Soranoha

右門捕物帖

うもんとりものちょう

佐々木 味津三

1

その第三十四番てがらです。

事の起きたのは九月初め。

蕭々落莫しょうしょうらくばくとして、江戸はまったくもう秋でした。

濠ほりばたの柳からまずその秋がふけそめて、上野、両国、向島むこうじま、だんだんと秋が江戸にひろがると、心中、川目付、土左衛門舟どざえもんぶね、三題ばなしのように決まってこの三つがふえる。もちろん、心中はあの心中、川目付は墨田の大川の川見張り、やはり死によいためにか、十組みのうち八組みまでは大川へ入水じゅすいして、はかなくも美しい思いを遂げるものがあるところから、これを見張るための川目付であるが、土左舟どざぶねはまたいうまでもなくそれらの悲しい男仏おぼとけ女仏めぼとけを拾いあげる功徳の舟です。

公儀でお差し立ての分が毎年三艘そう。

特志で見回っているのが同様三艘――。

幡随院ばんずいいん一家が出しているのが一艘に、但馬屋たじまや身内で差し立てているのが一艘。同じく江戸にひびいた口入れ稼業かぎょうの加賀芳かがよし一家で見まわらしているのが一艘と、特志の土左舟はつごうその三艘でした。墨田といえば名にしおう水の里です。水から水へつづく秋のその向島に、葦間あしまを出たりはいったり、仏にたむけた香華こうげのけむりを艫とものあたりにそこはかとなくなびかせながら、わびしいその土左舟が右へ左へ行き来するさまは、江戸の秋のみに見る悲しい風景の一つでした。

そのほかにもう一つ、秋がふけるとともに繁盛するものがある。質屋です。衣がえ、移り変わり、季節の変わりめ、年季奉公の変わりめ、中間下男下女小女の出入りどきであるから、小前かせぎの者にはなくてかなわぬ質屋が繁盛したとて、なんの不思議もない。

しかし、不思議はないからといって、伝六がこの質屋に用があるとすると、事が穏やかでないのです。

「いいえ、なにもね。あっしゃべつにその貧乏しているってえわけじゃねえんだ。これもみんな人づきあいでね。物事は何によらず人並みにやらねえとかどがたつから、おつきあいに行くんですよ。え? だんな。だんなは何もご用はござんせんかい」

「バカだな」

「え……?」

「えじゃないよ。きょうは幾日だと思ってるんだ」

「まさに九月九日、だんなをめえにしてりこうぶるようだが、一年に九月九日っていう日はただの一日しかねえんですよ」

「あきれたやつだ。そんなことをきいているんじゃねえ、九月の九日はどういう日だかといってきいてるんだよ」

「決まってるじゃござんせんか。菊見のお節句ですよ」

「それを知っていたら、今もう何刻なんどきだと思ってるんだ。やがて六ツになるじゃねえか。九月の九日、菊見の節句にゃ暮れの六ツから、北町南町両ご番所の者残らずが両国の川増かわますでご苦労ふるまいの無礼講と、昔から相場が決まってるんだ。まごまごしてりゃ、遅れるじゃねえかよ」

「じつあそいつに遅れちゃなるめえと思って、ちよっとその質屋へね」

「質屋になんの用があるんだ」

「べつに用があるというわけじゃねえんだが、ちょっとその、なんですよ、じつあ一張羅ちょうらをね」

「曲げたのかい」

「曲げたってえわけじゃねえが、ついふらふらと一両二分ばかりに殺してしまったら、それっきり質屋の蔵の中へはいっちまったんですよ」

「それなら、やっぱり曲げたんじゃねえかよ。バカだな、なんだってまた一両二分ばかりの金に困ったんだ」

「いいえ、金に困ったから入れたんじゃねえんですよ。ふところにゃまだ三両あまりあったんですが、今も申したとおり、みんなが相談したように質屋通いをするんでね、ものはためし、近所づきあいにおれもひとつ入れてみてやろうと思って、一両二分に典じたら、あとが変なことになりやがったんですよ。なんしろ、ふところの金と合わすと、五両近くの大金ができたからね、すっかり肝がすわっちまって、吹き矢へ行こう、玉ころがしもやってみべえ、たらふくうなぎも拝んでやろうと、浅草から両国へひと回りしてみたら、きんちゃくの中がぽうとなりやがって、いつのまにか、かすみがかかっちまったんだ。べつになぞをかけるわけじゃねえんだがね、どうですかい、だんな、だんなは何か質屋にご用はねえんですかい」

「あいそがつきて、ものもいえねえや。だんなはご用が聞いてあきれらあ。つまらねえなぞばっかりかけていやがる。なんのかのといって、これがほしいんだろう。よくよくあいそのつきるやつだ。しようがねえから、三両やるよ。早くいって出してきな!」

「うへへ……かたじけねえ! 話せるね、まったく! ちょいとひとなぞ遠まわしに店をひろげると、たちまちこのとおり、ものがおわかりあそばすんだからな。だんなさまさま大明神だ。だから、女の子がぽうっとくるんですよ」

「ろくでもねえおせじをぬかすない! とっとといってくりゃいいんだよ。おいらさきに行くから、あとから来るんだぜ。いいかい、柳橋の川増だ。とち狂って、また吹き矢や玉ころがしに行っちゃいけねえぜ」

「いうにゃ及ぶだ。殺した一張羅ちょうらが生きてかえるとなると気がつええんだからね。だんなこそ、吹き流されちゃだめですぜ。いいですかい。まっすぐ行くんですよ……」

ときあるごとに何か一つずつ事を起こさないと納まりのつかない男です。伝六を残してひと足さきに右門がその柳橋の川増へ行きついたときはちょうど六ツ。数寄屋橋すきやばし、呉服橋、南北両ご番所の同役同僚たちの顔が、もう八分どおり座に見えました。

与力、同心、岡おかっ引ぴき、目明かし、手先、慰労の宴の無礼講だから、むろん席に上下の差別はない。正面床の前に六曲二双の金びょうぶを晴れやかに立てめぐらして、その前に大輪、糸咲き、取りまぜてみごとな菊が大小十はち、左右にずらりと居流れた顔がまた江戸の治安を預かりつかさどる町方警吏だけに、いかめしくもものものしいのです。

まもなく酒が運ばれました。

灯影ほかげに女たちのなまめかしい裳裾もすそがもつれ合って、手から手へ、一つは二つと杯が飛びかい、座もまたようやく陽気の花をひらきはじめました。

しかし、どうしたことか、とうにもう来なければならないはずなのに、伝六がなかなか姿を見せないのです。

「おかしいのう。これよ、女」

「なんでござんす」

「川増というのは、このあたりでこのうち一軒であろうな」

「いいえ、あの……」

「まだあるか?」

「ござります」

「なに! ある!――やはり料亭か」

「いいえ、絵双紙屋でござんす」

「アハハハハ。ほかならぬあいつのことじゃ。うちをまちがえてはいって、いいこころもちになって絵双紙でも見ておるやもしれぬ、ご苦労だが、ちょっと見にいってくれぬか」

「かしこまりました。お名まえは?」

「伝六というのだが、顔を見ればひと目にわかる。つら構えからしてにぎやかにできておるからのう。ひと走り様子見にいってくれぬか」

「ようござんす。みなさまこのとおりご陽気になっていらっしゃるんだから、おりましたら、首になわをつけてひっぱってまいりましょう」

十中八、九いるだろうと思って心待ちにいたのに、だがまもなく帰ってくると、それらしい男の影も姿もないという報告でした。

不審に首をかしげているとき、帳場の者があわただしくあがってくると、とつぜん不思議なことをいって呼びたてました。

「あごのだんなさまというのは、どなたさまでござんす?」

「あごのだんな?」

「急用じゃと申しまして、ただいま駕籠屋かごやがこの書面を持ってまいりました。どのだんなさまでござります」

「アハハハハ。あごのだんななら、あれじゃ、あれじゃ。あのすみであごをなでている男じゃ」

もちろん、名人のことです。さし出した書面をみると、おらのあごのだんなへ、と書いてある。裏には伝とまたがったような字を書いて、中がまたみごとな金くぎ流でした。

「急用急用大急用だ。

伝六大事命があぶねえ。

すけだちに早く来ておくんなせえ」

何をあわてているのか、字までが震えて、紙一枚にべたべたと大きく書いてあるのです。

「なんだなんだ」

「なんじゃ!」

「なんでござるか、ろくでもないことかもしれぬが、参らずばなるまい。番頭、駕籠屋は表におるか」

「早く早くとせきたてておりますから、お早くどうぞ」

「そうか。では、参ろう。お先に……」

怪しむようにふり向いた同僚たちの目に送られながら、名人は不審に首をかしげて、迎えの駕籠にうちのりました。

同時に、さっと息づえをあげると、早い早い、よくよく伝六がせきたてて迎えによこしたとみえて、柳橋を渡り越えるとひた走りに浅草目ざしました。むろん、目ざすからには伝六のいるところも浅草だろうと思われたのに、あきれた男です。乗ったかと思うまもなく、駕籠の止まったところは、目と鼻どころか、柳橋からはひとまたぎのお蔵前でした。

おりてみると、往来いっぱいに黒山のような人だかりなのです。だが、不思議なことに、伝六の姿はないのでした。そのかわりに、黒だかりの人の目が一様にお倉の奥をのぞいているのです。右門流の眼がんでした。物見高げに人の目が倉の奥へそそがれているからには、伝六のいるところもその奥にちがいなく、事の起きているのもまた同じその倉の奥に相違ないのです。

名人は足早にずかずかと広場を奥へ急ぎました。一ノ倉から始まって、二ノ倉、三ノ倉、九ノ倉と、長い棟むねが九棟ある。

しかし、どの棟もどの倉も錠がおりて、人影は夢おろか、なんの異状もないのでした。

いぶかりながら裏へ回ってみると、中秋九日の夕月がちょうど上って、隅田すみだの川は足もとにきらめく月光をあびながら、その川の上へぬっと枝葉を突き出している大川名代の首尾の松までがくっきりとひと目でした。ひょいと見ると、その首尾の松の根もとにうずくまって、必死に背を丸めながら、必死に頭をかくしながら、わなわなと震えている男の影が見えるのです。

「伝六か!」

「え……? き、き、来ましたか! ありがてえ。だ、だ、だんなですか!」

「バカだな。何を震えておるんだ。しっかりしろい!」

「こ、これがしっかりできたら、伝六は柳生やぎう但馬守たじまのかみにでも岩見重太郎にでもなんにでもなれるんですよ。あれをあれを、あそこの、あ、あ、あれをよくごらんなさいまし……」

歯の根も合わぬように震えながら、ひたかくしに顔をかくして指さした方角をちらりと見ると、さすがの名人右門もおもわずぎょっとあわつぶだちました。

つっているのです。

人が、人間が、ぬうと川づらに突き出した首尾の松の長い枝の高いところに、青白いぶきみな月の光に照らされて、ぶらりと下がっているのです。

それもひとりではない。二つ、三つ、四つ、五つ、男ばかりじつに五人もが、さながら首くくりの見せ物かなぞのように、ずらずらと一つ枝に長い足をそろえながらたれさがっているのでした。

「いったい、これはどうしたんだ」

「どうしたかこうしたか、あっしにきいたって知らねえですよ。あっしがつっているわけじゃねえんだからね。三両くだすったから大いばりで、このとおり一張羅いっちょうらを受け出して、遅れちゃならねえと駕籠かごをおごって来たんです。ところが、景気をつけて飛ばせているうちに、駕籠屋のやつめ、足にはずみがついて止まらなくなったものか、ちゃんと承知しながら柳橋を通りすぎてしまやがってね。ここまで来たら首っつりが五人あるといって、わいわい騒いでいやがるんだ。来てみるとこれなんですよ。さあたいへんとばかり、だんなへあのとおり一筆したためてお迎いを出したはいいが、あんまりいばった口をきくもんじゃねえんです。何がおもしれえんだ、しろうとが見たとて生きかえるわけじゃねえ、どけどけ、番人はおれひとりでたくさんだとばかり、やじうまを追っ払って番をしてみたら、ちっとばかり了見が違ったんだ。なんしろ、五人もくくっていやがるんだからね。知らぬうちに手足がこまかく動きだしやがって、目はくらむ、肝は冷える、そのうちにしいんと気が遠くなっちまったんですよ」

「だれが、いつごろ見つけたんだい」

「ほんのいましがた、この下を通った船頭が見つけてね、それから騒ぎだしたというんだから、つったのも明るいうちじゃねえ、きっと日が暮れてからですよ」

「自身番の者には、もう手配したか」

「そんな度胸があるもんですかよ。なんしろ、仲間は死人なんだ。だんなの来ようがおそいんで、あっしゃ恨みましたよ」

「ことし、いくつになるんだ。しようがねえっちゃありゃしねえ。早くいって呼んできな」

「行くはいいが、あっしが行きゃだんなひとりになるんだ。あとはだいじょうぶですかい」

「おまえたアちがわあ!」

駆けだそうとしたとき、騒ぎを聞きつけたとみえて、自身番の町役人たちが、ちょうちん、龕燈がんどう、とりどりにふりかざしながら、どやどやとはせつけました。

「参ったか! 右門じゃ。だれかはようあかりを貸せい」

龕燈をうけとると、高くかざして枝先を照らしながら、じっとまずその位置を見しらべました。

ところが、不思議です。くくっている枝は、幹からくねりと下回りに曲がって、川の上に二間近くも突き出た場所でした。首つりの名人ならいざしらず、普通の者ではとうていはい上っていかれるような枝でない。不思議に思って、幹から根もとを念のためにしらべると、やはり上っていったらしい足跡も形跡もないのです。

「ちっと変なにおいがしてきやがったな。あかりをもう二つ三つ寄せてみろ」

集めて照らしたその灯ひが死体へ届くと同時でした。

「よッ。目をあいているな!」

はぜあがったようなおどろきの声が、名人の口から放たれました。五人ともに、死人はかっと目を見開いて、気味わるく虚空をにらんでいるのです。ばかりか、歯もむいているのです。舌も出しているのです。――他殺の証拠でした。自分でくくったものなら、十人が十人まで目を閉じ、口も閉じて、もっと安らかな形相をしているのが普通でした。それが自殺と他殺との有力な鑑別法でした。だのに、目も歯もむいているとすると、何者かが絞め殺してからここへつるして、みずからくくったごとく見せかけたものに相違ないのです。

「ね……! こういうことになるんだから、人まねもして質屋へも行くもんですよ。あっしが一張羅を殺して道を迷ったからこそ、こういう大あなにもぶつかったんだ。三両じゃ安いですぜ」

「なにをつまらねえ自慢しているんだ。早く取り降ろすくふうしろ」

「だって、このとおり上っちゃいけねえし、手は届かねえんだからね。くふうのしようがねえんですよ」

「舟から枝へはしごでも掛けりゃ降ろせるじゃねえか。倉の荷揚げ場へ行きゃ、舟もはしごも掃くほどあるはずだ。とっととしろい」

自身番の小者たちもてつだって、たちまち取り降ろしの用意がととのいました。

2

松の根もとに並べたのを見しらべると、五人ともに死人はたくましい男ばかりです。

不思議なことには、その五人が申し合わせたように、三十まえの若者ばかりでした。こざっぱりとした身なりはしているが、裕福なものたちではない。

懐中は無一物。手がかりとなるべき品も皆無。しかし、無一物皆無であったにしても、どういう素姓の者かまずそれに眼がんをつけるのが第一です。

しゃがんで龕燈がんどうをさしつけながら、しきりとあちらこちらを調べていたが、はからずもそのとき名人の目をひいたものは、死人の手のひらでした。

五人ともに人並みすぐれてがんじょうな手をしているばかりか、その両手の指の腹から手のひらにかけて、いち面に肉豆たこが当たっているのです。

「船頭だな!」

「へ……? 船頭というと、船のあの船頭ですかい」

「決まってらあ。駕籠屋に船頭があるかい。いちいち口を出して、うるさいやつだ。この手を見ろい。まさしくこいつあ艫肉豆ろだこだ。船頭の証拠だよ。これだけ眼がんがつきゃ騒ぐこたアねえ。自身番の連中、おまえらはどこだ」

「北鳥越でござります」

「四、五町あるな。遠いところをきのどくだが、見たとおり、ただの首くくりじゃねえ。今夜のうちにも騒ぎを聞いて、この者たちの身寄りが引き取りに来るかもしれねえからな。来たらよく所をきいて渡すように、小屋に死体を運んで番をせい。人手にかかったと思や、よけいふびんだ。ねんごろに預かって守ってやれよ……」

言い捨てて、さっさと歩きだしたかと見る間に、たちまちその場から名人十八番の右門流が始まりました。蔵前を左へ天王町から瓦町かわらまちへ出て、そこの町かどのお料理仕出し魚辰うおたつ、とあかり看板の出ていた一軒へずかずかはいっていくと、やにわにいったものです。

「何かうまそうなもので折り詰めができるか」

「できますが、何人まえさんで?」

「五人まえじゃ」

「五人まえ……!」

不意を打たれて、伝六、ぽかんとなりました。だいいち、仕出し屋へ来て折り詰め弁当をあつらえたことからしてがふにおちないのです。そのうえ五人まえとは、だれが食べるつもりなのか考えようがない。今のさき取りかたづけさせたあの五人の亡者もうじゃにでも食べさせるつもりであるなら、さかな屋で生臭入りの弁当もおかしいのです。

「冗、冗、冗談じゃねえや。あっしゃもう……あっしゃもう……」

鳴りたくも鳴れないほどどぎもをぬかれて、さすがの伝六も目を丸めたきりでした。

しかし、名人はとんちゃくがない。

「ああ、できたか。ご苦労ご苦労。ほら代をやるぞ」

小粒銀をころころと投げ出して、両手にぶらさげると、やっていったところがまた不思議です。柳橋から両国橋を渡って、大川沿いに土手を左へ曲がりながら、そこの回向院えこういん裏の横堀よこぼりの奥へどんどんと急ぎました。

突き当たりに小さな小屋がある。

軒は傾き、壁はくずれて、さながらに隠亡おんぼう小屋のような気味のわるい小屋でした。もちろん、ただの小屋ではない。じつに、この横堀こそは、秋の隅田すみだに名物のあの土左衛門舟が艫ともをとめる舫もやい堀なのです。川から拾いあげた死体はみんなここまで運び、引き取り人のある者はこの小屋で引き渡し、身寄りも縁者もない無縁仏は、裏の回向院へ葬るのがならわしでした。

だからこそ、中は火の気一つ、あかり一つないうえに、気のせいばかりでなく死人のにおいがプーンと鼻を打ちました。

その暗い小屋の中へどんどんはいっていくと、名人はすましていったものです。

「なにはともかく、腹をこしらえるのがだいいちだ。遠慮せずと、おまえもおあがりよ」

「冗、冗、冗談じゃねえですよ。気味のわるい。弁当どころか、あっしゃ気味がわるくて、も、も、ものもいえねえんですよ」

「そうかい。でも、おいしいぜ。ほほう、いま食ったのはどうやら卵焼きらしいや、暗がりでよくはわからねえが、なかなかしゃれた味につくってあるよ。どうだい。おまえ食べないかい」

「いらねえですよ」

「そうかい。遠慮すると腹がへるぜ。おいらが一人まえ、おまえは晩めしもいただいていないから、四人まえはいるだろうと思って親切につくってきてやったんだが、調子がわるいと朝までここにこうしていなきゃならねえかもしれんからな。あとでぴいぴい音をあげたって知らねえぜ」

すましてぱくぱくやっていた名人が、とつぜんそのときさっと腰を浮かしました。

ギーギーと、艫ろの音が近づいてくるのです。この横堀へはいってくるからには、まさしく土左舟でした。

「来たな! 間が悪けりゃ朝までと思ったが、このぶんじゃとんとん拍子に道が開けるかもしれねえや。さっそく一発おどしてやろうぜ……」

立ちあがったかと思うまもなく、姿はもう外でした――。じつに、ここへ名人のやって来たのは、その土左舟の詮議せんぎに来たのです。あの五人の死体が他殺であるのは、すでににらんだとおりでした。殺して運んで、あの枝につるして、みずからくくったかのごとく見せかけたにちがいないことも、またすでににらんだとおりでした。だが、あのとおり、つりさがっていた場所は、幹から運んでいくのはもとよりのこと、尋常ではのぼってもいかれないような枝の先なのです。むろん、それから察すると、十中十まで舟で運んで、舟からあの枝へなにか細工をしたことは疑いのない事実でした。しかし、運んだものは死体です。なによりも縁起をかつぐ荷足り舟や伝馬船てんませんが、縁起でもない死体をのせたり運んだりするはずはないのです。十中十まで土左舟であろうとにらんだればこそ、夜あかしを覚悟のうえでわざわざ詮議に来たのでした。

「なるほど、そうでしたかい。えへへ……さあ、ことだ。べらぼうめ。急に腹が減ってきやアがった。さあ、忙しくなったぞ」

ようやくに伝六も知恵が回ったとみえて、弁当をわしづかみにしながら飛んできたのを、名人はにこりともするもんではない。そしらぬ顔にふり向きもせずずかずかと土左舟に近づくと、穏やかに呼びかけました。

「毎晩毎晩奇特なことじゃな。お役舟か。それとも、特志の舟か。どっちじゃ」

「但馬屋たじまや身内の特志舟でござんす」

「そうか、ご苦労なことだな。揚げてきたは、やっぱり心中か」

「いいえ。野郎仏をひとり、橋下でいま拾ったんでね。急いで帰ってきたんですよ」

「ほほう、男をな。ききたいことがある、隠してはならんぞ。日の暮れあたりに、おまえら土左舟のうちで、死体を五つ運んだものがあるはずだが、どの舟だ」

「ああ、なるほど、そのことでござんすか。首尾の松の一件じゃござんせんかい」

「知っておるか!」

「あそこに妙な首つりが五人あったと聞いたんでね、はて変だなと思って、今も舟の上できょうでえと話し話し来たんですがね。日暮れがた、ちょっとおかしなことがあったんですよ。今夜からお上のお役舟は川下のほうをお回りなさることになったんでね。じゃ、あっしども特志の舟は手分けして川上を回ろうというんで、幡随院舟はずっと上の綾瀬川あやせがわ、加賀芳舟は東橋、わっちども但馬屋舟はこのあたりにしようとここで相談しておったら、変な男が、三、四人やって来てね、今そこで五人ひとかたまりの土左衛門を見つけた、功徳だからおれたちであげてやる、どれか一艘舟を貸せんかといったんで、加賀芳身内がなんの気なしに貸したんですよ。ところが、どこで拾ってどこへ始末したのか、仏ならこの小屋へ運んできそうなものなのに、まもなくから舟をまた返しに来たんでね。妙なことをしやがると思っていたら、首尾の松に五人、ぶらりとさがっていると聞いたんです。お尋ねはそれじゃござんせんかい」

「まさしくそれだ! どんな人相をしていたか覚えないか!」

「そいつがあいにく、怪しいやつらたア気がつかなんだものだからね、なに一つ見覚えがねえんですよ」

「風体はどうだ!」

「それもうっかりしていて気がつかなかったんですよ」

「せめて年ごろにでも覚えはないか」

「それさえさっぱり覚えがねえんです。なんしろ、月はまだあがらず、薄暗いところへもってきて、向こうははじめっからそのつもりだったか、顔を隠していやがったんでね。気のついたこたアなんにもねえですよ」

名人の手は、知らぬまにあごをなではじめました。ぞうさなく開けかけたかと思った道は、突如として深い霧の中へ隠れてしまったのです。にらんだとおり、土左舟を借りに来たその者たちが、あの五人を運んだにちがいない。おそらく、はしごでもいっしょに積んでいって、あの枝にかけたことは疑いない。

しかし、わかったことはただそれだけなのです。どこから死体を運んできたか、どういう素姓のものか、不審なその男たちが殺した下手人であるかどうか、だれかに頼まれて運んだものか、肝心かなめの詮議のつるは、まったく霧の中へ隠されてしまって、さらにつかみようがないのです。

「ちとこいつ難物だな」

「ね……!」

「なに感心していやがるんでえ。大急ぎでひと回り、回ってきな」

「どこを回るんですかい」

「決まってらあ。人相も風体もつかまえどころのねえやつらを目あてに江戸じゅう捜してみたって、目鼻はつかねえんだ。詮議の手を変えるんだよ。こうなりゃ、絞め殺された五人の身性を洗うよりほかに道はねえ。うわさを聞いて、身寄りの者が引き取りに来たかもしれねえから、第一にまず北鳥越の今の自身番へいって探ってくるんだ。なんの音さたもねえようだったら、ご番所へ駆け込みがはいっているかもしれねえから、北町南町両方洗ってきなよ」

「承知のすけだ。だんなはどこでお待ちなさるんですかい」

「鼻のさきの向いたほうで待っているよ。早く帰ってくるんだぜ……」

伝六は右、右門は左、分かれて八丁堀へ帰りついたのは、とうにもう五ツを回って、かれこれ四ツ近い刻限でした。

しかし、さすがに今宵こよいの名人は、少し様子が違うのです。ひとたびこうと眼がんをつけて詮議の手をのばしたからには、よしや途中手がかりのつるが切れるようなことがあったにしても、そこからさらに思いもよらぬ新芽の手づるをみつけ出して、詮議の手もまた計り知れぬほうへ伸びてくるのがつねであるのに、今度のこの怪奇な事件ばかりは、ふっつりとつるが切れたままで、新芽はおろか、まるで見当もつかないのでした。しかも、なにゆえの犯行か考えようがない。ホシのつけようもない。絞められた五人は船頭であること、土左舟で運んであの松へつるしたということ、わかっているのはそればかりです。

寝もやらず、名人はあごをなでなで、ひたすらに伝六の帰りを待ちわびました。

しいんとふけ渡って、秋なればこそ、そぞろに悲しくわびしく、なぜともなしに身が引き入れられるようです……。

一刻いっとき近い時がたちました。

しかし、来ない。

北鳥越、呉服橋、数寄屋橋と、三カ所順々に回ったにしても、もうそろそろ帰ってこなければならないはずなのに、どうしたことか、伝六がなかなかに姿をみせないのです。

さらに一刻がたちました。

だが、来ない。

足音もないのです。

「変なやつだな。また何か始めやがったかな……」

半刻がすぎ、一刻がたつ、いつのまにか屋の棟むねの下がる丑満うしみつもすぎて、やがてしらじらと夜が明けかかったというのに、いかにも不思議でした。足音はおろか、伝六の姿も影もないのです。

不安がにわかにつのりました。

しかし、やはり姿はない。

からりと夜が明け放れました。

だが、まるで糸の切れた凧たこです。

日があがりました。

しかし、依然として帰ってこないのです。

不安はいよいよつのりました。いかな伝六にしても、いまだになしのつぶてという法はない。

何かあったにちがいないのです。

寝もやらず、身じろぎもせず不安と不審に首長くして待ちきっているとき、とつぜん、ばたばたと、ただならぬ足音が表の向こうから近づきました。

「伝六か!」

「…………」

「たれじゃ! 伝六か!」

「いいえ、あの、北鳥越の自身番の者でござります」

意外にも駆けこんできたのは、ゆうべ死体の始末をつけさせたあの北鳥越自身番の小者なのです。

名人の声が飛びました。

「何をあわてておるのじゃ!」

「これがあわてずにおられますか! やられました! やられました! とんだことになったんですよ!」

「死体か!」

「そうでござんす! ゆうべ五人とも盗まれたんでござんす」

「なにッ。行くえもわからぬか!」

「いいえ、それがじつに気味がわるいのでござります。ねんごろに守れとのおことばでござりましたゆえ、あれから死体を運んで帰って、つじ番小屋の中へ寝かしまして、目も放さず見張っておりましたのに、いつ盗まれたのやら、ひょいと気がつくと、五人とも亡者もうじゃの姿がなくなっておりましたゆえ、にわかに騒ぎだして、八方へ手分けしながら捜したところ――」

「どこにあった!」

「ゆうべのあの枝に、ぶらりとさがっていたんですよ。それも、けさになってようようわかったんでござります。やっぱり船頭がみつけまして、血の色もなく小屋までしらせに参りましたんで、半信半疑で駆けつけましたところ、枝も同じ、場所も同じ、ゆうべのかっこうそのままで五人ともさがっているんですよ。なにはともかくと思って、すぐお知らせに駆けつけたんでござります」

名人の顔は、さっと青ざめました。

事件はいよいよ怪奇にはいったのです。

伝六のいまだに帰らないのも不思議である。

盗み出し、あまつさえ同じ枝にまたぶらさげてあったというのは、さらに不思議です。

「よしッ。すぐに参ろう。ご苦労じゃが、駕籠のしたくさせてくれぬか」

うちのるや、ひたひたと一足飛びに走らせました。

3

「じゃまだ、じゃまだ。道をあけな!」

「御用駕籠かごなんだ。横へどきな!」

景気をつけていっさん走りに急ぐ駕籠にゆられながら、名人もしきりと先を急ぎました。

どう考えてみても、こんな不思議はない。目も放さずちゃんと見張っていたのに、その目の前で死体が紛失したというのも不思議です。それが五体ともに、またゆうべと同じ松、同じ枝につるしてあったというのは、さらに奇怪です。あまつさえ、伝六が出たっきり帰らないというのも、不思議のうちの不思議でした。

「まだ柳橋へかからぬか」

「珍しくお急せきですね。もうひとっ走り――、参りました! 参りました! ちょうどいま柳橋ですが、これから先はどっちでござんす」

「北鳥越きたとりごえじゃ。自身番へやれッ」

何はともかく、ゆうべのいつごろ、どんなふうにして盗み出されたか、それを詳しく洗ってみるのが事の第一です。

「あッ。ようこそ。面目ござりませぬ。たいせつな預かりものを、とんだ不始末いたしまして、お会わせする顔もござりませぬ」

土色に青ざめて、うろたえ騒いでいる小役人たちに迎えられながらはいっていくと、むだがない。ゆうべそのうえに死体を置いたらしく、いまだに敷いたままである新むしろの位置から小屋の出入り口、表の通りの路地のぐあい、いちいちとまず注意深く見しらべました。表の出入り口は北鳥越町の通りに面して、油障子が二本。むしろの敷いてあるところはその出入り口をはいったすぐの左土間です。

土間につづいて八畳敷きの詰め所とその横に寝べやが並び、詰め所の奥に湯沸かし場があって、ここにもう一つ障子一枚の出入り口があり、外は表の通りからちょうどかぎの手になっている行き止まりの袋路地でした。

しかも、その袋路地がただの路地ではない。右側には新光院という寺の裏べいがずっとつづき、突き当たりは大御番組、御書院番組の広い御組屋敷が並んで、いかにもものさびしいところなのです。

「なるほどのう。よしよし、細工するにはかっこうな場所じゃ。知っておること残らず申せよ。死体はあのむしろの上へ置いたであろうな」

「さようでござります」

「ゆうべいたのは、ここにいるおまえら四人きりか」

「いいえ、六人でござりました」

「あとのふたりはどこへいった」

「あちらをもう一度おしらべなさいますようなら手をつけてはならぬと存じましたゆえ、首尾の松のほうを見張らしてござります」

「六人ともみな夜じゅう起きていたか」

「いいえ、一刻替わりに寝てもよいことになっておりますゆえ、三人ずつ入れ替わってかわるがわる起きていたのでござります」

「なくなったのは、いつごろじゃ」

「九ツそこそこでござりました」

「そのとき起きていたのは、だれだれじゃ」

「てまえと、この横のふたりでござります」

「しかと見ている前で紛失したか」

「そうでござります。三人ともこの目を六ツ光らしておりましたのに、ふいっと消えてなくなりましたゆえ、みなして大騒ぎになったのでござります」

「よう考えてみい。キリシタンバテレンの目くらましでもそううまくはいかぬぞ。何か不思議があったはずじゃが、その近くに怪しい者でもたずねてこなんだか」

「いいえ、怪しい者はおろか、不思議なことなぞなに一つござりませぬ。ゆうべのうちにこの自身番へ来たものは、あとにもさきにも女がたったひとりだけでござります」

「なに、女! いつごろじゃ!」

「死骸しがいのなくなるちょっとまえでござります」

「それみい! そういうたいせつな言い落としがあるゆえ、きいているのじゃ。女はどんなやつだ」

「いいえ、その女は何も怪しいものではござりませぬ。年のころは二十七、八でござりましょうか。お高祖頭巾こそずきんで顔をかくした品のよいお屋敷者らしい美人でござりましてな。この裏の大御番組の柳川様をたずねてきたが、気味のわるい男が四人ほどあとをつけていて離れぬゆえ、追っ払ってくれと駆けこんできたのでござります」

「どこからのぞいた。裏か、表か!」

「あの裏口からでござります。のぞいてみると、なるほど四、五人、路地の奥に怪しい影が見えましたゆえ、三人してちょっと追っ払ってやっただけでござります」

「よし、わかった。アハハ、しようのないやつらだのう。追っ払って帰ってきたら、死骸がとっくになくなっていたろうがな」

「そうでござります。ついさきほどまでちゃんとあったのに、もう見えませなんだゆえ、にわかに騒ぎだしたのでござります」

「あたりまえだ。いつまで死骸が残っているかよ。六つ目玉を光らしているまえで紛失したなどというから不思議に思うんだ。もっとことばに気をつけろ」

ホシはまさしくその女なのです、しめし合わせて裏口から見張りの三人を路地奥へおびき出したすきに、すばやく一味の者たちが反対の表口から盗み出したにちがいないのです。

名人のおもてには、ほのぼのとして血のいろがのぼりました。

「伝六も来たはずだが、見えなんだか」

「参りました。ちょうどなくなった騒ぎのさいちゅうおみえになりましたが、何をおあわてか目いろを変えてこの奥へ駆けこんでいったきり、あのかたの姿が消えてなくなりましたゆえ、なおさら気味わるく思っていたところでござります」

「よしよし。もう騒ぐには及ばぬ。死骸はいつまでも首尾の松へつるしておいたとてなんの足しにもならんから、はよう始末せい」

「やっぱりここへ?」

「おまえらに預けたんではまたあぶない。お番所の塩倉へ運んでつけておくよう手配せい」

不審は伝六の行くえです。小役人たちのことばをたよりに、名人はすぐさま路地奥へ急ぎました。

同時に、目を射た品がある。

突き当たりの大御番組のお長屋の門のわきに、なぞのごとく十手が一本さしてあるのです。まさしく、伝六愛用の品でした。

「しようがないのう。こいつも中でなにかまごまごしているな」

はいってみると、うなぎの寝床のような長いお組屋敷のいちばん奥の一軒の前に、小腰をかがめて必死に力み返っている男があるのです。

だれでもない伝六でした。近づくまえに足音を聞きつけたとみえて、まっかに血走った目をふりむけると、ほっとなったように呼びたてました。

「もうしめこのうさぎだ。門のまえに、伝六ここにありと目じるしの十手をさしておきましたが、ご覧になりましたかい」

「見たからここへ来たじゃねえか。何を力み返ってにらめっこしているんだ」

「女、女! 怪しい女を一匹このうちの中へ追い込んだんですよ」

「お高祖頭巾こそずきんか!」

「そう、そう、そのお高祖頭巾なんですよ。お番所をさきに洗ってこの北鳥越へ回ってきたらね、だいじな死骸を盗まれたといって大騒ぎしていたんだ。ひょいと見ると、このお組屋敷の門前を変な女がちらくら走っていやがるからね、夜ふけじゃあるし、ちくしょうめ臭いなと思ったんで、まっしぐらに飛んできたら、このうちの中へすうと消えたんだ。だんなに知らせたくも知らせるすべはなし、一歩でもここをどいて逃がしちゃたいへんと思ったからね、こうしていっしょうけんめいと張り番していたんですよ。いるんです! いるんです! このとおりまだ戸も締まったきりなんだから、中でもそれと気がつきやがって、きっとどこかにすくんでいるんですよ」

なるほど、ぴしりと戸が締まっているのです。

しかし、その玄関さきも、前庭、内庭も、荒れるがままに荒れ果てて、一面にぼうぼうと枯れ草ばかりでした。

「あき屋敷だな」

「冗、冗、冗談じゃねえですよ。中へ消えるといっしょに、まさしく女と男の話し声が聞こえたからね。たしかに人が住んでいるんですよ」

「はいったきり、だれも出てこなんだか」

「男が出たんです。男がね、若い二十七、八の、いい男でした。話し声がぱったりやんだかと思うと、にやにや笑って若い野郎がひとり出てきたんですが、裏も横もそれっきり戸のあいた音はなし、女はどこからも逃げ出したけはいもねえからね。たしかにまだこのうちにいるんですよ」

聞くや、名人がにやりと笑いました。

「な、な、なにがおかしいんです! 笑いごっちゃねえんですよ。こっちゃひと晩寝もせずに腰骨を痛くして張り番していたんだ。あっしのどこがおかしいんですかよ」

「そろいもそろってまぬけの穴があいているから、おかしいんだ。百年あき屋の前で立ちん棒したって、雌ねこ一匹出てきやしねえよ」

「バカいいなさんな。男と女とふたりで、たしかに話をやったんだ。この耳でちゃんとその話し声を聞いたんですよ。この目で男は出てきたところをたしかに見たが、逃げこんだお高祖頭巾の女は、半匹だって出てきたところを見ねえんだからね。溶けてなくなったら格別、でなきゃたしかにいるんですよ」

「しようのねえやつだな。八人芸だってある世の中じゃねえか。ひとりで男と女のつくり声ぐれえ、だれだってできらあ。年のころは二十七、八、いい男が出てきたといったそいつが逃げこんだ女なんだ。大手ふりながら目の前を逃げられて、なにをぼんやりしていたんだい。論より証拠、中はから屋敷にちげえねえから、あけてみなよ」

案の定、戸をあけると同時に、ぷうんと鼻を刺したのは、屋のうちいちめんに漂うかびのにおいです。長らく大御番組小役にあきでもあって、ここに組住まいをしたものがないのか、たたみ、建具、荒れるにまかせたがらんどうのあき屋でした。

へやは七つ。

女の姿はおろか、人影一つあるはずはない。しかし、そのかわりに目を射たものがある。いちばん奥のへやの床の間の上に、お高祖頭巾と女の衣装がひとそろい、人を小バカにしたように置いてあるのです。

「ちくしょうめ、さてはあの女へび、ひと皮ぬいで逃げやがったね。それならそうとぬかして逃げりゃ、腰の骨まで痛くしやしねえのに、いまいましいね」

「今ごろごまめの歯ぎしりやったっておそいや。ぶつぶついう暇があったら、戸でもあけろい」

まずなにはともかくと、伝六に雨戸をあけさせて明るい縁側へ衣装を持ち出しながら、子細に見しらべました。

お高祖頭巾はもとより、着物も羽織もどっしりと、目方の重いちりめんでした。それに、帯が一本。これもすばらしく品の凝った糸錦いとにしきです。

頭巾ずきんの色は古代紫。着物は黒地に乱菊模様の小紋ちりめん。羽織も同じ黒の無地、紋は三蓋松さんがいまつでした。

武家の妻女ならば、まず二百石どころから上の高禄こうろくをはんだものにちがいない。いずれにしても、品の上等、着付けの凝ったところをみると、相当由緒ゆいしょある身分の者です。

「しゃれたものを着ていやがらあ。伝六さまの顔でいきゃ、どこの質屋だってたっぷり十両がところは貸しますぜ」

「黙ってろ。ろくでもないことばかりいっていやがる。さっき男に化けていったとき、どんな着付けだった」

「黒羽二重の着流しで、一本独鈷どっこの博多はかたでしたよ」

「刀はどうだ。さしておったか」

「いねえんです。今から思や、そいつがちっと変なんだが、丸腰に白足袋しろたび雪駄せったというのっぺりとしたなりでしたよ」

「頭は?」

「手ぬぐい」

「かぶっておったか」

「のせていたんです」

むろん、その手ぬぐいは、髪のぐあいを見られまいと隠したものに相違ない。男が女に化けたものか、女が男に化けたものか、いずれにしてもまえからちゃんと用意して、下に男ものを着込み、上にこの女ものを着付けて、ここへ追いこまれた窮余の末に、上のひと皮を脱ぎ捨てながらゆうゆうと大手をふって、伝六の目のまえを逃げ去ったものにちがいないのです。

「ぼんやりしているから、このとおりいつだって手数がかかるんだ、もういっぺん見せろ」

なにか手がかりになるものはないかと、いま一度取りあげて丹念にしらべ直しました。

帯にもこれと思われる手がかりはない。

頭巾にもない。紋にもない。ちりめんも普通。染めも普通。しかし、その目がたもとの裏へいったとき、ちらりと見えたものがある。

何のまじないか、着物のたもとにも、羽織のたもとにも、その裏のすみに、赤い絹糸が二本縫いこんであるのです。

同時でした。

「なんでえ。べらぼうめ。おいらがすこうし念を入れて調べると、たちまちこういうふうに知恵箱が開いてくるんだからなあ。さあ、眼がんがついたんだ、駕籠かごの用意しろ」

「かたじけねえ。行く先ゃどっちですかい」

「一石橋いっこくばしの呉服後藤ごとうだよ。この絹糸をようみろい。江戸にかずかず名代はあるが、呉服後藤に碁は本因坊、五丁町には御所桜と手まりうたにもある呉服後藤だ。ただの呉服屋じゃねえ。江戸大奥お出入り、お手当米二百石、後藤ごとう縫之介ぬいのすけと、名字帯刀までお許しの呉服師だ。位が違います、お仕立ても違いますと、世間へ自慢にあそこで縫った品には、このとおり紅糸をふた筋縫い込んでおくのが店代々のしきたりだよ。このひとそろいの着手も、おそらくは城中お出入り、大奥仕えに縁のある者にちげえねえ。早く呼んできな」

「ちくしょうめ。さあ、事が大きくなったぞ。いつまでたっても、だんなの知恵は無尽蔵だね。やあい、人足! 人足、江戸一あしのはええ駕籠屋はいねえかよ!」

飛び出した声の騒がしさ。右門の知恵も時知らずに無尽蔵だが、伝六の騒々しさも時知らずです。まもなく仕立てた駕籠に乗ると、名人はなぞのひとそろいをたいせつにうちかかえながら、ひたすらに一石橋へ急がせました。

4

呉服後藤に金座後藤、橋をはさんで向かい合っているふたりの後藤が自慢の金で掛けた橋だから、五斗と五斗とをあわせて一石橋と名がついたというお江戸名代の橋です。

この橋たもとに、総格子そうこうし六間の間口を構えて、大奥御用呉服所と染めぬいた六間通しののれんが、堀ほりから吹きつける風にはたはたとはためきながら、見るからにいかめしい造りでした。

もちろん、お客も町人下賤げせんの小切れ買いではない。城中お出入りの坊主衆、大奥仕えの腰元お局つぼね、あるいはまたお旗本の内室といったような身分由緒ゆいしょのいかめしいお歴々ばかりなのです。

駕籠を乗りつけて、ずいとはいっていくと、黙って名人は八丁堀目じるしの巻き羽織をひねってみせました。

「あっ、なるほど。わかりました。おしらべの筋は?」

「これじゃ」

手にしていたひとそろいをどさりと目のまえへ投げ出しながら、むだをいわずに三蓋松さんがいまつの紋を指さしました。

店の者もまた、ここらあたりに勤めている手代となると、諸事むだがないのです。たもとの裏の絹糸をしらべて、自分のところで仕立てた品であるのをたしかめると、大きな横帳をしきりに繰っていたが、ようやく捜しあてたとみえて、声をひそめながら答えました。

「たしかにござります。先月の二十一日にご注文うけまして、当月二日にお届けいたしました品でござります」

「注文主はだれじゃ」

「ちとご身分のあるおかたでござりまするが」

「承知のうえでしらべに参ったのじゃ。奥仕えのお腰元か」

「いいえ、奥ご医師でござります」

「ほほう、お脈方とのう。しかし、ご医師にもいろいろある。お外科、お口科、お眼科。お婦人科。いずれのほうじゃ」

「いいえ、お鍼医はりいの吉田法眼ほうげんさまでござります」

「当人か」

「ご後室さまでござります」

「なに、ご後室とのう。なるほど、そうか。やはり、女だったか! 住まいはいずれじゃ」

「法眼さまがおなくなりになりましてから二年このかた、小石川の伝通院裏にご隠宅を構えて、若党ひとりを相手に、ご閑静なお暮らしをしていらっしゃるとかのことでござります。この品もそちらへお届けいたしました」

「よし、わかった。口外するでないぞ。――駕籠屋かごや! 伝通院裏じゃ」

なぞの道は、はしなくも紅糸二本から解けかかってきたのです。

「ありがてえね。ちゃんとこういうふうに骨を拾ってくださるんだからな。お眠くはござんせんかい。お疲れなら肩でももみましょうかい」

「つまらねえきげんをとるな。駕籠に乗って肩がもまれるかい」

「いいえね、もめねえことは万々わかってるんだが、気は心でね。これでもあっしゃ精いっぱいおせじを使っているんですよ。――そらきた。伝通院の裏に二つはねえ。あの三軒のどれかですぜ」

たぶんそのあたりだろうと見当をつけていってみると、案の定、いちばん奥が捜し求めたその隠宅でした。隠宅というとふた間か三間の小さな家にきこえるが、法眼ほうげんといえば位は最上、禄ろくは百五十石、はぶりをきかした大奥仕えのお鍼医はりいの未亡人がこの世を忍ぶ住まいです。門の構え、広い庭、むしろ邸宅といいたいような広大もない住まいでした。

その広い庭の中を通りがかりに、建仁寺垣けんにんじがきのすきからひょいとみると、人影がある。

女です。

切りさげ髪に、紫いろの被布を着て、今をさかりに咲きほこっている菊の中を、しゃなりくなりとさまよっている様子は、まさしく当のご後室でした。

だが、いかにも変な女なのです。

たしかにホシとにらんだお高祖頭巾の女は二十七、八のべっぴんといったのに、伝六のしてやられた男も同じ二十七、八ののっぺりとしたやさ男だったというのに、これはまた似てもつかぬ四十すぎの大年増おおどしまなのでした。そのうえに肉はでっぷり、顔は寸づまり、押せばぶよんと水気が出そうなほどにもあぶらぎって、どんなにうまく化けたにしても、とうていやさ男なぞに化けきれるような女ではないのです。

「ちくしょうめ、さあいけねえぞ。鯨の油につけたって、いちんちひと晩でこうはこやしがきかねえんだ。くやしいね、急にまた空もようが変わりましたぜ」

「ちっとあぶら肉が多すぎるな」

「おちついた顔をしている場合じゃねえんですよ。たしかにこの隠宅へあの三蓋松さんがいまつのひとそろいを届けたというからにゃ、首尾の松の首っつりもこの家のうちに根を張っているにちげえねえんだ。お城御用まで承る後藤の店でうそをつくはずはねえ。乗り込んで、ひと洗い洗ったらどうでござんす」

「やかましい! だれだッ。そんなところでがんがんいうやつあ!」

そのとき、ぬっと門わきの下男べやからのぞいた顔がある。

三十四、五のふてぶてしい男でした。後藤の店で話した若党にちがいないのです。

伝六の目から、当然のごとくに火が飛びだしました。

「がんがんいうやつたア何をぬかしゃがるんだ。人を見てものをいいねえ! うぬアこのうちの下っぱか!」

「下っぱならどうだというんだ。これみよがしに十手をふりまわしているが、うぬア、不浄役人の下っぱか!」

「野郎。ぬかしたな! 不浄役人の下っぱたアどなたさまに向かっていうんだ。詮議せんぎの筋があって来たんだ。うぬのうちア三蓋松か!」

「知らねえや。とちめんぼうめ! かりにも法眼ほうげんの位をいただいたおかたさまのご隠宅なんだ。うぬらごとき不浄役人の詮議うける覚えはねえ。用があったら大目付さまの手形でも持ってきやがれッ。ふふんだ。ひょうろく玉めがッ」

「野郎ッ。おっそろしく口のわるい野郎だな。まてまて、かっぱ野郎ッ。用があるんだ、待ちやがれッ」

おこぜのようになって追いかけようとしたのを、

「よしな! 伝六ッ」

うしろから名人が静かに呼びとめて、あれを見なというように、にやりとやりながら、あごでそこの下男べやの中をしゃくりました。

ちょうちんがあるのです。

それも三張り。

ただのちょうちんではない。

三張りともに、深川、船宿、於加田おかだ、と抜き字の見えるなまめいたちょうちんが、無言のなぞを包んで下男べやの壁につりさがっているのです。

「へへえ、そうか。なるほどね」

伝六の目もにやりと笑いました。いかに血のめぐりが大まかにできていたにしても、これを見ては不審がわかないというはずはない。詮議や手入れを拒むほど、位におごる法眼の隠宅に、なまめいた船宿のちょうちんなぞのあることからしてが、すでにふつりあいなのです。ましてや、深川の船宿といえば、男女忍びの出会いの茶屋を看板の穏やかならぬ料亭でした。そのちょうちんが、しかも三張りもあるところをみると、切りさげ髪に紫被布で行ない澄ましていたあのご後室が、若党を供にしばしば忍んでいって、そのたびに借りて帰ったものが、いつとはなしに三張りもたまったものに相違ないのです。

「かっぱ野郎、ほえづらかくなよ。このとおり、おっかねえうしろだてがおつきあそばしていらっしゃるんだ。駕籠ですかい」

「決まってらあ。一眼去って一眼きたるたアこのことよ。早くしな」

乗ると同時に、目ざしたのはその深川でした。

暮れるに早い秋の日はもう落日が迫って、七橋ななはし、八橋やはし、七堀ななほり、八堀やほりと水の里の深川たつみが近づくにしたがい、大川端おおかわばたはいつのまにかとっぷりと夕やみにとざされました。

さむざむと冷え渡って冷えは強いが、冷えればまた冷えたで相合いこたつのさし向かい、忍びの夢路の寝物語。はだのぬくみを追って急ぐ男と女の影が、影絵のように路地から路地をぬって歩いて、秋深い辰巳たつみの右左、またひとしおのふぜいです。

「ちくしょうッ、ふざけてらあ。ちょろりと今ふたり、天水おけの陰へかくれましたよ。あんなところでちちくるつもりにちげえねえですぜ」

「そんな詮議に来たんじゃねえ。於加田おかだを捜しているんだ。早く見つけなよ」

「いいえ、物事は総じてこまかく運ばねえと、とかくしりがぬけるんだ。ある! ある! あのかどにあるのがそうですよ」

ぐいと大川からこっちへ切りこんでいる小堀こぼりのかどの出っ鼻に、なるほど於加田と書いたあんどんが、ゆらめく水に灯影ほかげを宿して見えました。

むろん、すぐにも詮議せんぎに押し入るだろうと思われたのに、つねに周到綿密、目の光らせどころにそつがないのです。家のまわり、川筋の様子、何か不審はないかと、そこの小陰にたたずみながら目を光らせました。

同時に、名人のからだが、はっとなったように泳ぎだしました。

あるのです。

不思議な船が、大川岸に四艘そう、小堀の中に三艘そう、人待ち顔につないであるのです。

それもただの不思議ではない。七艘ともにしめなわを張って、どの舟の船頭もまた一様に同じしめなわを腰へ巻きつけ、人目にたたぬように船龕燈ふながんどうをそででおおいながら、いまかいまかと舟宿から出てくる客を持ちうけている様子でした。

「ほほう、そろそろとにおってきたな。うなぎのにおいだか、めざしのにおいだか知らねえが、ただのにおいじゃねえようだぜ。引っこんでな! ひょこひょことそんなところへ顔を出すなよ!」

しかって、ぴたり、へいぎわへ身をよせた主従の耳へ、船宿の裏二階から小さくそっと呼んだ小女の声が聞こえました。

「船頭さん、おしたくは?」

「いつでもいいよ」

「そう。じゃ、はぎの間のお客さんからお送りするからね。順々にこっちへ舟をたのみますよ」

ギイギイと、艫音ろおとをころしながら忍び寄ってきたのといっしょに、板べいがぽっかりと口をあけて、案内の小女のあとから、あたりをはばかりはばかり、女の姿が現われました。

十七、八の、まだ肩あげもとれないような下町娘なのです。

「いってらっしゃいまし。どうぞごゆっくり。船頭さん、しっかりたのむよ」

「おいきた。だいじょうぶだよ」

拾いこむようにして娘を乗せると、奇怪な舟は艫音を急がせながら、ぐんぐんと大川を上へのぼりました。

入れ違いにまたひとり。

しかし、今度は三十すぎた奥方ふうの女です。

「ごゆっくりどうぞ……」

送り出したあとから、またひとり女の姿が、黒板べいの口をくぐって現われました。さらに年のふけた五十近い金持ちの後家らしい女です。

その舟も同じように、艫音を急がせながら、忍びやかに大川を上へ上へとのぼりました。

つづいてまたひとり。

これは二十二、三のあだっぽい鉄火者でした。

あとから女がまたひとり。

入れ違いに、やはり女がまたひとり。

最後に出てきた女は、まさしくどこかのお屋敷勤めの腰元らしい中年増ちゅうどしまです。

名人右門の目は、電光のように輝きました。

いってらっしゃい。ごゆっくりどうぞ、と意味ありげにいった声も奇怪です。出てきた七人が七人ともに女ばかりだったのも奇怪です。

そのうえに、舟はいっせいに上へ上へと前後して川をのぼりました。

しかも、舟にはしめなわが張ってあるのでした。

船頭の腰にもまた奇怪なことにしめなわが見えました。

船頭!

船頭!

首尾の松につるしてあったのも、まさしくその船頭なのです。

「舟だ。急いで一丁仕立てろッ!」

「がってんでござんす」

車輪になって伝六が見つけてきた二丁艫にちょうろの伝馬てんまに飛び乗ると、

「あの七艘じゃ。見とがめられぬよう追いかけろッ」

ぴたりと舟底に身をつけて、見えがくれにあとを追跡しました。

それとも知らず、七艘の不思議な舟は、不思議な女をひとりずつ乗せながら、艫音をころして岸伝いにひたすら上へ上へと急ぎました。

永代橋をくぐって新大橋、新大橋をくぐって両国橋、やがてさしかかってきたのは、なぞのあの五人をつるしてあった首尾の松です。

十日の月が雲をかぶって、大川一帯はおぼろ宵よいの銀ねずみでした。

前後しながらのぼっていった奇怪な舟は、その首尾の松へさしかかると、七艘ともに、するりと舳へさきを右へ変えて、そこの横堀よこぼりを奥へ、ぐんぐんと進みました。

右は松前志摩守しまのかみ、左は小笠原おがさわら家の下屋敷、どちらを見ても、人影一つ灯影ほかげ一つ見えない寂しい屋敷ばかりで、突き当たりはまた魔の住み家のような、広大もない本所お倉の高い建物なのです。

突き当たって右へ折れると、舟のはいっていったところがまたいかにも奇怪でした。寺のようにも見えるのです。お宮のようにも見えるのです。見ようによっては御殿のようにも見えるのです。その不思議な建物の中へ、右の水門から一艘、左の水門から一艘というふうに、時をおいては順々に姿を消しました。

「はてね。お待ちなさいよ」

しきりと首をひねっていたが、たまには伝六も金的を射当てることがあるのです。

「あれだ、あれだ、この建物アたしかにお富士教ですよ」

「えらいことを知っているな。どこで聞いたんだ」

「七つ屋ですよ。質屋のことをいや、だんなはまたごきげんが悪くなるかもしれねえが、床屋と質屋と銭湯と、こいつア江戸のうわさのはきだめなんだ。こないだ一張羅いっちょうらを曲げにいったとき、番頭がぬかしたんですよ。世間が繁盛すると、妙なものまでがはやりだすもんです。近ごろ本所のお蔵前にお富士教ってえのができて、たいそうもなく繁盛するという話だがご存じですかい、とぬかしたんでね。御嶽おんたけ教、扶桑ふそう教といろいろ聞いちゃおるが、お富士教ってえのはあっしも初耳なんで、今に忘れず覚えていたんですよ。本所のお蔵前といや、ここよりほかにねえんだ。まさしくこれがそのお富士教にちげえねえですぜ」

「どういうお宗旨だかきいてきたか」

「そいつが少々おかしいんだ。お富士教ってえいうからにゃ、富士のお山でも拝むんだろうと思ったのに、心のつかえ、腰の病、気欝きうつにとりつかれている女が参ると、うそをいったようにけろりと直るというんですよ」

「道理でな、女ばかりはいりやがった。それにしても、ご信心のお善女さまが、遠い川下の船宿からこっそり通うのがふにおちねえ。まして、夜参りするたアなおさら不思議だ。どこかにはいるところはねえか捜してみな」

しかし、どこにもない。あっても、門はぴしりと締まって、水門から消えた舟もはいったきり、その水門もまたぴたりと締まって、へいをのり越えるよりほかに、中へ押し入る道はないのです。

「めんどうだ。猿えてのまねをしてやろうぜ。船頭、舟をあの横の石がきへつけなよ」

ひらりと飛びうつると、えっとばかり気合いをころして身をおどらせながら、築地ついじづくりの高べいへ片手をかけたかとみるまに、するするとぞうさもなくよじのぼりました。その足につかまって、伝六もよたよたとよじのぼりました。

中は予想のほかに広いのです。

拝殿らしいのが前にひと棟むね。

内陣とおぼしき建物がその奥にひと棟。

渡殿わたどの、回廊、社務所、額殿がくでん、祓殿はらいでん、それに信者だまり、建物の数は七、八つも見えました。内庭にはまた水門から堀がつづいて、船頭たちはどこへ姿を消したか、ぬしのないしめなわ舟がなぞのごとくに見えました。

鉦かねもきこえるのです。

鈴の音も、笙しょう篳篥ひちりきの音も、そうかと思うと太鼓の音がどろどろどんどんと伝わりました。

なんの祈祷きとうか、祈りがもう始まっているらしいのです。その音をたよりに、名人は一歩一歩と八方へ心を配りながら、拝殿近くへ忍び寄りました。

同時に、ぴかりと目が光った。

張りめぐらしてある幔幕まんまくに、あの三蓋松さんがいまつの紋どころが見えるのです。

つるしてある大ちょうちんにも同じ紋が見えるのです。

「におってきたな。出るな! 出るな! 飛び出して姿を見られたら、あとの手数がかからあ。こっちへ隠れてきなよ」

影を見とがめられないように身を隠しながら、拝殿へ近づくと、回廊にそっと上がって、やみの中から目を光らしました。

ぼうとぶきみにまたたいている燈明のあかりの下に、楽人たちの姿は見えるが、肝心の信者の姿は、舟で消えたあの女たちの姿は、ひとりも見えないのです。

「じれってえね。どこへもぐりやがったろうね」

「黙ってろ」

目まぜでしかりながら、息をころして身をひそませていたその目のさきへ、ぽっかりと内陣の奥から人影が浮き上がりました。

女です。船宿の裏で見かけたあの金持ちの後家らしい大年増でした。何がうれしいのか、厚ぼったいくちびるに、にったりとした笑えみを浮かべて、目が怪しく輝き、その両ほおにはほんのりとした赤みが見えました。

追うように、そのあとからもう一つぽっかりと、同じ内陣の奥から人影が浮きあがりました。

やはり女です。

同時でした。伝六がつんとそでを引いてささやきました。

「ちくしょうッ、あれだ、あいつだ。たしかに、あのお高祖頭巾こそずきんの女ですぜ」

「なにッ、見まちがいじゃねえか」

「この目でたしかに見たんです。年かっこう、べっぴんぶりもそっくりですよ」

いかさま年は二十七、八、髪はおすべらかしに、緋ひのはかまをはいて、紫綸子りんずの斎服に行ないすました姿は、穏やかならぬ美人なのです。

肩を並べて拝殿横の渡殿までやって来ると、魅入るような目を向けて大年増に何かささやきながら、暗い裏庭へ送りこんでおいて、合い図のように渡殿の奥をさしまねきました。

同時に、いそいそと渡殿を渡りながら出てきた影は、たしかに十七、八のあのういういしい下町娘です。

待ちうけながら、同じ魅入るような目で笑いかけると、何が恥ずかしいのか、ぱっとほおに朱紅を散らした娘の肩をなでさするようにして、すうとまた、いま出てきた内陣の奥へ消えました。

「ふふん。とんだお富士教だ。おいらの目玉の光っているのを知らねえかい。おまえにゃ目の毒だが、しかたがねえや。ついてきな」

とっさになにごとか看破したとみえて、むっくり身を起こすと、ちゅうちょなくそのあとを追いました。

内陣の裏には、奇怪なことにも、小べやがあるのです。

杉戸が細めにあいて、ちかりとあかりが漏れているのです。

しかも、小べやのうちにはなまめいた几帳きちょうがあって、その陰からちらりと容易ならぬ品がのぞいているのです。

夜着とまくらなのでした。

「たわけッ。神妙にしろッ」

がらりとあけると同時です。

すさまじい啖呵たんかの突き鉄砲をやにわに一発くらわせました。

「むっつりの右門はこういうお顔をしていらっしゃるんだ。ようみろい!」

えッ、というように緋ひのはかまがふり向きながら、あわてて夜着を几帳の陰に押しかくそうとしたのを、

「おそいや! たわけッ、ぴかりとおいらの目が光りゃ、地獄の一丁目がちけえんだ。じたばたするない!」

血いろもなくうち震えている娘をはねのけるようにしてまずうしろへ押しやっておくと、ぬっと歩み寄ってあびせました。

「化けの皮はいでやろう! こうとにらみゃ万に一つ眼の狂ったことのねえおいらなんだ。うぬ、男だな!」

「何を無礼なことおっしゃるんです! かりそめにも寺社奉行じしゃぶぎょうさまからお許しのお富士教、わたしはその教主でござります。神域に押し入って、あらぬ狼藉ろうぜきいたされますると、ご神罰が下りまするぞ!」

「笑わしゃがらあ。とんでもねえお富士山を拝みやがって、ご神罰がきいてあきれらあ。四の五のいうなら、一枚化けの皮をはいでやろう! こいつあなんだ!」

ぱっと身を泳がせると、胸を押えました。

乳ぶさはない。

あるはずもないのです。

身をよじってさからおうとしたのを、

「じたばたするねえ。もう一枚はいでやらあ。こいつアなんだ」

草香流片手締めで締めあげながら、ぱっと斎服をはぎとりました。三蓋松さんがいまつのあの紋が下着に見えるのです。

「幔幕まんまくも三蓋松、これも三蓋松、大御番組のあき屋敷に脱ぎ捨てた着物の紋どころも同じこの三蓋松だ。小石川伝通院裏吉田法眼ほうげん様のご後室へ、たしかに三蓋松の紋つきちりめんをひとそろいお届けいたしましたと、呉服後藤の店の者がいってるんだ。あのあぶらぎったご後室もご利益うけている信者に相違あるめえ。ちりめんのあのひとそろいも、お賽銭さいせん代わりにうぬへ寄進した品にちげえねえんだ。北鳥越の一件もうぬの小細工、首尾の松の一件も同じうぬの小細工、これだけずぼしをさせば、もう文句はあるめえ。どうだ、すっぱり吐きなよ」

「…………」

「吐かねえのかい! むっつり右門にゃ知恵箱、啖呵たんかの小ひき出し、女に化ける手だけはねえが、たたみ文句の用意はいくらでもあるんだ。これだけの狂言をうつからにゃ、うぬもただのねずみじゃあるめえ。男らしく恐れ入ったらどんなもんだ」

せつなでした。

「しょうがねえや。いかにもどろを吐きましょうぜ」

にたりと笑ったかと思うと、果然男だったのです。目は険を帯び、まゆに、顔に、あやしい殺気がわいたかと見るまに、がらりとすべての調子が変わりました。

「江戸の女をもう二、三百人たぶらかそうと思ったが、何もかも洗ってこられちゃしかたがあるめえ。いかにも首尾の松へ五人の船頭をしめ殺してつりさげたのはこのおれだ。自身番からあの夜ふけ盗み出したのもこのおれの細工だ。しかし、ただじゃ年貢ねんぐを納めねえんだ。ひょっくり右門。これでもくらえッ」

さっと立ち上がると、懐中奥深く忍ばしていたドスを抜き払って、名人の脾腹ひばら目がけながら突き刺しました。と見えたのは一瞬です。

「見そこなうなッ。草香の締め手を知らねえのかい!」

声といっしょにぎゅっとドスもろともそのきき腕をねじあげたかとみるまに、ぐっとひと突き、こぶしの当て身がわき腹を襲いました。

「おとなしく寝ろい。慈悲を忘れたことのねえむっつり右門だが、今夜ばかりゃ気がたってるんだ。伝六、早くこいつを始末しな」

「いいえ、そ、そ、それどころじゃねえんだ。ほらほら、あいつも逃げた、こっちも逃げやがった。女も、船頭も、太鼓野郎も、みんなばらばらと逃げだしたんですよ。手を! 手を! ひとりじゃ追いきれねえんだ。はええところてつだっておくんなせえよ」

「そんなものほっときゃいいんだよ。根を枯らしゃ、小枝なんぞひとりでに枯れらあ。息を吹きかえさねえうちに、この赤い芋虫を舟まで背負ってきな」

どさりと投げ出すようにこかし込んだのを待ちうけて、舟は二丁艫をそろえながらギイギイとこぎだしました。

「女も女だね。こんな野郎にだまされたとなりゃ、くやしくならあ。――生き返るにゃまだはええや! ついでに、おれがもう一本十手の当て身をくらわしてやらあ。もう少し長くなってろい!」

伝六も今夜ばかりは気がたっているとみえるのです。

「つら見るのも、ふてえ野郎だ。それにしても、なんだって野郎め、船頭を五匹も絞めやがったんですかね。盗んで掛け直したところがわからねえんですよ」

「決まってるじゃねえか。金と女を両天秤てんびんにかけて、こんなあくどい狂言をうったんだ。手先に使っておったあの五人の川船頭が、漏らしてならねえ秘密を漏らしそうになったんで、荒療治をやったのよ。掛け直したのは、残った船頭たちへの見せしめさ。もっと理詰めで考えるけいこをしろい」

「なるほどね、大きにそれにちげえねえや。久方ぶりに、だんなも荒療治をおやんなさいましたな」

「あたりめえだ」

吐き出すようにつぶやくと、毒手にかかった女たちをあわれむように、黙々と目をとじました。

底本 / Source edition

底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年3月13日公開
2005年9月24日修正
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書誌 / Bibliography
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佐々木 味津三「右門捕物帖──34 首つり五人男」(新字新仮名)、底本『右門捕物帖(四)』春陽文庫、春陽堂書店、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 000574_000111, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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