Soranoha

亡霊ホテル

ぼうれいホテル

山本 周五郎

惨劇の部屋

伊藤豊治いとうとよじ青年が洗面を済まして着換えをしているところへ、制服を着た給仕ボーイが朝の珈琲コーヒーを運んで来た。

「お早うございます」

「ああお早う」

「好よくお寝やすみになれましたか」

伊藤青年はネクタイを結びながら、給仕ボーイの支度する珈琲コーヒーの卓子テーブルに向って掛けた。――あまり機嫌の好い顔つきではない。

「よく眠れなかったよ君、一体この向うの部屋にはどんな客が泊っているんだい? ひと晩中へんな音をたてたり妙な声をしたり、実に閉口したぜ」

「向うの部屋と申しますと?」

「廊下の向うさ、この翼屋よくやで、向うと云いえば此室ここと廊下の向うと二部屋しか無いじゃないか」

給仕ボーイはなにか思い当る事があるらしく、サッと顔色を変えながら眼を外そらした。

伊藤豊治は九州大学の工科研究室に籍のある研究生で、恩師の鹿谷しかや弘吉博士はかせが、或る研究報告をするため上京した後を追って、その助手を勤めるために昨夜東京へ着いたのである。――ところがこのホテルへ来てみると、博士は研究上の用務を帯びて仙台へ出張したということで、伊藤青年はゆうべ独りでホテルへ泊ったのであった。

彼の泊った部屋はホテルの翼屋で、そこには廊下を隔てて二つの部屋が向い合っている。その向う側の部屋から、――ゆうべひと晩中、女の呻うめくような悲しげな声や、長い紙を静かに引裂ひきさくような物音が、絶えては聞え絶えては聞えして来るので、妙に苛々いらいらと寝苦しい思おもいをしながら一夜を明かしたのであった。

「――矢張やはりお聞きになりましたか」

給仕ボーイはやがて声をひそめて云った。

「矢張りって? 何かあるのかい」

「あの部屋には何誰どなたも泊ってはいらっしゃいません。もうずっと以前からお客様をお入れしない事になっていますので、――と申しますのは、実は極ごく内々のお話なのですが、彼室あそこは『亡霊の部屋』と云いって、私共仲間でも怖がって近寄らないくらいです」

「ふふふふ今どき亡霊とは古風だな」

「お笑いになりますが、現に昨夜、貴方あなた様がそれをお聞きになったではございませんか」

伊藤青年はふっと笑い止めた。――ゆうべ深夜に聞いた、悲しげな女の呻声うめきごえを思出したのである。給仕ボーイは更さらに声をひそめて、

「そうなんです、――此処ここだけのお話ですが、二年まえの冬の或夜、あの部屋へ泊ったお客様……御老人の方とその若い美しい夫人でしたが、お泊りになった晩、御老人が若い夫人を短刀で刺殺さしころしたうえ、御自分も自殺なすったという事件がございました。精くわしい事情は存じませんですが……お部屋は血でいっぱい、寝台から這いだした夫人が、扉ドアの握ノッブを掴んだまま血みどろになって、さんばら髪で死んでいたその凄さ、――今思い出しても慄ぞっと……」

給仕ボーイはぶるっと身を震わした。

「それ以来、あの部屋へお客様をお泊め致しますと、定きまって変な事がございますので、――今では使わない事になっているのです。然しかしどうか……この話は決して御他言下さいませぬように、なにしろこんな事が広まっては客商売のことですから」

「その点は安心し給え、僕なら決して誰にも饒舌しゃべりはしないから」

「有難ありがとう存じます。若もしお望みでしたら早速お部屋を変えましょうか」

「否いやここで宜いいよ」

「然し若し貴方あなた様に間違いでもありましては」

「まあそれ程の事もなかろう」

給仕ボーイは会釈して出て行った。

厭な話である、ゆうべ慥たしかに聞いた女の呻声や、あの長い紙を静かに静かに引裂くような物音が、まざまざと耳に甦よみがえって来る。――扉ドアの握ノッブを掴んだまま血みどろになって死んでいたという、若い夫人の姿も、どうやら眼にちらつくような気がする。

「ちぇ! 厭な話を聞いた」

舌打をしながらがぶりと珈琲コーヒーを飲んで、煙草たばこに火を点けようとした時、卓上電話がジリジリと鳴りだした。――受話器を取ると、いきなり活々いきいきした少女の声で、

「あら、お兄さまね?」

と叫ぶように云う。牛込若松町に母と二人で住んでいる妹のみどりだった。――伊藤青年とは七つ違いの今年十八で、みどりの下の二字だけ取って「ドーリイ」と呼ばれているお侠きゃんな女学生だ。

「なんだ、ドーリイじゃないか」

「ひどいわ、東京へいらしったのにどうして家へ知らせて下さらないの?」

「君は又どうして僕の来たことを知ったんだ」

「ゆうべホテルのロビイでお友達がお兄さまを見かけたんですって、慥たしかにお兄さまらしいからって知らせて来たのよ、どうして家へいらっしゃらないの?」

みどりの危難

「矢張りそうよ」

みどりは電話を切って母の方へ振返ふりかえった。

「で、一体どうしたんだって?」

「なんだか秘密を要する研究報告のために、鹿谷博士と御一緒に上京したんですって、だからそれが済むまでは家へ来られないって」

「そう――じゃあおまえ、福岡の方へ送る積つもりで用意しといたズボン下やシャツを持って行ってお上げな」

「そうね、どうせ学校の帰りに麻布の村上さんを訪ねるお約束だから行くわ、そして汚れ物があったら持って来るわね」

一年ぶりで兄に会えると思うと、みどりはもう心も浮々うきうきとして来るのだった。

学校の退ひけたのが午後四時、それから片町の友達を訪ねたところが、無理に引留められて、六本木の近くにある「山手やまのてホテル」へ着いたのは午後七時を過ぎた頃だった。――受付で部屋の番号を訊きくと、若い給仕ボーイがいて三階の六号だと教えて呉くれた。

「御案内を致しましょう」

と云うのを断って(不意に行って驚かせてあげよう――と思ったのである)とんとんと階段を登り、右の翼屋の方へ曲って右側の扉ドア、六号と書いてあるのを見て、そっと握ノッブを廻してみた、鍵はかけてなかった。

――いるわ。

と思って、首を竦すくめながらそっと明あけ、跫音あしおとを忍ばせて入った。其処そこは寝室と前部屋と垂帷カーテン一枚で仕切られていて、前部屋には仕事卓子テーブルと椅子いすが数脚置いてある、――その卓子テーブルの側に立って、此方こっちへ背を向けて一人の男が何かしていた。

――お兄さまだわ。

疑ってみる迄までもなくそう信じたみどりは、いきなり後うしろへ駈け寄って、

「お兄さま今晩は……」

と叫んだ。不意を打たれて相手は、

「あっ!」

と云いながら振返った。――意外にもそれは兄ではなかった。全く見知らぬ人である、みどりは吃驚びっくりして二三歩退り、「まあ、済みませんでした、あたくし……」

と詫びようとした時、相手の男は凄すさまじく歯を剥出むきだしたと思うと、いきなり扉口ドアぐちへ飛鳥のように跳とびついた。そしてスイッチの音がしたとみる刹那、部屋中の電灯がぱっと消えて四辺あたりは真暗闇になった。――これは凡すべてあっと云う間の出来事だった。

「あ、あれ!」

闇の中からみどりの悲鳴が聞え、荒々しい争いの気配がした。然しそれは直すぐに鎮まって、間もなく、――何処どこか部屋の隅の方から、コトンと金具を合せるような物音が聞え……それっきり森閑しんかんとして人の様子もなくなって了しまった。

伊藤豊治青年が鹿谷博士と共に帰って来たのは、それから凡およそ一時間ほど経って後のことだった。――伊藤青年は夕食前に、仙台から帰るという博士の電報を受取うけとったので上野駅まで迎えに行って来たのである。したがって留守中にそんな事件のあった事などは知る由もない。

「君の部屋は何号だね」

「翼屋の六号です」

「ははあ、――ではゆうべ何かあったろう」

博士は眼をしかめながら訊いた。

「御存じなんですか、先生」

「うん、僕も初めあの部屋へ入ったよ、どうやら一番静かそうだから望んだのだがね、前の部屋に亡霊が出て少し怖いから引移った訳さ」

「先生まで亡霊を怖がるんですか」

「君だって怖くない事はあるまい、――が、兎とに角かくそれに就ついて少し考えている事があるんだ、まあ……後で僕の部屋へ来給え」

二階の階段で二人は別れた。

伊藤豊治は三階へ上って、扉ドアの鍵を(それはいつかもうちゃんと閉まっていた)開け、中へ入って電灯を点けた。――そして、部屋を温めるために煖房器ヒーターの栓を捻ひねった時、卓上電話がけたたましく鳴りだした。受話器を取ってみると、牛込の母からだった。

「ああお母さんですか」

「豊治かえ、東京へおいでだってね、御用が済んだら牛込へも寄ってお呉れよ」

「ええ一週間ほどしたら伺います」

「待ってますよ。それからみどりは未まだ其方そっちにいるかえ、余り帰りが遅いからどうしたかと思って」

「ドーリイが来たんですか」

「行っていないのかえ」

「否いいえ、――尤もっとも今まで此室ここを留守にしていましたが、些ちょっと帳場へ訊いてみましょう」

そう云って伊藤青年は呼鈴ベルを押した。

深夜の探検

「ふーむ」

博士は深く眉を寄せた。

「母の話では、新しいシャツやズボン下を持たせて寄来よこしたと云うんです。片町の村上という友達の家へ問合といあわせたら、六時頃に出たそうですから、どんなに遅くとも来ない筈はないと思います」

「帳場では何と云ったね」

「その時分丁度ちょうどみんな食事中で、帳場には若い給仕ボーイがいたそうですが、それがもう帰ったあとで分らないと云うんです。――然し来たものなら着換えの包みを預けるくらいの事はして行く筈ですから……」

博士は黙って何か考えていた。白いものの混っている眉毛がひどく顰しかんで、額に深い立皺が寄っている。

「うむ、うむ、なるほど」

凡そ十分ほども、何事か考えていたのち、博士は急に眉をひらいて呟つぶやいた。

「先生、僕ちょっと家へ帰って来たいと思うのですが、妹の身上みのうえがどうも心配で」

「まあ待ち給え」

博士は椅子から立って、西側の窓の鎧扉よろいどをがらがらと明けた。――外は初冬の寒い風で、高台の街々はもう大方は灯ひが消えている。然しホテルの建っている場所から、谷を隔てた処に在る第×聯隊れんたいのモダン営舎だけは、支那事変のための夜間訓練でもあるか、まだ灯火が美しく燿きらめいていた。――博士は暫しばらく外の冷たい風を吸ったのち、再び鎧扉よろいどを下ろして戻った。

「君はねえ伊藤、――今度の僕の研究が、軍事上の機密に関するものだと云うことを知ってはいないだろうね」

「存じません。ただ厳重な秘密研究だということだけは伺いましたから、此方こっちへ来ても誰にも知らせなかったのです。然し――ゆうべこのホテルへ着いた時、ロビイで妹の友達にみつかったそうで、それで妹が」

「否々いやいや、僕はそれを責めているんじゃない、寧むしろ妹さんの行方不明になった事が、僕のためには重大な役に立った事を感謝したいくらいなんだ」

「――と、仰有おっしゃいますと」

「妹さんは必ず無事に帰るよ」

博士の言葉は伊藤青年を愕おどろかした。

「それは本当ですか、先生」

「科学者は根拠の無い事は言わんさ、――だから安心して僕のする事を見てい給え」

博士はそう云って時計を見た。

「まだ九時前だね。宜よろしい、――君はお家へ電話をかけて、妹さんは此方こっちへ泊ることになったと知らせてあげるんだ。お母さんに心配をかけると不可いかんからな、それが済んだら暢ゆっくり寝て宜しい」

「それで妹の事は……?」

「僕が引受けたと云っているじゃないか、それより君は亡霊に喰われぬ要心でもするが宜よい。――じゃあお寝やすみ」

何か仔細ありげな博士の様子を見て、伊藤青年は兎も角云われた通り自分の部屋へ戻った。

母に偽りの電話をかけて置いて、寝台へあがったが中々眠れる筈はない。――妹は一体どうしたのか、どんな変事があったのか、それも何より気懸りであるし、又ゆうべ聞いた向うの部屋の亡霊の声も妙に頭へひっ掛って来る。

――何だか厭な事ばかり続く。

それからそれへ考え廻らしているうちに、それでも朝からの疲れに負けたとみえて、いつかうとうとと眠りはじめた。

――どのくらい眠ったであろうか、ふと耳許で、

「――起き給え、伊藤……」

と囁く声にはっと目覚めると、鹿谷博士が闇の中に立っていて、

「音をさせぬように起きるんだ。支度が出来たら是これを持って……」

「――あ、拳銃ピストルですね」

「叱しッ、黙って跟ついて来給え」

何が始まるのだろう、急いで身支度をした伊藤豊治は、渡された拳銃ピストルを持って、博士のあとからそっと部屋を出た。――すると、意外にも博士は、例の亡霊の部屋へ入って行くのである。

「先生、どうなさるのですか」

「亡霊を退治するのさ」

博士は闇の中でにやりと冷笑したようだった。

――その部屋はひどく埃ほこり臭かった。勿論電灯は消えていたが、両側の窓の鎧扉よろいどが下りていないので、硝子窓ガラスまどから星空の光が入って来るため、部屋の様子は朧気おぼろげながらもよく見ることが出来た。

「此方こっちへ来給え、静かに……」

博士は伊藤青年を北側の隅へ引張って行って、其処そこに在る卓子テーブルの蔭へ身を隠した。

「黙って待つんだ、音をさせては不可いかん。亡霊は人のいる気配でも嫌うからな、――なるべく楽にして、僕が合図するまではどんな事があっても動かないように」

博士は耳へ口を寄せて囁いた。

この深夜、殺人の行われた部屋で、亡霊の現われるのを待つ、――他人が見たらそれはまるで中世紀の伝奇物語のような光景だと云うだろう。だがいま伊藤豊治にとっては実に切迫した、実に現実的な気持だった。正直のところ彼は、闇の中に息を殺していたその夜の数時間を思うとき、いまだに不快な、襲われるような恐怖を感ずるくらいである。――夜は更ふけて行った、そして、やがて階下したのロビイの時計が午前二時を打ち始めた。

煖炉の火床

二時を打った時計の余韻が、寝静ねしずまったホテルの廊下にたゆたいながら消えて行った、――そのとたんであった、静かな闇の何処どこからともなく、

「あああああ、ううううう」

と云う女の呻声が聞えて来た。――それは悲しげな、息詰まるような、聞く者を慄然ぞっとさせる、死に瀕した者の呻きであった。

「――先生」

「黙って、黙って!」

博士は強く制した。伊藤青年は脇の下に冷汗の流れるのを感じながら犇ひしと拳銃ピストルを握緊にぎりしめていた。――女の呻声は低くなり、やがて又高くなりつつ断続した、と……間もなく、東側の壁のあたりでカチリ、と云う低い音がしたと思うと、丁度床から七呎フィートあまり上の壁に、ピカリ! ほんの微かすかな火花のようなものが閃ひらめいた。そして同時に、

ビリリリ、ビリリリリ。

と云う、まるで長い紙をそっと引裂いているような、静かな低い物音がし始めた。

凡すべてがゆうべの通りである、――瀕死の女の悲しげな呻き、紙を引裂くような奇妙な音、伊藤青年は総身に水を浴びたように、慄然として息をのんだ。

「そうか、――」

不意に博士が低く囁いた。

「そうか、そうだったのか、――遉さすがにそこ迄はこの鹿谷も気付かなかったぞ、ふふふふ」

「どうなすったのですか、先生」

「叱しッ……誰か来る、――」

慌てて博士が抑えた、――と、いつ何処どこから現われたか、右手の闇の中に白い被衣かつぎを頭から被った亡霊のようなものが、ぼーっと幻の如く現われて来た。伊藤豊治は恐怖のあまり、我を忘れて拳銃ピストルの引金に指をかけた。と博士はその手首をぐいと強く掴み、動くな! と云うように押えつけた。奇怪な亡霊の姿が闇の中に現われてから、凡そ二十分も経ったと思う頃……例の紙を引裂くような物音がぴたりと止んだ。――然しまだ、怪しい女の呻声は、断末魔の苦痛を訴えるように続いている。

亡霊は闇の中を辷すべるように、東側の壁の方へゆらめいて行った。――そこで何かしているらしい、カチリと云う音がして、暫くすると今度は、再び辷るように右手へ去って行く。博士は卓子テーブルの蔭から半身を出して見送ったが……亡霊の姿は煖炉だんろの処で、急に掻消かきけすように見えなくなって了しまった。

「待ち給え、まだ早い」

出ようとする伊藤青年を抑えながら、そのまま約三十分ほど息を殺していた博士は、もう誰の来る様子もなしと見極めがついたか、静かに卓子テーブルの蔭から出て、

「さあ愈々いよいよ虎穴を探るんだ」

と囁いた。「今度は殊ことに依よると拳銃ピストルを使わなければならなくなるかも知れんぞ。だが撃つにしても足を狙い給えよ、決して足の外ほかは撃っちゃ不可いかんぜ、――来給え」

博士は煖炉の前へ進んだ。亡霊の消えたのは其処そこである、――博士は跼しゃがみこんで、根気よく二十分あまりも煖炉の周囲を撫廻なでまわしていたが、やがて指先が、煖炉棚マントルピースの一角に触ったと思うと、火床が音もなく滑って、人一人が抜けられるほどの穴が、其処そこにぽっかりと口を明けた。

「あ! こんな所に抜け穴が」

「左様、こんな抜穴ぬけあなを使うなんて、亡霊にしては不便極まる話さ。だが、この建物は数年前から煖房器ヒーター式になっているので、絶対にこの煖炉は使わないのだから、秘密の通路には持って来いの場所だね、――さあ入るんだ」

「大丈夫でしょうか」

「虎穴に入らずんば虎児を獲ずさ」

身を跼かがめるようにして、博士から先にその抜穴へと入った。――入口は狭いが、入った処は梯子はしご口になっていて、楽に立ったまま下りられる。二人は拳銃ピストルを握ったまま静かに、一段一段跫音あしおとを忍ばせながら下りて行った。

梯子を下りきった処に扉ドアがあった。博士は扉ドアへ耳を当てて暫く様子を窺った後、そっと押明おしあけて中へ入った、とたんに、

「あ、ドーリイ」

低く叫びながら、伊藤青年が博士を押除おしのけて中へ跳込んだ。――正にみどり、妹のみどりが、狭い物置部屋の中に椅子へ堅く縛りつけられたうえ、無残に猿轡さるぐつわを噛まされていたのである。

「待ち給え!」

駈寄かけよろうとする伊藤を、何故なぜか博士は急に押止めた。

「まだ手を触れては不可いかん」

「だって先生こんなに縛られて……」

「宜いから待ち給え、妹さんにはお気毒きのどくだが、もう数時間この苦痛を堪忍たえしのんで貰わなければならぬ、この事件は生やさしい問題ではない。国家の重大な機密に関係しているのだ、――斯こう云えば恐らくみどりさんも暫しばしの苦痛を忍んで下さるだろう」

椅子に縛られたまま是を聞いたみどりは、雄々しくも眼を輝かせながら、力強く頷いてみせるのだった。

「みどりさんは承知して呉れたよ。さあ是からもうひと働きだ」

博士はそう云うと、まだ渋っている伊藤青年を促しつつ元の部屋へと戻って行った。

見えざる間諜スパイ

それから博士と伊藤青年がどんな活躍をしたかは分らない、――翌あくる朝十時、ロビイでお茶の時間が開かれた時、博士と伊藤豊治の二人は、さっぱりと身装みなりを改めて、片隅の卓子テーブルで熱い珈琲コーヒーを啜すすっていた。

その日はばかに客が多く、朝食だけ喰べに来たらしい紳士や、面会人と見える人々が、それぞれ珈琲コーヒーを啜ったり、トーストと塩豚・卵ハム・エッグスをつついたりしていた。――十時が十五分過ぎた頃だった。ホテルの表に一台の高級車が着いて、三人の欧羅巴ヨーロッパ人がロビイへ入って来た。この三人は毎朝ここへ朝食だけを喰べに来るので、毎いつも奥の方に定きまって卓子テーブルが用意されてあるくらい馴染なじみの客だった。

入って来た三人は、訛りのある仏欄西フランス語で口やかましく話しながら、自分たちの卓子テーブルに就いて煙草を取出とりだした、――もう毎日のことで注文は分っているらしく、やがて給仕ボーイ(――伊藤青年に亡霊の話をした給仕ボーイである)が銀盆の上へ、珈琲コーヒーやトーストやサラダを載せて運んで来た。

「お早うございます」

「ヤアオ早ウ、宜イ天気デスネ」

「左様でございます、――今日は特にベーコン・エッグスを致しましたからどうかお試し下さいまし」

そう云って給仕ボーイが、卓子テーブルの上へ銀盆を置いた時である。突然うしろから訛りのない流暢な仏欄西フランス語で、

「失礼ですが、そのベーコン・エッグスは私の方へ頂きたいですね」

と声をかけた者がある、――三人の外人が恟びくりとして振返ると、そこには鹿谷博士がにやにやしながら立っていた。――否、博士だけではない、意外にも今まで客のように見せていたロビイの人たち、凡そ十七八名の紳士が、ぐるりと周囲を取巻いているのだ、然も手に手に拳銃ピストルを持って――。博士は冷やかに続けた、

「×××国の特務機関員諸君、もうじたばたしても駄目だよ、この通り網の口は締められたんだ。亡霊のからくりは暴露したぜ」

「あ! うぬ――」

「手を挙げろ! 動くと射殺するぞ‼」

がんと喚きながら進出すすみでたのは、老紳士とみせた警視庁の高野刑事課長だった。三人の外人は一瞬、紙のように血気ちのけを喪って、両手を挙げながら椅子から起たった。

その隙である、例の給仕ボーイは影のように身を退ずらすとまるで弦つるを放れた矢のような勢いきおいで地下室の方へ逃げだした。と見た博士が、

「伊藤、みどりさんを檻禁かんきんしたのは彼奴きゃつだ、逃がすな!」

叫ぶより疾はやく、伊藤青年は、

「くそっ」

と一声、弾丸のように走って、いま正に石の階段を半なかばまで駈下りた給仕ボーイの背中へ、だっとばかり跳躍した。思切った奇襲である。もんどり打って二人は、重かさなり合ったまま地下室へ転げ落ちる。

「――衆生しゅうしょう!」(支那語で「畜生」という意味)

給仕ボーイは獣のように喚くと、いきなり右手に短剣を抜いてはね起きた。刹那伊藤青年は下から、だっと蹴上げて置いて、素早く寄身よりみになると、力任せに右手の拳で相手の顎を突上つきあげた。

「あ!」

とよろめくところをもう一撃。

「この豚野郎ッ」

とばかり、鼻柱をへし折れよと叩きつけた。妹を苦しめた仇かたきと思う憤怒の拳だ。給仕ボーイは鼻から血を迸ほとばしらせながら仰反のけぞって倒れた。

「みごとみごと、――もう堪忍してやり給え」

博士が階段口から愉快そうに叫んだ。

「それ以上やると死んで了しまうだろう。あとは警視庁の諸君に任せるが宜い、それより早くみどりさんを助けるんだ」

伊藤青年は倒れている給仕ボーイ(それは実は支那人であった)の脾腹をひとつ、がんと蹴っておいて、物置部屋の方へ駈けだした。

それから一時間の後――。

伊藤兄妹は博士の部屋で、熱い珈琲コーヒーを啜りながら、事件の謎を解く博士の言葉を聞いていた。

「彼等は×××国の間諜スパイだった。あの給仕ボーイは支那人で、勿論彼等の手先なのだ。――亡霊の話は、あの部屋へ人を近寄せないためだったが、その訳は彼処あそこが秘密の連絡に使われていたからだ。どういう方法で連絡を取ったかと云うと、……あの紙を裂くような音、あれがその機械だ。別の間諜が第×聯隊の横に張込はりこんでいて、聯隊の移動状態を探り、それを光線通信であの部屋へ送っていたのだ」

「ですが先生、若し夜間に光線で通信すれば直ぐ発見されるではありませんか、――現にゆうべ僕たちが見張っていたのに、別になんの光も見えなかったですよ」

「だからさ、見えない光線を使ったのだ」

博士は微笑して続けた。

「つまり赤外線だ。兵営の附近から特殊の機械で、この部屋へ向って赤外線を放射する、君も知っている通り赤外線は人間の眼には見えないものだ。然し同じ受感装置には感じるから、光線を受けると同時に自動的に動きだし、眼に見えぬ通信を完全に記録するんだ。――ゆうべ壁のところでカチリと音がして、小さな火花が閃めいたろう。あのとき記録装置が活動を始めたのだ。それから白い亡霊……あれは例の支那人給仕ボーイが化けたのだが、あれがその記録を取外し、朝になって彼かの三人の外人に給仕をする時、そっと手から手へ渡すという仕組みなのさ……実に敵ながら天晴あっぱれ、赤外線を使ったのは間諜スパイ戦はじまって以来是が最初だろうよ」

「――ところで、どうして先生は是を間諜スパイ事件だとお気付きになりましたか?」

「初めはそこまで気がつかなかったね。ただあの給仕ボーイが、得々と亡霊の話をしたので、こいつは怪しいと思ったのだ。何故なぜって、――客商売の勤めをする者が、訊かれもしないのに客の厭がる亡霊の話などをする筈がないからなあ。是は何かある! と睨んだよ、その次にみどりさんの行方不明を聞いたので、慥たしかに此この家に何かあると感付いた。そして何の気もなく外の空気を吸おうとして窓を明けたところが、向うに第×聯隊の営舎があるのをみつけたので、――そう、一種の霊感だな、本能的に是は間諜スパイ事件に相違ない! と思ったんだ……すると毎朝あの三人の外人が、定きまってロビイへ朝飯に来る事、その給仕はあの男に限っている事などがはっきり思出された。斯うなればあとは簡単さ、みどりさんを縛ったままにして置けば、彼奴きゃつはまだ自分の罪の暴露した事に気付かず、堂々とロビイで連絡を取るに違いない、――そう思った事が図星に当った。頼んで置いた警視庁の諸君も、なかなか立派に芝居をして呉れたよ」

そして博士は次の様に言葉を結んだ。

「つまり奴等はやり過ぎたのさ。不必要な場合に亡霊を宣伝し、また僕の研究の秘密を盗もうとして、折悪おりあしく来合せたみどりさんを檻禁かんきんした。この二つが自ら事件を暴く緒口いとぐちを作ったようなもんだからなあ――諺ことわざに云わずや、それ、過ぎたるは及ばざるに如しかず、とね、あははははは」

底本 / Source edition

底本:「山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介」作品社
2007(平成19)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年11月
初出:「新少年」
1937(昭和12)年11月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:良本典代
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/059105_001869/

山本 周五郎「亡霊ホテル」(新字新仮名)、底本『山本周五郎探偵小説全集 第一巻 少年探偵・春田龍介』作品社、2007年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 059105_001869, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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