Soranoha

利根水源探検紀行

とねすいげんたんけんきこう

渡辺 千吉郎

目的

利根とねの水源すゐげんを確定かくていし、越後えちご及およひ岩代いわしろと上野かうずけの国境を定さだむるを主たる目的もくてきとなせども、傍かたはら地質ちしつの如何いかんを調査てうさし、将来しやうらい開拓かいたくすべき原野げんやなきや否いなや、良山林りやうさんりんありや否いなや、従来藤原村ふじはらむら三十六万町歩即凡そ十三里四方ありと号ごうする者果はたして真しんなりや否いなや、動植物どうしよくぶつ及および鉱物の新奇しんきなるものありや否等を究きはむるに在あり、又藤原村民の言に曰く、従来此深山に分わけ入いりて人命を失うしなひしもの既すでに十余名、到底とうてい深入しんにふすることを得えず古いにしへより山中に恐おそろしき鬼婆をにばばありて人を殺ころして之を食くらふ、然しからざるも人一たひ歩ほを此深山に入いるれは、山霊さんれいの祟たたりにやあらん忽たちまち暴風雨を起おこして進すすむを得ざらしむ、唯ただ口碑こうひの伝ふる所に拠よれは、百二十年以前に於て利根水源とねすゐげんたる文珠もんじゆ菩薩の乳頭にうたうより混々こん〱として出で来きたり、其傍に光輝こうき燦爛さんらんたるものあるを見みしものありと、此等の迷霧めいむを霽はらさしめんとの志こころざしは一行の胸中に勃然ぼつぜんたり、此挙このきよや数年前より県庁内けんちやうないに於て行おこなはんとの議ぎありしも常つねに其機そのきを得ず、然しかるに今や之を决行けつこうする事とはなりぬ。一行の姓名は左の如し

技師       小西文之進

県属第二課地理掛 森下鑛吉

同        深井仙八

△利根郡長     櫻井小太郎

利根郡書記    遠藤正太郎

沼田尋常高等小学校長

石田勝太郎

△沼田警察署長   吉田忠棟

△沼田巡査部長   坂本武雄

同 巡査     鹽原甚藏

沼田収税署長   榎本嘉助

沼田小林区署長  土屋榮太郎

同森林監守    長松榮之進

△同        高野峯之進

利根郡水上村長  木村政治郎

同 前村長    大塚直吉

△同大字藤原村区長

中島甚五左衞門

及および余を合あはせて総計十七名、中途ちうと帰かへりし者を除のぞけば十二名とす、右の三角印は中途ちうと帰かへりしものとす、此他人夫十九名同道者どう〱しや三人、合計ごうけい三十九名とす、但ただし人夫中四人及道者三人は中途に帰かへりたるを以て、探検たんけんの目的もくてきを達たつせし人員は合計二十七名となす。

因に云ふ、右一行中小西技師は躰量たいりやう二十三貫の大躯たいくなれ共常つねに県下巡回じゆんくわいの為ため山野の跋渉ばつせうに慣なれ、余の如ごときは本もと山間の産さんにして加くわふるに博物採集はくぶつさいしうの為ため深山幽谷を跋渉はつせうルビの「はつせう」はママするの経験けいけんに積つみ、森下深井両君の如ごときは地理掛として最もつとも其道に専門の人と云ふべきなり、林区署の諸君亦また然しかり、大塚君は前年名佐技師に従したがふて利根山間を探さぐりし経験けいけんあり、長髯口辺を被おひ背に熊皮くまかわを横よこたへ、意気いきの凛然りんぜんたる一行中尤著いちじるし、木村君は初はじめ一行に向むかつて大言放語たいげんはうご、利根の険難けんなん人力の及およぶ所に非あらざるを談じ、一行の元気を沮喪そさうせしめんとしたる人なれ共、本もと水上村の産にして体脚たいきやく強健きやふけん、棒押ばうをしに於ては村内の人民敢あへて之に勝かつものなしと云ふ、一夕小西君と棒押ばうをしを試みしも到底とうてい其対手あひてに非ざるなり、此他の諸君も皆健脚けんきやくの人のみ、人夫中にては中島善作なるものは猟りやうの為め常つねに雪ゆきを踏ふんで深山しんざんに分わけ入るもの、主として一行の教導けうどうをなす、一行方向に迷まよふことあれば直ただちに巧たくみに高樹の頂いただきに上のぼりて遠望ゑんぼうし、前途を見究みきはめて後のち進行しんかうせしむ、善作一たび方向を定さだめて進すすむ時は、其その誤らざる事磁石に拠よるよりも勝まされりと云ふべし、真しんに一行中屈竟くつけうの好漢こうかんたり、中島鹿吉なるものは躯幹偉大ゐだい、背せに三斗の米こめを負おふて難路を歩あゆむも、常つねに平然たること恰あたかも空手くうしゆ坦途たんとを歩むが如し、真しんに一行中の大力者なり、林喜作なるもの少すこしく病身なりしも魚うをを釣つるに巧たくみなり、皆各其人を得えたりと云つべし、殊ことに人夫は皆藤原村及小日向村中血気けつき旺盛わうせいの者にして、予等一行と辛苦しんくを共にし、古来こらい未曾有みそういうの発見はつけんをなさんと欲するの念慮ねんりよある者のみを選えらびたるなり、実じつに一行が首尾しゆび克よく探検たんけんの目的もくてきを達するを得たるは、忠実ちうじつ勇壮ゆうさうなる人夫の力大に与あづかつて力ちからありとす。

九月十九日

此日一行は沼田ぬまたより湯檜會に「湯檜會に」はママ着し、夜大に会議を開ひらきて進路しんろを議ぎす、議二派に分わかる、一は国境論こくけうろんにして一は水源論すゐげんろんなり、国境論とは上越の国界なる清水越しみづごへより山脈の頂上を常つねに進行しんこうせんとするものにして、遂つひに頂上より水源を認みとめなば水流を逐おふて漸次下くだらんとするなり、水源論とは初はじめより水流を溯さかのぼりて水源に至いたり、山の頂上に出で其後そのご国境こくけうとする所を踏ふみて帰かへらんとするを云ふなり、二派各其困難こんなんの度を比較して利害得失りがいとくしつを述のべ、甲論乙駁容易ようゐに决けつせず、数時間を経へて遂つひに水源論多数たすうを占しめ之れに一决す、其議論の激はげしき遂つひに小西技師をして、国境論者こくけうろんしやは別隊を率ひきゐて別べつに探検たんけんすべしとの語を発はつせしむるに至いたりたる程なりき、若もし糧食れうしよくの備そなへ充分にして廿日以上の日子を費つひやすの覚悟なりせば、右両説の孰いづれを取とるも同じと雖も、奈何いかんせん十日間の食糧を以て探検たんけんの目的もくてきを果さんとの心算なれば、途中如何なる故障こしやうの起おこるありて一行餓死がしの憂うれへあるやも計られず、為に早はやく人家ある所に出いづるの方針ほうしんを執とらざるべからざるを以て、斯かく議論の沸騰ふつたうしたるなり。

食糧しよくれうは米一石餅三斗、之れ十七人の分にして皆人夫をして負おはしむ、人夫は此他に各自の食糧しよくれうを各準備じゆんびしたり、其他草鞋わらじ二百足、馬桐油うまとうゆ三枚、鰹節かつをぶし数十本及釜かま、鍋なべ、味噌みそ、醤油しようゆ、食塩しよくゑん等を用意したり、又護身の用として余は三尺の秋水しふすゐを横よこたへ、小西、森下、深井、石田の四君は各「ピストル」を携帯けいたいし、人夫は猟銃れうじう二挺を準備じゆんびしたり。

九月廿日

昨夜来さくやらい頻しきりに降ふり来る雨は朝に至りて未だ霽はれず、遥はるかに利根山奥を望のぞむに雲烟うんえん濛々もう〱前途漠焉ばくえんたり、藤原村民の言の如く山霊さんれい果して一行の探検たんけんを拒むかと想おもはしむ、或るものは雨あめ霽はれて後のち出立すべしと言ひしも、予等の予定よていは最初より風雨に暴露ぼうろせらるる十日間に渉わたるも敢あへて厭いとはざるの决心なるを以て、断然だんぜん雨あめを冒おかして進行しんかうすることとはなれり、然しかるに図はからざりき、藤原村に進すすむに従したがつて雨漸次に霽れ来きたり、全く晴朗せいらうとなる、蓋けだし天我一行を歓迎くわんげいするの意乎、探検一行無事の吉兆きつてう既すでに此の発程に臨のぞみて現あらはれたり、衆皆踊躍とうやくして藤原村を過すぎ、須原峠を越こえ湯ゆの小屋こやに至いたり泊す、温泉塲をんせんば一ヶ所あり、其宿の主人は夫婦共に偶たま〱他業たぎやうして在あらず、唯浴客数人あるのみ、浴客一行の為めに米こめを炊かしぎ汁しるを煮に且つ寝衣をも貸与たいよす、其質朴しつぼく愛あいするに堪へたり、余炉辺に坐ざし一客に問とふて曰く、是より山奥に至いたらば栗樹くりありや否、余等一行若もし探検たんけんの中途ちうとにして飢餓きがに陥おちゐることあらん乎、栗等の果実くわじつに拠よりて餓死がしを免のがれんとすと、客答へて曰く、栗樹は人家近ちかき所に在あるのみ、是より深山に入いらば一樹をも見みる能あたはざるべしと、余又栗くりを食する能はざるを嘆たんじ、炉辺ろへんに栗くりを炙あぶり石田君も共ともに大に之を食くらふ宿は、利根とねの支流しりうたる湯ゆの小屋河に臨のぞみ、河を下くだる事二町にし玄道、大龍、小龍の三大瀑布ばくふありて実じつに壮観を極きはむ、衆相顧かへりみて曰く、這回の探検たんけんたる此等の如き険所けんしよ数多を経過けいくわせざるべからざるかと、一行皆な勇ゆうを皷こして壮快さうくわいと叫さけぶ。

夜よに入れば当宿の主人帰かへり来きたる、主人は当地の深山しんざん跋渉ばつしやうに経験けいけんありとの故を以て、呼よんで一行と共にせんことを談だんず、主人答へて曰く、水源を溯源さくげんして利根岳に登のぼり、之より国境を通過つうくわして清水越しみづごえに至いたらんには、少くとも十数日の日子を要えうし、又利根岳より尾瀬沼即ち岩代と上野の国境に出いでんにも亦十余日を要えうすべし、一行が準備じゆんびせらるる十日間の食糧しよくれう到底とうてい其目的そのもくてきを達せず、殊ことに五升許ばかりの米を負おふを命めいぜられて此深山しんざん険崖けんがいを攀躋はんさいする如きは、拙者の堪たへ能あたはざる所なりと、断だんじて随行を拒こばむ、衆相顧かへりみて愕然がくぜんたり、余の如きは胸中大に其無礼ぶれいを憤懣ふんまんす、然れ共之れ例れいの放言大語はうげんたいご、容易やういに信しんずべからざるを知しる、何となれば元と藤原地方の人民は皆みな常つねに這般の言語げんごを吐はき、深山に分わけ入るを禁物きんもつとなす者なればなり、小西君一喝かつ衆を励はげまして曰く、彼は一杯を傾かたむけ来きたりて酔狂すいきやうせるものなりと。

九月二十一日

朝あさ須原峠の嶮けんを登のぼる、偶々たま〱行者三人の来きたるに逢あふ、身には幾日か風雨ふううに晒さらされて汚けがれたる白衣を着ちやくし、肩かたには長ながき珠数じゆづを懸垂けんすゐし、三個の鈴声れいせい歩ほに従ふて響ひびき来きたる、之れ予等一行に従したがふて利根水源すゐげんたる世人未知の文珠もんじゆ菩薩を拝はいせんとする為めなり、各蕎麦粉三升を負おふ、之を問とへば曰く即ち食糧しよくれうにして、毎日三合宛づつ之を湯ゆに入れて呑のみ以て飢うへを凌しのぐを得、敢あへて一行を煩わづらはすことなけん、謹つつしんで随行の許可きよかを得んことを乞こふと、衆其熱心ねつしんに感かんじ喜よろこんで之を許ゆるす、内二人は上牧村の者にして他一人は藤原村字窪くぼの者とす、信州御岳参みたけまゐり七回の経験けいけんあるを聞きき衆皆之を壮さうとす、此峠を過すぐれば字上ヶ原の大平野あり、広袤こうばう凡一万町歩、水みづあり良草りやうさうあり以て牧塲ぼくじやうとなすに適てきす、今之を不毛に附ふし去さるは遺憾いかんと云ふべし、若もし此地に移住いじゆうし来るものあらんか、湯の小屋の温泉おんせんも亦また世よに顕あらはれて繁栄はんえいに趣おもむくや必せり。

進すすんで大蘆村に至いたれば櫻井郡長之より帰途きとに就つかる、村を過すぐれば愈いよいよ無人の境けうとなり、利根河岸の絶壁ぜつぺきに横はれる細逕さいけいに入る、進すすむこと凡二里にして道みち全まつたく尽つき、猟夫の通路つうろ又見るを得えず、途中とちう大なる蝮蛇まむしの路傍に蜿蜒えん〱たるあり、之を逐おへば忽ち叢中さうちうに隠かくる、警察署の小使某独ひとり叢中に分わけ入いり、生擒せいきんして右手に提ひつさげ来きたる、衆其巧たくに服ふくす、此に於て河岸に出でて火を焚たき蝮の皮かわを剥はぎ、味噌みそを塗ぬりて蒲焼かばやきを作つくる。衆争あらそふて之を食しよくす、探検たんけんの勇気ゆうき此に於て層さう一層さうを増まし来きたる、相謂て曰く前途ぜんと千百の蝮蛇まむし応に皆此の如くなるべしと。

愈いよ〱利根の水源すゐげんに沿そふて遡さかのぼる、顧かへりみれば両岸は懸崖絶壁けんがいぜつぺき、加ふるに樹木じゆもく鬱蒼うつさうたり、たとひ辛からふじて之を過すぐるを得るも漫みだりに時日を費ついやすの恐おそれあり、故にたとひ寒冷かんれい足あしを凍こふらすとも、水流を渉わたるの勝まされるに如かず、され共渉水亦困難こんなんにして水中石礫せきれき累々るゐ〱之を踏ふめば滑落せざること殆ほとんど稀まれなり、衆皆石間せきかんに足あしを突つき入れて歩あゆむ、河は山角を沿そふて甚はなはだしく蜿蜒えん〱屈曲くつきよくし、所々に少許すこしの磧礫さいれきを存するを以て、成なるべく磧上を進すすむの方針を取とる、忽ちにして水中忽ちにして磧上、其変化へんくわ幾回なるを知しらず、足水に入る毎ごとに冷気肌はだを衝ついて悚然たり、進すすむこと一里半にして急きふに暖気だんきを感かんず、俯視ふしすれば磧礫間温泉おんせんありて数ヶ所に出いづ、衆皆快くわいと呼よぶ、此処は字あざを湯ゆの花はな或は清水沢しみづさはと称し、先年名佐なさ技師ぎしが地質調査ちしつてうさの為め探検たんけんして之より帰かへられし処とす、衆露宿ろしゆくを此に取とる、人夫十数人拮据勉励きつきよべんれい、大石を除のぞきて磧中を堀ほり温泉塲二ヶ所しよを作つくる、泉石幾年の苔こけを帯おび汚穢をくわい甚しきを以て、先づ饅頭笠にて汚水を酌くみ出いだし、更さらに新鮮しんせんなる温泉を湛たたゆ、温高たかき為め冷水を調合てうごうするに又笠かさを用もちゆ、笠為に傷いたむもの多おほし、抑此日や探検たんけんの初日にして、長ながく水流中に在りし冷気れいきと露営ろえいの寒気かんきと合あはせ来るに逢あひ、此好温泉塲を得えて初はじめて蘇生そせいするの想おもひあり、一行の内終夜温泉に浴して眠ねむりし者多し、真しんに山中の楽園らくえんと謂ふべし、露営ろえいの塲所亦少しく平坦へいたんにして充分足あしを伸のばして睡眠すいみんするを得、且つ水に近ちかく炊煎かんせんに便なり、六回の露営ろえい中実じつに此夜を以て上乗ぜう〱となす、前水上村長大塚直吉君口吟こうぎんして曰く

里遠き利根の河原に宿しめて湯あみしてけり石かきわけて

夜半やはん眼覚め、防寒ばうかんの為炉中に薪たきぎを投とうぜんとすれば、月光清輝幽谷中に冴さへ渡わたり、両岸の森中しんちうには高調凄音群猿の叫さけぶを聞きく、俯ふして水源未知の利根を見みれば、水流すゐりう混々こん〱、河幅猶ほ広ひろく水量甚多おほし、或は岩いわに触ふれて澎湃ばうはい白沫を飛とばし、或は瀾となり沈静ちんせい深緑しんりよくを現あらはす、沼田を発はつして今日に至いたり河幅水量共ともに甚はなはだしく减縮げんしゆくせるを覚おぼえず、果して尚幾多の長程と幾多いくたの険所とを有いうする、况いはんや明日よりは全まつたく人跡到いたらざるの地を探さぐるに於てをや、嗚呼ああ予等一行果はたして何れの時かよく此目的を達たつするを得べき、想ふて前途の事ことに到いたれば感慨かんがい胸に迫せまり、殆ほとんど睡いぬる能はざらしむ、され共東天漸やうやく白く夜光全く去さり、清冷の水は俗界の塵ちりを去り黛緑たいりよくの山は笑えみを含ふくんて迎ふるを見れば、勇気いうき勃然ぼつぜん為めに過去の辛苦しんくを一掃そうせしむ。

九月二十二日

早朝さうてう出立、又昨日の如く水中を溯さかのぼる、進むこと一里余にして一小板屋いたや荊棘中けいきよくちうに立たつあり、古くして半ば破壊に傾かたむけり、衆皆不思議に堪たへす、余忽たちまち刀を抜ぬきて席にて作つくれる扉とびらを切きり落おとし、入り見れば蝉せみの脱ぬけ殻がら同様人を見ず、され共古びたる箱類許多あまたあり、蓋ふたを開ひらき見れば皆空虚くうきよなり、人夫等曰く多分猟師小屋れうしこやならんと、図はからず天井を仰あほぎ見れば蜿蜒えん〱として数尺の大蛇横よこたはり、将に我頭を睨にらむ、一小蛇ありて之に負おはる、依よつて直ただちに杖を取りて打落うちをとし、一撃げき其脳のうを砕くだけば忽ち死す、其妙機めうき恰あたかも死しせる蛇を落おとしたるが如くなりし、小なる者は憐あはれにも之を生かし置おけり、其の恩おんに感かんぜしにや以後又蛇を見みざりき、蛇は「山かがし」となす猶なほ進すすむこと凡そ一里にして三長沢と利根本流との落おち合あひに出づ、時猶十時なりしも餅もちを炙あぶりて昼食ちうしよくし、議論大に衆中に湧わく、一は曰く飽迄あくまで従前の如く水中を溯さかのぼらん、一は曰く山に上のぼり山脈を通過つうくわして水源の上に出いでん、特ことに人夫中冬猟の経験けいけんありて雪中せつちう此辺に来きたりしもの、皆曰く是より前途は嶮けん更さらに嶮にして幽いう更に幽、数日の食糧を携たづさへて入いるも中途に餓死がしせんのみ、請こふ今夜此地に露宿ろしゆくし、明朝出立二日間位の食糧を携たづさへて水源探究たんきうに赴おもむき、而して再ふたたび当地に帰らんのみと、人夫等異口同音堅かたく此説を取とる、遠藤君大塚君等大に人夫等を説とき諭さとせども議ぎ遂つひに長く决せず、吉田警察署長大喝たいかつ怒いかりて曰く、余等県知事の命めいを奉じて水源探究たんきうに来れるなり、水流を溯さかのぼり水源を究きはめざれば死しすとも帰らず、唯ただ冒進ぼうしんの一事あるのみと、独ひとり身を挺ぬきんで水流を溯さかのぼり衆を棄すてて又顧みず、余等次つゐで是に従したがふ、人夫等之を見て皆曰く、豈あに坐視ざしして以て徒いたづらに吉田署長以下の死しを待またんやと、一行始はじめて団結だんけつし猛然もうぜん奮進に决けつす又足を水中に投とうずれば水勢益ます〱急きうとなり、両岸の岩壁愈いよ〱嶮けんとなり、之に従つて河幅は頗すこぶる縮ちぢまり、困難の度どは実じつに水量と反比例をなし来きたる進すすむこと一里にして両岸の岩壁屏風びやうぶの如ごとく、河は激げきして瀑布ばくふとなり、其下そのした凹くぼみて深淵しんえんをなす、衆佇立相盻あひかへりみて愕然がくぜん一歩も進すすむを得ず、是より水上に到いたらば猶斯の如き所多おほきや必ひつせり、此に於て往路を取とりて帰かへり、三長沢口に泊はくし徐計をなすべしと云ひ、或あるひは直ただちに此嶮崖けんがいを攀よぢて山に上のぼり、山脈を伝つたふて水源に至いたらんと云ひ、相議するや久ひさし、余奮つて曰く、水を逐おふて此嶮所けんしよを溯る何かあらん、未だ生命を抛つの危険きけんあるを見みずと、衆しふ敢あへて余を賛さんするものなし、余此に於て巳やむを得ず固かたく後説を執とる、人夫等岩崖を仰おほいルビの「おほい」はママで唯眉まゆを顰ひそむるあるのみ、心は即ち帰途に就つくにあればなり、此に於て余等数人奮発ふんぱつ一番、先づ嶮崖けんがいを攀登はんとうして其登のぼるを得べき事を示しめす、人夫等猶なほ肯がへんぜず、鹽原巡査人夫の荷物にもつを分わかち取り自ら之を負おふて登のぼる、他の者亦之に同じくす、人夫等遂つひに巳を得ず之に従したがふ、此に於て相互救護きうごの策さくを取り、一行三十余名列れつを正ただして千仭の崖上がいじやう匍匐ほふくして相登る、山勢さんせい殆ほとんど直立、加くわふるに突兀とつこつたる危岩きがん路に横よこたはるに非れば、佶倔きつくつたる石南樹の躰たいを遮さへぎるあり、若もし一たび足あしを誤あやまらんか、一転てん忽ち深谷しんこくに落おつるを以て、一行の両眼は常つねに注そそぎて頭上の山頂さんてうにあり、敢あへて往路を俯瞰ふかんするものなし、荊棘けいきよくの中黄蜂の巣窟すうくつあり、先鋒誤あやまつて之を乱みだす、後に継つぐもの其襲撃しうげきを被ふるも敢あへて之を避さくるの道みちなし、顔面為ために腫はれし者多おうし、相憐あひあはれんで曰く泣面なきづらに蜂はちとは其れ之を云いふ乎と、午後五時井戸沢山脈中の一峯に上のぼり露宿ろしゆくを取とる、高四千五百尺、顧かへりみれば前方の山脈其中腹ちうふくの凹所わうしよに白雪を堆くし、皚々眼を射る、恐らくは万古不融ばんこふゆうの雪にして混々こん〱として利根水量を多おうからしむるの大原因たるべし、当夜の寒気かんき想おもふに堪へたり、宿所を取とらんとするも長一丈余の熊笹くまささ繁密せるを以て、皆之を押臥わうぐわし其上に木葉或は席むしろを布しきて臥床となす、炉を焚たかんとするに枯木かれき殆ほとんどなし、立木を伐倒きりたをして之を燻くすふ、火容易やうゐに移うつらず、寒気かんきと空腹くうふくを忍しのぶの困難亦甚しと云ふべし、山巓さんてん一滴てきの水みづを得うる能はざるを以て、餅もちを炙あぶりて之を食くらふ、餅は今回の旅行りよこうに就ては実じつに重宝なりき、此日や喜作なるもの遅おくれて到いたり、「いわな」魚二十三尾を釣つり来る、皆尺余なり、され共喜作は食糧しよくれうの不足を憂うれふるにも拘かかはらず、己が負おふ所の一斗五升の米を棄すて来きたれり、心に其不埒ふらちを憤いきどると雖も、溌剌はつらつたる良魚の眼前がんぜんに在るあるを以て衆唯其風流ふうりうを笑わらふのみ、既に此好下物あり、五罎の「ぶらんでー」は忽ち呼よび出さる、二罎びん忽たちまち仆たをる人数多き為め毎人唯一小杯を傾かたむけしのみ、一夜一罎を仆たほすとすれば残のこる所は三日分のみなるを以て、巳を得ず愛あいを割さく、慰労の小宴爰ここに終おはれば、鹽原君大得意の能弁のうべんを以て落語二席を話はなす、其その巧たくみなる人の頤おとがへを解とき、善よく当日の疲労ひろうと寒気かんきとを忘わすれしむ、其中にも常つねに山間に生活せいくわつする人夫輩に至りては、都会に出でたるの感かんを起おこし、大に愉快ゆくわいの色を現あらはし、且かつ未だ耳みみにだもせざる「ぶらんでー」の醇良じゆんりやうを味ふを得、勇気いうき頓とみに百倍したり、実じつに其愉快ゆくわいなる人をして雪点せつてん近ちかき山上にありて露宿ろしゆくするなるかを忘わすれしむ。

興けうに乗じて横臥わうぐわすれば、時々笹蝨ささむしの躰たいを刺さして眼を覚さますあり、痛痒つうしやう頗る甚はなはだし、之れ笹ささを臥床となすを以て、之に寄生せる蝨むしの這はひ来れるなり、夜中吉田署長急きうに病み、脉搏みやくはく迅速にして発熱はつねつ甚し、為めに頭を冷ひやさんとするも悲かなしいかな水なきを如何せん、鹽原君帯おぶる所の劔を抜ぬきて其顔面に当あて、以て多少之を冷ひやすを得えたり、朝に至いたりて少すこしく快方に向むかひ来る。

九月二十三日

朝又餅もちを炙あぶりて食し、荊棘いばらを開ひらきて山背を登のぼる、昨日来餅もちのみを喫きつし未だ一滴の水だも得えざるを以て、一行渇かつする事実に甚はなはだし、梅干を含ふくむと雖も唾液つば遂つゐに出で来きたらず、此に於て竹葉上に点々てん〱滴したたれる所の露つゐを甞なめ、以て漸く渇かつを慰いす、吉田署長病再発さいはつし歩あゆむに堪たへず、遂つゐに他の三名と共に帰途きとに就つかる、行者参まゐり三人も亦心こころ淋さびしくやなりけん、名を食糧しよくれうの不足に託たくして又衆と分わかる、明日は天我一行をして文珠岩もんじゆいわを発見せしむるあるを知しらざるなり、其矇眛もうまいなる心中や憐あはルビの「あは」はママむに堪たへたり、残のこる所の二十七名は之より進すすむのみにして帰かへるを得ざるもの、実じつに血ちを啜すすりて决死けつしの誓ちかひをなししと云ふて可かなり、既すでにして日漸やうやく高たかく露亦漸やうやく消きへ、渇かつ益渇を加くわへ、加ふるに石南しやくなんの蟠屈ばんくつと黄楊つけの繁茂はんもとを以てし、難愈いよ〱難を増す、俯視ふしして水を索もとめんとすれば、両側断崖絶壁だんがいぜつぺき、水流は遥はるかに数百尺の麓ふもとに在あるのみ、勇いうを鼓こして早はやく山頂に到いたらんか、危岩突兀とつこつ勢将まさに頭上に落おちんとす、進退維これ谷たにルビの「たに」はママまり敢あへて良策を案あんするものなく、一行叢中に踞坐こざして又一語なし、余等口を開ひらきて曰く、進すすむも難かたく退しりぞくも亦難かたし、難は一なり寧むしろ進すすんで苦くるしまんのみと、綱つなを卸おろして岩角を攀登はんとし、千辛万苦遂つゐに井戸沢山脈の頂上てうじやうに到いたる、頂上に一小窪あり、涓滴けんてきの水集あつまりて流ながれをなす、衆初はじめて蘇生そせいの想をなし、飯めしを炊かしぐを得たり、且かつ図はからざりき雲霧漸次に霽はれ来きたり、四面の峻岳しゆんがく皆頭を露あらはし、昨来渉わたり来きたれる利根の水流は蜿蜒えん〱として幽谷間に白練を布しけり、白練の尽くる所は乃ち大利根岳となり突兀とつとつルビの「とつとつ」はママ天に朝てうす、其壮絶殆ほとんど言語に尽つくすべからず、水源探検たんけんの目的もくてき亦殆ど爰ここに終おはれり。

抑そも〱此日や秋季皇霊祭にして満天まんてん晴朗せいらう、世人は定さだめて大白を挙あげて征清軍しんぐんの大勝利だいしやうりを祝しゆくするならん、余等一行も亦此日水源すいげんを確定かくていするを得、帝国万歳の声こえは深山に響ひびき渡わたれり、水源の出処既すでに明あきらかなれば、従したがつて越後と上野の国界とすべき所も定さだまり、利根とね山奥の広袤こうばうも略ほぼ概算がいさんするを得たり、此上は上越二国の間に横よこたはれる利根とねの山脈に攀登はんとうし、国界を定さだめて之を通過つうくわし、尾瀬おせが原を経へて戸倉とくらに帰かへるべしと、議ぎ忽たちまち一决す、之に依よりて戸倉に至いたるを得べき日数も予あらかじめ想像さう〲することを得、衆心初はじめて安んじ、犠牲ぎせいに供したる生命せいめいは辛からうじて保たもつを得べからしめたり、然しかりと雖も前途ぜんと嶮けん益ます〱嶮けんにして、人跡猶なほ未到の地ち、果はたして予定に違ちがはざるなきや、之を思おもへば一喜一憂交々こも〱到いたる、万艱を排はいして前進ぜんしんし野猪の勇ゆうを之れ貴たつとぶのみと、一行又熊笹くまささの叢中さうちうに頭を没ぼつして、嶮崖けんがいを降くだり渓流を素もとめて泊はくせんとす、日ひ暮くれて遂つゐに渓流に至いたるを得ず、水声近ちかく足下にあれども峻嶮しゆんけん一歩も進せせルビの「せせ」はママむを得ず、嵯乎ああ日の暮くるるを二十分計ばかり早はやかりし為め、遂つゐに飯を炊かしぐの水を得ず、又餅を炙あぶりて食くらふ、餅もち殆ほとんど尽きて毎人唯二小片あるのみ、到底とうてい飢うゑを医いするに足たらざるを以て、衆談話の勇気いうきもなく、天を仰あほいで直ただちに眼めを閉とづ、其状恰も愁然しうぜん天に訴うつとふるに似にたり、剰あまつさへ細雨を注そそぎ来りしが、甚はなはだしきに至らずして己やみ「己やみ」はママ、為めに少すこしく休暇きうかすることを得たり。

山の斜面しやめんに露宿を取とりしことなれば少すこしも平坦へいたんの地を得す、為めに横臥わうぐわする能はず、或は蹲踞するあり或は樹きに凭よるあり、或は樹株に足あしを支ささへて臥ふするあり、若もし一歩を誤あやまらんか深谷中に滑落こつらくせんのみ、其危険きけん言おふべからず、恰あだかも四足獣の住所に異ことらずと云ふべし。

九月廿四日

夜よの明あくるを待まつて人夫は鍋なべと米こめとを携たづさへ、渓流けいりゆうに下くだり飯を炊煑して上のぼり来きたる、一行初はじめて腹はらを充みたし、勢に乗じやうじて山を降くだり、三長沢支流を溯さかのぼる、此河は利根の本源と殆ほとんど長を等ひとしくし、同じく大刀根岳より発はつするものたり、数間毎ことに必かならず瀑布ばくふあり、而して両岸を顧かへりみれば一面の岩壁屏風びやうぶの如くなるを以て如何なる危あやうき瀑布と雖いへども之を過すぐるの外ほか道みちなきなり、其危険きけん云ふべからず、瀑布を上のぼり俯視ふしすれば毛髪悚然もうはつそくぜん、脚あし為ために戦慄せんりつす、之を以て衆敢あへて来路を顧みるなし、然りと雖も先日来幾多の辛酸しんさんと幾多いくたの労苦とを甞なめたる為め、此険流けんりうを溯るも皆みな甚労とせず、進程亦従て速なり、恰あだかも四肢ししを以て匍匐ほうふくルビの「ほうふく」はママする所の四足獣に化くわし去さりたるの想おもひなし、悠然いうぜん坦途たんとを歩あゆむが如く、行々山水の絶佳ぜつくわを賞しやうし、或は耶馬渓やまけいも及およばざるの佳境かけうを過すぎ、或は妙義山めうぎざんも三舎を避さくるの険所けんしよを踏ふみ、只管ひたすら写真機械を携たづさへ来らざりしを憾うらむのみ、愈いよ〱溯れば愈いよ〱奇にして山石皆凡ならず、右側の奇峰きばうを超こへて俯視ふしすれば、豈図あにはからんや渓間けいかんの一丘上文珠もんじゆ菩薩の危坐きざせるあり、百二十年以前いぜんに見みたる所ところの人ありと伝つとふ所ところの文珠岩は即ち之れなり、衆しゆ皆みな拍手喝釆かつさいして探検者たんけんしや一行の大発見を喜よろこぶ直ただちに丘下に到いたりて仰あほぎ見れば、丘の高たかさ百尺余よ、天然の奇岩きがん兀こつとして其頂上に立たち、一見人工を加くわへたる文珠菩薩に髣髴はうふつせり、傍かたはらに一大古松あり、欝うつとして此文珠岩いわを被おへり、丘を攀登ばんとして岩下に近ちかづかんとするも嶮崖けんがい頗甚し、小西君及および余の二人奮発ふんぱつ一番衆に先つて上のぼる、他の者次つゐで到いたる、岩に近づけば菩薩ぼさつの乳頭にうとうと覚おぼしき所に、一穴あり、頭上にも亦穴を開ひらけり、古人の所謂いわゆる利根水源は文珠菩薩の乳ちちより出いづとは、即ち積雪上を踏ふみ来りし際さい、雪ゆき融とけて水となり此の乳頭にうとうより滴下せるを見みたるを云いふなるべし、され共水源を以て此処に在りとなすは非なり、水上村長木村政治郎大に喜よろこんで曰く、以後年々此日を以て発見はつけんの紀念きねんとなし、村民を集あつめて文珠菩薩の祭礼さいれいを行おこなひ、併あはせて此一行をも招待せうたいすべし、而して漸次道路を開通がいつうし爰ここに達たつし、世人をして参詣さんけいするを得せしめんと、人夫中の一人喜作なるもの両三日前より屡々しば〱病の為めに困くるしみ、一行も大に憂慮いうりよせしが、文珠岩を発見はつけんするや否いな直ただちに再拝して飯めし一椀、鰹節一本とを捧呈ほうていし、祈祷きとうに時ときを移うつし了おはりて忝かたじけく其飯を喫きつす、病漸次に癒いへ来きたり以後常つねに強健けうけんなりき、人夫等皆之を奇きとし恐喜措おく所ところを知らざるが如し、昨朝帰途きとに就つきし三人の行者参まゐりをして若もし在あらしめば、其喜よろこび果して如何いかなりしか、思おもへば愚ぐの至いたりなり、且かつ傍かたはらに直下数丈の瀑布ばくふありて幅はばも頗すこぶる広ひろし其地の幽いうにして其景の奇きなる、真に好仙境こうせんきようと謂つべし、因ちなみに云ふ此文珠岩は皆みな花崗岩みがけいわより成なりて、雨水の為ため斯かくは水蝕すゐいつしたるなり、左に面白おもしろき二首を録す

万世のまどひ開けつ文珠岩木村君

ももとせも知れぬ仏を見出すは

文珠の智恵に勝る諸人鹽原君

是より一行又河かはを溯さかのぼり、日ひ暮くれて河岸かはぎしに露泊ろはくす、此日や白樺の樹皮を剥はぎ来りて之を数本の竹上に挿はさみ、火を点てんずれば其明宛さながら電気灯でんきとうの如し、鹽原君其下そのしたに在りて、得意とくいの弁べんを揮ふるひ落語二席を話す。衆皆労を忘わすれて臥ふす。

九月二十五日

未明みめい食事を終おはりて出立し又水流すいりうを溯さかのぼる、無数の瀑布を経過けいくわして五千五百呎の高たかきに至れば水流全まつたく尽つき、源泉は岩罅かんこより混々こん〱として出で来きたる、衆呼で曰く涓滴けんてきの水だも其四方より相集まるや遂つゐに利根の大河をなすかと、従前の辛苦しんくを追想つゐそうして感懐がんぐわい已む能はず、各飲むで腹に充みたす、之より山を上のぼるを数十間にして又一小流あり、岩穴に入りて終おわる、衆初めて其伏流ふくりうなるを知しり之を奇きとす、山霊果はだして尚一行を欺あざむくの意乎、将又戯たはむれに利根水源の深奥測はかるべからざるを装よさふの意乎、此日の午後尾瀬が原はらに到いたるの途中、亦長凡一里の伏流ふくりうを発見はつけんしたり、其その奇きなる一は一行の疲労ひらうを慰いするに足たり、一は大に学術上の助たすけを与あたへたり、遂つゐに六千呎の高きに至いたりて水全まつたく尽き、点々一掬きくの水となれり、此辺の嶮峻けんしゆん其極度に達たつし、百仭じんの崖上僅わづかに一条の笹ささを恃たのみて攀よぢし所あり、或は左右両岸の大岩既すでに足あしを噛かみ、前面の危石将まさに頭上に落おち来きたらんとする所あり、一行概おおむね多少の負傷を被かうむらざるはなし。

水源竭つきて進行しんこう漸やく容易やうゐとなる、六千四百呎の高に達たつすれば前日来経過けいくわし来れる所、歴々れき〱眼眸がんばうに入いり、利根河の流域りうえきに属する藤原村の深山幽谷、丸まるで地図中の物となり、其山の広袤こうばう水の長程、初はじめて瞭乎りやうこたり、眼めを転てんじて北方を俯視ふしすれば、越後の大部岩代の一部脚下に集あつまり、陸地の尽つくる所青煙せいえん一抹、遠とほく日本海を眺ながむ、唯たた憾うらむルビの「うらむ」はママむらくは佐渡の孤島ことう雲煙を被をふて躰を現あらはさざりしを、岩代の燧岳ひうちたけ、越後の駒こまが岳たけ、八海山等皆巍然ぎぜんとして天に朝てうし、利根水源たる大刀根岳は之と相拮抗きつこうして其高きを争あらさふ、越後岩代の地方に於ては决けつして雪ゆきを見ざるに、利根源泉の上部に至いたりては白雲皚々がい〱たり、之れ地勢上及気象上の然しからしむる所なりと雖ども、利根の深奥しんおくなる亦想おもひ見るべし、然しかれ共眼を北方越後に注そそぐに一望山脈連亘れんたんし其深奥なる又利根に譲ゆづらざるなり、之を以て始はじめて知しる、上越の国境不明に属ぞくせしは両国の山谷各深くして、人跡未いまだ何れよりも到いたる能はざりしに因よれり、而るに今や利根水源を確定かくていして、加ふるに上越の国界を明あきらかにするを得、衆皆絶叫ぜつけう快くわいと呼よぶ、其勢上越の深山も崩くづるるが如し、深井君直ただちに鋭刀を揮ふるふて白檜の大樹皮を彫ほり、探検一行二十七名上越国界を定むと書しよす、少しばらく休憩きうけいをなして或は測量そくりやうし或は地図ちづを描ゑがき、各幽微いうびを闡明せんめいにす、且つ風光の壮絶さうぜつなるに眩惑げんわくせられ、左右顧盻こめん去さるに忍しのびず、殊ことに燧山下尾瀬沼なるものありて、岩代上野の県道其沼辺を通つうじ、直ただちに戸倉に出るを得るの概算予定するを得えて、帰路に就つく既すでに近ちかきにあればなり、され共人智の謭劣せんれつ先見せんけんの明めいなき、遂つゐに将来大障碍を起のこルビの「のこ」はママさしめたり、障碍しやうげとは何ぞ、一行は巍然ぎぜんたる燧岳眼前にあるを以て、其その麓ふもとの尾瀬沼に至いたらんには半日にして足たれり、今夜其処に達たつするを得うべしと考かんがへしに、明晩辛からふじて目的の地に至いたるを得、其間の辛苦しんく実じつに甚しかりしものあればなり。

之れより上越の国界こくかいなる山脈の頂上を経過けいくわす、脈みやく尽つくる所太平原たいへいげんあり、原はら尽つきて一山脈あり、之れを過すぐれば又大平野あり、之れ即ち真しんの尾瀬おせが原にして、笠科山かさしなやまと燧山の間に連つらなり、東西一里南北二里余、一望些少の凹凸おうとつなく、低湿ていしうにして一面湿草しうさうを生じ、所々に凹所ありて水を湛たたゆ、草ある所ところは草根によりて以て足あしを支持しじすれども、草なき所は湿泥しうでい足あしを没ぼつす、其危険きけん云ふべからず、且かつ茫漠ぼうばくたる原野げんやのことなれば、如何に歩調を進すすむるも容易やういに之を横よこぎるを得えず、日亦暮れしを以て遂つゐに側の森林中しんりんちうに入いりて露泊す、此夜途中とちう探集さいしふせし「まひ茸たけ」汁を作つくる、露宿をなして以来此汁を啜すすること二回、其味そのあじ甚はなはだ佳かなり、加くわふるに鰹かつほの煑出しを以てす、偶々たま〱汁を作つくることあるも常に味噌みそを入るるのみなれば、当夜の如き良菌りやうきんを得たるときは、之を喫きつする其何椀なんわんなるを知しらざるなり、而して此を食ふを得るは全まつたく人夫中の好漢こうかん喜作きさくの力ちからにして、能く害菌と食菌とを区別くべつし、余等をして安全之を食くらふを得せしむ、為ために一人も中毒ちうどくに逢あひしものなし、此他飯めしの如き如何なる下等米と雖いへども如何なる塵芥じんかいを混こんずると雖も、其味の佳かなる山海の珍味ちんみも及ばざるなり、余の小食家も常つねに一回凡そ四合を食しよくしたり、大食の習慣しふかん今日に至いたりても未だ全く旧きうに復ふくせざるなり、食事了おはれば例れいにより鹽原巡査の落語らくごあり、衆拍手して之を聞きく、為めに労らうを慰なぐさめて横臥わうぐわすれば一天墨すみの如く、雨滴うてき点々てん〱木葉を乱打らんだし来る、加くわふるに寒風かんきを以てし天地将まさに大に暴あれんとす、嗟呼ああ昨日迄は唯一回の細雨さいうありしのみにして、殆ほとんど晴朗せいろうなりし為め終夜熟睡じゆくすゐ、以て一日の辛労しんらうを軽かろんずるを得たるに、天未だ我一行を憐あはれまざるにや、将まさに大雨を下さんとす、明夜尚一回露宿ろしゆくをなさざれば人家ある所に至いたるを得えず、余あます所の二日間尚如何なる艱楚かんそを嘗なめざるべからざるや、殆ほとんど予測よそくするを得ず、若もし九仭の功こうを一簣きに欠くあらば大遺憾だいいかんの至りなり、希ねがわくは此一夜星辰を戴いただきて安眠あんみんするを得せしめよと、誰たれありてか天に祈いのりしなるべし、天果して之を感ぜしか、靉靆あいたいたる怪雲くわいうん漸次に消散し風雨暫しばらくにして已やみぬ。

九月二十六日

早朝さうてう出立、尾瀬おせの大原野を経過けいくわし燧山麓に至いたる、目的とする所の尾瀬沼は眼眸がんばうに入いり来らず、燧山麓一帯の山脈横よこたはれるを以て、之を経過けいくわすれば沼に到いたるを得うるならんと察さつし、又険山を攀登ばんとうす、沼猶見みえず、又次の高山に登のぼる猶なほ見みえず、斯かくして遂つゐに最高さいこうの山に上のぼる、欝樹猶眼界を遮さへぎる、衆大に困くるしみ魑魅りみの惑まどはす所となりしかを疑ふ、喜作直ただちに高樹の頂いただきに攀よぢ上のぼり驚て曰く、眼下がんかに茫々ばう〱たる大湖ありと、衆忽ち拍手はくしゆして帰途の方針ほうしんを定さだむるを得たるを喜よろこび、帰郷の近ちかきを祝しゆくす、日ひ既すでに中して腹中ふくちう頻しきりに飢を訴うつたふ、されども一滴てきの水を得る能はず、况いわんや飯を炊かしくに於おいてをや、此に於て熬米いりごめを噛かみ以て一時の飢うへを忍しのび、一気き走駆さうくして直ただちに沿岸に至いたり飯を煑にんと决けつす、此に於て山を降くだり方向を定さだめて沼辺に至いたらんとし、山を下くだれば前方の山又山、之を超こゆること数回に及およぶも沼猶なほ見みえず、已やむを得ず渓流けいりうを汲んで昼飯を喫きつす、時に午後三時なり、腹はら充みちて勇を皷こし、又山を超こゆる数回にして始はじめて尾瀬沼岸に達たつするを得えたり、抑そも〱燧山は岩代国に属ぞくし巍峩ぎがとして天に秀ひいで、其麓凹陥おうかんして尾瀬沼をなし、沼の三方は低き山脈を以て囲繞ゐげうせり、翻々たる鳧鴨ふわうは捕猟ほりやうの至るなき為め悠々いう〱として水上に飛翔しやうし、一面の琉球りうきう藺は伐採ばつさいを受けざる為め茸々しやう〱として沼岸に繁茂はんもし、沼辺の森林しんりんは欝乎うつことして水中に映えいじ、翠緑すゐりよく滴したたる如く、燧岳の中腹は一帯の雲烟うんえんに鎖とざされ夕陽之に反照はんせうす、其景の絶佳ぜつかなる、恰あたかも彼七本槍やりを以て有名なる賤しづが岳たけ山下余吾湖を見みるに似にたり、陶然とうぜんとして身みは故山の旧盧きうろにあるが如く、恍こうとして他郷の深山麋熊の林中にあるを忘わする、前日来の艱酸かんさんと辛労しんろうとは茫乎として転うたた夢ゆめの如し、一行皆沼岸に坐ざして徐おもむろに風光を賞嘆しやうたんして已やまず、遠とほく対岸を見渡みわたせば無人の一小板屋忽たちまち双眼鏡裡に映えいじ来る、其距離きより凡そ二里、曾かつて聞きく沼岸には岩代上野の県道即ち会津あいづ街道かいどうありて、傍かたはらに一小屋あり、会津檜枝岐村と利根とねの戸倉村とくらむらとの交易品を蔵する所にして、檜枝岐村より会津の名酒を此処に運はこび置おけば、戸倉村よりは他の物品を此処に持もち来り以て之を交易こうえきし、其間敢あへて人の之を媒介ばいかいするものなく、只正直と約束やくそくとを守まもりて貿易ばうえきするのみと、此に於て前日来より「あるこーる」に渇かつしたる一行は、勇ゆうを皷こして皆曰く、たとひ日ひ暮くるるとも其小屋に到達とうたつし、酒樽若もしあらば之を傾け尽し、戸倉村に帰かへりて其代価を払はらはんのみと、議忽たちまち一决して沼岸を渉わたる深ふかさ腿ももを没ぼつし泥濘でいねい脛すねを埋うづむ、加くわふるに寒肌粟あはを生じ沼気沸々ふつ〱鼻を衝つく、幸さいはひに前日来身躰しんたいを鍛錬たんれんせしが為め瘧疫ぎやくえきに罹かかるものなかりき、沼岸の屈曲くつきよく出入は実じつに犬牙の如く、之に沿そうて渉わたることなれば進退しんたい容易やうゐに捗取はかどらず、日暮れて遂つひに一歩も進すすむを得ず、空むなしく遥はるかに彼小屋こやを望のぞんで沼岸に露営ろえいを取とりたり。

晩餐了をわりて眠みんに就つく、少焉しばらくありて眼覚めさむれば何ぞ図はからん、全身雨あめに濡うるをうて水中に溺おぼれしが如し、衆しう既すでに早く覚さむ、皆笑わらつて曰く君の熟睡羨うらやむに堪たへたりと、之より雨益甚はなはだしく炉辺ろへん流ながれて河をなし、腰こしをだに掛かくる所もなく、唯両脚を以て躰たいを支ささへて蹲踞そんきよするのみ、躰上に毛氈もうせんと油紙とを被かふれども何等なんらの効こうもなし、人夫に至いたりては饅頭笠まんじうがさ既すでに初日の温泉塲をんせんばに於て破やぶれ、其後荊棘けいきよくの為めに悉こと〲く破壊はくわいせられ、躰を被おふべきもの更さらに無く、全身挙こぞりて覆盆ふくぼんの雨に暴露ばうろせらる、其状そのじやう誠に憐あはれむに堪たへたり、衆相対して眼めを開ひらくも閴げきとして声こゑなく、仰あほぎて天の無情を歎たんす、而れども俯ふして熟考すれば之れ最終さいしうの露宿ろしゆくにして、前日来の露宿中は雨あめ殆ほとんどなく、熟睡じゆくすい以て白日の労らうを慰ゐせし為め、探検たんけんの目的もくてきを遂とぐるを得せしめしは、実じつに天恩無量と云つべし、豈あに此この最終さいしうの一夜に臨のぞんで怨うらみを述のぶべけんや、若もし此探検中雨あめに逢あふこと多おほかりせば尚二倍の日子を要ようすべく、病人も生ずべく、為ために半途帰路に就つくか或は冒進ぼうしんして餓死に陥おちゐるか、孰いづれか此両策の一を取とりしなるべし、而るに後に聞く処に拠よれば、沼田近傍は雨あめ常つねに多おうかりしに、利根山中日々晴朗せいろうの天気なりしは不可思議ふかしぎと云ふの外なし、窃ひそかに人夫等の相談さうだんするを聞けば皆感歎かんたんし曰く、之れ文珠もんじゆ菩薩の恩恵にして、世人未知の菩薩が探検一行によりて、世に顕あらはれ出でんと欲するの志こころざしは、一行をして日々晴天に逢あはしめ、以て無事目的を達して帰かへるを得せしむるなり云々と、朝来雨漸やうやく霽はれ来れば一行笑顔えがほを開き、一駆くして戸倉に至るを期きす、此夜森下君の発案により、鍋伏なべふせを行ふて魚うをを取とるを得えたり、即ち鍋上に穴あなを穿うがてる布片きれを覆おひ、内に餌えを入いれて之を沼中に投とうじたるなり、「どろくき」と称しやうする魚十余尾を得えたり、形鰌どぜうに非ず「くき」にも非ず、一種の奇魚きぎよなり、衆争うて之を炙あぶり食しよくすれど、不幸にも前述ぜんじゆつの如く大雨なりしを以て、唯一回の引上げをなししのみ。

九月二十七日

終夜しうや雨あめに湿うるほひし為め、水中を歩あゆむも別べつに意となさず、二十七名の一隊粛々しゆく〱として沼ぬまを渉わたり、蕭疎しようそたる藺草いくさの間を過すぎ、悠々いう〱たる鳧鴨ふわうの群を驚おどろかす、時ときとしては柳条に拠よりて深処に没ぼつするを防ふせぎしことあれども、進すすむに従うて浅砂せんさの岸きしとなり、遂つひに沼岸一帯の白砂はくさを現げんじ来る、砂土人馬の足跡そくせきは斑々はん〱として破鞋と馬糞ばふんは所々に散見さんけんす、一行驚喜けうきして曰く之れ即ち会津街道なりと、人影を見ざるも既すでに村里に在あるの想おもひをなせり、歓呼くわんこして一行の無事ぶじを祝しゆくす、昨暮遠望えんばうしたる一小板屋は尚之より岩代の方角に向むかつて一里余の遠とほきに在り、屋内酒樽さけだるのあるあらば極きはめて妙めうなれども、若し之なくんば草臥くたびれ損ぞんなりと、遂つひに帰路を取とりて戸倉に至いたるに决けつす、一帯の白砂はくさ過すぎ了おはれば路は戸倉峠に連つらなる、峠の高たかさ凡そ六千呎、路幅みちはば僅わづかに一尺、漸やうやく両足を容いるるに堪たふ、之れこそ利根の戸倉と会津の檜枝岐との間あひだに在る県道なれば、其嶮岨けんそ云ふべからずと雖も、跋渉ばつせうに慣なれたる余等の一行は、恰あたかも坦たんたる大道を歩あゆむ如き心地をなし、五里の嶮坂けんばん瞬時に降くだり尽つくし、戸倉村に至いたりて区長松浦方に泊はくす、戸倉村と云へば世人は之を深山幽谷の人民じんみんとして、殆ほとんど別天地の如くに見做みなせども、凡そ十日間人影だも見みざる余等一行は、此処に着ちやくして初はじめて社会に出いでたるの心地ここちせられ、其愉快ゆくわい実じつに言ふべからず。

九月二十八日

戸倉とくらを出立して七里の山路やまじを過すぎ、花咲峠はなさきとうげの険を越こえて川塲湯原村に来きたり泊はくす、此地に於て生死を共にし寝食しんしよくを同じくしたる人夫等十五名と相別あひわかるることとなり、衆皆其忠実ちうじつ冒険ぼうけん、能く一行を輔助ほじよせしことを謝しやし、年々新発見にかかる文珠菩薩もんじゆぼさつの祭日には相会して旧きうを語かたらんことを約やくし、袂たもとを分わかつこととはなりぬ。

九月二十九日

川塲を発はつして沼田に帰かへれば、郡役所、警察署、収税署等の諸員及有志者等、一行の安着を歓迎くわんげいし、直たたちに三好屋に於て盛さかんなる慰労会ゐらうくわいを催もよふされたり。

翌日一行の諸氏と相分あひわかれ、余は小西君と共に車くるまを駆かりて前橋に帰かへりたり。

此探検たんけんに就つひて得たる利益の大要を記きすれば左の如し。

(第一)地図ちづの改正かいせい。県属地理掛森下、深井の二君は精密せいみつなる地図を製せいせられたり、利根河上流の模様もやうは将来頗すこぶる改正を要えうするなり、上越国界に至いたりても同じく改正を要すれども、尚なほ精確せいかくを得んには向後尚一国上越及岩代の三ヶ国より、各人を派して国界を定さだめし後にありとす。

(第二)殖産事業しよくさんじげう。従来藤原村三十六万町歩即ち凡そ十三里四方の山林ありと称せしも、凡およそ其半なるを確たしかめたり、利根山奥は嶮岨けんそ人ひとの入る能はざりし為ため、漫みだりに其大を想像さう〲せしも、一行の探検に拠れば存外ぞんぐわいにも其狭せまきを知しりたればなり、楢沢の平野は良樹りやうじゆ蓊欝おううつとして森林事業に望のぞみあり、須原峠字上ヶ原の原野は牧畜ぼくちくに宜よろしく尾瀬の大高原は開墾かいこんするを得べし、此他漸次道路を開通かいつうせば無数の良材木を運はこび出す事を得うべし。

(第三)植物しよくぶつ。利根山奥の低ひくき所ところは山毛欅帯に属ぞくし、高たかきは白檜帯に属す、最高なる所は偃松帯に属ぞくすれども甚だ狭せましとす、之を以て山奥の入口は山の頂上に深緑色の五葉松繁茂はんもし、其他は凡て淡緑色の山毛欅樹繁茂す、山奥の深ふかき所ところに至いたれば黒緑色の白檜山半以上に茂しげり、其以下は猶山毛欅樹多し、故に山々常に劃然くわくぜんとして二分せられ、上は深緑、下は淡緑、其景実じつに画えがくが如きなり、此他石南樹、「ななかまど」「さはふたぎ」、白樺、楢類等多しとす、草類に於ては「わうれん」、「ごぜんたちばな」、「いはべんけいさう」、「まひづるさう」、「まんねんすき」、「ひかげのかづら」、毛氈苔、苔桃、「いはかがみ」、「ぎんらんさう」、等多し、菌類に於ては「みの茸」、まひ茸、黒ほざ茸、す茸、「こぼりもだし茸」、等食すべきもの実じつに多し。

(第四)鉱物くわうぶつ及動物どうぶつ。別べつに貴重きちやうの金石を発見はつけんせず、唯黄鉄鉱の厚層こうさう広ひろく連亘れんたんせし所あり、岩石は花崗岩みかげいし尤も多く輝石安山岩之に次つげり、共に水蝕の著いちじるしき岩石なるを以て、到いたる処に奇景きけいを現出せり、文珠岩の如きは実じつに奇中の奇きたるものなり、要するに人跡未到の地ちなるを以て、動植物及鉱物共に大おほいに得る所あらんとするを期きせしなれ共、右の如く別に珍奇ちんきなる者を発見はつけんせざりき、されども頗すこぶる種々の有益なる材料ざいれうを得来りしは余の大に満足まんぞくとする所なり、動物にては鹿しか、熊くま尤多おほくして山中に跋扈ばつこし、猿、兎亦多し、蜘蛛類、蝨類の珍めづらしき種類あり、鳥類てうるゐにて耳目に触れしは「かけす」、四十雀、梟ふくろありしのみ。

終おはりに臨のぞみ熊くまに就て一言すべし、熊の巣穴は山中に無数あるにも拘かかはらず、藤原村に於て年々得る所の熊くまは数頭のみ、之れ猟師の勇気いうきと胆力たんりよくと甚少きを以てなり、即ち陥穽かんせいを設もうけて熊を猟りやうするあり、或は遠方より熊を銃殺じゆうさつする位なり、若もし命中誤あやまりて熊くま逃のがるれば之を追捕するの勇いうなきなり、而るに秋田若くは越後の猟人年々此山奥に入り来りて猟りやうするを見れば、其冒険ぼうけんなること上州人の能よく及ぶ所に非ずと云ふ、其方法に依れば熊くまを銃撃じゆうげきして命中誤あやまり、熊逃走とうさうする時之を追駆つゐくすれば熊遂つひに怒いかりて直立し、将まさに一跳てう人ひとを攫つかまんとす、此に於て短剱たんけんを以て之を貫つらぬき、直ちに熊くまを抱いたきて相角し遂つひに之を殺ころすなり、熊人を見みて逃のがれんとする時ときも亦然すと云ふ、此回の探検中たんけんちうは熊くまに逢あひし事なし、之れ夏間は人家近ちかき山やまに出でて食しよくを取とり、冬に至いたりて帰蟄きちつする者なればなり、且かつ一行二十七名の多勢なれば、如何なる動物どうぶつと雖も皆遁逃とんとうして直ただちに影かげを失しつし、敢あへて害がいを加くわふるものなかりき、折角せつかく携帯けいたいせる三尺の秋水しうすゐも空むなしく伐木刀と変へんじ、「ピストル」猟銃も亦雨あめに湿うるうて錆さびを生ぜる贅物ぜいぶつとなり、唯帰途の一行無事ぶじの祝砲しゆくはうに代かはりしのみ。

利根水源探検紀行終

底本 / Source edition

底本:「臺灣生蕃探檢記」博文館
1897(明治30)年2月25日発行
初出:「上野教育會雜誌」
1894(明治27)年10月~12月
※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※変体仮名と仮名の繰り返し記号は、通常の仮名にあらためました。
※「予等」と「余等」、「険崖」と「嶮崖」、「愈《いよ》いよ」と「愈《いよ/\》」、「上る」と「登る」、「溯」と「遡」、「言ふ」と「云ふ」の混在は、底本通りです。
※「恰も」に対するルビの「あたか」と「あだか」、「攀登」に対するルビの「はんとう」と「ばんとう」と「はんと」と「ばんと」、「温泉」に対するルビの「をんせん」と「おんせん」、「花崗岩」に対するルビの「みがけいわ」と「みかげいし」の混在は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2021年9月4日作成
2022年4月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
/works/060467_002153/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/060467_002153/

渡辺 千吉郎「利根水源探検紀行」(新字旧仮名)、底本『臺灣生蕃探檢記』博文館、1897年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 060467_002153, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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