「<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">サクソン</span>の<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>き神に<ruby><rb>縁</rb><rt>ちな</rt></ruby>みてぞ、けふをば『ヱンスデイ』といふ。その神見ませ、よるよりも暗くさびしき<ruby><rb>墳墓</rb><rt>おくつき</rt></ruby>に、<ruby><rb>降</rb><rt>くだ</rt></ruby>りゆくまで我が守る宝といふは誠のみ。」

<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">カアトライト</span>

<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">ホトソン</span>に沿うて登つて行つたことのある旅人は、屹度<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">ケエツキル</span>の山を覚えて居ませう。これは<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">アパラツチエン</span>山の幹から出た小枝で、遙に西に向つて、仰いで見れば、麓は河の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>に垂れて、<ruby><rb>巓</rb><rt>いたゞき</rt></ruby>は空に聳え、自づと近隣の地を支配して居ます。四季の変、天気の<ruby><rb>更</rb><rt>かはり</rt></ruby>は勿論、一日の中でも、一刻一刻に不思議にも色と形とを改めるは此山です。それだからこの山の見える処に住む女房は、皆なこれを晴雨計にします。好い天気の続くときは、青か紫かの衣を着て、その大胆らしい界の線を<ruby><rb>翳</rb><rt>くもり</rt></ruby>のない夕空に画き、時としては、近き<ruby><rb>傍</rb><rt>あたり</rt></ruby>の森には、雲も烟も見えぬに、その巓は、鼠色の霧の<ruby><rb>環</rb><rt>わ</rt></ruby>を掛けられ、西山に這入り掛つた夕日の、最後の光に触れて、凱旋の人の戴く冠の様に光り輝きます。

此奇怪な山の麓で、旅人はある村から立ち<ruby><rb>騰</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る、弱々しい烟を見ましたらう。丁度あの晴れた空の青「インキ」が、近い林の緑色に移り行く所で、木の間からちら〱と屋根の見える村です。この村は小い、古風な村です。それも尤も、むかし<ruby><rb>和蘭陀</rb><rt>ヲランダ</rt></ruby>の移住民が、当時善政の聞えのあつた<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ペエテル、ストユイヱサント</span>（渠は無窮の平和に<ruby><rb>息</rb><rt>やす</rt></ruby>め）の時代に建てたのだから。四五年前までは、まだ和蘭陀から持て来た、小い黄いろな煉化石で積み上げた、格子窓の附いた、屋根の正面に破風を造つた、その上に風の<ruby><rb>嚮</rb><rt>む</rt></ruby>きを知らする鶏が立つて居る家が、沢山残つて居ました。

丁度この村に、この家の一つに、本たうを言へば、随分雨風に打たれた破れ家に、まだ此辺が英領であつた頃、愚直な、気の好い<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ、フアン、ヰンクル</span>といふ人が住んで居ました。先祖を問へば、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ペエテル</span>のまだ<ruby><rb>軍</rb><rt>いくさ</rt></ruby>の功名を世にとゞろかした時、屈竟の武士で、<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">フオオト、クリスチナ</span>を<ruby><rb>打囲</rb><rt>とりま</rt></ruby>いた一人の<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">フアン、ヰンクル</span>氏です。然し先祖の勇気は遺伝しないことか、私が見た処では、此人は愚直で、好い気で、隣には親切で、女房には始終馬鹿にせられて居ました。渠が喧嘩を好まず、兎角柔和で、世間の人にすかれたのは、全く右の最後に挙げた遭遇の結果でせう。大抵内で喧嘩の好きな女房に支配せられて居る男は、世間で平和を好み、誰にでも従つて、好い人だと言はるゝものです。人の性質は家内の不和といふ火力の強い炉で柔に、撓み易くせられるもので、善人になるには、世界中の高僧の説教を聴くより、女房の<ruby><rb>窓帷</rb><rt>まどかけ</rt></ruby>の下の説経を聴くに限ります。この説経の外に、まあ何が柔和と忍辱とを教へませう。して見ると<ruby><rb>矢釜</rb><rt>やかま</rt></ruby>しい女房を持つた人は、仕合せです。嗚呼、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ、フアン、ヰンクル</span>の仕合せもの。

また此人が近隣の女房共の憐を受けたことは非常です。総て婦人は他家の<ruby><rb>内訌</rb><rt>もめ</rt></ruby>に就て、評議を凝らすときは、亭主の党派に加はるものですが、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">フアン、ヰンクル</span>の家の事では、殊に亭主を賛成し、晩の会議で、罪の全体を負ふのは、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">フアン、ヰンクル</span>夫人に極つて居ました。その外、村中の小供の仲間で、此人の景気は盛なもので、この人の姿が近寄る度に、村童の群が、凱歌を挙げて迎へました。かれ等の為めに玩具を作つて遣り、紙鳶を飛ばして遣り、<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>を廻して遣り、また幽霊や、魔女や、銅色人種の面白い語をして遣るのは、此人の外にはないからです。村童は乍ちにこの人を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>とりま</rt></ruby>いて上衣の裾に縋り、脊中に攀ぢ登り、思ひの儘な<ruby><rb>悪劇</rb><rt>いたづら</rt></ruby>をしても此人は腹を立てません。小供が馴染む許りではない、此人に吠えた犬は、近村に一疋もありませなんだ。

唯だ<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が性質の中で、一番悪いのは、利潤になる様な<ruby><rb>業</rb><rt>しごと</rt></ruby>を、一切嫌ふのです。それはかれが耐忍力に乏しい為めでせうか。<ruby><rb>韃靼</rb><rt>だつたん</rt></ruby>人の槍よりも長い釣竿を握つて、息を<ruby><rb>屏</rb><rt>つ</rt></ruby>めて湿り勝な岩の上に坐り、一尾の魚も取らずに、平気で一日も居るのは、耐忍力ではありませんか。鳥銃を肩に掛けて、沼を渡り、森を穿ち、登りつ、降りつ、幾時となく<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>うて、山鳩一羽、栗鼠二三頭を捕つて、喜んで還るのは、耐忍力ではありませんか。隣の人の業になら、どんな六つかしいことにでも、手を借すのは、此人です。祭の時に<ruby><rb>蜀黍</rb><rt>もろこし</rt></ruby>の<ruby><rb>莢</rb><rt>さや</rt></ruby>を剥ぎ、石垣を築くとき、第一に力を出すのは、此人です。村中の女房が、亭主の辞退する用は、皆な此人に頼み、走り使は皆なこの人にさせます。このとほりに<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は世にありとあらゆる人の仕事をします。そのしないのは、自分の仕事計りです。自分の家を治め、自分の畑を耕すことは、かれには所詮出来ませなんだ。

実に妙な性分です。然し其訳を問ふと、何時でも立派に言ひ解きます。私の田を耕す程、世に損なことはない。これは国中で悪いのです。いくら骨を折つても、穀物が<ruby><rb>実</rb><rt>みの</rt></ruby>つたことはない。垣は誰も破らぬに独りでに破れて仕舞ふ。牛は逃げて仕舞つたり、菜の中へ這入つたりします。無益な艸は外よりも早く延びます。此畑へ仕業に出ると、何時でも意地悪く雨が降る。斯う言つて、打ち棄てゝ置く程に、先祖から譲り受けた田は、年々に減つて仕舞ひ、今は唯だ些し計りの、蜀黍と馬鈴藷を種付ける畑ばかりが残りました。

また<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の子供は、汚れた膚、破れた衣、誰をも親に持たない子の様です。父にそつくりな<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>といふ息子は、唯だ貌計でなく、心まで父に似やうといふ、頼もしい望のある小僧です。何時も馬の子の様に、母の跡に附き、親父の穿き古した、ぼろ〱の<ruby><rb>袴</rb><rt>ずぼん</rt></ruby>の、垂れて地を払ふのを、片手で<ruby><rb>撮</rb><rt>つま</rt></ruby>んで歩くのは、丸で天気の悪い時に、善い<ruby><rb>衣</rb><rt>きもの</rt></ruby>を着た女が、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を<ruby><rb>蹇</rb><rt>かゝ</rt></ruby>げるやうです。

<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ、フアン、ヰンクル</span>は例の仕合せものゝ、例の愚直な、放任な、世間を易く見て、白麺包でも黒麺包でも、心にせよ体にせよ、成る丈少し労して得られるものを食ひ、一弗<ruby><rb>贏</rb><rt>まう</rt></ruby>けようと骨を折らうよりは、一銭贏けて餓ゑてもよいと云ふ人物の一人でした。かれの安を妨ぐるものがなかつたなら、かれは口笛を吹き乍ら、さぞ面白く世を渡つた事でせう。然し<ruby><rb>煩聒</rb><rt>やかま</rt></ruby>しい女房は、かれの懶惰無頓着抔が、一家の破滅だといつて断えずかれを責めます。朝も昼も晩も女房の舌は止むときなく運転して、何かこの男が言つたり、<ruby><rb>為</rb><rt>し</rt></ruby>たりすると、直に長演説が始まります。こんな演説に出逢つた時の<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が答辨は、唯だ一つで、この一つはかれの癖になりました。かれは肩を聳かし、頭を掉り、<ruby><rb>上</rb><rt>うは</rt></ruby>目を使つて一言も云ひません。この答辨に次で、何時でも女房が最う一遍新に<ruby><rb>丸</rb><rt>たま</rt></ruby>を籠めて発砲し、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は僅に身を以て免かるといふ様な勢で、兵を引上げ、外へ出て行きます。これは何処でもしりにしかれて居る亭主のたつた一つの逃道です。

家内で<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>に服従して居るものと云つては、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヲルフ</span>と名の付いた犬計りで、この犬も矢張しりにしかれて居る仲間です。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>といふに女房の目から見れば、此犬は亭主の懶惰の友で、亭主が頻に失策をするのはかれの為めのやうに見えます。だから女房の目は憎気にこの犬を見ます。全体、犬の徳といふべきものは、皆な備へたこの犬、昔よりこの辺の蓊鬱たる林を穿つた中で、最も大胆なこの犬ですが、一女子の舌のいつまでも猛烈なのには、何等の胆力か挫折せずに居られませう。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヲルフ</span>は家に這入るや否や、頭を低れ、尾は地まで下げて、股の間に插み、間の悪るさうな顔で歩き廻り、折々横目で主婦を見て居ますが、箒の柄、杓子の音が少しでもすると、一目散に戸口を駈け出します。

夫婦になつて居る歳が移るに従つて、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の地位は段々に悪くなつて来ます。原来酷い性は決して年を経て寛にはならず、鋭利な舌は断えず用ゐるに連れて<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>つて来る刃物です。既に久しい間、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は家から逐出される度に、村中の学者、儒者、その外の<ruby><rb>懶</rb><rt>なま</rt></ruby>けものが開いて居る一種の常置会に臨むことにして居ました。会場は戸口に<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ジヨルジ</span>第三世陛下の赤い様な像が掛つて居る小い酒屋の前の長椅子です。永い眠むさうな夏の日に、かれ等はこの日蔭に腰を掛けて、村中の噂や、訳もない怠屈な永譚をします。然し稀に旅人の手から古新聞を一枚貰つたとき、この仲間でする<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>な議論を聞く事が出来たなら、或る政治家は随分金を払つたかも知れません。学校教師<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">デリツク、フアン、ブムメル</span>がぽつ〱と読む文句を、かれ等はまあどんなにか真面目に聞いて居ましたらう。読むものは字書の中のどんな難字に遭つても駭かない、すばしこい、賢い小男です。聴く人は紙上の政治問題に就いて、まあどんなに賢く議論をしましたらう。この既に二三月前に済んだ問題に就いて。

この会議の<ruby><rb>首座</rb><rt>しゆざ</rt></ruby>で、その意見を支配して居たのは、村の故老で、宿屋の主人<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ニコラス、ベツタア</span>です。この人は家の前の大木の蔭に何時も座つて居て、毎日丁度、日光を避けられる丈体を動かします。ですから近所の人はこの人の座を見て、時刻を知ることは、丁度<ruby><rb>沙漏刻</rb><rt>すなどけい</rt></ruby>と同じことです。この人は多く議論を致しませんが、煙草はその代りに絶えず<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>みます。かれの党（世の英雄には屹度その党があります）は、それでも善くかれの意を解します、かれの向背を探ります。人の読むこと、言ふことなどが気に入らぬときには、渠は劇しく煙草を吸ひ込み、また頻に短い怒つた様な烟の吹き方をします。若し又気に入る時は、烟草を<ruby><rb>閑</rb><rt>しづか</rt></ruby>に<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆつ</rt></ruby>くり吸ひ込み、軽い穏な雲を吹き出し、時としては烟管を口から引き出し、匂ひの善い烟に鼻のあたりで環を書かせ、<ruby><rb>物体</rb><rt>もつたい</rt></ruby>らしく<ruby><rb>頷</rb><rt>うなづ</rt></ruby>いて、その腹からの大賛成を表します。不便な<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は、此<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>からも、彼喧嘩好きの女房に逐はれました。彼女房はこの平和な集会に突然駈け込んで、誰彼の嫌なく、会員一同を<ruby><rb>益</rb><rt>やく</rt></ruby>に立たずと罵り、例の尊厳なる<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ニコラス、ベツタア</span>の身さへ、この恐ろしい<ruby><rb>変生男子</rb><rt>へんせうなんし</rt></ruby>の大胆な舌で傷られました。女房は<ruby><rb>覿面</rb><rt>てきめん</rt></ruby>にかれに向つて、自分の夫を懶惰にする人だと責めました。

遂には不便な<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>も<ruby><rb>偪迫</rb><rt>ひつぱく</rt></ruby>に堪ぬ様になりました。農家の力作と女房の喧嘩とを逃れる最後の策は、鳥銃を手に把つて、山深く這入ることです。さて山の中では、折々木の根に腰を掛けて、嚢の中の物を<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヲルフ</span>に<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>けてやります、この同じ危難に遭つて居る同病相憐む猟犬の<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヲルフ</span>に。こんな時には<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は犬に向つて言ひます。「不便な<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヲルフ</span>、そなたの主婦は犬同様に汝を扱て居るぞ。然し苦労にするな。吾児よ。おれが生きて居る間は汝の力になる友達が一人はあるといふものだ。」<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヲルフ</span>は大抵尾を掉つて、もの思はし気に主人の顔を見ます。嗚呼犬が不便といふことを知るものなら、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヲルフ</span>がこんな時に心の底から主人をふびんがるのは疑ひもないことでせう。

ある秋の晴れ渡つた日に、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ、フアン、ヰンクル</span>は例の通り<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">ケエツキル</span>の山に這入つて、われ知らず、この山の絶頂に近い処まで来ました。かれは<ruby><rb>栗鼠狩</rb><rt>りすがり</rt></ruby>といふ道楽に引かれて来たので、かれの放つた<ruby><rb>鳥銃</rb><rt>てつぽう</rt></ruby>の音を反射する<ruby><rb>谺響</rb><rt>こだま</rt></ruby>は、また一たびこの無人境の寂しさを破りました。渠が疲れ果てゝ喘ぎつゝ、崖の縁を冠の様に飾つて居る、山苔で裹まれた緑の丘の上に倒れたのは、昼過ぎ遅くでした。木々の隙間から見渡せば、丘の下の数哩に亘つた森が見えます。少し隔つた処を遙に、ずつと遙に<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>せば、美しい、静な、然し荘厳な<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">ホトソン</span>の流が帯の様に見えて、紫の雲、又は（此処彼処にその水晶の胸の上で<ruby><rb>仮寐</rb><rt>うたゝね</rt></ruby>をして居る様な）徐々とすべつて行く小舟の帆が、影を写し、その末は青う見える高原で、そのはては<ruby><rb>恍惚</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>と知れなくなつて居ます。

外の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>を見下せば、淋しく荒れた深い谿で、その底の岩には、許多の<ruby><rb>罅隙</rb><rt>われめ</rt></ruby>が這入つて居て、所々には崖から飛出した石もあり、夕陽の光線の屈折反射した末が僅にこれを照らして居ます。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>はこの景色に対して暫くは思ひ沈んで居ました。蒼然たる暮色は段々に迫つて来て、山々は長い青色の影を谷に落し初めました。かれはこの様子では村に帰り付くより、余つ程早く日が暮れて仕舞はうと考へ、還り付いた時に女房の怒は何程だらうかと、覚えず太い息を吐きました。

<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が奮発して帰らうとし掛つた折に、遠くから「<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>」と呼ぶ声がします。<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻はすに、頭の上を飛んで行く一羽の鴉の外に、目に遮るものもない。渠は心の迷であつたかと、又た行かうとすると、同じ声で「<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>」と呼ぶ。この声が静な日暮の空気に響き渡る時に、連れて居る猟犬<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヲルフ</span>の毛が立つて来て、犬は静に鼻を鳴らし乍ら、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>に<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>り倚つて、物に畏れる様な風で、谷の底を覗きます。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>も何となく薄気味が悪くなつて、ふと犬の見詰めて居る方角を見ると、岩を踏んで登つて来る怪しい人の姿が見えます。かれは脊に負うて居る重荷の為めか、腰を曲めて歩く様子です。この浮世を離れた場所で<ruby><rb>邂逅</rb><rt>であ</rt></ruby>うた人の姿には、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>も少し驚きましたが、また近村のものでもあるかと思つたから、かれの重さうな荷を負ふのを、少し扶けて遣らうと急いで崖を<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りました。

近くなればなる程、不思議なのは異人の模様です。<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>は低く、力のありさうな老人、髪は濃くて箒の様になり、髯は灰いろです。<ruby><rb>打扮</rb><rt>いでたち</rt></ruby>は和蘭陀の古代の風俗（帯で腰を約した木綿衣）袴は幾重も穿き、外の分は濶くて、両側は各一列の<ruby><rb>鈕</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>で留めてあります。膝の処には紐が附いて居ります。肩に載せて居るのは重い桶で、その中にあるものは<ruby><rb>薬酒</rb><rt>りきよーる</rt></ruby>と見えます。異人は手真似で<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>を呼んで、少しすけて呉れと頼む様子です。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は少しはこの新知己に対して嫌疑の心を懐きもしたが、例の気の好い所から、手を借してやりました。異人と<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>とは代る〱に荷を負つて、谷間を登つて行きました。此谷間は古代に山川の流れた痕と見えます。攀ぢ登つて行く中に、折々遠い雷の様な音が耳に達します。この音は登つて行く道の窮まる所に見える岩の裂け目から出る様です。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は初めこの音を聞いた時、立ち留つて耳を澄ましたが、深山で折々逢ふ一時の、通り過ぎの雷かと思つたから、又た疑はずに進で行きました。扨て例の岩の裂け目を通り越して見ると、こゝは一つの<ruby><rb>岩窟</rb><rt>いはむろ</rt></ruby>です。窟の形は劇場の桟敷に似て居て、その<ruby><rb>周匝</rb><rt>めぐり</rt></ruby>は急な崖です。この崖の上には老樹が枝を交へて、唯だその隙間に、藍の様に青い空と、光のある夕の雲が見えるばかりです。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>はこの異人と一所に登つて往く間始終無言でした。何故この山奥へ、薬酒を一桶負うて這入るか。その訳は解りませんが、この異人の姿には何となく馴れ難い、敬はねばならない所があつて、何うも話を仕掛けられませなんだ。

岩窟に這入ると、また驚くべきものが目に触れました。窟の中央の窪んだ処に<ruby><rb>諧譃</rb><rt>おど</rt></ruby>けた人物が寄つて、尖柱戯（向うに立てゝある<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>つた木の柱を、こちらから木の丸を<ruby><rb>転</rb><rt>ころが</rt></ruby>し掛けて倒す戯）をして居る。その人物の衣は可笑しい外国風の仕立です。一人は短い袍を衣て、外の連れは半臂に長い剣を佩き、大抵皆な（彼の荷を負うて来た人の穿いて居る通りな）無暗に寛い袴の中に嵌まり込んで居ます。それにその人々の顔は皆な妙です。一人は頭が大きく、額が広くつて、目は豕の様に狭く、外の一人の顔は丸で鼻計りで出来て居る様で、その上から赤い鳥の羽で飾つた、白い棒砂糖形の帽子が<ruby><rb>被</rb><rt>か</rt></ruby>ぶさり掛つて居ます。どれも色々な形の、様々な色の髯を生やして居ます。中で一人は頭と見えます。此人は日にやけた顔で、力の強さうな老人です。渠は紐で飾つた袍を着て、広い帯に剣を懸け、羽附きの高く尖つた帽を戴き、赤い<ruby><rb>襪</rb><rt>たび</rt></ruby>に<ruby><rb>踵</rb><rt>かゝと</rt></ruby>の高い、花飾りの附いた靴を穿いて居ます。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は此仲間を見て、村の牧師<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">シエエク</span>さんの部屋にある、和蘭人の移住の時に来た<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">フランドルス</span>の古い画を思ひ出しました。殊に<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の目に可笑しく見えたのは、此人々が真から楽んで居るに違ないのに、皆な真面目な顔をして、さも秘密らしく黙つて居ることです。ですから<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が今迄見た内でこれが一番沈んだ会でした。この場所の静かなのを時々破るものは、<ruby><rb>丸</rb><rt>たま</rt></ruby>の音計りです、抛げ出される度に、山伝ひに谺響を喚起す、鳴渡る雷の様な丸の音計りです。

桶を担うた人に連れられて、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>がこの異人の群に近寄つた時に、渠等は俄に遊を廃めて、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>を見ました。その気抜のした、そして譬へて云つて見ると、石や金でこしらへた彫像の目の様な目と、粗相な<ruby><rb>沢</rb><rt>つや</rt></ruby>のない顔附を見た<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は、<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>の臓が胸の中で<ruby><rb>顛倒</rb><rt>ひつくりかへ</rt></ruby>つて、膝は<ruby><rb>緊</rb><rt>しまり</rt></ruby>がなくなりました。一所に来た男は桶の薬酒を大きな瓶に分けて入れましたが、入れ仕舞ふと<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>を喚んで、異人達のお酌をさせました。かれは<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>がつて慄ひ乍ら酒を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いで出すと、異人は黙つて飲み乾し、また遊の方へ顔を向けて、<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>には構ひませなんだ。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は段々に怖いと羞かしいとを忘れて、渠等の見ないを<ruby><rb>僥倖</rb><rt>さいはい</rt></ruby>に薬酒を試めして見ると、上等の<ruby><rb>杜松子酒</rb><rt>とせうししゆ</rt></ruby>の様な味がしました。此男は元来<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>の乾く<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>ですから、一度この味を占めると、また一口飲みたく成る、つい二度三度と瓶へのお見舞を重ねる中に、段々に気が遠くなつて、目がちらつき、頭は何時ともなく<ruby><rb>項垂</rb><rt>うなた</rt></ruby>れて来ました。かれは眠つて仕舞ひました。

目が覚めて視れば、また原の緑の岡の上に居ました、丁度あの異しい桶を担うた男を始めて見た所に。目を<ruby><rb>摩</rb><rt>こす</rt></ruby>つて見れば、夜は明け離れて、旭が麗かに照つて居ます。木の間には枝から枝に渡つて鳴く小鳥、清い山風に<ruby><rb>抗</rb><rt>さから</rt></ruby>つて高く舞ふ青空の鷲ばかり。「はてな、一晩<ruby><rb>是処</rb><rt>こゝ</rt></ruby>であかして仕舞つたか知らん」といふのが、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の最初の考でした。渠は寐附いた迄の事を繰り返して思ふに、桶を負うた異人との<ruby><rb>邂逅</rb><rt>であひ</rt></ruby>、岩窟、物凄しい岩陰、陰気な尖柱戯の遊仲間、瓶。「嗚呼、その瓶だ。その因果な瓶だ。まあ、何と女房に言訳をしやう。扨々困つた。」

かれは鳥銃が<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>にあるかと見廻しました。<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしたことか傍にあるのは、持ち慣れた、磨き立つた、好く油を引いた鳥銃ではなくつて、古い銃身には一面に<ruby><rb>鏽</rb><rt>さび</rt></ruby>の附いた、<ruby><rb>撥条</rb><rt>はじき</rt></ruby>の落ちた、<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>を虫の喰つた鳥銃です。かれの考では、あの真面目腐つた、<ruby><rb>生酔</rb><rt>なまえひ</rt></ruby>の山男が、おれに一杯喰はせて、酔ひ倒れたのを幸に、鳥銃を盗んだことかと思ひました。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヲルフ</span>も見えないが、これは栗鼠か、鳥かを追掛けて往つたかも知れません。かれは口笛を吹いて見たり、名を呼んで見たりしても、口笛と犬の名とを呼び戻す<ruby><rb>谺響</rb><rt>こだま</rt></ruby>は聞えて、犬の姿は見えませなんだ。

かれは昨日の怪い目に逢つた処へ往つて見やうと思ひ定めました、若し尖柱戯仲間の一人に出逢つたら、鳥銃と犬とも、取り戻されるかも知れぬから。扨て<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う思つて立ちあがるとき、何となく節々のあがきが不如意なのに気が附きました。「<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うも石の上なんぞに寝ると、体をだいなしにして仕舞ふ。若しこれがこうじて<ruby><rb>僂麻質斯</rb><rt>れうまちす</rt></ruby>にでもなつたら、さぞ女房に矢釜しく云はれることだらう。」と独言を言ひ乍ら、漸うの思で渓間に降りて、昨日異人と連立つて歩いた道の処に来ました。然し不思議なは、この渓間は山河になつて、岩から岩へと跳る水は、<ruby><rb>聒</rb><rt>やか</rt></ruby>ましい小言で、此無人の境を賑はして居ます。骨を折つて、河の岸に生茂つた樺や<ruby><rb>榛</rb><rt>はしばみ</rt></ruby>や「サツサフラス」の小枝を押し分け乍ら、岸に沿うて登つて行くに、樹々の枝に蔓を渡して、<ruby><rb>往方</rb><rt>ゆくて</rt></ruby>の途に網を張つた、野生の葡萄が、折々足に搦んで、その困難、実に昨日の<ruby><rb>比</rb><rt>たぐひ</rt></ruby>ではありませなんだ。

漸う岩窟の入口まで来て見れば、今日は穴も何もありません。削立つた岩は<ruby><rb>罅隙</rb><rt>すきま</rt></ruby>のない壁の様で、しかもその上から<ruby><rb>瀑布</rb><rt>たき</rt></ruby>が泡を飛ばして墜ちて来て、直ぐ下にある、<ruby><rb>周囲</rb><rt>まはり</rt></ruby>の森の影に裹まれて、真黒な淵にはいります。可哀さうに<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>はこれから先へ一足も行かれません。かれは又た口笛を吹いたり、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヲルフ</span>の名を喚んだりして見ても、<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>へるものは遙に高い枯木の<ruby><rb>周匝</rb><rt>まはり</rt></ruby>を飛んで居る<ruby><rb>惰鴉</rb><rt>なまけがらす</rt></ruby>の一群ばかりです。かれ等は高い処から、この気を揉んで居る人間を見卸して、馬鹿にする様に見えます。はて<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしませう。<ruby><rb>日景</rb><rt>ひかげ</rt></ruby>は段々移る。朝飯を食はない<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は追々飢を覚えて来ました。犬と鳥銃とはなくして仕舞つて、腹は立ちます。家へ帰らうには、女房が<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>んなにか叱るだらうと気に成る。然し山の中で饑死をする訳にも行きません。かれは首を<ruby><rb>掉</rb><rt>ふ</rt></ruby>つて、古鳥銃を肩に掛け、心配を胸に帰途に掛りました。

村に近くなつて来ると、一群の人が行き<ruby><rb>交</rb><rt>ちが</rt></ruby>ひましたが、一人も知つた顔でありません。かれは村中に知らない顔はなかつたものを。それに<ruby><rb>邂逅</rb><rt>であ</rt></ruby>うた人の<ruby><rb>衣</rb><rt>きもの</rt></ruby>が、皆んな見慣れない仕立です。かれ等は皆な<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>を見て驚く様子で、また言ひ合はせた様に、頤を<ruby><rb>摩</rb><rt>さす</rt></ruby>ります。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は覚えず自分の頤を摩つてびつくりしました、髯が一尺も長く伸びて居たから。

<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が村境に這入ると、識らない小供の一群が、跡から<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来て、白い鬚に指をさして笑ひ、また声を立てゝ叫びます。犬の居る前を通過ぎる度毎に吠えられるから、気を付けて見れば、皆な識らない顔の犬仲間です。村も変つて、大きくなり、また人も<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えて居ます。見馴れた家は痕もなくなつたかと思へば、昨日まで家のなかつた所に、檐を連ねた街が出来て、家々の入口には、知らない名が書いてあり、窓からは知らない人が顔を出して、何も彼も知らないもの計りです。かれの胸には心配が起つて来て、つひにかれは自分も<ruby><rb>周囲</rb><rt>まはり</rt></ruby>の世界も一しよに化かされて仕舞つたのではないかと思ひました。これが我村に違はないものを、昨日出て行つた我村に。<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">ケエツキル</span>山は<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>に聳えて、<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">ホトソン</span>の清い流は<ruby><rb>此処</rb><rt>こゝ</rt></ruby>に流れて、丘も谷も<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>もの通です。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の心は千々に迷うて、何となく悲しく成つて来ました。「あゝ、きのふの瓶の酒だに飲まなかつたら、こんな気違ひにはならなかつたらうに、」と渠は歎息しました。

漸うの思で、渠は我家を探し当てゝ、怖々に近寄りました、女房の耳に立つ声が、今するか〱と思ふから。見れば哀れな家の有様です。屋根は落ち込み、窓は破れ、戸は蝶番からはづれて居ます。何処か<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヲルフ</span>に似たやうな、饑死をし掛つた犬が一匹、家の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まはり</rt></ruby>を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ぶらつ</rt></ruby>いて居るから、名を呼んで見ると、<ruby><rb>厮奴</rb><rt>きやつ</rt></ruby>は歯を<ruby><rb>露出</rb><rt>むきだ</rt></ruby>して、<ruby><rb>噢咻</rb><rt>うな</rt></ruby>つて逃げて仕舞ひました。随分これは面白くない待受けといふものでせう。「おれの飼狗まで、おれを見忘れて仕舞つたか、」と<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は<ruby><rb>大息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を吐き乍ら云ひました。

かれは家の閾を跨ぎました。原と<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の女房は矢釜しい丈、家の掃除はよくして居たが、今見れば荒れ果てゝ、人影もない様です。この有様を見て、女房の怖さも忘れて仕舞つた<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は、女房と子供との名を高く呼びました。この声は<ruby><rb>虚</rb><rt>から</rt></ruby>になつて居る部屋々々へ響いたが、それつきりに、又た静かになりました。

<ruby><rb>落胆</rb><rt>がつかり</rt></ruby>して家を出て、<ruby><rb>急足</rb><rt>はやあし</rt></ruby>で何時もの酒屋に来て見れば、これも<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしたか消えて仕舞つて、その代に大きな、古びた、木造りの家がありました。破れ掛つた処を、<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>や<ruby><rb>古帽子</rb><rt>ふるしやつぽ</rt></ruby>で埋めた窓が、広く開けてあつて、戸の上には、「<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ジヨナタン、ヅウリツトル</span>の聯邦客舎」と塗字で書いてあります。昔し酒店の簷端を掩うて居た古木はなくなつて、その代に太い裸な棒が一本立つて居て、その尖には寐る時に被ぶる赤帽子の様なものが附いて居る、その処から旗が一流れ懸つて居るのを、善く見れば、星と<ruby><rb>条</rb><rt>すじ</rt></ruby>とが妙な工合に組合はせてある、渾て見るものが皆な不思議です。「然し<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ジヨルジ</span>王の<ruby><rb>赤顔</rb><rt>あからがほ</rt></ruby>の招牌は、まだ<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>に掛けてある。いや〱赤い<ruby><rb>袍</rb><rt>はう</rt></ruby>の色が、青と黄とに変つて居る。杖の代に、手に持つて居るのは剣だ。頭には縁の<ruby><rb>飜</rb><rt>ひつくりか</rt></ruby>へつた帽を被ぶつて居る。何んだ。下には将軍華聖頓と書いてある。」何時もの通り、戸口には大勢の人が寄集つて居るが、皆な知らない顔です。全体人の風儀が変つて、見慣れた、眠むさうな、静かな性は迹もなく、誰も彼も忙しさうに、<ruby><rb>喧</rb><rt>やか</rt></ruby>ましく、争を好むといふやうに見えます。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>はあの広い顔の、頤の二重になつた、綺麗な、長い烟管から、空論の代りに烟りを吹く、賢い<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ニコラス、ベツタア</span>か、又は古びた新聞の話を聞かする、教員の<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ブムメル</span>は居らぬかと、見廻はしても、遂に見当りませなんだ。是等の人物の代には、痩せこけた苦々しい顔の男が、外套の隠しへ一杯紙片を入れて、民権、撰挙、議員、自由、<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">バンカアスヒル</span>、七十六年の英雄抔と、訳の解らない、彼の<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">バビロン</span>城の<ruby><rb>工人</rb><rt>しごとし</rt></ruby>の言葉のやうな事を、無暗に<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しやべ</rt></ruby>つて居りました。

<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が長い髯を垂れ、異風な装束を附け、鏽で真赤になつた鳥銃を肩に引掛け、跡には許多の婦女子を随へて、この場に現れたを見て、酒店に集つた政治家連は、一同喫驚しました。渠等は立つて来て、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>を取巻き、さも珍らし気に、頭の頂から足の<ruby><rb>蹠</rb><rt>うら</rt></ruby>まで見ました。中にも如才のない演説家は、群集を押分けて側に寄り、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>を引張つて、「君は何党の人を撰挙しますか、」と問ひました。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は呆れた顔をして、かの男を<ruby><rb>瞠視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めた計り、一言も出しませなんだ。その内に又た人を押分けて来て、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の腕を握つたのは、忙し気な丈の低い男で、足を<ruby><rb>爪立</rb><rt>つまだ</rt></ruby>てゝ耳に口を寄せ、「君は聯合党員ですか、または民政党員ですか、」と問ひました。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は矢張り呆れた顔をして、一言も出しませなんだ。この時に又た群衆を肘で<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>き<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>け〱、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の面前へ出て来たのは、仔細らしい、物識り顔な老人で、<ruby><rb>隻腕</rb><rt>かたうで</rt></ruby>を腰に突張り、隻腕を杖の上に置いて、尖つた帽の下から、鋭い眼を光らせ、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の顔を、魂まで見抜きさうに睨んで、「君はこの撰挙場に、武器を携帯して来るさへあるに、許多の人民を従へて居らるゝのは、暴動でも起さうといふ所存ですか」と云つた。これを聞いた<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は、少し慌てた声で。「何うして私が暴動抔を致しませう。私は此土地の<ruby><rb>根生</rb><rt>ねお</rt></ruby>ひのもので、王さまの大の信仰者です」と云ひました。

王さまの信仰者と名乗つた<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が一声は、尚囲繞いて居た撰挙人の群に、<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい混雑を<ruby><rb>惹起</rb><rt>ひきおこ</rt></ruby>しました。「それ王党だ。それ<ruby><rb>間牒</rb><rt>まはしもの</rt></ruby>だ。<ruby><rb>落人</rb><rt>おちふど</rt></ruby>だ。捕へて仕舞へ。いや逐出して仕舞へ。」このさま〲の声を<ruby><rb>鎮</rb><rt>しづ</rt></ruby>めた、例の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>の<ruby><rb>飜</rb><rt>ひつくりか</rt></ruby>へつた帽を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>つて居る老先生の骨折は、大抵ではありませなんだ。さて十倍真面目な顔付をして、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>に向つて、（かれが為めにはこの怪しい犯罪人に向つて）何の仔細があつて、誰を捜しに此処へは来たかと問ひました。ふびんな<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は、何んにも悪意は<ruby><rb>挾</rb><rt>さしはさ</rt></ruby>まず、唯だ何時も此処に来る、近処の<ruby><rb>知己</rb><rt>ちかづき</rt></ruby>を捜しに来たと答へました。

「宜しい、それは誰れか、名をお言ひなさい。」<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は少し考へて、「<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ニコラス、ベツタア</span>は何処に居ますか、御存の方はありませんか。」

群衆は暫く静まつて居たが、中で老人が一人、薄い悲し気な声で答へました。「なに、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ニコラス、ベツタア</span>。あの男が死んだのは、もう十八年前の事だ。墓の上に建てた木に、行状が書いてあつたが、その木も何時か腐れて仕舞つて、今は痕もない。」

