福子さんどうぞゆるして下さいこの手紙雪ちゃんの名借りましたけどほんとうは雪ちゃんではありません、そう<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うたら無論<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>は私が誰だかお分りになったでしょうね、いえいえ貴女はこの手紙の封切って開けたしゅん間「さてはあの女か」ともうちゃんと気がおつきになるでしょう、そしてきっと腹立てて、まあ失礼な、………友達の名前無断で使って、私に手紙よこすとは何と云う厚かましい人と、お思いになるでしょう、でも福子さん察して下さいな、もしも私が封筒の裏へ自分の本名書いたらきっとあの人が見つけて、中途で横取りしてしまうことよう分ってるのですもの、是非ともあなたに読んで頂こう思うたらこうするより外ないのですもの、けれど安心して下さいませ、私決して貴女に恨み云うたり泣き言聞かしたりするつもりではないのです。そりゃ、本気で云うたらこの手紙の十倍も二十倍もの長い手紙書いたかて足りない位に思いますけど、今更そんなこと云うても何にもなりはしませんものねえ。オホホホホホホ、私も苦労しましたお<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で大変強くなりましたのよ、そういつもいつも泣いてばかりいませんのよ、泣きたいことや<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいことたんとたんとありますけど、もうもう考えないことにして、できるだけ朗かに暮らす決心しましたの。ほんとうに、人間の運命云うものいつ誰がどうなるか神様より外知る者はありませんのに、他人の幸福を<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>んだり憎んだりするなんて<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>げてますわねえ。

私がなんぼ無教育な女でも直接貴女に手紙上げたら失礼なことぐらい心得てますのよ、それかてこの事は塚本さんからたびたび云うて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いましたけど、あの人どうしても聞き入れてくれませんので、今は貴女にお願いするより手段ないようになりましたの。でもこう云うたら何やたいそうむずかしいお願いするように聞えますけど、決して決してそんな面倒なことではありません。私あなたの家庭から<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>一つだけ頂きたいものがあるのです。と云うたからとて、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>貴女のあの人を返せと云うのではありません。実はもっともっと下らないもの、つまらないもの、………リリーちゃんがほしいのです。塚本さんの話では、あの人はリリーなんぞくれてやってもよいのだけれど、福子さんが離すのいやや云うてなさると云うのです、ねえ福子さん、それ本当でしょうか？　たった一つの私の望み、貴女が邪魔してらっしゃるのでしょうか。福子さんどうぞ考えて下さい私は自分の命よりも大切な人を、………いいえ、そればかりか、あの人と作っていた楽しい家庭のすべてのものを、残らず貴女にお譲りしたのです。<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>のかけ一つも持ち出した物はなく、<ruby><rb>輿入</rb><rt>こしいれ</rt></ruby>の時に持って行った自分の荷物さえ満足に返しては貰いません。でも、悲しい思い出の種になるようなものない方がよいかも知れませんけれど、せめてリリーちゃん譲って下すってもよくはありません？　私は外に何も無理なこと申しません、<ruby><rb>蹈</rb><rt>ふ</rt></ruby>まれ<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>られ<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>かれてもじっと辛抱して来たのです。その大きな犠牲に対して、たった一匹の<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>を頂きたいと云うたら厚かましいお願いでしょうか。貴女に取ってはほんにどうでもよいような小さい獣ですけれど、私にしたらどんなに孤独慰められるか、………私、弱虫と思われたくありませんが、リリーちゃんでもいててくれなんだら<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しくて仕様がありませんの、………猫より外に私を相手にしてくれる人間世の中に一人もいないのですもの。貴女は私をこんなにも打ち負かしておいて、この上苦しめようとなさるのでしょうか。今の私の淋しさや心細さに一点の同情も寄せて下さらないほど、無慈悲なお方なのでしょうか。

いえいえ貴女はそんなお方ではありません、私よく分っているのですが、リリーちゃんを離さないのは、あなたでなくて、あの人ですわ、きっときっとそうですわ。あの人はリリーちゃんが大好きなのです。あの人いつも「お前となら別れられても、この猫とやったらよう別れん」と云うてたのです。そして御飯の時でも夜寝る時でも、リリーちゃんの方がずっと私より<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>がられていたのです。けど、そんなら何で正直に「自分が離しともないのだ」と云わんと、あなたのせいにするのでしょう？　さあその訳をよう考えて御覧なさりませ、………

あの人は<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>な私を追い出して、好きな貴女と一緒になりました。私と暮してた間こそリリーちゃんが必要でしたけど、今になったらもうそんなもん邪魔になる<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>ではありませんか。それともあの人、今でもリリーちゃんがいなかったら不足を感じるのでしょうか。そしたら貴女も私と同じに、猫以下と見られてるのでしょうか。まあ御免なさい、つい心にもないこと云うてしもうて。………よもやそんな<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>らしいことあろうとは思いませんけれど、でもあの人、自分の好きなこと隠して貴女のせいにする云うのは、やっぱりいくらか気が<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めている証拠では、………オホホホホホホ、もうそんなこと、どっちにしたかて私には関係ないのでしたわねえ、けどほんとうに御用心なさいませ、たかが猫ぐらいと気を許していらしったら、その猫にさえ見かえられてしまうのですわ。私決して悪いことは申しません、私のためより貴女のため思うて上げるのです、あのリリーちゃんあの人の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>から早う離してしまいなさい、あの人それを承知しないならいよいよ怪しいではありませんか。………

福子はこの手紙の一字一句を胸に置いて、庄造とリリーのすることにそれとなく<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>をつけているのだが、<ruby><rb>小鰺</rb><rt>こあじ</rt></ruby>の二杯酢を<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>にしてチビリチビリ傾けている庄造は、一と口飲んでは<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちょく</rt></ruby>を置くと、

「リリー」

と云って、鰺の一つを<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>で高々と<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>まみ上げる。リリーは後脚で立ち上って小判型のチャブ台の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>に前脚をかけ、皿の上の肴をじっと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まえている<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>は、バアのお客がカウンターに<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかっているようでもあり、ノートルダムの怪獣のようでもあるのだが、いよいよ<ruby><rb>餌</rb><rt>えさ</rt></ruby>が摘まみ上げられると、急に鼻をヒクヒクさせ、大きな、<ruby><rb>悧巧</rb><rt>りこう</rt></ruby>そうな眼を、まるで人間がびっくりした時のようにまん円く開いて、下から見上げる。だが庄造はそう<ruby><rb>易々</rb><rt>やすやす</rt></ruby>とは投げてやらない。

「そうれ！」

と、鼻の先まで持って行ってから、逆に自分の口の中へ入れる。そして魚に<ruby><rb>滲</rb><rt>し</rt></ruby>みている酢をスッパスッパ吸い取ってやり、堅そうな骨は<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み砕いてやってから、又もう一遍摘まみ上げて、遠くしたり、近くしたり、高くしたり、低くしたり、いろいろにして見せびらかす。それにつられてリリーは前脚をチャブ台から離し、幽霊の手のように胸の両側へ上げて、よちよち歩き出しながら追いかける。すると獲物をリリーの頭の真上へ持って行って静止させるので、今度はそれに<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>いを定めて、一生懸命に跳び着こうとし、跳び着く拍子に素早く前脚で目的物を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>もうとするが、アワヤと云う所で失敗しては又跳び上る。こうしてようよう一匹の鰺をせしめる<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>に五分や十分はかかるのである。

この同じことを庄造は何度も繰り返しているのだった。一匹やっては一杯飲んで、

「リリー」

と呼びながら次の一匹を摘まみ上げる。皿の上には約二寸程の長さの小鰺が十二三匹は載っていた筈だが、恐らく自分が満足に食べたのは三匹か四匹に過ぎまい、あとはスッパスッパ二杯酢の汁をしゃぶるだけで、身はみんなくれてやってしまう。

「あ、あ、あ<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>！　痛いやないか、こら！」

やがて庄造は<ruby><rb>頓興</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な声を出した。リリーがいきなり肩の上へ跳び上って、<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>を立てたからなのである。

「こら！　降り！　降りんかいな！」

残暑もそろそろ衰えかけた九月の半ば過ぎだったけれど、太った人にはお定まりの、暑がりやで汗ッ<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きの庄造は、この間の出水で<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>だらけになった裏の<ruby><rb>縁鼻</rb><rt>えんはな</rt></ruby>へチャブ台を持ち出して、<ruby><rb>半袖</rb><rt>はんそで</rt></ruby>のシャツの上に毛糸の腹巻をし、麻の<ruby><rb>半股引</rb><rt>はんももひき</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いた姿のまま<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいているのだが、その円々と膨らんだ、丘のような肩の肉の上へ跳び着いたリリーは、つるつる滑り落ちそうになるのを防ぐために、勢い爪を立てる。と、たった一枚のちぢみのシャツを<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>して、爪が肉に<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>い込むので、

「あ痛！　痛！」

と、悲鳴を挙げながら、

「ええい、降りんかいな！」

と、肩を揺す振ったり一方へ傾けたりするけれども、そうすると<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>落ちまいとして爪を立てるので、しまいにはシャツにポタポタ血がにじんで来る。でも庄造は、

「無茶しよる。」

とボヤキながらも決して腹は立てないのである。リリーはそれをすっかり<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>み込んでいるらしく、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほっ</rt></ruby>ぺたへ顔を擦りつけてお世辞を使いながら、彼が魚を<ruby><rb>啣</rb><rt>ふく</rt></ruby>んだと見ると、自分の口を大胆に主人の口の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>へ持って行く。そして庄造が口をもぐもぐさせながら、舌で魚を押し出してやると、ヒョイとそいつへ<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>み着くのだが、一度に喰いちぎって来ることもあれば、ちぎったついでに主人の口の周りを<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうに<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>め廻すこともあり、主人と猫とが両端を<ruby><rb>咬</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて引っ張り合っていることもある。その間庄造は「うッ」とか、「ペッ、ペッ」とか、「ま、待ちいな！」とか<ruby><rb>合</rb><rt>あい</rt></ruby>の<ruby><rb>手</rb><rt>て</rt></ruby>を入れて、顔をしかめたり<ruby><rb>唾液</rb><rt>つばき</rt></ruby>を吐いたりするけれども、実はリリーと同じ程度に嬉しそうに見える。

「おい、どうしたんや？―――」

だが、やっとのことで一と休みした彼は、何気なく女房の方へ杯をさし出すと、途端に心配そうな上眼使いをした。どうした訳か今しがたまで<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>の<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>かった女房が、<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>をしようともしないで、両手を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に入れてしまって、真正面からぐっと此方を<ruby><rb>視詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めている。

「そのお酒、もうないのんか？」

出した杯を引っ込めて、オッカナビックリ眼の中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んだが、相手はたじろぐ様子もなく、

「ちょっと話があるねん。」

と、そう云ったきり、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しそうに黙りこくった。

「なんや？　え、どんな話？―――」

「あんた、その猫品子さんに譲ったげなさい。」

「何でやねん？」

<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>から棒に、そんな乱暴な話があるものかと、つづけざまに眼をパチクリさせたが、女房の方も負けず劣らず険悪な表情をしているので、いよいよ分らなくなってしまった。

「何で又急に、………」

「何ででも譲ったげなさい、明日塚本さん呼んで、<ruby><rb>早</rb><rt>は</rt></ruby>よ渡してしまいなさい。」

「いったい、それ、どう云うこッちゃねん？」

「あんた、<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>やのん？」

「ま、まあ待ち！　訳も云わんとそう云うたかて無理やないか。何ぞお前、気に触ったことあるのんか。」

リリーに対する<ruby><rb>焼餅</rb><rt>やきもち</rt></ruby>？―――と、一応思いついてみたが、それも<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うのは、もともと自分も猫が好きだった筈なのである。まだ庄造が前の女房の品子と暮していた時分、品子がときどき猫のことで焼餅を焼く話を聞くと、福子は彼女の非常識を笑って、<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>の種にしたものだった。そのくらいだから、勿論庄造の猫好きを承知の上で来たのであるし、それから<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>、庄造ほど極端ではないにしても、自分も彼と一緒になってリリーを可愛がっていたのである。現にこうして、三度々々の食事には、夫婦さし向いのチャブ台の間へ必ずリリーが割り込むのを、今迄<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>や<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>云ったことは一度もなかった。それどころか、いつでも今日のような風に、夕飯の時にはリリーとゆっくり<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れながら晩酌を楽しむのであるが、亭主と猫とが演出するサーカスの曲芸にも似た珍風景を、福子とても面白そうに<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めているばかりか、時には自分も餌を投げてやったり跳び着かせたりするくらいで、リリーの介在することが、新婚の二人を一層仲好く結び着け、食卓の空気を明朗化する効能はあっても、邪魔になってはいない筈だった。とすると一体、何が原因なのであろう。つい昨日まで、いや、ついさっき、晩酌を五六杯重ねるまでは何のこともなかったのに、いつの間にか形勢が変ったのは、何かほんの<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>なことが<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に触ったのでもあろうか。それとも「品子に譲ってやれ」と云うのを見ると、急に彼女が<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうにでもなったのか知らん。

そう云えば、品子が<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>を出て行く時に、交換条件の一つとしてリリーを連れて行きたいと云う申し<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でがあり、その後も塚本を仲に立てて、二三度その希望を伝えて来たことは事実である。だが庄造はそんな云い草は取り上げない方がよいと思って、そのつど断っているのであった。塚本の口上では、連れ添う女房を追い出して<ruby><rb>余所</rb><rt>よそ</rt></ruby>の女を引きずり込むような不実な男に、何の未練もないと云いたいところだけれども、やっぱり今も庄造のことが忘れられない、恨んでやろう、憎んでやろうと努めながら、どうしてもそんな気になれない、ついては思い出の種になるような記念の品が欲しいのだが、それにはリリーちゃんを此方へ<ruby><rb>寄越</rb><rt>よこ</rt></ruby>して貰えまいか、一緒に暮していた時分には、あんまり可愛がられているのが<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>ま忌ましくて、蔭でいじめたりしたけれども、今になっては、あの家の中にあった物が皆なつかしく、分けてもリリーちゃんが一番なつかしい、せめて自分は、リリーちゃんを庄造の子供だと思って精一杯可愛がってやりたい、そうしたら<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>い悲しい気持がいくらか慰められるであろう。―――

「なあ、石井君、猫一匹ぐらい何だんね、そない云われたら可哀そうやおまへんか。」

と、そう云うのだったが、

「あの女の云うこと、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>に受けたらアキまへんで。」

と、いつも庄造はそう答えるに<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まっていた。あの女は兎角<ruby><rb>懸引</rb><rt>かけひき</rt></ruby>が強くって、底に底があるのだから、何を云うやら<ruby><rb>眉唾物</rb><rt>まゆつばもの</rt></ruby>である。第一剛情で、負けず<ruby><rb>嫌</rb><rt>ぎら</rt></ruby>いの癖に、別れた男に未練があるの、リリーが可愛くなったのと、しおらしいことを云うのが怪しい。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>が何でリリーを可愛がるものか。きっと自分が連れて行って、思うさまいじめて、<ruby><rb>腹癒</rb><rt>はらい</rt></ruby>せをする気なのだろう。そうでなかったら、庄造の好きな物を一つでも取り上げて、意地悪をしようと云うのだろう。―――いや、そんな子供じみた<ruby><rb>復讐心</rb><rt>ふくしゅうしん</rt></ruby>より、もっともっと深い<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>みがあるのかも知れぬが、頭の単純な庄造には相手の腹が見透せないだけに、変に薄気味が悪くもあれば、反感も募るのだった。それでなくてもあの女は、随分勝手な条件を沢山持ち出しているではないか。しかしもともと此方に無理があるのだし、一日も早く出て貰いたいと思ったればこそ、大概なことは聞いてやったのに、その上リリーまで連れて行かれてたまるものか。それで庄造は、いくら塚本が<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつッこ</rt></ruby>く云って来ても、彼一流の<ruby><rb>婉曲</rb><rt>えんきょく</rt></ruby>な口実でやんわり逃げているのであったが、福子もそれに賛成なのは無論のことで、庄造以上に態度がハッキリしていたのである。

「訳を云いな！　何のこッちゃ、僕さっぱり見当が付かん。」

そう云うと庄造は、<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>を自分で引き寄せて、手酌で飲んだ。それから股を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぴた</span>ッと叩いて、

「<ruby><rb>蚊遣</rb><rt>かやり</rt></ruby>線香あれへんのんか。」

と、ウロウロその辺を見廻しながら、半分ひとりごとのように云った。あたりが薄暗くなったので、つい鼻の先の<ruby><rb>板塀</rb><rt>いたべい</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>から、蚊がワンワン云って縁側の方へ群がって来る。少し食い過ぎたと云う恰好でチャブ台の下にうずくまっていたリリーは、自分のことが問題になり出した<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>こそこそと庭へ下りて、塀の下をくぐって、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かへ行ってしまったのが、まるで遠慮でもしたようで<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しかったが、<ruby><rb>鱈</rb><rt>たら</rt></ruby>ふく<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になった後では、いつでも一遍すうっと姿を消すのであった。

福子は黙って台所へ立って行って、<ruby><rb>渦巻</rb><rt>うずまき</rt></ruby>の線香を捜して来ると、それに火をつけてチャブ台の下へ入れてやった。そして、

「あんた、あの鰺、みんな<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>に食べさせなはったやろ？　自分が食べたのん二つか三つよりあれしまへんやろ？」

と、今度は調子を<ruby><rb>和</rb><rt>やわら</rt></ruby>げて云い出した。

「そんなこと僕、覚えてエへん。」

「わてちゃんと数えててん。そのお皿の上に最初十三匹あってんけど、リリーが十匹食べてしもて、あんたが食べたのん三匹やないか。」

「それが悪かったのんかいな。」

「何で悪い云うこと、分ってなはんのんか。なあ、よう考えて御覧。わて猫みたいなもん相手にして焼餅焼くのんと違いまっせ。けど、鰺の二杯酢わては嫌いや云うのんに、僕好きやよってに<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてほしい云いなはったやろ。そない云うといて、自分ちょっとも食べんとおいといてからに、猫にばっかり<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ってしもて、………」

彼女の云うのは、こうなのである。―――

阪神電車の沿線にある町々、<ruby><rb>西宮</rb><rt>にしのみや</rt></ruby>、<ruby><rb>蘆屋</rb><rt>あしや</rt></ruby>、<ruby><rb>魚崎</rb><rt>うおざき</rt></ruby>、<ruby><rb>住吉</rb><rt>すみよし</rt></ruby>あたりでは、地元の浜で<ruby><rb>獲</rb><rt>と</rt></ruby>れる鰺や<ruby><rb>鰯</rb><rt>いわし</rt></ruby>を、「鰺の取れ取れ」「鰯の取れ取れ」と呼びながら大概毎日売りに来る。「取れ取れ」とは「取りたて」と云う義で、値段は一杯十銭から十五銭ぐらい、それで三四人の家族のお<ruby><rb>数</rb><rt>かず</rt></ruby>になるところから、よく売れると見えて一日に何人も来ることがある。が、鰺も鰯も夏の間は長さ一寸ぐらいのもので、<ruby><rb>秋口</rb><rt>あきぐち</rt></ruby>になるほど追い追い寸が伸びるのであるが、小さいうちは塩焼にもフライにも都合が悪いので、素焼きにして二杯酢に<ruby><rb>漬</rb><rt>つ</rt></ruby>け、<ruby><rb>苼莪</rb><rt>しょうが</rt></ruby>を刻んだのをかけて、骨ごと食べるより仕方がない。ところが福子は、その二杯酢が嫌いだと云ってこの間から反対していた。彼女はもっと温かい<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>ッこいものが好きなので、こんな冷めたいモソモソしたものを食べさせられては悲しくなると、彼女らしい<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>を云うと、庄造は又、お前はお前で好きなものを拵えたらよい。僕は小鰺が食べたいから自分で料理すると云って、「取れ取れ」が通ると勝手に呼び込んで買うのである。福子は庄造と<ruby><rb>従兄弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>同士で、嫁に来た事情が事情だから、<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうとめ</rt></ruby>には気がねが要らなかったし、来た明くる日から<ruby><rb>我</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>一杯に振舞っていたけれど、まさか亭主が<ruby><rb>庖丁</rb><rt>ほうちょう</rt></ruby>を持つのを見ている訳に行かないから、結局自分がその二杯酢を拵えて、いやいやながら一緒にたべることになってしまう。おまけにそれが、もう此処のところ五六日も続いているのであるが、二三日前にふと気が付いたことと云うのは、女房の不平を犯してまでも<ruby><rb>食膳</rb><rt>しょくぜん</rt></ruby>に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せる程のものを、庄造は自分で食べることか、リリーにばかり与えている。それでだんだん考えて見たら、成る程あの鰺は姿が小さくて、骨が柔かで、身をむしってやる面倒がなくて、値段のわりに数がある、それに冷めたい料理であるから、毎晩あんな風にして猫に食わせるには最も適している訳で、つまり庄造が好きだと云うのは、猫が好きだと云うことなのである。此処の家では、亭主が女房の好き嫌いを無視して、猫を中心に晩のお数をきめていたのだ。そして亭主のためと思って辛抱していた女房は、その実猫のために料理を拵え、猫のお附き合いをさせられていたのだ。

「そんなことあれへん、僕、いつかて自分が食べよう思うて頼むねんけど、リリーの<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>があないに<ruby><rb>執拗</rb><rt>ひつこ</rt></ruby>う欲しがるさかいに、ついウカッとして、後から後から投げてまうねんが。」

「<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>云いなさい、あんた始めからリリーに食べさそう思うて、好きでもないもん好きや云うてるねんやろ。あんた、わてより猫が大事やねんなあ。」

「ま、ようそんなこと。………」

<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>に、吐き出すようにそう云ったけれど、今の一言ですっかり<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れた形だった。

「そんなら、わての方が大事やのん？」

「きまってるやないか！　<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>らしなって来るわ、ほんまに！」

「口でばっかりそない云わんと、証拠見せてエな。そやないと、あんたみたいなもん信用せエへん。」

「もう明日から鰺買うのん<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めにしょう。な、そしたら文句ないねんやろ。」

「それより何より、リリー遣ってしまいなはれ。あの猫いんようになったら一番ええねん。」

まさか本気で云うのではないだろうけれど、タカを<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>り過ぎて<ruby><rb>依怙地</rb><rt>えこじ</rt></ruby>になられては<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>なので、是非なく庄造は<ruby><rb>膝頭</rb><rt>ひざがしら</rt></ruby>を<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>え、キチンと<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まってすわり直すと、<ruby><rb>前屈</rb><rt>まえかが</rt></ruby>みに、その膝の上へ両手をつきながら、

「そうかてお前、<ruby><rb>虐</rb><rt>いじ</rt></ruby>められること分っててあんな<ruby><rb>所</rb><rt>とこ</rt></ruby>へやれるかいな。そんな無慈悲なこと云うもんやないで。」

と、哀れッぽく持ちかけて、嘆願するような声を出した。

「なあ、頼むさかいに、そない云わんと、………」

「ほれ御覧、やっぱり猫の方が大事なんやないかいな。リリーどないぞしてくれへなんだら、わて<ruby><rb>去</rb><rt>い</rt></ruby>なして<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いまっさ。」

「無茶云いな！」

「わて、畜生と一緒にされるのん<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>ですよってにな。」

あんまりムキになったせいか、急に涙が込み上げて来たのが、自分にも不意討ちだったらしく、福子は<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて亭主の方へ背中を向けた。

雪子の名を使った品子のあの手紙が届いた朝、最初に彼女が感じたのは、こんないたずらをして私達の間へ水を<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>そうとするなんて、何と云う嫌な人だろう、誰がその手に乗ってやるもんか、と云うことだった。品子の腹は、こう云う風に書いてやったら、結局福子はリリーのいることが心配になって、此方へ寄越すかも知れない、そうなったら、それ見たことか、人を笑ったお前さんも猫に焼餅を焼くじゃないか、やっぱりお前さんだってそう御亭主に大事にされてもいないのだねえと、手を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>ってやろう、そこまで<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>く行かないとしても、この手紙をキッカケに家庭に風波が起るとしたら、それだけでも面白いと、そう思っているに違いないので、その鼻を明かしてやるのには、いよいよ夫婦が<ruby><rb>仲好</rb><rt>なかよ</rt></ruby>く暮すようにして、こんな手紙などてんで問題にならなかったと云う所を見せてやり、二人が同じようにリリーを<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>がって、とても手放す気がないことをもっとハッキリ知らしてやる、―――もうそれに越したことはないのであった。

だが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>なことにこの手紙の来た時期が悪かった。と云うのは、ちょうどこの二三日小鰺の二杯酢の一件が福子の胸につかえていて、一遍亭主を取っちめてやろうと考えていた矢先だったのである。一体、彼女は庄造が思っているほど猫好きではないのだが、庄造の気持を迎えるためと、品子への<ruby><rb>面当</rb><rt>つらあ</rt></ruby>てと、両方の必要から自然猫好きになってしまい、自分もそう思えば人にも思わせていたのであって、それは彼女がまだこの家へ乗り込まない時分、<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で姑のおりんなどとグルになって<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>ら品子の追い出し策にかかっている間のことだった。そんな次第で、此処へ来てからもリリーを可愛がってやって、<ruby><rb>精々</rb><rt>せいぜい</rt></ruby>猫好きで通していたのだが、だんだん彼女はその一匹の小さい獣の存在を、<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>わしく思うようになった。何でもこの猫は西洋種だと云うことだったが、以前、此処へお客で遊びに来て膝の上などへ乗せてやると、手触りの工合が柔かで、毛なみと云い、顔だちと云い、姿と云い、ちょっとこの辺には見当らない<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な雌猫であったから、その時はほんとうに愛らしいと思い、こんなものを邪魔にするとは品子さんと云う人も変っている、やっぱり亭主に嫌われると、猫にまで<ruby><rb>僻</rb><rt>ひが</rt></ruby>みを持つのか知らんと、面当てでなくそう感じたものだったけれど、今度自分が<ruby><rb>後釜</rb><rt>あとがま</rt></ruby>へ直ってみると、自分は品子と同じ扱いを受ける訳でもなく、大切にされていることは分っていながら、どうも品子を笑えない気持になって来るのが不思議であった。それと云うのは、庄造の猫好きが普通の猫好きの<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>ではなくて、度を越えているせいなのである。実際、可愛がるのもいいけれども、一匹の魚を（<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>も女房の見ている前で！）口移しにして、引張り合ったりするなどは、あまり遠慮がなさすぎる。それから晩の御飯の時に割り込んで来られることも、正直のところは愉快でなかった。夜は姑が気を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かして、自分だけ先に食事を済まして二階へ上ってくれるのだから、福子にしてみればゆっくり水入らずを楽しみたいのに、そこへ猫<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>が<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来て亭主を横取りしてしまう。好いあんばいに今夜は姿が見えないなと思うと、チャブ台の脚を開く音、<ruby><rb>皿小鉢</rb><rt>さらこばち</rt></ruby>のカチャンと云う音を聞いたら<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ何処かから帰って来る。たまに帰らないことがあると、<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからないのは庄造で、「リリー」「リリー」と大きな声で呼ぶ。帰って来る<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>は何度でも、二階へ上ったり、裏口へ<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>ったり、往来へ出たりして呼び立てる。今に帰るだろうから一杯飲んでいらっしゃいと、彼女がお銚子を取り上げても、モジモジしていて落ち着いてくれない。そう云う場合、彼の頭はリリーのことで一杯になっていて、女房がどう思うかなどと、ちょっとも考えてみないらしい。それにもう一つ愉快でないのは、寝る時にも割り込んで来ることである。庄造は今迄猫を三匹飼ったが、<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>をくぐることを知っているのはリリーだけだ、全くリリーは<ruby><rb>悧巧</rb><rt>りこう</rt></ruby>だと云う。成る程、見ていると、ぴったり頭を畳へ擦り付けて、するすると裾をくぐり抜けて這入る。そして大概は庄造の<ruby><rb>布団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>で眠るけれども、寒くなれば布団の上へ乗るようになり、しまいには<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>の方から、蚊帳をくぐるのと同じ要領で夜具の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>へもぐり込んで来ると云う。そんな風だから、この猫にだけは夫婦の秘密を見られてしまっているのである。

それでも彼女は、今更猫好きの看板を外して嫌いになり出すキッカケがないのと、「相手は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たか</span>が猫だから」と云う<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れに引き擦られて、腹の虫を押さえて来たのであった。あの人はリリーを<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>にしているだけなので、ほんとうは私が好きなのである、あの人に取って天にも地にも懸け換えのないのは私なのだから、変な工合に気を廻したら、自分で自分を安っぽくする道理である。もっと心を大きく持って、何の罪もない動物を憎むことなんか止めにしようと、そう云う風に気を向けかえて、亭主の趣味に歩調を合わせていたのだが、もともと<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>え<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>のない彼女にそんな我慢が長つづきする<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>がなく、少しずつ不愉快さが増して来て顔に出かかっていたところへ、降って<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いたのが今度の二杯酢の一件だった。亭主が猫を喜ばすために、女房の嫌いなものを食膳に上せる、而も自分が好きなふりをして、女房の手前を繕ってまでも！―――これは明かに、猫と女房とを<ruby><rb>天秤</rb><rt>てんびん</rt></ruby>にかけると猫の方が重い、と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うことになる。彼女は見ないようにしていた事実をまざまざと鼻先へ突き付けられて、<ruby><rb>最早</rb><rt>もは</rt></ruby>や己惚れの存する余地がなくなってしまった。

ありていに云うと、そこへ品子の手紙が舞い込んで来たことは、彼女の<ruby><rb>焼餅</rb><rt>やきもち</rt></ruby>を一層<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>ったようでもあるが、一面には又、それを爆発の一歩手前で抑制すると云う働きをした。品子さえおとなしくしていたら、リリーの介在をもう一日も黙視出来なくなった彼女は、早速亭主に談判して品子の方へ引き渡させる積りでいたのに、あんないたずらをされてみると、素直に註文を聴いてやるのが忌ま忌ましい。つまり亭主への反感と、品子への反感と、<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>の感情で動いたらよいか<ruby><rb>板挟</rb><rt>いたばさ</rt></ruby>みになってしまったのである。手紙の来たことを亭主に打ち明けて相談すれば、事実はそうでないにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かか</rt></ruby>わらず品子にケシカケられたような形になるのが心外であるから、それは内証にして置いて、孰方が余計憎らしいかと考えると、品子の遣り方も腹が立つけれども、亭主の仕打ちも<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>がならない。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にこの方は毎日<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>の前で見ているのだから、どうにもムシャクシャする訳だし、それに、本当のことを云うと、「用心しないと<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>も猫に見換えられる」と書いてあったのが、案外<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐん</span>と胸にこたえた。まさかそんな<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>げたことがとは思うけれども、リリーを家庭から追い払ってしまいさえすれば、イヤな心配をしないでも済む。ただそうすると品子に<ruby><rb>溜飲</rb><rt>りゅういん</rt></ruby>を下げさせることになるのが、いかにも残念でたまらないので、その方の意地が<ruby><rb>昂</rb><rt>こう</rt></ruby>じて来ると、猫のことぐらい辛抱しても誰があの女の計略なんぞにと、云う風になる。―――で、今日の夕方チャブ台の前にすわる迄は、彼女はそう云うグルグル廻りの状態に置かれて<ruby><rb>懊</rb><rt>じ</rt></ruby>れていたのだが、皿の上の鰺が減って行くのを数えながらいつもの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いちゃつき</span>を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めていると、つい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かあ</span>ッとして亭主の方へ<ruby><rb>鬱憤</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>を破裂させてしまったのである。

しかし最初は嫌がらせにそう云った迄で、本気でリリーを追い出す積りはなかったらしいのであるが、へんに問題をコジレさせて<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>っ<ruby><rb>引</rb><rt>ぴ</rt></ruby>きならないようにしたのは、庄造の態度が大いに原因しているのである。庄造としては、福子が腹を立てたのは至極<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もなのであるから、イザコザなしに、あっさり彼女の希望を入れて納得してしまえば一番よかった。そうして意地を通してさえやったら、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って後は<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>が直って、それには及ばぬと云うことになったかも知れないのに、道理のないところへ道理をつけて、逃げを打った。これは庄造の悪い癖なので、イヤならイヤときっぱり云ってしまうならいいのだが、なるたけ相手を怒らせないように、追い詰められるまでは<ruby><rb>瓢箪鯰</rb><rt>ひょうたんなまず</rt></ruby>に受け流していて、<ruby><rb>土壇場</rb><rt>どたんば</rt></ruby>へ来るとヒョイと寝返る。もう少しで承知しそうな口ぶりを見せて、その実決して「うん」と云わない。気が弱そうで、案外ネチネチした<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>い人だと云う印象を与える。福子は亭主が、外のことなら彼女の我が儘を通すくせに、この問題に関する限り、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たか</span>が猫なんぞ」と何でもなさそうに云いながら、中々同意しないのを見ると、リリーに対する愛着が想像以上に深いものとしか思えないので、いよいよ捨てて置けない気がした。

「ちょっと、あんた！………」

その晩彼女は、蚊帳の中に這入ってから又始めた。

「ちょっと、此方向きなさい。」

「ああ、僕眠たい、もう寝さして。………」

「あかん、さっきの話きめてしまわなんだら、寝させへん。」

「今夜に限ったことあるかいな、明日にして。」

表は四枚の<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>戸にカーテンを引いてあるだけなので、<ruby><rb>軒燈</rb><rt>けんとう</rt></ruby>のあかりがぼんやり店の奥へ<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れて来て、もやもやと物が見える中で、庄造は掛け布団をすっかり<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>いで仰向きに<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>ていたが、そう云うと女房の方へ背中を向けた。

「あんた、そっち向いたらあかん！」

「頼むさかいに寝さしてエな、ゆうべ僕、蚊帳ん中に蚊ア這入っててちょっとも寝られへなんでん。」

「そしたら、わての云う通りしなはるか。早う寝たいなら、それきめなさい。」

「<ruby><rb>殺生</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>やなあ、何をきめるねん。」

「そんな、<ruby><rb>寝惚</rb><rt>ねぼ</rt></ruby>けたふりしたかて、<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>されまっかいな。リリー<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>んなはるのんか<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>だす？　今はっきり云うて<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>。」

「明日、―――明日まで考えさして<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>お。」

そう云っているうちに、早くも心地よさそうな寝息を立てたが、

「ちょっと！」

と云うと、福子はムックリ起き上って亭主の側にすわり直すと、いやと云う程<ruby><rb>臀</rb><rt>しり</rt></ruby>の肉を<ruby><rb>抓</rb><rt>つね</rt></ruby>った。

「痛い！　何をするねん！」

「あんた、いつかてリリーに引っ<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>かれて、<ruby><rb>生傷</rb><rt>なまきず</rt></ruby>絶やしたことないのんに、わてが抓ったら痛いのんか。」

「痛！　ええい、止めんかいな！」

「これぐらい何だんね、<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>に掻かすぐらいやったら、わてかて体じゅう引っ掻いたるわ！」

「痛、痛、痛、………」

庄造は、自分も急に起き直って<ruby><rb>防禦</rb><rt>ぼうぎょ</rt></ruby>の姿勢を取りながら、続けざまに叫んだ。二階の年寄に聞かせたくないので、大きな声は立てなかったが、抓るかと思うと今度は引っ掻く。顔、肩、胸、腕、<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>、所<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>わず攻めて来るので、慌てて避ける度<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>にバタン！　と云う地響きが家じゅうへ伝わる。

「どないや？」

「もう堪忍、………堪忍！」

「眼エ覚めなはったか？」

「覚めいでかいな！　ああ痛、ヒリヒリするわ。………」

「そしたら、今のこと返事しなさい、孰方だす？」

「ああ痛、………」

それには答えないで、顔をしかめながら方々をさすっていると、

「又だっか、胡麻化したらこれだっせ！」

と、二三本の指でモロに<ruby><rb>頬</rb><rt>ほ</rt></ruby>っぺたを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がり</span>ッと行かれたのが、飛び上るほど痛かったらしく、思わず、

「いたア―――」

と泣き声を出したが、途端にリリーまでがびっくりして、蚊帳の外へ逃げ出して行った。

「僕、何でこんな目に遭わんならん。」

「ふん、リリーのためや思うたら、本望だっしゃろが。」

「そんな<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>らしいこと、まだ云うてるのんか。」

「あんたがはっきりせんうちは、何ぼでも云いまっせ。―――さあ、わてを<ruby><rb>去</rb><rt>い</rt></ruby>なすかリリー遣んなはるか、孰方だす？」

「誰がお前を去なす云うた？」

「そんならリリー遣んなはるのんか？」

「そない孰方かにきめんならんこと………」

「あかん、きめて欲しいねん。」

そう云うと福子は、<ruby><rb>胸倉</rb><rt>むなぐら</rt></ruby>を取って小突き始めた。

「さあ孰方や、返事しなさい、早う！　早う！」

「何とまあ手荒な、………」

「今夜はどないなことしたかて堪忍せエしまへんで。さあ、早う！　早う！」

「ええ、もう、ショウがない、リリー遣ってしもたるわ。」

「ほんまだっかいな。」

「ほんまや。」

庄造は眼をつぶって、観念の<ruby><rb>臍</rb><rt>ほぞ</rt></ruby>を固めたと云う顔つきをした。

「―――その代り、あと一週間待ってくれへんか。なあ、こないに云うたら又怒られるか知れへんけど、なんぼ畜生にしたかて、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>の家に十年もいてたもん、今日云うて今日追い出す訳に行くかいな。そやさかいに、心残りのないようにせめてもう一週間置いてやって、たんと好きなもん食べさして、出来るだけのことしてやりたいねん。なあ、どないや？　お前かてその間ぐらい機嫌直して可愛がってやりいな。猫は執念深いよってにな。」

いかにも<ruby><rb>懸引</rb><rt>かけひき</rt></ruby>のない真情らしく、そうしんみりと訴えられてみると、それには反対が出来なかった。

「そしたら一週間だっせ。」

「分ってる。」

「手エ出しなさい。」

「何や？」

と云っている隙に、素早く指切りをさせられてしまった。

「お母さん」

それから二三日過ぎた夕方、福子が銭湯へ出かけた留守に、店番をしていた庄造は奥の間へ声をかけながら這入って来ると、自分だけの小さなお<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>で食事している母親の側へ、モジモジしながら中腰にかがんだ。

「お母さん、ちょっと頼みがありまんねん。―――」

毎朝別に<ruby><rb>炊</rb><rt>た</rt></ruby>いている<ruby><rb>土鍋</rb><rt>どなべ</rt></ruby>の御飯の、お<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>のように柔かいのがすっかり冷えてしまったのを<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>に盛って、<ruby><rb>塩昆布</rb><rt>しおこんぶ</rt></ruby>を載せて食べている母親は、お膳の上へ背を円々と<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>いかぶさるようにしていた。

「あのなあ、福子が急にリリー嫌いや云い出してなあ、品子んとこへ遣ってしまえ云いまんね。………」

「このあいだ、えらい騒ぎしてたやないか。」

「お母さん知ってなはったんか。」

「夜中にあんな音さすよって、わてびっくりして、地震か思うたわ。あれ、そのことでかいな？」

「そうだんが。これ見て御覧、―――」

と、庄造は両腕を突き出して、シャツの<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>をまくり上げた。

「これ、そこらじゅう<ruby><rb>蚯蚓脹</rb><rt>みみずばれ</rt></ruby>や<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>だらけだ。顔にかてこれ、まだ<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>残ってるやろ。」

「何でそんなことしられたんや？」

「焼餅だんが。―――阿呆らしい、<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby><ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>がり過ぎる云うて焼餅やくもん、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>の国にあるか知らん、気違い<ruby><rb>沙汰</rb><rt>ざた</rt></ruby>や。」

「品子かてよう何のかんの云うてたやないか。お前みたいに可愛がったら、誰にしたかて焼餅ぐらい起すわいな。」

「ふうん、―――」

幼い時から母親に甘える癖がついているのが、この<ruby><rb>歳</rb><rt>とし</rt></ruby>になってもまだ抜け切れない庄造は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だだ</span>ッ<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>のように鼻の<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>を膨らがして、さも面白くなさそうに云った。

「―――お母さん福子のこと云うたら、味方ばっかりするねんなあ。」

「けどお前、猫であろうと人間であろうと、外のもん可愛がってて、来たばかりの嫁のこと思うてやらなんだら、気イ悪うするのん当り前やで。」

「そら<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しい。僕、いつかて福子のこと思うてまんが。一番大事にしてまんが。」

「そうに違いないのんやったら、ちょっとぐらいの無理聴いてやりいな。わてあの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>からもその話聞かされてるねんが。」

「それ、いつのことだんね？」

「昨日そない云うてなあ、―――リリーいてたらよう辛抱せんさかい、五六日うちに品子の方へ渡すことに、もうちゃんと約束したある云うねんけど、ほんまかいな。」

「それや。―――したことはしたけど、そんな約束実行せんかて済むように、何とかそこんとこ、あんじょう云うて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>えんやろか。僕お母さんにそれ頼もう思うててん。」

「そうかて、約束通りしてくれなんだら、<ruby><rb>去</rb><rt>い</rt></ruby>なして貰う云うてるねんで。」

「<ruby><rb>威嚇</rb><rt>おどか</rt></ruby>しや、そんなこと。」

「威嚇しかも知れんけど、そないまでに云うもん聴いてやったらどないや？　又うるさいで、約束<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>えたら。―――」

庄造は<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>っぱいような顔をして、口を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らせて<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いてしまった。母から云わせて福子を<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>める<ruby><rb>目算</rb><rt>もくさん</rt></ruby>でいたのが、すっかり外れてしまったのである。

「あの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>あんな気象やよってに、ほんまに逃げて行くかも知れん。それもええけど、嫁を放っといて猫可愛がるようなとこへ内の<ruby><rb>娘</rb><rt>むすめ</rt></ruby>遣っとけん！　云われたらどないする？　お前よりわてが困るわいな。」

「そしたら、お母さんもリリー追い出してしまえ云やはりまんのんか。」

「そやさかいにな、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>ここのとこはあの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>の気持済むように、一遍<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すう</span>ッと品子の方へ遣ってしまいイな。そないしといて、ええ折を見て、機嫌直った時分に取り戻すこと出来んもんかいな。―――」

そんな、渡してしまったものを先方が返す<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>もなし、受け取る筋でもないことは分っていながら、庄造が母親に甘えるように、母親も見え透いた気休めを云って、子供を<ruby><rb>賺</rb><rt>すか</rt></ruby>すような風に庄造をあやなす癖があった。そして彼女は、いつでも結局この<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>を自分の思い通りに動かしているのだった。

もう若い者はセルを着出した<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>だのに、<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>の上に薄綿の<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったジンベエを着て、メリヤスの足袋を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いている彼女は、<ruby><rb>小柄</rb><rt>こがら</rt></ruby>で、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せていて、生活力の衰えきった<ruby><rb>老婆</rb><rt>ろうば</rt></ruby>のように見えるけれども、頭の働きは案外確かで、云うことやすることにソツがないので、「息子よりも<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんの方がしっかりしている」と、近所ではそう云う評判だった。品子が追い出されたのも、実は彼女が糸を<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>ったからなので、庄造にはまだ未練があったのだと云う人もある。それやこれやで、この附近では母親を憎む者が多く、一般の同情は品子の方に集まっていたが、彼女に云わせると、いくら<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうとめ</rt></ruby>の気に入らない嫁でも、忰が好きなものならば、出る筈もないし出せる訳もない、やっぱりあれは庄造に飽かれたからだと云う。なるほどそれもそうだけれども、彼女と福子の父親が手を貸さなければ、庄造一人であの女房をいびり出す勇気はなかったと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うのが、間違いのない事実であった。

いったい母親と品子とは、どう云うものか初めから<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>りが合わなかった。勝気な品子は、落ちどを拾われないように気を附けて、随分姑には勤めていたけれども、そう云う風に抜け目なく立ち<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>って行かれることが、又母親の<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に触った。うちの嫁は何処と云って悪いところはないようなものの、何だか<ruby><rb>親身</rb><rt>しんみ</rt></ruby>に世話をして貰う気になれない、それと云うのが、心から年寄を<ruby><rb>労</rb><rt>いた</rt></ruby>わってやろうと云う優しい情愛がないからなのだと、母親はよくそう云ったが、つまり嫁も姑も、孰方もしっかり者だったのが不和の原因になったのである。それでも一年半ばかりの間は、表面だけは無事に治まっていたのだったが、その時分から母親のおりんは嫁が面白くないと云って、始終今津の兄の所、庄造には伯父に当る中島の家へ泊まりに行って、二日も三日も帰って来ないようになった。あまり<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>が長いので、品子が様子を見に行くと、お前は帰って庄造を迎いに<ruby><rb>寄越</rb><rt>よこ</rt></ruby>せと云う。庄造が行くと、伯父や福子までが一緒になって引き止めて、晩になっても帰してくれない。それには何か魂胆があるらしいことは、庄造もうすうす気が付いていながら、甲子園の野球だの、海水浴だの、阪神パークだのと、福子に誘われるままに、何処へでもふらふらと<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>っ着いて行って、<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>に遊んでいるうちに、とうとう彼女と妙な仲になってしまった。

この伯父と云うのは菓子の製造販売をしていて、今津の町に小さな工場を持っていたばかりでなく、国道沿線に五六軒の<ruby><rb>家作</rb><rt>かさく</rt></ruby>を建てたりして裕福に暮らしていたのだったが、福子のことでは大分<ruby><rb>今迄</rb><rt>いままで</rt></ruby>に手を焼いていた。母親が早く<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなったせいもあるのだろうが、女学校を二年の途中で<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めさせられたか、勝手に止めてしまったかしてから、さっぱり<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>が落ち着かない。家出をしたことも二度ぐらいあって、神戸の新聞に素ッ葉抜かれたりしたものだから、縁付けようと思っても中々貰い手がなかったし、自分も窮屈な家庭などへは行きたくない。そんなこんなで、何とか早く身を固めさせなければと、父親が<ruby><rb>焦</rb><rt>あせ</rt></ruby>っている事情に<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>を付けたのがおりんであった。福子は自分の娘のようなもので、気心はよく分っているから、アラがあることは<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えない、品行の悪いのは困るけれども、もうそろそろ分別が出てもいい歳だから、亭主を持ったらまさか浮気をすることもあるまい、それにそんなことは大した問題でないと云うのは、この娘にはあの国道の家作が二軒附いていて、そこから上る家賃が六十三円になる。おりんの計算だと、父親がそれを福子の名義に直したのが二年も前のことであるから、その積立が元金だけでも一千五百十二円ある、それだけのものは持参金として持って来る上に、月々今の六十三円が這入るとすると、それらを銀行へ預けておいたら、十年もすれば一と財産出来るので、これが何よりの附けめであった。

<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も彼女は老い先の短かい体であるから<ruby><rb>慾張</rb><rt>よくば</rt></ruby>ったところで仕方がないが、<ruby><rb>甲斐性</rb><rt>かいしょう</rt></ruby>のない庄造がこの先どうして<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>いで行くつもりか、それを考えると安心して死んで行けないのであった。何しろ蘆屋の旧国道は、阪急の方が開けたり新国道が出来たりしてから、年々さびれつつあるので、こんなところでいつ迄荒物屋<ruby><rb>渡世</rb><rt>とせい</rt></ruby>をしていても思わしい訳はないのだけれど、動くにはこの店を売り<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>かなければならないし、さて売り退いても何処で何を始めようと云う成算がない。庄造はそんなことについてひどく呑気に生れついた男で、貧乏を苦にしない代りには、一向商売に身を入れない。十三四の頃、夜学へ通いながら西宮の銀行の給仕に使われ、<ruby><rb>青木</rb><rt>あおぎ</rt></ruby>のゴルフ練習場のキャディーにも雇われ、年頃になってからはコックの見習を勤めたりしたけれど、何処も長つづきがしないで怠けているうちに父親が亡くなって、それから此方荒物屋の亭主で納まってしまった。ぜんたい店の商売などは母親に任して置いて、兎に角男一匹が何かしら職を求めたらよいのに、国道筋でカフェエを始めたいからと伯父に出資を申し込んで、意見されたことがあった外には、<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>を可愛がることと、球を<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>くことと、<ruby><rb>盆栽</rb><rt>ぼんさい</rt></ruby>をいじくることと、安カフェエの女をからかいに行くことぐらいより、何の仕事も思い付かない。そうして今から足かけ四年前、二十六の歳に畳屋の塚本を<ruby><rb>仲人</rb><rt>なこうど</rt></ruby>に立てて、山蘆屋の<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>に奉公していた品子を嫁に貰ったのだが、その時分から商売の方がいよいよ上ったりになって、毎月の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り繰りに骨が折れて来た。親の代から蘆屋に住んでいるお<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で、<ruby><rb>長年</rb><rt>ながねん</rt></ruby>の顔があるところから、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くは無理が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いたけれども、坪十五銭の地代が二年近くも滞って、百二三十円にもなっているのは、どうにも返済の見込みが立たない。で、もう庄造をアテにしないことにきめた品子は、仕立物などを頼まれたりして暮らしの補いをつけていたばかりか、折角お給金を<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>めて一通り<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて来た荷物にさえ手をつけて、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かの間に減らしてしまった。そんな訳だから、今更その嫁を追い出そうと云うのは無慈悲な話で、近所の同情が彼女の方へ集まったのも当然であるが、おりんにしてみれば、背に腹は換えられなかったし、子種のないと云うことが難癖をつけるのに都合が<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>かった。それに福子の父親迄が、そうすれば娘の身が固まるし、<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>の一家を救ってもやれるし、双方のためだと考えたのが、おりんの工作に油を注ぐ結果となった。

それ<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>福子が庄造と出来てしまったのには、父親やおりんの取り持ちがあったに違いないのであるが、一体そんなことがなくとも、庄造は割りに誰にでも好かれるたちであった。別に美男子なのではないが、幾つになっても子供っぽいところがあって、気だてが優しいせいかも知れない。キャディーの時代にはゴルフ場へ来る紳士や夫人たちに可愛がられて、<ruby><rb>盆暮</rb><rt>ぼんくれ</rt></ruby>の附け届を誰よりも余計貰ったし、カフェエなどでも案外持てるので、僅かなお金で長く遊んで来ることを覚えてしまい、そんなところから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のらくら</span>の癖がついたのだった。が、何にしてもおりんから云えば、自分がいろいろ細工をしてやっと我が家へ迎え入れる迄に<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ付けた、持参金附きの<ruby><rb>嫁御寮</rb><rt>よめごりょう</rt></ruby>であるから、尻の軽い彼女に逃げられないように、忰と二人で精々<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>を取らなければならない訳で、猫のことなどは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>始めから問題でなかった。いや、実を云うと、おりんも内々猫には閉口していたのであった。元来リリーと云う猫は、神戸の洋食屋に住み込んでいた庄造が帰って来る時に連れて来たのだが、これがいるために家の中が汚れること<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい。庄造に云わせると、この猫は決して<ruby><rb>粗匇</rb><rt>そそう</rt></ruby>をしない、用をする時は必ずフンシへ這入ると云う。いかにもその点は感心だけれど、戸外にいてもわざわざフンシへ這入るために戻って来ると云う調子なので、フンシが非常に臭くなって、その悪臭が家中に充満するのである。おまけに<ruby><rb>臀</rb><rt>しり</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>へ砂を着けたまま歩き廻るので、畳がいつもザラザラになる。雨の日などは<ruby><rb>臭</rb><rt>におい</rt></ruby>が一層強く<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>ってむッとするところへ持って来て、おもてのぬかるみを歩いたままで上って来るから、猫の脚あとが<ruby><rb>此処彼処</rb><rt>ここかしこ</rt></ruby>に点々とする。庄造は又、この猫は戸でも<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>でも障子でも、引き戸でさえあれば人間と同じに開ける、こんな賢いのは珍しいと云う。だが畜生の浅ましさには、開けるばかりで締めることを知らないから、寒い時分には通ったあとを一々締めて廻らなければならない。それもいいけれども、そのために障子は穴だらけ、襖や板戸は<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>の痕だらけになる。それから困るのは、<ruby><rb>生物</rb><rt>なまもの</rt></ruby>、煮物、焼物の類をうっかりその辺へ置くことが出来ない、ぼんやりしていると<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ食べられてしまうので、お膳立てをするほんの僅かな間でも、水屋か<ruby><rb>蠅帳</rb><rt>はいちょう</rt></ruby>へ一応入れて置かなければならない。いやいや、もっとひどいことは、この猫は臀の始末はよいが、口の始末が悪くて、ときどき<ruby><rb>嘔吐</rb><rt>おうと</rt></ruby>するのである。それと云うのは、庄造が例の曲芸に熱中して幾らでも<ruby><rb>餌</rb><rt>えさ</rt></ruby>を投げてやるので、つい食い過ぎるせいなのであるが、晩飯の後でチャブ台を<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けると、その辺に一杯毛が落ちていて、食いかけの魚の頭だの<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しっぽ</rt></ruby>だのがたくさん散らばっているのである。

品子が嫁に来る迄は、台所の世話や<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>き掃除は一切おりんの役だったから、リリーのためには随分泣かされている訳なのだが、今日まで我慢していたのは一つの出来事があったからだった。と云うのは、たしか五六年前に、無理に庄造を説き付けて、一度この猫を尼ヶ崎の八百屋へ遣ったことがあったが、やがて一と月もした時分に、或る日ヒョッコリ蘆屋の家へ独りで帰って来たのである。犬なら不思議はないけれども、猫が前の主人を慕って五六里の道を戻って来るとは、あまりイジラシイ話なので、それ以来庄造の可愛がりようは旧に倍したのみならず、おりんも<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>を感じたのか、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は多少薄気味悪く思ったのか、もうそれからは何も云わないようになった。そして品子が来てからは、福子と同じ理由から、―――と云うのは嫁をいじめるために、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってリリーの存在が便利を与えることがあるので、やさしい言葉の一つぐらいは時々かけてやっていたのである。だから庄造は、その母親までが突然福子の味方をし出した様子を見ては、心外でたまらないのであった。

「けど、リリーやったら遣ったかて又戻って来まっせ。なんせ尼ヶ崎からでも戻って来る猫やさかいにな。」

「ほんになあ、今度はまるきり知らん人やあれへんよって、そこは何とも分らんけど、戻って来たら又置いてやったらええがな。ま、兎も角も遣ってみてみいな。―――」

「ああ、どうしよう、困ったなあ。」

庄造は<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついて、まだ何かしら粘ってみようとしていたが、その時おもてに足音がして、福子が<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>から帰って来た。

「塚本君、分ってまんなあ？　これ、なるべく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そっ</span>と持って行かんと、乱暴に振ったらあきまへんで。猫かて乗物に酔うさかいになあ。」

「そない何遍も云わんかて、分ってまんが。」

「それから、これや、」

と、新聞紙にくるんだ、小さな平べったい包みを出して、

「実はなあ、いよいよこれがお別れやさかいに、出がけに何ぞおいしいもん食べさしてやりたい思いまんねんけど、乗物に乗る前に物食べさしたら、えらい苦しみまんねん。それでなあ、この猫<ruby><rb>鶏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の肉が好きやよってに、僕、自分でこれ買うて来て、<ruby><rb>水煮</rb><rt>みずだ</rt></ruby>きにしときましたさかい、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あっち</rt></ruby>へ着いたら直き食べさしてやるように云うとくなはれしまへんか。」

「よろしおます。あんじょう持って行きますよって安心しなはれ。―――そんなら、もう用事おまへんか。」

「ま、ちょっと待っとくなはれ。」

そう云うと庄造は、バスケットの<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を開けて、もう一度しっかり抱き上げて、

「リリー」

と云いながら<ruby><rb>頬擦</rb><rt>ほおず</rt></ruby>りをした。

「お前な、彼方へ行ったらよう云うこと聴くんやで。彼方のあの人、もう<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>みたいにいじめたりせんと、大事にして<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>がってくれるさかいに、ちょっとも<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いことないで。ええか、分ったなあ。―――」

抱かれることが<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いなリリーは、あまり強く締められたので脚をバタバタやらしたが、バスケットの中へ戻されると、二三度周囲を突ッついてみただけで、とても出られないとあきらめたらしく、急に静まり返ってしまったのが、ひとしお哀れをそそるのであった。

庄造は、国道のバスの停留所まで送って行きたかったのであるが、今日から当分の間、風呂へ行く以外は一歩も外出してはならぬと、女房から堅く止められているので、バスケットを提げた塚本が出て行ったあと、気抜けがしたようにぽつねんと店にすわっていた。福子が外出を禁じた訳は、リリーの様子を気遣う余りついふらふらと品子の家の近所ぐらいまで行くかも知れないからであったが、事実庄造自身にも、そう云う<ruby><rb>懸念</rb><rt>けねん</rt></ruby>がないことはなかった。そしてこの<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>な夫婦は、猫を渡してしまってから、始めて品子のほんとうの腹が分りかけて来たのである。

成る程、リリーを<ruby><rb>囮</rb><rt>おとり</rt></ruby>に<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>を呼び寄せようと云う気だったのか。あの家の近所をうろうろしたら、<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえて口説き落そうとでも云うのか。―――庄造はそこへ気がついてみると、いよいよ品子の陰険さ加減が憎くなったが、そんな道具に使われるリリーの身の上に、一層<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>さが増して来た。<ruby><rb>唯一</rb><rt>ゆいいつ</rt></ruby>の望みは、尼ヶ崎から逃げて帰って来たように、阪急の六甲にある品子の家から逃げて来はせぬかと云うことであった。実は水害の後の仕事で忙しい塚本が、夜受け取りに来ると云ったのを、朝にして<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ったのも、明るい時に連れて行かれたら道を覚えているであろう、そうしたら逃げて来るのも容易であろうと、そんな心積りがあったからだが、それにつけても思い出されるのは、この前、尼ヶ崎から戻って来たあの朝のことだった。何でもあれは秋の半ば時分であったが、或る日、ようよう夜が明けたばかりの頃、眠っていた庄造は「ニャア」「ニャア」と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>う<ruby><rb>耳馴</rb><rt>みみな</rt></ruby>れた<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>き声に眼を覚ました。その時分は独身者の庄造が二階に寝、母親が<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>に寝ていたが、朝が早いのでまだ雨戸が締まっているのに、つい近いところで「ニャア」「ニャア」と猫が啼いているのを、夢うつつのうちに聞いていると、どうもリリーの声のように思えて仕方がない。一と月も前に尼ヶ崎へ遣ってしまったものが、まさか今頃こんな所にいる<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>はないが、聞けば聞くほどよく似ている。バリバリと裏のトタン屋根を<ruby><rb>蹈</rb><rt>ふ</rt></ruby>む音がして、直ぐ窓の外に来ているので、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>正体を突き止めようと急いで跳ね起きて、窓の雨戸を開けてみると、つい鼻の先の屋根の上を<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>ったり来たりしているのが、たいそう<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れてはいるけれどもリリーに違いないのであった。庄造はわが眼を疑う<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>く、

「リリー」

と呼んだ。するとリリーは

「ニャア」

と答えて、あの大きな眼を、さも<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しげに一杯に開いて見上げながら、彼が立っている<ruby><rb>肘掛</rb><rt>ひじかけ</rt></ruby>窓の真下まで寄って来たが、手を伸ばして抱き上げようとすると、<ruby><rb>体</rb><rt>たい</rt></ruby>を<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>して<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すう</span>ッと二三尺向うへ逃げた。しかし決して遠くへは行かないで、

「リリー」

と呼ばれると、

「ニャア」

と云いながら寄って来る。そこを掴まえようとすると、又するすると手の中を<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けて行ってしまう。庄造は猫のこう云う性質がたまらなく好きなのであった。わざわざ戻って来るくらいだから、余程恋いしかったのであろうに、そのなつかしい家に着いて、久しぶりで主人の顔を見たのでありながら、抱こうとすれば逃げてしまう。それは愛情に甘える<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しぐさ</span>のようでもあるし、暫く会わなかったのがキマリが悪くて、<ruby><rb>羞渋</rb><rt>はにか</rt></ruby>んでいるようでもある。リリーはそう云う風にして、呼ばれる度に「ニャア」と答えつつ屋根の上をうろうろした。庄造は、彼女が<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せていることは最初から気が付いていたけれど、なおよく見ると、一と月前よりは毛の色つやが悪くなっているばかりでなく、<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>の周りだの尾の周りだのが<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>だらけになっていて、ところどころに<ruby><rb>薄</rb><rt>すすき</rt></ruby>の穂などが<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>っ着いていた。貰われて行った八百屋の家も猫好きだと云う話であったから、<ruby><rb>虐待</rb><rt>ぎゃくたい</rt></ruby>されていた筈はないので、これは明かに、一匹の猫が尼ヶ崎から<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>までひとりで<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って来る<ruby><rb>道中</rb><rt>どうちゅう</rt></ruby>の難儀を語るものだった。こんな時刻に此処へ着いたのは、昨夜じゅう歩きつづけたのに違いないけれども、多分一と晩ぐらいではあるまい、もう幾晩も幾晩も、恐らくは数日前に八百屋の家を逃げ出して、方々で道に迷いながら、ようよう此処まで来たのであろう。彼女が人家つづきの街道を一直線に来たのでないことは、あのすすきの穂を見ても分る。それにしても、猫は寒がりなものであるのに、朝夕の風はどんなに身に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みたことであろう。おまけに今は村しぐれの多い季節でもあるから、定めし雨に打たれて<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>へもぐり込んだり、犬に追われて<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>の中へ隠れたりして、食うや食わずの道中をつづけて来たのだ。そう思うと、早く抱き上げて<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてやりたくて、何度も窓から手を出したが、そのうちにリリーの方も、羞渋みながらだんだん体を擦り着けて来て、主人の<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>すが<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>に任せた。

その時のリリーは、一週間ほど前から尼ヶ崎の方で姿を見なくなっていたことが、後に問い合わせて知れたのであったが、今も庄造は、あの朝の啼きごえと顔つきとを忘れることが出来ないのである。そればかりでなく、この猫についてはまだこの外にも数々の逸話があって、あの時はあんな顔をした、あんな声を出したと云う記憶が、いろいろの場合に残っているのである。たとえば庄造は、初めてこの猫を神戸から連れて来た日のことをはっきりと思い出すのであるが、それは最後に奉公をしていた神港軒から暇を貰って蘆屋へ帰った時であるから、彼がちょうど二十歳の年、つまり父親が<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなった年の、四十九日の<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>だった。その前彼は、三毛猫を一度、それが死んでからは「クロ」と呼んでいた真っ黒な雄猫を、コック場で飼っていたのであるが、そこへ出入の肉屋から、<ruby><rb>欧洲</rb><rt>おうしゅう</rt></ruby>種の可愛らしいのがいるからと云って、生後三ヶ月ばかりになる雌の<ruby><rb>仔猫</rb><rt>こねこ</rt></ruby>を貰ったのが、リリーだったのである。それで暇を貰う時にもクロはコック場へ置いて来てしまったが、仔猫の方は手放すのが惜しくて、<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>と一緒に或る商店のリヤカーの<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>へ積んで貰って、蘆屋の家へ運んだのであった。

肉屋の主人の話だと、<ruby><rb>英吉利</rb><rt>イギリス</rt></ruby>人はこう云う毛並みの猫のことを<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べっこう</rt></ruby>猫と云うそうであるが、茶色の全身に鮮明な黒の<ruby><rb>斑点</rb><rt>はんてん</rt></ruby>が行き<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>っていて、つやつやと光っているところは、成る程<ruby><rb>研</rb><rt>みが</rt></ruby>いた鼈甲の表面に似ている。何にしても庄造は、今日までこんな毛並みの立派な、愛らしい猫を飼ったことがなかった。ぜんたい欧洲種の猫は、肩の線が日本猫のように<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>っていないので、撫で肩の美人を見るような、すっきりとした、イキな感じがするのである。顔も日本種の猫だと一般に寸が長くって、眼の下あたりに<ruby><rb>凹</rb><rt>くぼ</rt></ruby>みがあったり、頬の骨が飛び出ていたりするけれども、リリーの顔は丈が短かく詰まっていて、ちょうど<ruby><rb>蛤</rb><rt>はまぐり</rt></ruby>を<ruby><rb>倒</rb><rt>さかさ</rt></ruby>まにした形の、カッキリとした輪郭の中に、すぐれて大きな美しい<ruby><rb>金眼</rb><rt>きんめ</rt></ruby>と、神経質にヒクヒク<ruby><rb>蠢</rb><rt>うご</rt></ruby>めく鼻が附いていた。だが庄造がこの仔猫に<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き附けられたのは、そう云う毛なみや顔だちや体つきのためではなかった。もしも外形だけで云うなら、庄造だってもっと美しい<ruby><rb>波斯</rb><rt>ペルシャ</rt></ruby>猫だの<ruby><rb>暹羅</rb><rt>シャム</rt></ruby>猫だのを知っているが、でもこのリリーは性質が実に愛らしかった。蘆屋へ連れて来た当座は、まだほんとうに小さくて、<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>の上へ乗る程であったが、そのお<ruby><rb>転婆</rb><rt>てんば</rt></ruby>で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やんちゃ</span>なことは、とんと七つか八つの少女、―――いたずら盛りの、小学校一二年生ぐらいの女の<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>と云う感じだった。そして彼女は今よりもずっと身軽で、食事の時に食物を<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>まんで頭の上へ<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>してやると、三四尺の高さまで跳び上ったので、すわっていては直ぐ跳び着かれてしまうから、しばしば食事の最中に立ち上らねばならなかった。彼はその時分からあの曲芸を仕込んだのであるが、<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>の先に摘まんだ物を、三尺、四尺、五尺、と云う風に、跳び着く<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>にだんだん高くして行くと、しまいには着物の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>へ跳び着いて、胸から肩へすばしッこく<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い上って、<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>が<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>を渡るように、箸の先まで腕を渡って行ったりした。<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る時などは店のカーテンに跳び着いて、天井の方までクルクルと這い上って、端から端へ渡って行って、又カーテンに掴まって降りて来る、―――そんな動作を水車のように繰り返した。それに、そう云う幼い時から非常に表情が鮮やかで、眼や、口元や、小鼻の運動や、息づかいなどで心持の変化をあらわすことは、人間と少しも違わなかった。<ruby><rb>就中</rb><rt>なかんずく</rt></ruby>そのぱっちりした大きな眼球は、いつも生き生きとよく動いて、甘える時、いたずらをする時、物に<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>いを付ける時、どんな時でも愛くるしさを失わなかったが、一番<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいのは怒る時で、小さい体をしている癖に、やはり猫なみに背を円くして毛を逆立て、尻尾をピンと跳ね上げながら、脚を蹈ん張って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐっ</span>と<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まえる<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>と云ったら、子供が大人の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしているようで、誰でもほほ笑んでしまうのであった。

庄造は又、リリーが始めてお産をした時の、あの訴えるようなやさしい<ruby><rb>眼差</rb><rt>まなざし</rt></ruby>を、忘れることが出来ないのであった。それは蘆屋へ連れて来てから半年ほど過ぎた時分であったが、或る日の朝、<ruby><rb>産気</rb><rt>さんけ</rt></ruby>づいた彼女はしきりにニャアニャア云いながら彼の後を追って歩くので、サイダの<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>き<ruby><rb>函</rb><rt>ばこ</rt></ruby>へ古い<ruby><rb>座布団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>を敷いたのを押入の奥の方に<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて、そこへ抱いて行ってやると、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くの間は函に這入っているけれども、直きに<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開けて出て来て、又啼きながら追いかける。その啼きごえは今まで彼が聞いたことのない声だった。「ニャア」とは云っているのだが、その「ニャア」の中に、今までの「ニャア」が含んでいなかった異様な意味が<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>っていた。まあ云ってみれば、「ああどうしたらいいでしょう、何だか急に体の工合が変なのです、不思議な事が起りそうな予感がします、こんな気持はまだ覚えがありません、ねえ、どうしたと云うのでしょう、心配なことはないのでしょうか？」―――と、そう云うように聞えるのであった。でも庄造が、

「心配せんかてええねんで。もう直きお前、お母さんになるねんが。………」

と、そう云って頭を撫でてやると、前脚を膝へ乗せて来て、<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り着くような様子をして、

「ニャア」

と云いながら、彼の言葉を一生懸命理解しようとするかのように、眼の球をキョロキョロさせた。それからもう一度押入の所へ抱いて行って、函の中へ入れてやって、

「ええか、此処にじっとしてるねんで。出て来たらあかんで。ええなあ？　分ってるなあ？」

と、しんみり云って聴かせてから、襖を締めて立とうとすると、「待って下さい、<ruby><rb>何卒</rb><rt>どうぞ</rt></ruby>そこにいて下さい」

とでも云うように、又

「ニャア」

と云って悲しげに啼いた。だから庄造もついその声に<ruby><rb>絆</rb><rt>ほだ</rt></ruby>されて、細目に開けて<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみると、行李だの風呂敷包みだのいろいろな荷物が積んである押入の、一番奥の突きあたりにある函の中から首を出して、

「ニャア」

と云っては此方を見ている。畜生ながらまあ何と云う情愛のある眼つきであろうと、その時庄造はそう思った。全く、不思議のようだけれども、押入の奥の薄暗い中でギラギラ光っているその眼は、<ruby><rb>最早</rb><rt>もは</rt></ruby>やあのいたずらな仔猫の眼ではなくなって、たった今の瞬間に、何とも云えない<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びと、<ruby><rb>色気</rb><rt>いろけ</rt></ruby>と、哀愁とを<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えた、一人前の雌の眼になっていたのであった。彼は人間の女のお産を見たことはないが、もしその女が年の若い美しい人であったら、きっとこの通りの、恨めしいような切ないような眼つきをして、夫を呼ぶに違いないと思った。彼は幾度も襖を締めて立ち去りかけては、又戻って来て覗いてみたが、その度毎にリリーも函から首を出して、子供が「居ない居ないばあ」をするように此方を見た。

そうしてそれが、もう十年も前のことなのである。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>も品子が嫁に来たのがようよう四年前であるから、それまで六年の間と云うもの、庄造は蘆屋の家の二階で、母親の外にはただこの猫を相手にしつつ暮らしたのである。それにつけても猫の性質を知らない者が、猫は犬よりも薄情であるとか、不愛想であるとか、利己主義であるとか云うのを聞くと、いつも心に思うのは、自分のように長い間猫と二人きりの生活をした経験がなくて、どうして猫の可愛らしさが分るものか、と云うことだった。なぜかと云って、猫と云うものは皆幾分か<ruby><rb>羞渋</rb><rt>はにか</rt></ruby>みやのところがあるので、第三者が見ている前では、決して主人に甘えないのみか、へんに<ruby><rb>余所</rb><rt>よそ</rt></ruby>々々しく振舞うのである。リリーも母親が見ている時は、呼んでも知らんふりをしたり、逃げて行ったりしたけれども、さし向いになると、呼びもしないのに自分の方から膝へ乗って来て、お世辞を使った。彼女はよく、額を庄造の顔にあてて、頭ぐるみ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐいぐい</span>と押して来た。そうしながら、あのザラザラした舌の先で、頬だの、<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>だの、鼻の頭だの、口の周りだのを、所<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>わず<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>め<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>した。夜は必ず庄造の傍に寝て、朝になると起してくれたが、それも顔じゅうを舐めて起すのであった。寒い時分には、掛け布団の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>をくぐって、<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>の方からもぐり込んで来るのであったが、寝勝手のよい<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>を見付け出す<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>は、<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>の中へ這入ってみたり、<ruby><rb>股</rb><rt>また</rt></ruby>ぐらの方へ行ってみたり、背中の方へ廻ってみたりして、ようよう或る場所に落ち着いても、工合が悪いと又<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ姿勢や位置を変えた。結局彼女は、庄造の腕へ頭を乗せ、胸のあたりへ顔を着けて、向い合って寝るのが一番都合がよいらしかったが、もし庄造が少しでも身動きをすると、勝手が違って来ると見えて、そのつど体をもぐもぐさせたり、又別の隙間を捜したりした。だから庄造は、彼女に這入って来られると、一方の腕を枕に貸してやったまま、なるべく体を動かさないように行儀よく寝ていなければならなかった。そんな場合に、彼はもう一方の手で、猫の一番喜ぶ場所、あの頸の部分を撫でてやると、直ぐにリリーはゴロゴロ云い出した。そして彼の指に<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み着いたり、<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>で引っ<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いたり、<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>を垂らしたりしたが、それは彼女が興奮した時のしぐさなのであった。

そう云えば一度庄造が布団の中で<ruby><rb>放屁</rb><rt>ほうひ</rt></ruby>を鳴らすと、その布団の上の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の方に寝ていたリリーが、びっくりして眼を覚まして、何か奇態な啼き声を出す怪しい<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>が隠れているとでも思ったのであろう、さも不審そうな眼をしながら、大急ぎで布団の中を捜し始めたことがあった。又或る時は、<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>がる彼女を無理に抱き上げようとしたら、手から脱け出て、体を伝わって降りて行く拍子に、非常に臭い<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしたのが、まともに庄造の顔にかかった。たしかその時は食事の後で、今<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>を食べたばかりの、ハチ切れそうにふくらんだリリーのお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>を、偶然庄造が両手でギュッと押さえたのである。そして運悪くも、ちょうど彼女の<ruby><rb>肛門</rb><rt>こうもん</rt></ruby>が彼の顔の真下にあったので、<ruby><rb>膓</rb><rt>ちょう</rt></ruby>から出る息が一直線に吹き上げたのだが、その臭かったことと云ったら、いかな猫好きもその時ばかりは、

「うわッ」

と云って彼女を床へ放り出した。<ruby><rb>鼬</rb><rt>いたち</rt></ruby>の最後ッ<ruby><rb>屁</rb><rt>ぺ</rt></ruby>と云うのも恐らくこんな臭さであろうが、全くそれは<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>な<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>いで、<ruby><rb>一旦</rb><rt>いったん</rt></ruby>鼻の先へこびり着いたら、<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いても洗っても、シャボンでゴシゴシ<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>っても、その日一日じゅう抜けないのであった。

庄造はよく、リリーのことで品子といさかいをした時分に、「僕リリーとは屁まで<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ合うた仲や」などと、<ruby><rb>嫌味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>めかして云ったものだが、十年の間も一緒に暮らしていたとすれば、たとい一匹の猫であっても、因縁の深いものがあるので、考えようでは、福子や品子より一層親しいとも云えなくはない。事実品子と連れ添うていたのは、足かけ四年と云うけれども正味は二年半ほどであるし、福子も今のところでは、来てからやっと一と月にしかならないのである。そうしてみれば長の年月を共にしていたリリーの方が、いろいろな場合の回想と密接につながっている訳で、つまりリリーと云うものは、庄造の過去の一部なのである。だから庄造は、今更手放すのが<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>いのは当り前の人情ではないか、それを物好きだの、猫気違いだのと、何か大変非常識のように云われる理由がないと思うのであった。そして福子の迫害と、母親の説教ぐらいで、<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>くも腰が<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>けてしまって、あの大切な友達をむざむざ他人の手へ渡した自分の弱気と<ruby><rb>腑甲斐</rb><rt>ふがい</rt></ruby>なさとが、恨めしくなって来るのであった。何で自分はもっと正直に、男らしく、道理を説いてみなかったのだろう。何で女房にも母親にも、もっともっと剛情を張り通さなかったのであろう。そうしたところで最後には矢張負かされて、同じ結果を見たかも知れぬが、でもそれだけの反抗もせずにしまったのでは、リリーに対して<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも義理が済まないのであった。

もしもリリーが、あの尼ヶ崎へ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>った時代にあれきり戻って来なかったとしたら？―――あの時だったら、彼も一旦同意を与えて他家へ譲ったのであるから、きれいにあきらめもしたであろう。だがあの朝、トタン屋根の上で<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いていたのをやっと<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえて、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>ずりをしながら抱き締めた瞬間に、ああ、<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>なことをした、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は残酷な主人だった、もうどんなことがあっても誰にもやるものか、死ぬまで<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に置いてやるのだと、心に誓ったばかりでなく、リリーとも堅い約束をした気持だった。それを今度、又あんな風にして追い出してしまったかと思うと、非常に薄情な、むごいことをしたと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>う感じが胸に迫って来るのであった。その上<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうなのは、この二三年めっきり<ruby><rb>歳</rb><rt>とし</rt></ruby>を取り出して、体のこなしや、眼の表情や、毛の色つやなどに、老衰のさまがありありと見えていたのである。全く、それもその<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>で、庄造が彼女をリヤカーへ乗せて此処へ連れて来た時は、彼自身がまだ<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>の青年だったのに、もう来年は三十に手が届くのである。まして猫の寿命から云えば、十年と云う歳月は、多分人間の五六十年に当るであろう。それを思えば、もう一と頃の元気がないのも道理であるとは云うものの、カーテンの<ruby><rb>頂辺</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>へ登って行って綱渡りのような軽業をした仔猫の動作が、つい昨日のことのように眼に残っている庄造は、腰のあたりがゲッソリと<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せて、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>き加減に首をチョコチョコ振りながら歩く今日この頃のリリーを見ると、<ruby><rb>諸行無常</rb><rt>しょぎょうむじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>理</rb><rt>ことわり</rt></ruby>を<ruby><rb>手近</rb><rt>てぢか</rt></ruby>に示された心地がして、云うに云われず悲しくなって来るのであった。

彼女がいかに衰えたかと云うことを証明する事実はいくらもあるが、たとえば跳び上り方が下手になったのもその一つの例なのである。仔猫の時分には、実際庄造の身の丈ぐらい迄は鮮やかに跳んで、<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>たずに<ruby><rb>餌</rb><rt>えさ</rt></ruby>を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えた。又必ずしも食事の時に限らないで、いつ、どんな物を見せびらかしても、直ぐ跳び上った。ところが歳を取る毎に跳び上る度数が少くなり、高さが低くなって行って、もう近頃では、空腹な時に何か食物を見せられると、それが自分の好物であるか<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>かをたしかめた上で、始めて跳び上るのであるが、それでも頭上一尺ぐらいの低さにしなければ<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>なのである。もしもそれより高くすると、もう跳ぶことをあきらめて、庄造の体を登って行くか、それだけの気力もない時は、ただ食べたそうに鼻をヒクヒクさせながら、あの特有な哀れっぽい眼で彼の顔を見上げるのである。「もし、どうか私を可哀そうだと思って下さい。実はお腹がたまらないほど減っているので、あの餌に跳び着きたいのですが、何を云うにもこの歳になって、とても昔のような<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>は出来なくなりました。もし、お願いです、そんな罪なことをしないで、早くあれを投げて下さい。」―――と、主人の弱気な性質をすっかり<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>み込んでいるかのように、眼に物を云わせて訴えるのだが、品子が悲しそうな眼つきをしてもそんなに胸を打たれないのに、どう云うものかリリーの眼つきには不思議な<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>ましさを覚えるのであった。

<ruby><rb>仔猫</rb><rt>こねこ</rt></ruby>の時にはあんなに快活に、愛くるしかった彼女の眼が、いつからそう云う悲しげな色を浮かべるようになったかと云うと、それがやっぱりあの初産の時からなのである。あの、押入の奥のサイダの函から首を出して<ruby><rb>術</rb><rt>じゅつ</rt></ruby>なさそうに見ていた時、―――あの時から彼女の眼差に哀愁の影が宿り始めて、そののち老衰が加わるほどだんだん濃くなって来たのである。それで庄造は、ときどきリリーの眼を<ruby><rb>視詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めながら、<ruby><rb>悧巧</rb><rt>りこう</rt></ruby>だと云っても小さい獣に過ぎないものが、どうしてこんな意味ありげな眼をしているのか、何かほんとうに悲しいことを考えているのだろうかと、思う折があった。前に飼っていた三毛だのクロだのは、もっと<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>だったせいかも知れぬが、こんな悲しい眼をしたことは一度もない。そうかと云って、リリーは格別<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>な性質だと云うのでもない。幼い<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>は至ってお転婆だったのだし、親猫になってからだって、相当に<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>も強かったし、<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>に暴れる方であった。ただ庄造に甘えかかったり、退屈そうな顔をして<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>ぼっこなどをしている時に、その眼が深い<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>いに<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちて、涙さえ浮かめているかのように、<ruby><rb>潤</rb><rt>うるお</rt></ruby>いを帯びて来ることがあった。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もそれも、その時分にはなまめかしさの感じの方が強かったのだが、年を取るに従って、ぱっちりしていた<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>も曇り、眼のふちには<ruby><rb>眼脂</rb><rt>めやに</rt></ruby>が<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>って、見るもトゲトゲしい、<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>わな哀傷を示すようになったのである。で、これは事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ると、彼女の本来の眼つきではなくて、その生い立ちや環境の空気が感化を与えたのかも知れない、人間だって苦労をすると顔や性質が変るのだから、猫でもそのくらいなことがないとは云えぬ、―――と、そう考えると、<ruby><rb>尚更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>庄造はリリーに済まない気がするのである。それと云うのは、今迄十年の間と云うもの、成る程随分<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>がってはやったけれども、いつでもたった二人ぎりの、<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい心細い生活ばかり味わせて来たのであった。何しろ彼女が連れて来られたのは、母親と庄造と、親一人子一人の時代だったから、とても神港軒のコック場のように<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかではなかった。そこへ持って来て母親が彼女をうるさがるので、<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>と猫とは二階でしんみり暮らさなければならなかった。そう云う風にして六年の歳月を送った後に、品子が嫁に来たのであるが、それは結局、この新しい侵入者から邪魔者扱いされることになって、一層リリーを肩身の狭い者にしてしまった。

いや、もっともっと済まないことをしたと思うのは、せめて仔猫を置いてやって、養育させればよかったのに、仔が生れると成るべく早く<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>い手を捜して分けてしまい、一匹も家へ残さない方針を取ったのであった。そのくせ彼女は実によく生んだ。外の猫が二度お産をする間に、三度お産をした。相手は<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>の猫か分らなかったが、生れた仔猫たちは<ruby><rb>混血児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>で、<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べっこう</rt></ruby>猫の<ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>を幾分か備えているものだから、割合に希望者が多かったけれども、時にはそうっと海岸へ持って行ったり、蘆屋川の堤防の松の<ruby><rb>木蔭</rb><rt>こかげ</rt></ruby>などへ捨てて来たりした。これは母親への気がねのためであることは云う迄もないが、庄造自身も、リリーが早く老衰するのは、一つは多産のせいかも知れぬ、だから<ruby><rb>姙娠</rb><rt>にんしん</rt></ruby>を止めることが出来ないなら、乳を飲ませることだけでも控えさせた方がよいと、そう云う頭で取り計らいもしたのであった。実際彼女は、お産の度<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に眼に見えて<ruby><rb>老</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて行った。庄造は、彼女がカンガルーのように腹を膨らして、切なげな眼つきをしているのを見ると、

「<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>やなあ、そないに何遍も腹<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼて</span>になったら、お<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんになるばかりやないか。」

と、いつも不憫そうな口調で云った。雄なら去勢して上げるが、雌では手術しにくいと云われて、

「そんなら、エッキス光線かけとくなはれしまへんか。」

と、そう云って獣医に笑われたこともあった。だが庄造にしてみれば、それやこれやも彼女のためを思ってのことで、無慈悲な扱いをした積りではなかったのだが、何と云っても、身の周りから血族を奪ってしまったことは、彼女をへんにうら淋しい、影の薄いものにしたことは<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>まれなかった。

そう云う風に数えて行くと、彼は随分リリーに「苦労」をかけたと云う気がするのである。彼の方が彼女のお蔭で慰められているわりに、リリーの方は一向楽をしていないように思えるのである。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に最近の一二年、夫婦の不和と生計の困難とで始終家の中がゴタゴタしていた間、リリーもそれに<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き込まれて、どうしたらよいか身の置きどころがないように<ruby><rb>狼狽</rb><rt>うろた</rt></ruby>えていたことがあった。母親が今津の福子の家から迎いを<ruby><rb>寄越</rb><rt>よこ</rt></ruby>して、庄造に呼び出しをかけたりすると、品子より先にリリーが彼の裾へ<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って、あの悲しい眼で引き止めたりした。それでも振り切って出て行くと、犬のように後を追いかけて、一丁も二丁も附いて来た。だから庄造も、品子のことよりは彼女のことが心配になって、なるべく早く帰るようにしたのであったが、二日も三日も泊まって来た時などは、気のせいかも知れぬが、その眼の色に又一段と暗い影が<ruby><rb>添</rb><rt>そ</rt></ruby>わっていた。

もうこの猫も余命<ruby><rb>幾何</rb><rt>いくばく</rt></ruby>もないのではないか、―――と、この頃になって彼はしばしばそんな予感を覚えるにつけ、そう云う夢を見たことも一度や二度ではないのであった。その夢の中の庄造は、親兄弟に死に別れでもしたような悲嘆に沈み、涙で顔を<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>らしているのだが、もしほんとうにリリーの死に遭うことがあったら、彼の嘆き方は夢の中のそれにも劣らないような気がするのである。で、そんな工合にそれからそれへと考え始めると、彼女をおめおめ譲ってしまったことが、又もう一度口惜しく、情なく、腹立たしくなって来るのであった。そして彼女のあの眼つきが、何処かの<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>から恨めしそうに此方を見ているように思えて仕方がなかった。今更悔んでも追っ付かないことだけれども、あんなに老衰していたものを、なぜむごたらしく追い遣ってしまったのだろう。なぜこの家で死なしてやらなかったのだろう。………

「あんた、何で品子さんあの猫欲しがってたのんか、その訳分ってなはるか。―――」

その日の夕方、例になくひっそりとしたチャブ台に向って、しょんぼり杯のふちを舐めている亭主を見ながら、福子が照れ臭そうな調子で云うと、

「さあ、何でやろ。」

と、庄造はちょっと<ruby><rb>空惚</rb><rt>そらとぼ</rt></ruby>けた。

「リリー自分のとこへ置いといたら、きっとあんたが会いに来るやろ云うところやねん。なあ、そうだっしゃろが。」

「まさか、そんな阿呆らしいこと、………」

「きっとそうに違いないねん。わて今日やっと気イ付いたわ。あんたその手に乗らんようにしとくなはれや。」

「分ってる、誰が乗るかいな。」

「きっとやなあ？」

「ふふ」

と庄造は鼻の先で笑って、

「念押すまでもないこッちゃないか。」

と、又杯のふちを舐めた。

今日は忙しおますさかいに、もう上らんと帰りますわと、玄関先にバスケットを置いて、塚本が出て行ってしまってから、品子はそれを提げたまま狭い急な<ruby><rb>段梯子</rb><rt>だんばしご</rt></ruby>を上って、自分の部屋に当てられた二階の四畳半に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行った。そして、出入口の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>だのガラス障子だのをすっかり締め切ってしまってから、バスケットを部屋のまん中に<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて、<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を開けた。

奇妙な事に、リリーは窮屈な<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>の中から<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐには外へ出ようとせずに、不思議そうに首だけ伸ばして<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く室内を<ruby><rb>見廻</rb><rt>みまわ</rt></ruby>していた。それから<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く、ゆるゆるとした足どりで出て来て、こう云う場合に多くの猫がするように、鼻をヒクつかせながら部屋じゅうの<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ始めた。品子は二三度、

「リリー」

と呼んでみたけれども、彼女の方へはチラリとそっけない<ruby><rb>流眄</rb><rt>ながしめ</rt></ruby>を与えたきりで、<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず出入口と押入の<ruby><rb>閾際</rb><rt>しきいぎわ</rt></ruby>へ行って匂を嗅いで見、次ぎには窓の所へ行ってガラス障子を一枚ずつ嗅いで見、針箱、<ruby><rb>座布団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>、物差、縫いかけの衣類など、その辺にあるものを一々丹念に嗅いで廻った。品子はさっき、鶏肉の新聞包を預かったことを思い出して、その包のまま通り<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>へ置いてみたけれども、それには興味を感じないらしく、ちょっと嗅いただけで、振り向きもしない。そして、バサリ、バサリ、………と、畳の上に無気味な足音をさせながら、一と通り室内捜索をしてしまうと、もう一遍出入口の襖の前へ戻って来て、前脚をかけて開けようとするので、

「リリーや、お前きょうからわての猫になったんやで。もう何処へも行ったらあかんねんで。」

と、そう云ってそこに立ち<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がると、又仕方なくバサリ、バサリと歩き廻って、今度は北側の窓際へ行き、<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>な所に置いてあった<ruby><rb>小裂箱</rb><rt>こぎればこ</rt></ruby>の上に上って、背伸びをしながらガラス障子の外を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めた。

九月も昨日でおしまいになって、もうほんとうの秋らしく晴れた朝であったが、少し寒いくらいの風が立って、裏の空地に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている五六本のポプラーの葉が白くチラチラ<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えている向うに、<ruby><rb>摩耶山</rb><rt>まやさん</rt></ruby>と六甲の頂が見える。人家がもっと建て込んでいる蘆屋の二階の景色とは、大分様子が違うのだけれども、リリーはいったいどんな気持で見ているのだろうか。品子は図らずも、よくこの猫と二人きりで置き去りにされたことがあったのを思い出した。庄造も、母親も、今津へ出かけたきり帰らないので、一人ぼっちでお<ruby><rb>茶漬</rb><rt>ちゃづけ</rt></ruby>を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>っ込んでいると、その音を聞いてリリーが寄って来る。ああ、そうだった、御飯をやるのを忘れていたが、お腹が減っているのだろうと、さすがに可哀そうになって、残飯の上に出し<ruby><rb>雑魚</rb><rt>じゃこ</rt></ruby>を載せてやると、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な食事に<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れているせいか<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうな顔もしないで、ほんの申訳ぐらいしか食べないものだから、つい腹が立って、折角の愛情も消し飛んでしまう。夜は夫の寝床を敷いて、帰るかどうか分らない人を待ち<ruby><rb>侘</rb><rt>わ</rt></ruby>びていると、その寝床の上へ遠慮<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>もなく乗って来て、のうのうと脚を伸ばす憎らしさに、寝かけたところを<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き起して追い立ててやる。そんな工合に、随分この猫には当り散らしたものだけれども、再びこうして一緒に暮すようになったのは、やっぱり因縁と云うのであろう。品子は自分が蘆屋の家を追い出されて来て、始めてこの二階に落ち着いた時にも、あの北側の窓から山の方を眺めながら、夫恋いしさの思いに<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>られたことがあるので、今のリリーがああして外を見ている心持もぼんやり分るような気がして、ふと眼頭が熱くなって来るのであった。

「リリーや、さ、此方へ来て、これ食べなさい。―――」

やがて彼女は、押入の襖を開けて、かねて用意をしておいたものを取り出しながら云うのであった。彼女は昨日塚本の<ruby><rb>端書</rb><rt>はがき</rt></ruby>を受け取ったので、いよいよ<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ連れて来られる珍客を<ruby><rb>欵待</rb><rt>かんたい</rt></ruby>するために、今朝はいつもより早起きをして、牧場から牛乳を買って来るやら、皿やお<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>を<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>えておくやら、―――この珍客にはフンシが必要だと気が付いて、昨夜<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて<ruby><rb>炮烙</rb><rt>ほうらく</rt></ruby>を買いに行ったのはいいが、砂がないのには困ってしまって、五六丁先の<ruby><rb>普請場</rb><rt>ふしんば</rt></ruby>から、コンクリートに使う砂を<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>にまぎれて盗んで来るやらして、そんなものまで押入の中にこっそり忍ばせて置いたのである。で、その牛乳と、<ruby><rb>花鰹節</rb><rt>はながつお</rt></ruby>をふりかけた御飯のお皿と、<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げちょろけの、<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>のかけたお椀を取り出すと、<ruby><rb>罎</rb><rt>びん</rt></ruby>の牛乳をお椀へ移して、部屋のまん中へ新聞紙をひろげた。それからお土産の包を開いて、<ruby><rb>水煮</rb><rt>みずだ</rt></ruby>きにしてある<ruby><rb>鶏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の肉を、<ruby><rb>筍</rb><rt>たけ</rt></ruby>の皮ぐるみそれらの<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>と一緒に並べた。そして「リリーや、リリーや」とつづけさまに呼びながら、皿と罎とをカチャカチャ打ちつけてみたりしたけれども、リリーはてんで聞えないふりをして、まだ窓ガラスにしがみ着いているのであった。

「リリーや」

と、彼女は躍起になって呼んだ。

「お前、何でそない表ばかり見てんのん？　お腹すいてエへんのんか？」

さっきの塚本の話では、乗物に酔うといけないと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>う庄造の心づかいから、今朝は朝飯を与えていないのだそうであるから、余程空腹を訴えなければならない<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>で、本来ならば<ruby><rb>皿小鉢</rb><rt>さらこばち</rt></ruby>の鳴る音を聞いたら<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち飛んで来るところだのに、今はその音も耳に這入らず、ひもじいことも感じないくらい、此処を逃れたい一念に駆られているのであろうか。彼女は<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>てこの猫が尼ヶ崎から戻って来た一件を聞かされているので、当分の間は<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>が放されないことであろうと、覚悟していたものの、でも食べものを食べてくれて、フンシへ小便を垂れるようになってくれたら大丈夫だと、それを頼みにしていたのだが、来る<ruby><rb>匇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>からこんな調子では、直ぐにも逃げられてしまいそうに思えた。そして動物を手なずけるには、自分のように<ruby><rb>性急</rb><rt>せっかち</rt></ruby>にしてはいけないのだと知りながら、何とかして食べるところを見届けたさに、無理に窓際から引き離して、部屋のまん中へ抱いて来て、食べものの上へ順々に鼻を押しつけてやると、リリーは脚をバタバタやらして、<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>を立てたり引っ掻いたりするので、仕方がなしに放してしまうと、又窓際へ戻って行って、小裂箱の上へ登る。

「リリーや、これ、これを見て御覧。ここにお前の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いっち</span>好きなもんあるのんに、これが分らんかいな。」

と、此方も<ruby><rb>依怙地</rb><rt>えこじ</rt></ruby>に追いかけて行って、鶏の肉だの牛乳だのを<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつッこ</rt></ruby>く持ち廻りながら、鼻の先へ<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>り着けるようにしてやっても、今日ばかりはその好物の匂にも<ruby><rb>釣</rb><rt>つ</rt></ruby>られなかった。

これが全く見も知らぬ人に預けられたと云うのではなし、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>も足かけ四年の間同じ屋根の下に住み、同じ<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>の御飯をたべて、時にはたった二人ぎりで三日も四日も留守番をさせられた仲であるのに、あんまり無愛想過ぎるではないか。それとも私にいじめられたことを今も根に持っているのだとすれば、畜生の癖に生意気なと、つい腹も立って来るのであったが、ここでこの猫に逃げられてしまったら、折角の<ruby><rb>計劃</rb><rt>けいかく</rt></ruby>が水の<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>になった上、蘆屋の方でそれ見たことかと手を叩いて笑うであろう、もうこの上は<ruby><rb>根較</rb><rt>こんくら</rt></ruby>べをして、気が折れて来るのを待つより外に仕方がない、なあに、ああして食い物とフンシとを眼の前に当てがっておきさえすれば、いくら剛情を張ったって、しまいにはお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>が減って来るから食わずにいられないであろうし、小便だって垂れるであろう、そんなことより今日は私は忙しいのだ、是非晩までにと請け合った仕事があったのに、朝から何一つ手を付けていないのだったと、ようよう彼女は思い返して、針箱の傍にすわった。そして男物の<ruby><rb>銘仙</rb><rt>めいせん</rt></ruby>の綿入を、それからせッせと縫いにかかったが、ものの一時間もそうしているうちに、直ぐ又心配になって来るので、ときどき様子に気を付けていると、やがてリリーは部屋の隅ッこの方へ行って、壁にぴったり寄り添うてうずくまったまま、身動き一つしないようになってしまった。それは全く、畜生ながらも逃れる道のないことを悟って、観念の眼を閉じたとでも云うのであろうか。人間だったら、大きな悲しみに<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>された余り、あらゆる希望を<ruby><rb>抛</rb><rt>なげう</rt></ruby>って、死を覚悟したと云うところでもあろうか。品子は薄気味悪くなって、生きているかどうかを確かめるために、そうっと傍へ寄って行って、抱き起して見、呼吸を調べて見、突き動かして見ると、何をされても抵抗もしない代りに、まるで<ruby><rb>鮑</rb><rt>あわび</rt></ruby>の身のように体じゅうを引き締めて、固くなっている様が指先に感じられる。まあ、ほんとうに、何と云う剛情な猫であろう。こんな工合で、いつになったら<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>く時があるであろう。だが事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ると、わざとああ云う風をして、此方の油断を見すましているのではないか。今はああして、あきらめたようにしているけれども、重い板戸をさえ開ける猫であるから、うっかり部屋を留守にしたら、その間にいなくなってしまうのではないか。そう思うと彼女は、他人のことよりも自分自身が、御飯を食べに行くことも<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>へ立つことも出来ないのであった。

お<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>になって、妹の初子が

「姉さん、御飯」

と、段梯子の下から声をかけると、

「はい」

と品子は立ち上りながら、暫く部屋の中をうろうろした。そして結局、メリンスの<ruby><rb>腰紐</rb><rt>こしひも</rt></ruby>を三本つないで、リリーの肩から<ruby><rb>腋</rb><rt>わき</rt></ruby>の下へ、十文字に<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>をかけて、強く<ruby><rb>緊</rb><rt>し</rt></ruby>め過ぎないように、そうかと云ってスッポリ抜けられないように、何度も念を入れて締め直して、背中でしっかり結び玉を作った。それからその紐のもう一方の端を持って、又ひとしきりうろうろしていたが、とうとう天井から下っている<ruby><rb>電燈</rb><rt>でんとう</rt></ruby>のコードに<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>り着けると、やっと安心して<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ降りた。が、食事の間も気にかかるので、そこそこにして上って来てみると、縛られたまま矢張隅ッこの方へ行って、前よりもなお体をちぢめているではないか。彼女はいっそ、自分がいない方がいいのかも知れない、暫くひとりにしておいたら、その間に食べるものは食べ、垂れるものは垂れるかも知れないと、そうも期待していたのであったが、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>そんな形跡もない。彼女は「チョッ」と舌打ちをして、今も部屋のまん中に<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく置かれてある御馳走のお皿と、砂が少しも濡れていない<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>なフンシとを恨めしそうに<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みながら、針箱の傍にすわる。かと思うと、ああ、そうだった、あんまり長く縛っておいては<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうだと、又立ち上って、<ruby><rb>解</rb><rt>ほど</rt></ruby>きに行って、ついでに<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてみたり、抱いてみたり、<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>と知りながらも食べものをすすめてみたり、フンシの位置を換えてみたり、それを幾度か繰り返すうちに日が暮れて来て、夕方の六時頃になると、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>から初子が晩の御飯を知らせるので、又紐を持って立ち上る。そんな風にして、その日は一日<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>のことにかまけて、請け合った仕事も出来ないままに秋の夜長が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてしまった。

十一時が鳴ると、品子は部屋を片づけてから、もう一度リリーを縛って、座布団を二枚も敷いた上へ<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>かして、御飯と便器とを身近な所へ並べてやった。それから自分の寝床を伸べ、あかりを消して眠りに就いたが、せめて朝になるまでには、牛乳でも<ruby><rb>鶏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>でも何でもいいから、<ruby><rb>孰</rb><rt>ど</rt></ruby>れか一つぐらい食べていてくれないだろうか、明日の朝眼を開いた時あのお皿が空になっていてくれたら、そうしてフンシが濡れていてくれたら、どんなに嬉しいであろうなどと思うと、眼が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて来て寝られないままに、リリーの寝息が聞えるか知らんと闇の中で耳を澄ますと、しーんと水を打ったようで、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな音もしていない。あまり静か過ぎるのが気になって、<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>から首を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げると、窓の方は薄ぼんやりと明るいけれども、リリーがいる筈の隅ッこの方は<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>真っ暗で何も見えない。ふと思いついて、頭の上を手さぐりして、天井から<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>ッかいに引っ張られている紐を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>り寄せると、大丈夫手答えがある。でも念のために電燈を付けて見ると、成る程いることはいるけれども、あの、<ruby><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby>ねたようにちぢこまって、円くなっている姿勢が、昼間と少しも変っていないし、食べ物もフンシもそっくりそのまま並んでいるので、又がっかりして明りを消す。そのうちに<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くとろとろとしかけて、暫くしてから眼を覚ますと、もういつの間にか夜が明けていて、見ればフンシの砂の上に大きな塊が落してあり、牛乳のお皿と御飯のお皿がすっかり平げられているので、しめたと思うとそれが夢だったりするのである。

だが、一匹の猫を手なずけるのは、こんなに骨の折れることなのだろうか。それともリリーと云う猫が特別に剛情なのだろうか。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もこれがまだ<ruby><rb>頑是</rb><rt>がんぜ</rt></ruby>ない<ruby><rb>仔猫</rb><rt>こねこ</rt></ruby>であったら、訳なく懐くのであろうけれども、こう云う<ruby><rb>老猫</rb><rt>ろうびょう</rt></ruby>になって来ると、人間と同じで、習慣や環境の違った場所へ連れて来られると云うことが、非常な打撃なのかも知れない。そして<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>には、それが原因で死ぬようなことになるのかも知れない。品子はもともと、腹に一つの目算があって好きでもない猫を引き取ったので、こんなに手数が懸るものとは知らなかったが、云わば以前は敵同士であった獣のお<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で、夜もおちおち寝られないほど苦労をさせられる因縁を思い合わせると、不思議にも腹が立たないで、猫も可哀そうなら自分も可哀そうだと云う気持が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて来るのであった。考えてみれば、自分だって蘆屋の家を出て来た当座は、此処の二階にひとりでしょんぼりしていることがこの上もなく悲しくって、妹夫婦が見ていない時は、毎日毎晩泣いてばかりいたではないか。自分だって、二日三日は何をする元気もなく、ろくろく物も食べなかったではないか。そうしてみれば、リリーにしたって蘆屋が恋いしいのは当り前だ。庄造さんにあんなに<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>がられていたのだものを、そのくらいな情がなければ恩知らずだ。ましてこんなに年を取って、住み馴れた家を追われ、<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いな人の所へなんか連れて来られて、どんなに<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る<ruby><rb>瀬</rb><rt>せ</rt></ruby>ないであろう。もしほんとうにリリーを手なずけようと云うなら、その心持を察してやり、何よりも安心と信頼を持たせるように仕向けなければならない。悲しい感情で胸が一杯になっている時に、無理に御馳走をすすめたら、誰だって腹が立つではないか。だのに自分は、「食べるのが<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>なら小便をしろ」と、フンシ<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>も突き付けた。あまりと云えば手前勝手な、心なしの遣り方だった。いや、そのくらいはまだいいとして、縛ったのが一番よくなかった。相手に信頼されたかったら、<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず此方から信頼してかからなければならないのに、あれではますます恐怖心を起させる。いくら猫でも、縛られていては<ruby><rb>食慾</rb><rt>しょくよく</rt></ruby>も出ないであろうし、小便も詰まってしまうであろう。

明くる日になると、品子は縛ることを<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めにして、逃げられたら逃げられたで仕方がないと、度胸をきめた。そしてときどき、五分か十分ぐらいの間、試しに独り放っておいて、部屋を留守にしてみると、まだ剛情にちぢこまってはいるけれども、いい<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に逃げ出しそうな風も見えない。それで<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに気を許したことが悪かったのだが、お午の御飯に、今日はゆっくり食べようと思って、三十分ほど<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ降りている時だった、二階で何か、ガサッと云う音がしたようなので、急いで上って来てみると、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>が五寸ほど開いている。多分リリーは、そこから廊下へ出て、南側の、六畳の間を通り抜けて、折悪く開け放しになっていたそこの窓から屋根へ飛び出したのであろう、もうその辺には影も形も見えなかった。

「リリーや、………」

彼女はさすがに大きな声で<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>こうとして、ついその声が出ずにしまった。あんなに辛苦したかいもなく、やっぱり逃げられたかと思うと、もう追いかける気力もなく、何だかホッとして、荷が下りたような工合であった。どうせ自分は動物を馴らすのが下手なのだから、<ruby><rb>晩</rb><rt>おそ</rt></ruby>かれ早かれ逃げられるにきまっているものなら、早く片がついた方がいいかも知れない。これで<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってサバサバして、今日からは仕事も<ruby><rb>捗</rb><rt>はかど</rt></ruby>るであろうし、夜ものんびり寝られるであろう。それでも彼女は、裏の空地へ出て行って、雑草の中を<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>あっちこっち</rt></ruby><ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き分けながら、

「リリーや、リリーや」

と、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く呼んでみたけれども、<ruby><rb>今頃</rb><rt>いまごろ</rt></ruby>こんな所に愚図々々している筈がないことは、分りきっていたのであった。

リリーが逃げて行ってから、当日の晩も、その明くる晩も、又その明くる晩も、品子は安心して寝られるどころか、さっぱり眠れないようになってしまった。いったい彼女は<ruby><rb>癇性</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>のせいか、二十六と云う<ruby><rb>歳</rb><rt>とし</rt></ruby>のわりには眼ざとい方で、下女奉公をしていた時代から、どうかすると寝られない癖があったものだが、今度もこの二階に引き移ってから、多分寝所の変ったのが原因であろう、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど正味三四時間しか寝ない晩が長い間つづいていて、ようよう十日ばかり前から少し寝られるようになりかけた所だったのである。それがあの晩から、又眠れなくなったのはどうしてか知らん？　彼女は詰めて仕事をすると、直きに肩が凝って来たり興奮したりするのであるが、この間からリリーのためにおくれていたのを取り返そうとして、余り縫い物に熱中し過ぎたせいか知らん？　それに元来が冷え性なので、まだ十月の初めだと云うのにそろそろ足が冷えて来て、<ruby><rb>布団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っても容易に<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>もらないのである。彼女は夫に<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>んぜられたそのそもそものキッカケを、ふと<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>い出して来るのであるが、それも今から考えれば、全く自分の冷え性から起ったことなのであった。ひどく寝つきのいい庄造は、布団へ這入って五分もすれば眠ってしまうのに、そこへ突然氷のような足に触られて、起されてしまうのがたまらないから、お前はそっちで寝てくれろと云う。そんなことからつい別々に寝るようになったが、寒い時分には湯たんぽのことでよく<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>をした。なぜかと云って、庄造は彼女と反対に、人一倍<ruby><rb>上気</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せ<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>なのである。分けても足が熱いと云って、冬でも少し布団の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>へ<ruby><rb>爪先</rb><rt>つまさき</rt></ruby>を出すくらいにしないと、寝られない男なのである。だから湯たんぽで暖めてある布団へ這入ることを嫌って、五分と辛抱していなかった。勿論それが不和を<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>した根本の理由ではないけれども、しかしそう云う体質の相違がよい口実に使われて、だんだん独り寝の習慣を付けられてしまったのであった。

彼女は右の首筋から肩の方へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しこり</span>が出来て恐しく張っているようなので、ときどきそこを<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んでみたり、寝返りを打って枕の当るところを換えてみたりした。毎年夏から秋へかけて、陽気の変り目に右の<ruby><rb>下頤</rb><rt>したあご</rt></ruby>の虫歯が痛んで困るのであるが、昨夜あたりから少しズキズキし出したようである。そう云えば、この六甲と云う所は、これから冬になって来ると、毎年六甲<ruby><rb>颪</rb><rt>おろし</rt></ruby>が吹いて、蘆屋などよりずっと寒さが厳しいのであると聞いていたけれども、もうこの頃でも夜は相当に冷え込むので、同じ阪神の間でありながら、何だか遠い山国へでも来たような気がする。彼女は体を<ruby><rb>海老</rb><rt>えび</rt></ruby>のようにちぢこめて、無感覚になりかけた両方の足を擦り合わした。蘆屋時代には、もう十月の末になると、夫と喧嘩しながらも湯たんぽを入れて寝たのであったが、こんな工合だと、ことしはそれまで待てないかも知れない。………

寝付かれないものとあきらめてしまって、電燈を付けて、妹から借りた先月号の「主婦之友」を、横向きに臥ながら読み出したのが、ちょうど夜中の一時であったが、それから間もなく、遠くの方からざあッと云う音が近寄って来て、直きにざあッと通り過ぎて行くのが聞えた。おや、<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐれ</rt></ruby>かな、と思っていると、又ざあッとやって来て、屋根の上を通る時分には、パラパラと<ruby><rb>疎</rb><rt>まば</rt></ruby>らな音を落して、忍び足に消えて行く。暫くすると、又ざあッとやって来る。それにつけても、リリーは今頃<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にいるか、蘆屋へ帰っているならいいが、もしそうでもなく、<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>に迷っているなら、こんな晩にはさぞ雨に<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れているであろう。実を云うと、まだ塚本には逃げられたことを知らせてやらないのであるが、あれから此方、ずっとそのことが頭に引っかかっているのであった。彼女としては早く知らしてやった方が行き届いていることは分っていたのだが、「<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りながら、とうに戻って来ておりますから御安心下すって結構です、いろいろお手数をかけましたが、もう御入用はありますまいな」と、皮肉交りに云われそうなのが<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>で、つい延び延びにしていたのである。しかし戻っているとしたら、此方の通知を待つ迄もなく、向うからも<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>がありそうなものだのに、何とも云って来ないのをみると、何処かにまごついているのであろうか。尼ヶ崎の時は、姿が見えなくなってから一週間目に戻ったと云うのだが、今度はそんなに遠い所ではないのだし、つい三日前に通って来たばかりの路なのだから、よもや迷うことはないであろう。ただ近頃は<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>していて、あの時分よりはカンも悪く、動作も鈍くなっているから、三日かかるところが四日かかるようなことはあるかも知れない。そうだとしても、おそくも明日か明後日のうちには無事に戻って行くであろう。するとあの二人がどんな喜びようをするか。そしてどんなに<ruby><rb>溜飲</rb><rt>りゅういん</rt></ruby>を下げるか。きっと塚本さんまでが一緒になって、「それ見ろ、あれは亭主に捨てられるばかりか、猫にまで捨てられるような女だ」と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うであろう。いやいや、階下の妹夫婦もお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の中ではそう思うであろうし、世間の人がみんな笑い物にするであろう。

その時、しぐれがまた屋根の上をパラパラと通って行った後から、窓のガラス障子に、何かがばたんと<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかるような音がした。風が出たな、ああ、イヤなことだ、と、そう思っているうちに、風にしては少し重みのあるようなものが、つづいて二度ばかり、ばたん、ばたんと、ガラスを<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いたようであったが、かすかに、

「ニャア」

と云う声が、何処かに聞えた。まさか今時分、そんなことが、………と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎく</span>ッとしながら、気のせいかも知れぬと耳を澄ますと、矢張、

「ニャア」

と<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いているのである。そしてそのあとから、あのばたんと云う音が聞えて来るのである。彼女は<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて跳ね起きて、窓のカーテンを開けてみた。と、今度はハッキリ、

「ニャア」

と云うのがガラス戸の向うで聞えて、ばたん、………と云う音と同時に、黒い物の影がさっと<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めた。そうか、やっぱりそうだったのか、―――彼女はさすがに、その声には覚えがあった。この間ここの二階にいた時は、とうとう一度も啼かなかったが、それは確かに、蘆屋時代に聞き<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れた声に違いなかった。

急いで<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>し込みのネジを抜いて、窓から半身を乗り出しながら、室内から<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>す電燈のあかりをたよりに暗い屋根の上を透かしたけれども、一瞬間、何も見えなかった。想像するに、その窓の外に手すりの附いた張り出しがあるので、リリーは多分そこへ上って、啼きながら窓を叩いていたのに違いなく、あのばたんと云う音とたった今見えた黒い影とは正しくそれだったと思えるのであるが、内側からガラス戸を開けた途端に、何処かへ逃げて行ったのであろうか。

「リリーや、………」

と、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の夫婦を起さないように気がねしながら、彼女は<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>に声を投げた。<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>が濡れて光っているので、さっきのあれが時雨だったことは疑う余地がないけれども、それがまるで<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>だったように、空には星がきらきらしている。<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>の前を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>う摩耶山の、幅広な、真っ黒な肩にも、ケーブルカアのあかりは消えてしまっているが、頂上のホテルに<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>燈</rb><rt>とも</rt></ruby>っているのが見える。彼女は張り出しへ<ruby><rb>片膝</rb><rt>かたひざ</rt></ruby>をかけて、屋根の上へノメリ出しながら、もう一度、

「リリーや」

と、呼んだ。すると、

「ニャア」

と云う返辞をして、瓦の上を此方へ歩いて来るらしく、<ruby><rb>燐色</rb><rt>りんいろ</rt></ruby>に光る二つの眼の玉がだんだん近寄って来るのである。

「リリーや」

「ニャア」

「リリーや」

「ニャア」

何度も何度も、彼女が<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>に呼び続けると、その度<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>にリリーは返辞をするのであったが、こんなことは、ついぞ今迄にないことだった。自分を可愛がってくれる人と、内心嫌っている人とをよく知っていて、庄造が呼べば答えるけれども、品子が呼ぶと知らん顔をしていたものだのに、今夜は幾度でも<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>がらずに答えるばかりでなく、次第に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びを含んだような、何とも云えない優しい声を出すのである。そして、あの青く光る<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を挙げて、体に波を打たせながら手すりの下まで寄って来ては、又すうっと向うへ行くのである。大方<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>にしてみれば、自分が無愛想にしていた人に、今日から可愛がって<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>おうと思って、いくらか今迄の無礼を<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びる心持も<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めて、あんな声を出しているのであろう。すっかり態度を改めて、<ruby><rb>庇護</rb><rt>ひご</rt></ruby>を仰ぐ気になったことを、何とかして分って貰おうと、一生懸命なのであろう。品子は初めてこの獣からそんな優しい返辞をされたのが、子供のように<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しくって、何度でも呼んでみるのであったが、抱こうとしてもなかなか<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえられないので、暫くの間、わざと<ruby><rb>窓際</rb><rt>まどぎわ</rt></ruby>を離れてみると、やがてリリーは身を躍らして、ヒラリと部屋へ飛び込んで来た。それから、全く思いがけないことには、寝床の上にすわっている品子の方へ一直線に歩いて来て、その膝に前脚をかけた。

これはまあ一体どうしたことか、―――彼女が<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れているうちに、リリーはあの、哀愁に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちた<ruby><rb>眼差</rb><rt>まなざし</rt></ruby>でじっと彼女を見上げながら、もう胸のあたりへ<ruby><rb>靠</rb><rt>もた</rt></ruby>れかかって来て、綿フランネルの寝間着の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>へ、額を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐいぐい</span>と押し付けるので、此方からも<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>ずりをしてやると、頤だの、耳だの、口の周りだの、鼻の頭だのを、やたらに<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>め<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>すのであった。そう云えば、猫は二人きりになると<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>をしたり、顔をすり寄せたり、全く人間と同じような仕方で愛情を示すものだと聞いていたのは、これだったのか、いつも人の見ていない所で夫がこっそりリリーを相手に楽しんでいたのは、これをされていたのだったか。―――彼女は猫に特有な<ruby><rb>日向臭</rb><rt>ひなたくさ</rt></ruby>い毛皮の<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>がされ、ザラザラと皮膚に引っかかるような、<ruby><rb>痛痒</rb><rt>いたがゆ</rt></ruby>い舌ざわりを顔じゅうに感じた。そして、突然、たまらなく可愛くなって来て、

「リリーや」

と云いながら、夢中でぎゅッと抱きすくめると、何か、毛皮のところどころに、冷めたく光るものがあるので、さては今の雨に濡れたんだなと、初めて合点が行ったのであった。

それにしても、蘆屋の方へ帰らないで、此方へ帰ったのはなぜであろう。恐らく最初は蘆屋をめざして逃げ出したのが、途中で路が分らなくなって、戻って来たのではないであろうか。<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>か三里か四里のところを、三日もかかってうろうろしながら、とうとう目的地へ行き着けないで引っ返して来るとは、リリーにしては余り意気地がないようだけれども、事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>るとこの<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうな獣は、もうそれほどに老衰しているのであろう。気だけは昔に変らないつもりで、逃げてみたことはみたものの、視力だの、記憶力だの、<ruby><rb>嗅覚</rb><rt>きゅうかく</rt></ruby>だのと云うものが、もはや昔の半分もの働きもしてくれないので、どっちの路を、どっちの方角から、どう云う風に連れて来られたのか見当が付かず、彼方へ行っては踏み迷い、此方へ行っては踏み迷いして、又もとの場所へ戻って来る。昔だったら、<ruby><rb>一旦</rb><rt>いったん</rt></ruby>こうと思い込んだらどんなに路のない所でもガムシャラに突進したものが、今では自信がなくなって、様子の知れない所へ分け入ると<ruby><rb>怖気</rb><rt>おじけ</rt></ruby>がついて、ひとりでに足がすくんでしまう。きっとリリーは、そんな風にして案外遠くの方までは行くことが出来ず、この<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>をまごまごしていたのであろう。そうだとすれば、昨日の晩も、一昨日の晩も、夜な夜なこの二階の窓の近くへ忍び寄って、入れて貰おうかどうしようかと<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ためら</rt></ruby>いながら、中の様子を<ruby><rb>窺</rb><rt>うか</rt></ruby>がっていたのかも知れない。そして今夜も、あの屋根の上の暗い所にうずくまって長い間考えていたのであろうが、室内にあかりが燈ったのと、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに雨が降って来たのとで、急にああ云う啼き声を出して障子を叩く気になったのであろう。でもほんとうに、よく帰って来てくれたものだ。よっぽど<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>い目に遭ったればこそであろうけれども、矢張私をアカの他人とは思っていない証拠なのだ。それに私も、今夜に限ってこんな時刻に<ruby><rb>電燈</rb><rt>でんとう</rt></ruby>をつけて、雑誌を読んでいたと云うのは、虫が知らしたせいなのだ。いや、考えれば、この三日間ちょっとも眠れなかったのも、実はリリーの帰って来るのが何となく待たれたからだったのだ。そう思うと彼女は、涙が出て来て仕方がないので、

「なあ、リリーや、もう何処へも行けへんなあ。」

と、そう云いながら、もう一遍<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎゅ</span>っと抱きしめると、珍しいことにリリーはじっと大人しくして、いつまでも抱かれているのであったが、その、物も云わずに<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>悲しそうな眼つきをしている年老いた猫の胸の中が、今の彼女には不思議なくらいはっきり見透せるのであった。

「お前、きっとお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>減ってるやろけど、今夜はもう遅いよってにな。―――台所捜したら何なとあるやろ思うけど、ま、仕方ない、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>わての家と違うよってに、明日の朝まで待ちなされや。」

彼女は一と<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>一と言に頬ずりをしてから、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようよ</rt></ruby>うリリーを下に置いて、忘れていた窓の戸締まりをし、<ruby><rb>座布団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>で寝床を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてやり、あの時以来まだ押入に突っ込んであったフンシを出してやりなどすると、リリーはその間も始終後を追って歩いて、足もとに<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>み着くようにした。そして少しでも立ち止まると、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐその傍へ走り寄って、首を一方へ傾けながら、何度も耳の附け根のあたりを擦り着けに来るので、

「ええ、もうええがな、分ってるがな。さ、此処へ来て寝なさい寝なさい。」

と、座布団の上へ抱いて来てやって、大急ぎであかりを消して、やっと彼女は自分の寝床へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったのであったが、それから一分とたたないうちに、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すう</span>ッと<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>の近くにあの日向臭い匂がして来て、掛け布団をもくもく持ち上げながら、<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>びろうど</rt></ruby>のような柔かい毛の物体が這入って来た。と、ぐいぐい頭からもぐり込んで、脚の方へ降りて行って、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>のあたりを<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くの間うろうろしてから、又上の方へ上って来て、寝間着のふところへ首を入れたなり動かないようになってしまったが、やがてさも気持の<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>さそうな、非常に大きな音を立てて<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をゴロゴロ鳴らし始めた。

そう云えば以前、庄造の寝床の中でこんな工合にゴロゴロ云うのを、いつも隣で聞かされながら云い知れぬ<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>を覚えたものだが、今夜は特別にそのゴロゴロが大きな声に聞えるのは、よっぽど<ruby><rb>上機嫌</rb><rt>じょうきげん</rt></ruby>なのであろうか、それとも自分の寝床の中だと、こう云う風にひびくのであろうか。彼女はリリーの冷めたく濡れた鼻のあたまと、へんにぷよぷよした<ruby><rb>蹠</rb><rt>あしのうら</rt></ruby>の肉とを胸の上に感じると、全く初めての出来事なので、奇妙のような、嬉しいような心地がして、真っ暗な中で手さぐりしながら<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>のあたりを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてやった。するとリリーは一層大きくゴロゴロ云い出して、ときどき、突然人差指の先へ、きゅッと<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み着いて歯型を附けるのであったが、まだそんなことをされた経験のない彼女にも、それが異常な興奮と喜びの余りの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しぐさ</span>であることが分るのであった。

その明くる日から、リリーはすっかり品子と仲好しになってしまって、心から信頼している様子が見え、もう牛乳でも、<ruby><rb>花鰹節</rb><rt>はながつお</rt></ruby>の御飯でも、何でもおいしそうに食べた。そしてフンシの砂の中へ日に幾度か<ruby><rb>排泄物</rb><rt>はいせつぶつ</rt></ruby>を落すので、いつもその匂が四畳半の部屋の中へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むう</span>ッと籠るようになったが、彼女はそれを嗅いでいると、いろいろな記憶が思いがけなくよみがえって、蘆屋時代のなつかしい日が戻って来たように感ずるのであった。なぜかと云って、蘆屋の家では明けても暮れてもこの匂がしていたではないか。あの家の中の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>にも、柱にも、壁にも、天井にも、皆この匂が<ruby><rb>滲</rb><rt>し</rt></ruby>みついていて、彼女は夫や<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうとめ</rt></ruby>と一緒に四年の間これを嗅ぎながら、口惜しいことや悲しいことの数々に堪えて来たのではないか。だが、あの時分には、この鼻持ちのならない匂を<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>ってばかりいたくせに、今はその同じ匂が何と甘い回想をそそることよ。あの時分にはこの匂故にひとしお憎らしかった猫が、今はその反対に、この匂故に<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にいとおしいことよ。彼女はそののち毎晩のようにリリーを抱いて眠りながら、この柔順で<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>らしい獣を、どうして昔はあんなにも<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>ったのかと思うと、あの<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>の自分と云うものが、ひどく意地の悪い、鬼のような女にさえ見えて来るのであった。

さてこの場合、品子がこの猫の<ruby><rb>身柄</rb><rt>みがら</rt></ruby>について福子に<ruby><rb>嫌味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>な手紙を出したり、塚本を通してあんなに<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつッこ</rt></ruby>く頼んだりした動機と云うものを、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>説明しておかなければならないのであるが、正直のところ、そこには<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたずら</span>や意地悪の興味が手伝っていたことも確かであり、又庄造が猫に<ruby><rb>釣</rb><rt>つ</rt></ruby>られて訪ねて来るかも知れないと云う万一の望みもあったであろうが、そんな眼の前のことよりも、実はもっと遠い遠い先のこと、―――ま、早くて半年、おそくて一年か二年もすれば、多分福子と庄造の仲が無事に行く<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>はないのだからと、その時を見越しているのであった。それと云うのが、もともと塚本の<ruby><rb>仲人口</rb><rt>なこうどぐち</rt></ruby>に乗せられて嫁に行ったのが不覚だったので、今更あんな怠け者の、意気地なしの、働きのない男なんぞに、捨てられた方が仕合わせだったかも知れないのだが、でも彼女としてどう考えても<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>ま忌ましく、あきらめきれない気がするのは、当人同士が飽きも飽かれもした訳ではないのに、ハタの人間が小細工をして追い出したのだと、そう云う一念があるからだった。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もそんなことを云うと、いや、そう思うのはお前さんの<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れだ、それは成る程、姑との折合も悪かったに違いないけれども、夫婦仲だってちっとも良いことはなかったではないか、お前さんは御亭主を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のろま</span>だと云って低能児扱いにするし、御亭主はお前さんを我が強いと云って<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しがるし、いつも<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>ばかりしていたのを見ると、よくよく性が合わないのだ、もし御亭主がほんとにお前さんを好いているなら、いくらハタから押し付けたって、外に女を拵える訳がありますまいと、そう露骨には云わない<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>も、塚本などのお腹の中は大概そうにきまっているのだが、それは庄造と云う人の性質を知らないからのことなので、彼女に云わせれば、いったいあの人はハタから強く押し付けられたら、<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>も<ruby><rb>応</rb><rt>おう</rt></ruby>もないのである。<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>と云うのか、ぐうたらと云うのか、その人よりもこの人がいいと云われると、すぐふらふらとその気になってしまうのだけれども、自分から女を拵えて古い女房を追い出したりする程、<ruby><rb>一途</rb><rt>いちず</rt></ruby>に思い詰める性分ではないのである。だから品子は熱烈に惚れられた覚えはないが、嫌われたと云う気もしないので、周りの者が<ruby><rb>智慧</rb><rt>ちえ</rt></ruby>をつけたりそそのかしたりしなかったら、よもや不縁にはならなかったろう、自分がこんな<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>き目を見るのは、全くおりんだの、福子だの、福子の<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>だのと云うものがお<ruby><rb>膳立</rb><rt>ぜんだ</rt></ruby>てをしたからなのだと、そう思われて、少し誇張した云い方をすれば、<ruby><rb>生木</rb><rt>なまき</rt></ruby>を割かれたような感じが胸の奥の方にくすぶっているので、未練がましいようだけれども、どうもこのままでは<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>出来ないのであった。

しかし、それなら、うすうすおりんなどのしていることを感付かないでもなかった時分に、何とか手段の施しようがあっただろうに、―――いよいよ蘆屋を追い出される間際にだって、もっと<ruby><rb>頑張</rb><rt>がんば</rt></ruby>ってみたらよかったろうに、―――じたいそう云う策略にかけては姑のおりんと好い取組だと云われた彼女が、案外あっさり旗を巻いて、おとなしく追ん出てしまったのはなぜであろうか、日頃の負けず嫌いにも似合わないと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うことになるが、そこにはやっぱり彼女らしい思わくがないでもなかった。ありていに云うと、今度の事は彼女の方に最初幾分の油断があったからこうなったので、それと云うのも、あの多情者の、不良少女上りの福子を、何ぼ何でも<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の嫁にしようと迄はおりんも考えていないであろうし、又<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>の軽い福子が、まさか辛抱する気もあるまいと、たかをくくっていたからなのだが、そこに多少の目算違いがあったとしても、どうせ長続きのする二人でないと云う<ruby><rb>見透</rb><rt>みとお</rt></ruby>しに、今も変りはないのであった。尤も福子は年も若いし、男好きのする顔だちだし、鼻にかける程の学問はないが女学校へも一二年行っていたのだし、それに何より持参金が附いているのだから、庄造としては<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>え<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を取らぬ筈はなく、<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず当分は<ruby><rb>有卦</rb><rt>うけ</rt></ruby>に入った気でいるだろうけれども、福子の方がやがて庄造では<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>い足らなくなって、浮気をせずにはいないであろう。何しろあの女は男一人を守れない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>で、もうその方では札附きになっているのだから、どうせ今度も始まることは分りきっているのだが、それが<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>に余るようになれば、いくら人の好い庄造だって黙っていられないであろうし、おりんにしても<ruby><rb>匙</rb><rt>さじ</rt></ruby>を投げるにきまっている。ぜんたい庄造は<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>として、シッカリ者と云われるおりんにそのくらいなことが見えない筈はないのだけれども、今度は<ruby><rb>慾</rb><rt>よく</rt></ruby>が手伝ったので、つい無理な細工をしたのかも知れない。だから品子は、ここでなまじな悪あがきをするよりは、一と先ず敵に勝たしておいて、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろに<ruby><rb>後図</rb><rt>こうと</rt></ruby>を策しても<ruby><rb>晩</rb><rt>おそ</rt></ruby>くはないと云う腹なので、中々あきらめてはいないのだったが、でもそんなことは、無論塚本に対しても<ruby><rb>噫</rb><rt>おくび</rt></ruby>にも出しはしなかった。うわべは同情が寄るように、なるべく哀れっぽいところを見せて、心の中では、どうしてももう一遍だけ<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>の家へ戻ってやる、今に見ていろと思いもし、又その思いがいつかは遂げられるだろうと云う望みに生きてもいるのだった。

それに、品子は、庄造のことをたよりない人とは思うけれども、どう云うものか憎むことが出来なかった。あんな工合に、何の分別もなくふらふらしていて、周りの人達が右と云えば右を向き、左と云えば左を向くと云う風だから、今度にしてもあの連中のいいようにされているのであろうが、それを考えると、子供を一人歩きさせているような、<ruby><rb>心許</rb><rt>こころもと</rt></ruby>ない、<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうな感じがするのである。そしてもともと、そう云う点にへんな可愛気のある人なので、一人前の男と思えば腹が立つこともあったけれども、幾らか自分より下に見下して扱うと、妙にあたりの柔かい、優しい<ruby><rb>肌合</rb><rt>はだあい</rt></ruby>があるものだから、だんだんそれに<ruby><rb>絆</rb><rt>ほだ</rt></ruby>されて抜きさしがならないようになり、持って来た物までみんな<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎ込んで、裸にされて放り出されてしまったのだが、彼女としてはそんなにまでして尽してやったと云うところに、<ruby><rb>尚更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>未練が残るのである。全く、この一二年間のあの家の暮らしは、半分以上は彼女の<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せ腕で支えていたようなものではないか。好いあんばいにお針が達者だったから、近所の仕事を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って来ては夜の眼も寝ずに縫い物をして、どうやら<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎをつけていたので、彼女の働きがなかったら、母親なぞがいくら威張ってもどうにもなりはしなかったではないか。おりんは土地での嫌われ者、庄造はあの通りでさっぱり信用がなかったから、諸払いの滞りなどもやかましく催促されたものだが、彼女への同情があったればこそ節季が越せて行ったのではないか。それだのにあの恩知らずの親子が、慾に眼がくれてああ云う者を引ずり込んで、牛を馬に乗り換えた気でいるけれども、まあ見ているがいい、あの女にあの家の切り盛りが出来るかどうか、持参金附きは結構だけれど、なまじそんなものがあったら、一層嫁の気随<ruby><rb>気儘</rb><rt>きまま</rt></ruby>が<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>るであろうし、庄造もそれをアテにして怠けるであろうし、結局親子三人の思わくが皆それぞれに外れて来るところから、争いの種が尽きないであろう。その時分になって、前の女房の有難みが始めてほんとうに分るのだ。品子はこんなふしだらではなかった、こう云う時にああもしてくれた、こうもしてくれたと、庄造ばかりでなく、母親までがきっと自分の失策を認めて、後悔するのだ。あの女は又あの女で、さんざんあの家を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>した揚句の果てに、飛び出してしまうのが落ちなのだ。そうなることは今から明々白々で、太鼓判を<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>してやりたいくらいであるのに、それが分らないとは<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れな人達もあればあるものよと、内心せせら笑いながら時機を待つ積りでいるのだが、しかし用心深い彼女は、待つにつけてはリリーを預かっておくと云う一策を考えついたのであった。

彼女はいつも、上の学校を一二年でも<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたことがあると云う福子に対して、教育の点では<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>け目を感じていたのであるが、でもほんとうの智慧くらべなら、福子にだっておりんにだって負けるものかと云う自負心があるので、リリーを預かると云う手段を思いついた時は、我ながらの妙案にひとりで感心してしまった。なぜかといって、リリーさえ此方へ引き取って置いたら、恐らく庄造は雨につけ、風につけ、リリーのことを思い出す度に彼女のことを思い出し、リリーを<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>と思う心が、知らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らず彼女を憐れむ心にもなろうからである。そして、そうすれば、いつ迄たっても精神的に縁が切れない<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>であるし、そこへ持って来て福子との仲がシックリ行かないようになると、いよいよリリーが恋いしいと共に前の女房が恋いしくなろう。彼女が<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だに再縁もせず、<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>を相手に<ruby><rb>侘</rb><rt>わ</rt></ruby>びしく暮らしていると聞いては、一般の同情が集まるのは無論のこと、庄造だって悪い気持はする筈がなく、ますます福子に嫌気がさすようになるであろうから、手を下さずして彼等の仲を割くことに成功し、復縁の時期を早めることが出来る。―――ま、そうお<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>え向きに行ってくれたら仕合せであるが、彼女自身はそうなる見込みを立てていた。ただ問題はリリーを素直に引き渡すかどうかと云うことであったが、それとても、福子の嫉妬心を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>り立てたら大丈夫うまく行くつもりでいた。だからあの手紙の文句なんぞも、そう云う深謀遠慮を<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て書かれていたので、単純ないたずらや嫌がらせではなかったのであるが、お気の毒ながら頭の悪い連中には、どうして私が好きでもない猫を欲しがるのか、とてもその真意が<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>めッこあるまい、そしていろいろ<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>極まる邪推をしたり、子供じみた騒ぎ方をするであろうと云うところに、抑えきれない優越感を覚えたのであった。

兎に角、そんな訳であるから、その折角のリリーに逃げられた時の落胆と、思いがけなくそれが戻って来た時の喜びとがどんなに大きかったとしても、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>それは得意の「深謀遠慮」に基づく打算的な感情であって、ほんとうの愛着ではない筈なのだが、あの時以来、一緒に二階で暮らすようになってみると、全く予想もしなかった結果が現われて来たのである。彼女は夜な夜な、その一匹の<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>臭い獣を抱えて同じ寝床の中に<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>ながら、どうして猫と云うものはこんなにも可愛らしいのであろう、それだのに又、昔はどうしてこの可愛さが理解出来なかったのであろうと、今では悔恨と自責の念に駆られるのであった。<ruby><rb>大方</rb><rt>おおかた</rt></ruby>蘆屋時代には、最初に変な反感を抱いてしまったので、この猫の美点が眼に這入らなかったのであろうが、それと云うのも、<ruby><rb>焼餅</rb><rt>やきもち</rt></ruby>があったからなのである。焼餅のために、本来可愛らしいしぐさが<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>もう憎らしく見えたのである。たとえば彼女は、寒い時分に夫の寝床へもぐり込んで行くこの猫を憎み、同時に夫を恨んだものだが、今になってみれば何の憎むことも恨むこともありはしない。現に彼女も、もうこの頃では独り寝の寒さがしみじみこたえているではないか。まして猫と云う獣は人間よりも体温が高いので、ひとしお寒がりなのである。猫に暑い日は土用の三日間だけしかないと云われるのである。そうだとすれば、今は秋の半ばであるから、老年のリリーが暖かい寝床へ慕い寄るのは当然ではないか。いや、それよりも、彼女自身が、こうして猫と寝ていると、この暖かいことはどうだ！　例年ならば、今夜あたりは湯たんぽなしでは寝られないであろうのに、今年はまだそんなものも使わないで、寒い思いもせずにいるのは、リリーが這入って来てくれるお<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>ではないか。彼女自身が、<ruby><rb>夜毎</rb><rt>よごと</rt></ruby>々々にリリーを放せなくなっているではないか。その外昔は、この猫の我が儘を憎み、相手に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>って態度を変えるのを憎み、蔭日向のあるのを憎んだけれども、それもこれも、みんな此方の愛情が足らなかったからなのだ。猫には猫の智慧があって、ちゃんと人間の心持が分る。その証拠には、此方が今迄のようでなく、ほんとうの愛情を持つようになったら、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ戻って来てこの通り<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れ馴れしくするではないか。彼女が自分の気持の変化を意識するより、リリーの方がより早く<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけたくらいではないか。

品子は今迄、猫は愚か人間に対しても、こんなにこまやかな情愛を感じたこともなく、示したこともないような気がした。それは一つには、おりんを始めいろいろな人から情の<ruby><rb>強</rb><rt>こわ</rt></ruby>い女だと云われていたものだから、いつか自分でもそう思わされていたせいであったが、この間からリリーのために<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げ尽した辛労と心づかいとを考える時、自分の<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にこんな暖かい、優しい情緒が潜んでいたのかと、今更驚かれるのであった。そう云えば昔、庄造がこの猫の世話を決して他人の手に<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねず、毎日食事の心配をし、二三日置きにフンシの砂を海岸まで取り換えに行き、暇があると<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>を取ってやったりブラシをかけてやったりし、鼻が乾いていはしないか、便が軟か過ぎはしないか、毛が<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けはしないかと始終気をつけて、少しでも異状があれば薬を与えると云う風に、まめまめしく尽してやるのを見て、あの怠け者によくあんな面倒が見られることよと、ますます反感を募らしたものだが、あの庄造のしたことを今は自分がしているではないか。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>も彼女は、自分の家に住んでいるのではないのである。自分の食べるだけのものは、自分で<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けて妹夫婦へ払い込むと云う条件だから、まるきりの<ruby><rb>居候</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>ではないが、何かと気が置ける中にいて、この猫を飼っているのである。これが自分の家であったら、台所を<ruby><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby>って残り物を捜すけれども、他人の家ではそうも出来ないところから、自分が食べるものを食べずに置くか、市場へ行って何かしら見つけて来てやらねばならない。そうでなくても、つましい上にもつましくしている場合であるのに、たとい<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かの買い物にもせよ、リリーのために<ruby><rb>出銭</rb><rt>でせん</rt></ruby>が殖えると云うことは、随分<ruby><rb>痛事</rb><rt>いたごと</rt></ruby>なのである。それにもう一つ<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>なのは、フンシであった。蘆屋の家は浜まで五六丁の距離だったから、砂を得るには便利であったが、この阪急の沿線からは、海は非常に遠いのである。尤も最初の二三回は、<ruby><rb>普請場</rb><rt>ふしんば</rt></ruby>の砂があったお蔭で助かったけれども、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby><ruby><rb>近頃</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>は何処にも砂なんかありはしない。そうかと云って、砂を換えずに放っておくと、とても臭気が激しくなって、しまいに<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へまで<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>って来るので、妹夫婦が<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>な顔をする。よんどころなく、夜が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてから彼女はそうッとスコップを持って出かけて行って、その辺の畑の土を掻いて来たり、小学校の運動場から滑り台の砂を盗んで来たり、そんな晩には又よく犬に<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>えられたり、怪しい男に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けられたり、―――全く、リリーのためでなかったら、誰に頼まれてこんな嫌な仕事をしよう、だが又リリーのためならばこう云う苦労を<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わないとは、何としたことであろうと思うと、返す返すも、蘆屋の時分に、なぜこの半分もの愛情を以て、この獣をいつくしんでやらなかったか、自分にそう云う心がけがあったら、よもや夫との仲が不縁になりはしなかったであろうし、このような憂き目は見なかったであろうものをと、今更それが悔まれてならない。考えてみれば、誰が悪かったのでもない、みんな自分が至らなかったのだ。この罪のない、やさしい一匹の獣をさえ愛することが出来ないような女だからこそ、夫に<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>われたのではないか。自分にそう云う欠点があったからこそ、ハタの人間が附け込んだのではないか。………

十一月になると、朝夕の寒さがめっきり加わって、夜はときどき六甲の方から吹きおろす風が、戸の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>から冷え冷えと<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>み込むようになって来たので、品子とリリーとは前よりも一層<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>っ<ruby><rb>着</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、ひしと抱き合って、ふるえながら寝た。そしてとうとう<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えきれずに、湯たんぽを使い始めたのであったが、その時のリリーの喜び方と云ったらなかった。品子は夜な夜な、湯たんぽの<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>もりと猫の活気とでぽかぽかしている寝床の中で、あのゴロゴロ云う音を聞きながら、自分のふところの中にいる獣の耳へ口を寄せて、

「お前の方がわてよりよっぽど人情があってんなあ。」

と云ってみたり、

「わてのお蔭で、お前にまでこんな<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい思いさして、堪忍なあ。」

と云ってみたり、

「けどもう直きやで。もうちょっと辛抱しててくれたら、わてと一緒に蘆屋の家へ帰れるようになるねんで。そしたら今度と云う今度は、三人仲よう暮らそうなあ。」

と云ってみたりして、ひとりでに涙が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて来ると、夜更けの、真っ暗な部屋の中で、リリーより外には誰に見られる訳でもないのに、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて掛け布団をすっぽり<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ってしまうのであった。

福子が午後の四時過ぎに、今津の実家へ行って来ると云って出かけてしまうと、それまで奥の縁側で<ruby><rb>蘭</rb><rt>らん</rt></ruby>の<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>をいじくっていた庄造は、待ち構えていたように立ち上って、

「お母さん」

と、勝手口へ声をかけたが、<ruby><rb>洗濯</rb><rt>せんたく</rt></ruby>をしている母親には、水の音が邪魔になって聞えないらしいので、

「お母さん」

と、もう一度声を張り上げて云った。

「店を頼むで。―――ちょっと<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>まで行って来るよってになあ。」

と、ジャブジャブ云う音がふいと止まって、

「何やて？」

と、母親のしっかりした声が障子越しに聞えた。

「僕、ちょっと其処まで行って来るよってに―――」

「何処へ？」

「つい其処や。」

「何しに？」

「そないに<ruby><rb>執拗</rb><rt>ひつこ</rt></ruby>う聞かんかて―――」

そう云って、一瞬間<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むっ</span>とした顔つきで、鼻の<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>をふくらましたが、直ぐ又思い返したらしく、あの持ち前の甘えるような口調になって、

「あのなあ、ちょっと三十分ほど、<ruby><rb>球撞</rb><rt>たまつ</rt></ruby>きに行かしてくれへんか。」

「そうかてお前、球は撞かんちゅう約束したのんやないか。」

「一遍だけ行かしてエな。何せもう半月も撞いてエへんよってに。頼みまっさ、ほんまに。」

「ええか、悪いか、わてには分らん。福子のいる時に、答えて行っとくなはれ。」

「何でエな。」

その妙に<ruby><rb>力張</rb><rt>りきば</rt></ruby>ったような声を聞くと、裏口の方で<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>の上につくばっている母親にも、<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>が怒った時にするだだッ<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>じみた表情が、はっきり想像出来るのであった。

「何で一々、女房に答えんなりまへんねん。ええも悪いも福子に聞いてみなんだら、お母さんには<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>われしまへんのんか。」

「そうやないけど、気をつけてて下さいて頼まれてるねんが。」

「そしたらお母さん、福子の廻し者だっかいな。」

「<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>らしいもない。」

そう云ったきり取り合わないで、又水の音を盛んにジャブジャブと立て始めた。

「いったいお母さん僕のお母さんか、福子のお母さんか、<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>だす？　なあ、孰方だすいな。」

「もう<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めんかいな、そんな大きな声出して、近所へ聞えたら見っともないがな。」

「そしたら、洗濯<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>にして、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>ここへ来とくなはれ。」

「もう分ってる、もう何も云わへんさかいに、何処なと好きなとこへ行きなはれ。」

「ま、そない云わんと、一寸来なはれ。」

何と思ったか庄造は、いきなり勝手口へ行って、流し元にしゃがんでいる母親の、シャボンの<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>だらけな<ruby><rb>手頸</rb><rt>てくび</rt></ruby>を掴むと、無理に奥の間へ引き立てて来た。

「なあ、お母さん、ええ折やよってに、一寸これ見て貰いまっさ。」

「何や、<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>からしゅう、………」

「これ、見て御覧、―――」

夫婦の居間になっている奥の六畳の押入を開けると、下の段の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>ッこの、<ruby><rb>柳行李</rb><rt>やなぎごうり</rt></ruby>と<ruby><rb>用箪笥</rb><rt>ようだんす</rt></ruby>の隙間の暗い穴<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼこ</span>になった所に、<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くもくもくかたまっているものが見える。

「あすこにあるのん、何や思いなはる。」

「あれかいな。………」

「あれみんな福子の汚れ物だっせ。あんな工合に後から後から突っ込んどいて、ちょっとも洗濯せエへんので、<ruby><rb>穢</rb><rt>きたな</rt></ruby>いもんが<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>に一杯<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>ってて、箪笥の<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>かて開けられへんねんが。」

「おかしいなあ、あの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>のもんは<ruby><rb>先繰</rb><rt>せんぐ</rt></ruby>り洗濯屋へ出してるのんに、………」

「そうかて、まさかお<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>だけは出されへんやろが。」

「ふうむ、あれはお腰かいな。」

「そうだんが。なんぼなんでも女の癖にあんまりだらしないさかいに、僕もう<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れてまんねんけど、お母さんかて様子見てたら分ってるのんに、何で<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>云うてくれしまへん？　僕にばっかりやかましいこと云うといて、福子にやったら、こないな道楽されてても見ん振りしてなはんのんか。」

「こんな所にこんなもんが突っ込んであること、わてが何で知るかいな。………」

「お母さん」

不意に庄造はびっくりしたような声を挙げた。母が押入の段の下へもぐり込んで行って、その汚れ物をごそごそ引き出し始めたからである。

「それ、どないするねん？」

「この<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby><ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>にしてやろ思うて、………」

「止めなはれ、穢い！………止めなはれ！」

「ええがな、わてに任しといたら、………」

「何じゃいな、<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうとめ</rt></ruby>が嫁のそんなもん<ruby><rb>触</rb><rt>いろ</rt></ruby>うたりして！　僕お母さんにそんなことしてくれ云えしまへんで。福子にさしなはれ云うてんで。」

おりんは聞えない振りをして、その薄暗い奥の方から、円くつくねてある紅い<ruby><rb>英</rb><rt>えい</rt></ruby>ネルの<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>を<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そ五つ六つ取り出すと、それを両手に抱えながら勝手口へ運んで行って、洗濯バケツの中へ入れた。

「それ、洗うてやんなはんのんか？」

「そんなこと気にせんと、男は黙ってるもんや。」

「自分のお腰の洗濯ぐらい、何で福子にさされまへん、なあお母さん。」

「うるさいなあ、わてはこれをバケツに入れて、水張っとくだけや。こないしといたら、自分で気イ付いて洗濯するやろが。」

「阿呆らしい、気イ付くような女だっかいな。」

母はあんなことを云っているけれど、きっと自分が洗ってやる気に違いないので、<ruby><rb>尚更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>庄造は腹の虫が納まらなかった。そして着物も着換えずに、<ruby><rb>厚司</rb><rt>あつし</rt></ruby>姿のまま土間の板草履を突っかけると、ぷいと自転車へ飛び乗って、出かけてしまった。

さっき球撞きに行きたいと云ったのは、ほんとうにそのつもりだったのであるが、今の一件で急に胸がムシャクシャして来て、球なんかどうでもよくなったので、何と云うアテもなしに、ベルをやけに鳴らしながら蘆屋川沿いの遊歩道を真っすぐ新国道へ上ると、つい<ruby><rb>業平</rb><rt>なりひら</rt></ruby>橋を渡って、ハンドルを神戸の方へ向けた。まだ五時少し前頃であったが、一直線につづいている国道の向うに、早くも晩秋の太陽が沈みかけていて、太い帯になった横流れの西日が、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど路面と平行に<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>している中を、人だの車だのがみんな半面に紅い色を浴びて、恐ろしく長い影を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>きながら通る。ちょうど<ruby><rb>真正面</rb><rt>まとも</rt></ruby>にその光線の方へ向って走っている庄造は、鋼鉄のようにぴかぴか光る舗装道路の<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しさを避けて、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>き加減に、首を真横にしながら、森の公設市場前を過ぎ、<ruby><rb>小路</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>の停留所へさしかかったが、ふと、電車線路の向う側の、とある病院の<ruby><rb>塀外</rb><rt>へいそと</rt></ruby>に、畳屋の塚本が台を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せっせ</span>と畳を刺しているのが<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>に留まると、急に元気づいたように乗り着けて行って、

「忙しおまっか。」

と、声をかけた。

「やあ」

と塚本は、手は休めずに眼で<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いたが、日が暮れぬ間に仕事を片附けてしまおうと、畳へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きゅ</span>ッと針を刺し込んでは抜き取りながら、

「今時分、何処へ行きはりまんね？」

「別に何処へも行かしまへん。ちょっとこの辺まで来てみましてん。」

「僕に用事でもおましたんか。」

「いいえ、違いま。―――」

そう云ってしまって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>としたが、仕方がなしに眼と鼻の間へクシャクシャとした<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を刻んで、<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>な作り笑いをした。

「今<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>通りかかったのんで、声かけてみましたんや。」

「そうだっか。」

そして塚本は、自分の眼の前に自転車を<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>めて突っ立っている人間になんか、構っていられないと云わんばかりに、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ下を向いて作業を続けたが、庄造の身になってみれば、いくら忙しいにしたところで、「近頃どうしているか」とか、「リリーのことはあきらめたか」とか、そのくらいな<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>はしてくれてもよさそうなものだのに、心外な気がしてならなかった。それと云うのが、福子の前ではリリー恋いしさを一生懸命に押し隠して、リリーの「リ」の字も口に出さないでいるものだから、それだけ千万無量の思いが胸に<ruby><rb>鬱積</rb><rt>うっせき</rt></ruby>している訳で、今<ruby><rb>図</rb><rt>はか</rt></ruby>らずも塚本に出遭ってみると、やれやれこの男に少しは切ない心の中を聞いて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>おう、そうしたら幾らか気が晴れるだろうと、すっかり当て込んでいたのであったが、塚本としてもせめて慰めの言葉ぐらい、でなければ<ruby><rb>無沙汰</rb><rt>ぶさた</rt></ruby>の<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びぐらい、云わなければならない<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>なのである。なぜかと云って、<ruby><rb>抑</rb><rt>そもそ</rt></ruby>もリリーを品子の方へ渡す時に、その後どう云う待遇を受けつつあるか、ときどき塚本が庄造の代りに見舞いに行って、様子を見届けて、報告をすると云う堅い約束があったのである。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>それは二人の間だけの申し合わせで、おりんや福子には絶対秘密になっていたのだが、しかしそう云う条件があったからこそ大事な<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>を渡してやったのに、あれきり一度もその約束を実行してくれたことがなく、うまうま人をペテンにかけて、知らん顔をしているのであった。

だが、塚本は、<ruby><rb>空惚</rb><rt>そらとぼ</rt></ruby>けている訳ではなくて、日頃の商売の忙しさに取り紛れてしまったのであろうか。ここで<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>ったのを幸いに、一と言ぐらい恨みを云ってやりたいけれども、こんなに夢中で働いている者に、今更<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>らしく猫のことなんぞ云い出せもしないし、云い出したところで、あべこべに怒鳴り付けられはしないであろうか。庄造は、夕日がだんだん鈍くなって行く中で、塚本の手にある畳針ばかりがいつ<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>もきらきら光っているのを、<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れるともなく見惚れながらぼんやり<ruby><rb>彳</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいるのであったが、ちょうどこのあたりは国道筋でも人家が<ruby><rb>疎</rb><rt>まば</rt></ruby>らになっていて、南側の方には食用<ruby><rb>蛙</rb><rt>がえる</rt></ruby>を飼う池があり、北側の方には、衝突事故で死んだ人々の<ruby><rb>供養</rb><rt>くよう</rt></ruby>のために、まだ真新しい、大きな石の国道地蔵が立っているばかり。この病院のうしろの方は<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>つづきで、ずうと向うに阪急沿線の山々が、ついさっきまでは澄み切った空気の底にくっきりと<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>を重ねていたのが、もう<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い<ruby><rb>薄靄</rb><rt>うすもや</rt></ruby>に包まれかけているのである。

「そんなら、僕、失敬しまっさ。―――」

「ちとやって来なはれ。」

「そのうちゆっくり寄せて貰いま。」

片足をペダルへかけて、二三歩とッとッと行きかけたけれども、やっぱりあきらめきれないらしく、

「あのなあ、―――」

と云いながら、又戻って来た。

「塚本君、えらいお邪魔しまっけど、実はちょっと聞きたいことがおまんねん。」

「何だす？」

「僕これから、六甲まで行ってみたろか思いまんねんけど、………」

やっと一畳縫い終えたところで、立ち上りかけていた塚本は、

「何しにいな？」

と呆れた顔をして、かかえた畳をもう一遍トンと台へ戻した。

「そうかて、あれきりどないしてるやら、さっぱり様子分れしまへんさかいにな。………」

「君、そんなこと、<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>で云うてなはんのんか。置きなはれ、男らしいもない！」

「違いまんが、塚本君！………そうやあれへんが。」

「そやさかいに僕あの時にも念押したら、あの女に何の未練もない、顔見るだけでもケッタクソが悪い云いなはったやおまへんか。」

「ま、塚本君、待っとくなはれ！　品子のことやあれへんが。猫のことだんが。」

「何と、猫？―――」

塚本の眼元と口元に、突然ニッコリとほほ笑みが浮かんだ。

「ああ、猫のことだっか。」

「そうだんが。―――君あの時に、品子があれを<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>がるかどうか、ときどき様子見に行ってくれる云いなはったのん、覚えたはりまっしゃろ？」

「そんなこと云いましたかいな、何せ今年は、水害から此方えらい忙しおましたさかいに、―――」

「そら分ってま。そやよってに、君に行って貰おう思うてエしまへん。」

せいぜい皮肉にそう云った積りだったのであるが、相手は一向感じてくれないで、

「君、まだあの猫のこと忘れられしまへんのんか。」

「何で忘れまっかいな。あれから此方、品子の<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>がいじめてエへんやろか、あんじょう<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>いてるやろか思うたら、もうその事が心配でなあ、毎晩夢に見るぐらいだすねんけど、福子の前やったら、そんなことちょっとも云われしまへんよってに、尚のことここが<ruby><rb>辛</rb><rt>つろ</rt></ruby>うて辛うて、………」

と、庄造は胸を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いてみせながら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べそ</span>を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いた。

「………ほんまのとこ、もう今迄にも一遍見に行こ思うてましてんけど、何せこのところ一と月ほど、ひとりやったらめったに出して貰われしまへん。それに僕、品子に会わんならんのん<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>いまへんよってに、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>に見られんようにして、リリーにだけそうッと会うて来るようなこと、出来しまへんやろか？」

「そら、むずかしいおまんなあ。―――」

<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い加減に<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>してくれと云う催促のつもりで、塚本はおろした畳へ手をかけながら、

「どないしたかて見られまんなあ。それに第一、猫に会いに来た思わんと、品子さんに未練あるのんや思われたら、<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>なことになりまんがな。」

「僕かてそない思われたら叶いまへんねん。」

「もうあきらめてしまいなはれ。人にやってしもうたもん、どない思うたかてショウがないやおまへんか、なあ石井君。―――」

「あのなあ、」

と、それには答えないで、別なことを聞いた。

「あの、品子はいつも二階だっか、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>だっか？」

「二階らしおまっけど、階下へかて降りて来まっしゃろ。」

「<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>空けることおまへんやろか？」

「分りまへんなあ。―――裁縫したはりますさかいに、大概家らしおまっけど。」

「<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>へ行く時間、何時頃だっしゃろ？」

「分りまへんなあ。」

「そうだっか。そしたら、えらいお邪魔しましたわ。」

「石井君」

塚本は、畳を抱えて立ち上った間に、早くも一二間離れかけた自転車の後姿に<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った。

「君、ほんまに行きはりまんのか。」

「どうするかまだ分れしまへん。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>近所まで行ってみまっさ。」

「行きなはるのんは勝手だすけど、後でゴタゴタ起ったかて、係り合うのんイヤだっせ。」

「君もこんなこと、福子やお袋に云わんと置いとくなはれ。頼みまっさ。」

そして庄造は、首を<ruby><rb>右左</rb><rt>みぎひだり</rt></ruby>へ揺さ振り揺さ振り、電車線路を向う側へ渡った。

これから出かけて行ったところで、あの一家の者達に顔を合わせないようにして、こっそりリリーに遇うなんと云う<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>い寸法に行くであろうか。いいあんばいに裏が空地になっているから、ポプラーの<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>か雑草の中にでも身を潜めて、リリーが外へ出て来るのを気長に待っているより外に手はないのだが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>なことに、こう暗くなってしまっては、出て来てくれても中々発見が困難であろう。それにもうそろそろ初子の亭主が勤務先から帰って来るであろうし、晩飯の支度で勝手口の方が忙しくなるであろうから、そういつ迄も<ruby><rb>空巣狙</rb><rt>あきすねら</rt></ruby>いみたいにうろうろしている訳にも行かない。とすると、もっと時間の早い時に出直す方がいいのだけれども、しかしリリーに会える会えないは二の次として、久し振に女房の眼を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>んで、<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>あっちこっち</rt></ruby>を乗り<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>せると云うことだけでも、愉快でたまらないのであった。実際、今日を外してしまうと、こう云う時はもう半月待たないと来ないのである。福子はおりおり<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>の所へお小遣いをセビリに行くのだが、それが大体一と月に二度、お<ruby><rb>朔日</rb><rt>ついたち</rt></ruby>前後と十五日前後とにきまっていて、行けば必ず夕飯を呼ばれ、早くて八九時頃に帰るのが例であるから、今日も今から三四時間は自由が楽しまれるのであって、もし自分さえ飢えと寒さに堪える覚悟なら、あの裏の空地に、少くとも二時間は立っている余裕があるのである。だからリリーが晩飯の後でぶらつきに出かける習慣を、今も改めないでいるものとすれば、ひょっとしたら<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>で会えるかも知れない。そう云えばリリーは、食後に草の生えている所へ行って、青い葉を食べる癖があるので、尚更あの空地は有望な訳だ。―――そんなことを考えながら、甲南学校前あたり迄やって来ると、国粋堂と云うラジオ屋の前で自転車を<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>めて、外から店を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみて、主人がいるのを確かめてから、

「今日は」

と、表のガラス戸を半分ばかり開けた。

「えらい済んまへんけど、二十銭貸しとくなはれしまへんか。」

「二十銭でよろしおまんのか。」

知らない顔ではないけれども、いきなり飛び込んで来て心やすそうに云われる程の仲やあれへん、と、そう云いたげに見えた主人は、二十銭では断りもならないので、手提金庫から十銭玉を二つ取り出して、黙って<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>へ載せてやると、直ぐ向う側の甲南市場へ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け込んで、アンパンの袋と<ruby><rb>筍</rb><rt>たけ</rt></ruby>の皮包を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふとこ</rt></ruby>ろに入れて戻って来て、

「ちょっと台所使わしとくなはれ。」

人が好いようでへんにずうずうしいところのある彼は、そう云うことには<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れたものなので、「何しなはんね」と云われても「訳がありまんねん」とばかり、ニヤニヤしながら勝手口へ廻って行って、筍の皮包の<ruby><rb>鶏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の肉をアルミニュームの<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>へ移すと、<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>の火を借りて<ruby><rb>水煮</rb><rt>みずだ</rt></ruby>きにした。そして「済んまへんなあ」を二十遍ばかりも繰り返しながら、

「いろいろ無心云いまっけど、今一つ聴いとくなはれしまへんか。」

と、自転車に附けるラムプの借用を申し込んだが、「これ持って行きなはれ」と主人が奥から出して来てくれたのは、「魚崎町三好屋」と云う文字のある、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かの<ruby><rb>仕出屋</rb><rt>しだしや</rt></ruby>の<ruby><rb>古提灯</rb><rt>ふるぢょうちん</rt></ruby>であった。

「ほう、えらい<ruby><rb>骨董物</rb><rt>こっとうもん</rt></ruby>だんなあ。」

「それやったら大事おまへん。ついでの時に返しとくなはれ。」

庄造は、まだおもてが薄明るいので、その提灯を腰に<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>して出かけたが、阪急の六甲の停留所前、「六甲登山口」と記した大きな標柱の立っている所まで来て、自転車を角の休み茶屋に預けて、そこから二三丁上にある目的の家の方へ、少し急なだらだら<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を登って行った。そして家の北側の、裏口の方へ廻って、空地の中へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>り込むと、二三尺の高さに草がぼうぼうと生えている一とかたまりの<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>のかげにしゃがんで、息を殺した。

ここでさっきのアンパンを<ruby><rb>咬</rb><rt>かじ</rt></ruby>りながら、二時間の間辛抱してみよう、そのうちにリリーが出て来てくれたら、お土産の<ruby><rb>鶏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の肉を与えて、久しぶりに肩へ飛び着かせたり、口の端を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めさせたり、楽しい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いちゃつき</span>合いをしようと、そう云う積りなのであった。

いったい今日は面白くないことがあったのでアテもなく外へ飛び出したら、足が自然に西の方へ向いたばかりでなく、塚本なんぞに出遭ったものだから、とうとう途中で決心をして、此処まで<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>してしまったのだが、こうなることと分っていたら<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を着て来ればよかったのに、<ruby><rb>厚司</rb><rt>あつし</rt></ruby>の下に毛糸のシャツを着込んだだけでは、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に寒さが身に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みる。庄造は肩を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞく</span>ッとさせて、星がいちめんに輝き始めた夜空を仰いだ。板草履を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いた足に冷めたい草の葉が触れるので、ふと気が付いて、帽子だの肩だのを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてみると、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい露が降りている。成る程、これでは冷える訳だ、こうして二時間もうずくまっていたら、風邪を引いてしまうかも知れない。だが庄造は、台所の方から魚を焼く<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>が匂って来るので、リリーがあれを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ付けて何処かから帰って来そうな気がして、異様な緊張を覚えるのであった。彼は小さな声を出して、「リリーや、リリーや」と呼んでみた。何か、あの家の人達には分らないで、猫にだけ分る合図の方法はないものかとも思ったりした。彼がつくばっている叢の前の方に、<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>の葉が一杯に<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>っていて、その葉の中でときどきピカリと光るものがあるのは、多分夜露の玉か何かが遠くの方の<ruby><rb>電燈</rb><rt>でんとう</rt></ruby>に反射しているせいなのだけれども、そうと知りつつ、その<ruby><rb>度毎</rb><rt>たびごと</rt></ruby>に猫の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>か知らんと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と胸を躍らせた。………あ、リリーかな、やれ<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しや！　そう思った途端に<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>が<ruby><rb>搏</rb><rt>う</rt></ruby>ち出して、<ruby><rb>鳩尾</rb><rt>みぞおち</rt></ruby>の辺がヒヤリとして、次の瞬間に<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ又がっかりさせられる。こう云うと<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しな話だけれども、まだ庄造はこんなヤキモキした心持を人間に対してさえ感じたことはないのであった。せいぜいカフェエの女を相手に遊んだぐらいが関の山で、恋愛らしい経験と云えば、前の女房の眼を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて福子と<ruby><rb>逢引</rb><rt>あいびき</rt></ruby>していた時代の、楽しいような、<ruby><rb>懊</rb><rt>じ</rt></ruby>れったいような、変にわくわくした、落ち着かない気分、―――まああれぐらいなものなのだが、それでもあれは両方の親が内々で手引をしてくれ、品子の手前を巧く<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>してくれたので、無理な首尾をする必要もなく、夜露に打たれてアンパンを咬るような苦労をしないでもよかったのだから、それだけ真剣味に乏しく、逢いたさ見たさもこんなに<ruby><rb>一途</rb><rt>いちず</rt></ruby>ではなかったのであった。

庄造は、母親からも女房からも自分が子供扱いにされ、一本立ちの出来ない低能児のように<ruby><rb>見做</rb><rt>みな</rt></ruby>されるのが、非常に不服なのであるが、さればと云ってその不服を聴いてくれる友達もなく、<ruby><rb>悶々</rb><rt>もんもん</rt></ruby>の情を胸の中に納めていると、何となく独りぽっちな、頼りない感じが<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて来るので、そのために<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>リリーを愛していたのである。実際、品子にも、福子にも、母親にも分って<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>えない<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい気持を、あの哀愁に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちたリリーの眼だけがほんとうに見抜いて、慰めてくれるように思い、又あの<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>が心の奥に持っていながら、人間に向って云い現わす<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>を知らない畜生の悲しみと云うようなものを、自分だけは読み取ることが出来る気がしていたのであったが、それがお互いに別れ別れにされてしまって四十余日になるのである。そして一時は、もうそのことを考えないように、なるべく早くあきらめるように努めたことも事実だけれども、母や女房への不平が<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>って、その<ruby><rb>鬱憤</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り場がなくなって来るに従い、いつか再び強い<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れが頭を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げて、抑えきれなくなったのであった。全く、庄造の身になってみると、ああ云う厳しい足止めをされて、出るにも入るにも干渉を受けたのでは、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って恋いしさを<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>き付けられるようなもので、忘れようにも忘れる暇がなかったのであるが、それにもう一つ気になったのは、あれきり塚本から何の報告もないことであった。あんなに約束しておきながら、どうして何とも云って来てくれないのか。仕事が忙しいのなら<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ないが、ひょっとするとそうでなく、彼に心配させまいとして、何か隠しているのではないか。たとえば品子にいじめられて、食うや食わずでいるためにひどく衰弱してしまったとか、逃げて出たきり<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>不明になったとか、病死したとか、云うようなことがあるのではないか。あれから此方、庄造はよくそんな夢を見て、夜中に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と眼を覚ますと、何処かで「ニャア」と<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いているように思えるので、便所へ行くような風をしながら、そうっと起きて雨戸を開けてみたことも、一度や二度ではないのであるが、あまりたびたびそう云う幻に<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>かれると、今聞いた声や夢に見た姿は、リリーの幽霊なのではないか、逃げて来る路で野たれ死にをして、魂だけが戻ったのではないのかと、そんな気がして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞう</span>っと身ぶるいが出たこともある。だが又、いくら品子が意地の悪い女でも、塚本が無責任でも、まさかリリーに変ったことが起ったら黙っている<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>もあるまいから、便りのないのは無事に暮らしている証拠なのだと、不吉な想像が浮かぶたびに打ち消し打ち消しして来たのであるが、それでも感心に女房の云いつけを忠実に守って、一度も六甲の方角へ足を向けたことがなかったと云うのは、監視が厳しかったばかりでなく、品子の網に引っかかるのが不愉快だからであった。彼にはリリーを引き取った品子の真意と云うものが、今でもハッキリしないのだけれども、事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ったら、塚本が報告を怠っているのも品子の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さしがね</span>ではないのか、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>はそう云う風にしてわざと<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>に気を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>ませて、おびき寄せようと云う腹ではないのかと、そんな邪推もされるので、リリーの安否を確かめたいと願う一方、見す見す彼奴の<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>に<ruby><rb>篏</rb><rt>は</rt></ruby>まってたまるものかと云う反感が、それと同じくらい強かったのであった。彼は何とかしてリリーには会いたいが、品子に<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まることはイヤでたまらなかった。「とうとうやって来ましたね」と、彼奴がへんに利口ぶって、得意の鼻をうごめかすかと思うと、もうその顔つきを浮かべただけでムシズが走った。元来庄造には彼一流の<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>さがあって、いかにも気の弱い、他人の云うなり次第になる人間のように見られているのを、巧みに利用するのであるが、品子を追い出したのが矢張その手で、表面はおりんや福子に操られた形であるけれども、その実誰よりも彼が一番彼女を<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>っていたかも知れない。そして庄造は、今考えても、いいことをした、いい気味だったと思うばかりで、<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>と云う感じは少しも起らないのであった。

現に品子は、電燈のともっている二階のガラス窓の中にいるのに違いないのだが、雑草のかげにつくばいながらじっとその<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>を見上げていると、又してもあの、人を<ruby><rb>小馬鹿</rb><rt>こばか</rt></ruby>にしたような、賢女振った顔が眼先にちらついて、<ruby><rb>胸糞</rb><rt>むなくそ</rt></ruby>が悪くなって来る。折角ここまで来たのであるから、せめて「ニャア」と云うなつかしい声を<ruby><rb>余所</rb><rt>よそ</rt></ruby>ながらでも聞いて帰りたい、無事に飼われていることが分りさえしたら、それだけでも安心であるし、ここへ来た念が届くのであるから、いっそのことそうっと裏口を覗いてみたら、………アワよく行ったら、初子をこっそり呼び出して、おみやげの<ruby><rb>鶏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の肉を渡して、近状を聞かして貰ったら、………と、そう思うのであるが、あの窓の灯を見て、あの顔を心に描くと、足がすくんでしまうのである。うっかりそんな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしたら、初子がどう云う感違いをして、二階の姉を呼びに行かないものでもないし、少くとも後でしゃべることは確かであるから、「そろそろ計略が図に<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>って来た」などと、<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れるだけでも<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に触る。とすると、矢張この空地に根気よくうずくまっていて、リリーがここを通りかかる偶然の機会を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えるより外はないのであるが、しかし<ruby><rb>今迄</rb><rt>いままで</rt></ruby>待って<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>なら、とても今夜は覚つかない。庄造はもう、袋の中のアンパンをみんな食べてしまった。そしてさっきから一時間半ぐらいは<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ったような気がするので、だんだん家の方の首尾が心配になって来た。母親だけなら面倒はないが、福子が先に帰って来ていたら、今夜一と晩じゅう寝かして貰えないで、<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>だらけにされる。それもいいけれども、又明日から監視が厳重になる。だが、一時間半も待つあいだに<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな啼きごえも<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れて来ないのは、何だか変だ、ひょっとしたら、この間からたびたび見た夢が<ruby><rb>正夢</rb><rt>まさゆめ</rt></ruby>で、もうこの家にいないのではないか。さっき魚を焼く匂がした時が一家の夕飯だったとすると、リリーもあの時何かしら与えられるであろうし、そうすればきっと草を食べに出て来るのだが、来ないのを見るとどうも怪しい。………

庄造は、とうとう<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えきれなくなって、雑草の中から身を起すと、裏木戸の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>まで忍んで行って、<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>へ顔をあててみた。と、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>はすっかり雨戸が締まっていて、子供を寝かしつけているらしい初子の声がとぎれとぎれに聞えて来る外には、何の物音もしない。二階のガラス障子にでも、ほんの一瞬間でいいから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さっ</span>と影が写ってくれたらどんなに嬉しいか知れないのに、ガラスの向うに白いカーテンが静かに垂れているばかりで、その上の方が薄暗く、下の方が明るくなっているのは、品子が電燈を低く下して、<ruby><rb>夜作</rb><rt>よなべ</rt></ruby>をしているのであろう。ふと庄造は、あかりの下で一心に針を運びつつある彼女の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に、リリーがおとなしく背中を円めて、「の」の字なりに<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>ころびながら、安らかな眠を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>っている平和な光景を眼前に浮かべた。秋の夜長の、またたきもせぬ電燈の光が、リリーと彼女とただ二人だけを一つ<ruby><rb>圏</rb><rt>わ</rt></ruby>の中に包んでいる外は、天井の方までぼうっと暗くなっている室内。………夜が次第に<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて行く中で、猫はかすかに<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き、人は黙々と縫い物をしている。<ruby><rb>侘</rb><rt>わ</rt></ruby>びしいながらもしんみりとした場面。………あのガラス窓の中に、そう云う世界が繰りひろげられているとしたら、―――何か<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>的なことが起って、リリーと彼女とがすっかり<ruby><rb>仲好</rb><rt>なかよ</rt></ruby>しになっていたとしたら、―――もしほんとうにそんな光景を見せられたら、<ruby><rb>焼餅</rb><rt>やきもち</rt></ruby>を焼かずにいられるだろうか。正直のところ、リリーが昔を忘れてしまって現状に満足していられても、矢張腹が立つであろうし、そうかと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って、<ruby><rb>虐待</rb><rt>ぎゃくたい</rt></ruby>されていたり死んでいたりしたのでは尚悲しいし、<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>にしても気が晴れることはないのだから、いっそ何も聞かない方がいいかも知れない。庄造は、途端に階下の柱時計が「ぼん、………」と、半を打つのを聞いた。七時半だ、―――と思うと、彼は誰かに突き飛ばされたように腰を浮かしたが、二た足三足行ってから引っ返して来て、まだ大事そうに懐に入れていた<ruby><rb>筍</rb><rt>たけ</rt></ruby>の皮包を取り出すと、それを木戸口や、五味箱の上や、<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>あっちこっち</rt></ruby>へ持って行ってウロウロした。何処か、リリーだけが気が付いてくれるような所へ置いて行きたいが、叢の中では犬に嗅ぎ付けられそうだし、この辺へ置いたら家の者が見つけるであろうし、<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>い方法はないか知らん。いや、もうそんなことに構ってはいられぬ。遅くも今から三十分以内に帰らなかったら、又一と騒ぎ起るかも知れぬ。「あんた、<ruby><rb>今頃</rb><rt>いまごろ</rt></ruby>まで何しててん！」―――と、そう云う声が<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに耳のハタで聞えて、福子のイキリ立った剣幕がありありと見える。彼は<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて葛の葉の繁っている間へ、筍の皮を開いて置いて、両端へ小石を載せて、又その上から適当に葉を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せた。そして空地を横ッ飛びに、自転車を預けた茶屋のところまで夢中で走った。

その晩、庄造よりも二時間程おくれて帰って来た福子は、弟を連れて<ruby><rb>拳闘</rb><rt>けんとう</rt></ruby>を見に行った話などをして、ひどく<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>が好かった。そして明くる日、少し早めに夕飯を済ますと、

「神戸へ行かして貰いまっせ。」

と、夫婦で新開地の<ruby><rb>聚楽館</rb><rt>じゅらくかん</rt></ruby>へ出かけた。

おりんの経験だと、福子はいつも今津の家へ行って来た当座、つまり<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>にお小遣のある五六日か一週間のあいだと云うものは、きまって機嫌がいいのである。このあいだに彼女は盛んに無駄使いをして、活動や歌劇見物などにも、二度ぐらいは庄造を誘って行く。従って夫婦仲も<ruby><rb>睦</rb><rt>むつま</rt></ruby>じく、至極円満に治まっているのだが、一週間目あたりからそろそろ懐が淋しくなって、一日家でごろごろしながら、<ruby><rb>間食</rb><rt>あいだぐ</rt></ruby>いをしたり雑誌を読んだりするようになり出すと、ときどき亭主に<ruby><rb>口叱言</rb><rt>くちこごと</rt></ruby>を云う。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も庄造も、女房の景気のいい時だけ忠実振りを発揮して、だんだん出るものが出なくなると、現金に態度を変え、浮かぬ顔をして生返事をする癖があるのだが、結局双方から飛ばっちりを食う母親が、一番割が悪いことになる。だからおりんは、福子が今津へ駈け付ける度に、やれやれこれで当分は安心だと思って、内々ほっとするのであった。

で、今度もちょうどそう云う平和な一週間が始まっていたが、神戸へ行ってから三四日たった<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る日の夕方、亭主と二人晩飯のチャブ台に向っていた福子は、

「こないだの活動、ちょっとも面白いことあれへなんだなあ。」

と、自分も行ける口なので、ほんのり眼のふちへ酔いを出しながら、

「―――なあ、あんたどない思うた？」

と、そう云って<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>を取り上げると、庄造がそれを引ったくるようにして此方からさした。

「一つ行こ。」

「もう、あかん。………酔うたわ、わて。」

「まあ、行こ、もう一つ。………」

「家で飲んだかて、おいしいことあれへん。それより明日<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>ぞへ行けへん？」

「ええなあ、行きたいなあ。」

「まだお小遣ちょっとも使うてエへんねんで。………こないだの晩、家で御飯たべて出て、活動見ただけやったやろ、そやさかいに、まだ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たあん</span>と持ってるねん。」

「何処にしょう、そしたら？………」

「宝塚、今月は何やってるやろ？」

「歌劇かいな。―――」

<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に旧温泉と云う楽しみはあるにしてからが、何だかもう一つ気が乗らない顔つきをした。

「―――そないにたんとお小遣あるのんやったら、もっと面白いことないやろか。」

「何ぞ考えてエな。」

「紅葉見に行けへん？」

「<ruby><rb>箕面</rb><rt>みのお</rt></ruby>かいな。」

「箕面はあかんねん、こないだの水ですっくりやられてしもてん。それより僕、久し振りで有馬へ行ってみたいねんけど、どうや、賛成せエへんか。」

「ほんに、………あれ、いつやったやろ？」

「もうちょうど一年ぐらい………いや、そうやないわ、あの時<ruby><rb>河鹿</rb><rt>かじか</rt></ruby>が啼いてたわ。」

「そうや、もう一年半になるで。」

それは二人が人目を忍ぶ仲になり出して間もない時分、或る日<ruby><rb>滝道</rb><rt>たきみち</rt></ruby>の終点で落ち合い、<ruby><rb>神有</rb><rt>しんゆう</rt></ruby>電車で有馬へ行って、御所の坊の二階座敷で半日ばかり遊んで暮らしたことがあったが、涼しい<ruby><rb>渓川</rb><rt>たにがわ</rt></ruby>の音を聞きながら、ビールを飲んでは寝たり起きたりして過した、楽しかった夏の日のことを、二人ともはっきり思い出した。

「そしたら、又御所の坊の二階にしょうか。」

「夏より今の方がええで。紅葉見て、温泉に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って、ゆっくり晩の御飯食べて、―――」

「そうしょう、そうしょう、もうそれにきめたわ。」

その明くる日は早お昼の予定であったが、福子は朝の九時頃からぽつぽつ身支度に取りかかりながら、

「あんた、汚い頭やなあ。」

と、鏡の中から庄造に云った。

「そうかも知れん、もう半月ほど床屋へ行けへんさかいにな。」

「そしたら大急ぎで行って来なはれ、今から三十分以内に。―――」

「そらえらいこッちゃ。」

「そんな頭してたら、わてよう一緒に歩かんわ。―――早うしなはれ！」

庄造は、女房が渡してくれた一円札を、左の手に持ってヒラヒラさせながら、自分の店から半丁程東にある床屋の前まで<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて行ったが、いいあんばいに客が一人も来ていないので、

「早いとこ頼みまっさ。」

と、奥から出て来た親方に云った。

「何処ぞ行きはりまんのんか。」

「有馬へ紅葉見に行きまんね。」

「そら<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しおまんなあ、奥さんも一緒だっか？」

「そうだんね。―――早お昼たべて出かけるさかい、三十分で頭刈って来なはれ云われてまんね。」

が、それから三十分過ぎた時分、

「お楽しみだんなあ、ゆっくり行って来なはれ。」

と、背中から親方が浴びせる言葉を聞き流して、家の前まで戻って来て、何心なく店へ一と足踏み込むと、そのまま土間に立ちすくんでしまった。

「なあ、お母さん、何で今日までそれ隠してはりましてん。………」

と、突然そう云うただならぬ声が奥から聞えて来たからである。

「………何でそんなことがあったら、わてに云うとくなはれしまへん。………そしたらお母さん、わての味方してるみたいに見せかけといて、いつもそんなことさせてはったんと違いまっか。………」

福子が大分お<ruby><rb>冠</rb><rt>かんむり</rt></ruby>を曲げているらしいことは<ruby><rb>甲高</rb><rt>かんだか</rt></ruby>い物の云い方で分る。母親の方は明かに<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り込められている様子で、たまに一と言二た言ぐらい口返答をするけれども、<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>すようにコソコソと云うので、よく聞えない。福子の怒鳴る声ばかりが筒抜けに響いて来るのである。

「………何？　行ったとは限らん？………<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>らしい！　人の家の台所借って、<ruby><rb>鶏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の肉<ruby><rb>煮</rb><rt>た</rt></ruby>いたりして、リリーの<ruby><rb>所</rb><rt>とこ</rt></ruby>やなかったら、<ruby><rb>何所</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ持って行きまんね。………それにしたかて、あの<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>持って帰って、あんな所に直してあったこと、お母さん知ったはりましたんやろ？………」

彼女が母親を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえて、あんなキンキンした声を張り上げることはめったにないのだが、しかしたった今、彼が床屋へ行っていた<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かな間に、どうやら先日の国粋堂が、あの時の立て換えと古提灯とを取り返しに来たのだと見える。ありていに云うと、あの晩庄造はあの提灯を自転車の先にぶら下げて帰って、福子に<ruby><rb>見咎</rb><rt>みとが</rt></ruby>められないように、物置小屋の<ruby><rb>棚</rb><rt>たな</rt></ruby>の上に押し上げて置いたのであるが、お袋には見当がついていた<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だから、出して渡してやったのかも知れない。だが国粋堂は、いつでもいいようにと云っていながら、何で取り返しに来たのだろう。まさかあんな古提灯が惜しいこともあるまいに、この辺についででもあったのだろうか、それとも二十銭を借りっ放しにされたのが、腹が立ったのだろうか。それに又、<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>が来たのか、小僧が来たのか知らないが、<ruby><rb>鶏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の話までして行かないでもいいではないか。

「………わてはなあ、相手がリリーだけやったら、何もうるさいこと云えしまへんで。リリーに会いに行く云うても、リリーだけやあれへんさかいに、云いまんねんで。いったいお母さん、あの人とグルになって、わてを<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>すようなことして、済むと思うたはりまんのんか。」

そう云われると、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>のおりんもグウの<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>も出ないで、小さくなっているのであるが、<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の代りに怒られているのは<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうのようでもあり、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>いい気味のようでもある。何にしても庄造は、自分がいたら中々福子の怒り方がこのくらいでは済むまいと思うと、危く<ruby><rb>虎口</rb><rt>ここう</rt></ruby>を逃れた気がして、スワといえば<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>へ飛び出せるように、身構えをしながら立っていると、

「………いいえ、分ってま！　あの人六甲へ遣ったりして、今度はわてを追い出す相談してなはるねん。」

と、云うのにつづいて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どたん</span>と云う物音がして、

「待ちいな！」

「放しとくなはれ！」

「そうかて、何処へ行くねんな。」

「お父さん<ruby><rb>所</rb><rt>とこ</rt></ruby>へ行って来ます、わての云うことが無理か、お母さんの云うことが無理か、―――」

「ま、今庄造が戻るさかいに―――」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どたん</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どたん</span>、と、二人が盛んに争いながら店の方へ出て来そうなので、慌てて庄造は往来へ逃げ延びて、五六丁の距離を夢中で走った。それきり後がどうなったことやら分らなかったが、気が付いてみると、いつか自分は新国道のバスの停留所の前に来て、さっき床屋で受け取った<ruby><rb>釣銭</rb><rt>つりせん</rt></ruby>の銀貨を、まだしっかりと手の中に握っていた。

ちょうどその日の午後一時頃、品子が朝のうちに仕上げた縫物を、近所まで届けて来ると云って、不断着の上に毛糸のショールを引っかけて、小走りに裏口から出て行ったあと、初子がひとり台所で働いていると、そこの障子を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごそ</span>ッと一尺ばかり開けて、せいせい息を切らしながら庄造が中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んだので、

「あらッ」

と、飛び上りそうにすると、ピョコンと一つお<ruby><rb>時儀</rb><rt>じぎ</rt></ruby>をしながら笑ってみせて、

「初ちゃん、………」

と云ってから、後ろの方に気を配りつつ急にひそひそ声になって、

「………あの、今<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>から品子出て行きましたやろ？」

と、セカセカした早口で云った。

「………僕今そこで会うてんけど、品子は気イ付けしまへなんだ。僕あのポプラーの<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>に隠れてましたよってにな。」

「何ぞ姉さんに用だっか？」

「<ruby><rb>滅相</rb><rt>めっそう</rt></ruby>な！　リリーに会いに来ましてんが。―――」

そして、そこから庄造の言葉は、さも思い余った、哀れっぽい切ない声に変った。

「なあ、初ちゃん、あの<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>何処にいてます？………済んまへんけど、ほんのちょっとでええさかい、会わしとくなはれ！」

「何処ぞ、その辺にいてしまへんか。」

「そない思うて、僕この近所うろうろして、もう二時間も<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>に立ってましてんけど、ちょっとも出て来よれしまへんねん。」

「そしたら、二階にいてるかしらん？」

「品子もう<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ戻りまっしゃろか？　<ruby><rb>今頃</rb><rt>いまごろ</rt></ruby>何処へ行きましたんや？」

「ほんそこまで仕立物届けに。―――二三丁の所だすよって、直ぐ帰りまっせ。」

「ああ、どうしよう、ああ困った。」

そう云って<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>に体をゆすぶって、<ruby><rb>地団駄</rb><rt>じだんだ</rt></ruby>を踏みながら、

「なあ、初ちゃん、頼みます、この通りや。―――」

と、手を擦り合わせて拝む<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をした。

「―――後生一生のお願いだす、今の間に連れて来とくなはれ。」

「会うて、どないしやはりまんね。」

「どうもこうもせえしまへん。無事な顔一と<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>見せてもろたら、気が済みまんねん。」

「連れて帰りはれしまへんやろなあ？」

「そんなことしまっかいな。今日見せてもろたら、もうこれっきり<ruby><rb>来</rb><rt>け</rt></ruby>えしまへん。」

初子は<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた顔をして、穴の明くほど庄造を<ruby><rb>視詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めていたが、何と思ったか黙って二階へ上って行って、直ぐ<ruby><rb>段梯子</rb><rt>だんばしご</rt></ruby>の中段まで戻って来ると、

「いてまっせ。―――」

と、台所の方へ首だけ突ん出した。

「いてまっか？」

「わて、よう抱きまへんよって、見に来とくなはれ。」

「行っても大事おまへんやろか。」

「直ぐ降りとくなはれや。」

「<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しおま。―――そしたら、上らして<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いまっさ。」

「早いことしなはれ！」

庄造は、狭い、急な段梯子を上る<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>も胸がドキドキした。ようよう日頃の思いが<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>って、会うことが出来るのは<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいけれども、どんな風に変っているだろうか。野たれ死にもせず、行くえ不明にもならないで、無事にこの<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>にいてくれたのは有難いが、<ruby><rb>虐待</rb><rt>ぎゃくたい</rt></ruby>されて、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せ衰えていなければいいが、………まさか一と月半の間に忘れる筈はないだろうけれど、なつかしそうに<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って来てくれるか知らん？　それとも例の、<ruby><rb>羞渋</rb><rt>はにか</rt></ruby>んで逃げて行くか知らん？………蘆屋の時代に、二三日家を空けたあとで帰って来ると、もう何処へも行かせまいとして、<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り着いたり<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>め<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>したりしたものであったが、もしもあんな風にされたら、それを振り切るのに又もう一度<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>い思いをしなければならない。………

「此処だっせ。―――」

晴れ晴れとした午後の外光を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って、窓のカーテンが締まっているのは、<ruby><rb>大方</rb><rt>おおかた</rt></ruby>用心深い品子が出て行く時にそうしたのであろうか。―――そのために室内がもやもやと<ruby><rb>翳</rb><rt>かげ</rt></ruby>って、薄暗くなっている中に、<ruby><rb>信楽</rb><rt>しがらき</rt></ruby>焼のナマコの<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>が置いてあって、なつかしいリリーはその傍に、<ruby><rb>座布団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>を重ねて敷いて、前脚を腹の下へ折り込んで、背を円くしながらうつらうつら眼をつぶっていた。案じた程に痩せてもいないし、毛なみもつやつやとしているのは、相当に優遇されているからであろう。思ったよりも大事にされている証拠には、彼女のために専用の座布団が二枚も設けてあるばかりではない、たった今、お昼の<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>に生卵を貰ったと見えて、きれいに食べ尽した御飯のお皿と、卵の<ruby><rb>殻</rb><rt>から</rt></ruby>とが、新聞紙に載せて部屋の<ruby><rb>片隅</rb><rt>かたすみ</rt></ruby>に寄せてあり、又その横には、蘆屋時代と同じようなフンシさえ置いてあるのである。と、突然庄造は、久しい間忘れていたあの特有の<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いだ。<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>て我が家の柱にも壁にも床にも天井にも<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>み込んでいたあの匂が、今はこの部屋に<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>っているのであった。彼は悲しみがこみ上げて来て、

「リリー、………」

と覚えず<ruby><rb>濁声</rb><rt>だみごえ</rt></ruby>を挙げた。するとリリーはようようそれが聞えたのか、どんよりとした<ruby><rb>慵</rb><rt>ものう</rt></ruby>げな<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を開けて、庄造の方へひどく無愛想な<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>を投げたが、ただそれだけで、何の感動も示さなかった。彼女は再び、前脚を一層深く折り曲げ、背筋の皮と<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>とをブルン！　と寒そうに<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>させて、<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>くてたまらぬと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うように眼を閉じてしまった。

今日はお天気がいい代りに、空気が冷え冷えと身に沁むような日であるから、リリーにしたら火鉢の傍を離れるのがイヤなのであろう。それに胃の<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>がふくらんでいるので、<ruby><rb>尚更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>大儀なのでもあろう。この動物の無精な性質を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>み込んでいる庄造は、こう云うそっけない態度には<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れているので、格別<ruby><rb>訝</rb><rt>あや</rt></ruby>しみはしなかったが、でも気のせいか、その<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく眼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やに</span>の<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>った眼のふちだの、妙にしょんぼりとうずくまっている姿勢だのを見ると、僅かばかり会わなかった間に、又いちじるしく老いぼれて、影が薄くなったように思えた。分けても彼の心を打ったのは、今の瞳の表情であった。在来とてもこんな場合に睡そうな眼をしたとは云え、今日のはまるで<ruby><rb>行路病者</rb><rt>こうろびょうしゃ</rt></ruby>のそれのような、<ruby><rb>精</rb><rt>せい</rt></ruby>も<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>も<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>れ果てた、疲労しきった色を浮かべているではないか。

「もう覚えてエしまへんで。―――畜生だんなあ。」

「阿呆らしい、人が見てたらあないに<ruby><rb>空惚</rb><rt>そらとぼ</rt></ruby>けまんねんが。」

「そうだっしゃろか。………」

「そうだんが。………そやさかいに、………済んまへんけど、ほんちょっとの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>、初ちゃん此処に待っててくれて、この<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>締めさしとくなはれしまへんか。………」

「そないして、何しやはりまんね。」

「何もせえしまへん。………ただ、あの、ちょっと、………<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に抱いてやりまんねん。………」

「そうかて、姉さん帰って来まっせ。」

「そしたら、初ちゃん、そっちの部屋から<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>見張ってて、見えたら直ぐに知らしとくなはれ。頼みまっさ。………」

襖に手をかけてそう云っているうちに、もう庄造はずるずると部屋へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って、初子を外へ締め出してしまった。そして、

「リリー」

と云いながら、その前へ行って、さし向いにすわった。

リリーは最初、折角昼寝しているのにうるさい！　と云うような横着そうな眼をしばだたいたが、彼が眼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やに</span>を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてやったり、膝の上に乗せてやったり、<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>すじを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてやったりすると、格別<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>な顔もしないで、される通りになっていて、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くするうちに<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をゴロゴロ鳴らし始めた。

「リリーや、どうした？　体の工合悪いことないか？　毎日々々、<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>がってもろてるか？―――」

庄造は、今にリリーが昔の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いちゃつき</span>を思い出して、頭を押し着けに来てくれるか、顔を舐め廻しに来てくれるかと、一生懸命いろいろの言葉を浴びせかけたが、リリーは何を云われても、相変らず眼をつぶったままゴロゴロ云っているだけであった。それでも彼は背中の皮を根気よく撫でてやりながら、少し心を落ち着けてこの部屋の中を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めてみると、あの<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>で<ruby><rb>癇性</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>な品子の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り方が、ほんの<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な<ruby><rb>端々</rb><rt>はしばし</rt></ruby>にもよく現われているように感じた。たとえば彼女は、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>か二三分の間留守にするにも、ちゃんとこうしてカーテンを締めて行くのである。のみならずこの四畳半の室内に、鏡台だの、<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>だの、裁縫の道具だの、猫の食器だの、便器だの、さまざまなものを並べて置きながら、それらが一糸乱れずに、それぞれ整然と片寄せられて、<ruby><rb>鏝</rb><rt>こて</rt></ruby>の突き刺してある火鉢の中を覗いてみても、炭火を深くいけ込んだ上に、灰が<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に筋目を立ててならしてあり、三徳の上に載せてある<ruby><rb>瀬戸引</rb><rt>せとひき</rt></ruby>の<ruby><rb>薬鑵</rb><rt>やかん</rt></ruby>までが、研ぎ立てたようにピカピカ光っているのである。が、それはまあ不思議はないとしても、奇妙なのはあの皿に残っている卵の殻だった。彼女は自分で<ruby><rb>食</rb><rt>く</rt></ruby>い<ruby><rb>扶持</rb><rt>ぶち</rt></ruby>を<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>いでいるので、決して楽ではないであろうに、貧しい中でもリリーに滋養分を与えると見える。いや、そう云えば、彼女が自分で敷いている座布団に比べて、リリーの座布団の綿の厚いことはどうだ。いったい彼女は何と思って、あんなに憎んでいた猫を大事にする気になったのであろう。

考えてみると庄造は、云わば自分の心がらから前の女房を追い出してしまい、この猫にまでも数々の苦労をかけるばかりか、今朝は自分が我が家の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぐことが出来ないで、ついふらふらと此処へやって来たのであるが、このゴロゴロ云う音を聞きながら、<ruby><rb>咽</rb><rt>む</rt></ruby>せるようなフンシの匂を嗅いでいると、何となく胸が一杯になって、品子も、リリーも、可哀そうには違いないけれども、誰にもまして可哀そうなのは自分ではないか、自分こそほんとうの宿なしではないかと、そう思われて来るのであった。

と、その時ばたばたと足音がして、

「姉さんもうついそこの角まで来てまっせ。」

と、初子が<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく襖を開けた。

「えッ、そら大変や！」

「裏から出たらあきまへん！………表へ、………表へ廻んなはれ！………<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き物わてが持って<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>たげる！　早よ、早よ！」

彼は転げるように段梯子を<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け下りて、表玄関へ飛んで行って、初子が土間へ投げてくれた板草履を突っかけた。そして往来へ忍び出た途端に、チラと品子の後影が、一と足違いで裏口の方へ曲って行ったのが眼に留まると、<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>い物にでも追われるように反対の方角へ一散に走った。