Soranoha

素人図書館人の手記

しろうととしょかんじんのしゅき

金森 徳次郎

生れるときに自分の將來の仕事を考えるものは無いが、それでも若いときから一生の目的を考えるものだ。ところが私は若いときはもとよりのこと、中年になつても老年になつても夢にも思わなかつた圖書館人と言うものに六十歳を超えてからなつた。業平朝臣の言いぐさではないが「忘れては夢かとぞ思う思いきや」であり雪は踏みわけないが毎日圖書館を見て喜び眺めているのだ。

私の管理している圖書館は舊赤坂離宮である。玄關を入つて自分の室まで行く間はやゝ長い廊下を通るのだ。一人當り疊二疊に足らぬ賤が伏屋を立ち出でゝ毎日出勤すると、この廊下を歩く數分間に一種の心のゆとりが起る、その數分間が圖書館について自責心の最も起るときである。また毎日退廳のときにもこの廊下を通るがその時一日の經過を顧みてホッと息をつきつゝやはり一種の自責心が起るのだ。つまり直接仕事に心を占領されていない時にはこのやるせない惱が生ずるのだ。素人のくせによくも平氣でやつて居れるな、そしておまえはこの圖書館をどんな風に發展させて行くのか、第一圖書館とは何であるのかを知つているか等々。

圖書なき圖書館

圖書館が何であるかぐらいは素人の私でも知つている。その方面の教科書の第一頁に明記してあるのだ。しかしその實、圖書館の性格は廣大無邊であつて捕捉すること容易でない。しかし少くとも圖書を集めて置いて人に讀ませることは最少限度の要件だろうと誰でも思う。大きい意味ではたしかにその通りだ。しかし具體的な一つの設備として考えると書物の無い圖書館も考えられぬことは無いのだ。醫療の道具を持たない臨床醫師があつてもよいのだ。圖書館を訪ねて「お宅の藏書は何十萬册ですか」と質問するのが常套手段だが、一册もありませんと答える圖書館があつてもよさそうだ。勿論全くの無手勝流ではこまるが、例えば日本全國、又は世界全體の圖書の題目とその所在が即時にわかるような、カードばかりの圖書館は考えられぬだろうか。チベットの御經が知りたいがどこにあるでしよう。マルコポーロの東方見聞録の最古版が讀みたいが、どこにありますか。膝栗毛で有名な彌次さん喜多さんの住んで居た長屋の地圖はどこにありますか。こんな質問がすぐに滿足させられ得るような圖書館があつてよいであろう。よいであろうではない、日本では一番必要なんだ。日本は不思議な國で昔から隨分世界の書物が集まつている。思いもつかぬ世界の珍本もあるのだ、また特殊な調査價値のものもあるのだ。しかしそれが目的に應じて利用出來ぬのだ、分散所藏せられて、これを求むることは枯草の中で縫い針を探すよりも厄介なのだ。所謂物知りが時々斷片的なものを目つけて「あつた、有つた」と喜び誇るが、綜合カタログが出來て居れば、問題は大部分解決されるのだ。アメリカには千五百萬種以上の書物があるらしい。勿論正當な利用價値のないものは除かれている。そしてその書物が圖書館にある限り綜合カタログとして整頓されている。こんなカードは議會圖書館にある。ハーヴァード大學にある。ミシガン大學にもある。そして日本にはないのだ。

圖書館とモーラル

圖書館では本を盜まれることが多い、切り取られることが多い、まさか切り取り強盜の熟語を知つたためでもあるまいが。それ故公開書架は中々實行出來ない。圖書館と牢屋とは同じように扱わねばならぬ。これが傳統だ。かつて公開書架をやつた公共圖書館が忽ちにして二十五パーセントの書物を取られてその制を止めてしまつた例がある。私のところの圖書館では原則的に公開でやつて見た。極微の損害はあつたが兎に角つゞけている。しかしイチジクに鐵砲蟲がつくと枯れるように、時が來ると惡い蟲がつき易い。折角の大々的公開書架制も時々は弱點を示す。さればとて圖書館を牢屋にするのはいやだ。これから段々よくなる圖書館を惡くさせるのは悲しい。百科辭典のような大きな書物のつゞきもの迄持ち出された圖書館があるそうだが恥かしい極みだ。圖書を盜んではりつけになつたような畫の額でも掲げろと助言する人があるが冗談じやない、吾々は空想家たるの批難を甘受しても姿美しい圖書館をやつて行きたいのだ。

圖書館と能率

米國の議會圖書館は約二千五百萬點の圖書館資料を有している。これだけを活用するのは全く能率問題だ。我々の圖書館だつて四百萬點の資料を有している。能率問題が死生の鍵だ。所が日本は非能率の條件に滿ちた國であつて困り果てる。一例が羅馬字問題だ。ヘボン式によるか訓令式によるかが一例だ。米國の圖書館協會の部會で日本圖書についてヘボン式による旨を決定した。我々自身は國法秩序の中に於て煮えきらぬ兩立の流儀を顧みつゝバラバラ流で苦しんでいるのだ。その他色々の非能率問題を解決して能率の國に圖書館が榮えると威張りたいものだが、遠いな。(國會圖書館長)

底本 / Source edition

底本:「文藝春秋 昭和二十五年九月號」文藝春秋新社
1950(昭和25)年9月1日発行
初出:「文藝春秋 昭和二十五年九月號」文藝春秋新社
1950(昭和25)年9月1日発行
※「吾々」と「我々」の混在は、底本通りです。
入力:sogo
校正:The Creative CAT
2019年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/058808_001956/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/058808_001956/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/058808_001956/

金森 徳次郎「素人図書館人の手記」(旧字新仮名)、底本『文藝春秋 昭和二十五年九月號』文藝春秋新社、1950年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 058808_001956, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite