Soranoha

九谷の皿

くたにのさら

中谷 宇吉郎

支那の古い時代の青墨の色に、興味をもったのは、高等学校の学生時代である。

四高へ通っていたころ、中村浩さんという日本画家と知り合いになった。油絵から転向した人で、色にはきわめて敏感であった。支那の名墨の墨色図鑑を自分でつくって、秘蔵していた。旧家やこっとう屋を回って、ちょっと磨すらせてもらって、その墨色を収集したものである。

それ以来、興味はもっていたが、名墨の物理的研究までは、さすがに手が出なかった。しかし戦後になって、度胸をきめて、少し手がけてみた。電子顕微鏡だの、X線だのを使って調べてみて、やっと少しわかった。名墨といわれるものは、粒子が円く、全体として半ば結晶質になっているのである。

初めは墨色の研究のつもりだったが、だんだん嵩こうじてきて、とうとう一昨年は、墨絵の展覧会までやった。私の墨絵の高弟で、出藍しゅつらんの誉れ高い、岩波の小林勇君との二人展である。

小林君は、高弟というと腹を立てるが、これは警視庁ご証明づきであるから、仕方がない。そのてんまつには、ここではふれる暇がない。

それ以来、二人ともますます熱が上がってきた。小林君は、そのうちに、今の仕事を止めて、画家として立ちたい希望のようである。鉄斎だって、六十歳以後の絵がよいのであるから、今からでもおそくはない。熱心の度がちがうし、それに天分もあるらしい。めきめき上手になって、亡くなられた安井曾太郎さんだの、矢代幸雄先生だのにほめられている。ほんとに画描きになるかもしれない。

私の方は、どうもはかばかしくない。物理学が邪魔をしているのだろうと、自分では解釈している。花だの、野菜だの、生きているものは、どうも造花か、模型みたいになってしまう。

それで硝子器だの、陶器だのという堅いものを、主として描くことにしている。これは克明にさえ描けばよいので、楽である。九谷の絵ざらなど、たいへん複雑なようであるが、根気よくあの密画のまねをしていると、ちょっと見には、如何にも九谷らしくなる。

娘は自分でも絵を描いているので、おやじの絵の天分は、すぐわかるらしい。「パパはそれに限る。墨絵のダッチスクールの開祖になったらいいわ」と、慰めてくれている。

細君の方は、もっと実利的である。「子供のころに、一毫さんのところに預けられていたのがよかったのよ。紙に描くのはつまらないから、サラにお描きなさい。九谷工になれるわよ」という。父は私を九谷工にするつもりで、小学校のころ、当時の名工浅井一毫さんの家へ、しばらくあずけたことは事実である。

これはよい考えなので、目下思案中である。小林君が鉄斎級になったころ、私が一毫級になっていたら、ちょうど釣り合いがとれるであろう。(昭和三十六年三月)

底本 / Source edition

底本:「中谷宇吉郎随筆選集第三巻」朝日新聞社
1966(昭和41)年10月20日第1刷発行
1966(昭和41)年10月30日第2刷発行
初出:「東京新聞」
1961(昭和36)年3月
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/059774_001569/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/059774_001569/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/059774_001569/

中谷 宇吉郎「九谷の皿」(新字新仮名)、底本『中谷宇吉郎随筆選集第三巻』朝日新聞社、1966年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 059774_001569, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite