ラクダイ<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>という、へんなあだ名の<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>が、<ruby><rb>大学</rb><rt>だいがく</rt></ruby>の<ruby><rb>近</rb><rt>ちか</rt></ruby>くにあった。きっさ<ruby><rb>店</rb><rt>てん</rt></ruby>や、カフェーや、マージャンクラブなどがのきなみにならんでいて、<ruby><rb>少年</rb><rt>しょうねん</rt></ruby>は、その中のオリオン<ruby><rb>軒</rb><rt>けん</rt></ruby>というミルクホールに<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>いていた。<ruby><rb>少年</rb><rt>しょうねん</rt></ruby>の名は、いのきちといった。

いのきちは、山で<ruby><rb>生</rb><rt>う</rt></ruby>まれた。<ruby><rb>湖</rb><rt>みずうみ</rt></ruby>の上を<ruby><rb>流</rb><rt>なが</rt></ruby>れるきりをおっぱいとしてのみ、谷をわたるカッコウの声を、<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>もり<ruby><rb>歌</rb><rt>うた</rt></ruby>にきいて、大きくなった。

<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>までいくのに、二<ruby><rb>時間</rb><rt>じかん</rt></ruby>もあるかねばならなかったし、その<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>から<ruby><rb>汽車</rb><rt>きしゃ</rt></ruby>にのって、<ruby><rb>日本海</rb><rt>にほんかい</rt></ruby>にでるのに三<ruby><rb>時間</rb><rt>じかん</rt></ruby>、また、南にむかって、<ruby><rb>太平洋</rb><rt>たいへいよう</rt></ruby>を見ようとすれば、たっぷり一日がかりというような山おくであった。ちょうど、いのきちの<ruby><rb>生</rb><rt>う</rt></ruby>まれた<ruby><rb>朝</rb><rt>あさ</rt></ruby>、おじいさんが、うらの谷で大きなイノシシをうちとめたので、その<ruby><rb>記念</rb><rt>きねん</rt></ruby>に、いのきちという名をつけられたのだという。そんな山の中でそだったのだから、五年生の春の<ruby><rb>遠足</rb><rt>えんそく</rt></ruby>で、はじめて<ruby><rb>日本海</rb><rt>にほんかい</rt></ruby>を見たときに、いのきちたちは、どんなにおどろいたことだろう。

「これが、海だよ。」

と、先生がいわれた。

「この海が、ずっと、むこうのロシアにつづいている。」

こういいながら、<ruby><rb>波</rb><rt>なみ</rt></ruby>うちぎわに<ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>って、<ruby><rb>遠</rb><rt>とお</rt></ruby>い、はい色の空を<ruby><rb>指</rb><rt>ゆび</rt></ruby>さしておられた先生のすがただけを、はっきりおぼえている。先生のうすいオーバーのすそが、風にまくれてうらがえり、先生のぼうしが、とびそうで、とびそうで……。けれども、そのときに、先生がどんな<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>をされたのか、ほとんど、おぼえていなかった。そしてただ、<ruby><rb>黒</rb><rt>くろ</rt></ruby>い<ruby><rb>海面</rb><rt>かいめん</rt></ruby>を、あとから、あとから、走ってくる白い<ruby><rb>波</rb><rt>なみ</rt></ruby>と、いつやむともわからない<ruby><rb>強</rb><rt>つよ</rt></ruby>い風とが、いのきちたちの心をひきさらっていた。

いのきちや、いのきちの友だちは、<ruby><rb>波</rb><rt>なみ</rt></ruby>うちぎわに、ごろごろころがっている、大きなにぎりめしほどある石が、<ruby><rb>波</rb><rt>なみ</rt></ruby>にあらわれて、すっかり、たまごのようにまるくなっているのにおどろいて、それを一つずつもって<ruby><rb>帰</rb><rt>かえ</rt></ruby>った。

「石におどろけ――ということばがあるが……。」

と、山の村へ<ruby><rb>帰</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってから、先生が<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>をされた。

「これは、ロダンという<ruby><rb>彫刻家</rb><rt>ちょうこくか</rt></ruby>のいったことばなのだ。そのへんにころがっている石の、一つ一つがもっている<ruby><rb>形</rb><rt>かたち</rt></ruby>と色、その一つ一つに、おどろきの心を<ruby><rb>失</rb><rt>うしな</rt></ruby>ってはいけないということなのだ。――ところが、きみたちは、ほんとうに、<ruby><rb>日本海</rb><rt>にほんかい</rt></ruby>の石におどろいたらしいね。」

先生は、こういって、わらわれた。そして、いのきちは、そのときのまるいたまごのような石を、だいじに、つくえのひきだしにしまっていたが、それを見るたびに、心が<ruby><rb>強</rb><rt>つよ</rt></ruby>く海にひかれるのだった。

山の<ruby><rb>湖</rb><rt>みずうみ</rt></ruby>にも、風がさわぐと、大きな<ruby><rb>波</rb><rt>なみ</rt></ruby>がたった。けれども、海にくらべると、まるで、おとなと子どものような、ちがいであった。

そして、その子どものような<ruby><rb>湖</rb><rt>みずうみ</rt></ruby>のまわりにも、おさないころのいのきちには、いろいろのおどろきはあったのだが、その中で、いまでもまだよくおぼえているのは、いのきちが五つの年のことであった。

なんでも、しものおりた<ruby><rb>朝</rb><rt>あさ</rt></ruby>のことだから、秋のおわりのことであったろう。

そのとき、いのきちは、みよこという<ruby><rb>湖</rb><rt>みずうみ</rt></ruby>のほとりの<ruby><rb>旅館</rb><rt>りょかん</rt></ruby>の女の子とあそんでいた。かけっこをしていたのか、おにごっこをしていたのか、わすれてしまったが、とにかく、いのきちは走っていたのである。うしろから、みよこが、どんどん<ruby><rb>追</rb><rt>お</rt></ruby>っかけてくる。いのきちがにげる。そして、とうとう<ruby><rb>追</rb><rt>お</rt></ruby>いつめられて、みよこの家の<ruby><rb>横</rb><rt>よこ</rt></ruby>の、ボートが<ruby><rb>岸</rb><rt>きし</rt></ruby>にあげられてあるところまで走ってきた。そのむこうは、もう<ruby><rb>湖水</rb><rt>こすい</rt></ruby>で、ゆきどまり――。いのきちは、はあはあと、<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をはずませながら、そのボートのまわりを、ぐるぐるまわった。みよこも、まわった。が、そのうちに、だんだんくるしくなって、いのきちは、とうとう、ボートのふちにおよぎつくようにつかまって、とまってしまった。

と、そのときである。

「はあーっ。」

と、思わず、いのきちのあらい<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>が、ボートのふちにかかったとき、

「あれっ。」

いのきちは、おどろいて声をたてた。

「ほら、みよちゃん、見てみろよ。」

いのきちは、せなかにとびついてきたみよこにも、こういって、そのおどろきをわけてみせた。それは、いのきちが、はあーっと大きく<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をするたびに、ボートのふちの、まっ白くおりたしもが、すうっ、すうっと、きえていくおどろきだったのである。

「おもしろいねえ。」

いのきちが、こういうと、

「へんねえ。」

みよこも、ふしぎでたまらないというような<ruby><rb>顔</rb><rt>かお</rt></ruby>をした。そして、ふたりは、それまで<ruby><rb>追</rb><rt>お</rt></ruby>っかけたり、にげたりしていたのもわすれて、ボートのふちのしもが、すっかりなくなってしまうまで、はあーっ、はあーっと、<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をかけづつけていた。

<ruby><rb>絵</rb><rt>え</rt></ruby>のない<ruby><rb>絵本</rb><rt>えほん</rt></ruby>。

<ruby><rb>文字</rb><rt>もじ</rt></ruby>のない<ruby><rb>教科書</rb><rt>きょうかしょ</rt></ruby>。

まだ、一さつの本さえ見たことのなかったいのきちやみよこたちにとって、この、しもが<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>できえるということは、どんなに大きなおどろきであったろう。

それからまいにち、いのきちは、しもを見つけるとかならず、はあはあ<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をかけて、けすことをたのしんだ。

――おもしろいな。

――ふしぎだな。

――なぜだろう。

これが、いのきちがおぼえている、<ruby><rb>第</rb><rt>だい</rt></ruby>一<ruby><rb>番</rb><rt>ばん</rt></ruby>めのおどろきであった。つづいて、<ruby><rb>日本海</rb><rt>にほんかい</rt></ruby>の石におどろいたのが<ruby><rb>第</rb><rt>だい</rt></ruby>二<ruby><rb>番</rb><rt>ばん</rt></ruby>め―。そして、<ruby><rb>第</rb><rt>だい</rt></ruby>三<ruby><rb>番</rb><rt>ばん</rt></ruby>めは、それからずっとあとになって、いまのミルクホールに<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>くようになってから、また<ruby><rb>新</rb><rt>あたら</rt></ruby>しいおどろきが、いのきちをおどろかせたのであった。――というのは、あの日、はじめて海を見たときから、いのきちの心はもう、山をはなれていた。うごかない山。空のむこうに、空の見えない山。そして、六年生をおわると、とうとう、がまんがしきれなくなって、町にでたいと、せがんだのであった。

「おじいさんや、そのまた、おじいさんのむかしから、ずっと、この村に<ruby><rb>住</rb><rt>す</rt></ruby>んできたのに、どうして、おまえは、ここがいやなのだ。」

父は、こういって、なげいたし、

「町にでても、だれひとり、しった人もないのに……。」

母は、しんぱいでたまらない、というふうであった。

「ほんとうに、いのきちは、かわりものになったのう。」

<ruby><rb>近所</rb><rt>きんじょ</rt></ruby>の人もみんな、こういった。けれども、ただ、みよこのうちのおじさんだけが、いのきちの<ruby><rb>考</rb><rt>かんが</rt></ruby>えにさんせいしてくれた。そして、まいねん、<ruby><rb>夏休</rb><rt>なつやす</rt></ruby>みに、みよこの家へ<ruby><rb>書</rb><rt>か</rt></ruby>きものをしにくる<ruby><rb>東京</rb><rt>とうきょう</rt></ruby>の<ruby><rb>大学</rb><rt>だいがく</rt></ruby>の先生で、いのきちもよくしっているやまもと先生に、<ruby><rb>手紙</rb><rt>てがみ</rt></ruby>をだしてくれたのだった。すると、先生からすぐに、

「ちょうど、わたしがよくいくミルクホールで、<ruby><rb>少年</rb><rt>しょうねん</rt></ruby>がほしいといっているから……。」

という<ruby><rb>返事</rb><rt>へんじ</rt></ruby>が<ruby><rb>送</rb><rt>おく</rt></ruby>られてきた。

それは、まだ<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>い春のはじめで、一<ruby><rb>番</rb><rt>ばん</rt></ruby>の<ruby><rb>汽車</rb><rt>きしゃ</rt></ruby>にのるために、<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>あけ<ruby><rb>近</rb><rt>ちか</rt></ruby>く、山をおりていくいのきちたちの<ruby><rb>頭</rb><rt>あたま</rt></ruby>の上には、<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>がきらきらかがやいていた。父と母とのほかに、みよことみよこのうちのおじさんが、わざわざ<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>まで<ruby><rb>送</rb><rt>おく</rt></ruby>ってきてくれたのであった。

「からだを、だいじにな。」

「がんばれやなあ。」

父や母や、みよこのおじさんたちも、あるきながら、いろいろと、ことばをかけてくれた。

「<ruby><rb>東京</rb><rt>とうきょう</rt></ruby>へついたらね……。」

みよこが、なんだか、小さい声で、ぼそぼそといった。そのことばを、いのきちは、まるでゆめのようにきいていた。が、いよいよ、さいごの山をおりるとき、むこうに見えはじめた<ruby><rb>汽車</rb><rt>きしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>のま上に、<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>つ<ruby><rb>星</rb><rt>ぼし</rt></ruby>が三つ、ものさしではかったように、きちんと一<ruby><rb>列</rb><rt>れつ</rt></ruby>にならんで、かがやいていたのを、いのきちは、ふしぎに、はっきりおぼえている。

そして、<ruby><rb>東京</rb><rt>とうきょう</rt></ruby>のやまもと先生の家をたずねていき、先生が、さっそく、ここへつれてきてくださったのだったが、

「ここは、ラクダイ<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>というんだがね。」

そのとき、先生がこういわれたので、いのきちは、まず、そのへんな名まえにおどろいてしまったのである。

「カフェーや、きっさ<ruby><rb>店</rb><rt>てん</rt></ruby>や、いろんな<ruby><rb>店</rb><rt>みせ</rt></ruby>がならんでいるだろう。だから、<ruby><rb>大学</rb><rt>だいがく</rt></ruby>の学生で、この<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>へあそびにくるくせがついたものは、みんな、らくだいしてしまうのだ。」

先生は、こういって、わらわれた。

「でも、このミルクホールは、けっして、ふまじめなところではないのだよ。ぼくも、たいてい、まいにちくるし、ここへくる学生たちを、にいさんのように思って<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>をしてみたまえ。」

先生がいわれたとおり、いのきちが<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>くようになったミルクホールには、<ruby><rb>大学</rb><rt>だいがく</rt></ruby>の先生や学生たちが、大ぜいやってきた。

むずかしい<ruby><rb>議論</rb><rt>ぎろん</rt></ruby>がはじまったり、ときには、<ruby><rb>大学</rb><rt>だいがく</rt></ruby>の<ruby><rb>教室</rb><rt>きょうしつ</rt></ruby>をそのまま、先生が学生をつれてこられて、そこで<ruby><rb>講義</rb><rt>こうぎ</rt></ruby>がつづけられることがあって、ほんとうに、きもちのいい<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>きばしょだった。

けれども、<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>になると、となりや、むかいのカフェーからきこえてくる、はやりうたのレコードがうるさくて、

（なるほど、ここは、ラクダイ<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>だ。）

と、いのきちは<ruby><rb>考</rb><rt>かんが</rt></ruby>えるのであった。

よっぱらいの学生が、むかいのカフェーをでてきたと思うと、またその足で、よろよろと、こちらのきっさ<ruby><rb>店</rb><rt>てん</rt></ruby>へはいっていく――というようなことがまいばんで、

（<ruby><rb>大学</rb><rt>だいがく</rt></ruby>へまでいって、どうして、あんなにお<ruby><rb>酒</rb><rt>さけ</rt></ruby>ばかりのんでいるのだろう。）

と、いのきちは、おどろいた。それから、また、

（カフェーでお<ruby><rb>酒</rb><rt>さけ</rt></ruby>をのむって、ずいぶんお金がいるのに、あの人たちは、どうしてあんなにお金をもっているのだろうか。）

いのきちは、ふしぎでしかたがなかったが、そのような学生にくらべると、いのきちの<ruby><rb>店</rb><rt>みせ</rt></ruby>にくる学生たちは、みんな、びんぼうなのだろうか、お<ruby><rb>酒</rb><rt>さけ</rt></ruby>をのんでくるようなことは、いちどもなかったし、それだけにまた、らくだい学生もいないらしいのが、うれしかった。

「ほほう、きれいな石だね。」

ある日、いのきちが、あの、<ruby><rb>日本海</rb><rt>にほんかい</rt></ruby>でひろってきた石を、<ruby><rb>店</rb><rt>みせ</rt></ruby>にもちだしてながめていたとき、こういって<ruby><rb>話</rb><rt>はな</rt></ruby>しかけたのが、よしむらさんだった。

「どうしたんだ。きみが、みがいたのかい。」

そのとき、よしむらさんが、こういったので、

「まさか。」

「ばかだねえ、よしむらは。」

ほかの学生たちが、どっとわらった。

「いえ、これは、<ruby><rb>日本海</rb><rt>にほんかい</rt></ruby>でひろったのです。<ruby><rb>日本海</rb><rt>にほんかい</rt></ruby>の<ruby><rb>波</rb><rt>なみ</rt></ruby>にあらわれて、こんなにまるくなったのです。」

いのきちが、こういうと、

「そりゃそうだろう、<ruby><rb>波</rb><rt>なみ</rt></ruby>の<ruby><rb>作品</rb><rt>さくひん</rt></ruby>だよ。」

「こんな石をけずるなんて、<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>にできるものか。いくらよしむらのように<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby>が<ruby><rb>長</rb><rt>なが</rt></ruby>くても。」

ほかの学生たちは、こういって、わらったのであった。

「なあに、できないことがあるものか。<ruby><rb>波</rb><rt>なみ</rt></ruby>の力でできるのに、<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>にできないってことがあるものか。ようするに、<ruby><rb>時間</rb><rt>じかん</rt></ruby>の<ruby><rb>問題</rb><rt>もんだい</rt></ruby>さ。」

よしむらさんは、こういった。が、すこしおかしいと思ったのか、いいおわると、ぺろりと、<ruby><rb>舌</rb><rt>した</rt></ruby>をだした。そして、そのときの、<ruby><rb>舌</rb><rt>した</rt></ruby>のだしかたが、とても、ちゃめけがあって、いのきちは、よしむらさんのことを、よくおぼえてしまったのである。

「ああ、よしむらくんか。よしむらくんは、おもしろい、いい<ruby><rb>青年</rb><rt>せいねん</rt></ruby>だよ。」

ちょうど、よしむらさんたちの<ruby><rb>講義</rb><rt>こうぎ</rt></ruby>をもっておられた、やまもと先生も、こういわれた。

「<ruby><rb>法科</rb><rt>ほうか</rt></ruby>なんだけれど、まるで<ruby><rb>文学部</rb><rt>ぶんがくぶ</rt></ruby>の学生のように、<ruby><rb>詩人</rb><rt>しじん</rt></ruby>だよ。<ruby><rb>天文学</rb><rt>てんもんがく</rt></ruby>が、とても、すきらしいんだ。いつか、<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>の<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>でもきいてみたまえ。いろいろ、おもしろい<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>をしてくれるよ。」

と、やまもと先生は、よしむらさんのことをほめていた。

ところが、そのよしむらさんは、<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>の<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>をなかなかしてくれなかった。いや、してくれなかったのではない、してくれという<ruby><rb>機会</rb><rt>きかい</rt></ruby>がなかったのである。というのは、いのきちが、よしむらさんに<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>の<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>をせがむより、いつも、よしむらさんがいのきちに、山の<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>や、<ruby><rb>湖</rb><rt>みずうみ</rt></ruby>の<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>をさきにききだした。そして、いのきちはいつも、きき手よりも、しゃべり手にまわされて、こんどこそ、こんどこそ――と思っていたのだったが、そのうちにとうとう、<ruby><rb>大学</rb><rt>だいがく</rt></ruby>も学年のおわりに<ruby><rb>近</rb><rt>ちか</rt></ruby>づいた、三月のある<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>のことであった。

もう、そろそろ<ruby><rb>店</rb><rt>みせ</rt></ruby>をしまう<ruby><rb>時間</rb><rt>じかん</rt></ruby>なので、<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>り<ruby><rb>口</rb><rt>ぐち</rt></ruby>の白いのれんをとりはずしているところへ、めずらしく、お<ruby><rb>酒</rb><rt>さけ</rt></ruby>をのんでいるらしいよしむらさんがはいってきた。

「まあ、よしむらさん、きょうは、どうしたのですか。」

いのきちは、おどろいて、きいたのだった。

「そんなに、お<ruby><rb>酒</rb><rt>さけ</rt></ruby>をのんでいると、らくだいしちゃいますよ。」

いのきちが、わらいながら、こういうと、

「なあに、そのらくだいを、もう、しちゃったんだ。」

よしむらさんも、こういって、はっはっは……と、わらいだしたのである。

「ほら、いつも、いってるように、ぼくは<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>いているんだ。<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>きながら<ruby><rb>学校</rb><rt>がっこう</rt></ruby>へいってるんだ。ところが、そのために、<ruby><rb>学校</rb><rt>がっこう</rt></ruby>へ<ruby><rb>出席</rb><rt>しゅっせき</rt></ruby>する<ruby><rb>日数</rb><rt>にっすう</rt></ruby>がたりなくて、ことしは、<ruby><rb>試験</rb><rt>しけん</rt></ruby>をうける<ruby><rb>資格</rb><rt>しかく</rt></ruby>を、とうとうなくしちゃったんさ。」

「へへえっ。」

と、はじめはおどろいたが、そのうちに、いのきちはだんだん、はらがたってきた。むかいや、となりのカフェーで、まいばんのようによっぱらっている学生と、このよしむらさんが、どちらもおなじにらくだいとは……。こう思うと、いのきちは、きゅうに、むらむらと、いかりのきもちがもえてきて、

「そ、それで、どうするんですか。」

いのきちは、せきこんで、きいたのだった。ところが、よしむらさんは、かえっておちついていて、

「なあに、らくだいはらくだい。もう一年やりなおし。のんびりやるさ。」

こういって、わらっているのである。そして、いのきちが、おこったりあきれたりしていると、

「ねえ、いのきちくん。」

よしむらさんは、きゅうに、くるりとうしろをふりむいて、

「いのきちくんは、あれをしってるかい。」

と、むかいのカフェーの上の空を<ruby><rb>指</rb><rt>ゆび</rt></ruby>さした。

「あれって、あの<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>ですか。」

いのきちが、あきれながら、こういうと、

「うん、あれだ、あの<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>つ<ruby><rb>星</rb><rt>ぼし</rt></ruby>。」

「<ruby><rb>知</rb><rt>し</rt></ruby>っていますよ。あれは、ぼくが、山をおりて<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>へきたとき、ちょうど、<ruby><rb>駅</rb><rt>えき</rt></ruby>のま上に光っていた<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>ですもの。」

「あれは、なんという<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>なのか、いってみろ。」

「いや、名はしりません。」

いのきちが、こういうと、

「なんだ、しらないって？　あきれたねえ。」

よしむらさんは、ほんとうにあきれたように、わらいだした。

「あれが、オリオンじゃないか。オリオン<ruby><rb>軒</rb><rt>けん</rt></ruby>のいのきちが、オリオンをしらなくって、どうするのだ。あの<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>つ<ruby><rb>星</rb><rt>ぼし</rt></ruby>は、五百<ruby><rb>光年</rb><rt>こうねん</rt></ruby>――つまり、あの<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>の光が、あそこから、ここまでとどくのに、五百年もかかっているんだ。そいつを思えば、なあに、一年や、二年のらくだいなんか、なんだっていうんだ。なあ、いの<ruby><rb>公</rb><rt>こう</rt></ruby>。」

よしむらさんは、そういいながら、こんどは、ほんとうのよっぱらいのように、いのきちのかたを、ドスンとたたいて、よろよろと、<ruby><rb>店</rb><rt>みせ</rt></ruby>の<ruby><rb>前</rb><rt>まえ</rt></ruby>をはなれていった。

「いいか。おぼえておくんだぞ。あれが、オリオン――、五百<ruby><rb>光年</rb><rt>こうねん</rt></ruby>……。」

よしむらさんは、二、三どふりかえって、こういうと、きゅうに、どら<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>をはりあげて、<ruby><rb>歌</rb><rt>うた</rt></ruby>をうたいだした。

カンランさいて　海青き

アテネの町の　春の色

七<ruby><rb>丘</rb><rt>きゅう</rt></ruby>の森　秋ふけて

ローマの<ruby><rb>古都</rb><rt>こと</rt></ruby>に　月<ruby><rb>高</rb><rt>たか</rt></ruby>し

<ruby><rb>歴史</rb><rt>れきし</rt></ruby>はふれど　オリオンの

<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>つ<ruby><rb>星</rb><rt>ぼし</rt></ruby>いまだ　光あり……。

きっと、よしむらさんが<ruby><rb>卒業</rb><rt>そつぎょう</rt></ruby>した<ruby><rb>高等学校</rb><rt>こうとうがっこう</rt></ruby>の<ruby><rb>歌</rb><rt>うた</rt></ruby>なんだろう。ゆっくり、ゆっくりうたう、その<ruby><rb>歌</rb><rt>うた</rt></ruby>が、ラクダイ<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>のせまい道はばを、いっぱいにふるわせていくのを、いのきちは、じっと、いつまでも、きいていた。

オリオンという、はじめてその名をしった<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>つ<ruby><rb>星</rb><rt>ぼし</rt></ruby>を見あげると、みよこの<ruby><rb>顔</rb><rt>かお</rt></ruby>が、ぽうーっと、うかんできた。五百<ruby><rb>光年</rb><rt>こうねん</rt></ruby>、アテネ・ローマの<ruby><rb>古都</rb><rt>こと</rt></ruby>――。そんなことばが、<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>つ<ruby><rb>星</rb><rt>ぼし</rt></ruby>のあいだにきらきらして、山で見た、しものおどろきや、<ruby><rb>日本海</rb><rt>にほんかい</rt></ruby>のまるい石よりも、なお<ruby><rb>新</rb><rt>あたら</rt></ruby>しいおどろきの心を、かきたてたのだった。