Soranoha

三四郎

さんしろう

夏目 漱石

一の一

うと〱として眼めが覚さめると女は何時いつの間にか、隣となりの爺さんと話はなしを始めてゐる。此爺ぢいさんは慥〔たし〕かに前の前の駅から乗つた田舎者いなかものである。発車間際まぎはに頓狂な声を出して、馳け込んで来きて、いきなり肌はだを抜ぬいだと思つたら脊中せなかに御灸の痕あとが一杯あつたので、三四郎の記憶に残つてゐる。爺さんが汗あせを拭いて、肌はだを入れて、女の隣となりに腰を懸かけた迄よく注意して見てゐた位である。

女とは京都からの相乗あひのりである。乗つた時から三四郎の眼めに着ついた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移つて、段〻京大坂へ近付いてくるうちに、女の色が次第に白くなるので何時いつの間まにか故郷を遠退のく様な憐れを感じてゐた。それで此女が車室に這入つて来た時は、何となく異性の味方を得た心持がした。此女の色は実際九州色いろであつた。

三輪田の御光さんと同おんなじ色である。国を立つ間際まぎは迄は、御光さんは、うるさい女であつた。傍そばを離れるのが大いに難有〔ありがた〕かつた。けれども、斯かうして見ると、御光さんの様なのも決して悪わるくはない。

唯顔立だちから云ふと、此女の方が余程上等である。口に締りがある。眼が判明はつきりしてゐる。額ひたひが御光さんの様にだゞつ広ぴろくない。何となく好いい心持に出来上つてゐる。それで三四郎は五分ふんに一度位は眼めを上あげて女の方を見てゐた。時々とき〲は女と自分の眼めが行き中あたる事もあつた。爺さんが女の隣りへ腰を掛けた時などは、尤〔もっと〕も注意して、出来る丈長い間、女の様子を見てゐた。其時女はにこりと笑つて、さあ御掛けと云つて爺さんに席を譲つてゐた。夫それからしばらくして、三四郎は眠くなつて寐ねて仕舞つたのである。

其寐ねてゐる間あひだに女と爺さんは懇意になつて話はなしを始めたものと見える。眼めを開あけた三四郎は黙だまつて二人ふたりの話はなしを聞いて居た。女はこんな事を云ふ。――

小供の玩具おもちやは矢っ張り広島より京都の方が安くつて善いものがある。京都で一寸ちよつと用があつて下おりた序ついでに、蛸たこ薬師の傍そばで玩具おもちやを買つて来た。久し振で国へ帰つて小供に逢あふのは嬉しい。然し夫おつとの仕送しおくりが途切れて、仕方なしに親おやの里へ帰るのだから心配だ。夫おつとは呉くれに居て長ながらく海軍の職工をしてゐたが戦争中は旅順の方に行つてゐた。戦争が済んでから一旦帰つて来た。間まもなくあつちの方が金が儲かると云つて、又大連へ出稼でかせぎに行つた。始めのうちは音信たよりもあり、月々つき〲のものも几帳面ちやん〱と送つて来きたから好よかつたが、此半歳許はんとしばかり前から手紙も金かねも丸で来なくなつて仕舞つた。不実ふじつな性質たちではないから、大丈夫だけれども、何時迄いつまでも遊んで食たべてゐる訳には行かないので、安否のわかる迄は仕方がないから、里さとへ帰つて待まつてゐる積つもりだ。

爺さんは蛸薬師たこやくしも知らず、玩具おもちやにも興味がないと見えて、始めのうちは只はい〱と返事丈してゐたが、旅順以後急に同情を催ふして、それは大いに気の毒だと云ひ出した。自分の子も戦争中兵隊にとられて、とう〱彼地あつちで死んで仕舞つた。一体戦争は何の為にするものだか解わからない。後あとで景気でも好よくなればだが、大事な子は殺される、物価しよしきは高くなる。こんな馬鹿気ばかげたものはない。世よの好いい時分に出稼でかせぎなどゝ云ふものはなかつた。みんな戦争の御蔭かげだ。何しろ信心しんじんが大切だ。生きて働らいてゐるに違ちがひない。もう少し待つてゐれば屹度〔きっと〕帰つて来る。――爺さんはこんな事を云つて、頻りに女を慰めて居た。やがて汽車が留とまつたら、では御大事にと、女に挨拶をして元気よく出でて行つた。

一の二

爺ぢいさんに続つゞいて下おりたものが四人程あつたが、入れ易かはつて、乗つたのはたつた一人ひとりしかない。固もとから込み合つた客車でもなかつたのが、急に淋しくなつた。日の暮れた所為せゐかも知れない。駅夫が屋根をどし〱踏んで、上から灯ひの点ついた洋燈らんぷを挿さし込んで行く。三四郎は思ひ出した様に前の停車場で買つた弁当を食ひ出した。

車が動き出して二分にふんも立つたらうと思ふ頃例の女はすうと立つて三四郎の横を通り越して車室しやしつの外そとへ出て行つた。此時女の帯の色が始めて三四郎の眼に這入はいつた。三四郎は鮎の煮浸にびたしの頭あたまを啣〔くわ〕へた儘女の後姿うしろすがたを見送つてゐた。便所に行つたんだなと思ひながら頻しきりに食つてゐる。

女はやがて帰つて来きた。今度は正面が見えた。三四郎の弁当はもう仕舞掛がけである。下したを向いて一生懸命に箸はしを突込んで二口三口ふたくちみくち頬張つたが、女は、どうもまだ元もとの席へ帰らないらしい。もしやと思つて、ひよいと眼を挙げて見ると矢っ張り正面に立つてゐた。然し三四郎が眼を挙げると同時に女は動き出した。只三四郎の横を通つて、自分の座へ帰るべき所を、すぐと前へ来て、身体からだを横へ向けて、窓から首を出して、静かに外そとを眺め出した。風が強くあたつて、鬢びんがふわ〱する所が三四郎の眼めに這入はいつた。此時三四郎は空からになつた弁当の折をりを力ちから一杯に窓から放り出した。女の窓と三四郎の窓は一軒置おきの隣であつた。風に逆さからつて抛なげた折をりの蓋ふたが白しろく舞ひ戻つた様に見えた時、三四郎は飛んだ事をしたのかと気が付いて、不途〔ふと〕女の顔を見た。顔は生憎〔あいにく〕列車の外そとに出てゐた。けれども女は静かに首を引ひっ込めて更紗〔さらさ〕の手帛はんけちで額ひたひの所を丁寧に拭き始めた。三四郎は兎も角も謝あやまる方が安全だと考へた。

「御免めんなさい」と云つた。

女は「いゝえ」と答へた。まだ顔を拭いてゐる。三四郎は仕方なしに黙だまつて仕舞つた。女も黙だまつて仕舞つた。さうして又首を窓から出した。三四人の乗客は暗くらい洋燈らんぷの下したで、みんな寐ねぼけた顔をしてゐる。口くちを利いてゐるものは誰だれもない。汽車丈が凄じい音おとを立てゝ行く。三四郎は眼めを眠ねむつた。

しばらくすると「名古屋はもう直ぢきでせうか」と云ふ女の声がした。見ると何時いつの間まにか向き直なほつて、及および腰になつて、顔を三四郎の傍そば迄持つて来てゐる。三四郎は驚ろいた。

「さうですね」と云つたが、始めて東京へ行くんだから一向要領を得ない。

「此分このぶんでは後おくれますでせうか」

「後おくれるでせう」

「あんたも名古屋へ御下おおりで……」

「はあ、下おります」

此汽車は名古屋留どまりであつた。会話は頗〔すこぶ〕る平凡であつた。只女が三四郎の筋向すぢむかふに腰を掛けた許〔ばかり〕である。それで、しばらくの間は又汽車の音おと丈になつて仕舞ふ。

次つぎの駅で汽車が留つた時、女は漸く三四郎に名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内して呉れと云ひだした。一人ひとりでは気味が悪わるいからと云つて、頻しきりに頼む。三四郎も尤もだと思つた。けれども、さう快こゝろよく引き受ける気にもならなかつた。何しろ知らない女なんだから、頗る蹰躇〔ちゅうちょ〕したにはしたが、断然断わる勇気も出なかつたので、まあ好いい加減な生返事なまへんじをして居た。其うち汽車は名古屋へ着いた。

一の三

大きな行李こりは新橋迄預けてあるから心配はない。三四郎は手頃なズツクの革鞄かばんと傘かさ丈持つて改札場を出た。頭あたまには高等学校の夏帽を被つてゐる。然し卒業したしるしに徽章丈は捥もぎ取つて仕舞つた。昼間ひるま見ると其処そこ丈色が新らしい。後うしろから女が尾ついて来る。三四郎は此帽子に対して少々極りが悪わるかつた。けれども尾ついて来るのだから仕方がない。女の方では、此帽子を無論たゞの汚きたない帽子と思つて居る。

九時半に着くべき汽車が四十分程後おくれたのだから、もう十時は過まはつてゐる。けれども暑い時分だから町はまだ宵の口の様に賑やかだ。宿屋やどやも眼の前に二三軒ある。たゞ三四郎にはちと立派過ぎる様に思はれた。そこで電気燈の点ついてゐる三階作りの前を澄して通り越して、ぶら〱歩行あるいて行つた。無論不案内の土地だから何所どこへ出でるか分らない。只暗くらい方へ行つた。女は何とも云はずに尾ついて来くる。すると比較的淋しい横町の角かどから二軒目に御宿おやどと云ふ看板が見えた。之〔これ〕は三四郎にも女にも相応な汚きたない看板であつた。三四郎は鳥渡ちよつと振り返つて、一口ひとくち女にどうですと相談したが、女は結構だと云ふんで、思ひ切つてずつと這入つた。上がり口で二人連ふたりづれではないと断わる筈の所を、入〔い〕らつしやい、――どうぞ御上おあがり――御案内――梅の四番抔〔など〕とのべつに喋舌しやべられたので、已〔やむ〕を得ず無言の儘二人ふたり共梅の四番へ通されて仕舞つた。

下女が茶を持つてくる間あひだ二人ふたりはぼんやり向むかひ合つて坐つてゐた。下女が茶を持つて来きて、御風呂をと云つた時は、もう此婦人は自分の連つれではないと断わる丈の勇気が出なかつた。そこで手拭をぶら下さげて、御先おさきへと挨拶をして、風呂場へ出て行つた。風呂場は廊下の突き当りで便所の隣りにあつた。薄暗うすぐらくつて、大分不潔の様である。三四郎は着物を脱ぬいで、風呂桶の中へ飛び込んで、少し考へた。こいつは厄介だとぢやぶ〱遣やつてゐると、廊下に足音がする。誰だれか便所へ這入〔はい〕つた様子である。やがて出て来た。手を洗ふ。それが済んだら、ぎいと風呂場の戸を半分開あけた。例の女が入口いりぐちから「ちいと流ながしませうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、

「いえ沢山です」と断わつた。然し女は出て行かない。却〔かえ〕つて這入つて来た。さうして帯を解き出した。三四郎と一所に湯を使ふ気と見える。別に恥づかしい様子も見えない。三四郎は忽〔たちま〕ち湯槽ゆぶねを飛び出した。そこそこに身体からだを拭いて座敷へ帰つて、坐蒲団の上に坐すはつて、少なからず驚ろいてゐると、下女が宿やど帳を持つて来た。

三四郎は宿やど帳を取り上げて、福岡県京都郡〔みやこぐん〕真崎村小川三四郎二十三年学生と正直に書いたが、女の所へ行つて全く困つて仕舞つた。湯から出る迄待つて居れば好よかつたと思つたが、仕方がない。下女がちやんと控えてゐる。已を得ず同県同郡同村同姓花はな二十三年と出鱈目〔でたらめ〕を書いて渡した。さうして頻りに団扇〔うちわ〕を使つてゐた。

やがて女は帰つて来た。「どうも、失礼致しました」と云つてゐる。三四郎は「いゝや」と答へた。

三四郎は革鞄かばんの中なかから帳面を取り出して日記をつけ出した。書く事も何にもない。女がゐなければ書く事が沢山ある様に思はれた。すると女は「一寸ちよいと出て参ります」と云つて部屋を出て行つた。三四郎は益〔ますます〕日記が書けなくなつた。何所どこへ行つたんだらうと考へ出した。

一の四

そこへ下女が床とこを延のべに来くる。広い蒲団を一枚しか持つて来ないから、床とこは二つ敷かなくては不可いけないと云ふと、部屋が狭いとか、蚊帳かやが狭いとか云つて埒〔らち〕が明かない。面倒がる様にも見える。仕舞には只今番頭が一寸ちよつと出でましたから、帰つたら聞いて持つて参りませうと云つて、頑固に一枚の蒲団を蚊帳かや一杯に敷いて出て行つた。

夫から、しばらくすると女が帰つて来きた。どうも遅おそくなりましてと云ふ。蚊帳かやの影で何かしてゐるうちに、がらん〱といふ音おとがした。小供に見舞みやげの玩具おもちやが鳴つたに違ない。女はやがて風呂敷包を元の通りに結んだと見える。蚊帳かやの向ふで「御先おさきへ」と云ふ声がした。三四郎はたゞ「はあ」と答へた儘で、敷居に尻を乗せて、団扇を使つてゐた。いつそ此儘で夜を明あかして仕舞ふかとも思つた。けれども蚊がぶん〱来くる。外そとではとても凌しのぎ切れない。三四郎はついと立つて、革鞄かばんの中なかから、キヤラコの襯衣しやつと洋袴下づぼんしたを出して、それを素肌すはだへ着けて、其上から紺の兵児帯〔へこおび〕を締しめた。それから西洋手拭タウエルを二筋ふたすぢ持つた儘まゝ蚊帳かやの中なかへ這入つた。女は蒲団の向ふの隅でまだ団扇を動かしてゐる。

「失礼ですが、私わたしは疳かん性で他人ひとの布団に寐るのが嫌だから……少し蚤除のみよけの工夫を遣やるから御免なさい」

三四郎はこんな事を云つて、あらかじめ、敷しいてある敷布シートの余つてゐる端はじを女の寐てゐる方へ向けてぐる〱捲まき出した。さうして布団の真中まんなかに白い長い仕切りを拵〔こし〕らへた。女は向むかふへ寐返りを打つた。三四郎は西洋手拭タウエルを広ひろげて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、其上に細長く寐た。其晩は三四郎の手も足も此幅の狭い西洋手拭タウエルの外そとには一寸も出でなかつた。女とは一言ひとことも口くちを利かなかつた。女も壁を向いた儘凝じつとして動かなかつた。

夜はやう〱明けた。顔を洗つて膳に向つた時、女はにこりと笑つて、「昨夜ゆふべは蚤のみは出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「えゝ、難有〔ありがと〕う、御蔭さまで」と云ふ様な事を真面目まじめに答へながら、下したを向いて、御猪口おちよくの葡萄豆まめをしきりに突つつき出した。

勘定をして宿やどを出でて、停車場へ着いた時、女は始めて、関西線で四日市の方へ行くのだと云ふ事を三四郎に話した。三四郎の汽車は間まもなく来きた。時間の都合で女は少し待ち合せる事となつた。改札場の際きは迄送つて来た女は、

「色々御厄介になりまして、……では御機嫌よう」と丁寧に御辞儀をした。三四郎は革鞄かばんと傘かさを片手に持つた儘、空あいた手で例の古ふる帽子を取つて、只たゞ一言ひとこと、

「左様さよなら」と云つた。女は其顔を凝じつと眺ながめてゐたが、やがて落付いた調子で、

「あなたは余つ程度胸のない方かたですね」と云つて、にやりと笑つた。三四郎はプラツト、フオームの上へ弾はぢき出された様な心持がした。車の中なかへ這入つたら両方の耳が一層熱ほてり出した。しばらくは凝じつと小さくなつてゐた。やがて車掌の鳴らす口くち笛が長い列車の果はてから果はて迄響き渡つた。列車は動き出す。三四郎はそつと窓から首くびを出した。女はとくの昔むかしに何処どこかへ行つて仕舞つた。大きな時計ばかりが眼めに着ついた。三四郎は又そつと自分の席に返つた。乗合のりあひは大分居る。けれども三四郎の挙動に注意する様なものは一人ひとりもない。只筋向ふに坐すはつた男が、自分の席に返かへる三四郎を一寸ちよいと見た。

一の五

三四郎は此男に見られた時、何となく極きまりが悪わるかつた。本ほんでも読んで気を紛らかさうと思つて、革鞄かばんを開あけて見ると、昨夜ゆふべの西洋手拭タウエルが、上うへの所にぎつしり詰つまつてゐる。そいつを傍わきへ掻き寄せて、底そこの方から、手に障さわつた奴やつを何でも構はず引き出すと、読んでも解わからないベーコンの論文集が出た。ベーコンには気の毒な位薄つぺらな粗末な仮綴かりとぢである。元来汽車の中うちで読む了見もないものを、大きな行李に入れ損そくなつたから、片付かたづける序に提革鞄さげかばんの底へ、外ほかの二三冊と一所に放り込んで置いたのが、運悪うんわるく当選したのである。三四郎はベーコンの二十三頁ページを開ひらいた。他ほかの本ほんでも読めさうにはない。ましてベーコン抔は無論読む気にならない。けれども三四郎は恭しく二十三頁ページを開ひらいて、万遍まんべんなく頁ページ全体を見廻してゐた。三四郎は二十三頁ページの前で一応昨夜ゆふべの御浚おさらひをする気である。

元来あの女は何なんだらう。あんな女が世の中なかに居るものだらうか。女と云ふものは、ああ落付いて平気でゐられるものだらうか。無教育なのだらうか、大胆なのだらうか。それとも無邪気なのだらうか。要するに行ける所迄行つて見なかつたから、見当が付かない。思ひ切つてもう少し行つて見ると可よかつた。けれども恐ろしい。別れ際にあなたは度胸のない方だと云はれた時には、喫驚びつくりした。二十三年の弱点が一度に露見した様な心持であつた。親おやでもあゝ旨うまく言ひ中あてるものではない。……

三四郎は此所こゝ迄来きて、更さらに悄然しよげて仕舞つた。何所どこの馬の骨だか分わからないものに、頭あたまの上あがらない位打どやされた様な気がした。ベーコンの二十三頁ページに対しても甚〔はなは〕だ申訳がない位に感じた。

どうも、あゝ狼狽しちや駄目だ。学問も大学生もあつたものぢやない。甚だ人格に関係してくる。もう少しは仕様があつたらう。けれども相手が何時いつでもあゝ出でるとすると、教育を受けた自分には、あれより外ほかに受け様がないとも思はれる。すると無暗に女に近付いてはならないと云ふ訳になる。何だか意気地いくぢがない。非常に窮屈だ。丸で不具かたわにでも生れた様なものである。けれども……

三四郎は急に気を易〔か〕へて、別の世界の事を思ひ出した。――是から東京に行く。大学に這入る。有名な学者に接触する。趣味品性の具そなはつた学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間が喝采する。母が嬉しがる。と云ふ様な未来をだらしなく考へて、大いに元気を回復して見ると、別に二十三頁ページの中なかに顔かほを埋うづめてゐる必要がなくなつた。そこでひよいと頭あたまを上あげた。すると筋向ふにゐたさつきの男がまた三四郎の方を見てゐた。今度は三四郎の方でも此男を見返かへした。

髭ひげを濃こく生はやしてゐる。面長おもながの瘠やせぎすの、どことなく神主かんぬしじみた男であつた。たゞ鼻筋が真直まつすぐに通つてゐる所丈が西洋らしい。学校教育を受けつゝある三四郎は、こんな男を見ると屹度教師にして仕舞ふ。男は白地の絣かすりの下したに、丁重に白い繻絆〔じゅばん〕を重ねて、紺足袋を穿はいてゐた。此服装から推して、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。大きな未来を控へてゐる自分から見ると、何だか下くだらなく感ぜられる。男はもう四十だらう。是より先さきもう発展しさうにもない。

一の六

男はしきりに烟草〔たばこ〕をふかしてゐる。長い烟りを鼻の穴から吹き出して、腕組をした所は大変悠長に見える。さうかと思ふと無暗に便所か何かに立つ。立つ時にうんと伸のびをする事がある。さも退屈さうである。隣となりに乗り合せた人が、新聞の読み殻がらを傍そばに置くのに借りて看みる気も出さない。三四郎は自おのづから妙になつて、ベーコンの論文集を伏せて仕舞つた。外ほかの小説でも出だして、本気に読んで見様とも考へたが面倒だから、已やめにした。それよりは前にゐる人の新聞を借りたくなつた。生憎あいにく前の人はぐう〱寐てゐる。三四郎は手を延のばして新聞に手を掛けながら、わざと「御明あきですか」と髭のある男に聞いた。男は平気な顔で「明あいてるでせう。御読みなさい」と云つた。新聞を手に取つた三四郎の方は却つて平気でなかつた。

開あけて見ると新聞には別に見る程の事も載のつてゐない。一二分で通読して仕舞つた。律義に畳んで元もとの場所へ返しながら、一寸ちよつと会釈すると、向むかふでも軽く挨拶をして、

「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた。

三四郎は、被かぶつてゐる古ふる帽子の徽章の痕あとが、此男の眼めに映うつつたのを嬉しく感じた。

「えゝ」と答へた。

「東京の?」と聞き返かへした時、始めて、

「いえ、熊本です。……然し……」と云つたなり黙だまつて仕舞つた。大学生だと云ひたかつたけれども、云ふ程の必要がないからと思つて遠慮した。相手も「はあ、さう」と云つたなり烟草を吹かしてゐる。何故なぜ熊本の生徒が今頃東京へ行くんだとも何とも聞いて呉れない。熊本の生徒には興味がないらしい。此時三四郎の前に寐てゐた男が「うん、成程」と云つた。それでゐて慥かに寐てゐる。独言ひとりごとでも何でもない。髭ひげのある人は三四郎を見てにや〱と笑つた。三四郎はそれを機会しほに、

「あなたは何方どちらへ」と聞いた。

「東京」とゆつくり云つた限ぎりである。何だか中学校の先生らしく無くなつて来た。けれども三等へ乗つてゐる位だから大たいしたものでない事は明あきらかである。三四郎はそれで談話を切り上げた。髭ひげのある男は腕組をした儘、時々とき〲下駄の前歯で、拍子を取つて、床ゆかを鳴らしたりしてゐる。余程退屈に見える。然し此男の退屈は話したがらない退屈である。

汽車が豊橋へ着いた時、寐てゐた男がむつくり起きて眼めを擦こすりながら下おりて行つた。よくあんなに都合よく眼めを覚ます事が出来るものだと思つた。ことによると寐ぼけて停車場を間違へたんだらうと気遣きづかひながら、窓から眺めてゐると、決してさうでない。無事に改札場を通過して、正気の人間の様に出て行つた。三四郎は安心して席を向ふ側へ移した。是で髭ひげのある人と隣り合あはせになつた。髭のある人は入れ換かはつて、窓から首くびを出して、水蜜桃を買つてゐる。

やがて二人ふたりの間に果物くだものを置いて、

「食たべませんか」と云つた。

三四郎は礼を云つて、一つ食たべた。髭ひげのある人は好すきと見えて、無暗〔むやみ〕に食たべた。三四郎にもつと食たべろと云ふ。三四郎は又一つ食たべた。二人ふたりが水蜜桃を食たべてゐるうちに大分親密になつて色々な話を始めた。

一の七

其男の説によると、桃もゝは果物くだもののうちで一番仙人めいてゐる。何だか馬鹿見た様な味あぢがする。第一核子たねの恰好〔かっこう〕が無器用だ。且〔か〕つ穴だらけで大変面白く出来上つてゐると云ふ。三四郎は始めて聞く説だが、随分詰らない事を云ふ人だと思つた。

次に其男がこんな事を云ひ出だした。子規しきは果物くだものが大変好すきだつた。且かついくらでも食くへる男だつた。ある時大きな樽柿たるがきを十六食くつた事がある。それで何ともなかつた。自分抔は到底とても子規の真似は出来ない。――三四郎は笑つて聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。もう少し子規の事でも話さうかと思つてゐると、

「どうも好すきなものには自然と手が出でるものでね。仕方がない。豚ぶた抔は手が出でない代りに鼻はなが出でる。豚ぶたをね、縛しばつて動うごけない様にして置いて、其鼻はなの先さきへ、御馳走を並ならべて置くと、動うごけないものだから、鼻はなの先さきが段〻延びて来くるさうだ。御馳走に届く迄は延びるさうです。どうも一念程恐ろしいものはない」と云つて、にやにや笑つてゐる。真面目まじめだか冗談だか、判然と区別しにくい様な話し方かたである。

「まあ御互に豚ぶたでなくつて仕合せだ。さう欲しいものゝ方へ無暗に鼻が延びて行つたら、今頃は汽車にも乗れない位長くなつて困るに違ちがひない」

三四郎は吹き出した。けれども相手は存外静かである。

「実際危険あぶない。レオナルド、ダ、ヸンチと云ふ人は桃の幹みきに砒石ひせきを注射してね、其実そのみへも毒が回まはるものだらうか、どうだらうかと云ふ試験をした事がある。所が其桃を食くつて死んだ人がある。危険あぶない。気を付けないと危険あぶない」と云ひながら、散〻食ひ散らした水蜜桃の核子たねやら皮やらを、一纏めに新聞に包くるんで、窓の外そとへ抛なげ出だした。

今度は三四郎も笑ふ気が起おこらなかつた。レオナルド、ダ、ヸンチと云ふ名を聞いて少しく辟易〔へきえき〕した上に、何だか昨夕ゆふべの女の事を考へ出して、妙に不愉快になつたから、謹つゝしんで黙だまつて仕舞つた。けれども相手はそんな事に一向気が付かないらしい。やがて、

「東京は何所どこへ」と聞き出した。

「実は始めてで様子が善く分わからんのですが……差し当り国の寄宿舎へでも行かうかと思つてゐます」と云ふ。

「ぢや熊本はもう……」

「今度卒業したのです」

「はあ、そりや」と云つたが御目出たいとも結構だとも付けなかつた。たゞ「すると是から大学へ這入るのですね」と如何〔いか〕にも平凡であるかの如くに聞いた。

三四郎は聊〔いささ〕か物足りなかつた。其代り、

「えゝ」と云ふ二字で挨拶を片付かたづけた。

「科は?」と又聞かれる。

「一部です」

「法科ですか」

「いゝえ文科です」

「はあ、そりや」と又云つた。三四郎は此〔この〕はあそりやを聞くたびに妙になる。向ふが大いに偉えらいか、大いに人を踏み倒してゐるか、さうでなければ大学に全く縁故も同情もない男に違ない。然しそのうちの何方どつちだか見当が付かないので此男に対する態度たいども極めて不明瞭であつた。

一の八

浜松で二人ふたりとも申し合せた様に弁当を食くつた。食つて仕舞つても汽車は容易に出ない。窓から見ると、西洋人が四五人列車の前を往つたり来たりしてゐる。其うちの一組ひとくみは夫婦と見えて、暑あついのに手を組み合せてゐる。女は上下うへしたとも真白な着物で、大変美くしい。三四郎は生れてから今日こんにちに至るまで西洋人と云ふものを五六人しか見た事がない。其うちの二人ふたりは熊本の高等学校の教師で、其二人ふたりのうちの一人ひとりは運悪わるく脊虫せむしであつた。女では宣教師を一人ひとり知つてゐる。随分尖とんがつた顔で、鱚きす又は魳かますに類してゐた。だから、かう云ふ派出な奇麗な西洋人は珍めづらしい許ばかりではない。頗る上等に見える。三四郎は一生懸命に見惚みとれてゐた。是では威張るのも尤もだと思つた。自分が西洋へ行つて、こんな人の中なかに這入つたら定めし肩身かたみの狭い事だらうと迄考へた。窓の前を通る時二人ふたりの話はなしを熱心に聞いて見たが些〔ちっ〕とも分らない。熊本の教師とは丸で発音が違ふ様だ。

所へ例の男が首くびを後ろから出して、

「まだ出でさうもないですかね」と言ひながら、今行き過ぎた、西洋の夫婦を一寸ちよいと見て、

「あゝ美うつくしい」と小声に云つて、すぐに生欠伸なまあくびをした。三四郎は自分が如何にも田舎ものらしいのに気が着いて、早速首を引き込めて、着坐した。男もつゞいて席に返つた。さうして、

「どうも西洋人は美うつくしいですね」と云つた。

三四郎は別段の答も出でないので只たゞはあと受けて笑つてゐた。すると髭の男は、

「御互は憐れだなあ」と云ひ出した。「こんな顔をして、こんなに弱つてゐては、いくら日露戦争に勝かつて、一等国になつても駄目ですね。尤も建物たてものを見ても、庭園を見ても、いづれも顔かほ相応の所だが、――あなたは東京が始めてなら、まだ富士山ふじさんを見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然てんねん自然しぜんに昔むかしからあつたものなんだから仕方がない。我々われ〱が拵こしらへたものぢやない」と云つて又にや〱笑つてゐる。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢ふとは思ひも寄よらなかつた。どうも日本人ぢやない様な気がする。

「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、

「亡ほろびるね」と云つた。熊本でこんな事を口くちに出だせば、すぐ擲なぐられる。わるくすると国賊取扱こくぞくどりあつかひにされる。三四郎は頭あたまの中なかの何処どこの隅すみにも斯〔こ〕う云ふ思想を入れる余裕はない様な空気の裡うちで生長した。だから、ことによると自分の年齢としの若わかいのに乗じて、他ひとを愚弄するのではなからうかとも考へた。男は例の如くにや〱笑つてゐる。其癖言葉つきはどこ迄も落付いてゐる。どうも見当が付かないから、相手になるのを已やめて黙つて仕舞つた。すると男が、かう云つた。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸ちよつと切きつたが、三四郎の顔を見ると耳を傾けてゐる。

「日本より頭あたまの中なかの方が広ひろいでせう」と云つた。「囚とらはれちや駄目だ。いくら日本の為めを思つたつて贔負〔ひいき〕の引き倒しになる許りだ」

此言葉を聞きいた時、三四郎は真実しんじつに熊本を出た様な心持ちがした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であつたと悟つた。

其晩三四郎は東京に着いた。髭の男は分れる時迄名前を明あかさなかつた。三四郎は東京へ着きさへすれば、此位の男は到る所に居るものと信じて、別に姓名を尋ね様ともしなかつた。

二の一

三四郎が東京で驚ろいたものは沢山ある。第一電車のちん〱鳴るので驚ろいた。それから其ちん〱鳴る間あひだに、非常に多くの人間が乗つたり降おりたりするので驚ろいた。次に丸のうちで驚ろいた。尤も驚ろいたのは、何処どこ迄行つても東京が無くならないと云ふ事であつた。しかも何処どこをどう歩あるいても、材木が放り出だしてある、石が積んである、新らしい家いへが往来から二三間引っ込んでゐる、古ふるい蔵くらが半分取とり崩くづされて心細く前の方に残つてゐる。凡ての物が破壊されつゝある様に見える。さうして凡ての物が又同時に建設されつつある様に見える。大変な動き方かたである。

三四郎は全く驚ろいた。要するに普通の田舎者いなかものが始めて都みやこの真中まんなかに立つて驚ろくと同じ程度に、又同じ性質に於て大いに驚ろいて仕舞つた。今迄の学問は此驚ろきを預防〔よぼう〕する上に於て、売薬程の効能もなかつた。三四郎の自信は此驚ろきと共に四割方がた減却げんきやくした。不愉快でたまらない。

此劇烈な活動そのものが取とりも直さず現実世界だとすると、自分が今日迄の生活は現実世界に毫も接触してゐない事になる。洞〔濁点付き小書き平仮名か〕峠で昼寐ひるねをしたと同然である。それでは今日限り昼寐ひるねをやめて、活動の割前が払へるかと云ふと、それは困難である。自分は今活動の中心に立つてゐる。けれども自分はたゞ自分の左右前後に起る活動を見なければならない地位に置き易へられたと云ふ迄で、学生としての生活は以前と変る訳はない。世界はかやうに動揺する。自分は此動揺を見てゐる。けれどもそれに加はる事は出来ない。自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んで居りながら、どこも接触してゐない。さうして現実の世界は、かやうに動揺して、自分を置き去ざりにして行つて仕舞ふ。甚だ不安である。

三四郎は東京の真中に立つて電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、かう感じた。けれども学生々活の裏面りめんに横はる思想界の活動には毫も気が付かなかつた。――明治の思想は西洋の歴史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰り返してゐる。

三四郎が動うごく東京の真中まんなかに閉ぢ込められて、一人ひとりで鬱〔ふさ〕ぎ込んでゐるうちに、国元の母から手紙が来た。東京で受取うけとつた最初のものである。見ると色々書いてある。まづ今年ことしは豊作で目出度〔めでたい〕と云ふ所から始まつて、身体からだを大事にしなくつては不可いけないと云ふ注意があつて、東京のものはみんな利口で人が悪わるいから用心しろと書いて、学資は毎月月末に届く様にするから安心しろとあつて、勝田の政さんの従弟に当る人が大学校を卒業して、理科大学とかに出でてゐるさうだから、尋ねて行つて、万事よろしく頼むがいゝで結んである。肝心の名前を忘れたと見えて、欄外と云ふ様な所に野々宮宗八どのとかいてあつた。此欄外には其外二三件ある。作さくの青馬あをが急病で死んだんで、作は大弱りでゐる。三輪田の御光さんが鮎をくれたけれども東京へ送ると途中で腐つて仕舞ふから、家内うちで食たべて仕舞つた。等である。

三四郎は此手紙を見て、何だか古ふるぼけた昔むかしから届いた様な気がした。母には済まないが、こんなものを読んでゐる暇ひまはないと迄考へた。それにも拘〔かか〕はらず繰り返して二返読んだ。要するに自分がもし現実世界と接触してゐるならば、今の所母より外にないのだらう。其母は古ふるい人で古ふるい田舎に居おる。其外には汽車の中なかで乗り合はした女がゐる。あれは現実世界の稲妻いなづまである。接触したと云ふには、あまりに短かくつて且あまりに鋭過するどすぎた。――三四郎は母の云いひ付つけ通り野々宮宗八を尋ねる事にした。

二の二

あくる日は平生よりも暑い日であつた。休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君は居るまいと思つたが、母が宿所を知らせて来ないから、聞き合せ旁かた〲行つて見様と云ふ気になつて、午後四時頃、高等学校の横を通つて弥生町の門から這入つた。往来は埃ほこりが二寸も積つもつてゐて、其上に下駄の歯や、靴くつの底や、草鞋わらじの裏うらが奇麗に出来上つてる。車の輪と自転車の痕〔あと〕は幾筋だか分らない。むつとする程堪たまらない路だつたが、構内へ這入ると流石さすがに樹の多い丈に気分が晴〻した。取とっ付つきの戸をあたつて見たら錠が下おりてゐる。裏へ廻つても駄目であつた。仕舞に横へ出た。念の為ためと思つて推〔お〕して見たら、旨うまい具合に開あいた。廊下の四っ角かどに小使が一人ひとり居眠りをしてゐた。来意を通じると、しばらくの間あひだは、正気を回復する為めに、上野の森を眺ながめてゐたが、突然「御出おいでかも知れません」と云つて奥へ這入つて行つた。頗る閑静である。やがて又出て来た。「御出おいででやす。御這入んなさい」と友達見た様に云ふ。小使に食くつ付ついて行くと四よっ角かどを曲まがつて和土たゝきの廊下を下したへ居〔お〕りた。世界が急に暗くなる。炎天で眼めが眩くらんだ時の様であつたが少時しばらくすると瞳ひとみが漸く落ち付いて、四辺あたりが見える様になつた。穴倉だから比較的涼しい。左の方に戸があつて、其戸が明あけ放はなしてある。其所そこから顔かほが出た。額ひたいの広ひろい眼めの大きな仏教に縁のある相である。縮ちゞみの襯衣しやつの上へ脊広せびろを着てゐるが、脊広せびろは所々ところ〲に染しみがある。脊せいは頗る高い。瘠せてゐる所が暑さに釣り合つてゐる。頭あたまと脊中を一直線に前の方へ延ばして、御辞儀をした。

「此方こつちへ」と云つた儘、顔を室へやの中へ入れて仕舞つた。三四郎は戸の前迄来きて室へやの中なかを覗〔のぞ〕いた。すると野々宮君はもう椅子へ腰を掛けてゐる。もう一遍「此方こつちへ」と云つた。此方こつちへと云ふ所に台だいがある。四角な棒を四本立てて、其上を板で張つたものである。三四郎は台の上へ腰を掛けて初対面の挨拶をする。それから何分宜敷〔よろしく〕願ひますと云つた。野々宮君は只たゞはあ、はあと云つて聞いてゐる。其様子が幾分か汽車の中なかで水蜜桃を食つた男に似てゐる。一通り口上を述べた三四郎はもう何も云ふ事がなくなつて仕舞つた。野々宮君もはあ、はあ云はなくなつた。

部屋の中なかを見廻すと真中まんなかに大きな長い樫かしの机テーブルが置いてある。其上には何だか込み入つた、太ふとい針線はりがねだらけの器械が乗つかつて、其傍わきに大きな硝子がらすの鉢はちに水が入れてある。其外にやすりと小刀ないふと襟飾えりかざりが一つ落ちてゐる。最後さいごに向むかふの隅すみを見ると、三尺位の花崗石〔みかげいし〕の台の上に、福神漬ふくじんづけの缶くわん程な込み入つた器械が乗せてある。三四郎は此缶の横腹よこつぱらに開あいてゐる二ふたつの穴に眼めをつけた。穴が蟒蛇うはばみの眼玉めだまの様に光ひかつてゐる。野々宮君は笑ひながら光ひかるでせうと云つた。さうして、斯〔こ〕う云ふ説明をして呉れた。

「昼間ひるまのうちに、あんな準備をして置いて、夜よるになつて、交通其他の活動が鈍にぶくなる頃に、此静かな暗い穴倉で、望遠鏡の中なかから、あの眼玉めだまの様なものを覗くのです。さうして光線の圧力を試験する。此年ことしの正月頃から取り掛つたが、装置が中々なか〱面倒なのでまだ思ふ様な結果が出て来きません。夏は比較的堪へ易いが、寒夜になると、大変凌〔しの〕ぎにくい。外套を着て襟巻をしても冷つめたくて遣り切れない。……」

三四郎は大いに驚ろいた。驚ろくと共に光線にどんな圧力があつて、其圧力がどんな役に立つんだか、全く要領を得るに苦しんだ。

二の三

其時野々宮君は三四郎に、「覗いて御覧なさい」と勧めた。三四郎は面白半分、石の台の二三間手前にある望遠鏡の傍そばへ行つて、右の眼をあてがつたが、何にも見えない。野々宮君は「どうです、見えますか」と聞く。「一向見えません」と答へると、「うんまだ蓋ふたが取らずにあつた」と云ひながら、椅子を立つて望遠鏡の先さきに被かぶせてあるものを除のけて呉れた。

見ると、ただ輪廓のぼんやりした明あかるいなかに、物差ものさしの度盛どもりがある。下したに2の字が出た。野々宮君がまた「どうです」と聞いた。「2の字が見えます」と云ふと、「今に動きます」と云ひながら向むかふへ廻まはつて何かしてゐる様であつた。

やがて度盛どもりが明あかるい中なかで動き出だした。2が消えた。あとから3が出でる。其あとから4が出でる。5が出でる。とう〱10迄出た。すると度盛どもりがまた逆ぎやくに動き出した。10が消え、9が消え、8から7、7から6と順々に1迄来て留とまつた。野々宮君は又「どうです」と云ふ。三四郎は驚ろいて、望遠鏡から眼めを放はなして仕舞つた。度盛どもりの意味を聞く気にもならない。

丁寧に礼を述べて穴倉を上あがつて、人の通る所へ出て見ると世の中なかはまだかん〱してゐる。暑あついけれども深い呼息いきをした。西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂上さかうへの両側にある工科の建築の硝子窓がらすまどが燃える様に輝やいてゐる。空そらは深く澄すんで、澄んだなかに、西にしの果はてから焼ける火の焔ほのほが、薄赤く吹き返して来て、三四郎の頭あたまの上うへ迄熱ほてつてゐる様に思はれた。横に照てり付ける日を半分はんぶん脊中せなかに受けて、三四郎は左りの森の中なかへ這入つた。其森も同じ夕日ゆふひを半分脊中せなかに受けて入〔い〕る。黒ずんだ蒼い葉と葉の間あひだは染めた様に赤い。太ふとい欅の幹で日暮しが鳴いてゐる。三四郎は池の傍そばへ来てしやがんだ。

非常に静かである。電車の音おともしない。赤門あかもんの前を通る筈はづの電車は、大学の抗議で小石川を回まはる事になつたと国にゐる時分新聞で見た事がある。三四郎は池の端はたにしやがみながら、不図此事件を思ひ出した。電車さへ通とほさないと云ふ大学は余程社会と離れてゐる。

たま〱其中なかに這入つて見ると、穴倉あなぐらの下したで半年余りも光線の圧力の試験をしてゐる野々宮君の様な人もゐる。野々宮君は頗る質素な服装なりをして、外そとで逢へば電燈会社の技手位な格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念に遣つてゐるから偉えらい。然し望遠鏡のなかの度盛どもりがいくら動いたつて現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかも知れない。要するに此静かな空気を呼吸するから、自おのづからあゝ云ふ気分にもなれるのだらう。自分もいつその事気を散らさずに、活いきた世の中と関係のない生涯を送つて見様かしらん。

三四郎が凝じつとして池の面おもてを見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底に映うつつて、其又底に青い空が見える。三四郎は此時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠く且つ遥かな心持がした。然ししばらくすると、其心持のうちに薄雲うすぐもの様な淋さみしさが一面に広ひろがつて来きた。さうして、野々宮君の穴倉に這入つて、たつた一人ひとりで坐すはつて居るかと思はれる程な寂寞を覚えた。熊本の高等学校に居る時分も是より静かな龍田山に上のぼつたり、月見草ばかり生えてゐる運動場に寐たりして、全く世の中を忘れた気になつた事は幾度となくある。けれども此孤独の感じは今始めて起つた。

活動の劇しい東京を見たためだらうか。或は――三四郎は赤くなつた。汽車で乗り合はした女の事を思ひ出したからである。――現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界は危あぶなくて近寄れない気がする。三四郎は早く下宿に帰つて、母に手紙を書いてやらうと思つた。

二の四

不図眼めを上あげると、左手ひだりての岡の上うへに女が二人ふたり立つてゐる。女のすぐ下したが池で、池の向ふ側が高たかい崖がけの木立こだちで、其後ろが派出な赤錬瓦のゴシツク風の建築である。さうして落ちかゝつた日が、凡ての向ふから横に光ひかりを透とほしてくる。女は此夕日に向いて立つてゐた。三四郎のしやがんでゐる低ひくい陰かげから見ると岡の上は大変明あかるい。女の一人ひとりはまぼしいと見えて、団扇を額ひたひの所に翳かざしてゐる。顔はよく分らない。けれども着物の色、帯の色は鮮あざやかに分わかつた。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履を穿いてゐる事も分わかつた。もう一人ひとりは真白まつしろである。是は団扇も何も持つて居ない。只額ひたひに少し皺を寄よせて、対岸むかふぎしから生ひ被かぶさりさうに、高たかく池の面おもてに枝を伸のばした古木の奥を眺めてゐた。団扇を持つた女は少し前へ出てゐる。白い方は一歩ひとあし土堤どての縁ふちから退さがつてゐる。三四郎が見ると、二人ふたりの姿すがたが筋違すぢかひに見える。

此時三四郎の受けた感じは只奇麗な色彩だと云ふ事であつた。けれども田舎者いなかものだから、此色彩がどういふ風に奇麗なのだか、口くちにも云へず、筆にも書けない。たゞ白い方が看護婦だと思つた許りである。

三四郎は又見惚みとれてゐた。すると白い方が動き出した。用事のある様な動き方かたではなかつた。自分の足あしが何時いつの間まにか動いたといふ風であつた。見ると団扇を持もつた女も何時いつの間まにか又動いてゐる。二人ふたりは申し合せた様に用のない歩あるき方かたをして、坂さかを下おりて来くる。三四郎は矢っ張り見てゐた。

坂さかの下したに石橋いしばしがある。渡らなければ真直に理科大学の方へ出る。渡れば水際みづぎはを伝つたつて此方こつちへ来る。二人ふたりは石橋を渡つた。

団扇はもう翳かざして居ない。左りの手に白しろい小さな花を持つて、それを嗅かぎながら来くる。嗅かぎながら、鼻の下したに宛あてがつた花を見ながら、歩あるくので、眼めは伏せてゐる。それで三四郎から一間許けんばかりの所へ来てひよいと留つた。

「是は何なんでせう」と云つて、仰向あほむいた。頭あたまの上うへには大きな椎しいの木が、日の目めの洩もらない程厚あつい葉を茂しげらして、丸い形かたちに、水際みづぎは迄張り出してゐた。

「是これは椎しい」と看護婦が云つた。丸で子供に物を教へる様であつた。

「さう。実みは生なつてゐないの」と云ひながら、仰向いた顔かほを元もとへ戻もどす、其拍子に三四郎を一目ひとめ見た。三四郎は慥かに女の黒眼くろめの動く刹那を意識した。其時色彩の感じは悉〔ことごと〕く消えて、何とも云へぬ或物に出逢つた。其或物は汽車の女に「あなたは度胸のない方かたですね」と云はれた時の感じと何所どこか似通つてゐる。三四郎は恐ろしくなつた。

二人ふたりの女は三四郎の前を通り過ぎる。若わかい方ほうが今迄嗅かいで居た白い花を三四郎の前へ落して行つた。三四郎は二人ふたりの後姿うしろすがたを凝じつと見詰めて居た。看護婦は先さきへ行く。若い方が後あとから行く。華はなやかな色いろの中なかに、白い薄すゝきを染め抜いた帯が見える。頭あたまにも真白な薔薇ばらを一つ挿さしてゐる。其薔薇ばらが椎しいの木陰こかげの下したの、黒くろい髪かみの中なかで際立きはだつて光ひかつてゐた。

三四郎は茫然ぼんやりしてゐた。やがて、小ちいさな声で「矛盾だ」と云つた。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの眼付が矛盾なのだか、あの女を見て、汽車の女を思ひ出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二途ふたみちに矛盾してゐるのか、又は非常に嬉しいものに対して恐を抱く所が矛盾してゐるのか、――この田舎出いなかでの青年には、凡て解わからなかつた。たゞ何だか矛盾であつた。

三四郎は女の落して行つた花を拾つた。さうして嗅かいで見た。けれども別段の香にほひもなかつた。三四郎は此花を池の中なかへ投なげ込んだ。花は浮いてゐる。すると突然向ふで自分の名を呼んだものがある。

二の五

三四郎は花から眼めを放はなした。見ると野々宮君が石橋の向むかふに長く立つてゐる。

「君まだ居たんですか」と云ふ。三四郎は答をする前に、立つてのそ〱歩あるいて行つた。石橋いしばしの上うへ迄来きて、

「えゝ」と云つた。何となく間まが抜けてゐる。けれども野々宮君は、少しも驚ろかない。

「涼しいですか」と聞いた。三四郎は又

「えゝ」と云つた。

野々宮君は少時しばらく池の水を眺めてゐたが、右の手を隠袋ぽつけつとへ入れて何か探さがし出した。隠袋ぽつけつとから半分封筒が食はみ出してゐる。其上に書いてある字が女の手蹟らしい。野々宮君は思ふ物を探さがし宛あてなかつたと見えて、元の通りの手を出してぶらりと下さげた。さうして、かう云つた。

「今日けふは少し装置が狂つたので晩の実験は已〔や〕めだ。是から本郷の方を散歩して帰らうと思ふが、君どうです一所にあるきませんか」

三四郎は快よく応じた。二人ふたりで坂さかを上あがつて、岡の上へ出でた。野々宮君はさつき女の立つてゐた辺あたりで一寸ちよつと留とまつて、向ふの青あをい木立の間から見える赤い建物と、崖がけの高い割に、水の落ちた池を一面に見渡して、

「一寸ちよつと好いい景色でせう。あの建築ビルヂングの角度アングルの所丈が少し出てゐる。木きの間あひだから。ね。好いいでせう。君気が付いてゐますか。あの建物は中々なか〱旨うまく出来てゐますよ。工科もよく出来てるが此方このほうが旨うまいですね」

三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚ろいた。実を云ふと自分には何方どつちが好いいか丸で分わからないのである。そこで今度は三四郎の方が、はあ、はあと云ひ出した。

「それから、此木と水の感じエフフエクトがね。――大したものぢやないが、何しろ東京の真中まんなかにあるんだから――静かでせう。かう云ふ所でないと学問をやるには不可いけませんね。近頃は東京があまり八釜間敷〔やかましく〕なり過ぎて困る。是が御殿」とあるき出だしながら、左手の建物を指さして見せる。「教授会を遣やる所です。うむなに、僕なんか出ないで好いいのです。僕は穴倉生活を遣つてゐれば済むのです。近頃の学問は非常な勢で動いてゐるので、少し油断すると、すぐ取り残されて仕舞ふ。人が見ると穴倉のなかで冗談をしてゐる様だが、是でも遣つてゐる当人の頭あたまの中なかは劇烈に働いてゐるんですよ。電車より余っ程烈しく働らいてゐるかも知れない。だから夏でも旅行をするのが惜しくつてね」と言ひながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光りが乏しい。

青い空の静まり返つた、上皮うはかはに、白い薄雲うすぐもが刷毛先はけさきで掻き払つた痕あとの様に、筋違すぢかひに長く浮いてゐる。

「あれを知つてますか」と云ふ。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。

「あれは、みんな雪の粉ですよ。かうやつて下したから見ると、些ちつとも動いて居ない。然し、あれで地上に起る颶風〔ぐふう〕以上の速力で動いてゐるんですよ。――君ラスキンを読みましたか」

三四郎は憮然として読まないと答へた。野々宮君はたゞ

「さうですか」と云つた許りである。しばらくしてから、

「此空そらを写生したら面白いですね。――原口にでも話してやらうかしら」と云つた。三四郎は無論原口と云ふ画工の名前を知らなかつた。

二の六

二人ふたりはベルツの銅像の前から枳殻寺からたちでらの横を電車の通りへ出た。銅像の前で、此銅像はどうですかと聞かれて三四郎は又弱つた。表は大変賑やかである。電車がしきりなしに通る。

「君電車は煩うるさくはないですか」と又聞かれた。三四郎は煩うるさいより凄すさまじい位である。然したゞ「えゝ」と答へて置いた。すると野々宮君は「僕もうるさい」と云つた。然し一向煩うるさい様にも見えなかつた。

「僕は車掌に教はらないと、一人ひとりで乗換のりかへが自由に出来ない。此二三年来無暗に殖えたのでね。便利になつて却つて困る。僕の学問と同じ事だ」と云つて笑つた。

学期の始まり際ぎはなので新らしい高等学校の帽子を被つた生徒が大分通る。野々宮君は愉快さうに、此連中を見てゐる。

「大分新らしいのが来ましたね」と云ふ。「若い人は活気があつて好いい。時に君は幾何いくつですか」と聞いた。三四郎は宿帳へ書いた通りを答へた。すると、

「それぢや僕より七つ許り若い。七年もあると、人間は大抵の事が出来る。然し月日つきひは立たち易いものでね。七年位直ぢきですよ」と云ふ。どつちが本当なんだか、三四郎には解わからなかつた。

四っ角近くへ来くると左右に本屋と雑誌屋が沢山ある。そのうちの二三軒には人が黒山くろやまの様にたかつてゐる。さうして雑誌を読んでゐる。さうして買はずに行つて仕舞ふ。野々宮君は、

「みんな狡猾ずるいなあ」と云つて笑つてゐる。尤も当人も一寸ちよいと太陽を開あけて見た。

四っ角へ出ると、左手ひだりての此方こちら側に西洋小間物屋があつて、向側に日本小間物屋がある。其間あひだを電車がぐるつと曲まがつて、非常な勢で通る。ベルがちん〱ちん〱云ふ。渡りにくい程雑沓する。野々宮君は、向ふの小間物屋を指さして、

「あすこで一寸ちよいと買物をしますからね」と云つて、ちりん〱と鳴る間を馳け抜けた。三四郎も食つ付いて、向ふへ渡つた。野々宮君は早速店みせへ這入つた。表に待つてゐた三四郎が、気が付いて見ると、店先みせさきの硝子張がらすばりの棚たなに櫛だの花簪はなかんざしだのが列ならべてある。三四郎は妙に思つた。野々宮君が何を買つてゐるのかしらと、不審を起して、店みせの中なかへ這入つて見ると、蝉せみの羽根の様なリボンをぶら下さげて、

「どうですか」と聞かれた。三四郎は此時自分も何か買つて、鮎の御礼に三輪田の御光さんに送つてやらうかと思つた。けれども御光さんが、それを貰つて、鮎の御礼と思はずに、屹度何だかんだと手前勝手の理窟を附けるに違ないと考へたから已めにした。

それから真砂町で野々宮君に西洋料理の御馳走になつた。野々宮君の話では本郷で一番旨うまい家うちださうだ。けれども三四郎にはたゞ西洋料理の味あぢがする丈であつた。然し食たべる事はみんな食たべた。

西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分に帰る所を丁寧にもとの四っ角迄出て、左りへ折れた。下駄を買はうと思つて、下駄屋を覗き込んだら、白熱瓦斯〔ガス〕の下したに、真白に塗り立てた娘が、石膏の化物ばけものの様に坐つてゐたので、急に厭いやになつて已めた。それからうちへ帰る間あひだ、大学の池の縁ふちで逢つた女の、顔の色ばかり考へてゐた。――其色は薄く餅もちを焦こがした様な狐色であつた。さうして肌理きめが非常に細こまかであつた。三四郎は、女の色は、どうしてもあれでなくつては駄目だと断定した。

三の一

学年は九月十一日に始まつた。三四郎は正直に午前十時半頃学校へ行つて見たが、玄関前の掲示場に講義の時間割がある許で学生は一人ひとりも居ない。自分の聴くべき分丈を手帳に書き留めて、それから事務室へ寄よつたら、流石に事務員丈は出て居た。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると云つてゐる。澄ましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がない様ですがと尋ねると、それは先生が居ないからだと答へた。三四郎は成程と思つて事務室を出た。裏へ廻つて、大きな欅の下から高たかい空そらを覗いたら、普通の空そらよりも明あきらかに見えた。熊笹の中なかを水際みずぎはへ下おりて、例の椎の木の所迄来て、又しやがんだ。あの女がもう一遍通れば可いい位に考へて、度々たび〱岡の上うへを眺めたが、岡の上には人影もしなかつた。三四郎はそれが当然だと考へた。けれども矢張りしやがんでゐた。すると午砲どんが鳴つたんで驚ろいて下宿へ帰つた。

翌日は正八時に学校へ行つた。正門を這入ると、取突とつつきの大通りの左右に植うゑてある銀杏の並木が眼に付いた。銀杏が向ふの方で尽きるあたりから、だら〱坂に下さがつて、正門の際きはに立つた三四郎から見ると、坂の向ふにある理科大学は二階の一部しか出てゐない。其屋根の後ろに朝日を受けた上野の森が遠く輝やいてゐる。日は正面にある。三四郎は此奥行のある景色を愉快に感じた。

銀杏の並木が此方こちら側で尽きる右手には法文科大学がある。左手には少し退さがつて博物の教室がある。建築は双方共に同じで、細長い窓の上に、三角に尖とがつた屋根が突き出してゐる。其三角の縁ふちに当る赤錬瓦と黒くろい屋根の接目つぎめの所が細ほそい石の直線で出来てゐる。さうして其石の色が少し蒼味あをみを帯びて、すぐ下したにくる派出な赤錬瓦に一種の趣を添へてゐる。さうして此長い窓と、高い三角が横にいくつも続つゞいてゐる。三四郎は此間野々宮君の説を聞いてから以来、急に此建物を難有く思つてゐたが、今朝けさは、此意見が野々宮君の意見でなくつて、初手から自分の持説である様な気がし出した。ことに博物室が法文科と一直線に並んでゐないで、少し奥へ引つ込んでゐる所が不規則で妙だと思つた。こんど野々宮君に逢つたら自分の発明として此説を持ち出さうと考へた。

法文科の右のはづれから半町程前へ突き出してゐる図書館にも感服した。よく分らないが何でも同じ建築だらうと考へられる。其赤い壁に添つけて、大きな棕櫚しゆろの木を五六本植ゑた所が大いに好いい。左り手のずつと奥にある工科大学は封建時代の西洋の御城から割り出した様に見えた。真っ四角に出来上つてゐる。窓も四角である。只四隅と入口が丸い。是は櫓やぐらを片取かたどつたんだらう。御城丈に堅牢しつかりしてゐる。法文科見た様に倒れさうでない。何だか脊せいの低ひくい相撲取に似て居る。

三四郎は見渡す限り見渡して、此外にもまだ眼めに入らない建物が沢山ある事を勘定に入れて、何所どことなく雄大な感じを起おこした。「学問の府はかうなくつてはならない。かう云ふ構かまへがあればこそ研究も出来る。えらいものだ」――三四郎は大学者になつた様な心持がした。

けれども教室へ這入つて見たら、鐘は鳴つても先生は来こなかつた。其代り学生も出て来ない。次の時間も其通りであつた。三四郎は疳癪を起して教場を出た。さうして念の為めに池の周囲まはりを二遍許り廻つて下宿へ帰つた。

三の二

夫から約十日許立たつてから、漸く講義が始まつた。三四郎が始めて教室へ這入はいつて、外ほかの学生と一所に先生の来くるのを待まつてゐた時の心持は実に殊勝なものであつた。神主かんぬしが装束を着けて、是から祭典でも行はうとする間際まぎはには、かう云ふ気分がするだらうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。実際学問の威厳に打たれたに違ない。それのみならず先生が号鐘ベルが鳴つて十五分立つても出て来ないので益〔ますます〕予期から生ずる敬畏の念を増した。そのうち人品のいゝ御爺さんの西洋人が戸を開あけて這入つて来て、流暢な英語で講義を始めた。三四郎は其時 answerアンサー と云ふ字はアングロ、サクソン語の and-swaruアンド、スワル から出たんだと云ふ事を覚えた。それからスコツトの通かよつた小学校の村の名を覚えた。いづれも大切に筆記帳に記しるして置いた。其次には文学論の講義に出た。此先生は教室に這入つて、一寸ちよいと黒板ボールドを眺めてゐたが、黒板ボールドの上に書いてある、Geschehenゲシエーヘン と云ふ字と Nachbildナハビルド と云ふ字を見て、はあ独乙語かと云つて、笑わらひながらさつさと消して仕舞つた。三四郎は之が為めに独乙語に対する敬意を少し失つた様に感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義を凡そ二十許り列ならべた。三四郎は是も大事に手帳に筆記して置いた。午後は大教室に出た。其教室には約七八十人程の聴講者が居た。従つて先生も演説口調であつた。砲声一発浦賀の夢を破つてと云ふ冒頭であつたから、三四郎は面白がつて聞いてゐると、仕舞には独乙の哲学者の名が沢山出て来て甚だ解げしにくゝなつた。机の上を見ると、落第と云ふ字が美事に彫ほつてある。余程閑ひまに任まかせて仕上しあげたものと見えて、堅い樫かしの板を奇麗に切きり込んだ手際は素人しらうととは思はれない。深刻の出来である。隣の男は感心に根気よく筆記をつゞけてゐる。覗いて見ると筆記ではない。遠くから先生の似顔をポンチにかいてゐたのである。三四郎が覗くや否や隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。画は旨うまく出来てゐるが、傍そばに久方ひさかたの雲井の空の子規ほとゝぎすと書いてあるのは、何の事だか判じかねた。

講義が終つてから、三四郎は何となく疲労した様な気味で、二階の窓から頬杖を突いて、正門内の庭を見下みおろしてゐた。只大きな松や桜を植ゑて其間に砂利を敷いた広い道を付つけた許であるが、手を入れ過ぎてゐない丈に、見てゐて心持が好い。野々宮君の話によると此所こゝは昔むかしはかう奇麗ではなかつた。野々宮君の先生の何とか云ふ人が、学生の時分馬に乗つて、此所こゝを乗り廻すうちに、馬が云ふ事を聞かないで、意地を悪わるくわざと木の下したを通るので、帽子が松の枝に引つかゝる。下駄の歯が鐙あぶみに挟はさまる。先生は大変困つてゐると、正門前の喜多床と云ふ髪結床の職人が大勢出でて来きて、面白がつて笑つてゐたさうである。其時分には有志のものが醵金して構内に厩をこしらへて、三頭の馬と、馬の先生とを飼かつて置いた。所が先生が大変な酒呑で、とう〱三頭のうちの一番好いい白い馬を売つて飲んで仕舞つた。それはナポレオン三世時代の老馬であつたさうだ。まさかナポレオン三世時代でも無なからう。然し呑気な時代もあつたものだと考へてゐると、さつきポンチ画をかいた男が来て、

「大学の講義は詰らんなあ」と云つた。三四郎は好加減な返事をした。実は詰るか詰らないか、三四郎には些〔ちっ〕とも判断が出来ないのである。然し此時から此男と口を利く様になつた。

三の三

其日は何となく気が鬱〔うっ〕して、面白くなかつたので、池の周囲まはりを回まはる事は見合せて家うちへ帰つた。晩食後筆記を繰り返して読よんで見たが、別に愉快にも不愉快にもならなかつた。母に言文一致の手紙をかいた。――学校は始まつた。是から毎日出る。学校は大変広い好いい場所で、建物たてものも大変美くしい。真中まんなかに池がある。池の周囲まはりを散歩するのが楽しみだ。電車には近頃漸く乗り馴れた。何か買つて上げたいが、何が好いいか分からないから、買つて上げない。欲ほしければ其方そつちから云つて来きて呉れ。今年ことしの米こめは今いまに価ねが出るから、売らずに置く方が得とくだらう。三輪田の御光さんにはあまり愛想あいそを善よくしない方が好よからう。東京へ来て見ると人はいくらでもゐる。男も多いが女も多い。と云ふ様な事をごた〱並べたものであつた。

手紙を書いて、英語の本を六七頁ページ読んだら厭いやになつた。こんな本を一冊位読んでも駄目だと思ひ出した。床とこを取つて寐る事にしたが、寐つかれない。不眠症になつたら早く病院に行つて見て貰はう抔と考へてゐるうちに寐て仕舞つた。

翌日あくるひも例刻に学校へ行つて講義を聞いた。講義の間に今年ことしの卒業生が何所其所どこそこへ幾何いくらで売れたと云ふ話を耳にした。誰だれと誰だれがまだ残つてゐて、それがある官立学校の地位を競争してゐる噂だ抔と話してゐるものがあつた。三四郎は漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せる様な鈍い圧迫を感じたが、それはすぐ忘れて仕舞つた。寧〔むし〕ろ昇之助が何とかしたと云ふ方の話が面白かつた。そこで廊下で熊本出の同級生を捕つらまへて、昇之助とは何だと聞いたら、寄席へ出る娘義太夫だと教へて呉れた。夫から寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあると云ふ事迄云つて聞かせた上、今度の土曜に一所に行かうと誘つて呉れた。よく知つてると思つたら、此男は昨夜ゆふべ始めて、寄席よせへ這入つたのださうだ。三四郎は何だか寄席よせへ行つて昇之助が見度なつた。

昼飯ひるめしを食くひに下宿へ帰らうと思つたら、昨日きのふポンチ画をかいた男が来て、おい〱と云ひながら、本郷の通りの淀見よどみ軒と云ふ所に引つ張つて行つて、ライスカレーを食はした。淀見軒と云ふ所は店みせで果物くだものを売つてゐる。新らしい普請ふしんであつた。ポンチを画かいた男は此建築の表を指ゆびさして、是がヌーボー式だと教へた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものかと始めて悟つた。帰り路みちに青木堂も教はつた。矢張り大学生のよく行く所ださうである。赤門を這入つて、二人ふたりで池の周囲まはりを散歩した。其時ポンチ画の男は、死しんだ小泉八雲やくも先生は教員控室へ這入るのが嫌で講義が済むといつでも此周囲まはりをぐる〱廻まはつてあるいたんだと、恰〔あたか〕も小泉先生に教はつた様な事を云つた。何故なぜ控室へ這入らなかつたのだらうかと三四郎が尋ねたら、

「そりや当り前ださ。第一彼等の講義を聞いても解わかるぢやないか。話せるものは一人ひとりもゐやしない」と手痛てひどい事を平気で云つたには三四郎も驚ろいた。此男は佐々木与次郎と云つて、専門学校を卒業して、ことし又撰科へ這入つたのださうだ。東片町の五番地の広田と云ふうちに居るから、遊びに来こいと云ふ。下宿かと聞くと、なに高等学校の先生の家うちだと答へた。

三の四

それから当分の間あひだ三四郎は毎日学校へ通つて、律義に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席して見た。それでも、まだ物足りない。そこで遂には専攻課目に丸で縁故のないもの迄へも折々は顔を出した。然し大抵は二度か三度で已めて仕舞つた。一ヶ月と続つゞいたのは少しも無かつた。それでも平均一週に約四十時間程になる。如何〔いか〕な勤勉な三四郎にも四十時間はちと多過ぎる。三四郎は断へず一種の圧迫を感じてゐた。然るに物足りない。三四郎は楽しまなくなつた。

或日あるひ佐々木与次郎に逢つて其話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、眼を丸くして、「馬鹿々々」と云つたが、「下宿屋のまづい飯めしを一日に十返ぺん食つたら物足りる様になるか考へて見ろ」といきなり警句でもつて三四郎を打どやしつけた。三四郎はすぐさま恐れ入つて、「どうしたら善よからう」と相談をかけた。

「電車に乗るがいゝ」と与次郎が云つた。三四郎は何か寓意でもある事と思つて、しばらく考へて見たが、別に是と云ふ思案も浮ばないので、

「本当の電車か」と聞き直した。其時与次郎はげら〱笑つて、

「電車に乗つて、東京を十五六返ぺん乗り回まはしてゐるうちには自おのづから物足りる様になるさ」と云ふ。

「何故なぜ」

「何故なぜつて、さう、活いきてる頭あたまを、死んだ講義で封じ込めちや、助からない。外そとへ出て風を入れるさ。其上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩で且〔かつ〕尤も軽便だ」

其日の夕方、与次郎は三四郎を拉らつして、四丁目から電車に乗つて、新橋へ行つて、新橋から又引き返して、日本橋へ来て、そこで下おりて、

「どうだ」と聞いた。

次に大通りから細い横町へ曲まがつて、平ひらの家やと云ふ看板のある料理屋へ上あがつて、晩食ばんめしを食つて酒を呑んだ。其所そこの下女はみんな京都弁を使ふ。甚だ纏綿〔てんめん〕してゐる。表へ出た与次郎は赤い顔をして、又

「どうだ」と聞いた。

次に本場ほんばの寄席よせへ連つれて行つてやると云つて、又細い横町へ這入つて、木原店きはらだなと云ふ寄席よせへ上あがつた。此所こゝで小さんといふ話し家かを聞いた。十時過ぎ通りへ出た与次郎は、又

「どうだ」と聞いた。

三四郎は物足りたとは答へなかつた。然し満更物足りない心持もしなかつた。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。

小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものぢやない。何時いつでも聞けると思ふから安やすつぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。――円遊も旨うまい。然し小さんとは趣が違ちがつてゐる。円遊の扮ふんした太鼓持は、太鼓持になつた円遊だから面白いので、小さんの遣やる太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞ふ。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活溌々地に躍動する許りだ。そこがえらい。

与次郎はこんな事を云つて、又

「どうだ」と聞いた。実を云ふと三四郎には小さんの味あぢはひが善よく分らなかつた。其上円遊なるものは未だ嘗〔かつ〕て聞いた事がない。従つて与次郎の説の当否は判定しにくい。然し其比較のほとんど文学的と云ひ得る程に要領を得たには感服した。

高等学校の前で分わかれる時、三四郎は、

「難有〔ありがと〕う、大いに物足りた」と礼を述べた。すると与次郎は、

「是から先さきは図書館でなくつちや物足りない」と云つて片町かたまちの方へ曲まがつて仕舞つた。此一言で三四郎は始めて図書館に這入る事を知つた。

三の五

其翌日から三四郎は四十時間の講義を殆んど、半分に減へらして仕舞つた。さうして図書館に這入つた。広く、長く、天井が高く、左右に窓の沢山ある建物であつた。書庫は入口いりぐちしか見みえない。此方こつちの正面から覗くと奥おくには、書物がいくらでも備へ付けてある様に思はれる。立つて見てゐると、時々書庫の中なかから、厚い本を二三冊抱へて、出口でぐちへ来て左へ折れて行くものがある。職員閲覧室へ行く人である。中なかには必要の本を書棚しよだなから取り卸おろして、胸一杯にひろげて、立ちながら調べてゐる人もある。三四郎は羨うらやましくなつた。奥迄行つて二階へ上のぼつて、それから三階へ上のぼつて、本郷より高い所で、生きたものを近付ちかづけずに、紙の臭にほひを嗅かぎながら、――読んで見たい。けれども何を読むかに至つては、別に判然した考がない。読んで見なければ分らないが、何かあの奥に沢山ありさうに思ふ。

三四郎は一年生だから書庫へ這入る権利がない。仕方なしに、大きな箱入はこいりの札ふだ目録を、こゞんで一枚々々調べて行くと、いくら捲めくつても後あとから後あとから新らしい本の名が出て来くる。仕舞に肩が痛くなつた。顔を上あげて、中休なかやすみに、館内を見廻すと、流石さすがに図書館丈あつて静かなものである。しかも人が沢山ゐる。さうして向ふの果はづれにゐる人の頭あたまが黒く見える。眼口めくちは判然しない。高い窓の外そとから所々ところ〲に樹が見える。空そらも少し見える。遠くから町まちの音おとがする。三四郎は立ちながら、学者の生活は静かで深いものだと考へた。それで其日は其儘帰つた。

次の日は空想をやめて、這入ると早速本を借りた。然し借り損そくなつたので、すぐ返した。後あとから借りた本は六づかし過ぎて読めなかつたから又返した。三四郎はかう云ふ風にして毎日本を八九冊宛〔ずつ〕は必ず借りた。尤も会たまには少し読んだのもある。三四郎が驚ろいたのは、どんな本を借りても、屹度誰か一度は眼を通して居ると云ふ事実を発見した時であつた。それは書中此所彼所こゝかしこに見える鉛筆の痕で慥かである。ある時三四郎は念の為め、アフラ、ベーンと云ふ作家の小説を借りて見た。開あける迄は、よもやと思つたが、見ると矢張り鉛筆で丁寧にしるしが付けてあつた。此時三四郎はこれは到底遣り切れないと思つた。所へ窓の外そとを楽隊が通つたんで、つい散歩に出る気になつて、通りへ出て、とう〱青木堂へ這入つた。

這入つて見ると客が二組あつて、いづれも学生であつたが、向ふの隅にたつた一人離れて茶を飲んでゐた男がある。三四郎が不図其横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中なかで水蜜桃を沢山食つた人の様である。向ふは気がつかない。茶を一口ひとくち飲のんでは烟草を一吸すひすつて、大変悠然ゆつくり構へてゐる。今日けふは白地の浴衣ゆかたを已やめて、背広せびろを着てゐる。然し決して立派りつぱなものぢやない。光線の圧力の野々宮君より白襯衣しろしやつ丈が増しな位なものである。三四郎は様子を見てゐるうちに慥かに水蜜桃だと物色した。大学の講義を聞いてから以来、汽車の中なかで此男の話した事が何だか急に意義のある様に思はれ出した所なので、三四郎は傍そばへ行つて挨拶を仕様かと思つた。けれども先方は正面を見たなり、茶を飲んでは、烟草をふかし、烟草をふかしては茶を飲んでゐる。手の出し様がない。

三四郎は凝じつと其横顔がほを眺めてゐたが、突然手杯こつぷにある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。さうして図書館に帰つた。

三の六

其日は葡萄酒の景気と、一種の精神作用とで例になく面白い勉強が出来たので、三四郎は大いに嬉しく思つた。二時間程読書三昧に入つた後、漸く気が付いて、そろ〱帰る支度をしながら、一所に借りた書物のうち、まだ開あけて見なかつた、最後の一冊を何気なにげなく引つぺがして見ると、本の見返しの空あいた所に、乱暴にも、鉛筆で一杯何か書いてある。

「ヘーゲルの伯林ベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。彼かれの講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化一致せる時、其説く所、云ふ所は、講義の為めの講義にあらずして、道の為めの講義となる。哲学の講義は茲〔ここ〕に至つて始めて聞くべし。徒らに真を舌頭に転ずるものは、死したる墨を以て、死したる紙の上に、空しき筆記を残すに過ぎず。何の意義かこれあらん。……余今試験の為め、即ち麺麭ぱんの為めに、恨を呑み涙を呑んで此書を読む。岑々しんしんたる頭かしらを抑へて未来永劫に試験制度を呪咀する事を記憶せよ」

とある。署名は無論ない。三四郎は覚えず微笑した。けれども何所どこか啓発された様な気がした。哲学ばかりぢやない、文学も此通りだらうと考へながら、頁ページをはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」余程ヘーゲルの好きな男と見える。

「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方より伯林ベルリンに集まれる学生は、此講義を衣食の資に利用せんとの野心を以て集まれるにあらず。唯哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝ふると聞いて、向上求道ぐどうの念に切なるがため、壇下だんかに、わが不穏ふおん底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現に外ほかならず。此故に彼等はヘーゲルを聞いて、彼等の未来を決定けつじようし得たり。自己の運命を改造し得たり。のつぺらぽうに講義を聴きいて、のつぺらぽうに卒業し去る公等〔こうら〕日本の大学生と同じ事と思ふは、天下の己惚〔うぬぼれ〕なり。公等らはタイプ、ライターに過ぎず。しかも慾張つたるタイプ、ライターなり。公等のなす所、思ふ所、云ふ所、遂に切実なる社会の活気運に関せず。死に至る迄のつぺらぽうなるかな。死に至る迄のつぺらぽうなるかな」

と、のつぺらぽうを二遍繰返くりかへしてゐる。三四郎は黙然として考へ込んでゐた。すると、後うしろから一寸ちよいと肩を叩いたものがある。例の与次郎であつた。与次郎を図書館で見掛けるのは珍めづらしい。彼は講義は駄目だが、図書館は大切だと主張する男である。けれども主張通りに這入る事も少ない男である。

「おい、野々宮宗八さんが、君を探さがしてゐた」と云ふ。与次郎が野々宮君を知らうとは思ひがけなかつたから、念の為め理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんと云ふ答を得た。早速本を置いて入口いりぐちの新聞を閲覧する所迄出て行つたが、野々宮君が居ない。玄関迄出て見たが矢っ張り居ない。石階いしだんを下おりて、首を延のばして其辺そのへんを見廻したが影かげも形かたちも見えない。已を得ず引き返した。元の席へ来て見ると、与次郎が、例のヘーゲル論を指さして、小さな声で、

「大分振ふるつてる。昔しの卒業生に違ない。昔むかしの奴やつは乱暴だが、どこか面白い所がある。実際此通りだ」とにや〱してゐる。大分気に入つたらしい。三四郎は

「野々宮さんは居らんぜ」と云ふ。

「先刻さつき入口いりくちに居たがな」

「何か用がある様だつたか」

「ある様でもあつた」

二人ふたりは一所に図書館を出た。其時与次郎が話した。――野々宮君は自分の寄寓してゐる広田先生の、元もとの弟子でしでよく来くる。大変な学問好きで、研究も大分ある。其道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知つてゐる。

三四郎は又、野々宮君の先生で、昔むかし正門内で馬に苦しめられた人の話はなしを思ひ出して、或はそれが広田先生ではなからうかと考へ出した。与次郎に其事を話はなすと、与次郎は、ことによると、家うちの先生だ、そんな事を遣りかねない人だと云つて笑つてゐた。

三の七

其翌日よくじつは丁度日曜なので、学校では野々宮君に逢あふ訳わけに行かない。然し昨日きのふ自分を探してゐた事が気掛きがゝりになる。幸ひまだ新宅を訪問した事がないから、此方こつちから行つて用事を聞いて来き様と云ふ気になつた。

思ひ立つたのは朝あさであつたが、新聞を読んで愚図々々してゐるうちに午ひるになる。午飯ひるを食たべたから、出掛様とすると、久し振に熊本出での友人が来くる。漸くそれを帰したのは彼是かれこれ四時過ぎである。ちと遅おそくなつたが、予定の通り出た。

野々宮の家いへは頗る遠い。四五日前大久保へ越した。然し電車を利用すれば、すぐに行かれる。何でも停車場の近辺と聞いてゐるから、探さがすに不便はない。実を云ふと三四郎はかの平野家行ひらのやゆき以来飛んだ失敗をしてゐる。神田の高等商業学校へ行く積りで、本郷四丁目から乗つた所が、乗り越して九段迄来て、序でに飯田橋迄持つて行かれて、其所そこで漸く外濠線へ乗り換へて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸がしを数寄屋橋の方へ向いて急いで行つた事がある。それより以来電車は兎角〔とかく〕物騒な感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗つた。

大久保の停車場を下りて、仲なか百人の通りを戸山学校の方へ行かずに、踏切りからすぐ横へ折れると、ほとんど三尺許りの細い路みちになる。それを爪先上つまさきあがりにだら〱と上のぼると、疎まばらな孟宗藪やぶがある。其藪やぶの手前と先さきに一軒づゝ人が住んでゐる。野々宮の家いへは其手前の分であつた。小ちいさな門もんが路みちの向むきに丸で関係のない様な位置に筋違すぢかひに立つてゐた。這入ると、家うちが又見当違ちがひの所にあつた。門も入口いりくちも全く後あとから付つけたものらしい。

台所の傍わきに立派な生垣いけがきがあつて、庭の方には却つて仕切りも何にもない。只大きな萩が人の脊せいより高く延びて、座敷の縁側を少し隠してゐる許である。野々宮君は此縁側に椅子を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋の雑誌を読んでゐた。三四郎の這入つて来たのを見て、

「此方こつちへ」と云つた。丸で理科大学の穴倉の中なかと同じ挨拶である。庭から這入るべきのか、玄関から廻るべきのか、三四郎は少しく蹰躇〔ちゅうちょ〕してゐた。すると又

「此方こつちへ」と催促するので、思ひ切つて庭から上あがる事にした。座敷は即ち書斎で、広さは八畳で、割合に西洋の書物が沢山ある。野々宮君は椅子を離れて坐つた。三四郎は、閑静な所だとか、割合に御茶の水迄早く出られるとか、望遠鏡の試験はどうなりましたとか、――締りのない当座の話をやつたあと、

「昨日きのふ私わたくしを探さがして御出おいでだつたさうですが、何か御用ですか」と聞いた。すると野々宮君は、少し気の毒さうな顔をして、

「何なに実は何でもないですよ」と云つた。三四郎はたゞ「はあ」と云つた。

「それでわざ〱来きて呉くれたんですか」

「なに、さう云ふ訳わけでもありません」

「実は御国の御母おつかさんがね、悴せがれが色々御世話になるからと云つて、結構なものを送つて下くださつたから、一寸ちよつとあなたにも御礼を云はうと思つて……」

「はあ、さうですか。何か送つて来きましたか」

「えゝ赤い魚さかなの粕漬かすづけなんですがね」

「ぢやひめいちでせう」

三四郎は詰つまらんものを送つたものだと思つた。しかし野々宮君はかのひめいちに就いて色々な事を質問した。三四郎は特とくに食くふ時の心得を説明した。粕共かすごと焼いて、いざ皿へ写すと云ふ時に、粕かすを取らないと味あぢが抜けると云つて教へてやつた。

二人ふたりがひめいちに就て問答をしてゐるうちに、日が暮れた。三四郎はもう帰らうと思つて挨拶をしかける所へ、どこからか電報が来きた。野々宮君は封を切つて、電報を読んだが、口くちのうちで、「困つたな」と云つた。

三の八

三四郎は澄すましてゐる訳にも行かず、と云つて無暗に立入たちいつた事を聞く気にもならなかつたので、たゞ、

「何か出来ましたか」と棒の様に聞いた。すると野々宮君は、

「なに大した事でもないのです」と云つて、手に持つた電報を、三四郎に見せて呉れた。すぐ来きてくれとある。

「何所どこかへ御出おいでになるのですか」

「えゝ、妹が此間から病気をして、大学の病院に這入つてゐるんですが、其奴そいつがすぐ来てくれと云ふんです」と一向騒ぐ気色もない。三四郎の方は却つて驚ろいた。野々宮君の妹と、妹の病気と、大学の病院を一所に纏まとめて、それに池の周囲まはりで逢あつた女を加へて、それを一いちどきに掻かき廻まはして、驚ろいてゐる。

「ぢや余程御悪わるいんですな」

「なに左様さうぢやないんでせう。実は母が看病に行つてるんですが、――もし病気の為ためなら、電車へ乗のつて馳かけて来た方が早い訳わけですからね。――なに妹の悪戯いたづらでせう。馬鹿だから、よくこんな真似をします。此所こゝへ越こしてからまだ一遍ぺんも行いかないものだから、今日けふの日曜には来くると思つて待つてゞもゐたのでせう、それで」と云つて首くびを横に曲まげて考へた。

「然し御出おいでになつた方が可いいでせう。もし悪わるいと不可いけません」

「左様さやう。四五日行かないうちにさう急に変る訳もなささうですが、まあ行つて見るか」

「御出おいでになるに若しくはないでせう」

野々宮は行く事にした。行くと極きめたに就ては、三四郎に依頼たのみがあると云ひ出した。万一病気の為めの電報とすると、今夜は帰れない。すると留守が下女一人ひとりになる。下女が非常に臆病で、近所が殊の外物騒である。来合せたのが丁度幸だから、明日あすの課業に差支がなければ泊とまつて呉れまいか、尤も只たゞの電報ならば直すぐ帰つてくる。前から分わかつてゐれば、例の佐々木でも頼たのむ筈だつたが、今からではとても間に合はない。たつた一晩ひとばんの事ではあるし、病院へ泊とまるか、泊とまらないか、まだ分わからない先さきから、関係もない人に、迷惑を掛けるのは我儘過ぎて、強ひてとは云ひかねるが、――無論野々宮はかう流暢には頼まなかつたが、相手の三四郎が、さう流暢に頼まれる必要のない男だから、すぐ承知して仕舞つた。

下女が御飯はと云ふのを、「食くはない」と云つた儘、三四郎に「失敬だが、君一人ひとりで、後あとで食くつて下ください」と夕食ゆふめし迄置き去りにして、出て行つた。行つたと思つたら暗くらい萩はぎの間から大きな声を出して、

「僕の書斎にある本は何でも読んで可いいです。別に面白いものもないが、何か御覧なさい。小説も少しはある」

と云つた儘消えてなくなつた。縁側迄見送つて三四郎が礼を述べた時は、三坪程な孟宗藪の竹が、疎まばらな丈に一本宛まだ見えた。

間まもなく三四郎は八畳敷の書斎の真中まんなかで小さい膳を控へて、晩食ばんめしを食つた。膳の上を見ると、主人の言葉に違たがはず、かのひめいちが附ついてゐる。久し振で故郷ふるさとの香にほひを嗅かいだ様で嬉しかつたが、飯めしは其割に旨うまくなかつた。御給仕に出た下女の顔を見ると、是も主人の言つた通り、臆病に出来た眼鼻であつた。

三の九

飯めしが済むと下女は台所へ下さがる。三四郎は一人ひとりになる。一人ひとりになつて落ち付くと、野々宮君の妹の事が急に心配になつて来きた。危篤な様な気がする。野々宮君の馳け付つけ方が遅おそい様な気がする。さうして妹が此間見た女の様な気がして堪らない。三四郎はもう一遍いつぺん、女の顔付かほつきと眼付めつきと、服ふく装とを、あの時あの儘に、繰り返して、それを病院の寝台の上に乗せて、其傍そばに野々宮君を立たして、二三の会話をさせたが、兄あにでは物足らないので、何時いつの間まにか、自分が代理になつて、色々親切に介抱してゐた。所へ汽車が轟と鳴つて孟宗藪のすぐ下したを通つた。根太ねだの具合か、土質どしつの所為せゐか座敷が少し震ふるへる様である。

三四郎は看病をやめて、座敷を見廻した。いか様さま古ふるい建物たてものと思はれて、柱はしらに寂さびがある。其代り唐紙からかみの立附たてつけが悪い。天井は真黒だ。洋燈許らんぷばかりが当世に光ひかつてゐる。野々宮君の様な新式な学者が、物数奇〔ものずき〕にこんな家うちを借かりて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格である。物数奇ならば当人の随意だが、もし必要に逼せまられて、郊外に自みづからを放逐したとすると、甚だ気の毒である。聞く所によると、あれ丈の学者で、月にたつた五十五円しか、大学から貰つてゐないさうだ。だから已を得ず私立学校へ教へに行くのだらう。それで妹に入院されては堪たまるまい。大久保へ越したのも、或はそんな経済上の都合かも知れない。……

宵よひの口ではあるが、場所が場所丈にしんとしてゐる。庭の先さきで虫の音ねがする。独りで坐すはつてゐると、淋さみしい秋の初はじめである。其時遠い所で誰だれか、

「あゝあゝ、もう少すこしの間だ」

と云ふ声がした。方角は家いへの裏手うらての様にも思へるが、遠いので確しつかりとは分わからなかつた。また方角を聞き分わける暇ひまもないうちに済すんで仕舞つた。けれども三四郎の耳には明あきらかに、此一句が、凡てに捨てられた人の、凡すべてから返事を予期しない、真実の独白と聞えた。三四郎は気味が悪わるくなつた。所へ又汽車が遠くから響ひゞいて来た。其音おとが次第に近付いて孟宗藪の下したを通るときには、前の列車より倍ばいも高たかい音おとを立てゝ過すぎ去つた。座敷の微震がやむ迄は茫然としてゐた三四郎は、石火の如く、先刻さつきの嘆声と今の列車の響とを、一種の因果で結び付けた。さうして、ぎくんと飛び上がつた。其因果は恐るべきものである。

三四郎は此時、凝じつと座に着いてゐる事の極めて困難なのを発見した。脊筋から足の裏迄が疑惧ぎくの刺激でむづ〱する。立つて便所に行つた。窓から外そとを覗くと、一面の星月夜で、土手下したの汽車道は死んだ様に静かである。それでも竹格子の間あひだから鼻を出す位にして、暗くらい所を眺めてゐた。

すると停車場の方から提燈を点つけた男が鉄軌レールの上を伝つたつて此方こつちへ来る。話はなし声で判はんじると三四人らしい。提燈の影は踏切りから土手下どてしたへ隠れて、孟宗藪の下したを通る時は、話し声丈になつた。けれども、其言葉は手に取る様に聞えた。

「もう少し先さきだ」

足音あしおとは向ふへ遠退〔とおの〕いて行く。三四郎は庭先にはさきへ廻つて下駄を突掛つゝかけた儘孟宗藪の所から、一間余の土手を這ひ下りて、提燈のあとを追掛おつかけて行つた。

三の十

五六間行くか行かないうちに、又一人ひとり土手から飛び下おりたものがある。――

「轢死ぢやないですか」

三四郎は何か答へやうとしたが一寸ちよつと声が出なかつた。其うち黒い男は行き過ぎた。是は野々宮君の奥に住んでゐる家いへの主人あるじだらうと、後あとを跟つけながら考へた。半町程くると提燈が留とまつてゐる。人ひとも留とまつてゐる。人は灯ひを翳かざした儘黙だまつてゐる。三四郎は無言で灯ひの下したを見た。下したには死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳ちゝの下したを腰こしの上迄美事みごとに引き千切ちぎつて、斜掛はすかけの胴を置き去りにして行つたのである。顔かほは無創むきずである。若い女だ。

三四郎は其時の心持を未いまだに覚えてゐる。すぐ帰らうとして、踵かゝとを回めぐらしかけたが、足がすくんで殆んど動けなかつた。土堤どてを這ひ上あがつて、座敷ざしきへ戻もどつたら、動悸が打ち出した。水みづを貰もらはうと思つて、下女を呼ぶと、下女は幸ひに何にも知らないらしい。しばらくすると、奥おくの家うちで、何だか騒ぎ出だした。三四郎は主人が帰つたんだなと覚さとつた。やがて土手の下したががや〱する。それが済むと又静かになる。殆んど堪え難い程の静かさであつた。

三四郎の眼めの前には、あり〱と先刻さつきの女の顔が見える。其顔と「あゝあゝ……」と云つた力のない声と、其二つの奥に潜んで居るべき筈の無残な運命とを、継つぎ合はして考へて見ると、人生と云ふ丈夫さうな命いのちの根ねが、知らぬ間まに、ゆるんで、何時いつでも暗闇くらやみへ浮うき出して行きさうに思はれる。三四郎は慾も得とくも入〔い〕らない程怖こわかつた。たゞ轟と云ふ一瞬間である。其前そのまへ迄は慥かに生きてゐたに違ない。

三四郎は此時不図汽車で水蜜桃を呉れた男が、危あぶない〱、気を付けないと危あぶない、と云つた事を思ひ出した。危あぶない〱と云ひながら、あの男はいやに落付いて居た。つまり危あぶない〱と云ひ得る程に、自分は危あぶなくない地位に立つてゐれば、あんな男にもなれるだらう。世の中なかにゐて、世の中を傍観してゐる人は此所こゝに面白味があるかも知れない。どうもあの水蜜桃の食ひ具合から、青木堂で茶を呑んでは烟草を吸ひ、烟草を吸つては茶を呑んで、凝じつと正面を見てゐた様子は、正に此種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家と云ふ字を使つて見た。使つて見て自分で旨うまいと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しやうかと迄考へ出した。あの凄い死顔しにがほを見るとこんな気も起る。

三四郎は室へやの隅すみにある洋机テーブルと、洋机テーブルの前にある椅子と、椅子の横にある本箱と、其本箱の中なかに行儀よく並ならべてある洋書を見廻して、此静かな書斎の主人あるじは、あの批評家と同じく無事で幸福であると思つた。――光線の圧力を研究する為ために、女を轢死させる事はあるまい。主人の妹は病気である。けれども兄あにの作つくつた病気ではない。自みづから罹かゝつた病気である。抔〔など〕と夫から夫へと頭あたまが移つて行くうちに、十一時になつた。中野行ゆきの電車はもう来ない。或は病気がわるいので帰らないのかしらと、又心配になる。所へ野々宮から電報が来きた。妹いもと無事ぶじ、明日あす朝あさ帰かへるとあつた。

安心して床とこに這入つたが、三四郎の夢は頗る危険であつた。――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知つて家うちへ帰つて来ない。只三四郎を安心させる為に電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽はりで、今夜こんや轢死のあつた時刻に妹も死んで仕舞つた。さうして其妹は即ち三四郎が池の端はたで逢つた女である。……

三四郎は明日あくるひ例になく早く起きた。

三の十一

寐慣ねつけない所に寐た床とこのあとを眺ながめて、烟草たばこを一本吸のんだが、昨夜ゆふべの事は、凡て夢の様である。縁側へ出でて、低い廂ひさしの外そとにある空そらを仰ぐと、今日けふは好いい天気だ。世界が今朗ほがらかに成つた許りの色をしてゐる。飯めしを済すまして茶を飲のんで、縁側に椅子を持ち出して新聞を読んでゐると、約束通り野々宮君が帰つて来た。

「昨夜ゆふべ、そこに轢死があつたさうですね」と云ふ。停車場か何かで聞いたものらしい。三四郎は自分の経験を残らず話した。

「それは珍めづらしい。滅多に逢へない事だ。僕も家うちに居れば好よかつた。死骸はもう片付けたらうな。行つても見られないだらうな」

「もう駄目でせう」と一口ひとくち答へたが、野々宮君の呑気なのには驚ろいた。三四郎は此無神経を全く夜よると昼ひるの差別から起るものと断定した。光線の圧力を試験する人の性癖が、かう云ふ場合にも、同じ態度であらはれてくるのだとは丸で気が付かなかつた。年が若わかいからだらう。

三四郎は話はなしを転じて、病人の事を尋ねた。野々宮君の返事によると、果して自分の推測通り病人に異状はなかつた。只五六日以来行つてやらなかつたものだから、それを物足りなく思つて、退屈紛まぎれに兄を釣り寄せたのである。今日けふは日曜だのに来きて呉れないのは苛ひどいと云つて怒おこつてゐたさうである。それで野々宮君は妹を馬鹿だと云つてゐる。本当に馬鹿だと思つてゐるらしい。此忙いそがしいものに大切な時間を浪費させるのは愚だと云ふのである。けれども三四郎には其意味が殆んど解わからなかつた。わざ〱電報を掛けて迄逢ひたがる妹なら、日曜の一晩ひとばんや二晩ふたばんを潰つぶしたつて惜しくはない筈である。さう云ふ人ひとに逢あつて過すごす時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をして暮くらす月日つきひは寧ろ人生に遠い閑生涯と云ふべきものである。自分が野々宮君であつたならば、此妹の為めに勉強の妨害をされるのを却つて嬉しく思ふだらう。位に感じたが、其時は轢死の事を忘れてゐた。

野々宮君は昨夜ゆふべよく寐られなかつたものだから茫然ぼんやりして不可いけないと云ひ出した。今日けふは幸ひ午ひるから早稲田の学校へ行く日で、大学の方は休みだから、それ迄寐やうと云つてゐる。「大分遅おそく迄起おきてゐたんですか」と三四郎が聞くと、実は偶然高等学校で教はつた、もとの先生の広田といふ人が妹の見舞に来きて呉れて、みんなで話はなしをしてゐるうちに、電車の時間に後おくれて、つい泊とまる事にした。広田のうちへ泊とまるべきのを、又妹が駄々を捏こねて、是非病院に泊とまれと云つて聞かないから、已を得ず狭せまい所へ寐たら、何だか苦しくつて寐ねつかれなかつた。どうも妹は愚物〔ぐぶつ〕だ。と又妹を攻撃する。三四郎は可笑おかしくなつた。少し妹の為に弁護しやうかと思つたが、何だか言ひ悪にくいので已めにした。

其代り広田さんの事を聞いた。三四郎は広田さんの名前を是で三四遍耳みゝにしてゐる。さうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名を付けてゐる。それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑はれたのも矢張り広田先生にしてある。所が今承つて見ると、馬の件は果して広田先生であつた。それで水蜜桃も必ず同先生に違ちがひないと極きめた。考へると、少し無理の様でもある。

帰るときに、序でだから、午前中に届けて貰ひたいと云つて、袷〔あわせ〕を一枚病院迄頼まれた。三四郎は大いに嬉しかつた。

三の十二

三四郎は新らしい四角な帽子を被かぶつてゐる。此帽子を被かぶつて病院に行けるのが一寸ちよつと得意である。冴々さえ〲しい顔をして野々宮君の家いへを出た。

御茶の水みづで電車を降おりて、すぐ俥くるまに乗つた。いつもの三四郎に似合はぬ所作しよさである。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科の号鐘ベルが鳴り出した。いつもなら手帳のーとと印気いんき壺を以て、八番の教室に這入る時分である。一二時間の講義位聴き損そくなつても構はないと云ふ気で、真直ますぐに青山内科の玄関迄乗り付けた。

上あがり口ぐちを奥へ、二つ目めの角かどを右へ切きれて、突当つきあたりを左へ曲まがると東側ひがしがはの部屋へやだと教つた通り歩あるいて行くと、果してあつた。黒塗の札に野々宮よし子と仮名でかいて、戸口に懸かけてある。三四郎は此名前を読んだ儘、しばらく戸口の所で佇たゞずんでゐた。田舎者いなかものだから敲のつくするなぞと云ふ気の利いた事はやらない。

「此中なかにゐる人が、野々宮君の妹で、よし子と云ふ女である」

三四郎は斯かう思つて立つてゐた。戸を開あけて顔が見度〔みたく〕もあるし、見て失望するのが厭いやでもある。自分の頭あたまの中なかに往来する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似てゐないのだから困る。

後うしろから看護婦が草履の音おとを立てゝ近付ちかづいて来た。三四郎は思ひ切つて戸を半分程開あけた。さうして中なかにゐる女と顔を見合せた。(片手かたてに握りハンドルを把もつた儘)

眼めの大きな、鼻の細い、唇の薄い、鉢はちが開ひらいたと思ふ位に、額ひたひが広くつて顎あごが削こけた女であつた。造作ぞうさくは夫丈それだけである。けれども三四郎は、かう云ふ顔かほだちから出でる、此時にひらめいた咄嗟の表情を生れて始めて見た。蒼白あをじろい額ひたひの後うしろに、自然の儘まゝに垂たれた濃こい髪が、肩迄見える。それへ東窓ひがしまどを洩もれる朝日の光ひかりが、後うしろから射すので、髪かみと日光ひの触ふれ合あふ境さかいの所が菫すみれ色に燃もえて、活いきた暈つきかさを脊負しよつてる。それでゐて、顔かほも額ひたひも甚だ暗くらい。暗くらくて蒼白あをしろい。其中そのなかに遠い心持のする眼めがある。高たかい雲が空そらの奥にゐて容易に動かない。けれども動かずにも居られない。たゞ崩なだれる様に動く。女が三四郎を見た時は、かう云ふ眼付であつた。

三四郎は此表情のうちに嬾ものうい憂鬱と、隠かくさゞる快活との統一を見出した。其統一の感じは三四郎に取つて、最も尊き人生の一片である。さうして一大発見である。三四郎は握りハンドルを把もつた儘、――顔かほを戸の影かげから半分部屋の中なかに差し出した儘、此刹那の感に自己みづからを放下げし去つた。

「御這入りなさい」

女は三四郎を待まち設けた様に云ふ。其調子には初対面の女には見出す事の出来ない、安やすらかな音色ねいろがあつた。純粋の小供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、かうは出られない。馴々なれ〱しいのとは違ふ。初はじめから旧ふるい相識しりあひなのである。同時に女は肉にくの豊ゆたかでない頬ほゝを動かしてにこりと笑つた。蒼白いうちに、なつかしい暖味あたゝかみが出来た。三四郎の足は自然しぜんと部屋の内うちへ這入つた。其時青年の頭あたまの裡うらルビの「うら」はママには遠い故郷ふるさとにある母の影が閃ひらめいた。

三の十三

戸の後うしろへ廻まはつて、始めて正面に向いた時、五十あまりの婦人ふじんが三四郎に挨拶をした。此婦人は三四郎の身体からだがまだ扉とびらの影を出でない前まへから席せきを立たつて待まつてゐたものと見える。

「小川さんですか」と向むかふから尋ねて呉れた。顔は野々宮君に似てゐる。娘にも似てゐる。然したゞ似てゐるといふ丈である。頼まれた風呂敷包を出だすと、受取つて、礼を述べて、

「どうぞ」と云ひながら椅子をすゝめた儘、自分は寝台ベツドの向側むかふがはへ回まはつた。

寝台ベツドの上に敷しいた蒲団を見ると真白まつしろである。上うへへ掛けるものも真白まつしろである。それを半分はんぶ程斜はすに捲はぐつて、裾すその方が厚あつく見える所を、避よける様に、女は窓を背せにして腰を掛けた。足は床ゆかに届かない。手に編針あみばりを持つてゐる。毛糸けいとのたまが寝台の下したに転ころがつた。女の手から長い赤い糸が筋すぢを引いてゐる。三四郎は寝台の下したから毛糸のたまを取り出してやらうかと思つた。けれども、女が毛糸には丸で無頓着でゐるので控ひかへた。

御母おつかさんが向側から、しきりに昨夜ゆふべの礼を述べる。御忙いそがしい所を抔と云ふ。三四郎は、いゝえ、どうせ遊あそんでゐますからと云ふ。二人ふたりが話をしてゐる間あひだ、よし子は黙だまつてゐた。二人ふたりの話はなしが切れた時、突然、

「昨夜ゆふべの轢死を御覧になつて」と聞いた。見ると部屋の隅すみに新聞がある。三四郎が、

「えゝ」と云ふ。

「怖こわかつたでせう」と云ひながら、少し首を横に曲げて、三四郎を見た。兄あにに似て頸くびの長い女である。三四郎は怖こわいとも怖こわくないとも答へずに、女の頸くびの曲まがり具合を眺めてゐた。半分は質問があまり単純なので、答へに窮したのである。半分は答へるのを忘れたのである。女は気が付いたと見えて、すぐ頸くびを真直まつすぐにした。さうして蒼白い頬ほゝの奥を少し紅あかくした。三四郎はもう帰るべき時間だと考へた。

挨拶をして、部屋を出て、玄関正面へ来きて、向を見ると、長い廊下の果はづれが四角しかくに切れて、ぱつと明あかるく、表おもての緑みどりが映うつる上あがり口ぐちに、池の女が立つてゐる。はつと驚ろいた三四郎の足は、早速さそくの歩調に狂くるひが出来た。其時透明な空気の画布カンヷスの中なかに暗くらく描ゑがかれた女の影かげは一歩ひとあし前へ動うごいた。三四郎も誘さそはれた様に前へ動いた。二人ふたりは一筋道すぢみちの廊下の何所どこかで擦すれ違ちがはねばならぬ運命を以て互ひに近付いて来きた。すると女が振ふり返つた。明あかるい表おもての空気のなかには、初秋あきの緑みどりが浮いてゐる許ばかりである。振り返つた女の眼めに応じて、四角のなかに、現あらはれたものもなければ、これを待ち受けてゐたものもない。三四郎は其間に女の姿勢と服装を頭あたまのなかへ入れた。

着物の色は何と云ふ名か分らない。大学の池の水へ、曇つた常磐木〔ときわぎ〕の影が映うつる時の様である。それを鮮あざやかな縞しまが、上から下へ貫ぬいてゐる。さうして其縞が貫つらぬきながら波を打つて、互に寄つたり離れたり、重かさなつて太ふとくなつたり、割れて二筋ふたすぢになつたりする。不規則だけれども乱れない上から三分一の所を、広い帯で横に仕切つた。帯の感じには暖味あたゝかみがある。黄を含んでゐるためだらう。

後うしろを振り向いた時、右の肩が、後あとへ引けて、左の手が腰こしに添そつた儘前へ出た。手帛はんけちを持つてゐる。其手帛はんけちの指ゆびに余つた所が、さらりと開ひらいてゐる。絹きぬの為ためだらう。――腰から下したは正しい姿勢にある。

三の十四

女はやがて元の通りに向き直つた。眼めを伏ふせて二足許ふたあしばかり三四郎に近付いた時、突然首くびを少し後うしろに引いて、まともに男を見た。二重瞼ふたへまぶちの切きれ長の落付いた恰好である。目立めだつて黒い眉毛まゆげの下したに活いきてゐる。同時に奇麗な歯があらはれた。此歯と此顔色かほいろとは三四郎に取つて忘るべからざる対照であつた。

今日けふは白いものを薄く塗ぬつてゐる。けれども本来の地ぢを隠かくす程に無趣味ではなかつた。濃こまやかな肉にくが、程よく色づいて、強つおい日光ひに負めげない様に見える上を、極めて薄く粉が吹いてゐる。てら〱照ひかる顔ではない。

肉は頬ほゝと云はず顎あごと云はずきちりと締しまつてゐる。骨ほねの上に余つたものは沢山たんとない位である。それでゐて、顔全体が柔やわらかい。肉が柔らかいのではない、骨ほねそのものが柔らかい様に思はれる。奥行おくゆきの長い感じを起させる顔である。

女は腰こしを曲かゞめた。三四郎は知らぬ人に礼をされて驚ろいたと云ふよりも、寧ろ礼の仕方しかたの巧みなのに驚ろいた。腰から上うへが、風に乗る紙の様にふわりと前に落ちた。しかも早い。それで、ある角度迄来て苦もなく確然はつきりと留とまつた。無論習つて覚えたものではない。

「一寸ちよつと伺ひますが……」と云ふ声が白い歯の間から出た。きりゝとしてゐる。然し鷹揚である。たゞ夏なつのさかりに椎しいの実みが生なつてゐるかと人に聞ききさうには思はれなかつた。三四郎はそんな事に気のつく余裕はない。

「はあ」と云つて立ち留どまつた。

「十五号室はどの辺へんになりませう」

十五号は三四郎が今出て来た室へやである。

「野々宮さんの室へやですか」

今度は女の方が「はあ」と云ふ。

「野々宮さんの部屋はね、其角かどを曲まがつて突つき当あたつて、又左へ曲まがつて、二番目の右側みぎがはです」

「其角そのかどを……」と云ひながら女は細い指ゆびを前へ出した。

「えゝ、つい其先さきの角かどです」

「どうも難有〔ありがと〕う」

女は行き過ぎた。三四郎は立つたまゝ、女の後姿うしろすがたを見守つてゐる。女は角かどへ来きた。曲まがらうとする途端に振り返つた。三四郎は赤面する許りに狼狽した。女はにこりと笑つて、此角このかどですかと云ふ様な相図を顔でした。三四郎は思はず首肯うなづいた。女の影は右へ切れて白い壁の中なかへ隠れた。

三四郎はぶらりと玄関を出た。医科大学生と間違へて室へやの番号を聞いたのかしらんと思つて、五六歩あるいたが、急に気が付いた。女に十五号を聞かれた時、もう一辺ぺんよし子の室へやへ後戻あともどりをして、案内すればよかつた。残念な事をした。

三四郎は今更取つて帰かへす勇気は出でなかつた。已を得ず又五六歩あるいたが、今度はぴたりと留とまつた。三四郎の頭あたまの中なかに、女の結むすんでゐたリボンの色が映うつつた。其リボンの色も質も、慥たしかに野々宮君が兼安で買つたものと同じであると考へ出した時、三四郎は急に足が重くなつた。図書館の横をのたくる様に正門の方へ出ると、どこから来たか与次郎が突然声を掛けた。

「おい何故なぜ休やすんだ。今日けふは以太利〔イタリー〕人がマカロニーを如何にして食ふかと云ふ講義を聞いた」と云ひながら、傍そばへ寄よつて来て三四郎の肩を叩いた。

二人ふたりは少し一所にあるいた。正門の傍そばへ来きた時、三四郎は、

「君、今頃でも薄いリボンを掛けるものかな。あれは極暑に限るんぢやないか」と聞いた。与次郎はアハヽヽと笑つて、

「○○教授に聞くがいゝ。何でも知つてる男だから」と云つて取り合はなかつた。

正門の所で三四郎は具合が悪いから今日けふは学校を休むと云ひ出した。与次郎は一所に跟ついて来きて損そんをしたと云はぬ許りに教室の方へ帰つて行つた。

四の一

三四郎の魂たましいがふわつき出した。講義を聞いてゐると、遠方に聞きこえる。わるくすると肝要な事を書き落す。甚しい時は他人ひとの耳みゝを損料で借りてゐる様な気がする。三四郎は馬鹿々々しくつて堪たまらない。仕方なしに、与次郎に向つて、どうも近頃は講義が面白くないと言ひ出した。与次郎の答はいつも同じ事であつた。――

「講義が面白い訳がない。君は田舎者いなかものだから、今に偉えらい事になると思つて、今日迄辛防して聞いてゐたんだらう。愚の至りだ。彼等の講義は開闢かいびやく以来こんなものだ。今更失望したつて仕方がないや」

「さう云ふ訳わけでもないが……」と三四郎は弁解する。与次郎のへら〱調と、三四郎の重苦おもくるしい口くちの利き様が、不釣合で甚だ可笑おかしい。

かう云ふ問答を二三度繰り返してゐるうちに、いつの間にか半月許り経過たつた。三四郎の耳は漸々ぜんぜん借かりものでない様になつて来た。すると今度は与次郎の方から、三四郎に向つて、

「どうも妙な顔だな。如何にも生活に疲れてゐる様な顔だ。世紀末まつの顔だ」と批評し出だした。三四郎は、此批評に対しても依然として、

「さう云ふ訳でもないが……」を繰り返してゐた。三四郎は世紀末まつ抔と云ふ言葉を聞いて嬉うれしがる程に、まだ人工的の空気に触れてゐなかつた。またこれを興味ある玩具おもちやとして使用し得る程に、ある社会の消息に通じてゐなかつた。たゞ生活に疲れてゐるといふ句が少し気に入つた。成程疲れ出した様でもある。三四郎は下痢の為め許りとは思はなかつた。けれども大いに疲れた顔かほを標榜するほど、人生観のハイカラでもなかつた。それで此会話はそれぎり発展しずに済んだ。

そのうち秋は高くなる。食慾は進む。二十三の青年が到底人生に疲つかれてゐる事が出来ない時節が来た。三四郎は能よく出でる。大学の池の周囲まはりも大分だいぶん廻まはつて見たが、別段の変へんもない。病院の前も何遍なんべんとなく往復したが普通の人間に逢ふ許ばかりである。又理科大学の穴倉へ行つて野々宮君に聞いて見たら、妹はもう病院を出たと云ふ。玄関で逢つた女の事を話さうと思つたが、先方さきが忙いそがしさうなので、つい遠慮して已めて仕舞つた。今度大久保へ行つて緩ゆつくり話せば、名前も素性も大抵は解わかる事だから、焦せかずに引き取つた。さうして、ふわ〱して諸方ほう〲歩あるいてゐる。田端たばただの、道灌山だの、染井の墓地だの、巣鴨の監獄だの、護国寺だの、――三四郎は新井あらゐの薬師やくし迄も行つた。新井の薬師の帰りに、大久保へ出て、野々宮君の家うちへ廻まはらうと思つたら、落合おちあひの火葬場やきばの辺へんで途みちを間違へて、高田へ出たので、目白から汽車へ乗つて帰つた。汽車の中なかで見舞みやげに買つた栗くりを一人ひとりで散々さん〲食つた。其余あまりは翌日あくるひ与次郎が来きて、みんな平げた。

三四郎はふわ〱すればする程愉快になつて来きた。初めのうちは余あまり講義に念を入れ過すぎたので、耳が遠くなつて筆記に困つたが、近頃は大抵に聴いてゐるから何ともない。講義中に色々な事を考へる。少し位落おとしても惜おしい気も起らない。よく観察して見ると与次郎始めみんな同じ事である。三四郎は此位で好いいものだらうと思ひ出した。

三四郎が色々考へるうちに、時々とき〲例のリボンが出て来る。さうすると気掛きがゝりになる。甚だ不愉快になる。すぐ大久保へ出掛けて見たくなる。然し想像の連鎖やら、外界の刺激やらで、しばらくすると紛まぎれて仕舞ふ。だから大体は呑気である。それで夢を見てゐる。大久保へは中々行かない。

四の二

ある日の午後三四郎は例の如くぶら付いて、団子坂の上から、左へ折れて千駄木林町の広い通りへ出た。秋晴と云つて、此頃は東京の空そらも田舎いなかの様に深く見える。かう云ふ空そらの下したに生いきてゐると思ふ丈でも頭あたまは明確はつきりする。其上そのうへ野へ出でれば申し分はない。気が暢のび〱して魂たましいが大空おほそら程の大おほきさになる。それで居て身体からだ惣体が緊しまつて来くる。だらしのない春の長閑のどかさとは違ふ。三四郎は左右の生垣いけがきを眺めながら、生うまれて始めての東京の秋を嗅かぎつゝ遣つて来た。

坂下さかしたでは菊人形が二三日前開業したばかりである。坂を曲まがる時は幟のぼりさへ見えた。今はたゞ声丈聞える。どんちやん〱遠くから囃はやしてゐる。其囃はやしの音おとが、下したの方から次第に浮き上がつて来きて、澄み切つた秋の空気のなかへ広ひろがり尽つくすと、遂には極めて稀薄な波になる。其又余波が三四郎の鼓膜の傍そば迄来きて自然に留とまる。騒がしいといふよりは却つて好いい心持である。

時に突然左りの横町から二人ふたりあらはれた。その一人ひとりが三四郎を見て、「おい」と云ふ。

与次郎の声は今日けふに限つて、几帳面である。其代かはり連つれがある。三四郎は其連つれを見たとき、果して日頃の推察通り、青木堂で茶を飲んでゐた人が、広田さんであると云ふ事を悟つた。此人とは水蜜桃以来妙な関係がある。ことに青木堂で茶を飲んで烟草を呑んで、自分を図書館に走らしてよりこのかた、一層よく記憶に染しみてゐる。いつ見ても神主の様な顔に西洋人の鼻を付けてゐる。今日けふも此間の夏服なつふくで、別段寒さむさうな様子もない。

三四郎は何とか云つて、挨拶をしやうと思つたが、あまり時間が経たつてゐるので、どう口くちを利きいていゝか分わからない。たゞ帽子を取つて礼をした。与次郎に対しては、あまり丁寧過ぎる。広田に対しては、少し簡略すぎる。三四郎は何方どつち付かずの中間に出でた。すると与次郎が、すぐ、

「此男は私わたしの同級生です。熊本の高等学校から始めて東京へ出でて来た――」と聴かれもしない先さきから田舎ものを吹聴して置いて、それから三四郎の方を向いて、

「是が広田先生。高等学校の……」と訳わけもなく双方を紹介して仕舞つた。

此時広田先生は「知つてる、〱」と二返繰り返して云つたので、与次郎は妙な顔をしてゐる。然し、何故なぜ知つてるんですか抔と面倒な事は聞かなかつた。たゞちに、

「君、此辺に貸家かしやはないか。広くて、奇麗な、書生部屋のある」と尋ねだした。

「貸家かしやはと……ある」

「どの辺だ。汚きたなくつちや不可いけないぜ」

「いや奇麗なのがある。大きな石の門が立つてゐるのがある」

「そりや旨うまい。どこだ。先生、石の門は可いいですな。是非それに仕様ぢやありませんか」と与次郎は大いに進んでゐる。

「石の門は不可いかん」と先生が云ふ。

「不可いかん? そりや困こまる。何故なぜ不可いかんです」

「何故なぜでも不可いかん」

「石の門は可いいがな。新らしい男爵の様で可いいぢやないですか、先生」

与次郎は真面目まじめである。広田先生はにや〱笑つてゐる。とう〱真面目まじめの方が勝かつて、兎も角も見る事に相談が出来て、三四郎が案内をした。

四の三

横よこ町を後あとへ引き返かへして、裏通りへ出ると、半町ばかり北へ来きた所に、突き当りと思はれる様な小路がある。其小路こうぢの中へ三四郎は二人ふたりを連つれ込んだ。真直まつすぐに行くと植木屋の庭へ出て仕舞ふ。三人は入口いりぐちの五六間手前で留つた。右手みぎてに可なり大きな御影の柱が二本立つてゐる。扉とびらは鉄である。三四郎が是これだと云ふ。成程貸家札かしやふだが付いてゐる。

「こりや恐おそろしいもんだ」と云ひながら、与次郎は鉄の扉とびらをうんと推おしたが、錠が卸りてゐる。「一寸ちよつと御待ちなさい聞いてくる」と云ふや否や、与次郎は植木屋の奥の方へ馳け込んで行つた。広田と三四郎は取り残された様なものである。二人ふたりで話を始めた。

「東京は如何どうです」

「えゝ……」

「広ひろい許ばかりで汚きたない所でせう」

「えゝ……」

「富士山に比較する様なものは何なんにもないでせう」

三四郎は富士山の事を丸で忘れてゐた。広田先生の注意によつて、汽車の窓から始めて眺ながめた富士は、考へ出すと、成程崇高なものである。たゞ今自分の頭あたまの中なかにごた〱してゐる世相とは、とても比較にならない。三四郎はあの時の印象を何時いつの間まにか取り落してゐたのを恥はづかしく思つた。すると、

「君、不二山を翻訳ほんやくして見た事がありますか」と意外な質問を放はなたれた。

「翻訳とは……」

「自然を翻訳すると、みんな人間にんげんに化ばけて仕舞ふから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」

三四郎は翻訳の意味を了した。

「みんな人格上の言葉ことばになる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩ものには、自然が毫も人格上の感化を与へてゐない」

三四郎はまだあとが有あるかと思つて、黙だまつて聞いてゐた。所が広田さんは夫それで已めて仕舞つた。植木屋の奥の方を覗いて、

「佐々木は何なにをしてゐるのか知ら。遅おそいな」と独り言ごとの様に云ふ。

「見て来きませうか」と三四郎が聞いた。

「なに、見に行いつたつて、それで出でて来くる様な男ぢやない。それより此所こゝに待つてる方が手間てまが掛かゝらないでいゝ」と云つて枳殻からたちの垣根の下したに跼しやがんで、小石を拾つて、土つちの上へ何か描かき出した。呑気な事である。与次郎の呑気とは方角が反対で、程度が略ほゞ相似てゐる。

所へ植込の松の向から、与次郎が大きな声を出した。

「先生々々」

先生は依然として、何か描かいてゐる。どうも燈明台の様である。返事をしないので、与次郎は仕方なしに出でて来た。

「先生一寸ちよつと見て御覧なさい。好いい家うちだ。この植木屋で持つてるんです。門もんを開あけさせても好いいが、裏から廻まはつた方が早い」

三人は裏から廻つた。雨戸を明あけて、一間ひとま々々見て歩あるいた。中流の人が住んで恥づかしくない様に出来てゐる。家賃が四十円で、敷金が三ヶ月分だと云ふ。三人はまた表へ出た。

「何なんで、あんな立派な家うちを見るのだ」と広田さんが云ふ。

「何なんで見るつて、たゞ見る丈だから好いいぢやありませんか」と与次郎は云ふ。

「借りもしないのに……」

「なに借りる積で居たんです。所が家賃をどうしても弐十五円にしやうと云はない……」

広田先生は「当り前さ」と云つた限ぎりである。すると与次郎が石の門の歴史を話し出だした。此間このあひだ迄ある出入りの屋敷の入口いりぐちにあつたのを、改築のとき貰もらつて来て、直すぐあすこへ立てたのだと云ふ。与次郎丈に妙な事を研究して来た。

四の四

それから三人は元もとの大通りへ出て、動坂から田端たばたの谷たにへ下おりたが、下おりた時分には三人ともただ歩あるいてゐる。貸家かしやの事はみんな忘れて仕舞つた。ひとり与次郎が時々とき〲石の門の事を云ふ。麹町からあれを千駄木迄引いてくるのに、手間が五円程かゝつた抔と云ふ。あの植木屋は大分金持らしい抔とも云ふ。あすこへ四十円の貸家かしやを建てゝ、全体誰だれが借かりるだらう抔と余計なこと迄云ふ。遂には、今に借手かりてがなくつて屹度家賃やちんを下さげるに違ちがひないから、其時もう一遍談判して是非借りやうぢやありませんかと云ふ結論であつた。広田先生は別に、さういふ料簡もないと見えて、かう云つた。

「君が、あんまり余計な話ばかりしてゐるものだから、時間が掛かゝつて仕方がない。好加減いゝかげんにして出て来くるものだ」

「余程長くかゝりましたか。何なにか画ゑをかいてゐましたね。先生も随分呑気だな」

「何方どつちが呑気か分わかりやしない」

「ありや何の画ゑです」

先生は黙だまつてゐる。其時三四郎が真面目まじめな顔をして、

「燈台ぢやないですか」と聞いた。画手かきてと与次郎は笑ひ出した。

「燈台は奇抜だな。ぢや野々宮宗八さんを画かいて入〔い〕らしつたんですね」

「何故なぜ」

「野々宮さんは外国ぢや光ひかつてるが、日本ぢや真暗まつくらだから。――誰だれも丸で知らない。それで僅ばかりの月給を貰つて、穴倉へ立籠つて――、実に割に合はない商買だ。野々宮さんの顔を見る度に気の毒になつて堪たまらない」

「君なぞは自分の坐すはつてゐる周囲方二尺位の所をぼんやり照らす丈だから、丸行燈の様なものだ」

丸行燈に比較された与次郎は、突然三四郎の方を向いて、

「小川君、君きみは明治何年生れかな」と聞いた。三四郎は単簡に、

「僕は二十三だ」と答へた。

「そんなものだらう。――先生僕は丸行燈だの、雁首がんくびだのつて云ふものが、どうも嫌きらひですがね。明治十五年以後に生れた所為せゐかも知れないが、何だか旧式で厭いやな心持がする。君はどうだ」と又三四郎の方を向く。三四郎は、

「僕は別段嫌でもない」と云つた。

「尤も君は九州の田舎いなかから出た許ばかりだから、明治元年位の頭あたまと同じなんだらう」

三四郎も広田も是に対して別段の挨拶をしなかつた。少し行くと古ふるい寺の隣となりの杉林ばやしを切り倒して、奇麗に地平ぢならしをした上に、青ペンキ塗の西洋館を建てゝゐる。広田先生は寺とペンキ塗を等分に見てゐた。

「時代錯誤アナクロニズムだ。日本の物質界も精神界も此通りだ。君、九段の燈明台を知つてゐるだらう」と又燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図絵に出てゐる」

「先生冗談云つちや不可いけません。なんぼ九段の燈明台が旧ふるいたつて、江戸名所図絵に出ちや大変だ」

広田先生は笑ひ出した。実は東京名所と云ふ錦絵の間違だと云ふ事が解わかつた。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残つてゐる傍そばに、階行社と云ふ新式の錬瓦作りが出来た。二つ並ならべて見ると実に馬鹿気てゐる。けれども誰も気が付かない、平気でゐる。是が日本の社会を代表してゐるんだと云ふ。

与次郎も三四郎も成程と云つた儘、御寺おてらの前を通り越こして、五六町来くると、大きな黒い門がある。与次郎が、此所こゝを抜けて道灌山へ出様と云ひ出した。抜けても可いいのかと念を押すと、なに是は佐竹の下しも屋敷で、誰でも通れるんだから構はないと主張するので、二人共其気になつて門を潜くゞつて、藪やぶの下を通つて古ふるい池の傍そば迄来ると、番人が出て来て、大変に三人を叱り付けた。其時与次郎はへい〱と云つて番人に詫あやまつた。

それから谷中やなかへ出て、根津ねづを廻まはつて、夕方に本郷の下宿へ帰つた。三四郎は近来にない気楽な半日を暮した様に感じた。

四の五

翌日よくじつ学校へ出て見ると与次郎が居ゐない。午ひるから来くるかと思つたが来こない。図書館へも這入つたが矢っ張り見当らなかつた。五時から六時迄純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記をするには暗くら過ぎる。電燈が点つくには早過ぎる。細長い窓の外そとに見える大きな欅の枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、室へやの中なかは講師の顔かほも聴講生の顔も等ひとしくぼんやりしてゐる。従つて暗闇くらやみで饅頭を食くふ様に、何となく神秘的である。三四郎は講義が解わからない所が妙だと思つた。頬杖を突ついて聴いてゐると、神経が鈍にぶくなつて、気が遠くなる。これでこそ講義の価値がある様な心持がする。所へ電燈がぱつと点ついて、万事が稍〔やや〕明瞭になつた。すると急に下宿へ帰つて飯めしが食ひたくなつた。先生もみんなの心を察して、好いい加減に講義を切り上あげて呉れた。三四郎は早足はやあしで追分迄帰つてくる。

着物を脱ぬぎ換えて膳に向ふと、膳の上うへに、茶碗蒸むしと一所に手紙が一本載せてある。其上封うはふうを見たとき、三四郎はすぐ母から来たものだと悟つた。済まん事だが此半月あまり母の事は丸で忘れてゐた。昨日きのふから今日けふへ掛けては時代錯誤アナクロニズムだの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影も一向頭あたまの中なかへ出て来こなかつた。三四郎は夫で満足である。母の手紙はあとで緩ゆつくり覧みる事として、取り敢ず食事を済まして、烟草を吹ふかした。其烟けむを見ると先刻さつきの講義を思ひ出す。

そこへ与次郎がふらりと現はれた。どうして学校を休んだかと聞くと、貸家探かしやさがしで学校所どころぢやないさうである。

「そんなに急いそいで越こすのか」と三四郎が聞くと、

「急いそぐつて先月中ぢうに越す筈はづの所を明後日あさつての天長節迄待たしたんだから、どうしたつて明日中あしたぢうに探さがさなければならない。どこか心当りはないか」と云ふ。

こんなに忙いそがしがる癖くせに、昨日きのふは散歩だか、貸家探かしやさがしだか分らない様にぶら〱潰つぶしてゐた。三四郎には殆んど合点が行かない。与次郎は之を解釈して、それは先生が一所だからさと云つた。「元来先生が家いへを探さがすなんて間違まちがつてゐる。決して探さがした事のない男なんだが、昨日きのふはどうかしてゐたに違ない。御蔭で佐竹の邸やしきで苛ひどい目に叱しかられて好いい面つらの皮かはだ。――君何所どこかないか」と急に催促する。与次郎が来たのは全くそれが目的らしい。能〔よ〕く〱原因を聞いて見ると、今いまの持主もちぬしが高利貸で、家賃やちんを無暗むやみに上あげるのが、業腹ごうはらだと云ふので、与次郎が此方こつちから立退たちのきを宣告したのださうだ。それでは与次郎に責任がある訳だ。

「今日けふは大久保迄行つて見たが、矢っ張りない。――大久保と云へば、序ついでに宗八さんの所ところへ寄よつて、よし子さんに逢あつて来きた。可哀さうにまだ色光沢いろつやが悪わるい。――辣薑らつきやう性の美人――御母おつかさんが君に宜しく云つて呉れつてことだ。しかし其後ごはあの辺も穏やかな様だ。轢死もあれぎりないさうだ」

与次郎の話はそれから、それへと飛んで行く。平生ぜいから締しまりのない上うへに、今日けふは家探やさがしで少し焦せき込んでゐる。話が一段落つくと、相の手の様に、何所どこかないか〱と聞く。仕舞には三四郎も笑ひ出した。

四の六

そのうち与次郎の尻しりが次第に落ち付いて来きて、燈火親しむべし抔といふ漢語さへ借用して嬉うれしがる様になつた。話題は端なく広田先生の上に落ちた。

「君の所ところの先生の名は何と云ふのか」

「名は萇ちよう」と指ゆびで書かいて見せて、「艸冠くさかんむりが余計だ。字引じびきにあるか知らん。妙な名を付けたものだね」と云ふ。

「高等学校の先生か」

「昔むかしから今日こんにちに至る迄高等学校の先生。えらいものだ。十年一日の如しと云ふが、もう十二三年になるだらう」

「子供は居おるのか」

「小供どころか、まだ独身だ」

三四郎は少し驚ろいた。あの年迄一人ひとりで居ゐられるものかとも疑つた。

「何故なぜ奥さんを貰はないのだらう」

「そこが先生の先生たる所で、あれで大変な理論家なんだ。細君を貰つて見ない先さきから、細君はいかんものと理論で極きまつてゐるんださうだ。愚だよ。だから始終矛盾ばかりしてゐる。先生、東京程汚きたない所はない様に云ふ。それで石の門もんを見ると恐れを作なして、不可いかん〱とか、立派過ぎるとかいふだらう」

「ぢや細君も試みに持つて見たら好よからう」

「大いに佳よしとか何とかいふかも知れない」

「先生は東京が汚きたないとか、日本人が醜みにくいとか云ふが、洋行でもした事があるのか」

「なにするもんか。あゝ云ふ人なんだ。万事頭あたまの方が事実より発達してゐるんだから、あゝなるんだね。其代り西洋は写真で研究してゐる。巴理〔パリ〕の凱旋門だの、倫敦〔ロンドン〕の議事堂だの沢山持もつてゐる。あの写真で日本を律するんだから堪たまらない。汚きたない訳さ。それで自分の住んでる所は、いくら汚きたなくつても存外平気だから不思議だ」

「三等汽車へ乗のつて居つたぞ」

「汚きたない〱つて不平を云やしないか」

「いや別に不平も云はなかつた」

「然し先生は哲学者だね」

「学校で哲学でも教へてゐるのか」

「いや学校ぢや英語丈しか受持つてゐないがね、あの人間が、自おのづから哲学に出来上つてゐるから面白い」

「著述でもあるのか」

「何にもない。時々とき〲論文を書く事はあるが、ちつとも反響がない。あれぢや駄目だ。丸で世間が知らないんだから仕様がない。先生、僕の事を丸行燈だといつたが、夫子〔ふうし〕自身は偉大な暗闇くらやみだ」

「どうかして、世の中なかへ出でたら好よささうなものだな」

「出でたら好よささうなものだつて、――先生、自分ぢや何にも遣やらない人だからね。第一僕が居なけりや三度さんどの飯めしさへ食くへない人なんだ」

三四郎は真逆まさかと云はぬ許に笑ひ出した。

「嘘うそぢやない。気の毒な程何にも遣やらない人でね。何でも、僕が下女に命じて、先生の気に入る様に始末を付けるんだが――そんな瑣末な事は兎に角、是から大いに活動して、先生を一つ大学教授にして遣やらうと思ふ」

与次郎は真面目まじめである。三四郎は其大言に驚ろいた。驚ろいても構はない。驚ろいた儘に進行して、仕舞に、

「引越ひつこしをする時は是非手伝に来て呉れ」と頼たのんだ。丸で約束の出来た家いへが、とうからある如き口吻である。さうして直すぐ帰つた。

四の七

与次郎の帰つたのは彼是十時近くである。一人ひとりで坐すはつて居ると、何処どことなく肌寒はださむの感じがする。不図気が付いたら、机の前の窓がまだ閉たてずにあつた。障子を明あけると月夜だ。目に触れるたびに不愉快な檜ひのきに、蒼あをい光ひかりが射さして、黒くろい影かげの縁ふちが少し烟けむつて見える。檜ひのきに秋が来きたのは珍めづらしいと思ひながら、雨戸を閉たてた。

三四郎はすぐ床とこへ這入つた。三四郎は勉強家といふより寧ろ彽徊家〔ていかいか〕なので、割合書物を読まない。其代りある掬〔きく〕すべき情景に逢ふと、何遍もこれを頭あたまの中なかで新あらたにして喜よろこんでゐる。其その方が命いのちに奥行がある様な気がする。今日けふも、何時いつもなら、神秘的講義の最中さいちうに、ぱつと電燈が点つく所などを繰返して嬉うれしがる筈はづだが、母の手紙があるので、まづ、それから片付かたづけ始めた。

手紙には新蔵が蜂蜜を呉れたから、焼酎を混まぜて、毎晩盃さかづきに一杯づゝ飲んでゐるとある。新蔵は家うちの小作人で、毎年とし冬ふゆになると年貢米を二十俵づゝ持つてくる。至つて正直ものだが、疳癪が強いので、時々女房を薪まきで擲なぐる事がある。――三四郎は床とこの中なかで新蔵が蜂はちを飼かひ出した昔むかしの事迄思ひ浮べた。それは五年程前である。裏の椎しいの木に蜜蜂が二三百疋ぶら下さがつてゐたのを見付けて、すぐ籾漏斗〔もみじょうご〕に酒を吹きかけて、悉〔ことごと〕く生捕いけどりにした。それから之を箱へ入れて、出入ではいりの出来る様な穴あなを開あけて、日当りの好いい石の上に据ゑてやつた。すると蜂が段々殖ふえて来る。箱が一ひとつでは足たりなくなる。二つにする。又足りなくなる。三つにする。と云ふ風に殖ふやして行つた結果、今では何でも六箱はこか七箱はこある。其うちの一箱ひとはこを年に一度いちどづゝ石から卸して蜂の為ために蜜を切り取ると云つてゐた。毎年とし夏休みに帰るたびに蜜を上あげませうと云はない事はないが、ついに持つて来た例ためしがなかつた。が今年ことしは物覚が急に善くなつて、年来の約束を履行したものであらう。

平太郎が親爺おやぢの石塔を建てたから見に来きて呉れろと頼たのみにきたとある。行つて見ると、木も草も生えてゐない庭の赤土の真中まんなかに、御影石みかげいしで出来てゐたさうである。平太郎は其御影石が自慢なのだと書かいてある。山から切きり出すのに幾日いくかとか掛かゝつて、それから石屋いしやに頼たのんだら十円取とられた。百姓や何かには分わからないが、貴所あなたのとこの若旦那は大学校へ這入つてゐる位だから、石いしの善悪よしあしは屹度分わかる。今度こんど手紙の序ついでに聞いて見て呉れ、さうして十円も掛けて親爺おやぢの為に拵こしらへてやつた石塔を賞ほめて貰つてくれと云ふんださうだ。――三四郎は独りでくす〱笑ひ出した。千駄木の石門より余程烈しい。

大学の制服を着た写真を寄よこせとある。三四郎は何時いつか撮とつて遣らうと思ひながら、次つぎへ移ると、案の如く三輪田の御光さんが出て来た。――此間このあひだ御光さんの御母おつかさんが来きて、三四郎さんも近々大学を卒業なさる事だが、卒業したら宅うちの娘むすめを貰つて呉れまいかと云ふ相談であつた。御光さんは器量もよし気質きだても優しいし、家うちに田地も大分あるし、其上うへ家うちと家うちとの今迄の関係もある事だから、さうしたら双方共都合が好いいだらうと書いて、そのあとへ但し書がきが付けてある。――御光さんも嬉しがるだらう。――東京のものは気心きごゝろが知れないから私わたしはいやぢや。

三四郎は手紙を巻まき返かへして、封に入れて、枕元へ置いた儘眼めを眠つた。鼠ねずみが急に天井で暴あばれ出したが、やがて静まつた。

四の八

三四郎には三みつつの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂〔いわゆる〕明治十五年以前の香かがする。凡てが平穏である代りに凡てが寐坊気ねぼけてゐる。尤〔もっと〕も帰るに世話は入〔い〕らない。戻もどらうとすれば、すぐに戻もどれる。たゞ、いざとならない以上は戻もどる気がしない。云はゞ立退場たちのきばの様なものである。三四郎は脱ぬぎ棄すてた過去を、此立退場たちのきばの中なかへ封じ込めた。なつかしい母さへ此所こゝに葬つたかと思ふと、急に勿体〔もったい〕なくなる。そこで手紙が来きた時丈は、しばらく此世界に彽徊して旧歓を温める。

第二の世界のうちには、苔こけの生はえた錬瓦造りがある。片隅かたすみから片隅を見渡すと、向ふの人の顔がよく分わからない程に広い閲覧室がある。梯子はしごを掛かけなければ、手の届きかねる迄高く積み重ねた書物がある。手摺てずれ、指ゆびの垢あか、で黒くなつてゐる。金文字で光ひかつてゐる。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それから凡ての上に積つもつた塵ちりがある。此塵このちりは二三十年かゝつて漸く積つもつた貴とい塵ちりである。静かな月日つきひに打ち勝つ程の静かな塵ちりである。

第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不ぶ精な髭ひげを生はやしてゐる。あるものは空そらを見て歩あるいてゐる。あるものは俯うつ向いて歩あるいてゐる。服装なりは必ず穢きたない。生計くらしは屹度貧乏である。さうして晏あん如としてゐる。電車に取り巻まかれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚からない。このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅を逃れるから幸である。広田先生は此内うちにゐる。野々宮君も此内このうちにゐる。三四郎は此内このうちの空気を略ほゞ解し得た所にゐる。出でれば出でられる。然し折角解げし掛かけた趣味を思ひ切つて捨てるのも残念だ。

第三の世界は燦として春の如く盪うごいてゐる。電燈がある。銀匙〔ぎんさじ〕がある。歓声がある。笑語〔しょうご〕がある。泡立あはだつ三鞭〔シャンパン〕の盃さかづきがある。さうして凡ての上うへの冠かんむりとして美くしい女性がある。三四郎はその女性の一人ひとりに口を利きいた。一人ひとりを二遍見た。此世界は三四郎に取つて最も深厚な世界である。此世界は鼻の先にある。たゞ近ちかづき難い。近づき難い点に於て、天外の稲妻と一般である。三四郎は遠くから此世界を眺めて、不思議に思ふ。自分が此世界のどこかへ這入らなければ、其世界のどこかに陥欠が出来る様な気がする。自分は此世界のどこかの主人公であるべき資格を有してゐるらしい。それにも拘〔かか〕はらず、円満の発達を冀〔こいねが〕ふべき筈の此世界が、却つて自みづからを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞いでゐる。三四郎にはこれが不思議であつた。

三四郎は床とこのなかで、此三みつの世界を並ならべて、互に比較して見た。次に此三みつの世界を掻き混まぜて、其中なかから一ひとつの結果を得た。――要するに、国から母を呼び寄せて、美くしい細君を迎へて、さうして身を学問に委ねるに越した事はない。

結果は頗る平凡である。けれども此結果に到着する前に色々考へたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を上下しやすい思索家自身から見ると、夫程平凡ではなかつた。

たゞかうすると広い第三の世界を眇〔びょう〕たる一個の細君で代表させる事になる。美くしい女性は沢山ある。美くしい女性を翻訳すると色々になる。――三四郎は広田先生にならつて、翻訳と云ふ字を使つて見た。――苟〔いや〕しくも人格上の言葉に翻訳の出来る限りは、其翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を完〔まった〕からしむる為ために、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君一人ひとりを知つて甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にする様なものである。

三四郎は論理を此所こゝ迄延長して見て、少し広田さんにかぶれたなと思つた。実際の所は、これ程痛切に不足を感じてゐなかつたからである。

四の九

翌日学校へ出ると講義は例によつて詰つまらないが、室内の空気は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終せて、さも偉人の様な態度を以て、追分の交番の前迄来くると、ぱつたり与次郎に出逢つた。

「アハヽヽ。アハヽヽ」

偉人の態度は是が為に全く崩れた。交番の巡査さへ薄笑ひをしてゐる。

「なんだ」

「なんだも無いものだ。もう少し普通の人間らしく歩あるくがいゝ。丸で浪漫的ロマンチツクアイロニーだ」

三四郎には此洋語の意味がよく分わからなかつた。仕方がないから、

「家いへはあつたか」と聞いた。

「その事で今君の所へ行つたんだ――明日あす愈〔いよいよ〕引越す。手伝てつだひに来きて呉れ」

「何所どこへ越こす」

「西片町十番地への三号。九時迄に向へ行つて掃除をしてね。待つてゝ呉れ。あとから行くから。いゝか、九時迄だぜ。への三号だよ。失敬」

与次郎は急いそいで行き過すぎた。三四郎も急いそいで下宿へ帰つた。其晩取つて返して、図書館で浪漫的ロマンチツクアイロニーと云ふ句を調べて見たら、独乙〔ドイツ〕のシユレーゲルが唱へ出した言葉で、何でも天才と云ふものは、目的も努力もなく、終日ぶら〱ぶら付いて居なくつては駄目だと云ふ説だと書いてあつた。三四郎は漸く安心して、下宿へ帰つて、すぐ寐ねた。

翌日あくるひは約束だから、天長節にも拘はらず、例刻に起きて、学校へ行く積りで西片町十番地へ這入つて、への三号を調べて見ると、妙に細い通りの中程にある。古ふるい家だ。

玄関の代りに西洋間まが一つ突き出してゐて、それと鉤かぎの手に座敷がある。座敷の後ろが茶の間で、茶の間の向が勝手、下女部屋と順に並んでゐる。外〔ほか〕に二階がある。但し何畳だか分らない。

三四郎は掃除を頼まれたのだが、別に掃除をする必要もないと認めた。無論奇麗ぢやない。然し何と云つて、取つて捨てべきものも見当らない。強ひて捨てれば畳建具位なものだと考へながら、雨戸丈を明けて、座敷の縁側へ腰を掛けて庭を眺めて居た。

大きな百日紅がある。然し是は根が隣りにあるので、幹みきの半分以上が横に杉垣から、此方こつちの領分を冒してゐる丈である。大きな桜がある。是は慥かに垣根の中なかに生えてゐる。其代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれども寒菊と見えて、一向咲いて居ない。此外には何にもない。気の毒な様な庭である。たゞ土つち丈は平らで、肌理きめが細こまかで甚だ美くしい。三四郎は土つちを見てゐた。実際土つちを見る様に出来た庭である。

そのうち高等学校で天長節の式の始まる号鐘ベルが鳴り出した。三四郎は号鐘ベルを聞きながら九時が来きたんだらうと考へた。何もしないでゐても悪わるいから、桜さくらの枯葉かれはでも掃はかうかしらんと漸く気が付いた時、箒がないといふ事を考へ出した。また縁側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戸がすうと明あいた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中なかにあらはれた。

四の十

二方は生垣いけがきで仕切つてある。四角な庭は十坪とつぼに足りない。三四郎は此狭い囲かこひの中なかに立つた池いけの女を見るや否や、忽〔たちま〕ち悟つた。――花は必ず剪きつて、瓶へい裏に眺ながむべきものである。

此時三四郎の腰こしは縁側を離れた。女は折戸を離れた。

「失礼で御座いますが……」

女は此句を冒頭に置いて会釈した。腰から上を例の通り前へ浮かしたが、顔かほは決けつして下さげない。会釈しながら、三四郎を見詰めてゐる。女の咽喉のどが正面から見ると長く延のびた。同時に其眼めが三四郎の眸ひとみに映うつつた。

二三日前三四郎は美学の教師からグルーズの画を見せてもらつた。其時美学の教師が、此人の画かいた女の肖像は悉こと〲く〔濁点付き片仮名オ〕ラプチユアスな表情に富んでゐると説明した。〔濁点付き片仮名オ〕ラプチユアス! 池の女の此時の眼付を形容するには是より外に言葉がない。何か訴へてゐる。艶なるあるものを訴へてゐる。さうして正しく官能に訴へてゐる。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴へ方である。甘あまいものに堪え得る程度を超えて、烈しい刺激と変ずる訴へ方である。甘あまいと云はんよりは苦痛である。卑いやしく媚びるのとは無論違ふ。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な眼付めつきである。しかも此女にグルーズの画と似た所は一つもない。眼はグルーズのより半分も小さい。

「広田さんの御移転こしになるのは、此方こちらで御座いませうか」

「はあ、此所こゝです」

女の声と調子に較くらべると、三四郎の答は頗るぶつきら棒である。三四郎も気が付いてゐる。けれども外ほかに云ひ様がなかつた。

「まだ御移うつりにならないんで御座いますか」女の言葉は明確はつきりしてゐる。普通の様に後あとを濁にごさない。

「まだ来きません。もう来くるでせう」

女はしばし逡巡ためらつた。手に大きな籃バスケツトを提さげてゐる。女の着物は例によつて、分わからない。ただ何時いつもの様に光ひからない丈が眼についた。地が何だかぶつ〱してゐる。夫それに縞しまだか模様だかある。その模様が如何にも出鱈目である。

上うへから桜の葉が時〻とき〲落ちて来くる。其一つが籃バスケツトの蓋ふたの上に乗のつた。乗のつたと思ふうちに吹かれて行つた。風が女を包つゝんだ。女は秋の中なかに立つてゐる。

「あなたは……」

風かぜが隣りへ越こした時分、女が三四郎に聞いた。

「掃除に頼たのまれて来たのです」と云つたが、現に腰を掛けてぽかんとしてゐた所を見られたのだから、三四郎は自分でも可笑おかしくなつた。すると女も笑ひながら、

「ぢや私わたくしも少すこし御待ち申しませうか」と云つた。其云ひ方が三四郎に許諾を求める様に聞えたので、三四郎は大いに愉快であつた。そこで「あゝ」と答へた。三四郎の料簡では、「ああ、御待ちなさい」を略した積である。女はそれでもまだ立つてゐる。三四郎は仕方がないから、

「あなたは……」と向むかふで聞きいた様な事を此方こつちからも聞いた。すると、女は籃ばすけつとを椽〔えん〕の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出だして、三四郎に呉れた。

四の十一

名刺には里見美禰子〔さとみみねこ〕とあつた。本郷真砂町だから谷を越すとすぐ向である。三四郎が此名刺を眺めてゐる間あひだに、女は椽に腰を卸した。

「あなたには御目に掛りましたな」と名刺を袂たもとへ入れた三四郎が顔を挙げた。

「はあ。いつか病院で……」と云つて女も此方こつちを向いた。

「まだある」

「それから池の端はたで……」と女はすぐ云つた。能く覚えてゐる。三四郎はそれで云ふ事がなくなつた。女は最後に、

「どうも失礼致しました」と句切りをつけたので、三四郎は、

「いゝえ」と答へた。頗る簡潔である。両人ふたりは桜の枝を見てゐた。梢に虫の食つた様な葉が僅〔わずか〕ばかり残つてゐる。引越の荷物は中々なかなか遣つて来ない。

「何か先生に御用なんですか」

三四郎は突然かう聞いた。高い桜の枯かれ枝を余念なく眺めて居た女は、急に三四郎の方を振り向く。あら喫驚びつくりした、苛ひどいわ、といふ顔付であつた。然し答は尋常である。

「私わたくしも御手伝てつだひに頼たのまれました」

三四郎は此時始めて気が付いて見ると、女の腰を掛けてゐる椽に砂が一杯たまつてゐる。

「砂すなで大変だ。着物きものが汚よごれます」

「えゝ」と左右を眺ながめた限ぎりである。腰を上あげない。しばらく椽を見廻はした眼めを、三四郎に移すや否や、

「掃除じはもうなすつたんですか」と聞いた。笑わらつてゐる。三四郎は其笑わらひの中なかに馴なれ易いあるものを認みとめた。

「まだ遣やらんです」

「御手伝をして、一所に始めませうか」

三四郎はすぐに立つた。女は動うごかない。腰を掛けた儘、箒やハタキの在家ありかを聞く。三四郎は、たゞ空手てぶらで来きたのだから、どこにもない。何なら通りへ行つて買つて来やうかと聞きくと、それは徒費むだだから、隣で借りる方が好よからうと云ふ。三四郎はすぐ隣へ行つた。早速箒とハタキと、それから馬尻ばけつと雑巾迄借りて急いで帰つてくると、女は依然として故もとの所へ腰をかけて、高い桜の枝を眺めてゐた。

「あつて……」と一口ひとくち云つた丈である。

三四郎は箒を肩かたへ担かついで、馬尻ばけつを右の手にぶら下さげて、「えゝ、ありました」と当り前の事を答へた。

女は白足袋たびの儘砂すなだらけの縁側へ上あがつた。あるくと細い足の痕が出来る。袂たもとから白い前垂〔まえだれ〕を出して帯の上から締しめた。其前垂の縁ふちがレースの様に縢かゞつてある。掃除をするには勿体ない程奇麗な色である。女は箒を取つた。

「一旦掃はき出だしませう」と云ひながら、袖そでの裏うらから右の手を出だして、ぶらつく袂たもとを肩の上へ担かついだ。奇麗な手が二の腕迄出た。担かついだ袂たもとの端はじからは美くしい襦袢の袖そでが見える。茫然として立つてゐた三四郎は、突然馬尻ばけつを鳴らして勝手口へ廻まはつた。

四の十二

美禰子が掃はくあとを、三四郎が雑巾を掛ける。三四郎が畳を敲〔たた〕く間あひだに、美禰子が障子をはたく。どうかかうか掃除が一通り済んだ時は二人ふたり共大分親しくなつた。

三四郎が馬尻ばけつの水を取とり換かへに台所へ行つたあとで、美禰子がハタキと箒を持つて二階へ上のぼつた。

「一寸ちよつと来きて下ください」と上うへから三四郎を呼ぶ。

「何ですか」と馬尻ばけつを提さげた三四郎が、楷子段はしごだんの下したから云ふ。女は暗くらい所に立つてゐる。前垂だけが真白だ。三四郎は馬尻ばけつを提さげた儘二三段上のぼつた。女は凝じつとしてゐる。三四郎は又二段上のぼつた。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺許りの距離に来きた。

「何ですか」

「何だか暗くらくつて分わからないの」

「何故なぜ」

「何故なぜでも」

三四郎は追窮する気がなくなつた。美禰子の傍そばを擦すり抜ぬけて上うへへ出た。馬尻ばけつを暗くらい縁側へ置いて戸を明ける。成程桟さんの具合が善よく分わからない。そのうち美禰子も上あがつて来きた。

「まだ開あからなくつて」

美禰子は反対の側がはへ行つた。

「此方こつちです」

三四郎はだまつて、美禰子の方へ近寄つた。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、馬尻ばけつに蹴爪けつまづいた。大きな音おとがする。漸くの事で戸を一枚明あけると、強い日がまともに射さし込んだ。眩まぼルビの「まぼ」はママしい位である。二人ふたりは顔を見合せて思はず笑ひ出だした。

裏うらの窓も開あける。窓には竹の格子が付いてゐる。家主やぬしの庭が見える。鶏にはとりを飼つてゐる。美禰子は例の如く掃はき出した。三四郎は四つ這ばいになつて、後あとから拭き出した。美禰子は箒を両手で持つた儘、三四郎の姿を見て、

「まあ」と云つた。

やがて、箒を畳の上うへへ抛なげ出して、裏の窓の所へ行つて、立つた儘外面そとを眺めてゐる。そのうち三四郎も拭ふき終つた。濡れ雑巾を馬尻ばけつの中なかへぼちやんと擲たゝき込んで、美禰子の傍そばへ来きて、並ならんだ。

「何を見てゐるんです」

「中あてゝ御覧なさい」

「鶏とりですか」

「いゝえ」

「あの大きな木ですか」

「いゝえ」

「ぢや何を見てゐるんです。僕には分らない」

「私わたくし先刻さつきからあの白い雲くもを見て居おりますの」

成程白い雲が大きな空そらを渡わたつてゐる。空そらは限かぎりなく晴れて、どこ迄も青く澄すんでゐる上を、綿わたの光ひかつた様な濃こい雲がしきりに飛んで行く。風の力が烈しいと見えて、雲の端はしが吹き散ちらされると、青あをい地ぢが透すいて見える程に薄くなる。あるひは吹き散ちらされながら、塊かたまつて、白く柔らかな針はりを集めた様に、さゝくれ立だつ。美禰子は其塊かたまりを指ゆびさして云つた。

「駝鳥〔だちょう〕の襟巻ボーアに似てゐるでせう」

三四郎はボーアと云ふ言葉を知らなかつた。それで知らないと云つた。美禰子は又、

「まあ」と云つたが、すぐ丁寧にボーアを説明してくれた。其時三四郎は、

「うん、あれなら知つとる」と云つた。さうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあの位に動く以上は、颶風〔ぐふう〕以上の速度でなくてはならないと、此間野々宮さんから聞いた通りを教へた。美禰子は、

「あらさう」と云ひながら三四郎を見たが、

「雪ぢや詰つまらないわね」と否定を許さぬ様な調子であつた。

「何故なぜです」

「何故なぜでも、雲は雲でなくつちや不可いけないわ。かうして遠くから眺めてゐる甲斐がないぢやありませんか」

「さうですか」

「さうですかつて、あなたは雪でも構はなくつて」

「あなたは高い所を見るのが好すきの様ですな」

「えゝ」

美禰子は竹の格子の中なかから、まだ空そらを眺めてゐる。白い雲はあとから、あとから、飛んで来くる。

四の十三

所へ遠くから荷車にぐるまの音おとが聞える。今、静かな横町を曲まがつて、此方こつちへ近付いて来くるのが地響ぢひゞきでよく分わかる。三四郎は「来きた」と云つた。美禰子は「早はやいのね」と云つた儘凝じつとしてゐる。車の音おとの動くのが、白い雲の動くのに関係でもある様に耳を澄すましてゐる。車は落付いた秋の中なかを容赦なく近付いて来くる。やがて門の前へ来きて留とまつた。

三四郎は美禰子を捨てゝ二階を馳かけ降おりた。三四郎が玄関へ出るのと、与次郎が門を這入るのとが同時同刻であつた。

「早いな」と与次郎が先づ声を掛けた。

「遅おそいな」と三四郎が応こたへた。美禰子とは反対である。

「遅おそいつて、荷物を一度に出だしたんだから仕方がない。それに僕一人ひとりだから。余あとは下女と車屋くるまや許でどうする事も出来ない」

「先生は」

「先生は学校」

二人ふたりが話はなしを始めてゐるうちに、車屋くるまやが荷物を卸おろし始めた。下女も這入つて来た。台所の方を下女と車屋くるまやに頼たのんで、与次郎と三四郎は書物を西洋間へ入れる。書物が沢山ある。並ならべるのは一仕事ひとしごとだ。

「里見の御嬢さんは、まだ来きてゐないか」

「来きてゐる」

「何所どこに」

「二階にゐる」

「二階に何をしてゐる」

「何をしてゐるか、二階にゐる」

「冗談ぢやない」

与次郎は本を一冊持もつた儘、廊下伝ひに階子段の下した迄行つて、例の通りの声で、

「里見さん、里見さん。書物を片付かたづけるから、一寸ちよつと手伝つて下さい」と云ふ。

「たゞ今参ります」

箒とハタキを持もつて、美禰子は静かに降おりて来きた。

「何をして居ゐたんです」と下から与次郎が焦せき立てる様に聞く。

「二階の御掃除じ」と上から返事があつた。

降おりるのを待ち兼ねて、与次郎は美禰子を西洋間まの戸口とぐちの所へ連つれて来た。車力しやりきの卸おろした書物が一杯積んである。三四郎が其中なかへ、向ふむきに跼しやがんで、しきりに何か読み始めてゐる。

「まあ大変ね。是これをどうするの」と美禰子が云つた時、三四郎は跼しやがみながら振り返つた。にや〱笑つてゐる。

「大変も何もありやしない。これを室へやの中なかへ入れて、片付けるんです。今に先生も帰つて来きて手伝ふ筈だから訳はない。――君、跼しやがんで本なんぞ読み出だしちや困る。後あとで借りて行つて緩ゆつくり読よむがいゝ」と与次郎が小言こごとを云ふ。

美禰子と三四郎が戸口で本を揃へると、それを与次郎が受取つて室へやの中なかの書棚へ並ならべるといふ役割が出来た。

「さう乱暴に、出だしちや困こまる。まだ此続つゞきが一冊ある筈だ」と与次郎が青い平ひらたい本を振り廻まはす。

「だつて無ないんですもの」

「なに無ない事があるものか」

「有あつた、有つた」と三四郎が云ふ。

「どら、拝見」と美禰子が顔かほを寄せて来くる。「ヒストリー、オフ、インテレクチユアル、デ〔濁点付き片仮名エ〕ロツプメント。あら有あつたのね」

「あら有あつたも無ないもんだ。早く御出だしなさい」

四の十四

三人は約三十分許ばかり根気こんきに働いた。仕舞にはさすがの与次郎もあまり焦せつ付かなくなつた。見ると書棚だなの方を向いて胡坐あぐらをかいて黙だまつてゐる。美禰子は三四郎の肩かたを一寸ちよつと突つつ付ついた。三四郎は笑ひながら、

「おい如何どうした」と聞く。

「うん。先生もまあ、斯〔こ〕んなに入〔い〕りもしない本を集めて如何どうする気かなあ。全く人泣ひとなかせだ。今之〔これ〕を売つて株でも買つて置くと儲かるんだが、仕方がない」と嘆息した儘、矢っ張り壁を向いて胡坐あぐらをかいてゐる。

三四郎と美禰子は顔を見合せて笑つた。肝心の主脳が動かないので、二人ふたり共書物を揃へるのを控へてゐる。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を膝の上うへに開ひらいた。勝手の方では臨時雇の車夫と下女がしきりに論判してゐる。大変騒〻しい。

「一寸ちよつと御覧らんなさい」と美禰子が小ちいさな声で云ふ。三四郎は及び腰になつて、画帖の上へ顔かほを出した。美禰子の髪あたまで香水の匂にほひがする。

画はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下したが魚さかなになつて、魚さかなの胴どうが、ぐるりと腰を廻まはつて、向ふ側がはに尾だけ出てゐる。女は長い髪かみを櫛くしで梳すきながら、梳すき余つたのを手に受けながら、此方こつちを向いてゐる。背景は広い海である。

「人魚マーメイド」

「人魚マーメイド」

頭あたまを擦すり付けた二人ふたりは同じ事をさゝやいだ。此時胡坐あぐらをかいてゐた与次郎が何と思つたか、

「何だ、何を見てゐるんだ」と云ひながら廊下へ出でて来きた。三人は首くびを鳩あつめて画帖を一枚毎に繰くつて行いつた。色々な批評が出る。みんな好加減いゝかげんである。

所へ広田先生がフロツクコートで天長節の式から帰つて来た。三人は挨拶をするときに画帖を伏せて仕舞つた。先生が書物丈早く片付様といふので、三人が又根気に遣やり始めた。今度は主人公がゐるので、さう油を売る事も出来なかつたと見えて、一時間後には、どうか、かうか廊下の書物が、書棚の中なかへ詰つまつて仕舞つた。四人は立ち並ならんで奇麗に片付いた書物を一応眺めた。

「あとの整理は明日あしただ」と与次郎が云つた。是で我慢なさいと云はぬ許である。

「大分御集めになりましたね」と美禰子が云ふ。

「先生是丈みんな御読みになつたですか」と最後に三四郎が聞いた。三四郎は実際参考の為め、この事実を確めて置く必要があつたと見える。

「みんな読めるものか、佐々木なら読むかもしれないが」

与次郎は頭あたまを掻いてゐる。三四郎は真面目まじめになつて、実じつは此間このあひだから大学の図書館で、少し宛本を借りて読むが、どんな本を借りても、必ず誰だれか目を通してゐる。試ためしにアフラ、ベーンといふ人の小説を借りて見たが、矢っ張りだれか読んだ痕あとがあるので、読書範囲の際限が知りたくなつたから聞いて見たと云ふ。

「アフラ、ベーンなら僕も読んだ」

広田先生の此一言には三四郎も驚ろいた。

「驚ろいたな。先生は何でも人の読まないものを読む癖がある」と与次郎が云つた。

広田は笑つて座敷の方へ行く。着物を着換へる為ためだらう。美禰子も尾ついて出でた。あとで与次郎が、三四郎にかう云つた。

「あれだから偉大な暗闇くらやみだ。何でも読んでゐる。けれども些ちつとも光ひからない。もう少し流行はやるものを読んで、もう少し出娑婆でしやばつて呉れると可いいがな」

与次郎の言葉は決して冷評ではなかつた。三四郎は黙だまつて本箱ほんばこを眺めてゐた。すると座敷から美禰子の声が聞えた。

「御馳走を上あげるから、御二人ふたりとも入〔い〕らつしやい」

四の十五

二人ふたりが書斎から廊下伝ひに、座敷へ来きて見ると、座敷の真中まんなかに美禰子の持つて来きた籃バスケツトが据ゑてある。蓋ふたが取つてある。中なかにサンドヰツチが沢山這入つてゐる。美禰子は其傍そばに坐すはつて、籃かごの中なかのものを小皿へ取り分けてゐる。与次郎と美禰子の問答が始つた。

「能〔よ〕く忘れずに持つて来きましたね」

「だつて、わざ〱御注文ですもの」

「其籃かごも買つて来きたんですか」

「いゝえ」

「家うちにあつたんですか」

「えゝ」

「大変大きなものですね。車夫でも連つれて来きたんですか。序でに、少しの間あひだ置いて働らかせれば可いいのに」

「車夫は今日けふは使に出でました。女だつて此位なものは持てますわ」

「あなただから持つんです。外ほかの御嬢さんなら、まあ已やめますね」

「さうでせうか。夫それなら私わたくしも已めれば可よかつた」

美禰子は食物くひものを小皿へ取りながら、与次郎と応対してゐる。言葉に少しも淀よどみがない。しかも緩ゆつくり落付いてゐる。殆んど与次郎の顔を見ない位である。三四郎は敬服した。

台所から下女が茶を持つてくる。籃かごを取り巻まいた連中は、サンドヰツチを食くひ出だした。少すこしの間あひだは静であつたが、思ひ出だした様に与次郎が又広田先生に話しかけた。

「先生、序だから一寸ちよつと聞いて置きますが先刻さつきの何とかベーンですね」

「アフラ、ベーンか」

「全体何です、そのアフラ、ベーンと云ふのは」

「英国の閨秀作家だ。十七世紀の」

「十七世紀は古ふる過ぎる。雑誌の材料にやなりませんね」

「古ふるい。然し職業として小説に従事した始めての女だから、それで有名だ」

「有名ぢや困るな。もう少し伺うかがつて置かう。どんなものを書いたんですか」

「僕はオルノーコと云ふ小説を読んだ丈だが、小川さん、さういふ名の小説が全集のうちにあつたでせう」

三四郎は奇麗に忘れてゐる。先生に其梗概を聞いて見ると、オルノーコと云ふ黒ん坊の王族が英国の船長に瞞だまされて、奴隷に売られて、非常に難義をする事が書いてあるのださうだ。しかも是は作家の実見譚だとして後世に信ぜられてゐたといふ話である。

「面白いな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書かいちやあ」と与次郎は又美禰子の方へ向むかつた。

「書かいても可よござんすけれども、私わたくしにはそんな実見譚がないんですもの」

「黒くろん坊の主人公が必要なら、その小川君でも可いいぢやありませんか。九州の男で色が黒いから」

「口くちの悪わるい」と美禰子は三四郎を弁護する様に言つたが、すぐあとから三四郎の方を向いて、

「書かいても可よくつて」と聞いた。其眼めを見た時に、三四郎は今朝けさ籃かごを提さげて、折戸からあらはれた瞬間の女を思ひ出だした。自おのづから酔つた心地である。けれども酔つて竦すくんだ心地である。どうぞ願ひます抔とは無論云ひ得なかつた。

四の十六

広田先生は例によつて烟草を呑み出だした。与次郎は之を評して鼻から哲学の烟けむを吐くと云つた。成程烟けむの出方でかたが少し違ちがふ。悠然として太く逞ましい棒が二本穴を抜ぬけて来くる。与次郎は其烟柱えんちうを眺めて、半分背を唐紙からかみに持たした儘黙だまつてゐる。三四郎の眼めはぼんやり庭にはの上うへにある。引越ではない。丸で小集の体に見える。談話も従つて気楽なものである。たゞ美禰子丈が広田先生の蔭かげで、先生がさつき脱ぬぎ棄てた洋服を畳み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子の所為〔しょい〕と見える。

「今のオルノーコの話だが、君は疎忽そゝつかしいから間違へると不可いけないから序に云ふがね」と先生の烟が一寸ちよつと途切れた。

「へえ、伺つて置きます」と与次郎が几帳面に云ふ。

「あの小説が出でてから、サヾーンといふ人が其話を脚本に仕組んだのが別にある。矢張り同おなじ名でね。それを一所にしちや不可いけない」

「へえ、一所にしやしません」

洋服を畳んで居た美禰子は一寸ちよつと与次郎の顔を見た。

「その脚本のなかに有名な句がある。Pity's akin to loveピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ といふ句だが……」それ丈で又哲学の烟けむりを熾さかんに吹き出した。

「日本にもありさうな句ですな」と今度は三四郎が云つた。外ほかのものも、みんな有りさうだと云ひ出した。けれども誰だれにも思ひ出せない。では一ひとつ訳して見たら好よからうといふ事になつて、四人が色々に試みたが一向纏まらない。仕舞に与次郎が、

「これは、どうしても俗謡で行いかなくつちや駄目ですよ。句の趣が俗謡だもの」と与次郎らしい意見を呈出した。

そこで、三人が全然翻訳権を与次郎に委任する事にした。与次郎はしばらく考へてゐたが、

「少し無理ですがね、かう云ふなどうでせう。可哀想だた惚ほれたつて事よ」

「不可いかん、不可いかん、下劣げれつの極きよくだ」と先生が忽〔たちま〕ち苦にがい顔をした。その云ひ方が如何〔いか〕にも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑ひ出だした。此笑ひ声がまだ已やまないうちに、庭の木戸がぎいと開あいて、野々宮さんが這入つて来きた。

「もう大抵片付いたんですか」と云ひながら、野々宮さんは縁側の正面の所迄来きて、部屋のなかにゐる四人を覗く様に見渡した。

「まだ片付きませんよ」と与次郎が早速さつそく云ふ。

「少し手伝つて頂きませうか」と美禰子が与次郎に調子を合せた。野々宮さんはにや〱笑ひながら、

「大分だいぶ賑にぎやかな様ですね。何か面白い事がありますか」と云つて、ぐるりと後向うしろむきに縁側へ腰を掛けた。

「今僕が翻訳をして先生に叱しかられた所です」

「翻訳を? どんな翻訳ですか」

「なに詰つまらない――可哀想だた惚れたつて事よと云ふんです」

「へえ」と云つた野々宮君は縁側で筋違すぢかひに向き直つた。「一体そりや何ですか。僕にや意味が分らない」

「誰だれにだつて分わからんさ」と今度は先生が云つた。

「いや、少すこし言葉をつめ過すぎたから――当り前に延ばすと、斯かうです。可哀想だとは惚れたと云ふ事よ」

「アハヽヽ。さうして其原文は何と云ふのです」

「Pity's akin to loveピチーズ、アキン、ツー、ラツヴ」と美禰子が繰り返した。美くしい奇麗な発音であつた。

野々宮さんは、縁側から立つて、二三歩庭の方へ歩あるき出したが、やがて又ぐるりと向き直つて、部屋を正面に留とまつた。

「成程旨うまい訳だ」

三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずには居られなかつた。

四の十七

美禰子は台所へ立つた。茶碗を洗あらつて、新らしい茶を注ついで、縁側の端はた迄持つて出でる。

「御茶を」と云つた儘、其所そこへ坐すはつた。「よし子さんは、どうなすつて」と聞く。

「えゝ、身体からだの方はもう回復しましたが」と又腰を掛けて茶を飲む。それから、少すこし先生の方へ向むいた。

「先生、折角大久保へ越したが、又此方こつちの方へ出でなければならない様になりさうです」

「何故なぜ」

「妹いもとが学校へ行き帰りに、戸山の原を通るのが厭いやだといひ出だしましてね。それに僕が夜よる実験をやるものですから、遅おそく迄待まつてゐるのが淋さむしくつて不可いけないんださうです。尤も今のうちは母が居るから構かまひませんが、もう少しして、母が国へ帰ると、あとは下女丈になるものですからね。臆病もの二人ふたりでは到底とても辛抱し切れないのでせう。――実に厄介だな」と冗談半分の嘆声を洩らしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも食客ゐさうらうに置いて呉れませんか」と美禰子の顔かほを見た。

「何時いつでも置いて上あげますわ」

「何方どつちです。宗八さんの方をですか、よし子さんの方をですか」と与次郎が口くちを出だした。

「何方どちらでも」

三四郎丈黙だまつてゐた。広田先生は少し真面目まじめになつて、

「さうして君はどうする気なんだ」

「妹の始末さへ付けば、当分下宿しても可いいです。それでなければ、又何所どこかへ引越さなければならない。一層いつそ学校の寄宿舎へでも入れ様かと思ふんですがね。何しろ小供だから、僕が始終行けるか、向ふが始終来こられる所でないと困こまるんです」

「それぢや里見さんの所ところに限かぎる」と与次郎が又注意を与へた。広田さんは与次郎を相手にしない様子で、

「僕の所ところの二階へ置いて遣やつても好いいが、何しろ佐々木の様なものがゐるから」と云ふ。

「先生、二階へは是非佐々木を置いてやつて下ください」と与次郎自身が依頼した。野々宮君は笑ひながら、

「まあ、どうかしませう。――身長なりばかり大きくつて馬鹿だから実に弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから、連れて行いけなんて云ふんだから」

「連つれて行いつて御上あげなされば可いいのに。私わたくしだつて見たいわ」

「ぢや一所に行きませうか」

「えゝ是非。小川さんも入〔い〕らつしやい」

「えゝ行きませう」

「佐々木さんも」

「菊人形は御免だ。菊人形を見る位なら活動写真を見に行きます」

「菊人形は可いいよ」と今度は広田先生が云ひ出した。「あれ程に人工的なものは恐らく外国にもないだらう。人工的によく斯〔こ〕んなものを拵らへたといふ所を見て置く必要がある。あれが普通の人間に出来て居たら、恐らく団子坂へ行くものは一人ひとりもあるまい。普通の人間なら、どこの家うちでも四五人は必ずゐる。団子坂へ出掛けるには当らない」

「先生一流の論理だ」と与次郎が評した。

「昔し教場で教はる時にも、よく、あれで遣やられたものだ」と野々宮君が云つた。

「ぢや先生も入〔い〕らつしやい」と美禰子が最後に云ふ。先生は黙つてゐる。みんな笑ひ出した。

台所どころから婆さんが「どなたか一寸ちよいと」と云ふ。与次郎は「おい」とすぐ立つた。三四郎は矢っ張り坐つてゐた。

「どれ僕も失礼しやうか」と野々宮さんが腰を上あげる。

「あらもう御帰り。随分ね」と美禰子が云ふ。

「此間このあひだのものはもう少し待つて呉れ玉へ」と広田先生が云ふのを、「えゝ、宜ようござんす」と受けて、野々宮さんが庭から出て行つた。其影かげが折戸の外そとへ隠れると、美禰子は急に思ひ出した様に「さう〱」と云ひながら、庭先に脱ぬいであつた下駄を穿はいて、野々宮の後あとを追掛た。表で何か話してゐる。

三四郎は黙だまつて坐つてゐた。

五の一

門を這入ると、此間このあひだの萩が、人の丈たけより高く茂しげつて、株かぶの根ねに黒い影が出来てゐる。此黒い影かげが地の上うへを這はつて、奥の方へ行くと、見えなくなる。葉と葉の重かさなる裏うら迄上のぼつて来くる様にも思〔おもわ〕れる。夫程表には濃こい日が当あたつてゐる。手洗水てあらひみづの傍そばに南天がある。是も普通よりは脊せが高い。三本ぼん寄つてひよろ〱してゐる。葉は便所の窓の上うへにある。

萩と南天の間に縁側が少し見える。縁側は南天を基点として斜はすに向ふへ走つてゐる。萩の影になつた所は、一番遠いはづれになる。それで萩は一番手前にある。よし子は此萩の影にゐた。縁側に腰を掛けて。

三四郎は萩とすれ〱に立つた。よし子は縁から腰を上あげた。足あしは平ひらたい石の上うへにある。三四郎は今更その脊の高いのに驚ろいた。

「御這入りなさい」

依然として三四郎を待まち設けた様な言葉遣づかひである。三四郎は病院の当時を思ひ出だした。萩を通り越して縁鼻迄来た。

「御掛けなさい」

三四郎は靴くつを穿はいてゐる。命〔めい〕の如く腰を掛けた。よし子は座布団を取つて来た。

「御敷きなさい」

三四郎は布団を敷いた。門を這入つてから、三四郎はまだ一言ひとことも口くちを開ひらかない。此単純な少女はたゞ自分の思ふ通りを三四郎に云ふが、三四郎からは毫も返事を求めてゐない様に思はれる。三四郎は無邪気なる女王の前に出た心持がした。命を聴きく丈である。御世辞を使ふ必要がない。一言ひとことでも先方の意を迎へる様な事をいへば、急に卑いやしくなる。唖おしの奴隷の如く、さきの云ふが儘に振舞つてゐれば愉快である。三四郎は小供の様なよし子から小供扱ひにされながら、少しもわが自尊心を傷けたとは感じ得なかつた。

「兄あにですか」とよし子は其次そのつぎに聞きいた。

野々宮を尋ねて来た訳でもない。尋ねない訳でもない。何で来きたか三四郎にも実は分わからないのである。

「野々宮さんはまだ学校ですか」

「えゝ、何時いつでも夜よる遅おそくでなくつちや帰りません」

是は三四郎も知つてる事である。三四郎は挨拶に窮した。見ると縁側に絵の具函ばこがある。描かきかけた水彩がある。

「画ゑを御習ならひですか」

「えゝ、好すきだから描かきます」

「先生は誰だれですか」

「先生に習ならふ程上手ぢやないの」

「一寸ちよつと拝見」

「是? 是これまだ出来てゐないの」と描かき掛かけを三四郎の方へ出す。成程自分のうちの庭にはが描かき掛けてある。空そらと、前の家いへの柿の木と、這入り口ぐちの萩丈が出来てゐる。中なかにも柿の木は甚だ赤く出来てゐる。

「中々なか〱旨うまい」と三四郎が画ゑを眺めながら云ふ。

「是これが?」とよし子は少し驚ろいた。本当に驚ろいたのである。三四郎の様なわざとらしい調子は少しもなかつた。

三四郎は今更自分の言葉を冗談にする事も出来ず、又真面目まじめにする事も出来なくなつた。何方どつちにしても、よし子から軽蔑されさうである。三四郎は画ゑを眺めながら、腹のなかで赤面した。

五の二

縁側から座敷ざしきを見廻みまはすと、しんと静かである。茶の間まは無論、台所にも人はゐない様である。

「御母おつかさんはもう御国へ御帰りになつたんですか」

「まだ帰りません。近いうちに立たつ筈ですけれど」

「今、入いらつしやるんですか」

「今いま一寸ちよつと買物に出でました」

「あなたが里見さんの所ところへ御移りになると云ふのは本当ですか」

「何どうして」

「何どうしてつて――此間このあひだ広田先生の所でそんな話がありましたから」

「まだ極きまりません。事によると、さうなるかも知れませんけれど」

三四郎は少しく要領を得た。

「野々宮さんは元もとから里見さんと御懇意なんですか」

「えゝ。御友達なの」

男と女の友達といふ意味かしらと思つたが、何だか可笑おかしい。けれども三四郎はそれ以上を聞き得なかつた。

「広田先生は野々宮さんの元もとの先生ださうですね」

「えゝ」

話しは「えゝ」で塞つかへた。

「あなたは里見さんの所ところへ入〔い〕らつしやる方が可いいんですか」

「私わたくし? さうね。でも美禰子さんの御兄あにいさんに御気の毒ですから」

「美禰子さんの兄にいさんがあるんですか」

「えゝ。宅うちの兄あにと同年の卒業なんです」

「矢っ張り理学士ですか」

「いゝえ、科は違ひます。法学士です。其又上うへの兄にいさんが広田先生の御友達だつたのですけれども、早はやく御亡なくなりになつて、今いまでは恭助さん丈なんです」

「御父おとつさんや御母おつかさんは」

よし子は少し笑ひながら、

「ないわ」と云つた。美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽であると云はぬ許である。余程早く死んだものと見える。よし子の記憶には丸でないのだらう。

「さう云ふ関係で美禰子さんは広田先生のうちへ出入でいりをなさるんですね」

「えゝ。死しんだ兄にいさんが広田先生とは大変仲善なかよしだつたさうです。それに美禰子さんは英語がすきだから、時々英語を習ひに入らつしやるんでせう」

「此方こちらへも来きますか」

よし子は何時いつの間まにか、水彩画の続つゞきを描かき始めた。三四郎が傍そばにゐるのが丸で苦になつてゐない。それでゐて、能〔よ〕く返事をする。

「美禰子さん?」と聞きながら、柿の木の下したにある藁葺ぶき屋根に影かげをつけたが、

「少し黒過くろすぎますね」と画を三四郎の前へ出だした。三四郎は今度こんどは正直に、

「えゝ、少し黒過くろすぎます」と答へた。すると、よし子は画筆ゑふでに水を含ふくませて、黒い所を洗ひながら、

「入〔い〕らつしやいますわ」と漸く三四郎に返事をした。

「度々たび〱?」

「えゝ度々たび〱」とよし子は依然として画紙に向つてゐる。三四郎は、よし子が画のつゞきを描かき出してから、問答が大変楽になつた。

五の三

しばらく無言の儘、画の中なかを覗いてゐると、よし子は丹念に藁葺家根の黒い影を洗つてゐたが、あまり水みづが多過ぎたのと、筆の使ひ方が中なか〱不慣ふなれなので、黒いものが勝手に四方へ浮き出して、折角赤く出来た柿が、蔭干かげぼしの渋柿の様な色になつた。よし子は画筆ゑふでの手を休やすめて、両手を伸のばして、首くびをあとへ引いて、ワツトマンを成るべく遠くから眺めてゐたが、仕舞に、小さな声で、

「もう駄目ね」と云ふ。実際駄目なのだから、仕方がない。三四郎は気の毒になつた。

「もう御廃よしなさい。さうして、又新らしく御描かきなさい」

よし子は顔を画に向けた儘、尻眼しりめに三四郎を見た。大きな潤うるほひのある眼めである。三四郎は益〔ますます〕気の毒になつた。すると女が急に笑ひ出した。

「馬鹿ね。二時間許り損をして」と云ひながら、折角描かいた水彩の上うへへ、横縦に二三本太ふとい棒を引いて、絵の具函の蓋ふたをぱたりと伏せた。

「もう廃よしませう。座敷へ御這入りなさい、御茶を上あげますから」と云ひながら、自分は上うへへあがつた。三四郎は靴を脱ぬぐのが面倒なので、矢っ張り縁側に腰を掛けてゐた。腹の中なかでは、今になつて、茶を遣やるといふ女を非常に面白いと思つてゐた。三四郎に度外どはづれの女を面白がる積は少しもないのだが、突然御茶を上あげますと云はれた時には、一種の愉快を感ぜぬ訳に行かなかつたのである。其感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかつた。

茶の間まで話し声がする。下女は居たに違ない。やがて襖ふすまを開ひらいて、茶器を持つて、よし子があらはれた。其顔を正面から見たときに、三四郎は又、女性中の尤も女性的な顔であると思つた。

よし子は茶を汲んで縁側へ出だして、自分は座敷の畳の上うへへ坐つた。三四郎はもう帰らうと思つてゐたが、此女の傍そばにゐると、帰らないでも構はない様な気がする。病院では曾かつて此女の顔を眺め過ぎて、少し赤面させた為めに、早速引き取つたが、今日けふは何ともない。茶を出したのを幸ひに縁側と座敷で又談話を始めた。色々話してゐるうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞き出だした。それは、自分の兄の野々宮が好すきか嫌かと云ふ質問であつた。一寸ちよつと聞くと丸で頑是〔がんぜ〕ない小供の云ひさうな事であるが、よし子の意味はもう少し深い所にあつた。研究心の強い学問好ずきの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である。人情で物をみると、凡てが好き嫌ひの二つになる。研究する気なぞが起るものではない。自分の兄は理学者だものだから、自分を研究して不可いけない。自分を研究すればする程、自分を可愛かあいがる度は減へるのだから、妹に対して不親切になる。けれども、あの位研究好ずきの兄あにが、この位自分を可愛がつて呉れるのだから、それを思ふと、兄あには日本中で一番好いい人に違ないと云ふ結論であつた。

三四郎は此説を聞いて、大いに尤もな様な、又何所どこか抜ぬけてゐる様な気がしたが、偖〔さて〕何所どこが抜ぬけてゐるんだか、頭あたまがぼんやりして、一寸ちよつと分わからなかつた。それで表向此説に対しては別段の批評を加へなかつた。たゞ腹の中なかで、これしきの女の云ふ事を、明瞭に批評し得ないのは、男児として腑甲斐ない事だと、いたく赤面した。同時に、東京の女学生は決して馬鹿に出来ないものだと云ふ事を悟つた。

三四郎はよし子に対する敬愛の念を抱いて下宿へ帰つた。端書が来きてゐる。「明日午後一時頃から菊人形を見に参りますから、広田先生のうち迄入〔い〕らつしやい。美禰子」

其字が、野々宮さんの隠袋ぽつけつとから半分食はみ出してゐた封筒の上書うはがきに似てゐるので、三四郎は何遍も読よみ直なほして見た。

五の四

翌日は日曜である。三四郎は午飯ひるめしを済ましてすぐ西片町へ来た。新調の制服を着て、光ひかつた靴を穿はいてゐる。静かな横町を広田先生の前迄来くると、人声がする。

先生の家いへは門を這入ると、左り手がすぐ庭で、木戸をあければ玄関へかゝらずに、すぐ座敷の縁へ出られる。三四郎は要目かなめ垣の間あひだに見える桟さんを外はづさうとして、ふと、庭のなかの話し声を耳にした。話しは野々宮と美禰子の間に起りつゝある。

「そんな事をすれば、地面の上うへへ落ちて死ぬ許ばかりだ」是は男の声である。

「死んでも、其その方が可いいと思ひます」是は女の答である。

「尤もそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬ丈の価値は充分ある」

「残酷な事を仰〔おっ〕しやる」

三四郎は此所こゝで木戸を開けた。庭の真中に立つてゐた会話の主は二人ふたりとも此方こつちを見た。野々宮はたゞ「やあ」と平凡に云つて、頭あたまを首肯うなづかせた丈である。頭あたまに新らしい茶の中折帽を被つてゐる。美禰子は、すぐ、

「端書はがきは何時いつ頃着きましたか」と聞いた。二人ふたりの今迄遣やつてゐた会話は、これで中絶した。

縁側には主人が洋服を着て腰を掛けて、相変らず哲学を吹ふいてゐる。是は西洋の雑誌を手にしてゐた。傍そばによし子がゐる。両手を後ろへ突ついて、身体からだを空くうに持もたせながら、伸のばした足に穿はいた厚い草履を眺めてゐた。――三四郎はみんなから待ち受けられてゐたと見える。

主人は雑誌を抛なげ出した。

「では行くかな。とう〱引張ぱり出された」

「御苦労様」と野々宮さんが云つた。女は二人ふたりで顔を見合せて、他ひとに知れない様な笑を洩らした。庭を出るとき、女が二人ふたりつゞいた。

「脊せいが高いのね」と美禰子が後あとから云つた。

「のつぽ」とよし子が一言ひとこと答へた。門の側わきで並んだ時、「だから、なり丈たけ草履を穿はくの」と弁解をした。三四郎もつゞいて、庭を出様とすると、二階の障子ががらりと開あいた。与次郎が手欄てすりの所迄出て来た。

「行くのか」と聞く。

「うん、君は」

「行いかない。菊細工なんぞ見て何になるものか。馬鹿だな」

「一所に行かう。家うちに居たつて仕様がないぢやないか」

「今論文を書いてゐる。大論文を書いてゐる。中々なか〱それ所どころぢやない」

三四郎は呆あきれ返つた様な笑ひ方をして、四人の後あとを追掛た。四人は細い横町を三分の二程広い通りの方へ遠ざかつた所である。此一団の影を高い空気の下したに認めた時、三四郎は自分の今の生活が、熊本当時のそれよりも、ずつと意味の深いものになりつゝあると感じた。曾かつて考へた三個の世界のうちで、第二第三の世界は正に此一団の影で代表されてゐる。影の半分は薄黒い。半分は花野はなのの如く明かである。さうして三四郎の頭あたまのなかでは此両方が渾然として調和されてゐる。のみならず、自分も何時いつの間まにか、自然と此経緯よこたてのなかに織り込まれてゐる。たゞそのうちの何所どこかに落ち付かない所がある。それが不安である。歩あるきながら考へると、今いまさき庭にはのうちで、野々宮と美禰子が話してゐた談柄〔だんぺい〕が近因である。三四郎は此不安の念を駆かる為めに、二人ふたりの談柄を再び剔抉ほぢくり出して見たい気がした。

四人は既に曲まがり角へ来きた。四人とも足を留とめて、振り返つた。美禰子は額に手を翳かざしてゐる。

五の五

三四郎は一分ぷんかゝらぬうちに追付いた。追付いても誰だれも何とも云はない。只歩あるき出だした丈である。しばらくすると、美禰子が、

「野々宮さんは、理学者だから、なほそんな事を仰しやるんでせう」と云ひ出だした。話しの続つゞきらしい。

「なに遣やらなくつても同じ事です。高く飛ばうと云ふには、飛べる丈の装置を考へた上うへでなければ出来ないに極つてゐる。頭あたまの方が先さきに要いるに違ないぢやありませんか」

「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかも知れません」

「我慢しなければ、死ぬ許ですもの」

「さうすると安全で地面の上うへに立つてゐるのが一番好いい事になりますね。何だか詰らない様だ」

野々宮さんは返事を已やめて、広田先生の方を向いたが、

「女には詩人が多いですね」と笑ひながら云つた。すると広田先生が、

「男子の弊は却つて純粋の詩人になり切きれない所にあるだらう」と妙な挨拶をした。野々宮さんはそれで黙だまつた。よし子と美禰子は何か御互の話を始める。三四郎は漸く質問の機会を得た。

「今のは何の御話しなんですか」

「なに空中飛行器の事です」と野々宮さんが無造作に云つた。三四郎は落語のおちを聞く様な気がした。

それからは別段の会話も出でなかつた。又長い会話が出来かねる程、人がぞろ〱歩あるく所ところへ来きた。大おほ観音の前に乞食こじきが居る。額ひたひを地ぢに擦すり付けて、大きな声をのべつに出だして、哀願を逞〔たくま〕しうしてゐる。時々とき〲顔を上あげると、額ひたひの所丈が砂すなで白しろくなつてゐる。誰だれも顧かへりみるものがない。五人も平気で行き過すぎた。五六間も来きた時に、広田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた。

「君あの乞食こじきに銭ぜにを遣やりましたか」

「いゝえ」と三四郎が後あとを見ると、例の乞食は、白しろい額ひたひの下したで両手を合あはせて、相変らず大きな声を出だしてゐる。

「遣やる気にならないわね」とよし子がすぐに云つた。

「何故なぜ」とよし子の兄あには妹を見た。窘たしなめる程に強い言葉でもなかつた。野々宮の顔付かほつきは寧ろ冷静である。

「あゝ始終焦せつ着ついて居ゐちや、焦せつ着つき栄ばえがしないから駄目ですよ」と美禰子が評した。

「いえ場所が悪わるいからだ」と今度は広田先生が云つた。「あまり人通りが多過すぎるから不可いけない。山の上の淋しい所で、あゝいふ男に逢あつたら、誰だれでも遣やる気になるんだよ」

「其代り一日いちにち待まつてゐても、誰だれも通らないかも知れない」と野々宮はくす〱笑ひ出した。

三四郎は四人の乞食こじきに対する批評を聞いて、自分が今日迄養成した徳義上の観念を幾分か傷けられる様な気がした。けれども自分が乞食の前を通るとき、一銭も投なげてやる料簡が起らなかつたのみならず、実を云へば、寧ろ不愉快な感じが募つた事実を反省して見ると、自分よりも是等四人の方が却つて己れに誠まことであると思ひ付いた。又彼等は己れに誠まことであり得る程な広い天地の下したに呼吸する都会人種であるといふ事を悟つた。

五の六

行くに従つて人が多くなる。しばらくすると一人ひとりの迷子まひごに出逢つた。七つ許りの女の子である。泣なきながら、人の袖そでの下したを右へ行いつたり、左りへ行つたりうろ〱してゐる。御婆ばあさん、御婆ばあさんと無暗に云ふ。是には往来の人もみんな心を動かしてゐる様に見える。立ち留どまるものもある。可哀想だといふものもある。然し誰だれも手を付けない。小供は凡ての人の注意と同情を惹ひきつゝ、しきりに泣き号さけんで御婆さんを探さがしてゐる。不可思議の現象である。

「これも場所が悪わるい所為せゐぢやないか」と野々宮君が小供の影を見送りながら云つた。

「今に巡査が始末をつけるに極つてるから、みんな責任を逃れるんだね」と広田先生が説明した。

「私わたしの傍そば迄来くれば交番迄送つてやるわ」とよし子が云ふ。

「ぢや、追掛おつかけて行いつて、連つれて行いくがいゝ」と兄あにが注意した。

「追掛おつかけるのは厭いや」

「何故なぜ」

「何故なぜつて――こんなに大勢おほぜい人ひとがゐるんですもの。私わたしに限かぎつた事はないわ」

「矢っ張り責任を逃れるんだ」と広田がいふ。

「矢っ張り場所が悪わるいんだ」と野々宮がいふ。男は二人ふたりで笑つた。団子坂の上うへ迄来くると、交番の前へ人が黒山くろやまの様に集たかつてゐる。迷子まひごはとう〱巡査の手に渡つたのである。

「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて云つた。よし子は「まあ可よかつた」といふ。

坂の上から見ると、坂は曲まがつてゐる。刀かたなの切先きつさきの様である。幅は無論狭い。右側の二階建だてが左側の高い小屋こやの前を半分遮ぎつてゐる。其後うしろには又高い幟のぼりが何本となく立ててある。人ひとは急に谷底たにそこへ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這はい上あがるものと入り乱れて、路みち一杯に塞ふさがつてゐるから、谷の底にあたる所は幅はゞをつくして異様に動く。見てゐると眼めが疲つかれるほど不規則に蠢うごめいてゐる。広田先生は此坂の上うへに立つて、

「是は大変だ」と、さも帰りたさうである。四人はあとから先生を押す様にして、谷へ這入はいつた。其谷たにが途中からだら〱と向むかふへ廻まはり込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛よしずがけの小屋を、狭い両側から高く構へたので、空そらさへ存外窮屈に見える。往来は暗くらくなる迄込み合つてゐる。其中そのなかで木戸番が出来る丈大きな声を出す。「人間から出る声ぢやない。菊人形から出でる声だ」と広田先生が評した。それ程彼等の声は尋常を離れてゐる。

一行は左りの小屋へ這入つた。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着きてゐる。たゞし顔や手足は悉く木彫りである。其次は雪が降つてゐる。若い女が癪を起してゐる。是も人形の心しんに、菊を一面に這はせて、花と葉が平らに隙間すきまなく衣装の恰好となる様に作つたものである。

よし子は余念なく眺めてゐる。広田先生と野々宮君はしきりに話しを始めた。菊の培養法が違ふとか何とかいふ所で、三四郎は外ほかの見物けんぶつに隔へだてられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎より先さきにゐる。見物は概して町家のものである。教育のありさうなものは極めて少ない。美禰子は其間そのあひだに立つて、振り返つた。首くびを延のばして、野々宮のゐる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄てすりから出して、菊の根を指さしながら、何か熱心に説明してゐる。美禰子は又向むかふをむいた。見物に押されて、さつさと出口でぐちの方へ行く。三四郎は群集〔くん〕じゆルビの「〔くん〕じゆ」はママを押し分けながら、三人を棄てゝ、美禰子の後あとを追つて行つた。

五の七

漸くの事で、美禰子の傍そば迄来きて、

「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹の手欄てすりに手を突いて、心持こゝろもち首くびを戻もどして、三四郎を見た。何とも云はない。手欄てすりのなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に斧を指さした男が、瓢簟を持つて、滝壺の傍そばに跼かゞんでゐる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるか殆んど気が付かなかつた。

「どうかしましたか」と思はず云つた。美禰子はまだ何とも答へない。黒い眼を左〔さ〕も物憂ものうさうに三四郎の額ひたひの上うへに据ゑた。其時三四郎は美禰子の二重瞼ふたへまぶたに不可思議なある意味を認めた。其意味のうちには、霊れいの疲つかれがある。肉にくの弛ゆるみがある。苦痛に近き訴へがある。三四郎は、美禰子の答へを予期しつゝある今の場合を忘れて、此眸ひとみと此瞼まぶたの間に凡てを遺却した。すると、美禰子は云つた。

「もう出でませう」

眸ひとみと瞼まぶたの距離が次第に近づく様に見えた。近づくに従つて、三四郎の心には女の為ために出でなければ済まない気が萌きざして来きた。それが頂点に達した頃、女は首くびを投なげる様に向ふをむいた。手を青竹の手欄てすりから離はなして、出口でぐちの方へ歩あるいて行く。三四郎はすぐ後あとから跟ついて出でた。

二人ふたりが表てゞ並ならんだ時、美禰子は俯向うつむいて右の手を額ひたひに当あてた。周囲ゐは人が渦うづを捲まいてゐる。三四郎は女の耳へ口くちを寄せた。

「どうかしましたか」

女は人込ひとごみのなかを谷中やなかの方へ歩あるき出だした。三四郎も無論一所に歩あるき出した。半町ばかり来きた時、女は人ひとの中なかで留つた。

「此所こゝは何所どこでせう」

「此方こつちへ行くと谷中やなかの天王寺の方へ出でて仕舞ひます。帰かへり路みちとは丸で反対です」

「さう。私わたくし心持こゝろもちが悪わるくつて……」

三四郎は往来の真中まんなかで扶たすけなき苦痛を感じた。立つて考へてゐた。

「何所どこか静しづかな所はないでせうか」と女が聞いた。

谷中やなかと千駄木が谷たにで出逢ふと、一番低い所に小川が流れてゐる。此小川を沿ふて、町まちを左りへ切れるとすぐ野に出でる。河かはは真直に北へ通つてゐる。三四郎は東京へ来きてから何遍此小川の向側を歩あるいて、何遍此方こちら側を歩あるいたか善く覚えてゐる。美禰子の立つてゐる所は、此小川が、丁度谷中やなかの町を横切よこぎつて根津へ抜ける石橋の傍そばである。

「もう一町ばかり歩あるけますか」と美禰子に聞いて見た。

「歩あるきます」

二人ふたりはすぐ石橋いしばしを渡つて、左へ折れた。人ひとの家いへの路次ろじの様な所を十間程行き尽して、門の手前から板橋を此方側こちらがはへ渡り返して、しばらく河かはの縁ふちを上のぼると、もう人は通らない。広い野である。

三四郎は此静かな秋のなかへ出でたら、急に嘵舌しやべり出した。

「どうです具合は。頭痛でもしますか。あんまり人が大勢おほぜいゐた所為せゐでせう。あの人形を見てゐる連中のうちには随分下等なのがゐた様だから――何か失礼でもしましたか」

女は黙だまつてゐる。やがて河かはの流れから、眼を上あげて、三四郎を見た。二重瞼ふたへまぶたにはつきりと張はりがあつた。三四郎は其眼付で半ば安心した。

「難有〔ありがと〕う、大分好よくなりました」と云ふ。

「休みませうか」

「えゝ」

「もう少し歩あるけますか」

「えゝ」

「歩あるければ、もう少すこし御歩あるきなさい。此所こゝは汚きたない。彼所あすこ迄行くと丁度休むに好いい場所があるから」

「えゝ」

五の八

一丁許ばかり来きた。又橋がある。一尺に足らない古板ふるいたを造作さなく渡した上を、三四郎は大股またに歩あるいた。女もつゞいて通つた。待ち合せた三四郎の眼めには、女の足が常つねの大地を踏むと同じ様に軽く見えた。此女は素直すなほな足を真直まつすぐに前へ運はこぶ。わざと女らしく甘あまへた歩あるき方かたをしない。従つて無暗に此方こつちから手を貸す訳に行かない。

向ふに藁屋根がある。屋根の下したが一面に赤い。近寄つて見ると、唐辛子を干したのであつた。女は此赤いものが、唐辛子であると見分けのつく所迄来きて留とまつた。

「美うつくしい事」と云ひながら、草の上うへに腰を卸おろした。草は小河の縁ふちに僅かな幅はばを生はえてゐるのみである。夫すら夏の半なかばの様に青くはない。美禰子は派出な着物きものの汚よごれるのを、丸で苦にしてゐない。

「もう少し歩あるけませんか」と三四郎は立ちながら、促がす様に云つて見た。

「難有〔ありがと〕う。是で沢山」

「矢っ張り心持が悪わるいですか」

「あんまり疲つかれたから」

三四郎もとう〱汚きたない草の上に坐すはつた。美禰子と三四郎の間あひだは四尺許ばかり離れてゐる。二人ふたりの足あしの下したには小ちいさな河かはが流れてゐる。秋になつて水が落ちたから浅い。角かどの出でた石の上うへに鶺鴒が一羽とまつた位である。三四郎は水の中なかを眺ながめてゐた。水が次第に濁にごつて来くる。見ると河上かはかみで百姓が大根を洗つてゐた。美禰子の視線は遠くの向ふにある。向ふは広い畠で、畠の先さきが森で、森の上が空そらになる。空そらの色いろが段々変つて来くる。

たゞ単調に澄んでゐたものの中うちに、色が幾通りも出来できてきた。透すき徹とほる藍あゐの地ぢが消える様に次第に薄うすくなる。其上に白い雲が鈍にぶく重かさなりかゝる。重かさなつたものが溶けて流ながれ出だす。何所どこで地ぢが尽つきて、何所どこで雲くもが始まるか分わからない程に嬾ものうい上うへを、心持こゝろもち黄きな色がふうと一面にかゝつてゐる。

「空そらの色が濁にごりました」と美禰子が云つた。

三四郎は流れから眼めを放はなして、上うへを見た。かう云ふ空そらの模様を見たのは始めてゞはない。けれども空そらが濁にごつたといふ言葉を聞いたのは此時が始めてゞある。気が付いて見ると、濁にごつたと形容するより外に形容しかたのない色であつた。三四郎が何か答へやうとする前に、女は又言つた。

「重おもい事こと。大理石マーブルの様に見えます」

美禰子は二重瞼ふたへまぶたを細ほそくして高い所を眺ながめてゐた。それから、その細ほそくなつた儘の眼めを静しづかに三四郎の方に向けた。さうして、

「大理石マーブルの様に見えるでせう」と聞いた。三四郎は、

「えゝ、大理石マーブルの様に見えます」と答へるより外ほかはなかつた。女はそれで黙だまつた。しばらくしてから、今度は三四郎が云つた。

「かう云ふ空そらの下したにゐると、心こゝろが重おもくなるが気は軽くなる」

「どう云ふ訳ですか」と美禰子が問ひ返した。

三四郎には、どう云ふ訳もなかつた。返事はせずに、又かう云つた。

「安心して夢を見てゐる様な空そら模様だ」

「動く様で、なか〱動きませんね」と美禰子は又遠くの雲を眺ながめ出だした。

五の九

菊人形で客を呼ぶ声が、折々二人ふたりの坐すはつてゐる所迄聞える。

「随分大きな声ね」

「朝あさから晩迄あゝ云ふ声を出だしてゐるんでせうか。豪えらいもんだな」と云つたが、三四郎は急に置き去ざりにした三人さんにんの事を思ひ出だした。何か云はうとしてゐるうちに、美禰子は答へた。

「商買ですもの。丁度大おほ観音の乞食こじきと同おなじ事なんですよ」

「場所が悪わるくはないですか」

三四郎は珍らしく冗談を云つて、さうして一人ひとりで面白さうに笑つた。乞食に就て下した広田の言葉を余程可笑〔おか〕しく受けたからである。

「広田先生は、よく、あゝ云ふ事を仰おつしやる方かたなんですよ」と極めて軽く独り言ごとの様に云つたあとで、急に調子を更かへて、

「かう云ふ所に、かうして坐すはつてゐたら、大丈夫及第よ」と比較的活溌に付け加へた。さうして、今度は自分の方で面白さうに笑つた。

「成程野々宮さんの云つた通り、何時いつ迄待つてゐても誰だれも通りさうもありませんね」

「丁度好いいぢやありませんか」と早口はやくちに云つたが、後あとで「御貰もらひをしない乞食なんだから」と結んだ。是は前句の解釈の為めに付けた様に聞えた。

所へ知らん人ひとが突然あらはれた。唐辛子の干ほしてある家いへの影かげから出でて、何時いつの間まにか河を向へ渡つたものと見える。二人ふたりの坐すはつてゐる方へ段々だん〱近付いて来くる。洋服を着きて髯ひげを生はやして、年輩から云ふと広田先生位な男である。此男が二人ふたりの前へ来た時、顔かほをぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子を睨にらめ付けた。其眼めのうちには明あきらかに憎悪ぞうおの色がある。三四郎は凝じつと坐すはつてゐにくい程な束縛そくばくを感じた。男はやがて行き過すぎた。其後うしろ影を見送りながら、三四郎は、

「広田先生や野々宮さんは嘸さぞ後あとで僕等を探さがしたでせう」と始めて気が付いた様に云つた。美禰子は寧むしろ冷ひやゝかである。

「なに大丈夫よ。大きな迷子まひごですもの」

「迷子まひごだから探さがしたでせう」と三四郎は矢張り前説を主張した。すると美禰子は、なほ冷やかな調子で、

「責任を逃のがれたがる人だから、丁度好いいでせう」

「誰が? 広田先生がですか」

美禰子は答へなかつた。

「野々宮さんがですか」

美禰子は矢っ張り答へなかつた。

「もう気分は宜よくなりましたか。宜よくなつたら、そろ〱帰りませうか」

美禰子は三四郎を見た。三四郎は上あげかけた腰こしを又草の上うへに卸おろした。其時三四郎は此女にはとても叶かなはない様な気が何所どこかでした。同時に自分の腹はらを見抜みぬかれたといふ自覚に伴ともなふ一種の屈くつ辱をかすかに感じた。

「迷子まひご」

女は三四郎を見た儘で此一言ひとことを繰返くりかへした。三四郎は答へなかつた。

「迷子まひごの英訳を知つて入〔い〕らしつて」

三四郎は知るとも、知らぬとも云ひ得ぬ程に、此問とひを予期してゐなかつた。

「教へて上あげませうか」

「えゝ」

「迷へる子ストレイ、シープ――解わかつて?」

五の十

三四郎は斯〔こ〕う云ふ場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭あたまが冷ひやゝかに働き出した時、過去を顧みて、あゝ云へば好よかつた、斯かうすれば好よかつたと後悔する。と云つて、此後悔を予期よきして、無理に応急の返事を、左も自然らしく得意に吐はき散らす程に軽薄ではなかつた。だから只たゞ黙だまつてゐる。さうして黙だまつてゐる事が如何にも半間はんまであると自覚してゐる。

迷へる子ストレイ、シープといふ言葉は解わかつた様でもある。又解わからない様でもある。解わかる解わからないは此言葉の意味よりも、寧ろ此言葉を使つかつた女の意味である。三四郎はいたづらに女の顔を眺めて黙つてゐた。すると女は急に真面目まじめになつた。

「私わたくしそんなに生なま意気に見えますか」

其調子には弁解の心持がある。三四郎は意外の感に打たれた。今迄は霧の中なかにゐた。霧が晴れゝば好いいと思つてゐた。此言葉で霧きりが晴れた。明瞭な女が出でて来た。晴れたのが恨めしい気がする。

三四郎は美禰子の態度を故もとの様な、――二人ふたりの頭あたまの上うへに広ひろがつてゐる、澄むとも濁るとも片付かたづかない空そらの様な、――意味のあるものにしたかつた。けれども、それは女の機嫌を取るための挨拶位で戻もどせるものではないと思つた。女は卒然として、

「ぢや、もう帰りませう」と云つた。厭味いやみのある言ひ方かたではなかつた。たゞ三四郎にとつて自分は興味のないものと諦あきらめた様に静しづかな口調であつた。

空そらは又変かはつて来きた。風が遠くから吹いてくる。広い畠はたけの上うへには日が限かぎつて、見てゐると、寒い程淋しい。草くさからあがる地意気ぢいきで身体からだは冷ひえてゐた。気が付けば、こんな所に、よく今迄べつとり坐すはつて居られたものだと思ふ。自分一人ひとりならとうに何所どこかへ行いつて仕舞つたに違ちがひない。美禰子も――美禰子はこんな所へ坐すはる女かも知れない。

「少し寒さむくなつた様ですから、兎に角立ちませう。冷えると毒だ。然し気分はもう悉皆すつかり直なほりましたか」

「えゝ、悉皆すつかり直なほりました」と明あきらかに答へたが、俄〔にわ〕かに立ち上あがつた。立ち上あがる時、小さな声で、独り言ごとの様に、

「迷へる子ストレイ、シープ」と長く引つ張ぱつて云つた。三四郎は無論答へなかつた。

美禰子は、さつき洋服を着た男の出て来きた方角を指さして、道みちがあるなら、あの唐辛子の傍そばを通つて行きたいといふ。二人ふたりは、その見当へ歩あるいて行つた。藁葺わらぶきの後うしろに果して細ほそい三尺程の路みちがあつた。其路みちを半分程来きた所で三四郎は聞いた。

「よし子さんは、あなたの所へ来くる事に極きまつたんですか」

女は片頬かたほゝで笑つた。さうして問返した。

「何故なぜ御聞きになるの」

三四郎が何か云はうとすると、足の前に泥濘ぬかるみがあつた。四尺許りの所、土が凹へこんで水がぴた〱に溜たまつてゐる。其真中まんなかに足掛りの為に手頃てごろな石を置いたものがある。三四郎は石の扶たすけを藉からずに、すぐに向へ飛んだ。さうして美禰子を振り返つて見た。美禰子は右の足を泥濘ぬかるみの真中まんなかにある石の上へ乗せた。石の据すわりがあまり善よくない。足あしへ力を入れて、肩を揺ゆすつて調子を取つてゐる。三四郎は此方側こちらがはから手を出した。

「御捕おつかまりなさい」

「いえ大丈夫」と女は笑つてゐる。手を出してゐる間は、調子を取る丈で渡らない。三四郎は手を引込めた。すると美禰子は石の上にある右みぎの足に、身体からだの重みを托して、左の足でひらりと此方側こちらがはへ渡つた。あまりに下駄を汚よごすまいと念を入れ過ぎた為め、力が余つて、腰が浮ういた。のめりさうに胸が前へ出る。其勢いきほいで美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。

「迷へる子ストレイ、シープ」と美禰子が口くちの内うちで云つた。三四郎は其呼吸いきを感ずる事が出来た。

六の一

号鐘ベルが鳴なつて、講師は教室から出でて行つた。三四郎は印気いんきの着いた洋筆ペンを振ふつて、帳面ノートを伏ふせ様とした。すると隣りにゐた与次郎が声を掛けた。

「おい一寸ちよつと借かせ。書かき落おとした所がある」

与次郎は三四郎の帳面ノートを引き寄せて上うへから覗き込んだ。strayストレイ sheepシープ といふ字が無暗〔むやみ〕にかいてある。

「何なんだこれは」

「講義を筆記するのが厭いやになつたから、いたづらを書いてゐた」

「さう不勉強では不可いかん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか云つたな」

「どうだとか云つた」

「聞いてゐなかつたのか」

「いゝや」

「全然 strayストレイ sheepシープ だ。仕方がない」

与次郎は自分の帳面ノートを抱かゝへて立ち上あがつた、机の前を離れながら、三四郎に、

「おい一寸ちよつと来こい」と云ふ。三四郎は与次郎に跟ついて教室を出た。階子段を降おりて、玄関前の草原へ来きた。大きな桜がある。二人ふたりは其下したに坐つた。

此所こゝは夏の初めになると苜蓿うまこやしが一面に生える。与次郎が入学願書を持つて事務へ来きた時に、此桜の下したに二人ふたりの学生が寐転ねころんでゐた。其一人ひとりが一人ひとりに向つて、口答試験を都々逸で負けて置いて呉れると、いくらでも唄うたつて見せるがなと云ふと、一人ひとりが小こ声で、粋〔すい〕な捌〔さば〕きの博士の前で、恋こひの試験がして見たいと唄うたつてゐた。其時から与次郎は此桜の木の下したが好すきになつて、何か事があると、三四郎を此所こゝへ引張り出だす。三四郎は其歴史を与次郎から聞いた時に、成程与次郎は俗謡で pity'sピチーズ loveラツヴ を訳す筈だと思つた。今日けふは然し与次郎が事の外真面目まじめである。草の上に胡坐あぐらをかくや否や、懐中から、文芸時評といふ雑誌を出だして開あけた儘の一頁ページを逆さかに三四郎の方へ向けた。

「どうだ」と云ふ。見ると標題に大きな活字で「偉大なる暗闇くらやみ」とある。下したには零余子〔れいよし〕と雅号を使つかつてゐる。偉大なる暗闇くらやみとは与次郎がいつでも広田先生を評する語で、三四郎も二三度聞かされたものである。然し零余子は全く知らん名である。どうだと云はれた時に、三四郎は、返事をする前提として一先づ与次郎の顔を見た。すると与次郎は何にも云はずに其扁平な顔を前へ出して、右の人指さし指ゆびの先さきで、自分の鼻の頭あたまを抑へて凝じつとしてゐる。向に立つてゐた一人ひとりの学生が、此様子を見てにや〱笑ひ出した。それに気が付いた与次郎は漸く指ゆびを鼻から放はなした。

「己おれが書かいたんだ」と云ふ。三四郎は成程さうかと悟つた。

「僕等が菊細工を見に行く時書かいてゐたのは、是これか」

「いや、ありや、たつた二三日前ぢやないか。さう早く活版になつて堪たまるものか。あれは来月出でる。これは、ずつと前に書いたものだ。何を書いたものか標題で解るだらう」

「広田先生の事か」

「うん。かうして輿論〔よろん〕を喚起して置いてね。さうして、先生が大学に這入れる下地したぢを作つくる……」

「其雑誌はそんなに勢力のある雑誌か」

三四郎は雑誌の名前さへ知らなかつた。

「いや無勢力だから、実は困る」と与次郎は答へた。三四郎は微笑わらはざるを得なかつた。

「何部位売れるのか」

与次郎は何部売れるとも云はない。

「まあ好いいさ。書かゝんより増しだ」と弁解してゐる。

六の二

段々聞いて見ると、与次郎は従来から此雑誌に関係があつて、閑暇ひまさへあれば殆んど毎号筆を執つてゐるが、其代り雅名も毎号変へるから、二三の同人の外ほか、誰だれも知らないんだと云ふ。成程さうだらう。三四郎は今始めて、与次郎と文壇との交渉を聞いた位のものである。然し与次郎が何の為ために、悪戯いたづらに等しい慝名〔とくめい〕を用ひて、彼の所謂〔いわゆる〕大論文をひそかに公けにしつつあるか、其所そこが三四郎には分わからなかつた。

幾分か小遣取こづかひどりの積で、遣やつてゐる仕事かと無遠慮に尋ねた時、与次郎は眼めを丸まるくした。

「君は九州の田舎から出た許だから、中央文壇の趨勢を知らない為に、そんな呑気な事を云ふのだらう。今の思想界の中心に居て、その動揺のはげしい有様を目撃しながら、考のあるものが知らん顔をしてゐられるものか。実際今日こんにちの文権けんは全く吾〻われ〱青年の手にあるんだから、一言でも半句でも進んで云へる丈云はなけりや損ぢやないか。文壇は急転直下の勢で目覚しい革命を受けてゐる。凡てが悉く揺〔うご〕いて、新気運に向つて行くんだから、取り残されちや大変だ。進んで自分から此気運を拵〔こし〕らへ上あげなくつちや、生きてる甲斐はない。文学々々つて安やすつぽい様に云ふが、そりや大学なんかで聞く文学の事だ。新らしい吾々の所謂〔いわゆる〕文学は、人生そのものゝ大反射だ。文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。又現にしつゝある。彼等が昼寐をして夢を見てゐる間まに、何時いつか影響しつゝある。恐ろしいものだ。……」

三四郎は黙だまつて聞いてゐた。少し法螺の様な気がする。然し法螺でも与次郎は中々熱心に吹いてゐる。すくなくとも当人丈は至極真面目らしく見える。三四郎は大分動かされた。

「さう云ふ精神でやつてゐるのか。では君は原稿料なんか、どうでも構はんのだつたな」

「いや、原稿料は取るよ。取れる丈取る。然し雑誌が売れないから中々寄よこさない。どうかして、もう少し売れる工夫をしないと不可いけない。何か好いい趣向はないだらうか」と今度は三四郎に相談を掛けた。話はなしが急に実際問題に落ちて仕舞つた。三四郎は妙な心持がする。与次郎は平気である。号鐘ベルが烈しく鳴り出した。

「兎も角此雑誌を一部君にやるから読んで見てくれ。偉大なる暗闇くらやみと云ふ題が面白いだらう。此題だいなら人が驚ろくに極つてゐる。――驚ろかせないと読まないから駄目だ」

二人ふたりは玄関を上のぼつて、教室へ這入つて、机に着いた。やがて先生が来くる。二人ふたりとも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇くらやみ」が気にかかるので、帳面ノートの傍わきに文芸時評を開あけた儘、筆記の相間あひま々々に、先生に知れない様に読み出した。先生は幸ひ近眼である。のみならず自己の講義のうちに全然埋没してゐる。三四郎の不心得ふこゝろえには丸で関係しない。三四郎は好いい気になつて、此方こつちを筆記したり、彼方あつちを読んだりして行つたが、もと〱二人ふたりでする事を一人ひとりで兼かねる無理な芸だから仕舞には「偉大なる暗闇くらやみ」も講義の筆記も双方ともに関係が解からなくなつた。たゞ与次郎の文章が一句丈判然はつきり頭あたまへ這入つた。

「自然は宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。又此宝石が採掘の運に逢ふ迄に、幾年の星霜を静しづかに輝かゞやいてゐたか」といふ句である。其他は不得要領に終つた。其代り此時間には stray sheepストレイ、シープ といふ字を一つも書かかずに済んだ。

六の三

講義が終るや否や、与次郎は三四郎に向つて、

「どうだ」と聞いた。実はまだ善く読まないと答へると、時間の経済を知らない男だといつて非難した。是非読めといふ。三四郎は家うちへ帰つて是非読むと約束した。やがて午ひるになつた。二人ふたりは連つれ立だつて門を出た。

「今晩出席するだらうな」と与次郎が西片町へ這入はいる横町の角かどで立たち留どまつた。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れてゐた。漸く思ひ出だして、行く積りだと答へると、与次郎は、

「出でる前に一寸ちよつと誘さそつて呉れ。君に話す事がある」と云ふ。耳みゝの後うしろへ洋筆軸ペンじくを挟はさんでゐる。何となく得意である。三四郎は承知した。

下宿へ帰つて、湯に入つて、好い心持になつて上あがつて見ると、机の上うへに絵端書がある。小川おがはを描かいて、草をもぢや〱生はやして、其縁そのふちに羊ひつじを二匹寐ねかして、其向ふ側がはに大きな男が洋杖ステツキを持つて立つてゐる所を写したものである。男の顔かほが甚だ獰猛に出来てゐる。全く西洋の絵にある悪魔デヸルを模もしたもので、念の為め、傍そばにちやんとデヸルと仮名が振つてある。表は三四郎の宛名の下したに、迷へる子と小ちいさく書かいた許である。三四郎は迷へる子の何者かをすぐ悟つた。のみならず、端書はがきの裏うらに、迷へる子を二匹描かいて、其一匹を暗に自分に見立てゝ呉れたのを甚だ嬉うれしく思つた。迷へる子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとより這入つてゐたのである。それが美禰子の思おもはくであつたと見える。美禰子の使つた strayストレイ sheepシープ の意味が是これで漸く判然した。

与次郎に約束した「偉大なる暗闇くらやみ」を読まうと思ふが、一寸ちよつと読む気にならない。しきりに絵端書を眺めて考へた。イソツプにもない様な滑稽趣味がある。無邪気にも見える。洒落でもある。さうして凡ての下したに、三四郎の心を動かすあるものがある。

手際てぎはから云つても敬服の至である。諸事明瞭に出来上てゐる。よし子の描かいた柿の木の比ではない。――と三四郎には思はれた。

しばらくしてから、三四郎は漸く「偉大なる暗闇くらやみ」を読み出した。実はふわ〱して読み出したのであるが、二三頁来くると、次第に釣り込まれる様に気が乗つてきて、知らず〱の間まに、五頁六頁と進んで、ついに二十七頁の長論文を苦もなく片付けた。最後さいごの一句を読了した時、始めて是で仕舞だなと気が付いた。眼めを雑誌から離して、あゝ読んだなと思つた。

然し次つぎの瞬間に、何を読んだかと考へて見ると、何にもない。可笑おかしい位何にもない。たゞ大いに且〔か〕つ熾〔さか〕んに読んだ気がする。三四郎は与次郎の技倆に感服した。

論文は現今の文学者の攻撃に始まつて、広田先生の讃辞に終つてゐる。ことに大学文科の西洋人を手痛く罵倒してゐる。早く適当の日本人を招聘して、大学相当の講義を開かなくつては、学問の最高府たる大学も昔の寺小屋同然の有様になつて、錬瓦石のミイラと撰ぶ所がない様になる。尤も人がなければ仕方がないが、こゝに広田先生がある。先生は十年一日の如く高等学校に教鞭を執つて、薄給と無名に甘んじて居る。然し真正の学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である。――煎じ詰めると是丈であるが、其是丈が、非常に尤もらしい口吻〔こうふん〕と、燦爛たる警句とによつて前後二十七頁に延長してゐる。

その中なかには「禿はげを自慢にするものは老人に限る」とか「ヸーナスは波なみから生れたが、活眼の士は大学から生れない」とか「博士を学界の名産と心得るのは、海月くらげを田子の浦の名産と考へる様なものだ」とか色々面白い句が沢山ある。然しそれより外ほかに何にもない。殊に妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇くらやみに喩〔たと〕へた序に、他ほかの学者を丸行燈に比較して、たか〲方二尺位の所をぼんやり照らすに過ぎない抔と、自分が広田から云はれた通りを書いてゐる。さうして、丸行燈だの雁首抔は凡て旧時代の遺物で吾々青年には全く無用であると、此間このあひだの通りわざ〱断わつてある。

六の四

能〔よ〕く考へて見ると、与次郎の論文には活気がある。如何にも自分一人ひとりで新日本を代表してゐる様であるから、読んでゐるうちは、つい其気になる。けれども全く味みがない。根拠地のない戦争の様なものである。のみならず悪わるく解釈すると、政略的の意味もあるかも知れない書方かきかたである。田舎者ものの三四郎にはてつきり其所そこと気取けどる事は出来なかつたが、たゞ読んだあとで、自分の心を探さぐつて見て何所どこかに不満足がある様に覚えた。また美禰子の絵端書を取つて、二匹の羊と例の悪魔デヸルを眺め出した。すると、此方こつちのほうは万事が快感である。此快感につれて前の不満足は益著いちぢるしくなつた。それで論文の事はそれぎり考へなくなつた。美禰子に返事を遣やらうと思ふ。不幸にして絵がかけない。文章にしやうと思ふ。文章なら此絵端書に匹敵する文句でなくつては不可いけない。それは容易に思ひ付つけない。愚図々々してゐるうちに四時過になつた。

袴を着けて、与次郎を誘さそひに、西片町へ行く。勝手口ぐちから這入ると、茶の間まに、広田先生が小さな食卓を控へて、晩食ばんめしを食つてゐた。傍そばに与次郎が畏かしこまつて御給仕をしてゐる。

「先生何どうですか」と聞いてゐる。

先生は何か硬かたいものを頬張つたらしい。食卓の上うへを見ると、袂たもと時計程な大きさの、赤くつて黒くつて、焦こげたものが十ばかり皿の中なかに並んでゐる。

三四郎は座に着いた。礼をする。先生は口くちをもが〱させる。

「おい君も一つ食くつて見ろ」と与次郎が箸はしで撮つまんで出だした。掌てのひらへ載せて見ると、馬鹿貝の剥身むきみの干ほしたのをつけ焼やきにしたのである。

「妙なものを食くふな」と聞くと、

「妙なものつて、旨うまいぜ食くつて見ろ。是これはね、僕がわざ〱先生に見舞みやげに買つて来きたんだ。先生はまだ、これを食くつた事がないと仰おつしやる」

「何所どこから」

「日本橋から」

三四郎は可笑おかしくなつた。かう云ふ所になると、さつきの論文の調子とは少し違ふ。

「先生、どうです」

「硬かたいね」

「硬かたいけれども旨うまいでせう。よく噛かまなくつちや不可いけません。噛かむと味あぢが出でる」

「味あぢが出でる迄噛かんでゐちや、歯はが疲れて仕舞ふ。何でこんな古風なものを買つて来きたものかな」

「不可いけませんか。こりや、ことによると先生には駄目かも知れない。里見の美禰子さんなら可いいだらう」

「何故なぜ」と三四郎が聞いた。

「あゝ落ち付いてゐりや、味あぢの出でる迄屹度噛かんでるに違ない」

「あの女は落ち付いて居て、乱暴だ」と広田が云つた。

「えゝ乱暴です。イブセンの女の様な所がある」

「イブセンの女は露骨だが、あの女は心しんが乱暴だ。尤も乱暴と云つても、普通の乱暴とは意味が違ちがふが。野々宮の妹の方が、一寸見ると乱暴の様で、矢っ張り女らしい。妙なものだね」

「里見のは乱暴の内訌〔ないこう〕ですか」

三四郎は黙つて二人ふたりの批評を聞いてゐた。何方どつちの批評も腑に落ちない。乱暴といふ言葉が、どうして美禰子の上に使つかへるか、それからが第一不思議であつた。

六の五

与次郎はやがて、袴はかまを穿はいて、改まつて出て来きて、

「一寸ちよつと行いつて参ります」と云ふ。先生は黙だまつて茶を飲んでゐる。二人ふたりは表へ出でた。表おもてはもう暗くらい。門を離れて二三間来くると、三四郎はすぐ話しかけた。

「先生は里見の御嬢さんを乱暴だと云つたね」

「うん。先生は勝手な事をいふ人だから、時と場合によると何でも云ふ。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女に於る知識は恐らく零れいだらう。ラツヴをした事がないものに女が分わかるものか」

「先生はそれで可いいとして、君は先生の説に賛成したぢやないか」

「うん乱暴だと云つた。何是なぜ」

「何どう云ふ所を乱暴と云ふのか」

「何どう云ふ所も、斯〔こ〕う云ふ所もありやしない。現代の女性はみんな乱暴に極つてる。あの女ばかりぢやない」

「君はあの人をイブセンの人物に似てゐると云つたぢやないか」

「云つた」

「イブセンの誰だれに似て居る積なのか」

「誰だれつて……似てゐるよ」

三四郎は無論納得しない。然し追窮もしない。黙だまつて一間許〔ばかり〕歩あるいた。すると突然与次郎がかう云つた。

「イブセンの人物に似てゐるのは里見の御嬢さん許ぢやない、今の一般の女性はみんな似てゐる。女性ばかりぢやない。苟〔いや〕しくも新らしい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似た所がある。たゞ男も女もイブセンの様に自由行動を取らない丈だ。腹のなかでは大抵かぶれてゐる」

「僕はあんまり、かぶれてゐない」

「ゐないと自みづから欺〔あざ〕むいてゐるのだ。――どんな社会だつて陥欠のない社会はあるまい」

「それは無ないだらう」

「無いとすれば、その中なかに生息してゐる動物は何所どこかに不足を感かんじる訳だ。イブセンの人物は、現代社会制度の陥欠を尤も明らかに感じたものだ。吾々も追々あゝ成なつて来くる」

「君はさう思ふか」

「僕ばかりぢやない。具眼の士はみんなさう思つてゐる」

「君の家うちの先生もそんな考か」

「うちの先生? 先生は解わからない」

「だつて、先刻さつき里見さんを評して、落ち付いてゐて乱暴だと云つたぢやないか。それを解釈して見ると、周囲に調和して行けるから、落ち付いてゐられるので、何所どこかに不足があるから、底そこの方が乱暴だと云ふ意味ぢやないのか」

「成程。――先生は偉えらい所があるよ。あゝいふ所へ行くと矢っ張り偉えらい」と与次郎は急に広田先生を賞ほめ出した。三四郎は美禰子の性格に就てもう少し議論の歩を進めたかつたのだが、与次郎の此一言で全くはぐらかされて仕舞つた。すると与次郎が云つた。

「実は今日けふ君に用があると云つたのはね。――うん、夫より前に、君あの偉大なる暗闇くらやみを読んだか。あれを読んで置かないと僕の用事が頭あたまへ這入り悪にくい」

「今日けふあれから家うちへ帰つて読よんだ」

「どうだ」

「先生は何と云つた」

「先生は読むものかね。丸で知りやしない」

「さうさな。面白い事は面白いが、――何だか腹の足たしにならない麦酒ビールを飲んだ様だね」

「それで沢山だ。読んで景気が付きさへすれば可いい。だから慝名にしてある。どうせ今は準備時代だ。かうして置いて、丁度宜〔い〕い時分に、本名を名乗つて出でる。――夫それは夫それとして、先刻さつきの用事を話して置かう」

六の六

与次郎の用事といふのは斯かうである。――今夜の会で自分達の科の不振の事をしきりに慨嘆するから、三四郎も一所に慨嘆しなくつては不可いけないんださうだ。不振は事実であるから外ほかのものも慨嘆するに極つてゐる。それから、大勢おほぜい一所に挽回策を講ずる事となる。何しろ適当な日本人を一人ひとり大学へ入れるのが急務だと云ひ出だす。みんなが賛成する。当然だから賛成するのは無論だ。次に誰だれが好よからうといふ相談に移る。其時広田先生の名を持ち出す。其時三四郎は与次郎に口を添えて極力先生を賞賛しろと云ふ話はなしである。さうしないと、与次郎が広田の食客ゐさうらふだといふ事を知つてゐるものが疑うたがひを起さないとも限らない。自分は現げんに食客ゐさうらふなんだから、どう思はれても構はないが、万一煩ひが広田先生に及ぶ様では済まん事になる。尤も外に同志が三四人はゐるから、大丈夫だが、一人ひとりでも味方は多い方が便利だから、三四郎も成るべく嘵舌しやべるに若〔し〕くはないとの意見である。偖愈〔さていよいよ〕衆議一決の暁には、総代を撰んで学長の所へ行く、又総長の所へ行く。尤も今夜中に其所迄そこまでは運ばないかも知れない。又運ぶ必要もない。其辺は臨機応変である。……

与次郎は頗る能弁である。惜しい事に其能弁がつる〱してゐるので重みがない。ある所へ行くと冗談を真面目まじめに講釈してゐるかと疑はれる。けれども本来が性質たちの好いい運動だから、三四郎も大体の上うへに於て賛成の意を表した。たゞ其方法が少しく細工に落ちて面白くないと云つた。其時与次郎は往来の真中まんなかへ立ち留つた。二人ふたりは丁度森川町の神社の鳥居の前にゐる。

「細工に落ちると云ふが、僕のやる事は、自然の手順が狂はない様にあらかじめ人力じんりよくで装置をする丈だ。自然に背いた没分暁〔ぼつぶんぎょう〕の事を企てるのとは質たちが違ふ。細工だつて構はん。細工が悪わるいのではない。悪わるい細工が悪わるいのだ」

三四郎はぐうの音ねも出でなかつた。何だか文句がある様だけれども、口くちへ出でて来ない。与次郎の言草いひぐさのうちで、自分がいまだ考へてゐなかつた部分丈が判然はつきり頭あたまへ映うつつてゐる。三四郎は寧ろ其方に感服した。

「それもさうだ」と頗る曖昧な返事をして、又肩を並べて歩あるき出だした。正門を這入ると、急に眼めの前まへが広くなる。大きな建物が所々ところ〲に黒く立つてゐる。其屋根やねが判然はつきり尽きる所ところから明あきらかな空そらになる。星が夥〔おびただ〕しく多い。

「うつくしい空そらだ」と三四郎が云つた。与次郎も空そらを見ながら、一間許〔ばかり〕歩あるいた。突然、

「おい、君」と三四郎を呼んだ。三四郎は又さつきの話しの続つゞきかと思つて、「なんだ」と答へた。

「君、かう云ふ空そらを見て何どんな感じを起す」

与次郎に似合はぬ事を云つた。無限とか永久とかいふ持ち合せの答へはいくらでもあるが、そんな事を云ふと与次郎に笑はれると思つて、三四郎は黙だまつてゐた。

「詰らんなあ我々は。あしたから、斯〔こ〕んな運動をするのはもう已めにしやうか知ら。偉大なる暗闇を書いても何の役にも立ちさうにもない」

「何故なぜ急にそんな事を云ひ出だしたのか」

「此空そらを見ると、さう云ふ考になる。――君、女に惚れた事があるか」

三四郎は即答が出来なかつた。

「女は恐ろしいものだよ」と与次郎が云つた。

「恐ろしいものだ、僕も知つてゐる」と三四郎も云つた。すると与次郎が大きな声で笑ひ出した。静かな夜よるの中なかで大変高く聞える。

「知りもしない癖に。知りもしない癖に」

三四郎は憮然としてゐた。

「明日あすも好いい天気だ。運動会は仕合せだ。奇麗な女が沢山来くる。是非見にくるがいゝ」

暗くらい中なかを二人ふたりは学生集会所の前迄来きた。中なかには電燈が輝やいてゐる。

六の七

木造もくぞうの廊下を回まはつて、部屋へやへ這入ると、早く来きたものは、もう塊かたまつてゐる。其塊かたまりが大きいのと小ちいさいのと合あはせて三つ程ある。中なかには無言で備付そなへつけの雑誌や新聞を見ながら、わざと列を離れてゐるのもある。話はなしは方々ほう〲に聞える。話の数かずは塊かたまりの数より多い様に思はれる。然し割合に落付いて静かである。烟草たばこの烟けむりの方が猛烈に立ち上のぼる。

其中そのうちだん〱寄よつて来くる。黒い影かげが闇やみの中なかから吹き曝さらしの廊下の上うへへ、ぽつりと現はれると、それが一人ひとり々々に明あかるくなつて、部屋の中なかへ這入つて来くる。時ときには五六人続つゞけて、明あかるくなる事もある。やがて人数は略ほゞ揃つた。

与次郎は、さつきから、烟草の烟けむりの中なかを、しきりに彼方此方あちこちと往来してゐた。行ゆく所で何か小声に話はなしてゐる。三四郎は、そろ〱運動を始めたなと思つて眺めて居た。

しばらくすると幹事が大きな声で、みんなに席へ着けと云ふ。食卓は無論前から用意が出来てゐた。みんな、ごた〱に席へ着いた。順序も何もない。食事は始まつた。

三四郎は熊本で赤酒許あかざけばかり飲んでゐた。赤酒あかざけといふのは、所ところで出来できる下等な酒である。熊本の学生はみんな赤酒あかざけを呑む。それが当然と心得てゐる。たま〱飲食店へ上あがれば牛肉屋である。その牛肉屋の牛が馬肉かも知れないといふ嫌疑がある。学生は皿に盛つた肉を手攫てづかみにして、座敷の壁かべへ抛たゝき付ける。落ちれば牛肉で、貼付ひつつけば馬肉だといふ。丸で呪まじなひ見た様な事をしてゐた。其三四郎に取つて、かう云ふ紳士的な学生親睦会は珍らしい。悦よろこんで肉刀ナイフと肉叉フオークを動かしてゐた。其間あひだには麦酒ビールをさかんに飲んだ。

「学生集会所の料理は不味まづいですね」と三四郎の隣りに坐つた男が話しかけた。此男は頭あたまを坊主に刈つて、金縁きんぶちの眼鏡めがねを掛けた大人しい学生であつた。

「さうですな」と三四郎は生なま返事をした。相手が与次郎なら、僕の様な田舎者いなかものには非常に旨うまいと正直な所をいふ筈であつたが、其正直が却つて皮肉に聞えると悪わるいと思つて已めにした。すると其男が、

「君は何所どこの高等学校ですか」と聞き出した。

「熊本です」

「熊本ですか。熊本には僕の従弟も居たが、随分ひどい所ださうですね」

「野蛮な所です」

二人ふたりが話してゐると、向むかふの方で、急に高い声がし出した。見ると与次郎が隣席の二三人にんを相手に、しきりに何か弁じてゐる。時々とき〲ダーター、フアブラと云ふ。何の事だか分らない。然し与次郎の相手は、此言葉を聞くたびに笑ひ出だす。与次郎は益得意になつて、ダーター、フアブラ我々新時代の青年は……とやつてゐる。三四郎の筋向に坐すはつてゐた色の白い品の好いい学生が、しばらく肉刀ナイフの手を休やめて、与次郎の連中を眺めてゐたが、やがて笑ひながら、Ilイル aア leル diableデイアブル auオー corpsコル(悪魔が乗り移つてゐる)と冗談半分に仏蘭西〔フランス〕語を使つた。向ふの連中には全く聞えなかつたと見えて、此時麦酒ビールの洋盃コツプが四つ許ばかり一度に高く上あがつた。得意さうに祝盃を挙げてゐる。

「あの人は大変賑やかな人ですね」と三四郎の隣となりの金縁眼鏡を掛けた学生が云つた。

「えゝ。よく嘵舌しやべります」

「僕はいつか、あの人に淀見軒でライスカレーを御馳走になつた。丸で知らないのに、突然来きて君淀見軒へ行かうつて、とう〱引張つて行つて……」

学生はハヽヽと笑つた。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーを御馳走になつたものは自分ばかりではないんだなと悟つた。

六の八

やがて咖啡〔コーヒー〕が出でる。一人ひとりが椅子を離れて立つた。与次郎が烈はげしく手を敲たゝくと、他ほかのものも忽〔たちま〕ち調子を合せた。

立つたものは、新らしい黒の制服を着て、鼻の下したにもう髭ひげを生はやしてゐる。脊せいが頗る高い。立つには恰好の好いい男である。演説めいた事を始めた。

我々が今夜此所こゝへ寄つて、懇親の為めに、一夕の歓をつくすのは、それ自身に於て愉快な事であるが、此懇親が単に社交上の意味ばかりでなく、それ以外に一種重要な影響を生じ得ると偶然ながら気が付いたら自分は立ちたくなつた。此会合は麦酒ビールに始つて咖啡に終つてゐる。全く普通の会合である。然し此麦酒ビールを飲んで咖啡を飲んだ四十人近くの人間は普通の人間ではない。しかも其麦酒ビールを飲み始めてから咖啡を飲み終る迄の間に既に自己の運命の膨脹を自覚し得た。

政治の自由を説いたのは昔の事である。言論の自由を説いたのも過去の事である。自由とは単に是等の表面にあらはれ易い事実の為めに専有されべき言葉ではない。吾等新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信ずる。

吾々は旧ふるき日本の圧迫に堪へ得ぬ青年である。同時に新らしき西洋の圧迫にも堪へ得ぬ青年であるといふ事を、世間に発表せねば居られぬ状況の下もとに生きて居る。新らしき西洋の圧迫は社会の上に於ても文芸の上うへに於ても、我等新時代の青年に取つては旧き日本の圧迫と同じく、苦痛である。

我々は西洋の文芸を研究するものである。然し研究は何所どこ迄も研究である。その文芸のもとに屈従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文芸に囚はれんが為に、これを研究するのではない。囚はれたる心を解脱せしめんが為に、これを研究してゐるのである。此方便に合〔がっ〕せざる文芸は如何なる威圧の下もとに強ひらるゝとも学ぶ事を敢〔あえ〕てせざるの自信と決心とを有して居る。

我々は此自信と決心とを有するの点に於て普通の人間とは異つてゐる。文芸は技術でもない、事務でもない。より多く人生の根本義に触れた社会の原動力である。我々は此意味に於て文芸を研究し、此意味に於て如上〔じょじょう〕の自信と決心とを有し、此意味に於て今夕の会合に一般以上の重大なる影響を想見するのである。

社会は烈しく揺うごきつゝある。社会の産物たる文芸もまた揺きつゝある。揺うごく勢いきほひに乗じて、我々の理想通りに文芸を導くためには、零砕なる個人を団結して、自己の運命を充実し発展し膨脹しなくてはならぬ。今夕の麦酒ビールと咖啡は、かゝる隠れたる目的を、一歩前まへに進めた点に於て、普通の麦酒ビールと咖啡よりも百倍以上の価ある貴とき麦酒と咖啡である。

演説の意味はざつと斯〔こ〕んなものである。演説が済んだ時、席に在つた学生は悉く喝采した。三四郎は尤も熱心なる喝采者の一人ひとりであつた。すると与次郎が突然立つた。

「ダーターフアブラ、沙翁シエクスピヤの使つた字数じかずが何万字だの、イブセンの白髪しらがの数かずが何千本ぼんだのと云つてたつて仕方がない。尤もそんな馬鹿げた講義を聞いたつて囚はれる気遣づかひはないから大丈夫だが、大学に気の毒で不可いけない。どうしても新時代の青年を満足させる様な人間を引張つて来こなくつちや。西洋人ぢや駄目だ。第一幅が利かない。……」

満堂は又悉く喝采した。さうして悉く笑つた。与次郎の隣りにゐたものが、

「ダーターフアブラの為に祝盃を挙げやう」と云ひ出した。さつき演説をした学生がすぐに賛成した。生憎麦酒ビールがみな空からである。よろしいと云つて与次郎はすぐ台所の方へ馳けて行つた。給仕が酒を持つて出る。祝盃を挙げるや否や、

「もう一つ。今度は偉大なる暗闇くらやみの為に」と云つたものがある。与次郎の周囲にゐたものは声を合して、アハヽヽヽと笑つた。与次郎は頭あたまを掻かいてゐる。

散会の時刻が来きて、若い男がみな暗くらい夜よるの中なかに散つた時に、三四郎が与次郎に聞いた。

「ダーターフアブラとは何の事だ」

「希臘ギリシヤ語だ」

与次郎はそれより外ほかに答へなかつた。三四郎も夫より外ほかに聞かなかつた。二人ふたりは美うつくしい空そらを戴いて家いへに帰つた。

六の九

あくる日は予想の如く好天気である。今年ことしは例年より気候がずつと緩ゆるんでゐる。殊更今日けふは暖あたゝかい。三四郎は朝あさのうち湯に行つた。閑人ひまじんの少すくない世の中なかだから、午前は頗すこぶる空すいてゐる。三四郎は板いたの間まに懸かけてある三越呉服店の看板を見た。奇麗な女が画かいてある。其女の顔が何所どこか美禰子に似てゐる。能く見ると眼付めつきが違ちがつてゐる。歯並はならびが分わからない。美禰子の顔で尤も三四郎を驚おどろかしたものは眼付めつきと歯並はならびである。与次郎の説によると、あの女は反そつ歯ぱの気味だから、あゝ始終歯はが出るんださうだが、三四郎には決してさうは思へない。……

三四郎は湯に浸つかつてこんな事を考へてゐたので、身体からだの方はあまり洗あらはずに出でた。昨夕ゆふべから急に新時代の青年といふ自覚が強くなつたけれども、強いのは自覚丈で、身体からだの方は元もとの儘である。休やすみになると他ほかのものよりずつと楽にしてゐる。今日けふは午ひるから大学の陸上運動会を見に行く気である。

三四郎は元来あまり運動好ずきではない。国くにに居るとき兎狩うさぎがりを二三度した事がある。それから高等学校の端艇〔ボート〕競争のときに旗振はたふりの役を勤めた事がある。其時青と赤と間違へて振つて大変苦情が出た。尤も決勝の鉄砲を打つ掛かゝりの教授が鉄砲を打ち損そくなつた。打つには打つたが音おとがしなかつた。これが三四郎の狼狽あはてた源因である。それより以来三四郎は運動会へ近づかなかつた。然し今日けふは上京以来始めての競技会だから是非行いつて見る積である。与次郎も是非行つて見ろと勧めた。与次郎の云ふ所によると競技より女の方が見に行く価値があるのださうだ。女のうちには野々宮さんの妹がゐるだらう。野々宮さんの妹と一所に美禰子もゐるだらう。其所そこへ行つて、今日こんちはとか何とか挨拶をして見たい。

午過ひるすぎになつたから出掛けた。会場の入口いりぐちは運動場の南の隅にある。大きな日の丸と英吉利の国旗が交叉してある。日の丸は合点が行くが、英吉利の国旗は何の為だか解わからない。三四郎は日英同盟の所為せゐかとも考へた。けれども日英同盟と大学の陸上運動会とはどう云ふ関係があるか、頓〔とん〕と見当が付かなかつた。

運動場は長方形の芝生である。秋が深いので芝の色が大分褪さめてゐる。競技を看る所は西側にある。後うしろに大きな築山つきやまを一杯に控へて、前は運動場の柵さくで仕切られた中なかへ、みんなを追ひ込む仕掛しかけになつてゐる。狭い割に見物人が多いので甚だ窮屈である。幸ひ日和が好いいので寒くはない。然し外套を着てゐるものが大分ある。其代り傘をさして来た女もある。

三四郎が失望したのは婦人席が別になつてゐて、普通の人間には近寄れない事であつた。それからフロツクコートや何か着た偉えらさうな男が沢山集まつて、自分が存外幅の利かない様に見えた事であつた。新時代の青年を以て自みづから居る三四郎は少し小さくなつてゐた。それでも人ひとと人ひとの間あひだから婦人席の方を見渡す事は忘れなかつた。横からだから能〔よ〕く見えないが、此所こゝは流石さすがに奇麗である。悉く着飾つてゐる。其上遠距離だから顔かほがみんな美くしい。その代り誰だれが目立つて美くしいといふ事もない。只総体が総体として美くしい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかつた。そこで三四郎は又失望した。然し注意したら、何所どこかにゐるだらうと思つて、能く見渡すと、果して前列の一番柵に近い所に二人ふたり並んでゐた。

六の十

三四郎は眼めの着つけ所が漸く解わかつたので、先まづ一段落告つげた様な気で、安心してゐると、忽〔たちま〕ち五六人の男が眼めの前に飛んで出でた。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子が坐すはつてゐる真正面ましようめんで、しかも鼻はなの先さきだから、二人ふたりを見詰めてゐた三四郎の視線のうちには是非共是等これらの壮漢〔そうかん〕が這入つて来くる。五六人はやがて十二三人に殖えた。みんな呼吸いきを喘はずませてゐる様に見える。三四郎は是等の学生の態度と自分の態度とを比くらべて見て、其相違に驚ろいた。どうして、あゝ無分別に走かける気になれたものだらうと思つた。然し婦人連は悉く熱心に見てゐる。そのうちでも美禰子とよし子は尤も熱心らしい。三四郎は自分も無分別に走かけて見たくなつた。一番に到着したものが、紫の猿股さるまたを穿はいて婦人席の方を向いて立つてゐる。能く見ると昨夜ゆふべの親睦会で演説をした学生に似てゐる。あゝ脊せいが高くては一番になる筈である。計測掛が黒板に二十五秒七四と書いた。書き終つて、余りの白墨を向むかふへ抛なげて、此方こつちをむいた所を見ると野々宮さんであつた。野々宮さんは何時いつになく真黒なフロツクを着きて、胸に掛かゝり員の徽章を付つけて、大分だいぶ人品が宜いい。手帛ハンケチを出して、洋服の袖そでを二三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切つて来きた。丁度美禰子とよし子の坐すはつてゐる真前まんまへの所へ出でた。低い柵の向側から首くびを婦人席の中なかへ延のばして、何か云つてゐる。美禰子は立つた。野々宮さんの所迄歩あるいて行く。柵の向むかふと此方こちらで話はなしを始めた様に見える。美禰子は急に振り返つた。嬉しさうな笑わらひに充ちた顔である。三四郎は遠くから一生懸命に二人ふたりを見守つてゐた。すると、よし子が立つた。又柵の傍そばへ寄つて行く。二人ふたりが三人さんにんになつた。芝生の中なかでは砲丸抛なげが始つた。

砲丸抛程腕の力の要いるものはなからう。力の要いる割に是程面白くないものも沢山たんとない。たゞ文字通り砲丸を抛げるのである。芸でも何でもない。野々宮さんは柵の所で、一寸ちよつと此様子を見て笑つてゐた。けれども見物の邪魔になると悪わるいと思つたのであらう。柵を離れて芝生の中なかへ引き取つた。二人ふたりの女も元の席へ復ふくした。砲丸は時々とき〲抛なげられてゐる。第一どの位遠く迄行くんだか殆んど三四郎には分わからない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。それでも我慢して立つてゐた。漸やくの事で片かたが付いたと見えて、野々宮さんは又黒板へ十一メートル三八と書いた。

それから又競走があつて、長飛ながとびがあつて、其次には槌つち抛げが始まつた。三四郎は此槌抛つちなげに至つて、とう〱辛抱が仕切しきれなくなつた。運動会は各自めい〱勝手に開ひらくべきものである。人に見せべきものではない。あんなものを熱心に見物する女は悉く間違つてゐると迄思ひ込んで、会場を抜ぬけ出だして、裏うらの築山の所迄来た。幕まくが張つてあつて通れない。引き返して砂利の敷いてある所を少すこし来くると、会場から逃げた人がちらほら歩あるいてゐる。盛装した婦人も見える。三四郎は又右へ折れて、爪先上つまさきのぼりを岡の頂点てつぺん迄来た。路みちは頂点てつぺんで尽きてゐる。大きな石がある。三四郎は其上へ腰を掛けて、高い崖がけの下にある池を眺めた。下したの運動会場でわあといふ多勢の声がする。

三四郎はおよそ五分許〔ばかり〕石へ腰を掛けた儘ぼんやりしてゐた。やがて又動く気になつたので腰を上あげて、立ちながら、靴の踵かゝとを向け直すと、岡の上のぼり際ぎはの、薄うすく色づいた紅葉もみぢの間あひだに、先刻さつきの女の影が見えた。並ならんで岡の裾すそを通る。

六の十一

三四郎は上うへから、二人ふたりを見下みおろしてゐた。二人ふたりは枝の隙すきから明あきらかな日向ひなたへ出でて来きた。黙だまつてゐると、前を通り抜ぬけて仕舞ふ。三四郎は声を掛けやうかと考へた。距離があまり遠過ぎる。急いで二三歩芝の上を裾すその方へ下おりた。下おり出だすと好いい具合に女の一人ひとりが此方こつちを向むいて呉れた。三四郎はそれで留とまつた。実は此方こちらからあまり御機嫌を取りたくない。運動会が少し癪に障つてゐる。

「あんな所ところに……」とよし子が云ひ出だした。驚ろいて笑つてゐる。この女はどんな陳腐なものを見ても珍めづらしさうな眼付めつきをする様に思はれる。其代り、如何いかな珍めづらしいものに出逢つても、やはり待ち受けてゐた様な眼付めつきで迎へるかと想像される。だから此女に逢あふと重苦おもくるしい所が少しもなくつて、しかも落ち付いた感じが起る。三四郎は立つた儘、これは全く、この大きな、常に濡れてゐる、黒い眸ひとみの御蔭だと考へた。

美禰子も留とまつた。三四郎を見た。然し其眼めは此時このときに限かぎつて何物をも訴へてゐなかつた。丸で高い木を眺める様な眼めであつた。三四郎は心の裡うちで、火の消えた洋燈ランプを見る心持がした。元もとの所に立ちすくんでゐる。美禰子も動かない。

「何故なぜ競技を御覧にならないの」とよし子が下したから聞いた。

「今迄見てゐたんですが、詰つまらないから已やめて来きたのです」

よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色かほいろを動かさない。三四郎は、

「夫それより、あなた方がたこそ何故なぜ出でて来きたんです。大変熱心に見て居たぢやありませんか」と当あてた様な当あてない様な事を大きな声で云つた。美禰子は此時始めて、少し笑つた。三四郎には其笑わらひの意味が能よく分わからない。二歩ほばかり女の方に近付ちかづいた。

「もう家うちへ帰るんですか」

女は二人ふたりとも答へなかつた。三四郎は又二歩ばかり女の方へ近付ちかづいた。

「何所どこかへ行ゆくんですか」

「えゝ、一寸ちよつと」と美禰子が小ちいさな声で云ふ。よく聞きこえない。三四郎はとう〱女の前迄下おりて来きた。しかし何所どこへ行くとも追窮もしないで立つてゐる。会場の方で喝采の声が聞える。

「高飛たかとびよ」とよし子が云ふ。「今度は何メートルになつたでせう」

美禰子は軽く笑わらつた許である。三四郎も黙だまつてゐる。三四郎は高飛たかとびに口くちを出だすのを屑いさぎよしとしない積である。すると美禰子が聞いた。

「此上このうへには何か面白いものが有あつて?」

此上このうへには石があつて、崖がけがある許ばかりである。面白いものがあり様筈がない。

「何にもないです」

「さう」と疑うたがひを残のこした様に云つた。

「一寸ちよいと上あがつて見ませうか」とよし子が、快こゝろよく云ふ。

「あなた、まだ此所こゝを御存じないの」と相手の女は落ち付いて出でた。

「宜いいから入いらつしやいよ」

よし子は先さきへ上のぼる。二人ふたりは又跟ついて行つた。よし子は足あしを芝生の端はし迄出して、振り向きながら、

「絶壁ね」と大袈裟な言葉を使つた。「サツフオーでも飛び込みさうな所ぢやありませんか」

美禰子と三四郎は声を出して笑つた。其癖三四郎はサツフオーがどんな所から飛び込んだか能く知らなかつた。

「あなたも飛び込んで御覧なさい」と美禰子が云ふ。

「私わたくし? 飛び込みませうか。でも余あんまり水みづが汚きたないわね」と云ひながら、此方こつちへ帰つて来きた。

やがて女二人ふたりの間に用談が始つた。

「あなた、入〔い〕らしつて」と美禰子がいふ。

「えゝ。あなたは」とよし子がいふ。

「何どうしませう」

「どうでも。なんなら私わたし一寸ちよつと行いつてくるから、此所こゝに待つて入いらつしやい」

「さうね」

中々片付かたづかない。三四郎が聞いて見ると、よし子が病院の看護婦の所へ、序だから、一寸礼に行つてくるんだと云ふ。美禰子は此夏自分の親戚が入院してゐた時近付ちかづきになつた看護婦を訪たづねれば訪たづねるのだが、是これは必要でも何でもないのださうだ。

六の十二

よし子は、素直に気の軽い女だから、仕舞にすぐ帰つて来きますと云ひ捨てゝ、早足はやあしに一人ひとり丘をかを下おりて行つた。止とめる程の必要もなし、一所に行く程の事件でもないから、二人ふたりは自然しぜん後あとに遺のこる訳になつた。二人ふたりの消極な態度から云へば、遺のこるといふより、遺のこされたかたちにもなる。

三四郎は又石に腰を掛けた。女は立つてゐる。秋の日は鏡かゞみの様に濁にごつた池の上うへに落ちた。中なかに小ちいさな島しまがある。島しまにはたゞ二本の樹きが生はえてゐる。青い松と薄うすい紅葉もみぢが具合よく枝を交かはし合つて、箱庭の趣がある。島を越して向側むかふがはの突き当りが蓊鬱こんもりとどす黒ぐろく光ひかつてゐる。女は丘おかの上うへから其暗くらい木蔭こかげを指した。

「あの木きを知つて入いらしつて」といふ。

「あれは椎しい」

女は笑ひ出だした。

「能よく覚えて入いらつしやる事」

「あの時の看護婦ですか、あなたが今訪たづねやうと云つたのは」

「えゝ」

「よし子さんの看護婦とは違ちがふんですか」

「違ちがひます。是これは椎しい――といつた看護婦です」

今度は三四郎が笑ひ出だした。

「彼所あすこですね。あなたがあの看護婦と一所に団扇を持つて立つてゐたのは」

二人ふたりのゐる所は高く池の中なかに突き出してゐる。此丘をかとは丸で縁えんのない小山が一段低く、右側みぎがはを走つてゐる。大きな松と、御殿の一角ひとかどと、運動会の幕の一部と、なだらな芝生が見える。

「熱い日でしたね。病院があんまり暑あついものだから、とう〱堪こらへ切れないで出て来きたの。――あなたは又何であんな所に跼しやがんで入いらしつたの」

「熱あついからです。あの日は始めて野々宮さんに逢つて、それから、彼所あすこへ来きてぼんやりして居たのです。何だか心細くなつて」

「野々宮さんに御逢あひになつてから、心細く御成おなりになつたの」

「いゝえ、左さう云ふ訳ぢやない」と云ひ掛けて、美禰子の顔かほを見たが、急に話頭を転じた。

「野々宮さんと云へば、今日けふは大変働らいてゐますね」

「えゝ、珍らしくフロツクコートを御着きになつて――随分御迷惑でせう。朝から晩迄ですから」

「だつて大分得意の様ぢやありませんか」

「誰だれが。野々宮さんが。――あなたも随分ね」

「何故なぜですか」

「だつて、真逆まさか運動会の計測掛になつて得意になる様な方かたでもないでせう」

三四郎は又話頭を転じた。

「先刻さつきあなたの所へ来きて何か話してゐましたね」

「会場で?」

「えゝ、運動場の柵の所で」と云つたが、三四郎は此問を急に撤回したくなつた。女は「えゝ」と云つた儘男の顔を凝じつと見てゐる。少し下唇したくちびるを反そらして笑ひ掛けてゐる。三四郎は堪たまらなくなつた。何か云つて紛まぎらかさうとした時に、女は口くちを開ひらいた。

「あなたは未まだ此間の絵端書の返事を下くださらないのね」

三四郎は迷付まごつきながら「上あげます」と答へた。女は呉くれとも何とも云はない。

「あなた、原口さんといふ画工ゑかきを御存ごぞんじ?」と聞きき直なほした。

「知りません」

「さう」

「何どうかしましたか」

「なに、その原口はらぐちさんが、今日けふ見に来きて入らしつてね。みんなを写生してゐるから、私達わたくしたちも用心しないと、ポンチに画かゝれるからつて、野々宮さんがわざ〱注意して下くだすつたんです」

美禰子は傍そばへ来きて腰を掛けた。三四郎は自分が如何にも愚物の様な気がした。

「よし子さんは兄にいさんと一所に帰らないんですか」

「一所に帰かへらうつたつて帰かへれないわ。よし子さんは、昨日きのふから私わたくしの家うちにゐるんですもの」

六の十三

三四郎は其時始めて美禰子から野々宮の御母おつかさんが国へ帰つたと云ふ事を聞いた。御母おつかさんが帰ると同時に、大久保を引払つて、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子の宅うちから学校へ通ふ事に、相談が極つたんださうである。

三四郎は寧ろ野々宮さんの気楽なのに驚ろいた。さう容易たやすく下宿生活に戻もどる位なら、始めから家いへを持たない方が善よからう。第一鍋なべ、釜かま、手桶抔といふ世帯道具の始末はどう付つけたらうと余計な事迄考へたが、口くちに出だして云ふ程の事でもないから、別段の批評は加へなかつた。其上うへ、野々宮さんが一家いつかの主人あるじから、後戻あともどりをして、再び純書生と同様な生活状態に復するのは、取とりも直なほさず家族制度から一歩遠退いたと同じ事で、自分に取つては、目前の疑惑を少し長距離へ引き移した様な好都合にもなる。其代りよし子が美禰子の家いへへ同居して仕舞つた。此兄妹けうだいは絶えず往来してゐないと治おさまらない様に出来上あがつてゐる。絶えず往来してゐるうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移つて来くる。すると野々宮さんが又いつ何時なんどき下宿生活を永久に已やめる時機が来こないとも限らない。

三四郎は頭あたまの中に、かう云ふ疑うたがひある未来を、描ゑがきながら、美禰子と応対をしてゐる。一向に気が乗らない。それを外部の態度丈でも普通の如く繕〔つくろ〕ふとすると苦痛になつて来くる。其所そこへ旨うまい具合によし子が帰つて来きて呉れた。女同志の間には、もう一遍競技を見に行かうかと云ふ相談があつたが、短みぢかくなりかけた秋の日が大分回まはつたのと、回まはるに連れて、広ひろい戸外こぐわいの肌寒はださむが漸く増してくるので、帰かへる事に話が極まる。

三四郎も女連れんに別わかれて下宿へ戻もどらうと思つたが、三人が話しながら、ずる〱べつたりに歩あるき出したものだから、際立きはだつて、挨拶をする機会がない。二人ふたりは自分を引張つて行く様に見える。自分も亦〔また〕引張られて行きたい様な気がする。それで二人ふたりに食くつ付ついて池の端はたを図書館の横から、方角違ひの赤門の方へ向いて来きた。其時三四郎は、よし子に向つて、

「御兄おあにいさんは下宿をなすつたさうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、

「えゝ。とう〱。他ひとを美禰子さんの所へ押おし付つけて置いて。苛ひどいでせう」と同意を求める様に云つた。三四郎は何か返事をしやうとした。其前に美禰子が口くちを開ひらいた。

「宗八さんの様な方かたは、我々われ〱の考ぢや分わかりませんよ。ずつと高い所に居て、大きな事を考へて居らつしやるんだから」と大いに野々宮さんを賞ほめ出した。よし子は黙だまつて聞いてゐる。

学問をする人が煩瑣うるさい俗ぞく用を避けて、成るべく単純な生活に我慢するのは、みんな研究の為め已〔やむ〕を得ないんだから仕方がない。野々宮の様な外国に迄聞える程の仕事しごとをする人が、普通の学生同様な下宿に這入つてゐるのも必竟〔ひっきょう〕野々宮が偉えらいからの事で、下宿が汚きたなければ汚きたない程尊敬しなくつてはならない。――美禰子の野々宮に対する讃辞のつゞきは、ざつと斯〔こ〕うである。

三四郎は赤門の所で二人ふたりに別れた。追分の方へ足を向けながら考へ出だした。――成程美禰子の云つた通である。自分と野々宮を比較して見ると大分段が違ふ。自分は田舎から出て大学へ這入つた許りである。学問といふ学問もなければ、見識と云ふ見識もない。自分が、野々宮に対する程な尊敬を美禰子から受け得ないのは当然である。さう云へば何だか、あの女から馬鹿にされてゐる様でもある。先刻さつき、運動会はつまらないから、此所こゝにゐると、丘おかの上で答へた時に、美禰子は真面目な顔をして、此上このうへには何か面白いものがありますかと聞いた。あの時は気が付かなかつたが、今解釈して見ると、故意に自分を愚弄した言葉かも知れない。――三四郎は気が付ついて、今日迄美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返して見ると、どれも是もみんな悪わるい意味が付けられる。三四郎は往来の真中まんなかで真赤まつかになつて俯向うつむいた。不図ふと、顔を上あげると向ふから、与次郎と昨夕ゆふべの会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を竪に振つたぎり黙つてゐる。学生は帽子を脱とつて礼をしながら、

「昨夜さくやは。何どうですか。囚とらはれちや不可いけませんよ」と笑つて行き過ぎた。

七の一

裏うらから回まはつて婆ばあさんに聞くと、婆ばあさんが小ちいさな声で、与次郎さんは昨日きのふから御帰りなさらないと云ふ。三四郎は勝手口ぐちに立つて考へた。婆さんは気きを利きかして、まあ御這入りなさい。先生は書斎に御出おいでですからと云ひながら、手を休やすめずに、膳椀〔ぜんわん〕を洗つてゐる。今晩食ゆふめしが済んだ許の所らしい。

三四郎は茶の間まを通り抜けて、廊下伝ひに書斎の入口迄来きた。戸が開あいてゐる。中なかから「おい」と人を呼ぶ声がする。三四郎は敷居のうちへ這入つた。先生は机に向むかつてゐる。机の上には何があるか分わからない。高い脊が研究を隠かくしてゐる。三四郎は入口いりぐちに近く坐すはつて、

「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。先生は顔丈後うしろへ捩ねぢ向けた。髭ひげの影かげが不明瞭にもぢや〱してゐる。写真版で見た誰だれかの肖像に似てゐる。

「やあ、与次郎かと思つたら、君ですか、失敬した」と云つて、席を立つた。机の上には筆と紙がある。先生は何か書いてゐた。与次郎の話に、うちの先生は時々とき〲何か書いてゐる。然し何を書いてゐるんだか、他ほかの者ものが読んでも些ちつとも分わからない。生きてゐるうちに、大著述にでも纏められゝば結構だが、あれで死んで仕舞つちやあ、反古ほごが積たまる許だ。実に詰らない。と嘆息してゐた事がある。三四郎は広田の机の上を見て、すぐ与次郎の話を思ひ出した。

「御邪魔なら帰ります。別段の用事でもありません」

「いや、帰つてもらふ程邪魔でもありません。此方こつちの用事も別段の事でもないんだから。さう急に片付ける性質たちのものを遣やつてゐたんぢやない」

三四郎は一寸ちよつと挨拶が出来なかつた。然し腹のうちでは、此人の様な気分になれたら、勉強も楽に出来できて好よからうと思つた。しばらくしてから、斯〔こ〕う云つた。

「実は佐々木君の所へ来たんですが、居なかつたものですから……」

「あゝ。与次郎は何でも昨夜ゆふべから帰かへらない様だ。時々とき〲漂泊して困る」

「何か急に用事でも出来できたんですか」

「用事は決して出来できる男ぢやない。たゞ用事を拵こしらへる男でね。あゝ云ふ馬鹿は少すくない」

三四郎は仕方がないから、

「中々なか〱気楽ですな」と云つた。

「気楽なら好いいけれども。与次郎のは気楽なのぢやない。気が移うつるので――例へば田たの中なかを流れてゐる小川の様なものと思つてゐれば間違〔まちがい〕はない。浅あさくて狭せまい。しかし水みづ丈は始終変つてゐる。だから、する事が、ちつとも締しまりがない。縁日へひやかしになど行くと、急に思ひ出した様に、先生松を一鉢ひとはち御買ひなさいなんて妙な事を云ふ。さうして買ふとも何とも云はないうちに値切ねぎつて買つて仕舞ふ。其代り縁日ものを買ふ事なんぞは上手でね。あいつに買はせると大変安く買へる。さうかと思ふと、夏になつてみんなが家うちを留守にするときなんか、松を座敷へ入れたまんま雨戸あまどを閉たてて錠を卸して仕舞ふ。帰つて見ると、松が温うん気で蒸むれて真赤になつてゐる。万事さう云ふ風で洵まことに困る」

実を云ふと三四郎は此間与次郎に弐十円借した。二週間後には文芸時評社から原稿料が取れる筈だから、それ迄立替てくれろと云ふ。事理わけを聞いて見ると、気の毒であつたから、国から送つて来きた許ばかりの為替かはせを五円引いて、余りは悉く借かして仕舞つた。まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いて見ると少々心配になる。しかし先生にそんな事は打ち明けられないから、反対に、

「でも佐々木君は、大いに先生に敬服して、蔭では先生の為に中々尽力してゐます」と云ふと、先生は真面目になつて、

「どんな尽力をしてゐるんですか」と聞き出した。所が「偉大なる暗闇」其他凡て広田先生に関する与次郎の所為〔しょい〕は、先生に話してはならないと、当人から封じられてゐる。やり掛けた途中でそんな事が知れると先生に叱しかられるに極つてるから黙だまつて居るべきだといふ。話して可いい時には己おれが話すと明言してゐるんだから仕方がない。三四郎は話を外そらして仕舞つた。

七の二

三四郎が広田の家うちへ来くるには色々な意味がある。一ひとつは、此人このひとの生活其他が普通のものと変つてゐる。ことに自分の性情とは全く容れない様な所がある。そこで三四郎は何どうしたらあゝなるだらうと云ふ好奇心から参考の為め研究に来くる。次つぎに此人このひとの前へ出でると呑気のんきになる。世の中なかの競争があまり苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣はあるが、世外の功名心の為めに、流俗の嗜慾〔しよく〕を遠ざけてゐるかの様に思はれる。だから野々宮さんを相手に二人限ふたりぎりで話してゐると、自分も早く一人いちにん前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まない様な気が起る。焦慮いらついて堪たまらない。そこへ行くと広田先生は太平である。先生は高等学校でたゞ語学を教へる丈で、外に何の芸もない――と云つては失礼だが、外に何等の研究も公けにしない。しかも泰たい然と取り澄ましてゐる。其所そこに、此呑気の源は伏在してゐるのだらうと思ふ。三四郎は近頃ちかごろ女に囚とらはれた。恋人こひびとに囚とらはれたのなら、却かへつて面白いが、惚ほれられてゐるんだか、馬鹿にされてゐるんだか、怖こわがつて可いいんだか、蔑さげすんで可いいんだか、廃よすべきだか続つゞけべきだか訳わけの分わからない囚とらはれ方かたである。三四郎は忌々敷いま〱しくなつた。さう云ふ時は広田さんに限かぎる。三十分程先生と相対してゐると心持が悠揚になる。女の一人ひとりや二人ふたりどうなつても構はないと思ふ。実を云ふと、三四郎が今夜こんや出掛でかけて来きたのは七分方がた此意味である。

訪問理由の第三は大分矛盾してゐる。自分は美禰子に苦しんでゐる。美禰子の傍そばに野々宮さんを置くと猶〔なお〕苦しんで来くる。その野々宮さんに尤も近いものは此先生である。だから先生の所へ来くると、野々宮さんと美禰子との関係が自おのづから明瞭になつてくるだらうと思ふ。これが明瞭になりさへすれば、自分の態度も判然極きめる事が出来る。其癖二人ふたりの事を未だ曾〔かつ〕て先生に聞いた事がない。今夜は一つ聞いて見やうかしらと、心を動かした。

「野々宮さんは下宿なすつたさうですね」

「えゝ、下宿したさうです」

「家うちを持もつたものが、又下宿をしたら不便だらうと思ひますが、野々宮さんは能よく……」

「えゝ、そんな事には一向無頓着な方ほうでね。あの服装を見ても分る。家庭的な人ぢやない。其代り学問にかけると非常に神経質だ」

「当分あゝ遣やつて御出おいでの積つもりなんでせうか」

「分わからない。又突然とつぜん家いへを持つかも知れない」

「奥さんでも御貰おもらひになる御考へはないんでせうか」

「あるかも知れない。佳いいのを周旋して遣やり玉へ」

三四郎は苦笑にがわらひをした。余計な事を云つたと思つた。すると広田さんが、

「君はどうです」と聞いた。

「私わたくしは……」

「まだ早いですね。今から細君を持つちやあ大変だ」

「国くにのものは勧すゝめますが」

「国くにの誰だれが」

「母はゝです」

「御母おつかさんの云ふ通り持つ気になりますか」

「中々なか〱なりません」

広田さんは髭ひげの下したから歯はを出だして笑つた。割合に奇麗な歯はを持もつてゐる。三四郎は其時急になつかしい心持がした。けれども其なつかしさは美禰子を離れてゐる。野々宮を離れてゐる。三四郎の眼前の利害には超絶したなつかしさであつた。三四郎は是これで、野々宮抔の事を聞くのが恥はづかしい気がし出だして、質問を已やめて仕舞つた。すると広田先生が又話し出だした。――

七の三

「御母おつかさんの云ふ事は成なるべく聞きいて上あげるが可いい。近頃の青年は我々時代の青年と違つて自我の意識が強過ぎて不可いけない。吾々の書生をして居る頃には、する事為〔な〕す事一いつとして他ひとを離れた事はなかつた。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他ひと本位であつた。それを一口ひとくちにいふと教育を受けるものが悉く偽善家であつた。その偽善が社会の変化で、とう〱張り通せなくなつた結果、漸々〔ぜんぜん〕自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎて仕舞つた。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――君、露悪家といふ言葉を聞いた事がありますか」

「いゝえ」

「今僕が即席に作つた言葉だ。君も其露悪家の一人いちにん――だかどうだか、まあ多分さうだらう。与次郎の如きに至ると其最たるものだ。あの君の知つてる里見といふ女があるでせう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔しは殿様と親父おやぢ丈が露悪家で済んでゐたが、今日こんにちでは各自めい〱同等の権利で露悪家になりたがる。尤も悪わるい事でも何でもない。臭くさいものの蓋ふたを除とれば肥桶こえたごで、美事な形式を剥はぐと大抵は露悪になるのは知れ切つてゐる。形式丈美事だつて面倒な許だから、みんな節約して木地きぢ丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫らんまんとしてゐる。所が此爛漫らんまんが度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段〻高かうじて極端に達した時利他主義が又復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮して行くものと思へば差支ない。さうして行くうちに進歩する。英国を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチエも出ない。気の毒なものだ。自分丈は得意の様だが、傍はたから見れば堅かたくなつて、化石しかゝつてゐる。……」

三四郎は内心感心した様なものゝ、話が外それて飛んだ所へ曲まがつて、曲まがりなりに太ふとくなつて行くので、少し驚ろいてゐた。すると広田さんも漸く気が付いた。

「一体何を話はなしてゐたのかな」

「結婚の事です」

「結婚?」

「えゝ、私わたくしが母はゝの云ふ事を聞いて……」

「うん、左さう〱。なるべく御母おつかさんの言いふ事を聞かなければ不可いけない」と云つてにこ〱してゐる。丸で小供に対する様である。三四郎は別に腹も立たたなかつた。

「我々が露悪家なのは、可いいですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういふ意味ですか」

「君、人から親切にされて愉快ですか」

「えゝ、まあ愉快です」

「屹度? 僕はさうでない、大変親切にされて不愉快な事がある」

「どんな場合ですか」

「形式丈は親切に適かなつてゐる。然し親切自身が目的でない場合」

「そんな場合があるでせうか」

「君、元日がんじつに御目出度たうと云はれて、実際御目出たい気がしますか」

「そりや……」

「しないだらう。それと同じく腹を抱へて笑ふだの、転ころげかへつて笑ふだのと云ふ奴やつに、一人ひとりだつて実際笑つてる奴やつはない。親切も其通り。御役目に親切をして呉れるのがある。僕が学校で教師をしてゐる様なものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だらう。之に反して与次郎の如きは露悪党の領袖だけに、度々たび〱僕に迷惑を掛けて、始末に了〔お〕へぬいたづらものだが、悪気にくげがない。可愛らしい所がある。丁度亜米利加〔アメリカ〕人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為程正直なものはなくつて、正直程厭味いやみのないものは無ないんだから、万事正直に出でられない様な我々われ〱時代の小六こむづかしい教育を受けたものはみんな気障きざだ」

此所こゝ迄の理窟は三四郎にも分つてゐる。けれども三四郎に取つて、目下痛切な問題は、大体にわたつての理窟ではない。実際に交渉のある或ある格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。三四郎は腹の中なかで美禰子の自分に対する素振そぶりをもう一遍考へて見た。所が気障きざか気障きざでないか殆んど判断が出来ない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなからうかと疑がひ出した。

七の四

其時広田さんは急にうんと云つて、何か思ひ出だした様である。

「うん、まだある。此二十世紀になつてから妙なのが流行はやる。利他本位の内容を利己本位で充みたすと云ふ六づかしい遣口やりくちなんだが、君そんな人に出逢つたですか」

「何どんなのです」

「外ほかの言葉で云ふと、偽善を行ふに露悪を以てする。まだ分わからないだらうな。ちと説明し方かたが悪わるい様だ。――昔しの偽善家はね。何でも人に善よく思はれたいが先さきに立たつんでせう。所が其反対で、人の感触を害する為めに、わざ〱偽善をやる。横から見ても縦たてから見ても、相手には偽善としか思はれない様に仕向けて行く。相手は無論厭いやな心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善其儘で先方に通用させ様とする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語は飽迄も善に違ないから、――そら、二位一体といふ様な事になる。此方法を巧妙に用ひるものが近来大分殖〔ふ〕えて来きた様だ。極めて神経の鋭敏になつた文明人種が、尤も優美に露悪家にならうとすると、これが一番好いい方法になる。血を出ださなければ人が殺せないといふのは随分野蛮な話だからな君、段々流行はやらなくなる」

広田先生の話し方かたは、丁度案内者が古戦場を説明する様なもので、実際を遠くから眺めた地位に自みづからを置いてゐる。それで頗る楽天の趣おもむきがある。恰〔あたか〕も教場で講義を聞くと一般の感を起させる。然し三四郎には応こたへた。念頭に美禰子といふ女があつて、此理論をすぐ適用出来できるからである。三四郎は頭あたまの中なかに此標準を置いて、美禰子の凡てを測つて見た。然し測り切れない所が大変ある。先生は口くちを閉とぢて、例の如く鼻から哲学の烟けむりを吐き始はじめた。

所へ玄関に足音あしおとがした。案内も乞はずに廊下伝ひに這入つて来くる。忽〔たちま〕ち与次郎が書斎の入口いりくちに坐すはつて、

「原口さんが御出おいでになりました」と云ふ。只今帰りましたといふ挨拶を省はぶいてゐる。わざと省はぶいたのかも知れない。三四郎には存在ぞんざいな目礼をした許ですぐに出でて行つた。

与次郎と敷居際ぎはで擦すれ違ちがつて、原口さんが這入つて来きた。原口さんは仏蘭西式の髭ひげを生はやして、頭あたまを五分刈にした、脂肪の多い男である。野々宮さんより年としが二つ三つ上うへに見える。広田先生よりずつと奇麗な和服を着てゐる。

「やあ、暫しばらく。今迄佐々木が宅うちへ来てゐてね。一所に飯めしを食つたり何かして――それから、とう〱引張り出だされて、……」と大分楽天的な口調である。傍そばにゐると自然陽気になる様な声を出だす。三四郎は原口と云ふ名前を聞いた時から、大方おほかたあの画工ゑかきだらうと思つてゐた。夫それにしても与次郎は交際家だ。大抵な先輩とはみんな知合しりあひになつてゐるから豪えらいと感心して硬かたくなつた。三四郎は年長者の前へ出ると硬かたくなる。九州流の教育を受けた結果だと自分では解釈してゐる。

やがて主人が原口に紹介して呉れる。三四郎は丁寧に頭あたまを下さげた。向むかふは軽く会釈した。三四郎はそれから黙だまつて二人ふたりの談話を承はつてゐた。

原口さんは先づ用談から片付かたづけると云つて、近いうちに会をするから出でて呉れと頼たのんでゐる。会員と名のつく程の立派なものは拵こしらへない積だが、通知を出すものは、文学者とか芸術家とか、大学の教授とか、僅かな人数に限つて置くから差支はない。しかも大抵知しり合あひの間だから、形式は全く不必要である。目的はたゞ大勢寄つて晩餐を食ふ。それから文芸上有益な談話を交換する。そんなものである。

広田先生は一口ひとくち「出でやう」と云つた。用事は夫で済んで仕舞つた。用事は夫それで済すんで仕舞つたが、それから後あとの原口さんと広田先生の会話が頗る面白かつた。

七の五

広田先生が「君近頃何をしてゐるかね」と原口さんに聞くと、原口さんがこんな事を云ふ。

「矢っ張り一中節いつちうぶしを稽古してゐる。もう五つ程上あげた。花紅葉吉原はなもみぢよしはら八景だの、小稲こいな半兵衛唐崎心中しんぢうだのつて中々なか〱面白いのがあるよ。君も少し遣やつて見ないか。尤もありや、余あまり大きな声を出だしちや、不可いけないんだつてね。本来が四畳半の座敷に限つたものださうだ。所が僕が此通り大きな声だらう。それに節廻ふしまはしがあれで中々なか〱込み入つてゐるんで、何どうしても旨うまく不可いかん。今度こんだ一つ遣やるから聞いて呉れ玉へ」

広田先生は笑つてゐた。すると原口さんは続つゞきをかう云ふ風に述べた。

「それでも僕はまだ可いいんだが、里見恭助と来きたら、丸で片無かたなしだからね。どう云ふものか知らん。妹はあんなに器用だのに。此間はとうとう降参して、もう唄うたは已やめる、其代り何か楽器を習はうと云ひ出だした所が、馬鹿囃ばかばやしを御習ひなさらないかと勧すゝめたものが有あつてね。大笑おほわらひさ」

「そりや本当かい」

「本当とも。現に里見が僕に、君が遣やるなら遣やつても好いいと云つた位だもの。あれで馬鹿囃ばやしには八通やとほり囃はやしかたがあるんださうだ」

「君、遣やつちや何どうだ。あれなら普通の人間にでも出来さうだ」

「いや馬鹿囃ばやしは厭いやだ。それよりか鼓つゞみが打うつて見たくつてね。何故なぜだか鼓つゞみの音おとを聞いてゐると、全く二十世紀の気がしなくなるから可いい。どうして今の世にあゝ間まが抜けてゐられるだらうと思ふと、それ丈で大変な薬になる。いくら僕が呑気でも、鼓つゞみの音おとの様な画ゑはとても描かけないから」

「描かかうともしないんぢやないか」

「描かけないんだもの。今の東京にゐるものに悠揚おほような画ゑが出来るものか。尤も画ゑにも限かぎるまいけれども。――画ゑと云へば、此間大学の運動会へ行つて、里見と野々宮さんの妹のカリカチユアーを描かいて遣やらうと思つたら、とうとう逃げられて仕舞つた。こんだ一つ本当の肖像画を描かいて展覧会にでも出さうかと思つて」

「誰だれの」

「里見の妹の。どうも普通の日本の女の顔は歌麿式や何かばかりで、西洋の画布カンヷスには移うつりが悪わるくつて不可いけないが、あの女や野々宮さんは可いい。両方共画ゑになる。あの女が団扇を翳かざして、木立こだちを後うしろに、明あかるい方を向いてゐる所を等身ライフ、サイズに写して見様かしらと思つてる。西洋の扇は厭味いやみで不可いけないが、日本の団扇は新あたらしくつて面白いだらう。兎に角早くしないと駄目だ。今に嫁よめにでも行いかれやうものなら、さう此方こつちの自由に行かなくなるかも知れないから」

三四郎は多大な興味を以て原口の話を聞いてゐた。ことに美禰子が団扇を翳してゐる構図は非常な感動を三四郎に与へた。不思議の因縁が二人ふたりの間に存在してゐるのではないかと思ふ程であつた。すると広田先生が、「そんな図はさう面白い事もないぢやないか」と無遠慮な事を云ひ出した。

「でも当人の希望なんだもの。団扇を翳かざしてゐる所は、どうでせうと云ふから、頗る妙でせうと云つて承知したのさ。何なにわるい図どりではないよ。描かき様にも因よるが」

「あんまり美くしく描かくと、結婚の申込が多くなつて困こまるぜ」

「ハヽヽぢや中位ちうぐらゐに描かいて置かう。結婚と云へば、あの女も、もう嫁よめに行く時期だね。どうだらう、何所どこか好いい口くちはないだらうか。里見にも頼たのまれてゐるんだが」

「君貰もらつちや何どうだ」

「僕か。僕で可よければ貰もらふが、どうもあの女には信用がなくつてね」

「何故なぜ」

「原口さんは洋行する時には大変な気込で、わざ〱鰹節かつぶしを買ひ込んで、是で巴理〔パリ〕の下宿に籠城するなんて大威張だつたが、巴理へ着くや否や、忽〔たちま〕ち豹変したさうですねつて笑ふんだから始末がわるい。大方おほかた兄あにきからでも聞いたんだらう」

「あの女は自分の行きたい所でなくつちや行いきつこない。勧すゝめたつて駄目だ。好すきな人がある迄独身で置くがいゝ」

「全く西洋流だね。尤もこれからの女はみんな左さうなるんだから、それも可よからう」

夫それから二人ふたりの間に長い絵画談があつた。三四郎は広田先生の西洋の画工の名を沢山知つてゐるのに驚ろいた。帰るとき勝手口で下駄を探してゐると、先生が階子段の下したへ来きて「おい佐々木一寸ちよつと下おりて来こい」と云つてゐた。

七の六

戸外そとは寒さむい。空そらは高く晴はれて、何処どこから露つゆが降ふるかと思ふ位である。手が着物に触さはると、触さはつた所だけが冷ひやりとする。人通りの少ない小路こうぢを二三度折れたり曲まがつたりして行くうちに、突然辻占つぢうら屋に逢つた。大きな丸い提灯てふちんを点つけて、腰から下したを真赤まつかにしてゐる。三四郎は辻占が買つて見たくなつた。然し敢て買はなかつた。杉垣に羽織の肩が触さわる程に、赤い提燈を避よけて通した。しばらくして、暗い所を斜はすに抜けると、追分おひわけの通とほりへ出でた。角かどに蕎麦そば屋がある。三四郎は今度は思ひ切つて暖簾のれんを潜くゞつた。少し酒を飲む為である。

高等学校の生徒が三人ゐる。近頃学校の先生が午ひるの弁当に蕎麦そばを食ふものが多くなつたと話してゐる。蕎麦屋そばやの担夫かつぎが午砲どんが鳴ると、蒸籠せいろや種たねものを山の様に肩へ載せて、急いで校門を這入つてくる。此所こゝの蕎麦屋はあれで大分儲かるだらうと話してゐる。何とかいふ先生は夏でも釜かま揚饂飩うどんを食ふが、どう云ふものだらうと云つてゐる。大方おほかた胃が悪わるいんだらうと云つてゐる。其外色々の事を云つてゐる。教師の名は大抵呼び棄ずてにする。中なかに一人ひとり広田さんと云つたものがある。それから何故なぜ広田さんは独身でゐるかといふ議論を始めた。広田さんの所へ行くと女の裸体画が懸かけてあるから、女が嫌なんぢやなからうと云ふ説である。尤も其裸体画は西洋人だから当あてにならない。日本の女は嫌かも知れないといふ説である。いや失恋の結果に違ないと云ふ説も出でた。失恋してあんな変人になつたのかと質問したものもあつた。然し若い美人が出入するといふ噂があるが本当かと聞き糺〔ただ〕したものもあつた。

段々聞いてゐるうちに、要するに広田先生は偉えらい人だといふ事になつた。何故なぜ偉えらいか三四郎にも能く解わからないが、兎に角此三人は三人ながら与次郎の書いた「偉大なる暗闇」を読んでゐる。現にあれを読んでから、急に広田さんが好すきになつたと云つてゐる。時々とき〲は「偉大なる暗闇」のなかにある警句抔を引用して来くる。さうして盛んに与次郎の文章を賞ほめてゐる。零余子とは誰だれだらうと不思議がつてゐる。何しろ余程よく広田さんを知つてゐる男に相違ないといふ事には三人共同意した。

三四郎は傍そばに居て成程と感心した。与次郎が「偉大なる暗闇くらやみ」を書く筈はづである。文芸時評の売れ高の少ないのは当人の自白した通であるのに、例々しく彼かれの所謂大論文を掲げて得意がるのは、虚栄心の満足以外に何の為になるだらうと疑つてゐたが、是で見ると活版の勢力は矢張り大たいしたものである。与次郎の主張する通り、一言でも半句でも云はない方が損になる。人の評判はこんな所から揚あがり、又こんな所から落おちると思ふと、筆を執るものゝ責任が恐ろしくなつて、三四郎は蕎麦屋そばやを出でた。

下宿へ帰かへると、酒はもう醒めて仕舞つた。何だか詰つまらなくつて不可いけない。机の前に坐すはつて、ぼんやりしてゐると、下女が下したから湯沸ゆわかしに熱い湯を入れて持つて来きた序ついでに、封書を一通置いて行いつた。又母の手紙である。三四郎はすぐ封を切つた。今日けふは母の手蹟を見るのが甚だ嬉しい。

手紙は可かなり長いものであつたが、別段の事も書いてない。ことに三輪田の御光さんについては一口ひとくちも述べてないので大いに難有〔ありがた〕かつた。けれども中なかに妙な助言がある。

御前まへは小供の時から度胸がなくつて不可いけない。度胸の悪わるいのは大変な損で、試験の時なぞにはどの位困るか知れない。興津の高たかさんは、あんなに学問が出来て、中学校の先生をしてゐるが、検定試験を受けるたびに、身体からだが顫ふるへて、うまく答案が出来ないんで、気の毒な事に未いまだに月給が上あがらずにゐる。友達の医学士とかに頼たのんで顫ふるへの留とまる丸薬を拵らへて貰つて、試験前に飲んで出でたが矢っ張り顫ふるへたさうである。御前まへのはぶる〱顫ふるへる程でもない様だから、平生から治薬〔じやく〕に度胸の据すわる薬くすりを東京の医者に拵らへて貰つて飲んで見ろ。癒なほらない事もなからうと云ふのである。

三四郎は馬鹿々々しいと思つた。けれども馬鹿〻〻しいうちに大いなる慰藉を見出みいだした。母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。其晩一時頃迄かゝつて長い返事を母に遣やつた。其なかには東京はあまり面白い所ではないと云ふ一句があつた。

八の一

三四郎が与次郎に金を借した顛末は、斯かうである。

此間あひだの晩九時頃になつて、与次郎が雨の中なかを突然遣やつて来きて、冒頭から大いに弱つたと云ふ。見ると、例になく顔の色が悪い。始めは秋雨あきさめに濡れた冷つめたい空気に吹ふかれ過すぎたからの事と思つてゐたが、座に就いて見ると、悪わるいのは顔色かほいろばかりではない。珍めづらしく銷沈してゐる。三四郎が「具合でも好よくないのか」と尋ねると、与次郎は鹿しかの様な眼めを二度にど程ぱちつかせて、かう答へた。

「実は金かねを失なくなしてね。困こまつちまつた」

そこで、一寸ちよつと心配さうな顔かほをして、烟草の烟けむりを二三本鼻はなから吐はいた。三四郎は黙だまつて待つてゐる訳にも行いかない。どう云ふ種類の金を、どこで失なくなしたのかと段々聞いて見ると、すぐ解わかつた。与次郎は烟草の烟けむりの、二三本鼻はなから出切できる間丈控ひかへてゐたばかりで、その後あとは、一部始終を訳わけもなくすら〱と話して仕舞つた。

与次郎の失なくした金かねは、額たかで弐拾円、但し人ひとのものである。去年広田先生が此前このまへの家いへを借りる時分に、三ヶ月の敷金しききんに窮して、足たりない所を一時野々宮さんから用達だつて貰もらつた事がある。然るに其金かねは野々宮さんが、妹いもとにヷイオリンを買かつて遣やらなくてはならないとかで、わざ〱国元もとの親父おやぢさんから送おくらせたものださうだ。それだから今日けふが今日けふ必要といふ程でない代りに、延のびれば延のびる程よし子が困こまる。よし子は現に今いまでもヷイオリンを買はずに済ましてゐる。広田先生が返かへさないからである。先生だつて返かへせればとうに返かへすんだらうが、月々余裕が一文いちもんも出でない上うへに、月給以外に決けつして稼かせがない男だから、つい夫なりにしてあつた。所が此夏このなつ高等学校の受験生の答案調しらべを引き受けた時の手当てあてが六十円此頃になつて漸く受け取れた。それで漸く義理を済ます事になつて、与次郎が其使つかひを云ひ付つかつた。

「その金を失なくなしたんだから済まない」と与次郎が云つてゐる。実際済すまない様な顔付かほつきでもある。何所どこへ落おとしたんだと聞くと、なに落おとしたんぢやない。馬券を何枚とか買つて、みんな無なくなして仕舞つたのだと云ふ。三四郎も是これには呆あきれ返つた。あまり無分別の度を通り越してゐるので意見をする気にもならない。其上本人が悄然としてゐる。是を平常いつもの活溌々地と比くらべると、与次郎なるものが二人ふたり居るとしか思はれない。其対照が烈はげし過すぎる。だから可笑おかしいのと気の毒どくなのとが一所になつて三四郎を襲つて来きた。三四郎は笑わらひ出した。すると与次郎も笑わらひ出した。

「まあ可いいや、どうかなるだらう」と云ふ。

「先生はまだ知らないのか」と聞くと、

「まだ知らない」

「野々宮さんは」

「無論、まだ知らない」

「金かねは何時いつ受取つたのか」

「金かねは此月始このつきはじまりだから、今日けふで丁度二週間程になる」

「馬券を買つたのは」

「受け取つた明あくる日だ」

「夫それから今日けふ迄其儘そのまゝにして置いたのか」

「色々奔走したが出来できないんだから仕方がない。已を得なければ今月末迄此儘このまゝにして置かう」

「今月末すえになれば出来る見込でもあるのか」

「文芸時評社から、どうかなるだらう」

三四郎は立つて、机の抽出ひきだしを開あけた。昨日きのふ母から来きたばかりの手紙の中なかを覗のぞいて、

「金かねは此所こゝにある。今月は国から早く送つて来きた」と云つた。与次郎は、

「難有〔ありがた〕い。親愛なる小川君」と急に元気の好いい声で落語家の様な事を云つた。

二人ふたりは十時過すぎ雨あめを冒して、追分の通りへ出でて、角かどの蕎麦屋へ這入つた。三四郎が蕎麦そば屋で酒を飲む事を覚えたのは此時である。其晩は二人ふたり共愉快に飲んだ。勘定は与次郎が払つた。与次郎は中々なか〱人に払はせない男である。

八の二

夫から今日こんにちに至る迄与次郎は金かねを返さない。三四郎は正直だから下宿屋の払はらひを気にしてゐる。催促はしないけれども、どうかして呉れれば可いいがと思つて、日を過すごすうちに晦日みそか近くなつた。もう一日いちにち二日ふつかしか余つてゐない。間違つたら下宿の勘定を延のばして置かう抔といふ考はまだ三四郎の頭あたまに上のぼらない。必ず与次郎が持つて来きて呉れる――と迄は無論彼を信用してゐないのだが、まあどうか工面して見様位の親切気ぎはあるだらうと考へてゐる。広田先生の評によると与次郎の頭あたまは浅瀬あさせの水みづの様に始終移つてゐるのださうだが、無暗に移る許で責任を忘れる様では困る。まさかそれ程の事もあるまい。

三四郎は二階の窓から往来を眺めてゐた。すると向から与次郎が足早にやつて来きた。窓の下した迄来きて仰向あほむいて、三四郎の顔を見上げて、「おい、居おるか」と云ふ。三四郎は上から、与次郎を見下みおろして「うん、居おる」と云ふ。此馬鹿見た様な挨拶が上下うへしたで一句交換されると、三四郎は部屋の中なかへ首くびを引込める。与次郎は階子段はしごだんをとん〱上あがつて来きた。

「待まつてゐやしないか。君の事だから下宿の勘定を心配してゐるだらうと思つて、大分奔走した。馬鹿気げてゐる」

「文芸時評から原稿料を呉れたか」

「原稿料つて。原稿料はみんな取つて仕舞しまつた」

「だつて此間このあひだは月末に取とる様に云つてゐたぢやないか」

「さうかな。夫それは聞違きゝちがひだらう。もう一文も取るのはない」

「可笑おかしいな。だつて君は慥かに左さう云つたぜ」

「なに、前借まへがりをしやうと云つたのだ。所が中中なかなか貸かさない。僕に貸かすと返さないと思つてゐる。怪けしからん。僅か二十円許ばかりの金かねだのに。いくら偉大なる暗闇くらやみを書かいて遣つても信用しない。詰つまらない。厭いやになつちまつた」

「ぢや金かねは出来ないのか」

「いや外ほかで拵こしらへたよ。君が困こまるだらうと思つて」

「さうか。それは気の毒だ」

「所が困つた事が出来た。金かねは此所こゝにはない。君が取とりに行いかなくつちや」

「何所どこへ」

「実は文芸時評が可いけないから、原口はらぐちだの何だの二三軒歩あるいたが、何所どこも月末げつまつで都合がつかない。それから最後に里見の所へ行つて――里見といふのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。美禰子さんの兄にいさんだ。あすこへ行いつた所が、今度は留守るすで矢っ張り要領を得ない。其うち腹はらが減へつて歩あるくのが面倒になつたから、とう〱美禰子さんに逢つて話しをした」

「野々宮さんの妹が居やしないか」

「なに午ひる少し過ぎだから学校に行いつてる時分だ。それに応接間まだから居ゐたつて構かまやしない」

「さうか」

「それで美禰子さんが、引受けてくれて、御用立て申しますと云ふんだがね」

「あの女は自分の金かねがあるのかい」

「そりや、何どうだか知らない。然し兎に角大丈夫だよ。引き受けたんだから。ありや妙な女で、年としの行いかない癖に姉ねえさんじみた事をするのが好すきな性質たちなんだから、引き受けさへすれば、安心だ。心配しないでも可いい。宜〔よろ〕しく願ねがつて置けば構はない。所が一番仕舞になつて、御金おかねは此所ここにありますが、あなたには渡わたせませんと云ふんだから驚おどろいたね。僕はそんなに不信用なんですかと聞くと、えゝと云つて笑つてゐる。厭いやになつちまつた。ぢや小川を遣よこしますかなと又聞いたら、えゝ小川さんに御手渡し致しませうと云はれた。どうでも勝手にするが可いい。君取りに行けるかい」

「取りに行かなければ、国へ電報でも掛けるんだな」

「電報はよさう。馬鹿気げてゐる。いくら君だつて借りに行いけるだらう」

「行いける」

是で漸く弐拾円の埒〔らち〕が明あいた。それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた。

八の三

運動は着々歩を進めつゝある。暇ひまさへあれば下宿へ出掛でかけて行つて、一人一人ひとりひとりに相談する。相談は一人一人ひとりひとりに限かぎる。大勢おほぜい寄よると、各自めいめいが自分の存在を主張しやうとして、稍やゝともすれば異を樹たてる。それでなければ、自分の存在を閑却かんきやくされた心持になつて、初手から冷淡に構へる。相談はどうしても一人ひとり、一人ひとりに限かぎる。其代り暇ひまは要いる。金も要いる。それを苦にしてゐては運動は出来ない。それから相談中には広田先生の名前を余り出ださない事にする。我々われ〱の為ための相談でなくつて、広田先生の為ための相談だと思はれると、事ことが纏まらなくなる。

与次郎は此方法で運動の歩を進めてゐるのださうだ。それで今日こんにち迄の所は旨うまく行いつた。西洋人許ばかりでは不可いけないから、是非共日本人を入れて貰もらはうといふ所迄話は来きた。是から先さきはもう一遍寄よつて、委員を撰んで、学長なり、総長なりに、我々の希望を述のべに遣やる許ばかりである。尤も会合丈はほんの形式だから略しても可いい。委員になるべき学生も大体は知れてゐる。みんな広田先生に同情を持つてゐる連中だから、談判の模様によつては、此方こつちから先生の名を当局者へ持もち出だすかも知しれない。……

聞いてゐると、与次郎一人ひとりで天下が自由になる様に思はれる。三四郎は尠すくなからず与次郎の手腕に感服した。与次郎は又此間このあひだの晩、原口さんを先生の所へ連れて来きた事に就いて、弁べんじ出だした。

「あの晩、原口さんが、先生に文芸家の会くわいをやるから出でろと、勧めてゐたらう」と云ふ。三四郎は無論覚えてゐる。与次郎の話はなしによると、実はあれも自身の発起に係かゝるものださうだ。其理由は色々あるが、まづ第一に手近な所を云へば、あの会員のうちには、大学の文科で有力な教授がゐる。其男と広田先生を接触させるのは、此際先生に取つて、大変な便利である。先生は変人だから、求もとめて誰だれとも交際しない。然し此方こつちで相当の機会を作つくつて、接触させれば、変人なりに附合つきあつて行く。……

「左さう云ふ意味があるのか、些ちつとも知らなかつた。それで君が発起人だと云ふんだが、会くわいをやる時、君の名前で通知を出だして、さう云ふ偉えらい人達ひとたちがみんな寄よつて来くるのかな」

与次郎は、しばらく真面目まじめに、三四郎を見てゐたが、やがて苦にが笑ひをして傍わきを向いた。

「馬鹿ばか云つちや不可いけない。発起人つて、表向おもてむきの発起人ぢやない。たゞ僕がさう云ふ会くわいを企だてたのだ。つまり僕が原口さんを勧すゝめて、万事ばんじ原口さんが周旋する様に拵こしらへたのだ」

「さうか」

「さうかは田臭でんしうだね。時に君もあの会へ出でるが可いい。もう近いうちに有る筈はづだから」

「そんな偉えらい人ばかり出でる所へ行いつたつて仕方がない。僕は廃よさう」

「又田臭を放はなつた。偉えらい人も偉えらくない人も社会へ頭あたまを出だした順序が違ちがふ丈だ。なにあんな連中、博士とか学士とか云つたつて、会あつて話して見ると何でもないものだよ。第一向むかふがさう偉えらいとも何とも思つてやしない。是非出でて置くが可いい。君の将来の為ためだから」

「何所どこであるのか」

「多分上野の西洋軒になるだらう」

「僕はあんな所へ這入はいつた事がない。高たかい会費を取とるんだらう」

「まあ弐円位だらう。なに会費なんか、心配しなくつても可いい。無なければ僕が出だして置くから」

三四郎は忽〔たちま〕ちさきの弐拾円の件を思ひ出だした。けれども不思議に可笑おかしくならなかつた。与次郎は其上そのうへ銀座の何所どことかへ天麩羅を食ひに行かうと云ひ出だした。金かねはあると云ふ。不思議な男である。云ひなり次第になる三四郎も是は断わつた。其代り一所に散歩に出でた。帰りに岡野へ寄つて、与次郎は栗饅頭を沢山買つた。これを先生に見舞みやげに持つて行くんだと云つて、袋を抱へて帰つていつた。

八の四

三四郎は其晩与次郎の性格を考へた。永く東京に居るとあんなになるものかと思つた。それから里見へ金かねを借かりに行く事を考へた。美禰子の所へ行く用事が出来たのは嬉しい様な気がする。然し頭あたまを下さげて金を借りるのは難有〔ありがた〕くない。三四郎は生れてから今日こんにちに至る迄、人に金を借りた経験のない男である。其上貸すと云ふ当人が娘である。独立した人間ではない。たとひ金かねが自由になるとしても、兄あにの許諾を得ない内証の金を借りたとなると、借りる自分は兎〔と〕に角、あとで、貸した人の迷惑になるかも知れない。或はあの女の事だから、迷惑にならない様に始はじめから出来できてゐるかとも思へる。何しろ逢あつて見やう。逢あつた上うへで、借りるのが面白くない様子だつたら、断わつて、少時しばらく下宿の払を延のばして置いて、国から取り寄せれば事ことは済む。――当用は此所こゝ迄考へて句切りを付けた。あとは散漫に美禰子の事が頭あたまに浮うかんで来くる。美禰子の顔かほや手てや、襟や、帯や、着物きものやらを、想像に任せて、乗かけたり除わつたりしてゐた。ことに明日あした逢ふ時に、どんな態度で、どんな事を云ふだらうと其光景が十と通りにも廿にじつ通りにもなつて色々に出でて来くる。三四郎は本来から斯こんな男である。用談があつて人と会見の約束などをする時には、先方が何どう出でるだらうといふ事許り想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で云つて遣やらう抔とは決して考へない。しかも会見が済むと後あとから屹度其方そのほうを考へる。さうして後悔する。

ことに今夜は自分の方を想像する余地がない。三四郎は此間から美禰子を疑つてゐる。然し疑ふばかりで一向埒が明あかない。さうかと云つて面と向つて、聞き糺〔ただ〕すべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決抔は思ひも寄らぬ事である。もし三四郎の安心の為ために解決が必要なら、それはたゞ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、好いい加減に最後の判決を自分に与へて仕舞ふ丈である。明日あしたの会見は此判決に欠くべからざる材料である。だから、色々に向むかふを想像して見る。しかし、どう想像しても、自分に都合の好いい光景ばかり出て来くる。それでゐて、実際は甚だ疑うたがはしい。丁度汚きたない所を奇麗な写真に取つて眺めてゐる様な気がする。写真は写真として何所どこ迄も本当に違ちがひないが、実物の汚きたない事も争あらそはれないと一般で、同じでなければならぬ筈の二ふたつが決して一致しない。

最後に嬉うれしい事を思ひ付ついた。美禰子は与次郎に金かねを貸すと云つた。けれども与次郎には渡さないと云つた。実際与次郎は金銭の上うへに於ては、信用し悪にくい男かも知れない。然し其意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑はしい。もし其意味でないとすると、自分には甚だ頼母たのもしい事になる。たゞ金かねを貸して呉れる丈でも充分の好意である。自分に逢つて手渡しにしたいと云ふのは――三四郎は此所こゝ迄己惚おのぼれて見たが、忽〔たちま〕ち、

「矢っ張り愚弄ぢやないか」と考へ出だして、急に赤くなつた。もし、ある人があつて、其女は何の為ために君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎は恐らく答へ得なかつたらう。強ひて考へて見ろと云はれたら、三四郎は愚弄其物に興味を有もつてゐる女だからと迄は答へたかも知れない。自分の己惚おのぼれを罰する為ためとは全く考へ得なかつたに違ない。――三四郎は美禰子の為ために己惚おのぼれしめられたんだと信じてゐる。

八の五

翌日よくじつは幸ひ教師が二人ふたり欠席して、午ひるからの授業が休やすみになつた。下宿へ帰るのも面倒だから、途中で一品料理の腹を拵こしらへて、美禰子の家いへへ行つた。前を通つた事は何遍でもある。けれども這入はいるのは始てゞある。瓦葺〔かわらぶき〕の門の柱に里見恭助といふ標札が出でてゐる。三四郎は此所こゝを通る度たびに、里見恭助といふ人はどんな男だらうと思ふ。まだ逢あつた事がない。門は締しまつてゐる。潜くゞりから這入ると玄関迄の距離は存外短かい。長方形の御影みかげ石が飛とび々々とびに敷いてある。玄関は細い奇麗な格子で閉たて切つてある。電鈴ベルを押す。取次の下女に、「美禰子さんは御宅ですか」と云つた時、三四郎は自分ながら気恥きはづかしい様な妙な心持がした。他ひとの玄関で、妙齢の女の在否ざいひを尋ねた事はまだない。甚だ尋ね悪にくい気がする。下女の方は案外真面目である。しかも恭〔うやうや〕しい。一旦奥へ這入つて、又出でて来きて、丁寧に御辞儀をして、どうぞと云ふから尾ついて上あがると応接間へ通した。重おもい窓掛まどかけの懸かゝつてゐる西洋室である。少し暗くらい。

下女は又、「暫しばらく、どうか……」と挨拶をして出でて行つた。三四郎は静かな室へやの中なかに席を占しめた。正面に壁かべを切り抜いた小さい暖炉がある。其上が横に長い鏡かゞみになつてゐて、前に蝋燭そく立たてが二本ある。三四郎は左右の蝋燭立たての真中まんなかに自分の顔を写して見て、又坐すはつた。

すると奥の方でヷイオリンの音おとがした。それが何所どこからか、風が持つて来きて捨てゝ行つた様に、すぐ消えて仕舞つた。三四郎は惜い気がする。厚く張つた椅子の脊に倚よりかゝつて、もう少し遣やれば可いいがと思つて耳を澄すましてゐたが、音おとは夫限それぎりで已やんだ。約一分も立つうちに、三四郎はヷイオリンの事を忘れた。向ふにある鏡かゞみと蝋燭立たてを眺めてゐる。妙に西洋の臭にほひがする。それから加徒力カゾリツクの連想がある。何故なぜ加徒力カゾリツクだか三四郎にも解わからない。其時ヷイオリンが又鳴つた。今度は高たかい音ねと低ひくい音ねが二三度急に続つゞいて響ひゞいた。それでぱつたり消えて仕舞つた。三四郎は全く西洋の音楽を知らない。然し今の音おとは、決して、纏つたものゝ一部分を弾ひいたとは受け取れない。たゞ鳴らした丈である。その無作法にたゞ鳴らした所が、三四郎の情緒によく合あつた。不意に天から二三粒つぶ落ちて来きた、出鱈目の雹〔ひょう〕の様である。

三四郎が半ば感覚を失つた眼めを鏡かゞみの中なかに移すと、鏡かゞみの中なかに美禰子が何時いつの間まにか立つてゐる。下女が閉たてたと思つた戸が開あいてゐる。戸の後うしろに掛けてある幕まくを片手で押し分けた美禰子の胸から上うへが明あきらかに写つてゐる。美禰子は鏡の中なかで三四郎を見た。三四郎は鏡の中なかの美禰子を見た。美禰子はにこりと笑つた。

「入いらつしやい」

女の声は後うしろで聞きこえた。三四郎は振ふり向むかなければならなかつた。女と男は直ぢかに顔を見合せた。其時女は廂ひさしの広い髪かみを一寸ちよつと前に動うごかして礼をした。礼をするには及ばない位に親したしい態度であつた。男の方は却つて椅子から腰を浮かして頭あたまを下さげた。女は知らぬ風をして、向ふへ廻まはつて、鏡かゞみを脊せに、三四郎の正面に腰を卸した。

「とう〱入いらしつた」

同じ様な親しい調子である。三四郎には此一言いちげんが非常に嬉しく聞えた。女は光ひかる絹きぬを着きてゐる。先刻さつきから大分だいぶ待またしたところを以て見ると、応接間まへ出でる為ためにわざわざ奇麗なのに着換へたのかも知れない。それで端然と坐すはつてゐる。眼めと口くちに笑を帯びて無言の儘三四郎を見守つた姿すがたに、男は寧ろ甘あまい苦しみを感じた。凝じつとして見らるゝに堪たへない心の起つたのは、其癖〔そのくせ〕女の腰を卸おろすや否やである。三四郎はすぐ口くちを開ひらいた。殆んど発作ほつさに近い。

「佐々木が……」

八の六

「佐々木さんが、あなたの所ところへ入いらしつたでせう」と云つて例の白い歯を露あらはした。女の後うしろには前さきの蝋燭立たてが暖炉台マントルピースの左右に並んでゐる。金きんで細工をした妙な形かたちの台だいである。是を蝋燭そく立たてと見たのは三四郎の臆断で、実は何だか分わからない。此不可思議の蝋燭立たての後うしろに明あきらかな鏡かゞみがある。光線は厚あつい窓掛まどかけに遮ぎられて、充分に這入らない。其上天気は曇つてゐる。三四郎は此間このあひだに美禰子の白い歯を見た。

「佐々木が来きました」

「何と云つて入いらつしやいました」

「僕にあなたの所へ行いけと云つて来きました」

「左さうでせう。――夫それで入いらしつたの」とわざわざ聞いた。

「えゝ」と云つて少し躊躇した。あとから「まあ、左さうです」と答へた。女は全く歯はを隠した。静かに席を立つて、窓の所へ行つて、外面そとを眺め出だした。

「曇りましたね。寒いでせう、戸外そとは」

「いゝえ、存外暖あたゝかい。風は丸でありません」

「さう」と云ひながら席せきへ帰つて来きた。

「実は佐々木が金かねを……」と三四郎から云ひ出だした。

「分わかつてるの」と中途でとめた。三四郎も黙だまつた。すると

「何どうして御失おなくしになつたの」と聞いた。

「馬券を買つたのです」

女は「まあ」と云つた。まあと云つた割に顔は驚ろいてゐない。却つて笑つてゐる。すこし経たつて、「悪わるい方かたね」と附け加へた。三四郎は答へずにゐた。

「馬券で中あてるのは、人ひとの心こゝろを中あてるより六づかしいぢやありませんか。あなたは索引の付ついてゐる人の心さへ中あてて見様となさらない呑のん気な方かただのに」

「僕が馬券を買つたんぢやありません」

「あら。誰だれが買つたの」

「佐々木が買つたのです」

女は急に笑ひ出だした。三四郎も可笑〔おか〕しくなつた。

「ぢや、あなたが御金かねが御入いり用ぢやなかつたのね。馬鹿々々しい」

「要いる事は僕が要いるのです」

「本当に?」

「本当に」

「だつて夫ぢや可笑おかしいわね」

「だから借かりなくつても可いいんです」

「何故なぜ。御厭おいやなの?」

「厭いやぢやないが、御兄おあにいさんに黙だまつて、あなたから借かりちや、好よくないからです」

「何どういふ訳わけで? でも兄あには承知してゐるんですもの」

「左さうですか。ぢや借かりても好いい。――然し借りないでも好いい。家うちへさう云つて遣やりさへすれば、一週間位すると来きますから」

「御迷惑なら、強しひて……」

美禰子は急に冷淡になつた。今迄傍そばにゐたものが一町許遠退〔とおの〕いた気がする。三四郎は借かりて置けば可よかつたと思つた。けれども、もう仕方がない。蝋燭立たてを見て澄すましてゐる。三四郎は自分から進んで、他ひとの機嫌を取つた事のない男である。女も遠とほざかつたぎり近付ちかづいて来こない。しばらくすると又立ち上あがつた。窓まどから戸外そとをすかして見て、

「降ふりさうもありませんね」と云ふ。三四郎も同じ調子で、「降りさうもありません」と答へた。

「降ふらなければ、私わたくし一寸ちよつと出でて来きやうかしら」と窓の所で立つた儘云ふ。三四郎は帰つてくれといふ意味に解釈した。光ひかる絹きぬを着換たのも自分の為ためではなかつた。

「もう帰りませう」と立ち上あがつた。美禰子は玄関迄送つて来た。沓脱〔くつぬぎ〕へ下おりて、靴くつを穿はいてゐると、上うへから美禰子が、

「其所迄そこまで御一所いつしよに出でませう。可いいでせう」と云つた。三四郎は靴の紐ひもを結びながら、「えゝ、何どうでも」と答へた。女は何時いつの間にか、和土たゝきの上うへへ下おりた。下おりながら三四郎の耳みゝの傍そばへ口くちを持つて来きて、「怒おこつて入いらつしやるの」と私語さゝやいだ。所へ下女が周章あわてながら、送おくりに出でて来きた。

八の七

二人ふたりは半町程無言むげんの儘まゝ連つれ立だつて来きた。其間そのあひだ三四郎は始終美禰子の事を考へてゐる。此女は我儘に育そだつたに違ちがひない。それから家庭にゐて、普通の女性以上の自由を有して、万事意の如く振舞ふに違ない。かうして、誰だれの許諾も経へずに、自分と一所に、往来を歩あるくのでも分わかる。年寄の親おやがなくつて、若わかい兄あにが放任主義だから、斯かうも出来できるのだらうが、是が田舎いなかであつたら嘸〔さぞ〕困ることだらう。此女に三輪田の御光さんの様な生活を送れと云つたら、何どうする気かしらん。東京は田舎いなかと違ちがつて、万事が明あけ放はなしだから、此方こちらの女は、大抵斯かうなのかも分わからないが、遠くから想像して見ると、もう少しは旧式の様でもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのも成程と思ひ当る。但し俗礼ぞくれいに拘かゝはらない所丈がイブセン流なのか、或は腹の底の思想迄も、さうなのか。其所そこは分わからない。

そのうち本郷の通へ出でた。一所に歩あるいてゐる二人ふたりは、一所に歩あるいてゐながら、相手が何所どこへ行くのだか、全く知らない。今迄に横町を三つ許ばかり曲まがつた。曲まがるたびに、二人ふたりの足は申し合せた様に無言の儘同じ方角へ曲まがつた。本郷の通りを四丁目の角かどへ来くる途中で、女が聞きいた。

「何処どこへ入〔い〕らつしやるの」

「あなたは何所どこへ行くんです」

二人ふたりは一寸ちよつと顔を見合せた。三四郎は至極真面目である。女は堪こらへ切きれずに又白い歯を露あらはした。

「一所に入らつしやい」

二人ふたりは四丁目の角かどを切り通しの方へ折れた。三十間程行くと、右側みぎがはに大きな西洋館がある。美禰子は其前に留とまつた。帯の間から薄うすい帳面と、印形〔いんぎょう〕を出だして、

「御願ひ」と云つた。

「何ですか」

「是で御金おかねを取つて頂戴」

三四郎は手を出だして、帳面を受取つた。真中まんなかに小口こぐち当座預金あづかりきん通帳とあつて、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持つた儘、女の顔を見て立つた。

「三拾円」と女が金高きんだかを云つた。恰〔あたか〕も毎日銀行へ金かねを取とりに行き慣つけた者に対する口振くちぶりである。幸ひ、三四郎は国くににゐる時分、かう云ふ帳面を以て度々たび〱豊津とよつ迄出掛かけた事がある。すぐ石段を上のぼつて、戸を開あけて、銀行の中なかへ這入つた。帳面と印形を掛かゝりのものに渡して、必要の金額きんがくを受取つて出でて見ると、美禰子は待つてゐない。もう切り通しの方へ二十間許ばかり歩あるき出だしてゐる。三四郎は急いそいで追おい付ついた。すぐ受取つたものを渡さうとして、隠袋ぽつけつとへ手を入れると、美禰子が、

「丹青会の展覧会を御覧になつて」と聞いた。

「まだ覧みません」

「招待券を二枚貰もらつたんですけれども、つい閑ひまがなかつたものだから、まだ行いかずにゐたんですが、行いつて見ませうか」

「行つても可いいです」

「行いきませう。もう、ぢき閉会になりますから。私わたくし、一遍は見て置かないと原口さんに済すまないのです」

「原口さんが招待券を呉れたんですか」

「えゝ。あなた原口さんを御存じなの?」

「広田先生の所で一度会あひました」

「面白い方かたでせう。馬鹿囃ばかばやしを稽古なさるんですつて」

「此間このあひだは鼓つゞみを稽ならひたいと云つてゐました。夫それから――」

「夫それから?」

「夫それから、あなたの肖像を描かくとか云つてゐました。本当ですか」

「えゝ、高等モデルなの」と云つた。男は是より以上に気の利いた事が云へない性質たちである。それで黙つて仕舞つた。女は何とか云つて貰ひたかつたらしい。

八の八

三四郎は又隠袋かくしへ手を入れた。銀行の通帳と印形を出だして、女に渡した。金かねは帳面の間あひだに挟はさんで置おいた筈である。然しかるに女が、

「御金おかねは」と云つた。見ると、間あひだにはない。三四郎は又衣嚢ポツケツトを探さぐつた。中なかから手摺てずれのした札を攫つかみ出だした。女は手を出ださない。

「預あづかつて置いて頂戴」と云つた。三四郎は聊〔いささ〕か迷惑の様な気がした。然しこんな時に争ふ事を好まぬ男である。其上往来だから猶更〔なおさら〕遠慮をした。折角握にぎつた札を又元もとの所へ収めて、妙な女だと思つた。

学生が多く通る。擦すれ違ふ時に屹度二人ふたりを見る。中には遠くから眼めを付けて来くるものもある。三四郎は池の端へ出でる迄の路みちを頗る長く感じた。それでも電車に乗のる気にはならない。二人ふたり共のそ〱歩あるいてゐる。会場へ着ついたのは殆んど三時近くである。妙な看板が出でてゐる。丹青会と云ふ字も、字の周囲まはりについてゐる図案も、三四郎の眼めには悉く新らしい。然し熊本では見る事の出来ない意味で新らしいので、寧ろ一種異様の感がある。中なかは猶更である。三四郎の眼めには只油絵と水彩画の区別が判然と映ずる位のものに過ぎない。

それでも好悪こうおはある。買つてもいゝと思ふのもある。然し巧拙は全く分わからない。従つて鑑別力のないものと、初手から諦あきらめた三四郎は、一向口くちを開ひらかない。

美禰子が是は何どうですかと云ふと、左さうですなといふ。是は面白いぢやありませんかと云ふと、面白さうですなといふ。丸で張合はりあひがない。話しの出来できない馬鹿か、此方こつちを相手にしない偉えらい男か、何方どつちかに見える。馬鹿とすれば衒てらはない所に愛嬌がある。偉えらいとすれば、相手にならない所が悪にくらしい。

長ながい間あひだ外国を旅行して歩あるいた兄妹きようだいの画が沢山ある。双方共同じ姓で、しかも一つ所ところに並ならべて掛けてある。美禰子は其一枚の前に留とまつた。

「〔濁点付き片仮名エ〕ニスでせう」

是は三四郎にも解わかつた。何だか〔濁点付き片仮名エ〕ニスらしい。画舫ゴンドラにでも乗つて見たい心持がする。三四郎は高等学校に居る時分画舫ゴンドラといふ字を覚えた。それから此字が好すきになつた。画舫ゴンドラといふと、女と一所に乗らなければ済まない様な気がする。黙だまつて蒼あをい水みづと、水みづの左右の高い家いへと、倒さかさに映うつる家の影かげと、影かげの中なかにちらちらする赤あかい片きれとを眺めてゐた。すると、

「兄あにさんの方が余程旨うまい様ですね」と美禰子が云つた。三四郎には此意味が通じなかつた。

「兄あにさんとは……」

「此画ゑは兄あにさんの方でせう」

「誰だれの?」

美禰子は不思議さうな顔をして、三四郎を見た。

「だつて、彼方あつちの方が妹いもうとさんので、此方こつちの方が兄あにさんのぢやありませんか」

三四郎は一歩退しりぞいて、今通つて来た路みちの片側かたがはを振り返つて見た。同じ様に外国の景色を描かいたものが幾点となく掛かゝつてゐる。

「違ちがふんですか」

「一人ひとりと思つて入〔い〕らしつたの」

「えゝ」と云つて、呆ぼんやりしてゐる。やがて二人ふたりが顔を見合した。さうして一度に笑ひ出だした。美禰子は、驚ろいた様に、わざと大きな眼めをして、しかも一段と調子を落おとした小声こごゑになつて、

「随分ね」と云ひながら、一間ばかり、ずん〱先さきへ行いつて仕舞つた。三四郎は立ち留つた儘、もう一遍〔濁点付き片仮名エ〕ニスの堀割ほりわりを眺め出だした。先さきへ抜けた女は、此時振り返つた。三四郎は自分の方を見てゐない。女は先さきへ行く足をぴたりと留とめた。向むかふから三四郎の横顔よこがほを熟視してゐた。

「里見さん」

出だし抜ぬけに誰だれか大きな声で呼んだ者ものがある。

八の九

美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書かいた入口いりぐちを一間許離はなれて、原口さんが立つてゐる。原口さんの後うしろに、少し重かさなり合つて、野々宮さんが立つてゐる。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻あともどりをして三四郎の傍そばへ来きた。人ひとに目立めだゝぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。さうして何か私語さゝやいた。三四郎には何を云つたのか、少しも分わからない。聞き直さうとするうちに、美禰子は二人ふたりの方へ引き返して行いつた。もう挨拶をしてゐる。野々宮は三四郎に向つて、

「妙な連つれと来きましたね」と云つた。三四郎が何か答へやうとするうちに、美禰子が、

「似合にあふでせう」と云つた。野々宮さんは何とも云はなかつた。くるりと後うしろを向いた。後ろには畳たゝみ一枚程の大きな画がある。其画は肖像画である。さうして一面に黒い。着物も帽子も背景から区別の出来ない程光線を受けてゐない中なかに、顔かほばかり白い。顔かほは瘠せて、頬ほゝの肉が落ちてゐる。

「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに云つた。原口は今しきりに美禰子に何か話してゐる。――もう閉会である。来観者も大分減つた。開会の初めには毎日事務へ来きてゐたが、此頃は滅多に顔を出さない。今日けふは久し振りに、此方こつちへ用があつて、野々宮さんを引張つて来きた所だ。うまく出でつ食くはしたものだ。此会を仕舞ふと、すぐ来年の準備にかゝらなければならないから、非常に忙いそがしい。何時いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員の都合で早くする積りだから、丁度会を二つ続つゞけて開くと同じ事になる。必死の勉強をやらなければならない。それ迄に是非美禰子の肖像を描かき上げて仕舞ふ積である。迷惑だらうが大晦日おほみそかでも描かゝして呉れ。

「其代り此所こゝん所ところへ掛ける積です」

原口さんは此時始めて、黒い画の方を向いた。野々宮さんは其間そのあひだぽかんとして同じ画を眺めてゐた。

「どうです。〔濁点付き片仮名エ〕ラスケスは。尤も模写ですがね。しかも余り上出来ではない」と原口が始めて説明する。野々宮さんは何にも云ふ必要がなくなつた。

「どなたが御写しになつたの」と女が聞いた。

「三井です。三井はもつと旨うまいんですがね。此画はあまり感服出来ない」と一二歩退さがつて見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、旨うまく行いかないね」

原口は首くびを曲まげた。三四郎は原口の首くびを曲まげた所を見てゐた。

「もう、皆みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子に許ばかり話しかける。

「まだ」

「どうです。もう廃よして、一所いつしよに出でちや。西洋軒で御茶でも上あげます。なに私わたしは用があるから、どうせ一寸ちよつと行かなければならない。――会の事ことでね、マネジヤーに相談して置きたい事がある。懇意の男だから。――今丁度御茶に好いい時分です。もう少しするとね、御茶には遅おそし晩餐ヂンナーには早し、中途半端ぱになる。どうです。一所に入〔い〕らつしやいな」

美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでも可いい顔をしてゐる。野々宮は立つた儘関係しない。

「折角来きたものだから、皆みんな見て行きませう。ねえ、小川さん」

三四郎はえゝと云つた。

「ぢや、斯かうなさい。此奥の別室にね。深見ふかみさんの遺画があるから、それ丈見て、帰りに西洋軒へ入らつしやい。先さきへ行いつて待つてゐますから」

「難有〔ありがと〕う」

「深見さんの水彩は普通の水彩の積で見ちや不可いけませんよ。何所どこ迄も深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になつてゐると、中々なか〱面白い所が出でて来きます」と注意して、原口は野々宮と出て行つた。美禰子は礼を云つて其後影うしろかげを見送つた。二人ふたりは振り返かへらなかつた。

八の十

女は歩を回めぐらして、別室へ入はいつた。男は一足ひとあし後あとから続つゞいた。光線の乏しい暗くらい部屋である。細長い壁かべに一列に懸かゝつてゐる深見先生の遺画を見ると、成程原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎が著いちじるしく感じたのは、其水彩の色が、どれも是も薄うすくて、数かずが少すくなくつて、対照に乏しくつて、日向ひなたへでも出ださないと引ひき立たないと思ふ程地味ぢみに描かいてあるといふ事である。其代り筆ふでが些ちつとも滞つてゐない。殆んど一気呵成〔かせい〕に仕上しあげた趣がある。絵ゑの具ぐの下したに鉛筆の輪廓が明あきらかに透すいて見えるのでも、洒落な画ぐわ風がわかる。人間抔になると、細くて長くて、丸で殻竿からさほの様である。こゝにも〔濁点付き片仮名エ〕ニスが一いち枚ある。

「是も〔濁点付き片仮名エ〕ニスですね」と女が寄よつて来た。

「えゝ」と云つたが、〔濁点付き片仮名エ〕ニスで急に思ひ出だした。

「さつき何を云つたんですか」

女は「さつき?」と聞き返した。

「さつき、僕が立つて、彼方あつちの〔濁点付き片仮名エ〕ニスを見てゐる時です」

女は又真白な歯はを露はした。けれども何とも云はない。

「用でなければ聞かなくつても可いいです」

「用ぢやないのよ」

三四郎はまだ変な顔をしてゐる。曇つた秋の日はもう四時よじを越こした。部屋は薄暗くなつてくる。観覧人は極めて少ない。別室の中うちには、只たゞ男女二人ふたりの影があるのみである。女は画を離れて、三四郎の真ま正面に立たつた。

「野々宮さん。ね、ね」

「野々宮さん……」

「解わかつたでせう」

美禰子の意味は、大濤おほなみの崩れる如く一度に三四郎の胸を浸ひたした。

「野々宮さんを愚弄したのですか」

「何なんで?」

女の語気は全く無邪気である。三四郎は忽然として、後あとを云ふ勇気がなくなつた。無言ごんの儘二三歩動うごき出だした。女は縋すがる様に付ついて来きた。

「あなたを愚弄したんぢや無いのよ」

三四郎は又立ち留どまつた。三四郎は脊せいの高い男である。上うへから美禰子を見下みおろした。

「それで宜いいです」

「何故なぜ悪わるいの?」

「だから可いいです」

女は顔を背そむけた。二人ふたり共戸口とぐちの方へ歩あるいて来きた。戸口とぐちを出でる拍子に互たがひの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合はした女を思ひ出だした。美禰子の肉にくに触ふれた所が、夢ゆめに疼うづく様な心持がした。

「本当に宜いいの?」と美禰子が小ちさい声で聞いた。向ふから二三人連にんづれの観覧者が来くる。

「兎も角出でませう」と三四郎が云つた。下足を受取つて、出でると戸外そとは雨あめだ。

「西洋軒へ行きますか」

美禰子は答こたへなかつた。雨あめの中なかを濡ぬれながら、博物館前まへの広ひろい原の中なかに立つた。幸ひ雨は今降ふり出だした許である。其上そのうへ烈しくはない。女は雨の中なかに立つて、見廻みまはしながら、向ふの森もりを指さした。

「あの樹きの蔭かげへ這入はいりませう」

少し待てば歇やみさうである。二人ふたりは大きな杉の下したに這はいつた「這はいつた」はママ。雨を防ふせぐには都合の好よくない樹きである。けれども二人ふたりとも動うごかない。濡ぬれても立つてゐる。二人ふたり共寒さむくなつた。女が「小川さん」と云ふ。男は八の字を寄よせて、空そらを見てゐた顔を女の方へ向けた。

「悪わるくつて? 先刻さつきのこと」

「可いいです」

「だつて」と云ひながら、寄よつて来きた。「私わたくし、何故なぜだか、あゝ為したかつたんですもの。野々宮さんに失礼する積つもりぢやないんですけれども」

女は瞳ひとみを定さだめて、三四郎を見た。三四郎は其瞳ひとみの中なかに言葉よりも深き訴を認めた。――必竟〔ひっきょう〕あなたの為ためにした事ぢやありませんかと、二重瞼ふたへまぶたの奥で訴へてゐる。三四郎は、もう一遍、

「だから、可いいです」と答へた。

雨は段々濃こくなつた。雫しづくの落おちない場所は僅かしかない。二人ふたりは段々だん〱一つ所へ塊かたまつて来きた。肩と肩と擦すれ合ふ位にして立ち竦すくんでゐた。雨の音おとの中なかで、美禰子が、

「さつきの御金おかねを御遣つかひなさい」と云つた。

「借りませう。要いる丈だけ」と答へた。

「みんな、御遣つかひなさい」と云つた。

九の一

与次郎が勧すゝめるので、三四郎はとう〱西洋軒の会へ出でた。其時三四郎は黒い紬つむぎの羽織を着きた。此羽織は、三輪田の御光さんの御母おつかさんが織つて呉れたのを、紋付もんつきに染めて、御光みつさんが縫ひ上あげたものだと、母はゝの手紙に長い説明がある。小包こづゝみが届とゞいた時、一応着きて見て、面白くないから、戸棚へ入れて置いた。それを与次郎が、勿体ないから是非着きろ〱と云ふ。三四郎が着きなければ、自分が持つて行つて着きさうな勢であつたから、つい着きる気になつた。着て見ると悪わるくはない様だ。

三四郎は此出立いでたちで、与次郎と二人ふたりで西洋軒の玄関に立つてゐた。与次郎の説によると、御客は斯〔こ〕うして迎へべきものださうだ。三四郎はそんな事とは知らなかつた。第一自分が御客の積つもりでゐた。かうなると、紬つむぎの羽織では何だか安やすつぽい受附の気がする。制服を着きて来くれば善よかつたと思つた。其うち会員が段々来くる。与次郎は来くる人ひとを捕つらまへて屹度きつと何とか話はなしをする。悉ことごとく旧知の様にあしらつてゐる。御客が帽子と外套を給仕に渡して、広い階子はしご段の横を、暗くらい廊下の方へ折れると、三四郎に向つて、今のは誰某だれそれがしだと教へて呉れる。三四郎は御蔭かげで知名な人の顔かほを大分覚えた。

其内そのうち御客は略ほゞ集つた。約三十人足らずである。広田先生もゐる。野々宮さんもゐる。――是は理学者だけれども、画や文学が好すきだからと云ふので、原口さんが、無理に引つ張り出だしたのださうだ。原口さんは無論ゐる。一番先さきへ来きて、世話を焼やいたり、愛嬌を振り蒔まいたり、仏蘭西式の髯ひげを撮つまんで見たり、万事忙いそがしさうである。

やがて着席となつた。各自めい〱勝手な所へ坐すはる。譲るものもなければ、争ふものもない。其内うちでも広田先生はのろいにも似合はず一番に腰を卸おろして仕舞つた。たゞ与次郎と三四郎丈が一所になつて、入口いりぐちに近く座を占めた。其他は悉く偶然の向ひ合せ、隣り同志であつた。

野々宮さんと広田先生の間に縞しまの羽織を着た批評家が坐すはつた。向ふには庄司と云ふ博士が座に着ついた。是は与次郎の所謂〔いわゆる〕文科で有力な教授である。フロツクを着きた品格のある男であつた。髪かみを普通の倍以上長くしてゐる。それが電燈の光ひかりで、黒くろく渦うずを捲いて見みえる。広田先生の坊主頭あたまと較くらべると大分相違がある。原口さんは大分離れて席を取つた。彼方あちらの角かどだから、遠く三四郎と真向まむかひになる。折襟をりえりに、幅はゞの広い黒繻子くろしゆすを結むすんだ先さきがぱつと開ひらいて胸一杯いつぱいになつてゐる。与次郎が、仏蘭西の画工アーチストは、みんなあゝ云ふ襟飾えりかざりを着つけるものだと教へて呉れた。三四郎は肉汁そつぷを吸すひながら、丸で兵児へこ帯の結目むすびめの様だと考へた。其うち談話が段々始はじまつた。与次郎は麦酒ビール丈飲のむ。何時いつもの様に口くちを利かない。流石さすがの男も今日けふは少々謹つゝしんでゐると見える。三四郎が、小さな声で、

「些ちと、ダーター、フアブラを遣やらないか」と云ふと、「今日けふは不可いけない」と答へたが、すぐ横を向いて、隣りの男と話を始めた。あなたの、あの論文を拝見して、大いに利益を得ましたとか何とか礼を述べてゐる。所が其論文は、彼が自分の前で、盛んに罵倒したものだから、三四郎には頗る不思議の思ひがある。与次郎は又此方こつちを向いた。

「其羽織は中々なか〱立派だ。能よく似合ふ」と白い紋を殊更〔ことさら〕注意して眺めてゐる。其時向ふの端はじから、原口さんが、野々宮に話しかけた。元来が大きな声の人だから、遠くで応対するには都合が好いい。今迄向むかひ合せに言葉を換かはしてゐた広田先生と庄司といふ教授は、二人ふたりの応答を途中で遮さへぎる事を恐れて、談話をやめた。其他の人もみんな黙だまつた。会の中心点が始めて出来上あがつた。

九の二

「野々宮さん光線の圧力の試験はもう済みましたか」

「いや、まだ中々なか〱だ」

「随分手数が掛かゝるもんだね。我々われ〱の職業も根気仕事だが、君きみの方はもつと劇はげしい様だ」

「画ゑはインスピレーシヨンで直すぐ描かけるから可いいが、物理の実験はさう旨うまくは不可いかない」

「インスピレーシヨンには辟易〔へきえき〕する。此夏なつある所を通つたら婆さんが二人ふたりで問答をしてゐた。聞きいて見ると梅雨つゆはもう明あけたんだらうか、どうだらうかといふ研究なんだが、一人ひとりの婆ばあさんが、昔むかしは雷かみなりさへ鳴れば梅雨つゆは明あけるに極きまつてゐたが、近頃ぢや左さうは不可いかないと不平こぼしてゐる。すると一人ひとりが何どうして、〱「何どうして、〱」はママ雷かみなり位で明あける事ぢやありやしないと憤慨してゐた。――画も其通り、今の画はインスピレーシヨン位で描かける事ぢやありやしない。ねえ田村さん、小説だつて、左さうだらう」

隣りに田村といふ小説家が坐すはつて居た。此男が自分のインスピレーシヨンは原稿の催促以外に何にもないと答へたので、大笑ひになつた。田村は、それから改あらたまつて、野々宮さんに、光線に圧力があるものか、あれば、どうして試験するかと聞き出だした。野々宮さんの答は面白かつた。――

雲母マイカか何かで、十六武蔵むさし位の大きさの薄うすい円盤を作つくつて、水晶の糸いとで釣つるして、真空の中うちに置いて、此円盤の面めんへ弧光〔アーク〕燈の光ひかりを直角にあてると、此円盤が光ひかりに圧おされて動く。と云ふのである。

一座は耳を傾けて聞いてゐた。中なかにも三四郎は腹の中なかで、あの福神漬の缶のなかに、そんな装置がしてあるのだらうと、上京の際、望遠鏡で驚ろかされた昔を思ひ出だした。

「君、水晶の糸があるのか」と小ちいさな声で与次郎に聞いて見た。与次郎は頭あたまを振ふつてゐる。

「野々宮さん、水晶の糸がありますか」

「えゝ、水晶の粉をね。酸水素吹管の焔ほのほで溶かして置おいて、かたまつた所を両方の手で、左右へ引つ張ると細ほそい糸が出来るのです」

三四郎は「左さうですか」と云つたぎり、引つ込んだ。今度は野々宮さんの隣にゐる縞の羽織の批評家が口を出した。

「我々はさう云ふ方面へ掛けると、全然無学なんですが、そんな試験を遣やつて見様と、始め何どうして気が付ついたものでせうな」

「始め気が付ついたのは、何でも瑞典〔スウェーデン〕か何処どこかの学者ですが。あの彗星の尾が、太陽の方へ引き付けられべき筈であるのに、出でるたびに何時いつでも反対の方角に靡なびくのは変だと考へ出だしたのです。それから、もしや光ひかりの圧力で吹き飛ばされるんぢやなからうかと思ひ付いたのです」

批評家は大分感心したらしい。

「思ひ付きも面白いが、第一大きくて可いいですね」と云つた。

「大きい許ばかりぢやない、罪がなくつて愉快だ」と広田先生が云つた。

「それで其思ひ付が外はづれたら猶〔なお〕罪がなくつて可いい」と原口さんが笑つてゐる。

「否いや、どうも中あたつてゐるらしい。光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力の方は半径の三乗に比例するんだから、物が小ちいさくなればなる程引力の方が負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片ペーチクルから出来てゐるとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされる訳だ」

野々宮は、つい真面目まじめになつた。すると原口が例の調子で、

「罪がない代りに、大変計算が面倒になつて来きた。矢っ張一利一害だ」と云つた。此一言で、人々ひと〲は元の通り麦酒ビールの気分に復した。広田先生が、斯こんな事を云ふ。

「どうも物理学者は自然派ぢや駄目の様だね」

物理学者と自然派の二字は少なからず満場の興味を刺激した。

九の三

「それは何どう云ふ意味ですか」と本人の野々宮さんが聞き出だした。広田先生は説明しなければならなくなつた。

「だつて、光線の圧力を試験する為ために、眼め丈明あけて、自然を観察してゐたつて、駄目だからさ。彗星でも出でれば気が付く人もあるかも知れないが、それでなければ、自然の献立のうちに、光線の圧力といふ事実は印刷されてゐない様ぢやないか。だから人巧的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母マイカだのと云ふ装置をして、其圧力が物理学者の眼に見えるやうに仕掛けるのだらう。だから自然派ぢやないよ」

「然し浪漫ローマン派でもないだらう」と原口さんが交まぜ返かへした。

「いや浪漫派だ」と広田先生が勿体らしく弁解した。「光線と、光線を受けるものとを、普通の自然界に於ては見出せない様な位地関係に置く所が全く浪漫派ぢやないか」

「然し、一旦さういふ位地関係に置いた以上は、光線固有の圧力を観察する丈だから、それからあとは自然派でせう」と野々宮さんが云つた。

「すると、物理学者は浪漫的自然派ですね。文学の方で云ふと、イブセンの様なものぢやないか」と筋向ふの博士が比較を持もち出した。

「左様、イブセンの劇は野々宮君と同じ位な装置があるが、其装置の下したに働らく人物は、光線の様に自然の法則に従つてゐるか疑はしい」是は縞しまの羽織の批評家の言葉であつた。

「左さうかも知れないが、斯かう云ふ事は人間の研究上記憶して置くべき事だと思ふ。――即ち、ある状況の下もとに置かれた人間は、反対の方向に働らき得る能力と権利とを有してゐる。と云ふ事なんだが。――所が妙な習慣で、人間も光線も同じ様に器械的の法則に従つて活動すると思ふものだから、時々飛んだ間違が出来る。怒らせやうと思つて装置をすると、笑つたり。笑はせやうと目論もくろんで掛かゝると、怒つたり。丸で反対だ。然しどつちにしても人間に違ない」と広田先生が又問題を大きくして仕舞つた。

「ぢや、ある状況の下もとに、ある人間が、どんな所作をしても自然だと云ふ事になりますね」と向むかふの小説家が質問した。広田先生は、すぐ、

「えゝ、えゝ。どんな人間を、どう描かいても世界に一人ひとり位はゐる様ぢやないですか」と答へた。「実際人間たる吾々は、人間らしからざる行為動作を、何どうしたつて想像出来るものぢやない。たゞ下手へたに書かくから人間にんげんと思はれないのぢやないですか」

小説家は夫で黙つた。今度は博士が又口くちを利きいた。

「物理学者でも、ガリレオが寺院の釣り洋燈らんぷの一振動の時間が、振動の大小に拘かゝはらず同じである事に気が付いたり、ニユートンが林檎が引力で落ちるのを発見したりするのは、始めから自然派ですね」

「さう云ふ自然派なら、文学の方でも結構でせう。原口さん、画の方でも自然派がありますか」と野々宮さんが聞いた。

「あるとも。恐るべきクールベエと云ふ奴やつがゐる。vérité vraie〔濁点付き片仮名エ〕リテ、ヴレイ、何でも事実でなければ承知しない。然しさう猖獗〔しょうけつ〕を極めてゐるものぢやない。たゞ一派として存在を認められる丈さ。又左さうでなくつちや困るからね。小説だつて同おなじ事だらう、ねえ君。矢っ張りモローや、シヤヷンヌの様なのもゐる筈はづだらうぢやないか」

「居る筈はづだ」と隣となりの小説家が答へた。

食後には卓上演説も何もなかつた。たゞ原口さんが、しきりに九段の上の銅像の悪口を云つてゐた。あんな銅像を無暗に立てられては、東京市民が迷惑する。それより、美くしい芸者の銅像でも拵らへる方が気が利きいてゐるといふ説であつた。与次郎は三四郎に九段の銅像は原口さんと仲なかの悪わるい人が作つくつたんだと教へた。

会が済んで、外そとへ出ると好い月であつた。今夜こんやの広田先生は庄司博士に善い印象を与へたらうかと与次郎が聞いた。三四郎は与へたらうと答へた。与次郎は共同水道栓の傍そばに立つて、此夏このなつ、夜よる散歩に来きて、あまり暑あついから、此所こゝで水を浴あびてゐたら、巡査に見付かつて、擂鉢すりばち山へ馳け上あがつたと話した。二人ふたりは擂鉢山の上で月を見て帰つた。

九の四

帰り路みちに与次郎が三四郎に向つて、突然借金の言訳いひわけをし出だした。月の冴えた比較的寒さむい晩である。三四郎は殆んど金かねの事などは考へてゐなかつた。言訳を聞くのでさへ本気ではない。どうせ返かへす事はあるまいと思つてゐる。与次郎も決して返かへすとは云はない。たゞ返かへせない事情を色々に話す。其話し方かたのほうが三四郎には余程面白い。――自分の知つてる去る男が、失恋の結果、世の中なかが厭いやになつて、とう〱自殺を仕様と決心したが、海もいや河もいや、噴火口は猶〔なお〕いや、首を縊くゝるのは尤もいやと云ふ訳で、已〔やむ〕を得ず短銃ピストルを買つて来きた。買つて来きて、まだ目的を遂行しないうちに、友達が金を借りに来きた。金はないと断わつたが、是非どうかして呉れと訴へるので、仕方なしに、大事の短銃ピストルを借〔か〕して遣やつた。友達はそれを質しちに入れて一時を凌しのいだ。都合がついて、質を受出うけだして返かへしに来きた時は、肝心の短銃ピストルの主はもう死ぬ気がなくなつて居た。だから此男の命いのちは金かねを借かりに来こられた為ために助たすかつたと同じ事である。

「さう云ふ事もあるからなあ」と与次郎が云つた。三四郎には只可笑〔おか〕しい丈である。其外ほかには何等の意味もない。高い月を仰いで大きな声を出だして笑つた。金かねを返されないでも愉快である。与次郎は、

「笑わらつちや不可いかん」と注意した。三四郎は猶可笑しくなつた。

「笑はないで、よく考へて見ろ。己おれが金かねを返かへさなければこそ、君が美禰子さんから金かねを借かりる事が出来たんだらう」

三四郎は笑ふのを已やめた。

「それで?」

「それ丈で沢山ぢやないか。――君、あの女を愛してゐるんだらう」

与次郎は善く知つてゐる。三四郎はふんと云つて、又高い月を見た。月の傍そばに白い雲が出でた。

「君、あの女には、もう返したのか」

「いゝや」

「何時いつ迄も借りて置いてやれ」

呑気な事を云ふ。三四郎は何とも答へなかつた。しかし何時いつ迄も借かりて置く気は無論無なかつた。実は必要な弐拾円を下宿へ払はらつて、残りの拾円を其翌日あくるひすぐ里見の家うちへ届けやうと思つたが、今返かへしては却つて、好意に背いて、よくないと考へ直して、折角門内に這入はいられる機会を犠牲ぎせいにして迄、引き返した。其時何かの拍子で、気が緩〔ゆる〕んで、其十円をくづして仕舞つた。実は今夜の会費も其内そのうちから出でてゐる。自分の許ばかりではない。与次郎のもその内うちから出でてゐる。あとには、漸やく二三円残つてゐる。三四郎は夫で冬襯衣シヤツを買はうと思つた。

実は与次郎が到底返かへしさうもないから、三四郎は思ひ切つて、此間このあひだ国元へ三十円の不足を請求した。充分な学資を月々つき〲貰もらつてゐながら、たゞ不足だからと云つて請求する訳には行かない。三四郎はあまり嘘うそを吐ついた事のない男だから、請求の理由に至つて困却した。仕方がないからたゞ友達が金かねを失なくして弱つてゐたから、つい気の毒になつて貸かしてやつた。其結果として、今度は此方こつちが弱る様になつた。どうか送つて呉れと書かいた。

直すぐ返事を出だして呉くれゝば、もう届とゞく時分であるのにまだ来こない。今夜あたりは殊〔こと〕によると来きてゐるかも知れぬ位に考へて、下宿へ帰つて見ると、果して、母の手蹟てで書いた封筒がちやんと机の上に乗つてゐる。不思議な事に、何時いつも必ず書留で来くるのが、今日けふは三銭切手一枚で済ましてある。開ひらいて見ると、中なかは例になく短かい。母としては不親切な位、用事丈で申し納めて仕舞つた。依頼の金は野々宮さんの方へ送つたから、野々宮さんから受取れといふ差図に過ぎない。三四郎は床とこを取つて寐た。

九の五

翌日よくじつも其翌日よくじつも三四郎は野々宮さんの所へ行いかなかつた。野々宮さんの方でも何なんとも云つて来こなかつた。さうしてゐる内うちに一週間程経たつた。仕舞に野々宮さんから、下宿の下女を使つかひに手紙を寄よこした。御母おつかさんから頼たのまれものがあるから、一寸ちよつと来きて呉れろとある。三四郎は講義の隙すきを見て、又理科大学の穴倉へ降おりて行いつた。其所そこで立談〔たちばなし〕の間に事を済ませやうと思つた所が、左さう旨うまくは行いかなかつた。此夏このなつは野々宮さん丈だけで専領してゐた部屋に、髭ひげの生はえた人が二三人ゐる。制服を着きた学生も二三人ゐる。それが、みんな熱心に、静粛に、頭あたまの上うへの日の当あたる世界を余所よそにして、研究を遣やつてゐる。其内そのうちで野々宮さんは尤も多忙に見えた。部屋の入口に顔を出だした三四郎を、一寸ちよつと見て、無言むげんの儘近寄ちかよつて来きた。

「国くにから、金かねが届とゞいたから、取とりに来きて呉れ玉へ。今此所こゝに持つてゐないから。それからまだ外ほかに話す事もある」

三四郎ははあと答へた。今夜でも好いいかと尋ねた。野々宮は少し考へてゐたが、仕舞に思ひ切つて、宜よろしいと云つた。三四郎は夫それで穴倉を出でた。出でながら、流石さすがに理学者は根気の能いいものだと感心した。此夏このなつ見た福神漬の缶と、望遠鏡が依然として故もとの通りの位地に備へ付けてあつた。

次の講義の時間に与次郎に逢つて是々これ〱だと話すと、与次郎は馬鹿だと云はない許に三四郎を眺めて、

「だから何時迄いつまでも借かりて置いてやれと云つたのに。余計な事をして年寄には心配を掛ける。宗八さんには御談義をされる。是位〔これくらい〕愚な事はない」と丸で自分から事が起つたとは認みとめてゐない申分である。三四郎も此問題に関しては、もう与次郎の責任を忘れて仕舞つた。従つて与次郎の頭あたまに掛かゝつて来こない返事をした。

「何時いつ迄も借かりて置くのは、厭いやだから、家うちへさう云つて遣やつたんだ」

「君は厭いやでも、向むかふでは喜よろこぶよ」

「何故なぜ」

此何故なぜが三四郎自身には幾分か虚偽の響ひゞきらしく聞えた。然し相手には何等の影響も与へなかつたらしい。

「当り前ぢやないか。僕を人にしたつて、同じ事だ。僕に金かねが余つてゐるとするぜ。左さうすれば、其金かねを君きみから返かへして貰もらふよりも、君に貸して置く方が善い心持こゝろもちだ。人間はね、自分が困らない程度内で、成る可〔べ〕く人に親切がして見たいものだ」

三四郎は返事をしないで、講義を筆記し始めた。二三行書き出だすと、与次郎が又、耳の傍そばへ口くちを持もつて来きた。

「おれだつて、金のある時は度々たび〱人に貸した事がある。然し誰だれも決して返かへしたものがない。夫それだからおれは此通り愉快だ」

三四郎は真逆まさか、左さうかとも云へなかつた。薄うす笑ひをした丈で、又洋筆ペンを走はしらし始めた。与次郎も夫それからは落付おちついて、時間の終る迄口くちを利きかなかつた。

号鐘ベルが鳴なつて、二人ふたり肩を並ならべて教場を出でるとき、与次郎が、突然聞きいた。

「あの女は君に惚ほれてゐるのか」

二人ふたりの後あとから続々ぞく〱聴講生が出でて来くる。三四郎は已〔やむ〕を得ず無言の儘階子はしご段を降おりて横手の玄関から、図書館傍わきの空地あきちへ出でて、始めて与次郎を顧かへりみた。

「能よく分わからない」

与次郎は暫らく三四郎を見てゐた。

「左さう云ふ事もある。然し能く分わかつたとして。君きみ、あの女の夫ハスバンドになれるか」

三四郎は未いまだ曾て此問題を考へた事がなかつた。美禰子に愛せられるといふ事実其物が、彼女の夫ハスバンドたる唯一の資格の様な気がしてゐた。云はれて見ると、成程疑問である。三四郎は首を傾けた。

「野々宮さんならなれる」と与次郎が云つた。

「野々宮さんと、あの人とは何か今迄に関係があるのか」

三四郎の顔は彫ほり付けた様に真面目まじめであつた。与次郎は一口ひとくち、

「知らん」と云つた。三四郎は黙だまつてゐる。

「まあ野々宮さんの所ところへ行いつて、御談義を聞いて来こい」と云ひ棄てゝ、相手は池の方へ行き掛けた。三四郎は愚劣ぐれつの看板かんばんの如く突立つゝたつた。与次郎は五六歩行いつたが、又笑ひながら帰つて来きた。

「君きみ、いつそ、よし子さんを貰もらはないか」と云ひながら、三四郎を引つ張つて、池の方へ連つれて行いつた。歩あるきながら、あれなら好いい、あれなら好いいと、二度にど程繰り返した。其内そのうち又号鐘ベルが鳴つた。

九の六

三四郎は其夕方ゆふがた野々宮さんの所へ出掛けたが、時間がまだ少し早過はやすぎるので、散歩かた〲四丁目迄来きて、襯衣シヤツを買ひに大きな唐物とうぶつ屋へ入はいつた。小僧が奥から色々いろ〱持つて来きたのを撫なでゝ見たり、広ひろげて見たりして、容易に買かはない。訳わけもなく鷹揚に構へてゐると、偶然美禰子とよし子が連つれ立だつて香水を買ひに来きた。あらと云つて挨拶をした後あとで、美禰子が、

「先達せんだつては難有〔ありがと〕う」と礼れいを述のべた。三四郎には此御礼の意味が明あきらかに解わかつた。美禰子から金かねを借かりた翌日あくるひもう一遍訪問して余分をすぐに返すべき所を、一先ひとまづ見合せた代りに、二日ふつかばかり待まつて、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送つた。

手紙の文句は、書かいた人の、書かいた当時の気分を素直に表あらはしたものではあるが、無論書かき過すぎてゐる。三四郎は出来る丈の言葉を層々と排列して感謝の意を熱烈に致した。普通のものから見れば殆んど借金の礼状とは思はれない位に、湯気ゆげの立たつたものである。然し感謝以外には、何にも書いてない。夫だから、自然の勢、感謝が感謝以上になつたのでもある。三四郎は、此手紙を郵函ポストに入れるとき、時ときを移さぬ美禰子の返事を予期よきしてゐた。所が折角の封書はたゞ行いつた儘まゝである。夫それから美禰子に逢ふ機会は今日迄なかつた。三四郎はこの微弱なる「此間は難有う」といふ反響に対して、確乎はつきりした返事をする勇気も出でなかつた。大〔おおき〕な襯衣シヤツを両手で眼めの先さきへ広ひろげて眺ながめながら、よし子が居ゐるからあゝ冷淡なんだらうかと考へた。それから此襯衣シヤツも此女の金かねで買うんだなと考へた。小僧はどれになさいますと催促した。

二人ふたりの女は笑ひながら傍そばへ来きて、一所に襯衣シヤツを見て呉れた。仕舞に、よし子が「是これになさい」と云つた。三四郎はそれにした。今度は三四郎の方が香水の相談を受けた。一向分わからない。ヘリオトロープと書かいてある罎びんを持もつて、好加減に、是はどうですと云ふと、美禰子が、「それに為しませう」とすぐ極めた。三四郎は気の毒な位であつた。

表へ出でて分わかれやうとすると、女の方が互たがひに御辞儀を始めた。よし子が「ぢや行いつて来きてよ」と云ふと、美禰子が「御早く……」と云つてゐる。聞いて見て、妹いもとが兄あにの下宿へ行く所ところだといふ事が解わかつた。三四郎は又奇麗な女と二人連ふたりづれで追分の方へ歩あるくべき宵よひとなつた。日はまだ全く落ちてゐない。

三四郎はよし子と一所に歩あるくよりは、よし子と一所に野々宮の下宿で落ち合はねばならぬ機会を聊〔いささ〕か迷惑に感じた。いつその事今夜こんやは家うちへ帰つて、又出直さうかと考へた。然し、与次郎の所謂〔いわゆる〕御談義を聞くには、よし子が傍そばに居て呉れる方が便利かも知れない。まさか人ひとの前で、母はゝから、斯かういふ依頼があつたと、遠慮なしの注意を与へる訳わけはなからう。ことに依ると、たゞ金かねを受取る丈で済すむかも解わからない。――三四郎は腹はらの中なかで、一寸ちよつと狡ずるい決心をした。

「僕ぼくも野々宮さんの所ところへ行くところです」

「さう。御遊あそびに?」

「いえ、少し用があるんです。あなたは遊あそびですか」

「いゝえ、私わたくしも御用なの」

両方が同じ様な事を聞いて、同じ様な答こたへを得た。しかも両方共迷惑を感じてゐる気色けしきが更さらにない。三四郎は念の為め、邪魔ぢやないかと尋ねて見た。些ちつとも邪魔にはならないさうである。女は言葉ことばで邪魔を否定した許ではない。顔かほでは寧ろ何故なぜそんな事を質問するかと驚ろいてゐる。三四郎は店先みせさきの瓦斯の光ひかりで、女の黒い眼めのなかに、其驚きを認めたと思つた。事実としては、たゞ大きく黒く見えた許である。

「ヷイオリンを買ひましたか」

「何どうして御存じ」

三四郎は返答に窮した。女は頓着なく、すぐ、斯かう云つた。

「いくら兄にいさんに左さう云つても、たゞ買つてやる、買かつてやると云ふ許ばかりで、些ちつとも買かつて呉れなかつたんですの」

三四郎は腹の中なかで、野々宮よりも広田よりも、寧ろ与次郎を非難した。

九の七

二人ふたりは追分おひわけの通りを細い露路ろぢに折れた。折れると中なかに家いへが沢山ある。暗くらい路みちを戸毎こごとの軒燈が照らしてゐる。其軒燈の一ひとつの前に留とまつた。野々宮は此奥にゐる。

三四郎の下宿とは殆んど一丁程の距離である。野々宮が此所こゝへ移うつつてから、三四郎は二三度訪問した事がある。野々宮の部屋は広ひろい廊下を突つき当あたつて、二段ばかり真直まつすぐに上のぼると、左手ひだりてに離れた二間ふたまである。南向に余所よその広い庭を殆んど縁の下したに控ひかへて、昼ひるも夜よるも至極静かである。此離座敷に立て籠つた野々宮さんを見た時、成程家を畳んで、下宿をするのも悪わるい思付ではなかつたと、始めて来きた時から、感心した位、居心地ゐこゝちの好いい所である。其時そのとき野々宮さんは廊下へ下おりて、下したから自分の部屋の軒のきを見上みあげて、一寸ちよつと見給へ藁葺わらぶきだと云つた。成程珍めづらしく屋根に瓦を置おいてなかつた。

今日けふは夜よるだから、屋根は無論見えないが、部屋の中なかには電燈が点ついてゐる。三四郎は電燈を見るや否や藁葺を思ひ出だした。さうして可笑〔おか〕しくなつた。

「妙な御客が落ち合あつたな。入口いりくちで逢あつたのか」と野々宮さんが妹に聞いてゐる。妹は然らざる旨むねを説明してゐる。序に三四郎の様な襯衣シヤツを買かつたら好よからうと助言げんしてゐる。夫それから、此間このあひだのヷイオリンは和製で音ねが悪わるくつて不可いけない、買ふのを是迄延期したのだから、もう少し良いいのと買ひ易〔か〕へて呉れと頼たのんでゐる。責〔せ〕めて美禰子さん位のなら我慢すると云つてゐる。其外ほか似たり寄つたりの駄々をしきりに捏こねてゐる。野々宮さんは別段怖こわい顔もせず、と云つて、優やさしい言葉も掛けず、たゞ左さうか〱と聞いてゐる。

三四郎は此間このあひだ何にも云はずにゐた。よし子は愚ぐな事ばかり述のべる。且〔か〕つ少しも遠慮をしない。それが馬鹿とも思へなければ、我儘とも受取れない。兄あにとの応対を傍そばにゐて聞きいてゐると、広ひろい日当ひあたりの好いい畠はたけへ出でた様な心持がする。三四郎は来きたるべき御談義の事を丸で忘れて仕舞つた。其時突然驚ろかされた。

「あゝ、私わたし忘れてゐた。美禰子さんの御言伝ことづてがあつてよ」

「左さうか」

「嬉うれしいでせう。嬉うれしくなくつて?」

野々宮さんは痒かゆい様な顔をした。さうして、三四郎の方を向いた。

「僕の妹は馬鹿ですね」と云つた。三四郎は仕方なしに、たゞ笑つてゐた。

「馬鹿ぢやないわ。ねえ、小川さん」

三四郎は又笑つてゐた。腹の中なかではもう笑ふのが厭いやになつた。

「美禰子さんがね、兄にいさんに文芸協会の演芸会に連れて行いつて頂戴つて」

「里見さんと一所に行つたら宜よからう」

「御用が有るんですつて」

「御前まへも行いくのか」

「無論だわ」

野々宮さんは行くとも行かないとも答へなかつた。又三四郎の方を向いて、今夜こんや妹いもうとを呼んだのは真面目まじめな用のあるのだのに、あんな呑気ばかり云つてゐて困こまると話した。聞いて見ると、学者丈あつて、存外淡泊である。よし子に縁談の口くちがある。国へさう云つてやつたら、両親も異存はないと返事をして来きた。夫それに就て本人の意見をよく確める必要が起おこつたのだと云ふ。三四郎はたゞ結構ですと答へて、成るべく早く自分の方を片付けて帰らうとした。そこで、

「母はゝからあなたに御面倒を願ねがつたさうで」と切り出した。野々宮さんは、

「何なに、大たいして面倒でもありませんがね」とすぐに机の抽出ひきだしから、預あづかつたものを出だして、三四郎に渡わたした。

九の八

「御母おつかさんが心配して、長い手紙を書いて寄よこしましたよ。三四郎は余義ない事情で月々つき〲の学資を友達ともだちに貸したと云ふが、いくら友達だつて、さう無暗に金かねを借かりるものぢやあるまいし、よし借かりたつて返かへす筈はづだらうつて。田舎いなかのものは正直だから、さう思ふのも無理はない。それからね、三四郎が貸すにしても、あまり貸し方かたが大袈裟だ。親おやから月々つき〲学資を送つて貰ふ身分でゐながら、一度いちどに弐拾円の三十円のと、人に用立てるなんて、如何いかにも無分別だとあるんですがね――何だか僕に責任が有ある様に書かいてあるから困る。……」

野々宮さんは三四郎を見て、にや〱笑つてゐる。三四郎は真面目まじめに「御気の毒です」といつた許である。野々宮さんは、若わかいものを、極め付ける積で云つたんで無ないと見えて、少し調子を変かへた。

「なに、心配する事はありませんよ。何でもない事なんだから。たゞ御母おつかさんは、田舎いなかの相場で、金かねの価値かちを付つけるから、三拾円が大変重おもくなるんだね。何でも参拾円あると、四人の家族が半年食くつて行いけると書かいてあつたが、そんなものかな、君」と聞いた。よし子は大きな声を出だして笑つた。三四郎にも馬鹿気ばかげてゐる所が頗る可笑〔おか〕しいんだが、母はゝの言いひ条が、全く事実を離れた作り話ばなしでないのだから、其所そこに気が付いた時には、成程軽卒な事をして悪わるかつたと少しく後悔した。

「さうすると、月つきに五円の割だから、一人ひとり前一円二十五銭に当あたる。それを三十日に割り付けると、四銭ばかりだが――いくら田舎いなかでも少し安過やすすぎる様だな」と野々宮さんが計算を立てた。

「何を食たべたら、その位くらゐで生きてゐられるでせう」とよし子が真面目まじめに聞き出だした。三四郎も後悔する暇ひまがなくなつて、自分の知つてゐる田舎いなか生活の有様を色々話はなして聞かした。其中そのなかには宮籠みやごもりといふ慣例もあつた。三四郎の家うちでは、年に一度いちどづゝ村むら全体へ十円寄附する事になつてゐる。其時には六十戸から一人ひとりづゝ出て、其六十人が、仕事を休やすんで、村むらの御宮へ寄よつて、朝から晩迄、酒を飲みつゞけに飲んで、御馳走を食ひつゞけに食くふんだといふ。

「それで十円」とよし子が驚ろいてゐた。御談義は是で何所どこかへ行いつたらしい。それから少し雑談をして一段落付いた時に、野々宮さんが改めて、斯かう云つた。

「何しろ、御母おつかさんの方ではね。僕が一応事情を調べて、不都合がないと認めたら、金を渡して呉れろ。さうして面倒でも其事情を知らせて貰もらひたいといふんだが、金かねは事情も何なにも聞かないうちに、もう渡わたして仕舞つたしと、――何どうするかね。君慥〔たし〕か佐々木に貸したんですね」

三四郎は美禰子から洩れて、よし子に伝つたはつて、それが野々宮さんに知れてゐるんだと判じた。然し其金そのかねが巡めぐり巡めぐつてヷイオリンに変形したものとは兄妹けうだいとも気が付かないから一種妙な感じがした。たゞ「左さうです」と答へて置いた。

「佐々木が馬券を買つて、自分の金かねを失なくなしたんだつてね」

「えゝ」

よし子は又大きな声を出だして笑つた。

「ぢや、好加減に御母おつかさんの所ところへさう云つて上あげやう。然し今度こんどから、そんな金かねはもう貸さない事に為したら好いいでせう」

三四郎は貸さない事にする旨むねを答へて、挨拶をして、立ち掛けると、よし子も、もう帰らうと云ひ出だした。

「先刻さつきの話はなしをしなくつちや」と兄あにが注意した。

「能よくつてよ」と妹が拒絶した。

「能よくはないよ」

「能よくつてよ。知らないわ」

兄あには妹いもうとの顔を見て黙だまつてゐる。妹は、また斯かう云つた。

「だつて仕方がないぢや、ありませんか。知りもしない人ひとの所ところへ、行ゆくか行ゆかないかつて、聞きいたつて。好すきでも嫌きらひでもないんだから、何なんにも云ひ様はありやしないわ。だから知しらないわ」

三四郎は知らないわの本意を漸く会得えとくした。兄妹けうだいを其儘まゝにして急いで表へ出でた。

九の九

人ひとの通らない軒燈〔けんとう〕ばかり明あきらかな露地ろぢを抜けて表へ出でると、風が吹く。北へ向き直ると、まともに顔かほへ当あたる。時を切つて、自分の下宿の方から吹ふいてくる。其時三四郎は考へた。此風のなかを、野々宮さんは、妹を送つて里見迄連つれて行いつて遣やるだらう。

下宿の二階へ上あがつて、自分の室へやへ這入はいつて、坐すはつて見ると、矢っ張り風の音おとがする。三四郎は斯かう云ふ風の音おとを聞く度たびに、運命といふ字を思ひ出だす。ごうと鳴つて来くる度たびに竦すくみたくなる。自分ながら決して強い男とは思つてゐない。考へると、上京以来自分の運命は大概与次郎の為ために製こしらへられてゐる。しかも多少の程度に於て、和気靄然〔あいぜん〕たる翻弄を受ける様に製こしらへられてゐる。与次郎は愛すべき悪戯いたづらものである。向後も此愛すべき悪戯いたづらものゝ為ために、自分の運命を握にぎられてゐさうに思ふ。風がしきりに吹く。慥かに与次郎以上の風である。

三四郎は母はゝから来きた三拾円を枕元へ置いて寐た。此三拾円も運命の翻弄が産うんだものである。此三拾円が是から先さきどんな働はたらきをするか、丸で分わからない。自分はこれを美禰子に返かへしに行ゆく。美禰子がこれを受取うけとるときに、又一煽ひとあほり来くるに極つてゐる。三四郎は成るべく大きく来くれば好いいと思つた。

三四郎はそれなり寐付ねついた。運命も与次郎も手を下くだし様のない位すこやかな眠ねむりに入つた。すると半鐘の音おとで眼が覚さめた。何所どこかで人声ひとごゑがする。東京の火事は是で二返目である。三四郎は寐巻の上うへへ羽織を引掛けて、窓を明あけた。風は大分落おちてゐる。向ふの二階かい屋やが風の鳴るなかに、真黒に見える。家いへが黒い程、家いへの後うしろの空そらは赤あかかつた。

三四郎は寒さむいのを我慢して、しばらく此赤あかいものを見詰みつめてゐた。其時三四郎の頭あたまには運命があり〱と赤あかく映うつつた。三四郎は又暖あたゝかい布団ふとんのなかに潜もぐり込んだ。さうして、赤い運命のなかで狂くるひ回まはる多くの人ひとの身の上うへを忘れた。

夜が明あければ常つねの人である。制服を着けて、帳面ノートを持つて、学校へ出でた。たゞ三拾円を懐ふところにする事だけは忘〔わすれ〕なかつた。生憎時間割の都合が悪わるい。三時迄ぎつしり詰つまつてゐる。三時過すぎに行けば、よし子も学校から帰つて来きてゐるだらう。ことに依れば里見恭助といふ兄あにも在宅うちかも知れない。人ひとがゐては、金かねを返かへすのが、全く駄目の様な気がする。

又与次郎が話し掛けた。

「昨夜ゆふべは御談義を聞いたか」

「なに御談義といふ程でもない」

「左さうだらう、野々宮さんは、あれで理由わけの解わかつた人だからな」と云つて何所どこかへ行つて仕舞つた。二時間後にじかんごの講義のときに又出逢つた。

「広田先生の事は大丈夫旨うまく行いきさうだ」と云ふ。どこ迄事ことが運はこんだかと聞いて見ると、

「いや心配しないでも好いい。いづれ緩ゆつくり話はなす。先生が君がしばらく来こないと云つて、聞いてゐたぜ。時々行いくが好いい。先生は一人ひとりものだからな。吾々われ〱が慰めて遣やらんと、不可いかん。今度こんだ何か買つて来こい」と云ひつ放ぱなして、それなり消えて仕舞つた。すると、次つぎの時間に又何処どこからか現あらはれた。今度こんどは何と思つたか、講義の最中さいちうに、突然、

「金かね受取うけとりたりや」と電報の様なものを白紙しらかみへ書かいて出だした。三四郎は返事を書かかうと思つて、教師の方を見ると、教師がちやんと此方こつちを見てゐる。白紙しらかみを丸めて足あしの下したへ抛なげた。講義が終るのを待つて、始めて返事をした。

「金かねは受取うけとつた。此所こゝにある」

「左さうか夫それは好よかつた。返かへす積りか」

「無論返すさ」

「それが好よからう。早く返かへすが好いい」

「今日けふ返かへさうと思ふ」

「うん午過ひるすぎ遅くならゐるかもしれない」

「何所どこかへ行くのか」

「行いくとも、毎日々々画ゑに描かかれに行いく。もう余っ程出来たらう」

「原口さんの所ところか」

「うん」

三四郎は与次郎から原口さんの宿所を聞き取つた。

十の一

広田先生が病気だと云ふから、三四郎が見舞に来きた。門を這入ると、玄関に靴が一足揃へてある。医者かも知れないと思つた。いつもの通り勝手口ぐちへ回まはると誰だれもゐない。のそ〱上あがり込んで茶の間まへ来くると、座敷で話し声がする。三四郎はしばらく佇たゞずんでゐた。手に可かなり大きな風呂敷包づゝみを提さげてゐる。中なかには樽柿たるがきが一杯入はいつてゐる。今度こんど来くる時は、何か買かつてこいと、与次郎の注意があつたから、追分の通で買つて来きた。すると座敷のうちで、突然どたり、ばたりと云いふ音おとがした。誰だれか組打を始めたらしい。三四郎は必定〔ひつじょう〕喧嘩と思ひ込んだ。風呂敷包を提さげた儘、仕切りの唐紙からかみを鋭するどく一尺許明あけて屹〔きっ〕と覗き込んだ。広田先生が茶の袴を穿はいた大きな男をとこに組み敷しかれてゐる。先生は俯伏うつぶしの顔かほを際きはどく畳から上あげて、三四郎を見たが、にやりと笑わらひながら、

「やあ、御出おいで」と云つた。上うへの男をとこは一寸ちよつと振り返つた儘まゝである。

「先生、失礼ですが、起おきて御覧なさい」と云ふ。何でも先生の手を逆ぎやくに取つて、肘ひぢの関節つがひを表おもてから、膝頭ひざがしらで圧おさへてゐるらしい。先生は下したから、到底起おきられない旨むねを答こたへた。上うへの男は、それで、手を離はなして、膝ひざを立たてゝ、袴の襞ひだを正たゞしく、居住居ゐずまゐを直した。見れば立派な男である。先生もすぐ起き直なほつた。

「成程」と云つてゐる。

「あの流で行いくと、無理に逆さからつたら、腕うでを折る恐れがあるから、危険です」

三四郎は此問答で、始めて、此両人の今何をしてゐたかを悟つた。

「御病気ださうですが、もう宜よろしいんですか」

「えゝ、もう宜よろしい」

三四郎は風呂敷包を解といて、中なかにあるものを、二人ふたりの間に広ひろげた。

「柿を買かつて来きました」

広田先生は書斎へ行いつて、小刀ナイフを取つて来くる。三四郎は台所から庖丁を持つて来きた。三人で柿かきを食ひ出した。食ひながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話はなしを始めた。生活難の事、紛擾〔ふんじょう〕の事、一ひとつ所ところに長く留とまつてゐられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄の台だいを買つて、鼻緒は古ふるいのを、着すげ更かへて、用ひられる丈用ひる位にしてゐる事、今度こんど辞職した以上は、容易に口くちが見付みつかりさうもない事、已〔やむ〕を得ず、それ迄妻を国元もとへ預あづけた事――中々なか〱尽きさうもない。

三四郎は柿かきの核たねを吐はき出だしながら、此この男の顔かほを見てゐて、情なさけなくなつた。今の自分と、此男と比較して見ると、丸で人種じんしゆが違ちがふ様な気がする。此男の言葉のうちには、もう一遍学生生活がして見たい。学生生活程気楽なものはないと云いふ文句もんくが何度なんども繰くり返かへされた。三四郎は此文句もんくを聞くたびに、自分の寿命も僅わづか二三年の間あひだなのか知らんと、盆槍ぼんやり考へ始めた。与次郎と蕎麦そばなどを食くふ時ときの様に、気が冴さえない。

広田先生は又立つて書斎に入いつた。帰かへつた時は、手に一巻の書物を持つてゐた。表紙が赤黒あかぐろくつて、切きり口くちの埃ほこりで汚よごれたものである。

「是が此間このあひだ話はなしたハイドリオタフヒア。退屈なら見てゐ玉へ」

三四郎は礼を述べて書物を受け取つた。

「寂寞じやくまくの罌粟花けしを散らすや頻しきりなり。人の記念に対たいしては、永劫に価あたひすると否とを問ふ事なし」といふ句が眼めに付ついた。先生は安心して柔術の学士と談話をつゞける。――中学教師抔の生活状態を聞いて見ると、みな気の毒なもの許ばかりの様だが、真に気の毒と思ふのは当人丈である。なぜといふと、現代人は事実を好むが、事実に伴ふ情操は切り棄てる習慣である。切り棄てなければならない程、世間が切迫してゐるのだから仕方がない。其証拠には新聞を見ると分わかる。新聞の社会記事は十の九迄悲劇である。けれども我々は此悲劇を悲劇として味はう余裕がない。たゞ事実の報道として読む丈である。自分の取る新聞抔は、死人十何人と題して、一日に変死した人間の年齢、戸籍、死因を六号活字で一行づゝに書く事がある。簡潔明瞭の極きよくである。又泥棒早見はやみと云ふ欄があつて、何所どこへどんな泥棒が入はいつたか、一目ひとめに分わかる様に泥棒がかたまつてゐる。是も至極便利である。すべてが、この調子と思はなくつちや不可いけない。辞職もその通り。当人には悲劇に近い出来事ごとかも知れないが、他人には夫それ程痛切な感じを与へないと覚悟しなければなるまい。其積りで運動したら好よからう。

「だつて先生位余裕があるなら、少すこしは痛切に感じても善よささうなものだが」と柔術の男が真面目まじめな顔をして云つた。此時は広田先生も三四郎も、さう云つた当人も一度に笑つた。此男が中なか々帰かへりさうもないので三四郎は、書物を借かりて、勝手から表へ出でた。

十の二

「朽ちざる墓はかに眠ねむり、伝つたはる事ことに生いき、知らるる名に残り、しからずは滄桑〔そうそう〕の変に任せて、後のちの世よに存そんせんと思ふ事、昔むかしより人の願ねがひなり、此願ねがひのかなへるとき、人は天国にあり。去れども真まことなる信仰の教法より視れば、此願ねがひも此満足まんぞくも無なきが如くに果敢はかなきものなり。生いきるとは、再ふたたびの我われに帰かへるの意にして、再ふたゝびの我われに帰るとは、願ねがひにもあらず、望のぞみにもあらず、気高けだかき信者の見たる明白あからさまなる事実じじつなれば、聖徒イノセントの墓地に横よこたはるは猶〔なお〕埃及エジプトの砂中さちうに埋まるが如し。常住の吾身わがみを観じ悦よろこべば、六尺の狭きもアドリエーナスの大廟〔たいびょう〕と異ことなる所あらず。成るが儘に成るとのみ覚悟せよ」

是はハイドリオタフヒアの末節である。三四郎はぶら〱白山はくさんの方へ歩あるきながら、往来のなかで、此一節を読んだ。広田先生から聞く所によると、此著者は有名な名文家で、此一篇は名文家の書いたうちの名文であるさうだ。広田先生は其話そのはなしをした時に、笑ひながら、尤も是は私わたしの説せつぢやないよと断ことわられた。成程三四郎にも何処どこが名文だか能よく解わからない。只句切くぎりが悪くつて、字遣じづかひが異様で、言葉の運はこび方かたが重おも苦しくつて、丸で古い御寺おてらを見る様な心持がした丈である。此一節丈読むにも道程みちのりにすると、三四町も掛かゝつた。しかも判然はつきりとはしない。

贏かち得た所は物寂さびてゐる。奈良の大仏だいぶつの鐘かねを撞ついて、其余波なごりの響ひゞきが、東京にゐる自分の耳に微かすかに届とゞいたと同じ事である。三四郎は此一節の齎もたらす意味よりも、其意味の上に這〔は〕ひかゝる情緒しよの影かげを嬉うれしがつた。三四郎は切実に生死の問題を考へた事のない男である。考へるには、青春の血が、あまりに暖あたゝか過すぎる。眼めの前には眉を焦こがす程な大きな火が燃もえてゐる。其感じが、真の自分である。三四郎は是から曙町あけぼのちやうの原口はらぐちの所へ行く。

小供の葬式が来きた。羽織を着きた男がたつた二人ふたり着ついてゐる。小ちさい棺は真白な布ぬので巻まいてある。其傍そばに奇麗な風車かざぐるまを結ゆひ付けた。車くるまがしきりに回まはる。車くるまの羽瓣はねが五色しきに塗ぬつてある。それが一色いつしきになつて回まはる。白しろい棺は奇麗な風車かざぐるまを断間たえまなく揺うごかして、三四郎の横を通り越した。三四郎は美うつくしい葬とむらひだと思つた。

三四郎は他ひとの文章と、他ひとの葬式を余所よそから見た。もし誰だれか来きて、序ついでに美禰子を余所よそから見ろと注意したら、三四郎は驚ろいたに違ちがひない。三四郎は美禰子を余所よそから見みる事が出来できない様な眼めになつてゐる。第一余所よそも余所よそでないもそんな区別は丸で意識してゐない。たゞ事実として、他ひとの死に対しては、美うつくしい穏やかな味あぢはひがあると共に、生きてゐる美禰子に対しては、美うつくしい享楽の底そこに、一種の苦悶がある。三四郎は此苦悶を払はらはうとして、真直まつすぐに進んで行く。進んで行けば苦悶が除とれる様に思ふ。苦悶を除とる為めに一歩ひとあし傍わきへ退のく事は夢にも案じ得ない。これを案じ得ない三四郎は、現に遠くから、寂滅じやくめつの会ゑを文字の上に眺ながめて、夭折の憐れを、三尺の外そとに感じたのである。しかも、悲しい筈の所を、快こゝろよく眺めて、美うつくしく感じたのである。

曙あけぼの町へ曲まがると大きな松がある。此松を目標めじるしに来こいと教はつた。松の下したへ来くると、家が違ちがつてゐる。向ふを見ると又松がある。其先さきにも松がある。松が沢山ある。三四郎は好いい所だと思つた。多くの松を通り越して左へ折れると、生垣いけがきに奇麗な門がある。果して原口といふ標札が出てゐた。其標札は木理もくめの込こんだ黒くろつぽい板に、緑みどりの油あぶらで名前を派出はでに書かいたものである。字だか模様だか分わからない位凝こつてゐる。門から玄関迄はからりとして何にもない。左右に芝が植ゑてある。

十の三

玄関には美禰子の下駄が揃へてあつた。鼻緒の二本が右左みぎひだりで色が違ふ。それで能く覚えてゐる。今いま仕事中しごとちうだが、可よければ上あがれと云ふ小女こをんなの取次とりつぎに尾ついて、画室へ這入はいつた。広ひろい部屋である。細長ほそながく南北みなみきたに延びた床ゆかの上うへは、画家らしく、取り乱れてゐる。先づ一部分には絨氈じうたんが敷いてある。それが部屋の大きさに較くらべると、丸で釣つり合が取れないから、敷物しきものとして敷しいたといふよりは、色の好いい、模様の雅がな織物として放ほうりだした様に見える。離れて向むかふに置いた大きな虎とらの皮も其通り、坐すはる為ための、設けの座ざとは受け取れない。絨氈とは不調和な位置に筋違すぢかひに尾を長く曳ひいてゐる。砂すなを錬ねり固かためた様な大きな甕かめがある。其中なかから矢が二本出でてゐる。鼠色の羽根と羽根の間あひだが金箔で強つよく光ひかる。其傍そのそばに鎧よろひもあつた。三四郎は卯の花縅おどしと云ふのだらうと思つた。向ふ側がはの隅にぱつと眼めを射るものがある。紫むらさきの裾模様すそもやうの小袖そでに金糸の刺繍ぬひが見える。袖から袖そでへ幔幕まんまくの綱つなを通して、虫干むしぼしの時の様に釣つるした。袖そでは丸くて短みぢかい。是が元禄げんろくかと三四郎も気が付ついた。其外そのほかには画ゑが沢山ある。壁かべに掛けたの許ばかりでも大小合あはせると余程になる。額縁がくぶちを附つけない下画したゑといふ様なものは、重かさねて巻まいた端はじが、巻まき崩くづれて、小口こぐちをしだらなく露あらはした。

描ゑがかれつゝある人の肖像は、此彩色いろどりの眼めを乱みだす間あひだにある。描ゑがかれつゝある人は、突き当りの正面に団扇を翳〔かざ〕して立つた。描ゑがく男は丸い脊せをぐるりと返かへして、調色板パレツトを持もつた儘、三四郎に向つた。口くちに太ふとい烟管パイプを啣〔くわ〕へてゐる。

「遣やつて来きたね」と云つて烟管パイプを口くちから取つて、小ちさい丸卓まるテーブルの上うへに置いた。燐寸マツチと灰皿が載のつてゐる。椅子もある。

「掛け給へ。――あれだ」と云つて、描かき掛けた画布カンヷスの方を見た。長さは六尺もある。三四郎はたゞ、

「成程大きなものですな」と云つた。原口さんは、耳みゝにも留とめない風で、

「うん、中なか々」と独言ひとりごとの様に、髪かみの毛けと、背景の境の所を塗り始めた。三四郎は此時漸く美禰子の方を見た。すると女の翳かざした団扇の陰かげで、白い歯がかすかに光ひかつた。

それから二三分は全まつたく静かになつた。部屋は煖炉だんろで温あたゝめてある。今日けふは外面そとでも、さう寒くはない。風かぜは死に尽した。枯かれた樹きが音おとなく冬の日ひに包つゝまれて立つてゐる。三四郎は画室へ導みちびかれた時、霞かすみの中なかへ這入つた様な気がした。丸卓まるテーブルに肘ひぢを持もたして、此静しづかさの夜よに勝まさる境さかひに、憚〔はばか〕りなき精神こゝろを溺れしめた。此静しづかさのうちに、美禰子がゐる。美禰子の影かげが次第に出来上あがりつゝある。肥ふとつた画工の画筆ブラツシ丈だけが動く。夫それも眼めに動うごく丈で、耳みゝには静かである。肥ふとつた画工も動うごく事がある。然し足音あしおとはしない。

静しづかなものに封じ込められた美禰子は全く動うごかない。団扇を翳して立つた姿すがたその儘が既に画である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写してゐるのではない。不可思議に奥行のある画から、精出だして、其奥行丈だけを落おとして、普通の画に美禰子を描かき直してゐるのである。にも拘〔かか〕はらず第二の美禰子は、この静さのうちに、次第しだいと第一に近ちかづいて来くる。三四郎には、此二人このふたりの美禰子の間あひだに、時計の音おとに触れない、静かな長い時間じかんが含まれてゐる様に思はれた。其時間が画家の意識にさへ上のぼらない程音無おとなしく経たつに従つて、第二の美禰子が漸やく追おひ付ついて来くる。もう少すこしで双方がぴたりと出合であつて一ひとつに収おさまると云ふ所で、時ときの流ながれが急に向むきを換へて永久の中なかに注そゝいで仕舞ふ。原口さんの画筆ブラツシは夫それより先には進めない。三四郎は其所迄そこまで跟ついて行つて、気が付ついて、不図美禰子を見た。美禰子は依然として動かずに居る。三四郎の頭あたまは此静かな空気のうちで覚えず動いてゐた。酔つた心持である。すると突然原口さんが笑ひ出だした。

十の四

「又苦くるしくなつた様ですね」

女は何にも云はずに、すぐ姿勢を崩くづして、傍そばに置おいた安楽椅子へ落ちる様にとんと腰を卸した。其時白い歯が又光ひかつた。さうして動うごく時の袖そでと共ともに三四郎を見た。其眼めは流星の様に三四郎の眉間みけんを通り越して行いつた。

原口はらぐちさんは丸卓まるテーブルの傍そば迄来きて、三四郎に、

「何どうです」と云ひながら、燐寸マツチを擦すつて、先刻さつきの烟草パイプに火を付つけて、再び口くちに啣へた。大きな木きの雁首がんくびを指ゆびで抑おさへて、二吹許ふたふきばかり濃い烟けむりを髭ひげの中なかから出だしたが、やがて又丸い脊中せなかを向けて画ゑに近付ちかづいた。勝手な所を自由に塗つてゐる。

絵は無論仕上しあがつてゐないものだらう。けれども何処どこも彼所かしこも万遍なく絵の具が塗ぬつてあるから、素人しらうとの三四郎が見ると、中々立派である。旨うまいか無味まづいか無論分わからない。技巧の批評の出来ない三四郎には、たゞ技巧の齎〔もた〕らす感じ丈がある。それすら、経験がないから、頗る正鵠〔せいこく〕を失してゐるらしい。芸術の影響に全然無頓着な人間でないと自みづからを証拠立だてる丈でも三四郎は風流人である。

三四郎が見ると、此画は一体にぱつとしてゐる。何だか一面に粉が吹ふいて、光沢つやのない日光ひに当あたつた様に思はれる。影かげの所ところでも黒くはない。寧ろ薄うすい紫むらさきが射さしてゐる。三四郎は此画を見て、何となく軽快な感じがした。浮いた調子は猪牙ちよき船に乗つた心持がある。それでも何処どこか落ち付いてゐる。剣呑でない。苦にがつた所、渋しぶつた所、毒々しい所は無論ない。三四郎は原口さんらしい画だと思つた。すると原口さんは無雑作に画筆ブラツシを使ひながら、こんな事を云ふ。

「小川さん面白い話がある。僕の知つた男にね、細君が厭いやになつて離縁を請求したものがある。所が細君が承知をしないで、私わたくしは縁あつて、此家このうちへ方付かたづいたものですから、仮令たとひあなたが御厭おいやでも私わたくしは決して出て参まいりません」

原口さんは其所そこで一寸ちよつと画を離れて、画筆ブラツシの結果を眺ながめてゐたが、今度こんどは、美禰子に向つて、

「里見さん。あなたが単衣ひとへものを着きて呉れないものだから、着物きものが描かき悪にくくつて困こまる。丸で好加減いゝかげんにやるんだから、少し大胆過すぎますね」

「御気の毒さま」と美禰子が云つた。

原口さんは返事もせずに又画面へ近寄つた。「それでね、細君の御尻が離縁するには余り重くあつたものだから、友人が細君に向つて、斯かう云つたんだとさ。出でるのが厭いやなら、出でないでも好いい。何時いつ迄でも家うちにゐるが好いい。其代り己おれの方が出でるから。――里見さん一寸ちよつと立たつて見て下ください。団扇は何どうでも好いい。ただ立てば。さう。難有〔ありがと〕う。――細君が、私わたくしが家うちに居つても、貴方あなたが出でて御仕舞になれば、後あとが困るぢやありませんかと云ふと、何なに構はないさ、御前おまへは勝手に入夫にうふでもしたら宜よからうと答こたへたんだつて」

「それから、何どうなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語かたるに足りないと思つたものか、まだ後あとをつけた。

「何どうもならないのさ。だから結婚は考へ物だよ。離合聚散〔しゅうさん〕、共に自由にならない。広田先生を見給へ、野々宮さんを見給へ、里見恭助君を見給へ、序ついでに僕を見給へ。みんな結婚をしてゐない。女をんなが偉えらくなると、かう云ふ独身ものが沢山出来できて来くる。だから社会の原則は、独身ものが、出来でき得ない程度内に於て、女が偉えらくならなくつちや駄目だね」

「でも兄あには近々きん〱結婚致しますよ」

「おや、左さうですか。すると貴方あなたは何どうなります」

「存ぞんじません」

三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑つた。原口さん丈は画に向いてゐる。「存ぞんじません。存ぞんじません――ぢや」と画筆ブラツシを動うごかした。

十の五

三四郎は此機会を利用して、丸卓まるテーブルの側わきを離れて、美禰子の傍そばへ近寄ちかよつた。美禰子は椅子の脊に、油気あぶらけのない頭あたまを、無雑作に持もたせて、疲つかれた人ひとの、身繕みづくろひに心こゝろなき放擲なげやりの姿すがたである。明あからさまに襦袢の襟から咽喉頸のどくびが出てゐる。椅子には脱ぬぎ捨すてた羽織を掛かけた。廂髪ひさしがみの上うへに奇麗な裏うらが見える。

三四郎は懐ふところに三拾円入れてゐる。此三拾円が二人ふたりの間あひだにある、説明しにくいものを代表してゐる。――と三四郎は信じた。返かへさうと思つて、返かへさなかつたのも是が為である。思ひ切つて、今返かへさうとするのも是が為である。返かへすと用がなくなつて、遠とほざかるか、用がなくなつても、一層いつそう近付ちかづいて来くるか、――普通の人ひとから見ると、三四郎は少すこし迷信家の調子を帯びてゐる。

「里見さん」と云つた。

「なに」と答へた。仰向あほむいて下したから三四郎を見た。顔かほを故もとの如ごとくに落ち付つけてゐる。眼め丈は動うごいた。それも三四郎の真正面で穏やかに留とまつた。三四郎は女を多少疲れてゐると判じた。

「丁度序ついでだから、此所こゝで返かへしませう」と云ひながら、釦ボタンを一つ外はづして、内懐うちぶところへ手を入れた。女は又、

「なに」と繰り返した。故もとの通り、刺激のない調子である。内懐うちぶところへ手を入れながら、三四郎は何どうしやうと考へた。やがて思ひ切つた。

「此間このあひだの金かねです」

「今下くだすつても仕方しかたがないわ」

女は下したから見上みあげた儘である。手も出ださない。身体からだも動うごかさない。顔かほも元もとの所ところに落ち付つけてゐる。男は女の返事さへ能〔よ〕くは解げし兼かねた。其時、

「もう少しだから、何どうです」と云ふ声が後うしろで聞きこえた。見ると、原口さんが此方こつちを向いて立つてゐる。画筆ブラツシを指ゆびの股またに挟はさんだまゝ、三角に刈り込んだ髯ひげの先さきを引っ張つて笑つた。美禰子は両手を椅子の肘ひぢに掛けて、腰こしを卸おろしたなり、頭あたまと脊せを真直まつすぐに延ばした。三四郎は小ちいさな声で、

「まだ余程掛かゝりますか」と聞いた。

「もう一時間ばかり」と美禰子も小ちいさな声で答へた。三四郎は又丸卓まるテーブルに帰つた。女はもう描ゑがかるべき姿勢を取つた。原口さんは又烟管パイプを点つけた。画筆ブラツシは又動き出だす。脊せを向むけながら、原口さんが斯かう云つた。

「小川さん。里見さんの眼めを見て御覧ごらん」

三四郎は云はれた通りにした。美禰子は突然額ひたひから団扇を放はなして、静しづかな姿勢を崩した。横よこを向いて硝子越がらすごしに庭を眺めてゐる。

「不可いけない。横よこを向むいてしまつちや、不可いけない。今描かき出だした許ばかりだのに」

「何故なぜ余計な事を仰おつしやる」と女は正面に帰つた。原口さんは弁解をする。

「冷ひやかしたんぢやない。小川さんに話す事があつたんです」

「何を」

「是から話はなすから、まあ元もとの通りの姿勢に復ふくして下ください。さう。もう少し肘ひぢを前へ出だして。夫それで小川さん、僕の描かいた眼めが、実物の表情通り出来てゐるかね」

「何どうも能く分わからんですが。一体斯かうやつて、毎日毎日描かいてゐるのに、描かかれる人ひとの眼めの表情が何時いつも変らずにゐるものでせうか」

「それは変るだらう。本人が変るばかりぢやない、画工ゑかきの方の気分も毎日変るんだから、本当を云ふと、肖像画が何枚でも出来上あがらなくつちやならない訳だが、さうは行いかない。又たつた一枚で可かなり纏つたものが出来るから不思議だ。何故なぜと云つて見給へ……」

原口さんは此間このあひだ始終筆を使つかつてゐる。美禰子の方も見てゐる。三四郎は原口さんの諸機関が一度に働らくのを目撃して恐れ入つた。

十の六

「かう遣やつて毎日描かいてゐると、毎日の量が積つもり積つもつて、しばらくする内うちに、描かいてゐる画に一定の気分が出来できてくる。だから、たとひ外ほかの気分で戸外そとから帰かへつて来きても、画室へ這入つて、画に向ひさへすれば、ぢきに一種一定の気分になれる。つまり画ゑの中なかの気分が、此方こつちへ乗のり移うつるのだね。里見さんだつて同じ事だ。自然の儘まゝに放ほうつて置けば色々の刺激で色々いろ〱の表情になるに極きまつてゐるんだが、それが実際画ゑの上うへに大たいした影響を及ぼさないのは、あゝ云ふ姿勢や、斯かう云ふ乱雑な鼓つゞみだとか、鎧だとか、虎の皮だとかいふ周囲のものが、自然に一種一定の表情を引き起す様になつて来きて、其習慣が次第に他ほかの表情を圧迫する程強くなるから、まあ大抵なら、此眼付めつきを此儘で仕上しあげて行いけば好いいんだね。それに表情と云つたつて……」

原口さんは突然黙だまつた。何所どこか六づかしい所ところへ来きたと見える。二歩許ふたあしばかり立ち退のいて、美禰子と画を頻しきりに見較みくらべてゐる。

「里見さん、何どうかしましたか」と聞いた。

「いゝえ」

此答は美禰子の口くちから出でたとは思へなかつた。美禰子はそれ程静しづかに姿勢を崩くづさずにゐる。

「それに表情と云つたつて」と原口さんが又始めた。「画工ゑかきはね、心こゝろを描かくんぢやない。心こゝろが外そとへ見世みせを出だしてゐる所ところを描かくんだから、見世みせさへ手落ておちなく観察すれば、身代しんだいは自おのづから分わかるものと、まあ、さうして置くんだね。見世で窺うかゞへない身代しんだいは画工ゑかきの担任区域以外と諦あきらめべきものだよ。だから我々は肉にくばかり描かいてゐる。どんな肉にくを描かいたつて、霊れいが籠こもらなければ、死肉だから、画として通有しない丈だ。そこで此里見さんの眼めもね。里見さんの心こゝろを写す積つもりで描かいてゐるんぢやない。たゞ眼めとして描かいてゐる。此眼めが気に入つたから描かいてゐる。此眼めの恰好だの、二重瞼まぶちの影かげだの、眸ひとみの深さだの、何なんでも僕に見える所丈を残りなく描かいて行く。すると偶然の結果として、一種の表情が出でて来くる。もし出でて来こなければ、僕の色の出だし具合が悪わるかつたか、恰好の取り方かたが間違がつてゐたか、何方どつちかになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだから仕方がない」

原口さんは、此時又二歩ふたあしばかり後あとへ退さがつて、美禰子と画とを見較みくらべた。

「何どうも、今日けふは何どうかしてゐるね。疲つかれたんでせう。疲つかれたら、もう廃よしませう。――疲つかれましたか」

「いゝえ」

原口さんは又画へ近寄つた。

「それで、僕が何故なぜ里見さんの眼めを択えらんだかと云ふとね。まあ話すから聞き給へ。西洋画の女の顔かほを見ると、誰だれの描かいた美人でも、屹度大きな眼めをしてゐる。可笑〔おか〕しい位大きな眼めばかりだ。所が日本では観音様を始めとして、お多福、能の面、もつとも著るしいのは浮世絵にあらはれた美人、悉く細ほそい。みんな象に似てゐる。何故なぜ東西で美の標準がこれ程違ちがふかと思ふと、一寸ちよつと不思議だらう。所が実は何でもない。西洋には眼めの大きい奴ばかりゐるから、大きい眼めのうちで、美的淘汰が行はれる。日本は鯨くじらの系統ばかりだから――ピエルロチーといふ男は、日本人の眼めは、あれで何どうして開あけるだらうなんて冷ひやかしてゐる。――そら、さう云ふ国柄だから、どうしたつて材料の寡すくない大きな眼めに対する審美眼が発達しやうがない。そこで撰択の自由の利きく細ほそい眼めのうちで、理想が出来て仕舞つたのが、歌麿になつたり、祐信〔すけのぶ〕になつたりして珍重がられてゐる。然しいくら日本的でも、西洋画には、あゝ細ほそいのは盲目めくらを描かいた様で見共〔みとも〕なくつて不可いけない。と云つて、ラフアエルの聖母マドンナの様なのは、天てんでありやしないし、有あつた所が日本人とは云はれないから、其所そこで里見さんを煩〔わずら〕はす事になつたのさ。里見さんもう少時すこしですよ」

答はなかつた。美禰子は凝じつとしてゐる。

十の七

三四郎は此画家の話はなしを甚だ面白く感じた。とくに話はなし丈聴きに来きたのならば猶〔なお〕幾倍の興味を添へたらうにと思つた。三四郎の注意の焼点は、今、原口さんの話はなしの上にもない、原口さんの画ゑの上うへにもない。無論向むかふに立たつてゐる美禰子に集まつてゐる。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、眼め丈は遂に美禰子を離れなかつた。彼かれの眼めに映じた女の姿勢は、自然の経過を、尤も美うつくしい刹那に、捕虜とりこにして動けなくした様である。変かはらない所に、永ながい慰藉がある。然るに原口さんが突然首くびを捩ひねつて、女に何どうかしましたかと聞きいた。其時三四郎は、少し恐おそろしくなつた位である。移うつり易やすい美うつくしさを、移うつさずに据ゑて置く手段が、もう尽きたと画家から注意された様に聞きこえたからである。

成程さう思つて見ると、何どうかしてゐるらしくもある。色光沢いろつやが好よくない。眼尻めじりに堪へ難い嬾ものうさが見える。三四郎は此活人画から受ける安慰の念を失うしなつた。同時にもしや自分が此変化の源因ではなからうかと考へ付ついた。忽〔たちま〕ち強烈な個性的の刺激が三四郎の心を襲つて来きた。移うつり行ゆく美びを果敢はかなむと云ふ共通性の情緒は丸で影を潜めて仕舞つた。――自分はそれ程の影響を此女の上うへに有して居る。――三四郎は此自覚のもとに一切いつさいの己おのれを意識した。けれどもその影響が自分に取つて、利益か不利益かは未決の問題である。

其時原口さんが、とう〱筆を擱おいて、

「もう廃よさう。今日けふは何どうしても駄目だめだ」と云ひ出だした。美禰子は持もつてゐた団扇を、立ちながら、床ゆかの上うへに落おとした。椅子に掛かけた、羽織を取とつて着きながら、此方こちらへ寄よつて来きた。

「今日けふは疲つかれてゐますね」

「私わたくし?」と羽織の裄ゆきを揃そろへて、紐ひもを結むすんだ。

「いや実は僕ぼくも疲つかれた。また明日あした元気の好いい時ときに遣やりませう。まあ御茶でも飲のんで、緩ゆつくりなさい」

夕暮には、まだ間まがあつた。けれども美禰子は少すこし用があるから帰るといふ。三四郎も留とめられたが、わざと断わつて、美禰子と一所に表へ出でた。日本の社会状態で、かう云ふ機会を、随意に造つくる事は、三四郎に取つて困難である。三四郎は成るべく此機会を長ながく引き延のばして利用しやうと試みた。それで、比較的人ひとの通とほらない、閑静な曙町あけぼのちやうを、一廻ひとまはり散歩しやうぢや無ないかと女を誘いざなつて見た。所が相手は案外にも応じなかつた。一直線に生垣いけがきの間あひだを横切よこぎつて、大通おほどほりへ出でた。三四郎は、並ならんで歩あるきながら、

「原口さんも左さう云つてゐたが、本当に何どうかしたんですか」と聞きいた。

「私わたくし?」と美禰子が又云つた。原口さんに答こたへたと同じ事である。三四郎が美禰子を知つてから、美禰子はかつて、長い言葉を使つかつた事がない。大抵の応対は一句か二句で済すましてゐる。しかも甚だ単簡なものに過ぎない。それでゐて、三四郎の耳には、一種の深い響ひゞきを与へる。殆んど他ほかの人ひとからは、聞き得る事の出来ない色いろが出でる。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がつた。

「私わたくし?」と云つた時、女は顔かほを半分程三四郎の方へ向むけた。さうして二重瞼ふたへまぶたの切れ目から男を見た。其眼そのめには暈かさが被かゝつてゐる様に思はれた。何時いつになく感じが生温なまぬるく来きた。頬ほゝの色いろも少し蒼あをい。

「色いろが少すこし悪わるい様です」

「左さうですか」

二人ふたりは五六歩無言むげんであるいた。三四郎は何どうともして、二人ふたりの間あひだに掛かかつた薄うすい幕の様なものを裂さき破やぶりたくなつた。然し何と云つたら破やぶれるか、丸で分別が出でなかつた。小説などにある甘あまい言葉は遣つかいたくない。趣味の上うへから云つても、社交上若わかい男女の習慣としても、遣つかい度たくない。三四郎は事実上不可能の事を望んでゐる。望んでゐる許ばかりではない、歩あるきながら工夫してゐる。

十の八

やがて、女の方から口くちを利きき出だした。

「今日けふ何なにか原口はらぐちさんに御用が御有ありだつたの」

「いゝえ、用事は無なかつたです」

「ぢや、たゞ遊あそびに入〔い〕らしつたの」

「いゝえ、遊あそびに行いつたんぢやありません」

「ぢや、何なんで入らしつたの」

三四郎は此瞬間を捕とらへた。

「あなたに会あひに行いつたんです」

三四郎は是これで云へる丈の事を悉ことごとく云つた積りである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、例いつもの如く男を酔はせる調子で、

「御金おかねは、彼所あすこぢや頂いたゞけないのよ」と云つた。三四郎は落胆がつかりした。

二人ふたりは又無言むげんで五六間来きた。三四郎は突然口くちを開ひらいた。

「本当は金かねを返かへしに行いつたのぢやありません」

美禰子はしばらく返事をしなかつた。やがて、静しづかに云つた。

「御金かねは私わたくしも要いりません。持つて入らつしやい」

三四郎は堪たへられなくなつた。急に、

「たゞ、あなたに会あひたいから行いつたのです」と云つて、横に女の顔を覗のぞき込こんだ。女は三四郎を見なかつた。其時三四郎の耳に、女の口くちを洩もれた微かすかな溜息ためいきが聞きこえた。

「御金おかねは……」

「金かねなんぞ……」

二人ふたりの会話くわいわは双方共意味を成なさないで、途中で切きれた。それなりで、又小半町程来きた。今度こんどは女から話し掛かけた。

「原口さんの画ゑを御覧になつて、どう御思ひなすつて」

答へ方かたが色々あるので、三四郎は返事をせずに少すこしの間あひだ歩あるいた。

「余あんまり出来方できかたが早はやいので御驚ろきなさりやしなくつて」

「えゝ」と云つたが、実は始めて気が付いた。考へると、原口が広田先生の所へ来きて、美禰子の肖像を描かく意志を洩もらしてから、まだ一ヶ月位ぐらゐにしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼してゐたのは、夫それより後のちの事である。三四郎は画の道みちに暗くらいから、あんな大おほきな額がくが、何どの位な速度で仕上しあげられるものか、殆んど想像の外ほかにあつたが、美禰子から注意されて見ると、余り早く出来過できすぎてゐる様に思はれる。

「何時いつから取掛とりかゝつたんです」

「本当に取とり掛かゝつたのは、つい此間このあひだですけれども、其前そのまへから少すこし宛づゝ描かいて頂いただいてゐたんです」

「其前そのまへつて、何時頃いつごろからですか」

「あの服装なりで分わかるでせう」

三四郎は突然として、始めて池の周囲まはりで美禰子に逢つた暑あつい昔むかしを思ひ出だした。

「そら、あなた、椎しゐの木の下したに跼しやがんでゐらしつたぢやありませんか」

「あなたは団扇を翳かざして、高たかい所に立たつてゐた」

「あの画ゑの通りでせう」

「えゝ。あの通りです」

二人ふたりは顔を見合はした。もう少しで白山はくさんの坂さかの上へ出でる。

向むかふから車くるまが走かけて来きた。黒い帽子を被かぶつて、金縁きんぶちの眼鏡めがねを掛けて、遠くから見ても色光沢いろつやの好いい男が乗のつてゐる。此車くるまが三四郎の眼めに這入はいつた時から、車の上の若わかい紳士は美禰子の方を見詰めてゐるらしく思はれた。二三間先さきへ来くると、車くるまを急に留とめた。前掛まへかけを器用に跳はね退のけて、蹴込みから飛とび下おりた所を見ると、脊のすらりと高い細面ほそおもての立派な人であつた。髭ひげを奇麗に剃すつてゐる。それでゐて、全く男をとこらしい。

「今迄待まつてゐたけれども、余あんまり遅おそいから迎むかひに来きた」と美禰子の真前まんまへに立つた。見下みおろして笑つてゐる。

「さう、難有〔ありがと〕う」と美禰子も笑つて、男の顔を見返したが、其眼そのめをすぐ三四郎の方へ向けた。

「何誰どなた」と男が聞いた。

「大学の小川さん」と美禰子が答へた。

男は軽かるく帽子を取つて、向むかふから挨拶をした。

「早く行いかう。兄にいさんも待つてゐる」

好いい具合に三四郎は追分おひわけへ曲まがるべき横町の角かどに立つてゐた。金かねはとう〱返かへさずに分わかれた。

十一の一

此頃与次郎が学校で文芸協会の切符を売つて回まはつてゐる。二三日掛かかつて、知つたものへは略ほゞ売うり付つけた様子である。与次郎はそれから知らないものを捕つらまへる事にした。大抵は廊下で捕つらまへる。すると中々なか〱放はなさない。どうか、斯かうか買かはせて仕舞ふ。時ときには談判中に号鐘ベルが鳴なつて取り逃にがす事もある。与次郎は之これを時とき利りあらずと号してゐる。時には相手が笑つてゐて、何時いつ迄も要領を得ない事がある。与次郎は之これを人ひと利りあらずと号してゐる。或時あるとき便所から出でて来きた教授を捕つらまへた。其教授は手帛ハンケチで手を拭ふきながら、今いま一寸ちよつとと云つた儘急いで図書館へ這入つて仕舞つた。夫それぎり決けつして出でて来こない。与次郎は之これを――何とも号しなかつた。後影うしろかげを見送みおくつて、あれは腸加答児カタルに違ないと三四郎に教へて呉れた。

与次郎に切符の販売方かたを何枚托たのまれたのかと聞くと、何枚でも売れる丈托たのまれたのだと云ふ。余あまり売れ過すぎて演芸場に這入はいり切れない恐れはないかと聞くと、少すこしは有あると云ふ。それでは売つたあとで困るだらうと念を推すと、何なに大丈夫だ、中なかには義理で買かふものもあるし、事故で来こないものもあるし、それから腸加答児も少しは出来できるだらうと云つて、澄ましてゐる。

与次郎が切符を売る所を見てゐると、引き易かへに金かねを渡すものからは無論即座に受け取るが、さうでない学生には只たゞ切符丈渡わたしてゐる。気の小ちさい三四郎が見ると、心配になる位渡わたして歩あるく。あとから思ふ通り金かねが寄よるかと聞きいて見ると、無論寄よらないといふ答だ。几帳面に僅〔わず〕か売うるよりも、だらしなく沢山売る方が、大体の上うへに於て利益だから斯かうすると云つてゐる。与次郎は之これをタイムス社が日本で百科全書を売つた方法に比較してゐる。比較丈は立派に聞きこえたが、三四郎は何なんだか心元こゝろもとなく思つた。そこで一応与次郎に注意した時に、与次郎の返事は面白かつた。

「相手は東京帝国大学々生だよ」

「いくら学生だつて、君の様に金かねに掛かけると呑のん気なのが多いだらう」

「なに善意ぜんゐに払はらはないのは、文芸協会の方でも八釜敷やかましくは云はない筈はづだ。何どうせ幾何いくら切符が売れたつて、とゞの詰つまりは協会の借金になる事は明あきらかだから」

三四郎は念の為ため、それは君の意見か、協会の意見かと糺たゞして見た。与次郎は、無論僕の意見であつて、協会の意見であると都合のいゝ事を答へた。

与次郎の説を聞くと、今度の演芸会を見ないものは、丸まるで馬鹿の様な気がする。馬鹿の様な気がする迄与次郎は講釈をする。それが切符を売る為ためだか、実際演芸会を信仰してゐる為ためだか、或はたゞ自分の景気を付つけ、かねて相手の景気をつけ、次いでは演芸会の景気をつけて、世上一般の空気を出来る丈賑にぎやかにする為ためだか、そこの所が一寸ちよつと明晰に区別が立たないものだから、相手は馬鹿の様な気がするにも拘〔かか〕はらず、あまり与次郎の感化を蒙らない。

与次郎は第一に会員の練習に骨を折つてゐる話はなしをする。話はなし通りに聞いてゐると、会員の多数は、練習の結果として、当日前たうじつぜんに役に立たなくなりさうだ。それから背景の話をする。其背景が大たいしたもので、東京にゐる有為の青年画家を悉く引き上あげて、悉く応分の技倆を振はした様な事になる。次つぎに服装の話をする。其服装が頭あたまから足の先さき迄古実こじつづくめに出来上あがつてゐる。次に脚本の話をする。それが、みんな新作で、みんな面白い。其外そのほか幾何いくらでもある。

与次郎は広田先生と原口さんに招待券を送つたと云つてゐる。野々宮兄妹けうだいと里見兄妹さとみけうだいには上等の切符を買はせたと云つてゐる。万事が好都合だと云つてゐる。三四郎は与次郎の為に演芸会万歳を唱へた。

十一の二

万歳を唱へた晩、与次郎が三四郎の下宿へ来きた。昼間ひるまとは打うつて変つてゐる。堅くなつて火鉢の傍そばへ坐すはつて寒さむい寒いと云ふ。其顔かほがたゞ寒さむいのでは無ないらしい。始めは火鉢へ乗のり掛かゝる様に手を翳かざしてゐたが、やがて懐手ふところでになつた。三四郎は与次郎の顔を陽気にする為ために、机の上うへの洋燈ランプを端はじから端はじへ移した。所が与次郎は顎あごをがつくり落おとして、大きな坊主頭あたま丈を黒く灯ひに照てらしてゐる。一向冴さえない。何どうかしたかと聞いた時に、首くびを挙あげて洋燈ランプを見た。

「此家このうちではまだ電気を引ひかないのか」と顔付かほつきには全く縁のない事ことを聞きいた。

「まだ引ひかない。其内そのうち電気にする積つもりださうだ。洋燈ランプは暗くらくて不可いかんね」と答こたへてゐると、急に、洋燈ランプの事は忘れたと見えて、

「おい、小川、大変な事が出来できて仕舞つた」と云ひ出だした。

一応理由わけを聞きいて見る。与次郎は懐ふところから皺だらけの新聞を出だした。二枚重かさなつてゐる。其一枚を剥はがして、新らしく畳み直なほして、此所こゝを読んで見ろと差し付けた。読む所を指ゆびの頭あたまで抑へてゐる。三四郎は眼めを洋燈ランプの傍そばへ寄よせた。見出みだしに大学の純文科とある。

大学の外国文学科は従来西洋人の担当で、当事者は一切の授業を外国教師に依頼してゐたが、時勢の進歩と多数学生の希望に促うながされて、今度愈〔いよいよ〕本邦人の講義も必須課目として認めるに至つた。そこで此間中このあひだぢうから適当の人物を人撰中であつたが、漸く某氏に決定して、近々発表になるさうだ。某氏は近き過去に於て、海外留学の命を受けた事のある秀才だから至極適任だらう。と云ふ内容である。

「広田先生ぢや無なかつたんだな」と三四郎が与次郎を顧かへりみた。与次郎は矢っ張り新聞の上うへを見てゐる。

「是は慥たしかなのか」と三四郎が又聞いた。

「何どうも」と首くびを曲まげたが、「大抵大丈夫だらうと思つてゐたんだがな。遣やり損そくなつた。尤もつとも此男このをとこが大分運動をしてゐると云ふ話はなしは聞きいた事もあるが」と云ふ。

「然し是丈これだけぢや、まだ風説ぢやないか。愈〔いよいよ〕発表になつて見なければ分わからないのだから」

「いや、それ丈だけなら無論構はない。先生の関係した事ぢやないから、然し」と云つて、又残りの新聞を畳み直なほして、標題みだしを指ゆびの頭あたまで抑おさへて、三四郎の眼めの下したへ出だした。

今度こんどの新聞にも略ほゞ同様の事が載つてゐる。そこ丈は別段に新あたらしい印象を起おこしやうもないが、其後そのあとへ来きて、三四郎は驚ろかされた。広田先生が大変な不徳義漢の様に書いてある。十年間語学の教師をして、世間には杳〔よう〕として聞えない凡材の癖くせに、大学で本邦人の外国文学講師を入いれると聞くや否や、急に狐鼠々々〔こそこそ〕運動を始めて、自分の評判記を学生間に流布した。のみならず其門下生をして「偉大なる暗闇くらやみ」などと云ふ論文を小雑誌こざつしに草せしめた。此論文は零余子なる慝名〔とくめい〕の下もとにあらはれたが、実は広田の家いへに出入しつにうする文科大学生小川三四郎なるものゝ筆ふでである事迄分つてゐる。と、とう〱三四郎の名前が出でて来た。

三四郎は妙な顔をして与次郎を見た。与次郎は前から三四郎の顔を見てゐる。二人共ふたりともしばらく黙だまつてゐた。やがて、三四郎が、

「困こまるなあ」と云つた。少すこし与次郎を恨うらんでゐる。与次郎は、そこは余あまり構かまつてゐない。

「君、これを何どう思ふ」と云ふ。

「何どう思ふとは」

「投書を其儘出だしたに違ちがひない。決して社の方で調しらべたものぢやない。文芸時評の六号活字の投書に斯〔こ〕んなのが、いくらでも来くる。六号活字は殆んど罪悪のかたまりだ。よくよく探さぐつて見ると嘘うそが多い。目に見えた嘘うそを吐ついてゐるのもある。何故なぜそんな愚ぐな事をやるかと云ふとね、君。みんな利害問題が動機になつてゐるらしい。それで僕が六号活字を受持つてゐる時には、性質たちの好よくないのは、大抵屑籠くづかごへ放ほうり込んだ。此記事も全くそれだね。反対運動の結果だ」

十一の三

「何故なぜ、君の名が出でないで、僕ぼくの名が出でたものだらうな」

与次郎は「左さうさ」と云つてゐる。しばらくしてから、

「矢っ張り何なんだらう。君は本科生で僕は撰科生だからだらう」と説明した。けれども三四郎には、是これが説明にも何なんにもならなかつた。三四郎は依然として迷惑である。

「全体僕が零余子なんて稀知けちな号を使はずに、堂々と佐々木与次郎と署名して置けば好よかつた。実際あの論文は佐々木与次郎以外に書かけるものは一人ひとりもないんだからなあ」

与次郎は真面目まじめである。三四郎に「偉大なる暗闇くらやみ」の著作権を奪はれて、却つて迷惑してゐるのかも知れない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。

「君、先生に話はなしたか」と聞いた。

「さあ、其所そこだ。偉大なる暗闇の作者なんか、君だつて、僕ぼくだつて、どつちだつて構はないが、事こと先生の人格に関係してくる以上は、話はなさずにはゐられない。あゝ云ふ先生だから、一向知りません、何か間違でせう、偉大なる暗闇といふ論文は雑誌に出でましたが、慝名〔とくめい〕です、先生の崇拝者が書いたものですから御安心なさい位に云つて置けば、さうかで直すぐ済んで仕舞ふ訳わけだが、此際左さうは不可いかん。どうしたつて僕が責任を明あきらかにしなくつちや。事が旨うまく行いつて、知らん顔かほをしてゐるのは、心持が好いいが、遣やり損そくなつて黙だまつてゐるのは不愉快で堪たまらない。第一自分が事を起して置いて、あゝ云ふ善良な人を迷惑な状態に陥らして、それで平気に見物がして居られるものぢやない。正邪曲直なんて六づかしい問題は別として、たゞ気の毒で、痛いたはしくつて不可いけない」

三四郎は始めて与次郎を感心な男だと思つた。

「先生は新聞を読んだんだらうか」

「家うちへ来くる新聞にやない。だから僕も知しらなかつた。然し先生は学校へ行つて色々いろ〱な新聞を見るからね。よし先生が見なくつても誰だれか話すだらう」

「すると、もう知つてるな」

「無論知つてるだらう」

「君には何とも云はないか」

「云はない。尤も碌ろくに話はなしをする暇ひまもないんだから、云はない筈だが。此間このあひだから演芸会の事で始終奔走してゐるものだから――あゝ演芸会も、もう厭いやになつた。已やめて仕舞はうかしらん。御白粉おしろいを着つけて、芝居なんかやつたつて、何が面白いものか」

「先生に話はなしたら、君、叱しかられるだらう」

「叱しかられるだらう。叱しかられるのは仕方がないが、如何にも気の毒でね。余計な事をして迷惑を掛かけてるんだから。――先生は道楽らくのない人でね。酒は飲まず、烟草たばこは」と云ひかけたが途中で已やめて仕舞つた。先生の哲学を鼻から烟けむにして吹き出す量は月に積ると、莫大なものである。

「烟草丈は可かなり呑のむが、其外に何にも無ないぜ。釣つりをするぢやなし、碁を打つぢやなし、家庭の楽たのしみがあるぢやなし。あれが一番不可いけない。小供でもあると可いいんだけれども。実に枯淡だからなあ」

与次郎は夫それで腕組をした。

「たまに、慰め様と思つて、少し奔走すると、斯こんな事になるし。君も先生の所へ行つて遣やれ」

「行つて遣やる所どころぢやない。僕にも多少責任があるから、謝罪あやまつて来くる」

「君きみは謝罪あやまる必要はない」

「ぢや弁解して来くる」

与次郎は夫それで帰つた。三四郎は床とこに這入はいつてから度々たび〱寐返りを打つた。国にゐる方が寐易〔ねやす〕い心持がする。偽りの記事――広田先生――美禰子――美禰子を迎に来て連れて行いつた立派な男――色々の刺激がある。

十一の四

夜中よなかからぐつすり寐ねた。何時いつもの様に起きるのが、ひどく辛つらかつた。顔かほを洗あらふ所で、同じ文科の学生に逢あつた。顔丈は互に見知り合あひである。失敬と云ふ挨拶のうちに、此男は例の記事を読んで居るらしく推すいした。然し先方では無論話頭を避けた。三四郎も弁解を試みなかつた。

暖あたゝかい汁しるの香かを嗅かいでゐる時に、又故里ふるさとの母からの書信に接した。又例の如ごとく長ながかりさうだ。洋服を着換へるのが面倒だから、着きたまゝの上うへへ袴を穿はいて、懐ふところへ手紙を入れて、出でる。戸外そとは薄うすい霜で光ひかつた。

通りへ出でると、殆ほとんど学生許ばかり歩あるいてゐる。それが、みな同じ方向へ行ゆく。悉く急いそいで行ゆく。寒い往来は若わかい男の活気で一杯になる。其中なかに霜降しもふりの外套を着た広田先生の長い影かげが見えた。此青年の隊伍に紛まぎれ込んだ先生は、歩調に於て既に時代錯誤アナクロニズムである。左右前後に比較すると頗る緩漫に見える。先生の影かげは校門のうちに隠れた。門内に大きな松がある。巨人の傘からかさの様に枝を拡ひろげて玄関を塞ふさいでゐる。三四郎の足が門前迄来た時は、先生の影が、既に消えて、正面に見えるものは、松と、松の上にある時計台許ばかりであつた。此時計とけい台の時計は常に狂くるつてゐる。もしくは留とまつてゐる。

門内もんないを一寸覗き込んだ三四郎は、口くちの内うちで、「ハイドリオタフヒア」と云ふ字を二度繰り返した。此字は三四郎の覚えた外国語のうちで、尤も長い、又尤も六づかしい言葉ことばの一ひとつであつた。意味はまだ分わからない。広田先生に聞きいて見る積つもりでゐる。かつて与次郎に尋ねたら、恐らくダーターフアブラの類たぐひだらうと云つてゐた。けれども三四郎から見ると、二つの間あひだには大変な違ちがひがある。ダーターフアブラは躍るべき性質のものと思へる。ハイドリオタフヒアは覚えるのにさへ暇ひまが入いる。二返繰り返すと歩調が自おのづから緩慢になる。広田先生の使つかふために古人が作つて置いた様な音おんがする。

学校へ行いつたら、「偉大なる暗闇くらやみ」の作者として、衆人の注意を一身に集めてゐる気色きしよくがした。戸外そとへ出様としたが、戸外そとは存外寒いから廊下にゐた。さうして講義の間あひだに懐ふところから母の手紙を出だして読んだ。

此冬休みには帰つて来こいと、丸で熊本にゐた当時と同様な命令がある。実は熊本にゐた時分にこんな事があつた。学校が休みになるか、ならないのに、帰れと云ふ電報が掛かかつた。母の病気に違ないと思ひ込んで、驚ろいて飛んで帰ると、母の方では此方こつちに変へんがなくつて、まあ結構だつたと云はぬ許に喜よろこんでゐる。訳わけを聞くと、何時いつ迄待まつてゐても帰らないから、御稲荷様へ伺うかゞひを立たてたら、こりや、もう熊本を立たつてゐるといふ御託宣であつたので、途中で何どうかしはせぬだらうかと非常に心配してゐたのだと云ふ。三四郎は其当時を思ひ出だして、今度も亦〔また〕伺うかゞひを立てられる事かと思つた。然し手紙には御稲荷様の事は書かいてない。たゞ三輪田の御光さんも待つてゐると割わり註見た様なものが付ついてゐる。御光さんは豊津の女学校をやめて、家うちへ帰つたさうだ。又御光さんに縫つて貰つた綿入が小包こづゝみで来くるさうだ。大工の角三かくぞうが山で賭博ばくちを打つて九十八円取られたさうだ。――其顛末が委〔くわ〕しく書いてある。面倒だから好いい加減に読んだ。何でも山を買ひたいといふ男が三人連づれで入り込んで来きたのを、角三が案内をして、山を廻まはつてあるいてる間あひだに取とられて仕舞つたのださうだ。角三はうちへ帰つて、女房に何時いつの間まに取られたか分わからないと弁解した。すると、女房がそれぢや御前さん眠り薬でも嗅かがされたんだらうと云つたら、角三が、うん左さう云へば何だか嗅かいだ様だと答へたさうだ。けれども村のものはみんな賭博ばくちをして巻まき上あげられたと評判してゐる。田舎いなかでも斯かうだから、東京にゐる御前なぞは、本当によく気を付けなくては不可いけないと云ふ訓戒が付ついてゐる。

長い手紙を巻き収めてゐると、与次郎が傍そばへ来きて、「やあ女の手紙だな」と云つた。昨夕ゆふべよりは冗談をいふ丈元気が可いい。三四郎は、

「なに母からだ」と、少し詰つまらなささうに答へて、封筒ごと懐ふところへ入れた。

「里見の御嬢さんからぢやないのか」

「いゝや」

「君、里見の御嬢さんの事を聞いたか」

「何を」と問ひ返してゐる所へ、一人ひとりの学生が、与次郎に、演芸会の切符を欲ほしいといふ人が階下したに待つてゐると教へに来きてくれた。与次郎はすぐ降おりて行いつた。

十一の五

与次郎は夫それなり消えてなくなつた。いくら捕つらまへやうと思つても出でて来こない。三四郎は已〔やむ〕を得ず精出して講義を筆記してゐた。講義が済すんでから、昨夕ゆふべの約束通り広田先生の家うちへ寄よる。相変らず静かである。先生は茶の間まに長くなつて寐てゐた。婆さんに、どうか為なすつたのかと聞くと、左さうぢや無ないのでせう、昨夕ゆふべ余り遅くなつたので、眠ねむいと云つて、先刻さつき御帰りになると、すぐ横よこに御成なりなすつたのだと云ふ。長い身躯からだの上うへに小夜着こよぎが掛けてある。三四郎は小ちいさな声で、又婆さんに、どうして、さう遅おそくなつたのかと聞きいた。なに何時いつでも遅おそいのだが、昨夕ゆふべのは勉強ぢやなくつて、佐々木さんと久しく御話をして御出おいでだつたのだといふ答である。勉強が佐々木に代かはつたから、昼寐をする説明にはならないが、与次郎が、昨夕ゆふべ先生に例の話をした事丈は是で明瞭になつた。序でに与次郎が、どう叱しかられたか聞きいて置きたいのだが、それは婆さんが知らう筈がないし、肝心の与次郎は学校で取り逃にがして仕舞つたから仕方がない。今日けふの元気の好いい所を見ると、大たいした事件には成らずに済んだのだらう。尤も与次郎の心理現象は到底三四郎には解わからないのだから、実際どんな事があつたか想像は出来ない。

三四郎は長火鉢の前へ坐すはつた。鉄瓶てつびんがちん〱鳴つてゐる。婆さんは遠慮をして下女部屋へ引き取つた。三四郎は胡坐あぐらをかいて、鉄瓶てつびんに手を翳かざして、先生の起きるのを待つてゐる。先生は熟睡してゐる。三四郎は静かで好いい心持になつた。爪つめで鉄瓶てつびんを敲たゝいて見た。熱あつい湯を茶碗に注ついでふう〱吹ふいて飲んだ。先生は向むかふをむいて寐てゐる。二三日前に頭あたまを刈つたと見えて、髪かみが甚だ短みぢかい。髭ひげの端はじが濃く出てゐる。鼻はなも向むかふを向むひてゐる。鼻の穴がすうすう云ふ。安眠だ。

三四郎は返かへさうと思つて、持もつて来きたハイドリオタフヒアを出だして読み始めた。ぽつぽつ拾ひ読をする。中々なか〱解わからない。墓はかの中なかに花を投なげる事が書かいてある。羅馬〔ローマ〕人は薔薇ばらを affectアツフエクト すると書かいてある。何の意味だか能く知らないが、大方おほかた好このむとでも訳するんだらうと思つた。希臘〔ギリシア〕人は Amaranthアマランス を用ひると書いてある。是も明瞭でない。然し花の名には違ない。夫それから少し先さきへ行くと、丸で解わからなくなつた。頁ページから眼めを離して先生を見た。まだ寐てゐる。何なんで斯こんな六づかしい書物を自分に借〔か〕したものだらうと思つた。それから、此六づかしい書物が、何故なぜ解わからないながらも、自分の興味を惹〔ひ〕くのだらうと思つた。最後に広田先生は必竟ハイドリオタフヒアだと思つた。

さうすると、広田先生がむくりと起おきた。首くび丈持上もちあげて、三四郎を見た。

「何時いつ来きたの」と聞いた。三四郎はもつと寐て御出おいでなさいと勧すゝめた。実際退屈ではなかつたのである。先生は、

「いや起おきる」と云つて起おきた。それから例の如ごとく哲学の烟けむりを吹き始めた。烟けむりが沈黙の間に、棒になつて出でる。

「難有〔ありがと〕う。書物を返します」

「あゝ。――読んだの」

「読んだけれどもよく解わからんです。第一標題ひようだいが解わからんです」

「ハイドリオタフヒア」

「何の事ですか」

「何の事か僕にも分わからない。兎に角希臘語らしいね」

三四郎はあとを尋ねる勇気が抜ぬけて仕舞つた。先生は欠あくびを一ひとつした。

「あゝ眠ねむかつた。好いい心持に寐た。面白い夢を見てね」

先生は女の夢だと云つてゐる。それを話すのかと思つたら、湯に行いかないかと云ひ出だした。二人ふたりは手拭を提げて出掛けた。

十一の六

湯から上あがつて、二人ふたりが、板いたの間まに据ゑてある器械の上うへに乗のつて、身長たけを測はかつて見た。広田先生は五尺六寸ある。三四郎は四寸五分しかない。

「まだ延のびるかも知れない」と広田先生が三四郎に云つた。

「もう駄目です。三年来この通です」と三四郎が答へた。

「左さうかな」と先生が云つた。自分を余っ程小供の様に考へてゐるのだと三四郎は思つた。家うちへ帰つた時、先生が、用が無なければ話はなして行いつても構かまはないと、書斎の戸を開あけて、自分じぶんが先さきへ這入つた。三四郎は兎に角、例の用事を片付ける義務があるから、続つゞいて這入はいつた。

「佐々木は、まだ帰かへらない様ですな」

「今日けふは遅おそくなるとか云つて断ことわつてゐた。此間このあひだから演芸会の事で大分奔走してゐる様だが、世話好ずきなんだか、馳かけ回まはる事が好すきなんだか、一向要領を得ない男だ」

「親切なんですよ」

「目的丈は親切な所も少しあるんだが、何なにしろ、頭あたまの出来できが甚だ不親切だものだから、碌な事は仕出しでかさない。一寸ちよつと見ると、要領を得てゐる。寧ろ得過ぎてゐる。けれども終局へ行くと、何の為に要領を得て来きたのだか、丸で滅茶苦茶になつて仕舞ふ。いくら云つても直なほさないから放ほうて置く。あれは悪戯いたづらをしに世の中へ生れて来きた男だね」

三四郎は何とか弁護の道がありさうなものだと思つたが、現に結果の悪わるい実例があるんだから、仕様がない。話はなしを転じた。

「あの新聞の記事を御覧でしたか」

「えゝ、見た」

「新聞に出でる迄は些ちつとも御存ぞんじなかつたのですか」

「いゝえ」

「御驚ろきなすつたでせう」

「驚ろくつて――夫それは全く驚ろかない事もない。けれども世の中の事はみんな、彼あんなものだと思つてるから、若い人程正直に驚ろきはしない」

「御迷惑でせう」

「迷惑でない事もない。けれども僕位世の中なかに住すみ古ふるした年配の人間なら、あの記事を見て、すぐ事実だと思ひ込む人許ひとばかりもないから、矢やっ張ぱり若い人程正直に迷惑とは感じない。与次郎は社員に知つたものがあるから、其男に頼んで真相を書かいて貰もらふの、あの投書の出所を探さがして制裁を加へるの、自分の雑誌で充分反駁を致しますのと、善後策の了見で下くだらない事を色々云ふが、そんな手数てかずをするならば、始めから余計な事を起おこさない方が、いくら好いいか分わかりやしない」

「全く先生の為ためを思つたからです。悪気わるぎぢやないです」

「悪気わるぎで遣やられて堪たまるものか。第一僕の為めに運動をするものがさ、僕の意向も聞かないで、勝手な方法を講じたり、勝手な方針を立てた日には、最初から僕の存在を愚弄してゐると同じ事ぢやないか。存在を無視されてゐる方が、どの位体面を保つに都合が好いいか知れやしない」

三四郎は仕方なしに黙だまつてゐた。

「さうして、偉大なる暗闇くらやみなんて愚にも付つかないものを書かいて。――新聞には君が書かいたとしてあるが、実際は佐々木が書かいたんだつてね」

「左さうです」

「昨夜ゆふべ佐々木が自白した。君こそ迷惑だらう。あんな馬鹿な文章は佐々木より外ほかに書かくものはありやしない。僕も読んで見た。実質もなければ、品位もない、丸で救世軍の太鼓の様なものだ。読者の悪感情を引き起す為めに、書いてるとしか思はれやしない。徹頭徹尾故意こいだけで成り立つてゐる。常識のあるものが見れば、何どうしても為ためにする所があつて起稿したものだと判定がつく。あれぢや僕が門下生に書かゝしたと云はれる筈はづだ。あれを読んだ時には、成程新聞の記事は尤もだと思つた」

十一の七

広田先生は夫で話はなしを切つた。鼻から例によつて烟けむりを吐はく。与次郎は此烟けむりの出方でかたで、先生の気分を窺〔うかが〕ふ事が出来できると云つてゐる。濃く真直まつすぐに迸ほとばしる時は、哲学の絶高頂に達した際さいで、緩ゆるく崩れる時は、心気平穏、ことによると冷ひやかされる恐れがある。烟けむりが、鼻の下に彽徊して、髭ひげに未練がある様に見える時は、冥想に入る。もしくは詩的感興がある。尤も恐るべきは孔あなの先さきの渦うづである。渦うづが出でると、大変に叱しかられる。与次郎の云ふ事だから、三四郎は無論当あてにはしない。然し此際だから気を付つけて烟けむりの形状かたちを眺めてゐた。すると与次郎の云つた様な判然たる烟けむりは些ちつとも出でて、来こない。其代り出でるものは、大抵な資格をみんな具そなへてゐる。

三四郎が何時いつ迄立たつても、恐れ入つた様に控えてゐるので、先生は又話はなし始めた。

「済すんだ事は、もう已やめやう。佐々木も昨夜ゆふべ悉く詫あやまつて仕舞つたから、今日けふあたりは又晴々〔せいせい〕して例の如く飛んで歩あるいてるだらう。いくら蔭で不心得を責めたつて、当人が平気で切符なんぞ売つて歩あるいて居ては仕方がない。夫それよりもつと面白い話はなしを仕様しやう」

「えゝ」

「僕がさつき昼寐をしてゐる時、面白い夢を見た。それはね、僕が生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢の中なかで再会したと云ふ小説染じみた御話だが、其方そのほうが、新聞の記事より、聞いてゐても愉快だよ」

「えゝ。何どんな女ですか」

「十二三の奇麗な女だ。顔に黒子ほくろがある」

三四郎は十二三と聞いて少し失望した。

「何時頃いつごろ御逢あひになつたのですか」

「廿年にじうねん許前まへ」

三四郎は又驚ろいた。

「善よく其女と云ふ事が分わかりましたね」

「夢ゆめだよ。夢ゆめだから分わかるさ。さうして夢だから不思議で好いい。僕が何なんでも大きな森の中なかを歩あるいて居る。あの色の褪さめた夏の洋服を着てね、あの古ふるい帽子を被かぶつて。――さう其時は何でも、六づかしい事を考へてゐた。凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。すると其法則は、物の外ほかに存在してゐなくてはならない。――覚さめて見ると詰つまらないが、夢の中なかだから真面目まじめにそんな事を考へて森の下したを通とほつて行くと、突然其女に逢つた。行き逢あつたのではない。向むかふは凝じつと立たつてゐた。見ると、昔の通りの顔をしてゐる。昔の通りの服装なりをしてゐる。髪かみも昔しの髪かみである。黒子ほくろも無論あつた。つまり二十年前まへ見た時と少しも変らない十二三の女である。僕が其女に、あなたは少すこしも変らないといふと、其女は僕に大変年を御取とりなすつたと云ふ。次に僕が、あなたは何どうして、さう変らずに居るのかと聞くと、此顔かほの年とし、此服装なりの月、此髪かみの日が一番好すきだから、かうして居ると云ふ。それは何時いつの事かと聞くと、二十年前まへ、あなたに御目にかゝつた時だといふ。それなら僕は何故なぜ斯〔こ〕う年としを取とつたんだらうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もつと美うつくしい方ほうへ方ほうへと御移りなさりたがるからだと教へて呉れた。其時僕が女に、あなたは画だと云ふと、女が僕に、あなたは詩だと云つた」

「それから何どうしました」と三四郎が聞いた。

「それから君きみが来きたのさ」と云ふ。

「二十年前まへに逢あつたと云ふのは夢ぢやない、本当の事実なんですか」

「本当の事実なんだから面白い」

「何所どこで御逢あひになつたんですか」

先生の鼻は又烟を吹ふき出だした。其烟けむりを眺ながめて、当分黙だまつてゐる。やがて斯かう云つた。

十一の八

「憲法発布は明治二十三年だつたね。其時森文部大臣が殺ころされた。君は覚えてゐまい。幾年いくつかな君は。さう、それぢや、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であつた。大臣の葬式に参列するのだと云つて、大勢おほぜい鉄砲を担かついで出でた。墓地へ行くのだと思つたら、さうではない。体操の教師が竹橋内たけばしうちへ引張ひつぱつて行つて、路傍みちばたへ整列さした。我々は其所そこへ立つたなり、大臣の柩ひつぎを送る事ことになつた。名は送るのだけれども、実は見物したのも同然だつた。其日は寒い日でね、今でも覚えてゐる。動うごかずに立つてゐると、靴の下したで足が痛いたむ。隣となりの男が僕の鼻はなを見ては赤い赤いと云つた。やがて行列が来きた。何でも長いものだつた。寒さむい眼めの前を静かな馬車や俥くるまが何台となく通る。其中そのなかに今話した小ちいさな娘がゐた。今、其時の模様を思ひ出ださうとしても、ぼうとして迚〔とて〕も明瞭に浮うかんで来こない。たゞこの女丈だけは覚えてゐる。夫それも年を経たつに従つて段々薄うすらいで来きた。今では思ひ出す事も滅多にない。今日けふ夢に見る前迄は、丸で忘れてゐた。けれども其当時は頭あたまの中なかへ焼き付けられた様に、熱あつい印象を持つてゐた。――妙なものだ」

「それから其女には丸で逢はないんですか」

「丸で逢はない」

「ぢや、何処どこの誰だれだか全く分わからないんですか」

「無論分わからない」

「尋ねて見なかつたですか」

「いゝや」

「先生は夫それで……」と云つたが急に痞つかへた。

「夫それで?」

「夫それで結婚をなさらないんですか」

先生は笑ひ出だした。

「それ程浪漫的ロマンチツクな人間ぢやない。僕は君よりも遥かに散文的に出来できてゐる」

「然し、もし其女が来きたら御貰もらひになつたでせう」

「さうさね」と一度いちど考へた上で、「貰もらつたらうね」と云つた。三四郎は気の毒な様な顔をしてゐる。すると先生が又話し出だした。

「その為ために独身を余儀なくされたといふと、僕が其女の為ために不具ふぐにされたと同じ事になる。けれども人間には生うまれ付ついて、結婚の出来できない不具ふぐもあるし。其外色々結婚のしにくい事情を持つてゐるものがある」

「そんなに結婚を妨さまたげる事情が世の中に沢山あるでせうか」

先生は烟けむりの間あひだから、凝じつと三四郎を見てゐた。

「ハムレツトは結婚したく無なかつたんだらう。ハムレツトは一人ひとりしか居ないかも知れないが、あれに似た人は沢山ゐる」

「例へばどんな人です」

「例たとへば」と云つて、先生は黙だまつた。烟けむりがしきりに出でる。「例たとへば、こゝに一人ひとりの男がゐる。父ちゝは早く死んで、母はゝ一人ひとりを頼たよりに育そだつたとする。其母が又病気に罹かゝつて、愈〔いよいよ〕息いきを引き取るといふ、間際まぎはに、自分が死んだら誰某だれそれがしの世話になれといふ。子供が会あつた事もない、知りもしない人を指名する。理由わけを聞くと、母が何とも答へない。強ひて聞くと、実は誰某だれそれがしが御前の本当の御父おとつさんだと微かすかな声で云つた。――まあ話だが、さういふ母を持つた子がゐるとする。すると、其子が結婚に信仰を置かなくなるのは無論だらう」

「そんな人は滅多にないでせう」

「滅多には無いだらうが、居る事はゐる」

「然し先生のは、そんなのぢや無いでせう」

先生はハヽヽヽと笑つた。

「君は慥か御母おつかさんが居ゐたね」

「えゝ」

「御父おとつさんは」

「死しにました」

「僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」

十二の一

演芸会は比較的寒さむい時に開かれた。歳〔とし〕は漸く押し詰つまつて来くる。人は二十日はつか足らずの眼めの先さきに春はるを控えた。市いちに生いきるものは、忙いそがしからんとしてゐる。越年えつねんの計はかりごとは貧者ひんしやの頭かうべに落ちた。演芸会は此間このあひだに在つて、凡ての長閑のどかなるものと、余裕あるものと、春と暮くれの差別を知らぬものとを迎へた。

それが、幾何いくらでもゐる。大抵は若わかい男女である。一日目いちじつめに与次郎が、三四郎に向つて大成功と叫さけんだ。三四郎は二日目ふつかめの切符きつぷを持つてゐた。与次郎が広田先生を誘さそつて行いけと云いふ。切符が違ちがふだらうと聞けば、無論違ふと云ふ。然し一人ひとりで放ほうつて置くと、決して行いく気遣きづかひがないから、君が寄よつて引張出ひつぱりだすのだと理由わけを説明して聞きかせた。三四郎は承知した。

夕刻ゆふこくに行いつて見ると、先生は明あかるい洋燈ランプの下したに大きな本ほんを拡ひろげてゐた。

「御出おいでになりませんか」と聞きくと、先生は少すこし笑わらひながら、無言むごんの儘、首くびを横よこに振ふつた。小供こどもの様な所作をする。然し三四郎には、それが学者らしく思はれた。口くちを利きかない所が床ゆかしく思はれたのだらう。三四郎は中腰ちうごしになつて、ぼんやりしてゐた。先生は断わつたのが気の毒になつた。

「君行いくなら、一所に出様でやう。僕も散歩ぽながら、其所そこ迄行いくから」

先生は黒くろい廻套まわしを着きて出でた。懐手ふところでらしいが分わからない。空そらが低ひくく垂たれてゐる。星の見えない寒さむさである。

「雨になるかも知れない」

「降ふると困るでせう」

「出入ではいりにね。日本の芝居小屋ごやは下足があるから、天気の好いい時ですら大変な不便だ。それで小屋こやの中なかは、空気が通かよはなくつて、烟草たばこが烟けむつて、頭痛がして、――よく、みんな、彼あれで我慢が出来できるものだ」

「ですけれども、真逆まさか戸外こぐわいで遣やる訳わけにも行いかないからでせう」

「御神楽おかぐらは何時いつでも外そとで遣やつてゐる。寒さむい時ときでも外そとで遣やる」

三四郎は、こりや議論にならないと思つて、答こたへを見合せて仕舞つた。

「僕は戸外こぐわいが好いい。暑あつくも寒さむくもない、奇麗な空そらの下したで、美うつくしい空気を呼吸して、美うつくしい芝居が見たい。透明な空気の様な、純粋で単簡な芝居が出来さうなものだ」

「先生の御覧になつた夢でも、芝居にしたらそんなものが出来るでせう」

「君希臘ギリシヤの芝居を知つてゐるか」

「能〔よ〕く知りません。慥たしか戸外こぐわいで遣やつたんですね」

「戸外こぐわい。真昼間まつぴるま。嘸さぞ好いい心持こゝろもちだつたらうと思ふ。席は天然の石いしだ。堂々としてゐる。与次郎の様なものは、さう云ふ所へ連つれて行いつて、少し見せてやると好いい」

又与次郎の悪口わるくちが出でた。其与次郎は今頃窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走し且つ斡旋あつせんして大得意なのだから面白い。もし先生を連つれて行いかなからうものなら、先生果はたして来こない。会たまには斯かう云ふ所へ来きて見るのが、先生の為ためには何どの位好いいか分わからないのだのに。いくら僕が云つても聞かない。困つたものだなあ。と嘆息するに極つてゐるから猶〔なお〕面白い。

先生はそれから希臘ギリシヤの劇場の構造を委〔くわ〕しく話して呉れた。三四郎は此時先生から、Theatronテアトロン, Orchêstraオルケストラ, Skênêスケーネ, Proskênionプロスケニオン などゝ云ふ字の講釈を聞いた。何とか云ふ独乙人の説によると亜典〔アテン〕の劇場は一万七千人を容れる席があつたと云ふ事も聞いた。それは小ちさい方である。尤も大きいのは、五万人を容れたと云ふ事も聞いた。入場券は象牙と鉛なまりと二通りあつて、何いづれも賞牌メダル見たやうな恰好で、表に模様が打うち出だしてあつたり、彫刻が施ほどこしてあると云ふ事も聞いた。先生は其入場券の価あたひ迄知つてゐた。一日丈の小芝居は十二銭で、三日続つゞきの大芝居は三十五銭だと云いつた。三四郎がへえ、へえと感心してゐるうちに、演芸会場の前へ出でた。

盛んに電燈が点ついてゐる。入場者は続々寄よつて来くる。与次郎の云つたよりも以上の景気である。

「どうです、折角だから御這入になりませんか」

「いや這入はいらない」

先生は又暗くらい方へ向いて行つた。

十二の二

三四郎は、しばらく先生の後影うしろかげを見送つてゐたが、あとから、車くるまで乗のり付つける人が、下足の札ふだを受け取る手間てまも惜おしさうに、急いそいで這入はいつて行いくのを見て、自分も足早あしばやに入場した。前へ押されたと同じ事である。

入口いりぐちに四五人用のない人が立つてゐる。そのうちの袴〔はかま〕を着つけた男が入場券を受け取つた。其男の肩かたの上うへから場内を覗のぞいて見ると、中なかは急に広ひろくなつてゐる。且つ甚だ明あかるい。三四郎は眉まゆに手を加くはへない許ばかりにして、導みちびかれた席に着ついた。狭せまい所に割り込みながら、四方を見廻みまはすと、人間にんげんの持もつて来きた色いろで眼めがちら〱する。自分の眼めを動うごかすから許ばかりではない。無数の人間にんげんに付着ふちやくした色が、広い空間くうかんで、絶えず各自めい〱に、且つ勝手に、動うごくからである。

舞台ぶたいではもう始はじまつてゐる。出でて来くる人物が、みんな冠かんむりを被かむつて、沓くつを穿はいて居た。そこへ長い輿こしを担かついで来きた。それを舞台の真中まんなかで留とめたものがある。輿こしを卸すと、中なかから又一人ひとりあらはれた。其男が刀かたなを抜ぬいて、輿を突き返かへしたのと斬合きりあひを始めた。――三四郎には何の事か丸で分わからない。尤も与次郎から梗概を聞いた事はある。けれども好加減に聞いてゐた。見れば分わかるだらうと考へて、うん成程と云つてゐた。所が見れば毫も其意を得ない。三四郎の記憶にはたゞ入鹿いるかの大臣おとゞといふ名前が残つてゐる。三四郎はどれが入鹿いるかだらうかと考へた。それは到底見込みこみが付つかない。そこで舞台全体を入鹿いるかの積つもりで眺めてゐた。すると冠でも、沓でも、筒袖の衣服きものでも、使ふ言葉でも、何となく入鹿いるか臭くさくなつて来きた。実を云ふと三四郎には確然たる入鹿いるかの観念がない。日本歴史を習ならつたのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿いるかの事もつい忘れて仕舞つた。推古天皇の時の様でもある。欽明天皇の御代みよでも差支ない気がする。応神天皇や称武天皇では決してないと思ふ。三四郎はたゞ入鹿いるかじみた心持こゝろもちを持つてゐる丈である。芝居を見るには夫で沢山だと考へて、唐からめいた装束や背景を眺めてゐた。然し筋すぢはちつとも解わからなかつた。其うち幕になつた。

幕になる少し前に、隣りの男が、其又隣りの男に、登場人物の声が、六畳敷で、親子おやこ差向ひの談話の様だ。丸で訓練くんれんがないと非難してゐた。そつち隣りの男は登場人物の腰こしが据すわらない。悉ことごとくひよろ〱してゐると訴へてゐた。二人ふたりは登場人物の本名をみんな暗そらんじてゐる。三四郎は耳を傾けて二人ふたりの談話を聞いてゐた。二人ふたり共立派な服装なりをしてゐる。大方おほかた有名な人ひとだらうと思つた。けれどももし与次郎に此談話を聞かせたら定めし反対するだらうと思つた。其時後うしろの方で旨うまい〱中々なか〱旨うまいと大きな声を出だしたものがある。隣の男は二人ふたりとも後うしろを振り返つた。それぎり話はなしを已やめて仕舞つた。そこで幕が下おりた。

彼所あすこ、此所こゝに席を立つものがある。花道はなみちから出口でぐちへ掛けて、人ひとの影かげが頗すこぶる忙いそがしい。三四郎は中腰ちうごしになつて、四方しほうをぐるりと見廻みまはした。来きてゐる筈はづの人ひとは何処どこにも見えない。本当を云ふと演芸中にも出来る丈は気を付けてゐた。それで知れないから、幕になつたらばと内々心当あてにしてゐたのである。三四郎は少し失望した。已〔やむ〕を得ず眼めを正面に帰かへした。

隣の連中は余程世間が広い男達と見えて、右左みぎひだりを顧かへりみて、彼所あすこには誰だれがゐる、茲所こゝには誰だれがゐると頻しきりに知名な人の名を口くちにする。中なかには離れながら、互に挨拶をしたのも一二人いちににんある。三四郎は御蔭で此等知名な人の細君を少し覚えた。其中そのなかには新婚した許ばかりのもあつた。是は隣となりの一人いちにんにも珍めづらしかつたと見えて、其男はわざ〱眼鏡めがねを拭き直なほして、成程々々と云つて見てゐた。

すると、幕の下おりた舞台ぶたいの前を、向ふの端はじから此方こつちへ向むけて、小走こばしりに与次郎が走かけて来きた。三分の二程の所で留とまつた。少し及び腰ごしになつて、土間どまの中なかを覗のぞき込みながら、何か話はなしてゐる。三四郎はそれを見当に覘ねらひを付けた。――舞台の端はじに立つた与次郎から一直線に二三間げん隔てゝ美禰子の横顔よこがほが見えた。

十二の三

其傍そばにゐる男は脊中せなかを三四郎に向けてゐる。三四郎は心のうちに、此男が何なにかの拍子に、どうかして此方こつちを向いて呉れゝば好いいと念じてゐた。旨うまい具合ぐあひに其男は立つた。坐すはり疲くたびれたと見えて、枡の仕切しきりに腰こしを掛けて、場内じようないを見廻みまはし始めた。其時三四郎は明あきらかに野々宮さんの広い額ひたいと大きな眼めを認める事が出来できた。野々宮さんが立つと共に、美禰子の後うしろにゐたよし子の姿すがたも見えた。三四郎は此三人の外ほかに、まだ連つれが居るか居ないかを確たしかめやうとした。けれども遠くから見ると、たゞ人ひとがぎつしり詰つまつてゐる丈で、連つれと云へば土間どま全体が連つれと見える迄だから仕方がない。美禰子と与次郎の間あひだには、時々とき〲談話が交換されつゝあるらしい。野々宮さんも折々口くちを出だすと思はれる。

すると突然原口さんが幕まくの間あひだから出でて来きた。与次郎と並んでしきりに土間どまの中なかを覗のぞき込こむ。口くちは無論動うごかしてゐるのだらう。野々宮さんは相図の様な首くびを竪たてに振つた。其時原口さんは後うしろから、平手ひらてで、与次郎の脊中せなかを叩たゝいた。与次郎はくるりと引ひつ繰くり返かへつて、幕まくの裾すそを潜もぐつて何所どこかへ消え失せた。原口さんは、舞台を降おりて、人と人の間あひだを伝つたはつて、野々宮さんの傍そば迄来きた。野々宮さんは、腰を立てゝ原口さんを通した。原口さんはぽかりと人ひとの中なかへ飛び込んだ。美禰子とよし子のゐる辺あたりで見えなくなつた。

此連中れんぢうの一挙一動を演芸以上の興味を以て注意してゐた三四郎は、此時急に原口流の所作が羨うらやましくなつた。あゝ云ふ便利な方法で人ひとの傍そばへ寄よる事が出来やうとは毫も思ひ付つかなかつた。自分も一つ真似て見様かしらと思つた。然し真似ると云ふ自覚が、既に実行の勇気を挫くじいた上うへに、もう入はいる席せきは、いくら詰めても、六むづかしからうといふ遠慮が手伝つて、三四郎の尻しりは依然として、故もとの席を去り得なかつた。

其うち幕が開あいて、ハムレツトが始はじまつた。三四郎は広田先生のうちで西洋の何とかいふ名優の扮〔ふん〕したハムレツトの写真を見た事がある。今三四郎の眼めの前にあらはれたハムレツトは、是と略ほゞ同様の服装をしてゐる。服装ばかりではない。顔迄似てゐる。両方共八の字を寄せてゐる。

此ハムレツトは動作が全く軽快で、心持が好いい。舞台の上うへを大いに動いて、又大いに動うごかせる。能掛りの入鹿いるかとは大変趣を異にしてゐる。ことに、ある時、ある場合に、舞台の真中まんなかに立つて、手を広ひろげて見たり、空そらを睨にらんで見たりするときは、観客の眼中がんちうに外ほかのものは一切入り込む余地のない位強烈な刺激を与へる。

其代り台詞せりふは日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏〔せっそう〕もある。ある所は能弁過ぎると思はれる位流暢に出でる。文章も立派である。それでゐて、気が乗らない。三四郎はハムレツトがもう少し日本人じみた事を云つて呉れゝば好いいと思つた。御母おつかさん、それぢや御父おとつさんに済すまないぢやありませんかと云ひさうな所で、急にアポロ抔を引合に出だして、呑気に遣やつて仕舞ふ。それでゐて顔付かほつきは親子おやことも泣き出だしさうである。然し三四郎は此矛盾をたゞ朧気げに感じたのみである。決して詰つまらないと思ひ切る程の勇気は出でなかつた。

従つて、ハムレツトに飽きた時は、美禰子の方を見てゐた。美禰子が人の影かげに隠れて見えなくなる時は、ハムレツトを見てゐた。

ハムレツトがオフェリヤに向つて、尼寺へ行け尼寺へ行けと云ふ所へ来た時、三四郎は不図広田先生の事を考へ出だした。広田先生は云つた。――ハムレツトの様なものに結婚が出来るか。――成程本ほんで読むと左さうらしい。けれども、芝居では結婚しても好よささうである。能く思案して見ると、尼寺あまでらへ行けとの云ひ方かたが悪わるいのだらう。其証拠には尼寺あまでらへ行けと云はれたオフェリヤが些ちつとも気の毒にならない。

幕が又下おりた。美禰子とよし子が席を立つた。三四郎もつゞいて立つた。廊下迄来て見ると、二人ふたりは廊下の中程なかほどで、男と話をしてゐる。男は廊下から出入ではいりの出来る左側の席の戸口に半分身体からだを出だした。男の横顔がほを見た時、三四郎は後あとへ引き返した。席へ返かへらずに下足を取つて表へ出でた。

十二の四

本来は暗い夜である。人ひとの力ちからで明あかるくした所を通り越すと、雨あめが落ちてゐるやうに思ふ。風かぜが枝を鳴ならす。三四郎は急いで下宿に帰つた。

夜半から降ふり出だした。三四郎は床とこの中なかで、雨あめの音おとを聞きながら、尼寺へ行けと云ふ一句を柱はしらにして、其周囲まわりにぐる〱彽徊した。広田先生も起きてゐるかも知れない。先生はどんな柱はしらを抱だいてゐるだらう。与次郎は偉大なる暗闇くらやみの中なかに正体なく埋うまつてゐるに違ない。……

明日あくるひは少し熱ねつがする。頭あたまが重おもいから寐ねてゐた。午飯ひるめしは床とこの上うへに起き直つて食くつた。又一寐入ひとねいりすると今度は汗あせが出でた。気がうとくなる。そこへ威勢よく与次郎が這入はいつて来きた。昨夕ゆふべも見えず、今朝けさも講義に出でない様だから何どうしたかと思つて訪たづねたと云ふ。三四郎は礼を述のべた。

「なに、昨夕ゆふべは行いつたんだ。行いつたんだ。君が舞台の上うへに出でて来きて、美禰子さんと、遠くで話はなしをしてゐたのも、ちやんと知つてゐる」

三四郎は少し酔よつた様な心持である。口くちを利きき出だすと、つる〱と出でる。与次郎は手を出だして、三四郎の額ひたひを抑へた。

「大分だいぶ熱がある。薬くすりを飲まなくつちや不可いけない。風邪かぜを引いたんだ」

「演芸場があまり暑過あつすぎて、明あかる過すぎて、さうして外そとへ出でると、急に寒過さむすぎて、暗過くらすぎるからだ。あれは可よくない」

「可いけないたつて、仕方しかたがないぢやないか」

「仕方しかたがないたつて、可いけない」

三四郎の言葉は段〻短かくなる、与次郎が好加減にあしらつてゐるうちに、すう〱寐て仕舞つた。一時間程して又眼めを開あけた。与次郎を見て、

「君、其所そこにゐるのか」と云ふ。今度こんどは平生の三四郎の様である。気分はどうかと聞くと、頭あたまが重おもいと答へた丈である。

「風邪かぜだらう」

「風邪かぜだらう」

両方で同じ事を云つた。しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。

「君、此間このあひだ美禰子さんの事を知つてるかと僕に尋ねたね」

「美禰子さんの事を? 何処どこで?」

「学校で」

「学校で? 何時いつ」

与次郎はまだ思ひ出だせない様子である。三四郎は已〔やむ〕を得ず、其前後の当時を詳しく説明した。与次郎は、

「成程そんな事が有あつたかも知れない」と云つてゐる。三四郎は随分無責任だと思つた。与次郎も少すこし気の毒になつて、考へ出ださうとした。やがて斯かう云つた。

「ぢや、何なんぢやないか。美禰子さんが嫁よめに行いくと云ふ話はなしぢやないか」

「極きまつたのか」

「極きまつた様に聞きいたが、能〔よ〕く分わからない」

「野々宮さんの所か」

「いや、野々宮さんぢやない」

「ぢや……」と云ひ掛けて已めた。

「君、知しつてるのか」

「知らない」と云ひ切つた。すると与次郎が少し前へ乗のり出だして来きた。

「何どうも能よく分わからない。不思議な事があるんだが。もう少すこし立たたないと、何どうなるんだか見当が付つかない」

三四郎は、其不思議な事を、すぐ話せば好いいと思ふのに、与次郎は平気なもので、一人ひとりで呑のみ込こんで、一人ひとりで不思議がつてゐる。三四郎は少時しばらく我慢してゐたが、とう〱焦じれつたくなつて、与次郎に、美禰子に関する凡ての事実を隠かくさずに話はなして呉れと請求した。与次郎は笑わらひ出だした。さうして慰藉の為ためか何だか、飛んだ所へ話頭を持つて行つて仕舞つた。

十二の五

「馬鹿だなあ、あんな女を思つて。思つたつて仕方しかたがないよ。第一、君と同年おないどし位ぢやないか。同年おないどし位の男に惚れるのは昔むかしの事だ。八百屋御七時代の恋だ」

三四郎は黙だまつてゐた。けれども与次郎の意味は能く分わからなかつた。

「何故なぜと云ふに。廿前後はたちぜんごの同じ年の男女を二人ふたり並ならべて見ろ。女の方が万事上うは手だあね。男は馬鹿にされる許ばかりだ。女だつて、自分の軽蔑する男の所へ嫁よめに行く気は出でないやね。尤も自分が世界で一番偉えらいと思つてる女は例外だ。軽蔑する所へ行いかなければ独身で暮くらすより外ほかに方法はないんだから。よく金持の娘むすめや何かにそんなのがあるぢやないか、望んで嫁よめに来きて置きながら、亭主を軽蔑してゐるのが。美禰子さんは夫それよりずつと偉えらい。其代り、夫おつととして尊敬の出来ない人の所へは始から行いく気はないんだから、相手になるものは其気で居なくつちや不可いけない。さう云ふ点で君だの僕だのは、あの女の夫おつとになる資格はないんだよ」

三四郎はとう〱与次郎と一所にされて仕舞つた。然し依然として黙だまつてゐた。

「そりや君だつて、僕だつて、あの女より遥かに偉えらいさ。御互に是でも、なあ。けれども、もう五六年経たたなくつちや、其偉えらさ加減が彼かの女の眼めに映うつつて来こない。しかして、かの女は五六年凝じつとしてゐる気遣きづかひはない。従つて、君があの女と結婚する事は風馬牛だ」

与次郎は風馬牛と云ふ熟字を妙な所へ使つかつた。さうして一人ひとりで笑わらつてゐる。

「なに、もう五六年もすると、あれより、ずつと上等なのが、あらはれて来くるよ。日本ぢや今女の方が余あまつてゐるんだから。風邪かぜなんか引ひいて熱を出だしたつて始まらない。――なに世の中なかは広ひろいから、心配するがものはない。実は僕にも色々あるんだが。僕の方であんまり煩うるさいから、御用で長崎へ出張すると云つてね」

「何なんだ、それは」

「何なんだつて、僕の関係した女さ」

三四郎は驚ろいた。

「なに、女だつて、君なんぞの曾〔かつ〕て近寄つた事のない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌〔ばいきん〕の試験に出張するから当分駄目だつて断わつちまつた。所が其女が林檎を持つて停車場まで送りに行ゆくと云ひ出だしたんで、僕ぼくは弱つたね」

三四郎は益〔ますます〕驚いた。驚ろきながら聞いた。

「それで、何どうした」

「何どうしたか知らない。林檎を持つて、停車場に待まつてゐたんだらう」

「苛ひどい男だ。よく、そんな悪わるい事が出来できるね」

「悪わるい事で、可哀想な事だとは知つてるけれども、仕方しかたがない。始はじめから次第〻〻に、そこ迄運命に持つて行いかれるんだから。実はとうの前から僕が医科の学生になつてゐたんだからなあ」

「なんで、そんな余計な嘘うそを吐つくんだ」

「そりや、又それ〲事情のある事なのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼たのまれて困つた事もある」

三四郎は可笑をかしくなつた。

「其時は舌を見て、胸を叩たゝいて、好いい加減に胡魔化したが、其次に病院へ行いつて、見て貰ひたいが好いいかと聞かれたには閉口した」

三四郎はとう〱笑ひ出だした。与次郎は、

「さう云ふ事も沢山あるから、まあ安心するが好よからう」と云つた。何なんの事だか分わからない。然し愉快になつた。

与次郎は其時始めて、美禰子に関する不思議を説明した。与次郎の云ふ所によると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それ丈ならば好いいが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのださうだ。

三四郎も少し馬鹿にされた様な気がした。然しよし子の結婚丈は慥かである。現に自分が其話を傍そばで聞いてゐた。ことによると其話を美禰子のと取り違へたのかも知れない。けれども美禰子の結婚も、全く嘘うそではないらしい。三四郎は判然はつきりした所が知りたくなつた。序だから、与次郎に教へて呉れと、頼んだ。与次郎は訳なく承知した。よし子を見舞に来くる様にしてやるから、直ぢかに聞いて見ろといふ。旨うまい事を考へた。

「だから、薬くすりを飲んで、待つて居なくつては不可いけない」

「病気が癒なほつても、寐ねて待つてゐる」

二人ふたりは笑つて別わかれた。帰りがけに与次郎が、近所の医者に来きて貰もらふ手続をした。

十二の六

晩になつて、医者が来きた。三四郎は自分で医者を迎へた覚がないんだから、始めは少し狼狽した。そのうち脈を取られたので漸く気が付ついた。年の若わかい丁寧な男である。三四郎は代診と鑑定した。五分ごふんの後病症はインフルエンザと極きまつた。今夜頓服〔とんぷく〕を飲んで、成る可べく風かぜに当あたらない様にしろと云ふ注意である。

翌日眼めが覚めると、頭あたまが大分軽かろくなつてゐる。寐てゐれば、殆んど常体じようたいに近い。たゞ枕を離れると、ふら〱する。下女が来きて、大分だいぶ部屋の中なかが熱臭ねつくさいと云つた。三四郎は飯めしも食はずに、仰向あほむけに天井を眺ながめてゐた。時々とき〲うと〱眠ねむくなる。明あきらかに熱と疲つかれとに囚はれた有様である。三四郎は、囚とらはれた儘、逆さからはずに、寐たり覚さめたりする間あひだに、自然に従したがふ一種の快感を得た。病症が軽かるいからだと思つた。

四時間、五時間と経たつうちに、そろ〱退屈を感かんじ出だした。しきりに寐返がへりを打うつ。外そとは好いい天気である。障子に当あたる日が、次第に影かげを移うつして行ゆく。雀が鳴なく。三四郎は今日けふも与次郎が遊あそびに来きて呉れゝば好いいと思つた。

所へ下女が障子を開あけて、女の御客様だと云ふ。よし子が、さう早く来きやうとは待ち設けなかつた。与次郎丈に敏捷な働はたらきをした。寐ねた儘、開あけ放はなしの入口いりくちに眼めを着つけてゐると、やがて高たかい姿すがたが敷居の上うへへあらはれた。今日けふは紫むらさきの袴はかまを穿はいてゐる。足あしは両方共廊下にある。一寸ちよつと這入るのを蹰躇した様子が見える。三四郎は肩かたを床とこから上あげて、「入〔い〕らつしやい」と云つた。

よし子は障子を閉たてゝ、枕元へ坐すはつた。六畳の座敷が、取り乱みだしてある上うへに、今朝けさは掃除さうじをしないから、猶〔なお〕狭苦せまくるしい。女は、三四郎に、

「寐て入らつしやい」と云つた。三四郎は又頭あたまを枕へ着つけた。自分丈は穏おだやかである。

「臭くさくはないですか」と聞いた。

「えゝ、少し」と云つたが、別段臭くさい顔もしなかつた。「熱が御有おありなの。何なんなんでせう、御病気は。御医者は入らしつて」

「医者は昨夕ゆふべ来きました。インフルエンザださうです」

「今朝けさ早く佐々木さんが御出いでになつて、小川が病気だから見舞に行つて遣やつて下ください。何なに病だか分わからないが、何なんでも軽くはない様だ。つて仰おつしやるものだから、私わたくしも美禰子さんも吃驚びつくりしたの」

与次郎が又少すこし法螺を吹ふいた。悪わるく云へば、よし子を釣り出だした様なものである。三四郎は人が好いいから、気の毒でならない。「どうも難有〔ありがと〕う」と云つて寐てゐる。よし子は風呂敷包の中なかから、蜜柑の籃かごを出だした。

「美禰子さんの御注意があつたから買かつて来きました」と正直な事を云ふ。どつちの御見舞みやげだか分わからない。三四郎はよし子に対して礼を述べて置いた。

「美禰子さんも上あがる筈はづですが、此頃少し忙いそがしいものですから――どうぞ宜よろしくつて……」

「何か特別に忙いそがしい事が出来できたのですか」

「えゝ。出来できたの」と云つた。大きな黒い眼めが、枕まくらに着ついた三四郎の顔の上うへに落ちてゐる。三四郎は下したから、よし子の蒼白あをしろい額ひたひを見上げた。始めて此女このをんなに病院で逢つた昔むかしを思ひ出だした。今でも物憂ものうげに見える。同時に快活である。頼たよりになるべき凡ての慰藉を三四郎の枕まくらの上うへに齎もたらして来きた。

「蜜柑を剥むいて上あげませうか」

女は青い葉の間あひだから、果物くだものを取り出だした。渇かはいた人は、香かに迸ほとばしる甘い露を、したゝかに飲んだ。

「美味おいしいでせう。美禰子さんの御見舞おみやげよ」

「もう沢山」

女は袂たもとから白い手帛ハンケチを出だして手を拭いた。

「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」

「あれ限ぎりです」

「美禰子さんにも縁談の口くちがあるさうぢやありませんか」

「えゝ、もう纏まとまりました」

「誰だれですか、先さきは」

「私わたくしを貰もらふと云つた方かたなの。ほゝゝ可笑をかしいでせう。美禰子さんの御兄おあにいさんの御友達よ。私わたくし近ちかい内うちに又兄あにと一所に家うちを持ちますの。美禰子さんが行いつて仕舞ふと、もう御厄介になつてる訳わけに行かないから」

「あなたは御嫁よめには行いかないんですか」

「行きたい所がありさへすれば行きますわ」

女は斯かう云ひ棄てゝ心持よく笑わらつた。まだ行きたい所がないに極きまつてゐる。

十二の七

三四郎は其日から四日よつか程床とこを離れなかつた。五日いつか目に怖々こわ〲ながら湯に入はいつて、鏡を見た。亡者の相がある。思ひ切つて床屋とこやへ行いつた。其その明あくる日ひは日曜である。

朝食後あさめしご、襯衣しやつを重かさねて、外套を着きて、寒さむくない様にして、美禰子の家うちへ行いつた。玄関によし子が立つて、今沓脱くつぬぎへ降おりやうとしてゐる。今兄あにの所へ行く所だと云ふ。美禰子はゐない。三四郎は一所に表へ出でた。

「もう悉皆すつかり好いいんですか」

「難有〔ありがと〕う。もう癒なほりました。――里見さんは何所どこへ行いつたんですか」

「兄にいさん?」

「いゝえ、美禰子さんです」

「美禰子さんは会堂チヤーチ」

美禰子の会堂チヤーチへ行く事は始めて聞いた。何処どこの会堂チヤーチか教へて貰もらつて、三四郎はよし子に別わかれた。横町を三つ程曲まがると、すぐ前まへへ出でた。三四郎は全く耶蘇〔ヤソ〕教に縁のない男である。会堂チヤーチの中なかは覗のぞいて見た事もない。前まへへ立つて、建物を眺めた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を往つたり来きたりした。ある時は寄より掛かかつて見た。三四郎は兎も角もして、美禰子の出でてくるのを待まつ積つもりである。

やがて唱歌の声が聞きこへた。讃美歌といふものだらうと考へた。締切しめきつた高い窓のうちの出来事できごとである。音おん量から察すると余程の人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌は歇やんだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。空そらに美禰子の好すきな雲くもが出でた。

かつて美禰子と一所に秋の空そらを見た事もあつた。所は広田先生の二階であつた。田端たばたの小川の縁ふちに坐すはつた事もあつた。其時も一人ひとりではなかつた。迷羊ストレイシープ。迷羊ストレイシープ。雲くもが羊ひつじの形かたちをしてゐる。

忽然として会堂チヤーチの戸が開あいた。中なかから人ひとが出でる。人は天国てんごくから浮世うきよへ帰る。美禰子は終りから四番目であつた。縞しまの吾妻コートを着きて、俯向うつむいて、上あがり口くちの階段を降おりて来きた。寒さむいと見えて、肩かたを窄すぼめて、両手を前で重ねて、出来できる丈外界との交渉を少すくなくしてゐる。美禰子は此凡てに揚あがらざる態度を門際もんぎは迄持続した。其時、往来の忙いそがしさに、始めて気が付ついた様に顔かほを上あげた。三四郎の脱ぬいだ帽子の影かげが、女の眼めに映うつつた。二人ふたりは説教の掲示のある所で、互に近寄ちかよつた。

「何どうなすつて」

「今いま御宅たく迄一寸ちよつと出でた所です」

「さう、ぢや入〔い〕らつしやい」

女は半なかば歩ほを回めぐらしかけた。相変らず低ひくい下駄げたを穿はいてゐる。男はわざと会堂チヤーチの垣かきに身を寄せた。

「此所こゝで御目めに掛かかればそれで好いい。先刻さつきから、あなたの出でて来くるのを待まつてゐた」

「御這入はいりになれば好いいのに。寒さむかつたでせう」

「寒さむかつた」

「御風邪かぜはもう好いいの。大事になさらないと、ぶり返かへしますよ。まだ顔色かほいろが好よくない様ね」

男は返事をしずに、外套の隠袋かくしから半紙に包つゝんだものを出だした。

「拝借した金かねです。永々なが〱難有〔ありがと〕う。返かへさう〱と思つて、つい遅くなつた」

美禰子は一寸ちよつと三四郎の顔かほを見たが、其儘逆さからはずに、紙包かみづゝみを受け取つた。然し手に持つたなり、納しまはずに眺ながめてゐる。三四郎もそれを眺めてゐる。言葉が少すこしの間あひだ切きれた。やがて、美禰子が云つた。

「あなた、御不自由ぢや無なくつて」

「いゝえ、此間から其積で国から取り寄せて置いたのだから、何どうか取つて下ください」

「さう。ぢや頂いたゞいて置きませう」

女は紙包かみづゝみを懐ふところへ入れた。其手を吾妻あづまコートから出だした時、白い手帛ハンケチを持つてゐた。鼻の所へ宛てゝ、三四郎を見てゐる。手帛ハンケチを嗅かぐ様子でもある。やがて、其手を不意に延のばした。手帛ハンケチが三四郎の顔かほの前まへへ来きた。鋭するどい香かほりがぷんとする。

「ヘリオトロープ」と女が静かに云つた。三四郎は思はず顔かほを後あとへ引ひいた。ヘリオトロープの壜びん。四丁目の夕暮ゆふぐれ。迷羊ストレイシープ。迷羊ストレイシープ。空そらには高たかい日が明あきらかに懸かゝる。

「結婚なさるさうですね」

美禰子は白い手帛ハンケチを袂たもとへ落した。

「御存じなの」と云ひながら、二重瞼ふたへまぶちを細目ほそめにして、男の顔かほを見た。三四郎を遠くに置いて、却つて遠くにゐるのを気遣きづかい過すぎた眼付めつきである。其癖眉まゆ丈は明確はつきり落ちついてゐる。三四郎の舌したが上顎うはあごへ密着ひつついて仕舞つた。

女はやゝしばらく三四郎を眺めた後のち、聞兼ききかねる程の嘆息ためいきをかすかに漏もらした。やがて細い手を濃い眉の上うへに加へて、云つた。

「われは我わが愆とがを知る。我が罪は常に我が前にあり」

聞き取れない位な声であつた。それを三四郎は明らかに聞き取つた。三四郎と美禰子は斯様〔かよう〕にして分わかれた。下宿へ帰つたら母からの電報が来きてゐた。開あけて見ると、何時いつ立つとある。

十三

原口さんの画は出来上できあがつた。丹青会は之を一室の正面に懸けた。さうして其前に長い腰掛を置いた。休やすむ為ためでもある。画を見る為ためでもある。休み且つ味ふ為ためでもある。丹青会はかうして、此大作に彽徊する多くの観覧者に便利を与へた。特別の待遇である。画が特別の出来できだからだと云ふ。或は人の目を惹ひく題だいだからとも云ふ。少数のものは、あの女を描かいたからだと云つた。会員の一二は全く大きいからだと弁解した。大きいには違ちがひない。幅五寸に余る金の縁ふちを付つけて見ると、見違みちがへる様に大きくなつた。

原口さんは開会の前日検分の為一寸ちよつと来きた。腰掛に腰を卸して、久ひさしい間あひだ烟管パイプを啣へて眺めてゐた。やがて、ぬつと立つて、場内を一順丁寧に回まはつた。夫から又故もとの腰掛へ帰つて、第二の烟管パイプを緩ゆつくり吹ふかした。

「森の女」の前には開会の当日から人が一杯集たかつた。折角の腰掛は無用の長物となつた。たゞ疲れたものが、画を見ない為ために休んでゐた。それでも休みながら「森の女」の評をしてゐたものがある。

美禰子は夫おつとに連つれられて二日ふつか目に来きた。原口さんが案内をした。「森の女」の前へ出でた時、原口さんは「何どうです」と「二人ふたり」を見た。夫おつとは「結構です」と云つて、眼鏡めがねの奥からじつと眸ひとみを凝こらした。

「此団扇を翳かざして立つた姿勢が好いい。流石さすが専門家は違ちがひますね。能よく茲所こゝに気が付ついたものだ。光線が顔へあたる具合が旨うまい。陰かげと日向なたの段落だんらくが確然かつきりして――顔丈でも非常に面白い変化がある」

「いや皆みんな御当人の御好みだから。僕の手柄ぢやない」

「御蔭かげさまで」と美禰子が礼を述べた。

「私わたくしも、御蔭さまで」と今度は原口さんが礼を述のべた。

夫おつとは細君の手柄だと聞いて左〔さ〕も嬉しさうである。三人のうちで一番鄭重な礼を述べたのは夫おつとである。

開会後第一の土曜の午過ひるすぎには大勢おほぜい一所に来きた。――広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と。四人よつたりは余所よそを後廻あとまはしにして、第一に「森の女」の部屋に這入つた。与次郎が「あれだ、あれだ」と云ふ。人が沢山集たかつてゐる。三四郎は入口いりぐちで一寸ちよつと蹰躇した。野々宮さんは超然として這入はいつた。

大勢おほぜいの後うしろから、覗のぞき込んだ丈で、三四郎は退しりぞいた。腰掛に倚つてみんなを待ち合はしてゐた。

「素敵に大きなもの描かいたな」と与次郎が云つた。

「佐々木に買つて貰もらふ積つもりださうだ」と広田先生が云つた。

「僕より」と云ひ掛けて、見ると、三四郎は六づかしい顔をして腰掛にもたれてゐる。与次郎は黙だまつて仕舞つた。

「色の出だし方が中々洒落しやれてゐますね。寧ろ意気な画だ」と野々宮さんが評した。

「少し気が利き過ぎてゐる位だ。是ぢや鼓つゞみの音ねの様にぽん〱する画は描かけないと自白する筈だ」と広田先生が評した。

「何ですぽん〱する画と云ふのは」

「鼓つゞみの音ねの様に間まが抜けてゐて、面白い画の事さ」

二人ふたりは笑つた。二人ふたりは技巧の評ばかりする。与次郎が異を樹たてた。

「里見さんを描かいちや、誰だれが描かいたつて、間まが抜けてる様には描かけませんよ」

野々宮さんは目録ろくへ記号しるしを付つける為ために、隠袋かくしへ手を入れて鉛筆を探さがした。鉛筆がなくつて、一枚の活版摺ずりの端書はがきが出でて来きた。見ると、美禰子の結婚披露の招待状であつた。披露はとうに済すんだ。野々宮さんは広田先生と一所にフロツクコートで出席した。三四郎は帰京の当日此招待状を下宿の机の上に見た。時期は既に過すぎてゐた。

野々宮さんは、招待状を引き千切ちぎつて床ゆかの上に棄てた。やがて先生と共に外ほかの画の評に取とり掛る。与次郎丈が三四郎の傍そばへ来きた。

「どうだ森の女は」

「森の女と云ふ題が悪わるい」

「ぢや、何とすれば好いいんだ」

三四郎は何なんとも答へなかつた。たゞ口くちの内うちで迷羊ストレイシープ、迷羊ストレイシープと繰り返かへした。

底本 / Source edition

底本:「定本 漱石全集 第五巻」岩波書店
2017(平成29)年4月7日第1刷発行
初出:「東京朝日新聞」
1908(明治41)年9月1日~12月29日
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※「矢っ張り」と「矢張り」と「矢っ張」、「余程」と「余つ程」と「余っ程」、「余《あま》り」と「余《あん》まり」と「余《あんま》り」と「余《あまり》」、「引《ひ》っ込め」と「引き込め」、「引つ込んで」と「引っ込んで」、「引っ張つて」と「引つ張つて」と「引張つて」、「提燈」と「提灯」、「何所《どこ》」と「何処《どこ》」、「子供」と「小供」、「暫《しば》らく」と「少時《しばらく》」、「吃驚《びつくり》」と「喫驚《びつくり》」」、「美《うつ》くしい」と「美《うつく》しい」、「背《せ》」と「脊《せ》」、「※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]躇」と「躊躇」、「六※[#濁点付き小書き平仮名つ]かし」と「六づかし」、「後《うし》ろ」と「後《うしろ》」、「一《ひとつ》」と「一《ひと》つ」の混在は、底本通りです。
※「二重瞼」に対するルビの「ふたえまぶた」と「ふたえまぶち」、「洋燈」に対するルビの「らんぷ」と「ランプ」、「一寸」に対するルビの「ちよつと」と「ちよいと」、「籃」に対するルビの「かご」と「バスケツト」と「ばすけつと」、「私」に対するルビの「わたくし」と「わたし」、「兄妹」に対するルビの「きようだい」と「けうだい」、「戸外」に対するルビの「そと」と「こぐわい」、「再」に対するルビの「ふたたび」と「ふたゝび」の混在は、底本通りです。
※初出時の署名は「漱石」です。
※〔 〕内のルビは、編集部による加筆です。
※〔 〕内のルビは新仮名とする底本の扱いにそって、〔 〕内のルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本巻末の吉田※[#「(冫+熈-れんが)/れんが」、第3水準1-14-55]生氏による注解、宗像和重氏による新注、編集部による補注は省略しました。
入力:砂場清隆
校正:木下聡
2022年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/058842_000148/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/058842_000148/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/058842_000148/

夏目 漱石「三四郎」(新字旧仮名)、底本『定本 漱石全集 第五巻』岩波書店、2017年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 058842_000148, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite