終戦後間もなく組織されたＢ劇団に、踊りもするし、歌もうたうし、芝居もするというような種類の女優が五、六人いた。

その中の二人は他の三、四人よりも年が上で、いずれも二十五、六。前々からきまった男を持っていた。一人は年も四十を越した一座の興行師の妾で、三ツになる子供がある。他の一人は銀座の<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>ダンスホールでクラリネットを吹いている音楽師を恋人にしていたが、あとの三、四人は年も二十になるかならず、手入らずの<ruby><rb>生娘</rb><rt>きむすめ</rt></ruby>だかどうだか、それは分らないが、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>Ｂ劇団開演の当初、二、三ヶ月ばかりの間は、楽屋の噂になるような事はしていなかった。

一座は浅草公園を打上げた後、近県の町々を一めぐり興行して東京にかえり新宿の或映画館で<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を明けたが、その時には、早くも三人の中の一人は仲間の或男優と人目かまわず<ruby><rb>巫女戯</rb><rt>ふざけ</rt></ruby>るような仲になっていたし、また他の一人は次の興行の稽古中、一座の若い演出家先生と何やら背景のかげなどでひそひそはなしをはじめると云う有様。初に変らず娘のままで居残ったのは<ruby><rb>唯</rb><rt>たっ</rt></ruby>た一人になった。それは芸名を春川千代子といって年は十九。戦争中も<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>に焼けなかった葛飾区高砂町の荒物屋の娘である。

酉の市に売れ残る熊手のお亀が、早く売れるものより出来がわるいと、定った訳はない。それと同じように、千代子が三人の中で一番おくれて男を知り<ruby><rb>初</rb><rt>そ</rt></ruby>めたのに、特別の事情や理由のあるわけではなかった。その顔立も、その技芸も、その気性も、三人が三人、どれが優れ、どれが劣っていたとも見えなかった。三人とも同じように、戦争中徴用されていた<ruby><rb>工場</rb><rt>こうば</rt></ruby>の女工から、戦後、あたり前ならば電車の車掌か、食べ物屋の給仕か、闇市の売子にでもなるべきところを、いずれも浅草に遠からぬ場末の町に成長し、近処に周旋する人のあるがまま女優というものになったまでの事で。舞台の薄暗い物かげなどで、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>見れば三人とも誰が誰やら見分けがつかない。食料不足の世と云うにも係らず、三人とも栄養不良の様子は更に見られない<ruby><rb>豊</rb><rt>ゆたか</rt></ruby>な肉づき。<ruby><rb>臀</rb><rt>しり</rt></ruby>の大きいのと、<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>の太いのが際立って目につく身体つき。笑ったり話をしたりする時の態度や声柄までが、姉妹ででもあるように<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く似ていた。戦後いずこの町と云わず田舎と云わず、すさまじい勢で繁殖して行く民衆的現代女性の標本とでも言いたい娘さん達である。

或日、楽屋の風呂場で、興行師の妾になっている一番年上の女が、「千代ちゃん。まだ誰も好きな人できない。」とからかった。

千代子は洋服の<ruby><rb>片地</rb><rt>きれじ</rt></ruby>でも見る時のような調子で、「いいの居ないもの。居なそうだわ。」

「そうか知ら。捜しようがわるいんだろう。」

「でも<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>で好いと思う人には、大概きまった人があるじゃないの。仕様がないわ。わたし売れ残りでいいのよ。その方が気楽だわ。」

しかし千代子は何となく心淋しい気がしないのでもなかった。急に雨が降って来たりする帰り道、男が持っているその傘をさしかけて、女の家まで送ってやったりするのを見たり聞いたりする時など、自分もそういう親切な目に遇って見たいような気になることもあった。

する<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>、演出家を恋人にしている亀子という仲間の女がお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>を大きくさせた。そして座長の人気役者が<ruby><rb>媒介</rb><rt>なこうど</rt></ruby>役を買って出て<ruby><rb>目出度</rb><rt>めでたく</rt></ruby>結婚させることになった。亀子のお腹は日に増し出張って来て、衣裳を着換るたびたび、帯を締直すのが苦しそうに見え初め、舞台も成るべく動かない役を振って貰うようになった。

或日次の興行の稽古に取りかかった時、いつもならば亀子が得意でするフラッパーな娘の役割が千代子に振替えられた。

序幕は月のいい晩に、男女の学生が公園のベンチで会合する場面。男の学生に扮した役者は他の劇団から転じて今度<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>に加入した山室弘という二十五、六の学生くずれ。戦争中から慰問興行の団体などにも加わって、舞台の経験もあり、流行歌も下手ではないという評判。千代子の目には将来有望な青年俳優であるらしく思われた。自然と稽古にも興が乗って、千代子は抱かれて<ruby><rb>頬摺</rb><rt>ほおず</rt></ruby>りなどする<ruby><rb>仕草</rb><rt>しぐさ</rt></ruby>にも、我知らず狂言ならぬ真剣味を見せはじめた。それが<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>か、初日の幕があいた時、その日の演芸の中では千代子の役が一番評判がよかった。男の方でも<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の熱烈な演じ方に気乗りがしたと見えて、幕になった後まで、なおも飽きずに舞台の上の仕草から<ruby><rb>思入</rb><rt>おもいいれ</rt></ruby>、<ruby><rb>台詞</rb><rt>せりふ</rt></ruby>の言い方を、いろいろ懇切に教えたり直してやったりした。

三日目の舞台に、山室はベンチの上で力まかせにぐっと千代子の身を抱きすくめ、その<ruby><rb>脣</rb><rt>くちびる</rt></ruby>の上にいつ放すとも知れず自分の脣を押しつけたが、千代子は呼吸をはずませながら、<ruby><rb>悶</rb><rt>もが</rt></ruby>きもせずにじっとしていた。その日から山室は幕間毎に女優の部屋へやって来て、千代子の鏡台の前に坐り、千代子の使う刷毛で顔を直したり、また楽屋外の喫茶店へ誘い出したりするようになった。

一座はその時丸の内で興行していた。千代子はその帰道が同じなので、田中と云う三枚目の役者を恋人にしている仲間の蝶子といつも連立って、地下鉄から浅草で東武線に乗りかえ、牛田という停車場から更に京成電車に乗りかえて高砂の駅で降りる。その道々千代子はいつも居眠りしかける蝶子を呼び起しては、うるさい程山室の話をするのであった。

「じゃ、あんた、まだだったの。わたし、もうとうに、そうだと思ってたわ。」或夜蝶子は驚いたような調子で笑った。

「だって、<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>で何とも言ってくれないんだもの。仕様がないわ。」

「あんた。真実山室さん好きなの。」

「好きだわ、わたし。だけれど女の方からそんな事言い出せないわ。断られると気まりがわりいもの。」

「大抵様子でわかるじゃないの。断るか、断らないか……。」

「蝶子さん、あんたの場合、どうだったの。どっちが先に言出したの。」

「どっちッて。わたしも彼氏も、どっちからも、何とも言やしなかったわ。」

「じゃ警報なしに。突発したのね。すごいわね。」

「何さ。だから大概様子でわかるって言ったじゃないの。時機があるのよ。チャンスが必要なのよ。」

そう言われてから、千代子は毎日その話をする機会を窺っていた。その話というのは山室が結婚の約束をしてくれるか、どうかという事なのである。しかし楽屋の部屋も、外の喫茶店も人目の多いことには変りがなく、改ってしんみりした話をするにはその場所が見つからなかった。帰道にでも二人つれ立って歩きでもしたらと思うのであるが、あいにく山室は大詰の幕にはほんの一寸舞台へ出るばかり。千代子が幕切まで居残って、それから部屋に戻り化粧をおとしたり、着物をきかえたりして、道づれの蝶子と外へ出る時には、山室の姿はもう見えない。

或日千代子は思切って、

「山室さん。あなた、帰りいそぐのね。<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>、遠いの。」

「鎌倉から通うんだもの。東京にゃ泊れるところがないんだよ。千代子さんとこ、泊れると助かるんだ。」

無論冗談だとは知りながら、千代子は家には両親をはじめ男の兄弟もいるので、即座には何とも返事ができなかった。

する中、蝶子が病気で休んだことがあった。千代子は帰りの道づれがないのを幸、今夜こそ山室を引止め一緒に駅まででもいいから歩きながら話をしようと思い定めた、ところがその時になると、蝶子の<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>が彼女の病気を見舞いに行くから一緒に行こうと言出したため、折角の機会も空しくなった。しかし千代子は日に増し、山室との間が親しくなって行くのを知るにつけ、せめての心やりに、何か真実を籠めた贈物をしようと思定めた。それは毛糸のスェータを編んで男に着てもらおうということであった。

女達の間には一時忘れられていた編物がまた流行り出して、姉さん株の女優の一人はこの間から子供の足袋を編み始めていた。千代子は郵便貯金まで引出して鼠色霜降の糸を買い、往復の電車の中は勿論、舞台裏で「<ruby><rb>出</rb><rt>で</rt></ruby>」を待つ間にさえ、編物の手を休ませなかった。

いつかその興行も千秋楽になる日が近づいて来た。来月はまた浅草公園へ戻るという話がきまって、<ruby><rb>謄写摺</rb><rt>とうしゃずり</rt></ruby>の新しい脚本がめいめいの手にわたされた。

初日になるという前の日、千代子は蝶子とその男の田中と三人して仲店を歩いていた時、<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎやか</rt></ruby>な人通に交って、<ruby><rb>睦</rb><rt>むつま</rt></ruby>し気に話し合いながら買物をしている二人<ruby><rb>連</rb><rt>づれ</rt></ruby>の男女があるのを、ふと見ると、男は自分の恋している山室で、連の女はその辺に出ている広告の写真などで、瀧野糸子とその名も知られている流行歌の<ruby><rb>歌手</rb><rt>うたいて</rt></ruby>であった。

千代子は何の<ruby><rb>考</rb><rt>かんがえ</rt></ruby>もなく<ruby><rb>心安立</rb><rt>こころやすだて</rt></ruby>に呼びかけようとするのを、蝶子が心づいて、<ruby><rb>窃</rb><rt>そっ</rt></ruby>と千代子に注意をした。山室と歌唱いとは何も知らずそのまま横町を六区の方へ曲る。蝶子の男はその後姿を見送りながら、千代子の心持は能く知らないと見えて、

「もうたしかに出来てるね。あの二人は。」と自分の女を<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みた。

「とうのむかしからよ。二人とも早いんじゃ有名な人達だもの。」これが女の返事で、会話はそれなり途切れて<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の事に移った。

しかし千代子はこの短い会話の断片をきいただけで、<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>てを推察することができた。山室が毎晩イヤに帰りを急いでいる訳も、自分には舞台で接吻したり物蔭で手を握ったりしてくれながら、どこか冷静で、煮切らない態度をしているその訳をも、一度に残りなく知ることができたような気がしたのである。

千代子は今日も毛糸の編物を<ruby><rb>手提</rb><rt>てさ</rt></ruby>げの中に入れて居たのであるが、もう稽古のひまに取出して見る気もしなくなった。

新しい狂言は闇市で汁粉を売る姉と、菓子を売る妹とが、一人の男の奪合いをするような筋で、妹に扮する千代子の失恋する場面がある。初日の舞台で、この度も千代子の役が第一の<ruby><rb>出来栄</rb><rt>できばえ</rt></ruby>を見せた。千代子はその晩興行主から大入袋の外に特別の賞与を貰って、人から羨しがられたが、自分ながら怪しむほど嬉しい気がしなかった。

山室は相変らず女優達の部屋へ遊びに来て、楽屋外の喫茶店へ千代子をさそった。千代子も以前と変らず、いそいそして出て行くものの、話は楽屋の部屋でするのと同じく、誰にきかれても<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつかえ</rt></ruby>のないような事ばかりに限られた。行末どうなるだろうと云うような、希望も心配もともども<ruby><rb>烟</rb><rt>けむり</rt></ruby>のように消えてしまったのだ。

編物は再び千代子の手には取上げられなかった。鏡台を並べた仲間の女達が、「スェータどうして。もう出来たの。」ときくと千代子は事もなげに、「肩が凝るから当分おやめよ。」と言捨てて読みかけの小説から目をそらさなかった。

毎晩道づれになる蝶子は浅草小島町辺に二階をめっけたと言って、青砥の疎開先から引移った。演出家の女房になった亀子のお腹はいよいよ大きく張出して、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く舞台には出られなくなった。新に二人の若い女が補欠に雇入れられたが、いずれも道がちがうので、千代子は一人きり高砂へかえる電車の中では編物の代りに毎日小説本をひろげていた。

或夜楽屋を出ると雨が降って来そうな空合である。千代子はいつもよりまた一層急いで、浅草東武線の駅の階段を<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け上って行く時、後から呼びかけるものがあるので、振返って見ると、それは山室よりもずっと前から一座になっていた増田と云う男優である。しかし芸も人気も山室とは比べ物にならない無器用な男で、戦災後小岩の駅近くで、野菜を並べている家の忰である。

千代子はお前とは役者の貫禄がちがうと言わぬばかり、姉が弟に対するような調子で、

「ねえ、<ruby><rb>増</rb><rt>まア</rt></ruby>ちゃん、明日また持って来てくれない。胡瓜のいいの。」

増田はわざとらしく頭を掻いて、「かッぱらうのも一仕事ですぜ。親父に目っかろうものなら、どやされるよ。」

「いいじゃないの。わたしが頼むんだもの。」

「ええ、いいです。千代子さんのお頼みなら仕様がないや。」

「その代り<ruby><rb>増</rb><rt>まア</rt></ruby>ちゃん、こん度煙草上げるわ。家じゃ配給があっても誰ものむ人がいないのよ。」

「どうかお願いします。」

千代子は電車で増田と乗合すのは今夜が初てではない。彼は高砂町から一ツ先の小岩まで乗って行くべき筈なのを、その夜にかぎって千代子の降りる時一緒におりた。千代子は変だと思って、

「どこへ行くの。<ruby><rb>増</rb><rt>まア</rt></ruby>ちゃん。」

「歩きます。歩きたいんですよ。」

「降って来るわよ。こんな真暗な晩……。」

「歩きます。僕歩きます。」

「イヤよ。そんな三枚目。受けやしないわ。」

「どうせそうです。僕のする事は受けません。二枚目も三枚目も。僕はとても駄目なんです。」

中川堤に添う真暗な溝川の岸を歩いて行きながら、増田は突然千代子の方に寄添い、初めて見た時から千代子さんが好きで好きでたまらなかった事を打明けた。しかしその時分には山室さんが<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>にモーションを掛けている最中だったから、自分なんかが何か言っても駄目だと思って我慢をしていたが、山室さんは現在の興行がすむと、Ｘ座の女歌手糸子さんと一座になって関西へ行く話がきまった事を、<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>な処から聞知ったので、もう我慢してはいられなくなったと言うのである。

千代子は歩いて行く中、人通りのない真暗な夜ではあるが、一歩一歩自分の家が近くなるので、まさかの場合には声を出して逃げ出せばいいと、いくらか度胸をきめて、言いたいだけ男に口をきかせていた。男の声は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えてとぎれとぎれになった時、いつか家の前まで来た。店口の閉めた雨戸の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>から<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>の漏れるのが見える。千代子は安心して立止り、

「じゃ、左様なら。」とやさしく手を出して握らせる。

「千代子さん。僕のお願いきいて下さい。僕、今夜はおとなしく帰りますから。」

「あら、とうとう降って来たわ。」

「そんな事かまいません。千代子さん、じゃお休みなさい。」

増田は千代子の手に接吻して、よろけながら歩き出そうとした。

「<ruby><rb>増</rb><rt>まア</rt></ruby>ちゃん。傘貸して上げるよ。持ってくるから。一寸待っててよ。」

「いいですよ。いいですよ。漏れてかえります。」

言捨てて男はかなり強く降り出す雨をもかまわず、すぐさま闇の中に姿を消した。その足音の遠くなるのを聞きすましている中、千代子はいつともなく物思わしい様子になった。そして家内の時計が十時を打ち初める音を聞きつけるまで、雨の<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>に漏れるのも<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わず軒の下に立っていた。

次の日から千代子は<ruby><rb>一時</rb><rt>ひとしきり</rt></ruby>投げすてて置いた毛糸の編物を再び編みはじめた。

スェータは右の片腕だけが出来ていたので、こん度は左の方に取りかかったのだ。千代子は初ての人に逃げられた心の悲しみを、次のものによっていくらか慰め忘れさせることができたので、その礼をする心持で、Ａに贈ろうと思った贈物をＢに廻そうとしたのである。Ｂのおどおどして言いたいことも言えないような様子が、Ａの利口ぶった隙間のない態度に比べて、いかにも純情らしくまたかわいそうに思われたのである。

左の片腕はその時の興行も<ruby><rb>中日</rb><rt>なかび</rt></ruby>にならない中に編上げられ、いよいよ首の周囲から胴に取りかかろうとした時である。朝起きて着物をきる時、下腹の或処に、触るといやに<ruby><rb>痛痒</rb><rt>いたがゆ</rt></ruby>いような腫物が一ツ、ぽつりと吹出ているのに心づいた。千代子はびっくりした。もしやこれが話にきく恐しい病気だったら、どうしようと覚えず<ruby><rb>身顫</rb><rt>みぶる</rt></ruby>いをした。医者に見てもらった方がいいとは思いながら、<ruby><rb>耻</rb><rt>はずか</rt></ruby>しさと恐しさが先に立って見て貰いには行けない。薬屋から薬も買えない。毎日沈んだ顔色をして人知れず溜息ばかりついていたが、腫物は<ruby><rb>化膿</rb><rt>うみ</rt></ruby>もせず四、五日中に拭いたように直ってしまった。まァよかったと嬉し涙をこぼすと共に、千代子はいつも血色のよくない増田の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>が急に恐しくなって、接吻は勿論の事、手を握られたり抱きつかれたりする事も、なりたけ体よく避けるようにした。

増田は最初の晩のように、千代子の後を追いかけ、真暗な夜道を歩きながら、<ruby><rb>怨言</rb><rt>うらみごと</rt></ruby>のありたけを言いつづけたけれど、千代子は<ruby><rb>父</rb><rt>とう</rt></ruby>さんに目っかって叱られたからと、出放題の言訳をして、その後は何と言われても一緒に夜道は歩かなかった。

いつの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にかその年も秋風が身にしみて来るころになった。千代子は夜道を一人かえる時、短いスカートからこの夏中むき出しにしていた両脚に、しみじみ靴たびがはきたくなり、家へかえるが<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>や、戸棚の中をさがして、投込んだまま忘れていたスェータに気がついた。

今はもう楽屋中に誰一人スェータを編んでやろうと思うような好きな人はいない。しかし戸棚の奥から編物を取出して見ると、左右の腕はもう出来ている。胴も襟のまわりの面倒なところさえ大方は編み上げられているので、後はほんの一手間で仕上げてしまうことができるのだ。そう思うと、最初この仕事に手をつけさせたその人の事が一層しみじみと懐しく思返されて来る。

前の夜に何やら夢を見て、少し寝過した或日の朝、千代子は道々<ruby><rb>停</rb><rt>とま</rt></ruby>りがちな腕時計を耳に押当てては見やりながら、あわてて楽屋へ駈込んだ時、大阪の興行先から浅草の楽屋宛に出した、思いがけない山室の手紙を受取った。

山室は来月東京へ帰って来て、他分もう一度千代子の居るＢ劇団へ加入するだろう。今からそれを楽しみにしているというような嬉しがらせの文句が書いてあった。

千代子は、山室は到底自分と結婚してくれるような純情な男ではないとあきらめながら、そうかと云って、性のわるい色魔にしてしまうほど、悪くも考え得なかった。千代子は誰一人好きな人もなしに、暗記した台詞を繰返すばかり、毎日毎晩を舞台で暮す今の寂しさと退屈さとに比べれば、実現される望はなくとも、せめて舞台の上だけでもいいから、もう一度、顔があつくなったり、呼吸がはずんだりするような目に会いたくて堪らない気がした。

スェータは山室弘再加入の予告が劇場の壁に貼り出されたその翌日、見事に千代子の膝の上に編み上げられた。しかも胸のところに、小さく人目につかぬように、二人のイニシアルが変り色の糸で編込まれていたのである。

（昭和二十二年十月草）