追々夜よが更ふけてまいりますと、地主の家うちの時計がじゃ〱ちんちんと鳴るのは最早もはや十二時でございます。此の長家ながやは稼かせぎ人にんが多いゆえ、昼間の疲れで何処どこも彼かもぐっすり寝入り、一際ひときわ寂しんといたしました。すると路地を入はいって、溝板どぶいたの上を抜け足で渡って来る駒下駄こまげたの音がして又作の前に立ち止り、小声で、

男「又作明けても宜いいか」

又「やア入りたまえ、速すみやかに明けたまえ、明くよ」

男「大きな声だなア」

と云いながら、漸ようやく上総戸かずさどを明け、跡を締め。

男「締りを仕ようか」

又「別に締りはない、たゞ栓張棒しんばりぼうが有るばかりだが、泥坊の入る心配もない、此かくの如き体裁ていさいだが、どうだ」

男「随分穢きたないなア底本では「穢《きた》いなア」」

又「実に貧窮然ひんきゅうぜんたる有様ありさまだて」

男「大おおきに遅参ちさんしたよ」

又「今日君が来なければ、些ちとしょむずかしい事を云おうと思っていた」

春「大きな声だなア、隣へ聞えるぜ」

又「両隣は明店あきだなで、あとは皆稼かせぎ人にんばかりだから、十時を打つと直じきに寝るものばかりだから、安心してまア一杯遣やりたまえ、寒い時分だから」

春「さア約束の千円は君に渡すが、どうか此の金で取附とりついてどんな商法でも開ひらきなさい、共に力に成ろうから、何なんでも身体を働いて遣やらなくっちゃアいけんぜ底本では「いけんせ」と誤記、君は怠惰者なまけものだからいかん、運動にもなるから働きなさい、酒ばかり飲んでいてはいかんぜ、何でも身を粉こに砕くだいて取附かんではいかん」

又「それは素もとよりだ、何時いつまで斯こうやって鍋焼饂飩なべやきうどんを売ってゝも感心しないが、これでも些ちっとは資本もとでが入いるねえ、古道具屋へ往って、黒い土の混炉こんろが二つ、行平鍋ゆきひらなべが六つ、泥の鍋さ、是は八丁堀の神谷通かみやどおりの角の瀬戸物屋で買うと廉やすいよ、四銭五厘ずつで六つ売りやす、それから中段ちゅうだんの箱の中へ菜を煠うでて置くのだが、面倒臭めんどうくさいから洗わずに砂だらけの儘まゝ釜の中へ入れるのだ、それから饂飩粉うどんこを買いに往ゆくんだが、饂飩粉は一貫目いっかんめ三十一銭で負けてくれた、所で饂飩屋はこれを七玉なゝツたまにして売ると云うが、それは嘘だ実は九玉こゝのツたまにして売るのだが、僕は十一にして売るよ、花松魚はながつおは紙袋かんぶくろへ入れて置くのだが、是も猫鰹節ねこぶしを細こまッかに削ったものさ、海苔のりは一帖いちじょう四銭二厘にまけてくれるよ、六つに切るのを八つに切るのだ、是に箸はしを添えて出す、清らかにしなければならんのだが、余あんまり清らかでねえことさ、これでその日を送る身の上、行灯あんどんは提灯屋ちょうちんやへ遣やると銭ぜにを取られるから僕が書いた、鍋の格好かっこうが宜よろしくないが、うどんとばかり書いて鍋焼だけは鍋の形で見せ、醤油樽しょうゆだるの中に水を入れ、土瓶どびんに汁つゆが入っているという、本当に好よくしても売れねえ、斯こういう訳で、あの寒い橋の袂たもとでこれを売って其の日を送るまでさ、旧時むかしは少々たりとも禄ろくを食はんだものが、時節とは云いながら、残念に心得て居ります、処へ君に廻めぐり逢って大おおきに力を得た、其の千円で取附とりつくよ」

春「千円は持って来たが、三千円の預り証書と引替に仕ようじゃないか」

又「よく預り証書〱と云うなア」

春「隠してもいかん、助右衞門を打殺ぶちころして旅荷に拵こしらえようとする時に、君が着服したに相違ない、隠さずに出したまえ」

又「有っても無くても兎とも角かくも金を見ねえうちは証文も出ない訳さ」

春「そんなら」

と云いながら懐ふところからずっくり取出すと。

又「有難ありがてえ、えーおー有難ありがてい、是だけが僕の命の綱だ」

春「此間こないだは何を云うにも往来中おうらいなかで、委くわしい話も出来なかったが、助右衞門の死骸はどうしたえ」

又「お宅たくから船へ積んで深川扇橋へ持って往ゆき、猿田船やえんだぶねへ載せ、僕が上乗うわのりをして古河の船渡ふなとから上あがって、人力を誂あつらえ、二人乗ににんのりの車へ乗せて藤岡を離れ、都賀村へ来ると、ぶんと[#「ぶんと」は「ぷんと」の誤記か]死骸の腐った臭においがすると車夫が嗅かぎ附け、三十両よこせとゆするから、遣やるかわりに口外するなと云うと、火葬にすると云って、沼縁ぬまべりへ引込んで、葭よし蘆あしの茂った中で、こっくり火葬にして、沼の中へ放り込んだ上、何かの様子を知った人力車夫の嘉十、活いかして置いては後日の妨さまたげと思い、簀蓋すぶたを取って打殺うちころし、沼へ投ほうり込んで、それから、どろんとなって、信州で其の年を送って、石川県へ往って三年ばかり経たって大阪へまいった所、知しっての通り芸子舞子の美人揃ぞろいだからたまらない、君から貰った三百円もちゃ〱ふうちゃさ、止やむを得ず立帰たちかえった所が、まア斯こういう訳で取附く事が出来ねえから、鍋焼饂飩なべやきうどんと化けてると、川口町に春見氏うじとあって河岸蔵かしぐらは皆みんな君のだとねえ、あのくれいになったら千円ぐらいはくれても当然あたりめえだ」

春「金は遣やるから預り証書を出したまえよ」

又「無いよ、どうせ人を害せば斬罪ざんざいだ、僕が証書を持ってゝ自訴じそすれば一等は減じられるが、君は逃のがれられんさ、宜よろしいやねえ、まア宜いいから心配したもうな」

春「出さんなら千円やらんよ」

又「だって無いよ、さア見たまえ」

と最前さいぜん預かり証書は饂飩粉うどんこの中へ隠しましたゆえ平気になり、衣物きものをぼん〱取って振ふるい、下帯したおび一つになって。

又「此の通り有りゃアしない、宅うちも狭いから何処どこでも捜して見たまえ」

と云われ春見も不思議に思い、あの証書を他ほかへ預けて金を借かりるような事は身が恐いから有るまいが、畳の下にでも隠して有ろうも知れぬから、表へ出してやって、後あとで探さがそうと思い。

春「まア宜よい、仕方がないが、斯こう家鴨しゃもばかりでは喰えねえ、向河岸むこうがしへ往って何か肴さかなを取って来たまえ」

と云いながら、懐中から金を一円取出して又作の前へ置く。

又「これは御散財ごさんざいだねえ千円の金を持って来た上で肴代さかなだいを出すとは、悪事をした報むくいだ」

と云いながら出て往ゆく、跡にて春見は家内かないを残らず探したが知れません。何処どこへ隠したか、何処へ置いて来たか、穴でも掘って埋いけてあるのではないか、床下ゆかしたにでも有りはしないか、何しろ彼奴あいつの手に証書を持たして置いては、千円遣やっても保たもつ金ではない、遣つかい果して又後日ねだりに来るに違いない、是が人の耳になれば遂ついに悪事露顕ろけんの原もとだから、罪なようだが、彼奴を殺してしまい此家こゝへ火を放つけ、証書も共に焼いてしまうより外ほかに仕様がない、又作を縊くびり殺し、此の家うちへ火を放つければ、又作は酒の上で喰い倒れて、独身者ひとりものゆえ無性ぶしょうにして火事を出して焼死やけしんだと、世間の人も思うだろうから、今宵こよい又作を殺して此の家やへ火を放つけようと、悪心も増長いたしましたもので、春見は思い謀はかって居りますところへ、又作が酒屋の御用を連れて帰ってまいり。

又「大おおきに御苦労、平常ふだん己おれが借りがあるものだから、番頭めぐず〱云やアがったが、今日は金を見せたもんだから、直すぐよこしやアがった、肴さかなも序ついでに御用に持たして来たよ、大きに御苦労だった、毎いつもは借りるが今日は現金だ、番頭に宜よく云ってくんな」

と云いながら上へ上あがり、是から四方山よもやまの話を致しながら、春見は又作に盞さかずきを差し、自分は飲んだふりをして、あけては差すゆえ、又作はずぶろくに酔えいました。

又「大おおきに酩酊めいてい致した、あゝ好いい心持こころもちだ、ひどく酔よった」

春「君、僕も酩酊致したから最もう立ち帰るよ、千円の金は宜よろしいかえ、確たしかに渡したよ」

又「宜しい、金は死んでも離さない、宜しい、大丈夫心配したもうな」

春「それじゃア締りを頼むよ」

と云うと、又作は横に倒れるを見て、春見は煎餅せんべいのような薄っぺらな損料蒲団そんりょうぶとんを掛けて遣やる中うちに、又作はぐう〱と巨蟒うわばみのような高鼾たかいびきで前後も知らず、寝ついた様子に、春見は四辺あたりを見廻すと、先程又作が梁はりへ吊つるした、細引ほそびきの残りを見附け、それを又作の首っ玉へ巻き附け、力に任まかせて縊附しめつけたから、又作はウーンと云って、二つ三つ足をばた〱やったなり、悪事の罰ばちで丈助のために縊くびり殺されました。春見は口へ手を当て様子を窺うかゞうとすっかり呼吸が止った様子ゆえ、細引を解とき、懐中へ手を入れ、先刻渡した千円の金を取返とりかえし、薪たきゞと木片こっぱを死人しびとの上へ積み、縁の下から石炭油せきたんゆの壜びんを出し、油を打ぶッ注かけ、駒下駄こまげたを片手に提さげ、表の戸を半分明け、身体を半なかば表へ出して置いて、手らんぷを死骸の上へ放ほうり付けますと、見る〱内にぽっ〱と燃上もえあがる、春見は上総戸かずさどを閉たてる間もなく跣足はだしの儘まゝのめるように逃出しました。する内に火は㷔々えん〱と燃え移り、又作の宅うちは一杯の火に成りましたが、此の時隣りの明店あきだなにいた清次は大おおいに驚き、まご〱しては焼け死ぬから、兎も角も眼の悪い重二郎のお母ふくろに怪我けががあってはならんと、明店を飛出とびだす、是から大騒動おおそうどうのお話に相成ります。

七

西洋の人情話の作意さくいはどうも奥深いもので、証拠になるべき書付かきつけを焼捨やきすてようと思って火を放つけると、其の為に大切の書付が出るようになって居りますが、実に面白く念の入りました事で、前回に申上げました通り、春見丈助は井生森又作を縊くびり殺して、死骸の上に木片こっぱを積み、石炭油せきたんゆを注つぎ掛けて火を放つけて逃げますと云うのは、極悪非道な奴で、火は一面に死骸へ燃え付きましたから、隣りの明店あきだなに隠れて居りました江戸屋の清次は驚きましたが、通常あたりまえの者ならば仰天ぎょうてんして逃げ途どを失いますが、そこが家根屋やねやで火事には慣れて居りますから飛出とびだしまして、同じ長家ながやに居いる重二郎の母を助すけようと思ったが、否々いや〱先程又作が箱の中へ入れて隠した書付が、万一ひょっとして彼かの三千円の預り証書ではないか、それに就ついては何卒どうか消されるものなら長家の者の手を仮かりて消し止めたいと思い、取って返して突然いきなり又作の家うちを明けると、火はぽッ〱と燃上もえあがりまして火の手が強く、柱に縛付しばりつけてあった細引ほそびきへ火が付きますと、素もとより年数の経たって性しょうのぬけた細引でございますから、焼け切れますると、彼かの箱が一つ竈べっついへ当り、其の機はずみに路地へ転げ落ちましたから、清次はいや是だと手早く其の箱を抱えて、

清「竹え、長家から火事が出た、消せ〱」

と云って呶鳴どなりましたから、長家の者が出てまいり揉み消しましたから、火事は漸々よう〱隣りの明家あきやへ付いたばかりで消えましたが、又作は真黒焦まっくろこげになってしまいましたけれども、誰たれあって春見丈助が火を放つけたとは思いませんので、どうも食倒くらいたおれの奴を長家へ置くのが悪いのだ、大方おおかた又作は食くらい酔ってらんぷを顛倒ひっくりけえしたのだろう、まア仕方がないと云うので、届ける所へ届けて事済ことずみに成りました。左様そんな事と存じませんのは、親に似ません娘のおいさで、十二歳の時に清水助右衞門が三千円持って来た時、親父おやじが助右衞門を殺して其の金を奪取うばいとり、それから取付とりついてこれだけになったのは存じて居りますし、また助右衞門の家うちは其の金を失ってから微禄びろくいたして、今は裏家住うらやずまいするようになったが、可愛相かあいそうにと敵同志かたきどうしでございますが、重二郎と言い交かわせましたのは、悪縁で、おいさは何うかお母っかさんの眼が癒なおればいゝがと、薬師様へ願掛がんがけ[#底本では「け」が脱落]をして居ります。丁度十一日の事で、娘は家うちを脱ぬけ出して日暮方ひぐれがたからお参りに往ゆきました。此方こちらでは重二郎が約束はしませんが、おいさが一の日ひは内の首尾が出でいゝと云ったこともあるし、今日往ったら娘に逢えようかと思って、薬師様へまいり、お百度を踏んで居りますと、お兼という春見の女中が出てまいりまして、まア此方こちらへと云うので、宮松の二階へ連れて往って。

兼「誠に今日はお目にかゝれるだろうと思って来ましたが、お間まが宜よくって、ねえお嬢様」

重「今日は私わしも少しお目にかゝりたいと思っていましたが、少し長屋に騒動があって、どうも」

兼「そうですって、あなたのお長屋から火事が出ましたって、お嬢さんも御心配なさいますから、あの御近所へ出て様子を聞きましたが、それでもマア直すぐに消えましたって、大おおきに安心しましたよ」

重「あの私わしも少しお話がしたい事がありますがあんたのお名は何なんとか申しましたっけねえ」

兼「はい私わたくしはかねと申しますので」

重「どうかお嬢様に少しお話がありますから、あなたは少し此処こゝへお出いでなさらねえように願いたいもので」

兼「今度は貴方あなたの方からそう仰おっしゃいますように成りましたねえ、今度は二百度を踏んで来ますよ」

と云いながら出て往ゆきますと、後あとは両人が差向さしむかいで

いさ「誠に此の間あいだは失礼をいたしました、お母様っかさまのお眼は如何いかゞでございます」

重「此間こないだ貰った十円の金と指環ゆびわはあなたへお返し申しますから、お受け取りなすって下さいまし」

い「あれ、折角お母様っかさまに上げたいと思って上げたのに、お返しなさるって、そうして指環も返そうと仰おっしゃるのは、貴方あなたお気に入らないのでございますか」

重「此間こないだも云う通り、釣合つりあわぬは不縁ふえんの元もと、零落果おちぶれはてた此の重二郎、が貴方あなたと釣合うような身代になるのはいつの事だか知れません、あなたがそれまで亭主を持たずには居おられますめえし、私わしだっても年頃になれば女房にょうぼを持たねえ訳にはいきません、此間こないだあんたが嬉しい事を云ったから女房にしようと約束はしたが、まだ同衾ひとつねをしねえのが仕合しあわせだから、どうか貴方あんたはいゝ所から婿を取って夫婦中なかよくお暮しなすって、私わしが事はふッつりと思い切って下さらないと困る事がありますから、何卒どうか思い切って下さい、よう〱」

い「はい〱」

と云って重二郎の顔を見詰めて居りましたが、ぽろりと膝へ泪なみだをこぼして、

い「重さん、私わたくしは不意気ぶいきものでございますから、貴方あなたに嫌われるのは当前あたりまえでございますが、たとえ十年でも二十年でも亭主はもつまい、女房にょうぼはもたないと云い交かわせましたから、真実そうと思って楽たのしんで居りましたのに、貴方がそう仰おっしゃれば私わたくしは死んでしまいますが、万一ひょっと許嫁いゝなずけの内儀おかみさんでも田舎から東京へ出て来てそれを女房になさるなら、それで宜よろしゅうございますから、私は女房になれないまでも御飯炊ごぜんたきにでも遣つかってあなたのお側にお置きなすって下さいまし」

重「勿体もったいない、御飯炊ごぜんたきどころではないが云うに云われない訳があって、あんたを女房にょうぼにする事は出来ません、私わしもお前さんのような実意じついのあるものを女房にしたいと思って居りましたが、訳があってそう云うわけに出来ないから、どうか私が事は思い切り、良いい亭主を持って、死ぬのなんのと云うような心を出さないで下さい、お前さんが死ぬと云えば私も死なゝければならないから、どうか思い切って下さい」

い「お前さんの御迷惑になるような事なら思切おもいきりますけれど、お前さんの御迷惑にならないように死にさえすればようございましょう」

重「どうかそんな事を云わねえで死ぬのは事の分るまで待って下さい、後あとで成程と思う事がありますから、どうか二三日にさんち待って下さい、久しく居いるのも親の位牌いはいに済みませんから」

と云いながら起たとうとするを、

い「まア待って下さい」

と袖に縋すがるのを振切ふりきって往ゆきますから、おいさは欄干らんかんに縋って重二郎を見送りしまゝ、ワッとばかりに泣き倒れました所へ、お兼が帰ってまいり、漸々よう〱労いたわり連立つれだって家うちへ帰りました。すると丁度其の暮くれの十四日の事で、春見は娘が病気で二三日にさんち食が少しもいかないから、種々いろ〱心配いたし、名人の西洋医、佐藤先生や橋本先生を頼んで見て貰っても何なんだかさっぱり病症が分らず、食が少しもいきませんから、流石さすがの悪者わるものでも子を思う心は同じ事で、心配して居ります所へ。

男「えゝ新湊町の屋根屋の棟梁の清次さんという人が、あなたにお目にかゝりたいと申して参りました」

丈「なんだか知れないが病人があって取込とりこんで居いるから、お目にかゝる訳にはいかないから、断れよ」

男「是非お目にかゝりたいと申して居ります」

丈「なんだかねえ、此間こないだ大工の棟梁にどうも今度の家根屋やねやはよくないと云ったから、大方それで来たのだろう、どんな装なりをして来たえ、半纒はんてんでも着て来たかえ」

男「なアに整然ちゃんとした装なりをして羽織を着てまいりました」

丈「それではまア此方こっちへ通せ」

と云うので下男が取次とりつぎますと、清次が重二郎を連れて這入はいって来ましたから、重二郎を見るとお兼が奥へ飛んで来まして。

兼「お嬢様、重さんが家根屋やねやさんを連れて来ましたよ、此間こないだあなたに愛憎尽あいそづかしを云ったのを悪いと思って来たのでしょう」

い「そうかえ、そんなら早く奥の六畳へでもお通し申して逢わしておくれ」

兼「そんな事を仰おっしゃってもいけません、私わたくしが今様子を聞いて来ますから」

と障子の外に立聞たちぎきをします時、

丈「さア此方こちらへ〱」

清「へい新湊町九番地にいる家根屋の清次郎と申します者で、始めてお目に懸かゝりました」

丈「はい始めて、私は春見丈助、少し家内に病人があって看病をしたので、疲れて居りますからこれ火を上げろ、お連つれがあるならお上げなさい」

清「えゝ少し旦那様に内々ない〱お目にかゝってお話がしとうございまして参りましたが、お家うちの方かたに知れちゃア宜よろしくありませんから、どうか人の来こねえ所へお通しを願いたいもので」

丈「此間こないだ大工の棟梁が来て、家根やねの事をお話したから、其の事だろうと思っていましたが、何しろお話を聞きましょう、これ胴丸どうまるの火鉢を奥の六畳へ持って往ゆけ」

清「旦那、まアお先へ」

と先さきへ立たせて跡から重二郎の尾ついて来ることは春見は少しも知りません。

丈「これよ、茶と菓子を持って来いよ、かすてらがよいよ、これ〱、何か此の方かたが内々ない〱の用談があってお出いでになったのだから、皆みんな彼方あちらへ往いって、此方こっちへ来ないようにするがいゝ、お連れがあるようですね」

清「重二郎さん、此方こっちへお這入はいり」

重「誠に久しくお目にかゝりませんでした」

丈「おや〱清水の息子さんか、此間こないだは折角お出いでだったが、取込とりこんでいて失敬を云って済みません、何かえ清次さんのお連つれかえ」

清「旦那え、私わっちが前橋にくすぶって居りましたとき、清水さんの御厄介になりました、その若旦那で、今は零落おちぶれて直じき亀島町にお出いでなさるのを聞いて驚きましたから、其様そんなにぐず〱していないで、春見様は直じき此の向うにいて立派な御身代になっておいでなさるから、お父とっさんがお預け申した金を返けえしてお貰い申すがいゝじゃないかと云っても、若いお方ですから、ついおっくうがってお在いでなさるから、今日は私わっちがお連れ申しましたが、どうか七年前あとの十月の二日にお預け申した三千円の金はお返しなすって下さい」

丈「なに三千円、僕が預かった覚えはないが、どう云う訳で重二郎殿が清次さんお前さんにそんな事を云ったのだえ」

清「へい、段々旦那も身代が悪くなって、商法を始めるのに就ついて高利を借り三千円の金を持って東京へ買出かいだしに出て来て、馴染なじみの宿屋もねえ事ですから、元前橋で御重役をなすった貴方あなたが、東京へ宿屋を出してお在いでなさるから、彼方あそこへ行って金を預けて買出しをすれば大丈夫だと、宅うちへ云置いいおいて出て来た儘まゝ帰って来こねえで、素もとより家蔵いえくらを抵当にして借りた高利だから、借財方しゃくざいかたから責められ、重さんのお母っかさんが心配して眼が潰つぶれて見る影もねえ御難渋ごなんじゅう、私わっちも見かねて貴方あなたへ預けた金を取りに来やした、預けたに違ちげえねえ三千円、元は大小を挿さした立派な貴方、開化になっても士族さんは士族さん、殊ことにこれだけの身代で、預ったものを預からないと云っては御名義にも係わりますから、旦那、返けえして遣やって下せえな」

丈「お黙んなさい、預かった覚えは毛頭ありません、何を証拠に三千円の金を、私が何なんで預りましょう、殊ことに七年あと清水さんが私の所へ参った事はありません」

重「それは些ちとお言葉が違いましょう、私わしが七年前あとに親父おやじを捜しに来た時、成程清水助右衞門が来たと云った事があるが、貴方あんたはお侍さんにも似合いませんねえ」

丈「成程それは来ました、さア来ましたが、直すぐに横浜へ往ゆくと云うから、まア一晩泊ったら宜よかろうと云ったが聞き入れず、直すぐに出て往ゆきなすって泊りはせんと云いました」

重「それだからさ」

清「まア黙ってお出いでなせえ、旦那え、今三千円の金があれば清水の家も元のように立ちやす、そうすれば貴方あなたも寝覚ねざめがいゝから、どうか返して下せえ、親子三人、浮うかび上あがります」

丈「浮び上るか沈んでしまうか知りませんが、七年前あと預けたものを今まで取りに来ない筈はずはありますまい、殊ことに十円や廿円の金じゃアなし、三千円という大金ではないか」

清「旦那静かになせえ証拠のないものは取りに来ません、三千円確かに預かった、入用にゅうようの時は何時なんどきでも返けえそうという証書があります」

丈「なに証書がある、証書があれば見ましょう〱」

と春見は心の中うちに思うのに、又作を殺し、家うちまで焼いてしまったから、証書のある筈はずはないと思いまして、気強く、

丈「さア見ましょう〱」

清「旦那、これにあります」

と家根板やねいたのような物に挟んである証書を出して、春見に手渡てわたしにしませんで、

清「旦那これが証拠でございます」

と云われた時は流石さすがの春見も面色めんしょく土の如くになって、一言半句いちごんはんくも有りません。

清「旦那え、これだけ立派な証拠があるのに、年月としつきが経たっても返けえさなければ泥坊より苛ひどいじゃねえか、難渋なんじゅうを云って頼んでも理に違っちゃアこれ程も恵まねえ世の中じゃアありませんか、何故なぜ貴方あなた預かった覚えはないと仰おっしゃいました」

丈「お静かにして下さい、〱、実は預かったに違いないが、清水殿が金を預けて横浜へ参り、年月としつきを経っても取りに来ないところから、段々僕も微禄びろくして此の三千円があれば元の様になれるかと思い、七年経っても取りに来ないからよもや最もう取りに来きやアしまいと心得て、人間の道にあるまじき、人の預けた金を遣つかい、預かった覚えはないと云ったのは重々じゅう〲申訳もうしわけがないが、只今早速御返金に及ぶから、何卒どうか男と見掛けてお頼み申すから棟梁さん内聞ないぶんにして呉れまいか」

清「そりゃア宜よろしゅうございますが、品しなに寄ったら訴えなければならねえが、旦那、無利息じゃアありますまい、貴方あなたも銀行や株式の株を幾許いくらか持っていなさるお身の上だから、預金あずけきんの取扱とりあつかい方かたも御存じでしょうが、此の金を預けてから七年になるから、七朱しゅにしても、千四百七十円になりますが、利息を付けて貰わなけりゃアならねえぜ」

丈「至極しごく御尤ごもっともでござるから、只今直すぐに上げます、少しお待ち下さい」

と直すぐに立って蔵へまいり、三千円の外ほかに千四百七十円耳を揃そろえて持ってまいり、

丈「へい、どうかお受取り下さい」

と出しましたから、数かずを改めて、

清「重さんおしまいなさい」

と云うから、重二郎は予かねて用意をして来た風呂敷へ金包かねづゝみを包んで腰へしっかり縛り付けました。

清「旦那金は確たしかに受取りましたから証書はお返し申しますが、金ばかりじゃア済みますめえぜ」

丈「三千円返して、証文の面おもてに利子を付けるという事はないが、此方こちらの身に過あやまりがあるから、利子まで付けて遣やったが、外ほかに何があるえ」

清「外ほかに何も貰うものはねえが、此の金を預けた清水助右衞門さんの屍骸しがいを返して貰もれえてえ」

と云われて春見は恟びっくりして思わず後あとへ下さがると、清次は膝を進ませて、

「お前さんが七年前あとに清水さんを殺した其の白骨でも出さなけりゃア、跡に残った女房子にょうぼこが七回忌になりやしても、訪とい吊とむらいも出来やせん」

と云いながら、ぐるりっと上あげ胡坐あぐらを掻きましたが、此の納おさまりは何どう相成りましょうか、次回までお預かりにいたしましょう。

八

引続きまする西洋の人情噺も、此の一席で満尾まんびになります故ゆえ、くだ〱しい所は省きまして、善人が栄え、悪人が亡ほろび、可愛かわいゝ同志が夫婦になり、失いました宝が出るという勧善懲悪かんぜんちょうあくの脚色しくみは芝居でも草双紙くさぞうしでも同じ事で、別して芝居などは早分はやわかりがいたしますが、朝幕あさまくで紛失した宝物たからものを、一日掛って詮議せんぎを致し、夕方には屹度きっと出て、めでたし〱と云って打出しになりますから、皆様も御安心でお帰りになりますが、何も御見物と狂言中の人と親類でも何なんでもないに、そこが勧善懲悪と云って妙なもので、善人が苦しむ計ばかりで悪人が終しまいまで無事でいましては御安心が出来ません。然しかし善という事はむずかしいもので、悪事には兎角とかく染そまり易やすいものでござります。彼かの春見丈助利秋は元八百石も領りょうしておりました立派な侍でありながら、利慾りよくのため人を殺して奪いました其の金で、悪運強く霊岸島川口町で大たいした身代になりましたが、悪事というものは、何どのように隠しても隠し遂おおせられないもので、どうして彼あの人があのように金が出来たろう、何なんだか訝おかしいねえ、此の頃ごろこういう事を聞いたが、万一ひょっとしたらあんな奴が泥坊じゃアないか知らんと、話しますを聞いた奴は、直すぐにそれを泥坊だと云い伝え、又それから聞いた奴は尾に鰭ひれをつけて、彼あれは大泥坊で手下が三百人もあるなどと云うと、それから探索掛たんさくがゝりの耳になって、調べられると云うようになるもので、天に口なし、人を以もって云わしむるという譬たとえの通りでございます。彼かの春見は清水助右衞門の悴せがれ重二郎がいう通り、利子まで添えて三千円の金を返したのは、横着者おうちゃくものながら、どうか此の事を内聞ないぶんにして貰いたいと、それがため別に身代に障さわる程の金高きんだかでもありませんから、清く出しましたが、家根屋やねやの清次が助右衞門の死骸を出せと云うに驚き内心には何どうして清次が彼かの助右衞門を殺した事を知っているかと思い、身を慄ふるわせて面色めんしょく変り、後うしろの方へ退さがりながら小声になって。

丈「清せいさん、あゝ悪い事は出来ないものだ、其の申訳もうしわけは春見丈助必らず致します、どうか此処こゝでは話が出来ませんから、蔵の中でお話を致します、他たへ洩もれんようにお話をいたしたいから、一緒にお出いでを願います」

清「蔵の中でなくても此処こゝでも宜いいじゃアありませんか」

丈「此処でも宜よろしいが、奉公人に知れんようにしたい、娘も今年十八になるから、此の事を話せば病やまいにも障さわろうと思って、誠に不憫ふびんでござる、是非お話申したい事がございますから、どうか蔵の中へお出いで下さい」

清「参めえりやしょう〱」

丈「どうか事こと静かに願います、決して逃げ匿かくれは致しません」

と云いながら先に立って蔵の戸をがら〱と開けて内へ入りましたから、清次は腹の中で思うに、春見は元もと侍だから刄物三昧はものざんまいでもされて、重二郎に怪我けがでもあってはならんと思いまして、煙草盆たばこぼんの火入れを火の入ったまゝ片手に提さげ後うしろへ隠して蔵の中へ入りましたから、重二郎も恐おそる〱入りますと、春見は刀箪笥かたなだんすから刀を出し、此方こちらの箪笥から紋付の着物を出して、着物を着替え、毛布けっとを其処そこへ敷き延べて、

丈「只今申訳もうしわけを致します」

と云って刄物を出したから、清次は切り付けるかと思い、覚悟をしていますと、春見は突然いきなり短刀を抜いて腹へ突き立ってがばりっと前へのめったから、清次は直すぐに春見の側へ往ゆこうと思ったが、此奴こいつ死んだふりをしたのではないかと思うゆえ、

清「言訳いいわけをしようと思って腹を切んなすったかえ」

丈「さゝ人を殺し多くの金を奪い取った重罪の春見丈助、縲絏なわめに掛っては、只今は廃刀はいとうの世なれども是まで捨てぬ刀の手前、申訳もうしわけのため切腹しました、臨終いまわの際きわに重二郎殿、清次殿御両人に頼み置きたき事がござる、悪人の丈助ゆえ、お聞き済みがなければ止やむを得ざれど、お聞届きゝとゞけ下されば忝かたじけない、清次殿どうして貴殿きでんは僕が助右衞門殿を殺したことを御存じでござるな」

清「頼みと云うのはどう云う事か知れねえが、其の頼みによっては又旦那に話して聞きもしようが、言訳いいわけに困って腹を切るのは昔のことだが、どうもお前さんは太い人だねえ、清水の旦那を殺し、又作という奴に悪智あくちを授さずけて、屍骸しがいを旅荷に造り、佐野の在へ持って往ゆき、始末をつけようとする途中、古河の人力車夫に嗅かぎ付けられ、沼縁ぬまべりへ持って往いって火葬にした事は、私わっちゃア能よく知ってるぜ」

丈「さゝゝそれがさ、天命とは云いながら、知れ難がたい事を御存じあるのは誠に不思議でござるて」

清「その又作という奴が、三千円の証書をもっているから、又作を殺して、それを取ろうとする謀計たくみの罠わなを知って、実はお前さんが又作を縊くびり殺し、火を放つけて逃げた時、其の隣の明店あきだなで始末を残らず聞いていたのだ、何なんと悪い事は出来ねえものだねえ」

丈「どうも左さもなくば知れる道理はござらぬが、それが知れると云うのは天命遁のがれ難がたい訳でござる」

清「その又作が火葬にして沼の中へ放り込んだ白骨を捜し出すか、出る所へ出るか、二つに一つの掛合かけあいに来たのに、腹を切って私わっちに頼むと云うのは一体どういう頼みですえ」

丈「さればでござる、御存じの通りいさと申す手前一人の娘が、如何いかなる悪縁か重二郎殿を思い初そめましたを、重二郎殿が親の許さぬ淫奔いたずらは出来ぬと仰おっしゃったから、一室まにのみ引籠ひきこもり、只くよ〱と思い焦こがれて遂ついに重き病気になり、病臥やみふして居ります、斯かゝる次第ゆえ、此の始末を娘が聞知きゝしる時は、憂うれいに迫せまり病やまい重おもって相果あいはてるか、願ねがいの成らぬに力を落し、自害をいたすも知れざるゆえ、何卒どうぞ此の事ばかりは娘へ内聞ないぶんにして下さらば、手前の此の身代は重二郎殿へ残らず差上げます、これ此の身代は助右衞門殿の三千円の金から成立なりたったものなれば、取りも直さず、皆助右衞門殿が遺のこされた財産で、重二郎殿が所有たるべきものでござる、諸方へ貸付けてある金子の書類は此の箪笥たんすの引出ひきだしにあって、娘いさが残らず心得て居ります、敵かたき同志の此の家うちの跡を続つぐのはお厭いやであろうが重二郎殿、我わがなき後のちは他たに便たよりなき娘のおいさを何とぞ不憫ふびんと思召おぼしめされ、女房にょうぼに持ってはくださるまいか、いやさ敵同志の丈助の娘を女房に持たれまいが、さゝ御尤ごもっともでござるが彼かれは我わが実子じっしにあらず、我わが剣道の師にて元前橋侯の御指南番ごしなんばんたりし、荒木左膳あらきさぜんと申す者の娘の子なり」

清「ふう、それを何うしてお前さんの娘にはしなすったえ」

丈「さゝ其の仔細お聞き下され」

と苦しき息をつきまして、

丈「今を去ること十九年以前、左膳の娘花はななる者が、奥向おくむきへ御奉公中、先せん殿様のお手が付き懐妊の身となりしが、其の頃お上通かみどおりのお腹様はらさま嫉妬深しっとふかく、お花を悪にくみ、遂ついに咎とがなき左膳親子は放逐ほうちくを仰付おおせつけられ、浪々中ろう〱ちゅうお花は十月とつきの日を重ね、産落うみおとしたは女の子、母のお花は産後の悩みによって間もなく歿ぼっせしため、跡に残りし荒木左膳が老体ながらも御主君ごしゅくんのお胤たねと大事にかけて養育なせしが、其の後ご左膳も病に臥ふし、死する臨終いまわに我われを枕元に招き、我わが亡なき跡にて此の孫を其の方ほうの娘となし、成長の後のち身柄みがらある家いえへ縁付えんづけくれ、頼む、と我師わがしの遺言ゆいごん、それよりいさを養女となせしが、娘と申せど主君のお胤なれば、何とぞ華族へ縁付けたく、それに付ついても金力きんりょくなければ事叶かなわずと存ぜしゆえ、是まで種々しゅ〲の商法を営いとなみしも、慣れぬ事とて皆みな仕損じ、七年前ぜんに佐久間町へ旅人宿りょじんやどを開ひらきし折おり、これ重二郎殿、君きみの親御おやご助右衞門殿が尋ね来て、用心のため預けられた三千円の金を見るより、あゝ此の金があったなら我望わがのぞみの叶う事もあらんと、そゞろに発おこりし悪心より人を殺した天罰覿面てんばつてきめん、斯かゝる最後を遂とげるというも自業自得じごうじとく、我身わがみは却かえって快こゝろよきも、只不憫ふびんな事は娘なり、血縁にあらねば重二郎どの、女房に持ってくださらば心のこさず臨終りんじゅういたす、お聞済きゝずみくだされ」

と血に塗まみれたる両手を合あわせ、涙ながらに頼みます恩愛の情じょうの切せつなるに、重二郎と清次と顔を見合わせて暫しばらく黙然もくねんといたして居りますと、蔵の外より娘のおいさが、網戸を叩たゝきまして、

い「申し、清次さん、此所こゝ開あけて下さいまし」

清「おゝ誰だえ」

い「はい、いさでござります、どうぞ開けて、死目しにめに一度逢わせてください」

というから、清次は慌てゝ戸を開けますと、おいさは転ころげ込んで父の膝に縋すがり付き、泣倒なきたおれまして、

い「もうしお父様とっさま、お情なさけない事になりました、生うみの親より深い御恩を受けました上、斯こういう事になりましたも皆みな私わたくしを思召おぼしめしての事でございますから、皆様みなさんどうぞ代りに私を殺して、お父様をお助けなされて下さいまし」

と嘆なげく娘を丈助は押留おしとゞめ。

丈「あゝこれ、お前を殺すくらいなら、彼あの様ような悪い事はいたさぬわい、只今も願う如く、予かねてお前の望みの通り重二郎殿と末長すえなごう夫婦になって、我が亡後なきあとの追善供養ついぜんくようを頼みます、申し御両君ごりょうくん如何いかゞでございます「ございます」は底本では「ごいざます」と誤記」

清「ふう、どうして重二郎さんに此の家やの相続が出来ますものかね」

重「それに貴方あなたが変死した後あとで、お上かみへの届けもむずかしゅうござりましょう」

丈「その御心配には及びませぬ、と申すは七ヶ年以前、貴君あなたの親御より十万円恩借おんしゃくありて、今年返済の期限来きたり、万一延滞候そろ節は所有地家蔵いえくらを娘諸共もろとも、貴殿へ差上候さしあげそろと申す文面の証書を認したゝめて、残し置き、拙者せっしゃは返金に差迫さしせまり、発狂して切腹致せしとお届けあらば、貴殿きでんへ御難義ごなんぎはかゝりますまい」

と云いながら硯箱すゞりばこを引寄ひきよせますゆえ、おいさは泣々なく〱蓋ふたを取り、泪なみだに墨を磨すり流せば、手負ておいなれども気丈きじょうの丈助、金十万円の借用証書を認めて、印紙いんしを貼はって、実印じついんを捺おし、ほッ〱〱と息をつき、

丈「臨終りんじゅうの願いに清次殿、お媒人なこうどとなって、おいさと重二郎どのに婚礼の三々九度、此所こゝで」

と云う声もだん〱と細くなりますゆえ、二人も不憫ふびんに思い、蔵前くらまえの座敷に有合ありあう違棚ちがいだなの葡萄酒ぶどうしゅとコップを取出して、両人ふたりの前へ差出さしだせば、涙ながらにおいさが飲んで重二郎へ献さしまするを見て、丈助は悦よろこび、にやりと笑いながら。

丈「跡方あとかたは清次どのお頼み申す早く此の場をお引取ひきとりなされ」

と云いつゝ短刀を右手の肋あばらへ引き廻せば、おいさは取付とりつき嘆なげきましたが、丈助は立派に咽喉のどを掻切かききり、相果てました。それより早々そう〱其の筋へ届けますと、証書もありますから、跡方あとかたは障さわりなく春見の身代は清水重二郎所有となり、前橋竪町の清水の家を起しましたゆえ、母は悦よろこびて眼病も全快致しましたは、皆みな天民の作の観音と薬師如来の利益りやくであろうと、親子三人夢に夢を見たような心地こゝちで、其の悦び一方ひとかたならず、おいさを表向おもてむきに重二郎の嫁に致し、江戸屋の清次とは親類の縁えんを結ぶため、重二郎の姉おまきを嫁に遣やって、鉄砲洲新湊町へ材木店みせを開ひらかせ、両家ともに富み栄え、目出たい事のみ打続うちつゞきましたが、是というも重二郎同胞はらからが孝行の徳により、天が清次の如き義気ぎきある人を導いて助けしめ、遂ついに悪人亡ほろびて善人栄えると申す段切だんぎりに至りましたので、聊いさゝか勧善懲悪の趣意にも叶かないましょうと存じ、長らく弁じまして、嘸さぞかし御退屈でござりましたろうが、此の埋合うめあわせには、又其の内に極ごく面白いお話をお聞きゝに入れる積つもりでござりますれば、相変らず御贔屓ごひいきを願い上げます。

(拠若林玵藏、伊藤新太郎筆記)

底本 / Source edition

底本:「圓朝全集 巻の九」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫
1964(昭和39)年2月10日発行
底本の親本:「圓朝全集 巻の九」春陽堂
1927(昭和2)年8月12日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「彼《あ》の」と「彼《あの》」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
入力:小林 繁雄
校正:かとうかおり
2001年1月8日公開
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/001490_000989/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/001490_000989/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/001490_000989/

三遊亭 円朝「西洋人情話 英国孝子ジョージスミス之伝」(新字新仮名)、底本『圓朝全集 巻の九』近代文芸資料複刻叢書、世界文庫、1964年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 001490_000989, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite