Soranoha

現代語訳 平家物語

げんだいごやく へいけものがたり

作者不詳

座主ざす流ながし

治承元年五月五日、叡山の座主、明雲めいうん大僧正は、宮中の出入りを差しとめられた。同時に、天皇平安の祈りを捧げるために預っていた、如意輪観音にょいりんかんのんの本尊も取上げられた。更に検非違使庁けびいしのちょうを通じて、神輿を振り上げて、都へ押し寄せた張本人を摘発せよという命令もきていた。

こうした、矢次ぎ早の朝廷の強硬策は、先の京の大火事に原因と理由があったろうが、もう一つには、とかく、法皇の信任厚い西光さいこう法師が、あることないこと、山門の不利になることばかりを、後白河法皇に告げ口したためであった。そのため、法皇は、ひどく山門に対する心証を害されているようだった。

唯ならぬ事態の変化を読み取って明雲は、早やばやと、天台座主てんだいざすを辞任してしまった。

変って、鳥羽天皇第七皇子、覚快かくかい法親王が、天台座主となった。

その同じ日に明雲は、前座主の職を取上げられた上に、監視までつけられ、水さえもろくろくのまされず、まるで罪人扱いであった。

十八日には、この明雲の処遇問題に就ての会議が開かれた。

誰もが、法皇の前をはばかって、これという意見を出す者がなかったが、一人、左大弁宰相さだいべんのさいしょうの藤原長方ながかたがひざをのり出し、

「法律家の意見に依れば、死罪を一等減じて、流罪ということになっている様でございますが、とにかく、前座主、明雲大僧正は、他の者とは事変り、その学問の深さ、天台、真言両宗を会得した当代稀なる名僧で、行ないは清浄、戒律を破った事のない徳高い人です。その上、我々にとっては、お経の師でもあり、高倉帝には法華経を授けられた師でもあります。これ程の人を流罪にする事は、決して穏便な事ではござりません。何卒、もう一度お考え直しになった方が良いのではありますまいか」

と、苦々にがにがしげな顔を一層硬ばらせている法皇の前で、恐るる色もなく述べたてた。

一座の者も誰一人反対する者はなく、我も我もと賛成したのだが、しかし、法皇のお憤いきどおりは、寵臣から焚たきつけられているだけに根深いものがあり、誰一人法皇の心を柔らげる事ができなかった。清盛も、何とか、法皇の気持をとりなそうと参内したけれど、風邪かぜ気だからと体のいい玄関払いを喰くらう始末で、この一件だけは、徹頭徹尾、法皇の無理が通ってしまった。

ここに前代未聞の座主の流罪が決ったのである。明雲大僧正は、僧籍をとりあげられ、俗人の扱いをうけ、大納言大夫藤井松枝ふじいのまつえだという俗名をつけられ、伊豆国いずのくにへ流される事になった。

この明雲大僧正は、久我大納言顕通こがのだいなごんあきみちの子で、仁安にんあん元年座主となり、当時天下第一と言われる程の智識と高徳を備えた人で、上からも下からも、尊敬されていた人だったが、ある時、陰陽師おんようしの安倍泰親あべのやすちかが、

「これ程、智識のある人にしては不思議だが、明雲の名は、上に日月、下に雲と、行末の思いやられるお名前だ」

といったことがあったが、今になってみると、その言葉もある程度うなずけるものがある。

二十一日は、座主の京都追放の日であった。執行役人に追い立てられながら、座主は泣くなく京をあとにして、一先ず、一切経谷にある草庵に入った。二十三日がいよいよ、東国伊豆に向って出発する日である。さすがに日頃住みなれた都を離れ、恐らくは二度と、帰れぬであろう関東への旅に立つ大僧正の心の内には、様々の想念が渦巻いていた。

一行は、夜あけがた京都を立ち、やがて、もう大津の打出の浜にまで来た。そこからは、比叡の山の青葉若葉の萌もえたつような色どりの中に文殊楼もんじゅろうの軒端のきばが白々とみえる。朝夕なれ親しんできた、その姿をみると、座主の目は忽ち涙でかき曇ってしまい、それからは二度と顔をあげて振り返ろうとしなかった。澄憲法印は、余りにも痛わしい座主の嘆きをみかねて、粟津あわづまで送ってきた。しかしどこまでも送っていくわけにもいかないので、そこで別れを告げることにした。澄憲の気持に感激した座主は、年来、心中にあった一心三観の教義――これは釈迦相伝の大事なもの――を伝授された。もちろん、澄憲はこれを大切に心中におさめて帰京したのである。

山門ではこの度の沙汰は不満どころか、全山、憤慨の極にあった。それも西光法師親子の告げ口のせいだとばかり、西光法師親子の命をとり給えと呪い続けていた。

いよいよ座主が伊豆送りされた二十三日、山門では、大会議が開かれていた。

「初代義真ぎしんより今日まで五十五代、座主が流罪になるなどという不法は行われなかった。いかにこの様な乱世末世の時代とはいえ、栄えある当山をないがしろにするやり方だ。即刻座主をうばい返そう」

勢の良いこれらの言葉はまるで、はやてのように全山に拡がり、われもわれもと、わめき声をあげて、東坂本にかけ下りてきたのである。ここで再び会議が開かれた。

「とにかくここにいる誰もが、粟津に行って、座主を取り戻したいと思っているのは確かだが、役人がついている以上、果して無事に取り返せるかどうかが心配だ。それには先ず、山王権現のお力を借りる以外に手がない。もし我々を助けて、無事に座主を取戻せるものなら、先ずここでその兆しるしをみせて頂こう」

という提案で、老僧達は一心不乱に祈り始めた。すると、山門に使われている鶴丸つるまるという少年が、急に体中から汗をふき出して苦しみ始めた。

「私に十禅師権現じゅうぜんじごんげんがのり移ったのです。どんな事があっても当山の座主を他国へ追いやる事は許せません。そんな事になっては、私がこのふもとに神として祭られていても、何の意味もない事です」

左右の袖を顔にあてはらはらと涙を流す。この不思議さに、

「お前が本当に、十禅師権現だというのなら、私共が証拠の品を渡すから、元の持主に返してみるがいい」

と老僧四、五百人の手にした数珠じゅずを、床の上に投げあげた。少年は走り廻って拾い集めると、一つの間違いもなく持主に返した。ここに、全山の衆徒は勇気百倍し、座主を取り戻す決意を新たにしたのである。

「これ程の神のご加護があるならば、恐るることはない。命をかけても、座主を連れ戻そう」

海からも山からも、座主の跡を追いかけてくる、雲霞うんかの如き衆徒の群に肝きもをつぶした護送役人は、座主をうっちゃって、命からがら逃げ出してしまった。

驚いたのは、明雲大僧正である。元々、道理一点ばりの人だからここに及んでも、喜ぶより先に、この事件の行末を気にかけていた。

「私は、法皇の勅勘を受けて流される罪人なのですから、少しも早く、都の内を追い出されて、先を急がねばならぬ身です。お志は有難いが、貴方あなた方に迷惑はかけたくない、早くお引き取り下さい」

と言う。しかし、このくらいで引き下る衆徒ではない。何が何でも山に戻って貰わねば、山の名誉にもかかわるとばかり、座主の決意を促した。

「家を出て山門に入ってからというもの、専ら、国家の平和を祈り、衆徒の皆さんをも大切にしてきたつもりですし、我が身にあやまちがあろうとは思われず、この度の事でも、私は、人をも神仏をも誰一人お恨み申してはおりません。それにしても、ここまで追いかけてきて下さった衆徒の皆さんの志を思うと、何とお礼を申し上げてよいものやら」

後は唯涙をぬぐうばかりで、荒くれ男の多い衆徒達も一様に涙を誘われた。

「とにかく早くこれにおのり下さい」

衆徒の一人がせきたてると、

「いや昔は三千の衆徒の上に立つ主でも今は罪人の私、輿こしなどはもったいない。たとえのぼるにしてもわらじばきで、貴方方と一緒に」

といって輿にも乗ろうとしない。すると先程からこの様子にみかねたのか、西塔さいとうの阿闍梨あじゃりで、祐慶ゆうけいという、名うての荒法師が、白柄の大長刀おおなぎなたを杖について、七尺の長身を波うたせながら、人の列をかきわけて前に出てくると、

座主に向って、

「そう理屈ばかり仰有おっしゃるから、今度のような事にもお遭あいになるのですよ。とにかく、さっさと乗って下さいよ」

とせかせたので、座主も、今はと諦めて、御輿に乗った。

無事に座主を取り戻した嬉しさに、衆徒一同は喜び勇んで、けわしい山道も難なく越えて、叡山へ帰ったのである。

叡山に戻った明雲前座主を一先ず、大講堂の庭に置くと、再び会議が開かれた。

「勅勘を蒙って流罪と決まった前座主を取り戻したはいいが、果して再び座主として我らの頭上に頂くべきであろうか? 一体如何いかがいたしたものであろう?」

これを聞いて先の祐慶は、再び前に進み出ると、かっと見開いた両眼から、はらはらと涙をこぼしながら、

「皆の方々、よく承れ、この叡山はそもそも日本に二つとない霊地であり、鎮護国家の道場である。当山の衆徒の意見は、世間からも尊重され、決してあなどられた例ためしはない。まして、高貴高徳の人である三千の衆徒の主が、無実の罪をうけた事は、当山はもちろん、世の人々が、憤ってやまない事なのじゃ。この罪なき人を、何で主と崇めて悪いことがあろうか、もし、又これがため、朝廷よりおとがめある時は、この祐慶喜んで罪に服すつもりでいるのじゃ」

全山に轟とどろくばかりの大音声だいおんじょうは、山々の峰にこだまして、なみいる大衆の心をゆさぶった。前座主は、東塔の南谷みなみだに、妙光坊に入られる事になった。これ程有徳の人物でも、たまには災難にあわれることもあるのである。

西光被斬さいこうがきられ

山門の衆徒が、前座主ざすの流罪を妨害して、山へ連れ戻した知らせは、後白河法皇をひどく怒らせた。

「山門の大衆どもは、勅命を何と心得えて、このように言語道断のことをするのだろうか?」

側に侍はべっていた西光法師も、前座主帰山の知らせに何か手をうたなくてはと、考えていた矢先だから、ここぞとばかり、一ひざ進めると、

「山門の奴らの横暴な振舞は今に始った事ではございませぬが、此度は又以ての他の狼藉ろうぜき振り、これは余程、厳重な処分をいたさねば、後々までも禍恨は「禍恨は」はママ絶たれぬものと思います」

したり顔に申し上げた。とにかく讒臣ざんしんは国を乱すということわざがあるが、西光らもその良い例で、何かと、自分の都合のよいように法皇の心を引き廻していたともいえる。

こんなうわさが山門にまで伝わってきて、中には、新大納言成親に命じて既に山攻めの仕度が始ったなどという者もあり、そうなってくると、「勅命にはそむきたくない」「いや勅命よりも座主が大事」という二派に意見が別れて山門の中で、仲間割れも起りそうな状態である。妙光坊にある明雲前座主は、気がかりで仕方がない。

一度勅命を拒否した以上、今度はどんな目にあうのかと、夜もおちおち眠れぬ始末なのである。

ところで話は変って、内外多事の情勢で、この所、例の陰謀運動も、はかばかしくはかどらない。とにかく平家は、びくともしない程不動の位置を保っているし、六波羅の守りは固い。一寸やそっとの謀叛むほんでは、さゆるぎもしそうもない現状に、いち早く気づいたのは、鹿ヶ谷ししがたにの定連の一人、多田蔵人くらんど行綱である。彼はかつて、新大納言成親から、

「貴方一人が頼みです。もしこの事に荷担下さるなら、恩賞は思いのまま、これはまあとっておいて下さいよ」

と弓袋ゆぶくろの料にと白布五十端を送られた事があった。貰ったものは、遠慮なく、家人に使わせて、着服してしまったものの、元来が気の小さい男だから、どうも不安で仕方がないのである。大納言や西光は、まるで簡単に平氏を滅すことができるようなことをいうけれど、それも、あの人里離れた鹿ヶ谷でこそ、安々と通る陰謀であって、実際、これが表に現われた時に、そううまくいくかどうか、何よりも、先ず自分の命が危いのではないか。彼らは、他人の命の事などさして気にもとめていないが、自分にとっては大切な生命、そうやすやすと殺されるのは真平まっぴらだ。――そこまで考えてくるうちに行綱の胸の中には、どうしても、この事を清盛に話してしまわなくてはという考えが、次第次第に広がっていくのを押える事ができなくなってきた。

「返り忠をすれば、命は助かる、いやそれだけが、自分の命を助ける唯一の道だ」

そこまで考えると、もう居ても立ってもいられない気持だ。今夜中に話してしまわなければ、明日になれば又どんなことになるかも知れない。とにかく早い方がいい。

行綱は、馬の仕度をさせると、夜更けの京の街を、西八条めがけて走り続けた。

額に汗をみなぎらせ、真蒼まっさおな顔に息使いも荒く、西八条の邸に入ってきた行綱に、家来達も驚いて、早速、清盛の所に知らせた。

「何、行綱だと? めったに来もしない奴が、又何でこんな夜中にやって来たんだ? とにかくおそいから、わしは逢わん、盛国もりくに、お前が、言伝てを聞いてこい」

清盛は傍らの主馬判官しゅめのはんがん盛国にいった。

暫くして盛国が戻ってきて、

「何か、直じきじき、お話したいとか」

「直きじきだと? 一体何だろう?」

さすがに清盛も、行綱の唯ならぬ様子に、何事か起ったのかと、不安になってきて、自分で渡殿わたどのの中門まで出てきた。

「この夜更けに、一体、何の用で、わしに逢いたいのじゃ?」

「実は、昼のうちは人目につきやすく、中々その折もございませんで、夜中お騒せしてまことに心苦しいのですが、このところ、後白河院の御所で、兵具ひょうぐを整え、軍兵ぐんぴょうを召集しているご様子はご存じでございますか?」

「ああ、あれか」

清盛は、人騒せな男だと思いながらのんびり答えた。

「あれは、何、叡山攻めの仕度じゃよ」

「それがそうでないのでございますよ」

行綱は、身近く清盛の側に寄ると小声で囁いた。

「実は、平家ご一門に関かかわる事でございまして、れっきとした謀叛むほんの準備なので」

「えっ?」

清盛も一瞬、さっと顔色を変えた。今の今まで、のんびりと行綱と話をしていた清盛とは人が違った様だった。目がきっと坐り、眉がぴりぴりと動いた。体が小きざみに震えて、今にも行綱にとびかかりそうである。

「院はご存知なのであろうか」

「もちろんでございますとも、第一、軍兵の召集は、院宣いんぜんということでお集めになりましたもので、ご存知にならぬ筈はございません。いつぞや、鹿ヶ谷の山荘で、院もお出での席、こんな事もあったのでございますよ」

と陰謀の始めから終りまでを、ある事ない事まぜこぜてしゃべりたてた。

清盛はまなじりをぴくぴくさせながら、それでも最後まで聞いていたが、

「うん、わかった、ご苦労だった」

というが早いか、自ら、大声で、侍達を呼び集めに奥に入っていった。

「既に火は放たれた」火つけ役の行綱は、任を果した安らかさと同時に良心の呵責かしゃくも加わって、別に追手などいるわけもないのに、はかまのもも立ちを高くとると、そのまま外へ逃げ出し、家に帰ると、ひっそり小さくなっていた。

清盛は、一族郎党をその夜の内に、ひそかに西八条の邸に召集した。寝耳に水の謀叛の知らせに、人々はまだ、半分、耳を疑ってはいたが、とにかく清盛のお召しなので、右大将宗盛、知盛らの諸将も甲冑かっちゅうに弓矢という、完全武装で集ってきた。その数はおよそ六、七千騎であった。

翌くる六月一日の未明、清盛は、検非違使安倍資成けびいしあべのすけなりを召し、院の御所への使いを命じた。資成は御所に着くと、大膳大夫信業だいぜんのだいふのぶなりを呼んで清盛の伝言を、法皇に伝えてくれるように頼んだ。

「わが君の仰有おっしゃるには、法皇側近の方々が、平家一門を滅して天下を乱そうという計画をお持ちとききました。こちらとしても捨てては置かれませんから、一人一人召し捕え、いい様に処分するつもりでいますが、その点あらかじめご了承下さって、何卒ご妨害などしないで頂きたいのです」

信業もこの知らせにひどく、どぎまぎしながら、

「暫くお待ちを、唯今、法皇にお取次ぎいたしますから」

と言い置いてあたふたと、院の前にかけつけてきた。

「どうやら、鹿ヶ谷の一件を、清盛が嗅ぎつけたらしく」

信業の知らせに、日頃、沈着な院も、返す言葉がない。唯、唇をわなわな震わせて、

「一体如何どうしたものであろう、のう信業、どうしたらよかろう」

と、咄嗟とっさの分別もつかずに、まごまごしておられる。信業だって、良い思案の浮ぶ筈もなく、それでも頭の利く男なら、何とかこの場は取り繕って、玄関に待たせっきりの資成に色よい返事を送って一応帰してしまえばいいものを、普段、のんびりと、公卿達との交渉ばかりで、こういう緊急事態に直面した事がないから、一緒になって、

「如何いたしましょう、如何取り計いましょう」

と、さっきから同じ事ばかりを繰り返している。

資成は、役目柄、どうもはっきりした態度をとれないらしい法皇の立場に、逸早く気づいたから、これで用事は済んだとばかり、さっさと清盛の所に帰ってくると、

「何か、ひどく慌てふためいている様子で、ろくすっぽ返事をくれません」と報告した。

「なる程、返事ができないわけだわい。行綱が申したことは、やはり真実であったか、やれやれ、あいつのおかげで、わしも生命拾いしたというわけか」

様子が判ってみれば、ぐずぐずしている間に、知らせが方々へとぶかも知れない。万事、早いに限ると、清盛は、飛騨守景家ひだのかみかげいえ、筑後守貞能ちくごのかみさだよしらに命じて、即座に、謀叛を企てた者の逮捕を命じることにした。

清盛は、先ず、使いの者を、新大納言成親邸へ走らせ、

「ご相談があるので、是非お出で頂きたい」と言わせた。

成親は、まさか謀叛がばれたとは思わないから、

「どうせ、山門攻めは見合すようにとか、何とか法皇に意見しろというんだろうが、とにかく、山門のことは、法皇も、てんで聞き分けがないから、難しいのになあ」

と呑気のんきな事を考えながら、車を走らせた。もちろん、これが最後とは思い知るわけもなく、いつもよりも、一段と美々しく着飾った行列でやってきたのは、虫の知らせであったろうか。

西八条の屋敷近くまでくると、甲冑かっちゅう、物具もののぐをつけた兵士達が、満ち溢れて、どことなく緊迫した空気が漂ただよっている。

成親も、思わず胸騒ぎがするのを感じたが、「まさか」と打消して、急いで牛車から降り立った。途端に、成親の囲りをぱらぱらっと、荒武者どもが取り巻いた。

「しばるのでございますか?」というと、

「まあいいだろう」

と答えたのは、誰あろう清盛入道である。

「かしこまりました」

と答えると侍共は、成親が一言もいうすきも与えず、縁の上に、引ずりあげて、とある一間に押しこめてしまった。そうまでされても成親は、事の意外さに、日頃の判断力も失って、唯、呆然ぼうぜんとするばかりである。

まもなく、陰謀の一味の面々、近江中将入道蓮浄、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行らが、続々と捕えられて、西八条に連行されてきた。

一味うたるの報に、西光法師は、もちろん、陰謀のばれた事を覚ると、馬に鞭をあて、矢庭に院の御所へ急いだ。しかし、それも道を固める平家の侍達に、たちまち捕ってしまった。

「西八条のお召しじゃ、早く参れ」

と西光の囲りを取り囲むと、この時に及んでも大胆な西光は、

「どうしても申上げねばならぬことがあって院の御所に行くところだ、帰りに西八条に寄るからそのように申せ」

と人を喰くったことを言う。

「何と不敵な男だ、何を院に申上げるかわかったもんじゃない、そうはさせないぞ」

多勢に一人身の悲しさ、西光は、馬から引ずり下され、しばりあげられて、清盛の面前に連れてこられた。

とにかく、陰謀の首魁しゅかいと目されている男だから、清盛の憎しみも又人一倍で、中庭に引き据えられた西光をみると、

「よくも、おのれ、この清盛に謀叛の心をおこしたな。それにしても、今のそのしばられたざまは何じゃ、何も言えまい、言えるものか、それ、こっちへ引ずれ」

と縁近く、西光を引ずり出すと、履物をはいた足をあげて、西光の顔を右左に、ごりごりと踏みにじった。

「元はといえば、たかが北面の侍の分際で、うまく院に取り入って、父子おやこ諸共、身分不相応の官職をだましとり、目にあまる行ないは前々から腹に据えかねていたが、此度このたびは、罪もない天台座主に無実の罪をなすりつけ、それでも事足りず、この平家滅亡の陰謀をめぐらした張本人、今はもう全てを諦めて、素直に白状しろ」

と怒鳴りつけた。西光は名だたる豪の者であったから、先程から、顔の色一つ変えず、傲然ごうぜんと清盛の言葉を聞いていたが、

「全く余計なことまで仰有おっしゃるお人だ、そういうことはこの西光の前では、口を慎んだ方が安全ですよ。とにかく、私は院に仕える者だから、院の執事しつじである成親卿が、院のご命令といって催されたことには、もちろん参加するのは当然のことで、それを、荷担しないなどとは申してはおりませんがね。唯一つさっきから黙って承っていると耳ざわりな事を仰有る。私が、身分不相応で、下﨟げろうの分際だというのなら、一体貴方は何ですか、公卿からけいべつされていた刑部卿忠盛の子というだけで、十四、五の頃までは無位無官、京わらべからさえ、高平太たかへいだといわれて、さんざからかわれていたくせに、それが、海賊を追払ったのがきっかけで、とんとん拍子に出世したまででしょう。その貴方と、北面の武士の子で、受領になった私とじゃ、余り違わないどころか、余り大きな口をきくとぼろが出ますぜ」

といい返した。

清盛は、真っ赤になって怒りだした。唇ばかりぶるぶる震えて、とっさに言葉も出ないほどである。とにかくしゃべらせておくと又何を言い出すかわからないし、言葉の上では分が悪い。

清盛は、松浦太郎重俊まつうらのたろうしげとしをかえり見ると、

「直ぐにも首を打ちたい奴だが、陰謀の全部を白状するまでは、責めて責めて責め抜いてやれ」

といいつけると奥へ入ってしまった。

重俊は、主人の言葉通り、あらゆる拷問を加えた。西光はここまできては別にかくし立てすることもなかったから、ありのままを白状した。白状の調書は、四、五枚に記され、用がなくなると、

「あいつの口をさいて、斬ってしまえ」

という清盛の命令通り、五条、西朱雀にしすざくで首を討たれた。

続いて、先に、流罪中の西光の嫡子加賀守師高、師経、その弟の師平もそれぞれの場所で首をはねられた。

小松教訓

清盛邸の一間に押こめられたままの新大納言成親は、次第に冷静になるにつれて、陰謀露顕の理由をあれこれと考えていた。

「それにしても、用意周到にとは思い続けておったが、どこかに疎漏な点があったのであろう? 北面の武士の内の誰かなども、今にして思えば、少しうかつであったか?」

いろいろに思い廻らしている時、後の方から、荒々しい足音がして、障子を手荒く引あけたのは、満身怒りにおののいている清盛その人である。

「そもそも、其許そこもとは、平治の乱で、殺されるばかりのところを、重盛が命乞いして助かったお人、それを、どんな恨があってのことか、当家滅亡の陰謀に荷担せられ、それでも人間か? 人間は恩を知ればこそ人間、受けた恩を仇で返すはさてもさても畜生同然、さあ有りのまま、逐一かくさず、この清盛に聞かせられたい」

言葉は丁寧だが、怒気は言外に溢れ、成親は恐しさに身も縮むばかりであった。

「全く以て、左様な恐しい事に組した覚えはございません。誰か私に恨をもつ者の讒言ざんげんでは」

「お黙りなさい、この期ごに及んでも、まだ白ばっくれると仰有るなら、これ、誰か、西光の自白調書を、これへ」

持ってこられた西光の白状書きを、声高らかに読み上げた清盛は、

「これでもまだ、知らぬと言わるるか、これでもまだ弁解の余地があると言うのだな」

と憎々し気に成親をにらみつけ、書類を顔にたたきつけると、障子をがたっと閉めて出て行ってしまった。

しかしそれでも、清盛はまだ腹の虫が治まらなかったらしい。難波経遠なんばのつねとお、瀬尾兼康せのおのかねやすを召し寄せると、

「きゃつを庭へ引ずり下せ」

と言いつけた。

二人は一瞬顔を見合せて、互の腹の内を確かめ合った。

「何をぐずぐずいたしおるのじゃ」

清盛は焦々いらいらしている。

「さようにございますが、成親卿は小松殿のご親族、小松殿の思惑も如何いかがかと」

恐るおそる切り出すと、案の定清盛は、かんかんになった。

「この馬鹿者、お前らは、重盛が大事で、この清盛の命令は二の次だと言うのだな。それならそれで清盛にも考えがあるぞ」

大きな眼をぎろりと動かした。二人はこの上の反抗はかえってよくないと思い直して、仕方なく成親を庭へ引ずり出した。

その様子を見て清盛は、漸く少し愉快そうな顔つきになった。

「それ、声を出すまで、ねじ伏せろ」

二人は、左右から清盛に気づかれぬ様に成親の腕をとると、

「何でもいいから声をお出しなさいませ」

と囁いた。

成親は、いかにも苦しそうに、うめき声を出した。その様子をみていると、本当に切なさそうで、全く、地獄で、娑婆しゃばの罪人を業ごうの秤はかりにかけ、浄玻璃じょうはりの鏡にひきむけて、閻魔えんま大王の家来達が、折檻せっかんしているようにしかみえなかった。

成親は、庭先に頭をすりつけられながらも、息子、丹波少将成経たんばのしょうしょうなりつねを始め幼い子供達が、この後、どんな苦しみにあうのかと、そればかりが心配であった。丁度六月のさ中で、気候も暑い上に今、炎天下に引き出され、汗と涙にまみれながら、成親は、「小松殿だけは何とか、よいように取り計らって下さるであろう」とそればかりに、はかない望みをかけているのであった。

その小松内大臣重盛は、事件が一先ず落着いた頃になって、嫡子維盛と同道で、僅か七、八人の供を連れたまま、何事もなかったように悠々とやってきた。

清盛を始め、一同が、意外な面持で見守っている中を、ゆっくりと重盛は車から降り立った。貞能さだよしがつと走り出て、

「お家のおん大事というのに、又一人の軍兵もお連れにならぬとは、何とした事で」

と問いかけると、重盛は静かな口調で、

「大事とは、天下の大事を申すものじゃ、かようの私ごとを、大事とは言わぬものなのじゃ」

と言い捨てて奥へ入っていった。

今の今まで、ものものしく武装して緊張していた者たちは、何となく、きまりのわるい思いがしたのである。

屋敷うちに入ると、重盛は、早速成親を探して歩いた。あちらこちら、障子を引あけ引あけしているうちに、とある一間に厳重に木材を打ちつけたところがあった。押し入ってみると、成親が、うつ伏せになったまま、泣いていたらしい。途端に、ぱっと面を輝かして、重盛にすがりついた。地獄で仏とはまさにこのことであろう。

「どうしたわけか、かように情ない目にあっております。貴方のお出でを今か今かとお待ちしていたのです。かつて平治の乱には、あわやというところをお助け頂き、その上今日は正二位大納言にして頂きました。年既に四十を越え、生きている間にご恩をお返えしできるかどうかさえわかりませんが、何卒、今一度、この命をお助け下されませぬか。命さえ助かれば出家遁世とんせいの上一生菩提ぼだいをとむらって暮します。どうぞお願いいたします」

「もちろんですとも、まさか、お命を取上げるような事はないでしょう。万一そのような事があったとしたら、この重盛が、わが身にかえても助命を嘆願するつもりでいますし、何卒、そんなにお嘆きにならないで、気を強くお持ち下さい」

優しく慰めて、早速、清盛のところにいった。

「父上、お憤りは尤もの事と存じますが、成親卿の首をはねられる事はお取止めになった方がよろしゅうございます。とにかく、白河院の御時からの名家で、正二位大納言というご身分、加えて、院のご寵愛並々ならぬ人を殺すことは、どんなものかと思います。都の外へ追放すれば、それでよいではございませんか。昔から、菅原道真すがわらみちざね公、或は、源高明たかあき公といった人々が讒言ざんげんのために、無実の罪を着せられた例もあり、往々にして誤りはあるものでございます。刑の疑わしきをば軽んぜよ、功の疑わしきをば重んぜよという言葉もある程でございます。まして、お手元に現在、召し捕えられている以上、逃げもかくれもできません、急ぎ処刑の必要はちっともない筈です」

いつもながらの重盛の能弁には、清盛も言葉をさし挟む余地もなく、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。

「私が、かように、成親卿をかばうのは、私が成親卿の妹を妻とし、又維盛が、卿の婿だからといった、縁戚関係があるから言うわけではないのです。その点よくよくお間違い下さらぬよう。私はひとえに、世のため、君のため、そして我が一門のためを思って申し上げているのです。かつて、少納言入道信西が二十五代絶えていた死刑を復活し、藤原仲成なかなりを殺したり、又、左大臣頼長よりながの死骸を掘りおこしたりなどして評判を落した事を覚えておいででしょうが、昔からよく、「死罪を行なえば海内に謀叛の輩ともがら絶えず」と申します。平治の乱に、信西の死骸をわざわざ掘りおこし、首をはねてさらした事もありました。あれなどは、信西が自ら行なった行為が、我が身に返ってきたと申しましょうか、とにかく恐しいことです。成親卿らは、気も弱い男ですし、それ程大胆な人でもなく、まして朝敵というわけではなし、いずれにしても、成親一人を死罪にしても、しなくても、たいしたことではありますまい。父上には一代の栄華を極められて、これ以上のお望みはないでしょうけど、この上は、子孫代々いつまでも、一門が繁昌して欲しいと思います。とかく、先祖の悪事が子孫に及ぶ事があります。善事を行えば、又必ず報われることもございます。何卒、もう一度お考えになって、今宵こよいの死刑は思い止まって下さい」

理路は整然と、情には溺れず、あくまで大義名分の立場から説き起してくる重盛の正攻法には、いつでも清盛もかぶとを脱がずにはいられない。とうとう、成親の死罪だけは思い止まった。

重盛は、父を諫めて、中門から出てきたが、清盛の承諾を得たものの、まだ何かと不安であったから、侍達を集めると、

「たとえ清盛公のご命令だからといって、大納言を殺すような事はするな。清盛公は、気の短いお人だから、腹立ちまぎれに、かっとなっては、後でいつも後悔なさる。お前達も、間違った真似まねをして、あとで、この私にどのような目にあわされても、恨むでないぞ」

とじろりと侍達を見廻したので、一同、恐ろしさに震え上った。重盛は、その中に、難波経遠、瀬尾兼康の二人を見つけると、ずかずかと側に寄り、

「さても、経遠、兼康、今朝方、成親卿に対する振舞は余りにも礼儀知らずであったぞ。重盛の耳に入ることを考えてはいなかったのか、田舎武士いなかざむらいはいたし方ないものだのう」

といったので、二人とも、恐れ入ったまま返事もできずうなだれていた。

成親捕わるの知らせは、成親についてきた侍達の足で逸早く、北の方かたに「北の方に」はママ住む中御門烏丸なかみかどからすまるの邸に知らされた。北の方を始め、おつきの者達も、人目もはばからず泣き叫んだ。

「既に西八条から追手が出たと申します。少将殿始め、若君達も、全て捕われるという話でございますから、とにかく、急いでお姿をおかくしになった方が身の為でございます」

侍の言葉にも、北の方は、唯、よよと身を震わせて、泣き崩れるばかりである。

「こんな悲しい身の上になって、いつまで安穏に生きのびるより、大納言様と同じく殺されてしまった方がいい。それにしても、今朝が今生最後のお別れだったとは、何としても悲しいものよ」

そのまま、泣き伏してしまうのである。そのうちに、追手の武士達が迫っているという情報がもたらされて、やはり捕まって恥知らずな悲しい目にあうよりもと、仕方なく、十の長女と八つの男の子とを連れ、どこというあてもなく、車に乗った。といっても、どこかに落着かないわけにもいかず、北山の雲林院うんりんいん近くの僧庵の一つに漸く身をかくまった。送ってきた侍達も、わが身の愛いとしさに、暇を告げて帰ってしまうと、残っているのは、頑是がんぜない子供ばかりである。話相手もないまま、自然想いは、夫大納言の身の上にとんでゆく。暮色も漸く迫ってきた。庭のあたりを見ながら、大納言のお命は今夜限りかと思えば、又新しい涙がつきるところを知らない。

いつもは、侍女、侍達がせわしく働いている屋敷の内も今は唯ひっそりとして、物は取り散らかされ、門をしめる者もいず、馬に草をやろうともしない。僅かばかり北の方についていた留守居の者たちも、今は何をする気力もなく、唯、これからの不安に茫然ぼうぜんとするばかりである。

昨日までは、夜もまだ明けやらぬ内から、車馬が立ち並び、邸の中は客人でにぎわって、毎日を遊び暮し、世を世とも思わぬ豪勢な暮しっ振りで、近所の人も声を忍んで遠慮する程の家だった大納言家も、たった一夜の内に、余りといえば余りの変り方である。

栄える者は必ず滅びる、楽しみ尽きて悲しみきたる。この言葉を、まざまざとみせつけられた大納言家の変りようであった。

少将乞請こいうけ

丹波少将成経なりつねは、その夜、院の御所の宿直で、まだ家には帰っていなかった。そこへ、大納言の家来が、急を知らせにかけつけてきた。始めて、事の子細を知った少将の驚きも深かった。それにしても、宰相さいしょう殿から、何ともいってこないのは変だ、と思っていた矢先、宰相からも使いの者がとんできた。宰相とは、清盛の弟教盛のりもりのことであるが、教盛の娘が成経の妻になっていたから、成経には舅しゅうとであった。

