<ruby><rb>毎年</rb><rt>まいねん</rt></ruby>一度の<ruby><rb>蟲干</rb><rt>むしぼし</rt></ruby>の日ほど、なつかしいものはない。

<ruby><rb>家中</rb><rt>うちじゅう</rt></ruby>で一番広い客座敷の<ruby><rb>椽先</rb><rt>えんさき</rt></ruby>には、<ruby><rb>亡</rb><rt>なくな</rt></ruby>った人達の小袖や、年寄った母上の若い時分の<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>などが、幾枚となくつり下げられ、そのかげになって薄暗く妙に涼しい座敷の畳の上には歩く隙間もないほどに、古い蔵書や書画帖などが並べられる。

色のさめた古い衣裳の仕立方と、紋の大きさ、<ruby><rb>縞柄</rb><rt>しまがら</rt></ruby>、<ruby><rb>染模様</rb><rt>そめもよう</rt></ruby>なぞは、鋭い<ruby><rb>樟脳</rb><rt>しょうのう</rt></ruby>の匂いと共に、自分に取っては年毎にいよいよなつかしく、過ぎ去った時代の風俗と流行とを語って聞せる。古い蔵書のさまざまな種類は、その折々の自分の趣味思想によって、自分の家にもこんな面白いものがあったのかと、忘れている自分の眼を驚かす。

近頃になって父が<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>と買込まれた支那や朝鮮の珍本は、自分の趣味智識とは余りに懸隔が烈し過ぎる。古い英語の経済学や万国史はさして珍しくもない。今年の蟲干の昼過ぎ、一番自分の眼を驚かし喜ばしたものは、明治の初年頃に出版された草双紙や錦絵やまたは漢文体の雑書であった。

それ等は<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く自分がこの世に生れ落ちた当時の人情世態を語る尊い<ruby><rb>記録</rb><rt>ドキューマン</rt></ruby>である。自分がまだ<ruby><rb>文字</rb><rt>もんじ</rt></ruby>を知らない以前、記憶という能力のまだ充分に発育しない以前、自分の周囲の世界が、今では<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うに死んでしまった古老の口を通して、自分に<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き聞かした一切の事件や逸話は、<ruby><rb>一度</rb><rt>ひとた</rt></ruby>びそれ等の書籍や絵画を見るにつけて、突如として遠い遠い記憶の中に呼び返される。自分は己れの身の上ばかりではない。自分を生んだ頃の父と母との若い華やかな時代はどんなであったかと云う事をも、ありありと眼に浮べる。丁度苔と落葉と<ruby><rb>土塊</rb><rt>つちくれ</rt></ruby>とに埋れてしまった古い碑文の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を、恐る恐る洗い清めながら、磨滅した文字の一ツ一ツを捜り出して行くような心持で、自分は先ず第一に、「<ruby><rb>東京新繁昌記</rb><rt>とうきょうしんはんじょうき</rt></ruby>」と云う漢文体の書籍を拾い読みした。

<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>では<ruby><rb>最早</rb><rt>もは</rt></ruby>やこう云う文章を書くものは一人もあるまい。「東京新繁昌記」は自分がここに説明するまでもなく、<ruby><rb>静軒</rb><rt>せいけん</rt></ruby>居士の「江戸繁昌記」<ruby><rb>柳北</rb><rt>りゅうほく</rt></ruby>先生の「<ruby><rb>柳橋新誌</rb><rt>りゅうきょうしんし</rt></ruby>」に<ruby><rb>摸</rb><rt>なら</rt></ruby>って、正確な漢文をば、故意に破壊して日本化した結果、その文章は無論支那人にも分らず、また漢文の素養なき日本人にも読めない<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby><ruby><rb>鵺</rb><rt>ぬえ</rt></ruby>的な、一種変妙な形式を作り出すに至ったのである。この変妙な文体は今日の吾々に対しては、著作の内容よりも<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ一層多大の興味を覚えさせる。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>なれば、それは正確純粋な漢文の形式が漸次時代と共に日本化して来るに従って、もし漢文によって、浮世床や縁日や<ruby><rb>夕涼</rb><rt>ゆうすずみ</rt></ruby>の如き市井の生活の写実を試みようとすれば、どうしても支那の史実を記録するような完全固有な形式を保たしめる事が出来ないという事を証明したものとも見られるし、また江戸以来勃興した<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">戯作</span>という日本語の写実文学の感化が邪道に陥った<ruby><rb>末世</rb><rt>まっせ</rt></ruby>の漢文家を<ruby><rb>侵</rb><rt>おか</rt></ruby>した一例と見ても<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えがないからである。

自分は「東京新繁昌記」の奇妙な文体が、厳格なる学者を憤慨させる間違った処に、時代を再現させるその書の価値が含まれているのだと思う。かくの如き漢文はやがて吾々が小学校で習った漢字交りの紀行文に終りを<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めて、その後は全く廃滅に帰してしまった。時勢が<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らしめたのである。漢文趣味と<ruby><rb>戯作</rb><rt>げさく</rt></ruby>趣味とは、共に西欧趣味の代るところとなった。自分は今日近代的文章と云われる新しい日本文が、<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>も三十年昔に「東京新繁昌記」が試みた奇態な文体と同様な、不純混乱を示していはせぬかと思う事がある。かの「スバル」一派を以て、その代表的実例となした<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る批評の老大家には、青年<ruby><rb>作家</rb><rt>さくか</rt></ruby>の文章が丁度西洋人の日本語を口真似する手品使いの口上のように思われ、また日本文を読み得る<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>外国人には矢張り現代の青年作家が日本文の<ruby><rb>間々</rb><rt>あいだあいだ</rt></ruby>に挿入する外国語の意味が、余りに日本化して使われている<ruby><rb>為</rb><rt>た</rt></ruby>め、折々は了解されない事があるとか云う話を聞いた。大きにそうかも知れない。しかしこの間違った、滑稽な、鵺的な、故意にした奇妙の形式は、<ruby><rb>寧</rb><rt>む</rt></ruby>しろ<ruby><rb>云現</rb><rt>いいあらわ</rt></ruby>された叙事よりも、内容の思想をなお<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く伺い知らしめるその文章の<ruby><rb>真生命</rb><rt>しんせいめい</rt></ruby>であるのだ。

新繁昌記第五編中、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">妾宅</span>と云う一節の書始めに、次のような文章がある。

方今女学之行也専明女子之道。稍有男女同権之説。然而別品之流行未曽有益今日者也。妻有正権妾有内外。一男而能守一婦者甚鮮矣。蓋一男之養数女則男権之圧女権也。一女之遇四男則女権之勝男権也。合算此等之権以為男女同権耶。

〔方今女学の行はるるや、<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>ら女子の道を<ruby><rb>明</rb><rt>あきらか</rt></ruby>にし、<ruby><rb>稍</rb><rt>や</rt></ruby>や男女同権の説有り。然り而して別品の流行未だ<ruby><rb>曽</rb><rt>かつ</rt></ruby>て今日より<ruby><rb>益</rb><rt>さか</rt></ruby>んなる者有らず。妻に正権有り、妾に内外有り。一男にして<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く一婦を守る者甚だ<ruby><rb>鮮</rb><rt>すくな</rt></ruby>し。<ruby><rb>蓋</rb><rt>けだ</rt></ruby>し一男の数女を養ふは則ち男権の女権を圧するなり。一女の四男に遇ふは則ち女権の男権に勝るなり。此等の権を合算して以て男女同権と為すか。〕

