Soranoha

北越雪譜

ほくえつせっぷ

鈴木 牧之、山東 京山

第三刷序文

岩波文庫に収めた北越雪譜は不図はからずも読書子の称賛を得て、昨年三月には第二刷を発行し、茲ここにまた第三刷を発行するに至つたのは校訂子の欣喜に堪へないところである。第二刷のときも、註解に若干の増補を為したが、今回は本書の完璧を期する為めに、書中の挿画全部を天保の初版によつてやり直した、雪譜初版刊行の年月に就ては、判然としない点がある、岩波文庫版の解説には、初篇の一を天保六年としたのは、京山の序文の年号をとつたのであり、初篇の三の発行の年月を天保七年としたのは奥附によつたものである、勿論初篇の一が天保六年に出版されたと云ふ確証はないが、とも角も天保六年か七年の頃に世に出たものと思ふ、これは偏ひとへに識者の高教を待つ。

昭和十二年八月十五日岡田武松 識

北越雪譜叙

世之農商而嗜ム二文雅ヲ一者、或不レ知所三以ヲ文雅ノ為ル二文雅一、徒ラニ企二羨シ韻士墨客之風標ヲ一、沈二酣シ文酒ニ一、流二連シ花月ニ一、而置テ二生計於不問ニ一、以傾ル二産業ヲ一者、間マヽ亦有レ之、是豈嗜ムノ二文雅ヲ一罪ラン哉、其人特自ラ取ルレ之ヲ耳ノミ矣、鈴木牧之翁者北越塩沢之老農也、性嗜ミ二文雅ヲ一、而能尚ヒ二節倹ヲ一抑エ二驕惰ヲ一、不レ絶二誦読ヲ於経営之中ニ一、而務ム二鉛槧ヲ於会計之余ニ一、以交ル二遠近之墨客ニ一、嘗テ以二堪忍之二字ヲ一銘シテ自ラ守ル、以レ故ヲ其名久布シク二遠邑ニ一、而生業モ亦因テ以テ致ス二豊饒ヲ一矣、嗚呼若レ翁者不シテレ徇カハ二文雅之名ニ一而能務ムル二其実ヲ一者、非ラズ耶ヤ、余於レ翁ヲ得タリ二一面識ヲ於江戸ニ一、而後特以レ書訂スルレ交ヲ者有リレ年レ于此コヽニ、今茲乙未、遠ク寄二示シテ其所ノレ著北越雪譜ナル者六巻ヲ一、併テ嘱スルニ以スレ校訂ヲ、時方ニ盛夏炎威如レ燬、乃チ就テ二北囱下ニ一試ニ繙而閲レバレ之、則越雪恍トシテ如シ下耳ニ聞二騒屑之声ヲ一、目ニ見ルガ上二紛霏之影ヲ一、使メ三レ人頓ニ忘レ二甑中之苦ヲ一、読テ到レバ二積畳埋レ屋行旅不レ通人以窮乏柴米或不ルニ一レ給セ、則𠘐然寒顫シ肌膚為レ之粟生セリ矣、余因テ以謂オモヘラク、紈袴軽薄子弟、当テ二微雪俄ニ下リ紛々舞レ空之際ニ一、彫鞍宝勒飛シ二玉塵ヲ於郊坰ニ一或ハ氈帽棕鞋蹈ミ二瓊瑤ヲ於街衢ニ一或画舸載セレ妓ヲ或高楼呼ビレ酒ヲ直ニ以為シ二勝遊楽事ト一、曾不レ知三飢寒為ルヲ二何物一、若シ令バ三レ其人ヲ読マ二此書ヲ一、依テ以想ン二其種々凍餒之苦状ヲ一乎、然則安ンカ知ンレ不ルコトレ有下能省三悟シテ非ルコトヲ二宴安之公共ニ一、而戚々焉生ズル上二戒懼之心ヲ一者哉、寧梓而行ハレ之其有ン三裨二益世教ニ一盖非二鮮小ニ一也、間者コノコロ稍ヤヽ得テ二秋涼ヲ一、聊削リ二其駁雑ヲ一、校訂方ニ畢ル者ノ三巻、書賈文渓堂見而喜レ之謀ル二梓行セント之ヲ一、余寄テレ簡ヲ以告レ翁、々曰䨮中閉戸ノ漫筆、豈敢テ欲ンレ梓耶ヤ、於レ是乎、不二復俟一レ請二之ヲ於翁ニ一挙テ以付スレ之、翁之嗜テ二文雅ヲ一而能務ル二其実一、此必笑テ頷ンレ之而已、翁之稿本国字之間漢字者、嘗不レ添へ二音訓之仮名カナヲ一、余今尽ク添テレ之以テ便スト二童蒙ニ一、云フハレ爾カ天保六年乙未秋園菊開日

江戸   京山人百樹并書  

〔図〕fig58400_01.png
京山人百樹押印の図

此書の稿本図は別冊とし、或は其説に大図を描して添たるもあり、皆牧之翁が自筆の草画也。此挙梓行の為にせざれば図に洪繊重復あり、今梓に臨て其図の過半を省き、目を新にするものを存して巻中に夾刺するは単冊に尽し難を以て也。剘は是刪定の意に係る所也。余嘗て原図を閲するに、雪中の諸状混錯を走墨に失して通暁し難きもの靴中の瘡痒これを何如せん、唯翁が草図に傚ひて真に描せる而已。或原図の梓に入るものは則これを加ふ、或は説有て図無きもの其説に拠て其図を作りしもあり。盖余未だ越地を踏ず、越雪の真景に於て茫然たり、故に雪図に於て違漏あるも知るべからず、其誤を編者に駆ること勿れ。

京山男少年

乙未秋   京水百鶴  

〔図〕fig58400_02.png
京水百鶴押印の図

〔図〕fig58400_03.png
掘除積雪之圖

〔図〕fig58400_04.png
屋上雪掘圖

〔図〕fig58400_05.png
縋を穿て雪行圖

〔図〕fig58400_06.png
雪中歩行の用具の図

北越雪譜初編 巻之上

越後塩沢  鈴木牧之  編撰

江戸    京山人百樹 刪定

○ 地気ちき雪ゆきと成なる弁べん

凡およそ天より形かたちを為なして下くだす物もの○雨あめ○雪ゆき○霰あられ○霙みぞれ○雹ひようなり。露つゆは地気ちきの粒珠りふしゆする所ところ、霜しもは地気の凝結ぎようけつする所、冷気れいきの強弱つよきよわきによりて其形そのかたちを異ことにするのみ。地気天に上騰のぼり形かたちを為なして雨○雪○霰あられ○霙みぞれ○雹ひようとなれども、温気あたゝかなるきをうくれば水となる。水は地の全体ぜんたいなれば元もとの地に皈かへるなり。地中ちちゆう深ふかければかならず温気あたゝかなるきあり、地ち温あたゝかなるを得えて気きを吐はき、天に向むかひて上騰のぼる事人の気息いきのごとく、昼夜ちうや片時かたときも絶たゆる事なし。天も又気を吐はきて地に下くだす、是これ天地の呼吸こきふなり。人の呼でるいきと吸ひくいきとのごとし。天地呼吸こきふして万物ばんぶつを生育そだつる也。天地の呼吸こきふ常つねを失うしなふ時は暑寒あつささむさ時に応おうぜず、大風大雨其余そのよさま〲の天変へんあるは天地の病やめる也。天に九ツの段だんあり、これを九天きうてんといふ。九段くだんの内最もつとも地に近ちかき所を太陰天たいいんてんといふ。地を去さる事高さ四十八万二千五百里といふ太陰天と地との間あひだに三ツの際へだてあり、天に近ちかきを熱際ねつさいといひ、中を冷際れいさいといひ、地に近ちかきを温際をんさいといふ。地気は冷際れいさいを限かぎりとして熱際ねつさいに至いたらず、冷温れいをんの二段だんは地を去さる事甚だ遠とほからず。富士山は温際をんさいを越こえて冷際れいさいにちかきゆゑ、絶頂ぜつてうは温気あたゝかなるき通つうぜざるゆゑ艸木くさきを生しやうぜず。夏も寒さむく雷鳴かみなり暴雨ゆふだちを温際をんさいの下に見る。雷と夕立はをんさいのからくり也雲は地中ちちゆうの温気をんきより生しやうずる物ゆゑに其起おこる形かたちは湯気ゆげのごとし、水を沸わかして湯気ゆげの起たつと同じ事也。雲くも温あたゝかなる気を以て天に升のぼり、かの冷際れいさいにいたれば温あたゝかなる気き消きえて雨となる、湯気ゆげの冷ひえて露つゆとなるが如ごとし。冷際にいたらざれば雲散じて雨をなさずさて雨露あめつゆの粒珠つぶだつは天地の気中に在あるを以て也。艸木の実みの円まろきをうしなはざるも気中に生しやうずるゆゑ也。雲冷際れいさいにいたりて雨とならんとする時、天寒てんかん甚しき時は雨あめ氷こほりの粒つぶとなりて降ふり下くだる。天寒の強つよきと弱よわきとによりて粒珠つぶの大小を為なす、是これを霰あられとし霙みぞれとす。雹ひようは夏ありその弁べんこゝにりやくす地の寒かん強つよき時は地気ちき形かたちをなさずして天に升のぼる微温湯気ぬるきゆげのごとし。天の曇くもるは是也。地気上騰のぼること多ければ天てん灰色ねずみいろをなして雪ならんとす。曇くもりたる雲くも冷際れいさいに到いたり先まづ雨となる。此時冷際の寒気雨を氷こほらすべき力ちからたらざるゆゑ花粉くわふんを為なして下くだす、是これ雪ゆき也。地寒ちかんのよわきとつよきとによりて氷こほりの厚あつきと薄うすきとの如ごとし。天に温冷熱をんれいねつの三際さいあるは、人の肌はだへは温あたゝかに肉にくは冷ひやゝか臓腑ざうふは熱ねつすると同おなじ道理だうり也。気中きちゆう万物ばんぶつの生育せいいく悉こと〲く天地の気格きかくに随したがふゆゑ也。是これ余よが発明はつめいにあらず諸書しよしよに散見さんけんしたる古人こじんの説せつ也。

○ 雪の形かたち

凡およそ物を視みるに眼力がんりきの限かぎりありて其外そのほかを視るべからず。されば人の肉眼にくがんを以雪をみれば一片ひとひらの鵞毛がまうのごとくなれども、数す十百片へんの雪花ゆきを併合よせあはせて一片へんの鵞毛を為なす也。是を験微鏡むしめがねに照てらし視みれば、天造てんざうの細工したる雪の形状かたち奇々きゝ妙々なる事下に図づするが如ごとし。其形そのかたちの斉ひとしからざるは、かの冷際れいさいに於て雪となる時冷際の気運きうんひとしからざるゆゑ、雪の形かたち気きに応おうじて同おなじからざる也。しかれども肉眼にくがんのおよばざる至微物こまかきものゆゑ、昨日きのふの雪ゆきも今日けふの雪も一望ばうの白糢糊はくもこを為なすのみ。下の図づは天保三年許鹿君きよろくくん*1の高撰雪花図説かうせんせつくわづせつに在ある所ところ、雪花せつくわ五十五品ひんの内を謄写すきうつしにす。雪ゆき六出りくしゆつを為なす。 御説せつに曰いはく「凡およそ物もの方体はうたいは四角なるをいふ必かならず八を以て一を囲かこみ円体ゑんたいは丸をいふ六を以て一を囲かこむ定理ぢやうり中の定数ぢやうすう誣しふべからず」云々。雪を六むつの花はなといふ事 御説せつを以しるべし。愚ぐ按あんずるに円まろきは天の正象しやう、方かくは地の実位じつゐ也。天地の気中に活動はたらきする万物悉こと〲く方円はうゑんの形かたちを失うしなはず、その一を以いふべし、人の体からだ方かくにして方かくならず、円まろくして円からず。是天地方円はうゑんの間あひだに生育そだつゆゑに、天地の象かたちをはなれざる事子の親に似にるに相同じ。雪の六出りくしゆつする所以ゆゑんは、物ものの員かず長数ちやうすうは陰いん半数はんすうは陽やう也。人の体からだ男は陽やうなるゆゑ九出きうしゆつし●頭●両耳●鼻●両手●両足●男根女は十出しゆつす。男根なく両乳あり九は半はんの陽やう十は長の陰いん也。しかれども陰陽和合して人を為なすゆゑ、男に無用の両乳りやうちゝありて女の陰にかたどり、女に不要ふようの陰舌いんぜつありて男にかたどる。気中に活動はたらく万物ばんぶつ此理りに漏もるる事なし。雪は活物いきたるものにあらざれども変へんずる所ところに活動はたらきの気あるゆゑに、六出りくしゆつしたる形かたちの陰中いんちゆう或は陽やうに象かたどる円形まろきかたちを具ぐしたるもあり。水は極陰ごくいんの物なれども一滴ひとしづくおとす時はかならず円形ゑんけいをなす。落おつるところに活はたらく萌きざしあるゆゑに陰にして陽の円まろきをうしなはざる也。天地気中の機関からくり定理定格ぢやうりぢやうかくある事奇々きゝ妙々めう〱愚筆ぐひつに尽つくしがたし。

〔図〕fig58400_07.png
顕微鏡を以て雪状を審に視る圖

○ 雪の深浅しんせん

左伝に隠公八年平地へいち尺しやくに盈みつるを大雪と為すと見みえたるは其国そのくに暖地だんちなれば也。唐たうの韓愈かんゆが雪を豊年ほうねんの嘉瑞かずゐといひしも暖国だんこくの論ろん也。されど唐土もろこしにも寒国は八月雪降ふる事五雑組ござつそに見えたり。暖国の雪一尺以下ならば山川村里さんせんそんり立地たちどころに銀世界ぎんせかいをなし、雪の飄々へう〱翩々へん〱たるを観みて花に諭たとへ玉に比くらべ、勝望美景しようばうびけいを愛あいし、酒食しゆしよく音律おんりつの楽たのしみを添そへ、画ゑに写うつし詞ことばにつらねて称翫しようくわんするは和漢わかん古今の通例つうれいなれども、是これ雪の浅あさき国くにの楽たのしみ也。我わが越後のごとく年毎としごとに幾丈いくぢやうの雪を視みば何なんの楽たのしき事かあらん。雪の為ために力ちからを尽つくし財ざいを費つひやし千辛しん万苦くする事、下しもに説とく所ところを視みておもひはかるべし。

○ 雪意ゆきもよひ

我国の雪意ゆきもよひは暖国だんこくに均ひとしからず。およそ九月の半なかばより霜を置おきて寒気次第しだいに烈はげしく、九月の末に至いたれば殺風さつふう肌はだへを侵入をかして冬枯ふゆがれの諸木しよぼく葉はを落おとし、天色てんしよく霎せふ〱として日の光ひかりを看みざる事連日れんじつ是雪の意もよほし也。天気朦朧もうろうたる事数日すじつにして遠近ゑんきんの高山かうざんに白はくを点てんじて雪を観みせしむ。これを里言さとことばに嶽廻たけまはりといふ。又海うみある所は海鳴うみなり、山ふかき処は山なる、遠雷の如し。これを里言に胴鳴どうなりといふ。これを見これを聞きゝて、雪の遠とほからざるをしる。年の寒暖かんだんにつれて時日じじつはさだかならねど、たけまはり・どうなりは秋の彼岸ひがん前後ぜんごにあり、毎年まいねんかくのごとし。

○ 雪の用意ようい

前まへにいへるがごとく、雪降ふらんとするを量はかり、雪に損そんぜられぬ為ために屋上やねに修造しゆざうを加くはへ、梁うつばり柱はしら廂ひさし家の前の屋翼ひさしを里言りげんにらうかといふ、すなはち廊架らうかなり其外すべて居室きよしつに係かゝる所力ちから弱よわきはこれを補おぎなふ。雪に潰つぶされざる為ため也。庭樹にはきは大小に随したがひ枝えだの曲まぐべきはまげて縛束しばりつけ、椙丸太すぎまるた又は竹を添そへ杖つゑとなして枝えだを強つよからしむ。雪折をれをいとへば也。冬草ふゆくさの類るゐは菰筵こもむしろを以覆おほひ包つゝむ。井戸は小屋を懸かけ、厠かはやは雪中其物を荷になはしむべき備そなへをなす。雪中には一点てんの野菜やさいもなければ家内かないの人数にんずにしたがひて、雪中の食料しよくれうを貯たくはふ。あたゝかなるやうに土中にうづめ又はわらにつゝみ桶に入れてこほらざらしむ其外雪の用意よういに種々しゆ〲の造作ざうさをなす事筆ふでに尽つくしがたし。

○ 初雪はつゆき

暖国だんこくの人の雪を賞翫しやうくわんするは前にいへるがごとし。江戸には雪の降ふらざる年もあれば、初雪はことさらに美賞びしやうし、雪見の船ふねに哥妓かぎを携たづさへ、雪の茶ちやの湯ゆに賓客ひんかくを招まねき、青楼せいろうは雪を居続ゐつゞけの媒なかだちとなし、酒亭しゆていは雪を来客らいかくの嘉瑞かずゐとなす。雪の為ために種々しゆ〲の遊楽いうらくをなす事枚挙あげてかぞへがたし。雪を賞しやうするの甚はなはだしきは繁花はんくわのしからしむる所也。雪国の人これを見、これを聞きゝて羨うらやまざるはなし。我国の初雪を以てこれに比くらぶれば、楽たのしむと苦くるしむと雲泥うんでいのちがひ也。そも〱越後国は北方の陰地いんちなれども一国いつこくの内陰陽いんやうを前後ぜんごす。いかんとなれば天は西北にたらず、ゆゑに西北を陰いんとし、地は東南に足たらず、ゆゑに東南を陽やうとす。越後の地勢は、西北は大海に対たいして陽気也。東南は高山かうざん連つらなりて陰気也。ゆゑに西北の郡村ぐんそんは雪浅あさく、東南の諸邑しよいふは雪深ふかし。是阴阳いんやうの前後ぜんごしたるに似にたり。我住わがすむ魚沼郡うをぬまこほりは東南の阴いん地にして○巻機山まきはたやま○苗場山なへばやま○八海山はつかいさん○牛うしが嶽たけ○金城山きんじやうさん○駒こまが嶽たけ○兎うさぎが嶽たけ○浅艸山あさくさやま等とうの高山かうざん其余そのよ他国たこくに聞きこえざる山々波濤はたうのごとく東南に連つらなり、大小の河々かは〲も縦横たてよこをなし、陰気いんき充満じゆうまんして雲深ふかき山間やまあひの村落そんらくなれば雪の深ふかきをしるべし。冬は日南の方を周めぐるゆゑ北国はます〱寒し、家の内といへども北は寒く南はあたゝかなると同じ道理也我国初雪はつゆきを視みる事遅おそきと速はやきとは、其年そのとしの気運きうん寒暖かんだんにつれて均ひとしからずといへども、およそ初雪は九月の末すゑ十月の首はじめにあり。我国の雪は鵞毛がまうをなさず、降時ふるときはかならず粉砕こまかきをなす、風又これを助たすく。故ゆゑに一昼夜ちうやに積所つもるところ六七尺より一丈に至いたる時もあり、往古むかしより今年ことしにいたるまで此雪此国に降ふらざる事なし。されば暖国だんこくの人のごとく初雪を観みて吟詠ぎんえい遊興いうきようのたのしみは夢ゆめにもしらず、今年ことしも又此雪中ゆきのなかに在ある事かと雪を悲かなしむは辺郷へんきやうの寒国かんこくに生うまれたる不幸といふべし。雪を観みて楽たのしむ人の繁花はんくわの暖地だんちに生うまれたる天幸を羨うらやまざらんや。

○ 雪の堆量たかさ

余よが隣宿りんしゆく六日町の俳友天吉老人の話はなしに、妻有庄つまありのしやうにあそびし頃ころ聞きゝしに、千隈ちくま川の辺ほとりの雅が人、初雪しよせつより天保五年をいふ十二月廿五日までの間あひだ、雪の下くだる毎ごとに用意したる所の雪を尺しやくをもつて量はかりしに*2、雪の高たかさ十八丈ありしといへりとぞ。此話このはなし雪国の人すら信しんじがたくおもへども、つら〱思量おもひはかるに、十月の初雪より十二月廿五日までおよその日数ひかず八十日の間あひだに五尺づゝの雪ならば、廿四丈にいたるべし。随したがつて下ふれば随したがつて掃はらふ処ところは積つんで見る事なし。又地にあれば減へりもする也。かれをもつて是をおもへば、我国の深山幽谷しんざんいうこく雪の深ふかき事はかりしるべからず。天保五年は我国近年の大雪なりしゆゑ、右の話はなし誣しふべからず。

○ 雪竿さを

高田たかた御城しろ大手先の広場ひろばに、木を方かくに削けづり尺を記しるして建たて給ふ、是を雪竿さをといふ。長一丈也。雪の深浅しんせん公税こうぜいに係かゝるを以てなるべし。高田の俳友はいいう楓石子ふうせきしよりの書翰しよかんに天保五年の仲冬雪竿を見れば当地の雪此節せつ一丈に余あまれりといひ来きたれり。雪竿といへば越後の事こととして俳句はいくにも見えたれど、此国に於て高田の外无用むようの雪竿さをを建たつる処ところ昔はしらず今はなし。風雅ふうがをもつて我国に遊あそぶ人、雪中を避さけて三夏かの頃ころ此地を踏ふむゆゑ、越路こしぢの雪をしらず。然しかるに越路こしぢの雪を言ことの葉はに作意つくるゆゑたがふ事ありて、我国の心には笑わらふべきが多おほし。

○ 雪を掃はらふ

雪を掃はらふは落花らくくわをはらふに対つゐして風雅ふうがの一ツとし、和漢わかんの吟咏ぎんえいあまた見えたれども、かゝる大雪をはらふは風雅ふうがの状すがたにあらず。初雪はつゆきの積つもりたるをそのまゝにおけば、再ふたゝび下ふる雪を添へて一丈にあまる事もあれば、一度ど降ふれば一度掃はらふ雪浅ければのちふるをまつ是これを里言さとことばに雪掘ゆきほりといふ。土つちを掘ほるがごとくするゆゑに斯かくいふ也。掘ほらざれば家の用路ろを塞ふさぎ人家じんかを埋うづめて人の出いづべき処ところもなく、力強ちからつよき家も幾万斤いくまんきんの雪の重量おもさに推砕おしくだかれんをおそるゝゆゑ、家として雪を掘ほらざるはなし。掘ほるには木にて作つくりたる鋤すきを用もちふ、里言りげんにこすきといふ、則すなはち木鋤こすき也。椈ぶなといふ木をもつて作る、木質きのしやう軽強ねばくして折をるる事なく且かつ軽かろし、形かたちは鋤に似にて刃は広ひろし。雪中第だい一の用具ようぐなれば、山中の人これを作りて里さとに売うる、家毎いへごとに貯たくはへざるはなし。雪を掘ほる状態ありさまは図づにあらはしたるが如ごとし。掘たる雪は空地あきちの、人に妨さまたげなき処ところへ山のごとく積つみ上る、これを里言りげんに掘揚ほりあげといふ。大家は家夫わかいものを尽つくして力ちからたらざれば掘夫ほりてを傭やとひ、幾いく十人の力を併あはせて一時に掘尽ほりつくす。事ことを急きふに為なすは掘ほる内にも大雪下くだれば立地たちどころに堆うづたかく人力におよばざるゆゑ也。掘ほる処図づには人数にんずを略してゑがけり右は大家たいかの事をいふ、小家の貧まづしきは掘夫ほりてをやとふべきも費つひえあれば男女をいはず一家雪をほる。吾里にかぎらず雪ふかき処は皆みな然しかなり。此雪いくばくの力ちからをつひやし、いくばくの銭を費つひやし、終日しゆうじつほりたる跡あとへその夜大雪降ふり夜よ明あけて見れば元もとのごとし。かゝる時は主人あるじはさら也、下人しもべも頭かしらを低たれて歎息ためいきをつくのみ也。大抵たいてい雪ふるごとに掘ほるゆゑに、里言りげんに一番掘ばんぼり二番掘といふ。

○ 沫雪あわゆき

春の雪は消きえやすきをもつて沫雪あわゆきといふ。和漢わかんの春雪消きえやすきを詩哥しいかの作為さくいとす、是これ暖国だんこくの事也、寒国の雪は冬ふゆを沫雪あわゆきともいふべし。いかんとなれば冬の雪はいかほどつもりても凝凍こほりかたまることなく、脆弱やはらかなる事淤泥どろのごとし。故かるがゆゑに冬の雪中は橇かんじき・縋すかりを穿はきて途みちを行ゆく。里言りげんには雪を漕こぐといふ。水を渉わたる状すがたに似にたるゆゑにや、又深田ふかたを行ゆくすがたあり。初春しよしゆんにいたれば雪悉こと〲く凍こほりて雪途ゆきみちは石を布しきたるごとくなれば往来わうらい冬よりは易やすし。すべらざるために下駄げたの歯はにくぎをうちて用ふ暖国だんこくの沫雪あわゆきとは気運きうんの前後ぜんごかくのごとし。

〔図〕fig58400_08.png
驛中積雪之圖

○ 雪道みち

冬の雪は脆やはらかなるゆゑ人の蹈固ふみかためたる跡あとをゆくはやすけれど、往来ゆきゝの旅人たびゝと一宿しゆくの夜大雪降ばふみかためたる一条すぢの雪道雪に埋うづまり途みちをうしなふゆゑ、郊原のはらにいたりては方位はうがくをわかちがたし。此時は里人さとひと幾十人を傭やとひ、橇かんじき縋すかりにて道みちを蹈開ふみひらかせ跡あとに随したがつて行ゆく也。此費ものいり幾緡いくさしの銭を費つひやすゆゑ貧とぼしき旅たび人は人の道みちをひらかすを待まちて空むなしく時を移うつすもあり。健足けんそくの飛脚ひきやくといへども雪途みちを行ゆくは一日二三里に過すぎず。橇かんじきにて足あし自在じざいならず、雪膝ひざを越こすゆゑ也。これ冬の雪中一ツの艱難かんなんなり。春は雪凍こほりて銕石てつせきのごとくなれば、雪車そり又雪舟そりの字をも用ふを以て重おもきを乗のす。里人りじんは雪車に物をのせ、おのれものりて雪上を行ゆく事舟のごとくす。雪中は牛馬の足立ざるゆゑすべて雪車そりを用ふ。春の雪中重おもきを負おはしむる事牛馬うしうまに勝まさる。雪車の制作せいさく別に記す、形大小種々あり大なるを修羅しゆらといふ雪国の便利べんり第だい一の用具ようぐ也。しかれども雪凍りたる時にあらざれば用ひがたし、ゆゑに里人雪舟途そりみちと唱となふ。

○ 雪蟄こもり

凡およそ雪九月末より降ふりはじめて雪中に春を迎むかへ、正二の月は雪尚なほ深ふかし。三四の月に至いたりて次第に解とけ、五月にいたりて雪全く消きえて夏道なつみちとなる。年の寒暖によりて遅速あり四五月にいたれば春の花ども一時じにひらく。されば雪中に在ある事凡およそ八ヶ月、一年の間あひだ雪を看みざる事僅わづかに四ヶ月なれども、全く雪中に蟄こもるは半年也。こゝを以て家居いへゐの造つくりはさら也、万事よろづのこと雪を禦ふせぐを専もつはらとし、財ざいを費つひやし力ちからを尽つくす事紙筆しひつに記しるしがたし。農家のうかはことさら夏の初より秋の末までに五穀こくをも収をさむるゆゑ、雪中に稲いねを刈かる事あり。其その忙せはしき事の千辛しん万苦く、暖国の農業のうげふに比ひすれば百倍ばい也。さればとて雪国に生うまるる者ものは幼稚をさなきより雪中に成長するゆゑ、蓼中たでのなかの虫むし辛からきをしらざるがごとく雪を雪ともおもはざるは、暖地だんちの安居あんきよを味あぢはへざるゆゑ也。女はさら也、男も十人に七人は是これ也。しかれども住すめば都みやことて、繁花はんくわの江戸に奉公する事年としありて後のち雪国の故郷ふるさとに皈かへる者、これも又十人にして七人也。胡場こば北風ほくふうに嘶いなゝき、越鳥ゑつてう南枝なんしに巣すくふ、故郷こきやうの忘わすれがたきは世界の人情にんじやう也。さて雪中は廊下らうかに江戸にいふ店たな下雪垂ゆきだれをかやにてあみたるすだれをいふ下くだし、雪吹ふゞきをふせぐため也窗まども又これを用ふ。雪ふらざる時は巻まいて明あかりをとる。雪下ゆきふる事盛さかんなる時ときは、積つもる雪家を埋うづめて雪と屋上やねと均ひとしく平たひらになり、明あかりのとるべき処なく、昼ひるも暗夜あんやのごとく燈火ともしびを照てらして家の内は夜昼よるひるをわかたず。漸やうやく雪の止やみたる時、雪を掘ほりて僅わづかに小窗まどをひらき明あかりをひく時は、光明くわうみやう赫奕かくやくたる仏の国に生たるこゝち也。此外雪籠こもりの艱難かんなんさま〲あれど、くだ〱しければしるさず。鳥獣とりけだものは雪中せつちゆう食しよく无なきをしりて雪浅あさき国へ去さるもあれど一定ぢやうならず。雪中に籠こもり居ゐて朝夕をなすものは人と熊と也。

○ 胎内潜たいないくゞり

宿場しゆくばと唱となふる所ところは家の前まへに庇ひさしを長くのばして架かくる、大小の人家じんかすべてかくのごとし。雪中はさら也、平日も往来ゆきゝとす。これによりて雪中の街ちまたは用なきが如くなれば、人家の雪をこゝに積つむ。次第しだいに重かさなりて両側りやうかはの家の間あひだに雪の堤つゝみを築きづきたるが如ごとし。こゝに於て所々ところ〱に雪の洞ほらをひらき、庇ひさしより庇に通かよふ、これを里言さとことばに胎内潜たいないくゞりといふ、又間夫まぶともいふ。間夫まぶとは金掘かねほりの方言ことばなるを借かりて用もちふる也。間夫の本義は妻妾さいせふの奸淫かんいんするをいふ宿外の家の続つゞかざる処は庇ひさしなければ、高低たかびくをなしたるかの雪の堤つゝみを往来ゆきゝとす。人の足立あしたてがたき処あれば一条でうの道みちを開ひらき、春にいたり雪堆うづだかき所は壇層だん〱を作りて通路つうろの便べんとす。形かたち匣階はこばしごのごとし。所ところの者ものはこれを登下のぼりくだりするに脚あしに慣なれて一歩ひとあしもあやまつ事なし。他国たこくの旅人たびゝとなどは怖おそる〱移歩あしをはこびかへつて落おつる者ものあり、おつれば雪中に身みを埋うづむ。視みる人はこれを笑わらひ、落おちたるものはこれを怒いかる。かゝる難所なんじよを作りて他国の旅客りよかくを労わづらはしむる事求もとめたる所為しわざにあらず。此雪を取除とりのけんとするには人力じんりきと銭財せんざいとを費つひやすゆゑ、寸導せめては壇だんを作りて途みちを開ひらく也。そも〱初雪より歳を越て雪消きゆるまでの事を繁細はんさいに記さば小冊には尽つくしがたし、ゆゑに省はぶきてしるさゞる事甚多し。

