Soranoha

『鉄砲左平次』序にも一つ

『てっぽうさへいじ』ついでにもひとつ

佐藤 春夫

何の国、何郡なり。

古来、魔所と伝える峠、或る晩そこで一人の若者が八ツ裂きにされて了った。峠を越えて夜毎隣村の娘に通うていた男である。

殺された男の友達思うに、今時魔物など住んでいる筈もない。これは言い伝えのある場所をよい事に、わざとかかる酷むごたらしき殺し方をして恋の意趣を晴らすものであろう。

女敵がたきらしい者を物色し、復讐を企て夜陰にその峠を数人にて越える折から、先頭の一人がまたしても咄嵯の間にその場に倒れ、浮き足立った連中は見極める隙もなく逃げ帰り、再び勇気をふるって戻って見ると、矢張り物凄まじい有様で死んで了っている。

再度の事に、怖れは絶頂に達して、今さらに古来の伝えを思い出すのであったが、中でも智慧のあるのは矢張り魔者なぞは信じられないので、天狗などというものはない筈だから、多分鷲かなんかでもあの大木に来て止るのであろうなどと取沙汰をしていた。

これを聴いたのが鉄砲左平次という老人です。鉄砲の名人で、倅せがれから仔細の話を聞くと、みんなの止めるのもかまわず、月の明るくなる晩を待ち兼ねて出かけたのです。

充分自信のあるらしい左平次は、何人も後に従う事を宥さぬので、それでも五六人の連中はついて行くつもりでいたが、矢張りその場所までは出かける勇気がなかったらしいのです。

いくら待っていても左平次は帰って来ませんから、みんなは八ツ裂になっている左平次を予想しながら出かけて見ると、左平次は果してそこに倒れていましたが、幸いにも負傷けが一つしていないのです。

色々世話をして息を吹き返した左平次の言う所では、前夜、左平次は大木の根元へ来て待ち伏せていると、月明りの中に、大木の数々の枝に遮ぎられて何者とも分らぬものが、梢から段々下へ降りて来る気配を感じ息を殺して待っていると、或る所まで来て動かなくなって了った。

枝々の隙間から覘ねらいを定めて一発放すと、思いがけない程の凄まじい手答えがあって、そのため左平次はどしんと尻餅をつき地面へ倒れたかと思うと、落ちて来たのは何者でもなくただ笑い声であった。

左平次はそれを聴きながら恐怖の余り気が遠くなり、人々に見つけ出されるまでは死んだも同然であったという。

口の重い左平次は、どんなものを見たか、見なかったか、それも分明はっきり言いあらわさないが、それが何にしろ一通りのものでなかった事だけは、豪胆な左平次が未いまだに恐怖の表情をしているので充分に察しられたのです。

そればかりか、左平次はその夜以後、怖ろしい、怖ろしいと言い続けて、気病みのような状態になって了った。

みんなが心配をして、左平次を或る温泉にやる事にしたのです。一晩山の夜露に濡れていたから身体に障ったのだろうという医者の見立ての通りであったのか、温泉は大変ききめがあって、左平次は一日一日と恢復して来ました。

そうして、今は気も慥たしかになり、晩秋の畠の忙しい事を言い出して、看病に来ている倅せがれ夫婦を家へ帰したのです。倅達も、もう一人でも大丈夫になった老父に安心して、温泉場から帰ったのです。

さすが、一人になってみると左平次は、話相手もなく朝から退屈をしていて、何時いつも日がくれると直ぐに眠くなるのが、屈托のために反って頭が冴え、どうも眠れないのです。

そこで、もう一風呂浴びて来ようというので、お湯のあるところへ出かけて行ったのです。温泉宿といっても、孰れは山の中の小屋、浴室というのも自然の泉へ家根と囲をしてある程度のもので、湯殿は母屋から少し離れた所にありました。

馬の藁沓わらぐつをあんでいた母屋の連中は、何とも分らない物音と一緒に湯殿の家根の落ちたような響を聞いたのです。

一同顔を見合せて暫く血の気を喪ったが、時を経て湯の方へ行って見ると、別段建物に変ったような事もなく、ただひっそりとした湯の側に左平次はぶっ倒れているのです。人々が介抱すると、左平次は気違の如く、

『怖ろしい、もういい加減宥してくれ』

とわめき立てるばかりです。漸くの事で気が鎮ったらしい左平次の語るところは、次の如くである。

彼が湯に這入っていると、同じく一人の浴客があった。

今着いたばかりとも思える見も知らぬ坊主、片腕は傷を捲いたらしく繃帯してあった。

左平次は湯治客同志の挨拶として、向うが問うままに、自分の病気の容態を言い、礼儀として先方の事を訊くと、坊主は答えた。

『鉄砲傷ですわい――鉄砲左平次という者に打たれましたわい』

言いも終らぬうちに、坊主は朦々たる湯気の中に雲つくばかりの大坊主になり、心地好気ここちよげに笑い続けたまま……左平次は気が遠くなったのでした。

一たん癒りかかっていた左平次は、この夜から日増しに悪くなり、間もなく死んで了ったと言う事です。

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これは、僕の創作ではない。僕の地方の温泉のある所で、民話のように伝っているものの梗概である。

淋しい山の湯で、夜おそくなった時などに思い出すと、少しは怪談らしい値打も出て来るかと思う。一種の詩美は認めてもよかろう。

あんまりロマンチックな話をしたから、此度は反対に頗るリアリスチックな話をしましょう。

これには、詩美というものが少しもないその代りに、迫真力はなかなかある。この二つの話のうち、読者諸君は孰方いずかたでも一つお好みに応じてお取り上げの事。

こういう風に違った見本をそろえてお目にかけるのが、在庫品豊富、商売上手と申すものです。爰ここでまア一服しましょう。

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僕の友人の一人。その人が以前信州の諏訪の紡績工場で事務員をしていた事があった。都会で失職していたのだ。新らしく職業にありつき、気候は秋になり、周囲の空気はよし、健康が増進するとともに大いに食慾を加え、不味まずい寄宿舎の飯を腹一杯食った、ところがちょっと困った事には、便通の都合が毎晩夜中になり、一眠りしたかと思うと便を催して目が覚めて了う。

蒼蠅うるさいのでなるべく毎朝、それでなければせめて就寝前にこの用事を済まして置き度いと思うのだが、どうも理想通りいかない。

困った習慣になったと思いながら、毎晩莨たばこをくわえながら別棟になっている便所へ出かけて行くのであった。爽やかな月夜で、莨を口へくわえたまま、下っ腹へ力を入れて踞みながら粗末な建物のいろんな隙間から洩れる月を見ていると、便所もなかなか風流である。

重ね重ね甚だ尾籠びろうの話だが、身体が活気に満ちているものだから、非常に太い長い一片を排泄する事になっている。それがまた、もう一つ尾籠な話だが、この大きな一片が落ちると、溜め壺の中はどうゆうわけか何時も水気が多くて、為めにスプラッシュを起し、飛ばっちりが上まで跳ね反って来るような状態にある。

それで、何時も排泄して了うと注意深く用心をする。そうして、水っぽい中へ落ちてゆく固りの音を聴くのであった。

一たい寄宿舎の便所だから、普通のものに比べて溜めは出来るだけ深く、大きくしてある。そうしなければ、直ぐに充溢して了うわけである。

深いだけに、上からの距離も遠くって重力の関係でなかなか大きな水音がする。

この晩も毎晩の如く逞し気なものを排泄して、さて注意をしてみたが不思議と何の物音もしない。まるで無限の深い所に転がり入って了ったかのように、自分の落したものの反響を聞かないのであった。

不思議に思って、ちょうど喫い終った莨を中へ放りこむと、一瞬間薄明るくなって水の中で消える音が聞えた。

してみると、矢張り水が溜っているのである。それに、火が消えて了うまでの薄明りの中で、見慣れぬ変なものが底から見えたような気がする。

さてそれが何であったかを慥かめる間はなかった。そこで燐寸マッチをすって放り込んでみた。その時、自分の眼を疑ってみずにはいられなかった。

彼の見たものは綺麗に結ばれた女の髷なのだ。どうもそういうものにしか見えないのだ。でもそんな所に、芝居の楽屋ではあるまいし、髷が棄ててある筈はない。

彼は気味が悪くなった。大急ぎで立ち上ったが、その瞬間彼は襟首をズッと撫でられたような気がしたから、反射的に振り返ると今度は正しく彼の顔を撫でるものがあった。

思わず、アと叫ぶと扉を排して駈け出した。彼には何が何だか分らなかった。部屋へ帰って、彼はやっと多少の落付を得たが、彼は狐狸の類にだまされたと考える程単純ではなかった。

でも自分の見たと思うものも、自分の首と頬を触れた感じもこれはどうしても疑えない。彼は同僚をゆり起こした。

眠ねぼけていた同僚はしかし彼の話を聴くと、物も言わずに起き上って、用意してある懐中電燈を手に持った。彼は黙って同僚について行った。

彼が先刻見た通りのものは、幻覚でも何でもなかった。これこそこの上なしの現実であった。若い女工が縊死して、その縄は切れたのだ。彼女は床のまたぎの間から落ち込み、身体は深い糞溜めの中にすっぽりと埋められて了っていて、僅かに見えていたその桃割れの髷の上に、気の毒にも排泄物が乗っかっていた。

彼の言葉を聞くといきなり懐中電燈をとり上げた同僚は、もう数年もその職にいた。そうして、彼の話を聞くと、女工生活をよく知っている同僚は、怪異と受けとるよりも早く現実としての事実を見抜いていたのだ。莫迦な彼は、懐中電燈でまのあたりに映し出されて見るまでは、おばけに出会ったように怖ろしかったのだ。

底本 / Source edition

底本:「たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集」平凡社ライブラリー、平凡社
2015(平成27)年7月10日初版第1刷
底本の親本:「定本 佐藤春夫全集 第7巻」臨川書店
1998(平成11)年9月10日初版発行
初出:「新青年 第十巻第八号」
1929(昭和4)年7月1日発行
※表題は底本では「『鉄砲左平次』序《ついで》にも一つ」となっています。
入力:持田和踏
校正:noriko saito
2026年3月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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佐藤 春夫「『鉄砲左平次』序にも一つ」(新字新仮名)、底本『たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集【底本画像有】』平凡社ライブラリー、平凡社、2015年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 061542_001763, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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