Soranoha

童貞

どうてい

夢野 久作

「俺はここで死ぬのかな……」

そう思いつつ昂作はヒョロヒョロと立ち止まった。眼の前の電柱に片手を支えると、その掌に、照りつけた太陽の熱がピリピリと泌しみ込んだ。

彼は今にも倒れそうに咳せき入りつつ、地面じべたに映る自分の影法師を見た。……蓬々ほうほうと延びた髪の毛……無性ヒゲ……ボロボロの浴衣ゆかた……結び目をブラ下げた縄の帯……瘠やせ枯れた腕……灰色のホコリにまみれた素跣足すはだし……そんなものの黒い影が、一寸法師のように、眩まぶしい地面に這いついていた。

その足下を見詰めながら彼は今一度……

「俺はここで死ぬのかな」

と思いつつジッと眼を閉じた。その刹那に彼は、彼を載せて回転する大地の巨大さをシミジミと感じた。そうしてその大地の涯の、遠く遠くの青空に、いくつかの白い、四角い大文字が浮かみ顕われて、次から次へと行列を作りながら、地平線の下へ落ち込んで行くのを凝視した。

……天才的ピアニスト……

……童貞……

……肺病……

……乞食こじき……

……死……

それは彼自身だけが知っている彼自身の運命の標示であった。生まれ付きの気弱さから、音楽以外の何ものも知らずに死んで行きたいと願った彼の全生涯の象徴であった。

「自分の弱い肉体を亡ぼすものは異性でなければならぬ。結婚でなければならぬ……自分の弱い魂を生かしてくれるものは音楽よりほかにあり得ないのだ」……と信じ切って固く眼を閉じ、耳を塞いで来た彼……そうして自分の病気を見棄てた医師、親同胞きょうだい、友達、恩師、若い男女のファンたち、社会の人々のすべてからコッソリと逃げ出して、タッタ一人で大地に帰るべく姿を晦くらましてしまった彼の唯一の誇り……世にも尊い……世にもみじめな童貞の誇り……それを思い出すたんびに彼の瞼まぶたの内側はポーッと熱くなるのであった。……今もそうであった……。

「……ネエ……チョイト……」

という艶なまめかしい声を、耳のすぐ傍で聞いたように思ったので、彼はハッとして眼を見開いた。うるんだ瞼を片手でコスリまわして、暗くなりかけた意識を取り返しつつ、オズオズとそこいらを見まわした。

彼が立ち止っているのはどこかわからないが、烈しい日光が一パイに照りつけている狭い横町であった。遠くに電車の音が辷すべって行くきりで、人通りも何もなく、真夏の日盛りの静けさが耳の底に泌み入るほどシンカンとしていた。

「……死際の幻覚かな……」

微かすかにそう思いつつ彼は今一度力なく眼を閉じたが、間もなく今度は鼻の先に、何とも言えない上品な芳香がフンワリと波打って来たように思ったので、また、ハッとして眼を開いた。すると、それとほとんど同時に、眼の前の暗い横路地から眩しい、美しい色彩の一カタマリが音もなく辷り出て、眩しくユラユラと立ち止った。

よく眼を定めてみると、それは平凡な白地のワンピースを着流した令嬢であった。青い帽子を冠って、白い靴下に白靴を穿はいて、黒の地味な洋傘を持って……白麻の幌をかけた美事な籐製の乳母車を押しているのが何となく似合わしくなかったが、しかし病み呆ほうけた昂作の眼には、そんな矛盾は映らなかった。ツイ今しがた聞いた、なまめかしい声の主と、眼の前の美しい令嬢とが同一人かどうか……という事すら考えなかった。

その令嬢は昂作の顔を見ると、白い歯をキラキラと光らして笑った。睫毛まつげの長い、大きな眼を愛想よくクルクルさせながら、何か二言三言早口に言って、昂作の垢あかだらけの手に五十銭銀貨を一つ握らせると、チョットあどけなくお辞儀をした。そうして乳母車を昂作の前に押し遣やりながら、すぐ向うの横路地の中へ、小急ぎに消え込んだが、そのうしろ姿が何とも言えず可愛らしかった。

昂作は呆気に取られたまま、その横路地の暗い入口と、掌の中でキラキラと輝く新しい五十銭銀貨を見比べていたが、そのうちにヤット今の令嬢が自分に頼んだ言葉を思い出した。

「……ねえ……立ちん坊さん。すみませんけど、このお乳母車をズット向うの電車通りまで押して行って頂戴な。……それから右へ曲って、電車道をどこまでもどこまでも……水道橋のとこまで……ね……そのうちに私が追いつくから……ネ……」

昂作は掌に乗っかった五十銭玉を凝視みつめながら、繰り返し繰り返しその言葉の意味を考えようとした。しかし高い熱の中にポッカリと浮いたようになっている彼の脳髄には、こうした奇妙な言葉の意味が考えられようはずがなかった。そうして結局何が何やら解らなくなったまま、銀貨の反射で痛くなりかけた瞼をコスリまわしているうちに、いつの間にか、乳母車の把手とってに捉つかまってコロコロと押し始めていた。

それは見るからに軽い、華奢きゃしゃな形をしたゴム輪の車で、白いリンネルの布団ふとんの上には、着物か何かを包んだらしい青いメリンスの風呂敷包みが一ツ在るきりであった。病み疲れてヘトヘトになりかけている彼にとっては、その把手に縋すがって押して歩く方が、手ぶらで蹌踉よろめき歩くよりも遥はるかに楽な気持ちがした。時折りはその把手に倚よりかかり過ぎて、引っくりかえりそうになりながらも、催眠術にかかった人のようにフラフラと電車通りへ出た。白い幌の反射を顔一面に浴びながら、どこまでもどこまでも塵埃ほこりの立つ路を押して行った。

そうした昂作の姿は、往来の人眼を惹ひくのに充分であった。背後あとから跟ついて来る子供の数が一足毎に増えて来た。前にまわって入れ代り立ち代り昂作の顔を覗き込む子供もあった。その子供達の中に、今の令嬢の弟かと思うほどよく似た、たまらなく可愛らしい顔が一ツ見えたので昂作は思わず微笑して見せた。するとその子供はビックリしたように眼をまん丸にして逃げて行った。すれ違った大人たちも皆、昂作の姿をふり返った。自転車からわざわざ飛び降りて跟いて来る丁稚でっちもあった。電車の窓から首を出して帽子を吹き飛ばされたものもあった。けれども昂作は、そんな事には一切無関心で、垢だらけの首をグッタリとうなだれたまま、どこまでもヒョロヒョロと車を押して行った。

「コラッ!」

と突然に背後から肩を掴つかまれたので昂作は反射的に立ち止った。その拍子に足の力が抜けてペタリと尻餅を突くと、慌てて取り縋ろうとした乳母車までが、続いてパッタリと横に引っくり返って、中に在った青い包みと白い布団が重なり合ったまま幌の外へ飛び出してしまった。

昂作は尻餅を突いた拍子に眼がまわり出したので、両手を砂ほこりの中に支えたままガックリとうなだれた。……と……間もなく、まわりに寄り集まって来る人々の足もとから立つ薄いホコリの中に、息も絶え絶えに噎むせ返ってしまった。

その頭の上からサアベルのガチャガチャ言う音と、二人の男のヒソヒソした会話が聞えて来た。

「この乳母車だろう」

「そうだ。たしかにこれだ。瑠璃るり子が押して行ったのは……」

「……シッ……包みの中を検あらためて見給え」

「……ウン……一寸ちょっと待ってくれ給え……アッ……これだこれだ……最前まで着ていたのは……ホラ。絽ろの帯も……ヴェールも……アッ……束髪の仮髪かつらだこれは……畜生……どこかで変装しやがったナ」

「……チェッ……」と一人の私服らしい男が舌打ちした。黙って乳母車を引き起しながら、中を調べているらしかった。

「オイオイ……」と制服の巡査がサアベルの尻で昂作の背中を突っついた。

「……貴様はこの乳母車を……どこで頼まれたんか……」

昂作はその声を耳の傍で聞きながら、どうしても返事が出来なかった。やっと咳が鎮まりかけたばかりのところで、ピッタリと息を詰めて気を落ちつけなければならなかったので、両脚を投げ出したままヒッソリとうなだれていた。

「コラッ……」

と巡査はヤケに靴の先で昂作の尻の骨を蹴った。たまらない痛みがズキンと頭の天辺てっぺんまで響いたが、その拍子にまたも烈しい咳があとからあとから出て来て、往来の物音も何も聞こえなくなった。

「待て待て……」

と私服の刑事らしい男が巡査を押し止めながら、昂作の前に跼しゃがみ込んだ。

「お前は病気しとるんか?」

昂作は苦しい咳の切れ目に、すこしばかり上目づかいをしながら首肯うなずいた。その男は日に焦やけた顔にチョッピリと黒い髭ひげを生やして、薄鼠色のインバネスを着ていたが、新しい麦稈帽むぎわらぼうを阿弥陀あみだに冠り直しながら、昂作の顔を覗き込んだ。

「……お前はこの乳母車を若い女に頼まれて、ここまで押して来たんじゃろう……」

昂作は微かにうなずいた。ようようの思いで咳を押し鎮めながら……。

「……フ――ム……そんならお前は、その女の顔を記憶しとるじゃろう……ナ……しとるじゃろう……ウンウン……記憶しとる……それは眼の大きい、口の小さい、頬の丸い、二重腮あごの女じゃったろう。チョット見たところ肉感的な……ウンウン……その女の耳朶みみたぶに小さな穴がありはせんかったか……耳輪をはめた……ウンウン……出たらめを答えると承知せんぞ……ええか……それから」

男は一寸言葉を切った。自分のうしろで群集が何か笑ったので振り返ったらしかった。そうして勿体もったいらしく咳払いをしながら顔をズッと近くへさし寄せた。昂作にだけ聞えるくらいの、ごく低い声で問うた。

「……それから……エヘンエヘン……それからその女は、お前に乳母車を頼む時に洋装しておりはせんかったか……ええ……コレ……ハッキリ返事をせい……ナ……そうじゃろう……青い帽子を冠って……白い女学生のような服を着て……黒い洋傘こうもりを持って……チョット眼立たぬ風じゃったろう……ナ……ナ……そうじゃったろう……ウンウン。そうじゃろうと思うた。昨日買うた品物とチョウド符合しとる。……ウムウム……ところでその女はドッチへ逃げたかお前は知らんか……エエ……どっちの方へ去いんだか、知っとるなら教えてくれんか……苦しいじゃろうけど……ナ……それを言えば……何でもお前の好きなものを喰わして遣やる……病気の手当てもして遣るから……ナッ……ナッ」

昂作はそうした熱心な、急せき込んだ口調を耳にはアリアリと受け入れながら、返事をするのが何となく恐しくなって来た。熱に浮かされた彼の頭が、忘れかけていた女の顔を、次第にハッキリと思い出して行くにつれて、彼女に対する単純な同情で一パイになって来たのであった。あんな無邪気な愛くるしい少女が、こうして、警察に追い廻されているという事が、たまらなく残酷な、恐しい事のように思われて来たのであった。そうしてあの少女が白い服のまま手錠をはめられて、警官に突き飛ばされている姿をマザマザと眼の前に幻視しながら、彼はもう少しで……「貴方がたは人違いをしてるのじゃないですか」……と口走るところであったが、しかし、その言葉は、すぐに咽喉のどの奥へ嚥のみ込まれてしまった。次から次へと通り抜ける電車の轟とどろきや、自動車のサイレンに全神経を脅かされる上に、薄いホコリが絶え間なく群集の足の下をくぐって彼の顔に迫って来るので、彼は口を利くどころか、息を吐く隙さえないくらいであった。ただ、やっとの思いで、頭をすこし左右に振っただけであった。

「フーン。わからん……そうかそうか……そんならその女に金を貰うたのはどこいらか教えてくれんか……エエ……コラ……どこで貰うたんか……今、お前が左手に握っている……その金を……」

昂作は白いホコリにまみれた左手の拳をソロソロと開いて見た。ワナワナと震える細長い指の間から、汗に濡れた新しい銀貨が一個ピカピカと見えて来た。それをジット見ているうちに刹那的に……「嘘を言ってはならぬ」……という気持ちになったので、頭をあげ得ないまま片手を擡もたげて、今曲って来た横町を指さそうとしたが、その時に、急に胸先がビリビリと痛くなって、全身の血がカーッと顔に上って来るのを感じた。思いもかけず鼻の中がブーンと腥なまぐさくなって、眼の前にズウ――と暗いものが降りると、吾れ知らず土の上に這いついた。小刻みに息をしながらガバガバと真赤な血を吐いた。

その血は乾いた土ホコリに吸い込まれて見る見るうちに黒ずんで行った。その血の表面に反射する強烈な日光も、シミジミと土の中に沈んで行った。それを眼の前に見ながら昂作は、なおも新しい血を吐くべく、死力を竭つくして胸を押し曲げた。

「アッ……イカンイカン……行路病人だ……こりゃあ……」

とうろたえながら刑事らしい男は立ち上った。

「ウアー。肺病だ肺病だ」

「何だ何だ。行き倒れか」

「日射病じゃないか」

「寄るな寄るな。伝染するぞ」

と口々に言い罵りながら、周囲も群集もわめいた。

「……君……チョットそこいらから水を貰って来てくれんか。……そうしてこ奴をもっと片わきへ寄せて、何でもええから上に冠せて置いてくれ給え。意識が回復したらモチット訊問するかも知れんから……僕は向うの八百屋から本署に電話をかけて来る。女はまだ近くにいると思うから……」

こんな慌てた言葉を夢うつつに聞きながら昂作は眼をシッカリと閉じて二度目の血を吐いた。そうして血だらけの唇の中で……

「水……水……」

とつぶやきつつ横たおしにたおれた。

……それから何分間経ったか……何時間過ぎたかわからなかったが、昂作が気がつくと間もなく、二、三人の男の会話がハッキリと耳に入って来た。

「……この男はその洋妾らしゃめん瑠璃子の情夫だったのですか」

「イヤ。そうじゃないんです。……先刻から見ていたんですがね。……情夫でも何でもないんです。この男はタダの立ちん坊でヒドイ肺病にかかっていたのが、ここまで来てブッ倒れてしまったんです。今、巡査が人夫を呼びに行っているんですがね……この男がツイ今サッキ、向うの四丁目の横町を歩いている時に、そのラシャメン瑠璃子って女がこの乳母車を預けて、電車通りまで押して行ってくれって頼んだんだそうです。それを下宿の二階から見ていた学生さんが、この行き倒れを見に来た序ついでに、巡査に話したんです。何でもその四丁目あたりで変装したらしいと言ってね」

「ヘエ……往来のまん中で変装したんですか」

「サア……そこんところはその学生さんも、たしかに見たわけじゃないらしいんだが、……巡査はそれを聞くとスッカリ喜んじゃってね。一緒に連れ立ってツイ今しがた俎まないた橋の方へ行ったばかしのところなんですが……」

「ヘエ――。そのラシャメン瑠璃子って女は一体何ですか」

「二、三日前の新聞に出てたでしょう。御覧になりませんでしたか」

「エエ。知りませんナ。何新聞でしたか、それは……」

「……サア。何新聞でしたか……大抵の新聞には出てたようですよ。横浜の何とか言う西洋人が、ノブ子とか言う別嬪べっぴんの細君と一緒に行方不明になったと言うんでね……大きく……」

「ヘエ……気がつきませんでしたが……近頃あんまり読みませんので……ヘエ――……」

「……ところが、その信子夫人って言うのが実はラシャメン専門の女なんで、その毛唐けとうをどこかで殺してめぼしいものを掻かっ払って高飛びしようとしたんです。そいつをその筋に感づかれてスッカリ手を廻されてしまったので、東京こっちへ逃げ込んで来たらしいんですが……新聞には上海の方へ逃げたように書いてありましたけれども、それはその筋の手だったのでしょう」

「なるほど……それじゃ生やさしい女じゃないんですね」

「……おまけにその瑠璃子って奴は変装がお得意らしいんです。何でも東京へ来てからは若い奥さんか何かに化ばけて、乳母車を押しながら逃げまわっていたらしいんですが、そのうちにその筋の手がだんだん詰って来たもんだから、あの横町で洋装の令嬢に変装して、ぬけ殻の着物や下駄を隠した乳母車をこの男に押っつけて、こっちの方角へ突っ放したまんま、行方を晦くらましたらしいんです。トテモ際どい芸当をやったもんでさあ……」

「ナアルホドネエ……張り込んでいる刑事がこの男を調べている隙を見て非常線を突破したわけですな」

「どうもそうらしいんです。あっしの想像ですけども……つまり最後の手段を執ったんでしょう」

「ヘエ――驚いたナ。……しかし、よく御存じですナア。何もかも……」

「ハハハハハ。イヤ。ナアニ。今サッキ向うの八百屋へ刑事が飛び込んで電話をかけたのを、くっ付いて行ってスッカリ聞いちゃったんです。懇意な家でしたから……」

「ハハア……ナルホドネエ……じゃアもうそこいら中に非常線が張ってあるんですね」

「エエ。無論そうでしょう」

ここで話が途切れて周囲がシンカンとなった……と思う間もなく昂作の足の処から甲高い子供の声が飛び出した。

「おいらそのルリ子って女が行くのを見たよ」

「エッ。どこで……」

「飯田町のステーションの材木置場の横を歩いていたよ。澄まアして……」

「嘘を吐けこの野郎……手前等の眼につくようなヘマをやるけえ」

「だって本当だよ……小父さん……青い帽子を冠って、白い服を着て、小ちゃな写真機を持ってたよ」

「フーン。耳朶みみたぶに穴が開いてたかい?」

「耳朶なんか知らないけど……とてもとてもシャンだったよ」

「アハハハハハ」

「イヨ――。チビ公。見込みがあるぞッ」

「ワハハハハハ……」

「フフフフフフ……」

昂作はそんな笑い声を耳にしながら、静かに頭を横にして起き上りかけた。そんな笑い声の中にもまたアリアリとあの少女……瑠璃子のあどけない風付きを思い出すと、もうジッとしておられない気持ちになってしまった。一刻も早くあの少女に会って、変装を感づかれている事を知らして遣やると同時に彼自身が刑事に何もかも白状した事を、あやまってしまいたい。……そうして彼女を無事に逃がして遣りたいというような願望を、夢うつつのように抱きながら一所懸命の思いで腹ばいに起き直った。上半身を両手で支えて、ジロジロと眼を見開いてみると、自分の頭の上には誰の仕業かわからないが、湿っぽい木炭の俵たわらが一枚、横すじかいに載せてあった。最前血を吐いたらしい処には、白い石灰の粉が撒き散らしてあって、エグイ、噎むせっぽい刺激を含んだ匂いがプーンと鼻に迫って来た。

彼の腋わきの下から冷汗がポタポタと滴った。急にたまらない恥かしさを覚えて、今一度、土の上に額を押しつけた。

それからまた、何時間たったかわからなかった。どこをドウ歩きまわったのか。彼自身の記憶には一つも残っていなかった。彼女から貰った大切な銀貨さえもいつの間にか彼の掌から消え失せていた。

ただ彼は、時折り若い女の姿を見かけると、思い出したように立ち止って、ジット眼を据えた。もしや瑠璃子ではないかと思って、パラソルの中を念入りに見上げ見下した……が……稀まれにはソレらしく見える女がいないではなかったけれども、近づいて見ると皆違っていた。中には彼から見すえられているのに気がついて、中途からクルリと引き返して行く女もあった。そのたんびに彼は軽い失望のタメ息を洩もらしつつ、またもヒョロヒョロと歩き出した。

それは彼の初恋であったかも知れなかった。

……彼の行く手のギラギラとゆらめく光りの中に、ともすれば眼の大きい、唇の小さい、ふっくらした彼女の顔が、白い歯を輝かして浮き出すのであった。……路ばたの立木の陰に彼女の無邪気なうしろ姿の幻影が佇たたずむのであった。……「ネエ……チョイト」という秘やかな声をハッキリと耳にして、思わず立ち止った事も一度や二度ではなかった。

……しかし……それもホンノ暫しばらくの間の事であった。そうした執拗しつような彼女の幻影も、彼自身に迫って来る烈しい現実の苦痛のために、次第次第に掻き消され勝ちになって来た。

彼は甚しく飢えていた。ヘトヘトに疲れていた。そうして焦げつくほど渇いていた。彼を包む無量の炎天と、彼を導く無限の白い道路とは彼の肉体の高い熱と一緒になって、彼の魂をカサカサに乾燥させて行った。

彼は何のために歩き出したのか。何を目当てによろめいて行くのか解らなくなって来た。若い女とスレ違っても振り返る力がなくなってしまった。否、むしろ気がつかなくなったと言った方が真実に近いであろう。もう……暑さも寒さも感じなくなって、白昼の幽霊のようにうなだれたままフラフラと向うの方へ行くばかりで、それを立ち止らせようという意志さえも、とっくの昔に彼の肉体から消え失せていた。ただその間じゅう彼がハッキリと意識していたのは、長いこと不潔なままにしている口の中に最前吐いた血のにおいが、まつわり残っているのが、高い熱のために粘っこくなった唾液とゴッチャになって、たまらなく腥なまぐさいような、黄きな臭いような臭気がするのを、吐いても吐いても吐き切れない胸のわるさであった。

それからまた、どれくらいあるいたか解らなかったが、その中に気がついてみると、彼は一つの空地に生えた草原の片隅に、大の字なりに仰向けになっていた。そうして彼の顔の上には、ペンキのように青い空が二ツ三ツ白い雲のキレを溶かし込みながらピカピカと光って蔽おおいかぶさっていた。

その草原の周囲は、仕事を休んでいるらしい大きなガランとした工場の背中で囲まれていて、どこに隙間があるか、彼自身がどこから入って来たのか、チョット見まわしただけでは解らなかった。太陽は今、彼が頭を向けてる大建築の表側の方にいるらしく、彼の足の向うに並んだ赤煉瓦とコンクリートの家の上の方、五分の一ばかりを、黄色く照し出していて、その下の方を冷たい紫色の日陰に彩っていた。その左手の草原の尽きる処に、青白く一直線に横たわっているのはテニスコートであろう。その向うにはポプラが二、三本、建物の日陰を突き抜けて、何となく郊外に近い気持ちを青々とした梢にそよがせつつ、西日の中に輝き並んでいる。

彼の鼻の先には、震災の名残りらしい、赤煉瓦とコンクリートの破片がゴロゴロと積み上げられていた。その上から草原一面にかけて、真赤に錆さびた錻力ぶりきの切り屑、古新聞、古バケツ、ゴム靴、古タイヤ、麦稈帽むぎわらぼうなぞが、不規則な更紗さらさ模様を描いて散らばっていた。あとは名も知らぬ蔓草や、ヒョロ長い雑草が元気よく茂り合っているばかりであった。

彼はここに来て、いくらか眠ってから、やっと今眼を醒さましたものらしい。胸の痛みも薄らいでいた。腹の空いたのも、咽喉が乾いたのも忘れて、不思議なほど澄み切った気持ちになっていた。彼は背中にモゾモゾと這い込む蟻ありを磨り潰そうともしないまま静かに眼を閉じてみた。そうして今日中の出来事を今一度、思い出そうとこころみたが、古井戸の水のように静まり返った彼の意識の中には何の記憶の断片も浮かばなかった。ただ彼自身の空虚になった霊魂と、無力になった肉体とが草原の中に投げ出されているのを感ずるばかりであった。彼はそうした感じの中に、森閑しんとなった耳を、澄ますともなく澄ましていた。

……はるかに、いろんな物音がきこえて来る。電車、自動車、飛行機のうなり、工場の笛……その他、もの悲しいような……淋しいようないろいろな物音がこの空地に流れ込んで、草の株を枕にした彼の耳元まで忍び寄って来た。

彼はそのような物音のシンフォニーに聞き入った。何も考えないままにその方に惹ひきつけられて行った。

あとからあとから起る新しい雑音の旋律……遠く近くから風のように……水のようにさまよい起る大東京のどよめき……その中に彼は、彼が作曲したいずれの楽譜よりも新しい、底強い魅力を発見した。構成派でもなければ写実派でもない……大地と大空とが直接に奏でる「人類文化」の噪音そうおん交響楽……徹底した真剣な音楽をシミジミと大地に横たわって聞く……そこに彼は、無限の新しい技巧を感得した。

彼はかつての日、深く自信もし、愛惜していた自分の天才が、如何いかに小さく安っぽいものであるかをこの時初めて悟ったのであった。そうして言い知れぬ感激のために腸の底まで強直してしまったのであった……眼は向う側の高いスレート屋根を這い昇って行く朱色の日ざしを凝視しながら……心はこの大地のオーケストラ……二度と繰り返されないであろう微妙な非音階音が縺もつれ合い、重なり合いつつ奏でて行く「大都会の夕暮」の哀調に恍惚こうこつとして、今までにない慰安と幸福とを感じた。……「にんげんの音楽は皆似せものであった。……自分の音楽も似せものであった。……自分は要するに無用の存在であった。……自分は死んでも本当の音楽はこうして永遠に、地上に繰り返されて行くのだ。……ありがたいありがたい……なつかしいなつかしい……嬉しい……楽しい……」……そのような気持ちが彼の胸に一パイになって、生温い泪なみだが自ずと瞼にあふれて来た。……赤い日ざしが……青空が……白い雲が……煉瓦がユラユラとゆらめいて、次から次へと左右の眥めじりへ流れ出して行った。

彼は感傷の余り、疲れた視線を赤い日ざしから離した。するとそれと同時に、タッタ今の感激のうちにスッカリ空っぽになった彼の頭が、彼自身のものではないかのように力なく、ゴロリと草の株から転がり落ちた。

泪に霞んだ彼の視線の片隅に、小さな人影が入って来たのはその瞬間であった。

それは眼の前に重なり合った草の茎の隙間から見るテニスコートの白い一直線の上を、ソロソロと後しざりして来る薄茶色のセイラアパンツであった。そのうしろ姿は、彼の眼前の草の茎に比較すると、まるで一粒の豆人形であったが、その豆人形は、手に写真機か何かを抱えてるらしく、二、三本並んだポプラの樹を正面にして、茶縞の鳥打帽を傾けながら、用心深く草原へ退り込んで来るうちに、次第次第にその形を大きくした。そうして彼の鼻の先に横たわっている煉瓦とコンクリートの堆積の陰まで来ると急に身を伏せ四ツン這いになった。鳥打帽の庇ひさしを上げて、ロイド式の色眼鏡を取り外して、手に持ったカメラと一緒に上衣のポケットに押し込むと、草の中からソーッと頭を上げて空地の周囲を見まわした。人のいない窓の一つ一つを、念入りに眺めまわしながら、なおも奥深く身を隠すように這い退って、彼の足の先に茂り合ったアカネ草の中に入ろうとしたが、その拍子に、編上靴の先で彼の足首を蹴りつけるとギクリとして振り返った。

「アッ……」

と小さな叫び声をあげてセイラアパンツは駈け出そうとした……が、草の陰から覗いている彼の静かな眼つきをふり返ると、またも、彼と向き合ったまま、ベタリと草の中に坐ってしまった。血の気を喪った頬を両手でヒッと押えて、下腮したあごをワナワナと震わした。同時に阿弥陀あみだにした鳥打帽がパサリと背後に辷すべり落ちてシングルカットの頭が露われた。

それは最前の洋装の女に相違なかった。もっとも最前さっきのように若くは見えなかったが……眼の大きい……唇の小さい……二重腮の……耳輪の痕のある……成熟し切った女に見えたが……しかし、その全身には肉感的な何物をも発見する事が出来なかった。とっさの間に言い知れぬ恐怖と絶望に囚われたらしく、眼を真白に見開いて、一心に彼を凝視したまま、ハアハアと喘あえぎつづけるのであった。

「……ア……ア……アナタハ……サッキ……ノ……」

彼女はカスレた声でこう言いさしてグッと唾を呑んだ。またも肩をおののかして喘ぎつづけた。

そうした彼女の表情を、彼は何の意味もない眼つきで草の葉越しに凝視していた。彼の脳髄はいつの間にか「死」と紙一重の単純さにまで還元されていた。過去の思い出とか、未来の夢とかいうものはあとかたもなく消えつくして、ただ、現在の感じを、そのままに受け入れる力しか残っていなかった。こうして彼女に直面しても、彼女が何故なぜそんなに驚くのか……何がそんなに怖いのか……そんな事を疑う力さえなくしてしまって、ただ興味のないアヤツリ人形でも見ている気持ちで向い合っているに過ぎなかった。二人はこうして暫くの間睨にらみ合っていた。無言のまま瞬き一つせずに視線をピッタリと合わせていた。二人の周囲の草原が次第次第に夕闇の底に沈んで行くのを感じながら。

彼女はその中にやっと、いくらかの落ち着きを回復したらしかった。小さな唇をヒクヒクとわななかしているうちに、切れぎれな空虚な声を出した。

「あなたは……刑事さんでしょう……」

そう言って眉を引き釣らせながら、彼女はたまらない悲痛な絶望的な表情をした。

「……変装していらっしゃるのでしょう。……そうして……」と言いつつ彼女はまたもグッと唾を嚥のんだ。「妾わたしを……妾をつけまわしていらしたんでしょう……」

ズバリとそう言ううちに彼女の大きな眼から珠のような涙がポタリポタリと落ちた。それを拭ぬぐおうともせずに彼女は、自分の胸をシッカリと掻き抱いていた。

その顔を草の葉ごしに、和やかに、澄み切った眼で見上げながら、彼は力なく微笑して見せた。その両頬にポーッと血の色がさして来た。その眼がキラキラと希望に輝き出した。同時にその全身から夕暗の中でもハッキリとわかるほどに肉感的なほのめきを放散しはじめた。男装をしているだけに、それが一層あらわなものに見えた。……と見るうちに彼女は突然に、取ってつけたようなお辞儀をし始めた。両頬の涙を拭いもせずに、白い両手の指を揃えて、断髪の頭を草の中に押し込んで、繰り返し繰り返し、彼を伏し拝んだ。乞食のように真剣な、哀れな声を出した。

「旦那様、旦那様、旦那様、旦那様……どうぞどうぞお助け下さいまし……後生ですから……ホントウに後生で御座いますから……」

「……私は本当の事を申し上げます。私は夫のバトラを殺したのでは御座いません。バトラは事業に失敗しましてコッソリと亜米利加アメリカに帰ったので御座います。……妾も、その後を逐おうて亜米利加に渡ろうとして横浜の警察の誤解を受けましたために、こんなに苦労を致しているので御座います。一時も早く夫に会いたいと存じまして……」

「……妾は皆様のお察しの通りラシャメン瑠璃子に違い御座いません。本名もお察しの通り小野原ノブ子に間違い御座いません。何度も夫に死に別れた不幸な女で御座います。……けれども……けれども今までに悪い事をした覚えは一度も御座いません。……神かけて御座いません事をお誓い致します」

「……どうぞ、どうぞお願い致します。もし今夜一晩、私をお見逃がし下さいますれば、どのようなお礼でも致します。きっと……きっと致します。その……お印に……こんな……つまらないものでも……旦那様さえ……およろしければ……」

彼女はシドロモドロにこんな言葉を並べた。その切れ目切れ目に二度も三度も両手を合わせて拝み上げながら、すこしずつ彼の方に這い寄って来た。そうしてズボンのポケットから青黒い大きな宝石を一個取り出して、大の字型に投げ出した彼の右の掌に握り込ませると、その上からシッカリと両手で押えつけながら眄目ながしめに彼を振り返った。

「これは……横浜じゅうで一番大きいエメラルドで御座ます。バトラが私に買ってくれました……」

しかし彼はその宝石よりも、彼女の柔らかい、冷たい掌の感触の方が嬉しかった。それは彼が久し振りに受けたに違いないであろう若い異性の感触であった。

彼は固い宝石ごしに彼女の掌を力なく握り締めた。そして、仄暗ほのぐらい草の陰から、ジット彼女の顔を見上げていた。

その顔を見下していた彼女は、何と思ったか、すこしばかり顔色をかえた。頭を擡もたげて静かにあたりを見まわした。そうしてイヨイヨ誰もいない事がわかると、獣のようにザワザワと草を押しわけながら這い寄って来て、彼の顔の前にピタリと坐り直した。

「オホホホホホホ。まあ……そんな事でしたの……そんならそうと早くおっしゃればいいのに……オホホホホホホ。妾……もっと真暗になるまでここにいるつもりですから、何でもお言葉に従いますわ……何なら非常線の解けるまでこの工場の中に泊っても構いませんわ。誰もいませんから……」

彼女はここで言葉を切って、もう一度そこいらを見まわした。そうして彼の顔の上に顔をさし寄せて、彼の瞳の中をジッと覗き込みつつ、物悲しい、蠱惑こわく的な微笑を見せた。

「……ね……その代りにキット逃して下さらなければ駄目ですよ。そうして妾のあとから、妾の隠れ家にいらっして下さらなければ嫌ですよ。妾……あなたみたいな頭のいい……先まわりの早い方を初めて見たんですから……ホントウを言うと妾は……お金を持った西洋人よりも、腕のある日本の方とひと苦労したら……といつも思っていたんですから……ネ……キットですよ……妾の行く先は上海の乍浦チャッポ路で「梅月」って言う家よ……あなた御存じない……上海の梅月よネ……キットヨ……キット……」

といううちに彼女はイキナリ彼の上にのしかかって来た。彼の首へ両手をまわして、白い頬と唇をピッタリと押しつけた。彼はもうすこしで窒息するところであった。彼の両手がバタバタと空にもがいた。けれどもそれは僅わずかの間であった。

突然に彼を突き放すようにして飛び退いた彼女は、傍の鳥打帽を掴んだまま二足三足駈け出した。……と思う間もなく古バケツの中へ編上靴の片足をガチャガチャと突込んだ。ドタリと音を立てて草の上にたおれると、すぐに両手を突張って起き上ろうとしたが、そのまま全身を綟よじらしてゲロゲロ、ゲロゲロと白いものを嘔はき始めた。鳥打帽で口のまわりを拭い拭い、静かな空地の中で死にそうな声をふり絞った。そうしてなおも苦しそうに生唾を吐き吐きヨロヨロと立ち上って行きかけたが、煉瓦の堆積の向う側まで行くと、一瞬間立ち止まって彼の方をふり返った。

彼は元の通り草の中に顔を突込んでいた。蒼々とした夕暮の底に、彼女から貰った宝石を握ったまま、空虚のような眼を見開いていたが、その視線の中に、まともに振り返った彼女の顔つきの醜かった事……。と、彼女は煉瓦の堆積の陰にたおれ込むように逃げ出した。草を掻きわける音が、はるかにはるかに遠ざかって行った。

それにつれて、あたりがヒッソリとなった。

底本 / Source edition

底本:「夢野久作怪奇幻想傑作選 人間腸詰」角川ホラー文庫、角川書店
2001(平成13年)年3月10日初版発行
底本の親本:「人間腸詰」角川文庫、角川書店
1978(昭和53)年1月
初出:「新青年 第11巻第10号」
1930(昭和5)年8月
入力:持田和踏
校正:The Creative CAT
2023年2月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/061139_000096/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/061139_000096/

夢野 久作「童貞」(新字新仮名)、底本『夢野久作怪奇幻想傑作選 人間腸詰』角川ホラー文庫、角川書店、2001年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 061139_000096, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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