Soranoha

芥川の印象

あくたがわのいんしょう

菊池 寛

今でこそ余程薄れたやうですが、昔は「芥川の脣」と云へば僕達の間では一寸評判のものでした。久米などはよく「芥川の脣」を噂した事がありました。芥川は御承知の通り色白の方であるのに、其の脣と云ふのが真紅で稍やゝ紫色を帯び非常に印象的なものでした、美女の脣のやうに妖艶で、美しいけれども少し凄艶な気のするものでした。昔の芥川を想ひ出す毎に必ず彼の脣を思ひ出します。此頃の「芥川の脣」はどんな色をして居るか、つい注意して見た事もありません。

脣の真紅であつた頃の芥川は極くおとなしい、何処かにツンと取済ました所のある優等生でした。そして丸善あたりから新しい文学書類を頻々と買込む事に於て僕達を羨ましがらせたものでした。

が、創作するやうな様子もなく、今程頭のよい男だとも思へませんでした。僕やKやMなどがワイ〱騒いだり欠席の競争をやつて居る間にも、芥川は真面目に学校へ出て先生達の信用も頗すこぶる厚い方でした。が、その頃の芥川は別段エライと思つて居ませんでした。芥川の真価を知るやうになつたのは一緒に雑誌をやり始めてからの事です。

芥川の癖と云へば、何どんな時に逢つても必ず左の手に何かの本を持つて居る事です。アナトール・フランスの小説だとか、ダウデンの論文だとか支那の小説だとか、芥川の学問と正比例して随分多方面に亙つて居ます。芥川が外出には必ず本を携帯すると云ふ一例を挙げると、芥川がNの洋行を見送りに行つた時、携帯の漢詩集を静岡丸の船室へ置き忘れて来た事があります。横浜くんだり迄邪魔になる本を持つて行かなくてもよささうなものですが。それに芥川は持つて居る本を途中で読むかと云ふと、何うも読んで居るやうな様子も見えないのです。最初は気障きざで、見栄みえを張つて居るやうに見えて嫌でしたが、今ではそんな気は少しもしません。何うも見栄ばかりではあんなに根よく本を持ち廻る事は出来ますまい。芥川が一書を携帯するのは普通人がステッキを持ち廻るのと同じやうな心理状態らしいのです。それで習慣上の一の必要事となつてしまつたらしいのです。

芥川の頭のいゝ事は何んなに推賞しても足りないと思ひます。記憶もよければ思ひ附もよし、デリケートな理解もあるし、全く敬服の外はありません。然し芥川が談話の際に発する警句や機智などはパラドックスや独断が多くて、多くの場合感心しません。

芥川の創作には一分も隙のない用意と技巧とが行き渡つて居るが、それと同じやうに、実生活の上でも芥川は一分も隙を作らないやうに思はれます。此の点は感心はしますが、同情はしません。

芥川の創作は今の日本では芸術的には最高の標準にあると思ひます。森田草平氏が技巧の点では第一人者と云つた事に賛成します。又その観照の澄み切つて居る点でも一寸類がないやうです。が、芥川の創作には人生を銀のピンセットで弄んで居るやうな、理智的の冷淡さがあり過ぎるやうに思はれます。もう少し作者がその高踏アルーフネスを捨てゝ、作品の中に出て来てもよいと思はれます。

が、芥川はまだ年が若いし、順境にのみ在つて、人生の煉獄は少しも経て居ないのですから真に力のある作品はむしろ今日以後に期待すべきものだとも思ひます。そして此の作者の限かぎりなき発達を信じます。

――印象的な脣と左手の本

(大正六年十月「新潮」)

底本 / Source edition

底本:「菊池寛全集 補巻」武蔵野書房
1999(平成11)年2月10日発行
初出:「新潮」
1917(大正6)年10月
入力:友理
校正:卯月
2022年2月25日作成
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書誌 / Bibliography
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菊池 寛「芥川の印象」(新字旧仮名)、底本『菊池寛全集 補巻』武蔵野書房、1999年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 060739_000083, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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