Soranoha

十勝の朝

とかちのあさ

中谷 宇吉郎

機会があったら今一度行ってみたいと思うものは、十勝岳の真冬の景色である。もう五年も前の話になるが、雪の研究のためと言って、二冬続けて、五度ばかりも十勝岳へ行ったことがある。

十勝岳といっても、落着く先は、いつも中腹千メートルあまりの高さの所にあるヒュッテであった。そのヒュッテは、本当は森林管視人の住い家であって、その頃はO老人夫婦が棲んでいた。O老人はその生涯を北海道の雪の山中で過した変り者で、雪の研究などというと、誰よりも喜んで、いつも親切に世話をしてくれるのであった。そして、ここでやった雪の研究もずいぶん面白かったが、それにも劣らぬくらい、このヒュッテの中の生活が、今では楽しい思い出となって残っている。

雪の深山の晴れた朝くらい美しいものも少ないだろう。このヒュッテは二階建になっていて、下には大きいストーブが据えつけられ、二階が寝室になっていた。そして寝る前にO老人がストーブに一杯丸太を詰めこんでおいてくれるので、二階の寝室はちょうど良い暖かさになっている。それでも暁け方目を覚ますと、窓の外の零下二十度に近い寒さが、ひしひしと肩のあたりにしのび寄ってくるのが感ぜられる。外はまだ真暗で、何の声もない。妙に澄み切った静けさである。暖い毛布の中にもぐり込んで、人界を遠く離れた真冬の十勝岳を窓の外に感じながら、うつらうつらしていると、やがて下の部屋でO老人のガタンガタンと丸太をころがす音が聞えてくる。ストーブに火がはいったと見えて、下の部屋が何となく賑かになってくる。煙突へ逃げる焔の音らしい低い連続した響きの中に、パチパチと丸太のはねる音が雑って聞える。そのうちに勝手もとではO老人の細君が起き出したらしく、水を流すような音がしたり、時々器物のふれ合う鋭い小さい音が雑ってきたりする。覚め切らぬ頭の中に、これらの人間的な雑音の誕生と発展とが、妙な夢を齎もたらしてくる。譬たとえようもないが、何か海底の噴火でできた大海の中の孤島に、いろいろの植物や動物が流れ寄って、そこで新しい生命の生長が始まって行くようなとりとめもない夢である。

少しばかり煙の匂いのする暖い空気が、階段をつたって上ってきて、冷えた二階の空気の中に細い線条になって雑り込んでくるのが頬に感ぜられる。やがてその暖い空気の流れが寝床一杯をつつむようになると、覚めかけた脳がまたなだめられて、深い眠りに落ちて行くこともある。

非常によく眠ったような気がして目を覚まして見ると、まだ案外早い。明けるに遅い北国の冬の朝は、やっと今陽が出ようとするところである。窓のすぐ外は一面の氷柱で、その隙間から空が青みがかった薄緑色をのぞかしている。「やあお天気だ。今日は雪の研究はできそうもないぞ、残念ながら一つスキーと行くかな」という元気な声が隣の毛布の中から出る。そうすると、どの寝床も皆一勢にもぐもぐと動き始める。手伝いに来た学生や、オブザーバーとして同行してきたスキー自慢の同僚たちには、誠にめでたく晴れ渡った雪の朝である。

椴松とどまつの枝には、軟い新雪が五寸ばかり昨夜のうちにつもっている。そしてその梢の方は朝陽を受けて薄紅色に輝いているが、下枝の雪にはまだ青みがかった牛乳色の夜が残っている。毛布の中から首を出して、霜の花が一面に咲いた硝子ガラス越しにその色を眺めていると、段々その薄紅が木をつたって下の方へ浸み降りてくる。啄木鳥が一羽、小枝を潜ってこちらの木の幹にとまる。静かに揺れた小枝からは、昨夜のうちに積った軟い新雪だけがさらさらと落ちて、その下に凍りついている旧い雪の大きい結晶がチカチカと光って見える。

下ではもう朝食の用意ができたらしく、味噌汁のにおいがしてくる。そしてこんな朝は、皆の仕度も驚くべく敏活で、見る見るうちにスキー服勇ましい姿が揃って朝食の卓に並ぶのである。

思い出しながらこんなことを書いていると、十勝岳の雪がすぐ身近に感ぜられてくる。早く元気になって、今一度あのヒュッテへ、顕微鏡だのいろいろの器械だのを持ち込んで見たいものである。(昭和一三年二月)

底本 / Source edition

底本:「科学以前の心」河出文庫、河出書房新社
2013(平成25)年4月20日初版発行
底本の親本:「續 冬の華」甲鳥書林
1940(昭和15)年7月5日発行
初出:「新風土」
1938(昭和13)年2月
入力:砂場清隆
校正:安野千歳
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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中谷 宇吉郎「十勝の朝」(新字新仮名)、底本『科学以前の心』河出文庫、河出書房新社、2013年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 059813_001569, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite