Soranoha

北越雪譜

ほくえつせっぷ

鈴木 牧之、山東 京山

北越雪譜二編 巻一

越後塩沢   鈴木牧之  編撰

江戸     京山人百樹 増修

○ 越後の城下

越後の国往古わうごは出羽越中ではゑつちゆうに距またがりし事国史こくしに見ゆ。今は七郡ぐんを以て一国いつこくとす。東に岩船郡いはふねごほり古くは石いはに作る海による蒲原かんばら郡新潟にひがたの湊みなと此郡に属す西に魚沼うをぬま郡海に遠し北に三嶋みしま郡海による刈羽かりは郡海に近し南に頸城くびき郡海に近き処もあり古志こし郡海に遠し以上七郡ぐん也。城下は岩船郡いはふねこほりに村むら上内藤侯五万九千石ヨ蒲原かんばら郡に柴田しばた溝口侯五万石黒川くろかは柳沢侯一万石陣営三日市柳沢弾正侯一万石陣営三嶋郡に与板よいた井伊侯二万石刈羽かりは郡に椎谷しひや堀侯一万石陣営古志郡に長岡ながをか牧野侯七万四千石ヨ頸城くびき郡に高田たかた榊原侯十五万石糸魚川いといかは松平日向侯一万石陣営以上城下の外ほか頗すこぶる豊饒ぶねうニギハヒを為なす処ところ、魚沼うをぬま郡に小千谷をぢや、古志郡に三条さんでう、三嶋郡に寺泊てらとまり○出雲崎いづもざき、刈羽かりは郡に柏崎かしはざき、頸城くびき郡に今町いままちなり。蒲原かんばら郡の新潟にひがたは北海第一の湊みなとなれば福地たる㕝こと論ろんを俟またず。此余このよの豊境はうきやうは姑しばらく略りやくす。此地皆十月より雪降ふる、その深ふかきと浅あさきとは地勢ちせいによる。猶なほ末すゑに論ろんぜり。

○ 古哥こかある旧蹟きうせき

蒲原郡かんばらごほりの伊弥彦山いやひこさん弥一作夜伊弥彦社いやひこのやしろを当国第一の古跡こせきとす。祭まつるところの御神は饒速日命にぎはやひのみことの御子天香語山命あまのかごやまのみことなり。 元明天皇げんみやうてんわうの和銅わだう二年の垂跡すゐしやくとす。社領五百石此山さのみ高山にもあらざれども、越後の海浜かいひん八十里の中ほどに独立どくりうして山脉さんみやくいづれの山へもつゞかず。右に国上山くにかみやま、左に角田かくだ山を提攜ていけいカヽヘして一国の諸山しよざん是これに対たいして拱揖きよういふコシヲカヽメルするが如ごとく、いづれの山よりも見えて実じつに越後の鎮ちんマモリともなるべき山は是よりほかにはあらじとおもはる。さればこそ命みこともこゝに垂跡すゐしやくまし〱たれ。此御神の縁起えんぎ或あるひは灵験れいげん神宝じんはうの類るゐ記すべき㕝あまたあれども姑しばらくこゝに省はぶく。

○さて此山をよみたる古哥に万葉「いや日子ひこのおのれ神さび青雲あをくものたなびく日すら小雨こさめそぼふるよみ人しらず」又家持やかもちに「いや彦の神のふもとにけふしもかかのこやすらんかはのきぬきてつぬ角つきながら」▲長浜ながはま 頸城郡くびきごほりに在あり。三嶋郡とする説もあり家持やかもちの哥に「ゆきかへる雁かりのつばさを休やすむてふこれや名におふ浦うらの長浜ながはま」▲名立なだち 同郡西浜にしはまにあり、今は宿しゆくの名によぶ。 順徳院の御製に承久のみだれに佐渡へ遷幸の時なり「都みやこをばさすらへ出いでし今宵こよひしもうき身名立なだちの月を見る哉かな」▲直江津なほえのつ 今の高田の海浜かいひんをいふ。 同御製に「なけば聞きゝきけば都みやこのこひしきに此里このさとすぎよ山ほとゝぎす」▲越こしの湖みづうみ 蒲原かんばら郡に潟かたとよぶ処多し。里言りげんに湖みづうみを潟かたといふ。その大なるを福嶋潟ふくしまがたといふ、四方三里計ばかり。此潟かたに遠からずして五月雨山さみだれやまあり。貫之つらゆきの哥に「潮しほのぼる越こしの湖みづうみ近ちかければ蛤はまぐりもまたゆられ来きにけり」又俊成卿としなりきやうに「恨うらみてもなにゝかはせんあはでのみ越こしの湖みづうみみるめなければ」又為兼卿ためかねきやう「年としをへてつもりし越こしの湖みづうみは五月雨山さみだれやまの森の雫しづくか」▲柿崎かきざき頸城郡にある駅也 親鸞聖人しんらんしやうにんの詠よみ玉ひしとて口碑こうひに伝つたへし哥に「柿崎にしぶ〱宿やどをもとめしに主あるじの心じゆくしなりけり」按あんずるに、聖人しやうにん御名を善信ぜんしんと申て三十五歳の時讒口ざんこうに係かゝりて越後に謫ながさる、時に承元しようげん元年二月なり。後のち五年を経へて勅免ちよくめんありしかども、法ほふを弘ひろめん為ためとて越後にいまししこと五年なり、故ゆゑに聖人の旧跡きうせき越地に残のこれり。弘法ぐほふ廿五年御歳六十の時洛みやこに皈かへり玉へり。越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年也弘長こうちやう二年十一月廿八日遷化せんげ寿ことぶき九十歳。件くだんの柿崎かきざきの哥も弘法行脚ぐほふあんぎやの時ときの作なるべし。

此外▲有明ありあけの浦うら▲岩手いはでの浦うら▲勢波せばの渡わたし▲井栗ゐくりの森もり▲越こしの松原いづれも古哥あれども、他国たこくにもおなじ名所あればたしかに越後ともさだめがたし。さて今を去㕝さること天保十一子なり五百四十一年前、永仁えいにん六年戌のとし藤原為兼卿ためかねきやう佐渡へ左遷させんの時、三嶋郡寺泊てらどまりの駅えきに順風じゆんふうを待まち玉ひし間あひだ、初君はつぎみといふ遊女いうぢよをめし玉ひしに、初君が哥に「ものおもひこし路ぢの浦うらの白浪しらなみも立かへるならひありとこそきけ」此哥吉瑞きちずゐとなりてや、五年たちてのち嘉元かげん元年為兼卿皈洛きらくありて、九年の後のち正和元年玉葉集ぎよくえふしふを撰えらみの時、初君が件くだんの哥うたを入れられ玉へり、是を越後第一の逸事いつじスクレタコトとす。初君が古跡こせき今寺泊てらどまりに在あり、里俗りぞく初君屋敷やしきといふ。貞享ぢやうきやう元年釈門万元しやくもんまんげん記しるすといふ初君が哥の碑いしぶみありしが、断破かけやぶれしを享和年間きやうわねんかん里入りじん重修ちようしうツクリカヘして今に存そんせり。

○ 雪の元日

凡およそ日本国中に於て第一雪の深き国は越後なりと古昔むかしも今も人のいふ事なり。しかれども越後に於も最もつとも雪のふかきこと一丈二丈におよぶは我住わがすむ魚沼郡うをぬまごほりなり。次に古志こし郡、次に頸城くびき郡なり。其余そのよの四郡ぐんは雪のつもる㕝三郡に比ひすれば浅し。是を以論ろんずれば、我住わがすむ魚沼郡は日本第一に雪の深ふかく降ふる所なり。我その魚沼郡の塩沢しほさはに生うまれ、毎年十月の頃ころより翌年よくとしの三四月のころまで雪を視みる事已すでに六十余年、近日このごろ此雪譜せつふを作るも雪に籠居こもりをるのすさみなり。

○さて我わが塩沢しほさはは江戸を去さること僅わづかに五十五里なり、直道すぐみちを量はからばなほ近かるべし。雪なき時ならば健足たつしやの人は四日ならば江戸にいたるべし。其江戸の元日を聞きけば縉紳朱門しんしんしゆもんヲレキ〱の㕝ことはしらず、市中しちゆうは千門もん万戸こ千歳ちとせの松をかざり、直すぐなる 御代みよの竹をたて、太平の七五三しめを引たるに、新年しんねんの賀客れいしや麻上下の肩かたをつらねて往来ゆきゝするに万歳もうちまじりつ。女太夫とか鳥追とりおひの三味線さみせんにめでたき哥をうたひ、娘の児このやり羽子はご、男の児この帋鳶いかのぼり、見るもの聞きくものめでたきなかに、初日はつひ影かげ花やかにさし昇のぼりたる、実げに新玉あらたまの春とこそいふべけれ。其その元日も此雪国の元日も同おなじ元日なれども、大都会たいとくわいの繁花はんくわと辺鄙へんひの雪中と光景ありさまの替かはりたる事雲泥うんでいのちがひなり。

○そも〱我里わがさとの元日は野も山も田圃たはたも里さとも平一面ひらいちめんの雪に埋うづまり、春を知るべき庭前ていぜんの梅柳の類るゐも、去年雪の降ふらざる秋の末に雪を厭いとひて丸太など立て縄縛なはからげに遇あひたるまゝ雪の中にありて元日の春をしらず。されば人も三四月にいたらざれば梅花を不見みず、翁が句に 春も稍やゝ景色けしきとゝのふ月と梅、と吟ぎんぜしは大都会たいとくわいの正月十五日なり。また「山里は万歳遅おそし梅の花」とは辺鄙へんひの三月なるべし。門松かどまつは雪の中へ建たて、七五三しめかざりは雪の軒のきに引わたす。礼者れいしやは木屐げたをはき、従者ともは藁靴わらぐつなり。雪径みちに階級だん〱ある所にいたれば主人もわらぐつにはきかふる、此げたわらぐつは礼者にかぎらず人々皆しかり。雪全まつたく消きゆる夏のはじめにいたらざれば、草履ざうりをはく事ならず。されば元日の初日影も惟たゞ雪の銀世界せかいを照てらすのみ。一ツとして春の景色けしきを不見みず。古哥こかに「花をのみ待らん人に山里の雪間まの草の春を見せばや」とは雪浅き都みやこの事ぞかし。雪国の人は春にして春をしらざるをもつて生涯しやうがいを終をはる。これをおもへば繁栄豊腴はんえいほういゆの大都会たいとくわいに住すみて年々ねん〱歳々せい〱梅柳ばいりう媆色ぜんしよくの春を楽たのしむ事実じつに天幸てんかうの人といふべし。

○ 雪の正月

初編にもいへる如く我国の雪は鵞毛がまうをなすは稀まれなり、大かたは白砂しらすなを降ふらすが如し。冬の雪はさらに凝凍こほることなく、春にいたればこほること鉄石てつせきのごとし。冬の雪のこほらざるは湿気しめりけなく乾かわきたる沙すなのごとくなるゆゑなり。是これ暖国だんこくの雪に異処ことなるところなり。しかれどもこほりてかたくなるは雪解とけんとするのはじめなり。春にいたりても年としによりては雪の降ふること冬にかはらざれども、積つもること五六尺に過すぎず。天地に阳気やうき有あるを以なるべし。されば春の雪は解とくるもはやし、しかれども雪のふかき年は春も屋上やねのうへの雪を掘ほることあり。掘ほるとは椈ぶなの木にて作りたる木鋤こすきにて土つちを掘ほるごとくして取捨とりすつるを里言りげんに雪を掘といふ、已すでに初編にもいへり。かやうにせざれば雪の重おもきに屋いへを潰つぶすゆゑなり。されば旧冬きうとうの家毎いへごとに掘除ほりのけたる雪と春降積ふりつもりたる雪と道路みちに山をなすこと下にあらはす図づを見てもしるべし。いづれの家にても雪は家よりも高たかきゆゑ、春を迎むかふる時にいたればこゝろよく日光ひのひかりを引んために、明あかしをとる処の窗まどに遮さへぎる雪を他処へ取除とりのくるなり。然しかるに時としては一夜の間あひだに三四尺の雪に降うづめられて家内薄暗うすくらく、心も朦々まう〱として雑煮ざふにを祝いはふことあり。越後はさら也、北国の人はすべて雪の中に正月をするは毎年の事也。かゝる正月は暖国だんこくの人に見せたくぞおもはるゝ。

〔図〕fig58401_01.png
驛中の正月積雪の圖

○ 玉栗たまくり

江戸の児曹こどもが春の遊は、女児こは繍毬てまり羽子擢はごつき、男児ごは紙鴟たこを揚あげざるはなし。我国のこどもは春になりても前にいへるごとく地として雪ならざる処なければ、歩行ほかうに苦くるしく路上みちなかに遊をなす事少すくなし。こゝに玉栗たまくりといふ児戯こどもあそびあり。春にもかぎらず雪中のあそび也始はじめは雪を円成まろめて雞卵たまごの大さに握にぎりかため其上へ〱と雪を幾度もかけて足にて踏堅ふみかため、あるひは柱はしらにあてゝ圧堅おしかため、これを肥こやすといふ。さて手毬てまりの大さになりたる時他の童わらべが作りたる玉栗たまくりを庇下ひさししたなどに置おかしめ、我が玉栗を以他の玉栗にうちあつる、強つよき玉栗弱よわき玉栗を砕くだくをもつて勝負しようぶを争あらそふ。此戯このたはふれ所によりて、○コンボウ○コマ○地独楽ぢこま○雪玉いきんだま里のなまりに雪をいきといふ○ズヽゴ○玉ゴシヨ○勝合かちあひなどいふなり。此玉栗を作つくるに雪に少すこし塩しほを入るれば堅かたくなること石の如し、ゆゑに小児互たがひに塩を入るを禁きんずるなり。こゝを以てみる時は、塩しほは物を堅かたむる物なり。物を堅実けんじつにするゆゑ塩蔵しほづけにすれば肉類にくるゐも不腐くさらず、朝夕嗽くちそゝぐに塩の湯水を以すれば歯はをかためて歯の命を長くすといふ。玉栗は児戯こどもたはふれなれど、塩の物を堅かたくする証あかしとするにたれり。故にこゝに記しるせり。又童わらべのあそびに雪いきン堂だうといふ㕝あり、初編にいだせり。

○羽子擢はごつき 我里俗りぞくはねをつくといはずはねをかへすといふ、うちかへすの心なるべし

江戸に正月せし人の話はなしに、市中にて見上るばかり松竹を飾かざりたるもとに、美うつくしく粧よそほひたる娘たち彩いろどりたる羽子板はごいたを持て並ならび立て羽子をつくさま、いかにも大江戸の春なりとぞ。我里の羽子擢つきは辺鄙へんひとはいひながら、かゝる艶姿やさしきすがたにあらず。正月は奴婢しもべどもゝ少すこしは許ゆるして遊をなさしむるゆゑ、羽子はごを擢つかんとて、まづ其処を見たてゝ雪をふみかためて角力場すまうばのごとくになし、羽子は溲疏うつぎを一寸ンほど筒切になし、これに鸐雉やまどりの尾を三本さしいれる、江戸の羽子に比くらぶれば甚大なり。これを擢つくに雪を掘ほる木鋤こすきを用ふ、力にまかせて擢ゆゑに空そらにあがる㕝甚高し。かやうに大なる羽子ゆゑに童わらべはまじらず、あらくれたる男女うちまじり、はゞきわらぐつなどにて此戯このたはふれをなすなり。一ツの羽子を並ならびたちてつくゆゑに、あやまちて取落とりおとしたるものは始はじめに定ありて、あるひは雪をうちかけ、又は頭かしらより雪をあぶする。その雪襟えり懐ふところに入りて冷つめたきに耐たへざるを大勢が笑ふ、窗まどよりこれを視みるも雪中の一興いつきやうなり。京伝翁が骨董集こつとうしふに上編ノ下下学集かがくしふを引て、羽子板は文化十二年より三百七十年ばかりの前さき、文安のころありしものにて、それよりもなほさきにありし事は詳つまびらかならずといはれたり。又下学集には羽子板にハゴイタ、コギイタと両かなをつけたれば、こぎの子といふも羽子の事なりとあり。我国にも江戸の如くに児女のはねをつく所もあり。

○ 雪吹ふゞきに焼飯やきめしを売うる

雪国にて悚ふるひ懼おそるゝ物は、冬の○雪吹ふゞき○ホウラ、春の雪頽なだれなり。此奇状きじやう奇事きじ已すでに初編にもいへり、されど一奇談いつきだんを聞たるゆゑこゝにしるして暖国だんこくの話柄はなしのたねとす。

○そも〱金銭の貴たつときこと、魯氏ろしが神銭論しんせんろんに尽つくしたれば今さらいふべくもあらず。年としの凶作はもとより事に臨のぞんで餓うゑにいたる時小判を甜なめて腹はらは彭張ふくれず、餓うゑたる時の小判一枚は飯一碗わんの光をなさず。五十余年前の饑饉ききんの時、或所にて餓死がししたる人の懐に小判百両ありしときゝぬ。

○こゝに我が魚沼郡うをぬまごほり藪上やぶかみの庄の村より農夫のうふ一人柏崎かしはざきの駅えきにいたる、此路程みちのり五里計ばかりなり。途中にて一人の苧纑商人をがせあきびとに遇あひ、路伴みちづれになりて往ゆきけり。時は十二月のはじめなりしが数日の雪も此日晴はれたれば、両人肩かたをならべて心こゝろ朗のどかにはなしながら已すでに塚つかの山といふ小嶺ちひさきたふげにさしかゝりし時、雪国の恒つねとして晴天せいてん俄にはかに凍雲とううんを布しき、暴風ばうふう四方の雪を吹散ちらして白日を覆おほひ、咫尺しせきを弁べんぜず。袖襟そでえりへ雪を吹入れて全身みうち凍こゞえて息いきもつきあへず、大風四面よりふきめぐらして雪を渦うづに巻揚まきあぐる、是を雪国にて雪吹といふ。此ふゞきは不意ふいにあるものゆゑ、晴天せいてんといへども冬の他行たぎやうには必蓑笠みのかさを用ること我国の常なり。二人は橇かじきに雪を漕こぎつゝ雪にあゆむを里言にこぐといふ互たがひに声こゑをかけて助たすけあひ辛からうじて嶺たふげを逾こえけるに、商人あきひと農夫のうふにいふやう、今日の晴天に柏崎かしはざきまでは何ともおもはざりしゆゑ弁当べんたうをもたず、今空腹すきはらにおよんで寒さむさに堪たへず、かくては貴殿おみさまに伴ともなひて雪を漕こぐことならず、さいぜんの話はなしにおみさまの懐ふところに弁当べんたうありときゝぬ、夫それを我に与あたへたまふまじきや、惟たゞには貰もらふまじ、こゝに銭六百あり、死しぬか活いきるかの際きはにいたりて此銭を何にかせん、六百にて弁当を売うり玉へといふ。農夫のうふは貧乏びんぼふの者なりしゆゑ六百ときゝて大によろこび、焼飯やきめし二ツを出して六百の銭に替かへけり。商人は懐ふところにありて温あたゝまりのさめざる焼飯の大なるを二ツ食し、雪に咽のどを潤うるほして精心せいしん健すこやかになり前にすゝんで雪をこぎけり。

〔図〕fig58401_02.png
塚山嶺雪吹圖

○かくていそぐほどに雪吹ふゞきます〱甚しく、橇かじきを穿はくゆゑ道みち遅おそく日も已すでに暮くれなんとす。此時にいたりて焼飯を売たる農夫のうふは肚はら減へりて労つかれ、商人は焼飯に腹はら満みち足をすゝめて往ゆく。農夫は屡しば〱後おくるるゆゑ終つひには棄すてて独ひとり先さきの村にいたり、しるべの家に入りて炉辺ろへんに身みを温あたゝめて酒を酌くみ、始はじめて蘇生よみがへりたるおもひをなしけり。

○さてしばらくありてほうい〱と呼声よぶこゑ遠とほく聞きこゆるを家内の者きゝつけ、ふゞきにほうい〱とよぶは人にたすけを乞ふことば也、雪中の常とす雪吹倒ふゞきたふれぞ、それ助けよとて、近隣あたりとなりの人をもよび集あつめ手毎てごとに木鋤こすきを持て木鋤を持は雪に埋りし雪吹たふれの人をほりいださんため也、これも雪国の常也走行はせゆきしが、やゝありて大勢のもの一人の死骸しがいを家の土間どまへ舁かき入れしを、かの商人あきびとも立寄たちより見れば、最前さいぜん焼飯やきめしを売うりたる農夫なりしとぞ。この苧纑をがせ商人、或時あるとき余よが俳友はいいうの家に逗留とうりうの話はなしに件くだんの事を語かたり出いだし、彼時かのとき我六百の銭を惜をしみ焼飯を買かはずんば、雪吹ふゞきの中うちに餓死うゑじにせんことかの農夫のうふが如くなるべし、今日の命も銭六百のうちなりとて笑ひしと俳友はいいうが語かたれり。

○ 雪中の戯場しばゐ

五穀豊熟ごこくほうじゆくして年としの貢みつぎも心易こゝろやすく捧さゝげ、諸民しよみん鼓腹はらつゞみの春に遇あひし時、氏神の祭まつりなどに遭あひしを幸に地芝居を興行こうぎやうする㕝あり。役者は皆其処の素人しろうとあるひは近村きんそん近駅えきよりも来るなり。師匠ししやうは田舎芝居の役者やくしやを傭やとふ。始はじめに寺などへ群居よりあひて狂言をさだめてのち、それ〱の役を定む。此群居よりあひの議論ぎろん紛々ふん〱として一度にて果はたしたる㕝なし。事定りてのち寺に於て稽古けいこをはじむ、技わざ熟じゆくしてのち初日をさだめ、衣裳いしやう髢かつらのるゐは是を借かすを一ツの業なりはひとするものありて物ものの不足たらざるなし。此芝居二三月の頃ころする事あり、此時はいまだ雪の消きえざる銀世界せかいなり。されば芝居を造つくる処、此役者等らが家はさらなり、親類しんるゐ縁者えんじや朋友はういうよりも人を出し、あるひは人を傭やとひ芝居小屋場の地所の雪を平たひらかに踏ふみかため、舞台ぶたい花道はなみち楽屋がくや桟敷さじきのるゐすべて皆雪をあつめてその形かたちにつかね、なりよく造つくること下の図づを見て知るべし。此雪にて造つくりたる物、天又人工じんこうをたすけて一夜の間に凍こほりて鉄石の如くになるゆゑ、いかほど大入にてもさじきの崩くづるる気づかひなし。弥生やよひの頃ころは雪もやゝ稀まれなれば、春色しゆんしよくの空そらを見て家毎いへごとに雪囲かこひを取除とりのくるころなれば、処々より雪かこひの丸太あるひは雪垂ゆきたれとて茅かやにて幅八九尺広ひろさ二間ばかりにつくりたる簾すだれを借かりあつめてすべての日覆ひおひとなす。ぶたい花みちは雪にて作りたる上に板をならぶる、此板も一夜のうちに冰こほりつきて釘付くぎづけにしたるよりも堅かたし。暖だん国に比くらぶれば論ろんの外ほかなり。物を売うる茶屋をも作つくる、いづれの処も平一面めんの雪なれば、物を煮処にるところは雪を窪くぼめ糠ぬかをちらして火を焼たけば、雪の解とけざる事妙なり。

○さて戯場しばゐの造作ざうさく成就じやうじゆしても春の雪ふりつゞきて連日れんじつ晴はれを見ず、興行こうぎやうの初日のびる時は役者になりたる家はさら也、此しばゐを見んとて諸方に逗留とうりうの客きやく多おほく毎日空そらをながめて晴はれを待まちわび、客きやくのもてなしもしつくして殆ほとんど倦果うみはて、終つひには役者仲間なかまいひあはせ、川の冰こほりを砕くだきて水を浴あび千垢離せんごりして晴はれを祈いのるもをかし。

〔図〕fig58401_03.png
雪中演場を造圖

百樹もゝき曰いはく、余よ丁酉の夏北越ほくゑつに遊びて塩沢に在し時、近村に地芝居ありと聞きゝて京水と倶ともに至りしに、寺の門の傍かたはらに杭くひを建たてて横よこに長ながき行燈あんどんあり、是に題だいして曰いはく、当院たうゐん屋根普請やねふしん勧化くわんけの為ため本堂ほんだうに於おいて晴天せいてん七日の間芝居興行こうぎやうせしむるものなり、名題なだいは仮名手本かなでほん忠臣蔵役人替名とありて役者やくしやの名多おほくは変名へんみやうなり。寺の門内には仮店かりみせありて物を売り、人ひと群ぐんをなす。芝居には仮かりに戸板を集あつめて囲かこひたる入り口あり、こゝに守まもる者ものありて一人前まへ何程と価あたひを取とる、これ屋根普請やねふしんの勧化くわんけなり。本堂の上り段に舞台ぶたいを作り掛かけ、左に花道あり、左右の桟敷さじきは竹牀簀たけすのこ薦張こもばりなり。土間には薦こもを布しき、筵むしろをならぶ。旅たびの芝居大概たいがいはかくの如しと市川白猿が話はなしにもきゝぬ。桟敷さじきのこゝかしこに欲然もえたつやうな毛氈まうせんをかけ、うしろに彩色画さいしきゑの屏風びやうぶをたてしはけふのはれなり。四五人の婦みな綿帽子わたばうししたるは辺鄙へんびルビの「へんび」はママに古風を失うしなはざる也。観人みるひと群ぐんをなして大入なれば、猿さるの如き童わらべども樹きにのぼりてみるもあり。小娘ちひさきむすめが笊ざるを提さげて冰々こほり〱とよびて土間どまの中を売うる。笊ざるのなかへ木の青葉あをばをしき雪の冰こほりの塊かたまりをうる也。茶を売べきを氷を売るは甚めづらし、氷のこと削氷けづりひの条くだりにいふべし。

○さて口上いひ出て寺へ寄進きしんの物、あるひは役者へ贈物おくるもの、餅酒のるゐ一々人の名を挙あげ、品しなを呼よびて披露ひろうし、此処忠臣蔵七段目はじまりといひて幕まく開ひらく。おかるに扮なりしは岩井玉之丞とて田舎芝居の戯子やくしやなるよし、頗すこぶる美びなり。由良の助に扮なりしは余よが旅中りよちゆう文雅ぶんがを以もつて識しる人ひとなり、年若としわかなればかゝる戯たはふれをもなすなるべし。常にはかはりて今の坂東彦三郎に似にたり。技げいも又観みるに足たれり。寺岡平右ヱ門になりしは余よが客舎かくしやにきたる篦頭かみゆひなり、これも常にかはりて関三十郎に似て音声おんせいもまた天然てんねんと関三の如し。余よ京水と相あひ顧かへりみて感じ、京水たはふれにイヨ尾張屋と誉ほめけるが、尾張屋は関三の家号いへななる事通じがたきや、尾張屋とほむるものひとりもなし。一幕まくにてかへらんとせしに守る者木戸をいださず、便所べんじよは寺の後うしろにあり、空腹くうふくならば弁当べんたうを買かひ玉へ、取次とりつぎ申さんといふ。我のみにあらず、人も又いださず。おもふに、人ひと散ちれば演場しばゐの蕭然さみしくなるを厭いとふゆゑなるべし。いづくにか出いづる所あらんと尋たづねしに、此寺の四方垣かきをめぐらして出べきの隙ひまなし。折をりふし童わらべが外より垣をやぶりて入りたるその穴あなより両人くゞりいでしは、これも又可笑をかしき一ツにてぞありし。

○ 家内かないの氷柱つらゝ

旧冬きうとうより降積ふりつもりたる雪家の棟むねよりも高く、春になりても家内薄暗うすくらきゆゑ、高窓たかまどを埋うづめたる雪を掘ほりのけて明あかりをとること前にもいへるが如し。此屋上やねの雪は冬のうちしば〱掘のくる度々に、木鋤こすきにてはからず屋上やねを損そんずる㕝あり。我国の屋上やねおほかたは板葺いたぶきなり、屋根板は他国に比くらぶれば厚あつく広ひろし。葺たる上に算木さんぎといふ物を作つくり添そへ石を置おきて鎮おもしとし風を防ふせぐの便たよりとす。これゆゑに雪をほりのくるといへどもつくすことならず、その雪のうへに早春さうしゆんの雪ふりつもりて凍こほるゆゑ屋根のやぶれをしらず。春も稍深やゝふかくなれば雪も日あたりは解とけあるひは焼火たきびの所雪早く解とくるにいたりて、かの屋根の損そんじたる処木羽こばの下たをくゞりなどして雪水漏もるゆゑ、夜中俄に畳たゝみをとりのけ桶鉢をけはちのるゐあるかぎりをならべて漏もりをうくる。もる処を修治つくろはんとするに雪全まつたくきえざるゆゑ手をくだす㕝ならず、漏は次第にこほりて座敷ざしきの内にいくすぢも大なる氷柱つらゝを見る時あり。是暖国だんこくの人に見せたくぞおもはる。

百樹曰、余よ越遊ゑついうして大家の造つくりやうを見るに、楹はしらの太ふときこと江戸の土蔵のごとし。天井てんじやう高く欄間らんま大なり、これ雪の時明あかりをとるためなり。戸障子としやうじ骨太ほねふとくして手丈夫ぢやうぶなるゆゑ、閾しきゐ鴨柄かもゑも広ひろく厚あつし。すべて大材たいさいを用もちふる事目を駭おどろかせり、これ皆雪に潰つぶれざるの用心なりとぞ。江戸の町にいふ店下たなしたを越後に雁木がんぎ又は庇ひさしといふ、雁木の下広くして小荷駄こにだをも率ひくべきほどなり、これは雪中にこの庇ひさし下を往来ゆきゝの為ためなり。余よ越後より江戸へ皈かへる時高田の城下を通とほりしが、こゝは北越第一の市会しくわいなり。商工しやうこう軒のきをならべ百物備そなはらざることなし。両側一里余庇ひさし下つゞきたるその中を往ゆくこと、甚意快いくわいコヽロヨイなりき。文墨ぶんぼくの雅人がじんも多しときゝしが、旅中りよちゆう年としの凶きやうするに遭あひ、皈家きかを急いそぎしゆゑ剌[#「刺」の左に「テフダ」の注記]《し》を入れざりしは今に遺憾ゐかんとす。

○ 雪中歩行ほかうの用具ようぐ

雪中歩行ほかうの具ぐ初編に其図そのづを出いだししが製作せいさくを記しるさず、ふたゝびその詳つまびらかなるを示しめす。

〔図〕fig58401_04.png
雪中歩行の藁沓等の用具図

○藁わらひとたけにてあみたつる。はじめはわらのもとを丸けてあみはじめ、末にいたりてわらをまし二筋にわけ折かへし、

○をはりはまん中にて結びとむる。是雪中第一のはきもの也。童もこれをはく也。上品なるはあみはじめに白紙を用ひ、ふむ所にたゝみのおもてを切入る。

○是はうちわらにて作りあむ。常の〔「韈のつくり」の「罘-不」に代えて「冂<人」〕たびのまゝ是をはきて雪中に歩行しても、他の坐につく時足をそゝぐにおよばず。あみやうは甚むづかしきものなり、此図は大略をしるす。

○他国には革にて作りたるを見る。泥行どろみちには便なるべし。我国の雪中には途みちに泥どろある所なし、ゆゑにはき物はげたの外わらにてつくる。げたに、●駒の爪つめ●牛のつめなど、さま〲名もあり、男女の用その形もかはれど、さのみはとて図せず。

○ハツハキといふは里俗りぞくのとなへなり、すなはち裹脚はゞきなり。わらのぬきこあるひは蒲がまにても作る。雪中にはかならず用ふ、やまかせぎは常にも用ふ。作りやう図を見て大略を知るべし。やすくいへばわらのきやはんなり。わらは寒をふせぐものゆゑ、雪のはきもの大かたはわらにて作るなり。

〔図〕fig58401_05.png
雪中歩行の胸あて等の用具図

○シナ皮とて深山みやまにある木の皮にて作る、寸尺は身に応じ作る。大かたはたて二尺三寸はゞ二尺ばかりなり、胸むねあてともいふ。前より吹つくる雪をふせぐために用ふ、農業には常にも用ふ。他国にもあるなり。

○シブガラミはあみはじめの方を踵きびすへあて、左右のわらを足頭あしくびへからみて作るなり。里俗わら屑くづのやはらかなるをシビといふ。このシビにて作り、足にからみはくゆゑに、シビガラミといふべきをシブガラミと訛なまりいふなり。

○かんじきは古訓こくんなり、里俗りぞくかじきといふ。たて一尺二三寸よこ七寸五六分、形かたち図づの如くジヤガラといふ木の枝にて作る。鼻は反そらしてクマイブといふ蔓つる又はカヅラといふつるをも用ふ。山漆やまうるしの肉付の皮にて巻かたむ。是は前に図したる沓の下にはくもの也、雪にふみこまざるためなり。

○すかりはたて二尺五六寸より三尺余、横一尺二三寸、山竹をたわめて作る。○かじき○すかりの二ツは冬の雪のやはらかなる時ふみこまぬ為に用ふ。はきつけぬ人は一足もあゆみがたし。なれたる人はこれをはきて獣けものを追ふ也。右の外、男女の雪帽子ばうし雪下駄げた、其余そのよ種々雪中歩用ほようの具ぐあれども、薄はく雪の国に用ふる物に似にたるはこゝに省はぶく。

〔図〕fig58401_06.png
すかりの図

百樹もゝき曰、余よ北越に遊びて牧之老人が家に在し時、老人家僕かぼくに命めいじて雪を漕こぐ形状すがたを見せらる、京水傍かたはらにありて此図を写うつせり。穿物はくものは、○橇かんじき○縋すかりなり。戯たはふれに穿はきてみしが一歩も進すゝむことあたはず、家僕かぼくがあゆむは馬を御ぎよするがごとし。

○ 輴そり

輴そり字彙禹王うわう水を治をさめし時載のりたる物四ツあり、水には舟ふね、陸りくには車、泥どろには輴そり、山には欙かんじき。書経註しかれば此輴そりといふもの唐土もろこしの上古よりありしぞかし。彼かれは泥行でいかうの用なれば雪中に用ふるとは製作せいさく異ことなるべし。輴そりの字、○毳そり○蕝そり○橇そり○秧馬そり、諸書しよしよに散見さんけんす。或あるひは○雪車そり○雪舟そりの字を用ふるは俗用ぞくようなり。

そも〱此輴そりといふ物、雪国第一の用具。人力じんりきを助たすくる事船と車に同おなじく、且そのうへに作つくる事最易いとやすきは図づを見て知るべし。堀川百首ほりかはひやくしゆ兼昌かねまさの哥に、「初深雪はつみゆき降ふりにけらしなあらち山越こしの旅人たびびと輴そりにのるまで」この哥をもつても我国にそりをつかふの古ふるきをしるべし。前にもしば〱いへるごとく、我国の雪冬は凍こほらざるゆゑ、冬に輴そりをつかへば雪におちいりて擿ひくことならじ。輴は春の雪鉄石のごとく凍こほりたる正二三月の間に用ふべきもの也。其時にいたるを里俗りぞく輴道そりみちになりしといふ。

俳諧はいかいの季寄きよせに雪車そりを冬とするは誤あやまれり。さればとて雪中の物なれば春の季きには似気にげなし。古哥にも多くは冬によめり、実じつにはたがふとも冬として可なり。

輴そりは作り易やすき物ゆゑ、おほかたは農商のうしやう家毎いへごとに是を貯たくはふ。されば載のするものによりて大小品々あれども作りやうは皆同じやうなり、名も又おなし。只たゞ大なるを里俗に修羅しゆらといふ、大石大木をのするなり。

山々の喬木たかききも春二月のころは雪に埋うづまりたるが梢こずゑの雪は稍やゝ消きえて遠目とほめにも見ゆる也。此時薪たきゞを伐きるに易やすければ農人等のうにんらおの〱輴そりを拖ひきて山に入る、或はそりをば麓ふもとに置おくもあり。常には見上る高枝たかきえだも埋うづまりたる雪を天然てんねんの足場あしばとして心の儘まゝに伐きりとり、大かたは六把はを一人まへとするなり。さて下に三把を並ならべ、中には二把、上うへには一把、これを縄なはにて強く縛くゝし麓ふもとに臨のぞんで蹉跌すべらかすに、凍こほりたる雪の上なれば幾百丈の高も一瞬まばたきの間まにふもとにいたるを輴そりにのせて引ひきかへる。或はまた山に九曲まがりくねりあるには、件くだんのごとくに縛くゝしたる薪たきゞの輴そりに乗のり、片足かたあしをあそばせて是にて楫かぢをとり、船を走はしらすがごとくして難所なんじよを除よけて数百丈の麓ふもとにくだる、一ツも過あやまつことなし。其術そのじゆつ学まなばずして自然しぜんに得うる処奇々妙々なり。

輴そりを引て薪たきゞを伐きることいひあはせて行ゆくときは、二三人の食しよくを草にて編あみたる袋にいれて輴そりにくゝしおくことあり。山烏やまからすよくこれをしりてむらがりきたり、袋をやぶりて食しよくを喰尽くらひつくす。樵夫きこりはこれをしらず、今日の生業かせぎはこれにてたれり、いざや焼飯やきめしにせんとて打より見れば一粒つぶものこさず、烏からすどもは樹上きのうへにありて啼なく。人はむなしく烏を睨にらみて詈のゝしり、空肚へりたるはらをかゝへて輴哥そりうたもいでず、輴をひきてかへりし事もありしと、その人のかたりき。

〔図〕fig58401_07.png秋月庵牧之筆の図、輴の全図

そりをひくにはかならずうたうたふ、是を輴哥そりうたとてすなはち樵哥せうかなり。唱哥しやうがの節ふしも古雅こがなるものなり。親おやあるひは夫おつと山に入り輴そりを引てかへるに、遠く輴哥そりうたをきゝて親夫おやをつとのかへるをしり、輴そりに遇あふ処までむかへにいで、親夫をば輴に積つみたる薪たきゞに跨またがらせて、妻つまや娘むすめがこれをひきつゝ、これらも又輴哥をうたうてかへるなど、質朴しつぼくの古風こふう今目前もくぜんに存そんせり。是繁花はんくわをしらざる幽僻いうへきの地なるゆゑなり。

春もやゝ景色とゝのふといひし梅も柳も雪にうづもれて、花も緑みどりもあるかなきかにくれゆく。されど二月きさらぎの空そらはさすがにあをみわたりて、朗々のどかなる窓まどのもとに書読ふみよむをりしも遙はるかに輴哥そりうたの聞きこゆるはいかにも春めきてうれし。是は我のみにあらず、雪国の人の人情にんじやうぞかし。

百樹もゝき曰いはく、我が幼年えうねんの頃は元日のあしたより扇々と市中をうりありく声こゑ、あるひは白酒々の声も春めきて心も朗のどかなりしが此声今はなし。鳥追の声はさらなり、武家のつゞきて町に遠所には江鰶こはだの鮨すし鯛たひのすしとうる声今もあり、春めくもの也。三月は桜草うる声に花をおもひ、五月は鰹々かつを〱に白妙しろたへの垣根をしたふ。七夕の竹ヤ々々は心涼しく、師走しはすの竹ヤ〱はすゝはらふ竹うりなり聞きくに忙せはし。物皆季に応おうじて声をなし、情に入る事天然の理なり。胡笳こかの悲かなしみも又然らん。件くだんのは人の声なり、ましてや春の鶯あるひは蛙、夏の蝉、秋の初雁、鹿、虫の音ね、冬の水鵲ちどりをや。本編ほんへん輴哥そりうたをきゝ春めきてうれしとは真境実事しんきやうじつじ文客の至情なり、我是に感かんじてこゝに数言すげんを置おく。輴哥そりうたの春めくこと江戸人にはおもひもよらざる奇情なり、これに似たる事猶諸国にもあるべし。

糞こやしをのする輴哥そりあり、これをのするほどに小ちひさく作りたる物なり。二三月のころも地として雪ならざるはなく、渺々びやう〱として田圃たはたも是下このしたに在ありて持分もちぶんの境さかひもさらにわかちがたし。しかるにかの糞こやしのそりを引てこゝに来り、雪のほかに一点てんの目標めじるしもなきに雪を掘ほること井を掘が如くにして糞こやしを入るに、我田の坪にいたる事一尺をもあやまらず、これ我が農奴等のうぬらもする事なり。茫々ばう〱ヒロ〱たる雪上何を目的めあてにしてかくはするぞと問とひしに、目あてとする事はしらず、たゞ心にこゝぞとおもふ所その坪にはづれし事なしといへり。所為しわざは賤いやしけれども芸術げいじゆつの極意ごくいもこゝにあるべくぞおもはるゝゆゑに、こゝにしるして初学しよがくの人芸げいに進すゝむの一端はしを示しめす。

輴そりの大なるを里言りげんに修羅しゆらといふ事前にもいへり、これに大材木あるひは大石をのせてひくを大持だいもちといふ。ひとゝせ京都本願寺御普請の時、末口五尺あまり長さ十丈あまりの槻けやきを拖ひきし事ありき。かゝる時は修羅しゆらを二ツも三ツもかくるなり。材木は雪のふらざる秋伐きりてそのまゝ山中におき、輴そりを用ふる時にいたりてひきいだす。かゝる大材をも拖ひくをもつて雪の堅かたきをしるべし。田圃はたも平一面の雪なればひくべき所へ直道すぐみちにひきゆくゆゑ甚弁べんなり。修羅しゆらに大綱つなをつけ左右に枝綱えだつないくすぢもあり、まつさきに本願寺御用木といふ幟のぼりを二本持もつ、信心の老若男女童等わらべらまでも蟻ありの如くあつまりてこれをひく。木やり音頭取おんどとり五七人花やかなる色木綿いろもめんの衣類いるゐに彩帋いろがみの麾ざい採とりて材木の上にありて木やりをうたふ。その哥うたの一ツにハア〽うさぎ〱児兎こうさぎハアヽ〽わが耳はなぜながいハアヽ〽母の胎内たいないにいた時に笹さゝの葉はをのまれてハアア〽それで耳がながい〽大持がうかんだハアア〽花の都みやこへめりだしたいく百人同音に〽いゝとう〱〽そのこゑさまさずやつてくれ〽いゝとう〱〱。

児曹こどもらが手遊の輴そりもあり。氷柱つらゝの六七尺もあるをそりにのせて大持の学びをなし、木やりをうたひ引あるきて戯れあそぶなど、暖国だんこくにはあるまじく聞きゝもせざる事なるべし。猶輴そりに種々の話はなしあれどもさのみはとてもらせり。

○ 春寒しゆんかんの力ちから

春にいたれば寒気地中より氷結いてあがる。その力礎いしずへをあげて椽えんを反そらし、あるひは踏石ふみいしをも持あぐる。冬はいかほど寒かんずるともかゝる事なし。さればこそ雪も春は凍こほりて輴そりをもつかふなれ。屋根の雪を掘ほりのけてつみ上あげおくを、里言りげんに掘揚ほりあげといふ。前にもいへり往来ゆきゝの路みちにも掘あげありて山をなすゆゑ、春雪のこほるにいたれば、この雪の山に箱梯はこばしごのごとく階だんを作つくりて往来のたよりとす。かやうの所いづかたにもあるゆゑに下踏げたの歯はに釘くぎをならべ打うちて蹉跌すべらざる為ためとす。唐土もろこしにては是を欙るゐとて山にのぼるにすべらざる履はきものとす、欙るゐ和訓わくんカンジキとあり。

○ シガ*10

冬春にかぎらず雪の気物きものにふれて霜しものおきたるやうになる、是を里言りげんにシガといふ。戸障子としやうじの隙すきよりも雪の気入りて坐敷ざしきにシガをなす時あり、此シガ朝噋あさひの温気あたゝまりをうくる処のは解とけておつる。春の頃野山の樹木きゞの下枝えは雪にうづもれたるも稍こずゑは雪の消きえたるに、シガのつきたるは玉もて作りたる枝えだのやうにて見事なるものなり。川辺かはべなどはたらく者には髪かみの毛けにもシガのつく事あり、此シガ我が塩沢しほざはにはまれなり。おなじ郡こほりの中うち小出嶋こいでしまあたりには多し、大河に近きゆゑ水気すゐきの霜となるゆゑにやあらん。

○ 初夏しよかの雪

我国の雪里地さとちは三月のころにいたれば次第しだい々々に消きえ、朝あさ々は凍こほること鉄石の如くなれども、日中ひなかは上よりも下よりもきゆる。月末にいたれば目にも留とまるほどに昨日今日きのふけふと雪の丈け低くなり、もはや雪も降ふるまじと雪囲かこひもこゝかしこ取のけ、家のほとり庭にはなどの雪をも掘ほりすつるに、雪凍りて堅かたきゆゑ雪を大鋸おほのこぎりにて大鋸○里言に大切だいぎりといふひきわりてすつる。その四角なる雪を脊負せおひあるひは担持になひもちにするなど暖国だんこくの雪とは大に異ことなり、雪に枝えだを折れじと杉丸太をそへてしばりからげおきたる庭樹にはきなども、解ときほどけばさすがに梅は雪の中に莟つぼみをふくみて春待かほなり、これ春の末なり。此時にいたりて去年十月以来このかた暗くらかりし坐敷ざしきもやう〱明あかるくなりて、盲人まうじんの眼めのひらきたる心地せられて、雛はかざれども桃の節供は名のみにて花はまだつぼみなり。四月にいたれば田圃たはたの雪も斑まだらにきえて、去年秋の彼岸ひがんに蒔まきたる野菜やさいのるゐ雪の下に萌もえいで、梅は盛をすぐし桃桜は夏を春とす。雪に埋りたる泉水せんすゐを掘ほりいだせば、去年初雪より以来このかた二百日あまり黒闇まつくらの水のなかにありし金魚きんぎよ緋鯉ひこひなんどうれしげに浮泳うかみおよぐも言ものいはゞやれ〱うれしやといふべし。五月にいたりても人の手をつけざる日蔭ひかげの雪は依然いぜんとして山をなせり、況いはんや山林幽谷さんりんいうこくの雪は三伏の暑中にも消ざる所あり。

○ 削氷けづりひ

百樹曰、余丁酉の年の晩夏豚児せがれ京水を従したがへて北越に遊あそびし時、三国嶺みくにたふげを踰こえしは六月十五日なりしに、谷の底そこに鶯をきゝて、

足あしもとに鶯を聞く我もまた谷わたりするこし越の山ぶみ

拙作せつさくなれども実境じつきやうなれば記しるす。此嶺たふげうちこし四里山径やまみち隆崛りうくつケハシクマガルして数武すぶチトノアヒダも平坦へいたんの路を践ふまず浅貝あさかひといふ駅えきに宿やどり猶なほ○二居嶺ふたゐたふげ二リ半を越こえて三俣みつまたといふ山駅さんえきに宿し、芝原嶺しばはらたふげを下り湯沢ゆさはに抵いたらんとする途みちにて遙はるかに一楹いちえいの茶店さてんを見る。庇ひさしのもとに床ゆかありて浅き箱やうのものに白く方かくなる物を置おきたるは、遠目とほめにこれ石花菜ところてんを売ならん、口には上のぼらずとおもひながらも、山をはなれて暑もはげしく汗あせもしとゞに足もつかれたれば茶店さてんあるがうれしく、京水とともにはしりいりて腰をかけ、かの白き物を見ればところてんにはあらで雪の氷なりけり。六月に氷をみる事江戸の目には最珍いとめづらしければ立よりて熟視よくみれば、深さ五寸計ばかりの箱に水をいれその中に小ちひさき踏石ふみいしほどの雪の氷をおきけり。売茶翁ちやをうるおきなに問ば、これは山蔭やまかげの谷にあるなり、めしたまはゞすゝめんといふ。さらばとて乞こひければ翁おきな菜刀なきりはうてうを把とり、盎さらのなかへさら〱と音おとして削けづりいれ、豆の粉こをかけていだせり。氷に黄きな粉こをかけたるは江戸の目には見も慣なれず可笑をかしければ、京水と相目あひもくして笑わらひをしのびつゝ、是は価あたひをとらすべし、今ひとさらづゝ豆の粉をかけざるをとて、両掛りやうがけに用意よういしたる沙糖さたうをかけたる削氷けづりひに、歯もうくばかり暑をわすれたるは珍めづらしき事いはんかたなし。

そも〱このけづり氷ひといふ物を珍味ちんみとする事古書こしよに散見さんけんせしその中に、定家卿の明月記に曰『元久二年七月廿八日途みちより和哥所わかどころに参まゐる、家隆朝臣かりうあそん唐櫃二合からひつふたつを取寄とりよせらる、○破子わりご○瓜うり○土器かはらけ○酒等さけとうあり、又寒氷かんひやうあり自みづから刀たうを取とり氷を削けづらる、興きやうに入る事甚し』本書は漢文也件くだんの元久二年乙丑より今天保十一年まで凡六百三十余年を歴へて、古人の如く削氷けづりひを越後の山村さんそんに賞味しやうみしたる事珍ちんとすべし奇とすべし。実じつに好古こうこの肝きもを清きよくす。

〔図〕fig58401_08.png
六月賣雪図

○按あんずるにひといふは冰こほりの本訓ほんくん、こほりと訓よむは寒凝こゞえこるの義なりと士清翁が和訓栞わくんかんにいへり。氷室ひむろといふ事、俳諧の季寄きよせといふものなどにもみえたれば普あまねく人ひとの知りたる事にて、周礼にもいでたれば唐土のむかしにもありしことなり。 御国みくには仁徳紀に見えたればその古きを知るべし。延喜式えんぎしきに山城国葛城郡かつらきごほりに氷室ひむろ五ヶ所をいだせり、六月朔日氷室より氷をいだして朝庭てうていに貢献こうけんするを、諸臣しよしんにも頒賜わかちたまふ事年毎としごとの例れいなるよしなり。前に引し明月記の寒氷かんひやうは朝庭よりの古例これいの賜たまものにはあるべからず、いかんとなれば削氷けずりひを賞味せられしは七月廿八日なり、六月朔日にたまはりたる氷、七月廿八日まで消きえずやあるべき。明月記は千写しや百摹もの書なれば七は六の誤あやまりとしても氷室を出いでし六月の氷朝あしたを待まつべからず。盖けだし貢献こうけんの後氷室守ひむろもりが私に出いだすもしるべからず。

○さて氷室ひむろとは厚氷あつきこほりを山蔭などの極陰ごくいんの地中に蔵置おさめおき、屋いへを作りかけて守らす、古哥にもよめる氷室守ひむろもり是なり。其氷室ひむろは水の氷こほりををさめおくやうに諸書しよしよの注釈ちゆうしやくにも見えしが、水の氷れるは不潔ふけつなり、不潔をもつて貢献こうけんにはなすべからず。且水の冰こほりは地中に在ありても消易きえやすきものなり、是これ他たなし、水は極陰の物なるゆゑ陽に感かんじ易やすきゆゑなり。我越後に削氷けづりひを視て思おもふに、かの谷間たにあひに在ありといひしは天然てんねんの氷室なり。むかしの冰室といふは雪の氷こほりむろなるべし。極陰の地に竅あなを作り、屋を造つくり掛かけ、別に清浄しやう〲の地に垣かきをめぐらして、人に踏ふませず、鳥獣てうじうにも穢けがさせず、而しかして雪を待まち、雪ふれば此地の雪をかの竅あなに撞つきこめ埋うづめ、人是を守り、六月朔日是を開ひらき、最もつとも清浄しやう〲なる所を貢献こうけんせしならん歟か。是己おのれが臆断おくだんを以て理に就ついて古いにしへの氷室を解かいするなり。

○氷室の古哥枚挙あげつくすべからず。かの削氷を賞味し玉ひたる定家に拾遺愚艸「夏ながら秋風たちぬ氷室山こゝにぞ冬をのこすとおもへば」又源の仲正に千載集「下たさゆる氷室の山のおそ桜きえのこりたる雪かとぞ見る」この哥氷室山のおそ桜を消残きえのこりたる雪に見たてたる一首の意こゝろ、氷室は雪の氷なるべくぞおもはるゝ。今加州侯毎年六月朔日雪を献けんじ玉ふも雪の氷なり。これにても古いにしへの氷室は雪の氷なるをおもふべし。

○さてかの茶店さてんにて雪の氷をめづらしとおもひしに、その次日より塩沢しほざはの牧之ぼくし老人が家に在ありしに、日毎に氷々こほり〱とよびて売来る、山家やまがの老婆らうばなどなり。掌こぶしほどなるを三銭にうる、はじめは二三度賞味せしがのちには氷ともおもはざりき。およそ物の得えがたきは珍めづらしく、得易えやすきはめづらしからざるは人情にんじやうの恒つねなり。塩沢に居て六月の氷のめづらしからざりしをおもへば、吉野の人はよしのゝ花ともおもはず、松嶋の人は松嶋の月ともおもふまじ。たゞいつまでも飽あかざる物は孝心なる我子の顔かほと、蔵置をさめおく黄金こがねの光ひかりなるべし。

○ 雪の多少たせう

越後国南は上州に隣となる魚沼郡うをぬまごほりなり。東は奥州羽州へ隣となる蒲原郡かんばらごほり岩船いはふね郡なり。国堺くにさかひはいづれも連山波濤れんざんはたうをなすゆゑ雪多し。東北は鼠ねずみが関岩船郡の内出羽のさかひ西にしは市振いちふり頸城郡の内越中の堺に至いたるの道八十里が間都すべて北の海浜かいひんなり。海気によりて雪一丈にいたらず年によりて多少あり又消きゆるも早し。頸城くびき郡の高田は海を去さる事遠からざれども雪深し。文化のはじめ大雪の時高田の市中町のながさ一リにあまる雪に埋うづまりて闇夜あんやのごとく、昼夜ちうやをわかたざる事十余日、市中燈ともしびの油尽つきて諸人難義せしに、御領主りやうしゆより家毎に油を賜たまひし事ありき。此時我塩沢も大雪にて、夜昼をしらず家雪にうづまりて日光を見ざる事十四五日連日ふゞきなるゆゑ雪をほる事ならず家うづまりてくらきなり人気欝悶うつもんして病をなすにいたれるもありけり。

百樹曰、余牧之老人が此書の稿本かうほんに就つきて増修ぞうしうの説せつを添そへ、上梓じやうしホンニスルの為ために傭書ようしよハンシタカキへ授さづくる一本を作るをりしも、老人が寄よせたる書中に、

「当年は雪遅おそく冬至に成候ても駅中えきちゆうの雪一尺にたらず、此日次ひなみにては今年は小雪ならんと諸人一統悦び居候所に廿四日十一月なり黄昏たそがれより降ふりいだし、廿五六七八九日まで五日の間昼夜ちうやにつもる事およそ一丈四五尺にもおよび申候。毎年の事ながら不意の大雪にて廿七日より廿九日まで駅中えきちう家毎の雪掘ぼりにて混雑こんざついたし、簷外えんぐわい急たちまち玉山を築きづき戸外へもいでがたく悃こまり申候。今日も又大雪吹ふゞきに相成、家内暗くらく蝋燭らふそくにて此状をしたゝめ申候。何程可降哉ふるべくや難計はかりがたく一同心痛いたし居申候」下略是当年天保十亥とし十一月廿九日出の尺翰てがみなり。此文をもつても越後の雪を知るべし。

○余越後の夏に遇あひしに、五穀こく蔬果そくわの生育そだち少しも雪を畏おそれたる色なし。山景野色さんけいやしよくも雪ありしとはおもはれず、雪の浅き他国に同じ。五雑組ござつそに天部百草雪を畏おそれずして霜を畏る。盖けだし雪は雲に生しやうじて陽位やうゐ也、霜は露つゆに生じて陰位いんゐ也といへり。越後の夏を視みて謝肇淛しやでうせつが此説せつに伏ふくせり。

○ 浦佐うらさの堂押だうおし

我住塩沢より下しも越後の方へ二宿越こえて六日町五日町浦佐うらさといふ宿あり。こゝに普光寺ふくわうじといふ真言宗あり、寺中に七間四面の毘沙門堂びしやもんだうあり。伝つたへていふ、此堂大同二年の造営ざうえいなりとぞ。修復しゆふくの度毎たびごとに棟札むねふだあり、今猶歴然れきぜんと存そんす。毘沙門の御丈みたけ三尺五六寸、往古わうご椿沢つばきざはといふ村に椿の大樹たいじゆありしを伐て尊像そんざうを作りしとぞ。作名さくめいは伝つたはらずときゝぬ。像材ざうざい椿なるをもつて此地椿を薪たきゞとすればかならず祟たゝりあり、ゆゑに椿を植うゑず。又尊灵そんれい鳥を捕とるを忌いみ玉ふ、ゆゑに諸鳥寺内に群ぐんをなして人を怖おそれず、此地の人鳥を捕かあるひは喰くらへば立所たちどころに神罰しんばつあり。たとひ遠郷ゑんきやうへ聟むこ娵よめにゆきて年を歴へても鳥を喰しよくすれば必凶応あしきことあり、灵験れいげんの煕々あきらかたる事此一を以て知るべし。されば遠郷ゑんきやう近邑きんいう信仰しんかうの人多し。むかしより此毘沙門堂に於て毎年正月三日の夜に限かぎりて堂押だうおしといふ事あり、敢あへて祭式さいしきの礼格れいかくとするにはあらねど、むかしより有来ありきたりたる神事じんじなり。正月三日はもとより雪道なれども十里廿里より来りて此浦うら佐に一宿し、此堂押だうおしに遇あふ人もあれば近村きんそんはいふもさらなり。*11

〔図〕fig58401_09.png
佐浦詣堂押圖

○さて押おしに来きたりし男女まづ普光寺ふくわうじに入りて衣服いふくを脱了ぬぎすて、身に持たる物もみだりに置棄おきすて、婦人ふじんは浴衣ゆかたに細帯ほそおびまれにははだかもあり、男は皆裸はだかなり。燈火ともしびを点てんずるころ、かの七間四面の堂にゆかた裸はだかの男女推おし入りて、錐きりをたつるの地なし。余よも若かりしころ一度此堂押にあひしが、上へあげたる手を下へさぐる事もならざるほどに逼せまり立たちけり。押おすといふは誰たれともなくサンヨウ〱と大音だいおんに呼よばはる声こゑの下に、堂内に充満みち〱たる老若男女ヲヽサイコウサイとよばはりて北より南へどろ〱と押、又よばはりて西より東へおしもどす。此一おしにて男女倶ともに元結もとゆひおのづからきれて髪かみを乱みだす㕝甚奇きなり。七間四面の堂の内に裸はだかなる人こみいりてあげたる手もおろす事ならぬほどなれば、人の多さはかりしるべし。此諸人の気息いき正月三日の寒気ゆゑ烟けふりのごとく霧きりのごとく照てらせる神燈じんとうもこれが為ために暗くらく、人の気息いき屋根うらに露つゆとなり雨のごとくに降ふり、人気破風はふよりもれて雲の立のぼるが如し。婦人稀まれには小児を背中せなかにむすびつけて押おすも有あれども、この小児啼なくことなきも常とするの不思議ふしぎなり。況いはんや此堂押にいさゝかも怪瑕けがをうけたる者むかしより一人もなし。婦人のなかには湯具ゆぐばかりなるもあれど、闇処くらきところに噪雑わやくやして一人もみだりがましき事をせず、これおの〱毘沙門天びしやもんでんの神罰しんばつを怖おそるるゆゑなり。裸はだかなる所以ゆゑんは人気じんきにて堂内の熱ねつすること燃もゆるがごとくなるゆゑ也。願望ぐわんまうによりては一里二里の所より正月三日の雪中寒気肌はだへを射いるがごときをも厭いとはず、柱はしらのごとき氷柱つらゝを裸身はだかみに脊負せおひて堂押にきたるもあり。二タおし三おしにいたればいかなる人も熱あつきこと暑中のごときゆゑ、堂のほとりにある大なる石の盥盤てうづばちに入りて水を浴あび又押に入るもあり。一ト押おしては息いきをやすむ、七押七踊をどりにて止やむを定さだめとす。踊をどりといふも桶をけの中うちに芋いもを洗あらふがごとし。ゆゑに人みな満身みうちに汗あせをながす。第七をどり目にいたりて普光寺ふくわうじの山長やまをとこ耕夫さくをとこの長をいふ手に簓さゝらを持もち、人の手輦てぐるまに乗のりて人のなかへおし入り大音だいおんにいふ。「毘沙門さまの御前おんまへに黒雲くろくもが降さがつたモウ」 衆人おほぜい「なんだとてさがつたモウ」山男「米よねがふるとてさがつたモウ」とさゝらをすりならす。此さゝら内へ摺すれば凶作きようさくなりとて外そとへ〱とすりならす。又志願しぐわんの者兼かねて普光寺ふくわうじへ達しおきて、小桶に神酒みきを入れ盃さかづきを添そへて献けんず。山男挑燈てうちんをもたせ人をおしわくる者廿人ばかりさきにすゝみて堂に入る。此盃手に入れば幸さいはひありとて人の濤なみをなして取んとす。神酒みきは神に供くうずる状かたちして人に散ちらし、盃は人の中へ擲なぐる、これを得えたる人は宮を造つくりて祭まつる、其家かならずおもはざるの幸福あり。此てうちんをも争あらそひ奪うばふにかならず破やぶる、その骨ほね一本たりとも田の水口みなくちへさしおけば、この水のかゝる田は熟実みのりよく虫のつく事なし。神灵しんれいのあらたかなる事あまねく人の知る所なり。神事じんじをはれば人々離散りさんして普光寺に入り、初はじめ棄置すておきたる衣類いるゐ懐中くわいちゆう物を視みるに鼻帋はながみ一枚だに失うする事なし、掠かすむれば即座そくざに神罰しんばつあるゆゑなり。

○さて堂内人散さんじて後、かの山長やまをとこ堂内に苧幹をがらをちらしおく㕝例れいなり。翌朝よくてう山長おとこ神酒みき供物くもつを備そなふ、後うしろさまに進すゝみて捧さゝぐ、正面にすゝむを神の忌いみ給ふと也。昨夜さくやちらしおきたる苧幹をがら寸断ずた〱に折をれてあり、是これ人ひと散さんじてのち諸神しよじんこゝに集あつまりて踊をどり玉ふゆゑ、をがらを踏ふみをり玉ふなりといひつたふ。神事かみごとはすべて児戯じぎに似にたること多し、しかれども凡慮ぼんりよを以て量識はかりしるべからず。此堂押に類るゐせし事他国にもあるべし、姑しばらく記しるして類るゐを示しめす。

北越雪譜二編巻之一 終

北越雪譜二編 巻二

北越   鈴木牧之  編選

江戸   京山人百樹 増修

○ 雪頽なだれに熊くまを得うる

酉陽雑俎いうやうざつそに云いふ、熊胆ゆうたん春は首くびに在あり、夏は腹はらに在り、秋は左の足にあり、冬は右の足にありといへり。余よ試こゝろみに猟師かりうどにこれを問とひしに、熊くまの胆きもは常に腹はらにありて四時しじ同じといへり。盖けだし漢土かんどの熊くまは酉陽雑俎いうやうざつその説せつのごとくにや。凡およそ猟師れふし山に入りて第一だいいちに欲ほつする処ところの物は熊なり。一熊いちゆうを得うればその皮とその胆きもと大小にもしたがへども、大おほかたは金五両以上にいたるゆゑに猟師れふしの欲ほつするなり。しかれども熊は猛たけく、且かつ智ちありて得うるに易やすからず。雪中の熊は皮かはも胆きもも常に倍ばいす、ゆゑに雪に穴居けつきよするを尋たづね捜さがし、猟師れふしども力ちからを戮あはせてこれを捕とるに種々しゆ〲の術じゆつある事初編しよへんに記しるせり。たま〱一熊いちゆうを得うるとも其儕そのともがらに価あたひを分わかつゆゑ利得りとく薄うすし、さればとて雪中の熊は一人ひとりの力ちからにては得事うること難かたしとぞ。

○茲ここに吾わが住すむ近在きんざいに后谷村ごやむらといふあり。此村の弥左ヱ門といふ農夫のうふ、老おいたる双親ふたおや年頃としごろのねがひにまかせ、秋のはじめ信州善光寺へ参詣さんけいさせけり。さてある日用ありて二里ばかりの所へゆきたる留守るす、隣家りんかの者過あやまちて火を出いだしたちまち軒のきにうつりければ、弥左ヱ門が妻つま二人ふたりの小児こどもをつれて逃去にげさり、命いのち一ツを助たすかりたるのみ、家財かざいはのこらず目前もくぜんの烟けむりとなりぬ。弥左ヱ門は村に火災くわさいありときゝて走皈はせかへりしに、今朝けさ出いでし家は灰はひとなりてたゞ妻子つまこの无㕝ぶじをよろこぶのみ。此夫婦ふうふ心こゝろ正直しやうぢきにして親おやにも孝心かうしんなる者ゆゑ、人これを憐あはれみまづしばらく我わが家に居をるべしなど奨すゝむる富農ふのうもありけるが、われ〱は奴僕ぬぼくの業わざをなしても恩おんに報むくゆべきが、双親ふたおや皈かへり来りて膝ひざを双ならべて人の家に在あらんは心も安からじとて諾うけがはず。竊ひそかに田地でんぢを分わかちて質入しちいれなしその金にて仮かりに家を作り、親も皈かへりて住すみけり。草くさを刈かる鎌かまをさへ買求かひもとむるほどなりければ、火の為ために貧まづしくなりしに家を焼やきたる隣家りんかへ対むかひて一言いちごんの恨うらみをいはず、交まじはり親したしむこと常にかはらざりけり。かくてその年もくれて翌年よくとしの二月のはじめ、此弥左ヱ門山に入いりて薪たきゞを取りしかへるさ、谷に落おちたる雪頽なだれの雪の中なかにきは〱しく黒くろき物もの有あり、遙はるかにこれを視みて、もし人のなだれにうたれ死したるにやと辛からうじて谷に下り、是これを視みれば稀有けうの大熊雪頽なだれに打殺うちころされたるなりけり。此雪頽なだれといふ事初編しよへんにもくはしく記しるしたるごとく、山に積つもりたる雪二丈にもあまるが、春の陽気やうき下したより蒸むして自然しぜんに砕くだけ落おつる事大磐石だいばんじやくを転まろばしおとすが如し。これに遇あへば人馬はさらなり、大木大石もうちおとさる。されば此熊もこれにうたれしゝたるなり。弥ざゑもんはよきものをみつけたりと大に悦よろこび、皮かはも胆きももとらんとおもひしが、日も西に傾かたぶきたれば明日あすきたらんとて人の見つけざるやうに山刀やまがたなにて熊を雪に埋うづめかくし、心に目しるしをして家にかへり親おやにもかたりてよろこばせ、次のあした皮かはを剥はぐべき用意をなしてかしこにいたりしに胆きもは常に倍ばいして大なりしゆゑ、弁当べんたうの面桶めんつうに入れて持かへりしを人ありて皮かはを金一両胆きもを九両に買かひけり。弥ざゑもんはからず十両の金を得えて質しち入れせし田地をもうけもどし、これより屡しば〱幸さいはひありてほどなく家もあらたに作りたていぜんにまさりて栄さかえけり。弥左ヱ門が雪頽なだれに熊を得たるは金一釜きんいつふを掘得ほりえたる孝子かうしにも比ひすべく、年頃としごろの孝心かうしんを天てんのあはれみ玉ひしならんと人々賞しやうしけりと友人いうじん谷鴬翁こくあうをうがかたりき。

○ 雪頽なだれの難なん

吾が住すむ塩沢しほざはは下組したぐみ六十八ヶ村の郷元がうもとなれば、郷元を与あづかり知る家には古来こらいの記録きろくも残のこれり。其旧記きうきの中なかに元文五年庚申今より百年まへ正月廿三日暁あかつき、湯沢宿ゆざはしゆくの枝えだ村掘切村ほりきりむらの后うしろの山より雪頽なだれ不意ふいに押落おしおとし、其响そのひゞき百雷らいの如く、百姓彦右ヱ門浅右ヱ門の両家りやうけなだれにうたれて家つぶれ、彦右ヱ門并に馬一疋即死そくし、妻さいと嗣息せがれは半死半生、浅右ヱ門は父子即死、妻さいは梁うつばりの下に圧おされて死にいたらず。此時 御領主より彦右ヱ門息せがれへ米五俵、浅右ヱ門妻さいへ米五俵賜たまはりし事を記しるしあり。此魚沼郡うをぬまこほりは大郡たいぐんにて 会津侯御預あづかりの地なり。元文の昔も今も 御領内ごりやうないの人民じんみんを怜あはれみ玉ふ事仰あふぐべく尊たつとむべし。そのありがたさを吾が后のちへも示しめさんとて筆ふでの序ついでにしるせり。近年は山家の人、家を作るに此雪頽なだれを避さけて地を計はかるゆゑその難なんまれなれども、山道やまみちを往来ゆきゝする時なだれにうたれ死するもの間まゝある事なり。初編しよへんにもいへるが如く、○ホウラは冬にあり、雪頽なだれは春にあり。他国の人越後に来りて山下さんかを往来わうらいせばホウラなだれを用心すべし。他国の人これに死したる石塔せきたふ今も所々にあり、おそるべし〱。

○ 雪中せつちゆうの葬式さうしき

吾が国に雪吹ふゞきといへるは、猛風まうふう不意ふいに起おこりて高山平原かうざんへいげんの雪を吹散ふきちらし、その風四方にふきめぐらして寒雪かんせつ百万の箭やを飛とばすが如く、寸隙すんげきの間あひだをも許ゆるさずふきいるゆゑ、ましてや往来ゆきゝの人は通身みうち雪に射いられて少時すこしのまに半身はんしん雪ゆきに埋うづめられて凍死こゞえしする㕝、まへにもいへるがごとし。此ふゞきは晴天せいてんにも俄にはかにおこり、二日も三日も雪あれしてふゞきなる事あり、往来ゆきゝもこれが為ためにとまること毎年なり。此時に臨のぞんで死亡しばうせしもの、雪あれのやむを待まつも程ほどのあるものゆゑ、せんかたなく雪あれを犯をかして棺くわんを出いだす事あり。施主せしゆはいかやうにもしのぶべきが他人たのひとの悃苦こまる事見るもきのどくなり、これ雪国に一ツの苦状くぢやうといふべし。我われ江戸に逗留とうりうせしころ、旅宿りよしゆくのちかきあたりに死亡ありて葬式さうしきの日大嵐あらしなるに、宿やどの主あるじもこれに往ゆくとて雨具あまぐきびしくなしながら、今日けふの仏ほとけはいかなる因果いんくわものぞや、かゝる嵐あらしに値あひて人に難義なんぎをかくるほどなればとても極楽ごくらくへはゆかるまじ、などつぶやきつゝ立いづるを見て、吾が国の雪吹ふゞきに比くらぶればいと安しとおもへり。

○ 竜燈りうとう

筑紫つくしのしらぬ火といふは古哥にもあまたよみて、むかしよりその名たかくあまねく人のしる所なり。その然もゆるさまは春暉しゆんきが西遊記さいいうき*12にしらぬ火を視みたりとて、詳つまびらかにしるせり。其しらぬ火といふも世にいふ竜燈りうとうのたぐひなるべし。我国蒲原郡かんはらこほりに鎧潟よろひがたとて里言に湖を潟と云東西一里半、南北ヘ一里の湖水こすゐあり、毎年二月の中の午の日の夜、酉の下刻より丑の刻頃まで水上に火燃もゆるを、里人は鎧潟よろひがたの万燈とて群あつまり観みる人多し。余よが友人いうじんこれをみたるをきゝしに、かの西遊記にしるしたるつくしのしらぬ火とおなじさまなり。近年湖水こすゐを北海へおとし新田となりしゆゑ、湖中こちゆうの万燈とうも今は人家じんかの億燈おくとうとなれり。又我国の八海山はつかいさんは巓いたゞきに八ツの池あり、依て山の名とす。絶頂ぜつちように八海大明神の社あり、八月朔日を縁日とし山にのぼる人多し。此夜にかぎりて竜燈りうとうあり、其来る所を見たる人なしといふ。およそ竜燈といふものおほかたは春夏秋なり。諸国にある㕝諸書にしるしたるを見るに、いづれもおなじさまにて海よりも出いで、山よりもくだる。毎年其日其刻限こくげん、定りある事甚奇異きいなり。竜神より神仏へ供くうと云いふが普通ふつうの説せつなれど、こゝに珎めづらしき竜燈りうとうの談あり、少しく竜燈を解げすべき説なれば姑しばらくしるして好事家かうずかの茶話ちやわに供きようす。

我国わがくに頸城郡くびきこほり米山よねやまの麓ふもとに医王山いわうさん米山寺べいさんじは和同年中の創草さう〱なり。山のいたゞきに薬師堂あり、山中女人を禁きんず。此米山の腰を米山嶺たふげとて越後北海の駅路えきろなり、此辺ほとり古跡こせき多し。余よ先年其古跡を尋たづねんとて下しも越後にあそびし時、新道しんだう村の長をさ飯塚知義いひつかともよしの話はなしに、一年ひとゝせ夏の頃雩あまこひの為ために村の者どもを从したがへ米山よねやまへのぼりしに、薬師やくしへ参詣の人山こもりするために御鉢おはちといふ所に小屋二ツあり、その小屋へ一宿しゝに是この日は六月十二日にて此御鉢といふ所へ竜燈りうとうのあがる夜なり。おもひまうけずして竜燈をみる事よとて人々しづまりをりしに、酉の刻とおもふ頃、いづくともなくきたりあつまりしに、大なるは手鞠てまりの如く、小なるは雞卵たまごの如し。大小ともに此御鉢はちといふあたりをさらずして、飛行ひぎやうする㕝あるひはゆるやか、あるひははしる、そのさま心ありて遊あそぶが如し。其光ひかりは螢火ほたるひの色に似にたり。つよくも光り、よはくもひかるあり。舞まひめぐりてしばらくもとゞまるはなく、あまたありてかぞへがたし。はじめより小やの入り口を閉とざし、人々ひそまりて覗のぞきゐたれば、こゝに人ありともおもはざるやうにて、大小の竜燈りうとう二ツ三ツ小屋のまへ七八間さきにすゝみきたりしを、かれがひかりにすかしみれば、形かたち鳥のやうに見えて光りは咽のどの下より放はなつやうなり。猶近なほちかくよらばかたちもたしかに視みとゞけんとおもひしに、ちかくはよらずしてゆるやかに飛めぐれり。此夜は山中さんちゆうに一宿の心得えなれば心用の為ために筒つゝをも持もたせしに、手てたれの上手しかも若ものなりしが光りを的まとにうたんとするを、老人ありてやれまてとおしとゞめ、あなもつたいなし、此竜燈は竜神より薬師如来へさゝげ玉ふなり。罰ばちあたりめと叱しかりたる声に、竜燈はおどろきたるやうにてはるか遠く飛さりしと知義ともよし語かたられき。

○ 芭蕉翁はせををうが遺墨ゐぼく

およそ越後の雪をよみたる哥うたあまたあれども、越雪こしのゆきを目前もくぜんしてよみたるはまれなり。西行さいぎやうが山家集さんかしふ、頓阿とんあが草菴集さうあんしふにも越後の雪の哥なし、此韻僧ゐんそうたちも越地の雪はしらざるべし。俊頼朝臣としよりあそんに「降雪ふるゆきに谷たにの俤おもかげうづもれて稍こずゑぞ冬の山路やまぢなりける」これらは実じつに越後の雪の真景しんけいなれども、此あそん越後にきたり玉ひしにはあらず、俗ぞくにいふ哥人かじんは居ゐながら名所めいしよをしるなり。 伊達政宗卿だてまさむねきやうの御哥に「さゝずとも誰たれかは越こえん関せきの戸とも降ふりうづめたる雪ゆきの夕暮ぐれ」又「なか〱につゞらをりなる道みち絶たえて雪に隣となりのちかき山里」此君は御名たかき哥仙かせんにておはしまししゆゑ、かゝるめでたき御哥もありて人の口碑こうひにもつたふ。雪の実境じつきやうをよみ玉ひしはしろしめす御ン国も深雪みゆきなればなり。芭蕉翁が奥おくに行脚あんぎやのかへるさ越後に入り、新潟にひがたにて「海に降ふる雨や恋こひしきうき身宿みやど」寺泊てらどまりにて「荒海あらうみや佐渡さどに横よこたふ天の川」これ夏秋の遊杖いうぢやうにて越後の雪を見ざる事必ひつせり。されば近来も越地に遊ぶ文人墨客ぶんじんぼくかくあまたあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて故郷ふるさとへ逃皈にげかへるゆゑ、越雪の詩哥しいかもなく紀行きかうもなし。稀まれには他国の人越後に雪中するも文雅ぶんがなきは筆にのこす事なし。吾が国三条の人崑崙こんろん山人、北越奇談を出板せしが六巻絵入かな本文化八年板一辞半言いちじはんげんも雪の事をしるさず。今文運ぶんうん盛さかんにして新板湧わくがごとくなれども日本第一の大雪なる越後の雪を記しるしたる書しよなし。ゆゑに吾が不学ふがくをも忘わすれて越雪ゑつせつの奇状きぢやう奇蹟きせきを記して後来こうらいに示しめし、且越地ゑつちに係かゝりし事は姑しばらく載のせて好事かうずの話柄わへいとす。

〔図〕fig58401_10.png
芭蕉翁訪凍雲圖

さて元禄の頃ころ高田の御城下に細井昌庵ほそゐしやうあんといひし医師ありけり。一に青庵といひ、俳諧はいかいを善よくして号がうを凍雲とううんといへり。ひとゝせはせを翁奥羽あんぎやのかへり凍雲とううんをたづねて「薬欄やくらんにいづれの花を草枕くさまくら」と発句ほつくしければ、凍雲とううんとりあへず「萩はぎのすだれを巻まきあぐる月」此時のはせをが肉筆にくひつ二枚ありて一枚は書損しよそんと覚しく淡墨うすゞみをもつて一抹ひとふでの痕あとあり、二枚ともに昌庵主しやうあんぬしの家につたへしを、后のちに本書しよは同所の親族しんぞく三崎屋吉兵衛の家につたへ、書損しよそんのは同所五智如来の寺にのこれり。しかるに文政のころ此地の 邦君はうくん風雅ふうがをこのみ玉ひしゆゑ、かの二枚持主もちぬしより奉りければ、吉兵ヱヘ常信つねのぶの三幅対に白銀五枚、かの寺へもあつき賜ありて、今二枚ともに 御蔵ござうとなりぬと友人葵亭きてい翁がものがたりしつ。葵亭翁は蒲原郡かんばらごほり加茂明神の修験しゆげん宮本院名は義方吐醋よしかたとさくと号がうし、又無方斎むはうさいと別号べつがうす、隠居いんきよして葵亭きていといふ。和漢わかんの博識はくしき北越の聞人なたかきひとなり。芭蕉が件くだんの句ものに見えざればしるせり。

百樹もゝき曰、芭蕉居士こじは寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩はんに生る。次男なり寛文六年歳廿四にして仕絆しはんを辞じし、京にいでゝ季吟きぎん翁の門に入り、書しよを北向雲竹きたむきうんちくに学まなぶ。はじめ宗房むねふさといへり、季吟翁の句集くしふのものにも宗房とあり。延宝えんはうのすゑはじめて江戸に来り杉風さんふうが家に寄よる、小田原町鯉屋藤左ヱ門剃髪ていはつして素宣そせんといへり、桃青たうせいは后のちの名なり。芭蕉はせをとは草庵さうあんに芭蕉を植うゑしゆゑ人よりよびたる名の后のちには自みづから号がうによべり。翁の作に芭蕉を移辞うつすことばといふ文あり、その終をはりの辞ことばに「たま〱花さくも花やかならず茎太くきふとけれども斧をのにあたらず、かの山中不材ふさいの類木るゐぼくにたぐへてその性よし。僧そう懐素くわいそは是に筆を走はしらし張横渠ちやうくわうきよは新葉しんえふを見て修学しゆがくの力ちからとせしとなり。予よその二ツをとらず。たゞ此蔭かげに遊びて風雨に破やぶれ易やすきを愛あいす「はせを野分のわきして盥たらひに雨をきく夜哉」此芭蕉庵の旧蹟きうせきは深ふか川清澄町きよすみちやう万年橋の南詰づめに対むかひたる今或侯あるこうの庭中ていちゆうに在り、古池の趾あと今に存せりとぞ。余芭蕉年表一名はせを年代記といふものを作せり、書肆しよし刻こくを乞ども考証未レ足ゆゑに刻をゆるさず翁おきな身を世外せいぐわいに置おきて四方に雲水うんすゐし、江戸に趾あとをとゞめず。終つひには元禄七年甲戊十月十二日「旅たびに病やみて夢ゆめは枯埜かれのをかけ廻めぐる」の一句をのこして浪花の花屋が旅囱りよさうに客死かくしせり。是挙世きよせいヨノナカの知る処なり。翁が臨終りんじゆうの事は江州粟津の義仲寺にのこしたる榎本其角が芭蕉終焉記しゆうえんきに目前視るが如くに記しるせり。此記を視みるに翁いさゝか菌キノコ毒きんどくにあたりて痢りとなり、九月晦日より病に臥ふし、僅わづかに十二日にして下泉かせんせり。此時病床びやうじやうの下もとにありし門人○木節もくせつ翁に薬をあたへたる医なり○去来きよらい○惟然ゐねん○正秀せいしう○之道しだう○支考しかう○呑舟どんしう○丈草ぢやうさう○乙州おつしう○伽香かかう以上十人なり。其角は此時和泉の淡あはの輪わといふ所にありしが、翁大坂にときゝて病ともしらずして十日に来り十二日の臨終りんじゆうに遇あへり、奇遇きぐうといふべし。以上終焉記を摘要す其角が終焉記の文中に此記義仲寺に施板ありて人の乞ふにあたふ、俳人はかならずみるべき書なり『義仲寺にうつして葬礼義信を尽つくし京大坂大津膳所ぜゞの連衆れんじゆう被官ひくわん従者ずさまでも此翁の情なさけを慕したへるにこそ招まねかざるに馳来はせきたる者三百余人なり。浄衣じやうえその外智月と百樹云、大津の米屋の母、翁の門人乙州が妻縫ぬひたてゝ着せまゐらす』又曰『二千余よ人の門葉辺遠もんえふへんゑんひとつに合信かつしんする因ちなみと縁えんとの不可思議ふかしぎいかにとも勘破かんはしがたし』百樹おもへらく、孔子に三千の門人ありて門に十哲てつをいだす。芭蕉に二千の門葉ありて、庵あんに十哲とよぶ門人あり。至善しぜんの大道たいだうと遊芸いうげいの小技せうぎと尊卑そんひの雲泥うんでいは論におよばざれども、孔子七十にして魯国ろこくの城北しろのきた泗上に葬はうふりて心喪こゝろのもを服ふくする弟子でし三千人、芭蕉五十二にして粟津の義仲寺に葬はうむる時招まねかざるに来る者三百余人、是以こゝをもつて人に師たるの徳ありしをおもふべし。盖けだし芭蕉の盆石ぼんせきが孔夫子の泰山たいさんに似たるをいふなり。芭蕉曾かつて駔儈そくわいウルコヽロの風ふう軽薄けいはくの習しふ少しもなかりしは吟咏ぎんえい文章ぶんしやうにてもしらる。此翁は其角がいひしごとく人の推慕すゐぼする事今に於も不可思議ふかしぎの奇人きじんなり。されば一句く一章しやうといへども人これを句碑くひに作りて不朽ふきうに伝つたふる事今猶なほ句碑くひのあらざる国なし。吟海ぎんかいの幸祥かうしやう詞林しりんの福禎ふくてい文藻ぶんさうに於て此人の右に出る者なし。されば本文にもいへるごとくかりそめにいひすてたる薬欄やくらんの一句の墨痕ぼくこんも百四十余年の后のちにいたりて文政の頃白銀の光りをはなつぞかし、論外不思議ろんぐわいふしぎといふべし。蜀山先生嘗かつて謂予よにいつて曰いはく、凡およそ文墨ぶんぼくをもつて世に遊ぶ者もの画は論せず、死後しごにいたり一字一百銭に当あてらるゝ身とならば文雅ぶんがの幸福足たるべしといはれき。此先生は今其幸福あり、一字一百銭に当あてらるゝ事嗟乎あゝ難かたいかな。

○さてまた芭蕉が行状小伝ぎやうぢやうせうでんは諸書しよしよに散見さんけんして普あまねく人の知る所なり、しかれども翁おきなの容㒵かほかたちは挙世きよせい知る人あるべからず。されば爰こゝに一証を得えたるゆゑ、此雪譜せつふに記載きさいして后来こうらいに示しめすは、かゝる瑣談さだんチヒサイハナシも世に埋冤まいゑんウヅマルせん事のをしければ、いざ然さらばとて雪に転ころばす筆の老婆心らうばしんなり。

○こゝに二代目市川団十郎初代段だん十郎のち団に改むの俳号はいがうを嗣ついで才牛といふ。后のちに柏筵はくえんとあらたむ。元文元年なり此柏筵はくえんは、○正徳○享保○元文○寛保を盛さかんに歴へたる名人なり。妻つまをおさいといひ、俳名を翠仙すゐせんといふ、夫婦ともに俳諧を能よくし文雅ぶんがを好このめり。此柏筵はくえんが日記のやうに書残かきのこしたる老おいの楽たのしみといふ随筆ずゐひつあり。二百四五十帋の自筆なり嘗かつて梱シキヰ外こんぐわいへ出いださゞりしを、狂哥堂真顔翁珎書ちんしよなれば懇望こんまうしてかの家より借りたる時余よも亡兄ばうけいとともに読よみしことありき。そのなかに芝居土用やすみのうち柏筵はくえん一蝶が引船の絵の小屏風を風入れする旁かたはらにて、人参にんじんをきざみながら此絵にむかしをおもひいだして独言ひとりごといひたるを記しるしたる文に「我れ幼年えうねんの頃ころはじめて吉原を見たる時、黒羽二重に三升の紋つけたるふり袖を着きて、右の手を一蝶にひかれ左りを其角にひかれて日本堤づゝみを往ゆきし事今に忘わすれず。此ふたりは世に名をひゞかせたれど今はなき人なり。我は幸に世にありて名もまた頗すこぶる聞きこえたり中略今日小川破笠老はりつらうまゐらる。むかしのはなしせられたるなかに、芭蕉翁はほそおもてうすいもにていろ白く小兵なり。常つねに茶のつむぎの羽織をきられ、嵐雪らんせつよ、其角が所へいてくるぞよとものしづかにいはれしとかたられたり」此文はせをを今目前に見るが如し。翁の門人惟然が作といふ翁の肖像あるひは画幅の肖像、世に流伝するものと此説とあはせ視るべし小川破笠俗称平助壮年さうねんの頃ころ放蕩はうたうにて嵐雪と倶ともに俗称服部彦兵ヱ其角が堀江町の居きよに食客しよくかくたりし事、件くだんの老おいの楽たのしみ又破笠が自記じきにも見ゆ。破笠一に笠翁また卯観ばうくわん子、夢中庵むちゆうあん等の号あり。絵ゑを一蝶に学まなび、俳諧は其角を師とす。余が蔵する画幅に延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四筆ふでとあり。描金まきゑを善よくして人の粕かすをなめず、別に一趣いつしゆの奇工きこうを為なす。破笠はりつ細工とて今に賞しやうせらる。吉原の七月創はじめて機燈からくりとうろを作りて今に其余波よはを残のこせり、伝でん詳つまびらかなれどもさのみはとてもらせり。

○ 化石渓くわせきたに

東游記とういうきに越前国大野領の山中に化石渓くわせきたにあり。何物にても半月あるひは一ヶ月此渓たにに浸ひたしおけばかならず石に化す、器物きぶつはさらなり紙一束そく藁わらにてむすびたるが石に化くわしたるを見たりとしるせり。我が越後にも化石渓あり、魚沼郡うをぬまこほり小出こいでの在ざい羽川はかはといふ渓たに水へ蚕かひこの腐くさりたるを流ながししが一夜にして石に化くわしたりと友人いうじん葵亭翁きていをうがかたられき。かの大野領の化石渓は東游記の為ために名な高たかけれども我が国の化石渓は世にしられず、又近江の石亭が雲根志うんこんし変化の部に前編人あり語云、越後国大飯郡おほひこほりに寒水滝かんすゐたきといふあり、此処深山幽谷しんさんいうこくにして沍寒こかんツヨクサムキの地なり。此滝坪つぼへ万物を投なげこめおくに百日を過すぐさずして石に化すとぞ、滝坪の近所にて諸木の枝葉又は木の実みその外生類しやうるゐまでも石に化たるを得るとぞ。予よ去る頃此滝の石を取よせし人ありて見るに、常の石にあらず全躰ぜんたい鐘乳しようにうなり、木の葉など石中にふくむ則すなはち石なり。雲林石譜うんりんせきふにいふ鐘乳しようにうの転化てんくわして石になるならん云云。牧之ぼくし案あんずるに、越後に大飯郡おほひごほりなし又寒水滝かんすゐたきの名もきかず。人あり語かたるとあれば伝聞でんぶんの誤あやまりなるべし。盖けだし北越奇談ほくゑつきだんに会津あひづに隣となる駒こまが岳たけの深谷しんこくに入ること三里にして化石渓くわせきたにと名付る処あり、虫羽ちゆうう草木といへども渓たにに入りて一年を歴ふればみな化して石となる。其その川甚苦寒くかんにして夏も渉わたるべからざるが如し。又蘇門岳そもんがたけの北下田郷しただがうの深谷しんこくにも化石渓くわせきたにあり云々。雲根志うんこんしの説せつはこれらの所を聞誤きゝあやまりたるならん。

○ 亀の化石くわせき

吾が同郡どうぐん岡をかの町まちの旧家きうか村山藤左ヱ門は余よが壻むこの兄なり。此家に先代より秘蔵ひさうする亀の化石くわせきあり、伝つたへていふ、近ちかき山間さんかんの土中より掘得ほりえしといふ、実じつに化石の奇品きひんなり、茲こゝに図づを挙あげて弄石家ろうせきかの鑒かんを俟まつ。

百樹もゝき曰、件くだんの図づを視みるに常にある亀とは形状かたち少しく異ことなるやうなり。依て案あんずるに、本草ほんざうに所謂いはゆる秦亀しんき一名筮亀ぜいきあるひは山亀といひ、俗に石亀いしがめといふ物にやあらん。秦亀しんきは山中に居をるものなり、ゆゑに呼よんで山亀といふ。春夏は渓水けいすゐに遊び秋冬は山に蔵かくる、極きはめて長寿する亀は是なりとぞ。又筮亀ぜいきと一名するは周易しうえきに亀を焼やきて占ひしも此亀なりとぞ。件くだんの亀の化石、本草家の鑒定かんていを得えて秦亀しんきならば一層そうの珎ちんを増ますべし。山にて掘ほり得えたりとあれば秦亀しんきにちかきやうなり。化石といふものあまた見しに、多は小ちひさきものにてあるひはまた体かたち全まつたきも稀まれなり。図づの化石は体かたち全まつたく且そのうへ大なり、珎ちんとすべし。

〔図〕fig58401_11.png
甲之圖

○余よ先年俗にいふ大和やまとめぐりしたるをり、半月あまり京にあそび、旧友きういうの画家春琴子しゆんきんしに就ついて諸名家しよめいかをたづねし時、鴻儒かうじゆの聞きこえ高き頼らい先生名襄、字子成、山陽と号、通称頼徳太郎へも訪とむらひ、坐談ざだん化石の事におよび、先生余よに蟹かにの化石一枚を恵めぐむ。その色枯かれずして生いけるが如く、堅硬かたきことは石なり。潜確類書せんかくるゐしよ又本草ほんざう三才図会づゑ等にいへる石蟹いしかに泥沙でいしやと倶ともに化して石になりたるなるべし。盆養ぼんやうする石菖せきしやうの下もとにおくに水中に動うごくが如し。亀の徒者おともに其図そのづを出いだす、是も今は名家の形見かたみとなりぬ。

○ 夜光玉

雲根志うんこんし灵異れいいの部に曰、予よが隣家となりに壮勇さうゆうの者あり儀兵衛といふ。或時田上谷たがみだにといふ山中に行ゆきて夜更よふけて皈かへるに、むかうなる山の澗底たにそこより青く光り虹にじの如く昇のぼりてすゑは天そらに接まじはる。此男勇漢ゆうかんなれば无む二无む三に草木を分けて山を越、谷をわたりてかの根元こんげんをさぐりみるに、たゞ何の異ことなる事もなき石なり。ひろひとりて背せに負おひ皈かへるに道すがら光ること前の如し。甚だ夜道の労らうをたすかり、暁あかつきの頃ころ我が家に着ぬ。件くだんの石を軒のきの外そとに直なほし置おき、朝飯などしたゝめて彼の石を見んとするに石なし、いかにせし事やらんとさま〲にたづねもとむれども行方しれずとなん。又本国甲賀郡かふかこほり石原いしはら潮音寺てうおんじ和尚のものがたりに、近里の農人畑はたを掘居ほりゐしに拳こぶしほどなる石をほりいだせり、此石常の石よりは甚だうつくし、よつて取りかへりぬ、夜に入りて光ること流星りうせいの如し。友のいふ、是は灵石れいせきなり、人の持ものにあらず、家にあらば必災わざはひあるべし、はやく打やぶりてすつべしと。これをきゝて斧をのをもつて打砕うちくだきしを竹やぶの中へすてたり、其夜竹林一面に光る事数万の螢火の如し。翌朝よくてう近里の人きゝつたへて集あつまり来り、竹林をたづねみるに少しのくづまでも一石も有る事なし。又筑后国ちくごのくに上妻あがつま郡の人用ありて夜中近村へ行に一ツの小川あり、かちわたりせしに、なにやらん光る物あり、拾ひとりてみれば小石なり、翌日さる方へ献ず、しばらくして失たりとぞ。以上一条全文是等これらは他国の事なり、我が越后ゑちごにも夜光の玉のありし事あり。新発田しばたより蒲原郡東北加治かぢといふ所と中条といふ所の間路みちの傍かたはら田の中に庚申塚あり、此塚の上に大さ一尺五寸ばかりの円まろき石を鎮ちんしてこれを礼まつる。此石その先農夫せんのうふ屋いへの后うしろの竹林を掃除さうぢして竹の根など掘ほるとてかの石一ツを掘得ほりえたり。その色青みありて黒く甚だなめらかなり、農夫のうふこれをもつて藁わらをうつ盤ばんとなす、其夜妻庭にはに出いでしに燦然さんぜんとして光る物あり、妻妖怪ばけものなりとして驚おどろき叫さけぶ。家主あるじ壮夫わかもの三五人を伴ともなひ来りて光る物を打うつに石なり、皆もつて怪くわいとし石を竹林に捨つ、その石夜毎よごとに光りあり、村人おそれて夜行ものなし。依て此石を庚申塚に祭り上に泥土どろを塗ぬりて光をかくす、今猶なほ苔こけむしてあり。好事かうずの人この石を乞こへども村人そんじん祟たゝりあらん㕝を惧おそれてゆるさずとぞ。又駒こまが岳たけの麓ふもと大湯村と橡尾とちを村の間を流るゝ渓たに川を佐奈志さなし川といふ、ひとゝせ渇水かつすゐせし頃水中に一点てんの光あり、螢の水にあるが如し。数日処を移うつさず、一日暴風ばううに水増まして光りし物所を失うしなふ、后のち四五町川下に光りある物螢火けいくわの如し。此地山中なれば村夫等そんふら昏愚こんぐにして夜光の玉なる事をしらず、敢あへてたづねもとむる者もなかりしに、其秋の洪水こうずゐに夜光の玉ふたゝびながれて所在しよざいを失うしなひしとぞ。以上北越奇談の説偖さて茲こゝに夜光珠やくわうのたまの実事じつじあり。我われ文政二年卯の春下しも越後を歴遊れきいうせしをり、三嶋郡に入り伊弥彦やひこ明神を拝をがみ、旧知識きうちきなれば高橋光則翁みつのりをうを尋たづねしに、翁大によろこびて一宿いつしゆくを許ゆるしぬ。此翁和哥を善よくし且かつ好古かうこの癖へきありて卓達たくたつの人なり、雅談がだん湧わくが如く、おもはず笻つゑをとゞめし事四五日なりし。一夕せき翁の語りけるは、今より四五十年以前吉田の三島郡の内なりほとり大鳥川といふ渓たに川に夜な〱光りものありとて人怖おぢて近づくものなかりしに、此川の近所に富長村といふあり、こゝに鍛冶かぢの兄弟あり、ひとりの母を養やしなふ、家最もつとも貧まづし。此兄弟剛気がうきなるものゆゑかの光り物を見きはめ、もし妖怪ばけものならば退治たいぢして村のものどもが肝きもをひしがんとて、ある夜兄弟かしこにいたりしに、をりしも秋の頃水もまさりし川面づらをみるに、月暗くらくしてたゞ水の音をきくのみ。両人炬たいまつをふりてらしてこゝかしこをみるに光るものさらになく、また怪あやしむべきをみず、さては人のいふは空言そらごとならん、いざとて皈かへらんとしけるに、水上俄にはかに光明くわうみやうを放はなつ、すはやとて両人衣服を脱ぬぎすて水に飛入り泳およぎよりて光る物を探さぐりみるに、くゝり枕ほどなる石なり、これを取得とりえて家に皈かへり、まづ灶かまどの下もとに置おきしに光り一室いつしつを照てらせり。しか〲のよし母にかたりければ、不思議ふしぎの宝たからを得えたりとて親子よろこび近隣きんりんよりも来りみるもありしが、ものしらぬ者どもなれば趙壁随珠てうへきずゐしゆともおもはずうち過すぎけり。かくて后のち弟おとゝ別家べつけする時家の物二ツに分わかちて弟に与あたへんと母のいひしに、弟は家財かざいを望のぞまず光る石を持去もちさらんといふ。兄がいはく、光る石を拾ひろひ得えしは我が企くはだてなり、汝なんぢは我が力ちからを助たすけしのみなり、光る石は親の譲ゆづりにあらず、兄が物なり。家財かざいを分わかつならばおやのゆづりをこそわかつべけれ、与あたふまじ〱。弟いな〱あの石はおれがものなり、いかんとなればおん身は光る石を拾ひろはんとの企くはだてにはあらず、妖物ばけものを退治たいぢせんとて川へいたり、おん身よりは我先われさきに川へ飛いり光りものを探さぐりあてゝかづきあげしも我なり、しかればおれがひろひしを持さらんになにかあらん。いや〱此兄がものなり、弟がのなりと口論こうろんやまず、終つひにはつかみあひうちあひしを、母やう〱におししづめ、しからば光る石を二ツに破わりて分つべしといふ。弟さらばとて明玉をとりいだし鍛冶かぢする鑕かなとこの上にのせ䤶かなつちをもて力にまかせて打ければ、をしむべし明玉砕破くだけて内に白玉を孕はらみしがそれも砕くだけ、水ありて四方あたりへ飛散とびちりけり。其夜水のかゝりし処光り暉かゝやく事螢ほたるの群むらがりたるが如くなりしに、二三夜にしてその光りも消失きえうせけりとぞ。いかに頑愚ぐわんぐの手にありしとはいひながら、稀世きせいの宝玉鄙人ひじんの一槌いつつゐをうけて亡ほろびたるは、玉も人も倶ともに不幸といふべしと語かたられき。牧之ぼくし案あんずるに、橘春暉たちばなしゆんきが著あらはしたる北囱瑣談ほくさうさだん後編の二蔵石家ざうせきかの事をいふ条くだりに曰いはく、江州山田の浦の木之内古繁こはん、伊勢の山中甚作、大坂の加嶋屋源太兵ヱ、其外にも三都の中の好事家かうずか侯国こうこくの逸人いつじん、蔵石ざうせきに名の高き人近年夥おびたゝし、余よも諸家の奇石きせきを見しに皆一家の蔵をさむる処三千五千種しゆにいたる、五日十日の日を尽つくしてやう〱眼めをふる㕝を得うるにいたる、その多き中にも格別に目をおどろかすほどの珎奇ちんきの物は无なきものなり。加嶋屋源太兵ヱものがたりに、過すぎし年とし北国より人ありて拳こぶしの大さの夜光やくわうの玉あり、よく一室しつを照てらす、よき価あたひあらば売うらんといひしかば、即座そくざに其人に托たくして曰いはく、其玉求もとめたし、暗夜あんやにその玉の入りたる箱の内ばかり白きやうに見えなば金五十両にもとむべし、又その玉にて闇夜に大なる文字一字にても読よみえられなば金百両にもとむべし、又書状しよぢやうよむほどならば三百金、いよ〱一室をてらさば吾が身上のこらずの力ちからを尽つくして求もとむべし、媒なかだちして玉はるべしといひしが、そのゝちなにの便たよりもなくてやみぬ、空言そらごとにてありしと思はる云云。此文段は天明年中蔵石ざうせきの世に流行はやりたる頃加嶋屋が話はなしをそのまゝに春暉しゆんきが后のちにしるしたるなるべし。さて又余よがかの鍛冶かぢ屋が玉のはなしをきゝしは文政二年の春なり、今より四五十年以前とあれば、鍛冶かぢが玉を砕くだきたるは安永のすゑか天明のはじめなるべし。然しかりとすれば、蔵石ざうせきの流行はやりたる頃なれば、かのかじまやが話はなしに北国の人一室いつしつをてらす玉のうりものありしといひしは、我が国の縮商人ちゞみあきびとなどがかぢやの玉の㕝をきゝつたへて商あきなひ口をいひしもはかられず。しかるに玉はくだきしときゝてかじまやへ答こたへざりしにやあらん。卞和へんくわが玉も楚王そわうを得えたればこそ世にもいでたれ、右にのせたる夜光の話はなし五ツあり、三ツは我が越後にありし事なり。いづれも世にいでず、嗟乎あゝ惜をしむべし〱。

百樹もゝき曰、五雑組ござつそ物の部に鍛冶かぢ屋がはなしに類るゐせる㕝あり。明みんの万暦ばんれきの初はじめ閩中みんちゆう連江といふ所の人蛤を剖わりて玉を得えたれども不識みしらずこれを烹にる、珠たま釜かまの中に在ありて跳躍をどりあがりして定さだまらず、火光くわくわう天そらに燭もゆ、里人さとびと火事くわじならんと驚おどろき来りてこれを救ふ。玉を烹たるもの、そのゆゑを聞きゝて釜かまの蓋ふたを啓ひらきて視みれば已すでに玉は半なかば枯かれたり。其珠たま径わたり一寸許ばかり、此これ真しんに夜光やくわう明月の珠たまなり。俗子ぞくしに厄やくせられたる事悲夫かなしきかなと記しるせり。又曰、五雑組おなじつゞき魏ぎの恵王けいわうが径わたり寸いつすんの珠たま前後車を照てらすこと十二乗じようの物はむかしの事、今天府みかどのくらにも夜光珠やくわうのたまはなしと明人みんひと謝肇淛しやてうせつが五雑組ござつそにいへり。○神異記しんいき○洞冥記とうめいきにも夜光珠やくわうしゆの㕝見えたれども孟浪うきたることに属しよくす。古今注ここんちゆうにはすぐれて大なる鯨くぢらの眼めは夜光珠を為なすといへり。卞和へんくわが玉も剖之これをわれば中うち果はたして有玉たまありといへば、石中に玉を孕はらみたる事鍛冶かぢの砕くだきたる玉卞和へんくわが玉に類るゐせり。趙てうの恵王けいわうが夜光の玉を、秦しんの照せう王が城しろ十五を以て易かへんといひしは、加嶋屋が北国の明玉めいぎよくを身上しんしやう尽つくして買かはんと約やくせしに類るゐせり。さて又癸辛雑譏続集きしんざつしきぞくしふ巻下に、機婦はたおりをんな糸を水にひたしおきたるに、夜中白く大なる蜘蛛くもきたりてその水をのむに身みに光りをはなつ、かの婦人ふじんこれを見て大にあやしみ、雞籠にはとりのかごを罩ふせてかの蜘蛛くもをとらへしに腹はらに夜光珠やくわうのたま在あり、大さ弾丸だんぐわんテツハウタマの如しとしるせり。此事を前文に牧之老人が引たる北越奇談玉の部に越後にありし事とていだせり。その事癸辛雑識に少しもちがはず、おもふに癸辛雑識は唐本にて且又容易には得がたき書なれば、北越奇談の作者俗子の目に奇をしめさんとてたはむれに越後の事としてかきくはへたるもしるべからず。しかし癸辛雑識続集は都下にすら得がたければ本書を見たるにはあるべからず、博識に伝聞したるなるべし又増一阿含経ぞういちあごんぎやう第卅三。等法品第卅九に転輪聖王てんりんじやうわうの徳にそなはりたる一尺六寸の夜光摩尼宝やくわうまにはうは彼国かのくに十二由旬ゆじゆんを照てらすとあり、文ぶん多おほければあげず。盖けだし一由旬いちゆじゆんは異国いこくの四十里なり、十二由旬ゆじゆんは日本道六十六里なり。一尺六寸の玉六十六里四方を照すは奇異きいといふべし。転輪てんりん王此玉を得えて試こゝろみに高き幢はたの頭かしらに挙著あげおきけるに、人民等じんみんら玉の光りともしらず夜の明あけたりとおもひ、おの〱家業かせぎをはじめけりと記しるせり。此事碩学せきがくの聞きこえ高たかき了阿れうあ上人の話はなしにきゝてかの経を借得かりえて読よみしが、これぞ夜光の玉の親おや玉なるべき。

〔図〕fig58401_12.png
剛夫得名玉圖

○ 餅花もちばな

餅花もちはなや夜よるは鼠ねずみがよし野山一にねずみが目にはとありとは其角がれいのはずみなり。江戸などの餅花は、十二月餅搗もちつきの時もちばなを作り歳徳の神棚へさゝぐるよし、俳諧はいかいの季きには冬とす。我国の餅花は春なり。正月十四日までを大おほ正月といひ、十五日より廿日までを小こ正月といふ、是我わが里俗の習ならはせなり。さて正月十三日十四日のうちに門松しめかざりを取り払ひ、我国長岡あたりにては正月七日にかざりをとり、けづりかけを十四日までかくる餅花を作り、大神宮歳徳の神夷えびすおの〱餅花一枝えだづゝ神棚へさゝぐ。その作りやうはみづ木といふ木、あるひは川楊かはやなぎの枝えだをとり、これに餅を三角又は梅桜の花形に切たるをかの枝にさし、あるひは団子をもまじふ、これを蚕玉まゆたまといふ。稲穂いなぼ又は紙にて作りたる金銭、縮ちゞみあきびとなどはちゞみのひな形を紙にて作り、農家のうかにては木をけづりて鍬鋤すきくはのたぐひ農具のうぐを小さく作りてもちばなの枝にかくる。すべておのれ〱が家業かげふにあづかるものゝひなかたを掛る、これその業げふの福をいのるの祝事しゆくじなり。もちばなを作るはおほかたわかきものゝ手業てわざなり。祝いはひとて男女ともうちまじりて声こゑよく田植哥たうゑうたをうたふ、此こゑをきけば夏がこひしく、家の上こす雪のはやくきえよかしとおもふも雪国の人情なり。此餅花は俳諧の古き季寄きよせにもいでたれば二百年来諸国にもあるは勿論もちろんなり。ちかごろ江戸には季きによらず小児の手遊に作りあきなふときゝつ。

○ 斎さいの神勧進かみくわんじん

我が塩沢しほざは近辺きんへんの風俗に、正月十五日まへ七八歳より十三四までの男の童わらべども斎さいの神勧進くわんじんといふ事をなす。少し富家ふかの童わらべこれをなすには𣖾木ぬるでのきを上下より削けづり掛かけて鍔つばの形を作る、これを斗棒とぼうといふ。これを二本大小にさし、上下をちやくし、童僕わらべのともに一升ますをもたせ又はひもありてくびにかくるあり。その中へ五六寸ばかりの木を頭かしらばかり人形に作り、目鼻をゑがき、二ツつくりて女神男神とし、女神はかしらに綿わたをきせ、紙にて作りたる衣服に紅べににて梅の花などゑがく。男神には烏帽子をきせ、木をけづりかけて髭ひげとす。紙のいふくに若松などゑがく。此二ツをかの升の内におき、斎さいの神勧進々々かみくわんじん〱とよばゝりありく。敢あへて物ものの欲ほしきにもあらず正月あそびの一ツなり、これ一人のみにあらず、児輩こどもおの〱する事なり。これに与あたふるものは切餅あるひは銭も与あたふ。又まづしきものゝわらべらは五七人十人余よも党たうをなし、茜木綿あかねもめんの頭巾づきんにあさぎのへりをとりたるをかむり、かの斗棒とぼうを一本さし、かの二ふた神を柳こりに入れて首にかけ〽さいの神くわんじん、銭でも金でもくはつ〱とおやれ〱 と門々かど〱をおしありく。これに銭をもあたへあるひは濁にごり酒などのませ、顔に墨をぬりてわらひどよめく、これかならずするならはせなり。又長岡のほとりにてはかの斗棒のけづりかけの三尺ばかりなるに、宝づくしなどゑがきたるをさして勧進くわんじんす、これは小児にあらず、大人のいやしきがわざなり。勧進くわんじんのことばに「ぜにでもかねでもおいやれ、らいねんの春は娵よめでも聟むこでもとるやうに、泉のすみからわくやうに、すつくらすわいとおいやれ〱」かくして勧進の銭をあつめて斎さいの神を祭まつる入用とするなり。さいの神のまつり下にしるす又去年むこよめをむかへたる家の門かどに、未明みめいよりわらべども大勢あつまり、かの斗棒をもつて門戸を敲たゝき、よめをだせむこをだせと同音によばゝりたゝく。これを里俗の祝事いはひごととすればいかる家なく、小どもを入れて物などくはするもあり、かゝる俗習ぞくしふ他国にもあまたあるべし。

○さて此事たあいもなき小どものたはむれとのみおもひすぐししに、醒斎せいさい京伝翁が骨董集こつとうしふを読よみて本拠ほんきよある事を発明はつめいせり。骨董集こつとうしふ上編下、粥かゆの木の条くだりに、○粥杖かゆづゑ○祝木いはひぎ○ほいたけ棒ぼうといふ物、前にいひし斗棒とぼうに同じ。京伝翁の説せつに、粥かゆの木とは正月十五日粥を烹にたる薪たきゞを杖つゑとし、子もたぬ女のしりをうてば男子をはらむといふ祝ひ事なりとて、○枕まくらの草紙さうし○狭衣さごろも○弁内侍べんのないしの日記にきその外くさ〱の書しよを引ひきて、上代の宮裏きうり近古きんこの市中しちゆう粥杖かゆつゑの事を挙あげて、考証かうしやう甚はなはだ詳つまびらかなり。今我が郡にいふ斗棒とぼうは則すなはちいにしへの粥杖かゆつゑの遺風ゐふうなる事を発明はつめいせり、我国にも祝木いはひぎあるひは御祝棒おいはひぼうといふ所もあり。これ七八百年前より正月十五日にする事、京伝翁が引れたる書しよにてしらるゝなり。その引書いんしよの中なかにも明人の作「日本風土記」にあるはもつとも我国のによく似たり、此書しよは今より三百年ばかりいぜんの日本の風俗を明人が聞きゝつたへて書たるものなれば、今我国にて小童こどものたはむれにするも三百年ばかりさきの風俗遠境ゑんきやうにもうつりのこりたるなるべし。京伝翁が引たる日本風土記巻の二時令の部とあり、漢文のまゝを引たれどこゝにはかなをまじふに「但たゞ街道がいだう郷村きやうぞんの児童ぢどう年十五八九已上に及およぶ者もの、各おの〱柳の枝を取り皮を去さり木刀ぼくたうに彫成きざみなし、皮を以復また外ほか刀上たうしやうに纏まとひ用火ひにて焼黒やきくろめ皮を去さり以もつて黒白の花もやうを分わかつ、名づけて荷花蘭蜜こばらみといふ。再ふたゝび荊棘けいきよくの条えだを取とり香花かうくわ神前しんぜんに挿さしはさみ供くうず。次に集あつまる各童わらべども手に木刀を執とり途みちに隊閙たいだうしムレサワギ、凡すべて有婚こんれいして无子こなきの婦をんな木刀を将もつて遍身へんしん打之これをうち口に荷花蘭蜜こばらみと舎となふ。かならず此婦をんな当年このとし孕はらみ男を生うむ」我国にて児童等こどもらが人の門かどを斗棒とぼうにてたゝき、娵よめをだせ聟むこをだせとのゝしりさわぐは、右の風土記の俗習ぞくしふの遺事ゐじなるべし。

百樹もゝき案に、件くだんの風土記に再ふたゝび荊棘けいきよくの条えだを取り香花つねにいのる神前に挿さしはさむといひしは、餅花もちばなを神棚かみたなへ供くうずる事を聞て粥杖かゆつゑの事と混錯こんさくして記したるなるべし。然しかりとすれば餅花もちはなも古き祝事しゆくじなり。

○ 斎さいの神の祭まつり

吾わが国くに正月十五日に斎さいの神のまつりといふは所謂いはゆる左義長さぎちやうなり。唐土もろこしに爆竹ばくちくといふ唐人たうひと除夜ぢよやの詩しに、竹爆たけたふる千門の响ひゞき燈ともしび燃もゆる万戸明あきらかなりの句あれば、爆竹ばくちくは大晦日にする事なり。吾朝にては正月十五日、 清涼殿の御庭にて青竹を焼き正月の書始かきぞめを此火に焼て天に奉るの義ぎとす。十八日にも又竹をかざり扇を結びつけ同じ御庭にて燃もやし玉ふを祝事とせさせ玉ふ。民間みんかんにもこれを学まなびて正月十五日正月にかざりたるものをあつめて燃もやす、これ左義長さぎちやうとて昔よりする事なり。これを斎さいの神祭まつりといふも古き事なり。爆竹左義長ばくちくさぎちやうの故事ふること俳諧はいかいの季寄きよせ年浪草としなみぐさに諸書を引てくはしくいへり。

○吾が郡中ぐんちゆうにて小千谷をぢやといふ所は人家じんか千戸にあまる饒地よきとちなり、それゆゑに斎さいの神の斎あるひは幸ともまつりも盛大せいだいなり。これをまつるにその町々におの〱毎年さだめの場所ありてその所の雪をふみかため、さしわたし三間ばかりに周めぐらしたる高さ六七尺の円まろき壇を雪にて作り、これに二処ふたところの上り階だんを作る、これも雪にてする、里俗りぞく呼よんで城しろといふ。さて壇だんの中央まんなかに杉のなま木をたてゝ柱はしらとし、正月かざりたるものなにくれとなくこの柱はしらにむすびつけ又は積つみあげて、七五三しめをもつて上よりむすびめぐらして蓑みののごとくになし、かやをまじへ入れてかたちをつくる此頂いたゞきに大根注連だいこんしめといふものゝ左右に開たる扇をつけて飛鳥ひてうの状かたちを作りつける。壇だんの上には席せきをまうけて神酒みきをそなへ、此町の長たるもの礼服をつけて拝はいをなし、所繁昌の幸福をいのる。此事をはればきよめたる火を四隅よすみより移うつす、油滓あぶらかすなど火のうつり易やすきやうになしおくゆゑ煓々たん〱熾々しゝと然もえあがる、此火にて餅をやきてくらふ、病をのぞくといふ世にふるくありし事なり是これ則すなはち爆竹左義長ばくちくさぎちやうなり。他国にてもする事なり。或人あるひとの話はなしに、此事百余年前までは江戸にもありしが、火災くわさいをはゞかるために禁きん下くだりてやみたりとぞ。

○さて又おんべといふ物を作りてこの左義長に翳かざして火をうつらせ焼やくを祝事しゆくじとす、おんべは御ン幣へいの訛言くわげんナマリなり。その作りやうは白紙と色かみとを数百枚つきあはせたるを細き幣束へいそくのやうにきりさげ、すゑに扇の地紙の形をきりのこす、これを数千すせんあつめて青竹にくゝしくだす。大小長短は作る家の意にまかせ、大なるを以て人に誇ほこる。棹さをの末にひらき扇四ツをよせて扇には家の紋などいろどりゑがく、いろ紙にて作るものゆゑ甚だ美事みごとなり。これを作りてまづおのれ〱が門かどへ建たておく事五月の幟のぼりのあつかひなり。十五日にいたりてかの場所へもちゆき、左義長にかざして焼捨やきすつるを祝ひとし慰なぐさみとす。観みる人群ぐんをなすは勿論もちろん、事をはりてはこゝかしこにて喜酒よろこびざけの宴えんをひらく。これみな 国君こくくん盛徳せいとくの余沢よたくなり。他所にも左義長あれどもまづは小千谷をぢやを盛大せいだいとす。

〔図〕fig58401_13.png
斉神祭事之圖

百樹もゝき曰いはく、余よ京水をしたがへて越後に遊びし時、此小千谷をぢやの人岩淵いはぶち氏牧之老人の親族なりの家に笻つゑをとゞめたる事十四日、八月なりあるじの嗣子むすこ廿四五許ばかり、号がうを岩居がんきよといふ、書しよをよくす。余よに遇ぐうせしこと甚はなはだ篤あつし。小千谷をぢやは北越ほくゑつの一市会いつしくわい、商家しやうか鱗次りんじとして百物備そなはらざることなし。海うみを去さる事僅わづかに七里ゆゑに魚類ぎよるゐに乏とぼしからず。余よ塩沢しほざはにありしは四十余日、其地海に遠くして夏は海魚に乏とぼしく、江戸者の口に魚肉ぎよにくの上のぼらざりし事四十余日、小千谷をぢやにいたりてはじめて生鯛なまたひを喰しよくせしに美味びみなりし事いふべからず。又鮏さけの時節じせつにて、小千谷をぢやの前川ぜんせんは海に朝てうするの大河なれば今捕とりしをすぐに庖丁はうちやうす。味あぢはひ江戸にまされり。一日鮏さけをてんぷらといふ物にしていだせり。余よ岩居がんきよにむかひ、これは此地にては名を何なにとよぶぞと問とひしに、岩居これはテンプラといふなり、我としごろ此物の名義めいぎ暁さとしがたく、古老こらうにたづねたれどもしる人さらになし、先生の説せつをきかんといふ。余よ答こたへてまづ食しよく終をはりてテンプラの来由らいゆを語かたるべしといひつゝ鮏さけのてんぷらを飽あくまでに喰しよくせり。

○ てんぷらの説せつ  ○ 煉羊羹ねりやうかんの起原きげん

岩居がんきよに語かたりて曰いはく、今をさる事五十余年前ぜん天明の初しよ年大阪にて家僕かぼく四五人もつかふほどの次男年とし廿七八ばかり利助といふもの、その身よりとしの二ツもうへの哥妓げいしやをつれて出奔しつほんし、江戸に下り余が家の京橋南街第一衖対むかひの裏屋うらやに住しに、一日あるひ事の序ついでによりて余が家に来りしより常に出入でいりして家僕かぼくのやうに使つかひなどさせけるに、花柳くわりうに身を果はたしたるものゆゑはなしもおもしろく才もありてよく用を弁べんずるゆゑ、をしき人に銭ぜにがなしとて亡兄ばうけいもたはむれいはれき。ある日利助いふやう、江戸には胡麻揚ごまあげの辻売つじうり多し、大阪にてはつけあげといふ魚肉ぎよにくのつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚のつけあげを夜みせにうる人なし、われこれをうらんとおもふはいかん。亡兄ばうけい京伝いはく、それはよきおもひつきなりまづこゝろむべしとて俄にはかに調てうじさせしに、いかにも美味びみなり。利助いはく、これを夜みせの辻にうらんにその行灯あんどんに魚のごまあげとしるさんもなにとやらまはりどほし、なにとか名をつけて玉はれと乞こひければ、亡兄ばうけいしばらくしあんして筆をとり天麩羅てんふらとかきてみせければ、利助不審ふしんの㒵かほをなし天麩羅てんふらとはいかなる所謂いはれにかといふ。亡兄うちゑみつゝ足下そこは今天竺浪人てんぢくらうにんなり、ぶらりと江戸へきたりて売創うりはじむる物ゆゑに天ふらなり、是これに麩羅ふらといふ字を下くだしたるは麩ふは小麦の粉にてつくる、羅らはうすものとよむ字なり。小麦の粉のうすものをかけたといふ㕝なりと戯言たはむれごと云れければ、利助も洒落しやれたる男ゆゑ、天竺浪人のぶらつきゆゑ天ふらはおもしろしと大によろこび、やがて此店みせをいたす時あんどんを持きたりて字をこひしゆゑ、余よがをさなき時天麩羅と大書たいしよして与へしに此てんぷら一ツ四銭にて毎夜うりきるゝ程なり。さて一月もたゝざるうちに近辺きんべん所々にてんぷらの夜みせいで、今は天麩羅の名油のごとく世上に伝染しみわたり、此小千谷をぢやまでもてんぷらの名をよぶ事一奇事といふべし。されども京伝翁が名づけ親にて利助が売はじめたりとはいかなる碩学鴻儒せきがくかうじゆの大先生もしるべからず。てんぷらの講釈こうしやくするは天下に我一人なりとたはむれければ、岩居がんきよも手てをうちて笑ひけり。

○先年此てんぷらの話はなしを友人静廬せいろ翁に語りしに翁は和漢の博達時鳴の聞人なり翁曰、事物紺珠じぶつかんしゆ明人黄一正作廿四巻夷食いしよくの部にてんぷらに似たる名ありきといはれしゆゑ、其書しよを借かりえてよみしに、○塔不剌たふふらとありて注ちゆうに○葱ねぎ○椒さんしよ○油○醤ひしほを熬いりつけ、後あとより鴨あひる或は雞○鵞がをいれ、慢火ぬるひにて養熟しあげるとあり。蟹かにをあぶらげにするも見えたり。

○さて天麩羅の播布はんふヒロマルに類るゐせる事あり、因ちなみに記す。○橘菴漫筆きつあんまんひつに享和元年京の田仲宣作「京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の食卓しつほくを料理して弘めける。是京師浪花おほざかに食卓しつほく料理の初とかや。嘉兵衛娘はんといへるもの老婆らうばとなりて近頃まで存命せり、則今の佐野屋祖なり。大坂にてかれこれ食卓料理あまた弘りたれど野堂のど町の貴徳斎きとくさいほど久しくつゞきたるはなし」岩居がんきよがてんぷらをふるまひたる夜その友蓉岳ようがく来り、桜屋といふ菓子や余が酒をこのまざるを聞て家製かせいなりとて煉羊羹ねりやうかんを恵めぐみぬ、味あぢはひ江戸に同じ。余よ越後にねりやうかんを賞味して大に感嘆かんたんし、岩居に謂いひて曰いはく、此ねりやうかんも近年のものなり、常のやうかんにくらぶれば味あぢはひまされり。吾わがをさなきころは常のやうかんすらいやしきものゝ口には入らざりしに、江戸をさる事遠き此地にも出来逢できあひのねりやうかんあるは実じつに大平の徳化とくくわなりといひしに、蓉岳ようがくも書画をよくし文事ぶんじもありて好事かうずものなればこれをきゝてひざをすゝめ、菓子は吾が家産かさんなり、ねりやうかんを近来のものといふ由来ゆらいを示しめし玉へといふ。余よかたりていはく、○寛政のはじめ江戸日本橋通一町目よこ町字あざなを式部小路しきぶこうぢといふ所に喜太郎とて夫婦に丁稚でつちひとりをつかひ菓子屋とは見えぬ𥴩子造かうしづくりにかんばんもかけず、此喜太郎いぜんは 貴重きちようの御菓子を調進てうしんする家の菓子杜氏とうじなるよし。奉公をやめてこゝに住し、極製こくせいの菓子ばかりをせいして茶人又は富家のみへあきなひけり。さて此者が工風とてはじめて煉羊羹ねりやうかんと名づけてうりけるに羊羹やうかん本字は羊肝やうかんなる事芸苑日鈔げいゑんにつせうにいへり喜太郎がねりやうかんとて人々めづらしがりてもてはやしぬ。しかれども一人一手にてせいするゆゑ、けふはうりきらしたりとてつかひの重箱空むなしくかへる事度々なり、これ余よが目前もくぜんしたる所なり。かくて一二年の間に菓子や二軒にて喜太郎をまねてねりやうかんをせいし、それもめづらしかりしに今は江戸の菓子やはさらなり、迫々弘り此小千谷をぢやにもあれば此国に市会しくわいをなす所にはかならずあるべく又諸国にもあるべしといひければ、蓉岳ようがくわらつて小倉羹をぐらかんもあり八重なりかんもあり、あすはまゐらすべしといへり。これらの事雪譜の名には似気にげなき弁べんなれど本文小千谷をぢやのはなしにおもひいだしたれば人の話柄わへいに記しるせり。なほ近古きんこ食類しよくるゐの起原きげんさま〲あれど余よが食物しよくもつ沿革考えんかくかうウツリカハリに上古より挙あげてしるしたればこゝにはもらせり。

○ 雪中せつちゆうの狼おほかみ

初編しよへんにもしるしたるごとく、我国の獣けもの冬にいたれば山を踰こえて雪浅あさき国へさる、これ雪ふかくして食しよくにとぼしきゆゑなり。春にいたればもとの棲すみかへかへる。されども雪いまだきえざるゆゑ食しよくにたらず、をりふしは夜中人家じんかにちかより犬などとり、又人にかゝる事もあり、これ山村さんそんの事なり。里には人多きゆゑおそれてきたらざるにや。雪中に穴居けつきよするは熊くまのみなり。熊は手に山蟻やまありをすりつけ、これをなめて穴居けつきよの食しよくとするよしいひつたふ。

〔図〕fig58401_14.png
雪中狼入人家圖

○こゝに我わが郡中ぐんちゆうの山村さんそんに不祥ふしやうのことなれば地名人名をはぶくまづしき農夫のうふありけり、老母と妻と十三の女子七ツの男子あり。此農夫性質せいしつ篤実とくじつにしてよく母につかふ。ひとゝせ二月のはじめ、用ありて二里ばかりの所へいたらんとす、みな山道やまみちなり。母いはく、山なかなれば用心なり、筒つゝをもてといふ、実げにもとて鉄炮てつはうをもちゆきけり。これは農業のうげふのかたはら猟れふをもなすゆゑに国許こくきよの筒つゝなり。かくてはからず時をうつし日も暮くれかゝる皈かへりみち、やがて吾が村へ入らんとする雪の山蔭かげに狼おほかみ物を喰くらふを見つけ、矢頃やごろにねらひより火蓋ひぶたをきりしにあやまたずうちおとしぬ。ちかよりみればくらひゐたるは人の足あしなり。農夫大におどろき、さては村ちかくきつるならんと我家わがやをきづかひ狼おほかみはそのまゝにしてはせかへりしに、家のまへの雪の白きに血ちのくれなゐをそめけり。みるよります〱おどろきはせいりければ狼二疋逃にげさりけり、あたりをみれば母はゐろりのまへにこゝかしこくひちらされ、片足かたあしはくひとられてしゝゐたり。妻つまは囱まどのもとに喰伏くひふせられあけにそみ、そのかたはらにはちゞみの糸などふみちらしたるさまなり。七ツの男の子は庭にはにありてかばね半なかば喰くはれたり。妻つまはすこしいきありて夫をつとをみるよりおきあがらんとしてちからおよばず、狼おほかみがといひしばかりにてたふれしゝけり。農夫のうふはゆめともうつゝともわきまへず鉄炮てつはうもちて立あがりしが、さるにても娘むすめはとてなきごゑによびければ、床ゆかの下よりはひいで親にすがりつきこゑをあげてなく、おやもむすめをいだきてなきけり。山家さんかは住居ぢゆうきよもこゝかしこはなれあるものゆゑ、これらの事をしるものもなかりけり。農夫のうふは時の間まに六十の母、三十の妻、七ツの子を狼の牙きばにころされ、歯はがみをなして口をしがり、親子ふたり、くりこといひつゝ声をあげてなきゐたり。村のものやう〱にきゝつけきたり此体ていをみておどろきさけびければ、おひ〱あつまりきたり娘にやうすをたづねければ、囱まどをやぶりて狼三疋はせいりしが、わしは竈かまどに火をたきてゐたりしゆゑすぐに床ゆかの下へにげ入り、ばゞさまと母さまとおと弟がなくこゑをきゝて念仏ねんぶつ申てゐたりといふ。かくて此ありさまをいふべき所へつげしらせ、次の日の夕ぐれ棺くわん一ツに妻つまと童わらべををさめ、母の棺くわんと二ツ野辺のべおくりをなしけるに涙なみだそゝがざるものはなかりけるとぞ。おもふにはゝが筒つゝをもてといひしゆゑ、母の片足かたあしを雪の山蔭かげにくらひゐたる狼おほかみをうちおとして母の敵かたきはとりたれど、二疋をもらししはいかに口惜くちをしかりけん。これよりのち此農夫のうふ家を棄すて、娘むすめをつれて順礼じゆんれいにいでけり。ちかき事なれば人のよくしれるはなしなり。

百樹もゝき曰、日本の狼は幻化ばける事をきかず、唐土もろこしの狼はばけること老狐にことならず。宋人そうひと李昉等りはうとうが太平広記畜獣ちくじうの部に四百四十二巻狼おほかみ美人びじんに幻化バケして少年わかいひとと通じ、あるひは人の母にばけて年七十になりてはじめてばけをあらはして逃にげさり、又は人の父を喰殺くひころしてその父にばけて年を歴へたるに、一日その子山に入りて桑くはを採とるに、狼おほかみきたりて人の如く立其裾そのすそを銜くはへたるゆゑ斧をのにて狼の額ひたひを斫きり、狼にげ去さりしゆゑ家にかへりしに、父の額ひたひに傷きずの痕あとあるを視みて狼なることをさとり、これを殺ころすに果はたして老狼おいたるおほかみなり。親をころしたるゆゑ自みづから県けんにいたりて事の由よしをつげたる事など○広異くわうい記○宣室志せんしつしを引てしるせり。悍悪かんあくの事に狼の字をいふもの○残忍ざんにんなるを豺狼さいらうの心といひ○声のおそろしきを狼声らうせいといひ○毒どくの甚はなはだしきを狼毒らうどくといひ○事の猥みだりなるを狼々らう〱○反相はんさうムホンある人を狼顧らうこ○義ぎ无なきを中山狼○恣ほしいまゝに食くふを狼飡らうざん○病やまひ烈はげしきを狼疾らうしつといひ○狼藉ろうぜき○狼戻らうれい○狼狽らうばいなど、皆彼かれに譬たとへて是をいふなり。文海披沙されば獣中じうぢゆう最もつとも可悪にくむべきは狼おほかみなり。余よ竊ひそかに以為おもへらく、狼は狼にして狼なれども、人にして狼なるはよく狼をかくすゆゑ、狼なるをみせず。これが為ために狼毒らうどくをうくる人あり。人の狼なるは狼の狼なるよりも可惧おそるべく可悪にくむべし。篤実とくじつを外面げめんとし、奸慾かんよくを内心ないしんとするを狼者おほかみものといひ、娵よめを悍戻いびるを狼老婆おほかみばゝといふ。巧たくみに狼心らうしんをかくすとも識者しきしやの心眼しんがんは明鏡めいきやうなり。おほかみ〱惧おそれざらんや恥はぢざらんや。

北越雪譜中巻 終

北越雪譜二編 巻三

越後塩沢   鈴木牧之  編選

江戸     京山人百樹 増修

○ 鳥追櫓とりおひやぐら

農家のうか市中しちゆう正月の行事ぎやうじに鳥追とりおひといふ事あり。此事諸国にもあれば、其なす処其国によりてさま〲なる事は諸書しよ〱に散見さんけんせり。江戸の鳥追とりおひといふは非人ひにんの婦女ふぢよ音曲おんきよくするを女太夫とて木綿もめんの衣服いふくをうつくしく着きなし、顔かほを粧よそほひ、編笠あみがさをかむり、三弦さみせんに胡弓こきうなどをあはせ、賀唱めでたきうたをおもしろくうたひ、門々かど〱に立て銭を乞こふ。此事元日よりはじめ、松の内をかぎりとす、松すぎてもありく所もありとぞ。我越後には小正月の小正月とは正月十五日以下をいふはじめ鳥追櫓とりおひやぐらとて去年きよねんより取除とりのけおきたる山なす雪の上に、雪を以て高さ八九尺あるひは一丈余にも、高さに応おうじて末すゑを広ひろく雪にて櫓やぐらを築立つきたて、これに登のぼるべき階だんをも雪にて作り、頂いたゞきを平坦たひらになし松竹を四隅すみに立、しめを張はりわたす広さは心にまかす内には居るべきやうにむしろをしきならべ、小童等こどもらこゝにありて物を喰くひなどして遊あそび、鳥追哥とりおひうたをうたふ。その一ツに「あのとり鳥や、どこ何所からおつ追てきた来、しなぬ信濃のくに国からおつてきた。なにをもつ持ておつてきた、しば柴をぬくべ束ておつてきた、しば芝のとり鳥もかば河辺のとりも、たちやがれ可立ほい〱引」おら己等がうら裏のさなへだ早苗田のとりは、おつても〱すゞめ雀すはどり鳲鳩たちやがれ可立ほい〱引」あるひはかの掘揚ほりあげ雪をすてゝ山をなす所の上に雪を以て四方しかくなる堂だうを作りたて、雪にて物をおくべき棚たなをもつくり、むしろをしきつらね、なべ・やくわん・ぜん・わん抔など此雪の棚におき、物を煮焼にたきし、濁酒にごりざけなどのみ、小童こども大勢雪の堂にいきんだうと云遊あそび、同音どうおんに鳥追哥をうたひ、終日いちにちこゝにゆきゝして遊びくらす。これ暖国だんこくにはなき正月あそびなり。此鳥追櫓とりおひやぐら宿内しゆくないにいくつとなく作つくり党とうをなしてあそぶ。

〔図〕fig58401_15.png
正月鳥追櫓之圖

○ 雪霜

前まへにもしば〱いへるごとく、北国中にして越後は第一の雪国なり。その中にも魚沼うをぬま・古志こし・頸城くびきの三郡さんぐんを大雪とす。毎年一丈以上の雪中に冬をなせども寒気かんきは江戸にさまでかはる㕝なしと、江戸に寒中せし人いへり。五雑組ござつそにいへる霜は露つゆのむすぶ所にして陰いんなり、雪は雲のなす所にして陽やうなりとはむべなり。かゝる雪中なれども夏の儲まうけに蒔まきたる野菜やさいのるゐも雪の下に萌もえいでゝ、その用をなす㕝おそきとはやきのたがひはあれども暖国だんこくにかはる㕝なし。その遅おそきとは三月にはじめて梅の花を見、五月の瓜うり・茄子なすを初物はつものとす。山中にいたりては山桜のさかり四月のすゑ五月にいたる所もあるなり。

○ 地獄谷ぢごくだにの火ひ

此書このしよの前編上の巻まき雪中の火といふ条くだりに、六日町の魚沼郡西の山手に地中ちちゆうより火の燃もゆる事をしるせしが、地獄谷の火の㕝をもらせしゆゑこゝにしるす。○およそ我わが越後に名高く七不思議なゝふしぎにかぞへいふ蒲原郡かんばらごほり如法寺村によほふじむら百姓荘さう右エ門七兵衛孫六が家にも地火ありが家にある地中より燃もゆる火は、普あまねく人の知る所なれども、其火よりも盛大せいだいなるは魚沼郡のうち、かの小千谷をぢやの在ざい地獄谷の火なり。唐土もろこしに是これを火井くわせいといふ。近来きんらい此地獄谷に家を作り、地火ちくわを以て湯ゆを燂わかし、客きやくを待まちて浴よくさしむ、夏秋のはじめまでは遊客いうかく多し。此火井他国にはきかず、たゞ越後に多し。先年蒲原郡の内或家あるいへにて井を掘ほりしに、其夜医師いし来りて井を掘し㕝を聞きゝ、家に皈かへる時挑灯てうちんを井の中へ入れそのあかしにて井を見て立さりしに、井中より俄にはかに火をいだし火勢くわせいさかんに燃もえあがりければ近隣きんりんのものども火事くわじなりとしてはせつけ、井中より火のもゆるを見て此井を掘しゆゑ此火ありとて村のものども口々に主人を罵のゝしり恨うらみければ、主人も此火をおそれて埋うづめけるとぞ。此地火一に陰火いんくわといふ。かの如法寺村によほふじむらの陰火も微風すこしのかぜの気きいづるに発燭つけぎの火をかざせば風気ふうき手てに応おうじて燃もゆる、陽火やうくわを得えざれば燃もえず。寛文くわんぶんのむかし荘さう右エ門が如法寺村庭にはにて韛ふいごをつかひたる時より燃もえはじめしとぞ。前にいふ井中の火も医者いしやが挑灯てうちんを井の中へさげしゆゑその陽火にてもえいだしたるなるべし。

●さて又頸城郡くびきごほりの海辺うみべに能生宿のうしやうしゆくといふは北陸道ほくろくだうの官路くわんろなり、此宿より山手に入る㕝二里ばかりに間瀬口ませくちといふ村あり、こゝの農家のうかに地火をいだす㕝如法寺によほふじ村の地火に同じとぞ。此ほとり用水に乏とぼしき所にては、旱ひでりのをりは山に就ついて井を横よこに掘ほりて水を得うる㕝あり、ある時井を掘て横にいたりし時穴あなの闇くらきをてらすために炬たいまつを用ひけるに、陽火やうくわを得えて陰火いんくわ忽たちまち然もえあがり、人是これが為ために焼死やけししけるとぞ。是等これらの㕝どもをおもひはかるに、越後のうちには地火をいだす火脉くわみやくの地多おほく、いまだ陽火を得えずして発はつせざるも多かるべし。

百樹もゝき曰いはく、余よ小千谷をぢやにありし時岩居がんきよ余よに地獄谷ぢごくだにの火を見せんとて、社友しやいう五人を伴ともなひ用意よういの酒食しゆしよくを奚奴しもべ二人に荷になはしめ、余与よと京水と同行どうかう十人小千谷をはなれて西の方●新保しんほ村●薮川新田やぶかはしんでんなどいふ村々を歴へて一宮いちのみやといふ村にいたる、山間やまあひの篆畦あぜみち曲節まがり〱て茲こゝに抵いたる行程みちのり一里半可ばかりなり。是日このひはことに快晴くわいせいして村落そんらくの秋景しうけい百逞ひやくてい目を奪うばふ。さて平山ひらやま一ツを踰こえて坡さかあり、則すなはち地獄谷へいたるの径みちなり。坡さかの上より目を下くだせば一ツの茅屋ばうをくあり、是これ本文ほんもんにいへる混堂ゆやなり。人々坡さかの半なかばにいたりし時、茅屋ばうをくの楼上ろうしやうに四五人の美婦びふあらはれ、おの〱檻てすりによりて、遙はるかにこの人々を指ゆびさすもあり、あるひは笑わらひ、あるひは名をよび、あるひは手をうちたゝき、あるひは手をあげてまねく。四面しめん皆みな山にて老樹らうじゆ欝然うつぜんとして翳塞おほひふさぐの中なかに個この美人びじんを見ること愕然びつくりし、是狸たぬきにあらずんばかならず狐ならんといひければ、岩居がんきよ友ともだちと相顧あひかへりみ、手てを拍うつて笑わらふ。これは小千谷の下た町といふ所の酒楼しゆろうに居をる酌採しやくとりの哥妓げいしやどもなり、岩居がんきよ朋友はういうと計はかりて竊ひそかに此こゝに招まねきおきて余よに興きやうさせん為ためとぞ。渠かれは狐にあらずして岩居がんきよに魅ばかされたるなり。已すでに地獄谷にくだり皆みな楼ろうにのぼれり。岩居は余よと京水とを伴ともなひてかの火を視みせしむ。

●そも〱茲谷このたには山桜多かりしゆゑ桜谷とよびけるを、地火あるをもつて四方四五十歩ほ六尺を歩といふをひらきて平坦たひらの地となし、地火を借かりて浴室よくしつとなし、人の遊ぶ所とせしとぞ。桜谷とよびたる処地火のために地獄ぢごくとよばるゝこと、花はさぞかし薀憤くちをしかるべし。

●さてその火を視みるに、一ツの浅き井を作りたるその井中いちゆうより火の燃もゆる事常の湯屋の火よりも盛さかんなり。上に釜かまあり一間四方の湯槽ゆぶねあり、細ほそき筧かけひありて后うしろの山の清水を引き湯槽ゆぶねにおとす。湯は槽ふねの四方に溢あぶれおつ、こゝをもつて此湯ゆ温ぬるからず熱あつからず、天工こうの地ち火くわ尽つくる時なければ人作じんさくの湯も尽つくる期ごなし、見るにも清潔せいけつなる事いふべからず。此混堂ゆやに続つゞきて厨処だいどころあり、灶かまどにも穴ありて地火を引て物を烹にること薪たきゞに同じ。次に中の間まあり、床ゆかの下より竹筩たけつゝを出し、口には一寸ばかり銅あかゞねを鉗はめて火を出いださしむ。上より自在じざいをさげ、此火に酒の燗かんをなしあるひは茶ちやを煎せんじ、夜は燈火ともしびとす。さて熟つら〱此火を視るに、筩つゝをはなるゝこと一寸ばかりの上に燃もゆる、扇にあふげば陽火やうくわのごとくに消きゆる。筩つゝの口に手をあてゝこゝろむるに少しく風をうくるのみ。発燭つけぎの火を翳かざせば忽然こつぜんとしてもゆることはじめの如し。主あるじの翁おきなが曰、この火夜は昼ひるよりも燥烈はげしく、人の顔かほ青あをくみゆるといへり。翁が妻つま水のうちよりもゆる火を見せ申さんとて、混堂ゆやのうしろに僅わづかの山田ある所にいたり、田の水の中に少し湧わくところあるにつけぎの火をかざししに、水中の火蝋燭らふそくのもゆるが如し。老婆らうばがいはく、此火のやうにもゆる処ほかにもあり、夜にいればこと〲く火をもやすゆゑ獣けものきたらずといへり。余よが江戸の目には視みる所こと〲く奇妙きめうなり。唐土もろこしには此火を火井くわせいとて、博物志はくぶつし或あるひは瑯瑘代酔らうやたいすゐに見えたる雲台山うんたいさんの火井も此地獄谷の火のごとくなれども、事の洪大こうだいなるは此谷の火に勝まさらず。唐土もろこしと日本とをおつからめて火井の最さい第一といふべし、是を見たる事越遊の一奇観きくわんなり。唐土に火井の在ある所北の蜀地しよくちに属しよくす、日の本の火井も北の越後に在り、自然しぜんの地勢ちせいによるやらん。

●さて一人の哥妓げいしや梯上はしごのうへにいでゝしきりに岩居がんきよを呼よぶ、よばれて楼ろうにのぼれり。余よは京水とゝもに此湯ゆに浴よくす、楼上ろうしやうには早はやく三弦さみせんをひゞかせり。浴ゆあみしをはりて楼にのぼれば、既すでに杯盤はいばん狼藉らうぜきたり。嬋娟哥妓うつくしきげいしや袖をつらね、素手そしゆ弄糸いとをろうし朱唇しゆしん謡曲きよくをうたふ迦陵頻伽かりやうびんがの声こゑ、外面如𦬇げめんによぼさつの色いろ興きやうを添そゆれば、地獄谷ぢごくだに遽然たちまち極楽世界ごくらくせかいとなれり。此妓ぎどもを養やしなふ主人あるじもこゝに来きたり居ゐて、従したがへたる料理人に具ぐしたる魚菜ぎよさいを調味ていみさせてさらに宴えんを開ひらく。是主人このあるじ俗中ぞくちゆうに雅がを挾さしはさんで恒つねに文人ぶんじんを推慕したふゆゑに、是この日もこゝに来きたりて余よに面識めんしきするを岩居がんきよに約やくせしとぞ。此人䶕そつはなるゆゑ自みづから双坡楼そつはろうと家号いへなす、その滑稽こつけい此一をもつて知るべし。飄逸へういつ洒落しやらくにしてよく人に愛あいせらる、家の前後に坡さかありとぞ、双坡そつはの字じ下くだし得えて妙なり。双坡楼そつはろう扇あふぎをいだして余よに句くを乞こふ、妓も持もちたる扇を出いだす。京水画をなし、余即興そくきやうを書しよす。これを見て岩居がんきよをはじめおの〱壁かべに句くを題だいし、更さらに風雅ふうがの興きやうをもなしけり。

●かくてやゝ日も傾かたふきければ帰路きろを促うながしけるに、哥妓げいしやどもは草鞋わらじにて来きたりしとてそれはわしがのなり、これはあれはとはきすてたるを争あらそふてはきいづる、みな酔興すゐきやうなれば噪閙おほさはぎして途みちを行ゆく。細流こながれある所にいたれば紅唇べに粉面おしろいの哥妓げいしや紅裩あかきゆもじを褰かゝげて渉わたる、花姿くわし柳腰りうえうの美人等びじんらわらじをはいて水をわたるなど余よが江戸の目には最いと珍めづらしく興きやうあり。酔客すゐかくぢんくをうたへば酔妓すゐぎ歩々あるきながら躍をどる。古縄ふるなはを蛇へびとし駭おどせば、おどされたる妓ぎ愕びつくりして片足かたあし泥田どろたへふみいれしを衆人みな〱辴然おほわらひす。此途みちは凡すべて農業のうげふの通路つうろなれば憇いこふべき茶店ちやみせもなく、半途はんとに至いたりて古き社やしろに入りてやすらふ。一妓ひとりのぎ社の后うしろに入りて立かへり石の水盤てうづばちの涸かれたる水を僅わづかに掬すくひ、手てを洗あらひしは私たれに去さりしならん。そのまゝ樹下きのもとに立せ玉ふ石地蔵𦬇いしのぢぞうぼさつの前まへに並ならびたちながら、懐中くわいちゆうより鏡かゞみを出いだして鉛粉おしろいのところはげたるをつくろひ、唇紅くちべになどさして粧よそほひをなす、これらの粧具しやうぐをかりに石仏せきぶつの頭かしらに置おく。外面女𦬇げめんによぼさつ内心ないしん如夜叉によやしやのいましめもあれば、𦬇ぼさつはなにとやおもひ玉ふらんともつたいなし。日ひも已すでに下晡なゝつさがりなればおの〱あしをすゝめて小千谷をぢやへかへりき。此紀行別に一本あり、吾が北越旅談にをさむ。

〔図〕fig58401_16.png
阪額野陣之圖

○ 越後の人物

板額女はんがくぢよは加治かぢ明神山の城主長をさの太郎祐森すけもりが室しつ、古志郡の産さんなり。又三歳の小児も知れる酒顛童子しゆてんどうじは蒲原郡沙子塚すなごつか村の産さん、今猶屋敷跡やしきあとあり。始はじめは雲上山うんしやうざん国上寺こくじやうじの行法印ぎやうほふいんの弟子でしなり。玄翁げんをう和尚は伊夜彦山いやひこさんの麓ふもと箭矧やはぎ村の産さんなり。近世ちかきよにいたりて徳僧とくそう高儒かうじゆ和哥書画の人なきにしもあらざれども、遠く四方に雷名らいめいせるはすくなし。画人呉俊明のち江戸にいでしゆゑ名をなせり近年相撲すまふに越海こしのうみ・鷲ヶ浜わしがはまは新潟にひがたの産さん、九紋竜くもんりゆうは高田今町の産、関戸せきのとは次第浜しだいはまの産さん也。常人たゞびとにて力士りきしの聞きこえありしは頸城くびき郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、是等これら無双ぶさうの大力にて人の知る所なり。又鎧潟よろひがたに近き横戸よこと村の長徳寺、谷根たにね村の行光寺も怪力くわいりよくのきこえたかし。此人々はいづれも独ひとりして鐘つりがねを軽かろく掛かけはづしするほどの力は有し人々なり。又孝子にはむかしは村上小次郎、新発田しばたの菊きく女、頸城くびき郡の僧そう知良、近くは三嶋郡村田村の百合ゆり女百姓伊兵衛がむすめ新発田しばた荒川あらかは村門左エ門百姓丑之介がせがれ塚原つかはらの豆腐売とうふうり春松鎌介がせがれ蒲原郡釈迦塚しやかつか村百姓新六、いづれも孝子かうしの名一国に高かりき。今存在そんざいするもありとかや。

百樹もゝき曰いはく、余よ越後にいたらば板額はんがくあるひは酒顛童子しゆてんどうしの旧跡きうせきをもたづね、新潟にひがたをも一覧なし、名の聞えたる神仏をもをがみたてまつり、寺泊てらどまりにのこる 順徳帝じゆんとくていの鳳跡おんあと、義経よしつね、夢囱国師むそうこくし、法然はうねん上人、日蓮上人、為兼卿ためかねきやう、遊女初君はつきみ等とうの古跡こせきもたづねばやとおもひしに、越後に入りてのち気運きうん順じゆんを失うしなひ、年とし稍やゝ倹けんして穀こくの価ねだん日々に躍あがり、人気じんき穏おだやかならず。心こゝろ帰家かへりたきにありて風雅ふうがをうしなひ、古跡こせきをも空むなしく過よぎり、惟たゞ平々なみ〱たる旅人りよじんとなりて、きゝおよびたる文雅ぶんがの人をも剌問たづねざりしは今に遺憾ゐかんなり。嗟乎あゝ年としの倹けんせしをいかんせん。

○ 無縫塔むほうたふ

蒲原郡かんばらごほり村松より東一里来迎らいかう村に寺あり、永谷寺えいこくじといふ曹洞宗さうどうしうなり。此寺の近くに川あり、早出川はやでがはといふ。寺より八町ばかり下に観音堂くわんおんだうあり、その下を流るゝ所を東光とうくわうが淵ふちといふ。永谷寺へ入院じゆゐんの住職じゆうしよくあれば此淵ふちへ血脉けちみやくを投なげ入るゝ事先例せんれいなり。さて此永谷寺の住職遷化せんげの前年ぜんねん、此淵ふちより墓はかの石になるべき円まるき自然石じねんせきを一ツ岸きしに出いだす、是これを無縫塔ふほうたふと名づけつたふ。此石出いづればその翌年よくねんには必かならず住職じゆうしよく病死びやうしする事むかしより今にいたりて一度も違ちがひたる事なし。此墓石はかいし大小によりて住職の心に応おうぜず淵ふちへかへせば、その夜よ淵逆浪げきらうして住職のこのむ石を淵に出したる事度々あり。先年凡僧ぼんそうこゝに住職し此石を見て死しを惧おそれ出奔しゆつほんせしに翌よく年他国たこくにありて病死せしとぞ。おもふに此淵に灵れいありて天然てんねんの死しを示しめすなるべし。友人いうじん北洋ほくやう主人蒲原郡見附の旧家、文をこのみ書をよくす件くだんの寺を覧みたる話はなしに、本堂間口まぐち十間、右に庫裏くり、左に八間けんに五間の禅堂ぜんだうあり、本堂にいたる阪さかの左りに鐘楼しゆろうあり、禅堂のうしろに蓮池れんちあり。上に坂あり、登りて住職じゆうしよくの墓所あり。かの淵ふちより出いだしたる円石まるいしを人作じんさくの石の台だいの脚あしあるにのせて墓はかとす。中央まんなかなるを開山かいさんとし、左右に次第しだいして廿三基きあり。大なるは径わたり一尺二三寸ばかり、八九寸六七寸なるもあり、大小は和尚の徳に応おうずといひつたふとぞ。台の高さはいづれも一尺ばかりなりと語られき。かの淵ふちに灵れいありといふは、むかし永光寺のほとりに貴人きにん何某なにがし住玉ひしに、その内室ないしつ色情しきじやうの妬ねたみにて夫をつとをうらみ、東光が淵に身を沈しづめ、冤魂ゑんこん悪竜あくりゆうとなりて人をなやまししを、永光寺の開山名をきゝもらせり血脉けちみやくをかの淵ふちにしづめて化度けどし玉ひしゆゑ悪竜得脱とくだつなし、その礼とてかの墓石はかいしを淵ふちにいだして死期しきを示しめす。是以こゝをもつて今にいたりても入院じゆゐんの時は淵に血脉を沈しづむと寺説じせつにつたふとぞ。

○さてまた我が隣国りんごく信濃にも無縫塔むほうたふの事あり。近江の石亭が雲根志うんこんしにいはく前編灵異之部信濃国高井郡渋湯しぶゆ村横井温泉寺の前に星河とて幅はゞ三町ばかりの大河あり、温泉寺の住僧遷化せんげの前年に、此河中へ何方いづかたよりともなく、高さ二尺ばかりなる自然石じねんせきの方かくにしてうつくしき石塔一ツ流れきたる、実まことに彫刻てうこくせるごとくにて天然てんねんの物なり。此石出いづると土民どみんども温泉寺へしらせる事なり、きはめて翌よく年住僧遷化せんげなり、則しるしに此石を立る。九代以前より始りしが代々九代の石塔、同石同様にて少しも違たがはず並ならびあり。或年あるとしの住僧此塔の出たる時天を拝していのる、我法華ほつけ千部読経どくきやうの願ぐわんあり、今一年にして満みてり、何とぞ命を今一年延のばし玉へと念じて、かの塔を川中の淵ふちに投なげこみたり。何事もなく一年すぎて千部読経どくきやうのすみし月に件くだんの石又川中にあらはるゝ、其翌年はたして遷化せんげなりと。その次の住僧塔のいでたる時何のねがひもなく淵ふちへなげこみたり、幾度なげしづめても其夜そのよにいでたり、翌年病死ありしとぞ。此辺にて是を無帽塔むはうたふと名づく。以上一条の全文越後に永光寺、信濃に温泉寺、事の相似あひにたる一奇怪きくわいといふべし。

○百樹もゝき曰、牧之老人が此草稿したがきを視みて無縫塔むほうたふの縫ほうの字義じぎ通つうじがたく誤字ごじにやとて郵示ひきやくたよりして問とひければ、無縫塔むほうたふと書伝かきつたへたるよしいひこしぬ。雲根志うんこんしには無帽塔むはうたふとあり、無帽むはうの字じも又通つうじがたし。おそらくは無望塔むばうたふにやあらん。住僧の心には死しぬがいやさに無望塔のぞみなきたふなるべし。こゝに無稽むけいの一笑いつせうを記しるして博識はくしきの確拠かくきよを竢まつ。

○ 北高和尚ほくかうわせう

魚沼郡|雲洞村うんどうむら雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の慈光寺じくわうじ、村松にあり村上の耕雲寺かううんじ、伊弥彦やひこの指月寺しげつじ、雲洞村の雲洞庵なり。十三世通天和尚つうてんわせうは、 霜台君さうたいくんの謙信けんしんの事親藉しんせきにて、高徳かうとくの聞えは今も口碑うはさにのこれり。 景勝君かげかつくんも此寺に物もの学まなび玉ひしとぞ。一国の大寺なれば古文書こもんじよ宝物等も多し、その中に火車落くわしやおとしの袈裟けさといふあり、香染かうそめの麻あさと見ゆるに血ちの痕あとのこれり。是を火車落とて宝物とする由来ゆらいは、むかし天正の頃雲洞庵十世北高和尚といひしは学徳全備がくとくぜんびの尊者にておはせり。其頃此寺にちかき三郎丸村の農家のうかに死亡しばうのものありしに、時しも冬の雪ふりつゞき雪吹ふゞきもやまざりければ、三四日は晴はれをまちて葬式さうしきをのばしけるに晴はれざりければ、強しひていとなみをなし、旦那寺だんなでらなれば北高和尚をむかへて棺くわんをいだし、親族しんぞくはさら也人々蓑笠みのかさに雪をしのぎて送おくりゆく。その雪途ゆきみちもやゝ半にいたりし時猛風まうふう俄にはかにおこり、黒雲こくうん空そらに布満しきみちて闇夜あんやのごとく、いづくともなく火の玉飛来り棺くわんの上に覆おほひかゝりし。火の中に尾はふたまたなる稀有けうの大猫ねこ牙きばをならし鼻はなをふき棺くわんを目がけてとらんとす。人々これを見て棺を捨すて、こけつまろびつ逃にげまどふ。北高和尚はすこしも惧おそるゝいろなく口に咒文じゆもんを唱となへ大声たいせい一喝いつかつし、鉄如意てつによいを挙あげて飛つく大猫の頭かしらをうち玉ひしに、かしらや破やぶれけん血ほどはしりて衣ころもをけがし、妖怪えうくわいは立地たちどころに逃去にげさりければ、風もやみ雪もはれて事なく葬式をいとなみけりと寺の旧記にのこれり。此時めしたるを火車おとしの法衣ころもとて今につたふ。

〔図〕fig58401_17.png
北高禅師勇気圖

百樹もゝき曰いはく、余よ越遊して塩沢に在し時、牧之老人に伴ともなはれて雲洞庵にいたり、塩沢より一里ばかり庵主あんしゆにも対話たいわなし、かの火車おとしの袈裟けさといふ物その外の宝物古文書こもんじよの類るゐをも一覧らんせり。いかにも大寺にて祈祷の二字を大書たいしよしたる竪額たてがくは 順徳院の震筆しんひつなりとぞ。佐渡へ遷幸のときの震筆なるべし門前に直江なほえ山城守の制札せいさつあり、放火はうくわ私伐しばつを禁きんずるの文なり。庭中ていちゆう池のほとりに智勇の良将宇佐美駿河守刃死じんしの古墳こふん在ありしを、先年牧之老人施主せしゆとして新あらたに墓碑ぼひを建たてたり。不朽ふきうの善行ぜんぎやうといふべし。本文に火車といふは所謂いはゆる夜叉やしやなるべし、夜叉の怪は唐土の書にもあまた散見せり。

○ 年賀ねんがの哥うた

余よ六十一還暦くわんれきの時年賀の書画しよぐわを集あつむ。吾国わがくにはさらなり、諸国の文人ぶんじん三都との名家めいか妓女きぢよ俳優はいいうヤクシヤ来舶清人らいはくせいひとの一絶ぜつをも得えたり。みな牧之に贈おくるといふ㕝をしるしたるなり、人より人にもとめて千余幅におよべり、帖でふとなして蔵す。ひとゝせ是を風入れするため舗みせにつゞきたる坐ざしきの障子しやうじをひらき、年賀の帖を披ひらき並ならべおきたる所へ友人いうじん来り、年賀の作意さくい書画の評ひやうなどかたりゐたるをりしも、順礼じゆんれいの夫婦ふうふ軒下のきしたに我が里言には廊下といふ立たちけり。吾が家常に草鞋わらんづをつくらせおきてかゝる者ものに施ほどこすゆゑ、それをも銭をもあたへしに、此順礼の翁おきな立さらでとりみだしたる年賀の帖を心あるさまに見いれたるが云いふやう、およばずながらわれらも順礼の腰をれを申さん、たんざく玉はれといふ。乞食こつじきのやうなるすがたには似気にげなきことばのおぼつかなしと思ひながら、短尺たんざくすゞりばこいだしければ、

三途川さんづがはわたしは先さきへ百年もゝとせも君きみがむかひをとゞめ申さん   五放舎ごはうしや

としるしたるふでのはこびも拙つたなからず。年賀にはひとふしかはりたる趣向しゆかうといひ、順礼じゆんれいに五放舎と戯たはふれたる名もおもしろく、友人と倶ともにおどろき感かんじ、宿やどを施行せぎやうせん、ゆる〱ものがたりせんなど、友人もさま〲にすゝめたれど、杖つゑをとゞめずして立さりけり。国は西国とばかりいへり、いかなるものにてやありけん。

○ 逃入村にごろむらの不思議ふしぎ

小千谷をぢやより一里あまりの山手やまてに逃入村にごろむらといふあり、にげ入りを里俗にごろとよぶ此村に大塚つか小塚とよびて大小二ツの古墳こふん双ならびあり。所の伝つたへに大なるを時平しへいの塚とし、小なるを時平の夫人ふじんの塚といふ。時平大臣夫婦の塚此地に在あるべき由縁いはれなきことは論におよばざる俗説ぞくせつなり。しかれども爰こゝに一ツの不思議あり、そのふしぎをおもへば、むかし時平にゆかりの人越後に流ながされなどして此地に終をはりたるにやあらん。その不思議といふは、昔より此逃入村の人手習てならひをすれば天満宮の祟たゝりありとて一村の人皆無筆むひつなり。他郷たきやうに身みを寄よせて手習すれば祟たゝりなし。しかれども村にかへれば日を追おひて字じを忘わすれ、終つひには無筆となる。このゆゑに文字もじの用ある時は他の村の者にたのみて書用しよようを弁べんず。又此村の子どもなど江戸土産みやげとて錦絵をもらひたる中に、天満宮の絵あればかならず神の祟たゝりの兆しるしありし事度々なりしとぞ。さればかの大塚小塚を時平大臣夫婦の古墳こふんなりと古くいひつたふるも何か由縁ゆえんある事なるべし。菅家くわんけの筑紫つくしにて薨こうじ玉ひたるは延喜えんぎ三年二月廿五日なり、今を去る事百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり九百十五年前なり。今にいたりても神灵しんれいの明々たる事おそるべし尊たうとむべし。

さて又これにるゐする事あり、南𧮾なんけいが東遊記とういうきを見るに、南𧮾東遊して津軽つがるに居たる時、六七日も風雨つゞきしうち、所の役人丹後の人や居をると旅店毎やどやごとにきびしくたづねしゆゑ、南𧮾あるじにそのゆゑを問ひければ、あるじいふやう、当国岩城いはきは人のしりたる安寿姫対王丸の生国なり、さればむかしの人此御ふたりを岩城山の神にまつりて社やしろ今に在り。此兄弟丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃苦くるしみたるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の堺さかひをいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると捜さがすなりといへりと。南𧮾子なんけいし此事に遇あひたりとて記せり。右にいふ兄弟の父岩城判官いはきはんぐわん正氏まさうぢ在京ざいきやうの時讒ざんにあひて家の亡びたるは永保年中の事なり、今をさる事およそ七百五十余年也。兄弟の怨魂ゑんこん今に消滅せうめつせざる事人知じんちを以論ずべからず。百樹曰、安寿は対王が妻なるよし塩尻廿二巻にいへり、猶考西遊記前編景清かげきよが塚つかは日向にあり、世の知る処なり。其母の塚は肥後国求麻くまの人吉の城下より五六里ほど東、切幡村きりばたむらにまつる。此所に景清が娘の墳つかもあり、一村の氏神にまつる、此村かならず盲人まうじんを忌いむ、盲人他処より入れば必祟たゝりあり、景清後のちに盲人になりしゆゑ、母の灵れい盲人めくらを嫌ふと所の人のいへりと記しるせり。これらの㕝逃入村にごろむらの不思議ふしぎに類せり。しかれども件くだんの二ツは社やしろありて丹後の人を忌いみ、墓はかありて盲人めくらをきらふなり、逃入村にごろむらは墳つかあるゆゑに天満宮の神灵しんれい此地を忌いみ玉ふならん。こゝをもつて考かんがふるに、かの古墳こふんはいよ〱時平が血脉けちみやくの人なるべし。

百樹もゝき曰いはく、余よ越遊ゑついうして小千谷をぢやに在りし時、所の人逃入にごろ村の事を語かたりて、かの古墳を見玉へ案内すべしといひしかど、菅神のいみ玉ふ所へ文墨ぶんぼくの者強しひてゆくべきにもあらねば、話はなしをきゝしのみにてゆかざりき。さて 天神様といへば三歳の小児も尊び、時平ときけば此 御神を讒言ざんげんしたる悪人なりとて、其悪千古に上下して哥舞妓かぶき狂言にも作りなし、婦女子も普あまねく知る所なれど、童稚どうち女子ぢよしはその実跡じつせきをしれるが稀まれなり。さればかゝるはかなき冊子さうしに此 御神の事を記しるすはいともかしこけれど、逃入村にごろむらの因ちなみによりてこゝに書載かきのす。

○謹つゝしんで案あんずるに、菅原すがはらの本姓は土師はじなりしが、土師はじの古人ふるひとといひしが、 光仁帝くわうにんていの御時、大和国菅原すがはらといふ所に住すみたるゆゑに土師の姓を菅原に改らる。菅神御名は道真みちざね、字あざなは三、童名を阿呼あこと申たてまつる。阿呼の御名に余が考あれども、文長ければこゝにはぶく 仁明帝にんみやうていに仕へ玉ひたる文章博士もんしやうはかせ参議さんぎ是善卿これよしきやうの第三の御子、承和じやうわ十二年に生うまれ玉へり。七歳の時紅梅こうばいを御覧じて「梅の花紅脂べにのいろにぞ似たる哉阿古あこが顔にもぬるべかりけり」十一の春斉衡二年父君より月下梅げつかのうめといふ詩しの題だいを玉ひたる時即坐そくざに「月ノ輝カヽヤクハ如シ二晴ハル、雪ノ一梅花ハ似タリ二照ル星ニ一可シレ憐ム金鏡転シテ庭上玉房馨カンバシ」御祖父清公御父是善卿の学業を受嗣うけつぎ玉ひて文芸ぶんげいはさらなり、武事にも疎うとからずまし〱けり。

○清和天皇の貞観元年御年十五にて御元服、同四年文章生もんじやうせいに挙あげられ、下野の権掾ごんのじやうにならせらる。同十四年御年廿八御母伴氏ともうぢ身まかり玉ひ、 陽成天皇やうぜいてんわうの元慶ぐわんぎやう四年八月晦日御父是善卿ぜぜんきやうも身まかり玉へり。御年六十九此時 菅神は御年四十一なり。

○寛平くわんびやう四年御年四十八類聚国史るゐじゆこくし二百巻を撰えらみ玉ふ。和哥は菅家御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻後草は筑紫にての御作なり今も世に伝ふ。大納言公任卿きんとうきやうが朗詠集らうえいしふに入れられたる菅家の詩に「送ルハレ春ヲ不レ用ヒレ動スコトヲ二舟車ヲ一唯別ル三残鴬ト与トニ二落花一若モシ使シテ二韶光ヲ一知ラシメバ二我ガ意ヲ一今𫕟旅宿在ン二詩家ニ一」此御作は 延喜帝いまだ東宮とうぐうたりし時令旨れいしありて一時ひとゝきの間に十首の詩を作り玉ひたる其一ツなり。

○さて御若年より数階すかいを歴へ給ひて後、寛平くわんびやう九年御年五十三権大納言右□将を兼かねらる。此時時平しへい大納言に任にんぜられ左□将を兼、 菅神と並び立て執政しつせいたり。此時大臣の官なかりしゆゑ、大納言にて執政たり。此年七月三日 宇多帝うだてい御位みくらゐを太子敦仁あつひと親王へ譲ゆづり玉ひ朱雀すじやく院へ入らせ玉ひ、亭子ていじ院と申奉り、御法体ほつたいありては 寛平法皇くわんびやうほふわうとぞ申奉る。 敦仁あつひと親王を 醍醐だいご天皇とも後のちよりは延喜帝とも申奉る。御年十三年号を昌泰しやうたいと改元す。同二年時平公左□臣、 菅神右□臣相倶あひともに 帝みかどを補佐ほさし奉らる、時に時平公二十七、 菅神五十四。両公左右の□臣たれども才徳さいとく年齢ねんれい双璧さうへきをなさず、故に心齟齬そごして相和くわせず。是これ 菅神の讒毒ざんどくを得え玉ふの張本ちやうぼんなり。

○そも〱時平公は大職冠九代の孫照そんせう宣ぜん公の嫡男ちやくなんにて、代々□臣の家柄いへがらなり。しかのみならず延喜帝の皇后きさきの兄あになり。このゆゑに若年にして□臣の貴重きちやうに職しよくししなり。此人の乱行らんぎやうの一ツを言いはば、叔父をぢたる大納言国経卿くにつねきやうは年老としおい、叔母をばたる北の方は年若く業平なりひらの孫女まごむすめにて絶世ぜつせいの美人びじんなり。時平是に恋々れん〱す、夫人ふじんもまた夫をつとの老おいたるを嫌きらふの心あり。時平或日あるひ国経くにつねの許もとに宴えんし、酔興すゐきやうにまぎらして夫人ふじんを貰もらはんといひしを、国経も酔ゑひたれば戯言たはぶれごととおもひてゆるしけり。さて国経が酔臥ゑひふしたるを見みて叔母をばを車にいだき入れて立かへり、此腹はらに生れたるを中納言敦忠あつたゞといふ、時平の不道ふだう此一を以て其余そのよを知しるべし。かゝる不道の人なれば、 寛平法皇の帝の御父御心には時平の任にんを除のぞき 菅神御一人に国政をまかせ玉はんとのおぼしめしありしに、延喜元年正月三日、帝みかど亭子院ていじゐんへ朝覲てうきんのをりから御内心を示しめし玉ひしに 帝もこれにしたがひ玉ひ、其日 菅神を亭子院にめして事のよしを内勅ないちよくありしに 菅神固かたく辞じしたまひしに許ゆるし玉はざりけり。同月七日従二位にすゝみ玉へり此密事みつじいかにしてか時平公の聞きゝにふれしかば、事に先さきんじて 帝に讒ざんするやうは、君の御弟斉世ときよ親王は道真みちざねの女むすめを室適しつてきオクサマして寵遇ちようぐう厚あつし。是以こゝをもつて君を廃はいして親王を立、国柄こくへいを一人の手に握にぎらんとの密謀みつぼうあり 法皇ほふわうも是に応おうじ玉ふの風説ふうせつありと言ことばを巧たくみに讒ざんしけり。時に 延喜帝御年十七なり。 皇后きさきは時平公の妹なれば内外より讒毒ざんどくを流して若帝わかみかどの御心を動うごかし奉りたるなり。

○さて時平が毒奏どくそうはやく中あたりて、同月廿五日左降さがうの宣旨せんじ下りて右□臣の職しよくを削けづり、従二位はもとのごとく太宰権帥だざいごんのそつとし文官筑紫つくしへ左遷させんに定め玉へり。 寛平くわんびやう法皇此事を聞きこしめして大におどろかせ給ひ、御車みくるまにもめし玉はず俄に御沓くつをすゝめ玉ひて清涼殿に立せ玉ひ、斯かくと申せとおほせありしかども左右の諸陣警固けいごして事を通ぜず、是も時平が讒ざんに一味する菅根の朝臣がはからひとかや。 法皇は草坐むしろにざし玉ひ終日庭上にはに御ましまし晩くれにいたりてむなしく本院へ還□《かへらせ》玉へり。

○菅神に御子二十三人おはせり。御男子四人は四方へ流ながされ玉ふ、是も時平が毒舌どくぜつによれり。姫ひめたちは都にとゞまり幼をさなきはふたり筑紫へしたがへ給へり。年頃としごろ愛めで玉ひたる梅にさへ別れををしみたまひて「東風こち吹ふかば匂ひをこせよ梅の花主あるじなしとて春な忘わすれぞ」此梅つくしへ飛とびたる事は挙世よのひとの知る処なり。又桜を「桜花主ぬしを忘わすれぬものならば吹こん風にことつてはせよ」

○斯かくて延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘をいで玉ひて、津の国須磨すまの浦に日を移うつしつくしへ抵いたりたまへり。やかたをいで玉ひてよりつくしへいたり給ひしまでの事どもを、菅神の筆記せさせ給ひたるを須麻の日記とて今も世にのこれり、一説に偽書といふ。

○筑紫つくし太宰府だざいふにて「離レテレ家ヲ三四月 落涙百千行 万事ハ皆如シレ夢ノ 時々仰アヲク二彼蒼ヒサウヲ一」御哥に「夕ざれば野にも山にも立烟りなげきよりこそもえまさりけれ」又雨の日に「雨の朝あしたかくるゝ人もなければやきてしぬれ衣きぬひるよしもなき」ぬれぎぬとは無実むじつのつみにかゝるをいふなり

○つくしにいたり玉ひては不出門行ふしつもんかうといふ詩しを作り玉ひて、寸歩すんほも門外もんのそとへいで玉はず。是朝廷てうていを尊たうとみ恐おそれ、御身の謫官てきくわんナガサレモノたるをつゝしみたもふゆゑなり。御句に「都府楼ハ纔ワズカニ看ミ二瓦ノ色ヲ一 観音寺ハ只タヾ聴ク二鐘ノ声ヲ一」

○菅神延喜元年二月朔日都を出玉ひて筑紫へいたり玉ひしは八月なり。是より前の御詩文を菅家文草といひ十二巻左遷より後のを菅家後草とて一巻今も世につたふ。後草に九月十三夜の題だいにて「去年今夜侍ジシキ二清涼ニ一 秋思ノ詩篇独リ断ツレ膓ハラワタヲ 恩賜ノ御衣今在レ此コヽニアリ 捧持サヽゲモチテ毎日拝ス二余香ヲ一」此御作に注ちゆうあり、その趣おもむきは、○去年とは昌泰しやうたい三年なり延喜元年の一年まへ其年の九月十三夜、 清涼殿に侍候じかうありし時、秋思といふ題だいを玉はりしに、詩しの意こゝろにことよせて諫いさめたてまつりしに、其いさめを容いれ玉ひよろこばせ給ひて御衣を賜ひたるを、此配所はいしよにもちくだりて毎日御衣にのこりたる余香よかうを拝はいすと、 帝みかどをしたひ御恩を忘れ玉はざる御心の誠まことを作り玉ひたるなり。此一詩をもつても無実むじつの流罪るざいに所しよして露ばかりも帝を恨うらみ玉はざりしを知るべし。朝廷てうていを怨うらみ給ひて魔道まだうに入り、雷公かみなりになり玉ひたりといふ妄説まうせつは次に弁べんずべし。

○高辻の御庭の桜枯かれたりときゝ玉ひて「梅は飛桜はかるゝ世の中に松ばかりこそつれなかりけれ」

○さて太宰府に謫居てききよし給ふ事三年みとせにして延喜三年正月の頃より 御心例れいならず、二月廿五日太宰府に薨こうじ玉へり、御年五十九。御墓はかは府にちかき四ツ辻といふ所に定め、 御棺くわんをいだしけるに途中とちうにとゞまりてうごかず、則すなはちその所に葬り奉る、今の 神庿しんべう是なり。

○延喜五年八月十九日同所安楽寺に始はじめて 菅神の神殿を建らる。味酒あぢさけの安行やすゆきといふ人是をうけたまはる。同九年神殿成る。是よりさき四人の御子配流はいるをゆるされ玉ひ、おの〱故もとの位にかへされ玉ふ。

○神かん去さり玉ひしのち水旱風雷すゐかんふうらいの天変へんしば〱ありて人の心安からず。是ぞ 菅公の祟たゝりなるらんなど風説しけるとかや。

○菅神薨去こうきよより七年にあたりて延喜九年四月、左□臣藤原時平公薨こうず、歳三十九。又一男八条の大将保忠やすたゞ、その弟中納言敦忠あつたゞおよび時平の女むすめ、延喜帝の女御なり孫の東宮までも相つゞきて薨こうぜらる。又時平の讒毒ざんどくに荷担かたんしたる菅根すがねの朝臣は延喜八年十月死す。これらの事どもをも 菅神の祟なりと世に流布るふせしは 菅公の冤謫ゑんてきムジツノナガサレを世の人哀あはれみ戚なげきたるゆゑとかや。

○延長元年三月保明やすあきら太子薨去こうきよ。時平の孫、まへに東宮といひし是也。

○同年四月廿日贈位正二位本官の右□臣に復かへし玉ふ。神さり給ひしより二十年。

○一条院の御時正暦四年五月廿一日 菅神に正一位左□臣を贈おくらる。菅神百年御忌にあたる。

○同年閏十月十九日大政□臣を贈おくらる。しかれば此 御神の御位は正一位大政□臣としるべし。後年こうねん屡しば〱神灵しんれいの赫々かく〱たる徴しるしありしによりて、 天満宮、或 自在天神の贈称さうしようあり。

○そも〱 醍醐だいご天皇は在位卅二年百廿代の御皇統くわうとうの中にも殊に御徳達とくたつたりしゆゑ、延喜の聖代せいだいと称し、御在位の久かりしゆゑ 延喜帝とも申奉る。 御若冠の時とは申ながら、賢者けんしやの聞きこえある重臣の 菅公を時平大臣おとゞが一時の讒口ざんこうを信じ玉ひて其実否をも糺たゞし玉はず、卒尓そつじに菅公を左遷させんありしは 御一代の失徳しつとくとやいふべき。しかるを 菅神の恨うらみ玉はざりしは配所の詩哥にてもしらる、 菅神はうらみ玉はずとも賢徳けんとく忠臣の冤謫ゑんてきを天のいきどほりて水旱すゐかん風雷ふうらいの異変いへん、讒者ざんしや奸人かんじんの死亡しばうありしならん。俗子ぞくしは是を 菅神の怨灵おんりやうとするは是又 菅神の賢行けんかうに瑾きずつけるなり。しかれども竊ひそかに謂おもへらく、賢者けんしやは旧悪きうあくをおもはずといふも事にこそよれ、冤謫ゑんてき懆愁さうしうのあまり讒言ざんげんの首唱しゆしやうたる時平大臣しへいのおとゞを肚中とちゆうハラノナカに深く恨み玉ひしもしるべからず。本編にいふ逃入村にごりむらを神の忌いみ玉ふも其徴しるしとするの一ツなるべし。

○神去り玉ひしより廿八年の後延長八年六月二十六日、大雷清涼殿に隕おちて藤原清貫きよつら大納言平稀世たひらのまれよ右中弁其外侍候じかうの人々雷火に即死そくしす、 延喜帝常寧殿じやうねいでんに渡御ありて雷火を避さけたまふ。是をも 菅神の祟たゝりとするはいよ〱非説ひせつなりと、安斎あんさい先生伊勢平蔵の菅像弁くわんざうべんにもいへり。

○太宰府より一里西に天拝山はいさんあり。 菅神この山にのぼりて朝廷てうていを怨うらむ告文かうぶんを天に捧さゝげて祈いのり、雷神となり玉ひしといふは、賢徳けんとくの御心をしらざる俗子ぞくしの妄説まうせつを今に伝つたへたるなり。和漢三才図会づゑにも実まことしやかに記しるしたるは、不出門行ふしつもんかうの御作に心を深ふかめざるにやあらん。

○法性坊尊意そんい叡山えいざんに在し時 菅神の幽灵いうれい来り我冤謫むしつのながされの夙懟ふるきうらみを償むくはんとす、願くは師の道力をもつて拒こばむことなかれ。尊意曰、卒土そつとは皆王民なり、我もし 皇みかどの詔みことのりをうけ玉はらば避さくるに所なし。菅神怍色はづるいろあり、適たま〱柘榴さくろを薦すゝむ、 菅神哺たべかけを吐はきて焔ほのふをなし玉ひしといふ故事ふることは、元亨釈書げんかうしやくしよの妄説まうせつに起おこる。此書は今天保十年より五百廿年前元亨二年東福寺の虎関和尚の作なりかゝる奇怪の事を記すは仏者の筆癖ふでくせなりと、安斎あんさい先生もいへり。

○白太夫といふは伊勢渡会わたらひの神職しんしよく 菅神文墨ぶんぼくに於格外の懇友こんいうなり、ゆゑに北野に祀まつりて今も社あり。此御神の事を作りたる俗曲に梅王松王桜丸の名はかの梅は飛の御哥によりてまうけたる名なり。

○北野の御社の始はじめは天慶てんきやう五年六月九日より勅命ちよくめいによりて建創たてはじむ。其起りは西の京七条に住すみたる文子あやこといふ女に神託たくありしによりてなり。北野縁起につまびらかなり。

○世に渡唐とたうの天神といひて唐服たうふくに梅花一枝いつしを持玉ふを画く。故事ふることは、仏鑑禅師ぶつかんぜんじ聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖博多はかたに住玉ひたる跡あとの地中より掘いだしたる石に 菅神の灵れい唐土もろこしへ渡り玉ひて経山寺きんざんじの無準禅師むじゆんぜんじに聖一国師の師なり法を受うけ玉ひて日本ひのもとへ帰かへり玉ひたりと、件くだんの石に彫ほりつけありしと古書こしよに見えたるを拠よりところとして、渡唐とたうの 神影しんえいを画き伝つたへたるなり。此事固もとより妄説まうせつなりと安斎先生の菅像弁くわんざうべんにいへり。菅家聖庿伝暦といふ書の附録に、沙門師嵩が菅神渡唐記あり、其説孟浪に属す。

○菅神左遷させんの実跡じつせきを載のせたるは、○日本紀略きりやく抄録に巻序を失意せり○扶桑略記ふさうりやくき巻卅三〇日本史し百卅三の列伝れつでん五十九〇菅家御伝記神統かみのみすゑ菅原陳経のぶつね朝臣御作正史によられたれば証とすべし其余そのよ虚実きよじつ混合こんがふマジリしたる古今の書籍しよじやく枚挙まいきよアゲツクスすべからず。

○本朝文粋ぶんすゐに挙あげたる大江匡衡まさひらの文に「天満自在天神或は塩二梅於天下てんかをあんばいして一輔導一人いちにんをほだうし一帝の御こと或日二月於天上てんしやうにじつげつして一照二臨万民まんみんをせうりんす一就レ中なかんづく文道之大祖ぶんだうのたいそ風月之本主ふうげつのほんしゆ也なり」云云。大江家けは 菅原家と倶ともに 朝廷てうていに累世だい〱する儒臣じゆしんなり。しかるに 菅神を崇称あがめたゝへたる事件くだんの文の如し。是以こゝをもつて凡すべて文道に関あづかる者此 御神を崇あがめざらんや、信ぜざらんや。

○およそ 菅神を祀まつる社やしろにはおほかたは雷除らいよけの護府まもりといふ物あり。此 御神雷の浮名うきなをうけ玉ひたるゆゑ、 神灵しんれい雷らいを忌いみ玉ふゆゑに此まもりかならず験しるしあるべし。

○さて如件くだんのごとく条説でうせつするは、本編にいへる逃入村にごろむらの 神灵しんれいの事に因ちなみて実跡じつせきの書どもを摘要てきえうして御神の略伝りやくでんを児曹こどもに示しめすなり。固もとより不学ふがくのすさみなれば要跡えうせきの漏もれたるも説せつの誤謬あやまりたるもあるべし。あなかしこ謹つゝしんで附記ふきす。

○再ふたゝび按あんずるに、孔子の聖せいなるもその灵れいは生いける時よりも照然せうぜんとして、その墓はか十里荊棘けいきよくムバラを生ぜず、鳥も巣すをむすばず。関羽くわんうの賢けんなるも死ししては神となりて祈いのるに応おうず。是則これすなはち生いきては形かたちを以て運めぐり、死しゝては神たましひを以て運めぐるゆゑなりとかや。文海披沙の説菅神も此論ろんに近し。逃入村にごろむらの事を以ても千年にちかき神灵しんれいの赫々かく〱たること仰あふぐべし敬うやまふべし。盖けだし冥々めい〱には年月を置おかずときけば百年も猶なほ一日の如くなるべし。菅公の神灵にるゐする事和漢に多し、さのみはとこゝにもらせり。

○ 田代たしろの七ツ釜かま

魚沼郡の官駅くわんえき十日町の南七里計ばかり、妻在庄つまりのしやうの山中此へんすべて上つまりといふに田代たしろといふ村あり。村を去さる事七八町に七ツ釜といふ所あり、里俗滝つぼを釜といふ滝七段だんあるゆゑに七ツ釜とよびきたれり。銚子てうしの口不動滝ふどうたきなどいふも七ツ釜の内にて、妙景めうけい奇状きじやう筆ふでをもつて云いふべからず。第七番目の釜の地景ちけいを爰こゝに図づするをみて其大概たいがいをしるべし。此所の絶壁ぜつへきを竪御号たておがう横御号よこおがうといふ、里俗りぞく伊勢より御師おんしの持きたるおはらひ箱をおがうさまといふ、此絶壁ぜつへきの石かの箱の状かたちに似にたるをもつて斯かくいふなり。その似にたりといふは此ぜつへきの石どもの落おちてあるを視れば、厚あつさ六七寸計ばかりにして平ひらみあり、長さは三四尺ばかり、長短はひとしからず、石工いしやの作りなしたるが如し。此石数百万を竪たてに積重つみかさねて、此数十丈の絶壁ぜつへきをなす也。頂いたゞきは山につゞきて老樹らうじゆ欝然うつぜんたり、是右の方の竪御たておがうなり。左りは此石の寸尺にたがはざる石を横に積つみかさねて数十丈をなす事右に同じ。そのさま人ありて行儀ぎやうぎよくつみあげたるごとく寸分の斜ゆがみなし、天然てんねんの奇工きこう奇々妙々不可思議ふかしぎなり。此石の落たるを此田代村たしろむらの者ものさま〲の物に用ふ、片石へんせきにても他所に用ふれば祟たゝりありし事度々なりとぞ。余よ文政三年辰七月二日此七ツ釜の奇景きけいを尋たづねて目撃もくげきミタトコロしたるを記す。天の茫ばう々たる他国にも是に似たる所あるべし、姑しばらくその類るゐを示しめす。

〔図〕fig58401_18.png
七ツ釜之圖

○百樹もゝき曰、余よ仕つかへに在し時同藩の文学関先生の話はなしに、 君侯くんこう封内ほうないの丹波笹山山に天然てんねんに磨ひきうすの状かたちしたる石をつみあげて柱はしらのやうなるを並ならべて絶壁ぜつへきをなし、満山まんざん此石ありとかたられき。又西国の山に人の作りたるやうなる磨ひきうすの状かたちの石を産する所ありと春暉しゆんきが随筆ずゐひつにて見たる事ありき、今その所をおもひいださず。

○又尾張の名古屋の人吉田重房が著あらはしたる筑紫記行つくしきかう巻の九に、但馬国たじまのくに多気郡たけこほり納屋村なやむらより川船にて但馬の温泉いでゆに抵いたる途中みちを記しるしたる条くだりに曰いはく、○猶舟にのりて行ゆく。右の方に愛宕山あたごさん、宮島みやしま村、野上のかみ村、石山いしやま地名など追続おひつゞきてあり。此石山の川岸に臨さしかゝれる所に奇めづらしき石あり、其形かたち磨磐ひきうすの如く、上下平たひらかにして周めぐりは三角四角五角八角等にして、石工いしやの切立し如く、色は青黒し。是を掘出したる跡あともありて洞ほらのごとし。天下の広ひろきには珍奇ちんきなる事おほきものなりけり云云。是も奇石きせきの一類るゐなれば筆の次ついでにしるしつ。

北越雪譜二編巻之三 終

北越雪譜二編 巻之四

越後   鈴木牧之  編選

江戸   京山人百樹 増修

○ 異獣いじう

魚沼郡堀内ほりのうちより十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の間道かんだうなり。さてある年の夏のはじめ、十日町のちゞみ問屋ほりの内の問屋へ白縮ちゞみなにほどいそぎおくるべしといひこしけるゆゑ、その日の昼ひるすぐる頃竹助といふ剛夫がうふをえらみ、荷物をおはせていだしたてけり。かくて途みちも梢々やゝ半にいたるころ、日ざしは七ツにちかし、竹助しばしとてみちのかたはらの石に腰こしかけ焼飯やきめしをくひゐたるに、谷間たにあひの根笹ねさゝをおしわけて来きたる者あり、ちかくよりたるを見れば猿さるに似にて猿にもあらず。頭かしらの毛け長く脊せにたれたるが半なかばはしろし、丈たけは常並つねなみの人よりたかく、顔かほは猿に似て赤からず、眼まなこ大にして光りあり。竹助は心剛がうなる者ゆゑ用心にさしたる山刀を提ひつさげ、よらば斬きらんと身みがまへけるに、此ものはさる気色けしきもなく、竹助が石の上におきたる焼飯やきめしに指ゆびさしくれよと乞こふさまなり。竹助こゝろえて投与なげあたへければうれしげにくひけり、是にて竹助心をゆるし又もあたへければ、ちかくよりてくひけり。竹助いふやう、我はほりの内より十日町へゆくものなり、あすはこゝをかへるべし、又やきめしをとらすべし、いそぎのつかひなればゆくぞとて、おろしおきたる荷物をせおはんとせしに、かのもの荷物をとりてかる〲とかたにかけさきに立てゆく。竹助さてはやきめしの礼にわれをたすくるならんとあとにつきてゆくに、かのものはかたにものなきがごとし。竹助は嶮岨けんその道もこれがためにやすく、およそ一里半あまりの山みちをこえて池谷村いけだにむらちかくにいたりし時、荷物をばおろし山へかけのぼる、そのはやき事風の如くなりしと、竹助が十日町の問屋にてくはしく語かたりしとて今にいひつたふ。是今より四五十年以前の事なり、その頃は山かせぎするものをり〱は此異獣いじうを見たるものもありしとぞ。

○前にいふ池谷村の者の話はなしに、我れ十四五の時村うちの娘に機はたの上手ありて問屋より名をさしてちゞみをあつらへられ、いまだ雪のきえのこりたる囱まどのもとに機はたを織おりてゐたるに、囱まどの外そとに立たちたるをみれば猿のやうにて顔かほ赤からず、かしらの毛長くたれて人よりは大なるがさしのぞきけり。此時家内の者はみな山かせぎにいでゝむすめ独ひとりなればことさらに惧おそれおどろき、逃にげんとすれど機はたにかゝりたれば腰こしにまきつけたる物ありて心にまかせず、とかくするうちかのもの立さりけり。やがてかまどのもとに立しきりに飯櫃めしびつに指ゆびさして欲ほしきさまなり、娘此異獣いじうの事をかねて聞きゝたるゆゑ、飯を握にぎりて二ツ三ツあたへければうれしげに持さりけり。そのゝち家に人なき時はをり〱来りて飯を乞こふゆゑ、後には馴なれておそろしともおもはずくはせけり。

○さて此娘、 尊用なりとて急いそぎのちゞみをおりかけしに、折をりふし月水ぐわつすゐになりて 御機屋はたやに入る事ならず。御機屋の事初編に委しく記せり手を停とゞめ居をれば日限に後おくる、娘はさらなり、双親ふたおやも此事を患うれひ歎なげきけり。月やくより三日にあたる日の夕ぐれ、家内のもの農のう業よりかへらざるをしりしにや、かのもの久しぶりにてきたれり。娘、人にものいふごとく月やくのうれひをかたりつゝ粟飯をにぎりてあたへければ、れいのごとくすぐに立さらず、しばしものおもふさましてやがてたちさりけり。さて娘は此夜より月やくはたととまりしゆゑ、不思議ふしぎとおもひながら身をきよめて御機はたを織果おりはて、その父問屋へ持去もちさり、往着ゆきつきしとおもふ頃娘時ならず俄にはかに紅潮つきやくになりしゆゑ、さては我が歎なげきしを聞きゝてかのもの我を助たすけしならんと、聞く人々も不思議のおもひをなしけりと語かたれり。そのころは山中にてたまさかに見たるものもあり、一人にても連つれある時は形かたちを見せずとぞ。又高田の藩士はんし材用にて樵夫きこりをしたがへ、黒姫くろひめ山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿に似にて猿にもあらざる物、夜中小屋に入りて焼火たきびにあたれり。たけは六尺ばかり、赤髪あかきかみ、裸身はだかみ、通身みうち灰色はいいろにて、毛けの脱ぬけたるに似にたり、腰こしより下に枯かれ草をまとふ。此物よく人のいふことにしたがひて、のちにはよく人に馴なれしと高田の人のかたりき。按あんずるに和漢わかん三才図会づゑ寓類ぐうるゐの部ぶに、飛騨美濃ひだみのあるひは西国の深山しんざんにも如件くだんのごとき異獣いじうある事をしるせり。さればいづれの深山にもあるものなるべし。

〔図〕fig58401_19.png
山中異獣の圖

○ 火浣布くわくわんふ

宝暦年中平賀鳩渓きうけい源内火浣布を創はじめて製せいし、火浣布考くわくわんふかうを著あらはし、和漢の古書を引、本朝未曾有みそうの奇工きこうに誇ほこれり。没ぼつしてのち其術そのじゆつつたはらず、好事家かうづかの憾事かんじとす。しかるに我国甞かつて火浣布くわくわんふを作つくるの石いしを産さんす、その在ある所は、○金城きんじやう山○巻機まきはた山○苗場なへば山○八海山はつかいさんその外にもあり。その石軟弱やはらかにして爪つめをもつても犯おかすべきほどの軟やはらなる石なり。いろは青く黒し、これをくだけば石綿いしわたを出いだす。此石を得えて試こゝろみしに、石中に在ある石綿いしわたといふものは、木綿もめんわたを細ほそく紬つむぎたるを二三分ほどにちぎりたるやうなるものなり。是これを紡績はうせきイトニスルするに秘術ひじゆつありて火浣布を造つくるなり、其秘術を得えば小女子も火浣布を織るべし。

○さて我わが駅中えきちゆうに稲荷屋喜右エ門といふもの、石綿を紡績はうせきする事に千思せんし万慮りよを費つひやし、竟つひに自みづからその術を得て火浣布を織いだせり。又其頃我が近村きんそん大沢村の医師黒田玄鶴げんくわくも同じく火浣布を織る術を得えたり。各々おの〱秘ひしてその術を人に伝へざるに、おなじ時おなじ村つゞきにておなじ火浣布の奇工きこうを得えたるも一奇事なり、是文政四五年の間の事なりき。此両人の説せつをきゝしに力ちからをつくせば一丈以上なるをも織おりうべし、しかれども其機工きこう容易よういならずといへり。平賀源内は織こと五六尺に過すぎずと火浣布考くわくわんふかうにいへり。また玄鶴が源内にまさりたる事は、玄鶴は火浣布の外に火浣紙くはくわんし火浣墨くはくわんぼくの二種しゆを造つくれり。火浣墨を以て火浣紙に物をかき、烈火れつくわにやけて火となりしをしづかにとりいだし、火気くわきさむれば紙も字ももとのごとし。しかれども其実用をいへば、火浣布も火浣紙も火災くわさいの供そなへには憑たのみがたし、いかんとなれば、火に遇あへば倶ともに火となり人ありて火中よりいださゞれば火と倶ともに砕くだけて形かたちをうしなふ、たゞ灰はいとならざるのみなり。翫具ぐわんぐには用うる所さま〲あるべし。源内死して奇術絶たえたりしに件くだんの両人いでゝ火浣布の機術きじゆつ再ふたゝび世にいでしに、嗚呼あゝ可惜をしむべし、此両人も術をつたへずして没ぼつしたれば火浣布ふたゝび世に絶たえたり。かの源内は江戸の饒地げうちに火浣布を織おりしゆゑ其聞きこえ高く、この両人は越後の辟境へききやうに火浣布をおりしゆゑ其名低ひくし、ゆゑにこゝにしるして好事家の一話に供きようす。

○ 弘智法印こうちはふいん

弘智法印は児玉氏下総国山桑村やまくはむらの人なり。高野山にありて蜜教みつきやうを学び、後のち生国に皈かへり大浦の蓮花寺に住し、行脚あんぎやして越後に来り、三嶋郡野積村のづみむら里言のぞみ海雲山西生寺の東、岩坂といふ所に錫しやくをとゞめて草庵をむすびしに、貞治二年癸卯十月二日此庵に寂じやくせり。辞世じせいとて口碑こうひにつたふる哥に「岩坂の主ぬしを誰たれぞと人ひと問とはば墨絵すみゑに書かきし松風の音」遺言ゐげんなりとて死骸なきからを不埋うづめず、今天保九をさる事四百七十七年にいたりて枯骸こがい生いけるが如し。是を越後廿四奇の一に数かぞふ。此事雑書ざつしよに散見さんけんすれども図づをのせたるものなし、ゆゑに図をこゝにいだす。此図は余よ先年下しも越後にあそびし時目撃もくげきしたる所なり。見る所たゞ面部ぶのみ、手足は見えず。寺法なりとて近く観みる事をゆるさず、閉眼めをとぢ皺しわありて眠ねふりたるが如し。頭巾づきん法衣ころもはむかしのまゝにはあらざるなるべし。是、他国には聞ざる越後の一奇跡きせきなり。

〔図〕fig58401_20.png
弘智法印枯骸之圖

百樹もゝき曰、唐土もろこしにも弘智こうちに似にたる事あり。唐の世の僧義存ぎそん没ぼつしてのち尸しかばねを函中はこのなかに置おき、毎月其徒でしこれをいだし爪髪つめかみの長のびたるを剪薙はさみきるを常つねとす。百余年を経へても廃はいせざりしが、後のち国くにのみだれたるに因よりてこれを火葬くわさうせしとぞ。又宋人そうひと彭乗はうじやうが作さく墨客揮犀ぼくかくきさいに鄂州がくしうの僧そう无夢むむも尸しかばねを不埋うづめず、爪髪つめかみの長のびたる義存ぎぞんに同じかりしが、婦人の手に摸なでられしより爪髪のびざりしとぞ。事は五雑組ござつそに記しるして枯骸こがいの確論かくろんあれども、釈氏しやくしを詰なじるに似にたる説せつなればこゝに贅ぜいせず。○高僧伝に義存が㕝ありしかと覚しが、さのみはとて詳究せず。

○ 土中どちゆうの舟ふね

蒲原郡五泉の在ざい一里ばかりに下新田しもしんでんといふ村あり。或年此村の者ども㕝ありて阿加川の岸きしを掘ほりしに、土中どちゆうより長さ三間ばかりの船を掘いだせり。全体ぜんたい少しも腐くさらず、形かたち今の船に異ことなるのみならず、金具かなぐを用うべき処みな鯨くぢらの髭ひげを用ひて寸鉄すんでつをもほどこしたる処なし。木もまた何の木なるを弁べんずる者なく、おそらくは異国いこくの船ならんといへりとぞ。余よ下しも越後に遊びし時、杉田村小野佐五右エ門が家にてかの船の木にて作りたる硯箱を見しに、木質もくしつ漢産かんさんともおもはれき。上古漂流の夷船いせんにやあらん。

○ 白烏しろからす

前にもいへる如く雪譜と題だいするものに他事をいふは哥にいふ落題らくだいなれど、雪はまた末にいふべし、姑しばらくおもひいだすにまかす。

○天保三年辰四月、我が住すむ塩沢の中町なかまちに鍵屋某が家のほとりに喬木たかききあり。此樹きに烏からす巣すをむすび、雛ひな梢々やゝ頭かしらをいだすころ、巣のうちに白き頭かしらの鳥を見る。主人怪あやしみ人をして是を捕とらへしめしに、全身ぜんしんは烏からすにして白く、觜くちばし眼まなこ足あしは赤き烏からすの雛ひななり、人々奇きとして集あつまり観みる。主人俄にはかに籠を作らせ心を尽つくして養やしなひ、やゝ長じて鳴音なくこゑも烏からすに異ことならず、我が近隣きんりんなれば朝夕これを観みたり。奇鳥なれば乞こふ人も多く、江戸へ出いだして観物みせものにせんなどいひしも有しが、主人をしみてゆるさず。かくて其冬雪中にいたり、山の鼬いたち狐など餌ゑに乏とぼしく人家にきたりて食をぬすむ事雪中の常なれば、此ものゝ所為しわざにや、籠かごはやぶれて白烏しろからすは羽はねばかり椽ゑんの下にありしときゝし。初編に白熊しろくまの事を載のせたるゆゑ、白烏しろからすもまたこゝに記しるしぬ。

○ 両頭りやうとうの蛇へび

文政十年亥の八月廿日隣駅六日町の在ざい、余川よかは村の農人太左エ門の軒端のきばに、両頭の蛇いでたるを捕とらふ。長さ一尺にたらず、その頭かしら二ツ並ならびて枝をなすのみ。いろもかたちも常の蛇にかはらず。あるにまかせて古き箱にいれ、餌ゑもいれおきしに、二三日すぎていつ逃にげゆきしやあたりをたづねしかどをらざりしとぞ。

○ 浮嶋うきしま

小千谷をぢやより西一里に芳谷よしたに村といふあり、こゝに郡殿こほりとのの池いけとて四方二三町斗の池ありて浮嶋うきしま十三あり。晴天風なき時日出いづれば十三の小嶋おの〱離散りさんして池中に遊ぶが如し、日入れば池の正中まんなかにあつまりて一ツの嶋となる。此池に種々の奇異きゐあれども文ぶん多おほければしるさず。羽州の浮嶋はものにも記しるして人の知る処なれど、此うきしまはしる人まれなり。

○ 石打いしうち明神

小千谷の内農人某なにがしの地面に小社あり石打明神といふ。昔より祀まつる処ところ也、その縁起ゑんぎは聞きゝもらせり。贅肉いぼあるもの此神をいのり、小石をもつていぼを撫なで、社の椽えんの下の𥴩子かうしの内へ投なげいれおくに、日あらずしていぼのおつる事奇妙なり。さてなげいれたる小石、いかなる形なりともいつとなく人の円まるめたるごとく円石まるきいしとなるも又奇妙ふしぎなり。されば社のえんの下に大小の円石まるいし満みちみちたり。

○百樹曰、余よも小千谷に遊びし時、此石を視みて話柄はなしのたねに一ツ持帰もちかへらんとせしに、所の人のいふやう、此神是石このいしを惜をしみ玉ふといひつたふときゝて取たるをもとの処へかへし、つら〱視みたるに数万の石人の磨すりなしたる玉のごとし。凡すべて神妙じんめうは肉知にくちを以て測はかるべからず。

○ 美人びじん

百樹曰、小千谷をぢやの因ちなみにいふ、余よ小千谷の岩居がんきよが家に旅宿せし時天保七年八月或日あるひ筆ふでを採とるに倦うみ、山水の秋景しうけいを観みばやとて独ひとり歩たちいで、小千谷の前に流るゝ川に臨岡のぞむをかにのぼり、用意したる書しよをかく。毛氈まうせんを老樹らうじゆの下もとにしき烟たばこくゆらせつゝ眺望みわたせば、引舟は浪に遡さかのぼりてうごかざるが如く、下くだる舟は流ながれに順したがふて飛とぶに似にたり。行雁かうがん字をならべ帰樵きせう画をひらく。群木ぐんぼくは少すこしく霜を染そめて紅々あかく、連山れんざんは僅わづかに雪を載のせて白々しろし。寒国かんこくの秋景しうけい江戸の眼を新あらたになし、おもはず一絶いちぜつを得えなどしてしばしながめゐたるをりしも、十六七の娘三人おの〱柴籠しばかごをせおひ山をのぼりてこゝにやすらひ、なにやらんものいひかはしてわらふをきく。余よは山水に目を奪うばはれたるに「火をかしなされ」とて烟管きせるさしよせたる顔かほを見れば、蓬髪みだれがみ素面すがほにて天質うまれつきの艶色えんしよく花ともいふべく玉にも比ひすべし。百結つぎ〱の鶉衣つゞれ此趙璧てうへきを羅つゝむ。余よ愕然びつくりし山水を棄すてて此娘を視るに一揖おじぎして去さり、樹きの下もとの草に坐ざしてあしをなげだし、きせるの火をうつしてむすめ三人ひとしく吹烟たばこのむ。双無塩ふたりのあくぢよ独ひとりの西施せいしと語かたるは蒹葭けんが玉樹ぎよくじゆによるが如く、皓歯しろきは燦爛ひか〱としてわらふは白芙蓉はくふようの水をいでゝ微風びふうに揺うごくがごとし。嗟乎あゝ惜をしむべし、かゝる美人びじんも是この辺鄙へんひに生うまれ、昏庸頑夫こんようぐわんふバカナヤラウの妻となり、巧妻こうさい常つねに拙夫せつふに伴ともなはれて眠ねふり、荊棘けいきよくと倶ともに腐くさらん事憐あはれむに堪たえたり。若もし江戸にいださば朱門しゆもんオヤシキに解語かいごモノイフの花を開さかせ、あるひは又青楼せいろうヨシハラに揺泉樹えうせんじゆカネノナルキの栄さかえをなし、此隣国りんごく出羽に生うまれたる小野の小町が如く美人びじんの名をもなすべきに、此美人を此僻地へきちに出いだすは天公てんこう事を解げさゞるに似たりと独ひとり歎息たんそくしつゝ言ものいはんとししに、娘は去来いざとてふたゝび柴籠をせおひうちつれて立さりけり。目送みおくりて顧おもへらく、越後には美人びじん多しと人の口実くちにいふもうべなり、是無他ほかでなし、水によるゆゑなり。されば織物おりものの清白なる越後の白縮しろちゞみに勝まされるはなし、ことさら此辺は白縮しろちゞみを産さんする所なり、以て其水の至清しせいなるをしるべし。江河こうが潔清けつせいなれば女に佳麗かれい多しと謝肇淛しやてうせつがいひしも理ことはりなりとおもひつゝ旅宿りよしゆくに帰かへり、云々しか〲の事にて美人びじんを視みたりと岩居がんきよに語りければ、岩居いふやう、渠かれは人の知る美女なり、先生せんせいを他国の人と眼解みてとり欺あざむきてたばこの火を借かりたるならん、可憎々々にくむべし〱「否々いや〱にくむべからず、吾われたばこの火を借かして美人にえん烟縁をむすびし」と戯言たはふれければ、岩居手てを拍て大に笑ひ、先生誤あやまてり、かれは屠者ゑたの娘なりと聞きゝて再ふたゝび愕然がくぜんビツクリたり。糞壌ふんじやう妖花えうくわを出すとはかゝる事にぞいひしなるべし。

○再ふたゝび按あんずるに、小野の小町は羽州うしうの郡司ぐんじ小野の良実よしざねの女むすめなり、楊貴妃やうきひは蜀州しよくしうの司戸しこ元玉が女むすめなり、和漢倶ともに北国の田舎娘世に美人の名をつたふ。北方に佳人かじんありといひしも、北は陰位いんゐなれば女に美麗びれいを出すにやあらん。二代目の高尾は万治野州に生うまれ、初代の薄雲うすぐもは信州に産さんして、ともに北廓ほくかくに名をなせり。されば越後に件くだんの美人を見しも北国なればなるべし。

○ 蛾眉山下橋柱がびさんかのはしばしら

文政八年乙酉十二月、苅羽郡かりはこほり越後椎谷しひやの漁人ぎよじん椎谷は堀侯の御封内なりある日椎谷の海上に漁すなどりして一木の流れ漂たゞよふを見て薪にせばやとて拾ひろひ取て家にかへり、水を乾かわかさんとて庇ひさしに立寄おきしを、椎谷の好事家通りかゝり、是を見てたゞならぬ木とおもひ熟視よく〱みるに、蛾眉山下〔木/喬〕がびさんかのはしといふ五大字刻しありしをもつてかの国の物とおもひ、漁人ぎよじんには薪たきゞを与あたへて乞こひうけけるとぞ。さて余よが旧友きういう観励くわんれい上人は椎谷ざい田沢村浄土宗祐光寺強学きやうがくの聞きこえあり、甞かつて好事かうずの癖へきあるを以てかの橋柱はしばしらの文字を双鈎刊刻さうこうかんこくカゴジホルして同好どうこうにおくり且橋柱はしばしらに題だいする吟詠ぎんえいをこひ、是も又梓あづさにして世に布しかんとせられしが、故ゆゑありていまだ不果はたさず。かの橋柱は後のちに御領主ごりやうしゆの御蔵ごぞうとなりしとぞ。椎谷しひやは余よが同国どうこくなれども幾里を隔へだてたれば其真物しんぶつを不見みず、今に遺憾ゐかんとす。姑しばらく伝写でんしやの図づを以てこゝに載のせつ。○百樹曰、牧之翁が此草稿にのせたる図を見るに少しくおもふ所有しゆゑ、其実説を詳究せし事左の如し。

百樹もゝき曰、了阿れうあ上人が和哥の友相場氏は 椎谷侯しひやこうの殿人とのびとときゝて、上人の紹介せうかいをもつて相場氏に対面して件くだんの橋柱はしばしらの事を尋たづねしに、余よに謂いはれしは、橋柱にはあらず標準みちしるべなりとて、俗に書翰帒しよかんぶくろといふ物に作りたるを出して其図そのづを示さる。余が友の画人千春ちはる子が真物しんぶつを傍かたはらにおきて縮図しゆくづなし、蛾眉山下〔木/喬〕がびさんかのはしといふ五字は相場氏みづから心を深ふかめてうつされしとぞ。下に図するこれなり彫きざみたる人の頭かしらを左りに顧むかせ、その下しもに五字を彫ほりつけしは、是より左り蛾眉山下橋がびさんかのはしなりと人にをしゆる標準みちしるべなりとかたられき。是にて義理ぎり渙然くわんぜんワカルたり。今俗に指ゆびさすをゑがきてそのしたにをしゆる所を記しるしたるを間まゝみる事あり、和漢の俗情おなじ事なり。

○さて此標準へうじゆんを得えたる実事じつじをきゝしに、北海はいづれの所も冬にいたれば常に北風烈はげしく礒いそへ物をうちよする、椎谷しひやはたきものにとぼしき所ゆゑ貧民ひんみん拾ひ取りて薪たきゞとなす事常なり。しかるに文政八酉の十二月、例れいの如く薪を拾ひに出しに、物ありて柱はしらのごとく浪に漂たゞよふをみれば人の頭かしらとみゆる物にて甚兇悪きやうあくなり。貧民等ひんみんら惧おそれてたちさり、ものゝかげより見居たるに、此もの竟つひに礒いそにうちあげられしを見て人々立よりみたるに、文字はあれども読者よむものなく、是は何ものならんとさま〲評ひやうし居ゐたるをりしも、こゝに近ちかき西禅院さいぜんゐんの童僧どうそう通とほりかゝり、唐詩選たうしせんにておぼえたる蛾眉山がびさんの文字を読よみ、これは唐土からの物なりときゝて貧民ひんみん拾ひろひて持かへり、さすがに唐土からの物ときゝて薪たきゞにもせざりしに、此事閧伝こうでんマチノウハサして竟つひに主君しゆくんの蔵ざうとなりしと語かたられき。

〔図〕fig58401_21.png縮図しゆくづ左のごとし。丈たけ一丈余、周めぐり二尺五寸余。木質弁名きはなにともなづくべからず。

縮図しゆくづ左のごとし。丈たけ一丈余、周めぐり二尺五寸余。木質弁名きはなにともなづくべからず。

○按あんずるに、蛾眉山は唐土の北に在ある峻岳じゆんがくにて、富士にもくらぶべき高山なり。絶頂ぜつてうの峯みね双立ならびたちて八字をなすゆゑ、蛾眉山がびさんといふなり。此山の標準みちしるべ、日本ひのもとの北海へながれきたりたる其水路すゐろを詳究しやうきゆうツマヒラカニキハムルせんとて「唐土もろこし歴代れきだい州郡しうぐん沿革地図えんかくちづ」に拠よりて清国いまのからの道程みちのり図中づちゆうを撿けんアラタムルするに、蛾眉山は清朝いまのからの都みやこを距へだつこと日本道四百里許ばかりの北に在り、此山に遠からずして一条ひとすぢの大河東に流ながる。蛾眉山の麓ふもとの河々皆此大河に入る。此大河瀘州ろじうを流れ三峡けふのふもとを過すぎ、江漢こうかんに至いたり荊州けいじうに入り、○洞庭湖とうていこ○赤壁せきへき○潯陽江じんやうこう○楊子江やうしこうの四大江こうに通つうじて江南こうなんを流湎ながれめぐりて東海に入る。是水路このすゐろ日本道五百里ばかりなり。さて件くだんの標準みちしるべ洪水こうずゐにてや水に入りけん、○洞庭とうてい○赤壁せきへき○潯陽じんやう○楊子やうしの海の如き四大江だいこうを蕩漾周流たうやうしうりうナガレシダイメグリナガレして朽沈くちしづまず。滔々たう〱たる水路すゐろ五百余里よりを流ながれて東海に入り、巨濤こたうオホナミに千倒たうし風波に万顛てんすれども断折だんせつヲレル砕粉さいふんクダケルせず、直身ちよくしんソノミ挺然ていぜんソノマヽとして我国の洋中おきなかに漂たゞよひ、北海の地方に近ちかより、椎谷しひやの貧民ひんみんに拾ひろはれて始はじめて水を辞はなれ、既すでに一燼じんの薪となるべきを、幸に字じを識しる者に遇あひひて死灰しくわいをのがれ、韻客ゐんかくの為ために題詠だいえいの美言びげんをうけたるのみならず、竟つひには 椎谷侯しひやこうの愛あいを奉ほうじて身を宝庫ほうこに安んじ、万古不朽ばんこふきうの洪福こうふくを保たもつ㕝奇妙不思議ふしぎの天幸なれば、実じつに稀世きせいの珍物ちんぶつなり。

按ずるに、蛾蛾同韻ががどうゐん五何反なれば相通あひつうじて往々わう〱書見しよけんす。橋きやうを〔木/喬〕きやうに作る頗すこぶる異体ゐていなり。依よつて明人みんひと黄元立くわうげんりつが〔字考正誤じかうせいご、清人せいひと顧炎武こえんぶが亭林遺書中ていりんゐしよちゆうに在ある〔金石文字記あるひは〔碑文摘奇ひぶんてきき藤花亭十種之一あるひは楊霖竹菴やうりんちくあんが〔古今釈疑しやくぎ中の字体じていの部ぶなど通巻つうくわん一遍へん捜索さうさくサガスしたれども〔木/喬〕きやうの字なし。蛾眉山がびさんのある蜀しよくの地ちは都を去さる事遠とほき僻境へききやうなり。推量すゐりやうするに、田舎ゐなかの標準みちしるべなれば学者がくしやの書かきしにもあるべからず、俗子ぞくしの筆なるべし。されば我わが今の俗ぞく竹を〔にんべん+竹のつくり〕と亻にんべんに誤あやまるの類るゐか、猶なほ博識はくしきの説せつを俟まつ。

○ 苗場山なへばやま

苗場山は越後第一の高山なり、魚沼郡にあり登り二里といふ。絶頂ぜつてうに天然てんねんの苗田なへたあり、依て昔より山の名に呼よぶなり。峻岳じゆんがくの巓いたゞきに苗田ある事甚奇なり。余よ其奇跡を尋んとおもふ事年としありしに、文化八年七月偶ふとおもひたちて友人四人●嘯斎●擷斎●扇舎●物九斎従僕等じゆぼくらに食類其外用意の物をもたせ、同月五日未明にたちいで、其日は三ツ俣またといふ駅えきに宿り、次日暁を侵おかして此山の神職にいたり、おの〱祓はらひをなし案内者を傭やとふ。案内は白衣に幣へいを捧さゝげて先にすゝむ。清津きよつ川を渉わたりやがて麓ふもとにいたれり。巉道さんだうを踏ふみ嶮路けんろに登るに、掬樹ぶなのき森列しんれつして日を遮さへぎり、山篠やまさゝ生おひ茂しげりて径みちを塞ふさぐ。枯かれたる老樹折れて路みちに横よこたはりたるを踰こゆるは臥竜を踏がごとし。一条ひとすぢの渓河たにかはを渉わたり猶登る事半里許ばかり、右に折れてすゝみ左りに曲まがりてのぼる。奇木きぼく怪石くわいせき千態せんたい万状じやう筆を以ていひがたし。已すでに半途はんとにいたれば鳥の声をもきかず、殆ほとんど東西を弁べんじがたく道なきがごとし。案内者はよく知りてさきへすゝみ、山篠やまさゝをおしわけ幣へいをさゝげてみちを示しめす。藤蔓ふぢかつら笠にまとひ、樷竹しげるたけ身を隠かくし、石高くして径みち狭せまく、一歩も平坦たひらのみちをふまず。やう〱午すぐる頃山の半にいたり、僅わづかの平地を得えて用意したる臥座ぐわざを木蔭こかげにしきて食をなし、暫しばらく憇やすらひてまたのぼり〱て神楽岡かぐらがをかといふ所にいたれり。これより他木さらになく、俗に唐松といふもの風にたけをのばさゞるが稍こずゑは雪霜にや枯からされけん、低ひくき森をなしてこゝかしこにあり。またのぼり少しくだりて御花圃はなばたけといふ所、山桜盛さかりにひらき、百合・桔梗・石竹の花などそのさま人の植うゑやしなひしに似にたり。名なをしらざる異草いさうもあまたあり、案内者に問へば薬草なりといへり。またのぼりゆき〱て桟齴かけはしのやうなる道にあたり、岩にとりつき竹の根を力草ちからくさとし、一歩に一声を発はつしつゝ気を張り汗あせをながし、千辛しん万苦くしのぼりつくして馬の背せといふ所にいたる。左右は千丈の谷なり、ふむ所僅わづかに二三尺、一脚ひとあしをあやまつ時は身を粉砕こなになすべし。おの〱忙怕おづ〱あゆみて竟つひに絶頂ぜつてうにいたりつきぬ。

〔図〕fig58401_22.png
登苗場山之圖

○偖さて同行十二人、まづ草に坐ざして憇いこふ時、已すでに下晡なゝつさがりなり。はじめ案内者のいひしは登り二里の険道けんだうなれば、一日に往来ゆきゝすることあたはず、絶頂ぜつてうに小屋在、こゝにのぼる人必その小屋に一宿する事なりといへり。今その小屋をみれば木の枝えだ、山さゝ、枯草かれくさなど取りあつめ、ふぢかつらにて匍匐はひ入るばかりに作りたるは、野非人のひにんのをるべきさまなり。こゝを今夜のやどりにさだめたるもはかなしとて、みな〱笑ふ。僕ぼくどもは枯枝かれえだをひろひ石をあつめて仮かりに灶かまどをなし、もたせたる食物を調てうぜんとし、あるひは水をたづねて茶を烹にれば、上戸は酒の燗かんをいそぐもをかし。さて眺望みわたせば越後はさら也、浅間あさまの烟けふりをはじめ、信濃の連山みな眼下がんかに波濤はたうす。千隈ちくま川は白き糸をひき、佐渡は青き盆石ぼんせきをおく。能登の洲崎すさきは蛾眉がびをなし、越前の遠山は青黛せいたいをのこせり。こゝに眼めを拭ぬぐひて扶桑ふさう第一の富士を視みいだせり、そのさま雪の一握ひとにぎりを置おくが如し。人々手を拍うち、奇なりと呼よび妙なりと称讃しようさんす。千勝しよう万景けい応接おうせふするに遑いとまあらず。雲くも脚下あしもとに起おこるかとみれば、忽たちまち晴はれて日光ひのひかり眼めを射ゐる、身は天外に在が如し。是この絶頂は周めぐり一里といふ。莽々まう〱ノヒロキたる平蕪へいぶ高低たかひくの所を不見みず、山の名によぶ苗場なへばといふ所こゝかしこにあり。そのさま人のつくりたる田の如き中に、人の植うゑたるやうに苗に似にたる草生おひたり、苗代なはしろを半なかばとりのこしたるやうなる所もあり。これを奇なりとおもふに、此田の中に蛙かへる蛗螽いなごもありて常の田にかはる事なし、又いかなる日てりにも田水てんすゐ枯かれずとぞ。二里の巓いたゞきに此奇跡きせきを観みること甚不思議ふしぎの灵山れいざんなり。案内者いはく、御花圃はなはたけよりまへにいひたる所別に径みちありて竜岩窟りうがんくつといふ所あり、窟いはやの内に一条ひとすぢの清水ながれそのほとりに古銭多く、鰐口わにくち二ツ掛りありて神を祀まつる。むかしより如斯かくのごとしといひつたふ。このみち今は草木に塞ふさがれてもとめがたしといへり。絶頂ぜつてうにも石に刻こくして苗場大権現なへばだいごんげんとあり、案内者は此石人作にあらず、天然の物といへり。俗伝なるべし。こゝかしこ見めぐるうち日すでにくれて小屋に入り、内には挑燈てうちんをさげてあかりとし、外には火を焼てふたゝび食をとゝのへ、ものくひて酒を酌くむ。六日の月皎々かう〱とてらして空そらもちかきやうにて、桂かつらの枝えだもをるべきこゝちしつ。人々詩しを賦ふし哥をよみ、俳句の吟興ぎんきやうもありてやゝ時をうつしたるに、寒気次第に烈はげしく、用意の綿入にもしのぎかねて終夜よもすがら焼火にあたりて夢ゆめもむすばず、しのゝめのそらまちわびしに、はれわたりたればいざや御来迎らいかうを拝をがみたまへと案内がいふにまかせ、拝所をがむところにいたり日の昇のぼるを拝はいし、したくとゝのへて山をくだれり。別に紀行あり、こゝには其略をいふのみ。

○百樹もゝき曰いはく、余よ越遊ゑついうしたる時、牧之ぼくし老人に此山の地勢を委しくきゝ真景しんけいの図づをも視みたるに、巓いたゞきの平坦たひらなる苗場なへばの奇異きゐ、竜岩窟りうがんくつの古跡こせきなど水にも自在の山なれば、おそらくは上古人ありて此山をひらき、絶頂ぜつてうを平坦たひらになし、馬の背せの天険てんけんをたのみてこゝに住居し耕作かうさくをもしたるが、亡ほろびてのち其灵魂れいこんこゝにとゞまりて苗場なへばの奇異きゐをもなすにやと思おもへり。国史こくしを捜究さうきうサガシキハムせば其徴しるしする端はしをも得うべくや、博達はくたつの説せつを聞きかん。

○ 三四月の雪

我国冬はさらなり、春になりても二月頃までは雨あめ降ふる事なし、雪のふるゆゑなるべし。春の半なかばにいたれば小雨ふる日あり、此時にいたれば晴天はもとより、雨にも風にも去年より積雪つもりたるゆきしだい〱に消きゆるなり。されども家居いへゐなどは乾いぬゐに北東の間あたる方はきゆる事おそし。山々の雪は里地さとちよりもきゆる㕝おそけれども、春陽しゆんやうの天然てんねんにつれて雪解ゆきげに水増まして川々に水難すゐなんの患うれひある事年々なり。春のすゑにいたれば、人の住すむあたりの雪は自然しぜんにきゆるをまたずして家毎いへごとに雪を取捨とりすつるに、あるひは雪を籠にいれてすつるもあり、あるひは鋸のこぎりにて雪を挽割ひきわりてすてもし、又は日向ひむきの所へ材木ざいもくのごとくつみかさねておくもあり。かやうにすればきゆることはやきゆゑなり。少しの雪は土をかけ又は灰をかくればはやくきゆそも〱去年冬のはじめより雪のふらざる日も空そら曇くもりて快こゝろよく晴はれたるそらを見るは稀まれにて、雪に家居いへゐを降埋ふりうづめられ手もとさへいとくらし。是に生うまれ是に慣なれて、年々の㕝なれども雪にこもりをるはおのづから朦然まうぜんとして心たのしからず。しかるに春の半にいたり雪囲ゆきかこひを取除とりのくれば、日光明々としてはじめて人間世界にんげんせかいへいでたるこゝちぞせらる。一年ひとゝせ夏の頃、江戸より来りたる行脚あんぎやの俳人はいじんを停とゞめおきしに、謂いふやう、此国の所々にいたり見るに富家ふかの庭にはには手をつくしたるもあれど、垣かきはいづれも粗略そりやくにて仮初かりそめに作りたるやうなり、いかなるゆゑにやといふ。答こたへていふ、いぶかり給ふもことはりなり、かりそめに作りおくは雪のゆゑなり。いかんとなればいかほどつよく作るとも一丈のうへこす雪におし崩くづさるゝゆゑ、かろくつくりおきて雪のはじめには此垣をとりのくるなりと語りし事ありき。されば三月の末にいたれば我さきにと此垣を作る事なり。さて又雪中は馬足ばそくもたゝず耕作かうさくもせざれば、馬は空むなしく厩うまやにあそばせおく事凡およそ百日あまり也。我国に牛のみつかふ所もあり雪きゆるの時にいたれば馬もよくしりてしきりに嘶いなゝき路みちにいでんとする心あり、人も又久しくちゞめたる足をのばさせんとて厩むまやをひきいだせばよろこびてはねあがりなどするを、胴縄どうなはばかりの躶馬はだかうまに跨またがり雪消の所にはしらす。此馬冬こもりの飼かひやうによりて痩やせると肥こえるありて、やせたるは馬主ぬしの貧まづしさもしるゝものなり。馬のみにあらず、童わらべどもゝ雪のはじめより外遊そとあそびする事ならざりしに、夏のはじめにいたりてやう〱冬履ふゆげた稿沓わらくつをすてゝ草履ざうりせつたになり、凧いかのぼりなどにかけはしるはさもこそとうれしさうなれ。桃桜も此ころをさかりにて雪に世外せぐわいの花を視みるなり。

〔図〕fig58401_23.png
市中四月雪解圖

○ 鶴つる恩おんに報むくゆ

天保七年丙申の春、我が郡中ぐんちゆう小千谷をぢやの縮ちゞみ商人芳沢屋よしさはや東五郎俳号はいがうを二松といふもの、商ひの為ため西国にいたり或ある城下に逗留とうりうの間、旅宿の主あるじがはなしに、此近在の農人のうにんおのれが田地のうちに病鶴やめるつるありて死しにいたらんとするを見つけ、貯たくはへたる人参にんじんにて鶴の病を養やしなひしに、日あらず病やまひ癒いえて飛去りけり。さて翌年の十月鶴二羽かの農人のうにんが家の庭にはちかく舞まひくだり、稲二茎けいを落おとし一声こゑづゝ鳴なきて飛さりけり。主人あるじ拾ひろひとりて見るにその丈たけ六尺にあまり、穂ほも是につれて長く、穂ほの一枝えだに稲四五百粒あり。主人おもへらく、さては去年の病鶴びやうかく恩おんに報むくはんため異国ゐこくより咥くはえきたりしならん、何にもあれいとめづらしき稲なりとて領主りやうしゆに奉たてまつりけるに、しばらくとゞめおかれしのちそのまゝ主あるじにたまはり、よくやしなへとおほせによりて苗なへのころにいたり心をつくして植うゑつけけるに、鶴があたへしにかはらずよく生おひいでければ、国くにの守かみへも奉りしとかたれり。東五郎猶その村その人をも尋たづねきけば、鶴を助たすけたる人は東五郎が縮ちゞみを売たる家なれば、すぐさまその家にいたり猶なほ委くはしく聞て、さて国の土産みやげにせん、穀もみを一二粒賜たまはれかしと乞こひければ、あるじ越後は米のよき国ときけばことさらに生おひなんとて、もみ五六十粒与あたへたるを国へ持かへりて事の来由よしを申て 邦君はうくんに奉りしを、 御城内に植しめ玉ひ、東五郎へ 御褒賞はうしやうなど在しと小千谷の人その頃ころ物がたれり。おもふに余よがごとき賤農せんのうもかゝるめでたき 御代みよに生れたればこそ安居あんきよしてかゝる筆も採とるなれ。されば千年の昌平しやうへいをいのりて鶴の話はなしに筆をとゞめつ。猶雪の奇談きだん他事たじの珎説ちんせつこゝに漏もらしたるも最いと多おほければ、生産せいさんの暇いとまふたゝび編へんを嗣つぐべし。

通巻画図京水  岩瀬百鶴 筆 

〔図〕fig58401_24.png
京水岩瀬百鶴の押印の図

北越雪譜二編 四巻大尾

底本 / Source edition

底本:「北越雪譜」ワイド版岩波文庫、岩波書店
1991(平成3)年12月5日第1刷発行
2013(平成25)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「北越雪譜」岩波文庫、岩波書店
1978(昭和53)年3月16日第22刷改訂発行
初出:「北越雪譜 二編四巻」文溪堂
1841(天保12)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「シテ」の合字は、仮名にあらためました。
※「逃入村」にかかるルビの「にごろむら」と「にごりむら」、「義存」にかかるルビの「ぎそん」と「ぎぞん」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の「註解」では、参照元として頁数を示していますが、本テキストでは「*番号」(番号は註の何番目の項目かを示す)を載せました。
入力:富田晶子
校正:雪森
2020年1月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/058401_001930/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/058401_001930/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/058401_001930/

鈴木 牧之、山東 京山「北越雪譜──06 北越雪譜二編」(新字旧仮名)、底本『北越雪譜』ワイド版岩波文庫、岩波書店、1991年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 058401_001930, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite