## 惨劇の部屋

<ruby><rb>伊藤豊治</rb><rt>いとうとよじ</rt></ruby>青年が洗面を済まして着換えをしているところへ、制服を着た<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>が朝の<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コーヒー</rt></ruby>を運んで来た。

「お早うございます」

「ああお早う」

「<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みになれましたか」

伊藤青年はネクタイを結びながら、<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>の支度する<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コーヒー</rt></ruby>の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>に向って掛けた。――あまり機嫌の好い顔つきではない。

「よく眠れなかったよ君、一体この向うの部屋にはどんな客が泊っているんだい？　ひと晩中へんな音をたてたり妙な声をしたり、実に閉口したぜ」

「向うの部屋と申しますと？」

「廊下の向うさ、この<ruby><rb>翼屋</rb><rt>よくや</rt></ruby>で、向うと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>えば<ruby><rb>此室</rb><rt>ここ</rt></ruby>と廊下の向うと二部屋しか無いじゃないか」

<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>はなにか思い当る事があるらしく、サッと顔色を変えながら眼を<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らした。

伊藤豊治は九州大学の工科研究室に籍のある研究生で、恩師の<ruby><rb>鹿谷</rb><rt>しかや</rt></ruby>弘吉<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>が、或る研究報告をするため上京した後を追って、その助手を勤めるために昨夜東京へ着いたのである。――ところがこのホテルへ来てみると、博士は研究上の用務を帯びて仙台へ出張したということで、伊藤青年はゆうべ独りでホテルへ泊ったのであった。

彼の泊った部屋はホテルの翼屋で、そこには廊下を隔てて二つの部屋が向い合っている。その向う側の部屋から、――ゆうべひと晩中、女の<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>くような悲しげな声や、長い紙を静かに<ruby><rb>引裂</rb><rt>ひきさ</rt></ruby>くような物音が、絶えては聞え絶えては聞えして来るので、妙に<ruby><rb>苛々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>と寝苦しい<ruby><rb>思</rb><rt>おもい</rt></ruby>をしながら一夜を明かしたのであった。

「――<ruby><rb>矢張</rb><rt>やは</rt></ruby>りお聞きになりましたか」

<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>はやがて声をひそめて云った。

「矢張りって？　何かあるのかい」

「あの部屋には<ruby><rb>何誰</rb><rt>どなた</rt></ruby>も泊ってはいらっしゃいません。もうずっと以前からお客様をお入れしない事になっていますので、――と申しますのは、実は<ruby><rb>極</rb><rt>ご</rt></ruby>く内々のお話なのですが、<ruby><rb>彼室</rb><rt>あそこ</rt></ruby>は『亡霊の部屋』と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って、私共仲間でも怖がって近寄らないくらいです」

「ふふふふ今どき亡霊とは古風だな」

「お笑いになりますが、現に昨夜、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>様がそれをお聞きになったではございませんか」

伊藤青年は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふっ</span>と笑い止めた。――ゆうべ深夜に聞いた、悲しげな女の<ruby><rb>呻声</rb><rt>うめきごえ</rt></ruby>を思出したのである。<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>は<ruby><rb>更</rb><rt>さら</rt></ruby>に声をひそめて、

「そうなんです、――<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>だけのお話ですが、二年まえの冬の或夜、あの部屋へ泊ったお客様……御老人の方とその若い美しい夫人でしたが、お泊りになった晩、御老人が若い夫人を短刀で<ruby><rb>刺殺</rb><rt>さしころ</rt></ruby>したうえ、御自分も自殺なすったという事件がございました。<ruby><rb>精</rb><rt>くわ</rt></ruby>しい事情は存じませんですが……お部屋は血でいっぱい、寝台から這いだした夫人が、<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の<ruby><rb>握</rb><rt>ノッブ</rt></ruby>を掴んだまま血みどろになって、さんばら髪で死んでいたその凄さ、――今思い出しても<ruby><rb>慄</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>と……」

<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>はぶるっと身を震わした。

「それ以来、あの部屋へお客様をお泊め致しますと、<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>って変な事がございますので、――今では使わない事になっているのです。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>しどうか……この話は決して御他言下さいませぬように、なにしろこんな事が広まっては客商売のことですから」

「その点は安心し給え、僕なら決して誰にも<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りはしないから」

「<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがと</rt></ruby>う存じます。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しお望みでしたら早速お部屋を変えましょうか」

「<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>ここで<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いよ」

「然し若し<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>様に間違いでもありましては」

「まあそれ程の事もなかろう」

<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>は会釈して出て行った。

厭な話である、ゆうべ<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>に聞いた女の呻声や、あの長い紙を静かに静かに引裂くような物音が、まざまざと耳に<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って来る。――<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の<ruby><rb>握</rb><rt>ノッブ</rt></ruby>を掴んだまま血みどろになって死んでいたという、若い夫人の姿も、どうやら眼にちらつくような気がする。

「ちぇ！　厭な話を聞いた」

舌打をしながらがぶりと<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コーヒー</rt></ruby>を飲んで、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>に火を点けようとした時、卓上電話がジリジリと鳴りだした。――受話器を取ると、いきなり<ruby><rb>活々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>した少女の声で、

「あら、お兄さまね？」

と叫ぶように云う。牛込若松町に母と二人で住んでいる妹の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>だった。――伊藤青年とは七つ違いの今年十八で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>の下の二字だけ取って「ドーリイ」と呼ばれているお<ruby><rb>侠</rb><rt>きゃん</rt></ruby>な女学生だ。

「なんだ、ドーリイじゃないか」

「ひどいわ、東京へいらしったのにどうして家へ知らせて下さらないの？」

「君は又どうして僕の来たことを知ったんだ」

「ゆうべホテルのロビイでお友達がお兄さまを見かけたんですって、<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かにお兄さまらしいからって知らせて来たのよ、どうして家へいらっしゃらないの？」

## <span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>の危難

「矢張りそうよ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>は電話を切って母の方へ<ruby><rb>振返</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>った。

「で、一体どうしたんだって？」

「なんだか秘密を要する研究報告のために、鹿谷博士と御一緒に上京したんですって、だからそれが済むまでは家へ来られないって」

「そう――じゃあおまえ、福岡の方へ送る<ruby><rb>積</rb><rt>つも</rt></ruby>りで用意しといたズボン下やシャツを持って行ってお上げな」

「そうね、どうせ学校の帰りに麻布の村上さんを訪ねるお約束だから行くわ、そして汚れ物があったら持って来るわね」

一年ぶりで兄に会えると思うと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>はもう心も<ruby><rb>浮々</rb><rt>うきうき</rt></ruby>として来るのだった。

学校の<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>けたのが午後四時、それから片町の友達を訪ねたところが、無理に引留められて、六本木の近くにある「<ruby><rb>山手</rb><rt>やまのて</rt></ruby>ホテル」へ着いたのは午後七時を過ぎた頃だった。――受付で部屋の番号を<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと、若い<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>がいて三階の六号だと教えて<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れた。

「御案内を致しましょう」

と云うのを断って（不意に行って驚かせてあげよう――と思ったのである）とんとんと階段を登り、右の翼屋の方へ曲って右側の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>、六号と書いてあるのを見て、そっと<ruby><rb>握</rb><rt>ノッブ</rt></ruby>を廻してみた、鍵はかけてなかった。

――いるわ。

と思って、首を<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>めながらそっと<ruby><rb>明</rb><rt>あ</rt></ruby>け、<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>を忍ばせて入った。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>は寝室と前部屋と<ruby><rb>垂帷</rb><rt>カーテン</rt></ruby>一枚で仕切られていて、前部屋には仕事<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>と<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>が数脚置いてある、――その<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の側に立って、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ背を向けて一人の男が何かしていた。

――お兄さまだわ。

疑ってみる<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>もなくそう信じた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>は、いきなり<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ駈け寄って、

「お兄さま今晩は……」

と叫んだ。不意を打たれて相手は、

「あっ！」

と云いながら振返った。――意外にもそれは兄ではなかった。全く見知らぬ人である、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して二三歩退り、「まあ、済みませんでした、あたくし……」

と詫びようとした時、相手の男は<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じく歯を<ruby><rb>剥出</rb><rt>むきだ</rt></ruby>したと思うと、いきなり<ruby><rb>扉口</rb><rt>ドアぐち</rt></ruby>へ飛鳥のように<ruby><rb>跳</rb><rt>とび</rt></ruby>ついた。そしてスイッチの音がしたとみる刹那、部屋中の電灯がぱっと消えて<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は真暗闇になった。――これは<ruby><rb>凡</rb><rt>す</rt></ruby>べて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっ</span>と云う間の出来事だった。

「あ、あれ！」

闇の中から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>の悲鳴が聞え、荒々しい争いの気配がした。然しそれは<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに鎮まって、間もなく、――<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>か部屋の隅の方から、コトンと金具を合せるような物音が聞え……それっきり<ruby><rb>森閑</rb><rt>しんかん</rt></ruby>として人の様子もなくなって<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>った。

伊藤豊治青年が鹿谷博士と共に帰って来たのは、それから<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そ一時間ほど経って後のことだった。――伊藤青年は夕食前に、仙台から帰るという博士の電報を<ruby><rb>受取</rb><rt>うけと</rt></ruby>ったので上野駅まで迎えに行って来たのである。したがって留守中にそんな事件のあった事などは知る由もない。

「君の部屋は何号だね」

「翼屋の六号です」

「ははあ、――ではゆうべ何かあったろう」

博士は眼をしかめながら訊いた。

「御存じなんですか、先生」

「うん、僕も初めあの部屋へ入ったよ、どうやら一番静かそうだから望んだのだがね、前の部屋に亡霊が出て少し怖いから引移った訳さ」

「先生まで亡霊を怖がるんですか」

「君だって怖くない事はあるまい、――が、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>それに<ruby><rb>就</rb><rt>つい</rt></ruby>て少し考えている事があるんだ、まあ……後で僕の部屋へ来給え」

二階の階段で二人は別れた。

伊藤豊治は三階へ上って、<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の鍵を（それはいつかもうちゃんと閉まっていた）開け、中へ入って電灯を点けた。――そして、部屋を温めるために<ruby><rb>煖房器</rb><rt>ヒーター</rt></ruby>の栓を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>った時、卓上電話がけたたましく鳴りだした。受話器を取ってみると、牛込の母からだった。

「ああお母さんですか」

「豊治かえ、東京へおいでだってね、御用が済んだら牛込へも寄ってお呉れよ」

「ええ一週間ほどしたら伺います」

「待ってますよ。それから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>は<ruby><rb>未</rb><rt>ま</rt></ruby>だ<ruby><rb>其方</rb><rt>そっち</rt></ruby>にいるかえ、余り帰りが遅いからどうしたかと思って」

「ドーリイが来たんですか」

「行っていないのかえ」

「<ruby><rb>否</rb><rt>いい</rt></ruby>え、――<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も今まで<ruby><rb>此室</rb><rt>ここ</rt></ruby>を留守にしていましたが、<ruby><rb>些</rb><rt>ちょ</rt></ruby>っと帳場へ訊いてみましょう」

そう云って伊藤青年は<ruby><rb>呼鈴</rb><rt>ベル</rt></ruby>を押した。

## 深夜の探検

「ふーむ」

博士は深く眉を寄せた。

「母の話では、新しいシャツやズボン下を持たせて<ruby><rb>寄来</rb><rt>よこ</rt></ruby>したと云うんです。片町の村上という友達の家へ<ruby><rb>問合</rb><rt>といあわ</rt></ruby>せたら、六時頃に出たそうですから、どんなに遅くとも来ない筈はないと思います」

「帳場では何と云ったね」

「その時分<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>みんな食事中で、帳場には若い<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>がいたそうですが、それがもう帰ったあとで分らないと云うんです。――然し来たものなら着換えの包みを預けるくらいの事はして行く筈ですから……」

博士は黙って何か考えていた。白いものの混っている眉毛がひどく<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>んで、額に深い立皺が寄っている。

「うむ、うむ、なるほど」

凡そ十分ほども、何事か考えていたのち、博士は急に眉をひらいて<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「先生、僕ちょっと家へ帰って来たいと思うのですが、妹の<ruby><rb>身上</rb><rt>みのうえ</rt></ruby>がどうも心配で」

「まあ待ち給え」

博士は椅子から立って、西側の窓の<ruby><rb>鎧扉</rb><rt>よろいど</rt></ruby>をがらがらと明けた。――外は初冬の寒い風で、高台の街々はもう大方は<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が消えている。然しホテルの建っている場所から、谷を隔てた処に在る第×<ruby><rb>聯隊</rb><rt>れんたい</rt></ruby>のモダン営舎だけは、支那事変のための夜間訓練でもあるか、まだ灯火が美しく<ruby><rb>燿</rb><rt>きら</rt></ruby>めいていた。――博士は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く外の冷たい風を吸ったのち、再び<ruby><rb>鎧扉</rb><rt>よろいど</rt></ruby>を下ろして戻った。

「君はねえ伊藤、――今度の僕の研究が、軍事上の機密に関するものだと云うことを知ってはいないだろうね」

「存じません。ただ厳重な秘密研究だということだけは伺いましたから、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ来ても誰にも知らせなかったのです。然し――ゆうべこのホテルへ着いた時、ロビイで妹の友達にみつかったそうで、それで妹が」

「<ruby><rb>否々</rb><rt>いやいや</rt></ruby>、僕はそれを責めているんじゃない、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ妹さんの行方不明になった事が、僕のためには重大な役に立った事を感謝したいくらいなんだ」

「――と、<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>いますと」

「妹さんは必ず無事に帰るよ」

博士の言葉は伊藤青年を<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>かした。

「それは本当ですか、先生」

「科学者は根拠の無い事は言わんさ、――だから安心して僕のする事を見てい給え」

博士はそう云って時計を見た。

「まだ九時前だね。<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しい、――君はお家へ電話をかけて、妹さんは<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ泊ることになったと知らせてあげるんだ。お母さんに心配をかけると<ruby><rb>不可</rb><rt>いか</rt></ruby>んからな、それが済んだら<ruby><rb>暢</rb><rt>ゆっ</rt></ruby>くり寝て宜しい」

「それで妹の事は……？」

「僕が引受けたと云っているじゃないか、それより君は亡霊に喰われぬ要心でもするが<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>い。――じゃあお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>み」

何か仔細ありげな博士の様子を見て、伊藤青年は兎も角云われた通り自分の部屋へ戻った。

母に偽りの電話をかけて置いて、寝台へあがったが中々眠れる筈はない。――妹は一体どうしたのか、どんな変事があったのか、それも何より気懸りであるし、又ゆうべ聞いた向うの部屋の亡霊の声も妙に頭へひっ掛って来る。

――何だか厭な事ばかり続く。

それからそれへ考え廻らしているうちに、それでも朝からの疲れに負けたとみえて、いつかうとうとと眠りはじめた。

――どのくらい眠ったであろうか、ふと耳許で、

「――起き給え、伊藤……」

と囁く声に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と目覚めると、鹿谷博士が闇の中に立っていて、

「音をさせぬように起きるんだ。支度が出来たら<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>を持って……」

「――あ、<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>ですね」

「<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>ッ、黙って<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来給え」

何が始まるのだろう、急いで身支度をした伊藤豊治は、渡された<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を持って、博士のあとからそっと部屋を出た。――すると、意外にも博士は、例の亡霊の部屋へ入って行くのである。

「先生、どうなさるのですか」

「亡霊を退治するのさ」

博士は闇の中でにやりと冷笑したようだった。

――その部屋はひどく<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>臭かった。勿論電灯は消えていたが、両側の窓の<ruby><rb>鎧扉</rb><rt>よろいど</rt></ruby>が下りていないので、<ruby><rb>硝子窓</rb><rt>ガラスまど</rt></ruby>から星空の光が入って来るため、部屋の様子は<ruby><rb>朧気</rb><rt>おぼろげ</rt></ruby>ながらもよく見ることが出来た。

「<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ来給え、静かに……」

博士は伊藤青年を北側の隅へ引張って行って、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に在る<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の蔭へ身を隠した。

「黙って待つんだ、音をさせては<ruby><rb>不可</rb><rt>いか</rt></ruby>ん。亡霊は人のいる気配でも嫌うからな、――なるべく楽にして、僕が合図するまではどんな事があっても動かないように」

博士は耳へ口を寄せて囁いた。

この深夜、殺人の行われた部屋で、亡霊の現われるのを待つ、――他人が見たらそれはまるで中世紀の伝奇物語のような光景だと云うだろう。だがいま伊藤豊治にとっては実に切迫した、実に現実的な気持だった。正直のところ彼は、闇の中に息を殺していたその夜の数時間を思うとき、いまだに不快な、襲われるような恐怖を感ずるくらいである。――夜は<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて行った、そして、やがて<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>のロビイの時計が午前二時を打ち始めた。

## 煖炉の火床

二時を打った時計の余韻が、<ruby><rb>寝静</rb><rt>ねしずま</rt></ruby>ったホテルの廊下にたゆたいながら消えて行った、――そのとたんであった、静かな闇の<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>からともなく、

「あああああ、ううううう」

と云う女の呻声が聞えて来た。――それは悲しげな、息詰まるような、聞く者を<ruby><rb>慄然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>とさせる、死に瀕した者の呻きであった。

「――先生」

「黙って、黙って！」

博士は強く制した。伊藤青年は脇の下に冷汗の流れるのを感じながら<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>と<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を<ruby><rb>握緊</rb><rt>にぎりし</rt></ruby>めていた。――女の呻声は低くなり、やがて又高くなりつつ断続した、と……間もなく、東側の壁のあたりでカチリ、と云う低い音がしたと思うと、丁度床から七<ruby><rb>呎</rb><rt>フィート</rt></ruby>あまり上の壁に、ピカリ！　ほんの<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな火花のようなものが<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいた。そして同時に、

ビリリリ、ビリリリリ。

と云う、まるで長い紙をそっと引裂いているような、静かな低い物音がし始めた。

<ruby><rb>凡</rb><rt>す</rt></ruby>べてがゆうべの通りである、――瀕死の女の悲しげな呻き、紙を引裂くような奇妙な音、伊藤青年は総身に水を浴びたように、慄然として息をのんだ。

「そうか、――」

不意に博士が低く囁いた。

「そうか、そうだったのか、――<ruby><rb>遉</rb><rt>さすが</rt></ruby>にそこ迄はこの鹿谷も気付かなかったぞ、ふふふふ」

「どうなすったのですか、先生」

「<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>ッ……誰か来る、――」

慌てて博士が抑えた、――と、いつ<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>から現われたか、右手の闇の中に白い<ruby><rb>被衣</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>を頭から被った亡霊のようなものが、ぼーっと幻の如く現われて来た。伊藤豊治は恐怖のあまり、我を忘れて<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>の引金に指をかけた。と博士はその手首をぐいと強く掴み、動くな！　と云うように押えつけた。奇怪な亡霊の姿が闇の中に現われてから、凡そ二十分も経ったと思う頃……例の紙を引裂くような物音がぴたりと止んだ。――然しまだ、怪しい女の呻声は、断末魔の苦痛を訴えるように続いている。

亡霊は闇の中を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>るように、東側の壁の方へゆらめいて行った。――そこで何かしているらしい、カチリと云う音がして、暫くすると今度は、再び辷るように右手へ去って行く。博士は<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の蔭から半身を出して見送ったが……亡霊の姿は<ruby><rb>煖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>の処で、急に<ruby><rb>掻消</rb><rt>かきけ</rt></ruby>すように見えなくなって<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>った。

「待ち給え、まだ早い」

出ようとする伊藤青年を抑えながら、そのまま約三十分ほど息を殺していた博士は、もう誰の来る様子もなしと見極めがついたか、静かに<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の蔭から出て、

「さあ<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>虎穴を探るんだ」

と囁いた。「今度は<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ると<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を使わなければならなくなるかも知れんぞ。だが撃つにしても足を狙い給えよ、決して足の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>は撃っちゃ<ruby><rb>不可</rb><rt>いか</rt></ruby>んぜ、――来給え」

博士は煖炉の前へ進んだ。亡霊の消えたのは<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>である、――博士は<ruby><rb>跼</rb><rt>しゃが</rt></ruby>みこんで、根気よく二十分あまりも煖炉の周囲を<ruby><rb>撫廻</rb><rt>なでまわ</rt></ruby>していたが、やがて指先が、<ruby><rb>煖炉棚</rb><rt>マントルピース</rt></ruby>の一角に触ったと思うと、火床が音もなく滑って、人一人が抜けられるほどの穴が、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>にぽっかりと口を明けた。

「あ！　こんな所に抜け穴が」

「左様、こんな<ruby><rb>抜穴</rb><rt>ぬけあな</rt></ruby>を使うなんて、亡霊にしては不便極まる話さ。だが、この建物は数年前から<ruby><rb>煖房器</rb><rt>ヒーター</rt></ruby>式になっているので、絶対にこの煖炉は使わないのだから、秘密の通路には持って来いの場所だね、――さあ入るんだ」

「大丈夫でしょうか」

「虎穴に入らずんば虎児を獲ずさ」

身を<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>めるようにして、博士から先にその抜穴へと入った。――入口は狭いが、入った処は<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>口になっていて、楽に立ったまま下りられる。二人は<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を握ったまま静かに、一段一段<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>を忍ばせながら下りて行った。

梯子を下りきった処に<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>があった。博士は<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>へ耳を当てて暫く様子を窺った後、そっと<ruby><rb>押明</rb><rt>おしあ</rt></ruby>けて中へ入った、とたんに、

「あ、ドーリイ」

低く叫びながら、伊藤青年が博士を<ruby><rb>押除</rb><rt>おしの</rt></ruby>けて中へ跳込んだ。――正に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>、妹の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>が、狭い物置部屋の中に椅子へ堅く縛りつけられたうえ、無残に<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>を噛まされていたのである。

「待ち給え！」

<ruby><rb>駈寄</rb><rt>かけよ</rt></ruby>ろうとする伊藤を、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>か博士は急に押止めた。

「まだ手を触れては<ruby><rb>不可</rb><rt>いか</rt></ruby>ん」

「だって先生こんなに縛られて……」

「宜いから待ち給え、妹さんにはお<ruby><rb>気毒</rb><rt>きのどく</rt></ruby>だが、もう数時間この苦痛を<ruby><rb>堪忍</rb><rt>たえしの</rt></ruby>んで貰わなければならぬ、この事件は生やさしい問題ではない。国家の重大な機密に関係しているのだ、――<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う云えば恐らく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>さんも<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>しの苦痛を忍んで下さるだろう」

椅子に縛られたまま是を聞いた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>は、雄々しくも眼を輝かせながら、力強く頷いてみせるのだった。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>さんは承知して呉れたよ。さあ是からもうひと働きだ」

博士はそう云うと、まだ渋っている伊藤青年を促しつつ元の部屋へと戻って行った。

## 見えざる<ruby><rb>間諜</rb><rt>スパイ</rt></ruby>

それから博士と伊藤青年がどんな活躍をしたかは分らない、――<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る朝十時、ロビイでお茶の時間が開かれた時、博士と伊藤豊治の二人は、さっぱりと<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>を改めて、片隅の<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>で熱い<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コーヒー</rt></ruby>を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>っていた。

その日はばかに客が多く、朝食だけ喰べに来たらしい紳士や、面会人と見える人々が、それぞれ<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コーヒー</rt></ruby>を啜ったり、トーストと<ruby><rb>塩豚・卵</rb><rt>ハム・エッグス</rt></ruby>をつついたりしていた。――十時が十五分過ぎた頃だった。ホテルの表に一台の高級車が着いて、三人の<ruby><rb>欧羅巴</rb><rt>ヨーロッパ</rt></ruby>人がロビイへ入って来た。この三人は毎朝ここへ朝食だけを喰べに来るので、<ruby><rb>毎</rb><rt>いつ</rt></ruby>も奥の方に<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>って<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>が用意されてあるくらい<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の客だった。

入って来た三人は、訛りのある<ruby><rb>仏欄西</rb><rt>フランス</rt></ruby>語で口やかましく話しながら、自分たちの<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>に就いて煙草を<ruby><rb>取出</rb><rt>とりだ</rt></ruby>した、――もう毎日のことで注文は分っているらしく、やがて<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>（――伊藤青年に亡霊の話をした<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>である）が銀盆の上へ、<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コーヒー</rt></ruby>やトーストやサラダを載せて運んで来た。

「お早うございます」

「ヤアオ早ウ、宜イ天気デスネ」

「左様でございます、――今日は特にベーコン・エッグスを致しましたからどうかお試し下さいまし」

そう云って<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>が、<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上へ銀盆を置いた時である。突然うしろから訛りのない流暢な<ruby><rb>仏欄西</rb><rt>フランス</rt></ruby>語で、

「失礼ですが、そのベーコン・エッグスは私の方へ頂きたいですね」

と声をかけた者がある、――三人の外人が<ruby><rb>恟</rb><rt>びく</rt></ruby>りとして振返ると、そこには鹿谷博士がにやにやしながら立っていた。――否、博士だけではない、意外にも今まで客のように見せていたロビイの人たち、凡そ十七八名の紳士が、ぐるりと周囲を取巻いているのだ、然も手に手に<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を持って――。博士は冷やかに続けた、

「×××国の特務機関員諸君、もうじたばたしても駄目だよ、この通り網の口は締められたんだ。亡霊の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からくり</span>は暴露したぜ」

「あ！　うぬ――」

「手を挙げろ！　動くと射殺するぞ‼」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がん</span>と喚きながら<ruby><rb>進出</rb><rt>すすみで</rt></ruby>たのは、老紳士とみせた警視庁の高野刑事課長だった。三人の外人は一瞬、紙のように<ruby><rb>血気</rb><rt>ちのけ</rt></ruby>を喪って、両手を挙げながら椅子から<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>った。

その隙である、例の<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>は影のように身を<ruby><rb>退</rb><rt>ず</rt></ruby>らすとまるで<ruby><rb>弦</rb><rt>つる</rt></ruby>を放れた矢のような<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>で地下室の方へ逃げだした。と見た博士が、

「伊藤、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>さんを<ruby><rb>檻禁</rb><rt>かんきん</rt></ruby>したのは<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>だ、逃がすな！」

叫ぶより<ruby><rb>疾</rb><rt>はや</rt></ruby>く、伊藤青年は、

「くそっ」

と一声、弾丸のように走って、いま正に石の階段を<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>まで駈下りた<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>の背中へ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だっ</span>とばかり跳躍した。思切った奇襲である。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もんどり</span>打って二人は、<ruby><rb>重</rb><rt>かさな</rt></ruby>り合ったまま地下室へ転げ落ちる。

「――<ruby><rb>衆生</rb><rt>しゅうしょう</rt></ruby>！」（支那語で「畜生」という意味）

<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>は獣のように喚くと、いきなり右手に短剣を抜いてはね起きた。刹那伊藤青年は下から、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だっ</span>と蹴上げて置いて、素早く<ruby><rb>寄身</rb><rt>よりみ</rt></ruby>になると、力任せに右手の拳で相手の顎を<ruby><rb>突上</rb><rt>つきあ</rt></ruby>げた。

「あ！」

とよろめくところをもう一撃。

「この豚野郎ッ」

とばかり、鼻柱を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へし</span>折れよと叩きつけた。妹を苦しめた<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>と思う憤怒の拳だ。<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>は鼻から血を<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>らせながら<ruby><rb>仰反</rb><rt>のけぞ</rt></ruby>って倒れた。

「みごとみごと、――もう堪忍してやり給え」

博士が階段口から愉快そうに叫んだ。

「それ以上やると死んで<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>うだろう。あとは警視庁の諸君に任せるが宜い、それより早く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>さんを助けるんだ」

伊藤青年は倒れている<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>（それは実は支那人であった）の脾腹をひとつ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がん</span>と蹴っておいて、物置部屋の方へ駈けだした。

それから一時間の後――。

伊藤兄妹は博士の部屋で、熱い<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コーヒー</rt></ruby>を啜りながら、事件の謎を解く博士の言葉を聞いていた。

「彼等は×××国の<ruby><rb>間諜</rb><rt>スパイ</rt></ruby>だった。あの<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>は支那人で、勿論彼等の手先なのだ。――亡霊の話は、あの部屋へ人を近寄せないためだったが、その訳は<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>が秘密の連絡に使われていたからだ。どういう方法で連絡を取ったかと云うと、……あの紙を裂くような音、あれがその機械だ。別の間諜が第×聯隊の横に<ruby><rb>張込</rb><rt>はりこ</rt></ruby>んでいて、聯隊の移動状態を探り、それを光線通信であの部屋へ送っていたのだ」

「ですが先生、若し夜間に光線で通信すれば直ぐ発見されるではありませんか、――現にゆうべ僕たちが見張っていたのに、別になんの光も見えなかったですよ」

「だからさ、見えない光線を使ったのだ」

博士は微笑して続けた。

「つまり赤外線だ。兵営の附近から特殊の機械で、この部屋へ向って赤外線を放射する、君も知っている通り赤外線は人間の眼には見えないものだ。然し同じ受感装置には感じるから、光線を受けると同時に自動的に動きだし、眼に見えぬ通信を完全に記録するんだ。――ゆうべ壁のところでカチリと音がして、小さな火花が閃めいたろう。あのとき記録装置が活動を始めたのだ。それから白い亡霊……あれは例の支那人<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>が化けたのだが、あれがその記録を取外し、朝になって<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の三人の外人に給仕をする時、そっと手から手へ渡すという仕組みなのさ……実に敵ながら<ruby><rb>天晴</rb><rt>あっぱ</rt></ruby>れ、赤外線を使ったのは<ruby><rb>間諜</rb><rt>スパイ</rt></ruby>戦はじまって以来是が最初だろうよ」

「――ところで、どうして先生は是を<ruby><rb>間諜</rb><rt>スパイ</rt></ruby>事件だとお気付きになりましたか？」

「初めはそこまで気がつかなかったね。ただあの<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>が、得々と亡霊の話をしたので、こいつは怪しいと思ったのだ。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>って、――客商売の勤めをする者が、訊かれもしないのに客の厭がる亡霊の話などをする筈がないからなあ。是は何かある！　と睨んだよ、その次に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>さんの行方不明を聞いたので、<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>に<ruby><rb>此</rb><rt>この</rt></ruby>家に何かあると感付いた。そして何の気もなく外の空気を吸おうとして窓を明けたところが、向うに第×聯隊の営舎があるのをみつけたので、――そう、一種の霊感だな、本能的に是は<ruby><rb>間諜</rb><rt>スパイ</rt></ruby>事件に相違ない！　と思ったんだ……すると毎朝あの三人の外人が、<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>ってロビイへ朝飯に来る事、その給仕はあの男に限っている事などがはっきり思出された。斯うなればあとは簡単さ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>さんを縛ったままにして置けば、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>はまだ自分の罪の暴露した事に気付かず、堂々とロビイで連絡を取るに違いない、――そう思った事が図星に当った。頼んで置いた警視庁の諸君も、なかなか立派に芝居をして呉れたよ」

そして博士は次の様に言葉を結んだ。

「つまり奴等はやり過ぎたのさ。不必要な場合に亡霊を宣伝し、また僕の研究の秘密を盗もうとして、<ruby><rb>折悪</rb><rt>おりあし</rt></ruby>く来合せた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みどり</span>さんを<ruby><rb>檻禁</rb><rt>かんきん</rt></ruby>した。この二つが自ら事件を暴く<ruby><rb>緒口</rb><rt>いとぐち</rt></ruby>を作ったようなもんだからなあ――<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>に云わずや、それ、過ぎたるは及ばざるに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>かず、とね、あははははは」