妾宅というような不真面目<ruby><rb>極</rb><rt>きわま</rt></ruby>る問題をば、全然それとは調和しない形式の漢文を以て、仔細らしく論じ出して、更に戯作者的の<ruby><rb>頓智</rb><rt>とんち</rt></ruby>滑稽の才を<ruby><rb>振</rb><rt>ふる</rt></ruby>って人を笑わす。こう云う著作者の態度は飽くまでその時代の傾向を吾々に示しているのではないか。丁度それと同じよう、現代の年少詩人が日本にも随分古くからある天竺牡丹の花に<ruby><rb>殊更</rb><rt>ことさら</rt></ruby>ダリヤという洋語を応用し、その花の形容から失える恋、得たる恋の哀楽を叙して、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち人生哲学の奥義に説き及ぶのも、またよく吾々の時代思潮を語るものでは無かろうか。似て非なる漢文の著述は時代と共に全く断滅してしまった如く、吾々の時代の「新しき文章」も果して<ruby><rb>幾何</rb><rt>いくばく</rt></ruby>の生命を有するものであろう。<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>はこれが日本文の最後の<ruby><rb>定</rb><rt>さだま</rt></ruby>ったる形式の、少くとも或る地盤を作るものであろうか。自分は知らない。

<ruby><rb>天保</rb><rt>てんぽう</rt></ruby>年間の発行としてある「江戸繁昌記」とこれに模して著作された「東京新繁昌記」とを、単にその目次だけ比較して見ても、非常な興味を以て、時代風俗の変遷を眺める事が出来る。明治の初年における「文明開化」と云う通り言葉は<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる強い力を以て国民を支配したのであろう。「新繁昌記」の著者が牛肉を讃美して「牛肉ノ人ニ於ケルハ開化之<ruby><rb>薬舗</rb><rt>ヤクホ</rt></ruby>ニシテ<ruby><rb>而</rb><rt>シカ</rt></ruby>シテ文明ノ良剤<ruby><rb>也</rb><rt>ナリ</rt></ruby>」と云い、京橋に建てられた煉瓦の家を見ては、「<ruby><rb>此</rb><rt>コ</rt></ruby>ノ築造有ルハ都下ノ繁昌ヲ増シテ人民ノ知識ヲ開ク<ruby><rb>所以</rb><rt>ユエン</rt></ruby>ノ器械也」と叫んだ如きわざと誇張的に滑稽的に戯作の才筆を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>ったばかりではなかろう。今日の時代から振返って見れば、無論この時代の「文明開化」には如何にも子供らしく馬鹿馬鹿しい事が多い。けれども時代一般の空気が如何にも<ruby><rb>生々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>として、多少進取の気運に伴って、<ruby><rb>奢侈</rb><rt>しゃし</rt></ruby>逸楽等の弊害欠点の生じて来る事に対しても、世間は多くの杞憂を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>かず、清濁併せ呑む<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>を以て大胆に猛進して行った有様は、いかにも心持よく感ぜられる。これを四十四年後における今日の時勢に比較すると、吾々は殊にミリタリズムの暴圧の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に委縮しつつある思想界の現状に<ruby><rb>鑑</rb><rt>かんが</rt></ruby>みて、<ruby><rb>転</rb><rt>うた</rt></ruby>た夢の如き感があると云ってもいい位である。しかし自分は断って置く。自分はなにも現時の社会に対して経世家的憤慨を<ruby><rb>漏</rb><rt>もら</rt></ruby>そうとするのではない。時勢がよければ自分は都の花園に出て、時勢と共に喜び楽しむ代り、時勢がわるければ黙って退いて、象牙の塔に身を隠し、自分一個の空想と憧憬とが導いて行く好き勝手な夢の国に、自分の心を逍遥させるまでの事である。

寧ろこう云う理由から、自分は今<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>に、自分がこの世に生れ落ちた頃の時代の中に、せめて蟲干の日の半日<ruby><rb>一時</rb><rt>いっとき</rt></ruby>なりと、心静かに遊んで見ようと<ruby><rb>急</rb><rt>あせ</rt></ruby>っている最中なのである。

大方母上が若い時に着た衣裳であろう。<ruby><rb>撫子</rb><rt>なでしこ</rt></ruby>の裾模様をば肉筆で<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いた紗の<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>が一枚風にゆられながら下っている辺りの椽先に、自分は明治の初年に出版された草双紙の種類を沢山に見付け出した。<ruby><rb>大蘇芳年</rb><rt>たいそよしとし</rt></ruby>の<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>で<ruby><rb>古河黙阿弥</rb><rt>ふるかわもくあみ</rt></ruby>の書いた「<ruby><rb>霜夜鐘十時辻占</rb><rt>しもよのかねじゅうじのつじうら</rt></ruby>」もある。<ruby><rb>伊東橋塘</rb><rt>いとうきょうとう</rt></ruby>と云う人の書いた「<ruby><rb>花春時相政</rb><rt>はなのはるときにあいまさ</rt></ruby>」という侠客伝もある。「高橋お伝」や「<ruby><rb>夜嵐</rb><rt>よあらし</rt></ruby>お<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>」のような流行の毒婦伝もある。「<ruby><rb>明治芸人鑑</rb><rt>めいじげいにんかがみ</rt></ruby>」と題して、俳優音曲落語家の人名を等級別に書分けたもの、または「新橋芸妓評判記」だの、「<ruby><rb>東京粋書</rb><rt>とうきょうすいしょ</rt></ruby>」「<ruby><rb>新橋花譜</rb><rt>しんきょうかふ</rt></ruby>」なぞ名付けた小冊子もある。

これ等の書籍はいずれも、<ruby><rb>水野越州</rb><rt>みずのえっしゅう</rt></ruby>以来久しく圧迫されていた江戸芸術の花が、維新の革命後、如何に<ruby><rb>目覚</rb><rt>めざま</rt></ruby>しく<ruby><rb>返咲</rb><rt>かえりざ</rt></ruby>きしたかを示すものである。芝居と音曲と花柳界とは江戸芸術の生命である。<ruby><rb>仮名垣魯文</rb><rt>かながきろぶん</rt></ruby>が「いろは新聞」の全紙面を花柳通信に費したのも怪しむに足りない。芝居道楽というディレッタントの劇評家が六二連を組織して各座の劇評を単行本として出版したのも不思議ではない。<ruby><rb>国貞</rb><rt>くにさだ</rt></ruby>、<ruby><rb>国周</rb><rt>くにちか</rt></ruby>、<ruby><rb>芳幾</rb><rt>よしいく</rt></ruby>、芳年の如き浮世絵師が<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>にその製作を刊行させたのも自然の趨勢であろう。支那画家の一派もまた時としては、柳橋や山谷堀辺りの風景をば、<ruby><rb>恰</rb><rt>あだか</rt></ruby>も水の多い南部支那の風景でもスケッチしたように、全く支那化して描いているが、これは当時の漢詩人が向島を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">夢香洲</span>、<ruby><rb>不忍池</rb><rt>しのばずのいけ</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">小西湖</span>と呼んだと同じく、日本の社会の一面には<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の時代にもそれぞれ、外国崇拝の思想の流れていた事を証明する材料の一つとして、他日別に論究されべき問題であろう。

自分は蟲干の<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>もまた最も興味深く、古河黙阿弥の著作を読返した。脚本のトガキだけを書き直してその<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>絵入の草双紙にしたもの、または狂言の筋書役者の芸評等によって、自分は黙阿弥翁が脚本家としての技量以外に、忠実なるその時代の写生画を見せて<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れることを喜ぶのである。同時にまた、作者が勧善懲悪の名の下に、或は作劇の組織を複雑ならしめんが為めに描き出した多種類の悪徳及び殺人の光景が、写実的たると空想的たるとを問わず、江戸的デカダンス思想の最後の究極点を示している事を面白く思うのである。

江戸文明の爛熟は久しく<ruby><rb>傾城遊君</rb><rt>けいせいゆうくん</rt></ruby>の如き病的婦人美を賞讃し尽した結果、その不健全なる芸術趣味の赴く<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>は、是非にも毒婦と称するが如き特種なる暗黒の人物を造り出すに至った。（自分は当時の世の中に、事実全身に<ruby><rb>刺青</rb><rt>ほりもの</rt></ruby>をして万引をして歩いたような毒婦が幾人あったにしても、それをば矢張り一種の芸術的現象と<ruby><rb>見做</rb><rt>みな</rt></ruby>してしまう。何故なればこの当時の世の中には芝居が人心を支配した勢力と、芝居が実生活から捉えて来たモデルとの密接な関係が、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど或場合には引放す事の出来ない<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby>混同錯乱しているからである。）黙阿弥の劇中に見られるような毒婦は<ruby><rb>近松</rb><rt>ちかまつ</rt></ruby>にも西鶴にも<ruby><rb>春水</rb><rt>しゅんすい</rt></ruby>にも見出されない。<ruby><rb>馬琴</rb><rt>ばきん</rt></ruby>に至って初めて「<ruby><rb>船蟲</rb><rt>ふなむし</rt></ruby>」を発見し得るが、講談としては<ruby><rb>已</rb><rt>すで</rt></ruby>に鬼神お松その他多くの例証を上げ得るであろう。黙阿弥はその以前とその時代とに<ruby><rb>云伝</rb><rt>いいつた</rt></ruby>えられた毒婦を一括して、これに特種の典型を付し、菊五郎と源之助との技芸化を経て、遂に一時代の特色を作らしめた天才である。毒婦は如何なる彼の著作にも世話物と云えば必ず現われて来る重要なる人物で、観客は、この人物の悪徳的活動範囲の広ければ広いだけ、所謂芝居らしい快感と興味とを多く感ずるのである。そして勧善懲悪の名の下に、一篇の結末に至って、これ等の人物が惨殺もしくは所刑せられるのに対して、英雄的悲壮美を経験するのである。

毒婦の第一の資格は美人でなければならぬ。それも軽妙で、<ruby><rb>清洒</rb><rt>せいしゃ</rt></ruby>で、すね気味な強みを持っている美人でなければならぬ。それ<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>、毒婦が遺憾なくその本領を発揮する場合には、観客は道義的批判を離れて、全く芸術的快感に<ruby><rb>酔</rb><rt>え</rt></ruby>い、毒婦の迫害に遭遇する良民の暗愚遅鈍を嘲笑する。「<ruby><rb>木間星箱根鹿笛</rb><rt>このまのほしはこねのしかぶえ</rt></ruby>」と云う脚本中の毒婦は、色仕掛で<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>した若旦那への<ruby><rb>愛想尽</rb><rt>あいそづか</rt></ruby>しに「亭主があると明けすけに、言つて仕舞へば身も蓋も、ないて頼んだ無心まで、ばれに成るのは知れた事、云はぬが花と<ruby><rb>実入</rb><rt>みい</rt></ruby>りのよい大尽客を<ruby><rb>引掛</rb><rt>ひっかけ</rt></ruby>に、旅へ出るのも有りやうは、亭主の為めと夕暮の、涼風慕ふ夏場をかけ、湯治場近き小田原で、宿場稼ぎの旅芸者、知らぬ土地故<ruby><rb>応頼</rb><rt>おうらい</rt></ruby>の、転ぶ噂もきのふと過ぎ、今日迄すましてゐられたが、東京にゐた<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の頃は、毎度いろはの新聞で、仮名垣さんに叩かれても、のんこのしやアで押通し、山猫おきつと名を取つた、<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しっぽ</rt></ruby>の裂けた気まぐれ者さ。」なぞ云っているのは既に好劇家の諳記している処であろう。

自分は黙阿弥劇の毒婦とまた<ruby><rb>白浪物</rb><rt>しらなみもの</rt></ruby>の舞台面から「悪」の芸術美を感受する場合、いつもボオドレエルの詩集 Fleurs du Mal を比較せねばならぬと思う。無論両者の間には東西文明の相違せる色調に従って、思想上の価値に高下の差別はあろうけれど、両者ともにデカダンス芸術の極致を示している事だけは同じである。

審美学者ギヨオは有名なるその著述「社会学上より見たる芸術」の巻末において犯罪者の心理に関するロンブロゾ博士の所論を引用して、悪人は一種恐しい虚栄心を持っているもので、単に世間を恐怖させるため、或は世間一般をして己れの名を歌わしめる為に人を殺す事がある。悪人の虚栄心は文学者や婦人のそれよりも更に<ruby><rb>甚</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しい事を記載し、「殺人者の<ruby><rb>酔</rb><rt>えい</rt></ruby>」と題するボオドレエルの――

<ruby><rb>乃公</rb><rt>おれ</rt></ruby>の<ruby><rb>女房</rb><rt>にょうぼ</rt></ruby>はもう死んだ。

乃公は気随気儘の身になつた。

一文なしで帰つて来ても、

ガア〱<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>く<ruby><rb>嬶</rb><rt>かか</rt></ruby>アがくたばつて、

乃公は気楽にたらふく呑める…………

と云う詩なぞを掲げているが、これ等は<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>となく、黙阿弥劇中に散見する<ruby><rb>台詞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>「<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby>の事を知つたのは、お月様と乃公ばかり。」また、「人間わづか五十年、一人殺すも千人殺すも、とられる首はたつた一ツ、とても悪事を仕出したからは、これから夜盗、<ruby><rb>家尻切</rb><rt>やじりき</rt></ruby>り………。」の如きを思い出させるではないか。

ボオドレエルを始め西洋のデカダン中には必ず神秘的宗教的色彩が強く、また死に対する恐しい幻覚が現われているが、これ等は初めから諦めのいい人種だけに、江戸思想中には皆無である。その<ruby><rb>代</rb><rt>かわり</rt></ruby>に残忍極る殺戮の描写は、他人種の芸術に類例を見ざる特徴であって、所謂「殺しの場」として黙阿弥劇中興味の大部分を占めている事は、今更らしく論じ出すにも及ぶまい。

毒婦と<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすびと</rt></ruby>と人殺しと<ruby><rb>道行</rb><rt>みちゆき</rt></ruby>とを仕組んだ黙阿弥劇は、丁度<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>末代の貴族が猛獣と人間の格闘を見て喜んだように、尋常平凡の事件には興味を感ずる事の出来なくなった鎖国の文明人が、<ruby><rb>仕度</rb><rt>したい</rt></ruby>三昧の贅沢の挙句に案出した極端な<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての娯楽的芸術を最も能く総括的に代表したものである。即ちあらゆる江戸文明の究極点は、この劇的綜合芸術中に集注されているのである。講談における「怪談」の戦慄、人情本から味われべき「濡れ場」の肉感的衝動の如き、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>くこれを黙阿弥劇の中に求むる事が出来るではないか。三味線音楽が、またこの劇中において、如何に複雑に<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ効果鋭く応用されているかは、已に自分がその折々の劇評に論じた処である。「<ruby><rb>殺</rb><rt>ころし</rt></ruby>の場」のような<ruby><rb>血醒</rb><rt>ちなまぐさ</rt></ruby>き場面が、<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>その伴奏音楽として用いられる<ruby><rb>歌沢</rb><rt>うたざわ</rt></ruby>風の独吟と、如何に不思議なる詩的調和を示せるかを聞け。

以上は黙阿弥劇に現われたロマンチックの半面であるが、その写実的半面は、狂言の本筋に関係のない仕出しの台詞や、その折々の流行の<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>、または狂言全体の時代と類型的人物の境遇等において伺い知られるのである。維新後零落した旗本の家庭、親の為めに身を売る娘、新しい法律を楯にして悪事を働く<ruby><rb>代言人</rb><rt>だいげんにん</rt></ruby>、暴悪な高利貸、傲慢な官吏、<ruby><rb>淫鄙</rb><rt>いんぴ</rt></ruby>な<ruby><rb>権妻</rb><rt>ごんさい</rt></ruby>、<ruby><rb>狡獪</rb><rt>こうかい</rt></ruby>な<ruby><rb>髪結</rb><rt>かみゆい</rt></ruby>等いずれも生々とした新しい興味を以て写し出されている。自分は幕末から維新当時における下層社会の生活状態を研究するに、黙阿弥の著作が最も尊い材料である事を疑わないばかりでなく、なお今日に及んでも本所深川辺りの露地生活の秘密を知ろうとするには、非常に便利な<ruby><rb>手引草</rb><rt>てびきぐさ</rt></ruby>であると信ずる。本所深川浅草等における貧民の婦女と花柳界の関係及びその罪悪の状況とは、往々にして<ruby><rb>宛然</rb><rt>えんぜん</rt></ruby>三、四十年以前の黙阿弥劇その儘を見る如き実例が少くないからである。

蟲干の椽先には、なおいろいろの面白いものがあった。大川筋の料理屋の変遷を知るに足るべき「開化三十六会席」と題した芳幾の錦絵帖には、その時々に名を知られた芸者の姿を中心にして、河筋の景色が画いてある。自分は春信や歌麿や<ruby><rb>春章</rb><rt>しゅんしょう</rt></ruby>やそれから下って<ruby><rb>豊国</rb><rt>とよくに</rt></ruby>、国貞、国周、芳年などを見るにつけ、それ等と今日の<ruby><rb>清方</rb><rt>きよかた</rt></ruby>や夢二などの画を比較すると、時代はその生活と思想を変化させるより先に、生理的に人間の容貌と体格とを変化さして行くものたる事を感ずる。吾々は今日の新橋に「<ruby><rb>堀</rb><rt>ほり</rt></ruby>の<ruby><rb>小万</rb><rt>こまん</rt></ruby>」や「<ruby><rb>柳橋</rb><rt>やなぎばし</rt></ruby>の<ruby><rb>小悦</rb><rt>こえつ</rt></ruby>」のような絵姿を望む事が出来ないならば、それと同じように、二代目の左団次と六代目の菊五郎に向って、<ruby><rb>鋳掛松</rb><rt>いかけまつ</rt></ruby>や髪結新三の原型的な風采を求めてはならぬ。古池に飛び込む<ruby><rb>蛙</rb><rt>かわず</rt></ruby>は昔のままの蛙であろう。中に<ruby><rb>玉章</rb><rt>たまずさ</rt></ruby>忍ばせた萩と<ruby><rb>桔梗</rb><rt>ききょう</rt></ruby>は<ruby><rb>幾代</rb><rt>いくだい</rt></ruby>たっても同じ形同じ色の萩桔梗であろう。しかし人間と呼ばれる種族間においては、親から子に譲るべきその儘の同じものとては一ツもない、自分は時代の空気の人体に及ぼす生理的作用の余儀なさを論じたい………。

しかし夏の日足は已に傾きかかって来た。涼しい風が<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りと植込みの木の葉をゆすっている。縁先の鳳仙花は炎天に<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れたその葉をば早くも<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に立て直した。古い小袖を元のように古い<ruby><rb>葛籠</rb><rt>つづら</rt></ruby>の中に仕舞い終った家人は、片隅から一冊ずつに古い書物を、倉の中へと運んでいる。自分はまた来年の蟲干を待とう。来年の蟲干には、自分の趣味はいかなる書物をあさらせる事であろう。

（四十四年八月）