○ 雪中の洪水こうずゐ

大小の川に近ちかき村里むらさと、初雪の後のち洪水こうずゐの災わざはひに苦くるしむ事あり。洪水こうずゐを此国の俚言りげんに水揚みづあがりといふ。余よ一年ひとゝせ関せきといふ隣駅りんえきの親族しんぞく油屋が家に止宿ししゆくせし時、頃ころは十月のはじめにて雪八九尺つもりたるをりなりしが、夜半やはんにいたりて近隣きんりんの諸人しよにん叫さけび呼よばはりつゝ立騒さわぐ声こゑに睡ねふりを驚おどろかし、こは何事なにごとやらんと胷むねもをどりて臥ふしたる一間ひとまをはせいでければ、家いへの主あるじ両手りやうてに物ものを提さげ、水あがり也とく〱裏うらの掘揚ほりあげへ立退たちのき給へ、といひすてゝ持たる物を二階へ運はこびゆく。勝手かつての方へ立いで見れば家内かないの男女狂気きやうきのごとく駈かけまはりて、家財かざいを水に流ながさじと手当てあたりしだいに取退とりのくる。水は低ひくきに随て潮うしほのごとくおしきたり、已すでに席たゝみを浸ひたし庭にはに漲みなぎる。次第に積つもりたる雪所ところとして雪ならざるはなく、雪光せつくわう暗夜あんやを照てらして水の流ながるるありさま、おそろしさいはんかたなし。余よは人に助たすけられて高所たかきところに逃登にげのぼり遙はるかに駅中えきちゆうを眺のぞめば、提灯ちやうちん炬たいまつを燈ともしつれ大勢の男ども手てに々に「手てに々に」はママ木鋤こすきをかたげ、雪を越こえ水を渉わたりて声こゑをあげてこゝに来きたる。これは水揚みづあがりせざる所ところの者ものどもこゝに馳はせあつまりて、川筋すぢを開ひらき水を落おとさんとする也。闇夜あんやにてすがたは見えねど、女をんな童わらべの泣叫なきさけぶ声こゑ或あるひは遠とほく或は近ちかく、聞きくもあはれのありさま也。燃残もえのこりたる炬たいまつ一ツをたよりに人も馬も首くびたけ水に浸ひたり、漲みなぎるながれをわたりゆくは馬を助たすけんとする也。帯おびもせざる女片手かたてに小児せうにを背負せおひ、提灯ちやうちんを提さげて高処たかきところへ逃にげのぼるは、近ちかければそこらあらはに見ゆ、命いのちとつりがへなればなにをも恥はづかしとはおもふべからず。可笑をかしき事可憐あはれなる事可怖おそろしき事種々しゆ〲さま〲筆ふでに尽つくしがたし。やう〱東雲しのゝめの頃ころに至いたりて、水も落おちたりとて諸人しよにん安堵あんどのおもひをなしぬ。

〔図〕fig58400_09.png
雪中洪水之圖

○そも〱我郷わがさと雪中の洪水こうずゐ、大かたは初冬と仲春とにあり。此この関せきといふ駅しゆくは左右人家じんかの前まへに一道ひとすぢづゝの流ながれあり、末すゑは魚野川うをのかはへ落る、三伏さんふくの旱ひでりにも乾かわく事なき清流水せいりうすゐ也。ゆゑに家毎いへごとに此この流ながれを以もつて井水ゐすゐの代かはりとし、しかも桶をけにても汲くむべき流ながれなれば、平日の便利べんり井戸よりもはるかに勝まされり。しかるに初雪しよせつの後のち十月のころまでにこの二条ふたすぢの小流こながれ雪の為ために降埋ふりうめられ、流水は雪の下にあり、故ゆゑに家毎いへごとに汲くむべき程ほどに雪を穿うがちて水用すゐようを弁ず。この穿うがちたる所も一夜の雪に埋うづめらるゝことあれば再ふたゝびうがつ事屡しば〱なり。人家じんかにちかき流ながれさへかくのごとくなれば、この二条すぢの流ながれの水源みなかみも雪に埋うづもれ、水用すゐようを失うしのふのみならず水あがりの懼おそれあるゆゑ、所ところの人力ちからを併あはせて流のかゝり口の雪を穿うがつ事なり。されども人毎ひとごとに業用げふようにさゝへて時を失うしなふか、又は一夜の大雪にかの水源すゐげんを塞ふさぐ時は、水溢あぶれて低ひくき所を尋たづねて流ながる。駅中えきちゆうは人の往来ゆきゝの為ために雪を蹈ふみへして低ひくきゆゑ、流水りうすゐ漲みなぎり来きたり猶なほも溢あぶれて人家に入り、水難すゐなんに逢あふ事前まへにいへるがごとし。幾いく百人の力を尽つくして水道すゐだうをひらかざれば、家財かざいを流ながし或あるひは溺死できしにおよぶもあり。

○又また仲春の頃ころの洪水こうずゐは大かたは春の彼岸ひがん前後ぜんご也。雪いまだ消きえず、山々はさら也田圃たはたも渺々べう〱たる曠平くわうへいの雪面せつめんなれば、枝川えだかはは雪に埋うづもれ水は雪の下を流れ、大河といへども冬の初より岸きしの水まづ氷こほりて氷の上に雪をつもらせ、つもる雪もおなじく氷りて岩のごとく、岸きしの氷りたる端はし次第しだいに雪ふりつもり、のちには両岸りやうがんの雪相合あひがつして陸地りくちとおなじ雪の地となる。さて春を迎むかへて寒気次第に和やはらぎ、その年の暖気だんきにつれて雪も降止ふりやみたる二月の頃ころ、水気すゐきは地気ちきよりも寒暖かんだんを知しる事はやきものゆゑ、かの水面すゐめんに積つもりたる雪下したより解とけて凍こほりたる雪の力も水にちかきは弱よわくなり、流ながれは雪に塞ふさがれて狭せまくなりたるゆゑ水勢すゐせいます〱烈はげしく、陽気やうきを得えて雪の軟やはらかなる下を潜くゞり、堤つゝみのきるゝがごとく、譬たとへにいふ寝耳ねみゝに水の災難さいなんにあふ事、雪中の洪水こうずゐ寒国の艱難かんなん、暖地だんちの人憐あはれみ給へかし。右は其一をいふのみ。雪中の洪水地勢によりて種々しゆ〲各々さま〲なり。詳つまびらかには弁べんじがたし。

○ 熊捕くまとり

越後の西北は大洋おほうみに対たいして高山かうざんなし。東南は連山れんざん巍々ぎゝとして越中上信奥羽の五か国に跨またがり、重岳ちようがく高嶺かうれい肩かたを並ならべて数す十里をなすゆゑ大小の獣けもの甚はなはだ多おほし。此獣けもの雪を避さけて他国へ去るもありさらざるもあり、動うごかずして雪中に穴居けつきよするは熊くまのみ也。熊胆くまのいは越後を上品ひんとす、雪中の熊胆はことさらに価あたひ貴たつとし。其重価ちようくわを得えんと欲ほつして春暖しゆんだんを得えて雪の降止ふりやみたるころ、出羽ではあたりの猟師れふしども五七人心を合せ、三四疋の猛犬まうけんを牽ひき米と塩しほと鍋なべを貯たくはへ、水と薪たきゞは山中在あるに随したがつて用をなし、山より山を越こえ、昼ひるは猟かりして獣けものを食しよくとし、夜は樹根きのね岩窟がんくつを寝所ねどころとなし、生木なまきを焼たいて寒さむさを凌しのぎ且かつ明あかしとなし、着きたまゝにて寝臥ねふしをなす。頭かしらより足あしにいたるまで身みに着きる物もの悉こと〲く獣けものの皮かはをもつてこれを作る。遠とほく視みれば猿さるにして顔かほは人也。金革きんかくを衽しきねにすとはかゝる人をやいふべき。此者ものらが志こゝろざす所は我国の熊にあり。さて我山中に入り場所ばしよよきを見立みたて、木の枝えだ藤蔓ふぢつるを以て仮かりに小屋こやを作りこれを居所ゐどころとなし、おの〱犬を牽ひき四方に別わかれて熊を窺うかゞふ。熊の穴居こもりたる所を認みつくれば目幟めじるしをのこして小屋にかへり、一連れんの力を併あはせてこれを捕とる。その道具だうぐは柄えの長さ四尺斗りの手槍てやり、或あるひは山刀やまがたなを薙刀なぎなたのごとくに作りたるもの、銕炮てつはう山刀斧をのの類るゐ也。刃は鈍にぶる時は貯たくはへたる砥とをもつて自みづから研とぐ。此道具だうぐも獣けものの皮かはを以て鞘さやとなす。此者ら春にもかぎらず冬より山に入るをりもあり。

そも〱熊くまは和獣わじうの王、猛たけくして義ぎを知しる。菓木このみの皮虫かはむしのるゐを食しよくとして同類どうるゐの獣けものを喰くらはず、田圃たはたを荒あらさず、稀まれに荒あらすは食しよくの尽つきたる時也。詩経しきやうには男子だんしの祥しやうとし、或は六雄将軍りくゆうしやうぐんの名を得えたるも義獣ぎじうなればなるべし。夏なつは食しよくをもとむるの外ほか山蟻やまありを掌中てのひらに擦着すりつけ、冬ふゆの蔵蟄あなごもりにはこれを䑜なめて飢うゑを凌しのぐ。牝牡めすをす同おなじく穴あなに蟄こもらず、牝めすの子あるは子とおなじくこもる。其蔵蟄あなごもりする所は大木の雪頽なだれに倒たふれて朽くちたる洞うろなだれの事下にしるす又は岩間いはのあひ土穴つちあな、かれが心に随したがつて居をる処さだめがたし。雪中の熊は右のごとく他食たしよくを求もとめざるゆゑ、その胆きもの良功りやうこうある事夏の胆に比くらぶれば百倍ばい也。我国にては、●飴胆あめい●琥珀胆こはくい●黒胆くろいと唱となへ色をもつてこれをいふ。琥珀こはくを上品ひんとし、黒胆を下品とす。偽物ぎぶつは黒胆に多し。

●さて熊を捕とるに種々しゆ〲の術じゆつあり。かれが居をる所の地理ちりにしたがつて捕得とりえやすき術をほどこす。熊は秋の土用より穴あなに入り、春の土用に穴より出いづるといふ。又一説せつに、穴に入りてより穴を出るまで一睡ひとねむりにねむるといふ、人の視みざるところなれば信しんじがたし。

沫雪あわゆきの条くだりにいへるごとく、冬の雪は軟やはらにして足場あしばあしきゆゑ、熊を捕とるは雪の凍こほりたる春の土用まへ、かれが穴よりいでんとする頃ころを程ほどよき時節じせつとする也。岩壁がんへきの裾すそ又は大樹たいじゆの根ねなどに蔵蟄あなごもりたるを捕とるには圧おしといふ術じゆつを用もちふ、天井釣てんじやうづりともいふ。その制作しかたは木の枝えだ藤ふぢの蔓つるにて穴に倚掛よせかけて棚たなを作つくり、たなの端はしは地ちに付て杭くひを以てこれを縛しばり、たなの横木に柱はしらありて棚たなの上に大石を積つみならべ、横木より縄なはを下し縄に輪わを結むすびて穴あなに臨のぞます、これを蹴綱けづなといふ。此蹴綱に転機しかけあり、全まつたく作つくりをはりてのち、穴にのぞんで玉蜀烟艸たうがらしたばこの茎くきのるゐ熊くまの悪にくむ物を焚たき、しきりに扇あふぎて烟けふりを穴に入るれば熊烟りに噎むせて大に怒いかり、穴を飛出る時かならずかの蹴綱けづなに触ふるれば転機しかけにて棚たな落おちて熊大石の下に死しす。手を下くださずして熊を捕とるの上術じゆつ也。是は熊の居所ゐどころによる也。これらは樵夫せうふも折をりによりてはする事也。

又熊捕くまとりの場数ばかずを蹈ふみたる剛勇がうゆうの者は一連れんの猟師れふしを熊の居をる穴の前に待またせ、己おのれ一人ひろゝ簑みのを頭かしらより被かぶりりひろゝは山にある艸の名也、みのに作れば稿よりかろし、猟師常にこれを用ふ穴にそろ〱と這はひ入り、熊に簑みのの毛を触ふるれば熊はみのゝ毛を嫌きらふものゆゑ除よけて前にすゝむ。又後しりへよりみの毛を障さはらす、熊又まへにすゝむ。又さはり又すゝんで熊終つひには穴の口にいたる。これを視みて待まちかまへたる猟師れふしども手練しゆれんの槍尖やりさきにかけて突留つきとむる。一槍ひとやり失あやまつときは熊の一掻ひとかきに一命めいを失うしなふ。その危あやふきを蹈ふんで熊を捕は僅わづかの黄金かねの為ため也。金慾きんよくの人を過あやまつ事色慾しきよくよりも甚はなはだし。されば黄金わうごんは道みちを以て得うべし、不道をもつて得うべからず。

又上に覆おほふ所ありてその下には雪のつもらざるを知り土穴を掘ほりて蟄こもるもあり。然しかれどもこゝにも雪三五尺は吹積ふきつもる也。熊の穴ある所の雪にはかならず細孔ほそきあなありて管くだのごとし。これ熊の気息いきにて雪の解とけたる孔あな也。猟師れふしこれを見れば雪を掘て穴をあらはし、木の枝えだ柴しばのるゐを穴に挿さし入れば熊これを掻かきとりて穴に入るゝ、かくする事しば〱なれば穴逼つまりて熊穴の口にいづる時槍にかくる。突つきたりと見れば数疋すひきの猛犬つよいぬいちどに飛かゝりて囓かみつく。犬は人を力とし、人は犬を力として殺ころすもあり。此術は椌うつほ木にこもりたるにもする事也。

○ 白熊しろくま

熊の黒くろきは雪の白がごとく天然てんねんの常なれども、天公てんこう機きを転てんじて白熊はくいうを出せり。

○天保三年辰の春、我わが住すむ魚沼郡うおぬまこほりの内うち浦佐うらさ宿の在ざい大倉村の樵夫きこり八海山に入りし時、いかにしてか白き児熊こくまを虜いけどり、世に珍めづらしとて飼かひおきしに香具師かうぐし江戸にいふ見世もの師の古風なるものこれを買もとめ、市場又は祭礼すべて人の群あつまる所へいでゝ看物みせものにせしが、ある所にて余よも見つるに大さ狗いぬのごとく状かたちは全く熊にして、白毛雪を欺あざむきしかも光沢つやありて天鵞織びらうどのごとく眼めと爪つめは紅くれなゐ也。よく人に馴なれてはなはだ愛あいすべきもの也。こゝかしこに持あるきしがその終をはりをしらず。白亀の改元かいげん、白鳥しらとりの神瑞しんずゐ、八幡の鳩はと、源家の旗はた、すべて白きは 皇国みくにの祥象しやうせうなれば、天機てんき白熊はくいうをいだししも 昇平万歳しようへいばんぜいの吉瑞ずゐ成べし。

山家の人の話はなしに熊を殺ころすこと二三疋、或あるひは年とし歴へたる熊一疋を殺も、其山かならず荒あるる事あり、山家さんかの人これを熊荒あれといふ。このゆゑに山村さんそんの農夫のうふは需もとめて熊を捕とる事なしといへり。熊に灵れいありし事古書こしよにも見えたり。

○ 熊人を助たすく

人熊の穴に墜おちいりて熊に助られしといふ話はなし諸書しよしよに散見さんけんすれども、其実地じつちをふみたる人の語かたりしは珍めづらしければこゝに記しるす。

〔図〕fig58400_10.png
老農語徃事圖、熊助樵夫之圖

○余よ若かりし時、妻有つまありの庄しやうに魚沼郡の内に在用ありて両三日逗留とうりうせし事ありき。頃ころは夏なりしゆゑ客舎やどりしいへの庭にはの木こかげに筵むしろをしきて納涼すゞみ居しに、主人あるじは酒を好このむ人にて酒肴しゆかうをこゝに開き、余よは酒をば嗜すかざるゆゑ茶を喫のみて居たりしに、一老夫いちらうふこゝに来り主人を視みて拱手てをさげて礼をなし後園うらのかたへ行んとせしを、主あるじ呼よびとめ老らう夫を指ゆびさしていふやう、此叟父おやぢは壮年時わかきとき熊に助られたる人也、危あやふき命いのちをたすかり今年八十二まで健すこやかに長生ながいきするは可賀めでたき老人也、識面ちかづきになり給へといふ。老夫莞爾にこりとして再ふたゝび去さらんとす。余よよびとゞめ、熊に助られしとは珍説ちんせつ也語りて聞せ給へといひしに、主人あるじ余よが前に在し茶盌ちやわんをとりてまづ一盃喫のめとて酒を満盌なみ〱とつぎければ、老夫らうふ筵むしろの端はしに坐し酒を視みて笑ゑみをふくみ続つゞけて三盌ばいを喫きつし舌鼓したうちして大に喜よろこび、さらば話説はなし申さん、我廿歳はたちのとし二月のはじめ薪たきゞをとらんとて雪車そりを引ひきて山に入りしに、村にちかき所は皆伐きりつくしてたま〱あるも足場あしきゆゑ、山一重ひとへ踰こえて見るに、薪とすべき柴あまたありしゆゑ自在じざいに伐きりとり、雪車そり哥うたひながら徐々しづかに束たばね、雪車に積つみて縛つけ山刀やまかたなをさしいれ、低ひくきに随したがつて今来りたる方へ乗下のりくだりたるに、一束いつそくの柴雪車より転まろび落おち、谷を埋うづめたる雪の裂隙われめにはさまり凍りし雪陽気を得て裂る事常也たるゆゑ、捨て皈かへらんも惜をしければその所にいたり柴の枝に手をかけ引上んとするにすこしも動うごかず、落たる勢いきほひに撞つきいれたるならん、さらば重おもきかたより引上んと匍匐はらばひして双手もろてを延のばし一声かけて上んとしたる時、足に蹈ふむ力なきゆゑおのれがちからに己おのれが躰からだを転倒ひきくらかへし、雪の裂隙われめより遙はるかの谷底へ墜おちいりけるが、雪の上を濘すべり落たるゆゑ幸さいはひに疵きずはうけず、しばしは夢のやう也しがやう〱に心付、上を見れば雪の屏風びやうぶを建たてたるがごとく今にも雪頽なだれやせんとなだれのおそろしき事下にしるす生いきたる心地はなく、暗くらさはくらし、せめては明方あかるきかたにいでんと雪に埋うまりたる狭谷間せまきたにあひをつたひ、やう〱にして空そらを見る所にいたりしに、谷底の雪中寒さむさ烈はげしく手足も亀手かゞまり一歩ひとあしもはこびがたく、かくては凍死こゞえしぬべしと心を励はげまし猶途みちもあるかと百歩はんちやうばかり行たりけん、滝ある所にいたり四方を見るに、谷間の途極ゆきとまりにて甕かめに落たる鼠ねずみのごとくいかんともせんすべなく惘然ばうぜんとして胷むねせまり、いかゞせんといふ思案しあんさヘ出ざりき。さて是より熊の話はなし也、今一盃たまはるべしとて自みづから酌つぎてしきりに喫のみ、腰こしより烟艸帒たばこいれをいだして烟たばこを吹のみなどするゆゑ、其次つぎはいかにとたづねければ、老父らうふ曰いはく、さて傍かたはらを見れば潜くゞるべきほどの岩窟いはあなあり、中には雪もなきゆゑはひりて見るにすこし温あたゝか也。此時こゝろづきて腰をさぐりみるに握飯にぎりめしの弁当べんたうもいつかおとしたり、かくては飢死うゑじにすべし、さりながら雪を喰くらひても五日や十日は命あるべし、その内には雪車哥そりうたの声こゑさへ聞きこゆれば村の者也、大声あげて叫よばらば助たすけくれべし、それにつけてもお伊勢さまと善光寺さまをおたのみ申よりほかなしと、しきりに念仏唱となへ、大神宮をいのり日もくれかゝりしゆゑ、こゝを寝所ねどころにせばやと闇地くらがりを探さぐり〱這は入りて見るに次第しだいに温あたゝか也。猶なほも探さぐりし手先てさきに障さはりしは正まさしく熊也。愕然びつくりして胷むねも裂さけるやう也しが逃にげるに道なく、とても命の期きはなり死しぬも生いきるも神仏にまかすべしと覚悟かくごをきはめ、いかに熊どの我わしは薪たきゞとりに来り谷へ落おちたるもの也、皈かへるには道がなく生いきて居をるには喰くひ物がなし、とても死しぬべき命也、擘ひきさきて殺ころさばころし給へ、もし情なさけあらば助たまへと怖々こは〱熊を撫なでければ、熊は起おきなほりたるやうにてありしが、しばしありてすゝみいで我わしを尻しりにておしやるゆゑ、熊の居ゐたる跡へ坐すはりしにそのあたゝかなる事巨燵こたつにあたるごとく全身みうちあたゝまりて寒さむさをわすれしゆゑ、熊にさま〲礼をのべ猶もたすけ玉へと種々いろ〱悲かなしき事をいひしに、熊手をあげて我わしが口へ柔やはらかにおしあてる事たび〱也しゆゑ、蟻ありの事をおもひだし舐なめてみれば甘あまくてすこし苦にがし。しきりになめたれば心爽さはやかになり咽のども潤うるほひしに、熊は鼻息はないきを鳴ならして寝ねいるやう也。さては我を助たすくるならんと心大におちつき、のちは熊と脊せなかをならべて臥ふししが宿の事をのみおもひて眠気ねむけもつかず、おもひ〱てのちはいつか寝入ねいりたり。かくて熊の身動みうごきをしたるに目さめてみれば、穴の口見ゆるゆゑ夜の明あけたるをしり、穴をはひいで、もしやかへるべき道もあるか、山にのぼるべき藤ふぢづるにてもあるかとあちこち見れどもなし、熊も穴をいでゝ滝壺たきつぼにいたり水をのみし時はじめて熊を見れば、犬を七ツもよせたるほどの大熊也。又もとの窟あなへはいりしゆゑ我わしは窟あなの口に居ゐて雪車哥そりうたのこゑやすらんと耳みゝを澄すまして聞居きゝゐたりしが、滝の音のみにて鳥の音ねもきかず、その日もむなしく暮くれて又穴に一夜をあかし、熊の掌てに飢うゑをしのぎ、幾日いくかたちても哥はきかず、その心細ほそき事いはんかたなし。されど熊は次第しだいに馴なれ可愛かあいくなりしと語るうち、主人は微酔ほろゑひにて老夫らうふにむかひ、其熊は牝め熊ではなかりしかと三人大ひに笑ひ、又酒をのませ盃の献酬やりとりにしばらく話消はなしきえけるゆゑ強しひて下回そのつぎをたづねければ、老夫らうふ曰いはく、人の心は物にふれてかはるもの也、はじめ熊に逢あひし時はもはや死地こゝでしす事と覚悟かくごをばきはめ命も惜をしくなかりしが、熊に助たすけられてのちは次第しだいに命がをしくなり、助たすくる人はなくとも雪さへ消きえなば木根きのね岩角いはかどに縋とりつきてなりと宿へかへらんと、雪のきゆるをのみまちわび幾日といふ日さへ忘わすれて虚々うか〱くらししが、熊は飼犬かひいぬのやうになりてはじめて人間の貴たふとき事を知しり、谷間たにあひゆゑ雪のきゆるも里よりは遅おそくたゞ日のたつをのみうれしくありしに、一日あるひ窟あなの口の日のあたる所に虱しらみを捫とりて居ゐたりし時、熊窟あなよりいで袖を咥くはへて引しゆゑ、いかにするかと引れゆきしにはじめ濘落すべりおちたるほとりにいたり、熊前さきにすゝみて自在じざいに雪を掻掘かきほり一道ひとすぢの途みちをひらく、何方いづくまでもとしたがひゆけば又途みちをひらき〱て人の足跡あしあとある所にいたり、熊四方しはうを顧かへりみて走はしり去さりて行方しれず。さては我を導みちびきたる也と熊の去さりし方を遥拝ふしをがみかず〱礼をのべ、これまつたく神仏の御蔭おかげぞとお伊勢さま善光寺ぜんくわうじさまを遥拝ふしをがみうれしくて足の蹈所ふみどもしらず、火点頃ひとぼしころ宿へかへりしに、此時近所の人々あつまり念仏申てゐたり。両親はじめ驚愕びつくりせられ幽灵いうれいならんとて立さわぐ。そのはづ也。月代さかやきは簑みののやうにのび面つらは狐のやうに痩やせたり、幽灵とて立さわぎしものちは笑となりて、両親はさら也人々もよろこび、薪とりにいでし四十九日目の待夜たいや也とていとなみたる仏㕝ぶつじも俄にはかにめでたき酒宴さかもりとなりしと仔細こまかに語かたりしは、九右エ門といひし小間居こまゐの農夫ひやくしやう也き。其夜燈下ともしびのもとに筆をとりて語りしまゝを記しるしおきしが、今はむかしとなりけり。

○ 雪中の虫むし

唐土もろこし蜀しよくの峨眉山がびさんには夏も積雪つもりたるゆきあり。其雪の中なかに雪蛆せつじよといふ虫ある事山海経さんがいきやうに見えたり。唐土もろこしの書此節せつ空むなしからず、越後の雪中にも雪蛆せつじよあり、此虫早春の頃より雪中に生しやうじ雪消終きえをはれば虫も消終きえをはる、始終ししゆうの死生しせいを雪と同おなじうす。字書じしよを按あんずるに、蛆じよは腐中ふちゆうの蠅はへとあれば所謂いはゆる蛆蠅うじばへ也。䖧だつは蠆たいの類るゐ、人を螫さすとあれば蜂はちの類るゐ也、雪中の虫むしは蛆じよの字じに从したがふべし、しかれば雪蛆せつじよは雪中の蛆蠅うじばへ也。木火土金水もくくわどごんすゐの五行中皆虫を生しやうず、木の虫土の虫水の虫は常つねに見る所めづらしからず。蠅はへは灰はひより生しやうず、灰は火の燼末もえたこな也、しかれば蠅は火の虫也。蠅はへを殺ころして形かたちあるもの灰中はひのなかにおけば蘇よみがへる也。又虱しらみは人の熱ねつより生しやうず、熱ねつは火也、火より生たる虫ゆゑに蠅はへも虱しらみも共ともに暖あたゝかなるをこのむ。金中かねのなかの虫は肉眼ひとのめにおよばざる冥塵ほこりのごとき虫ゆゑに人これをしらず。およそ銅銕どうてつの腐くさるはじめは虫を生しやうず、虫の生じたる所ところ色いろを変へんず。しば〱これを拭ぬぐへば虫をころすゆゑ其所そのところ腐くさらず。錆さびるは腐くさるの始はじめ、錆さびの中かならず虫あり、肉眼にくがんにおよばざるゆゑ人しらざる也。蘭人の説也金中猶なほ虫むしあり、雪中虫無なからんや。しかれども常をなさゞれば奇きとし妙めうとして唐土もろこしの書しよにも記しるせり。我越後の雪蛆せつじよはちひさき事蚊かの如ごとし。此虫は二種しゆあり、一ツは翼はねありて飛行とびあるき、一ツははねあれども蔵おさめて蚑行はひありく。共に足六ツあり、色は蠅はへに似にて淡うすく一は黒し其居をる所は市中原野しちゆうげんや蚊かにおなじ。しかれども人を螫さすむしにはあらず、顕微鏡むしめがねにて視みたる所をこゝに図づして物産家ぶつさんかの説せつを俟まつ。

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雪蛆の圖

○ 雪吹ふゞき

雪吹ふゞきは樹きなどに積つもりたる雪の風に散乱さんらんするをいふ。其状そのすがた優美やさしきものゆゑ花のちるを是に比ひして花雪吹はなふゞきといひて古哥こかにもあまた見えたり。是これ東南寸雪すんせつの国の事也、北方丈雪ぢやうせつの国我が越後の雪深ふかきところの雪吹は雪中の暴風はやて雪を巻騰まきあぐる飇つぢかぜ也。雪中第一の難義なんぎこれがために死する人年々也。その一ツを挙あげてこゝに記しるし、寸雪すんせつの雪吹ふゞきのやさしきを観みる人の為ために丈雪ぢやうせつの雪吹の愕眙おそろしきを示しめす。

余よが住すむ塩沢しほさはに遠とほからざる村の農夫のうふ男せがれ一人あり、篤実とくじつにして善よく親おやに仕つかふ。廿二歳の冬、二里あまり隔へだてたる村より十九歳の娵よめをむかへしに、容姿すがた憎にくからず生質うまれつき柔従やはらかにて、糸織いとはたの伎わざにも怜利かしこければ舅しうと姑しうとめも可愛かあいがり、夫婦ふうふの中も睦むつましく家内かない可祝めでたく春をむかへ、其年九月のはじめ安産あんざんしてしかも男子なりければ、掌中てのうちに珠たまを得えたる心地こゝちにて家内かない悦よろこびいさみ、産婦さんふも健すこやかに肥立ひだち乳汁ちゝも一子に余あまるほどなれば小児せうにも肥太こえふとり可賀名めでたきなをつけて千歳ちとせを寿ことぶきけり。此一家このいつかの者ものすべて篤実とくじつなれば耕織かうしよくを勤行よくつとめ、小農夫こびやくしやうなれども貧まづしからず、善男よきせがれをもち良娵よきよめをむかへ好孫よきまごをまうけたりとて一村そんの人々常つねに羨うらやみけり。かゝる善人ぜんにんの家いへに天災わざはひを下くだししは如何いかんぞや。

○かくて産後さんご日を歴へてのち、連日れんじつの雪も降止ふりやみ天気穏おだやかなる日、娵よめ夫をつとにむかひ、今日けふは親里おやざとへ行ゆかんとおもふ、いかにやせんといふ。舅しうと旁かたはらにありて、そはよき事也男せがれも行べし、実母ばゝどのへも孫まごを見せてよろこばせ夫婦ふうふして自慢じまんせよといふ。娵よめはうちゑみつゝ姑しうとめにかくといへば、姑は俄にはかに土産みやげなど取そろへる間うちに娵よめ髪かみをゆひなどして嗜たしなみの衣類いるゐを着ちやくし、綿入わたいれの木綿帽子もめんばうしも寒国かんこくの習ならひとて見にくからず、児こを懐ふところにいだき入んとするに姑しうとめ旁かたはらよりよく乳ちを呑のませていだきいれよ、途みちにてはねんねがのみにくからんと一言ひとことの詞ことばにも孫まごを愛あいする情こゝろぞしられける。夫をつとは蓑笠みのかさ稿脚衣わらはゞきすんべを穿はき晴天せいてんにも簑みのを着きるは雪中農夫のうふの常也土産物みやげものを軽荷かるきにに担になひ、両親ふたおやに暇乞いとまごひをなし夫婦ふうふ袂たもとをつらね喜躍よろこびいさみて立出たちいでけり。正是これぞ親子おやこが一世いつせの別わかれ、後のちの悲歎なげきとはなりけり。

○さるほどに夫をつとは先さきに立妻つまは後あとにしたがひゆく。をつとつまにいふ、今日けふは頃日このごろの日和ひより也、よくこそおもひたちたれ。今日けふ夫婦ふうふ孫まごをつれて来きたるべしとは親おやたちはしられ玉ふまじ。孫まごの顔かほを見玉はゞさぞかしよろこび給ふらん。さればに候、父翁とつさまはいつぞや来きたられしが母人かさまはいまだ赤子ねんねを見給はざるゆゑことさらの喜悦よろこびならん。遅おそくならば一宿とまりてもよからんか、郎おまへも宿とまり給へ。不可也いや〱二人とまりなば両親おやたち案あんじ給はん、われは皈かへるべしなど、はなしの間うち児この啼なくに乳房ちぶさくゝませつゝうちつれて道をいそぎ美佐嶋みさしまといふ原中に到いたりし時、天色てんしよく倏急にはかに変かはり黒雲くろくも空そらに覆おほひければ是雪中の常也夫をつと空そらを見て大に驚怖おどろき、こは雪吹ふゞきならんいかゞはせんと踉蹡ためらふうち、暴風はやて雪を吹散ふきちらす事巨濤おほなみの岩いはを越こゆるがごとく、飇つぢかぜ雪を巻騰まきあげて白竜はくりやう峯みねに登のぼるがごとし。朗々のどかなりしも掌てのひらをかへすがごとく天てん怒いかり地ち狂くるひ、寒風は肌はだへを貫つらぬくの鎗やり、凍雪とうせつは身みを射いるの箭や也。夫をつとは簑笠みのかさを吹とられ、妻つまは帽子ばうしを吹ふきちぎられ、髪かみも吹みだされ、咄嗟あはやといふ間まに眼口めくち襟袖えりそではさら也、裾すそへも雪を吹いれ、全身ぜんしん凍こゞえ呼吸こきう迫せまり半身はんしんは已すでに雪に埋うめられしが、命いのちのかぎりなれば夫婦ふうふ声こゑをあげほうい〱と哭叫なきさけべども、往来ゆきゝの人もなく人家じんかにも遠とほければ助たすくる人なく、手足凍こゞへて枯木かれきのごとく暴風ばうふうに吹僵ふきたふされ、夫婦ふうふ頭かしらを並ならべて雪中に倒たふれ死しゝけり。此雪吹ふゞき其日の暮くれに止やみ、次日つぎのひは晴天せいてんなりければ近村きんそんの者四五人此所を通とほりかゝりしに、かの死骸しがいは雪吹ふゞきに埋うづめられて見えざれども赤子あかごの啼声なくこゑを雪の中にきゝければ、人々大に怪あやしみおそれて逃にげんとするも在ありしが、剛気がうきの者雪を掘ほりてみるに、まづ女の髪かみの毛け雪中に顕あらはれたり。扨さては昨日きのふの雪吹倒ふゞきたふれならん里言にいふ所とて皆あつまりて雪を掘ほり、死骸しがいを見るに夫婦ふうふ手てを引ひきあひて死居しゝゐたり。児こは母の懐ふところにあり、母の袖児この頭かしらを覆おほひたれば児こは身みに雪をば触ふれざるゆゑにや凍死こゞえしなず、両親ふたおやの死骸しがいの中にて又声こゑをあげてなきけり。雪中の死骸しがいなれば生いけるがごとく、見知みしりたる者ありて夫婦ふうふなることをしり、我児わがこをいたはりて袖をおほひ夫婦手をはなさずして死しゝたる心のうちおもひやられて、さすがの若者わかものらも泪なみだをおとし、児こは懐ふところにいれ死骸しがいは簑みのにつゝみ夫をつとの家いへに荷になひゆきけり。かの両親ふたおやは夫婦娵よめの家に一宿とまりしとのみおもひをりしに、死骸しがいを見て一言ひとことの詞ことばもなく、二人ふたりが死骸しがいにとりつき顔かほにかほをおしあて大声こゑをあげて哭なきけるは、見るも憐あはれのありさま也。一人の男懐ふところより児こをいだして姑しうとにわたしければ、悲かなしみと喜よろこびと両行りやうかうの涙なみだをおとしけるとぞ。

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雪中捕熊圖、農人夫婦逢吹雪圖

雪吹ふゞきの人を殺ころす事大方右に類るゐす。暖地だんちの人花の散ちるに比くらべて美賞びしやうする雪吹ふゞきと其異ことなること、潮干しほひに遊あそびて楽たのしむと洪濤つなみに溺おぼれて苦くるしむとの如ごとし。雪国の難義なんぎ暖地だんちの人おもひはかるべし。連日れんじつの晴天せいてんも一時に変へんじて雪吹となるは雪中の常也。其力ちから樹きを抜ぬき屋いへを折くじく。人家これが為ために苦くるしむ事枚挙あげてかぞへがたし。雪吹に逢あひたる時は雪を掘ほり身を其内に埋うづむれば雪暫時ざんじにつもり、雪中はかへつて温あたゝかなる気味きみありて且かつ気息いきを漏もらし死をまぬがるゝ事あり。雪中を歩ほする人陰嚢いんのうを綿わたにてつゝむ事をす、しかせざれば陰嚢いんのうまづ凍こほりて精気せいき尽つくる也。又凍死こゞえしゝたるを湯火たうくわをもつて温あたゝむれば助たすかる事あれども武火つよきひ熱湯あつきゆを用もちふべからず。命いのちたすかりたるのち春暖しゆんだんにいたれば腫はれ病やまひとなり良医りやういも治ぢしがたし。凍死こゞえしゝたるはまづ塩しほを熬いりて布ぬのに包つゝみしば〱臍へそをあたゝめ稿火わらびの弱よわきをもつて次第しだいに温あたゝむべし、助たすかりたるのち病やまひを発はつせず。人肌ひとはだにて温あたゝむはもつともよし手足てあしの凍こゞえたるも強つよき湯火たうくわにてあたゝむれば、陽気やうきいたれば灼傷やけどのごとく腫はれ、つひに腐くさりて指ゆびをおとす、百薬やく功こうなし。これ我わが見たる所を記しるして人に示しめす。人の凍死こゞえしするも手足の亀手かゞまるも陰毒いんどくの血脉けちみやくを塞ふさぐの也。俄にはかに湯火たうくわの熱ねつを以て温あたゝむれば人精じんせいの気血きけつをたすけ、陰毒いんどく一旦いつたんに解とくるといへども全まつたく去さらず、陰いんは陽やうに勝かたざるを以て陽気やうき至いたれば陰毒いんどく肉にくに暈しみて腐くさる也。寒中雨雪うせつに歩行ありきて冷ひえたる人急きふに湯火たうくわを用もちふべからず。己おのれが人熱じんねつの温あたゝかならしむるをまつて用ふべし、長生ちやうせいの一術じゆつなり。

○ 雪中の火

世に越後の七不思議なゝふしぎと称しようする其一ツ蒲原郡かんばらこほり妙法寺村の農家のうか炉中ろちゆうの隅すみ石臼いしうすの孔あなより出いづる火、人皆みな奇き也として口碑かうひにつたへ諸書しよしよに散見さんけんす。此火寛文年中始はじめて出いでしと旧記きうきに見えたれば、三百余年の今において絶たゆる事なきは奇中きちゆうの奇也。天奇てんきを出いだす事一ならず、おなじ国の魚沼郡うおぬまこほりに又一ツの奇火きくわを出いだせり。天公てんたうさまの機状からくりのしかけかの妙法寺村の火とおなじ事也。彼かれは人の知しる所、是は他国の人のしらざる所なればこゝに記しるして話柄はなしのたねとす*3。

越後の国魚沼郡うおぬまこほり五日町といふ駅えきに近ちかき西の方に低ひくき山あり、山の裾すそに小溝こみぞ在あり、天明年中二月の頃ころ、そのほとりに童わらべどもあつまりてさま〲の戯たはむれをなして遊倦あそびうみ、木の枝えだをあつめ火を焚たきてあたりをりしに、其所よりすこしはなれて別べつに火燄々えん〱と燃もえあがりければ、児曹こどもら大におそれ皆々四方に逃散にげちりけり。その中に一人の童わらべ家いへにかへり事ことの仔細しさいを親おやに語かたりけるに、此親このおや心ある者にてその所にいたり火の形状かたちを見るに、いまだ消きえざる雪中に手てを入るべきほどの孔あなをなし孔あなより三四寸の上に火燃もゆる。熟覧よく〱みておもへらく、これ正まさしく妙法寺村の火のるゐなるべしと火口ひぐちに石を入れてこれを消けし家にかへりて人に語かたらず、雪きえてのち再ふたゝびその所にいたりて見るに火のもえたるはかの小溝こみぞの岸きし也。火燧ひうちをもて発燭つけぎに火を点てんじ試こゝろみに池中に投なげいれしに、池中ちちゆう火を出いだせし事庭燎にはびのごとし。水上に火燃もゆるは妙法寺村の火よりも奇き也として駅中えきちゆうの人々来きたりてこれを視みる。そのゝち銭に才かしこき人かの池のほとりに混屋ふろやをつくり、筧かけひを以て水をとるがごとくして地中の火を引き湯槽ゆぶねの竈かまどに燃もやし、又燈火ともしびにも代かゆる。池中の水を湯ゆに燂わかし価あたひを以て浴よくせしむ。此湯硫黄ゆわうの気ありて能よく疥癬しつの類るゐを治ぢし、一時いちじ流行りうかうして人群をなせり。

○按あんずるに、地中に水すゐ脉と火脉くわみやくとあり、地は大陰いんなるゆゑ水脉は九分火脉は一分なり。かるがゆゑに火脉は甚はなはだ稀まれ也。地中の火脉凝結こりむすぶところかならず気息いきを出いだす事人の気息のごとく、肉眼にくがんには見えず。火脉くわみやくの気息いきに人間にんげん日用にちようの陽火ほんのひを加くはふればもえて焔ほのほをなす、これを陰火いんくわといひ寒火かんくわといふ。寒火を引ひくに筧かけひの筒つゝの焦こげざるは、火脉の気いまだ陽火をうけて火とならざる気息いきばかりなるゆゑ也。陽火をうくれば筒の口より一二寸の上に火をなす、こゝを以て火脉くわみやくの気息の燃もゆるを知しるべし。妙法寺村の火も是也。是余よが発明はつめいにあらず、古書こしよに拠よりて考得かんがへえたる所也。

○ 破目山われめきやま*4

魚沼郡うをぬまこほり清水しみづ村の奥おくに山あり、高さ一里あまり、周囲めぐりも一里あまり也。山中すべて大小の破隙われめあるを以て山の名とす。山半やまのなかばは老樹らうじゆ条えだをつらね半なかばより上は岩石がんぜき畳々でふ〱として其形そのかたち竜躍りようをどり虎怒とらいかるがごとく奇々怪々きゝくわい〱言いふべからず。麓ふもとの左右に渓川たにがはあり合がつして滝たきをなす、絶景ぜつけい又言いふべからず。旱ひでりの時此滝壺たきつぼに雩あまこひすればかならず験しるしあり。一年ひとゝせ四月の半なかば雪の消きえたる頃ころ清水村の農夫のうふら二十人あまり集あつまり、熊くまを狩からんとて此山にのぼり、かの破隙われめの窟うろをなしたる所かならず熊の住処すみかならんと、例れいの番椒烟草たうがらしたばこの茎くきを薪たきゞに交まぜ、窟うろにのぞんで焚たきたてしに熊はさらに出いでず、窟うろの深ふかきゆゑに烟けふりの奥おくに至いたらざるならんと次日つぎのひは薪たきゞを増まし山も焼やけよと焚たきけるに、熊はいでずして一山の破隙われめこゝかしこより烟けふりをいだして雲くもの起おこるが如ごとくなりければ、奇異きいのおもひをなし熊を狩からずして空むなしく立かへりしと清水村の農夫のうふが語かたりぬ。おもふに此山半なかばより上は岩を骨ほねとして肉にくの土つち薄うすく地脉ちみやく気を通つうじて破隙われめをなすにや、天地妙々の奇工きこう思量はかりしるべからず。

〔図〕fig58400_13.png
三國嶺雪頽の上徃來の圖

○ 雪頽なだれ

山より雪の崩頽くづれおつるを里言さとことばになだれといふ、又なでともいふ。按あんずるになだれは撫下なでおりる也、るをれといふは活用はたらかすることばなり、山にもいふ也。こゝには雪頽ゆきくづるの字じを借かりて用もちふ。字書じしよに頽たいは暴風ばうふうともあればよく叶かなへるにや。さて雪頽なだれは雪吹ふゞきに双ならべて雪国の難義なんぎとす。高山たかやまの雪は里よりも深ふかく、凍こほるも又里よりは甚はなはだし。我国東南の山々里さとにちかきも雪一丈四五尺なるは浅あさしとす。此雪こほりて岩のごとくなるもの、二月のころにいたれば陽気やうき地中より蒸むして解とけんとする時地気と天気との為ために破われて響ひゞきをなす。一片へん破われて片々へん〱破る、其ひゞき大木を折をるがごとし。これ雪頽なだれんとするの萌きざし也。山の地勢ちせいと日の照てらすとによりてなだるゝ処ところとなだれざる処あり、なだるゝはかならず二月にあり。里人さとひとはその時をしり、処をしり、萌きざしを知しるゆゑに、なだれのために撃死うたれしするもの稀まれ也。しかれども天の気候きこう不意ふいにして一定ぢやうならざれば、雪頽なだれの下に身を粉こに砕くだくもあり。雪頽なだれの形勢ありさまいかんとなれば、なだれんとする雪の凍こほり、その大なるは十間以上小なるも九尺五尺にあまる、大小数百千悉こと〲く方しかくをなして削けずりたてたるごとくかならず方かくをなす事下に弁べんずなるもの幾千丈の山の上より一度どに崩頽くづれおつる、その響ひゞき百千の雷いかづちをなし大木を折をり大石を倒たふす。此時はかならず暴風はやて力をそへて粉に砕くだきたる沙礫こじやりのごとき雪を飛とばせ、白日も暗夜あんやの如くその慄おそろしき事筆帋ひつしに尽つくしがたし。此雪頽なだれに命いのちを捨おとしし人、命を拾ひろひし人、我が見聞みきゝしたるを次つぎの巻まきに記しるして暖国だんこくの人の話柄はなしのたねとす。

或人あるひと問とふて曰いはく、雪の形かたち六出むつかどなるは前まえに弁べんありて詳つまびらか也。雪頽なだれは雪の塊かたまりならん、砕くだけたる形かたち雪の六出むつかどなる本形ほんけいをうしなひて方形かどだつはいかん。答こたへて曰いはく、地気天に変格へんかくして雪となるゆゑ天の円まるきと地の方かくなるとを併合あはせて六出むつかどをなす。六出りくしゆつは円形まろきかたちの裏うら也。雪天陽てんやうを離はなれて降下ふりくだり地に皈かへれば天陽やうの円まろき象かたどりうせて地陰いんの方かくなる本形ほんけいに象かたどる、ゆゑに雪頽なだれは千も万も圭角かどだつ也。このなだれ解とけるはじめは角々かど〱円まろくなる、これ陽火やうくわの日にてらさるゝゆゑ天の円まろきによる也。陰中いんちゆうに陽やうを包つゝみ、陽中やうちゆうに陰いんを抱いだくは天地定理中ぢやうりちゆうの定格ぢやうかく也。老子経らうしきやう第四十二章しやうに曰いはく、万物ばんぶつ負レ陰而いんをおびて抱レ陽やうをいだく沖気以ちゆうきもつて為レ和くわをなすといへり。此理りを以てする時はお内義ないぎさまいつもお内義さまでは陰中いんちゆうに陽を抱いだかずして天理てんりに叶かなはず、をり〱は夫をつとに代かはりて理屈りくつをいはざれば家内かない治おさまらず、さればとて理屈りくつに過すぎ牝鳥めんどり旦ときをつくれば、これも又家内の陰陽いんやう前後ぜんごして天理てんりに違たがふゆゑ家の亡ほろぶるもと也。万物ばんぶつの天理誣しふべからざる事かくのごとしといひければ、問客とひしひと唯々いゝとして去さりぬ。雪頽なだれ悉こと〲く方形かどだつのみにもあらざれども十にして七八は方形をうしなはず、故ゆゑに此説せつを下くだせり。雪頽の図づ多く方形に从したがふものは、其七八をとりて模様もやうを為なすすのみ。

北越雪譜初編巻之上 終

北越雪譜初編 巻之中

越後塩沢  鈴木牧之  編撰

江戸    京山人百樹 刪定

○ 雪頽なだれ人に災わざはひす

我わが住すむ魚沼郡うをぬまこほりの内にて雪頽なだれの為ために非命ひめいの死しをなしたる事、其村の人のはなしをこゝに記しるす。しかれども人の不祥ふしやうなれば人名じんめいを詳つまびらかにせず。

○こゝに何村なにむらといふ所に家内の上下十人あまりの農人のうにんあり、主人あるじは五十歳ばかり妻つまは四十にたらず、世息せがれは二十はたちあまり娘は十八と十五也。いづれも孝子かうしの聞きこえありけり。一年ひとゝせ二月のはじめ主人あるじは朝より用ある所へ出行いでゆきしが、其日も已すでに申さるの頃なれど皈かへりきたらず。さのみ間ひまをとるべき用にもあらざりければ、家内不審ふしんにおもひ忰せがれ家僕かぼくをつれて其家にいたり父ちゝが事をたづねしに、こゝへはきたらずといふ。しからばこゝならんかしこならんなど家僕かぼくとはかりて尋求たづねもとめしかど更さらに音問おとづれをきかず、日もはや暮くれなんとすれば空むなしく家に皈かへりしか〱のよし母に語かたりければ、こは心得こゝろえぬ事也とて心あたりの処こゝかしこへ人を走はしらせて尋たづねさせけるにその在家ありかさらにしれず。其夜四更しかうの頃ころにいたれども主人あるじは皈かへらず。此事近隣きんりんに聞きこえて人々集あつまり種々さま〲に評議ひやうぎして居ゐたるをりしも一老夫いちらうふ来きたりていふやう、あるじの見え給はぬとや、我われ心こゝろあたりの事あるゆゑしらせ申さんとて来きたれりといふ。すはこゝろあたりときゝて主人あるじの妻つま大によろこび、子どもらもとも〲に言葉ことばをそろへてまづ礼をのべ、その仔細しさいをたづねければ、老夫らうふいふやう、それがし今朝けさ西山にしやまの嶺たふげ半なかばにさしかゝらんとせし時、こゝのあるじに行逢ゆきあひ、何方いづかたへとたづねければ稲倉いなくら村へ行ゆくとて行過ゆきすぎ給ひぬ。我は宿やどへ皈かへり足にて遙はるかに行過ゆきすぎたる頃ころ例れいの雪頽なだれの音おとをきゝて、これかならずかの山ならんと嶺たふげを无事ぶじに通とほりしをよろこびしにつけ、こゝのあるじはふもとを无難ぶなんに行過ゆきすぎ給ひしや、万一なだれに逢あひはし給はざりしかと案あんじつゝ宿やどへかへりぬ。今に皈かへり給はぬはもしやなだれにといひて眉まゆを皺しはめければ、親子は心あたりときゝてたのみし事も案あんにたがひて、顔見あはせ泪なみださしぐむばかり也。老夫らうふはこれを見てそこ〱に立かへりぬ。集居あつまりゐたる若人わかてどもこれをきゝて、さらばなだれの処にいたりてたづねみん炬たいまつこしらへよなど立騒たちさわぎければ、ひとりの老人らうじんがいふ、いな〱まづまち候へ、遠とほくたづねに行ゆきし者ものもいまだかへらず、今にもその人とおなじくあるじの皈かへりたまはんもはかりがたし、雪頽なだれにうたれ給ふやうなる不覚人ふかくにんにはあらざるを、かの老奴おやぢめがいらざることをいひて親子おやこたちの心を苦くるしめたりといふに、親子はこれに励はげまされて心慰こゝろひらけ酒肴しゆかうをいだして人々にすゝむ。これを見て皆みな打ゑみつゝ炉辺ろへんに座列ゐならびて酒酌くみかはし、やゝ時うつりて遠とほく走はせたる者ども立かへりしに、行方ゆくへは猶なほしれざりけり。

○かくて夜も明あけければ、村の者どもはさら也聞きゝしほどの人々此家このいへに群あつまり来り、此上はとて手てに〱木鋤こすきを持もち家内の人々も後あとにしたがひてかの老夫らうふがいひつるなだれの処に至いたりけり。さて雪頽なだれを見るにさのみにはあらぬすこしのなだれなれば、道みちを塞ふさぎたる事二十間けん余あまり雪の土手どてをなせり。よしやこゝに死たりともなだれの下をこゝぞとたづねんよすがもなければ、いかにやせんと人々佇立たゝずみたるなかに、かの老人らうじんよし〱所為しかたこそあれとて、若わかき者ものどもをつれ近ちかき村にいたりて雞にはとりをかりあつめ、雪頽なだれの上にはなち餌ゑをあたえつゝおもふ処へあゆませけるに、一羽の雞羽たゝきして時ならぬに為晨ときをつくりければ余ほかのにはとりもこゝにあつまりて声こゑをあはせけり。こは水中すゐちゆうの死骸しがいをもとむる術じゆつなるを雪に用もちひしは応変おうへんの才也しと、のち〱までも人々いひあへり。老人衆しゆうにむかひ、あるじはかならず此下に在あるべし、いざ掘ほれほらんとて大勢一度に立かゝりて雪頽なだれを砕くだきなどして掘ほりけるほどに、大なる穴あなをなして六七尺もほり入れしが目に見ゆるものさらになし。猶なほちからを尽つくしてほりけるに真白ましろなる雪のなかに血ちを染そめたる雪にほりあて、すはやとて猶なほほり入れしに片腕かたうでちぎれて首くびなき死骸しがいをほりいだし、やがて腕かひなはいでたれども首はいでず。こはいかにとて広ひろく穴にしたるなかをあちこちほりもとめてやう〱首くびもいでたり、雪中にありしゆゑ面おもて生いけるがごとく也。さいぜんよりこゝにありつる妻つま子らこれを見るより妻つまは夫をつとが首くびを抱かゝへ、子どもは死骸しがいにとりすがり声こゑをあげて哭なきけり、人々もこのあはれさを見て袖そでをぬらさぬはなかりけり。かくてもあられねば妻つまは着きたる羽織はおりに夫をつとの首くびをつゝみてかゝへ、世息せがれは布子ぬのこを脱ぬぎて父の死骸しがいに腕うでをそへて泪なみだながらにつゝみ脊負せおはんとする時、さいぜん走はしりたる者ものども戸板といたむしろなど担かたげる用意をなしきたり、妻つまがもちたる首くびをもなきからにそへてかたげければ、人々前後ぜんごにつきそひ、つま子らは哭なく々あとにつきて皈かへりけるとぞ。此ものがたりは牧之ぼくしが若わかかりし時その事にあづかりたる人のかたりしまゝをしるせり。これのみならずなだれに命をうしなひし人猶なほ多おほかり、またなだれに家をおしつぶせし事もありき。其その怖おそろしさいはんかたなし。かの死骸しがいの頭かしらと腕かひなの断離ちぎれたるは、なだれにうたれて磨断すりきられたる也。

〔図〕fig58400_14.png農夫頓智借雞圖

○ 寺の雪頽なだれ

なだれは敢あへて山にもかぎらず、形状かたち峯みねをなしたる処は時としてなだるゝ事あり。文化のはじめ思川村おもひがはむら天昌寺てんしやうじの住職じゆうしよく執中和尚しつちゆうをせうは牧之ぼくしが伯父をぢ也。仲冬のすゑ此人居間ゐまの二階にて書案つくゑによりて物を書かきてをられしが、窓まどの庇ひさしに下さがりたる垂氷つらゝの五六尺なるが明あかりに障さはりて机つくゑのほとり暗くらきゆゑ、家の檐のきにいで家僕しもべが雪をほらんとてうちおきたる木鋤こすきをとり、かのつらゝを打うちをらんとて一打うちけるに、此ひゞきにやありけん里言につらゝをかなこほりといふ、たるひとは古言にもいふ本堂に積つもりたる雪の片屋根磊々ぐら〱となだれおち、土蔵どざうのほとりに清水しみづがゝりの池ありしに、和尚なだれに押落おしおとされ池に入るべきを、なだれの勢いきほひに身みは手鞠てまりのごとく池をもはねこえて掘揚ほりあげたる雪に半身はんしんを埋うづめられ、あとさけびたるこゑに庫裏くりの雪をほりゐたるしもべら馳はせきたり、持もちたる木鋤こすきにて和尚を掘ほりいだしければ、和尚大に笑わらひ身みうちを見るに聊いさゝかも疵きずうけず、耳みゝに掛かけたる眼鏡めかねさへつゝがなく不思議ふしぎの命をたすかり給ひぬ。此時七十余よの老僧らうそう也しが、前まへにいへる何村なにむらの人の不幸ふかうに比くらぶれば万死に一生をえられたる天幸てんかうといひつべし。齢よはひも八十余まで无病むびやうにして文政のすゑに遷化せんげせられき。平日余よに示しめしていはれしは、我雪頽なだれに撞うたれしとき筆を採とりて居ゐたりしは、尊たふとき仏経ぶつきやうなりしゆゑたゞにやはとて一字じ毎ごとに念仏ねんぶつ申て書居かきをれり、しかるに雪頽なだれに死すべかりしを不思議ふしぎに命いのち助たすかりしは一字じ念仏ねんぶつの功徳くどくにてやありけん。されば人は常つねに神仏かみほとけを信心しん〲して悪事あくじ災難さいなんを免まぬかれん事をいのるべし。神仏かみほとけを信しんずる心の中うちより悪心はいでぬもの也。悪心の无なきが災難さいなんをのがるゝ第一也とをしへられき。今も猶なほ耳みゝに残れり。人智じんちを尽つくしてのちはからざる大難だいなんにあふは因果いんぐわのしからしむる処ならんか。人にははかりしりがたし。人家の雪頽なだれにも家を潰つぶせし事人の死たるなどあまた見聞みきゝしたれども、さのみはとてしるさず。

○ 玉山翁をうが雪の図づ

さきのとし玉山翁が梓行しかうせられし軍物語いくさものがたりの画本の中に、越後の雪中にたゝかひしといふ図づあり。文には深雪みゆきとありて、しかも十二月の事なるに、ゑがきたる軍兵ぐんびやうどもが挙止ふるまひを見るに雪は浅あさく見ゆ。越後の雪中馬足はたちがたし、ゆゑに農人すら雪中牛馬を用ひず、いわんや軍馬をや、しかるを馬上の戦ひにしるしたるは作者のあやまり也、したがふて画者も誤あやまれる也、雪あさき国の人の画作なれば雪の実地をしらざるはうべ也越後雪中の真景しんけいには甚しくたがへり。しかしながら画ゑには虚そらごともまじへざればそのさまあしきもあるべけれど、あまりにたがひたれば玉山の玉に瑾きずあらんも惜をしければ、かねて書通しよつうの交まじはりにまかせて牧之が拙つたなき筆にて雪の真景しんけい種々かず〱写うつし、猶なほ常つねに見ざる真景もがなと春の半なかばわざ〱三国嶺みくにたふげにちかき法師嶺ほふしたふげのふもとに在ある温泉をんせんに旅やどりそのあたりの雪を見つるに、高たかき峯みねよりおろしたるなだれなどは、五七間けんほどなる四角或は三角なる雪の長さは二三十間けんもあらんとおもふが谷によこたはりたる上に、なほ幾いくつとなく大小かさなりたるなど、雪国にうまれたる目にさへその奇観きくわんことばには尽つくしがたし。これらの真景しんけいをも其座そのざにうつしとりたるを添そへて贈おくりしに、玉山翁が返書へんしよに、北越ほくゑつの雪我わが机上きしやうにふりかゝるがごとく目をおどろかし候、これらの図づをなほ多くあつめ文を添そへさせ私筆にて例れいの絵本ゑほんとなし候はゞ、其書しよ雪の霏々ひゝたるがごとく諸国しよこくに降ふらさん事我わが筆下ひつかに在ありといはれたる書翰しよかん、今猶牧之ぼくしが書笈しよきふにをさめあり。此書このしよならずして黄きなる泉いづみに玉山を沈しづめしは惜をしむべし〱。

○ 越後縮ちゞみちゞみの文字普通ふつうの俗用ぞくようにしたがふ又しゞみと訓よむべきをもちゞみと俗にならふ

縮は越後の名産めいさんにして普あまねく世の知る処なれど、他国たこくの人は越後一国の産物さんぶつとおもふめれど、さにあらず、我住わがすむ魚沼郡うをぬまこほり一郡ぐんにかぎれる産物さんぶつ也。他所たしよに出いづるもあれど僅わづかにして、其品しな魚沼には比しがたし。そも〱縮ちゞみと唱となふるは近来きんらいの事にて、むかしは此国にても布ぬのとのみいへり。布は紵をにて織おる物の総名そうみやうなればなるべし。今も我があたりにて老女らうぢよなど今日けふは布を市にもてゆけなどやうにいひて古言こげんものこれり。東鑑あづまかゞみを案あんずるに、建久三壬子の年勅使ちよくし皈洛きらくの時、鎌倉殿かまくらどのより餞別せんべつの事をいへる条くだりに越布ゑつふ千端たんとあり。猶なほ古きものにも見ゆべけれど、さのみは索もとめず。後のちのものには室町殿むろまちどのの営中えいちゆうの事どもを記録きろくせられたる伊勢家の書しよには越後布ぬのといふ事あまた見えたり。さればむかしより縮ちゞみは此国の名産めいさんたりし事あきらけし。愚ぐ案あんずるに、むかしの越後布は布の上品ひんなる物なりしを、後々のち〱次第しだいに工たくみを添そへて糸に縷よりをつよくかけて汗あせを凌しのぐ為ために縐しゞませ織おりたるならん。ゆゑに縐布しゞみぬのといひたるを、はぶきてちゞみとのみいひつらん歟か。かくて年とし歴ふるほどに猶工たくみになりて、地を美うつくしくせんとて今の如ごとくちゞみは名のみに残のこりしならん。我が稚おさなかりし時におもひくらべて見るに、今は物の模様もやうを織おるなど錦にしきをおる機作はたどりにもをさ〱劣おとらず、いかやうなるむづかしき模様もやうをもおり、縞しまも飛白かすりも甚上手になりて種々しゆ〲の奇工きかうをいだせり。機織婦人はたおるをんなたちの怜悧かしこくなりたる故ゆゑぞかし。

○ 縮ちゞみの種類しゆるゐ

魚沼郡の内にて縮をいだす事一様ならず、村によりて出いだす品しなにさだめあり。こは自おのづからむかしより其品しなにのみ熟練じゆくれんして他ほかの品しなに移うつらざるゆゑ也。其所その品を産いだす事左のごとし。

▲白縮は堀ほりの内町在ざいの村々これを堀の内組といふ又浦佐うらさ組小出嶋こでじま組の村々 ▲模様もやうるゐ或あるひは飛白かすりいはゆる藍錆あゐさびといふは塩沢しほざは組の村々 ▲藍綅あゐじまは六日町組の村々 ▲紅桔梗縞べにききやうしまのるゐは小千谷をぢや組の村々 ▲浅黄繊あさぎじまのるゐは十日町組の村々也。又紺こんの弁慶縞べんけいじまは高柳郷たかやなぎごうにかぎれり。右いづれも魚沼うをぬま一郡ぐんの村々也。此余よちゞみを出いだす所二三ヶ村あれど、専もつはらにせざればしばらく舎おきてしるさず。縮は右村里の婦女ふぢよらが雪中に籠こもり居をる間あひだの手業てわざ也。およそは来年らいねん売うるべきちゞみをことしの十月より糸をうみはじめて次つぎの年二月なかばに晒さらしをはる。白縮はうち見たる所はおりやすきやうなれば、たゞ人は文あやあるものほどにはおもはざれども、手練しゆれんはよく見ゆるもの也。村々の婦女ふぢよたちがちゞみに丹精たんせいを尽つくす事なか〱小冊さつには尽つくしがたし。其あらましを下に記しるせり。

○ 紵を

縮に用もちふる紵をは、奥刕あうしう会津あひづ出羽最上ではもがみの産さんを用ふ。白縮はもつはら会津を用ふ。なかんづく影紵かげそといふもの極品ごくひん也、また米沢の撰紵えりそと称しようするも上品也。越後の紵商人をあきんどかの国々にいたりて紵ををもとめて国に売うる、紵をを此国にてもそといふは古言こげん也。麻あさを古言にそといひしは綜麻へそのるゐ也。麻あさも紵をも字義じぎはおなじく布ぬのに織おるべき料れうの糸をいふ也。紵をを苧をに作つくるは俗ぞく也と字書じしよに見えたり。

○ 紵績をうみ

余よ一年ひとゝせ江戸に旅宿りよしゆくせし頃ころ、或人あるひといふやう、縮ちゞみに用ふる紵をを績うむにはその処の婦人ふじん誘さそひあはせて一家にあつまり、その家にて用ふる紵をを績うみたて此人々たがひにその家をめぐりて績うむと聞きゝしがいかにといひき。いかなる人ぞかゝる空言そらことをばいひふらしけん。さりながら魚沼うをぬま一郡ぐんも広ひろき事ゆゑ、右やうにする処もあるやらん。たとひありとも、こは下品のちゞみに用ふる紵をの事ならん。下品げひんの縮の事は姑舎しばらくおいて論ろんぜず。中品ちゆうひん以上に用ふるを績うむにはうむ所ところの座ざをさだめおき、体たいを正しくなし呼吸こきふにつれて手てを動はたらかせて為作わざをなす。定座ぢやうざに居をらず、仮かりに居ゐて其為作わざをなせば、おのづから心鎮しづまらずして糸に太細ふとほそいできて用にたちがたし。常並つねなみの人の紵をを績うむには唾液つばしるを用ふれども、ちゞみの紵績をうみには茶碗ちやわんやうの物に水をたくはひてこれをもちふ。事毎ことごとに盥てあらひ座を清きよめてこれをなすなり。

○ 縷綸いとによる

糸に作るにも座を定め体たいを囲位かたむる事績うむにおなじ。縷綸いとによるその道具その手術てわざその次第しだいの順じゆん、その名に呼物よぶもの許多いろ〱種々さま〲あり、繁細はんさいの事を詳つまびらかにせんはくだ〱しければ言いはず。そも〱うみはじむるよりおりをはるまでの手作てわざすべて雪中に在あり、上品ひんに用ふる処の毛よりも細ほそき糸を綴兆しゞめたり舒疾のべたりしてあつかふ事、雪中に籠こもり居をる天然てんねんの湿気しめりけを得えざれば為なし難がたし。湿気しめりけを失うしなへば糸折をれる事あり。をれしところ力ちからよわり断きれる事あり、是故このゆゑに上品の糸をあつかふ所は強つよき火気くわきを近付ちかづけず、時により織おるに後おくれて二月の半なかばにいたり、暖気だんきを得て雪中の湿気しつき薄うすき時は大なる鉢はちやうの物に雪を盛もりて機はたの前まえに置おき、その湿気しつきをかりて織る事もあり。これらの事に付つきて熟思つら〱おもふに、絹きぬを織おるには蚕かひこの糸いとゆゑ阳熱やうねつを好このみ、布ぬのを織には麻あさの糸ゆゑ阴冷いんれいを好このむ。さて絹きぬは寒に用ひて温あたゝかならしめ、布は暑しよに用て冷ひやゝかならしむ。是こは天然てんねんに阴阳いんやうの気運きうんに属しよくする所ならんか。件くだんの如ごとく雪中に糸となし、雪中に織おり、雪水に洒そゝぎ、雪上に曬さらす。雪ありて縮ちゞみあり、されば越後縮は雪と人と気力きりよく相半あひなかばして名産めいさんの名あり。魚沼郡うをぬまこほりの雪は縮ちゞみの親おやといふべし。蓋けだし薄雪はくせつの地に布ぬのの名産めいさんあるよしは糸の作つくりによる事也。越後縮に比くらべて知しるべし。

○ 織婦はたおりをんな

凡およそ織物おりものを専業せんげふとする所にては、織人はたおりを抱かゝへおきて織おらするを利とす。縮ちゞみにおいては別べつに无なき一国の名産なれども、織婦はたおりをんなを抱かゝへおきておらする家なし。これいかんとなれば縮を一端たんになすまでに人の手てを労らうする事かぞへ尽つくしがたし。なか〱手間てまに賃銭ちんせんを当あてて算量つもる事にはあらず、雪中に籠居こもりをる婦女等ふぢよらが手てを空むなしくせざるのみの活業いとなみ也。縮ちゞみの糸四十緌すぢを一升ひとよみといふ。上々のちゞみは経糸たていと二十升よみより二十三升よみにも至いたる。但し筬をさには二すぢづゝ通とほすゆゑ、一升の糸は八十緌すぢ也。布幅ぬのはゞ四方に緯糸よこいともこれに随したがふて併あはせざれば地をなさず。よこ糸は猶多からんか、たしかにはさとさずされば僅わづかに一尺あまりを織おるにも九百二十度たび手を動はたらかす。こゝを以て一端たんを二丈七尺としても二万四千四百八十四度*5手をはたらかせざれば端たんをなさず、是こは其凡そのおよそをいふのみ。ちゞみはくぢらざし三丈を定尺とす績うみはじむるより織おりおろし曬さらしあげて端たんになすまでの苦心労繁くしんらうはんおもひはかるべし。ちゞみのみにはかぎらず織物おりものはすべて然しかならんが、目前もくぜんに我わが視みるところなればいふ也。かゝる縮を僅わづかの価あたひにて自在じざいに着用ちやくようするは俗ぞくにいふ安いもの也。縮をおる処のものは娶よめをえらぶにも縮の伎わざを第一とし、容儀ようぎは次つぎとす。このゆゑに親たるものは娘の幼おさなきより此伎わざを手習てならはするを第一とす。十二三歳より太布ふとぬのをおりならはす、およそ十五六より二十四五歳までの女気力きりよく盛さかんなる頃ころにあらざれば上品ひんの縮は機工きかうを好よくせず、老おいに臨のぞんでは綺面はたづらに光沢つやなくして品質しながらくだりて見ゆ。貴重きちようの尊用そんようはさら也、極品ごくひんの誂物あつらへものは其品しなに能よく熟じゆくしたる上手をえらび、何方いづくの誰々たれ〱と指ゆびにをらるゝゆゑ、そのかずに入らばやとて各々おの〱伎わざを励はげむ事也。かゝる辛苦しんくは僅わづかの価あたひの為ために他人たにんにする辛苦しんく也。唐たうの秦韜玉しんたうぎよくが村女そんぢよの詩しに、最もつとも恨うらむは年々ねん〱金線きんせんを圧つくらふて他人たにんの為ために嫁よめいりの衣装いしやうを作つくるといひしは宜むべなる哉々々かな〱〱。

〔図〕fig58400_15.png
御機の霊威織女發狂の圖

○ 織婦はたおりをんなの発狂きちがひ

ひとゝせある村の娘、はじめて上々のちゞみをあつらへられしゆゑ大によろこび、金匁きんせんを論ろんぜず、ことさらに手際てぎはをみせて名をとらばやとて、績うみはじめより人の手をからず、丹精たんせいの日数ひかずを歴へて見事に織おろしたるを、さらしやより母が持きたりしときゝて、娘ははやく見たく物をしかけたるをもうちおきてひらき見れば、いかにしてか匁ぜにほどなる煤すゝいろの暈しみあるをみて、母かゝさまいかにせんかなしやとて縮ちゞみを顔かほにあてゝ哭倒なきたふれけるが、これより発狂きちがひとなり、さま〲の浪言らうげんをのゝしりて家内かないを狂くるひはしるを見て、両親ふたおや娘が丹精たんせいしたる心の内をおもひやりて哭なきになきけり。見る人々もあはれがりてみな袖をぬらしけるとぞ。友人いうじんなにがしがものがたりせり。

○ 御機屋おはたや

貴重尊用きちようそんようの縮をおるには、家の辺ほとりにつもりし雪をもその心して掘ほりすて、住居すまゐの内にてなるたけ烟けふりの入らぬ明あかりもよき一間ひとまをよく〱清きよめ、あたらしき筵むしろをしきならべ四方に注連しめをひきわたし、その中央ちゆうあうに機はたを建たつる、是これを御機屋おはたやと唱となへて神かみの在いますがごとく畏尊おそれうやまひ、織人おりての外ほか他人を入れず、織女おるをんなは別火べつくわを食しよくし、御機おはたにかゝる時は衣服をあらため、塩垢離しほこりをとり、盥てあらひ漱くちそゝぎこと〲く身みを清きよむ、日毎ひごとにかくのごとし。紅潮つきのさはりをいむ事は勿論もちろん也。他たの娘らなど今日けふは誰たれどのゝ御機屋おはたやを拝をがみにまゐるなどやうにいふ也。至極しごく上手の女にあらざれば此おはたやを建たつる事なければ、他たの婦女ふぢよらがこれを羨うらやむ事、比諭たとへば階下かいかにありて昇殿しようでんの位くらゐをうらやむがごとし。

○ 御機屋おはたやの霊威れいゐ

神は敬うやまふによりて威ゐをますとは宜むべなる哉かな。かりそめの物も守まもりとして敬うやまひ信しんずれば霊れいある事空むなしからず、人のはきすてたる草鞋わらんづだに衆人しゆうじんの信しんぜしによりて、のち〱は草鞋天王そうあいてんわうとて祭まつりし事、五雑組ござつそに見えたり。ましてや神々しきを敬うやまへば霊威れいゐある冥々めい〱の天道てんだうは人の知を以てはかりしるべからず。こゝに或村あるむらの娘、例れいの御はたやにありて心を澄すまし、おはたをおりて居ゐたりしに、傍かたはらの窓まどをほと〱と音おとなふものあり、心にそれとおぼへあれば立よりてひらき見るに、はたして心を通かよはす男也。をりふし人目の関せきもなかりしかば、心うれしくおはたやをいでゝ家の後うしろにいたり、窓まどのもとに立たる男を将ゐて木小屋きこやに入ぬ。やがて娘の母皈かへり来りおはたやに娘のをらぬを見ていぶかり、しきりにその名をよびければ、かの木小屋にきゝつけて遽驚あはておどろき男は逃去にげさり、娘は心こころ顛倒てんだうして身みを穢けがしたるも打忘うちわすれおはたやにかけ入り、そのまゝ御機おはたによりて織おらんとしけるに、倏急たちまち仰向あふむきに倒たふれ落おち、血ちを吐はきて絶入たえいりけり。母此状態ありさまを見て大におどろきはしりよりて助たすけ起おこし、まづ御はたやよりいだしさま〲にいたはりしが、気息いきあるのみにて死ししたるがごとし。父は同村のなにがしが家に在しをよびかへし、医いをまねきて薬くすりなど与あたへしがそのしるしもなく、両親ふたおやはさら也、あたりよりはせよりしものどもゝ娘の側そばに在ありてなみださしぐみつゝ手てを束つかねて死しを俟まつのみ也。しかるにひとりの男来り、さも恥はぢらふさまにて人の後うしろに座ざし欲言ものいはんとしていはず、頭かしらを低たれて泪なみだをおとしけり、人々これをみれば同村おなじむらの某なにがしが次男じなん也けり。此男やがて膝ひざをすゝめ娘の母に対むかひ声こゑをひそめていふやう、今はなにをかつゝみ申さん、我われは娘御むすめごと二世の約束やくそくをしたるもの也。さきのほど人なきを見てむすめごを誘さそひいだししに、おん身のかへり給ひしこゑにおそれわれは逃にげさりしが、むすめごがかゝる災わざはひありしと聞きゝてつら〱思ふに、穢けがしたる身をわすれて畏かしこきおん機はたにかゝり給ひたる御罰ばつならん。これもと我わがなしたる罪つみなれば、人はしらずとも余処目よそめに見んはそらおそろしく、命をかけて契ちぎりたることばにもたがへりとおもふから、むすめごの命いのちに代かはりて神に御罰ばつを詫わび候はん。さるにても此まゝにてむすめごが死うせ給はゞ我が命をめされ候へ、こゝにをられ候人々こそよき証人しようにんなれといひつゝ、赤裸あかはだかになりて髪かみをもさばき井のもとにはしり寄よりしたゝかに水を浴あび、雪の上に蹲居うづくまりゐてなにやらん唱となへていのりけり。時しも寒気かんき肌はだへを貫つらぬくをりふしなれば、凍こゞえも死しすべきありさま也。ふたおやはさら也人々もはじめてそれと知り、実げにもとてみな〱おなじく水を浴あびていのりけり。神明かの男が実心まごゝろを憐あはれみ、人々のいのりをも納受なふじゆまし〱けん、かの娘目の覚さめたるがごとくおきあがり母をよびければ、衆みな奇異きゐのおもひをなし、むすめの側そばにあつまりていかに〱といふ。娘はかゝるやうを見てこはなに事ぞといふ。母はうれしくしか〱のよしいひければ、むすめは御機おはたによりしとは覚おぼえしがのちはしらずといふ。母はあまりのうれしさにかの男にもあはせんとせしに、いつか立さりけん見えずなりぬ。かくて娘四五日はなやみしがやがて常並つねなみの身みになりけり。歳としも十七なればかねて聟むこをと思ひをりたるをりからなれば、かのしのび男が実心まごゝろに愛めでて早速さつそく媒なかだちの橋はしをわたし、姻礼こんれいもめでたくとゝのひて程ほどなく男子をまうけけり。其家そのいへ今猶なほ栄さかゆ。神の御罰ばつが夫婦ふうふの縁えんとなりしも奇遇きぐうといふべし。こは我が幼をさなかりし時の事也き、筆のついでに記しるして御機屋おはたやの霊威れいゐある事をわかふどにしらしむ。あなかしこ。畏おそるべし、慎つゝしむべし。

〔図〕fig58400_16.png
雪中晒縮圖

○ 縮ちゞみを曬さらす

曬屋さらしやとてこれをのみ業わざとす、又おりたる家にてさらすもあれど稀まれなり。さらしやはその家の辺ほとり又程ほどよき所を見立、そこに仮小屋かりこやを造つくり物をも置おき、また休息きうそくの処とす。晒人さらしては男女ともうちまじり身を清きよめる事織女おりめの如ごとくす。さらすは正月より二月中ちゆうの為業しわざ也。此頃はいまだ田たも圃はたも平一面ひらいちめんの雪の上なれば、たはたの上をさらし場とするもあり、日の内にさらし場ばを踏ふみへしたる処あれば、手頃てごろの板いたに柄えをつけたる物にて雪の上を平たひらかにならしおく也。かくせざれば夜よの間うちに凍しみつきてふみへしたる処そのまゝ岩のごとくになるゆゑ也。晒場さらしばには一点てんの塵ちりもあらせざれば、白砂しろすなの塩浜しほばまのごとし。さて白ちゞみはおりおろしたるまゝをさらす、余よのちゞみは糸につくりたるを拐かせにかけてさらす。その拐かせとは細ほそき丸竹を三四尺ほどの弓になしてその弦つるに糸をかけ、拐かせながら竿さをにかけわたしてさらす也。白ちゞみは平地の雪の上にもさらし、又高さ三尺あまり長さは布ほどになし、横幅よこはゞは勝手にまかせ土手のやうに雪にてつくり、その上にちゞみをのばしならべてさらすもあり、かくせざれば狗いぬなど蹈越ふみこえてちゞみをけがすゆゑ也。こゝに拐かせをならべてさらしもする也。みなその場所ばしよの便利べんりにしたがふゆゑ一定いちぢやうならず。さて晒さらしやうは縮ちゞみにもあれ糸にもあれ、一夜灰汁あくに浸ひたしおき、明あけの朝あした幾度いくたびも水に洗あらひ絞しぼりあげてまへのごとくさらす也。 貴重尊用きちようそんようの縮ちゞみをさらすはこれらとはおなじくせず、別にさらし場をもうけ、よろづに心を用ひてさらす事御機はたをおるに同じ。我国わがくににては地中の水気すゐき雪のために発動うごかざるにや、雪中には雨まれ也、春はことさら也。それゆゑ件くだんのごとく日にさらす晴はれのつゞく事あり。さて灰汁あくにひたしてはさらす事、毎日まいにちおなじ事をなして幾日を歴へて白々をなしたるのちさらしをはる。やがてさらしをはらんとする白ちゞみをさらすをりから、朝日のあか〱と昇さしのぼりて玉屑平上ぎよくせつへいしやうに列つらねたる水晶白布すゐしやうはくふに紅映こうえいしたる景色けしき、ものにたとへがたし。かゝる光景ありさまは雪にまれなる暖だん国の風雅人ふうがじんに見せたくぞおもはるゝ。凡およそちゞみを晒さらすには種々しゆ〲の所為しわざあれども、こゝには其大略たいりやくをしるすのみ。

