## ペンギンの<ruby><rb>連想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>

見はるかす<ruby><rb>積雪</rb><rt>せきせつ</rt></ruby>の原である。何か氷山の一部らしい。その広野の中を自然に細長い行列を組んでモーニング姿の者が<ruby><rb>前進</rb><rt>ぜんしん</rt></ruby>して先方の低い<ruby><rb>丘陵</rb><rt>きゅうりょう</rt></ruby>のかなたに消えて行く、何千という数だろう。黒いモーニングはからだにぴったりあっているがズボンの方は白色だ。<ruby><rb>澄</rb><rt>す</rt></ruby>んだ音楽の行進曲に歩調が<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>って行く。これはその実「ペンギン鳥の住みかを<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて」と題する南極での<ruby><rb>実写</rb><rt>じっしゃ</rt></ruby>だ。

今日<ruby><rb>南極</rb><rt>なんきょく</rt></ruby>の氷山や雪原の中に沢山の大きなペンギン鳥の<ruby><rb>集団</rb><rt>しゅうだん</rt></ruby>がある。その<ruby><rb>生態</rb><rt>せいたい</rt></ruby>は大抵の動物学者もよくは知らないが、それをカメラが<ruby><rb>追求</rb><rt>ついきゅう</rt></ruby>して実写したのである。

およそ生物の中で身のたけ四尺以上あって二本足で立って歩いているものは、人間の外にはペンギン鳥ぐらいだろう。鶴や<ruby><rb>鷺</rb><rt>さぎ</rt></ruby>だってそうかも知れぬが立って歩くという感じにならない。とにかく黒のモーニングの<ruby><rb>礼装</rb><rt>れいそう</rt></ruby>したような<ruby><rb>風態</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>で、それがチャップリンもどきの足つきである所が面白い。音楽に<ruby><rb>歩調</rb><rt>ほちょう</rt></ruby>をあわせて<ruby><rb>整然</rb><rt>せいぜん</rt></ruby>と進んで行くのを見ていると「えらいものだ！　音楽がわかる」と口をすべらしそうだ。

ところでこのペンギンは年に一回卵を生み、親がこれを抱いて<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>める。しかし親たちは抱きつつ<ruby><rb>行動</rb><rt>こうどう</rt></ruby>しなければならぬ。しかもまた抱くにふさわしい腕も胸も<ruby><rb>整</rb><rt>ととの</rt></ruby>っていないのだ。羽毛の服の内側のような所に卵を<ruby><rb>保持</rb><rt>ほじ</rt></ruby>して暖めていると適期に<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の所から小さな鳥が出て来て、親に<ruby><rb>保護</rb><rt>ほご</rt></ruby>されよたよたと歩く。色々な保護方法が集団的にまたは個別的に発達している。本能的とでもいうべきだろう。<ruby><rb>風雪</rb><rt>ふうせつ</rt></ruby>がおそい来る、外敵がやって来る、傷つくものも<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れるものも出来る。その<ruby><rb>屍体</rb><rt>したい</rt></ruby>は怪鳥めいた他動物の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>になる。つまり親の保護がなければ小動物は生存することが出来ぬのだ。

これが一年も<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>つと、成鳥になり、親子の関係ははなれて行き、自立する。また<ruby><rb>異性愛</rb><rt>いせいあい</rt></ruby>をも発する。かくて<ruby><rb>永遠</rb><rt>えいえん</rt></ruby>の時のひとこまを形成して行くのである。

四尺以上の身長で、常に二本足で立って歩き、一夫一婦であり、子は一ぴきしか生まないという<ruby><rb>群棲</rb><rt>ぐんせい</rt></ruby>動物を見ていると、非常に我々人間にあてつけるようであり、自分達の家庭生活をいやでも思い出さざるを得ない。「親子<ruby><rb>相愛</rb><rt>そうあい</rt></ruby>生活の姿は可愛いな」と賞めるかたわら、その<ruby><rb>本能的</rb><rt>ほんのうてき</rt></ruby>かつ盲目的なることにおいて、我々はあまり鳥後に落ちないと<ruby><rb>自嘲</rb><rt>じちょう</rt></ruby>したくなる。同時に父子の間にある色々な<ruby><rb>心理現象</rb><rt>しんりげんしょう</rt></ruby>を自省して見ると、自分には自分の世界があって、愚なようでもあり尊くもある。

つまり他人の立場から見ると前者であり、自分の<ruby><rb>立場</rb><rt>たちば</rt></ruby>から<ruby><rb>静観</rb><rt>せいかん</rt></ruby>すると後者であるらしい。自分で自覚しない愚さであるようで、しかもこれが人間の本能に通ずるものだろう。

立ちかえって考えると、私は初めて子供が出来たとき何やら心が<ruby><rb>転換期</rb><rt>てんかんき</rt></ruby>に入ったようであった。色色の<ruby><rb>曲折</rb><rt>きょくせつ</rt></ruby>を経たり経験を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>た今においても、心理的にまたは道徳的に割り切れないものがある。要するに<ruby><rb>万有</rb><rt>ばんゆう</rt></ruby>を支配する力のまにまに<ruby><rb>受動的</rb><rt>じゅどうてき</rt></ruby>に動きながら、それが主動的であるように夢を見ているらしい。ここに一種のバカが<ruby><rb>発生</rb><rt>はっせい</rt></ruby>するわけであろう。

## <ruby><rb>分離</rb><rt>ぶんり</rt></ruby>した生活体

結婚をして、尋常の<ruby><rb>経過</rb><rt>けいか</rt></ruby>ではじめて赤ん坊の肉体を見たときの驚きは変な感じである。

冬の日の弱い<ruby><rb>日影</rb><rt>ひかげ</rt></ruby>を、くもり<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>と窓かけで更に弱めに病室の中で、これが今朝生れたといううす赤い<ruby><rb>柔</rb><rt>やわら</rt></ruby>かい骨も何もないような肉体を手に受けとらせられると、本当に<ruby><rb>変</rb><rt>へん</rt></ruby>な気もちになる。これは人間の生きものである。自分が<ruby><rb>責任</rb><rt>せきにん</rt></ruby>をもって、人類の実際の<ruby><rb>単位</rb><rt>たんい</rt></ruby>にしあげて行かねばならぬとの覚悟が、その柔かい日影の中から<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>き出して<ruby><rb>迫</rb><rt>せま</rt></ruby>りくるようだ。まだ知らぬ胸の苦しみというものだ。人類の永遠性に対する<ruby><rb>関心</rb><rt>かんしん</rt></ruby>が自認されてくるのだ。

しかし子供の数が増加してくるにしたがって、青年の<ruby><rb>純情</rb><rt>じゅんじょう</rt></ruby>のような気持ちは<ruby><rb>鈍磨</rb><rt>どんま</rt></ruby>してくる。そして生物学的に、今度の子供は私自身のどの特性を<ruby><rb>分担</rb><rt>ぶんたん</rt></ruby>して来るだろうかと<ruby><rb>欲</rb><rt>よく</rt></ruby>を出してくる。だから、その名を付けるにも、これに<ruby><rb>願望</rb><rt>がんぼう</rt></ruby>を祈りこむ。しかしまだ<ruby><rb>漠然</rb><rt>ばくぜん</rt></ruby>たる希望であり、まずは普通人になれとの希望をあらわすに止まる。

例えていえば、<ruby><rb>鼡</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>のように弱そうなのには、<ruby><rb>獅子</rb><rt>しし</rt></ruby>のように強そうな名、瓦や土くれのような女の子にはルリやハリのような名をつけるというたぐいである。

だんだん<ruby><rb>成長</rb><rt>せいちょう</rt></ruby>するにつれて、教育上何等の<ruby><rb>作意</rb><rt>さくい</rt></ruby>を加えないようにつとめる。丁度科学実験のために、<ruby><rb>観察</rb><rt>かんさつ</rt></ruby>しているような冷静さである。しかし妙なものでそのうちに個性を<ruby><rb>発揮</rb><rt>はっき</rt></ruby>してくる。<ruby><rb>瓜</rb><rt>うり</rt></ruby>の<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>には、瓜が実る筈だから、親に似るものかと思うとそうは行かない。<ruby><rb>遺伝学</rb><rt>いでんがく</rt></ruby>のことは知らないが、犬や馬のように親に似たものは生れない。<ruby><rb>鬼子</rb><rt>おにご</rt></ruby>ばかりである。しかし他面から見ると親に<ruby><rb>似</rb><rt>に</rt></ruby>ているとも見える。知らない人が子供を見て、お父さんによく似ていると言う。自分で実際にふり返って見ても、似られては困ると思うことも沢山あるので、考えものだが、幸なことに一部分だけは親に似て、その他の部分は<ruby><rb>古代</rb><rt>こだい</rt></ruby>の先祖に似ているかも知れぬ。その一部分というのも、たとえば私が甲乙丙丁の<ruby><rb>素質</rb><rt>そしつ</rt></ruby>があったとして、その甲乙丙丁を別々に子供達が承継し、時には増幅して<ruby><rb>承継</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>している。

私の欠点を、かなり<ruby><rb>誇張</rb><rt>こちょう</rt></ruby>して承継しているのを見ると、いやな気がするが、また私の中にかくれていた良点を誇張して示してくれると、「おれも捨てたものではない」とひそかに安心する。だから完全に近い<ruby><rb>放任</rb><rt>ほうにん</rt></ruby>をして置いて、さてそれを見ると、私が<ruby><rb>理学者</rb><rt>りがくしゃ</rt></ruby>になりたいと思った気持ちを<ruby><rb>専門</rb><rt>せんもん</rt></ruby>に代表するものもあり、私が芸術家になりたいと思った気持ちをいくらか<ruby><rb>発展</rb><rt>はってん</rt></ruby>させようとしているもあり、またコンニャクのようにのらりくらりとした気持ちを多量に分担しているもある。或は<ruby><rb>権力</rb><rt>けんりょく</rt></ruby>と不正に極端な<ruby><rb>抵抗</rb><rt>ていこう</rt></ruby>意識をもって<ruby><rb>俗習</rb><rt>ぞくしゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>断乎</rb><rt>だんこ</rt></ruby>拒否せんとする態度もどこかに残っているようだ。

万人は親の子でなくて、親の親の親の親等広い<ruby><rb>範囲</rb><rt>はんい</rt></ruby>と関係があって、いわば天の子であり、その意味で、親そのものを<ruby><rb>批判</rb><rt>ひはん</rt></ruby>し、教育し、<ruby><rb>是正</rb><rt>ぜせい</rt></ruby>し、<ruby><rb>攻撃</rb><rt>こうげき</rt></ruby>しているものであることを感じる。そこで、いくらか安心も出来るわけだ。親のものが、そのまま大部分子に伝わるとしたら、親は子に対して申わけがないばかりか、良心の<ruby><rb>苛責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>になやまされるわけだが、何十分の一ぐらいの責任しかないのだから、あまり<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>むな怒るなと<ruby><rb>了解</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>を求めている。

こんな風だから、子供たちに向って、断乎として右向け、左向け、<ruby><rb>医者</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>になれ、音楽者になれ、役者になれと命令したり、<ruby><rb>指導</rb><rt>しどう</rt></ruby>したりする勇気がない。せいぜい<ruby><rb>微温的</rb><rt>びおんてき</rt></ruby>な助言をするくらいである。万事<ruby><rb>汝等</rb><rt>なんじら</rt></ruby>の責任と<ruby><rb>良識</rb><rt>りょうしき</rt></ruby>によって前途を開き進め、人生は「親知らず」の<ruby><rb>難所</rb><rt>なんじょ</rt></ruby>であると言いたい気分でいる。

それゆえ、「子供をしつける」ということには大体消極的である。ごく<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かのしつけは経験上必要だが、今の学校の先生や父兄がたが強くしつける<ruby><rb>態度</rb><rt>たいど</rt></ruby>を執ったり、開明的と自信する人々が、「外国では子供をしっかりしつけますよ」と<ruby><rb>真理</rb><rt>しんり</rt></ruby>の如く宣言されると、ついしつけ<ruby><rb>規範</rb><rt>きはん</rt></ruby>の一言一句に厳密批評を<ruby><rb>加</rb><rt>くわ</rt></ruby>え、アマノジャクの<ruby><rb>言動</rb><rt>げんどう</rt></ruby>をなさざるを得ない。<ruby><rb>蛇</rb><rt>へび</rt></ruby>にうなぎの教育が出来ますか、<ruby><rb>鰻</rb><rt>うなぎ</rt></ruby>の心は鰻が知りますという風に思うのである。

それでも、内心にはビクビクしている。果してこれで、彼等の幸福が<ruby><rb>保障</rb><rt>ほしょう</rt></ruby>されるであろうか、と心配するが、<ruby><rb>中庸</rb><rt>ちゅうよう</rt></ruby>のかねあいというものがあるから、勇気をふるい、乃至は<ruby><rb>蠻気</rb><rt>ばんき</rt></ruby>をふるって、彼等にはその行き途をなるべく自分できめさせ、少くも手を取り足をとるおせっかいは<ruby><rb>極度</rb><rt>きょくど</rt></ruby>に<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けようと思っている。一片の好石があるとして、芸術家の思うがままに<ruby><rb>仏像</rb><rt>ぶつぞう</rt></ruby>になり、神像となり、武人像にきざまれ、<ruby><rb>英雄像</rb><rt>えいゆうぞう</rt></ruby>に作られることは、石のために同情するが、生きた人間を父親の<ruby><rb>暴政</rb><rt>ぼうせい</rt></ruby>に服させることは忍びないのである。運命よ願わくば私の方針に<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>をもって好意を示せと言うの外はない。

## <ruby><rb>末実</rb><rt>うらな</rt></ruby>り

子供はその生れる<ruby><rb>境遇</rb><rt>きょうぐう</rt></ruby>によって、非常な<ruby><rb>損得</rb><rt>そんとく</rt></ruby>をする。しかし父親だって、運命のもとにあえぎあえぎ生きているのだから致し方もない。

私は現在、男、男、女、女、男と五人の子を持っている。持っているという語は、<ruby><rb>厳格</rb><rt>げんかく</rt></ruby>にいうと人間を物に見立てたようで面白くないから、天から<ruby><rb>恵</rb><rt>めぐ</rt></ruby>まれたという方が正しい。

第一は父の<ruby><rb>世俗面</rb><rt>せぞくめん</rt></ruby>を表現している。第二は父の科学面を代表する。第三は父の芸術面を代表する女だ。第四の女は、父の読書癖を代表するし、<ruby><rb>放慢癖</rb><rt>ほうまんへき</rt></ruby>と鼻っぱしを<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばせるが、海のものとも山のものともわからない。

そこで第五の男の子になるが、これはいうまでもなく<ruby><rb>末実</rb><rt>うらな</rt></ruby>りである。西瓜だって<ruby><rb>胡瓜</rb><rt>きゅうり</rt></ruby>だって末実りは普通より<ruby><rb>安価</rb><rt>あんか</rt></ruby>であり、ことに時代と<ruby><rb>身辺</rb><rt>しんぺん</rt></ruby>の変化のせいで、<ruby><rb>風波</rb><rt>ふうは</rt></ruby>の中にさすらえて来たのであるため父親の立場からいうと、これに対して<ruby><rb>責任観</rb><rt>せきにんかん</rt></ruby>が深くなるわけである。

この風波にさらされて<ruby><rb>発育</rb><rt>はついく</rt></ruby>して来た末実りが、将来幸福に生きて行けるであろうか、今日までは<ruby><rb>無事</rb><rt>ぶじ</rt></ruby>らしく過ぎて来たが、親の方もかなり疲れて七つさがりになって来ているので、と多少の心配があり、しかも<ruby><rb>不精者</rb><rt>ぶしょうもの</rt></ruby>の父親だからそう思いながら見守っているだけである。ゾラの書いた大部の連続小説の中に、数代に<ruby><rb>亘</rb><rt>わた</rt></ruby>るルゴン・マカール家の遺伝が<ruby><rb>述</rb><rt>の</rt></ruby>べられている。これは当時の学説に<ruby><rb>誘導</rb><rt>ゆうどう</rt></ruby>された誇張もあるのだろうから、そんなに気にかけることはないと思うが、それにしても子供の顔の目つき<ruby><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby>つきが大分親に似てくるにつれて、父親は自分を<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>み、いささか心配なしとせぬ。どうか或る意味においては親に似ぬ<ruby><rb>鬼子</rb><rt>おにご</rt></ruby>になってくれと思うて手出しの途もないのでただ自然に<ruby><rb>祈</rb><rt>いの</rt></ruby>りをかけている。

## 二・二六事件

昭和十年頃は、私は<ruby><rb>内閣</rb><rt>ないかく</rt></ruby>の法制局長官であった。その頃の<ruby><rb>制度</rb><rt>せいど</rt></ruby>は今と違っていて、法制局長官は相当<ruby><rb>要職</rb><rt>ようしょく</rt></ruby>と考えられ、内閣<ruby><rb>更迭</rb><rt>こうてつ</rt></ruby>の場合には法制局長官の人選が相当問題になっていた。つまり大官とされていた。

その実これは歴史から来る<ruby><rb>迷信</rb><rt>めいしん</rt></ruby>であり、過去の法制局長官に非常に<ruby><rb>威勢</rb><rt>いせい</rt></ruby>のよい政治家が多かったことと、昔の<ruby><rb>官僚</rb><rt>かんりょう</rt></ruby>政治の中で、法制局が内閣の<ruby><rb>智恵袋</rb><rt>ちえぶくろ</rt></ruby>の役割をつとめた事から来ている。しかし事情は変化して外から見るほどの作用はなかったかも知れぬ。それでも敗戦後戦時中の法制局長官は、<ruby><rb>当然</rb><rt>とうぜん</rt></ruby>にパージにされたことを考えると、一種の迷信的<ruby><rb>尊敬</rb><rt>そんけい</rt></ruby>があったかも知れぬ。

その長官たる私が、昭和十年の始め頃からある種の新聞で<ruby><rb>乱臣賊子</rb><rt>らんしんぞくし</rt></ruby>と大がかりに<ruby><rb>罵倒</rb><rt>ばとう</rt></ruby>された。在郷軍人会も大挙してこれに<ruby><rb>共鳴</rb><rt>きょうめい</rt></ruby>した。そして四方八方から、目を光らせて私を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めるようになった。

それは、その当時天皇<ruby><rb>機関説</rb><rt>きかんせつ</rt></ruby>問題なるものが起り、私がその機関説論者の一人なりとして<ruby><rb>排撃</rb><rt>はいげき</rt></ruby>されたのである。<ruby><rb>美濃部</rb><rt>みのべ</rt></ruby>博士の機関説について政治問題が起り、私は<ruby><rb>議会</rb><rt>ぎかい</rt></ruby>の一委員会で、学問の問題を議会で論ずるは<ruby><rb>適当</rb><rt>てきとう</rt></ruby>でないと言ったところ、翌朝からは私自身が大なる機関説論者として、四方の新聞からひどく<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>かれたのである。

この問題は、自分の知らぬ世界で<ruby><rb>随分</rb><rt>ずいぶん</rt></ruby>発展した。私は十数年の後になって知ったことだが、ある大臣は、金森を首にしなければ、内閣から出るとまで言って、<ruby><rb>総理</rb><rt>そうり</rt></ruby>に迫ったということである。一番困るのは法制局長官というものは、法律的な問題について、重要<ruby><rb>発言</rb><rt>はつげん</rt></ruby>をする責任があるのに、その人間の<ruby><rb>学説</rb><rt>がくせつ</rt></ruby>が疑われ、したがってそれが乱臣賊子扱いされていることである。

幸に部内の人は私を知っており、物の<ruby><rb>道理</rb><rt>どうり</rt></ruby>をわきまえ、私を支持してくれたが、門を出ずれば<ruby><rb>四面楚歌</rb><rt>しめんそか</rt></ruby>の声だ。内務省の警保局関係者は、私の発行した書物についてとかくの<ruby><rb>審議</rb><rt>しんぎ</rt></ruby>をしており、それは自然的<ruby><rb>絶版</rb><rt>ぜっぱん</rt></ruby>の姿にしてくれという。文部省では、学説分類の調査書を作り、その中に私の書物も出ている。閣議に出る人々の顔を見ても、積極的に<ruby><rb>支持</rb><rt>しじ</rt></ruby>してくれる人はない。困った<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>だという顔をしている。身辺は、住宅を含めて、五人の警察官によって<ruby><rb>保護</rb><rt>ほご</rt></ruby>されている。

辞表を書いて<ruby><rb>懐中</rb><rt>かいちゅう</rt></ruby>に持ちながら諸般の事情によりその提出も出来ず<ruby><rb>待機</rb><rt>たいき</rt></ruby>しているという不思議な<ruby><rb>運命</rb><rt>うんめい</rt></ruby>の下に<ruby><rb>暮</rb><rt>くら</rt></ruby>すこと一年で、昭和十一年の新春に、やっと辞表を<ruby><rb>平穏</rb><rt>へいおん</rt></ruby>に出すことが出来た。以上のことを述べたのは、私の気持ちが、一種の闘争と<ruby><rb>防衛</rb><rt>ぼうえい</rt></ruby>とにとらわれていたことを言いたかったのだ。そして当時<ruby><rb>平静</rb><rt>へいせい</rt></ruby>に仕事をしていたけれども、その裏面には<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>りを<ruby><rb>含</rb><rt>ふく</rt></ruby>んでいたことが言いたかったのだ。

官を<ruby><rb>辞</rb><rt>じ</rt></ruby>して護衛警察官が<ruby><rb>退却</rb><rt>たいきゃく</rt></ruby>し、のびのびと手足をのばして好い気になっていたとたん、二月二十六日の朝、雪降る中にトラックに乗った警察官の一群が<ruby><rb>寝込</rb><rt>ねこ</rt></ruby>みをついてやって来た。

「<ruby><rb>事変</rb><rt>じへん</rt></ruby>が起りました」と言う。つまり例の二・二六事件が起ったのだ。十時頃になって、様子がわかった。事件の性質上、御家族に<ruby><rb>危害</rb><rt>きがい</rt></ruby>を加えることは万あるまいから、あなた自身だけ<ruby><rb>退散</rb><rt>たいさん</rt></ruby>したがよいと言う。すなわち<ruby><rb>飄然</rb><rt>ひょうぜん</rt></ruby>と東京駅へ出て、黒雲<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>き都を去り、人に行方を知らせず、約一月半程行方不明になったのである。実は郷里の名古屋へ行って、兄の家に泊めて貰っていた。

ところで主人が居なくなった東京の<ruby><rb>故宅</rb><rt>こたく</rt></ruby>には、一小事変が起ったのである。それは別事ではなく、妻の身体に生理的<ruby><rb>異変</rb><rt>いへん</rt></ruby>が起ったのである。その時、私は五十一歳、妻は四十二歳であったが、妻は主人が<ruby><rb>逃亡中</rb><rt>とうぼうちゅう</rt></ruby>に子供が出来たことに一種の不安を生じたらしい。前途がどう<ruby><rb>展開</rb><rt>てんかい</rt></ruby>するかも知れず、<ruby><rb>分娩</rb><rt>ぶんべん</rt></ruby>の時期が後れるかも知れず、私が果して生きぬくかにも不安があるので、「オボエアリ」との<ruby><rb>保証</rb><rt>ほしょう</rt></ruby>を得るにも心もとないのであった。

幸にして、一月半の後、私は東京にかえり、<ruby><rb>晴耕雨読</rb><rt>せいこううどく</rt></ruby>というか、植木をいじったり、本を読んだり、時には<ruby><rb>碁</rb><rt>ご</rt></ruby>を打ったりして外観上平静に生きた。

<ruby><rb>機縁</rb><rt>きえん</rt></ruby>は熟して、その年十月十七日<ruby><rb>神甞祭</rb><rt>かんなめさい</rt></ruby>の日に、玉の如く<ruby><rb>美</rb><rt>うる</rt></ruby>わしくはないが、玉の如く丸い男の子が出生した。日どりの<ruby><rb>関係</rb><rt>かんけい</rt></ruby>は、神さまがよくさばいていたのである。

ところが、ここにも、<ruby><rb>浪人</rb><rt>ろうにん</rt></ruby>生活らしいものがからみついている。その前日友人が<ruby><rb>訪問</rb><rt>ほうもん</rt></ruby>して来て、碁を打ち出したのである。夜もおそくなり、暁になった。碁というものは<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>なものである。女中さんは寝てしまう、妻が茶や菓子をもって来る。その<ruby><rb>面相</rb><rt>めんそう</rt></ruby>たるや頗る<ruby><rb>険悪</rb><rt>けんあく</rt></ruby>である。

碁の方が急なので、ただ不可思議なることとしていたが、朝になってひそかに聞くと、<ruby><rb>時期</rb><rt>じき</rt></ruby><ruby><rb>迫</rb><rt>せま</rt></ruby>れるもののようである。そこで、かねて約束してあった順天堂病院へ<ruby><rb>同行</rb><rt>どうこう</rt></ruby>する。診断の結果、今日の午後に分裂がありそうだという。

ところが<ruby><rb>不運</rb><rt>ふうん</rt></ruby>にも、その日の午後は、ある<ruby><rb>先輩</rb><rt>せんぱい</rt></ruby>の家で、マージャンを決行する約束があった。困ったなと思うが、四人の中の一人として欠けるわけに行かない。やむなく大義<ruby><rb>親</rb><rt>しん</rt></ruby>を亡ぼすの伝で、何くわぬ顔で行く。普通ならば電話に及ばずと約束して置く。

先輩の家で、<ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の立派な人や、頭のはげた人と勝負を決していても、心ここにあらずであり、ともすれば誤ロンをやりそうである。電話のベルを聞いても、すわ一大事と<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>の底がブルブルする。

夕方になって、自宅に帰り、様子を聞いて安心したが、世の中から<ruby><rb>迫害</rb><rt>はくがい</rt></ruby>されて、不満な親が種々の<ruby><rb>勝負</rb><rt>しょうぶ</rt></ruby>でウップンを晴らしている中で生れた子のことだから、こいつ<ruby><rb>反抗心</rb><rt>はんこうしん</rt></ruby>の強いものになるかも知れぬ、よほど後天的な<ruby><rb>取扱</rb><rt>とりあつか</rt></ruby>いに苦心しなければならぬと思った。

さて数日の後に、名をつけねばならぬ。願望を含めて、<ruby><rb>博雄</rb><rt>ひろお</rt></ruby>と名付ける。<ruby><rb>偏狭者</rb><rt>へんきょうしゃ</rt></ruby>によって悩まされたことの記念と、伊藤博文を<ruby><rb>景慕</rb><rt>けいぼ</rt></ruby>する気もちを<ruby><rb>象徴</rb><rt>しょうちょう</rt></ruby>したものであった。

九百匁の<ruby><rb>肉塊</rb><rt>にくかい</rt></ruby>が、次第に増量して行くことは世のつねであるが、ただ違ったのは、私がいつも在宅であることである。<ruby><rb>従前</rb><rt>じゅうぜん</rt></ruby>の子供は、日中は私が外出しているので、大体人まかせ、子供をしみじみ抱いたことも<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>であった。今度ははじめて抱いた。抱いて散歩した。これをあやすなどという、世の常の親のように<ruby><rb>器用</rb><rt>きよう</rt></ruby>なまねは出来ぬが、とにかく腕の上にのせて散歩した。

私は、極端な<ruby><rb>閑人</rb><rt>ひまじん</rt></ruby>であった。法律の本なんか見る興味は、全然ない。植木いじりか、子供いじりか、碁いじりである。そこでだらしのない和服で、<ruby><rb>閑父</rb><rt>かんぷ</rt></ruby>、<ruby><rb>閑児</rb><rt>かんじ</rt></ruby>を携えて近所をうろつくのである。乱臣賊子の新聞事件によって、近所の人は<ruby><rb>観念的</rb><rt>かんねんてき</rt></ruby>には私を知っている。それが、閑児を<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えて動くのである。しみじみと私を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めて、ノンキな父さんだなと思ったに相違ない。

家の前は坂である。坂を下り切ったところに、お<ruby><rb>煎餅屋</rb><rt>せんべいや</rt></ruby>がある。その店に二台ばかり、お菓子の<ruby><rb>自働</rb><rt>じどう</rt></ruby>販売器があった。

それは一銭銅貨を<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>へ入れて、金具をパチンとはじくと、キャラメルが一つ出てくるような道具である。時には、いくらかよいものが出てくる。近時盛んなパチンコの、五世も前の先祖のようなものである。閑父が、その台の前にしゃがんで、閑児に一銭を投ぜしむる図は、<ruby><rb>平和</rb><rt>へいわ</rt></ruby>な姿である。

その<ruby><rb>背景</rb><rt>はいけい</rt></ruby>として、社会全体が<ruby><rb>険悪</rb><rt>けんあく</rt></ruby>の<ruby><rb>相</rb><rt>そう</rt></ruby>をおびていることは、誰も知らない。そして閑父は、赤ん坊が、博文の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をするであろうかどうか、別に考えもせずにいた。しかしこの<ruby><rb>光景</rb><rt>こうけい</rt></ruby>は、家人によって、あまり見っともないとて<ruby><rb>禁止</rb><rt>きんし</rt></ruby>された。そしてこの子は幸だとかお父さんのよい玩具だとか<ruby><rb>批判</rb><rt>ひはん</rt></ruby>された。私は、「<ruby><rb>上善</rb><rt>じょうぜん</rt></ruby><ruby><rb>水</rb><rt>みず</rt></ruby>の<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>し」などと口ずさんでノンビリしていたが、それには、時の<ruby><rb>要素</rb><rt>ようそ</rt></ruby>を考えねばならぬという<ruby><rb>考慮</rb><rt>こうりょ</rt></ruby>や、色々のものが<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>っていた。

## 教育家の<ruby><rb>面相</rb><rt>めんそう</rt></ruby>

閑児が大きくなった。<ruby><rb>依然</rb><rt>いぜん</rt></ruby>として、閑父のよき友であり、時としてはよき<ruby><rb>師</rb><rt>し</rt></ruby>である。師であるとは、勿論子の方が父の師であるという意味だ。世の中の活動を<ruby><rb>抑制</rb><rt>よくせい</rt></ruby>されてしまった閑父にとって、植物を<ruby><rb>育成</rb><rt>いくせい</rt></ruby>し、その発育に必然の理を感じることは、自分を小造物者のように思わせるのであったが、同じように、人間の子が<ruby><rb>自然</rb><rt>しぜん</rt></ruby>の理にしたがって、スクスクとのびて行くことにも無限の喜びを感じていた。そして、もしも人間が<ruby><rb>性善</rb><rt>せいぜん</rt></ruby>なるものならば、博雄を<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>ったり、責めたりすることなく、伸びるがままに伸びしめたいものだと思った。人類は、後を行く者が、前を行くものよりもすぐれているべきだと思った。<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>はない、まさに親馬鹿の<ruby><rb>発露</rb><rt>はつろ</rt></ruby>である。

幼稚園へ行く時期になった。反抗児ではないかとの心配があったが、<ruby><rb>保母</rb><rt>ほぼ</rt></ruby>さんがよかったせいか、大した動きはなかった。反面<ruby><rb>盲従派</rb><rt>もうじゅうは</rt></ruby>とでもいうか、喜びもせず悲しみもせず、流れに従って流れるままである。おれに似ているなと、私の子供時代を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>んだ。

しかし私の子供時代を思いかえすと、外観上の<ruby><rb>従順</rb><rt>じゅうじゅん</rt></ruby>は、必ずしも心からの従順ではなかった。内心では<ruby><rb>是</rb><rt>ぜ</rt></ruby>を是とし、非を非として、かなり批判的であったと思った。

幼稚園では、<ruby><rb>遊戯</rb><rt>ゆうぎ</rt></ruby>を教えてくれる。音楽にあわせて、簡単な<ruby><rb>舞踊</rb><rt>ぶよう</rt></ruby>のようなものを教えてくれる。たとえば、「<ruby><rb>黄金虫</rb><rt>こがねむし</rt></ruby>は金持ちだ」というの類である。それは、或る意味では、<ruby><rb>優美</rb><rt>ゆうび</rt></ruby>であり、可愛らしい。<ruby><rb>情操</rb><rt>じょうそう</rt></ruby>教育の価値があるであろう。家庭でも、子供をおだてあげて、一つやって御覧というと、子供等は<ruby><rb>得意</rb><rt>とくい</rt></ruby>になって、足を動かしたり、手を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いたり、腕を廻したりするのが普通だ。しかし博雄はどういうものか、そんな優美なことに、少しも<ruby><rb>愛着</rb><rt>あいちゃく</rt></ruby>をもたなかった。

紙製玩具の、電車の<ruby><rb>車掌</rb><rt>しゃしょう</rt></ruby>さんの<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>を買ってくれとせがむのである。それを肩にかけると非常に御機嫌で、切符パンチを<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうに使用する。「チンチン動きます」「曲りまちゅから御注意下さい」位はよいが、「どこまでですか」と行くさきを聞いて、<ruby><rb>乗換</rb><rt>のりか</rt></ruby>え券を切って呉れる段になると、この車掌さん恐ろしくうるさい。「上野ですか、ハイおツリでちゅ」ぐらいならよいが、家の中を飛び廻って<ruby><rb>裁縫</rb><rt>さいほう</rt></ruby>する妻、<ruby><rb>洗濯</rb><rt>せんたく</rt></ruby>している女中にも、一々聞いてまわる。

私もその<ruby><rb>被害者</rb><rt>ひがいしゃ</rt></ruby>である。机の辺へ来て、何遍でも行き先を聞きただす。うるさいから「<ruby><rb>地獄</rb><rt>じごく</rt></ruby>」というと、かまわず「ハイ地獄！」といって<ruby><rb>切符</rb><rt>きっぷ</rt></ruby>をくれる。ロンドンまで下さいというと、お気の毒ですが、海の上は走りませんという。どの子供でも、車掌さんのまねはすきだったが、博雄の場合は随分長続きした。そして我々の気のつかぬ<ruby><rb>微細</rb><rt>びさい</rt></ruby>の点まで、車掌さんの態度を<ruby><rb>実写</rb><rt>じっしゃ</rt></ruby>し、それを<ruby><rb>復元</rb><rt>ふくげん</rt></ruby>させてくれる。一種の天才だ。

いよいよ、小学校へ行くときになる。私の家は、幸に竹早町の高等<ruby><rb>師範</rb><rt>しはん</rt></ruby>に近いところにあったことの縁もあって、上の子供は、例外なく小学校時代はその<ruby><rb>附属</rb><rt>ふぞく</rt></ruby>に入れて貰った。中学校時代も入れて貰ったのが多い。どんな学校がよいかは<ruby><rb>議論</rb><rt>ぎろん</rt></ruby>があり得るけれども、正直に<ruby><rb>実状</rb><rt>じつじょう</rt></ruby>を考えると、どうも子供のために格段の<ruby><rb>幸福</rb><rt>こうふく</rt></ruby>があるらしい。何とかして、ここに入れて貰いたいものだと<ruby><rb>願書</rb><rt>がんしょ</rt></ruby>を出したが、情ないことに入学不許可になった。

その前から親の職業が<ruby><rb>無職</rb><rt>むしょく</rt></ruby>であり、またその人は、新聞によれば乱臣賊子なんだから、入学はむつかしいぞ、と家の中で<ruby><rb>愚父</rb><rt>ぐふ</rt></ruby>愚母が話しあっていたが、この結果になって二人ともこっくりした。無論内面の<ruby><rb>事情</rb><rt>じじょう</rt></ruby>を批判したのでもなく、それを不当と思うのでもなく、一種の偶然を<ruby><rb>容認</rb><rt>ようにん</rt></ruby>しただけである。ところが妻は中々あきらめ切れない。他の二三の師範学校の附属へ願書を出して努力したが、どこも<ruby><rb>拒否</rb><rt>きょひ</rt></ruby>された。止むを得んとあきらめて、親の<ruby><rb>因果</rb><rt>いんが</rt></ruby>が子に<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>うの結果になったことを心の中で<ruby><rb>陳謝</rb><rt>ちんしゃ</rt></ruby>するのみであった。

しかし有り難いことに、普通の義務教育の小学校は、決して乱臣賊子の<ruby><rb>家族</rb><rt>かぞく</rt></ruby>をも拒否しないのである。日本に生れて幸だと思った。それで<ruby><rb>順当</rb><rt>じゅんとう</rt></ruby>に進むかと思っていると、その中戦争は<ruby><rb>苛烈</rb><rt>かれつ</rt></ruby>になった。<ruby><rb>学童疎開</rb><rt>がくどうそかい</rt></ruby>がやかましくなり、博雄の学校も長野県の田沢へ疎開することになった。時は昭和二十年四月頃である。三月<ruby><rb>爆撃</rb><rt>ばくげき</rt></ruby>のあと人心<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る不安であったからである。博雄は当時八歳であって、親の手もとを全く離れたことはない。<ruby><rb>浪人</rb><rt>ろうにん</rt></ruby>の子であるから、殆んど旅行したこともない。それが果して疎開に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えるであろうか。空襲を受けても、ここの家の方が安全ではあるまいか。色々と妻は心配したが、学校の空気では疎開させねば非国民である。学童疎開は<ruby><rb>強制的</rb><rt>きょうせいてき</rt></ruby>ですらあった。そして先生もついて行くし、食糧事情も<ruby><rb>確実</rb><rt>かくじつ</rt></ruby>だから、何一つ心配はないとのことであった。

ついに<ruby><rb>覚悟</rb><rt>かくご</rt></ruby>をして、あとは母親の<ruby><rb>熱意</rb><rt>ねつい</rt></ruby>で、小さな<ruby><rb>竹行李</rb><rt>たけごうり</rt></ruby>と、風呂敷一つに衣類や毛布を包み込んだ。戦争末期の<ruby><rb>物量</rb><rt>ぶつりょう</rt></ruby>不足で、ほんの僅かなものを、しかも一定<ruby><rb>容量</rb><rt>ようりょう</rt></ruby>の制限で、夜おそくまで準備している母親の様子を見ると、さすがに私のような<ruby><rb>呑気者</rb><rt>のんきもの</rt></ruby>もしんみりしてくる。空襲の危険は刻々増加してきている筈だが、呑気者の私は何一つ準備をしない。書物などを疎開したって、国が<ruby><rb>滅亡</rb><rt>めつぼう</rt></ruby>したら何になると大きくかまえていた。

ところが不幸な<ruby><rb>未必的</rb><rt>みひつてき</rt></ruby>予感が当って、四月十四日の大空襲が来た。あっという間に四方は火になる。家には、八十五歳で身体不自由の<ruby><rb>老母</rb><rt>ろうぼ</rt></ruby>があり、女の子などがいる。博雄も八歳である。火につつまれたら<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げ途はない。だから早く逃げられる中に、とっさに難を<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けさせた。家は、私一人だけが残って守った。

火を免れる見込がないとなると、私は庭先に穴を<ruby><rb>掘</rb><rt>ほ</rt></ruby>り出した。金銀や、<ruby><rb>珍本</rb><rt>ちんぽん</rt></ruby>を埋めるためではない。博雄の旅行荷物を<ruby><rb>保全</rb><rt>ほぜん</rt></ruby>する為である。<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を振りあげて、自分の<ruby><rb>老齢</rb><rt>ろうれい</rt></ruby>と非力を嘆じたわけだが、ともかく掘った。腕はしびれるように<ruby><rb>労</rb><rt>つか</rt></ruby>れ、地に<ruby><rb>伏</rb><rt>ふ</rt></ruby>して休息した。隣家の庭の<ruby><rb>桧</rb><rt>ひのき</rt></ruby>に火がついて、マッチをすったあとの<ruby><rb>軸木</rb><rt>じくぎ</rt></ruby>のように燃え果てる。

我家の<ruby><rb>雨戸</rb><rt>あまど</rt></ruby>も熱くなったと見え、火の子がいつまでもくいついている。もう駄目だ。町会長の<ruby><rb>責任</rb><rt>せきにん</rt></ruby>もすんだ。博雄の行李を埋めた土の上に、更に土をかぶせ、水をかけ、<ruby><rb>万事</rb><rt>ばんじ</rt></ruby><ruby><rb>終了</rb><rt>しゅうりょう</rt></ruby>の意識で心も軽く立ちあがった。ほんとうの学童疎開の日は、二三日さきのことだ。翌朝は<ruby><rb>遥々</rb><rt>はるばる</rt></ruby>と、下北沢の<ruby><rb>親戚</rb><rt>しんせき</rt></ruby>の家に厄介になりにいった。老母をリヤカーに乗せ、これを押しながら妻や子供は<ruby><rb>焼土</rb><rt>しょうど</rt></ruby>の町を行く。これは先発隊である。

私は町会長の<ruby><rb>義務</rb><rt>ぎむ</rt></ruby>を果して、博雄と二人だけでさんたんたる町を行くと、天地の間、私とこの<ruby><rb>孤児</rb><rt>こじ</rt></ruby>と二人のみがいるような<ruby><rb>錯覚</rb><rt>さっかく</rt></ruby>をおぼえた。事実一瞬にして、世は孤立人のみの世界に変じたのである。幸にしてこの父子あり、運がよければ、世界の<ruby><rb>再建</rb><rt>さいけん</rt></ruby>に加工し得るかも知れないと、ひそかに思った。先発隊の運命の程もわからぬので、こんな<ruby><rb>弱気</rb><rt>よわき</rt></ruby>兼<ruby><rb>強気</rb><rt>つよき</rt></ruby>になったのである。この考えはたしかに<ruby><rb>病的</rb><rt>びょうてき</rt></ruby>だが、一つの<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>めでもあった。足弱の子供をあやなすため、焼け残りの古本屋で、<ruby><rb>角力</rb><rt>すもう</rt></ruby>の古雑誌を買ってあてがう。顧みて支那の<ruby><rb>戦国</rb><rt>せんごく</rt></ruby>時の<ruby><rb>流亡人</rb><rt>りゅうぼうじん</rt></ruby>を連想した。

数日経って、博雄<ruby><rb>疎開</rb><rt>そかい</rt></ruby>の日になる。世田谷の奥から、<ruby><rb>巣鴨</rb><rt>すがも</rt></ruby>の焼けあとへ立ちもどり、既に土中から掘り出した例の荷物を妻と共に携えて、<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる焼けあとの学校あとに集まる。運命を自覚した影の薄い童子たちは、<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて通じている電車で<ruby><rb>旅程</rb><rt>りょてい</rt></ruby>に出るのだ。いろいろの<ruby><rb>不可知</rb><rt>ふかち</rt></ruby>要素の<ruby><rb>伴</rb><rt>ともな</rt></ruby>っているこの<ruby><rb>生別</rb><rt>せいべつ</rt></ruby>は、万感深きものがあった。足の細い、そして首の細い自分の子を見送ることは、決して<ruby><rb>愉快</rb><rt>ゆかい</rt></ruby>なものではない。

去って一月、また二月、保護者に<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>されて書いた手紙だろうが、時々無事と疎開地生活の<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>を知らせてくる。父兄代表者が、<ruby><rb>原地</rb><rt>げんち</rt></ruby>見舞をしての報告にも、<ruby><rb>童児</rb><rt>どうじ</rt></ruby>たちは元気よく生活していると聞いて安心していた。が、あるとき、見舞に行ったよその人に、一封書を<ruby><rb>秘密</rb><rt>ひみつ</rt></ruby>にことずけて来た。開いて見ると、生活に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えぬから呼びもどして呉れとの、たどたどしい<ruby><rb>鉛筆書</rb><rt>えんぴつが</rt></ruby>きの数行であった。

私は大体秩序を<ruby><rb>尊重</rb><rt>そんちょう</rt></ruby>するたちだから、この手紙には強い<ruby><rb>反感</rb><rt>はんかん</rt></ruby>をもった。我慢力が無いと内心<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>った。それでも十五歳の<ruby><rb>姉娘</rb><rt>あねむすめ</rt></ruby>が心配し出した。行って見てくるという。上野を出るあの<ruby><rb>混雑</rb><rt>こんざつ</rt></ruby>の汽車に、小さな女の子が一人で出掛けるのは、<ruby><rb>心許</rb><rt>こころもと</rt></ruby>ないと思ったが、これを差しむけた。ところが翌日、思いもかけず姉娘が、博雄を伴って<ruby><rb>悄然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>と帰って来た。見ると驚いたことに、博雄は顔から<ruby><rb>色素</rb><rt>しきそ</rt></ruby>が抜けてしまったように青白くなって、<ruby><rb>寄生</rb><rt>きせい</rt></ruby>植物にゆうれい草と名付けるのがあるが、それとそっくりであった。腕が細く、頭が大きくて目立つ。

娘の言うところによると、あまりのことに見かねて<ruby><rb>即刻</rb><rt>そっこく</rt></ruby>帰宅の手続をして来た。だが、<ruby><rb>当局</rb><rt>とうきょく</rt></ruby>は、非常に反対の様子を示したとのことである。私は直感的にその<ruby><rb>処置</rb><rt>しょち</rt></ruby>を賞めるの外はなかった。小娘のくせに、よくやったものだと感心した。学校の処置は親切であったに<ruby><rb>相違</rb><rt>そうい</rt></ruby>ないが、博雄の消極的な<ruby><rb>気質</rb><rt>きしつ</rt></ruby>が、ここへ追いこんだものと思った。

翌日小金井の<ruby><rb>藷</rb><rt>いも</rt></ruby>ばたけへ連れて行くと、<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>が三尺ぐらいに延びていた。そんな時期であったのである。手伝わせると、教育されたように<ruby><rb>秩序</rb><rt>ちつじょ</rt></ruby>正しく<ruby><rb>雑草</rb><rt>ざっそう</rt></ruby>をとる。親より上手だ。言葉遣いも教科書の通りである。本当に三ヵ月の間に、<ruby><rb>見違</rb><rt>みちが</rt></ruby>えるように好い子になったというところだが、つまりは人工的<ruby><rb>変質</rb><rt>へんしつ</rt></ruby>をさせたのであって、人間性を失ったのである。機械人形のように、<ruby><rb>柔順</rb><rt>じゅうじゅん</rt></ruby>になったのだ。<ruby><rb>奴隷</rb><rt>どれい</rt></ruby>化したのだ。だから、本質との衝突が発生したものであろう。

二三日のうちに、<ruby><rb>野性</rb><rt>やせい</rt></ruby>をとりもどし、言葉が悪くなったら顔色もよくなった。私も安心した。ところが<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>ったことに、そんな風に疎開地から帰った子供は、どこの学校へも入れて<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れないことだ。<ruby><rb>懲罰的</rb><rt>ちょうばつてき</rt></ruby>な意味もあるかも知れぬ。そこで寺小屋みたいな臨時<ruby><rb>施設</rb><rt>しせつ</rt></ruby>に入れて貰ったが、かえって本人はのびのびしていた。

世田谷で空襲に<ruby><rb>接</rb><rt>せっ</rt></ruby>したが、防空ズキンをかぶって案外呑気でいた。これらで見ると、自然力的な<ruby><rb>圧迫</rb><rt>あっぱく</rt></ruby>には堪え得るが、人間的圧迫には堪え得ない<ruby><rb>弱気</rb><rt>よわき</rt></ruby>の性であろうと思った。この父親にも、その性質は多分にあるからよく<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>る。

とかくするうちに終戦となり、世情は一変した。私も世田谷<ruby><rb>代田</rb><rt>だいた</rt></ruby>までさすらえた。博雄は、そこの公立小学校に入れて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>った。先生達が赤旗をもって、威勢よく皇居前広場へ行く。子供たちは校門で、これを<ruby><rb>声援</rb><rt>せいえん</rt></ruby>する。内心は、学校が休みになることを喜ぶのだろう。困ったことだが、<ruby><rb>孤木</rb><rt>こぼく</rt></ruby>の支え得ることではない。

近所の子供たちは、皆愉快な<ruby><rb>庶民的</rb><rt>しょみんてき</rt></ruby>風貌をそなえている。<ruby><rb>裸足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で泥んこになって、毎日遊びあっている。知らぬ間に、博雄のポケットには、メンコやビー玉が一<ruby><rb>杯</rb><rt>ぱい</rt></ruby>になっている。<ruby><rb>案外</rb><rt>あんがい</rt></ruby>勝負に強いのかも知れぬ。

これらの子供たちの<ruby><rb>交際</rb><rt>こうさい</rt></ruby>を見ていると、実に愉快そうだが、心配な面もないことはない。しかしそのうち、父親の身辺も非常に急がしくなって、<ruby><rb>老躯</rb><rt>ろうく</rt></ruby>をひっさげながら壮人と<ruby><rb>伍</rb><rt>ご</rt></ruby>するわけで、勢い子供から手を抜くの外はない。昭和二十一年には博雄が小学校四年生であった<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だが、六年生を終るまで彼は楽しく学校生活をし、本人としては<ruby><rb>幸福</rb><rt>こうふく</rt></ruby>を感じていたと思う。

八畳足らずの一室に、親子六人が<ruby><rb>居住</rb><rt>きょじゅう</rt></ruby>し、雨は<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>り、月影は屋根を通して眺め得るこの生活にも、彼は十分満足していたものと思う。親も、本心はこの生活の<ruby><rb>気楽</rb><rt>きらく</rt></ruby>を愛していたが、<ruby><rb>孟母三遷</rb><rt>もうぼさんせん</rt></ruby>の教えを気にする面もあった。

それは、野の子として育つことには<ruby><rb>賛成</rb><rt>さんせい</rt></ruby>だが、泥沼の子になることには警戒心をもったからである。私は理論上、義務教育小学校を<ruby><rb>愛惜</rb><rt>あいせき</rt></ruby>するのであるが、具体的の場合に、何か<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>る事情ありげに感じたからである。博雄の学校の成績が、どんなであったかは実は知らない。運の悪いいろいろの事情に<ruby><rb>災</rb><rt>わざわい</rt></ruby>されていたことも考えあわせ、また大器晩成流の家風をも<ruby><rb>念頭</rb><rt>ねんとう</rt></ruby>に置いたために、深く考えても見なかったのである。ただ<ruby><rb>環境</rb><rt>かんきょう</rt></ruby>のおかげで、神経質でなくなったことは拾いものだ。

中学校に<ruby><rb>転</rb><rt>てん</rt></ruby>ずるのを機として、教育大学附属の中学校に入れて貰うことが出来た。私の家も、もとの焼けあとに小屋を作ることが出来た。昭和二十四年の夏頃になって、<ruby><rb>貧弱</rb><rt>ひんじゃく</rt></ruby>ながらも自分の家に住むことが出来た。いち早く、昔住んでいたひき蛙が数匹現われて、<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>を振りまいてくれることに喜びを感じた。植木類は、全部抜き去られてしまったが、<ruby><rb>芝草</rb><rt>しばくさ</rt></ruby>が少し残っているのに手を入れたら、いくらか増加した。ふと見ると、その昔山野からむしり取って来たノビルやヒメウズなどが、<ruby><rb>無価値</rb><rt>むかち</rt></ruby>の故に生き残っている。

その後六年の歳月が、比較的無事に<ruby><rb>経過</rb><rt>けいか</rt></ruby>した。博雄も、中学三年高等学校三年を無事に経過して、今年三月の二十日に附属の高等学校を卒業した。かえり見ると、<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>四人はともかくも学校<ruby><rb>課程</rb><rt>かてい</rt></ruby>を終って、少しばかりの月給を貰う身となった。親の責任が特に軽くなったわけではないけれど、いずれも生れたてのあの柔かい<ruby><rb>肉塊</rb><rt>にくかい</rt></ruby>に対して感じた責任感は、少し<ruby><rb>気軽</rb><rt>きがる</rt></ruby>になった。

だが博雄は、これから大学課程に入るのであり、入学試験も受けたには<ruby><rb>相違</rb><rt>そうい</rt></ruby>ないが、目下海山ともに不明である。<ruby><rb>外観</rb><rt>がいかん</rt></ruby>平静を装っているけれども、内心には只ならぬものが<ruby><rb>含</rb><rt>ふく</rt></ruby>まれているらしい。

少し私も気が落付いて来たので、世間の親は、こんな場合にはどんな考えをもって、子供に対するであろうかと考えて見る。二三の<ruby><rb>事例</rb><rt>じれい</rt></ruby>を見ると、随分親は子供のことを考えるものらしい。将来の<ruby><rb>方針</rb><rt>ほうしん</rt></ruby>のことから、嫁さんや住宅や<ruby><rb>財産</rb><rt>ざいさん</rt></ruby>のことまでも考えるもののようだ。私は、そのあり方を尊いものと思わぬわけではないが、本来根気乏しいのか、<ruby><rb>薄情</rb><rt>はくじょう</rt></ruby>なのか、そこまで気を用うることが出来ぬ。ただどうか<ruby><rb>健康</rb><rt>けんこう</rt></ruby>に生き、人間らしい生活を果して呉れ、親はどうもこの上大したことは出来そうもないから、なるべく兄弟相救けやって進んで行ってくれと<ruby><rb>念願</rb><rt>ねんがん</rt></ruby>する外はない。私のあわれなる<ruby><rb>力量</rb><rt>りきりょう</rt></ruby>も、その全部を子供たちの為に捧げることは出来ない。一部は世間、すなわち<ruby><rb>衆生</rb><rt>しゅじょう</rt></ruby>の幸福のために<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げねばならぬ。またその一部は、自分自身のために捧げねばならぬ。その他、いろいろである。

私は、一面このように<ruby><rb>薄情</rb><rt>はくじょう</rt></ruby>らしいけれども、幸に母親はこれと違っている。道徳だか本能だか知らないが、子供のためには<ruby><rb>献身的</rb><rt>けんしんてき</rt></ruby>の愛情をさしむけている。例えば、あの<ruby><rb>食糧</rb><rt>しょくりょう</rt></ruby>事情の困難なときの母の生活ぶりを見ると思い当るものがある。国宝の玉蟲の<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>の画に、修業者が<ruby><rb>修道</rb><rt>しゅうどう</rt></ruby>のために、進んで自分の肉身を<ruby><rb>餓虎</rb><rt>がこ</rt></ruby>に捧げんとする様が画いてあるが、母性愛というものは、子の幸福のために肉身を捧げることを、意に<ruby><rb>介</rb><rt>かい</rt></ruby>しない面を具えている。<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>ぬきに私は子等のために安心している。

私自身としては、子等の中に伸び出してくるいろいろな性質を眺めて、我等が<ruby><rb>造物主</rb><rt>ぞうぶつしゅ</rt></ruby>から受けて来たものを、原形のまま子孫に伝えるばかりではなく、少しずつは成長発展させて、後の<ruby><rb>世代</rb><rt>せだい</rt></ruby>に伝えることが出来るかも知れんというあてどもない夢を見ている。造物主から受けた<ruby><rb>功徳</rb><rt>くどく</rt></ruby>に、利息をつけて後代に伝える責任を、子供に<ruby><rb>期待</rb><rt>きたい</rt></ruby>することは愚なことかも知れないが、事実そんな期待をいだいている。その度が強くなると、世間に<ruby><rb>珍</rb><rt>めずら</rt></ruby>しくない<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>の客体となるのだが、少しは期待してよいだろう。そしてそのねらいを含めて、子供に対する自分の態度の<ruby><rb>舵</rb><rt>かじ</rt></ruby>をとって行くことは、ひそかな喜びでもある。

## 博雄を<ruby><rb>観察</rb><rt>かんさつ</rt></ruby>する

子供と<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>くらべをすると、親はたしかに勝つ。しかし段々成長すると、親の身長が<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って<ruby><rb>劣</rb><rt>おと</rt></ruby>ることもあり得る。精神の面でも、無論その面が多い。<ruby><rb>後進</rb><rt>こうしん</rt></ruby>が先進を超えて進むのが人世の常であり、これが無くては、世の進歩がある筈はない。<ruby><rb>綜合的</rb><rt>そうごうてき</rt></ruby>な意味においては、父は子よりもまさるかも知れぬ。また社会的に発達している伝統的<ruby><rb>権威</rb><rt>けんい</rt></ruby>によって、父は子をある程度まで<ruby><rb>圧迫</rb><rt>あっぱく</rt></ruby>することは出来得る。しかし<ruby><rb>本筋</rb><rt>ほんすじ</rt></ruby>から言って、ある年齢たとえば成年近くなれば、子に対して、知能<ruby><rb>識見</rb><rt>しっけん</rt></ruby>等について相当敬意を払う場合があり得る。親のもつ経済力を転用して、子の有する<ruby><rb>知識</rb><rt>ちしき</rt></ruby><ruby><rb>能力</rb><rt>のうりょく</rt></ruby>を軽視せんとする事は<ruby><rb>不条理</rb><rt>ふじょうり</rt></ruby>である。

博雄を見ていると、職工的<ruby><rb>素質</rb><rt>そしつ</rt></ruby>において<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに父を越えている。職工的素質とは言葉通り個々の<ruby><rb>雑技術</rb><rt>ざつぎじゅつ</rt></ruby>である。<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>を打ったり、箱を作ったり、ラジオを組んだり、<ruby><rb>電蓄</rb><rt>でんちく</rt></ruby>を動かしたりする技術である。これと伴って、小さな小手さきの手品を演ずる腕のさえの<ruby><rb>萌芽</rb><rt>ほうが</rt></ruby>もある。この性質は、将来何に適するであろうか。<ruby><rb>竜</rb><rt>たつ</rt></ruby>の落し子は、竜にはならないのであって、この種の職工的性能が、器用貧乏を生み出すだけのものではないか。少し気にならぬことはない。

元来私自身が<ruby><rb>大物</rb><rt>おおもの</rt></ruby>になり得ない性質をもち、同時に小物にもなり得ない性質をそなえ、余程恵まれた<ruby><rb>環境</rb><rt>かんきょう</rt></ruby>でなければ、利用価値のない人間なのだが、博雄はこの小物性を特にもつことは、父より<ruby><rb>優</rb><rt>まさ</rt></ruby>れりとすべきか<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>か、将来の問題だ。

博雄は、一種の独断的反抗性をもっている。これは特に<ruby><rb>顕著</rb><rt>けんちょ</rt></ruby>ではないが、いわゆる「あまのじゃく」性を相当もっている。例えば雑誌社などから、家族の<ruby><rb>集団写真</rb><rt>しゅだんしゃしん</rt></ruby>を<ruby><rb>撮</rb><rt>と</rt></ruby>りにくると、頑として仲間に入らない。<ruby><rb>営利</rb><rt>えいり</rt></ruby>の手段の中に参加することを、いさぎよしとせぬのであろう。この気持ちは私によくわかる。しかし事自身が悪いことでもないのだから、社会的<ruby><rb>調和性</rb><rt>ちょうわせい</rt></ruby>があるなら、<ruby><rb>譲歩</rb><rt>じょうほ</rt></ruby>出来ぬほどのことでもない。青年が、正義を愛することは正しい傾向だが、小正義を偏愛することは<ruby><rb>大乗的</rb><rt>だいじょうてき</rt></ruby>でない。社会を尊重する気分が発達すれば、いくらか変化するのだろう。小骨の多過ぎる魚は、最上の食味ではない。

博雄は、友人の間に<ruby><rb>寛容</rb><rt>かんよう</rt></ruby>であるらしい。そして子供らしい親切さと、<ruby><rb>忠実</rb><rt>ちゅうじつ</rt></ruby>さをもって交際するとの<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>であり、友人たちからこれを容認されている。これは前述の反抗性と<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>するようだが、それだけに複雑なのだろう。将来の改善の見込があるといえる。なにしろその出生前に、父親の頭の中に<ruby><rb>潜在</rb><rt>せんざい</rt></ruby>していた反抗意識が、<ruby><rb>影印</rb><rt>えいいん</rt></ruby>しているとすると父親の責任だ。

博雄は、数学や物理などに、理解力が<ruby><rb>発達</rb><rt>はったつ</rt></ruby>しているようだ。これは近代人に好ましい能力であるが、果してどの位のものか、さきの<ruby><rb>職人性</rb><rt>しょくにんせい</rt></ruby>と組みあわせ考えて、限界面の低いものではないかと心配する。それでも致し方はない。父親が<ruby><rb>万能</rb><rt>ばんのう</rt></ruby>早解りでありながら、一能に<ruby><rb>精通</rb><rt>せいつう</rt></ruby>する能力に欠けていたからである。

博雄は、芸術に対して、特別な<ruby><rb>感興</rb><rt>かんきょう</rt></ruby>を持たぬらしい。音楽を<ruby><rb>熱愛</rb><rt>ねつあい</rt></ruby>するとか、詩を作るとか、画を描くとかいう面に格別の<ruby><rb>関心</rb><rt>かんしん</rt></ruby>をもっていない。つまりそれは<ruby><rb>散文的</rb><rt>さんぶんてき</rt></ruby>であるといえる。愛好心はなくても理解心があるのか、それが問題であるが、食物の<ruby><rb>好悪</rb><rt>こうお</rt></ruby>などから類推すると、考えが平易すぎる心配がある。

雑然考えて行くと、凡そその<ruby><rb>適材</rb><rt>てきざい</rt></ruby>たる方向が少くとも科学面であることが現われてくる。<ruby><rb>君子</rb><rt>くんし</rt></ruby><ruby><rb>器</rb><rt>うつわ</rt></ruby>ならずの格言のように、今後<ruby><rb>突然変異</rb><rt>とつぜんへんい</rt></ruby>でも起さない限り、一路進行するのが幸福だろう。そして親の<ruby><rb>錯覚</rb><rt>さっかく</rt></ruby>かも知れぬが、興味の動きかたには幅がありそうだから、見ていて前途が面白そうだ。料理が上手で、芸術に理解の深いお<ruby><rb>嫁</rb><rt>よめ</rt></ruby>さんと組むと一層幸福らしい。そして私が老らくの余生を生きるとき、ラジオや電蓄やテレビは一手で<ruby><rb>修繕</rb><rt>しゅうぜん</rt></ruby>して貰いたい。

博雄の大学入学が愈々確定した。ここに安心して筆を止めるが、これなどは顯著な親バカ症状だ。