年よりの年経た頭につくられた一つの古い歌がある、

年とった立派なだんながありまた、大きな地所をもっていて、

広い広い<ruby><rb>古邸</rb><rt>ふるやしき</rt></ruby>、そこで気前のよい暮らし、

門では年より門番が貧乏人を助けてた。

古い書斎はかたくるしい昔の本でいっぱいだ、

偉い牧師は年よりで、一目でそれとすぐわかる、

食堂の<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>運ぶその窓の戸なんぞこわれて取れている、

年経た<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>に年経たコック、その数全部で六人だ。

お宮仕えのおいぼれに、そっくりそのまま……<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>

――古謡

イギリス国民が得意とする<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>のうちで、彼らがもっとも長じているのは、ものごとを漫画化したり、道化た名称やあだ名をつけたりすることである。こういうふうにして、彼らが名をつけたものは単に個人だけでなく、国民にも及んだ。そして、どこまでもふざけるのが好きなので、自分自身さえも容赦しなかった。ふつうの人が考えれば、ある国民が、自分たちに人間の名をつけるならば、なにか威厳があり、雄々しく、壮大なものを想像するのが当りまえだろう。ところがイギリス人の気性は風変りで、彼らが愛するのは、無愛想で、滑稽で、しかも親しみのあるものなのだ。そういう特徴があらわれたために、彼らは自分たちの国民的な奇矯な性質を具象するものとして、でっぷり<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った、<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい老人を選び、それに三角帽をかぶせ、赤いチョッキを着せ、なめし革のズボンをはかせ、頑丈な<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の<ruby><rb>棍棒</rb><rt>こんぼう</rt></ruby>をもたせたのである。こうして、彼らは自分のもっとも内密な欠点を面白おかしくさらけだすことに奇妙な喜びを感じた。そして、彼らの描いた絵はじつにうまくできているから、実在の人物でだれが大衆にとってよく記憶されているといっても、あの変人、ジョン・ブルにはとうてい<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わないであろう。

このようにして自分について描かれた人物を絶えず注視していたためであろうが、やがてその人物はイギリス国民の上にしっかりと根をおろすようになり、また、最初は大部分想像で描かれたのであろうが、それに真実性がそなわることになってきた。人間というものは、自分が奇妙な性質をもっているのだと常に言いきかされていると、じっさいそういう性質になってしまいがちである。一般のイギリス人たちは、自分が考えたジョン・ブルの理想的なすがたにふしぎなほど夢中になってしまったらしく、片時もはなれずにはっきりと自分の眼の前にある戯画にふさわしいように行動しようとつとめているのである。不幸にして、彼らはときとして自分が偏見をもっていたり、あるいは野卑であったりしたときに、自慢のジョン・ブルをひきあいに出して、言いわけをしようとするのだ。ほんとうに世間知らずの生粋のロンドン育ちのもので、ロンドンのボウ教会の鐘の音がとどかぬところには行ったことがない人たちのあいだでこういうことは特に目についた。そこでは、もの言いが少しぶしつけで、差出がましい事ばかり言う人は、自分こそほんとうのジョン・ブルであると言い、きまって遠慮<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>なく物を言う。つまらないことで法外に怒りたてたりするときには、ジョン・ブルとは怒りっぽい男であると言う。もっともこの人は怒りがおさまってしまえば、悪意はまったく持っていないのである。もし彼が、自分の趣味が粗野で、外国の精美なものに無感覚なことをうっかり暴露したときには、彼の言い草は、ありがたいことにおれはそんなものは知らない、おれは正真正銘のジョン・ブルで、うわべの飾りやつまらぬ見せびらかしには趣味がないのだ、というのである。彼が知らない人にだまされて、<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>げたものに法外な金を払いやすい傾向があるのさえ、<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>であるという口実で言いのがれ、ジョン・ブルは賢明であるよりも、むしろ常に寛大であると言うのだ。

このように、ジョン・ブルという名を利用して、彼は議論の結果あらゆる欠点を美徳にしてしまおうとし、また、あらゆる人間のうちで自分がいちばん正直な男であるとみずから率直にみとめるのである。

したがって、このジョン・ブルという人物ははじめはイギリス国民の姿にはほとんど似合わなかったかもしれないが、次第に適応して、それにあてはまるようになった。いや、むしろ国民のほうがおたがいに適応しあったのである。外国人がイギリス人の特異性を研究しようとするならば、漫画店の窓に飾ってある、あまたのジョン・ブルの肖像から、さまざまの貴重な知識を得ることができるだろう。しかしながら、このジョン・ブルという男は、はなはだ滑稽の才に富む人で、絶えず新しいすがたをあらわし、見かたによっていろいろな顔つきに見えるのである。そこで、今までにもずいぶんいろいろと彼について書かれてきたのだが、わたしは、わたしの眼に映った通りの彼のすがたを簡単にスケッチして見たいという誘惑に勝てないのである。

ジョン・ブルはどう見ても、あけすけな露骨な常識的な男で、詩的情緒にはきわめて乏しいが、散文的情緒には富んでいる。生れつき空想的でないが、自然な感情が強くゆたかである。彼は<ruby><rb>機智</rb><rt>きち</rt></ruby>があるというよりも滑稽に<ruby><rb>秀</rb><rt>ひ</rt></ruby>いで、にぎやかで快活というよりはのんびりと上機嫌であり、気むずかしく陰気というよりは物思わしげで<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>である。思わずほろりとしたり、あるいは、びっくりして爆笑することもあるが、感傷におぼれるのはきらいで、おどけることは好まない。自分の思いのままにすることができ、自分のことが話題になっていさえすれば、彼は遊び仲間になっているし、また、友人のためには生命も財産も投げだして味方になり、どんなにひどく棍棒でうたれようといとわない。

じつをいうと、この友人のためにつくす点については、彼はいささか早まりすぎる傾向がある。彼はおせっかいな人間で、自分と家族とのことを考えるだけでなく、身のまわり一帯のひとびとのことまで考え、まったく寛大にすべての人を守ってやろうという気になるのである。いつでも近所の人たちに尽力を申し出て、その事件を解決しようとし、もしも相手が自分の意見をたずねないで、なにか重大なことでもしようものなら、大いに機嫌をそこねるのだ。ところが、彼がこういったたぐいの親切な世話をやくときはたいてい、みんなと<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>になってしまい、しかも、その人たちが恩知らずであると言ってひどく毒づくのである。彼は不幸にして若いときに立派な護身術の修練をし、手足や武器を用いる技に熟し、<ruby><rb>拳闘</rb><rt>けんとう</rt></ruby>や棍棒術の達人となったので、それ以来ずっと面倒の多い生活をおくっているのである。喧嘩があると聞きこめば、たとえそれが近所とは言えないようなはなれたところでおこったことでも、すぐに自分の棍棒の頭をなでまわし、この喧嘩に口を出すことは自分の利害のために、あるいは名誉のために、必要であるか<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>かを考えはじめるのだ。じっさい、彼の威光と政策とは近隣一帯に大きくひろがっているので、何か事件がおこると、かならず彼の精巧にはりめぐらした権利や威厳がいくぶんか侵されないわけにはいかない。彼が自分の小さな領地に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>りこんで、こういう細糸をありとあらゆる方向に延べひろげている様は、太鼓腹の、<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>もちの<ruby><rb>古蜘蛛</rb><rt>ふるぐも</rt></ruby>のようだ。この蜘蛛は部屋じゅうに巣をはっているので、<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>が一匹飛んでも、風がちょっと吹いても、眠りをおどろかされ、向っ腹を立ててその根城から出撃してゆくのである。

彼は心底はほんとうに情の深い、気立てのよい男なのだが、ふしぎに争いの<ruby><rb>真只中</rb><rt>まっただなか</rt></ruby>に飛びこむのが好きである。しかし、奇妙な性癖で、彼は喧嘩の最初のほうだけしか楽しまない。いつも喜び勇んで戦いに突入するが、引きあげてくるときには、たとえ勝った場合でも不平をこぼすのだ。彼ほど頑強に戦って、主張を押し通すものはないのだが、戦いがすんで、<ruby><rb>和睦</rb><rt>わぼく</rt></ruby>するときには、ただ握手するのにさえ夢中になりすぎて、今まで争っていたものをすっかり敵にせしめられてしまいがちだ。したがって、彼がよく警戒してかかるべきものは、戦いそのものではなく、むしろ仲直りのほうである。彼を棍棒でなぐりつけても、びた一文取りあげることすら容易にはできない。だが、機嫌をよくさせれば、それこそ話しあいで彼のポケットにある金を根こそぎまきあげることもできるのだ。彼は<ruby><rb>堅牢</rb><rt>けんろう</rt></ruby>な船に似ている。どんなに<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>でも傷つかずにきりぬけてゆくのに、そのあとで風が<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>ぐと、大ゆれにゆれてマストを水につけてしまうのだ。

彼は外へ出て殿様ぶるのが少々好きだ。重い財布をひっぱり出して、拳闘の試合や、競馬や、闘鶏に金をふんだんにまきちらし、「<ruby><rb>好事家</rb><rt>こうずか</rt></ruby>連中」のなかで威張りかえっているのが好きなのである。ところが、こういう浪費の発作がさめると、たちまちにして彼は、節約を忘れたというはげしい<ruby><rb>呵責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>の念にとりつかれ、ほんの<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かな出費をもぱったりと差しひかえてしまい、やがて零落して養老院に入れられてしまうだろうなどと<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>になって言うのだ。そして、そういう気分のときには、小売商人の勘定はどんなに少額でも、さんざん言い争ったあげくでなければ、払おうとしない。じじつ、世の中で彼ほど正確に期限をまもって金を払う人はないのだが、また彼ほどひどく不平をこぼしながら金を払う人もない。ズボンのポケットから、さもいやそうに金を引っぱり出して、びた一文も欠けずに払うのだが、一ギニー出すごとにがみがみと文句を添えるのだ。

ところが、彼は節約、節約としきりに言うのにもかかわらず、家のものには気前よく物をあたえ、客には歓待をつくすのである。彼の倹約は気まぐれなもので、そのいちばん主な目的は、どうしたら大散財をすることができるか、その方法を考えだすことである。自分はビフテキ一枚食べるのも、<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>を一パイント飲むのもけちけちする日があるかと思うと、それは、その翌日に<ruby><rb>牡牛</rb><rt>おうし</rt></ruby>を一頭丸焼きにし、ビールの<ruby><rb>大樽</rb><rt>おおだる</rt></ruby>の口をあけ、近所の人に一人残らずもてなしをするためなのだ。

彼の世帯は<ruby><rb>莫大</rb><rt>ばくだい</rt></ruby>な費用を要する。これは、外観が壮大なためではなく、むしろ充実した牛肉やプディングをさかんに消費し、大勢の召使に衣食をあたえ、また、奇妙な性分のおかげで、ちょっとした仕事に巨額な金を払うからである。彼はしごく親切で情ぶかい主人であり、もし召使たちが彼の風変りな気質を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みこみ、ときたま彼の虚栄心に少々へつらいを言い、彼の目の前で無遠慮に金を使いこむようなことさえしなければ、自由自在に彼をあやつることができる。彼の世話になって暮らしているものはなんでも勢いがさかんになり、肥るようである。召使たちは給料をたっぷり<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って、わがまま放題していて、しかも用事はほとんどないのだ。馬は毛なみがつやつやして、なまけもので、主人の公式馬車をひくときにはのそのそと威張りくさって歩く。番犬はのどかに門のあたりで眠りこけ、押込み強盗が来ても<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>えかかろうともしない。

彼の邸はいくたの歳月をへたために灰色になった古い城のような<ruby><rb>荘園邸</rb><rt>しょうえんてい</rt></ruby>で、風雨にさらされたとはいえ、たいそう<ruby><rb>荘厳</rb><rt>そうごん</rt></ruby>な外観を呈している。この邸は整然とした計画によって建てられたのではなく、ただ部分部分が途方もなく大きく積みかさなっているだけで、各部分の趣味や、建てられた時代は種々雑多である。中央部はあきらかにサクソン建築のあとをとどめ、大きな石やイギリス<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の古い材木を使って、これ以上堅牢にはできないというほど頑丈につくってある。こういう様式の遺跡の例に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れず、この邸にもうす暗い廊下や、こみいった迷路や、陰気な部屋がたくさんあり、現代になってから部分的には明るくされたが、いまだに<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>のなかで手探りしなければならない場所が数々ある。ときに応じて本来の建物に増築がほどこされ、大改造もおこなわれた。戦争や<ruby><rb>叛乱</rb><rt>はんらん</rt></ruby>のあいだには塔や胸壁が築かれ、平和なときには翼が建てられた。離れ屋や、番小屋や、台所が、さまざまな世代の気まぐれや便宜にしたがって造られた。そして、ついにこの邸ほど広大で、まとまりのない建物は、ほかには想像することもできないようになってしまったのである。一そで全体が家族の礼拝堂になっている。これは尊ぶべき建物で、かつてはきわめて壮麗であったにちがいない。その後さまざまの時代に改変を加えられ、簡素化されたにもかかわらず、依然として厳かな宗教的な華麗な様相をそなえている。その内側の壁にはジョンの先祖たちの記念碑が飾られ、やわらかい<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>や、立派な上張りの<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>が心地よくしつらえてある。そして、家族のなかで宗教的儀式を好むものは、ここで安楽に居眠りをして、つとめは怠っていることもできるのである。

この礼拝堂を維持するためにジョンはずいぶん金をつかった。しかし、彼は自分の宗教を固く信じており、付近に非国教派の教会がぞくぞく建てられ、彼が喧嘩したことのある近所の人がいく人か強烈なローマ・カトリック信者であるといったような状態だと、やっきになってしまうのである。

礼拝堂の<ruby><rb>勤行</rb><rt>ごんぎょう</rt></ruby>をおこなうために、彼はたいへんな費用をかけて、信心ぶかい、堂々たる<ruby><rb>恰幅</rb><rt>かっぷく</rt></ruby>の家庭牧師をやとっている。この牧師はきわめて学識があり、礼儀正しい人物で、ほんとうに上品なキリスト教徒で、つねに老紳士の意見をあとおしし、彼のかるい罪はわざと見のがしてやり、子供たちが言うことをきかないときには<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>りつける。そしてまた、彼が大いに役立つのは、小作人たちに聖書を読み、<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きとう</rt></ruby>をするようにすすめ、とりわけ、借地料をきちんきちんと納め、不平を言わないように訓戒することである。

家族の住む部屋はいかにも古風な趣味で、いささか重苦しく、たいていの場合不便であるが、昔のおごそかな崇高さに満ちている。ここには色あせたといっても立派な<ruby><rb>絨毯</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>がしきつめてあり、かさばった家具や、<ruby><rb>豪奢</rb><rt>ごうしゃ</rt></ruby>な金銀の大きな食器がならべてある。巨大な<ruby><rb>煖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>、ゆったりした台所、ひろびろした地下の蔵、宴会用の豪華な広間。すべてが過ぎし昔のにぎやかな酒宴を物語っている。こういう酒宴に比べれば、今日荘園邸でもよおされる宴楽などは、ほんの影にしかすぎない。しかし、幾組もの部屋があきらかに人が住まなくなり、古くなってしまっている。楼や塔は壊れおちそうになっていて、風の強い日には、家族の頭上に倒れかかる危険がある。

ジョンはしばしば、この古い建物を完全に解体して、無用な部分はとりこわし、ほかのところをその材料で補強するように忠告された。ところが、この老人はこの話がもちだされるときまって怒りっぽくなるのだ。彼が言うには、この邸は立派な建物だ。しっかりしていて、風雨にも耐え、嵐が吹いても揺れるものではない。もう数百年も建っているのだから、今になって急に倒れたりするはずがない。不便である点について言うならば、家族はその不便になれているから、それがなくなったら、かえって落ちついていられないだろう。大きすぎて、建てかたが不ぞろいだと言うが、それはこの邸が数世紀にわたって成長してきたからで、世代ごとに英智をもって改革してきた結果である。自分のような古い家柄のものは大きな家に住まなければならん。新しい成りあがりの家族は現代風の小屋なり、住み心地のよい掘っ立て小屋なりに住むのもよかろう。だが、古いイギリスの家門は、古いイギリスの荘園邸に住むべきである、といったわけである。もしも建物のどこかが余計であると指摘しようものなら、彼は、その部分はほかの場所の力ともなり飾りともなっている大切なところで、全体を調和させるためだ、と主張し、各部分は互いに食いこみあって建てられているのだから、もしも一カ所を引きたおしたりしたら、全体が頭から崩れおちてくる危険をおかすことになる、とうそぶくのだ。

ことの真底をたちわって言うならば、ジョンはひとの保護をし、恩をかけるのが大好きなのだ。彼の考えでは、給料を惜しまずに与え、自分に依存するものたちによって食いつぶされることが、古い立派な家門の威厳にとって欠くべからざることなのだ。だから、半ばは誇りのため、半ばは親切心のために、彼は、<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>してしまった召使たちにも住居と生活費をかならずあたえることにしているのだ。

その結果、ほかの多くの尊ぶべき世帯と同様、彼の荘園は、彼が解雇することができない老僕や、彼が放棄することができない古い様式のために動きがとれなくなってしまうのである。彼の邸宅は大きな傷病兵療養所のようなもので、さすがの<ruby><rb>宏大</rb><rt>こうだい</rt></ruby>さをもってしても、その住人にとっては少しも大きすぎることはないのである。どんな片隅でもだれか役に立たない人を住まわせるのに使われていないところはない。老護衛兵や、痛風病みの年金生活者や、退役した食料置場の英雄たちの群が、邸の塀によりかかったり、芝生をはいまわったり、木かげで居眠りをしたり、あるいは、戸口のあたりでベンチに腰かけて<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>ぼっこをしたりしている。どの台所にも、どの離れ屋にもこういう余計な人間とその家族が陣どっている。彼らは驚くほど子沢山で、死ねばかならずジョンに遺産として、食わしてやらねばならない腹の減った口を残してゆくのである。邸のなかで塔に<ruby><rb>鶴</rb><rt>つる</rt></ruby>はしを打ちこめば、たとえそれがいちばんぼろぼろの朽ちはてた塔であっても、老衰した<ruby><rb>居候</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>で、一生涯ジョンの費用で暮らしていた男が、かならず、どこかの割れ目か銃眼から、白髪頭をひょこりと突きだすのだ。そして、いとも悲しげな叫び声をあげて、一家の老いさらばえた召使の頭上から屋根をひきおろしてしまうとは、あまりのことだ、というにきまっている。こういう訴えにはジョンの正直な心は<ruby><rb>抗</rb><rt>あらが</rt></ruby>うことができない。そういうわけだから、ある人が一生忠実に彼の与える牛肉とプディングとを食べていれば、老年になってからは<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>のパイプとビールの大コップで報いられることは受けあいである。

彼の庭園の大部分も草地になってしまっている。そこには彼のやせおとろえた軍馬が放されて、邪魔されずに草をはみ、余生をおくっているのだ。これは、むかしの恩をよくおぼえていることのあっぱれな模範であり、近所の人がまねても決して不名誉にはなるまい。じっさい、彼の大きな<ruby><rb>愉</rb><rt>たの</rt></ruby>しみの一つは、こういう老馬どもを来客にさししめし、その<ruby><rb>稟質</rb><rt>ひんしつ</rt></ruby>をくわしく述べたて、その過去のはたらきを賞揚し、少々得意になって、その馬が彼を乗せて走ったときの危険な冒険や、勇敢な武勲を<ruby><rb>吹聴</rb><rt>ふいちょう</rt></ruby>することなのだ。

しかし、彼は家門のならわしや、家の厄介ものに対する尊敬の念には奇妙なほど夢中になっているのである。彼の荘園はジプシーの群に侵害されている。だが、彼はその連中を追いだすことを許さない。それというのは、彼らがその場所にずっと昔から横行していたためであり、また、この一家のいつの世代においても定まりの密猟者だったからである。彼は、<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>をとりまいている大きな木々の枯れ枝を切ることもなかなか許さない。そこに数世紀のあいだ巣をつくっていた<ruby><rb>深山烏</rb><rt>みやまがらす</rt></ruby>を邪魔するといけないからである。<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>は<ruby><rb>鳩</rb><rt>はと</rt></ruby>の巣を占領してしまった。しかし、それは家伝来の梟であり、したがって、その平和を乱してはならないのである。<ruby><rb>燕</rb><rt>つばめ</rt></ruby>は煙突に巣をつくってどれもこれもほとんどつまらせてしまった。岩燕は邸のありとあらゆる小壁や軒蛇腹に巣をかけている。烏は塔のまわりをばたばた飛びまわり、風見には一つ残らずとまっている。そして、灰色の頭の<ruby><rb>古鼠</rb><rt>ふるねずみ</rt></ruby>どもは邸のどの部屋にもいて、真昼間から<ruby><rb>臆面</rb><rt>おくめん</rt></ruby>もなく、穴を出たり入ったり<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けまわっている。要するに、ジョンは一門に長く伝わったものはなんでも<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>めたてるのだ。悪弊を改革することさえ聞きいれようとしない。それは、家に伝わった、昔なつかしい悪弊であるからだ。

こういった気まぐれや癖はすべて一致協同して、老紳士の財布をいたましいほど<ruby><rb>枯渇</rb><rt>こかつ</rt></ruby>させてしまった。そして、彼が金銭に関することでは期限を守ることを自慢にし、あたり近所に信用を保とうと望んでも、いざ債務をはたす段になると、こういう奇癖のおかげで、すっかり途方にくれてしまうようになったのである。これがまた、家族のなかに四六時ちゅうおこる口論や<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>反目によっていっそうはなはだしくなるのだ。彼の子供たちは成長してさまざまな職業につき、考え方もそれぞれ異っている。ところが、彼らはいつでも自分の考えたことを遠慮なく話すことを許されてきたので、今もその権利を行使して老紳士の現状についてたいへんかまびすしく論じあうのである。あるものは一門の名誉を守ろうとして、費用がどれほどかかろうとも、その古い格式を一切今のままに保つべきだと決めてかかる。またあるものはもっと慎重で思慮ぶかく、老紳士に対して経費をきりつめ、家政全体をもっところあいのところまで引きさげるように熱心にたのむ。じっさい、彼もときにはその意見を聞こうという気になったこともあるのだが、彼らの有益な忠告は、息子のうちのある一人の騒々しい行動によって<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>にくだかれてしまったのだ。この男は、騒がしい、頭の空っぽな男で、性癖はどちらかといえば低劣であり、仕事をおこたっては酒屋へ足しげく通い、村のクラブの雄弁家であり、父の小作人のうちのいちばん貧乏な連中のなかでは全くの賢哲として通っているのだ。兄弟のだれかが改革とか節約とかいうことを口にするのを聞くがはやいか、彼は飛びあがって、相手がいおうとすることを横どりし、革命をおこそうと叫び立てる。<ruby><rb>一旦</rb><rt>いったん</rt></ruby>彼の舌が動きはじめると、何ものといえどもそれを止めさせることができない。彼は部屋じゅうをわめきまわり、老人に向って、金使いが荒いといっておどしつけ、老人の趣味や仕事をあざけり、老僕たちを家のそとに追い出せと言いはり、耄碌馬どもは猟犬に食わせてしまえ、<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>っちょの牧師はくびにして、野外説教者をそのかわりに雇えと言いだす。いや、それどころか、邸全体をうちこわして、そのあとに<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>とモルタルの簡素な家を建てろとさえ言いはるのだ。彼は社交上の宴会や家族の祝いはどれもこれもののしるが、馬車の用意ができて門口につくと、きまって愚痴をこぼしながら、こっそり酒屋へずるけこんでしまう。彼は財布がからだと絶えず不平を言っているが、いささかの<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>なしにこういう居酒屋会議に小遣銭をはたききって、その上酒代の借をふやす。しかも、彼はこの酒をのみながら、父親の無駄づかいを説教してきかせるのだ。

このように逆らえば、老騎士の<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい気性と折りあわないことは容易に想像できよう。老人はたびかさなる邪魔立てにすっかり<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>って、経費削減とか改革とかと、一くち口にしただけで、老人と、この居酒屋の賢人とのあいだに大喧嘩がおこる合図になる。ところが、この賢人ときたら、すこぶる頑丈で、親が制御しようにも手に負えず、<ruby><rb>棍棒</rb><rt>こんぼう</rt></ruby>に対する恐怖などはすでになくなってしまっているので、彼らはしばしば口角泡をとばして言い争うのである。ときには論争があまりにはげしくなり、ジョンはやむなく息子のトムの助太刀をもとめるのだ。このトムは軍人で外地勤務をしていたが、今は休職して邸に暮らしているのである。彼は、善かれ<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しかれ、かならず老紳士に加担し、騒がしく暴れまわる生活が何よりも好きだから、ちょっと目くばせするか、うなずくかすれば、たちまちにしてサーベルをひきぬくのだ。そして、この賢人が父親の権威に<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>つこうとでもしたら、その頭上でサーベルをふりまわすのである。

こういった家族の<ruby><rb>軋轢</rb><rt>あつれき</rt></ruby>は、例によって、外に知れわたり、ジョンの近隣で陰口の絶好な材料になる。彼の身の上のことが話に出ると、ひとびとは心得顔をして頭をふり、口をそろえて言うのである。「話にきくほど、あの人のところの事情が悪くなければいいが。しかし、息子が自分の父親の浪費に文句をいうようになるのでは、万事よほどまずく行っているにちがいない。聞くところによると、御老人はなにもかも抵当にとられて首がまわらず、しょっちゅう金貸しと交渉があるらしい。あの人はたしかに気前のいい老紳士だ。しかし、どうもあまり道楽にふけりすぎたんじゃないか。だいたい、あんなに猟や競馬や宴会や<ruby><rb>拳闘</rb><rt>けんとう</rt></ruby>にばかり凝っていて、いいことはあるまいと思っていたが、要するに、ブルさんの地所はじっさい立派で、今まで長いこと御家のものだったが、しかし、それはそうとしても、今までにはもっと立派な地所がいくらも<ruby><rb>競</rb><rt>せ</rt></ruby>り売りになったんだ」

何よりももっとも悪いのは、こういう金銭上の悩みや一家のなかの確執が、この<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れな男自身に及ぼした結果である。かつては円い見ごとな太鼓腹で、満足げな赤ら顔を見せていたのに、近ごろはしなびてちぢこまり、霜でいたんだ<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>のようになってしまった。彼が順風に帆をあげて進んでいた好況時代には、金モールのついた赤いチョッキがじつにすばらしくふくれでていたが、今はそれがだらりとからだにたれさがり、<ruby><rb>凪</rb><rt>なぎ</rt></ruby>のときの<ruby><rb>大檣帆</rb><rt>だいしょうはん</rt></ruby>のようである。彼の<ruby><rb>鞣皮</rb><rt>なめしがわ</rt></ruby>のズボンは折り目や<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>だらけで、あきらかに<ruby><rb>長靴</rb><rt>ちょうか</rt></ruby>を支えているのに苦労しているようだ。そして、その長靴は、かつて頑丈だった彼の脚の両側に大ぐちをあけて<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>しているのである。

以前には、肩をそびやかして歩きまわり、三角帽を斜めにかぶり、棍棒をふりまわして、どしんどしんと地面を元気よく突き、だれの顔でも不敵ににらめつけ、輪唱歌やら酒盛りの歌やらを一くさりのんきに歌っていたのだが、今はもの思わしげにひとり口笛を吹きながら歩き、<ruby><rb>頭</rb><rt>こうべ</rt></ruby>はしょんぼりと垂れ、棍棒は<ruby><rb>腋</rb><rt>わき</rt></ruby>にしまいこんでいる。両手をズボンのポケットの底まで突っこんでいるが、あきらかに何もはいっていないらしい。

これが正直もののジョン・ブルの現在の苦境である。しかし、こんなになってしまっても、老人の精神はあいもかわらず<ruby><rb>溌剌</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>として勇壮である。同情や心づかいの言葉をちょっとでも洩らそうものなら、彼はたちまち烈火のように怒り、自分は国じゅうでいちばんの金満家で、からだもいちばん強壮であると強く出て、近いうちに大金をついやして邸を飾るか、あるいは、別の地所を買いとるつもりだなどと言うのだ。そして、強そうな様子をちょっとして見せ、棍棒を握りしめ、六尺棒でまた一勝負やりたいと熱心に言いだすのだ。

こういうことには何かどうも奇妙なところがあるのだが、じつをいえば、ジョンの境遇を見ると、たいへん興味を感じないではいられないのである。さまざまな奇妙な気性や頑固な偏見をもっているにもかかわらず、彼は心の清らかな老人である。彼は自分で思うほどすばらしく立派な男ではないかもしれないが、彼は近所の人が考えるよりは少くとも二倍ほど善良である。彼の美徳はすべて彼に独特なものであり、いずれも飾りけがなく、素朴で、真心がこもっている。彼の欠点でさえ、彼の溌剌とした長所をあらわしている。彼の浪費には気前のよいところがあり、<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>好きは勇気があることを示し、だまされやすいのは心を打ちあけて信ずることに通ずるものがあり、虚栄心には自尊心の気味があり、ぶっきらぼうなところは誠意があることをあらわしている。こういう短所はすべて、ゆたかな、度量の大きな性格が有り余って<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れたものだ。彼はイギリス<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>に似て、外側は荒っぽいが、なかは丈夫で実がつまっている。その樹皮に<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>が多いのは、壮大に成長した材木に釣り合っている。ちょっと<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>が吹いても枝がおそろしく<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>ったりつぶやいたりするのは、その枝がこんもりと<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>っているからである。彼の古い邸の有様にも何かきわめて詩的で絵のように美しいところがある。その邸に気持よく人が住めるようになっているかぎりは、わたしは、この趣味や意見の<ruby><rb>混沌</rb><rt>こんとん</rt></ruby>とした時代に、それに余計な手を入れるのを見たら、気がもめてならないであろう。彼に忠告するもののなかにはもちろんよい建築家もいて、役に立つかもしれない。しかし、わたしが<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>えるには、多くのものは単なる平等主義者であり、ひとたび鶴はしをもってこの<ruby><rb>荘厳</rb><rt>そうごん</rt></ruby>な建物で仕事にとりかかったら、それを地面に引きたおして、自分もその<ruby><rb>廃墟</rb><rt>はいきょ</rt></ruby>に埋まってしまうまでは、手を止めようとしないだろう。わたしがひたすらに望むのは、ジョンが現在の苦悩を経て、未来にはもっと慎重にしなければならないと知ることであり、彼が他人のことで心を悩ますのをやめることであり、棍棒の力で、近所の人の福利や、世界の平和と幸福とを促進しようなどという無益なこころみをやめることである。そして、彼が静かに家に引きこもり、だんだんに自分の邸を修理し、自分の気のむくようにその<ruby><rb>豊沃</rb><rt>ほうよく</rt></ruby>な地所に草木を栽培し、もし彼が正当だと思うならば、収入を節約して使い、もしできれば、始末に負えない子供たちをきちんとさせ、また昔栄えていた頃の楽しい情景を取りもどして父祖伝来の地で、すえながく、元気で、立派で、愉快な老年をたのしんでもらいたいのだ。