Soranoha

幻灯係

げんとうがかり

中谷 宇吉郎

日本のある大學の若い教授P君が、アメリカの某所へ、研究員として暫く來ていた。そこの主任教授は、そう世界的な大學者というほどでもなかったが、何分こっちは餘所者なので、神妙に控えて、勉強していたそうである。

しかし、何分、P君は既に、日本では大學教授として、たくさんの助手たちをもっていたのに、アメリカに來ると、何から何まで自分でしなければならない。それに言葉も不自由なので、何となく冷遇されているような氣がして、居心地はそう良くなかった。

ある時、そこで研究發表會があった。そして、その主任教授が講演をして、そのあとこのP君も、自分の日本でやっていた研究を發表することになった。

アメリカのこの種の講演は、たいてい幻燈を使うので、この主任教授もたくさん幻燈を用意していた。そしていよいよ講演という時になったら、幻燈板を一とまとめにしてP君に渡し、これをこの順序で映寫してくれといったそうである。

幻燈係などというものは、日本では、助手の一番若い男か、給仕ぐらいがやるものと思い込んでいたP君は、少しムッとしたそうである。普段から何となく「日本の大學教授」を無視しているらしい、という下地があったので、無理もないことである。

しかし、ここが我慢のしどころと、胸をさすって、この「屈辱的」な任務を果たした。そして努めて何氣ない顏をして、次の自分の講演にとりかかろうとしたら、その主任教授が「P君、君の幻燈板はどこにあるの?寄こし給え」といって、受けとって、さっさと幻燈機のところに行ったそうである。

アメリカでは、手近なことで、人の手助けをするのが、常識になっているので、こういうことをするのが、當り前のことなのである。正直者のP君は「あの時は、本當に自分でも恥かしいと思いました。神妙に幻燈係をつとめておいてよかったですよ」と告白していた。

國がちがうと、習慣はもとより、ものの考え方までが、表面上は著しくちがっているので、とかく誤解が起き易い。P君の場合でも、もしこの後半の場面がなくて、前半だけを經驗して歸國したら、まるでちがったアメリカ觀を、ひょっとしたら一生もちつづけるかもしれない。

人間同士の間に起るいろいろなトラブルの中には、相互の理解が缺けているために起るものが、相當たくさんありそうである。じっくりと話し合って、双方の考え方がよく分かれば、たいていの問題は、案外簡單に片づくのではないかという氣がする。

今の日本で一番重大な問題は、憲法改正の問題であるが、これなども、兩黨が、初めからプラスとマイナスとの兩側に立ってしまわないで、まず話し合をすべきではないかと思う。

底本 / Source edition

底本:「百日物語」文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日発行
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2026年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/061448_001569/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/061448_001569/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/061448_001569/

中谷 宇吉郎「幻灯係」(旧字新仮名)、底本『百日物語』文藝春秋新社、1956年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 061448_001569, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite