「好い船だろう、え？」

だしぬけに声をかけられて、ガルールはふと顔をあげた。彼は波止場に腰をかけて両脚をぶら<ruby><rb>垂</rb><rt>さ</rt></ruby>げたまま、じっと考えこんでいたのであった。

で、顔をあげると、一人の見知らぬ男が、<ruby><rb>背</rb><rt>うし</rt></ruby>ろから屈みこんで、向うに碇泊している帆船の方を<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>でしゃくっていた。

「好い船だろう？」

「うむ」ガルールは簡単に合槌をうった。

港は、海員の<ruby><rb>同盟罷業</rb><rt>ストライキ</rt></ruby>が長びいたために、ひっそり寂れてしまって、沈滞しきった姿を呈していた。

男はガルールの頭のてっぺんから、真黒に<ruby><rb>陽炎</rb><rt>ひや</rt></ruby>けのした頑丈な頸筋や、広い肩や、逞ましい腕のあたりをじろじろと見た。<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>シャツを<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>りあげた二の腕に「禍の子」「自由か死か」という物凄い入墨の文字が顔を出しているのをも、彼は見逃さなかった。

と、今度はガルールが、相手の<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>をじろじろと見かえした。その男も陽に<ruby><rb>炎</rb><rt>や</rt></ruby>けて筋骨逞ましく、手の甲の<ruby><rb>拇</rb><rt>おや</rt></ruby>指のところに碇の入墨がしてある。そして青羅紗の広い上衣に、折目正しいズボン、金筋入り<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>紐つきの帽子――これを<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>服姿のガルールなんかに較べると、まるで段ちがいに立派な服装だ。

ガルールは横っちょにペッと唾を吐きながら<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちあがって、ズボンの裾を<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>りあげて立ち去ろうとすると、男は馴々しく肩へ手をかけて、

「ねえ君、そこいらで一杯<ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>ろうじゃないか」

湿っぽい夕風が身に沁みる。近所の酒場では、硝子窓の外の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>をすかしながら、ちびりちびり<ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>っている時分だ。

ガルールは酒と聞いて鼻をひこつかせたが、

「一杯<ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>ろうなんて、どうしたんですか？」

「飲みたくなったからさ」

海にも<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が入った――帆船の黄色い灯や、突堤の端に碇泊している監視船の青と赤の灯が、ちろちろ瞬きはじめた。

煙のように棚びいている夜霧のために、船の<ruby><rb>帆檣</rb><rt>ほばしら</rt></ruby>も海岸の人家もぼうっとぼかされ、波止場に積まれた<ruby><rb>袋荷</rb><rt>ふくろに</rt></ruby>や<ruby><rb>函荷</rb><rt>はこに</rt></ruby>も霧に<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>められて、その<ruby><rb>雨覆</rb><rt>ほろ</rt></ruby>にたまった雫の珠がきらきら光っていた。

男は先に立って、海岸のうす暗い路地の方へぐんぐん歩いて行ったが、とある小さなカッフェの戸口を開けると、ガルールを押しこむようにして奥の方の席に導いた。

そこは、天井が薄黒く<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>け、壁のところどころに安物の石版画が貼りつけてあった。アルコールや、<ruby><rb>鰊</rb><rt>にしん</rt></ruby>樽や、煙草の<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>いの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むっ</span>と籠った<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>で、帳場のそばには貧弱な暖炉が燃えていた。

「酒は何がいい？」

「シトロン酒の<ruby><rb>強</rb><rt>きつ</rt></ruby>いやつを飲まして下さい」

ガルールは、男が出してくれた煙草を捲きながら答えた。

酒が来ると、ガルールは一息に飲みほした。男も一息に、しかし幾らか<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆっ</rt></ruby>くり加減に<ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>り、<ruby><rb>不味</rb><rt>まず</rt></ruby>そうに手の甲で<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>を拭いて、何か考え事でもするように、<ruby><rb>洋酒</rb><rt>コップ</rt></ruby>の底をいじくりながら、

「一体君は、<ruby><rb>職業</rb><rt>しょうばい</rt></ruby>は何だね」

「そういうお前さんは？」

「おれかい。おれは<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>君も見たラ・ベル・フィユという<ruby><rb>二檣</rb><rt>にしょう</rt></ruby>帆船の運転士だがね、<ruby><rb>姓名</rb><rt>なまえ</rt></ruby>は……聞きたければ教えてもいいが」

「こうお<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>を願ったからには、聞かしてもらいたいね」

「おれはモッフっていうんだが、君は？」

「<ruby><rb>私</rb><rt>わっし</rt></ruby>はチューブッフ（牛殺の意）」

「そんな<ruby><rb>姓名</rb><rt>なまえ</rt></ruby>があるものか」

「でも、それで<ruby><rb>私</rb><rt>わっし</rt></ruby>が返事をして、用が足りたらいいでしょう」

「それはどうでもいいが、兎に角、大いに<ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>ろうじゃないか」

ガルールは二皿の料理を瞬く<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>に平らげ、更になみなみと注いだ酒を飲み乾したが、それで<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と人心地がついたように、ほっと一息した。

次の皿には、焼豚がさも<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>そうにほやほや煙を立てているが、モッフは、それを<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>けるべくフォークを構え、ナイフをその肉にずぶりと突き刺したのを<ruby><rb>機会</rb><rt>きっかけ</rt></ruby>に、肝腎の話を切りだした。

「実はいい仕事があるんだが、君、一つ<ruby><rb>試</rb><rt>や</rt></ruby>ってみる気はないか」

「物によりけりですね」

といいながら、ガルールは皿の肉から眼が離せない。

「なアに、ぶらぶらしていて金になろうという仕事だよ。それはこうなんだ」とモッフは何故か声をひそめて、「おれは今もいったように、ラ・ベル・フィユ号の運転士だが、あの船は見たところ、小さくて弱そうだけれど、なかなか<ruby><rb>確</rb><rt>しっ</rt></ruby>かりした船だよ。あれよりもずっと立派な五本<ruby><rb>檣</rb><rt>マスト</rt></ruby>の帆船や大きな汽船が<ruby><rb>暴風</rb><rt>しけ</rt></ruby>を<ruby><rb>喰</rb><rt>くら</rt></ruby>って避難港をさがしている時でも、<ruby><rb>彼船</rb><rt>あれ</rt></ruby>は平気なんだからね。ところで君は船に乗った経験があるかい？」

「ええ」

「遠洋かね？」

「なアに鼻っ先のレエ島へ行ったばかりでさア」

「貨物船だろうな？」

「ええ、それじゃ駄目ですかね」

と<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>そうな眼付で相手の顔色を窺った。

「結構結構。どうせ腕っ節の要る仕事なんだ」

「そんなら、お前さんの船は<ruby><rb>同盟罷業</rb><rt>ストライキ</rt></ruby>じゃないんですね？」

「警戒おさおさ怠りなしさ。何しろ船長は支那人を二十人ばかり雇いこんだが、<ruby><rb>其奴</rb><rt>そいつ</rt></ruby>等は馬鹿に忠実で、よく働いて、僅かな給料と半人前の<ruby><rb>食物</rb><rt>くいもの</rt></ruby>を充てがわれ、軍艦同様な<ruby><rb>八釜</rb><rt>やかま</rt></ruby>しい規則にも、不平一つ云わずに服従しているんだ。ところが、おれは密かに彼等を語らって、船長に対して一騒動起そうという計画なんだ。あの連中は腕っ節も強いし、頭もあって<ruby><rb>確</rb><rt>しっ</rt></ruby>かりした手合だが、どうだい君も仲間に入らないか」

と彼は膝を乗りだして、一段と<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>になって、

「ところで、こうした闘いは一遍にどっと勝を占めてしまわねばならん。一騎打ちをやっていた日にはどうなるか分らないからね。それに、おれの方の一味は二十人だが、いざとなると五、六人はきっと逃げるものだ。そこで君のような強い男が十人も加勢してくれると、わけないんだがなア」

「それはいいが、お前さんは船長達を<ruby><rb>殺</rb><rt>やっ</rt></ruby>つけた後で、港へ入れますか？　そこんところを<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>ういって弁解するつもりかね？」

するとモッフは肩をそびやかして、

「そりゃ君、<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>へ帰ることは疑問さ。しかし<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>にばかり日が照りはしないよ。大洋は万人の<ruby><rb>領域</rb><rt>くに</rt></ruby>で、港に事を欠かぬ。そこでは危険も幸運も共通だ。おれ達は自由に生きようではないか。最初に着いた港で船荷を売払って、他の品物を仕入れる。ポケットに金があるうちは<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>で好き放題に遊んで、金がなくなればまた航海さ」

ガルールはもう<ruby><rb>飲食</rb><rt>のみくい</rt></ruby>どころではなかった。彼は眼を細めて、遠い、太陽と夢幻の国へ航海する光景を、<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>と夢見ているのであった。

「どうだい、金は使いきれないほど儲かるんだぜ。あの魔法使が一夜に建てたかと思われる、夢のような<ruby><rb>都市</rb><rt>まち</rt></ruby>へ行ってみたまえ。彼等は<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>にも鞭で奴隷を使っていて、夜が昼のように華やかなんだ。永遠の春だね。それに、お<ruby><rb>伽</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>にあるような不思議な鳥や、世にも珍らしい香料……」

モッフの話は、まるで音楽のようにガルールの耳をこそぐった。

「素的素的」ガルールはすっかり<ruby><rb>誘入</rb><rt>ひきい</rt></ruby>れられてしまって、「その加勢の<ruby><rb>人数</rb><rt>にんず</rt></ruby>は<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>が引受けます。一週間と経たないうちに、きっと纏めてつれて来ます」

「一週間なんて、暢気なことを云っちゃ困る。明日の晩までに集めてくれないか。船は明日の<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>の満潮と同時に出帆することになっているんだ」

「そいつア早過ぎますね。だが、一つ<ruby><rb>試</rb><rt>や</rt></ruby>ってみましょう。それで、手筈はどうすればいいんですか」

「明日の今時分に船へ来てくれ。その時分にはおれの外に誰も甲板へ出ていないが、ひょっとして見付かると<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>けないから、目立たぬように、二、三人ずつ<ruby><rb>密</rb><rt>そっ</rt></ruby>とやって来たまえ。事を挙げるまでは、少しの間<ruby><rb>船艙</rb><rt>せんそう</rt></ruby>に隠れていて貰わにゃならんが、そこはだだっ広いから、君等は鱈腹食って飲んで<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>ころんでいてくれればいいので、その代り物音を立てたり、大声で<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ったりしては<ruby><rb>不可</rb><rt>いか</rt></ruby>んよ。そして三、四日目におれが合図をしたら飛出して思う存分に働いてくれ。つまり君等は伏兵なんだ。いいか？」

「わかりました」

恰度九時が打ったので、二人は明日の再会を約して別れた。

モッフが重い<ruby><rb>歩調</rb><rt>あしどり</rt></ruby>で波止場の方へ帰ってゆくと、ガルールは<ruby><rb>遽</rb><rt>あわた</rt></ruby>だしく場末の汚い街へ姿を消した。

ラ・ベル・フィユ号が出帆してから四日目のことだ。<ruby><rb>渾名</rb><rt>あだな</rt></ruby>チューブッフことガルール、渾名フィヌイユことマロン、渾名クールドースことシャブルトンという名うての悪漢と、その手下の<ruby><rb>破戸漢</rb><rt>ごろつき</rt></ruby>七人、都合十人の荒くれ男が、密閉された、真暗な船艙の中で、穏かならぬ語気で何かぶつぶつ<ruby><rb>論争</rb><rt>いさかい</rt></ruby>をやりだした。

彼等は<ruby><rb>船暈</rb><rt>ふなよい</rt></ruby>でへとへとになっている上に、<ruby><rb>充</rb><rt>あて</rt></ruby>がわれた食糧は、まる四日間にすっかり食い尽してしまって、今は、石のように堅くなった<ruby><rb>麺麭</rb><rt>パン</rt></ruby>の皮や、腐った果物の<ruby><rb>片</rb><rt>かけ</rt></ruby>ら一つでも鼠と争わねばならなかった。

今、マロンが、彼等を狩集めた張本人のガルールに喰ってかかった。

「おい、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>が腕を貸せっていうから、おれ達は加勢に来たんだ。こんな穴ん中へ<ruby><rb>燻</rb><rt>くす</rt></ruby>ぶりに来たんじゃねえ」

「まったくだ。<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目に遭わせやがったな。おれ達を元へ<ruby><rb>返</rb><rt>けえ</rt></ruby>してくれ」

とシャブルトンも<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>し立てた。

「まア<ruby><rb>左様</rb><rt>そう</rt></ruby>云わずに、モッフから合図のあるまで待ってくれ」

ガルールは一生懸命<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めにかかったが、<ruby><rb>饑渇</rb><rt>きかつ</rt></ruby>で<ruby><rb>自暴自棄</rb><rt>やけくそ</rt></ruby>になった九人の男は、そんな言葉を耳にもかけず、気色ばんでじりじりと詰め寄った。

「おいチューブッフ、上へ<ruby><rb>昇</rb><rt>あが</rt></ruby>って様子を見て来い。でなければ……」

と呶鳴ったのはシャブルトン、<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>の中でナイフを握っている気配だ。

ガルールは梯子に<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まると、黙って船艙の入口から上の方へ昇って行った。彼は仲間の威嚇に恐れたのではないが、そのとき甲板の方が妙に<ruby><rb>寂然</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>となったわけを見とどけたいと思ったのであった。

船艙では、<ruby><rb>破戸漢</rb><rt>ごろつき</rt></ruby>どもが首をのばしてガルールの帰りを待っていたが、間もなく<ruby><rb>大濤</rb><rt>おおなみ</rt></ruby>がどっと船の横っ腹へ<ruby><rb>打衝</rb><rt>ぶっつ</rt></ruby>かって船体がはげしく揺れだすと、<ruby><rb>帆檣</rb><rt>ほばしら</rt></ruby>がギイギイ鳴る。綱具が軋む。それに、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>の中を太々しく駆けずり廻る鼠の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>。

暫くして、突然、何か<ruby><rb>巨大</rb><rt>おおき</rt></ruby>な物が海へ落ちこんだ物音に、彼等はぎょっとして跳びあがった。

「恐ろしく揺れるなア」

「<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>ったもんじゃない」

さすがの悪漢等も、この激しい動揺が<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らなく不気味だった。彼等は海上のことは全く無経験な上に、<ruby><rb>饑</rb><rt>うえ</rt></ruby>でひょろひょろになっていて、しかも武器といってはナイフ一挺しか持たないので、こんなとき、訓練のとどいた三、四十人の<ruby><rb>船乗</rb><rt>ふなのり</rt></ruby>に立向われたら――と思うと<ruby><rb>慄然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>としないわけに行かなかった。

それから約半時間経って、ガルールが、船燈を手にして<ruby><rb>密</rb><rt>そっ</rt></ruby>と梯子を降りて来た。

「おい大変だぞ。<ruby><rb>此船</rb><rt>これ</rt></ruby>は<ruby><rb>空船</rb><rt>からふね</rt></ruby>なんだ。人っ子一人居やしない」

「な、何だって？　人がいない？」

「うむ、ガラ空きだ。おれは<ruby><rb>船首</rb><rt>へさき</rt></ruby>も、<ruby><rb>船尾</rb><rt>とも</rt></ruby>の方も、上から下まで探した。大きな声で呼んでみた。けれど<ruby><rb>誰</rb><rt>だアれ</rt></ruby>もいやしない。<ruby><rb>舵</rb><rt>かじ</rt></ruby>にも、<ruby><rb>帆檣</rb><rt>ほばしら</rt></ruby>にも、甲板の何処にも、まるで人がいないんだ」

「<ruby><rb>〆</rb><rt>しめ</rt></ruby>たっ！　この船はおれ達の<ruby><rb>所有</rb><rt>もの</rt></ruby>だ！」

誰かが頓狂な声で叫ぶと、

「万歳万歳」

皆が一しきり興奮して、矢鱈に嬉しがったが、

「馬鹿」ガルールは苦笑いをして、「おれ達の<ruby><rb>所有</rb><rt>もの</rt></ruby>になったって、この中に船を動かせる奴は一人もいやしねえ」

そう云われてみると、成るほどそれは容易ならぬ問題だ。彼等は急に心細くなって、暗がりで顔は見えないけれど、互いに手を探り合った。

彼等はこの船の中に、しかも大洋の只中に捨てられたのだ。そうした不可思議と<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>が、<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>と恐ろしくなって来たのである。

或る者は<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>くそになって、途方もなく大きな声で呶鳴りだした。或る者は恐怖と<ruby><rb>饑</rb><rt>うえ</rt></ruby>で<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>のように髪を掻きむしっているかと思うと、或る者はまるで子供のように泣き喚いた。その中で、

「皆、甲板へ出ようじゃないか。愚痴をいっている時じゃねえ」

と声を励ましたのはマロンだった。そして梯子へ手をかけると狂っていた者達も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と我れにかえって、今度は先を争うて上へ昇って行った。

甲板は気味わるいほど<ruby><rb>寂然</rb><rt>ひっそり</rt></ruby>して、強風の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に船体は傾斜したまま、盛んに<ruby><rb>潮烟</rb><rt>しおけむり</rt></ruby>を浴びながら<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>っていた。動揺は少し収まったけれど、それでも殆んど<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>っていられないくらいだった。墨を流した空の下に、怪物のような<ruby><rb>巨濤</rb><rt>なみ</rt></ruby>が起伏して、その大穴へ船が<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちこんでゆくときは、今にも一呑みにされるかと思われた。

「そら来た……ほう……ほう……」

彼等はその度に声を揃えて叫んだ。

ところが、ふと、遠くの方で微かにその叫びに答えるような声がした。何だか錯覚としか思えないほど微かな声だったが、彼等はじっと耳を傾けた。けれど、もう何も聞えなかった。

ガルールは、それから夢中になって<ruby><rb>船床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>を探し廻った。そしてふと穴のような<ruby><rb>凹</rb><rt>へこ</rt></ruby>みへ首を突込むと、

「あっ、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>だ」

早速下へ跳び降りて、方々の<ruby><rb>箝板</rb><rt>はめいた</rt></ruby>を叩き廻っているうちに、一つの戸口がすっと開くと、彼は喜びの叫びをあげながら、そこへ飛び込んだ。他の者達もつづいて入って行った。そこは奥行約二十メートル、高さ二メートルほどの可成り広い<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>だったが、その<ruby><rb>中央</rb><rt>まんなか</rt></ruby>に、素足に<ruby><rb>木履</rb><rt>サボ</rt></ruby>を穿いて革服を着こんだモッフが黙然と突立っていた。その姿を見ると、悪漢共は、地獄で仏に逢ったような気持でほっとした。

運転士を見つけた。これで生命は大丈夫だと思うと、ガルールは急に強気になって、

「一体どうしたんですか？」

<ruby><rb>嚇</rb><rt>おどか</rt></ruby>すように呶鳴りつけると、モッフは黙って、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に並んでいる腰掛を<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>した。そこには、天井からぶら<ruby><rb>垂</rb><rt>さが</rt></ruby>ったカンテラに照されて、十人ほどの荒くれ男が正体もなく転がっていた。

「これが乗組員の残りだよ」

「えっ、そんならあの件を<ruby><rb>実行</rb><rt>やっ</rt></ruby>たんですか？」

「うむ、<ruby><rb>行</rb><rt>や</rt></ruby>ったよ」とモッフは首を振りながら、「今夜八時に突発したんだ。おれの方では九時に事を挙げる予定で、それぞれ<ruby><rb>部署</rb><rt>もちば</rt></ruby>をきめて、<ruby><rb>艙口</rb><rt>ハッチ</rt></ruby>も開け放して、いざといえば君等に飛出して貰う手筈までつけたんだが、敵が早くも感づいたらしく、おれが自分の持場へ行こうとすると、<ruby><rb>突然</rb><rt>だしぬけ</rt></ruby>に三人の奴が飛かかって来たので、『やったぞ、出会え出会え』と呶鳴ったのが事の始まりで、そのときはもう、おれの仲間は不意打を<ruby><rb>喰</rb><rt>くら</rt></ruby>って梯子から突落され、綱具の中に転がっていた。まごまごしているうちに、おれは棍棒で<ruby><rb>強</rb><rt>したた</rt></ruby>か頸筋を<ruby><rb>殴</rb><rt>どや</rt></ruby>された。瞬間、もう駄目だと<ruby><rb>観念</rb><rt>おも</rt></ruby>ったね。何しろ突然なので、君等を呼ぶどころか、<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>から<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を抜く<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>もなかったんだ。なお驚いたことには、仲間の半分は敵方についていたのだ。それでも我々は捨て身になって、矢鱈滅法に奮闘した。到る処で殺し合い、絞め合った。そんな死物狂いの格闘が約十五分も続いたと思ったが、ふと気がついたときは、我々十二人の者が残ったっきり、敵は皆<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>られてしまっていたのさ。そこで、敵は海の藻屑となったのに、おれ達は生残った。大勝利だ。ソレ祝杯だというんで、まるで<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>のようになって飲んだね。で、この通り、<ruby><rb>酔倒</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れてしまったんだ。しかしおれだけは、船を動かす責任もあるし、君等のことも考えて、控え目に<ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>ったというわけさ」

モッフは歯をむいて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にっ</span>と笑いながら、拳骨で膝を叩いた。

ガルールは苦い顔をした。自分等の手を<ruby><rb>俟</rb><rt>ま</rt></ruby>たずに、その大仕事が遂行されたということが面白くないのだ。

「約束が違いますね。そんなら、我々にはもう用がないって云うんですか？」

「馬鹿な！」モッフは釘止めにした<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上にごろりと<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>ころんで、「お互いに愛相づかしをしたのじゃなし、それに、おれ達の大目的は、まだ半ばしか遂げられていないじゃないか。<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>まではまだまだ暇がかかる。その間航海を続けるのに、どうしたって人手が足りないんだから、君等にも大いにやって貰わにゃならんよ」

モッフはやがて起き上ると、食料庫の方へ行って、戸棚から酒壜を両手に提げて来た。

「皆<ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>ってくれ。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>等がこんなに酒を残して行ったぜ」

ガルールの連中は大いに<ruby><rb>飲</rb><rt>い</rt></ruby>ける口ながら、モッフの言葉もあるので、ごく控え目に飲んだ。実際、海はなお荒れ狂っていて、まだまだ暢気に構える時ではなかった。

モッフはやがて真先に甲板へ駆け<ruby><rb>昇</rb><rt>あが</rt></ruby>って、<ruby><rb>舵機</rb><rt>かじ</rt></ruby>についた。何しろ危険なので、ガルール等もそれぞれ出来るだけの働きをしなければならなかった。

夜が明けてから、酔いつぶれていた船員達が起きて来た。彼等は、ボロ服を着て青白い顔をしたガルール一味の者達を胡散そうにじろじろ睨まえていたが、

「仲間だ仲間だ」

モッフは、その一人に<ruby><rb>舵機</rb><rt>かじ</rt></ruby>を渡しながら、<ruby><rb>蔽</rb><rt>おっ</rt></ruby>かぶせるようにくりかえしたので、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と納得したらしかった。

それから三日間ぶっ通しに海が荒れたので、船の仕事で目が廻るほど<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しかった。船体が恐ろしく揺れて、あらゆる荷物をひっくりかえした。で、ガルール等の仕事は、綱や鎖で一生懸命にその荷物を<ruby><rb>引</rb><rt>ひっ</rt></ruby>からげることで、その合間には船員達の作業に手伝をさせられた。そうして彼等はいつの間にか、<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の水夫らしくなって来た。

荒れが<ruby><rb>歇</rb><rt>や</rt></ruby>むと、海上は静かな<ruby><rb>凪</rb><rt>なぎ</rt></ruby>になって、船は爽やかな風に満帆を張って、気持よく<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>った。皆が思う存分に御馳走を食ったり、酒を飲んだりした。中には、優しくも五弦琴を掻き鳴らす者もあり、各自にいろいろな娯楽に興じたり、ハンモックの中で<ruby><rb>悠閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>な眠りを貪ることも出来た。

そのとき船は<ruby><rb>阿弗利加</rb><rt>アフリカ</rt></ruby>沖を<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>っていたが、ガルールは仏領南<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>はギヤーヌの徒刑場へ流された<ruby><rb>苦</rb><rt>くるし</rt></ruby>い経験を思いだし、マロンは<ruby><rb>阿弗利加</rb><rt>アフリカ</rt></ruby>屯田兵の営舎から脱走して営倉に叩きこまれたときの記憶を喚びおこして、心ひそかにこの海上の自由を讃美しているのであった。

ところが、<ruby><rb>日数</rb><rt>ひかず</rt></ruby>が経つに従って、一つの已みがたい熱望が彼等を<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>えた。それは陸地に対する<ruby><rb>憧憬</rb><rt>あこがれ</rt></ruby>であった。彼等は出帆以来、只一度、それも遠くから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちら</span>と陸地を見たきりなので、今はこの単調な、四顧茫々たる海上に<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>み果てたのであった。ところが、

「ソラ<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>だ！　とうとう来たぞ！」

それは七週間目に、微かに陸地が見えだしたときの、モッフが思わず叫んだ勝利の声であった。

「もう<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>ですか？」

マロンが問いかけると、

「馬鹿な」モッフはにやにや笑いながら、「どうして<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>だなんていうんだい」

「<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>にゃ解りませんが……<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>ならもっと遠いように思いますがね」

「下らんことを云わないで、自分の仕事をやれ。余計なことを考えては<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>かん」

「<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>港へ入れるんですか」

「皆が精を出せば二日以内さ。怠ければ四日だ」

その日は夕方まで風を間切って進んだ。<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>も、間近に見えだした。やがて運転士を乗せて先行したボートが帰っての報告によると、検疫や税関の手続上、日中に上陸しろということなので、その翌日の昼になって入港した。

「おい、大したもんじゃないか」とガルールはひどく悦に入った。「おれ達が上陸するってんで、<ruby><rb>此</rb><rt>この</rt></ruby>港じゃ大統領をお出迎えするような騒ぎをやってやがる。あの立派な<ruby><rb>服装</rb><rt>みなり</rt></ruby>をした奴等アまるで狂っているぜ。これに楽隊がつけば申し分なしさ」

「そら、お迎えが来た」

はしゃいでいるうちに、一隻の<ruby><rb>汽艇</rb><rt>ランチ</rt></ruby>が横付けになって、一人の港役人が船へ上って来た。

「やア御苦労様」

モッフは、何事も起らなかったような、落ちついた風で挨拶をすると、

「いや船長、この<ruby><rb>同盟罷業</rb><rt>ストライキ</rt></ruby>じゃ、まだ四週間はお帰りがあるまいと思っていました」

するとモッフは、<ruby><rb>舷側</rb><rt>げんそく</rt></ruby>に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れているガルールの連中を<ruby><rb>指</rb><rt>ゆびさ</rt></ruby>しながら、役人の方へ<ruby><rb>目配</rb><rt>めくばせ</rt></ruby>をして、

「ええ、ひどい<ruby><rb>同盟罷業</rb><rt>ストライキ</rt></ruby>でね。実は、この船なんかも、マルセイユではたった十人しか残らないという騒ぎだったが、僕のような海上の古狸になると、そんなことは平気なもので、早速独特の<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>で新規の乗組員を募集しました。非常の時は非常手段でなくっちゃね。その代り素晴らしい代物を連れて来ましたぜ。昨日運転士からお知らせしたように、彼等の中には徒刑場から脱走した<ruby><rb>罪人</rb><rt>やつ</rt></ruby>がいます。それは警察への御<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>で、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>等を<ruby><rb>捕縛</rb><rt>あげ</rt></ruby>て下されば、僕も大助りです。用意はいいでしょうな？」

「ええ、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>もそのつもりで、<ruby><rb>汽艇</rb><rt>ランチ</rt></ruby>に平服憲兵が待ちかまえています」

そんなこととは知らずに、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へやって来たガルールの肩を、モッフは軽く押えて、

「御推薦したいのはこの男ですよ。まア<ruby><rb>此男</rb><rt>これ</rt></ruby>が一等値打がありましょうな」と役人の方へいった。

「では、<ruby><rb>私等</rb><rt>あっしら</rt></ruby>は上陸していいんですね？」

顔を綺麗に剃って新しい服に着替えたマロンが訊ねると、

「いいともいいとも」とモッフは上機嫌だ。

そこで、彼等は一人一人静かに<ruby><rb>舷梯</rb><rt>げんてい</rt></ruby>を<ruby><rb>陸</rb><rt>お</rt></ruby>りて行ったが、最後の一人が<ruby><rb>汽艇</rb><rt>ランチ</rt></ruby>に納まったのを合図に、憲兵達はソレッとばかり一斉に跳びかかって、彼等に手<ruby><rb>梏</rb><rt>かせ</rt></ruby>をはめてしまった。

「畜生、<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>しやがったな！」

ガルールは<ruby><rb>吼</rb><rt>たけ</rt></ruby>り立って、猛然身構えようとしたが、ぐいと手梏を絞めつけられる痛みに、アッといって腰掛へへたばってしまった。

「<ruby><rb>漕</rb><rt>だ</rt></ruby>せ！」

役人の一声に、<ruby><rb>汽艇</rb><rt>ランチ</rt></ruby>はそのまま波を蹴立てて港の方へ<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>りだした。

と、船長モッフは、自分の水夫達を顧みて、いやに厳格な口調でこんなことをいった。

「<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>等が<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>へ上陸したがっていたのに、このマダガスカールで捕縛させたのは少し<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>かったが、といって、あの悪漢共を船へ置くわけにも行かんじゃないか……荷が港へ着いてしまった上はね！」