乞食は、その日、辻馬車の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>を開け閉てして貰いためた僅かの小銭を<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>の底でしっかと握り、寒さで<ruby><rb>青色</rb><rt>ぶすいろ</rt></ruby>になって、首をちぢめて、身を切るような寒風を避ける場所を探しながら、急ぎ足の人々とともに往来を歩いて行った。

すっかり<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れてしまって、『どうじゃ一銭』を云うさえ億劫だし、手をのべたくても、<ruby><rb>手套</rb><rt>てぶくろ</rt></ruby>なしの手は我慢にも<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>から出せないほど<ruby><rb>凍</rb><rt>かじ</rt></ruby>かんでいた。

横っちょに吹きつける粉雪が髭にたまり、頸筋へ溶けこむのにも気づかずに、彼はひたすら或る瞑想にふけった。

「たった一時間でいいから、金持ちになりてえなア。そうすると、おれは何を措いても馬車を一台買うぜ」

彼は立ちどまって、思案ありげにちょっと首をふったが、

「さて、それから何を買おうか」

と心に問うてみた。さまざまな栄耀栄華の<ruby><rb>幻影</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>が後から後からと頭にちらついた。が、詮じつめると、どれもこれも<ruby><rb>欠点</rb><rt>あら</rt></ruby>があって面白くなかった。その度ごとに彼は肩をゆすぶって、

「いや、こいつも駄目だ……して見ると<ruby><rb>真正</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>の幸福ってものは<ruby><rb>無</rb><rt>ね</rt></ruby>えもんだなア」

そんなことを考えながら、とぼとぼ歩いてゆくと、或る家の軒下にもう一人の乞食がぶるぶる<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>えながら立っているのが眼にとまった。

その乞食はしかめっ面をして、手をさしのべて、

「お助けなされて下さりませ、お願いでござります……どうぞや、どうぞ……」

と<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>っているけれど、声があまりに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かぼそい</span>もんだから、街の物音にかき消されて<ruby><rb>些</rb><rt>すこ</rt></ruby>しも人の注意をひかない。

<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>には、泥まみれになった惨めな雑種犬が一<ruby><rb>疋</rb><rt>ぴき</rt></ruby>、身をふるわせて微かに吠えながら、一生懸命に尻尾をふっていた。

前の乞食はそこに立ちどまった。犬は主人の同類がやって来たのを見ると、嬉しがって、少し元気よく吠えて<ruby><rb>鼻頭</rb><rt>はなさき</rt></ruby>を<ruby><rb>摺</rb><rt>なす</rt></ruby>りつけるようにした。で、乞食は注意ぶかくその犬の主人の様子を見ると、ひどい<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>を着て、破れ靴を穿いて、あわれな手首は寒さで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶす</span>色になり、眼を閉じた顔は真蒼で、胸には『めくら』と書いた灰色の板をぶらさげていた。

盲乞食は人の立ちどまった気配がすると、哀れっぽい声を振りしぼって、

「お助けなされて下さりませ、旦那さま……哀れな盲でござります……」

前の乞食は身じろきもしずに、そこに突立っていた。

往来の人々は顔を背けてさっさと通りすぎた。温かそうな毛皮の外套を着こんだ一人の貴婦人が、定服の召使に傘を<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>させながら、そこの広い戸口から出て来たが、乞食どもを見るとマッフで口を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>うようにして、素早く拾い歩きをして、待っていた馬車の中へすっと消えてしまった。

盲は例の単調な哀願をつづけた。

「お助けなされて下さりませ……どうぞ一銭<ruby><rb>与</rb><rt>や</rt></ruby>って下さい……」

しかし誰一人振りむきもせなんだ。暫くして前の乞食は、自分のかくしから幾枚かの銅貨を<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>みだして、盲乞食にくれてやった。犬はそれを見ると嬉しそうに吠え立てた。盲は貰った銅貨をばふるえる指に握りしめて、

「お<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがと</rt></ruby>うござります、旦那さま……お<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがと</rt></ruby>うござります……」

乞食は『旦那さま』という敬称を聞くと、

「おれは旦那さまじゃねえんだよ、兄弟。お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>と同じ惨めな乞食さ」

と口まで出かかったのを、ふと思いかえして引っこめた。そして自分がこんな場合に散々聴かされている言葉で答えた。

「いや<ruby><rb>些</rb><rt>すこ</rt></ruby>しばかりでお気の毒だな」

「恐れ入ります、旦那さま。お寒いのに、わざわざお手をお出しなすって……お<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがと</rt></ruby>うございます。こんな日は、私のような病人はまことに難渋いたします。その苦しみというものは、とてもとてもお話しになったものじゃござんせん」

乞食は聞いているうちに、ああ気の毒なという感じが胸一杯にこみあげて来た。

「わしは解っている。よく解っているよ」

自分以上に悩んでいる者を見た彼は、もう自分の貧苦などをうち忘れて、

「お前は生れつき眼が見えないのか」

「いいえ、齢を<ruby><rb>老</rb><rt>と</rt></ruby>りしだいに悪くなりましたので、お医者は<ruby><rb>老齢</rb><rt>とし</rt></ruby>のせいだといいます。<ruby><rb>白内障</rb><rt>そこひ</rt></ruby>とかいう眼だそうでございます。けれど、<ruby><rb>老齢</rb><rt>とし</rt></ruby>のせいばかりではございません……あまり度々不幸な目に遭ってあまり<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>く泣かされたせいでございます」

「じゃ、随分不幸つづきだったんだね」

「はい、旦那さま、一年のうちに<ruby><rb>女房</rb><rt>かかあ</rt></ruby>と、娘と、男の子を二人<ruby><rb>死</rb><rt>と</rt></ruby>られました。こうして私を愛してくれるべき可愛い者達にすっかり<ruby><rb>先死</rb><rt>さきだ</rt></ruby>たれ、おまけに大病に取憑かれて、すんでのことに<ruby><rb>彼世</rb><rt>あのよ</rt></ruby>へ行くところでございました。幸い<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>りはしましたもののもう体が弱って仕事が出来ませんので、年中貧乏で不自由をしております。何日も物を食べずに暮らすことが珍らしくありません。昨日少しばかりの<ruby><rb>麺麭</rb><rt>パン</rt></ruby>屑を、この犬と二人で<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>けて食べてから、まだ何も口に入れませぬ。今旦那さまに戴いたこのお<ruby><rb>銭</rb><rt>あし</rt></ruby>で、今晩と明日の食べものを求める積りでございます。ハイ」

乞食はこの盲の述懐を聴きながら、自分の<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>の中で銅貨をいじくっていた。手探りで数えるとそれが四十八銭あった。

「来いよ、わしと一緒に。<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>はあんまり寒いから、そこいらへ行って何か御馳走しよう」

「それはそれは、旦那さま、どうも恐れ入ります」

と盲は嬉しさに上気して、<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>り吃りいった。

「さア出掛けよう」

乞食は、盲の手を執って、自分の服の濡れていることや、薄っぺらなことを覚られぬように用心しながら歩きだした。犬は首をあげ、耳をしゃんと<ruby><rb>聳</rb><rt>た</rt></ruby>てて、<ruby><rb>雑鬧</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>の中を進んで行った。交通の<ruby><rb>頻繁</rb><rt>うるさ</rt></ruby>い街を横ぎるときなどは、鎖をピンと張るようにして、機敏に主人を導くのであった。

彼等はこうして<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>しばらく歩いて行ったが、やがて裏街の或る小さな飲食店の前に立ちどまると、乞食は戸をあけて、盲に声をかけた。

「さアお入り」

暖炉の前の<ruby><rb>食卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>を<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>んで盲を坐らせ、自分もその前に腰をかけた。

四、五人の労働者風の客が、黙りこくって、めいめいに小さな厚い皿のものを貪るように<ruby><rb>掻</rb><rt>かっ</rt></ruby>込んでいた。

盲は犬の鎖を解いてやって、炉の方へ手をかざしながら、ほっと溜息をして、

「大そう気持のいいところでございますね」

乞食は女中を呼んで、盲のために<ruby><rb>肉菜汁</rb><rt>スープ</rt></ruby>とふかし肉を誂えた。

「そして旦那は何を召上ります？」

女中が訊くと、

「わしは何も要らない」

やがて、ぷんぷん<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>そうな匂いのする<ruby><rb>肉菜汁</rb><rt>スープ</rt></ruby>と、肉の皿がはこばれた。盲は無言で<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆっ</rt></ruby>くり<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆっ</rt></ruby>くりそれを平らげた。乞食は<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>でじっとその様子を見ていたが、自分の食料として持っていた小さな<ruby><rb>麺麭片</rb><rt>パンきれ</rt></ruby>をば、<ruby><rb>食卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の下でそっと割って犬にやった。そして、盲が<ruby><rb>肉菜汁</rb><rt>スープ</rt></ruby>と肉をすっかり食べ終ったときに、彼はいった。

「何か一杯お<ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>り。そうすると脚に力がつくぞ」

それから間もなく女中を呼んで、

「ねえさん、<ruby><rb>何程</rb><rt>いくら</rt></ruby>」

「四十四銭頂きます」

彼はその勘定を支払って、別に四銭のチップを女中にくれて、それから盲に<ruby><rb>腕</rb><rt>て</rt></ruby>を貸した。

やがて街へ出ると、彼は訊ねた。

「お前はこれから遠方へ帰るのか」

「ここは一体何処でございましょう」

「サン・ラザール停車場の近所だよ」

「では、可成り遠うございますな。私は河向うの或る<ruby><rb>小舎</rb><rt>こや</rt></ruby>に寝泊りしておりますので」

「そんなら途中まで送ってあげよう」

「<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがと</rt></ruby>うござります。御親切に、どうも<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがと</rt></ruby>うござります」

「いや、いや、そんなに礼をいうほどのことでもないさ」

何という<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>もなく、彼は幸福を感じた。むしょうに嬉しい気持になった。何が愉快だってこれほど愉快を感じたことはなかった。彼は歩きながら<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>と夢見るような思いに浸っていた。自分こそ食べ物もなく、今宵の寝所にも困っている体であることも忘れ、その上に困苦も、<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>服も、自分が乞食であることすらも忘れてしまったのであった。

彼はときどき盲の方へ振りかえっては訊いた。

「わしの足が早すぎはしないか。随分<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れただろう」

その度に盲はひどく恐縮して、

「ど、どういたしまして、旦那さま」

そんな風に挨拶されると、乞食はまた嬉しくなって<ruby><rb>莞爾莞爾</rb><rt>にこにこ</rt></ruby>した。彼は急に金持ちの慈善家になったという不思議な感じがすると同時に、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>をそう思いこんでしまった相手の幻想によって<ruby><rb>擽</rb><rt>こそ</rt></ruby>ぐられるのであった。

湿っぽい河風にあたると、盲は早くも<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>へ来たのを感じて、

「ここまで来ればもう一人で帰れます。犬がついていますから大丈夫です」

「そうかい。では、気をつけて行けよ」

と乞食は寛闊な口調でいった。

彼は今、或る妙な思いに浸っているのだ。その妙な思いというのはこうだ――おれがあんなに度々あんなに熱心に<ruby><rb>憬</rb><rt>あこ</rt></ruby>がれた夢が、今実現された。おれはついに申し分のない幸福な心持を味わったのだ。不断<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>になるほど<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>っていたように、実際の金持になったり、<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>いものを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらふく</span>食ったり、美人から<ruby><rb>恋</rb><rt>おも</rt></ruby>われたりするよりも、今のこの歓びの方がどんなに尊いか知れない。この<ruby><rb>盲人</rb><rt>めくら</rt></ruby>は、同じ仲間に手を引かれているとは夢にも知らないで、おれのことを親切な金持ちの旦那さまだと信じきっている。して見ればおれは、ほんとうの金持ちになったも同様だ。何といったって、今夜のような深い<ruby><rb>混</rb><rt>まじ</rt></ruby>りっ気のない歓びというものは、おれとしては、二度と再び<ruby><rb>味</rb><rt>あじわ</rt></ruby>うことの出来ない心持なんだ――

しかし、こうした大歓喜も長くはつづかなかった。ふと気がつくと、彼はもう現実にかえっていたのである。

「では、ここでお別れだ」

二人は恰度橋の<ruby><rb>中央</rb><rt>まんなか</rt></ruby>へ来ていた――乞食は立ちどまって、もしや銅貨一枚でも残っていはしないかと思って<ruby><rb>衣嚢</rb><rt>かくし</rt></ruby>へ手をやったが、もう空っぽだった。

彼は盲とかたく握手をした。盲はもう一度感謝をくりかえして、

「お<ruby><rb>難有</rb><rt>ありがと</rt></ruby>うござります、旦那さま。どうぞ御<ruby><rb>姓名</rb><rt>なまえ</rt></ruby>を伺わせて下さい、貴方さまの<ruby><rb>御幸福</rb><rt>おしあわせ</rt></ruby>をお<ruby><rb>祷</rb><rt>いの</rt></ruby>りするために」

「名乗るほどのこともないさ。寒いから早くお帰り。わしこそお蔭で大変いい心持になったよ。<ruby><rb>左様</rb><rt>さよ</rt></ruby>なら」

すたすた帰りかけたが、やがて立ちどまって、橋の上から漫々たる河面の闇をじっと<ruby><rb>瞰</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだ。

「<ruby><rb>左様</rb><rt>さよ</rt></ruby>なら」

一声高くそういったかと思うと、彼は不意に欄干へ上った――つづいて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざぶりッ</span>――とはげしい水音。

「身投げだ。救けろ」

「橋からじゃ駄目だ」

「<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>へ行け、早く早く」

大勢の人がたちまち右往左往に駆けだした。盲乞食はその騒ぎに揉まれながら、

「どうしたんですか。何かありましたか」

問いかけると、

「乞食が河へ飛び込みやがったんだ」

威勢のいい弥次馬が、<ruby><rb>擲</rb><rt>は</rt></ruby>り飛ばしそうな勢いでこう呶鳴りながら、どんどん駆けて行った。

すると盲乞食は<ruby><rb>気倦</rb><rt>けだる</rt></ruby>そうに肩を一つゆすぶって、独りごとをいった。

「<ruby><rb>其奴</rb><rt>そいつ</rt></ruby>なんかは、とにかく勇気があったんだな、それだけの勇気が」

それから彼は空でも見上げるように顔を仰向け、背中を丸めて、靴の<ruby><rb>爪尖</rb><rt>つまさき</rt></ruby>で犬をさぐり、杖で地面を叩きながら、とぼとぼと歩いて行った――何も知らずに。