Soranoha

物心一如の科学

ぶっしんいちにょのかがく

中谷 宇吉郎

この頃の一番大きい話題は、原子力である。原子爆弾の出現以来、世界中の人間が、原子力の恐怖病にかかった傾向があった。ところが一方最近になって、原子力の平和利用が賑やかに唱えられて来て、原子力時代というような言葉が、盛んに使われるようになった。

確かに、人類は、今新しい勢力エネルギーの世界にはいりつつある。今日の文明は、一昔前、たとえば徳川時代などに較べると、まるで様相がちがっている。その一番大きい要素は電気が使えるようになったからである。

電燈や電車はもちろんのこと、ラジオやテレビなど、昔の人の言葉でいえば、千里眼や順風耳が、現実に現われて来た。それ等は全部、電気のはたらきを利用したものであって、電気が無かったら、人間の生活も、ものの考え方も、今日の姿とは、大分違ったものになったであろう。

電気という新しい勢力エネルギーが発見され、それを人間が自由に駆使出来るようになっただけで、これだけのちがいが出て来たのである。それで新しい原子力という勢力エネルギーが出て来て、それを人間が自由に使えるようになれば、次の新しい時代が招来されることも、当然と言えよう。

それで原子力が、今のところブームになっていて、毎日の新聞やラジオで、原子力という言葉に接しない日は、一日もないといって、決して過言ではない。ところが可笑しなことには、それほど皆の口の端に上る原子力について、その本体を、たいていの人はほとんど知らないでいる。原子力は物質が勢力エネルギーに変化したものだとよくいわれるが、それがどういう意味であるかと聞くと、答えられない人が、大多数である。

この「原子力は、物質が勢力エネルギーに変化したものである」という言葉には、間違いがなく、そのとおりである。しかし物質はものであって、或る実質のあるものである。ところが勢力エネルギーは、力のようなもので、これはものではない。物と物でないものとが、本当は同じものであって、一方が他に移り変われるというのであるから、理解されにくいのが、当然である。

禅の方で、物心一如という言葉があるそうであるが、原子力は、まるでこの禅語を、現実に証明したような恰好である。この悟りのようなものから、現実に原子爆弾が出来たり、原子力発電がされたりしたわけである。如何にも不思議な話であるが、本当は何も不思議なことではなく、物質と普通にいわれているものも、また勢力エネルギーといわれている力みたようなものでないものも、本来ともに、自然界の実体ではなく、人間の頭の中でつくられた概念である。そして自然界の実体は、この両者を融合したところにあって、本来互いに移りかわれるものであったのである。

その説明にはいる前に、まず「物質」と「勢力エネルギー」という言葉の意味を知っておく必要がある。そのうちで、比較的わかり易い物質の方からはいろう。

物質といえば、ものであって、何も説明など要らないわかり切ったことと思われるかもしれない。しかしこれは案外厄介な問題なのである。人間の身体とか、茶碗とか、水とか、というものは、なるほど物であるから、これは物質にちがいない。しかしこれを物と感ずるのは、形が目に見え、またさわってみると硬かったり軟かかったり、とにかく手に触れるからである。

それならば、空気のように目にも見えず、さわってもみられないものは、物質でないかといえば、もちろんこれも物質である。水の場合がわかり易いが、温めて水蒸気にすると、これは全く空気と同じく、目にも見えず、又手にも触れないものになる。鉄瓶の口から出る湯気は白くて目に見えるが、あれは水蒸気ではなく、小さい水滴の集まりである。ところで水蒸気を冷やすとまたもとの水にかえる。水は物質であるから、それが水蒸気になっても、やはり物質と考うべきである。冷やせばまた水という物質に戻るのであるから、途中だけ物質が消えては可怪しな話になる。

手に触れられないもので、やはり物質と考うべきものは、他にも沢山ある。例えば、月や太陽なども、これは物質であると、誰でも考えている。

月というものが天空に存在しているのである。芝居の書割に出て来る月、即ち幕に後から光で照らして作る月は、物質ではない。しかし本当の月はさわっては見られないが、物質である。電波を送ってやると、月から反射して戻って来る。

それでは、物質と物質でないものとを、何で区別するかというと、それはなかなかむつかしい。形や硬さで区別することの出来ないことは、水蒸気の例で既に説明ずみである。色などはもちろん判定要素にはならない。或る茶碗を赤い光で見れば赤に見えるが、青い光で見ると青く見える。しかし色などはどう変っても、茶碗には実質というべきものがあって、それは不変なものであると考える方が至当である。

この不変の実質が何であるか、さらに進んでは、そういう不変の実質というものが果して存在するか否かが、大いに問題である。

ところで科学も、結局は人間がつくったものであって、そういう一つの学問をつくり上げるには、何か基盤になるものが必要である。その一つとして物を取扱う以上ものには実質があって、その実質は不変であるということにしないと、学問を組み立てる足場がない。

茶碗の例についていえば、色はその実質とは関係がない。照らす光によってどうにでもなるからである。形も同様であって、今或る一つの茶碗をとって、それを粉々に割ったとしても、その粉を全部集めたら、茶碗の「実質」は全部揃うわけで、それは割った前と違わないと考える方が至当である。割ったために足りなくなったら、その分は破片を見失なったと考うべきである。

ところで茶碗を割らない前と、割ったあと全部の破片を拾い集めたかどうかを判定するには、一つだけ方法がある。それは目方を測ってみることである。もし目方をはかってみて、以前より少なかったら、破片を見失なったと思うのが普通で、事実、克明に破片を全部拾い集めてみると、目方は変らないのである。人間が台秤の上に載って、立っていても、しゃがんでいても、十五貫三百匁の人ならば、同じ十五貫三百匁である。この十五貫三百匁という目方が、その人の「実質」であって、これは姿勢などによっては変らない値なのである。

すべての物質には、この「実質」があって、これを物理学の方では、質量といっている。しかしそういう耳新しい言葉を使うと、話が不必要にむつかしくなるので、以下質量のことを、実質ということにする。

物質というのは、この実質のあるものであって、要するに目方のあるものなのである。別の言葉でいえば、天秤で目方として感ずるものが、ものの実質であって、そういう実質をもっているものが、物質なのである。空気でも、水蒸気でも、適当な装置を使うと、ちゃんと天秤でその目方が測れるので、従って物質である。月や太陽、また地球も、天秤にかかる性質のもので、その前提の下に計算した日食や月食、その他の天文学的の計算が、実際の値と精確に合うので、月や太陽も物質と考えられるのである。

以上の話を要約すると、物質には、色や形や硬さとは無関係に、実質と称すべきものがあって、それは天秤に、目方として現われる。別の表現では、目方のあるものが、物質なのである。これは非常にはっきりした定義であって、例えば、幽霊が物質即ちものであるか否かは、幽霊に目方があるか否かで決まる。目方があれば、実在のものであるが、無ければものではない。

ところで、このものの実質、即ち質量については、従来から一つの大切な法則があった。それは物質不滅の法則と呼ばれている法則である。物質は、形がどのように変化しても、その実質即ち質量は不変であるというのが、この法則である。実質というからには、これは不変でなくては困るので、もしそれが勝手に変っては、物が消えたり、また現われたりして、学問の組み立てようが無くなってしまう。茶碗の破片が本当に消えたのか、見失なったのか、その判定をする基準が無くなる。

幸いなことには、実際に天秤を使って、精密に測ってみると、物質はその形が変っても、目方は変らないことが証明されている。密閉した硝子器の中に一定量の水を入れて、その目方を測る。それを暖めて水蒸気にすると、液体の水は無くなり、目に見えない水蒸気になるので、硝子器の中には、何も無くなったように見える。しかし目方を測ってみると、前と全然変らないのである。即ち、水は水蒸気に変っても、目方として感ずるその実質は不変なのである。

さらに水素と酸素とを化合させると、水素とも酸素とも全然別のものの水になる。この場合にも、物質不滅の法則は成り立つので、化合前の水素の目方と酸素の目方との和は、出来た水の目方に丁度等しい。これも精密な実験の結果確かめられたことである。即ち物質不滅の法則は、物質が化学変化をする場合にも適用されるということに、少なくも最近までは信ぜられていた。事実、現在ある天秤の精度の範囲内では、そのとおりなのである。

人間が死んだ場合、その遺体を火葬に付する。その時遺体が燃えて出来たガスを全部集めて、その目方を測る。それに残った遺骨と灰との目方を加える。この場合、燃えるというのは、空気中の酸素と化合することであるから、付け加わった酸素の目方だけ、この値から引く。するとその差し引きした目方は、火葬前の遺体の目方と等しい。即ち遺体の実質は火葬にしても変らないのである。これは実測した例はないであろうが、そうあるべきである。事実、本当に実験してみたら、そのとおりになるにちがいない。そうでなかったら、今日の科学は全部間違っていたことになる。即ち人間の身体の実質の量は、火葬にしても変らないのである。

魂があるか無いかということが、よく問題になるが、これは「ある」という言葉の意味によって、どうにでも返答が出来る。人間が生きている以上、魂はあるにちがいないがそれがものとしてあるか否かは、別問題である。ものとして存在するなら、魂に目方があるはずである。

中世の終り頃、これが問題になって、実験をした人がある。死の直前と直後とに、体重の変化があるか否かを測ってみたのであるが、魂の目方だけ減るというはっきりした結果は出なかった。魂に目方があるとしても、どうせ軽いものに違いないから、目方をよほど精密に測らないと、その差は出て来ない。一方人間の目方は、精密なところでは呼吸をしたり、汗が出たりするので、始終変化している。それで魂の分が、その変化の範囲内だと、測っても出て来ないはずである。それで実験は一寸出来ないであろうが、現在の科学の範囲内では、魂には目方がない。即ちものではないと信ぜられている。

以上の話を要約すると、物質というのは、目方のあるもので、その目方は、物質がどのように変化しても変らないということになる。もっとも、変らないというのは、現在の最も精密な天秤で測ってみても、差が出て来ないという意味である。天秤の精度が、今の一億倍も増したら、そういう天秤で測れば、状態の変化によって、目方即ち実質が変化するかもしれない。しかしそういう天秤が出来るまで、何もしないで待っているわけには行かないので、現在までのところでは、ものの目方は不変だとして、その基盤の上に立って、科学をつくり上げて来たわけである。実際に測ってみると、天秤の精度のきりきりのところでは、少し差が出て来る。しかしそれは天秤の誤差だとする。別の言葉でいえば、もののいろいろな性質の中で、目方として現われる性質が、その実質であって、この実質は、状態が変化しても、不変であり、この性質をもっているものを、物質というのである。これだけの説明をして、初めて、禅学で使われる物質という言葉の意味が、はっきりしたわけである。

これでわかったことはものの実質とはいうものの、案外に人間的要素がはいっている。実質というからには、何か一定なものでないと困る。始終変化するものならば、実質ではなく、仮りの姿である。それで状態が変化しても、不変に残る性質が何かないかと探して行って、目方につき当ったわけである。物の目方は、現在の天秤の精度の範囲内では、状態が変っても、不変である。それで目方として現われる性質のもとを実質(質量)とみて、そういう実質をもっているものを、物質としたのである。それで、物の実質といっても、全然人間を離れたものではなく、いわば人間が自然の中から掘り出した概念であるから、それが変化して、勢力エネルギーになっても、不思議ではない。というのは、勢力エネルギーもまた人間が自然界の変化する現象の中から掘り出した概念であるからである。

次には、勢力エネルギーについて説明する必要がある。エネルギーについても物質と似たような法則があって、エネルギー不滅の法則といわれているエネルギーは、物理学の方では、ちゃんとした定義があるが、要するに、自然界に起こっているいろいろな変化の原動力になる勢力と思えばよい。

ふり上げた槌には、杭を打ち込む能力があり、飛んで行く矢には鳥を射落す能力があり、熱には機関車、従って汽車を引張って走る能力があり、電気や放射線にも、それぞれに或る仕事をする能力がある。こういういろいろな原動力のことをエネルギーという。エネルギーには、それで機械的エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギーなど、いろいろあるが、それ等は互いに他に変化することが出来る。

例えば、水力電気は、水の落ちた力を電気エネルギーに変えたものである。その電気で、電燈をつけたり、電熱器を働かせたりすることは、電気エネルギーを光のエネルギーや熱エネルギーに変化をさせることである。ところでエネルギーが、このようにいろいろ形を変える時にも、大事な法則があって、それはエネルギーの量は形が変っても不変であるという法則である。このエネルギー不変の法則と、前にいった物質不滅の法則との二つが、今までの物理学、ひいては科学全般の基盤であって、この基盤の上に、現代の科学がきずかれて来たのである。

もっともエネルギー不滅の法則も、絶対的の法則ではない。物質不滅の法則が、現在の天秤の精度の範囲内で確かめられているように、エネルギー不滅の法則も、もちろん実験の精度の範囲内での話である。ところで、エネルギーは測定がむつかしいので、エネルギーを測る実験は、物質の量即ち目方を測る実験よりも、精度がひどく落ちる。目方の方は、一千万分の一くらいまでの精度で測れるが、エネルギーの方は、千分の一くらいの精度を得ることすら難しい。前に述べたように、熱もエネルギーの一つであるが、これなどは精密に測っても、千分の一くらいの精度である。それで機械的エネルギーが熱エネルギーに変ってもエネルギーの量は不変である、といわれているが、実験的に精密に確かめられているわけではない。千分の一くらいのところでは、変化があるのであるが、それは実験の誤差だとする。

それで物質不滅の法則も、エネルギー不滅の法則も、ともに公理と見ることも出来る。そういう公理を立てて、それに基づいて、学問を組立てたのが、今日の現代の科学であった。公理とはいっても、人間の頭の中で、勝手につくったものではなく、いろいろな実験の結果から推定したものである。そしてそれに基づいた科学が、必要とする精度の範囲内で自然現象をよく説明し、また役にも立つので、その公理は正しいものとされて来たわけである。

ところで、物質の方は一応よいとして、エネルギーの方には、一つの問題がある。それはいわゆる化学変化で発生するエネルギーである。例えば、水素と酸素とを混ぜて、火をつけると、爆発を起こして、水になる。初めは、水素も酸素も、透明な気体で、別にエネルギーなどもっていないように見える。出来た水も、ただの水であって、飲んでもちっともかまわない。ただの水であるから、これも別にエネルギーなどもっていないと思われる。ところが爆発というのは、非常な高熱と光とを出す現象であるから、水素と酸素とが化合する時に、多量の熱や光のエネルギーが出たわけである。そういうエネルギーが「無から有が出て来た」形で発生したものならば、これはエネルギー不滅の法則に抵触する。不滅というのは、無くならないというだけではなく、発生しないことも意味している。本当は恒存といった方がよいので、形がかわるだけで、量は変らないということである。水素と酸素などというと、何か学問的なことのように聞えるが、薪を燃やす場合でも同じことである。薪を燃やすと、熱エネルギーが出て来るが、このエネルギーは、何処から出て来たのであるかという問題がある。

これは今までは簡単に片付けられて来ていたので、こういう物質は、内部にそれだけのエネルギーをかくして持っていたとするのである。それを「内部エネルギー」といっている。水素も、酸素も、また水も、それぞれ内部エネルギーをもっている。しかし水素と酸素との持っている内部エネルギーの和は、水の内部エネルギーよりも大きい。それで化合して水になった時は、その差だけのエネルギーが、爆発のエネルギーとなって現われる、と説明して来た。これだとエネルギー不滅の法則に合う。というよりも、エネルギー不滅の法則を先に決めて、それに合うように、内部エネルギーの方を決めたのである。

エネルギーが出て来た時は、それだけのエネルギーが、内部エネルギーとして、初めからその物質の中にあったとする。一方内部エネルギーというものは、誰も見ることの出来ないものである。それでこの説明は、エネルギー不滅の法則を守るための、一種の胡麻化しのようにもとれる。しかし全くの胡麻化しではない。水素や酸素だけでなく、いろいろな物質間に、反応を起こさせて、その時出るエネルギーを測れば、各々の物質の内部エネルギーを決めることが出来る。その値から、他の化学変化の時に出るエネルギーを計算してみると、その化学変化で実際に発生するエネルギーの値と一致する。そういう意味では、内部エネルギーが存在していて、それにもエネルギー不滅の法則が適用されると見てよい。しかしこれは、本当のところは、辻褄が合うというだけで、内部エネルギーの本態が何であるか、という問題には触れていない説明である。もっとも本態など知らなくても、役に立てばよいので、従来は、こういう考え方で、化学、即ち化学反応を主として取扱う学問が出来ていたのである。

ところが、近年の物理学の華々しい進歩によって、とんでもないことが見付かった。それは初めは、理論的に出されたので、物質とエネルギーとは、相互に転換され得るものだというのである。即ち、物質は不滅ではなくて、時には消えて無くなることもあるが、その時にはエネルギーが出現して来る。逆にエネルギーが物質に変ることもある。相互に転換されるというのは、物質とエネルギーとが変り合う時に、その比率が一定だということも含んでいる。本当は物質といってはいけないので、物質の実質、すなわち質量のことなのである。物質は何でもよいので、その実質一グラムは9×1020エルグ(九の下に零が二十個つく数字、エルグはエネルギーの単位)のエネルギーに相当する。これは一兆の十億倍というとんでもない大きい数値である。一グラムといえば、きわめて僅かな目方であるが、それが消えると、とんでもなく大きいエネルギーが出現することになる。原子力というのは、このエネルギーなのであって、原子爆弾が非常に強力であることも、当然の話である。

物質がエネルギーにかわり得るとすると、今までの物質不滅の法則は、もはや適用されなくなる。前に述べた水素と酸素とが化合する場合についていえば、出来た水の目方は、もとの、水素と酸素との目方の和に等しい。従ってものの実質は不変である。というのが、従来の考え方であった。ところがこの化合の時に、爆発という形で、大きいエネルギーが出て来る。このエネルギーは、物質がその分だけ減って、それがエネルギーとなって現われたとすると、新しい考えに合う。そうすれば、内部エネルギーというような今まで曖昧だったものも、その本態が解明される。しかし実質はそれだけ減るので、物質不滅の法則は棄てなければならない。

どっちが正しいか、実験してみたら良いと思われるかもしれないが、それは従来の方法では出来ない。物質とエネルギーとの比率が、あまりにも大きい数なので、爆発の時に出て来るエネルギーくらいの分は、物質の目方の減少としては、非常に小さく、どんな精密な天秤をもって来ても、測定が出来ないのである。

ところが、原子物理学が非常に進歩したために、この頃では、分子や原子一つ一つの行動がわかるようになった。これは、間接にいえば、天秤の精度が、今までのものより、一億倍も、一兆倍も増したことになる。それで一グラムの物質が、9×1020エルグの勢力に転換されることが実証され、それで現実に、原子爆弾や、原子力発電が出来ることになった。

それで厳密にいえば、物質不滅の法則も、エネルギー不滅の法則も、ともに適用されないことになったが、「不滅の法則」そのものは、依然として残っている。一グラムの物質が消えると、9×1020エルグのエネルギーが出現し、その逆も成り立つのであるから、「物質+エネルギー」の量は、やはり不滅だということになる。

此処に一つ大切な問題がある。測定にかかるほどの物質が消え、巨大なエネルギーが出現するというような激しい現象について、本当は、消えた物質の量や、出て来た巨大なエネルギーの量を、精密に測定することは出来ない。むしろこれは理論的に出した比率を仮定して、現象を説明しているわけである。

結局、何か不滅のもの、或いは一定のものを求めて、それをものの本態としないことには、学問の組み立てようがない。それで、物質とエネルギーとの和を不変と見る。即ちそれを実体と見ることにしたのである。それも間違っているかもしれないが、それで原子力の利用が出来れば、充分満足すべきなのである。

現在の科学は、自然界の実体を、物質とエネルギーとの和であるとする。そういう渾然たるものが実体であって、それが、或る場合には、物質(もの)として現われ、或る場合には、エネルギー(ちから)として現われる。普通の変化、例えば薪が燃えたり、水が凍ったりする場合には、エネルギーに転換される物質の量は、あまりにも微量なために、物質だけで不変の法則が成立するように見える。しかし原子がこわされる時のような激しい変化では、物質の一部が消えて、エネルギーに変わることが、測定し得るくらいの量になる。しかしこの場合にも、「物質+エネルギー」の量は、不変である。

こういうふうに考えると、原子力だけが、特別な力でないことが、了解されるであろう。しかし目方のあるもの、即ち物質と、目方にはかからないちから、即ちエネルギーとが、本来同じものである。正確にいえば、その和が自然界の実体である、という発見は、人類の知識の一大進歩である。

こういうことが、実証的に示されたのは、近年の原子物理学の大功績である。しかしこういう考え方は、以前にもあったので、前世紀の末頃活躍した、ドイツの生物学者兼哲学者のヘッケルは、その主著『宇宙の謎』において、盛んに彼の一元論を説いている。彼はまず生物と無生物との一元論を論じ、さらに進んでは、物質不滅の法則と、エネルギー不滅の法則とは、融合すべきもので、この両者の融合したものが不滅であるとした。それが宇宙を全体としてまとめた、彼の一元論である。

仏教の方には全く不案内であるが、物心一如という言葉は、ずっと昔からそうである。この方は、ヘッケルほどはっきりした主張ではないかもしれないが、何か不変なものに実体を求め、その中に物(もの)と心(ものではないもの)とを含めているところに、最近の科学と一脈通じたものがある。対象は全くちがっていても、人間のものの考え方には、互いに一脈通ずるところがあるものらしい。

(昭和三十四年)

底本 / Source edition

底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
底本の親本:「禪文化 第七号」花園大学禪文化研究会
1957(昭和32)年3月15日発行
初出:「禪文化 第七号」花園大学禪文化研究会
1957(昭和32)年3月15日発行
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2024年4月21日作成
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書誌 / Bibliography
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中谷 宇吉郎「物心一如の科学」(新字新仮名)、底本『中谷宇吉郎随筆選集第三巻』朝日新聞社、1966年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 059796_001569, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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