文学博士　　新村　出

今春琉球に関する一、二の古本を読んでから南島を思う情が切になり来った矢先に、伊波君の『古琉球』と題する南国の色彩豊かな著述がしかもその国の人の手に由って贈られたのは異常に嬉しかった。

森島中良の『琉球談』中に見える年中行事（むしろ歳時記）を読んだのは未だ寒い頃であったかと思う。

□二月十二日、家々にて<ruby><rb>浚井</rb><rt>いどかえ</rt></ruby>し女子は井の水を汲んで額を洗ふ、<ruby><rb>如此</rb><rt>かくのごとく</rt></ruby>すれば疾病を免るゝとなり、<ruby><rb>此</rb><rt>この</rt></ruby>月や<ruby><rb>土筆</rb><rt>つくし</rt></ruby>萌出、海棠・春菊・百合の花満開し<ruby><rb>蟋蟀</rb><rt>こおろぎ</rt></ruby>鳴く。

□三月上巳の節句とて往来し、<ruby><rb>艾糕</rb><rt>くさもち</rt></ruby>を作て<ruby><rb>餉</rb><rt>おく</rt></ruby>る、石竹・<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ろうさばら</rt></ruby>・<ruby><rb>罌粟</rb><rt>けし</rt></ruby><ruby><rb>倶</rb><rt>とも</rt></ruby>に花咲く、紫蘇生じ、麦<ruby><rb>秋</rb><rt>みの</rt></ruby>り<ruby><rb>虹</rb><rt>にじ</rt></ruby>始て見ゆ。

□四月させる事なし、鉄線開き<ruby><rb>笋</rb><rt>たけのこ</rt></ruby>出。<ruby><rb>蜩</rb><rt>ひぐらし</rt></ruby>鳴き、<ruby><rb>蚯蚓</rb><rt>みみず</rt></ruby>出、<ruby><rb>螻蟈</rb><rt>けら</rt></ruby>鳴き、芭蕉実を結ぶ、国人<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>を甘露と名づく。

この本の挿画にも見るように髪の頂に<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>を長く突出して島の女子が南音ゆるく蛇皮線を<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>いている側に、熟しきったバナナを食いながら、芭蕉葉の扇を使って<ruby><rb>懶気</rb><rt>ものうげ</rt></ruby>に聴惚れている若者を想像すると、〔荻生〕徂徠が『琉球聘使記』に挙げた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いとやなぎ</span>の唱歌が聞える。

こんな島へも昔、<ruby><rb>閩</rb><rt>びん</rt></ruby>から支那の冊使を載せて来る船が<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>ったのみならず、十八、九世紀の替り目からは西洋の探検船が渡って珍しい島物語を絶域に伝えることになった。琉球語を初めて学問的に研究して世に<ruby><rb>著</rb><rt>あら</rt></ruby>わしたバジル・ホール・チャンバレン Basil Hall Chamberlain 氏の祖父に当る Captain Basil Hall の率いた<ruby><rb>英吉利</rb><rt>イギリス</rt></ruby>船が帰航の途に聖ヘレナ島に立寄って船長の口から<ruby><rb>流竄</rb><rt>りゅうざん</rt></ruby>中の那翁に沖縄島の話を伝えた事は近時邦人の間にも<ruby><rb>普</rb><rt>あまね</rt></ruby>く知られるようになったと思うが、同じ航海で那覇港に来た英船アルセスト Alceste 号に就いての話は聞えぬらしい。

ライラ Lyra 号の艦長ホールの『航海記』（一八一七年、文化十四年<ruby><rb>倫敦</rb><rt>ロンドン</rt></ruby>版）には大尉クリッフォード Clifford の編纂した琉球<ruby><rb>語彙</rb><rt>ごい</rt></ruby>が附録されている如く、アルセスト号乗組の軍医マクレオッド Mac\-Leod の『航海記』（同年同地版）にはフィッシャー Fisher と呼ぶ人の<ruby><rb>蒐集</rb><rt>しゅうしゅう</rt></ruby>した琉球語彙が添うている。<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に語彙の事をいえば、右諸船よりも二十年ばかり前にブロートン Captain Broughton の率いて我国の近海に来た英船の『北太平洋探検記』（一八〇四年、文化元年倫敦版）にも附録としてやはり琉球語彙が載っている。後に至って、探検時代から布教時代に進んでベッテルハイム Bettelheim やギュッツラフ Gützlaff らの宣教師連の手を着けた琉球語学のことは<ruby><rb>姑</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>き、以上三人の船乗共が集めた語彙は今日から見れば不完全で研究の資料にもならぬが、なかんずくブロートンのは僅々二十一語を録するに止まり、フィッシャーのは百八語を算するが、クリッフォードの分は一千の語辞と百十六の文章と琉球日本蝦夷三語対照表との三部より成立つ比較的詳密なものである。――しかし今自分の伝えたいと思うのは実は、既に無用に属したこれら語彙の事ではないので、上に述べた英船の一なるアルセスト号の諸員が琉球で受けた印象ともいうべき一節であったのである。

天保三年杏花園の蔵版で出た『（１）琉球雑話』の一節を見ると、

<ruby><rb>諳厄利亜</rb><rt>アンギリア</rt></ruby>の人、紀行の書を見るに千八百十六年（文化十三丙子年）九月にあたる月琉球国にいたりし条に（中略）また<ruby><rb>云</rb><rt>いう</rt></ruby>、アルセスト（船舶の名なり）吏の長の婦おほく陸にありしに、此島の官人等のめぐみをうけしに、ある日貴人来りて、おほいなる家をよくかざり、<ruby><rb>諸</rb><rt>もろもろ</rt></ruby><ruby><rb>器</rb><rt>うつわ</rt></ruby>を設いれおくべしといへり。ある日また貴人舶中へ来りし時、かの婦人に対しはなはだ丁寧なるやうにて、扇をあたへしが、其後たつとき一女、好事にて諳厄利亜の婦を見んとて、かの婦ひとりをりし処へきたり、かの婦を四方より穴のあくほど見たりしが、かの扇をもちゐたりしゆゑか、いかにも<ruby><rb>妬情</rb><rt>ねたみごころ</rt></ruby>をふくみし眼の色にて、やゝひさしく見てぞかへりけり（さきに扇をあたえし貴人は国王にて、のちにきたりし貴女は王の妃なるべし）。われ開帆の期すでにさだまりて九月二十六日琉球人祭服して寺におもむき犠牲を神に供し諳厄利亜人を加護し、つゝがなく本国へかへらしめんことをいのれり。すでにひらけしほかのくにの、いつはりてなすところの別離の情よりは、よく心にてつしてかなしかりき。此質朴の善心よりいづる所なればなり。祈をはりて別をなさんとて、わが舶にきそひ来りぬ。無情のボナハルテ（悪王の名）なりとも、いかでかこれにかんぜざらんや、わが舶すでにさりし後も、ひさしく船中より手をあげて其情をしらしめり。われすでに南方へむかひおもむきしに順風にてたゞちに此島はみえずなりにけり。しかれども此土俗の深切と情の厚きは、わが諸人の心にふかくかんじ恩としたふとむなり、云々。

航海記や漂流記を読む興趣は格別であるが、この一節の訳文は、<ruby><rb>殊更</rb><rt>ことさら</rt></ruby>それが文政天保の交の訳文だけに、一段の面白味を添えて、<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>て新奇ではないが、幽婉なこの挿話を読んで情趣溢るる南島の空を偲ぶこと更に切であった。

（２）斯書の再版本（栃内氏旧蔵本）を海軍省の一室で読んだのは、今年三月の末であったか、その一三四―一三五頁に於て前記和訳文の原文は見られる。附録に同舟のジラード Gillard と呼ぶ者の<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">別れ</span> FAREWELL と題する四句二十五節の長詩一篇がある。

今首尾の一、二節を引こう。首の一節はこうだ。

The sails are set, ―the anchor's weigh'd;

Their seaward course the ships pursue

And, friendly signs at parting made,

We bid the land a last adieu\.

最後の二節は次のようである。

No more; ―for now the freshing breeze

Impels us swiftly o'er the deep:

Your verdant shore no longer please,

And faint appear your mountains steep\.

Their summits now are clothed in gray,

And scared the eye their place can tell;

Once more <em>Dear Island, Fare thee Well\!</em>

かくの如くして南島に対する詩味が自分の心から去りやらぬうちに伊波君の『古琉球』が我手に届いた。附録を除いて正に四百頁に近い冊子に、研究に資する所<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ多く一読して趣味最も<ruby><rb>饒</rb><rt>ゆた</rt></ruby>かなる琉球文献学上の論著二十五篇を収めたもので、主として一たび東都または郷土の雑誌や、新聞紙の上に表われたものを<ruby><rb>輯</rb><rt>あつ</rt></ruby>めたものである。行文いずれもリリカルな調をそなえ、<ruby><rb>毫</rb><rt>ごう</rt></ruby>も枯淡の嫌なきはこの種の著述に於て多とせねばならぬ。主張あり問題の提供ある所もあるが、要するに南島の神話伝説を探り、童謡<ruby><rb>俚諺</rb><rt>りげん</rt></ruby>を尋ね、あるいは古音旧辞を<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>め、歌詞楽舞を伝えて、古史研究に文献学に少からぬ寄与をされた功は特筆せねばなるまいと思う。

巻頭の「琉球人の祖先に就いて」の一篇は既に単行本『琉球人種論』で世の知る所であろうが、今幾多の趣味深き文章中より自分の感興に触れた二、三のものを挙げると、仮名書きの金石文にあらわれた<ruby><rb>倭寇</rb><rt>わこう</rt></ruby>史料や同じ書体で記されたいわゆる琉球最後の碑文にあらわれたる内裏言葉は（一は既に早く同じ人によって紹介されたものではあるが）古雅<ruby><rb>掬</rb><rt>きく</rt></ruby>するに足る。

『おもろさうし』は<ruby><rb>夙</rb><rt>つと</rt></ruby>に著者の先輩田島利三郎が伝えて東都の雑誌上にその一部を披露しまた多数は東京文科大学の国語研究室の一隅に十年余りこのかた所蔵されていたが、その詩味史興共にこれを<ruby><rb>闡明</rb><rt>せんめい</rt></ruby>する学者もなかったところ、本篇の中で伊波君が着々研鑽に従われているのを見ると愉快に堪えない。本土との交通史料として引かれた「おもろ」の一節に、

楠木はこので

大和船こので

やまと旅のぼて

<ruby><rb>山城</rb><rt>やしろ</rt></ruby>たび登て

瓦買ひにのぼて

てもつ買ひにのぼて　〔十―二八〕

とあるが如きは、古詩を読むような感を起させる。「可憐なる八重山乙女」が<ruby><rb>白明井</rb><rt>すさかがわ</rt></ruby>のほとりで歌う絶唱、宮古島の名もない詩人が八重山おとめを歌うた長い鄙歌共にこれを誦すれば、いよいよ南島の空がなつかしくなる。八重山島の「<ruby><rb>鷲</rb><rt>ばし</rt></ruby>の鳥の歌」の<ruby><rb>雄渾</rb><rt>ゆうこん</rt></ruby>なる風姿は南国の高調ともいうべきか。

大あこうの根ざしに

なりあこうの<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>ばいに

一の枝ふみのぼり

<ruby><rb>七</rb><rt>なな</rt></ruby>の枝ふみのぼり

一びらい巣ばかけ

七びらい巣ばかけ

一びらい<ruby><rb>卵</rb><rt>こ</rt></ruby>が<ruby><rb>産</rb><rt>な</rt></ruby>し

七びらいこがなし

と二十二句から成る頌歌である。

八重山宮古の島々は<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り歌謡のきわだっているばかりでなく、極南界にあってその言語音韻も純古にして北の<ruby><rb>島嶼</rb><rt>とうしょ</rt></ruby>とは趣を<ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt></ruby>にする。<ruby><rb>康煕</rb><rt>こうき</rt></ruby>末年の『<ruby><rb>中山伝信録</rb><rt>ちゅうざんでんしんろく</rt></ruby>』の類また三十六島の方言差別をまま記入してはあるが、断片的に過ぎぬ。十九世紀の初頭アーデルングらの『<ruby><rb>言語集</rb><rt>ミトリダーテス</rt></ruby>』（第一巻、第四巻）にも八重山<ruby><rb>及</rb><rt>および</rt></ruby>太平山（宮古）二島の方言について一言するは、西欧探検家及地理学者らの所説に基いたものらしいが、極めて曖昧なるを免れぬ。最近代我国に於て一、二内外の学徒の先島方言の古音を保存することを述べたのも極めて断片的に止まった。伊波君の琉球語の掛結を論じ、<ruby><rb>波行</rb><rt>はぎょう</rt></ruby>古音Ｐたる考に一歩を進めたのも、主として極南諸島の言語調査の結果から来ている。

二島の土人が沖縄本島の<ruby><rb>国頭</rb><rt>くにがみ</rt></ruby>地方の住民と共に<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">花</span>をパナ、<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">葉</span>をパー、<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">羽</span>をパニ、<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">帆</span>をプーと発音すること、これらのある地方にては、<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">大</span>を（３）ウプ（本島ではウフ、国語のオホ）といい、「<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">吸ふ</span>」をスプユンということが、波行古音考に有力なる証拠を供したのみならず、二島の中にもＰばかりが行われずに、既にＦをもある場合には発音していること、また首里大島の如く本土の文化に接して開けた地方にてはＦとＨとが並び行われることなどは、言語変遷史上の一縮図として極めて面白い事実である。ＰからＦへ、ＦからＨへと国語がこの二千年間に進んだものが、現在南島に縮写されていることは、伊波君の記述によっても<ruby><rb>益</rb><rt>ますます</rt></ruby><ruby><rb>明</rb><rt>あきら</rt></ruby>かになり来った。著者は更に進んで『中山伝信録』に収めてある琉球の単語を捉えてその波行音の文字にＨＦＰ三音があらわされていることを述べて、沖縄に於ける波行音変遷の過程の一端を示された。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も右の琉球語彙は<ruby><rb>冊封</rb><rt>さくほう</rt></ruby>副使の<ruby><rb>徐葆光</rb><rt>じょほこう</rt></ruby>が康煕五十八、九年（享保四、五年）即西暦一七一九、二〇年在琉中に自ら蒐集したものではなく、康煕二年（寛文三年）即一六六三年に渡航した冊使（４）張学礼の『雑記』中に収めた単語を基礎としたことは『伝信録』巻六琉球語の緒言に書いてある通りである。これより<ruby><rb>先</rb><rt>さ</rt></ruby>き明の万暦三十年（慶長七年即一六〇二年）の冊使夏子陽の『使録』（刻本）には、琉語が載ってあった。更に<ruby><rb>遡</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>った嘉靖十三年（天文三年）即一五三四年の使節（５）陳侃の記には巻末に夷語夷字を附録したとあるからは、琉球語彙が集められたに違いないが徐氏の時代所伝の鈔本には<ruby><rb>闕</rb><rt>か</rt></ruby>けてしまい、我邦に伝わって、白石の『南島志』の資料にも成った『使琉球録』はやはりこれを欠いていたことと思う。明朝の陳夏両使の蒐集も徐使の訂正して載せた清朝の張使の蒐集も共に訛謬甚しきものであって、正確な材料とはいわれぬけれど、琉語の古史料の乏しきおりから、十分なる注意を以てこれを利用するは適当と思う。写音した蒐集者が<ruby><rb>閩</rb><rt>びん</rt></ruby>人であるか北人であるかに由てその琉語の読方も大に異るわけであるが、<ruby><rb>語頭音</rb><rt>アンラウト</rt></ruby>たる唇音の場合には割に都合よくその音価を定め得る。伊波君がこれを波行音変遷史料に応用されたのは結構である。ただ陳夏二使の分があったら一層Ｐ音資料に力を添えたろうと思うばかりである。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るに明の周鐘らが編した『音韻字海』に附録する「夷語音釈」というものがある。原書は明版もあり、音釈以下は「異称日本伝」にも収められてある。「夷語音釈」の次に「夷字音釈」があって、後者の末には、劉孔当という名で昔年閩に遊んで琉球の通事に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いて知ったことを附記してある。（６）福州の南台に琉球館があって<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に通事が常置してもあったことは言うまでもない。「夷語音釈」の方には琉球とは断ってないが、収めてある言語から推定してやはり琉球語たることは<ruby><rb>疑</rb><rt>うたがい</rt></ruby>ない。時代は不明であるが、多分万暦の初年度よりは下るまいと思う。『伝信録』に見えた陳侃の記の附録「夷語夷字」とあるは、あるいはこの『音韻字海』附録の「夷語夷字」であって、劉孔当は閩の通事に就いてこの音釈を施し<ruby><rb>若</rb><rt>もし</rt></ruby>くは訂したというように見られまいか。あるいはまた劉孔当などの編したものを陳侃の『使録』に添えたものか。ただし夷字は既に伴信友が『仮字本末』（上巻の末）に於て述べたとおり、元の陶宗儀の『書史会要』（巻八外域）に所載の文字について訂正を加えたものらしい事は推定し得る。松下児林は上のいわゆる夷語を単に日本語として、薛〔俊〕氏の『日本寄語』等所録の邦語と、異同表裏は別として、同様に取扱ったが、これは疑問であろう。両方の関係は今は深く論ぜぬが、二者は材料としてこれを区別して置きたいと思う。さて今「夷語音釈」を、よしや嘉靖の初にまで引上げずとも、万暦の初、即ち十六世紀の末期のものとして考えると、これを琉語史料として見る上に於て、興味ある事柄が見出されるのである。

附記。クラプロートは一八一〇年文化七年『亜細亜文学歴史言語録事』Archiv für Asiatische Literatur, Geschichte und Sprachkunde 巻一に於て「夷語音釈」を示せり。その由少アーデルングの増補本『<ruby><rb>言語集</rb><rt>ミトリダーテス</rt></ruby>』（巻四）に見ゆ。

今数語の例を挙げると、「夷語音釈」に<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">波</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">世</span>（星）<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">抛</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">拿</span>（鼻）<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">品</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">其</span>（鬚）とあるを、『伝信録』には<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">夫</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">矢</span>（星）<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">豁</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">納</span>（鼻）<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">非</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">几</span>（鬚）とあるが、前者の<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">波</span>、<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">抛</span>、<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">品</span>みなＰであるのに、後者の<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">夫</span>、<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">非</span>はＦで<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">豁</span>はＨであるのに先ず注意される。その他両者共にＦたるが多く、<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>にＰたるも存するが、面白く思うのは、前者に<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">花</span>を<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">法</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">拿</span>としてあるを後者に<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">豁</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">那</span>とする如きを始とし、<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">春</span>の<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">ハ</span>を一は<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">法</span>として他は<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">哈</span>としたり、<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">八月</span>の<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">八</span>を一は<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">法</span>として他は<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">瞎</span>としたような類のＦＨの対照が認められる。神州方言に於ても<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">法</span>の字はＦ、他の字はＨの頭音を有することは勿論だ。

かくの如く嘉靖または万暦の初年と康煕の初年との間、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど百年<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>百五十年のうちにも<ruby><rb>髣髴</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>として<ruby><rb>如此</rb><rt>かくのごとき</rt></ruby>の音韻変化の迹がたどられる。されば追々地方的及び時代的の差別が明かに成来って琉球語の研究が経緯されるに至ると、我本土の国語の源流を究める上に大なる<ruby><rb>裨益</rb><rt>ひえき</rt></ruby>をなすことは疑ない。言語以外の方面に於ても<ruby><rb>普</rb><rt>あまね</rt></ruby>く文献の蒐集攷究を<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>められると同時に、国語学の上にも益々新資料を供給されることを自分は著者に熱望して止まないのである。

この著述は那覇の沖縄公論社の印刷及発行にかかり、印刷紙質装釘の体裁は立派なものとはいえず、活字の墨付が悪くて読みにくい点もあるが、自分は、かえってかかる質朴なる外見に一種の感興を禁じ得なかった。タイトルページの横文字の如きも、後年になったら琉球木活字版とでも<ruby><rb>名</rb><rt>なづ</rt></ruby>けてかえって珍重がる人がないではなかろう。とにかく南島から贈られたこの新著に対し、あらゆる点に於て少からぬ注意と興味とを起したということを以て、この蕪稿を終る。

参照

（１）外題に「琉球年代記」と標し、合せて東条琴台の序文あり、何人の著なりやを知らず。元大田南畝の所蔵写本なりしを門人の出版せるものにかかる。文政年中の編述たることは疑なし。

（２）この航海記は初め一八一七年（文化十四年）<ruby><rb>倫敦</rb><rt>ロンドン</rt></ruby>に刊行し、翌年再版し、八年後更に版を加う。一八一八年（文政元年）の蘭訳本及仏訳本あり。本邦にて一節抄訳せられしはけだし蘭本（アムステルダム版）によりしならん。なおパジエーの書目第四七三号及びウエンクステルンの書目三〇九頁を<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>るべし。

（３）（４）叢書『説鈴』（第六冊）に収むる所の張氏の『使琉球紀略』に語言二十余箇を摘録せるを見るに<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">大</span>を<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">倭捕殺</span>（ウフサ）とせり。<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">捕</span>は支那各地皆Ｐに発音せり。また<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">飯</span>を<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">安班</span>とせるは、あるいは<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">粟</span>（アハ）にあらざるか。然らば<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">アパ</span>と音ぜしなるべし。

（５）『続説郛』第十一局所収の<ruby><rb>陳侃</rb><rt>ちんかん</rt></ruby>の『使琉球略』は極めて簡略なるものにして僅に全文の一部たるに過ぎず。

（６）新井白石の『琉球国事略』島津重豪及び赤崎楨幹の『琉球談記』などを見ても知らるるなり。

（追加）初めて音訳を施しし年代は不明なれども地名にＰ音の称呼を有する文字多かり。<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">烏</span><span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">巴</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">麻</span>、<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">巴</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">度麻</span>、<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">巴</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">梯呂麻</span>などの<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">巴</span>、<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">那</span><span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">覇</span>の<span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">覇</span>の如き然り。これらと共に古く<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">大島</span>を<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">烏</span><span data-tei-rend="bouten 丸傍点 right" style="text-emphasis-style: filled circle; text-emphasis-position: over right">父</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">世麻</span>と音訳せるもまた上に掲げし<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">大</span>を upu とよむ例の一に加えつべし。

右の一篇を恩師新村博士が『芸文』〔三巻七号〕に掲げて、『古琉球』の初版を学界に紹介されたのは私の光栄とする所で、御厚意にあまえて、これを再版の巻頭に掲げさせていただくことにした。

（伊波　生）