Soranoha

蚊帳の研究

かやのけんきゅう

寺田 寅彦

自分は蚊帳が嫌いである。しかし蚊に責められるのはそれ以上に嫌いだから仕方なしに毎晩このいやな蚊帳へもぐり込んで我慢している、そしてもう少し暑苦しくない心持のよい蚊帳が出来ぬだろうかと思う。一夜寝ながら色々考えてみた。

第一に蚊帳の内と外とで温度がどれだけ違うだろうかと思って夜中に寒暖計を持って出たり入ったりしてみたが残念ながら大した差はなかった。しかし人体に感ずる暑さは必ずしも寒暖計の示度ばかりでは分らぬ。空気の流通の善悪が大いに関係する。気温は高くても風があれば涼しい。ところが蚊帳がこの風を邪魔するのは確かである。風のある宵に蚊帳の内と外とで煙草をふかしてみても知れる。それもそのはずである。風のエネルギーは第一に蚊帳を煽あおるに費やされ網の目を抜ける時に摩擦で消される。

蚊帳が幾分でも空気の疎通を妨げるとすれば二、三人も狭い蚊帳に寝ていれば炭酸瓦斯の分量も外よりは多くなるかも知れぬ。しかしこんな試験は素人しろうとでは出来ぬ。

一体蚊を防ぐのが目的ならばもう少し目の粗い布を使ったらよさそうなものである。試みに宅うちの蚊帳の目を数えてみたら一寸四方の中に平均九百ばかりの目がある。いくら小人島の蚊でもこんな細かい目を潜って侵入する奴はあるまい。木綿の幌蚊帳ほろがやの方を数えたらこれは四百くらいであったが、これでも細か過ぎると思う。なるほど布の目には粗密がある、長く使っていれば処々しょしょに目の大きい処が出来てそこから蚊がはいるかも知れぬが、それにしても今日一般の蚊帳の目は細か過ぎている。

蚊帳の色は一般に萌黄もえぎと相場が極っている。何故萌黄に限ったのだろう。見て涼しいという点ならもう少し涼しい色はいくらでもある。透して外の物がよく見えるためならもう少し黒い色がよかろう。蚊帳の色も何とかしたいものである。

蚊帳を釣ると上が垂れて鬱陶うっとうしい。これも何とかしたい。真中で釣手をつけて天井へ釣るか、それとも外に工夫はないだろうか。

蚊帳を組立てている繊維の表面はよせ集めるとなかなか広い。この表面にはあらゆる黴菌ばいきんが附着していようと思う。中には有害な菌も居よう。殊に時候が夏だけに気味が悪い。もし有害菌が沢山附着していれば何か適当な殺菌剤でも塗布した方が安全である。これも衛生学者の研究を願いたい。

雷鳴の時に蚊帳を釣ってもぐり込むのは誰が考えた事か知らぬが、ただの迷信とちがって存外理窟に合っている。電気の導体ですっかり包んだ中へは外からの電気作用が及ばぬというのは定則で、ある学者はこれを証するために自身で金網の中へはいり外から恐ろしい強い電気の火花をポンポン飛ばしたが中に居た先生には何の事もなかったという事である。しかるに麻布殊に湿気を帯びたのはかなりよい電導体で蚊帳はその網である。落雷はすなわち強い電気の火花だから理論上蚊帳は落雷の時の防衛になる事になりそうである、しかしどのくらいの程度まで有効かという事や、麻、木綿、絹等の比較などは専門の学者の研究を待たねば分らぬ。これもついでに御願いしたいものである。

吾々が今日の蚊帳に満足せぬまでも苦情を云わずに毎晩釣って寝ているのは、吾等の親もその親もこれを釣って寝たというだけの理由で、蚊帳といえばこんなものとあきらめているだけの事であろう。決して理想的の蚊帳ではない。玩具の絵具を検査し、猫とペストの関係を研究する世の中である。蚊帳の問題といってもただ閑人の寝言と思われては残念である。

(明治四十一年八月十八日『東京朝日新聞』)

底本 / Source edition

底本:「寺田寅彦全集 第十二巻」岩波書店
1997(平成9)年11月21日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
1986(昭和61)年1月7日第2刷発行
初出:「東京朝日新聞」
1908(明治41)年8月18日
※初出時の署名は「閑人」です。
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2022年6月26日作成
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書誌 / Bibliography
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寺田 寅彦「蚊帳の研究」(新字新仮名)、底本『寺田寅彦全集 第十二巻』岩波書店、1997年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 060976_000042, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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