## 凡例

一　本書は、安永五年（一七七六）刊、野梅堂版（京都梅村判兵衛・大坂野村長兵衛の合板）の初版本を底本とした。

二　本文の覆刻に際しては、できるだけもとのかたちをくずさないように留意したが、文庫という性質上、つぎの方針をとった。

１　漢字はおおむね原本通りの漢字を用いた。

２　振り仮名は原文にあるものは大半これを付したが、とくにわかりきったよみで、あまり<ruby><rb>煩瑣</rb><rt>はんさ</rt></ruby>にわたる場合は、これを省略した。

３　送り仮名は原文ではかなり不統一であるが、これは特殊な場合をのぞいて、文語文法の送り仮名に改めた。

４　仮名づかいは旧仮名づかいの正規なものに統一した。

５　句読点は、原文ではすべて「。」であるが、読解に便利なように句点「。」と読点「、」に区別し、あらたに補ったものもある。

６　原文には改行・段落がないが、これも読解に便利なように適宜設けた。

７　文法上誤りと思われる箇所や、脱字・<ruby><rb>衍字</rb><rt>えんじ</rt></ruby>と思われる箇所もないではないが、作者特有の語法もあり、用語・用字への配慮もあると思われるので、なるべく原文通りにして、ときに脚注をもって説明した。

８　原文で「人〱」「おろ〱」などとあるところは「人々」「おろおろ」とした。

三　原文の挿絵は全部これを入れ、説明をくわえた。

四　脚注は、スペースのゆるすかぎり入れて、解読に便なるようにつとめたが、限られた範囲内のことであるから、くわしい出典・語義・語釈・用例などは記すことができずにおおむね省略した。しかし本文を解読するだけならばこれで十分足りると思う。なお脚注だけで解読しがたい場合には、現代語訳によられたい。

五　現代語訳は、なるべく原文の持ち味や文体の特色をそこなわないように留意しながら、しかもなるべく逐語訳にしたがって文意を正確に訳出し、現代文としても味読にたえるようなものとすることに努力した。ことに説話体の文体と、長いセンテンスがえんえんと接続する秋成独自の文体のニュアンスを生かしながら、これを現代文とするということに苦心をはらった。

六　解説は、「雨月物語」を鑑賞し、研究するうえの基礎をしめしておいた。

昭和三十四年十月

鵜月　洋

  


## 現代語訳　雨月物語

  


## 雨月物語序

<ruby><rb>羅貫中</rb><rt>らかんちゅう</rt></ruby>は「<ruby><rb>水滸伝</rb><rt>すいこでん</rt></ruby>」を著わして、そのために子孫三代にわたって<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>の児が生まれ、紫式部は「源氏物語」を著わして、一度は地獄にまでおちたが、それはおもうに彼等が架空の物語や狂言<ruby><rb>綺語</rb><rt>きご</rt></ruby>を書いて世の人々を惑わせた悪業のために、そのむくいを身にうけたというべきであろう。そしてその文をみると、それぞれかわっためずらしい趣向をこらし、その文章の勢い・調子は真にせまり、あるいは低く、あるいは高く、あたかもころがるようになめらかで<ruby><rb>流暢</rb><rt>りゅうちょう</rt></ruby>であって、これを読むものの心持をしてたのしく快くさせるものである。その当時の出来事を、遠い後の世である今日において、さながら眼前にありありとてらし出して見ることができるようなおもいがする。さてここに、私もちょうど<ruby><rb>泰平</rb><rt>たいへい</rt></ruby>の世を<ruby><rb>謳歌</rb><rt>おうか</rt></ruby>するようなのんきなむだばなしを書いたが、それは口からでまかせにしゃべりちらしたものである。<ruby><rb>雉</rb><rt>きじ</rt></ruby>が祭礼の庭で鳴いたり竜が野で戦ったりするような奇怪千万で、ありもしない怪奇談であるから、みずからかえりみてさえ、根拠のない、<ruby><rb>疎漏</rb><rt>そろう</rt></ruby>の多い、つたないものだとおもう。ましてこれを<ruby><rb>拾</rb><rt>ひろ</rt></ruby>い読みするものは、もとよりこれが信ずるに足るほんものだというはずがない。だから、私の場合は、世間の人をまどわす罪もなく、子孫に口唇裂や平たい鼻などの<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わり<ruby><rb>者</rb><rt>もの</rt></ruby>が生まれるという<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>のむくいをうけるはずが、どうしてあろうか。そのおそれはないというものである。明和五年三月、雨はれて月おぼろにかすむ晩春の夜、座敷のあかりまどの下で編みつくり、<ruby><rb>書肆</rb><rt>しょし</rt></ruby>に渡す。題して「雨月物語」ということにした。<ruby><rb>剪枝畸人</rb><rt>せんしきじん</rt></ruby>しるす。

  


## 雨月物語　巻之一

## 白峯（しらみね）

<ruby><rb>逢坂山</rb><rt>おおさかやま</rt></ruby>の<ruby><rb>関守</rb><rt>せきもり</rt></ruby>に通行を許されて東国にむかってから、秋をむかえた山のもみじの美景も見捨てがたく、そのまま諸国<ruby><rb>行脚</rb><rt>あんぎゃ</rt></ruby>の旅をつづけることにして東海道をくだったが、なかでも浜千鳥が砂浜に足跡をつけてあそぶ<ruby><rb>鳴海潟</rb><rt>なるみがた</rt></ruby>、富士山の噴煙、浮島が原、清見が関、大磯小磯の浦々、紫草の美しく咲く武蔵野の原、<ruby><rb>塩釜</rb><rt>しおがま</rt></ruby>の海の穏やかな朝景色、<ruby><rb>象潟</rb><rt>きさがた</rt></ruby>の猟師のひなびた<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>ぶきの家、佐野の舟橋、木曾の<ruby><rb>桟橋</rb><rt>かけはし</rt></ruby>などのありさまは、どれひとつとして心<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれないところはなかったが、そのうえなお西国の名所・歌枕を見たいものだと思って、仁安三年の秋には、<ruby><rb>葭</rb><rt>あし</rt></ruby>の花散る<ruby><rb>難波</rb><rt>なにわ</rt></ruby>を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て、須磨・明石の浦ふく汐風を身にしみじみと感じながら、旅をつづけて四国にわたり、<ruby><rb>讃岐</rb><rt>さぬき</rt></ruby>の<ruby><rb>真尾坂</rb><rt>みおざか</rt></ruby>の林というところに、しばらく逗留することにした。これとても野宿などを重ねてきた長旅の疲れをいたわるためではなく、悟道を念じて修行するためのよすがとして結んだ庵であった。

この里近くの白峯というところに、崇徳院の御陵があると聞いて、参拝したいものだと、十月のはじめごろ、その白峯に登った。松や柏が深々と茂りあって、青雲のたなびく晴天の日ですら、まるで小雨がしとしとと降っているかのように暗くしめっぽい。<ruby><rb>児</rb><rt>ちご</rt></ruby>が<ruby><rb>嶽</rb><rt>たけ</rt></ruby>というけわしい峯が御陵のうしろにそびえたち、<ruby><rb>千仞</rb><rt>せんじん</rt></ruby>のふかい谷底からは雲霧がわきあがってくるので、眼前のものさえはっきりしない心地がされる。木立がわずかにすいた所に、土を高くつんだうえに石を三つ積み重ねたものがあるが、それが<ruby><rb>野茨</rb><rt>のいばら</rt></ruby>や<ruby><rb>蔓草</rb><rt>つるくさ</rt></ruby>にすっかりうずもれて、みた目にもなんとなく物悲しい気持がするのを、これこそ崇徳院の御墓であろうかと思うと、心も暗然とさせられて、まったく夢なのか現実なのかけじめもつかないほどである。

思えばまのあたりそのお姿を拝したのは、まだ天子であらせられたころで、<ruby><rb>紫宸殿</rb><rt>ししんでん</rt></ruby>・<ruby><rb>清涼殿</rb><rt>せいりょうでん</rt></ruby>の<ruby><rb>御座所</rb><rt>ござしょ</rt></ruby>で政治をおとり遊ばされたのを、文武百官は、まことに賢明な天子であると、その仰せをおそれかしこんでお仕え申しあげたものである。また<ruby><rb>近衛天皇</rb><rt>このえてんのう</rt></ruby>に御位をお譲りになられてからも、上皇御所の立派な玉殿におすまいになっていらしたのに、それがこんな鹿の通う足跡しか見えない、<ruby><rb>伺候</rb><rt>しこう</rt></ruby>奉仕するものもないような深山の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の下に<ruby><rb>崩御</rb><rt>ほうぎょ</rt></ruby>されていようとは、まったく思いもかけないことであった。一天万乗の天子という尊い御身分であらせられてさえ、前世の<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>というものがおそろしいまではっきりとその身につきまとって、その<ruby><rb>罪業</rb><rt>ざいごう</rt></ruby>をのがれることがおできにならなかったことよと思うと、人の世のはかなさにまで思いがおよんで、涙はわき出るようにとめどなくあふれてくるのだった。

今夜は夜どおし<ruby><rb>御回向</rb><rt>ごえこう</rt></ruby>申しあげようと、御墓の前のたいらな石の上にすわって、お経をしずかによみはじめたが、やがて心にうかんだ一首の和歌をよんでお供えした。

「松山の浪のけしきはかはらじをかたなく君はなりまさりけり」

（松山の海に寄せる波の景色は昔も今もかわらないであろうに、この景を眺めて暮らされた崇徳院はすでにおなくなりになってしまった。）

なおも心ゆるめずに一心に<ruby><rb>読経</rb><rt>どきょう</rt></ruby>をつづける。あふれる涙に、草の露が添って、ふかくしっとりと<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>をぬらすのであった。日が沈むにしたがって、深山の夜景は不気味でただならぬさまをみせてきたので、石の上にすわり、落ちかかる木の葉を身にかけただけではひどく寒く、そのため精神はすみ、骨の髄まで冷えて、なんとはなしにものすごい心地がされる。月は出たが、<ruby><rb>繁茂</rb><rt>はんも</rt></ruby>した木立は月光を洩らさないので、あやめもわからない闇のなかで心わびしく思いながら、やがて眠るともなくうとうとしようとすると、たしかに、「<ruby><rb>円位</rb><rt>えんい</rt></ruby>、円位」とよぶ声がする。

眼をひらいて闇の中をすかしみると、異様な姿で、背が高く痩せ衰えた人が、顔つきや着衣の色柄ははっきりと見えないが、こちらを向いて立っている。西行もとより道心をえた法師であったから、おそろしいとも思わず、「そこに来たのは誰だ」とたずねた。すると、その人は「さっきその方が詠んだ和歌の返歌を申そうと思ってきたのだ」といって、

「松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけるかな」

（松山にうちよせる浪に流されてきた船が、都へも帰れずにやがてむなしく朽ちはててしまった。）

と詠み、「よくきてくれたな」とおっしゃるので、西行ははじめてそれが崇徳院の亡霊であることがわかり、地面にぬかずいて拝し、さめざめと涙を流していった。「それにしてもどうして<ruby><rb>成仏</rb><rt>じょうぶつ</rt></ruby>されずにお迷いになっていらっしゃるのでございますか。濁りけがれた現世をのがれて仏になられたことをうらやましく存じてこそ、今夜の法要によって、仏縁におあずかり申したいと思っておりましたのに、成仏なされずにここにおあらわれになるとは、もったいないことではございますが、また悲しい御心根でございます。ひたすらこの世の妄執をお忘れになって、めでたく成仏の位におつき下さい」と、真心をつくしてお諫め申しあげた。

これを聞くと、崇徳院は声高くお笑いになって、「その方は知るまいが、近ごろの世上の乱れは、自分のしわざである。生きている時から魔道に心をうちこんで、<ruby><rb>平治</rb><rt>へいじ</rt></ruby>の乱をおこさせ、死して後もなお朝廷にたたりをするのだ。よく見ているがいい。やがて天下に大乱をおこさせようぞ」という。西行は、このお言葉をきくと、涙をはらって、「これはおどろきいった情ない御心持をうけたまわることでございます。君にはもとより御聡明であるとの評判があらせられるのでございますから、帝王道の道理は十分よく御承知のことと存じあげます。こころみにおたずね申しあげます。<ruby><rb>一体</rb><rt>いったい</rt></ruby>、<ruby><rb>保元</rb><rt>ほうげん</rt></ruby>の<ruby><rb>御謀叛</rb><rt>ごむほん</rt></ruby>は、天照大神の御神勅の趣旨に<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>うまいと思って、お思いたちになられたのですか。それとも御自身の私欲から御計画なされたのですか。さあ、<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しくおっしゃって下さい」と申しあげた。すると、崇徳院はさっと顔色をかえられて、「よく聞け。帝位は人間至上の位である。それをもし上にたつ天子から人道を乱すときは、天の命ずるところにしたがい、民の与望にこたえて、天子たりともこれを<ruby><rb>伐</rb><rt>う</rt></ruby>つのが聖賢の道である。そもそも<ruby><rb>永治</rb><rt>えいじ</rt></ruby>元年の昔、なんの罪もないのに、父鳥羽院の<ruby><rb>命</rb><rt>めい</rt></ruby>によって、自分は帝位を三歳の<ruby><rb>体仁</rb><rt>なりひと</rt></ruby>にゆずって退位したが、この心をみても自分が人欲ふかいとはいえまい。その体仁が若死されては、わが子の<ruby><rb>重仁</rb><rt>しげひと</rt></ruby>こそ当然天下を統治すべきものと、自分も世間も思っていたのに、<ruby><rb>美福門院</rb><rt>びふくもんいん</rt></ruby>の妬みにさまたげられて、第四皇子の<ruby><rb>雅仁</rb><rt>まさひと</rt></ruby>に帝位をうばわれたのは、まことふかいうらみではないか。重仁には国を治める才がある。それにたいして雅仁はどれだけの器量があるというのだ。人の徳の有無をも見きわめないで、皇位継承のことを<ruby><rb>後宮</rb><rt>こうきゅう</rt></ruby>の后に相談しておきめになったのは、父帝のあやまちであった。しかし自分は、父が御存命中は、子としての孝行と誠をつくして、その不平不満をけっして顔色にも出さなかったが、父がおかくれになったのちは、いつまでも不遇に甘んじ、不平を我慢しておられようかと、ここにはじめて勇気をふるいおこして兵をあげることを決意したのである。<ruby><rb>周</rb><rt>しゅう</rt></ruby>の武王が臣の身として、君主であった<ruby><rb>殷</rb><rt>いん</rt></ruby>の<ruby><rb>紂王</rb><rt>ちゅうおう</rt></ruby>を討ったのさえ、天の命ずるところにしたがい、民の与望にこたえれば、事は<ruby><rb>成就</rb><rt>じょうじゅ</rt></ruby>し、天は認めて、周八百年の世の<ruby><rb>基</rb><rt>もとい</rt></ruby>をひらく大業となったではないか。まして国を治める資格と地位のある自分が、女の権力によってできた、あやまった政権にとってかわろうとするのに、なんでこれが道理にそむいたことだといえようか。その方は出家して仏道に溺れ、来世で、<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>をのがれて救いをえたいと願う利欲の心から、ほんとうの人間の道をむりに仏教の因果理論にひきつけて説き、<ruby><rb>堯舜</rb><rt>ぎょうしゅん</rt></ruby>の教え、すなわち儒教の説にてらすべきを、仏教に混入して、自分を説得しようとするのか」と、御声も荒々しくおっしゃるのだった。



白峯陵の前の「たひらなる石の上に座をしめ」た西行が、崇徳院の怨霊と対決する図。「一段の陰火、君が膝の下より燃上がりて」という情景である。（原本三丁裏、四丁表の挿絵）

西行はますますおそれる色もなく、ひざをのり出して、「君のおっしゃるところは、人間の道の道理をかりて説かれますので、いかにもそれにかなっているように見えますが、じつはやはり醜い人間の欲情・煩悩の域から脱してはおられません。遠い中国の例をひくまでもありません。わが国の昔にも、<ruby><rb>応神</rb><rt>おうじん</rt></ruby>天皇が兄皇子の<ruby><rb>大鷦鷯</rb><rt>おおささぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>王</rb><rt>きみ</rt></ruby>をさしおいて、末皇子の<ruby><rb>菟道</rb><rt>うじ</rt></ruby>の<ruby><rb>王</rb><rt>きみ</rt></ruby>を皇太子とお定めになりました。天皇崩御ののち、この兄弟の皇子たちは互いにゆずりあって、どちらも帝位につこうとしません。三年たってもそのゆずりあいが終りそうにもないのを、菟道の王はふかく御心配になって、『どうして私がこれ以上生きながらえて、天下の人々に迷惑をかけられようか』とおっしゃると、御自害あそばされたので、やむなく兄皇子が帝位におつきになりました。これこそ帝位の尊厳を重んじ、父に孝、兄に悌という人道をまもり、ほんとうの真心をつくしていやしい私欲というものがないというべきです。聖賢堯舜の道とはこれをいうのでしょう。わが国において、儒教を尊んで、もっぱらそれを天皇道の理論的な裏づけとしているのは、菟道の王が<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>の<ruby><rb>王仁</rb><rt>わに</rt></ruby>を<ruby><rb>招聘</rb><rt>しょうへい</rt></ruby>して学ばせられたのがはじめでありますから、この御兄弟の皇子の御心こそ、そのまま中国の聖人の精神ともいってよいでしょう。また『周のはじめ、武王、殷の紂王の暴虐を<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>ってこれを討ち、ために天下の民を安らかにした。これは臣の身として君を<ruby><rb>弑</rb><rt>しい</rt></ruby>したというべきではない。仁にもとり義にもとった一人の不徳者紂をころしたのである』ということが、『孟子』という書物に記されていると人づてに聞いております。だから、中国の書籍は、経典・史策・詩文にいたるまで、神意にかなって、わが国に渡来しないものはありませんが、『孟子』という書物だけはまだ日本に伝わっておりません。この書物を積んでくる船は、途中でかならず暴風に遭って沈没するからだといわれております。それはどういうわけかというと、わが国は天照大神が国の基をひらいてお治めになってから、皇孫の天子がたえることなく代々御位についておりますのに、もしこんな口先でいいくるめるような、こざかしい教えを伝えることになると、後世には帝位を奪っても罪と思わないという賊子も出ることであろうと、八百よろずの神々がこの書物をお憎みになって、神風をおこして船を転覆させるのだということでございます。だから中国の聖賢の教えも、わが国の国風にてらしてふさわしくないものがすくなくありません。また、『詩経』でも、『兄弟はたとえ内輪喧嘩をしても、いったん外部からのはずかしめをうけようとしたときは、一致協力してこれをふせげよ』と、いっているではございませんか。それを君には、御兄弟の愛をお忘れになり、そのうえ、御父帝がおかくれになってまだ<ruby><rb>殯</rb><rt>もがり</rt></ruby>の<ruby><rb>宮</rb><rt>みや</rt></ruby>に安置した御遺体のぬくもりがさめないうちに、もう軍旗をなびかせ弓はずをふりたてて挙兵され、帝位争奪の戦をなさるなど、不孝の罪これよりはなはだしいことはございますまい。天下は神の定める器であり、帝位は神意の定めるところであります。だから、人が私欲をもってこれをうばおうとしても、うばうことのできない道理であるのを、君はわきまえられずに戦いをおこされましたが、たとえ重仁親王の御即位は天下万民ひとしく仰望するところであっても、徳をしき平和の恵みをほどこされないで、道にはずれた方法をもってあのように世を乱したもうたときは、きのうまで君をお慕い申しあげていたものも、きょうはたちまち君を恨んで仇敵となり、そのために本望をもおとげ遊ばされないばかりか、古来例のないほどの刑罰をお受けになって、こんな<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>な片田舎でおなくなりになったのでございます。このうえは、ただただ昔の恨みをお忘れになって、極楽浄土におかえり遊ばすことこそ、心からお願い申しあげたい君の御心でございます」と、はばかることなく申しあげたのである。

これを聞いて、崇徳院はふかいためいきをつかれ、「いまその方が事の善悪道理を正してわが罪をせめたが、その方のいうところもまたもっともである。しかしどうしようもないのだ。この島に流されて、<ruby><rb>高遠</rb><rt>たかとお</rt></ruby>の松山の家に苦しくもとじこめられ、日に三度の食事をもってくる者以外には、誰ひとりとして参って仕えるものもない。ただ夜空をとぶ<ruby><rb>雁</rb><rt>かり</rt></ruby>の声が枕もとちかく聞えてくると、あの雁は都をさして飛んで行くのだろうかと、それさえなつかしく思われ、明け方の千鳥が<ruby><rb>洲崎</rb><rt>すさき</rt></ruby>で友よびかわして鳴くのを耳にすると、それもまた物思いのたねとなるだけである。中国の<ruby><rb>燕丹</rb><rt>えんたん</rt></ruby>の故事のように、<ruby><rb>烏</rb><rt>からす</rt></ruby>の頭が白くなるという奇跡がおころうとも、自分には都へ帰れる機会はないのだから、きっとこの<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>な海辺で一生を終り、海辺をさまよう亡霊となることであろう。そこで、ひとえに来世の安楽のためにと思って、五部の<ruby><rb>大乗経</rb><rt>だいじょうきょう</rt></ruby>を写経したが、寺らしい寺もないこんなさびしい片田舎の海辺にのこしておくのも悲しいことである。わが身はこの荒磯でくちるとも、せめて筆跡だけでも都の中へ入れさせて下さいと、弟の<ruby><rb>仁和寺</rb><rt>にんなじ</rt></ruby>上首<ruby><rb>覚性法親王</rb><rt>かくしょうほっしんのう</rt></ruby>のもとへ、経にそえてつぎの和歌をおくったのである。

浜千鳥<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>はみやこにかよへども身は松山に<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>をのみぞ鳴く

（浜千鳥と同じように自分の筆跡〈写経〉のみは懐かしい都へ通っていくが、自分は、松山で帰京の日を待ちこがれながら声をあげて泣くだけである）

ところが、<ruby><rb>少納言信西</rb><rt>しょうなごんしんぜい</rt></ruby>が邪推して、『もしかするとこれは崇徳院が主上をのろい、天下をのろう心でおくられたものかもしれません』と、帝に申しあげたため、そのままにおくりかえされたのであるが、まことにうらめしいことだ。昔から日本でも中国でも、国位を争って兄弟が敵となった例はめずらしくないが、それでも自分は罪ふかいことをしたと思って、その悪心を悔い改め、罪ほろぼしのためにと思って写した御経であるのに、それをいかにさまたげるものがあるからといって、帝の近親は減刑するという<ruby><rb>議親法</rb><rt>ぎしんほう</rt></ruby>をも無視して、兄の筆跡さえも都の中へおいれにならない帝の御心こそ、いまになっては永久に解けることのない恨みである。しょせんこの写経を魔道に<ruby><rb>回向</rb><rt>えこう</rt></ruby>し、魔力によってこの恨みを晴らそうと、ひとすじに心をきめ、指を切ってその血で願文を書き、経とともに<ruby><rb>志戸</rb><rt>しと</rt></ruby>の海に沈めてからのちは、人にも逢わず、家の内にふかくとじこもって、ひたすら魔王となり恨みをはらそうとの大願を立てたが、願いかなってついにあの平治の乱が勃発したのである。

まず、<ruby><rb>信頼</rb><rt>のぶより</rt></ruby>が分不相応な高い位をのぞむその増長心をあおりたてて、<ruby><rb>義朝</rb><rt>よしとも</rt></ruby>をその味方につけさせた。あの義朝こそ憎い敵なのだ。父の<ruby><rb>為義</rb><rt>ためよし</rt></ruby>をはじめ、兄弟の武士たちが、保元の乱で、みなわがために命を捨てて働いたのに、彼一人、われに敵対した。<ruby><rb>為朝</rb><rt>ためとも</rt></ruby>の勇猛と、為義・<ruby><rb>忠正</rb><rt>ただまさ</rt></ruby>の軍略によって、勝利のけはいが見えていたのに、西南の風に本陣の白河殿が焼き討ちされて敗北し、自分は白河殿をのがれ出てからは、<ruby><rb>如意</rb><rt>にょい</rt></ruby>が<ruby><rb>嶽</rb><rt>だけ</rt></ruby>のけわしさに足をいためたり、あるいはきこりの切った椎の柴を身にかけて雨露をしのいだりして、苦労のすえに、ついにとらえられてこの島に流されたのであるが、それはすべて義朝の<ruby><rb>悪辣</rb><rt>あくらつ</rt></ruby>な焼き討ちという計略にねざすことなのだ。この仕返しとしては、まず義朝の心を暴虐・貪欲にすることによって、<ruby><rb>信頼</rb><rt>のぶより</rt></ruby>の陰謀に加担させたので、彼は天子に弓ひく大罪をおかし、武略にすぐれぬ<ruby><rb>清盛</rb><rt>きよもり</rt></ruby>の如きに追い討たれてしまったのだ。そのうえ、父の為義を殺したむくいがその身にあらわれて、家来にだましうちされたのは、まさに天罰を蒙ったものである。また少納言信西は、つねにおのれを物知りの学者ぶって、狭量にして人をいれない高慢な根性まがりであったから、これを誘って、信頼・義朝の敵としたので、最後には家を出奔して宇治山の穴にひそみかくれていたのを、とうとう探し出されて捕らえられ、六条河原でさらし首になった。これは、わが写経を送りかえしたへつらいの罪の結末をつけたのである。その余勢をかって、<ruby><rb>応保</rb><rt>おうほう</rt></ruby>の夏には美福門院の生命をちぢめ、<ruby><rb>長寛</rb><rt>ちょうかん</rt></ruby>二年の春には<ruby><rb>忠通</rb><rt>ただみち</rt></ruby>に祟ってこれを殺し、われもその年の秋にはこの世を去ったが、死後なお憤りの火がさかんにもえつづけて消えないままに、ついに大魔王となって、三百余類の手下をもつ首領となった。わが手下どものすることは、人の幸福を見てはそれを不幸に転じ、天下の泰平なのを見ては乱をおこさせることである。ただ清盛のみは人間として授かった現世の果報が大であって、そのために一門一族すべて高位高官に列し、好き放題に国の政治をとりおこなっているが、長男の<ruby><rb>重盛</rb><rt>しげもり</rt></ruby>が忠義をもって輔佐しているゆえ、その暴虐にもかかわらず、まだ<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>の時期に達していない。しかしその方もよく見ておれ。平氏の運命もまた長くはないだろう。雅仁がわれにつらく当たったその分だけは、かならず雅仁にも報復してやるぞ」と、御声はしだいに大きくおそろしくなってくるのだった。西行は、「わが君にはこれほどまでに魔界の悪縁につながれて、<ruby><rb>弥陀</rb><rt>みだ</rt></ruby>の極楽浄土とは無縁にちかく、億万里も遠く隔たっておいでなさるようでございますから、これ以上はくりかえしてなにも申しあげません」といって、ただ口をとじてむかいあっていた。

その時、あたりの峯や谷が揺れ動いて、風が林を吹きたおすばかりにはげしく吹き、砂を空に高くまきあげた。と、見る見るうちにひとかたまりの鬼火が、崇徳院のひざの下から燃えあがって、そのために山も谷も昼のようにあかるくなった。その光のなかに、よくよく院の御様子を拝見すると、怒りのためか朱をそそいだような真っ赤なお顔に、ぼうぼうと乱れた髪がひざにかかるまで乱れさがり、にらみつけるように白眼をつりあげて、熱い息を苦しそうに吐いていらっしゃる。お召しになっている衣は柿色でひどくすすけたように黒ずんでいるうえに、手足の爪はまるで獣の爪のように鋭く長くのびていて、さながら魔王の姿そのままであり、見るからにあさましくおそろしい。やがて空にむかって、「<ruby><rb>相模</rb><rt>さがみ</rt></ruby>、相模」とおよびになる。「ハッ」とこたえて、<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>のような<ruby><rb>変化</rb><rt>へんげ</rt></ruby>の鳥が空からまいおり、院の御前にひれふして、仰せの言葉を待つ。院は、その変化の鳥にむかわれて、「なんではやく重盛の命を奪って、雅仁と清盛を苦しめないのか」と仰せになる。変化の鳥はこたえて「後白河上皇の御幸運はまだ尽きておりませんし、重盛の忠義と誠には近づけません。しかしいまから十二年たちますと、重盛の寿命もつきてしまいます。彼が死ねば、平氏一族の幸運も、それとともにほろびます」という。それを聞くと、院は手をうっておよろこびになり、「憎い平氏の敵どもは、ことごとくこの前の海でみなごろしにしてやるぞ」と、叫ぶ御声は谷や峯にこだまして、その物凄さはとてもいいあらわせないほどであった。西行は、この魔道のあさましいありさまを見て、いまさら涙をおさえかね、再び一首の和歌をよんで、院が仏縁につながるような御心になられることをおすすめ申しあげた。

「よしや君昔の玉の<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>とてもかからんのちは何にかはせん

（たとえ君には昔は金殿玉楼におすまいになっていたとしても、こうしておなくなりになって現世をはなれているいまでは、そんな現世の身分や優越感は何もなりません。御往生下さい）

死んでしまえば王侯も庶民もおなじであるのに」と、感動が胸にあふれて、思わずもこの歌を声高にうたいあげたのである。

院は、これをお聞きになって、御心をうごかされたようであったが、しだいにお顔の色もやわらぎ、鬼火もだんだんうすくなって消えていき、ついにそのお姿もかき消すように見えなくなったが、変化の鳥もどこへいったのか、あとかたもなく姿を消し、折から十日あまりの月は峯のかなたにかくれて、木立生い茂った闇の中ではものの見わけもつかないので、さながら夢路をさまようような思いだった。まもなく夜明けの空に、<ruby><rb>塒</rb><rt>ねぐら</rt></ruby>はなれる朝鳥のさえずりがすがすがしくひびきわたったので、最後にかさねて金剛経一巻を回向申しあげて、西行は山をおり、庵へ帰った。あらためて心しずかに昨夜来の出来事を思いおこしてみると、平治の乱のことをはじめとして、人々の身の上、またその年月など、院の語られたことが事実と符合してまちがいがないので、ふかくおそれつつしんで、このことをだれにもはなそうとしなかった。

その後十三年を経て、<ruby><rb>治承</rb><rt>じしょう</rt></ruby>三年の秋、平重盛が病にかかって世を去ったので、清盛入道はだれはばかることもなく、専横をきわめるようになり、後白河法皇をうらんで鳥羽離宮におしこめたてまつり、さらに福原の茅ぶきの御所にお移しして、苦しめ申しあげたのである。人心離反し、<ruby><rb>頼朝</rb><rt>よりとも</rt></ruby>が機に乗じて東国から兵を挙げ、<ruby><rb>義仲</rb><rt>よしなか</rt></ruby>が北国から雪をけたてて京へのぼるにおよんで、さしもの平家一門も都をおちて西の海にのがれ、ついに讃岐の海、志戸・<ruby><rb>八島</rb><rt>やしま</rt></ruby>にいたって多くの武勇の士たちが魚の餌食となり、さらに<ruby><rb>赤間</rb><rt>あかま</rt></ruby>が<ruby><rb>関</rb><rt>せき</rt></ruby>・<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>の<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>に追いつめられて、幼君安徳天皇が入水されたので、平家の武将たちもここにのこらずほろびてしまったが、その<ruby><rb>一部始終</rb><rt>いちぶしじゅう</rt></ruby>が崇徳院のおっしゃった言葉に少しもちがわなかったのは、おそろしくもまた不思議なかたりぐさであった。その後、院の御霊所が御陵のそばに玉をちりばめ美しくいろどられて造営され、その御威光をながくあがめたてまつるようになった。讃岐へ旅する人は、かならず御幣をささげて、つつしみおがむべき貴い御神である――。

  


## 菊花の約（きっかのちぎり）

春になると青々とした若葉を茂らせる柳も、家の庭に植えてはならない。それとおなじように、交際は軽薄な人と結んではならない。なぜかといえば、柳はすぐ茂って青々となるけれども、初秋をつげる風がひとふきすると、それにたえられずにたちまち散ってしまうからである。また軽薄な人はまじわりやすいが、同時にまじわりが絶えて離れてしまうのもはやい。それでもまだ柳の方は春がくるたびに葉を新緑に染めてみせるが、軽薄の人はいったんまじわりが絶えたならば、二度とふたたび訪ねてくるなどということはないものである。

<ruby><rb>播磨</rb><rt>はりま</rt></ruby>の<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby><ruby><rb>加古</rb><rt>かこ</rt></ruby>の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>に、<ruby><rb>丈部左門</rb><rt>はせべさもん</rt></ruby>という学者がいた。清貧にあまんじて、日夜親しむ書物のほかは、身のまわりの諸道具類などわずらわしいといって、万事簡素に暮らしていた。年老いた母があった。この母は、中国の有名な<ruby><rb>孟母</rb><rt>もうぼ</rt></ruby>にも劣らないほどのかたい節操をもった賢母で、常に糸をつむぎ、はたを織ることを仕事としては、左門のこころざしを達成させようと助けていた。また妹が一人あったが、これはおなじ里の<ruby><rb>佐用氏</rb><rt>さようじ</rt></ruby>の許へかたづいていた。この佐用の家は非常に裕福であったが、丈部母子の賢いひとがらを慕って、その家の娘を嫁にむかえて<ruby><rb>親戚</rb><rt>しんせき</rt></ruby>となってからは、なにかにかこつけてしばしば物などおくっては母子の生活を<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けようとするのであったが、左門は「生活のことで人の世話になるわけにはいかない」といって、一度だっておくりものをうけたことがなかった。

ある日、左門が、おなじ里の某氏の許を<ruby><rb>訪</rb><rt>おとず</rt></ruby>れ、古今のよもやまばなしをしてはなしに興がのってきたとき、壁一重へだてた隣室から、人の苦しそうなうめき声が聞えてきて、いかにも可哀そうだったので、主人にたずねると、主人はこたえて、「ここからずっと西の方の国の人らしいのですけれど、<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れに遅れたとのことで、一夜の宿をもとめられたのですが、いかにも立派な武士らしい<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>をそなえて人品もいやしからぬと見うけましたので、お泊め申しあげたところ、その晩、たちのわるい高熱を出して、それからは起き臥しも自分では自由にならないものですから、お気の毒に思って、三日四日ときょうまでお泊めしてきましたが、どこの国の人かもはっきりしないので、私もとんだ失敗をしでかしたものと、当惑している始末です」という。これを聞いて左門は、「お気の毒なはなしですな。御主人が御不安に思うのももっともですが、病気で苦しんでいる人は、知人もない旅先でこんな病気をわずらっていらっしゃるのですから、とりわけ心苦しくいらっしゃることでしょう。どんな御容態かみたいものですが」といって、たちあがろうとするのを、主人はおしとどめて、「はやり病は人をそこなうものだと聞いていますから、家の者などもあそこへは行かせないようにしております。あなたも近寄っておからだを悪くすることがあるといけません」という。左門は笑って、「論語にもいうように『死生命あり』で、人間の寿命は天命の定めるところです。天命でなければどんな病気だってうつるはずはありません。それを、はやり病は人をそこなうなどというのは、愚人俗人のいうことで、私どもは信じません」というと、戸をおしあけて隣室に入って、病人を見る。主人がはなしたとおり、<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>のよさそうな人であるが、病気が重いとみえて、顔は黄色く、皮膚は黒く、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せ衰えて、<ruby><rb>古蒲団</rb><rt>ふるぶとん</rt></ruby>のうえにくるしそうに身を横たえている。そして左門がはいってきたのをしると、人なつかしそうに見て、「どうか、お湯をいっぱい下さい」という。左門は近寄って、「もう御心配はいりません。私がかならずお救い申しあげましょう」といってはげますと、主人と相談して薬をえらび、自分で処方を考え、自分で<ruby><rb>煎薬</rb><rt>せんやく</rt></ruby>して、それをのませながら、そのうえ<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>を炊いて食べさせるなど、その看病ぶりはまるで兄弟にたいするように親切をきわめ、一刻たりとも捨てておけないというような手厚さであった。

かの武士は、左門の看護の親切さに涙を流して感謝し、「見ず知らずの旅人である私に、これほどまでに御親切にして下さるとは感謝のことばもありません。たとえこのまま死のうとも、あなたの御親切にたいしてはきっと御恩返しをいたします」という。左門は、それをおしとどめ、はげまして、「気の弱いことをおっしゃいますな。だいたい<ruby><rb>疫病</rb><rt>えきびょう</rt></ruby>は罹病期間のあるものです。その期間をすぎてしまうと生命に別条はありません。私が毎日まいってお世話申しあげましょう」と、誠意をこめて約束し、その言葉どおり心をこめて看病したので、やがて病気もしだいによくなり、気分もさっぱりしてきた。そこで、ある日のこと、病人は、この家の主人に<ruby><rb>鄭重</rb><rt>ていちょう</rt></ruby>に礼をのべるとともに、左門の陰徳ある人柄を尊敬して、その職業をたずね、自分の身の上をもつぎのように語った。「私は、もと<ruby><rb>出雲</rb><rt>いずも</rt></ruby>の<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby>松江の出身で、<ruby><rb>赤穴宗右衛門</rb><rt>あかなそうえもん</rt></ruby>という者ですが、すこしばかり軍学の書に通じていたので、<ruby><rb>富田</rb><rt>とみた</rt></ruby>の城主<ruby><rb>塩冶掃部介</rb><rt>えんやかもんのすけ</rt></ruby>が、私を師として軍学を学ぶという立場におりましたところ、あることから<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみ</rt></ruby>の<ruby><rb>佐々木氏綱</rb><rt>ささきうじつな</rt></ruby>の許へ密使としてえらばれ、近江へ赴いて佐々木の館に逗留しているうちに、故郷では前の富田城主<ruby><rb>尼子経久</rb><rt>あまこつねひさ</rt></ruby>が<ruby><rb>山中鹿之介</rb><rt>やまなかしかのすけ</rt></ruby>一党を味方にひきいれて、<ruby><rb>文明</rb><rt>ぶんめい</rt></ruby>十七年十二月の<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おおみそか</rt></ruby>に、不意討ちをかけて城をのっとったので、<ruby><rb>掃部介</rb><rt>かもんのすけ</rt></ruby>殿も討死なさったのであります。元来出雲の国は佐々木の領国で、塩冶氏はその代官だったのですから、私は氏綱にむかって、『<ruby><rb>三沢</rb><rt>みざわ</rt></ruby>・<ruby><rb>三刀屋</rb><rt>みとや</rt></ruby>の豪族を援助して、経久を討ちほろぼしなさい』と進言したのですが、氏綱は外見いかにも勇将にみえながら、内心は臆病卑怯な愚将なので、私の建言を実行しないばかりか、かえって私を館に足どめしたのです。しかし、私は、いる理由もない所に長居はすまいと、単身ひそかに抜け出して、故郷へ帰ろうとした途中、こんな病気にかかって、はからずも先生にたいへんお世話をおかけしたということは、身にあまる御恩であります。これからの私の生涯をかけてきっと御恩返しをいたします」。左門はいう。「『孟子』にもあるように、人の不幸をみて見殺しにできないのは人間の本性でありますから、私のしたことも当然のことで、いまさらそんな<ruby><rb>御鄭重</rb><rt>ごていちょう</rt></ruby>なお礼のことばをいただく理由がありません。まあ、もうすこしここに滞在されて御養生なさい」と。左門の誠実あふれたことばをたよりにして、赤穴はなお幾日か滞在したが、日がたつにつれて、身体の調子がほとんど平生の状態にまで回復した。



文明十八年（一四八六）一月一日の早暁、尼子経久と山中党が富田城を襲撃した図。構図は「菊花の約」が典拠とした「陰徳太平記」の記事によったと思われる。（原本十四丁裏、十五丁表の挿絵）

この数日間、左門はよい友を得たと、昼となく夜となく交際していろいろはなしをしてみると、赤穴も、左門の専門の<ruby><rb>諸子百家</rb><rt>しょしひゃっか</rt></ruby>のことなどはひかえめにぽつりぽつりとはなし出すが、その質問や理解力は並一通りではなく、聡明であり、ことに専門の戦術理論のこととなると確信にみちた立派な見解を示したので、お互いに心がぴったりと一致し、感心したりよろこんだりして、ついに義兄弟の盟約を結んだのである。赤穴が五歳年長であったから、兄分としての礼をとって、左門にむかっていうのに、「私は幼いときに父母に死に別れて親がありません。義兄弟となったいまは、あなたの老母はすなわち私の母上でありますから、あらためて母上として拝顔の栄をえたいと思います。母上は私の心をくんで、この幼稚で愚かな気持をうけいれて下さるでしょうか」と。それを聞いて左門はたいへんよろこび、「母はいつも私が孤独なのを悲しんでいます。いまの真心こもったお言葉を聞かせたならば、よろこんで、寿命も延びることでしょう」というと、すぐに赤穴を家にともなった。老母は、これをよろこびむかえて、「<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>は才能もなく、その学問も時勢にあわず、そのため世に出る機会を失っております。どうかお見捨てなく、兄として指導してやって下さい」という。赤穴は、うやうやしく頭をさげて、「男子たるものは義を重しとします。功名富貴などは問題ではありません。私はいまさいわいにも、こうして母上の御慈愛をうけ、左門殿からは兄として尊敬されました。これ以上なんの望みがありましょう」というと、心から感激して、またしばらくのあいだこの家に逗留したのである。

きのうかきょう咲いたと思った<ruby><rb>尾上</rb><rt>おのえ</rt></ruby>の桜もいつのまにかすっかり散ってしまって、涼しい風に吹き寄せられる浦浪の様子にも、問わずとしれた初夏の訪れがはっきりとわかるころになった。ある日、赤穴は左門母子にむかって、「私が近江を脱出してきたのも、出雲の様子を見ようと思ったためですから、この際ひとまず国へ下って、すぐにまた帰ってまいり、それからは貧しいながらも一生懸命に母上に孝養をつくして御恩返しをしたいと思います。しばしのお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を下さい」という。左門は「それでは、兄上はいつごろお帰りになられますか」とたずねる。赤穴はこたえて、「月日のたつのは早いものです。おそくともこの秋をこすことはありません」という。左門は、さらに「秋というのはいつと日をきめてお待ちしたらいいのでしょうか。どうかはっきりとそれをきめて下さい」という。赤穴は、「九月九日、<ruby><rb>重陽</rb><rt>ちょうよう</rt></ruby>の<ruby><rb>佳節</rb><rt>かせつ</rt></ruby>をもって帰ってくる日ときめましょう」とこたえる。左門は「兄上、きっとこの日をまちがわないで下さい。当日、私は、一枝の菊花に、気持だけの粗酒を用意してお待ち申しあげておりますから」と念をおすと、互いに誠意をもって約束しあい、別れがたい別離の情を惜しんで、やがて、赤穴は西へ帰っていった。

月日はたちまちのうちに経過して、下枝の<ruby><rb>茱萸</rb><rt>ぐみ</rt></ruby>の実が赤く色づき、垣根の野菊が色美しく咲いて、九月ともなった。約束の九日になると、左門はいつもよりはやく起き出して、草屋ながらきれいに掃除し、黄菊白菊を二枝三枝、小<ruby><rb>瓶</rb><rt>がめ</rt></ruby>にいけ、とぼしい財布をはたいて酒飯の用意にかかった。それを見て老母がいった。「あの出雲の国は山陰道も果てにあって、こことは百里もへだたっていると聞いていますから、あの方が見えるのがかならずきょうであるともさだめがたいのに、お前はいろいろ用意しているようだが、あの方がおいでになったのを見てから支度しても遅くはあるまい」。左門はこたえて、「赤穴は信義を重んずる武士ですから、かならず約束をたがえることはありません。その人の姿を見てからあわただしく支度するようなことでは、先方がそれをどう思うか、恥ずかしいことです」というと、美酒を買い鮮魚を料理して台所に用意し、赤穴のくるのを待つのだった。

この日は空も晴れあがって、見渡すかぎり一片の雲もなく、道をゆく旅人の群れも多く、そのはなすのをきくと、「きょうはだれそれが都入りする日であるが、上天気で好都合だ。これは今度のあきないによい儲けができる前兆ですよ」などといって通りすぎて行く。また五十歳あまりの武士が、つれの二十代のおなじようないでたちをした武士にむかって、「海上はこんなに平穏であったのに。これなら、明石から船にのっていたら、この早朝の船出に、いまごろは<ruby><rb>牛窓</rb><rt>うしまど</rt></ruby>の港へむかって船をはしらせていたであろうに――。若い男はどうもかえってものおじして、無駄な金を余計つかうことだ」というと、若い武士は、「殿が御上洛なさったとき、小豆島から<ruby><rb>室津</rb><rt>むろづ</rt></ruby>への御渡海をなさいましたが、そのとき海が荒れてさんざんなめにおあいなされたのを、その折にお供していた者がはなしていたのを思うと、この辺の渡りはだれだっておそれることでしょう。まあ、そうお腹立ちなさいますな。魚が橋へ行ったら<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>を御馳走いたしますから――」と、なだめながら通りすぎて行く。また、馬方が、腹立たしげに、「このくたばり馬めが。眼もあいていないのか。しっかり歩け」と、馬がつまずいたために傾いた<ruby><rb>荷鞍</rb><rt>にぐら</rt></ruby>を、手荒く押しなおして、足早に馬を追っていく。いつか昼もだいぶすぎたけれども、待っている人はまだこない。やがて、夕日が西に沈むので、今夜の泊りへと急ぐ旅人の足どりがいっそうせわしそうになるのを見るにつけ、左門は、赤穴がもう来るかもう来るかと、外の方にばかり視線がひきつけられて、心はまるで酔ったようにうわのそらであった。

老母は左門をよんで、「赤穴の心が秋空のようにかわってお前との約束を忘れたというわけでなくても、その来ると約束した菊花の色濃く咲く日、そしてお前の交情・もてなしのこまやかな日は、なにもきょうとだけ限ったことではあるまい。赤穴に帰ってくる誠意さえあれば、たとえ時はおくれて時雨ふるころになったとしても、なんのうらむことがありましょうか。家へはいって横にでもなって、また<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>の日を待ちなさい」といわれるので、左門はさからうことができず、その場は母をいいなだめて先にやすませ、自分は、もしかしたら赤穴がくるかもしれないと思って、もう一度戸外に出て見ると、空には銀河の星の光が弱くかすかに、月が自分ひとりだけを照らしてさびしいうえに、家を守る番犬の遠くで吠える声も、夜の静寂にすみわたって近く聞こえ、高砂の浦にうちよせる波の音もすぐここまで寄せてくるかのように高く近く聞こえてくる。やがて、月も山の端にはいって、光がくらくなったので、いまはこれまでとあきらめて、戸をしめて家にはいろうとすると、ふと目に入ったものがある――おぼろな黒い影のなかに人の姿が見えて、それが風の吹くにつれてこちらにくるので、不審に思ってひとみをこらすと、赤穴宗右衛門であった。

左門は踊りあがる思いで、「私は朝早くからいままで貴兄のおいでを待ちくらしておりました。約束をたがえずにおいでくださったことをほんとうにうれしくおもいます。さあ、おはいり下さい」といったが、赤穴は、ただうなずくだけで、ものもいわないでいる。左門は先に立って、赤穴を客間の窓ぎわに案内して、正座につかせ、「兄上のおいでが遅かったので、老母も待ちくたびれて、『明日こそおいでになるだろう』といって、さきに寝床へはいりました。起こしてまいりましょう」というのを、赤穴はまた頭を横にふってとめながら、なおも口をひらこうとしないでいる。そこで左門は「遠いところを幾日もかかって夜を日についでいらしたので、心身ともにお疲れでございましょう。どうか一口めしあがってゆっくりおやすみ下さい」といって、酒の燗をし、<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>をならべてすすめたが、赤穴は、袖で顔をおおい、そのにおいを嫌ってさけるような様子をする。左門はまた「貧しい手料理ですから、とても十分のおもてなしはできませんが、これでも私の心をこめたものです。さげすまないで召しあがって下さい」という。それでも赤穴はこたえもしないで、長いためいきをついていたが、しばらくしてやっと口を開いた。「あなたの真心こもったもてなしをどうしていやがって辞退するわけがありましょうか。あなたをだますことばもありませんから、ほんとうのことをうちあけます。けっして怪しみ驚かないで下さい。じつは、私はもはやこの世の人間ではありません。けがれた死霊が、かりに人間の姿をしてあらわれたのです」。

左門はひどく驚いて、「兄上、なぜそんな奇怪なことをおっしゃるのですか。私にはこれが夢だとはちっとも思えません」という。赤穴は「あなたと別れて故郷に帰りましたが、郷里の人々は大方、尼子経久の威勢になびきしたがっていて、もはや旧主塩冶氏の恩顧をかえりみるものもないのです。そこで、<ruby><rb>従弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>の赤穴丹治が富田城中にいるのを訪ねたところ、彼は利害得失を説いて、私を経久にひきあわせました。私は、表面ではいちおう従弟の言葉にしたがうように見せて経久と対面し、その後、経久のすることをつくづく見ておりますと、たしかに万人に匹敵する雄略の持主で、よく兵士を訓練していますが、智者を用いるのに<ruby><rb>猜疑心</rb><rt>さいぎしん</rt></ruby>がつよくて、そのために君の腹心となって身命をなげ出すという家臣がいないのです。こんな所に長居は無用と思って、私は、あなたと菊花の佳節に再会する約束のあることをはなして、そこを立ち去ろうとしたところ、経久は不満で気にいらぬ様子をみせ、丹治に命じて私を城の外に出さないように軟禁し、そのためにとうとう今日にたちいたってしまいました。もしきょうの約束を破ったならば、あなたが私をどう思うだろうか、きっとうそつきな信ずるにたりないやつと思われるだろうと、そればかりが気がかりで、いろいろ思案をめぐらしましたが、のがれだそうとしても方法がありません。古人の言葉に、『人は一日に千里を行くことはできないが、魂は一日に千里を行くことができる』ということがあります。この道理を思い出して、私は、自害し、今夜、陰風にのって、はるばると菊花の約に馳せ参じたのです。どうか私のこの心根を汲んで御同情下さい」といいおわると、とめどもなく涙をながすのであった。「もはやこれで<ruby><rb>永</rb><rt>なが</rt></ruby>のお別れです。どうか母上によく孝養をつくして下さい」といって、座を立ったかと見ると、たちまちその姿はかき消すように見えなくなってしまった。

左門は、あわててひきとめようとしたが、陰風に眼先がくらんで、どちらへ去ったのか行方がわからなくなった。なにかにつまずいてばったりとうつぶせに倒れたが、そのまま大声をあげて泣き出した。その声に老母が目をさまし、驚いて起きあがって、左門のいるところにきてみると、客席のあたりに酒器や肴を盛った皿などがたくさんならべてあり、その中に左門が倒れている。いそいで抱きおこして、「どうしたのです」とたずねたが、左門はただ声をたてずに忍び泣きに泣きつづけるだけで、いっこうにものをいわない。そこで、老母がかさねて「兄の赤穴が約束を破ったのをうらみに思うならば、明日にでもなってもし赤穴がきたならば、そのときにはいうべき言葉もないでしょうよ。おまえはこんなにまで子どものように物の道理がわからないのですか」と、言葉つよくたしなめはげますと、左門は、やっと口を開いてこたえた。「兄上は今夜、菊花の約をはたすためにわざわざきたのです。そこで、用意の<ruby><rb>酒肴</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>をもってお迎えしたところ、それを再三辞退されて、こうおっしゃるのです――『これこれこうしたわけで約束にそむくことになるので、<ruby><rb>自刃</rb><rt>じじん</rt></ruby>して<ruby><rb>魂魄</rb><rt>こんぱく</rt></ruby>となり、その魂魄が遠く百里のところをきたのだ』――というと、そのまま見えなくなりました。そういうわけで、母上のおやすみのところをおこしてしまったのです。どうかおゆるし下さい」というと、またさめざめと泣きしずむので、老母は、「牢獄にとらわれている人は夢にも赦免されるのを見、<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>のかわいている者は夢の中で飲み水を飲むと、<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>にもいわれています。おまえもまたその人たちと同類で、あまり待ちわびたので夢に見たのでしょう。よく心を落着けなさい」といったが、左門は頭を横にふって、「けっして夢のようなとりとめもないそらごとではありません。兄上はたしかにここにいらしたのです」というと、また大声をたてて泣き伏した。これを聞いて、老母ももはや疑わず、母と子はたがいによびあい、声をあげて、その夜は泣きあかしたのである。

翌日、左門は母の前に手をついて願いでた。「私は幼少より学問文事に専念してまいりましたが、今日まで国に忠義をつくしたという名声をあげたこともなく、さればとて親に孝行の誠をつくすこともできず、ただ無意味にこの世に生きているだけでした。兄上の赤穴は一生信義をつらぬきとおして死にました。弟分の私としては、きょうから出雲に下り、せめて兄上の遺骨を葬って、義兄弟としての信義をまっとうしたいと思います。母上には御身をお大切になさって、しばらくのあいだのお暇をたまわりとう存じます」。老母は答えて、「倅よ。出雲に行っても、早く帰ってきて、この年寄を安心させておくれ。むこうに長く<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>して、きょうの別れを永久の別れとしないでおくれ」という。左門は、「古人もいうように、人の生涯は、水に浮いている泡のように、朝に夕に、いつ消えるとも定めがたい、はかないものではありますが、私は、できるだけはやく、すぐに帰ってまいります」というと、別れの涙をぬぐって、家を出発した。その足ですぐに佐用氏の許へ行き、老母の世話をくれぐれも頼み、出雲へむかったが、途中、ただひたすらに赤穴のことのみ思いつづけて、飢えても食をとろうとせず、寒くとも衣類のことを気にかけずに、うとうとと仮睡すれば、夢にも赤穴を見て泣きあかしながら、十日ののちに富田の城下に着いた。

まっすぐに赤穴丹治の邸へ行って、姓名を名のって案内を乞うと、丹治が出迎えて、座敷へ通し、「雁の頼りにでも知らせたのでなければ、どうしてあなたが宗右衛門の死を知っていらっしゃるはずがありましょうか。わけがわかりません」と、不思議がってしきりに事情をたずねるのだった。左門はそれにたいして、「武士たるものは、その身の富貴と盛衰のことを、とやかく問題にすべきではありません。ただ信義だけを重んずるものです。兄上の宗右衛門はいったん口にした約束を重んじて、それを守り、亡魂となって百里の遠きを私の許まできましたが、その信義にたいして、信義をもってむくいようと思って、私は夜を日についでこの地に下ってきたのです。私が平生学んだことについて、貴殿におたずね申し上げたいことがあります。どうかはっきりとお答えねがいたい。むかし、<ruby><rb>魏</rb><rt>ぎ</rt></ruby>の宰相<ruby><rb>公叔座</rb><rt>こうしゅくざ</rt></ruby>が重病の床に臥したとき、魏王がしたしく見舞って、公叔座の手をとりながら、『もしその方に万一のことがあったら、だれを宰相として国政をゆだねたらよいであろうか。私のために教えをのこしておいてくれ』というと、公叔座は、『<ruby><rb>商鞅</rb><rt>しょうおう</rt></ruby>はまだ年こそ若いが、世にもまれなすぐれた才能をもっております。陛下がもしこの男をお用いになる気がないのなら、たとえ殺してでも、国外へ出してはなりません。もし他国へ行かせますと、きっとのちのちこの国の<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわい</rt></ruby>となるでしょう』と、ねんごろに教えて、王が帰ったあと、ひそかに商鞅をよびよせ、『私はおまえを陛下に推挙したが、陛下は私のすすめを受けいれない様子がみえたので、登用しないのならば、いっそおまえを殺してしまいなさいと教えた。これは君を先にし、臣をあとにする、君臣の道であり、私のはからいである。おまえは一刻もはやく他国へ逃げて、この難をのがれたがよい』といったということです。このことを、貴殿と宗右衛門との場合にくらべてみては、いかがでしょうか」という。丹治は、恥じいったのか、ただ頭をうなだれて、一言もいわない。左門はさらに膝をのり出して、「兄上宗右衛門が、塩冶氏の旧恩を思って、尼子に仕官しなかったのは、これこそ義士であります。貴殿は、旧主の塩冶氏を見捨てて尼子の家臣になったが、これは武士としての信義をわきまえないことです。兄上は菊花の約を重んじて、命を捨てて遠路をきましたが、これこそ信義の極致であります。貴殿はいま尼子に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びへつらって、血縁の宗右衛門を苦しめ、このような<ruby><rb>非業</rb><rt>ひごう</rt></ruby>の死をとげさせたのですが、それは朋友としての信義がない行為です。たとえ経久が無理に兄上をとどめられたとしても、長いまじわりと友情を思ったならば、ひそかにかの商鞅に叔座が示したような信義をつくすべきであるのに、それもせずにただ一身の栄達利益にのみとらわれて、武士としての風儀がないのは、とりもなおさず尼子家全般の家風かもしれない。それだからこそ兄上もこんな国にとどまろうとしなかったのだ。私はいま信義のためにわざわざここにきたのだ。貴様はまたここで、不義のために長く汚名をのこすがいい！」と、いいもおわらず抜き打ちに斬りつけると、ただ一太刀で、丹治はその場に倒れた。この物音を聞きつけて家来どもが騒いでいるすきに、左門は、すばやくその場をのがれ出て、行方をくらましてしまった。

尼子経久は、この事件を伝え聞いたが、宗右衛門と左門義兄弟の信義のあついまじわりにふかく感動して、しいて左門の跡を追わせなかったということである。ああ、まじわりは軽薄の人と結んではならないというが、まさにその通りである……。

  


## 雨月物語　巻之二

## 浅茅が宿（あさじがやど）

<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>の<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby><ruby><rb>葛飾郡</rb><rt>かつしかのこおり</rt></ruby><ruby><rb>真間</rb><rt>まま</rt></ruby>の<ruby><rb>里</rb><rt>さと</rt></ruby>に、勝四郎という男があった。祖父の代から久しくこの里にすみ、田畑もたくさんもって家も豊かに暮らしていたが、生れつき無頓着でのんきな性質から、農業を煩わしいものだといやがったので、ついに貧乏になってしまった。そうこうしているうちに、親戚の多くからも疎遠に扱われるようになったが、それを勝四郎は口惜しいことだとしみじみと思い、なんとかして家運を挽回したいものと、あれこれ思案をめぐらした。そのころ、<ruby><rb>雀部</rb><rt>ささべ</rt></ruby>の<ruby><rb>曾次</rb><rt>そうじ</rt></ruby>という人が、足利染の絹を仕入れるために、毎年都からやってきていたが、真間の里に遠縁の者がいるのをたびたび訪問したところから、勝四郎もかねがね親しくしていたので、自分も商人となって都へ上りたいということを頼んだところ、雀部は気やすくひきうけて、「今度は何日ごろ<ruby><rb>発</rb><rt>た</rt></ruby>つつもりです。御一緒に」といってくれた。そこで、雀部がたのみがいのあるのをうれしく思って、残っていた田を全部売りはらって金にかえ、それで白絹をたくさん買いこみ、準備をととのえて、上京する日を待っていた。

勝四郎の妻<ruby><rb>宮木</rb><rt>みやぎ</rt></ruby>は、人目をひくほどの美貌で、気だてもしっかりして賢かった。今度、夫が商品を仕入れて都へ商売に行くといい出したのを、困ったことになったと思い、いろいろいって思いとどまるように<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めたが、ふだんから思いたったらきかない一本気のうえに、今度はひときわ思いつめているので、手のほどこしようがなく、これから先の生活が心細く不安であったにもかかわらず、かいがいしく夫の旅支度をととのえて、出発の前夜は、離れがたい別れをしみじみと語るのであった。「あなたに旅立たれて、財産とてもないこの家にひとり残されては、弱く、頼りない女心は、どうしてよいやらまったく途方にくれるばかりで、このうえなくつらいことでございます。朝夕私のことをお忘れにならないで、早く帰ってきて下さい。せめて命だけはお帰りになる日まで生きながらえたい、命さえあればまた逢えるとは思いますが、明日はどうなるかわからないこの世の定めですから、どうかお<ruby><rb>毅</rb><rt>つよ</rt></ruby>い男心にもあわれと思って下さい」というと、夫は「どうして浮木に乗ったような不安な気持や生活で、知らぬ他国に長居するものか。<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>の葉が風に吹かれて裏返る今年の秋にはきっと帰ってくるよ。気づよく待っていなさい」と、妻をなぐさめているうちに、やがて夜が明けたので、鶏の声とともに出発して、京都をさして急いだのである。

この年――<ruby><rb>享徳</rb><rt>きょうとく</rt></ruby>四年の夏、<ruby><rb>鎌倉公方足利成氏</rb><rt>かまくらくぼうあしかがしげうじ</rt></ruby>と<ruby><rb>管領</rb><rt>かんれい</rt></ruby>の上杉氏が不和になって、その戦火で公方の館はあとかたもなく焼きはらわれ、公方は下総の味方へ亡命されたが、それ以来、関東一円はたちまちのうちに大混乱をきたし、上下ともにてんでんばらばらで統一のない世となってしまったので、年寄たちは山ににげかくれ、若者たちは兵士としてかり出され、「きょうはここを焼きはらうぞ」「明日は敵がせめてくるぞ」といううわさに、女子供たちは、うろうろと東に西に逃げまどって、泣き悲しむだけであった。勝四郎の妻も、どこかへ逃げたいものだとは思ったが、「この秋に帰るから待て」といわれた夫の言葉をたのみとしながら、家にふみとどまって、不安な気持で、夫の帰る日を指折りかぞえて待ちくらしていたのである。秋になったが、待つ夫からは風の便りもないので、悪化する世相とともに、頼りにならない人の心であると、夫の薄情をうらみ、わが身をかなしみ、がっくりと気落ちして、

「身のうさは人しも告げじあふ坂の夕づけ鳥よ秋も暮れぬと」

（夫の帰りをまつわが身のつらさは誰も夫に知らせてくれまい。逢う、云う、という名の逢坂山の鶏よ、お前は京にも近いのだから、夫に約束の秋ももう暮れてしまったと告げてほしい）

と、思いを一首の歌にたくして詠んだが、夫の許までは多くの国を隔てた遠方なので、この歌をいいおくるすべもなかった。世間が物騒になるにつれて、人心もいっそう<ruby><rb>険悪</rb><rt>けんあく</rt></ruby>になった。たまたま<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねてくる人も、宮木が美貌であるのを見ると、いろいろと親切ごかしをいって誘惑しようとするが、宮木は、かたい貞婦の操を守ってこれを冷淡にあしらい、のちには戸をしめて会おうともしなかったのである。一人いた下女も暇をとって出て行き、少しばかりあった<ruby><rb>貯</rb><rt>たくわ</rt></ruby>えもすっかりなくなって、心細いうちに享徳四年が暮れた。年はあらたまったが、世の乱れは依然としておさまらない。そのうえ、前年の秋、京都将軍家の命令で、美濃の国、<ruby><rb>郡上</rb><rt>ぐじょう</rt></ruby>の領主、<ruby><rb>東</rb><rt>とう</rt></ruby>の<ruby><rb>下野守常縁</rb><rt>しもつけのかみつねより</rt></ruby>が征東指揮官として派遣され、下総の領地に下って、一族の<ruby><rb>千葉実胤</rb><rt>ちばさねたね</rt></ruby>と共同戦線をはって攻撃したので、公方方も守りをかたくして防戦につとめ、そのため戦いがいつ終るともわからない状態になった。戦乱に乗じて、諸国の野武士たちもあちこちにとりでをかまえ、民家に火をつけては略奪をほしいままにした。いまや関八州は全土にわたって安穏な所とてもなく、なさけないほどのはなはだしい世の損失であった。

勝四郎は雀部にしたがって都へ行き、白絹を全部売りつくしたが、当時はちょうど義政将軍の東山時代だったので、都は華美を好むときであり、そのためにだいぶんの儲けをして、さて故郷へ帰ろうと用意をしている折に、このたび上杉の軍勢が鎌倉公方の御所を攻めおとし、逃げる成氏をなお追撃したので、故郷葛飾の辺はどこもかしこも<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>さわぎで、戦塵の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>となったということを、世間で取沙汰した。目前のことでさえとかくうその多いのが世間の取沙汰であるのに、まして<ruby><rb>白雲重畳</rb><rt>はくうんちょうじょう</rt></ruby>とした遠隔の国のことであるから、真偽のほどはたしかめがたく、それだけに気が気でなく、八月のはじめに都を出発して、みちを木曾街道にとり、木曾の<ruby><rb>真坂</rb><rt>みさか</rt></ruby>を日暮にかけて越えようとすると、盗人どもが行手に立ちふさがり、もっていた荷物を全部とられてしまった。そのうえ、人のはなしを聞くと、これから東の方は所々に新しい関所を設けて、旅人の往来さえ許さないということである。これでは故郷へ帰ることはおろか、便りをするてだてもない。わが家も戦火で消失してしまったであろう。妻もおそらくは生きていまい。そうだとすると、故郷といっても鬼のすむところ同然であると考え、ここからまた都へひきかえそうとして、近江の国へはいると、急に気分が悪くなり、熱病にかかった。<ruby><rb>武佐</rb><rt>むさ</rt></ruby>というところに、<ruby><rb>児玉</rb><rt>こだま</rt></ruby>嘉兵衛という金持があった。これは雀部の妻の実家だったので、そこを訪ねて懇願すると、嘉兵衛はこころよくひきうけて親切に介抱し、医者をよんで一生懸命に投薬してくれた。そのおかげで、しばらくするうちにどうやら気分も少しさっぱりしてきたので、その厚恩をふかく感謝して、その許を辞去しようと思ったが、しかしまだ足許がしっかりしないので、その年は、はからずもここで暮らし、新年をむかえた。そうこうしているうちに、いつのまにか、この里にも友人ができ、生来の素直で正直な性質を愛されて、児玉をはじめ土地の人々とも親交を結んだのであった。この後は、都へいっては雀部を訪ね、また近江へもどっては児玉の家に身を寄せるというようにして、七年間というものは夢のようにまたたくまにすごしてしまった。

<ruby><rb>寛正</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>二年には、<ruby><rb>畿内</rb><rt>きない</rt></ruby><ruby><rb>河内</rb><rt>かわち</rt></ruby>の国で畠山兄弟の家督をめぐる戦争が終りそうもないので、そのために都近くも物情騒然となったが、そのうえ、春のころから悪性の流行病がまんえんして、死骸は路上に<ruby><rb>累々</rb><rt>るいるい</rt></ruby>としてつみ重なり、人心も不安におののき、これでこの世も終りであろうかと、世の無常をひどくはかなみ悲しんだ。勝四郎もよくよく考えてみると、このように落ちぶれて、これといって仕事のない身が、なにをたのみとして、故郷を遠くはなれた土地に滞在し、あかの他人の世話になって、いつまで空しく生きながらえるべきわが命であろうか。故郷に残してきた妻宮木の生死さえしらずに、こんな忘れ草の生えているような土地に、妻を忘れ故郷を忘れて、長い年月をすごしたのは、思えば不実なわが心からであった。たとえ妻が死んで、以前のようにこの世にはいないとしても、せめてその遺骸なり死地なりでもたずねて、墓でもつくろうと思い、人々に自分の気持をはなして、五月雨のふるころ、晴れ間を見て別れをつげ、十日あまりの旅をつづけて故郷へ帰り着いた。

故郷に足をふみいれたときは、日はすでに西に沈んで、雨雲はいまにも降るかと思うほど低く暗くたれこめていたが、長いあいだすみなれた郷里のことであるから、迷うはずもあるまいと、夏草の生い茂った野をわけて進んでいくと、昔から有名な真間の継橋もいまでは川の瀬に落ちているので、古い歌のように、駒の足音も聞えず、人の往来もとだえているうえに、あたりの田畑は荒れ放題に荒れて、昔あったはずの道もどこだかわからず、昔の人家も見当たらない。まれまれここかしこに残っている家のなかに、人がすんでいると見受けられる家もあるが、昔とは似ても似つかない有様である。いったいどれが自分のすんでいた家だろうかと、とまどっていると、そこから三、四十メートルばかりむこうに、落雷にひき裂かれた松のそびえ立っているのが、雲間をもれてくる星あかりにぼんやりと見えたが、勝四郎は、それを見ると、そうだ、あれこそわが家の軒のめじるしが見えたのだと、まずうれしい気持がして、その方に足をはこんだが、家は以前にかわらないでのこっている。しかも人がすんでいる様子で、古い戸のすきまから灯火の光がもれてちらちらするので、ほかの人がすんでいるのだろうか、それとも、もしかしたら妻がまだ健在でいるのだろうかと、急に胸が高鳴って、門口に立って来訪をつげる合図のせきばらいをすると、家の内でも、耳ざとくこれを聞きつけて、「どなたですか」とたずねる。その声はたいそうふけているが、まさしく妻の声であることを聞き知った勝四郎は、夢ではなかろうかとしきりに胸さわぎがして、「わしだ、わしが帰ってきたんだよ。それにしても、達者でひとり、こんな草ぶかい荒野にいままですんでいようとは、まったく不思議だな」というと、家の内でもそれが夫の声であるとわかったので、すぐに戸をあけたが、戸口に姿をあらわした妻は、たいそうひどく垢にまみれて色黒く、眼は落ちくぼんでいて、結いあげた髪も乱れ落ちて背に垂れさがり、これが昔の美しかった宮木とおなじ人とは思えないほどのかわりようである。夫を見て、物もいわずに、たださめざめと泣くのだった。

勝四郎も気が動転して、しばらくは物もいえなかったが、ややあっていうには、「いままでこうして無事でいられると知ったならば、なんで長の年月を他国ですごそうか。じつは先年都にいたとき、鎌倉の戦乱を聞いたが、それによると公方方の軍が敗北したので、下総に逃げて防戦し、管領方がこれを攻撃すること急だという。その翌日、雀部とわかれて、八月のはじめに都を出立し、木曾路をやってくると、途中で大勢の山賊に取り囲まれて、衣服も金銀も残らず奪いとられ、命だけやっと助かったような始末だ。そのうえ、里人のはなすのを聞くと、東海道・東山道は全部にわたって新関を設けて、往来の人を遮断したということである。また、きのうは都から<ruby><rb>節度使</rb><rt>せつどし</rt></ruby>も下られて、上杉方に加勢し、下総の戦いに向かわれたともいう。郷里の辺はとっくに焼きはらわれて、軍馬の<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>ですっかりふみにじられた、ということを聞いたので、これではもはやそなたは戦火のために焼け死なれたか、それとも海で溺れ死にされたかもしれないと、一途に思いこんであきらめ、ふたたび都へ上ってからは、他人の世話になって、七年間というもの暮らしたのです。ところが近ごろになって、なんだかしきりになつかしさがこみあげてきたので、せめてそなたの亡きあとでも見て弔いたいと帰ってきたのだが、こうして無事でいらっしゃろうとは、まったく思いもかけなかったことだ。<ruby><rb>巫</rb><rt>ふ</rt></ruby>山の雲、漢宮の幻ではなかろうか」と、いってもかえらぬ<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>り<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>を、くりかえしくりかえしはなすのであった。妻も涙をおさえて、「あのときお別れ申し上げてから、御帰宅になるのを頼みにして待っていた秋より前に、すでに恐ろしい世の中となって、村人はみんな家を捨てては海や山に逃げかくれてしまいましたので、まれに残っている人といえば、たいてい虎か狼のようにおそろしい<ruby><rb>貪婪</rb><rt>どんらん</rt></ruby>な心をもった人で、私がこうして一人暮らしをしているのをいいさいわいと思うのでしょうか、言葉たくみに誘惑するのですが、<ruby><rb>玉砕瓦全</rb><rt>ぎょくさいがぜん</rt></ruby>の言葉のように、たとえ操を守って死すとも、不義をして命ながらえる道は踏むまいと決意して、そのために幾度もつらいめをたえしのんできたのです。そのうちに天の川が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて牽牛織女の二星の逢う秋になりましたが、あなたはお帰りになりません。冬を待ち、春をむかえても、あなたからはお便りもありません。このうえは都へ上っておそばへまいろうと思いましたが、大の男でさえ通行を許さない関所の厳重なまもりを、どうしてかよわい女の身で越えることができようかと思いなおして、<ruby><rb>軒端</rb><rt>のきば</rt></ruby>の松をながめながら、待っていても甲斐のないこの家で、狐やふくろうを友としてさびしくきょうまで過してまいりました。おめにかかれたいまは、長い間のうらみもすっかりはれて、うれしく存じます。昔の歌にもあるように、逢うのを待っているうちにこがれ死にしてしまったら、相手にも私の心がわかってもらえず、さぞ口惜しく情ないことでございましょうに」というと、また声をあげて泣いたので、勝四郎は、「夜は短いのだから、また明日のことにして」となぐさめて、ともに枕についた。

窓の障子の破れめをひたひたとならして松風が吹きこみ、夜どおし涼しく寝心地がいいうえに、長い旅路の疲れで、勝四郎はすっかり熟睡した。暁の空があけていくころ、まださめやらぬ夢心地にもなんとなく寒かったので、夜着をかけようと手さぐりすると、なんだかさらさらと音がするので目がさめた。顔につめたいものがこぼれるので、雨でも漏ったのだろうかと、目をあけて天井をながめると、屋根は風のために吹きめくられているので、有明月が光もうすれて空にほの白く残っているのが見える。おどろいてあたりを見まわすと、家はろくに戸もないほど荒れはてている。板敷の床のくずれ落ちた間から、<ruby><rb>荻</rb><rt>おぎ</rt></ruby>やすすきが高々と生え出ていて、その朝露がこぼれるのに、袖が濡れてしぼるほどであった。壁には<ruby><rb>蔦</rb><rt>つた</rt></ruby>や<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>がはい茂り、庭は雑草にうずもれて、秋でもないのに、さながら秋の野のように草ぶかく荒れはてた家の様子であった。

それにしても、一緒に寝たはずの妻はどこへ行ったのだろうか、姿が見えない。狐などに化かされたのだろうかと思ってあたりを見まわすと、こんな荒れはててはいるが、以前すんでいた家に相違なく、広く造った奥の辺から、端の方の<ruby><rb>稲倉</rb><rt>いなぐら</rt></ruby>まで、かつて自分の好みで造ったままの様子をしている。茫然自失として、どうしてよいのか途方にくれたが、よくよく考えてみると、妻はすでに死んで、いまでは狐狸がすみかわってこんな荒れはてた家となっているのだから、妖怪が化けて妻の生前の姿を見せたのでもあろうか。それとも、もしかしたら、自分を慕う亡妻の霊魂があの世からかえってきて、夫婦のかたらいをしたものであろうか。いずれにしても、前に想像していたこととちっともちがわず、思ったとおりであったと、あまりのことに悲しみがきわまって、一滴の涙さえも出ない。妻も死に、家も廃屋となったなかで、<ruby><rb>業平</rb><rt>なりひら</rt></ruby>の歌ではないが、「わが身ひとつはもとの身にして」と、心の中でつぶやきながら、家の中を歩いてみると、むかし寝室であったところの板敷の<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>をとりはずして、土を積んで塚をこしらえ、そこには雨露をふせぐような設備もしてある。昨夜の亡霊はここから出たのだろうかと思うと、おそろしくもあるが、またなつかしくもある。<ruby><rb>手向</rb><rt>たむけ</rt></ruby>の水を入れる器が用意されているが、その中に、木の端を削って、それに那須野紙のたいそう古くなったのを貼りつけたものがある。文字もところどころ消えてはっきりと読めないが、たしかに妻の筆跡である。戒名も年月も書いてなくて、ただ一首の和歌に、あわれにも最期の思いをこめてよんでいる。

「さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か」

（夫は約束の秋に帰ってこなかったが、それにしてもきっと帰ってくると思う心に、われとわが身からだまされて、なんと今日まで生きながらえてきたこの身がいとおしいことだ）

ここにいたってはじめて妻の死んだことを確認した勝四郎は、悲しみが一度にどっとこみあげて、大声をあげて、泣き倒れた。それにしても、いったいいつの年の何月何日に死んだのかさえ知らないとは、夫の身としてなさけないことである。誰か知っている人もあるだろうと、涙をぬぐって外へ出ると、折から日が高くのぼった。まず近所の家へ行って、そこの主人に会ってみると、前の知りあいではなく、逆に、「あなたはどこの国の方ですか」と反問する。そこで勝四郎は、ていねいに挨拶してこたえた。「この隣の家の主人だったものですが、渡世のために都へ上って七年もおり、昨夜帰ってまいりましたところ、家はすっかり荒れはてて人も住んでおりません。妻も死んでしまったと見えて、墓もできておりますが、いつ死んだとも記されておりませんので、いっそう悲しくなります。どうか御存じでいらしたらお教え下さいませんか」。この家の主人はこたえて、「それはお気の毒なおはなしでございますね。私がここにすむようになってからまだ一年ほどですので、それよりずっと以前に亡くなられたとみえて、私は、住んでいらした方の生前のことは存じません。この里に昔からいた人はみんな戦争のはじめに逃げてしまって、いま住んでいる人は、大ていその後、よそから移ってきた人たちです。ただ一人老人がおられますが、この土地に古くからいた方と見うけられます。ときどきあの家へ行って、亡くなられた方の<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>を弔っていらっしゃいます。この老人こそきっと奥様の亡くなられた日を御存じのはずです」という。勝四郎は、さらに、「では、そのお年寄のすんでいらっしゃる家はどちらでございますか」とたずねた。主人は「ここから百八十メートルほど浜の方に、麻をたくさん植えた畑がありますが、その持ち主で、そこに小さな<ruby><rb>庵</rb><rt>いおり</rt></ruby>をつくって住んでいらっしゃいます」と、教える。勝四郎はよろこんで、その家へ行って見ると、七十歳ぐらいの、腰のひどくまがった老人が、<ruby><rb>庭竈</rb><rt>にわかまど</rt></ruby>の前に敷いた<ruby><rb>円座</rb><rt>わろうだ</rt></ruby>にすわって、茶をのんでいる。そして、勝四郎の姿を見るやいなや、「おまえさんはどうしてこんな遅く帰ったのだ」と声をかけるので、見ると、この里にふるくからいる<ruby><rb>漆間</rb><rt>うるま</rt></ruby>の<ruby><rb>翁</rb><rt>おきな</rt></ruby>とよばれる人であった。

勝四郎は、まず翁の長命を祝い、ついで自分が都へ行ってこころならずも長逗留したいきさつから、昨夜の奇怪なできごとまでを、ことこまかにはなして、翁が亡妻のために塚をつくって弔ってくれた厚恩をふかく感謝しながらも、あふれでる涙をとめることができなかった。翁は口をひらいて、「おまえさんが遠くへ旅立たれたのち、夏のころから戦争がはじまって、村人はてんでに方々へのがれ、若者たちは兵士としてかり出されたので、このあたりの桑畑もたちまちのうちに狐や兎のすむくさむらと荒れはててしまったのだ。そのなかで、ただ貞烈なあの方だけが、あなたの秋に帰ると約束したのを信じ守って、家を出ようとされなかった。この年寄もまた足がきかなく歩行が不自由だったので、家の中に身をひそめて、外へ出なかった。はては<ruby><rb>樹神</rb><rt>こだま</rt></ruby>などというおそろしい妖怪のすみかとなったのに、若い女の身でそこにひとりとどまっていらっしゃる気丈さというものは、私がこの年まで見聞きしたことのなかでも、しみじみとふかい感動にうたれたことであった。秋が去り春がめぐってきて、その年の八月十日という日に亡くなられた。ふびんさのあまり、私が自分で土を運び<ruby><rb>棺</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>を埋めて、その臨終に書き<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>された筆跡を墓のしるしとして、心ばかりの供養をしましたが、私はもともと字も書けないので、亡くなった月日を記すこともできず、また寺も遠いので、戒名をつけてもらう方法もなくて、そのまま五年の年月をすごしてきたのです。いまのはなしを聞くと、きっとあの方の亡魂があの世から帰っておいでになって、長い間のつもるうらみをおっしゃったのでしょう。もういちど塚のところへ行って、ていねいに御<ruby><rb>回向</rb><rt>えこう</rt></ruby>なさい」といって、自分から杖をついて先に立ち、勝四郎とともに塚の前に伏し、声をあげて泣き悲しみながら、その夜はそこで念仏をしながら明かしたのである。



勝四郎と漆間の翁がつれだって勝四郎の廃居を訪れた図。「<ruby><rb>雷</rb><rt>らい</rt></ruby>に<ruby><rb>摧</rb><rt>くだ</rt></ruby>かれし松の<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えて立てる」のがあり、家には戸もなく、萩薄などが生い茂っている荒廃のさまが描かれている。（原本三丁裏、四丁表の挿絵）

寝られないままに、翁はつぎのようなはなしをした。「私の祖父の、そのまた祖父さえもまだ生れていなかった、遠い遠い昔のことです。この里に真間の<ruby><rb>手児女</rb><rt>てごな</rt></ruby>という、大そう美しい娘がありました。家が貧しかったので、身には、<ruby><rb>青衿</rb><rt>あおえり</rt></ruby>をつけた麻の着物をまとい、髪さえろくにとかさず、<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>もはかないではだしでいたが、その顔は満月のように美しくかがやき、笑うと花が咲きかがやくようで、綾や錦を身につけた都の貴婦人よりも美しいと、村人たちはもとより、都からきた警備の武士たち、隣国の人々までも、いい寄って恋い慕わないものはなかったのを、手児女はかえってつらく心苦しいことと思い沈んで、『いっそ死ぬことによって多くの人たちの心にこたえよう』と、この入江の波間に身を投げて死んだのですが、そのことを世にもあわれなはなしであるとして、昔の人々は和歌にも詠み、語り伝えました。私が幼かったときに、母がそれをおもしろくはなしてくださるのさえ、たいそうかわいそうなことだと聞いていましたが、宮木どのの心は、その手児女のうぶな心にくらべても、どれほどかまさって悲しかったことでしょう」と、はなしながらも涙ぐんで、それをおさえることのできないのは、老人がとかく涙もろくてこらえ性がないからである。勝四郎の悲しみは、言葉でいいあらわせないほど大きくふかかった。翁の物語を聞いて、思いあまった胸のうちを、田舎者らしいたどたどしさで、一首の歌に託した。

「いにしへの真間の手児奈をかくばかり恋ひてしあらん真間のてごなを」

（昔の真間の手児女を恋した男たちは、手児女に死なれて、いま自分が愛妻に死別して恋い慕っているように、切ない思いで手児女を恋い慕ったことであろう）

思うことの一端をもよくいいあらわすことのできないのは、かえって上手に表現する人の心情にもまさって、読む人を感動せしめるものだということができよう。――これは、下総の国へしばしば通う商人が聞きつたえて、語ったはなしであった。

  


## 夢応の鯉魚（むおうのりぎょ）

六十代<ruby><rb>醍醐天皇</rb><rt>だいごてんのう</rt></ruby>の<ruby><rb>延長年間</rb><rt>えんちょうねんかん</rt></ruby>、三井寺に<ruby><rb>興義</rb><rt>こうぎ</rt></ruby>という僧があった。絵が<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>だったので、名人という評判を世間から立てられていた。彼がつねづね画くところは、ふつうの画家のように仏像・山水・花鳥などを主とするのではなく、寺の勤めのひまがある日には琵琶湖に小舟をうかべて、網をひいたり釣をしたりする漁師に金銭をやり、とった魚を買いもとめてもとの湖に放し、その魚の泳ぎまわるのを見ては、その姿態を画いていたので、年とともにその技は精細巧妙の域に達したのである。あるとき、絵のことに思いをこらして心がつかれ、思わずも<ruby><rb>睡気</rb><rt>ねむけ</rt></ruby>をもよおしたので、うとうととまどろむと、夢の中で、自分が湖水に入って大小さまざまの魚とともにあそぶのを見た。眼がさめたので、すぐにいま夢で見たところをそのまま絵にかいて、壁に貼り、自分でそれを「夢応の鯉魚」と名づけたのであった。その絵のすぐれたできばえに感心して、彼の絵をほしがるものが先をあらそって彼のもとに殺到したので、彼は、ただ花鳥・山水の絵はもとめに応じて書き与えたが、鯉の絵だけは一途に惜しんで与えようとせず、だれにむかっても冗談めかして、「仏門で禁じている<ruby><rb>殺生</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>をしたり、鮮魚を喰ったりするあなた方世俗の人に、この法師が大事に養っている魚は、けっしてさしあげられません」というのだった。その絵とこの<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>とは、ともに世間の語りぐさとなった。

ある年、病気になって、七日間寝ついたが、急に眼をとじると、呼吸がとまって死んでしまった。弟子や友だちがあつまって、その死を嘆き惜しんだが、ただ胸のあたりにすこしばかり暖かさがのこっているので、もしかすると蘇生するかもしれないと思って、興義のまわりをとりまいて見守りながら、三日をすごしたところ、手足がすこしうごき出すかとみるまに、急に長いためいきをついて、眼をひらき、まるで眠りからさめたように床の上へ起きあがって、人々にむかい、「私が人事不省になってからもう大分たったようだ。幾日ぐらいたっただろうか」とたずねた。弟子たちはこたえて、「御師匠様は、三日前に息をひきとられたのでございます。寺の人々をはじめとして、平生お親しくしていらっしゃるかたがたもおいでになって、御葬儀のことなども相談なさいましたが、ただ御師匠様の胸のあたりが暖かなのを見て、<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>にもおおさめしないで、こうしておそばについておりましたところ、いま息を吹きかえされましたので、葬らなくてよかったことだと、一同よろこんでいるところです」という。それを聞くと、興義はうなずいて、「だれでもよいから、ひとり、<ruby><rb>檀家</rb><rt>だんか</rt></ruby>の<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>の<ruby><rb>助</rb><rt>すけ</rt></ruby>の<ruby><rb>殿</rb><rt>との</rt></ruby>のお邸へまいって、つぎのようにはなしなさい。『興義が不思議にも生きかえりました。殿にはいま酒を<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>み、その<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>に新鮮ななますをつくらせていらっしゃるようですが、しばらくその酒宴を中止して、寺においでいただきたい。世にもまれなめずらしいはなしを申しあげたいと存じます』。そういって、先方の人々の様子をよく見なさい。いま私のいったことにちっともちがうまいよ」という。使に立った者が、不思議がりながら、かの邸に行って、興義からの口上を伝えて、先方の人々の様子をひそかにうかがってみると、主人の助をはじめ、弟の十郎、家臣の<ruby><rb>掃守</rb><rt>かもり</rt></ruby>などが<ruby><rb>車座</rb><rt>くるまざ</rt></ruby>になって酒を酌みかわしている。まさに師の言葉とちがわないありさまなので、使の者はいっそう不思議に思った。邸の人々も、このことを聞いて大いに不思議がり、助も、すぐ箸をおくと、十郎、掃守をひきつれて寺へやってきた。



平の助の館、表座敷で、助、十郎、掃守等の見まもる中、料理人が鯉を料理しようとする図。興義は「仏弟子を害する例やある。我を助けよ助けよ」と叫んだが、声にならず、やがて鯉の体をはなれてゆく。（原本十丁裏、十一丁表の挿絵）

興義は、枕から頭をあげて、遠路わざわざきてくれたことの礼をいい、助も、興義が蘇生したことの祝詞をのべた。興義がまず助にむかって、「まあ、ためしに私のいうことをお聞き下さい。貴殿は、あの漁師の文四に魚を注文なさったことがございますか」とたずねた。これをきいて、助は驚き、「たしかに、御僧のいうとおりでござる。どうして御存じでいらっしゃるのか」という。興義は、「あの漁師が、一メートルあまりの魚を籠にいれて、貴殿のお邸の門を入ったとき、貴殿は御令弟と表座敷で碁を囲んでいらっしゃった。掃守がその傍にすわって、大きな桃の実をたべながら囲碁の勝負を観戦していた。そして、漁師が大きな魚をもってきたのをよろこんで、<ruby><rb>高坏</rb><rt>たかつき</rt></ruby>に盛った桃を与え、そのうえ<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を与えて十分おのませになった。やがて調理人が得意顔で魚をまな板にのせて、なますにしましたが、この一部始終、私のいうことは違っていないでしょう」というと、このことを聞いて、助の人々は、あまりの不思議さに、あるいはあやしみ、あるいは心とまどって、どうしてこんな詳細に知っているのかと、その理由をしきりにたずねた。そこで興義は、語った。

「私はこのほど病に苦しんで、とても堪えられないほどだったので、自分が息絶え人事不省におちいったのも知らず、からだが熱っぽくて心地が苦しいのをすこしさまそうと、杖にすがって門を出ると、病気もだんだんよくなるようで、ちょうど籠の鳥が大空に解放されたようなのびのびした気持になりました。そこで山といわず里といわず足にまかせてあるいて行くうちに、今度は湖畔に出ました。湖水がみどりに澄んでいるのを見ると、夢見心地に、水浴びをして遊ぼうと思い、そこに衣を脱ぎすてて、身をおどらしてふかいところに飛びこみ、かなたこなたと泳ぎまわりましたが、幼少から水練が達者だというわけでもないのに、思うまま自由自在に泳ぎまわれたのです。いま思うと、思慮のない夢心地でした。しかし、人間が水に浮いて泳ぐのは、それがどんなにうまくても、魚が自由自在に気持よく泳ぎまわるのにはおよばないものだと思うと、ここでまた、魚がのびのびと泳げるのをうらやむ気持がおこりました。そのとき、すぐそばに一ぴきの大魚がいて、私に、『あなたの願いをかなえてあげることは、きわめてやさしいことです。お待ち下さい』といって、そのままふかい水底へ去って行ったかと思うと、しばらくして、冠をつけ<ruby><rb>装束</rb><rt>そうぞく</rt></ruby>を着た人が、その大魚にまたがり、大勢の魚族をひきいてうかんできて、私に向かってこういうのです。『湖の神の仰せがあった。老僧はかねがね<ruby><rb>放生</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>功徳</rb><rt>くどく</rt></ruby>が多い。そして、いま湖に入って、魚の如く泳ぎまわることを願っている。そこでしばらく金色の鯉の服を授けて、水中のたのしみをさせてあげよう。ただ餌のかんばしいにおいに心まどわされて、釣糸にかかり、身を亡ぼすことのないように――』。そういうと、姿を消してしまいました。不思議なことだと思って、わが身をながめて見ると、いつのまにか全身にうろこが生え、それが金色にひかって、私は一匹の鯉となっていました。

しかし、鯉になったことをべつにいぶかしいとも思わないで、私は、尾を振り、ひれをうごかして、思う存分にあちこちと泳ぎまわりました。まず、<ruby><rb>長等</rb><rt>ながら</rt></ruby>山の山おろしに吹かれて立ちさわいでいる浪に身をのせて、志賀の浦の<ruby><rb>汀</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>に泳いで行くと、<ruby><rb>徒歩</rb><rt>かち</rt></ruby>で行く人が着物の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を濡らすほど<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>近くを往来するのにおどろかされて、高い比良の山影が<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>るふかい水底にもぐろうとするが、身をかくすこともむつかしく、夜ともなれば<ruby><rb>堅田</rb><rt>かただ</rt></ruby>の<ruby><rb>漁火</rb><rt>いさりび</rt></ruby>にひとりでにひきよせられて近寄って行くのも、まるで夢心地でした。夜中の湖上にかげをうつす月は、<ruby><rb>鏡山</rb><rt>かがみやま</rt></ruby>の峰に鏡のごとく澄みわたって、多くの港々のすみずみまでもくまなく照らし出し、その情景は趣ふかいものでした。沖の島から<ruby><rb>竹生島</rb><rt>ちくぶじま</rt></ruby>の方に泳いでいくと、波にうつる朱塗の玉垣には、ほんとうにびっくりしました。そうしているうちに夜が明け、<ruby><rb>伊吹山</rb><rt>いぶきやま</rt></ruby>から吹きおろす山風に送られて、<ruby><rb>朝妻</rb><rt>あさづま</rt></ruby>の渡船も漕ぎ出したので、いつのまにか<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>の間でまどろんでいた眠りをさまされ、<ruby><rb>矢橋</rb><rt>やばせ</rt></ruby>の渡し舟の船頭があやつるさばきあざやかな<ruby><rb>水</rb><rt>み</rt></ruby>なれ<ruby><rb>棹</rb><rt>ざお</rt></ruby>から身をかわして、瀬田の橋の方へ泳いでいくと、こんどは橋番からなんどもなんども追いたてられたのです。日ざしが暖かなときは水の上にうかび、風のはげしいときはふかい水底で遊びました。

にわかに空腹をおぼえて食物がほしくなったので、あちこちとさがしもとめましたが、手にいれることができず、無我夢中で泳いでいくうちに、たちまち文四が釣糸をたれているのにであいました。その先にさがっている餌は食欲をそそるようにひどくいいにおいです。しかし、心ではまた、湖の神の戒めを思いだして、私は仏に仕える僧侶の身だ。少しばかりの間、食物を口にしないからといって、どうして魚の餌を食うようなあさましいことをしてよいだろうかと、自分にいい聞かせて、そこをはなれました。だが、時間がたつうちに空腹はますますはげしくなってきたので、もういちど考えなおしました。もうとても我慢できない。たとえこの餌を食ったとて、おめおめと捕らえられるものか。それに文四はもともと知りあいのあいだがらだから、なんの遠慮することがあろうか。そう思うと、引きかえしてついにその餌を呑みこみました。すると、文四はすばやく釣糸をひきあげて、私をつかまえたのです。『これは、いったいどうするんだ』と叫びましたが、彼はいっこう知らん顔で私をつかみ、私のあごに縄を通すと、蘆の間に船をつなぎ、私を籠のなかにおしこんで、貴殿のお邸へ持って行ったのです。そのとき貴殿は、御令弟と表座敷で囲碁をたのしんでいらっしゃいました。掃守がそのそばにすわって果物をたべていました。そして、文四がもってきた大魚を見ると、みなさんはたいへんよろこばれておほめになりました。私はそのとき、みなさんにむかって、大声に叫んだのです。『あなた方は、この興義をお忘れになったのですか。お許し下さい。寺にかえして下さい』と、連呼したのですが、誰も知らぬ顔であしらい、ただ立派な魚だと手をうってよろこんでいらっしゃるのです。やがて調理人がやってきて、まず私の両眼を左手の指でつよくおさえ、右手にとぎすました<ruby><rb>庖丁</rb><rt>ほうちょう</rt></ruby>をもって、私をまな板の上にのせ、すんでのことに切ろうとしたとき、私はあまりの苦しさに大声をあげて、『仏に仕える僧を殺すということがあるか。助けてくれ、助けてくれ』と、泣き叫びましたが、誰も聞きいれてくれません。そして、ついに切られたと感じたとき、夢がさめたのです」と語った。これを聞いて人々はひどく感動するとともに不思議に思って、「御僧のいまのおはなしで思いあわせてみると、御僧が口をきくたびに魚の口が動くようでしたが、いっこうに声を出すことはありませんでした。こんな奇跡をまのあたりに見たとは、まことに不思議千万です」といって、下僕を家へ走らせて、残っていたなますを全部湖へ捨てさせた。

興義は、これから病気がなおって、ずっと後年、天寿をまっとうしてこの世を去った。その臨終に際して、これまで画いた鯉の絵を数枚とり出し、湖に散らしたところが、絵の魚が紙絹からぬけ出して、水中を泳ぎまわった。このために、興義の絵は後世にのこらなかったのである。その弟子の<ruby><rb>成光</rb><rt>なりみつ</rt></ruby>というものが、興義の入神の妙技をうけついで、一世に名声をあげた。あるとき、成光が<ruby><rb>閑院内裏</rb><rt>かんいんだいり</rt></ruby>のふすまに鶏の絵をかいたところが、生きた鶏がこの絵を見てほんものの鶏と思って蹴ったということが、昔の「<ruby><rb>古今著聞集</rb><rt>ここんちょもんじゅう</rt></ruby>」という本に書きのこされている。

  


## 雨月物語　巻之三

## 仏法僧（ぶっぽうそう）

うらやすの国とよばれるこの日本は、長いあいだ<ruby><rb>穏</rb><rt>おだ</rt></ruby>やかに治まって、民はそれぞれの家業にいそしみ、その余暇には、春は花の下にいこい、秋はもみじの林を訪ねるというように行楽をたのしみ、はては遠く九州<ruby><rb>筑紫</rb><rt>つくし</rt></ruby>の名所も知らなくてはと思って、遠くまで船旅をする人が、こんどは富士や筑波の山々に行ってみたいと、ふかく心<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれるのも、思えば、泰平の世の<ruby><rb>余沢</rb><rt>よたく</rt></ruby>として、自然のなりゆきであろう。

伊勢の国<ruby><rb>相可</rb><rt>おうか</rt></ruby>という里に、<ruby><rb>拝志氏</rb><rt>はやしうじ</rt></ruby>という人がいたが、はやく家督を嗣子にゆずって、べつにこれという不幸があったわけでもないのに<ruby><rb>剃髪</rb><rt>ていはつ</rt></ruby>し、名を<ruby><rb>夢然</rb><rt>むぜん</rt></ruby>とあらため、元来丈夫で持病というものもないところから、諸国をあちこちと旅行するのを老後のたのしみとしていた。末子の<ruby><rb>作之治</rb><rt>さくのじ</rt></ruby>が、どうも生来<ruby><rb>無骨</rb><rt>ぶこつ</rt></ruby>で融通のきかないのを案じて、都人の風流にして優しい様子でも見せようと思い、彼をともなって一か月あまりを京都二条の出店に<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>し、三月の末には吉野の奥の桜を見に行き、知りあいの寺に七日ほど泊ったが、このついでに、まだ高野山へ行ったことがないので、ひとつ行ってみようといって、折から夏のはじめ、青葉の茂みをわけながら、<ruby><rb>天</rb><rt>てん</rt></ruby>の<ruby><rb>川</rb><rt>かわ</rt></ruby>というところから山を越えて、<ruby><rb>摩尼</rb><rt>まに</rt></ruby>の御山とよばれる高野山に行った。道中のけわしさに行き悩んで、みちははかどらず、いつのまにか日の暮れかかるころになった。

<ruby><rb>壇場</rb><rt>だんじょう</rt></ruby>から諸堂、霊廟と、のこらず参拝して、宿坊の前に立ち、「こちらに泊めていただきたい」と声をかけたが、誰ひとりとして応答するものがない。そこで通行人に、この地のならわしをたずねたところ、「お寺や僧坊に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つて</span>のない人は、<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>に下って夜をあかすよりほかありません。この山では、すべて旅人に一夜の宿をかすということはないのです」というこたえだった。どうしようかと、途方にくれた。いかに丈夫な身体とはいっても、老人の身で、けわしい山路を越してきたうえに、いまこうしたことを聞いては、心ががっくりと張りあいを失って、急に疲れを覚えた。作之治も、「日も暮れ、足も痛んで、さらにこのうえどうして長いみちのりを麓にくだれるでしょうか。私のように若い者は、たとえ草に寝てもいといません。しかし年寄られた父上が、そのために御病気にでもなったらと、それが案じられます」という。夢然は、「旅というものは、こういうことがあってこそまた趣があるというものだ。しかし、今夜、脚をいため、疲労<ruby><rb>困憊</rb><rt>こんぱい</rt></ruby>して里へ下っても、それが自分の故郷というわけでもないし、また明日の道中だってどんなことがあるかわからないのだ。この山は日本第一の霊場で、弘法大師の広大な徳はとても語りつくせないほどである。わざわざにでもここへきて、終夜、<ruby><rb>参籠</rb><rt>さんろう</rt></ruby>祈願し、来世の安楽往生をお願いしなければならないところであるが、今夜はちょうどよい折であるから、大師廟で終夜お念仏を唱えることにしようではないか」といって、杉並木の鬱蒼とした奥の院への参道を歩み進んで、やがて大師廟の前の<ruby><rb>灯籠堂</rb><rt>とうろうどう</rt></ruby>につき、その縁側にのぼって、もっていた雨具を敷き、席をこしらえると、そこにすわって、心しずかに念仏を唱えながらも、夜がしだいにふけていくのをなんとなく心細くわびしく感じたのである。

この山は、約五キロ四方平坦になっていて、あたりに見苦しい林など見えず、小石一つさえはらいきよめたありがたい霊地ではあるが、それでもさすがに、この灯籠堂の辺は寺も遠く、<ruby><rb>陀羅尼</rb><rt>だらに</rt></ruby>を唱える声も、<ruby><rb>鈴錫</rb><rt>れいしゃく</rt></ruby>の音もきこえない。樹木は雲をしのぐほど高々とそびえて茂りあい、道ばたを流れる水の音がほそぼそと澄みわたって、夜の静寂になんとなくさびしい。寝られないままに、夢然は作之治にむかってはなした。「そもそも大師の徳の力は、霊なき土石草木にまでも霊を宿して、開山以来八百余年を経た今日にいたっても、ますますあらたかで、ますます尊いことである。大師の<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>された業績やめぐり歩かれた旧跡は、日本全国に多いが、その中で、この高野山こそ第一番の仏道道場である。まだ大師の御存命中のことであるが、<ruby><rb>遣唐使</rb><rt>けんとうし</rt></ruby>にしたがって、遠く中国に留学され、その地で真言の秘奥をきわめられると、『この<ruby><rb>三鈷</rb><rt>さんこ</rt></ruby>の落ちとどまるところが、わが宗旨をあげひろめる霊地である』といって、三鈷を大空高くお投げになったが、それがこの山に落ちたのであった。<ruby><rb>壇場御影堂</rb><rt>だんじょうみえいどう</rt></ruby>の前にある三鈷の松というのが、それが落ちとどまった所だと聞いている。すべてこの山の草木といい、泉石といい、霊力をもたないものはひとつもないということである。今夜ゆくりなくもここに一夜をおかりしたということは、この世だけでなく、前世からのありがたい因縁である。お前も若いからといって、けっして信心を怠ってはならない」と、小声ではなすが、夜のしじまにその声さえすみとおって、心細い感じがする。

大師廟のうしろの林あたりからと思われるが、「ブッパン、ブッパン」となく鳥の声が、こだまになって響いて、耳近くきこえてくる。それを聞くと、夢然は、目さめるような心持になって、「ああ、めずらしい声を聞くものだ。いま鳴いている鳥が仏法僧というのだろう。かねがねこの山にすんでいるとは聞いていたが、たしかにその声を聞いたという人もいないのに、今夜ここに宿って、ありがたいその声を聞けたとは、まさに<ruby><rb>滅罪生善</rb><rt>めつざいしょうぜん</rt></ruby>のいいしるしであろうか。あの鳥はもともと清浄の地をえらんですむということである。上野の国の<ruby><rb>迦葉山</rb><rt>かしょうざん</rt></ruby>、下野の国の<ruby><rb>二荒山</rb><rt>ふたらさん</rt></ruby>、山城の<ruby><rb>醍醐</rb><rt>だいご</rt></ruby>の<ruby><rb>峰</rb><rt>みね</rt></ruby>、河内の<ruby><rb>杵長</rb><rt>しなが</rt></ruby>山、そして、なかでもこの高野山にすんでいるということは、大師のお詠みになった<ruby><rb>詩偈</rb><rt>しげ</rt></ruby>にもあって、世人のよく知っていることである。

<ruby><rb>寒林独坐草堂暁</rb><rt>かんりんどくざそうどうのあかつき</rt></ruby>　　　<ruby><rb>三宝之声聞一鳥</rb><rt>さんぼうのこえをいっちょうにきく</rt></ruby>

<ruby><rb>一鳥有声人有心</rb><rt>いっちょうこえありひとこころあり</rt></ruby>　　　<ruby><rb>性心雲水倶了々</rb><rt>せいしんうんすいともにりょうりょう</rt></ruby>

（さびしい林の中の草の庵にひとり坐して暁をむかえると、折から仏・法・僧の三宝を唱える一羽の鳥の声を聞いた。一羽の鳥ですらすでに三宝を唱える声があるのだから、これを聞く自分にも、これに応じて仏心を発揮する心がある。有情の鳥声・人心、非情の行雲・流水、すべてこの山にあるものは法身如来の仏徳を開顕して悟りの境地に入っている）

これがその詩偈であるが、また古歌にこういうのもある。

松の尾の峰静かなる<ruby><rb>曙</rb><rt>あけぼの</rt></ruby>にあふぎて聞けば仏法僧啼く

（松尾山の峰が静かにあけてゆく曙に、峰の空を仰ぎながら耳傾けると仏法僧の声がきこえる）

昔、最福寺の<ruby><rb>延朗法師</rb><rt>えんろうほうし</rt></ruby>は、世にもまれな信仰あつい法華経信奉者であったので、松の尾神社の祭神が、この仏法僧をつねに延朗法師に仕えさせたということがいい伝えられているから、この歌のように、松の尾神社の神域にもすんでいたことが知られる。それにしても、今夜くしくも、すでにこの仏法僧の一声を聞きえたのだから、私もここにおいて興趣をおぼえずにおられようか。一句詠んでみよう」といって、平生たのしみたしなんでいる十七音の俳諧を、しばし案じていたが、やがて口に出して詠みあげた。

「鳥の音も秘密の山の茂みかな」

旅行用の小<ruby><rb>硯</rb><rt>すずり</rt></ruby>をとり出して、御灯明の光をたよりにこの句を書きつけ、もう一声聞きたいものだと耳をすますと、思いがけず遠く寺院の方から、先ばらいの声がいかめしく聞こえ、次第にこちらへ近づいてきた。いったいどなたがこんな夜更けに参拝なさるのだろうかと、あやしみながらもおそろしく思って、親子は互いに顔見合わせて息をころし、そちらの方ばかりじっとみまもっていると、はやくも先ばらいの若侍が、<ruby><rb>御廟橋</rb><rt>ごびょうばし</rt></ruby>の橋板を荒々しく踏んで、こちらにやってくる。

親子がおどろいて灯籠堂の右側の廊に身をかくすのを、武士はいちはやく見つけて、「何者だ。殿下のおいでだぞ。はやく下へおりろ」というので、二人はあわてて縁をおり、地面に平伏した。まもなく大勢の足音が聞こえたが、その中でひときわ高く<ruby><rb>沓音</rb><rt>くつおと</rt></ruby>をひびかせて、<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>えぼし</rt></ruby>・<ruby><rb>直衣</rb><rt>のうし</rt></ruby>を召した貴人がお堂におあがりになると、おつきの武士四、五人が、その左右に座をしめた。貴人は、おつきの武士たちにむかって、「だれだれはどうしてこないのか」とおたずねになる。「やがてまいりましょう」と、武士がおこたえ申しあげる。そこへまた一群の足音がして、いかめしく立派な武士や、頭を丸くした入道などがその中にまじってやってきたが、貴人に対してうやうやしく礼をすると、堂にのぼった。貴人は、いま来た立派な武士にむかって、「<ruby><rb>常陸介</rb><rt>ひたちのすけ</rt></ruby>、その方はどうして遅くまいったのだ」とおっしゃると、その武士は「<ruby><rb>白江</rb><rt>しらえ</rt></ruby>、<ruby><rb>熊谷</rb><rt>くまがえ</rt></ruby>の両名が、殿下に御酒をさしあげるのだと申して、まめまめしくはたらいておりますので、拙者もなにか御酒の肴を一品ととのえてさしあげようと思い、そのためにおともに遅れたのでございます」と申しあげる。そして、たずさえてきた肴をならべておすすめすると、貴人は、「万作、酌をせい」とおっしゃるのだった。その声に、美貌の若侍が、かしこまっていざりより、酒器をとりあげて酌をした。それから、あちらの人、こちらの人と杯をまわして、酒宴はにぎやかになった。

やがて、貴人は、また口をひらいて、「久しく<ruby><rb>紹巴</rb><rt>じょうは</rt></ruby>のはなしを聞かないな。ここへよべ」とおっしゃると、御前から順に呼び伝えているようであったが、ちょうど夢然が平伏しているうしろの方から、一人の大きな法師――顔がひらったく、目鼻だちのはっきりした人であった――が、僧衣の身づくろいをしながら、堂の方へ進み出、居並ぶ人々の末座に座をしめた。すると、貴人は古歌や故事・古語などをあれこれとおたずねになり、法師はそれにたいしていちいちくわしくおこたえ申しあげたが、貴人はそのこたえにひどく感心されて、「かれに当座の褒美を与えよ」とおっしゃった。



高野山奥の院、灯籠堂の前で、深夜、夢然・作之治父子が、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあう図。先駆の武士が父子を叱っているところ。（原本三丁裏、四丁表の挿絵）

一人の武士が、法師にたずねた。「この高野山は徳高き高僧がおひらきになって、土石草木のごとき霊なきものまで、仏徳をうけて霊魂をもたないものはないと聞いております。しかるに、ここを流れる玉川の水には毒があって、人がこれをのむときは毒にあたって命を落すゆえに、大師がそれをいましめるためにお詠みになった歌として、

わすれても汲みやしつらん旅人の<ruby><rb>高野</rb><rt>たかの</rt></ruby>の奥の玉川の水

（忘れても旅人は高野山の奥の玉川の水を汲んで飲んではいけない、毒があるからだ）

というのがあると聞きつたえております。大師ほどの高徳の方が、この毒のある流れを、どうして<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>らしておしまいにならなかったのでしょうか。いぶかしいことですが、貴殿はどうお考えになっていらっしゃいますか」

法師は、微笑をたたえて、こたえた。「この歌は『<ruby><rb>風雅集</rb><rt>ふうがしゅう</rt></ruby>』におさめられております。その<ruby><rb>詞書</rb><rt>ことばがき</rt></ruby>に『高野の奥の院へまいる途中にある玉川という川は、水上に毒虫が多いので、この流れを飲んではならないということを、さとしいましめておいてのちに、この歌を詠む』という意味のことがあきらかに書かれておりますから、貴殿のおっしゃるとおりです。しかしまた、いまのお疑いが道理にはずれたことでないと思われますのは、大師は神の如き霊力をもってなにごとをも思うようになしうる方でしたから、目に見えない神を使って道なきところに道をひらき、巌をくりぬくのは土を掘るよりもたやすく、大蛇を封じこめ、<ruby><rb>化鳥</rb><rt>けちょう</rt></ruby>を帰順せしめられるなど、ひとしく天下の人々が仰ぎとうとぶ立派な功績をおしめしになったことを思いあわせると、どうもこの歌の詞書はほんとうとは思えません。もともとこの玉川という川は諸国にあって、どの玉川を詠んだ歌も、その流れの清らかなのをほめたたえたものであることを思えば、ここの玉川も毒のある流れではなく、この歌の意味も、これほど名高い川がこの山にあるのを、ここに参詣する人はかりにすっかり忘れていても、この流れの清らかさに心ひかれて、思わずも手にすくって飲むことであろう、というこころをお詠みになられたのであろうのを、後世の人が、毒があるという妄説につられて、この詞書をつくりあげたものかと思われます。また、もっとふかく疑ってみると、この歌の調子は、大師の生きておられた平安朝初期のうたいぶりではありません。およそわが国の古い言葉に、<ruby><rb>玉鬘</rb><rt>たまかずら</rt></ruby>、<ruby><rb>玉簾</rb><rt>たまだれ</rt></ruby>、<ruby><rb>珠衣</rb><rt>たまぎぬ</rt></ruby>などというのがありますが、これらはかたちのよさをほめ、清らかさをほめる言葉でありますから、それとおなじように、清水をも玉水、玉の井、玉川などとほめるのです。毒のある流れに、どうして『玉』という言葉を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>らせることがありましょうか。むやみやたらに仏をありがたがって、しかも歌のことなどにくらい人は、このような歌意曲解のあやまりはいくらでもしでかすものです。それにひきかえ、貴殿は歌よみでもいらっしゃらないのに、この歌の意味に疑問をもたれるとは、ほんとうにたしなみのふかいゆかしいことでございます」と、大いにその武士をほめたたえたのである。貴人をはじめ、なみいる人々も、この説が道理にかなっていると、しきりに賞讃した。

折から、御堂のうしろの方で、「ブッパン、ブッパン」と鳴く声が、間近く聞えたので、貴人は杯をあげられて、「あの仏法僧の鳴くのも久しく聞かなかったが、これで今夜の酒宴にひときわ興がのったぞ。紹巴、一句どうじゃ」と、おっしゃる。法師は、かしこまって、「それがしの短句は、すでに殿下にもお聞きふるしでいらっしゃいましょう。今夜、ここに旅人がお<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>りしておりますが、さっき当世風な俳諧を口ずさんでおりました。殿下にはおめずらしくいらっしゃるでしょうから、その者をよび出して、お聞き下さいませ」という。貴人が、「その者を呼べ」と、おっしゃると、若侍が夢然の方にむかって、「お召しでいらっしゃるぞ。ちこうまいれ」という。夢然は、無我夢中で、おそろしさのままに、御前へはい出した。すると、法師は、夢然にむかって、「さっき詠んだ句をわが君に申しあげよ」という。夢然は、おそるおそる、「なにを申しましたでしょうか、いっこうに覚えておりません。どうかおゆるし下さい」という。法師は、重ねて、「秘密の山という句を詠んだではないか。殿下がおたずねになっていらっしゃるのだ。はやく申しあげよ」という。夢然は、いよいよおそれて、「殿下と仰せられますのはどなたでいらっしゃいますか。どうしてこんな深山で夜宴をもよおされていらっしゃるのですか。どうもいよいよ不審なことでございます」という。法師は、それにこたえて、「殿下と申しあげるのは、関白<ruby><rb>秀次公</rb><rt>ひでつぐこう</rt></ruby>でいらっしゃるのだ。またここに従う人々は、木村常陸介、<ruby><rb>雀部淡路</rb><rt>ささべあわじ</rt></ruby>、<ruby><rb>白江備後</rb><rt>しらえびんご</rt></ruby>、<ruby><rb>熊谷大膳</rb><rt>くまがえだいぜん</rt></ruby>、<ruby><rb>粟野杢</rb><rt>あわのもく</rt></ruby>、<ruby><rb>日比野下野</rb><rt>ひびのしもつけ</rt></ruby>、<ruby><rb>山口少雲</rb><rt>やまぐちしょううん</rt></ruby>、<ruby><rb>丸毛不心</rb><rt>まるもふしん</rt></ruby>、<ruby><rb>隆西入道</rb><rt>りゅうさいにゅうどう</rt></ruby>、<ruby><rb>山本主殿</rb><rt>やまもととのも</rt></ruby>、山田三十郎、<ruby><rb>不破</rb><rt>ふわ</rt></ruby>万作の<ruby><rb>面々</rb><rt>めんめん</rt></ruby>で、かくいうそれがしは<ruby><rb>紹巴法橋</rb><rt>じょうはほっきょう</rt></ruby>である。汝等はふしぎの御縁で拝顔の栄をえたのであるぞ。さっきの句をいそいで申しあげよ」という。夢然はこれをきくと、もし頭に髪があったならば、一瞬にしてその毛髪がふとくなるかと思うほど恐怖におののき、肝も魂も身をはなれて宙にうくような心地がして、ふるえながら、<ruby><rb>頭陀袋</rb><rt>ずだぶくろ</rt></ruby>からきれいな紙をとり出して、筆もしどろもどろに書きつけてさし出すと、それを山本主殿がとって、声高くよみあげる。

「鳥の音も秘密の山の茂みかな」

貴人は、これをお聞きになって、「こざかしくも詠みおったな。だれかこの付句をいたせ」とおっしゃると、山田三十郎が座をすすみ出て、「それがしがいたしましょう」といって、しばし首をかしげて思案していたが、やがてこう付けた。

「<ruby><rb>芥子</rb><rt>けし</rt></ruby>たき<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>すみじか夜の<ruby><rb>牀</rb><rt>ゆか</rt></ruby>

どうでしょうか」と、彼は書いた紙を紹巴に見せる。紹巴は、「みごとにお詠みになりました」とほめて、それを秀次公の前にさし出すと、秀次公もごらんになって、「悪いできでもないわい」と感心されて、また杯を傾け、一座にまわされた。

淡路とよばれた人が、このとき急に顔色をかえて、「もはや<ruby><rb>修羅</rb><rt>しゅら</rt></ruby>の時刻になったようです。<ruby><rb>阿修羅</rb><rt>あしゅら</rt></ruby>どもがお迎えにまいったと申しております。お立ち下さい」というと、一座の人々はたちまち血をそそいだように顔を真っ赤にして、「さあ、石田、増田のやつばらに、今夜も一泡ふかせてやろう」と、勇んで立ちさわぐ。秀次公は、木村にむかって、「つまらぬやつにわが姿を見せてしまったわい。あいつ等二人も一緒に修羅道へつれてまいれ」とおっしゃる。それを、老臣の人々がわってはいって、間をへだて、声をそろえて、「まだ寿命のつきない者どもでございます。いつもの悪行をなさいますな」といったが、その言葉も、人々のすがたも、遠く大空のかなたに消えて行くようだった。

親子は気を失って、しばらくのあいだは息もたえだえであったが、やがて明けてゆく空とともに、梢を落ちる露がひややかにかかるのに息をふきかえしたけれど、それでもまだすっかり夜の明けきらぬおそろしさに、「南無大師<ruby><rb>遍照金剛</rb><rt>へんじょうこんごう</rt></ruby>」とせわしく唱えながら、ようやく太陽の昇ったのを見て、いそいで山をくだり、京都へ帰って、薬や<ruby><rb>鍼</rb><rt>はり</rt></ruby>の治療にいそしんだのである。その後、ある日、夢然は、三条の橋を通りすぎるとき、そこの<ruby><rb>瑞泉寺</rb><rt>ずいせんじ</rt></ruby>にある秀次の<ruby><rb>悪逆塚</rb><rt>あくぎゃくづか</rt></ruby>のことを思い出すと、その方におのずと視線がひきよせられて、「白昼でも物すごいありさまでした」と、のちに都の人にはなしたのを、聞いたままにここに書きしるしたのである。

  


## 吉備津の釜（きびつのかま）

「<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>ぶかい女というものはとかく家を乱しがちで、手におえないものであるが、反面ではそのために夫の<ruby><rb>身持</rb><rt>みもち</rt></ruby>が制約され、おのずとかたくなるので、若いうちはうるさく思っていても、年をとってからふりかえってみると、それにはまたそれなりにいい点やありがたさがあったのがわかるものである」という言葉がある。ああ、これはいったいだれのいった言葉だろうか――。嫉妬ぶかい女というものは、嫉妬の害がさほどひどくない場合でも、家業のさまたげをなし、器物をこわしたりなにかの手違いをおこさせたりして、隣近所からのそしりはまぬかれがたいものであるが、その害の甚大なものにいたっては、ついに家を失い、国をほろぼして、長く天下の物笑いのたねとなるのである。昔からこの嫉妬の害毒にあたって苦しんだ人は、どのくらいあるかわからない。嫉妬ぶかい女のなかには、死んだのちにおろちとなったり、あるいは物凄い雷をならしたりして、男にうらみを晴らすというものもあるが、そういうたぐいは、みせしめのために、その身の肉を<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>んで塩辛にしても、なお飽きたりないほどである。しかし実際にはそんな極端な例はごくまれである。夫が自分の身持をよくおさめて妻を教え導いたならば、嫉妬の弊害も自然と避けることができるのに、それをほんのちょっとした浮気から、女の嫉妬ぶかい本性をつのらせて、自分で自分の身の憂いを招いてしまうのである。昔から、「鳥類を制するのは人間の<ruby><rb>気合</rb><rt>きあい</rt></ruby>ひとつにある。そして妻を制するのは、その夫の雄々しくしっかりした気性ひとつにある」といわれているが、ほんとうにその通りである。

<ruby><rb>吉備</rb><rt>きび</rt></ruby>の<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby><ruby><rb>賀夜</rb><rt>かや</rt></ruby>の<ruby><rb>郡</rb><rt>こおり</rt></ruby><ruby><rb>庭妹</rb><rt>にいせ</rt></ruby>の<ruby><rb>里</rb><rt>さと</rt></ruby>に、井沢庄太夫という人がいた。祖父は<ruby><rb>播磨</rb><rt>はりま</rt></ruby>の<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby>の<ruby><rb>赤松氏</rb><rt>あかまつうじ</rt></ruby>に仕えていたが、去る<ruby><rb>嘉吉</rb><rt>かきつ</rt></ruby>元年の乱に、赤松氏の城を去って、この地にやってきて、それから庄太夫にいたるまで三代の間、春にたがやし秋に刈り入れるという農作を業として、家ゆたかに暮らしてきた。庄太夫のひとり子の正太郎というのは、百姓をきらって、酒に溺れ、色にふけって、なかなか父のいいつけを守ろうとしない。そこで、両親はこれを嘆いて、ひそかに相談していうには、「ああ、どうか、ちゃんとした人の娘で、きりょうのいいひとを正太郎の嫁にもらったならば、あの子の身持も自然とよくなるに相違ない」といって、ひろく国中をさがしもとめたところが、さいわいになかだちする人があって、「<ruby><rb>吉備津神社</rb><rt>きびつじんじゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>神主香央造酒</rb><rt>かんぬしかさだみき</rt></ruby>の娘は、うまれつき優美典雅で教養があり、父母にもよく孝養をつくして、そのうえ和歌もうまくよみ、<ruby><rb>箏</rb><rt>こと</rt></ruby>も上手に<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>きます。もともと香央家は吉備の<ruby><rb>鴨別</rb><rt>かもわけ</rt></ruby>の子孫で家柄も正しいのですから、あなたの家がこれと縁組なさることは、きっとよいことがあるでしょう。この縁談が成立するのは、私としても願うところです。あなたのお考えはいかがでございますか」という。このはなしを聞いて庄太夫は大そうよろこび、「いいおはなしをきかせて下さったものです。このことは私の家にとっては家運長久の基ですが、香央家はこの国の名家であり、私どもは氏素姓も卑しい農民です。家柄がつりあいませんから、先方ではおそらく承知なさいますまい」という。仲人の老人は笑顔をつくって、「あなたの御謙遜もはなはだしい。私がきっとうまくまとめて結婚というはこびにいたしましょう」といって、その足で香央家を訪ねてこの縁談をもちこむと、香央もよろこんで妻に相談したところ、妻も同様に乗り気になってこういった。「うちの娘ももう十七になりましたので、毎日、よい相手はいないものか、そういう人のもとへかたづけたいものだと、私はそればかり考えて心のやすまるひまもございませんでした。いいおはなしですから、早く吉日をえらんで、<ruby><rb>結納</rb><rt>ゆいのう</rt></ruby>を取りかわして下さい」と、しきりにすすめたので、はなしははやくもきまって、この旨を井沢に返事した。そして、すぐに、結納を十分手厚くととのえてとりかわし、<ruby><rb>黄道吉日</rb><rt>こうどうきちにち</rt></ruby>をえらんで、結婚式をあげることとなった。

香央は、このうえなお娘の幸福を神に祈るために、<ruby><rb>巫子</rb><rt>みこ</rt></ruby>や<ruby><rb>祝部</rb><rt>はふりべ</rt></ruby>をあつめて、神前に<ruby><rb>御湯</rb><rt>みゆ</rt></ruby>をそなえる<ruby><rb>御釜祓</rb><rt>みかまばらい</rt></ruby>の神事をとり行なった。そもそもこの社に祈誓する人は、数多くの御供物を神前に供えて、御釜祓の御湯を奉り、それによって事の吉凶を占うのがつねである。巫子が<ruby><rb>祝詞</rb><rt>のりと</rt></ruby>を奏し終り、御湯がわきあがるときに、吉兆ならば、釜の鳴る音が牛の<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>えるように大きく鳴る。反対に、凶兆ならば、釜は鳴らないのである。これを吉備津の御釜祓という。ところが、香央が御釜祓をしてみると、この縁談を神が御嘉納にならないのか、釜は、秋の虫がくさむらですだくほどの小さな声さえ出さない。そこで、疑惑を抱いた香央は、このしるしについて妻に相談した。しかし、妻はいっこうに疑わず、「御釜が音を出さなかったのは、祝部たちの身がけがれていたからでしょう。すでに結納をとりかわしたうえ、夫婦となるべき約束をしたからには、たとえ先方が<ruby><rb>仇敵</rb><rt>きゅうてき</rt></ruby>の家であっても、また遠い他国の人であっても、約束をかえてはならないと聞いておりますのに――。とりわけ井沢はほまれある武門の<ruby><rb>後裔</rb><rt>こうえい</rt></ruby>で、家風の正しい家と聞いておりますから、いま私の方で断っても承知いたしますまい。ことに娘は、婿となるべき人の眉目秀麗なのをどこからかうわさに聞いて、胸ときめかし、婚礼の日を指折り数えて待ち遠しく思っているようすなのを、もしも今の悪いはなしでも聞こうものならば、どんな無分別なことをしでかすかしれません。そのときになって後悔してもとりかえしがつかないでしょう」と、言葉をつくして夫を説きふせようとしたが、これも母親の立場からすれば当然の心持であろう。これをきくと、夫も、もともと望ましい良縁のことであったから、これ以上ふかくは疑わず、妻のことばにしたがって、ここにやがて結婚の式を挙げ、両家の親類縁者あいあつまって、新夫婦の契りの末長くあらんことを祝ったのである。

香央の娘の<ruby><rb>磯良</rb><rt>いそら</rt></ruby>は、井沢家にとついでから、朝は早く起き、夜は遅く床につくというように、毎日精を出してはたらき、つねに<ruby><rb>舅</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>・<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうとめ</rt></ruby>のそばをはなれずにまめまめしくつかえ、夫の性質をのみこんで、夫に気にいられるように真心をつくしてかしずいたので、井沢の両親は磯良の孝行・貞節に感心して、いい嫁を貰ったとそのよろこびはひととおりでなく、また夫の正太郎もその誠意に感心していとおしく思い、契りもこまやかに仲むつまじく暮らしたのであった。しかし、生来のわがままで放蕩な性質というものは、どうにもならないものである。いつとはなしに、正太郎は、<ruby><rb>鞆</rb><rt>とも</rt></ruby>の<ruby><rb>津</rb><rt>つ</rt></ruby>の<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>という遊女とふかくなじんで、ついにはこれを身請けし、近くの里に妾宅をかまえて住まわせ、そこに幾日もいりびたっては、家に帰らないようになった。磯良は、これを悲しく思って、あるときは<ruby><rb>舅姑</rb><rt>おやたち</rt></ruby>が怒っていることにかこつけて諫め、またあるときは夫の浮気な心をうらみなげいたが、夫は妻のいうことなどまったくうわの空に聞きながして、その後は一か月以上も帰宅しないようになった。舅の庄太夫は磯良の真情あふれるいじらしいふるまいを見るに見かねて、正太郎をきつくしかると、ついに一室に監禁してしまった。磯良は、このことを悲しく思って、朝夕、ことに万事に気をつけて、かいがいしく夫に仕えるとともに、また一方では袖の妾宅の方へも、ひそかに物などとどけてやって、真心のかぎりをつくしたのである。

ある日のこと、父が家にいないすきをみて、正太郎は、磯良をそばへよぶと、甘い言葉で、「そなたの真心こもった心づくしを見て、いまでは自分が悪かったとつくづく後悔している。このうえは、あの女と手を切り、うまれ故郷へ送りかえして、それで父上の怒りをなだめやわらげるとしよう。<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>は<ruby><rb>播磨</rb><rt>はりま</rt></ruby>の<ruby><rb>印南野</rb><rt>いなみの</rt></ruby>の出身であるが、親もなくて不幸ないやしい境遇にいるので、ついふびんに思って情をかけてしまったのだ。もしもいま私に捨てられたならば、きっとまた再び港町の遊女に身をおとしてしまうだろう。おなじ勤めをする身であっても、都は人の情も厚いところであるというから、<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>を都へつれていって、ちゃんとした人の許に仕えさせたいと思うのだ。それにしても、私がこうして軟禁されて<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねてもやれないので、さぞ万事につけて不自由で、困っていることだろう。都へゆく旅費と衣類といっても、誰も工面してやる者もないありさまだ。そなたがこれを工面して、<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>に恵んでやってはくれないか」と、ねっしんに頼むのを聞いて、磯良もたいそうよろこび、「そのことなら御安心下さいませ」といって、ひそかに自分の着物や手まわりの道具を売って金にかえ、そのうえなお実家の母につくりごとをいって金を貰い、それを夫に渡した。正太郎はこの金を手にすると、こっそり家をぬけ出し、袖をつれて、都の方へ出奔してしまった。これほどまでに徹底的にだまされたので、磯良の傷心は大きく、ついに重い病の床に臥す身となった。井沢・香央両家の人々も、いまは正太郎を憎み、磯良をあわれんで、医者にかけ、ひたすら回復をのぞんだが、その甲斐もなく、磯良は、日ましにだんだん粥さえのどを通らないようになって、とうてい回復の見込みがないような状態になった。

さて、ここ播磨の国<ruby><rb>印南郡</rb><rt>いなみごおり</rt></ruby>荒井の里に、彦六という男がいた。彼は袖とは<ruby><rb>従姉弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>という近い血縁関係にあったので、正太郎たちは、まずそこを訪ねて、しばらく逗留することにした。彦六は、正太郎にむかって、「都がいかに人情の厚い所だからといって、都人みんながみんな頼もしいというわけでもありますまい。それよりは、ここにお住みなさい。一つ釜の飯をわけあって、お互いに助けあいながら生活しようではありませんか」と、頼もしいことをいってくれるので、正太郎もほっとして気持が落ちつき、ここに住もうと心をきめたのである。彦六は、自分の家と壁ひとつ隣のあばら屋を借りて、ここに正太郎たちを住まわせ、いいはなし相手ができたとよろこんだ。ところが、袖が、風邪気味だといっているうちに、どこがどうということもなくひどくわずらい出して、<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>の<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>にでもつかれたように気ちがいじみてきたので、正太郎は、まだここへきて幾日もたたないのに、こんな災難にとりつかれた悲しさに、自分の食事さえ忘れてひたすらその看病にあたったが、袖はただ声をあげて泣くばかりで、発作がおこるといかにも胸苦しく堪えられない様子をみせ、熱がさめるとふだんとかわらない様子をみせる。<ruby><rb>生</rb><rt>い</rt></ruby>き<ruby><rb>霊</rb><rt>りょう</rt></ruby>のたたりであろうか、もしかしたら故郷に捨ててきた妻が<ruby><rb>怨霊</rb><rt>おんりょう</rt></ruby>となってたたりをしているのであろうかと、正太郎は、ひとり胸をいためるのだった。彦六は、正太郎が気をまわして不安がるのをいさめて、「どうしてそんなことがあるものですか。<ruby><rb>疫</rb><rt>えき</rt></ruby>病が非常に苦しいものであるということは、私は、これまでも実際に数多く見てきました。熱がすこしさめると、まるで夢のあとのように、それまでの苦しさなどけろりと忘れたようになるものです」と、無造作にいうのだけが、いかにも頼もしく思われた。しかし、看病のしるしはすこしもなく、袖の病気は、見る見るうちに悪化して、発病してから七日で死んでしまった。正太郎は、天を仰ぎ、地をたたいて、わが身の悲運を泣き悲しみ、自分も一緒に死んでしまいたいと狂気のようになったが、彦六はそれをいろいろいい慰めて、「このうえは、もう仕方がないでしょう」といって、ついに火葬にしてしまった。骨をひろって墓をつくり、<ruby><rb>卒塔婆</rb><rt>そとば</rt></ruby>を立て、僧にたのんで手厚く<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>を弔ったのである。

ここにいたって、正太郎は、地に<ruby><rb>俯</rb><rt>ふ</rt></ruby>して亡き袖のいる冥土を慕ってみたが、死者の霊をこの世によびもどす招魂の法をもとめるすべもなく、さればとて天を仰いで捨ててきた故郷のことを思うと、それはかえって冥土よりも遠く隔たった気がして、進退きわまり、途方にくれて、昼は終日ずっと寝てくらし、夕方になると毎夕のように墓に詣でたが、見るといつのまにか墓にも小草が生えて、折からすだく虫の声もなんとなくものがなしい思いをさそうようだった。古歌のように、この秋のわびしさは、わが身のうえにだけあつまったと、秋のわびしさ、身のさびしさをしみじみ痛感していると、ほかにも自分とおなじような不幸な目にあった人があるとみえて、かたわらに新墓がある。この新墓に詣でる女を見ると、いかにも悲しげな様子をして、墓前に花を手向け、水をそそいでいるので、「ああ、お気の毒に。まだうら若いあなたが、こんな人里はなれたさびしい荒野へ、お墓まいりにいらっしゃるなんて」と声をかけると、その女はふりかえって、「わたしがいつも夕方おまいりいたしますと、貴方様はきっとわたしより先におまいりなさっていらっしゃいます。近いお身内の方におわかれなさったのでございましょうか。御心中をお察し申しあげますとお気の毒に存じます」といって、さめざめと涙を流した。正太郎は、こたえて、「おっしゃる通りでございます。十日ほど前にいとしい妻を亡くしましたが、私ひとりあとにとりのこされて、頼りをうしない心細いので、ここにおまいりすることだけをせめてもの心の慰めとしているのでございます。あなたもきっとおなじような御事情がおありなのでございましょうね」という。女は、「いいえ、私がこうしておまいりにまいりますのは、御主人様のお墓で、×月×日にここへ埋葬申しあげたのでございます。家に残っていらっしゃる奥様があまりにもお嘆きになられて、そのためにこのごろでは重い御病気におかかりになられたので、こうして私が代りにおまいりして、香花をお供え申しあげているのでございます」という。それを聞いて、正太郎は、「奥様が御病気になられたのも、まことにごもっともなことでございますよ。それで、いったい亡くなられた方はどういうお方で、おすまいはどちらでいらっしゃいますか」ときく。女は、こたえて、「御主人様は、この地方では<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>ある家柄の御方でいらっしゃいましたが、人の<ruby><rb>讒言</rb><rt>ざんげん</rt></ruby>にあって地位も領地も失い、その後はこの野の片隅にわびずまいをしていらっしゃいました。奥様は、隣国にまで評判の美人ですが、この奥様のことが原因となって、家も領地も失ってしまわれたのです」と語る。このはなしを聞くと、正太郎は、例の浮気心がおこったわけではないが、なんとなく心を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれて、「さて、奥様がひとりさびしく住んでいらっしゃるところは、ここから近いのですか。お訪ね申しあげて、おなじような悲しみを語りあい、たがいに心の憂さをなぐさめあいましょう。いっしょにおつれ下さい」という。女は、「家は、貴方様がいつもおいでになる道からすこし横にはいった方です。奥様も頼りになる方をうしなって心細くいらっしゃいますから、おりおりはお訪ね下さい。きっとお待ちかねでいらっしゃいますよ」というと、先に立って歩きだした。



正太郎が未亡人を訪ねた図。未亡人は実は磯良の怨霊で、屏風すこし引きあけて、「めづらしくもあひ見奉るものかな。つらき報いの程しらせまゐらせん」という。正太郎は「あなや」と叫んで倒れた。（原本十三丁裏、十四丁表の挿絵）

二〇〇メートルあまりくると、細い小道があった。ここをはいってなお一〇〇メートルほど歩くと、うすぐらい林のなかに小さな<ruby><rb>茅</rb><rt>かや</rt></ruby>ぶきの家があった。竹の<ruby><rb>編戸</rb><rt>あみど</rt></ruby>もものさびしく、折から七日すぎの上弦の月の光があかるくさしこんでいて、広くもない庭の荒れはてているのまでもはっきりと見える。かすかな灯火の光が、窓の障子をもれているのも、なんとなくさびしい風情である。「ちょっと、ここでお待ち下さいませ」といって、女は、内へ入った。正太郎は、<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>むした古井戸のそばに立って、うちの様子をのぞいてみると、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>がすこしあいている間から、灯火の光が風に吹きあおられてちらちらし、その光をうけて立派な黒塗りの違い棚がきらきらとかがやいてみえるのも、奥ゆかしく思われた。そこへ女が出てきて、「貴方様がお訪ね下さったよしを奥様に申しあげましたところ、奥様は、『どうぞおはいり下さいませ。物越しにおはなし申しあげましょう』とおっしゃって、部屋の端の方へいざり出ていらっしゃいました。さあ、あちらへおはいり下さい」といって、前庭をまわって、奥の方へ案内した。二間の表座敷を見ると、人のはいれるぐらいあけて、低い屏風を立て、そこから古い夜着の端が見えていて、奥様はここに臥していると思われた。正太郎は、そちらに向かって、「御主人様に亡くなられて、そのうえ御病気にまでおかかりになられたとうかがいましたが、私も先日いとしい妻に死なれましたので、おなじような悲しみを味わっておりますが、せめてお互いに心の悲しみを話しあってなぐさめあおうと思い、あつかましくもおうかがいしたようなわけです」といった。すると、女主人は、屏風をすこし引きあけて、「久しぶりでおめにかかるものですね。これまでのひどい仕打ちにたいする報いが、どんなものであるか、思いしらせてあげましょう」というので、正太郎はびっくりして、よくみると、これこそ故郷に捨ててきた妻の磯良であった。その顔色はひどく青ざめて、どろんとした眼つきは物凄く、こちらをゆびさす手が青く痩せ細っているのがおそろしく、正太郎は、思わず「ああッ！」と叫ぶと、そのまま倒れて、気をうしなった。

しばらくたって、息をふきかえした。そっと細目をあいて眺めると、さっき家だと思ったのは、以前からある墓地のなかの慰霊堂で、古びて黒ずんだ仏像が立っていらっしゃるだけであった。正太郎は急いで立ちあがると、遠くの人里で吠える犬の声をたよりに、家に走りかえり、彦六にこの一部始終をはなした。彦六は、「なあに多分狐にでもだまされたのでしょう。心が<ruby><rb>滅入</rb><rt>めい</rt></ruby>ってびくびくしているときは、きっと迷わし神が<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>くものですよ。あなたのようにひよわな人が、こんな悲しみの淵に沈んでいるのはいけないことですから、神仏に祈って、心をしずめ落ちつけなさい。<ruby><rb>刀田</rb><rt>とだ</rt></ruby>の<ruby><rb>里</rb><rt>さと</rt></ruby>にありがたい祈祷師がいます。そこへ行って身をきよめてもらい、魔よけのお守札もいただいていらっしゃい」というと、正太郎をつれて祈祷師のもとへ行き、このできごとをはじめから詳しくはなして、このことを占ってもらった。祈祷師は、占い考えて、こういった。「わざわいがすでにあなたの身に切迫していて、これは容易ならぬことです。この怨霊は、さきには女の命を奪い、それでも怨みはなお尽きずに、今度はあなたをねらって、あなたの命も今夜か明朝かというところまで迫っているのです。この怨霊が世を去ったのは七日前のことですから、きょうから四十二日の間は、かたく戸をしめて、厳重な謹慎をなさい。私のいましめを守るならば、九死に一生をえて、命だけはとりとめることができるかもしれない。しかし、たとえ一時たりともこのいましめを破ったならば、死をのがれることはできませんぞ」と、きびしくいましめると、筆をとって、正太郎の背中から手足の先にいたるまで、中国古代の書体のような文字を書き、そのうえ朱書した紙のお守札をたくさん与えて、「このまじない札を戸口という戸口に貼って、ひたすら神仏に祈りなさい。いましめにそむいて、身を亡ぼすことがあってはなりません」と教えたので、正太郎は一方ではおそれながらも、また一方ではよろこんで、家に帰り、お守札を門口に貼り、窓に貼って、厳重な謹慎生活に入った。

その夜、真夜中のころ、戸外から、おそろしい声で、「ああ、憎らしい。ここに尊いお札を貼りつけてあるな」とつぶやくのが聞えたが、それっきり二度と声がしない。正太郎は、おそろしさのあまり、夜の長いのを嘆いた。まもなく夜があけたのでほっと生きかえった思いで、急いで彦六の家との境の壁をたたいて彦六をおこし、昨夜のことをはなした。彦六もこれを聞いて、いまさらのように祈祷師のことばがその通り的中したのを、いかにも不思議だとして、自分もその夜は寝ないで、真夜中になるのをいまやおそしと待ちくらした。松を吹く風が、ものを吹きたおすかと思われるほど激しく、そのうえ雨さえ降って、なにか異変でもおこりそうな不気味な夜の気配に、正太郎と彦六は、壁をへだてて声をかけあっていたが、やがて二時ごろになった。そのとき、正太郎の家の窓の障子に、さっと、赤い光がさして、「ああ、憎らしい。ここにも貼ってあるな」という声がしたが、その声は深夜にはいっそう物凄く、正太郎は、髪も身の毛もよだって、しばらくは気をうしなってしまった。夜があけると、前夜のおそろしかったことを語り、日が暮れると、ただもう早く夜が明けないかと朝が待ちどおしく、こうしてこれからの数十日間というものは、まるで千年の月日をすごすよりも長く思われた。かの怨霊も毎夜毎夜、家のまわりをめぐったり、あるいは屋根の棟のあたりで叫んだりして、その怒れる声は一晩ましに物凄くなってくる。

こうして四十二日という最後の夜になった。いまはもはや今夜一晩で<ruby><rb>物斎</rb><rt>ものいみ</rt></ruby>も終るところまできたので、とりわけかたく謹慎してすごすうちに、やがて夜明けの空がしらじらとあかるくなった。正太郎は、長い夢からさめたような気がして、すぐに彦六に声をかけると、彦六も境の壁際に身をよせて、「どうしました」という。正太郎は、「おもい物斎もすでにすっかり終りました。このところちっとも貴兄のお顔を見ません。懐かしさも懐かしいし、またこの一か月あまりのつらさやおそろしさを、思う存分はなしあって、心をなぐさめたいものです。起きて下さい。私もそちらへ出て行きましょう」という。彦六は元来が思慮の浅い男なので、「もう大丈夫ですよ。さあ、こちらへおいでなさい」というと、戸をあけかかったが、半分もあけるかあけないうちに、正太郎の家の軒のあたりで「ああッ！」と叫ぶ声が、耳をつんざいて、思わず尻もちをついた。これは正太郎の身のうえになにかおこったにちがいないと思って、斧をひっさげて大道に出ると、さっき正太郎が明けたと見た夜はじつはまだ暗く、月は中空にありながら、光がぼんやりとおぼろで、初冬の風はつめたく吹き、さて、正太郎の家はと見ると、戸はあけたままで、当の正太郎の姿は見えない。家の中にでも逃げこんだのであろうかと、なかにとびこんでみたが、見えない。どこにもかくれることのできるようなひろい家でもないので、それでは大道にでも倒れたのだろうかとさがしもとめたが、その辺には影もかたちもない。いったいどうなったのであろうかと、あるいはあやしみ、あるいはおそれながら、灯火をふってあかるくしてあちこちを見まわると、あけはなした正太郎の家の戸脇の壁に、なまなましい血がかかって、それが流れて地につたっている。しかし、<ruby><rb>屍</rb><rt>しかばね</rt></ruby>も骨も見当らない。なおよく月あかりで見ると、軒の端になにかひっかかっている。灯火を高くさしあげて照らして見ると、男の髪の<ruby><rb>髻</rb><rt>もとどり</rt></ruby>だけがひっかかって、ほかにはなにひとつない。浅ましくもまたおそろしいことは、とうてい筆紙につくすことができないほどであった。夜が明けてから近い野や山を探しもとめたが、ついにその形跡さえ見つけることができずにしまったのである。

そこで、このことを井沢の家へもしらせてやったので、井沢でも、涙のうちに、香央家へもしらせた。こういうわけで、祈祷師の占いが的中してそのとおりになってしまったことといい、また御釜祓で告げられた凶兆がとうとうそのまま事実になってしまったことといい、神意はまことに尊いものであったと、このはなしとともに世の人々は語り伝えたのである。

  


## 雨月物語　巻之四

## 蛇性の婬（じゃせいのいん）

いつの時代であったか、だいぶんふるいことである。紀伊の国<ruby><rb>三輪</rb><rt>みわ</rt></ruby>が<ruby><rb>崎</rb><rt>さき</rt></ruby>に、<ruby><rb>大宅</rb><rt>おおや</rt></ruby>の竹助という人がすんでいた。この人は、漁業で大いに<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けた網元で、漁師たちも大ぜいかかえ、手広く魚という魚を漁獲して、家ゆたかに暮らしていた。男の子が二人、女の子が一人あった。長男の太郎は<ruby><rb>質朴</rb><rt>しつぼく</rt></ruby>で素直で、よく家業に精を出した。二番目の女の子は<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の人から嫁にもらわれて、大和にかたづいた。三番目の子に豊雄というのがあった。これは、生れつき性質がやさしく、ふだんから風流なことだけを好んで、働いて生計をたてようとするような気持がなかった。父の竹助はこれを苦にやみながらも、また思うには、あの子には財産をわけてやってもすぐに他人にとられてしまうだろう。といって、他家へ養子にやってそこを<ruby><rb>嗣</rb><rt>つ</rt></ruby>がせるのも、やっぱり結果においてはいやなことを聞くことになるであろうし、それが心苦しいことだ。ただ、あの子のしたいことをさせて成人させ、学者になりたいのなら学者になるのもいいし、僧になりたいのなら僧になるのもいい。あの子の生きている間は、しょせん太郎の<ruby><rb>厄介者</rb><rt>やっかいもの</rt></ruby>としておこう、と考えて、しいてやかましくしつけようともしなかった。この豊雄は、<ruby><rb>新宮</rb><rt>しんぐう</rt></ruby>の神官<ruby><rb>安倍</rb><rt>あべ</rt></ruby>の<ruby><rb>弓麿</rb><rt>ゆみまろ</rt></ruby>を先生として、その許へ勉強に通っていた。

九月末のある日、朝から海は波ひとつたたず、風も<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>いで平穏であったが、急に東南の空に雲があらわれて、小雨がしとしとと降ってきた。そこで豊雄は、先生の所で雨傘を借りて帰途についたが、阿須賀神社の本殿がかなたに見わたされるあたりまでくると、雨がだんだんひどくなってきたので、ちょうどそこにあった漁師の家へ雨やどりに立ち寄った。この家のあるじである老人がごそごそと出てきて、「これはこれは、だれかと思ったら、旦那様の所の下の若さまでございますか。こんなむさくるしい所へおいで下さるとは、大そう恐縮なことでございます。これを敷きますから、ここへどうぞ」といって、よごれている<ruby><rb>円座</rb><rt>わろうだ</rt></ruby>のちりをはらってすすめた。豊雄は、「ほんのしばらく雨やどりするあいだだから、なんでもかまわないよ。そう気をつかわないでくれ」というと、そこに腰をおろしてやすんだ。やがて、家の外で、美しい声がして、「この軒下をちょっとお貸し下さい」といいながら、軒下に入ってくる人があるので、豊雄は、だれだろうと思ってそちらを見ると、年のころはまだ二十歳にならない、容貌といい髪のかたちといい、大そうあでやかな<ruby><rb>女性</rb><rt>ひと</rt></ruby>が、遠山ずりの色美しい衣服を着て、召使らしい十四五歳のきれいな少女に包みをもたせ、ぐっしょりと濡れて、いかにも困った様子をしていたが、豊雄と視線があうと、さっと顔をあからめて恥ずかしそうな様子をした。それがいかにも上品で美しいのに、豊雄も思わず心がゆらめいた。そして心の中で、この辺にこんな上品な美しい<ruby><rb>女性</rb><rt>ひと</rt></ruby>が住んでいたら、いままでにその評判を聞かないわけはないから、これはおそらく都の人が<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>つ<ruby><rb>山</rb><rt>やま</rt></ruby><ruby><rb>詣</rb><rt>もう</rt></ruby>でをしたついでに、海が見たくなってこの辺に遊びにきたのであろう。それにしても、下男らしい者も供につれていないとは、どうも不用意なことだな、と思いながら、体をすこしずらして席をあけ、「ここへおはいり下さい。雨もそのうちにやむでしょう」と、声をかけた。女は、「では、しばらくお邪魔させて下さいませ」といってはいってきた。狭い家であるから、女は豊雄と並ぶような位置にすわったが、近くで見るといっそう美しく、まるでこの世の人とは思えないほどの美しさに、豊雄は、<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>と心が宙にまいあがるような思いがして、女にむかい、「まことに失礼ですが、都あたりの高貴な御身分の方とお見うけいたしますが、三つ山詣でをなさったのでございますか。それとも峰の湯へでも湯治においでになったのですか。こんな殺風景な荒磯を、どこがお気に召して、お遊びにお越しになったのですか。もっとも、ここが、むかしの人の、

くるしくもふりくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに

（こまったことに降ってきたむら雨だ。この三輪崎の佐野の渡し場には、雨宿りする家とてもないのに）

と詠んだところですが、この歌の情趣は、ほんとにきょうのこの風情とおなじではありませんか。この家は、むさくるしいところですが、私の父が面倒をみている男の家です。どうか心おきなくくつろいで雨やどりをなさって下さい。それはそうと、いったいどちらへお宿をとっていらっしゃるのですか。はじめての方をお送り申しあげるのもかえって失礼ですから、お帰りには、この傘をもっていらして下さい」という。女は、「まあほんとうに御親切なことをおっしゃって下さってうれしく存じます。そのあたたかいお情に、濡れたのを<ruby><rb>乾</rb><rt>ほ</rt></ruby>してまいれば、すぐかわくことでございましょう。私は、都の者ではございません。この近所に長らく住んでおりますが、きょうが日がよいというので、那智におまいりいたしましたところ、急に雨が降り出しましたのでこわくなり、あなた様が雨やどりをなさっていらっしゃるとも知らず、見さかいもなくこの軒下をお借りしたのでございます。家はここから遠くもありませんし、雨も小やみになってきましたから、この間に出かけましょう」といって、そのまま出て行こうとするので、豊雄は、しいて、「この傘をもっていらして下さい。ついでの折にでも頂きにあがりましょう。それに、雨はいっこうに小降りになった様子もございませんよ。それで、おすまいはどちらですか。私の方から使を出して頂きにあがらせます」というと、女は、「新宮の辺で、<ruby><rb>県</rb><rt>あがた</rt></ruby>の<ruby><rb>真女児</rb><rt>まなご</rt></ruby>の家はどこか、とおたずね下さいませ。そろそろ日も暮れそうです。では、お言葉に甘えて、御親切を頂戴し、この傘を拝借して帰りましょう」といって、傘を手にして出てゆく後姿を、豊雄は見送って、自分はこの家のあるじの蓑と笠を借りて家へ帰ったが、帰宅してからも、どうしても真女児のおもかげが忘れられず、夜通し思いつめて、やっと明け方ちかくとろとろとまどろむと、夢に、真女児の家を訪ねていったところを見た。真女児の家へ行ってみると、門も家もたいそう大きな構えで、<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>をおろし<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>をふかく垂れているさまなど、いかにも奥ゆかしい生活をしている様子だった。真女児が出むかえて、「あなたのお情が忘れられず、ひたすらおいでを待ちこがれておりました。さあ、こちらへおはいり下さいませ」といって、奥の方へみちびき、酒や菓子などいろいろ出して、あれこれと厚くもてなしてくれたので、すっかりたのしい酔心地になり、ついにそのまま枕をかわして契った、と思うところで、夜があけ、夢がさめた。これがもし現実であったならばどんなにうれしかろうと思うと、心が身をせきたてるように落ちつかなくなって、朝食も忘れて、そのまま気もそぞろにうきうきと家を出た。

新宮の里へきて、「県の真女児の家はどこでしょうか」とたずねたが、いっこうに知っている人がいない。昼すぎまでたずねあぐねていると、きのうの少女が東の方から歩いてきた。豊雄はそれを見ると、ひどくよろこんで「お嬢さまの家はどこですか。傘を返してもらおうと思って訪ねてきたのですが」と声をかけた。少女はにっこりして、「よくいらっしゃいました。さあこちらへおはこび下さい」というと、前に立ってずんずん歩いていったが、いくらも行かないうちに、「ここですよ」というので、そこを見ると、門を高く構え、家も大きく立派で、そのうえ、<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>をおろし<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>をふかく垂れている様子まで、夢の中で見たのと寸分ちがわないのを、不思議だなと思いながら、豊雄は門をはいった。少女は先に走り入って、「傘を貸して下さった方がいらしたので、御案内してまいりました」という。すると、「どちらにいらっしゃるのです。こちらへおむかえ申しあげなさい」といいながらあらわれたのは、真女児であった。豊雄は、「この新宮に安倍先生という方がいらっしゃるのですが、その方は私が長年学問を教わっている先生です。そこをお訪ねするついでがあったものですから、傘をいただいて帰ろうと、ぶしつけながらうかがったようなわけです。これでおすまいもわかったことですから、また改めておうかがいいたしましょう」といって、立ち去ろうとすると、真女児は、むりにひきとめて、「まろや、絶対にお帰ししてはいけませんよ」という。少女は、豊雄の前に立ちふさがって、「あなたはきのう、私たちがお断りしたのに、無理に傘をお貸し下さったではありませんか。そのお返しに、きょうは私の方で無理にでもおひきとめ申しあげるのです」というと、豊雄の腰をおして、表座敷へ迎え入れた。この座敷は<ruby><rb>板敷</rb><rt>いたじき</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に<ruby><rb>床畳</rb><rt>とこだたみ</rt></ruby>を用意してあり、<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちょう</rt></ruby>や<ruby><rb>御厨子</rb><rt>みずし</rt></ruby>などの部屋の調度の<ruby><rb>飾</rb><rt>かざ</rt></ruby>りといい、<ruby><rb>壁代</rb><rt>かべしろ</rt></ruby>の絵といい、みんな時代のついた由緒ありそうな品で、とうてい身分のない人の住居ではない。そこへ真女児があらわれて、「わけあって人手のない家となってしまいましたので、ゆき届いたおもてなしをすることもできません。わずかに粗酒<ruby><rb>一献</rb><rt>いっこん</rt></ruby>さしあげるだけでございます」といって、<ruby><rb>高坏</rb><rt>たかつき</rt></ruby>や<ruby><rb>平坏</rb><rt>ひらつき</rt></ruby>の美しい<ruby><rb>器</rb><rt>うつわ</rt></ruby>に、山海の珍味をたくさん盛りならべて、少女のまろやが<ruby><rb>瓶子</rb><rt>へいじ</rt></ruby>をささげて、杯をささげて、酌をした。豊雄は、ここにいたってまた夢のような気がして、さめるのではなかろうかと思ったが、今度はたしかに夢ではなく現実であるのをさとって、かえって不思議な気がしてならなかった。

やがて豊雄も真女児も、ほどよい酔いごこちになったとき、真女児は杯をとって豊雄にさし、あたかもらんまんたる桜の枝が<ruby><rb>水面</rb><rt>みなも</rt></ruby>に映っているような、ほんのりと桜色に色づいた顔に、そよ吹く春風をあしらうような<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>を見せ、春風にのって<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>から梢へと飛びくぐりながら鳴く鶯のような美しく妙なる声で、こんなことをいい出した。「胸のうちの思いを、恥ずかしいことだと、うちあけずにおいて、古歌にあるように、そのためにこがれ死にしてしまったならば、神のたたりで死んだのだと、なにも知らない神様にまで無実の罪をおきせすることになるでしょうから、女の身でお恥ずかしいことですが、思いきって申しあげます。けっして一時の浮気心でいうかりそめごととお聞き下さいますな。私はもともと都の生まれでしたが、幼い時に父母に先立たれて、乳母の手許で成長しましたのを、縁あってこの国の国守の下役、<ruby><rb>県</rb><rt>あがた</rt></ruby>のなにがしという者の妻にむかえられて、夫と一緒にこの国に下ってまいりまして、はや三年になります。夫は、まだ任期の終らないこの春、ふとした病気がもとで亡くなりましたので、私は、頼る者のない孤独な身となりました。都の乳母も尼になって、行方定めぬ修行の旅に出たといううわさを聞いておりますから、そうすれば、生まれ故郷の都もまた知らぬ他国同然となってしまったのです。どうか私の身の上に御同情下さいませ。きのうの雨やどりの折のお情ぶかさで、あなたはほんとうに実意のあるお方と思いますので、これから後の私の生涯をささげて、あなたのおそばにお仕え申しあげたい願いを持ちましたが、この私を、けがらわしい卑しい女だとお見捨てなさらないならば、この一杯で、末長い夫婦の契りをむすぶはじめといたしましょう」という。豊雄は、この言葉を聞くと、かねて自分もこうなることを内心望んでいたことであるし、一途にこがれて気も狂うばかりに思いつめた相手のことであるから、とびたつばかりによろこんだが、まだ親がかりで自由のきかないわが身のうえをふりかえると、親や兄の許しもうけていない結婚のことを、どう返事したらよかろうかと、うれしいなかにもおそろしさがつきまとって、すぐには返事の言葉も出ないでいると、真女児は返事のないのを心細く悲しがって、「あさはかな女心から、愚かなことを口にして、いまさらひっこみのつかないのが、ほんとうにお恥ずかしゅうございます。こんな天涯孤独で、人からうとまれるようなあさましい身のうえになりながら、海へとびこんで死にもせず、かえってあなた様のお心をわずらわしなどすることは、なんと罪ふかいことでございましょう。いま私が申しあげました言葉は、けっしてうそいつわりではございませんが、ただ酔って口にした<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>とおぼしめして、どうかこの海へさらりとお捨て下さいませ」という。

豊雄は、「はじめから都の身分ある方とお見受け申しあげておりましたが、私の推察が当たっていたのですね。鯨の寄るようなこんな片田舎の浜辺に育った私にとって、あなたのような方からいまのようなうれしいお言葉を聞くなんて、まるでゆめのようです。即答をしなかったのは、私がまだ親や兄に面倒をみてもらっている身で、自分のものといっては、爪と髪、この身体以外になに一つもないからです。なにを<ruby><rb>結納</rb><rt>ゆいのう</rt></ruby>としてあなたを妻におむかえしたものか、そのあてもないので、いまさらのように自分に財産のないのがくやまれて仕方ありません。それでも、あなたがそれを御承知で、なにごとにつけても貧しさを<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>して下さるお気持がおありならば、どんなにしてでもあなたを妻として、お力になりましょう。<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>に、孔子のような聖人も恋にはつまずき倒れるということがありますが、恋のためには、親への孝も忘れ、わが身の無力をも忘れて、私は――」というと、真女児も、「あなた様のそんなうれしい御心のうちをお聞きして、私は幸福でございます。このうえは、私どもも貧しい暮らしではございますが、どうか私の夫として時折はここへお通い下さいませ。ここに前の夫がこのうえない宝として珍重されていた太刀がございます。これをふだん腰におつけになって下さい」といって、差し出したのを見ると、金銀で美しく飾った太刀で、ものすごいまでに鍛えあげた古代の逸品であった。あまり立派なので、豊雄は一瞬ためらいを感じたが、めでたい婚約のはじめに辞退するというのも縁起がわるいと思って、そのままもらっておくことにした。「今夜はここで泊っていらっしゃいませ」と、真女児はしきりに止めたが、豊雄は、「まだゆるしをうけていないうちに外泊したら、親たちから叱られます。明日の晩、また、うまい口実をもうけて、きっとまいりますから」といって、その夜はそのままそこを辞去した。しかし、帰宅して床についてからも、目が冴えて眠れないでいるうちに、いつか夜があけてしまった。

太郎は漁師をよびあつめてそれぞれの仕事に就かせるために、朝早く起き出して、なにげなく豊雄の寝間のすきまから室内をのぞいたところ、消え残った灯火の光をうけて、きらきらとひかる立派な太刀を枕許において、豊雄が寝ているのである。「おや、変だな。どこから手に入れてきたのだろう」と、腑に落ちなく不安に思って、戸をあらあらしくガラリとあけると、その音に豊雄は目をさました。見ると、兄が立っているので、「お呼びですか」という。太郎は、「きらきら光ったすごいものを枕許においてあるが、それはなんだね。こんな立派な高価なものは、漁師の家には不似合だよ。父上が見つけたら、どんなにお叱りになるかしれないぞ」という。豊雄は、「お金を出して買ったものではありません。きのう、ある人がくれたのを、ここにおいたのです」とこたえる。すると、太郎は、「どうして、そんな立派な宝物をくれるような人が、この辺にいるだろうか。そんな人はいないよ。ふだんからこむずかしい漢字を書いた書物をいろいろ買いあつめるのさえ、ひどい無駄づかいだと思っていたが、父上がだまっていらっしゃるので、おれもいままでそのことはいわなかったのだ。その太刀を<ruby><rb>着</rb><rt>つ</rt></ruby>けて、新宮の祭の行列に加わり、<ruby><rb>得々</rb><rt>とくとく</rt></ruby>としてねり歩くつもりだろう。なんという狂気じみたことをするのだ、いい加減にしろ」というが、その声が高くなったので、父がこれを聞きつけて、「あの厄介者がなにかしでかしたのか。太郎。豊雄をここへつれてこい」と呼ぶ。太郎はそれにこたえて、「どこで買ったものか、豊雄が、まるで将軍でも<ruby><rb>佩</rb><rt>は</rt></ruby>くようなきらきら光った立派な太刀を買いこんだようですが、ばかなことをしたものです。目の前におよびになって、よく問いただして下さい。私は、漁師たちが怠けているかもしれませんから、すぐ浜の方へ行ってきます」といい捨てて、出て行った。

母は、豊雄をよんで、「お前は、そんなものをなんのために買ったんだい。米も銭も、家のものはみんな太郎のものなんだよ。お前のものはなにひとつないんだよ。ふだんはお前のしたいままにさせてきたが、こんなことで太郎に憎まれたならば、この広い世の中に、どこにもいるところがなくなってしまうではないか。むずかしい本を読んで聖賢の教えなどを勉強している者が、どうしてこんなことの道理をわきまえないんですか」と、たしなめた。豊雄はそれにたいして、「ほんとうに買ったものではないのです。それ相当な理由があって、ある人がくれたのを、兄上が見とがめて、私が買ったようにおっしゃるのです」というと、そばにいた父が、「お前になんの手柄があって、そんな立派な宝物を、人がくれたというのだ。さっぱり腑に落ちないことだ。さあ、この場でその理由をいってみろ」と、声あららげていった。豊雄は、「そのことは、いまここでは恥ずかしくて申しあげられません。人を介して申しあげます」というと、父は怒って、「親や兄にさえいわぬことを、誰にいおうというのだ」と、一層声を荒くしていうのを、太郎の妻である<ruby><rb>嫂</rb><rt>あによめ</rt></ruby>が、傍から、「まあ、そのことは、ふつつかではありますが、私がうかがいましょう。さあ、こちらへいらっしゃい」と、親たちと豊雄の仲をとりなして、豊雄を別室へいざなったので、豊雄も嫂のあとにならんで立ち、別室へ行った。

豊雄は、嫂にむかって、「兄上に見とがめられなくても、<ruby><rb>内々</rb><rt>ないない</rt></ruby>、<ruby><rb>嫂上</rb><rt>あねうえ</rt></ruby>に相談して力になって頂こうと思い定めていたのに、その前に見つかって早速叱られてしまいましたよ。じつはこうした素姓の人の妻で、いまは夫に先立たれて頼りない身になっている<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>が、『結婚して、力になってくれ』といって、そのしるしに下さったものなのです。なにしろまだ部屋ずみで、独立していない私の分際で、親や兄のお許しをえていない夫婦約束をしたということは、きびしいお叱りをうけることでしょうから、いまさらのようにひどく後悔しているのですが、どうか私の気持を察して、<ruby><rb>嫂上</rb><rt>あねうえ</rt></ruby>、同情して下さい」という。それを聞くと、嫂は、微笑をたたえて、「私も、かねがね、あなたが独身でいらっしゃるのがお気の毒だと思っていたのですが、そんな相手がみつかって、とてもいいことじゃありませんか。ふつつかな私ですが、うまくおはなししてみましょう」といって、その晩、夫にむかい、「じつはこれこれこうしたことなのですが、これはちょうどいいはなしだとはお考えになりませんか。どうかあなたからお父様に、いいようにとりなしておはなし下さい」といった。すると、太郎は眉をひそめて、「変だな。この国の国守の下役に、<ruby><rb>県</rb><rt>あがた</rt></ruby>の何某という人がいたなどとは聞いたことがない。私の家は<ruby><rb>里長</rb><rt>さとおさ</rt></ruby>をしているのだから、そういう人が亡くなられたのを耳にしないということはないがな。とにかく、その太刀をここにもってきてくれ」というので、妻はすぐにそれをもってきた。太郎は、それをつくづくとながめておわると、ふかい嘆息をもらしながら、口をひらいて、「ここに大変なことがあるのだ。それは、近ごろ、都の大臣が御祈願が成就なさったので、そのお礼として、<ruby><rb>権現</rb><rt>ごんげん</rt></ruby>様にたくさんの宝物を御奉納になったのだ。ところが、その宝物が御宝蔵の中で、急に紛失したので、その由を権現様の大宮司から国守に訴え出られたのだ。そこで国守は、この盗賊を逮捕するために、次官の<ruby><rb>文室</rb><rt>ふんや</rt></ruby>の<ruby><rb>広之</rb><rt>ひろゆき</rt></ruby>を大宮司の屋敷につかわされ、いまもっぱらその盗賊の詮議をなさっていらっしゃるということを聞いた。それにつけても、この太刀はどうみても下役などの<ruby><rb>佩</rb><rt>は</rt></ruby>くようなものではない。なお父上にもお見せしよう」といって、それを父の前にもっていって、「じつはこれこれこういうおそろしいことがあるのですが、どうしたらよろしいでしょう」といった。それを聞くと、父は真っ青になって、「これはとんでもない情ないことがおこったものだな。あの子は、日ごろ、他人のものはたとえ毛一本でも抜きとらないような子なのに、なんの因果でこんな悪心などおこしたのだろうか。このことが他人の口から露顕したならば、<ruby><rb>大宅</rb><rt>おおや</rt></ruby>の家も断絶の憂きめにあうだろう。祖先にたいしても、また子孫のためにも、不孝の子を一人捨てるのは惜しくない。明日こちらから訴え出ろ」という。

太郎は、夜のあけるのをまって、大宮司の屋敷に行き、事の一部始終を申し出て、この太刀を見せたところ、大宮司は驚いて、「これこそたしかに大臣殿の献納したものです」というので、それを聞いて次官の広之も、「なおこのうえにも、紛失したものを<ruby><rb>糾明</rb><rt>きゅうめい</rt></ruby>しよう。その男を召し捕ってまいれ」と命じた。そこで十人ほどの武士が、太郎を先に立てて、召し捕りにむかった。豊雄は、こんなこととはつゆ知らず、家で書見をしていたが、そこへ武士たちがふみこんで召し捕った。「なんの罪で捕らえるのですか」と抗弁したが、武士たちはそれを聞きいれずに、縛りあげた。これを見て、父母や太郎夫婦も、いまさらのように、「情ないことだ」と、どうしてよいかわからずに、嘆き悲しむだけであった。武士たちは、「お役所からお召しなのだ」「とっとと歩け」などと、豊雄を真ん中にとりかこんで、国司の庁へ追い立てて行った。次官は、豊雄をひきすえると、にらみつけて、「おまえが宝物を盗みとったというのは、前例のないほど重い国法を犯した罪だぞ。なお、ほかのいろいろの財宝はどこへ隠したのだ。あきらかに申せ」といった。これを聞いて、豊雄はやっと事態の真相がわかり、涙を流してこたえた。「私はけっして盗みをしたのではありません。じつはこれこれこういうわけで、<ruby><rb>県</rb><rt>あがた</rt></ruby>の何某の妻が、前夫の<ruby><rb>佩</rb><rt>は</rt></ruby>いていたものだといって、くれたのです。すぐここへその<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>をよび出して、私に罪のないことをおたしかめ下さい」。次官は、この言葉にいよいよ<ruby><rb>激昂</rb><rt>げっこう</rt></ruby>して、「わが下役に県の姓を名のる者はかつていたことがないわ。このうえ<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りをいうとは、ますます罪が大きいぞ」という。豊雄は、「こんなふうに捕らわれているのに、どうしてこのうえいつわりを申しあげましょうか。なにとぞあの女をよび出しておたずね下さい」という。そこで次官は、武士たちにむかって、「県の真女児という女の家はどこなのだ。この男をひったてて、その女を捕らえてこい」と命じた。

武士たちは、その命令をつつしんでうけると、また豊雄をひったてて、真女児の家へむかったが、そこへ行ってみると、いかめしく造ってある門の柱もいまは朽ちくさり、軒の瓦もおおかたは落ち砕けて、そこから忍ぶ草が垂れさがっているというありさまで、とても人がすんでいる家とは見えない。豊雄もこのさまをみて、まったく茫然自失した。武士たちは走りまわって近隣の者たちをよびあつめた。きこりの老人や米<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>きの男たちが、おそれておろおろしながらそこにうずくまった。一人の武士が、この男たちにむかって、「この家は何者が住んでいたのだ。県の何某の妻がここにすんでいるというのはほんとうか」とたずねると、鍛冶屋の老人がすすみ出て、「そんな名前はまったく聞いたこともございません。この家は、三年ほど前までは、<ruby><rb>村主</rb><rt>すぐり</rt></ruby>の何某という人が、人も大勢使って家ゆたかにすんでおりましたが、九州に商品を積んで下ったところ、その船が行方不明になってしまい、その後は、家に残っていた人々もちりぢりになってしまって、それ以来、絶えて人のすんだことがないのに、この男がきのうこの家にはいったかと思うと、しばらくして帰って行きましたので、変だなと、それを見ていたこの塗師の老人がいっておりましたが」という。「ともかくも、なかの様子をよく見きわめて、殿に御報告いたそう」といって、武士たちは門をおしひらいて、中へはいった。

邸内は外よりもいっそう荒れはてていた。なおも奥の方へ進んでいった。前庭の植込みはひろびろとつくってある。池は水が<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>れて、水草もすっかり枯れ、野生の草木が生え放題に丈たかく生い繁って倒れかかっている中に、松の大木が風に吹き倒されて横たわっているのが、いかにも物凄いありさまだった。表座敷の格子戸をひらくと、不気味ななまぐさい風が、内部からさっと吹きおくられてきたので、武士たちは思わずもおそれまどって、うしろへさがった。豊雄は驚愕のあまり声もでずに、ただ嘆いていた。武士のなかに<ruby><rb>巨勢</rb><rt>こせ</rt></ruby>の<ruby><rb>熊檮</rb><rt>くまがし</rt></ruby>という大胆な男がいたが、「御一同、私のあとについておいでなされ」というと、板の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>をあらあらしく踏みならして、先に進んで行った。<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>には塵が三センチほども積もっている。鼠が糞をしちらしたなかに、古い<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちょう</rt></ruby>を立てて、花のように美しい女が、ひとりですわっている。熊檮は、女にむかって、「国守がお召しであるぞ。すぐまいれ」と声をかけたが、女がこたえようともしないでいるので、近寄って捕らえようとした瞬間、地も裂けるかと思うほどの大雷が鳴りひびいた。武士たちは、逃げる間もなくて、そこに倒れた。しばらくして、そっと顔をあげて見ると、どこへ行ったのだろうか、女は影も形も見えなくなっていた。

なおよく見ると、床のうえに、きらきらとした立派なものがある。武士たちは、こわごわちかづいて見ると、<ruby><rb>高麗錦</rb><rt>こまにしき</rt></ruby>、<ruby><rb>呉</rb><rt>くれ</rt></ruby>の<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>、<ruby><rb>倭文織</rb><rt>しずおり</rt></ruby>、<ruby><rb>縑</rb><rt>かとり</rt></ruby>、<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>、<ruby><rb>矛</rb><rt>ほこ</rt></ruby>、<ruby><rb>靫</rb><rt>ゆき</rt></ruby>、<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>などのたぐいで、いずれも権現から紛失した宝物であった。武士たちは、これをもって帰って、この奇怪なできごとを詳細に報告した。次官も大宮司も、妖怪のしわざであったことをさとり、豊雄の取調べをゆるやかにした。しかし、現に盗品をたずさえていたという当面の罪はまぬかれず、豊雄の<ruby><rb>身柄</rb><rt>みがら</rt></ruby>は国守の役所にひきわたされて、牢に入れられた。大宅の父子は、多くの金をおくって、豊雄の罪をまぬかれようとしたので、百日ほどで赦免になることができた。「こうなっては世間へ顔出しすることも面目ありません。大和にいらっしゃる姉上を訪ねて、しばらくそこに身を寄せたいと思います」と、豊雄がいうと、親たちも、「ほんとに、こんなつらいめにあったあとというものは、とかく大病にかかったりするものだ。むこうへ行って、のんびりと何か月か暮らしておいで」といって、供の者をつけて、豊雄を大和へ旅立たせた。

豊雄の姉が嫁にいっている先は、大和の<ruby><rb>石榴市</rb><rt>つばいち</rt></ruby>という所で、<ruby><rb>田辺</rb><rt>たなべ</rt></ruby>の<ruby><rb>金忠</rb><rt>かねただ</rt></ruby>という商人であった。田辺夫婦は、豊雄が訪ねてきたのをよろこび、またこの数か月来の災難に同情して、「いつまでもここにいなさい」といって、親切にいたわりなぐさめた。やがて、その年が暮れ、翌年の二月になった。この石榴市という所は、初瀬寺の近くであった。み仏の多いなかでも、この初瀬の観音様こそ、真に霊験あらたかであることは、遠く中国にまでその名声がなりひびいているというわけで、都からも田舎からもここに参詣する人が、春はとくに多かった。参詣人はかならずこの石榴市に宿をとるので、ここには旅人を泊める家が軒を並べていた。

田辺の家は、御灯明用の灯油・蝋燭・灯心の類を商っていたので、店内もせまいほどいっぱいに客がたてこんでいたが、その中に、都の人のおしのびの参詣とみえて、大そう上品で美しい女性が一人、侍女の少女を一人つれて、薫香を買いに立ち寄った。この少女が豊雄を見て、「旦那様がここにいらっしゃいますわ」というので、豊雄は驚いて、その方を見ると、なんとこれがあの真女児とまろやである。「あっ、おそろしい」と、豊雄はあわてて奥へにげかくれた。金忠夫婦は、「これはいったいなにごとだ」と聞く。豊雄は「あの妖怪がここまで追ってきました。あの二人の女に近寄ってはいけませんよ」といって、うろたえながらしきりに隠れようとするので、ほかの人々も「その妖怪はどこにいるのだ」と騒ぎだした。そこへ真女児がしずかに入ってきて、「みなさん、そんなに不思議がらないで下さい。旦那様もそんなにこわがらないで下さい。私のいたらぬ心から旦那様を罪にお<ruby><rb>堕</rb><rt>おと</rt></ruby>し申しあげたことが悲しく、いらっしゃる所をさがしもとめて、くわしく事情もおはなしし、御安心していただこうと思って、御住居をお訪ねしておりましたのに、その甲斐あっていまこうしておめにかかれるとは、ほんとうにうれしく存じます。この家の御主人様も私の申しあげることをよくお聞きのうえ御判断下さいませ。私がもし妖怪などであったならば、こんな人出の多いところへ、しかもそのうえこんなのどかな昼日中に、どうしておめおめとあらわれることができるでしょうか。ごらん下さい。私の衣服には縫目があります。日にむかえば影もあります。この正しい道理をよく御判断になって、お疑いをお解き下さいませ」と語るのだった。

豊雄は、やっと少し人心地がついて、「お前がたしかに人間でない証拠は、私が捕らえられて、武士たちと一緒にお前の住居へ行ってみると、その前日とはうってかわってあきれるほどひどく荒れ果てて、まさにこれこそ妖怪のすむにうってつけの家に、お前がひとりでいたではないか。そして、人々が捕らえようとすると、晴天に突如として大雷をとどろかして、かき消すように姿を消したではないか。私は、それをこの目でたしかに見ているのだ。それをまた、私を追いかけてきて、なにをしようというのだ。すぐここから立ち去れ」といった。真女児は涙を流して、「ほんとうにそうお考えになるのはごもっともですが、私の申しあげることもすこしはお聞き下さい。あなたが役所へ召し出されたと聞いてから、平生なにかとめぐみをほどこしていた隣家の老人と相談して、これを味方にし、にわかに荒れ果てた野中の家のように様子をこしらえたのです。そして、武士たちがすんでに私を捕らえようとしたときに、雷のように物凄い音を響かせたのは、まろやがたくらみあざむいたことなのです。その後、私たちは舟にのって大坂の方へのがれましたが、あなたがどうしていらっしゃるか、その後の御様子を知りたいと思い、この初瀬の観音様に御願をかけましたところ、祈願の甲斐あって、昔の歌にある<ruby><rb>古河野辺</rb><rt>ふるかわのべ</rt></ruby>の二本の杉の御霊験で、ここにまたうれしくもあなたと再会できたということは、ひとえに仏様の大慈大悲のかたじけないおめぐみをうけてのことでございます。あんな数々の宝物は、どうして女の私が盗み出せましょう。じつは前夫が悪心でしたことでございます。ここの道理をよく御判断下さって、あなたを慕う私の気持のほんの少しなりともお汲みとり下さいませ」といって、またさめざめと泣くのだった。

豊雄は、いまや、なかば疑いながらも、なかば真女児を憐れむ気持になって、どういってよいか、重ねていうべき言葉もなく、黙していた。金忠夫婦は、真女児のいいぶんが道理にかなって筋がとおっているうえに、その女らしい可憐なふるまいをまのあたり見て、すっかり疑念を去って、「豊雄のはなしでは、世にもおそろしいことだと思っていましたが、妖怪<ruby><rb>変化</rb><rt>へんげ</rt></ruby>が人間に化けてあらわれるというようなことのあるいまの御時世でもありますまい。遠くからはるばると訪ねあぐねていらした御心情は、ほんとうにお気の毒におもいます。豊雄が承諾しなくても、わたしどもが、あなたをこの家へお泊め申しあげます」といって、真女児を奥の一間へむかえいれた。真女児は、この家で一日、二日と暮らすうちに、金忠夫婦の気にいるようにその機嫌をとって、豊雄の怒りがとけるようにと、女心のあわれさを表に出して、ひたすら夫婦にとりすがって哀願した。夫婦も、その思いつめた真情のふかさに心うたれて、豊雄を説得し、ついに二人の結婚の式をあげさせた。豊雄も、日がたつにつれて、心のわだかまりがとけ、もともと真女児の美貌を愛していたことであるから、その交情はこまやかに、末長くかわるまいと契りをかわすにつけても、<ruby><rb>葛城</rb><rt>かつらぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>高間山</rb><rt>たかまやま</rt></ruby>に夜ごと立つ雲は雨を降らせるが、初瀬寺の暁を告げる鐘とともにその雨もやむというように、雲となり雨となって夜毎にまじわる二人の仲はむつまじく、いまはただ、どうしてもっと早く逢っていなかったかと、再会の日の遅かったことを残念がるようなありさまだった。

月がかわって、三月になった。ある日、金忠が、豊雄夫婦にむかって、「都近辺の景色とはくらべものになりませんが、それでも紀州路とくらべるとまさっておりましょう。名高い吉野は、春は大そうよい所です。<ruby><rb>三船</rb><rt>みふね</rt></ruby>の<ruby><rb>山</rb><rt>やま</rt></ruby>といい<ruby><rb>菜摘川</rb><rt>なつみがわ</rt></ruby>といい、ふだん見ていても景色が美しく、見飽きない所ですが、春もたけなわなきょうこのごろは、どんなにおもしろいことでしょうか。さあ、お支度をなさい。まいりましょう」と、誘った。真女児は、<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>をうかべて、「昔の歌に、よき人のよしとよく見てよしといひし、と<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>まれた吉野のことですから、都の人も吉野の美景を見ないのを残念だと申しておりますが、私は幼いときから、人の大勢いる所へ出たり、長い道中を歩いたりしますと、かならずのぼせて苦しむという持病がございますので、せっかくではございますが、お供をして出かけられないのが、ほんとうに残念です。山のお土産をきっともってきて下さいませ。お待ちしております」というのを、金忠は、「それは、歩いていけば、持病もおこって苦しいことでしょう。しかし、都人のように牛車こそもっていませんが、どんなにしてでもかならず乗り物におのせして、土を踏ませはいたしませんよ。あなたが残っていらっしゃると、豊雄がどれほど気がかりに思うかわかりませんよ」といって、夫婦してしきりにすすめるので、豊雄も、「こんなに御親切におっしゃって下さるのだから、たとえ途中で歩けなくなっても、どうして行かないですますことができようか」という。そこで、真女児も不本意ながら、みんなと一緒に出かけたのである。人々はみんな花やかに着飾って出かけたが、真女児の上品な美しさの前には、とてもくらべものにならないように見えた。

吉野のある寺はかねてから金忠の家と懇意にしていたので、そこを訪ねた。あるじの僧が、一同を歓迎して、「今年の春はいつもより遅くおいでですな。もう桜も半分ほどは散ってしまい、鶯も晩春の流鶯で乱れ鳴きをするようですが、それでもまだいい方面がございますから、そちらへ御案内いたしましょう」といって、その夜は、手ぎわよくこざっぱりとつくった夕食の膳を出した。ここで一夜をあかし、翌朝眼をさますと、暁の空にふかく霞がたちこめていたが、それが晴れてゆくにつれて、あたりを眺めると、この寺は高い所にあって、ここかしこに散在する僧坊などが、手にとるようにはっきりと見おろされる。さまざまの山の鳥があちこちで<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>りあって、木の花、草の花が色とりどりに咲きまじっている風情は、おなじ山里とはいっても、ここはとりわけ、そのすがすがしさ、美しさに、目もさめるような心地がする。「はじめての方には、滝のある方面が、見物する所が多いでしょう」と、その方面にあかるい案内の人を頼んで出かけた。みちは谷をめぐっておりていく。やがて、むかし吉野離宮のあった所へ着いたが、ここは吉野川の激流が岩を噛み、音をたてて流れているなかに、春の小さな<ruby><rb>若鮎</rb><rt>わかあゆ</rt></ruby>が流れをさかのぼって泳ぐ姿が見られ、目もまばゆいほどのおもしろい景色であった。一同は思い思いの場所に腰をおろして、弁当箱をひらき、食事をしながら、この行楽をたのしんだ。

むこうから、岩づたいにくる人がある。みると、髪は長い麻糸を丸くたばねたように白く乱髪であるが、手足はまことに丈夫そうな老人であった。そして、この宮滝のそばに歩いてくると、一同の様子を見て、ふしぎそうにひとみをこらしていたが、真女児もまろやもこの老人に背をむけて見ないふりをしていた。すると、老人は、この二人の方をじっと見つめて、「ふとどきなやつだ。この邪神め。なんで人をたぶらかすのだ。わしの目の前でこんなことをして、それでごまかせると思うのか」と、低い声でつぶやいた。それを聞くと、真女児とまろやはたちまち躍りあがるように立ち上り、激流めがけて飛び込んだかと思うと、とたんに水が大空に向かってわきあがり、二人の姿はその中に見えなくなってしまったが、そのとき黒雲が墨をこぼしたように空をおおい、雨が篠をつくようにはげしく降ってきた。老人は、一同があわてうろたえるのをしずめ、一同を引率して人里までくだった。



吉野宮滝行楽の図。大倭神社の神官当麻の酒人をみて、蛇の化身であった真女児とまろやは、あわてて激流にとびこもうとする。（原本三丁裏、四丁表の挿絵）

一同は、人家のあるところまでくると、一軒のみすぼらしいあばらやの軒下に身をかがめて、生きた心地もせずにおののいていたが、老人は、豊雄にむかって、「よくよくそなたの顔をみると、この邪神のために悩まされておられるようだが、わしが救わなかったならば、早晩命をもなくしてしまっただろう。今後はよくよくおつつしみなさい」といった。豊雄は、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>を地にすりつけるようにして、これまでのできごとをはじめからものがたり、「今後もどうか<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>の助かるようにして下さい」と、おそれうやまいながら願い出た。老人は、「案の<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>そうであったか。この邪神は年を経た<ruby><rb>蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>である。かれの本性は<ruby><rb>淫蕩</rb><rt>いんとう</rt></ruby>なもので、牛と交尾しては<ruby><rb>麟</rb><rt>りん</rt></ruby>を生み、馬と交わっては竜馬を生むといわれている。この邪神がそなたに<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>いてたぶらかしたのも、結局そなたの美男ぶりにひかれて情欲をほしいままにしたと思われる。これほど執念ぶかいのだから、十分おつつしみにならないとおそらく命をなくしてしまうでしょう」というので、一同はますますおそれうろたえながら、また老人を<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>めて、「人間の域を超えた尊い<ruby><rb>生神様</rb><rt>いきがみさま</rt></ruby>に相違ない」と、みんな手をそろえて拝んだ。老人は、笑って、「いや、わしは神様などではない。<ruby><rb>大和神社</rb><rt>おおやまとじんじゃ</rt></ruby>の神官をしている<ruby><rb>当麻</rb><rt>たぎま</rt></ruby>の<ruby><rb>酒人</rb><rt>きびと</rt></ruby>という年寄だ。おなじみちだから、道中見送って差し上げよう。さあ、まいりましょう」といって、先に立って歩き出したので、一同はそのあとについて、石榴市の家へ帰ってきた。

その翌日、豊雄は、大和神社のある所へ行って、昨日の老人に面会し、改めて御世話になった礼を述べ、また礼のしるしとして、<ruby><rb>美濃絹</rb><rt>みのぎぬ</rt></ruby><ruby><rb>三疋</rb><rt>みむら</rt></ruby>、<ruby><rb>筑紫綿</rb><rt>つくしわた</rt></ruby><ruby><rb>二屯</rb><rt>ふたつみ</rt></ruby>を贈って、「このうえともに、妖怪をはらいおとすおはらいをして下さい」と、つつしんで願い出た。老人は、この贈物をうけとると、他の神官たちに分配してやって、自分では一疋一屯もとらなかった。そして、豊雄にむかって、「あの畜生は、そなたの美男ぶりにひかれて、そなたにまつわりついているのだ。そなたもまたあの畜生が化けた美人に魅惑されて、男らしいしっかりした精神をうしなっている。今後は男らしく雄々しい勇気をふるいおこして、うわついた心をおしずめなさい。そうすれば、これくらいの邪神をおいはらうのに、この老人の力を必要とはしますまい。かならずかならず、心をおしずめなさいよ」と親切に説き<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>した。豊雄は、いまや夢からさめたように、めざめた気持になって、お礼の言葉をいくたびもくりかえして、金忠夫婦の許へ帰ってきた。そして、金忠にむかって、「この年月、あんなものにまどわされていたのは、思えば私の心が正しくなかったからです。親や兄に仕えることもしないで、あなたの家の厄介になっておりますのは、すじのちがったことです。御親切はまことにありがとう存じますが、これでおいとまいたします。またきっとまいります」と挨拶すると、ふたたび故郷の紀州へ帰っていった。

父母や太郎夫婦も、大和でのおそろしかったことを聞いて、いよいよ豊雄自身があやまちをおかしたのでないことを知り、一層ふびんがるとともに、一方ではその妖怪の執念ぶかいのをおそれたのである。「こうして独身でおくから、そんなわざわいがおこるのだ。妻をもたせよう」といって、親たちは嫁さがしの相談をした。<ruby><rb>芝</rb><rt>しば</rt></ruby>の里に、芝の庄司という人がいた。娘を一人もっていたが、長年、都の<ruby><rb>内裏</rb><rt>だいり</rt></ruby>へ<ruby><rb>采女</rb><rt>うねめ</rt></ruby>として御奉公にあげてあった。それがこの度お暇をもらって家へ帰ってくることになり、ついてはこの豊雄を<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>にほしいと、仲人をもって大宅の許へ申し込んできた。大宅の方でも乗り気になり、はなしが順調にはこんで、すぐに婚約をした。そこで、都へむかいの人をやると、この采女をしている<ruby><rb>富子</rb><rt>とみこ</rt></ruby>という娘もよろこんで帰ってきた。長年の<ruby><rb>御所</rb><rt>ごしょ</rt></ruby>づとめに馴れてきたので、万事の立居振舞から容姿なども、そこらの女とくらべると、数等華美で、洗練されていた。豊雄は、この芝の家に聟になってきてみると、妻の富子がすばらしい美人であり、万事に満足したが、それにつけても、あの<ruby><rb>蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>の化身が自分に恋したときのことなども、少しばかり思い出されてこないではなかった。結婚初夜のことは、とりたてて書くほどのこともなかったので、省略する。

二日目の晩である。豊雄はいい気持に酔って、富子にむかい、「長年宮中生活をしていた身には、私のような田舎者はきっとお嫌いでしょう。かの御所などでは、なんの中将とかなんの宰相とかいう方と<ruby><rb>添臥</rb><rt>そいぶし</rt></ruby>をなさったことでしょう。そのことがいまさらいっても仕方がないが、にくらしく思われますよ」などと、<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れかかると、富子は即座に顔をあげて、「以前からのふかい仲をお忘れになって、こんなとりたててすぐれてもいない、取柄のない女を御寵愛なさるなんて、いまあなたは私が憎いとおっしゃいましたが、憎いのはあなたの方でございますよ」という声は、姿こそかわっているが、まさしく真女児の声であった。それを聞くと、豊雄は、あまりのことにびっくりして、身の毛もよだって恐怖が全身をはしり、ただ茫然として、どうしてよいやら、うろたえるだけであったが、女は<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しい<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>をうかべると、「旦那様、そんな不思議そうなお顔をなさいますな。二人の契りは海よりもふかく、山よりも高く、永久にかわるまいとかたく約束したことを、あなたが、はやくもお忘れになったとて、前世からこうなるときまった<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>があるのですから、こうしてまたお逢いするのですのに、あかの他人のいうことをまにうけて、無理に私を遠ざけようとなさるならば、お恨みして、きっとその仕返しをいたしますよ。紀州路の山々がたとえどんなに高くても、あなたの血を峰から谷へそそぎおとしてみせましょう。折角のお命をむだになくしてしまうようなことをなさいますな」というのを聞くと、豊雄はおそろしさのためにふるえおののくばかりで、いまにもとり殺されはしまいかと、気をうしなうばかりだった。すると今度は、屏風のうしろから、「御主人様にはどうしてそんなおむずかりなさるのですか。こんなおめでたい御縁結びではございませんか」といいながら出てきたのは、まろやであった。それを見ると、豊雄はまた肝をつぶし、眼をとじて、うつぶせに倒れ伏した。真女児とまろやは、かわるがわるなにかいっては、なだめたりおどしたりしたが、豊雄はただ気絶したままで、その夜があけた。



芝の庄司の娘富子にのりうつった蛇性の真女児が、新婚二日目の夜、酔ごこちになってたわむれた豊雄の前で、その正体をあらわす図。（原本十六丁裏、十七丁表の挿絵）

こうして朝がきたので、やっと寝室をぬけ出した豊雄は、舅の庄司にむかって、「これこれこうした恐ろしいことがあるのです。この災難をどうしてさけたらよいでしょうか。いいお考えをお聞かせ下さい」といいながらも、うしろで聞いていはしないかと、声をひそめてはなすのだった。庄司も妻も真っ青になっておろおろと嘆きかなしみ、「これは、どうしたらいいだろう。そうだ。都の鞍馬寺のお坊さんで、毎年、熊野三山へ詣でる方が、きのうからむかいの山の寺に宿っている。たいへん加持祈祷の効験あらたかなお坊さんで、およそ流行病とか<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>の<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>とか<ruby><rb>稲虫</rb><rt>いなむし</rt></ruby>などの害を祈祷調伏することがうまいといって、この里の人はみんな尊敬している。このお坊さんを頼んで祈祷してもらおう」といって、急いで召使に命じてよびにやったところ、しばらくしてやってきた。そこで、こういうわけだと事情をはなすと、この法師は鼻を高くして、「そんな蛇性をとりおさえるのは、大したむずかしいことではあるまい。まあ、どうか安心していらっしゃい」と、いかにもたやすそうにいうので、人々もそれをきいて、ほっと<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>する思いだった。法師はまず<ruby><rb>雄黄</rb><rt>ゆうおう</rt></ruby>をもとめて、それをもとに水薬を調合し、<ruby><rb>小瓶</rb><rt>こがめ</rt></ruby>にいっぱい満たすと、それをもって寝室にむかった。そして、家人たちがおそれて身をかくそうとするのをあざわらいながら、「御老人もお子たちも、そこにいらっしゃい。この<ruby><rb>蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>をいますぐつかまえてお見せしましょう」といって、その部屋の入口にすすんだ。法師が、部屋の戸をあけるやいなや、待ちかまえていたように、かの蛇が頭を出して、法師にむかってきた。この頭はいったいどのくらいあったと思うか。とにかく物凄いもので、部屋の戸口いっぱいになり、色は雪を積んだよりも白く、きらきらと輝いて、眼は鏡のように、角はまるで枯木の如く、一メートルあまりの口を開いて、真っ赤な舌を出し、いまにも法師を一口に呑みこみそうな勢いであった。「うわーっ」と叫ぶと、法師は、手にのせていた小瓶をその場に投げすてて、腰をぬかし、ころげまわり、這い倒れて、やっとのことでそこを逃げ出し、家人にむかって、「ああ、おそろしい。<ruby><rb>憑物</rb><rt>つきもの</rt></ruby>や物の<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>ではなく、<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りをなさる御神であらせられるのに、どうして私<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>のものがこれを調伏申しあげることができようか。もしこの手足がなかったら、きっと命をとられてしまったでしょう」といいながら、気をうしなった。人々がこれを<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けおこしたが、そのときはすでに顔も手足も、いちめんに黒く赤く染めたようになり、肌のあつさはまるで焚火に手をかざすのとおなじようであった。蛇の毒気にあたったと見えて、息を吹きかえしてからも、ただ眼ばかりきょろきょろうごかして、ものいいたげであったが、声さえ出ないというありさまだった。そこで、水をかけたりしたが、ついに死んでしまった。これを見ていた人々は、ますます生きた心地もなく、おろおろしながら泣くのだった。

豊雄は、すこし心をしずめて、「こんなありがたいお坊さんでさえも調伏できないで、執念ぶかく私につきまとうのですから、私がこの世に生きているかぎりは、さがし出されてつかまってしまうでしょう。自分の一命の安全のために、人々を苦しめることは、誠実なことではありません。いまはもう人の力をかりますまい。私も覚悟しました。どうか御安心下さい」というと、再び寝室に行こうとするので、庄司の家の人々も、「これは気でも狂われたのですか」といってとめたが、豊雄は、いっこうに知らぬ顔で、寝室へ行った。戸をしずかにあけてみると、室内は外のさわぎをよそに静まりかえっていて、富子（真女児）と侍女（まろや）がむかいあってすわっていた。豊雄がはいって行くと、富子は、「あなたはなんのうらみで、私を捕らえようと、ほかの人を頼まれるのですか。今後も、敵意をもって私におむくいになるのでしたら、あなただけではなく、この里の人々をみんな苦しい目にあわせますよ。あなたはただ私の貞節をうれしいことだとおぼしめして、うわついた浮気心をおおこしなさいますな」と、ひどくなまめかしい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しな</span>をつくっていうが、それも豊雄には気持がわるかった。豊雄は、「世間の<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>にもいわれているが、『人間には虎を殺すつもりはちっともないのに、虎の方でかえって人を傷つける気持がある』とかいうことだ。お前は人間とちがったある種の心で、私につきまとい、いままでも幾度か私をひどいめにあわせてきたことさえあるのに、そのうえ、ほんのちょっとした言葉にさえも、こんな聞くだにおそろしい報復のことをいうなんて、とても気味が悪いよ。しかしまた、私を慕う気持は、ちっとも世間一般の人とかわりはないのだから、これ以上この家にいて、家の人たちに嘆きをかけるのは気の毒だ。とにかく、この富子の命だけは助けてほしい。そのうえで私をどこへなりと連れていくがいい」というと、女は、ひどくうれしそうに、何度も頭をふってはうなずいた。

豊雄はまた部屋を出て、庄司の許へきて、「私の身にはこんな情けない魔性のものがとり憑いていますから、これ以上ここにいて、皆様をお苦しめ申しあげることは、私としてもはなはだ不本意なことです。いますぐに私を離縁して、この家から出して下さるならば、令嬢の命も御無事だと存じます」というが、庄司は、それをどうしてもききいれないで、「私とてもいささか武芸のたしなみある身でありながら、こんな不甲斐ないことでは、<ruby><rb>大宅</rb><rt>おおや</rt></ruby>の家の方々がどうお思いになるかと思うと、面目がありません。今後ともよく考えて対策をこうじてみましょう。<ruby><rb>小松原</rb><rt>こまつばら</rt></ruby>の<ruby><rb>道成寺</rb><rt>どうじょうじ</rt></ruby>に、<ruby><rb>法海和尚</rb><rt>ほうかいおしょう</rt></ruby>という、ありがたい御祈祷をして下さるお坊さんがいらっしゃるのです。いまでは年老いて部屋の外へも出ないと聞いていますが、私のためでしたら、どんなにしてでもかならずお見捨てはなさいますまい。そこへ行ってきますから、待っていて下さい」というと、馬にまたがって急いで出て行った。かなりの道のりなので、夜中になって道成寺へ着いた。庄司の来訪に、老和尚は寝室からいざり出て対面し、庄司の口からこのてんまつを聞くと、「それはさぞ御困惑のことでございましょう。愚僧もいまでは老いぼれて、祈祷の効験がありそうにも思えませんが、だからといって、ほかならぬ貴殿の家にふりかかった災難を、だまって見捨てておくわけにはいきません。まあ、先にお帰りなさい。愚僧もあとからすぐに参上いたします」といって、<ruby><rb>芥子焼</rb><rt>けしやき</rt></ruby>の<ruby><rb>香</rb><rt>こう</rt></ruby>のよくしみこんだ<ruby><rb>袈裟</rb><rt>けさ</rt></ruby>をとり出して、庄司にわたし、「その魔性をうまくだましよせて、これを頭からかぶせ、力いっぱい押しふせなさい。力をぬくと、おそらく逃げ出しますよ。心に仏を祈念して、力をこめてしっかりとうまくおやりなさい」と、ねんごろに教えた。庄司はよろこびながら、また馬をとばして家へ帰った。

帰宅するとすぐに、こっそり豊雄をよんで、和尚からいわれたことを伝え、「このことをうまくやって下さい」といって、かの袈裟をわたした。豊雄は、これをふところにかくして、寝室に行き、女にむかって、「庄司も、いまはやっと暇をくれました。さあ、いらっしゃい、出かけましょう」といった。それを聞くと、女はひどくうれしそうな様子をした。そのすきを見て、豊雄は、ふところから袈裟をとり出すと、すばやく女の頭からかぶせ、力のかぎりこれを押しふせたので、女は、「ああ、苦しい。お前は、どうしてこんなにつれないのだ。ちょっとこの手をゆるめてくれ」とわめいたが、ますます力まかせにおさえつけた。まもなく法海和尚の乗った<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>が邸内にはいってきた。庄司の家の人々に扶けられるようにして、和尚はこの部屋においでになり、口の中で小声に呪文を唱え、祈念されながら、豊雄をどかして、おさえていた袈裟をとりのけて、その下を御覧になると、富子が正体なくうつ伏せになっているうえに、一メートル余りの白い蛇がとぐろを巻いて微動だにしないでいる。老和尚はこれを捕らえて弟子の捧げもった鉄鉢においれになった。そのうえさらに祈念をこらされると、屏風のうしろから、三十センチほどの小蛇がはい出してきたが、これも捕らえて鉄鉢においれになり、かの袈裟でよく鉄鉢をくるみ、法力をもって蛇を封じこめられると、そのまままた輿におのりになったので、この家の人々は、手を合わせ、感涙を流して、うやうやしく頭をさげ、お見送りした。

和尚は道成寺へお帰りになると、本堂の前をふかく掘らせて、鉄鉢をそのまま埋めさせ、未来<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>、この蛇が世に出ることをかたく禁じられた。いまもなお道成寺には、<ruby><rb>蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>が<ruby><rb>塚</rb><rt>つか</rt></ruby>が残っているということである。一方、庄司の娘富子は、これがもとでついに病気にかかり、死んでしまった。豊雄の方は、無事に生きのびたと語り伝えられている――。

  


## 雨月物語　巻之五

## 青頭巾（あおずきん）

昔、<ruby><rb>快庵禅師</rb><rt>かいあんぜんじ</rt></ruby>という仏徳高い聖僧がいらっしゃった。幼少より禅宗の本旨をあきらかにされて、つねにその身を諸国<ruby><rb>行脚</rb><rt>あんぎゃ</rt></ruby>の修行にゆだねて暮らしておられた。ある年、<ruby><rb>美濃</rb><rt>みの</rt></ruby>の国の<ruby><rb>竜泰寺</rb><rt>りょうたいじ</rt></ruby>で<ruby><rb>夏安居</rb><rt>げあんご</rt></ruby>の修行をすまされると、この秋は奥羽地方に滞在しようと、そこを出立して東国にむかわれた。旅を重ねて、やがて<ruby><rb>下野</rb><rt>しもつけ</rt></ruby>の国におはいりになった。

この国の富田という里についたとき、日がとっぷりと暮れてしまったので、大きな構えの、いかにも裕福そうな家の前に立って、一夜の宿をお頼みになったところ、折から田畑から帰ってきた男たちが、夕暮の薄闇の中に、この僧が立っているのを見て、たいへんおびえたようなようすをして、「山の鬼がきたぞ。みんな出てこい」と、大声でわめいた。この声を聞いて、家の中でも急にさわぎはじめ、女子供は泣き叫び、ころげまわって、目につかぬ物かげや片隅にかくれた。この家の主人とおぼしき男が、先のとがった<ruby><rb>天秤棒</rb><rt>てんびんぼう</rt></ruby>を手にして、走り出してきたが、薄闇のなかに外の方をすかして見ると、年のころ五十にちかい老僧が、頭に紺染の<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>をかぶり、身に墨染の破れ衣を着て、包みを背負って立っている。そして、主人の姿を見ると、手にした杖をあげて招くようにしながら、「御主人、なんでこんなに厳重に御用心なさるのですか。諸国遍歴の僧が、今夜一夜だけの宿をお借りしようと思って、ここでどなたか出ていらっしゃるのを待っておりましたのに、それをこんなにまであやしまれようとは思いもかけませんでした。こんな痩坊主が強盗なんかするはずもないのに、まあ、どうか怪しまないで下さい」といった。そこで主人も、天秤棒を捨てて、手をうって笑い、「彼等の見さかいのつかない間違いのために、旅の御僧をおどろかし申しあげて、あいすみませんでした。一夜の宿をおもてなしして、ただいまの罪ほろぼしをさせて頂きたいと存じます」というと、うやうやしくお辞儀をして、奥の方へ案内し、気持よく夕食の膳をすすめてもてなしたのである。

食事がすむと、主人は口をひらいてつぎのようなはなしをした。「先刻、小作人たちが御僧を見て、鬼がきた、とおそれたのも、じつはそれ相当な理由があってのことでございます。おはなし申しあげますと、ここに世にもまれなことがあるのでございます。それはまことに不思議なはなしでございますが、世間の人々にも語り伝えて下さい。この里の上の山に一つの寺がございます。もとは<ruby><rb>小山氏</rb><rt>おやまうじ</rt></ruby>の<ruby><rb>菩提所</rb><rt>ぼだいしょ</rt></ruby>で、代々、徳の高いお坊さんが住職となってすんでおられました。いまの住職は、しかるべき方の<ruby><rb>甥御</rb><rt>おいご</rt></ruby>さまで、ことに学問もふかく修行も積んでいるという評判が高く、この国の人々は、香華や蝋燭の御布施をあげて信仰いたしました。私の家へもしばしばおいでになって、私どももとてもうちとけて御交際しておりましたが、去年の春のことでございました。<ruby><rb>越</rb><rt>こし</rt></ruby>の<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby>へ<ruby><rb>灌頂</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>の戒師として<ruby><rb>招聘</rb><rt>しょうへい</rt></ruby>され、百日余り御逗留なさいましたが、その国から十二、三歳ぐらいの童子をつれておかえりになり、身のまわりの世話などさせられました。そのうち、その子のすがたかたちが上品で美しいのを、ふかく御寵愛あそばされて、長年専念されてきた仏道修行のことなども、いつとはなく怠りがちになられたようにお見うけされました。ところが、今年の四月ごろでございます。その子がほんのちょっとした病気で床につきましたが、日がたつにつれて病が重くなってきましたので、住職はそれをたいへん御心痛になられて、国府の官医の立派な先生までおよびして、お<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>せになりましたが、その甲斐もなく、ついにその子はなくなってしまいました。さながら大切な懐中の珠玉をうしない、髪や冠にさしていた花を嵐のために吹き散らされたときのように、いつくしみ愛していたものをうしなって、悲嘆の淵にしずみ、泣くにも涙さえ出ず、叫ぶにも声さえ出ないというほどでございましたが、あまりにお嘆きになられたので、その遺骸を<ruby><rb>荼毘</rb><rt>だび</rt></ruby>にふし、土に葬ることもなさらずに、死体の顔に御自分の顔をくっつけ、死体の手に御自分の手を組んで、幾日かおすごしになられましたが、ついに気が狂って、その子が生きていたときとおなじようなたわむれをされながら、その肉が<ruby><rb>腐爛</rb><rt>ふらん</rt></ruby>するのをおしんで、肉を食い骨をしゃぶって、とうとうすっかり食いつくしてしまったのです。寺にいた人々も、『住職はついに鬼になってしまわれた』と、おどろきあわてて寺を逃げ出してしまいましたが、その後は、住職は夜ごと夜ごと里に下って里人を襲ってはひどく驚かし、あるときは墓をあばいてまだ死んでまもない<ruby><rb>屍肉</rb><rt>しにく</rt></ruby>をくらうというありさまで、実際鬼というものは、昔ばなしには聞いてもいましたが、まのあたり住職がその鬼になられたのをこの目で見たのでございます。しかし、私どもの力ではどうしてこれをとりおさえ、やめさせることができましょう。ただどの家でも、日暮れになるとかたく戸をとざしてしまうより仕方がありませんでしたので、近ごろではこのことが国中に知れわたって、そのために人々の往来さえなくなってしまったのでございます。じつはそういうわけがあったので、御僧をも鬼と見あやまったのでございます」と、語った。



人間の肉を食う悪鬼と化した山寺の僧が、里人を追いかけてとらえようとしている図。（原本三丁裏、四丁表の挿絵）

快庵は、このはなしをお聞きになると、「世間には不思議なこともあるものでございますな。およそ人間と生まれて、仏や菩薩のお教えの広大なこともしらないで、愚かなまま、心ねじけたままに一生を終るものは、その愛欲、邪念の<ruby><rb>悪業</rb><rt>あくごう</rt></ruby>にひきずられて、あるときはそれが生前の獣の姿になって恨みをはらしたり、またあるときは鬼となったり<ruby><rb>蟒</rb><rt>みずち</rt></ruby>となったりして<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りをするという例は、昔からいまにいたるまで数えきれないほどであります。そうかと思うと、生きながら鬼になる者もおります。<ruby><rb>楚王</rb><rt>そおう</rt></ruby>に仕えた女官は<ruby><rb>蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>となり、<ruby><rb>王含</rb><rt>おうがん</rt></ruby>の母は<ruby><rb>夜叉</rb><rt>やしゃ</rt></ruby>となり、<ruby><rb>呉生</rb><rt>ごせい</rt></ruby>の妻は蛾となったのであります。また、昔、ある僧が下賤の者の家に一夜の旅のやどりをしたところ、その夜は雨風がはげしく、灯火さえないので、心細く淋しくて、寝るにも寝られずにいると、夜ふけて羊の鳴く声が聞えてきたが、それからしばらくして、僧の眠りをうかがうように、しきりに体のあちこちを嗅ぎまわるものがある。僧は怪しいやつだと思って、枕許においた<ruby><rb>禅杖</rb><rt>ぜんじょう</rt></ruby>を手にすると、それで怪物を力まかせになぐりつけたところ、大声をあげてそこに倒れた。この音に、この家の主人である老婆が<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をつけてやってきたので、それで照らして見ると、若い女がそこに倒れていた。それを見ると、老婆は泣きながら、この女の命だけは助けてくれと懇願した。どうにも仕方がない。まさか殺すわけにもいかないので、そのままにして、旅僧はその家を出たが、その後またついでがあったので、その里を通ったところが、<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>の中におおぜい人があつまって、なにか見物している。旅僧も立ち寄って、『なんですか』とたずねたところ、里人がこたえて、『鬼になった女を捕らえたので、いま土に埋めているのです』といったということです。しかし、こうした例はいずれも女に関したことで、いやしくも男たるものがそんなものに化けたというはなしを聞いたことがありません。およそ女の思いつめる、心ねじけた性質から、そんなあさましい鬼にも化するものであります。もっとも男でも、<ruby><rb>隋</rb><rt>ずい</rt></ruby>の<ruby><rb>煬帝</rb><rt>ようだい</rt></ruby>の臣下に<ruby><rb>麻叔謀</rb><rt>ましゅくぼう</rt></ruby>というものがあって、これが小児の肉を好んで、ひそかに民間の小児をさらい、その肉を蒸して食ったということはありますが、これはあさましい野蛮な心からしたことであって、いま御主人のおはなしになったこととはちがいます。それにしても、その僧が生きながら鬼になったのこそ、過去の因縁のむくいというものでありましょう。そもそもふだん修行につとめ徳をつむのにすぐれていたというのは、仏に仕えることに真心をつくしたからであって、もしその子を側近くおいて世話をしなかったならば、あっぱれ立派な僧になるべきはずであったのに、惜しいことをしました。いったん愛欲の迷路にさまよって、救いようのない<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>の火にその身をやかれて、鬼と化したのも、ひとえに一本気で思いこんだらどこまでもつらぬきとおす強気な性質がそうさせたのであります。『心をゆるめれば妖魔となり、心をひきしめて仏に仕えれば仏になることができる』というのは、この僧がそのよい実例であります。拙僧がもしこの鬼を教え導いて善なる本来の心にかえらせることができたならば、今夜のおもてなしにたいする報恩ともなることでしょう」と、快庵は、身を挺してこの鬼を<ruby><rb>教化</rb><rt>きょうげ</rt></ruby>し、人々の苦しみを救おうと決意されたのである。主人は、頭を畳にすりつけるようにして、「御僧がそのことをして下さったならば、この地方の人々は極楽にでも生まれかわったような気がすることでございましょう」と、感涙にむせんでよろこんだ。山里に宿ったこととて、近くに相当な寺もなく、貝や鐘の音も聞こえない静かな夜に、二十日あまりのおそい月も出て、古戸のすきまから月光がもれてくるのに、ようやく夜もふけたことに気づいて、主人は、「さあ、おやすみ下さい」というと、自分も寝室へ引きとった。

山寺には誰もすみついていないと見えて、楼門には<ruby><rb>茨</rb><rt>いばら</rt></ruby>が生いかかり、<ruby><rb>経閣</rb><rt>きょうかく</rt></ruby>も見捨てられたまま苔が生えている。本堂の方は、蜘蛛が巣をはって、それが仏像と仏像との間いちめんにかかり、燕の糞が<ruby><rb>護摩壇</rb><rt>ごまだん</rt></ruby>をうずめて、方丈も廊房もすべていいようのないくらいものすごく荒れはてている。日が西の方に傾くころ、快庵禅師はこの寺に足をふみ入れて、手にした<ruby><rb>錫杖</rb><rt>しゃくじょう</rt></ruby>をならされ、案内を乞うて、「諸国遍歴の僧でござるが、今夜一夜の宿をお貸し下され」と、幾度も声をかけたが、いっこうに返事がない。やっと、寝間から痩せこけた僧が、力ない足どりでよわよわと出てきて、禅師を見ると、ひからびたしわがれ声で、「御僧はどこへ行くつもりで、ここへこられたのか。この寺はわけあってこんなに荒れ果て、人もすまぬ野原同然の<ruby><rb>破寺</rb><rt>やれでら</rt></ruby>となったので、一粒の食糧もなく、一夜の宿をかすことのできる用意もない。はやく里に下られよ」という。そこで、禅師は、「拙僧は、美濃の国を出て奥州へ行く途中でござるが、この麓の里を通りかかると、山の形といい水の流れといい、じつにすばらしいので、心ひかれて思わずもここにまいったのでござる。すでに日も傾いたのでこれから里に下るというのも、道遠くたいへんなことと存ずる。ぜひに一夜の宿だけをお貸し下され」という。あるじの僧は、「こんな荒れ果てた所はよくないこともあるものですぞ。だから、しいておとどめもできない。さりとて、たって出て行けというわけでもない。御僧の心まかせにされるがよい」といったきり、二度とものをいおうとしない。禅師もそれ以上一言もいわずに、堂にあがって、あるじの僧の傍に座をしめた。秋の日はつるべおとしで、見る見るうちに日はすっかり沈んで、<ruby><rb>宵闇</rb><rt>よいやみ</rt></ruby>の夜がほとんどまっくらになったのに、灯もつけないので、一寸さきさえよく見えないが、ただ谷川の水音だけが耳近く聞こえてくる。あるじの僧も寝間へ入ったまま、その後は物音ひとつさせない。

夜がふけて、月夜になった。月光は<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby>として、すみずみまでもあかるく照らし出した。ちょうど真夜中ちかいと思われるころ、あるじの僧が寝間から出てきて、あわただしくなにかさがしものをはじめた。しかし、さがし当たらないらしく、大声で、「くそ坊主め、どこへ隠れたのだろうか。たしかここにいたはずだが」と叫びながら、禅師の前を幾度も走り過ぎたが、いっこうに禅師を見ることがない。本堂の方へ駆けて行くかと思うと、庭へおりて、ぐるぐるまわりながらおどりくるい、とうとう疲れて倒れ伏したまま起きあがらなくなった。やがて夜があけて朝日が出ると、ちょうど酒の酔いが醒めたような様子で、あたりを見まわしたが、禅師がもとの場所にすわっているのを見ると、ただ茫然自失、ものもいえないで柱にもたれ、ふかいためいきをついたきり、だまっていた。禅師は近づいて、「<ruby><rb>院主</rb><rt>いんじゅ</rt></ruby>、なにをお嘆きでいらっしゃるか。もしひもじくいらっしゃるならば、拙僧の肉を食って腹をいっぱいにされるがよい」と声をかけた。あるじの僧がいった。「御僧は夜通しそこにおいででございましたか」。禅師がこたえた。「ここにいて一睡も致さぬ」。あるじの僧は、さらに「私はあさましくも人間の肉を好んで食べてまいりましたが、まだ生き仏のような高僧の肉の味を知りません。御僧はまことに仏でござる。私の鬼畜の如くくらんだ眼をもって、生き仏が眼前においでになったのを見ようとしても、見ることができないのも道理であります。ああ、もったいないことだ」というと、頭をたれて、口をつぐんだのである。

禅師は、言葉をついで、「里人のはなすのを聞くと、その方はいったんの愛欲に心みだれてから、たちまち鬼畜になりさがったということであるが、それはあさましいとも哀れともいいようのないくらい、たぐいまれな悪因縁である。夜ごと夜ごと里に出て人に害をおよぼすから、ちかくの里人たちは不安でたまらないのだ。私は、これを聞いて、見捨てておくことができず、わざわざここにきてその方を教化し、善なる本来の心にたちかえらせようとするのだが、その方は私の教えを聞くつもりがあるか、どうか」とたずねた。あるじの僧はこたえて、「御僧はまことに生き仏です。私のおちいったこんなあさましい<ruby><rb>悪業</rb><rt>あくごう</rt></ruby>を、すぐにでも忘れられる道理をお教え下さい」といった。禅師は、「その方が、私の教えを聞くというのならば、ここへくるがよい」といって、縁側の前のたいらな石のうえに、この僧をすわらせて、自分のかぶっておられた紺染の頭巾をぬいでこの僧の頭にかぶらせ、<ruby><rb>証道歌</rb><rt>しょうどうか</rt></ruby>の二句を解いてみよとお授けになった。

「<ruby><rb>江月照松風吹</rb><rt>こうげつてらししょうふうふく</rt></ruby>　　　<ruby><rb>永夜清宵何所為</rb><rt>えいやせいしょうなんのしょいぞ</rt></ruby>

（月は入江をてらしてあかるく、岸辺の松を吹く風は<ruby><rb>松籟</rb><rt>しょうらい</rt></ruby>を聞かせる。この秋の夜長、清らかな宵の景色はいったい何のためであろうか。自然のままのすがたである。しかし、大自然のすがたは結果において自他をきよめている。これ自然の摂理である。その真意を理解すれば、人はおのずから真理を会得できる。これが禅定である）

その方、この場を去らずに、じっくりとこの二句の真意を探求せよ。真意が解けたときは、おのずから本来身にそなわっていた仏心にめぐりあうことができるであろう」と、ねんごろに教えさとして、山を下られたのであった。この後、里人は鬼のひどい災厄からのがれることができたが、それでもやはり山寺の僧の生死をはっきりと知らないので、疑いおそれて、人々は山へのぼることをたがいにかたくいましめあった。

一年がはやくもたって、翌年の冬十月初旬、快庵禅師は、奥州方面よりの帰途、再びこの富田の里を通られたが、前年あの一夜の宿をしてくれた主人の家に立ちよって、山寺の僧のその後の様子をおたずねになった。主人は、よろこんで快庵をむかえて、「御僧の広大な徳によって、鬼が二度と山を下らなくなりましたので、里人はみんな極楽にでもうまれかわったような思いでおります。しかし、まだ山へ行くことはおそろしがって、一人としてのぼるものはありません。それゆえに、鬼がどうなったか、その様子は存じませんが、どうしていままで無事に生きているでしょうか。とても生きているとは思えません。今夜のお泊りに、あの僧の成仏冥福をお祈り下さいませんか。私どもみんな一緒に回向いたしましょう」という。禅師は、「あの男が善行のむくいで往生したというのならば、仏道成仏の道においては、拙僧の先輩の師ともいうべきであります。もしまた生きているときは、拙僧にとっては一人の弟子であります。いずれにしてもその後の様子を見とどけなければなりますまい」といって、再度、山へおのぼりになったが、なるほど主人の言葉どおり、人の往来がまったく<ruby><rb>途絶</rb><rt>とだ</rt></ruby>えていると見えて、これが去年踏みわけた道とおなじだとは思えないほどであった。寺にはいって見ると、<ruby><rb>荻</rb><rt>おぎ</rt></ruby>・<ruby><rb>薄</rb><rt>すすき</rt></ruby>が人の<ruby><rb>背丈</rb><rt>せたけ</rt></ruby>よりも高く生い茂り、草木におく露はまるでしぐれのようにはらはらと降りこぼれているうえに、寺内の草生いたこみちさえどこがどこやらはっきりわからず、その中に、本堂や経閣の戸がくさって倒れたままになっており、方丈から<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>にかけめぐらされた廻廊も朽ちた木目に雨気を含んで苔むしている。さて、かの僧をすわらせた縁側のあたりをさがしてみると、まるで影のように痩せ細った人が、僧侶とも俗人とも区別のつかないまでに<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>も髪もぼうぼうと乱していたが、雑草がからみあい、<ruby><rb>薄</rb><rt>すすき</rt></ruby>が一面に靡き伏しているなかに、蚊のなくほどの細い声で、なにをいっているのかはっきりと聞きとれないように、ぶつぶつとつぶやいていた。耳をすますと、とぎれとぎれに唱える言葉は、

「<ruby><rb>江月照松風吹</rb><rt>こうげつてらししょうふうふく</rt></ruby>　　　<ruby><rb>永夜清宵何所為</rb><rt>えいやせいしょうなんのしょいぞ</rt></ruby>」

という、例の証道歌の二句であった。

禅師は、この男をじっとごらんになっていたが、やがて禅杖をとりなおすと、「<ruby><rb>作麼生</rb><rt>そもさん</rt></ruby>、なんの<ruby><rb>所為</rb><rt>しょい</rt></ruby>ぞ」と一喝して、その男の頭を撃ちすえられた。すると、氷が朝日にてらされてたちまち消えてしまうように、この男の姿はたちまち消えうせ、あとにはただ、かの青頭巾と骨だけが、草葉の上にのこされただけであった。まことに長い間の執念が、ここにいたってまったく消えつくしたのであろう。そこには尊い仏教の道理・教訓というものがあるのであろう。

そうしたわけであるから、禅師の広大な徳は遠い国々から外国にまで知れわたって、人々は、「開祖達磨大師がまだ生きているようだ」とほめたたえたということである。その後、この里の人たちがあつまって、寺内をきよめ、修理をほどこし、禅師を<ruby><rb>推戴</rb><rt>すいたい</rt></ruby>して、この寺の住職として住んでもらうようにしたので、それまでの真言宗を改宗して、曹洞宗のありがたい寺をおひらきになったのである。この寺は、大平山<ruby><rb>大中寺</rb><rt>だいちゅうじ</rt></ruby>として、いまなお尊く栄えているということである。

  


## 貧福論（ひんぷくろん）

奥州、<ruby><rb>蒲生氏郷</rb><rt>がもううじさと</rt></ruby>の家中に、<ruby><rb>岡左内</rb><rt>おかさない</rt></ruby>という武士があった。高禄で名望高く、勇名を東国一帯にとどろかしていた。ところが、この左内には、人とはちがったたいへん<ruby><rb>偏</rb><rt>かたよ</rt></ruby>った性質があった。それは、金をたくわえ富貴になることを願う心が、世間一般の武士とはちがってひどく強いことだった。そのため、倹約を家訓として家内をとりしまったので、年を経るにしたがって、家が富みさかえてきた。そのうえ、武をねり兵を訓練するひまにも、ほかの武士のように、茶の湯・香道などの風流<ruby><rb>韻事</rb><rt>いんじ</rt></ruby>にあそぶことをしないで、一室にたくさんの金貨を敷きならべて、それをみて心をなぐさめるというふうで、それは世間の人が秋の月や春の花の風流にあそぶこと以上のたのしみであった。そのために、人々はみんな左内のふるまいを、奇怪なこととあやしんで、あれは<ruby><rb>吝嗇</rb><rt>りんしょく</rt></ruby>で根性いやしい無風流者だと、爪はじきをして憎んだ。

自分の家に久しく使っている下男に、金貨を一枚ひそかに所持しているものがあるということを聞き知った左内は、その下男をよびよせていった。「たとえ天下の名玉<ruby><rb>崑山</rb><rt>こんざん</rt></ruby>の<ruby><rb>璧</rb><rt>たま</rt></ruby>でも乱世には瓦や石ころ同然、無価値に等しいものだ。こんな乱世にうまれて、武士として生きるものにとっては、ほんとうにほしいものは<ruby><rb>棠谿</rb><rt>とうけい</rt></ruby>・<ruby><rb>墨陽</rb><rt>ぼくよう</rt></ruby>の如き名剣であり、それにくわえて財宝である。しかし、どんな良い剣であっても、一剣をもって千人の敵をむかえうつことはできない。それにくらべて、金の力というものは、よく天下の人々をもなびきしたがわせるものだ。したがって、武士たるものはこれを軽々しく考え、粗末に扱ってはならない。かならずこれを大切に貯蔵すべきである。おまえが賤しい分際で、<ruby><rb>分</rb><rt>ぶん</rt></ruby>にすぎた金をもっているのは、殊勝なことだ。褒美を与えよう」といって、十両を与え、そのうえ、帯刀を許して士分にとりたてた。人々はこれを伝え聞いて、「左内が金をためているのは<ruby><rb>貪婪</rb><rt>どんらん</rt></ruby><ruby><rb>強欲</rb><rt>ごうよく</rt></ruby>というような<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>ではないのだ。ただ当世にはめずらしい一奇人なのだ」と、いまさらのように、ほめそやした。

その夜、左内は、枕もとに人のきた気配がしたので、目をさまして見ると、<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>のそばに、小さな老人がにこにこ笑ってすわっていた。左内は、枕から頭をあげて、「そこへきたのは誰だ。おれに食物でも借りようとするならば、もっと腕っぷしの強い男どもでもきそうなものではないか。それを、お前のようなおいぼれたやつが、おれの眠りをさましにやってきたとは、狐か狸が化けたのだな。おい、なにか習いおぼえた術でもあるだろう。秋の夜のねむけざましに、ちょっとその芸当でもしてみせろ」といって、いささかも動ずる様子をみせない。すると、老人はこたえて、「いや、ここへ参上いたしました私めは、<ruby><rb>魑魅</rb><rt>ちみ</rt></ruby>でもなければ、人間でもありません。ふだんあなたが大事になさる黄金の精霊です。あなたが長年、手厚く遇して下さったのがうれしくて、夜ばなしでもしようとおもって推参したのです。あなたがきょう、召使をほめて褒美を与えられたのに感激して、私がふだんから思っている心のうちなどおはなしして、気持でも晴らそうと思い、かりにこんな姿に身をかえてあらわれたのですが、私のはなしですから、十に一つも役にたたないような無駄ばなしではありますが、さればといって、いいたいことをいわないでおくのも腹がふくれて不快ですから、わざわざお訪ねして、おやすみのさまたげをしたのでございます――」といい、さらに言葉をついだ。



枕許に立った黄金の精に、左内が、体をおこして応待している図。「灯台」が行灯、黄金の精が「ちひさげなる翁」であることがわかる。（原本十三丁裏、十四丁表の挿絵）

「――さて、富み栄えても、そのためにおごりたかぶらないのは、まさに大聖人孔子の道です。それを、世上の悪口に、『富める者はかならず心がねじけている。富める者は多く愚者である』というのは、たとえていえば、<ruby><rb>晋</rb><rt>しん</rt></ruby>の<ruby><rb>石崇</rb><rt>せきそう</rt></ruby>や<ruby><rb>唐</rb><rt>とう</rt></ruby>の<ruby><rb>王元宝</rb><rt>おうげんぽう</rt></ruby>のような、<ruby><rb>豺狼蛇蝎</rb><rt>さいろうだかつ</rt></ruby>にも似た猛悪残忍にして貪欲なやつだけをさしていったのであります。昔の世に富み栄えた人は、天然自然の摂理をよく見きわめ、地勢環境の適否をよく判断して、その結果、自然にして必然の富貴を得たのであります。太公望呂尚は、<ruby><rb>斉</rb><rt>せい</rt></ruby>に<ruby><rb>封</rb><rt>ほう</rt></ruby>ぜられて、人民に生業のみちを教えたので、海辺の人々が、そこの利益の多い生活を慕って、斉の国にやってきたのです。また<ruby><rb>管仲</rb><rt>かんちゅう</rt></ruby>は、斉の<ruby><rb>桓公</rb><rt>かんこう</rt></ruby>をたすけて諸侯を<ruby><rb>糾合</rb><rt>きゅうごう</rt></ruby>しましたが、その身は<ruby><rb>陪臣</rb><rt>ばいしん</rt></ruby>でありながら、その富は列国の君主にまさっておりました。そのほか、<ruby><rb>范蠡</rb><rt>はんれい</rt></ruby>、<ruby><rb>子貢</rb><rt>しこう</rt></ruby>、<ruby><rb>白圭</rb><rt>はっけい</rt></ruby>などという人物は、いずれも産物を売買して利益をあげ、巨万の富をきずきあげたのであります。これらの人々の<ruby><rb>行跡</rb><rt>ぎょうせき</rt></ruby>をあげて、<ruby><rb>司馬遷</rb><rt>しばせん</rt></ruby>が『史記』の一篇に『<ruby><rb>貨殖列伝</rb><rt>かしょくれつでん</rt></ruby>』を書きしるしたのでありますが、後世の学者たちが、その所説を卑しいとして、筆をそろえてこれを非難したのは、物の道理をふかく理解しない人のいう言葉であります。『孟子』にもいうとおり、一定の生業と財産のないものは定まった善心もないものであります。農民はよく働いて穀物を生産し、職人たちはその仕事に精出してこれを助け、商人は一生懸命これを諸国に売りさばくというように、めいめいがその生業をはげみ、家をゆたかにして、祖先をまつり、子孫のためにはかる以外に、人間としてなにをすることがあるでしょうか。<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>にも、『富豪の家の子はけっして刑死して市中にさらされるようなことはない』『富貴の人は王者とおなじようなたのしみをもつことができる』といわれております。まことにその通りで、淵がふかければ魚も自由に泳ぎまわり、山がふかければ獣もよく育つというのは天然自然の法則にかなった道理であります。ただ、『論語』に『貧しくしてしかもたのしむ』という言葉があって、それが学者や文人たちの惑いをひきおこす端緒となって、そのために弓矢とる武士たちまでが富貴は国の基であることを忘れ、つまらぬ軍略にばかり熱中して、破壊と<ruby><rb>殺戮</rb><rt>さつりく</rt></ruby>を行ない、自分の徳をうしなって子孫まで絶やしてしまうのですが、それもつまりは財宝を軽んじて名誉を重しとする、その惑いのせいであります。思うに名誉をもとめる心も、利をもとめる心も、心はひとつであって、けっしてちがう心が二つあるのではありません。それを学問や書物にとらわれて、金の徳を軽んじては、それでみずから清廉潔白であると自称し、生業を捨て俗世間をのがれて晴耕雨読の生活をしている人を賢人であるというのです。たしかにそういう人自身は賢人かもしれませんが、そういう行為そのものは賢いことではありますまい。金は、七宝の最上位のものであります。まだ土に埋もれているときにも、そこに霊泉をたたえ、あたりの不浄をはらいのけて、微妙な音色を発するものであります。これほど清らかなものが、どうして愚痴蒙昧、貪欲残忍な人のところにだけあつまるはずがありましょうか。そんなことはけっしてありません。それにしても、今夜この胸中の憤りを吐き出して、年来の憂さをすっかり晴らすことができたのは、なんとうれしいことでしょう」という。

左内は、このはなしを聞いて興味をそそられ、ひとひざのり出して、「なるほど、いまおはなしになられたことにつけても、富貴の道がたかく貴いものであるということは、私が平生から考えていたこととちっともちがいません。ここに愚問ではありますがおたずねしたいことがあるのです。どうかくわしく御教示下さい。それは、いまあなたがことの道理をはっきりとおはなし下さったことは、もっぱら金の徳を軽視して、富貴というものが偉大なる事業であることを世人が知らないのは大きなあやまちであるとなさいましたが、しかしまた、かの学者どものいうところも理由がないわけではありません。というのは、いまの世の金持には、十人中八人までが貪欲で残忍な人が多いのです。たとえば、自分は十二分に俸禄をうけていながら、兄弟親族をはじめとして、父祖の代から長く仕えているものが、貧乏して困っていても、救おうとしない人もいれば、また親しく近所づきあいをしていた人がおちめになり、しかも誰ひとりとして助けようとする者がなくて零落してしまうと、しめたとばかりにその人の田畑を、値段をたたいて捨て値で無理やりに買いとっては自分のものとしてしまう人もおり、そうかと思うと、現在自分は村長とうやまわれる身分になりながら、むかし借りた人のものを返そうともせず、礼儀正しい人が席をゆずると、つけあがってその人をあたかも目下の下僕かなにかのように見くだし、たまたま旧友が時候見舞にでも訪ねてくると、金でも借りにきたのではなかろうかと疑って、留守だといわせるような不実な人間の例を、私なども数多く見てきました。また、その反面では、主君に忠義のかぎりをつくし、父母に孝行をつくして清廉だとの評判が高く、身分高い目上の人を尊び、身分低い貧しい人を助けるという立派な心のある人でいながら、つねに貧しくて、冬の寒いときにも一枚のかわごろもですごし、夏の極暑の折にも一枚の<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>でおしとおして着替えもなく、豊作の年でも朝晩一ぱいの粥でやっと飢えをしのぐというような人は、つきあってもなんのとくにもならないせいか、もとより一人の友人が訪ねてくるということもなく、かえって兄弟や親族には出入りをさしとめられ、交際をことわられたりするが、その悲しみをうったえる方法さえなくて、ただ生活に追われてあくせくと一生をおわるというようなありさまです。それならば、その人は家業に不熱心なのかというと、そうではなく、朝は早くから起き、夜はおそくまで働いて生業に全力を傾け、東奔西走して、そのむずかしそうな様子は、寸暇もないほどであり、べつに愚かなわけでもないのに、なにか仕事をすると、不運にもそれがはずれて無駄になることが多いのです。こういう人は、むかしの<ruby><rb>顔子</rb><rt>がんし</rt></ruby>が一瓢をいだいて清貧をたのしんだというその境地に達することもできません。そして、こういうめぐりあわせで一生を終るのを、仏教の方では前世の<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>をもって説明し、儒家の方では定まった天命であると教えています。もし仏教で説くように来世というものがあるならば、現世でのかくれた徳や善行も、来世へ行ってむくいられるであろうと、それをたのしみに、人々は現世の不幸にたいするいきどおりを、しばしおさえもするでしょう。だから、この富貴の道に関しては、仏教の方でだけその道理を十分に説きつくしていて、儒家の教えはとりとめのないでたらめであるというのでしょうか。あなたも仏の教えの方を信奉していらっしゃるようですね。もしそうでないとおっしゃるならば、お考えのほどをくわしくおはなし下さい」という。

老人は、こたえて、「いまあなたがおたずねになったことは、じつは昔からいろいろと論じられながら、しかもまだ結論のでていない議論なのです。あの仏の教えを聞くと、この世における富貴と貧賤は、前世で善因をつくったか、つくらなかったかによるということですが、これはいいかげんな教えだということができます。前世で行ないをよくつつしみ、おのれの身をおさめ、慈悲心をもっぱらとして他人にも情ぶかくまじわった人が、その善報によって、いまこの世で富貴の家に生まれてきて、こんどは急に自分の財力に物をいわせて他人にたいして威張りかえり、道理にはずれたとんでもないたわごとをいいつのり、あさましく粗暴で野蛮な心を示すようになるのは、いったい前世の善心がどんなむくいでこうまで堕落したというのでしょうか。だいたい仏や菩薩は、名誉とか利欲とかいうものを<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>み嫌われると聞いておりましたのに、それに反して、なんでこのような貧福のことなどにこだわってあれこれと説かれることがあるでしょう。それを、勝手に、富貴は前世の行ないがよかった結果であり、貧賤はそれが悪かったむくいであるなどといちがいにきめてしまうのは、しょせん無知な婦女子をたぶらかし、いいくるめる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えせ</span>仏法というものであります。貧福のことなど問題とせず、ただ一途に善行を積むような人は、よしんばその善報が自分自身のうえにあらわれなくても、いつかその子孫はかならずしあわせを得るものであります。たとえば中国古代の聖天子<ruby><rb>舜</rb><rt>しゅん</rt></ruby>は、徳において聖人であり、位において天子であり、富は国内のすべてを所有したが、舜の徳によって、その祖先は天子の礼をもってまつられ、その子孫は地位と名誉と富と長寿を保つことができたのであり、『中庸』がこのことを『<ruby><rb>宗廟</rb><rt>そうびょう</rt></ruby>これをうけて子孫これを保つ』といったのは、善行がおのずからそれに応じた善報になるという道理を、微妙に具体的にいいえたものです。自分が善行をして、自分でその善報を期待するというのは、けっして素直な心ではありません。また悪事を行なう欲ふかで<ruby><rb>吝嗇</rb><rt>りんしょく</rt></ruby>な人が、そのために富み栄えるばかりか、長寿まで保ってその終りをまっとうするということについては、私なりの異なった見解があるのです。まあ、しばらくお聞き下さい。私はいま仮にこうした人間の姿をしてあなたの前にあらわれ、はなしをしていますが、神でもなければ仏でもなく、もともと感情のない黄金の化身でありますから、人間とは違った考えをもっているのです。さきほどもおはなししたように、昔の世に富み栄えた人は、天然自然の好機にかない、その土地の利害をよく見きわめて、それにかなった産業をいとなみ、その結果富貴になったのです。これは天然自然の法則・道理にかなったはかりごとでしたから、財宝がこの人のところにあつまるのも天然自然の理であります。また一方、品性卑しく吝嗇で欲ふかく残忍な人は、金銀を見るとまるで父か母のように大事にかしずいて、食うものもろくに食わず、着るものもろくに着ず、かけがえのない大切な命さえも金のためには惜しいと思わないで、寝てもさめても金のことを忘れないから、金銀がその人のもとにあつまるのは、当然すぎるほど当然の明白な道理であります。私はもともと神でもなければ仏でもなく、ただ非情の黄金の精です。非情のものとして人間の善悪を<ruby><rb>糺明</rb><rt>きゅうめい</rt></ruby>し、その結果にしたがって、私が行動しなければならない理由はありません。善をほめ悪を罰するのは、天のすることであり、神のすることであり、仏のすることであります。この三者は万世不易の人道を示すものです。とうてい私どものおよぶところではありません。ただ私どもは、どんな人間であっても、その人が私どもを大切に扱い、私どもにまめまめしく仕える、その程度に応じてその人のもとにあつまっていくものだと御承知下さい。この点が、金に霊があるといっても、それが人間の心とちがうところです。また、いくら富み栄えて善行をほどこしても、それが理由なく他人に恵みを与えたり、相手が義にそむいていることも見きわめないで、金を貸し与えたりするような人は、たとえそれがどんな善行であっても、財宝はついにその人の許から散じてしまうでしょう。なぜかといえば、こういう人は、金の使用法だけをしって、金の徳をしらず、金をかるがるしく取り扱うからであります。また、その身の行ないもよく、他人にたいしても真心をつくしながら、生活に窮して苦しんでいる人は、もともと天の神のお恵み薄くうまれついているのでありますから、いかに苦労し、心をくだいてみても、生涯のうちに富貴になれるということはありません。だからこそ、昔の賢人は、富をもとめてもとめ甲斐があればもとめ、もとめ甲斐がないと知ればもとめないで、自分の気のむくままに、俗世間をのがれて山林にこもり、心しずかに一生を送ったのです。その心の中はどんなにすがすがしくさっぱりしていることだろうと、うらやましく思われます。しかし、そうはいっても、一面では富貴の道は術ですから、巧みな者はよく富をあつめ、未熟な愚か者はいくらもっていても瓦を崩すよりもかんたんにこれをすっかり<ruby><rb>散佚</rb><rt>さんいつ</rt></ruby>してしまうのです。そのうえ、私ども仲間の黄金は、人の生業につきまとって集散し、これといってきまった主人をもっているわけではありません。ここに集まったかと思うと、その持ち主の行ないいかんによってはたちまちそこをはなれて別の人の許に走ります。それはちょうど水が低い方に傾いていくようなものです。昼も夜もどんどん往来して<ruby><rb>休</rb><rt>やす</rt></ruby>むときがありません。ただ<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>人が定まった生業ももたずに暮らしていたならば、<ruby><rb>泰山</rb><rt>たいざん</rt></ruby>のようなたくさんのものもたちまち食いつくしてしまうでしょう。河や海のようにたくさんたたえられたものもついには飲みほしてしまうでしょう。くりかえして申します。不徳の人が財宝を積み蓄えるのは、その人の徳・不徳とは無関係なことであり、君子の富貴については、それとはまた別で、同日に論じてはいけません。好運にめぐまれてときめいている人が、倹約を守り、むだをはぶいて、よく生業につとめたならば、おのずから家は富み、人はなつきしたがうでしょう。私は、仏教で説く前世の因縁ということも知らなければ、儒家の説く天命というようなことにもこだわらないで、それとはまったくちがった別天地にのびのびと生きているのです」という。

左内は、このはなしを聞くと、いよいよ興味をつのらせて、「あなたの御説は非常にすばらしい。お蔭で長年の疑念も今夜ですっかり氷解いたしました。ことのついでに、もういちどおたずねいたします。今の世を見ると、<ruby><rb>豊臣家</rb><rt>とよとみけ</rt></ruby>の威光が天下を<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>かせ、日本全国、津々浦々もようやく平穏であるように見えますが、国をうしなった主君に忠義を尽くそうとする義士たちがあちらこちらにひそみかくれて機をうかがい、ある者は一時大国の主君に仕えて世に変乱がおこるのをじっと待って、かねての主家再興の本懐をとげようと画策しています。一方、民もまた戦国に生をうけた民ですから、折あらば<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>をすててほこをとり、一旗あげようと、天職の農耕などそっちのけのありさまですから、武士たるものも枕を高くして安眠することができません。いまのようなありさまでは、豊臣家の政権も長くつづくものとは思えません。この先、いったい誰が天下を統一して、民を平和安穏に暮らさせることになるのでしょうか。そしてまた、あなたは誰に味方なさるのでございますか」という。老人は、こたえて、「政治のこともまた人間界のことゆえ、私にはわかりません。ただ富貴という点から論ずるならば、<ruby><rb>武田信玄</rb><rt>たけだしんげん</rt></ruby>のごときは智謀にすぐれ、ねらうところ百発百中でありながら、しかも一生涯を通じてその威勢をわずかに甲・信・越の三国にふるうだけでありました。しかも名将であるという評判は世間こぞって賞讃するところでありました。その<ruby><rb>末期</rb><rt>まつご</rt></ruby>にのぞんで、信玄は、『いまや<ruby><rb>信長</rb><rt>のぶなが</rt></ruby>は非常に果報にめぐまれた大将である。われ平生彼をあなどって征伐することを怠り、いまこの病にかかった。われ<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>きあと、わが子孫はやがて彼のためにほろぼされるであろう』といったということです。<ruby><rb>上杉謙信</rb><rt>うえすぎけんしん</rt></ruby>は勇将です。信玄が死んでからは、天下に肩をならべる好敵手がありませんでした。しかし、不幸にもはやく死んでしまいました。信長の人物・才能は人にすぐれておりましたが、智においては信玄におよばず、勇においては謙信に劣っていました。それでも富貴を身につけて、一度は天下を統一し、天下に号令するようになりました。しかし、家臣に恥辱を与えて、そのためにそむかれ、一命をおとしたのをみると、文武兼備の人物というわけでもなかったようです。秀吉の雄志は大きなものでありますが、それでもはじめから天下をおおうというようなものではありませんでした。そのことは、若いころ、柴田勝家と丹羽長秀の富貴をうらやんで、それにあやかりたいと思い、「羽柴」という姓を名のった一事からも知ることができます。それがいまでは、あたかも竜と化して大空に昇ったようにときめき、位人臣をきわめていますが、昔の身分や境遇など忘れているのではないでしょうか。秀吉が竜と化したといっても、それはほんとうの竜ではなく、<ruby><rb>蛟蜃</rb><rt>こうしん</rt></ruby>のたぐいにすぎません。『蛟蜃の竜と化したものは、その寿命わずかに三年にすぎない』といわれています。だから、秀吉もやはり子孫は長く続かないのではないでしょうか。いったい<ruby><rb>驕奢</rb><rt>きょうしゃ</rt></ruby>をほしいままにして治めた世というものは、むかしから長つづきしたためしがありません。人間として守るべきことは倹約ですが、それがあまり行き過ぎるとけちんぼにおちいります。だから、倹約とけちんぼのけじめをよくわきまえてつとめることが大切です。さて、豊臣の政権が長くつづかないとしても、天下万民が安穏に富みさかえ、家ごとに家運の繁栄と世の<ruby><rb>泰平</rb><rt>たいへい</rt></ruby>を謳歌することは、近い将来のことです。そのとき、だれが天下を統一するか。あなたの御望みに応じて、こんなことをおこたえしておきましょう――」といって、つぎのような八字の句をうたいあげた。その句は、

「<ruby><rb>堯蓂日杲</rb><rt>ぎょうめいひにあきらかに</rt></ruby>　　　<ruby><rb>百姓帰家</rb><rt>ひゃくせいいえによる</rt></ruby>」

（堯帝の聖代に蓂莢という瑞草生じ、日は高く泰平の世をてらし、天下万民はそれぞれ家に安住していた）

左内と黄金の精の間にはいろいろとおもしろいはなしがとりかわされたが、それもようやく終りになって、折から遠くの寺でつきだす午前四時の鐘が夜あけの近いことをしらせた。それを聞くと、黄金の精は、「おや、もう夜があけましたね。おいとまをいただくとしましょう。今夜の長ばなしですっかりあなたのおやすみを邪魔してしまいました」といって、座をたって行くような様子をしたが、ふっとその姿はかき消すように見えなくなった。

左内は、つくづくとこの一夜中のことを思いおこして、黄金の精のいった「堯蓂日杲、百姓帰家」の句を考えてみると、「百姓家に帰す」の句が「家康に帰す」という意味を暗示しているように思われ、精のいった真意のほどもほぼ<ruby><rb>会得</rb><rt>えとく</rt></ruby>されて、その言をふかく信ずる気になった。まことに<ruby><rb>瑞草</rb><rt>ずいそう</rt></ruby>の生ずるようなめでたい代にめぐりあうべき瑞兆の言葉であり、めでたいはなしである。

  


## 校注　雨月物語

  


## 雨月物語序

一羅子撰水滸。而三世生唖児。二紫媛著源語。而一旦堕悪趣者。三蓋為業所偪耳。然而観其文。各〻奮奇態。四啽哢逼真。五低昂宛転。令読者心気六洞越也。可見鑑事実于千古焉。余適有七鼓腹之閑話。衝口吐出。八雉雊竜戦。九自以為杜撰。則一〇摘読之者。一一固当不謂信也。一二豈可求醜脣平鼻之報哉。一三明和戊子晩春。雨霽月朦朧之夜。窓下編成。一四以畀梓氏。題曰雨月物語。云。一五剪枝畸人書

一六　一七



  


<ruby><rb>羅子</rb><rt>らし</rt></ruby>、<ruby><rb>水滸</rb><rt>すいこ</rt></ruby>を<ruby><rb>撰</rb><rt>せん</rt></ruby>して、三世<ruby><rb>唖児</rb><rt>あじ</rt></ruby>を<ruby><rb>生</rb><rt>う</rt></ruby>み、<ruby><rb>紫媛</rb><rt>しゑん</rt></ruby>、<ruby><rb>源語</rb><rt>げんご</rt></ruby>を<ruby><rb>著</rb><rt>あらは</rt></ruby>して、一旦悪趣に<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>つるは、<ruby><rb>蓋</rb><rt>けだ</rt></ruby>し<ruby><rb>業</rb><rt>ごふ</rt></ruby>のために<ruby><rb>偪</rb><rt>せま</rt></ruby>らるるところのみ。然り而して其の文を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>るに、各々<ruby><rb>奇態</rb><rt>きたい</rt></ruby>を<ruby><rb>奮</rb><rt>ふる</rt></ruby>ひ、<ruby><rb>啽哢</rb><rt>あんろう</rt></ruby><ruby><rb>真</rb><rt>しん</rt></ruby>に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>り、<ruby><rb>低昂宛転</rb><rt>ていかうゑんてん</rt></ruby>、読者の心気をして<ruby><rb>洞越</rb><rt>どうゑつ</rt></ruby>たらしむるなり。事実を千古に<ruby><rb>鑑</rb><rt>かんが</rt></ruby>みらるべし。<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby><ruby><rb>適</rb><rt>たまたま</rt></ruby><ruby><rb>鼓腹</rb><rt>こふく</rt></ruby>の閑話あり、口を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>きて吐き<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>だす。<ruby><rb>雉</rb><rt>きじ</rt></ruby><ruby><rb>雊</rb><rt>な</rt></ruby>き竜戦ふ、<ruby><rb>自</rb><rt>みづか</rt></ruby>らおもへらく杜撰なりと。則ち之を<ruby><rb>摘読</rb><rt>てきどく</rt></ruby>する者は、<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より<ruby><rb>当</rb><rt>まさ</rt></ruby>に信と謂はざるべきなり。<ruby><rb>豈</rb><rt>あに</rt></ruby><ruby><rb>醜脣平鼻</rb><rt>しうしんへいび</rt></ruby>の<ruby><rb>報</rb><rt>むくい</rt></ruby>を求むべけんや。<ruby><rb>明和</rb><rt>めいわ</rt></ruby><ruby><rb>戊子</rb><rt>ぼし</rt></ruby>晩春、雨<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れ月<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>の夜、<ruby><rb>窓下</rb><rt>さうか</rt></ruby>に編成し、以て<ruby><rb>梓氏</rb><rt>しし</rt></ruby>に<ruby><rb>畀</rb><rt>あた</rt></ruby>ふ。題して<ruby><rb>雨月物語</rb><rt>うげつものがたり</rt></ruby>と<ruby><rb>曰</rb><rt>い</rt></ruby>ふと云ふ。<ruby><rb>剪枝畸人</rb><rt>せんしきじん</rt></ruby>書す。

㊞　￼

一　羅貫中。中国一三、四世紀の人。水滸伝を著わしたために子孫三代唖児が生まれたという俗説がある（西湖遊覧志余。続文献通考等）「羅氏が三代まで唖子をうみしなども云ふ」（秋山記・秋成）。

二　紫式部。源氏物語を著わしたために地獄におちたという俗説がある（今物語、宝物集等）。秋成も秋山記でそのことを書いている。

三　思うに悪業の為にこんな報いにせまられたというべきであろう。

四　鳥の黙したりさえずったりする声の形容。ここでは文章の調子、勢い。

五　文章の調子が或は低く或は高く、あたかもころがるようになめらかで流暢である。

六　つよく感銘する。

七　泰平の世を謳歌するようなのんきな無駄ばなし。鼓腹は、飽食して腹鼓をうち、泰平を楽しむ。

八　雉が鳴き竜が戦うような奇怪千万な怪奇談。

九　自分でもこれは杜撰であると思う。杜撰はよりどころなく疎漏なこと。

一〇　ひろい読む。

一一　もとよりこれが信ずるに足るものだというはずがない。

一二　どうして子孫に口唇裂や平たい鼻の変わり者が生まれるという業の報いをうけるはずがあろうか。

一三　明和五年（一七六八）三月。秋成三五歳。

一四　出版業者に与えた。版行にふした。

一五　上田秋成の戯号。秋成は五歳の折、重い痘を病み、その結果、右手の中指と左手の人さし指が短くなり、不自由になった。そのことから一時的につけた号である。枝は肢と同じで、指に通ず。剪枝は木をきるはさみの意味もある。畸人は変人、変わり者。

一六　「子虚後人」とあって、秋成の一時的な戯号。いたずらに妄言を吐く人物の子孫という意味。

一七　「遊戯三昧」とある。遊びたわむれることにむちゅうになること。五雑組、巻十五に「凡為小説及雑劇戯文、須是虚実相半、方為游戯三昧之筆」とある。

  


## 雨月物語　巻之一

## 一<ruby><rb>白峯</rb><rt>しらみね</rt></ruby>

二あふ坂の<ruby><rb>関守</rb><rt>せきもり</rt></ruby>にゆるされてより、三秋こし山の<ruby><rb>黄葉</rb><rt>もみぢ</rt></ruby>見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる四<ruby><rb>鳴海</rb><rt>なるみ</rt></ruby>がた、<ruby><rb>不尽</rb><rt>ふじ</rt></ruby>の<ruby><rb>高嶺</rb><rt>たかね</rt></ruby>の<ruby><rb>煙</rb><rt>けぶり</rt></ruby>、五浮嶋がはら、六清見が関、七大<ruby><rb>礒</rb><rt>いそ</rt></ruby>小いその浦々、八むらさき<ruby><rb>艶</rb><rt>にほ</rt></ruby>ふ武蔵野の原、九<ruby><rb>塩竈</rb><rt>しほがま</rt></ruby>の<ruby><rb>和</rb><rt>な</rt></ruby>ぎたる朝げしき、一〇<ruby><rb>象潟</rb><rt>きさがた</rt></ruby>の<ruby><rb>蜑</rb><rt>あま</rt></ruby>が<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>や、一一佐野の<ruby><rb>舟梁</rb><rt>ふなばし</rt></ruby>、一二木曾の<ruby><rb>桟橋</rb><rt>かけはし</rt></ruby>、心のとどまらぬかたぞなきに、<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>西の国の歌枕見まほしとて、一三仁安三年の秋は、一四<ruby><rb>葭</rb><rt>あし</rt></ruby>がちる<ruby><rb>難波</rb><rt>なには</rt></ruby>を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て、一五須磨明石の浦ふく風を身に一六しめつも、行々一七<ruby><rb>讃岐</rb><rt>（さぬき）</rt></ruby>の<ruby><rb>真尾坂</rb><rt>みをざか</rt></ruby>の<ruby><rb>林</rb><rt>はやし</rt></ruby>といふにしばらく一八<ruby><rb>筇</rb><rt>つゑ</rt></ruby>を<ruby><rb>植</rb><rt>とど</rt></ruby>む。草枕はるけき旅路の<ruby><rb>労</rb><rt>いたはり</rt></ruby>にもあらで、一九<ruby><rb>観念修行</rb><rt>くわんねんしゆぎやう</rt></ruby>の<ruby><rb>便</rb><rt>たより</rt></ruby>せし<ruby><rb>庵</rb><rt>いほり</rt></ruby>なりけり。

この里ちかき白峯といふ所にこそ、二〇新院の<ruby><rb>陵</rb><rt>みささぎ</rt></ruby>ありと聞きて、拝みたてまつらばやと、<ruby><rb>十月</rb><rt>かみなづき</rt></ruby>はじめつかた、かの山に<ruby><rb>登</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る。<ruby><rb>松</rb><rt>まつ</rt></ruby><ruby><rb>柏</rb><rt>かしは</rt></ruby>は奥ふかく<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>りあひて、二一<ruby><rb>青雲</rb><rt>あをぐも</rt></ruby>の<ruby><rb>軽靡</rb><rt>たなび</rt></ruby>く日すら<ruby><rb>小雨</rb><rt>こさめ</rt></ruby>そぼふるがごとし。二二<ruby><rb>児</rb><rt>ちご</rt></ruby>が<ruby><rb>嶽</rb><rt>だけ</rt></ruby>といふ<ruby><rb>嶮</rb><rt>けは</rt></ruby>しき<ruby><rb>嶽</rb><rt>みね</rt></ruby><ruby><rb>背</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に<ruby><rb>聳</rb><rt>そばだ</rt></ruby>ちて、千<ruby><rb>仞</rb><rt>じん</rt></ruby>の<ruby><rb>谷底</rb><rt>たにそこ</rt></ruby>より<ruby><rb>雲霧</rb><rt>くもきり</rt></ruby>おひのぼれば、<ruby><rb>咫尺</rb><rt>まのあたり</rt></ruby>をも<ruby><rb>鬱俋</rb><rt>おぼつかな</rt></ruby>きここちせらる。<ruby><rb>木立</rb><rt>こだち</rt></ruby>わづかに<ruby><rb>間</rb><rt>す</rt></ruby>きたる所に、<ruby><rb>土</rb><rt>つち</rt></ruby><ruby><rb>墩</rb><rt>たか</rt></ruby>く<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>みたるが上に、石を三かさねに<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>みなしたるが、二三<ruby><rb>荊蕀</rb><rt>うばら</rt></ruby><ruby><rb>薜蘿</rb><rt>かづら</rt></ruby>にうづもれてうらがなしきを、これならん<ruby><rb>御墓</rb><rt>みはか</rt></ruby>にやと心もかきくらまされて、さらに<ruby><rb>夢現</rb><rt>ゆめうつつ</rt></ruby>をもわきがたし。

<ruby><rb>現</rb><rt>げ</rt></ruby>にまのあたりに見奉りしは、二四<ruby><rb>紫宸</rb><rt>ししん</rt></ruby><ruby><rb>清涼</rb><rt>せいりやう</rt></ruby>の<ruby><rb>御座</rb><rt>みくら</rt></ruby>に<ruby><rb>朝政</rb><rt>おほまつりごと</rt></ruby>きこしめさせ給ふを、<ruby><rb>百</rb><rt>もも</rt></ruby>の<ruby><rb>官人</rb><rt>つかさ</rt></ruby>は、かく<ruby><rb>賢</rb><rt>さか</rt></ruby>しき君ぞとて、<ruby><rb>詔</rb><rt>みこと</rt></ruby><ruby><rb>恐</rb><rt>かしこ</rt></ruby>みてつかへまつりし。二五<ruby><rb>近衛院</rb><rt>このゑのゐん</rt></ruby>に<ruby><rb>禅</rb><rt>ゆづ</rt></ruby>りましても、二六<ruby><rb>藐姑射</rb><rt>はこや</rt></ruby>の<ruby><rb>山</rb><rt>やま</rt></ruby>の<ruby><rb>瓊</rb><rt>たま</rt></ruby>の<ruby><rb>林</rb><rt>はやし</rt></ruby>に<ruby><rb>禁</rb><rt>し</rt></ruby>めさせ給ふを、思ひきや、二七<ruby><rb>麋鹿</rb><rt>びろく</rt></ruby>のかよふ跡のみ見えて、<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>でつかふる人もなき<ruby><rb>深山</rb><rt>みやま</rt></ruby>の二八<ruby><rb>荊</rb><rt>おどろ</rt></ruby>の下に神がくれ給はんとは。二九<ruby><rb>万乗</rb><rt>ばんじよう</rt></ruby>の君にてわたらせ給ふさへ、三〇<ruby><rb>宿世</rb><rt>すくせ</rt></ruby>の<ruby><rb>業</rb><rt>ごふ</rt></ruby>といふもののおそろしくもそひたてまつりて、罪をのがれさせ給はざりしよと、世のはかなきに思ひつづけて涙わき出づるがごとし。

<ruby><rb>終夜</rb><rt>よもすがら</rt></ruby><ruby><rb>供養</rb><rt>くやう</rt></ruby>したてまつらばやと、御墓の前のたひらなる石の上に座をしめて、<ruby><rb>経文</rb><rt>きやうもん</rt></ruby><ruby><rb>徐</rb><rt>しづ</rt></ruby>かに<ruby><rb>誦</rb><rt>ず</rt></ruby>しつつも、かつ歌よみてたてまつる。

三一松山の浪のけしきはかはらじを

かたなく君はなりまさりけり

<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>心<ruby><rb>怠</rb><rt>おこた</rt></ruby>らず<ruby><rb>供養</rb><rt>きようやう</rt></ruby>す。露いかばかり<ruby><rb>袂</rb><rt>そで</rt></ruby>にふかかりけん。日は<ruby><rb>没</rb><rt>い</rt></ruby>りしほどに、山深き夜のさま三二<ruby><rb>常</rb><rt>ただ</rt></ruby>ならね、石の<ruby><rb>牀</rb><rt>ゆか</rt></ruby>木の葉の<ruby><rb>衾</rb><rt>ふすま</rt></ruby>いと寒く、<ruby><rb>神</rb><rt>しん</rt></ruby><ruby><rb>清</rb><rt>す</rt></ruby>み<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby><ruby><rb>冷</rb><rt>ひ</rt></ruby>えて、三三物とはなしに<ruby><rb>凄</rb><rt>すざま</rt></ruby>じきここちせらる。月は出でしかど、三四<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>きが<ruby><rb>林</rb><rt>もと</rt></ruby>は影をもらさねば、三五あやなき<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>にうらぶれて、<ruby><rb>眠</rb><rt>ねぶ</rt></ruby>るともなきに、まさしく三六<ruby><rb>円位</rb><rt>ゑんゐ</rt></ruby>々々とよぶ声す。

<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をひらきてすかし見れば、其の<ruby><rb>形</rb><rt>さま</rt></ruby><ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt></ruby>なる人の、<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>高く<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せおとろへたるが、顔のかたち、着たる衣の<ruby><rb>色</rb><rt>いろ</rt></ruby><ruby><rb>紋</rb><rt>あや</rt></ruby>も見えで、こなたにむかひて立てるを、西行もとより三七<ruby><rb>道心</rb><rt>だうしん</rt></ruby>の<ruby><rb>法師</rb><rt>ほふし</rt></ruby>なれば、恐ろしともなくて、ここに来たるは<ruby><rb>誰</rb><rt>た</rt></ruby>そと答ふ。かの人いふ。<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>によみつること葉のかへりごと聞えんとて見えつるなりとて、

三八松山の浪にながれてこし船の

やがてむなしくなりにけるかな

<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しくもまうでつるよ、と聞ゆるに、新院の<ruby><rb>霊</rb><rt>れい</rt></ruby>なることをしりて、地にぬかづき涙を流していふ。さりとていかに迷はせ給ふや。三九<ruby><rb>濁世</rb><rt>ぢよくせ</rt></ruby>を<ruby><rb>厭離</rb><rt>えんり</rt></ruby>し給ひつることのうらやましく侍りてこそ、<ruby><rb>今夜</rb><rt>こよひ</rt></ruby>の四〇<ruby><rb>法施</rb><rt>ほふせ</rt></ruby>に<ruby><rb>随縁</rb><rt>ずゐえん</rt></ruby>したてまつるを、四一<ruby><rb>現形</rb><rt>げぎやう</rt></ruby>し給ふはありがたくも悲しき御こころにし侍り。ひたぶるに四二<ruby><rb>隔生即志</rb><rt>きやくしやうそくまう</rt></ruby>して、四三<ruby><rb>仏果円満</rb><rt>ぶつくわゑんまん</rt></ruby>の<ruby><rb>位</rb><rt>くらゐ</rt></ruby>に昇らせ給へと、<ruby><rb>情</rb><rt>こころ</rt></ruby>をつくして<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>め奉る。

新院<ruby><rb>呵</rb><rt>から</rt></ruby>々と笑はせ給ひ、<ruby><rb>汝</rb><rt>なんぢ</rt></ruby>しらず、近<ruby><rb>来</rb><rt>ごろ</rt></ruby>の世の<ruby><rb>乱</rb><rt>みだれ</rt></ruby>は<ruby><rb>朕</rb><rt>わ</rt></ruby>がなす<ruby><rb>事</rb><rt>わざ</rt></ruby>なり。生きてありし日より魔道にこころざしをかたぶけて、四四<ruby><rb>平治</rb><rt>へいぢ</rt></ruby>の<ruby><rb>乱</rb><rt>みだれ</rt></ruby>を<ruby><rb>発</rb><rt>おこ</rt></ruby>さしめ、死して<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>四五<ruby><rb>朝家</rb><rt>てうか</rt></ruby>に<ruby><rb>崇</rb><rt>たたり</rt></ruby>をなす。見よ見よ、やがて<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>が<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>に大<ruby><rb>乱</rb><rt>らん</rt></ruby>を生ぜしめん、といふ。西行此の<ruby><rb>詔</rb><rt>みことのり</rt></ruby>に涙をとどめて、こは浅ましき四六御こころばへをうけたまはるものかな。君はもとよりも四七<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>の聞えましませば、四八<ruby><rb>王道</rb><rt>わうだう</rt></ruby>のことわりはあきらめさせ給ふ。こころみに<ruby><rb>討</rb><rt>たづ</rt></ruby>ね<ruby><rb>請</rb><rt>まう</rt></ruby>すべし。そも四九<ruby><rb>保元</rb><rt>ほうげん</rt></ruby>の<ruby><rb>御謀叛</rb><rt>ごむほん</rt></ruby>は五〇<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>の<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby>の教へ給ふことわりにも<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>はじとておぼし立たせ給ふか。又みづからの<ruby><rb>人慾</rb><rt>にんよく</rt></ruby>より<ruby><rb>計策</rb><rt>たばか</rt></ruby>り給ふか。<ruby><rb>詳</rb><rt>つばら</rt></ruby>に<ruby><rb>告</rb><rt>の</rt></ruby>らせ給へと<ruby><rb>奏</rb><rt>まう</rt></ruby>す。其の時院の<ruby><rb>御</rb><rt>み</rt></ruby>けしきかはらせ給ひ、汝聞け、帝位は人の<ruby><rb>極</rb><rt>きはみ</rt></ruby>なり。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し<ruby><rb>人道</rb><rt>にんだう</rt></ruby><ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>より乱す<ruby><rb>則</rb><rt>とき</rt></ruby>は、天の<ruby><rb>命</rb><rt>めい</rt></ruby>に応じ、<ruby><rb>民</rb><rt>たみ</rt></ruby>の<ruby><rb>望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>に<ruby><rb>順</rb><rt>したが</rt></ruby>うて是を<ruby><rb>伐</rb><rt>う</rt></ruby>つ。<ruby><rb>抑</rb><rt>そもそも</rt></ruby>五一<ruby><rb>永治</rb><rt>えいぢ</rt></ruby>の昔、<ruby><rb>犯</rb><rt>をか</rt></ruby>せる<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>もなきに、五二父<ruby><rb>帝</rb><rt>みかど</rt></ruby>の<ruby><rb>命</rb><rt>みこと</rt></ruby>を<ruby><rb>恐</rb><rt>かしこ</rt></ruby>みて、三歳の五三<ruby><rb>体仁</rb><rt>としひと</rt></ruby>に<ruby><rb>代</rb><rt>よ</rt></ruby>を<ruby><rb>禅</rb><rt>ゆづ</rt></ruby>りし心、人慾深きといふべからず。体仁<ruby><rb>早世</rb><rt>さうせい</rt></ruby>ましては、<ruby><rb>朕</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>皇子</rb><rt>みこ</rt></ruby>の五四<ruby><rb>重仁</rb><rt>しげひと</rt></ruby>こそ国しらすべきものをと、<ruby><rb>朕</rb><rt>われ</rt></ruby>も人も思ひをりしに、五五<ruby><rb>美福門院</rb><rt>びふくもんゐん</rt></ruby>が<ruby><rb>妬</rb><rt>ねたみ</rt></ruby>に五六さへられて、四の宮の五七<ruby><rb>雅仁</rb><rt>まさひと</rt></ruby>に<ruby><rb>代</rb><rt>よ</rt></ruby>を<ruby><rb>簒</rb><rt>うば</rt></ruby>はれしは深き<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>にあらずや。重仁五八国しらすべき才あり。雅仁何らのうつは物ぞ。人の徳をえらばずも、<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>が<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>の事を五九<ruby><rb>後宮</rb><rt>こうきゆう</rt></ruby>にかたらひ給ふは<ruby><rb>父帝</rb><rt>ちちみかど</rt></ruby>の罪なりし。されど世にあらせ給ふほどは<ruby><rb>孝信</rb><rt>かうしん</rt></ruby>をまもりて、六〇<ruby><rb>勤</rb><rt>ゆめ</rt></ruby><ruby><rb>色</rb><rt>いろ</rt></ruby>にも出さざりしを、<ruby><rb>崩</rb><rt>かく</rt></ruby>れさせ給ひてはいつまでありなんと、<ruby><rb>武</rb><rt>たけ</rt></ruby>きこころざしを<ruby><rb>発</rb><rt>おこ</rt></ruby>せしなり。六一臣として君を<ruby><rb>伐</rb><rt>う</rt></ruby>つすら、天に応じ民の<ruby><rb>望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>にしたがへば、六二<ruby><rb>周</rb><rt>しう</rt></ruby>八百年の<ruby><rb>創業</rb><rt>さうげふ</rt></ruby>となるものを、まして六三しるべき<ruby><rb>位</rb><rt>くらゐ</rt></ruby>ある身にて、六四<ruby><rb>牝鶏</rb><rt>ひんけい</rt></ruby>の<ruby><rb>晨</rb><rt>あした</rt></ruby>する<ruby><rb>代</rb><rt>よ</rt></ruby>を取つて<ruby><rb>代</rb><rt>かは</rt></ruby>らんに、道を失ふといふべからず。汝、六五家を出でて<ruby><rb>仏</rb><rt>ほとけ</rt></ruby>に<ruby><rb>婬</rb><rt>いん</rt></ruby>し、六六<ruby><rb>未来</rb><rt>みらい</rt></ruby><ruby><rb>解脱</rb><rt>げだつ</rt></ruby>の利慾を願ふ心より、六七<ruby><rb>人道</rb><rt>にんだう</rt></ruby>をもて<ruby><rb>因果</rb><rt>いんぐわ</rt></ruby>に引き入れ、六八<ruby><rb>堯舜</rb><rt>げうしゆん</rt></ruby>のをしへを<ruby><rb>釈門</rb><rt>しやくもん</rt></ruby>に<ruby><rb>混</rb><rt>こん</rt></ruby>じて<ruby><rb>朕</rb><rt>われ</rt></ruby>に説くやと、御声あららかに<ruby><rb>告</rb><rt>の</rt></ruby>らせ給ふ。

西行いよよ恐るる色もなく座をすすみて、君が<ruby><rb>告</rb><rt>の</rt></ruby>らせ給ふ所は、人道のことわりをかりて六九<ruby><rb>慾塵</rb><rt>よくぢん</rt></ruby>をのがれ給はず。遠く<ruby><rb>辰旦</rb><rt>もろこし</rt></ruby>をいふまでもあらず。<ruby><rb>皇朝</rb><rt>くわうてう</rt></ruby>の昔、七〇<ruby><rb>誉田</rb><rt>ほんだ</rt></ruby>の天皇、兄の<ruby><rb>皇子</rb><rt>みこ</rt></ruby>七一<ruby><rb>大鷦鷯</rb><rt>おほさざき</rt></ruby>の<ruby><rb>王</rb><rt>きみ</rt></ruby>をおきて、<ruby><rb>季</rb><rt>すゑ</rt></ruby>の<ruby><rb>皇子</rb><rt>みこ</rt></ruby>七二<ruby><rb>菟道</rb><rt>うぢ</rt></ruby>の<ruby><rb>王</rb><rt>きみ</rt></ruby>を七三<ruby><rb>日嗣</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>太子</rb><rt>みこ</rt></ruby>となし給ふ。天皇<ruby><rb>崩御</rb><rt>かみがく</rt></ruby>れ給ひては、<ruby><rb>兄弟</rb><rt>はらから</rt></ruby>相<ruby><rb>譲</rb><rt>ゆづ</rt></ruby>りて位に<ruby><rb>昇</rb><rt>のぼ</rt></ruby>り給はず。三とせをわたりても<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>果つべくもあらぬを、<ruby><rb>菟道</rb><rt>うぢ</rt></ruby>の<ruby><rb>王</rb><rt>きみ</rt></ruby>深く<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>ひ給ひて、<ruby><rb>豈</rb><rt>あに</rt></ruby>久しく<ruby><rb>生</rb><rt>い</rt></ruby>きて天が<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>を<ruby><rb>煩</rb><rt>わづら</rt></ruby>はしめんやとて、七四みづから<ruby><rb>宝算</rb><rt>よはひ</rt></ruby>を<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>たせ給ふものから、<ruby><rb>罷事</rb><rt>やんごと</rt></ruby>なくて兄の<ruby><rb>皇子</rb><rt>みこ</rt></ruby><ruby><rb>御位</rb><rt>みくらゐ</rt></ruby>に<ruby><rb>即</rb><rt>つ</rt></ruby>かせ給ふ。是れ七五天<ruby><rb>業</rb><rt>げふ</rt></ruby>を重んじ<ruby><rb>孝悌</rb><rt>かうてい</rt></ruby>をまもり、<ruby><rb>忠</rb><rt>まこと</rt></ruby>をつくして<ruby><rb>人慾</rb><rt>にんよく</rt></ruby>なし。<ruby><rb>堯舜</rb><rt>げうしゆん</rt></ruby>の道といふなるべし。本朝に儒教を<ruby><rb>尊</rb><rt>たふと</rt></ruby>みて<ruby><rb>専</rb><rt>もは</rt></ruby>ら<ruby><rb>王道</rb><rt>わうだう</rt></ruby>の<ruby><rb>輔</rb><rt>たすけ</rt></ruby>とするは、<ruby><rb>菟道</rb><rt>うぢ</rt></ruby>の<ruby><rb>王</rb><rt>きみ</rt></ruby>、<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>の七六<ruby><rb>王仁</rb><rt>わに</rt></ruby>を召して学ばせ給ふをはじめなれば、此の<ruby><rb>兄弟</rb><rt>はらから</rt></ruby>の<ruby><rb>王</rb><rt>きみ</rt></ruby>の<ruby><rb>御</rb><rt>み</rt></ruby>心ぞ、<ruby><rb>即</rb><rt>やが</rt></ruby>て<ruby><rb>漢土</rb><rt>もろこし</rt></ruby>の<ruby><rb>聖</rb><rt>ひじり</rt></ruby>の御心ともいふべし。又、周の<ruby><rb>創</rb><rt>はじめ</rt></ruby>、七七<ruby><rb>武王</rb><rt>ぶわう</rt></ruby>一たび<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>りて天下の民を安くす。臣として君を<ruby><rb>弑</rb><rt>しい</rt></ruby>すといふべからず。<ruby><rb>仁</rb><rt>じん</rt></ruby>を<ruby><rb>賊</rb><rt>ぬす</rt></ruby>み義を賊む、一<ruby><rb>夫</rb><rt>ぷ</rt></ruby>の<ruby><rb>紂</rb><rt>ちう</rt></ruby>を<ruby><rb>誅</rb><rt>ちゆう</rt></ruby>するなりといふ事、七八<ruby><rb>孟子</rb><rt>まうじ</rt></ruby>といふ書にありと人の伝へに聞き<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>る。されば<ruby><rb>漢土</rb><rt>もろこし</rt></ruby>の書は、<ruby><rb>経典</rb><rt>けいてん</rt></ruby>七九<ruby><rb>史策</rb><rt>しさく</rt></ruby><ruby><rb>詩文</rb><rt>しぶん</rt></ruby>にいたるまで渡さざるはなきに、かの孟子の書ばかりいまだ日本に来らず。八〇此の書を積みて来る船は、八一必ずしも<ruby><rb>暴</rb><rt>あらき</rt></ruby>風にあひて<ruby><rb>沈没</rb><rt>しづ</rt></ruby>むよしをいへり。それをいかなる故ぞととふに、我が国は天照すおほん神の<ruby><rb>開闢</rb><rt>はつぐに</rt></ruby>しろしめししより、<ruby><rb>日嗣</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>大王</rb><rt>きみ</rt></ruby><ruby><rb>絶</rb><rt>た</rt></ruby>ゆる事なきを、かく口<ruby><rb>賢</rb><rt>さか</rt></ruby>しきをしへを伝へなば、末の世に八二<ruby><rb>神孫</rb><rt>しんそん</rt></ruby>を奪うて<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>なしといふ<ruby><rb>敵</rb><rt>あた</rt></ruby>も出づべしと、<ruby><rb>八百</rb><rt>やほ</rt></ruby>よろづの神の<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>ませ給うて、神風を起して船を<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがへ</rt></ruby>し給ふと聞く。されば<ruby><rb>他国</rb><rt>かのくに</rt></ruby>の<ruby><rb>聖</rb><rt>ひじり</rt></ruby>の教も、ここの<ruby><rb>国土</rb><rt>くにつち</rt></ruby>にふさはしからぬことすくなからず。<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>八三<ruby><rb>詩</rb><rt>し</rt></ruby>にもいはざるや。八四兄弟<ruby><rb>牆</rb><rt>うち</rt></ruby>に<ruby><rb>鬩</rb><rt>せめ</rt></ruby>ぐとも<ruby><rb>外</rb><rt>よそ</rt></ruby>の<ruby><rb>侮</rb><rt>あなどり</rt></ruby>を<ruby><rb>禦</rb><rt>ふせ</rt></ruby>げよと。さるを<ruby><rb>骨肉</rb><rt>こつにく</rt></ruby>の愛をわすれ給ひ、八五あまさへ八六一院<ruby><rb>崩御</rb><rt>かみがく</rt></ruby>れ給ひて、八七<ruby><rb>殯</rb><rt>もがり</rt></ruby>の宮に<ruby><rb>肌膚</rb><rt>みはだへ</rt></ruby>もいまだ<ruby><rb>寒</rb><rt>ひ</rt></ruby>えさせたまはぬに、<ruby><rb>御旗</rb><rt>みはた</rt></ruby>なびかせ<ruby><rb>弓末</rb><rt>ゆずゑ</rt></ruby>ふり立て<ruby><rb>宝祚</rb><rt>みくらゐ</rt></ruby>をあらそひ給ふは、不孝の罪これより<ruby><rb>劇</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しきはあらじ。八八天下は<ruby><rb>神器</rb><rt>じんき</rt></ruby>なり。人のわたくしをもて奪ふとも<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>べからぬことわりなるを、たとへ<ruby><rb>重仁王</rb><rt>しげひとぎみ</rt></ruby>の<ruby><rb>即位</rb><rt>みくらゐ</rt></ruby>は民の仰ぎ望む所なりとも、徳を<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>き<ruby><rb>和</rb><rt>くわ</rt></ruby>を<ruby><rb>施</rb><rt>ほどこ</rt></ruby>し給はで、道ならぬみわざをもて<ruby><rb>代</rb><rt>よ</rt></ruby>を乱し給ふ<ruby><rb>則</rb><rt>とき</rt></ruby>は、きのふまで君を<ruby><rb>慕</rb><rt>した</rt></ruby>ひしも、けふは<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち<ruby><rb>怨敵</rb><rt>あた</rt></ruby>となりて、<ruby><rb>本意</rb><rt>ほい</rt></ruby>をも<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げたまはで、いにしへより八九<ruby><rb>例</rb><rt>あと</rt></ruby>なき<ruby><rb>刑</rb><rt>つみ</rt></ruby>を得給ひて、かかる<ruby><rb>鄙</rb><rt>ひな</rt></ruby>の国の土とならせ給ふなり。ただただ九〇<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>き<ruby><rb>讐</rb><rt>あた</rt></ruby>をわすれ給うて、<ruby><rb>浄土</rb><rt>じやうど</rt></ruby>にかへらせ給はんこそ、<ruby><rb>願</rb><rt>ねが</rt></ruby>はまほしき<ruby><rb>叡慮</rb><rt>みこころ</rt></ruby>なれと、はばかることなく<ruby><rb>奏</rb><rt>まを</rt></ruby>しける。

院、<ruby><rb>長嘘</rb><rt>ながきいき</rt></ruby>をつがせ給ひ、今事を<ruby><rb>正</rb><rt>ただ</rt></ruby>して罪をとふ、ことわりなきにあらず。されどいかにせん。この嶋に<ruby><rb>謫</rb><rt>はぶ</rt></ruby>られて、九一<ruby><rb>高遠</rb><rt>たかとほ</rt></ruby>が松山の家に<ruby><rb>困</rb><rt>くるし</rt></ruby>められ、日に三たびの九二<ruby><rb>御膳</rb><rt>おもの</rt></ruby>すすむるよりは、まゐりつかふる者もなし。只<ruby><rb>天</rb><rt>あま</rt></ruby>とぶ<ruby><rb>雁</rb><rt>かり</rt></ruby>の<ruby><rb>小夜</rb><rt>さよ</rt></ruby>の枕におとづるるを聞けば、都にや行くらんとなつかしく、<ruby><rb>暁</rb><rt>あかつき</rt></ruby>の千鳥の<ruby><rb>洲崎</rb><rt>すさき</rt></ruby>にさわぐも、心をくだく<ruby><rb>種</rb><rt>たね</rt></ruby>となる。九三<ruby><rb>烏</rb><rt>からす</rt></ruby>の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>は白くなるとも、都には<ruby><rb>還</rb><rt>かへ</rt></ruby>るべき<ruby><rb>期</rb><rt>とき</rt></ruby>もあらねば、定めて九四<ruby><rb>海畔</rb><rt>あまべ</rt></ruby>の<ruby><rb>鬼</rb><rt>おに</rt></ruby>とならんずらん。ひたすら<ruby><rb>後世</rb><rt>ごせ</rt></ruby>のためにとて、九五五部の<ruby><rb>大乗経</rb><rt>だいじようぎやう</rt></ruby>をうつしてけるが、九六<ruby><rb>貝鐘</rb><rt>かひがね</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>も聞えぬ<ruby><rb>荒礒</rb><rt>ありそ</rt></ruby>にとどめんもかなし。せめては筆の跡ばかりを<ruby><rb>洛</rb><rt>みやこ</rt></ruby>の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に入れさせ給へと、九七<ruby><rb>仁和寺</rb><rt>にんわじ</rt></ruby>の<ruby><rb>御室</rb><rt>みむろ</rt></ruby>の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ、経にそへてよみておくりける。

九八浜千鳥跡はみやこにかよへども

身は松山に<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>をのみぞ<ruby><rb>鳴</rb><rt>な</rt></ruby>く

しかるに九九<ruby><rb>少納言信西</rb><rt>せうなごんしんぜい</rt></ruby>がはからひとして、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し<ruby><rb>呪咀</rb><rt>じゆそ</rt></ruby>の心にやと<ruby><rb>奏</rb><rt>そう</rt></ruby>しけるより、そがままにかへされしぞうらみなれ。いにしへより<ruby><rb>倭</rb><rt>やまと</rt></ruby><ruby><rb>漢土</rb><rt>もろこし</rt></ruby>ともに、国をあらそひて兄弟<ruby><rb>敵</rb><rt>あた</rt></ruby>となりし<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>は珍しからねど、<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>深き事かなと思ふより、<ruby><rb>悪心</rb><rt>あくしん</rt></ruby><ruby><rb>懺悔</rb><rt>さんげ</rt></ruby>の為にとて<ruby><rb>写</rb><rt>うつ</rt></ruby>しぬる御<ruby><rb>経</rb><rt>きやう</rt></ruby>なるを、いかにささふる者ありとも、一〇〇<ruby><rb>親</rb><rt>した</rt></ruby>しきを<ruby><rb>議</rb><rt>はか</rt></ruby>るべき<ruby><rb>令</rb><rt>のり</rt></ruby>にもたがひて、筆の跡だも<ruby><rb>納</rb><rt>い</rt></ruby>れ給はぬ<ruby><rb>叡慮</rb><rt>みこころ</rt></ruby>こそ、今は<ruby><rb>旧</rb><rt>ひさ</rt></ruby>しき<ruby><rb>讐</rb><rt>あた</rt></ruby>なるかな。<ruby><rb>所詮</rb><rt>しよせん</rt></ruby>此の経を一〇一魔道に<ruby><rb>回向</rb><rt>ゑかう</rt></ruby>して、恨をはるかさんと、一すぢにおもひ定めて、<ruby><rb>指</rb><rt>ゆび</rt></ruby>を<ruby><rb>破</rb><rt>やぶ</rt></ruby>り血をもて<ruby><rb>願文</rb><rt>ぐわんもん</rt></ruby>をうつし、経とともに一〇二<ruby><rb>志戸</rb><rt>しと</rt></ruby>の海に<ruby><rb>沈</rb><rt>しづ</rt></ruby>めてし後は、人にも<ruby><rb>見</rb><rt>まみ</rt></ruby>えず深く<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>ぢこもりて、ひとへに魔王となるべき大願をちかひしが、一〇三はた平治の<ruby><rb>乱</rb><rt>みだれ</rt></ruby>ぞ出できぬる。まづ一〇四<ruby><rb>信頼</rb><rt>のぶより</rt></ruby>が高き<ruby><rb>位</rb><rt>くらゐ</rt></ruby>を望む<ruby><rb>驕慢</rb><rt>おごり</rt></ruby>の心をさそうて一〇五<ruby><rb>義朝</rb><rt>よしとも</rt></ruby>をかたらはしむ。かの義朝こそ<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>き<ruby><rb>敵</rb><rt>あた</rt></ruby>なれ。父の一〇六<ruby><rb>為義</rb><rt>ためよし</rt></ruby>をはじめ、<ruby><rb>同胞</rb><rt>はらから</rt></ruby>の<ruby><rb>武士</rb><rt>もののべ</rt></ruby>は皆<ruby><rb>朕</rb><rt>わ</rt></ruby>がために<ruby><rb>命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を捨てしに、<ruby><rb>他一人</rb><rt>かれひとり</rt></ruby><ruby><rb>朕</rb><rt>われ</rt></ruby>に弓を<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>く。一〇七<ruby><rb>為朝</rb><rt>ためとも</rt></ruby>が勇猛、為義一〇八<ruby><rb>忠政</rb><rt>ただまさ</rt></ruby>が<ruby><rb>軍配</rb><rt>たばかり</rt></ruby>に一〇九<ruby><rb>贏目</rb><rt>かついろ</rt></ruby>を見つるに、西南の風に<ruby><rb>焼討</rb><rt>やきうち</rt></ruby>せられ、一一〇白川の宮を出でしより、一一一<ruby><rb>如意</rb><rt>によい</rt></ruby>が<ruby><rb>嶽</rb><rt>みね</rt></ruby>の<ruby><rb>嶮</rb><rt>けは</rt></ruby>しきに足を破られ、<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>ひは一一二山<ruby><rb>賤</rb><rt>がつ</rt></ruby>の<ruby><rb>椎柴</rb><rt>しひしば</rt></ruby>をおほひて雨露を<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎ、<ruby><rb>終</rb><rt>つひ</rt></ruby>に<ruby><rb>擒</rb><rt>とら</rt></ruby>はれて此の嶋に<ruby><rb>謫</rb><rt>はぶ</rt></ruby>られしまで、皆<ruby><rb>義朝</rb><rt>よしとも</rt></ruby>が<ruby><rb>姦</rb><rt>かだま</rt></ruby>しき<ruby><rb>計策</rb><rt>たばかり</rt></ruby>に<ruby><rb>困</rb><rt>くるし</rt></ruby>められしなり。これが<ruby><rb>報</rb><rt>むくい</rt></ruby>を一一三<ruby><rb>虎狼</rb><rt>こらう</rt></ruby>の心に<ruby><rb>障化</rb><rt>しやうげ</rt></ruby>して、<ruby><rb>信頼</rb><rt>のぶより</rt></ruby>が<ruby><rb>隠謀</rb><rt>いんぼう</rt></ruby>にかたらはせしかば、一一四<ruby><rb>地祇</rb><rt>くにつがみ</rt></ruby>に<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>ふ罪、<ruby><rb>武</rb><rt>ぶ</rt></ruby>に<ruby><rb>賢</rb><rt>さと</rt></ruby>からぬ<ruby><rb>清盛</rb><rt>きよもり</rt></ruby>に<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>ひ<ruby><rb>討</rb><rt>う</rt></ruby>たる。<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>父の為義を<ruby><rb>弑</rb><rt>しい</rt></ruby>せし<ruby><rb>報</rb><rt>むくい</rt></ruby><ruby><rb>偪</rb><rt>せま</rt></ruby>りて、一一五家の子に<ruby><rb>謀</rb><rt>はか</rt></ruby>られしは、<ruby><rb>天神</rb><rt>あまつがみ</rt></ruby>の<ruby><rb>祟</rb><rt>たたり</rt></ruby>を<ruby><rb>蒙</rb><rt>かふむ</rt></ruby>りしものよ。又少納言信西は、常に<ruby><rb>己</rb><rt>おのれ</rt></ruby>を<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>ぶりて、人を<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>む心の<ruby><rb>直</rb><rt>なほ</rt></ruby>からぬ、これをさそうて信頼義朝が<ruby><rb>讐</rb><rt>あた</rt></ruby>となせしかば、<ruby><rb>終</rb><rt>つひ</rt></ruby>に家をすてて一一六宇治山の<ruby><rb>坑</rb><rt>あな</rt></ruby>に<ruby><rb>竄</rb><rt>かく</rt></ruby>れしを、一一七はた<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>し<ruby><rb>獲</rb><rt>え</rt></ruby>られて一一八六条河原に<ruby><rb>梟首</rb><rt>かけ</rt></ruby>らる。これ経をかへせし<ruby><rb>諛言</rb><rt>おもねり</rt></ruby>の罪を治めしなり。それがあまり、一一九<ruby><rb>応保</rb><rt>おうほう</rt></ruby>の夏は<ruby><rb>美福門院</rb><rt>びふくもんゐん</rt></ruby>が<ruby><rb>命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を<ruby><rb>窮</rb><rt>せま</rt></ruby>り、<ruby><rb>長寛</rb><rt>ちやうくわん</rt></ruby>の春は一二〇<ruby><rb>忠通</rb><rt>ただみち</rt></ruby>を<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りて、<ruby><rb>朕</rb><rt>われ</rt></ruby>も其の秋世をさりしかど、<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>一二一<ruby><rb>嗔火</rb><rt>しんくわ</rt></ruby><ruby><rb>熾</rb><rt>さかん</rt></ruby>にして<ruby><rb>尽</rb><rt>つ</rt></ruby>きざるままに、<ruby><rb>終</rb><rt>つひ</rt></ruby>に大魔王となりて、三百余類の<ruby><rb>巨魁</rb><rt>かみ</rt></ruby>となる。<ruby><rb>朕</rb><rt>わ</rt></ruby>が一二二けんぞくのなすところ、人の<ruby><rb>福</rb><rt>さいはひ</rt></ruby>を見ては<ruby><rb>転</rb><rt>うつ</rt></ruby>して<ruby><rb>禍</rb><rt>わざはひ</rt></ruby>とし、世の<ruby><rb>治</rb><rt>をさま</rt></ruby>るを見ては<ruby><rb>乱</rb><rt>みだれ</rt></ruby>を<ruby><rb>発</rb><rt>おこ</rt></ruby>さしむ。只清盛が一二三<ruby><rb>人果</rb><rt>にんくわ</rt></ruby>大にして、<ruby><rb>親族氏族</rb><rt>うからやから</rt></ruby>ことごとく高き官位につらなり、おのがままなる<ruby><rb>国政</rb><rt>まつりごと</rt></ruby>を<ruby><rb>執行</rb><rt>とりおこな</rt></ruby>ふといへども、一二四重盛忠義をもて<ruby><rb>輔</rb><rt>たす</rt></ruby>くる故、いまだ<ruby><rb>期</rb><rt>とき</rt></ruby>いたらず。汝見よ、平氏も又久しからじ。<ruby><rb>雅仁</rb><rt>まさひと</rt></ruby><ruby><rb>朕</rb><rt>われ</rt></ruby>に一二五つらかりしほどは<ruby><rb>終</rb><rt>つひ</rt></ruby>に<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>ふべきぞと、御声いやましに恐ろしく聞えけり。西行いふ。君かくまで<ruby><rb>魔界</rb><rt>まかい</rt></ruby>の<ruby><rb>悪業</rb><rt>あくごふ</rt></ruby>につながれて、一二六<ruby><rb>仏土</rb><rt>ぶつど</rt></ruby>に億万里を隔て給へば、ふたたびいはじとて、只<ruby><rb>黙</rb><rt>もく</rt></ruby>してむかひ居たりける。

時に<ruby><rb>峯</rb><rt>みね</rt></ruby><ruby><rb>谷</rb><rt>たに</rt></ruby>ゆすり動きて、風<ruby><rb>叢林</rb><rt>はやし</rt></ruby>を<ruby><rb>僵</rb><rt>たふ</rt></ruby>すがごとく、<ruby><rb>沙石</rb><rt>まさご</rt></ruby>を<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>に<ruby><rb>巻上</rb><rt>まきあ</rt></ruby>ぐる。見る見る一二七一段の<ruby><rb>陰火</rb><rt>いんくわ</rt></ruby>、君が<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>より<ruby><rb>燃上</rb><rt>もえあが</rt></ruby>りて、山も谷も昼のごとくあきらかなり。<ruby><rb>光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>の中につらつら<ruby><rb>御気色</rb><rt>みけしき</rt></ruby>を見たてまつるに、<ruby><rb>朱</rb><rt>あけ</rt></ruby>をそそぎたる<ruby><rb>竜顔</rb><rt>みおもて</rt></ruby>に、一二八<ruby><rb>荊</rb><rt>おどろ</rt></ruby>の<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby><ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>にかかるまで乱れ、<ruby><rb>白眼</rb><rt>しろきまなこ</rt></ruby>を<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>りあげ、<ruby><rb>熱</rb><rt>あつ</rt></ruby>き<ruby><rb>嘘</rb><rt>いき</rt></ruby>をくるしげにつがせ給ふ。御衣は<ruby><rb>柿色</rb><rt>かきいろ</rt></ruby>のいたうすすびたるに、手足の<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>は<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>のごとく<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>ひのびて、さながら魔王の<ruby><rb>形</rb><rt>かたち</rt></ruby>、あさましくもおそろし。<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>にむかひて、一二九<ruby><rb>相模</rb><rt>さがみ</rt></ruby>々々と、<ruby><rb>叫</rb><rt>よ</rt></ruby>ばせ給ふ。あと答へて、<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>のごとくの一三〇<ruby><rb>化鳥</rb><rt>けてう</rt></ruby><ruby><rb>翔</rb><rt>かけ</rt></ruby>来り、<ruby><rb>前</rb><rt>まへ</rt></ruby>に<ruby><rb>伏</rb><rt>ふ</rt></ruby>して<ruby><rb>詔</rb><rt>みことのり</rt></ruby>をまつ。院、かの化鳥にむかひ給ひ、何ぞはやく重盛が<ruby><rb>命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>りて、<ruby><rb>雅仁</rb><rt>まさひと</rt></ruby><ruby><rb>清盛</rb><rt>きよもり</rt></ruby>をくるしめざる。化鳥こたへていふ。一三一<ruby><rb>上皇</rb><rt>じやうくわう</rt></ruby>の<ruby><rb>幸福</rb><rt>さいはひ</rt></ruby>いまだ<ruby><rb>尽</rb><rt>つ</rt></ruby>きず。重盛が忠信ちかづきがたし。今より一三二<ruby><rb>支干</rb><rt>えと</rt></ruby>一<ruby><rb>周</rb><rt>めぐり</rt></ruby>を待たば、重盛が<ruby><rb>命数</rb><rt>よはひ</rt></ruby>既に尽きなん。<ruby><rb>他</rb><rt>かれ</rt></ruby><ruby><rb>死</rb><rt>し</rt></ruby>せば一族の<ruby><rb>幸福</rb><rt>さいはひ</rt></ruby>此の時に亡ぶべし。院、手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>つて<ruby><rb>怡</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばせ給ひ、かの<ruby><rb>讐敵</rb><rt>あたども</rt></ruby>ことごとく一三三此の前の海に尽すべしと、御声谷峯に<ruby><rb>響</rb><rt>ひび</rt></ruby>きて、<ruby><rb>凄</rb><rt>すざま</rt></ruby>しさいふべくもあらず。魔道の浅ましきありさまを見て涙しのぶに<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>へず。<ruby><rb>復</rb><rt>ふたた</rt></ruby>び一首の歌に<ruby><rb>随縁</rb><rt>ずゐえん</rt></ruby>のこころをすすめたてまつる。

一三四よしや君昔の玉の<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>とても

かからんのちは何にかはせん

一三五<ruby><rb>刹利</rb><rt>せつり</rt></ruby>も<ruby><rb>須陀</rb><rt>しゆだ</rt></ruby>もかはらぬものをと、心あまりて高らかに<ruby><rb>吟</rb><rt>うた</rt></ruby>ひける。



白峯陵の前の「たひらなる石の上に座をしめ」た西行が、崇徳院の怨霊と対決する図。「一段の陰火、君が膝の下より燃上がりて」という情景である。（原本三丁裏、四丁表の挿絵）

此のことばを<ruby><rb>聞</rb><rt>（きこ）</rt></ruby>しめして<ruby><rb>感</rb><rt>め</rt></ruby>でさせ給ふやうなりしが、<ruby><rb>御面</rb><rt>みおもて</rt></ruby>も<ruby><rb>和</rb><rt>やはら</rt></ruby>ぎ、陰火もややうすく消えゆくほどに、つひに<ruby><rb>竜体</rb><rt>みかたち</rt></ruby>もかきけちたるごとく見えずなれば、<ruby><rb>化鳥</rb><rt>けてう</rt></ruby>もいづち<ruby><rb>去</rb><rt>ゆ</rt></ruby>きけん跡もなく、十日あまりの月は峯にかくれて、<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>のくれやみのあやなきに、<ruby><rb>夢路</rb><rt>ゆめぢ</rt></ruby>にやすらふが如し。ほどなく一三六いなのめの明けゆく空に、<ruby><rb>朝鳥</rb><rt>あさとり</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>こゑ</rt></ruby>おもしろく鳴きわたれば、かさねて一三七<ruby><rb>金剛経</rb><rt>こんがうきやう</rt></ruby>一<ruby><rb>巻</rb><rt>くわん</rt></ruby>を<ruby><rb>供養</rb><rt>くやう</rt></ruby>したてまつり、山をくだりて<ruby><rb>庵</rb><rt>いほり</rt></ruby>に帰り、<ruby><rb>閑</rb><rt>しづ</rt></ruby>かに<ruby><rb>終夜</rb><rt>よもすがら</rt></ruby>のことどもを思ひ出づるに、平治の乱よりはじめて、人々の消息、年月のたがひなければ、深く<ruby><rb>慎</rb><rt>つつし</rt></ruby>みて人にもかたり出でず。

其の後十三年を経て、一三八<ruby><rb>治承</rb><rt>ちしよう</rt></ruby>三年の秋、<ruby><rb>平</rb><rt>たひら</rt></ruby>の重盛<ruby><rb>病</rb><rt>やまひ</rt></ruby>に<ruby><rb>係</rb><rt>かか</rt></ruby>りて世を<ruby><rb>逝</rb><rt>さ</rt></ruby>りぬれば、一三九<ruby><rb>平相国</rb><rt>へいさうこく</rt></ruby>入道、一四〇君をうらみて一四一<ruby><rb>鳥羽</rb><rt>とば</rt></ruby>の<ruby><rb>離宮</rb><rt>とつみや</rt></ruby>に<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めたてまつり、かさねて一四二福原の<ruby><rb>茅</rb><rt>かや</rt></ruby>の宮に<ruby><rb>困</rb><rt>くるし</rt></ruby>めたてまつる。一四三<ruby><rb>頼朝</rb><rt>よりとも</rt></ruby><ruby><rb>東風</rb><rt>とうふう</rt></ruby>に<ruby><rb>競</rb><rt>きそ</rt></ruby>ひおこり、一四四<ruby><rb>義仲</rb><rt>よしなか</rt></ruby><ruby><rb>北雪</rb><rt>ほくせつ</rt></ruby>をはらうて出づるに及び、平氏の一門ことごとく西の海に<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>ひ、<ruby><rb>遂</rb><rt>つひ</rt></ruby>に讃岐の海志戸一四五八嶋にいたりて、<ruby><rb>武</rb><rt>たけ</rt></ruby>きつはものどもおほく一四六<ruby><rb>鼇魚</rb><rt>かうぎよ</rt></ruby>のはらに<ruby><rb>葬</rb><rt>はぶ</rt></ruby>られ、一四七<ruby><rb>赤間</rb><rt>あかま</rt></ruby>が<ruby><rb>関</rb><rt>せき</rt></ruby>一四八<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>の浦にせまりて、一四九<ruby><rb>幼主</rb><rt>えうしゆ</rt></ruby>海に入らせたまへば、<ruby><rb>軍将</rb><rt>いくさぎみ</rt></ruby>たちものこりなく亡びしまで、露たがはざりしぞおそろしくあやしき<ruby><rb>話柄</rb><rt>かたりぐさ</rt></ruby>なりけり。其の後一五〇<ruby><rb>御廟</rb><rt>みべう</rt></ruby>は一五一玉もて<ruby><rb>雕</rb><rt>ゑ</rt></ruby>り、一五二<ruby><rb>丹青</rb><rt>たんせい</rt></ruby>を<ruby><rb>彩</rb><rt>ゑど</rt></ruby>りなして、<ruby><rb>稜威</rb><rt>みいづ</rt></ruby>を<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>めたてまつる。かの国にかよふ人は、必ず<ruby><rb>幣</rb><rt>ぬさ</rt></ruby>をささげて一五三<ruby><rb>斎</rb><rt>いは</rt></ruby>ひまつるべき御神なりけらし。

一　香川県坂出市青海町にあり、崇徳院の御陵がある。

二　京都と滋賀の境にあった関。関の番人に通行を許されて東国の方へ向ってから。

三　秋がきた山の紅葉の美景を見捨てがたく。この辺の文章は撰集抄による。

四　愛知県名古屋市緑区鳴海町付近の干潟。

五　静岡県富士市浮島沼付近の沼沢地。歌枕。

六　静岡県静岡市清水区興津清見寺町にあった関所。歌枕。

七　大磯・小磯ともに神奈川県大磯町にある。歌枕。

八　紫草の美しく咲く武蔵野。

九　宮城県塩釜市の海。

一〇　秋田県にかほ市象潟町。当時は入江であった。歌枕。

一一　群馬県高崎市の南部、佐野の烏川に架せられた、舟を並べて板を渡した橋。歌枕。

一二　木曾川上流地方のけわしい崖や山道にかけられた橋。

一三　一一六八年。高倉天皇の代。西行五一歳。

一四　「難波」の枕詞でもある。

一五　兵庫県の神戸・明石の海岸。源氏物語以後の名勝地。

一六　しみじみと感じながら。

一七　坂出市王越町にある。

一八　逗留する。

一九　悟りの道を念じて仏道修行するための庵。

二〇　七五代崇徳天皇が上皇となって新院とよばれた。

二一　樹木鬱蒼としたさま。万葉集一六「弥彦（いやひこ）のおのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そぼふる」。

二二　白峰の北方にある。

二三　野ばらと蔓草。

二四　宮中の儀式を行なう正殿と、陛下の常の御所であった中殿。

二五　七六代近衛天皇。崇徳天皇の異母弟。

二六　上皇・法皇の御所。

二七　鹿。麋は大鹿。

二八　雑草木やいばらの乱れ茂った藪。

二九　天皇。

三〇　前世でした悪い因縁。

三一　松山は香川県坂出市にある。かたなくはむなしく。形は潟の掛詞。山家集下に第五句「なりましにけり」として出ている。

三二　不気味で何か異常なことが起りそうである。

三三　何とはなしに。

三四　繁茂した木立は月光をもらさないので。

三五　物の見わけもつかぬ闇に心憂く疲れて。

三六　西行が出家直後の法名。西行は俗名佐藤義清、北面の武士であったが、二三歳で出家、諸国行脚の末、河内弘川寺で没した。行年七三歳。

三七　仏道をふかく信仰、帰依して正道をえた僧侶。

三八　山家集下に出ている。

三九　濁りけがれた現世をいとい離れる。死去することをいう。

四〇　仏縁にあずかりたいと思って法要申しあげているのに。法施は三施（財施・法施・無畏施）の一、法を聞かせて善根を増すことで、法要。随縁は仏縁につながる。

四一　生前の姿を現わす。

四二　死によってただちに妄執を忘れる。

四三　仏道修行の果報をえて完全無欠の仏の位につく。

四四　平治元年（一一五九）藤原信頼と源義朝が、藤原信西と平清盛を討伐しようとして起した乱。義朝方が敗れた。平治物語に詳しい。

四五　皇室。

四六　御心のおもむく所。

四七　賢明だとの評判。

四八　帝王道の道理は十分御存じでいらっしゃる。

四九　保元元年（一一五六）七月、崇徳上皇が皇位継承をめぐって同母弟後白河天皇と争って挙兵した乱。上皇方が敗れた。保元物語に詳しい。

五〇　天照大神をさす。

五一　永治元年（一一四一）。

五二　七四代鳥羽天皇。

五三　七六代近衛天皇。「なりひと」が正しい。

五四　崇徳上皇の第一皇子。

五五　鳥羽法皇の妃、近衛天皇の生母、藤原長実の女、得子。

五六　さまたげられて。

五七　鳥羽天皇の第四皇子で、七七代後白河天皇。

五八　天子として国を治める才。

五九　后妃のすむ御殿。ここでは美福門院をさす。

六〇　ちっとも。決して。

六一　周の武王が臣の身をもって殷の紂王を討った故事。

六二　周は武王にはじまり、三〇余代八百数十年つづいて、紀元前二五六年頃滅びた。

六三　天子として国を治める資格のある身。

六四　雌鶏が雄鶏をつついてときをつくらせるように、妻の権力が夫の上位にあるたとえ。

六五　出家して仏道に溺れ惑い。

六六　現世の煩悩から解放されて、未来で救いを得たいと願う利欲の心。

六七　儒教の説く現世の人間道を仏教の因果思想にひきつけ。

六八　中国古代の聖天子。仁徳をもって民を治めた。

六九　色声香味触（又は色名食財睡眠）の五欲が眼耳鼻舌身意の六根を通して心を穢す事。

七〇　五代応神天皇。

七一　応神天皇の第四皇子。一六代仁徳天皇。

七二　仁徳天皇の末弟。

七三　皇太子。

七四　御自害あそばされたので。

七五　天皇の位。

七六　朝鮮百済の学者。応神天皇一六年に来朝し帰化した。

七七　周の祖。殷の紂王の暴虐を怒ってこれを誅し、天下に仁政をしいた。「孟子」梁恵王下の「武王亦一怒而安天下之民」「臣弑其君可乎」「賊仁者謂之賊、賊義者謂之残、残賊之人、謂之一夫、聞誅一夫紂矣、未聞弑君也」による。

七八　中国戦国時代の哲学者孟軻の言説を記した書。このことは孟子、梁恵王章句下に記されている。

七九　歴史書と記録・文書の類。

八〇　このこと「五雑組」地部巻四に見えている。

八一　必ず、と同意。

八二　皇孫（天子の位）。

八三　詩経。

八四　兄弟は内輪で喧嘩しても、外部からのはずかしめに対しては協力一致して防げ（詩経・小雅）。

八五　そのうえに。

八六　鳥羽法皇。

八七　貴人の遺体を本葬するまでの間、柩に入れて安置しておく仮の御殿。

八八　天子は神の定めた器、天子の位は神意による。老子二九「天下神器、不可為也」。

八九　上皇が流罪にあうという前例のない刑罰。

九〇　昔のうらみ心。

九一　綾高遠。香川県坂出市松山にいた名家。

九二　天子の食事。

九三　普通には絶対ありえないことのたとえ。

九四　海辺で命を終ることであろう。鬼は死者の霊。

九五　大乗に属する経典で各宗派で違う。天台宗では華厳・大集・大品般若・法華・涅槃の五部をいう。

九六　法螺貝と梵鐘。寺院らしい寺院もない荒磯。

九七　鳥羽天皇の第五皇子、崇徳上皇の弟、覚性法親王。京都市右京区御室にある真言宗仁和寺の上首であった。

九八　鳥の跡は文字筆跡。松山は待つの掛詞。保元物語巻三にある。

九九　藤原通憲。保元の乱後権勢をふるい、平治の乱で斬首された。

一〇〇　議親法。天皇の五等親、太皇太后・皇太后の四等親、皇后の三等親までの親族が減刑されるという特別法。

一〇一　正法の妨げをなす邪道（天狗道）に自分が写経で修得した功徳をさしむけ。

一〇二　坂出市の北の海にある大椎・小椎島の間の椎途の海であろうか。

一〇三　果して。

一〇四　藤原信頼。近衛大将を望んで信西と争い、平治の乱を起して殺された。

一〇五　源義朝。為義の長子。保元の乱で父を討ち、平治の乱で清盛に敗れた。

一〇六　源為義。保元の乱で上皇方につき、敗れて斬首された。

一〇七　源為朝。為義の第八子。鎮西八郎。伊豆大島に流罪。

一〇八　平忠正。清盛の叔父。保元の乱で斬首された。

一〇九　勝利の気配。

一一〇　京都市中京区丸太町にあった、もと白河法皇の御所。

一一一　京都東山の主峰。

一一二　きこり・猟師など。

一一三　暴虐残忍な心にかえて。

一一四　国土を守る神。天皇。

一一五　家来に謀殺されたのは。

一一六　京都府宇治市宇治一帯の山。平治物語では木幡山。

一一七　ついに。果して。

一一八　京都六条付近の賀茂河原で、刑場に使われた。

一一九　一一六一―六三。実際にはその前年、永暦元年（一一六〇）一一月に死去。

一二〇　藤原忠通。後白河天皇を擁立し、保元の乱には天皇方についた。長寛二年（一一六四）二月没。

一二一　憤怒怨恨のはげしさを火にたとえた。

一二二　眷属。配下の悪魔たち。

一二三　人間としての果報。

一二四　平重盛。清盛の長子。

一二五　我につらく当った分だけは。

一二六　仏のすむ極楽浄土。ここは、とうてい極楽へなど行けない状態を指摘した。

一二七　ひとかたまりの鬼火。

一二八　乱れた髪。

一二九　白峰に住む天狗の名。謡曲「松山天狗」、「四国遍礼霊場記」、浄瑠璃「崇徳院讃岐伝記」に見える。

一三〇　鳥の姿をした化物。

一三一　後白河上皇。

一三二　ここでは一二年後。治承三年（一一七九）になる。

一三三　白峰北方の瀬戸内海。平家はここで源氏のために致命的な敗戦を喫した。

一三四　君は崇徳上皇。玉の床は金殿玉楼。山家集下に出ている。

一三五　王族も隷属民も。インド古代における四階級の第二位と第四位。

一三六　「明け」にかかる枕詞。

一三七　大般若経の内の一巻。悪魔退散、煩悩克服の功徳がある。

一三八　一一七九年。八〇代高倉天皇の代。

一三九　平清盛。相国は太政大臣の唐名。入道は剃髪して仏門に入ったもの。

一四〇　後白河法皇。

一四一　京都市伏見区鳥羽にあった鳥羽離宮。城南の離宮。

一四二　神戸市兵庫区福原町にあった。茅の宮は、茅ぶきの粗末な宮殿。

一四三　源頼朝が東国から機運に乗じて挙兵し。治承四年（一一八〇）のこと。

一四四　源義仲が北国から雪をけたてて上京し。寿永二年（一一八三）のこと。

一四五　屋島。香川県高松市の東北部にある半島。

一四六　魚介の餌食になって。鼇は海中にすむ大すっぽん。

一四七　山口県下関市の旧称。

一四八　下関海峡東口の北岸付近の海上。

一四九　安徳天皇。ときに八歳。

一五〇　御霊所。崇徳上皇没後二七年、建久二年（一一九一）後白河法皇が建立した頓証寺。

一五一　玉をちりばめ。

一五二　いろどり飾って。

一五三　自分のけがれをはらいきよめて神をまつる。

  


## 一<ruby><rb>菊花</rb><rt>きくくわ</rt></ruby>の<ruby><rb>約</rb><rt>ちぎり</rt></ruby>

二<ruby><rb>青々</rb><rt>せいせい</rt></ruby>たる春の柳、<ruby><rb>家園</rb><rt>みその</rt></ruby>に<ruby><rb>種</rb><rt>う</rt></ruby>ゆることなかれ。<ruby><rb>交</rb><rt>まじは</rt></ruby>りは<ruby><rb>軽薄</rb><rt>けいはく</rt></ruby>の人と結ぶことなかれ。三<ruby><rb>楊柳</rb><rt>やうりう</rt></ruby><ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>りやすくとも、秋の<ruby><rb>初風</rb><rt>はつかぜ</rt></ruby>の吹くに<ruby><rb>耐</rb><rt>た</rt></ruby>へめや。軽薄の人は交りやすくして亦<ruby><rb>速</rb><rt>すみやか</rt></ruby>なり。楊柳いくたび春に<ruby><rb>染</rb><rt>そ</rt></ruby>むれども、軽薄の人は<ruby><rb>絶</rb><rt>た</rt></ruby>えて<ruby><rb>訪</rb><rt>とむら</rt></ruby>ふ日なし。

四<ruby><rb>播磨</rb><rt>（はりま）</rt></ruby>の国<ruby><rb>加古</rb><rt>（かこ）</rt></ruby>の<ruby><rb>駅</rb><rt>うまや</rt></ruby>に<ruby><rb>丈部</rb><rt>はせべ</rt></ruby>左<ruby><rb>門</rb><rt>もん</rt></ruby>といふ五<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>あり。<ruby><rb>清貧</rb><rt>せいひん</rt></ruby>を六<ruby><rb>憩</rb><rt>あまな</rt></ruby>ひて、友とする<ruby><rb>書</rb><rt>ふみ</rt></ruby>の外は、すべて七調度の<ruby><rb>絮煩</rb><rt>わづらはしき</rt></ruby>を<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>ふ。老母あり。八<ruby><rb>孟氏</rb><rt>まうし</rt></ruby>の<ruby><rb>操</rb><rt>みさを</rt></ruby>にゆづらず。常に<ruby><rb>紡績</rb><rt>うみつむぎ</rt></ruby>を事として左門がこころざしを助く。其の<ruby><rb>季女</rb><rt>いもうと</rt></ruby>なるものは同じ里の<ruby><rb>佐用氏</rb><rt>さようぢ</rt></ruby>に養はる。此の佐用が家は<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る富みさかえて有りけるが、丈部母子の<ruby><rb>賢</rb><rt>かしこ</rt></ruby>きを<ruby><rb>慕</rb><rt>した</rt></ruby>ひ、<ruby><rb>娘子</rb><rt>をとめ</rt></ruby>を<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>りて親族となり、<ruby><rb>屡</rb><rt>しばしば</rt></ruby>事に<ruby><rb>托</rb><rt>よ</rt></ruby>せて物を<ruby><rb>餉</rb><rt>おく</rt></ruby>るといへども、九<ruby><rb>口腹</rb><rt>こうふく</rt></ruby>の為に人を<ruby><rb>累</rb><rt>わづらは</rt></ruby>さんやとて、<ruby><rb>敢</rb><rt>あへ</rt></ruby>て<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>くることなし。

<ruby><rb>一日</rb><rt>あるひ</rt></ruby>左門同じ里の<ruby><rb>何某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>が<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>に<ruby><rb>訪</rb><rt>とぶら</rt></ruby>ひて、いにしへ今の物がたりして興ある時に、<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>を<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>てて人の<ruby><rb>痛楚</rb><rt>くるし</rt></ruby>む声いともあはれに聞えければ、<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>に尋ぬるに、あるじ答ふ。これより西の国の人と見ゆるが、一〇<ruby><rb>伴</rb><rt>ともな</rt></ruby>ひに<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れしよしにて<ruby><rb>一宿</rb><rt>ひとよ</rt></ruby>を求めらるるに、一一<ruby><rb>士家</rb><rt>しか</rt></ruby>の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>ありて<ruby><rb>卑</rb><rt>いや</rt></ruby>しからぬと見しままに、<ruby><rb>逗</rb><rt>とど</rt></ruby>めまゐらせしに、其の夜一二<ruby><rb>邪熱</rb><rt>じやねつ</rt></ruby><ruby><rb>劇</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しく、<ruby><rb>起臥</rb><rt>おきふし</rt></ruby>も<ruby><rb>自</rb><rt>みづか</rt></ruby>らはまかせられぬを、いとほしさに三日四日は過しぬれど、<ruby><rb>何地</rb><rt>いづち</rt></ruby>の人ともさだかならぬに、<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>も思ひがけぬ<ruby><rb>過</rb><rt>あやまり</rt></ruby>し出でて、ここち<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>ひ侍りぬといふ。左門聞きて、かなしき物がたりにこそ。あるじの心安からぬも一三さる事にしあれど、病苦の人はしるべなき旅の空に此の<ruby><rb>疾</rb><rt>やまひ</rt></ruby>を<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>ひ給ふは、わきて<ruby><rb>胸窮</rb><rt>むねくる</rt></ruby>しくおはすべし。其のやうをも<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>ばやといふを、あるじとどめて、一四<ruby><rb>瘟病</rb><rt>をんびやう</rt></ruby>は人を<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>つ物と聞ゆるから、<ruby><rb>家童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>らもあへてかしこに行かしめず。立ちよりて身を害し給ふことなかれ。左門笑うていふ。一五<ruby><rb>死生</rb><rt>しせい</rt></ruby><ruby><rb>命</rb><rt>めい</rt></ruby>あり。何の病か人に<ruby><rb>伝</rb><rt>つた</rt></ruby>ふべき。これらは<ruby><rb>愚俗</rb><rt>ぐぞく</rt></ruby>のことばにて、吾が<ruby><rb>們</rb><rt>ともがら</rt></ruby>はとらずとて、戸を<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>して入りつも其の人を見るに、あるじがかたりしに<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>はで、一六<ruby><rb>倫</rb><rt>なみ</rt></ruby>の人にはあらじを、病深きと見えて、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>は黄に、<ruby><rb>肌</rb><rt>はだへ</rt></ruby>黒く<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せ、古き<ruby><rb>衾</rb><rt>ふすま</rt></ruby>のうへに<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>え<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>す。人なつかしげに左門を見て、湯ひとつ恵み給へといふ。左門ちかくよりて、<ruby><rb>士</rb><rt>し</rt></ruby>憂へ給ふことなかれ。必ず救ひまゐらすべしとて、あるじと<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>りて、薬をえらみ、一七<ruby><rb>自</rb><rt>みづか</rt></ruby>ら<ruby><rb>方</rb><rt>はう</rt></ruby>を案じ、みづから一八煮てあたへつも、<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby><ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>をすすめて、病を<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>ること<ruby><rb>同胞</rb><rt>はらから</rt></ruby>のごとく、まことに捨てがたきありさまなり。

かの武士、左門が<ruby><rb>愛憐</rb><rt>あはれみ</rt></ruby>の厚きに<ruby><rb>泪</rb><rt>（なみだ）</rt></ruby>を流して、かくまで一九<ruby><rb>漂客</rb><rt>へうかく</rt></ruby>を恵み給ふ。死すとも御心に<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>いたてまつらんといふ。左門<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めて、ちからなきことはな聞え給ひそ。凡そ二〇<ruby><rb>疫</rb><rt>えき</rt></ruby>は日数あり。其のほどを過ぎぬれば<ruby><rb>寿命</rb><rt>ことぶき</rt></ruby>をあやまたず。吾日々に<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>でてつかへまゐらすべしと、<ruby><rb>実</rb><rt>まめ</rt></ruby>やかに<ruby><rb>約</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>りつつも、心をもちゐて助けけるに、病<ruby><rb>漸</rb><rt>やや</rt></ruby>減じてここち<ruby><rb>清</rb><rt>すず</rt></ruby>しくおぼえければ、あるじにも<ruby><rb>念比</rb><rt>（ねんごろ）</rt></ruby>に詞をつくし、左門が二一陰徳をたふとみて、其の<ruby><rb>生業</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>をもたづね、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が身の上をもかたりていふ。<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>二二<ruby><rb>出雲</rb><rt>（いづも）</rt></ruby>の国松江の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>に<ruby><rb>生長</rb><rt>ひととな</rt></ruby>りて、<ruby><rb>赤穴宗右衛門</rb><rt>あかな（そうゑもん）</rt></ruby>といふ者なるが、わづかに二三<ruby><rb>兵書</rb><rt>へいしよ</rt></ruby>の<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>を<ruby><rb>察</rb><rt>あきら</rt></ruby>めしによりて、二四<ruby><rb>富田</rb><rt>とみた</rt></ruby>の城主二五<ruby><rb>塩冶掃部介</rb><rt>えんやかもんのすけ</rt></ruby>、吾を師として物<ruby><rb>学</rb><rt>まな</rt></ruby>び給ひしに、近江の二六<ruby><rb>佐々木氏綱</rb><rt>ささきうぢつな</rt></ruby>に<ruby><rb>密</rb><rt>みそか</rt></ruby>の<ruby><rb>使</rb><rt>つかひ</rt></ruby>にえらばれて、かの<ruby><rb>館</rb><rt>みたち</rt></ruby>にとどまるうち、<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>の城主二七<ruby><rb>尼子経久</rb><rt>あまこつねひさ</rt></ruby>、二八山中<ruby><rb>党</rb><rt>たう</rt></ruby>をかたらひて、二九大<ruby><rb>三十日</rb><rt>みそか</rt></ruby>の夜三〇<ruby><rb>不慮</rb><rt>すずろ</rt></ruby>に城を乗りとりしかば、掃部殿も<ruby><rb>討死</rb><rt>うちじに</rt></ruby>ありしなり。もとより<ruby><rb>雲州</rb><rt>うんしう</rt></ruby>は佐々木の<ruby><rb>持国</rb><rt>もちぐに</rt></ruby>にて、塩冶は三一<ruby><rb>守護代</rb><rt>しゆごだい</rt></ruby>なれば、三二<ruby><rb>三沢</rb><rt>みざは</rt></ruby><ruby><rb>三刀屋</rb><rt>みとや</rt></ruby>を助けて、経久を<ruby><rb>亡</rb><rt>ほろぼ</rt></ruby>し給へと、すすむれども、氏綱は<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby><ruby><rb>勇</rb><rt>ゆう</rt></ruby>にして内<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えたる愚将なれば果さず。かへりて吾を国に<ruby><rb>逗</rb><rt>とど</rt></ruby>む。三三<ruby><rb>故</rb><rt>ゆゑ</rt></ruby>なき所に永く<ruby><rb>居</rb><rt>を</rt></ruby>らじと、三四<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が身ひとつを<ruby><rb>竊</rb><rt>ぬす</rt></ruby>みて国に<ruby><rb>還</rb><rt>かへ</rt></ruby>る<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>に、此の<ruby><rb>疾</rb><rt>やまひ</rt></ruby>にかかりて、思ひがけずも師を<ruby><rb>労</rb><rt>わづら</rt></ruby>はしむるは、身にあまりたる<ruby><rb>御恩</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>にこそ。吾三五<ruby><rb>半世</rb><rt>はんせい</rt></ruby>の<ruby><rb>命</rb><rt>いのち</rt></ruby>をもて必ず報いたてまつらん。左門いふ。三六見る所を忍びざるは、人たるものの心なるべければ、三七厚き詞ををさむるに故なし。猶<ruby><rb>逗</rb><rt>とど</rt></ruby>まりて三八いたはり給へと、<ruby><rb>実</rb><rt>まこと</rt></ruby>ある詞を便りにて<ruby><rb>日比</rb><rt>（ひごろ）</rt></ruby><ruby><rb>経</rb><rt>ふ</rt></ruby>るままに、三九物みな<ruby><rb>平生</rb><rt>つね</rt></ruby>に<ruby><rb>邇</rb><rt>ちか</rt></ruby>くぞなりにける。



文明十八年（一四八六）一月一日の早暁、尼子経久と山中党が富田城を襲撃した図。構図は「菊花の約」が典拠とした「陰徳太平記」の記事によったと思われる。（原本十四丁裏、十五丁表の挿絵）

此の日比、左門はよき友もとめたりとて、<ruby><rb>日夜</rb><rt>ひるよる</rt></ruby><ruby><rb>交</rb><rt>まじは</rt></ruby>りて物がたりすに、<ruby><rb>赤穴</rb><rt>あかな</rt></ruby>も四〇<ruby><rb>諸子百家</rb><rt>しよしひやくか</rt></ruby>の事四一おろおろかたり出でて、問ひわきまふる心<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>ならず。四二<ruby><rb>兵機</rb><rt>へいき</rt></ruby>のことわりは四三をさをさしく聞えければ、ひとつとして相ともにたがふ心もなく、かつ<ruby><rb>感</rb><rt>め</rt></ruby>で、かつよろこびて、<ruby><rb>終</rb><rt>つひ</rt></ruby>に兄弟の<ruby><rb>盟</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>をなす。赤穴五歳長じたれば、<ruby><rb>伯氏</rb><rt>あに</rt></ruby>たるべき礼義ををさめて、左門にむかひていふ。吾父母に<ruby><rb>離</rb><rt>わか</rt></ruby>れまゐらせていとも久し。<ruby><rb>賢弟</rb><rt>けんてい</rt></ruby>が老母は<ruby><rb>即</rb><rt>やが</rt></ruby>て吾が母なれば、あらたに拝みたてまつらんことを願ふ。老母あはれみて四四をさなき心を<ruby><rb>肯</rb><rt>う</rt></ruby>け給はんや。左門<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びに<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>へず。母なる者常に我が孤独を<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>ふ。<ruby><rb>信</rb><rt>まこと</rt></ruby>ある<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>を告げなば、<ruby><rb>齢</rb><rt>よはひ</rt></ruby>も<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>びなんにと、<ruby><rb>伴</rb><rt>ともな</rt></ruby>ひて家に帰る。老母よろこび迎へて、吾が子四五不才にて、<ruby><rb>学</rb><rt>まな</rt></ruby>ぶ所時にあはず、四六<ruby><rb>青雲</rb><rt>せいうん</rt></ruby>の便りを失ふ。ねがふは捨てずして<ruby><rb>伯氏</rb><rt>あに</rt></ruby>たる教を<ruby><rb>施</rb><rt>ほどこ</rt></ruby>し給へ。赤穴拝していふ。四七大丈夫は義を重しとす。<ruby><rb>功名富貴</rb><rt>こうめいふうき</rt></ruby>はいふに<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>らず。吾いま<ruby><rb>母公</rb><rt>ぼこう</rt></ruby>の<ruby><rb>慈愛</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>をかうむり、四八<ruby><rb>賢弟</rb><rt>けんてい</rt></ruby>の<ruby><rb>敬</rb><rt>ゐや</rt></ruby>を納むる、何の<ruby><rb>望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>かこれに過ぐべきと、よろこびうれしみつつ、又<ruby><rb>日来</rb><rt>ひごろ</rt></ruby>をとどまりける。

きのふけふ咲きぬると見し四九<ruby><rb>尾上</rb><rt>をのへ</rt></ruby>の花も散りはてて、涼しき風による浪に、五〇とはでもしるき夏の<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めになりぬ。<ruby><rb>赤穴</rb><rt>あかな</rt></ruby>、<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>にむかひて、吾が近江を<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れ来りしも、雲州の<ruby><rb>動静</rb><rt>やうす</rt></ruby>を見んためなれば、一たび<ruby><rb>下向</rb><rt>くだ</rt></ruby>りてやがて帰り来り、五一<ruby><rb>菽水</rb><rt>しゆくすゐ</rt></ruby>の<ruby><rb>奴</rb><rt>つぶね</rt></ruby>に<ruby><rb>御恩</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>をかへしたてまつるべし。五二今のわかれを給へといふ。左門いふ。さあらば<ruby><rb>兄長</rb><rt>このかみ</rt></ruby>いつの時にか帰り給ふべき。赤穴いふ。月日は<ruby><rb>逝</rb><rt>ゆ</rt></ruby>きやすし。おそくとも此の秋は過さじ。左門云ふ。秋はいつの日を定めて待つべきや。ねがふは<ruby><rb>約</rb><rt>やく</rt></ruby>し給へ。赤穴云ふ。五三<ruby><rb>重陽</rb><rt>ここぬか</rt></ruby>の<ruby><rb>佳節</rb><rt>かせつ</rt></ruby>をもて帰り来る日とすべし。左門いふ。<ruby><rb>兄長</rb><rt>このかみ</rt></ruby>必ず此の日をあやまり給ふな。一枝の菊花に五四<ruby><rb>薄酒</rb><rt>うすきさけ</rt></ruby>を備へて待ちたてまつらんと、<ruby><rb>互</rb><rt>たがひ</rt></ruby>に<ruby><rb>情</rb><rt>まこと</rt></ruby>をつくして赤穴は西に帰りけり。

五五あら玉の月日はやく<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>ゆきて、五六<ruby><rb>下枝</rb><rt>したえ</rt></ruby>の<ruby><rb>茱萸</rb><rt>ぐみ</rt></ruby>色づき、垣根の五七野ら菊<ruby><rb>艶</rb><rt>にほ</rt></ruby>ひやかに、<ruby><rb>九月</rb><rt>ながつき</rt></ruby>にもなりぬ。<ruby><rb>九日</rb><rt>ここぬか</rt></ruby>はいつよりも<ruby><rb>蚤</rb><rt>はや</rt></ruby>く<ruby><rb>起出</rb><rt>おきい</rt></ruby>でて、草の屋の五八<ruby><rb>席</rb><rt>むしろ</rt></ruby>をはらひ、黄菊しら菊二枝三枝<ruby><rb>小瓶</rb><rt>こがめ</rt></ruby>に<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>し、五九<ruby><rb>嚢</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>をかたぶけて<ruby><rb>酒飯</rb><rt>しゆはん</rt></ruby>の<ruby><rb>設</rb><rt>まうけ</rt></ruby>をす。老母云ふ。かの六〇八雲たつ国は六一山<ruby><rb>陰</rb><rt>ぎた</rt></ruby>の<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>にありて、ここには百里を<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>つると聞けば、けふとも定めがたきに、其の<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>しを見ても六二物すとも<ruby><rb>遅</rb><rt>おそ</rt></ruby>からじ。左門云ふ。赤穴は<ruby><rb>信</rb><rt>まこと</rt></ruby>ある<ruby><rb>武士</rb><rt>もののべ</rt></ruby>なれば必ず<ruby><rb>約</rb><rt>ちぎり</rt></ruby>を<ruby><rb>誤</rb><rt>あやま</rt></ruby>らじ。其の人を見てあわただしからんは、六三思はんことの恥かしとて、<ruby><rb>美酒</rb><rt>よきさけ</rt></ruby>を<ruby><rb>沽</rb><rt>か</rt></ruby>ひ<ruby><rb>鮮魚</rb><rt>あざらけき</rt></ruby>を<ruby><rb>宰</rb><rt>に</rt></ruby>て<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>に備ふ。

此の日や<ruby><rb>天</rb><rt>そら</rt></ruby>晴れて、六四<ruby><rb>千里</rb><rt>ちさと</rt></ruby>に雲のたちゐもなく、六五草枕旅ゆく人の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>々かたりゆくは、けふは<ruby><rb>誰某</rb><rt>たれがし</rt></ruby>がよき<ruby><rb>京入</rb><rt>みやこいり</rt></ruby>なる。此の<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>の<ruby><rb>商物</rb><rt>あきもの</rt></ruby>によき六六徳とるべき六七<ruby><rb>祥</rb><rt>さが</rt></ruby>になん、とて過ぐ。<ruby><rb>五十</rb><rt>いそぢ</rt></ruby>あまりの<ruby><rb>武士</rb><rt>もののべ</rt></ruby>、<ruby><rb>廿</rb><rt>はたち</rt></ruby>あまりの同じ<ruby><rb>出立</rb><rt>（いでたち）</rt></ruby>なる、六八<ruby><rb>日和</rb><rt>にわ</rt></ruby>はかばかりよかりしものを、明石より船もとめなば、この六九朝びらきに七〇<ruby><rb>牛窓</rb><rt>うしまど</rt></ruby>の<ruby><rb>門</rb><rt>と</rt></ruby>の七一<ruby><rb>泊</rb><rt>とまり</rt></ruby>は追ふべき。若き<ruby><rb>男</rb><rt>をのこ</rt></ruby>は七二<ruby><rb>却</rb><rt>けく</rt></ruby>物<ruby><rb>怯</rb><rt>おびえ</rt></ruby>して、銭おほく<ruby><rb>費</rb><rt>つひや</rt></ruby>すことよといふに、<ruby><rb>殿</rb><rt>との</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>らせ給ふ時、七三<ruby><rb>小豆嶋</rb><rt>あづきじま</rt></ruby>より七四<ruby><rb>室津</rb><rt>むろづ</rt></ruby>のわたりし給ふに、七五なまからきめにあはせ給ふを、<ruby><rb>従</rb><rt>みとも</rt></ruby>に<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>りしもののかたりしを思へば、このほとりの渡りは必ず<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>ゆべし。七六な<ruby><rb>恚</rb><rt>ふづく</rt></ruby>み給ひそ。七七魚が橋の<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>くろむぎ</rt></ruby>ふるまひまをさんにと、いひなぐさめて行く。口とる<ruby><rb>男</rb><rt>をのこ</rt></ruby>の腹だたしげに、此の七八<ruby><rb>死馬</rb><rt>しにうま</rt></ruby>は<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>をもはたけぬかと、<ruby><rb>荷鞍</rb><rt>にぐら</rt></ruby>おしなほして追ひもて行く。<ruby><rb>午時</rb><rt>ひる</rt></ruby>もややかたぶきぬれど、待ちつる人は来らず。西に沈む日に、宿り急ぐ足のせはしげなるを見るにも、<ruby><rb>外</rb><rt>と</rt></ruby>の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>七九のみまもられて心<ruby><rb>酔</rb><rt>ゑ</rt></ruby>へるが如し。

老母、左門をよびて、八〇人の心の秋にはあらずとも、菊の色こきはけふのみかは。帰りくる<ruby><rb>信</rb><rt>まこと</rt></ruby>だにあらば、<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>は八一時雨にうつりゆくとも何をか<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>むべき。入りて<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>しもして、又<ruby><rb>翌</rb><rt>あす</rt></ruby>の日を待つべし、とあるに、<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>みがたく、母をすかして<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に臥さしめ、もしやと<ruby><rb>戸</rb><rt>と</rt></ruby>の<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>に出でて見れば、八二<ruby><rb>銀河</rb><rt>ぎんが</rt></ruby>影きえぎえに、八三<ruby><rb>氷輪</rb><rt>ひようりん</rt></ruby>我のみを照して淋しきに、<ruby><rb>軒守</rb><rt>（のきも）</rt></ruby>る犬の<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>ゆる声すみわたり、浦浪の音ぞ八四ここもとにたちくるやうなり。月の光も山の<ruby><rb>際</rb><rt>は</rt></ruby>に<ruby><rb>陰</rb><rt>くら</rt></ruby>くなれば、今はとて戸を<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てて入らんとするに、八五ただ<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>る、おぼろなる八六<ruby><rb>黒影</rb><rt>かげろひ</rt></ruby>の中に人ありて、八七風の<ruby><rb>随</rb><rt>まにまに</rt></ruby><ruby><rb>来</rb><rt>く</rt></ruby>るをあやしと見れば赤穴宗右衛門なり。

<ruby><rb>踊</rb><rt>をど</rt></ruby>りあがるここちして、八八<ruby><rb>小弟</rb><rt>せうてい</rt></ruby><ruby><rb>蚤</rb><rt>はや</rt></ruby>くより待ちて今にいたりぬる。<ruby><rb>盟</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>たがはで来り給ふことのうれしさよ。いざ入らせ給へといふめれど、只<ruby><rb>点頭</rb><rt>うなづ</rt></ruby>きて物をもいはである。左門<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>にすすみて、八九南の<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>にむかへ、座につかしめ、<ruby><rb>兄長</rb><rt>このかみ</rt></ruby>来り給ふことの遅かりしに、老母も待ちわびて、<ruby><rb>翌</rb><rt>（あす）</rt></ruby>こそと<ruby><rb>臥所</rb><rt>ふしど</rt></ruby>に入らせ給ふ。<ruby><rb>寤</rb><rt>さま</rt></ruby>させまゐらせんといへるを、赤穴又<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>を<ruby><rb>揺</rb><rt>ふ</rt></ruby>りてとどめつも、<ruby><rb>更</rb><rt>さら</rt></ruby>に物をもいはでぞある。左門云ふ。既に九〇夜を<ruby><rb>続</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎて<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>し給ふに、心も<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>み足も<ruby><rb>労</rb><rt>つか</rt></ruby>れ給ふべし。<ruby><rb>幸</rb><rt>さいはひ</rt></ruby>に一<ruby><rb>杯</rb><rt>ぱい</rt></ruby>を<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>みて<ruby><rb>歇息</rb><rt>やす</rt></ruby>ませ給へとて、酒をあたため、<ruby><rb>下物</rb><rt>さかな</rt></ruby>を<ruby><rb>列</rb><rt>つら</rt></ruby>ねてすすむるに、赤穴九一袖をもて<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を<ruby><rb>掩</rb><rt>おほ</rt></ruby>ひ、其の<ruby><rb>臭</rb><rt>にほ</rt></ruby>ひを<ruby><rb>嫌</rb><rt>い</rt></ruby>み<ruby><rb>放</rb><rt>さ</rt></ruby>くるに似たり。左門いふ。九二<ruby><rb>井臼</rb><rt>せいきう</rt></ruby>の<ruby><rb>力</rb><rt>つとめ</rt></ruby>はた<ruby><rb>款</rb><rt>もてな</rt></ruby>すに<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>らざれども、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が心なり。いやしみ給ふことなかれ。赤穴<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>答へもせで、<ruby><rb>長嘘</rb><rt>ながきいき</rt></ruby>をつぎつつ、しばししていふ。賢弟が<ruby><rb>信</rb><rt>まこと</rt></ruby>ある<ruby><rb>饗応</rb><rt>あるじぶり</rt></ruby>をなどいなむべきことわりやあらん。<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>くに詞なければ、<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>をもて<ruby><rb>告</rb><rt>つ</rt></ruby>ぐるなり。必ずしもあやしみ給ひそ。吾は九三<ruby><rb>陽世</rb><rt>うつせみ</rt></ruby>の人にあらず、九四きたなき<ruby><rb>霊</rb><rt>たま</rt></ruby>のかりに<ruby><rb>形</rb><rt>かたち</rt></ruby>を見えつるなり。

左門大いに驚きて、<ruby><rb>兄長</rb><rt>このかみ</rt></ruby>何ゆゑにこの九五あやしきをかたり出で給ふや。更に夢ともおぼえ侍らず。赤穴いふ。賢弟とわかれて国にくだりしが、<ruby><rb>国人</rb><rt>くにびと</rt></ruby>大かた経久が<ruby><rb>勢</rb><rt>いきほ</rt></ruby>ひに<ruby><rb>服</rb><rt>つ</rt></ruby>きて、<ruby><rb>塩冶</rb><rt>えんや</rt></ruby>の<ruby><rb>恩</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>を<ruby><rb>顧</rb><rt>かへりみ</rt></ruby>るものなし。<ruby><rb>従弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>なる<ruby><rb>赤穴</rb><rt>あかな</rt></ruby>丹治、富田の城にあるを<ruby><rb>訪</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひしに、利害を説きて吾を経久に<ruby><rb>見</rb><rt>まみ</rt></ruby>えしむ。<ruby><rb>仮</rb><rt>かり</rt></ruby>に其の詞を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れて、つらつら経久がなす所を見るに、九六<ruby><rb>万夫</rb><rt>ばんぷ</rt></ruby>の<ruby><rb>雄</rb><rt>ゆう</rt></ruby>人に<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れ、よく<ruby><rb>士卒</rb><rt>いくさ</rt></ruby>を<ruby><rb>習練</rb><rt>たなら</rt></ruby>すといへども、九七智を用ふるに<ruby><rb>狐疑</rb><rt>こぎ</rt></ruby>の心おほくして、九八<ruby><rb>腹心</rb><rt>ふくしん</rt></ruby><ruby><rb>爪牙</rb><rt>さうが</rt></ruby>の家の子なし。永く<ruby><rb>居</rb><rt>を</rt></ruby>りて<ruby><rb>益</rb><rt>やう</rt></ruby>なきを思ひて、賢弟が菊花の<ruby><rb>約</rb><rt>ちぎり</rt></ruby>ある事をかたりて去らんとすれば、経久<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>める色ありて、丹治に<ruby><rb>令</rb><rt>れい</rt></ruby>し、吾を九九<ruby><rb>大城</rb><rt>おほぎ</rt></ruby>の外にはなたずして、<ruby><rb>遂</rb><rt>つひ</rt></ruby>にけふにいたらしむ。此の<ruby><rb>約</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>にたがふものならば、賢弟吾を一〇〇何ものとかせんと、ひたすら思ひ沈めども<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>るるに方なし。いにしへの人のいふ。一〇一人一日に<ruby><rb>千</rb><rt>ち</rt></ruby>里をゆくことあたはず。<ruby><rb>魂</rb><rt>たま</rt></ruby>よく一日に千里をもゆくと。此のことわりを思ひ出でて、みづから<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>に<ruby><rb>伏</rb><rt>ふ</rt></ruby>し、<ruby><rb>今夜</rb><rt>こよひ</rt></ruby>一〇二<ruby><rb>陰風</rb><rt>かぜ</rt></ruby>に乗りてはるばる来り菊花の<ruby><rb>約</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>に<ruby><rb>赴</rb><rt>つ</rt></ruby>く。一〇三この心をあはれみ給へといひをはりて、<ruby><rb>泪</rb><rt>（なみだ）</rt></ruby>わき出づるが如し。今は永きわかれなり。只<ruby><rb>母公</rb><rt>ぼこう</rt></ruby>によくつかへ給へとて、座を立つと見しが、かき消えて見えずなりにける。

左門<ruby><rb>慌忙</rb><rt>あわて</rt></ruby>とどめんとすれば、<ruby><rb>陰風</rb><rt>いんぷう</rt></ruby>に<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>くらみて<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくへ</rt></ruby>をしらず。<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつぶし</rt></ruby>につまづき倒れたるままに、声を放ちて大いに<ruby><rb>哭</rb><rt>なげ</rt></ruby>く。老母目さめ驚き立ちて、左門がある所を見れば、一〇四<ruby><rb>座上</rb><rt>とこのべ</rt></ruby>に<ruby><rb>酒瓶</rb><rt>さかがめ</rt></ruby>一〇五<ruby><rb>魚</rb><rt>な</rt></ruby><ruby><rb>盛</rb><rt>も</rt></ruby>りたる<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>どもあまた列べたるが中に<ruby><rb>臥倒</rb><rt>ふしたふ</rt></ruby>れたるを、いそがはしく<ruby><rb>扶起</rb><rt>たすけおこ</rt></ruby>して、いかにととへども、只一〇六声を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みて泣く泣くさらに<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>なし。老母問ひていふ。<ruby><rb>伯氏</rb><rt>あに</rt></ruby>赤穴が<ruby><rb>約</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>にたがふを<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>むるとならば、<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>なんもし来るには一〇七<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>なからんものを。汝かくまで一〇八をさなくも愚かなるかとつよく<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>むるに、左門<ruby><rb>漸</rb><rt>やや</rt></ruby>答へていふ。<ruby><rb>兄長</rb><rt>このかみ</rt></ruby><ruby><rb>今夜</rb><rt>こよひ</rt></ruby>菊花の<ruby><rb>約</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>に<ruby><rb>特</rb><rt>わざわざ</rt></ruby>来る。一〇九<ruby><rb>酒殽</rb><rt>しゆかう</rt></ruby>をもて迎ふるに、<ruby><rb>再三</rb><rt>あまたたび</rt></ruby><ruby><rb>辞</rb><rt>いな</rt></ruby>み給うて云ふ。しかじかのやうにて<ruby><rb>約</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>に<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>くがゆゑに、<ruby><rb>自</rb><rt>みづか</rt></ruby>ら<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>に伏して<ruby><rb>陰魂</rb><rt>なきたま</rt></ruby>百里を来るといひて見えずなりぬ。それ故にこそは母の<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむり</rt></ruby>をも<ruby><rb>驚</rb><rt>おどろか</rt></ruby>したてまつれ。只々<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>し給へと<ruby><rb>潸然</rb><rt>さめざめ</rt></ruby>と<ruby><rb>哭</rb><rt>なき</rt></ruby>入るを、老母いふ。一一〇<ruby><rb>牢裏</rb><rt>らうり</rt></ruby>に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がるる人は夢にも<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さるるを見え、<ruby><rb>渇</rb><rt>かつ</rt></ruby>するものは夢に<ruby><rb>漿水</rb><rt>しやうすゐ</rt></ruby>を飲むといへり。汝も又さる<ruby><rb>類</rb><rt>たぐひ</rt></ruby>にやあらん。よく心を静むべしとあれども、左門<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>を<ruby><rb>揺</rb><rt>ふ</rt></ruby>りて、まことに一一一夢の<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>なきにあらず。<ruby><rb>兄長</rb><rt>このかみ</rt></ruby>は一一二ここもとにこそありつれと、又声を<ruby><rb>放</rb><rt>あ</rt></ruby>げて<ruby><rb>哭倒</rb><rt>なきたふ</rt></ruby>る。老母も今は<ruby><rb>疑</rb><rt>うたが</rt></ruby>はず、一一三相<ruby><rb>叫</rb><rt>よ</rt></ruby>びて其の夜は<ruby><rb>哭</rb><rt>な</rt></ruby>きあかしぬ。

明くる日、左門母を一一四拝していふ。吾<ruby><rb>幼</rb><rt>をさな</rt></ruby>きより身を一一五<ruby><rb>翰墨</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>に<ruby><rb>托</rb><rt>よ</rt></ruby>するといへども、国に忠義の聞えなく、家に孝信をつくすことあたはず、一一六<ruby><rb>徒</rb><rt>いたづら</rt></ruby>に天地のあひだに<ruby><rb>生</rb><rt>うま</rt></ruby>るるのみ。<ruby><rb>兄長</rb><rt>このかみ</rt></ruby>赤穴は一生を信義の為に終る。小弟けふより出雲に下り、せめては一一七骨を<ruby><rb>蔵</rb><rt>をさ</rt></ruby>めて<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>を<ruby><rb>全</rb><rt>まつた</rt></ruby>うせん。一一八<ruby><rb>公</rb><rt>きみ</rt></ruby><ruby><rb>尊体</rb><rt>おほんみ</rt></ruby>を保ち給うて、しばらくの<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を給ふべし。老母云ふ。吾が<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>かしこに去るとも、はやく帰りて老が心を休めよ。永く<ruby><rb>逗</rb><rt>とどま</rt></ruby>りて一一九けふを<ruby><rb>旧</rb><rt>ひさ</rt></ruby>しき日となすことなかれ。左門いふ。一二〇<ruby><rb>生</rb><rt>しやう</rt></ruby>は浮きたる<ruby><rb>漚</rb><rt>あわ</rt></ruby>のごとく、<ruby><rb>旦</rb><rt>あさ</rt></ruby>にゆふべに定めがたくとも、やがて帰りまゐるべしとて、泪を振うて家を出づ。佐用氏にゆきて老母の<ruby><rb>介抱</rb><rt>いたはり</rt></ruby>を<ruby><rb>苦</rb><rt>ねんごろ</rt></ruby>に一二一あつらへ、出雲の国にまかる<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>に、一二二飢ゑて<ruby><rb>食</rb><rt>しよく</rt></ruby>を思はず、寒きに衣をわすれて、まどろめば夢にも<ruby><rb>哭</rb><rt>な</rt></ruby>きあかしつつ、十日を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て富田の大<ruby><rb>城</rb><rt>ぎ</rt></ruby>にいたりぬ。

先づ赤穴丹治が<ruby><rb>宅</rb><rt>いへ</rt></ruby>にいきて、一二三姓名をもていひ入るるに、丹治迎へ<ruby><rb>請</rb><rt>しやう</rt></ruby>じて、一二四<ruby><rb>翼</rb><rt>つばさ</rt></ruby>ある物の告ぐるにあらで、いかでしらせ給ふべき<ruby><rb>謂</rb><rt>いはれ</rt></ruby>なしと、しきりに問<ruby><rb>尋</rb><rt>もと</rt></ruby>む。左門いふ。<ruby><rb>士</rb><rt>し</rt></ruby>たる者は<ruby><rb>富貴</rb><rt>ふうき</rt></ruby>一二五<ruby><rb>消息</rb><rt>せうそく</rt></ruby>の事ともに論ずべからず。只信義をもて重しとす。<ruby><rb>伯氏</rb><rt>あに</rt></ruby>宗右衛門<ruby><rb>一旦</rb><rt>ひとたび</rt></ruby>の<ruby><rb>約</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>をおもんじ、むなしき<ruby><rb>魂</rb><rt>たま</rt></ruby>の百里を来るに一二六<ruby><rb>報</rb><rt>むくい</rt></ruby>すとて、一二七日夜を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>うてここにくだりしなり。吾が<ruby><rb>学</rb><rt>まな</rt></ruby>ぶ所について士に尋ねまゐらすべき<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>あり。ねがふは明かに答へ給へかし。昔一二八<ruby><rb>魏</rb><rt>ぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>公叔座</rb><rt>こうしゆくざ</rt></ruby>病の<ruby><rb>牀</rb><rt>ゆか</rt></ruby>にふしたるに、魏王みづからまうでて手をとりつも告ぐるは、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し一二九<ruby><rb>諱</rb><rt>い</rt></ruby>むべからずのことあらば、誰をして一三〇<ruby><rb>社稷</rb><rt>くに</rt></ruby>を守らしめんや。吾がために教を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>せとあるに、叔座いふ。一三一<ruby><rb>商鞅</rb><rt>しやうあう</rt></ruby>年少しといへども一三二<ruby><rb>奇才</rb><rt>きさい</rt></ruby>あり。<ruby><rb>王</rb><rt>きみ</rt></ruby><ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し此の人を用ゐ給はずば、これを殺しても一三三<ruby><rb>境</rb><rt>さかひ</rt></ruby>を出すことなかれ。他の国にゆかしめば、必ずも後の<ruby><rb>禍</rb><rt>わざはひ</rt></ruby>となるべしと、<ruby><rb>苦</rb><rt>ねんごろ</rt></ruby>に教へて、又商鞅を<ruby><rb>私</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かにまねき、吾汝を一三四すすむれども王<ruby><rb>許</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さざる色あれば、用ゐずばかへりて汝を害し給へと教ふ。是君を先にし、臣を後にするなり。汝<ruby><rb>速</rb><rt>はや</rt></ruby>く<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の国に去りて害を<ruby><rb>免</rb><rt>のが</rt></ruby>るべしといへり。此の事、一三五<ruby><rb>士</rb><rt>し</rt></ruby>と宗右衛門に<ruby><rb>比</rb><rt>たぐ</rt></ruby>へてはいかに。丹治只<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>を<ruby><rb>低</rb><rt>た</rt></ruby>れて<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>なし。左門座をすすみて、伯氏宗右衛門、塩冶が<ruby><rb>旧交</rb><rt>よしみ</rt></ruby>を思ひて尼子に仕へざるは義士なり。士は、旧主の塩冶を捨てて尼子に<ruby><rb>降</rb><rt>くだ</rt></ruby>りしは士たる義なし。<ruby><rb>伯氏</rb><rt>あに</rt></ruby>は菊花の<ruby><rb>約</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>を重んじ、命を捨てて百里を<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>しは<ruby><rb>信</rb><rt>まこと</rt></ruby>ある<ruby><rb>極</rb><rt>かぎり</rt></ruby>なり。士は今尼子に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びて一三六<ruby><rb>骨肉</rb><rt>こつにく</rt></ruby>の人をくるしめ、此の一三七<ruby><rb>横死</rb><rt>わうし</rt></ruby>をなさしむるは友とする<ruby><rb>信</rb><rt>まこと</rt></ruby>なし。経久<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>ひてとどめ給ふとも、<ruby><rb>旧</rb><rt>ひさ</rt></ruby>しき<ruby><rb>交</rb><rt>まじは</rt></ruby>りを思はば、<ruby><rb>私</rb><rt>ひそか</rt></ruby>に商鞅叔座が<ruby><rb>信</rb><rt>まこと</rt></ruby>をつくすべきに、只一三八<ruby><rb>栄利</rb><rt>えいり</rt></ruby>にのみ走りて一三九<ruby><rb>士家</rb><rt>しか</rt></ruby>の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>なきは、<ruby><rb>即</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち尼子の<ruby><rb>家風</rb><rt>かふう</rt></ruby>なるべし。一四〇さるから<ruby><rb>兄長</rb><rt>このかみ</rt></ruby>、何故此の国に足をとどむべき。吾、今信義を重んじて<ruby><rb>態々</rb><rt>わざわざ</rt></ruby>ここに来る。汝は又不義のために<ruby><rb>汚名</rb><rt>をめい</rt></ruby>をのこせとて、いひもをはらず<ruby><rb>抜打</rb><rt>ぬきうち</rt></ruby>に斬りつくれば、一<ruby><rb>刀</rb><rt>かたな</rt></ruby>にてそこに倒る。一四一<ruby><rb>家眷</rb><rt>いへのこ</rt></ruby>ども立ち騒ぐ<ruby><rb>間</rb><rt>ひま</rt></ruby>にはやく<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>れ出でて一四二跡なし。

尼子経久此のよしを伝へ聞きて、兄弟信義の<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>きをあはれみ、左門が跡をも<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>ひて<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>はせざるとなり。一四三<ruby><rb>咨</rb><rt>ああ</rt></ruby>軽薄の人と交りは結ぶべからずとなん。

一　菊の節句。九月九日重陽の佳節に再会を約束し、魂魄となってそれを果すという主題にもとづく。

二　中国白話小説、范巨卿鶏黍死生交の書出し「種樹莫種垂楊枝、結交莫結軽薄児、楊枝不耐秋風吹、軽薄易結還易離、云々」の翻訳。

三　川柳としだれ柳。

四　兵庫県加古川市。駅は宿場。古来交通の要衝。

五　学者。儒者。

六　甘んじて。

七　家財道具があれこれあるのをうるさく思う。

八　中国戦国時代の人。孟子の母で、孟母三遷、断機の教えで名高い賢母。

九　生活のために人に厄介をかけることができようか。

一〇　連れ。同伴者。

一一　武士らしい風采。

一二　悪性の病熱。

一三　もっともなことであるが。

一四　流行病は人に伝染してその人を害する。范巨卿鶏黍死生交に「瘟病過人」とある。

一五　人間の生死は天命の定めるところである。論語、顔淵篇「死生有命、富貴在天」。

一六　素姓のない人とは思えないが。氏素姓・人品ともにすぐれている。

一七　自分で処方を考えて。

一八　内服の漢方薬は煎薬が多い。

一九　見ず知らずの行きずりの旅人。

二〇　流行病には一定の罹病期間がある。その期間をすぎてしまうと生命をまっとうする。

二一　人に知られぬ隠れた善行。

二二　島根県松江市。

二三　軍学の道をきわめたので。

二四　島根県安来市の東部。今「トダ」という。

二五　一五世紀に出雲にいた武将。代官として富田城にいたが、のち尼子経久に攻めほろぼされた。

二六　一五世紀未、滋賀県を本拠とした武将。塩冶氏の主筋。

二七　一五、六世紀の武将。佐々木氏の配下として出雲の守護代をつとめたが、放逐され、のち再起して中国地方一一国を領した。

二八　山中鹿之介一味を味方として。出雲の豪族で有名な武将。

二九　文明一七年（一四八五）一二月の大晦日。

三〇　不意討ちをして。

三一　守護職の代理として現地にあって実際の政務をとるもの。代官。

三二　三沢も三刀屋も出雲地方の豪族。

三三　いる理由のない所。

三四　単身ひそかにぬけ出して。

三五　後半生。

三六　人の不幸を見殺しにできないのは人間の本性であるから。

三七　鄭重なお礼の言葉をうける理由がない。

三八　養生する。

三九　健康状態がほとんど平生の状態に回復した。

四〇　中国の春秋戦国時代にそれぞれ一派の学説をとなえた思想家・哲学者の総称。またその著述。

四一　ぽつりぽつり。少々。

四二　戦術理論。

四三　確信をもって卓越した話をしたので。

四四　私の幼稚で愚かな心。

四五　才能がなくて。

四六　立身出世する機会。

四七　大丈夫は義を第一とし、義をつらぬきとおすものである。

四八　賢弟から兄としての尊敬をうける。

四九　加古川市尾上町の桜。有名な桜で、諸書・諸歌にひかれている。

五〇　人に問うまでもなくあきらかに知られる初夏。

五一　豆粥をすすり水をのむような貧しい暮らしのなかで親に孝養をつくすこと。菽は豆。豆粥。奴はしもべ。奉仕する。

五二　しばしのお暇。

五三　陰暦九月九日の節句。五節句の一。グミの節句、菊の節句ともいう。

五四　粗酒。謙遜していう。

五五　「月日」の枕詞。

五六　木の下方の枝になっているグミが熟し色づいて。

五七　野菊が色美しく咲いて。

五八　掃除をして。

五九　財布の底をはたいて。

六〇　出雲の国。古事記上「八雲たつ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」。

六一　山陰地方。陰は、山の場合は北、河の場合は南。

六二　饗応の支度をする。代動詞。

六三　その人がどう思うか、そのおもわくが恥かしい。

六四　見渡すかぎり一片の雲もなく。

六五　「旅」の枕詞。

六六　儲け。利益。

六七　前兆。

六八　海面。平穏な海原。

六九　朝早く船出すること。

七〇　岡山県瀬戸内市牛窓町の港。

七一　牛窓の港にむけて船を走らせていたはず。

七二　かえって。

七三　香川県小豆郡の小豆島で、瀬戸内海中の大きな島。いまは「しょうどしま」という。

七四　兵庫県たつの市御津町の港。瀬戸内海航路の要港であった。

七五　こっぴどい目。さんざんな目。

七六　お怒りなさいますな。

七七　兵庫県高砂市阿弥陀町。

七八　くたばり馬めは、眼もあかないのか。馬が物につまずいたのを居眠りでもしていたのだろうとして罵った言葉。

七九　「のみ、まもられて」と訓む。まもるは見まもる。

八〇　人の心のかわりやすいのを秋空にたとえる。「飽き」の掛詞。交り厚く、饗応のこまやかなのを菊の色の濃いことにたとえる。

八一　時節は遅れてしぐれふる秋冬の候になっても。

八二　天の川の星の光がいまにも消えそうに弱って。

八三　月の異名。

八四　夜の静寂に、浪音が高く近く聞こえて、すぐ足もとまでうちよせてくるようである。

八五　ふとみると。中国白話小説によく用いられる語。

八六　黒い影。

八七　風にしたがって。

八八　私。義兄弟の弟としての謙辞。

八九　南面した客間の窓の下。窓の下は客の正座。

九〇　夜を日についで。昼夜兼行で。

九一　すでにこの世の人でない赤穴が、なまぐさいものをきらう様子。

九二　貧しい手料理であるからとてもおもてなしするには不足であるが。井臼の力は、自分で水を汲み米を搗くこと。款すは饗応する。

九三　現世の人。

九四　死霊。亡魂。

九五　どうしてこんな奇怪なことをおっしゃるのですか。

九六　万人に匹敵するほどの雄略があって。

九七　智者を用いるのに疑いぶかい性質がひどく。

九八　主君のために手足となって働く忠実な家臣。

九九　本城。富田城。

一〇〇　義をまもらぬうそつきで信ずるに足りないやつと思われるであろう。

一〇一　范巨卿鶏黍死生交に「古人有云、人不能行千里、魂能日行千里」とある。

一〇二　妖怪や亡霊がのって来る冥途から吹く風。

一〇三　この気持を憐憫をもって汲みとって下さい。

一〇四　客席のあたりに。

一〇五　魚を「な」とよましているから、肴、料理の意。

一〇六　声をたてずに忍び泣きに泣きながら。

一〇七　何ともいうべき言葉がないだろう。

一〇八　子供のように物の道理がわからないのか。

一〇九　酒と肴。

一一〇　范巨卿鶏黍死生交に「古人有云、囚人夢赦、渇人夢漿」とある。牢裏は監獄の中。漿水は飲料水。

一一一　けっして夢のようなそらごとではない。

一一二　このところに。

一一三　互いに声をあげて。

一一四　礼を正して願い出る。

一一五　学問文事に専念してきたとはいいながら。

一一六　無意味にこの世に生きているだけである。

一一七　遺骨を葬って。

一一八　母上には御身をお大切になさって。

一一九　今日の別れを永久の別れの日としないで下さい。

一二〇　人生は水に浮いている泡の如きもので、朝に夕にいつ消えるとも定めがたいものではあるが。范巨卿鶏黍死生交の「生如浮漚、死生之事、旦夕難保」による。

一二一　頼んで。

一二二　ただ赤穴のことのみ思いつづけて、飢えても食をとろうとせず。范巨卿鶏黍死生交の「沿路上饑不択食、寒不思衣」による。

一二三　姓名を名のって面会をもとめると。

一二四　雁の便りにでも託して宗右衛門の死を知らせなければ。

一二五　盛衰。

一二六　その信義に対して、信義をもってむくいようとして。

一二七　夜に日をついで。

一二八　魏は中国古代の一国。公叔座は魏の宰相。この話は史記、商君列伝にある。

一二九　万が一のこと。死ぬこと。

一三〇　宰相としようか。

一三一　のちに秦の宰相となった有名な刑名家。

一三二　世にもまれなすぐれた才能。

一三三　国境から出す。

一三四　推挙したが。

一三五　あなた。貴殿。

一三六　血縁の人。

一三七　非業の死。変死。

一三八　栄達利益にばかりとらわれて。

一三九　真に武士らしい風儀。

一四〇　それだから。

一四一　赤穴丹治の家臣たち。

一四二　行方をくらました。

一四三　ああ、軽薄の人と交わりを結んではならないというが、まさにその通りである。起筆の部分と呼応している。

  


## 雨月物語　巻之二

## 一<ruby><rb>浅茅</rb><rt>あさぢ</rt></ruby>が<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>

二<ruby><rb>下総</rb><rt>しもふさ</rt></ruby>の国<ruby><rb>葛飾郡</rb><rt>かつしかのこほり</rt></ruby><ruby><rb>真間</rb><rt>まま</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>に、<ruby><rb>勝</rb><rt>かつ</rt></ruby>四郎といふ男ありけり。<ruby><rb>祖父</rb><rt>おほぢ</rt></ruby>より<ruby><rb>旧</rb><rt>ひさ</rt></ruby>しくここに住み、田<ruby><rb>畠</rb><rt>ばた</rt></ruby>あまた三<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>づきて家豊かに暮しけるが、四<ruby><rb>生長</rb><rt>ひととな</rt></ruby>りて物にかかはらぬ<ruby><rb>性</rb><rt>さが</rt></ruby>より、<ruby><rb>農作</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>を五うたてき物に<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>ひけるままに、六はた家貧しくなりにけり。さるほどに<ruby><rb>親族</rb><rt>うから</rt></ruby>おほくにも<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>んじられけるを、七<ruby><rb>朽</rb><rt>くち</rt></ruby>をしきことに思ひしみて、いかにもして家を<ruby><rb>興</rb><rt>おこ</rt></ruby>しなんものをと八<ruby><rb>左右</rb><rt>とかく</rt></ruby>にはかりける。其の<ruby><rb>比</rb><rt>（ころ）</rt></ruby><ruby><rb>雀部</rb><rt>ささべ</rt></ruby>の<ruby><rb>曾</rb><rt>そう</rt></ruby>次といふ人、九<ruby><rb>足利</rb><rt>あしかが</rt></ruby>染の絹を交易するために、年々京よりくだりけるが、此の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>に<ruby><rb>氏族</rb><rt>やから</rt></ruby>のありけるを<ruby><rb>屡</rb><rt>しばしば</rt></ruby><ruby><rb>来訪</rb><rt>きとぶら</rt></ruby>ひしかば、かねてより親しかりけるままに、商人となりて京に一〇まうのぼらんことを頼みしに、雀部いとやすく<ruby><rb>肯</rb><rt>うけが</rt></ruby>ひて、いつの<ruby><rb>比</rb><rt>（ころ）</rt></ruby>はまかるべしと聞えける。<ruby><rb>他</rb><rt>かれ</rt></ruby>がたのもしきをよろこびて、<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>る田をも<ruby><rb>販</rb><rt>う</rt></ruby>りつくして<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>に<ruby><rb>代</rb><rt>か</rt></ruby>へ、一一<ruby><rb>絹素</rb><rt>きぬ</rt></ruby>あまた<ruby><rb>買積</rb><rt>かひつ</rt></ruby>みて、京にゆく日を一二もよほしける。

勝四郎が妻<ruby><rb>宮木</rb><rt>みやぎ</rt></ruby>なるものは、一三人の目とむるばかりの<ruby><rb>容</rb><rt>かたち</rt></ruby>に、心ばへも愚かならずありけり。此の度勝四郎が<ruby><rb>商物</rb><rt>あきもの</rt></ruby>買ひて<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>にゆくといふをうたてきことに思ひ、<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>をつくして<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>むれども、一四常の心のはやりたるにせんかたなく、一五<ruby><rb>梓弓</rb><rt>あづさゆみ</rt></ruby><ruby><rb>末</rb><rt>すゑ</rt></ruby>のたづきの心ぼそきにも、かひがひしく一六<ruby><rb>調</rb><rt>こしら</rt></ruby>へて、其の夜は一七さりがたき別れをかたり、かくてはたのみなき女心の、一八野にも山にも<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>ふばかり、物うきかぎりに侍り。<ruby><rb>朝</rb><rt>あした</rt></ruby>に夕にわすれ給はで、<ruby><rb>速</rb><rt>はや</rt></ruby>く帰り給へ。一九命だにとは思ふものの、<ruby><rb>明</rb><rt>あす</rt></ruby>をたのまれぬ世のことわりは、<ruby><rb>武</rb><rt>たけ</rt></ruby>き<ruby><rb>御</rb><rt>み</rt></ruby>心にもあはれみ給へといふに、いかで二〇<ruby><rb>浮木</rb><rt>うきぎ</rt></ruby>に乗りつも、しらぬ国に長居せん。二一<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>のうら葉のかへるは此の秋なるべし。心づよく待ち給へと、いひなぐさめて、夜も明けぬるに、二二鳥が<ruby><rb>啼</rb><rt>（な）</rt></ruby>く<ruby><rb>東</rb><rt>あづま</rt></ruby>を立ち出でて京の方へ急ぎけり。

<ruby><rb>此年</rb><rt>ことし</rt></ruby>二三<ruby><rb>享徳</rb><rt>きやうとく</rt></ruby>の夏、二四鎌倉の<ruby><rb>御所</rb><rt>ごしよ</rt></ruby><ruby><rb>成氏朝臣</rb><rt>しげうぢあそん</rt></ruby>、二五<ruby><rb>管領</rb><rt>くわんれい</rt></ruby>の<ruby><rb>上杉</rb><rt>うへすぎ</rt></ruby>と御中<ruby><rb>放</rb><rt>さ</rt></ruby>けて、<ruby><rb>館</rb><rt>みたち</rt></ruby><ruby><rb>兵</rb><rt>ひやう</rt></ruby>火に跡なく滅びければ、御所は二六<ruby><rb>総州</rb><rt>そうしう</rt></ruby>の御<ruby><rb>味方</rb><rt>みかた</rt></ruby>へ落ちさせ給ふより、関の東<ruby><rb>忽</rb><rt>（たちま）</rt></ruby>ちに乱れて、二七心々の世の中となりしほどに、老いたるは山に<ruby><rb>逃竄</rb><rt>にげかく</rt></ruby>れ、二八<ruby><rb>弱</rb><rt>わか</rt></ruby>きは<ruby><rb>軍民</rb><rt>いくさびと</rt></ruby>にもよほされ、けふは此所を焼きはらふ、<ruby><rb>明</rb><rt>あす</rt></ruby>は敵のよせ来るぞと、女わらべ<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>は<ruby><rb>東西</rb><rt>をちこち</rt></ruby>に逃げまどひて泣きかなしむ。勝四郎が妻なるものも、いづちへも<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れんものをと思ひしかど、此の秋を待てと聞えし<ruby><rb>夫</rb><rt>をつと</rt></ruby>の<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>を頼みつつも、安からぬ心に日をかぞへて暮しける。秋にもなりしかど風の便りもあらねば、二九世とともに<ruby><rb>憑</rb><rt>たの</rt></ruby>みなき人心かなと、恨みかなしみ三〇おもひくづほれて、

三一身のうさは人しも告げじあふ坂の

夕づけ鳥よ秋も暮れぬと

かくよめれども、国あまた隔てぬれば、いひおくるべき<ruby><rb>伝</rb><rt>つて</rt></ruby>もなし。世の中<ruby><rb>騒</rb><rt>さわ</rt></ruby>がしきにつれて、人の心も恐ろしくなりにたり。<ruby><rb>適間</rb><rt>たまたま</rt></ruby>とぶらふ人も、宮木がかたちの<ruby><rb>愛</rb><rt>めで</rt></ruby>たきを見ては、さまざまにすかしいざなへども、三二三<ruby><rb>貞</rb><rt>てい</rt></ruby>の<ruby><rb>賢</rb><rt>かしこ</rt></ruby>き<ruby><rb>操</rb><rt>みさを</rt></ruby>を守りてつらくもてなし、後は戸を<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てて見えざりけり。<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>の<ruby><rb>婢女</rb><rt>はしため</rt></ruby>も去りて、すこしの<ruby><rb>貯</rb><rt>たくはへ</rt></ruby>もむなしく、其の年も暮れぬ。年あらたまりぬれども<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>をさまらず。三三あまさへ<ruby><rb>去年</rb><rt>こぞ</rt></ruby>の秋、三四京家の下知として、三五美濃の国<ruby><rb>郡上</rb><rt>ぐじやう</rt></ruby>の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>、三六<ruby><rb>東</rb><rt>とう</rt></ruby>の<ruby><rb>下野守</rb><rt>（しもつけのかみ）</rt></ruby><ruby><rb>常縁</rb><rt>つねより</rt></ruby>に三七<ruby><rb>御旗</rb><rt>みはた</rt></ruby>を<ruby><rb>給</rb><rt>た</rt></ruby>びて、三八下野の<ruby><rb>領所</rb><rt>しるところ</rt></ruby>にくだり、<ruby><rb>氏族</rb><rt>しぞく</rt></ruby>三九<ruby><rb>千葉</rb><rt>ちば</rt></ruby>の<ruby><rb>実胤</rb><rt>さねたね</rt></ruby>とはかりて四〇<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>むるにより、御所方も固く守りて<ruby><rb>拒</rb><rt>ふせ</rt></ruby>ぎ戦ひけるほどに、いつ果つべきとも見えず。四一<ruby><rb>野伏等</rb><rt>のぶしら</rt></ruby>はここかしこに<ruby><rb>寨</rb><rt>さい</rt></ruby>をかまへ、火を放ちて<ruby><rb>財</rb><rt>たから</rt></ruby>を奪ふ。四二<ruby><rb>八州</rb><rt>はつしう</rt></ruby>すべて安き所もなく、浅ましき世の<ruby><rb>費</rb><rt>つひえ</rt></ruby>なりけり。

勝四郎は<ruby><rb>雀部</rb><rt>ささべ</rt></ruby>に従ひて京にゆき、絹ども残りなく交易せしほどに、<ruby><rb>当時</rb><rt>このごろ</rt></ruby>都は四三<ruby><rb>花美</rb><rt>くわび</rt></ruby>を好む<ruby><rb>節</rb><rt>とき</rt></ruby>なれば、四四よき徳とりて<ruby><rb>東</rb><rt>あづま</rt></ruby>に帰る<ruby><rb>用意</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>をなすに、<ruby><rb>今度</rb><rt>このたび</rt></ruby>上杉の<ruby><rb>兵</rb><rt>つはもの</rt></ruby>鎌倉の御所を<ruby><rb>陥</rb><rt>おと</rt></ruby>し、なほ御四五跡をしたうて<ruby><rb>責討</rb><rt>せめう</rt></ruby>てば、<ruby><rb>古郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>の<ruby><rb>辺</rb><rt>ほと</rt></ruby>りは四六<ruby><rb>干戈</rb><rt>かんくわ</rt></ruby>みちみちて、四七<ruby><rb>涿鹿</rb><rt>たくろく</rt></ruby>の<ruby><rb>岐</rb><rt>ちまた</rt></ruby>となりしよしを四八いひはやす。まのあたりなるさへ<ruby><rb>偽</rb><rt>いつはり</rt></ruby>おほき四九<ruby><rb>世説</rb><rt>よがたり</rt></ruby>なるを、まして五〇しら雲の八重に隔たりし国なれば、心も心ならず、<ruby><rb>八月</rb><rt>はづき</rt></ruby>のはじめ<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>をたち出でて、五一<ruby><rb>岐曾</rb><rt>きそ</rt></ruby>の<ruby><rb>真坂</rb><rt>みさか</rt></ruby>を日くらしに<ruby><rb>踰</rb><rt>こ</rt></ruby>えけるに、<ruby><rb>落草</rb><rt>ぬすびと</rt></ruby>ども道を<ruby><rb>塞</rb><rt>ささ</rt></ruby>へて、<ruby><rb>行李</rb><rt>にもつ</rt></ruby>も残りなく<ruby><rb>奪</rb><rt>うば</rt></ruby>はれしがうへに、人のかたるを聞けば、是より東の方は所々に<ruby><rb>新関</rb><rt>しんせき</rt></ruby>を<ruby><rb>居</rb><rt>す</rt></ruby>ゑて、<ruby><rb>旅客</rb><rt>たびびと</rt></ruby>の<ruby><rb>往来</rb><rt>いきき</rt></ruby>をだに<ruby><rb>宥</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さざるよし。さては五二<ruby><rb>消息</rb><rt>おとづれ</rt></ruby>をすべきたづきもなし。家も<ruby><rb>兵火</rb><rt>ひやうくわ</rt></ruby>にや亡びなん。妻も世に生きてあらじ。しからば<ruby><rb>古郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>とても五三<ruby><rb>鬼</rb><rt>おに</rt></ruby>のすむ所なりとて、ここより又<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>に引きかへすに、近江の国に入りて、にはかにここちあしく、五四<ruby><rb>熱</rb><rt>あつ</rt></ruby>き病を<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>ふ。五五<ruby><rb>武佐</rb><rt>むさ</rt></ruby>といふ所に、<ruby><rb>児玉</rb><rt>こだま</rt></ruby>嘉兵衛とて富貴の人あり。是は雀部が妻の五六<ruby><rb>産所</rb><rt>さと</rt></ruby>なりければ、五七<ruby><rb>苦</rb><rt>ねんごろ</rt></ruby>にたのみけるに、此の人見捨てずしていたはりつも、医をむかへて薬の事<ruby><rb>専</rb><rt>もは</rt></ruby>らなりし。やや五八ここち<ruby><rb>清</rb><rt>すず</rt></ruby>しくなりぬれば、<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>き<ruby><rb>恩</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>を五九かたじけなうす。されど歩む事はまだ六〇はかばかしからねば、今年は思ひがけずもここに春を迎ふるに、いつのほどか此の里にも友をもとめて、六一<ruby><rb>揉</rb><rt>た</rt></ruby>めざるに<ruby><rb>直</rb><rt>なほ</rt></ruby>き志を<ruby><rb>賞</rb><rt>しやう</rt></ruby>ぜられて、児玉をはじめ誰々も頼もしく<ruby><rb>交</rb><rt>まじは</rt></ruby>りけり。此の後は<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>に出でて雀部を六二とぶらひ、又は近江に帰りて児玉に身を<ruby><rb>托</rb><rt>よ</rt></ruby>せ、七とせがほどは夢のごとくに過しぬ。

六三寛正二年、六四畿内河内の国に六五<ruby><rb>畠</rb><rt>はたけ</rt></ruby>山が<ruby><rb>同根</rb><rt>どうこん</rt></ruby>の争ひ果さざれば、<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>ぢかくも騒がしきに、春の頃より六六<ruby><rb>瘟疫</rb><rt>えやみ</rt></ruby>さかんに<ruby><rb>行</rb><rt>おこな</rt></ruby>はれて、<ruby><rb>屍</rb><rt>かばね</rt></ruby>は<ruby><rb>衢</rb><rt>ちまた</rt></ruby>に<ruby><rb>畳</rb><rt>つ</rt></ruby>み、人の心も今や六七一<ruby><rb>劫</rb><rt>ごふ</rt></ruby>の<ruby><rb>尽</rb><rt>つ</rt></ruby>くるならんと、はかなきかぎりを悲しみける。勝四郎<ruby><rb>熟</rb><rt>つらつら</rt></ruby>思ふに、かく<ruby><rb>落魄</rb><rt>おちぶ</rt></ruby>れてなす事もなき身の何をたのみとて遠き国に<ruby><rb>逗</rb><rt>とど</rt></ruby>まり、六八<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆゑ</rt></ruby>なき人の<ruby><rb>恵</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>をうけて、いつまで生くべき命なるぞ。六九<ruby><rb>古郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>に捨てし人の<ruby><rb>消息</rb><rt>せうそこ</rt></ruby>をだにしらで、七〇<ruby><rb>萱草</rb><rt>わすれぐさ</rt></ruby>おひぬる<ruby><rb>野方</rb><rt>のべ</rt></ruby>に長々しき年月を過しけるは、七一<ruby><rb>信</rb><rt>まこと</rt></ruby>なき<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が心なりける物を。たとへ七二<ruby><rb>泉下</rb><rt>せんか</rt></ruby>の人となりて、七三ありつる世にはあらずとも、其のあとをももとめて七四<ruby><rb>壠</rb><rt>つか</rt></ruby>をも<ruby><rb>築</rb><rt>つ</rt></ruby>くべけれと、人々に志を告げて、<ruby><rb>五月雨</rb><rt>さみだれ</rt></ruby>のはれ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に七五手をわかちて、十日あまりを<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て古郷に帰り着きぬ。

此の時、日ははや西に沈みて、雨雲はおちかかるばかりに<ruby><rb>闇</rb><rt>くら</rt></ruby>けれど、<ruby><rb>旧</rb><rt>ひさ</rt></ruby>しく住みなれし里なれば迷ふべうもあらじと、夏野わけ行くに、いにしへの七六<ruby><rb>継橋</rb><rt>つぎはし</rt></ruby>も川瀬におちたれば、げに七七駒の<ruby><rb>足音</rb><rt>あおと</rt></ruby>もせぬに、田畑は七八荒れたきままにすさみて、<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>の道もわからず、七九ありつる<ruby><rb>人居</rb><rt>いへゐ</rt></ruby>もなし。たまたまここかしこに残る家に人の住むとは見ゆるもあれど、昔には似つつもあらね。いづれか我が住みし家ぞと立ち<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>ふに、ここ八〇二十<ruby><rb>歩</rb><rt>ほ</rt></ruby>ばかりを去りて、<ruby><rb>雷</rb><rt>らい</rt></ruby>に<ruby><rb>摧</rb><rt>くだ</rt></ruby>かれし松の<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えて立てるが、雲<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の星のひかりに見えたるを、げに八一我が軒の<ruby><rb>標</rb><rt>しるし</rt></ruby>こそ見えつると、先づ<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しきここちしてあゆむに、家は<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>にかはらであり、人も住むと見えて、<ruby><rb>古戸</rb><rt>ふるど</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>すき</rt></ruby>より灯火の影もれて<ruby><rb>輝</rb><rt>きら</rt></ruby>々とするに、八二<ruby><rb>他</rb><rt>こと</rt></ruby>人や住む、もし八三其の人や<ruby><rb>在</rb><rt>いま</rt></ruby>すかと心<ruby><rb>躁</rb><rt>さわが</rt></ruby>しく、門に立ちよりて八四<ruby><rb>咳</rb><rt>しはぶき</rt></ruby>すれば、内にも<ruby><rb>速</rb><rt>はや</rt></ruby>く聞きとりて<ruby><rb>誰</rb><rt>た</rt></ruby>そと<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>む。いたう八五ねびたれど正しく妻の声なるを聞きて、夢かと胸のみさわがれて、我こそ帰りまゐりたり。八六かはらで<ruby><rb>独自</rb><rt>ひとり</rt></ruby><ruby><rb>浅茅</rb><rt>あさぢ</rt></ruby>が原に住みつることの不思議さよといふを、八七聞きしりたれば八八やがて戸を明くるに、いといたう黒く<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>づきて、<ruby><rb>眼</rb><rt>まみ</rt></ruby>はおち入りたるやうに、八九<ruby><rb>結</rb><rt>あ</rt></ruby>げたる髪も<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>にかかりて、九〇<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>の人とも思はれず。<ruby><rb>夫</rb><rt>をとこ</rt></ruby>を見て物をもいはで<ruby><rb>潸然</rb><rt>さめざめ</rt></ruby>となく。

勝四郎も九一心くらみて、しばし物をも聞えざりしが、ややしていふは、今までかくおはすと思ひなば、など年月を過すべき。<ruby><rb>去</rb><rt>（い）</rt></ruby>ぬる年、<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>にありつる日、鎌倉の<ruby><rb>兵乱</rb><rt>ひやうらん</rt></ruby>を聞き、九二御所の<ruby><rb>師</rb><rt>いくさ</rt></ruby><ruby><rb>潰</rb><rt>つひ</rt></ruby>えしかば、総州に避けて<ruby><rb>禦</rb><rt>ふせ</rt></ruby>ぎ給ふ。<ruby><rb>管領</rb><rt>くわんれい</rt></ruby>これを責むる事<ruby><rb>急</rb><rt>きふ</rt></ruby>なりといふ。其の<ruby><rb>明</rb><rt>あす</rt></ruby><ruby><rb>雀部</rb><rt>ささべ</rt></ruby>にわかれて、<ruby><rb>八月</rb><rt>はづき</rt></ruby>のはじめ<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>を立ちて、九三木曾路を<ruby><rb>来</rb><rt>く</rt></ruby>るに、山<ruby><rb>賊</rb><rt>だち</rt></ruby>あまたに取りこめられ、衣服金銀残りなく<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>められ、命ばかりを<ruby><rb>辛労</rb><rt>からう</rt></ruby>じて助かりぬ。<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>里人のかたるを聞けば、九四東海東山の道はすべて新関を<ruby><rb>居</rb><rt>す</rt></ruby>ゑて人を<ruby><rb>駐</rb><rt>とど</rt></ruby>むるよし。又きのふ京より九五<ruby><rb>節刀使</rb><rt>せつとし</rt></ruby>もくだり給ひて、上杉に<ruby><rb>与</rb><rt>くみ</rt></ruby>し、総州の<ruby><rb>陣</rb><rt>いくさ</rt></ruby>に向はせ給ふ。本国の<ruby><rb>辺</rb><rt>ほとり</rt></ruby>は<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くに焼きはらはれ、九六馬の<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby><ruby><rb>尺地</rb><rt>せきち</rt></ruby>も<ruby><rb>間</rb><rt>ひま</rt></ruby>なしとかたるによりて、今は九七<ruby><rb>灰塵</rb><rt>くわいぢん</rt></ruby>とやなり給ひけん、海にや沈み給ひけんと、ひたすらに思ひとどめて、又<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>にのぼりぬるより、九八人に<ruby><rb>餬口</rb><rt>くちもら</rt></ruby>ひて七とせは過しけり。<ruby><rb>近曾</rb><rt>このごろ</rt></ruby>九九すずろに物のなつかしくありしかば、せめて其の<ruby><rb>蹤</rb><rt>あと</rt></ruby>をも見たきままに帰りぬれど、かくて世におはせんとは<ruby><rb>努々</rb><rt>ゆめゆめ</rt></ruby>思はざりしなり。一〇〇<ruby><rb>巫山</rb><rt>ふざん</rt></ruby>の雲、一〇一<ruby><rb>漢宮</rb><rt>かんきゆう</rt></ruby>の<ruby><rb>幻</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>にもあらざるやとくりごとはてしぞなき。妻、涙をとどめて、一たび<ruby><rb>離</rb><rt>わか</rt></ruby>れまゐらせて後、一〇二たのむの秋より<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に恐ろしき世の中となりて、里人は皆家を捨てて海に<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>ひ山に<ruby><rb>隠</rb><rt>こも</rt></ruby>れば、<ruby><rb>適</rb><rt>たまたま</rt></ruby>に残りたる人は、多く一〇三<ruby><rb>虎狼</rb><rt>こらう</rt></ruby>の心ありて、かく<ruby><rb>寡</rb><rt>やもめ</rt></ruby>となりしを<ruby><rb>便</rb><rt>たよ</rt></ruby>りよしとや、<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>を<ruby><rb>巧</rb><rt>たく</rt></ruby>みていざなへども、一〇四玉と<ruby><rb>砕</rb><rt>くだ</rt></ruby>けても<ruby><rb>瓦</rb><rt>かはら</rt></ruby>の<ruby><rb>全</rb><rt>また</rt></ruby>きにはならはじものをと、幾たびか<ruby><rb>辛苦</rb><rt>からきめ</rt></ruby>を忍びぬる。一〇五<ruby><rb>銀河</rb><rt>ぎんが</rt></ruby>秋を告ぐれども君は帰り給はず。冬を待ち、春を迎へても<ruby><rb>消息</rb><rt>おとづれ</rt></ruby>なし。今は<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>にのぼりて尋ねまゐらせんと思ひしかど、<ruby><rb>丈夫</rb><rt>ますらを</rt></ruby>さへ<ruby><rb>宥</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さざる関の<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざし</rt></ruby>を、いかで女の越ゆべき道もあらじと、軒端の一〇六松にかひなき宿に、<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby><ruby><rb>鵂鶹</rb><rt>ふくろふ</rt></ruby>を友として今日までは過しぬ。今は長き恨みもはればれとなりぬることの<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しく<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>り。一〇七逢ふを待つ間に恋死なんは人しらぬ恨みなるべしと、又よよと泣くを、夜こそ短きにといひなぐさめて、ともに臥しぬ。

一〇八<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>の<ruby><rb>紙</rb><rt>かみ</rt></ruby><ruby><rb>松風</rb><rt>まつかぜ</rt></ruby>を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>りて夜もすがら涼しきに、一〇九<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>の<ruby><rb>長手</rb><rt>ながて</rt></ruby>に<ruby><rb>労</rb><rt>つか</rt></ruby>れ<ruby><rb>熟</rb><rt>うま</rt></ruby>く<ruby><rb>寝</rb><rt>い</rt></ruby>ねたり。一一〇<ruby><rb>五更</rb><rt>ごかう</rt></ruby>の<ruby><rb>天</rb><rt>そら</rt></ruby>明けゆく<ruby><rb>比</rb><rt>（ころ）</rt></ruby>、一一一<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>なき心にもすずろに寒かりければ、一一二<ruby><rb>衾</rb><rt>ふすま</rt></ruby><ruby><rb>帔</rb><rt>かづ</rt></ruby>かんとさぐる手に、何物にや<ruby><rb>籟々</rb><rt>さやさや</rt></ruby>と音するに目さめぬ。<ruby><rb>面</rb><rt>かほ</rt></ruby>にひやひやと物のこぼるるを、雨や漏りぬるかと見れば、屋根は風にまくられてあれば、一一三有明月のしらみて残りたるも見ゆ。家は<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>もあるやなし。一一四<ruby><rb>簀垣</rb><rt>すがき</rt></ruby><ruby><rb>朽頽</rb><rt>くちくづ</rt></ruby>れたる<ruby><rb>間</rb><rt>ひま</rt></ruby>より、<ruby><rb>荻</rb><rt>をぎ</rt></ruby><ruby><rb>薄</rb><rt>すすき</rt></ruby>高く<ruby><rb>生</rb><rt>おひ</rt></ruby>出でて、朝露うちこぼるるに、袖一一五<ruby><rb>湿</rb><rt>ひ</rt></ruby>ぢてしぼるばかりなり。壁には<ruby><rb>蔦</rb><rt>つた</rt></ruby><ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby><ruby><rb>延</rb><rt>は</rt></ruby>ひかかり、庭は<ruby><rb>葎</rb><rt>むぐら</rt></ruby>に<ruby><rb>埋</rb><rt>うづ</rt></ruby>もれて一一六秋ならねども野らなる宿なりけり。

さてしも臥したる妻はいづち行きけん見えず。狐などのしわざにやと思へば、かく荒れ果てぬれど<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>住みし家にたがはで、広く<ruby><rb>造</rb><rt>つく</rt></ruby>り<ruby><rb>作</rb><rt>な</rt></ruby>せし奥わたりより、<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>の方、<ruby><rb>稲倉</rb><rt>いなぐら</rt></ruby>まで一一七好みたるままの<ruby><rb>形</rb><rt>さま</rt></ruby>なり。一一八<ruby><rb>呆自</rb><rt>あきれ</rt></ruby>て足の<ruby><rb>踏所</rb><rt>ふみど</rt></ruby>さへ<ruby><rb>失</rb><rt>わす</rt></ruby>れたるやうなりしが、<ruby><rb>熟</rb><rt>つらつら</rt></ruby>おもふに、妻は既に<ruby><rb>死</rb><rt>まか</rt></ruby>りて、今は狐狸の住みかはりて、かく野らなる宿となりたれば、怪しき<ruby><rb>鬼</rb><rt>もの</rt></ruby>の<ruby><rb>化</rb><rt>け</rt></ruby>して一一九ありし<ruby><rb>形</rb><rt>かたち</rt></ruby>を見せつるにてぞあるべき。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し又我を慕ふ<ruby><rb>魂</rb><rt>たま</rt></ruby>のかへり来りてかたりぬるものか。一二〇思ひし事の露たがはざりしよと、更に涙さへ出でず。一二一我が身ひとつは<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>の身にしてとあゆみ<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>るに、むかし<ruby><rb>閨房</rb><rt>ふしど</rt></ruby>にてありし所の<ruby><rb>簀子</rb><rt>すのこ</rt></ruby>をはらひ、土を積みて<ruby><rb>壠</rb><rt>つか</rt></ruby>とし、雨露をふせぐまうけもあり。<ruby><rb>夜</rb><rt>よべ</rt></ruby>の<ruby><rb>霊</rb><rt>れい</rt></ruby>はここもとよりやと恐ろしくも<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>なつかし。一二二水<ruby><rb>向</rb><rt>むけ</rt></ruby>の<ruby><rb>具</rb><rt>ぐ</rt></ruby>一二三物せし中に、木の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>を<ruby><rb>刪</rb><rt>けづ</rt></ruby>りたるに、一二四<ruby><rb>那須野紙</rb><rt>なすのがみ</rt></ruby>のいたう<ruby><rb>古</rb><rt>ふる</rt></ruby>びて、文字も一二五むら<ruby><rb>消</rb><rt>ぎえ</rt></ruby>して所々見定めがたき、正しく妻の筆の跡なり。法名といふものも年月もしるさで、三十一字に<ruby><rb>末期</rb><rt>いまは</rt></ruby>の心を哀れにも<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>べたり。

一二六さりともと思ふ心にはかられて

世にもけふまでいける命か

ここにはじめて妻の死したるを<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>りて、大いに<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>びて倒れ伏す。<ruby><rb>去</rb><rt>さり</rt></ruby>とて何の年、何の月日に終りしさへしらぬ浅ましさよ。人はしりもやせんと、涙をとどめて立ち出づれば、日高くさし<ruby><rb>昇</rb><rt>のぼ</rt></ruby>りぬ。先づちかき家に行きて<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>を見るに、一二七昔見し人にあらず。かへりて<ruby><rb>何国</rb><rt>いづく</rt></ruby>の人ぞと<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>む。勝四郎一二八<ruby><rb>礼</rb><rt>ゐや</rt></ruby>まひていふ。此の隣なる家の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>なりしが、一二九<ruby><rb>過活</rb><rt>わたらひ</rt></ruby>のため<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>に七とせまでありて、<ruby><rb>昨</rb><rt>きそ</rt></ruby>の夜帰りまゐりしに、既に<ruby><rb>荒廃</rb><rt>あれすさ</rt></ruby>みて人も住ひ侍らず。妻なるものも<ruby><rb>死</rb><rt>まか</rt></ruby>りしと見えて、<ruby><rb>壠</rb><rt>つか</rt></ruby>の<ruby><rb>設</rb><rt>まうけ</rt></ruby>も見えつるが、一三〇いつの年にともなきに、一三一まさりて悲しく侍り。しらせ給はば教へ給へかし。<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の男いふ。一三二哀れにも聞え給ふものかな。<ruby><rb>我</rb><rt>わが</rt></ruby>ここに住むもいまだ一とせばかりの事なれば、それよりはるかの昔に<ruby><rb>亡</rb><rt>う</rt></ruby>せ給ふと見えて、住み給ふ人の一三三ありつる世はしり侍らず。すべて此の里の<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>き人は<ruby><rb>兵乱</rb><rt>ひやうらん</rt></ruby>の初めに<ruby><rb>逃失</rb><rt>にげう</rt></ruby>せて、今住居する人は大かた<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>より移り来たる人なり。只<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>の<ruby><rb>翁</rb><rt>おきな</rt></ruby>の侍るが、一三四所に<ruby><rb>旧</rb><rt>ひさ</rt></ruby>しき人と見え給ふ。<ruby><rb>時</rb><rt>をり</rt></ruby>々あの家にゆきて、<ruby><rb>亡</rb><rt>う</rt></ruby>せ給ふ人の一三五<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>を<ruby><rb>弔</rb><rt>とぶら</rt></ruby>はせ給ふなり。此の翁こそ月日をもしらせ給ふべしといふ。勝四郎いふ。さては其の翁の<ruby><rb>栖</rb><rt>す</rt></ruby>み給ふ家は<ruby><rb>何方</rb><rt>いづべ</rt></ruby>にて侍るや。<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>いふ。ここより百<ruby><rb>歩</rb><rt>ぽ</rt></ruby>ばかり浜の方に、<ruby><rb>麻</rb><rt>あさ</rt></ruby>おほく植ゑたる畑の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>にて、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>にちひさき<ruby><rb>庵</rb><rt>いほり</rt></ruby>して住ませ給ふなりと教ふ。勝四郎よろこびてかの家にゆきて見れば、<ruby><rb>七十可</rb><rt>ななそぢばかり</rt></ruby>の翁の、腰は一三六浅ましきまで<ruby><rb>屈</rb><rt>かがま</rt></ruby>りたるが、一三七<ruby><rb>庭竈</rb><rt>にはかまど</rt></ruby>の前に一三八<ruby><rb>円座</rb><rt>わらふだ</rt></ruby>敷きて茶を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り<ruby><rb>居</rb><rt>を</rt></ruby>る。翁も勝四郎と見るより、一三九<ruby><rb>吾主</rb><rt>わぬし</rt></ruby>何とて遅く帰り給ふといふを見れば、此の里に久しき<ruby><rb>漆間</rb><rt>うるま</rt></ruby>の翁といふ人なり。

勝四郎、翁が一四〇<ruby><rb>高齢</rb><rt>よはひ</rt></ruby>をことぶきて、次に<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>に行きて心ならずも<ruby><rb>逗</rb><rt>とど</rt></ruby>まりしより、<ruby><rb>前夜</rb><rt>さきのよ</rt></ruby>のあやしきまでを<ruby><rb>詳</rb><rt>つばら</rt></ruby>にかたりて、翁が<ruby><rb>壠</rb><rt>つか</rt></ruby>を<ruby><rb>築</rb><rt>つ</rt></ruby>きて祭り給ふ<ruby><rb>恩</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>のかたじけなきを告げつつも涙とどめがたし。翁いふ。<ruby><rb>吾主</rb><rt>わぬし</rt></ruby>遠くゆき給ひて後は、夏の<ruby><rb>比</rb><rt>（ころ）</rt></ruby>より<ruby><rb>干戈</rb><rt>かんくわ</rt></ruby>を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>ひ出でて、里人は所々に<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れ、<ruby><rb>弱</rb><rt>わか</rt></ruby>き者どもは<ruby><rb>軍民</rb><rt>いくさびと</rt></ruby>に召さるるほどに、一四一<ruby><rb>桑田</rb><rt>さうでん</rt></ruby>にはかに<ruby><rb>狐兎</rb><rt>こと</rt></ruby>の<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>となる。只一四二<ruby><rb>烈婦</rb><rt>さかしめ</rt></ruby>のみ<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>が秋を<ruby><rb>約</rb><rt>ちか</rt></ruby>ひ給ふを守りて、家を出で給はず。翁も又一四三<ruby><rb>足</rb><rt>あし</rt></ruby><ruby><rb>蹇</rb><rt>なへ</rt></ruby>ぎて百<ruby><rb>歩</rb><rt>ほ</rt></ruby>を<ruby><rb>難</rb><rt>かた</rt></ruby>しとすれば、深く<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てこもりて出でず。<ruby><rb>一旦</rb><rt>ひとたび</rt></ruby>一四四<ruby><rb>樹神</rb><rt>こだま</rt></ruby>などいふおそろしき<ruby><rb>鬼</rb><rt>もの</rt></ruby>の<ruby><rb>栖</rb><rt>す</rt></ruby>む所となりたりしを、<ruby><rb>稚</rb><rt>わか</rt></ruby>き<ruby><rb>女子</rb><rt>をんなご</rt></ruby>の一四五<ruby><rb>矢武</rb><rt>やたけ</rt></ruby>におはするぞ、一四六老が物見たる中のあはれなりし。秋去り春来りて、一四七其の年の<ruby><rb>八月</rb><rt>はづき</rt></ruby>十日といふに<ruby><rb>死</rb><rt>まか</rt></ruby>り給ふ。<ruby><rb>惆</rb><rt>いとほ</rt></ruby>しさのあまりに、老が手づから土を運びて<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>蔵</rb><rt>をさ</rt></ruby>め、其の<ruby><rb>終焉</rb><rt>をはり</rt></ruby>に残し給ひし一四八筆の跡を<ruby><rb>壠</rb><rt>つか</rt></ruby>のしるしとして、一四九<ruby><rb>蘋蘩行潦</rb><rt>みづむけ</rt></ruby>の祭も心ばかりにものしけるが、翁もとより筆とる<ruby><rb>事</rb><rt>わざ</rt></ruby>をしもしらねば、其の月日を一五〇<ruby><rb>紀</rb><rt>しる</rt></ruby>す事もえせず。寺院遠ければ一五一<ruby><rb>贈号</rb><rt>おくりな</rt></ruby>を求むる方もなくて、五とせを過し侍るなり。今の物がたりを聞くに、必ず<ruby><rb>烈婦</rb><rt>さかしめ</rt></ruby>の<ruby><rb>魂</rb><rt>たま</rt></ruby>の来り給ひて、<ruby><rb>旧</rb><rt>ひさ</rt></ruby>しき恨みを聞え給ふなるべし。<ruby><rb>復</rb><rt>ふたた</rt></ruby>びかしこに行きて<ruby><rb>念比</rb><rt>（ねんごろ）</rt></ruby>にとぶらひ給へとて、杖を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>きて<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に立ち、相ともに<ruby><rb>壠</rb><rt>つか</rt></ruby>のまへに<ruby><rb>俯</rb><rt>ふ</rt></ruby>して声を<ruby><rb>放</rb><rt>あ</rt></ruby>げて嘆きつつも、其の夜はそこに念仏して明かしける。



勝四郎と漆間の翁がつれだって勝四郎の廃居を訪れた図。「<ruby><rb>雷</rb><rt>らい</rt></ruby>に<ruby><rb>摧</rb><rt>くだ</rt></ruby>かれし松の<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えて立てる」のがあり、家には戸もなく、萩薄などが生い茂っている荒廃のさまが描かれている。（原本三丁裏、四丁表の挿絵）

寝られぬままに翁かたりていふ。翁が<ruby><rb>祖父</rb><rt>おほぢ</rt></ruby>の其の祖父すらも<ruby><rb>生</rb><rt>うま</rt></ruby>れぬはるかの<ruby><rb>往古</rb><rt>いにしへ</rt></ruby>の事よ。此の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>に一五二<ruby><rb>真間</rb><rt>まま</rt></ruby>の<ruby><rb>手児女</rb><rt>てごな</rt></ruby>といふいと美しき<ruby><rb>娘子</rb><rt>をとめ</rt></ruby>ありけり。家貧しければ身には一五三<ruby><rb>麻衣</rb><rt>あさごろも</rt></ruby>に<ruby><rb>青衿</rb><rt>あをえり</rt></ruby>つけて、髪だも<ruby><rb>梳</rb><rt>けづ</rt></ruby>らず、<ruby><rb>履</rb><rt>くつ</rt></ruby>だも<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>かずてあれど、<ruby><rb>面</rb><rt>かほ</rt></ruby>は一五四<ruby><rb>望</rb><rt>もち</rt></ruby>の夜の月のごと、<ruby><rb>笑</rb><rt>ゑ</rt></ruby>めば花の一五五<ruby><rb>艶</rb><rt>にほ</rt></ruby>ふが<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>、<ruby><rb>綾錦</rb><rt>あやにしき</rt></ruby>に一五六<ruby><rb>裹</rb><rt>つつ</rt></ruby>める一五七<ruby><rb>京女﨟</rb><rt>みやこぢよらう</rt></ruby>にも<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>りたれとて、この里人はもとより、一五八<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>の<ruby><rb>防人等</rb><rt>さきもりたち</rt></ruby>、国の隣の人までも、一五九<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>をよせて恋<ruby><rb>慕</rb><rt>しの</rt></ruby>ばざるはなかりしを、<ruby><rb>手児女</rb><rt>てごな</rt></ruby>物うき事に思ひ沈みつつ、一六〇おほくの人の心に<ruby><rb>報</rb><rt>むくい</rt></ruby>すとて、一六一此の<ruby><rb>浦回</rb><rt>うらわ</rt></ruby>の波に身を投げしことを、世の哀れなる<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>とて、いにしへの人は歌にもよみ給ひてかたり伝へしを、翁が<ruby><rb>稚</rb><rt>をさな</rt></ruby>かりしときに、母のおもしろく<ruby><rb>話</rb><rt>かた</rt></ruby>り給ふをさへ、いと哀れなることに聞きしを、一六二此の<ruby><rb>亡</rb><rt>なき</rt></ruby>人の心は昔の手児女が一六三をさなき心に一六四幾らをかまさりて悲しかりけんと、かたるかたる涙さしぐみてとどめかぬるぞ、一六五老は物えこらへぬなりけり。勝四郎が悲しみはいふべくもなし。此の物がたりを聞きて、一六六おもふあまりを<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>人の一六七<ruby><rb>口鈍</rb><rt>くちにぶ</rt></ruby>くもよみける。

いにしへの真間の<ruby><rb>手児奈</rb><rt>てごな</rt></ruby>をかくばかり

恋ひてしあらん真間のてごなを

思ふ心の一六八はしばかりをもえいはぬぞ、一六九よくいふ人の心にもまさりてあはれなりとやいはん。かの国にしばしばかよふ<ruby><rb>商人</rb><rt>あきびと</rt></ruby>の聞き伝へてかたりけるなりき。

一　茅がまばらに生え、草ぶかく荒れはてた家。

二　千葉県市川市真間。万葉集以来名高く、歌枕。

三　所有して。

四　生れつき物事に無頓着な性質。

五　いやなことだと。

六　ついに。とうとう。

七　口惜しいことだと深く思いこみ。

八　あれこれと思案をめぐらした。

九　栃木県足利市付近から産出した染絹。

一〇　まいり上る、の音便。

一一　染めてない白絹。

一二　準備した。

一三　人目をひくほどの美しい容貌で。

一四　平生思いたったらきかぬ気のうえに、今度は更に思いつめているので、仕方なく。

一五　「末」の枕詞。今後の生活が心細く思われたにもかかわらず。万葉集一二「梓弓末のたづきは知らねども心は君によりにしものを」。

一六　旅支度をととのえて。

一七　離れがたい別れ。

一八　まったく途方にくれるばかりで。古今集一八「いづこにか世をばいとはむ心こそ野にも山にも惑ふべらなれ」。

一九　命さえあればまた逢えると思うが。古今集八「命だに心にかなふものならばなにか別れの悲しからまし」。

二〇　不安な気持と生活。

二一　「かへる」の序詞。秋の七草の一。帰宅するのは。

二二　「東」の枕詞。東は関東。

二三　享徳四年（一四五五）。

二四　鎌倉公方足利成氏。明応六年（一四九七）没。古河公方。御所はもと将軍をいったが、鎌倉管領が僭称した。

二五　執事が管領を僭称した。成氏が上杉憲忠を謀殺し、憲忠の弟房顕が成氏と戦った。

二六　茨城県古河へ逃げた。

二七　ばらばらで統一のない。

二八　若者は兵卒にかり出され。

二九　悪化する世相とともに。

三〇　がっくりと気落ちして。

三一　あふ坂は京都と滋賀の境の逢坂山。夕づけ鳥は木綿付鳥で鶏の異称、夕と「云う」の懸詞。

三二　義婦・節婦・烈婦（剪灯新話句解の注）。

三三　あまつさえ。そのうえ。

三四　京都室町将軍（義政）。

三五　岐阜県郡上市。

三六　千葉介常胤の後裔。武将で歌人。宗祇の師。生年未詳、文明一六年（一四八四）頃没。

三七　征伐の指揮官に任命して。

三八　下総の誤。千葉県香取郡東庄町。

三九　千葉県市川城主。

四〇　攻める。

四一　野武士。山賊夜盗の類。

四二　関八州。関東地方一帯。

四三　義政将軍の東山時代で、文化風俗は華美であった。

四四　いい儲けを得て。

四五　成氏を追撃して。

四六　たてとほこ。武器。どこもかしこも戦争さわぎで。

四七　戦場。中国河北省東南部の地で、太古、黄帝と蚩尤（シュウ）の戦った所。

四八　世間で評判をする。

四九　世間のうわさ。

五〇　遠く隔たった形容。

五一　長野県木曾郡南木曾町と岐阜県中津川市との境をなす馬籠峠。木曾路の難所。

五二　便りをする方法。

五三　鬼のような人ばかりすんでいるところ。

五四　熱病。

五五　滋賀県近江八幡市武佐。中仙道の宿駅。

五六　実家。

五七　ていねいに。

五八　気分がさっぱりした。

五九　感謝する。

六〇　しっかりしないので。

六一　生れつきの素直で正直な性質を愛されて。

六二　訪ね。

六三　一四六一年。

六四　京都・奈良・大阪と兵庫の一部。山城・大和・河内・和泉・摂津の五国。河内は大阪府。

六五　同根は兄弟。畠山政長と義就の家督相続争いが終りそうもないので。

六六　悪性の流行病。

六七　この世の終りであろうか。劫は、仏教で非常に長い時間をいい、宇宙の生命変遷を四劫にわけている。

六八　親戚関係のない、あかの他人。

六九　妻の宮木。

七〇　故郷を忘れ妻を忘れて、萱草の生えているようなこの土地で。古今集一七「すみよしとあまはつぐとも長居すな人忘れ草おふといふなり」。

七一　実意のない私の心からであったのだ。

七二　あの世の人。

七三　以前のようにこの世に生きていないにしても。

七四　墓。

七五　別れをつげて。

七六　万葉の昔から有名な真間の継橋。真間川にかかっていた。板の橋を長く継いだ橋。

七七　万葉集一四「足（あ）の音せずゆかむ駒もが葛飾の真間の継橋やまずかよはむ」。

七八　荒れ放題に荒れて。

七九　以前あった人家。

八〇　一歩は曲尺の約六尺。二〇歩は約三六メートル。

八一　わが家のめじるし。古来、家の門口に松を植える風習があった。

八二　べつの人。

八三　妻の宮木。

八四　来訪・帰宅をしらせる合図のせきばらい。

八五　ふけているが。

八六　達者で。

八七　夫の声であると聞き知ったので。

八八　すぐに。

八九　結いあげた髪も乱れおちて背にかかり。

九〇　以前の妻の面影はない。

九一　気も動転して。

九二　成氏方が敗れたので。

九三　中仙道の一部。

九四　東海道・東山道。京から関東へ通ずる二大街道。

九五　節度使。天皇から派遣された征討軍の将軍。

九六　軍馬の蹄がみちみちて、すっかりふみにじった。

九七　戦禍をうけて焼け死んだか、溺れ死んだか。

九八　人の許に寄食して。

九九　しきりに。

一〇〇　男女が夢の中で逢って契りを結ぶこと。巫山は中国西南区四川省にある山。文選巻四の高唐賦に、楚の襄王が夢に巫山の女と契ったがこれが実は雲であったという故事。

一〇一　男女が幽明さかいを異にしながらあうこと。漢書の外戚伝に、漢の武帝が方士に命じて李夫人の霊を幻の如く見たという故事。

一〇二　夫の帰宅を頼みにしていた秋。八月一日を「たのむの日」とよぶのにかけた。

一〇三　恐ろしく貪婪な心。

一〇四　操を守って死すとも不義をして命ながらえる道はふむまい。剪燈新話句解の註「寧為玉砕、不為瓦全」。

一〇五　天の河が冴えて秋のきたのを知らせる。

一〇六　松に「待つ」をかける。

一〇七　逢うのを待つ間にこがれ死にしたら、相手からも私の心中を知られずにほんとに口惜しく情けないことであろう。後拾遺集一一「人しれずあふを待つ間に恋ひ死なば何に代へたる命とかいはむ」。

一〇八　窓の障子の破れ目から松風がひたひたと音をたてて吹きこんで。

一〇九　長い道中。

一一〇　午前四時―六時。

一一一　まださめやらぬ夢心地にも何となく寒かったので。

一一二　夜着をかけようと。

一一三　夜があけてもまだ空に残っている月。陰暦一六日以後の月。

一一四　簀掻のあて字。簀子で作ったゆか。

一一五　びっしょり濡れて。

一一六　秋でもないのに秋の野のように草ぶかく荒れはてた家の模様であった。古今集四「里は荒れて人はふりにし宿なれや庭もまがきも秋の野らなる」。

一一七　かつて自分の好みで造ったままの様子。

一一八　茫然自失のさま。

一一九　妻の生前の姿。

一二〇　帰国する前に想像していたこと。

一二一　「月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」（古今集一五・伊勢物語四にある業平の歌）。

一二二　霊前に供える水を入れる器。

一二三　供える。設ける。代動詞。

一二四　栃木県那須野、烏山付近で産する和紙。

一二五　ところどころ消えて。

一二六　権中納言敦忠卿集にある歌。

一二七　以前の知人。

一二八　ていねいに挨拶して。

一二九　生業。渡世。

一三〇　いつの年死んだとも墓に記してないので。

一三一　いっそう。

一三二　お気の毒なおはなしでございますね。

一三三　生きていた当時。

一三四　この土地に古くからいた人。

一三五　亡き人の冥福を祈っていらっしゃいます。

一三六　ひどく。

一三七　土間に造ったかまど。

一三八　わら・い・すげ等の葉を丸くひらたく渦にして編んだ敷物。

一三九　そなた。お前さん。

一四〇　長寿を祝福して。

一四一　桑畑も耕す者がなくてたちまち狐や兎のすむくさむらとなる。かわり方のはげしいことをいう。

一四二　宮木をさす。

一四三　足がきかなく、歩行不自由になって。

一四四　樹木にやどる霊で、妖怪。人にたたると信じられていた。

一四五　気丈。

一四六　この老人（自分）が見聞したことの中で。

一四七　勝四郎が帰宅を約束した翌年の秋。康正二年（一四五六）。

一四八　前出の和歌をさす。

一四九　死者の霊前に水を供えてまつること。蘋はうき草、蘩はしろよもぎ、行潦は路上の水たまりの水で、粗末なものだが誰でもとれるものであり、心ばかりの供えものの意からきた。

一五〇　記す、とおなじ。

一五一　戒名。法名。

一五二　真間にすんでいた美少女で、その伝説は万葉集の巻三・九・一四などに見え、のちには藤原清輔「奥儀抄」にも見える。ここは万葉集九、高橋連虫麻呂の「詠勝鹿真間娘子歌一首并短歌」と題する歌によっている。

一五三　麻衣も青衿も古代の質素な服装。青衿は野草で染めた衿。

一五四　満月の如く美しく輝き。

一五五　咲きかがやく。

一五六　身にまとった。

一五七　都の貴婦人。

一五八　都から派遣された国庁の武士。防人はもと九州防衛警備兵をいったが、ここはたんに警備の武士。

一五九　いい寄って。

一六〇　多くの人の心にはこたえられず、こたえられなければ多くの人の恨みをうけて罪をかさねることになるから、いっそ死ぬことによって、多くの人の心にむくいよう（秋成の金砂にある説）。

一六一　入江。真間の浦。

一六二　宮木をさす。

一六三　うぶな心。

一六四　どれほどまさって。

一六五　年寄りというものは涙もろくてこらえ性のないもの。

一六六　思いあまった胸の中を。

一六七　口べた。不器用。

一六八　一端。

一六九　うまく歌をよむ人。

  


## 一<ruby><rb>夢応</rb><rt>むおう</rt></ruby>の<ruby><rb>鯉魚</rb><rt>りぎよ</rt></ruby>

むかし二<ruby><rb>延長</rb><rt>えんちやう</rt></ruby>の頃、三三井寺に四<ruby><rb>興義</rb><rt>こうぎ</rt></ruby>といふ僧ありけり。絵に<ruby><rb>巧</rb><rt>たくみ</rt></ruby>なるをもて五名を世にゆるされけり。<ruby><rb>嘗</rb><rt>つね</rt></ruby>に<ruby><rb>画</rb><rt>ゑが</rt></ruby>く所、<ruby><rb>仏像</rb><rt>ぶつざう</rt></ruby><ruby><rb>山水</rb><rt>さんすゐ</rt></ruby><ruby><rb>花鳥</rb><rt>くわてう</rt></ruby>を六事とせず。<ruby><rb>寺務</rb><rt>じむ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>いとま</rt></ruby>ある日は七<ruby><rb>湖</rb><rt>うみ</rt></ruby>に小船をうかべて、八<ruby><rb>網引</rb><rt>あびき</rt></ruby><ruby><rb>釣</rb><rt>つり</rt></ruby>する<ruby><rb>泉郎</rb><rt>あま</rt></ruby>に銭を<ruby><rb>与</rb><rt>あた</rt></ruby>へ、<ruby><rb>獲</rb><rt>え</rt></ruby>たる魚をもとの江に放ちて、其の魚の<ruby><rb>遊躍</rb><rt>あそ</rt></ruby>ぶを見ては画きけるほどに、年を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て九<ruby><rb>細妙</rb><rt>くはしき</rt></ruby>にいたりけり。或るときは一〇絵に心を<ruby><rb>凝</rb><rt>こら</rt></ruby>して<ruby><rb>眠</rb><rt>ねぶり</rt></ruby>をさそへば、ゆめの<ruby><rb>裏</rb><rt>うち</rt></ruby>に江に入りて、一一<ruby><rb>大小</rb><rt>さばかり</rt></ruby>の魚とともに遊ぶ。<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>むれば<ruby><rb>即</rb><rt>やが</rt></ruby>て見つるままを画きて<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>に<ruby><rb>貼</rb><rt>お</rt></ruby>し、みづから呼びて<ruby><rb>夢応</rb><rt>むおう</rt></ruby>の<ruby><rb>鯉魚</rb><rt>りぎよ</rt></ruby>と名付けけり。其の絵の<ruby><rb>妙</rb><rt>たへ</rt></ruby>なるを<ruby><rb>感</rb><rt>め</rt></ruby>でて<ruby><rb>乞要</rb><rt>こひもと</rt></ruby>むるもの一二<ruby><rb>前後</rb><rt>ついで</rt></ruby>をあらそへば、只花鳥山水は<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>ふにまかせてあたへ、<ruby><rb>鯉魚</rb><rt>りぎよ</rt></ruby>の絵は一三あながちに惜しみて、人<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に<ruby><rb>戯</rb><rt>たわぶ</rt></ruby>れていふ。一四<ruby><rb>生</rb><rt>しやう</rt></ruby>を殺し<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざらけ</rt></ruby>を<ruby><rb>喰</rb><rt>くら</rt></ruby>ふ<ruby><rb>凡俗</rb><rt>ぼんぞく</rt></ruby>の人に、法師の養ふ魚一五必ずしも与へずとなん。其の絵と一六<ruby><rb>俳諧</rb><rt>わざごと</rt></ruby>とともに<ruby><rb>天下</rb><rt>あめがした</rt></ruby>に聞えけり。

一とせ<ruby><rb>病</rb><rt>やまひ</rt></ruby>に<ruby><rb>係</rb><rt>かか</rt></ruby>りて、七日を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て<ruby><rb>忽</rb><rt>（たちま）</rt></ruby>ちに<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>を閉ぢ、<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>絶えてむなしくなりぬ。一七<ruby><rb>徒弟</rb><rt>とてい</rt></ruby>友どちあつまりて嘆き惜しみけるが、只一八<ruby><rb>心頭</rb><rt>むね</rt></ruby>のあたりの<ruby><rb>微</rb><rt>すこ</rt></ruby>し暖かなるにぞ、一九<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しやと二〇居めぐりて守りつも三日を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>にけるに、手足すこし動き出づるやうなりしが、<ruby><rb>忽</rb><rt>（たちま）</rt></ruby>ち<ruby><rb>長嘘</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>きて、<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をひらき、<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたるがごとくに起きあがりて、人々にむかひ、我二一<ruby><rb>人事</rb><rt>にんじ</rt></ruby>をわすれて既に久し。幾日をか過しけん。<ruby><rb>衆弟等</rb><rt>しゆうていら</rt></ruby>いふ。師三日<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に息たえ給ひぬ。寺中の人々をはじめ、日<ruby><rb>比</rb><rt>（ごろ）</rt></ruby><ruby><rb>睦</rb><rt>むつま</rt></ruby>じくかたり給ふ二二<ruby><rb>殿原</rb><rt>とのばら</rt></ruby>も<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>で給ひて<ruby><rb>葬</rb><rt>はうむり</rt></ruby>の事をもはかり給ひぬれど、只師が<ruby><rb>心頭</rb><rt>むね</rt></ruby>の暖かなるを見て、<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>にも<ruby><rb>蔵</rb><rt>をさ</rt></ruby>めでかく守り侍りしに、今や<ruby><rb>蘇生</rb><rt>よみがへ</rt></ruby>り給ふにつきて、二三かしこくも物せざりしよと<ruby><rb>怡</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びあへり。興義<ruby><rb>点頭</rb><rt>うなづ</rt></ruby>きていふ。誰にもあれ一人、二四<ruby><rb>檀</rb><rt>だん</rt></ruby>家の<ruby><rb>平</rb><rt>たひら</rt></ruby>の助の殿の<ruby><rb>館</rb><rt>みたち</rt></ruby>に<ruby><rb>詣</rb><rt>まゐ</rt></ruby>りて<ruby><rb>告</rb><rt>まう</rt></ruby>さんは、法師こそ不思議に生き侍れ。君今酒を<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>み<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざらけ</rt></ruby>き二五<ruby><rb>鱠</rb><rt>なます</rt></ruby>をつくらしめ給ふ。しばらく<ruby><rb>宴</rb><rt>えん</rt></ruby>を<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>めて寺に詣でさせ給へ。二六<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>の物がたり聞えまゐらせんとて、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の人々の二七ある<ruby><rb>形</rb><rt>さま</rt></ruby>を見よ。我が詞に露たがはじといふ。使<ruby><rb>異</rb><rt>あや</rt></ruby>しみながら彼の<ruby><rb>館</rb><rt>みたち</rt></ruby>に<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>きて、其の<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>をいひ入れてうかがひ見るに、<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の助をはじめ、<ruby><rb>令弟</rb><rt>おとうと</rt></ruby>の十郎、二八家の子<ruby><rb>掃守</rb><rt>かもり</rt></ruby>など居めぐりて酒を酌みゐたる。師が詞のたがはぬを<ruby><rb>奇</rb><rt>あやし</rt></ruby>とす。助の<ruby><rb>館</rb><rt>たち</rt></ruby>の人々此の事を聞きて大いに<ruby><rb>異</rb><rt>あや</rt></ruby>しみ、先づ<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めて、十郎掃守をも<ruby><rb>召具</rb><rt>めしぐ</rt></ruby>して寺に到る。

興義枕をあげて、二九<ruby><rb>路次</rb><rt>ろじ</rt></ruby>の<ruby><rb>労</rb><rt>わづら</rt></ruby>ひをかたじけなうすれば、助も<ruby><rb>蘇生</rb><rt>よみがへり</rt></ruby>の<ruby><rb>賀</rb><rt>ことぶき</rt></ruby>を述ぶ。興義先づ問ひていふ。君<ruby><rb>試</rb><rt>こころみ</rt></ruby>に我がいふ事を聞かせ給へ。かの<ruby><rb>漁父</rb><rt>ぎよふ</rt></ruby>文四に魚をあつらへ給ふ事ありや。助驚きて、まことにさる事あり。いかにしてしらせ給ふや。興義、かの漁父三<ruby><rb>尺</rb><rt>たけ</rt></ruby>あまりの魚を<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>に入れて君が門に入る。君は賢弟と三〇<ruby><rb>南面</rb><rt>みなみおもて</rt></ruby>の所に<ruby><rb>碁</rb><rt>ご</rt></ruby>を囲みておはす。<ruby><rb>掃守</rb><rt>かもり</rt></ruby><ruby><rb>傍</rb><rt>かたはら</rt></ruby>に<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>りて、<ruby><rb>桃</rb><rt>もも</rt></ruby>の<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>の大なるを<ruby><rb>啗</rb><rt>く</rt></ruby>ひつつ三一<ruby><rb>弈</rb><rt>えき</rt></ruby>の<ruby><rb>手段</rb><rt>しゆだん</rt></ruby>を見る。漁父が<ruby><rb>大魚</rb><rt>まな</rt></ruby>を<ruby><rb>携</rb><rt>たづさ</rt></ruby>へ来るを<ruby><rb>喜</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びて、三二<ruby><rb>高杯</rb><rt>たかつき</rt></ruby>に<ruby><rb>盛</rb><rt>も</rt></ruby>りたる桃をあたへ、又<ruby><rb>盃</rb><rt>さかづき</rt></ruby>を給うて三三三<ruby><rb>献</rb><rt>こん</rt></ruby>飲ましめ給ふ。三四<ruby><rb>鱠手</rb><rt>かしはびと</rt></ruby>三五したり顔に魚をとり出でて<ruby><rb>鱠</rb><rt>なます</rt></ruby>にせしまで、法師がいふ所三六たがはでぞあるらめといふに、助の人々此の事を聞きて、或は<ruby><rb>異</rb><rt>あや</rt></ruby>しみ、或はここち<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>ひて、三七かく<ruby><rb>詳</rb><rt>つばら</rt></ruby>なる<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>のよしを<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に尋ぬるに、興義かたりていふ。

我此の頃病にくるしみて<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>へがたきあまり、其の死したるをもしらず、三八熱きここちすこしさまさんものをと、三九杖に<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けられて門を出づれば、病もやや忘れたるやうにて、<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>の鳥の四〇雲井にかへるここちす。山となく里となく行き行きて、又江の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>に出づ。湖水の<ruby><rb>碧</rb><rt>みどり</rt></ruby>なるを見るより、四一<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>なき心に<ruby><rb>浴</rb><rt>あ</rt></ruby>びて遊びなんとて、そこに衣を<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>去</rb><rt>す</rt></ruby>てて、身を<ruby><rb>跳</rb><rt>をど</rt></ruby>らして深きに四二飛び入りつも、<ruby><rb>彼此</rb><rt>をちこち</rt></ruby>に<ruby><rb>游</rb><rt>およ</rt></ruby>ぎめぐるに、<ruby><rb>幼</rb><rt>わかき</rt></ruby>より水に<ruby><rb>狎</rb><rt>な</rt></ruby>れたるにもあらぬが、<ruby><rb>慾</rb><rt>おも</rt></ruby>ふにまかせて<ruby><rb>戯</rb><rt>たはぶ</rt></ruby>れけり。今思へば愚かなる夢ごごろなりし。されども四三人の水に<ruby><rb>浮</rb><rt>う</rt></ruby>かぶは、魚のこころよきにはしかず。ここにて又魚の遊びをうらやむこころおこりぬ。<ruby><rb>傍</rb><rt>かたはら</rt></ruby>にひとつの<ruby><rb>大魚</rb><rt>まな</rt></ruby>ありていふ。師のねがふ事いとやすし。待たせ給へとて、<ruby><rb>杳</rb><rt>はる</rt></ruby>かの<ruby><rb>底</rb><rt>そこ</rt></ruby>に<ruby><rb>去</rb><rt>ゆ</rt></ruby>くと見しに、しばしして、<ruby><rb>冠</rb><rt>かむり</rt></ruby><ruby><rb>装束</rb><rt>さうぞく</rt></ruby>したる人の、<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>の<ruby><rb>大魚</rb><rt>まな</rt></ruby>に<ruby><rb>胯</rb><rt>また</rt></ruby>がりて、<ruby><rb>許多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の四四<ruby><rb>鼇魚</rb><rt>うろくづ</rt></ruby>を<ruby><rb>率</rb><rt>ひき</rt></ruby>ゐて浮かび来たり、我にむかひていふ。四五<ruby><rb>海若</rb><rt>わたつみ</rt></ruby>の<ruby><rb>詔</rb><rt>みことのり</rt></ruby>あり。老僧かねて四六<ruby><rb>放生</rb><rt>はうじやう</rt></ruby>の<ruby><rb>功徳</rb><rt>くどく</rt></ruby>多し。今、江に入りて魚の<ruby><rb>遊躍</rb><rt>あそび</rt></ruby>をねがふ。<ruby><rb>権</rb><rt>かり</rt></ruby>に<ruby><rb>金鯉</rb><rt>きんり</rt></ruby>が<ruby><rb>服</rb><rt>ふく</rt></ruby>を授けて四七<ruby><rb>水府</rb><rt>すゐふ</rt></ruby>のたのしみをせさせ給ふ。只<ruby><rb>餌</rb><rt>ゑ</rt></ruby>の<ruby><rb>香</rb><rt>かんば</rt></ruby>しきに<ruby><rb>昧</rb><rt>くら</rt></ruby>まされて、<ruby><rb>釣</rb><rt>つり</rt></ruby>の糸にかかり身を<ruby><rb>亡</rb><rt>うしな</rt></ruby>ふ事なかれといひて、去りて見えずなりぬ。不思議のあまりにおのが身をかへり見れば、いつのまに<ruby><rb>鱗</rb><rt>うろこ</rt></ruby><ruby><rb>金光</rb><rt>きんくわう</rt></ruby>を備へてひとつの<ruby><rb>鯉魚</rb><rt>りぎよ</rt></ruby>と<ruby><rb>化</rb><rt>け</rt></ruby>しぬ。

あやしとも思はで、尾を振り<ruby><rb>鰭</rb><rt>ひれ</rt></ruby>を動かして、心のままに<ruby><rb>逍遥</rb><rt>せうえう</rt></ruby>す。まづ四八<ruby><rb>長等</rb><rt>ながら</rt></ruby>の山おろし、立ちゐる浪に身をのせて、四九志賀の<ruby><rb>大湾</rb><rt>おほわだ</rt></ruby>の<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎは</rt></ruby>に遊べば、五〇かち人の<ruby><rb>裳</rb><rt>も</rt></ruby>のすそぬらすゆきかひに<ruby><rb>驚</rb><rt>おど</rt></ruby>されて、五一<ruby><rb>比良</rb><rt>ひら</rt></ruby>の高山影うつる、深き<ruby><rb>水底</rb><rt>みなそこ</rt></ruby>に五二<ruby><rb>潜</rb><rt>かづ</rt></ruby>くとすれど、かくれ五三<ruby><rb>堅田</rb><rt>かたた</rt></ruby>の<ruby><rb>漁火</rb><rt>いさりび</rt></ruby>に五四よるぞうつつなき。五五ぬば玉の<ruby><rb>夜中</rb><rt>よなか</rt></ruby>の<ruby><rb>潟</rb><rt>かた</rt></ruby>にやどる月は、五六鏡の山の峯に<ruby><rb>清</rb><rt>す</rt></ruby>みて、五七<ruby><rb>八十</rb><rt>やそ</rt></ruby>の<ruby><rb>湊</rb><rt>みなと</rt></ruby>の<ruby><rb>八十隈</rb><rt>やそくま</rt></ruby>もなくておもしろ。五八沖津嶋山、五九<ruby><rb>竹生嶋</rb><rt>ちくぶしま</rt></ruby>、波に六〇うつろふ六一<ruby><rb>朱</rb><rt>あけ</rt></ruby>の<ruby><rb>垣</rb><rt>かき</rt></ruby>こそおどろかるれ。六二さしも伊吹の山風に、六三<ruby><rb>旦妻船</rb><rt>あさづまぶね</rt></ruby>も<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ出づれば、<ruby><rb>芦間</rb><rt>あしま</rt></ruby>の夢をさまされ、六四<ruby><rb>矢橋</rb><rt>（やばせ）</rt></ruby>の<ruby><rb>渡</rb><rt>（わたり）</rt></ruby>する人の<ruby><rb>水</rb><rt>み</rt></ruby>なれ<ruby><rb>棹</rb><rt>さを</rt></ruby>をのがれては、六五瀬田の橋守にいくそたびか追はれぬ。日あたたかなれば浮かび、風あらきときは<ruby><rb>千尋</rb><rt>ちひろ</rt></ruby>の底に遊ぶ。

<ruby><rb>急</rb><rt>にはか</rt></ruby>にも飢ゑて<ruby><rb>食</rb><rt>もの</rt></ruby>ほしげなるに、<ruby><rb>彼此</rb><rt>をちこち</rt></ruby>に六六<ruby><rb>𩛰</rb><rt>あさ</rt></ruby>り得ずして狂ひゆくほどに、<ruby><rb>忽</rb><rt>（たちま）</rt></ruby>ち文四が釣を垂るるにあふ。其の<ruby><rb>餌</rb><rt>ゑ</rt></ruby>はなはだ<ruby><rb>香</rb><rt>かんば</rt></ruby>し。心又六七河<ruby><rb>伯</rb><rt>がみ</rt></ruby>の<ruby><rb>戒</rb><rt>いましめ</rt></ruby>を守りて思ふ。我は<ruby><rb>仏</rb><rt>ほとけ</rt></ruby>の御弟子なり。しばし<ruby><rb>食</rb><rt>もの</rt></ruby>を求め得ずとも、なぞもあさましく魚の餌を飲むべきとてそこを去る。しばしありて<ruby><rb>飢</rb><rt>うゑ</rt></ruby>ますます<ruby><rb>甚</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しければ、かさねて思ふに、今は<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>へがたし。たとへ此の餌を飲むとも六八<ruby><rb>嗚呼</rb><rt>をこ</rt></ruby>に<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>られんやは。もとより六九<ruby><rb>他</rb><rt>かれ</rt></ruby>は相<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>るものなれば、何のはばかりかあらんとて、<ruby><rb>遂</rb><rt>つひ</rt></ruby>に餌をのむ。文四七〇はやく糸を収めて我を<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>ふ。こはいかにするぞと叫びぬれども、<ruby><rb>他</rb><rt>かれ</rt></ruby>七一かつて聞かず顔にもてなして<ruby><rb>縄</rb><rt>なは</rt></ruby>をもて我が七二<ruby><rb>腮</rb><rt>あぎと</rt></ruby>を<ruby><rb>貫</rb><rt>つらぬ</rt></ruby>き、芦<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に船を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ、我を<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>に押入れて君が門に進み入る。七三君は賢弟と南<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に<ruby><rb>弈</rb><rt>えき</rt></ruby>して遊ばせ給ふ。<ruby><rb>掃守</rb><rt>かもり</rt></ruby><ruby><rb>傍</rb><rt>かたはら</rt></ruby>に侍りて七四<ruby><rb>菓</rb><rt>このみ</rt></ruby>を<ruby><rb>啗</rb><rt>くら</rt></ruby>ふ。文四がもて来し<ruby><rb>大魚</rb><rt>まな</rt></ruby>を見て、人々大いに<ruby><rb>感</rb><rt>め</rt></ruby>でさせ給ふ。我其のとき人々にむかひ、声をはり上げて、七五<ruby><rb>旁等</rb><rt>かたがたら</rt></ruby>は興義をわすれ給ふか。<ruby><rb>宥</rb><rt>ゆる</rt></ruby>させ給へ。寺にかへさせ給へと、<ruby><rb>連</rb><rt>しきり</rt></ruby>に<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>びぬれど、人々しらぬ<ruby><rb>形</rb><rt>さま</rt></ruby>にもてなして、只手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>つて喜び給ふ。<ruby><rb>鱠手</rb><rt>かしはびと</rt></ruby>なるもの、まづ我が両眼を<ruby><rb>左手</rb><rt>ひだり</rt></ruby>の<ruby><rb>指</rb><rt>おゆび</rt></ruby>にてつよくとらへ、七六<ruby><rb>右手</rb><rt>みぎり</rt></ruby>に<ruby><rb>礪</rb><rt>と</rt></ruby>ぎすませし七七<ruby><rb>刀</rb><rt>かたな</rt></ruby>をとりて<ruby><rb>俎盤</rb><rt>まないた</rt></ruby>にのぼし、七八既に切るべかりしとき、我くるしさのあまりに大声をあげて、七九<ruby><rb>仏弟子</rb><rt>ぶつでし</rt></ruby>を害する<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>やある。我を助けよ助けよと<ruby><rb>哭</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>びぬれど、聞き入れず。<ruby><rb>終</rb><rt>つひ</rt></ruby>に切らるるとおぼえて<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby><ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたりとかたる。人々大いに<ruby><rb>感</rb><rt>め</rt></ruby>で<ruby><rb>異</rb><rt>あや</rt></ruby>しみ、師が物がたりにつきて思ふに、八〇其の度ごとに魚の口の動くを見れど、八一更に声を出だす事なし。かかる事まのあたりに見しこそいと不思議なれとて、八二<ruby><rb>従者</rb><rt>ずさ</rt></ruby>を家に走らしめて残れる<ruby><rb>鱠</rb><rt>なます</rt></ruby>を<ruby><rb>湖</rb><rt>うみ</rt></ruby>に捨てさせけり。



平の助の館、表座敷で、助、十郎、掃守等の見まもる中、料理人が鯉を料理しようとする図。興義は「仏弟子を害する例やある。我を助けよ助けよ」と叫んだが、声にならず、やがて鯉の体をはなれてゆく。（原本十丁裏、十一丁表の挿絵）

興義これより病<ruby><rb>愈</rb><rt>い</rt></ruby>えて、<ruby><rb>杳</rb><rt>はるか</rt></ruby>の後八三<ruby><rb>天年</rb><rt>よはひ</rt></ruby>をもて<ruby><rb>死</rb><rt>まか</rt></ruby>りける。其の<ruby><rb>終焉</rb><rt>をはり</rt></ruby>に臨みて、<ruby><rb>画</rb><rt>ゑが</rt></ruby>く所の鯉魚<ruby><rb>数枚</rb><rt>すまい</rt></ruby>をとりて<ruby><rb>湖</rb><rt>うみ</rt></ruby>に<ruby><rb>散</rb><rt>ちら</rt></ruby>せば、画ける魚八四<ruby><rb>紙繭</rb><rt>しけん</rt></ruby>をはなれて水に<ruby><rb>遊戯</rb><rt>いうげ</rt></ruby>す。ここをもて興義が絵世に伝はらず。其の弟子八五<ruby><rb>成光</rb><rt>なりみつ</rt></ruby>なるもの、興義が八六<ruby><rb>神妙</rb><rt>しんめう</rt></ruby>をつたへて八七時に名あり。八八閑院の<ruby><rb>殿</rb><rt>との</rt></ruby>の八九<ruby><rb>障子</rb><rt>しやうじ</rt></ruby>に<ruby><rb>鶏</rb><rt>にはとり</rt></ruby>を<ruby><rb>画</rb><rt>ゑが</rt></ruby>きしに、生ける<ruby><rb>鶏</rb><rt>とり</rt></ruby>この絵を見て<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>たるよしを、九〇古き物がたりに<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せたり。

一　夢の中で感応してえがいた鯉。

二　九二三―九三一。

三　滋賀県大津市にある天台宗寺門派総本山、長等山園城寺の別称。由緒ふかい寺で、眼下に琵琶湖をのぞむ。

四　古今著聞集に名が見えているが、伝未詳。

五　世間から名人という評判をたてられていた。

六　専らとしない。仕事としない。

七　琵琶湖。

八　網をひいたり釣をしたりする漁師。

九　精細巧妙の域に達した。

一〇　絵に心を集中して。

一一　大小種々の魚。

一二　われ先にとあらそいもとめた。

一三　どこまでも惜しんで。

一四　生物を殺したり、鮮魚を食ったりする世間一般の人。

一五　けっして、きっと。

一六　冗談。戯言。「生を殺し鮮を喰ふ云々」の言葉をさす。

一七　弟子の僧と友人たち。

一八　本篇の典拠、魚服記に「心頭微暖」とある。

一九　もしかしたら蘇生するかもしれない。

二〇　まわりをとりまいてみまもりながら。

二一　人事不省になって。失神して。

二二　殿方。かたがた。

二三　葬らなくてよかったことだ。

二四　寺に属する信徒。

二五　生の魚肉を細く切ったもの。魚服記「為我覰群官方食鱠否」。

二六　世にもまれなめずらしいはなしをおはなししましょう。

二七　どんな様子をしているか。

二八　家臣。

二九　わざわざきてくれた足労の礼をのべると。

三〇　表座敷。

三一　囲碁の勝負。

三二　食物を盛る足高の器。

三三　酒を杯に三ばい。十分に飲ませたこと。

三四　調理人。

三五　得意顔に。誇り顔に。

三六　ちがわないでしょう。

三七　こんなにくわしくはっきりと事実を指摘できた理由。

三八　ねつっぽい苦しい心地。魚服記「悪熱求涼」。

三九　杖をたよりに。魚服記「策杖而行」。

四〇　大空。

四一　夢心地に。原文「うつ」

四二　飛びこんで。

四三　人間が水に浮いて泳ぐのは、それがどんなにうまくても、魚が自由自在に泳ぎまわるのにはおよばない。魚服記「人浮不如魚快也」。

四四　魚族。魚類。

四五　海神。湖の神。原文「わたづみ」

四六　ひとの捕えた鳥や魚を放してやること。

四七　水中のたのしみ。水府はもと海底にある水神の居処、竜宮をいった。

四八　三井寺の背後にある長等山から吹きおろす風。

四九　琵琶湖の南西岸、昔の志賀の都付近の海岸。

五〇　徒歩で行く人が着物の裾を濡らすほど水際近くを往来するのにおどろかされ。続古今集六「かち人の汀の氷ふみならしわたれどぬれぬ志賀の大わた」。

五一　琵琶湖の西にある比良山。

五二　もぐろうとするが。

五三　琵琶湖西岸にある。「かくれ難し」の懸詞。

五四　「夜」と「寄る」の懸詞。

五五　「夜」の枕詞。

五六　滋賀県蒲生郡竜王町にある山。歌枕。

五七　多くの港のあらゆるすみずみまで照らし出している情景はおもしろい。

五八　琵琶湖の南岸近く東寄りの沖の島。

五九　琵琶湖の北岸近くにある島。弁財天で名高い。

六〇　うつる。

六一　竹生島弁財天の朱塗りの玉垣。

六二　滋賀県と岐阜県の境にある伊吹山。さしもは、そうとはの意とさしも草（艾革）の掛詞。後拾遺集一一「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしもしらじなもゆるおもひを」。

六三　琵琶湖東岸、米原市朝妻筑摩の入江にあった渡船。朝が来ての意を懸ける。

六四　琵琶湖南東岸、草津市矢橋から大津へ渡る舟の船頭の、さばきもあざやかな棹。

六五　琵琶湖南部、瀬田川にかかる唐橋。

六六　もとめたが手に入れることができないで。

六七　河神。湖の神。

六八　おめおめと。うかつに。

六九　文四をさす。

七〇　素早く釣糸をひきあげて。

七一　いっこう。ちっとも。

七二　魚のえら。あご。

七三　平の助をさす。

七四　くだもの。前出の桃。

七五　皆様。あなた方。

七六　「みぎり」と訓ませている。

七七　庖丁。

七八　すんでのことに切ろうとしたとき。

七九　仏に仕える僧を殺すということがあるか。

八〇　興義が魚になって口をきくたびに。

八一　ちっとも。いっこうに。

八二　めしつかい。下僕。

八三　天寿をまっとうして。

八四　画料の紙や絹からぬけ出して。「紙繭」の左右に振り仮名がある。

八五　古今著聞集に名が見えているが、伝未詳。

八六　入神の妙技をうけついで。

八七　その時代に名声をあげた。

八八　京都市上京区二条の南、西洞院の西にあった閑院内裏。もと藤原冬嗣の邸で、名園の誇高かったが、一二五九年焼失した。

八九　唐紙。ふすま。

九〇　古今著聞集をさす。同書巻一一、画図一六に「成光閑院の障子に鶏を書きたりけるを、実の鶏見て蹴けるとなん。この成光は三井寺の僧興義が弟子になん侍りける」とある。

  


## 雨月物語　巻之三

## 一<ruby><rb>仏法僧</rb><rt>ぶつぽふそう</rt></ruby>

二うらやすの国ひさしく、<ruby><rb>民</rb><rt>たみ</rt></ruby><ruby><rb>作業</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>をたのしむあまりに、春は花の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に<ruby><rb>息</rb><rt>やすら</rt></ruby>ひ、秋は三錦の林を<ruby><rb>尋</rb><rt>たづ</rt></ruby>ね、四しらぬ火の五<ruby><rb>筑紫路</rb><rt>つくしぢ</rt></ruby>もしらではと六<ruby><rb>械</rb><rt>かぢ</rt></ruby>まくらする人の、富士七筑波の<ruby><rb>嶺々</rb><rt>みねみね</rt></ruby>を心にしむるぞそぞろなるかな。

伊勢の八<ruby><rb>相可</rb><rt>あふか</rt></ruby>といふ<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>に、<ruby><rb>拝志氏</rb><rt>はやしうぢ</rt></ruby>の人、世をはやく<ruby><rb>嗣</rb><rt>つぎ</rt></ruby>に<ruby><rb>譲</rb><rt>ゆづ</rt></ruby>り、九<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>むこともなく<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>おろして、名を<ruby><rb>夢然</rb><rt>むぜん</rt></ruby>とあらため、<ruby><rb>従来</rb><rt>もとより</rt></ruby>身に病さへなくて、<ruby><rb>彼此</rb><rt>をちこち</rt></ruby>の旅寝を老のたのしみとする。<ruby><rb>季子</rb><rt>すゑのこ</rt></ruby>作之治なるものが一〇<ruby><rb>生長</rb><rt>ひととなり</rt></ruby>の<ruby><rb>頑</rb><rt>かたくな</rt></ruby>なるをうれひて、京の人見するとて、一一一月あまり二条の<ruby><rb>別業</rb><rt>べつげふ</rt></ruby>に<ruby><rb>逗</rb><rt>とど</rt></ruby>まりて、<ruby><rb>三月</rb><rt>やよひ</rt></ruby>の<ruby><rb>末</rb><rt>すゑ</rt></ruby>一二吉野の奥の花を見て、知れる寺院に七日ばかりかたらひ、此のついでに、いまだ一三高野山を見ず、いざとて、夏のはじめ青葉の<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>みをわけつつ、一四<ruby><rb>天</rb><rt>てん</rt></ruby>の川といふより<ruby><rb>踰</rb><rt>こ</rt></ruby>えて、一五<ruby><rb>摩尼</rb><rt>まに</rt></ruby>の御山にいたる。道のゆくての<ruby><rb>嶮</rb><rt>さか</rt></ruby>しきに一六なづみて、おもはずも日かたぶきぬ。

一七<ruby><rb>壇場</rb><rt>だんぢやう</rt></ruby>、諸堂一八<ruby><rb>霊廟</rb><rt>みたまや</rt></ruby>、残りなく拝みめぐりて、ここに宿からんといへど、一九ふつに答ふるものなし。そこを行く人に二〇所の<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>をきけば、寺院僧坊に二一<ruby><rb>便</rb><rt>たより</rt></ruby>なき人は、<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>にくだりて明すべし。此の山すべて旅人に一夜をかす事なしとかたる。いかがはせん。さすがにも老の身の<ruby><rb>嶮</rb><rt>さか</rt></ruby>しき山路を<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>しがうへに、事のよしを聞きて大きに心二二<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>みつかれぬ。作之治がいふ。日もくれ、足も痛みて、いかがして二三あまたのみちをくだらん。二四<ruby><rb>弱</rb><rt>わか</rt></ruby>き身は草に臥すとも<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>ひなし。只二五<ruby><rb>病</rb><rt>や</rt></ruby>み給はん事の悲しさよ。夢然云ふ。旅はかかるをこそ哀れともいふなれ。<ruby><rb>今夜</rb><rt>こよひ</rt></ruby>二六<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>をやぶり、<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>みつかれて山をくだるとも、おのが<ruby><rb>古郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>にもあらず。<ruby><rb>翌</rb><rt>あす</rt></ruby>のみち又はかりがたし。此の山は二七<ruby><rb>扶桑</rb><rt>ふさう</rt></ruby>第一の霊場、二八大師の<ruby><rb>広徳</rb><rt>くわうとく</rt></ruby>かたるに尽きず。二九<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にも来りて<ruby><rb>通夜</rb><rt>つや</rt></ruby>し奉り、三〇後世の事たのみ聞ゆべきに、<ruby><rb>幸</rb><rt>さいはひ</rt></ruby>の<ruby><rb>時</rb><rt>をり</rt></ruby>なれば、<ruby><rb>霊廟</rb><rt>みたまや</rt></ruby>に夜もすがら三一<ruby><rb>法施</rb><rt>ほふせ</rt></ruby>したてまつるべしとて、杉の下道のをぐらきを行く行く、<ruby><rb>霊廟</rb><rt>みたまや</rt></ruby>の前なる三二<ruby><rb>灯籠堂</rb><rt>とうろうだう</rt></ruby>の<ruby><rb>簀子</rb><rt>すのこ</rt></ruby>に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>りて、<ruby><rb>雨具</rb><rt>あまぐ</rt></ruby>うち敷き座をまうけて、<ruby><rb>閑</rb><rt>しづか</rt></ruby>に<ruby><rb>念仏</rb><rt>ねぶつ</rt></ruby>しつつも、夜の<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けゆくをわびてぞある。

三三方五十町に開きて、三四あやしげなる林も見えず。小石だも<ruby><rb>掃</rb><rt>はら</rt></ruby>ひし三五<ruby><rb>福田</rb><rt>ふくでん</rt></ruby>ながら、さすがにここは寺院遠く、三六<ruby><rb>陀羅尼</rb><rt>だらに</rt></ruby>三七<ruby><rb>鈴錫</rb><rt>れいしやく</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>こゑ</rt></ruby>も聞えず。<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>立は三八雲をしのぎて<ruby><rb>茂</rb><rt>し</rt></ruby>みさび、三九道に<ruby><rb>界</rb><rt>さか</rt></ruby>ふ水の音ほそぼそと<ruby><rb>清</rb><rt>す</rt></ruby>みわたりて物がなしき。寝られぬままに夢然かたりていふ。そもそも大師の四〇<ruby><rb>神化</rb><rt>じんくわ</rt></ruby>、<ruby><rb>土</rb><rt>ど</rt></ruby>石<ruby><rb>草</rb><rt>さう</rt></ruby>木も四一<ruby><rb>霊</rb><rt>れい</rt></ruby>を<ruby><rb>啓</rb><rt>ひら</rt></ruby>きて、四二<ruby><rb>八百</rb><rt>やほ</rt></ruby>とせあまりの今にいたりて、四三いよよあらたに、いよよたふとし。四四<ruby><rb>遺芳</rb><rt>ゐはう</rt></ruby>四五<ruby><rb>歴踪</rb><rt>れきそう</rt></ruby>多きが中に、此の山なん第一の四六<ruby><rb>道場</rb><rt>だうぢやう</rt></ruby>なり。大師四七いまぞかりけるむかし、遠く四八<ruby><rb>唐土</rb><rt>もろこし</rt></ruby>にわたり給ひ、あの国にて四九<ruby><rb>感</rb><rt>め</rt></ruby>でさせ給ふ事おはして、此の五〇三<ruby><rb>鈷</rb><rt>こ</rt></ruby>のとどまる所、我が道を<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>ぐる<ruby><rb>霊地</rb><rt>れいち</rt></ruby>なりとて、<ruby><rb>杳冥</rb><rt>そら</rt></ruby>にむかひて<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げさせ給ふが、五一はた此の山にとどまりぬる。五二<ruby><rb>壇場</rb><rt>だんぢやう</rt></ruby>の御前なる三<ruby><rb>鈷</rb><rt>こ</rt></ruby>の松こそ此の物の落ちとどまりし<ruby><rb>地</rb><rt>ところ</rt></ruby>なりと聞く。すべて此の山の草木<ruby><rb>泉石</rb><rt>せんせき</rt></ruby><ruby><rb>霊</rb><rt>れい</rt></ruby>ならざるはあらずとなん。こよひ五三不思議にもここに一夜をかりたてまつる事、五四一世ならぬ<ruby><rb>善縁</rb><rt>ぜんえん</rt></ruby>なり。<ruby><rb>你</rb><rt>なんぢ</rt></ruby><ruby><rb>弱</rb><rt>わか</rt></ruby>きとて<ruby><rb>努</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>々<ruby><rb>信心</rb><rt>しんじん</rt></ruby>おこたるべからずと、五五<ruby><rb>小</rb><rt>ささ</rt></ruby>やかにかたるも<ruby><rb>清</rb><rt>す</rt></ruby>みて心ぼそし。

<ruby><rb>御廟</rb><rt>みべう</rt></ruby>のうしろの林にと覚えて、五六<ruby><rb>仏法</rb><rt>ぶつぱん</rt></ruby>々々となく鳥の音、山彦にこたへてちかく聞ゆ。夢然目さむる心ちして、あなめづらし、あの<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>く鳥こそ仏法僧といふならめ。かねて此の山に<ruby><rb>栖</rb><rt>す</rt></ruby>みつるとは聞きしかど、まさに其の音を聞きしといふ人もなきに、こよひのやどりまことに五七<ruby><rb>滅罪生善</rb><rt>めつざいしやうぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>祥</rb><rt>しるし</rt></ruby>なるや。かの鳥は<ruby><rb>清浄</rb><rt>しやうじやう</rt></ruby>の<ruby><rb>地</rb><rt>ち</rt></ruby>をえらみてすめるよしなり。<ruby><rb>上野</rb><rt>かんづけ</rt></ruby>の国五八<ruby><rb>迦葉山</rb><rt>かせうざん</rt></ruby>、<ruby><rb>下野</rb><rt>しもづけ</rt></ruby>の国五九<ruby><rb>二荒</rb><rt>ふたら</rt></ruby>山、山城の六〇<ruby><rb>醍醐</rb><rt>だいご</rt></ruby>の<ruby><rb>峯</rb><rt>みね</rt></ruby>、河内の六一<ruby><rb>杵長</rb><rt>しなが</rt></ruby>山、<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんづく</rt></ruby>此の山にすむ事、大師の六二<ruby><rb>詩偈</rb><rt>しげ</rt></ruby>ありて世の人よくしれり。

六三<ruby><rb>寒林独坐草堂暁</rb><rt>かんりんどくざさうだうのあかつき</rt></ruby>　　　<ruby><rb>三宝之声聞一鳥</rb><rt>さんぼうのこゑをいつてうにきく</rt></ruby>

<ruby><rb>一鳥有声人有心</rb><rt>いつてうこゑありひとこころあり</rt></ruby>　　　<ruby><rb>性心雲水倶了々</rb><rt>せいしんうんすゐともにれうれう</rt></ruby>

又ふるき歌に、

六四松の尾の峯<ruby><rb>静</rb><rt>しづか</rt></ruby>なる<ruby><rb>曙</rb><rt>あけぼの</rt></ruby>に

あふぎて聞けば仏法僧啼く

むかし六五<ruby><rb>最福寺</rb><rt>さいふくじ</rt></ruby>の六六<ruby><rb>延朗法師</rb><rt>えんらうほふし</rt></ruby>は世にならびなき六七<ruby><rb>法華者</rb><rt>ほつけしや</rt></ruby>なりしほどに、六八松の尾の御神此の鳥をして常に延朗につかへしめ給ふよしをいひ伝ふれば、かの神垣にも<ruby><rb>巣</rb><rt>す</rt></ruby>むよしは聞えぬ。六九こよひの<ruby><rb>奇妙</rb><rt>きめう</rt></ruby>既に一鳥声あり。我ここにありて七〇心なからんやとて、<ruby><rb>平生</rb><rt>つね</rt></ruby>のたのしみとする<ruby><rb>俳諧風</rb><rt>はいかいぶり</rt></ruby>の十七<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>を、しばし七一うちかたぶいていひ出でける。

七二鳥の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>も<ruby><rb>秘密</rb><rt>ひみつ</rt></ruby>の山の<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>みかな

<ruby><rb>旅硯</rb><rt>たびすずり</rt></ruby>とり出でて、<ruby><rb>御灯</rb><rt>みあかし</rt></ruby>の光に書きつけ、今一声もがなと耳を<ruby><rb>倚</rb><rt>かたぶ</rt></ruby>くるに、思ひがけずも遠く寺院の方より、七三<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>を<ruby><rb>追</rb><rt>お</rt></ruby>ふ声の<ruby><rb>厳</rb><rt>いかめ</rt></ruby>しく聞えて、やや近づき来たり。何人の夜<ruby><rb>深</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>で給ふやと、<ruby><rb>異</rb><rt>あや</rt></ruby>しくも恐ろしく、親子顔を見あはせて<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をつめ、そなたをのみまもり居るに、はや<ruby><rb>前駆</rb><rt>ぜんぐ</rt></ruby>の<ruby><rb>若侍</rb><rt>わかさむらひ</rt></ruby>、七四<ruby><rb>橋板</rb><rt>はしいた</rt></ruby>をあららかに踏みてここに来る。

おどろきて堂の右に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>みかくるるを、<ruby><rb>武士</rb><rt>ぶし</rt></ruby>はやく見つけて、何者なるぞ、七五<ruby><rb>殿下</rb><rt>でんか</rt></ruby>のわたらせ給ふ。<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>く<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りよといふに、あわただしく<ruby><rb>簀子</rb><rt>すのこ</rt></ruby>をくだり、土に<ruby><rb>俯</rb><rt>ふ</rt></ruby>して七六<ruby><rb>跪</rb><rt>うずすま</rt></ruby>る。程なく多くの足音聞ゆる中に、<ruby><rb>沓音</rb><rt>くつおと</rt></ruby>高く<ruby><rb>響</rb><rt>ひび</rt></ruby>きて、<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>ゑぼし</rt></ruby>七七<ruby><rb>直衣</rb><rt>なほし</rt></ruby>めしたる貴人、堂に上り給へば、<ruby><rb>従者</rb><rt>みとも</rt></ruby>の<ruby><rb>武士</rb><rt>もののべ</rt></ruby>四五人ばかり<ruby><rb>右左</rb><rt>みぎひだり</rt></ruby>に座をまうく。かの貴人、人々に向ひて、<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>々はなど来らざると<ruby><rb>課</rb><rt>おほ</rt></ruby>せらるるに、やがてぞ参りつらめと<ruby><rb>奏</rb><rt>まう</rt></ruby>す。又一<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>の足音して、威儀ある武士、<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>まろげたる<ruby><rb>入道等</rb><rt>にふだうら</rt></ruby>うち<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>りて、七八<ruby><rb>礼</rb><rt>ゐや</rt></ruby>たてまつりて堂に<ruby><rb>昇</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る。貴人、只今来りし武士にむかひて、七九<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>は何とておそく参りたるぞとあれば、かの武士いふ。八〇<ruby><rb>白江</rb><rt>しらえ</rt></ruby><ruby><rb>熊谷</rb><rt>くまがへ</rt></ruby>の両士、<ruby><rb>公</rb><rt>きみ</rt></ruby>に八一<ruby><rb>大御酒</rb><rt>おほみき</rt></ruby>すすめたてまつるとて八二<ruby><rb>実</rb><rt>まめ</rt></ruby>やかなるに、臣も八三<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざら（け）</rt></ruby>き物一<ruby><rb>種</rb><rt>しゆ</rt></ruby><ruby><rb>調</rb><rt>てう</rt></ruby>じまゐらせんため、<ruby><rb>御従</rb><rt>みとも</rt></ruby>に<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れたてまつりぬと<ruby><rb>奏</rb><rt>まう</rt></ruby>す。はやく<ruby><rb>酒殽</rb><rt>さかな</rt></ruby>をつらねてすすめまゐらすれば、八四万作<ruby><rb>酌</rb><rt>しやく</rt></ruby>まゐれとぞ<ruby><rb>課</rb><rt>おほ</rt></ruby>せらる。<ruby><rb>恐</rb><rt>かしこま</rt></ruby>りて、<ruby><rb>美相</rb><rt>びさう</rt></ruby>の<ruby><rb>若士</rb><rt>わかさぶらひ</rt></ruby><ruby><rb>膝行</rb><rt>ゐざ</rt></ruby>りよりて八五<ruby><rb>瓶子</rb><rt>へいじ</rt></ruby>を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>ぐ。かなたこなたに<ruby><rb>杯</rb><rt>さかづき</rt></ruby>をめぐらしていと興ありげなり。



高野山奥の院、灯籠堂の前で、深夜、夢然・作之治父子が、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあう図。先駆の武士が父子を叱っているところ。（原本三丁裏、四丁表の挿絵）

貴人又<ruby><rb>曰</rb><rt>のたま</rt></ruby>はく、絶えて八六<ruby><rb>紹巴</rb><rt>ぜうは</rt></ruby>が<ruby><rb>説話</rb><rt>ものがたり</rt></ruby>を聞かず、召せと、八七の給ふに、呼びつぐやうなりしが、八八我が<ruby><rb>跪</rb><rt>うずすま</rt></ruby>りし<ruby><rb>背</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方より、八九大いなる法師の、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>九〇うちひらめきて、九一<ruby><rb>目鼻</rb><rt>めはな</rt></ruby>あざやかなる人の、<ruby><rb>僧衣</rb><rt>そうえ</rt></ruby>かいつくろひて座の<ruby><rb>末</rb><rt>すゑ</rt></ruby>にまゐれり。貴人九二<ruby><rb>古語</rb><rt>ふること</rt></ruby>かれこれ<ruby><rb>問</rb><rt>と</rt></ruby>ひ<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>へ給ふに、<ruby><rb>詳</rb><rt>つばら</rt></ruby>に答へたてまつるを、いといと<ruby><rb>感</rb><rt>め</rt></ruby>でさせ給うて、九三<ruby><rb>他</rb><rt>かれ</rt></ruby>に<ruby><rb>禄</rb><rt>ろく</rt></ruby>とらせよとの給ふ。

一人の武士かの法師に問ひていふ。此の山は九四<ruby><rb>大徳</rb><rt>（だいとこ）</rt></ruby>の<ruby><rb>啓</rb><rt>ひら</rt></ruby>き給うて、<ruby><rb>土石草木</rb><rt>どせきさうもく</rt></ruby>も九五<ruby><rb>霊</rb><rt>れい</rt></ruby>なきはあらずと聞く。さるに九六玉川の<ruby><rb>流</rb><rt>なが</rt></ruby>れには毒あり。人飲む時は<ruby><rb>斃</rb><rt>たふ</rt></ruby>るが故に、大師のよませ給ふ歌とて、

九七わすれても汲みやしつらん<ruby><rb>旅</rb><rt>たび</rt></ruby>人の

<ruby><rb>高野</rb><rt>たかの</rt></ruby>の奥の玉川の水

といふことを聞き伝へたり。大徳のさすがに、此の毒ある流をば、九八など<ruby><rb>涸</rb><rt>あ</rt></ruby>せては果し給はぬや。いぶかしき事を九九<ruby><rb>足下</rb><rt>そこ</rt></ruby>にはいかに<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>へ給ふ。

法師<ruby><rb>笑</rb><rt>ゑみ</rt></ruby>をふくみていふは、此の歌は一〇〇<ruby><rb>風雅集</rb><rt>ふうがしふ</rt></ruby>に<ruby><rb>撰</rb><rt>えら</rt></ruby>み入れ給ふ。其の一〇一<ruby><rb>端詞</rb><rt>はしことば</rt></ruby>に、<ruby><rb>高野</rb><rt>たかの</rt></ruby>の奥の院へまゐる道に、玉川といふ河の<ruby><rb>水上</rb><rt>みなかみ</rt></ruby>に<ruby><rb>毒</rb><rt>どく</rt></ruby>虫おほかりければ、此の流を飲むまじきよしをしめしおきて後よみ<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>りける、とことわらせ給へば、<ruby><rb>足下</rb><rt>そこ</rt></ruby>のおぼえ給ふ如くなり。されど今の御疑ひ一〇二<ruby><rb>僻言</rb><rt>ひがごと</rt></ruby>ならぬは、大師は<ruby><rb>神通自在</rb><rt>じんつうじざい</rt></ruby>にして一〇三<ruby><rb>隠神</rb><rt>かくれがみ</rt></ruby>を<ruby><rb>役</rb><rt>えき</rt></ruby>して道なきをひらき、<ruby><rb>巌</rb><rt>いはほ</rt></ruby>を<ruby><rb>鐫</rb><rt>ゑ</rt></ruby>るには土を<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>つよりも<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>く、<ruby><rb>大蛇</rb><rt>をろち</rt></ruby>を一〇四<ruby><rb>禁</rb><rt>いまし</rt></ruby>め、<ruby><rb>化鳥</rb><rt>けてう</rt></ruby>を一〇五<ruby><rb>奉仕</rb><rt>まつろ</rt></ruby>へしめ給ふ事、<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>が下の人の仰ぎたてまつる<ruby><rb>功</rb><rt>いさをし</rt></ruby>なるを思ふには、此の歌の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>の<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>ぞ一〇六まことしからね。もとより此の一〇七玉河てふ川は国々にありて、いづれをよめる歌も、其の流れのきよきを<ruby><rb>誉</rb><rt>あ</rt></ruby>げしなるを思へば、ここの玉川も毒ある流れにはあらで、歌の<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>も、一〇八かばかり名に<ruby><rb>負</rb><rt>お</rt></ruby>ふ河の此の山にあるを、ここに<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>づる人は一〇九忘る忘るも、流れの清きに<ruby><rb>愛</rb><rt>め</rt></ruby>でて手に<ruby><rb>掬</rb><rt>むす</rt></ruby>びつらんとよませ給ふにやあらんを、後の人の毒ありといふ一一〇<ruby><rb>狂言</rb><rt>まがこと</rt></ruby>より、此の<ruby><rb>端詞</rb><rt>はしことば</rt></ruby>はつくりなせしものかとも思はるるなり。又深く疑ふときには、此の歌の<ruby><rb>調</rb><rt>しらべ</rt></ruby>、一一一今の<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>の<ruby><rb>初</rb><rt>はじめ</rt></ruby>の口<ruby><rb>風</rb><rt>ぶり</rt></ruby>にもあらず。おほよそ此の国の<ruby><rb>古語</rb><rt>ふること</rt></ruby>に、一一二玉<ruby><rb>蘰</rb><rt>かづら</rt></ruby>一一三玉<ruby><rb>簾</rb><rt>だれ</rt></ruby>一一四<ruby><rb>珠衣</rb><rt>たまぎぬ</rt></ruby>の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐひ</rt></ruby>は、<ruby><rb>形</rb><rt>かたち</rt></ruby>をほめ清きを<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>むる<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>なるから、<ruby><rb>清水</rb><rt>しみづ</rt></ruby>をも玉水玉の井玉河ともほむるなり。毒ある流れをなど一一五玉てふ<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>は<ruby><rb>冠</rb><rt>かうむ</rt></ruby>らしめん。一一六<ruby><rb>強</rb><rt>あながち</rt></ruby>に<ruby><rb>仏</rb><rt>ほとけ</rt></ruby>をたふとむ人の、歌の<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>に<ruby><rb>細妙</rb><rt>くはし</rt></ruby>からぬは、これほどの<ruby><rb>訛</rb><rt>あやまり</rt></ruby>は幾らをもしいづるなり。<ruby><rb>足下</rb><rt>そこ</rt></ruby>は歌よむ人にもおはせで、此の歌の<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby><ruby><rb>異</rb><rt>あや</rt></ruby>しみ給ふは一一七<ruby><rb>用意</rb><rt>ようい</rt></ruby>ある事こそと、<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>く<ruby><rb>感</rb><rt>め</rt></ruby>でにける。貴人をはじめ人々も此のことわりを<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に<ruby><rb>感</rb><rt>め</rt></ruby>でさせ給ふ。

<ruby><rb>御</rb><rt>み</rt></ruby>堂のうしろの方に、<ruby><rb>仏法</rb><rt>ぶつぱん</rt></ruby>々々と<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>く<ruby><rb>音</rb><rt>こゑ</rt></ruby>ちかく聞ゆるに、貴人<ruby><rb>杯</rb><rt>さかづき</rt></ruby>をあげ給ひて、<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>の鳥絶えて鳴かざりしに、<ruby><rb>今夜</rb><rt>こよひ</rt></ruby>の<ruby><rb>酒宴</rb><rt>しゆえん</rt></ruby>に一一八<ruby><rb>栄</rb><rt>はえ</rt></ruby>あるぞ。<ruby><rb>紹巴</rb><rt>ぜうは</rt></ruby>一一九いかにと<ruby><rb>課</rb><rt>おほ</rt></ruby>せ給ふ。法師かしこまりて、<ruby><rb>某</rb><rt>それがし</rt></ruby>が一二〇<ruby><rb>短句</rb><rt>たんく</rt></ruby>、<ruby><rb>公</rb><rt>きみ</rt></ruby>にも一二一御耳すすびましまさん。ここに旅人の<ruby><rb>通夜</rb><rt>つや</rt></ruby>しけるが、今の世の<ruby><rb>俳諧風</rb><rt>はいかいぶり</rt></ruby>をまうして侍る。<ruby><rb>公</rb><rt>きみ</rt></ruby>にはめづらしくおはさんに召して聞かせ給へといふ。一二二それ召せと<ruby><rb>課</rb><rt>おほ</rt></ruby>せらるるに、若きさむらひ夢然が方へむかひ、召し給ふぞ、ちかうまゐれと云ふ。一二三<ruby><rb>夢現</rb><rt>ゆめうつつ</rt></ruby>ともわかで、おそろしさのままに御まのあたりへはひ出づる。法師夢然にむかひ、<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>によみつる詞を<ruby><rb>公</rb><rt>きみ</rt></ruby>に申し上げよといふ。夢然恐る恐る、何をか申しつる、<ruby><rb>更</rb><rt>さら</rt></ruby>に覚え侍らず。只<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>し給はれと云ふ。法師かさねて、秘密の山とは申さざるや。<ruby><rb>殿下</rb><rt>でんか</rt></ruby>の問はせ給ふ。いそぎ申し上げよといふ。夢然いよいよ恐れて、殿下と<ruby><rb>課</rb><rt>おほ</rt></ruby>せ出され侍るは一二四誰にてわたらせ給ひ、かかる<ruby><rb>深山</rb><rt>みやま</rt></ruby>に<ruby><rb>夜宴</rb><rt>やえん</rt></ruby>をもよほし給ふや。一二五更にいぶかしき事に侍るといふ。法師答へて、殿下と申し奉るは、一二六<ruby><rb>関白秀次公</rb><rt>くわんぱくひでつぐこう</rt></ruby>にてわたらせ給ふ。人々は一二七<ruby><rb>木村常陸介</rb><rt>（きむらひたちのすけ）</rt></ruby>、<ruby><rb>雀部</rb><rt>ささべ</rt></ruby>淡路、白江備後、<ruby><rb>熊谷</rb><rt>くまがへ</rt></ruby>大膳、<ruby><rb>粟野杢</rb><rt>あはのもく</rt></ruby>、<ruby><rb>日比野下野</rb><rt>ひびの（しもつけ）</rt></ruby>、山口<ruby><rb>少雲</rb><rt>せううん</rt></ruby>、<ruby><rb>丸毛不心</rb><rt>まるもふしん</rt></ruby>、<ruby><rb>隆西</rb><rt>りうさい</rt></ruby>入道、山本<ruby><rb>主殿</rb><rt>とのも</rt></ruby>、山田三十郎、<ruby><rb>不破</rb><rt>ふは</rt></ruby>万作、かく云ふは<ruby><rb>紹巴</rb><rt>ぜうは</rt></ruby>一二八<ruby><rb>法橋</rb><rt>ほつけう</rt></ruby>なり。<ruby><rb>汝等</rb><rt>なんぢら</rt></ruby>一二九不思議の御目見えつかまつりたるは。<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>のことばいそぎ申し上げよといふ。<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>に<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>あらば一三〇ふとるべきばかりに<ruby><rb>凄</rb><rt>すざま</rt></ruby>しく一三一<ruby><rb>肝</rb><rt>きも</rt></ruby><ruby><rb>魂</rb><rt>たましひ</rt></ruby>も<ruby><rb>虚</rb><rt>そら</rt></ruby>にかへるここちして、<ruby><rb>振</rb><rt>ふる</rt></ruby>ふ振ふ、一三二<ruby><rb>頭陀嚢</rb><rt>づだぶくろ</rt></ruby>より清き紙取り<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でて、筆も一三三しどろに書きつけてさし出すを、<ruby><rb>主殿</rb><rt>とのも</rt></ruby>取りてたかく吟じ上ぐる。

鳥の音も秘密の山の茂みかな

貴人聞かせ給ひて、一三四口がしこくもつかまつりしな。<ruby><rb>誰</rb><rt>た</rt></ruby>そ此の一三五<ruby><rb>末句</rb><rt>すゑく</rt></ruby>をまうせとのたまふに、山田三十郎座をすすみて、<ruby><rb>某</rb><rt>それがし</rt></ruby>つかうまつらんとて、しばしうちかたぶきてかくなん。

一三六<ruby><rb>芥子</rb><rt>けし</rt></ruby>たき<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>すみじか夜の<ruby><rb>牀</rb><rt>ゆか</rt></ruby>

一三七いかがあるべきと、紹巴に見する。よろしくまうされたりと、<ruby><rb>公</rb><rt>きみ</rt></ruby>の前に出すを見給ひて、一三八<ruby><rb>片羽</rb><rt>かたは</rt></ruby>にもあらぬはと興じ給ひて、又一三九<ruby><rb>杯</rb><rt>さかづき</rt></ruby>を<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げてめぐらし給ふ。

一四〇淡路と聞えし人、にはかに色を<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>へて、はや一四一<ruby><rb>修羅</rb><rt>しゆら</rt></ruby>の時にや。<ruby><rb>阿修羅</rb><rt>あしゆら</rt></ruby>ども御迎ひに来ると聞え侍る。立たせ給へといへば、一座の人々<ruby><rb>忽</rb><rt>（たちま）</rt></ruby>ち<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に血を<ruby><rb>灌</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぎし如く、いざ一四二石田増田が<ruby><rb>徒</rb><rt>ともがら</rt></ruby>に<ruby><rb>今夜</rb><rt>こよひ</rt></ruby>も一四三<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby><ruby><rb>吹</rb><rt>ふ</rt></ruby>かせんと勇みて立ち<ruby><rb>躁</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぐ。<ruby><rb>秀次</rb><rt>ひでつぐ</rt></ruby>木村に向はせ給ひ、一四四よしなき<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>に我が<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>を見せつるぞ。<ruby><rb>他</rb><rt>かれ</rt></ruby><ruby><rb>二人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>も<ruby><rb>修羅</rb><rt>しゆら</rt></ruby>につれ来れと<ruby><rb>課</rb><rt>おほ</rt></ruby>せある。老臣の人々一四五かけ<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>たりて声をそろへ、いまだ<ruby><rb>命</rb><rt>めい</rt></ruby>つきざる者なり。一四六<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>の<ruby><rb>悪業</rb><rt>あくげふ</rt></ruby>なせさせ給ひそといふ詞も、人々の<ruby><rb>形</rb><rt>かたち</rt></ruby>も、遠く雲井に行くがごとし。

親子は<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby><ruby><rb>絶</rb><rt>た</rt></ruby>えて、しばしがうち一四七<ruby><rb>死</rb><rt>しに</rt></ruby>入りけるが、一四八しののめの明けゆく空に、ふる露の<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>やかなるに<ruby><rb>生</rb><rt>いき</rt></ruby>出でしかど、いまだ明けきらぬ恐ろしさに、一四九大師の<ruby><rb>御名</rb><rt>みな</rt></ruby>をせはしく<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>へつつ、一五〇<ruby><rb>漸</rb><rt>やや</rt></ruby>日出づると見て、いそぎ山をくだり、<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>にかへりて一五一<ruby><rb>薬鍼</rb><rt>やくしん</rt></ruby>の<ruby><rb>保養</rb><rt>ほやう</rt></ruby>をなしける。<ruby><rb>一日</rb><rt>あるひ</rt></ruby>夢然、三条の橋を過ぐる時、一五二<ruby><rb>悪</rb><rt>あく</rt></ruby>ぎやく<ruby><rb>塚</rb><rt>づか</rt></ruby>の事思ひ出づるより、かの寺<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>められて、<ruby><rb>白昼</rb><rt>ひる</rt></ruby>ながら物<ruby><rb>凄</rb><rt>すざま</rt></ruby>しくありけると、<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>人にかたりしを、そがままにしるしぬ。

一　啼声がプッポーソー、ブッパンニなどと聞こえるフクロウ科のコノハズクで、深山にすむ。

二　心安らかに平穏に治まれる国。日本の美称。

三　錦のようにうつくしい紅葉の林。春は花云々の対。

四　筑紫の枕詞。「知らぬ」に懸ける。

五　ここでは九州の国々。

六　船旅をする人。械は楫。

七　茨城県にあり、古来富士山と並んで関東の名山。

八　三重県多気町相可。

九　不幸があったわけでもないのに薙髪して。

一〇　生来無骨で融通のきかないのを案じて。

一一　一月・二条・三月と数を重ねる修辞法。別業は別邸。ここでは支店ととってよい。

一二　吉野山は桜の名所。下の千本・中の千本・上の千本・奥の千本とある。

一三　和歌山県伊都郡高野町にあり、古義真言宗総本山金剛峯寺がある。

一四　奈良県吉野郡天川町。

一五　高野山の美称。

一六　ゆきなやんで。

一七　東塔より西塔にいたる二町の間をいい、金堂・大塔・灌頂堂・御影堂・愛染堂等の重要な堂塔伽藍がある。

一八　奥の院にある大師廟。

一九　まったく。ちっとも。

二〇　この土地の規約・戒律。

二一　つてのない人。

二二　がっかりして。

二三　長いみちのり。

二四　作之治が自分をさす。

二五　父上が御病気になられはしまいかと。

二六　脚を痛め。

二七　日本の異称。

二八　この山を開基した弘法大師の広大な徳はとても語りつくせない。

二九　わざわざにでも。

三〇　来世の安楽往生をお願いしなければならないが。

三一　霊前で読経念仏すること。

三二　大師廟の前にあり、古くは拝殿・礼堂とよばれ、中に多くの灯籠が奉納されている。

三三　五〇町四方。実際は東西五〇町（五四五〇メートル）南北一〇町余り。

三四　見苦しい林。

三五　仏法僧三宝の徳を敬田・恩田・悲田といい、ここでは、その仏法僧の諸徳がそなわったありがたい霊地の意。

三六　経文の名。翻訳せずに梵語のままで誦する。

三七　鈴と錫の仏具。

三八　雲をおしわけるくらい高くそびえて茂りあい。

三九　道ばたを流れる水。

四〇　神の如き徳化力。

四一　霊魂を宿して。

四二　大師が高野山をひらいたのが弘仁七年（八二六）であり、八百余年後は一七世紀初頭にあたる。

四三　ますます顕著に。

四四　後世につたえられるすぐれた業績。

四五　諸国を遍歴してのこした旧跡。

四六　仏道を修行する場。

四七　御在世中の当時。

四八　大師が唐に渡ったのは延暦二三年（八〇四）。

四九　ふかく感じられたこと。

五〇　仏具で、金剛杵の一種。

五一　その結果。果して。

五二　御影堂の前にある。

五三　思いがけずも。不思議な縁で。

五四　この世だけでなく前世からの善因縁である。

五五　小声で。

五六　秋成の胆大小心録四五に「仏法僧は高野山で聞いたが、ブツパンブツパンとないた。形は見へなんだ」。

五七　この世でおかした罪を消滅して、来世の善因をつくるよい前兆。

五八　群馬県沼田市の北部にある。弥勒寺がある。

五九　栃木県日光市北方にある。

六〇　京都市伏見区にある。

六一　大阪府南河内郡太子町にある山か。

六二　仏徳を讃えるためにつくった詩で、多く四句から成る。

六三　三宝は仏法僧。性心雲水は有情の鳥の性と人心、無情の行雲と流水。了々は悟りの境地に入っている。大師の詩文集、遍照発揮性霊集、巻一〇にある。現代語訳を見よ。

六四　松の尾は、京都市右京区にある山。新撰六帖や夫木集にある藤原光俊の歌。

六五　松の尾にある天台宗の寺。

六六　一二、三世紀の天台宗の高僧。最福寺の住職。

六七　法華経の信奉者。

六八　京都市右京区嵐山宮前町にある松尾神社。

六九　今夜めずらしくも仏法僧の一声を聞くことができた。

七〇　興趣を解し感動せずにおられようか。

七一　首を傾け思案して。

七二　秘密の山は高野山。真言秘密の法を行なう高野山では仏法僧の声も神秘の響をもつ。

七三　先ばらい。前駆。

七四　御廟橋の橋板を荒々しくふんで。

七五　摂政・関白・将軍などをいう。

七六　「うずくまる」意の古語。

七七　ノーシといい、貴人の平服。

七八　札をして。

七九　木村常陸介重茲。秀次補佐の重臣。

八〇　白江備後守と熊谷大膳亮。ともに秀次の臣。

八一　神や天皇・貴人にたてまつり、賜わる酒。

八二　まめまめしく働いているので。

八三　鮮魚。転じて酒の肴。

八四　不破万作。秀次の近侍。美少年。

八五　酒徳利。

八六　里村紹巴。連歌の名人。信長・秀吉・秀次の恩をうけた。慶長七年（一六〇二）没。

八七　おっしゃる。

八八　夢然を一人称とした。

八九　松永貞徳の戴恩記に「顔おほきにして眉なく、明らかなるひとかは目にて、鼻大きにあざやかに」とある。

九〇　ひらたくて。

九一　目鼻だちのはっきりした人。

九二　故事古語古歌などについてあれこれと問いただす。

九三　紹巴に褒美を与えよ。

九四　徳高き高僧。ここでは弘法大師をさす。

九五　仏徳をうけて霊魂なきものはない。

九六　摩尼・楊柳・転軸の三山に発して、御廟橋の下を流れる小川。

九七　この歌の解には古来異説があるが、忘れても旅人は高野山の奥の玉川の水を汲んで飲んではいけない、毒があるからだ、の意に解すのが普通のようであり、秋成の解は本文に詳述している。風雅集一六に弘法大師作としてある。

九八　どうして水を涸らしてしまわれないのか。

九九　貴殿。対称代名詞。

一〇〇　花園上皇自撰の歌集。貞和二年（一三四六）成立。

一〇一　和歌などの前につける詞書。

一〇二　まちがったこと。

一〇三　目に見えない神を使役して。

一〇四　封じこめ。

一〇五　帰順せしめ。

一〇六　本当とは思えない。

一〇七　六玉川として有名。井出玉川、京都府綴喜郡井手町。野路玉川、滋賀県草津市。擣衣玉川、大阪府高槻市。高野玉川、和歌山県高野山。調布玉川、東京都西多摩郡。野田玉川、宮城県塩釜市付近。歌枕。

一〇八　これほど有名な。

一〇九　すっかり忘れていても。

一一〇　道理にはずれた妄説。

一一一　平安朝初期の歌風ではない。すなわち、弘法大師の作ではないの意を暗示する。

一一二　多くの玉を緒でつらぬいたもので、頭の飾り。

一一三　玉などを飾ったすだれ。またすだれの美称。

一一四　玉をつけた着物。また着物の美称。

一一五　玉という語。

一一六　むやみに仏をありがたがって尊ぶ人で。

一一七　たしなみのふかいことである。

一一八　ひとしお興を加えたことである。

一一九　一句どうだ。

一二〇　連歌の一句。

一二一　お聞きふるしでいらっしゃいましょう。

一二二　その者を召し出せ。

一二三　無我夢中で。

一二四　どなたでいらっしゃって。

一二五　いよいよ不審なことでございます。

一二六　秀吉の甥で、秀吉の猶子となり、内大臣から関白になったが、秀吉に実子の秀頼が誕生するにおよんで威勢を失い、官位を奪われて高野山に逐われ、文禄四年（一五九五）七月、青巖寺で自刃。二八歳。

一二七　以下の人々はいずれも秀次腹心の臣で、大半は秀次に殉じて死んだ。

一二八　僧の位で、法印・法眼につぐ。後には文人・画家・医師にも授かった。

一二九　不思議の御縁で拝顔の栄をえたのであるぞ。

一三〇　一瞬にして毛髪がふとくなるほどの恐ろしさ。

一三一　肝も魂も身をはなれて宙にうくような心地。

一三二　首から胸にかける袋で、近世には多く旅行用に用いられた。

一三三　とり乱すさま。

一三四　うまく、小ざかしくも詠んだな。

一三五　付句。五七五にたいしてつける七七。

一三六　芥子は真言宗で焚いて加持祈祷に用いる。みじか夜は夏の夜。牀は護摩壇。芥子を焚きながら短い夏の夜を、護摩壇のそばで護摩の秘法を行なってあかす。

一三七　どうでしょうか。

一三八　片端。不十分。不完全。下手でもない。

一三九　杯に酒をみたして。

一四〇　雀部淡路とよばれた人。

一四一　闘争を事とする鬼神阿修羅の略。もはや争闘のはじまる時刻になった。

一四二　石田三成と増田長盛。ともに秀吉の重臣で、秀次を讒言して死にいたらしめた。

一四三　ひどいめにあわせてやろう。

一四四　つまらぬやつ。

一四五　その間にわって入って。両者をへだてて。

一四六　殺生残虐を好むいつもの悪い所行。

一四七　失神したが。

一四八　「明け」の枕詞。

一四九　南無大師遍照金剛ととなえた。

一五〇　ようやく。やっと。

一五一　薬をのんだり鍼をうったりして治療養生した。

一五二　京都三条小橋の東南岸、瑞泉寺内にある悪逆塚。畜生塚ともいう。秀次の首、および妻子侍妾三十余人の首を埋め、僧慶順が、文禄四年（一五九五）に建立した。その後、角倉了意があらたに碑を建てて現存する。

  


## 一<ruby><rb>吉備津</rb><rt>きびつ</rt></ruby>の<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>

二<ruby><rb>妒婦</rb><rt>とふ</rt></ruby>の<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>ひがたきも、<ruby><rb>老</rb><rt>お</rt></ruby>いての後其の<ruby><rb>功</rb><rt>こう</rt></ruby>を知ると。<ruby><rb>咨</rb><rt>ああ</rt></ruby>これ何人の<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>ぞや。<ruby><rb>害</rb><rt>わざはひ</rt></ruby>の甚しからぬも、三<ruby><rb>商工</rb><rt>わたらひ</rt></ruby>を<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げ物を破りて、四垣の隣の<ruby><rb>口</rb><rt>そしり</rt></ruby>をふせぎがたく、害の大なるにおよびては、家を失ひ、国をほろぼして、天が下に笑を伝ふ。いにしへより五此の毒にあたる人、<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくばく</rt></ruby>といふ事をしらず。死して六<ruby><rb>蟒</rb><rt>みづち</rt></ruby>となり、或は七<ruby><rb>霹靂</rb><rt>はたたがみ</rt></ruby>を<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>うて<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>を<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>ふ<ruby><rb>類</rb><rt>たぐひ</rt></ruby>は、其の肉を八<ruby><rb>醢</rb><rt>ししびし（ほ）</rt></ruby>にするとも飽くべからず。さるためしは<ruby><rb>希</rb><rt>（まれ）</rt></ruby>なり。<ruby><rb>夫</rb><rt>をつと</rt></ruby>のおのれをよく<ruby><rb>脩</rb><rt>をさ</rt></ruby>めて九教へなば、此の<ruby><rb>患</rb><rt>うれひ</rt></ruby>おのづから<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>くべきものを、只一〇かりそめなる<ruby><rb>徒</rb><rt>あだ</rt></ruby>ことに、女の一一<ruby><rb>慳</rb><rt>かだま</rt></ruby>しき<ruby><rb>性</rb><rt>さが</rt></ruby>を<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>らしめて、其の身の<ruby><rb>憂</rb><rt>うれひ</rt></ruby>をもとむるにぞありける。一二<ruby><rb>禽</rb><rt>きん</rt></ruby>を<ruby><rb>制</rb><rt>せい</rt></ruby>するは<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby>にあり。<ruby><rb>婦</rb><rt>ふ</rt></ruby>を制するは其の<ruby><rb>夫</rb><rt>をつと</rt></ruby>の<ruby><rb>雄</rb><rt>を</rt></ruby>々しきにありといふは、<ruby><rb>現</rb><rt>げ</rt></ruby>にさることぞかし。

一三<ruby><rb>吉備</rb><rt>きび</rt></ruby>の国<ruby><rb>賀夜郡</rb><rt>かやのこほり</rt></ruby><ruby><rb>庭妹</rb><rt>にひせ</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>に、<ruby><rb>井沢</rb><rt>ゐざは</rt></ruby>庄太夫といふものあり。<ruby><rb>祖父</rb><rt>おほぢ</rt></ruby>は<ruby><rb>播磨</rb><rt>（はりま）</rt></ruby>の一四赤松に仕へしが、<ruby><rb>去</rb><rt>さ</rt></ruby>んぬる一五<ruby><rb>嘉吉</rb><rt>かきつ</rt></ruby>元年の<ruby><rb>乱</rb><rt>みだれ</rt></ruby>に、一六かの<ruby><rb>館</rb><rt>たち</rt></ruby>を去りてここに来り、庄太夫にいたるまで<ruby><rb>三代</rb><rt>みよ</rt></ruby>を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て、一七春<ruby><rb>耕</rb><rt>たがや</rt></ruby>し、秋<ruby><rb>収</rb><rt>をさ</rt></ruby>めて、家<ruby><rb>豊</rb><rt>ゆた</rt></ruby>かにくらしけり。一子正太郎なるもの<ruby><rb>農業</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>を<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>ふあまりに、酒に乱れ色に<ruby><rb>酖</rb><rt>ふけ</rt></ruby>りて、父が一八<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>を守らず。父母これを嘆きて<ruby><rb>私</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かにはかるは、一九あはれ<ruby><rb>良</rb><rt>よき</rt></ruby>人の<ruby><rb>女子</rb><rt>むすめ</rt></ruby>の<ruby><rb>皃</rb><rt>かほ</rt></ruby>よきを<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>りて二〇あはせなば、<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>が身もおのづから<ruby><rb>脩</rb><rt>をさ</rt></ruby>まりなんとて、あまねく<ruby><rb>国中</rb><rt>くになか</rt></ruby>をもとむるに、幸に<ruby><rb>媒氏</rb><rt>なかうど</rt></ruby>ありていふ。二一<ruby><rb>吉備津</rb><rt>きびつ</rt></ruby>の<ruby><rb>神主</rb><rt>かんざね</rt></ruby><ruby><rb>香央造酒</rb><rt>かさだみき</rt></ruby>が<ruby><rb>女子</rb><rt>むすめ</rt></ruby>は、うまれだち<ruby><rb>秀麗</rb><rt>みやびやか</rt></ruby>にて、父母にもよく仕へ、かつ歌をよみ、二二<ruby><rb>箏</rb><rt>こと</rt></ruby>に<ruby><rb>工</rb><rt>たく</rt></ruby>みなり。<ruby><rb>従来</rb><rt>もとより</rt></ruby>かの家は二三吉備の<ruby><rb>鴨別</rb><rt>かもわけ</rt></ruby>が<ruby><rb>裔</rb><rt>すゑ</rt></ruby>にて<ruby><rb>家系</rb><rt>すぢめ</rt></ruby>も正しければ、君が家に二四<ruby><rb>因</rb><rt>ちな</rt></ruby>み給ふは二五<ruby><rb>果</rb><rt>はた</rt></ruby><ruby><rb>吉祥</rb><rt>よきさが</rt></ruby>なるべし。此の事の<ruby><rb>就</rb><rt>な</rt></ruby>らんは二六老が願ふ所なり。二七<ruby><rb>大人</rb><rt>うし</rt></ruby>の<ruby><rb>御</rb><rt>み</rt></ruby>心いかにおぼさんやといふ。庄太夫大いに<ruby><rb>怡</rb><rt>よろこ</rt></ruby>び、二八よくも説かせ給ふものかな。此の事我が家にとりて二九千とせの<ruby><rb>計</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>なりといへども、<ruby><rb>香央</rb><rt>かさだ</rt></ruby>は此の国の貴族にて、我は氏なき三〇<ruby><rb>田夫</rb><rt>でんぷ</rt></ruby>なり。三一門<ruby><rb>戸</rb><rt>こ</rt></ruby><ruby><rb>敵</rb><rt>てき</rt></ruby>すべからねば、おそらくは<ruby><rb>肯</rb><rt>うけが</rt></ruby>ひ給はじ。<ruby><rb>媒氏</rb><rt>なかだち</rt></ruby>の翁<ruby><rb>笑</rb><rt>ゑみ</rt></ruby>をつくりて、<ruby><rb>大人</rb><rt>うし</rt></ruby>の<ruby><rb>謙</rb><rt>くだ</rt></ruby>り給ふ事甚し。我かならず三二万歳を<ruby><rb>諷</rb><rt>うた</rt></ruby>ふべしと、<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>きて香央に説けば、<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>にもよろこびつつ、妻なるものにもかたらふに、妻もいさみていふ。我が<ruby><rb>女子</rb><rt>むすめ</rt></ruby>既に十七歳になりぬれば、朝夕に三三よき人がな<ruby><rb>娶</rb><rt>あは</rt></ruby>せんものをと、心も三四おちゐ<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>らず。はやく日をえらみて三五<ruby><rb>聘礼</rb><rt>しるし</rt></ruby>を<ruby><rb>納</rb><rt>い</rt></ruby>れ給へと、<ruby><rb>強</rb><rt>あながち</rt></ruby>にすすむれば、<ruby><rb>盟約</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>すでになりて、井沢にかへりごとす。<ruby><rb>即</rb><rt>やが</rt></ruby>て<ruby><rb>聘礼</rb><rt>しるし</rt></ruby>を厚くととのへて送り<ruby><rb>納</rb><rt>い</rt></ruby>れ、三六よき日をとりて<ruby><rb>婚儀</rb><rt>ことぶき</rt></ruby>を三七もよほしけり。

<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby><ruby><rb>幸</rb><rt>さいはひ</rt></ruby>を神に祈るとて、三八<ruby><rb>巫子</rb><rt>かんなぎ</rt></ruby><ruby><rb>祝部</rb><rt>はふり</rt></ruby>を召しあつめて、三九<ruby><rb>御湯</rb><rt>みゆ</rt></ruby>をたてまつる。そもそも当社に<ruby><rb>祈誓</rb><rt>いのり</rt></ruby>する人は、四〇数の<ruby><rb>祓物</rb><rt>はらへつもの</rt></ruby>を<ruby><rb>供</rb><rt>そな</rt></ruby>へて<ruby><rb>御湯</rb><rt>みゆ</rt></ruby>を奉り、<ruby><rb>吉祥</rb><rt>よきさが</rt></ruby><ruby><rb>凶祥</rb><rt>あしきさが</rt></ruby>を<ruby><rb>占</rb><rt>うらな</rt></ruby>ふ。<ruby><rb>巫子</rb><rt>かんなぎ</rt></ruby><ruby><rb>祝詞</rb><rt>のつと</rt></ruby>をはり、湯の<ruby><rb>沸上</rb><rt>わきあが</rt></ruby>るにおよびて、<ruby><rb>吉祥</rb><rt>よきさが</rt></ruby>には釜の鳴る<ruby><rb>音</rb><rt>こゑ</rt></ruby>牛の<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>ゆるが如し。<ruby><rb>凶</rb><rt>あし</rt></ruby>きは釜に音なし。是を吉備津の<ruby><rb>御釜祓</rb><rt>みかまばらひ</rt></ruby>といふ。さるに<ruby><rb>香央</rb><rt>かさだ</rt></ruby>が家の事は、神の四一<ruby><rb>祈</rb><rt>う</rt></ruby>けさせ給はぬにや、只秋の虫の<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>にすだくばかりの声もなし。ここに<ruby><rb>疑</rb><rt>うたが</rt></ruby>ひをおこして、此の<ruby><rb>祥</rb><rt>さが</rt></ruby>を妻にかたらふ。妻四二更に疑はず。御釜の音なかりしは、<ruby><rb>祝部等</rb><rt>はふりたち</rt></ruby>が身の清からぬにぞあらめ。既に<ruby><rb>聘礼</rb><rt>しるし</rt></ruby>を納めしうへ、かの四三<ruby><rb>赤縄</rb><rt>せきじよう</rt></ruby>に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎては、<ruby><rb>仇</rb><rt>あた</rt></ruby>ある家、<ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt></ruby>なる<ruby><rb>域</rb><rt>くに</rt></ruby>なりとも<ruby><rb>易</rb><rt>か</rt></ruby>ふべからずと聞くものを。ことに井沢は四四弓の<ruby><rb>本末</rb><rt>もとすゑ</rt></ruby>をもしりたる人の<ruby><rb>流</rb><rt>すゑ</rt></ruby>にて、四五掟ある家と聞けば、今<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>むとも<ruby><rb>承</rb><rt>うけが</rt></ruby>はじ。ことに四六<ruby><rb>佳婿</rb><rt>むこがね</rt></ruby>の<ruby><rb>麗</rb><rt>あて</rt></ruby>なるをほの聞きて、我が<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>も日をかぞへて待ちわぶる物を、今のよからぬ<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>を聞くものならば、四七<ruby><rb>不慮</rb><rt>すずろ</rt></ruby>なる事をや<ruby><rb>仕出</rb><rt>（しい）</rt></ruby>ださん。其のとき悔ゆるともかへらじと、<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>を<ruby><rb>尽</rb><rt>つく</rt></ruby>して<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>むるは、まことに女の四八<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>ばへなるべし。香央も<ruby><rb>従来</rb><rt>もとより</rt></ruby>ねがふ<ruby><rb>因</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>なれば深く疑はず、妻のことばに<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>きて、<ruby><rb>婚儀</rb><rt>ことぶき</rt></ruby>ととのひ、両家の<ruby><rb>親族氏族</rb><rt>うからやから</rt></ruby>、四九鶴の千とせ、亀の<ruby><rb>万代</rb><rt>よろづよ</rt></ruby>をうたひことぶきけり。

<ruby><rb>香央</rb><rt>かさだ</rt></ruby>の<ruby><rb>女子</rb><rt>むすめ</rt></ruby><ruby><rb>磯良</rb><rt>いそら</rt></ruby>、かしこに<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>きてより、<ruby><rb>夙</rb><rt>つと</rt></ruby>に<ruby><rb>起</rb><rt>お</rt></ruby>き、おそく臥して、常に<ruby><rb>舅姑</rb><rt>おやおや</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたへ</rt></ruby>を去らず、五〇<ruby><rb>夫</rb><rt>をつと</rt></ruby>が<ruby><rb>性</rb><rt>さが</rt></ruby>をはかりて、心を尽して仕へければ、井沢夫婦は五一孝節を<ruby><rb>感</rb><rt>め</rt></ruby>でたしとて<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びに<ruby><rb>耐</rb><rt>た</rt></ruby>へねば、正太郎も其の志に<ruby><rb>愛</rb><rt>め</rt></ruby>でてむつまじくかたらひけり。されど五二おのがままの<ruby><rb>姧</rb><rt>たは</rt></ruby>けたる<ruby><rb>性</rb><rt>さが</rt></ruby>はいかにせん。いつの<ruby><rb>比</rb><rt>（ころ）</rt></ruby>より五三<ruby><rb>鞆</rb><rt>とも</rt></ruby>の津の袖といふ五四<ruby><rb>妓女</rb><rt>あそびもの</rt></ruby>にふかくなじみて、<ruby><rb>遂</rb><rt>つひ</rt></ruby>に五五<ruby><rb>贖</rb><rt>あがな</rt></ruby>ひ出し、ちかき里に<ruby><rb>別荘</rb><rt>べつや</rt></ruby>をしつらひ、かしこに日をかさねて家にかへらず。磯良これを<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みて、或ひは<ruby><rb>舅姑</rb><rt>おやおや</rt></ruby>の<ruby><rb>忿</rb><rt>いかり</rt></ruby>に五六<ruby><rb>托</rb><rt>よ</rt></ruby>せて<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>め、或ひは<ruby><rb>徒</rb><rt>あだ</rt></ruby>なる心をうらみかこてども、五七<ruby><rb>大虚</rb><rt>おほぞら</rt></ruby>にのみ聞きなして、後は五八月をわたりてかへり来らず。父は磯良が五九切なる<ruby><rb>行止</rb><rt>ふるまひ</rt></ruby>を見るに忍びず、正太郎を責めて<ruby><rb>押籠</rb><rt>おしこ</rt></ruby>めける。磯良これを悲しがりて、六〇朝夕の<ruby><rb>奴</rb><rt>つぶね</rt></ruby>も<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に<ruby><rb>実</rb><rt>まめ</rt></ruby>やかに、かつ袖が方へも<ruby><rb>私</rb><rt>ひそか</rt></ruby>に物を<ruby><rb>餉</rb><rt>おく</rt></ruby>りて、<ruby><rb>信</rb><rt>まこと</rt></ruby>のかぎりをつくしける。

<ruby><rb>一日</rb><rt>あるひ</rt></ruby>父が宿にあらぬ<ruby><rb>間</rb><rt>ひま</rt></ruby>に、正太郎磯良を六一かたらひていふ。<ruby><rb>御許</rb><rt>おもと</rt></ruby>の<ruby><rb>信</rb><rt>まこと</rt></ruby>ある<ruby><rb>操</rb><rt>みさを</rt></ruby>を見て、今はおのれが身の罪をくゆるばかりなり。かの女をも<ruby><rb>古郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>に送りてのち、父の六二<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>め奉らん。六三<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>は播磨の六四<ruby><rb>印南野</rb><rt>いなみの</rt></ruby>の者なるが、親もなき身の六五浅ましくてあるを、いと六六かなしく思ひて<ruby><rb>憐</rb><rt>あはれ</rt></ruby>をもかけつるなり。我に捨てられなば、はた六七<ruby><rb>船泊</rb><rt>ふなとま</rt></ruby>りの<ruby><rb>妓女</rb><rt>うかれめ</rt></ruby>となるべし。おなじ六八浅ましき<ruby><rb>奴</rb><rt>つぶね</rt></ruby>なりとも、<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>は人の情もありと聞けば、<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>をば京に送りやりて、六九<ruby><rb>栄</rb><rt>よし</rt></ruby>ある人に仕へさせたく思ふなり。我かくてあれば<ruby><rb>万</rb><rt>よろづ</rt></ruby>に貧しかりぬべし。七〇<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>の<ruby><rb>代</rb><rt>しろ</rt></ruby>、身にまとふ物も、誰が七一はかりごとしてあたへん。七二<ruby><rb>御許</rb><rt>おもと</rt></ruby>此の事をよくして<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>を恵み給へと、ねんごろに七三あつらへけるを、磯良いとも<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しく、此の事安くおぼし給へとて、<ruby><rb>私</rb><rt>ひそか</rt></ruby>におのが衣服調度を金に<ruby><rb>貿</rb><rt>か</rt></ruby>へ、<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby><ruby><rb>香央</rb><rt>かさだ</rt></ruby>の母が<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へも<ruby><rb>偽</rb><rt>いつは</rt></ruby>りて金を<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>ひ、正太郎に与へける。此の金を得て<ruby><rb>密</rb><rt>ひそか</rt></ruby>に家を<ruby><rb>脱</rb><rt>のが</rt></ruby>れ出で、袖なるものを<ruby><rb>倶</rb><rt>ぐ</rt></ruby>して、<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>の方へ逃げのぼりける。かくまでたばかられしかば、今はひたすらにうらみ歎きて、<ruby><rb>遂</rb><rt>つひ</rt></ruby>に重き病に臥しにけり。井沢香央の人々、七四<ruby><rb>彼</rb><rt>かれ</rt></ruby>を<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>み<ruby><rb>此</rb><rt>これ</rt></ruby>を<ruby><rb>哀</rb><rt>かなし</rt></ruby>みて、<ruby><rb>専</rb><rt>もは</rt></ruby>ら七五<ruby><rb>医</rb><rt>い</rt></ruby>の<ruby><rb>験</rb><rt>しるし</rt></ruby>をもとむれども、七六<ruby><rb>粥</rb><rt>もの</rt></ruby>さへ日々にすたりて、よろづにたのみなくぞ見えにけり。

ここに播磨の国<ruby><rb>印南郡</rb><rt>いなみのこほり</rt></ruby>七七<ruby><rb>荒井</rb><rt>あらゐ</rt></ruby>の里に、彦六といふ男あり。<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>は袖とちかき<ruby><rb>従弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>の<ruby><rb>因</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>あれば、先づこれを<ruby><rb>訪</rb><rt>とぶら</rt></ruby>うて、しばらく足を休めける。彦六、正太郎にむかひて、<ruby><rb>京</rb><rt>みやこ</rt></ruby>なりとて七八人ごとにたのもしくもあらじ。ここに<ruby><rb>駐</rb><rt>とど</rt></ruby>まられよ。七九一<ruby><rb>飯</rb><rt>ぱん</rt></ruby>をわけて、ともに<ruby><rb>過活</rb><rt>わたらひ</rt></ruby>のはかりごとあらんと、たのみある詞に心おちゐて、ここに住むべきに定めける。彦六、我が住むとなりなる<ruby><rb>破屋</rb><rt>あれや</rt></ruby>をかりて住ましめ、友得たりとて<ruby><rb>怡</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びけり。しかるに袖、八〇風のここちといひしが、八一何となく<ruby><rb>悩</rb><rt>なや</rt></ruby>み出でて、八二<ruby><rb>鬼化</rb><rt>もののけ</rt></ruby>のやうに狂はしげなれば、ここに来りて幾日もあらず、此の<ruby><rb>禍</rb><rt>わざはひ</rt></ruby>に<ruby><rb>係</rb><rt>かか</rt></ruby>る悲しさに、八三みづからも<ruby><rb>食</rb><rt>もの</rt></ruby>さへわすれて八四<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>き<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>くれども、只八五<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>をのみ泣きて、八六<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby><ruby><rb>窮</rb><rt>せま</rt></ruby>り<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>へがたげに、八七さむれば常にかはるともなし。八八<ruby><rb>窮鬼</rb><rt>いきすだま</rt></ruby>といふものにや、八九<ruby><rb>古郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>に捨てし人のもしやと九〇<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>むね苦し。彦六これを<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めて、いかでさる事のあらん。九一<ruby><rb>疫</rb><rt>えき</rt></ruby>といふものの悩ましきはあまた見来りぬ。九二<ruby><rb>熱</rb><rt>あつ</rt></ruby>き心少しさめたらんには、夢わすれたるやうなるべしと、やすげにいふぞたのみなる。<ruby><rb>看</rb><rt>みる</rt></ruby>々露ばかりのしるしもなく、七日にして<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しくなりぬ。<ruby><rb>天</rb><rt>そら</rt></ruby>を仰ぎ、地を<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>きて<ruby><rb>哭悲</rb><rt>なきかな</rt></ruby>しみ、九三ともにもと物狂はしきを、さまざまといひ<ruby><rb>和</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>めて、かくてはとて<ruby><rb>遂</rb><rt>つひ</rt></ruby>に九四<ruby><rb>曠野</rb><rt>あらの</rt></ruby>の<ruby><rb>烟</rb><rt>けぶり</rt></ruby>となしはてぬ。<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>をひろひ<ruby><rb>壠</rb><rt>つか</rt></ruby>を<ruby><rb>築</rb><rt>つ</rt></ruby>きて九五<ruby><rb>塔婆</rb><rt>たふば</rt></ruby>を<ruby><rb>営</rb><rt>いとな</rt></ruby>み、僧を迎へて<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>のことねんごろに<ruby><rb>弔</rb><rt>とぶら</rt></ruby>ひける。

正太郎今は<ruby><rb>俯</rb><rt>ふ</rt></ruby>して九六<ruby><rb>黄泉</rb><rt>よみぢ</rt></ruby>をしたへども九七<ruby><rb>招魂</rb><rt>せうこん</rt></ruby>の法をももとむる方なく、仰ぎて<ruby><rb>古郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>をおもへば、かへりて<ruby><rb>地下</rb><rt>ちか</rt></ruby>よりも遠きここちせられ、九八前に<ruby><rb>渡</rb><rt>わたり</rt></ruby>なく、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>をうしなひ、昼は九九しみらに打<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>して、<ruby><rb>夕</rb><rt>よひ</rt></ruby>々ごとには<ruby><rb>壠</rb><rt>つか</rt></ruby>のもとに<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>でて見れば、小草はやくも<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>りて、虫のこゑすずろに悲し。一〇〇此の秋のわびしきは我が身ひとつぞと思ひつづくるに、一〇一<ruby><rb>天雲</rb><rt>あまぐも</rt></ruby>のよそにも同じなげきありて、ならびたる<ruby><rb>新壠</rb><rt>あらづか</rt></ruby>あり。ここに詣づる女の、世にも悲しげなる<ruby><rb>形</rb><rt>さま</rt></ruby>して、花をたむけ水を<ruby><rb>灌</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぎたるを見て、あな哀れ、わかき<ruby><rb>御許</rb><rt>おもと</rt></ruby>のかく一〇二<ruby><rb>気疎</rb><rt>けうと</rt></ruby>きあら野にさまよひ給ふよといふに、女かへり見て、我が身<ruby><rb>夕</rb><rt>よひ</rt></ruby>々ごとに詣で<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>るには、一〇三殿はかならず<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に詣で給ふ。一〇四さりがたき御方に別れ給ふにてやまさん。御心のうち一〇五はかりまゐらせて悲しと<ruby><rb>潸然</rb><rt>さめざめ</rt></ruby>となく。正太郎いふ。一〇六さる事に侍り。十日ばかりさきに一〇七かなしき<ruby><rb>婦</rb><rt>つま</rt></ruby>を<ruby><rb>亡</rb><rt>うしな</rt></ruby>ひたるが、一〇八世に残りて<ruby><rb>憑</rb><rt>たの</rt></ruby>みなく侍れば、ここに詣づることをこそ一〇九心<ruby><rb>放</rb><rt>やり</rt></ruby>にものし侍るなれ。<ruby><rb>御許</rb><rt>おもと</rt></ruby>にも一一〇さこそましますなるべし。女いふ。かく詣でつかうまつるは、一一一<ruby><rb>憑</rb><rt>たの</rt></ruby>みつる君の御<ruby><rb>迹</rb><rt>あと</rt></ruby>にて、いついつの日ここに<ruby><rb>葬</rb><rt>はうむ</rt></ruby>り奉る。家に残ります一一二女君のあまりに嘆かせ給ひて、此の頃は一一三むつかしき病にそませ給ふなれば、かくかはりまゐらせて、香花をはこび侍るなりといふ。正太郎云ふ。一一四<ruby><rb>刀自</rb><rt>とじ</rt></ruby>の君の病み給ふもいとことわりなるものを。そも一一五<ruby><rb>古</rb><rt>ふる</rt></ruby>人は何人にて、家は<ruby><rb>何地</rb><rt>いづち</rt></ruby>に住ませ給ふや。女いふ。<ruby><rb>憑</rb><rt>たの</rt></ruby>みつる君は、此の国にては一一六<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆゑ</rt></ruby>ある御方なりしが、人の<ruby><rb>讒</rb><rt>さかしら</rt></ruby>にあひて<ruby><rb>領</rb><rt>しる</rt></ruby>所をも失ひ、今は此の野の<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>に<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しくて住ませ給ふ。女君は一一七国のとなりまでも聞え給ふ<ruby><rb>美人</rb><rt>かほよびと</rt></ruby>なるが、一一八此の君によりてぞ家<ruby><rb>所領</rb><rt>しよりやう</rt></ruby>をも<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くし給ひぬれとかたる。此の物がたりに一一九心のうつるとはなくて、一二〇さてしもその君のはかなくて住ませ給ふはここちかきにや。<ruby><rb>訪</rb><rt>とぶら</rt></ruby>ひまゐらせて、同じ悲しみをも一二一かたり<ruby><rb>和</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>まん。一二二<ruby><rb>倶</rb><rt>ぐ</rt></ruby>し給へといふ。家は殿の来らせ給ふ道の一二三すこし引き入りたる方なり。一二四便りなくませば<ruby><rb>時々</rb><rt>をりをり</rt></ruby><ruby><rb>訪</rb><rt>と</rt></ruby>はせ給へ。一二五待ち侘び給はんものをと<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に立ちてあゆむ。

一二六二丁あまりを来てほそき<ruby><rb>径</rb><rt>みち</rt></ruby>あり。ここよりも一丁ばかりをあゆみて、一二七をぐらき林の<ruby><rb>裏</rb><rt>うち</rt></ruby>にちひさき一二八<ruby><rb>草屋</rb><rt>かやのや</rt></ruby>あり。竹の<ruby><rb>扉</rb><rt>とぼそ</rt></ruby>のわびしきに、七日あまりの月のあかくさし入りて、一二九ほどなき庭の荒れたるさへ見ゆ。ほそき<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の光窓の紙をもりてうらさびし。ここに待たせ給へとて内に入りぬ。<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>むしたる古井のもとに立ちて見入るに、<ruby><rb>唐紙</rb><rt>からかみ</rt></ruby>すこし明けたる<ruby><rb>間</rb><rt>ひま</rt></ruby>より、一三〇<ruby><rb>火影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>吹きあふちて、一三一黒棚のきらめきたるもゆかしく覚ゆ。女<ruby><rb>出</rb><rt>（い）</rt></ruby>で来りて、御<ruby><rb>訪</rb><rt>とぶら</rt></ruby>ひのよし申しつるに、入らせ給へ、一三二物隔ててかたりまゐらせんと、<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>の方へ<ruby><rb>膝行</rb><rt>ゐざ</rt></ruby>り出で給ふ。<ruby><rb>彼所</rb><rt>かしこ</rt></ruby>に入らせ給へとて、一三三<ruby><rb>前栽</rb><rt>せんざい</rt></ruby>をめぐりて奥の方へともなひ行く。一三四二間の客殿を人の入るばかり明けて、低き屏風を立て、古き<ruby><rb>衾</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>出でて、<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>はここにありと見えたり。正太郎かなたに向ひて、一三五はかなくて病にさへそませ給ふよし。おのれも一三六いとほしき妻を<ruby><rb>亡</rb><rt>うしな</rt></ruby>ひて侍れば、おなじ悲しみをも一三七問ひかはしまゐらせんとて、一三八<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>して詣で侍りぬといふ。あるじの女、屏風すこし引きあけて、めづらしくもあひ見奉るものかな。一三九つらき<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>いの程しらせまゐらせんといふに、驚きて見れば、<ruby><rb>古郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>に残せし<ruby><rb>磯良</rb><rt>いそら</rt></ruby>なり。顔の色いと青ざめて、一四〇たゆき<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>すざましく、我を<ruby><rb>指</rb><rt>さ</rt></ruby>したる手の青くほそりたる恐ろしさに、一四一あなやと叫んでたふれ死す。



正太郎が未亡人を訪ねた図。未亡人は実は磯良の怨霊で、屏風すこし引きあけて、「めづらしくもあひ見奉るものかな。つらき報いの程しらせまゐらせん」という。正太郎は「あなや」と叫んで倒れた。（原本十三丁裏、十四丁表の挿絵）

時うつりて<ruby><rb>生出</rb><rt>いき（い）</rt></ruby>づ。<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をほそくひらき見るに、家と見しはもとありし<ruby><rb>荒野</rb><rt>あらの</rt></ruby>の一四二三<ruby><rb>昧</rb><rt>まい</rt></ruby>堂にて、黒き仏のみぞ立たせまします。一四三里遠き犬の声を力に、家に走りかへりて、彦六にしかじかのよしをかたりければ、一四四なでふ狐に<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>かれしなるべし。心の<ruby><rb>臆</rb><rt>おく</rt></ruby>れたるときはかならず一四五<ruby><rb>迷</rb><rt>まよ</rt></ruby>はし神の<ruby><rb>魘</rb><rt>おそ</rt></ruby>ふものぞ。<ruby><rb>足下</rb><rt>そこ</rt></ruby>のごとく<ruby><rb>虚弱</rb><rt>たよわ</rt></ruby>き人のかく<ruby><rb>患</rb><rt>うれひ</rt></ruby>に沈みしは、神仏に祈りて一四六心を<ruby><rb>収</rb><rt>をさ</rt></ruby>めつべし。一四七<ruby><rb>刀田</rb><rt>とだ</rt></ruby>の<ruby><rb>里</rb><rt>さと</rt></ruby>にたふとき一四八<ruby><rb>陰陽師</rb><rt>おんやうじ</rt></ruby>のいます。一四九<ruby><rb>身禊</rb><rt>みそぎ</rt></ruby>して一五〇<ruby><rb>厭符</rb><rt>えんぷ</rt></ruby>をも<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>き給へと、いざなひて陰陽師の許にゆき、はじめより<ruby><rb>詳</rb><rt>つばら</rt></ruby>にかたりて此の<ruby><rb>占</rb><rt>うら</rt></ruby>をもとむ。陰陽師<ruby><rb>占</rb><rt>うら</rt></ruby>べ<ruby><rb>考</rb><rt>かうが</rt></ruby>へていふ。<ruby><rb>災</rb><rt>わざはひ</rt></ruby>すでに一五一<ruby><rb>窮</rb><rt>せま</rt></ruby>りて<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>からず。さきに一五二女の命をうばひ、<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby><ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby><ruby><rb>尽</rb><rt>つ</rt></ruby>きず。<ruby><rb>足下</rb><rt>そこ</rt></ruby>の命も<ruby><rb>旦夕</rb><rt>あさゆふ</rt></ruby>にせまる。此の一五三鬼世をさりぬるは七日<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>なれば、一五四今日より四十二日が間、戸を<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てて一五五おもき物<ruby><rb>斎</rb><rt>いみ</rt></ruby>すべし。我が<ruby><rb>禁</rb><rt>いましめ</rt></ruby>を守らば一五六九死を出でて<ruby><rb>全</rb><rt>まつた</rt></ruby>からんか。一五七一時を<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>るともまぬがるべからずと、かたくをしへて、筆をとり、正太郎が<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>より手足におよぶまで、一五八<ruby><rb>篆籀</rb><rt>てんりう</rt></ruby>のごとき文字を書き、猶一五九<ruby><rb>朱符</rb><rt>しゆふ</rt></ruby>あまた紙にしるして<ruby><rb>与</rb><rt>あた</rt></ruby>へ、此の一六〇<ruby><rb>呪</rb><rt>じゆ</rt></ruby>を戸<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に<ruby><rb>貼</rb><rt>お</rt></ruby>して神仏を念ずべし。あやまちして身を<ruby><rb>亡</rb><rt>ほろ</rt></ruby>ぶることなかれと教ふるに、一六一恐れみかつよろこびて家にかへり、朱符を門に<ruby><rb>貼</rb><rt>お</rt></ruby>し、窓に貼して、おもき物斎にこもりける。

其の夜一六二三<ruby><rb>更</rb><rt>かう</rt></ruby>の<ruby><rb>比</rb><rt>（ころ）</rt></ruby>、おそろしきこゑして、あなにくや、ここにたふとき一六三<ruby><rb>符文</rb><rt>ふもん</rt></ruby>を設けつるよとつぶやきて、<ruby><rb>復</rb><rt>ふたた</rt></ruby>び声なし。おそろしさのあまりに長き夜を一六四かこつ。程なく夜明けぬるに一六五<ruby><rb>生</rb><rt>いき</rt></ruby>出でて、急ぎ彦六が方の壁を<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>きて<ruby><rb>夜</rb><rt>よべ</rt></ruby>の事をかたる。彦六もはじめて陰陽師が詞を一六六<ruby><rb>奇</rb><rt>き</rt></ruby>なりとして、おのれも其の夜は<ruby><rb>寝</rb><rt>（い）</rt></ruby>ねずして三更の<ruby><rb>比</rb><rt>（ころ）</rt></ruby>を待ちくれける。松ふく風物を<ruby><rb>僵</rb><rt>たふ</rt></ruby>すがごとく、雨さへふりて一六七<ruby><rb>常</rb><rt>ただ</rt></ruby>ならぬ夜のさまに、壁を隔てて声をかけあひ、既に一六八四更にいたる。一六九<ruby><rb>下屋</rb><rt>しもや</rt></ruby>の窓の紙にさと赤き光さして、あな<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>や、ここにも<ruby><rb>貼</rb><rt>お</rt></ruby>しつるよといふ声、深き夜にはいとど<ruby><rb>凄</rb><rt>すざま</rt></ruby>しく、<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>も一七〇<ruby><rb>生毛</rb><rt>うぶげ</rt></ruby>もことごとく<ruby><rb>聳立</rb><rt>そばだ</rt></ruby>ちて、しばらくは<ruby><rb>死</rb><rt>し</rt></ruby>に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>りたり。明くれば夜のさまをかたり、暮るれば明くるを慕ひて、一七一此の月日頃<ruby><rb>千歳</rb><rt>ちとせ</rt></ruby>を過ぐるよりも久し。かの鬼も夜ごとに家を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>り、或は屋の<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>に叫びて、<ruby><rb>忿</rb><rt>いか</rt></ruby>れる声一七二夜ましにすざまし。

かくして四十二日といふ其の夜にいたりぬ。今は一七三一夜にみたしぬれば、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に<ruby><rb>慎</rb><rt>つつし</rt></ruby>みて、一七四やや五更の<ruby><rb>天</rb><rt>そら</rt></ruby>もしらじらと明けわたりぬ。長き夢のさめたる如く、やがて彦六をよぶに、一七五壁によりていかにと答ふ。おもき物いみも既に<ruby><rb>満</rb><rt>み</rt></ruby>てぬ。絶えて<ruby><rb>兄長</rb><rt>このかみ</rt></ruby>の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見ず。なつかしさに、かつ此の月頃の<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>さ<ruby><rb>怕</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしさを心のかぎりいひ<ruby><rb>和</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>まん。<ruby><rb>眠</rb><rt>ねぶり</rt></ruby>さまし給へ。我も<ruby><rb>外</rb><rt>と</rt></ruby>の方に出でんといふ。彦六一七六用意なき男なれば、今は何かあらん、いざこなたへわたり給へと、戸を明くる事<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ばならず、となりの軒にあなやと叫ぶ声耳をつらぬきて、思はず一七七<ruby><rb>尻居</rb><rt>しりゐ</rt></ruby>に座す。こは一七八正太郎が身のうへにこそと、<ruby><rb>斧</rb><rt>をの</rt></ruby>引<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げて<ruby><rb>大路</rb><rt>おほぢ</rt></ruby>に出づれば、一七九明けたるといひし夜はいまだくらく、一八〇月は<ruby><rb>中天</rb><rt>なかぞら</rt></ruby>ながら影<ruby><rb>朧</rb><rt>らう</rt></ruby>々として、風<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>やかに、さて正太郎が戸は明けはなして其の人は見えず。内にや逃げ入りつらんと走り入りて見れども、一八一いづくに<ruby><rb>竄</rb><rt>かく</rt></ruby>るべき住居にもあらねば、大路にや倒れけんともとむれども、其のわたりには物もなし。いかになりつるやと、あるひは<ruby><rb>異</rb><rt>あや</rt></ruby>しみ、或は恐る恐る、一八二ともし火を<ruby><rb>挑</rb><rt>かか</rt></ruby>げてここかしこを見<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>るに、明けたる<ruby><rb>戸腋</rb><rt>とわき</rt></ruby>の壁に一八三<ruby><rb>腥</rb><rt>なま</rt></ruby>々しき<ruby><rb>血</rb><rt>ち</rt></ruby><ruby><rb>灌</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぎ流れて地につたふ。されど<ruby><rb>屍</rb><rt>しかばね</rt></ruby>も<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>も見えず。月あかりに見れば、軒の<ruby><rb>端</rb><rt>つま</rt></ruby>にものあり。ともし火を一八四<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げて照し見るに、男の髪の一八五<ruby><rb>髻</rb><rt>もとどり</rt></ruby>ばかりかかりて、外には一八六露ばかりのものもなし。浅ましくもおそろしさは、一八七筆につくすべうもあらずなん。夜も明けてちかき野山を<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>しもとむれども、つひに一八八其の跡さへなくてやみぬ。

此の事井沢が家へもいひおくりぬれば、涙ながらに香央にも告げしらせぬ。されば陰陽師が一八九<ruby><rb>占</rb><rt>うら</rt></ruby>のいちじるき、一九〇<ruby><rb>御釜</rb><rt>みかま</rt></ruby>の<ruby><rb>凶祥</rb><rt>あしきさが</rt></ruby>もはたたがはざりけるぞ、いともたふとかりけるとかたり伝へけり。

一　岡山県岡山市の吉備津神社に伝わる御釜祓いの神事。

二　嫉妬ぶかい女はとかく手におえないものだが。五雑組、巻八「人有為妬婦解嘲者……故諺有曰、到老方知妬婦功」。

三　家業を妨げ。

四　隣近所からのそしり。

五　嫉妬の害毒。

六　蛇に似た想像上の動物。ここはおろちをいう。

七　すごい雷をならして。

八　肉の塩辛。肉醤。

九　妻を教導したならば。

一〇　ちょっとした浮気。

一一　嫉妬ぶかい性質。

一二　鳥類を制して動けないようにするのは気合による。五雑組、巻八「禽之制在気、然則婦之制夫固有出於勇力之外者矣」。

一三　岡山県岡山市庭瀬。

一四　白旗城に拠った赤松氏。兵庫県上郡町にあった。

一五　一四四一年。赤松満祐が将軍足利義教を殺害した事件。

一六　赤松氏の居城白旗城。

一七　農業を生業として。「荀子」王制「春耕、夏耘、秋収、冬蔵、四者不失時、故五穀不絶而百姓有余食也」。

一八　いいつけ。命令。

一九　ああどうか。

二〇　結婚させたならば。

二一　備中の一の宮、吉備津神社の神主。

二二　十三絃の「こと」。

二三　「日本書記」応神二二年に見える吉備臣の一族、笠臣の祖。

二四　縁組をなさることは。

二五　きっと。

二六　媒酌人の自称。

二七　相手に対する尊称。

二八　いいことをきかせて下さったものです。

二九　家運長久のもとい。

三〇　身分卑しい農民。

三一　家柄がつりあわないから。翠々伝「門戸甚不敵」。

三二　うまくまとめて結婚という運びに致しましょう。

三三　いい相手があったら嫁入りさせたいものだ。

三四　心のやすまるひまもない。

三五　結納をとりかわす。

三六　吉日をえらんで。

三七　とり行なうことになった。

三八　ともに神職で、巫子はおもに女のみこ、祝部は禰宜の下の位。

三九　神前に御湯を供えて御釜祓の神事を行なう。

四〇　数多くのお供物。

四一　御嘉納にならないのであろうか。

四二　いっこう。ちっとも。

四三　夫婦の縁を結んだうえは。幽怪録「問嚢中赤縄、云、繋夫婦之足、雖仇家異域、此縄一繋終不可易」。

四四　ほまれある武門の後裔で。

四五　厳格な家風の家。

四六　婿になるべき人。

四七　とんでもないこと。

四八　母親の立場からした心持であろう。

四九　新夫婦の契りの末長からんことを祝った。淮南子「鶴千歳極其遊、亀経万歳齢」。

五〇　夫の性質をのみこんでそれに順応するように。

五一　舅姑に仕えて孝行であり、夫にかしずいて貞節であるのを感心だとして。

五二　生来のわがままで放蕩な性質。

五三　広島県福山市の港で、古来瀬戸内海の要港。庭瀬の西南六〇余キロ。

五四　遊女。

五五　身請けして。

五六　かこつけて。

五七　まったくうわのそらにききながして。

五八　ひと月以上も。

五九　真心こめた誠実なふるまい。

六〇　朝夕の仕え。奴は忠実に仕えること。

六一　説いて味方にひきいれる。手なずけて。

六二　いかりをなだめやわらげよう。

六三　袖をさす。

六四　兵庫県の加古川と明石川の間の平野で、稲美町付近が中心。歌枕。

六五　身分卑しく不幸な境遇。

六六　かわいそうに思って。

六七　港町の遊女。

六八　卑しい勤めの身。

六九　ちゃんとした身分のある人。

七〇　旅費と衣類。

七一　工面して。都合して。

七二　そなた。

七三　注文して頼む。

七四　正太郎をにくみ、磯良をあわれんで。

七五　医者にかけてその効験をねがいもとめたが。

七六　粥さえだんだんのどをとおらなくなって。

七七　兵庫県高砂市の一部。庭瀬からは東八〇余キロ。

七八　みんながみんな。

七九　一つ釜の飯をわけあって、協力して暮しの工夫をしようではないか。

八〇　風邪の気味。

八一　何ということなくわずらい出して。

八二　もののけでもついたように。

八三　正太郎をさす。

八四　介抱する。看病する。

八五　声をあげて泣くばかりで。

八六　胸がさしこんできて、たえられない様子で。

八七　熱がひき、発作がやむと。

八八　生霊・怨霊というもののたたりであろうか。

八九　磯良がもしかしたら怨霊となってたたりをしているのではなかろうか。

九〇　正太郎はひとりで胸をいためる。

九一　流行病。ここではおこりなどをさす。

九二　熱気がすこしさめたらば。

九三　自分もともに死にたいと狂気のようになっているのを。

九四　野辺に送って火葬にしてしまった。

九五　卒塔婆をたて。

九六　亡き袖のいる冥途を慕ったが。

九七　中国古代にはじまる俗信で、死者の霊魂をこの世によびもどす法。

九八　前に進もうとすれば渡し舟がなく、後に退こうとすれば道がわからなく、進退きわまって途方にくれる状態。

九九　ひねもす。終日。

一〇〇　古今集四「月みれば千々にものこそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど」。

一〇一　「よそ」の枕詞。

一〇二　人気のないさびしい荒野。

一〇三　男子に対する敬称。

一〇四　はなれがたい方。肉親。愛する方。

一〇五　御推量申しあげて。

一〇六　さようでございます。

一〇七　いとしい妻。

一〇八　私ひとり生きのこって頼りなく心細い。

一〇九　せめてもの心の慰めとしているのです。

一一〇　同じような事情がおありなのでございましょうね。

一一一　御主人様のお墓で。

一一二　奥方。死んだ人の未亡人。

一一三　重い病気におかかりになられたので。

一一四　一家の主婦。奥方。

一一五　なくなった方。

一一六　由緒ある家柄の御方。

一一七　隣国にまで評判の高い。

一一八　この奥方のことが原因で。

一一九　生来の浮気心がきざしたというわけではないが、何となくひかれて。

一二〇　「さて」を強めた語。

一二一　はなしあってお互いに心の憂さをなぐさめよう。

一二二　一緒につれていって下さい。

一二三　少し横に入った方。

一二四　奥方は頼る方を失って心細くいらっしゃいますから。

一二五　きっとお待ちかねでいらっしゃいましょうよ。

一二六　約二一八メートル。

一二七　薄暗い。

一二八　茅ぶき屋根の家。

一二九　広くもない。狭い。

一三〇　ともしびの光が風に吹きあおられて。

一三一　黒塗りの違い棚。立派な調度である。

一三二　古くは身分ある女性が男子とあう時には、几帳や簾、屏風などを隔ててあうのが礼儀であり、習慣であった。

一三三　植えこみのある前庭。

一三四　柱と柱の間を一間という。

一三五　御主人に先だたれて頼りなくなられたうえに。

一三六　愛妻。

一三七　たずねたりたずねられたりして心を慰めあおうと思って。

一三八　たって参上いたしました。

一三九　ひどい仕打ちにたいする返報がどんなものか思いしらせてあげよう。

一四〇　力なくどろんとした眼。

一四一　キャーッとか、あれえとかいう悲鳴。

一四二　ここは墓地にある慰霊堂。

一四三　遠い人里で吠える犬の声。

一四四　なあに多分狐にだまされたのだろう。

一四五　人を迷わす神がとりつくものだ。

一四六　心をしずめおちつけたがよい。

一四七　兵庫県加古川市北在家付近。刀田山鶴林寺がある。荒井からは東約四キロ。

一四八　ここは占師、加持祈祷師。

一四九　身心をきよめて。

一五〇　魔よけのお守札。

一五一　身辺近く切迫していて容易なことではない。

一五二　袖をさす。

一五三　磯良の怨霊をさす。

一五四　死後四九日の間は霊魂が彼岸へ行かずに中有をさまよっているという仏教の説。

一五五　厳重な謹慎。

一五六　九死に一生を得ることができるかもしれない。

一五七　たとえ一時たりともこの戒めを破ったならば、死を免れないであろう。

一五八　籀文と篆書で、中国古代の書体。

一五九　朱で書いたお守札。

一六〇　まじない札。

一六一　一方では恐れ、また一方ではよろこんで。

一六二　午前零時―二時。

一六三　お守札。

一六四　なげく。

一六五　蘇生した思いで。

一六六　的中したことをいかにも不思議だと思って。

一六七　何か異常なことがおこりそうな不気味な夜の気配。

一六八　午前二時―四時。

一六九　身分低い者などが住む家。ここは破屋。正太郎の家。

一七〇　身の毛もよだって。

一七一　この数十日間というものは、まるで千年をすごすよりも長く思われた。

一七二　一晩ますごとに。

一七三　今夜一夜で物忌みの期間も終るところまできたので。

一七四　しばらくするうちに。

一七五　壁に身を寄せて。

一七六　思慮分別の浅い男。軽はずみなうかつ者。

一七七　尻もちをつく。

一七八　正太郎の身の上に異変が起ったに違いない。

一七九　さっき正太郎が夜が明けたと思ったのは、怨霊にだまされたのである。

一八〇　月は中空にありながら、その光りはぼんやりとおぼろで。

一八一　どこにもかくれることのできるような広い住居でもないので。

一八二　灯火を振って明るくして。

一八三　鮮血。

一八四　高くさしあげて。

一八五　髪を頭の頂で束ねた部分。たぶさ。

一八六　なにひとつない。

一八七　とても書きつくせないほどである。

一八八　形跡さえ見つからなくて、そのままに終った。

一八九　占いがよく的中したこと。

一九〇　御釜祓の凶兆のお告げもはたしてそのまま事実となってあらわれたことは。

  


## 雨月物語　巻之四

## 一<ruby><rb>蛇性</rb><rt>じやせい</rt></ruby>の<ruby><rb>婬</rb><rt>いん</rt></ruby>

いつの<ruby><rb>時代</rb><rt>ときよ</rt></ruby>なりけん。紀の国二三輪が崎に、<ruby><rb>大宅</rb><rt>おほや</rt></ruby>の竹助といふ人在りけり。此の人三海の<ruby><rb>幸</rb><rt>さち</rt></ruby>ありて、<ruby><rb>海郎</rb><rt>あま</rt></ruby>どもあまた養ひ、四<ruby><rb>鰭</rb><rt>はた</rt></ruby>の<ruby><rb>広</rb><rt>ひろ</rt></ruby>物<ruby><rb>狭</rb><rt>さ</rt></ruby>き物を<ruby><rb>尽</rb><rt>つく</rt></ruby>してすなどり、家豊かに暮しける。<ruby><rb>男子</rb><rt>をのこご</rt></ruby>二人、<ruby><rb>女子</rb><rt>むすめ</rt></ruby>一人をもてり。五太郎は<ruby><rb>質朴</rb><rt>すなほ</rt></ruby>にてよく<ruby><rb>生産</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>を治む。六二郎の女子は大和の人の<ruby><rb>𡣞</rb><rt>つまどひ</rt></ruby>に迎へられて、<ruby><rb>彼所</rb><rt>かしこ</rt></ruby>にゆく。三郎の<ruby><rb>豊雄</rb><rt>とよを</rt></ruby>なるものあり。<ruby><rb>生長</rb><rt>ひととなり</rt></ruby><ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しく、常に七<ruby><rb>都風</rb><rt>みやび</rt></ruby>たる事をのみ好みて、八<ruby><rb>過活</rb><rt>わたらひ</rt></ruby>心なかりけり。父是を<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>ひつつ思ふは、<ruby><rb>家財</rb><rt>たから</rt></ruby>をわかちたりとも<ruby><rb>即</rb><rt>やが</rt></ruby>て九人の物となさん。さりとて一〇他の家を<ruby><rb>嗣</rb><rt>つ</rt></ruby>がしめんも、はた一一うたてき事聞くらんが一二<ruby><rb>病</rb><rt>やま</rt></ruby>しき。只一三なすままに<ruby><rb>生</rb><rt>おほ</rt></ruby>し立てて、一四<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>にもなれかし、一五法師にもなれかし、一六命の<ruby><rb>極</rb><rt>かぎり</rt></ruby>は太郎が一七<ruby><rb>羈</rb><rt>ほだし</rt></ruby>物にてあらせんとて、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>ひて一八<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>をもせざりけり。此の豊雄、一九新宮の二〇<ruby><rb>神奴</rb><rt>かんづこ</rt></ruby><ruby><rb>安倍</rb><rt>あべ</rt></ruby>の<ruby><rb>弓麿</rb><rt>ゆみまろ</rt></ruby>を師として行き通ひける。

<ruby><rb>九月</rb><rt>ながつき</rt></ruby><ruby><rb>下旬</rb><rt>すゑつかた</rt></ruby>、けふはことに二一なごりなく<ruby><rb>和</rb><rt>な</rt></ruby>ぎたる海の、<ruby><rb>暴</rb><rt>にはか</rt></ruby>に二二<ruby><rb>東南</rb><rt>たつみ</rt></ruby>の雲を<ruby><rb>生</rb><rt>おこ</rt></ruby>して、<ruby><rb>小雨</rb><rt>こさめ</rt></ruby>そぼふり来る。師が許にて二三<ruby><rb>傘</rb><rt>おほがさ</rt></ruby>かりて帰るに、二四<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>の二五<ruby><rb>神秀倉</rb><rt>かんほぐら</rt></ruby>見やらるる<ruby><rb>辺</rb><rt>ほとり</rt></ruby>より、雨もやや<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>なれば、<ruby><rb>其所</rb><rt>そこ</rt></ruby>なる<ruby><rb>海郎</rb><rt>あま</rt></ruby>が屋に立ちよる。あるじの<ruby><rb>老</rb><rt>おきな</rt></ruby>はひ出でて、こは二六<ruby><rb>大人</rb><rt>うし</rt></ruby>の<ruby><rb>弟子</rb><rt>おとご</rt></ruby>の君にてます。かく二七<ruby><rb>賤</rb><rt>あや</rt></ruby>しき所に入らせ給ふぞいと<ruby><rb>恐</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まりたる事。是敷きて奉らんとて、二八<ruby><rb>円座</rb><rt>わらふだ</rt></ruby>の<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>なげなるを二九清めてまゐらす。三〇<ruby><rb>霎時</rb><rt>しばし</rt></ruby><ruby><rb>息</rb><rt>や</rt></ruby>むるほどは何か<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>ふべき。なあわただしくせそとて<ruby><rb>休</rb><rt>やす</rt></ruby>らひぬ。<ruby><rb>外</rb><rt>と</rt></ruby>の方に<ruby><rb>麗</rb><rt>うるは</rt></ruby>しき声して、此の軒しばし恵ませ給へといひつつ入り来るを、<ruby><rb>奇</rb><rt>あや</rt></ruby>しと見るに、年は<ruby><rb>廿</rb><rt>はたち</rt></ruby>にたらぬ女の、<ruby><rb>顔容</rb><rt>かほかたち</rt></ruby>三一<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>のかかりいと<ruby><rb>艶</rb><rt>にほひ</rt></ruby>やかに、三二遠山ずりの色よき<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby><ruby><rb>着</rb><rt>き</rt></ruby>て、三三<ruby><rb>丫鬟</rb><rt>わらは</rt></ruby>の十四五ばかりの清げなるに、包みし物もたせ、三四しとどに<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れて三五わびしげなるが、豊雄を見て、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>さと打ち赤めて恥かしげなる<ruby><rb>形</rb><rt>さま</rt></ruby>の<ruby><rb>貴</rb><rt>あて</rt></ruby>やかなるに、三六<ruby><rb>不慮</rb><rt>すずろ</rt></ruby>に心<ruby><rb>動</rb><rt>うご</rt></ruby>きて、<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>思ふは、此の<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>にかうよろしき人の住むらんを今まで聞えぬ事はあらじを、<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>は都人の三七三つ山<ruby><rb>詣</rb><rt>まうで</rt></ruby>せし<ruby><rb>次</rb><rt>ついで</rt></ruby>に、海<ruby><rb>愛</rb><rt>めづら</rt></ruby>しくここに遊ぶらん。さりとて三八男だつ者もつれざるぞいと三九はしたなる<ruby><rb>事</rb><rt>わざ</rt></ruby>かなと思ひつつ、すこし身<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>きて、ここに入らせ給へ。雨もやがてぞ<ruby><rb>休</rb><rt>や</rt></ruby>みなんといふ。女、しばし<ruby><rb>宥</rb><rt>ゆる</rt></ruby>させ給へとて、四〇ほどなき住ひなれば、四一つい<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>ぶやうに居るを、見るに四二<ruby><rb>近</rb><rt>ちか</rt></ruby>まさりして、此の世の人とも思はれぬばかり美しきに、四三心も<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>にかへる思ひして、女にむかひ、四四<ruby><rb>貴</rb><rt>あて</rt></ruby>なるわたりの御方とは見奉るが、三つ山<ruby><rb>詣</rb><rt>まうで</rt></ruby>やし給ふらん。四五<ruby><rb>峯</rb><rt>みね</rt></ruby>の<ruby><rb>温泉</rb><rt>ゆ</rt></ruby>にや出で立ち給ふらん。かう四六すざましき<ruby><rb>荒礒</rb><rt>ありそ</rt></ruby>を何の見所ありて四七<ruby><rb>狩</rb><rt>か</rt></ruby>りくらし給ふ。ここなんいにしへの人の、

四八くるしくもふりくる雨か三輪が崎

佐野のわたりに家もあらなくに

とよめるは、まこと四九けふのあはれなりける。此の家<ruby><rb>賤</rb><rt>あや</rt></ruby>しけれど、おのれが親の五〇目かくる男なり。五一心ゆりて雨<ruby><rb>休</rb><rt>や</rt></ruby>め給へ。そもいづ<ruby><rb>地</rb><rt>ち</rt></ruby>旅の御<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>りとはし給ふ。御見送りせんも<ruby><rb>却</rb><rt>かへ</rt></ruby>りて<ruby><rb>無礼</rb><rt>なめげ</rt></ruby>なれば、此の<ruby><rb>傘</rb><rt>かさ</rt></ruby>もて出で給へといふ。女、いと<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しき御心を五二聞え給ふ。五三其の<ruby><rb>御</rb><rt>み</rt></ruby>思ひに<ruby><rb>乾</rb><rt>ほ</rt></ruby>してまゐりなん。都のものにてもあらず、此の近き所に<ruby><rb>年来</rb><rt>としごろ</rt></ruby>住みこし<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>るが、けふなんよき日とて五四<ruby><rb>那智</rb><rt>なち</rt></ruby>に<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>で侍るを、<ruby><rb>暴</rb><rt>にはか</rt></ruby>なる雨の恐ろしさに、やどらせ給ふともしらで、五五わりなくも立ちよりて侍る。ここより遠からねば、此の<ruby><rb>小休</rb><rt>をやみ</rt></ruby>に出で侍らんといふを、五六<ruby><rb>強</rb><rt>あながち</rt></ruby>に此の<ruby><rb>傘</rb><rt>かさ</rt></ruby>もていき給へ。五七<ruby><rb>何</rb><rt>いつ</rt></ruby>の<ruby><rb>便</rb><rt>たより</rt></ruby>にも求めなん。雨は五八更に<ruby><rb>休</rb><rt>や</rt></ruby>みたりともなきを。さて御住ひはいづ<ruby><rb>方</rb><rt>べ</rt></ruby>ぞ。是より五九使奉らんといへば、新宮の<ruby><rb>辺</rb><rt>ほとり</rt></ruby>にて<ruby><rb>県</rb><rt>あがた</rt></ruby>の<ruby><rb>真女児</rb><rt>まなご</rt></ruby>が家はと尋ね給はれ。日も暮れなん。御<ruby><rb>恵</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>のほどを六〇<ruby><rb>指戴</rb><rt>さしいただ</rt></ruby>きて帰りなんとて、傘とりて出づるを、六一見送りつも、あるじが<ruby><rb>蓑笠</rb><rt>みのかさ</rt></ruby>かりて家に帰りしかど、<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby><ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>の六二露忘れがたく、しばしまどろむ<ruby><rb>暁</rb><rt>あかつき</rt></ruby>の夢に、かの真女児が家に尋ねいきて見れば、門も家もいと大きに造りなし、六三<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>おろし六四<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby><ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れこめて、ゆかしげに住みなしたり。真女子出迎ひて、御<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>わすれがたく待ち恋ひ奉る。<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>に入らせ給へとて、奥の方にいざなひ、酒<ruby><rb>菓子</rb><rt>くだもの</rt></ruby><ruby><rb>種々</rb><rt>さまざま</rt></ruby>と<ruby><rb>管待</rb><rt>もてな</rt></ruby>しつつ、<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しき<ruby><rb>酔</rb><rt>ゑひ</rt></ruby>ごこちに、つひに枕をともにしてかたるとおもへば、夜明けて夢さめぬ。六五<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>ならましかばと思ふ心の六六いそがしきに、<ruby><rb>朝食</rb><rt>あさげ</rt></ruby>も打ち忘れて六七うかれ出でぬ。

新宮の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>に来て、<ruby><rb>県</rb><rt>あがた</rt></ruby>の<ruby><rb>真女子</rb><rt>まなご</rt></ruby>が家はと尋ぬるに、<ruby><rb>更</rb><rt>さら</rt></ruby>にしりたる人なし。

六八<ruby><rb>午時</rb><rt>ひる</rt></ruby>かたぶくまで尋ね<ruby><rb>労</rb><rt>わづら</rt></ruby>ひたるに、かの<ruby><rb>丫鬟</rb><rt>わらは</rt></ruby>東の方よりあゆみ来る。豊雄見るより大いに喜び、六九<ruby><rb>娘子</rb><rt>をとめ</rt></ruby>の家はいづくぞ。<ruby><rb>傘</rb><rt>かさ</rt></ruby>もとむとて尋ね来るといふ。丫鬟打ちゑみて、よくも来ませり。こなたに歩み給へとて、<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に立ちてゆくゆく、幾ほどもなく、ここぞと聞ゆる所を見るに、門高く<ruby><rb>造</rb><rt>つく</rt></ruby>りなし、家も大きなり。<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>おろし<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>たれこめしまで、夢の<ruby><rb>裏</rb><rt>うち</rt></ruby>に見しと露<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>はぬを、<ruby><rb>奇</rb><rt>あや</rt></ruby>しと七〇思ふ思ふ門に入る。丫鬟走り入りて、七一おほがさの<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby><ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>で給ふを<ruby><rb>誘</rb><rt>いざな</rt></ruby>ひ奉るといへば、いづ<ruby><rb>方</rb><rt>べ</rt></ruby>にますぞ、こち迎へませといひつつ立ち出づるは真女子なり。豊雄、七二ここに<ruby><rb>安倍</rb><rt>あべ</rt></ruby>の<ruby><rb>大人</rb><rt>うし</rt></ruby>とまうすは、<ruby><rb>年来</rb><rt>としごろ</rt></ruby>七三物<ruby><rb>学</rb><rt>まな</rt></ruby>ぶ師にてます。<ruby><rb>彼所</rb><rt>かしこ</rt></ruby>に詣づる便に、傘とりて帰るとて七四推して参りぬ。御住居見おきて侍れば、又こそ詣で<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>んといふを、真女子<ruby><rb>強</rb><rt>あながち</rt></ruby>にとどめて、七五まろや、七六<ruby><rb>努</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>出し奉るなといへば、丫鬟立ちふたがりて、おほがさ<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>ひて恵ませ給ふならずや。<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>がむくいに強ひてとどめまゐらすとて、腰を押して七七<ruby><rb>南面</rb><rt>みなみおもて</rt></ruby>の所に迎へける。板敷の間に七八<ruby><rb>床畳</rb><rt>とこだたみ</rt></ruby>を設けて、七九<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちやう</rt></ruby>、八〇<ruby><rb>御厨子</rb><rt>みづし</rt></ruby>の<ruby><rb>飾</rb><rt>かざり</rt></ruby>、八一<ruby><rb>壁代</rb><rt>かべしろ</rt></ruby>の絵なども、皆<ruby><rb>古代</rb><rt>こだい</rt></ruby>のよき物にて、八二<ruby><rb>倫</rb><rt>なみ</rt></ruby>の人の住居ならず。真女子立ち出でて、故ありて八三人なき家とはなりぬれば、八四<ruby><rb>実</rb><rt>まめ</rt></ruby>やかなる<ruby><rb>御饗</rb><rt>みあへ</rt></ruby>もえし奉らず。只八五<ruby><rb>薄酒</rb><rt>うすきさけ</rt></ruby><ruby><rb>一杯</rb><rt>ひとつぎ</rt></ruby>すすめ奉らんとて、八六<ruby><rb>高坏</rb><rt>たかつき</rt></ruby><ruby><rb>平坏</rb><rt>ひらつき</rt></ruby>の清らなるに、海の物山の物<ruby><rb>盛</rb><rt>も</rt></ruby>りならべて、八七<ruby><rb>瓶子</rb><rt>へいじ</rt></ruby><ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby><ruby><rb>擎</rb><rt>ささ</rt></ruby>げて、まろや酌まゐる。豊雄また夢心して、さむるやと思へど、<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>に<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>なるを<ruby><rb>却</rb><rt>かへ</rt></ruby>りて<ruby><rb>奇</rb><rt>あや</rt></ruby>しみゐたる。

<ruby><rb>客</rb><rt>まらうど</rt></ruby>も<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>もともに<ruby><rb>酔</rb><rt>ゑひ</rt></ruby>ごこちなるとき、<ruby><rb>真女子</rb><rt>まなご</rt></ruby><ruby><rb>杯</rb><rt>さかづき</rt></ruby>をあげて、豊雄にむかひ、八八<ruby><rb>花精妙</rb><rt>はなぐはし</rt></ruby>桜が枝の水に八九うつろひなす<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に、春吹く風を九〇あやなし、<ruby><rb>梢</rb><rt>こずゑ</rt></ruby>九一たちぐく<ruby><rb>鶯</rb><rt>（うぐひす）</rt></ruby>の九二<ruby><rb>艶</rb><rt>にほひ</rt></ruby>ある声していひ出づるは、九三<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>なきことのいはで<ruby><rb>病</rb><rt>や</rt></ruby>みなんも、九四いづれの神になき名<ruby><rb>負</rb><rt>おふ</rt></ruby>すらんかし。九五<ruby><rb>努</rb><rt>ゆめ</rt></ruby><ruby><rb>徒</rb><rt>あだ</rt></ruby>なる<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>にな聞き給ひそ。<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>は都の<ruby><rb>生</rb><rt>うまれ</rt></ruby>なるが、父にも母にもはやう<ruby><rb>離</rb><rt>わか</rt></ruby>れまゐらせて、<ruby><rb>乳母</rb><rt>めのと</rt></ruby>の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>に<ruby><rb>成長</rb><rt>ひととな</rt></ruby>りしを、此の国の九六<ruby><rb>受領</rb><rt>じゆりやう</rt></ruby>の<ruby><rb>下司</rb><rt>したづかさ</rt></ruby><ruby><rb>県</rb><rt>あがた</rt></ruby>の<ruby><rb>何某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>に迎へられて<ruby><rb>伴</rb><rt>ともな</rt></ruby>ひ<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>りしははやく三とせになりぬ。<ruby><rb>夫</rb><rt>つま</rt></ruby>は九七<ruby><rb>任</rb><rt>にん</rt></ruby>はてぬ此の春、かりそめの<ruby><rb>病</rb><rt>やまひ</rt></ruby>に死し給ひしかば、便なき身とはなり侍る。都の<ruby><rb>乳母</rb><rt>めのと</rt></ruby>も<ruby><rb>尼</rb><rt>あま</rt></ruby>になりて、<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくへ</rt></ruby>なき<ruby><rb>修行</rb><rt>しゆぎやう</rt></ruby>に出でしと聞けば、九八<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>も又しらぬ国とはなりぬるをあはれみ給へ。きのふの雨のやどりの御<ruby><rb>恵</rb><rt>めぐ</rt></ruby>みに、<ruby><rb>信</rb><rt>まこと</rt></ruby>ある御方にこそと九九おもふ物から、一〇〇今より後の<ruby><rb>齢</rb><rt>よはひ</rt></ruby>をもて一〇一御宮<ruby><rb>仕</rb><rt>づか</rt></ruby>へし奉らばやと願ふを、一〇二<ruby><rb>汚</rb><rt>きたな</rt></ruby>き物に捨て給はずば、此の<ruby><rb>一杯</rb><rt>ひとつぎ</rt></ruby>に一〇三千とせの契りをはじめなんといふ。豊雄、もとよりかかるをこそと一〇四<ruby><rb>乱</rb><rt>みだれ</rt></ruby>心なる思ひ妻なれば、一〇五<ruby><rb>塒</rb><rt>ねぐら</rt></ruby>の鳥の飛び立つばかりには思へど、一〇六おのが世ならぬ身を<ruby><rb>顧</rb><rt>かへりみ</rt></ruby>れば、親<ruby><rb>兄弟</rb><rt>はらから</rt></ruby>のゆるしなき事をと、かつ<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しみ、<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>恐れみて、<ruby><rb>頓</rb><rt>とみ</rt></ruby>に答ふべき詞なきを、真女児一〇七わびしがりて、女の浅き心より、一〇八<ruby><rb>鳴呼</rb><rt>をこ</rt></ruby>なる事をいひ出でて、一〇九帰るべき道なきこそ<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>なけれ。かう浅ましき身を海にも<ruby><rb>没</rb><rt>い</rt></ruby>らで、人の御心を<ruby><rb>煩</rb><rt>わづら</rt></ruby>はし奉るは<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>深きこと。今の詞は<ruby><rb>徒</rb><rt>あだ</rt></ruby>ならねども、只酔ごこちの一一〇<ruby><rb>狂言</rb><rt>まがこと</rt></ruby>におぼしとりて、ここの海にすて給へかしといふ。

豊雄、はじめより都人の<ruby><rb>貴</rb><rt>あて</rt></ruby>なる御方とは見奉るこそ一一一<ruby><rb>賢</rb><rt>かしこ</rt></ruby>かりき。一一二鯨よる浜に<ruby><rb>生立</rb><rt>おひた</rt></ruby>ちし身の、かく<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しきこと一一三いつかは聞ゆべき。一一四<ruby><rb>即</rb><rt>やが</rt></ruby>ての御<ruby><rb>答</rb><rt>こたへ</rt></ruby>もせぬは、親兄に仕ふる身の、おのが物とては<ruby><rb>爪髪</rb><rt>つめかみ</rt></ruby>の外なし。何を一一五<ruby><rb>禄</rb><rt>ろく</rt></ruby>に迎へまゐらせん便もなければ、身の一一六徳なきをくゆるばかりなり。何事をもおぼし<ruby><rb>耐</rb><rt>た</rt></ruby>へ給はば、いかにもいかにも<ruby><rb>後見</rb><rt>うしろみ</rt></ruby>し奉らん。一一七<ruby><rb>孔子</rb><rt>くし</rt></ruby>さへ倒るる恋の山には、孝をも身をも忘れてといへば、いと<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しき御心を聞きまゐらするうへは、貧しくとも<ruby><rb>時々</rb><rt>をりをり</rt></ruby>ここに一一八住ませ給へ。ここに<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>の<ruby><rb>夫</rb><rt>つま</rt></ruby>の一一九<ruby><rb>二</rb><rt>ふた</rt></ruby>つなき<ruby><rb>宝</rb><rt>たから</rt></ruby>にめで給ふ一二〇<ruby><rb>帯</rb><rt>おび</rt></ruby>あり。これ常に<ruby><rb>帯</rb><rt>は</rt></ruby>かせ給へとてあたふるを見れば、<ruby><rb>金銀</rb><rt>きがねしろがね</rt></ruby>を飾りたる<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の、一二一あやしきまで<ruby><rb>鍛</rb><rt>きた</rt></ruby>うたる古代の物なりける。一二二物のはじめに<ruby><rb>辞</rb><rt>いな</rt></ruby>みなんは一二三<ruby><rb>祥</rb><rt>さが</rt></ruby>あしければとて、とりて<ruby><rb>納</rb><rt>をさ</rt></ruby>む。<ruby><rb>今夜</rb><rt>こよひ</rt></ruby>はここに<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>させ給へとて、一二四あながちにとどむれど、まだ一二五<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆるし</rt></ruby>なき旅寝は、親の一二六<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>し給はん。<ruby><rb>明</rb><rt>あす</rt></ruby>の夜よく一二七<ruby><rb>偽</rb><rt>いつは</rt></ruby>りて<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>でなんとて出でぬ。其の夜も一二八<ruby><rb>寝</rb><rt>い</rt></ruby>ねがてに明けゆく。

太郎は一二九<ruby><rb>網子</rb><rt>あご</rt></ruby>ととのふるとて、一三〇<ruby><rb>晨</rb><rt>つとめ</rt></ruby>て起き出でて、豊雄が<ruby><rb>閨房</rb><rt>ねや</rt></ruby>の戸の<ruby><rb>間</rb><rt>ひま</rt></ruby>をふと見入れたるに、<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>え残りたる<ruby><rb>灯火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の影に、<ruby><rb>輝々</rb><rt>きらきら</rt></ruby>しき<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>を枕に置きて臥したり。あやし。一三一いづちより求めぬらんと一三二おぼつかなくて、戸をあららかに明くる音に目さめぬ。太郎があるを見て、召し給ふかといへば、<ruby><rb>輝々</rb><rt>きらきら</rt></ruby>しき物を枕に置きしは何ぞ。<ruby><rb>価</rb><rt>あたひ</rt></ruby><ruby><rb>貴</rb><rt>たか</rt></ruby>き物は<ruby><rb>海人</rb><rt>あま</rt></ruby>の家にふさはしからず。父の見給はばいかに<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>し給はんといふ。豊雄、一三三<ruby><rb>財</rb><rt>たから</rt></ruby>を<ruby><rb>費</rb><rt>つひや</rt></ruby>して買ひたるにもあらず。きのふ一三四人の<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>させしをここに置きしなり。太郎、いかでさる宝をくるる人此の<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>にあるべき。一三五あなむつかしの<ruby><rb>唐言</rb><rt>からこと</rt></ruby>書きたる物を買ひたむるさへ、一三六世の<ruby><rb>費</rb><rt>つひえ</rt></ruby>なりと思へど、父の<ruby><rb>黙</rb><rt>だま</rt></ruby>りておはすれば、今までもいはざるなり。其の太刀帯びて一三七<ruby><rb>大宮</rb><rt>おほみや</rt></ruby>の祭を<ruby><rb>邌</rb><rt>ね</rt></ruby>るやらん。一三八いかに物に狂ふぞ、といふ声の高きに、父聞きつけて、一三九<ruby><rb>徒者</rb><rt>いたづらもの</rt></ruby>が何事をか<ruby><rb>仕出</rb><rt>（しい）</rt></ruby>でつる。ここにつれ<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>よ太郎と呼ぶに、いづちにて求めぬらん、<ruby><rb>軍将等</rb><rt>いくさぎみたち</rt></ruby>の<ruby><rb>佩</rb><rt>は</rt></ruby>き給ふべき輝々しき物を買ひたるはよからぬ事、御<ruby><rb>目</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりに召して一四〇問ひあきらめ給へ。おのれは<ruby><rb>網子</rb><rt>あご</rt></ruby>どもの一四一怠るらんと云ひ捨てて出でぬ。

母、豊雄を召して、さる物一四二何の<ruby><rb>料</rb><rt>れう</rt></ruby>に買ひつるぞ。米も銭も太郎が物なり。一四三<ruby><rb>吾主</rb><rt>わぬし</rt></ruby>が物とて何をか持ちたる。<ruby><rb>日来</rb><rt>ひごろ</rt></ruby>は一四四<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>すままにおきつるを、かくて太郎に<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>まれなば、<ruby><rb>天地</rb><rt>あめつち</rt></ruby>の中に<ruby><rb>何国</rb><rt>いづく</rt></ruby>に住むらん。<ruby><rb>賢</rb><rt>かしこ</rt></ruby>き事をも学びたる者が、など是ほどの事一四五わいためぬぞといふ。豊雄、<ruby><rb>実</rb><rt>まこと</rt></ruby>に買ひたる物にあらず。一四六さる<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆゑ</rt></ruby>有りて人の<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>させしを、兄の見<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めてかくのたまふなり。父、何の一四七<ruby><rb>誉</rb><rt>ほまれ</rt></ruby>ありてさる宝をば人のくれたるぞ。一四八更におぼつかなき事。只今<ruby><rb>所縁</rb><rt>いはれ</rt></ruby>かたり出でよと<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>る。豊雄、此の事只今は一四九<ruby><rb>面俯</rb><rt>おもてぶせ</rt></ruby>なり。人<ruby><rb>伝</rb><rt>つて</rt></ruby>に申し出で侍らんといへば、親兄にいはぬ事を誰にかいふぞと声あららかなるを、太郎の嫁の一五〇<ruby><rb>刀自</rb><rt>とじ</rt></ruby><ruby><rb>傍</rb><rt>かたへ</rt></ruby>にありて、此の事一五一<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>なりとも聞き侍らん。入らせ給へと<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>むるに、一五二つい立ちていりぬ。

豊雄、<ruby><rb>刀自</rb><rt>とじ</rt></ruby>にむかひて、兄の見<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>め給はずとも、<ruby><rb>密</rb><rt>みそか</rt></ruby>に姉君を一五三かたらひてんと思ひ設けつるに、一五四<ruby><rb>速</rb><rt>はや</rt></ruby>く<ruby><rb>責</rb><rt>さいな</rt></ruby>まるる事よ。一五五かうかうの人の<ruby><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby>のはかなくてあるが、<ruby><rb>後見</rb><rt>うしろみ</rt></ruby>してよとて<ruby><rb>賜</rb><rt>たま</rt></ruby>へるなり。一五六<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が世しらぬ身の、御<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆるし</rt></ruby>さへなき事は重き一五七<ruby><rb>勘当</rb><rt>かんだう</rt></ruby>なるべければ、今さら悔ゆるばかりなるを、姉君よく憐み給へといふ。刀自打ち<ruby><rb>笑</rb><rt>ゑ</rt></ruby>みて、<ruby><rb>男子</rb><rt>をのこご</rt></ruby>のひとり<ruby><rb>寝</rb><rt>ね</rt></ruby>し給ふが、兼ねて一五八いとほしかりつるに、いとよき事ぞ。<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>なりともよく一五九いひとり侍らんとて、其の夜太郎に、かうかうの事なるは<ruby><rb>幸</rb><rt>さいはひ</rt></ruby>におぼさずや。父君の前をもよきにいひなし給へといふ。太郎<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めて、あやし、此の国の<ruby><rb>守</rb><rt>（かみ）</rt></ruby>の<ruby><rb>下司</rb><rt>したづかさ</rt></ruby>に<ruby><rb>県</rb><rt>あがた</rt></ruby>の<ruby><rb>何某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>と云ふ人を聞かず。我が家一六〇<ruby><rb>保正</rb><rt>をさ</rt></ruby>なればさる人の<ruby><rb>亡</rb><rt>なくな</rt></ruby>り給ひしを聞えぬ事あらじを。まづ太刀ここにとりて来よといふに、刀自やがて<ruby><rb>携</rb><rt>たづさ</rt></ruby>へ来るを、よくよく見をはりて、<ruby><rb>長嘘</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をつぎつつもいふは、ここに恐ろしき事あり。<ruby><rb>近来</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>都の<ruby><rb>大臣殿</rb><rt>おほいどの</rt></ruby>の一六一<ruby><rb>御願</rb><rt>ごぐわん</rt></ruby>の事みたしめ給ひて、一六二<ruby><rb>権現</rb><rt>ごんげん</rt></ruby>におほくの宝を奉り給ふ。さるに此の<ruby><rb>神宝</rb><rt>かんだから</rt></ruby>ども、一六三<ruby><rb>御宝蔵</rb><rt>みたからぐら</rt></ruby>の中にて<ruby><rb>頓</rb><rt>とみ</rt></ruby>に<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せしとて、一六四<ruby><rb>大宮司</rb><rt>だいぐじ</rt></ruby>より国の<ruby><rb>守</rb><rt>かみ</rt></ruby>に<ruby><rb>訴</rb><rt>うつた</rt></ruby>へ出で給ふ。守、此の<ruby><rb>賊</rb><rt>ぬすびと</rt></ruby>を<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>ふために、一六五助の君<ruby><rb>文室</rb><rt>ふんや</rt></ruby>の<ruby><rb>広之</rb><rt>ひろゆき</rt></ruby>、大宮司の<ruby><rb>館</rb><rt>たち</rt></ruby>に来て、今<ruby><rb>専</rb><rt>もつぱら</rt></ruby>に此の事を一六六はかり給ふよしを聞きぬ。此の太刀一六七いかさまにも<ruby><rb>下司</rb><rt>したづかさ</rt></ruby>などの<ruby><rb>帯</rb><rt>は</rt></ruby>くべき物にあらず。<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>父に見せ奉らんとて、一六八御前に持ちいきて、かうかうの恐ろしき事の一六九あなるは、いかが<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>らひ申さんといふ。父<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を青くして、こは一七〇浅ましき事の出できつるかな。<ruby><rb>日来</rb><rt>ひごろ</rt></ruby>は一七一一<ruby><rb>毛</rb><rt>まう</rt></ruby>をもぬかざるが、何の<ruby><rb>報</rb><rt>むくい</rt></ruby>にてかう良からぬ心や出できぬらん。一七二<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>よりあらはれなば此の家をも<ruby><rb>絶</rb><rt>たや</rt></ruby>されん。<ruby><rb>祖</rb><rt>みおや</rt></ruby>の為<ruby><rb>子孫</rb><rt>のち</rt></ruby>の為には、不孝の子一人惜しからじ。<ruby><rb>明</rb><rt>あす</rt></ruby>は<ruby><rb>訴</rb><rt>うつた</rt></ruby>へ出でよといふ。

太郎、夜の明くるを待ちて、大宮司の<ruby><rb>舘</rb><rt>みたち</rt></ruby>に来り、しかじかのよしを申し出でて、此の太刀を見せ奉るに、大宮司驚きて、是なん<ruby><rb>大臣殿</rb><rt>おほいどの</rt></ruby>の<ruby><rb>献</rb><rt>たてまつり</rt></ruby>物なりといふに、助聞き給ひて、<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby><ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せし物問ひあきらめん。召捕れとて、武士ら十人ばかり、太郎を<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>にたててゆく。豊雄、かかる事をもしらで<ruby><rb>書</rb><rt>ふみ</rt></ruby>見ゐたるを、武士ら押しかかりて捕ふ。こは何の罪ぞといふをも聞き入れず<ruby><rb>縛</rb><rt>から</rt></ruby>めぬ。父母、太郎夫婦も、今は一七三浅ましと嘆きまどふばかりなり。一七四<ruby><rb>公庁</rb><rt>おほやけ</rt></ruby>より召し給ふ、<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くあゆめとて、一七五中にとりこめて舘に追ひもてゆく。助、豊雄をにらまへて、<ruby><rb>你</rb><rt>なんぢ</rt></ruby><ruby><rb>神宝</rb><rt>かんだから</rt></ruby>を盗みとりしは<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>なき一七六<ruby><rb>国津罪</rb><rt>くにつつみ</rt></ruby>なり。<ruby><rb>猶</rb><rt>なほ</rt></ruby><ruby><rb>種々</rb><rt>くさぐさ</rt></ruby>の<ruby><rb>財</rb><rt>たから</rt></ruby>は一七七いづちに隠したる。明らかにまうせといふ。豊雄一七八<ruby><rb>漸</rb><rt>やや</rt></ruby>此の事を<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>り、涙を流して、おのれ一七九更に盗をなさず。かうかうの事にて、<ruby><rb>県</rb><rt>あがた</rt></ruby>の<ruby><rb>何某</rb><rt>（なにがし）</rt></ruby>の<ruby><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby>が、<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>の<ruby><rb>夫</rb><rt>つま</rt></ruby>の<ruby><rb>帯</rb><rt>お</rt></ruby>びたるなりとて得させしなり。今にもかの女召して、おのれが罪なき事を覚らせ給へ。助いよよ<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>りて、我が<ruby><rb>下司</rb><rt>したづかさ</rt></ruby>に県の<ruby><rb>姓</rb><rt>かばね</rt></ruby>を名のる者ある事なし。かく<ruby><rb>偽</rb><rt>いつは</rt></ruby>るは<ruby><rb>刑</rb><rt>つみ</rt></ruby>ますます大なり。豊雄、かく<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>はれていつまで偽るべき。一八〇あはれかの女召して問はせ給へ。助、武士らに向ひて、県の<ruby><rb>真女子</rb><rt>まなご</rt></ruby>が家はいづくなるぞ。一八一<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>を押して<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>へ来れといふ。

武士らかしこまりて、又豊雄を押したてて<ruby><rb>彼所</rb><rt>かしこ</rt></ruby>に行きて見るに、<ruby><rb>厳</rb><rt>いかめ</rt></ruby>しく造りなせし門の柱も<ruby><rb>朽</rb><rt>く</rt></ruby>ちくさり、軒の<ruby><rb>瓦</rb><rt>かはら</rt></ruby>も大かたは<ruby><rb>砕</rb><rt>くだ</rt></ruby>けおちて、一八二草しのぶ<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>ひさがり、人住むとは見えず。豊雄是を見て、只一八三あきれにあきれゐたる。武士らかけ<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>りて、一八四ちかきとなりを召しあつむ。一八五<ruby><rb>木</rb><rt>き</rt></ruby><ruby><rb>伐</rb><rt>き</rt></ruby>る<ruby><rb>老</rb><rt>をぢ</rt></ruby>、一八六<ruby><rb>米</rb><rt>（よね）</rt></ruby>かつ男ら、恐れ<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>ひて一八七<ruby><rb>跪</rb><rt>うずすま</rt></ruby>る。武士<ruby><rb>他</rb><rt>かれ</rt></ruby>らにむかひて、此の家何者が住みしぞ。県の何某が<ruby><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby>のここにあるはまことかといふに、<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かぢ</rt></ruby>の翁はひ出でて、さる人の名は一八八かけてもうけたまはらず。此の家三とせばかり<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>までは、<ruby><rb>村主</rb><rt>すぐり</rt></ruby>の何某といふ人の、一八九<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>はしくて住み<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>るが、一九〇<ruby><rb>筑紫</rb><rt>つくし</rt></ruby>に<ruby><rb>商</rb><rt>あき</rt></ruby>物<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>みてくだりし、其の船<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくへ</rt></ruby>なくなりて後は、家に残る人も<ruby><rb>散々</rb><rt>（ちりぢり）</rt></ruby>になりぬるより、絶えて人の住むことなきを、此の男のきのふここに入りて、<ruby><rb>漸</rb><rt>やや</rt></ruby>して帰りしを<ruby><rb>奇</rb><rt>あや</rt></ruby>しとて、此の一九一<ruby><rb>漆師</rb><rt>ぬし</rt></ruby>の<ruby><rb>老</rb><rt>をぢ</rt></ruby>がまうされしといふに、一九二さもあれ、よく見<ruby><rb>極</rb><rt>きは</rt></ruby>めて殿に申さんとて、門押しひらきて入る。

家は<ruby><rb>外</rb><rt>と</rt></ruby>よりも荒れまさりけり。なほ奥の方に進みゆく。<ruby><rb>前栽</rb><rt>せんざい</rt></ruby>広く造りなしたり。池は水あせて<ruby><rb>水草</rb><rt>みくさ</rt></ruby>も皆枯れ、一九三<ruby><rb>野</rb><rt>の</rt></ruby>ら<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby><ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>ひ一九四かたぶきたる中に、大きなる松の吹き倒れたるぞ物すざまし。<ruby><rb>客殿</rb><rt>きやくでん</rt></ruby>の格子戸をひらけば、<ruby><rb>腥</rb><rt>なまぐさ</rt></ruby>き風の一九五さと吹きおくりきたるに恐れまどひて、人々<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>にしりぞく。豊雄只一九六声を呑みて嘆きゐる。武士の中に<ruby><rb>巨勢</rb><rt>こせ</rt></ruby>の<ruby><rb>熊檮</rb><rt>くまがし</rt></ruby>なる者、一九七<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>ふとき男にて、人々我が<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>きて来れとて、一九八<ruby><rb>板敷</rb><rt>いたじき</rt></ruby>をあららかに踏みて進みゆく。<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>は一寸ばかり積りたり。鼠の<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>一九九ひりちらしたる中に、古き二〇〇帳を立てて、花の如くなる女ひとりぞ<ruby><rb>座</rb><rt>を</rt></ruby>る。<ruby><rb>熊檮</rb><rt>くまがし</rt></ruby>、女にむかひて、国の<ruby><rb>守</rb><rt>かみ</rt></ruby>の召しつるぞ、急ぎまゐれといへど、<ruby><rb>答</rb><rt>こたへ</rt></ruby>もせであるを、近く進みて<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>ふとせしに、<ruby><rb>忽</rb><rt>（たちま）</rt></ruby>ち地も裂くるばかりの二〇一<ruby><rb>霹靂</rb><rt>はたたがみ</rt></ruby><ruby><rb>鳴響</rb><rt>なりひび</rt></ruby>くに、<ruby><rb>許多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の人<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>ぐる<ruby><rb>間</rb><rt>ひま</rt></ruby>もなくてそこに倒る。<ruby><rb>然</rb><rt>さ</rt></ruby>て見るに、女はいづち行きけん見えずなりにけり。

此の<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の上に<ruby><rb>輝</rb><rt>きら</rt></ruby>々しき物あり。人々恐る恐るいきて見るに、二〇二<ruby><rb>狛錦</rb><rt>こまにしき</rt></ruby>、二〇三<ruby><rb>呉</rb><rt>くれ</rt></ruby>の<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>、二〇四<ruby><rb>倭文</rb><rt>しづり</rt></ruby>、二〇五<ruby><rb>縑</rb><rt>かとり</rt></ruby>、<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>、二〇六<ruby><rb>槍</rb><rt>ほこ</rt></ruby>、二〇七<ruby><rb>靭</rb><rt>ゆき</rt></ruby>、<ruby><rb>鍬</rb><rt>くは</rt></ruby>の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐひ</rt></ruby>、此の失せつる二〇八<ruby><rb>神宝</rb><rt>かんだから</rt></ruby>なりき。武士らこれをとりもたせて、怪しかりつる事どもを<ruby><rb>詳</rb><rt>つばら</rt></ruby>に訴ふ。助も大宮司も<ruby><rb>妖怪</rb><rt>もののけ</rt></ruby>のなせる事をさとりて、豊雄を<ruby><rb>責</rb><rt>さいな</rt></ruby>む事をゆるくす。されど二〇九<ruby><rb>当罪</rb><rt>おもてつみ</rt></ruby><ruby><rb>免</rb><rt>まぬが</rt></ruby>れず、<ruby><rb>守</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>舘</rb><rt>みたち</rt></ruby>にわたされて<ruby><rb>牢裏</rb><rt>らうり</rt></ruby>に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がる。<ruby><rb>大宅</rb><rt>おほや</rt></ruby>の<ruby><rb>父子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>多くの物を二一〇<ruby><rb>賄</rb><rt>まひ</rt></ruby>して罪を<ruby><rb>贖</rb><rt>か</rt></ruby>ふによりて、百日がほどに<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さるる事を得たり。かくて二一一世にたち<ruby><rb>接</rb><rt>まじは</rt></ruby>らんも<ruby><rb>面俯</rb><rt>おもてぶせ</rt></ruby>なり。姉の大和におはすを<ruby><rb>訪</rb><rt>とぶら</rt></ruby>ひて、しばし<ruby><rb>彼所</rb><rt>かしこ</rt></ruby>に住まんといふ。げにかう<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>きめ見つる後は重き病をも得るものなり。二一二ゆきて月ごろを過せとて、人を添へて出でたたす。

二郎の姉が家は、二一三<ruby><rb>石榴市</rb><rt>つばいち</rt></ruby>といふ所に、<ruby><rb>田辺</rb><rt>たなべ</rt></ruby>の<ruby><rb>金忠</rb><rt>かねただ</rt></ruby>といふ<ruby><rb>商人</rb><rt>あきびと</rt></ruby>なりける。豊雄が<ruby><rb>訪</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひ来るを<ruby><rb>喜</rb><rt>よろこ</rt></ruby>び、かつ二一四月ごろの事どもをいとほしがりて、いついつまでもここに住めとて、二一五念頃に<ruby><rb>労</rb><rt>いたは</rt></ruby>りけり。年かはりて<ruby><rb>二月</rb><rt>きさらぎ</rt></ruby>になりぬ。此の石榴市といふは、二一六<ruby><rb>泊瀬</rb><rt>はつせ</rt></ruby>の寺ちかき所なりき。二一七仏の御中には泊瀬なんあらたなる事を、<ruby><rb>唐土</rb><rt>もろこし</rt></ruby>までも聞えたるとて、都より<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>ゐなか</rt></ruby>より<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>づる人の、春はことに多かりけり。詣づる人は必ずここに宿れば、軒を並べて旅人をとどめける。

田辺が家は<ruby><rb>御明</rb><rt>みあかし</rt></ruby><ruby><rb>灯心</rb><rt>とうしん</rt></ruby>の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐひ</rt></ruby>を商ひぬれば、二一八所せく人の入りたちける中に、都の人の忍びの<ruby><rb>詣</rb><rt>まうで</rt></ruby>と見えて、いと二一九よろしき女一人、<ruby><rb>丫鬟</rb><rt>わらは</rt></ruby>一人、二二〇<ruby><rb>薫</rb><rt>たき</rt></ruby>物もとむとてここに立ちよる。此の丫鬟豊雄を見て、二二一<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が君のここにいますはといふに、驚きて見れば、かの<ruby><rb>真女子</rb><rt>まなご</rt></ruby>、まろやなり。あな恐ろしとて内に隠るる。金忠夫婦、こは何ぞといへば、かの二二二鬼ここに<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>ひ来る。あれに近寄り給ふなと二二三隠れ<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>ふを、人々、そはいづくにと立ち騒ぐ。真女子入り来りて、人々あやしみ給ひそ。<ruby><rb>吾</rb><rt>わが</rt></ruby><ruby><rb>夫</rb><rt>せ</rt></ruby>の君な恐れ給ひそ。二二四おのが心より罪に<ruby><rb>堕</rb><rt>おと</rt></ruby>し奉る事の悲しさに、御<ruby><rb>有家</rb><rt>ありか</rt></ruby>もとめて、事の<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆゑ</rt></ruby>をもかたり、二二五<ruby><rb>御心放</rb><rt>みこころやり</rt></ruby>せさせ奉らんとて、御住家尋ねまゐらせしに、かひありてあひ見奉る事の<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しさよ。あるじの君よく聞きわけて給へ。我もし<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しき物ならば、此の二二六人<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>きわたりさへあるに、二二七かうのどかなる<ruby><rb>昼</rb><rt>ひる</rt></ruby>をいかにせん。二二八<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>に<ruby><rb>縫目</rb><rt>ぬひめ</rt></ruby>あり、日にむかへば影あり。此の二二九<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しきことわりを<ruby><rb>思</rb><rt>（おぼ）</rt></ruby>しわけて、御疑ひを解かせ給へ。

豊雄<ruby><rb>漸</rb><rt>やや</rt></ruby>人ごこちして、<ruby><rb>你</rb><rt>なんぢ</rt></ruby><ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく人ならぬは、我<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>はれて、武士らとともにいきて見れば、きのふにも似ず二三〇浅ましく<ruby><rb>荒果</rb><rt>あれは</rt></ruby>てて、まことに鬼の住むべき宿に一人<ruby><rb>居</rb><rt>を</rt></ruby>るを、人々ら捕へんとすれば、<ruby><rb>忽</rb><rt>（たちま）</rt></ruby>ち二三一青天<ruby><rb>霹靂</rb><rt>はたたがみ</rt></ruby>を<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>うて、跡なく二三二かき消えぬるをまのあたり見つるに、又<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>ひ来て何をかなす。すみやかに去れといふ。<ruby><rb>真女子</rb><rt>まなご</rt></ruby>涙を流して、まことにさこそおぼさんはことわりなれど、二三三<ruby><rb>妾</rb><rt>せふ</rt></ruby>が<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>をもしばし聞かせ給へ。君<ruby><rb>公庁</rb><rt>おほやけ</rt></ruby>に召され給ふと聞きしより、かねて<ruby><rb>憐</rb><rt>あはれ</rt></ruby>をかけつる隣の<ruby><rb>翁</rb><rt>おきな</rt></ruby>をかたらひ、<ruby><rb>頓</rb><rt>とみ</rt></ruby>に二三四野らなる宿のさまをこしらへし。我を<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>んずときに<ruby><rb>鳴神</rb><rt>なるかみ</rt></ruby><ruby><rb>響</rb><rt>ひび</rt></ruby>かせしは、まろやが二三五<ruby><rb>計較</rb><rt>たばか</rt></ruby>りつるなり。其の後船もとめて<ruby><rb>難波</rb><rt>（なには）</rt></ruby>の方に<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れしかど、御<ruby><rb>消息</rb><rt>せうそこ</rt></ruby>しらまほしく、二三六ここの<ruby><rb>御</rb><rt>み</rt></ruby>仏にたのみを懸けつるに、二三七<ruby><rb>二本</rb><rt>ふたもと</rt></ruby>の杉のしるしありて、二三八<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しき瀬にながれあふことは、ひとへに二三九大<ruby><rb>悲</rb><rt>ひ</rt></ruby>の御徳かうむりたてまつりしぞかし。<ruby><rb>種々</rb><rt>くさぐさ</rt></ruby>の<ruby><rb>神宝</rb><rt>かんだから</rt></ruby>は何とて女の盗み出すべき。<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>の<ruby><rb>夫</rb><rt>つま</rt></ruby>の良からぬ心にてこそあれ。よくよくおぼしわけて、二四〇思ふ心の露ばかりをもうけさせ給へとて、さめざめと泣く。

豊雄<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>は疑ひ、或は<ruby><rb>憐</rb><rt>あはれ</rt></ruby>みて、かさねていふべき詞もなし。金忠夫婦、真女子がことわりの明らかなるに、此の二四一女しきふるまひを見て、<ruby><rb>努</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>疑ふ心もなく、豊雄のもの語りにては、世に恐ろしき事よと思ひしに、二四二さる<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>あるべき世にもあらずかし。はるばると二四三尋ねまどひ給ふ御心ねのいとほしきに、豊雄<ruby><rb>肯</rb><rt>うけが</rt></ruby>はずとも、我々とどめまゐらせんとて、一<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>なる所に迎へける。ここに一日二日を過すままに、金忠夫婦が二四四心をとりて、ひたすら嘆きたのみける。其の志の<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>きに<ruby><rb>愛</rb><rt>め</rt></ruby>でて、豊雄をすすめてつひに<ruby><rb>婚儀</rb><rt>ことぶき</rt></ruby>をとりむすぶ。豊雄も日々に心とけて、もとより<ruby><rb>容姿</rb><rt>かたち</rt></ruby>のよろしきを<ruby><rb>愛</rb><rt>め</rt></ruby>でよろこび、千とせをかけて契るには、二四五<ruby><rb>葛城</rb><rt>かつらぎ</rt></ruby>や<ruby><rb>高間</rb><rt>たかま</rt></ruby>の<ruby><rb>山</rb><rt>やま</rt></ruby>に<ruby><rb>夜</rb><rt>よひ</rt></ruby>々ごとにたつ雲も、二四六初瀬の寺の暁の鐘に雨<ruby><rb>収</rb><rt>をさ</rt></ruby>まりて、二四七只あひあふ事の遅きをなん恨みける。

<ruby><rb>三月</rb><rt>やよひ</rt></ruby>にもなりぬ。金忠、豊雄夫婦にむかひて、都わたりには似るべうもあらねど、二四八さすがに<ruby><rb>紀路</rb><rt>きぢ</rt></ruby>にはまさりぬらんかし。二四九<ruby><rb>名細</rb><rt>なぐはし</rt></ruby>の吉野は春はいとよき所なり。二五〇<ruby><rb>三船</rb><rt>みふね</rt></ruby>の山、二五一<ruby><rb>菜摘</rb><rt>なつみ</rt></ruby>川、二五二常に見るとも飽かぬを、此の頃はいかにおもしろからん。二五三いざ給へ、出で立ちなんといふ。真女児うち笑みて、二五四よき人のよしと見給ひし所は、都の人も見ぬを<ruby><rb>恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>に聞え侍るを、我が身<ruby><rb>稚</rb><rt>をさな</rt></ruby>きより、人おほき所、<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>は道の<ruby><rb>長手</rb><rt>ながて</rt></ruby>をあゆみては、必ず二五五<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>のぼりてくるしき病あれば、二五六<ruby><rb>従駕</rb><rt>みとも</rt></ruby>にえ出で立ち侍らぬぞいと<ruby><rb>憂</rb><rt>うれた</rt></ruby>けれ。二五七山<ruby><rb>土産</rb><rt>づと</rt></ruby>必ず待ちこひ奉るといふを、そはあゆみなんこそ病も苦しからめ。二五八車こそもたらね、いかにもいかにも土は踏ませまゐらせじ。<ruby><rb>留</rb><rt>とどま</rt></ruby>り給はんは、豊雄のいかばかり二五九心もとなかりつらんとて、夫婦すすめたつに、豊雄も、かう二六〇たのもしくの給ふを、二六一道に倒るるともいかでかはと聞ゆるに、二六二<ruby><rb>不慮</rb><rt>すずろ</rt></ruby>ながら出でたちぬ。人々二六三花やぎて出でぬれど、<ruby><rb>真女子</rb><rt>まなご</rt></ruby>が<ruby><rb>麗</rb><rt>あて</rt></ruby>なるには似るべうもあらずぞ見えける。

<ruby><rb>何某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>の院はかねて二六四心よく聞えかはしければ、ここに<ruby><rb>訪</rb><rt>とむら</rt></ruby>ふ。<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の僧迎へて、此の春は遅く<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>で給ふことよ。花もなかばは散り過ぎて、二六五鶯の声もやや流るめれど、<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>よき<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>に二六六しるべし侍らんとて、<ruby><rb>夕食</rb><rt>ゆふげ</rt></ruby>いと清くして食はせける。二六七明けゆく空いたう霞みたるも、二六八晴れゆくままに見わたせば、此の院は高き所にて、ここかしこ僧坊どもあらはに見おろさるる。山の鳥どもも二六九そこはかとなく<ruby><rb>囀</rb><rt>さへづ</rt></ruby>りあひて、木草の花色々に咲きまじりたる、同じ山里ながら目さむるここちせらる。<ruby><rb>初詣</rb><rt>うひまうで</rt></ruby>には滝ある方こそ見所はおほかめれとて、<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>にしるべの人<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>ひて出でたつ。谷を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>りて下りゆく。いにしへ二七〇<ruby><rb>行幸</rb><rt>いでまし</rt></ruby>の宮ありし所は、二七一<ruby><rb>石</rb><rt>（いは）</rt></ruby>はしる滝つせのむせび流るるに、ちひさき<ruby><rb>鰷</rb><rt>あゆ</rt></ruby>どもの水に<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>ふなど、目もあやにおもしろし。二七二<ruby><rb>檜破子</rb><rt>ひわりご</rt></ruby>打ち<ruby><rb>散</rb><rt>ちら</rt></ruby>して<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>ひつつあそぶ。

岩がねづたひに来る人あり。髪は二七三<ruby><rb>績麻</rb><rt>うみそ</rt></ruby>を二七四わがねたる如くなれど、手足いと<ruby><rb>健</rb><rt>すこ</rt></ruby>やかなる翁なり。此の滝の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>にあゆみ来る。人々を見てあやしげにまもりたるに、真女子もまろやも此の人を二七五<ruby><rb>背</rb><rt>そがひ</rt></ruby>に見ぬふりなるを、翁、<ruby><rb>渠</rb><rt>かれ</rt></ruby>二人をよくまもりて、あやし、此の<ruby><rb>邪神</rb><rt>あしきかみ</rt></ruby>、など人をまどはす。翁がまのあたりをかくても有るやとつぶやくを聞きて、此の二人<ruby><rb>忽</rb><rt>（たちま）</rt></ruby>ち<ruby><rb>躍</rb><rt>をど</rt></ruby>りたちて、滝に飛び入ると見しが、水は<ruby><rb>大虚</rb><rt>おほぞら</rt></ruby>に<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>きあがりて見えずなるほどに、雲<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>る<ruby><rb>墨</rb><rt>すみ</rt></ruby>をうちこぼしたる如く、雨二七六<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>を乱してふり来る。翁、人々の<ruby><rb>慌忙惑</rb><rt>あわてまど</rt></ruby>ふを二七七まつろへて人里にくだる。



吉野宮滝行楽の図。大倭神社の神官当麻の酒人をみて、蛇の化身であった真女児とまろやは、あわてて激流にとびこもうとする。（原本三丁裏、四丁表の挿絵）

二七八<ruby><rb>賤</rb><rt>あや</rt></ruby>しき軒にかがまりて、生けるここちもせぬを、翁、豊雄にむかひ、<ruby><rb>熟</rb><rt>つらつら</rt></ruby>二七九そこの<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見るに、此の二八〇<ruby><rb>隠神</rb><rt>かくれがみ</rt></ruby>のために悩まされ給ふが、吾救はずばつひに命をも失ひつべし。後よく<ruby><rb>慎</rb><rt>つつし</rt></ruby>み給へといふ。豊雄地に<ruby><rb>額着</rb><rt>ぬかづき</rt></ruby>て、此の事の始めよりかたり出でて、<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>二八一命得させ給へとて、恐れみ<ruby><rb>敬</rb><rt>うやま</rt></ruby>ひて願ふ。翁、さればこそ、此の<ruby><rb>邪神</rb><rt>あしきかみ</rt></ruby>は年<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>たる<ruby><rb>虵</rb><rt>をろち</rt></ruby>なり。かれが<ruby><rb>性</rb><rt>さが</rt></ruby>は<ruby><rb>婬</rb><rt>みだり</rt></ruby>なる物にて、二八二牛と<ruby><rb>孳</rb><rt>つる</rt></ruby>みては<ruby><rb>麟</rb><rt>りん</rt></ruby>を<ruby><rb>生</rb><rt>う</rt></ruby>み、馬とあひては<ruby><rb>竜馬</rb><rt>りようめ</rt></ruby>を生むといへり。二八三此の<ruby><rb>魅</rb><rt>まど</rt></ruby>はせつるも、はたそこの<ruby><rb>秀麗</rb><rt>かほよき</rt></ruby>に二八四<ruby><rb>姧</rb><rt>たは</rt></ruby>けたると見えたり。かくまで<ruby><rb>執</rb><rt>しふ</rt></ruby>ねきを、よく慎み給はずば、おそらくは命を失ひ給ふべしといふに、人々いよよ恐れ惑ひつつ、翁を<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>まへて、二八五<ruby><rb>遠津神</rb><rt>とほつがみ</rt></ruby>にこそと拝みあへり。翁打ち<ruby><rb>笑</rb><rt>ゑ</rt></ruby>みて、おのれは神にもあらず。二八六<ruby><rb>大倭</rb><rt>やまと</rt></ruby>の神社に仕へまつる<ruby><rb>当麻</rb><rt>たぎま</rt></ruby>の<ruby><rb>酒人</rb><rt>きびと</rt></ruby>といふ翁なり。二八七道の<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby>見たててまゐらせん。いざ給へとて出でたてば、人々<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>につきて帰り来る。

<ruby><rb>明</rb><rt>あけ</rt></ruby>の日二八八<ruby><rb>大倭</rb><rt>やまと</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>にいきて、翁が二八九<ruby><rb>恵</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>を<ruby><rb>謝</rb><rt>かへ</rt></ruby>し、<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>二九〇<ruby><rb>美濃絹</rb><rt>みのぎぬ</rt></ruby><ruby><rb>三疋</rb><rt>みむら</rt></ruby>、二九一<ruby><rb>筑紫綿</rb><rt>つくしわた</rt></ruby><ruby><rb>二屯</rb><rt>ふたつみ</rt></ruby>を<ruby><rb>遺</rb><rt>おく</rt></ruby>り来り、<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>此の<ruby><rb>妖災</rb><rt>もののけ</rt></ruby>の二九二<ruby><rb>身禊</rb><rt>みそぎ</rt></ruby>し給へとつつしみて願ふ。翁これを納めて、二九三<ruby><rb>祝部</rb><rt>はふり</rt></ruby>らにわかちあたへ、<ruby><rb>自</rb><rt>みづから</rt></ruby>は一<ruby><rb>疋</rb><rt>むら</rt></ruby>一<ruby><rb>屯</rb><rt>つみ</rt></ruby>をもとどめずして、豊雄にむかひ、二九四<ruby><rb>畜</rb><rt>かれ</rt></ruby><ruby><rb>你</rb><rt>なんぢ</rt></ruby>が<ruby><rb>秀麗</rb><rt>かほよき</rt></ruby>に<ruby><rb>姧</rb><rt>たは</rt></ruby>けて二九五你を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>ふ。你又<ruby><rb>畜</rb><rt>かれ</rt></ruby>が<ruby><rb>仮</rb><rt>かり</rt></ruby>の<ruby><rb>化</rb><rt>かたち</rt></ruby>に<ruby><rb>魅</rb><rt>まど</rt></ruby>はされて二九六<ruby><rb>丈夫</rb><rt>ますらを</rt></ruby>心なし。今より二九七<ruby><rb>雄気</rb><rt>をとこさび</rt></ruby>してよく心を<ruby><rb>静</rb><rt>しづ</rt></ruby>まりまさば、此らの<ruby><rb>邪神</rb><rt>あしきかみ</rt></ruby>を<ruby><rb>逐</rb><rt>やら</rt></ruby>はんに翁が力をもかり給はじ。ゆめゆめ心を静まりませとて、<ruby><rb>実</rb><rt>まめ</rt></ruby>やかに<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>しぬ。豊雄夢のさめたるここちに、二九八<ruby><rb>礼言</rb><rt>ゐやこと</rt></ruby>尽きずして帰り来る。金忠にむかひて、此の年月<ruby><rb>畜</rb><rt>かれ</rt></ruby>に<ruby><rb>魅</rb><rt>まど</rt></ruby>はされしは、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が心の正しからぬなりし。親兄の<ruby><rb>孝</rb><rt>つかへ</rt></ruby>をもなさで、君が家の二九九<ruby><rb>羈</rb><rt>ほだし</rt></ruby>ならんは三〇〇<ruby><rb>由縁</rb><rt>よし</rt></ruby>なし。御<ruby><rb>恵</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>いとかたじけなけれど、又も参りなんとて、紀の国に帰りける。

父母、太郎夫婦、此の恐ろしかりつる事を聞きて、いよよ豊雄が<ruby><rb>過</rb><rt>あやまち</rt></ruby>ならぬを<ruby><rb>憐</rb><rt>あはれ</rt></ruby>み、かつは<ruby><rb>妖怪</rb><rt>もののけ</rt></ruby>の<ruby><rb>執</rb><rt>しふ</rt></ruby>ねきを恐れける。かくて三〇一<ruby><rb>鰥</rb><rt>やむを</rt></ruby>にてあらするにこそ。妻むかへさせんとてはかりける。三〇二<ruby><rb>芝</rb><rt>しば</rt></ruby>の里に芝の庄司なるものあり。<ruby><rb>女子</rb><rt>むすめ</rt></ruby>一人もてりしを、三〇三<ruby><rb>大内</rb><rt>おほうち</rt></ruby>の三〇四<ruby><rb>采女</rb><rt>うねめ</rt></ruby>にまゐらせてありしが、此の度いとま申し給はり、此の豊雄を<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>がねにとて、<ruby><rb>媒氏</rb><rt>なかだち</rt></ruby>をもて<ruby><rb>大宅</rb><rt>おほや</rt></ruby>が<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へいひ<ruby><rb>納</rb><rt>い</rt></ruby>るる。よき事なりて<ruby><rb>即</rb><rt>やが</rt></ruby>て三〇五<ruby><rb>因</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>をなしける。かくて都へも<ruby><rb>迎</rb><rt>むかひ</rt></ruby>の人を<ruby><rb>登</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せしかば、此の采女<ruby><rb>富子</rb><rt>とみこ</rt></ruby>なるもの、よろこびて帰り来る。<ruby><rb>年来</rb><rt>としごろ</rt></ruby>の大宮<ruby><rb>仕</rb><rt>づか</rt></ruby>へに馴れこしかば、<ruby><rb>万</rb><rt>よろづ</rt></ruby>の<ruby><rb>行儀</rb><rt>ふるまひ</rt></ruby>よりして、<ruby><rb>姿</rb><rt>かたち</rt></ruby>なども花やぎ<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>りけり。豊雄ここに迎へられて見るに、此の富子がかたちいとよく、三〇六<ruby><rb>万</rb><rt>よろづ</rt></ruby>心に<ruby><rb>足</rb><rt>たら</rt></ruby>ひぬるに、かの<ruby><rb>蛇</rb><rt>をろち</rt></ruby>が<ruby><rb>懸想</rb><rt>けさう</rt></ruby>せしことも三〇七おろおろおもひ出づるなるべし。はじめの夜は事なければ書かず。

二日の夜、よきほどの<ruby><rb>酔</rb><rt>ゑひ</rt></ruby>ごこちにて、<ruby><rb>年来</rb><rt>としごろ</rt></ruby>の<ruby><rb>大内住</rb><rt>うちずみ</rt></ruby>に、<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>ゐなか</rt></ruby>の人は三〇八はたうるさくまさん。三〇九かの御わたりにては、何の三一〇中将<ruby><rb>宰相</rb><rt>さいしやう</rt></ruby>の君などいふに三一一添ひぶし給ふらん。今更にくくこそおぼゆれなど<ruby><rb>戯</rb><rt>たはむ</rt></ruby>るるに、富子三一二<ruby><rb>即</rb><rt>やが</rt></ruby>て<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をあげて、三一三古き<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎり</rt></ruby>を忘れ給ひて、かく三一四ことなる事なき人を三一五時めかし給ふこそ、三一六こなたよりまして<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>くあれといふは、<ruby><rb>姿</rb><rt>かたち</rt></ruby>こそかはれ、<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく真女子が声なり。聞くにあさましう、身の毛もたちて恐ろしく、只あきれまどふを、女打ちゑみて、三一七吾が君な怪しみ給ひそ。三一八海に<ruby><rb>誓</rb><rt>ちか</rt></ruby>ひ山に<ruby><rb>盟</rb><rt>ちか</rt></ruby>ひし事を<ruby><rb>速</rb><rt>はや</rt></ruby>くわすれ給ふとも、三一九さるべき<ruby><rb>縁</rb><rt>えにし</rt></ruby>のあれば又もあひ見奉るものを、三二〇<ruby><rb>他</rb><rt>あだ</rt></ruby>し人のいふことをまことしくおぼして、<ruby><rb>強</rb><rt>あながち</rt></ruby>に遠ざけ給はんには、<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>み<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>いなん。<ruby><rb>紀路</rb><rt>きぢ</rt></ruby>の山々さばかり高くとも、君が血をもて峯より谷に<ruby><rb>灌</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぎくださん。三二一あたら御身をいたづらになし果て給ひそといふに、三二二只わななきにわななかれて、今や三二三とらるべきここちに三二四死に入りける。屏風のうしろより、吾が君いかに三二五むつかり給ふ。かうめでたき御契なるはとて出づるはまろやなり。見るに又<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を飛ばし、<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>を閉ぢて<ruby><rb>伏向</rb><rt>うつぶき</rt></ruby>に<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>す。三二六<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>めつ<ruby><rb>驚</rb><rt>おど</rt></ruby>しつ、かはるがはる物うちいへど、只死に入りたるやうにて夜明けぬ。



芝の庄司の娘富子にのりうつった蛇性の真女児が、新婚二日目の夜、酔ごこちになってたわむれた豊雄の前で、その正体をあらわす図。（原本十六丁裏、十七丁表の挿絵）

かくて<ruby><rb>閨房</rb><rt>ねや</rt></ruby>を<ruby><rb>免</rb><rt>のが</rt></ruby>れ出でて、庄司にむかひ、かうかうの恐ろしき事あなり。これいかにして<ruby><rb>放</rb><rt>さ</rt></ruby>けなん。よく<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>り給へと三二七いふも、<ruby><rb>背</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にや聞くらんと、声を<ruby><rb>小</rb><rt>ささ</rt></ruby>やかにしてかたる。庄司も妻も<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を青くして嘆きまどひ、こはいかにすべき。ここに都の三二八<ruby><rb>鞍馬寺</rb><rt>くらまでら</rt></ruby>の僧の、年々<ruby><rb>熊野</rb><rt>くまの</rt></ruby>に詣づるが、きのふより此の三二九<ruby><rb>向岳</rb><rt>むかつを</rt></ruby>の三三〇<ruby><rb>蘭若</rb><rt>てら</rt></ruby>に宿りたり。いとも三三一<ruby><rb>験</rb><rt>げん</rt></ruby>なる法師にて、<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そ三三二<ruby><rb>疫病</rb><rt>えやみ</rt></ruby>、<ruby><rb>妖災</rb><rt>もののけ</rt></ruby>、<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなむし</rt></ruby>などをもよく祈るよしにて、此の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>の人は<ruby><rb>貴</rb><rt>たふと</rt></ruby>みあへり。此の法師三三三<ruby><rb>請</rb><rt>むか</rt></ruby>へてんとて、あわただしく三三四呼びつげるに、<ruby><rb>漸</rb><rt>やや</rt></ruby>して来りぬ。しかじかのよしを語れば、此の法師鼻を高くして、これらの三三五<ruby><rb>蠱物</rb><rt>まじもの</rt></ruby>らを<ruby><rb>捉</rb><rt>と</rt></ruby>らんは何の<ruby><rb>難</rb><rt>かた</rt></ruby>き事にもあらじ。必ず三三六静まりおはせとやすげにいふに、人々心落ちゐぬ。法師まづ三三七<ruby><rb>雄黄</rb><rt>ゆうわう</rt></ruby>をもとめて薬の水を調じ、<ruby><rb>小瓶</rb><rt>こがめ</rt></ruby>に<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>へて、かの<ruby><rb>閨房</rb><rt>ねや</rt></ruby>にむかふ。人々<ruby><rb>驚</rb><rt>お</rt></ruby>ぢ隠るるを、法師<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざ</rt></ruby>みわらひて、老いたるも<ruby><rb>童</rb><rt>わらは</rt></ruby>も必ずそこにおはせ、此の<ruby><rb>虵</rb><rt>をろち</rt></ruby>只今<ruby><rb>捉</rb><rt>と</rt></ruby>りて見せ奉らんとてすすみゆく。閨房の戸あくるを遅しと、かの<ruby><rb>蛇</rb><rt>をろち</rt></ruby><ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>をさし出して法師にむかふ。此の頭三三八何ばかりの物ぞ。此の戸口に<ruby><rb>充満</rb><rt>みちみち</rt></ruby>て、雪を積みたるよりも白く<ruby><rb>輝</rb><rt>きら</rt></ruby>々しく、<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>は<ruby><rb>鏡</rb><rt>かがみ</rt></ruby>の如く、<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>は<ruby><rb>枯木</rb><rt>かれき</rt></ruby>の<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>、三<ruby><rb>尺</rb><rt>たけ</rt></ruby>余りの口を開き、<ruby><rb>紅</rb><rt>くれなゐ</rt></ruby>の舌を<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>いて、只一<ruby><rb>呑</rb><rt>のみ</rt></ruby>に飲むらん<ruby><rb>勢</rb><rt>いきほひ</rt></ruby>をなす。あなやと叫びて、三三九手にすゑし<ruby><rb>小瓶</rb><rt>こがめ</rt></ruby>をもそこに打ちすてて、たつ足もなく、三四〇<ruby><rb>展転</rb><rt>こいまろ</rt></ruby>びはひ倒れて、からうじてのがれ来たり、人々にむかひ、あな恐ろし、三四一<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>ります御神にてましますものを、など法師らが祈り奉らん。此の手足なくば、三四二はた命失ひてんといふいふ三四三絶え入りぬ。人々<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>け起すれど、すべて<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>も<ruby><rb>肌</rb><rt>はだへ</rt></ruby>も黒く赤く染めなしたるが<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>に、熱き事<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>に三四四手さすらんにひとし。<ruby><rb>毒気</rb><rt>あしきいき</rt></ruby>にあたりたると見えて、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>は只三四五<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>のみはたらきて物いひたげなれど、声さへなさでぞある。水<ruby><rb>灌</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぎなどすれど、つひに死にける。これを見る人、いよよ三四六<ruby><rb>魂</rb><rt>たましひ</rt></ruby>も身に添はぬ思ひして泣き惑ふ。

豊雄すこし三四七心を収めて、かく<ruby><rb>験</rb><rt>げん</rt></ruby>なる法師だも祈り得ず、<ruby><rb>執</rb><rt>しふ</rt></ruby>ねく我を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>ふものから、三四八<ruby><rb>天地</rb><rt>あめつち</rt></ruby>のあひだにあらんかぎりは三四九探し得られなん。おのが命ひとつに人々を苦しむるは三五〇<ruby><rb>実</rb><rt>まめ</rt></ruby>ならず。今は三五一人をもかたらはじ。三五二やすくおぼせとて<ruby><rb>閨房</rb><rt>ねや</rt></ruby>にゆくを、庄司の人々、こは物に狂ひ給ふかといへど、更に聞かず顔にかしこにゆく。戸を静かに明くれば、物の<ruby><rb>騒</rb><rt>さわが</rt></ruby>しき音もなくて、此の二人ぞむかひゐたる。富子、豊雄にむかひて、君三五三何の<ruby><rb>讐</rb><rt>あた</rt></ruby>に我を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>へんとて人をかたらひ給ふ。此の後も<ruby><rb>仇</rb><rt>あた</rt></ruby>をもて報い給はば、君が御身のみにあらじ、此の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>の人々をもすべて苦しきめ見せなん。ひたすら三五四吾が<ruby><rb>貞操</rb><rt>みさを</rt></ruby>をうれしとおぼして、三五五<ruby><rb>徒</rb><rt>あだ</rt></ruby>々しき<ruby><rb>御</rb><rt>み</rt></ruby>心をなおぼしそと、いと三五六けさうじていふぞ三五七うたてかりき。豊雄いふは、世の<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>にも聞ゆることあり。三五八人かならず虎を害する心なけれども、虎<ruby><rb>反</rb><rt>かへ</rt></ruby>りて人を<ruby><rb>傷</rb><rt>やぶ</rt></ruby>る<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>ありとや。<ruby><rb>你</rb><rt>なんぢ</rt></ruby>、三五九人ならぬ心より、我を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>うて幾度かからきめを見するさへあるに、三六〇かりそめ<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>をだにも此の恐ろしき<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>いをなんいふは、いと三六一むくつけなり。されど吾を慕ふ心ははた世人にもかはらざれば、三六二ここにありて人々の嘆き給はんがいたはし。此の富子が命ひとつたすけよかし。三六三<ruby><rb>然</rb><rt>さ</rt></ruby>て我をいづくにも連れゆけといへば、いと<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しげに<ruby><rb>点頭</rb><rt>うなづ</rt></ruby>きをる。

又立ち出でて庄司にむかひ、かう三六四浅ましきものの添ひてあれば、ここにありて人々を苦しめ奉らんはいと三六五心なきことなり。只今<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>給はらば、三六六<ruby><rb>娘子</rb><rt>をとめ</rt></ruby>の命も<ruby><rb>恙</rb><rt>つつが</rt></ruby>なくおはすべしといふを、庄司<ruby><rb>更</rb><rt>さら</rt></ruby>に<ruby><rb>肯</rb><rt>う</rt></ruby>けず、我三六七弓の<ruby><rb>本末</rb><rt>もとすゑ</rt></ruby>をもしりながら、かく三六八いひがひなからんは、<ruby><rb>大宅</rb><rt>おほや</rt></ruby>の人々のおぼす心もはづかし。<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby><ruby><rb>計較</rb><rt>はか</rt></ruby>りなん。三六九小松原の三七〇道成寺に、三七一<ruby><rb>法海和尚</rb><rt>ほふかいをしやう</rt></ruby>とて貴き<ruby><rb>祈</rb><rt>いのり</rt></ruby>の師おはす。今は三七二老いて<ruby><rb>室</rb><rt>むろ</rt></ruby>の<ruby><rb>外</rb><rt>と</rt></ruby>にも出でずと聞けど、我が為には三七三いかにもいかにも捨て給はじとて、馬にていそぎ出でたちぬ。道<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>なれば夜なかばかりに<ruby><rb>蘭若</rb><rt>てら</rt></ruby>に到る。老和尚三七四<ruby><rb>眼蔵</rb><rt>めんざう</rt></ruby>をゐざり出でて、此の物がたりを聞きて、そは浅ましくおぼすべし。今は<ruby><rb>老朽</rb><rt>おいく</rt></ruby>ちて三七五<ruby><rb>験</rb><rt>げん</rt></ruby>あるべくもおぼえ<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>らねど、君が家の<ruby><rb>災</rb><rt>わざはひ</rt></ruby>を<ruby><rb>黙</rb><rt>もだ</rt></ruby>してやあらん。三七六まづおはせ。法師も<ruby><rb>即</rb><rt>やが</rt></ruby>て<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>でなんとて、三七七<ruby><rb>芥子</rb><rt>けし</rt></ruby>の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>にしみたる<ruby><rb>袈裟</rb><rt>けさ</rt></ruby>とり出でて、庄司にあたへ、<ruby><rb>畜</rb><rt>かれ</rt></ruby>を三七八やすくすかしよせて、これをもて<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>に打ち<ruby><rb>帔</rb><rt>かづ</rt></ruby>け、力を出して押しふせ給へ。<ruby><rb>手弱</rb><rt>たよわ</rt></ruby>くあらばおそらくは逃げさらん。よく三七九念じて、よくなし給へと<ruby><rb>実</rb><rt>まめ</rt></ruby>やかに教ふ。庄司三八〇よろこぼひつつ馬を飛ばしてかへりぬ。

豊雄を<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに招きて、此の事よくしてよとて袈裟をあたふ。豊雄これを<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に隠して<ruby><rb>閨房</rb><rt>ねや</rt></ruby>にいき、庄司今はいとま三八一たびぬ、三八二いざたまへ、出で立ちなんといふ。いと<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しげにてあるを、此の袈裟とり出でてはやく打ち<ruby><rb>帔</rb><rt>かづ</rt></ruby>け、三八三力をきはめて押しふせぬれば、あな苦し、<ruby><rb>你</rb><rt>（なんぢ）</rt></ruby>何とてかく三八四情なきぞ。しばしここ<ruby><rb>放</rb><rt>ゆる</rt></ruby>せよかしといへど、<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>力にまかせて押しふせぬ。法海和尚の<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>やがて入り来る。庄司の人々に<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けられて三八五ここにいたり給ひ、口のうち三八六つぶつぶと念じ給ひつつ、豊雄を<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>けて、かの袈裟とりて見給へば、富子は三八七<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>なく<ruby><rb>伏</rb><rt>ふ</rt></ruby>したる上に、白き<ruby><rb>蛇</rb><rt>をろち</rt></ruby>の三<ruby><rb>尺</rb><rt>たけ</rt></ruby>あまりなる<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>りて動きだもせずてぞある。老和尚これを<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>へて、<ruby><rb>徒弟</rb><rt>とてい</rt></ruby>が<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げたる三八八<ruby><rb>鉄鉢</rb><rt>てつばち</rt></ruby>に<ruby><rb>納</rb><rt>い</rt></ruby>れ給ふ。<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>三八九念じ給へば、屏風の<ruby><rb>背</rb><rt>うしろ</rt></ruby>より、三九〇<ruby><rb>尺</rb><rt>たけ</rt></ruby>ばかりの<ruby><rb>小蛇</rb><rt>こへび</rt></ruby>はひ出づるを、三九一是をも<ruby><rb>捉</rb><rt>と</rt></ruby>りて鉢に<ruby><rb>納</rb><rt>い</rt></ruby>れ給ひ、かの袈裟をもてよく<ruby><rb>封</rb><rt>ふう</rt></ruby>じ給ひ、そがままに輿に乗らせ給へば、人々<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>をあはせ涙を流して<ruby><rb>敬</rb><rt>うやま</rt></ruby>ひ奉る。

<ruby><rb>蘭若</rb><rt>てら</rt></ruby>に帰り給ひて、三九二堂の前を深く<ruby><rb>掘</rb><rt>ほ</rt></ruby>らせて、鉢のままに<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>めさせ、三九三<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごふ</rt></ruby>があひだ世に出ることを<ruby><rb>戒</rb><rt>いまし</rt></ruby>め給ふ。今猶三九四<ruby><rb>蛇</rb><rt>をろち</rt></ruby>が<ruby><rb>塚</rb><rt>つか</rt></ruby>ありとかや。庄司が<ruby><rb>女子</rb><rt>むすめ</rt></ruby>はつひに病にそみてむなしくなりぬ。豊雄は命<ruby><rb>恙</rb><rt>つつが</rt></ruby>なしとなんかたりつたへける。

一　蛇の化身が一青年につきまとう愛欲の執念を主題としたところからこの題がでた。

二　和歌山県新宮市三輪崎。海辺で、歌枕。

三　漁場で大いに儲けて。

四　大魚も小魚もすべて漁獲して。古事記・祝詞などに見える語。

五　太郎は名前とも長男の意ともとれるが、ここは太郎という名の長男ととっていい。

六　二番目の子。

七　風流なこと。

八　実直に生業を営む気持。

九　他人にとられてしまうだろう。

一〇　養子にやって他家をつがせるのも。

一一　いやなこと。

一二　心苦しい。

一三　したいことをさせながら。

一四　ここは、学者。

一五　ここは、僧侶。

一六　豊雄の一生は。

一七　厄介者。

一八　しつけ。

一九　新宮市にある熊野権現速玉神社。熊野三山（本宮・新宮・那智）の一。

二〇　ここは、神官。

二一　余波。

二二　この地方は東南から天気がくずれる。雷峯怪蹟「霧鎖東南、早落下微々的細雨来了」。

二三　雨傘。

二四　新宮市にある阿須賀神社。

二五　宝物殿であるが、ここは本殿とみてよい。

二六　旦那様の所の末の御子息。

二七　むさくるしいあばら家。

二八　円く渦に編んだ敷物。

二九　塵をはらって。

三〇　ほんのしばらく雨宿りする間だから何でもかまわない。

三一　髪の形が大層あでやかで。

三二　遠山の様を色うつくしく摺り出して模様とした着物。

三三　年若い侍女。中国白話小説の用字。

三四　ぐっしょりと濡れて。

三五　いかにも困った様子。

三六　思わずも。

三七　本宮・新宮・那智の熊野三山へ参詣すること。

三八　下僕らしい者。

三九　中途半端な。不用意な。

四〇　せまい住居。

四一　そろって並ぶ。

四二　近くでみると一層うつくしく見えること。

四三　心がぽーっとして。

四四　高貴の家の御方。

四五　和歌山県田辺市の西、四村にある湯の峰温泉。

四六　殺風景な。

四七　見物して一日をくらす。

四八　佐野は三輪崎の西南。万葉集三、長忌寸奥麻呂の歌。秋成は「金砂」でこの歌に注している。

四九　今日のこの風情とおなじである。

五〇　世話をしている男。

五一　心おきなく。くつろいで。

五二　おっしゃって下さる。

五三　御親切なあたたかい御情で濡れた着物をほしてまいりましょう。思ひの「ひ」を「火」にかけ、乾すは縁語。

五四　和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある那智権現と青岸渡寺。熊野三山の一。

五五　見境もなく。分別もなく。

五六　しいて。無理に。

五七　何かのついでにいただきにまいりましょう。

五八　雨はいっこうに小やみになったとも思えないのに。

五九　使を出しましょう。

六〇　さし戴くに、傘の縁語「さす」をかけた。

六一　見送って。

六二　どうしても忘れられず。

六三　日光をよけ風雨を防ぐための横戸。ふつう上下二つになっていて、上はあげさげができ、下はとりはずせる。寝殿造りなどの高貴な邸宅に多い。

六四　簾をふかくおろして。簾は蔀の内側にかける。

六五　この夢が現実であったならば、どんなにうれしかろう。

六六　そわそわとしておちつかないので。

六七　心もそぞろにうきたって家を出た。

六八　昼すぎまで。

六九　お嬢さま。

七〇　思いながら。

七一　雨傘を貸して下さった方がいらしたのを御案内してまいりました。

七二　新宮に、の意にとっておく。

七三　学問の先生。

七四　ぶしつけながら、こちらから推参しました。

七五　丫鬟の名。

七六　けっして。必ず。

七七　表座敷。

七八　客があると板敷に敷く畳。

七九　台に柱を二本たて横木を渡してそこに帳をかけた家具。隔てのために座側にたてた。

八〇　調度品などをおさめる両びらきの置戸棚。

八一　壁のかわりに長押からおろし、また母屋の廂の間をさえぎった絹。御簾と併用した。

八二　身分のない人。

八三　主人のいない家とも、人手のない家とも解せる。

八四　行き届いたおもてなし。

八五　粗酒。謙辞。

八六　食物を盛る器。足のあるのが高坏、足のないのが平坏。

八七　酒器と素焼きの杯。

八八　「桜」の枕詞。

八九　映る。

九〇　巧みにあしらう。

九一　立ちくぐる。とびまわる。

九二　鶯の如く美しく妙なる声。

九三　恥かしいことだと打ちあけずに心悩み、焦れ死にでもしてしまったら。

九四　神のたたりだと、何もしらない神にまで無実の罪をきせることになるであろう。伊勢物語、八九「人知れずわれ恋ひ死なばあぢきなくいづれの神になき名おふせむ」。

九五　けっして浮気心でいうあだごととお聞き下さいますな。

九六　国守の下役人。

九七　四年の任期がまだ終らないこの春に。

九八　生まれ故郷の都も。

九九　思いますので。

一〇〇　今後の生涯をもって。

一〇一　妻としてあなたのそばにお仕えしたい。

一〇二　けがらわしい女だと。

一〇三　末長い夫婦の契り。

一〇四　心乱れるまでに思い慕っていた女であるから。

一〇五　「飛び立つ」の序詞。

一〇六　親がかりの身。

一〇七　つらく思って。

一〇八　おろかなこと。

一〇九　ひっこみのつかないのが恥かしい。

一一〇　冗談。たわむれごと。

一一一　自分の推測が当っていた。

一一二　熊野灘は鯨の寄る浜として名高い。

一一三　いつ聞く事ができようか。

一一四　即答。

一一五　結納。結婚費用。

一一六　財産。

一一七　孔子のような聖人でさえよろめく恋のためには。

一一八　お通い下さい。夫が妻の許に通う古代の結婚形態。

一一九　この上ない宝として。

一二〇　帯びるもの、太刀。

一二一　ものすごいまでに。

一二二　めでたいことのはじめに。

一二三　縁起がわるい。

一二四　しきりに。

一二五　親の許可をえていない外泊。

一二六　叱るでしょう。

一二七　口実をもうけてまいりましょう。

一二八　目がさえて安眠できずに。

一二九　網をひく漁師を召集してそれぞれの部署に配置するために。

一三〇　早朝。

一三一　どこから手に入れてきたのであろう。

一三二　不審に思って。

一三三　金をはらって。

一三四　人がくれたのを。

一三五　こむずかしい漢字の書籍を買い集めるのさえ。

一三六　ひどい無駄づかい

一三七　新宮速玉神社の祭礼の行列に加わってねり歩くつもりだろう。邌るは、ようすをつくって歩く。

一三八　何という狂気じみたことをするのか。

一三九　厄介者。豊雄をさす。

一四〇　問いただして下さい。

一四一　なまけるとこまるから、浜の方へ行ってくる。

一四二　何にしようと思って。

一四三　おまえ。対称代名詞。

一四四　するままにさせておいたが。

一四五　わきまえないのか。

一四六　しかるべき理由。

一四七　手柄。功績。

一四八　さっぱり腑におちないことだ。

一四九　恥かしいこと。面目ないこと。

一五〇　主婦。

一五一　私はふつつか者ですが。

一五二　一緒にたって。

一五三　相談して力になってもらおうと。

一五四　はやくも見つかって叱られてしまったことだ。

一五五　これこれこうした素姓の人の妻で、夫を失って頼りのない人が。

一五六　まだ独立せずに、部屋ずみの分際で。

一五七　勘当という重い処罰。勘当は父から絶縁放逐されること。

一五八　気の毒。あわれ。

一五九　うまくはなして承諾を得るようにしてみましょう。

一六〇　ここは村長、庄屋。

一六一　御祈願が成就なさってそのお礼として。

一六二　新宮（熊野権現）。

一六三　新宮はふるくは宝蔵なく、宝物は本殿に納めてあり、享保前後に宝蔵ができた。

一六四　「ダイグジ」と訓ませている。大社の神官の長。

一六五　国司の次官。

一六六　詮議する。

一六七　どうみても。

一六八　父の前に。

一六九　あるのは。

一七〇　とんでもないこと。たいへんなこと。

一七一　他人のものはたとえ毛一本なりともとらないのに。白娘子永鎮雷峰塔・孟子等にこの語がある。

一七二　自首しないで、他人の口から露顕したら。

一七三　情けないことだ。

一七四　国司の庁。役所。

一七五　真中にとりかこんで。

一七六　もとの意は、天津罪に対して、国土で行なわれた罪。ここでは国の掟をやぶった罪。祝詞に見える語。

一七七　どこに。

一七八　ようやく捕縛された理由がわかり。

一七九　けっして。

一八〇　どうか。なにとぞ。

一八一　この男（豊雄）を先におしたてていって。

一八二　忍草の一種。軒しのぶ。

一八三　まったく茫然自失とした状態。

一八四　近所の者たちをよびあつめた。

一八五　きこりの老人。

一八六　米搗（つ）き男。

一八七　うずくまる。古語。

一八八　ちっとも。ついぞ。

一八九　家豊かに人も大勢使って。

一九〇　ここは、九州。

一九一　漆細工をする職人。

一九二　ともかくも。

一九三　雑草が生え放題に生え茂っている藪。

一九四　高く茂っているので先が傾いている状態。

一九五　さっと。

一九六　驚愕のために声も出ずに。

一九七　度胸のすわった男。

一九八　板張りのゆか。

一九九　体外へ排出する意。

二〇〇　トバリとよめば垂れ絹、チョウとよめば几帳。どちらにもとれるが、几帳ととった方がよい。

二〇一　急にはげしくなる雷。

二〇二　高麗国より渡来した錦で、高価な舶来品。

二〇三　中国から渡来した綾織物で、高価な舶来品。

二〇四　穀や麻などで織った布で、青や赤の糸を用いて乱文を織りだし、帯などに用いた。

二〇五　固織。目のつんだ絹織物。

二〇六　突きさすのに用いる武器。

二〇七　矢を入れて背中に負う具。やなぐい、えびらの類で、木製・銅製がある。

二〇八　新宮から紛失した宝物。

二〇九　当面の罪。理由のいかんにかかわらず盗品をもっていたという罪。

二一〇　金品を贈って刑罰を軽くしてもらうこと。

二一一　世間と交際することも。故郷の人に顔むけすることも。豊雄のことば。

二一二　むこうへいって、何か月か暮してこい。

二一三　奈良県桜井市金屋から東方にあり、初瀬観音への参道で、門前市。椿市、海柘榴市とも書く。

二一四　この数か月来の災難に同情して。

二一五　親切に。手厚く。

二一六　奈良県桜井市初瀬にある、新義真言宗豊山派総本山、豊山神楽院長谷寺。名刹として平安朝以来、皇室・貴族の信仰がさかんであった。

二一七　諸仏の中では初瀬の観音こそとりわけ霊験あらたかであるということは、遠く中国にまでその評判が伝わっている。源氏物語、玉鬘「仏の御中には、はつせなん、日の本のうちには、あらたなるしるしあらはし給ふと、もろこしにだにきこえあんなる」。

二一八　店内も狭いほど客がたてこんでいる中に。

二一九　上品でうつくしい女。

二二〇　数種の香をねりあわせてつくった煉香。

二二一　旦那様。

二二二　妖怪、魔性をいう。

二二三　うろたえながらしきりに隠れようとするのを。

二二四　私のいたらない心から夫を罪におとしいれたこと。

二二五　御安心させようと思って。

二二六　人出の多いところ。

二二七　そのうえこんなのどかな昼日中に、どうしてあらわれることができようか。

二二八　妖怪変化が人間に化けたものは、その着物に縫目なく、太陽に照らされて影がないといわれる。白娘子永鎮雷峰塔に「我怎的是鬼怪、衣裳有縫、対日有影」とある。

二二九　正しい道理をよく御判断になって。

二三〇　あきれるばかり。

二三一　青空の上天気に急にはげしく雷がなって。

二三二　主語は真女児。

二三三　私。女子の自称。

二三四　荒れ果てた野原のような家の様子。

二三五　はかりだましたこと。計略。

二三六　初瀬の観世音。

二三七　初瀬古川の川辺に向いあっている二本杉のように、祈りのかいあって二人は再会できた。古今集一九「初瀬川ふる川の辺に二本ある杉、年をへてまたもあひ見むふた本ある杉」。源氏物語、玉鬘・手習などにも記されている。

二三八　うれしくもまためぐりあうことができたのは。瀬は、機会、折。「瀬」「ながれあふ」は、川の縁語。源氏物語、玉鬘に見えている。

二三九　観世音菩薩の広大無辺なおめぐみ。

二四〇　あなたを慕う私の気持のほんのすこしでもおくみとり下さい。

二四一　女らしい可憐な。

二四二　妖怪変化などが人間に化けてあらわれるはずのないいまの時世。

二四三　あちこちと苦労してたずねる。

二四四　気にいるようにその機嫌をとって。

二四五　葛城の高間山に夜ごと立つ雲は、雨をふらせるが。奈良県と大阪府・和歌山県との境にある葛城山脈の主峰。葛城山・金剛山。夜と暁、雲と雨は対。雲雨で男女の契りをあらわす。新拾遺集、「葛城や高間の山にゐる雲のよそにもしるき夕立の空」。

二四六　初瀬寺の暁鐘とともに夜来の雨もやむ。文選、高唐賦「旦為朝雲、暮為行雨、朝々暮々、陽台之下」、唐詩選、劉廷芝の公子行「為雲為雨楚襄王」。

二四七　いまでは再会の日の遅かったことを恨んだ。白娘子永鎮雷峰塔「只恨相見之晩」。

二四八　なんといっても紀州路とくらべると景色がすぐれているであろう。

二四九　名も美しい。吉野の枕詞。

二五〇　奈良県吉野郡吉野町にある船形の山。歌枕。

二五一　吉野川の上流。歌枕。

二五二　万葉集九、「山高み白木綿花に落ち激つ夏身の川門見れど飽かぬかも」。秋成「名くはし吉野の国は……いきかひて見れども飽かずあそびせし」（岩橋の記）。

二五三　さあまいりましょう。

二五四　高貴の方がいいとおっしゃった。万葉集一、天武天皇「よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よくみよよき人よく見つ」。

二五五　のぼせて。

二五六　おともをして。

二五七　山のおみやげ。

二五八　牛車こそもっていないが。

二五九　気がかりに思う事だろう。

二六〇　親切に。

二六一　途中で倒れてもどうして行かないですまされようか。

二六二　不本意ながら。

二六三　花やかに装って。

二六四　親しく交際していた。

二六五　晩春の流鶯。枝から枝へうつって乱れ啼く。

二六六　ご案内しましょう。

二六七　源氏、若紫「明け行く空はいといとう霞みて」。

二六八　源氏、若紫「少し立ち出でつつ見渡し給へば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる」。

二六九　どこということなく。

二七〇　吉野離宮。吉野郡吉野町宮滝にあった。

二七一　「滝」の枕詞。

二七二　檜板で作った弁当箱。

二七三　長くつないでよった麻糸。

二七四　丸くたばねた。

二七五　背を向けて。

二七六　雨足のはげしい形容。

二七七　おししずめて。

二七八　みすぼらしい家の軒下に身をかがめて。

二七九　そなた。対称代名詞。

二八〇　ここは、正体をくらまして人をたぶらかす邪神、妖神。

二八一　命をお助け下さい。

二八二　牛と交尾しては麟を生み、馬と交わっては竜馬を生む。「五雑組」巻九「与牛交則生麟、……与馬交則生竜馬」。

二八三　この妖神がそなたに憑いてまどわせたのも。

二八四　みだらな、不義なまじわりをする。

二八五　ここは、凡人をはるかに超えた尊い神。

二八六　天理市新泉にある大和（オオヤマト）神社。

二八七　道中見送ってあげよう。

二八八　大和神社の付近。

二八九　恩をうけた礼をいい。

二九〇　岐阜県から産出した上等の絹。疋は、布帛・巻物を数える単位。二反を一疋とする。

二九一　九州産の真綿。古くより有名。屯は綿の量目の単位。二斤を一屯とする。

二九二　ここは、お祓い。

二九三　ここは、配下の神官たち。

二九四　真女児をさす。

二九五　そなたにまつわりつく。

二九六　男らしいしっかりした心。

二九七　雄雄しい勇気をふるいおこして。

二九八　お礼の言葉もいいつくせないほど感謝して。

二九九　厄介者。

三〇〇　理由のないことである。

三〇一　妻のない独身男。

三〇二　和歌山県田辺市栗栖川。旧熊野路、中辺路にある。道成寺説話の清姫の生誕地真砂の荘のそば。

三〇三　内裏、宮中。

三〇四　地方官の子女で天皇の陪膳に奉仕する女官。

三〇五　婚約を結んだ。

三〇六　万事に満足したにつけても。

三〇七　少しばかり。おぼろげに。

三〇八　きっと。やっぱり。

三〇九　かの御所などでは。

三一〇　近衛府の次官と参議。共に青年貴族が多く任じられた。

三一一　男女が契る。同衾。

三一二　すぐに。

三一三　すでに富子が真女児になっている。前からのふかい仲を忘れて。

三一四　特別に取柄もない女。富子をさす。

三一五　寵愛なさる。源氏、夕顔「かくことなる事なき人を率ておはして時めかし給ふこそ、いとめざましくつらけれ」。

三一六　あなたの方こそ憎らしく思われる。

三一七　あなた、そんなびっくりなさいますな。

三一八　海よりふかく山より高く、永くかわるまいとかたく誓った二人の契り。翠々伝「誓海盟山心已許」。

三一九　前世からこうなると定まった因縁。

三二〇　あかの他人のいうことをまにうけて。

三二一　むだに大切な御命をすてておしまいなさいますな。

三二二　ただふるえおののくばかりで。

三二三　とりころされてしまいそうな心持がして。

三二四　気を失った。

三二五　腹立ってじれるさま。

三二六　なだめたりおどしたり。

三二七　いいながらも。

三二八　京都市左京区鞍馬山にある名刹鞍馬寺。修験者の登山修行がさかんであった。

三二九　向いの山。万葉集によく見る語。

三三〇　寺院。梵語。

三三一　効験あらたかな。

三三二　流行病、妖怪、稲につく害虫。

三三三　お迎えしよう。

三三四　よびにやったところ。

三三五　ここは、人にとり憑いた妖怪、蛇性をいう。

三三六　安心しておいでなさい。

三三七　砒素の硫化物で、橙黄色の塊状または粒状をなし、石黄、鶏冠石ともよばれ、悪鬼毒虫などの邪毒をはらい殺すと信じられていた。白娘子永鎮雷峰塔「那先生装了一瓶雄黄薬水」。

三三八　どのくらいあるだろうか、とにかくすごいものである。

三三九　手にのせた。

三四〇　ころげまわり這い倒れて。

三四一　たんなる憑物やもののけではなく、祟りをなさる御神でいらっしゃる。

三四二　きっと。

三四三　気絶した。

三四四　手をかざす。

三四五　目を動かすだけで。

三四六　生きた心地もなく。

三四七　心をしずめて。

三四八　私がこの世に生きているかぎりは。

三四九　探し出されてつかまるであろう。

三五〇　誠実なことではない。

三五一　他人の力を頼むまい。

三五二　御安心下さい。

三五三　何のうらみで。

三五四　私があなたにつくす貞節をうれしいとおもって。

三五五　うわついた浮気心。

三五六　なまめかしい様子をつくって。しなをつくって。

三五七　いやらしかった。

三五八　白娘子永鎮雷峰塔「人無害虎心、虎有傷人意」。

三五九　人間とちがった魔性の執念ぶかい心から。

三六〇　ほんのちょっとしたたわむれごとをさえ。

三六一　恐ろしい気がする。

三六二　私がこの家にいて。

三六三　そのうえで。

三六四　情ない魔性のもの。

三六五　不本意。無思慮。

三六六　富子をさす。

三六七　武道の心得もある武士の身でありながら。

三六八　不甲斐ない。いくじない。

三六九　和歌山県御坊市湯川町小松原。厳密な意味では、道成寺は小松原にあるわけではないが、古来小松原の道成寺といわれてきた。

三七〇　和歌山県日高郡日高川町鐘巻にある名刹で、安珍清姫説話で名高く、熊野詣での順路にあたっていた。

三七一　白娘子永鎮雷峰塔も雷峯怪蹟も「金山寺法海禅師」としているが、それに拠ったのであろう。

三七二　年老いて僧坊の外にも出ない。源氏、若紫「老いかがまりて、室の外にもまかでずと」。

三七三　どんなにしてでもお見捨てなさいますまい。

三七四　仏家の寝室。

三七五　法力の効験。

三七六　先にお帰りなさい。

三七七　密教では芥子を焚いて加持祈祷をおこなう。

三七八　うまくだましよせて。

三七九　心に仏を祈念して。

三八〇　よろこびながら。

三八一　たまわった。

三八二　さあ、いらっしゃい。

三八三　力いっぱい。

三八四　つれないのか。

三八五　豊雄たちのいる部屋。

三八六　小声で呪文をとなえながら。

三八七　気を失って正体なく。

三八八　鉄製の鉢で、僧侶が食物をいれる器。

三八九　祈念をこらされると。

三九〇　一尺ほどの。

三九一　白娘子永鎮雷峰塔「禅師将二物置於鉢盂之内」。

三九二　白娘子、雷峯怪蹟ともに、鉢を地下に埋めたと記してある。

三九三　永久。永遠。

三九四　蛇塚は道成寺外西方百メートル余りの所にあるが、ここの文章は、本堂前の安珍塚（蛇榁）と混同しているようである。

  


## 雨月物語　巻之五

## 一<ruby><rb>青頭巾</rb><rt>あをづきん</rt></ruby>

むかし二<ruby><rb>快庵禅師</rb><rt>くわいあんぜんじ</rt></ruby>といふ<ruby><rb>大徳</rb><rt>だいとこ</rt></ruby>の<ruby><rb>聖</rb><rt>ひじり</rt></ruby>おはしましけり。三<ruby><rb>総角</rb><rt>わかき</rt></ruby>より四<ruby><rb>教外</rb><rt>けいぐわい</rt></ruby>の<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>をあきらめ給ひて、常に身を五雲水にまかせたまふ。<ruby><rb>美濃</rb><rt>（みの）</rt></ruby>の国の六<ruby><rb>竜泰寺</rb><rt>りようたいじ</rt></ruby>に七<ruby><rb>一夏</rb><rt>いちげ</rt></ruby>を<ruby><rb>満</rb><rt>みた</rt></ruby>しめ、此の秋は奥羽のかたに住むとて、旅立ち給ふ。ゆきゆきて<ruby><rb>下野</rb><rt>（しもつけ）</rt></ruby>の国に入り給ふ。

八富田といふ里にて日入りはてぬれば、大きなる家の九<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>ははしげなるに立ちよりて<ruby><rb>一宿</rb><rt>ひとよ</rt></ruby>をもとめ給ふに、<ruby><rb>田畑</rb><rt>たばた</rt></ruby>よりかへる男<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>にこの僧の立てるを見て、大きに<ruby><rb>怕</rb><rt>おそ</rt></ruby>れたるさまして、山の鬼こそ来りたれ、人みな出でよと呼びののしる。家の内にも騒ぎたち、女<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>は泣きさけび<ruby><rb>展転</rb><rt>こいまろ</rt></ruby>びて<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>々に<ruby><rb>竄</rb><rt>かく</rt></ruby>る。あるじ一〇山<ruby><rb>枴</rb><rt>あふご</rt></ruby>をとりて走り出で、<ruby><rb>外</rb><rt>と</rt></ruby>の方を見るに、<ruby><rb>年紀</rb><rt>としのころ</rt></ruby>一一<ruby><rb>五旬</rb><rt>いそぢ</rt></ruby>にちかき老僧の、<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>に<ruby><rb>紺染</rb><rt>あをぞめ</rt></ruby>の一二巾を<ruby><rb>帔</rb><rt>かづ</rt></ruby>き、身に墨衣の<ruby><rb>破</rb><rt>や</rt></ruby>れたるを<ruby><rb>穿</rb><rt>き</rt></ruby>て、一三<ruby><rb>裹</rb><rt>つつ</rt></ruby>みたる物を背におひたるが、<ruby><rb>杖</rb><rt>つゑ</rt></ruby>をもてさしまねき、一四<ruby><rb>檀越</rb><rt>だんゑつ</rt></ruby>なに事にてかばかり一五備へ給ふや。一六<ruby><rb>遍参</rb><rt>へんざん</rt></ruby>の僧今夜ばかりの宿をかり奉らんとてここに人を待ちしに、おもひきやかく<ruby><rb>異</rb><rt>あやし</rt></ruby>められんとは。一七<ruby><rb>痩</rb><rt>やせ</rt></ruby>法師の強盗などなすべきにもあらぬを、なあやしみ給ひそといふ。<ruby><rb>荘主</rb><rt>あるじ</rt></ruby><ruby><rb>枴</rb><rt>あふご</rt></ruby>を捨てて手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>つて笑ひ、一八<ruby><rb>渠等</rb><rt>かれら</rt></ruby>が<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>なる眼より一九客僧を<ruby><rb>驚</rb><rt>おど</rt></ruby>しまゐらせぬ。二〇<ruby><rb>一宿</rb><rt>ひとよ</rt></ruby>を<ruby><rb>供養</rb><rt>くやう</rt></ruby>して二一罪を<ruby><rb>贖</rb><rt>あがな</rt></ruby>ひたてまつらんと、二二<ruby><rb>礼</rb><rt>ゐやま</rt></ruby>ひて奥の方に迎へ、こころよく食をもすすめて<ruby><rb>饗</rb><rt>もてな</rt></ruby>しけり。

<ruby><rb>荘主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>かたりていふ。さきに二三<ruby><rb>下等</rb><rt>しづら</rt></ruby>が御僧を見て、鬼来りしとおそれしも二四さるいはれの侍るなり。ここに二五<ruby><rb>希有</rb><rt>けう</rt></ruby>の物がたりの侍る。二六<ruby><rb>妖言</rb><rt>およづれごと</rt></ruby>ながら人にもつたへ給へかし。此の里の二七上の山に一宇の二八<ruby><rb>蘭若</rb><rt>てら</rt></ruby>の侍る。<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>は二九小山氏の三〇<ruby><rb>菩提院</rb><rt>ぼだいゐん</rt></ruby>にて、<ruby><rb>代々</rb><rt>よよ</rt></ruby>大<ruby><rb>徳</rb><rt>とこ</rt></ruby>の住み給ふなり。今の三一<ruby><rb>阿闍梨</rb><rt>あじやり</rt></ruby>は<ruby><rb>何某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>殿の三二<ruby><rb>猶子</rb><rt>いうじ</rt></ruby>にて、ことに三三篤学修行の聞えめでたく、此の国の人は三四<ruby><rb>香燭</rb><rt>かうしよく</rt></ruby>をはこびて<ruby><rb>帰依</rb><rt>きえ</rt></ruby>したてまつる。我が<ruby><rb>荘</rb><rt>いへ</rt></ruby>にもしばしば<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>で給うて、いとも三五うらなく仕へしが、<ruby><rb>去年</rb><rt>こぞ</rt></ruby>の春にてありける。三六<ruby><rb>越</rb><rt>こし</rt></ruby>の国へ三七<ruby><rb>水丁</rb><rt>くわんぢやう</rt></ruby>の三八<ruby><rb>戒師</rb><rt>かいし</rt></ruby>にむかへられ給ひて、百日あまり<ruby><rb>逗</rb><rt>とどま</rt></ruby>り給ふが、<ruby><rb>他</rb><rt>か</rt></ruby>の<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby>より十二三歳なる<ruby><rb>童児</rb><rt>わらは</rt></ruby>を<ruby><rb>倶</rb><rt>ぐ</rt></ruby>してかへり給ひ、三九<ruby><rb>起臥</rb><rt>おきふし</rt></ruby>の<ruby><rb>扶</rb><rt>たすけ</rt></ruby>とせらる。かの<ruby><rb>童児</rb><rt>わらは</rt></ruby>が<ruby><rb>容</rb><rt>かたち</rt></ruby>の<ruby><rb>秀麗</rb><rt>みやびやか</rt></ruby>なるをふかく<ruby><rb>愛</rb><rt>め</rt></ruby>でさせたまうて、四〇<ruby><rb>年来</rb><rt>としごろ</rt></ruby>の事どももいつとなく怠りがちに見え給ふ。さるに<ruby><rb>茲年</rb><rt>ことし</rt></ruby><ruby><rb>四月</rb><rt>うづき</rt></ruby>の<ruby><rb>比</rb><rt>（ころ）</rt></ruby>、かの<ruby><rb>童児</rb><rt>わらは</rt></ruby>かりそめの病に臥しけるが、日を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>ておもくなやみけるを四一<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>みかなしませ給うて、四二<ruby><rb>国府</rb><rt>こうふ</rt></ruby>の<ruby><rb>典薬</rb><rt>てんやく</rt></ruby>の四三おもだたしきをまで迎へ給へども、其のしるしもなく<ruby><rb>終</rb><rt>つひ</rt></ruby>にむなしくなりぬ。四四ふところの<ruby><rb>璧</rb><rt>たま</rt></ruby>をうばはれ、<ruby><rb>挿頭</rb><rt>かざし</rt></ruby>の花を四五嵐にさそはれしおもひ、泣くに涙なく、叫ぶに声なく、あまりに嘆かせたまふままに、火に<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>き、土に<ruby><rb>葬</rb><rt>はうむ</rt></ruby>る事をもせで、四六<ruby><rb>臉</rb><rt>かほ</rt></ruby>に臉をもたせ、手に手をとりくみて日を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>給ふが、<ruby><rb>終</rb><rt>つひ</rt></ruby>に<ruby><rb>心神</rb><rt>こころ</rt></ruby>みだれ、生きてありし日に<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>はず<ruby><rb>戯</rb><rt>たはぶ</rt></ruby>れつつも、其の肉の腐り<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>るるを<ruby><rb>吝</rb><rt>をし</rt></ruby>みて、肉を吸ひ骨を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めて、四七はた<ruby><rb>喫</rb><rt>くら</rt></ruby>ひつくしぬ。寺中の人々、四八院<ruby><rb>主</rb><rt>じゆ</rt></ruby>こそ鬼になり給ひつれと、<ruby><rb>連忙</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく逃げさりぬるのちは、<ruby><rb>夜</rb><rt>よな</rt></ruby>々里に下りて人を四九<ruby><rb>驚殺</rb><rt>おど</rt></ruby>し、或は墓をあばきて<ruby><rb>腥</rb><rt>なま</rt></ruby>々しき<ruby><rb>屍</rb><rt>かばね</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>くら</rt></ruby>ふありさま、<ruby><rb>実</rb><rt>まこと</rt></ruby>に鬼といふものは昔物がたりには聞きもしつれど、五〇<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>にかくなり給ふを見て侍れ。されどいかがしてこれを五一<ruby><rb>征</rb><rt>せい</rt></ruby>し得ん。只<ruby><rb>戸</rb><rt>いへ</rt></ruby>ごとに五二暮をかぎりて堅く<ruby><rb>関</rb><rt>とざ</rt></ruby>してあれば、<ruby><rb>近曾</rb><rt>このごろ</rt></ruby>は<ruby><rb>国中</rb><rt>くになか</rt></ruby>へも聞えて、人の<ruby><rb>往来</rb><rt>いきき</rt></ruby>さへなくなり侍るなり。さるゆゑのありてこそ<ruby><rb>客僧</rb><rt>きやくそう</rt></ruby>をも<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>りつるなりとかたる。



人間の肉を食う悪鬼と化した山寺の僧が、里人を追いかけてとらえようとしている図。（原本三丁裏、四丁表の挿絵）

快庵この物がたりを聞かせ給うて、世には不<ruby><rb>可思議</rb><rt>かしぎ</rt></ruby>の事もあるものかな。凡そ人とうまれて、五三仏菩薩の<ruby><rb>教</rb><rt>をしへ</rt></ruby>の広大なるをもしらず、愚かなるまま、五四<ruby><rb>慳</rb><rt>かだま</rt></ruby>しきままに世を終るものは、其の五五愛慾邪念の五六<ruby><rb>業障</rb><rt>ごふしやう</rt></ruby>に<ruby><rb>攬</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれて、或は五七<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>の<ruby><rb>形</rb><rt>かたち</rt></ruby>をあらはして<ruby><rb>恚</rb><rt>いかり</rt></ruby>を<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>い、或は鬼となり<ruby><rb>蟒</rb><rt>みづち</rt></ruby>となりて<ruby><rb>崇</rb><rt>たたり</rt></ruby>をなすためし、<ruby><rb>往古</rb><rt>いにしへ</rt></ruby>より今にいたるまで<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>ふるに尽しがたし。又人<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きながらにして鬼に<ruby><rb>化</rb><rt>け</rt></ruby>するもあり。五八<ruby><rb>楚王</rb><rt>そわう</rt></ruby>の宮人は<ruby><rb>蛇</rb><rt>をろち</rt></ruby>となり、五九<ruby><rb>王含</rb><rt>わうがん</rt></ruby>が母は六〇<ruby><rb>夜叉</rb><rt>やしや</rt></ruby>となり、六一<ruby><rb>呉生</rb><rt>ごせい</rt></ruby>が妻は<ruby><rb>蛾</rb><rt>が</rt></ruby>となる。又いにしへ六二ある僧<ruby><rb>卑</rb><rt>あや</rt></ruby>しき家に旅寝せしに、其の夜雨風はげしく、<ruby><rb>灯</rb><rt>ともし</rt></ruby>さへなきわびしさに六三いも寝られぬを、夜ふけて<ruby><rb>羊</rb><rt>ひつじ</rt></ruby>の鳴くこゑの聞えけるが、<ruby><rb>頃刻</rb><rt>しばらく</rt></ruby>して僧のねぶりをうかがひてしきりに<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぐものあり。僧<ruby><rb>異</rb><rt>あや</rt></ruby>しと見て、六四枕におきたる<ruby><rb>禅杖</rb><rt>ぜんぢやう</rt></ruby>をもてつよく<ruby><rb>撃</rb><rt>う</rt></ruby>ちければ、大きに叫んでそこにたふる。この音に六五<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の<ruby><rb>嫗</rb><rt>うば</rt></ruby>なるもの<ruby><rb>灯</rb><rt>あかし</rt></ruby>を照し来るに見れば、若き女の打ちたふれてぞありける。<ruby><rb>嫗</rb><rt>うば</rt></ruby>泣く泣く命を<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>ふ。いかがせん。六六捨てて其の家を出でしが、其ののち又六七たよりにつきて其の里を過ぎしに、田中に人多く<ruby><rb>集</rb><rt>つど</rt></ruby>ひてものを見る。僧も立ちよりて何なるぞと尋ねしに、里人いふ。鬼に<ruby><rb>化</rb><rt>け</rt></ruby>したる女を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>へて、今土に<ruby><rb>瘞</rb><rt>うづ</rt></ruby>むなりとかたりしとなり。されどこれらは皆<ruby><rb>女子</rb><rt>をんなご</rt></ruby>にて、男たるもののかかるためしを聞かず。凡そ女の<ruby><rb>性</rb><rt>さが</rt></ruby>の<ruby><rb>慳</rb><rt>かだま</rt></ruby>しきには、さる浅ましき<ruby><rb>鬼</rb><rt>もの</rt></ruby>にも化するなり。又<ruby><rb>男子</rb><rt>なんし</rt></ruby>にも、六八<ruby><rb>隋</rb><rt>ずゐ</rt></ruby>の<ruby><rb>煬帝</rb><rt>やうだい</rt></ruby>の<ruby><rb>臣家</rb><rt>しんか</rt></ruby>に六九<ruby><rb>麻叔謀</rb><rt>ましゆくぼう</rt></ruby>といふもの、<ruby><rb>小児</rb><rt>せうに</rt></ruby>の肉を<ruby><rb>嗜好</rb><rt>この</rt></ruby>みて、<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそか</rt></ruby>に民の小児を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>み、これを<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>して<ruby><rb>喫</rb><rt>くら</rt></ruby>ひしも七〇あなれど、是は浅ましき七一<ruby><rb>夷</rb><rt>えびす</rt></ruby>心にて、<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>のかたり給ふとは<ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt></ruby>なり。さるにてもかの僧の鬼になりつるこそ、過去の因縁にてぞあらめ。そも<ruby><rb>平生</rb><rt>つね</rt></ruby>の七二<ruby><rb>行徳</rb><rt>ぎやうとく</rt></ruby>のかしこかりしは、仏につかふる事に<ruby><rb>志誠</rb><rt>まごころ</rt></ruby>を尽せしなれば、其の<ruby><rb>童児</rb><rt>わらは</rt></ruby>を七三やしなはざらましかば、七四あはれよき法師なるべきものを。一たび愛慾の<ruby><rb>迷路</rb><rt>めいろ</rt></ruby>に入りて、七五<ruby><rb>無明</rb><rt>むみやう</rt></ruby>の七六<ruby><rb>業火</rb><rt>ごふくわ</rt></ruby>の<ruby><rb>熾</rb><rt>さかん</rt></ruby>なるより鬼と化したるも、ひとへに七七<ruby><rb>直</rb><rt>なほ</rt></ruby>くたくましき<ruby><rb>性</rb><rt>さが</rt></ruby>のなす所なるぞかし。七八心<ruby><rb>放</rb><rt>ゆる</rt></ruby>せば<ruby><rb>妖魔</rb><rt>えうま</rt></ruby>となり、七九収むる<ruby><rb>則</rb><rt>とき</rt></ruby>は八〇<ruby><rb>仏果</rb><rt>ぶつくわ</rt></ruby>を得るとは、此の法師が八一ためしなりける。八二<ruby><rb>老衲</rb><rt>らうなふ</rt></ruby>もしこの鬼を八三<ruby><rb>教化</rb><rt>けうげ</rt></ruby>して<ruby><rb>本源</rb><rt>もと</rt></ruby>の心にかへらしめなば、こよひの<ruby><rb>饗</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>ひともなりなんかしと、たふときこころざしを<ruby><rb>発</rb><rt>おこ</rt></ruby>し給ふ。<ruby><rb>荘主</rb><rt>あるじ</rt></ruby><ruby><rb>頭</rb><rt>かうべ</rt></ruby>を<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>に<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>りて、御僧この事をなし給はば、此の国の人は浄土にうまれ出でたるがごとしと、涙を流してよろこびけり。山里のやどり八四<ruby><rb>貝鐘</rb><rt>かひがね</rt></ruby>も聞えず。八五廿日あまりの月も出でて、古戸の<ruby><rb>間</rb><rt>すき</rt></ruby>に洩りたるに、夜の深きをもしりて、いざ休ませ給へとて八六おのれも<ruby><rb>臥戸</rb><rt>ふしど</rt></ruby>に入りぬ。

八七山院人とどまらねば、八八<ruby><rb>楼門</rb><rt>ろうもん</rt></ruby>は八九<ruby><rb>荊棘</rb><rt>うばら</rt></ruby>おひかかり、九〇<ruby><rb>経閣</rb><rt>きやうかく</rt></ruby>も九一むなしく<ruby><rb>苔蒸</rb><rt>こけむ</rt></ruby>しぬ。<ruby><rb>蜘</rb><rt>くも</rt></ruby><ruby><rb>網</rb><rt>あみ</rt></ruby>をむすびて九二諸仏を繋ぎ、<ruby><rb>燕子</rb><rt>つばくら</rt></ruby>の<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>九三<ruby><rb>護摩</rb><rt>ごま</rt></ruby>の<ruby><rb>牀</rb><rt>ゆか</rt></ruby>をうづみ、九四<ruby><rb>方丈</rb><rt>はうぢやう</rt></ruby>九五<ruby><rb>廊房</rb><rt>らうばう</rt></ruby>すべて物すざましく荒れはてぬ。日の影九六<ruby><rb>申</rb><rt>さる</rt></ruby>にかたぶく<ruby><rb>比</rb><rt>（ころ）</rt></ruby>、快庵禅師寺に入りて九七<ruby><rb>錫</rb><rt>しやく</rt></ruby>を<ruby><rb>鳴</rb><rt>なら</rt></ruby>し給ひ、<ruby><rb>遍参</rb><rt>へんざん</rt></ruby>の僧九八<ruby><rb>今夜</rb><rt>こよひ</rt></ruby>ばかりの宿をかし給へと、あまたたび<ruby><rb>叫</rb><rt>よ</rt></ruby>べども九九さらに<ruby><rb>応</rb><rt>こたへ</rt></ruby>なし。一〇〇<ruby><rb>眠蔵</rb><rt>めんざう</rt></ruby>より一〇一<ruby><rb>痩槁</rb><rt>やせが</rt></ruby>れたる僧の一〇二<ruby><rb>漸</rb><rt>よわ</rt></ruby>々とあゆみ出で、<ruby><rb>咳</rb><rt>から</rt></ruby>びたる声して、御僧は<ruby><rb>何地</rb><rt>（いづち）</rt></ruby>へ通るとてここに来るや。此の寺はさる<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆゑ</rt></ruby>ありて、かく荒れはて、人も住まぬ野らとなりしかば、一<ruby><rb>粒</rb><rt>りふ</rt></ruby>の一〇三<ruby><rb>斎糧</rb><rt>ときりやう</rt></ruby>もなく、<ruby><rb>一宿</rb><rt>ひとよ</rt></ruby>をかすべき一〇四はかりごともなし。はやく里に出でよといふ。禅師いふ。一〇五これは美濃の国を出でて、みちの<ruby><rb>奥</rb><rt>く</rt></ruby>へ一〇六いぬる旅なるが、この<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の里を過ぐるに、山の<ruby><rb>霊</rb><rt>かたち</rt></ruby>、水の流のおもしろさに、おもはずもここにまうづ。日も<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>なれば里にくだらんも一〇七はるけし。一〇八ひたすら<ruby><rb>一宿</rb><rt>ひとよ</rt></ruby>をかし給へ。あるじの僧云ふ。かく野らなる所は一〇九よからぬ事もあなり。<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>ひてとどめがたし。一一〇強ひてゆけとにもあらず。僧のこころにまかせよとて、<ruby><rb>復</rb><rt>ふたた</rt></ruby>び物をもいはず。こなたよりも一<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>を問はで、あるじのかたはらに座をしむる。一一一<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>る看る日は入り果てて、一一二<ruby><rb>宵闇</rb><rt>よひやみ</rt></ruby>の夜のいとくらきに、<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>を一一三<ruby><rb>点</rb><rt>あ</rt></ruby>げざればまのあたりさへわかぬに、只<ruby><rb>澗</rb><rt>たに</rt></ruby>水の音ぞちかく聞ゆ。あるじの僧も又<ruby><rb>眠蔵</rb><rt>めんざう</rt></ruby>に入りて音なし。

夜更けて月の夜にあらたまりぬ。影一一四<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby>としていたらぬ<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>もなし。一一五<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>ひとつともおもふ<ruby><rb>比</rb><rt>（ころ）</rt></ruby>、あるじの僧眠蔵を出でて、あわただしく一一六物を<ruby><rb>討</rb><rt>たづ</rt></ruby>ぬ。たづね得ずして大いに叫び、一一七<ruby><rb>禿驢</rb><rt>とくろ</rt></ruby>いづくに隠れけん。ここもとにこそありつれと、禅師が前を幾たび走り過ぐれども、更に禅師を見る事なし。堂の方に<ruby><rb>駆</rb><rt>かけ</rt></ruby>りゆくかと見れば、庭をめぐりて<ruby><rb>躍</rb><rt>をど</rt></ruby>りくるひ、<ruby><rb>遂</rb><rt>つひ</rt></ruby>に疲れふして起き来らず。夜明けて朝日のさし出でぬれば、酒の醒めたるごとくにして、禅師がもとの所に<ruby><rb>在</rb><rt>いま</rt></ruby>すを見て、只あきれたる<ruby><rb>形</rb><rt>さま</rt></ruby>に、ものさへいはで、柱にもたれ<ruby><rb>長嘘</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をつぎて<ruby><rb>黙</rb><rt>もだ</rt></ruby>しゐたりける。禅師ちかくすすみよりて、<ruby><rb>院主</rb><rt>ゐんじゆ</rt></ruby>何をか嘆き給ふ。一一八もし<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>ゑ給ふとならば、一一九野僧が肉に<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>をみたしめ給へ。あるじの憎いふ。師は夜もすがらそこに居させたまふや。禅師いふ。ここにありてねぶる事なし。あるじの憎いふ。我あさましくも人の肉を好めども、いまだ一二〇<ruby><rb>仏身</rb><rt>ぶつしん</rt></ruby>の肉味をしらず。師はまことに仏なり。一二一<ruby><rb>鬼畜</rb><rt>きちく</rt></ruby>のくらき<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>をもて、一二二<ruby><rb>活仏</rb><rt>くわつぶつ</rt></ruby>の一二三<ruby><rb>来迎</rb><rt>らいがう</rt></ruby>を見んとするとも、一二四見ゆべからぬ<ruby><rb>理</rb><rt>ことわり</rt></ruby>なるかな。あなたふとと、<ruby><rb>頭</rb><rt>かうべ</rt></ruby>を<ruby><rb>低</rb><rt>た</rt></ruby>れて<ruby><rb>黙</rb><rt>もだ</rt></ruby>しける。

禅師いふ。里人のかたるを聞けば、汝<ruby><rb>一旦</rb><rt>ひとたび</rt></ruby>の<ruby><rb>愛慾</rb><rt>あいよく</rt></ruby>に<ruby><rb>心神</rb><rt>こころ</rt></ruby>みだれしより、<ruby><rb>忽</rb><rt>（たちま）</rt></ruby>ち鬼畜に一二五<ruby><rb>堕罪</rb><rt>だざい</rt></ruby>したるは、あさましとも<ruby><rb>哀</rb><rt>かな</rt></ruby>しとも、一二六ためしさへ<ruby><rb>希</rb><rt>（まれ）</rt></ruby>なる<ruby><rb>悪因</rb><rt>あくいん</rt></ruby>なり。<ruby><rb>夜</rb><rt>よひ</rt></ruby>々里に出でて人を<ruby><rb>害</rb><rt>わざはひ</rt></ruby>するゆゑに、ちかき里人は安き心なし。我これを聞きて一二七捨つるに忍びず。<ruby><rb>特</rb><rt>わざわざ</rt></ruby>来りて<ruby><rb>教化</rb><rt>けうげ</rt></ruby>し、<ruby><rb>本源</rb><rt>もと</rt></ruby>の心にかへらしめんとなるを、汝我がをしへを聞くや<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>や。あるじの憎いふ。師はまことに仏なり。かく浅ましき<ruby><rb>悪業</rb><rt>あくごふ</rt></ruby>を<ruby><rb>頓</rb><rt>とみ</rt></ruby>にわするべきことわりを教へ給へ。禅師いふ。汝一二八聞くとならばここに来れとて、一二九<ruby><rb>簀子</rb><rt>すのこ</rt></ruby>の前のたひらなる石の上に座せしめて、みづから<ruby><rb>帔</rb><rt>かづ</rt></ruby>き給ふ<ruby><rb>紺染</rb><rt>あをぞめ</rt></ruby>の巾を脱ぎて僧が<ruby><rb>頭</rb><rt>かうべ</rt></ruby>に帔かしめ、一三〇<ruby><rb>証道</rb><rt>しようだう</rt></ruby>の歌の二句を授け給ふ。

一三一<ruby><rb>江月照</rb><rt>かうげつてらし</rt></ruby><ruby><rb>松風吹</rb><rt>しようふうふく</rt></ruby>　　　<ruby><rb>永夜清宵</rb><rt>えいやせいせう</rt></ruby><ruby><rb>何所為</rb><rt>なんのしよゐぞ</rt></ruby>

汝ここを去らずして一三二<ruby><rb>徐</rb><rt>しづか</rt></ruby>に此の句の<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>をもとむべし。意解けぬる<ruby><rb>則</rb><rt>とき</rt></ruby>は、おのづから一三三本来の仏心に会ふなるはと、一三四<ruby><rb>念頃</rb><rt>（ねんごろ）</rt></ruby>に教へて山を下り給ふ。此ののちは里人おもき<ruby><rb>災</rb><rt>わざはひ</rt></ruby>をのがれしといへども、<ruby><rb>猶</rb><rt>（なほ）</rt></ruby>僧が生死をしらざれば、疑ひ恐れて人々山にのぼる事をいましめけり。

一とせ<ruby><rb>速</rb><rt>はや</rt></ruby>くたちて、一三五むかふ年の冬<ruby><rb>十月</rb><rt>かみなづき</rt></ruby>の<ruby><rb>初旬</rb><rt>はじめ</rt></ruby>、快庵大徳、一三六<ruby><rb>奥路</rb><rt>あうろ</rt></ruby>のかへるさに又ここを過ぎ給ふが、かの<ruby><rb>一宿</rb><rt>ひとよ</rt></ruby>のあるじが<ruby><rb>荘</rb><rt>いへ</rt></ruby>に立ちよりて、僧が一三七<ruby><rb>消息</rb><rt>せうそこ</rt></ruby>を尋ね給ふ。<ruby><rb>荘主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>よろこび迎へて、御僧の大徳によりて鬼ふたたび山をくだらねば、人皆浄土にうまれ出でたるごとし。されど山にゆく事はおそろしがりて、一人としてのぼるものなし。一三八さるから消息をしり侍らねど、など今まで<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きては侍らじ。<ruby><rb>今夜</rb><rt>こよひ</rt></ruby>の御<ruby><rb>泊</rb><rt>とま</rt></ruby>りに、一三九かの<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>をとぶらひ給へ。誰も一四〇<ruby><rb>随縁</rb><rt>ずゐえん</rt></ruby>したてまつらんといふ。禅師いふ。一四一<ruby><rb>他</rb><rt>かれ</rt></ruby><ruby><rb>善果</rb><rt>ぜんくわ</rt></ruby>に<ruby><rb>基</rb><rt>もとづ</rt></ruby>きて<ruby><rb>遷化</rb><rt>せんげ</rt></ruby>せしとならば、一四二道に<ruby><rb>先達</rb><rt>せんだち</rt></ruby>の師ともいふべし。又活きてあるときは一四三我がために<ruby><rb>一個</rb><rt>ひとり</rt></ruby>の<ruby><rb>徒弟</rb><rt>とてい</rt></ruby>なり。一四四いづれ<ruby><rb>消息</rb><rt>せうそこ</rt></ruby>を見ずばあらじとて、<ruby><rb>復</rb><rt>ふたた</rt></ruby>び山にのぼり給ふに、一四五いかさまにも人のいきき<ruby><rb>絶</rb><rt>た</rt></ruby>えたると見えて、<ruby><rb>去年</rb><rt>こぞ</rt></ruby>ふみわけし道ぞとも思はれず。寺に入りて見れば、<ruby><rb>荻</rb><rt>をぎ</rt></ruby>一四六尾花のたけ人よりもたかく<ruby><rb>生茂</rb><rt>おひしげ</rt></ruby>り、露は時雨めきて降りこぼれたるに、一四七三つの<ruby><rb>径</rb><rt>みち</rt></ruby>さへわからざる中に、堂閣の戸<ruby><rb>右左</rb><rt>みぎひだり</rt></ruby>に<ruby><rb>頽</rb><rt>たふ</rt></ruby>れ、<ruby><rb>方丈</rb><rt>はうぢやう</rt></ruby>一四八<ruby><rb>庫裏</rb><rt>くり</rt></ruby>に<ruby><rb>縁</rb><rt>めぐ</rt></ruby>りたる<ruby><rb>廊</rb><rt>らう</rt></ruby>も、一四九<ruby><rb>朽目</rb><rt>くちめ</rt></ruby>に雨をふくみて<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>むしぬ。さてかの僧を<ruby><rb>座</rb><rt>を</rt></ruby>らしめたる<ruby><rb>簀子</rb><rt>すのこ</rt></ruby>のほとりをもとむるに、影のやうなる人の、僧俗ともわかぬまでに<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby><ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>もみだれしに、<ruby><rb>葎</rb><rt>むぐら</rt></ruby>一五〇むすぼほれ、尾花一五一おしなみたるなかに、<ruby><rb>蚊</rb><rt>か</rt></ruby>の鳴くばかりのほそき<ruby><rb>音</rb><rt>こゑ</rt></ruby>して、一五二物とも聞えぬやうに、まれまれ<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>ふるを聞けば、

<ruby><rb>江月照</rb><rt>かうげつてらし</rt></ruby><ruby><rb>松風吹</rb><rt>しようふうふく</rt></ruby>　　　<ruby><rb>永夜清宵</rb><rt>えいやせいせう</rt></ruby><ruby><rb>何所為</rb><rt>なんのしよゐぞ</rt></ruby>

禅師見給ひて、やがて禅杖を<ruby><rb>拿</rb><rt>と</rt></ruby>りなほし、一五三<ruby><rb>作麼生</rb><rt>そもさん</rt></ruby>一五四<ruby><rb>何所為</rb><rt>なんのしよゐ</rt></ruby>ぞと、一<ruby><rb>喝</rb><rt>かつ</rt></ruby>して<ruby><rb>他</rb><rt>かれ</rt></ruby>が<ruby><rb>頭</rb><rt>かうべ</rt></ruby>を<ruby><rb>撃</rb><rt>う</rt></ruby>ち給へば、<ruby><rb>忽</rb><rt>（たちま）</rt></ruby>ち氷の朝日にあふがごとくきえうせて、かの青頭巾と<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>のみぞ草葉にとどまりける。一五五<ruby><rb>現</rb><rt>げ</rt></ruby>にも一五六久しき念のここに<ruby><rb>消</rb><rt>せう</rt></ruby>じつきたるにやあらん。たふときことわりあるにこそ。

されば禅師の大徳、一五七雲の<ruby><rb>裏</rb><rt>うら</rt></ruby>、海の外にも聞えて、一五八<ruby><rb>初祖</rb><rt>しよそ</rt></ruby>の肉いまだ乾かずとぞ称嘆しけるとなり。かくて里人あつまりて、寺内を清め、<ruby><rb>修理</rb><rt>しゆり</rt></ruby>をもよほし、禅師を<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>したふとみてここに住ましめけるより、一五九<ruby><rb>故</rb><rt>もと</rt></ruby>の<ruby><rb>密宗</rb><rt>みつしゆう</rt></ruby>をあらためて、一六〇<ruby><rb>曹洞</rb><rt>さうとう</rt></ruby>の<ruby><rb>霊場</rb><rt>れいぢやう</rt></ruby>をひらき給ふ。一六一今なほ<ruby><rb>御</rb><rt>み</rt></ruby>寺はたふとく栄えてありけるとなり。

一　僧侶のかぶる紺色の頭巾で、本篇の主人公快庵禅師がこれを鬼の僧にかぶらせた。

二　明応二年（一四九三）一二月没。七二歳。曹洞宗の高僧、名は妙慶、越後の顕聖寺、下野の大中寺等をひらく。禅師は、知徳高い禅僧で、官賜。

三　幼少より。髪を左右にわけて角のように揚げて結う小児の髪形による。

四　特に経典をもたず、不立文字・教外別伝・以心伝心を旨とする禅宗の本旨。

五　諸国を行脚すること。

六　岐阜県関市下有知にある曹洞宗の名刹。

七　夏行（四月一六日―七月一五日まで、室に籠って仏道修行すること。夏安居とも）をすまして。

八　栃木県下都賀郡大平町富田の宿。

九　使用人なども大勢いて裕福そうな家。

一〇　天秤棒の一種。

一一　年ごろ五〇歳にちかい。

一二　僧侶のかぶる頭巾。

一三　包み。旅行用の油単。

一四　檀家。信徒。ここは相手をよびかけた語。御主人。

一五　用心する。警戒する。

一六　諸国を遍歴参詣して修行する僧。

一七　私のような痩法師が。

一八　百姓たちをさす。

一九　旅の僧。

二〇　一夜の宿を提供して。

二一　おかした罪のつぐないをいたしましょう。

二二　礼を厚くして。

二三　小作人や下男。下僕たち。

二四　しかるべき理由。

二五　世にもまれな不思議な話。

二六　人をまどわすようなあやしいはなし。

二七　富田の西北にある大平山。

二八　寺院。のちの曹洞宗大平山大中寺をいう。

二九　藤原秀卿の後裔で栃木県小山市を本拠とした豪族。

三〇　家代々帰依して、財物を寄与する旦那寺。

三一　梵語。密教で秘法を伝授する僧職。

三二　甥。または養子。

三三　学問修行のふかいという評判が高く。

三四　香や蝋燭等の布施をあげ。

三五　わけへだてなく、うちとけてつきあっていたが。

三六　越後佐渡（新潟県）、越中（富山県）、加賀能登（石川県）、越前若狭（福井県）の総称。

三七　真言宗ではじめて受戒するとき、その頂に香水をそそぐ結縁灌頂、修道上進のときの伝法灌頂等の儀式。

三八　戒を授ける法師。阿闍梨がおこなう。

三九　身の回りの世話をする者。

四〇　長年勤めてきた修行の事。

四一　御心痛になり。

四二　ここは、国府所属の官医。

四三　立派な。名声の高い。

四四　大切なもの。

四五　嵐に吹き散らされる。

四六　顔をすりよせて。

四七　とうとう。

四八　寺院の主。住持。

四九　ひどく驚かし。

五〇　まのあたり。

五一　とりおさえる。

五二　日暮れとともに。

五三　仏と菩薩。

五四　心のまがった。

五五　肉欲・色欲にとらわれる。

五六　成仏正道のさまたげになる悪業にひきずられて。

五七　生前の姿。

五八　五雑組、巻五「化為狼者、太原王含母也。化為夜叉者、呉生妾劉氏也。化為蛾者、楚荘王宮人也。化為蛇者、李勢宮人也」の読み違え。楚の荘王は中国紀元前六〇〇年頃の人。宮人は女官。

五九　太原にいた武将。

六〇　暴悪勇猛な鬼類の一。

六一　いつの人か不明。

六二　以下、五雑組、巻五に伝えられる話。

六三　寝るに寝られない。

六四　枕許においた警策。

六五　主人である老婆。

六六　そのままにしておいて。

六七　ついでがあったので。

六八　中国隋（五八一―六一八）の第二代皇帝。大運河などを作った。

六九　このはなしは五雑組、巻五に見える。

七〇　「あるなれど」の約。

七一　理非分別をわきまえない野蛮な心。

七二　仏道修行の結果身につけた徳。修行と学徳。

七三　側近く召して世話をしなかったならば。

七四　あっぱれ。ほんとに。

七五　煩悩のために一切の真理を知ることができなくなった暗さをいう。

七六　悪事悪業のために身を苦しめることを地獄の猛火にたとえた。

七七　一本気で、思いこんだらつらぬきとおす性質。

七八　心をゆるめて放任すれば妖しい魔物となり。

七九　心をひきしめれば。

八〇　成仏できる。

八一　そのよい実例である。

八二　老僧。快庵の自称。

八三　教え導いて善道に転化する。

八四　貝と鐘。ともに仏具。近くに寺院がないこと。

八五　二〇日すぎの、出のおそい下弦の月。

八六　この家の主人をさす。

八七　山寺は誰も住みついていないとみえて。

八八　二階造りの門。山門。

八九　いばら。雑草。

九〇　経典をおさめる建物。

九一　見捨てられたまま。

九二　たちならんだ仏像。

九三　護摩壇。本尊の前に設けられている。

九四　住持の居室。

九五　長廊下と僧侶の室。

九六　方角ととれば西南西、時刻ととれば午後四時より六時頃をいう。

九七　錫杖。

九八　今夜一夜だけの。

九九　いっこうに。

一〇〇　仏家でいう寝室。

一〇一　痩せこけた。

一〇二　力なくしずかに。

一〇三　食糧。斎は、僧侶の正食。

一〇四　用意、支度。

一〇五　私は。謡曲などでつねに用いる自称の代名詞。

一〇六　行く。

一〇七　遠いみちのりである。

一〇八　切に。ぜひに。

一〇九　よくないこともあるものです。

一一〇　さりとて、たって出て行けというわけでもない。

一一一　たちまち。秋の日はおちるのが早い。

一一二　月の出が遅くて、宵にまだ月のなく暗い状態。

一一三　つけないので。

一一四　月光が清くうつくしく輝くさま。

一一五　午前零時より零時半ごろまで。

一一六　何かさがしもとめる。

一一七　右によみ、左に意味を記している。白話小説などの注解に用いる方法。頭に毛のない坊主をののしることば。

一一八　もし飢えておいでだというならば。

一一九　僧が自分を卑下していう語。愚僧、拙僧。

一二〇　生き仏の肉の味をしらない。

一二一　鬼畜のような理非分別のつかない眼。

一二二　生き仏。

一二三　仏が衆生臨終の際に迎えにくることで、ここは、おいでになった、の意。

一二四　見ることができないのも当然のことである。

一二五　罪におちる。鬼畜になりさがる。

一二六　前例がないほどの悪因縁。

一二七　見捨てておくことができない。

一二八　聞くというならば。

一二九　堂の前の縁側。

一三〇　禅の本義を七言長詩の形で説いたもの。唐の玄覚の作。

一三一　現代語訳（一六四ページ）を見よ。

一三二　おもむろに。じっくりと。

一三三　本来そなわっている仏心にあうのである。

一三四　親切に。

一三五　翌年。

一三六　奥州よりの帰途。

一三七　その後の様子。

一三八　それゆえに。

一三九　かの山寺の僧が成仏するように、冥福をお祈り下さい。

一四〇　私どももみんな一緒に回向いたしましょう。

一四一　彼が善行のむくいで往生したというのならば。遷化は、仏法念者の死去をいう。

一四二　仏道においては私より先に悟りに入った先輩ともいうべき人。

一四三　私にとっては、一人の弟子。

一四四　どちらにしてもその様子を見なければなるまい。

一四五　主人の言葉通り、なるほど人の往来が絶えているとみえて。

一四六　すすき。

一四七　庭の草生えた小径。門への道、井戸への道、厠への道の三径。漢の蒋詡が邸内の三径に遊んで仕えなかった故事がある。また陶淵明、帰去来辞に「三径就荒、松菊猶存」とある。源氏、蓬生「このさびしき宿にも必ずわけたる跡あなる三つの径とたどる」。

一四八　寺院で雑事をつかさどる所。台所など。

一四九　朽ちたもくめ。

一五〇　雑草がからみあい。

一五一　倒れ伏しなびいている様。

一五二　何をいっているのかはっきりと聞えない状態。

一五三　禅家の用語。いかに。どうじゃ。

一五四　どうするのだ。

一五五　まことに。じつに。

一五六　長い間の執念がここにいたって全く消えつくしたのであろう。

一五七　遠い国々から海外にまで。

一五八　禅宗の開祖達磨大師は死んだが、その教法・精神はいまなお生き続けている。快庵はその教法を具現化した。

一五九　それまでの真言宗を改宗して。

一六〇　曹洞宗。禅宗の一派。道元の開創。

一六一　栃木県下都賀郡大平町西山田にある大平山大中寺。曹洞宗関東惣禄三か寺の一。現在も広大な境内に老杉繁茂し、快庵を祀った開山堂、根無しの藤等が残っている。

  


## 一<ruby><rb>貧福論</rb><rt>ひんぷくろん</rt></ruby>

二<ruby><rb>陸奧</rb><rt>むつ</rt></ruby>の国三<ruby><rb>蒲生氏郷</rb><rt>がまふうぢさと</rt></ruby>の家に、四岡左内といふ<ruby><rb>武士</rb><rt>もののふ</rt></ruby>あり。五<ruby><rb>禄</rb><rt>ろく</rt></ruby>おもく、<ruby><rb>誉</rb><rt>ほまれ</rt></ruby>たかく、六<ruby><rb>丈夫</rb><rt>ますらを</rt></ruby>の名を七関の東に<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>ふ。此の<ruby><rb>士</rb><rt>し</rt></ruby>いと八<ruby><rb>偏固</rb><rt>かたは</rt></ruby>なる事あり。富貴をねがふ心、九常の<ruby><rb>武扁</rb><rt>ぶへん</rt></ruby>にひとしからず。倹約を<ruby><rb>宗</rb><rt>むね</rt></ruby>として一〇家の<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>をせしほどに、年を<ruby><rb>畳</rb><rt>つ</rt></ruby>みて富み<ruby><rb>昌</rb><rt>さか</rt></ruby>えけり。かつ一一<ruby><rb>軍</rb><rt>いくさ</rt></ruby>を<ruby><rb>調練</rb><rt>たなら</rt></ruby>す<ruby><rb>間</rb><rt>いとま</rt></ruby>には、一二<ruby><rb>茶味</rb><rt>さみ</rt></ruby><ruby><rb>翫香</rb><rt>ぐわんかう</rt></ruby>を<ruby><rb>娯</rb><rt>たのし</rt></ruby>まず。一三<ruby><rb>庁上</rb><rt>ひとま</rt></ruby>なる所に<ruby><rb>許多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の<ruby><rb>金</rb><rt>こがね</rt></ruby>を<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>き<ruby><rb>班</rb><rt>なら</rt></ruby>べて、心を<ruby><rb>和</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>むる事、世の人の月花にあそぶに<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>れり。人みな左内が<ruby><rb>行跡</rb><rt>ふるまひ</rt></ruby>をあやしみて、<ruby><rb>吝嗇</rb><rt>りんしよく</rt></ruby>一四<ruby><rb>野情</rb><rt>やじやう</rt></ruby>の人なりとて、<ruby><rb>爪</rb><rt>つま</rt></ruby>はじきをして<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>みけり。

一五家に久しき<ruby><rb>男</rb><rt>をのこ</rt></ruby>に一六<ruby><rb>黄金</rb><rt>わうごん</rt></ruby>一枚かくし持ちたるものあるを聞きつけて、ちかく召していふ。一七<ruby><rb>崑山</rb><rt>こんざん</rt></ruby>の<ruby><rb>璧</rb><rt>たま</rt></ruby>もみだれたる世には<ruby><rb>瓦礫</rb><rt>ぐわれき</rt></ruby>にひとし。かかる世にうまれて弓矢とらん<ruby><rb>躯</rb><rt>み</rt></ruby>には、一八<ruby><rb>棠谿</rb><rt>たうけい</rt></ruby><ruby><rb>墨陽</rb><rt>ぼくやう</rt></ruby>の<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>、一九さてはありたきもの<ruby><rb>財宝</rb><rt>たから</rt></ruby>なり。されど<ruby><rb>良</rb><rt>よき</rt></ruby><ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>なりとて千人の<ruby><rb>敵</rb><rt>あた</rt></ruby>には<ruby><rb>逆</rb><rt>むか</rt></ruby>ふべからず。金の徳は<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>が下の人をも従へつべし。武士たるもの二〇<ruby><rb>漫</rb><rt>みだり</rt></ruby>にあつかふべからず。かならず<ruby><rb>貯</rb><rt>たくは</rt></ruby>へ<ruby><rb>蔵</rb><rt>をさ</rt></ruby>むべきなり。<ruby><rb>你</rb><rt>なんぢ</rt></ruby><ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しき身の<ruby><rb>分限</rb><rt>ぶげん</rt></ruby>に過ぎたる<ruby><rb>財</rb><rt>たから</rt></ruby>を得たるは二一<ruby><rb>嗚呼</rb><rt>をこ</rt></ruby>の<ruby><rb>事</rb><rt>わざ</rt></ruby>なり。賞なくばあらじとて、十両の金を給ひ、二二<ruby><rb>刀</rb><rt>かたな</rt></ruby>をも<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>して召しつかひけり。人これを伝へ聞きて、左内が金をあつむるは、二三<ruby><rb>長啄</rb><rt>ちやうたく</rt></ruby>にして飽かざる<ruby><rb>類</rb><rt>たぐひ</rt></ruby>にはあらず。<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>当世の一<ruby><rb>奇士</rb><rt>きし</rt></ruby>なりとぞ二四いひはやしける。

其の夜、左内が<ruby><rb>枕上</rb><rt>まくらがみ</rt></ruby>に人の来たる音しけるに、目さめて見れば、二五<ruby><rb>灯台</rb><rt>とうだい</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、ちひさげなる翁の<ruby><rb>笑</rb><rt>ゑみ</rt></ruby>をふくみて<ruby><rb>座</rb><rt>を</rt></ruby>れり。左内枕をあげて、ここに来るは<ruby><rb>誰</rb><rt>た</rt></ruby>そ。我に二六<ruby><rb>糧</rb><rt>かて</rt></ruby>からんとならば二七<ruby><rb>力量</rb><rt>りきりやう</rt></ruby>の男どもこそ参りつらめ。你がやうの二八<ruby><rb>耄</rb><rt>ほ</rt></ruby>げたる<ruby><rb>形</rb><rt>さま</rt></ruby>してねぶりを<ruby><rb>魘</rb><rt>おそ</rt></ruby>ひつるは、<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby><ruby><rb>狸</rb><rt>たぬき</rt></ruby>などのたはむるるにや。二九何のおぼえたる<ruby><rb>術</rb><rt>わざ</rt></ruby>かある。秋の夜の目さましに、三〇そと見せよとて、すこしも騒ぎたる三一<ruby><rb>容色</rb><rt>いろめ</rt></ruby>なし。翁いふ。かく参りたるは、三二<ruby><rb>魑魅</rb><rt>ちみ</rt></ruby>にあらず人にあらず。君が三三かしづき給ふ<ruby><rb>黄金</rb><rt>わうごん</rt></ruby>の<ruby><rb>精霊</rb><rt>せいれい</rt></ruby>なり。<ruby><rb>年来</rb><rt>としごろ</rt></ruby><ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>くもてなし給ふうれしさに、<ruby><rb>夜話</rb><rt>よがたり</rt></ruby>せんとて<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>してまゐりたるなり。君が今日家の子を<ruby><rb>賞</rb><rt>しやう</rt></ruby>じ給ふに<ruby><rb>感</rb><rt>め</rt></ruby>でて、翁が思ふ三四こころばへをもかたり<ruby><rb>和</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>まんとて、<ruby><rb>仮</rb><rt>かり</rt></ruby>に<ruby><rb>化</rb><rt>かたち</rt></ruby>を<ruby><rb>見</rb><rt>あら</rt></ruby>はし侍るが、十にひとつも<ruby><rb>益</rb><rt>やう</rt></ruby>なき<ruby><rb>閑談</rb><rt>むだごと</rt></ruby>ながら、三五いはざるは腹みつれば、わざとにまうでて<ruby><rb>眠</rb><rt>ねぶり</rt></ruby>をさまたげ侍る。



枕許に立った黄金の精に、左内が、体をおこして応待している図。「灯台」が行灯、黄金の精が「ちひさげなる翁」であることがわかる。（原本十三丁裏、十四丁表の挿絵）

さても富みて<ruby><rb>驕</rb><rt>おご</rt></ruby>らぬは<ruby><rb>大聖</rb><rt>おほきひじり</rt></ruby>の道なり。さるを世の<ruby><rb>悪</rb><rt>さがな</rt></ruby>きことばに、三六富めるものはかならず<ruby><rb>慳</rb><rt>かだま</rt></ruby>し。富めるものはおほく<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>なりといふは、<ruby><rb>晋</rb><rt>しん</rt></ruby>の三七<ruby><rb>石崇</rb><rt>せきそう</rt></ruby>唐の三八<ruby><rb>王元宝</rb><rt>わうげんぱう</rt></ruby>がごとき、三九<ruby><rb>豺狼</rb><rt>さいらう</rt></ruby><ruby><rb>蛇蝎</rb><rt>じやかつ</rt></ruby>の<ruby><rb>徒</rb><rt>ともがら</rt></ruby>のみをいへるなりけり。<ruby><rb>往古</rb><rt>いにしへ</rt></ruby>に富める人は、四〇天の時をはかり、地の利を<ruby><rb>察</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて、おのづからなる<ruby><rb>富貴</rb><rt>ふうき</rt></ruby>を得るなり。四一<ruby><rb>呂望</rb><rt>りよぼう</rt></ruby>、<ruby><rb>斉</rb><rt>せい</rt></ruby>に<ruby><rb>封</rb><rt>ほう</rt></ruby>ぜられて民に<ruby><rb>産業</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>を教ふれば、<ruby><rb>海方</rb><rt>うなべ</rt></ruby>の人利に走りて四二ここに<ruby><rb>来朝</rb><rt>きむか</rt></ruby>ふ。四三<ruby><rb>管仲</rb><rt>くわんちゆう</rt></ruby>、四四<ruby><rb>九</rb><rt>ここの</rt></ruby>たび諸侯をあはせて、身は四五<ruby><rb>倍臣</rb><rt>やつこ</rt></ruby>ながら富貴は列国の君に<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>れり。四六<ruby><rb>范蠡</rb><rt>はんれい</rt></ruby>、四七<ruby><rb>子貢</rb><rt>しこう</rt></ruby>、四八<ruby><rb>白圭</rb><rt>はつけい</rt></ruby>が<ruby><rb>徒</rb><rt>ともがら</rt></ruby>、四九<ruby><rb>財</rb><rt>たから</rt></ruby>を<ruby><rb>鬻</rb><rt>ひさ</rt></ruby>ぎ利を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>うて、<ruby><rb>巨万</rb><rt>ここだく</rt></ruby>の<ruby><rb>金</rb><rt>こがね</rt></ruby>を<ruby><rb>畳</rb><rt>つ</rt></ruby>みなす。これらの人をつらねて、五〇<ruby><rb>貨殖伝</rb><rt>くわしよくでん</rt></ruby>を<ruby><rb>書</rb><rt>しる</rt></ruby>し侍るを、其のいふ所<ruby><rb>陋</rb><rt>いや</rt></ruby>しとて、のちの<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>筆を競うて<ruby><rb>謗</rb><rt>そし</rt></ruby>るは、ふかく<ruby><rb>頴</rb><rt>さと</rt></ruby>らざる人の<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>なり。五一<ruby><rb>恒</rb><rt>つね</rt></ruby>の<ruby><rb>産</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>なきは恒の心なし。五二<ruby><rb>百姓</rb><rt>おたから</rt></ruby>は<ruby><rb>勤</rb><rt>つと</rt></ruby>めて<ruby><rb>穀</rb><rt>たなつもの</rt></ruby>を出し、<ruby><rb>工匠等</rb><rt>たくみら</rt></ruby><ruby><rb>修</rb><rt>つと</rt></ruby>めてこれを助け、<ruby><rb>商賈</rb><rt>あきびと</rt></ruby><ruby><rb>務</rb><rt>つと</rt></ruby>めて<ruby><rb>此</rb><rt>これ</rt></ruby>を<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>はし、おのれおのれが五三<ruby><rb>産</rb><rt>なり</rt></ruby>を<ruby><rb>治</rb><rt>をさ</rt></ruby>め家を富まして、<ruby><rb>祖</rb><rt>みおや</rt></ruby>を祭り<ruby><rb>子孫</rb><rt>のち</rt></ruby>を<ruby><rb>謀</rb><rt>はか</rt></ruby>る外、人たるもの何をか<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>さん。<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>にもいへり。五四千金の子は市に死せず。五五富貴の人は王者とたのしみを同じうすとなん。まことに五六<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>深ければ魚よくあそび、山<ruby><rb>長</rb><rt>なが</rt></ruby>ければ<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>よくそだつは、五七<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>の<ruby><rb>随</rb><rt>まにまに</rt></ruby>なることわりなり。只、五八貧しうしてたのしむてふことばありて、五九字を学び<ruby><rb>韻</rb><rt>ゐん</rt></ruby>を探る人の<ruby><rb>惑</rb><rt>まどひ</rt></ruby>をとる<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>となりて、弓矢とるますら<ruby><rb>雄</rb><rt>を</rt></ruby>も富貴は国の<ruby><rb>基</rb><rt>もとゐ</rt></ruby>なるをわすれ、六〇あやしき<ruby><rb>計策</rb><rt>たばかり</rt></ruby>をのみ<ruby><rb>調練</rb><rt>たねら</rt></ruby>ひて、ものを<ruby><rb>戕</rb><rt>やぶ</rt></ruby>り人を<ruby><rb>傷</rb><rt>そこな</rt></ruby>ひ、おのが徳をうしなひて子孫を絶つは、<ruby><rb>財</rb><rt>たから</rt></ruby>を<ruby><rb>薄</rb><rt>かろ</rt></ruby>んじて名をおもしとする<ruby><rb>惑</rb><rt>まどひ</rt></ruby>なり。<ruby><rb>顧</rb><rt>おも</rt></ruby>ふに名とたからともとむるに心ふたつある事なし。六一文字てふものに<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がれて、金の徳を<ruby><rb>薄</rb><rt>かろ</rt></ruby>んじては、みづから清潔と<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>へ、六二<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>うて棄てたる人を<ruby><rb>賢</rb><rt>かしこ</rt></ruby>しといふ。さる人はかしこくとも、さる<ruby><rb>事</rb><rt>わざ</rt></ruby>は賢からじ。<ruby><rb>金</rb><rt>こがね</rt></ruby>は六三<ruby><rb>七</rb><rt>なな</rt></ruby>のたからの<ruby><rb>最</rb><rt>つかさ</rt></ruby>なり。土に<ruby><rb>瘞</rb><rt>うも</rt></ruby>れては<ruby><rb>霊泉</rb><rt>れいせん</rt></ruby>を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>へ、不浄を除き、<ruby><rb>妙</rb><rt>たへ</rt></ruby>なる<ruby><rb>音</rb><rt>こゑ</rt></ruby>を<ruby><rb>蔵</rb><rt>かく</rt></ruby>せり。かく<ruby><rb>清</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>きものの、いかなれば<ruby><rb>愚昧</rb><rt>ぐまい</rt></ruby>六四<ruby><rb>貪酷</rb><rt>どんこう</rt></ruby>の人にのみ<ruby><rb>集</rb><rt>つど</rt></ruby>ふべきやうなし。<ruby><rb>今夜</rb><rt>こよひ</rt></ruby>此の<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどほ</rt></ruby>りを吐きて<ruby><rb>年来</rb><rt>としごろ</rt></ruby>のこころやりをなし侍る事の<ruby><rb>喜</rb><rt>うれ</rt></ruby>しさよといふ。

左内<ruby><rb>興</rb><rt>きよう</rt></ruby>じて<ruby><rb>席</rb><rt>むしろ</rt></ruby>をすすみ、さてしもかたらせ給ふに、富貴の道のたかき事、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>がつねにおもふ所露たがはずぞ侍る。ここに<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>なる<ruby><rb>問</rb><rt>とひ</rt></ruby>事の侍るが、ねがふは<ruby><rb>詳</rb><rt>つばら</rt></ruby>にしめさせ給へ。今六五ことわらせ給ふは、<ruby><rb>専</rb><rt>もは</rt></ruby>ら金の徳を<ruby><rb>薄</rb><rt>かろ</rt></ruby>しめ、富貴の<ruby><rb>大業</rb><rt>たいげふ</rt></ruby>なる事をしらざるを罪とし給ふなるが、かの六六<ruby><rb>紙魚</rb><rt>しぎよ</rt></ruby>がいふ所もゆゑなきにあらず。今の世に富めるものは、十が八ツまではおほかた貪酷残忍の人多し。おのれは<ruby><rb>俸禄</rb><rt>ほうろく</rt></ruby>に飽きたりながら、<ruby><rb>兄弟</rb><rt>はらから</rt></ruby><ruby><rb>一属</rb><rt>やから</rt></ruby>をはじめ、六七<ruby><rb>祖</rb><rt>みおや</rt></ruby>より久しくつかふるものの貧しきをすくふ<ruby><rb>事</rb><rt>わざ</rt></ruby>をもせず、となりに<ruby><rb>栖</rb><rt>す</rt></ruby>みつる人のいきほひをうしなひ、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の<ruby><rb>援</rb><rt>たす</rt></ruby>けさへなく六八世にくだりしものの<ruby><rb>田畑</rb><rt>たばた</rt></ruby>をも、<ruby><rb>価</rb><rt>あたひ</rt></ruby>を<ruby><rb>賤</rb><rt>やす</rt></ruby>くして六九あながちに<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>がものとし、今おのれは<ruby><rb>村長</rb><rt>むらをさ</rt></ruby>とうやまはれても、むかしかりたる人のものをかへさず、礼ある人の<ruby><rb>席</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を譲れば、其の人を七〇<ruby><rb>奴</rb><rt>やつこ</rt></ruby>のごとく見おとし、たまたま<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>き友の<ruby><rb>寒暑</rb><rt>かんしよ</rt></ruby>を<ruby><rb>訪</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひ来れば、物からんためかと疑ひて、宿にあらぬよしを<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>へさせつる<ruby><rb>類</rb><rt>たぐひ</rt></ruby>あまた見来りぬ。又君に忠なるかぎりをつくし、父母に七一<ruby><rb>孝廉</rb><rt>かうれん</rt></ruby>の聞えあり、貴きをたふとみ、<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しきを<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>くる<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>ありながら、七二三冬のさむきにも七三一<ruby><rb>裘</rb><rt>きう</rt></ruby>に<ruby><rb>起臥</rb><rt>おきふ</rt></ruby>し、七四三<ruby><rb>伏</rb><rt>ぶく</rt></ruby>のあつきにも七五一<ruby><rb>葛</rb><rt>かつ</rt></ruby>を<ruby><rb>濯</rb><rt>すす</rt></ruby>ぐいとまなく、年ゆたかなれども七六<ruby><rb>朝</rb><rt>あした</rt></ruby>に<ruby><rb>晡</rb><rt>くれ</rt></ruby>に一<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>の<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>にはらをみたしめ、さる人はもとより<ruby><rb>朋友</rb><rt>ともがき</rt></ruby>の<ruby><rb>訪</rb><rt>とむら</rt></ruby>ふ事もなく、かへりて<ruby><rb>兄弟</rb><rt>はらから</rt></ruby><ruby><rb>一属</rb><rt>やから</rt></ruby>にも七七<ruby><rb>通</rb><rt>みち</rt></ruby>を<ruby><rb>塞</rb><rt>き</rt></ruby>られ、まじはりを絶たれて、其の<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>をうつたふる方さへなく、七八<ruby><rb>汲</rb><rt>きふ</rt></ruby>々として一生を<ruby><rb>終</rb><rt>を</rt></ruby>ふるもあり。さらばその人は<ruby><rb>作業</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>に七九うときゆゑかと見れば、<ruby><rb>夙</rb><rt>つと</rt></ruby>に起きおそくふして八〇<ruby><rb>性力</rb><rt>ちから</rt></ruby>を<ruby><rb>凝</rb><rt>こら</rt></ruby>し、西にひがしに走りまどふ八一<ruby><rb>蹺蹊</rb><rt>ありさま</rt></ruby>さらに<ruby><rb>閑</rb><rt>いとま</rt></ruby>なく、その人<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>にもあらで才をもちふるに八二<ruby><rb>的</rb><rt>あた</rt></ruby>るはまれなり。これらは八三<ruby><rb>顔子</rb><rt>がんし</rt></ruby>が一<ruby><rb>瓢</rb><rt>ぺう</rt></ruby>の<ruby><rb>味</rb><rt>あぢは</rt></ruby>ひをもしらず。かく<ruby><rb>果</rb><rt>は</rt></ruby>つるを、八四<ruby><rb>仏家</rb><rt>ぶつか</rt></ruby>には<ruby><rb>前業</rb><rt>ぜんごふ</rt></ruby>をもて説きしめし、八五儒門には天命と教ふ。もし未来あるときは、<ruby><rb>現世</rb><rt>げんぜ</rt></ruby>の八六陰徳善功も八七来世のたのみありとして、人しばらくここに八八いきどほりを<ruby><rb>休</rb><rt>やす</rt></ruby>めん。されば富貴のみちは仏家にのみその<ruby><rb>理</rb><rt>ことわり</rt></ruby>をつくして、儒門の教は八九<ruby><rb>荒唐</rb><rt>くわうたう</rt></ruby>なりとやせん。九〇<ruby><rb>霊</rb><rt>かみ</rt></ruby>も仏の教にこそ九一<ruby><rb>憑</rb><rt>よ</rt></ruby>らせ給ふらめ。九二<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>ならば<ruby><rb>詳</rb><rt>つばら</rt></ruby>にのべさせ給へ。

翁いふ。君が問ひ給ふは、九三<ruby><rb>往古</rb><rt>いにしへ</rt></ruby>より論じ尽さざることわりなり。かの仏の<ruby><rb>御法</rb><rt>みのり</rt></ruby>を聞けば、九四富と貧しきは<ruby><rb>前生</rb><rt>さきのよ</rt></ruby>の<ruby><rb>脩否</rb><rt>よきあしき</rt></ruby>によるとや。<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>は九五あらましなる教ぞかし。前生にありしときおのれをよく<ruby><rb>脩</rb><rt>をさ</rt></ruby>め、慈悲の心<ruby><rb>専</rb><rt>もは</rt></ruby>らに、<ruby><rb>他人</rb><rt>ことひと</rt></ruby>にもなさけふかく<ruby><rb>接</rb><rt>まじは</rt></ruby>りし人の、その善報によりて、今此の<ruby><rb>生</rb><rt>しやう</rt></ruby>に富貴の家にうまれきたり、おのがたからをたのみて九六<ruby><rb>他人</rb><rt>ことひと</rt></ruby>にいきほひをふるひ、九七あらぬ<ruby><rb>狂言</rb><rt>まがごと</rt></ruby>をいひののしり、あさましき九八<ruby><rb>夷</rb><rt>えびす</rt></ruby>ごころをも見するは、<ruby><rb>前生</rb><rt>さきのよ</rt></ruby>の善心かくまでなりくだる事はいかなるむくいのなせるにや。<ruby><rb>仏菩薩</rb><rt>ぶつぼさつ</rt></ruby>は九九<ruby><rb>名聞利要</rb><rt>みやうもんりえう</rt></ruby>を<ruby><rb>嫌</rb><rt>い</rt></ruby>み給ふとこそ聞きつる物を、など貧福の事に一〇〇<ruby><rb>係</rb><rt>かかづら</rt></ruby>ひ給ふべき。さるを富貴は<ruby><rb>前生</rb><rt>さきのよ</rt></ruby>のおこなひの<ruby><rb>善</rb><rt>よ</rt></ruby>かりし所、貧賤は<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しかりしむくいとのみ説きなすは、一〇一<ruby><rb>尼媽</rb><rt>あまかか</rt></ruby>を<ruby><rb>蕩</rb><rt>とら</rt></ruby>かす一〇二なま仏法ぞかし。貧福をいはず、ひたすら善を<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>まん人は、その身に来らずとも、子孫はかならず<ruby><rb>幸福</rb><rt>さいはひ</rt></ruby>を<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>べし。一〇三<ruby><rb>宗廟</rb><rt>そうべう</rt></ruby>これを<ruby><rb>饗</rb><rt>う</rt></ruby>けて子孫これを<ruby><rb>保</rb><rt>たも</rt></ruby>つとは、此のことわりの<ruby><rb>細妙</rb><rt>くはしき</rt></ruby>なり。おのれ善をなして、おのれその<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>ひの来るを待つは<ruby><rb>直</rb><rt>なほ</rt></ruby>きこころにもあらずかし。又<ruby><rb>悪業</rb><rt>あくごふ</rt></ruby><ruby><rb>慳貪</rb><rt>けんどん</rt></ruby>の人の<ruby><rb>富</rb><rt>と</rt></ruby>み<ruby><rb>昌</rb><rt>さか</rt></ruby>ふるのみかは、<ruby><rb>寿</rb><rt>いのち</rt></ruby>めでたくその<ruby><rb>終</rb><rt>をはり</rt></ruby>をよくするは、一〇四我に<ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt></ruby>なることわりあり。<ruby><rb>霎時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>聞かせたまへ。我今<ruby><rb>仮</rb><rt>かり</rt></ruby>に<ruby><rb>化</rb><rt>かたち</rt></ruby>をあらはして<ruby><rb>話</rb><rt>かた</rt></ruby>るといへども、神にあらず仏にあらず、もと一〇五<ruby><rb>非情</rb><rt>ひじやう</rt></ruby>の物なれば人と異なる<ruby><rb>慮</rb><rt>こころ</rt></ruby>あり。いにしへに富める人は、<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>の時に<ruby><rb>合</rb><rt>かな</rt></ruby>ひ、<ruby><rb>地</rb><rt>くに</rt></ruby>の利をあきらめて、一〇六産を治めて富貴となる。これ天の<ruby><rb>随</rb><rt>まにまに</rt></ruby>なる<ruby><rb>計策</rb><rt>たばかり</rt></ruby>なれば、たからのここにあつまるも天のまにまになることわりなり。又一〇七<ruby><rb>卑吝</rb><rt>ひりん</rt></ruby><ruby><rb>貪酷</rb><rt>どんこう</rt></ruby>の人は、金銀を見ては父母のごとくしたしみ、<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>ふべきをも<ruby><rb>喫</rb><rt>くら</rt></ruby>はず、一〇八<ruby><rb>穿</rb><rt>き</rt></ruby>べきをも<ruby><rb>着</rb><rt>き</rt></ruby>ず、得がたきいのちさへ惜しとおもはで、起きておもひ臥してわすれねば、ここにあつまる事、一〇九まのあたりなることわりなり。我もと神にあらず仏にあらず、只これ非情なり。非情のものとして、人の善悪を<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>し、それにしたがふべきいはれなし。善を一一〇撫で悪を<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>するは、天なり、神なり、仏なり。一一一三ツのものは道なり。我がともがらのおよぶべきにあらず。只一一二かれらが一一三つかへ<ruby><rb>傅</rb><rt>かしづ</rt></ruby>く事のうやうやしきにあつまるとしるべし。これ<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>に霊あれども人とこころの異なる所なり。また富みて一一四善根を<ruby><rb>種</rb><rt>う</rt></ruby>うるにも一一五ゆゑなきに恵みほどこし、その人の不義をも<ruby><rb>察</rb><rt>あきら</rt></ruby>めず一一六<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>しあたへたらん人は、善根なりとも<ruby><rb>財</rb><rt>たから</rt></ruby>はつひに散ずべし。これらは金の用を知りて、金の徳をしらず、かろくあつかふが故なり。又身のおこなひもよろしく、人にも<ruby><rb>志誠</rb><rt>まごころ</rt></ruby>ありながら、一一七世に<ruby><rb>窮</rb><rt>せば</rt></ruby>められてくるしむ人は、一一八<ruby><rb>天蒼氏</rb><rt>てんさうし</rt></ruby>の<ruby><rb>賜</rb><rt>たまもの</rt></ruby>すくなくうまれ出でたるなれば、精神を労しても、一一九いのちのうちに富貴を得る事なし。さればこそいにしへの<ruby><rb>賢</rb><rt>かしこ</rt></ruby>き人は、もとめて<ruby><rb>益</rb><rt>やう</rt></ruby>あればもとめ、益なくばもとめず、<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>がこのむまにまに世を山林にのがれて、しづかに一生を終る。心のうち一二〇いかばかり<ruby><rb>清</rb><rt>すず</rt></ruby>しからんとはうらやみぬるぞ。かくいへど富貴のみちは<ruby><rb>術</rb><rt>わざ</rt></ruby>にして、一二一<ruby><rb>巧</rb><rt>たくみ</rt></ruby>なるものはよく<ruby><rb>湊</rb><rt>あつ</rt></ruby>め、不<ruby><rb>肖</rb><rt>せう</rt></ruby>のものは瓦の解くるより<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>し。<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby>我がともがらは、人の<ruby><rb>生産</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>につきめぐりて、一二二たのみとする<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>もさだまらず。ここにあつまるかとすれば、その<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>のおこなひによりて、たちまちにかしこに走る。水のひくき方にかたぶくがごとし。一二三夜に昼にゆきくと<ruby><rb>休</rb><rt>や</rt></ruby>むときなし。ただ一二四<ruby><rb>閑人</rb><rt>むだびと</rt></ruby>の<ruby><rb>生産</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>もなくてあらば、一二五<ruby><rb>泰山</rb><rt>たいざん</rt></ruby>もやがて<ruby><rb>喫</rb><rt>く</rt></ruby>ひつくすべし。一二六<ruby><rb>江海</rb><rt>がうかい</rt></ruby>もつひに飲みほすべし。いくたびもいふ、不徳の人のたからを積むは、一二七これとあらそふことわり、君子は論ずる事なかれ。一二八ときを得たらん人の、倹約を守りつひえを<ruby><rb>省</rb><rt>はぶ</rt></ruby>きてよく<ruby><rb>務</rb><rt>つと</rt></ruby>めんには、おのづから家富み人服すべし。我は仏家の<ruby><rb>前業</rb><rt>ぜんごふ</rt></ruby>もしらず、儒門の天命にも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかは</rt></ruby>らず、一二九異なる<ruby><rb>境</rb><rt>さかひ</rt></ruby>にあそぶなりといふ。

左内いよいよ興に乗じて、<ruby><rb>霊</rb><rt>れい</rt></ruby>の議論きはめて一三〇妙なり。<ruby><rb>旧</rb><rt>ひさ</rt></ruby>しき<ruby><rb>疑念</rb><rt>うたがひ</rt></ruby>も<ruby><rb>今夜</rb><rt>こよひ</rt></ruby>に<ruby><rb>消</rb><rt>せう</rt></ruby>じつくしぬ。<ruby><rb>試</rb><rt>こころみ</rt></ruby>にふたたび問はん。今一三一豊臣の威風四海を<ruby><rb>靡</rb><rt>なみ</rt></ruby>し、一三二五畿七道一三三<ruby><rb>漸</rb><rt>やや</rt></ruby>しづかなるに似たれども、一三四亡国の義士<ruby><rb>彼此</rb><rt>をちこち</rt></ruby>に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>み<ruby><rb>竄</rb><rt>かく</rt></ruby>れ、或は大国の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>に身を<ruby><rb>托</rb><rt>よ</rt></ruby>せて世の<ruby><rb>変</rb><rt>へん</rt></ruby>をうかがひ、かねて一三五<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby>を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げんと<ruby><rb>策</rb><rt>はか</rt></ruby>る。民も又戦国の民なれば、一三六<ruby><rb>耒</rb><rt>すき</rt></ruby>を<ruby><rb>釈</rb><rt>す</rt></ruby>てて<ruby><rb>矛</rb><rt>ほこ</rt></ruby>に<ruby><rb>易</rb><rt>か</rt></ruby>へ、一三七<ruby><rb>農事</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>をこととせず。士たるもの枕を高くして<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>るべからず。今の<ruby><rb>体</rb><rt>さま</rt></ruby>にては長く不<ruby><rb>朽</rb><rt>きう</rt></ruby>の<ruby><rb>政</rb><rt>まつりごと</rt></ruby>にもあらじ。誰か一統して民をやすきに<ruby><rb>居</rb><rt>を</rt></ruby>らしめんや。又一三八誰にか<ruby><rb>合</rb><rt>くみ</rt></ruby>し給はんや。翁云ふ。これ又人道なれば我がしるべき所にあらず。只富貴をもて論ぜば、<ruby><rb>信玄</rb><rt>しんげん</rt></ruby>がごとく<ruby><rb>智謀</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>は<ruby><rb>百</rb><rt>もも</rt></ruby>が百<ruby><rb>的</rb><rt>あた</rt></ruby>らずといふ事なくて、一三九一生の威を三国に<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>ふのみ。しかも名将の聞えは世<ruby><rb>挙</rb><rt>こぞ</rt></ruby>りて<ruby><rb>賞</rb><rt>しやう</rt></ruby>ずる所なり。その<ruby><rb>末期</rb><rt>まつご</rt></ruby>の<ruby><rb>言</rb><rt>ことば</rt></ruby>に、一四〇当時信長は一四一果報いみじき大将なり。我<ruby><rb>平生</rb><rt>つね</rt></ruby>に<ruby><rb>他</rb><rt>かれ</rt></ruby>を<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>りて征伐を怠り、一四二此の<ruby><rb>疾</rb><rt>やまひ</rt></ruby>に<ruby><rb>係</rb><rt>かか</rt></ruby>る。我が子孫も<ruby><rb>即</rb><rt>やが</rt></ruby>て<ruby><rb>他</rb><rt>かれ</rt></ruby>に<ruby><rb>亡</rb><rt>ほろぼ</rt></ruby>されんといひしとなり。<ruby><rb>謙信</rb><rt>けんしん</rt></ruby>は勇将なり。信玄死しては<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>が下に一四三<ruby><rb>対</rb><rt>つゐ</rt></ruby>なし。不幸にして一四四<ruby><rb>遽</rb><rt>はや</rt></ruby>く<ruby><rb>死</rb><rt>みまか</rt></ruby>りぬ。信長の器量人にすぐれたれども、信玄の智に<ruby><rb>及</rb><rt>し</rt></ruby>かず、謙信の勇に劣れり。しかれども富貴を得て、天が下の事一<ruby><rb>回</rb><rt>たび</rt></ruby>は此の人に一四五<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ざす。一四六任ずるものを<ruby><rb>辱</rb><rt>はづかし</rt></ruby>めて<ruby><rb>命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を<ruby><rb>殞</rb><rt>おと</rt></ruby>すにて見れば、文武を兼ねしといふにもあらず。<ruby><rb>秀吉</rb><rt>ひでよし</rt></ruby>の<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby><ruby><rb>大</rb><rt>おほ</rt></ruby>いなるも、一四七はじめより<ruby><rb>天地</rb><rt>あめつち</rt></ruby>に満つるにもあらず。一四八柴田と<ruby><rb>丹羽</rb><rt>には</rt></ruby>が富貴をうらやみて、羽柴と云ふ<ruby><rb>氏</rb><rt>うぢ</rt></ruby>を設けしにてしるべし。今一四九<ruby><rb>竜</rb><rt>りよう</rt></ruby>と<ruby><rb>化</rb><rt>け</rt></ruby>して<ruby><rb>太虚</rb><rt>みそら</rt></ruby>に<ruby><rb>昇</rb><rt>のぼ</rt></ruby>り、<ruby><rb>地中</rb><rt>ちちゆう</rt></ruby>をわすれたるならずや。秀吉竜と化したれども一五〇<ruby><rb>蛟蜃</rb><rt>かうしん</rt></ruby>の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐひ</rt></ruby>なり。一五一蛟蜃の竜と化したるは、<ruby><rb>寿</rb><rt>いのち</rt></ruby>わづかに<ruby><rb>三歳</rb><rt>みとせ</rt></ruby>を過ぎずと。これもはた後なからんか。それ<ruby><rb>驕</rb><rt>おごり</rt></ruby>をもて治めたる世は、<ruby><rb>往古</rb><rt>いにしへ</rt></ruby>より久しきを見ず。人の守るべきは倹約なれども、一五二過ぐるものは<ruby><rb>卑吝</rb><rt>ひりん</rt></ruby>に<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>つる。されば倹約と卑吝の<ruby><rb>境</rb><rt>さかひ</rt></ruby>よくわきまへて<ruby><rb>務</rb><rt>つと</rt></ruby>むべき物にこそ。今豊臣の<ruby><rb>政</rb><rt>まつりごと</rt></ruby>久しからずとも、<ruby><rb>万民</rb><rt>ばんみん</rt></ruby>一五三<ruby><rb>和</rb><rt>にぎ</rt></ruby>ははしく、<ruby><rb>戸々</rb><rt>ここ</rt></ruby>に一五四千秋楽を<ruby><rb>唱</rb><rt>うた</rt></ruby>はん事ちかきにあり。君が<ruby><rb>望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>にまかすべしとて八字の句を<ruby><rb>諷</rb><rt>うた</rt></ruby>ふ。そのことばにいはく、

一五五<ruby><rb>堯蓂</rb><rt>げうめい</rt></ruby><ruby><rb>日杲</rb><rt>ひにあきらかに</rt></ruby>　　　<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひやくせい</rt></ruby><ruby><rb>帰家</rb><rt>いへによる</rt></ruby>

<ruby><rb>数言</rb><rt>すげん</rt></ruby><ruby><rb>興</rb><rt>きよう</rt></ruby><ruby><rb>尽</rb><rt>つ</rt></ruby>きて、<ruby><rb>遠寺</rb><rt>ゑんじ</rt></ruby>の<ruby><rb>鐘</rb><rt>かね</rt></ruby>一五六五更を告ぐる。夜<ruby><rb>既</rb><rt>すで</rt></ruby>に<ruby><rb>曙</rb><rt>あ</rt></ruby>けぬ。<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れを給ふべし。こよひの<ruby><rb>長談</rb><rt>ながものがたり</rt></ruby>まことに君が<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむり</rt></ruby>をさまたぐと、<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちてゆくやうなりしが、かき消して見えずなりにけり。

左内つらつら一五七夜もすがらの事をおもひて、かの句を案ずるに、<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひやくせい</rt></ruby>家に<ruby><rb>帰</rb><rt>き</rt></ruby>すの句、一五八<ruby><rb>粗</rb><rt>ほぼ</rt></ruby>其の<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>を得て、ふかくここに一五九<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>を<ruby><rb>発</rb><rt>おこ</rt></ruby>す。まことに一六〇<ruby><rb>瑞草</rb><rt>ずいさう</rt></ruby>の瑞あるかな。

雨月物語五之巻大尾

  


一六一安永五歳丙申一六二孟夏吉旦

寺町通五条上ル町

京都　　　　梅村判兵衛

書肆

高麗橋筋壱町目

大坂　　　　一六三野村長兵衛

一　一人の武士と黄金の精の貧富に関する議論。

二　広く東北地方をさし、ここは会津地方。

三　戦国時代の武将。文禄四年（一五九五）没、四〇歳。会津四二万石に封ぜられ、のち九二万石に加増された。

四　実在の人物。岡野左内。諸家高名記、常山紀談、翁草等に詳しい。

五　高禄で。左内は氏郷に仕えて八千石であった。

六　武士としての勇名。

七　東国（関東・東北）。

八　人と違って偏った性質。

九　世間一般の武家。

一〇　家内を取締ったので。

一一　軍兵を訓練するひま。

一二　茶の湯や聞香などの趣味。

一三　一室に。

一四　ここは、卑しい根性の人。

一五　家に長く使っている下男。

一六　ここは、大判。

一七　天下の名宝崑山の璧も乱世ではその価値は瓦や小石に等しい。中国の伝説神話に出る崑崙山は名玉の産地。

一八　ともに中国の名剣の産地。

一九　その上更にほしいものは。

二〇　軽々しく。粗末に。

二一　殊勝なこと。

二二　帯刀をもゆるして。士分にとりたてて。

二三　長喙（チョウカイ）が正しい。長いくちばし。貪婪。

二四　ほめそやした。

二五　ここは、行灯。

二六　食糧がほしいのなら。

二七　腕っぷしの強い男。

二八　おいぼれた様子。

二九　何か習い覚えた術でもあるだろう。

三〇　ちょっと。

三一　様子。そぶり。

三二　山林の異気より生じて人に害を与える怪物。

三三　大切に取扱って下さる。

三四　心持。

三五　大鏡「思しき事いはぬはげにぞ腹ふくるる心地しける」。徒然草に同様な文がある。

三六　五雑組巻五「富者多慳、非怪不能富也、富者多愚、非愚不能富也」。

三七　晋の富豪で、豪奢な生活をして殺された。五雑組巻五「如石崇王元宝之流、迺豺狼蛇蝎」。

三八　唐の富豪で、金銀を積んで屋壁とした。

三九　やまいぬ・狼・蛇・さそり。猛悪、残忍、貪欲な輩。「だかつ」が正しい。

四〇　五雑組巻五「但古之致富者、皆観天時、逐地利」。

四一　周代の太公望呂尚。ここは史記貨殖列伝の文章に拠る。

四二　斉の国にやってきた。

四三　斉の宰相。

四四　貨殖列伝「九合諸侯」。九合は糾合で、連合の意。秋成は九度あわせと誤読した。

四五　陪臣。諸侯の臣。

四六　越王勾践をたすけて呉を討ち、のち斉に入って鴟夷子皮と変名、巨万の富豪となり、さらに陶に入って陶朱公となり大富豪となる。

四七　衛の人。孔子の門人で貨殖に長じていた。

四八　周の人。商機の才あって、蓄財術の祖と称された。

四九　産物を売買して。

五〇　漢の太史司馬遷著「史記」の巻一二九が「貨殖列伝」。

五一　一定の生業財産のないものは定まった善心がない。孟子、梁恵王上「若民則無恒産因無恒心」。

五二　貨殖列伝「故待農而食之、虞而出之、工而成之、商而通之」。

五三　生業をはげみ。

五四　富豪の子弟は刑死して市中にさらされることはない。貨殖列伝「諺曰、千金之子不死於市」。

五五　貨殖列伝「巨万者、乃与王者同楽」。

五六　貨殖列伝「淵深而魚生之、山深而獣往之」。

五七　天然自然の道理。

五八　論語、学而篇「未若貧而楽、富而好礼者也」。

五九　学者や文人たちのまどいをひきおこすいとぐち。

六〇　つまらぬ軍略ばかり。

六一　学問・知識にとらわれて。

六二　俗世間を棄てて田畑に鋤をふるう人。

六三　七宝の筆頭。

六四　正しくは「どんこく」。欲深く残忍無慈悲なこと。

六五　ことの道理をはっきりさせてはなされたことは。

六六　書籍・衣類等を食う虫。ここは学者を罵った。

六七　先代よりながく家に仕えている者。

六八　零落した者。

六九　無理やりに。強引に。

七〇　下僕。

七一　孝行清廉との評判。

七二　冬期の三か月間。

七三　一枚のかわごろも。剪灯新話、富貴発跡司志「寒一裘暑一葛、朝晡粥飯一盂」。

七四　夏の土用。極暑の間。

七五　一枚の帷子を洗濯するひまもなく。着たきりで。

七六　朝夕一杯の粥で。

七七　出入りをさしとめられ。

七八　あくせくと働いて。

七九　不熱心。怠惰。

八〇　精神精力を集中し。

八一　従来は蹺蹺・蹺蹬とよむ。ここは蹺蹊とよんで、むずかしそうな有様に解しておく。

八二　的中することはまれで、大ていはずれる。

八三　孔子の高弟顔子が一つの瓢をいだいて清貧を楽しんだ心境もしらない。論語、雍也篇「賢哉回也、一箪食一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其楽、賢哉回也」。

八四　仏教では前世の因縁をもって説明し。

八五　儒教では天の定めた運命であると教える。

八六　かくれた徳とよいおこない。

八七　来世でむくいられるであろうとそれを頼みに。

八八　腹立ちを我慢する。

八九　右側によみ、左側に意訳を示す白話小説注解書の用いた表現法。とりとめのないでたらめ。

九〇　黄金の精霊をさす。

九一　依る。信奉する。

九二　もしそうでないと否定されるならば。

九三　昔からいろいろ論じられて、しかもまだ結論の出ていない道理。

九四　五雑組、巻一五「使今世之富貴貧賤皆由前生之脩否乎」。

九五　おおざっぱでいいかげんな教え。

九六　他人にたいして権勢をふるい。

九七　道理にはずれた妄言をいいつのり。

九八　粗暴で情理にくらい野蛮な心。

九九　名誉とかわが身の利欲とかを。

一〇〇　関係する。とらわれる。こだわる。

一〇一　無知愚昧な女どもをたぶらかす。

一〇二　いいかげんな。未熟な。

一〇三　中庸、一七「宗廟饗之、子孫保之」。祖先の霊もこの徳をうけて天子の礼をもって祀られ、子孫もこの徳をうけて名と位、禄と寿を保った。

一〇四　私なりの異った意見。

一〇五　感情のないもの。

一〇六　産業をいとなんで。

一〇七　品性卑しくけちんぼ。

一〇八　「着るべきをも」の意。

一〇九　眼前に見るようなわかりきった道理。

一一〇　いつくしんでほめ。

一一一　天・神・仏は、人間の道をただし、教えるもの。

一一二　金銀を大切にする人々をさす。

一一三　黄金の霊に仕え奉仕する。

一一四　善果となるべき善行をしても。

一一五　恵む理由もないのに。

一一六　「貸」に同じ。

一一七　苦境においやられて。

一一八　造化の神のお恵み。

一一九　一生のうちに。

一二〇　どれほどすがすがしいことだろう。公任卿集「ささなみや滋賀の浦波いかばかり心のうちのすずしかりけむ」。

一二一　術に巧みなものはよく富をあつめ。貨殖列伝「能者輻湊、不肖者瓦解」。

一二二　貨殖列伝「富無軽業、則貨無常主」。

一二三　昼夜往来して。貨殖列伝「若水趨下、日夜無休時」。

一二四　遊んで暮すひま人が定職なく徒食すれば。

一二五　中国の名山。諺「坐してくらえば泰山も空し」。山の如く蓄積された食物。

一二六　河海の如く多量の飲料。

一二七　文意明確を欠く。かりに「不徳の人が財宝を積むのはその人の徳不徳とは無関係で、道徳とは相容れないことゆえ、君子の富貴は同日に論ずべきではない」としておく。

一二八　時運をえた人が。

一二九　別天地に生きている。

一三〇　すばらしい。

一三一　豊臣秀吉の威光が天下をあまねく靡かせ。

一三二　京都を中心とした五国、七つの行政区画。日本全国、津々浦々。

一三三　ようやく。どうやら。

一三四　国を亡ぼされた主君に忠義をつくす武士。

一三五　まえまえからの素志。

一三六　耒は鋤。矛は槍に似た兵器。

一三七　天職の農耕にいそしもうとしない。

一三八　誰に味方なさるのですか。

一三九　一生涯、その威勢を、甲斐・信濃・越後にふるったのみ。

一四〇　いまや。

一四一　非常に好運にめぐまれた。市井雑談集「とにもかくにも信長は果報いみじき者也……恐くは我子孫彼が為に滅亡せんか」。

一四二　いまこの病気にかかった。

一四三　肩をならべる好敵手。

一四四　信玄没後五年にして死去。

一四五　まかされた。天下統一の覇業をいう。

一四六　家臣。明智日向守光秀。

一四七　はじめから天下を征服してその志が天下に満ちるようなものではなかった。秋成は胆大小心録一二に「豊臣公の大器も、始より志の大なるにはあらざりし也、云云」という。

一四八　柴田勝家と丹羽長秀。

一四九　あたかも竜と化して大空に昇ったように位は人臣を極めているが、昔の境遇身分を忘れているのではなかろうか。

一五〇　蛟はみずちで、蛇に似た竜の一種。蜃は蛟の属。まだ竜になっていないもの。

一五一　五雑組、巻九「竜由蛟蜃化者寿不過三歳」。

一五二　倹約が行きすぎると。

一五三　富み栄え豊かで。

一五四　雅楽の曲名。ここは御代泰平と家運繁栄をことほぐこと。

一五五　堯は中国古代の天子。蓂は聖代に生えた蓂莢という瑞草。杲はすでに日が高く。百姓は万民。帰家は、「帰家康」を暗示する。

一五六　午前四―六時。

一五七　この一夜中のこと。

一五八　どうやら精霊の言の真意が会得されて。

一五九　信ずるにいたった。

一六〇　瑞草の生ずるような聖代にめぐりあうべきめでたいしるしであり、めでたいはなしである。

一六一　一七七六年。後桃園天皇の代。将軍一〇代家治。秋成四三歳、大坂にて医を業としていた。

一六二　四月。

一六三　天明三年ごろから天明七年に、大坂心斎橋筋博労町の書肆名倉又兵衛と合板の形で、「雨月」を再版している。

  


## 解説

「<ruby><rb>雨月物語</rb><rt>うげつものがたり</rt></ruby>」は、安永五年（一七七六）に出版された、五巻五冊、全九話を収めた、いわば短篇小説集で、著者は<ruby><rb>上田秋成</rb><rt>うえだあきなり</rt></ruby>であり、これを近世小説のジャンルでいえば<ruby><rb>読本</rb><rt>よみほん</rt></ruby>とよばれるものであるが、その文学的性格にそくしていえば、伝奇小説、時代小説、怪異小説、翻案小説などとよんでいいものである。――このアウトラインにしたがって、簡単な解説をこころみておくことにしたい。

「雨月物語」が最初に出版されたのは安永五年四月、半紙本五巻五冊のかたちであった。奥付に「安永五歳丙申孟夏吉旦、書肆、京都、寺町通五条上ル町、梅村判兵衛、大坂、高麗橋筋壱町目、野村長兵衛」とあるように、これは野村・梅村両<ruby><rb>書肆</rb><rt>しょし</rt></ruby>の合刻本で、ふつう<ruby><rb>野梅堂</rb><rt>やばいどう</rt></ruby>版とよばれている。その後、おなじ板木をもちいて、野村と名倉の合刻による再版本、名倉と藤沢の合刻による三版本等が出版されたが、これらはいずれも半紙本五巻五冊であった。

その後さらに大阪の河内屋源七郎を版元とした美濃版三冊の本が出版され、<ruby><rb>文栄堂</rb><rt>ぶんえいどう</rt></ruby>版とよばれたが、このほかにもまだ奥付に数軒の書肆をならべた本などがあり、これら美濃版三冊本はだいたい天保以後の出版と推定されている。

すなわち、「雨月物語」は初版以後、幕末ちかくまでに数版を重ねたのであり、そのかたちこそ半紙本五冊から美濃版本三冊にかわったが、すべて一つの板木を用いたものであった。

「雨月物語」の序文をみると、「明和戊子晩春。雨霽月朦朧之夜。窓下編成。以畀梓氏。」とあって、この作品がいかにも明和五年（一七六八）三月に成立したように書かれている。明和五年というと作者秋成は数え年で三十五歳であり、明和五年から安永五年までには八年の歳月がある。従来の研究家は、この八年間を、<ruby><rb>推敲</rb><rt>すいこう</rt></ruby>の時期――やや具体的にいうと、明和五年に雨月の草稿が書かれ、その後八年間、折をみて推敲に推敲をかさね、完成したのが安永五年であり、その完成したものがいま私たちのみる「雨月」である――と考えているが、明和五年に成立したということについては多分に疑問があり、その点に関して、私は「秋成文学の展開」（「国文学」第四巻第七号所収）のなかに所見を述べておいたから参照されたい。ここで結論だけをいえば、秋成が「雨月物語」を書いたのは、明和八年に火災で家をうしなってから以後のことと推測される。

「雨月物語」という書名が、どうしてつけられたか、またそれがなにを意味しているか、ということについては、いくつかの説がある。たとえば、作者みずから序文に「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">雨</span>霽<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">月</span>朦朧之夜。窓下編成。以畀梓氏。題曰雨月物語。云。」とあるのがその由来であるという説、また、西行をワキとする謡曲「雨月」にちなんで、冒頭に西行法師と崇徳院の亡霊の問答を構想した「<ruby><rb>白峯</rb><rt>しらみね</rt></ruby>」をおいたことが、その題名のもとづくところであるという説、また中国の怪異談「<ruby><rb>剪灯新話</rb><rt>せんとうしんわ</rt></ruby>」の「<ruby><rb>牡丹灯記</rb><rt>ぼたんとうき</rt></ruby>」に、妖怪出現の時刻を「天陰<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">雨</span>湿之夜、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">月</span>落参横之晨」としているところから、「雨」と「月」で怪異をあらわしたのだとする説などがそれである。にわかにはどれとさだめがたいが、おおよその見当はつくであろう。

「雨月物語」の著者は、序文に「<ruby><rb>剪枝畸人</rb><rt>せんしきじん</rt></ruby>」と署名しているだけであるが、これが上田秋成の戯号であることにまちがいはない。文栄堂版の見返しには「上田秋成大人編輯」と明記している。剪枝というのは、木をきる鋏の意であるとともに、秋成は、これを剪肢（指）に通じさせて、みずからの不具の手を自嘲したのであろう。秋成は、五歳の折、重い<ruby><rb>痘瘡</rb><rt>とうそう</rt></ruby>をわずらって、その痘毒のために、右の中指と左の人さし指がひどく短くなり、用にたたなくなっていた。<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い両手をながめながら、そこから一時の戯号をおもいつくなどというのも、いかにも秋成らしい。

「雨月物語」の九つの短篇は、いずれも和漢の古典を典拠として開花結実した、いわば翻案小説であった。その内容と典拠を簡単にしるしておくと――

白峯――<ruby><rb>讃岐</rb><rt>さぬき</rt></ruby>の国白峯にある崇徳院の陵に詣でた西行法師が、ありし日のすがたをあらわした院の亡霊と、初冬の一夜、その生き方について論争し、その怨恨を慰めようとしたはなし。謡曲「松山天狗」、西行関係の「<ruby><rb>撰集抄</rb><rt>せんじゅうしょう</rt></ruby>」「<ruby><rb>山家集</rb><rt>さんかしゅう</rt></ruby>」、白峯寺関係の「<ruby><rb>白峯寺縁起</rb><rt>はくほうじえんぎ</rt></ruby>」、戦記文学の「保元物語」「<ruby><rb>国府台戦記</rb><rt>こうのだいせんき</rt></ruby>」「太平記」、<ruby><rb>先縦</rb><rt>せんしょう</rt></ruby>の読本「<ruby><rb>英草紙</rb><rt>はなぶさぞうし</rt></ruby>」、中国白話小説「<ruby><rb>古今</rb><rt>ここん</rt></ruby>小説」「<ruby><rb>警世通言</rb><rt>けいせいつうげん</rt></ruby>」等の影響のもとに書かれた思想的な歴史小説。

菊花の約――旅先で重病にかかった<ruby><rb>赤穴</rb><rt>あかな</rt></ruby>宗右衛門という武士は、<ruby><rb>丈部</rb><rt>はせべ</rt></ruby>左門という学者から手厚い看護をうけ、やがて二人は義兄弟のちぎりをむすぶ。別れにのぞんで、赤穴は、重陽の佳節に再会することを約束する。しかし、郷里に幽閉されてしまった赤穴は、再会の日を迎えて自害し、<ruby><rb>魂魄</rb><rt>こんぱく</rt></ruby>となってその約をはたす。亡魂と対面した丈部は、赤穴の郷里におもむいて赤穴の無念をはらす。全体の構想においても、部分的な叙述においても、中国白話小説「古今小説」に収められた「<ruby><rb>范巨卿鶏黍死生交</rb><rt>はんきょけいけいしょしせいのまじわり</rt></ruby>」をかなり忠実に翻案した、文字通りの翻案小説である。ときに「<ruby><rb>陰徳太平記</rb><rt>いんとくたいへいき</rt></ruby>」や「英草紙」が参酌され、「万葉集」の歌にたいする秋成の見解などが挿入されている。

浅茅が宿――下総真間の里にすむ勝四郎は、家運挽回のために上京したが、不慮の災難と戦乱勃発のために、妻の宮木と約束した時期に帰宅できず、おもわずも七年の歳月をすごしてしまう。そしてやっと帰国してみると、妻はひとりで夫のかえりを待ちうけ、さめざめと泣いて夫を迎えたが、一夜あけてみると、それは妻の亡霊であった。そこで勝四郎は妻の<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>をとむらう。中国明代の「剪灯新話」中の「愛卿伝」に想をえた一篇である。この「愛卿伝」はすでに浅井了意によって「<ruby><rb>御伽婢子</rb><rt>おとぎぼうこ</rt></ruby>」に「藤井清六遊女<ruby><rb>宮城野</rb><rt>みやぎの</rt></ruby>を<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>る事」と題して翻案されており、「浅茅が宿」は「御伽婢子」をも参照している。また「今昔物語集」の「人妻死後会旧夫語」や、「万葉集」巻九にある高橋連虫麻呂の真間の手児奈の歌も、モティーフのひとつとなっている。このほか「徒然草」百三十七段、「源氏物語」蓬生の巻などの投影も指摘できる。

夢応の鯉魚――絵の名手、三井寺の僧興義は病で息絶え、三日にして蘇生したが、その間、鯉となって琵琶湖を泳ぎまわり、魚としての体験をするというはなし。中国宋代の説話集「<ruby><rb>太平広記</rb><rt>たいへいこうき</rt></ruby>」中の<ruby><rb>薛偉</rb><rt>せつい</rt></ruby>のはなし、明代説話集「<ruby><rb>古今説海</rb><rt>ここんせっかい</rt></ruby>」にある「魚服記」、それらをもととした白話小説集「<ruby><rb>醒世恒言</rb><rt>せいせいこうげん</rt></ruby>」中の「薛録事魚服証仙」等を典拠として構想した一篇で、「古今著聞集」や「宇治拾遺物語」等も参照されている。

仏法僧――夢然という男が、高野山で、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあって、歌や句のはなしを聞く。出典は、「怪談とのゐ袋」巻四の「伏見桃山亡霊行列の事」をはじめとして、「剪灯新話」の「竜堂霊会録」、「剪灯余話」の「武平霊怪録」、およびその影響をうけた「御伽婢子」の「幽霊評諸将」のほか、「本朝神社考」「太平記」等があげられる。

吉備津の釜――道楽者の夫正太郎に裏切られた貞淑な妻の磯良が、<ruby><rb>怨霊</rb><rt>おんりょう</rt></ruby>となって、夫の情婦を殺し、さらに夫までもとり殺すという凄惨な怪異小説。「剪灯新話」の「牡丹灯記」「<ruby><rb>翠々</rb><rt>すいすい</rt></ruby>伝」、「御伽婢子」の「牡丹灯籠」、「<ruby><rb>奇異雑談集</rb><rt>きいぞうだんしゅう</rt></ruby>」の「女人死後男を棺の内へ引込ころす事」、「日本霊異記」の「女人悪鬼見点被食噉縁」等を典拠とし、さらに中国から<ruby><rb>舶載</rb><rt>はくさい</rt></ruby>された「<ruby><rb>五雑組</rb><rt>ござっそ</rt></ruby>」、わが国近世の「本朝神社考」にみえる吉備津神社の御釜祓いの神事、「新御伽婢子」等が参照引用されている。

蛇性の婬――豊雄という美青年が、美人に化けた蛇にみこまれ、つきまとわれて、すでに一命のあやうくなったのを、法力によって退治するという、妖しくも艶なるはなしで、紀州・吉野の美しい自然を舞台として長篇小説的構想をとっている。中国明末の白話小説集「警世通言」中の「白娘子永鎮雷峯塔」、それとほとんど同文の「西湖佳話」中の「雷峯怪蹟」等を典拠として、それに道成寺説話をからませ、「五雑組」をはじめとして、「伊勢物語」「源氏物語」等の古典を随所にかりている。

青頭巾――下野国<ruby><rb>大中寺</rb><rt>だいちゅうじ</rt></ruby>にいた人肉を食う僧を、快庵禅師が教誡をもって白骨と化すという、大中寺縁起、高僧説話のかたちをとった妖怪味あふるる一篇。「大中寺縁起」、「怪談とのゐ袋」の「禅坐を以て怪を伏す奥州の禅僧」「魔仏を以て一如とす悟道の聖人、附、すたれし寺を取たてし僧の事」、浮世草子「<ruby><rb>都鳥妻恋笛</rb><rt>みやこどりつまこいぶえ</rt></ruby>」のはなしなどが典拠となっているが、部分的には「五雑組」、「今昔物語集」および「日本霊異記」中の「憶持法花経者舌著曝髑髏中不朽縁」、「宇治拾遺物語」中の「三河入道遁世の事」、「世尊寺に死人を掘出す事」、「<ruby><rb>新著聞集</rb><rt>しんちょもんしゅう</rt></ruby>」中の「僧屍肉を噉ふ」、「<ruby><rb>水滸伝</rb><rt>すいこでん</rt></ruby>」、「剪灯新話」中の「<ruby><rb>天台訪陰録</rb><rt>てんだいほういんろく</rt></ruby>」、その他の投影をみることができる。

貧福論――蒲生家の臣、岡左内と、左内が平生尊んでいる黄金の精との一問一答を構想して、貧福の論を展開したもの。「常山記談」にみえる岡野左内の逸話、「史記」の「貨殖列伝」、魯褒の「<ruby><rb>銭神論</rb><rt>せんしんろん</rt></ruby>」、「御伽婢子」の「長柄僧都が銭の精霊に逢事」、「五雑組」等に典拠をもとめている。

こうして各短篇が、多かれすくなかれ、ある種の典拠の上に構想された翻案小説であったということは「雨月物語」のおもしろみのひとつが翻案の妙にあったということである。秋成が「雨月物語」を書くにさいしていだいた対読者意識は、すくなくとも自分と同程度の教養ある読者、同等ぐらいの具眼の士を想定していた。だから、賢明でものわかりのいい、そして文学鑑賞力のゆたかな読者は、それぞれの作品についても、それが何を典拠とし、その典拠がどのように翻案されているかということを読みとるとともに、その典拠をのりこえて、どのような独自の世界が創造され、構想されたかという点にまで鑑賞眼をひからし、翻案文学の妙味というものを十分味読してくれるであろうというのが、秋成の計算であり、「雨月物語」のひとつのねらいであった。その意味からいえば、「雨月物語」はインテリの文学であり、主知主義の文学であった。

「雨月物語」は、題材からみれば時代小説であった。作品でとりあげた「時代」は、おおむね「中世」であった。なかに近世の出来事とおもわれるものも一二ないではないが、それとても本質的にはけっして近世的現実や近世的性格をもつ題材ではなかった。

秋成がことさら中世的題材をえらんだ意図は、徳川封建社会の支配をうけない時代を設定することによって、儒教的封建道徳や官制の思想と真正面から対立することを極力回避しようとしたからにほかならない。ようやく国学的な世界観や人間観を身につけた秋成にとって、近世という歴史的現実からは、純粋も美も理想も、これをもとめることは不可能であった。ゆがめられた現実、おしつぶされた人間性、ワクにはめこまれた生活……そうしたものから眼をそむけて、はるかな時間的かなたをながめたときに、はじめて自己に忠実な世界、自己の抱懐するファンタジーの次元が構想されたのである。時代小説のひとつの重要な意義がここにあるとともに、それは「雨月物語」を怪異小説に仕立てた意図と軌を一にするものでもあった。

怪異小説としての「雨月物語」は、日本文学史上、もっともすぐれた怪異美と芸術性をうちたてた文学であった。

わが国における怪異文学や怪異談の歴史は、ふるくさかのぼれば、古代の「日本霊異記」や「今昔物語集」のなかにも、それをもとめることができる。さらに中世の説話文学群もいくつかの怪異談をおさめている。そして近世初期に書かれた「奇異雑談集」（刊行されたのは貞享四年）は、「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」を吸収しながら、あらたに中国から舶載された怪奇白話小説「剪灯新話」の中に収められた三つのはなしを訳出した。

それに続いて、浅井了意によって、「剪灯新話」その他を翻案した「御伽婢子」「剪灯余話」その他を翻案した「<ruby><rb>狗張子</rb><rt>いぬはりこ</rt></ruby>」等が発表され、さらに「百物語」「怪談全書」等の怪談文学が公にされて、ここに怪異小説の系譜とよんでいいような流れが形成されたのである。

くわえるに、八代将軍吉宗の享保の改革政治がひとつのきっかけとなって、それまで漢学といえばむずかしい四書五経の経義がもっぱらであったのが、文学的色彩をおびた詩文・小説が流行し、しきりに中国小説が輸入され翻訳されはじめたのである。たとえば、前にあげた「剪灯新話」にしても、それがわが国に輸入されたのは中世も末期、十六世紀の中ごろであったらしいが、それがわが国で翻刻されたのは近世初期の慶安元年（一六四八）であり、それがひろく学者のあいだにもてはやされたのは、近世も中ごろ、十八世紀の初頭、宝永ごろからであった。

十八世紀も中ごろになると、ようやく中国小説の翻刻がさかんにおこなわれるようになった。長崎の通辞<ruby><rb>岡島冠山</rb><rt>おかじまかんざん</rt></ruby>は「忠義水滸伝」を訳した。播州の儒者<ruby><rb>岡白駒</rb><rt>おかはっく</rt></ruby>は明代の短編小説集「警世通言」「醒世恒言」「<ruby><rb>拍案驚奇</rb><rt>はくあんきょうき</rt></ruby>」等から数編をえらんで注解をくわえ、「小説精言」（寛保三年刊）「小説奇言」（宝暦三年刊）の題名のもとに出版した。白駒の弟子沢田重淵はおなじ方法で「小説<ruby><rb>粋言</rb><rt>すいげん</rt></ruby>」（宝暦八年刊）をあらわした。<ruby><rb>倚水楼</rb><rt>いすいろう</rt></ruby>主人や<ruby><rb>柳里恭</rb><rt>りゅうりきょう</rt></ruby>も清代小説の訳読をこころみ、西田維則も三言二拍（喩世明言・警世通言・醒世恒言と拍案驚奇初続編をいう）を抄訳して「<ruby><rb>赤縄奇縁</rb><rt>せきじょうきえん</rt></ruby>」（宝暦十一年刊）をあらわした。

こうした中国白話小説の流行は、ようやくたかまってきた文人主義的傾向と中国趣味の波にのって、いっそう助長され、大阪の儒医であった<ruby><rb>都賀庭鐘</rb><rt>つがていしょう</rt></ruby>（近路行者）が、中国明末の「古今奇観」その他の中国短篇小説に題材をもとめて、それを和漢混淆文の文語体でわが国の出来事に翻案した「英草紙」（寛延二年刊）を発表するにおよんで、一つの明確なかたちと方向を示したのである。しかも「英草紙」の好評は、その続編「<ruby><rb>繁野話</rb><rt>しげしげやわ</rt></ruby>」（明和三年刊）を後続させ、さらに「<ruby><rb>垣根草</rb><rt>かきねぐさ</rt></ruby>」（明和七年刊）「<ruby><rb>莠句冊</rb><rt>ひつじぐさ</rt></ruby>」（天明六年刊）を世におくり出した。怪異小説の流行期がおとずれたのである。

明和三年（一七六六）三十三歳の正月に、処女作「<ruby><rb>諸道聴耳世間狙</rb><rt>しょどうききみみせけんざる</rt></ruby>」を発表し、ついで翌四年正月に、第二作「<ruby><rb>世間妾形気</rb><rt>せけんてかけかたぎ</rt></ruby>」を刊行して、浮世草子界にはなばなしくデビューしながら、浮世草子界の<ruby><rb>元締</rb><rt>もとじめ</rt></ruby>ともいうべき八文字屋の崩壊に遭遇して、はげしい自己反省と自己嫌悪のすえ、方向転換を考えなければならなくなった秋成に、怪異小説・翻案小説の流行は、ある種のつよい<ruby><rb>示唆</rb><rt>しさ</rt></ruby>と指標を与えた。ようやく学問的にも文学的にも開眼しようとしていた秋成は、漢文の師ともいうべき都賀庭鐘の示した業績にたいして深く傾倒し、それに範を仰ごうとした。

折も折、秋成を加藤<ruby><rb>宇万伎</rb><rt>うまき</rt></ruby>に紹介した<ruby><rb>建部綾足</rb><rt>たけべあやたり</rt></ruby>が、「西山物語」と題する和文調の主知的伝奇小説を発表した。明和五年二月である。秋成はこれにもつよい刺戟をうけた。綾足は、その後、安永二年（一七七三）には、中国の大伝奇小説「水滸伝」を翻案した「本朝水滸伝」をあらわして、ふたたび文壇に怪気焔をはいた。――「雨月物語」は、そうした直接間接の刺戟と示唆をうけて書かれたのである。

だから怪異小説とはいっても、たんに怪奇をえがき、怪異美を追求するというだけのものではなく、そこには秋成の旺盛な意欲と、なみなみならぬ意図がふかく秘められていたのである。

たとえば「吉備津の釜」の女主人公磯良は、道楽者の夫に裏切られたすえ、ついに嫉妬にくるって死に、怨霊となって憎い情婦を殺し、ついで夫をとりころすのであるが、生きているときにはまさに典型的な貞婦であり、封建婦道の権化ともいうべき模範的女性であった。いいかえれば、人間性とか自我とかいうものを徹底的に完封して、ひたすら忍従と貞淑と自己犠牲のモラルを遵奉して生きていた磯良は、死によって現世のあらゆる抑圧と制約から解放されたとたんに、生来のナイーブな人間性情をとりもどし、本来の純粋なすがたにたちもどったのである。このことはとりもなおさず、人間性そのものを強圧的なモラルや掟で縛りつけてゆがめてしまった儒教的封建性にたいする反撥であった。

つねにみずから潔癖であるとともに、純粋をもとめてやまなかった秋成は、加藤宇万伎との交渉によって、国学への<ruby><rb>造詣</rb><rt>ぞうけい</rt></ruby>をふかめるとともに、国学的な世界観や人間観を身につけ、反封建的超俗的な思想を抱懐するようになった。秋成は、儒者の現実的合理主義を排撃し、封建思想の人間性抹殺をにくんだ。すくなくとも現実の封建社会は、儒教思想によって身うごきできないまでに<ruby><rb>膠着</rb><rt>こうちゃく</rt></ruby>化し形式化してしまっている。そこには磯良の遭遇したような不幸や悲劇を救うみちは、完全にとざされていた。もし人間性を尊重し、いいかげんなゴマカシや妥協を排して、ひたすらに純粋であり、自己に忠実であろうとすれば、死によって封建支配をのがれる以外にみちはない。秋成が磯良を死においやったのはそのためであった。磯良は現実から解放されることによって、うまれてはじめて本来の純粋な人間性をとりもどしたのである。

「夢応の鯉魚」の興義が仮死状態のうちに、鯉となって琵琶湖を自由に游ぎまわるというはなしのなかには、自由へのつよいあこがれと解放された人間のよろこびをみることができる。「蛇性の婬」の真女児は蛇の化身なればこそ、この世の掟やモラルをのりこえて、ただひたむきに男を愛し、男を独占しようとする執念と愛情をつらぬきとおせたのである。

「雨月物語」に出現する化身や怨霊や亡魂や幽鬼は、いってみれば、素朴と純粋をひたむきに愛する秋成が、あくまで自己に忠実であろうとする精神を具象化したものであり、反封建的・反儒教的な思想を形象化したひとつのすがたであった。その意味では、「雨月物語」は意欲的な文学であり、夢と純粋にみちみちた浪漫主義的文学であった。そして秋成のめぐまれた詩人的資質と文学的才能が、それを安全に美的燃焼しつくしたところに、「雨月」の卓越した芸術性がうちたてられたのである。

文学史上<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>な存在意義をもち、古典文学中比肩するもののないようなユニークな芸術性をうちたてながら、しかもなお「雨月物語」は孤高な文学であった。後世にいたって多くの愛読者と熱心な礼讃者をかちえたとはいうものの、当時においては、正統な後継者も追随者ももたず、ちょうど作者秋成のすがたがそうであったように、ひとりさびしくかがやきつづけた文学であった。それはひっきょうするに、「雨月物語」があくまで秋成個人の自我にねざしたきびしい文学だったからである。

「雨月物語」の文章は、和漢・雅俗を混淆融和させた、流麗優雅な説話体であり、吟誦にたえるものである。秋成の古典的教養が、わが国の古典をふまえ、漢籍をふまえて、故事・古語・漢語を縦横に駆使したからである。描写は幻想にとみ、つよい迫真力をもち、とくにその怪異描写は凄絶をきわめ、生彩をはなって、読者をして戦慄と恍惚をふたつながらおぼえさせるものがある。語感を複雑にするために、漢語に和訓をほどこしているのは、のちの読本の先蹤をなす表現方法であった。

また秋成独得の語法である係り結びの軽視、口語的発想、仮名づかいの表音化、独自の振り仮名、ユニークな接続法等も、みのがしえない特徴である。

本文に挿入された挿絵は、桂眉仙の筆と推定されている。眉仙、名は常政、字は雪典、大阪の画家で、秋成と交友関係があった。

鵜月　洋