

あつい国ぐにでは、お日さまが、やきつくように強く照りつけます。そこではたれでも、マホガニ色に、赤黒くやけます。どうして、そのなかでも、ごくあつい国では、ほんものの黒んぼ色にやけてしまうのです。

ところが、こんど、寒い北の国から、ひとりの<ruby><rb>学者</rb><rt>がくしゃ</rt></ruby>が、そういうあつい国へ、そんなつもりではなく出てきました。この人は国にいるじぶんの気で、こちらにきても、ついそこらをぶらつくことができるつもりでいました。でもさっそく、その考えはかえて、この人も、この国のせけんなみに、やはりじっとしていなければなりませんでした。どこの家も、それは、<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>も戸も、まる一日しめきりで、中にいる人は、ねているのか、どこかよそへ出ているとしかおもえないようでした。この人の<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>している高いたてもののつづきのせまい通りは、おまけに朝から晩まで、日がかんかんてりつけるようなぐあいにできていて、これはまったくたまらないことでした。

さて、さむい国からきた学者は、年は若いし、りこうな人でしたが、でもまる一日、にえたぎっているおかまの中にすわっているようで、これにはまったくよわりきって、げっそりやせてしまいました。その<ruby><rb>影</rb><rt>かげ</rt></ruby>までが、ちぢこまって、国にいたじぶんから見ると、ずっと小さくなりましたが、お日さまには、影までいじめつけられたのです。――で、やっと<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>になって、お日さまが<ruby><rb>沈</rb><rt>しず</rt></ruby>むと、人も影もはじめていきをふき返すようでした。さて、あかりがへやのなかにはいってくると、さっそく影はずんずんのびて、<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>までつきぬけるほどたかくなります。それはまったく見ているとおもしろいようでした。影は元気をとりかえすつもりか、のびられるだけたかく、せいのびするように見えました。学者は、<ruby><rb>露台</rb><rt>バルコニ</rt></ruby>へ出ると、のびをひとつしました。きれいな大空の上に、星が出てきて、やっと生きかえったようにおもいました。町じゅうのバルコニにも――あつい国ぐにでは、窓ごとにバルコニがついているのですが、――みんなが新しい空気をすいに出てきました。

いくらマホガニ色にやけることにはなれても、すずむだけはすずまずにはいられません。すると上も下もにぎやかになってきました。まずくつやと<ruby><rb>仕立屋</rb><rt>したてや</rt></ruby>が、それから町じゅうの人が、下の<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>に出てきました。それから、いすとテーブルがもち出されて、ろうそくが、それは千本という数ものろうそくがともされます。話をするものもあれば、うたうものもあり、ぶらぶらあるくものもあります。馬車が通ります。ろばがきます。チリンチリン、鈴をつけているのです。死人が<ruby><rb>讃美歌</rb><rt>さんびか</rt></ruby>に送られておはかにはいります。<ruby><rb>不良</rb><rt>ふりょう</rt></ruby>どもは往来でとんぼをきります。お寺のかねがなりわたります。いやはや、どこもここも、大にぎやかなことでした。ただ、れいの外国から来た学者のすまいの、ちょうどまん前のたてものだけは、いたってしずかでしたが、やはり住んでいる人はあるようで、バルコニには花がおいてありました。それがやきつくような日の下で、美しく咲いているところを見ると、水をやるものがなければ、そうはいかないはずですから、たれか人がいるにはちがいありません。<ruby><rb>晩方</rb><rt>ばんがた</rt></ruby>になるとその<ruby><rb>戸</rb><rt>と</rt></ruby>は半びらきにあきました。けれど、うちの中はとにかく、おもてにむいたへやだけはまっくらで、そのくせずっと<ruby><rb>奥</rb><rt>おく</rt></ruby>のへやからは、おんがくがきこえました。外国の学者は、このおんがくを、じつにいいものだとおもっていました。でも、それはこの人だけの<ruby><rb>想像</rb><rt>そうぞう</rt></ruby>でそうおもっていたのかも知れません。だってこの学者は、日さえぎらぎら照らなければ、そのほかはこのあつい国のものを、なにによらず、すばらしいとおもっていたからです。<ruby><rb>下宿</rb><rt>げしゅく</rt></ruby>の<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>にきいてみても、前の家をたれが<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>りているのか知りませんでした。なにしろ、にんげんの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>をみたことがないというのです。さて<ruby><rb>音楽</rb><rt>おんがく</rt></ruby>についていえば、この下宿の主人には、それはとても、たいくつせんばんなものにおもわれていました。

主人がいうには、「どうもだれかあの家に人がいて、どうやってもひきこなせないひとつの<ruby><rb>曲</rb><rt>きょく</rt></ruby>を、<ruby><rb>始終</rb><rt>しじゅう</rt></ruby>いじくりまわしているのですね、――それはいつもおなじ曲なのです。『どうでも<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>きこなす』といういきごみらしいが、いつまでひいていても、ものにはならないのですよ。」

ある晩夜中に、この外国の学者は、ふと目をさましました。バルコニの戸をあけはなしたまま、ついそこにねむってしまったのです。すると風がきて、はなの先のカーテンを吹き上げました。そのとたん、ふしぎな光が、すぐ前の家のバルコニから、さしこんできたようにおもわれました。そこにあるのこらずの花が、じつにきれいな色をしたほのおのように、かがやいて見え、その花のまん中に、美しいすらりとした姿の少女が立っていましたが、この人のからだから、ふしぎな光がさしてくるようにおもわれました。学者はひどく目がくらくらするようでしたが、むりやり大きい目をあけると、それでやっと目がさめました。あわててベッドからとびおりて、そうっと、カーテンのうしろへはいっていきました。けれど少女の姿はなく、光も<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えていて、花もべつだんかがやいてもいず、ただいつものようにきれいに咲いているだけでした。戸は<ruby><rb>半開</rb><rt>はんびら</rt></ruby>きになっていて、なかから音楽が、いかにもやさしく、いかにもあまくうつくしく、ほれぼれと引きこまれるような<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>にきこえていました。これこそまったく<ruby><rb>魔法</rb><rt>まほう</rt></ruby>のようなわざでした。たれがそこに<ruby><rb>住</rb><rt>す</rt></ruby>まっているのでしょう。いったい、どこが入口なのでしょう。なぜといって、下の往来にむかったほうは、店つづきで、どうもそこを通って、中へはいけないようになっていました。

ある晩、外国の学者は、バルコニに出ていました。すぐうしろのへやには、あかりがかんかんしていました。ですから、この人の影が、むこうがわの家のかべにうつるのは、まず、あたりまえの話でした。そう、そこで影は、ちょうどむこうのバルコニの花と花のあいだに、すわっていることになりました。そして、この学者がからだを動かすといっしょに、影も動きました。

そのとき、この学者はいいました。

「どうもこうしていると、わたしの影だけが、むこうの家にひとり生きて住んでいるような気がする。ほらあの通り、ぎょうぎよく、花のあいだにじっとこしをおろしている。戸は半分あいているだけだが、影はなかなかりこうものだから、ずんずん、中へはいっていって、そこらをよく見てまわって、帰ってきて、見たとおりを話してくれるにちがいない。そうだ、ぼくの<ruby><rb>影法師</rb><rt>かげぼうし</rt></ruby>、おまえはそんなふうにして、<ruby><rb>一働</rb><rt>ひとはたら</rt></ruby>きしてきてもらいたいものだ。」と、学者は、じょうだんにいいました。「どうかうまくするりとはいって見てもらいたい。さあどうだ、いってくれるかい。」こういって、学者は影に、あごでうなずきますと、影もうなずきかえしました。「さあ、いっておいで。だが<ruby><rb>鉄砲玉</rb><rt>てっぽうだま</rt></ruby>のお使はごめんだよ。」

そこで、学者は立ちあがりました。すると、影も、むこうの家のバルコニで立ちあがりました。それから、学者がうしろをむくと、影がそれといっしょに、うしろむきになってむこうの家の半開きにした戸の中へ、すっとはいっていったところを、たれかみていたら、そこまでみとどけたはずでした。しかし学者は、そのままずっとへやへはいって、長いカーテンをおろしてしまいました。

そのあくる朝、学者は<ruby><rb>喫茶店</rb><rt>きっさてん</rt></ruby>へ、新聞をよみに出かけました。

それでひなたへ出ますと、「おや、どうした。」と、この人はいいました。「はて、おれには影がないぞ。するとほんとうに、ゆうべ影のやつ、出かけていって、あれなりかえってこないのだな。いまいましいことになった。」

さあ、学者はむしゃくしゃしてきました。でも、それは影がなくなったためというよりは、影＊をなくした男のお話のあるのを知っているからです。寒い国ぐにの人たちは、たれもその話を知っていました。ですから学者が国へかえって、じぶんのじっさい出あった話をしても、きっとそれは人まねだといってしまわれるでしょう。そんなことをいわれるわけはない。だから、この話はまるでしないでおこうと、おもいました。これはいかにももっともな考えでした。

＊ドイツのシャミソー作小説「影をなくした男」のこと。

その晩、学者は、またバルコニに出ていました。まうしろにあかりをつけておきました。それは影というものは、いつも主人を光の前に立てて、そのかげにいたがるものだということを知っていたからですが、どうも、やはりさそいだせませんでした。ちぢんでみたり、せいのびしてみたりしましたが、やはりかげはありません。まるであらわれてこないのです。

「えへん、えへん。」知らせてみてもいっこうだめでした。どうも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごうはら</span>なことでした。

けれど、さすがに<ruby><rb>熱</rb><rt>あつ</rt></ruby>い国です。どんなものでも、じつに<ruby><rb>成長</rb><rt>せいちょう</rt></ruby>がはやいので、<ruby><rb>一週間</rb><rt>いっしゅうかん</rt></ruby>ばかり間をおいてひなたへ出てみますと、あたらしい影が、足の先から<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えて大きくなりかけているので、すっかりうれしくなりました。してみる、と影の根が残っていたものとみえます。それで三週間もたつと、もうかなりな影になり、いよいよ北の国にかえるじぶんには、とちゅう旅の間にも、ずんずん成長して、しまいには、あんまり長すぎもし、大きすぎもして、もう半分でたくさんだとおもうくらいになりました。

こうして学者は国へかえると、この世の中にある<ruby><rb>真実</rb><rt>しんじつ</rt></ruby>なこと、<ruby><rb>善</rb><rt>い</rt></ruby>いこと、美しいことについて本を書きました。さてその後、日が立って、月がたって、いくねんかすぎました。

ある晩、へやの中にいますと、そっと、こつこつ、戸をたたくものがありました。

「おはいりなさい。」と、学者はいいましたが、たれもはいってくるものはありません。そこで戸をあけますと、すぐ目の前に、それはじつに、とほうもなくやせた男が、ひょろりと立っていたので、すっかりおどろいてしまいました。そのくせ男は、みたところ、なかなかりっぱな、品のいい身なりで、いかさま身分のある人にちがいありません。

「しつれいながら、どなたでございましょうか。」と、学者はたずねました。

「いや、ごもっともで。」と、そのりっぱな<ruby><rb>客人</rb><rt>きゃくじん</rt></ruby>はいいました。「たぶんごしょうちでしょう。なにしろこのとおり、からだができましてね。おいおい肉がつき、<ruby><rb>衣服</rb><rt>いふく</rt></ruby>も身にそったというわけです。あなたはおそらく、ゆめにもわたしが、このような安らかなきょうぐうにいようと、お考えになったことはありますまいな。あなた、ごじぶんのむかしの<ruby><rb>影法師</rb><rt>かげぼうし</rt></ruby>をお見忘れですか。そう、あなたはわたしがまたかえってこようなどとは、むろんお考えにならなかったでしょう。あなたにおわかれしてから、ばんじひじょうにこうつごうに運びましてね。わたしはどの点より見ても、しごく<ruby><rb>有福</rb><rt>ゆうふく</rt></ruby>になったのです。お<ruby><rb>給金</rb><rt>きゅうきん</rt></ruby>を<ruby><rb>払</rb><rt>はら</rt></ruby>いもどして、一本だちの<ruby><rb>人間</rb><rt>にんげん</rt></ruby>にしていただこうとおもえば、いつでもそのくらいのことはできるのですよ。」

こういって、その男は、とけいにつけた<ruby><rb>高価</rb><rt>こうか</rt></ruby>なかぎたばを、がちゃがちゃと<ruby><rb>鳴</rb><rt>な</rt></ruby>らし、首のまわりにかけた、どっしりおもい金ぐさりのあいだに、手をつっこみました。その指には、一ぽんのこらず、ダイヤモンドの<ruby><rb>指輪</rb><rt>ゆびわ</rt></ruby>がきらきら光っていました。しかも、それはみんなほんものです。

「いやはや、これはいったい、どうしたということだ。」と、学者はいいました。

「さようさ、まず<ruby><rb>世間並</rb><rt>せけんなみ</rt></ruby>のことではありませんな。」と、影はいいました。「でもあなただって世間並のほうじゃありませんよ。ごぞんじの通り、わたしはこどもの時から、ずっとあなたの足あとについてあるいてきました。そしてあなたが、わたしが<ruby><rb>十分</rb><rt>じゅうぶん</rt></ruby>大きくなって、もうひとりで世間あるきができるとお考えになったとき、さっそくわたしはじぶんの道をいくことにしました。わたしはおよそかがやかしいきょうぐうに身をおくようになりましたが、でもやはり、あなたがおなくなりにならないまえにぜひもういちどお目にかかりたい、いわば、あこがれのようなものをいだいていました。あなたも、いずれお死ににならなければならないでしょうし、わたしも<ruby><rb>故郷</rb><rt>こきょう</rt></ruby><ruby><rb>忘</rb><rt>ぼう</rt></ruby>じがたしで、このへんをもういちど見ておきたいとおもったのです。――あなたがもうひとつ、ほかの影法師をおやといになったことも、わたしは知っています。その影法師になり、またあなたになり、なにがしか借があれば、お支払いしましょうか。どうぞごえんりょなくおっしゃってください。」

「でもきみ、それはほんとうなのかい。」と、学者はいいました。「どうもまったくふしぎだよ。じぶんのむかしの影法師が、にんげんになって、またかえってくるなんて、おもいもつかんことだ。」

「なにほどお<ruby><rb>支払</rb><rt>しはらい</rt></ruby>したらいいか、おっしゃっていただきたい。」と、影はいいました。「なにしろ、わたしは人に借をのこしておくのが、きらいな<ruby><rb>性分</rb><rt>しょうぶん</rt></ruby>でして。」

「なんだってそんなことをいうんだ。」と、学者はいいました。「このばあい、<ruby><rb>貸借</rb><rt>かしかり</rt></ruby>なんて<ruby><rb>問題</rb><rt>もんだい</rt></ruby>のありようはずがないさ。ほかのにんげんどうよう、きみは自由だよ。きみの<ruby><rb>幸運</rb><rt>こううん</rt></ruby>にたいして、わたしはひじょうに、よろこんでいる。きゅう<ruby><rb>友</rb><rt>ゆう</rt></ruby>、まあ、かけたまえ。そしてそのご、どういうことがあったか、あちらのあつい国ぐにで、ことに、あのむこうがわの家で、君の見たことはなにか、そんなことをすこし話してくれたまえ。」

「はあ、お話し申しましょう。」と、影はいって、こしをおろしました。「ところで、あなたにもお約束ねがいたいのですが、この町のどこぞで、わたしに出あったばあい、だれにも、わたしがむかしあなたの影法師であったということは、けっして話さないことにしてください。わたしは<ruby><rb>結婚</rb><rt>けっこん</rt></ruby>しようと考えているのです。一家をやしなうぐらい、今ではなんでもないのですから。」

「それは安心したまえ。」と、学者はいいました。「きみの<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>がなんであるか、だれにもいうものではない。このとおり手をさしのべて約束する。ひとりの男にひとつのことば。男子に<ruby><rb>二言</rb><rt>にごん</rt></ruby>なし。」

「ひとつの影にひとつのことば。影に二言なし。」と、影もいいました。影としては、こういわなければなりますまい。

さて、影がいかにもにんげんになりきっていたのは、まったく、おどろくべきことでした。上も下もすっかり黒ずくめで、それがとてもじょうとうのきれで、その上にエナメルのくつをはき、押しつぶすと、てんじょうと<ruby><rb>縁鍔</rb><rt>ふちつば</rt></ruby>だけになるぼうしをかぶっていました。そのほかとけいの<ruby><rb>飾金具</rb><rt>かざりかなぐ</rt></ruby>、首にかけた<ruby><rb>金鎖</rb><rt>きんぐさり</rt></ruby>や、ダイヤモンドのゆびわなど、すでにごしょうちのとおりですから申しません。じっさい、影は、すばらしくいい身なりをしていました。どうやら影が人間らしくとりつくろっていられたのも、まったくその身なりのおかげでした。

「ではお話し申しましょう。」と、影はいって、エナメルのくつをはいた足をのばすと、学者の足もとに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むく犬</span>のようにうずくまっている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しんまい</span>の影の<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>に、力いっぱいふんづけるように、それをのせました。これはわざと<ruby><rb>尊大</rb><rt>そんだい</rt></ruby>ぶってしたことか、たぶん、しんまいの影を、<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>じぶんに頭のあがらぬものにしておくつもりか、どちらかなのでしょう。でも横になった影は、そばでよく話が聞きたいので、ごくおとなしく、じっとしていました。この影も、いつかこんなふうに自由になって、主人風が<ruby><rb>吹</rb><rt>ふ</rt></ruby>かされようか、それを知りたいとおもっていました。

「れいのむこうがわの家には、だれが住んでいたかご存じですか。」と、影はいいました。「そこに住んでいたのは、すべてのものの中で一ばん美しいものでした。あれは<ruby><rb>詩</rb><rt>し</rt></ruby>でしたよ。わたしはあの家に三週間もとまっていましたが、その間にまるで三千年もそこでくらして、昔の人の書いたものつくったもののこらず読みつくしたかとおもうほど、急になにかがしっかりしてきました。なにしろそれはお話するとおり、まちがいのないことなんでして、わたしはなんでも見て、なんでも知っていますよ。」

「詩だったか。」と、学者はさけびました。「そうだろう、そうだろう。――詩はどうかすると<ruby><rb>隠者</rb><rt>いんじゃ</rt></ruby>のように大都会に住んでいる。うん、詩だったか。そうだ、わたしも、ほんのちらりとその姿を見たには見たが、眠りが<ruby><rb>目</rb><rt>ま</rt></ruby>ぶたをふさいでしまったのさ、詩はバルコニに立っていて、まるで<ruby><rb>極光</rb><rt>オーロラ</rt></ruby>のように光っていた。話しておくれ。話しておくれ。おまえは、バルコニの上に立っていた、戸をぬけて中へはいっていった、そしてそれから――。」

「入口のへやに入りました。」と、影はいいました。「あなたはいつもじっとこしをかけてそこのへやのほうを見ていましたね。あそこには、あかりというものがなく、まあうすあかりといった感じでした。でもそのうしろの戸はあいていて、それから順じゅんにへやと広間のならんだずっと奥まで見とおせたのですが、そこはまひるのようにあかるくて、かりにわたしがいきなりその女のひとのすぐそばまでいったとしたら、そこのおびただしい光にうたれて、死んでしまったことでしょう。ところがわたしは考え深く、ゆっくりかまえていたのです。人はだれでもこうありたいものですよ。」

「すると、おまえはなにを見たのだね。」と、学者はたずねました。

「なにもかも見てしまったのです。それをあなたにお話しましょう。ところで――これはなにもわたしがこうまんにかまえるわけではないのですが、しかし――自由人として、またわたしの<ruby><rb>所有</rb><rt>しょゆう</rt></ruby>する<ruby><rb>知識</rb><rt>ちしき</rt></ruby>にたいしても――まあ、そうとうたかい今の身分やきょうぐうのことは申しますまいが――どうかおまえよばわりだけは、やめていただきたいものですな。」

「やあ、これは<ruby><rb>失策</rb><rt>しっさく</rt></ruby>でした。」と、学者はいいました。「昔の<ruby><rb>習慣</rb><rt>しゅうかん</rt></ruby>は、あらためにくいものでしてね。――いや、おっしゃるとおりだ。よろしい、よく気をつけましょう。ところで、あなたのごらんになったことを、のこらずお話しねがいたいのだが。」

「話しますとも。」と、影はいいました。「なにしろ、なにもかも見て知っているのですから。」

「ではいちばんおくの広間はどんなようすでしたか。」と、学者はいいました。「若葉の森の中にでもいるようでしたか。<ruby><rb>神聖</rb><rt>しんせい</rt></ruby>な<ruby><rb>教会</rb><rt>きょうかい</rt></ruby>の中にでもはいったようでしたか。高い山の上に立って、星あかりの空を見るようでしたか。」

「なにもかも、そこにはありましたよ。」と、影はいいました。「もっとも、すっかりその中にはいって見たわけではないのです。わたしはいちばんてまえの、うすあかるいへやに、じっとしていたのですが、それがこの上もないよいぐあいで、なにもかも見、なにもかも知ったのです。わたしは入口のへやで、いわば、詩の大庭にいたわけです。」

「だが、なにをそこで見ましたか。<ruby><rb>太古</rb><rt>たいこ</rt></ruby>の神がみのこらずが、その大きな広間をとおっていきましたか。<ruby><rb>古代</rb><rt>こだい</rt></ruby>の<ruby><rb>英雄</rb><rt>えいゆう</rt></ruby>が、そこで<ruby><rb>戦</rb><rt>たたか</rt></ruby>っていましたか。かわいらしいこどもたちが、そこであそびたわむれていて、その見た夢の話でもしていましたか。」

「わたしは申しますが、わたしはそのへやにいたのですよ。ですから、そこで見るべきものは、すべてわたしが見たということはおわかりでしょう。かりにあなたがそこにやってこられたとすれば、もうそれなり人間ではいられないところでしたろう。だが、わたしは人間になったのですよ。それと同時に、わたしはじぶんのおくのおくにかくれた<ruby><rb>本性</rb><rt>ほんしょう</rt></ruby>もわかり、じぶんの<ruby><rb>天分</rb><rt>てんぶん</rt></ruby>もわかり、じぶんが詩と<ruby><rb>近親</rb><rt>きんしん</rt></ruby>の<ruby><rb>関係</rb><rt>かんけい</rt></ruby>にあることも知りました。まだあなたのおそばにいたころ、わたしはそんなことは考えませんでした。ですが、あなたもごしょうちでしょう、太陽があがるとき、また太陽が沈むとき、いつもきまって、わたしはすばらしく大きくなりましたね。月の光のなかでは、わたしはあなた自身よりも、かえってはっきりとみえたくらいでした。そのころは、じぶんの<ruby><rb>本性</rb><rt>ほんしょう</rt></ruby>がよくわかってはいなかったのです。けれど詩の入口で、それがはじめてあきらかになったのです。――わたしは人間になりました。――一人前になって、わたしはまたかえっていったのですが、もうその時は、あなたはあつい国のどこにもおいでがなかった。さて、人間になってみると、わたしは前のようなかっこうであるくのが<ruby><rb>恥</rb><rt>はず</rt></ruby>かしくなりました。くつもないし、着物もないし、すべて人間を人間らしくみせる<ruby><rb>装飾品</rb><rt>そうしょくひん</rt></ruby>がたりないのです。わたしはかくれました。まったく、あなただから打ちあけていうのですよ。けっして本に書いていただきたくないが、わたしは菓子売女の前掛の下にかくれたのです。その女は、どんなに大きなものがかけこんだか、まるで気もつきませんでした。晩になってはじめて、わたしは外へ出ました。月の光の中を、わたしは<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>じゅうかけまわりました。わたしは長ながとかべにからだをのばしますと、とても気持よく背中をくすぐられるようでした。わたしは高くなったり低くなったり、かけずりまわって、一ばん高い<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>から<ruby><rb>広間</rb><rt>ひろま</rt></ruby>の中をのぞき込んだり、また屋根の上からだれものぞけないところをのぞきこんで、だれも見たこともないこと、見てはいけないことまで見ました。つまりそれはつまらない世界でした。もしも人間であるということが、なにかいいことのようにおもわれていなかったなら、わたしは人間なんかにはならなかったでしょう。わたしは<ruby><rb>妻</rb><rt>つま</rt></ruby>や<ruby><rb>夫</rb><rt>おっと</rt></ruby>や<ruby><rb>両親</rb><rt>りょうしん</rt></ruby>や、かわいらしい天使のようなこどもたちの間にも、まさかとおもわれるようなことが、行われているのを見ました。――またわたしは、」と、影はいいました。「人間が知ってならぬことで、そのくせ知れれば知りたいだろうと思うことを、たとえば、近所の人たちのしている<ruby><rb>悪事</rb><rt>あくじ</rt></ruby>なども見ました。そのとおりしんぶんに書いたら、どんなにか読者にうけることでしょうが、わたしはじかにかんけいのある<ruby><rb>当</rb><rt>とう</rt></ruby>のその人だけに手紙をやりました。だから、わたしがいく先ざきの町では、<ruby><rb>大恐慌</rb><rt>だいきょうこう</rt></ruby>をおこしていました。<ruby><rb>教授</rb><rt>きょうじゅ</rt></ruby>たちは、わたしを教授にしてくれましたし、<ruby><rb>仕立屋</rb><rt>したてや</rt></ruby>はわたしに新しい着物をくれました。それで、わたしはりっぱな身なりをしているのでさ。<ruby><rb>造幣所長</rb><rt>ぞうへいじょちょう</rt></ruby>はわたしのために、<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>を<ruby><rb>鋳</rb><rt>い</rt></ruby>てくれました　それから婦人たちは、わたしの男ぶりをほめてくれました。まあ、そういうわけで、わたしはごらんのとおりのにんげんになったのです。しかし、もうおいとましましょう。名刺をおいていきます。ひなたがわに住んでいます。雨ふりの日はいつも<ruby><rb>在宅</rb><rt>ざいたく</rt></ruby>です。」

こういって、影は出ていきました。

「なにしろこれはめずらしいことだ。」と、学者はいいました。

年月がたちました。すると、影はまたやってきました。

「やあ、その後いかがです。」と、影はたずねました。

「やあ。」と。学者はいいました。「わたしは<ruby><rb>真</rb><rt>しん</rt></ruby><ruby><rb>善</rb><rt>ぜん</rt></ruby><ruby><rb>美</rb><rt>び</rt></ruby>についてかいています。けれどだれもそんなことに耳をかたむけてはくれないので、わたしはまったく<ruby><rb>絶望</rb><rt>ぜつぼう</rt></ruby>していますよ。なにしろこれはわたしにはだいじなことなので。」

「わたしにはいっそうなんでもないですね。」と、影はいいました。「わたしはこのとおり肥えてあぶらぎっています。まあそうなるように心がけねばならん。そうだ、あなたはまだ世間がわかっていないのだ。そんなことをしていると病気になりますよ。<ruby><rb>旅</rb><rt>たび</rt></ruby>をするんですな。わたしは、この<ruby><rb>夏</rb><rt>なつ</rt></ruby><ruby><rb>旅行</rb><rt>りょこう</rt></ruby>をやりますが、いっしょにいかがです。わたしも道づれをひとりほしいところだ。あなたはわたしの影になって<ruby><rb>同行</rb><rt>どうこう</rt></ruby>してください。あなたを<ruby><rb>同伴</rb><rt>どうはん</rt></ruby>することは、ひじょうに、ゆかいなことにちがいない。<ruby><rb>旅費</rb><rt>りょひ</rt></ruby>はわたしが持ちますよ。」

「どうもそれはすこしひどいな。」と、学者はいいました。

「それは考えようしだいです。」と、影はいいました。「旅行すれば、あなたはまたずっとじょうぶになりますよ。わたしの影になってくだされば、旅中一切、あなたは一文いらずですよ。」

「そりゃひどすぎる。」と、学者はいいました。

「しかしそれが世間ですよ。」と、影はいいました。「どこまでいってもやはりそうでしょう。」

こういって影はいってしまいました。そののちも学者はいっこう<ruby><rb>運</rb><rt>うん</rt></ruby>よくはなりません。悲しみと、なやみにせめつけられ、真善美についてなにをいったところで、おおくの人には、<ruby><rb>牝牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>にばらの花をくれたようなものでした。――とうとう学者は、ほんとうに病気になってしまいました。「まあ、あなたは影のようだ。」と、人にいわれて、学者はぞっとしました。このことではべつのいみを考えていたからです。

「それはどうしても<ruby><rb>温泉</rb><rt>おんせん</rt></ruby>に行くほかありますまい。」と、影はまたたずねてきて、こういいました。

「ほかにしようがないのです。昔のおなじみがいに、わたしがつれていってあげましょう。旅費はわたしが出しますから、そのかわりあなたは旅行記をかいて、道みちわたしをたのしませてください。わたしは温泉にいこうとおもうのです。とうぜん<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えなければならないひげが生えないのは、これも病気なんでしょう。にんげん、ひげがなければね。まあよく思案して、わたしのいうとおりにおしなさい。道づれになって旅行するのですね。」

こうしてふたりは旅に出ました。影がいまは主人で、もとの主人がいまは影でした。ふたりはいっしょに馬車を走らせたり、馬にのったり、あるときは、そのときの太陽の位置しだいで<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>んだり、前になったり、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>になったりしました。影はいつも、つとめていちだん上に立つように心がけていました。そういうことを学者はたいして気にしません。この人はたいへん心の<ruby><rb>善良</rb><rt>ぜんりょう</rt></ruby>な、またなみはずれておだやかなやさしい人でした。それですから、ある日、学者は、影にこんなことをいいました。

「われわれはおたがいに、こうして旅の道づれになったのであるし、またこどもの時からいっしょにそだったなかでもあるのだから、ひとつ、きょうだいのさかずきをくみかわして、おれ、おまえで行こうじゃないか。それでいっそう<ruby><rb>親密</rb><rt>しんみつ</rt></ruby>にもなれよう。」

「きみのいうことにも<ruby><rb>一理</rb><rt>いちり</rt></ruby>はある。」と、いまでは<ruby><rb>本式</rb><rt>ほんしき</rt></ruby>に主人になりすました影がいいました。「だいぶ<ruby><rb>親切</rb><rt>しんせつ</rt></ruby>に<ruby><rb>卒直</rb><rt>そっちょく</rt></ruby>にいってくれられたのだから、わたしも、やはりしんせつに卒直にいこう。きみも学者だから、いかに<ruby><rb>生</rb><rt>う</rt></ruby>まれた<ruby><rb>天性</rb><rt>てんせい</rt></ruby>がふしぎなものだかごぞんじだろう。<ruby><rb>人</rb><rt>ひと</rt></ruby>によっては、ねずみ色の紙をつかめば、病気になるという者がある。ガラス板の上を<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>で引っかくと、骨のずいまで身ぶるいがくるという者もある。さいしょきみの下に使われていたときも、わたしはきみに、おまえといわれると、やはりおなじ感じがして、いわば地面におしふせられるようにおもったものだ。これはただ<ruby><rb>感情</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>の上のことで、べつだん<ruby><rb>尊大</rb><rt>そんだい</rt></ruby>ぶるわけではないのだが。どうもわたしは、きみがわたしのことをおまえというのを、<ruby><rb>許</rb><rt>ゆる</rt></ruby>すわけにいかないのだ。けれどもわたしのほうからは、むしろ、きみをおまえと呼びたいのだ。それで、ともかく、きみののぞみもなかば達せられるわけだ。」

それからは、影は、いぜんの主人を、「おまえ」と呼びました。

「とにかくこれはひどい話だ。」と、学者はおもいました。「わたしのほうからは、あなたといわなければならないのに、あいつのほうからは、きみとか、おまえとかと呼ばれるんだから。」と、そうはおもいましたが、こうなっては、いやでもがまんしなければなりませんでした。

そこでふたりは温泉場にやってきました。そこにはたくさん外国人もきていましたが、そのなかにある国のおそろしく美しい王女が、ひとりまじっていました。その人の病気というのは、なんでもあまり物がはっきりするどく見えるので、そのためひどく落ちつかないで困るということでした。で、さっそく王女は、この<ruby><rb>新来</rb><rt>しんらい</rt></ruby>の<ruby><rb>客人</rb><rt>きゃくじん</rt></ruby>が、ほかのれんじゅうとはまったくかわっていることに気がつきました。

「あの人はひげをはやすためにきたということだが、わたしの見るところでは、ほんとうのわけは、じぶんの影がうつせないところにあるらしいわ。」

そこで王女は、<ruby><rb>好奇心</rb><rt>こうきしん</rt></ruby>がうごいたので、<ruby><rb>遊歩場</rb><rt>ゆうほじょう</rt></ruby>であうとさっそく、この<ruby><rb>外国紳士</rb><rt>がいこくしんし</rt></ruby>に、話しかけました。なにしろ王さまのおひめさまともなれば、たいして人にえんりょする必要はありませんでした。そこで、王女はいいました。

「あなたの病気って、ごじぶんの影がささないからなんでしょう。」

「どうも殿下には、もうだいぶおよろしいほうに<ruby><rb>拝察</rb><rt>はいさつ</rt></ruby>いたされますな。」と、影はこたえました。

「殿下には、なにかがあまりはっきりお目に入るのが、ご病気だということにしょうちいたしておりますが、もうそれならばとうにご<ruby><rb>全快</rb><rt>ぜんかい</rt></ruby>です。どうして、わたくしには、世にもふしぎな影があるのでしてね。それでは、いつもわたくしといっしょにあるいております<ruby><rb>人物</rb><rt>じんぶつ</rt></ruby>が、お目にとまらないのでございますか。およそほかの者は<ruby><rb>普通</rb><rt>ふつう</rt></ruby>の影ですましているのですが、どうもわたくしはそれがきらいなのです。よく<ruby><rb>召使</rb><rt>めしつかい</rt></ruby>の<ruby><rb>仕着</rb><rt>しきせ</rt></ruby>に、じぶんの<ruby><rb>着料</rb><rt>きりょう</rt></ruby>よりもじょうとうな布をもちいるものがありますが、わたくしもじぶんの影を人間にしたててあるのです。いや、そのうえ、ごらんの通り、そこへさらに、ひとつの影をすら、つけてやってあるのです。ずいぶん費用のかかることですが、どうも<ruby><rb>一風</rb><rt>いっぷう</rt></ruby>かわったことが好きな<ruby><rb>性分</rb><rt>しょうぶん</rt></ruby>なのでしてね。」

「そうかしら。」と、王女はおもいました。「わたしほんとうによくなったのかも知れないわ。なにしろこの温泉は、どこよりも一ばんいい温泉よ。ここの水には、いまどきまったくたいした<ruby><rb>利目</rb><rt>ききめ</rt></ruby>があるわ。でも、わたしこの温泉を立っていこうとはおもわない。このごろやっと、ここがおもしろくなりかけたのだもの。あの外国人、ずいぶんわたし気に入ったわ。ただあの人、ひげが生えないといいわ。なぜといって、そうすると、またかえっていってしまうでしょうから。」

その晩、大きな<ruby><rb>舞踏室</rb><rt>ぶとうしつ</rt></ruby>で、王女は影とダンスしました。王女も身が軽いのに、でも影はもっともっと<ruby><rb>身軽</rb><rt>みがる</rt></ruby>で、こんなに身の軽い人をあいてに、王女はまだおどったことはありませんでした。王女は影に、じぶんがどこからきたか話しました。影はその国を知っていました。影はそこにいたことがあったのです。もっともそれは、王女のるすのときでした。影はお城の窓を下からも上からものぞいて見ましたし、あのこと、このこと、いろいろ見ていました。そこで、影は王女の問に答えたり、おやと思わせるようなことを、ほのめかしたりすることができました。それで王女は世界じゅうに、この人ほど<ruby><rb>賢</rb><rt>かしこ</rt></ruby>い人はないと考えました。なによりもその<ruby><rb>知識</rb><rt>ちしき</rt></ruby>に、たいした尊敬をもつようになりました。ですから、またいっしょにダンスしたとき、王女は、すっかり影が好きになってしまいました。それを影はまたじゅうぶんに見ぬくことができました。というわけは、王女はしじゅう穴のあくほど影を見つめていたからです。それからもういちどおどったときに、王女はあやうく恋をうちあけようとしたくらいですが、考えぶかい娘でしたから、生まれた国のことや、じぶんの<ruby><rb>治</rb><rt>おさ</rt></ruby>める王国のこと、いつかはじぶんが上に立つはずの<ruby><rb>人民</rb><rt>じんみん</rt></ruby>たちのことをおもって、えんりょしたのです。

「賢い人だとおもうわ。」王女は、腹の中で考えました。「それはいいわ、それからダンスがとてもすてきだわ。それもまたいいわ。だがあの方、いったい深い学問がおありかしら、これはどうしてだいじです。どうしてもためしてみなければならない。」

そこで王女は、影に、そろそろと、およそむずかしい問題をもちかけ始めました。それは王女自身にも答えられそうもないものでした。で、影もだいぶみょうな顔になりました。

「この問題にお答えがおできにならないの。」と、王女はいいました

「そのくらい、こどものころからならっております。」と、影はいいました。「あのとびらのところにいるわたしの影にだって、つい<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>なくできましょうよ。」

「あなたの影にですって。」と、王女はいいました。「それは、まあずいぶんおめずらしいわ。」

「かならずできるとは、うけあえませんがね。」と、影はいいました。「長年わたしのそばについていて、いろいろと、聞きかじっておりますから、たぶんこたえられるとおもいます。――たぶん、だいじょうぶだとおもいます。しかし、ご注意もうしあげますが、どうか女王殿下、かれはにんげんとおもわれることを、たいそうとくいにいたしておりますから、かれをじょうきげんにいたしておきますには――またじゅうぶんに答えさせますには、ぜひそういたさせる必要がございますので――それにはじゅうぶん、にんげんらしくとりあつかってやらねばならないのでございまして。」

「けっこうです。」と。王女はいいました。

そこで、王女は<ruby><rb>戸口</rb><rt>とぐち</rt></ruby>にいる学者の所まで出かけていって、太陽や月やにんげんの内部と外部のことで語りあいました。そして学者は、いかにもはっきりと、りっぱに答えました。

「こんなかしこい影を持っていらっしゃるなんて、なんというえらい方だろう。」と、王女は考えました。「あのような人をおっとにえらんだならば、わたしの人民のためにも、王国のためにも、まったく幸福なことにそういない。――わたし、そうしよう。」

そこで王女と影とは、さっそくおたがいに意見がいっちしました。でも帰国するまでは、たれにもけっしてこのことを知らせないことにしました。

「これはだれにも、わたしの影にも申しません。」と、この影はいいました。それにはじぶんだけのおもわくもありました。

やがてふたりは、王女のじぶんのうちでもあるし、また王女として<ruby><rb>治</rb><rt>おさ</rt></ruby>めてもいる国へやって来ました。

「ところで、おまえ。」と、影は学者にいいました。「いよいよわたしもまあ人なみに、この通り幸福にもなり、勢力もついたのだから、おまえにもなにかとくべつなことをしてあげたいと思う。おまえには、ずっとお城の中に住んで、わたしのそばにいてもらうのだ。いっしょの<ruby><rb>王室馬車</rb><rt>おうしつばしゃ</rt></ruby>に乗せてやって、<ruby><rb>年金</rb><rt>ねんきん</rt></ruby>十万ターレル払うことにする。そのかわり、だれからも、おまえは影法師と呼ばれていなければならない。また、かりにも、もとはにんげんであったなぞといってはならない。それから、一年に一回、わたしが、バルコニのひなたに出て、みんなに姿を見せているとき、いかにも影らしく、わたしのあしもとに寝ていなければならない。じつをいうと、わたしは王女と<ruby><rb>結婚</rb><rt>けっこん</rt></ruby>するのだ。今晩がその結婚式だ。」

「いや、それはしかしひどすぎる。」と、学者はいいました。「それは困る。それだけはごめんです。それではこの国じゅうの人民をはじめ、王女まであざむくことになる。わたしはみんないってしまう。にんげんはわたしで、きみはただの影法師が、にんげんの着物を着ているにすぎないことを。」

「だれがそんなことを信じるものか。」と、影はいいました。「わからぬことをいうなら、番兵を呼ぶだけだ。」と、影はいいました。

「わたしはすぐ王女のところへいく。」と、学者はいいました。

「いや、わたしがさきに行くよ。」と、影がいいました。「そして、おまえをろうやにいれてやるよ。」

で、その通りになりました。それは、王女のお<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>さまになる人のいうことに、むろん、番兵たちは<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>ったからです。

「あなたはふるえていらっしゃいますね。」と、影がはいって来たとき、王女はいいました。

「なにかあったのですの。こんばん結婚式をあげようというのに、ご病気ではこまりますわ。」

「どうもこんなおそろしいめにあったことはありません。」と、影はいいました。「まあどうです――かわいそうに、まったくあんな影法師の頭には、しょい切れない重荷でした――いやはやどうです。わたしの影法師は気が<ruby><rb>狂</rb><rt>くる</rt></ruby>ってしまったのです。かれはじぶんがにんげんで、そして、わたしが――まあ――どうです――わたしが、かれの影法師だと考えているのですよ。」

「まあ、おそろしいことね。」と、王女はいいました。「でもろうやにいれてあるでしょうね。」

「もちろんです。どうも<ruby><rb>正気</rb><rt>しょうき</rt></ruby>にはもどらないのじゃないかと心配しています。」

「まあ、かわいそうな影法師ですこと。」と、王女はさけびました。「ずいぶん不幸ですわ。それをはかない命から自由にしてやるほうが、ほんとうの<ruby><rb>功徳</rb><rt>くどく</rt></ruby>というものでしょうね。わたしの考えでは、どうやらそれは、そのままそっと片づけてしまうのが、なによりのようですわ。」

「それはいかにもつらいことです。なにぶん<ruby><rb>忠義</rb><rt>ちゅうぎ</rt></ruby>な<ruby><rb>召使</rb><rt>めしつかい</rt></ruby>でしたから。」こう影はいって、ためいきをつくようなふうをしました。

「りっぱなお<ruby><rb>気性</rb><rt>きしょう</rt></ruby>ですわ。」と王女はいいました。その晩、町じゅうあかりがついて、ドーン、ドーン、とお祝の大砲がなりひびきました。それから兵隊は<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げ<ruby><rb>銃</rb><rt>つつ</rt></ruby>しました。<ruby><rb>結婚式</rb><rt>けっこんしき</rt></ruby>がおこなわれたのです。王女と影とは、バルコニに姿をあらわして、人民たちにあいさつをたまわり、もういちど人民たちから万歳の声をあびました。



学者は、まるでこのさわぎを聞かなかった、というわけは、そのまえ、もうとうに死刑にされていたからです。