Soranoha

海の中にて

うみのなかにて

菊池 寛

二人の生活は、八月に入つてから、愈々困憊の極に達して居た。来る日も、来る日も彼等の生活は陰惨な影に閉ざされて居た。

敬吉には、おくみの存在が現在の暗いじめ〱とした世界と、明るい晴々とした自由な世界とを、遮ぎつて居る障壁のやうに、思はれる日が多くなつた。おくみの羸弱かよわい手が、自分の頸の廻りに、纏ひ附いて居る為に、踠けば踠くほど、深味へ陥ちて行くやうに思はれてしやうがなかつた。

そんな度に、彼はおくみの軽挙が、恨まれ始めた。彼女の、余りに軽率な、浅慮な行動から、現在の凡ての苦痛が、萌して居るやうに思はれた。

生活が、苦しくなればなる程、其当時の思出が、韮を噛むやうに、苦がくなつて来た。つい、四五月前迄は楽しい思出として享楽して居た、彼女との恋の発生や、経過などに就いての色々な情景が、今ではもう嫌な不快な記憶として、心の裡に澱んで居た。が、彼は彼女の過去の軽挙を、真正面から叱責したり、又その軽挙に現在の凡ての苦痛を、脊負はせるやうな、態度を見せる訳にも行かなかつた。

彼女は、彼以上に自分の軽挙を悔いて居た。彼から叱責せられる余地のない程、自分で自分の心を責めぬいて居た。

「私の軽はづみから、貴君あなたに迷惑をかけて済まない。」と、彼女は口癖のやうに云つて居た。上京して以来、彼等の生活に少しでも、苦痛の影が射すと、彼女はもう直ぐに自分の軽率を謝して居た。彼が、夫それに就いて、口出しが出来ないほど、自分で自分の軽率を謝して居た。

が、その軽はづみと云ふのも、彼女ばかりに脊負はせて置けるものでもなかつた。敬吉の方でも、その軽はづみを心から嬉しく思つた事があつたのだ。生活が今のやうに苦しくならぬ前には、敬吉は彼女の軽はづみを、叱責する心などは少しもなかつたのである。

敬吉とおくみとは、北越のある田舎町を故郷に持つて居た。敬吉は、中学を出ると、直ぐ自分の町で、小学校の教師を勤めて居た。そして、若い教師はいつの間にか、その町の芸者で、一本になつたばかりの、おくみと恋に陥ちて居た。奔放な自由な青年であつた彼は、ある宿直の晩に、おくみを学校の宿直室に引入れて居たのを、校長の妻君に見附けられた為、彼は直ぐ免職になつてしまつた。小学校の教員に対して、絶大な尊敬を払ふ田舎の人々は、又彼等に少しの瑕瑾をも、許さなかつた。まして、学校へ芸者を引き入れる事などは田舎の、狭い世間では、許すべからざる大きな罪過であつた。敬吉は、町の人々から、恐ろしい排斥を受けねばならなかつた。それと同時に、敬吉の相手であつたおくみも、彼女の周囲から、可なり烈しい迫害を、受けねばならなかつた。材料に渇かつゑて居た田舎の新聞は、一号や二号の活字を惜し気もなく使つて、敬吉とおくみとの関係を露骨に書き立てゝ、教育界の腐敗を攻撃した。敬吉は、家では厳格な父から、憎悪の眼を以て見られた。外へ出れば、出逢ふ人々から、悪意のある嗤笑を受けねばならなかつた。彼は、何うにもかうにも、国に居堪まれなくなつた。彼は、慈母のそれとなき尽力で、到頭上京する事になつた。敬吉が、苦しんで居ると同時に、おくみも亦、彼女自身の苦痛を持つて居た。新聞にその事件が出てからは、彼女の客は、目に見えて落ちてしまつた。

「内の君勇さんは、ほんまに悧巧な妓ぢや。一文にもならん教員さんと浮名を流しとる。」と、意地の悪い女将は、おくみに聞えるやうに、客に向つて話したりなどした。

内気な、気の弱いおくみは、かうした棘々とげ〱しい言葉から、直ぐ傷けられた。

敬吉が、愈々上京すると云ふ晩に、おくみ丈が、停車場迄送つて来た。敬吉の上京は夜逃よにげに近いものであつた。上京したら早稲田へでも、入学しようと云ふやうな、明るい希望が、動いて居ないでもなかつたが、彼の出立は、誰人だれにも送られない程淋しかつた。

おくみは、そつと自分の家を脱け出して来て居た。彼女は、待合室でさめ〲と泣いて居たが、愈々発車の時間が近づくと、急に元気づいて、

「私、敦賀迄見送らせて下さいな。この儘茲こゝで別れてしまふのは、何だか堪らないと云ふ気がするから。」と、云つた。

敬吉は、女のさうした未練を嬉しく思はずには居られなかつた。彼の失脚は、全く此女との関係に胚胎して居たとは云へ、彼女に対する愛は、その為に、まだ少しも傷けられては居なかつた。彼は、女のさうした親切を快く容れた。すると、おくみは自分で、切符売場へ行つて、敬吉と同じく三等の切符を買つた。

汽車に乗つてしまふと、敬吉は遉さすがに初めて故郷を離れると云ふ、哀愁に囚はれて居た。が、おくみが敦賀迄送つて来ると云ふ事は、何れほど彼を慰めたか分らなかつた。が、敬吉は彼女に、自分達の愛の将来を誓ふやうな言葉は何も云はなかつた。彼は、彼女との関係から、可なり大きい打撃を受けた事が、彼には全く苦い経験であつた。故郷から離れる事に依つて、彼女からも自然に離れる。そして自分一人の、自由な新しい生活を開拓しようと、彼は心の裡で決心して居たのであつた。

が、敦賀で彼女と別れる事は、彼に取つて決して平気な事ではなかつた。極度にセンチメンタルな彼女が、他の乗客の前も憚らず、しく〱と泣き続けて居る事は、彼の心を可なり手強く動かさずには居なかつた。

「もう、此次が敦賀だから下りる仕度をして置くといゝ。何んなに泣いたつて、何うする事も出来ないんだから。まあせい〲身体に気を附けて、丈夫に暮すんだね。」と、彼は車窓に顔を埋めて居る彼女の耳の傍で、云つた。

が、汽車が敦賀に停まつても、彼女は降りようともしなかつた。

「おい! 敦賀だよ。何うしたんだい! おい降りないか。」と、敬吉は稍々狼狽しながら、彼女を促した。が、彼女は何うしても降りようとはしなかつた。敬吉は、彼女の駄々つ子のやうな無理解さに、焦だちながら、強ひて彼女を座席から引き剥がさうとした。すると、彼女は泣き脹した眼を上げながら、

「妾わたし! 本当は米原迄の切符を買つたのよ。後生だから、彼処迄送らして下さい、もう之が一生のお別れかも知れないのだから。」と、泣きながら云つた。その途端に汽車は動き出してしまつた。敬吉は女のさうした行動に、迷惑と不安を感じながらも、女の突き詰めた心持を、嬉しく思はないでは居られなかつた。

「米原迄買つた! 偽を云つては困るよ、乗越をすると困るから、どれ切符をお見せ。」かう云つて敬吉は、おくみが切符を入れた筈の、彼女の財布が帯の間にあるのを取り上げた。彼女は夫を拒まないで、その間しく〱泣き続けて居た。

敬吉は、何心なく財布の中から切符を取り出すと、暗い電燈の光で、切符の文字を透かして見た。すると思ひがけなく、その切符には彼自身の切符と同じく、△△△から東京迄と云ふ字が、歴々あり〱と読まれたのである。

彼は「しまつた!」と、思はず声を出さうとしたが、女は夫よりも早く、

「御免なさい!」と云つたまゝ、前よりも烈しく歔欷し始めた。

女の行動は、極端に無謀であつた。彼女は自分の家を脱けて停車場へ来た為に、着換一枚持つて居なかつた。実際彼女が、東京迄の切符を買ふ気になつたのは、ホンの停車場での、出来心であつたらしかつた。敬吉は、不意に自分の身に、脊負ひ切れぬ重荷を負はされたやうに感じた。彼は、故郷に於ける失策を、脊負つて居る事さへ可なり苦しかつた。而も、その失策の相手方、而も当然彼が保護してやらねばならぬ女を、伴ふと云ふ事は、その時の敬吉に取つては、彼の力に余つた苦しい荷物であつた。

彼は思はず荒々しい声を出して、彼女を責めた。が、彼女は只「御免なさい。」と云ふ外は、何も云はなかつた。その上、泣き頻しきつて居る彼女を、他国の名も知れぬ小駅に、下す事などは、少しでも愛を持つて居る者には出来なかつた。その裡に、汽車は米原に着いた。

「米原迄と云つたのだから、茲こゝで下りて呉れ! そして直ぐ国へ引返して呉れ、後生だから! 頼むから!」と、敬吉は幾度も繰返した。が、女は動かうともしなかつた。

敬吉も、引ずり下すことは出来なかつた。彼は女の無謀を責めながら、女の自分に対する死身の行動を、嬉しく思はずには居られなかつた。

自分との関係が、世間に知られてから、彼女も同じ程度に苦しんで居るのだ。夫だのに、自分一人故郷の世間を脱出しながら、女丈だけを後に止めて、今迄通りの苦しみを苦します事は、考へて見れば利己的な事に相違なかつた。女が、さうして自分に縋り附いて来る以上、行く所迄女を伴うて行く外はないと、敬吉は思ひ直した。

そして二人は東京へ出た。

上京してからも、敬吉は女の為に、幾度も不快な苦痛を嘗めた。おくみの抱主は、当然敬吉がおくみを誘拐したものと、極めてしまつた。そして、敬吉の家へ烈しい掛合を持ち込んだ。昔気質かたぎの一徹な敬吉の父は、敬吉の再度の不始末に、火のやうに怒つてしまつた。おくみの前借を、抱主に払つた代りに、敬吉には、以後絶対に送金せぬと云つて来た。

敬吉は、学問をするなどと云ふ最初の目的は、夢のやうに消えてしまつた。彼は自分で喰ふ道を求めねばならなかつた。その上におくみを養うて行かねばならなかつた。最初三月ばかりは、二人の所持金で、彼等は不安に襲はれながら、相当に楽しい月日を送つた。が、夫が四月となり、五月となるに従つて、生活難の烈しい圧迫が、容捨なく二人を襲ひ始めた。

敬吉は、最初はノートの写字や、筆耕などをやつて来たが、夫は二人を養ふのに十分な職業ではなかつた。彼は到頭、身を落して、砲兵工廠の職工に雇はれた。欧洲戦争が、始まつて二年目の年であつたから、給料は高かつたが、彼の健康は二月とその烈しい労働に堪へなかつた。七月の初に、砲兵工廠を止めてからは、彼はまた新しい生活の道を求めねばならなかつた。

男が生活に踠けば踠くほど、女は堪へられぬほどに悶えて居た。自分の軽はづみ、自分が自分の運命に忍従する事を忘れて、冒険的に男を追つた事が、凡ての現在の不幸の初だと思ひ出すと、女は身も世もないやうに自分の軽はづみを悔いた。自分は男の身体について居る重錘おもりのやうに、段々男を浮ぶ瀬のないやうに、沈落させて行くのだと思ふと、女は心の底から男に済まないと思ひ出した。

敬吉は敬吉で、同じやうにその事実を意識して居た。おくみに憑かれて居る以上、二人一緒に陥ちる所迄、陥ちる外、仕方がなかつたが、夫でも敬吉は、おくみを憎みはしなかつた。おくみが、二言目には自分の軽率を、詫びて居る事を思ふと、彼の心は、彼女に対するいぢらしさで一杯になつた。実際苦しい生存の為に、気が焦々する時は、目の前に居る女の、過去の軽率を責めて、思ふ様に撲ぐつてゞもやりたいと思ふ事は、よくあつたが、さうした時、女は撲ぐられた以上に、しめ〲と悄気て居るので、何うする事も出来なかつた。

彼女は、少し敬吉が荒い言葉を出すと「妾が皆悪いのです。」と、云つた。彼女は心の裡でも、男の現在の不幸は皆自分にあると、思ひ詰めた。

八月が来ると、風通しの悪い敬吉等の部屋は、煖炉の中にでも居るやうに、毎日蒸せて居た。そして精神的に耗すれ切つて居る二人の頭を、更に狂はせた。

敬吉は、女から愁嘆の代りに、激励の言葉が欲しかつた。生活に労れ切つて居る彼は、誰からでも激励の言葉を欲して居た。が、女はさうした強い分子は、少しも持ち合はして居なかつた。男が生活のうめきを洩しかけると、女は一足先きに、お定まりの愁嘆を始めた。敬吉は、人を地の底へでも引き入れさうな女の愁嘆に、堪へ切れなくなつて来た。彼は、自然外出する日が多くなつた。が、何時帰つて来ても彼女は、きつと机に上半身を凭せて、じめ〱と泣いて居た。そして敬吉が帰ると、羊のやうに、オド〱した眸を挙げた。

敬吉は、女のさうした愁嘆が、段々自分の心にも浸み入つて来るのを覚えた。女の愁嘆を逃れようと思へば思ふほど、彼女の愁嘆は彼の心に浸み入つて来た。彼女がじめ〱すればする程、彼の心も陰鬱になり始めて居た。

下宿代が六月分も滞つて居た。下宿屋の主人が、敬吉と同郷である為に、夫程烈しい督促もしなかつたが、女房の方が時々敬吉等に向つて、不快な督促の言葉を吐いた。敬吉は割合平気であつたがおくみはそんな事にも、意気地なく傷けられて居た。

敬吉が求めて居た夜学教師の口が、僅かの行違で駄目になつた為に、彼等の生活は、愈々暗いものになつてしまつた。

敬吉は、此先、殆ど生活の手段が考へられなくなつた。彼は前に幾度も伯父から「女とさへ手を切れば、親父の方は、何うにでも説きなだめて、学資を送らすやうにするから。」と、手紙で云はれて居た。彼は、生活が苦しくなる毎に、伯父の忠言を幾度も思ひ出した。が、今迄一緒に苦しい中を切り抜けた女を、自分丈の幸福の為に、見捨てる事は何うしても忍びなかつた。

が、今度と云ふ今度は、もう最後の手段を考へるより外、仕方がなかつた。之以上、二人が一緒に居れば、お互に餓ゑ死するより外なかつた。その上、女が、自分が男に掛けて居る迷惑を意識して、段々自分の身を引かうとするのが、敬吉には淋しかつた。

「私もう、一層の事死んでしまひたい。」女は口癖のやうに云ふ日が多くなつた。敬吉も、女に対する愛が、かうした陰惨な生活で、段々麻痺されて行くやうに思つた。愛が段々憐憫と云つた感情に、移りかけて居た。

愈々生活の見込が立たなくなつた時、敬吉は心の裡では幾度も云ひかけて居た事を、到頭云ひ出した。

「何うだい! おくみ、思切つて国へ帰つて呉れたら。俺に附いて居たとて、此先何うと云ふ見込があるのでなし、夫にもう、本当に仕方のないどん底迄、陥ちてしまつたんだから。お前が、一旦思ひ直して国に帰つてさへ呉れゝば、両方ともうまく行きさうに思ふのだが、どうだらう。親元だつてお前を情つれなくする訳はないだらう。」

半分も云はない裡から、おくみは泣き出して居た。敬吉は「またか。」と思つたが、可愛い相でもあつた。敬吉が幾度も同じ事を繰返しても、おくみは返事をしなかつた。

すると、その翌日平常ふだんよりも早く起きたおくみは、何時になく鏡台の前で身づくろひをしてから、

「一寸神楽坂迄。」と云ひながら、出て行つた。敬吉は、おくみの沈んだ様子が、何となく気がゝりであつたので、彼はおくみの姿が見えなくなると、本能的に鏡台の引出しを探しにかゝつた。すると、其処に小さく折たゝんだ紙片が見附かつた。

「長い事苦労をかけて済みません。妾が居ては、貴君の出世の邪魔をするやうなものですから、あなたの為に死んでお詫を致します。お傍を離れるのは誠に辛い。決してあなたを見捨てたのではありませんから、恨まないで下さい。」と、見馴れた彼女のいぢけた文字で書いてあつた。

敬吉は、かうした事変を予期して居た。そして此手紙を見た刹那にも、殆ど駭かなかつた。この儘にして置けば、あの女の陰鬱な把握から、逃れることが出来ると云ふ、利己的な、悪魔的な考へが、頭の中に浮ばないでもなかつた。が、彼は直ぐ思ひ返して、おくみの後を追つた。もう此の辺に一年近く住んで居るのだが、殆ど外出しなかつたおくみは、まだ電車迄の道に、十分に馴れて居なかつた。敬吉は息を切らしながら、神楽坂下の停留場へ駈け附けて待つて居た。すると、暫く経つてから漸くおくみがやつて来た。おくみも、心の底では、引き止められる事を予期したやうでもあつた。彼は「おい!」と云つて、おくみの肩を叩くと、黙つて自分達の下宿の方へ引返した。おくみも素直に彼の後に従つた。

おくみが、本当に死なうと云ふ覚悟を見せてからは、二人の間はもつと暗くなつた。敬吉は、なるべく外出しないで、おくみを慰めようとしたが、その事は、尚おくみを苦しがらせた。おくみとしては、自分の為に敬吉を、此上少しでも煩はすと云ふ事が、心苦しかつたのだ。二人は何も話さないで、向ひ合つて居る日が多くなつた。敬吉は女の心が、日一日益々沈んで行くのを、明あきらかに感じた。そして女の沈んで行く心が、敬吉にも反響した。二人は手を携へたまゝ、段々最後の悲劇へ急いで居たのであつた。

おくみが再度男に迫られて、到頭国へ帰る事に得心した日の、午後四時頃であつた。急に「涼みに行きたい。」と云ひ出した。八月十三日で、朝から下宿の狭い部屋は、焼き附くやうに暑かつた。女は珍らしく機嫌を直して居たので、男もつい涼みに行く気になつた。

二人は、珍らしく連れ立つて家を出た。芝浦へ行く心算つもりであつたが、電車に乗つてから女は「海へ出たい。」と云ひ出した。

敬吉も、さうした女の気紛れを、嬉しく思ふやうな、妙にそは〱した心になつて居た。二人は築地橋の船宿から、ボートを借りて海へ出た。

海の上には、遉さすがにそよ〱と微風が吹いて居た。男は台場の方を目指して、思ひ切り漕ぎ進んだ。が、中途迄行くと、余りに労れ過ぎて、帰りに漕げないでは困ると思つたので、後へ引き返さうとした。すると女は急に「いや〱、私、何時迄も海に居たいわ。」と云ひ出した。

「馬鹿な! もう日が暮れかゝつて居るぢやないか。」と、敬吉は、女の多愛たわいのない態度を叱責した。

「私、茲こゝから飛び込んで死にたいわ。妾わたしが死んだら、あなたは何うするの。」と、女は平生いつもの彼女と全く違つてしまつたやうに、快活で大胆になつて居た。

「冗談を云ふな! 馬鹿!」と男は叱つたが、女の態度や言葉の裡には、冗談にしては底気味の悪い確かさがあつた。

「妾わたし、本当に茲で身を投げるから見て居て頂戴。何んな事があつても助けないで下さいよ。」と、云ふと、今迄冗談のやうに云つて居た彼女の眼から、大粒の涙が湧くやうに流れ始めた。敬吉は、動揺するボートの底板を、重く踏みしめながら、女に近づいて女の身体を捕へた。今年十八になつたばかりの小柄の女は、敬吉の眼に此時程いた〱しく映つた事はない。敬吉一人を頼りにして、故郷を脱出ぬけだして、下宿屋の汚い部屋で、今迄惨じめな、苦しい生活を忍んで来たのが、敬吉に帰国を迫られた為到頭死を覚悟した女の心持が、敬吉の頭の中へ力強く反映した。

敬吉は、女をヂツと抱いて居ると、女の心持が、沁々と彼の心の裡に浸にじみ込んで来た。そして段々暗くなつて行く海上の、ボートの中では、おくみと自分との二人限きりの運命の事しか、心に浮ばなかつた。

彼にとつては、おくみの外に、もう何も存在しないやうに思つた。自分を慕うて色々な苦痛を忍んで来た、いぢらしい女の外には、世の中には何も存在しないやうに思はれ出した。彼は今迄に感じた事のない程の、女に対する烈しい愛が、自分の心の裡に湧いて来るのを感じた。静に女を抱いて居ると、何も云はないでも、二人の取るべき道が、敬吉には判つて来るやうに思つた。一緒に死ぬと云ふ事が、苦痛でも何でもなくなつた。彼は女を心から愛しながら、死ぬ事を何よりも幸福だと思つた。女も、男に抱かれながら死ぬ事を、思ひ掛もない幸福だと思つた。愈々二人の身体を結び合はしてしまふと、女はたつた一言「済みません。」と、囁くやうに云つた。

何の恐怖もなく、躊躇もなく、二人は舟端から滑り込んだ。敬吉は、最初冷たい海水の触感を、快いとさへ思つた。が、死の苦痛は直ぐ二人を襲つた。敬吉は、女の身体をグイと抱きしめながら、その苦痛と戦つた。すると、最初は敬吉の身体に縋り附いて居た女が、徐々に身を踠き始めた。敬吉は女の苦痛をいたましいと思つた。彼は一層力強く女を抱きしめようとした。すると、女は却つて反対に左右の手で、グン〱男の身体を押し除けようとした。その時二人の身体は一時海面に出た。敬吉は、女が自分を押し除けようとする態度を、可なり不快に思つた。声を出して女に何か云はうと思つたが、もう声は出なかつた。その中うちに、二人は又沈みかけた。女は以前よりも、一層烈しく踠き出した。そしてもがきながら左右の手で、烈しく敬吉の顔を掻き続けた。敬吉の段々混乱しかけた意識にも、女のさうした態度が不満でならなかつた。つい一時間前に、あれほど愛して居た女から、顔を掻きむしられながら、死んで行く事が、彼には堪らなく不快だつた。彼は水の中で、女を叱らうと思つたが、口を開ける度に海水に咽せた。彼は、ぢつと女を抱きしめながら、女の左右の手の不快な運動を堪こらへて、死の苦痛を忍ばうとした。彼は三四分も、その苦痛に堪へて居た。その内に今度は、彼自身何どうにもかうにも堪らなくなつた。彼は女を抱いて居た手を離すと、自分の身体に纏ひ附いて居る女の身体が、邪魔で邪魔で仕方のないやうに思ひ出した。彼は両手で、女の身体を力一杯押し除けようとした。敬吉の手と、女の手とが水中で打ち合つた。それは、水中に於ける烈しい格闘であつた。敬吉の頭の中には、何等の記憶も感情もなかつた。たゞ生きたかつた。彼は最後に、渾身の力を籠めて、自分の身体に纏ひ附いて居る、邪魔物を押し除けた。彼は、何だか安心したやうな、救はれたやうな心持になつた。が、彼の身体はもう疲れ切つて居た。彼は、もう何等の苦痛も感じなかつた。底の無い深淵へ沈むやうに、深く〱陥ちて行くやうな気がした。何だか周囲が、ボンヤリと明るくなつたかと思ふと、少年時代からの色々な出来事が、映画フイルムのやうに彼の頭の中を通過した。夫が終ると段々周囲が闇くなつた。淋しいやうな頼りないやうな嫌な心持がした。夫が彼の意識の終だつた。

女は死んでしまつて、敬吉は救はれた。

彼が意識を恢復したのは、その日から丁度五日目であつた。気がつくと、彼は病院の一室に寝て居た。何だか、顔が掻ゆいので、手をやつて見ると、額にも頬にも、幾つも蚯蚓脹みゝずばれがして居た。彼は、最初その傷が、何うして出来たのか判らなかつた。が、だん〱意識が明確になるのに従つて、その原因が判つた。

彼は、夫を女の唯一の片身として、痕跡が全く無くなる迄、時々淋びしく撫でゝ居た。そして、女を突き放して、自分一人助かつた事を、さう後悔もして居なかつた。

底本 / Source edition

底本:「菊池寛全集 第二巻」高松市菊池寛記念館
1993(平成5)年12月10日発行
底本の親本:「菊池寛全集 第一巻」平凡社
1929(昭和4)年9月5日
初出:「大觀」
1918(大正7)年7月号
※「思出」と「思ひ出す」と「思ひ出し」、「思切つて」と「思ひ切り」の送り仮名の有無の混在は、底本通りです。
入力:卯月
校正:hitsuji
2019年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/059173_000083/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/059173_000083/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/059173_000083/

菊池 寛「海の中にて」(新字旧仮名)、底本『菊池寛全集 第二巻』高松市菊池寛記念館、1993年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 059173_000083, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite