## 前篇　<ruby><rb>猟奇</rb><rt>りょうき</rt></ruby>の<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>

## はしがき

彼は余りにも退屈屋で<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ猟奇者であり過ぎた。

ある探偵小説家は（彼も又退屈の余り、<ruby><rb>此世</rb><rt>このよ</rt></ruby>に残された唯一の刺戟物として、探偵小説を書き始めた男であったが）この様な<ruby><rb>血腥</rb><rt>ちなまぐさ</rt></ruby>い犯罪から犯罪へと進んで行って、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>には小説では満足出来なくなり、実際の罪を、例えば殺人罪を、犯す<ruby><rb>様</rb><rt>よう</rt></ruby>なことになりはしないかと<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れた<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>であるが、この物語の主人公は、その探偵作家の虞れたことを、実際にやってしまった。猟奇が<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じて、遂に恐ろしい罪を犯してしまった。

猟奇の<ruby><rb>徒</rb><rt>と</rt></ruby>よ、<ruby><rb>卿等</rb><rt>けいら</rt></ruby>は余りに猟奇者であり過ぎてはならない。この物語こそよき<ruby><rb>戒</rb><rt>いましめ</rt></ruby>である。猟奇の<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>が<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>ばかり恐ろしきものであるか。

この物語の主人公は、名古屋市のある資産家の次男で、名を<ruby><rb>青木愛之助</rb><rt>あおきあいのすけ</rt></ruby>と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>う、当時三十歳になるやならずの青年であった。

パンの<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>に勤労の必要もなく、お<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづかい</rt></ruby>と精力はあり余り、恋は、美しい意中の人を妻にして三年、その美しさに無感覚になってしまった程で、つまり、何一つ不足なき身であったが<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>に彼は退屈をしたのである。そして、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>猟奇の徒となり果てたのである。

彼はあらゆる方面で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかもの</span>食いを始めた。見るものも、聞くものも、たべるものも、そして女さえも。だが、何物も彼の根強い退屈を<ruby><rb>癒</rb><rt>いや</rt></ruby>してくれる力はなかった。

その様な彼であったから、当然探偵小説という文学中での<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかもの</span>を<ruby><rb>耽読</rb><rt>たんどく</rt></ruby>した。犯罪に興味を持った。そして、猟奇の徒が犯罪の一つ手前の刺戟物として、好んで試みる所の、例の猟奇<ruby><rb>倶楽部</rb><rt>くらぶ</rt></ruby>という、変な遊戯をさえ始めた。だが、これとても、結局は彼の退屈を一層救い難きものにしたばかりである。刺戟が強くなればなる程、一方ではそれを感じる神経の方で、<ruby><rb>麻痺</rb><rt>まひ</rt></ruby>して行くのだ。

とは云え、犯罪以外の刺戟剤としては、この猟奇倶楽部が最後のものであった。

そこでは、考え<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>るあらゆる奇怪なる遊戯が行われた。パリのグランギニョルにならった、血みどろで<ruby><rb>淫猥</rb><rt>いんわい</rt></ruby>な小劇、各種の<ruby><rb>試胆会</rb><rt>したんかい</rt></ruby>風な催し物、犯罪談、ｅｔｃ、ｅｔｃ。会合毎に当番が定められ、当番の者は、例えば「自分は今人を殺して来た」という様なことを、真面目くさって告白して、会員達を<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>させ、<ruby><rb>仰天</rb><rt>ぎょうてん</rt></ruby>させ、アッと云わせる趣向を立てなければならぬのだ。

段々種が切れて来ると、しまいには、会員を<ruby><rb>真底</rb><rt>しんそこ</rt></ruby>から戦慄させたものに、巨額の懸賞金をつける申合わせさえした。青木愛之助は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど彼一人でその資金を提供した。

だが、この様な趣向には限りがある。青木愛之助が、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に刺戟に<ruby><rb>餓</rb><rt>かつ</rt></ruby>えていたからとて、又彼がどれ程の賞金を<ruby><rb>懸</rb><rt>か</rt></ruby>けたとて、金ずくで自由になる事柄ではないのだ。

遂に猟奇倶楽部も、趣向が尽きると共に、一人抜け二人抜け、いつ解散したともなく、解散してしまった。そして、そのあとには、前よりも一層耐え難い退屈丈けが取残された。

作者が思うのに、これは当然のことなのだ。猟奇者が猟奇者である間は、永久に彼の猟奇心を満足させることは出来ないのだ。彼はあくまでも第三者であり傍観者だからである。犯罪談をしたり聞いたりしているのでは、真底からの恐怖や戦慄が<ruby><rb>味</rb><rt>あじわ</rt></ruby>えるものではない。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しそれを味いたかったなら、彼<ruby><rb>自</rb><rt>みず</rt></ruby>から犯罪当事者となる外はないのだ。極端な例で云えば、人に殺されるか、人を殺すかするより外はないのだ。

それが猟奇の果である。だが、如何な猟奇の徒と<ruby><rb>雖</rb><rt>いえど</rt></ruby>も、（我が青木愛之助と雖も）どれ程刺戟に餓えたからと云って、まさか自から進んで本当の犯罪者に身を落し「猟奇の果」を<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>わめる程の勇気はないのである。

  


## 品川四郎熊娘の見世物に見とれること

青木愛之助は東京に別宅を持っていて、月に一度位ずつ、交友や芝居や競馬の為に<ruby><rb>出京</rb><rt>しゅっきょう</rt></ruby>して、一週間なり十日なり滞在して行く例であった。愛妻の<ruby><rb>芳江</rb><rt>よしえ</rt></ruby>は同伴することもあり、しないこともあった。

<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず最初は東京での出来事である。

大学以来の友達に（愛之助は東京大学を出たのだ）<ruby><rb>品川四郎</rb><rt>しながわしろう</rt></ruby>という男があった。貧乏人の息子であったから、大学を出るとすぐ職を求め、ある通俗科学雑誌社へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったが、いつの間にかその雑誌を自分のものにして、自分の計算で発行する様になっていた。相当利益も上るらしい。

彼も商売が商売だから、猟奇を好まぬではなかったが、どちらかと云えば正常な男で、青木の<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>な生活を非難していた。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に猟奇倶楽部という様なものには反対で、そんな馬鹿馬鹿しいことをいくらやったって、退屈が治るものかと、軽蔑していた。彼は実際家であった。

彼の猟奇は実際談であって、青木とレストランで飯を食う時など、よく<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べた最近の犯罪談などを話して聞かせた。

愛之助の方では、品川のその実際的な所を軽蔑した。犯罪実話なんて退屈だからよせと云った。そして彼の好きな、<ruby><rb>荒唐無稽</rb><rt>こうとうむけい</rt></ruby>な怪奇の夢を語るのであった。

つまり彼等はお<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に軽蔑し合いながら、どこかしら合う所があって、変らぬ<ruby><rb>交</rb><rt>まじわ</rt></ruby>りを続けていたのである。

ところが、ここに、そう云う性質の彼等の、どちらもが、非常に昂奮して、夢中になってしまう様な、怪事件が<ruby><rb>起</rb><rt>おこ</rt></ruby>った。青木にはそれの神秘で奇怪な所が気に入った。品川はそれが生々しい現実の出来事であったが故に心をひかれた。何と不思議なことには、その事件と云うのは、非常に現実的であって、しかも、同時に探偵小説家の夢も及ばぬ、奇怪千万なものであった。

先ず順序を追ってお話ししましょう。

秋、招魂祭で<ruby><rb>九段</rb><rt>くだん</rt></ruby>の<ruby><rb>靖国</rb><rt>やすくに</rt></ruby>神社が、テント張りの見世物で充満している、ある昼過ぎのことであった。

青木愛之助は、例の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかもの</span>食いで、招魂祭と云うと、九段へ行って見ないでは承知の出来ぬ男であったから、（彼はこの九段の見世物見物も、その月の上京中のスケデュルの一つに加えていた程だ）時候としては蒸し暑く、ほこりっぽい、いやな天気であったけれど、薄いインバネスにステッキという支度で、電車を降りると、九段坂をブラブラと上って行った。

一寸余談に<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>るが、彼はこの九段坂というものに、変な興味を抱いていた。と云うのは、彼の非常に好きな村山槐多という死んだ画家があって、その槐多に探偵小説の作が三つばかりあるのだが、ある探偵小説の主人公は、舌に肉食獣の様なギザギザのある、異様な男で、その男が遺言状か何かを、この九段坂の石垣の石のうしろへ隠して、その場所を暗号で書いて、誰かに渡すという様な筋なのだ。

で、青木は、九段坂を上る度に、槐多の小説を思い出し、現在では当時とはまるで変っているけれど、道路のわきの石垣を、変な感じで眺めないではいられぬ次第であった。

「あの石の形が、少し他のと違う様だが、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しや今でもあの下に何か隠してあるんじゃないかな」

愛之助は事実と小説を混同して、そんな妄想を楽しむ<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>の男なのである。

九段の見世物風景は、誰でも知っていることだから<ruby><rb>細叙</rb><rt>さいじょ</rt></ruby>することもないが、現在ではすたれてしまって、どこかの片田舎で<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かに余命を保っている様な、古風な見世物を日本中の隅々を探し廻って寄せ集めた、と云う感じであった。

地獄極楽からくり人形、<ruby><rb>大江山酒天童子</rb><rt>おおえやましゅてんどうじ</rt></ruby>電気人形、女剣舞、玉乗り、猿芝居、曲馬、因果物、熊娘、牛娘、<ruby><rb>角男</rb><rt>つのおとこ</rt></ruby>、それらの大<ruby><rb>天幕</rb><rt>てんと</rt></ruby>張りの<ruby><rb>間々</rb><rt>あいだあいだ</rt></ruby>には、おでんや、氷屋、みかん<ruby><rb>水</rb><rt>すい</rt></ruby>、<ruby><rb>薄荷水</rb><rt>はっかすい</rt></ruby>、十銭均一のおもちゃ屋に、風船屋などの小屋台が、ウジャウジャとかたまっている。その中を、何の気か、ほこりを吸って、上気して、東京中の人間が、ウロウロ<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>いているのである。

ある因果物の小屋の前、そこには、時々幕を上げてチラリと中を見せるものだから、黒山の人だかりで、その群集の一番うしろの列が、反対側の<ruby><rb>食物</rb><rt>くいもの</rt></ruby>屋台とすれすれにまで、ふくれているので、そこの道は、人一人、やっと通れる程の隙間しかない。その間を、右から左からと、肩で押し合って、絶え間なく人通りが続くのだから、実に不愉快である。

青木愛之助が、その<ruby><rb>親不知</rb><rt>おやしらず</rt></ruby>みたいな細道を通り抜けようとした時だ。

実に不思議なことに、そのほこりっぽい群集の中に、冬物の黒い<ruby><rb>中折</rb><rt>なかおれ</rt></ruby>をあみだに<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、真赤に上気した顔を汗に光らせて、背広服の品川四郎が、人にもまれているのが見えた。

<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>不思議だと云うと、品川四郎は決して愛之助の様な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかもの</span>食いでなく、古風な見世物なんかに興味を持たぬ男なのだ。独身者<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>、子供に連れられて来た訳でもない。そうかと云って商売物の雑誌の種を取りに来たにしては、<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>の人を同伴している様にも見えぬ。どうも、社長様が種取りをする<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>はないのだ。

しかも、びっくりしたことには、品川四郎は、見世物の熊娘にひきつけられた<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くしまき</span>に、<ruby><rb>唐桟</rb><rt>とうざん</rt></ruby>の<ruby><rb>半纏</rb><rt>はんてん</rt></ruby>で、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>に静脈をふくらませて、真赤になって<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っている、汚い<ruby><rb>姉御</rb><rt>あねご</rt></ruby>の弁舌に、じっと聞き惚れているんだ。不思議なこともあるものだ。

よく見直したが、決して人違いではない。

## 科学雑誌社長スリを働くこと

青木愛之助は、そういう場合、無邪気に相手の名を呼んだりしない男であった。

彼は品川が、この人込みの中で、どんなことをするか、ソッと、見ていてやろうと思った。猟奇心のさせる罪の深い業である。

それから殆ど半日を浪費して、彼は品川のあとを、探偵みたいに尾行した。随分根気の要る仕事だったが、この猟奇者は、そういう根気は多分に持合わせていた。

何も知らぬ品川四郎は、人込みから人込みと、縫って歩いた。電気人形の前でも、地獄極楽の前でも、女剣舞の前でも、長い間、田舎者みたいにポカンと<ruby><rb>立尽</rb><rt>たちつく</rt></ruby>していた。

「こいつ、こっそり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかもの</span>食いに来ていやぁがる。恥しい趣味だものだから、僕にも<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>にしていたんだな。大きなことを云っていて、お前もやっぱり同類じゃないか」

愛之助は、友達の弱味を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだ気持で、嬉しくなってしまった。

品川は多くの見世物は、口上を聞く<ruby><rb>丈</rb><rt>だ</rt></ruby>けで素通りしたが、一番大きなテントの娘曲馬団へは、場代を払って這入って行った。

彼はそこの、<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>の座席で田舎の兄さんの<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>や、娘さんのお尻にもまれながら、窮屈な思いをして、曲馬と軽業を<ruby><rb>一巡</rb><rt>ひとめぐり</rt></ruby>見物した。青木愛之助も相手に発見されぬ様に行動を共にしたことは云うまでもない。

そこを出たのは、もう夕方であった。見世物にはアセチリン<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>が、甘い<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>を立ててともされた、昼と夜との境、見世物のイルミネーションと、太陽の残光とが、チロチロ<ruby><rb>入混</rb><rt>いりまじ</rt></ruby>って、群集の顔が、ボンヤリとうすれて行く、夢の様に美しい一時である。

品川四郎は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかもの</span>見物にグッタリと疲れた<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で、九段坂を降りて行く。

坂の<ruby><rb>半程</rb><rt>なかほど</rt></ruby>に、オランダ渡りと云った風で、お月様の顔を覗かせる、<ruby><rb>遠眼鏡</rb><rt>とおめがね</rt></ruby>屋が商売をしていた。安物の天体望遠鏡を据えて一覗き十銭で客を呼んでいるのだ。見ると、いつの間にか、中天に<ruby><rb>楕円形</rb><rt>だえんけい</rt></ruby>に見えるお月様が姿を現わしていた。

品川は、その人だかりに、足を止めて、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く眼鏡屋の口上を聞いていたが、ふと妙なことを始めた。

眼鏡屋のすぐうしろは石垣になっている。槐多の小説の主人公が遺言状を隠した石垣だ。そこの、人だかりで<ruby><rb>一際</rb><rt>ひときわ</rt></ruby>薄暗くなった箇所へ、石垣の方を向いて、品川がヒョイとしゃがんだのである。

「オヤオヤ、しゃがんで小便でもするのかな。益々品の悪い男だ」

と思って、ソッと見ていると、品川はしゃがんだまま、ウロウロあたりを見廻していたが、丁度人だかりの蔭で、人通りもなく、見ている人もないので、安心したのか、石垣の一つの石に両手をかけると、ズルズルと、それを抜き出したのである。そのあとには、五六寸四方に、薄闇の中でもクッキリと分る程、真黒な穴が出来た。

彼は妙な夢を見ているんじゃないかと疑った。品川四郎と云えば<ruby><rb>歴</rb><rt>れき</rt></ruby>とした科学雑誌の社長様である。その品川四郎が、夕闇と群集に隠れて、泥棒みたいにあたりを見廻しながら、九段坂の石垣を抜いている。あり得べからざる光景だ。

「アア、そうか、そうだったのか」青木は腹の中で妙な<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を云った。「槐多の小説は本当だったのだ。あすこの石のうしろに、何か隠してあるのだ。その隠し場所を品川が発見して、今中のものを取出そうとしているのだ」

だが、無論それは彼の瞬間的狂気で、そんな馬鹿なことがあろう道理はない。のみならず、品川は何かを取出すのではなくて、反対に、今抜いた石垣の穴へ、何かしら<ruby><rb>投入</rb><rt>なげい</rt></ruby>れて、手早く石を元の通りに差込むと、そ知らぬ振りで、又スタスタと坂道を降りて行くのであった。

むらむらと<ruby><rb>湧上</rb><rt>わきあが</rt></ruby>る好奇心が、人の悪い尾行慾に打勝った。それに相手はもう帰ろうとしているのだ。

青木愛之助は小走りに坂を降りて、品川四郎に追いつくと、彼の背中をポンと叩いて、

「品川君じゃないか」

と声をかけた。

相手はギョッとして振返った。間近で見ても間違いもなく品川四郎である。だが、彼はとぼけた顔をして、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かには返事をしなかった。

「オイ、どうしたんだ。見世物見物かね」

愛之助はもう一度言葉をかけた。

ところが、品川の方では、やっぱりキョロンとして、<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せぬ顔をしている。そして、変なことを云い出すのだ。

「あなたは誰です。今品川とかおっしゃった様ですが、僕はそんな者じゃありませんよ」

愛之助はポカンとしてしまった。

その隙に相手は、

「人違いでしょう。失礼」

と捨ぜりふで、ドンドン向うへ行ってしまった。

青木は、「やっぱり俺は夢を見ているのか」と思った程、びっくりした。生れて初めての不思議な経験だった。

断じて人違いではない。あれ程長い間尾行したんだから、よく似た別人なら、気がつく<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>である。と同時に、彼が品川四郎その人でないことも、当人がキッパリ云い切ったのだから、これ程確かなことはない。変だ。

愛之助はこの奇妙な出来事に、何だか胸が、ドキドキして来た。

「そうだ。あの石垣を調べて見よう。何か分るかも知れない」

猟奇者は、彼の日頃熱望する猟奇の世界へ、今や一歩を踏み入れた訳である。

急いで元の遠眼鏡屋のうしろへ戻って、人に見られぬ様に注意しながら、石垣の石を、あれこれと動かして見た。一つ丈け動くのがある。

両手でその石を抜いて、真黒な穴の中へ<ruby><rb>怖々</rb><rt>おずおず</rt></ruby>手を入れて見た。案の定、手に触るものがあった。

取出す。一つ二つ三つ……合計六個の、なんと、<ruby><rb>蟇口</rb><rt>がまぐち</rt></ruby>が這入っていたではないか。一つ一つあけて見たが、中はいずれも空っぽだ。

愛之助は慌てて、それを元へ戻し、石で<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をした。そして、彼自身泥棒ででもある様に、ビクビクしてあたりを見廻した。

さっきの男が、（品川四郎とそっくりの人物が）この様なものを、ここへ隠したからには、彼はスリであったのだ。しかも中々<ruby><rb>玄人</rb><rt>くろうと</rt></ruby>のスリだ。空財布の処置にまで、周到な注意をして、共同便所へ捨てる様なことはしないで、先ず絶対に発見の<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れなき、石垣の石のうしろへ隠す程の奴だから、どうして<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>の出来心ではない。それに何百円の収穫か知らぬが、財布が六個だ。

道理で、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>、人込みばかり<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>って歩くと思った。見世物に気をとられている様な風をして、その実隣近所の人の財布を狙っていたのだ。

「実に<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>だぞ。品川の奴、いやがらせてやらなくてはならぬ。僕が君と間違えて声をかけた奴が、スリだった。顔から形から君と寸分違わぬスリだった。間違って<ruby><rb>捕縛</rb><rt>ほばく</rt></ruby>されぬ用心をしたまえってね」

愛之助は見世物以外の、予期せぬ収穫に興じながら、停留所の方へ歩いた。

「だが待てよ」

彼はふとある事に気づいて、立止った。

「馬鹿馬鹿しい、マッカレイの小説じゃあるまいし、あんなに寸分も違わぬ人間が、この世に二人いるものだろうか。それに、品川四郎が<ruby><rb>双生児</rb><rt>ふたご</rt></ruby>だという話も聞かぬ。こいつは、ひょっとしたら」

と、そこで彼は、友達の悪事を喜ぶ、人の悪い微笑を<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>らした。

「やっぱり、あれは品川四郎だったに違いない。雑誌社の社長だって、スリを働かぬと<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>った訳ではない。品川の奴聖人ぶっているが、その実あんな病気があるのかも知れぬ。<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>に<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の油をなめたお姫様さえあるんだからな。そう考えると、貧乏人の品川が、今の雑誌を自分のものにしたのもおかしいぞ。飛んでもない所から資金が出ているのじゃないかな。奴はスリばかりでなく、外にも、もっともっと悪事を働いているのかも知れぬて。

そうだそうだ。その病気を俺に見られたと思ったので、奴め、空っとぼけて、自分とよく似た別人がある様に見せかけたのだ。泥棒をする程の彼だから、お芝居もうまいに違いない」

愛之助は、そう結論を下した。だが、その為に彼は品川を非難する気にはなれなんだ。平凡な常識家と軽蔑していた彼が、今までと違った偉い男に思われさえした。

## 青木、品川の両人場末の活動写真を見ること

それから一月ばかり、別段のお話もなく<ruby><rb>過去</rb><rt>すぎさ</rt></ruby>った。

云うまでもなく、青木は品川に九段坂の出来事を話すことはしなかったけれど、あの様な結論を下したものの、まだ何となく疑念が残っていたので、名古屋へ帰る前に、一度品川を訪ねて見た。

九段坂事件の三日あとである。

「どうだい近頃は、相変らず退屈しているのかね」

品川は<ruby><rb>隔意</rb><rt>かくい</rt></ruby>のない明るい調子であった。

どうも変だ。この快活で平凡な男が、蔭であんな悪事を働いているのかと思うと、余りのお芝居の巧みさに、怖くなる程であった。

<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く話したあとで愛之助はふとこんなことを云って見た。

「この間の日曜日にね、九段のお祭りを見に行ったよ。そして娘曲馬団を見物した」

彼は云いながら、じっと相手の表情を注意した。

ところが、驚くべし、品川は顔の筋一つ動かさないで、見事な平気さで、答えたのである。

「そうそう、<ruby><rb>此間中</rb><rt>このあいだじゅう</rt></ruby>招魂祭だったね。例の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかもの</span>食いかね。久しいもんだ」

で、結局青木の疑念ははれなかった。うやむやの内にいとまを告げて、間もなく名古屋へ帰った。

さて、九段坂以来一ヶ月たった<ruby><rb>或日</rb><rt>あるひ</rt></ruby>である。十一月の末だ。青木愛之助は上京して、二日目に、買物があって、ある百貨店へ出掛けた。百貨店はクリスマス用品の売出しで、非常に賑わっていた。

買物を<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ届ける様に頼んで置いて、一階へとエレベーターに這入った。普通の箱の三四倍もある、この百貨店自慢の大エレベーターである。

「混み合いますから、おあとに願います」

エレベーター・ボーイが、そう云って殺到する乗客を押し出した程の、身動きもならぬ満員であった。

ふと気がつくと、又もや人込みの中の品川四郎である。

彼は箱の向側の隅に、肥満紳士と最新令嬢の間にはさまって、小さくなっていた。

愛之助は地下鉄でサムを見つけたクラドック刑事の様に目を見はった。

彼は人のうしろに顔を隠して相手に悟られぬ様にしながら、じっと品川の挙動を注意した。肥満紳士、気の毒に、やられているなと思ったりした。

一階につくと、人波に押されて箱を出た。振向いて、若し品川と顔を見合わせたら、先方が極りを悪がるだろうと遠慮して、愛之助は何気なく出口の方へ歩いて行った。

すると、うしろから彼の名を呼ぶものがある。

「青木君じゃないか。オイ、青木君」

振向くと、アア何という<ruby><rb>図々</rb><rt>ずうずう</rt></ruby>しい奴だ。品川四郎がニコニコして、そこに立っていたではないか。

「オオ、品川君か」青木は初めて気がついた体で「ひどく混雑するね」と、これは皮肉をこめて云ったものだ。

「いい所で逢った。<ruby><rb>是非</rb><rt>ぜひ</rt></ruby>君に見てもらい<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>いものがあるんだ。君の畑のものなんだ。それで実はお訪ねしようと思ったのだけれど、こちらへ来ているかどうか分らなかったものだから」

品川は青木と肩を並べて、出口の方へ歩きながら、突然そんなことを云い出した。

「ホオ、それは一体何だね」

愛之助は相手の人を呑んだ態度に、あきれ果てていた。

「イヤ、見れば分るんだがね」と品川、「実に驚くべき事件なんだ。これが僕の思っている通りだとすると、前代未聞の<ruby><rb>椿事</rb><rt>ちんじ</rt></ruby>だ。だが、ひょっとすると、僕の誤解かも知れぬ。そこで君に確めて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>おうと思うのだがね。来てくれるかい。少し遠方だが」

青木は最初てれかくしを云っているなと思った。だが、相手の調子が中々真剣である。それに内容が<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ好奇的で、彼の猟奇心をそそることしきりであった。

「何だか知らないが、遠方と云って、どの辺だね」

愛之助は聞返さないではいられなかった。

「ナニ、東京は東京だがね。少し<ruby><rb>場末</rb><rt>ばすえ</rt></ruby>なんだ。<ruby><rb>本所</rb><rt>ほんじょ</rt></ruby>の<ruby><rb>宝来館</rb><rt>ほうらいかん</rt></ruby>という活動小屋なんだ」益々意外な返事である。

「ヘエ、活動小屋に何かあるのかね」

「何があるものか、活動写真さ」品川は笑いながら「活動写真は活動写真だが、それが少し変なんだ。日活現代劇部の作品でね、『怪紳士』というつまらない<ruby><rb>追駈</rb><rt>おっか</rt></ruby>け物なんだが」

「怪紳士、フン、探偵劇だね。それがどうかしたのかね」

「マア見れば分るよ。予備知識なしに見てくれる方がいい。その方が正確な判断が出来る。来てくれるだろうね。こういうことの相談相手は君の外にはないのだから」

「何だか、妙に気を持たせるね。だが、別に用事もないんだから、行くことは行ってもいいよ」その実、猟奇者青木愛之助は、もう行きたくてウズウズしていたのである。

そこで二人は、品川の呼んだタクシーに乗って、本所の宝来館に向ったのだが、車中で<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>の様な会話が取交された。

「君が活動写真に興味を持っていたとは知らなかった」青木が不思議そうに云った。事実品川四郎は小説や芝居などには、縁の遠い様な男だったからである。

「イヤ、ある人に教わって、久し振りで見たんだ。君はよく実際の出来事はつまらないと云っているが、こいつばかりは君も驚くに相違ない。事実は小説よりも奇なりって云う、僕の持論を裏書きする様な事件だよ」

「活動写真の筋がかね」

「マア、見れば分るよ。ところで、その絵を見る前に、君の記憶を確めて置き度いのだが、今年の八月二十三日に君は東京にいた筈だね」品川は次々と奇妙なことを云い出すのである。

「八月と、八月は二十日まで<ruby><rb>弁天島</rb><rt>べんてんじま</rt></ruby>にいた。弁天島を引上げると同時に東京へ来た。そして確か十日ばかりいた筈だから、二十三日は、無論東京にいた訳だよ」

愛之助は相手の意味は分らぬけれど、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>も答えた。

「しかも、丁度二十三日に僕と逢っているのだよ。日記帳をくって見て、それが分った。僕達はあの日帝国ホテルのグリルで飯を食った。君が僕をあすこの演芸場へ引ぱって行ったのだ」

「そうそう。そんなことがあったっけ。セロの演奏を聴いたのだろう」

「そうだ。僕はなお念の為、あれが二十三日だったということを、ホテルに聞合わせて確かめたから、この点は間違いがない」青木愛之助の好奇心は、<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>高まった。品川は一体全体、何の必要があって、八月二十三日を、かくも重大に考えているのであろう。

「さて、そこで、これを読んでくれ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え」

品川は、ポケットから、一通の手紙を出して、愛之助に渡した。

開いて見ると、左の様な文面である。

拝復

御尋ねの場面は、京都<ruby><rb>四条</rb><rt>しじょう</rt></ruby>通りです。撮影日附は八月二十三日です。これは撮影日記によって御答えするのですから、<ruby><rb>万々</rb><rt>ばんばん</rt></ruby>間違いはありません。

右御返事のみ。

<ruby><rb>齋藤久良夫</rb><rt>さいとうくらお</rt></ruby>

品川四郎様

「齋藤久良夫というのは、確か日活の監督だね。知っているのかい」愛之助は手紙を品川に返して、云った。

「そうだよ。『怪紳士』を作った監督だよ。知っている訳じゃない。突然手紙で尋ねてやったのだ。感心にすぐ返事をくれたよ。ところで、この手紙が証拠第二号だ。つまりこの手紙によって、『怪紳士』のある場面が、八月二十三日に、京都四条通りで撮影されたことが、確実になった訳だ」

品川はまるで裁判官か探偵の様な言い方をした。八月二十三日というものを、あらゆる方面から研究して、動きの取れぬ様にしようとかかっている。だが、それは一体全体何の為にだ。

「オヤ、こいつは面白くなって来たぞ」

愛之助は<ruby><rb>薄々</rb><rt>うすうす</rt></ruby>事情を悟ることが出来た。なる程、これは品川の云う通り、一大椿事に相違ないと思った。彼の好奇心はハチ切れそうにふくれ上った。

「ところで、八月二十三日に君とホテルへ出かけたのは、おひる少し過ぎだったね。二時頃だと思うのだが」

品川はまだ八月二十三日にこだわっている。

「そう、その時分だった」

「それから夕食を一緒にやったんだから、君と別れたのは日暮れだった」

「ウン、日が暮れていただろう」

「これ丈けの事実をよく記憶して置いてくれ給え。この時間の関係が非常に重大なんだ。アア、それから念の為に云って置くが、京都東京間を一番早く走る汽車は特急だね、それが十時間以上かかるということだ」事の仔細を悟ってしまった青木には、品川のこのくだくだしい説明が、うるさかった。それよりも、早く問題の「怪紳士」の写真が見たくてたまらなかった。

「アア、ここだここだ」品川が車を止めた。降りると、広くガランとした大通りに、誠に田舎びた、粗末な活動小屋が建っていた。

二人は一等の切符を買って、二階席の畳の上に、ジメジメした座蒲団を敷いて貰って坐った。<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>なことに、丁度これから問題の「怪紳士」が始まる所であった。

写真が映り始めた。浅草の本場へは、二週間も前に出た、時期おくれの写真である。

探偵劇にろくなものはない。主人公の<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>怪紳士は、つまりルパンなのだが、<ruby><rb>燕尾服</rb><rt>えんびふく</rt></ruby>を着た学生みたいな男であった。それと刑事とがお<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>りの活劇を演じるのだ。

無論愛之助は、写真の筋なんか見ようともしなかった。筋を見ないで画面を見た。京都四条通りの風景が現われるのを、今か今かとかたずを呑んだ。

「サア、よく見ていてくれ給え」隣の品川が愛之助の膝をついて合図をした。

ルパン追撃の場面である。二台の自動車が京都の町を疾駆した。ルパンが自動車を飛降りて刑事をまこうとした。燕尾服のルパンがステッキ片手に、白昼の町を走る。背後に、現われて来たのは、見覚えのある南座だ。四条通りだ。

自動車が走る。小僧さんの自転車が走る。舗道を常の様に市民が通行している。その間を縫って<ruby><rb>異形</rb><rt>いぎょう</rt></ruby>の怪漢が走って行く。

と、突然画面の右の隅へ、うしろ向きの<ruby><rb>大入道</rb><rt>おおにゅうどう</rt></ruby>が現われた。活劇を見物している市民の一人が、うっかりカメラの前へ首を出したのであろう。

愛之助はある予感に胸がドキドキした。果して、その大入道が、振返ってカメラを見た。スクリーンの四分一位の大きさで、一人の男の顔ばかりが、ギョロリとこちらを見た。

ほんの一瞬間であった。邪魔になると注意でもされたのか、その顔は、こちらを見たかと思うと、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち画面から消えてしまった。

その<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>、愛之助はギョッとして息が止まった。大抵は予期していたのだけれど、彼の隣の見物席に坐っている、品川四郎の顔が、畳一畳程の大きさになって、前のスクリーンへ現われた感じは<ruby><rb>実以</rb><rt>じつも</rt></ruby>て異様なものであった。

偶然「怪紳士」の画面に顔を出した、見物人というのは、品川四郎その人であったのだ。

## この世に二人の品川四郎が存在せること

その場面は八月二十三日京都四条通で撮影されたことが分っている。と同時に、その同じ日に、品川と愛之助とは、東京の帝国ホテルで一緒に昼飯を食った。両方とも間違いはない。すると品川四郎は、同日に東京と京都と両方にいたことになる。だが両都の間には特急十時間の距離がある。京都市街の撮影を見物して、同じ日の昼飯を東京で食うなんて、全然不可能な事だ。

そこで、この日本に、品川四郎とソックリの男が、もう一人別に存在するという結論になる。九段でスリを働いたのも、そのもう一人の方の品川四郎に相違ないのだ。

「君はどう考えるね。僕はあれを見てから、この世がひどく変てこなものに思われて来たのだよ」

活動小屋を出て、名も知らぬ場末の町を歩きながら、品川四郎が途方に暮れた<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で、愛之助に話しかけた。

「それについて、僕は思当ることがあるのだが、君はこの秋の九段のお祭を見に行きやしまいね」

愛之助は念の為に確めて見た。

「イイヤ、僕はああ云うものには、大して興味がないのでね」

案の定、先日の九段の男は品川ではなかったのだ。そこで、愛之助は例のスリの一件を詳しく話して聞かせ、最後にこう附け加えた。

「どうしても君としか見えなかったものだから、実を云うと、僕は君を疑っていたのだよ。<ruby><rb>内々</rb><rt>ないない</rt></ruby>スリを働いているんじゃないかとね。ハハハハハ滑稽だね、それで遠慮をして、その後逢った時にも、<ruby><rb>態</rb><rt>わざ</rt></ruby>とそのことを話さなんだのさ」

「ヘエ、そんなことがあったのかい。すると<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>、もう一人の僕がいる訳だね」

品川は少々怖くなった様子である。

「<ruby><rb>双生児</rb><rt>ふたご</rt></ruby>かも知れないぜ。君は知らなくても、君には赤ん坊の時分に分れた双生児があるのじゃないかい」

「イヤ、そんなことはあり得ないよ。僕の家庭はそんな秘密的なんじゃない。双生児があればとっくに分っている筈だ。それに双生児だって、あんなソックリのがあるだろうか」

「双生児でないとすると、全くの他人で、双生児以上によく似た二人の人間が、この世に存在し<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>るかどうかという問題になるね」

「だが、僕にはそんなことは信じられん。同じ指紋が二つないと同様、同じ人間が二人ある筈がない」

品川四郎はあくまで実際家である。

「だって君、いくら信じられんと云っても、動かし難い証拠があるんだから仕方がないよ。スリの一件と今の活動写真だ。それに僕はそういうことが全然あり得ないとは思わない。夢みたいな話だがね、僕の書生時代にこんな経験があるんだよ」

渇望していた怪奇に今こそありついた青木愛之助は、もう<ruby><rb>有頂天</rb><rt>うちょうてん</rt></ruby>であった。

「大学の近くの若竹亭ね（寄席の）学生時代僕はあすこへちょいちょい行ったものだが、行く度に必ず見かける一人の紳士があった。いつも極った隅っこの方にキチンと坐って聴いている。連れはなく独りぽっちだ。その紳士の顔なり姿なりが、…………、………………………………写真にソックリなんだ。髪の刈り方から、<ruby><rb>口髭</rb><rt>くちひげ</rt></ruby>の具合、いくらか頬のこけたところまで、全く<ruby><rb>生写</rb><rt>いきうつ</rt></ruby>しなんだ。で、僕はよく思ったことだがね、…………生活なんて、まるで我々の窺い知ることの出来ないものだが、案外日本でもスチブンソンの『自殺倶楽部』やマークトウエンの『乞食王子』みたいなことがないとも限らぬ。あの紳士はひょっとしたら真実その……忍び姿じゃあるまいかとね。そして、僕は高座よりは、その紳士の動作にばかり目をつけていたものだ。これは無論僕の妄想で、よく似た別人に極っているが、そんな……に生写しの人さえいるんだから、世の中に全く同じ顔の人間がいないとは、断言出来ぬと思うよ」

「そう云えばね、僕も実は経験がないでもないのだよ」

品川四郎は、少し青ざめた頬を、ピリピリと痙攣させながら、<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>話の様な低い声で云うのだ。

「もう三年にもなるかな、大阪の<ruby><rb>道頓堀</rb><rt>どうとんぼり</rt></ruby>でね、人にもまれて歩いていると、うしろから肩を叩く奴があるんだ。そして、ヤア何々さんじゃありませんか、暫くでしたね、というんだ。無論僕の名前じゃないのだよ。で、人違いでしょうと云っても中々承知しない。そして、ホラ、何々会社で机を並べていたじゃありませんかなんて、僕に思い出させようとするんだが、僕はその何々会社なんて、名も知らないのだ。結局<ruby><rb>不得要領</rb><rt>ふとくようりょう</rt></ruby>で分れたが、それがやっぱりこの世のどこかにいる、もう一人の僕のことだったかも知れないね」

「ホウ、そんなことがあったの。若しそうだとすれば、その男はきっと僕が九段で味ったと同じ、変てこな気持がしたに相違ないね」

当人の品川はしょげているのに反して、青木愛之助はひどく嬉しそうである。

「君は呑気なことを云っているが、僕にして見れば、随分不愉快なことだよ。考えて見給え、この俺とソックリそのままの奴が、この世のどこかに、もう一人いるんだ。実にいやな気持だよ。若しそいつに出会ったら、いきなりなぐり殺してやり<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>い位だよ。そればかりじゃない、もっと恐ろしいことがある。君の話によると、奴はどうも悪人らしい。スリを働く位ならいいが、もっとひどい犯罪、例えば人を殺すという様なことが起ったら、僕はそいつと生写しなんだから、どんな拍子で、嫌疑をかけられないとも限らん。僕はそいつの犯罪を止めだてすることは勿論、予知さえ出来ないのだ。<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>って僕の方にアリバイの成立たぬ場合もあるだろう。考えて見ると、非常に恐ろしいことだよ。相手がどこの何者だか分らぬだけに恐ろしいのだよ。

それから、こういう場合も考えて見なければならない。つまり、僕の方ではその男を知らないけれど、その男の方では僕を知っているという場合だ。僕は雑誌に写真が出るから、先方は僕よりも、ずっと気づき易い立場だからね。しかも、そいつが悪人なんだ。悪人が自分と寸分違わぬ男を発見した時、どんなことを、どんな恐ろしいことを考えるか。君、これが分るかね。そいつは、若し僕に妻があれば、その妻をだって、盗むことが出来るんだよ」

二人は車を呼ぶことも忘れて、夢中に喋りながら、場末の町を行先も定めず歩き続けた。

品川四郎はそうして次から次へと、不気味な場合を考え出しては喋っている内に、「二人の品川四郎」という不可説なる怪奇が、徐々に、非常に恐ろしい事に思われ出したらしく、彼の目が怪談を聞いている人の様に、不思議な光を放って来るのであった。

## 愛之助不思議なポン<ruby><rb>引</rb><rt>ぴき</rt></ruby>紳士にめぐり合うこと

青木も品川も、この奇妙な事件にすっかり<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>きつけられてしまった。前にも云った通り、猟奇者青木は、猟奇倶楽部なんかでは経験の出来ない生々しい怪奇であったが故に。又実際家品川は、それが現実の不可思議であり、しかも直接彼自身の問題であったが故に。

彼等は出来るならば、そのもう一人の品川四郎を探し出したいと思った。だがそれは<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も不可能な事だ。新聞に懸賞<ruby><rb>尋人</rb><rt>たずねびと</rt></ruby>広告でも出して見たらと考えたけれど、先方がスリを働く様な犯罪者なんだから、広告を見たら<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って警戒するばかりだ。

「君、今度若しそいつに出っくわす様なことがあったら、尾行して住所をつきとめてくれ給えね。僕も無論心掛る積りだけれど」

「いいとも、君の為でなくて、僕自身の好奇心<ruby><rb>丈</rb><rt>だ</rt></ruby>けでもそれはきっとやるよ」

で、結局、彼等両人が盛り場を歩いたりする時、行違う人に注意を<ruby><rb>怠</rb><rt>おこた</rt></ruby>らず、気長にその男を尋ね出すしか方法はないのであった。

まるで雲を掴む様な話である。<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し読者諸君、「世間は広い様で狭い」とはよく云った。それから二ヶ月程たったある日のこと、彼等は遂にそのもう一人の品川四郎を見つけ出したばかりか、いとも不思議な場面に<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>て、両品川が一種異様の対面（アア、それが<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に奇怪千万な対面であったか）をする様なことになったのである。

だが、それを語る前に、余談に<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>るけれど、順序として、青木愛之助のある変てこな経験について、（それが決して興味のないことではないのだから）少々紙面を費やすのをお許し願わねばなりません。

事の起りは彼等が宝来館で「怪紳士」の映画を見物した翌十二月、青木愛之助が、ふと銀座裏のある陰気なカフェに立寄ったことから始まる。

もうボツボツ<ruby><rb>避寒</rb><rt>ひかん</rt></ruby>の季節だから、上京でもあるまいと二の足を踏んだけれど、虫が知らすというのか、何となく東京の空が恋しくて、つい上京してしまった。その滞京中の出来事である。

歳末の飾り<ruby><rb>美々</rb><rt>びび</rt></ruby>しい銀座街の夜を<ruby><rb>一巡</rb><rt>ひとめぐり</rt></ruby>歩いて、

「こんな、つまらない町へ、毎晩散歩に出掛けてくる青年少女諸君もあるんだなあ」と<ruby><rb>今更</rb><rt>いまさ</rt></ruby>ら不思議に感じながら、併し、猟奇者青木愛之助は、その裏の方の小暗い隅には何かしら隠されている様な気もして、未練らしく横町を暗い方へ暗い方へとさまよって行った。

とある裏町を歩いていると、ふと目についたのは一軒の小さなカフェである。目についたと云っても、決してその<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>が立派であったり、<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かであったり、その<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>の目立つ特徴があった為ではない。表通りの名あるカフェに引きかえて、余りにも淋しく、陰気で、影が薄かったからだ。

ひどくしょんぼりしている有様を可哀想に思ったので、愛之助は何という事もなく、ツカツカとその家へ這入って行った。十坪程の土間に、離れ離れに三四脚のテーブルが置かれ、常緑樹の大きな鉢植えが、その間々に、<ruby><rb>八幡</rb><rt>やわた</rt></ruby>の<ruby><rb>藪不知</rb><rt>やぶしらず</rt></ruby>の竹藪の感じで並んでいる。キザな流行の赤や紫にしている訳ではないが、電燈は<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の様に、というよりも寧ろ<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の様に薄暗く、シーンと静まり返って、一人の客もなければカウンターに給仕の姿も見えぬ。墓場みたいなカフェである。その癖、暖房の装置はあるのか、ホンノリと暖か味が<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>って不愉快な程寒くはない。

青木は、大声に給仕を呼ぶのも<ruby><rb>野暮</rb><rt>やぼ</rt></ruby>だと思ったので、先ず椅子につく為に、片隅の鉢植の葉蔭へ這入って行った。そしてドッカリ腰をおろした時、彼は意外にも、その同じテーブルに一人の先客がいることを発見した。薄暗い中でも薄暗い、部屋の隅っこだったのと、その客が非常に静かにしていたので、つい気附かなんだのである。

「失礼」と云って席を換えようとすると、その客は「イヤ、どうかその<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>。僕も丁度相手がほしくっていた所ですから」と手でとめるのだ。見ると、中年の洋服紳士で、どことなく<ruby><rb>人懐</rb><rt>ひとなつ</rt></ruby>っこい男である。それに中々凝った仕立ての、安くない服を着ている。青木はブルジョアの癖として、そんなもので相手の身分を想像し、安心して彼のお相手をする気になった。

やがて、いないと思った給仕が、どこからか影の様に現れて、注文の品々を運んで来た。決してまずい料理ではない。酒も上等のものが揃っている。そこへ持って来て、人懐っこい話相手。愛之助はすっかり上機嫌になってしまった。

「居心地の悪くない<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>ですね」

「でしょう、僕はここが非常に気に入っているんですよ」

という様なことから、二人の間に段々話がはずんで行った。愛之助は酒に強くないので、チビチビ<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めた二杯のウィスキイで、もう酔ってしまって、ボンヤリと、いい気持になっていた。そこで、彼は例によって「退屈」について語り始めたものである。

相手の紳士は、同感と見えて、成程成程と肯きながら聞いていたが、暫くすると、非常に<ruby><rb>婉曲</rb><rt>えんきょく</rt></ruby>な云い廻しで、愛之助の身分を尋ねるのだ。青木は酔っていたものだから、知らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らず相手の調子に乗せられて、彼の身の上を語っていたが、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>にふと気づいて、変な顔をして尋ねた。

「オヤオヤ僕は自分のことばかり喋っていましたね。ところで今度はあなたの番だ。ハハハハハハ御商売は」

すると相手の紳士は、一寸とりすまして見せて、意外なことを云うのである。

「私はね、これで一種のサンドイッチマンですよ。これからあなたにビラを配ろうという訳なんです」

何とまあ立派なサンドイッチマンであろう。

「イヤ決して冗談ではありません」と紳士は続けるのだ。「私は実は、あなたの様な猟奇……<ruby><rb>者</rb><rt>しゃ</rt></ruby>ですかね、つまり好奇心に富んだお方を、こうしてカフェなどを歩き廻って探すのが役目でしてね。それ丈けでちゃんと月給を頂いているのですよ。体のいいサンドイッチマン、も一つ言葉を変えて云えば」と内しょ声になり「つまる所<ruby><rb>妓夫太郎</rb><rt>ぎゆうたろう</rt></ruby>なんです」

青木は紳士の云うことが余り変なので、<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくら</rt></ruby>った形で、マジマジと相手の顔を眺めていた。

「ある秘密な<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>がありましてね」と紳士が説明する。「そこへは上流社会の方々、富豪とか大官とか、……………さえも、（殿方も御婦人もですよ）ひそかに御出入なさるのです。と云えば大抵お分りでしょう。こういうことは、普通なれば<ruby><rb>金壺眼</rb><rt>かなつぼまなこ</rt></ruby>のお婆さんか、<ruby><rb>辻待</rb><rt>つじまち</rt></ruby>の<ruby><rb>人力車夫</rb><rt>じんりきしゃふ</rt></ruby>が、紹介の労を取るのですが、ホラ、相手方が職業者ではない、身分のある御婦人です。<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>ってポン<ruby><rb>引</rb><rt>ぴき</rt></ruby>の<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>が<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>くの次第。ハハハハハその秘密な家はただ場所を提供して謝礼を頂くに過ぎませんが、絶対安全を保証する代りには、謝礼金もお安くありません。そこでお客様を選ぶのにこんな手数がかかるという訳です。お分りになりましたか。失礼ですがあなたなれば、充分資格がおありです。御風采といい、御身分といい、それから珍らしい猟奇者でいらっしゃるのだから」

聞くに従って、愛之助は酒の酔が醒めてしまった。この世の裏側の恐しさではない、世にも不思議なポン引紳士にめぐり合った嬉しさにだ。そこで彼は真面目になって、一膝のり出して<ruby><rb>細々</rb><rt>こまごま</rt></ruby>とした談判にとりかかるのであった。

## <ruby><rb>平家建</rb><rt>ひらやだて</rt></ruby>の家に二階座敷のあること

相手方がどんな人物か、<ruby><rb>予</rb><rt>あらかじ</rt></ruby>め知ることは出来ない。双方名前も、年も、身分も知らず、偶然その晩落合った者が一組を作るのだ。そして、一日一組以上の会合は絶対に避けることになっている。部屋代は一夜五十円で、それを相手方と<ruby><rb>折半</rb><rt>せっぱん</rt></ruby>で負担する。（この折半という所に値打がある。相手方も<ruby><rb>大枚</rb><rt>たいまい</rt></ruby>のお金を支出するのだ）二度目からは同じ相手方を選ぶとも、新らしい<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>を<ruby><rb>抽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて見るとも、そこは各自の自由である。というのが、ポン引紳士の所謂「秘密の家」の<ruby><rb>略規</rb><rt>りゃくき</rt></ruby>であった。

その家には、もう一人、ポン引貴婦人がいて、その婦人が同性のお客様を勧誘しているということだ。

「では一つ御案内願いましょう」

愛之助は酔いにまぎらせて、勇敢に出た。

「承知しました。ところで、固い様ですが部屋代は前金で御願いします。これは決してあなたをお疑い申す訳ではなく、刑事などがうまくばけて探りを入れるのを避ける為です。部屋代前金と云えば、刑事さんのポケットマネーじゃ。ちと骨でしょうからね」

「成程成程、念には念を入れる訳ですね」

愛之助はそこで所定の金額を支払った。

さて、カフェから自動車で二十分も走ると、もう目的の場所についた。案外にもそれは、<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby>区のとあるひっそりとした住宅<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>だ。二丁も手前で車を降りて、人通りのない淋しい町を歩いた。

「ここですよ」

紳士が指さすのを見ると、小さな門構えの中流住宅で、貸家の上りで生活しているといった構えだ。門から玄関まで一<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>あるかなし、家は古風な平家建である。

ポン引紳士は、その門の前に立ってキョロキョロと左右を見廻し、人通りがないと見定めると、「サア早く」と愛之助を押す様にして玄関に這入った。

「<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>らっしゃいまし」

敷台に三つ指ついて出迎えたのは、主婦であろう、四十がらみの品のよい<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>婦人だ。変なことに、その婦人が重箱みたいな白木の箱を持っていて、青木が敷台に上ると、手早く彼の下駄をその箱に入れ、それを片手に抱えて先に立つ。

それから、二<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>ばかり通り過ぎると、茶の間らしい部屋に出た。主婦は黙ってそこの押入れの<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開く。ハテナ、押入れの中に秘密の部屋でもあるのかしらと思って見ると、そうではない、やっぱり普通の押入れで、<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>などが入れてある。

主婦は襖を開いて置いて、それが合図なのであろう。一種異様の<ruby><rb>咳払</rb><rt>せきばら</rt></ruby>いをした。すると、これはどうだ。押入れの天井にポッカリと穴があいて、そこから真赤な電燈の光りが射して来た。天井板と見せかけて、その実<ruby><rb>上</rb><rt>あ</rt></ruby>げ<ruby><rb>蓋</rb><rt>ぶた</rt></ruby>になっているのだ。

「だが、この家は平家建てだ。二階がある筈はないが」

と思っていると、天井からスルスルと<ruby><rb>縄梯子</rb><rt>なわばしご</rt></ruby>が下り、それを伝って、一人の<ruby><rb>小女</rb><rt>こおんな</rt></ruby>が降りて来たが、<ruby><rb>召使</rb><rt>めしつかい</rt></ruby>であろう。彼に一礼してその場を立去った。

「お<ruby><rb>危</rb><rt>あぶの</rt></ruby>うございますが、どうかこれを」

と主婦が云うままに、青木はその縄梯子を昇った。

上って見ると、そこに奇妙な部屋がある。床は畳だけれど、天井も四方も一様の新しい板壁で、<ruby><rb>桝</rb><rt>ます</rt></ruby>をふせた様に窓も床の間も押入れもない。その癖、部屋の真中には新しい………………………、大きな丸胴の桐の火入れには、桜炭が赤々と燃え、銀瓶がたぎっている。天井からは小型ではあるが<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な装飾電燈が下っている。その電燈の色が血の様に真赤なのは、何か理由があるのであろうか。

分った分った。平家建ての屋根裏に、こんな密室を新しく作ったのだ。実に名案である。外から見たのでは、普通の平家建だから、下の部屋部屋に異状がなければ、とがめる者もあるまい。まさか屋根裏に窓のない部屋があろうなどと誰が想像するものか。しかも二階への通路は前述の通り用心深く出来ているのだ。

「これならば、全く安全ですね」

青木がお<ruby><rb>世辞</rb><rt>せじ</rt></ruby>を云うと、彼に従って上って来た主婦は愛想よく微笑しながら、<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き声で、

「でも、万一のことがあるといけませんから、ここに秘密戸がつけてあるのでございますの」

と云って、一方の板壁のどこかを押すと、ギイと音がして、そこが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くぐり</span>戸みたいに向うへ開くのだ。

「この中に低音電鈴が仕掛てございますの。若しものことがありました時は、下からそれを鳴らしますから、ジーという音が聞えましたらば、御召物や何かを持って、この中へ隠れていて頂きます、イイエ、そんなことがある筈はございませんけれど、万々一の用心ですわ」

青木は不必要と思われる程の用心深さに、ホトホト感心してしまった。

「では少々御待ち下さいませ、じきに御見えなさいますでしょう。それから、この縄梯子は上から引いて、上げ蓋を元通りになすって置いて下さいませ。御見えになりましたら、下からさっきの様な咳払いを致しますから」

主婦はお茶を入れると、そう云い残して下へ降りて行った。青木は云われるままに上げ蓋を元通りに直して置いて、………の座蒲団に坐った。………ばかりである。

青木は女についての<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかもの</span>食いでは、相当経験を持っている。港町の異国婦人、煙草屋の二階の素人娘、<ruby><rb>生花</rb><rt>いけばな</rt></ruby>師匠の素人弟子、紹介者は、凡て誠しやかな甘言を以て、世の<ruby><rb>好事家</rb><rt>こうずか</rt></ruby>を誘い込むのであるが、上べはどんなにとりすましても、多くはあばずれの職業婦人に過ぎないのだ。

「今夜も又その伝かな」と思う一方では、密室の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からくり</span>の余りの周到さに、ついポン引紳士の言葉を信じる気にもなる。少くとも彼には今夜の様な物々しいのは初めてだ。ポン引紳士の堂々たる<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>といい、この家の上品な構えといい、念にも念を入れた密室の仕掛けといい、どことなく従来経験したものとは違っている。

<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の紳士は「富豪や大官や………………」がお客様だと云った。それは又富豪夫人、大官令嬢、………等々々を意味するものでなくてはならぬ。と考えて来ると、愛之助は年にも似げなく、<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>な身震いを禁じ得ないのであった。

待つ間程なく、例の異様な咳払いが聞えて来た。「来たな」と思うと、一陣の臆病風がサッと彼の心を寒くした。だが、ここまで来ては<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>している訳にも行かぬ。愛之助は、オズオズと上げ蓋に近づいて、ソッとそれを開き、目をつぶる様にして縄梯子を投げおろした。

下でも躊躇の気配がする。それを主婦がうしろから小声で勇気づけている様子だ。

暫くすると、縄梯子がピンと伸びた。昇って来る。女の身で、縄梯子を。だが、あとで聞いた所によると、贅沢に慣れた上流階級の人達には、男にも女にも、恋の冒険を象徴するかの如きこの野蛮な縄梯子がひどく<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>に召しているとのことであった。

先ず見えたのは、美しく櫛目の通った丸髷だ。それから<ruby><rb>艶々</rb><rt>つやつや</rt></ruby>した紅色の顔、（というのは電燈が赤いからで）成熟した中年婦人の胸、等、等、等、等……

## 愛之助暗闇の密室にて奇妙な発見を<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>すこと

その人がどんな人柄であったか、どんな身分であったか、初対面の彼等が何を語り合ったか、赤色電燈の光が、かの鏡の壁にもまして、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に………………たか、等々々については、この物語の本筋に関係もなく、<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>り多き事柄なので、凡て略し、ただ当夜青木愛之助はいつもの様に失望しなかったとのみ申添えて置く。

だが、偶然にもその深夜に起った、低音電鈴事件については、お話の順序として、是非記して置かねばならぬ。

…………………彼等が、………………ウトウトと夢路をたどりかけた時、突如、板壁の裏に仕かけた例の低音電鈴が、水の底からの様に、ジジジ……と不気味に鳴り渡った。危険信号だ。

愛之助はギョッとして、いきなりピョコンと飛起きた。警官の襲来を受けた犯罪者の<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きょうがく</rt></ruby>である。

「大変です。着物を持って……何も残さない様に……隠れるんです」

彼は<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>に相手を揺り起した。

恋愛遊戯にかけては大胆にもせよ、物慣れぬ良家の女子は、こんな場合ひどく<ruby><rb>不様</rb><rt>ぶざま</rt></ruby>である。…………………………、…………………………、……………、…………………。狼狽の極脱いだ着物のありかが分らぬのだ。ふだんそんな姿を眺めたなら彼は余りの滑稽にふき出しもしたであろうし、又一方では、アペタイトをそそられもしたであろうが、だが今はそんな余裕もない。彼は手早く相手の衣服を掴み上げると、彼自身のと一緒に抱えて、相手の手を取り、引きずる様にして、例の隠し戸を開き、その奥の暗闇に逃げ込んだ。

中は天井もなく、<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の巣だらけの太い<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>が<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>に低く這っている。<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も立っては歩けない。それに床も、<ruby><rb>鋸目</rb><rt>のこぎりめ</rt></ruby>の立った<ruby><rb>貫板</rb><rt>ぬきいた</rt></ruby>が打ちつけてあるばかりで、<ruby><rb>其上</rb><rt>そのうえ</rt></ruby>に鼠の<ruby><rb>糞</rb><rt>ふん</rt></ruby>とほこりがうず高くたまっている。ひどい所だと思ったが、危険には換えられぬので、隠し戸を元の通りしめると、なるべく奥の方へ這って行って、身を縮めた。

真の闇である。両人とも囁き交す元気もない。お互いの烈しい<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>が聞きとれる程だ。

今にも鬼がやって来るかと、そうして待っている気持は、実に恐ろしい。

一分、二分、闇と無言の内に時が迫る。今来るか今来るかとビクビクものの、耳元へ、<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに咳払いの声、ソラ昇って行くから用心しろとの合図に相違ない。両人共、一層固く身を縮めた。女の震えているのがハッキリ分る。

それから二三度同じ咳払いの声が、隠れん坊の両人を縮み上らせたが、妙なことに一向人の来る気配もない。アア、縄梯子が上に引いてあるからだな。だが、それがなくとも<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>にいくらも昇る手段はある。と考えている時、例の上げ蓋の辺でガタリと音がした。下から棒で突いているのだ。上げ蓋が開いたらしい。それからあの音は下から縄梯子を引きおろしたのかも知れない。案の定、やがて、ミシリミシリ縄梯子を昇る音だ。

愛之助は苦痛に耐えなかった。心臓が破裂しそうだ。彼は追いつめられた野獣の様に、闇の中でキョトキョトと視線を動かした。と、墨の様な<ruby><rb>闇中</rb><rt>あんちゅう</rt></ruby>に、<ruby><rb>真紅</rb><rt>まっか</rt></ruby>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>とも見える細い一筋の光線を発見した、オヤと思って見直すと、板壁に小さな節穴があって、そこから例の赤電燈の光が洩れていることが分った。

愛之助は本能的にその方へ這いよって節穴に目を当てた。今昇って来る奴の様子を見る為である。一方上げ蓋の方ではミシリミシリという音がやまった。梯子を昇り切ったのであろう。そいつはもう板壁<ruby><rb>一重</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>の向側にいるのだ。だが、節穴が小さいのでその辺までは視線が届かぬ。向側の板壁が丸く限られて見えるばかりだ。

人の近づく気配、板壁に映る不気味な影、着物の肩先、最後に女の半身の大写し、この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の主婦の顔だ。

「お客様、お出になってもよろしいんでございますよ。本当に何とも申訳がございません。つい、それかと心配したのですけれど、何でもない人でございました。どうか御安心下さい」

「何のことだ。馬鹿馬鹿しい。それではさっきの咳払いは、単に縄梯子をおろせとの合図に過ぎなかったのか」

さて、この<ruby><rb>興醒</rb><rt>きょうざ</rt></ruby>めな出来事に、両人共何となく面はゆい気持になって、………………………、………………夜のあけるのを待ち兼ねて、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を別った。

と云う一場の失敗談に過ぎないのだが、因果の関係というものは、どんな所につながっているか、考えて見ると不思議である。この馬鹿馬鹿しい<ruby><rb>間違</rb><rt>まちがい</rt></ruby>が、実は両品川対面のいとぐちとなったのだ。若し青木愛之助が<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>のポン引紳士に出合い、この秘密の家に来て、偶然低音電鈴事件が起らなんだなら、あんなに早く、もう一人の品川四郎を発見することは、到底出来なかったに相違ない。なぜと云って、電鈴事件が起ったから、彼は隠し戸の奥の暗室へ這入ったのだ。そして、暗室へ這入ったればこそ、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の小さな節穴を発見し、それに不思議な興味を感じる様にもなったからである。

だが、彼がその奇妙な思いつきを発見したのは右の出来事の三日後であった。実に滑稽だった。併し、考えて見ると近来にない収獲だぞ。あの暗闇の中に、恐怖の為に冷汗をかいて震えた経験丈けでも、二十五円の値打はある。それに、あの家の用意周到な構造はどうだ。まるで探偵小説みたいだなどと楽しい<ruby><rb>反芻</rb><rt>はんすう</rt></ruby>をやっている内に、ふとそれに気づいたのである。そして彼はその不思議な思いつきに有頂天になってしまった。

「素敵素敵、こいつはとても面白くなって来たぞ」

で、早速<ruby><rb>外出</rb><rt>そとで</rt></ruby>の支度をすると、車を、例の秘密の家へと走らせた。念の為にポン引紳士を真似て、二丁程手前で車を降り、門を這入るにも、人通りのない折を待った。

主婦は彼を見ると驚いて云った。

「オヤ、もう御約束が出来まして」というのは、先夜の婦人と今日ここで落合う約束が出来たのかとの意味である。

「イヤ、そうじゃないんです。今日はあなたに一寸御相談がありましてね」愛之助はそう云って、ニヤニヤ笑った。

で、奥座敷に通される、襖を締切ってさし向いだ。

「奥さん、あなたは、こんなことをお金儲けの為にやっていらっしゃるのでしょうね」と愛之助は世間話から本題へ這入って行った。「でしょうね。そうだとすると、ここの現在の部屋代が数倍になる妙案があるのですよ。どうです。僕の妙案を御聞きになりますか」

「オヤ、それは耳よりでございますわね。でも、絶対秘密を売物にして、普通よりもお高い部屋代を頂いているのですから、そんなに慾ばって、一寸でも秘密が洩れる様なことがありましては」

と主婦は警戒する。

「イヤ、秘密に関係はないのです。実はね、あの隠し戸の外の暗闇でお金儲をしようという考えなんです。誤解しちゃいけませんよ。僕はこの妙案をさずけたからって、一銭だって割前は貰おうなんて云わないのだから」

「ヘエ、暗闇でお金儲けですって」

「分りませんか。あの密室の中に二人、外の暗闇に一人、<ruby><rb>一時</rb><rt>いちじ</rt></ruby>に三人のお客様です。というのは、あすこの板壁に目につかぬ程の節穴があるからですよ。ね、お分りでしょう」

「マアそんなことが」と、主婦は呆れ顔だ。

「イヤ、驚くことはありません。外国にはこれを商売にしている家がいくらもある」

と、そこで愛之助は、その外国の例について<ruby><rb>細々</rb><rt>こまごま</rt></ruby>と説明した。

「でも、中の方々が気づくと大変ですわ」

「大丈夫、あの節穴は<ruby><rb>極</rb><rt>ご</rt></ruby>く小さいのです。少し不便だけれど、大きくしては危険だからあのままでよろしい。まあやってごらんなさい。最初のお客様には僕がなります。イヤ笑いごとじゃありませんよ。でね、僕が先ずやって見て工合が悪い様だったら、僕限りでよしてしまえばいいでしょう。冗談でない証拠に暗室代を御払いします。これで一晩。悪くはないでしょう」

彼はそう云って、数枚の紙幣を主婦の膝の前に投出したのである。

## 愛之助両品川の対面を企てること

結局主婦は青木の為に口説き落されてしまった。

つまり彼は節穴の外の暗闇のお客様であって、そこから、赤い部屋の内部の、彼とは別の二人のお客様の、不思議な動作を盗み見る訳である。

青木愛之助がそこで、どの様な驚くべき光景を眺めたか、どの様な不健康な悦楽に耽ったか、それはしばらく陰のお話として、さて屋根裏部屋で、第一夜を経験してから約一ヶ月の後、（その間に一度名古屋へ帰っている）彼がフラフラと品川四郎を訪ねた所から、お話が始まる。

読者も知る通り、活動写真とかその<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>様々の意外な事実によって、通俗科学雑誌社長品川四郎は、彼と寸分違わぬ顔形の男が、この世のどこかに、もう一人存在することを信じない訳には行かなかった。

そのことは、品川と青木と二人丈けの秘密にしてあったけれど、雑誌社の編輯者達は、この頃、社長の品川四郎の様子が、何かしら常ならぬことを感づいていた。

「雑誌を止す気じゃあるまいか。親爺この頃ひどく熱がないね」

「氏はまるで雑誌のことなんか考えていないよ。何かしら氏の心を奪っているものがある。女かも知れない」

社員達はボソボソとそんなことを話し合った程である。

編輯所には神田区の東亜ビルの三階の数室を借りていたが、品川社長は、今日もお昼頃になってやっと出勤した。例の如くムッツリと黙り込んで、社長室へ入ると、そこの回転椅子に腰をかけて、何かしきりと考え事を始めた。

そこへ久方振りの青木愛之助が訪ねて来たのである。

青木は青ざめた、ひどく真面目な顔で、席につくと、うしろの編輯室との境のドアを気にしながら、

「あっちへ聞えやしないか」

とソワソワ尋ねる。

品川の方でも青木が這入って来たのを見ると、何かしらギョッとした様子で唇を白くしたが、

「大丈夫。ガラス戸だし、外の電車や自動車の音がひどいから。……で、一体何だね」

と声を低くした。

「この十五日の夜、君はどこで寝たか記憶しているだろうね」

青木は妙なことを聞くのだ。

「十五日と云えば、先週の土曜日だね。どこで寝たって、どこで寝る筈がないじゃないか、東京にいれば家で寝るに極っている」

「確かだね。変な場所へ泊りやしまいね」

「確かとも。だが、どうしてそんなことを聞くのだい」

「じゃね、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>だ。昨夜君はどこにいた。十一時から十二時頃までの間さ」

「十一時には、自分の居間の蒲団の中にいたよ。それから今朝までずっと」

「まさか君が嘘を云っているのじゃあるまいね」と青木はまだ疑わしそうに「それじゃ聞くがね、君は麹町の<ruby><rb>三浦</rb><rt>みうら</rt></ruby>って云う家を知らないかね。そこの屋根裏の赤い部屋を」

「知らん。だが、君はそこであいつに逢ったとでも云うのかい」

品川四郎は思い切ってそれを云った。云ってしまって、真青になった。「あいつ」とは云うまでもなく、もう一人の品川四郎のことである。

「逢ったのだよ。しかも非常に変な逢い方なのだ」

「話してくれ給え。そいつは一体どこの何と云う奴だ、そこで何をしていたのだ」

品川は非常な<ruby><rb>剣幕</rb><rt>けんまく</rt></ruby>で、青木の腕を掴まんばかりにして尋ねる。

青木はそこで、はやる品川を制して置いて、先夜ポン引紳士に廻り合ってから、節穴を発見したまでの、不思議な経験を手短かに説明して、

「お<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby>を説きふせると、その晩から、僕は赤い部屋の外側の暗闇の密室のお客様になった。そして、今日までに都合五組。それがどちらも商売人でない紳士と淑女の初対面なのだから、何とも云えぬ<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い感じなのだ。彼等が最初の間、どんなに<ruby><rb>気拙</rb><rt>きまず</rt></ruby>くはにかみ合うか。そして、最後には、どんなに無恥に大胆になるか。その人間の気持の<ruby><rb>推移</rb><rt>すいい</rt></ruby>を見るのは、どんなえぐった小説を読むよりも、もっと恐ろしいものだよ。僕はその意味丈けでも、数十金の価は充分あると思うのだ」

「それで、あいつがその赤い部屋へ現われたのは？」

品川は悠長にそんな話を聞いている余裕がない。

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>なのさ。僕の<ruby><rb>隙見</rb><rt>すきみ</rt></ruby>の第五夜だ。丸くぼかした視野の中に、君の、その顔が、ヒョッコリ現われた時には、僕はもう少しで<ruby><rb>叫声</rb><rt>さけびごえ</rt></ruby>を立てる所だった」

「そして、あいつが、やっぱり<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>の連中と同じことをやったのだね」

品川はチョビ髭の生えた大人の顔を、うぶな子供の様に真赤にして、どもりどもり云った。

何ということだ。彼と寸分違わぬ男が、<ruby><rb>閨房</rb><rt>けいぼう</rt></ruby>の遊戯を、彼の親しい友達に、すっかり見られてしまったのだ。彼と寸分違わぬ男がだ。品川が赤くなったのも無理ではない。

「そうだよ。しかもそれが並々の遊戯ではないのだ」

青木は意地悪く相手の顔をジロジロ眺めながら、

「君に君自身の醜態を隙見する勇気があるかね。若しあれば、今夜それが出来るのだが」

青木は実は、これが云い<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>くて、態々ここへ出向いて来たのだ。意地悪ではない。猟奇者青木は、二人の品川四郎のこのいとも奇怪なる対面を想像した丈けでも、ウズウズと生唾が湧く程、食慾をそそられたからである。

「今夜、そいつが、その家へ来るのか」

品川は当事者である。青木の様に<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>ではいられない。彼は唇を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>め嘗め、<ruby><rb>嗄</rb><rt>しゃが</rt></ruby>れた声で云った。

「そうだよ。僕はそいつの帰るのを待ち兼ねて、お神に尋ねた。そいつの所も名も無論分らない。分らない様な営業方針になっているからだ。で、いつ頃から来始めたのかと聞くと、今月の十五日が最初で、昨夜が二度目、今夜も又来る約束になっているという話なのだ。君は僕と一緒にそこへ行って見る勇気はないか。僕は今夜こそ、あいつを尾行して、住所も名前も確めてやろうと思っているのだが」

品川は中々返事をしなかった。だが、長い躊躇のあとで、とうとう決心をして叫んだ。

「行こう。俺もそいつの正体を確めないではいられない」

## 両人奇怪なる曲馬を隙見すること

その夜十一時頃、青木と品川とは、<ruby><rb>已</rb><rt>すで</rt></ruby>に三浦の、家の赤い部屋の外の暗闇に潜んでいた。お神は二人連れでは危険だからと云って中々承知しなかったが、青木が札びらを切って、やっと納得させた。品川は色眼鏡とつけ<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>で変装していた。全く同じ顔の客が二人来たのでは、お神の疑いを招くからである。

青木はたった一つの小さな節穴に目を当てて、今か今かと登場人物を待ち構えていた。品川は青木に代ってそこを覗く勇気はなく、ごみだらけの板敷の隅っこに<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずくま</rt></ruby>って、何かの黒い<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>みたいに、身動きもしないでいた。

青木の目の前には、真赤な幻燈の様に、部屋の一部がまん丸に区切られて見えた。向う側の板壁、そこに貼った<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>い模様の壁紙を背景にして、丸胴の桐の火鉢と、妖婦の唇の様に厚ぼったくふくれ上った、<ruby><rb>緋色</rb><rt>ひいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>緞子</rb><rt>どんす</rt></ruby>の蒲団の小口とが視野に這入った。火鉢にかけた銀瓶がたぎって、白い湯気が壁紙の模様をぼかしていた。

「君、どんな奇態なものを見ても、声を立てて相手に悟られる様なことをしてはいけないよ。それ丈けは注意してくれ給えね」

青木は万一を<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>って、繰返し念を押した。品川は聞えるか聞えぬ程の声で、ウンウンと<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いていた。

暫くすると、例の縄梯子を上る音がミシリミシリ聞えて来た。

男か女か。……青木は<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をやめたい程の気持で、身動きもせず待ち構えた。心臓の鼓動が非常にやかましく耳につく。品川もそれを察して、墨の様な闇の中で、一層身をかたくした。

視野に現われたのは、見覚えのある婦人だ。三十余りの大柄なよく発達した肉体だ。黒っぽい<ruby><rb>金紗</rb><rt>きんしゃ</rt></ruby>の衣類がネットリと<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>いついている。<ruby><rb>艶々</rb><rt>つやつや</rt></ruby>と豊かな洋髪の下に、長い目、低い鼻、テラテラと光った厚い唇、と云って決して<ruby><rb>醜婦</rb><rt>しゅうふ</rt></ruby>ではない。どこかしら異常な魅力のある顔だ。酔っているらしく、<ruby><rb>相好</rb><rt>そうごう</rt></ruby>がだらしなくくずれている。

彼女はそこへベッタリ坐ると、この寒いのに、火鉢に手を<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>そうともせず、「オオ熱い」と<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を云って、指環の光る両手でベタベタと頬を叩いている。

青木は疲れて来ると、穴から目を離して腰を伸ばすのだが、何の変化もないと知りながら、じき又元の姿勢に<ruby><rb>復</rb><rt>かえ</rt></ruby>らないではいられぬ。待ち遠い時が、十分二十分とたって行った。

だが、とうとう、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>から合図の咳払いが聞えた。婦人はハッとして視野から影を消すと、上げ蓋を開いて、縄梯子をおろす音、やがて、ミシミシと何者かがそれを上って来る気配。

青木は左手を闇に伸ばして、蹲っている品川の肩をソッと叩いた。今来るぞという合図である。品川はビクリと身体を固くした。

青木の視野に、先ず婦人が戻って来た。

「大変待たせましたね」

アア、それは品川四郎その人の声ではないか。

「それ程でもなくってよ」

婦人の唇が動いて、トーキーみたいに喋る。

<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>がポイと投げ出され、その<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>の所丈けが視野に這入る。それから、黒い洋服の腕が、青木の前で、スーッと弧を描いたかと思うと、やがて男の全身が、彼も又酔っているのか、フラフラとそこへくずれた。向うを向いているけれど、間違いなく昨夜の男、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ちもう一人の品川四郎である。

青木も流石に胸がドキドキして来た。今こそ両品川の異様な対面が行われるのだ。

彼はソッと目を離して、闇の中に品川の腕を探り、それを掴むと軽く引いた。だが、品川はブルブル震えて立とうともしない。青木は掴んだ指先で「何をグズグズしているのだ」と叱って、グッグッと引っぱる。引っぱられるままに、品川の顔が節穴に近づく。真赤な光線が彼の汗ばんだ額を<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>にサッと切る。そして遂に、彼の目は吸い寄せられる様に、小さな穴に、ピタリと喰っついてしまった。

青木は闇の中に目を据えて、次第にはずむ品川の呼吸を、若しや先方に悟られはせぬかと、ヒヤヒヤしながら聞いていた。

板壁の向うでは、低い囁き話と、時々身動きをするらしい物音が聞える。

暫くすると、はずんでいた品川の呼吸がピタリと止まった。アア、とうとう彼は向う側の品川の顔を見たのだ。両品川が正面切って向きあったのだ。

品川の右手が、青木の肩先をグッと掴んだ。「見た」という知らせである。死んだ様に止まっていた呼吸が元に<ruby><rb>復</rb><rt>ふく</rt></ruby>すると、前にもましたはげしい息遣いで、彼の全身が波打った。

アア、かくも不思議な対面が、又と世にあろうか。品川四郎は今、真赤な幻燈のまん丸な視野の中で、一間とは隔てず、自分自身の姿を凝視していたのだ。しかも、…………。

彼はまるで<ruby><rb>続飯</rb><rt>そくい</rt></ruby>づけになった様に、いつまでたっても節穴から離れようとはしない。肩先を掴んだ彼の指の表情によって、彼の………………………、…………………………、青木は板壁の向う側の光景を、目で見る以上に想像することが出来た。想像であるが故に、それは実際よりも…………………………、彼をさいなんだ。かれはそうした間接的な隙見の魅力というものを、初めて発見したのである。

長い長い間であった。しんしんと<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>け渡る冬の夜、暗闇の屋根裏で、併し彼等は寒さをも感じなかった。………………………………、殆ど彼等を無感覚にしてしまったのだ。

品川は遂に目を離して、青木の肩を引き寄せた。代って見よとの合図である。彼はもう、この上彼自身の奇怪な動作を見るに耐えなかったのであろう。

青木が代って、真赤な丸い幻燈絵が再び彼の前にあった。だが、それが何とまあ意外な光景であっただろう。貴婦人は曲馬団の女のつける様な、ギラギラと<ruby><rb>鱗</rb><rt>うろこ</rt></ruby>みたいに光る衣裳をつけ、<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶし</rt></ruby>の品川四郎の背中へ馬乗りになっていた。馬は勿論着物を、…………………………。乗手の貴婦人も衣裳とは名ばかりで、近頃流行のレヴュウの踊子の様に、…………………。

そして、何と驚いたことには、馬の品川四郎は貴婦人の騎手を乗せて、首を垂れて、グルグルと部屋中を這い廻っているのだ。

馬の口からは真赤な腰紐が<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>である。乗手はそれをグングンと引いて、ハイシイハイシイと腰で調子を取って行く。見事な調馬師だ。

その内哀れな<ruby><rb>痩馬</rb><rt>やせうま</rt></ruby>は、とうとう力尽きて、ペシャンコに畳の上にへたばってしまった。……………………、………………。立上った女騎手はそれを見て、さも心地よく声を上げて笑ったが、次には倒れた痩馬の上での、残酷な舞踏である。グタグタに踏まれて蹴られて、馬はもう虫の息だ。さい前からずっと下向きになっているので、……………馬の表情を見ることが出来なかったけれど、力なくもがく手足の様子で、この見知らぬ品川四郎の心持を察しることが出来た。

ハッと思うと、女曲馬師は、男の肩とお尻に両手をついて見事な大の字なりの逆立ちをやっていた。そして、それがグラグラとくずれたかと見る間に、彼女はポイと身を飜えして、俯伏の男の頭の上へ、…………………………。ゼンマイ仕掛けの、…………、……………、…………………………。

<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>にして真赤な光線に彩られ、桃色に見える二つの影絵は、あらゆる姿態を尽して、夢のようなデュエットを、果しもなく続けて行くのであった。

## 自動車内の曲者煙の如く消え失せること

「今度はいつ？」

着物を着て、すっかり、身じまいを終った婦人が、甘える調子で尋ねた。

「来週の水曜日。<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつかえ</rt></ruby>はない？」

節穴の視野の外で、男も外套を着ながら答えた。

「じゃ、きっとね。時間は今夜位」

婦人はそう云って、もう縄梯子に足をかけたらしく、例の特殊の音が聞えて来た。

男女は降りてしまって、暫くすると、主婦の咳払いが幽かに聞えた。もう帰ったから降りて来ても大丈夫という知らせである。

青木、品川の両人は<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>に降りると、主婦への挨拶もそこそこに、大急ぎで表へ出た。云うまでもなく、もう一人の品川四郎を尾行する為だ。

半町程向うの町角で、二人は今別れて、男は右へ女は左へと歩み去る所であった。気づかれぬ様尾行して行くと、男は近くの電車通りへ出た。だがもう二時を過ぎているので電車のあろう筈はない。時たま徹夜稼ぎの円タクが、広い通りを我物顔に、ピュウピュウと走って行くばかりだ。男はその一つを<ruby><rb>捉</rb><rt>つかま</rt></ruby>えて乗込んだ。

まさか尾行を感づいた訳ではあるまいが、この早業に、青木も品川もハッとして、隠れていた場所から電車道へ走り出した。と、うまい<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に、そこへ一台の空自動車だ。二人は早速それに乗込むと、

「前の車だ。あれを見失わぬ様に、どこまでも尾行してくれ給え」

と命じた。

「大丈夫ですよ。この夜更けに、まぎれる車がないから、めったに見失うことはありゃしませんや」

運転手は心得顔にスタートした。

<ruby><rb>砥</rb><rt>と</rt></ruby>の如き深夜の大道を、<ruby><rb>二筋</rb><rt>ふたすじ</rt></ruby>の白い光が<ruby><rb>雁行</rb><rt>がんこう</rt></ruby>して飛んだ。<ruby><rb>追駈</rb><rt>おっか</rt></ruby>けである。

青木と品川は、車中に及び腰になって、<ruby><rb>傍目</rb><rt>わきめ</rt></ruby>もふらず前方を見つめていた。数間の向うを怪物の車が走る。その後部のガラス窓にそれらしい中折帽が揺れている。

「アッ、しまった。奴気づいたらしいよ」

品川が叫んだ。先の車の中折帽がヒョイとうしろを振向いたのだ。白い顔がボンヤリと見えた。と思うと、突然、前の自動車の速力が加わった。またたく間に五間十間両車の距離が遠ざかって行く。

「追駈けるんだ。速力は大丈夫か」

「大丈夫でさあ。あんなボロ車。こっちは新型の六気筒ですからね」

走る走る。天地が爆音ばかりになってしまった。

だが十分程も全速力で走ると、とても敵わぬと思ったのか、先の自動車がバッタリ停車した。

「ここはどこだね」

「赤坂<ruby><rb>山王下</rb><rt>さんのうした</rt></ruby>です。止めますか」

「止めてくれ給え、止めてくれ給え」

見ていると、男は車を降りて、賃銀を払うと、そこの横丁へ這入って行く。青木、品川は、云うまでもなく自動車を捨てて男のあとを追った。

だが非常に意外なことには、相手が横丁へ這入ったので、尾行する積りで、ヒョイとその角を曲ると、曲った所に当の男がこちらを向いて立止っていた。

二人はギョッとしてたじろぐ。それを見て男の方から声をかけた。

「あなた方、僕に何か御用がおありなんですか。さい前からあとをつけていらっした様ですが」

飛んでもない変てこなことが起った。よく見ると、まるで人違いなのだ。相手の顔には品川四郎の面影さえない。だが、三浦の家を出てから一度も見失ったことはないのに、いつの間に人が変ってしまったのか、狐につままれた感じである。仕方がないので<ruby><rb>詫言</rb><rt>わびごと</rt></ruby>をして、念の為にあすこにいるあの自動車からお降りなすったのでしょうね。と確めると、そうだとの答えだ。

「変だね。まるで魔法使いみたいだね」

「変装すると云ったって、あんなに顔が変るものじゃないし。……服装はどうだね。赤い部屋で着ていた服はあれだったかい」

「それがハッキリしないんだ。赤い光りの下で、しかも小さな節穴から見たんだからね。似ている様にも思うけれど、オーバーコートの<ruby><rb>色合</rb><rt>いろあい</rt></ruby>なんて、同じのがいくらだってあるからね」

二人は男に別れて、そんなことを話しながら、元の電車道の方へ歩いた。疑問の男をのせて来た自動車は、もう出発して、半丁も向うを走っている。

「ア、しまった」突然品川四郎が叫んだ。「オーイ、その自動車待て」

品川が駈け出すので、青木も理由は分らぬけれど、兎も角彼に習って、車を呼びながら走った。外の自動車で追っかけようにも、さい前彼等が乗って来たのは、とっくに出発して、問題の車のずっと前方に走って居た。

結局、十間も走るか走らぬに思いあきらめる外はなかった。

「どうしてあの車を追駈けたんだ」

小さく遠ざかって行く尾燈を目で追いながら、青木が尋ねた。

「運転手の顔を見てやろうと思ってさ」品川が答える。「あんなに一度も目を離さなかった男が、別人と変っているなんて、あり得ないことだ。ひょっとしたら、あの僕と同じ顔の男が、座席を入れ変って、今の車の運転手になりすまして逃げて行ったのではないかと思ったのだよ。……だが、まさかそんな活動写真みたいな真似もすまいね。別に僕達を恐れて逃げ出さなければならない理由はないのだからね」

で、結局この追跡は不得要領に終った。彼等が自動車を見違えたのか、又は彼の男が故意に<ruby><rb>偽瞞</rb><rt>ぎまん</rt></ruby>を行って彼等をまいてしまったのか、いずれとも断定し兼ねた。つまり狐につままれた感じである。その夜の出来事全体が飛んでもない幻を見ていたのではないかとさえ思われて来るのだ。

## 品川四郎闇の公園にて<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>すること

青木愛之助はそれから一週間ばかり東京にいたが、もう一人の品川四郎の正体については、あやふやのまま帰郷しなければならなかった。

赤い部屋で男が「来週の水曜日」と女に約束をしたのを覚えていて、その水曜日を待って、<ruby><rb>態々</rb><rt>わざわざ</rt></ruby>三浦の家へ出向いて見たが、どうしたのか男も女も影さえ見せなかった。主婦は「今夜という御約束なのに」と不審がっていた。

「やっぱり、あいつはあの自動車に乗っていたらしいね。運転手を身替りに立てたという君の想像が、当っているかも知れない。奴、まさか自分と同じ顔の男が追駈けたとは知るまいが、どうせ悪いことを働いている奴だ。こいつは危いと思って、例の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ来るのを見合わせたのだよ」

青木が云うと、苦労性の品川は非常に心配そうな顔になって、

「それ丈けならいいんだが、……若しや奴は僕達を感づいてしまったのじゃあるまいか、あの時追駈けたのが奴と見分けられない程よく似た男だということを知ってしまったのじゃあるまいか。そうだとすると、これは飛んだ<ruby><rb>藪蛇</rb><rt>やぶへび</rt></ruby>だよ。相手は悪者だ。僕を身替りに立てて、どんな企らみをするか知れやしない。僕はそれを考えると何とも云えぬ変な気持がする。怖いのだよ」

と、二人の間にそんな会話が取り交されたことだが、この品川の心配が決して<ruby><rb>取越</rb><rt>とりこし</rt></ruby>苦労ではなかったことが、後に至って思い合わされたのである。

それは兎も角、それから二ヶ月ばかり別段のお話もなく過ぎ去った。その間、青木は一週間位ずつ二度上京しているが、もう一人の品川四郎はどこにもその影を見せなかった。あんな奇怪な人物がこの世に存在したことが、すっかり夢ではなかったかと思われた程だ。だが、品川はそれを逆に考えて、今頃どこかの隅であの男が、品川という絶好な身替りを種に、非常に大がかりな悪事を計画最中なのではないかと、そればかりを苦にしていた。

で、三月のある日、それは青木愛之助の住む名古屋での出来事だが、すっかり忘れていた怪人物が、又々彼の前に姿を現わしたのである。

友達とカフェーで夜を更かして、別れての帰り道であった。青木の家は<ruby><rb>鶴舞</rb><rt>つるまい</rt></ruby>公園の裏手の郊外といった感じの場所にあったが、季節にしては暖い晩だったし、酔ってもいたので、車にも乗らず態と廻り道をして、彼は木立の多い公園の中をブラブラと歩いて行った。

噴水の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>を通って、坂道を奥の方へ昇って行くと、森林といってもよい程、大木の繁った箇所がある。その真中に袋小路になって、ポッカリと五六坪の空地があり、そこに坂道を昇った人達の休憩所にと、二つ三つベンチが置いてある。四方を林で取囲まれた公園中での秘密境なので、若い市民達の<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>場所には持って来いだ。猟奇者青木は、嘗つてそこで、媾曳の隙見という罪深い楽しみを味った経験を持っている。

それは今も云った袋小路のつき当りにあるのだから、帰宅するのに、何もそこを通ることはないのだが、いたずらな運命の神様が彼を誘ったのか、青木はふとその空地の方へ行って見る気になった。

もう十二時近くの夜更けで、公園に這入ってから殆ど人を見なかった程だから、そこも多分ガランとした空っぽの暗闇だろうと思ったが、闇の魅力、ひょっとして何か素ばらしい発見があるかも知れないという好奇心が、彼をそこへ連れて行った。

ところが、坂を昇り尽して木立の間から、ひょいと見ると、これはどうだ、獲物がある。その方の係りの刑事は、公園の中の一定の場所へ行って、茂みの蔭に寝転んで待っていれば、どんな晩でも一組や二組の媾曳を検挙するのは訳はないとの話だが、成程成程、経験者の言葉は恐ろしいものだと思いながら、青木は立止って、丁度その刑事がする様に、大きな木の幹を<ruby><rb>小楯</rb><rt>こだて</rt></ruby>に、暗中の人影に目をこらし、耳をすました。

ボーッと白く二つの顔が見える。だが、服装も顔の形も全く分らない。ただ声だけが手に取る様だ。彼等は人がいないと安心して普通の声で話している。

「では暫くお別れです。今夜東京へ帰れば当分来られませんから」

男の声が云う。

「宿でおっしゃったこと、お忘れなくね」女の声が甘える。「あの家へ御手紙を下さるわね。せめて御手紙でも度々下さらなきゃ、あたし我慢が出来ませんわ」

「エエ、精々どっさりね。あなたも忘れちゃいけませんよ。じゃ、これでお別れにしましょう。もう汽車の時間だから」

ボーッとして白いものが、双方から近寄って、ピッタリと密着した。長い長い間密着していて、やっと離れた。

「あたし、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に帰るのが、何だか怖くって。……」

「あの人にすまんと云うのでしょう。又始まった。大丈夫ですよ。決して感づきゃしませんよ。先生僕が名古屋へ来ているなんて、まるで知らないのですからね。それに今夜は帰りが遅い筈じゃありませんか。サ、早く御帰りなさい。あの人より先に帰っていないと悪いですよ」

不良青年ではない。言葉の様子では相当の紳士である。相手の女も決してこんな場所で媾曳する様な柄ではない。女が「宿」と云った。そこで逢ってから、男が女を送って来たのか女が男を送って来たのか（地理の関係から云って、多分前の方だが）「宿」で分れ去るに忍びなかったものであろう。

「あの人にすまん」というのは、女に定まった亭主でもあるのか。「あの家へ手紙を下さい」と云ったのを見ると、自宅へ手紙が来ては悪い事情があるのだろう。どう考えても<ruby><rb>有夫姦</rb><rt>ゆうふかん</rt></ruby>だ。それに、男は東京から態々逢いに来ている。

「イヤハヤ、お安くない事だわい」

まだ何事も気附かぬ青木は、この思いがけぬ収獲に、ひどく嬉しがっていたのだが。……

やがて男女が別れて、男が先に彼の方へ降りて来る様子に、ハッとして、思わず十数歩あと戻りした青木が、丁度常夜燈の下で、ひょいと振り向く<ruby><rb>出会頭</rb><rt>であいがしら</rt></ruby>に、近づいた男の顔が電燈に照らされて、ハッキリ分った。それが、何という意外なことだ。東京にいるとばかり思っていた、かの品川四郎の顔ではないか。

「ア、品川君」

思わず口をついて出た。

「エ？」

相手も立止ったが、妙な顔をしてジロジロ青木の顔を眺めている。<ruby><rb>気拙</rb><rt>きまず</rt></ruby>いのだなと思って、何も知らぬ体にして、

「どうしたんだ。今時分こんな所で」

と話しかけても、相手はやっぱりこわばった顔をくずさないで、変なことを云うのだ。

「君は誰ですか。人違いじゃありませんか」

「僕？　僕は君の友達の青木だよ。しっかりしたまえ」

「一体あなたは僕を誰だと思っていらっしゃるのですか」

「知れたこと、品川四郎だと思っているよ」

と云いさして、青木はふと黙ってしまった。久しく忘れていた、恐ろしい事実を思い出したからである。

「品川四郎？　聞いたこともありませんね。僕はそんなものじゃないですよ。………急ぎますから」

袖を払う様にして立ち去る相手の後姿を見守って、青木は呆然と立ちつくしていた。

<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>だ、二月前自動車の中から魔法使いの様に消え失せてしまった、あのもう一人の品川四郎だ。何という意外な場所で再会したものであろう。

青木は殆ど無意識にその男の跡を追った。坂を降り切って、噴水のあたりまでも。

だが、考えて見るとこの男は東京へ帰るのだ。停車場へ行くに極まっている。流石の猟奇者も、このままの姿で東京まで尾行する勇気はなかった。それに懐中も乏しいのだ。時計を出して見ると、彼の乗るに相違ない東京行急行の発車までには、やっと駈けつける時間を余すばかりだ。<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も一度帰宅して旅装をととのえる余裕はない。

青木は諦めて、無駄な尾行を止してトボトボと家路に向った。

公園を出て、広い新道路を五六丁も行くと彼の邸宅がある。考え考えその道の<ruby><rb>半程</rb><rt>なかほど</rt></ruby>まで歩いた時、彼はふとある恐ろしい考えに襲われて、ギョッと立ち止ってしまった。

余りに意外な<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>だった為か、その時まで、彼は<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の男の声のことを忘れていたが、そう云えば、姿を見なくとも、あれは赤い部屋でおなじみの、もう一人の品川四郎の声に相違なかったではないか。本当の品川と非常によく似ている様で、どこか違った所のある、あの声に相違なかったではないか。どうして、そこへ気がつかなんだのであろう。と考えて来ると、それに関聯して、ふと相手の女の方の声を思い出した。

「イヤ、あれも聞き覚えのない声ではなかったぞ」

途端、稲妻の様に、ある<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>すべき考えが、ギラッと彼の頭の中にひらめいた。

「馬鹿な、そんなことがあってたまるものか。お前はどうかしているのだ。まるでアラビア夜話みたいに荒唐無稽な妄想じゃないか」

と思い直して見ても、さっきの女の、甘えた声の調子が、耳について離れない。まさかとは思うものの、まさかと思った品川四郎が、公園の暗闇から現われさえしたではないか。彼の全く知らぬ蔭の世界で、どんな意外な出来事が起っているか、分ったものではないのだ。

青木は突然走る様に歩き始めた。遥かに見えている彼の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>の洋館の二階へ目を据えて、息をはずませ、暗闇の小石につまずきながら、恐ろしい勢いで歩き始めた。

## 夕刊の写真に二人並んだ品川四郎のこと

青木愛之助は此頃悪夢に悩み続けていた。友達の科学雑誌社長の品川四郎が<ruby><rb>離魂病</rb><rt>りこんびょう</rt></ruby>みたいに二重にぼやけて、あっちにもこっちにも存在する。しかも顔から姿から声までも、一分一厘違わない二人の奴が、同じ部屋で対面さえしたのだ。彼は品川四郎と一緒になって、そのもう一人の品川四郎を追駈け廻すけれど、相手は、どこか化物じみた風で、巧みに身をかわし、姿をくらましてしまう。青木も品川も、数ヶ月というもの、このいまいましい奴の探索にかかり果てている始末だ。

だが、これまでは別に害をする訳ではなく、ひどく不気味は不気味ながら、直接恐怖を感じる程のことはなかったのだが、最近に至って、ギョッとする様な途方もないことが起った。というのは、ある晩青木愛之助が、名古屋の鶴舞公園で、そのもう一人の品川が、どこかの奥さんとひそひそ話をしている所へぶつかった。しかも、相手の奥さんというのが、顔かたちはハッキリ見えなかったけれど、声の調子が、どうやら聞き覚えがあった。「若しや」と思うと、青木はもう<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になって、その実否を確める為に、我家へ走り出さずにいられなかった。

だが、彼の美しい細君は、別に変った様子もなく、にこやかに彼を迎えた。玄関を這入って、外套などをかけてある小さなホールで、ドキドキして立止っていると、一方のドアが開いて、サッと明るい電燈が漏れて、そこから<ruby><rb>芳江</rb><rt>よしえ</rt></ruby>の小さい恰好のいい頭が覗いた。

「アラ、どうかなすって」

寧ろ彼女の方で、彼の変に蒼ざめた様子を疑った程である。

青木は黙って部屋に這入るとソファに埋まった。

彼は月々の東京行きに、三度に一度位の割合で細君を同伴しているので、細君と品川とは冗談を云い合う程の間柄になっている。品川の方で名古屋の彼の住居を訪ねたことも二三度はある。だから、もう一人の品川四郎がそれを利用して、つまり旧知の品川四郎として、芳江に近づき、彼女をある深みに<ruby><rb>陥</rb><rt>おとしい</rt></ruby>れたというのは、想像されないことではない。

細君のことだから、彼にしてはもう不感状態になっているけれど、一般的に、彼女は充分美人であった。あのえたいの知れぬ幽霊男が、彼と寸分違わぬ品川四郎の存在を気づき、それを利用して何か悪事を企らむとすれば、さしずめ青木の細君などは、最も魅力ある獲物に相違なかった。

芳江の側から考えても、それは全くあり得ない事柄ではなかった。青木は彼の猟奇癖の為に、又<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>き<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>の為に、殆ど細君の存在を無視して暮して来た。月の内十日程も東京へ行っていたり、名古屋にいる時でも、多くは<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>で夜更かしをして、細君とむつみ語る機会は非常に<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>であった。芳江が愛に餓えていたのは誠に当然のことである。それに彼女は決して、昔の女大学風な固くるしい女性ではなかった。つまり彼女の方にも、充分隙があったのだ。悪魔はちょっと手を下しさえすればよかったのだ。

愛之助はソファに埋まったまま、なるべく芳江の方を見ぬ様にして、もう一度そんなことを考えて見た。だが、彼女は、どうしてこうも平気でいられるのかしら。

「あなた、なぜそんなに黙り込んでいらっしゃるの。怒っているの」

彼女は<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>無邪気である。

「そうじゃないんだが。女中達もう寝てしまった？」

「エエ、つい今し方」

「君、今夜どっかへ出掛けたの」

「イイエ、どっこも」

彼女はそう答えて、テーブルの上にふせてあった、赤い表紙の小説本に目をやった。実に自然である。愛之助は自分の細君が、こんなお芝居の出来る女だとは信じ得なかった。

「俺はどうかしているんだ。飛んでもない妄想にとらわれているのだ。さっきの男だって、本当に品川四郎の顔だったかどうか」思い出そうとすると、段々曖昧になって来る。

「今公園で、品川四郎君に逢った」

彼はそう云って、芳江の態度に注意した。

「品川四郎さん？　東京の？」

彼女は本当に驚いている。

「どうして、うちへいらっしゃらなかったのでしょう」

無論彼女はまだ、奇怪なる第二の品川四郎については何事も知らないのだ。

暫く話し合うと、愛之助はすっかり安心してしまった。こんな無邪気な女に何が出来るものかと、軽蔑してやりたい位だった。

一週間ばかり事もなく過ぎ去った。その間に芳江に対する疑惑を新たにする様な出来事は何も起らなんだ。注意していたけれど、例の男からの手紙も来た様子はなかった。

で、ある日、少々圧迫を感じる程も春めいてお天気のよい日であったが、愛之助は芳江と同行で東京行きの特急に乗った。午後の汽車は、ほこりっぽく、むしむしと暑くて、おまけに退屈だった。極り切った百姓家と畑と森と立看板とが、うんざりする程いつまでも続いた。細君には別に話もなかった。

<ruby><rb>沼津</rb><rt>ぬまづ</rt></ruby>で東京の夕刊を買った。二面の大きな写真版。東京駅に着いたＳ<ruby><rb>博士</rb><rt>はかせ</rt></ruby>と出迎えの何々氏。Ｓ博士というのは日本人にも有名な<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>の科学者、旅行の途中<ruby><rb>上海</rb><rt>シャンハイ</rt></ruby>から大阪を経て今朝東京へ着いたのだ。今晩講演会があると書いてある。愛之助は白髪の博士などに別段興味はなかったが、出迎えの何々氏何々氏の一番隅っこに、通俗科学雑誌社長品川四郎のモーニング姿が見えたので、これはと思ったのだ。品川は講演会の通訳をするらしい。

「どうも活動家だな」

とニヤニヤしながら、なおもその写真版を見ていると、妙なものを発見した。

「品川の奴、慾ばって二つも顔を出している」

と考えてギョッとした。一枚の写真に同一人が二つに写る訳はない。又しても、例の幽霊男だ。写真には博士と出迎えの人々の外に、うしろから無関係な群集の顔が覗いているのだが、その顔共の中に、ハッキリともう一人品川四郎が笑っている。

果して幽霊男の方では、品川四郎というものに気附いて、そのあとをつけ廻しているのだ。何かの悪事を企らんでいるのだ。

「芳江、一寸これをごらん」

愛之助は、まだ幾分細君を疑っていたので、この写真で彼女をためして見ようと、ふと意地悪く思いついたのである。

「マア、品川さんね。Ｓ博士の通訳をなさるのね」

「それはいいんだが、うしろの方から覗いている、この顔をごらん」

と云って、指で幽霊男を示した。

「そうね、そう云えば品川さんそっくりね。マア、よく似てるわ」

オヤオヤ、何とほがらかなことだ。

「実はね、品川四郎と一分一厘違わない男が、（しかもそれが悪者なんだ）どこかにいるのだよ、僕はそいつに度々逢ったことがある」

と、この機会に、読者の知っている大略を話して聞かせた。（赤い部屋の隙見の件は都合上省略したけれど）

外は暮れ始めた鼠色だった。大入道みたいな樹立が、モクモクと窓の外を走って行った。天井の電燈が外の薄闇とゴッチャになって、妙に赤茶けて見え、車内の人顔に異様な<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>が出ている。その中で、彼はせいぜい<ruby><rb>凄味</rb><rt>すごみ</rt></ruby>たっぷりに、時々じっと相手の目を見つめたりして、それを話したのだ。

「マア、気味が悪い。何か企らんでいるのでしょうか」

彼女は幾分蒼ざめて見えた。だが、誰にしたって怖がる話だ。少々蒼ざめたからと云って彼女を疑う理由にはならぬ。

彼女が若し、知らずしてこの第二の品川四郎と不義を重ねているのだったら、非常な<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>を隠すことは出来ない筈だ。<ruby><rb>狐忠信</rb><rt>きつねただのぶ</rt></ruby>の正体を知った<ruby><rb>静御前</rb><rt>しずかごぜん</rt></ruby>の様に、ギョッとしなければならぬ筈だ。が、そんな様子も見えぬ。

「やっぱり俺の思い違いだったか。ヤレヤレ」

と、そこで愛之助は一層<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>を深くした訳であるが、この安堵が本当の安堵に終ったかどうか。

## 青木品川の両人実物幻燈におびえること

東京に着くと、愛之助は駅からＳ博士講演会場へ電話をかけ、品川に事の次第を告げ、彼の用事が終る時間を確めて置いて、その夜更け品川宅を訪ねた。

「僕はちっとも気がつかなんだ。<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し、君の電話で驚いて、あの新聞の知合いの記者に電話で頼んで、やっと今、その写真の複写を取寄せた所だ。写真版じゃ本当のことは分らないからね」

愛之助が這入って行くと、品川は八畳の客間に待ち構えていて云った。<ruby><rb>紫檀</rb><rt>したん</rt></ruby>の机の上に幻燈器械の様な妙な形の道具と、その<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に一枚のピカピカ光る台紙なしの写真が置いてあった。見ると、例の夕刊の写真と同じものだ。

「この器械は？」

「エピディアスコープと云って、不透明なものが大きく映る幻燈器械だ。これで、この写真のもう一人の奴を拡大して見ようと思ってね」

それは彼の商売柄、雑誌社で取次販売をしている実物幻燈器械であった。

そんなことをして<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>めるまでもないのだけれど、両人とも幻燈という様なものに、一種の魅力を感じている男であったし、拡大された相手の顔の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>の一本一本に、<ruby><rb>穿鑿</rb><rt>せんさく</rt></ruby>的な興味がないでもなかった。

電燈を消すと、鳥の子の無地の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の上に、写真の両品川の顔の部分丈けが、ギョッとする程大きく映された。

本当の品川は真面目顔、もう一つの方はニヤリと笑って、無修正の、ボタボタと<ruby><rb>斑紋</rb><rt>はんもん</rt></ruby>をなした陰影が、暗闇の二人に向って、ニューッと迫って来る感じだった。

「僕一つ笑って見るから、あの写真の顔と比べてくれ給え」

品川はそう云って、器械の後部の光線の漏れている所へ、自分の顔を持って行って、寄席の怪談のお化けみたいに、ニヤッと歯を出して見せた。

「そっくりだよ。まるで、そうしている君の顔が、そのまま向うの襖へ映っている様だ」

愛之助は云っている間に、ゾーッと<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>のうしろが寒くなった。

「君。もう止そうよ。何だかいやな気持になって来た」

愛之助は幻燈というものに、常々一種異様の恐怖を持っていた。そこへ、影と実物と合わせて三つの、寸分違わぬ品川四郎だ。彼が子供の様におびえたのも無理ではない。

電燈をつけて見ると、当人の品川も蒼ざめていた。

「あいつ、俺の影みたいに、いつもつき纏っていやあがるんだね。エ、そうとしか考えられないじゃないか」

「初めは遠くから、少しずつ少しずつ、じりじりと近寄って来る感じだね」

「オイオイ、おどかしちゃいやだぜ」品川は思わずビクッとして云った、「まだ別に害を<ruby><rb>被</rb><rt>こうむ</rt></ruby>った訳じゃないけど、もう捨てては置けないね。非常に危険な気がする。何を企らんでいるか分らない丈けに、そして、相手がどこの何者だかさっぱりえたいが知れぬ丈けに、余計恐ろしいのだ。僕は僕の雑誌にこの事を広告して見ようかと思うのだが」

「広告って？」

「この写真をのせてだね。こんな風に私と全く同じ人間がいる。私はこの第二の自分の存在について非常な危険を感じている。どうか名乗って出て欲しい。又この人物を知っている人は知らせて貰いたい。という文句を大きく書くのだ。そうして置けばいくらか予防になると思うのだ」

「君の雑誌には打ってつけの読物にもなるね。だが、君の心配する危険は已に始っているかも知れないぜ。というのは………」

と、愛之助は思い切って、先夜の鶴舞公園の<ruby><rb>一伍一什</rb><rt>いちぶしじゅう</rt></ruby>を物語った。

「で、君は奥さんを、今でも疑っているのか」

それを聞くと、品川は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はにかみ</span>とも恐怖ともつかぬ変な表情で尋ねた。

「いや、もう殆ど疑っていない。多分別の女だったのだろう。だが、場所が丁度僕の近所だからね。何か意味ありそうにも思われるのだ」

品川はふとおし黙って、何か考えていたが。「若しかしたら」と独言を云いながら、突然立って部屋を出て行ったかと思うと、一通の封書を手にして帰って来た。

「ちょっとこれを読んでごらん」

愛之助は妙なことを云うと思いながら、何気なく封書を受取って、中の書簡箋を拡げて見た。そこには女文字で次の様に記してあった。

道ならぬこととは知りながら、それ<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>にこそ身も世もあらず嬉しくて、あの夜のこと、君のおん<ruby><rb>身振</rb><rt>みぶり</rt></ruby>、君のおん<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>の<ruby><rb>葉</rb><rt>は</rt></ruby>、細々としたる末までも、一つ一つ、繰返し心に浮べては、その度毎に今更らのように顔あからめ、胸躍らせて居ります。お笑い下さいまし。わたくしあの様な愛を、あの夜というあの夜まで、嘗つて夢見たことすらなかったのでございますもの。小娘の様に、本当に本当に、わたくし夢中でございますのよ。でも、又いつお目もじ出来ますことやら、西と東に所を隔てました上、あなた様は御多用の身、それに道ならぬ恋の悲しさは、わたくしからお側に参ることも叶わず、つろうございます。本当に恋というもののつらさもどかしさが、今初めて、しみじみと分りました様に思われます。お<ruby><rb>推</rb><rt>すい</rt></ruby>もじ下さいまし。………………………

愛之助は非常な早さでそれを読んだ。遂には読むに耐えなくなって、末尾の三四行を飛ばして、<ruby><rb>名宛</rb><rt>なあて</rt></ruby>を見た。

四郎さまみ前に　　　　　　　　御存じより

とある。明かに夫ある女から、品川四郎への恋文だ。

「僕はまるで心当りがないのだよ。併し、封筒の宛名は確かに僕だ。僕がどこかの細君と不義をしているのだ。余り思いがけないことなので、誰かの人の悪いいたずらと思っていたが、君の今の話を聞いて見ると、この手紙にはもっと恐ろしい意味があるのかも知れない。つまり、その鶴舞公園で話をしていた女から、偽の品川四郎への手紙が、本物の僕の所へ舞い込んだのかも知れない。なぜと云って、見給え、差出人の所も名も書いてないけれど、消印が確かに名古屋だ。……オヤ、君どうかしたのかい」

愛之助は唇の色を失って、顎の辺に鳥肌を立てていた。だが何も云わない。

「この手紙だね」

「…………」

「オイ、どうしたというのだ。アア、君は、筆蹟を見ているのかい」

「似ている。僕は悲しいことに、この恋という字の風変りなくずし方を覚えていたのだよ」

「君の細君のかい。……だが君、女の筆蹟なんて、大抵似た様なものじゃないか。……女学校の御手本通りなんだからね」

「そうだ。今度に限ってあいつが東京へ一緒に行くと云い出した訳が分った。あいつはこちらで、君と……イヤもう一人の男と、存分逢う積りなんだ、その下心だったのだ」

そして、それ以上には、お互に云うべき言葉を見出し兼ねた。夜更けの八畳の座敷で、二人はぽつねんと向い合っていた。

「僕はもう帰る」

愛之助が非常に不愛想に云って立ち上った。

「そうか」

品川も白々しい気安め文句は口にしなかった。

玄関をおりて下駄を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>くと、愛之助はひょいと振り向いた。上りがまちの<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れて品川が見送っている。

「一寸君に聞いて置くが」愛之助が無表情な顔で、途方もないことを口にした。「君は本当に品川四郎なんだろうね」

相手はギョッとして思わずうしろを振返った。そして、妙にうつろな笑い方をした。

「ハハハハハ、何を云ってるんだ。冗談はよし給え」

「アア、そうだった。君は品川君だね。もう一人の男じゃなかったのだね」

愛之助は、そう云ったまま、ふいと格子戸の外へ出て行った。

まるで悪夢につかれた人間のように、彼の足は<ruby><rb>蹌踉</rb><rt>そうろう</rt></ruby>として定まらないのであった。

## 持病の退屈がけし飛んでしまうこと

別宅へ帰って見ると、よく掃除の行届いた小ぢんまりとした家の中に、芳江は婆やを相手に、つつましく留守番をしていた。

狭い家だから、夫婦の寝室は襖一重だった。二階の八畳の客間の方に愛之助の、六畳の次の間の方に芳江の床がのべてあった。

愛之助が床に這入って、仰向きになって煙草を吸っていると、その枕下の<ruby><rb>桑</rb><rt>くわ</rt></ruby>の<ruby><rb>角火鉢</rb><rt>かくひばち</rt></ruby>によりかかる様にして、芳江は何かと話しかけるのであった。

それは主に滞京中の遊楽予定についてで、久し振りの<ruby><rb>歌舞伎</rb><rt>かぶき</rt></ruby>が楽しみだとか、福助が早く見たいとか、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>の音楽会は誰さんのピアノが一番聴きものだとか、女の癖に東京風の<ruby><rb>牛鍋</rb><rt>ぎゅうなべ</rt></ruby>が早くたべたいとか、とか、とか、とか、甚だ<ruby><rb>朗</rb><rt>ほがら</rt></ruby>かで<ruby><rb>且</rb><rt>かつ</rt></ruby><ruby><rb>饒舌</rb><rt>じょうぜつ</rt></ruby>であった。

彼女の好みで旅行にさえ持って出る、部屋着の派手な<ruby><rb>黄八丈</rb><rt>きはちじょう</rt></ruby>の羽織を着て、ウェーヴがくずれて、恰好のよい頭の形のままに、少しネットリとなった洋髪の下から、なめらかな<ruby><rb>頸筋</rb><rt>くびすじ</rt></ruby>が覗いていた。

例の事件があってから、愛之助の妻に対する関心が、というよりは愛着が、日一日<ruby><rb>濃</rb><rt>こまや</rt></ruby>かになって行くのは事実だった。だが、その為ではなく、こうして目の前に置いて見ると、こんな無邪気な女に不義などが出来るとは考えられなかった。

「あのね、一寸ペンと紙を持って来てごらん」

愛之助はふとそんなことを思いついた。

「なになさるの。お手紙？」

「マアいいから持って来て」

芳江が万年筆と書簡箋を持って来ると、

「そこへね、君、恋という字を書いてごらん」

アア、何というあどけない女だ。芳江はそれを聞くと、ためされているなどとは夢にも思わず、恥かしそうに、眼の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>を赤らめて、夫婦の間の、あの特殊の、みだらな笑いを笑ったのである。

「ホホホホホホ、おかしいわ。あなたどうかなさったの」

「マア、兎も角書いてごらん」

「ホホホホホホホ、先生の前でお習字をする様ね」

極めて素直に、彼女はペンを取って「恋しき」と書いた。そして、筆をとめて、愛之助を見上げて、例の笑いを笑って云った。

「次に何と書きましょうか」

愛之助には、彼女がこんなに素直なのは、彼の愛に餓えているからだ。彼女は今久し振りの夫婦の遊戯を楽しんでいるのだということが、分る様に思えた。だが答えはやっぱり意地悪く、

「四郎さまお<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ」

と云い放った。

「マア」

芳江はびっくりして、真面目な顔になった。そして、一<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>目をうつろにして、「四郎さま」の意味を捉えようとして、頭の中を探し廻っている様子だった。

「無実に極っている。いくらなんでも、こんな巧みなお芝居が出来る筈はない」愛之助はすっかり安心した。恋という字のくずし方は確かに似ているけれど意味もない暗合にすぎないのだ、品川が云った通り、偶然同じ手本を習ったのだ。

「四郎さまって、一体誰のことをおっしゃるの？」

芳江は少し<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめて、つめ寄る風で尋ねた。

「いいんだよ。もうすっかりよくなったのだよ。四郎さんかい。四郎さんなんて、どこにだって転がっているよ。小学校の読本にだって」

愛之助はすっかりいい気持になって云った。

それから暫くして、変なことだけれど、愛之助は電車に乗っていた。

電車は満員だった。身動きも出来ないで、<ruby><rb>吊皮</rb><rt>つりかわ</rt></ruby>にぶら下っていた。人間の頭が、紳士や商人や奥さんやお神さんや令嬢や、重なり合って、ゴチャゴチャと目の前に押し寄せている。が、ふと見ると、その頭の間から、チラッと品川四郎の顔が覗いた。

「品川君、君、品川君だね」

愛之助は大きな声で呶鳴った。

すると、相手は返事をする代りに、ひょいと頭を引込めて、人ごみに隠れてしまった。

「ヤ、あいつだ。幽霊男だ。皆さんちょっとどいて下さい。あいつをつかまえなくちゃならないのですから」

だが<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も身動きが出来なんだ。

「つかまえてくれ。そいつを、つかまえてくれ」

愛之助が不作法にわめいたので、車内の顔という顔が、ハッとこちらを向いた。ゴチャゴチャと重なり合って、愛之助を見つめた。しかも、ゾッとしたことには、その顔がどれもこれも、一つ残らず、皆品川四郎の顔になっていた。

「ワッ」と叫んで、逃げ出そうとすると、何か邪魔になるものが、柔かくて重いものが、ドッシリ胸の上に乗っていた。はねのけてもゴムみたいに弾力があって、又戻って来る。ふと気がつくと、それは暖い芳江の腕であることが分った。

「どうなすったの、苦しそうだったわ」

「いやな夢を見た。……君が、胸の上にこの手をのせていたからだよ」

で、つまり、彼女は次の間の自分の床の中には寝ていなかった訳である。

だが、それから一時間程たって、ある瞬間、愛之助は相手をつき放して、部屋の隅へ飛びのいた。

芳江は、非常に唐突にガラリと変った夫の態度が呑みこめなくて、ボンヤリと<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずくま</rt></ruby>っていた。彼女は蒼ざめた夫の顔に、物凄い敵意を認めた。血走った目が怒りに燃えているのを見た。

彼女は一種の<ruby><rb>耐</rb><rt>こら</rt></ruby>え難い<ruby><rb>侮辱</rb><rt>ぶじょく</rt></ruby>を感じて、<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うっぷ</rt></ruby>して、身体を震わせて、泣き出した。

愛之助はそれを<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>めようともせずいきなり着物を着て、哀れな妻を残したまま、もう夜明けに近い戸外へ出て行った。

彼は人通りのない廃墟の様な町を、めくら滅法に歩いて行った。

「確かに、確かに、女は人種が違うのだ、どこか魔物の国からの<ruby><rb>役神</rb><rt>つかわしめ</rt></ruby>なのだ。嘘をつく時には真から顔色までその通りになるのだ。泣こうと思えば、いつだって涙が湧いて出るのだ」

今更らの様にそれを感じた。

「だが、うっかり尻尾を出してしまった。あの仕業は確かに確かに俺の教えたことでない。俺はそんな被虐色情者じゃない。あいつは、幽霊男に教わったのだ。そして彼女もいつの間にかサジズムを愛し始めたのだ」

これは決して彼の妄想ではなかった。動きの取れない証拠があった。彼は例の赤い部屋での、幽霊男とある女性との遊戯を、まざまざと記憶していた。今夜の芳江の仕業は、そのある場面と寸分違わなかったではないか。彼女は彼を馬にしてまたがったではないか。そして、手綱代りの赤いしごきを、彼の首にまきつけようとしたではないか。彼が真蒼になって飛びのいたのも、無理ではなかった。

流石の猟奇者愛之助も、退屈どころではなかった。これで、彼が細君に飽き飽きしたというのは思い違いで、実は心の底では深く深く愛していた事が分る。だが、彼にはこの心の変化が少なからず意外であった。こんなにも不義の相手が、即ち幽霊男が憎くなるなんて、変だと思わないではいられなかった。

「畜生<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>、畜生奴」

彼は、遊び人かごろつきみたように、相手を八ツ裂きにすることを考えながら、ダクダクほとばしる血潮を<ruby><rb>幻</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>に描きながら、どこという当てもなく、グングン歩いて行った。

## 奇蹟のブローカーと自称する美青年のこと

愛之助は、家を飛び出したまま、一度も帰宅せず、友達を訪ねた上、倶楽部へ行って球を<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>いたり、浅草公園の群集に混って、活動<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>を行ったり来たりして見たり、心の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>では極度の焦躁を感じながら、<ruby><rb>外見</rb><rt>うわべ</rt></ruby>は如何にも呑気らしくそんなことをやって居る内に、つい日が暮れてしまった。

そして、その夜の十時頃から次のお話が始まるのだ。

その時愛之助は、歩き疲れて、浅草公園の池に面した藤棚の下の柱に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れて、ボンヤリ池に映るイルミネーションを眺めていた。藤棚の下に並んだ数脚のベンチには、影の様な浮浪者の一群がおとなしく黙り返って腰かけていた。彼等はどれもこれも、ひどく餓えて、それを、訴える力さえ失って、あきらめ果てて、ぐったりしている様に見えた。

その中に一人丈け、周囲の浮浪者達とは際立って立派な<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>の青年が混っていた。浅草青年というよりは寧ろ銀座青年という風采が、愛之助の注意を惹いた。そう云えば、愛之助にしたって、ちっとも浅草人種ではなかった。ましてそんな藤棚の下などに、ぼんやり<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいるのは、どうも似つかわしくなかった。と云う訳で、この二人、愛之助と銀座型青年とは、期せずしてお互の存在を意識し合ったのである。

で、愛之助はチラとあることを頭に浮べた。と云うのは、彼が<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>て知っていた、アサクサ・ストリート・ボーイズのことだ。猟奇家の彼が、そういうものの存在を知らぬ筈はないのだから。

愛之助は、十二階を失い、江川娘玉乗りを失い、いやにだだっ広くなった浅草には、さして興味を持たなかった。強いて云うならば、<ruby><rb>廃頽</rb><rt>はいたい</rt></ruby>安来節と、木馬館と、木馬館及水族館の二階の両イカモノと、公園の浮浪者群と、そしてこのストリート・ボーイ達とが、僅かに浅草の奇怪なる魅力の名残りをとどめているのだ、そういうものの<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>し出す空気が、やっと<ruby><rb>二月</rb><rt>ふたつき</rt></ruby>に一度位の程度で、彼の足を浅草へ向けさせた。

青年はじっと、愛之助を見つめていた。紺がかった春服を着て、同じ色の学帽の様な一種の鳥打帽子の、深いひさしの下から、闇の中に柔軟な線の、ほの白い顔が浮上っていた。美しい若者だ。

愛之助は決してペデラストではないので、嬉しくもなかったが、併し、別に不快を覚える程でもなかった。

「蛇の様に冬眠が出来るといいなあ」

突然、すぐ側でそんなかぼそい声が聞えたので、見ると、目の前のベンチに若い栄養不良な自由労働者がいて、隣りの少し年取った同じ様な乞食みたいな男に、話しかけていたのだった。

「冬眠て何だよ」無学な年長者が力のない声で尋ねた。

「冬中、地の底で、何にも食わないで眠っていられるんだ」

「何にも食わないでかね」

「ウン、蛇の身体は、そんな風に出来ているんだ」

そして、二人とも黙ってしまった。静かな池の中へポチャンと小石を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込んだ様な会話だ。

池の向うの森蔭から、絶間なく木馬館の十九世紀の楽隊が響いて来た。風の都合で、馬鹿に大きな音になったり、<ruby><rb>或時</rb><rt>あるとき</rt></ruby>は<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かになって、<ruby><rb>露天</rb><rt>ろてん</rt></ruby>商人の呼声に混り合って、ジンタジンタと太鼓の音ばかりが聞えたりした。うしろの空地では、書生節のヴァイオリンと、盲目乞食の浪花節とが、それぞれ黒山の<ruby><rb>聴手</rb><rt>ききて</rt></ruby>に囲まれて、一種異様の二重奏をやっていた。二重奏と云えば、つまるところ、公園全体が一つの大きなオルケストラに相違なかった。ジンタ楽隊、安来節の太鼓、<ruby><rb>牛屋</rb><rt>ぎゅうや</rt></ruby>の<ruby><rb>下足</rb><rt>げそく</rt></ruby>の呼声、書生節、乞食浪花節、アイスクリームの呼声、バナナ屋の怒号、風船玉の笛の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>、群集の下駄のカラコロ、酔っぱらいのくだ、子供の泣声、池の<ruby><rb>鯉</rb><rt>こい</rt></ruby>のはねる音、という千差万別の楽器が作る、安っぽいが、しかし少年の思い出甘いオルケストラ。

「モシ！」

突然耳元で、囁く様に、古風に呼びかける声がした。振向くとさっきの美しい青年が、立って来て、いつの間にか彼の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄っていた。

愛之助はハッと当惑した。浅草ウルニングの誘いには、一度こりていたからだ。

「ナニ？」

妙なことには、彼は女みたいなアクセントで聞き返した。丁度商売女とでも話をする様に。

「あなた、失礼ですが、何かお困りなすっているのではございませんか。どうにも出来ないことが、おありなさるのじゃございませんか。でも、それはどうにかなるのですよ。奇蹟を<ruby><rb>拵</rb><rt>こし</rt></ruby>らえている所があるのです。そこでは、あなたの<ruby><rb>御入用</rb><rt>おいりよう</rt></ruby>のものを、そうですね、多分、一万円位で御用立てすることが出来るかも知れませんよ」

青年は変な謎みたいなことを囁いた。それにしても一万円なんて馬鹿馬鹿しい金額だ。若しや可哀想に、気違いでもあるのかと、愛之助は相手の顔をまじまじと眺めた。

池に映った活動館のイルミネーションが、逆に<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の下から青年の顔をボーッと明るくしていた。美しい。だが変な美しさだ。お能の面の様に、完全に左右均等で、何かしら作り物の感じで、無表情で、底の方からにじみ出す凄味が漂っていた。やっぱり気違いだなと思った。

「アア、私はあれじゃないんです。女じゃないんです」青年は愛之助の気持を感づいて笑いながら云った。「それよりもずっと値打ちのある、あなたが想像もなすったことがない様な商売をしているんです。昔から神様にしか出来なかった、恐ろしい奇蹟のブローカーなんです。でも、あなたお困りじゃないのですか。奇蹟が御入用じゃなかったんですか」

「奇蹟って、なんです」

相手がストリート・ボーイではないと分って、安心したけれど、彼の話すことがまるで理解出来なかった。併し、気違いではなさそうだ。

「奇蹟をお尋ねなさるのですか。じゃ、あなたは御入用がないのです。本当に欲しいお方はそんな風にはおっしゃいませんから、さようなら」

青年はフラフラと、又元の浮浪者共の間へ戻って行った。

浅草の様な盛り場には、時々こんな不思議がある。浅草は東京という都会の皮膚に開いた毒々しい<ruby><rb>腫物</rb><rt>しゅもつ</rt></ruby>の花だからだ。そこには常態でない凡てのものが、ウジャウジャとたかっている。だが、愛之助はまだ一度も、こんな変てこな男に出逢ったことはなかった。美しいけれど妙に不気味なお能の面の様な顔が、いつまでも忘れ難く目の底に残っていた。

この青年は何者であったか、ただ意味もなくここへ現われて消えてしまう人物ではない。この物語の後段に至って、彼はもう一度読者の前に姿を見せる筈だ。その時こそ、彼の<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>奇蹟が何を意味するか、ハッキリ読者に分るであろう。

愛之助は何故ということもなく怖くなって、藤棚の下を出た。そして、当てもなく明るい活動街の方へ歩いて行った。

驚きは友を呼ぶものであるか。そうしてグラスウインドの中の彩色スティルの前を、群集にはさまって歩いていた時、沢山の動く頭の向うに、彼はハッとする様な顔を発見した。<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>でもない品川四郎である。

愛之助は相手に気づかれぬ様、人波を分けてあとをつけた。確かに本物の品川ではない。科学雑誌社長があんな洋服を着ていたのを見たことがない。それに品川四郎が今時分浅草を歩いているなんて変だ。てっきり<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>に違いない。と思うと、愛之助はもうワクワクして来た。今度こそ見逃すものか。

幽霊男はワハワハと群集を縫って、細い道を曲り曲り、遂に<ruby><rb>雷門</rb><rt>かみなりもん</rt></ruby>の電車通りへ出た。

円タクの行列。男はその一つの誘いに応じて車内に姿を消した。愛之助も一台を選んで飛び乗った。又しても自動車の追っ駈けだ。だが、今度はいつかの<ruby><rb>赤坂見附</rb><rt>あかさかみつけ</rt></ruby>みたいなヘマはしないぞ。と彼は前の車の鋭い監視を続けた。

## 血みどろの生首を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ぶ男のこと

殆ど一時間近くも走って、男の自動車は、郊外<ruby><rb>池袋</rb><rt>いけぶくろ</rt></ruby>の、駅から十丁もある淋しい広っぱで止った、車を降りたのは確かに彼奴だ。愛之助はとうとう成功したのだ。彼は自分も車を捨てて、闇を這う様にして男のあとをしたった。

広っぱの一隅にこんもりした木立に囲まれて、ぽっつりと黒い一軒家が見える。洋館らしい二階建で、石の門がついている、男はその門を這入って、玄関の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を鍵で開いて、スッと屋内に姿を消した。その様子で見ると、家の中には誰も留守番がいないらしい。幽霊男は、この化物屋敷にたった一人住んでいるのだろうか。

暫く待ってもどの窓にも<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の影さえささず、ひっそりとして屋内に人の気配もせぬ。彼奴、あかりもともさず、あのまま<ruby><rb>寝台</rb><rt>ベッド</rt></ruby>へもぐり込んでしまったのであろうか。愛之助は思い切って石の門を這入り、家の横手に廻って、どこか覗ける箇所はないかと探して見た。

窓はあるけれどどれも内部が真暗で、顔をくっつけても何も見えぬ。尋ねあぐんで、ふとうしろを振向くと、庭の立木の一部が、異様にほの明るくボーッと浮出しているのに気づいた。どこからか非常に薄い光がさしているのだ。分った分った、二階にいるんだなと気がついて、少し建物を離れて見上げると、案の定二階のガラス窓の一つが、ぼんやり赤く見える。だが何という暗い光だ。電燈ではない。恐らく<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の光であろう。

電燈もない所を見ると、やっぱり空家かしら。では、幽霊男が入口の合鍵を持っていたのは<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>だろう。彼は空家の中で、古風な蝋燭などともして、一体何をしようというのだろう。

併し考えて見ると、幽霊男には至極ふさわしい<ruby><rb>隠家</rb><rt>かくれが</rt></ruby>だ。彼奴こんな化物屋敷に人目を忍んで、こっそり思いもかけぬ場所へ現れては、様々の悪事を行っているのだ。<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>品川四郎の推察が的中して来た。この怪物、この化物屋敷の中で、品川四郎という分身を種に、どんな戦慄すべき陰謀を企らんでいるか分ったものではない。

夜の闇と、異様な静かさと、古めかしい洋館と、蝋燭の光とが、ふと、彼に妙なことを聯想させた。ジーキル博士とハイド氏！　品川四郎という男は、通俗科学雑誌などと真面目一方の仕事にたずさわって、謹直そうにしているが、彼の心にもう一人の悪魔が住んでいて、時々、ハイド氏になるのではないのかしら。品川はどう考えてもそんな恐ろしい男には見えぬけれど、それが却っていけないのだ。ジーキル博士は一点非のうち所のない高徳なる学究ではなかったか。しかも、一度彼の内なるハイド氏が姿を現わすと、何の関係もない往来の幼児を突き転ばし、その頭を踏みにじって、<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>か<ruby><rb>蟻</rb><rt>あり</rt></ruby>でもつぶす様に、殺してしまう兇悪無比の怪物と化し去ったではないか。

愛之助は暗闇の中で、思わず身震いした。

「馬鹿な。貴様はどうかしているぞ。臆病者め。そんなことは小説家の病的な空想世界にしかないことだ。第一、この幽霊男と品川四郎と同一人だなんて、科学的にあり得ないことではないか。同一人がどうして、新聞の写真版に二つの顔を並べることが出来るか」

又、一方では帝国ホテルで食事しながら、その同じ日、同じ男が京都の四条通を歩くなんて神変不思議の芸当が人間に出来るものでない。飛行機。……アア、飛行機というものがある。併し<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとえ</rt></ruby>旅客飛行機を利用したとしても、帝国ホテルから立川まで、大阪築港から京都四条までの道のりを考えると、とても同じ日中同一人物が京都に現われる可能性はない。まして、愛之助と品川とがホテルで会食したのは丁度昼過ぎだったのだから、一層この芸当は不可能な訳だ。

イヤ、イヤ、そんなことをクドクド考えるまでもない。愛之助は現に、例の麹町の赤い部屋で、品川四郎と、このもう一人の幽霊男とが、三尺と隔たぬ近さで、世にも不思議な対面をしたのを、ちゃんと目撃さえしているではないか。

愛之助が闇の庭に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで、二階に耳をすましながら、頭では<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しくそんなことを考えていた時、突然びっくりする様な物音が起った。

一寸の間、物の音か人の声か判断が出来なかった。だが、第二の短い悲鳴で、それが女の声であることが確められた。例の蝋燭の光の洩れている二階からだ。何かしら非常に残酷なことが行われた感じである。

しかも、声はそれっ切りで、又元の深い不気味な、静寂に帰った。いつまで待っても人声は勿論、カタリとも音さえせぬ。

愛之助はもうじっとしていられなかった。彼は柄にもない冒険を思い立った。玄関から這入ったのでは相手に悟られ、どんなひどい目に合うかも知れぬ。それよりもガラス窓を<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>、先ず外部から部屋の様子を見届てやろうと決心したのだ。

丁度その窓の外に、二間ばかり隔てて、大きな松の木が立っている。彼はいきなり、電燈<ruby><rb>工夫</rb><rt>こうふ</rt></ruby>の様に、その幹へ這い上った。全身汗びっしょりになって、やっと、窓と同じ高さの枝に達することが出来た。

そこの太い枝に腰かけ、両手で幹につかまり、身体の安定を保ちながら、彼は二階の窓を覗いた。

ガラス戸は締め切ってあったが、ガラス一面にほこりが溜って半透明になっているのと、蝋燭の光が何かの蔭になっていたので、暫らくは何が何だか分らなんだが、よく見定めると、ワイシャツとパンツ丈けの男が、こちらに背中を見せて何かやっていることが分った。蝋燭は、その男の身体で隠されているのだ。それが幽霊男に相違ないことは、品川四郎そっくりの身体の恰好で明かだ。

部屋はやっぱり空家同然で、何の飾りつけも家具もなく、ただ男の向う側にテーブルの様な台の一端が見えているばかりだ。

男は時々身動きをする。それが、上身をかがめ首を垂れて、何かおがむ様な恰好に見える。一体何をしているのかしら。男の蔭になって見えぬテーブルの上に、その対象がのせてあるに相違ないのだが、この深夜、空家みたいな部屋で、何かを<ruby><rb>礼拝</rb><rt>らいはい</rt></ruby>しているというのも変な話だ。それに、さっきの女の悲鳴は一体何を意味するのか。見た所、部屋には幽霊男一人丈けで、女なぞいそうにない。

眼が慣れて行くに従って、段々微細な点が分って来た。先ず、男がワイシャツを肘の上までまくり上げていることに気がついた。何かひどい力仕事でもした恰好だ。次に、そのワイシャツの袖口に点々として赤いしみのついていることが分った。血だ。よく見ると、むき出しの腕には川の様に恐ろしい血のあとが凝固している。

愛之助は、礼拝している物体を想像した。若しやさっきの悲鳴の主の死体が、そこに<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっているのではないだろうか。だが、どうも死体の様な大きなものではない。

愛之助の好奇心は極点に達した。

「アア、あれはおがんでるんじゃない。接吻しているんだ」

男の仕草がふとそんな感じを与えた。だが、一体全体何に接吻しているのだ。死体にか？　辛抱強く見ていると、遂に男が身体を動かした。今まで隠れていた小テーブルと、その上の物体があらわになった。

同時に松の木がガサガサと音を立てて、烈しく揺れた。愛之助が驚きの余り、危く枝を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り落ちようとしたからだ。だが、彼は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に気を取り直して、身体の位置を安全にして、その物体を熟視した。

そこには人間の、まだ若い女の、首丈けがテーブルにのせてあったのだ。しかも、今胴体から切離したばかりの様に、生々しく、血のりにまみれて。

愛之助がそれを一目見た時、あんなにも驚いたのは、一刹那、若しやその首が妻の芳江のではないかと思ったからだが、すぐそうではない事が分った。見も知らぬどこかの娘さんだ。

幽霊男は、見慣れぬ型の金属製の<ruby><rb>燭台</rb><rt>しょくだい</rt></ruby>を手にして、それをさしつけ、さしつけ、つくづくと女の首に見入っていた。

首は目を半眼にして、眉を寄せ、口を開き、歯と歯の間に舌の先が覗いている。<ruby><rb>猥褻</rb><rt>わいせつ</rt></ruby>に近い苦悶の表情である。蝋燭の光が、赤茶けた光を投げ、異様な<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>を作っている。血は白い歯を染めて、唇から顎へとほとばしり、テーブルに接する切口の所は、さかなの<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>みたいにドロドロして、その間から、神経であろうか、不気味に白い<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>の様なものがトロリとはみ出している。そんな微細なことがハッキリ分る筈はないのだが、愛之助はアリアリとそれを見た様に思った。

やがて、ゾッとする様なことが起った。幽霊男があいている方の手で、変なことを始めたのだ。彼は最初指先で、はみ出している女の舌を、チョイチョイと口の中へ押し戻す様な仕草を繰返していたが、舌が歯の間に隠れてしまうと、今度は歯と歯の中へ指を入れて、それをこじ開けて、一本の指が二本になり、三本になり、遂には手首から先を、死人の口の中へ押し込んでしまったのだ。すると、口の中に溜っていた血潮が、泡を吹いて、彼の手首を<ruby><rb>伝</rb><rt>つたわ</rt></ruby>って、泉の様に毒々しく美しく<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れ出して来るのが見えた。

次々と、ここには<ruby><rb>記</rb><rt>しる</rt></ruby>し得ぬ程、惨虐で淫猥な<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>が続けられた。そして幽霊男の生首遊戯はいつ果つべしとも見えぬのだ。

幽霊男が嘗つて赤い部屋で、又芳江に対してマゾッホであったと云って、それだから、彼がサドでないとは云えぬ。両者を兼ねるもの古今東西に<ruby><rb>其</rb><rt>その</rt></ruby>例が乏しくはないのだ。<ruby><rb>按</rb><rt>おも</rt></ruby>うにこの幽霊男は、軽微で上品な（変な云い方だが）マゾヒズムと、兇暴なサジズムとを兼備し、その上に、戦慄すべきラスト・マーダラアであったに相違ないのだ。

ふと気がつくと、松の木の根本で、変な咳払いの様な音がしていた。そして、愛之助を仰天させたことには、その音が刻一刻高く大きくなって来ると共に、犬の鳴声である事が分った。悪魔は用心深く番犬を飼っていたのだ。どこかへ行っていたその番犬が帰って来て、不思議な樹上の人物を嗅ぎつけたのだ。見ると、幽霊男は、その声に気づいた様子で、こちらを振向き、恐怖の表情を真正面に見せて、窓の方へ歩いて来る。

「もう駄目だ」と思ったけれど、兎も角も逃げられる丈けは逃げて見ようと、愛之助はいきなり地上目がけて飛び降りた。飛び降りると弾力のある温かい肉塊が、非常な<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>でぶつかって来た。存外大きな奴だ。

愛之助は暫くその動物を持て余していたが、とうとう致命的な一撃を食わして、一目散に表門へと走った。

だが、その時はもう遅かった。

門へ来て見ると、ワイシャツの腕まくりをした、例の男が、先廻りして、ちゃんと待ち構えていた。手には小型の銃器が光っている。

「逃げると、怪我をしますよ」

幽霊男は、落ちつき払って声をかけた。

「少し君に話したいこともありますから、一度家へ這入ってくれませんか」

愛之助は相手の命ずるままに動く<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>致し方がなかった。

男は愛之助の背筋へピストルを当てがって、あとから押す様にして、玄関を上り、階下の奥まった一室へと連れて行った。

家具のない、ほこりだらけの、だだっ広い部屋だった。

「僕をどうしようと云うのです」

部屋に這入ると、愛之助はやっと口をきいた。

「どうもしない。僕が<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>をくらます間、ここにじっとしていて欲しいのです。それには、手足の自由が利いては危険だから、君の身体を縛って置くつもりです」

品川四郎と寸分違わぬ男が、声まで品川の声で宣告を下した。

哀れな青木愛之助は、間もなく手足をしばられて、ほこりだらけの板の間に転がっていた。その頭の所に、勝ち誇った幽霊男が立ちはだかっている。

「君の名は聞かないでも知ってます。青木君でしょう。僕は君の友達の品川君も知っているし、そればかりじゃない、君の細君の芳江さんまで知っていますよ。ハハハハハハハハ、僕の名かい。やっぱり品川四郎さ。ハハハハハハハ、僕の身体のどっかに、品川四郎でない所がありますかね」

男の手やワイシャツの袖には、まだどす黒い血がついていた。

愛之助は、何とも形容出来ぬ気持だった。彼をこんなひどい目に合わせて、あざ笑っているのは、親友の品川四郎と寸分違わぬ男だ。しかも同時に彼に取っては憎んでも憎み足りない妻を盗んだ曲者であり、又惨虐<ruby><rb>比</rb><rt>たぐい</rt></ruby>なきラスト・マーダラアなのだ。

「君、本当のことを云ってくれ給え。君は全く品川君じゃないのかい」愛之助はそれを尋ねないではいられなかった。

「サア、どうですかね。若し僕が品川だったら、どうしようとおっしゃるのです」と曲者はふてぶてしく答えた。

「若しや品川君だったら、僕は頼む。僕は決してさっき見たことも、絶対に他言はしない。ただ君と僕の妻との関係丈けは、本当のことを打明けてくれ給え。ね、品川君、頼みだ」

「ハハハハハハ、とうとう品川君にしてしまいましたね。だが、お気の毒だが、僕は品川じゃありませんよ。奥さんのことですか。サア、それは御想像に委せましょう。君、知ってるんでしょう」

愛之助は思わず歯を食いしばって、うめいた。

「じゃ、そうしておとなしくしているんですよ。さよなら」

幽霊男は云い捨てて、部屋を飛出すと、バタンとドアをしめて、外からカチカチと錠前をおろしてしまった。

愛之助は板の間に転がったまま、余りの出来事に考えを纏める力も失って、暫くは茫然としていた。幽霊男がこんなひどい人殺しだとは想像もしなかった。第一に九段坂のスリ、次は赤い部屋の奇怪な遊戯、鶴舞公園の不倫な<ruby><rb>私語</rb><rt>ささやき</rt></ruby>、悪人には相違ないと思ったけれど、まさかこれ程の極悪人とは思わなんだ。品川四郎が<ruby><rb>嘗</rb><rt>か</rt></ruby>つて、どんな大陰謀を企らんでいるかも知れぬと、恐れ<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>いたのは、考えて見ると決して<ruby><rb>杞憂</rb><rt>きゆう</rt></ruby>ではなかった。

## 愛之助<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が妻を尾行して怪屋に至ること

愛之助は怪屋の一室で夜を明かした。そして結局警察官に救い出されるまでのいきさつは、詳しく書いても一向面白くないことだから、極く簡単にかたづけると、

<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>に鍵をかけて悪魔が立去ったあとには、暗闇と静寂の長い長い時があったばかりだ。愛之助はそこの板張りの床にへたばって、烈しい恐怖に震え、あらゆる妄想にさいなまれた。その中で最も際立っていたのは、天井からポトポトと何かの滴り落ちる幻聴であった。それが長い長い一晩中絶えては続いた。つまり、彼はその部屋の真上の二階に、さっきの生首の女の、切り離された胴体が、みだらに血みどろに横わっている光景を幻想したからである。

一夜の苦悶の間に、さして厳重ではなかったいましめは、いつしかとけてしまったけれど、仮令手足丈けは自由を得たところで、けだものの檻の様に鍵のかかった<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>と、鉄格子の窓にはばまれ、逃れ出すことは思いもよらなかった。

一睡もしなかった彼は、夜が明けると、外の広っぱに人通りがないかと、そればかりを待った。往来ではないので中々人通りはなかったが、やっとして十五六歳の少年が、窓の向うの生垣の外をハーモニカを吹き鳴らしながら通りかかった。

愛之助は悪魔がまだ同じ家にいると信じていたので、声をかけることを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>り、手帳を破って手紙を書き、銀貨を包んで重りにして、窓から少年の足元へ投げた。

幸い彼の意志が通じて、少年はすぐ様附近の交番へ駈けつけてくれた。そして、間もなく警官がやって来たのだが、実に奇妙なことには、愛之助の申立てによって、警官が調べて見ると、その家は全くの空家で、どの部屋にも人の住んでいた形跡はなく、主人公の幽霊男も、例の血みどろの生首も、女の胴体も、影も形もなく、どこの床板にも一滴の血のあとさえ発見されなかった。

最も意外なのは、彼を救い出した警官が、一枚の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>をも破る必要がなかったことである。つまり入口は勿論、愛之助が監禁されたと信じていた部屋の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>にさえも、鍵がかけてはなかったのだ。彼は一晩中<ruby><rb>度々</rb><rt>たびたび</rt></ruby>その<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開こうとしたが、いつも外から鍵がかけてある様に感じた。悪魔はいつの間に、又何が為に、それをはずして行ったのであろう、それとも、愛之助の方で逆上の余り、そんな風に誤信してしまったのか。

朝の陽光と共に妖怪が退散した感じで、昨夜のことは<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>て凡て、彼の夢か幻でしかなかったとさえ思われた。巡査も変な顔をして、彼をジロジロ眺めるのだ。

で、結局、この怪屋の怪事件は、うやむやに終ってしまった。警官には愛之助の物語った怪事よりも、愛之助自身の精神状態の方がよっぽど奇怪に見えた。随ってこの事件は、一精神異常者の奇怪なる幻想として、深く取調べることもなく<ruby><rb>葬</rb><rt>ほうむ</rt></ruby>り去られたことに相違ない。

事実、愛之助が猟奇の果てに、ついにあの大罪を犯すに至った、心理的異常は、已にこの時に<ruby><rb>胚胎</rb><rt>はいたい</rt></ruby>していたのかも知れぬ。彼は狐につままれた形で、昨夜の出来事が夢か現実かの判断もつかず、フラフラと別宅に立戻った。そして、そこには彼が不倫の妻と信ずる所の芳江が彼の不思議な朝帰りを待っていたのだ。

お話はそれから三日目の夜に飛ぶ。その間の愛之助夫妻の心理的葛藤を描写していては退屈だからである。

愛之助がその夜八時頃、附近の縁日を散歩した帰りがけ、何気なく電車通りを歩いていると、ハッと彼を驚かせたものがあった。

驚いたには驚いた。だが実を云うと、それは彼が待ちに待っていた事柄でもあった。つまり細君の芳江が、たった一人で、流しの自動車を呼止め、それに乗ろうとしていたのだ。彼の留守を<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>の媾曳に<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>っている。

「とうとう<ruby><rb>捉</rb><rt>つかま</rt></ruby>えたぞ」

愛之助はワクワクしながら、相手に悟られぬ様に別の自動車を呼止めて乗車した。云うまでもなく尾行である。自動車の<ruby><rb>追駈</rb><rt>おっか</rt></ruby>けごっこはもう慣れっこになっているのだ。

彼は嫉妬に燃えていた。妻が段々<ruby><rb>立勝</rb><rt>たちまさ</rt></ruby>って美しいものに見え出した。仮令<ruby><rb>姦婦</rb><rt>かんぷ</rt></ruby>とは云え、その美しい自分の妻を、こうして尾行している、泥棒と探偵の様に追跡しているという事実が、彼の猟奇心を妙に<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>った。追跡そのものが、何かしら性慾的な事柄にさえ思われた。前を走る車の後部の窓から、妻の白い襟足がチラチラ見えた。

ところが、やがて三十分も尾行が続いた頃、愛之助はふと車外の<ruby><rb>家並</rb><rt>やなみ</rt></ruby>に注意を向け、アア見覚えがあるなと気づくと、ある恐ろしい考えが、ギョッと胸につき上げて来た。車は確かに先夜と同じ町を通って池袋に向っている。もう停車場が向うに見える。

すると、媾曳の場所は例の不気味な空家に相違ない。彼は先夜の奇怪な出来事をまざまざと思出した。幽霊男の握っていた<ruby><rb>人切庖丁</rb><rt>ひときりぼうちょう</rt></ruby>、血みどろの女の生首、そして奇怪極まる殺人淫楽。

妻は相手を信用し切っている様子だが、ひょっとすると、あの空家の中には、先夜の女と同じ運命が彼女を待構えているのではあるまいか。それは二人は本当に愛し合っているかも知れない。だが、いくら愛し合っていたところで、彼奴は、<ruby><rb>当前</rb><rt>あたりまえ</rt></ruby>の人間ではないのだ。恐ろしいラスト・マアダラアなのだ。彼として見れば、いとしければこそ、その人の<ruby><rb>生血</rb><rt>いきち</rt></ruby>がすすりたいのかも知れぬのだ。

案の定芳江の車は不気味な空家の前に止った。愛之助は広っぱの手前で車を捨てて、闇の中に<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずくま</rt></ruby>って見ていると、ほの白い妻の姿が、真黒な怪物みたいに<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている空家の中へ、吸込まれる様に消えて行った。

云わずと知れた、家の中には例の怪物が、美しい<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>を待構えているのだ。

烈しい嫉妬と、同時に妻の命を<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>う心とがゴッチャになって、愛之助は前後を忘れ、我身の危険を忘れ、いきなり芳江のあとを追って空家の中へ踏み込んでしまった。

例によって戸締がしてないので、這入るのは造作もなかったが、洋館の廊下が真暗で、芳江がどの部屋にいるのか見当がつかぬ。だが、兎も角奥の方へと、手探りで、ソロソロ歩いて行くと、ふと低い話声が聞えて来た。意味は分らぬけれど、確かに芳江の声と、もう一つは例の怪物の（品川四郎そっくりの）声に違いない。

彼はその声をたよりに、足音を忍ばせながら、闇の中をたどって行ったが、ハッと思うと何かにつまずいて、ひどい物音を立ててしまった。

パッタリ止まる話声、同時に、ガタガタいう靴音、パッと射す光。愛之助は電燈の直射に会って、ど<ruby><rb>胆</rb><rt>ぎも</rt></ruby>を抜かれて<ruby><rb>立</rb><rt>たち</rt></ruby>すくんだ。すぐ目の前の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>が開いて、電燈を背にして、例の怪物が立はだかっていた。

「オヤ、青木さんじゃありませんか。よっぽどこの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>がお気にめしたと見えて、よく御訪ね下さいますね。マア、御這入り下さい」

男は怖い目で彼を睨みつけながら、言葉丈けは、不気味に丁寧な口を利いた。

愛之助も、併し負けてはいなかった。そこに妻の芳江が介在している。先夜とは訳が違うのだ。彼は云われるままに、ツカツカとその部屋へ這入って行った。そして、不義の妻はどこにいるかと血走った目で、キョロキョロ見廻した。

## 愛之助<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に殺人の大罪を犯すこと

だが、ガランとした部屋の中には、已に妻の姿はなかった。つい今まで話声がしていたのだから、どこへ逃げる<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>もない筈だ。窓には例の鉄格子がはまっている。たった一つの逃げ道は、隣室へ通じている<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>である。愛之助はその<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の向側に、気のせいか<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>ずれの音を感じた。しかも、部屋の構造から想像するに、そこは寝室に相違ないのだ。ベッドさえ置かれているかも知れぬと思うと、彼は一層カッとして、いきなりその扉へ突進した。

「オッと、そう刑事みたいに、他人の家を家探しするもんじゃありません」

幽霊男は素早く<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の前に大手を拡げて、品川四郎の顔でニヤリと笑って、立ちすくむ愛之助を見据えた。

その落ちつき払った相手の様子が、一層愛之助を逆上させた。飛びかかって締め殺してやり度い程に思うのだが、腕力では<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わぬことが分っている。彼は救いを求めでもする様にキョロキョロキョロとあたりを見廻した。

と、キラリと彼の目を射たものがある。彼にとって何という<ruby><rb>僥倖</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>であったか、迂闊千万にもそこのテーブルの上に、一挺のピストルが置いてあるではないか。

彼は鉄砲玉の様にテーブルに飛びついて、殆ど無感覚になった手で、一生懸命そのピストルを掴むと、クルリと振向いて、筒口を曲者の胸に向けた。

「こいつは<ruby><rb>大縮尻</rb><rt>おおしくじり</rt></ruby>だ。うっかりピストルを忘れていましたよ。ハハハハ」

怪物はビクともしない。平気で大手を拡げたままだ。

愛之助は敵の余りに大胆な様子に、ふとあることに気づいてギョッとした。

「さては、貴様。このピストルは<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>だな」

「ハハハハ、よく気の廻るお人だ。空じゃありません。ちゃんと<ruby><rb>丸</rb><rt>たま</rt></ruby>がこめてありますよ。だがあなたピストルを打ったことがありますか。打ち方を御存知ですか。それに、ホラ、あなたの手は中気<ruby><rb>病</rb><rt>や</rt></ruby>みの様にブルブル震えているじゃありませんか。ハハハハ、ピストルなんて、持手によっては、そんなに<ruby><rb>怖</rb><rt>おそろ</rt></ruby>しいもんじゃありませんよ」

「そこをのき給え。のかないと、本当に打つよ」

愛之助は、声を震わすまいと一生懸命になって叫んだ。

「お打ちなさい」

怪物はやっぱりニヤニヤ笑っている。相手に発砲の勇気がないとみくびっているのだ。

「打ってやろうか。引金を引っぱればズドンと行くのだ。だが、打ったら大変なことになるんだぞ。打っちゃいけない。打っちゃいけない」

併し、いけないと思えば思う程、引金にかけた指が独りでに曲って行った。誰か止めてくれと泣き出しそうになりながら、とうとう、引金が動いた。ワッ、しまった。と思った時には、ブスッという<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>え上る様な音がして、<ruby><rb>煙硝</rb><rt>えんしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>がパッと鼻をうった。

目をそらしたが、目の方で釘づけになった様に、相手を見つめて動かなんだ。

幽霊男は、まるで別人の様な、変な表情で、黙って突立っていた。両眼は開ける丈け開いて、愛之助の方を向いていたが、それが妙なことに、睨みつけられているという感じは少しもしなかった。

拡げた両手の先丈けが、掴みかかる様に、可愛らしく<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>動いたかと思うと、やがてグッタリ両脇に垂れてしまった。

白いワイシャツの胸に、焼け焦げたみたいな小さな穴が開いていた。奥底が知れぬ様な黒い穴だった。見る見る、その穴から絵の具の様な真赤な動脈の血が、ブツブツと泡を吹いて湧き出し、細い川となってツーッと流れた。

同時に、男の大きな身体が、溶ける様に、或は、くずれる様に、ヘナヘナと<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>せに倒れて行った。

愛之助の目には、それらの咄嗟の出来事が、活動写真のスローモーションの様に、異様にのろのろと、しかも微細な点までもハッキリと映じた。

彼は邪魔ものがなくなったので、相手の身体を跨ぎ越して<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>に近づき、その向側に震えている妻の芳江を予期しつつ、<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>こめてそれを開いた。

暗くてよくは分らぬけれど、人の<ruby><rb>気色</rb><rt>けはい</rt></ruby>はない。

「芳江、芳江」

愛之助はしわがれた声で呶鳴った。手応えがない。

彼は部屋に踏込んで、隠れん坊の鬼の様に、隅から隅へと歩き廻った。そして、芳江のグニャグニャした身体の代りに、ポッカリと口を開いた、もう一つの出入口にぶつかった。

<ruby><rb>一方口</rb><rt>いっぽうぐち</rt></ruby>で寝室だとばかり思込んでいたのは、飛んだ間違いで、その部屋には<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に出口があったのだ。

半狂乱の愛之助は、暗闇の部屋から部屋へと、人の気色を探して、うろつき廻った。ポケットにマッチを持っていたことに気づいたのは、やっとしてからであった。彼はマッチを一本一本擦っては、もう一度家中を探して見た。二階へも上って行った。だが、どこにも妻の姿はない。

逃げたのだ。どこへ逃げたのかしら。まさか家へではなかろう。どこへ、どこへ。

そんなことを考えながら、彼はいつか又、元の部屋へ帰っていた。そして、さっきのままの姿で俯伏している幽霊男の死骸を見た。

「アア、俺は人殺しだ」

ゾーッと氷の様なものが脊髄を這い上った。彼はその時になって、やっと彼の犯した罪を感じたのだ。

「アア、もう駄目だ」

頭の中で、あらゆる過去の姿が、地震の様にグラグラとくずれて行った。

彼は何を考える力もなく長い間突立っていた。

「だが、若しかしたら、こいつ死んだ真似をしていて、今にワッと飛び上って、俺をおどかす積りじゃないかしら」

ふと変なことを考えて、彼は死骸に近づき、その顔を光の方へ、ギュッとねじ向けて見た。だが、白茶けた羊皮紙の様な顔は、笑わなかった。笑う代りに、どうかしたはずみで、ガックリと顎が落ちると、開いた口の白い歯の間から、絹糸みたいに細い血が、ツーッと頬を伝って流れた。

それを見ると、愛之助はヒョイと手を放して、その辺に突当りながら、いきなり戸外へ飛出し、前の広っぱを人家の方へ、えらい勢で駈け出した。

## 殺人者自暴自棄の梯子酒を飲み廻ること

それから一時間程して、愛之助はフラリと別宅の格子戸の前に立った。どこで車を降りたのか、どこをどう歩いたのか、無我夢中であった。絶えず<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に追手を感じながら、若しや芳江が帰宅していないかと、とうとう家まで来てしまったのだ。

思切って、ソッと格子戸を開くと、すぐ見覚えのある芳江の<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>が目についた。ちゃんと帰っているのだ。

彼は<ruby><rb>何故</rb><rt>なにゆえ</rt></ruby>か音を立てない様にして、玄関を上り、茶の間へ踏み込んだ。そこに立ちかけた芳江がいた。眼と眼を見合わせた二人の身体が、石になった様に、愛之助は立ちはだかったまま、芳江は片膝立てたまま動かなくなってしまった。

「お前いつ帰った」

長い後で愛之助が、吐息をつく様に云った。

「マア、あたし、どこへも出ませんわ」

芳江は何か幽霊でも見る様な、怖わそうな表情で、息をはずませて答えた。

「本当か。あくまで外出しなかったと云い張る積りか」

「あなたどうかなすったのじゃありません？　あたし、嘘なんか云いませんわ」

芳江は例の不気味な無邪気さで、ぬけぬけと答えた。

愛之助は妻の驚嘆すべき技巧に打たれた。それはいっそ恐ろしい程だった。突然横面を殴りつけられた感じで、取りつくしまがなかった。

彼は黙って二階の居間に上ると、手文庫から銀行小切手と実印とを取出し、それをふところにねじ込んで、そのまま表へ出た。芳江が玄関まで<ruby><rb>追</rb><rt>おい</rt></ruby>かけて来て、何か云っているのを、背中に感じたが、振向きもしなかった。

反射的に大通りまで歩いて、反射的に手を上げて自動車を呼び止め、運転手が行先を聞くと、<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>に「東京駅」と云った。

だが車が走っている間に気が変った。本当の品川四郎に一度逢って見たくもあり、逢わねばならぬ様に思われた。運転手に品川の自宅を告げた。

十時を過ぎていたので、品川はもう床についていたが、電報配達みたいに、やけに戸を叩く音に目を覚し、婆やの取次ぎで、寝間着姿で玄関へ出て来た。

「マア、上り給え。今時分どうしたのさ」

愛之助は、そう云う品川の顔を穴のあく程見つめていたが、

「君、品川君だね。生きているんだね」

と、突拍子もないことを口走った。

「エ、何を云っているんだ。ハハハハ、この夜更けに叩き起して、冗談はよし給え。それよりも、マア、上らないか」

品川は面喰って、ややムッとしながら云った。

「イヤ、それでいいんだ。君が生きていさえすればいいんだ。朝になったらすっかり分るよ。じゃ、左様なら」

その「左様なら」という言葉が、さも<ruby><rb>長</rb><rt>なが</rt></ruby>の別れといった、いやに哀れっぽい調子だったので、品川は不審らしく、

「君、何だか変だね。まさか酔っているんじゃあるまいね。マア兎も角上り給え」

と勧めたが、愛之助はそれを半分も聞かず、表へかけ出して、待たせてあった車に飛込むと、早く早くとせき立てて、行先も告げずに発車させてしまった。

それから彼は、次々と行先を変えて、二時間ばかり、殆ど東京中を乗り廻した。しまいには運転手の方がへこたれて、「もう勘弁して下さい」と云い出す程も。

「ネエ旦那、車庫が遠いんですから、もういい加減にして下さいませんか」

運転手は車を最徐行にして、くどくどとそんなことを云っていた。

ふと窓の外を見ると、一軒の大きな酒屋が、今丁度戸締りをしているのが見えた。

「降りるよ。降りるよ」

愛之助は突然車を止めさせて、十円近くの賃銀を支払って、車外に出ると、いきなり今戸締りをしている酒屋へ飛込んで行った。

「一杯飲ませてくれ給え」

「もう店を締めますから」

小僧がジロジロ愛之助の風体を眺めながら、無愛想に云った。

「一杯でいいんだ。グッと引かけてすぐ帰るから、君頼むよ」

余り頼むものだから、奥の番頭が口添えをして、小僧がコップ酒を持って来た。

「イヤ、<ruby><rb>桝</rb><rt>ます</rt></ruby>で呉れ給え。桝がいいんだ」

で、五合桝に八分目の酒を受取ると、<ruby><rb>角</rb><rt>すみ</rt></ruby>に口を当てて、キューッとあおった。酒に弱い方ではなかったが、嘗つてこんな飲み方をしたことがないので、毒でも飲んだ様に不気味だった。いきなり顔が熱くなって来た。

もう一杯というのを、酒屋の方で迷惑がって、どうしても承知しないものだから、彼は仕方なくフラフラと歩き出した。何だか力一杯呶鳴ってみたい様な気持ちだった。

「俺は人殺しだぞ。たった今人間を殺して来たんだぞ」と。

だが流石に本当に呶鳴りはしなかった。その代りに、非常に古風な、学生時代に覚えた小唄を、溜息みたいにうなりながら、態とひょろひょろよろけて歩いた。

夜更けの街燈の目立つ、ガランとした町を二三町歩くと、一軒のバーが、まだ営業していたので、そこへ這入って、洋酒と日本酒をチャンポンに、したたか飲んだ。そして、何か愚図愚図<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>の分らぬことを呟きながら、女給に追い立てられるまで、腰を据えていた。

「そんなに呑みたいんなら、<ruby><rb>吉原土手</rb><rt>よしわらどて</rt></ruby>へ行けばいい、あすこなら朝までだって呑めるんだから」

女給に毒づかれて気がつくと、所謂吉原土手は<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>き近くだった。

彼は又ひょろひょろしながら、妙な鼻歌を歌いながら、まだ起きているバーを探して歩き出した。

一軒の薄暗いみすぼらしいバーが目についたので、そこへ入って行った。

<ruby><rb>熱燗</rb><rt>あつかん</rt></ruby>を頼んでグビグビやりながら、隅の方を見ると、一人の洋服青年が、こちらに顔を向けて、ニヤニヤ笑っていた。<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に客はないので、変だなと思って、混乱した頭をいじめつけて、記憶を呼起している内に、ハッと思い出した。いつか浅草公園の藤棚の下で出逢った、美しい若者だ。この辺を根城にしている不良青年かも知れない。

「アア、又御目にかかりましたね」

云いながら、青年は立上って、彼の隣に席を換えた。

「お相手しましょうか」

「ウウ、やり給え。僕はね、今日は非常に嬉しいことがあるんだよ。ネ、君、歌おうか」

「でも、あなたは<ruby><rb>些</rb><rt>ちっ</rt></ruby>とも嬉しそうじゃありませんよ」青年が意味ありげに云った。「それ所かひどく屈託そうに見えますよ。あなたお酒でごまかそうとして<ruby><rb>在</rb><rt>いら</rt></ruby>っしゃるのでしょう」

「で、僕の顔に、今人殺しをして来たとでも書いているのかい」

愛之助はやけくそな調子で云って、ゲラゲラと笑った。

「エエ存外そうかも知れませんね」青年は平気である。「だが、そんなことはなんでもないんですよ。僕、人殺しなんかより、十層倍も恐ろしいことを知っているんです。ネ、お分りでしょう。この間云った奇蹟。この東京のどっかでね。罪人を無罪にしたり、死人を生き返らせたり、生きている人を、全く分らない様に殺したり、自由自在の奇蹟を行っている、恐ろしい場所があるんです」と青年の声は段々低くなって、遂に囁きに変って行った。「あなた、今奇蹟が御入用じゃないんですか。だが、あなたはそれを買うおあしを持って在っしゃるかしら。<ruby><rb>此間</rb><rt>このあいだ</rt></ruby>も云った通り一万円なんです。びた一文かけてもいけないんです」

「君は、僕が人殺しの罪人だとでも思っている様子だね」

「エエ、そう思ってます。人でも殺さなければ、あなたみたいな、そんな恐ろしい顔つきになるもんじゃありませんからね。でも、ビクビクなさらなくってもいいんです。僕はあなたの味方です。どうです。本当のことを僕に打開けて下さいませんか」

青年は彼の耳元に囁きながら、母親が子供にする様に、ソッと彼の背中を撫でていた。

青年のお面みたいな均整な容貌が、彼に何かしら不思議な影響を与えた。この青年こそ<ruby><rb>黄泉</rb><rt>よみじ</rt></ruby>から派遣された彼の<ruby><rb>救主</rb><rt>すくいぬし</rt></ruby>ではないかと思われた。張りつめていた心が、隅からほぐれて行って、<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りつき度い様な、甘い涙がこみ上げて来た。

「本当のことを云うとね、僕は今晩ある男をピストルで<ruby><rb>打殺</rb><rt>うちころ</rt></ruby>したんだよ。その男の死骸は、今でもある空家に転がっているんだよ。だが、君は、真から僕の味方なんだろうね」

愛之助は網目に血走った眼を、物凄く相手の顔に据えて、果し合いでもする様な真剣さで、囁いた。「大丈夫です。僕の目を見て下さい。刑事の目じゃないでしょう。僕は犯罪者の味方なんです。犯罪者をお得意にする、奇蹟のブローカーなんですから。でも、僕はコソ泥棒なんか相手にしませんよ。僕の御得意は一万円という代金が支払える程の、大犯罪者ばかりです」

青年も大真面目で、夢の様なことを口走った。

「よし、じゃ本当のことを話そう。僕のやったことを詳しく話そう」

愛之助は意気込んで、酒臭い唇を、青年の恰好のよい耳たぶにくっつけた。

## 愛之助遂に大金を投じて奇蹟を買求めること

愛之助は廻らぬ<ruby><rb>呂律</rb><rt>ろれつ</rt></ruby>で一通り事の次第を話したあとで、込み上げて来る涙を隠そうともせず、丁度泣き<ruby><rb>上戸</rb><rt>じょうご</rt></ruby>の様に、メソメソしながら続けた。

「相手は殺人鬼なんだ。僕の妻が殺されかけていたんだ。で、僕の行為は一種の正当防衛に過ぎないのだ。併し、法律はそんなことを<ruby><rb>斟酌</rb><rt>しんしゃく</rt></ruby>してくれない。第一証拠がないのだ。僕の妻はその空家へ行ったことを否定している。到底僕の為に有利な証言をしてくれる筈はない。それどころか、彼女にとっては、僕は恋人の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>なんだ。一方姦通者の片割は死んでしまった。そして、奴らの関係を知っている者は、僕の外に一人もないのだ。つまり、ここに一つの殺人がある。殺された奴は恐ろしいラスト・マアダラアだ。けれども誰もそれを知らない。これっぱかりの証拠もない。そして、ただ殺人者として、この僕が死刑台に上る丈けなのだ」

「分りました。分りました」青年は愛之助のくり言をさえぎって云った。「で、つまるところ、あなたは殺人者として処罰せられることを免れさえすればいい訳でしょう。サア、取引です。一万円は高いと御思いですか」

「話してくれ給え。一万円で何を買うのか」

「奇蹟です。想像も出来ない奇蹟です。それ以上説明は出来ません。僕を不信用だと御思いなさるのでしたら、これでお別れです」

青年はそう云って、いつかの晩の様に、その場を立去りそうにした。

「サア、ここに小切手がある。いくらでも金額を書入れよう」

愛之助は、もうお金なんか、ごみか何ぞの様に思っていた。青年は小切手帳を見ると、胸のポケットから万年筆を抜いて彼に渡した。

「一万円かっきりでいいのです」

「サア、一万円。だが、明日の朝でなければ現金に変らない。それまでに、僕の犯罪が発覚するかも知れぬが」

「それは、運命です。兎も角もやって見ましょう。明朝の九時、これを現金にすれば、すぐ奇蹟の場所へ御連れします」青年は腕時計を見て、「今二時半です。あと六時間余りの辛抱です。ナアニ、お酒を飲んでいれば<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>きたってしまいますよ」

だが、まさかバーで夜を明かす訳にも行かぬので、怪青年の案内で、愛之助は吉原近くの木賃宿へ泊った。想像程汚い部屋ではなかったけれど、悪酔いの苦痛の上に、何かしらムズ痒くて、疲れ切っていながら、寝入ることが出来ず、ウトウトとすれば、何とも云えぬ恐ろしい夢にうなされ、我と我が叫声に目を覚まして、飛起きると、身体中不気味な汗に、ベットリ濡れているといった調子で、つい朝までまんじりともしなかった。

配達を待ち兼ねて、新聞を持って来て貰ったが、見るのが怖く、といって見ないではいられなかった。思切って社会面を開いたが、開いたかと思うと、いやな虫けらででもある様にポイと枕元へ放り出した。暫くすると、又手に取って、三面を開きかけて、もう一度放り出した。やっと目を通したのは、そんなことを四五度も繰返したあとだった。

ところが、そこには、池袋の怪屋のことも、幽霊男の死骸のことも、一行も出ていない。

「オヤ、何だか変だぞ、アア、そうそう、昨夜遅くの出来事が今朝の新聞にのる筈はなかったのだ」

と気がついて、愛之助はガッカリした。夕刊に出るまで辛抱しなければならぬかと思うと、<ruby><rb>耐</rb><rt>たま</rt></ruby>らない気がした。

「エエ、なる様になれ。どうせばれるんだ。どうせ死刑台だ」

彼はそんなことを呟きながら、又ゴロリと仰向きになると、あぶら臭い蒲団の襟に顔を埋めた。泥の様にすて<ruby><rb>鉢</rb><rt>ばち</rt></ruby>な気持である。

だが、やがて思いもかけぬ幸福の風が、彼の人臭い寝床を見舞った。十時に近い頃、昨夜の怪青年が、左右均等のお面の顔を、ニコニコさせて這入って来たのだ。

「吉報です。凡てうまく行きました。お金は何の故障もなく取れました。ホラ、一万円の札束です」

青年はポケットから、百円紙幣の束を出して、ポンポンと叩いて見せた。

間もなく二人は連立って木賃宿を出た。愛之助は太陽を恐れて昼間はいやだと云い張ったけれど、怪青年は一笑に附して、

「それがいけないんです。愚かな犯罪者は、夜暗い町を選んで、さもさも泥棒みたいにコソコソ歩くものだから、すぐ様やられてしまうんです。真昼間大手を振って歩いてごらんなさい。人相書を知っている者でも、まさかあいつがと見逃してしまいます。これが<ruby><rb>骨</rb><rt>こつ</rt></ruby>ですよ。ですから、僕なんか、奇蹟の場所へ人を案内するのにも、出来る丈け真昼間を選んでいるのです。サア行きましょう。ちゃんと車が待っているのですから」

とせき立てるので、愛之助もついその気になったのだ。

宿を出て、まぶしい四月の太陽の下を、二三丁も歩くと、そこの大通りに、一台の立派な自動車が待っていた。その運転手も怪青年の一味のものらしく、彼等は目を見交わして、合図をして、<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>き合った。

やがて、車は愛之助と怪青年を乗せて走り出した。

「少しうっとうしいですが、目かくしをして頂かなければなりません。非常に秘密な場所だものですから、仮令御得意様にでも、その所在を知られたくないのです。これは私共の規則ですから、是非承知して頂き度いのです」

少し走ると青年が妙なことを云い出したが、どうでもなれと捨鉢の愛之助は無論この<ruby><rb>申出</rb><rt>もうしいで</rt></ruby>を承諾した。すると、青年はポケットから一巻きの繃帯を取出して、まるで怪我人みたいに、彼の目から頭部にかけて、グルグルと巻きつけてしまった。普通の目かくしでは、外から見て疑われる心配があるので、繃帯を使って怪我人と見せかけるのであろう。実に万<ruby><rb>遺漏</rb><rt>いろう</rt></ruby>なき<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り<ruby><rb>口</rb><rt>くち</rt></ruby>である。そうして、全速力で三十分ばかり走ると、車が止り、愛之助は青年に手を引かれて、どことも知れぬ石畳みに下車した。

「少々階段を下らなければなりません。足下に注意して下さい」

青年の囁き声と共に、もう石段の降り口に達していた。非常に長い石段であった。降りては曲り、降りては曲りして、充分二丈程も地下に下った様子である。

やがて、広々とした<ruby><rb>平地</rb><rt>ひらち</rt></ruby>に出た。そこはもう石畳みではなくて、ツルツル<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>る板張りの床になっていた。

「御辛抱でした」

青年の声がして、頭の繃帯がとられて行った。目かくしがとれて眺めると、さっき宿を出て歩いた道の、はれがましい白昼の明さに引かえて、そこは、陰々とした地底の夜の世界であった。

十坪程の簡素な板張りの、アトリエ風の洋室で、電燈はついていたけれど、<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>の<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>の様な非常に多くの陰影が群がって、一種異様な別世界の感じを与えた。というのは、その部屋の四方には、まるで五百羅漢の様に、等身大の男女の裸人形が立並んでいたからである。

「びっくりなすっている様ですね。併し、ここは人形工場じゃありません。そんな世の常の場所じゃありません、今に分ります。今に分ります」

怪青年は、彼自身人形と同じ様な、余りにも整い過ぎた顔に、妙な薄笑いを浮べながら云うのである。

人形共のうしろには、沢山の棚があって、そこに、化学者の実験室の様に、無数の薬瓶が並んでいた。その棚の二つの切れ目が、今這入って来た入口と、奥へ通ずる<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>である。その奥には一体全体どんな設備があるのか、<ruby><rb>抑</rb><rt>そもそ</rt></ruby>も何者が住んでいるのか、愛之助は何かしら<ruby><rb>名状</rb><rt>めいじょう</rt></ruby>し難い魔気という様なものに襲われ、戦慄を禁じ得なかった。

暫くそこに佇んでいると、突当りの<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の握りが、さもさも用心深く、ジリジリと廻って、やがてその<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>が音もなく半ば開かれ、暗い蔭に、何者かの姿が、薄ぼんやりと現われた。

  


## 後篇　<ruby><rb>白蝙蝠</rb><rt>しろこうもり</rt></ruby>

## 第三の品川四郎

さて、それから、この可哀想な猟奇者はどうなったか。その変なラボラトリイでどんな奇怪な事が起ったか、等々は暫く<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>のお楽しみとして、ここではもっと別の方面から、事件全体の姿を眺めることにする。というのは、この<ruby><rb>二人</rb><rt>ににん</rt></ruby>品川の怪事は、実は一猟奇者の身の上話という丈けではなく、一時は東京中を、いや日本中をさえ湧き立たせた所の、非常に大きな犯罪事件の謂わば序幕をなしたもので、それが今や、本舞台に移らんとしているからである。作者もこれまでの様に、ゆっくりゆっくりと筆を運んではいられなくなって来たのだ。

青木愛之助の細君の芳江は、あの晩愛之助が<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>あんな変な様子をしていたのか、まるで<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちなかった。読者も已に推察されている通り、彼女は全く無実であったのだ。ただ、愛之助が余り恐ろしい顔色をしていたものだから、それにつられて、ついこわばった表情になり、愛之助の誤解を裏書きする様な結果になってしまったのだ。愛之助の方で、それ程も、怪物の<ruby><rb>偽瞞</rb><rt>ぎまん</rt></ruby>に物狂わしくなっていたのだ。

翌日の夕方頃まで待っても、愛之助が帰らぬので、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の恐ろしい顔色といい、どうもただ事ではないという気がされて、もう居ても立ってもいられなくなった。

そこで芳江は、東京では夫君の最も親しくしている品川四郎を訪ねて相談して見ようと思立った。若しかしたら、品川の所に泊り込んでいないとも限らぬのだから。

で、支度をして、婆やに留守を頼んで、いつも乗りつけのタクシーの帳場まで、二丁ばかりの道を歩いて行くと、これはどうだ。まるで申し合わせた様に、向うからその品川四郎がやって来るのに、バッタリ出会ったのである。

「マア、品川さん」

「どちらへ」

「御宅へ御伺いしようと思って。実は青木が変な様子で外出したまんま、帰りませんものですから、若しやお宅にでもと思いまして」

「アア、そうでしたか。イヤ、御心配なさることはありませんよ。実は<ruby><rb>麻雀</rb><rt>マージャン</rt></ruby>の手合わせがありましてね、池袋のある家に居続けなんです。僕も昨夜はそこで泊ったのですが、今日も仕事をすませて、これからそこへ行く所なんです。で、あなたを御誘いしようと思いましてね。<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>な御存知の連中です。いらっしゃいませんか。青木君も歓迎するに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>ってますよ」

「マア、そうでしたの。じゃ、あたし、どうせ出かけたのですから、このまま御ともしますわ」

という訳で、両人肩を並べて、タクシーの帳場に向ったことであるが、これは又どうしたというのだ、この品川は一体全体どの品川なのだ。

彼の言葉が一から十まで嘘っ八なことは、読者がよく知っている。だが、例の幽霊男の方は青木に殺されてこの世にはいない筈だ。では、本当の品川四郎が、こんな嘘をついて、芳江をおびき出そうとしているのだろうか。行先は池袋だ。池袋と云えば例のラスト・マーダラアの<ruby><rb>跳梁</rb><rt>ちょうりょう</rt></ruby>した怪屋の所在地だ。この男はどうやら芳江をそこへ連込もうとしている様子であるが、まさか本物の品川がそんな真似をする筈はない。青木が池袋にいるなんて嘘を云う<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>がない。では、ここにいる男は、幽霊男でもなく、本当の品川四郎でもないとすると、奇怪奇怪、又しても全然別な第三の品川四郎が出現したのであろうか。変な云い方だが、品川という男、一体幾つ身体を持っているのか。（だが、読者諸君、あんまり馬鹿馬鹿しいと怒ってはいけない。この謎はじきにあっけなく解けるのだから）

途中何のお話もなく、車は池袋のとある一軒家に着いた。案の定それは例の怪屋であったが、芳江はそれとも知らず、品川そっくりの男のうしろから、そのうちへ這入って行った。

「マア、妙なうちですこと。まるで空家の様じゃありませんか」

芳江は家具も何もない、ひどくほこりの溜った、広い板床の部屋を見廻して、不気味そうに尋ねた。

「青木はどこにいますの」

品川そっくりの男は、うしろ手に、ピチンと<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の鍵をかけて、ニヤニヤ笑いながら答えた。

「青木？　青木と申しますと」

「マア……」

芳江は唇の色を失って、立ちすくんでしまった。非常に恐ろしいことが、今自分の前に笑っているのは品川と非常によく似た別人だということが、薄々分って来たからである。

「あなた、どなたですの。品川さんじゃありませんの」

乾いた唇で、彼女はやっと云った。

「品川四郎。アア、あの好人物の科学雑誌社長のことをおっしゃっているのですか。違いますよ。僕はあの人の影なんです。影だから名前はありません。つまり第二の品川ですね。併し、本物よりはちっとばかり利口なつもりです」

怪物は<ruby><rb>叮寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>な言葉で、絶えず<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえみ</rt></ruby>を浮べながら、事もなげに説明する。

「不思議ですか。不思議でしょう。<ruby><rb>双生児</rb><rt>ふたご</rt></ruby>ででもなければ、こんなによく似た男が二人いる筈はないと思うでしょう。ね、思うでしょう。そこですよ、そこに我々人間の大きな弱点があるのです。<ruby><rb>古来</rb><rt>こらい</rt></ruby>の犯罪者達が、どうしてこの大きな弱点を見逃していたか、私は気が知れませんよ。これを利用しないのは嘘じゃありませんか。これを利用すれば、どんな大仕事だって、国家というものを根底からくつがえすことだって、或は全世界を一大動乱に導くことだって、造作はないのですよ。例えば、この僕が品川四郎ではなくても、彼の百層倍も×××××とそっくりの顔をしていたと考えてごらんなさい。……ね、分るでしょう、それがどれ程恐ろしい意味を持っているか……」

彼は段々演説口調になりながら、この美しい聞手を前にして、いい気持ちになって、何事かを喋ろうとしていた。もう少し放って置けば、どんな恐ろしい秘密を打明けたかも知れないのだ。だが、折角の所で、とんだ邪魔が這入ってしまった。

## 一寸だめし五分だめし

その時、上の空で、悪魔の演説を聞いていた芳江が、何か見たのか、突然「ヒー」と云う様な、恥も外聞も忘れた悲鳴をあげて、一方の壁へ、蜘蛛の様にへばりついてしまった。

「オヤ、どうかしましたか」

男は態とビックリした様子で尋ねたが、彼女が驚くことは最初から予期していたのだ。

「アア、あの床の赤黒い痕ですか。御想像の通り血ですよ。ハハハハ、だが、血は血でも、人間のじゃありません。動物のでもありません。お芝居に使う紅ですよ。ホラこれです。ごらんなさい」

彼は云いながら、ポケットから小さな<ruby><rb>膠玉</rb><rt>にかわだま</rt></ruby>を取り出して、ハシッと壁にぶっつけた。膠が破れて、濃い血のりが、その壁が生きた人間の胸ででもある様に、タラタラと流れた。

「ハハハハ、分りましたか。これは僕の大切な武器なんです。空のピストルと血のりの膠玉、この二つの道具で、イザという時には、僕は態と相手に撃たれて、胸のシャツの中でこれをつぶして、死んで見せるのです。その方が相手を殺すよりは、安全だし、興味も深いではありませんか。僕が死んだと思って狼狽する相手の様子を眺めてやる丈けでも。ね、ハハハハ」

男はさもさも面白そうに笑いつづけたが、やっと笑いやむと、又饒舌を続ける。

「と云った丈けでは分らないでしょうが、実は昨晩、丁度あの血の痕のついている辺で、僕はあなたの旦那様の為に殺されたのですよ。旦那様はね、目がくらんでいらしったものだから、僕の上手なお芝居にだまされて、本当に殺人罪を犯したと思って、気違いの様になってしまいなすった。そして、やけくそになって、吉原のバアを呑み歩いていらっしゃる所を、僕の部下のものが御連れして、今ある秘密な場所に、おかくまいしてあるのですよ。つまり、ここでその人殺しが行われた痕なのです。併しね、僕が撃たれたのはお芝居でしたが、ここの家ではお芝居ばかりが行われる訳でもないのです。もっと恐ろしいことも、紅でない血の流れることも、ないとは限りません」男はそこでニヤニヤと大きく笑った。「実を云いますとね、あなたの旦那様は、その本当の血の流れる所を御覧なすったのですよ。ホラ、見えるでしょう。あの庭の大きな松の木によじ登ってね。で、僕はその口留めをする為に、あの人に殺されることにしたのです。そう仕向けたのです。うまく成功しました。そこであの人の犯人と目ざす男は死んでしまい、密告をしようにも相手がなくなったばかりか、あの人自身殺人の大罪を犯したと信じ切って半狂乱の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>なんです。何とうまい方法じゃありませんか。こんな膠玉が、すばらしい二重の効果を上げようとは」

怪物はそこまで云って、じっと芳江の表情を眺めていたが、薄気味の悪い調子で、

「アア、あなた震えていますね、怖いのですか。僕がこんなに何もかも打開けてしまうのが怖いのですか。こうして平気で種明しをする裏には、どんな下心があるかということを見抜いていらっしゃるのですね。あなたは本当に御察しがいい。御想像の通りですよ。しかし、そんなに壁にくっついていなくともよろしい。今すぐという訳ではないのです。<ruby><rb>大切</rb><rt>だいじ</rt></ruby>の獲物をそうむざむざ殺してしまう様な僕ではありません。もっともっとあなたに聞かせて置くことがあるのです。サア、こちらへお寄りなさい」

怪物の<ruby><rb>触手</rb><rt>しょくしゅ</rt></ruby>の様な<ruby><rb>猿臂</rb><rt>えんぴ</rt></ruby>がニュッと延びて、芳江の柔い頸筋を掴み、ねばっこい力強さで、彼の身近に引寄せた。芳江は身体中の力が抜けて、叫ぶことも、抵抗することも出来ず、ただもう悪夢にうなされている気持だった。

「僕は最初からこんな悪党ではなかった。ただ、あの威張り返った科学雑誌社長さまを、からかってやれという位の気持で活動写真の群集に混って、この顔を大きく写して見せたり、ある秘密な家で態と僕の変てこな姿を隙見させたりして喜んでいたのですが、そこへあなたの旦那様というものが出て来た。そして当の品川四郎よりも、僕というものの存在を不思議がり興味を持ち始めたのです。そこで、こいつ一つからかってやれと、あなたと声のよく似た娘を手に入れて、媾曳のお芝居をやって見せた所が、あの人はまんまと引っかかって来たのです。

ね、どうです。すばらしいじゃありませんか。僕もまさかこれ程うまく行くとは思っていなかった。それが、堂々たる科学雑誌の社長様と、探偵好きで猟奇家のあなたの旦那様と、全くおあつらえ向きの稽古台で、首尾よく成功したじゃありませんか。この調子なら何をやったって大丈夫だと、僕は非常な自信を得た。そこで、今までは夢の中で丈けやっていたことを、実行し始めたのです。どんな帝王でも真似の出来ない様な快楽に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>り始めたのです。そして、それが世間にバレた時には、ちゃんと罪を引受けてくれる人がある。僕は此の世に籍のない男です。品川四郎の影でしかないのです。つまり僕の罪は凡て品川四郎が負ってくれる訳なんです。なんとすばらしいではありませんか。

快楽って一体何だと御聞きなさるのですか。それは今に、今に分ります。……ところで、お話の続きですが」と彼は一層強く芳江を引寄せて、頬ずりせんばかりにして「そうして、あなたの贋物と媾曳きのお芝居をやっている内に、妙なもんですね、贋物ではあき足りなくなって来た。本当のあなたが欲しくなって来た。でね、あなたの旦那様をあんな目にあわせたのも、一つは僕の秘密をかぎつけられた為でもあったけれど、真底の気持を云うと、僕の邪魔者を追払って置いて、あなたを本当に僕のものにしたかったのですよ。アア、あなた冷い手をして震えてますね。頸筋に<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>い美しい汗の玉が吹出してますね。何て可愛い人でしょう。サ、あちらの部屋に楽しい遊戯の席が準備してあります。行きましょう。……あなた想像できますか。その遊戯がどんな種類のものだか」

そして、哀れな小雀は、このえたいの知れぬ怪物の小脇にしめつけられたまま、別室へと連れられて行った。そこで何事が行われたかは、誰も知らない。だが恐らくは誰もが想像する通りであったに相違ない。我々は嘗つて青木愛之助が、松の梢から望み見た、あの<ruby><rb>血腥</rb><rt>ちなまぐさ</rt></ruby>い遊戯を忘れることは出来ないのだ。

## 今様片手美人

右の出来事があってから、数日の後、気候を云うと、この物語の最初から已に半年程経過した五月も終りに近い、蒸し暑いある一日のことであった。

<ruby><rb>牛込</rb><rt>うしごめ</rt></ruby>の<ruby><rb>江戸川</rb><rt>えどがわ</rt></ruby>公園の西のはずれに、俗称<ruby><rb>大滝</rb><rt>おおだき</rt></ruby>という、現在では殺風景のコンクリートの水門に過ぎないが、併しやっぱり大滝の様に水の落ちている箇所がある。<ruby><rb>武蔵野</rb><rt>むさしの</rt></ruby>の西から流れて来た小川が、そこで滝になって、昔は桜の名所であった江戸川となり、<ruby><rb>大曲</rb><rt>おおまがり</rt></ruby>を曲って、<ruby><rb>飯田橋</rb><rt>いいだばし</rt></ruby>の所で外堀に流れ込んでいるのだ。

その大滝のそばには、数軒の貸舟屋があって、夏の夕涼に小舟を操る人も多く、郊外の一寸した名所になっているのだが、その日は今も云った晩春のむし暑い日であったので、もう近所の子供<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>が、舟を借り出して、浅い濁水に棹を操り、大滝の真下の渦巻き返す激浪と闘って打興じていた。中には、気早にも、もう<ruby><rb>素裸体</rb><rt>すっぱだか</rt></ruby>になって、汚らしい水に飛び込む、野蛮人みたいな<ruby><rb>腕白</rb><rt>わんぱく</rt></ruby>小僧達もあった。

大滝の巾十間、落差二丈もあるだろうか、巨大なビイドロの如き落口、白浪<ruby><rb>相噛</rb><rt>あいか</rt></ruby>む滝壺、四隣を震わす<ruby><rb>鼕々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>の音、小さいながらも、滝というものの美しさを凡て備えていた。高が水門と油断をして、滝壺へ舟を近づけ、つい命を奪われるものも、年に一人や二人はある。滝壺は非常に深くて、その底に何やら魔のものが<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでいるなどと、あらぬ怪談さえ生れて来るのだ。

だが、土地の子供は<ruby><rb>河童</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>だ、危険な箇所を心得ていて、恐れもしないで、泳ぎをやる。で、その時、一つの小舟から、クルクルと素裸体になった十五六歳の<ruby><rb>我鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>大将が、真黒な身体を逆さにして、ドボンと滝壺近くの深味へ飛込んだのである。

「待ってろよ。いいものを探して来てやるから」

少年は舟の上の仲間に、そう呶鳴って置いて、<ruby><rb>海豚</rb><rt>いるか</rt></ruby>の様に身をくねらせて、<ruby><rb>水底</rb><rt>みずそこ</rt></ruby>深くもぐって行った。舟遊びの人が落した財布などが、時として底の泥深く埋まっていることがあるからだ。

彼は水中に目を見開いて、底へ底へと下って行った。海底の様に<ruby><rb>藻</rb><rt>も</rt></ruby>の林はないけれど、その代りに、木切れ<ruby><rb>藁束</rb><rt>わらたば</rt></ruby>ドロドロの<ruby><rb>布屑</rb><rt>ぬのくず</rt></ruby>、犬とも猫とも知れぬ小動物の白骨などが、濁った水底にブヨブヨと蠢いている様は、海などよりも一層不気味に物凄かった。

滝壺の真下を見やると、二丈の高さから落ちる幾百<ruby><rb>石</rb><rt>こく</rt></ruby>の水がそのまま、深い底近くまで巨大な柱になって、余勢が尽きると、無数の真白な泡と砕け、沸々と水面に向ってたぎり昇っている恐ろしい有様だ。

だが、見慣れた少年は何とも思わない。それよりも<ruby><rb>水底</rb><rt>すいてい</rt></ruby>の<ruby><rb>雑物</rb><rt>ぞうもつ</rt></ruby>の間に、何か舟の仲間への御土産になる様な品物が落ちていないかと、息の続く限り、泥の間を泳ぎ廻っていた。

ふと見ると、五六間向うの泥の中に生えて、ヒラヒラしている白いものが目についた。幾百度と数え切れぬ程同じ水底にもぐっている少年だが、こんな変てこな感じのものに御目にかかったのは初めてだった。動物の骨ではない。もっと太くて、グニャグニャして、何となく生きている様に思われるのだ。

彼は好奇心を起して、そのものに近づいて行った。水の層をかき分ける毎に、そのものの姿はハッキリして来た。泥水の底のこと<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>、あたり一帯、場末の電力の乏しい活動写真みたいに異様にドス黒い。その中に、クッキリと青白いそのものが、本当に泥から生えた感じで、五本に分れた先端が、水を掴んでもがいている。

生きた人間の、恐らくは女の、断末魔の苦悶の手首だ。それが、泥から一本、ニョッキリと生えてもだえているのだ。

少年の身体が敵に逢った<ruby><rb>海老</rb><rt>えび</rt></ruby>みたいに、非常な速度で水中にもんどり打ったかと思うと、彼は七転八倒の有様で、水面に浮き上り、したたか飲んだ泥水を、ゲロゲロと吐き出した。そして、やっと口が利ける様になると、舟の上の仲間達に向って、

「人、人、人が死んでる」

と、どもりどもり呶鳴った。

少年自身が死人の様に青ざめている。

「本当？　死んでるの？」

「分らない。まだ動いていた」

「じゃ、早く助けてやろう。みんな、手伝って助けてやろうよ」

勇敢な一人が、意気込んで云った。河童少年達の間に、英雄的な気持が湧起った。

「助けてやろう、助けてやろう」

一同口々に叫んで、着物をかなぐり捨てて、競泳の様に、次々と、ドボンドボン飛込んだ。

都合四人、赤黒くスベスベした身体が、泥水の中を<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>に底に向って突き進んだ。

同勢に力を得た最初の少年は、負けぬ気になって、覚えの場所へもぐりつくと、白いヒラヒラしたものを、思い切って、グッと掴んだ。次につづいた一人も、争う様にそれを掴んだ。ブヨブヨと薄気味悪い手触り。勢こめてグイと引っぱると、何の手応えもなく、スッポリと抜けた。

手ばかりで胴体はなかった。それが何かのはずみで、泥から生えた恰好になっていたのだ。

少年達は舟に戻った。青白い女の片腕は舟の胴の間に放り出された。鋭利な刃物で切断したのか、切口は見事である。桃色の肉にまかれて、白い骨が、ちょっぴりと覗いている。一本の指にキラキラ光るのは、<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>い細工の白金の指環である。ムッチリした指に深く食入っている。

それからの騒ぎは細叙するまでもない。子供達の知らせに、貸舟屋の小父さんが驚いて交番にかけつけた。所轄警察署から数名の係官が出張し、人を傭って水中を隈なく捜索させたが、右の一本の腕（左腕であった）の外には、何物も発見されなかった。

それの沈んでいた場所で投込まれたものか、ずっと上流に<ruby><rb>投棄</rb><rt>なげす</rt></ruby>てられたのが、流れ流れて、水門を越して、滝壺に<ruby><rb>留</rb><rt>とま</rt></ruby>っていたのか、諸説まちまちであったが、大滝附近に人殺しなど行われた様子のない所を見ると、恐らく後説が当っているであろうと、一巡査が貸舟屋の親父に語った。

生腕は所轄警察を経て、鑑定の為に警視庁へ廻された。翌日の新聞がこの記事で賑ったことは申すまでもない。行倒れや乞食の腕ではないのだ、<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしい女の腕、しかも、指先に手入れの行届いていること、白金の指環などが、豊かな育ちの、若く美しい女を想像させるのだ。好奇的三面記事にはおあつらえ向きである。

ある新聞の編輯者は、「今様片手美人」という見出しをつけた。つまり片腕を切落された美婦人が、東京のどこかに、まだ生きているという、誠に奇怪な空想をほのめかしたものである。彼は恐らく<ruby><rb>涙香</rb><rt>るいこう</rt></ruby>小史飜案する所の探偵小説「片手美人」の愛読者であったに相違ない。

## 名探偵明智小五郎

右の出来事の翌日、<ruby><rb>明智小五郎</rb><rt>あけちこごろう</rt></ruby>は警視庁に馴染の<ruby><rb>波越</rb><rt>なみこし</rt></ruby>警部（当時彼は捜査課の重要地位についていた）を訪ねて、人を避けた一室に対談していた。

これは偶然の一致である。明智小五郎は何も「美人片手事件」に特別の興味を持っていた訳ではない。当時世を騒がせていたもっと別な事件について、彼自身その捜査の主役を演じていたものだから、自然捜査課を訪れることもあったのだ。殊に波越警部とは「<ruby><rb>蜘蛛男</rb><rt>くもおとこ</rt></ruby>」以来のなじみ故、お互に遠慮のない話もはずむのである。

そこへ、取次役の巡査が這入って来て、鬼警部の前に、恐る恐る一葉の名刺を差出した。

「××科学雑誌社長、品川四郎、ホオ、妙な人が尋ねて来たな。話でも聞かせろというのかな」

「裏に用件が書いてございます」

巡査が云った。

「大滝にて発見された婦人片腕事件につき是非是非御話し申上げ<ruby><rb>度</rb><rt>たく</rt></ruby>。フン、例の片腕事件だ。何かあるかも知れんね。明智さん」

「その人、知っているの？」

「ウン、面識はある。親しい程ではないんだが。一度逢って見よう」

「じゃ、僕は遠慮しようか」

「イヤ、イヤ、却っていてくれる方がいいよ。又、君の智慧を借りることがないとも限らぬ。ハハハハ」

とこれは鬼警部のてれ隠しである。彼は明智小五郎を<ruby><rb>畏敬</rb><rt>いけい</rt></ruby>しながらも、刑事上りの老練家として、素人探偵の助力をたよることを、日頃から、いささか<ruby><rb>不面目</rb><rt>ふめんもく</rt></ruby>に感じているのだ。

やがて巡査の案内で読者諸君に馴染の品川四郎が這入って来た。さも科学屋さんらしく、黒の上衣に<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>のズボンの固くるしい服装だ。一応挨拶がすむと、彼は早速用件にとりかかった。

「実は行方不明の女があるのです。もう五日程になります。イヤ、女ばかりではありません、その婦人の亭主も、女よりも一日二日早く、どこかへ姿を消してしまったのです。青木愛之助といって私の友人なのですが、今朝の新聞を見るまでは、大したこととも思っていませんでした。青木という男はひどく気まぐれで、それに本宅は名古屋だものですから、黙って帰ってしまったのかも知れない位に考えて、実はまだ警察へもお届けしていない始末です。

ところが昨日、問合わせてあった名古屋の実家から、まだ帰らぬという返事を受けとる、その<ruby><rb>今朝</rb><rt>こんちょう</rt></ruby>、例の新聞記事です。どうも飛んだことが起ったのではないかと非常に心を痛めている次第です。と申しますのは、新聞に出ている、女の指にはまっているという指環ですが、あれがその、今云う青木の妻の芳江のものとそっくりなのです。で、若しやと思いまして、私その指環をよく見覚えているものですから、実物を一度拝見したくて、御伺いした訳なんですが」

「そうでしたか。よくお訪ね下さいました。早速御目にかけましょう」

耳よりな話に、警部は已に犯罪の手掛りを掴んだかの如く喜んで、自らそれを保管してある一室へ行って、一巡査に瓶詰めの片腕を持たせて帰って来た。

覆いの<ruby><rb>白布</rb><rt>しろぬの</rt></ruby>をのけると、瓶の中に、防腐液につけた、不気味なものが指を上にして、生えた様に立っていた。

「ごらんなさい。この指環です」

品川は机の上に置かれた瓶に顔をよせて、暫く眺めていたが、防腐液が濁っていて、ハッキリ分らぬので、警部に断って、瓶を窓際に持って行き、蓋を取って、暫くの間綿密に検べていたが、見極めがついたのか、元の席に戻ると、やや蒼ざめた顔をして、

「やっぱりそうでした。間違いなく青木芳江の腕です」

と低い低い声で云った。

「見違いはありますまいね」

波越氏も真剣な調子である。

「決して。この特殊の彫刻は、青木君の好みで、態々彫らせたものですから、芳江以外の人がはめている筈はないのです」

品川氏はそう云って、又瓶の置いてある所へ立って行って、入念に検査していたが、やがて、深い溜息と共に、瓶の<ruby><rb>白布</rb><rt>はくふ</rt></ruby>を元の様にかぶせて、

「恐ろしいことだ。恐ろしいことだ」

と独言を云った。その調子が何かしら意味ありげに聞えたので、警部は逃さず、

「思当ることでもおありなのですか」

と尋ねた。

「あるのです。実はそれも御話しする積りで伺ったのですが、余り変なことなので、私の言葉を信じて頂けるかどうかをあやぶむのです」

「兎も角伺いましょう。無論犯人についてでしょうね」

「そうです。突然申上げると、こいつ気でも違ったのか、夢でも見ているのかと、御疑いなさるか存じませんが、この事件の裏には、恐らく私と寸分違わない、誰が見ても私と同じな、もう一人の私が糸を操っていると信ずべき理由があるのです」

「何ですって、おっしゃる意味がよく分りませんが」

警部が変な顔をして聞き返した。<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に聞いていた明智小五郎も、この異様な話に興味を覚えたのか、品川四郎の顔を穴のあく程見つめている。

「イヤ、御分りがないのは<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっと</rt></ruby>もです。私だって、最初は自分の頭がどうかしたのかと疑った程です。併し、私はもう半年もの間、その、私と寸分違わない怪物の為に悩まされているのです。私だけではありません。今申上げた青木君もこのことはよく知っているのです。実を云いますと、もう長い間、私は、こんなことが起りゃしないか、起りゃしないかと、ビクビクものでいました。その私と同じ顔の男が、ひどい悪党であることがよく分っているものですから。今度の事件だって、そいつの深い企らみです。殺されたのは私の友人の細君、イヤ細君ばかりじゃない、青木君自身だって、今頃は生きているか死んでいるか分ったものではありません。両人共私と関係の深い人です。その下手人が私と寸分違わない男だとすると、どういう事になりましょう。さしずめ疑われるのはこの私です。ね、この私です。私はそれが恐ろしいのです。で、よく事情をお話して、悪人の<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>を越して、私自身はこの事件に何の関係もないということを、ハッキリ申上げて置く為に、急いで伺った様な訳なのです」

「伺いましょう。出来るだけ詳しく話して見て下さい。ここにいるのは、御承知かも知れませんが有名な民間探偵の明智小五郎氏です。御話の様な事件には、明智君もきっと興味を持たれることと思いますから」

品川氏は明智と聞いて、チラとその方を見て、一寸赤面した。何故か分らない。明智の優れた才能を知っていて、この思いがけぬ邂逅を喜んだのかも知れない。

彼は長い物語を始めた。それは凡て読者の知っていることだから、ここには省略するが、場末の活動小屋で見た怪写真のこと、新聞の写真に顔を並べた二人の品川四郎のこと、赤い部屋の驚くべき対面のこと、そのもう一人の品川が青木の細君と道ならぬ関係を結んでいたらしいこと、青木がその為に非常に悩んでいたこと、一週間ばかり前（それが青木の顔を見た最後なのだが）彼が夜更けに突然訪ねて来て、

「君は確かに品川君だろうね。生きているんだね」

と妙なことを口走ったまま、ポイとどこかへ立去ってしまったこと、間もなく細君の芳江が行方不明になったこと、その時青木の住所の附近で、品川と芳江とが肩を並べて歩いているのを見かけたものがあること、<ruby><rb>等</rb><rt>とう</rt></ruby>、等、等を詳細に物語り、そういう訳だから、この両人の行方不明事件の裏には、あの怪物がいるに<ruby><rb>違</rb><rt>ちがい</rt></ruby>ない。しかも、その恐ろしい罪を本物の品川四郎に転嫁しようと企らんでいるに相違ないと結論したのである。

この奇怪千万な物語が、波越氏を、又明智小五郎をも、打ったことは<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>である。波越氏の如きは、赤ら顔を、一層上気させて、熱心に聞入っていた。

物語を終って、聞手が事情を呑込んだと見ると、品川氏はホッと安堵の体で、「いつでも必要な時には呼び出して下さる様に」と言葉を残して<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を告げて立去った。

「小説みたいな話だ。<ruby><rb>双生児</rb><rt>ふたご</rt></ruby>でなくて、そんな寸分違わぬ男がいるなんて信じられん様な気がするがね」

波越氏は、品川の言葉に従って手配を運んだものかどうかと迷っている様子だ。

「非常に面白い。信じる信じないは別として、これは馬鹿に面白い事件らしいよ」

明智はいたずらっ子みたいな表情をして云った。

「面白いには面白いが」

「イヤ、僕の云うのは、君の意味とは違うのだよ。今の男は少くとも手品にかけては、玄人も及ばぬ手腕を持っているということだ」

「な、何だって」

明智が変なことを云い出したので、波越氏はちょっと<ruby><rb>面食</rb><rt>めんくら</rt></ruby>った形である。

「マア、その腕の浸けてある瓶を検べて見るがいい。君は話に夢中になって、あの男の挙動を注意しなかった様だが、あいつ大変な奴だよ」

波越氏はそれを聞くと、ハッとした様に立上って、窓際に近づき、瓶の覆いの<ruby><rb>白布</rb><rt>はくふ</rt></ruby>を取りのけて見た。同時に「アッ」という叫声。瓶の底に、一本の指が切離されて、フワフワと漂っている。

「指環が、指環が」警部はあいた口がふさがらぬ。

「実にうまい手品師じゃないか。指環の彫刻を検べると見せかけて、すばやく指を切って、指環だけ抜取ってしまったのだ。<ruby><rb>大切</rb><rt>だいじ</rt></ruby>な証拠を抜取ってしまったのだ。指に食入っているので切らなければ抜けなかったのだよ」

「それを君は」警部は真赤になって呶鳴った。「知りながら黙っていたのか」

「ウン、あんまり見事な腕前に見とれてね、だが、安心し給え、指環はここにある」明智はそう云って、チョッキのポケットから白金の細い指環を出して見せた。

「いつの間に？」

「あの男を戸口へ見送りに立つ時さ。あいつ、まさかここにもう一人手品使いがいるとは知らなかったろう」

「アア、又君の<ruby><rb>酔狂</rb><rt>すいきょう</rt></ruby>か。それはいいが、肝腎のあいつを逃がしてしまったじゃないか。指環よりも、あいつの方が大切だ、証拠<ruby><rb>湮滅</rb><rt>いんめつ</rt></ruby>にやって来るからは、あいつこそ犯人かも知れない」

「僕はそうは思わぬ。指環のなくなったことはすぐ知れるのだ。それを顔をさらして盗みに来る奴が真犯人だろうか。まさかそんな無茶をする奴はあるまい。多分部下のものだよ。今騒ぎ立てたら、大物が逃げてしまう。マア、慌てなくてもいい。こいつはひどく面白そうだから、僕も一肌脱ぐよ。イヤ、あいつを追っかけるのは止し給え。この位の犯人になると、黙っていても向うから接近して来るものだよ。現に今の仕草だって、見方によれば我々に対する挑戦じゃないか」

<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも犯人が警察に戦いを挑んだのは事実であった。だが、その外の点では、流石の明智も飛んだ思違いをしていたのだ。それ程犯人のやり方がずば抜けていたのだ。明智の思違いは間もなく分る時が来た。そんな議論をしている<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、三十分程無駄な時間が過ぎた。そこへさい前の取次巡査が、変な顔をして、又名刺を持って来た。

「品川四郎」今度のは科学雑誌社長の肩書がない。

「今の男じゃないか」

「そうの様です」

「そうの様ですって、顔を見れば分るじゃないか」

「エエ、併し……」

巡査は何故か妙な顔をして、答えかねている。

「兎も角、ここへ引っ張って来たまえ。逃がしちゃいかんよ」

警部は厳しい調子で命じた。

待つ程もなく、品川四郎がドアの所に現われた。取次巡査はそのうしろに、逃がすまいとがんばっている。

「何かお忘れものでも」警部は<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて笑顔を作って云った。

「エ？」品川氏はどぎもを抜かれた形だ。

「君は三十分程前に、指環を抜取って帰ったばかりじゃありませんか。途中で指環を落したとでもいう訳ですか」

「エ、僕が三十分程前に、ここへ来ましたって。この僕が？」品川氏は何が何だか分らぬ様子であったが、間もなく部屋の空気や警部の表情から、ある恐ろしい事実を察して、サッと顔色を失い、その場へ棒立ちになってしまった。

「あいつだ、あいつに<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>を越されたのだ」

品川氏は空ろな眼で一つ所を見つめたまま、ぶつぶつと呟いていたが、やがて気を取直して、

「よく見て下さい。この僕でしたか、こんな服装をしていましたか」

云われて見ると、同じ黒の上衣、同じ縞ズボンではあったが、<ruby><rb>地質</rb><rt>じしつ</rt></ruby>や縞柄が違っていた。真に夢の様な出来事である。あまりのことに主客とも一座しんと静まり返ってしまった。

「すると、あいつ、何から何まで本当のことを云ったのだな。僕達を<ruby><rb>瞞着</rb><rt>まんちゃく</rt></ruby>する夢物語ではなかったのだな」

流石の明智小五郎も、この想像の外の奇怪事に、思わず席を立って、<ruby><rb>真蒼</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になって叫んだ。彼は嘗つてこの様な痛烈な侮辱を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>った経験を持たなかったのである。

## マグネシウム

滑稽なお茶番、だが考えて見ると、世の中にこれ程恐ろしいお茶番はない。結局、先の品川は大胆不敵な偽物であって、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>こそ当の殺人者であることが明かになった。

本物の品川は詳細なる陳述、並に証拠物件の提出によって、（証拠物件というのは、例の幽霊男の写っている夕刊の切抜、青木から品川に宛てた事件に関する手紙、愛之助の書斎で発見した日記帳などであった）警察当局者も、この<ruby><rb>摩訶</rb><rt>まか</rt></ruby>不思議を信じない訳には行かなかった。

そこで、青木の日記帳で分った池袋の怪屋を検べたり、麹町の例の淫売宿の主婦を叩いて見たり、出来る限りの捜査を続けたが、幽霊男の方ではそんなことはとっくに予期していた所、どこを探しても、髪の毛一本の手掛りさえなかった。

約一ヶ月の間、幽霊男は不気味な沈黙を守っていた。美人片腕事件で、線香花火の様に、パッと世間を騒がせて置いて、そのまま尻切れとんぼになってしまった。

波越鬼警部と明智小五郎の面前に、突如姿を現わして、不敵の挑戦を試みた程の彼、警察の捜査を恐れて鳴りをひそめたのではない。何かしら非常に大がかりな陰謀を企らんでいる、その準備時代なのではあるまいか。少くともここに一人、科学雑誌社長品川四郎は、それを確信していた。彼はなんでもない人に言葉をかけられた丈けでも、ビクッとして飛上る程、神経過敏になっていた。

果然、品川の予想は的中した。一ヶ月の後、七月半ばのある夜のこと、幽霊男は、実に奇妙な場所で奇妙な仕草をしている所を、発見された。しかも、そんな奇妙な仕草をしながら、彼は一体何をしていたのか、どんな犯罪が行われたのか、少しも分らないという、非常に<ruby><rb>変挺</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>な事件なのだ。

その夜更け、Ａ新聞社会部の記者と写真部員とが、肩を並べて、麹町区の淋しい屋敷町を歩いていた。Ａ新聞では当時「大東京の深夜」という興味記事を連載していて、この二人の記者は今夜少し方面を変えて、富豪街探訪を志したのであった。

彼等が今さしかかった町は、富豪街中の富豪街、片側は何侯爵の森林みたいな大邸宅、片側は見上げる様な高い石垣の上に、ずっと一丁程もコンクリート塀の続いた、千万長者<ruby><rb>宮崎常右衛門</rb><rt>みやざきつねえもん</rt></ruby>氏邸の豪壮な構えだ。

「この途方もない石垣の下の、溝の中に、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>を被って寝ている乞食婆さんという図はどうだい」

「フフン、こんなとこに乞食がいるもんか。それよりは、この高い塀を乗り越えている泥棒でも想像した方が、よっぽどいい景色だぜ」

彼等がそんな冗談を囁きながら坂を下って行くと、乏しい街燈の光の届かぬ暗闇に、何かしら蠢くものを発見した。鋭敏な新聞記者の神経にハッとある予感が来た。

「シッ、何かいる、隠れるんだ」

<ruby><rb>両人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は石垣を這う様にして、前方をすかし見ながら、ソロソロと進んで行った。

泥棒だ。何とまあ、今その話をしていたばかりじゃないか。

丁度坂の下だから、石垣の一番高い箇所だ。その石垣の上に御丁寧にコンクリート塀が立っているので、全体の高さは二丈もある。その代りには最も光に遠く、彼等の仕事には屈強の場所だ。見ると塀の頂上から一本の縄が下り、それを<ruby><rb>伝</rb><rt>つたわ</rt></ruby>って一人の覆面の男が今降りている所だ。下には二人の洋服姿の見張りの相棒が待構えている。

塀を降りる男は、何かべら棒に大きな荷物を背負っている。

「相手は三人だ。騒いじゃ危いぜ」

「だが、残念だなあ。ここの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ知らせてやる<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>はないかしら」

「駄目駄目。門まで一丁もある」

二人の記者は蚊の鳴く様な声で囁き合っていたが、そこは商売柄、機敏に働く頭だ。

「オイ、妙案があるぜ」

と写真部員が相手の肩を叩いた。

それから二三秒の間ボソボソと囁き合っていたが、やがて何を思ったのか、泥棒達の方へと、ジリジリ近づいて行った。十間、五間、三間、もうそれ以上進めば相手に気づかれるというきわどい近さに迫って行った。

覆面の男はやっと地上に降り立って、大きな荷物を下の男の背中に負わせた所だ。

「上首尾だったね」

「ウン、だが、べら棒に重かったぜ」

「そりゃ重いさ。慾と栄養過多でふくれ上っているんだからね」

覆面の男が巧みな手つきで、縄をさばいて、手元にたぐり寄せた。

その時である。ボンと異様な音がして、その真暗な屋敷町が、一瞬間白昼の様に明るくなった。

云うまでもなく、写真部員がマグネシウムを<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いたのだ。何ぜそんな事をしたか。泥棒を驚かせる為か。それもある。だが、彼は同時に、写真器のシャッターをも握ったのだ。つまり犯人の写真を撮ったのだ。

計画は図に当った。いくら何でも、そんな真夜中の往来に写真師が出現しようとは思わぬ。泥棒共はただ、異様な爆音と、目もくらむ火光に仰天してしまった。

中の一人は、用意のピストルを取り出して、暗闇に向って発砲しようとしたが、忽ち他の二人に押し<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>められた。手向いすれば一層騒ぎが大きくなる。その内には応援の人数もふえる訳だ。此際彼等の採るべき手段は、ただ逃げる事だった。自動車の待っている所まで、息の限り走る事だった。彼等は、荷物を背負った男を中にはさんで、両方から助ける様にして、一目散に駈け出した。

逃げる相手を見ると、写真部員は嬉しがって、彼らの背中から、又一発、ボンとマグネシウムを焚いた。

「追っ駈けようか」

「止せ止せ、ちゃんと<ruby><rb>現場</rb><rt>げんじょう</rt></ruby>写真を撮ってしまったのだ。慌てることはない。それよりも、このことをここの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ知らせてやろうじゃないか」

ということになって、門の方へ引返そうとした時、チラと記者の目を射たものがあった。

「オイ、奴さん達、何だか落して行ったぜ」

「ウン、走って行く奴の身体から、何か落ちた様だね。ハンカチかも知れない」

「そうじゃない。紙切れの様だ。兎も角拾って置こう」

記者は十間ばかり走って行って、賊の落した紙切れを拾って来た。

「何だか書いてある。証拠品になるかも知れない」

二人は一番近くの街燈の下まで戻って、その紙切れの文句を読んで見た。

首相　　　　　　　　大河原是之　……………………………４

内相　　　　　　　　水野広忠　　……………………………５

警視総監　　　　　　赤松紋太郎　……………………………３

警保局長　　　　　　糸崎安之助　……………………………６

岩淵紡績社長　　　　宮崎常右衛門……………………………１

素人探偵　　　　　　明智小五郎　……………………………２

（作者申す、右の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>十数名の顕官、富豪、最高爵位の人々、元老｟明智丈けは例外の<ruby><rb>素寒貧</rb><rt>すかんぴん</rt></ruby>｠などの名前が列記してあったのだけれど、<ruby><rb>管々</rb><rt>くだくだ</rt></ruby>しければ凡て略し、名前の下に番号の打ってある六名丈けを記すに止めた、読者察せよ）

「こりゃ何だ。馬鹿馬鹿しい。高名者番附けじゃないか。つまらないいたずら書きをしたもんだ。元老、内閣諸公を初め、えらい人は洩らさず並べてある。だが、この人選は一寸うまく出来ているね」

「うまい、実にうまい。俺が考えたって、これ以上には選べないね。ピッタリ的にあたっている。それにしても明智小五郎は変だね。先生盗まれる様なものを持っているのだろうか」

「ハハハハ、お笑い草だ。じゃ早くこの家へ知らせてやろうよ」

写真部員が紙切れを捨てようとするのを、もう一人の記者が慌てて止めた。

「待て、その中に宮崎常右衛門の名前があるじゃないか。しかも下に（１）と番号が打ってある。オイ、ここはその宮崎の邸だぜ」

「何だって、それじゃ、この人名は泥棒の日程表か。して見ると、明日の晩は、（２）の番号の打ってある明智小五郎、あさっては（３）の警視総監の所へ這入ろうって訳かね。オイオイ、冗談じゃないぜ」

その紙切れは、二人の新聞記者の想像力を越えていた為に、ただ滑稽なものにしか見えなかった。だが、捨ててしまうのも、何となく惜しい気がしたので、一人がそれをポケットに押込み、やがて、彼等は宮崎邸のいかめしい門前に立戻ると、そこの呼鈴を滅茶滅茶に押し始めた。

## 赤松警視総監

その翌日の昼前、赤松警視総監は、登庁早々、刑事部長の報告を聞くや、<ruby><rb>事</rb><rt>こと</rt></ruby>重大と見て、直接その任にある波越警部を自室に呼んだ。ピカピカ光る<ruby><rb>大</rb><rt>おお</rt></ruby>デスクの上には、昨夜Ａ新聞写真部員の機転で写し得た、宮崎邸の怪賊の現場写真と、例の高名者番附の紙切れがのっている。

「この写真に写っている、真中の男が、例の片腕事件の関係者の品川四郎という者に相違ないのかね」

総監は念を押す様に尋ねる。見ると、なる程、三人の内の洋服姿の一人は、<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく品川四郎その人である。

「ハア、品川四郎か或はもう一人の男かです。併し、こんな悪事を働く奴は、無論そのもう一人の男だと思われます」

波越氏はうやうやしく云った。相手は閣下である。月に何度と数える程しか直接口を利いたことのない、えらい人だ。

「ウン、例の有名な幽霊男とか云う奴だね」

「そうです。あれ以来まるで消えてしまった様な怪物です」

「して、君はこのもう一人の男も見覚えているということだが」

「ハア、私ばかりじゃありません。高等係のものは誰でも知っています。有名な危険人物です」

「共産党員かね」〔後註、当時は共産党は合法政党ではなかった〕

「それが、党員とハッキリ分らない丈けに、始末が悪いのです。非常にはしっこい奴で、どうしても尻尾を出さないのです。表面では、Ｋ無産党に籍を置いて居ります」

「ハハハハ、幽霊男と共産党の握手か。イヤハヤ、奴等もすばらしい武器を手に入れたものだ。ハハハハ」

総監の豪傑笑いを打消す様に、警部はニッコリともせず答える。

「イヤ、実際恐ろしい武器です。私、長年この職に従って居りますが、こんな馬鹿馬鹿しい事件は想像したこともありません。考えれば考える程、頭が混乱するばかりです」

「で、こいつらの逮捕は」

「まだです。無論手配は致しましたが、奴等の巣はとっくに空っぽでした。併し、<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとえ</rt></ruby>逮捕したところが、どうにも仕様がありませんよ。家宅侵入罪の外は何の罪もないのですから」

「フン、するとやっぱり、何一品盗まれたものはないと云うのだな」

総監は云いながら、チラと卓上の写真に目をやった。そこには、一人の賊が、彼の身体と同じ程の大荷物を背負っている有様が、明瞭に現われていた。

「そうです。私、今朝程、宮崎さん御本人に御逢いして、充分聞訊して来たのですが、宮崎家には<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>程の紛失物もないということでした」

「だが、この荷物の恰好は、どうも品物の様には見えぬが」

「それです。私も無論それに気づきました。この写真ばかりではありません。Ａ新聞の記者は賊共が『そりゃ重いさ、慾と栄養過多でふくれ上っているのだからね』と云っているのを耳にしたのです。その言葉から考えますと、どうしても人間としか考えられません。でその方も入念に検べたのですが、宮崎家の家族や召使でいなくなったものは一人もいないのです」

「その上に、この連名帳か。ワハハハハ、僕もやがて槍玉に上る訳だね」

波越氏は総監の高笑いを聞いて、変な顔をした。総監は一体何と思って、この怪事を笑い飛ばしているのだろう。

「波越君、僕は警察のことにかけちゃ素人だ。だが、時には素人の考えが、君達よりも却って、正しく物を見る場合がないとも限らんよ」

「とおっしゃいますと」

警部はいささか侮辱を感じて聞き返した。

「この事件についてだね。全然別の見方をすることは出来ないかと云うのだ。……分らんかね、例えばだ、その品川という人物と幽霊男とが、全く同一人だと考えたらどうかね」

「エ、しますと、最初から一切が作り話だったという……」

「そう、僕の考えは常識的に過ぎるかも知らんが、そんな寸分違わぬ人間が、この世に二人いようとは思われぬのだ、僕の五十余年の生涯の経験にかけて、そんな馬鹿馬鹿しい話を真に受けることは出来ん」

「併し、併し……」

「君は通俗科学雑誌の編輯者なんてものが、どんな心理状態にあるかを知っているかね。彼等は真面目な学者ではないのだ。謂わば小説家だ、珍奇な好奇的なことを集めて、それを読者に誇示して喜んでいる手合だ。この世間をアッと云わせようという心理、それが<ruby><rb>嵩</rb><rt>こう</rt></ruby>じると、狂的な企てをもやり兼ねない。よく知らんけれど、外国の有名な犯罪者に、ちょいちょい何々博士という学者がいる……、彼等もつまりはアッと云わせたい方の学者なんだ。ね、そうは思わんかね」

「併し確かな証拠が、現に品川と幽霊男とは二三尺の間近で対面さえしているのです。それも品川自身の申立てばかりでなく、青木愛之助の日記帳に明記してあります」

「その日記帳は僕も見た。見たからこそ幽霊男の存在を信じなくなったとも云えるのだ。というのはあの対面のし方が非常に不自然だ。品川は節穴から覗いた。その時もう一人の男、青木だったね、その青木は同時に節穴を覗くことが出来なんだ」

「でも、……」

「まあ聞き給え。青木は前に一度節穴から品川の姿を覗いている。だから、その晩は、ただそこへ来た男の身体の一部分を見た丈けで、服装が同じな為に、例の第二の品川と信じてしまったのかも知れない。僕は当時日記を読んで、すぐそれに気附いたが、まだ確信に至らなかった。ところが今度の事件だ、番附みたいな連名帳だ。盗難品のない盗難だ。つまり、科学雑誌社長の創り出した奇抜な探偵小説だとは思わんかね。共産党員というのも、君達の神経過敏で、品川に傭われたつまらん男達かも知れん。奴がそんな危険人物として名前を売って居れば、お芝居が一層本当らしくなる訳だからね」

実に驚くべき推理であった。波越警部は、老警視総監のハゲ頭から、こんな恐ろしい推理が飛び出そうとは、夢にも思わなかった。なる程そういう考え方も不可能ではない。総監の推理が如何に適確周到なものであったかは、読者諸君が、もう一度この物語の前段「両人奇怪なる曲馬を隙見する」くだりを読み返してごらんなされば、忽ち<ruby><rb>首肯</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>出来ることだ。

だが、波越警部の頭には、幽霊男に対する信仰が強い根を張っていた。

「すると、あの三浦の屋根裏部屋での対面は、替え玉を使って、品川が青木に幽霊男を信じさせたお芝居だとおっしゃるのですか。又、昨夜の事件も、品川がＡ新聞の写真部員が来るのを予め知っていてやったとおっしゃるのですか」

「無論僕等には、そんな持って廻った狂言をやって喜ぶ男の心持は分らん。併し、全然見分けのつかぬ程<ruby><rb>似通</rb><rt>にかよ</rt></ruby>った二人の人間を想像するよりは、まだ幾分可能なことに思われる」

「併し、活動写真に映った顔は？　夕刊新聞の写真版は？」

「そう、そんなものもあったね、だが、君、新聞社の写真部に懇意な者があれば、写真の群集の中へ一人の男の顔を、手際よくはめ込んで貰う位造作はないことだよ。群集の中に誰がいた所で、新聞価値に影響はないからね。活動写真の方は、なあに、監督の男と申合わせて、嘘の日附を書いた手紙を送って貰ったとすれば、忽ち謎がとける」

波越警部は、総監のこともなげな解釈を聞いて、あっけにとられてしまった。この老政治家は、何という想像力の持主であろう。豪傑政治家の粗雑な頭と軽蔑していたのは、飛んでもない思い違いであった。

「では、では、池袋の空家での婦人惨殺事件は？　青木の行方不明は？　大滝の片腕は？」

警部は最後の抗議を試みた。

「女の生首は人形であったかも知れない。片腕はどっかの病院の解剖死体の腕であったかも知れない。でなければ警察力を尽くして一ヶ月の大捜索に、何の手掛りも得られぬ筈がないじゃないか。少くとも警視庁の立場としては、そう信じた方が有利の様だね。青木夫婦もだ。まだどっかに生きているという考え方だね。ハハハハハハ」

総監は又笑った。波越氏にはこの変な笑い声がどうも気に食わぬ。その<ruby><rb>笑声</rb><rt>わらいごえ</rt></ruby>の奥に何かしら、まだ解き明かされぬ物が<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいる様な気がする。

だが、論理の上では<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby><ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>もなかった。もっと有力な証拠を握るまでは、抗弁のしようがない。彼は遂に頭を下げた。

「驚きました。総監が一犯罪事件について、これ程綿密に考えていらっしゃるとは、実に我々長年事に当っている者として、恥入る外ありません」

正直な波越警部は、真から参った様子であった。

「ハハハハ、とうとう降参したな」総監は持前の豪傑に返って、<ruby><rb>磊落</rb><rt>らいらく</rt></ruby>に云った。「だがね、波越君、僕を買いかぶってはいかんよ。実はつけ焼刃なんだ。智慧をつけてくれた人があるんだ」

「エ、何とおっしゃいます」

「明智小五郎さ。ハハハハ、あの男がね、数日<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>、こんな理論を組立てて見せてくれたのさ。それを少し修正して用いたまでだ」

「すると、」警部は更らにどぎもを抜かれて云った。「明智君もそう信じているのですか」

「イヤ、信じてはいない。信ずべき確証は何もないのだ。ただ、そんな風に裏から見ることも出来ると報告してくれた丈けさ」

「それで？」

「それで、明智君自身で、品川四郎の身辺につき<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>って監視するというのだ。そして、この次幽霊男が姿を現わした時、本物の品川に怪しい点がなかったら、<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>この現代の怪談を信じなければなるまいというのだ。僕はあの男の論理が気に入ったし、こんな迷宮事件は<ruby><rb>玄人</rb><rt>くろうと</rt></ruby>がジタバタするよりも、<ruby><rb>一先</rb><rt>ひとま</rt></ruby>ず信用の出来る局外者へ任せて置いた方が、好都合だと思ったものだから、彼の申出でを承認した訳だ」

「明智君は、どうして私に話してくれなかったのでしょう」

波越氏はやや<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんど</rt></ruby>の色を現わして、<ruby><rb>独語</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>のように囁いた。

「それは君、怒っちゃいけない。君まで明智式の論理に<ruby><rb>染</rb><rt>そ</rt></ruby>んで、油断をしてしまっては、却って危険だからだ。あの男はその気遣いの為に、<ruby><rb>態</rb><rt>わざ</rt></ruby>と君を除外して、僕に丈け報告してくれた訳なんだよ。つまり、<ruby><rb>表裏</rb><rt>ひょうり</rt></ruby>両道から敵を攻めるという戦法なんだよ。ところが、昨夜の事件で、愈々この二つの論理の正否を確める時が来た。あの事件は今朝の新聞に小さくしか出ていないから、明智君は知らずにいるかも知れない。で、君自身品川の所へ出かけて、一つ様子を見て貰い<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>いと思うのだよ」

つまり、総監が波越氏を呼びつけた用件というのは、この事であったのだ。

## <ruby><rb>現場不在証明</rb><rt>アリバイ</rt></ruby>

午後一時、波越警部は、神田区東亜ビル三階の科学雑誌編輯部のドアをノックした。

給仕の案内で、応接間に通る、次に一社員が現われて御用件を承る長髪を綺麗になでつけ、眼鏡をかけた壮年社員だ。

彼は用件を聞いて引きさがると、自身お茶を運んで来て、うやうやしく警部の前に置いた。そして、<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>を去る時、何故か鼻下のチョビ髭に手を当てて、オホンと奇妙な<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>をした。どうも自然に出た咳ではなさそうだ。

やがて社長の品川氏が現われた。警部は彼の表情から何事かを読取ろうと、目をこらしたが、品川氏はただにこやかに微笑しているばかりだ。決して心に秘密を持つ人の顔ではない。

警部が昨夜の<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を手短に物語ると、品川氏は忽ち笑いを納めて、震え声になった。

「とうとう現われましたか。相棒がそんな危険分子だとすると、今度は又何か、ひどく大がかりな悪企みを始めたんじゃありますまいか」

だが、彼はただ驚き恐れるばかりで、彼自身の昨夜のアリバイを語ろうとはしない。老練な波越氏は、心の中で、

「オヤ、変だぞ、若しこいつが一人二役を勤めている悪人だったら、何はおいても、第一にアリバイの云い訳をする筈だが、そんな<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>ぶりのないのは、やっぱり明智君の考え過ぎかな」

と思った。で、仕方なくこちらから切り出して、

「昨晩は御宅で御<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みだったのでしょうね」

と尋ねて見た。

「エエ、無論宅で寝みましたが……、アアそうですか。成程成程、私、ウッカリして居りました」

品川氏は一寸不快な顔になって、ツカツカとドアの所へ立って行き、それを開いて編輯所の方へ声をかけた。

「山田君、山田君、一寸来てくれ給え」

呼ばれてやって来た山田という社員は、さい<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>警部の前にお茶を運んで、立去り<ruby><rb>際</rb><rt>ぎわ</rt></ruby>に妙な咳をした男であった。

「山田君、この方の前で正直に答えてくれ給え。君<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>寝たのは何時頃だったね」

「ブリッジで夜更かしをして、もう東の方が少し明るくなってましたから、四時近かったかも知れません」

「ブリッジの相手は？」

「何ですって」山田社員は妙な顔をした。「<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>っているじゃありませんか、あなた御自身と社の村井、金子両君です。両君とも帰れなくって、御宅へ泊ったのを御忘れですか」

「ブリッジを始めたのは何時頃だったかしら？」

「サア、九頃でしょう」

「それから夜明けまで、僕は座をはずした様なことはなかったね」

「エエ。便所へ立たれた外は」

そこで、品川氏は警部の方へ向き直り、得意顔に云った。

「御聞きの通りです。御望みなれば、なお村井、金子両君の証言を御聞かせしてもよろしい。それに、この山田君は、僕同様独身者で、僕の宅に同居しているのですから、この人に知られない様に、家を抜け出すなんて<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も出来やしません」

「イヤイヤ、決してあなたを<ruby><rb>疑</rb><rt>うたぐ</rt></ruby>っている訳じゃないのです」波越警部は少からずテレた形で、

「ただ、念の為に一寸御尋ねしたまでです」

と苦しい云い訳をしたが、内心では、

「家に同居している社員などの証言では、どうも少し」

と半信半疑であった。

それから暫らく雑談を交わしたあとで、警部は編輯所を辞して、東亜ビルの玄関を出た。「この足で品川の留守宅を訪ねて、<ruby><rb>傭人</rb><rt>やといにん</rt></ruby>を検べて見るかな」と考えながら、半町も歩いた時、突然うしろから呼びかけるものがあった。

振向くと、さっきの山田という社員が、<ruby><rb>追駈</rb><rt>おいか</rt></ruby>けて来たのだ。そして、

「御一緒に警視庁へ参りましょう」と、変なことを云う。

「エ、警視庁に何か御用がおありですか」

「ハア、その高名者番附とかを一度拝見したいと思いましてね」

波越氏はハッとして、相手の横顔を凝視した。

「君は誰です」

「分りませんか」

人通りの少い横丁へ曲ると、山田社員は、眼鏡をはずし、ふくみ綿をはき出し、チョビ髭を払い落し頭の毛をモジャモジャとやった。

「アア、明智君」

波越警部は、びっくりして叫んだ。

顔料はまだそのままだが、顔の形は明智小五郎に相違ない。彼は警部の驚き顔を無視して話し始める。

「さっきの僕の証言は嘘じゃない。昨夜<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>さん確かにどこへも出なかった。僕は君達の会話を立聞きしていたが、あのＡ新聞の記者が偽写真でも作ったのでなければ、幽霊男の存在は確実になった訳だ」

「偽写真でないことは一見すれば分るよ」警部は面喰って答える。「それに、昨夜二時頃、マグネシウムを焚いたことは、宮崎家の召使にも気づいたものがあって、間違いはない。……だが驚いたね、君、あすこの社員なのかね」

「ウン、まだ入社して半月にもならない。だが、紹介者がいいので、社長すっかり信用してしまって、僕が宿に困っている<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>を装うと、当分家へ来て居給えという事になったのさ」

「で、愈々君も疑いがはれた訳だね」

「ウン、この目で見ていたんだからね。だが実に不思議だ。どうして、そんな同じ顔の人間が出来たのだろう。古今東西に例のないことだ。君にしたって、僕が品川の一人二役を疑ったのを無理だと思うまい」

「思わないとも。実はさっき、そのことを総監から伺って、君の明察に感じ入った程だ」

「恐ろしいことだ」明智は心から、恐ろしそうに云った。彼の如き人物には珍らしい言葉である。

「波越君、これは決してただ事ではないよ。数百年数十年の伝習が作り上げた人間の常識だ。その常識をのり越えて突然全く新しい事柄が起るというのは、考え得られぬことだ。この事件の奥には何かしらゾッとする様な恐ろしい秘密がある。僕はこの頃、身の毛もよだつ、ある幻想に悩まされているのだよ。科学を超越した悪夢だ。人類の破滅を予報する前兆だ」

併し、この明智の暗示的な物の云い方は、波越警部には通じなかった。彼は全く別のことを云った。

「幽霊男と共産党の握手か。と云って総監に笑われたが、君この点をどう思うね」

「僕はまともに考える。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>の大陰謀の一つの現われではないかと思う。宮崎常右衛門氏の紡績会社は、確か争議中だったね」

「アア、君の考えもそこへ来たね。争議中だ。男女工一団となって、まるで非常識な要求を持出している。だが、その意味で宮崎家を襲ったとすると、家人に少しの危害も加えず、何一品持出していないのが不思議だね」

「それが、重大な点だ。奴等は何かしら運び出した。併し邸内には紛失したものがない。この不気味な矛盾。……恐ろしいことだ」

「で、君はあの番附みたいな連名帳を信じるかね。第二に襲われるのは君自身だという」

それを聞くと、何故か明智は真蒼になった。

「エ、何だって、じゃ連名帳に僕の名があるのか。それが二番になっているのか」

「そうだよ。そして、君の次が赤松警視総監だ」

波越氏はそう云って、快活に笑って見せようとしたが、明智の異様な恐怖の表情を見ると、つい笑いが引込んでしまった。

## 白い<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>

偶然の一致であったか、或はそこに深い因果関係が潜んでいたのか、不穏を伝えられていた岩淵紡績会社の労働争議は、マグネシウム事件の翌日午後に至って、遂に<ruby><rb>総罷業</rb><rt>そうひぎょう</rt></ruby>と化した。

宮崎常右衛門氏の巨万の富は、殆ど岩淵紡績の事業によって築かれたものであった。同氏の優れた経営手腕、及び難き精励刻苦の<ruby><rb>賜</rb><rt>たまもの</rt></ruby>であったことは、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>だが、階級憎悪に燃えた労働者達にとって、そんなことは問題外であった。極言すれば、彼等の窮極の目的は、会社の運命がどうなろうと、<ruby><rb>搾取者</rb><rt>さくしゅしゃ</rt></ruby>宮崎常右衛門を、彼等同然の一<ruby><rb>素寒貧</rb><rt>すかんぴん</rt></ruby>に引落すことであった。

総罷業は見事な統制を<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て、已に五日間継続せられた。諸新聞の争議記事は、一日一日と大きくなって行った。

宮崎氏が、奇怪なマグネシウム事件を、何かの前兆として非常な恐怖を抱いたのは、誠に無理もないことであった。彼の身辺には私服制服の警察官ばかりでなく、態々<ruby><rb>傭入</rb><rt>やといい</rt></ruby>れた武道達者の青年達が、絶えずつき従って、万一に備えた。<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>の表門裏門に見張りのついたことは申すまでもない。

さて、罷業五日目の夕方のことである。

重役会議を終えて帰宅した常右衛門氏は、心配に蒼ざめた家族達の出迎えを受けて、彼の私室に這入って行った。

美しく分けた白髪、身体に比べて大きな赤ら顔、だが連日の心労に、額の皺に痛ましいやつれが見える。

彼は服を着換えることも忘れて、そこの大ソファに、グッタリ身を沈め、小間使の差出す冷い飲物を受けた。

「あなた、御風呂が立って居りますが、のちに遊ばしますか」

夫人も従って来て、気遣わしげに、主人の表情を読む。

「ウン」

常右衛門氏は、生返事をして、何をか考えている。空ろな目はテーブルの上の一通の手紙に注がれたままだ。

夫人も小間使も、<ruby><rb>手持無沙汰</rb><rt>てもちぶさた</rt></ruby>の数秒間。

やがて、常右衛門氏の空ろな目が、ハッと正気に返った様に、鋭い光をたたえる。

「オイ、この手紙は誰が持って来たんだ」

変な型の封筒、見慣れぬ筆蹟、しかもたった一通だけ、テーブルの真中に置いてあるのだ。

「サア、青山じゃございませんかしら」

「青山なら、書斎の方へ持って行く筈だ。それにたった一通というのはおかしい」

宮崎氏は毎配達時間、必ず十数通の手紙を受取る。殊に此頃は手紙の分量が多い。それがたった一通、書斎でもないこの部屋にあるのは変だ。しかも郵便として配達されたものでない証拠には、切手も消印も見えぬのだ。

手紙を取上げて裏を見ると、果して、差出人の名前がない。宮崎氏は何故かひどく躊躇したあとで、結局それを開封した。そして、中身を一目見るか見ないに、サッと額をくもらせ、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>のつまった様な声で、

「青山は？　青山を呼ぶんだ」

と命じた。

呼ばれた書生の青山は、その手紙については何も知らなかった。青山ばかりではない。夫人も令嬢も召使一同も、今朝掃除を済ませてから、この部屋へ這入ったものは一人もないことが分った。そして、掃除の際に、そんな手紙なぞなかったことは云うまでもない。

宮崎氏がかく<ruby><rb>穿鑿</rb><rt>せんさく</rt></ruby>立てをしたのも無理ではなかった。その手紙の文面は<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>の様な、非常に不気味なものであったから。

我々の要求は君の娘の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>と引換えだ。明日正午まで待つ。君の職工達に回答を与えよ。無論無条件に彼等の要求を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れるのだ。明日正午が一分でもおくれたら、君の娘の命はないものと思え。如何なる防禦も無効だ。兇手は物理的原則を無視して働くのだ。

これを単なるおどしと思ったら、後悔するぞ。例えばこの手紙が、どうして、君の私室に運ばれたか。それを考えた丈けでも、我々の、超物理的手段は、充分、察せられるであろう。

文章の終りに妙な紋章が描いてあった。直径一寸ばかりの黒い月形の中に、羽を拡げた<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>が白く浮出している。不気味な白蝙蝠だ。何者とも知れぬ悪魔団の紋章だ。

宮崎氏はこの種の脅迫状に慣れていた。殊に争議以来は、毎日一通位はこの種の脅迫状が舞込む。で、同氏はこの手紙に対しても、いつもの無関心を装おうと<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めたが、不思議なことに、今度に限って、空威張りの嘲笑を浮べる下から、どうにも出来ぬ恐怖のわななきがこみ上げて来た。

如何に検べて見ても、その手紙が私室に這入った径路が分らぬ。留守中窓は密閉してあった。廊下から来るには、誰かの部屋の前を通らねばならぬ。第一表門裏門には、多数の見張番がついている。その中をどうして忍込むことが出来たのであろうか。召使共は長年目をかけた、気心の知れたものばかりである。不可能事が易々と行われたのだ。手紙の主が超物理的と誇るのも、<ruby><rb>万更</rb><rt>まんざ</rt></ruby>ら出鱈目ではない。

宮崎氏は熟慮の結果、万一の危険に備える為に、こうした奇妙な犯罪にかけては特殊の手腕を有すると聞く、素人探偵明智小五郎の助力を乞うことに心を極めた。大実業家の自負心も、愛嬢の生命には換えられぬのだ。

その夜、我が明智小五郎は、富豪の<ruby><rb>懇篤</rb><rt>こんとく</rt></ruby>なる招きを受けて、宮崎邸の門をくぐった。

つまり宮崎氏は怪賊の挑戦に応じたのである。

## 恐ろしき父

文面の「明日正午」という、その正午を過ぎると、だが、常右衛門氏も流石に不気味でたまらなかった。夫人や当の令嬢には、明らさまに話した訳ではないが、邸内の空気や、常右衛門氏のそぶりで、彼女等にも大体の察しはついていた。

一時間、二時間と時は過ぎて行ったが、主人夫妻召使などの、心配や恐れは、増すばかりであった。<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>？　誰が？　何処から？　凡てが不明なのだ。掴み所のない敵。どこにどう防備を施したらいいのか、まるで見当もつかぬ。それが人々を実際以上に怖がらせた。

午後三時、令嬢<ruby><rb>雪江</rb><rt>ゆきえ</rt></ruby>さんの私室には、雪江さんを中にして、真面目な二人の護衛兵、父常右衛門氏と、探偵明智小五郎とが雑談を交わしていた。病身の母夫人は昨夜一睡もしなかった疲れの為に、別室に引取っていた。

雪江は妙齢十九歳、宮崎氏の一粒種だ。どちらかと云うとお父さん子で、厳格な程作法正しい母夫人には、遠慮勝ちだが、お父さんには平気で甘える。生意気な口も利く。常右衛門氏は、この年に比べて子供子供した娘と冗談を云い合うのが一つの楽しみになっていた。それが、今日は青ざめて、黙り込んで、時々、さも恐怖に耐えぬものの如く、キョロキョロとあたりを見廻す様は、日頃快活な丈けに一層いたましく見える。

常右衛門氏は、暫く話をしているかと思うと、急に立上って、イライラと部屋の中を歩き廻る。又腰かけたかと思うと、無闇に煙草をふかし始める。実業界の巨人も、この目に見えぬ敵には、いたく悩まされている<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>だ。

「ハハハハハハ、明智さん、わしは少し気にし過ぎている<ruby><rb>様</rb><rt>よう</rt></ruby>ですね」

明智がじっと彼を見つめていたので、常右衛門氏はテレ隠しの様に言った。

「いや、御無理はないのです。こういう事に慣れている私でも、今度丈けは何だか変な気持です。私はいくらかあいつの遣り口を知っているからです。……併し、あいつだって人間です。いくらなんでも、この防備をくぐり抜ける力はありますまい。不可能事です」

「果して、不可能事でしょうかね」

「超自然の力でも持たぬ限りは」

「その超自然力を、賊は持っていると広言しておる」

「虚勢です。考えられぬことです」

併し、明智はなぜか、ひどく困惑の体で、却って宮崎氏の顔色を読もうとする如く、じっと相手を見つめた。

「虚勢。如何にも、虚勢でしょう。……だが、あれは、どうしたというのだ」

裏門の方に、騒がしい人声、それが段々高まって来る。

書生の青山が飛込んで来た。

「裏門の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>で怪しい奴を捕えました。ピストルを持っているそうです。明智さんを御呼びしてくれということでした」

それを聞くと主客共に立上がった。

「明智さん、見て来て下さい。厳重に検べて下さい。ここはわしが引受けます」

明智は立去ろうとして、なぜか一寸躊躇した。本能的にある不安を感じたのだ。併し、行かぬ訳には行かぬ。彼は常右衛門氏をじっと見つめて、

「では、お嬢さんを御願いします。側を離れない様にして下さい」

くどく念を押して、彼は書生の案内でドアの向うに消えた。あとに残った父と娘とは、真青な顔を見合わせて、暫らく黙り込んでいたが、とうとう、雪江さんが、たまらなくなって幼児の様に叫んだ。

「お父さま、私、こわい」

彼女は、今にも倒れそうに気力がない。

「心配することはない、こうしてわしがついているではないか。それに、この部屋のまわりは、刑事や書生で取巻いているといってもよい程だ。現に、賊は裏門を這入らぬ内に、捕まってしまったじゃないか。ハハハハハハ、ナアニ、少しも心配することはないのだよ」

「でも、私、なんだか。……お父さま！」

雪江は、目でいつもの合図をした。十九歳の雪江は、今でも時々父に甘えて、その腕に<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>かれる癖があった。この目使いはその合図なのだ。

常右衛門氏は、それを見ると、なぜか幽かに狼狽の色を現わした。そして、一向彼女の要求に応じる<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>もない。

雪江は妙に思った。こんな際にあれを云い出したのが悪かったのかしらと考えたが、こんな際であればこそ、父の力強い腕に抱かれたかった。彼女は思切って、ツカツカと父の側に寄り、父のアームチェーアに、柔い肉体を無理にも押し込む様に腰かけた。麻の着物を通して、父のよく肥った肉体と、娘のすべっこい肌とが密着した。雪江は怖さに<ruby><rb>熱苦</rb><rt>あつくる</rt></ruby>しいことなどを考えている余裕はなかったのだ。

常右衛門氏は娘の肌を感じると、不思議なことに、益々狼狽の色を示した。まるで、一度もそんな経験を持たなかったかの様に。

無邪気な箱入娘は、次には、彼女の青ざめた、併しふくよかな頬を、父の口の前へ持って行った。小さい時分、何かにおびえると、父は彼女の頬に接吻して力づけてくれた。その習慣が今でも残っているのだ。

常右衛門氏の狼狽は極度に達した。娘のこの無邪気な仕草が呑み込めなくて、途方にくれた体である。だが、次の瞬間、彼の頬にサッと血が昇って、目が燃える様に輝いた。

<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>の常右衛門氏の両手がぎごちなく延びて、娘の柔かな身体を抱きしめた。

「アラ！」

どうした訳か、雪江はそれを求めて置きながら、父の<ruby><rb>抱擁</rb><rt>ほうよう</rt></ruby>におびえて小さく叫んだ。何かしら父の触感がいつもと違ったからだ。その刹那、父が嘗つて見も知らぬ他人みたいに思われたからだ。

常右衛門氏は、雪江の幽かな抵抗を感じると、一層物狂わしくなった。彼は乾いた唇をカサカサ云わせながら、娘をしめつけた腕にグッと力をこめた。そして、逃げる雪江の唇へ、彼の唇を持って行った。

父の情慾に燃える目と、娘の恐怖におびえ切った目とが、<ruby><rb>一寸</rb><rt>いっすん</rt></ruby>の近さで、まじまじと睨み合った。

余りの激情に声を立てる力もなく、不気味に黙り合ったまま、彼等は死にもの狂いに掴み合った。

<ruby><rb>惨憺</rb><rt>さんたん</rt></ruby>たる格闘の末に、雪江は辛うじて、父の手を逃れ、髪も着物も乱れた様で、よろよろとドアの方へ走った。

だが、常右衛門氏は、已に彼女の先廻りをして、ドアをうしろに立ちはだかっていた。

「のいて下さい。あなたは誰です。一体誰です」

雪江は父を睨みつけながら、一生懸命に云った。

「誰でもない。お前のお父さんだよ」

「違います。違います。……お父さまじゃない。……アア、怖い」

雪江は気が違いそうだった。確かに父の顔を持った男が、どこかしら父ではないのだ。

ハッと思う間に、世界一杯の白髪鬼が、恐ろしい<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>で飛びかかって来た。彼女はもう振ほどく力はなかった。気を失った様に、たわいなく、されるがままになっている。

再び身動きもならぬ抱擁、顔に降りかかる男の息、父とは違ういとわしい<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>、そして、ヌメヌメと不気味な唇の触感。…………

## 不可思議力

裏門の騒ぎというのは、職工風の男が、ジロジロ邸内を覗き込んでいるので、見張りの刑事が<ruby><rb>引捕</rb><rt>ひっとら</rt></ruby>えて検べようとすると、いきなりピストルを取出して手向いをした。勇敢な一刑事は賊に組みついたが、一振りではね飛ばされてしまった。

賊はピストルを構えて、グングン邸内へ這入って来る。騒ぎが大きくなった。<ruby><rb>家中</rb><rt>うちじゅう</rt></ruby>の男子が現場へはせつけた。相手は一人だけれど飛び道具を持っているので、うかつに近寄れぬ。人々は彼を遠巻きにして騒ぎ立てた。

そんなことで、結局、賊に縄をかけるのに、二十分程もかかったが、やがて、三人の刑事が賊の縄尻を取って、警視庁へと引上げて行った。

明智小五郎は、それを見送りながら、ふとある恐ろしい疑いに打たれた。

「あいつは、一体何の為に、態々捕まりに来たんだろう。若しかすると……」

彼は大急ぎで元の部屋に引返した。

廊下に一人の書生が見張り番を勤めている。さっき裏門へ駈けつける時、この書生丈けは持場を離れぬ様にと、固く命じて行ったのだ。

明智は、それを見て少し安堵を感じながら、ドアを開いた。そして、一歩室内に這入ったかと思うと、直ぐに又飛び出して来て、張番の書生の肩を掴んだ。

「君、宮崎さんはどこに行かれたのだ」

「洗面所です」

「今か」

「エエ、つい今しがたです。アア、帰って来られました」

廊下の向うに常右衛門氏の姿が見えた。

「その間、この部屋へ誰も這入ったものはあるまいね」

「エエ、決して」

宮崎氏が二人の側まで来て声をかける。

「アア、明智さん、賊は捕まった様ですね」

「エエ、併し……」

「併し？」常右衛門氏はけげん顔だ。

「お嬢さんは大丈夫ですか」

「御安心下さい。雪江の方は別状ありません。ごらんなさい。あの通り元気ですよ」

宮崎氏はドアの方へ歩いて行って、それを開けた。明智もあとに続く。

「オヤ、オヤ、不作法なお嬢さんだぞ」

宮崎氏が笑い顔で云った。雪江は<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>のアームチェーアに寄りかかって、グッタリ眠っている。

「明智さん。可哀想に<ruby><rb>余程</rb><rt>よほど</rt></ruby>疲れたと見えて、居眠りをしています」

「居眠りですって。あなたは、あれを居眠りだとおっしゃるのですか」

明智が驚いて聞返した。

「居眠りでなくって、<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に……」

だが、云っている内に、宮崎氏にも娘の変な様子が分って来た。彼は真青になってツカツカと部屋の中へ這入って行った。

「オイ、雪江、雪江、しっかりしなさい。お父さんだ」

肩を揺っても、グニャグニャと前後に動くばかりで、何の手答えもない。

明智もアームチェーアの側に立って、雪江の様子を眺めていたが、突然常右衛門氏の腕を掴んで、囁き声で云った。

「静かに。何か聞えます。ホラ、あの音は何でしょう」

耳をすますと、ポタ、ポタ、ポタと、雨漏りの様な変な音が断続して聞えて来る。

部屋中を見廻したが、どこにも水の垂れている様子はない。しかも、物音は、つい鼻の先でしているのだ。

「アッ、血だ」

雪江の籐椅子のうしろに廻っていた明智が叫んだ。

見ると、丁度雪江の身体の下の、椅子の底から、真赤な血の<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>りが、床に落ちては、はね返っている。床には小さな血の水溜りが出来ていた。

雪江の身体を引起して見ると、案の定、背中の、丁度心臓のうしろに当る箇所に、血まみれの短刀の柄ばかりが見えていた。彼女はその短刀の一突きで絶命したのだ。

「白蝙蝠だ」

短刀の<ruby><rb>白鞘</rb><rt>しらざや</rt></ruby>に刻まれた奇怪な紋章を発見して、明智が呟いた。

「不思議だ。わしが洗面所へ行っていた間は二分か三分です。しかも、書生は、誰もこの部屋に這入ったものはないと云っている。どうして、いつのまに。……」

常右衛門氏は、娘の死を悲しむことも忘れて、賊の余りの早業にあきれるばかりだ。

見張りの書生が呼ばれて這入って来た。

「この部屋へ誰も這入らなかったことは確かだろうな」

「ハア、ドアの方に向って廊下に立っていたのですから、見逃す筈はありません。決して間違いはございません」

書生は室内の激情的な光景を見て、真青になって答えた。

「物音も聞かなかったのだね」

明智が尋ねる。

「ハア、ドアが閉ってましたし、二三間向うから見張っていましたので、何も聞きませんでした」

「この部屋は壁もドアも厚く出来ているので、一寸位の物音は外へ漏れないのです」宮崎氏は説明して「お前大急ぎで、医者と警察の人を呼んで来るんだ。それから奥さんには、アア、今でなくてもよろしい。なるべくおそく知らせる方がいい」と命じた。

「あの書生は信用出来る男ですか」

彼が立去るのを見て、明智が尋ねた。

「愚直な程です。同郷人で、<ruby><rb>永年</rb><rt>ながねん</rt></ruby>目をかけている男です」

「お嬢さんに何か、つまり、一種の感情を抱いていたという様な……」

「イヤ、そんなことは決してない。あれは婚約の恋人を持っている。その娘は国にいるのですが絶えず手紙の往復をして、非常にむつまじいのです」

「すると、全く不可能なことが、有り得ないことが行われたのです」

「だが、不可能なことが、どうして行われ<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>るでしょうか。賊は我々の気づかぬ出入口を持っていたかも知れない」

「そういう出入口はこのたった一つのドアの<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>には全然有り得ないのです。私は<ruby><rb>予</rb><rt>あらかじ</rt></ruby>めここを充分検べて置きました。窓は鉄格子がはまっている。壁にも戸棚にも何の仕掛けもない。ドアさえ守れば大丈夫だということを見極めて、御嬢さんを守る為に、この部屋を選んだ訳です」

明智は困惑の極、救いを求める様に宮崎氏の顔を眺めた。この変な、名探偵にも似合しからぬ仕草は、已に二度目であった。

「つまり、あなたは、この犯罪は全く解決不可能だと考えられるのですか」

宮崎氏は不満の色を浮べて云った。

「そうです。……併し、若し、そういうお答えでは満足出来ないとおっしゃるならば……」

「エ、すると何か……」

宮崎氏は果し合いでもする様な、恐ろしい目つきで、名探偵の顔を凝視した。

「恐ろしいことです。いや、寧ろ<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>なことです。併し、同時に算術の問題の様に、簡単明瞭な事実です。<ruby><rb>唯一</rb><rt>ゆいいつ</rt></ruby>にして避くべからざる論理的帰結です」

「それは？」

「それは、つまり……」明智は<ruby><rb>三度</rb><rt>みたび</rt></ruby>、救いを求める様なみじめな表情になった。「信じられぬ。私は、その理論の指しているものを信じることが出来ないのです。怖いのです」

「云ってごらんなさい」

「私の留守中、娘さんに近づき得た人物は、天にも地にもたった一人であったと申上げるのです」

「たった一人？　それは、つまり、わしのことでしょう」

「そうです。あなたです」

宮崎氏は妙な顔をして、目をしばたたいた。

「すると君は、娘を殺した犯人は、娘の実の父親であるわしだとおっしゃるのか」

「不幸にして、僕はそれを信じることが出来ません。併し、あらゆる事情、あらゆる論理が、その唯一の人を指しています」

「君は、本気で云っているのですか」

「本気です。軽蔑して下さい。僕はこの明々白々な理論を肯定する勇気がないのです。そこには、人間力の及ばない不思議な力がある。この力が何物であるかをつきとめ得ない以上は、僕は無力です」

明智は訳の分らぬことを云って、<ruby><rb>不甲斐</rb><rt>ふがい</rt></ruby>なくも<ruby><rb>渋面</rb><rt>じゅうめん</rt></ruby>を作った。<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しさに今にも泣き出そうとする子供の表情だ。

「君はどうかしたのじゃありませんか。何を云われるのか少しも分らん」

宮崎氏は、皮肉な微笑を浮べて、この有名な素人探偵の苦境を<ruby><rb>見下</rb><rt>みおろ</rt></ruby>した。

「だが、僕は、この不可思議力の本体をつき止めないでは置きません。その上で、あなたの前に頭を下げて今日の無礼を謝するか、それとも、宮崎常右衛門氏に縄をかけて、断頭台に送るか」

常右衛門氏はこの暴言を黙って聞いていたが、明智には答えないで、呼鈴を押して、書生を呼んだ。そして、書生の青山が這入って来たのを見ると、

「この気違いを叩き出すのだ」

と命じた。

「明智先生をですか」

「そうだ。この人は気が狂ったのだ。わしが娘の下手人だなんて、途方もない暴言を吐くのだ。一刻も邸内へ置く訳には行かぬ」

宮崎氏はいとも冷静に云い放った。

「そのお手数には及びません。僕はこれでおいとまします」

明智は一礼してドアの外に出た。彼はただ一人ぼっちになりたかった。そして、極度に混乱した思考力を落ちつけ、この一連の犯罪事件を、もう一度隅から隅まで<ruby><rb>吟味</rb><rt>ぎんみ</rt></ruby>して見たいと思った。あとはやがて到着する警察の人々に任せて置けばよい。彼はそれどころではないのだ。この化物みたいな、恐ろしい不可思議力の本体をつきとめること、彼の頭はただその<ruby><rb>一事</rb><rt>いちじ</rt></ruby>で一杯になっていたのだ。

## 幽霊男

あり得べからざる事柄が、易々と行われた。

先夜幽霊男の一味が、宮崎邸から人間程の大きさの荷物を担ぎ出した。しかも、邸内には何一品紛失したものがない。あり得べからざる事だ。

唯一の出入口であるドアの外には、信用出来る書生が張番をしていた。その部屋の中で令嬢雪江が惨殺された。彼女の身辺に近づき得たたった一人の人物は、外ならぬ彼女の実の父親である。父親が娘を殺す。<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>に特別の理由が発見されぬ限り、あり得べからざることだ。

この二つの不可能事が可能である為には、そこに何かしら途方もない秘密が伏在しなければならぬ。理論をおしつめて行くと、たった一つの結論に達する。その外には絶対に解釈のしようがない。だが、それは想像するさえも身の毛のよだつ程恐ろしいことだ。

明智はとるべき手段に迷った。どこから手をつけていいのか分らなかった。そこで、彼は窮余の一策として、得意の変装術で、洋装の老人に扮し、街頭をさまよい始めたのである。或時は盛り場から盛り場へとさすらい、或時は宮崎邸のまわりをうろつき、又或時は例の池袋の怪屋の附近を歩き廻った。目ざすは品川四郎とそっくりの幽霊男である。この男さえ発見すれば、そして、ひそかに尾行することが出来たならば、怪賊の本拠をつきとめ、そこに隠されている大秘密をあばくことも不可能ではないのだ。

宮崎邸に殺人事件があってから、一週間ばかり、彼はそうして、辛抱づよく歩き廻った。そして、ある日のこと、遂に目ざす幽霊男にめぐり合う幸運を掴むことが出来たのである。

とあるレストランで夕食を<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めていた時、背後に異様な気配を感じて、ヒョイと振向くと、そこに品川四郎の顔があった。すんでのことで、うっかり挨拶しそうになったのを、彼はやっと<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み殺して、そ知らぬ振りで席を立った。

本物の品川四郎かも知れない。そうでないかも知れない。彼はそれを確める為に、レストランの電話室に這入った。客席からは<ruby><rb>可成</rb><rt>かなり</rt></ruby>隔っているので、相手に聞かれる心配はない。本物の品川四郎の電話番号を告げて、胸をドキドキさせながら待っていると、果して品川は在宅であった。受話器の向うに、まがいもない科学雑誌社長の声が聞える。二<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>三言話して電話を切ると、彼は又元の席に戻って、幽霊男の食事の終るのを待った。無論尾行する積りなのだ。

やがて尾行が始まった。

怪物はレストランを出ると、夜店の並んだ賑かな町を、ブラブラと歩いて行く。食後の散歩であろう。若し捕えようと思えば、町の群集は<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>て味方だ、造作もないことである。併し、明智は一幽霊男の逮捕で満足はしない。賊の本拠を確かめたいのだ。あせる時ではない。気永にあとをつける<ruby><rb>一途</rb><rt>いっと</rt></ruby>だ。

幾度も幾度も町を曲って、怪物は果てしもなく歩いて行く。悪人の用心深さで、彼は町角を曲る毎に、尾行者はないかとうしろを振返る。その<ruby><rb>都度</rb><rt>つど</rt></ruby>明智が素早く身を隠すと、彼は安心して歩いて行く。だが、何度目かの曲り角で、明智が物蔭に隠れようとする所を、一寸の差で見つけられてしまった。変装はしているものの、相手は<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>に傷持つ犯罪者だ。うさんなみぶりを見逃す筈はない。とうとう尾行を発見された。

それは電車通りで、<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>自動車が右往左往していた。奴さんきっとタクシーを呼止めるぞ。と見ていると、案の定、一台の車が彼の前に止った。おくれてはならぬと、明智もあとから来た車を呼止める。

「あの車のあとをつけるのだ」

命じながら乗込もうとした明智は、何を思ったのか、咄嗟に思い返して、その車をやり過してしまった。

前の車も<ruby><rb>已</rb><rt>すで</rt></ruby>に発車した。だが、これはどうしたことだ。確かにその車に乗った筈の幽霊男が、町を横切って走っているではないか。つまり彼は乗車すると見せかけて、車内を通って、反対側に飛降りてしまったのだ。自動車の<ruby><rb>籠抜</rb><rt>かごぬ</rt></ruby>けだ。明智は早くもそれを感づいて、うっかり空自動車のあとを追う<ruby><rb>愚</rb><rt>ぐ</rt></ruby>を免れたのである。

何という素早さ。怪物は道路の向う側で、もう別の自動車を呼止めた。さっきのとは反対の方角に走っている車だ。明智もおくれじと一台の車に飛乗った。幽霊男も今度は籠抜けではない。そこで、自動車の追っかけが始まった訳である。

走りに走っている内に、いつか見覚えのある町を通っていた。初めは何気なく窓外を眺めていた明智も、それが余りに彼の熟知せる道筋と一致しているのに気づいて、「オヤ、これは変だぞ」と思わないではいられなかった。

やがて、先の車は、案の定、その家の前で停車した。その家とは外ならぬ、本当の品川四郎の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>なのだ。

幽霊男は車を降りて、格子戸をあけた。婆やが出迎える。彼は婆やに何か口を利いて、事もなく奥へ消えてしまった。

「ナアンだ。さっきから尾行していたのは、それじゃ本当の品川だったのか」

とがっかりしたが、又思い返すと、どうも腑に落ちぬ所がある。品川なれば何ぜ自動車の籠抜けなぞをしたのか。又、さっき電話口へ出たのは一体何者であったのか。とは云え、若し幽霊男だとすれば、まさか、こんな品川の家なぞへ逃げこむ筈はないのだ。流石の明智も、狐につままれた感じである。

兎も角検べて見ようと、案内を乞うと、応接間へ通された。科学雑誌社員時代に親しみのある応接間だ。畳を敷いた日本座敷に椅子テーブルを並べた、洋風まがいの部屋である。品川四郎はそこの<ruby><rb>大</rb><rt>おお</rt></ruby>ソファに腰かけて、客を待受けていた。

「アア、やっぱりあなたでしたね。お分りでしょう。明智小五郎です。僕は大変な失策をやったのです、あなたを例の幽霊男だと誤解してしまって。……しかし、さっき電話口へ出たのはあなたではなかったのですか」

「ヘエ、電話ですって。それは何かの間違いでしょう。僕に電話はかかった覚えはありませんよ」

そんな話をしている時、実に途方もないことが起った。と云うのは、襖の外に、もう一人品川四郎の声が聞えて来たのである。

「俺は夕方から外出なぞしないじゃないか。今俺が帰って来たなんて、お前は奥の間で俺が調べものをしていたのを知らないのか。その帰って来た俺というのはどこにいるんだ」

叱られているのは婆やだ。だが、何という<ruby><rb>変挺</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>な叱り方であろう。

明智はさてはとギョッとして、<ruby><rb>矢庭</rb><rt>やにわ</rt></ruby>に立上り、目の前の品川に飛びかかろうとした。

だが張合のないことには<ruby><rb>贋</rb><rt>にせ</rt></ruby>の品川は平気で笑っている。何というふてぶてしさだ。

そこへ、襖の外の声の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>が、血相をかえて飛込んで来た。見ると、一人は自分と寸分違わぬ男、もう一人は見も知らぬ老人だ。

「君達は一体全体何者だ」

彼は<ruby><rb>居丈高</rb><rt>いたけだか</rt></ruby>に呶鳴りつけた。

「オヤ、これは不思議。貴様、俺の留守宅に忍込んで主人面をしていたんだな。貴様こそ一体何者だ。イヤそれは聞かなくても分っている。貴様だな長い間俺を悩まし続けた怪物は」

今帰宅したばかりの贋の品川が、平然として呶鳴り返した。

分った分った。図々しい幽霊男は、明智の追跡に耐えかねて、咄嗟の思いつきで、本当の品川の家へ逃げ込んだのだ。何という大胆不敵な、併し奇想天外の思いつきであったろう。並べて見ても見分けのつかぬ二人の品川が、お互に相手を贋物だと云い合っているのだ。

その内に、本当の品川が、やっと明智の変装姿を見分けた。

「アア、明智さんじゃありませんか。一体これはどうしたということです。あなたの前にいるのが、例の幽霊男ですよ」

すると、贋の品川も劣らず、まくし立てる。

「オヤ、あなたは明智さんですか。すると、さっきから、私のあとをつけていらっしたのは、僕を幽霊男だと誤解されたのですね。僕こそ正真正銘の品川四郎です。この男は僕の留守を幸いに、僕に化けて何か又悪事を企らんでいたのですよ。サア、こいつを捕えて下さい」

聞いている内に、どちらの云い分が本当だか分らなくなって来る。

「では、君はどうして、籠抜けなぞをして、僕を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>こうとしたのです」

「私は近頃臆病になっているのです。それに老人の変装で、あなたということが、ちっとも分らなかったものですから、又白蝙蝠一味のものが、何か悪企みを始めたのかと誤解したのです。本当に僕が幽霊男なら、こんな所へ来る筈がありません。<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>にいくらも逃げ場所はある筈です」

云われて見ると、一応は<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もである。明智は二人の品川を間近く眺めながら、その内の一人が白蝙蝠の<ruby><rb>首魁</rb><rt>しゅかい</rt></ruby>であることは分り切っているのに、さて、どちらをそれと定めかねて、俄かに手出しをすることが出来ないのだ。

だが、この馬鹿馬鹿しいお芝居は長くは続かなかった。明智はふと一案を思いついて、前から家にいた品川を片隅に引っぱって行き、もう一人の品川に聞えぬ様に、囁き声で、山田の変名で雑誌社に勤めていた頃の<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>い出来事を、一つ一つ尋ねて見た。品川はテキパキとそれに答える。もう間違いはない。この男こそ品川四郎だ。

だが、そこにほんの一寸した隙があった。二人が問答に気をとられている<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、アームチェーアにおさまっていた幽霊男は、ソッと席を立ち、足音を盗んで、襖の外へ消えて行った。

## 名探偵誘拐事件

科学雑誌社長品川四郎と寸分<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>わぬ泥棒があった。というお<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>みたいな事実が、いつの間にかべらぼうに大きな、途方もない事件に変化して行った。

事件がすっかり落着してから、内閣総理大臣<ruby><rb>大河原是之</rb><rt>おおかわらこれゆき</rt></ruby>氏は、（同氏もこの事件の被害者の一人であって、大切な一人息子を失いさえしたのだが）ある<ruby><rb>昵懇</rb><rt>じっこん</rt></ruby>の者に<ruby><rb>述懐</rb><rt>じゅっかい</rt></ruby>したことがある。

「明智小五郎君は、日本国の、イヤ世界全人類の恩人である。若し彼が此度の大陰謀を未然に防いで呉れなかったならば、この日本は、イヤイヤ、英国にせよ、米国にせよ、<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>も<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリー</rt></ruby>も<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>も、或は<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>でさえもが、その皇帝を、その大統領を、その政府を、その軍隊を、その警察力を、即ち国家そのものを、失わなければならなかったであろう。新聞記事をさし止め、風説の<ruby><rb>流布</rb><rt>るふ</rt></ruby>を厳禁したので、一般世人は何事も知らなかったが、彼等白蝙蝠団の陰謀は、例えば、コペルニクスの地動説、ダーインの進化論、或は銃砲の発明、電気の発見、航空機械の創造等に比すべく、<ruby><rb>吾人</rb><rt>ごじん</rt></ruby>人類の信仰なり生活なりを、根底よりくつがえす<ruby><rb>底</rb><rt>てい</rt></ruby>のものであった。

労働者資本家闘争の如き、さては虚無主義も、無政府主義も、この大陰謀に比べては、取るにも足らぬ一些事に過ぎない。彼等は爆薬よりも、電気力よりも、もっともっと戦慄すべき現実の武器を以て、全世界に悪魔の国を打ち建てんとし、しかもそれが必ずしも空論ではなかったのだから。

併し、事は未然に発覚し、今や白蝙蝠一味のものは、刑場の露と消えた。彼等の死と共に、彼等の本拠、彼等の製造工場は、<ruby><rb>跡方</rb><rt>あとかた</rt></ruby>もなく焼きはらわれ、百年に一度、千年に一度の大陰謀も、遂に<ruby><rb>萠芽</rb><rt>ほうが</rt></ruby>にして刈られてしまった。人類の<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>慶賀<ruby><rb>此上</rb><rt>このうえ</rt></ruby>もなきことである」

大体この様な意味であった。

これを伝聞した人々は強情我慢の大河原首相をして、この言を<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>さしめた、大陰謀の内容に想到し、<ruby><rb>転</rb><rt>うたた</rt></ruby>肌の寒きを覚えたのである。が、それは<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の御話。

さて、前章では、明智小五郎に尾行された偽品川が、窮余の一策として、本物の品川の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>に逃げ込み、その一室に顔を並べた寸分違わぬ両人が、我こそ品川四郎であると、互に主張して<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>らず、流石の名探偵も、為すべき<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>を知らなかったことを記したが、やがて段々取調べて行く内に偽品川の方は、はげそうになる化けの皮に、その場に居たたまらず、隙を見てこっそり逃出してしまった。

夢中になって、本物の品川を<ruby><rb>訊問</rb><rt>じんもん</rt></ruby>していた明智小五郎が、ふと気がつくと、もう一人の品川の姿が見えぬ。「さては、あいつが偽物であった」と、一飛びに表へ駈け出して見ると、一丁ばかり向うを走って行く人影。そこで、又しても追跡である。

曲り曲って、大通りに出ると、怪物の姿を見失ってしまった。丁度そこに客待ちをしていた自動車の運転手に尋ねると、運転手はいやにうつむいて、帽子のひさしの下から、その男なら、今向うへ走って行く自動車に乗ったというので、明智は当然その客待ち車に飛び乗って、追跡を命じる。型の如き自動車の追駈けだ。

十分も走ると、淋しい屋敷町にさしかかった。すると、どうしたことだ。明智の車がいきなり方向転換をして、もっと淋しい横丁へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り込んだ。

「オイ、何をするんだ。先の車は真直に走って行ったじゃないか」

明智が呶鳴ると、運転手がヒョイと振向いた。

「ア、貴様は」

「ハハハハハハ、一杯喰ったね。イヤ、動いては為にならぬぜ。ほら、これを見給え」

クッションの上から、ニュッとピストルの筒口だ。悲しいことに明智は何の武器も用意していなかった。

あとで分ったことだが、あの咄嗟の場合、賊は機敏にも、さっき乗り捨てた一味の者の自動車に、運転手に化けて乗込み、借り物の外套で身を包み、借り物の帽子をまぶかにして、じっと網にかかる明智を待構えていたのだ。実に驚くべき早業だ。

怪物はピストルを構えたまま、運転台を降りて、客席に這入って来た。

「いくら、わめいた所で、こんな淋しい町で助けに来る奴はありゃしない。だが、念の為に<ruby><rb>鳥渡</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>我慢して貰おう」

ピストルで身動きも出来ぬ明智の鼻の先へ、パッと飛びついて来た白いもの、いつの間に用意したのか、<ruby><rb>麻睡薬</rb><rt>ますいやく</rt></ruby>をしみ込ませたハンカチだ。

明智がじっとしている筈はない。一方の扉を<ruby><rb>蹴開</rb><rt>けひら</rt></ruby>いて、反対側へ飛降りようとした。

「アア、馬鹿だね君は、求めて痛い思いをするのか」

云いながら、賊はゆっくり<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>いを定めて、今飛降りようとする明智の右足を撃った。バンという変な音。だが、タイヤが破れた音<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby>高くはない。一体ピストルなんて、そんな大きな音を立てるものではないのだ。

車から半身乗り出して、ぶっ倒れたまま、<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>している明智の顔の前に、又もや丸めたハンカチ、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な匂、併し、今度はもう抵抗する力もない。賊の為すに任せて、押しつけられた麻睡薬に明智は不甲斐なくも、意識を失ってしまった。

偽品川は、グッタリした探偵の身体を抱き上げて、クッションの上に横たえ、出血している足の傷口には、明智のハンカチで繃帯をしてやりながら、独言の様に呟く。

「明智君、君が追駈けてくれたお蔭で、非常に手数が省けたぜ。これで、連名帳の順序を変更しなくて済んだというものだ。君、まさか忘れやしないだろう。あの連名帳に打ってあった番号を。第一は、岩淵紡績社長宮崎常右衛門。それから第二番目は、素人探偵明智小五郎。つまり今度は君の番だったのさ。ハハハハハハハ」

賊は低く笑いながら、元の運転席に戻ると、何事もなかった様に落ちついた顔色で、ハンドルを握り、スターターを踏んだ。

車は、人通りもない淋しい屋敷町を、まっしぐらに、いずことも知れず走り去った。

## トランクの中の警視総監

それから一週間程たったある日のこと、明智小五郎は、一台の古めかしい人力車に、<ruby><rb>極大</rb><rt>ごくだい</rt></ruby>トランクを運ばせて、警視庁を訪れた。

「ヤア、明智君じゃないか。君のホテルを訪ねてもいないし、どこへ行ったのかと心配していた所だ。何だか収獲があったらしいね。その大トランクは、君、一体何だい」

玄関の大ホールで、出逢頭の波越警部が声をかけた。

「非常に重大な証拠物件だ。あとで話すよ。だが、とりあえず、赤松総監に御目にかかり<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>いのだ。いらっしゃるかい」

「ウン、今僕は総監室で話をして出て来たばかりだ。刑事部長さんもいたよ」

「じゃ、一つ巡査君に、このトランクを運ぶ手伝いを頼んでくれ給え。総監室へ持込んで貰い度いのだ」

「心得た。オイ君、一寸この車夫の御手伝いをしてやってくれ給え」波越氏は、ホールに居合わせた二人の警官に命じて置いて「残念だが、僕は<ruby><rb>行啓</rb><rt>ぎょうけい</rt></ruby>の御警衛のことで、急用があるんだ。総監室で詳しく話して置いてくれ給え。間に合ったら、僕も話を聞きに帰って来るから」

波越警部と別れた明智小五郎は、大トランクを追って、総監室へ上って行った。

「我々は君を探していた所だったよ。明智君」

総監は、彼の顔を見ると、<ruby><rb>磊落</rb><rt>らいらく</rt></ruby>に云った。

「例の白蝙蝠事件が、一向にはかどらないのでね。だが、妙な物を持込んで来たじゃないか。そのトランクは何だね」

「何か御用談中ではなかったのですか」

明智が、総監と向い合って腰かけている刑事部長を見ながら尋ねた。

「イヤ、我々の話は今すんだ所だ」

「それでは、<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ恐れ入りますが、総監お一人にお話し致したいことがありますので、暫く……」

「オイオイ、明智君、ここにいるのは、君も知っている刑事部長さんだよ。失礼なことを云っては困るね」

「ですが、実は非常に重大な事柄だものですから、総監にお話し申上げるさえ、<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>する程なんです。失礼ですけれど、暫くお人払いを……」

明智はひどく云いにくそうだ。

「明智君、今日はいやに<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ぶるんだね」刑事部長は笑いながら立上がった。「併し、僕はあちらに用事もあるから、又あとで来ます。じゃ明智君どうか」

彼は云い捨てて、総監室を出て行った。

「サア、聞こう。その重大事件というのは一体何事だね」

赤松総監は、この天才探偵の、奇抜な所業をひどく面白がっているのだ。

「完全にお人払いが願い度いのです」

明智は強情である。

「では」総監は益々面白がって「オイ、君、一寸あちらへ行って居給え」

総監室の入口に陣取っていた受附係が追払われた。あとは文字通り二人切りだ。

「ドアの鍵をお持ちでしょうか」

「鍵？　君はドアに鍵をかけようというのかね。そいつはどうも」総監は笑い出して「確かその、受附の机の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>に這入っていた筈だが」

明智は鍵を探し出して、内部から入り口のドアに鍵を卸した上、鍵穴には鍵を差したままにして席に戻った。

「このトランクの中の品物を、ごらん願い度いのです」

「ひどくかさばったものだね。開けて見給え」

トランクというのは、内地の旅行などには滅多に使用せぬ、<ruby><rb>鎧櫃</rb><rt>よろいびつ</rt></ruby>の様な<ruby><rb>極大型</rb><rt>ごくだいがた</rt></ruby>のもので、人一人這入れる程の大きさである。

「びっくりなさらない様に、非常に意外なものが這入っているのですから」

明智はトランクの鍵を廻しながら、まるで手品師が秘密の箱をあけて見せる時の様な表情で云った。

その刹那、赤松総監の頭に「死体」という観念がひらめいた。すると、トランクの<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をすかして、その中に丸くなっている、不気味な血だらけの肉塊が、まざまざと見えて来る様に思われる。流石の総監も、少々顔の筋を固くしないではいられなかった。

カチンと錠前のはずれる音がして、トランクの蓋は一寸二寸と、ゆっくり開かれて行った。先ず現われたのは、<ruby><rb>旭日章</rb><rt>きょくじつしょう</rt></ruby>のピカピカ光った警察官の制帽であった。それから、制帽の下の丸々と肥った顔、口髭、金ピカの肩章、高級警察官の黒い制服、窮屈そうに斜めになった帯剣。

それは確かに、窓の外にあかあかと陽の照っている、昼間であった。又、赤松総監は決して夢を見ている訳ではなかった。だが、夢か幻でなくて、こんな恐ろしいことが起り得るであろうか。さしもの豪傑政治家も、アッと云ったまま、目はトランクの中の人物に釘づけになり、身体は強直したかの様に動かなくなってしまった。

明智小五郎はと見ると、トランクの蓋を開け切って、じっと、獲物を狙う蛇の様な目で、総監の表情を見つめている。

二人はそうしたまま、三十秒程、見事に出来た生人形の様に、動きもせず物も云わなかった。

「ハハハハハハハ、明智君、人の悪いいたずらをしちゃいけない」総監はやっと元気を取戻して、泣き笑いの表情で、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて大声を出した。「僕の似顔人形を作って、おどかそうなんて」

如何にも、トランクの中の人物は、赤松警視総監の似顔人形であった。肥った身体、丸い顔、愛嬌のあるチョビ髭、クリクリと丸い目、帽子も制服も帯剣も靴も、凡て凡て総監そっくり、髪の毛の数まで同じかと疑われるばかりだ。

「人形だとおっしゃるのですか」明智は毒々しい声で云った。

「もっとよく見てごらんなさい」

総監は悪夢にうなされた気持で、余りにもよく出来た、自分と<ruby><rb>寸分</rb><rt>すんぶ</rt></ruby>違わぬ生人形に見入った。

見ている内に、警視総監の心臓でさえも、ギョクンと喉の辺まで飛上る様な、恐ろしい事実が分って来た。

そいつは生きていたのだ。人形ではなかったのだ。確かに<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をしている。窮屈に曲げた腹部が、静かに波打っているではないか。パチパチと、瞬きさえしているではないか。

総監は余りの出来事に、採るべき手段を考える力もなく、放心の体で、トランクの中のもう一人の総監を眺めていた。

人形の丸い頬が、ピクピクと痙攣を始めた。ハッと息を呑む間に、その痙攣が、だんだんひどくなって行ったかと思うと、唇がキューッとめくれて、白い歯並が現われ、その顔がいきなり、ニタニタと笑い出したのである。

それを見ると、五十歳の赤松総監が、子供の様な泣き顔になって、タジタジとあとじさりをした。

と、同時に、トランクの中の男が、ビックリ箱を飛び出す蛇みたいに、突然ニョッキリと立上がったかと思うと、<ruby><rb>諸手</rb><rt>もろて</rt></ruby>を拡げて総監に飛びかかって行った。

頭から足の先まで、そっくり同じ、<ruby><rb>二人</rb><rt>ににん</rt></ruby>総監の<ruby><rb>取組合</rb><rt>とっくみあ</rt></ruby>いだ。しかも、それが夢でもなければ、お芝居でもない。白昼、警視庁総監室での出来事だ。腹を抱えてゲラゲラ笑い出したい程滑稽で、しかも同時に、ゾーッと総毛立つ程恐ろしい事柄である。

飛びかかって行った方の、つまり偽総監が、余りの事に手出しも出来ぬ本物の総監を、うしろに廻って、<ruby><rb>羽交締</rb><rt>はがいじ</rt></ruby>めにしてしまった。

だが、流石は百戦練磨の老政治家だ。総監はそれ程の恐怖に直面しながら、はしたなくわめき出す様なことはしなかった。彼はじっと心を落ちつけて、羽交締めにされたまま、ジリジリとデスクの側に近づくと、僅かに動く右手の指で、ソッと卓上の呼鈴を押そうとした。

「オッと、そいつはいけない。赤松さん、その呼鈴は命とかけ換えですぜ」

明智が素早く見て取って、ピストルを構えながら、総監を<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>した。

「明智君、これは一体どうしたことだ。君はいつの間に僕の敵になったのだ」

「ハハハハハハハ、私が明智小五郎に見えますかね。もっと目をあけてごらんなさい。ほらね」

明智が顔をモグモグやって見せる。

「アッ、貴、貴様は一体何者だッ」

明智は左手でポケットから、大型の麻のハンカチを取出して、総監の目の前で、ヒラヒラ振って見せた。驚くべし、そのハンカチの片隅には、見覚えのある不気味な白蝙蝠の紋章。

「ウヌ、畜生ッ」

総監は全身の力を奮い起して、背後の敵をふりほどこうとした。だが、怪物の羽交締めは、いっかな解けぬ。もう絶体絶命だ。大声で呶鳴って人を呼ぶ外はない。と思う顔色を見て取った、偽の明智小五郎は、間髪を容れず、振っていたハンカチを丸めて、総監の口へ、グイと押込んでしまった。咄嗟の<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>だ。

瞬く間に、手足を縛られて、トランクの中に丸くなったのは、今度は本物の赤松総監であった。あばれようにも、声を立てようにも、もうどうすることも出来ぬのだ。

「分りましたか。赤松さん、我々のプログラムは予定通り、着々進行している訳です。第一は、宮崎常右衛門、第二は、明智小五郎、第三は、赤松警視総監とね。つまり今日はあなたの順番が来た訳なんですよ」

偽の明智小五郎が宣告を与えた。

妙な例え話だけれど、<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>の皮をむかずして、中味<ruby><rb>丈</rb><rt>だ</rt></ruby>けを幾つかに切離すことが出来るか。それは出来るのだ。針と糸があれば易々と出来るのだ。だが、顔から形から寸分違わぬ人間が、思うがままに生れて来る、この白蝙蝠団の大魔術は、林檎の問題ではない。どんな針と糸を持って来たとて、そんな馬鹿馬鹿しいことが、出来っこはないのだ。

怪談か、でなければお伽噺だ。若しもこれらのものが、現実の出来事であったとすれば、その背後に、思考力を遙かに飛び越えた、何物かが存在しなければならない。だが、昔から偉大なる発見なり発明なりは、それが公表される瞬間まで、全世界の常識が不可能と考え、怪談お伽噺と嗤う<ruby><rb>底</rb><rt>てい</rt></ruby>の事柄であったことをも一考して見なければなるまい。

それは兎も角、トランクの蓋が閉じ、カチンと錠前が卸された。現内閣の巨星、<ruby><rb>正</rb><rt>しょう</rt></ruby>四位勲三等警視総監赤松<ruby><rb>紋太郎</rb><rt>もんたろう</rt></ruby>氏は、今やトランク詰めの一個の生きた荷物となり終ったのである。蓋をしめる時、明智が念の為に麻睡薬をかがせたので、荷物はもうコトリとも動きはしない。

不思議な仕方で事務の引継ぎを了した新警視総監は、総監の大きな腕椅子に、ドッカと腰を卸し、卓上にあった旧総監私用の葉巻煙草を切って、<ruby><rb>大様</rb><rt>おおよう</rt></ruby>に紫の煙を吐いた。

偽明智は、生きた荷物のトランクに腰かけて、言葉丈けは<ruby><rb>鄭重</rb><rt>ていちょう</rt></ruby>に、新総監に話しかけた。

「では、閣下、このトランクは一先ず私のホテルに保管して置くことに致しましょうか」

新総監はこれに対して、着任最初の口を開いた。

「アア、そうしてくれ給え。ところで、その荷物を運び出す為には、ドアを開かなくてはなるまいね」

何とまあ、声まで赤松紋太郎氏そっくりである。

「ハハハハハハハ、如何にも左様でございましたね」

明智は云いながら、立って行って鍵を廻し、ドアの締りをはずした。さて、新総監が呼鈴の<ruby><rb>釦</rb><rt>ボタン</rt></ruby>を押すと、さっきの受附係が這入って来る。

「君、誰かに手伝わせてね、このトランクを表まで運び出すんだ。そして、アア、明智君、車が待たせてあるのかね」

「ハア、人力車が待たせてあります」

「では、その人力車に積んで上げるのだ。分ったかね」

受附係は委細かしこまって<ruby><rb>引退</rb><rt>ひきさが</rt></ruby>って行った。

<ruby><rb>斯様</rb><rt>かよう</rt></ruby>にして、何の造作もなく新旧警視総監の<ruby><rb>更迭</rb><rt>こうてつ</rt></ruby>が行われ、とりすました明智小五郎は、本物の総監を積み込んだ人力車を従えて、いずこともなく立去ったのである。

## 慈善病患者

実業界の<ruby><rb>大立者</rb><rt>おおだてもの</rt></ruby>宮崎常右衛門氏が、真赤な偽物で、実は白蝙蝠団の一員であったとすれば、その人望と、巨万の資産の運用とによって、一種の産業動乱を捲き起すことは、さして難事ではない。

既に現われた一例を上げるならば、偽宮崎氏が殆ど無謀に近い職工達の要求を、無条件に承認したことは、業界一般の一大打撃となり、<ruby><rb>囂々</rb><rt>ごうごう</rt></ruby>たる世論を<ruby><rb>惹起</rb><rt>ひきおこ</rt></ruby>し、同業組合の内紛を醸し出したばかりではない。当時の生産品市価を以てしては、採算不可能、全紡績事業は成立の見込み立たずということになり、極言すれば、日本の同業者は全滅するの外なきに立至ったとさえ云い得るのだ。無論、当の宮崎氏が、世の非難の的となり、同業者の<ruby><rb>怨腑</rb><rt>えんぷ</rt></ruby>となったことは云うまでもない。令嬢が殺害されたのは同情すべきだが、併し事後に至って、何も職工達の要求を容れることはない。寧ろ工場を閉鎖すべしというのだ。ところが滑稽なことには、その宮崎氏は実は泥棒なのだ。事業界の地位を失おうが失うまいが、会社が儲かろうが儲かるまいが、そんなことは、てんで問題ではない。彼は有産社会から鬼畜呼ばわりをされながら、鋼鉄張りの神経で、どこを吹く風かと<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>うそぶいていた。

又、この事件で打撃を蒙ったのは独り同業者ばかりではなかった。日本の全産業界に、嘗つて前例のない、労働者横暴時代がやって来るのではないかと疑われた。というのは、岩淵紡績争議が終って、まだ一週間もたたぬ間に、全国各地の様々な製造工業に、已に五つの争議が起っていた。彼等は岩淵紡績の実例で味をしめ、増長したのだ。そこへつけ込んで、争議で飯を食っている連中の、<ruby><rb>煽動</rb><rt>せんどう</rt></ruby>よろしきを得たのである。

すると、妙なことに、それがどんな地方で起った争議であっても、職工の要求書が提出されると同時に、岩淵紡績の場合と同じ様な脅迫状が、事業首脳者の私宅に、誰が持って来たともなく現われるのだ。令嬢なり、令息なり、令夫人なりの命を頂戴するという例の文句である。

目前、宮崎氏令嬢の実例で、<ruby><rb>怖気</rb><rt>おじけ</rt></ruby>をふるっている資本家達は、結局職工の要求を容れることになる。でなければ、工場閉鎖だ。

この勢で、ドシドシ争議が起り、ドシドシ労働者の言分が通って行ったならば、極度の物価<ruby><rb>騰貴</rb><rt>とうき</rt></ruby>を招来するか、<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らざれば生産工業全滅である。

神経過敏な論説記者は、已にそれを<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>える論調を示し、世論は<ruby><rb>漸次</rb><rt>ぜんじ</rt></ruby>高まりつつあった。商工会議所が動き始めた。雑談的にではあったが、ある日の閣議で、このことが、閣僚達の熱心な話題となった。

白蝙蝠の紋章は、今やブルジョアの恐怖と憎悪の象徴であった。又、一見有利の立場に見える労働者も、白蝙蝠団の真意を<ruby><rb>推</rb><rt>すい</rt></ruby>し兼ねて、一種空恐ろしい感じを抱かないではいられなかった。何と云っても、相手は泥棒人殺しの団体なのだ。その暴力を借りて争議の成功をおさめたとあっては、労働階級の名折れだという、正義派も現われて来た。学者論客は、筆を揃えて、悪虐白蝙蝠団の全滅を見るまでは、全国の労働者よ、断じて<ruby><rb>軽挙妄動</rb><rt>けいきょもうどう</rt></ruby>すべからずと忠告した。

この社会の<ruby><rb>攪乱者</rb><rt>かくらんしゃ</rt></ruby>、殺人鬼の団体を、何故放任して置くのか。政治家は<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っているのか。警察は何をしているのだ。と、結局非難攻撃の的は警察だ。中にも、白蝙蝠の本拠東京の警視庁だ。

ところが、何と途方もないことには、その怪賊退治の責任者、当の警視庁の最高指揮者は、いつの間にか真赤な偽物に、しかも誰にも見分けることの出来ない、<ruby><rb>双児</rb><rt>ふたご</rt></ruby>の様な怪賊の一員と変っていた。つまり白蝙蝠団は、彼等にとって唯一の大敵である警視庁を、早くも占領してしまったのだ。

偽赤松紋太郎氏は、官邸に<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>ては、前総監夫人と寝室を共にし、登庁しては、部下の首脳者達の目を巧みにあざむき、偽物とは云い条、その手腕あなどり難きものがあった。

偽総監の机上には、決裁すべき重要書類の外に、市民からの非難攻撃の投書が山と積まれた。彼は毎日定刻に登庁して、書類に盲目判を<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>すのと、この興味深き投書を読むのが仕事であった。当時総監室を訪れた庁内の人達は、彼がさも愉快そうに、ニタニタ笑いながら、総監罵倒の投書文に読み<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っているのを目撃して、この老政治家の太っ腹に驚嘆したものであるが、その実何も驚くことはなかったのだ。彼は警察当局者の無能を、真からおかしがって、投書家と一緒になって、笑っていたに過ぎないのだから。

彼が庁内の事情に馴れて来るに従って、日夜頭を悩ましたのは、部長だとか課長だとか、各署の署長などを、如何なる名目によって更迭すべきか、又如何に更迭せば、最も警察能力を低下せしめ得るかという、重大問題であった。偽総監の陰謀がどんな形を取って現われたか、又その結果、殆ど無警察同然となった帝都に、どの様な戦慄すべき<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわい</rt></ruby>が<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>されるに至ったか。<ruby><rb>等々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>は、だが、のちのお話である。

さて、警視総監の次に、白蝙蝠団の魔手の伸びる所は、彼等のプログラムに従えば、内閣総理大臣大河原是之氏の官邸であった。

大河原伯爵一家は、先年夫人を失ってから、養子の<ruby><rb>俊一</rb><rt>しゅんいち</rt></ruby>氏と実子<ruby><rb>美禰子</rb><rt>みねこ</rt></ruby>さんの二人の外に肉親はなく、<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>は召使ばかりの淋しい家庭であった。夫人との間に長く子がなかった為に、親戚の俊一氏を養子に迎えたが、それから数年の後、ひょっこりと美禰子さんが生れた。そこで、美禰子さんは養子俊一氏とめあわせることにして、面倒な相続問題を未然に防いだ。幸い当人同志も、この結婚に異存はなく、目下は<ruby><rb>許嫁</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>の間柄である。

美禰子さんは容貌は美しく、<ruby><rb>智慧</rb><rt>ちえ</rt></ruby>はたくましく、誠に立派な伯爵令嬢であった。おそく生れた一粒種で、極度に甘やかされたせいか、たった一つ妙な欠点（或は長所）を持っていた。それは普通の程度を越えて<ruby><rb>恵</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>深いことであった。どうして、それが欠点かと云うと、彼女の慈悲心は、余りにも突飛な形式で現われることが多かったからだ。

例えば、彼女はある時、道端の乞食に、自分の着ていた、仕立卸しの高価なコートを脱いで、着せかけたままサッサと帰って来たことがある。イヤ、もっとひどいのは、婆さんの乞食を、自動車の中へ拾い上げて、邸宅に連れ戻り、当時まだ在世であった母夫人に、この乞食を家で養ってくれとねだったことさえあった。

美禰子さんの並外れた慈悲心は、同族間ばかりでなく、新聞雑誌のゴシップを通して、広く世間一般の話題にも上り、亡き伯爵夫人は、この気違いめいた令嬢の美徳を、たった一つの苦労にしていた程である。

若し、大河原伯爵家に、怪賊白蝙蝠の乗ずべき隙があったとすれば、この令嬢の<ruby><rb>奇癖</rb><rt>きへき</rt></ruby>が唯一のものであったかも知れない。それ程この大政治家の生活には、油断も隙もなかったのだ。そればかりではなく、白蝙蝠の一味は、従来のやり口でも分る通り、（例えば、偽の品川が態々本物の品川の住宅に逃げ込んで、寸分違わぬ二つの顔を並べて、明智小五郎を<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>した如き）強いて奇想天外な手段を選び、その奇怪なる着想を見せびらかす、所謂犯罪者の虚栄心を、たっぷり所有していたのである。

で、ある日のこと、伯爵令嬢美禰子さんが、本邸の書斎で、物思いに耽りながら（というのは許嫁の俊一氏が当時関西の方へ旅行をしていたからで）うっとり窓の外を眺めていると、広い庭園の森の様な木立ちの奥から、フラフラと現われて来た、奇妙な人物があった。

一見、令嬢と同じ位の年頃の女であったが、明かに乞食以上のものではないらしく、身に纏っているものといったら、着物というよりはボロ、ボロと云うよりは、糸屑といった方がふさわしい代物であった。足ははだしだし、髪の毛は、さんばらにして、幽霊みたいに顔の前に垂れ下っていた。

普通の娘なら、そんな<ruby><rb>闖入者</rb><rt>ちんにゅうしゃ</rt></ruby>を見たら、奥へ逃げ込むか、人を呼ぶかする筈だが、美禰子さんは普通の娘ではなかった。無論最初は恐れを為して、窓をしめようとさえしたけれど、その次の瞬間には、持前の異常な慈悲心が、ムクムクと頭をもたげて来た。

美禰子さんは、乞食娘が近づいて来るのをじっと待構えていた。こんな際に使用する最も慈悲深い言葉を頭の中で探しながら。

乞食は、やがて、窓の下にたどりついて、そこに突立ったまま、ジロジロと令嬢を眺め、見かけによらぬ美しい声で云った。

「お嬢さま、なぜお逃げなさらないのです。怖くはないのですか」

アアこの娘は境遇の為にひがんでいるのだ。それであんな皮肉な云い方をするのだ。と令嬢は心の中で考えた。そこで、出来る丈けやさしい声で、先ず、

「お前、どこから這入っておいでなの」

と尋ねて見た。

「門から……、だって、寝る所がなければどんなとこだって構ってはいられませんわ。あたし、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>は、お庭の隅の物置小屋で寝たんです」

案外上品な言葉を使っている。この娘は生れつきの乞食ではないらしいぞ。と又令嬢は考えた。

「お腹がすいているのでしょう。で、誰か身寄りのものはありませんの。お父さんとかお母さんとか」

「なんにもありません。みなし子です。そして、お腹の方はおっしゃる通りペコペコですわ」

「じゃ、人に知れるといけませんから、この窓から這入っていらっしゃい。今あたしが、何かたべるものを探して来て上げますわ」

「誰も来やしませんか」

「大丈夫、この<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>には、今あたし一人で、あとは召使のものばかりですから」

これは事実であった。父伯爵は首相官邸にいるのだし、秘書も、<ruby><rb>三太夫</rb><rt>さんだゆう</rt></ruby>も、皆んなその方へ行って、令嬢の慈善行為をさまたげる様な手ごわい召使は一人もいないのだ。令嬢自身も、いつもは官邸の方にいて、お父さまの身のまわりなど気をつけていて上げる分相応の役目を持っていた。

暫くすると、どこから探し出して来たのか、美禰子さんは、ビスケットの<ruby><rb>鑵</rb><rt>かん</rt></ruby>とお茶の道具を持って帰って来ると、乞食娘を、汚いとも思わず、立派な椅子にかけさせ、その前のテーブルに、ビスケットの鑵を置いて、奇怪千万なお茶の会を開いたのである。

乞食はよっぽど腹が減っていたと見えて、早速ビスケットを五つ六つ一かたまりに頬張ったが、その時、額に垂れ下っていた髪の毛を、うるさそうに掻き上げたので、初めて彼女の顔がハッキリ眺められた。

何という美しい乞食であろう。汚い着物に引きかえて、顔丈けは、汚れてもいなければ、栄養不良の為に<ruby><rb>憔悴</rb><rt>しょうすい</rt></ruby>してもいなかった。目鼻立ちのよく整った、真白な肌。だが、美禰子さんがあんなにもびっくりしたのは、乞食娘が思いもよらぬ美人であったことではない。

「マア、お前……」

さっき乞食の出現にビクともしなかった令嬢が、思わず立上って、ドアの方へ逃げ出しそうにした程だ。

「アア、嬉しい。お嬢さまにも、やっぱりそう見えるのですわね」乞食娘は、さもさも嬉しそうに叫んだ。「あたし、もう本望だわ。こんな見る影もない乞食の子が、総理大臣で伯爵様のお嬢さまと、そっくりだなんて」

事実、この二人、伯爵令嬢と乞食娘とは、一方は断髪で光った着物、一方はさんばら髪であらめの様なボロ、という点を別にすると、背恰好から顔形まで、双児といってもよい程、そっくりであった。

「あたし、勿体ないことですけれど、もうずっと前からお嬢さまとあたしと、生き写しの様によく似ていらっしゃることを知っていました。若し、あのお嬢さまに御目にかかって、一言でもお話が出来たらと、もうそれが、あたしの一生の望みだったのです。その望みが叶って、あたし、こんな嬉しいことはありゃしませんわ」

乞食は、目に一杯涙を溜めていた。

「マア、世の中に、こんな不思議なことってあるもんでしょうか」

美禰子さんも、それまでよりも、十倍も慈悲深い心持になって嘆息する様に云った。

境遇では天と地程も違った、この二人の娘は、忽ちにして、<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の様に仲よしになってしまった。

美禰子さんが聞くに従って、乞食娘は詳しい身の上話をした。その内容をここに記す必要はないけれど、彼女の身の上は誠に憐むべきものであった。

言葉は上品だし、顔は美しいし、気質もそんなにひねくれてはいない様だ。

美禰子さんは、もう新しいお友達が、一人ふえでもした様に、有頂天になってしまった。

しめっぽい、身の上話がすむと、乞食娘も高貴の令嬢とお友達みたいにしている嬉しさに、段々快活になって来たし、令嬢の方でも気のつまる涙話にあきて、はしゃぎ始めた。

「アア、いいことを思いついたわ。マア、すてきだわ。ネエお前、あたし今、それはそれは面白い遊び方を考え出したのよ」

美禰子さんが、目を輝かせて叫んだ。

「アラ、あなた様と、わたくしとが、何かして遊ぶんですって」

乞食はびっくりして聞き返す。

「エエ、そうよ。あたしね、子供の時分『乞食王子』って云うお伽噺を読んだことがあるのよ。それで思いついたのだわ。あのね……」

と何かボソボソと囁く。

「マア、勿体ない。そんなことが……」

乞食娘は、余りのことにボーッとしてしまって、辞退する言葉も知らぬ体に見えた。

アア、美禰子さんの、並みはずれた慈悲心が、飛んでもない悪戯を考え出してしまった。その結果、あんな大事件が起ろうなどとは、夢にも思わないで。

## 乞食令嬢

伯爵令嬢が奇抜ないたずらを思いついた。この乞食娘に自分の着物を着せ、自分は乞食のボロを身につけて、「乞食王子」という小説の真似をして見ようと云うのだ。美禰子さんの極端な慈悲心が、この哀れな乞食娘に一時でも伯爵の娘になった夢を見せてやり度いと思ったのだ。

二人は鏡の前で、お互の着物のとり換えっこをした。乞食娘は令嬢が態々持って来てくれた洗面器で汚れた手を洗い、顔にお化粧をした。

「お前、髪を短くしてもいいかえ」

乞食が肯くと、令嬢は髪の形まで自分のと寸分違わぬ断髪に切り縮めてやった。可成り手間取ったけれど、素人細工にしてはうまく出来上った。

今度は令嬢の番だ。彼女は乞食のボロを身につけ、髪をモジャモジャにして鏡を見た。

「アラ、そんな美しい乞食ってございませんわ。お顔にこの眉墨を薄く塗って上げましょうか。そうすれば、もう本物ですわ。誰が見たって華族様の御令嬢だなんて思いませんわ」

乞食は図に乗ってそんなことまで云い出したが、美禰子さんは却って面白がって女学校の仮装会のことなど思出しながら、乞食の云うがままに、顔一面眉墨を塗らせさえした。

二人はすっかり扮装を終って、肩を並べて鏡の前に立った。

「どう見たって、分らないわね。私がお前で、お前が私だって云うことは」

「マア、勿体ない。私はもう死んでも本望でございますわ。一度でも大臣様のお嬢様になれたかと思うと」

「お前、そんなに嬉しいかえ」

令嬢になった乞食よりも、乞食になった美禰子さんの方が却って嬉しそうだ。彼女は暫く鏡を見つめていたが、何を思ったか、クスクス笑い出して、

「お前、もっとおすまししてね、あちらの、書生や小間使なんかのいる部屋をね、見廻って来てごらん。そして、若し少しも疑われないで帰ってお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でだったら、そうね、何か<ruby><rb>御褒美</rb><rt>ごほうび</rt></ruby>上げてもいいわ」

乞食娘は、まさかそんなことと、尻ごみしていたが、令嬢がドアを開けて突き出す様にするものだから、しぶしぶ廊下へ出て、ひっそりとした邸内を、勝手元の方へ歩いて行った。

廊下を曲ると、向うから書生がやって来るのに出会った。それを見た乞食娘はいきなりキァッと悲鳴を上げて、書生目がけて走って行った。逃げようとしてとまどいしたのかしら。それにしてはどうも様子がおかしい。と見るまに、実に驚くべきことが始まった。

「お前、早く来ておくれ。大変なのよ。私の部屋にね、乞食女が這入って、部屋をかき廻しているのよ。早く、早く、あれを追い出しておくれ」

美禰子さんに扮装した乞食娘が途方もないことを訴えた。

「エ、乞食が？　お嬢さまのお部屋に？　飛んでもない奴だ。ここに待っていらっしゃい。すぐに掴み出してやりますから」

書生は何の疑う所もなく、廊下を一飛びに走って、令嬢の部屋へ来て見ると、真黒な顔をした汚い乞食女が、図々しくも令嬢の椅子に腰かけて、悠々とお茶を飲んでいるではないか。

「コラッ、貴様一体何者だ。ここをどこだと思っている。グズグズしていると警察へ引渡すぞ」

書生が恐ろしい見幕で呶鳴っても、ふてぶてしい乞食女は平気なものだ。

「アラ、何を怒っているの。一寸いたずらをして見た丈けなのよ。怒ることはないわ」

書生はあきれ返ってしまった。

「馬鹿。一寸いたずらに人の部屋へ這入ってこられて<ruby><rb>耐</rb><rt>たま</rt></ruby>るもんか。サア出ろ、出なければこうしてくれる」

彼はいきなり乞食女（その実令嬢美禰子さん）の頸筋を掴んで、えらい力で、窓の外へ<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出してしまった。

美禰子さんはひどく<ruby><rb>憤慨</rb><rt>ふんがい</rt></ruby>して書生の無礼を叱ったが何の利目もない。いたずらが過ぎたのだ。二人の扮装が余りによく出来たので、書生にさえ見分けがつかぬのだ。と気附くと、令嬢は怒ることをやめて、おとなしく説明を始めたが、書生はどうしても承知しない。気違い扱いにして取合おうともしない。無理はないのだ。仮令乞食の顔が令嬢に似ていた所で、本物の令嬢は廊下に待っている。まさか伯爵令嬢が乞食の扮装をしようなどと誰が想像するものか。その上令嬢になり切った乞食娘の方では、そんな着物のとり換えっこをした覚えはない。顔が似ているのをいいことにして、そいつは飛んでもない云いがかりをつけるのだと、誠しやかに云い張るものだから、一層相手が気違い乞食に見えて来るのだ。

結局可哀想な美禰子さんは、何と弁解しても聞き入れられず、書生や門番の手で、荒々しく門外へ放り出されてしまった。

そうなると深窓に育ったお嬢さんには、何の思案も浮ばぬ。ただ腹が立つ。激昂の余り云い度いことも充分には云えない。どうしようどうしようと門前に立ち尽している内に、自然頭に浮んで来るのは、慈悲深き父伯爵のことだ。そうだ。お父さまなら、まさか娘を見違えはなさるまい。父さまにお会いしよう。それがいい。それがいい。と心を極めて遠くもあらぬ首相官邸へと、トボトボ歩き出した。

道行く人が振返って眺めて行く。何となく<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしい乞食だからだ。併し、美禰子さんにしては夢にも考えたことのない屈辱の道中だ。いきなり地面へ泣き伏したい程の気持を、やっと励まして歩いて行く。

二三丁歩いた時分、けたたましい警笛に飛びのいて見送ると、見覚えのある自邸の自動車。誰かしらと怪しむ内に、車は遠く<ruby><rb>隔</rb><rt>へだた</rt></ruby>って行った。美禰子さんは気附かなかったけれど、その車には伯爵令嬢になりすましたさっきの乞食が乗っていたのだ。行先は同じ首相官邸。機敏な彼女は先廻りをして、美禰子さんが父伯爵に会うことを妨げようとする積りだ。

暫くして美禰子さんの乞食女が官邸門前にたどりついた時には、旨を含められた門番の親父が手ぐすね引いて待ち構えていた。

彼は門を入ろうとする乞食娘を突飛ばして置いて呶鳴った。

「案の定うせおったな。お前のことは、もうちゃんとこちらへ分っているのだ。一足でも門内に入れるこっちゃないぞ」

突き倒された美禰子さんは、余りのことに立上る力もなく、そのまま地面に顔をつけて、くやし泣きに泣き入ってしまった。

ふと思いついた「乞食王子」のいたずらが、こうまであのお伽噺の筋そのままに進展しようとは、思いもかけぬ所であった。だが、或はこうなるのが当然の運命かも知れぬ。世の中に私とあの娘の様に、まるで瓜二つの人間が存在することを、誰が信じるものか。対決をさせて見た所で、両方が同じことを主張すれば、現に令嬢の地位にいる方が勝利を得るは知れたことだ。それ故にこそ、お話の中の王子さまは、あんなにも御苦労なされたのではないか。と考えると、愈々望みが絶えた様な気がして、美禰子さんはただ泣く外にせん<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>を知らぬのであった。

## 麻酔剤

さて、お話の速度を少し早めなければならぬ。同じことをいつまで書いていても際限がないからである。

美禰子嬢はそれからどうなったか。白蝙蝠団の陰謀は見事図に当って、彼女は<ruby><rb>仮初</rb><rt>かりそめ</rt></ruby>の扮装が<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>となり、とうとう乞食の群に身を落す運命となった、乞食となり下った伯爵令嬢の不思議にも痛ましき身の上、それを細叙したならば、恐らく一篇の異様な物語が出来上ることであろうが、今はその<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>がない。

其翌日、美禰子さんの許婚の俊一氏が大阪のホテルで奇怪な死をとげた。無論これも白蝙蝠団の魔手が伸びたので、彼等は令嬢すり替えを<ruby><rb>看破</rb><rt>かんぱ</rt></ruby>し得るものは、許婚の俊一氏の外にはない。この邪魔者を先ず除かないでは、最後の目的である大河原伯爵に対する陰謀に、安心して着手することが出来ぬと考えたのだ。

さて、引続いて起った二つの事件から十日程たって、俊一氏の葬儀も終った頃、大河原首相官邸に突発した奇怪千万な出来事。

ある夕方、非常に長引いた閣議が終って、引上げて行く閣僚達を見送った首相はいつになく疲労を覚えたので、私室に入って、グッタリと椅子に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れていた。養子俊一氏の変死が、伯爵の私生活に悲しい空虚を作った。彼は首相としての激務に僅かの隙を見出すと、知らぬ間にその空虚へ陥っているのを発見した。

その上彼には、もう一つ変な心懸りがあった。ついさっき、閣議の始まる前に、野村秘書官が囁いた彼の一身に関するある重大な事柄だ。彼はそれを聞いた時、秘書官が気でも違ったか、或は白昼の夢を見ているのではないかと疑った。何を馬鹿なことを云っているかと叱りつけようとした。だが、野村の態度なり言葉なりが、長年人を見慣れた伯爵には、どうしても出鱈目とは思えなかった。

現実の出来事には嘗つて恐れを抱かぬ大政治家も、この妙な悪夢の様な感情を、如何に処分すべきかに困惑した。馬鹿馬鹿しいと一笑に附し去るはたやすい。併し、野村秘書官がまさか気が違ったのではあるまい。俺はあの男の指図した奇妙なお芝居を演じなければならぬのだろうか。

伯爵が思案に耽っている所へ、丁度彼が今<ruby><rb>幻</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>に描いていた人物が這入って来た。令嬢の美禰子さんだ。

「お紅茶を持って参りました」

美禰子さんがしとやかに云った。

伯爵は何故かギョッとした様に、<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の娘を見つめた。

「お前美禰子だね。美禰子に違いないね」

「マア、何をおっしゃってますの、お父さま」

令嬢は鈴の様に笑って見せた。

伯爵は娘の手から紅茶の容器を取って、口へ持って行きながら、

「お前、これをお父さまに飲ませるのだね」

と底力のある声で、念を押す様に云った。

すると今度は美禰子さんが、サッと青ざめて、非常な狼狽の様を示したが、流石に一瞬間で元の冷静を取戻した。

「マア、変なことばっかり。お父さま、今日はよっぽど、お疲れの様ですこと」

伯爵はやっぱり美禰子さんを見つめたまま、唇の隅に薄気味悪い微笑を浮べながら、紅茶茶碗に口をつけた。

厚い唇の前で、紅茶茶碗が段々斜めになり行く。喉仏がゴクリゴクリと上下に動く。またたく内に、伯爵はそれをすっかり飲みほしてしまった。

美禰子さんは、キョロキョロと部屋の中を見廻しながら、何故か落ちつかぬ様子で、伯爵の前の椅子に腰かけていた。顔は真青になり、押えても押えても、小刻みに震えて来るのをどうすることも出来ない体である。

丁度そこへ、野村秘書官が這入って来た。彼は伯爵が既に紅茶を飲みほしたことを知ると、素早く令嬢と妙な目くばせをして、すぐ何気ない<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>を装いながら、伯爵の前へ進んで行った。

「唯今内務大臣から<ruby><rb>御使</rb><rt>おつかい</rt></ruby>です。至急御披見が願い度いということでした」

差出す一通の書状。伯爵はそれを開封して読み始めたが、二三行を進まぬ内に、彼の額に妙な曇りが現われ、手紙を持つ手が力なく垂れて行った。

「どうかなさいましたか、閣下、御気分が悪いのですか」

「お父さま。お父さま」

秘書官と令嬢とが同時に駈け寄って、伯爵の<ruby><rb>巨躯</rb><rt>きょく</rt></ruby>を支える様にしたが、伯爵は已に<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>と不自然な眠りに陥っていた。

秘書官はそれを見ると入口に走って、邸内の人々を呼ぶのかと思うと、そうではなく、却って内部からドアに鍵をかけてしまった。

伯爵はいつの間にか椅子を辷り落ちて、床の上に横わっていた。

「うまく行ったわねえ」

令嬢美禰子さんが、お芝居の毒婦の様な言葉を使った。

「君の腕前には感心しましたよ。四人目がかたづいたと云うものです」

野村秘書官が云った。四人目とは白蝙蝠団の人名表の第四番目を意味するのだ。

ああ、何という奇怪千万な事実であろう。賊は内閣総理大臣を<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>すのに、先ずその令嬢の入れ替えを行い、次に養子の俊一氏を亡きものにし、いつの間にか野村秘書官まですり換えてしまったのだ。本物の野村氏は、多年伯爵の<ruby><rb>恩顧</rb><rt>おんこ</rt></ruby>を受けた清廉潔白の士、犯罪団に引入れられる様な人物ではない。ここにいる秘書官は、野村氏と寸分違わぬ別人に極っている。

「サア、手を貸して下さい」

偽秘書官が偽令嬢をうながして、たわいなく眠りこけた伯爵の身体を一隅の押入れの前まで引張って行った。秘書官が鍵でその戸を開く。伯爵の身体がその中へ押し込まれる。

「あとは僕一人で大丈夫。あなたは窓の外を見張っていて下さい」

彼はそう云い捨てて、真暗な押入れの中へ、姿を消した。そこには<ruby><rb>予</rb><rt>か</rt></ruby>ねて持込んで置いた寝棺の様な箱がある。その中には白蝙蝠団から派遣された偽の大河原伯爵が忍び込んでいるのだ。偽伯爵が箱を出る。偽秘書官と二人で本物の伯爵を箱に入れる。蓋をして鍵をかける。これで難なく総理大臣のすり替えが完結するのだ。本物の伯爵をとじこめた箱はそのまま押入れに隠して置いて、機を見て持出す手筈になっている。

<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>の中でゴトゴトやっていた偽秘書官が、やがてそこを立出でると、あとに随って現われたのは、不思議不思議、今麻睡薬で眠りこけた伯爵が、ケロリと目覚めて出て来たとしか見えぬ、どこからどこまで大河原首相そのままの人物だ。

「マア、お父さま」

美禰子さんが、驚歎の叫びを発して、その人物に近づいて行った。

「ウン、美禰子か」

偽伯爵は、登場早々もうお芝居を始めた。

「で、閣下、唯今の内務大臣への御返事は如何致しましょうか」

偽秘書官がしかつめらしく云った。偽物<ruby><rb>三幅対</rb><rt>さんぷくつい</rt></ruby>だ。

「そうだな。手紙の返事はよろしいが、一つ警視総監に電話をかけてくれ給え、もう退庁していたら官邸へかけるのだ。そして、総監が心酔している民間探偵の明智小五郎を同道して、すぐここへ来る様に。ア、待ち給え。一寸重大な事件が起ったので、腕利きの部下を五六名同道する様に云ってくれ給え。相手は中々手強い奴だと云ってね」

首相自ら斯くの如き異様な命令を発するとは、嘗つて前例のないことだ。併し、どうせ相手は偽総監、偽素人探偵だ。同類からの電話なら飛んで来るに極っている。

だが、伯爵は何の為に総監や明智を呼ぶのであろう。二人丈けならまだ分っているが、屈強の警官数名を伴ってこいというのは、どうも変だ。一体全体ここで何を始める積りであろう。令嬢美禰子さんは不思議に思わないではいられなかった。そんな事は予定の筋書になかったからだ。

併し、野村秘書官は、何の不審をも抱かぬ体で、ドアをあけて、電話室へ立去ったが、間もなく引返して来て、

「総監はすぐお出でになります」と報告した。

## 露顕

三十分程たって、伯爵と秘書官とが、別の応接室で待受けている所へ、ドヤドヤと警視総監の一行が乗り込んで来た。

テーブルを囲んで椅子についたのは、伯爵、野村秘書官、赤松警視総監、明智小五郎の四人、同道した警官達は玄関の外に待っているのだ。

明智小五郎は入口に立って廊下を見廻し、誰もいないことを確めると、ドアを密閉して席に戻りながら、

「アア、令嬢の美禰子さんは？」

と伯爵と秘書官を見て云った。

「やっぱり心配になりますかね。芳江さんは非常な元気で、あちらの部屋にお<ruby><rb>在</rb><rt>い</rt></ruby>でですよ」

野村秘書官がニヤニヤして答えた。オヤオヤ令嬢美禰子さんがいつの間にか芳江さんと呼ばれている。芳江と云えば、この物語の前段に度々顔を出した青木愛之助の愛妻の名前ではなかったか。しかも彼女は「片手美人」事件で已に世になき筈の人だ。

「ところで、至急の用件というのは何だね、伯爵」

警視総監が、日頃とはまるで違った、失礼千万な言葉で伯爵に尋ねた。無論彼は伯爵が已に替え玉と代っていることを、野村秘書官から聞いていたのだ。

「ウン、実は非常な犯罪者がこの邸内にいるのだ。それを即刻捕縛して貰いたいと思ってね」

伯爵が落ちついて云った。

「犯罪者？　泥棒かね。そんなものを捕えるのに、総監自身御出馬というのは変な話だね。オイ、オイ伯爵、もうちっと自重してくれないと、<ruby><rb>化</rb><rt>ばけ</rt></ruby>の皮がはげるぜ」

「泥棒なんかで君を呼びはしない。国事犯だ。イヤ、国事犯と云った丈けでは足らぬ。共産党よりも、革命よりも、もっと恐ろしい犯罪だ」

「オイ、伯爵、おどかしっこなしだぜ。いたずらもいい加減にし給え。態々呼びつけて置いて」

警視総監は笑い出した。

「イヤ、冗談を云っているのではない。兎も角、君の引連れて来た部下をこの部屋へ呼び集めてくれ給え」

「本当かね。オイ」

赤松総監は救いを求める様に野村秘書官を見た。

「本当だよ。僕達で少し相談した事があるんだ。やっぱり団の仕事の内なのだ。マア、警官達を呼ぶがいい」

「それじゃ、書生に命じてくれ給え」

やっと総監が納得したので、野村秘書官はすぐ様呼鈴の<ruby><rb>釦</rb><rt>ボタン</rt></ruby>を押した。

間もなく、五名の<ruby><rb>腕節</rb><rt>うでぷし</rt></ruby>の強そうな巡査が這入って来た。

「大河原さん。で、その犯罪と申しますのは？」

赤松氏が警官の手前、言葉を改めて尋ねた。

「犯罪というのは今も申す通り、非常に重大な国事犯です。政府を顛覆し、全国に一大<ruby><rb>擾乱</rb><rt>じょうらん</rt></ruby>を捲き起そうという、驚くべき陰謀です」

それを聞くと総監は変な顔をした。伯爵は白蝙蝠団のことを云っているとしか考えられなかった。

「で犯人がこの官邸に潜伏しているとおっしゃるのですね。それは一体どこです」

「ここです。この部屋です」

総監と明智とは、キョロキョロと室内を見廻した。だが、別に人の隠れる場所もない。

「赤松さん。警官達に<ruby><rb>捕縄</rb><rt>ほじょう</rt></ruby>の用意をさせて下さい、そして犯人を捕縛することを命じて下さい」

伯爵が威丈高に云った。

「誰をですか」

「<ruby><rb>斧村錠一</rb><rt>おのむらじょういち</rt></ruby>と青木愛之助の両名をです」

横合から野村秘書官が呶鳴った。

それを聞くと、赤松総監と明智小五郎とがスックと座を立って、真青な顔で一座を見廻しながら思わず身構えをして叫んだ。

「それは一体誰のことです。そんな奴がここにいるのですか」

野村秘書官も二人に対抗する様に立上った。そして、片隅に並んでいた警官達を手招きしながら呶鳴った。

「諸君、警視総監と明智小五郎を逮捕するのだ。こいつらは総監でも明智探偵でも何でもない。斧村、青木という白蝙蝠の団員だ。サア何を躊躇しているのだ。早く取り押えるのだ」

だが、警官達は、流石にためらった。これが果して偽物であろうか。数ヶ月来彼等の大長官として<ruby><rb>事</rb><rt>つか</rt></ruby>えて来たこの人物が、白蝙蝠団員などと、どうして信じることが出来よう。

「アハハハハ、君は気でも違ったのか。大河原さん。この熱病やみを<ruby><rb>放逐</rb><rt>ほうちく</rt></ruby>して下さい。こんなことを喋らせて、あなたは平気なのですか」総監がわめく。

「私も野村君と同意見です。警官諸君、大河原の命令じゃ。この二人のものを捕縛しなさい」

「待て、待って下さい。この私が赤松でないとおっしゃるのか。これは面白い。どうして私が赤松でないか、その理由を明かにして下さい」

「君は斧村錠一だからだ」

野村秘書官が答える。

「斧村錠一？　聞いたこともない名前だ。だが、若しそんな男がいた所で、その斧村がどうして、赤松と同じ顔をして、しかも警視庁の総監室に納まっていることが出来るのだ。いつの間に斧村が赤松に変ったのだ。<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>や<ruby><rb>狸</rb><rt>たぬき</rt></ruby>じゃあるまいし、そんな寸分違わぬ人間が、この世に二人いてたまるものか。気違い沙汰も大抵にするがいい」

赤松氏は、さっきぞんざいな口を利いたことは棚に上げて、プンプン怒って見せた。これが最後の手段なのだ。仮令正体がばれた所で、この一点丈けは誰にも説明がつかぬ。従ってあくまで云い張れば、相手はどうすることも出来まいと、高を括っているのだ。

「オイ斧村、君は僕を誰だと思っているのだね」

「僕は斧村じゃない。だが、君は野村君に極っているじゃないか」

「本当の野村秘書官に、君達の陰謀が看破出来ると思うかね」

赤松氏はグッと行詰った。一体全体、これは何事が起ったのだ。野村秘書官は無論偽物と変っている筈だ。しかもその偽物を勤めている男は最も信頼すべき団員の一人、<ruby><rb>竹田</rb><rt>たけだ</rt></ruby>という共産主義者の筈だ。そいつがどうして、こんな馬鹿馬鹿しい裏切りを始めたのであろう。大河原首相とても同じこと、偽令嬢と偽秘書官が麻酔剤を飲ませて、ちゃんと偽物とのすり替えが出来ている手順ではないか。それが思いもかけずこの始末は、どうしたと云うのであろう。

では野村秘書官は偽物ではないのかと思うと、今の言葉ではそうでもないらしい。本物でもなく、代役の竹田でもないとすると、この男は全体誰なのだ。

「君は誰だ。君は誰だ」

赤松氏はしどろもどろになって叫んだ。

## 悪魔の製造工場

「僕は明智小五郎だよ」

野村秘書官は、そう云いながら巧妙な<ruby><rb>鬘</rb><rt>かつら</rt></ruby>や<ruby><rb>附眉毛</rb><rt>つけまゆげ</rt></ruby>や含み綿を取除いてつるりと顔を撫で下した。

「どうだね。君達の工場の人間改造術と僕の変装術と、どちらが便利だね。ハハハハハ」

驚くべし。そう云って笑ったのは、まぎれもない名探偵明智小五郎だ。額の皺から、唇の曲線から、目の大きさから、声の調子に至るまで、一瞬間までそこにいた野村秘書官の面影は、どこを探しても発見することは出来なかった。

「僕は君達の巣窟にとらわれていた。だから君達白蝙蝠の陰謀は何から何まで知っているのだ。青木芳江が大河原令嬢になりすまして、伯爵に麻酔剤を飲ませることも分っていたので、あの女の持っている麻酔剤を、無害の粉薬とすり替えて置いて、伯爵に御願いして、態と寝入った振りをして頂いたのだ。そして、伯爵の身体を押入れの箱の中の偽物と入れ替えると見せかけて、暗闇を<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>、入れ替えをしなかったのだ。だからあの箱の中には今でも君達の仲間がとじこめられている訳だよ」

一座の人々は、名探偵のこの劇的出現に、アッと驚きの声を上げた。

赤松氏は、思わず横にいた偽の明智小五郎を見た。寸分違った所はない。明智小五郎と明智小五郎が相対して睨み合っているのだ。だが、誰よりもびっくりしたのは、偽の明智になりすました青木愛之助であった。彼が若し、真からの悪党であったなら、本物の明智に対して、貴様こそ偽物だと云い張ったであろうが、そうすれば、この全く瓜二つの両人の真偽判別は一寸不可能であったかも知れないのだが、読者も御承知の通り、青木という男はただ極端な猟奇者という丈けで、根はごく小心者だったから、そこまで我慢がし切れず、第一番にその部屋を逃げ出そうとしたのである。

青木が逃げ腰になると、悪党の斧村錠一も一人<ruby><rb>踏止</rb><rt>ふみとど</rt></ruby>まる勇気はなく、彼のあとについて、入口へと駈け出した。

「何をボンヤリしているのだ。諸君、そいつを捕えるのだ」

明智が叫んだけれど、余りの驚きに、夢に夢見る心持で、警官達は賊を追おうともしない。止めだてするものがないのを幸、二人の賊は、忽ち入口に達して、サッとドアを開き、いきなり廊下へ飛び出そうとした。だが、飛び出そうとした両人は何を見たのかギョッとそこへ棒立ちになってしまった。

「総監閣下どうも止むをえません。無礼の段はお許し下さい」

廊下から太い声が皮肉な調子で聞えた。見ると、ドアのすぐ外に立ちはだかった御馴染の波越鬼警部。その手にはピストルの筒口が気味悪く光っている。抜目のない明智小五郎は、万一の用意にソッとこの親友を呼び寄せて置いたのだ。

かくして白蝙蝠の一味、斧村、青木、竹田（例の箱の中に潜んでいた大河原伯の偽物）の三人は、何の造作もなく逮捕せられ、五名の警官がその縄尻を取って別間に引下がった。

<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>不屈当代比類なき大政治家ではあったが、流石の大河原伯爵も、こんな<ruby><rb>変挺</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>れんな、どんな悪夢の中にも滅多に出て来ない様な、奇怪事に出くわしたのは生れて初めてだった。彼は悪人<ruby><rb>原</rb><rt>ばら</rt></ruby>が捕縛されるのを目にしながらも、何だかまだ現実の出来事と信じ切れない、不思議な夢心地で、当然心配しなければならぬ令嬢美禰子さんのことさえ思い浮ばぬ程であった。

「あり得べからざることです。この恐ろしさは個人的な恐怖ではありません。人類の恐怖です。世界の恐怖です」

明智が語り続けるのを、伯爵がさえぎって云った。

「信じ得ない。それは神の許さぬことだ。奴等も君と同じ様な一種の変装術を用いているのではないか」

「決して。彼等は真から容貌が変っているのです。例えば青木夫妻の如き人間が、どうして私の変装術を真似ることが出来ましょう。私は少くも十年間の絶え間なき研究と練習を積んで、やっと随意に顔の皺まで変える術を会得したのです。素人の彼等に出来ることではないのです。彼等のは私の様に変通自在ではありません。決定的のものです。一度容貌を変えたなら、そのまま永久に続くのです」

「夢だ。私も君も夢を見ているのだ」

「イヤ、夢ではありません。私は彼等の製造過程をある程度まで説明することが出来ます。それよりも一度彼等の工場を御目にかけ度いと存じます。この様な<ruby><rb>比喩</rb><rt>ひゆ</rt></ruby>を申上げるのは失礼かも知れませんが、閣下は多分<ruby><rb>寛政</rb><rt>かんせい</rt></ruby>以前に飛行機を製作した岡山の表具師幸吉のことを御聞及びでございましょう。彼は鳥の真似をして、張り子の翼で屋根の上から飛降りたのです。無論人々はこの頓狂な行いを見て、大笑いをしました。町奉行は彼を追放の刑に処しました。飛行機ばかりではありません。ラジオでもテレビジョンでも、昔のユートピア作者達がそれを描いた時にはいつもいつも大笑いでした。一顧の価値なき痴人の夢とけなしつけられたのです」明智がここまで喋った時、邸内のどこかで<ruby><rb>帛</rb><rt>きぬ</rt></ruby>を裂く様な女の悲鳴が聞えた。伯爵も明智も座に居合わせた波越警部も、ハッと聞き耳を立てた。

「行って見よう。波越君」明智は警部と一緒に部屋を飛出した。見ると廊下を走って来る書生の姿。

「大変です。お嬢さまのお部屋で」皆まで聞かず、書生の案内で令嬢の部屋へ駈けつけた。甲高い罵り声、ドタンバタンと何かがぶつかる物音。ただ事でない。

明智がいきなりドアを開いた。見ると部屋の真中に、小犬の様にもつれ合う二つの肉団。一人は伯爵令嬢の美禰子さん。一人は見も知らぬ女乞食だ。しかも不思議なことに、悲鳴を上げているのは、令嬢ではなくて、不気味な女乞食の方である。

それを見た波越鬼警部は、いきなり飛込んで行って、乞食娘の横面をガンとくらわせた。か弱い乞食娘は一たまりもなく、ぶっ倒れる。

「引括ってしまえ」警部が部下の巡査に命令した。

「待ち給え、波越君。乱暴なことをしちゃいけない。君が今なぐったのは誰だと思う。伯爵の令嬢だぜ」

明智が注意しても、警部にはまだ事の仔細が分らぬ。

「馬鹿を云い給え。お嬢さんをなぐるものか。この乞食娘だ。こいつがお嬢さんに失礼を働いていたからだ」

「君がお嬢さんというのは、あいつのことかね」

明智が指さす所に、真青になって突立っているのは、どう見ても伯爵令嬢だ。

「あいつって、あれがお嬢さんでないと云うのか」

「君は、白蝙蝠団の魔術を忘れたのかね。あれは君、青木愛之助の細君の芳江という女だよ。……ホラ、逃げ出した。何よりの証拠だ」

窓から飛出そうとする、美禰子さんに化けた芳江を、一人の巡査がとり押えた。

なるほど顔を見れば美禰子に違いないのだけれど、その汚い乞食娘が令嬢だと聞いた時には、父親の大河原伯爵さえ、容易に信じ得なかった程である。

「悪魔の製造工場が、この世に送り出した、贋物の人物が六人あります。その内三人は御覧の通り始末をつけました。あとの三人というのは、青木愛之助の友人の、科学雑誌社長品川四郎と、岩淵紡績社長宮崎常右衛門と、伯爵の秘書官野村<ruby><rb>弘一</rb><rt>こういち</rt></ruby>ですが、偽野村秘書官は、波越君の手で、警視庁の地下室に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込んでしまいました。偽宮崎常右衛門は、警視庁の別の一隊が逮捕に向いましたから、今頃はもう引括られている時分です。残る偽品川四郎は、白蝙蝠団の首領ともいうべき人物ですが、こいつを逮捕することと、それから、気掛りなのは、賊の巣窟にとじこめられている、本物の警視総監と宮崎氏と、野村秘書官です。我々は一刻も早く、この三人を救い出さなければなりません」

明智が説明した。

「無論、即刻その手配をしなければならぬ。と同時に、この驚嘆すべき陰謀が、新聞記者に洩れ、世間に拡がるのを、極力防止することが、絶対に必要だ。ところで、賊の巣窟にさし向ける人数は？」

大河原伯爵は極度に緊張した面持で尋ねた。

「賊は六人です。その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>半数は全く犯罪の意志がないのですから、正確に云えば、三人です。殆ど抵抗力はありません。賊と同数か、或いは二三人余分の人数があれば結構です」

そこで協議の結果、刑事部捜査課長と、波越警部と、腕利きの刑事六名、明智小五郎の九名が、賊の逮捕に向うこととなった。

三台の自動車が、警視庁を出発し、明智の指図に従って、郊外池袋に<ruby><rb>疾駆</rb><rt>しっく</rt></ruby>した。

車が止ったのは、読者諸君は記憶されるであろう、嘗て青木愛之助が幽霊男を尾行して、むごたらしい殺人の光景を隙見した、あの奇妙な一軒家である。

相変らず、人気のない空家みたいな古洋館だ。入口の戸を押せば、難なく開く。これがあの怪賊の隠家かしら。それにしてはあんまり明けっぱなしな、不用心な隠家ではないか。

一同はドカドカと、薄暗い、ほこりだらけの屋内へ這入って行った。

幾つかの部屋を通り過ぎて、裏口に近い一室に出ると、そこに地下室への階段が開いている。

明智が先頭に立って、昼間でも真暗だものだから、用意の懐中電燈を振りながら、降りて行く。降り切った所は、物置の様な煉瓦造りの小部屋になっている。西洋のセラーという奴だ。空樽、炭俵、椅子のこわれたの、色々のがらくた道具が、滅茶苦茶に抛り込んである。この洋館にこの地下室、別段不思議もない。

「サア、愈々賊の隠家の入口へ来ました。武器の用意をして下さい」

明智が囁く様な声で云った。武器というのは、兇賊逮捕の為、特に用意されたピストルのことを意味するのだ。

「だが君、地下室はこれ丈けの部屋で、別に抜け道もない様だが、ここが隠家の入口とは、どういう意味だね」

捜査課長が、不審そうに尋ねた。

「それがこの隠家の安全な訳です。地下室の奥に又別の部屋があろうとは、誰も想像しませんからね。併し、この壁は行止りではないのです」

明智は小声で説明しながら、正面の壁の煉瓦の一つを取はずして、その穴へ手を入れて何かしたかと思うと、驚くべし、壁の一部分が、<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の様に、ソロソロと開いて行って、ポッカリと大きな穴が出来た。

穴の奥から、幽かに光が漏れて来る。

明智を先頭に、一同ピストルを手にして、闇の細道を、奥へ奥へとたどると、突き当りに、又<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>がある。明智は一同を闇の中へ待たせて置いて、単身、その<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開けて入って行った。

広い部屋に、人形が一杯並んでいる。嘗つて青木愛之助が、目隠しをされて、連れて来られたのも、この同じ部屋であった。

「青木君じゃないか。どうしたんだ、何か急用が起ったのか」

部屋の向うから、一人の男が飛出して来て声をかけた。品川四郎だ。云うまでもなく、贋物の例の幽霊男の方である。

明智は相手が何を云っているのか、すぐには理解出来なかったが、ふと気がつくと、非常に滑稽な間違いが起っていることが分った。

幽霊男は、彼を「青木君」と呼んだ。青木愛之助の意味だ。いくら蝋燭の光りでも、人の顔を見違える程暗くはない。決して見違いではないのだ。青木と呼ぶのが当然なのだ。

なぜと云って、青木愛之助は、今では元の姿を失って、明智小五郎に改造されている。明智を青木と感違いするのは無理もないことだ。それに、幽霊男は、贋明智の青木が逮捕されたとは知る由もなく、一方本物の明智がこの空家を逃げ出したのも、まだ気附いていないのだから、今外から這入って来たのが、贋の明智即ち青木愛之助だと思い込んでいるのは、当然のことなのだ。

それと悟ると、明智はおかしさを堪え、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の機転、賊の<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>用いたトリックを逆用して、さも青木らしく装いながら、

「大変です。警察がこの隠家を悟ったらしいのです。イヤ、悟ったばかりではない。もうとっくに、敵の廻しものが、姿を変えてここへ這入り込んでいるのです」

と<ruby><rb>惶</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく囁いた。

「え、警察の廻しものが？」贋品川はサッと顔色を変えた。「そいつはどこにいるのだ」

「ここにいるのです」

「ここというと？」

「この部屋にです」

「オイ、冗談を云っている場合ではないぜ。この部屋には、君と僕の外に誰もいないじゃないか。それとも、あの人形共の中に、そいつがいるとでも」

幽霊男は、不気味そうに、群がるはだか人形を見廻した。

蝋細工の人形共は、黒い目をパッチリ開いて、まるで生きている様に、ジロジロとこちらを眺めている。その中に本当の人間が混っていても、ちっとも見分けがつかぬ程だ。

「人形に化けているのじゃありません。もっとうまい変装ですよ」

明智はニヤニヤ笑いながら云った。

「もっとうまい変装？　君は一体何を云っているのだ」

首領は、云い知れぬ恐怖を感じ始めた。何かえたいの知れぬ、不気味千万なことが起りかけているのを予感して、おびえた目で相手を凝視した。

「ハハハ……、分りませんかね」

明智の方でも段々正体を現わして行く。

「つまり、君は、その廻し者が、この部屋にいるというのだね。ところで、この部屋にいる人間は、たった二人、僕と君だ。すると……」

贋品川はどもった。

「やっと分りかけて来ましたね」

「あり得ないことだ。君は気でも違ったのか」首領は真青になって呶鳴った。「あいつは奥の部屋に監禁してある。たった今、部屋の中をゴトゴト歩き廻っているのを、ちゃんと確めて来たばかりだ。あいつが外から帰って来る筈がないのだ。君は青木だ。もう一人の奴ではない」

「ところが、青木でない証拠には、ホラ、僕は君を逮捕しようとしているのですよ。ホラね」

明智は、そう云いながら、相手の背中をコツコツ叩いた。贋品川は、それが指ではない、もっと固いもの、例えばピストルの筒口の如きものであることを感じて、はッとした。

「サア、諸君。這入ってもよろしい」

明智が大声に呼ぶと、待構えていた警官達が、ドヤドヤと入って来た。白蝙蝠団の首領はか様にして苦もなく縄をかけられてしまった。

残る二人の団員も、騒ぎを聞きつけて、コソコソ逃げ出す所を、有無を云わせず取押えてしまった。その内の一人は、嘗つて、<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>浅草公園に現われた、お面の様な美しい顔の青年であった。

一同は三人の<ruby><rb>虜</rb><rt>とりこ</rt></ruby>を引つれて、なおも奥へと進んで行った。途中に、厳重な戸締りをした小部屋があって、耳をすますと中から、コトコトと人の歩いている様な音が聞えて来た。

贋品川は、それを聞きつけて、妙な顔をした。彼はその部屋の中に、本物の明智がいると信じ切っていたのだ。

「あの音かね」明智はクスクス笑いながら説明した。「あれは君、君達が実験用に飼っている兎だよ。兎が僕の靴をはいて飛び廻っているのだよ」

賊の巣窟には、不可思議な外科病院があって、そこの実験用に<ruby><rb>家兎</rb><rt>かと</rt></ruby>を飼養してあった。その一匹が靴をしばりつけられて、明智の代理を勤めていたのだ。

賊はあいた口が塞がらぬ。

「サア、今度は君達の番だ。自分の作った牢屋の中で、暫く静かにしているのだ」

明智は刑事達を指図して、三人の賊をその小部屋にとじこめ、外から鍵をかけ、入口には念の為一人の刑事を見張番に残して置いた。

## 人間改造術

トンネルみたいな廊下を<ruby><rb>一曲</rb><rt>ひとまが</rt></ruby>りすると、鉄格子で区切られた十坪程の広い部屋があった。

部屋の中には、病院の様にズラリと寝台が並び、三人の顔を<ruby><rb>繃帯</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>で包まれた人物が、寝台に横わっている。その枕元には、電気治療機の様なもの、メスの棚、薬瓶の棚、その他訳の分らぬ、ピカピカ光った、様々の不気味な器具が所狭く並べてある。

その中を、<ruby><rb>急</rb><rt>せわ</rt></ruby>しそうに歩き廻っている三人の男。その一人は、モジャモジャの白髪、顔を埋めた白髯、ロイド眼鏡の奥からギロギロ光る目、何となく不安な、気違いめいた様子の老人で、外科医の様な白い手術着を着ている。牢獄病院の院長といった恰好だ。外の二人は同じく手術着を着ているが、まだほんの青年で、助手の格である。

明智は、贋品川から取上げた鍵で、鉄格子を開いて、一同を奇妙な病院の中へ案内した。二人の助手は、警官の姿に驚いて部屋の隅へ逃げ込み、小さくなっていたが、院長の白髪老人は、ビクともせず、一同の前へ立ちふさがって、恐ろしい声で呶鳴りつけた。

「オイオイ、お前方は何者だ。無闇に這入って来てはいかん。大切な仕事の邪魔になるのを知らんか」

「イヤ、<ruby><rb>大川</rb><rt>おおかわ</rt></ruby>博士、邪魔をしに来たのではありません。私達は先生の驚くべき御事業を、参観に参った者です。御高説を拝聴に参ったものです」

明智が<ruby><rb>鞠躬如</rb><rt>きっきゅうじょ</rt></ruby>として云った。

「ウン、左様か。それならば別段叱りはせぬが、お前達はわしの学説を聞きに来たというが、多少でも医学を心得ておるのか」

「イヤ、医学者ではありません。この方々は警視庁のお役人です。つまり役目柄、先生の御発明がどんなものであるかを、一応伺って置きたいと申しますので」

「アア、役人か。役人がわしの仕事を見に来るのは当り前だ。なぜやって来ぬかと、不思議に思っていた位だ。よろしい。素人にも一通り分る様に説明して上げよう」

実に変てこな問答である。一同何の事か少しも分らないで、目をパチパチやっていたが、明智が小声で説明するのを聞いてやっと仔細が分った。

大川博士と云えば、十年程以前までは、大学教授として、世にも聞えた人であったが、教職を辞して、一種奇妙な研究に没頭しているという噂が伝わったまま、世間から忘れられてしまった。どこで何をしているのか、誰も知るものはなかった。

彼の研究は、人間の容貌を随意に変える方法つまり「人間改造術」とも称すべきもので、医学と美容術を混ぜ合わせた一種異様の題目であったが、この気違いめいた仕事を、気味悪がって、顧みる者もなかった時、ふと博士と知合い、その手腕を信じ、博士を助けて「人間改造術」を完成せしめ、大芝居をうって見ようと、途方もない考えを起した男があった。

彼は窮乏のどん底にあった博士に、生活費と研究費を供給した。十年に近い年月、うまずたゆまずそれを続けた。

一年程以前、大川博士のこの奇怪なる研究は、幸か不幸か見事に完成した。ある人間を全く違った人間に作り変えること、又、ある人間と寸分違わぬ人間を作り出すこと、凡て自由自在である。

だが、研究の完成と同時に、精根を使い果したのか、或は悪魔の仕事が神の怒りにふれたのか、大川博士は気が違ってしまった。彼は狂人なのだ。併し、気違いながらも、不思議なことに、人間改造の<ruby><rb>施術</rb><rt>しじゅつ</rt></ruby>は忘れぬ。完成した大発明を、黙々として実行する、一種の機械となり終った。

博士に資金を供給した男にとって、この博士の発狂は、却って仕合せであった。彼は早速一軒の古洋館を買い入れ、その地下室を拡張して、悪魔の製造工場を作った。奇怪なる牢獄病院を設けた。

大川博士は地下室の牢獄にとじこめられた。だが、その牢獄には人間改造施術のあらゆる器具薬品が用意され、実験台となる生きた人間まで供給された。狂博士は、<ruby><rb>嬉々</rb><rt>きき</rt></ruby>として施術に従った。彼は彼の施術が如何なる用途に供されるかは少しも知らずただ技術の為の技術に没頭して、牢獄病院の院長の地位に甘んじていた。

博士に資金を供給し、博士の発明を利用した男とは、云うまでもなく贋品川四郎、即ち白蝙蝠団の首領であった。彼は我と我身を、最初の実験台として、科学雑誌社長品川四郎に変身する施術を受け、それが出来上ると、この物語の前段に詳記した通り、或時は映画に、新聞の写真版に顔をさらし、或はスリを働き、或は他人の妻を盗むなど、種々様々の奇怪な実験を行い、大川博士の施術が完全に世人を<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>き得るや否やをためした上、愈々大丈夫と見極めがつくと、ここにその目的の記載を憚るが如き、彼の最後の大陰謀にとりかかったのである。

悪事の加担者を得ることは、何の造作もなかった。少しの危険もなく、一夜にして天下の大富豪となり、一国の宰相となることを否む者はなかった。

その時明智がこんな詳しい話をした訳ではない。ただ大川が狂せる大発明家であることを簡単に説明したに過ぎぬ。彼はそれに続けてこんなことを云った。

「大川博士の完成したものは、悪魔の技術です。一刻もこの世の日の目を見せてはならない、地獄の秘密です。この施術室は直ちに破壊されるでしょう。博士は本当の牢獄につながれるでしょう。明日からは見ようとしても、見ることの出来ない不思議です。我々はこの機会に魔術の正体を覗き、魔術師の学説を聞いて置き度いと思うのです」

誰も不賛成を唱えるものはなかった。一同白髪の狂博士が導くままに、並ぶ寝台の枕元へと、近づいて行った。

博士は色々の施術具や薬品を示しながら、雄弁に彼の不思議な「人間改造術」を説明した。何を云うにも、施術の腕の外は、気違い同然の老人故、どこか地獄の字引でも探さなくては分らぬ様な変な片言が交ったりして、要領を得ぬ部分は多かったが、その大要は左の如きものであった。

「警察のお役人なれば変装術と云うものを御案内じゃろう。鬘を冠ったり、つけ髭をしたり、眼鏡をかけたりする、あり来りの方法だ。それが若し、鬘も、つけ髭も、眼鏡も使わず、生地のままの人間の顔を、真から変えることが出来たら、どうじゃ、子供だましの変装術なんて、全く不用になってしまう。わしの方法は、その生れつきの人間の顔をまるで違ったものに改造する。本当の意味の変装術だ。

男でも女でもよい。非常に醜い生れつきのものは、一生涯恥かしい思いをせにゃならぬ。恋には破れ、人にはさげすまれ、遂には世を呪うことになる。それを救う方法としては、これまでは、ただ様々の化粧法があったばかりだ。化粧とはつまり塗り隠すことで、到底生地から美しくなるものではない。眼は大きくならず、鼻は高くならず、口は小さくならぬのだ。ところが、わしの改造術は、この不可能事を為しとげた。つまりわしの方法こそ本当の意味の化粧術だ」

大川狂博士の演説はこんな風に始まった。

人間の容貌の基調を為すものは、骨格と肉附である。容貌を変改する為には、先ず骨格からして改めて行かなくては嘘だ。骨を継ぎ、骨を削る、今日の外科医学で、それは不可能なことではない。分り易い例で云えば、歯根膜炎の手術、<ruby><rb>蓄膿症</rb><rt>ちくのうしょう</rt></ruby>の手術の如き、日常茶飯事の様に骨を削ることを実行しているではないか。ただ容貌を変える丈けの為に、骨を削り骨を継ぐ様な大胆な外科医がないまでのことだ。それを大川博士はやってのけたのだ。

肉附を変えることは一層容易である。栄養供給の<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>によって、適当に<ruby><rb>肥痩</rb><rt>ひそう</rt></ruby>せしめるのも一法だが、もっと手っとり早い方法がある。それは現に隆鼻術に行われている、パラフィン注射だ。頬をフックラさせる為には、含み綿の代りに、その部分へパラフィンを注射すればよい。額でも顎でも凡て同じことだ。

だが従来の隆鼻術でも分る様に、パラフィン注射は変形し易い。長い間には、パラフィンが皮膚の内部で、だんごみたいに固まって、変な形になる。又温度を加えると、グニャグニャして、指で押えると、へこんだりする。そんな方法ではいけない。

大川博士のやり方は、縦横に織りなされる皮膚組織内に、ごく細いパラフィン線を、別々に幾度にも注入して、パラフィンの肉質化を計り、永久に同じ形状を保たしめる。決してだんごになったり、溶けて流れたりしないのである。

肥満せる肉は、口腔内からの脂肪<ruby><rb>剔出</rb><rt>てきしゅつ</rt></ruby>手術によって、巧みに変形せしめることが出来る。かくして、骨格と肉附とを随意に変形すれば、それ<ruby><rb>丈</rb><rt>だけ</rt></ruby>で、もうその人の容貌は<ruby><rb>著</rb><rt>いちじる</rt></ruby>しく変ってしまうのだが、それでは無論不充分だ。次に頭髪の変形変色が必要である。生え際を変える為には殖毛術、脱毛術が応用されねばならぬ。髪の癖を直す為には特殊の電気装置があり、染毛剤の利用、毛髪の色素を抜出して、適宜の白毛を作る施術が行われる。

眉と髭についても同様に、脱毛、殖毛、変色の方法がある。

<ruby><rb>眼瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>の変形、二重眼瞼の創作等は、現に眼科医によって行われている所だが、大川博士は、その手術を更らに拡張して、<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の殖毛術、目の切れ目の拡大縮小、つぶらな目、細い目、自由自在に変形することが出来る。

鼻は、前述の改良隆鼻術と、軟骨切除によって随意に変形し、口も目と同様広狭自在である。これらの手術には、大川博士は電気メス、ボビー・ユニットを用いている。

口腔内部、殊に歯の変形は、容貌変改上極めて重大である。歯を抜き或は植え、歯並を変形する手術は、現に歯科医によってある程度まで行われているが、大川博士はそれを更らに広く深く究めたのである。

皮膚の色沢については、ある限度までは、電気的又は薬品施術によって、改めることが出来るが、それ以上は、やはり外用の化粧料を<ruby><rb>俟</rb><rt>ま</rt></ruby>たねばならぬ。

之を要するに大川博士の「人間改造術」は、その個々の原理には別段の<ruby><rb>創見</rb><rt>そうけん</rt></ruby>がある訳ではない。ただ従来<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>も手を染めなかった、綜合医術を創始したまでである。整形外科と、眼科と、歯科と、耳鼻科と、美顔術、化粧術の最新技術に更らに一段の<ruby><rb>工風</rb><rt>くふう</rt></ruby>を加え、それを組合わせて、容貌変改の綜合的技術を完成したまでである。だが、既成医術を、かくまで網羅的にただ容貌変改の為に綜合利用せんとしたものは、<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だ嘗つて前例がない。しかも、個々に離れていては、左程に目立たぬ各種医術が、一つの目的に集中せられた時、かくまで見事な成果を<ruby><rb>齎</rb><rt>もた</rt></ruby>らそうと、何人がよく想像したであろう。

実在の人間をモデルにして、それと全く同じ容貌を創造する為には、最もモデルに近き身長、骨骼、容貌の人物が、素材として探し出される。大川博士は丁度指紋研究家が指紋の型を分類した様に、人間の頭部<ruby><rb>及</rb><rt>および</rt></ruby>顔面の形態を、百数十の標準<ruby><rb>型</rb><rt>けい</rt></ruby>に分類した。模造人間を作る為には、モデルと素材とが、この同一標準型に属することが必要である。例えば明智小五郎の贋物を作る為には明智と最もよく似た容貌風采の人物（青木愛之助がそれであった）を探し出し、博士自ら、モデルの身辺に近づいて、丁度画家がモデルを眺める様にそれを眺め、病院に帰って、幾種かのモデルの写真を前に置いて、手術にとりかかるのである。謂わば一種の人間写真術だ。

くだいて云えば、大体右の如き事柄を、大川博士は一種異様の、奇怪な、気違いめいた表現で物語った。人々がそれを聞いて、何とも云えぬ、悪夢にうなされている様な、変てこな気持ちになったことは云うまでもない。

## 大団円

「ではここにいる三人も、先生の手術を施された訳ですね」

明智が尋ねた。

三人というのは、本物の赤松総監と、宮崎常右衛門氏と、野村秘書官だ。贋物をこの世に送り出した上は、本物の方は、全く違った人間に改造してしまわねば危険だ。賊がそこへ気づかぬ筈はない。

「ウン、まだ着手したばかりだ。皮膚の色艶を変える為に、薬を塗った所が、あばれて仕方がないので、睡眠剤を注射した所だ」博士が答える。

「顔の繃帯を取って見てもよろしいでしょうか」

「イヤ、そいつはいけない。今繃帯をとっては、元の木阿弥だ。薬剤の効力がなくなってしまう。とってはいけない」

薬剤の効力が失せるのは、こっちの望むところだ。博士が何と云おうとも、繃帯をとらなければならぬ。

明智は刑事達に目くばせして、博士が邪魔をせぬ様、つかまえさせて置いて、構わず繃帯をめくり始めた。

「コラッ、いかんと云うのに、コラッ、やめぬか」

白髪の老博士は、刑事に掴まれた両手を振りほどこうと、じだんだを踏みながら、恐ろしい見幕で呶鳴った。

「静にしろ。そうでないと、痛い目を見せるぞ」

刑事が呶鳴り返した。

「うぬ、もう我慢が出来ぬ」

博士はけものの様に唸りながら、刑事に<ruby><rb>武者振</rb><rt>むしゃぶ</rt></ruby>りついて行った。

恐ろしい格闘が始まった。狂人は<ruby><rb>却々</rb><rt>なかなか</rt></ruby>手強く、刑事が二人がかりでも、取静めることが出来ぬ。

だが、滅多無性にあばれ廻っている内に、博士の足が辷った。倒れる拍子に、寝台の鉄の手すりで、いやという程後頭部を打った。

博士はウームとうめいて、ぶっ倒れたまま、暫らく起上る力もなかったが、刑事達がはせ寄って抱き起すと、やっと顔を上げて、いきなりヘラヘラ笑い出した。半狂人が全くの気違いになってしまったのだ。

一方、三人の繃帯はとり去られ、睡眠剤の効力も薄らいだのだが、今の格闘騒ぎに意識を<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>した。彼等の顔にはまだ何の変化も現われていない。元のままの総監と、富豪と、秘書官であった。

丁度その時、

「賊が逃げた、早く来てくれ」

というけたたましい叫び声。

賊をとじこめて置いた、さっきの小部屋の方角だ。見張りの刑事が叫んでいるのだ。

一同ハッとして、その方へ駈け出そうとした時、意外にも、三人の賊がこちらへ走って来る。外へ逃げた所で、助からぬと観念したのであろうか。

ソレッとばかり、刑事の一団が、賊に向って殺到した。

あとで分ったのだが、あの小部屋の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>は、中からも鍵がかかる様になっていて、しかもその合鍵をもう一本、賊が持っていたのだ。彼等はお互に縄を<ruby><rb>解</rb><rt>ほど</rt></ruby>き合って、その鍵で<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>をあけて、見張りの刑事を突飛ばして逃げ出したのだ。

それにしても、なぜ彼等は外へ逃げないで、奥の方へ走って来たのか。

アア、分った。彼らには最後の切札が残されてあったのだ。

見よ。贋品川は、死にもの狂いの形相すさまじく、穴蔵の片隅に立はだかって、黒い円筒形のものを振りかざしているではないか。

尾尻の様な口火がチョロチョロ燃えている。

「サア、この穴蔵を逃げ出せ。そうでないと、皆殺しだぞ」

賊が引つった唇で、わめいた。

あっと驚く人々、中には已に入口へと駈け出すものもあった。

「イヤ、逃げ出すことはありません。オイ、君、僕がそのおもちゃに気づかなかったと思っているのかい。ピチピチ燃えているね。だが燃えるのは口火の先っぽばかりだぜ。火薬の方は、水びたしで、まる切り駄目になっているのを知らないのかね」

明智があざ笑った。彼は先にこの穴蔵を逃げ出す以前、この危険物に気づいて、ちゃんと処理して置いたのだ。

「ホラ見給え。口火の火の色が段々あやしくなって来たぜ。オヤ、いやに煙が出るじゃないか。ジューッと云ったぜ。見給えもう火は消えてしまった」

賊は紫色にふくれ上って、じだんだを踏んだ。

「この悪魔の巣窟を爆発させるというのは、いい思いつきだ。実際こんないまわしい場所は、<ruby><rb>木葉微塵</rb><rt>こっぱみじん</rt></ruby>に破壊してしまうに越したことはないよ。だが今はまあ思い止まるがいい。人間まで捲きぞえを食っては耐らないからね」

か様にして、白蝙蝠の一味は<ruby><rb>悉々</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く逮捕せられた。狂博士の助手を勤めていた二青年も例外ではない。

全く気違いになった大川博士は、悪魔牢獄病院から、精神病院の檻の中へと移された。

賊の巣窟は「人間改造術」の器具薬品と共に、さる<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>火を失して、<ruby><rb>灰燼</rb><rt>かいじん</rt></ruby>に帰した。悪魔の陰謀は跡方もなく亡びてしまったのだ。

で、この一篇の物語は、何の証拠もない、荒唐無稽の夢を語るものと云われても、一言もないのだ。

容貌を自由自在に変える術。

生地のままの変装術。

そんなものがこの世に行われたならば、人間生活にどんな恐ろしい動乱がまき起ることか。思うだに戦慄を禁じないではないか。

夢物語でよいのだ。

夢物語でよいのだ。

  


この物語は一ヶ年に亘って月刊雑誌に連載されたものです。そういう場合の通例として、作者は月々筆を取って物語を進めて行きました。随って、月々の心変り、筋の運びの冗漫、其他幾多の欠陥ある事をお詫びしなければなりません。又、物語を前後篇に分ち、後半を改題し、小見出しの体裁、筋立て、文脈に至るまで一変しているのは、雑誌の販売政策上、編輯者の注文に応じなければならなかったからです。素人探偵明智小五郎の登場も、同じ注文によるものです。

  


「猟奇の果」もうひとつの結末　（前篇の末尾より続く）

## 老科学者人体改造術を説くこと

「オオ、お客さんか。こちらへお入りなさい」

その人物は手術着のような白衣を着た白髪白髯の老人であった。薄暗くてよくは分らぬが、顔中白ひげに覆われたむく犬のような怪老人である。

愛之助は何かしら催眠術でもかけられたような気持で、フラフラと奥の部屋へは入って行った。やはり薄暗い部屋であったが、見た所化学実験室と外科手術室とを兼ねたような感じの部屋であった。大きな<ruby><rb>琺瑯</rb><rt>ほうろう</rt></ruby>塗りのベッドがあり、ピカピカ光るメスの類が並んだガラス戸棚が見え、一方の隅には複雑な電気装置があり、試験管やフラスコなどのゴタゴタ並んだ大テーブル、種々様々のガラス瓶の行列した薬品棚。

「マア、おかけなさい」

白衣の老人は検微鏡の置いてある机の前に腰かけて、前の椅子をさし示した。愛之助は無言のままそこにかける。

「あんた、生れ変りたいのだね」

「エッ、生れ変るといいますと？」

愛之助がびっくりしたように聞返すと、老人はニヤリと笑った。

「そう。あんたは自分を消してしまいたいのじゃろう。イヤ、何も秘密をうちあけるには及ばん。わしはあんたの身の上など聞きたくはない。何も訊ねないで御希望に応じるのがわしの商売です。あんたからはもうちゃんと莫大な前金を頂いておる。わしはただ黙ってあんたを生れ変らせて上げればよいのじゃ」

愛之助は何か途方もない狂人の国にまぎれこんで来たような感じがした。こちらも気違いの気持になって考えて見ると、どうやら老人の言う意味が分るような気がする。だが、そんな馬鹿馬鹿しいことが、いったいこの世にあり得るのだろうか。

「生れ変ることが出来たら、誰だって生れ変りたいでしょうね。しかし、あなたのおっしゃる意味はどういう事でしょうか」

「つまり、あんたという人間がこの世から無くなってしまうんだ。死ぬのだね。そして、全く別の一人の人間がこの世に生れて来るのだ。その代価が一万円。どうです、<ruby><rb>廉</rb><rt>やす</rt></ruby>いものじゃろう」

「そんなことが、本当に出来るのですか」

「ウン、出来る。厄介じゃが一つ説明するかな。ここへ来る客人は皆、わしの説明を聞くまでは手術を承知しないからね。あんたもそうじゃろう」

「手術といいますと？」愛之助はビクッとして顔色を変えた。

「ハハハハハハハ、怖がっているね。イヤ無理はない。最初は誰でも死刑台へでものぼるような顔をするものじゃ。よろしい、素人分りのするように一つ説明しましょう」老人はやおら居ずまいを直して語りはじめる。「あんたは泥棒や探偵の用いる変装術というものを御存知じゃろう。<ruby><rb>鬘</rb><rt>かつら</rt></ruby>をかぶったりつけ髭をしたり眼鏡をかけたりするあり来りの方法だ。それが若し鬘もつけ髭も眼鏡も使わず、生地のままの人間の顔を、真から変えることが出来たらどうじゃ。子供だましの変装術なんて全く不用になってしまう。わしの方法は、その生れつきの人間の顔をまるで違ったものに改造する、本当の意味の変装術だ。男でも女でもよい。非常に醜い生れつきのものは、一生涯恥しい思いをせにゃならぬ。恋には破れ、人にはさげすまれ、遂には世を呪うことになる。それを救う方法としては、これまではただ様々の化粧法があったばかりだ。化粧とはつまり塗り隠すことで、到底生地から美しくなるものではない。目は大きくならず、鼻は高くならず、口は小さくならぬのだ。ところがわしの改造術はこの不可能事を為しとげた。つまりわしの方法こそ本当の化粧術だ」

怪老人の講義はこんな風にして長々とつづいた。その要点を記せば、次のような意味になる。

人間の容貌の基調をなすものは骨格と肉附である。容貌を変改するためには先ず骨格から改めて行かなくては嘘だ。骨を削り、骨を継ぐ。今日の外科医学ではそれは不可能なことではない。分り易い例で云えば、歯根膜炎や蓄膿症の手術の如き、日常茶飯事のように顔面の骨を削ることを実行しているではないか。ただ容貌を変えるだけのために、骨を削り骨を継ぐような大胆な外科医がないまでのことだ。それを怪老人はやってのけたのである。

肉附を変えることは一層容易である。栄養供給の多寡によって肥痩せしめるのも一法だが、もっと手っとり早い方法がある。それは現に隆鼻術に行われているパラフィン注射だ。頬をふっくらさせるためには、含み綿の代りに、その部分へパラフィンを注射すればよい。額でも顎でも凡て同じことだ。

だが、従来の隆鼻術でも分るように、パラフィン注射は変形し易い。長い間にはパラフィンが皮膚の内部で団子みたいに固まって変る形になる。又温度を加えるとグニャグニャになって、指で<ruby><rb>圧</rb><rt>おさ</rt></ruby>えるとへこんだりする。そんな方法ではいけない。

怪老人のやり方は、縦横に織り成された皮膚組織内に、ごく細いパラフィン線を別々に幾度も注入して、パラフィンの肉質化を計り、永久に同じ形状を保たしめる。決して団子になったり溶けて流れたりしないのである。

肥満せる肉は口腔内から脂肪剔出手術によって巧みに変形せしめることが出来る。かくして骨格と肉附とを変形すれば、それだけでもうその人の容貌は著しく変ってしまうのだが、それでは無論不充分だ。次に頭髪の変形変色が必要である。生え際を変えるためには殖毛術、脱毛術が応用されねばならぬ。髪の癖を直すためには特殊の電気装置があり、染毛剤の利用、毛髪の色素を抜出して適宜の白毛を作る施術が行われる。眉と髭についても同様に脱毛、殖毛、変色の方法がある。

瞼の変形、二重瞼の創作等は現に眼科医によって行われている所だが、怪老人はその手術を更らに拡張して、睫毛の殖毛術、瞼の切れ目の拡大縮小、つぶらな目、細い目、自由自在に変形することが出来る。

鼻は前述の改良隆鼻術と、軟骨切除によって随意に変形し、口も目と同様広狭自在である。

口腔内部<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に歯の変形は容貌改変上極めて重大である。歯を抜き或は<ruby><rb>殖</rb><rt>う</rt></ruby>え、歯並みを変形する手術は現に歯科医によってある程度まで行われているが、怪老人はそれを更らに広く深く究めたのである。

皮膚の色沢については、ある限度まで電気的又は薬品施術によって改めることが出来るが、それ以上はやはり外用の化粧料にまたねばならぬ。

之を要するに怪老人の「人間改造術」はその個々の原理には別段の創見があるわけではない。ただ従来<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>も手を染めなかった綜合医術を創始したまでである。整形外科と眼科と歯科と耳鼻科と、美顔術、化粧術の最新技術に更らに一段の工夫を加え、それを組合せて、容貌変改の綜合的技術を完成したまでである。だが、既成医術をかくまで網羅的に、ただ容貌変改のために綜合利用せんとしたものは、<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だ嘗つて前例がない。しかも個々に離れていては<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>ほど目だたぬ各種医術が、一つの目的に集中せられた時、かくまで見事な成果を<ruby><rb>齎</rb><rt>もた</rt></ruby>らそうとは、何人も想像しなかったところである。

実在の人間をモデルにしてそれと全く同じ容貌を創造するためには、最もモデル近き身長骨格容貌の人物が素材として探し出される。怪老人は丁度指紋研究家が指紋の型を分類したように、人間の頭部<ruby><rb>及</rb><rt>および</rt></ruby>顔面の形態を百数十の標準型に分類した。模造人間を作るためにはモデルと素材とがこの同一標準型に属することが必要である。ある人物の贋物を作ろうとする時には、先ずその人物と同一標準型の別人を探し出し、怪老人自からモデルの身辺に近づいて、丁度画家がモデルを眺めるようにそれを眺め、ラボラトリーに帰るとモデルの写真を幾つも前に並べて、贋物の方の手術にとりかかるのである。謂わば一種の人間写真術だ。

怪老人は大体右のような事柄を、一種異様の気違いめいた表現で講演したのである。これを聞かされた青木愛之助が、悪夢にうなされているような何とも云えぬ変な気持になったことは云うまでもない。

## 猟奇の果の演出者最後の告白を為すこと

愛之助は怪老人の<ruby><rb>長口舌</rb><rt>ちょうこうぜつ</rt></ruby>を聴いている内に、当然あることに思い当っていた。講演が終るのを待ち兼ねて、それを訊ねないではいられなかった。

「それで分りましたよ。だから品川四郎が二人いたのですね。第二の品川四郎を作り出したのはあなただったのですね」

「イヤ、名前は禁物じゃ。わしはあんたの名前も聞こうとは思わぬ。名前も身分も何も聞かないで御依頼に応ずるというのがわしの営業方針でね。品川四郎なんて無論わしは知りませんよ」

「アア、そうですか。そうでしょうね。そうあるべきですね」愛之助はしきりに感心しながら、「じゃ品川の写真を見せれば、お分りになるでしょう。しかし、残念ながら今あの男の写真を持っていないので…………」

「ウン、写真があれば、どういう手術をしたかということを思出すじゃろう」と<ruby><rb>云</rb><rt>いい</rt></ruby>さして怪老人はじっと愛之助の目を覗きこむようにしながら「しかしね、あんた。写真には及びませんよ。よろしいか。一つあんたに見せるものがある。よくわしの顔を見ていなさい。よいかな」そして、老人はクスクス笑い出した。ギョッとするような笑い方であった。

愛之助は気が遠くなるような気がした。何かしら驚天動地の怪事が勃発する前兆のようなものが、じかに心臓の中へ躍り込んで来た。

老人は目尻に皺をよせてニヤニヤしながら、長い<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を手で掴んで、キュウキュウと左右にふり動かしていたが、すると髯全体がゴムのように伸びはじめた。イヤ、伸びたのではない。離れたのだ。皮をはぐように、髯の根元が顎から離れて来たのである。

顔中の<ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を取り去ってしまうと、今度はモジャモジャの頭髪に手がのびた。それが左の方からクルクルとむけて行った。白髪の下から黒い若々しい髪の毛が現われて来た。

愛之助はヒョイト立上って、いきなり逃げ出そうとした。鬘とつけ髯の下から現われて来る顔を見たくなかったからだ。しかし見てしまった。もう逃げ出す力もない。ヘナヘナと元の椅子に腰をおろした。

怪老人の顔の下から新らしく生れた別人の顔がニヤニヤ笑っていた。笑っている口がどこまでも無限に拡がって行くような感じであった。

「ハハハハハハハ、どうです。品川四郎というのはこんな顔じゃなかったかね」

老人の声が品川四郎の声に変っていた。顔も品川と寸分違わなかった。三人目の品川四郎が忽然としてここに現われたのである。

「オオ、あんたは？　君は？」

それ以上口を利くことも出来なかった。愛之助は恐ろしい悪夢の中に悶えていた。

「オイ、青木君、どうだね。これが猟奇の果というものだぜ」

三人目の品川四郎が、品川四郎の声で、品川四郎の<ruby><rb>心易</rb><rt>こころやす</rt></ruby>さで話しかけた。

「ウ、猟奇の果だって？」

「そうさ。これが猟奇の行きつまりというわけさ。どうだい、堪能したかい」

「堪能だって？」

「君の持病の退屈が救われたかというのさ」

「退屈だって？」

「フフフフフフ、君は退屈を忘れていたね。退屈病患者の君が退屈を忘れていた。これは一大奇蹟だぜ。その奇蹟料が一万円は廉かろう」

「エ、一万円？」

「さっきのポンピキ青年に君が渡した一万円さ。人間改造術なんて嘘っぱちだよ。あんなお能の面のような顔の青年を傭って、怪老人の改造術をまことしやかに見せかけたというわけだよ」

「ウウ、そうか。すると君も…………」

「ウン、正真正銘の品川四郎、科学雑誌社長の品川四郎兼スリの品川四郎、君の奥さんをたぶらかした品川四郎、生首接吻の品川四郎、ハハハハハハハ、どうだね、正に一万円は廉いものだぜ」

愛之助はポカンと口を開いたまま阿呆のように黙りこんでいた。

「種あかしが必要かね。どうも必要らしいね。いいか、君は退屈病患者だ。あらゆる猟奇をやりつくして、あとには本物の犯罪が残っているだけだった。人殺しが残っているだけだった。だが君はそこまで進む勇気が無かった。無くって仕合せさ。でなければ今頃は刑務所か首吊台だぜ。その出来ないことを見事にやって見せた。君のため又僕のためにね。君はそれで暫く退屈を忘れ切ることが出来たし、僕は僕でまた、君のような利口なやつをだましおおせる楽しみを、つくづく味わったのだからね」

愛之助の目はまだ空ろであった。彼は信ずべからざる事柄を信じようとして苦悶していた。

「何もかもトリックさ。という意味はね、先ず九段のスリだ。あれは僕だった。態と君の傍へ行って呼びかけさせ、人違いらしく見せかけたのさ。石垣の中にあった財布は別にスリを働いたものじゃない。古道具屋に頼んで買い集めた古財布にすぎなかった。

東京のホテルで君と昼飯を食っていた僕が、同じ日京都で活動写真に撮られていたというのも嘘だよ。あれは心易い映画監督に頼んで、ああいう手紙を書かせたのさ。態々京都へ行って群集に混って映画に入ったのは別の日なんだよ。これも同じ監督の好意でね。考えて見れば僕という男も<ruby><rb>酔狂</rb><rt>すいきょう</rt></ruby>さね。

麹町の例の覗き一件は、僕の最大の力作だった。最初君が一人で覗いた時に、馬になってはい廻ったのはかく云う僕だ。露出狂というやつかね。大芝居だったよ。それとも知らず、君が僕を誘い出して、二人で覗いた時のは、僕の替え玉だ。相手の女が同じなので、雰囲気を作るのはわけは無かった。顔は違うけれどからだの恰好が僕とそっくりの男を傭ったのさ。思出して見たまえ。あの男は上手にふるまって、決して君に顔を見せなかった。君はからだの一部分や後姿ばかり見て、服装も同じだし、相手の女も同じものだから、うまく錯覚を起してくれたのさ。そこへ持って来て、僕が覗いた時には僕とそっくりの奴と面と向いあったように装い、震え上って見せたものだから、いよいよ君はだまされてしまったというわけだよ。

それから新聞写真に品川四郎が二人顔を並べていた一件だね。これもわけはない。新聞社の写真部員を買収して、群集の中へ僕の顔をうまく貼りつけて、写真銅版の原版を作らせたのさ。群集の中に何者がいようと、ニュース・ヴァリウは変らないからね。新聞社にとっちゃ何の<ruby><rb>痛痒</rb><rt>つうよう</rt></ruby>もない。だから写真部員も僕の買収に応じてくれたのだよ。

池袋の怪屋、これがクライマックスだったね。あれはただの空家にすぎない。それを僕がちょっとの間借りておいて、いろいろ細工をしたのだよ。君に殺された男？　ウン、あれもかくいう僕さ。とうとう君の念願の人殺しをさせて、最上のスリルを味わせて上げたという次第だ。ハハハハハハ、ボンヤリしてしまったね。信じられないかい。あのピストルは空砲、僕のワイシャツの胸には血紅の入ったゴム袋が忍ばせてあったのだよ。君が発砲すると、そのゴム袋が開らいてドクドク血のりがふき出すという仕掛けさ。あんな子供だましが成功したのは凡て雰囲気だよ。イリュウジョンを作り出す僕の芸の力だったのさ。<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か<ruby><rb>自惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れてもよさそうだね」

それは実に驚嘆すべき遊戯であった。青木愛之助の猟奇の癖もさることながら、品川四郎の執拗深刻な<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に至っては、むしろこの方が病的といってよかった。彼は猟奇の演出に狂人の凝り性を遺憾なく発揮したのである。たしかに一万円は廉いものである。世の猟奇の徒はかくの如き理想的な演出者を、どんなにか渇望していることであろう。

「あの時の生首の接吻かい。ハハハハハハ、無論手品さ。切断された首ではなくて、あの台の下にからだを隠して、首だけがのっかってるように見せかけたのだよ。血みどろのね」

「待ってくれ。ちょっと、品川君、若し君の云うことが本当だとすると、僕には腑に落ちないことがある」愛之助は夢から醒めて、愕然として叫んだ。「君は態とそれに触れなかったが、一番大切なことがある。分っているだろう」愛之助の青ざめた顔がピクピクと痙攣していた。果然自失から醒めたのである。醒めざるを得ないような重大問題に気づいたのである。

「分っている。君の奥さんのことだろう。僕が奥さんをどうかしていたということだろう。名古屋の鶴舞公園の闇の中の囁き、それから君の奥さんが僕宛てに送って来たラヴ・レターだね」

品川四郎が言葉を切っても、愛之助は何も云わなかった。云えないのだ。ただ死にもの狂いの目で相手を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みすえていた。

「無論トリックだよ。君の奥さんの貞節は保証するよ」

「証拠がほしい」愛之助は額に汗の玉を浮べて、プツリとただ一こと要求した。

「証拠？　よろしい。先ずラヴ・レターの方だが、これは簡単だ。無論偽筆だよ。僕が君の奥さんの筆くせを真似て書いたのさ。例によって子供だましだよ。それから、鶴舞公園であいびきしていた男は、君に呼びかけられて人違いらしく答えたけれど、正に僕だった。僕と同じ人間がこの世に二人いる筈は無いのだからね。だが安心したまえ。相手の女は君の奥さんじゃなかった。後姿と声だけが奥さんに似ている別人なんだよ。僕は随分苦労をしてその女を探し出した。あるカフェの女給なんだがね」

「証拠を見せたまえ」愛之助はまだ信じ切れなかった。

「よろしい。証拠はちゃんと用意してある。待ちたまえ、今見せるから」

品川はテーブルの上の呼鈴に指をかけた。どこかでブザーの音がした。部屋の一方のドアが静かにひらいた。そして、ドアの向うにスラッと背の高い女が、うしろ向きに立っているのが見えた。

「アッ、芳江……」愛之助はガタンと椅子から立上って、その方へ駈け出そうとした。

「君、よく見たまえ。あれは芳江さんじゃない。……ホラ、ね」

女はゆっくりこちらに向きを変えて、しずしずと部屋の中へは入って来た。後姿は芳江とそっくりであったが、顔はまるで違う。愛之助の愛妻とは似てもつかぬ、しかしこれも<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>一個の美人であった。

愛之助は緊張がとけてガックリと椅子に倒れこんだ。

女はその間近かまで近づいて来た。そして、さもしとやかに一礼すると、愛くるしい<ruby><rb>靨</rb><rt>えくぼ</rt></ruby>を見せて、恰好のよいルージュの唇で、<ruby><rb>嫣然</rb><rt>えんぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>頬笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>むのであった。