Soranoha

春宵綺談

しゅんしょうきだん

佐藤 春夫

或る晩、私は倶楽部でたったひとりテーブルに肘を突いたままひどくふさぎ込んでいる佐藤春夫の横顔を見た。そこで私は彼に近づいて、晩春のこんな美しい夜をどうしてそんな顔つきをしているんだと尋ねた時に、彼は少しばかり風変りな話を私に聞かせた――

……その停留場に私は立っていた。つい一週間ほど前のある夕方のことなのだが。

と見ると、私の二間ほどさきのところに年のころ二十七八というひとりの美装した婦人がやっぱり電車を待っている。美人だったろうと思う。が私の見たのはうしろ姿だけだ。それにしても何というあでやかさであろう。と見ていると、突然、そのおしりのところへ紫色の夕闇のなかにフレンチバアミリオン色の?が、しかも三つ〔疑問符三つ〕こういう具合に並んでありありと私の目に見えて来たのである。初はうっすらとしていたが、見つめているうちに実にあざやかになって来た。私はそれを凝と見据えていた。それでもその〔疑問符三つ〕は消え去らなかった。

そのうちに電車が来て、その婦人は事もなげに電車へ乗ってしまった。が、私はぼんやり取り残された。私は〔疑問符三つ〕をあんまり注視していたものだから電車へ乗りそこねてしまっていた。というのは、その婦人がその場から動き去ってしまってからも〔疑問符三つ〕だけはやっぱり闇のなかでさっきからの場所で宙に浮いていたからである。

〔疑問符三つ〕その正体をつかまえてやろうと、私は思い切って駆け出した――と思ったら、〔疑問符三つ〕はスウッと消えうせてしまった。

それはもうわかっているのだ。

あれや貉なのだ。

一たいあの停留場のあるあたりは、一名むじな坂と言って昔から名うての場所なのだからね。――ただどうも私にもよくわからない事は、そもそもあの〔疑問符三つ〕は一疋の貉が三つに化けたものだか、それとも亦三疋が正列して一疋がそれぞれに一つの?になったものやら。僕が今考え込んでいるのは実はそのことだったのだ……

――そう言ってかの男は世にも快濶な声で笑って見せた。

底本 / Source edition

底本:「たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集」平凡社ライブラリー、平凡社
2015(平成27)年7月10日初版第1刷
底本の親本:「定本 佐藤春夫全集 第4巻」臨川書店
1998(平成10)年5月10日初版発行
初出:「君と僕」
1923(大正12)年
入力:持田和踏
校正:noriko saito
2026年4月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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佐藤 春夫「春宵綺談」(新字新仮名)、底本『たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集【底本画像有】』平凡社ライブラリー、平凡社、2015年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 061602_001763, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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