## 一

がちゃん！

「おや、またやっちゃった」

下女のお松が恨めしそうに、洗い<ruby><rb>桶</rb><rt>おけ</rt></ruby>の中から縁の欠けた<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>を取出した。

「どうしてわたしはこう運が悪いのだろう、皿でも茶碗でもわたしが触りさえすれば欠けてしまう。今朝からもう五ツも壊しちゃった。とてもこれでは<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>ぎがつかない」

<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついていると、

「お松さんまた出来たね」

と水口からのぞいた者がある。

色白の<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>の濃い、<ruby><rb>口許</rb><rt>くちもと</rt></ruby>のしまった立派な人品だが、どこかに間の抜けたところがあるのと、いつもえへら笑いをしているのとで、「<ruby><rb>半化</rb><rt>はんば</rt></ruby>け<ruby><rb>又平</rb><rt>またへい</rt></ruby>」と呼ばれている下郎又平であった。半分だけ人間に化け損ったという意味の<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>である。

「ああびっくりした」

お松は眼をむいて、

「気味が悪いよ又平さんは、わたしが茶碗を欠きさえすればきっと<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけてやって来るんだね。本当に妙な鼻だよ」

「鼻じゃない耳さ、えっへへへへ」

又平はだらしのない声で笑った。

「武士は<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>の音で眼を覚まし、又平は茶碗の欠ける音で駆けつけるってな、<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>にもあるだろう」

「そんな話は聞いたこともないよ」

「ところで今度は何だね」

「この茶碗さ」

「えっへへへ有難え、<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>っておくぜ」

又平は欠け茶碗を押し<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>いた。

「変だよ、全く変だよ又平さんは。いったいそんなに欠け皿や欠け茶碗を持って行って何にするのさ」

「これがおいらの道楽さ。欠けっ振りのいい皿や茶碗を集めて、じっとこう眺めている気持は何とも言えねえ味なんだ。どうかこれからもせっせと欠いておくんなさい」

「馬鹿におしでないよ」

お松はぷんぷん怒っている。又平は愛想笑いをしながら立去った、――この有様をさっきから、<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>の前を通りかかったこの家の娘<ruby><rb>椙江</rb><rt>すぎえ</rt></ruby>が見ていた。そして又平の足音が遠のくと、そっと入って来て、

「お松――」

と声をかけた。

「あ、まあお嬢さま」

「そんなに驚かなくてもいいわ。いまおまえ又平と欠け茶碗がどうかしたとか話していたようだけれど、あれは何のことなの？」

「はいお嬢さま、あの又平はずいぶんおかしな人で、わたしが粗相をして欠いたお皿やお茶碗を集めているのでございます」

「何にするんですって……？」

「道楽だと申しております。欠けっ振りのいい皿や茶碗を並べて、じっと眺めていると<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しくなるんだなんて、本当に半化けは半化けらしいことを申します」

「お黙りなさい」

椙江はきつい調子で、

「又平は下郎でも男です。女のおまえがそんな悪口を言ってはなりません」

「はい、すみません」

「それから、こんなことは誰にもおしゃべりをするんではありませんよ」

そうたしなめておいて椙江は去った。

ここは<ruby><rb>播州</rb><rt>ばんしゅう</rt></ruby>姫路の城下、<ruby><rb>八重樫主水</rb><rt>やえがしもんど</rt></ruby>の道場である。主水は<ruby><rb>古中条流</rb><rt>こちゅうじょうりゅう</rt></ruby>の剣法をもって当代の達人と言われる人物、家臣でこそないが領主池田侯から年々五百俵ずつ手当てを受け、家中の武士に指南をしている。もっともこれには条件があった。それはいわゆる「お<ruby><rb>止流</rb><rt>とめりゅう</rt></ruby>」といって、姫路藩以外の者に古中条流を伝授してはならぬという固い禁制があったのだ。

椙江は八重樫主水の一人娘で、年ようやく十九歳、才智に秀でているうえ、城下町で評判の美しい<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>をもっていたが、老年になった父をよく助けて、七人の内弟子と下女下郎の一家を、娘の手ひとつに切盛りしていた。

「――道楽……本当に道楽かしら」

椙江は自分の居間へ戻ろうとして広縁まで来たが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふと</span>小首を傾げて<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「欠け茶碗、欠け皿、そんな物を集めて眺める道楽なんて、話に聞いたこともない。――みんなは半化けなどと言っているが、どうもあの又平はただの下郎とは……」

と呟いていると、庭の方でどっと笑い<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>す声が起こった。

## 二

横庭のところで、又平は四、五人の内弟子につかまっていた。みんな<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>を終わったところで、慰み半分にからかっているところだ。

「やい又平、貴様はこの城下で美しい娘が何人いるか知っているか」

「えっへへへへ一人は知っています」

「誰だ、どこの娘だ」

「こちらのお嬢さまでさあね」

門弟たちは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どっ</span>と笑った。

「馬鹿でも椙江さまの美しいのは分かるとみえるな、――どうだ又平、貴様お嬢さまの婿君になる気はないか」

「でも……身分が違うから――」

「わっはっはっははは」

またしてもみんなは腹を抱えて笑う。

「こいつめ、身分が違うなどと本気になっているぞ。もし身分が違わなかったらどうする」

「違わなかったら……まあ止しましょう」

「どうして止すんだ」

「言うとまた皆さんが笑うから」

<ruby><rb>羞</rb><rt>は</rt></ruby>ずかしそうに顔を赤らめながら言うのを見ると、今度こそ<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らぬという様子で、門弟たちは腹を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みながら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひいひい</span>笑い崩れた。――この有様を広縁から見ていた椙江は、庭へ下りると静かに近寄って来て、

「皆様は何をしています」

と声をかけた。一同はびっくりして、

「や、これは、お嬢さま」

「大勢で下郎を<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り物になさるなどと、見苦しいではありませんか。冗談も程になさらぬと、父上のお耳に入れまするぞ」

「と、とんでもない。ほんの座興で、決して弄り物などに致した訳ではございません。どうか御勘弁を」

門弟たちは首をすくめて逃げだした。椙江は苦笑しながら見送っていたが、

「又平――」

と振返って、

「おまえ、門人衆のつまらぬ冗談にかかわり合ってはいけません」

「へい」

「あの人たちはおまえをからかっているのです。何を言っても知らぬ顔をしておいで。分かりましたね」

「へい有難うございます」

又平はぺこりとお辞儀をしたが、

「けれどお嬢さま、本当のところを申しますと、からかっていたのはわたしの方でございますよ。えっへっへへへへ」

「何ですって――？」

しかし又平はさっさと立去って行った。椙江は<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れて、しばらくその後ろ姿を見送っていた、――あれほど弄り物にされていながら、「からかったのは自分の方だ」とは、本当に底抜けの馬鹿であろうか？……それとも。

「それとも、何か<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>があるのかしら」

椙江はそっと呟いた。

又平がこの家へ奉公に来たのは一年ほど前のことである。人入れ業「<ruby><rb>島田屋宗兵衛</rb><rt>しまだやそうべえ</rt></ruby>」の世話で、<ruby><rb>在方</rb><rt>ざいかた</rt></ruby>の百姓の三男ということであったが、人品卑しからず、働くことも三人前は働くのに、言うことやすることが人並み外れで、門人たちは常によい慰み物にしていた。それを陰になり<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>になって<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>ってやる椙江は、――どういう訳か又平のそぶりに納得の行かぬところがあるように思えてならない、もしかすると仔細あって、わざと愚か者の風を装っているのではあるまいか？……

「でも、そうとすると、何のために馬鹿の真似をする必要があるだろう」

結局、椙江には分からなかった。

それからさらに十日ほどたったある夜のことである。ちょうど秋の最中で、十七夜の月がすばらしく<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えていた、椙江は独り静かに月を見ようと、縁を下りて、虫の音を聞きながら庭はずれの松林の中へ歩み入って行った。――青白く光を吸った夜霧が、快く肌へひんやりとしみ、素足に落ちかかる下草の露のしめりも、そぞろに秋思を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>って、感じ易い乙女の胸はいつか甘い哀傷のなかに溶けて行った。

「静かだこと……」

ほっと呟いた時、椙江は――どこか近くで忍びやかに気合をかける鋭い声を聞いた。父はもう<ruby><rb>臥戸</rb><rt>ふしど</rt></ruby>へ入っているし、門人たちはみんな月見に出て行ったはずである、誰だろう……と思っているとまたしても、

「――えィ……」

と、骨へとおるような気合。

「門人衆の気合ではない」

さすがに八重樫主水の娘、自分で稽古こそしないが、気合に<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>る術の差ぐらいは分かる、……不審に思って声のする方へ忍び足に近寄って行った。築山を<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>って横庭へ入る。左は<ruby><rb>竹藪</rb><rt>たけやぶ</rt></ruby>で右へ曲がると物置がある、……その裏手にぼうっ、と<ruby><rb>紙燭</rb><rt>しそく</rt></ruby>の光がさしていて、一人の男が、今しも木剣を大上段に構えているところだった。

## 三

「――あ、又平」

椙江は思わず低く呟いた。さよう、木剣を振りかざしているのは下郎又平である。そして<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>には<ruby><rb>薪割</rb><rt>まきわ</rt></ruby>り用の台があって、その上に欠け皿がひとつおいてある、――どうするかと、<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>をこらして見まもる<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>。

「――えィ……」

紙燭の光をきって木剣が<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と椙江が息をひいて見る――と、<ruby><rb>戛</rb><rt>かっ</rt></ruby>ともいわず、台上の欠け皿はすっぱりと両断されていた。

「まあ……お見事」

思わずあげた<ruby><rb>賞讃</rb><rt>しょうさん</rt></ruby>の声に、

「だ、誰だ」

と振返った又平、そこに椙江の姿をみつけると仰天したらしい。慌てて木剣を隠しながらぺこりとお辞儀をした。

「お見事でした」

椙江は近寄って言った。

「木剣の一撃で大皿を、まるでお豆腐のようにお切りなすった秘術――あれこそ古中条流『忍び太刀』の<ruby><rb>一手</rb><rt>ひとて</rt></ruby>でござりましょう」

「な、何と……」

「下郎に姿こそやつしても、まことは名ある御方とお察し申しました。仔細あれば他言は致しませぬ。どうぞお打明け下さりませ」

「えへへへ、どうも、えへへへへへ」

又平はだらしなく笑って頭を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きながら、

「どうも、そんなにおっしゃられると面目がございません。名ある御方にも何にも、下郎又平は下郎又平で、へへへへどうか」

「いえ、お隠しなされても駄目です。百人に余る門人衆のうち、一人としてまだ伝授された者のない『忍び太刀』の秘手、そうやすやすと会得できるはずがござりませぬ」

「いや驚いた、これは驚いた、――すると、なんでございますか、いまの皿割りが、古中条流の大事な術に似ているとおっしゃるのでございますか。へえ……こいつは<ruby><rb>占</rb><rt>し</rt></ruby>めた」

又平は急に胸を反らして、

「それではわたしはもう、大先生と同じ腕前になった訳ですな。さあ大変だ。そうだとするとこんな下郎などはしていられないぞ」

「――又平」

「いやそれは冗談ですが、実はこうなのですお嬢さま、わたしも八重樫道場の下郎とあれば、木剣の持ちようぐらい知らなくては恥だと思いまして、毎日あの道場の<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>りの後ろ窓から皆様のお<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>振りを拝見していたのです。そのうちに門前の小僧なんとやらで、自分でも木剣を持ってみたくなり、ひとりでこっそり<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>を始めたのでございました。しかしただ木剣を振廻すだけでは面白くありません。そこでお松さんから<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>い<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>めてあった欠け皿や<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>を持出し、先生の型の見よう見真似で<ruby><rb>据物</rb><rt>すえもの</rt></ruby>の真似事をしていたのです、――という訳で、べつにそのほかには何も仔細があるの何のという訳ではございません。それどころか、こんなことが皆様に知れるとまたいじめられますから、どうか内証にしておいて下さいまし」

「それでは、どうしても本当のことを打明けては下さらないのですか」

「打明けると言えば、いま申し上げただけで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎりぎり</span>結着、これ以上は逆さに振って絞っても出る物はございません。どうか内証にお願い致します。でないと本当に困りますので、えへへへへ」

突拍子もなく笑いだす馬鹿らしさ。椙江はじっと相手の顔をみつめていたが、やがて<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>を返すと物をも言わず母屋の方へ立去った。

「お嬢さま、もし――お嬢さま」

又平は驚いて呼んだが、

「――へっ」

と首をすくめ、「何が御機嫌に障ったのだろ、何か悪いことでも言ったかな」

困ったように、椙江の後ろ姿を見送っていたが、これもやがて紙燭を消して自分の小屋の方へ去って行った。

椙江は「下郎に身をやつしているが、本当は名ある武士に違いない」と言った。しかし又平の様子はどこまでも、「半化け」で、自分の口から言った通り、下郎の猿真似としか思えぬ節が多い、――この男、果して下郎か？　それとも名ある武士のやつしであろうか？……この謎は間もなく解ける時が来たのである。

それから四、五日経った――ある日、八重樫道場には門弟中の腕利きで、三羽烏と呼ばれる<ruby><rb>沼田軍十郎</rb><rt>ぬまたぐんじゅうろう</rt></ruby>、<ruby><rb>黒板権六</rb><rt>くろいたごんろく</rt></ruby>、<ruby><rb>石山弾兵衛</rb><rt>いしやまだんべえ</rt></ruby>の三人と、竜虎といわれる<ruby><rb>岡部五太夫</rb><rt>おかべごだゆう</rt></ruby>、<ruby><rb>伊丹兵右衛門</rb><rt>いたみひょうえもん</rt></ruby>の両師範代が居並んだ。

上段に<ruby><rb>端坐</rb><rt>たんざ</rt></ruby>した八重樫主水は、

「いずれも揃ったな」

と一座を見廻して、静かに<ruby><rb>白髯</rb><rt>はくぜん</rt></ruby>を<ruby><rb>撫</rb><rt>ぶ</rt></ruby>しながら口を切った。

「<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>、一同に改めて話すことがある。ほかでもないが<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>も老年に及んで、一、二年このかたとかく体の工合が思わしくない。この調子では御家中への指南も<ruby><rb>疎</rb><rt>おろそ</rt></ruby>かになる道理ゆえ、近く隠居をしようと考えるのじゃ、――それについて儂の跡目をどうするかだ」

## 四

五人の高弟は思わず<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を乗出した。

「承知の通り儂には娘が一人しかない。そこで、ただ今からここに集まった者五名で勝抜き試合をしたうえ、最後に勝った者へ古中条流の秘伝、忍び太刀、浮き太刀、飛電、<ruby><rb>小波</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>、<ruby><rb>火竜</rb><rt>かりゅう</rt></ruby>――の組太刀、並びに極意を授け、また娘椙江とめあわせて八重樫の家名を相続させたいと思う。どうじゃ、一同これに異存はないか」

「――ははっ」

五名は平伏して、

「何で異存がござりましょう。仰せの趣有難くお受け致しまする」

「いずれも同意じゃな」

「ははっ」

主水は微笑しながら<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、

「さらば、早速ながら勝抜き試合を致す。組合せはこれに<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めてあるぞ、――いずれも用意」

「<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まりました」

勝抜けば古中条流の極意秘伝を授けられたうえ、姫路城下でも何人という美しい椙江をめとり、八重樫道場の跡目相続ができるというのだから、五人の喜びと意気は燃上がった。――身支度も<ruby><rb>甲斐甲斐</rb><rt>かいがい</rt></ruby>しく、主水の認めた組合せ順に左右へ並ぶ。

「試合の前に一言申し聞ける」

主水はかたちを正して言った、「この度の勝負、勝つも負けるも必ず遺恨なきよう。またいままでは同輩ながら、勝抜いた者には今日より師として仕えること、きっと申し付けたぞ――さらば、試合検分しよう」

一同は左右に座をひらく、まず最初のひと組、師範代岡部五太夫と黒板権六の両名が進み出た。

試合は<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい気合の火花を散らしながら展開した。誰の顔にも必勝の決意がある、――我こそ勝抜いて名誉ある八重樫家の跡目を継ごうと、大事を取りつつも懸命に奮闘した。一番、二番と進んで、<ruby><rb>一刻</rb><rt>いっとき</rt></ruby>ほどのちには、三羽烏の<ruby><rb>一人</rb><rt>いちにん</rt></ruby>沼田軍十郎と伊丹兵右衛門の二人が勝ち残った。

さていよいよ最後の勝負である。四半刻ばかり休んで息を入れ、いざ立合おうとした時、――不意に娘の椙江が、

「しばらく、しばらくお待ち下さいませ」

と父の前へ進み出た。

「なんだ椙江、ここは女子供の出る場所でないぞ、控えて居れ」

「お言葉ではござりますが、この勝負はわたくしにとっても生涯の大事お怒りを承知でお願いがござります」

「なるほど、勝抜いた者をそなたの婿に定める勝負、<ruby><rb>徒</rb><rt>あだ</rt></ruby>に見過ごせぬというも道理じゃ。して願いとは何事だ」

「恐れながら、この試合へ、下郎又平をお差加え下さりますよう」

意外な一言に、並いる面々は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>のこと主水もびっくりして、

「なに、下郎を加えよとは？」

「<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>はのちに申し上げます。椙江が一生の良人を定める大事、<ruby><rb>枉</rb><rt>ま</rt></ruby>げてお聞届け下さいませ」

娘ながらいかんと言えば覚悟がありそうな、思い詰めた<ruby><rb>眼差</rb><rt>まなざ</rt></ruby>しを見て、主水は――何かこれには訳があろう、と考えたから、

「聞かれる通りだ」

と門弟たちの方へ振返った。「娘の願い通り取計らってやろうと思うが、一同の意中はどうじゃ？」

「はっ、先生の<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しきように」

妙なことになって来たぞとは思ったが、なにしろ相手は下郎、しかも日ごろから自分たちが「半化け」と<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>している馬鹿の又平だ、<ruby><rb>横面</rb><rt>よこめん</rt></ruby>の一本も食らわせれば泡を吹いて参るだろうと、たかを<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>って承知した。

「<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけの</rt></ruby>うござります。ではすぐ又平を呼んで参りますゆえしばらく……」

と椙江は急ぎ足に去って行ったが、――待つほどもなく又平を<ruby><rb>引摺</rb><rt>ひきず</rt></ruby>るようにして出て来た。又平は道場の真ん中へ引出されると、がたがたふるえながら、

「ど、どういうわけでございますか、何か悪いことでも致したなら、御勘弁下さい、どうかひらに御勘弁を」

「いや何も謝ることはない」

伊丹兵右衛門が冷笑して言った。

「お嬢さまのお望みで、その方と拙者共と試合をするのだ、さあ立て」

「と、とんでもない、そんな」

「ええ面倒だ。誰か道具を着けてやれ」

兵右衛門の言葉に、二人ばかり立って来て無理矢理道具を着けさせてしまった。

「どうかお助け下さい、だ、駄目だ」

と悲鳴をあげるのへ、兵右衛門が竹刀を構えながら大喝一声、

「そら行くぞ、えィーッ」

だ！　と踏込んだ。<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>！

「助けてえッ」

悲鳴と共に右へ跳ぶ又平、つけ入った兵右衛門、一撃のもとに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のし</span>てしまおうと、胴を望んで猛然と打込んだ。

## 五

鋭い横胴、危うし！　と見る刹那、又平の体は<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>のように舞って左へ転ずる。力余ってだだだっとのめる兵右衛門、<ruby><rb>見縊</rb><rt>みくび</rt></ruby>っていただけに怒りを発して、

「や、えいー‼」

踏込み踏込み打ってかかる。

「駄目だ、勘弁、助けて、うわあーッ」

又平は泣声をあげながら逃げ<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>っていたが、ついに竹刀を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き落とされて、

「参った、参った」

と両手を振りながら跳び退いた。――いや骨が折れたのなんの、こんな馬鹿げた勝負があるものではない。兵右衛門ぐっしょり汗をかいている。――とその時、上段に<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>をこらして見ていた主水が、

「軍十郎、貴公お立合いなさい」

と言った。

「は？　<ruby><rb>伊丹氏</rb><rt>いたみうじ</rt></ruby>と立合いまするか」

「又平と勝負じゃ、早く」

変だな、負けた奴と立合えとは訳が分からぬ、軍十郎は心中いささか不平に思ったが、――よしそれなら足の一本も叩き折ってくれようと、

「先生の仰せじゃ、又平来い」

「そ、そ、そんな馬鹿な、わたしは負けましたので、こ、この上やったら殺されます。どうか御勘弁」

「先生の御意じゃ、竹刀を持て」

ぐゎんと<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>られて思わず竹刀を執った、ぶるぶるふるえながら夢中で身構える又平、とたんに軍十郎の体が跳躍した。

「そら、いえーッ！」

た！　と<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>へ強襲。

「あっ‼」

又平が首をすくめて避ける。がらがらっ、竹刀が鳴ったと見ると、踏みかわした軍十郎、猛然と体当りをくれた、刹那、

「お助け……」

叫んで又平が体を<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>したから、軍十郎はそのまま<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たたら</span>を踏んで道場の羽目板へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どしん</span>とばかりに衝突した。いや怒ったのなんの、軍十郎赤鬼のようになって起上がると、

「うぬ、もう<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さんぞ」

と<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>るがいなや、恐ろしい勢いで踏込むと、真っ向を望んで火の出るような一撃、

「かーッ」

と打込む一瞬。

「ひやあー、助けてくれ」

と右へ躱した又平、第二第三の猛襲を、鼠のように逃げ廻っていたが、やがて竹刀を投出すと、手を合わせて、

「参った、参った、命ばかりはお助け、この通りでございます」

と泣声で叫びながら道場を逃出してしまった。

「ば、馬鹿者め！」

軍十郎よほど怒ったらしい、流れる汗を押<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>いながら<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を飛ばして、又平の後ろから一喝を浴びせた、と――始終を見ていた主水が、その時静かに手をあげて制しながら、

「今日の試合これまで」

と言った。軍十郎と兵右衛門は驚いて、

「しかしまだ最後の勝負が残っております。勝ち残りました我ら二人の内いずれか、先生の跡目相続を定めて頂いたうえ……」

「分からぬ奴だな」

主水は<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をひそめて言った、

「下郎又平を相手の試合、両人とも己れの勝ちと思いおるか」

「は、その、まさに手前共の……」

「駄目だ、そんなことではまだ古中条流の極意伝授など思いもよらぬ。――よく見よ、勝ったはずのその方たちが、二人とも大汗をかいているのに、又平は汗どころか呼吸も変えてはいなかったぞ」

「し、しかしそれは、その」

「見苦しい、申すな。隠退しようと思ったが、この有様ではとても覚束ない。跡目相続のことは延期とする。いずれもなお両三年勉強するがよい、これまで！」

不興げに言い捨てると、主水は椙江を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れてさっさと奥へ入ってしまった。

いよいよ大望成就という瀬戸際で、事は意外な方へ発展した。まるで土俵際の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっちゃり</span>である、――兵右衛門も軍十郎もすっかり当てが外れたし、ほかの三人も驚いた。否……驚いたというよりもいささか不服になってきた。

「どうも先生もお年のせいで少し<ruby><rb>呆</rb><rt>ほう</rt></ruby>けて来たのではないか」

黒板権六がしばらくして言った、「あんな馬鹿下郎を引張り出して我々と立合わすというだけでさえ苦々しいのに、汗を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かい</span>たとか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かか</span>ぬとか、つまらぬことを言って、――これはなんだぞ、気をつけぬと今に、八重樫の跡目をあの下郎に奪われるかも知れぬぞ」

「まさかそれほどまでに……」

と兵右衛門が言った時、軍十郎が急に声をひそめて、

「いや、権六の言葉も冗談だとは言い切れぬぞ、――というのはお嬢さまが下郎をひどく<ruby><rb>贔負</rb><rt>ひいき</rt></ruby>にしているのだ。四、五日前の晩にも二人でひそかに話し合っているところを見た、殊によると……いや、それについて改めておのおのに相談がある。夕食ののちに大馬場へ集まってくれ」

何を考えたか、軍十郎の顔には無気味な殺気が<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れてきた。

「よし、必ず行こう」

兵右衛門はじめみんなは固く<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>き合った。

## 六

その夜と、いうよりもすでに明け近い八ツ半ごろ（午前三時）、のことだった。自分の小屋で眠っていた又平は、心へ徹る鋭い殺気を感じて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がば</span>と起上がった。

「――はてな……」

闇の中で耳を澄ますと、母屋の方に当たって乱れた足音と<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい気合の声。

「何かある」

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くのと、<ruby><rb>枕許</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>にある木刀を持ってとび出すのと同時だった。弦月の光淡く照る庭をひと走りに、広縁の前へ来ると、内から雨戸が明いて――椙江が、

「お嬢さま！」

と呼ぶ又平を見るなり、

「あ、又平、早く、父上が」

「お<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>き下さい」

椙江を押退けるようにして跳び込んだ又平、居間へ駆けつけると、<ruby><rb>有明行燈</rb><rt>ありあけ</rt></ruby>の光のなかに五人の武士が、いずれも抜きつれて主人を取巻いている。

「<ruby><rb>狼藉者</rb><rt>ろうぜきもの</rt></ruby>！」叫んで踏込む又平、

「や――？」

振返るのを見ると意外や、伊丹兵右衛門はじめ五人の高弟である。

「こ、これは？」

と驚く又平に、主水が油断なく身構えたまま言った。

「又平か。こやつら……<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>を闇討ちにして流儀の秘伝と、娘椙江を横奪しようというのだ」

「奇怪な、――」

又平はさっと主水の横へ出る。とたんに黒板権六が、

「それっ、おのおの、やってしまえ」

「心得た！」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だっ</span>と一時に斬ってかかった。又平は権六の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>をひっ外して右へ跳ぶと、主水を脇へ押しやるようにして、

「先生、こやつらは又平が引受けました。お嬢さまをお護り下さい」

と叫ぶ。振返って、「やいこいつら、子飼いの弟子の分際として非道無残な振舞い、一人も生かしてはおかぬぞ、来い‼」

「下郎め、その口忘るなッ」

兵右衛門がさっと斬りつける。

「こっちだ、えいッ」

<ruby><rb>飛燕</rb><rt>ひえん</rt></ruby>のごとく跳ぶ又平。だだだ！　足音が乱れて、が！　ぱちり‼　刃と木剣と鳴る、瞬時にして権六が真っ向を打たれた。

「きゃあ！」

のめって行って<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>もろとも<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>する、同時に岡部五太夫が右へ、石山弾兵衛が<ruby><rb>仰</rb><rt>のけ</rt></ruby>ざまに、いずれも致命の一撃を食らって倒れた。残るところ二人、軍十郎と兵右衛門。

「やい、伊丹に沼田、さっきはお世辞で負けたが、今度はお世辞ぬきだぞ。古中条流はこう使うのだ見ておけ、――えィッ」

叫ぶなり又平は<ruby><rb>体</rb><rt>たい</rt></ruby>を沈めて軍十郎の横胴へ一刀、と見る<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>、木剣は光のごとく翻転して面上へ尾を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。

「あっ！」

<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>けも<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>しも出来ぬ<ruby><rb>早業</rb><rt>はやわざ</rt></ruby>、軍十郎はまるで名剣で斬られたごとく、真っ向を割下げられて後ろざまにすっ飛ぶ。同時に兵右衛門が、

「下郎‼」

と叫んで踏込んだが、

「心得たッ」

又平が<ruby><rb>右足</rb><rt>うそく</rt></ruby>を縮めて体を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>る。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やっ</span>！　という掛声、木剣が<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いたと見る一瞬、兵右衛門、断鉄の一撃を<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>に食らって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>とも言わず横ざまに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どう</span>と倒れた。

「あっぱれ、見事じゃ、見事じゃ」

主水は思わず手を挙げて褒めた。又平はにっこり笑って木刀をおくと、近寄って来る主水の前へ平伏して、

「先生にはお怪我もなく祝着に存じます。早速この趣を届け出でまして」

「いや待たれい」

主水は静かに制して、「昼、道場においてわざと負けた手の内といい、またただ今の太刀筋、殊に沼田、伊丹を仕止めたは、正しく古中条流の秘伝、火竜、<ruby><rb>小波</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>、飛電の組太刀と見た。姿こそ下郎なれども尋常の<ruby><rb>人</rb><rt>じん</rt></ruby>ではござるまい。<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>お聞かせ下さらぬか」

「恐れ入りました」

又平はぴたりと<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>り直して、

「今は何をか包みましょう、拙者は<ruby><rb>加賀国</rb><rt>かがのくに</rt></ruby>前田家中にて<ruby><rb>梅本又次郎</rb><rt>うめもとまたじろう</rt></ruby>と申す未熟者でござるが、藩主前田侯より古中条流の秘伝を会得して参れという命を受けて参りました。しかしこれは姫路藩のお<ruby><rb>止流</rb><rt>とめりゅう</rt></ruby>にて、他国の者には伝授禁止とござりますゆえ、致し方なく身分を偽り、下郎となって住込んだのでござります、――以来一年、ひそかに先生の型を拝見して苦心勉強の<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>あり、いささか会得するところがあったと存じますが、しかし、申せばこれ流儀を盗んだも同様でござります。先生をお偽り申し上げた罪、またお止流を盗みました罪、かく現れました上から潔くお裁きを受けまする。いざ……いかようともご存分に」

そう言い終わると共に、又平――否、梅本又次郎はぐいと首を差しのべた。主水は黙って始終を聞いていたが、

「あああっぱれ」

と<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>くように言った。「前田侯には良き御家来を持たれたよ。まずお手を上げられい、本来武道を一藩に止どめるというが無法、優れた術なれば出来るだけ世に<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>めて、流儀を盛んならしむるが剣法の道でござる。――藩侯には<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りあれど決して貴殿を<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>める筋はござらぬ。さ、お手を上げられい」

「ではあの、お<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>し下さいまするか」

「貴殿ほどの人に伝えらるれば古中条流も本望でござる。道場へおいでなされい。土産代りに流儀の秘伝<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く御伝授<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>ろう、いざ」

支度に立上がる主水の後ろ姿を、又次郎は感謝と<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びに眼をうるませながら見送る、――うしろから、椙江がそっと寄添うようにして、

「さ、道場へおいで遊ばしませ」

と言う。又次郎はすっくと立って、

「お嬢さま、<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby>限りの下郎又平が、秘法伝授を受ける晴れの姿、どうぞあなたも御覧下さいませ、いざ――」

とばかりに振返る。半化けと<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>られた又平の面は、生まれ変わったように輝いている――今こそ梅本又次郎。椙江は頬を染めながら、静かに道場の方へ案内に立った。

それから三日後。本望を達して加賀国へと旅立つ又次郎に、一人の美しいつれがあった。いうまでもなくそれは椙江であった。