Soranoha

「楽天地」南米

「らくてんち」なんべい

中谷 宇吉郎

この頃日本では、南米熱が大分流行していて、一部には、南米というと、何か樂天地のように、ぼんやり考えている人もあるらしい。先頃作られた映畫にも、南米へ移住しようという精神病の男を主役にしたものがあった。これなども、精神病だから南米へ行きたがっているわけではなく、「樂天地」南米という考え方が、底に流れているようである。

南米への移住農民の場合は、話が少しちがう。日本ではどうしても土地が得られないので、南米へ行って、新しい土地を開拓しようという人たちは、相當覺悟していることであろうから、それはそれでよい。それではなく、相當財産をもっている人で、南米へでも移住して、愉快に暮せたらと、空想している人たちのことを言っているのである。

もしそういう人たちが、その夢を實行したら、きっと當てがはずれることであろう。というわけは、南米の人たちは、逆に日本を非常に羨しがっているからである。

南米での二大國といえば、アルゼンチンとブラジルとが、まず擧げられるであろう。そのうちアルゼンチンの話は、前に書いたから、略するが、インフレは主として心理的の面から、徐々ながら相當惡質に進んでいるようである。

ブラジルについては、娘たちの友だちから聞いた話であるが、國内の事情は、決して良くないそうである。寄宿舍で同室にいたので、何でも打明けて話の出來る間柄なのである。一番驚いた話は、ブラジルへは、アメリカから小包が決して送れないという點である。いくら送っても必ず途中で紛失してしまうので、「一つも屆いたためしがない」というのであるから、相當極端である。家は首都リオ・デ・ジャネイロにあるので、屆かないわけはないのであるが、アメリカから來た小包といえば、ブラジル國内へはいった途端に消えてしまうことに決まっているらしい。うちの娘たちが、クリスマスに、日本へ小包を送っているのを見て、その娘は「日本という國は、羨しい國だね、そんな小包が屆くんだから」と、大いに嘆いていたそうである。

ブラジルと限らず、南米は一般に貧富の差が激しく、金持たちの生活だけを、外から見ておれば、まさに地上の樂園のように見える。しかし小包の屆かない國で、自分だけが豪奢な生活をしていても、決して樂しくはないだろうと思う。

終戰後の混亂時代に、アメリカから日本へ、ケア物資として救援物資の小包が、非常にたくさん送られた。それ等は、あのひどい窮乏状態の日本で、ほとんど全部無事に屆いている。ブラジルの娘が羨しがるに値する國なのである。

しかし今少し左右の對立が深刻化し、クーデターでも頻發するようになれば、日本も南米並の「樂天地」になるかもしれない。恐ろしいことである。

底本 / Source edition

底本:「百日物語」文藝春秋新社
1956(昭和31)年5月20日発行
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2025年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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中谷 宇吉郎「「楽天地」南米」(旧字新仮名)、底本『百日物語』文藝春秋新社、1956年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 061422_001569, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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