「そんなら<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ブロム、ダツチヤア</span>は。」

「あれは<ruby><rb>軍</rb><rt>いくさ</rt></ruby>の始まつた時に隊に這入つた。ストニイ、ポイントの進撃の時に死んだといふ人もあるし、又たアントニイス、ノオスの<ruby><rb>颶風</rb><rt>はやて</rt></ruby>に逢うて溺れたといふ人もある。何しろ帰つては来ない。」

「そして教師の<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">フアン、ブムメル</span>は。」

「あれも矢張軍に出て、仕舞ひには<ruby><rb>土兵</rb><rt>どへい</rt></ruby>の大した将官になつて、今では議員だ。」

この恐ろしい世間の<ruby><rb>更</rb><rt>かわ</rt></ruby>り<ruby><rb>様</rb><rt>やう</rt></ruby>、又た友達の栄枯得失を聞いて、自分の唯だ此処に取残されたことを顧みた<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の落胆は思ひ遣られます。それに人の答が一々心を迷はす種になる、幾歳月を経た間の歴史上の出来事を、遠慮会釈もなく、並べて話されるから。戦争、国会、<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">ストニイ、ポイント</span>の進撃。かれは<ruby><rb>最</rb><rt>も</rt></ruby>う外の友達の事を問ふ気力がないから、さも困つた様に、「そして誰も此内で<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ、フアン、ヰンクル</span>を知つたものはありませんか。」

「なに<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ、フアン、ヰンクル</span>」と二人か三人が一度に応へました。「知らなくつて。それ、其所に木に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>つ掛つて居るのが<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>さ。」と云はれて、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は驚き乍ら、人の指ざす方を見れば、成程自分に<ruby><rb>酷</rb><rt>よく</rt></ruby><ruby><rb>肖</rb><rt>に</rt></ruby>た、同じ様に貧乏らしい、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きつと</rt></ruby>また同じ様に無性な男が、木に<ruby><rb>倚掛</rb><rt>よりかゝ</rt></ruby>つて、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby><ruby><rb>構</rb><rt>かま</rt></ruby>はずといふ姿で居ます。此時<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が呆れ加減は、極端に達しました。かれは自分が果して自分だか、<ruby><rb>将</rb><rt>は</rt></ruby>た他人だかと疑ひ始めました。この精神の錯乱して居る最中に、例の<ruby><rb>飜</rb><rt>ひるが</rt></ruby>へつた縁の帽を被つた先生は、又た<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>に向つて、其方は誰だと問ひました。

「それをまあ誰れが知つて居ませう、」とかれは答へました、かれは丸で判断力を失つて仕舞つたから。「私は矢つ張私ではありません。私は外の人です。<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>に居るのが私です。然し、いゝえ。彼処に居る人は、矢つ張私の<ruby><rb>蛻</rb><rt>ぬけがら</rt></ruby>に這入つた外の人です。昨晩までは、まだ私は私でした。一晩山の中に明かして、鳥銃は取換へられ、世間は丸で別物にせられ、その上私まで更りましたから、私の名は何と申しますか、私は誰ですか、迚も申すことは出来ません。」これを聴いて居た群衆は、互に顔を見あはせて頷きあひ、又た意味あり気に手真似をして、額を指ざしました。中にはこの危ない老人の持つて居る飛道具を取上げねば、何か事を起さうも知れぬと、<ruby><rb>咡</rb><rt>さゝや</rt></ruby>ぐものもありましたが、かの飜へつた縁の帽を被つた先生は、これを聞くや否や、直ぐにこそ〱と逃げて仕舞ひました。この時に若い愛らしい婦人が、群衆を押し分けて、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の側へ近寄りました。この<ruby><rb>白髯</rb><rt>しろひげ</rt></ruby>の<ruby><rb>翁</rb><rt>おきな</rt></ruby>の貌に驚いてか、抱いて居た頬の<ruby><rb>￼</rb><rt>ふく</rt></ruby>れた子は、声を放つて泣出しました。「おや可笑な子だねえ。この<ruby><rb>老爺</rb><rt>おぢ</rt></ruby>さんは<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うもしはしないよ。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span><ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>は善い子だ。静にお仕よ。」小児の名、その母の顔と<ruby><rb>声音</rb><rt>こわね</rt></ruby>と、これ等は<ruby><rb>僉</rb><rt>み</rt></ruby>な<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ、フアン、ヰンクル</span>の心に<ruby><rb>夥多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の記念を喚起しました。かれは「おかみさん、あなたのお名前は、」と問ひました。

「<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ジユヂス、ガアドニイア</span>」

「そして貴君の<ruby><rb>乃翁</rb><rt>おとつさん</rt></ruby>の名は。」

「えゝ、気の毒なのは私の<ruby><rb>阿爺</rb><rt>おとつさん</rt></ruby>、名は<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ、フアン、ヰンクル</span>と云ひました。鳥銃を肩に掛けて、家を出て往つてから、最う二十年立ちましたが、それつ切り音沙汰なしです。<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて往つた犬は独で還りましたが、主人は自殺でもしましたか、銅色人種にでも引張つて行かれましたか、誰も様子を知りません。私はまだその時に小さい娘で御座りました。」

これで<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の問は、只だ一条を余したが、かれは吃り乍ら、漸う言葉を出しました。

「そしてお前の<ruby><rb>老萱</rb><rt>おつかさん</rt></ruby>は何処に居ます。」

「<ruby><rb>嬢々</rb><rt>おつかさん</rt></ruby>はたつた<ruby><rb>此間</rb><rt>こないだ</rt></ruby>無くなりました。<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">ニユウ、イングランド</span>から来た旅商人と喧嘩をして、余り<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>つたので、卒中とかいふ病を<ruby><rb>発</rb><rt>おこ</rt></ruby>したのだといふことです。」

<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が為めに、少し心を慰める媒になつたのは、此れ一つです。かれは<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>へず、娘と孫とを抱いて。「おれがお前の<ruby><rb>親父</rb><rt>おやぢ</rt></ruby>だ、<ruby><rb>祖父</rb><rt>ぢい</rt></ruby>だ、家を出た日には、まだ若かつた、今日は年寄つた<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ、フアン、ヰンクル</span>だ。まあ此多人数の<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>に、誰もおれを見覚えた人はないか、」と云ひました。一同<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れて立つて居る中から、<ruby><rb>踉蹌</rb><rt>よろ</rt></ruby>け乍ら出た<ruby><rb>老媼</rb><rt>おふな</rt></ruby>は、手を<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>して一分時程<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の顔を見て居たが。「やあ、お前は<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>さんに違ない。善う帰つて来ました。この永の歳月、まあ、何処に居ました。」と云うたが、その時の<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の嬉しさは、実に思遣られます。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が二十年間の話は、すぐに済みました、かれがためには、二十年が一夜ですから。聞いたものは又た互に目を見あはせました。中には舌を頬へ推込んだ人もあります。危くないと見極めて戻つて居た、<ruby><rb>飜</rb><rt>ひつくりか</rt></ruby>へり<ruby><rb>帽子</rb><rt>しやつぽ</rt></ruby>の先生は、口の角を引下げて、頭を掉ると、一同が同じ様に頭を掉りました。

この時街を<ruby><rb>徐々</rb><rt>ゆる〱</rt></ruby>と歩いて来たのは、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ペエテル、フアンデルドンク</span>と云つて、此府の古記録を編輯した、同名の人の<ruby><rb>後裔</rb><rt>のち</rt></ruby>です。今ではこの村の一番古い人で、昔しこの村にあつた珍らしい事といへば、この人の知らないことはない位です。この人は一同に<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が話に就ての意見を尋ねられて、何か思ひ当ることでもあるやうな身振をしましたが、その言ひ出すのを聞くに。先祖の歴史家の著書の内に、<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">ケエツキル</span>山に異形な人が居るといふことは、分明に書いてある。これはこの洲と河とを発見した<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヘンドリツク、ホトソン</span>の仲間で、二十年に一遍づゝこゝへ来て見るのが常になつて居る、かれの父は一度この仲間が山の洞の中で、和蘭風な<ruby><rb>打扮</rb><rt>いでたち</rt></ruby>で、尖柱戯をして居るのに<ruby><rb>邂逅</rb><rt>であ</rt></ruby>つたことがある、かれもある夏の昼過に、<ruby><rb>丸</rb><rt>たま</rt></ruby>を転ばすやうな音を聞いたことがあるといひます。

群衆はこの話を聞いて安心して、また重大な選挙事件の方に心を寄せました。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が娘は父を勧めて同居させようと、連れて帰りました。その家は<ruby><rb>倒々</rb><rt>なか〱</rt></ruby>美しく、諸道具も備つて居ます。その亭主といふものは、壮健な農夫で、<ruby><rb>熟</rb><rt>つく</rt></ruby>々見れば昔し<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が脊中に攀ぢ登つた<ruby><rb>悪劇児</rb><rt>いたづらこども</rt></ruby>の一人です。親にそつくりな二代の<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>、あの木に倚掛つて居た男も、この家に喚ばれて、庭で仕事をすることになりましたが、矢張り自分の業よりは、人の業に力を入れる珍らしい<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>でした。

<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>はまた元の通りに、散歩、其外の慣れた生活を始めました。昔しの友達をも一二人は見出したが、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>れも〱衰へ果てゝ、<ruby><rb>言葉敵</rb><rt>ことばがたき</rt></ruby>にもならないから、それよりは寧ろ若いものをと、段々に少年の友達をこしらへ、この少年等も、また程なく<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>を二なきものに思ひました。

かれは家に用事もなく、又た幸に最早用事がないと云つても、人の彼此と批評をしない丈の年になりましたから、異議もなく、元の通に酒屋の前の或る榻を専有して、村のものには故老の一人、また戦争前の活きた歴史として敬はれました。渠の話の流が淀みなくなり、自分の寐て居た間の変遷を<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>するまでになつたのは、これより大分後の事です。独立戦争のあつたこと、国が英吉利の覊絆を脱して、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ジヨルジ</span>第三世陛下の臣民たる<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>が、合衆国の自由の民になつたことも、次第々々にその腹におちました。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は元から政治家ではないから、国の<ruby><rb>発落</rb><rt>なりゆき</rt></ruby>には余り感じませなんだが、かれも曾て一種の圧制の下に立つて、<ruby><rb>大息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>ばかり<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いて居た事がありました。それは女房の圧制です。仕合せにも、この政府は転覆しました。かれは夫婦の桎梏を脱して、家の出入にも、時の制限のない、自由の身となりました。<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">フアン、ヰンクル</span>夫人の名を聞く度、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は相替らず頭を掉り、肩を聳かし、<ruby><rb>空目</rb><rt>そらめ</rt></ruby>を遣ひますが、この身振は彼の自分の運命を諦めた<ruby><rb>徴</rb><rt>しるし</rt></ruby>とも、又た圧制を脱れた喜の徴とも取られませう。

<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヅウリツトル</span>の<ruby><rb>客舎</rb><rt>ホテル</rt></ruby>に泊る客がある毎に、<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>は身の上話をしました。初めの内は話す度に何処か少しづゝ変る様でしたが、これはかれがまだ目が醒めたばかりで、考も<ruby><rb>後先</rb><rt>あとさき</rt></ruby>になるのでありましたらう。仕舞には話がこゝに書いてある通に、確かに<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>つて、近処に住む老若男女共、皆な<ruby><rb>熟</rb><rt>よ</rt></ruby>くその始終を知つて居るやうになりました。ある人は到底<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>の話を信ぜず、かれは久しく気が違つて居たのであらう、かれの頭は元から少し怪しかつたからと云ひました。これに反して<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ</span>を何処までも信じたのは和蘭の遺民です。今も夏の午後に<span data-tei-rend="bosen 二重傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: double">ケエツキル</span>山の方に雷がなる度に、かれ等は屹度<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">ヘンドリツク、ホトソン</span>の尖柱戯の話をくり返して、<ruby><rb>生計</rb><rt>なりはひ</rt></ruby>に困つた人は<span data-tei-rend="bosen 傍線 right" style="text-decoration-line: underline; text-decoration-style: solid">リツプ、フアン、ヰンクル</span>の瓶から<ruby><rb>蒙汗薬</rb><rt>しびれぐすり</rt></ruby>が飲みたいと云ひます。