Soranoha

空想としての新婚旅行

くうそうとしてのしんこんりょこう

正宗 白鳥

新婚旅行とは噂を聞いても歯が浮くような気がするが、僕でも女房を娶ったら、悦うれしくて可愛くて、蜜月旅行ハネムーンを企てたくなるかも知れん。どうせ我々貧者の妻君になりたいと云う奴なら、ろくな容貌を備えていよう筈はないが、其処は人情で、自分の妻と思うと、まんざらの顔でもないような気がする。品性に於いては当世稀に見る所だ、などと、腹の中ではほく〱喜んでる。で、旅行となると、原稿料の前借をして、五十円ばかり懐ろに入れて、妻君の赤い顔に白粉おしろいをぬらせ、生れて初めての中等列車に乗る。これが艶麗なる芸者でも連れて乗ったのなら、乗客が注目して、僕の艶福を羨むであろうが、縮れっ毛の坊主襟の愚妻を見て涎よだれを垂らす奴もないんだが、其処が人情だ。誰れも眼中に置いていなくても、自分には人が見ているような気がして、極りが悪かったり又一種異様の悦楽を覚ゆる。愚妻に至っては一層甚しい、妙に品をつくって、お姫様然と構えている。時々僕が妻の歓心を買わんが為に、小声で面白い話をすると、妻君は伏目になって、大きな口をすぼめて、買い立ての絹手巾きぬはんけちを当てて、ホホホホホと笑う。やがて新婚旅行の本場たる箱根へつく。秀麗なる山水も愚妻によって画竜点睛となる、湯本から二つ車を命じて、僕が後から妻君の後ろ姿を拝して坂を上って行く。苦学生時代に来た安値な宿屋へ留る。浴後美人と欄に凭れて纏綿の情を語るとは、僕が屡々小説に書いたことだが、実行はこれが初めてである。旅だから遠慮は入らぬ純然たる夫婦気取り。互いに過去現在将来を語る、殊に友人の悪口を頻りに云う、「あの男は駄目だよ、理想が卑低ひくいから、妻君も下品で話しにならん。」と、友人の浅学無識を罵り、その妻君の容貌の攻撃まですると、僕のワイフは一々これを真理と信じて聞き惚れている。又妻君も自分の友人の悪口を婉曲にいって、僕が「そちの申す通り。」とやる。つまり天下の大才子は「貴郎あなただわ。」天下の美人は「お前だよ。」と、以心伝心に極ってしまう、そこで僕が前途の抱負を述べると、愚妻は殊勝にも、「私生活の苦労なんか少しも厭いとわないわ、何々子さんのようにお金持を望んで結婚したって、ハズバンドが無能で、何んにも理想の事業は出来なくっちゃつまらないことよ。」という。僕は悦し涙が出る。北条早雲が箱根山の頂上で関八州を睥睨して、大丈夫何々と叫んだそうだが、僕も塔の沢の六畳で理想がいよ〱固くなった。兎とかくする間に一週間を過して、懐中殆んど無一物、帰途についたが、茶代僅かに二円置いたので、旅館でもお世辞一つも云わなかったから、愚妻は大いに不平で、「宿屋の女は品性が低いのね、お金次第でどうでもなるんだから。」と、目を三角にして呟いた。品性高き妻君は旅行後十月にして子を生んだ。僕は原稿稼ぎに余念なく、「新婚旅行」の小説も書いたが、その中の女主人公は沈魚落雁的で気前もいい。(「趣味」明治四〇年五月)

底本 / Source edition

底本:「白鳥随筆 坪内祐三選」講談社文芸文庫、講談社
2015(平成27)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「正宗白鳥全集第二十六卷」福武書店
1986(昭和61)年3月31日発行
初出:「趣味 第二巻第五号」彩雲閣
1907(明治40)年5月1日発行
入力:藤間清霞
校正:きりんの手紙
2021年2月26日作成
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書誌 / Bibliography
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正宗 白鳥「空想としての新婚旅行」(新字新仮名)、底本『白鳥随筆 坪内祐三選』講談社文芸文庫、講談社、2015年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 060170_001581, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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