Soranoha

新帰朝者日記 拾遺

しんきちょうしゃにっき しゅうい

永井 荷風

二月五日

葉山の別邸に父を訪ねた。玄關からは上らずに柴折戸しをりどを潜つて庭へ這入ると、鼈甲の大きな老眼鏡をかけた父は白髯しらひげを撫でながら、縁側の日當りに腰をかけて唐本たうほんを讀んで居られたが、自分の姿を見ると、何より先に、去年來た時よりも庭の石に大分苔がついたであらうがと云はれた。庭はさして廣いと云ふではないが、歩むだけの小徑こみちを殘して、一面に竹を植ゑ、彼方此方かなたこなたに大きな海岸の巖石を据ゑ立てゝ、其の傍そばには陶器の腰掛を竝べた。振向くと十疊の座敷は新しい疊の表ばかりが妙に廣々として白く光つて、其の片隅の床の間には、何處かの古碑から寫したらしい石摺の掛物がかゝつて居る。盆栽の梅が置いてあつて、其の傍そばには唐本の套ちつが二ツばかり重ねてある。明け放した襖越しに見える次の間の書齋には、敷き延べた毛氈の上に唐紙の卷いたのが載せてあつた。縁側近くに置いた古銅こどうの手あぶりから盛に香の薫りが流れて來る。

「東京はまだ寒いか。」と父は唐本の間に眼鏡をはさんで下に置いた。蟲の喰つた表紙に杜詩全集と書いたのが僅に讀まれた。

「風が吹くと夜よるなぞは隨分寒いです。」

「梅はまだ咲かないか。百花園なぞへは行つて見んか。」

「向島ですか。行きません。」

「日比谷の公園なぞへは大分若い人が行くやうだな。世の中は代つたものだ。昔は詩佛老人が東西南北客爭來といふ聯を書いた百花園も、どうやら維持が出來んで賣物になつとるさうだな。」

「日本の名所古跡は皆みんな破壞されて電車道でんしやみちになるんでせう。情けない國です。」

自分はさう云つて白髯はくぜんの父を見た。百花園の問題は自分には別に何等の感動も與へないのであるが、自分は父に向つて日本の現在に滿足しない事を知らしめ、合點せしめて、其れから段々話を進ませて自分はいかにもして再度の外遊を企てたいと思つて居る、其の計畫に賛成の意を表はして貰ふ下心であつたのだ。一年でも二年でも、若し滯在費の支出を仰ぐ事が出來ないなら、一般の苦學生が取る樣な方法を敢てするも苦しくはない。自分は唯だ一言ひとこと、老父を殘して外國に去つてもよいと云ふ承諾を得たいのである。然し父の話は一向に自分の思ふやうな壺に篏はまつて來ない。父は其の心の根柢に、功成り名遂げて身み退しりぞくと云つたやうな大きい滿足を感じてゐると同時に、退いた後の世間に對しては、乃ち白眼はくがんを以て此れを看る、極めて冷靜な唯我主義の態度を取つて居る人だ。自分はいくら熱烈な雄辯を振ふるつて、墳墓の地に住む事の不平を訴へた處で、相手の心を動す事は出來まいし、と云つて、此の儘無爲無能に父の財産を坐食して居た處で、自分の父は世間の親のやうに報恩と云ふ收穫をば急いで其の子から得やうと急あせりはしない。

「もう二三年行つて來たいですな。」

自分はどう云ふ返事を聞くかと思つて、突然に切り出して見た。父は更に驚く樣子もなく、縁側に置いた杜詩全集を再び膝の上に取上げたが別に讀むでもなく、

「西洋はそんなに面白い處かね。」

「面白いです。」力を入れて云つたものゝ、自分は其のまゝ二の句がつげなかつた。燃え切つてしまふ前に火鉢の香は青い煙をなびかして一段高く薫り渡つた。

其の時庭の柴折戸を開けて、父よりはもつと年取つて居るらしい老人が、質素な綿服めんぷくに夏中海水浴で冠かぶる麥藁の帽子を冠つて、弓の折れを杖にしながら這入つて來る。來るが否や、「いゝ薫りです。」と云つて心安く縁に腰をかけて香の話をし出した。

「倅が上海に行つて居りますので、いつも取り寄せて貰ひますがな、香にしろ、筆墨にしろ、何に限らず日本のものはどうも雅がでありません。」

老人は父の讀んで居た唐本を覗いて見て、此の頃盛んに朝鮮から賣物になつて來る古本の話をつづけた。

「詩集ばかりはどうしても唐本でないと讀む氣になれない。妙なものです。はゝゝゝは。」と父は答へて笑つた。

來客の老人は近頃愈曲園ゆきよくゑんの題書を手に入れたが日本の表具師に頼むと何となく俗にして了ふから困ると云ふ事を語る。自分は席を辭したまゝ、海邊うみべの冬の日の暖かさに家うちへは上らず、獨りで海の方へと歩いて行つた。

靜かな砂道の兩側に、四五軒づゝ並んだ漁夫の家いへの草屋根の上に軟い日光は何とも云へぬ平和な光を投げてゐる。人は一人も通らない。松の林の彼方に幽な波の音がして、眞青な海は間もなく曲つた木の幹の間から見え初めた。處々に大きな岩が立つてゐる。自分は直ぐと地中海を思出した。今目まの當あたり見る景色が其れに似て居ると云ふのでは決してない。明い日光、青い海、赤い岩……と自分が勝手に考へ出した名詞其のものが、南歐の風景を想像せしめたからである。自分は最早や何事に限らず、一度び外國語によつて外國の藝術を通して見た後のちでなくては、自國の風物人情の凡べてに感動する事が出來ないのだ。Banlieue と云ふ外國語を發音すると、千住や新宿や、凡て街はづれの景色が何となく床しく思はれ、inn とか auberge とか云ふと田舍の宿屋も惡くないと云ふ氣になる。「散歩」「晩餐」「晝過ぎ」「五月」「暖爐」「夕の鐘」なぞ云ふ日本語が、若し一部の若い日本人の心に何か知ら訴ふる處があるとするならば、其れは日本語の發音が有する力からではない。

自分は今喜んで松の木蔭に腰を下して海を眺めた。然し斷つて置く。自分は謠曲の「風早や……」と歌ふ文句を思出した爲めではない。Massenet の音樂に「松の木蔭」と云ふ短い Poéme symphonique を聞いて感じた事があるからだ。

自分は實に自分を疑ふ。自分と同じ民族の運命を疑ふ。老いたる自分の父は、老いたる來客と共に、冬の日光ひかげの下したで、漢學から得た支那趣味の閑談清話に耽つてゐる。自分はいかに外國の藝術に迷つてゐても、猶古今集の幾首かを暗記してゐるが、維新の改革に勳功のあつた者の中うちには漢字以外に何物も知らない人が尠くなかつた。漢字趣味は廢すたれて西歐趣味が此れに代つて勢力を得たが、何人なんびとも今だに「日本」と云ふ Originalité を求めやうとするものは無い。求めても日本には Originalité がなかつたやうな氣がしてならぬ事すらある。

自分は松林を出てから歸り道に、この頃に讀んで見た D'Annunzio の小説 Il Fuoco の事を思ひ出した。主人公の詩人 Stelio Effrena は自分より異ことなつた人種のものは悉く野蠻人であると云つて、Wagner の音樂を罵り、大に Latin 魂の向上を絶叫したではないか。Alphonse Daudet は自分の生れた南方 Midi と云ふ語ことばに無限の強い自信をもたせた人で、同じ南方人と云ふ意味ばかりでナポレオン大帝の凡ての人格を判斷しやうとしたと云はれてゐる。近世の音樂を見れば殊更に、獨逸の Wagner でもスカンヂナビヤの Grieg でも、音樂としての價値生命の如何は全く民族的であると云ふ一語に盡きて居る。音樂にしろ、建築にしろ、繪畫にしろ、文字にしろ、自分は若し日本の藝術にして飽くまで民族的なるものを求めやうとしたら、果して如何なるものを得るであらう……

再び庭の柴折戸から別莊に歸つた。見れば白髯しらひげの老父は大きな鼈甲の眼鏡をかけて、次の間の書齋一面に廣げた唐紙たうしの上に、太い筆で大きな象形文字を書いて居られた。村の富豪から依頼されたのだと云ふ事である。

底本 / Source edition

底本:「荷風全集第四卷」岩波書店
1964(昭和39)年8月12日発行
底本の親本:「牡丹の客」籾山書店
1916(大正5)年2月5日
初出:「中央公論 第二十四年第十號」
1909(明治42)年10月
※初出時の表題は「帰朝者の日記」です。
※底本の表題は、底本編集時に与えられたものです。
※底本の親本では「新帰朝者日記」の「一月三十日」と「二月十五日」の間におかれています。
入力:きりんの手紙
校正:入江幹夫
2021年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/059299_001341/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/059299_001341/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/059299_001341/

永井 荷風「新帰朝者日記 拾遺」(旧字旧仮名)、底本『荷風全集第四卷』岩波書店、1964年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 059299_001341, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite