Soranoha

毒

どく

大下 宇陀児

一

小野村伯太郎はくたろうには、まだ何一つ分ってはいなかった。前のママちゃんのことを覚えているには覚えていた。いつも優しい微笑を浮べていて、その癖に、どこか愁うれいの籠こもった眼附をした前のママちゃんの顔が、今でもどうかすると、お居間の片隅だの天井だのからひょっと覗き込んでいるような気がするけれども、そのママちゃんが、ほんとうはどういう訳で急にいなくなってしまったのか、それからまた、そのママちゃんがいなくなってから一年経った時に、今度の若い美しいママちゃんが、どういう訳でやって来たのか、どうもハッキリと分らずにいた。

幼稚園へ行けるようになった伯太郎にさえ、こうして訳が分らずにいたのだから、その妹の小野村露子つゆこと、そのまた弟の、これはようやくあんよが出来るだけになった小野村伯二はくじと、この二人にも無論訳の分る筈がなく、伯太郎と露子とは、いつか次のような会話をしたことがあった。

「ね、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、先のママちゃんがどこへ行ってらっちゃるか知っている?」

「うん、知ってるよ」

「どこ?」

「ほら、あのママちゃんはね、ずっと先せんの雨の降る日に、寝たまんまで金ピカピカの自動車に乗って出て行ったろう。だからママちゃんは、遠くのお家うちへいらっしゃったのさア」

「遠くのお家ってどこでちょ」

「パパちゃんがお話して下すったよ。何でもね、そのお家は大変に綺麗なところなんだって。そうして、ママちゃんは、そっちのお家へ行ってから、今度のママちゃんを、僕達んところへ送って寄来よこして下すったんだって――」

「そうオ、そいじア、今のママちゃん、やっぱしあたち達のママちゃんね」

「そうだよそうだよ。僕、先のママちゃん大好きだったけれど、今度のママちゃんだって大好きさ」

その、新しいママちゃんのやって来たのが、そろそろと寒い秋の風が吹いて来て、庭には毎朝木の葉が散り、それがカラカラ、カラカラ、面白そうに舞い転がっていた頃である。邸へは、二三日の間多勢のお客さん達が出たり入ったりして、大変賑かであった。けれどその賑かさも一通り片附いてしまった時に、伯太郎達は、初めて、新しいママちゃんが来てくれたのだということを知った。

パパちゃんが、三人の頭を代る代る撫でながら、そのママちゃんを引合せてくれたのである。

一年間、邸にはママちゃんというものがいなかったので、その時伯太郎は、とても嬉しかったことを覚えている。最初に引合された時には、何といっていいか、へんにその人をママちゃんと呼ぶのが口慣れないような気持だったけれど、それから二日と過ぎ五日と過ぎて行く間に、それも、だんだん慣れて来た。そうして、露子にもいっている通り、新しいママちゃんが好きになった。

新しいママちゃんは、前のママちゃんと違って、弟の伯二にお乳を飲ませることなんか出来なかったけれど、それでも伯太郎達をよく可愛がってくれたからである。

慾をいえば、夜になって寝る時に、新しいママちゃんが、自分達と同じお部屋で寝てくれれば、もっとよかった。また朝になって伯太郎達が起きた時、ママちゃんが、前のママちゃんと同じように、女中やなんかより早く起きて、洗面所へ連れて行って下すったり、鸚鵡おうむに餌をやったりしたあとで、お居間の時計が七時を打つと、伯太郎と露子との二人に、奥のパパちゃんのお部屋まで行って、ぐうぐう鼾いびきをかいているパパちゃんを、揺すぶり起す役をさせてくれれば、それももっとよいことに違いなかった。

しかし、それはそれで我慢しなければならぬのであろう。婢ねえやのときやに聞いて見ると、ママちゃんは、毎晩毎晩遅くまでパパちゃんのお部屋にいて、パパちゃんのお対手をしているということだったし、そのために、パパちゃんもママちゃんも、朝は、前よりもずっと寝坊になったということだった。朝、伯太郎はときやに連つれられて幼稚園へ行く、そうして、お昼頃にときやと一緒に帰って来る。その時に、ママちゃんは大抵、お湯殿から出て、大きな鏡台の前で、他の婢や達に手伝わせながら、真白なタオルで顔を蒸したり、チカチカ光る電気の器械でマッサージをしたり、それからいろんな形の容物いれものの中にある水だの白粉おしろいだのを塗りつけて、一番お終しまいに赤いゴムの袋のついた細長い瓶から、シュッ、シュッといって音をさせて、香水を身体中に振りかけているのだった。

「ママ、唯今ただいま――」

と伯太郎がいえば、ママちゃんは、そのいい匂いのする袖をひろげて、一度はきっと伯太郎を抱きしめてくれる。露子の方は、ママちゃんから、一度もそんなことをして貰ったことはないというのだけれど、とにかくそれで、伯太郎は充分満足しなければならぬのであった。

二

露子にいわせると、今度のママちゃんは、両腕を手頸のところで組み合せて作った環の大きさぐらい好きだということだったし、伯太郎は、無論、先のママちゃんには敵かなわないにしても、露子のいうその倍ぐらいよりもっとよけいに好きだということであった。

しかし、こうした二人の意見の相違が、時によると、ふいに無くなってしまうことがある。つまり二人共に、同じくらい好きであり、同じくらい嫌いであることがある。それは、伯太郎達の邸へ、パパちゃんよりももう少し年の若い、佐々沼進一という小父おじさんが来ると、きっとそういうことになるのであった。

何故かというに、この小父さんは、邸へ来るなり、ママちゃんをすっかり独占してしまうし、ママちゃんもまた、この小父さんとばかり話をしていて、伯太郎達を、少しも寄せつけてくれないからであった。どういうものか、この小父さんが来る時には、パパちゃんの方は大抵お家にいなかった。パパちゃんは、大学校の先生をしていて、まア大抵は家にいないのだけれども、それでも一週間に一度だけは、朝から晩までお家にいる日があったし、その他の日だって、時によると大変早くお帰えりになっていることもあった。ところが、佐々沼の小父さんは、そうやってパパちゃんがお家にいる時には、決して邸へ来たことがなく、それでいて、来さえすればすぐにママちゃんのお部屋へ行って、そこで長いこと話し合っているのであった。

もっとも、こういう時には、その小父さんが帰ったあとで、ママちゃんは、いつもよりもよけいに伯太郎達を可愛がってくれたり、それから小父さんがお土産みやげに持って来て下すったのだといって、いろんな玩具をくれることがあったので、自然ママちゃんがまた好きになってしまうのであったが、それについて伯太郎は、ママちゃんから必らず次のようなことをいわれていた。

「ね、伯太郎さん、あなたパパが帰っていらしっても、小父さんの来たこと黙っているのよ。伯太郎さんは、誰よりもお利口さんだから――」

何故黙っていなければならぬのか、伯太郎はハッキリ合点が行かなかったけれど、とにかく、うん、うん、といって頷いた。そうしてそのことについては、たった一度だけ、ときやに訊いて見たことがあった。

「ねえときや、ときやはあの小父さんのことを知っている? ほら、ママちゃんのところへ来る小父さんだよ」

「ハイ、あの方のことなら、ときやはよオく存じております。坊っちゃまのお母様のお義兄にいさまだということです」

「ママちゃんと、随分仲が良いんだねえ」

「ええ。ですけれど坊っちゃま、坊っちゃまは、あの方のことなんかあんまりいわない方がよござんすよ」

「どうしてだい」

「だって、お母様は、私達にもあの方のことを口留めしてございますもの、誰だって、お母様のところへ、あの方が訪ねておいでになったことを、見て見ない振りをしております」

「じア、僕も見て見ない振りをしているの?」

「そうそう、それが一番お利口でございますよ」

伯太郎は、見て見ない振りをするということがどんな風にすることなのか、例によってよく呑み込めなかった。けれども、とにかくその小父さんのことは、なるべく人に話さない方が、きっといいことに違いないのだと思うようになった。

三

邸には、広い深い庭があった。また建物も高く大きかった。ずっと昔に日本人の富豪が別宅か何かに使っていて、それを或る外国人が住むようになってから改築して、そのあとへ、伯太郎がまだ東西も弁わきまえなかった頃、彼等の一家が移り住んで、その時にもまたいくらか改築をした邸であった。

伯太郎に数えられるだけでも、確かに伯太郎の年の二倍ぐらいの間数があり、その中には、ぐっと天井の高い西洋室せいようまもあれば、また古めかしいお納戸なんどみたいなところもあった。前いった佐々沼の小父さんが来ている時には、伯太郎等はママちゃんがいる、二階の西洋室へ近づくことを固く禁じられていたために、いつでも下のお部屋だの庭の方でばかり遊んでいなければならぬのであったが、こんな時には、女中や書生達が妙に邸の一所に固まり合い、ヒソヒソ声で何か話し合うのがお定きまりで、そうすると伯太郎も露子も、二人だけは全く除け者にされた形になった。秋の末に新しいママちゃんが来て、それからじきに佐々沼の小父さんが来るようになり、それが幾回となく度重って行く間に、伯太郎は、自分達が二人きりで遊ぶいろいろの方法を考え出した。そうしてそのうちに、邸内には大小様々の部屋があったのを利用して、隠れん坊をすることを覚えた。

その隠れん坊が、どんなに楽しい遊びであったことか。

時とすると、それにはときやを始め、他の女中や書生達などが仲間に入ってくれることもあって、そんな時こそ、彼等は他のどんなことを考えている暇もない程夢中になり、二時間でも、三時間でもその同じ遊戯を続けようといって主張したし、また、書生や女中が少しも彼等に取合ってくれず、仕方なしに、伯太郎と露子との二人だけでやる時でも、随分面白く遊ぶことが出来た。隠れん坊を覚えてから二月ばかりの間というものは、ママちゃんのところへ佐々沼の小父さんが来ない日でも、殆んど毎日のようにそれをやっていたくらいである。露子の得意は、応接室の椅子の下へ潜り込んだり、お居間の衣桁いこうの蔭へ隠れたりすることであったし、伯太郎の方は、邸内の到るところにある押入れへ隠れるのが得意であった。

その年も、やがてもう、あと十日ばかりしか残っていなくなった或る寒い日のこと――。

この日、伯太郎は幼稚園が休みであったので、朝からずっとお家にいたが、パパちゃんは十時頃に学校へ出て行き、パパちゃんがいなくなると間も無くして、佐々沼の小父さんが訪ねて来た。

例の通り、ママちゃんはこの小父さんと一緒に二階のお部屋へ行ってしまって、どんな面白いお話があるのか、いつまで経っても降りては来ない。伯太郎は初めのうち、三輪車に乗って、お庭で温和おとなしく遊んでいたが、やがてそれも飽きてしまった時、お居間で人形さんを負おんぶしていた露子のところへやって来た。

「ねえ、隠れん坊しない」

「隠れん坊、ええ、ちてよ」

「ときやはどこへ行ったの?」

「伯二ちゃん連れておんもへ行ったわ」

「そう。そいじゃ仕方がないんだねえ。露子さんと二人っきりで始めようよ」

露子は、まだジャンケンが、うまく出来なかったので、二人っきりでジャンケンをすると、きまって露子の負けになった。

「露子の鬼、ちまんないわ」

と露子はいったが、それでもすぐにお居間の壁の方へ向いて眼を塞ふさぎ、その間に伯太郎は、抜足差足お納戸へ行って、そこの押入れへ潜り込んだ。

「もういいかい――」

露子が向うでこういっているので、伯太郎は押入れの襖ふすまを閉めるまで、『まあだだよ。まあだだよ』といって繰り返していたが、いよいよ、完全に身体を隠してしまうと、『もういいよ――』と、返事をした。そうして、急に真暗になった押入れの中で、息を詰めて待っていた。

押入れの中というものが、年の行かない少年にとって、どんなに魅惑的なものであるか、これは誰だって知っている通りである。そこには、昼間作り出した闇の神秘があり、また、平生へいぜい子供には触れたこともない、いろいろの廃物を容れた箱があって、そうした箱の中をあれこれと掻き廻しているうちには、偉大な発見をすることがある。例えば祖父が使っていた蝙蝠傘の、彫刻を施した握り手だの、何かの根付ねつけに使っていたびい玉だの、時としては、壊れた古い幻燈器のレンズだの、それこそは、少年が所有する財産のうちで、最も貴重な宝物までがあるのである。

不幸にして、伯太郎の身を入れた押入れには、こうした宝物の箱はなかったので、彼は黴かび臭い匂いのする蒲団ふとんと蒲団との間へ身を潜め、じっと露子の来るのを待っていたが、そのうちに、ふと妙なことに気がついた。

そこは、襖一重向うのお部屋とは、世界を別にする程、しんとした夢のような闇ではあったけれども、閉め切った襖と柱との間に隙があって、そこから流れ込む光線のために、微かな明るみが漂っている。その明るみのうちに伯太郎は、押入れの一番奥の壁が、ひょいと開きかかっているのを見付けたのだった。

「あら!」

伯太郎はいった。そうして、蒲団の山を這い越して、その壁の傍へ行き、にゅうっと首を突き出して見た。

すると、壁だと思ったのは、不思議にも蝶番ちょうつがいのついたドアであって、そのドアの向うに、これもどこから光線が入るとも知れず、薄ぼんやりとした、闇の廊下があるのであった。

伯太郎は、今までに、こうした廊下があることを少しも知ってはいなかった。伯太郎ばかりではない。邸の中の大人達さえ、多分、気が付かずにいたことであろう。その廊下は、最初にここの邸を建てた或る富豪か、もしくはその次に住んでいた外国人かが、何かの必要に応じて、巧妙に作った秘密の廊下であるらしかった。廊下を挟んだ両側の室から見るというと、何の変りもない一重だけの壁が実は二重の壁になっていて、その間に廊下が作ってあったものらしい。伯太郎が押入れへ這い込んだ時、恐らくは壁に押し付けられた蒲団の重みで、古くなったドアの掛金が外れ、自然に口を開いたのであろう。伯太郎は、暫らくの間、じっと廊下の奥を見透していたが、やがて、ずるーんと蒲団の山を滑り落ちた。そうして、恐る恐る、そこの廊下へ踏み込んで行った。

廊下には、この何年にも入れ換ったことのない空気が漂っていて、床にも壁にも、埃が一ぱいにたまっていたが、伯太郎は、一歩そこへ身を入れてしまうと、何かの糸で引っ張られるように、だんだん奥へ進んで行った。そして、一つの曲り角を過ぎると、廊下が急に階段になっているので吃驚びっくりし、静かにそこを登り始めた。

「じア、ぼつぼつ時間だから僕は帰るぜ――。お前も、出来るったけうまくやって、親父に感附かれないようにするんだナ」

「大丈夫よ、そんなこと。小野村はあたしの口先き一つでもって、どうにでも言いくるめることが出来るから」

階段を登り切ると、そこはバッタリ行き詰まりになった羽目板であるが、そこまで伯太郎が行った時に、羽目板の向うから最初に聞えて来た言葉はこうである。

伯太郎には、それがママちゃんと佐々沼の小父さんの声であることはすぐに分ったけれど、中でママちゃん達がどんなことをしているのか、覗いて見たくて堪らなくなった。

羽目板のところを、あっちこっち捜して見ると、偶然にも、板が縦に裂けた割れ目がある。

伯太郎は、その割れ目へ顔をピッタリと押しつけたまま、長いこと息を詰めていたのであった。

四

佐々沼の小父さんが来る度に、伯太郎がふっとどこかへ行ってしまって、小父さんが帰って行った頃に、ひょっこりとまた姿を現す、そういう不思議な現象は、それから後しばらく続いた。そのことが、誰にも知られず過ぎていたのは、前いったように、邸内の者達が伯太郎の行動にあまり注意せずにいたせいもあろうし、また伯太郎自身、固く禁じられているママちゃんのお部屋へ近づくことを、無論誰にだって発表出来なかったからであった。

只一人、それについて幾分かでも伯太郎の秘密を知っていたのは、妹の露子である。二人はある時、次のように話し合っていた。

「お兄ちゃん、お兄ちゃんは今日、どこへ行ってらっちゃったの」

「僕――。うん、僕はね、押入れの中で寝んねしていたよ」

「あらそうオ。露子、一人っきりで淋しかったわ。今度ん時、露子も押入れへ連れてってね」

「押入れん中、とても暗いよ」

「暗くってもいいわ」

「よかないや。露子はきっと声を立てて泣いちまうから、そうするとママに知れて叱られるんだ――それよっか僕、いいことを一つ教えてあげよう、露子はね、もうせーんのママが、どうしてお家にいなくなったか知っている?」

「遠くのお家へ行ったってこと?」

「うーん、違う。ママが遠くのお家へ行ったってことは、そりゃそうなんだけれど違うんだよ。僕、佐々沼の小父さんとママとがいっているのを聞いたんだ。せーんのママはね、長いこと病気で寝ていたんだって」

「寝ていてどうしたの?」

「そいでね、そいでその時に、佐々沼の小父さんがパパに勧めて、ママが早く楽になれるようなお薬を、毎日少しずつママに飲ませたんだって」

「お薬は苦いわね。露子、大嫌い」

「僕だってそうだよ。お薬は僕だって大嫌いなんだけれど、佐々沼の小父さんのお薬は、ちっとも苦くなんかなくってね、そいでママは、そのお薬を毎日飲んでいるうちに、到頭死んでしまったのさ」

「あら、死んだの? 死んでからどうしたでちょ」

「死んでからさあ、せーんにいった遠くのお家へ行ったんだよ。佐々沼の小父さんがいっていたけれど、そのお薬のことは、ほんとうはどんなにいいお薬だかっていうことを、パパも知ってはいないそうだよ。僕、佐々沼の小父さんがそのお薬をポケットから出して、今度のママにやるところを見ていたんだ」

「いいわねえ。ママはそのお薬、飲んじゃった?」

「ううん、飲みやしないさ。ママはそいつをね、ほら、ママのお部屋に小ちいちゃな綺麗な箱があるだろう、あの中へちゃーんとしまっといたよ。――これからまた、パパに毎日それを飲ませるんだって」

「パパ飲むかしら」

「葡萄酒ん中へでも入れてやれば、きっと知らずに飲むだろうっていっていたよ。僕、知ってるんだけれど、パパは、昨日もおとといも、もうそのお薬を飲んでるんだ」

「飲むとこ見た?」

「ううん、見やしないさ。だけど、パパはほら、いつも晩の御飯の時に、葡萄酒を一パイ飲むだろう。あの葡萄酒の中にお薬が入ってんだ。佐々沼の小父さんは、そのお薬が一ぺんや二度飲んだって何ともなくて、毎日々々飲んでいると、だんだんに利いて行くんだっていっていたよ」

二人共に、その薬がどんな風に利き目を現わして行くか、そのことについて異常な興味を抱いている風であった。そしてそれから後は、時々二人で眼交めくばせをしながら、夕食の折に、パパちゃんが葡萄酒を飲む口許をじっと眺めていたのであった。

五

伯太郎がママちゃんのお部屋をそっと覗き見しに行くということは、その後もずっと続けられていたことであったが、そのうちにいつしか翌年の正月となり、その正月も終って二十日ばかり経った頃から、伯太郎にはバッタリと、そうした機会が与えられなくなった。

パパちゃん、小野村伯一郎博士が、その頃からどうも身体の工合が思わしくないといい出して、出なければならぬ筈の学校の講義も休むようになり、終日、邸に閉じ籠っている日が多くなったからである。博士が邸にいるというと、ママちゃんのところへ来る佐々沼の小父さんの方は、殆んど顔を見せなくなり、稀まれにひょっこりと訪ねて来ても、以前のように、ママちゃんのお部屋へ行って、いつまでも話し込んでいることはなく、大声で何か冗談をいったり、または、博士の身体が悪るいのを、何くれとなく心配して、転地療養でもしたらどうかなど、そんなようなことをいっては、そそくさと帰って行くのであった。

博士の病気が、いったいどんな種類の病気であるのか、それについては、伯太郎も少なからず心配していたことであったが、それは最初のうち、極めて徐々にやって来たものらしかった。

「どうも、寝汗をかいて仕方がない」

博士が朝起きる毎に、そんなことをいうようになったのが、もう去年の暮からのことであって、そのうちに今度は、妙に視力が衰えて来たなどといい出した。そうして、無理押しをして学校へ行くと、帰ってきた時には、いつでも額に脂汗を流し、ゴホンゴホンと苦しそうな咳をするようになった。夜もよく眠れないし、食慾もだんだんに衰えて行き、その癖に、かかり付けの医者が診たところではどこにも変ったところがなく、従ってどういう療法をとっていいか分らずに、一日々々、身体を悪くして行く、そういうような症状なのだった。

「でもね、見たところでは、ちっとも病気のようには見えませんわ」

「そうかも知らん。医者が診ても、どこにも病源なんかありそうもないっていうんだからナ」

「あなたが、あんまり研究の方に御熱心なので、そのお疲れが出たんじゃアないでしょうか」

「そうさ。私もそんなことを思っているんだが、何しろ研究室へ行くと、いろいろの毒瓦斯ガスなんかも吸わなくちゃならぬし、その影響が現れて来たのかも知れない。じっとこうして家で静養しているうちには、じきに癒なおってしまうだろう」

「ええええ、そうでしょうとも。学校のことなんかすっかり忘れてしまって、一月でも二月でも、暢のんびりしていた方がいいのですわ」

博士夫妻が、こういう風にいっているのを、伯太郎は傍で聞いていたこともある。その時彼は、例のお薬のことを思い出して、よっぽど口を出そうかと思ったけれど、それをいえば、ママちゃんのお部屋の立聴きの一件が知れるので、わざと何んにもいわずに置いた。そうしてその代りに、あとで露子と相談した。

「ねえ露子、僕、ママにそういってやろうと思うんだけど――」

「なにをよオ?」

「佐々沼の小父さんがくれた薬のことさ。パパがね、この頃毎日病気だっていってるだろう。だから僕は、あのお薬をもっと沢山パパに飲ませたらいいと思うんだ。きっとママは、パパにあのお薬を、少しずつしかやらないに違いない」

「じゃ、沢山やればいいことよ」

「うん、そうなんだ。けれど、それをいえば、僕が何故その薬のことを知ってるかって、ママに訊かれるに違いないし、訊かれれば僕困ってしまうし――」

二人共にそれ以上の智慧は出ない。困ったなりで、そのままになってしまったけれど、一方博士は一月の末から二週間あまり、暖い海岸へなど行って保養につとめても、目に見えぬくらいずつ病状を悪化させて行った。そうして、二月半ばになると、どうせ海岸にいたところで同じことだし、それよりか、矢張り自宅で子供達の傍にいた方がいいといい出して、再び伯太郎達のところへ帰って来た。

ママちゃん小野村漾子ようこは、その間最も貞淑に博士を看病していたかのように見える。

博士夫妻が自宅へ戻ると、それからは四五日の間、何事もない日が続いて行った。病気だとはいえどうにか邸内の散歩ぐらいは出来るパパちゃんを対手に、伯太郎はいろいろのおねだりをすることもあったし、幼稚園で拵らえて来た折紙だの豆細工だのを見せたりした。

が、恰度二月の二十日、それは博士の第何回目かの誕生日に当っていたので、その日は例年の如く内輪だけの小さな晩餐会が催されることになったのであるが、その晩到頭恐ろしいことが起ってしまった。

六

その日博士は昼間はずっと書斎のベッドに寝長ねながまっていて、何か読書をしたり、うつらうつら眠っていた風であったし、博士夫人は、午後の一時頃から外出して夕方まで邸へ帰らずにいたが、その間に召使い達はせっせと晩餐の支度をし、階下の洋風食堂には、午後の五時半頃までに、全くその準備が調ととのったのであった。

「出先きで義兄あにに会ったものですから、ついでだと思って一緒に連れて参りましたわ」

博士夫人が、そんなことをいいながら、佐々沼進一と一緒に帰って来たのが、それよりほんの少し前のことで、博士を初め、一同が晩餐の席へ着く前になると、伯太郎と露子とはもうすっかりと有頂天であった。彼等は、誰よりも先きに食堂へ這入り、何かキャッキャと騒いでいて、そこへ皆んなが這入って行くと、何か悪戯をしていたのを見付けられでもした時のように狼狽あわてながらも、

「パパお目出度う」

急に一かどの大人ぶって、そんな風にいうのであった。

「親戚というものがないので、内輪ばかりでは淋しいだろうと思っていたところだ。君が来てくれたので、僕も非常に愉快だよ」

「お邪魔じアないかと思ったんですけれど、漾子の奴が、お兄様が遠慮すると可笑おかしいわなんていうものだから、つい出掛けて来てしまったんです」

「結構ですよ。さア、とにかく始めてくれ給え」

椅子に皆んなが腰を下ろすと、最初に博士と佐々沼との間に、そんな挨拶が交されてから、いよいよ食事の始まったのが、もう六時を十分ぐらい過ぎた時である。

一同は、他愛もない冗談を投げ合いながら、臨時に雇い入れた玄人くろうとのコックが出した料理の皿を、それからそれと片付けて行ったが、途中で博士は、ふっと気がついたようにいった。

「や、忘れとった。いつもの奴をやらんといかん」

「あ、そうでしたわね」

博士夫人は、そういいながら、それまでテーブルの上に出してあって、誰も手をつけなかった葡萄酒の罎を取り、博士の前の足高コップになみなみとそれを注いでやった。

「良人たくではね、この葡萄酒が大変に身体にいいもんだから、毎晩一パイか二ハイずつ飲むんですよ」

「ほう、そうかい。そりゃあなるほどいいだろう」

伯太郎には、その時佐々沼の小父さんとママちゃんとが、パパの葡萄酒について、前にも確かに話し合っていたことがある筈だのに、今さら、事珍らしくこういっているのが、何かしら妙に聞えたけれど、彼は、それについて何をいう暇もなく、只、異常に熱心な瞳でもって、博士がそれを飲む口許をじっと見詰めていただけであった。

博士は、何心なくそのコップを唇のところまで持って行ったが、するとどうしたのか、その時にひょいと首を傾かしげている。

「オイ、変だよ、これア」

「え?」

「何だかね、いつもの葡萄酒とは違うようだ。鼻を刺すような匂いがするよ」

テーブルの上で、カチャリという音がしたが、それは佐々沼進一が、その拍子にフォークを皿の上へ取り落した音であった。フォークを狼狽てて握り直すと一緒に、彼は博士夫人との間に、何か素早い眼交せをした。そして博士は、少しもそれに気附かずに、コップをぐいと夫人の方へ差し出していた。

「嗅いでごらん。どうも変だよ。お前、何じアないか、何かこの中へ入れやしないか」

「え、いいえ、そんなことありませんわ」

「そうかねえ、それならいいけれど、何しろ一寸変なんだ。――そういえば、この匂いは、どうも何かで覚えのある匂いなんだが――」

博士がじっと考え込んでしまったので、博士夫人は、急に顔を蒼くして、唇をビクビクと顫わせていたが、そのうちにやっと言葉を挟んだ。

「あなた、気のせいじアありません。それ、いつもの葡萄酒に違いないんですよ」

「うん、それはそうだよ。この罎のレッテルだって、半分破れかかっているところが、昨夜も飲んだ奴で覚えがあるんだ。けれども矢張り変な匂いがある」

伯太郎と露子とは、隣り合った椅子に腰かけていたので、この時彼等は、互に、脇腹を頻しきりに肘で小突き合っていたのであるが、博士夫人は、ふいに不自然なほどの高笑いをした。

「ホホホホホ、まあ、あなた、何をいっていらっしゃるの。これ、何にも匂いなんかある筈がないじアありませんか」

「あるかないか、だってお前嗅いでごらん」

「嗅いでいます。何なら、あたし頂戴してもよくってよ――飲み物の中へ何か入れやアしないかなんて、そんなことをいわれるの、嫌なんですもの」

「うむ、イヤ、お前が何か入れたなんていうんじゃないさ。だが、確かに何か入っているんだ」

「そう、じアね、あたしがお毒見をして見ましょう」

博士は、確かにそれ程の深い意味を有もたせていったのではなかったのだろう。けれども夫人の方は眉根に、苛々しい皺を刻んでいきなりコップを奪い取った。

「あ、お前、それを飲むのか」いったのは佐々沼であった。

「ええ」と答えて、夫人は意味あり気な瞬きをした。

「大丈夫でしょ一杯ぐらい。……あたし、酔ってなんかしまわないから」

「あ、ああ、……そうか……。大丈夫だ、お飲み。ナンなら、僕もそのあとで頂戴しよう」

伯太郎は、前に、ママちゃんと佐々沼の小父さんとが、その薬が一ぺんや二度飲んだだけではなかなか利いて来ないといっていた、あの時の会話を思い出していた。そうしてその間に博士夫人は、一思いにぐっと葡萄酒を飲み乾してしまって、唇をキュッとすぼめていた。

「どうだった」

「なんともありはしないわよ。お兄様も一パイ召し上る?」

「ウム」

佐々沼も、博士に見せびらかすようにして、ゆっくりゆっくり罎を片手に持ち、それをコップへ注いで行ったけれど、その時、突然に叫び出したのが露子だった。

「いやでちゅ、いやでちゅ。そのお酒、パパに上げなければ露子いやでちゅ」

「いいよいいよ、パパ、あとで飲むんだから」

「だってだって、あたち、沢山にお薬入れたんだもの」

「え?」

「あたちね、お兄ちゃんが見付けて来た薬、みんなその中へ入れたんでちゅ。あのお薬、お兄ちゃんが、ママのお部屋から見付けて来たんでちゅわねえ」

博士には、露子のいっていることが、少しも分らない様子であった。

しかし、愕然として顔色の変った佐々沼進一は、

「ナニ、どうしたって?」

ふいに恐ろしい権幕で訊き返した。それで、露子の方は一たまりもなく縮み上がり、一瞬間唇をへの字に結んだかと思うと、忽ち、ワーンといって泣き出したが、伯太郎の方は、むしろ得意そうにしていい出した。

「あ、パパ、それね、僕が持って来たんです」

「なんだ。何を持って来たというのだ」

「僕ね、今日ママのお留守の時に、ママのお部屋へ行ったんです。そしたら、お部屋の箱にお薬が入っているのを見付けたので、さっき、露子と二人で、パパの葡萄酒の中へみんなそのお薬を入れたんです。ねえ、ママあのお薬、パパの病気に利くんですねえ」

七

伯太郎にとって、それから後は、何から何まで分らないことばかりであった。

伯太郎が、今の説明をしてしまって、誇らかに皆んなの顔を見渡した時、ママちゃんは、見る見る恐ろしい形相になり、傍に腰かけていた露子の頸くび根っこに掴みかかり、

「畜生! 畜生!」

聞くに堪えない罵詈ばりの言葉を放ったし、そのママちゃんを露子から引き離そうとするパパちゃんへは、佐々沼の小父さんが、猛獣のようにして突然躍りかかって行ったのだった。

幸い、次の部屋にいた書生や女中やコックなどが、騒ぎの最中へ飛び込んで来て、第一番には佐々沼の小父さんを、第二番にはママちゃんを押えつけ、それから床に倒れていたパパちゃんを、手取り足取り抱き起したので、その方はそれで静まったのだが、その時になると、ママちゃんは、

「苦しい、苦しい! ああッ、胸が、胸が、引き裂かれてしまう!」

そんな風に切れ切れな声で叫び始めて、両手の指を熊手のように折り曲げて、咽喉を無残に掻き毟むしっていたのであった。

「お前達は、子供を早く向うへ連れて行け」

パパちゃんがそういったので、伯太郎と露子とは、じきにその部屋から出されてしまい、それからずっと二三時間、もう何も聞くことが出来なかった。付き添っていたときやが心配になるらしく、時々伯太郎達をそこへ残して、他の人達が騒いでいるところへ様子を訊ねに行ったけれど、帰ってきても、何一つ説明してはくれなかった。

「坊っちゃま、お母様がね、大変なんでございますよ」

ただ、そういってくれただけであった。

「ねえ、露子、僕はきっと叱られるよ。僕がどうしてあのお薬のことを知ってたかって、今にパパかママに訊かれるよ」

その時にもう、伯太郎はそう決心をしていたらしい。やがて、他の女中がそこへ来て、ときやに何か耳打ちをし、それからときやが、

「坊っちゃま、お父様がこちらへいらっしゃいですって」

そういった時、彼は温和しくときやに連れられて行った。そうして、パパちゃんから何か訊かれるよりも先き、自分のしたことを、覚えているだけ喋ってしまった。

「パパ、だからねえ僕、悪いと思って黙ってたんです」

話し終えた時にそういうと、パパちゃんは眼に一パイ涙を浮べて、二度も三度も頷いていた。

伯太郎は、叱られないのが不思議だったので、まじまじとパパちゃんの顔を見上げていると、突然にパパちゃんの両腕が伸びて来て、力一パイ、抱きしめられてしまったのだった。

「パパはあの葡萄酒を飲んで見た? お薬を沢山入れといたから、パパの病気もじきによくなってしまうんですね」

「うん、うん」博士は答えてくれた。「飲んだよ、坊。いい子だ。坊のお蔭で、パパは命を拾ったんだ」

×       ×       ×

その晩のうちに、ママちゃん小野村漾子が、息を引取ってしまったことや、その息を引取る前に、今までのことを皆んなパパちゃんに話して行ったことや、それは後に伯太郎が、ときやから話して貰ったところである。

ときやは、その話の時に付け加えて、佐々沼の小父さんが警察へ連れて行かれたということもいったけれど、そのわけは、詳しく知っていない風であった。伯太郎はだから、佐々沼進一が、どういう男であるかということを知らずにいる。また、ママちゃんと、この男との間に、どういう関係があったのかも知らずにいる。それについて、一度パパちゃんに訊いて見ると、

「ああ坊や、あの人は、何でもない人なんだよ。パパが昔世話をしてやったことのある後輩だけれど、坊はもう、あの人のことなんか忘れておしまい」

そういう風にいわれてしまった。

そうしてその時に、パパちゃんが非常に暗い顔をしていたので、子供心にも伯太郎は、それについてもう何もいわない方がいいのだと、独りで呑み込むことが出来たのであった。

暖かい春になって、パパちゃんが元々通り丈夫そうになり、再び学校へ行くようになった時、伯太郎と露子とは、

「ねえ露子、パパはあの時に、あの葡萄酒を飲んだお蔭で、あんなに病気が癒ったのだよ」

「ええそうよ。前のお薬は利かなかったんだもの」

そんなことを、得意そうに話し話ししていたのだった。

(「新青年」昭和六年一月号)

底本 / Source edition

底本:「探偵クラブ 烙印」国書刊行会
1994(平成6)年3月25日初版第1刷発行
底本の親本:「大下傑作選集第七巻 凧」春秋社
1939(昭和14)年2月20日
初出:「新青年」博文館
1931(昭和6)年1月号
入力:羽田洋一
校正:mt.battie
2024年10月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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大下 宇陀児「毒」(新字新仮名)、底本『探偵クラブ 烙印』国書刊行会、1994年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 061098_001872, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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