「何事か存じませぬが、清盛公から、西八条へ出頭するようにというお達しが参っておりますが」

宰相の使いの言葉を聞くより早く、少将は、その意味を察して、法皇の側仕えの女房を呼び出すと、事の次第を物語った。

「昨晩は、何となく往来のあたりが騒然としておりまして、私なども、又、山法師が、陳情にでも参ったものかとばかり、うかつに考えておりましたが、何と、この成経の身に関りのあることだったのでございます。聞けば、父、大納言は、今夜斬られるとかのこと、私とても、同じ事であろうと思います。もう一度、院の御前に伺候しこうし、お別れをしたいと思いますが、おとがめをうけた身となっては、却ってご迷惑がかかってはと思うのでございますが」

年にも似ず、落着いた態度であったが、女房はびっくりして、法皇にこの事をご注進申しあげた。

法皇も、今朝の清盛の使いで事件の起きた事は知っていたが、さすがに側近く仕える者の身にも及んだのかと改めて驚かれた様子だった。

「やっぱりそうだったのか、とうとう、もれてしまったのだな。それはそれとして、少将に遠慮せず参れと伝えよ」

院のお言葉に従って、少将が御前に進み出たが、涙が先に立って、言葉も出ない。法皇とて、思いは同じである。顔を見交しては、袖を顔にあて泣くばかりである。しかしそうそう長居もできないから、少将は法皇の前を引下ってきた。法皇は、少将の去りゆく姿をみながら、

「世も末というが、まことにそうじゃのう。これ限りで、再び少将にも逢えないのであろうな」

とまた涙をお流しになった。

院中の人々も、少将の袖をとらえて離さず、袂たもとにすがって、いつまでもいつまでも別れを惜しんでは、又ひとしきり涙を流すのであった。

舅の教盛の許には、北の方がお産のため、実家に帰っていたが、この知らせを聞いてから唯ならぬ身体が一層衰弱して、床に就いていた。少将は、御所を出てから、ずっと涙を流しっ放しであったが、この北の方の哀れな様子を見ては、いよいよ嘆きはつのる一方である。少将の乳母うばで六条ろくじょうという女が、

「貴方様が、お生れなされた時から、お乳をあげ申して以来、我が年の老いゆくことよりも、ご成人が嬉しくそればかりが楽しみに、いつか、二十一年にもなってしまいました。院へお務めになるようになっても、お帰りが遅いのさえ心配で、お顔をみるまでは安心もできませんでしたのに、今はまた、どんな目にお遭あいになるのでしょうか?」

と、よよとばかりに泣き崩れる。

少将も今更に事の恐しさが身にしみるけれど、

「そんなに泣くでない。宰相がおいでになるからには、命だけは、何とか乞こい請うけて下さると思うよ」

と慰め顔にいったが、六条は、耳もかさないで泣き崩れるばかりなのだった。

そうこうするうち、清盛からは、しきりに、少将を同道せよというさいそくが来る。

宰相も、今は仕方なく、

「ともかく、行くだけ行ってみよう、その上で、又、どうにかなるであろう」

と少将と相乗りで、西八条にやってきた。

邸近くで車をとめ、取次ぎを頼むと、

「丹波少将は、此の邸内には入れてはいかん」

という清盛の言いつけであった。仕方なく少将は、近くの侍の家に一先ず置いて、宰相が一人、門の内に入った。宰相の姿が見えなくなると直ぐ、少将の囲りを軍兵が取り囲んだ。宰相とも別れ、全く一人ぼっちになった少将の心細さは、何ともいえないものだった。

中門に入った宰相に、清盛は目通りを許さなかった。仕方なく宰相は源げん大夫判官季貞すえさだを通じて、言葉を伝えて貰う事にした。

「つまらない人間と関り合いになったことは、返すがえすも残念ですが、これもいたし方ありません。成経に縁づいた娘が、身重の体で、実は今朝から、この嘆きのため、息も絶えだえなのです。如何いかがでございましょうか、少将一人生きていても如何どうなるものでもありません、暫くこの教盛にお預け下さらぬか、決して間違いなどは起さぬように厳重に監視いたします」

これを聞いて清盛は、

「又教盛のあれが始ったな、全くわけの判らんことばかり申して」

とろくすっぽ返事もしなかったが、暫くして、

「新大納言成親は、平家一門を滅して天下を乱そうとしたのじゃ、少将は、この成親の正真正銘の嫡子じゃ、宰相が彼と親しかろうが、親しくなかろうが、そんな事は知ったことではないが、それ程の重罪人をかばおうと思っても無駄じゃ。第一この反乱がもし成功していたら、今頃、宰相だってそうやって、のこのこと歩き廻ってなどおられなかった筈じゃからなあ」

清盛の言葉を宰相に伝えると、ひどく失望した様子で、もう一度伝言を頼んだ。

「保元、平治の合戦以来、いつも殿のお命に代る覚悟で働いてきました私、この後も、一度び事が起らば、必ずご馬前にはせ参ずる覚悟で、又私が年老いて役に立たなくなっても、子供達が何人かおりますから、必ずや、一方の御楯みたてとなって、手となり足となるつもりでいますのに、成経を一時お預け下さることさえ、お聞き入れないとは、どうやら、この教盛に二心あるとでもお思いとしか受取れません。それ程、ご信用がないのでしたら、この世にあって、何の生き甲斐がございます事やら、それならば、出家入道し、どこかの山里に庵を結んで、静かに菩提ぼだいをとむらいます。世にあれば、望みもでき、望みもかなわなければ、恨みも起るものですから、仏の道に入ってしまえば、そんな気持も起らないでしょうから」

季貞は清盛に宰相の言葉を伝え、

「どうやら宰相は、本当に諦めてしまったらしいようで、どうにでもお気の済むようにといっていられます」

と言い添えた。

清盛もさすがに驚いて、

「いくらなんでも、出家までせずともよいわ。仕方がない、少将を暫くの間、教盛に預けると申しておけ」

と漸くに折れた。

清盛の許しを聞いて、肩の重荷を下した教盛はしみじみと、

「全く子供など持つものではござらぬのう、娘婿むすめむこだからこそ、これ程まで心を砕くので、全く赤の他人にはできぬことじゃのう」

と述懐した。

教盛の姿を見た少将は、走り寄ってたずねた。

「ご首尾は?」

「清盛公、かつてないお腹立ちで、お目通りも許されず、助命嘆願も受付けては下さらなかったのを、わしが出家入道するとまで申したもので、仕方なく、一時、私の家にいる事は許して下さった。しかし、これも長続きするかどうかはわからぬのう」

と暗然たる面持ちであった。

「いや、それはそれで、一時にせよ、おかげを持ちまして、命は伸びたのでございますが、父の方の事は如何なったか、お聞きにはなりませんでしたか?」

「そこまでは、とても手が廻らなかったのじゃよ」

少将は、さめざめと涙を流し、

「命を長らえさせて頂いたご恩は、何とも有難いのですけれど、命の惜しいのも、もう一度、生きて父に逢いたかったからのことで、父が斬られては、私一人生きて何になりましょう。それよりも、生きるも死ぬも、一緒にお考え下さるように申し上げて下さいませぬか」

「さよう、のう、そなたのことばかり考えていたから、つい父上の事にまで思い至らなかったが、聞くところに依れば、小松殿が今朝、いろいろ手を尽して助命をお願いしていたらしいから、ここ暫くはお命に別条ありますまい」

「それは、又何と有難い事で」

少将は、今度は、嬉しさに泣くなく手を合せた。この窮境におち入っても、尚、親の身の上に思いをはせる心は、やはり誠の親子なれで、教盛も、貰い泣きしながら、やはり持つべき者はわが子だと、つくづく思ったのである。

教盛と打ち連れて帰ってきた少将をみると、女達は、生き返った人を迎える程の喜び方で、またまた話を聞いては嬉し泣きをつづけた。

教訓

陰謀荷担者のほとんどすべてを捕え、これを幽閉した清盛は、まだそれでも気の済まないことが一つあった。いうまでもない、陰謀の本当の元凶というべき法皇を、目と鼻の先に野放しにしていることだった。とにかく相手は法皇であって、西光や成親とはわけが違う、うかつに手の出せないことが、余計、彼を焦々いらいらさせていたのである。

やがて清盛は、赤地錦あかじにしきの直垂ひたたれに、黒糸縅くろいとおどしの腹巻、白金物しろかなもの打った胸板むないたを着け、愛用の小長刀こなぎなたをかいばさんだ物々しい装立いでたちで、側近の貞能を呼びつけた。

清盛の前に伺候した貞能も、木蘭地もくらんじの直垂、緋縅の鎧よろいを着用している。今にも戦の始りそうな、そんな二人の装立ちである。

「のう、貞能、つくづく思うに、過ぐる保元、平治の乱には、この清盛が、一命を投げうって朝廷のお味方をいたし、逆徒を平げてまいったことは、そちもよく存じておろう。そのために、何度か命を失わんとしたこともあった。たとえ、誰が何といおうと、この忠臣一門を七代まではお見捨てなさるまいと思っていたわしが、うかつであったろうか? それも、成親、西光の如き賤しい奴らのいうなりになって、我が一門を滅ぼそうとなされる法皇のお気持は、何としても心外じゃ。この後にも、何日いつ、何時なんどきそういったふらちな奴らの言葉に耳をお傾けになって、院宣をお下しになるか、わかったものではない。もしそうなって、当方が朝敵と呼ばれたあとでは、いかに悔やんでもこっちの負けだ。今暫く、世が静まり、不穏の気配のなくなるまで、法皇に鳥羽殿に移って頂くか、またはこの六波羅へお移り願うのがよいと思うのじゃよ。それに就ては、おそらく北面の武士の間に異議も起り、矢も放つ者も出てこようと思う。侍共にも、一応、軍いくさの用意をさせておけ。とにかく、わしは、あの気の変り易い法皇様へのご奉公だけはこりごりいたした。さア、馬にくらおけ、鎧を出せ」

いつに変らぬ気の短い清盛の命令で、邸内はてんやわんやの大騒ぎである。この混乱の真最中を、主馬判官盛国は、いち早く重盛の邸へ報告にかけつけた。

「一大事でございます。清盛様のお気が変り大変な事になりました」

重盛はとっさに、成親のことと思い違えて、

「では、とうとう、成親卿は首をはねられたのか?」

「いえ、いえ、そのことではございません。清盛公は鎧を召され、侍どももすべて物具もののぐの用意をいたし、唯今より、法住寺殿へ押しかけるご決意のようでございます。何でも、法皇様をしばらく鳥羽の北殿きたどのへお移し申すか、それとも六波羅へ来ていて頂こうというおつもりとのことでしたが、内心は、九州の方へでもお流し申そうというご計画に思われます」

「そんな恐しいことを、いかに父上でも」

と、一たん否定した重盛も、今朝方の清盛の興奮の様子では、そういうこともあるのかも知れないと思って、車をとばして西八条にかけつけてきた。

西八条の邸内には、既に一門の重だった者たち数十人が、思い思いの鎧をつけて、ずらりと立ち並び、諸国の受領ずりょう、衛府えふなどは、縁先からあふれて庭を埋めている。それぞれ、旗さしものを側近く引き寄せ、兜かぶとの緒おをしめて、馬の腹帯をかたくして、出陣の命令を今かいまかと待ちわびているのであった。

重盛は、烏帽子に直衣なおしという平服姿で、さらさらと衣ずれの音をさせながら、終始、落着き払って、清盛の座所にやってきた。重盛の到着を聞いた時から、「あいつのことだから、又じゃらじゃらした平服姿で、わざとやってくるぞ、少しは意見してやらねば」

と思っていた清盛だったが、わが子とはいえ、一目いちもくおいている上に、その礼儀正しさと、慈悲深さは定評のある男であり、会ったとたんに清盛は、自分の格好が恥ずかしくなってきた。急いで障子を立てると、彼は、慌てて腹巻の上から法衣をひっかけたが、胸板の金物が、ともすると着物の合せ目から見えるのを、無理にひっぱって、しきりに衿えりをかき合せていた。

重盛は、弟宗盛の上座に着くと、黙って父の顔を見た。しばらく沈黙が続いていたが、清盛の方から先に口を切った。

「いろいろ調べてみると、成親の謀叛むほんは、ほんの出来心で、実は、すべてを計画し、宰領したのは法皇らしい。そこで、とにかく世の中が一応治まるまで、鳥羽の北殿か、またはこの六波羅に移って頂いていた方がよかろうと思うのじゃが、どうであろうかな?」

清盛は、重盛の顔色を伺いうかがいそれだけ言った。すると重盛の顔から血の気が引いたと思うと、彼ははらはらと、涙をこぼした。

「如何どういたしたのじゃ、何か気にでも障ったのか?」

「父上、唯今のお言葉を承っておりますと、平家一門の運命もここに極まれりという感じです、とかく人間は、運のつかない時に悪いことを思い立つものです。それに父上のそのご様子は、どう見ても正気の沙汰とは思えないのです、天孫降臨以来この方、太政大臣ともあろう人が甲冑かっちゅうをつけたということは、今まで聞いたことがありませんし、どう考えても礼儀に背くことと思われます。更に父上、父上は出家の身ではなかったのですか、出家の身で甲冑をまとうのは、これ又破戒無慚むざんの罪、その上に仁義礼智信の法にもそむくことになりましょう。子として父上に意見するのは、おこがましいことですが、心に残したことは、後々までしこりになって残ると申します。思い切って申し上げましょう、世に四恩ありと申します、天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩、その内で最も重いのが国王の恩だと言われます。まして、我が一門は、先祖にも例のない太政大臣の高位にのぼり、無能無才の私でさえ内大臣の位を頂いております、それだけではございません、国土の半分は一門の所領となり、荘園の権利はすべて一門の手中にあります、これが朝廷のおかげでなくて何でしょうか。この莫大ばくだいな恩義を忘れて、法皇に礼を失することは、天照大神、正八幡宮の神慮にもそむくことです、それに大体、法皇のお考えになりましたことも一理ないことではございません、とかくこの一門はその武功に目がくらんで、傍若無人の振舞をすることも何度かありました。とにかくこのたびは、ご運に恵まれて、陰謀露顕、その上、成親卿始め一味の面々も捕えられた上は、法皇がどのようなご計画をお持ちであろうと、恐れることはございません。適当の処分を行なった上は、益々ご忠勤を励まれるがよろしゅうございます。そのうちには法皇も当方の誠心にお気づきになるに決っております。君主である法皇と、臣下である父上とを並べて考えれば、当然、法皇にお味方せねばならぬのが私の立場、法住寺殿を守護し法皇をお守りするのが、並々ならぬ君恩へのせめてものご奉公と思います。幸い常日頃、私のために一身を捨てようという部下もあり、彼らをひきいて法住寺殿にはせ参ずることになりますれば、何といっても容易ならざる大事になりましょう。君に忠を捧げんと思えば、山よりも高き父の恩を裏切ることになり、不孝の罪を逃れんと思えば、不忠の罪を冒すことになり、私の進退もここに極まった感があります。唯、こうなった上は、むしろ、いさぎよく重盛の頸くびをおはね下さい。法皇の御身を守ることも許されず、まして攻めるなどとは思いもよらないこの私です、生きていては唯、板挟みの責苦にあうばかりです。それにしても、我が一門は、あまりに短時日の内に、この世の栄華富貴を極め過ぎたようです、この家には、高禄、高位が重なり合っております、一年に二度実のなる木は、その根が必ず傷むという言い伝えがあります。平家の御運も、そろそろ末になったのではないかと案じている次第でございます。かような末世に生れ合せた私の運命を、悲しく思います」

情理をつくし、誠心誠意かきくどく重盛の心の内を推し量って、座にあるすべての人々は、みんな涙に暮れてしまった。

こうなっては、いつもの通りの横車も押すことのできない清盛である。諸将の手前もあるし、一門の人望の中心である重盛を相手では、どうにもできない。この機会こそ、院政打破の絶好の時と思っていただけに、清盛は内心がっかりしてしまった。

「まア、まア、重盛、落着きなさい。おれだって、君恩の並々ならぬ事ぐらいは知っている。しかし、後白河法皇はこれまでにも、何度かそういう噂の渦中に立った方でもあり、また、いつ、どこかの悪党どもにそそのかされて、つまらぬことでもお考えなされぬでもないと思ったまでのことじゃよ」

「これは、ほんのたとえでございます。いかなる事態が出来しゅったいいたしましても、法皇を何とかなされるなどとは、以てのほかのお考えと思います、それは父上、余りに思いあがった、ご思案としか思えませぬ」

重盛は、それだけはっきり清盛にいうと、ついと立って、中門のあたりにたむろしている侍達を呼び寄せた。

「唯今、重盛が、入道殿にご意見申し上げたことを、お前達も聞いたであろうか、今朝も実はこういう事態が起ろうかと内々心配いたし、ずっと留まっていようかとも思ったが、余り騒がしいので、一先ず帰ったのじゃ。さて皆の者、清盛公について、御所攻めのお供に加わるのは、お前らの勝手じゃが、この重盛の頸がはねられたのを、しかと見届けた上で出陣いたせ、わかったな、では帰るといたそう」

来る時と同じ静かな行列は、西八条の邸を出ていった。

烽火ほうか

宿所に帰った重盛は、主馬判官盛国を呼びだすと、

「唯今、重盛が、天下の大事を聞き出して参った。常日頃、重盛のために命を惜しまぬ者があれば、急ぎ集めるように」

といった。この知らせがたちまち広がったから、日頃、物事に動じぬ人のお召しというので、まさに天下の一大事とばかりに、誰も彼も、おっとり刀で小松殿へ集ってきた。小松殿で何事かが起るという知らせは、西八条にも届いていた。西八条につめていた数千騎は、誰いうとなく、一人残らず、小松殿にとんでいってしまい、清盛邸はひっそり閑としてしまった。驚いたのは、清盛である。貞能を呼ぶと、

「一体、重盛は、何のつもりでこれらの兵を狩り集めたのだろう。まさか、さっきわしに申した事を実行して、このわしに弓矢を引こうというつもりではないだろうな」

といささか心細げにいった。

「とんでもございません、あの方に限ってそんな馬鹿な真似まねをなさるはずはございません、むしろ、余り言い過ぎたぐらいに思っていらっしゃるくらいです」

しかし清盛は、先程の闘争心を失って、今は、もうすっかり気が滅入っていたし、まして重盛と仲違いすることの不利なことはわかりきっているのだから、法皇を六波羅へ移すことも今はすっかり思い止まっていた。彼は着ていた腹巻を脱ぎ、いつもの法衣を身にまとうと、気のない念仏をくり返していた。

一方、重盛邸に集った兵はおよそ一万騎という多勢であった。重盛は中門に出て一同に向い、いつに変らぬおだやかな口調で、

「日頃の約束通りはせ集ってくれて、まことに有難い、ところで中国にこんな話がある。周しゅうの幽王ゆうおうに一人の寵妃ちょうきがあった、ところが、彼女は笑ったためしがない。たまたま、天下に乱が起き、兵を集める目的で烽火を挙げた、この国では、乱が起き兵を集める際、太鼓をたたき、所々に火を揚げさせる習いなのじゃ、ところで妃は、烽火を見て、はじめて笑った。それ以来妃の笑顔がみたくなると、幽王は烽火をあげさせた。そのうち余りにそれが重なるので、いつか兵も集まらなくなった、そこへ実際に乱が起き、幽王の身辺が危くなった。すると幽王は早速、烽火をあげた、誰一人それを真実の烽火と思う者はなく、軍兵はほとんど集らなかった。それで幽王は亡びたのじゃ、これは中国の故事じゃが、今後、再び、重盛の命があったなら、このようにしてかけ集って参れ、実は今日は、特に天下の大事を聞き出したので、早速皆の者を招集したのじゃが、よくよく調べてみると、虚報であった。ご苦労であったが、おのおの方引取られい」

これは重盛の案じた一計だったのだ。万一の時、我が身にどれ程の味方がつくのかを知り、併せて、父清盛には、この様子をみせて、法皇に対する謀叛心をやめさせようと思ったのであった。

法皇は、あとからこの事を聞き、ひどく感動された。

「今に始ったことでないにしても、当代稀なる人格者だ。怨を恩で返された心の高邁こうまいさには頭が下がるのう」

とにかく器量といい、才覚といい、これほどの人物は稀といえるであろう。

新大納言流罪

六月二日。その日は新大納言成親流罪の日である。都を逐おわれる日なので、特に許されて、客間で食事を饗せられた。さすがに万感胸に迫ってか、成親はろくろく箸はしもとらなかった。するうちに早くも迎えの車がやってきて、早く早くとせきたてる。成親は後髪を引かれる想いで車に乗った。

「もう一度だけ、小松殿にお逢いしたいのだが」といってみたが、許されるわけはなく、囲まわりはものものしい武装兵ばかりがびっしりと取り囲み、一人の縁者、家来の姿もない。

「たとえ、重罪で遠国に流されるにしても、一人の家来もないとは何と心細いことか」

成親が、車の中で、そっとつぶやくのを耳にして、守護の家来も今更気の毒に思うのであった。

朱雀大路すざくおおじを南に下ると、やがて内裏が見えてきた。成親は車の中からよそながら別れを告げていたが、大納言流罪の知らせに、集っていた雑色ぞうしき牛飼達は、かつてはあれほどの権勢を誇った大納言が、今は一人淋しく都を去ってゆく様子に涙を流さぬ者はいなかった。まして、都に残る北の方、幼い子供達の行末を考えると、余りの痛わしさに、顔をそむけてしまう者もあった。やがて車は鳥羽殿を過ぎた。法皇が鳥羽殿に行幸の際は必ず供奉ぐぶのうちに入っていた成親であった。それが、余りにも激しい身の上の変化である。華やかなりし時代、成親の別荘であった洲浜殿すはまどのもよそ目に見て通った。過ぎ去った日の一こま一こまが、彼の目の前を、あわただしく通り過ぎるうちに、いつか車は南門を出た。ここからは船旅である。

「これから、どこへいくのじゃ、どうせ殺されるものならば、都には余り遠くないこのあたりで殺して欲しいものを」

大納言の気持もさこそとうなずかれても、命令のない者を勝手に殺すわけにはゆかない。やがて成親は警固の一人難波次郎経遠つねとおを呼び寄せ、

「もしこのあたりに、わたしの身内の者か、大納言家に関りのある者がおりましたら、探して来て貰いたいのです。舟に乗る前に言っておきたいこともあるので」

といってたのんだ。

経遠があたりを走り廻って聞き歩いたが、名乗り出るものは一人もいない。皆は、後の祟たたりを恐れて近寄らないのである。これを聞いて成親はひどくがっかりしたらしい。

「あの当時は、私についていた者は一、二千人もあったろうか? いやそれではきかなかったかも知れない。だのに、今となっては、他よそながらでも、私の姿を見送ってくれる者もいないのだ」

と泣く姿には、経遠始め、物に動ぜぬ荒武者までが、ついもらい泣きをしてしまうほどであった。

成親の乗った船は、普通の屋形船だったが、身に添う者は唯涙ばかり、荒々しい兵士達に囲まれて海上を渡る成親の目には、熊野詣での華やかなりし航海の想い出が、ありありと見えてくるのである。

大物だいもつの浦に着いた成親一行に、京都からの使いが来たのが、六月三日である。

死罪を一等免ぜられて、備前びぜんの児島こじまへ流罪という知らせであった。同時に、重盛から成親宛の親書があって、

「何とか、もう少し都に近い山里にもと奔走したのですが、どうも残念な結果になってしまい、申しわけない次第です。しかしお命だけは、確かにお預りしましたから、それだけを心頼みでいて下さい」

という便りで、同じく難波経遠にも、くれぐれも待遇に注意するようにという伝言があった。更に、身の囲まわりのこまごました仕度までも、何くれとなく気を配ってくれたのであった。

いよいよ配所が決ってみると、さすがに一縷の望みも絶たれたという感じで、成親は今更に法皇始め都に残してきた妻子のことがなつかしく、二度と再び生きて逢うこともできまいと思うだけに、その想いは切々と心に泌みとおるのであった。

といっていくら泣いてもわめいても、幽囚の身は如何いかんともしがたく、やがて、大物の浦から何日か船旅をつづけて、備前の児島に着いたのである。

小さい島はどこでも同じようであるが、後は山、前は海、磯いその松風、波の音、捕われ人の心を慰めるには、余りにもわびしい寒々とした景色であった。

阿古屋あこやの松

大納言以外に陰謀に荷担した者は、それぞれ遠国流罪を言い渡された。すなわち、近江中将入道蓮浄れんじょうが佐渡国さどのくに、山城守基兼は伯耆ほうき、式部大輔雅綱は播磨はりま、宗判官信房は阿波あわ、新平判官資行が美作みまさかといったぐあいである。

その頃、清盛は福原の別荘にいたが、摂津左衛門盛澄せっつのさえもんもりずみに命じて門脇宰相かどわきのさいしょうのところへ、

「至急、丹波たんばの少将をこちらへ出頭させるように」

といい送った。

「何ということだ、今頃になって、もっと前にいってくれれば諦めもつくというのに、又々心配させる気なのだろうか」

宰相はさすがに兄のやり方が腹立しかった。

「いっても無駄とは思いますが、もう一度清盛様にお頼みになっては」

そういって女房達は、盛んに宰相に頼むのだった。

「いやいや、いうだけのことはいいました。あとは私が出家でもするよりほかには、いうこともありゃせんよ。私としては今後少将が、どんな人里離れた辺鄙へんぴな場所に行かれても、命のある限り安否をお尋ね申し、力になってあげるつもりです。今の私にはそれが精一杯です」

平家の一族で、清盛の弟であるこの人がいうのだから、もういたし方はなかった。少将は泣く泣く出発の用意に取りかかった。

少将には、今年三つの男の子があった。普段は、年若い父親のせいか、子供のことには至って無関心であったが、さすがに二度と再び逢えるかどうかという時になると、子供の顔が見たいといい出した。乳母が抱いて連れてくると、少将は膝の上に抱き上げ、髪をなでなでしながら、

「お父さんはな、お前が七つになったら元服させて、法皇のお側に仕えさせようと思っていたのじゃよ。でももう今は、全ての希望は失われたのじゃ、もし無事に成長したら坊主になって父の後世を弔っておくれ」

少将の言葉をつぶらなひとみをあげて、じっと聞いていた幼児は、何事かわかったのか、こっくりとうなずいた。そのあどけない様子が一層あたりの人の涙を誘うのであった。

そのうち又清盛の使者が来て、今夜中に鳥羽まで来るようにとの厳命であった。

「別にそれ程伸びるわけでもないのに、せめて今夜ぐらい都にいたってよいではないか」

と何度もいってみたけれど聞入れられず、少将はその夜、名残つきぬ別れを後に、わが家を出たのである。

福原に着いたのは、六月二十二日である。一応備中国びっちゅうのくにに流罪と決まり、瀬尾太郎兼康が警備の任をおびてゆくことになった。兼康は、とかく、あとあと宰相から恨まれるのがこわいから、かゆいところに手の届くような労いたわり方で、少将の心を何とか慰めようとするのであるが、少将の方は一日として楽しまぬのである。彼の心には、父成親の行方だけが気にかかっていたのである。その成親は、備前びぜんの児島が港に近いという理由で、備前、備中の境、有木ありきの別所べっしょという山寺に移された。この有木の別所と、少将のいる備中の瀬尾せのおとは、僅か五十町足らずという目と鼻のあいだであった。

人づてにそのことを聞いた少将は、どうにもなつかしくなって、ある日兼康に、

「父上のいられる有木の別所まで、何里程のところなのじゃ」

とたずねた。本当の事をいってはかえって辛いだろうと思った兼康は、

「さあ、片道、十二、三日もかかりましょうか?」

と空とぼけて答えた。

少将は、

「日本は昔、三十三カ国であったのを、後に六十六カ国に分けたのじゃ、備前、備中も元は一つの国であった。東国の出羽でわ、陸奥むつもその伝で二つに分れたと聞いている、昔、実方さねかた中将が、奥州へ流され、この国の名所、阿古屋あこやの松を見ようと尋ね歩いたが見つからなかった。たまたま一人の老人に出逢って、当国の名所阿古屋の松を知っているか、と尋ねると、それは大方、出羽国でしょう、という返事に、国の名所が忘れられるとは世も末じゃ、といって嘆くと老人は、「貴方様は、

陸奥みちのくの阿古屋の松に木こがくれて

いずべき月の出でもやらぬか

という歌で、当国の名所をお尋ねになるのでしょうが、これは実は、両国が一つであった時詠まれた歌で、今では阿古屋の松は出羽国にござりましょう」といったそうだ、実方中将はその後出羽国で、松をご覧になったという。ところで貴方は、有木の別所まで、十二、三日かかるというが、筑紫つくしの大宰府だざいふから都まで、十五日でくるものを、いくら遠いといっても備前、備中の間が十二、三日かかるわけがない、せいぜい三日というところであろう。それをあのように出たらめを教えるのは、所詮しょせん、父の在所を私に教えたくないためなのでしょう?」

少将は二度とこの事を口にしなかった。

大納言死去

やがて、法勝寺執行しゅぎょう俊寛、丹波少将成経、平判官康頼の三人は、清盛の命令で薩摩潟さつまがたの鬼界ヶ島きかいがしまに流されることになった。この鬼界ヶ島とは、都を遠く離れた孤島であり、便船もろくろく通わないという離れ小島である。住民は、土着の土民がいることはいるが、体は毛むくじゃらで、色は真黒く、烏帽子えぼしをつけている男もいないし、女は髪も下げていない。言葉はてんで通じないという心細さである。田を耕すすべも知らず、食物は専ら魚鳥を常食としている。かいこなど飼うことも知らないから、身にまとっている者はほとんどないという。まったく原始人そのままの生活が続けられていた。島の中に高い山があり、年中火を噴いて、あたりは硫黄が満ちみちていたので硫黄ヶ島とも呼ばれる。雷がしょっちゅう鳴って雨もよく降る。とにかく、およそ、なれない人間の住み得るようなところではなく、ここに流されることは、いわば、自然に死を与えるのと同じ結果であった。

新大納言成親は、そのうちには、平家の追窮の手もゆるむかも知れないと、やや期待していたものの、成経が、今、又鬼界ヶ島に流されるときいて、もはやこれまでと思い切った。出家の志を申し出て、法皇からの許しも頂いた。長年着なれた着衣と引かえに、墨染めの衣に着替えた時は、さすがに感無量の心持であった。

成親の奥方は、その頃、北山きたやま雲林院うんりんいんの近くに忍び暮しを続けていた。唯でさえ住みなれぬ場所はいろいろと心苦労の多いところへ、世を忍ぶ身はひとしおで、その日その日をやっとの思いで過している有様であった。昔は、召使いも家来も多く仕えていたけれど、平家に、にらまれて以来、後難を恐れてか訪ねてくる者もなかったが、唯、一人源左衛門尉信俊げんざえもんのじょうのぶとしだけは、昔と変りなく、時々訪ねては、何かと面倒を見、慰めていってくれるのであった。ある日、奥方は信俊に、

「何でも、殿は一時は備前の児島とかにいられたときいたが、近頃は有木の別所におられるという話です。何とかしていま一度、お便りを差し上げ、できたらあちらの様子も知りたいと思うのだけれど、どうにかならないものだろうか?」

と相談を持ちかけた。

「それはよい考えでございます。是非私がお使いに参りたいと存じます」

「だが、有木の別所までは、かなりの道のりだそうな、どんな危険があるかも知れぬのに」

「何を仰有おっしゃいます、幼少から殿にはお目をかけて頂いた私、未だにそのお声がはっきり耳に残っております。ご流罪の時にもお供を願い出て、お許しが出なかったのが何よりの心残りでおりました。いかなる目にあいましても、きっと殿様にお目にかかって参ります。是非お文を頂戴いたしとうございます」

うそいつわりのない真心を面おもてにみせて、涙ながらに言う信俊の言葉に、奥方も一方ならず喜んだ。

奥方始め、若君、姫君の文をふところにして信俊は、はるばる有木の別所を訪れてきたのであった。難波次郎経遠も、信俊の志に感じて直ぐに成親の所に案内した。

成親は、丁度今しも、都のことなぞ思い出しつつ、側の者に、いろいろ想い出話をしていたところだったが、都から信俊が訪ねて参りました、という知らせに、「夢であろうか」と疑いながら、急いで部屋の内へ招じ入れた。

信俊が一歩足を踏み入れると、先ず粗末な部屋の作りが目に入った。同時に、昔に変る墨染姿の成親を見出した時は、いつか目の先さきがぼうっとかすんで、成親の姿もはっきり目に映らぬほどであった。漸く涙をおさめると、信俊は奥方からの心のこもった言伝てをこまごまと伝え、ふところから、命にも換えてと大事に持ってきた手紙を差しあげた。

さすがになつかしい奥方の筆跡を手にすると、成親の手はぶるぶると震えるばかりで、一向に読み出す事ができない。ようように手紙を開いても、すぐに涙でかき曇って、書いてある字もはっきりと見えないのである。

「子供達が、朝晩、余りに貴方の事をお慕いするので、私も身を切られるように辛く」

などという文句が、ところどころに読みとれるけれど、こうやって目のあたりになつかしい水茎みずくきのあとをみると、その恋しさ、悲しさはつのるばかりで、主従たがいに涙にむせんで言葉を交すこともできなかった。

四、五日経った時、信俊は、「お傍にいて、殿のご最後をお守りしとう思います」とくり返し経遠に頼んだが、聞き入れられなかった。成親も、半ば心頼みにしていたのだが、今はもう諦めていた。

「早く帰った方がよかろう、私も近いうちに殺されるらしいが、死んだあとは私の後世でも弔っておくれ。これは奥方に渡してやってくれ、くれぐれも面倒をみてやってくれよ」

信俊が、「それでは又伺いまする」といって出ようとすると、成親は、「しばらく、しばらく、もう一度戻って顔をみせてくれ」と呼び返し、又暫くして信俊が腰をあげかけると、何のかのといっては、呼び戻すのであった。信俊も後髪は引かれる想いだが、といって、いつまでもこんな事をくりかえしてもいられず、泣くなく後を振り返り振り返り、別れを告げた。

奥方は、成親の手紙の中に巻きこまれていた黒髪の一房をみて、とてもたまらず泣き伏してしまった。若君、姫君も母に取りすがって、声を立てて泣くのであった。

八月の十九日、大納言の死罪が決まった。備前、備中の境にある吉備きびの中山が、大納言終焉しゅうえんの場所と言われる。成親の最後の様子はいろいろ伝えられていて、始め毒殺を計ったが失敗し、遂に二丈のがけの上から突き落し、下に刺股ひし(刃物に柄をつけたもの)をたててこれで体を貫いて死んだといわれる。とにかく無慚むざんな殺し方であったらしい。

夫の死を聞いた奥方は、今は生きていても甲斐はないと、菩提院ぼだいいんという寺で、出家し、成親の冥福を祈って暮すこととなった。彼女は山城守敦方やましろのかみあつかたの娘で後白河院の寵愛も一きわ深かったほど美しい人で、後白河院がお気に入りの成親に下さったものであった。華やかな夢も今は昔の物語、尼姿になった奥方と共に、幼い子供達も、花を折り水をくんで、ひたすら父の後世を弔うのであった。

徳大寺の沙汰

そもそも成親卿が平家滅亡の計りごとを練るようになったのは、いつかの人事異動が基であったのだが、あの時に、やはり、右大将を平宗盛に横取りされて、がっかりして家にひきこもってしまった人がある。徳大寺大納言実定じっていである。その後も、平家専横の世の中にいよいよ愛想をつかした実定は、出家の志を立てた。ある月の良い晩であった。実定は、南面の御格子みこうしをあげて月を眺めながら、行末のことなど思いふけっていると、藤大夫重兼とうのだいふしげかねという家来が参上してきた。

「何じゃ、今時分?」

「いえ、唯、余りに月がよろしいので、何となくご機嫌伺いに参りました」

「それは丁度よい、わしも話相手がないものかと思っていたところだった」

実定は重兼を相手に、四方山よもやまの世間話に打ち興じていたが、その内いつしか話題は平家一門の話にもふれていった。

「全く近頃、平家の勢は恐ろしいくらいじゃ、重盛、宗盛と息子が揃って左右の大将、後には、三男知盛、孫の維盛もおることだし、平家以外の家の者では、大将になる望みはなさそうじゃ。わしも、いつかはと思っていたが、この分では、到底、望んでも無駄だと覚ったのじゃ。いっそ出家でもしようかと思ってのう」

「それはとんでもない、早まったお考えかと思います。もし殿がご出家遊ばすような事にでもなったら、家内中が途方に暮れてしまいます。それよりも、私一寸した名案があるのでございます。それは他でもない、安芸あきの厳島いつくしまへご祈願にお出でになるのです。あすこは平家の人々が敬うやまい崇あがめるお社でございます。何もおかしいことはありません、あすこには内侍ないしと申す舞姫がおります。彼女らはきっと珍しがっていろいろ接待する筈でございます、その時、何をお祈りにいらしたのですか? と聞くに違いありませぬ、ありのまま仰有おっしゃるがよろしゅうございます。ご帰京の際は、重だった内侍を連れて都へお帰り下さい、彼女らは帰りにきっと西八条の清盛公のお邸にご挨拶にいきます。清盛公は、上京の目的を内侍にお尋ねになるに決っております、すなわち、殿のご祈願のことも、清盛公の耳に入ります、平家の尊崇する社に祈願したと聞けば、喜ぶに決っています、何か良いあんばいに事が運ぶかも知れません」

熱心に耳を傾けていた実定は手をたたいて喜んだ。

「全くだ、確かに妙案かも知れぬ。早速、参詣の準備をいたせ」

さて、安芸の厳島につくと、そこには内侍と呼ばれる美しい舞姫がいて、日夜参詣人をもてなす習わしであった。

「この社に、平家以外の方のご参詣とは珍しいこと」

といって、舞楽ぶがく、神楽かぐら、琵琶びわ、琴と、ある限りのもてなしをして、実定を慰めた。

「それにしても珍しい、一体何をご祈願にいらしたのですか?」

案の定、内侍が尋ねたので、実定はかねて定めた通り、

「日頃望みの大将の位を、他人に越されてしまったので、その祈願達成のため」

と答えた。

さて七日の参籠が済むと、重立った内侍十数人は、船を仕立てて都まで見送ってきた。実定は、邸に連れてきて丁重にもてなし、土産まで与えて帰した。

「折角ここまで来たのだから」

と内侍達は西八条に清盛を訪ねた。突然の内侍達の訪問に、清盛は驚いてわけを尋ねた。

「徳大寺大納言のご参詣の帰途、名残惜しさにここまでついてきてしまいましたので」

「それは珍しい、何で又あの男が厳島に参詣に行ったのじゃろう」

「何でも、大将にご昇進のためのご祈願とか伺いましたが」

「何? そのためにわざわざ厳島まで下向いたしたと、それは又何と奇特なお人であろう。この京都にも由緒深い神社仏閣も多いのに、わざわざ平家一門の帰依きえする厳島に参詣するとは、見上げた志じゃ」

清盛は、すっかり上機嫌になった。間もなく重盛が左大将をやめ、宗盛をこえて実定に左大将の辞令が下りた。まんまと、主従の計画が功を奏したのである。それにしても、成親も早まったことをしたものである。謀叛などおこさずにもっと賢明なやり方で、自分の身を守るべきであったのに惜しいことをしたものである。

山門滅亡

後白河法皇は、前々から、三井寺の公顕こうけん僧正を師範として、真言しんごんの秘法を学んでいられたが、大日経だいにちきょう、金剛頂経こんごうちょうきょう、蘇悉地経そしつちきょうの三部の伝授も済み、九月四日、三井寺で御灌頂ごかんじょうをお受けになることとなった。

これを聞いた山門の大衆はひどく憤慨して騒ぎが大きくなってきた。

「昔から、御灌頂ご受戒は当山で受けると決っているのに、先例を破って、三井寺でやるのなら、三井寺を焼き払ってしまうぞ」

といっておどかした。

法皇は、山門を刺激しても無駄だからと、三井寺での御灌頂は一応お取やめになったが、元々そのおつもりであったから、四天王寺へお出でになり、五智光院ごちこういんを建立、亀井かめいの水を五瓶ごびょうの智水ちすいとして伝法灌頂でんぽうかんじょうをお遂げになったのである。

この事件はこれでけりがついたわけだが、当時、山門では、学生がくしょうと堂衆が仲が悪く、合戦に及ぶ事も何度かあり、その度に学生が負け、何人かの学生が命を失い、山門の滅亡も時間の問題かと思われてきた。元来、学生とは山にこもって、止観、真言の両業を治め、学問修行に務める者を指し、堂衆とは、学生付きの稚児が法師になったのや、雑役の僧とかであったが、次第に増長し、大衆に立ち向うようになってきたのである。これに手を焼いた大衆は、彼らは、院主、師僧の命に背いて勝手に合戦を企て迷惑いたしますので、速やかにご討伐下さい、と朝廷や武家に願い出たのである。

清盛は、堂衆討伐の院宣を受取ると、紀伊国の住人湯浅権守宗重ゆあさのごんのかみむねしげ以下畿内の兵二千余人を大衆応援にくり出して、堂衆に立ち向うことになった。

堂衆は、近江国三ヶ庄さんがのしょうから兵を集め、早井坂そういざかに城を築いて待ちうけた。

九月二十日午前八時、大衆三千人、官軍二千余騎の計五千人が早井坂に押し寄せたが、大衆は大衆で、官軍に先陣をと願い、官軍は大衆を先登にと思うので、思うようにも戦うことができず、そのうち、城内から石垣をはずして石を転がしたので、大衆、官軍の死者は数知らず、又々戦は堂衆の勝利に終った。堂衆に味方している者の中には、諸国の窃盗、強盗、山賊、海賊といった命知らずの者が多く、自分一人と思い切って戦うので強いのである。

その後、山門の荒廃ぶりはひどかった。山門に住む人は極めて稀で、真理の都といわれ、上下の人々の尊敬と信仰を集めていた面影は、一つとして残っていなかった。

今や、三百年の歴史を誇った天台宗の法灯をかかげようとする者もなく、昼夜の別なくたかれていた香の煙も絶えようとしている。かつては青空にそびえたっていた堂舎もすっかり荒れはて、金の仏像も雨にぬれる有様であった。

こういう様相は日本ばかりでなく、遠くは仏教の発祥地である天竺てんじくでも、竹林精舎ちくりんしょうじゃ、給孤独園ぎっこどくおんといった聖地も、狼や狐のすみかと化し、又、中国でも、天台山、五台山、白馬寺、玉泉寺といった有名な仏寺が、住み手もないままに捨ておかれているらしい。我が国の奈良の七大寺は荒れ果てているし、昔は堂塔が軒を並べていた愛宕あたご、高雄たかおも天狗てんぐのすみかになってしまった。こういう世の有様をみると、あれ程、尊かった天台の仏法が亡びるのも無理はないかも知れないが、それにしても惜しいことである。

人のいなくなった僧坊の柱に、こんな歌がかきつけられていたという。

祈りこし我が立つ杣そまの引かえて

人なき峰となりや果てなん

これは伝教でんきょう大師が、叡山創立の時、阿耨多羅あのくたら、三藐みゃく、三菩提ぼだいの仏達に祈った時、「阿耨多羅、三藐、三菩提の仏達、わが立つ杣に冥加あらせ給え」と祈られた時の言葉を思い出して詠んだものらしかった。

善光寺ぜんこうじ炎上

同じ頃、信濃善光寺が火事にあった。この寺の本尊である如来は、昔、中天竺ちゅうてんじく舎衛国しゃえこくに、五種の悪疫が流行した時、月蓋長者がっがいちょうじゃが竜宮城から閻浮檀金えんぶだごんを取り寄せて、釈尊、目蓮もくれん長者ちょうじゃと三者が心を合せて鋳造した、阿弥陀如来の霊像といわれた。それが仏滅の後五百余年、天竺に留まり、後百済くだら国に移り、一千年を経て、欽明きんめい帝の御代に日本に渡り、摂津国難波の浦の底深く金色の光を放っていた。

たまたま、信濃国の住人に本多善光よしみつという男がいて、都に上り、如来のありかを知って、これを信濃国水内みずちの郡に移した。爾来、五百八十余年程経つが、火災にあったのは始めてのことで、霊寺、霊山が次々に滅びてゆくのは、さしもの平家の世も末になる前ぶれだろうと噂された。

康頼祝詞のりと

鬼界ヶ島に流された、俊寛、康頼、成経の三人は、少将の舅しゅうと、宰相教盛の領地である肥前、鹿瀬庄かせのしょうから、何かにつけて衣類や食物を送らせるように手配して呉れたおかげで、どうやらこうやら生きることだけは出来たらしい。

康頼は、かねてから出家の志を持っていたが、流罪の途中、周防すおうの室積むろづみで出家し、性照しょうしょうと名乗った。

ついにかくそむきはてける世の中を

とく捨てざりしことぞくやしき

これはその時の歌である。

少将と康頼は、前から熊野権現の信者であったから、何とかこの土地にも熊野権現を祭って、一日も早く帰京のかなうように日夜祈参しようという相談が持ちあがった。

「どうじゃ、俊寛殿、貴方も、この計画に一枚お加わりなさい。都へ帰参の望みもかなうかも知れぬ」

二人が熱心にすすめても、しかし俊寛は、ばかばかしそうに首を振るばかりであった。康頼と少将は、それならばと今度は二人だけでどこか熊野に似た場所を探そうと、島のぐるりをあちこち歩き廻ってみた。こんな島ではとてもみつからないのではないかという懸念を破って、目の前に熊野の山にそっくりの場所をみつけた時は、夢かと思うほど喜んだ。丁度、紅葉の頃で、林は錦繍きんしゅうの装いに包まれていた。雲かと思えるばかりにそびえ立つ峰々は、淡い薄絹に包まれたように、ほのぼのとした色どりをみせている。南をはるかに見下すと、果てしなく続く大洋が、漫々と水をたたえ、北は峨々ががたる山岳から、ほとばしる滝のしぶきの白さが、目にしみるようであった。それはまのあたり、紀伊の熊野が、そこに立ち現れたような錯覚さえ与えるほどよく似ていた。

「ここは本宮ほんぐうといたそう」

「それではこちらは新宮しんぐうがよかろう」

あちこちの峰にも、いろいろ名前をつけて、康頼を先登に、少将と二人毎日、熊野詣でのまねごとをして真剣な祈りを捧げていた。

「南無権現金剛童子なむごんげんこんごうどうじ、ねがわくは憐れみをおかけ下さいまして、都へ帰し、妻子の顔を今一度びみせて下さいますように」

これが毎日続くと、着替えの浄衣もないから、麻の衣を身につけ、沢の流れで水ごりをとりながら、岩田川の清流にみたてるのである。康頼は参詣の度ごとに、形通り祝詞のりとを捧げることにした。御幣紙ごへいがみなど気のきいたものもないから、花を手折って代用にしていた。

「維いあたれる歳次さいじ、治承じしょう元年丁ひのとの酉とり、月の並びは十月とつき二月ふたつき、日の数、三百五十余カ日、吉日良辰りょうしんを選んで、かけまくも、かたじけなく、霊顕は日本一なる熊野ゆや三所権現、飛竜大薩埵ひりゅうだいさったの教令きょうりょうのご神前に、信心の大施主せしゅ、少将藤原成経、ならびに沙弥性照しゃみしょうしょう、一心清浄の誠をいたし、三業一致さんごういっちの志をぬきんで、謹しんで、敬い申す。それ、熊野本宮の阿弥陀如来は、済度苦界の教主、法身ほうしん、報身ほうしん、応身おうしんの三身を具そなえたる仏なり。或は早玉宮はやたまぐう本地ほんちの薬師如来は衆病悉除しゅびょうしつじょの如来なり。或は、結宮の本地薬師如来は衆生救済の仏等覚の菩薩なり。熊野第四宮十一面観音は娑婆世界、苦を救い無畏むいを施す仏にして、頭上の仏面を現して、衆生の所願をみて給えり。是によって上一人かみいちにんより、下万民に至るまで、或は現世安穏のため、或は、後生善処のため、朝に浄水を結んで煩悩ぼんのうの垢をすすぎ、夕べに深山に向って宝号を称うるに、感応なき事なし、峨々たる嶺の高きをば、神徳の高きにたとえ、嶮々たる谷の深きをば、仏の誓の深きになぞらえて、雲を分けてのぼり、露をしのいで下る。ここに、菩薩の利益りやくを頼まずば、いかで嶮難の路を歩まん。権現の徳を仰がずんば、何ぞ幽遠の境にましまさん。依て証誠大権現しょうじょうだいごんげん、飛竜大薩埵ひりゅうだいさった、青蓮せいれん慈悲じひのまなじりを相並べ、さおしかの御身をふりたて、我らが無二の誠心を知見ちけんし、一つ一つの願事きき入れ給え。結むすぶ、早玉はやたまの両所権現、各々その機に従って有縁うえんの衆生を導き、無縁の群類を救わんため七宝に飾られたる極楽の光を捨て、六道三有ろくどうさんうの煩悩の塵ちりにまじわり給え。故に定業じょうごうを転じ、長寿を求め、長寿を得るため、礼拝袖を連ね、幣帛へいはく礼奠れいてんを捧ぐる暇なし。忍辱にんにくの衣を重ね、覚道かくどうの花を捧げて、神殿の床を動じ、信心の心池水の如く澄ませたり。神明納受し給わば、願い事何ぞ成就せざらん。願わくは、十二所権現、左遷の愁いを休めて、帰洛の本懐をとげさせ給え」

卒都婆そとば流し

少将と康頼の熊野詣では、異常な熱心さで続けられた。時には、徹夜で祈願をすることもあった。ある日いつもの通り、夜になって、二人は一晩中、今様いまようなどを歌い続けて、さすがに明け方疲れ果てて眠ってしまったことがある。康頼も知らずしらずの内にまどろんでいたらしい。沖の方から白帆をかけた小舟がやってきて、中から紅の袴はかまをつけた女達が三十人ばかり、岸にあがってきて鼓をうち、声を合せて今様を歌い出したのであった。

よろずの仏の願がんよりも 千手せんじゅの誓ちかいぞ頼もしき。

枯れたる草木も忽ちに 花咲き実なるとこそきけ。

三べんほど、くり返すと、その姿はかき消すようにみえなくなった。

「あれ、女達が」

自分の声で目を覚した康頼は、始めて夢であったことに気がついて不思議な気がした。

「どうやら、あれは竜神の化身であったらしいが、三所権現の内、西の御前と申すは、千手観音がご本体、竜神は千手観音の守護神じゃ。これは、熊野権現がわれらの願をおきき入れになったしるしかも知れぬぞ」

「今後は一層の精進をいたそう」

暫くして、又ある晩夢を見た。

沖から吹いてきた風に、二枚の木の葉が舞い下りてきて、二人の袂たもとに吹きかけた。手にとってみると、熊野の南木なぎの葉である。虫に食われて、ところどころ穴のあいているのが、よくみると言葉になっていた。

千早ぶる神に祈りのしげければ

などか都へ帰らざるべき

少将と康頼は、夢から覚めたあと、いつまでもそのことを話し合っては、勇気づけられたのである。

康頼は、何としても故郷の恋しさに耐えられなかったので、せめてもの心の足しにと、千本、卒都婆そとばを作り、梵字、年号、月日、それに、平判官康頼と署名し、二首の歌を書きつけた。

薩摩潟沖の小島に我ありと

親には告げよ八重の潮風

思い遣やれしばしと思う旅だにも

なお故郷ふるさとは恋しきものを

その卒都婆を、浜辺に持ってゆくと、

「八百よろずの諸々の神々よ、願わくは、一本なりと都に伝えて下さい」

と祈りながら、寄せては返す波のたびごとに、そっと卒都婆を海へ送り出した。卒都婆を作っては流し、作っては流ししていたから、長い間には、卒都婆も随分の数になったわけである。

康頼の真心が通じたのか、神明のご加護があったのか、その内の一本が安芸あきの厳島いつくしまに流れついたのであった。

康頼の知り合いのある僧が、便船でもあったら鬼界ヶ島にでも渡り、康頼の消息を訪ねてみたいと思い立ち、西国修行に出かけて厳島に参詣した。厳島大明神は、元々海に縁故のある神で、娑竭羅しゃかつら竜王の第三の姫宮といわれ、今日まで、いろいろ不思議な霊顕のあったことを聞かされて、僧は暫く止まって参籠することにした。

厳島大明神は、八つの神殿から成り、海の際に臨んでいた。夜になると月が昇り、その澄んだ影は、水にも、砂浜にも、美しい光を投げていた。満潮になると、大鳥居も、朱塗りの玉垣も、瑠璃るり色を帯びて青白く光った。引潮になると、社前の白砂には霜が降りたようにみえた。その神秘的な美しさに我れ知らずうっとりとしていた僧が、気がついてみると、波の合い間合い間に漂い流れている藻くずの間に何やら妙なものが浮いていた。手に取って拾い上げてみると卒都婆である。

「何だってこんなものが」

と思いながら、よくよく眺めてみると、それが例の康頼が流した内の一つなのである。文字を彫りこんでおいたものが、波に洗われても消えずにそのまま残っているのであった。僧は早速、この卒都婆を持って急いで京に行き、一条の北、紫野むらさきのに忍び住む康頼の老母と妻子にみせたのであった。

「何と不思議な、いくらでも海辺はあるものをよりによって厳島とは、それにしても、もろこしのあたりにも流れつかずに、こんな所まで流れてきて、又々私達に悲しみを憶い出させようというのか」

老母は卒都婆を手にして、しみじみと眺めながらつぶやいた。

この事が法皇のお耳にも入り、

「何? 彼らはまだ生きていたか、何と哀れなことよ」

と、また更に涙を流しておいでになった。

法皇は、更に、重盛にこの事を伝え、遂に卒都婆は、清盛の手にも渡った。さすがに木石でもない清盛も、心中同情を禁じ得なかったらしく、憐れみの言葉をもらしたのであった。

蘇武そぶ

この話は、洛中に広がっていった。特に、清盛までが哀れに思ったというので、いつしか康頼の歌は、京の、上下、老いも若きもが、鬼界ヶ島流人の歌として口ずさむようになった。千本作った卒都婆だから、それ程大きいわけはなく、むしろ小さなものだったろうに、波に押し流されることもなく、はるばる万里の波濤を越えて故郷に届いたのは、やはり康頼の一念が通じたのかも知れない。ところでこれに似たような話が、中国の故事にある。

昔、漢の武帝ぶていが胡国ここくを攻めた時、始めは、李少卿りしょうけいを大将として、三十万騎を差し向けたが武運つたなく敗れ、李少卿は捕虜になった。次に蘇武を大将として五十万騎を派遣したが、これも散々の敗けいくさである。六千余人が生捕られ、その中に蘇武も含まれていた。胡国は、彼らのうち重立った者六百三十余人の片足を切って追放した。その殆んどが死んでしまった中で、蘇武一人は生き残った。不自由な片足で、野山の草の実を拾い、野草を食べ、どうにか生き長らえていた。野原に降り立つ雁の群さえ、蘇武の姿をみて、逃げるものは一匹もいなかった。この雁は秋になるとここを去って遠く漢の都へ飛んでゆくことに気のついた蘇武は、一羽の雁の足に手紙を結びつけて、心から漢王の手に渡してくれるように祈った。

漢の都では、ある日漢王が上林苑にいる時、一群の雁の列から一羽がさっと舞い下りて、手紙を落した。不思議なこともあるものかなとそれを開いてみると、

「巌窟がんくつにとじこめられて三年、今では、荒れ果てた曠野こうやに捨てられ、一本足の身で生きています。たとえこの身は胡の国で死んでも、魂は決して君のお側を離れぬつもりです」

とあった。

「何と、まだ蘇武が生きていた、これはまさしく蘇武の筆跡」

驚いた漢王は、今度は百万の大軍を胡国に差し向けた。今度は漢の勝利となったので、蘇武は、びっこをひきひき漢軍の陣営を訪ね、蘇武であることを名乗った。十九年の後、蘇武はやっと故郷へ帰ることができたのである。漢王は大いにその志に感じ、高官に任じ、大国を与えて労をねぎらった。

一方李少卿も、国へ帰りたい心は同じだったが、胡王が許さないので悶々の日を送っていた。そうとも知らない漢王は、不忠の男だ、と死んでいた両親を掘りおこしてむちでうったり、親類縁者をそれぞれ罪に服させたりした。このことを伝えきいた李少卿は、恨み悲しみはしたが、なお故郷恋しの一念やみがたく、筆をとって、不忠ではないことをこまごまと記して送った。漢王はそれを読んで、自分の行為をひどく悔やんだそうである。

漢国の蘇武は、雁に便りを託し、我が国の康頼は、波に便りを託して想いを故郷に告げた。上代と末代、胡国と鬼界ヶ島と、土地こそ変れ、心は相似たようなものである。

底本 / Source edition

底本:「現代語訳 平家物語(上)」岩波現代文庫、岩波書店
2015(平成27)年4月16日第1刷発行
底本の親本:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
1960(昭和35)年2月12日初版発行
初出:「世界名作全集 39 平家物語」平凡社
1960(昭和35)年2月12日初版発行
※著者名は、本来は「尾※[#「山+竒」、第3水準1-47-82]士郎」です。
入力:砂場清隆
校正:みきた
2022年1月31日作成
2022年4月8日修正
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書誌 / Bibliography
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作者不詳「現代語訳 平家物語──02 第二巻」(新字新仮名)、底本『現代語訳 平家物語(上)』岩波現代文庫、岩波書店、2015年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 060803_001529, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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