## 一

<ruby><rb>夏目吉信</rb><rt>なつめよしのぶ</rt></ruby>（<ruby><rb>次郎左衛門</rb><rt>じろうざえもん</rt></ruby>）が駈けつけたとき、大ひろ間ではすでにいくさ評定がはじまって、人びとのあいだに意見の応酬がはげしくとり交わされていた。

「父うえ、おそうござります」

末座にいた子の<ruby><rb>信次</rb><rt>のぶつぐ</rt></ruby>が、はいって来た父吉信をみて低いこえで云った。

「今しがた<ruby><rb>二俣</rb><rt>ふたまた</rt></ruby>城へまいった物見（<ruby><rb>斥候</rb><rt>せっこう</rt></ruby>）がかえり、二俣もついに落城、<ruby><rb>甲州</rb><rt>こうしゅう</rt></ruby>勢はいっきにこの<ruby><rb>浜松</rb><rt>はままつ</rt></ruby>へおし寄せまいるとのことでござります」

「知っておる」

吉信は子のそばへしずかに坐った。

「それで御評定はきまったか」

「老臣がたは城へたてこもって防ぎ戦うがよろしいという御意見のようでござります。<ruby><rb>本多</rb><rt>ほんだ</rt></ruby>さま<ruby><rb>酒井</rb><rt>さかい</rt></ruby>さまはおし出して決戦すると<ruby><rb>仰</rb><rt>おお</rt></ruby>せです」

「おん大将の御意はどうだ」

「まだなにごとも仰せられません、せんこくからあのとおり黙って評定をお聴きあそばしてござります」

吉信はうなずきながら上座を見あげた。<ruby><rb>徳川家康</rb><rt>とくがわいえやす</rt></ruby>（従五位上侍従このとき三十一歳）は紺いろに<ruby><rb>葵</rb><rt>あおい</rt></ruby>の紋をちらした<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby><ruby><rb>直垂</rb><rt>ひたたれ</rt></ruby>に、<ruby><rb>脛当</rb><rt>すねあて</rt></ruby>、<ruby><rb>蹈込</rb><rt>ふみこみ</rt></ruby>たびをつけたまま、じっと目をつむって坐っていた。この日ごろやつれのめだつ<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に、濃い<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>と<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>とがその相貌をひときわするどくみせている。

事態は急迫している、存亡のときが眼前にせまっているのだ。

甲、信、駿の全土をその勢力のもとに<ruby><rb>把</rb><rt>つか</rt></ruby>んだ<ruby><rb>武田</rb><rt>たけだ</rt></ruby>氏は、<ruby><rb>遠江</rb><rt>とおとうみ</rt></ruby>、<ruby><rb>参河</rb><rt>みかわ</rt></ruby>の一部を侵して、ずいしょに砦城をふみやぶりながら、三万余の軍勢をもって<ruby><rb>怒濤</rb><rt>どとう</rt></ruby>のごとく浜松城へと取り詰めている。味方は<ruby><rb>織田信長</rb><rt>おだのぶなが</rt></ruby>から送られた援軍を合せてようやく一万余騎、それも連勝の敵軍にたいして、つぶさに敗戦の苦を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めてきた劣勢の兵だった。

この一戦こそまさに危急である、この一戦こそまさに徳川氏の存亡を決するものだ。

老臣たちは守って戦うべしと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>い。酒井、<ruby><rb>榊原</rb><rt>さかきばら</rt></ruby>、本多、<ruby><rb>小笠原</rb><rt>おがさわら</rt></ruby>の若く気英の人びとは出陣要撃を主張した。家康は黙ってその論諍をきいていたが、やがてつむっていた眼をみひらき、ゆっくりと列座の人びとを見まわしながら口をきった。

「おのおのしずまれ」

<ruby><rb>囂々</rb><rt>ごうごう</rt></ruby>たる<ruby><rb>応酬</rb><rt>おうしゅう</rt></ruby>のこえがぴたりとやみ、一座の眼はいっせいに大将家康を見あげた。

「敵軍三万余騎、みかたは一万にたらず、城をいでて戦うはいかにも無謀血気のようであるが、このたびはただ勝つべきいくさではない。武田氏を攻防いく<ruby><rb>年</rb><rt>とせ</rt></ruby>をかさねて、<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>までしだいに諸処の城とりでを失い、いまここに決戦のときを迎えたのだ、まん一にも浜松の城下を甲州勢の<ruby><rb>蹂躙</rb><rt>じゅうりん</rt></ruby>にまかせるとせば、もはや徳川の<ruby><rb>武名</rb><rt>ぶめい</rt></ruby>は地におちるであろう。たたかいは必死の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>におし詰められている、浜松に敵の一兵もいれてはならぬのだ、評定は出陣ときまった、いずれもすぐその用意につけ」

「はちまん」

本多<ruby><rb>忠勝</rb><rt>ただかつ</rt></ruby>（<ruby><rb>平八郎</rb><rt>へいはちろう</rt></ruby>）が膝を叩いて叫んだ、

「それでこそ<ruby><rb>一期</rb><rt>いちご</rt></ruby>のご合戦、われら先陣をつかまつりましょう」

「先陣はこの酒井こそ承わる」

出陣ときまって気英の人びとはたがいに<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>をのりだした。守戦をとなえた老臣たちも、事がきまればいささかも逡巡するところはない、すぐ<ruby><rb>軍</rb><rt>いくさ</rt></ruby>くばりにとりかかった。

「総勢出陣ときまれば、この本城のまもりをどうするか」

「まもりは置かなければならぬ」

「誰を留守にのこす」

「この一期のいくさに<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>るものはあるまい」

「しかし城を<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>にはできぬ」

<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>ういう場合のいちばん困難な問題がはたと人びとを当惑させた。にわかにみんな口をつぐんだ、主家の運命を賭する一戦、いまこそ武士の死すべきときである、この<ruby><rb>戦</rb><rt>たたかい</rt></ruby>におくれたらもののふの名はすたるのだ。

しわぶきのこえも聞こえなくなった一座のかた隅から、そのときしずかに名乗りでる者があった。

「おそれながら、ご本城のおん留守はわたくしがおあずかり申しましょう」

みんなの眼がそのこえの方へ集った。こえの<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>はすこし<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた顔で家康の方をみあげていた、それは夏目吉信であった。

「ああ夏目か」

「次郎左衛門か」

人びとの<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にはかすかに軽侮のいろが動いた。そしてたがいに「さもありなん」という眼つきでうなずきあった。次郎左衛門の子信次は全身をふるわせながら、骨も砕けよと双のこぶしを膝につき立てていた。

「よし、城の留守は夏目に申しつける、いずれも出陣の用意をいそげ」

家康のこえが大きくひびきわたると共に、列座の人びとは<ruby><rb>歓声</rb><rt>かんせい</rt></ruby>をあげて立った。ときは<ruby><rb>元亀</rb><rt>げんき</rt></ruby>三年（一五七二）十二月二十一日<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>すぎのことであった。

## 二

「なんたること。父上、これはなんたることでござりますか」

信次は色をうしなった<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>をふるわせながら、噛みつかぬばかりにはげしく父を責めた。

「御主君の御運を賭するこのいくさに、もののふとあるものは誰しもご馬前の死をこそねがえ、みずから留守城のまもりを名乗りいで、好んでだいじの合戦におくれるとは、そもいかなるご所存でござります」

吉信は答えなかった。

ここは浜松城<ruby><rb>玄黙口</rb><rt>げんもくぐち</rt></ruby>の<ruby><rb>矢倉</rb><rt>やぐら</rt></ruby>のうえである、必死を期した徳川八千の軍勢は、大将家康の本隊と共に、霜こおる夜をついて、いま粛々と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みかたが</span>原めざして出陣して行った。二千に足らぬ兵と留守城のまもりをあずかった夏目吉信は、玄黙口のやぐらの上にのぼって、兵馬の去って<ruby><rb>征</rb><rt>い</rt></ruby>った闇のかなたを、身じろぎもせずに見まもっている。

「なさけのうござります、信次には父上のご所存がなさけのうござります」

信次のこえは<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>につまっていた、

「すぐる<ruby><rb>永禄</rb><rt>えいろく</rt></ruby>九年（一五六六）におみかた申してより、いつの<ruby><rb>戦</rb><rt>たたかい</rt></ruby>にもご馬前のはたらきかなわず、家中の人びとからは絶えずに<ruby><rb>降参人</rb><rt>こうさんにん</rt></ruby>、ごれんみんの者という眼で見られております、このたびこそは先陣にうっていで、めでたき死にざまを見せて夏目の家名をたてるべきときと存じましたのに、これでわれら一族の名も泥上にまみれてしまいました、あまりと申せばなさけなきおふるまい、ざんねんにござります」

信次は<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をおおい、床板にどっかと崩れて泣きだした。

夏目吉信は徳川恩顧の者ではなかった。彼は<ruby><rb>参河</rb><rt>みかわ</rt></ruby>ノ<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby><ruby><rb>額田郡</rb><rt>ぬかだごおり</rt></ruby>の郷士であって、永禄六年九月、一向宗徒が乱をおこしたとき、<ruby><rb>大津半右衛門尉</rb><rt>おおつはんえもんじょう</rt></ruby>、<ruby><rb>乙部八兵衛尉</rb><rt>おとべはちべえじょう</rt></ruby>らと共に一揆の徒にくみし、野羽の<ruby><rb>古塁</rb><rt>こるい</rt></ruby>に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>って反旗をひるがえした、家康はただちに<ruby><rb>松平主殿助伊忠</rb><rt>まつだいらとのものすけこれただ</rt></ruby>に命じてこれを討たした。伊忠は深溝城をまもっていたが、神速に兵をだして野羽のとりでを囲み、困難なたたかいの<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、乙部八兵衛尉のうらぎりに<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>って城を乗取り、ついに夏目吉信をいけどりにして勝った。家康はよろこんで伊吉の功をたたへ、

――夏目は<ruby><rb>参河</rb><rt>みかわ</rt></ruby>にきこえた豪士である、これを克く攻めて勝ち、城将をいけどりしたることまことに奇特というべし、恩賞はのぞみにまかするゆえ何なりと申してみよ。

そう云って賞讃した。そのとき<ruby><rb>主殿助</rb><rt>とのものすけ</rt></ruby>伊忠はかたちをあらためて、

――仰せにしたがって一つ御恩賞を<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>いたてまつる、夏目吉信は一揆の徒にはくみしましたれども、その智略その勇剛まことに惜しむべき人物にて、ごれんみんをもってかれが命を助け、おん<ruby><rb>旗本</rb><rt>はたもと</rt></ruby>のすえに加えられたまわば、かならずお役に立つべしと存じまする、御恩賞として乞いたてまつるはこの一事のみでござります。

と真実を<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めて云った。家康はその熱心にうごかされ、伊忠のねがいをゆるして吉信を<ruby><rb>麾下</rb><rt>きか</rt></ruby>に加え、かつ三郎信康に属せしめたのであった。いま信次が、

――ごれんみんの者。

――降参人。

ということばを口にしたのは、そういう過去があったからで、また徳川幕下の諸士たちがそういう眼でみることも避けがたい事実だった。なによりも名を<ruby><rb>惜</rb><rt>お</rt></ruby>しむ武士にとって、これはいつまでも耐えられる問題ではない、折さえあったら華ばなしくたたかって汚名を<ruby><rb>雪</rb><rt>そそ</rt></ruby>ごうと、一族は切歯しつつ今日まで周囲のつめたい眼を耐えしのんで来たのだ。

「おきかせ下さい父上、いかなるご所存でかような未練なおふるまいをなさったのでござります、父上はそれほど命が惜しいのでござりますか」

「そうだ、……命は惜しい」

吉信はまた北の夜空をみまもりながら、水のようにしずかなこえで云った、

「いったんの死はむずかしくはない、たいせつなのは命を惜しむことだ。人間のはたらきには名と実とがある、もののふは名こそ惜しけれ」

「父上もそれをご存じでござりますか」

「その方はどうだ」

はじめて吉信はふりかえった。五十五歳、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>に霜をおいて、ふかく<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>のおちくぼんだ彼の面上に、抑へつけているはげしい意力が脈うっていた。吉信はわが子のまえに<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>り、噛んでふくめるような口調で云いはじめた。

「名を惜しむということを、そのほうはよくよく知っているか、信次。もののふは名こそ惜しけれとは<ruby><rb>疋夫</rb><rt>ひっぷ</rt></ruby>も口にする、しかし名にも虚名というものがあるぞ、すなわち中身のない名だ、名あって実のともなわざることを云う。……父がごれんみんをもって命を<ruby><rb>助</rb><rt>たすか</rt></ruby>り、<ruby><rb>降参人</rb><rt>こうさんにん</rt></ruby>となっておん旗本に加わったのは、おのれの命ひとつが惜しかったからではない、この<ruby><rb>君</rb><rt>きみ</rt></ruby>こそ天下の仕置たるべき人、この君こそ身命のご奉公をつかまつるべき人と思ったからだ」

## 三

「よいか信次」

吉信はしずかにつづけた。

「父はおのれ一族の名をあげ、その方共に高名出世をさせとうてご<ruby><rb>随身</rb><rt>ずいしん</rt></ruby>申したのではない、一家一族をささげて徳川のいしずえとなるためにお仕え申したのだぞ」

「…………」

「ご馬前にさき駈けして、はなばなしくたたかうも武士のほんぶんではある、けれどもそれは、今そのほうが申したような<ruby><rb>心懸</rb><rt>こころがけ</rt></ruby>ではかなわぬことだ。そのほうの頭には夏目の家名がしみついておる、おのれこそあっぱれもののふの名をあげようという功名心がある、ご主君のために<ruby><rb>髑髏</rb><rt>どくろ</rt></ruby>を<ruby><rb>瓦礫</rb><rt>がれき</rt></ruby>のあいだに<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>そうと念うよりさきに、おのれの名を惜しむ心がつよい。信次、虚名とはすなわちそのような心を申すのだぞ」

「…………」

「一期のご合戦に先陣をのぞむのは誰しもおなじことだ、けれども誰かは留守城をあずからねばならぬ。先陣をつるぎの<ruby><rb>切尖</rb><rt>きっさき</rt></ruby>とすれば本城のまもりは<ruby><rb>五躰</rb><rt>ごたい</rt></ruby>といえよう、五躰のちからまったくしてはじめて切尖も充分にはたらくことができるのだ、たとえ先陣、留守の差はあっても、これを<ruby><rb>死處</rb><rt>ししょ</rt></ruby>とする覚悟に二つはないぞ、わかるか信次」

信次は両手をついて<ruby><rb>噎</rb><rt>むせ</rt></ruby>びあげた、身命も捨て名も捨てた父のこころが、はじめてわかったのだ。留守城のまもりは誰しも好むところではない、まして吉信がみずから望んで出るとすれば、人びとは「いかにも降参人の望みそうなことだ」と<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>くであろう、吉信はそれをよく知っていた、知っていながらあえておのれから望み出た。はたして人びとは軽侮の眼で見た、吉信はそれをもあまんじて留守をあずかったのである、彼は身命を捨てるまえにおのれの名を捨てたのだ。

「父上、信次がおろかでござりました」

「…………」

「仰せのとおり、わたくしは夏目の家名にまなこを<ruby><rb>昏</rb><rt>くら</rt></ruby>まされておりました」

信次はしぼりだすように云った。

「もはや世の<ruby><rb>謗</rb><rt>そし</rt></ruby>りもおそれませぬ、人の批判にも<ruby><rb>臆</rb><rt>おく</rt></ruby>しませぬ、いまこそ、瓦礫のなかに無名のしかばねを曝す覚悟ができました、いまこそおのれの死處がわかりました、さきほどの過言をおゆるし下さいまし」

「わかればよし、たたかいはこれからだ、命をそまつにせまいぞ」

吉信はそう云い終ると、しずかに立ってやぐらを降りていった。

明くれば十二月二十二日。

三万余騎の軍をひっさげた武田<ruby><rb>信玄</rb><rt>しんげん</rt></ruby>は、<ruby><rb>天龍</rb><rt>てんりゅう</rt></ruby>のながれを渡って、<ruby><rb>大菩薩</rb><rt>だいぼさつ</rt></ruby>（<ruby><rb>浜名郡</rb><rt>はまなごおり</rt></ruby><ruby><rb>有玉村</rb><rt>ありたまむら</rt></ruby>）より<ruby><rb>三方原</rb><rt>みかたがはら</rt></ruby>にせまった。徳川家康は八千余をもって南よりのぼり、右翼に酒井<ruby><rb>忠次</rb><rt>ただつぐ</rt></ruby>と織田の援軍との混合隊を<ruby><rb>配</rb><rt>はい</rt></ruby>し、左翼に<ruby><rb>石川</rb><rt>いしかわ</rt></ruby>、小笠原、松平、本多の軍を置き、そのうしろぞなえにみずから本陣を張って<ruby><rb>鶴翼</rb><rt>かくよく</rt></ruby>のかまえをとった。

これに対して武田勢は、先陣に<ruby><rb>小山田信茂</rb><rt>おやまだのぶしげ</rt></ruby>、<ruby><rb>山県昌景</rb><rt>やまがたまさかげ</rt></ruby>、<ruby><rb>内藤昌豊</rb><rt>ないとうまさとよ</rt></ruby>、<ruby><rb>小幡信貞</rb><rt>おばたのぶさだ</rt></ruby>ら。だい二陣に<ruby><rb>馬場信春</rb><rt>ばばのぶはる</rt></ruby>、武田<ruby><rb>勝頼</rb><rt>かつより</rt></ruby>ら。信玄の本隊はその後づめとなり、<ruby><rb>魚鱗</rb><rt>ぎょりん</rt></ruby>の陣形をもって南下し<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>った。

<ruby><rb>午後四時</rb><rt>七つ</rt></ruby>、たがいの先鋒に依って合戦のひぶたは切られた。

<ruby><rb>老獪</rb><rt>ろうかい</rt></ruby>にして経験ふかき信玄の戦術は、まだわかき家康の敵すべきところではなかった。援軍の将<ruby><rb>佐久間信盛</rb><rt>さくまのぶもり</rt></ruby>まず敗れ、おなじく<ruby><rb>滝川一益</rb><rt>たきがわかずます</rt></ruby>も戦場を捨てた。<ruby><rb>戦</rb><rt>たたかい</rt></ruby>はみるみる苦戦におちいり、本多忠勝、酒井忠次、石川<ruby><rb>数正</rb><rt>かずただ</rt></ruby>らおおいに反撃したが、夕闇の頃にいたって全軍の敗勢おおうべくもなく、家康はついに退却の命を発した。しかも彼は<ruby><rb>乗馬</rb><rt>じょうめ</rt></ruby>を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>かせてこれにまたがり、

「旗本のめんめんはわれと共にしんがりせよ、<ruby><rb>余</rb><rt>よ</rt></ruby>の隊は浜松までひけ、しんがりは旗本にてひきうけたぞ」

とさけんだ。そしてみずから本隊と共にしっぱらい（殿軍）となり、追いかかる敵とたたかいつつ退却していった。

けれども武田勢の追げきはげしく、本多<ruby><rb>忠真</rb><rt>ただざね</rt></ruby>死し松平<ruby><rb>康純</rb><rt>やすずみ</rt></ruby>死し、<ruby><rb>鳥居信元</rb><rt>とりいのぶもと</rt></ruby>、<ruby><rb>成瀬正義</rb><rt>なるせまさよし</rt></ruby>、<ruby><rb>米津政信</rb><rt>よねづまさのぶ</rt></ruby>らあいついで討ち<ruby><rb>死</rb><rt>じに</rt></ruby>をとげた。しかも敵軍の右翼は大きく西へ迂回して、徳川軍の退路をまさに断たんとしている。家康は激怒のあまり死を決し、

「全軍かえせ」

と命をくだした。

そのときである、浜松城の方から疾駆して来た二十五六騎の一隊が、家康のはたもとへ乗りつけると共に、その部将のひとりがだいおんに呼びかけた、

「君にはなにごとを<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>したもうや、敵の軍勢はいきおいに乗じたり、ここは本城に<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>きて後日の合戦をまつべきなり、はやはや浜松へ退きたまえ、それがししんがりを<ruby><rb>承</rb><rt>うけたま</rt></ruby>わる」

## 四

家康はふりかえった。乗りつけて来たのは夏目次郎左衛門吉信である、彼は城の<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>から、家康危急のさまをみて駈けつけたのであった。

「いやもはや<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かぬぞ」

家康は馬のたづなをしめながら叫んだ、

「本城ま<ruby><rb>近</rb><rt>ぢか</rt></ruby>にて<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>くやぶれたうえは、命ながらえてなにかすべき、しかも敵軍すでにわが退路を断たんとする、もはやわが武運のつくるところだ。くちとり、馬をはなせ！」

<ruby><rb>鐙</rb><rt>あぶみ</rt></ruby>をなげて馬の口取をしたたかに蹴る、吉信はおのれの馬よりとんで下りると、家康の馬の<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>をしかと取った。

「君にはおろかなることを仰せたもうぞ、進むべきときに進み、しりぞくべきときにしりぞき、いくたび敗戦の苦を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>むるとも、屈せず<ruby><rb>撓</rb><rt>たゆ</rt></ruby>まず、ついの勝利をはかるこそまことの大将とは申すべし、はやく本城へ退きたまえ、吉信しんがりをつかまつる」

「<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>いかに申そうとて、われの<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあることは敵すでに知る、追撃は急なり、もはやのがれぬ運と思うぞ」

「未練の仰せなり、<ruby><rb>君</rb><rt>きみ</rt></ruby>のおん<ruby><rb>諱</rb><rt>いみな</rt></ruby>を<ruby><rb>冒</rb><rt>おか</rt></ruby>してふせぎ矢つかまつるあいだ、此処はいかにもして浜松へ退きたまえ、ごめん」

叫ぶとともに、家康の馬の轡をちからまかせに南へひき向け、おのれの槍の石突をかえしてその乗馬の尻を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっし</span>と打った。

馬は狂奔してまっしぐらにはしりだした、旗本の人びともそれについて退いた。吉信はとくと見さだめてからふたたび馬にとび乗り、追いこんで来る甲州勢の<ruby><rb>真向</rb><rt>まっこう</rt></ruby>へ突っかけながら、

「徳川家康これにあり」

とだいおんに名乗った。

「<ruby><rb>駿河守</rb><rt>するがのかみ</rt></ruby>家康これにあり、われと思わん者はであえ、この首あげて功名せよ」

名乗りかけ名乗りかけつつ、手兵二十五騎と共に悪鬼のごとく斬りこんでいった。

すでに戦場は暮色が濃かった。あれこれ徳川の本陣とめざしていた甲州勢は、徳川家康といふ名乗をきいていろめきたった。

――すわこそ敵の大将。

――のがすな、討ちとれ。

とばかりおっとり囲んで来た。吉信はこのさまを見てしすましたりと、馬上に十文字の槍をふるって縦横に奮戦した。

「家康ここにあり。であえ、……であえ」

わめき叫びながら、むらがり寄せる敵をさんざんに駈けなやましたが、わずかな手兵はしだいに討ち取られ、吉信もついに<ruby><rb>数</rb><rt>あまた</rt></ruby><ruby><rb>𤺨</rb><rt>きず</rt></ruby>を負った。かたな折れ、矢つきたのである。

――もはやこれまで。

と思った彼は、馬上に浜松城のかたを再拝して云った、

「危急の場合とはいえ、われらごとき者の槍の石突をお当て申し、おん名を冒しまいらせた罪は万死に<ruby><rb>価</rb><rt>あたい</rt></ruby>すべし。吉信ただいまうちじにつかまつる、おんゆるし候え」

そして夏目次郎左衛門は討ち死をとげた。

このあいだに家康はしゅびよく退陣し、旗本の人びとも<ruby><rb>追躡</rb><rt>ついじょう</rt></ruby>する敵を撃退しつつ浜松城下までひきしりぞいた。

ときすでに<ruby><rb>午後六時</rb><rt>六つ</rt></ruby>をすぎて、くもり月の空は<ruby><rb>暗澹</rb><rt>あんたん</rt></ruby>と<ruby><rb>昏</rb><rt>く</rt></ruby>れた。

浜松城の大手には<ruby><rb>篝火</rb><rt>かがりび</rt></ruby>がどうどうと<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>きつらねてあり、年少夏目信次が守兵をひきいて城門をまもっていた。この篝火をめあてに馬を乗りつけて来た家康は、夏目信次のすがたをみると馬を下り、つかつかとその前へあゆみ寄って云った。

「信次、そのほうの父は、家康にかわってみごとに死んだぞ」

「は……」

「吉信なくば生きては帰れなかった、吉信こそ家康の命の恩人だぞ」

「もったいのうござります」

信次はしずかに<ruby><rb>拝揖</rb><rt>はいゆう</rt></ruby>しながら云った。

「もったいのうござります」

彼には父の顔がみえるように思えた。父はおのれの名に未練はなかった、ただおのれの身命をなげうって、奉公すべき場所を誤ることなきようにとねがった。

――父上はその本望を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げた、父はねがっていた死處を得られたのだ、しかも誰にもまして華ばなしく、うらやむべき死處を。

退却して来た兵はただちに城の守備についた。玄黙口には鳥居元忠を。下￼口には<ruby><rb>大久保忠世</rb><rt>おおくぼただよ</rt></ruby>と<ruby><rb>柴田康忠</rb><rt>しばたやすただ</rt></ruby>を。山手口には<ruby><rb>戸田忠次</rb><rt>とだただつぐ</rt></ruby>、塩町口には酒井忠次、松平<ruby><rb>家忠</rb><rt>いえただ</rt></ruby>、小笠原<ruby><rb>長忠</rb><rt>ながただ</rt></ruby>を。その他<ruby><rb>鳴子</rb><rt>なるこ</rt></ruby>は、二之丸、<ruby><rb>飯尾</rb><rt>いいお</rt></ruby>の出丸にも兵をくばり、守備と反撃の体勢がみるまにととのった。

元亀三年十二月二十二日は、かくてまったく夜に入った。