荒廃した田舎家の中だ。

半漁半農の村だから、数年前までは恐らく一番貧しい漁夫の棲家だったに相違ない。藁葺屋根はなかば腐れ、荒木田の壁は崩れ、天井板も柱も黒く煤け、二段になっている造り付けの<ruby><rb>戸納</rb><rt>とだな</rt></ruby>の戸は欠け、畳はみるかげもなく<ruby><rb>脆</rb><rt>くだ</rt></ruby>けて、歩くたびに床板の軋む音がする。

部屋はひと間きりない、土間が広くとってあるのは、以前そこに竈を据えたり、漁具を置いたり、雨降りのとき子供の遊び場にしたりしたものであろう、今はその隅に<ruby><rb>罅</rb><rt>ひび</rt></ruby>のいった<ruby><rb>焜爈</rb><rt>こんろ</rt></ruby>と土鍋とバケツと、みじめな釣り道具とが置いてある。部屋の<ruby><rb>上框</rb><rt>あがりかまち</rt></ruby>には障子がないので、広い土間から<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に雨戸だ、その雨戸も欠けたり釘が抜けたりしているので、風は自由に吹き通るし、月明りの窺うにも不便はない。

夜半である。

燭光の弱い電燈が、壁に近くひとつぼんやりと光っている。光を辿ってゆくと大きな手製の書架がある、五つ並んでいるがいずれも乱雑に書冊で埋まっている、脆けた畳の上にも、腰高窓の障子のない敷居の上にも、手当たり次第に投げ出したままの書物が始末しようのないほど散らばっている。大きな、畳一帖ほどもある書きもの机が、書架と書架との間にあって、一人の貧相な青年が、せっせと何か書いている。部屋の中も同様に机の上も混乱している、書き損じの紙をまるめたのが、屑籠をぶちまけたようにころがっていて、雨戸から風が吹き込んで来るたびにかさこそと音を立てる。

青年はふとペンを措いて、右側にある大きな安物の瀬戸の火鉢へ手をかざした。節くれだった指はぶざまにインクに汚れ、寒気のために凍えてふるふると顫えている。火鉢には小さなニュームの鍋がかかっていて、さっきから温たかい湯気をたて、鮒を<ruby><rb>煑</rb><rt>に</rt></ruby>る味噌の匂いをいっぱいに部屋へまきちらしている。

「さて――」

と青年は<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。そして手を火鉢へかざしたまま、頭をめぐらせて荒凉たる部屋の内を見廻わした。何もない――、一瞬、青年の眼に絶望の色が表われた。

「ああ、何ということだ、何も見えない、寒い、がらん洞だ、何も聞こえない」

青年は額へ垂れさがっている髪毛を掴んだ、それから眼を閉じて机の上へ俯伏せになった。風が雨戸を音高く<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて過ぎた。

火鉢の上で鍋はことことと煑えたぎっている、雨戸の欠けたところや、板の寄った隙間から、月の光が<ruby><rb>条</rb><rt>すじ</rt></ruby>をなして流れこみ、広い土間から上框まで伸びている、堤の彼方から、氷った河が凍み割れるのであろう、ぴしぴしと澄んだ音が聞こえてくる、やがて青年は身を起こした。

書架の蔭から<ruby><rb>土瓶</rb><rt>どびん</rt></ruby>と酒徳利とを持ち出し、煑物の鍋を机の上へ取り除けて、酒をつぎ入れた土瓶を火鉢にかけ、それから土間へ下りてバケツの水の中から、盃と箸とを<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>みあげた。仕度が出来ると青年は戸納をあけ、どてらを取り出して着込んでから、机の前へどっかりと坐った。

口の欠けた土瓶の中で、酒は熱く、手のもげた、へこみだらけの鍋の中で、鮒は骨までやわらかに煑えていた、歪んだ三文盃には、悪い地酒の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あか</span>に染んだふた条の罅がいっている、青年は酒をはじめた。

「一杯、一杯、また一杯――」

青年は額を高く挙げた、<ruby><rb>地醸</rb><rt>じづくり</rt></ruby>の酸い酒は、舌を滑り喉を潤おし、刺すように胃へしみた。鮒の香りとこまかい脂肪の溶け込んだ味噌汗は、酒の酸味の残った舌の上に、濃く溢れひろがって、次に含む酒の刺激を快く緩和した。青年は手を伸ばし、書きかけの紙を引寄せて<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きながら読む。

「弘高　それで貴様は三度同じことを云ったぞ。

清明　わしは博士阿倍清明だ。

弘高　神慮汝の上に安かれ。

（弘高大股に歩み去る）――幕。」

青年は唇に快心の微笑をうかべた。そして紙の余白へ、ペンを執ってしっかりと第三幕と書き入れた。

「例えこのままこれが世に出る機会を得ないとしても、とにかくこの画師弘高は傑作だ。ここには文章の扮飾もなく、色模様もなく、めりはりもなく、約束もなく愁嘆もない、が――凡てがある！」

青年は盃を<ruby><rb>呷</rb><rt>あお</rt></ruby>った。

外では氷の<ruby><rb>凍</rb><rt>し</rt></ruby>み割れる音がしている、風は少しずつ衰えてさし込む月明りもようやく崩れかかった壁まで廻った。

「われ眠らんと欲す、君しばらく去れ」

青年は昂然と吟じ始めた。

「明朝、志あらば琴を抱いて来れ」

一瓶の酒が終わると、青年はどてらの上から古いマントを引っ掛け、帽子を手に持って土間へ下りた。雨戸を明けると凄じく冴えた月夜だ、青年は帽子を冠りながら振り返って部屋の内を見やった。――<ruby><rb>頽</rb><rt>くず</rt></ruby>れかかる壁と、腐れた畳と、煤けた柱と、散らばり放題に散らばった書冊と、山のような書き反古と、惨憺たる食器とを。

「これがこの傑作を書いた部屋だ」

青年はそう呟くと、フランスの傑作はすべて屋根裏から生れた、と云う言葉を思いうかべながら、刺すような寒風の中を大股に、河の方へと歩み去った。

五年経った。

丘と木とにかこまれた二階家に、青年は妻と二人の子と生活していた。二階の部屋は終日明るく日がさし、窓の外には――狡猾な家主が借り手を<ruby><rb>誘</rb><rt>まね</rt></ruby>き寄せる為に無理をして植えた――松が枝をさしのべている。

青年は机に向って酒を呑んでいる、秋の午後の強い光が、西の窓にかっとさしつけて、安手の<ruby><rb>窓帷</rb><rt>カーテン</rt></ruby>の縞を青年の横顔に染めつけている。五年前、漁夫の廃屋に積んであった書冊はどこへやったのか、床間には四五の小説本と辞書、それに壊れたセルロイドの玩具が、ぽつんとひとつ置き忘れてあるばかりだ。あの大きな、畳一帖ほどもある机の代わりに、今は<ruby><rb>擬紫檀</rb><rt>まがいしたん</rt></ruby>の卓子が居心地悪く据えられ、その隅には<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>た硝子のインク壺がきれいに拭われて置いてある。

青年は焼きの良い燗徳利を取り上げた、青磁色の盃に、匂い高く澄んだ美酒がつがれる、投げ売り物の錦手の鉢には鯛の刺身があり、小皿には妻君にがみがみ言って作らせた芋棒が、体裁よく盛られてある。もはやあの手製の五つの書架はない、しかし桑の小綺麗な茶<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>があり、壁にはゴッホの複製画が掛けてある。青年は綿の厚く入った座蒲団に坐り、<ruby><rb>紬織</rb><rt>つむぎお</rt></ruby>りの<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を着て錦紗の帯をしめている。

青年はふと盃を措いた、そして左手で書きかけの原稿用紙をひき寄せ、覗き込むようにしながら読み始めた。

「正則は思わず、はらはらと落涙しながら、十郎左の屍体の前に崩折れるように坐って、胸から絞り出すような声で云った。

――よくぞ死んだ、十郎左――」

読む調べは故意に高められた情熱と、自分で煽おりつける抑揚のためにひどく張切った響をもっているが、青年の<ruby><rb>眸子</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>はおよそその調子とは逆に、空虚で、暗澹としている。青年は眼を閉じて、数日前にやって来た通俗雑誌の記者の顔を思い出した。毬のように肥えた男であった、両頬に髭の剃り跡が青く、肉の厚い唇は絶えず活溌に運動を続けていた。

――要するに、これは面白い！　と読者が案を打つようなものですな、すっと筋が通っていて、しかし<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かぐいっと突っ込んだところも欲しいです、註文を申せば色模様にからんで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほろっ</span>とくると云う深刻なものですな、どうかひとつそんな点を御考慮願って――。

青年は低く呻いて、その記者の幻想をかき消しでもするように、強く頭を探りながら再び盃を取り上げた。酒は<ruby><rb>蓬</rb><rt>よもぎ</rt></ruby>のように苦く、酔は胃の中にこちんとかたまっている、刺し身も芋棒も、石灰を甜めるように<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に舌をよごすばかりで、脂肪のたまった食道を<ruby><rb>頓</rb><rt>すで</rt></ruby>には下りて行かない。青年は北向きの窓から外へ眼をやった。

丘の上には素晴らしい邸宅がある、南面した二階は硝子張りのサンルウムになっている、門から玄関までゆるく丘を迂廻して登る道はコンクリイトで、その左右は明るく広い芝生だ。建物の両端は応接間を兼ねた一家団欒の部屋になっているらしく、夕方になると風呂を浴びて寛いだ家族が集まり、笑いさざめきながらレコオドをかけたり、息子がヴァイオリンを弾いたりしているのが見える。

青年はふと、いま自分がその芝生の上へ、自分と妻と二人の子供を置いて考えているのに気付いた、そしてそのことに気付くと同時に、身も世もあらぬ羞恥と自嘲の念に襲われて、額に垂れさがっている髪毛を両手に掴みながら、卓子の上へ<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うっぷ</rt></ruby>してしまった。

階下からは、泣きだした子供を妻の綾しているのが聞こえてくる、三年ばかりの間に二人の子を産んだ妻の声は、韻の深さを喪い艶をなくし、貧乏に圧し<ruby><rb>拉</rb><rt>ひ</rt></ruby>しがれて、弱々しく縮かんでしまった。

「夢だ、これは途方もなく長い夢なのだ」

青年は俯伏したまま呟く、

「眼を覚ませば、自分はやはり浦安町の廃屋にいるに相違ない、画師弘高を書きながら、絶望して、髪毛を掴んだまま机の上へ俯伏した、あの時から自分はこうやっているのだ。妻も子供も、感激読物も、酒肥りのした醜いこの体も、みんな夢の中の出来事なのだ、夜が明ければみんな消えてしまう、何もかも、夜が明ければ――、土堤を歩こう、鮒を釣って来て、晩にはそれを味噌で煮ながら仕事を続けよう。ふところに一銭の金なく、通俗読物を一枚書かずとも、その荒れ果てた部屋の中にはすべてがある、豊富な美しい空想が、熾烈な情熱が、純粋な魂の高揚が――、覚めるのだ、夢から覚めるのだ」

青年は呟きながら、両の拳で頭を強く打ち続けた。けれども、青年が夢から覚める暇を与えることなく、襖を明けて妻が恐る恐る声をかけた、

「あなた、酒屋がお勘定を取りに来たのですが、何日頃って云って置きましょうか」

「――」

青年は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くは呆然として、蒼白い妻の面を<ruby><rb>見戍</rb><rt>みまも</rt></ruby>っていた。

妻が階下へ下りて行ってからも、青年はながいこと痴呆のような顔をして、卓子の上をぼんやり見ていた、焼きの良い燗徳利を、青磁色の盃を、鉢と小皿にとり澄まして盛られた肴を。青年はふいに、刺すような胸の痛みを覚えて顔をそむけた、そして卒然と立ち上がると、汚穢の中から去るようにして部屋をぬけ出し、せかせかと林のある丘の方へと出掛けて行った。

「ぬかご」（昭和九年三月号）