## 一

――まあ、なんて<ruby><rb>清吉</rb><rt>せいきち</rt></ruby>は色が白いのだろう。

<ruby><rb>黴</rb><rt>かび</rt></ruby>臭い匂いのこもった土蔵の二階である。<ruby><rb>鎧櫃</rb><rt>よろいびつ</rt></ruby>や長持や用<ruby><rb>箪笥</rb><rt>だんす</rt></ruby>を積重ねた狭い片隅に、じっと身をひそめていたお<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>は、今しも階下から自分を捜しに来た清吉の姿を、そっと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きながら口の内で<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

――眼も大きくて<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>だし、髪も漆のように<ruby><rb>艶々</rb><rt>つやつや</rt></ruby>と美しいし、まるで女の子みたいだわ。

しかしそういうお通も近所で評判の<ruby><rb>縹緻好</rb><rt>きりょうよ</rt></ruby>しだった。……<ruby><rb>日本橋</rb><rt>にほんばし</rt></ruby><ruby><rb>通油町</rb><rt>とおりあぶらちょう</rt></ruby>で有名な<ruby><rb>骨董</rb><rt>こっとう</rt></ruby>商、<ruby><rb>和泉</rb><rt>いずみ</rt></ruby>屋<ruby><rb>治兵衛</rb><rt>じへえ</rt></ruby>の一粒種で今年十三歳、下ぶくれの京人形のような面差しに、大好きな<ruby><rb>唐人髷</rb><rt>とうじんまげ</rt></ruby>がよく似合って、伝説の<ruby><rb>赫夜姫</rb><rt>かぐやひめ</rt></ruby>とはこういう美しさかと思われるくらいであった。

清吉は二つ違いの十五、お通とは<ruby><rb>従兄妹</rb><rt>いとこ</rt></ruby>同志に当たる<ruby><rb>孤児</rb><rt>みなしご</rt></ruby>で、十の年から店へ引取られ、小僧たちと一緒に働いている、口数の少ない利口な性質で皆からも可愛がられていたが、殊にお通はいつも側から離さず、<ruby><rb>双六</rb><rt>すごろく</rt></ruby>だの<ruby><rb>手毬</rb><rt>てまり</rt></ruby>だのと、なくてはならぬ遊び相手にしていた。……今日もこうして朝から、子供のように隠れんぼうをして遊んでいるのだった。

「変だなあ、ここじゃないのかしら」

捜しあぐねて清吉が呟いた。

「たしかに二階へ来たと思ったんだけど」

「…………」

「<ruby><rb>店土蔵</rb><rt>みせぐら</rt></ruby>の方かしら」

お通はおかしくて<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らず、我慢に我慢をしていたけれど、清吉のいかにも困った顔つきを見ると、とうとうぷっと笑い出してしまった。

「あ、みつけた」

「ほほほほほ、駄目よ駄目よ」

お通は隠れ場所から出て、甘えるように清吉の手を握って振りながら、

「今のはあたしが笑ったからみつかったのだわ、清吉ったらわざと困った風をするんですもの、おかしくって駄目よ」

「そんな事ってありませんよ」

清吉は恥ずかしそうに握られた手を放して、

「独り言を言っちゃいけないって<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>りはありませんからね、笑ったのはお通さまが悪いんです、今度は清吉が隠れますからお通さまはここで六十数えるんですよ」

「ずるいわ、今のは清吉が悪いのよ」

「じゃ今度はお通さまもなさればいいでしょう、さあ隠れますよ」

そう言い捨てると、清吉は走るように<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ降りて行った。

もう大抵の所は隠れ尽くしている、清吉は土蔵に出るとしばらくあちらこちらと選んでいたが、中の間、――店と奥とのあいだにある部屋で、鎧道具や刀剣などが並べてある、そこへ来たときふと櫃の上に飾ってある大鎧に眼をつけた。

「そうだ、あの中がいい」

<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、手早く鎧を取下ろし、それを身に着け、<ruby><rb>冑</rb><rt>かぶと</rt></ruby>を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って櫃の上へ<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいた。――それとほとんど同時に、店の方から人の来る足音がして、すっと<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>が明いた。

――もうお通さまが来たのか？

と冑の<ruby><rb>眉庇</rb><rt>まびさし</rt></ruby>の下から見ると、入って来たのは番頭の<ruby><rb>藤兵衛</rb><rt>とうべえ</rt></ruby>と、お出入り屋敷である島津家の用人<ruby><rb>津田直記</rb><rt>つだなおき</rt></ruby>の二人であった。

――これは困ったぞ、やかまし屋の番頭にみつかったら<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>られるに違いない、お通さまが来なければいいが……。

そう思って息を殺していると、藤兵衛と直記は清吉のすぐ眼の下に相対して<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った。

「当方の支度はすっかり出来ている」

津田直記が低い声で言った、「約束の日限はもう明後日であるが、その方の手順はどうじゃ」

「手前の方もかの品さえ片附けますれば……」

「<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>に致すと仕損ずる、万々間違いのない方法をとらねばならんぞ」

「それでございます」

藤兵衛はひと<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>乗出して、

「御覧の通りの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で、大切なお品を<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>りと収める場所がございません。どうでございましょうか、津田様の御別宅」

「<ruby><rb>向島</rb><rt>むこうじま</rt></ruby>の家か」

「たしかお庭の荒神杉という<ruby><rb>洞</rb><rt>ほら</rt></ruby>のある古杉がございましたはず」

「うまい、なるほどあすこなら申し分なしだ」

「しッ！　誰か参ります」

藤兵衛は不意に直記の言葉を制すると、素早く立上がって店の方へ出て行った。

二人が出て行くのとほとんど入違いに、奥の方の襖が明いてお通が入って来た。もう捜し疲れている様子で、中の間の中央に立ったまましばらく<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を<ruby><rb>見廻</rb><rt>みまわ</rt></ruby>していたが、……櫃の上に飾ってある鎧がぐらっと動くのを見て、

「あっ、みつけた！」

と叫びながら走り寄った。

この叫び声があまりに突然だったので、清吉は<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>したものか、櫃の上へ避けるように立上がったが、そのとたんに櫃がぐらっと横へ倒れかかり、清吉は<ruby><rb>鎧冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>を着けたまま、のけさまに後ろへだあっと<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちた。……その時お通は、冑の鉢が、床柱へ烈しく当たる気味の悪い音をはっきりと聞いた。

## 二

「ちょっとこちらへ……」

医者の丸山道玄は<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちながら、<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の治兵衛を手招きした。

お通は早くもそれを<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>って、父の後からそっと立って行った。――櫃の上から墜ちたとき気絶したまま、清吉は<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>と眠っている、強いて呼覚ましてもぼんやりと眼を明くだけで、口も利けず人の声もわからぬらしい。そこで<ruby><rb>石町</rb><rt>こくちょう</rt></ruby>の医者道玄を招いたのである。

「どうも少しむずかしゅうございますな」

次の間まで来ると、道玄は首を傾げながら言った。

「ひどく頭を打った模様で、すっかり脳を<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>めております。命に関わるような事はないが、耳も駄目だし舌も動きません。悪くするとこのまま白痴になるかも知れぬ」

「え？　白痴に――」

「ほかの傷と違って頭の中の事ゆえ、こればかりは薬の力でどうするというわけにもゆかず、出来るだけ手は尽くしてみますが」

お通は<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>立竦</rb><rt>たちすく</rt></ruby>んでしまった。

あの綺麗な顔つき、利口な、優しい清吉が耳も聞こえず口も利けぬ白痴になるなんて、夢にも考えられない事だ。……思えばあの時自分がだしぬけに大きな声で叫んだのが悪かった。清吉はあの声に驚いて後ろへ墜ちたのだ、もし本当にこのまま白痴になってしまうとしたら、

――あたしの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せい</span>だわ、みんなあたしの。

お通が病間へ戻って来ると、清吉はぽっかりと眼を明いていた。

「清吉、清吉、あたしがわかる？」

お通は枕元に坐って、顔を重ねるようにしながら呼んだ。側に看護していた<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあや</rt></ruby>のお<ruby><rb>梶</rb><rt>かじ</rt></ruby>も、じっと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込むようにしたが、清吉の<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>はまるで<ruby><rb>虚</rb><rt>うつ</rt></ruby>ろに<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を見るばかりだった。

「わからないの清吉、あたしの顔が見えないの、この声が聞こえないの、清吉」

「お嬢さま、そんなに気をお病みになってはお体に障りますから」

「でもお通の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せい</span>なんだもの」

「そんな馬鹿な事をおっしゃっては」

「いえ本当なの、子供みたいに隠れんぼなんかしたのが悪かったのよ、あたしがあんな大声を出さなかったら、こんな事にはならなかったんだわ……清吉」

お通は清吉の肩を揺すりながら、

「堪忍しておくれ、お通を堪忍して」

「…………」

肩に触られて始めてわかったのか、清吉はぼんやりと眼を動かし、唇をだらしなく明けて妙な<ruby><rb>喉声</rb><rt>のどごえ</rt></ruby>を出した。――全く<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby><ruby><rb>聾</rb><rt>つんぼ</rt></ruby>の顔である。お通はそれを見ると、胸をしめつけられるように悲しくなり、わっとそこへ泣伏してしまった。

別にどこといって怪我をした訳ではないので、明くる日になると清吉はひとりで起出したが、道玄の言った通りまるで白痴も同様で、店や奥をうろうろと歩き廻るかと思うと、土蔵裏の空地にぼんやり立っていたり、庭の池を覗きながらにやにや独り笑いをしているばかり、誰の顔も見分けがつかず、何を言われても感じない様子だった。

お通は身も世もない悲しさに、清吉の姿を見るとは泣き、駄目だとは知りながら、側へ行っては話しかけるのだった。――幸福はひとりで来るが不幸は友を呼ぶという、十三の今日まで世の悲しみも苦しみも知らず、<ruby><rb>気随気儘</rb><rt>きずいきまま</rt></ruby>に仕合せな日を送って来たお通が、生まれて始めての不幸な出来事に胸も<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れるかと泣き悲しんでいる時、もっともっと大きな不運が続いてこの家を見舞っていた。

それはその日から二日めの事であった、お通が清吉と一緒に庭を歩いていると、

「お通さま、お通さま」

と、小僧の<ruby><rb>定二郎</rb><rt>さだじろう</rt></ruby>が呼びに来た。

「<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>様がお呼びです」

「あたしに御用なの？」

「ええ大変な事が出来たんです、<ruby><rb>薩摩</rb><rt>さつま</rt></ruby>様からお侍が見えて、旦那様をつれて行くと言って騒いでるんです」

何事が起こったのだろう、薩摩の島津家といえば永年お出入りのお屋敷である。なんのために父をつれて行こうと言うのか。

「奥座敷ですから早くいらしって下さい」

「すぐ行くわ、おまえ清吉をみていておくれ、ひとりで置くと危ないから気をつけてね」

「はい、――」

お通は小走りに縁へあがると、不安な胸騒ぎを感じながら奥座敷へ入って行った。

## 三

奥座敷の上座には、島津家の用人津田直記と、<ruby><rb>納戸役貝原左膳</rb><rt>なんどやくかいばらさぜん</rt></ruby>、<ruby><rb>秋山省兵衛</rb><rt>あきやましょうべえ</rt></ruby>の三人が坐っていた。――主人の治兵衛はその前に、番頭の藤兵衛、手代の与吉と共に<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まっていたが、お通が入って来ると、

「話す事があるからここへお坐り」

そう言って側へ坐らせた。

「こちらにいらっしゃるのは島津様の御家来方で、おまえもお顔は知っていよう。これから話すこと気を落着けてよく聞くのだ。――ちょうど四十日まえの事だったが、この津田様がお見えになって、島津様御家宝の<ruby><rb>冑</rb><rt>かぶと</rt></ruby>をお預けになった」

「拙者が話そう」

津田直記が<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って言った。

「その冑は三百年このかた薩摩家門外不出の家宝で、<ruby><rb>宋</rb><rt>そう</rt></ruby>朝伝来の二つとない品であるが、久しく手入れをしなかったので、四十日の期限をもって当家へ<ruby><rb>塵払</rb><rt>ちりはら</rt></ruby>いを命じたのだ。しかるに今日受取りに参ると、その冑が紛失しているという話なのだ」

「ととさま、それは本当ですの？」

「――本当なのだ」

治兵衛は苦しげに眼を伏せて、

「大切なお品ゆえ誰の手にもかけず、わたしが預かって丁寧にお手入れをしていたのだが、<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>の朝、土蔵から出そうとすると、<ruby><rb>唐櫃</rb><rt>からびつ</rt></ruby>の中は<ruby><rb>空</rb><rt>か</rt></ruby>らで……冑がない」

「まあ！」

「外から<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>の入った様子もなし、番頭の藤兵衛と一緒に家中隅から隅まで捜したが、どこにもみつからないのだ」

「先日も参って堅く藤兵衛に申し附けた」

直記は番頭を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで、「大切なお品ゆえ万々間違いないようにと、くれぐれも念を押したのにこの不始末、拙者の役目として切腹しても相済まぬ重大事だ。――それゆえ主人治兵衛は、冑の出て来るまで屋敷へ預かる」

「ととさまをおつれなされただけで、冑が出て参りましょうか」

お通が気丈に言った。

「それよりもうしばらくお待ち下さいまし」

「黙れ、大切な御家宝を紛失したからは、島津家に取って許し難い罪人も同様、召しつれて<ruby><rb>押籠</rb><rt>おしこ</rt></ruby>めにするのは当然の事だ。もし治兵衛が助けたくば一同力を合わせて、一日も早く冑を捜し出すがよい、それまではたとえどんな事があっても帰さんからそのつもりでおれ」

「いやです、ととさまをつれて行ってはいやです、冑はきっと捜しますからそれだけは堪忍して下さいまし」

「ならん、治兵衛立て！」

「いけません、ととさま行ってはいや」

泣きながら父に跳び附こうとするのを、

「お嬢さま、お静かになさいまし」

と藤兵衛が抱止めた。「私共もさっきからお頼み申しているのですが、こちらに落度があるのでどうにもお願いの致しようがございません、後でなんとか考えます。またきっと冑を捜し出して、一日も早く旦那様をお迎えに参りますから、どうか心配せずに待っていて下さいまし」

「お通、見苦しいではないか」

治兵衛も言葉烈しく叱った。

「おまえも今年は十三、訳がわかったら泣騒ぐには及ばない、後の事は藤兵衛と与吉に頼んであるから、おまえはおとなしく留守をしていればいいのだ、――さあ泣きやんで」

「はい……」

「<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあや</rt></ruby>の言う事をよくきくのだぞ」

治兵衛はお通の涙を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてやりながら、

「藤兵衛、与吉」

「はい」

「冑の事、店の事も頼んだぞ」

「――畏まりました」

二人は<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れ出る涙を<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>いながらそこへ手を突いた。

津田直記に引立てられて行く父の姿、お通は見るに堪えなくなって、奥の間に走って来ると、いきなり乳母の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>へ泣伏した。

――こんな時かかさんがいらしったら。

五つの年に死んだという、顔もはっきり覚えていない母の事が、この時ほど恋しく思ったことはなかった。

「お嬢さま、しっかり遊ばすんですよ」

お梶は声を励まして言った。「旦那様はすぐに帰っていらっしゃいますが、それまでは<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>がこのお家の御主人なのですからね」

「でももし、もし冑が出て来なかったとしたらどうしよう」

「そんな事がございますものか、番頭さんも手代さんも、お店には大勢いるんですから、手を尽くして捜せばきっと出て来るに違いありません。そんな事は心配せずに、しっかりとお留守をなさるんです」

そんなにたやすく片附くであろうか、清吉の事といい今度の事件といい、十三の乙女の心には背負いきれぬ大きな不運である。

「誰、――？」

お梶の声に、涙の眼で振返ると、いつ来たか部屋の入口に清吉が立って、にたにたと<ruby><rb>緊</rb><rt>しま</rt></ruby>りのない笑いをうかべていた。

「ああ、清吉さえ元の体なら、どんなに気強いか知れないのに……」

お通はむせぶように<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

## 四

どんなに泣き悲しんだところで、冑を捜し出さなければ父は帰っては来ない。――まだ十三の少女ながら、お通はやがて心を取直すと、藤兵衛や与吉と共に冑捜しを始めた。

冑の入れてあったという唐櫃も、何度か丹念に<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べたし、土蔵の隅々床下から、それこそ天井板を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がしてまで捜したが、どこからも冑は発見されなかった。

――おかしいわ。

お通は<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をつきながら考えた。

――ほかの物と違って大きいのだし、それに宋朝伝来の冑なんて二つとない宝物というのだから、たとえ盗んだって売ればすぐみつかってしまうはずだわ。

そんな危険な物を、普通の者が盗むはずはない。それよりもっと手軽に売れる高価な物が沢山あるのだ。なんのためにわざわざそんなみつかり易い品を盗む必要があろう。

――でも冑なんて大きな物が、そうたやすく失くなるというのも考えられないし。

結局どうにも見当がつかなかった。

こうして五日<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ち十日経ちして、半月ほどは夢のように過ぎた。――ある日のこと、お通が何気なく店の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>口を通りかかると、小僧たちが何やらひそひそ話をしているうちに、自分の名を聞きつけたから、ふと立止まった。

「嘘をつけ、そんな事があってたまるもんか」

「嘘じゃねえ本当なんだ」

定二郎の声である、「知らないのはわたしたちばかりで、世間じゃ大変な評判だぜ、現にわたしがゆうべ行って見て来たんだ」

「本当に泣いてたか？」

「泣いたとも、<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い声で泣くんだ、仁王様の<ruby><rb>歔欷</rb><rt>すすりな</rt></ruby>きだからどんなに凄いかって事はわかるだろう、わたしぁぞっとしてがたがた足が震えちゃった」

「それでお通さまの事を言うのか」

「うん！」

定二郎はぐっと声を低めて、

「しばらく歔欷きをしたと思うとな……通油町の和泉屋の娘は親不孝だ、父親を<ruby><rb>水牢</rb><rt>みずろう</rt></ruby>へ入れて知らん顔をしているって」

「定二郎！」

お通はたまりかねて店へ出た。――定二郎はじめ小僧たちは仰天して<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>り直す。

「今の話はなんの事、言ってごらん」

「へえ、――御免下さいまし」

「御免下さいじゃないわ、あたしがととさまを水牢へ入れて平気でいるなんて嘘をつくのも大概におし」

「わたしが言ったんじゃありません」

「誰が言ったの、誰がそんな事を」

「仁王様なんです。法心寺の仁王様が言ったんです」

「馬鹿な事をお言いでない」

「本当なんです、近所で聞いてもわかります、もう十日も前からの評判なんですから」

仁王様が口を利く、そんな馬鹿な事があるはずはない。しかし定二郎の話はこうだった。

通油町から<ruby><rb>堀留</rb><rt>ほりどめ</rt></ruby>の方へ二町あまり行くと法心寺という寺がある。その山門に「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やもめ</span>仁王」と俗に呼ばれる金剛力士の像が一体だけあった。五年ほど前の火事で一体は焼け、一体だけ残ったのを、寺が貧乏なためそのまま置いてある、それで「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やもめ</span>仁王」といわれているのだが、――それが十日ほどまえから、深夜になると<ruby><rb>啾々</rb><rt>しゅうしゅう</rt></ruby>と歔欷きの声をあげるという噂が立った。

「深夜に仁王の像が泣く」

こんな奇怪な噂がひろまらぬはずはない。法心寺へ集まる人々は夜毎に数を増していった。

「わたしもはじめは嘘だと思ってたんですが、横町の<ruby><rb>魚源</rb><rt>うおげん</rt></ruby>の三公が行ってたしかに泣くのを聞いて来たというもんですから、ゆうべお店が閉まってからそっと行ってみたんです。そうすると本当に仁王様が……」

「泣いたの？　そしてあたしの事を親不孝だって言ったの？」

「そればかりじゃないんです」

定二郎は口拍子に乗って、「しまいにはお奉行の大岡様の悪口まで言うんです、和泉屋の娘は父親を見殺しにする、あんな人でなしの娘を捨て置くなんて大岡<ruby><rb>越前守</rb><rt>えちぜんのかみ</rt></ruby>は大馬鹿者だ……そんな事まで言いました」

「誰かの<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>だわ！」

「みんなそう言ってました、それで山門の中をすっかり捜したんだそうですが、どこにも隠れている奴はなかったんですって」

お通はきっと唇を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みしめながらそこを去った。

世の中に不思議な事は少なくない、けれどどう考えても木で彫った仁王様が歔欷きをしたり、人の悪口を言うなんて想像もつかない事だ。しかもなんのためにあたしを親不孝だなんて言うのだろう。

――何か訳があるんだわ、誰かがあたしを苦しめようとしているに違いないわ。

重ね重ね襲いかかって来る無気味な出来事に、お通は今や身動きもならぬような恐ろしさを感じながら、広縁の方を通って奥へ行こうとすると、いきなり清吉が追って来て、

「あう、あうあう」

妙な声を出しながら、お通の肩を押すように中の間へつれて行った。

## 五

中の間へ行ってみると、藤兵衛と手代の与吉が大声に争っているところだった。

「そんな大きな声で、どうしたの」

「ああお嬢さま！」

与吉は<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い顔を振向けて、

「いいところへ来て下さいました、今日まで黙って見ていましたが、あまり無茶だから申し上げます。どういう考えか知れませんが、藤兵衛さんは<ruby><rb>土蔵</rb><rt>くら</rt></ruby>の中から高価な品物を持出して、片端から二足三文に<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き売っているんです、これでは和泉屋の店も十日と経たぬうちに<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れてしまいます」

「藤兵衛……それ本当なの――？」

「本当でございます」

藤兵衛は苦しげに眼を伏せた。――若い与吉はなおも荒々しい言葉つきで、

「お金<ruby><rb>箪笥</rb><rt>だんす</rt></ruby>の中のお金は眼立って減るし、お店の品は叩き売るし、これでは<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>様から頼むと言われた事がみんな滅茶苦茶です」

「仕方がないんだ」

藤兵衛は嘆息するように言った。

「たとえお店が潰れたって仕方がないんだ、どんな無茶をしても、旦那様をお助けするためにはお金が要るんだから」

「ととさまを助ける？」

「お嬢さま！」

藤兵衛は悲しげに眼を伏せて、

「今日までこんなに苦心して捜しても、宋朝の<ruby><rb>冑</rb><rt>かぶと</rt></ruby>は出て来ません。――噂に聞くと旦那様は島津屋敷で、お気の毒にも水牢の中へ入れられているという事です」

お通は思わず身震いをした。

「水牢、では本当に水牢なんかへ入れられていらっしゃるのね」

「お屋敷の人が言うのですから嘘ではございますまい、――こうなれば<ruby><rb>便々</rb><rt>べんべん</rt></ruby>と冑の出て来るのを待ってはいられません。津田様にお願いして役目向きの方々へお金を贈り、一日も早く旦那様を水牢からお助けしたいと、無茶を承知でお金を作っているのです」

「お金があればととさまは助かるの？」

「わたしの口から助かるとは申し上げ兼ねますが、津田様のお話によりますと、今までやったお金が役に立ったから、御重役がもう二人ほど承知すれば水牢から出す事が出来るという事です」

「いいわ、お金を作って<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>」

お通は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて言った。

「ととさまをお助けするためなら、お店を潰してあたしが裸になってもいいわ、早くお金を作って助けてあげて頂戴」

「与吉、――おまえこれでも文句があるか」

藤兵衛が静かに見やると、与吉は訳がわかったらしく、

「済みません」

とそこへ手を突いた。

「そんな事とは知らず、つまらぬ疑いをかけて今更お<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びの言葉もございません」

「わかればいいのだ、お互いに店のため旦那様のためを思えばこそなんだから、改めて詫びるには及ばないよ、……それより話がわかったら、津田様のところへ使いに行って来て<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>おうかね」

「はい、すぐでございますか」

「お金を持って行くのだから、日の暮れないうちがいいだろう」

と言っているところへ、小僧が足早にやって来て、

「津田様がお見えになりました」

と伝えた。

「ああいけない」

藤兵衛は<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を叩いて、「今日お届けをすると言っておいたのに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つい</span>おくれた、――すぐここへお通し申しておくれ」

「<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まりました」

小僧が去ると振返って、

「与吉もお嬢さまも向こうへ行っていて下さいまし、先方からお金を取りに来るようならもう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しめ</span>たものです、うまくすると案外早く話が運ぶかも知れません」

「まあ<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しい、本当にそうなるといいわねえ」

「今日こそしっかりと掛合ってみます」

藤兵衛は力強く微笑した。

お通は奥へ、与吉は店へ、二人が去って行くと間もなく、島津家用人の津田直記が入って来た。――藤兵衛は<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に迎えながら、

「ようこそ、さ、これへどうぞ」

「どうだ、だいぶ日も経つが宋朝の冑はみつかったか」

むずと坐りながら、直記は大声に言った。

「早く致さぬと取返しがつかぬぞ」

「は、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>手を尽くして捜しまするが、まだ……」

「捜し出す事は出来ぬか」

「たとえ神通力をもちましても」

と藤兵衛は、唇で笑いながら、「向島の荒神杉のあたりとは知れますまい」

「しッ、誰かいる」

ぎょっとして振返る藤兵衛。――部屋の隅に立ててある<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>の陰に、ぼんやり立っている者があるから、

「誰だッ」

と<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りながら行ってみると、だらりと<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>をたらしたまま清吉が<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。

「なんだ清吉じゃないか」

「何者だそいつ」

「<ruby><rb>聾</rb><rt>つんぼ</rt></ruby>で<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>で白痴という、三拍子揃った因果な奴です、こやつなら心配はありません、――さああっちへ行っていろ、……と言っただけでは聞こえないのか、しようのない馬鹿だ」

「あうあう、あう、うう」

「訳がわからない、さあ行け行け」

藤兵衛は<ruby><rb>邪険</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>に清吉を押出し、ぴったり<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を閉めて座へ戻った。

## 六

街はすっかり寝静まって、鼻をつままれてもわからぬような闇である。――お通は夢中で家をぬけ出して来たが、法心寺の山門近くまで来ると、さすがに闇の怖さが<ruby><rb>犇々</rb><rt>ひしひし</rt></ruby>と身に迫って、――来なければよかった。

と幾度も後悔した。

定二郎の話を聞いたお通は、どうしても自分の耳で事実をたしかめたいと思い、みんなの寝るのを待兼ねて出て来たのだが、こんな夜更けといい、まして怪異な仁王像を見に行くかと思うと足の<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>む思いがする。

――でもここまで来てしまったのだもの、思い切って行くより仕方がないわ。

自分で自分を励ましながら、家の軒先伝いに山門の方へ近寄って行った。

するとちょうど、お通が山門の脇までたどり着いた時、覆面をした立派な武士が、数名の<ruby><rb>捕方</rb><rt>とりかた</rt></ruby>役人に御用<ruby><rb>提燈</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を持たせて、山門の前へ歩み寄るところだった。――お通がそっと<ruby><rb>小陰</rb><rt>こかげ</rt></ruby>に隠れて見ていると、覆面の武士は仁王像の正面へ進んで、

「法心寺の仁王、――」

と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さび</span>のある静かな声で呼びかけた。

「その方は大岡越前を馬鹿者だと<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>っているそうだな、木像の分際で夜ごと声を発するさえ奇怪なるに、天下の町奉行に対して悪口致すとは何事だ。町奉行は恐れ多くも将軍家のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めがね</span>にて<ruby><rb>是非</rb><rt>ぜひ</rt></ruby>善悪を<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>す役目、これを罵る事は将軍家を罵るも同然であるぞ。――身が大岡越前じゃ、何がゆえに馬鹿者であるか<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>を申せ、返答によっては木像たりとも捨置かんぞ」

天下の名奉行、幾多の難事件に当たって快刀乱麻を断つの明敏さで解決する、古今の名判官、大岡越前守が自身で乗出したのだ、――お通は思わず息をのんで見まもった。

「返答どうじゃ」

「…………」

不思議やその時、仁王像がかすかにかすかに、いかにも悲しげな声で<ruby><rb>歔欷</rb><rt>すすりな</rt></ruby>きをし始めた。はじめは低く、次第に強くなり、訴えるような、むせぶような声が、はては高々と闇を縫って響きだした。

鬼が<ruby><rb>哭</rb><rt>な</rt></ruby>くとはこういう声であろうか、亡霊が哭くとはこうであろうか、聞く者の骨に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>み透り、血を凍らせるような無気味さ、……お通は怖ろしさの余り、危うく叫び声をあげようとした。するとその時、仁王像が歔欷きの中から、

「越前は馬鹿だ」

と言い始めた。「……町奉行の癖に、世間の大事も知らぬ馬鹿者だ、通油町の<ruby><rb>骨董</rb><rt>こっとう</rt></ruby>商、和泉屋治兵衛の娘お通というのは、親を<ruby><rb>水牢</rb><rt>みずろう</rt></ruby>の中へ<ruby><rb>押籠</rb><rt>おしこ</rt></ruby>め、死にかかっているのに助けようともせぬ極悪非道の不孝者だ」

――まあ‼

お通は意外な言葉に仰天した。自分が父を水牢の中へ押籠め、殺そうとしている大悪人とは？……仁王像はなおも続けた、「番頭も手代もみんな手伝っている、早くお縄に掛けて調べないと、治兵衛は娘の手に掛かって殺されてしまうぞ。こんな大悪事を知らぬ越前は天下の馬鹿者だ、そう言われても仕方がないであろう、どうだ越前」

「黙れ木像！」

越前守は大声で叫んだ。

「たとえどのような事があろうと、奉行職に向かって悪口するとは無礼至極、その方から先に取調べる、――それ、仁王像を召捕れ」

「は、――」

と言ったが、捕方役人もいささか面<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>らって、いくらなんでも山門の仁王様を召捕るなんて前代未聞の事だ、本当かしら……と迷っていると越前守は声を怒らせて、

「ええ何を<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>致す、越前の申し附けじゃ、縄打って引立てい」

「は、――御用だ、神妙に致せ」

神妙に致せと言ったところで相手が木像だから張合いがない、垣を破って踏込むと、本当に仁王様へ縄を掛けてしまった、――まさにこれこそ「大捕物」であろう。

お通は珍しい事の成行きに、自分の事も忘れて<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と小陰から見まもっていたが、越前守一行が、仁王像を車へつけて運び去ると、はじめて我に返ってほっと吐息をついた、――そのとたん、後ろから肩を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きながら、

「あうあう、あう」

と言う者があった。

「あっ‼」

跳び上がるほど驚いて振返ると、そこに清吉がにやにや笑いながら立っている。

「まあ清吉じゃないの？」

「あう、うう、あう」

白痴ながらお通の身を案じて来たものか、しきりに家の方を指さしながら、<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>らぬ舌をもぐもぐさせている。

「ああ迎えに来てくれたのね、有難うよ、いまあの仁王様があたしの悪口を言ったの、でも大岡様に召捕られて行ったわ」

「あう、ふふふ、おお」

「可哀そうに、何を言ってもわからないのね、さ、早く帰りましょう」

お通は優しく清吉の手を握った。

## 七

その明くる朝であった。和泉屋の店がまだ大戸も明けぬ時分、町奉行附きの与力同心が捕方を従えて突然踏込み、お通をはじめ乳母、番頭、手代、小僧、女中まで一網打尽に召捕ったうえ、帳簿や金<ruby><rb>箪笥</rb><rt>だんす</rt></ruby>などをすっかりまとめて引揚げた。

お通はまだ少女の事とて、この突然の出来事に何を考える力もなくなり、まるで気抜けのように、お<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>へ呼出されるまでただ茫然とされるままになっていた。

一同の者が白洲へ引出されたのは、それから三日めの事であった。

上座には大岡越前守はじめ、与力、書き役、吟味方などが居並んでいる。やがて白洲の砂利の上へ例の仁王像と、和泉屋の者が引据えられると、時刻の来た合図と共に、まず吟味方が一同の名を呼上げ、年齢を糺してから、その書き物を越前守に渡して<ruby><rb>引退</rb><rt>ひきさが</rt></ruby>った。越前守はずっと見下ろして、

「和泉屋娘、お通、――その方は父親を水牢の中へ押籠め、死にかかっているものを平気で見殺しにしようとしているそうだが、事実であるかどうだ」

「夢にも存じませぬ」お通はきっぱりと答えた。

「知らぬ？　そうか。しかしその方には治兵衛という父親があるであろう」

「――はい」

「その父親はどうした、どこにいる」

お通は答えられなかった。父が島津家にいると言えば、自然と天下の珍宝「宋朝の<ruby><rb>冑</rb><rt>かぶと</rt></ruby>」を紛失した不始末が知れる、そうなれば一族死罪になると藤兵衛から言われていた。――しかし父殺しの疑いを受けているのだから答えない訳にはゆかぬ、どうしたらいいかと思っていると、

「申し上げます」

と藤兵衛が言った。「<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>治兵衛は半月ほど以前、商用のため<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>筋へ旅立ちましてございます」

「上方とはどことどこじゃ」

「は、そ、その、京、奈良……」

言いかけた時、不意に仁王像が、

「嘘だ、嘘だ、藤兵衛は嘘をつく」

と例のむせぶような声で言った。――居並んだ人々はぎょっとして、

「あっ、また仁王様が」

と色を変える。お通は先夜、その仁王像に極悪非道の不孝者と言われた事を思い出して、

「お奉行さまに申し上げます」

と向直って言った。「藤兵衛は父が上方へ参ったと言いましたけれど、実は島津様のお屋敷に押籠められているのでございます」

「島津家に押籠められたと？　してその訳は」

「お聞き下さいまし」

お通は藤兵衛が<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>を引いて止めようとするのを振切って、冑の<ruby><rb>塵払</rb><rt>ちりはら</rt></ruby>いを頼まれた事からその紛失、父をつれて行かれた<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>を歯切れよく語った。

「そういう訳で、決してわたくしが水牢へ入れたなどという事はございませぬ。それでも御不審が晴れませぬなら、どうぞ島津様へお問合わせ下さいますよう」

「そうか、それでよくわかった」越前守は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、

「藤兵衛、与吉、それに相違ないか」

「は、――恐れながら相違ございませぬ」

もう嘘だとは言えなかった。二人が恐れ入って平伏するのを、しばらく越前守は見やっていたが、

「ついては改めて<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねるが。店より召上げて来た帳簿と金箪笥、くわしく取調べたところおよそ一万両近く不足している。しかも治兵衛が島津へ去った後の事だが、これだけ多額の<ruby><rb>金子</rb><rt>きんす</rt></ruby>を何に使用したか、――藤兵衛」

「は、……それは」

「申してみい、この度は<ruby><rb>偽</rb><rt>うそ</rt></ruby>を言うと<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さんぞ」

「与吉申し上げます」

思い切ったように与吉が<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をあげた。

「実は<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>治兵衛を助けいだしますため、島津家御重役の方々へ礼金として差上げ」

「黙れ黙れ！」越前守は大声に叱りつけた。

「町人共なら知らぬ事、仮にも島津家御家中の武士たる者が、不正の<ruby><rb>賄賂</rb><rt>まいない</rt></ruby>などに眼を<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>まされると思うか。――藤兵衛、面をあげい」越前守はぴたっと扇子で畳を突き、一分もすかさぬ鋭い調子で言った。

「さてさてその方は愚か者だな、かような下手細工をしてあっぱれ越前の眼を免れる気か、――島津家重役へ礼金として贈ったとは偽り、実は一万両の金子はその方が盗み取ったのであろう」

「め、<ruby><rb>滅相</rb><rt>めっそう</rt></ruby>もない仰せ……」

「まだある、宋朝の冑、紛失したと申すが、それもその方がいずれかへ隠したはずだ」

「け、決して左様な」

「言うな藤兵衛、これは初めよりその方が<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>んだ仕事だ、和泉屋の財産を横領するため、島津家用人と<ruby><rb>結托</rb><rt>けったく</rt></ruby>なし、塵払いのため預かった冑をその方がわざと取隠し、治兵衛を島津家へ<ruby><rb>押籠</rb><rt>おしこ</rt></ruby>めにしたうえ、留守のあいだに和泉屋の財産を盗もうと謀ったのだ。――越前の眼で見れば明々白々、それに相違あるまい、どうだ」

## 八

「恐れながら」藤兵衛は必死になって、

「決して左様な事はございませぬ、第一私に宋朝の冑をどう取隠す事が出来ましょうや、すでに家中<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>なく捜しましてもみつからず、床下屋根裏までも手を尽くして……」

「まだ場所が残っている」

再び仁王像が言った。――人々は殴られたように振返った、仁王像は続けて、

「津田直記の別宅、向島の家の庭に荒神杉という古い木がある、その洞の中を捜してみるがいい、冑はそこにある」

「――あっ‼」

藤兵衛は死人のように<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた。――とたんに越前守が、

「その仁王の後ろに誰がいる、これへ引出して参れ」

と命じた。言下に二人、下役の者がばらばらと仁王像の後ろへ走り寄ったが、――それより先に自分から、ぬっとそこへ現れた者がある、意外にもそれは清吉であった。

「あっ清吉」

お通は驚いて、「お奉行さまに申し上げます、これは清吉と申しまして耳も口も不自由な」

「いえ違いますお通さま」清吉がはっきりと言った。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっ</span>という<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きの声が皆の口を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて出た。今の今まで<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby><ruby><rb>聾</rb><rt>つんぼ</rt></ruby>の白痴と思っていた清吉が、顔つきも<ruby><rb>引緊</rb><rt>ひきしま</rt></ruby>り、身ごなしも、正しく、しかもはっきりと口が利けるのだ。――夢ではないかと<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れている人々を背に、清吉はぴたりと<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、

「今日まで唖聾の風をして来ましたが、実は耳も聞こえ口も利けたのです、なぜそんな真似をしたか。それはもう言わなくともおわかりでございましょう、藤兵衛さんと津田直記さんの悪い陰謀を探り出すためだったのです」

「うぬッ、それではこれは貴様の仕事だな！」

<ruby><rb>歯噛</rb><rt>はが</rt></ruby>みをする藤兵衛、

「いかにもその通り、わたしが唖聾の白痴だと思って、荒神杉の洞の事までべらべら<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ったろう、あれもすっかり聞いていたのだ」

「くそッ、破れかぶれだ」

<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>くと一緒に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だっ</span>と<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みかかる、清吉は身軽にひっ外すと、逆手を取ってぐいぐい絞め上げ、力任せに砂利の上へ<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつける。――とたんに<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せ寄った下役人が、たちまち高手小手に縛りあげてしまった。

始終を見ていた越前守は、

「一同静まれ」と騒ぎたつ人々を制して、

「清吉とやら、神妙な致し方である。改めて事の仔細を申し立てるがいい」

「有難う存じます。お通さまもよくお聞き下さいまし」

清吉は<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を正して言った、「隠れんぼうをしたあの日、わたしが中の間の<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>の中に隠れますとすぐ、藤兵衛と津田直記の二人がやって来ました。出るに出られず、そのまま話を聞いていますと、大切な品を隠してどうするとか、<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>にすると仕損ずるとか、しきりに密談をする様子がたしかに悪企みと存じまして、これは一大事と色々考えたあげく、わざと唖聾になって彼らに油断させ、計略の裏を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いたのでございました。果して彼らは<ruby><rb>冑</rb><rt>かぶと</rt></ruby>を取隠し、<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>様を島津家へ押籠めたうえ、財産の横領に取掛かりましたが、危ないところでお奉行さまのお縄にかかり、どうやら無事に」

「待て待て清吉」

越前守が静かに遮って言った。

「そのほかにまだあるぞ。そこにある法心寺の仁王、夜な夜な<ruby><rb>歔欷</rb><rt>すすりな</rt></ruby>いてお通を親不孝者と<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り、またこの越前を馬鹿者と罵ったが、それはその方の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>であろう」

「は――恐れ入りました」

「なぜそのような真似を致したか」

「申し上げます、津田直記は悪人ながら島津様の御家来です、普通に訴え出てもお取上げにはなりません、――それゆえお嬢さまに汚名を着せ、恐れながらお奉行さまの悪口まで申しました。こうすれば必ず大岡越前守様がお捨置きになさらぬと思ったからでございます」

「よくぞそこに気がついた」

越前守はにっこり笑って言った。

「少年ながらあっぱれな思案、褒めとらす、――しかし越前も馬鹿者と呼ばれたのは今度が始めてだぞ」

そう言って明るく笑う越前守の声に、白洲の人々も役人たちも思わず笑いを誘われた。……お通は<ruby><rb>甦</rb><rt>よみが</rt></ruby>えったように、無量の<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しさを<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>に籠めながら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つ</span>と清吉の方へ手を伸ばした。

「帰ったらまた隠れんぼうをしましょう」

清吉は低く<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。「今度はみつかっても唖聾にはなりませんよ」

「まあ……」

お通は優しく<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで頬を染めた。

宋朝伝来の冑は、荒神杉の洞の中から発見された。むろん治兵衛は無事に帰ったし、藤兵衛は<ruby><rb>牢</rb><rt>ろう</rt></ruby>へ入れられ、津田直記は島津家を<ruby><rb>逐</rb><rt>お</rt></ruby>われて行方知れず、――和泉屋には再び幸福と平和の日が戻ったのである。