## 一

――飢えて窮死するとも、金一両はかならず肌に着けおくべし。武士の<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしなみ</rt></ruby>なり。

父は生前よくそういっていた。<ruby><rb>三樹八郎</rb><rt>みきはちろう</rt></ruby>はいま、金一両と四、五枚の銭を手にして、父の言葉を思出しながら我知らず<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>をついた。

――渇しても盗泉の水は<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>まず、貧にして餓死するはむしろ武士の本懐なり。

これも父の言葉である、だからこの家では、どんな困ったことがあっても、太息をつくなどということはかつてなかった。――<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>でことこと<ruby><rb>俎</rb><rt>まないた</rt></ruby>の音をさせていた妹の<ruby><rb>加代</rb><rt>かよ</rt></ruby>は、珍しい兄の太息を聞いて、

「お兄さま、どうか遊ばしまして？」

と声をかけた。

「うん？　いやなんでもない、腹が空いたので<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>を待兼ねているところだ」

「まあいや、……この<ruby><rb>膾</rb><rt>なます</rt></ruby>ができるとすぐですわ、もうしばらく我慢をあそばせ」

「ではお<ruby><rb>雛</rb><rt>ひな</rt></ruby>様へ<ruby><rb>燈</rb><rt>あかり</rt></ruby>でもあげるか」

三樹八郎は金を<ruby><rb>納</rb><rt>しま</rt></ruby>って立上った。ひどい貧乏の中にたった一組だけ残った<ruby><rb>内裏雛</rb><rt>だいりびな</rt></ruby>と、<ruby><rb>橘</rb><rt>たちばな</rt></ruby>、桜、<ruby><rb>雪洞</rb><rt>ぼんぼり</rt></ruby>が二つという、<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい雛壇に燈を入れる、――昔を思うと夢のようだ。七百石御<ruby><rb>槍奉行</rb><rt>やりぶぎょう</rt></ruby>まで勤めた家柄とて、十五畳の間を半ば占めた豪華な雛壇、近親知友を集めて宵節句を祝った当時に比べると、本当に夢のような変りようである。

兄妹の父<ruby><rb>村松将太夫</rb><rt>むらまつしょうだゆう</rt></ruby>が、老職と意見の衝突をして<ruby><rb>小笠原志摩守</rb><rt>おがさわらしまのかみ</rt></ruby>を退身してから十五年、<ruby><rb>二君</rb><rt>じくん</rt></ruby>に<ruby><rb>見</rb><rt>まみ</rt></ruby>えずと云って清貧のうちに父は死し、母も五年以前に父を追って逝った――それから今日まで、三樹八郎は兄妹の運命を開拓するために、寝食を忘れて活躍してきたが、<ruby><rb>梶派</rb><rt>かじは</rt></ruby>一刀流免許皆伝の腕前も、仕官の途がなくては役に立たず、

――まあ、どうにかなるだろう。

いくら急いでも相手のない相撲は取れぬと、父とは反対にしごくのんびりとかまえていたが、ついにどうにもならず今宵に及んだ。――言葉どおり、実際もうどうにもならぬのだ、今夜は雛祭りの宵節句で、少しばかりの馳走を調えたが、それは兄妹の最期の<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>のつもりである。夜半になったら、妹を刺し、自分も<ruby><rb>屠腹</rb><rt>とふく</rt></ruby>して潔く世を辞そうと覚悟していた。

「はい、お待遠さまでした」

加代が支度のできた<ruby><rb>食膳</rb><rt>しょくぜん</rt></ruby>を運んできた。

今日は二人とも久方ぶりで<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>を浴び、加代は貧しいながら髪化粧をしている。乙女十九、幸い薄く育ったが備わった品位と美しさは、兄の眼にも<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れ<ruby><rb>惚</rb><rt>ぼ</rt></ruby>れするくらいだった。

「今宵の主はおまえ、……さあ酌をしてあげよう」

三樹八郎は白酒の<ruby><rb>瓶子</rb><rt>びん</rt></ruby>を取った。

「いやですわそんな、どうぞお兄さまからお先に」

「三樹の祝いは端午、今夜はおまえのお相伴だ、遠慮をすることはない、さあ」

「では――」

加代は<ruby><rb>羞</rb><rt>はじら</rt></ruby>いながら<ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby>を手にした。

端午といったが、明けるを待たで死ぬ二人である。貧乏のなかにも、兄に頼りきっている加代が、何も知らずに、軽く<ruby><rb>噎</rb><rt>む</rt></ruby>せながら白酒を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>る姿……可哀そうに、思わず胸へ熱いものがつきあげてきた。

「まあ、お兄さま！」

加代は、兄の悲しげな顔つきを認めて、どうしたのかと不審そうに、

「今日はどうか遊ばしたのではございませんの？　何だかとてもお悲しそうに見えますけれど」

「そんな馬鹿なことがあるか」

三樹八郎は慌てて打消したが。――しかし、何も知らせずに死なすより、いっそすべてを話して武士の娘らしく自害させるほうが本当ではあるまいか、とも考えたので、

「じつは加代、おまえに話がある」

「――はい」

「今宵の祝いはな……」

云いかけた時だった、間近の戸外に当って、突然はげしい人の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>と、

「えいッ」

「えいッ」

引千切るような、切迫した掛声が聞え、かっかっと剣の触合う音さえする。――三樹八郎は手を伸ばして大剣をひっ<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>むと、

「加代、燈を見せろ」

そういって立った。

そこは浅草天王<ruby><rb>閻魔</rb><rt>えんま</rt></ruby>の裏手に当り、浪宅は空地<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れの<ruby><rb>竹藪</rb><rt>たけやぶ</rt></ruby>の中にある、――雨戸を開けて出た三樹八郎、うしろから加代が差出す燈明に透して見ると、藪の前のところで七、八名の武士が、一人の若侍を中に取詰めている。

「あ、危い、お兄さま！」

加代の叫びを背に、三樹八郎は<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を翻してその場へ駆けつけた。

## 二

「物申す、果合いか、ただしは<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>か」

声をかけると、取囲まれた若侍が、

「や、闇討を、かけられました、御、御助勢を……御加勢を――」

悲痛に叫んだ。

「心得た、助勢するぞ！」

答えて出る、右にいた二人が、

「ええ素浪人、邪魔するなッ」

「かまわぬ、そやつも斬捨てろ」

<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きながら、さりとは無法な、相手の腕をたしかめもせずいきなりだっと斬りつけた、三樹八郎は避けもしなかった。

「――馬鹿者！」

という絶叫とともに、きらり大剣が空を<ruby><rb>截</rb><rt>き</rt></ruby>ったと思うと、二人の暴漢は、

「あ！」「うッ」

諸声に悲鳴をあげながらけし飛んだ。そして三樹八郎は、跳躍しつつ、若侍を取囲む一党の背後へ、

「野良犬ども、一人も逃さんぞ」

と<ruby><rb>叱呼</rb><rt>しっこ</rt></ruby>して斬込んだ。

宝の持腐れであった梶派一刀流、しかも今宵は死ぬと覚悟がついているから、その勢いの<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じさはまったく鬼神ともいうべく<ruby><rb>峰打</rb><rt>みねうち</rt></ruby>ではあるがたちまち四、五人ばたばたと撃倒した。――とても敵する相手ではないと見たのであろう。

「手強いぞ、退け、引上げろ」

頭分らしい一人が叫ぶと、残った者たちはさっと闇の中へ逃散って行った。――三樹八郎はそれでも油断せず、しばらく四辺のようすを<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていたが、もう不意討ちを掛ける者もなしと見届けたので、

「もうようござろう」

と振返る。と、若侍はそこに倒れて失神していた、――抱起してみると、左の肩口を<ruby><rb>強</rb><rt>したた</rt></ruby>か斬られている、しかし多少出血がひどいというだけで致命傷ではない。

――気の緩みで失神したな。

三樹八郎は剣を納めると、若侍を抱上げて浪宅のほうへ戻った。――門口に、燈を差つけながら震えていた加代は、

「お兄さま、お怪我は……？」

「おれは大丈夫だが、この人が傷をしている、手当をするから湯を沸かしてくれ」

「はい」

「それから清潔な布と、巻木綿があったはずだな、それから<ruby><rb>金瘡薬</rb><rt>きんそうやく</rt></ruby>を」

「はい」

三樹八郎は若侍を座敷へ運んで、加代に手伝わせながら手負いの着物を引裂いて傷を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>め、沸かした温湯で<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>いはじめた。――その痛みで気付いたのだろう。

「――うっ」

低く<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いて眼を明いた若侍は、

「おう、は、<ruby><rb>春枝</rb><rt>はるえ</rt></ruby>……春枝」

と苦しげに叫んで起上ろうとする。

「動いてはいかん、静かに」

「春枝を、ああ、春枝が斬られる、早く、早く助けて、妹を――妹を……」

「しっかりなされい、それはどういうわけだ」

三樹八郎が耳許で叫ぶと、若侍はようやくはっきり覚めたらしくいきなり三樹八郎の手を掴んで、

「妹をお助けください、妹も彼らに斬られます、どうぞ早く、<ruby><rb>榧</rb><rt>かや</rt></ruby>寺の榧の木……」

そこまでいうと、若侍はふたたびがくりと気絶してしまった。――妹が殺される、この一言が三樹八郎を<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>たせた。

「加代、この人を頼む、出がけに医者を呼んで行くから、しっかりと預るのだぞ」

「――はい」

「おまえも武士の娘だ、見苦しい振舞はすまい、いってくるぞ」

云い捨てて三樹八郎は外へ。

榧寺というのは俗称で、本当は正覚寺といって<ruby><rb>黒船</rb><rt>くろふね</rt></ruby>町にあり、境内に榧の巨木があるところからそう呼ばれている、――三樹八郎は医者を頼んだその足で、宙を飛ぶように正覚寺へ駆けつけた。

山門を入るとすぐに鐘楼、そこを方丈のほうへ曲ると右手に有名な榧樹が立っている。――その木蔭に、男女二人の影をみつけたので、間に合ったと、ほっとしながら近寄り、

「失礼ながら御意を得る」

声をかけて近寄った。――相手は武家の娘とその下僕らしい老人、不意に現われた三樹八郎を見ると、きっと身構えをしながら後へ退った。……こっちは気が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いているから、

「思いがけぬ事情にてそこもとのお兄上と会いましたが、ここにいては危いと申される、すぐ拙者の家までお運びなさるよう」

「――」

「さ、早くせぬと<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>が参ります」

なおも側へ寄って急きたてようとすると、下僕が血相を変えて<ruby><rb>立塞</rb><rt>たちふさ</rt></ruby>がった。

「ええ寄るな、そんなうまいことを云って、きさまは<ruby><rb>湛左衛門</rb><rt>たんざえもん</rt></ruby>の一味であろう、――お嬢さま、爺がここを引受けますで、あなた様は早くお逃げなされませ」

## 三

「馬鹿なことを申せ、拙者は今」

「ええいうな！」

一徹者と見えて、下僕はいきなり腰の木刀で打ってかかった。――誤解である、しかしどういい解く<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>もない。

「これ乱暴するな、きて見れば分る」

「お嬢さま早く、お逃げなされませ」

必死に打ちかかりながら叫ぶ。娘がその声に励まされて二、三間走りだした時、暗がりから現われた五、六名の武士、いずれも覆面したのがぐるりと娘を取巻いた。

「あれ、爺やッ」

悲鳴をあげて逃げようとするやつを、一人がぐっとひっ抱える。残り四、五人はこっちへ走ってきて、

「斬ってしまえッ」

と<ruby><rb>抜伴</rb><rt>ぬきつ</rt></ruby>れて取囲んだ。――三樹八郎はいま娘の悲鳴を聞いたので、しまった！　と助けに行こうとするが、下僕の勢いが案外に鋭く、右へ左へあしらっているうちにこの始末だからもうこれまでと大剣を抜いて、

「よしこい、正邪を<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>めるは剣一本、後悔するな」

叫ぶとともに、

「えいッ、や‼」

猛然と踏込んだ。相手はしばらく支えていたが、そのうちにぱっと四方へ逃去ってしまう、三樹八郎は<ruby><rb>脱兎</rb><rt>だっと</rt></ruby>のように、娘の悲鳴の聞えたほうへ走って行ったが、そこにはすでに人の影もない。

「ちェッ、しまった」

気もそぞろに、境内を<ruby><rb>走廻</rb><rt>はしりまわ</rt></ruby>ったけれど、早くも曲者たちは娘を<ruby><rb>掠</rb><rt>さら</rt></ruby>って逃げたらしい、どこに一人の姿もみつからなかった。

「おのれ！　お嬢様をどこへやった」

下僕の老人が狂気のように詰寄ってくる、三樹八郎はその手を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで引寄せ、

「ええ鎮まれ、そのほうが勘違いをしたばかりに、頼まれてきたのが空になった、今こそいうが、そのほうの主人は斬られたのだぞ」

「え⁉　わ、<ruby><rb>若旦那</rb><rt>わかだんな</rt></ruby>様が……」

「命には別状ないが、いま拙者の家で手当をしているところだ、真疑のほどはきて見れば分る」

「それでもお嬢様の身上が」

「いや、掠って行くからはすぐに斬ることもあるまい、<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>を聞いたうえで拙者がどうにもいたそう、とにかく参れ」

三樹八郎は下僕を促して帰った。

浪宅では、医者の手当を受けてすっかり元気を取戻した若侍が、加代の<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた<ruby><rb>温粥</rb><rt>ぬるがゆ</rt></ruby>を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>っているところだった。下僕は狂気して、ほとんど泣きながら、

「若旦那様、あなたはまあ……」

とすりよった。

「爺か、春枝はどうした」

「それは拙者が申上げよう」

三樹八郎が側から始終を話して、

「と申すわけで、この老人の誤解とはいいながら、妹御をやみやみ敵手に奪われ、なんとも申訳がござらぬ、――ついては今宵のことの仔細、とくとお話しくださらぬか、拙者身に代えてもかならず妹御をお救い申上げるが」

「かたじけのうござる、お言葉に甘え何もかもお話し申す、お聞きください」

若侍は<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を正して語りだした。

彼の名は<ruby><rb>山県銀之丞</rb><rt>やまがたぎんのじょう</rt></ruby>という。<ruby><rb>大垣</rb><rt>おおがき</rt></ruby>の<ruby><rb>石川備前守</rb><rt>いしかわびぜんのかみ</rt></ruby>家臣で、父を<ruby><rb>珂右衛門</rb><rt>かえもん</rt></ruby>といい、五百石で国許勘定役を勤めていた。同じ家中に剣術<ruby><rb>指南</rb><rt>しなん</rt></ruby>番で<ruby><rb>金丸</rb><rt>かなまる</rt></ruby>湛左衛門という者がいて、これが銀之丞の妹春枝を嫁に望んできたが、良からぬ人物なので断ったところ、無法な金丸は――他にも不首尾なことがあって大垣藩にいられなくなった時のこと――珂右衛門が主君から預っていた菊一文字の短刀を盗んで逐電した。

その短刀は石川家の重宝であるため、珂右衛門は役目の落度として閉門を申付けられ、三年以内に取戻せばお<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めなし、もしそれができなかった場合には切腹という厳命が下った。――そこで銀之丞は妹と下僕<ruby><rb>六平</rb><rt>ろくべい</rt></ruby>を伴れて大垣を立退き、諸国を<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>ること二年有半、江戸へ出てからもすでに六十余日を費したが、辛苦<ruby><rb>艱難</rb><rt>かんなん</rt></ruby>の甲斐あって、金丸湛左衛門が、<ruby><rb>赤星</rb><rt>あかぼし</rt></ruby>湛左衛門と変名、浅草<ruby><rb>鳥越</rb><rt>とりごえ</rt></ruby>に剣術指南の道場を開いていることを突止めた。

「右の次第にて、今日妹と六平を榧寺に待たせおき、拙者一人にて道場へ乗込みましたところ、かえって三十余名の門人たちに取囲まれ、危くここまで逃延びて参ったのです」

「そうであったか、――」

三樹八郎は低く嘆き声をあげた。自分たち兄妹こそ悲運の者と思っていたのに、ここにもまた悲しい運命の兄妹が命を<ruby><rb>賭</rb><rt>と</rt></ruby>して生きているのだ。

「赤星湛左衛門、――たしかにおりますな、無念流の達者で、鬼の湛左と評判は聞いている。よし、山県氏御安心なされい、妹御は三樹八郎がたしかにお救い申すぞ」

「しかし相手は多勢の門人もおり……」

「なんの、邪悪の剣が何千あろうと、正しき武道をもって臨むに何の<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>るることがあろう、――日月我が上にあり！」

三樹八郎は決然と<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>った。

## 四

赤星湛左衛門は、<ruby><rb>離室</rb><rt>はなれ</rt></ruby>の広間で門人二十五人を相手に、満悦の酒宴を張っていた。

彼の傍には、銀之丞の妹春枝が、後手に縛られて、くずれ<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>のように<ruby><rb>嬌</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしく打伏している。さし伸ばされた雪のような<ruby><rb>項</rb><rt>うなじ</rt></ruby>にかかる<ruby><rb>後毛</rb><rt>おくれげ</rt></ruby>、唇を喰いしばって外向けた横顔の美しさ……いまの湛左衛門にとってこれ以上の<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>は無かった。

「夢にまで見た<ruby><rb>梨花</rb><rt>りか</rt></ruby>一枝、こう易々と手に入ろうとは思わなかった」

湛左はにやり娘へ<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>くれながら、たばさんだ腰の短刀をぽんと<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて、

「それもこの菊一文字の御利益よ、さすがに名刀の徳は争われぬ、今宵は宵節句でもあり三年の宿願も<ruby><rb>協</rb><rt>かな</rt></ruby>い、<ruby><rb>吉瑞</rb><rt>きちずい</rt></ruby>一時に到るというものだ、みんな愉快に思う存分やってくれ」

そう云ってかかと大笑した時である。広縁に面した障子がさっと明いて、――花片を散らしながら一枝の満開の桃が、湛左衛門の前へ風を切って飛んできた。

「その梨花一枝、こっちへもらうぞ――宵節句の祝いには桃をやる、不服はあるまい！」

<ruby><rb>叱呼</rb><rt>しっこ</rt></ruby>しながら入って来た三樹八郎。――<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>、汗止め、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の<ruby><rb>股立</rb><rt>ももだち</rt></ruby>をしっかりと取って、愛剣<ruby><rb>包光</rb><rt>かねみつ</rt></ruby>二尺八寸を右手に<ruby><rb>傲然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>と突立った。

貧に窮して自殺する命、銀之丞兄妹のために捨てるのは覚悟のうえだ。今日まで世に出る機会もなく、屈しに屈していた英気が、今こそ奔流のごとく切って放されたのだ。

「あ！　天王裏の素浪人だ」

門人の一人が叫んで、抜討ちに斬ってかかるやつを、ひっ外しておいて、

「えいッ」

逆胴を<ruby><rb>強</rb><rt>したた</rt></ruby>か斬放す。がらがらッ、<ruby><rb>燭台</rb><rt>しょくだい</rt></ruby>と<ruby><rb>膳部</rb><rt>ぜんぶ</rt></ruby>を踏砕きながら、悲鳴とともに<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>するのを見て、

「やったッ」

「<ruby><rb>狼藉者</rb><rt>ろうぜきもの</rt></ruby>、斬ってしまえ」

「逃がすなッ」

わっと一座は総立ちになった。――荒道場と名うての面々、酒の勢いもある、二、三本の白刃がだっと一時に殺到する。

「心得た、それッ」

三樹八郎は右へ、大きく跳躍したが、とたんに足を返して、

「やッ、えいッ」

<ruby><rb>一閃</rb><rt>いっせん</rt></ruby>、また一閃。

「む――」

「がっ」

真向と<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>を存分に斬られて、二人の<ruby><rb>躰</rb><rt>からだ</rt></ruby>が<ruby><rb>毬</rb><rt>まり</rt></ruby>のように飛ぶ、と見た次の刹那には、三樹八郎の躰は左手の一団のまっただ中へ、

「え――ッ、とう‼」

と斬込んでいた。

湛左衛門は総身の震う激怒に襲われていた。立向っていく門人が、まるで草を<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>ぐようにばたばた斬伏せられる、しかもみな一刀、急所を外さずずばッ、ずばッ、とやられるのだ、その殺気の<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じさと、太刀<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>きの正確さ、――自分もできるだけに、湛左衛門は無上の辱めを受ける気持だった。

「みな退け、みな手を退けッ」

喚いて立った湛左、三尺一寸<ruby><rb>無反</rb><rt>むぞり</rt></ruby>という、まるで<ruby><rb>天秤棒</rb><rt>てんびんぼう</rt></ruby>のような強刀を抜いて、

「そいつはおれが<ruby><rb>料理</rb><rt>や</rt></ruby>ってやる、人を斬るのはこうするのだ、見ておけ」

といいながら進み出た。――門人たちは、すでに十八人を斬られて闘志を失っていたところだから、湛左の声を聞くまでもなく広縁のほうへ退いた。三樹八郎は、娘のいる床間を背に、呼吸をととのえながら、

「ほう、人の斬りかたを教えてくれるか、鬼の湛左の無念流、どう斬るかしかと拝見しよう、――さッ」

ぐっと大剣を差出す。

「その<ruby><rb>頬桁</rb><rt>ほおげた</rt></ruby>、忘れるな、行くぞ‼」

「――おう」

湛左は上段にとった、三樹八郎は青眼、――さすがに門人たちとは段違い、無反の強刀は満々たる殺気を含んで、一撃断鉄の機を狙っている。

しかし勝負は一瞬にして決した。

――斬れる！

と思った三樹八郎が、青眼の<ruby><rb>籠手</rb><rt>こて</rt></ruby>をつと右へ外すのと、湛左が大きく踏出しながら、

「いぇいッ」

「やあッ」

絶叫して斬下すのとほとんど同時。あっと見た刹那！　三樹八郎は右へ躰を開いていたし、湛左は、斬下した<ruby><rb>躰勢</rb><rt>たいせい</rt></ruby>のまま、だっと床間へのめって行って、掛軸を右手に<ruby><rb>引毮</rb><rt>ひきむし</rt></ruby>りながら、まるで<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ<ruby><rb>雑布巾</rb><rt>ぞうきん</rt></ruby>のように崩落ちる。――半ば斬放された<ruby><rb>頸根</rb><rt>くびね</rt></ruby>から<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>り出る鮮血が、<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みしだかれた掛軸の白を鮮かな紅に染めていった。

## 五

菊一文字の短刀と、春枝を<ruby><rb>援</rb><rt>たす</rt></ruby>けて三樹八郎が道場を出る、――足早に四、五間行くと、

「お兄さま……」

声をかけながら、向うから妹の加代が走ってきた。

「加代ではないか、どうした」

「山県さまも御一緒に」

というところへ、老僕六平が付添って<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>がきた、中から半身を乗出すようにして、

「村松氏、御無事か」

と銀之丞、――見るより春枝は走りよって、

「兄上さま」

「おお春枝、そなたも無事でか」

「村松さまのお<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で、菊一文字の御刀も取戻すことができました」

「おお！」

妹の肩を抱寄せた銀之丞、万感を<ruby><rb>双眸</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>に<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めて、無言のまま三樹八郎の顔を仰見るばかり、――どんなに<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいか、三樹八郎にはよく分る、父の命を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けた三年の辛苦が<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>われたのだ。兄妹揃って、今こそ晴々と故郷へ帰れるのだ。

「短刀をお渡し申す」

差出すのを、受取った銀之丞は<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を払って<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めたが、

「たしかに、たしかに菊一文字、……これで父の命も助かり、山県の家名も相立ちます。――村松氏、お礼は申上げぬ、ただ拙者の胸中……お察しくだされい」

「お察し申す、礼などは<ruby><rb>素</rb><rt>もと</rt></ruby>よりいうに及ばぬ、これもみな貴殿御兄妹の孝心を、武道の神が<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>られたのであろう、祝着に存ずる」

「ただかくのとおり」

駕の中で銀之丞が低頭すれば、妹春枝もまた、白い手を地について<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>りあげた。

「かく本望を達したうえは、一時も早く故郷へ立帰り、父をも<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>させ、殿の御意をも安んぜとうござる、まことに礼を知らぬいたしかたではござるが、ここでお別れ申します」

「しかしこの夜中では……」

「いや、夜中ながら、もはや一刻も惜しく、また湛左衛門の件について、貴殿に御迷惑がかかってはなりません、これより江戸<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>へ参って始末のことを頼み、すぐ<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>へ出立<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>ります」

「なるほど、お心<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>くのも道理、では……途中気をつけて」

「お傷を御大切に」

側から加代も名残惜しげに云った。――春枝は<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らなくなったのであろう。いきなり加代の胸へ<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついて、

「あなたのお兄さまのお蔭で、兄もわたくしも命拾いをいたしました、たとえ遠く離れても、この御恩は決して忘れませぬ」

「そんなことはお案じなさいますな、それよりどうぞ銀之丞さまをお大事に」

「あなたもお兄さまを、どうぞ御大切に」

互いに<ruby><rb>労</rb><rt>いた</rt></ruby>わりあう乙女心の、なごやかな優しさが、この殺伐な場面に一脈の色彩を添えるかに見えた。

「さらば、必ずまたお眼にかかりましょうぞ」

別れ行く駕の中から、銀之丞が意味ありげに言葉を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>した。

三樹八郎と加代は、それを見送ってから家へ帰った。――夜はすっかり更けて、浪宅を取巻く<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>が、さやさやと静かに風の音をたてている。

「宵節句の<ruby><rb>馳走</rb><rt>ちそう</rt></ruby>が、思わぬことですっかり邪魔をされた、おまえもおなかが空いたであろう、三樹もぺこぺこだぞ」

「でも<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうでしたことねえ」

「うむ」

三樹八郎は<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>をついた。――あの兄妹にはふたたび春がめぐってきた。しかし自分たちの運命は依然として動かない、やはり妹を刺して自殺するより他に道はないのだ。

「では御馳走のやり直しをいたしましょう」

そういって立上った加代は、ふと――足許に紫色の<ruby><rb>袱紗包</rb><rt>ふくさづつみ</rt></ruby>が落ちているのをみつけた。

「あら、こんな物が……」

「なんだ」

「家のではございませんわね」

拾いあげた袱紗包の下から、一通の手紙が現われた、取ってみると、

村松殿銀之丞より

と<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めてある。

「まあ、お兄さま、山県様のお手紙が添えてございますわ」

「見せてくれ」取る手遅しと<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いてみると、

――今宵のこと、御礼の言葉もありません、別包の<ruby><rb>金子</rb><rt>きんす</rt></ruby>は旅費の残り、失礼ながら寸志としてお受取りください。申上げては<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って御受納くださらぬと存じ、はなはだ<ruby><rb>無躾</rb><rt>ぶしつけ</rt></ruby>ながらそっと置いて参ります。お心置きなくお使い捨てください。なお――帰国のうえは、藩へ御推挙を仕ります、このたびの御尽力、かならず御出世の途となりましょう、はばかりながら吉報お待ちください。

取急ぐまま以上、――と読むなり、袱紗包を明けてみると中から出てきたのは金子百両。

「おお！」

三樹八郎は思わず声をあげた。――加代も手紙を走り読みして、

「お兄さま、いよいよ御出世の時が参りました、永い御苦労の酬われる時が参りましたのね」

「おまえもそう思うか」

「山県様にして差上げたことは別ですわ、でも今夜こそお兄さまの本当の腕前が認められたんです、明日になれば、江戸中に村松三樹八郎の名が知れることでしょう」

そうだ、鬼の湛左以下十八名を斬った剣士、村松三樹八郎の名は一夜にして江戸市中の評判になるだろう。

「良い宵節句だった、なあ加代。明日はこれで充分に祝おうぞ」

三樹八郎は晴々と百両を投出した。――窮すれば通ず、村松兄妹の前にも、今こそ輝かしい道が<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>けた。