Soranoha

涎

よだれ

正宗 白鳥

銀座の裏通りに、和洋何いづれともつかぬせゝこましい二階家がある。壁の柱も汚れて、外から見ると寢ぼけてゐるやうに見える。二階は通信社で、階下したは鞄屋。鞄屋は小さいながら老舖しにせで中々繁盛してゐる。通信社は創業まだ日淺く、萬事整頓しないが、活氣は充滿してゐる。社員凡て十數人。

毎日十二時近くなると、細い谷のやうな所の危かしい階子段はしごだんに、靴や下駄の音が騷々しく續く。その音の加減で、誰れだ彼れだと、給仕の耳にもちやんと區別がつく。何時も急用ありげに、チヨカ〱と驅け上るのは坂本さん。ドシン〱と踏み占めて泰然として入つて來るのは安田さん。閑雅しとやかなのは荒野さん。雪踏せつたをちやらつかせるのは村松さん。

そして一月ほど前に入社した塚野鞠太郎まりたらうは、何時も階子段の壁に添うて、コツソリ音をも立てず上つて來る。服裝みなりは常にフロツクコートに高帽で、襟飾ネクタイや飾針ピンにも、一寸ちよつと好みを見せてゐる。丈高く色白く、口髥くちひげも美事に生え、美事に手入れをされてゐるが、惜しいことには、下唇が反りかへつて、片端が少し曲り、稍ややもすれば齒莖が顯あらはれる。で、彼れは笑ふにも物を云ふにも、絶えずそれが氣になつてならぬらしく、強しいて口を窄すぼめたり、矢鱈やたらに絹手巾きぬハンケチで口の邊あたりを蔽おほうたりするのが癖になつてゐる。しかしそのために自分が醜い男であるとは思つてゐないらしい。で、時々は近所の鳥屋などへ行つて、女中共に樣子を見せたり、若い女のある家庭へも、何かにつけて出入して愛嬌を賣つてゐるが、そんな折は大抵たいてい一人であつて、偶たまに他人ひとと一緒に行かうなら、詰らなさゝうな顏をして口數も少ない。社の者をも殊に憚はばかつて避けてゐるが、或る日鳥屋で爪楊子つまやうじをつかひながら、柔やさしい聲で、女中と洒落しやれ競べをやつてる所を、同僚の安田に見つけられて、うんと油を取られたことがある。この安田と云ふ奴、口ばかり達者な意地くね惡い男で、どうかすると、ストーブ會議の話の種に、塚野を槍玉に擧げるが、そんな時、この連中に誰れ一人、同情おもひやりのある者のあらうことか、一人が云ひ出せば、皆ぞろ〲と附和雷同して、無殘な批評を下す。塚野の口曲りは山口のチビと並んで、仲間内の愚弄ひやかしの中心で、名を呼ぶ代りに、口を歪めて指さしては、「これがかうした、あゝした。」と云ふ。給仕までもちやんと心得て、口曲りさんで通つてゐる。そしてチビの山口は、何と云はれても平氣で、始終微笑顏にこ〱がほで、大勢の中に立ち交つて、氣焔きえんを吐いてゐるが、塚野はさうでない。

彼れは滅多にストーブには近寄らず、空いた机でコソ〱原稿を書いて、用事が濟めば直ぐに出て行く。何かの都合で社に居ると、窓際の空地を歩いたり、或ひは人氣ない所に直立して、手を組み合せて前に垂れ、ボンヤリ空間を見てゐる。そしてストーブの側で無駄口を叩いてる安田などが不意に「塚野君」と聲を掛けると、胸をドキツカせて、驚いて振り返る。「又おれを冷かすんぢやなからうか。」と、目は自おのづから外はづれて、容易に傍はたへ寄つかれぬ。階子段を上りながらも、室内から笑ひ聲が聞えると、思はず立ち留まつて、「又おれの事か。」と、おど〲してソツと入つて來る。新入の社員までが、二三日すると、もう自分を馬鹿にするやうな素振を見せる。と、彼れは思つてゐる。

世間へ出れば、人並外れた侮辱を受けることは甞かつてないのに、社にゐる間は、上は社長より下は給仕にまで、自分は馬鹿にされねばならぬ。社長の命令振いひつけぶりも自分にのみは、粗末ぞんざいで壓制的で、斟酌しんしやくがない。給仕も自分の用事は敏活に便じて呉れない。

と、彼れは見るにつけ、聞くにつけ、不愉快でならなかつた。日に〱肩身が狹くなるやうだ。が、しかし、思ひ切つて皆んなと一緒になつて、騷ぐことも出來ねば、彼等の冷語れいごに一矢相酬むくゆることも出來ぬ。

或る日、例の通りソツと二階へ入ると、その顏を見つけた社長が、直ぐに「君ちよつと。」と呼びつけて、

「どうも君はぐづ〱してゝ困る、もつと敏活にならなくちやこの商賣は勤まらんよ。君の議會の筆記は遺漏だらけで評判が惡い。」と、疊みかけて責めた。

塚野は顏を赤くして、只「ハイ〱。」と畏かしこまつて聞いて、頭をビヨコつかせるばかり。自分は駄法螺だぼらは吹かぬが、仕事は忠實にやつてゐる、安田や村松のやうに狡猾ずるいことはしないつもりだが、全體何處が惡いんだらう、何處に手落ちがあつたんだらう、ハツキリ云つて貰ひたい。辯解しよう、と腹では思つてゐたが、さてそれを一言も口に出し得ない。我ながら無念でならぬ。

そして彼れは、獨り戸を開けて、物干場へ出た。此處は今は不用の場所であつて、時折社員が祕密ないしよ話をしに來るぐらゐに過ぎぬが、塚野にはよい隱れ場だ。

この日は空が晴れ風がなくて、戸外そとも温かい。隣りの白壁にからんだ疎まばらな蔦つたの葉は赤らんで、照りつける光に、哀れげに震へてゐるやうに見える。見下ろすと狹い濕つた空地に、島田の女が後ろ向きで洗濯をしてゐる。塚野は戸一重隔つて部屋の騷ぎを他所よそに、暫しばらく物干場をうろ〱してゐたが、社長の無情の言葉が容易に消え失せぬ。同僚の侮辱も今日は際立つて頭に浮ぶ。

そして、「おれも男だから、どうかしなくちやならん、名譽を回復しなくちやならん。」と、その方法を考へてゐる所へ、坂本が戸口から顏を出して、「おい塚野君、何をしてるんだ、用事があるんだから、早く來て呉れ。」と、早口に喋舌しやべつた。

塚野は考へに沈んでた頭をひよいと持上もたげて、「何の用かね。」と吃どもるやうに答へて、氣取つた足取りで部屋へ入つたが、坂本は前に立つて、目に冷笑を浮べて、彼れの顏をジロジロ眺め、

「本當に君は間拔けだねえ。涎よだれが襟えりに垂れてるぢやないか、口の端にも唾つばきを溜めて、何て汚い奴だらう。」と、さも卑下さげすんだ口振で云つた。

塚野はゾツと身震ひして、思はず手を口に當てた。室内一人殘らず振り向いて、ドツと笑ふ。

彼れは横へ向いて首垂うなだれた。そしてポツケツトから、香水の匂ひを籠めた絹手巾きぬハンケチを取り出して、涎を拭ひながら、考へてゐたが、フイと向き直る機會とたんに、手巾を持つた手で、坂本の頬を打つた。

「失敬ぢやないか、君は。」と叫んだ。

「突如だしぬけにひどい事をしやがる。」と、坂本は苦笑したが、敢あへて爭はうともしなかつた。彼れは仲間内で一番弱々しい男であつて、塚野もちやんとそれを心得てゐるのである。

この一撃で、室内の温良なる人々は笑ひを潛めたが、安田村松等亂を好む連中は、面白さうに笑つて、

「塚野君、しつかりやり玉へ、男子が侮辱されてへこんぢや駄目だよ。」

と、煽動おだてたが、爭ひはそれきりで、厭氣あつけなく終つた。

そして塚野はイソ〱と用事を濟ませて、社を出たが、歸る道々、家に着いてからも、勝利と不安の念に惱まされた。自分が意氣地なしでないことは、これで誰れにも分つたであらうが、さて坂本の思惑が氣にならぬでもない。

で、彼れは獨りで思ひ倦あぐんで、その晩、わざ〱遠方の山口の家を訪ねた。生憎あいにく不在であつたのを、是非會ひたいと、遲くまで待つてゐて、その歸るを見ると、

「君は今日の僕の行爲をどう思ふ。」と、打付ぶつつけに問うた。

「ヤハヽヽヽ。」と、山口は小さい身體からだを反らして笑つて、「君としては大出來々々々。」と云ふ。

塚野は胸の凝かたまりの融けた心地して、「ねえ君、當然だらう。侮辱されりや反抗しなくちやならんさ。僕はこれから誰れに對しても、自分の權利は主張するつもりだ。君なんか何を云はれても默つて我慢してゐるからいかんよ、だからます〱馬鹿にされるんだ。」

「ヤハヽヽヽ、君に忠告されるんかね。だがまあ、馬鹿にする奴がありや、勝手にさせとくさ。」

「そりやいかんよ、あの安田なんか、口ばかり強さうでも、實際は極く弱いんだからね、恐るゝに足らんよ。」

と、塚野は得意になつて歸つた。

で、翌日は早くから出勤し、ドシン〱と威勢よく階子段を上り、ストーブへも遠慮なく近よつた。もう今日から、社内に口曲りの綽名あだなの跡を絶つであらうと確信して、悠然煙草を吸うてゐたが、ふと氣づいて見ると、前の壁に薄い鉛筆繪がある。口の曲つた男がフロツクコートに大きな涎掛けを掛けてゐる。

彼れは目を見張り、口を開けたまゝ、暫らく身動きもしなかつた。

クス〱笑ひが後ろの方で始まつてゐる。

底本 / Source edition

底本:「正宗白鳥全集第一卷」福武書店
1983(昭和58)年4月30日発行
底本の親本:「白鳥集」左久良書房
1909(明治42)年5月23日発行
初出:「太陽 第十五巻第一号」
1909(明治42)年1月1日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:najuful
2026年3月2日作成
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書誌 / Bibliography
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正宗 白鳥「涎」(旧字旧仮名)、底本『正宗白鳥全集第一卷【底本画像有】』福武書店、1983年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 060951_001581, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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