○ 縮ちゞみの市いち

市場いちばとてちゞみの市あるは、まへにいへる堀の内十日町小千谷をぢや塩沢しほざはの四ヶ所也。初市はついちを里言りげんにすだれあきといふ。雪がこひの簾すだれの明あくをいふ也、四月のはじめに有あり。堀の内よりはじむ、次に小千谷、次に十日町、次に塩沢しほざは、いづれも三日づゝ間あひを置おきてあり。年によりて一定ならず右四ヶ所の外には市場なし。十日町には三都さんと呉服問屋ごふくとひやの定宿ありて縮をこゝに買かふ。市日には遠近ゑんきんの村々より男女をいはず所持しよぢのちゞみに名所などころを記しるしたる紙簽かみふだをつけて市場に持より、その品しなを買人かひてに見せて売買うりかひの直段ねだん定さだまれば鑑符きつてをわたし、その日市はてゝ金かねに換かふ。およそ半年はんとしあまり縮の事に辛苦しんくしたるは此初市の為ためなれば、縮売ちゞみうりはさら也、こゝに群あつまるもの人の濤なみをうたせ、足々あし〱を踏ふまれ、肩々かた〱を磨する。万よろづの品々しな〲もこゝに店みせをかまへ物を売うる。遠とほく来りたるものは宿をもとむるもあれば、家毎いへごとに人つどひ、香具師かうぐしの看物みせもの薬売くすりうりの弁舌べんぜつ、人の足をとゞめて錐きりを立たつべき所もあらぬやう也。此初市の日は繁花はんくわの地の喿饒にぎはひにもをさ〱劣おとらず。右にいふ四度の市をはりてのちも在々より毎日問屋へ来りてちゞみをうる、又ちゞみ仲買のもの在々にいたりてもかふ也、六月十五日迄を夏ちゞみといひ十七日より翌年の初市までを冬ちゞみといふ縮ちゞみの精疎よしあしの位くらゐを一番二番といふ。価あたひの高下かうげおよそは定さだめあれども、その年々とし〲によりてすこしづゝのたがひあり。市の日にその相場年の気運きうんにつれて自然おのづからさだまる。相場さうばよければ三ばんのちゞみ二ばんにのぼり、二ばんは一ばんに位くらゐす。前まへにもいへるごとくちゞみは手間賃てまちんを論ろんぜざるものゆゑ、誰たがおりたるちゞみは初市に何程なにほどに売うりたり、よほど手があがりたりなどいはるゝを誉ほまれとし、或あるひはその伎わざによりて娶よめにもらはんといはるゝ娘もあれば、利を次つぎにして名を争あらそふ。このゆゑに市にちゞみを持ゆくは兵士へいしの戦場せんじやうにむかふがごとし。さてちゞみの相場は大やうは穀相場こくさうばにおなじうして事は前後ぜんごす。年とし凶きようすれば穀こくは上り縮ちゞみは下る。年豊ゆたかなれば縮ちゞみは上り穀こくは下る。豊凶はうきようの万物に係かゝる事此一を以て知るべし。されば万民豊年はうねんをいのらざらめや。

○ ほふら

我わが塩沢しほざはの方言はうげんにほふらといふは雪頽なだれに似にて非ひなるもの也、十二月の前後ぜんごにあるもの也。高山たかやまの雪深ふかく積つもりて凍こほりたる上へ猶なほ雪ふかく降ふり重かさなり、時の気運きうんによりていまだこほらで沫々あわ〱しきが、山の頂いたゞきの大木につもりたる雪、風などの為に一塊ひとかたまり枝えだよりおちしが山の聳そびえに随したがひて転まろび下くだり、まろびながら雪を丸まろめて次第しだいに大をなし、幾万斤いくまんきんの重きをなしたるもの幾丈いくぢやうの大石を転まろばし走はしらすがごとく、これが為にあわ〱しき雪おしせかれて雪の洪波つなみをなして大木を根こぎになし、大石をもおしおとし人家をもおし潰つぶす事しば〱あり。此時はかならず暴風はやて雪を吹ふきちらし、凍雲とううん空そらに布しきて白昼はくちうも立地たちどころに暗夜あんやとなる事雪頽なだれにおなじ。なだれは前にもいへるごとく、すこしはそのしるしもあればそれとしるめれど、此ほふらはおとづれもなくて落下るゆゑ、不意ふいをうたれて逃にげんとすれば軟やはらかなる雪深くて走はしりがたく、十人にして一人助るは稀まれ也。幾十丈の雪人力を以て掘ほることならざれば、三四月にいたり雪消きえてのち死骸しがいを見る事あり。ほふらを処によりて、○をほて○わや○あわ○ははたりともいふ。山家にてはなだれほふらを避さけんため其災わざはひなき地理をはかりて家を作る。ほふらに村などつぶれたる奇談きだんとしごろ聞きゝたるがあまたあれど、うるさければしるさず。

○ 雪中花水祝はなみづいはひ

魚沼郡の内宇賀地うがちの郷きやう堀ほりの内の鎮守ちんじゆ宇賀地の神社じんじやは本社八幡宮也、上古より立せ給ふとぞ。縁起文えんぎぶん多おほければこゝに省はぶく。霊験れいげんあらたなる事は普あまねく世にしる処なり。神主かんぬし宮氏の家に貞和ぢやうわ文明ぶんめいの頃の記録きろく今に存そんせり。当主たうしゆは文雅ぶんがを好このみ、吟詠ぎんえいにも富とめり、雅名がめいを正樹まさきといふ。余よも同好どうこうを以て交まじはりを修おさむ。幣下へいしたと唱となふる社家しやけも諸方しよはうにあまたある大社也。此神かみの氏子、堀の内にて娶よめをむかへ又は壻むこをとりたるにも、神勅しんちよくとて壻むこに水を賜たまはる、これを花水祝はなみづいはひといふ。毎年正月十五日の神㕝じんじ也。新婚しんこんありつる家毎いへごとに神使じんしを給はるゆゑ、門かどおほき時は早朝よりして黄昏たそがれにいたる時もあり。友人いうじん嘿斎翁ぼくさいをう曰いはく、堀の内の人、宮治兵衛花水祝ひといふ事は淡路宮あはぢのみや瑞井みづゐの井中ゐちゆうに多遅花たちばなの落おちたる祥さちありし事の日本紀に見えたるに濫觴らんしやうして、花水の号がうこゝに起立おこれるにやといはれき。されば新婚しんこんの壻むこに神水を灌そゝぐ事当社たうしやの神秘しんひとぞ。さて当日新婚しんこんありつる家に、神使じんしたるべき人は百姓の内旧家きうか門地の輩ともがら神使を務つとむべき家定めあり、その中にて服忌ぶくきはさら也、寡やもめなる者もの、家内に病人あるもの、縁類えんるゐに不祥ふしやうありしもの、皆みな除のぞきていさゝかも家内に故障さゝはりなく平安無事ぶじなる者を撰えらび、神㕝じんじの前の朝あけ神主沐浴斎戒もくよくさいかいし斎服さいふくをつけて本社に昇のぼり、えらびたる人々の名をしるして御鬮みくじにあげ、神慮しんりよに任まかせて神使とす。神使に当あたりたる人潔斎けつさいして役を勤つとむ。是これを大夫といふ。嘿斎翁曰、これすなはち浄行じやうぎやう神人也といへり、大夫とは俚言の称也さて当日正月十五日神使本社じんしほんしやを出いづるその行装ぎやうさうは、先挾箱さきはさみばこ二本道具台だうぐだい笠立かさたて傘かさ弓二張薙刀なぎなた神使侍烏帽子さむらひえばうし素襖すあう、次に太刀持長柄持傘さしかくる供侍二人草履取ざうりとり跡鎗あとやり一本、これらの品々神庫じんこにあるものを用ふ次に氏子の人々大勢麻上下にて随したがふ。かゝる行装ぎやうさうにて新婚しんこんの家にいたるゆゑ、その以前雪中の道を作り、雪にて山みちのやうなる所は雪を石壇いしだんのやうにつくり、或あるひは雪にて桟さんじきめく処を作りて見物のたよりとす。これらにもあまたの人夫を費つひやす事也。さてその家にては家内をよく〱清め、わきて其日正殿でんの間まととなふる一間まは塩垢離しほこりにきよめこゝを神使じんしの席せきとし、綵筵はなむしろを布しきならべ上座に毛氈まうせんをしき、上段の間まに表かたどり刀掛をおく。次の間には親族しんぞくはさら也、したしき人々より祝義のおくり物をならべおく。嶋台などに賀咏をそへたるなどおのがさま〲也。門かどには幕まくをうち、よきほどの処をしぼりあげてこゝに沓脱くつぬぎの壇だんをおき、玄関式台げんくわんしきだいに准なぞらふ。家内のものいづれも衣服いふくをあらため神使じんしをまつ、神使いたるときけば、親あるものは親子麻上下にて地上に出いでて神使をむかふ。神使のざうりとりさきにはせきたりて跋扈ふみはだかり、大声こゑにて正一位三社宮さんじやのみや使者ししやと大呼よばゝる。神使を見て亭主ていしゆ地上に平伏し、神使を引てかの正殿に座さしむ、行列ぎやうれつは家の左右にありて隊たいをなす。さて神使へ烟盆たばこぼん茶吸物膳部をいだし、数献すこんをすゝむ。あらためて壻むこに盃を与あたふ、三方かはらけ肴をはさむ、献酬とりやり七献こんをかぎる、盃ごとに祝義の小謡うたひをうたふ。事こと終をはりて神使じんし去さる。他に新姻ありし家あれば又到いたる式前しきまへのごとし。此神使はかの花水を賜たまふ事を神より氏子へ告のり給ふの使つかひ也。神使社頭へ皈る時里正まちしやうやの家に立より酒肴のまうけあり神使社内へ皈かへりしを見て踊をどりの行列ぎやうれつを繰くりいだす。一番に傘矛かさぼこ錦のみづひきをかけ施めぐらし端はしに鈴すゞをつけ、又裁工きれさいくの物さま〲なるをさげる、傘矛かさぼこの上には諫鼓を飾る。これを持もの二人紫むらさきちりめんにて頬ほゝをつゝみてむすびたれ、おなじ紅絞などを片襷襅かたたすきにかくる。嘿斎ぼくさい曰いはく、すべて祭礼に用ふる傘矛かさぼこといへる物は古いにしへ羽葆葢うほかいの字を訓よめり、所謂いはゆる繖さんにしてきぬかさとよむ神輿鳳輦しんよほうれんを覆おほひ奉たてまつるべき錦蓋きんかい也といへり。猶なほ説せつありしが長ければ省はぶく。さて二ばんに仮面めんをあてゝ鈿女うずめに扮いでたちたる者一人、箒はうきのさきに紙に女阴ぢよいんをゑがきたるをつけてかたぐ。次にこれも仮面めんにて猿田彦に扮たるもの一人、麻にて作りたる幌帽ほろばうしやうの物を冠かむり、手杵てきねのさきを赤くなして男根なんこんに表示かたどりたるをかたぐ。三ばんに法服はふふくを美々びゝしくかざりたる山伏螺ほらをふく。四ばんに小児の警固けいごおもひ〱身をかざりて随したがふ。次に大人の警固けいご麻上下杖つゑを持て非常ひじやうをいましむ。五ばんに踊をどりの者大勢花やかなる浴衣ゆかたに正月なれど人勢に熱喿あつくてゆかた也色ある細帯ほそおびをなし群行むらがりゆく、里言りげんにこれをごうりんしやうといふ、こは降臨象こうりんしやうなるべし。皇孫日向の高千穂たかちほの峯に天降あまくだり給ひしに象かたどシヤウるの心ならんと嘿翁いへり。猶なほ説せつありしがはぶく。さて壻むこの方にては此をどり場をもわがいへのまへにまうけおき、あたらしき筵むしろをしき、あたらしき手桶二ツに水をくみいれ、松葉と昆布こんぶとを水引にてむすびつけ、むしろの上におき銚子盃をそへおく。水取とりとて壻むこに水をあぶする者二人、副取そへとりといふもの二人、おの〱たすきひきゆひりゝしげにいでたつ。むこはゆかた細帯にてをどりのきたるをまつ。をどり家にちかづけば行列ぎやうれつひらきて、踊人をどりてかのむしろのめぐりにむらがりてうたひつゝをどる。その唱哥しやうかに 〽めでた〱の若松さまは枝も栄ゆる葉も茂る 〽さんやめでたい花水さんやせな脊にあびせんわが我せな夫男に」をりかへし〱しやうがをかえてうたひをどる。事こと慣なれたる踊をどりのけいご、かの水とりらもその程ほどを見て壻むこに三献こんを祝いははせ、かの手桶の水を二人して左右より壻むこの頭かしらへ滝たきのごとくあぶせかくる。これを見て衆人みな〱抃躍てをうちてめでたし〱と賀いはふ。むこはそのまゝわがいへにはせ入り、をどりは猶なほ家にもおし入りてをどりうたふ事七八遍へんにしてどろ〱と立さり、再ふたゝびはじめのごとく列れつをなして他の壻の家にいたる。事ことはてゝもをどりは宿役しゆくやくの家さてはよしみあるものゝいへにも入りてをどりありく也。田舎ゐなかはものを視みる事まれなれば、此日は遠近の老若男女これを見んとて蟻のごとくあつまり、おしこりたちて熱喿ねつそうする事筆下ふでに尽つくしがたし。

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花水祝浴水畧圖

○按あんずるに、壻むこに水を灌そゝぐ事は、男の阳火やうくわに女の阴いんの水をあぶせて子をあらしむるの咒事まじなひにて、妻つまの火を留とむるといふ祝事しゆくじ也。此事室町殿の頃武家の俗習ぞくしふよりおこりて、農商もこれに傚ならひてやゝ行おこなはれし事物に見えたり。貝原先生の歳時記には松永弾正が婚事より起るといへり江戸にては宝永の頃までも世上一同正月十五日の事とし、祝義のやうになりて大に流行はやりしゆゑ、壻むこに恨うらみある者事を水祝ひによせてさま〲の狼籍らうぜきをなす人もまゝありて、人の死亡しばうにもおよびし事しば〱なりしゆゑ、正徳の頃国禁こくきんありて事絶たえたり。くわしくはむかし〱物語といふものに見えたり。国初以来の事を記たる写本、元禄中をさかりにへたる人の老ての作なり件くだんの花水祝ひは神秘じんひと有あれば別にゆゑよしもあるべし。あなかしこ。雪のついでにその大略を記して好古家かうこかの談柄だんへいに具ぐするのみ。

○ 菱山ひしやまの奇事きじ

越後の頸城郡くびきこほり松の山は一庄いつしやうの総名そうみやうにて、許多あまたの村落むらを併合あはしたる大庄也。いづれも山間あひの村落むら〱にして一村の内といへども平地なし。たゞ松代といふ所のみ平地にて、農家のうか軒のきを連つらぬ。外そと百番の謡うたひに見えし松山鏡かゞみといふも此地也。そのうたひにある鏡が池の古跡こせきもこゝにあり、今は池にもあらぬやうに埋うづもれたれど、その跡あととてのこれり。按あんずるに、松山かゞみのうたひは鏡破わりの絵巻ゑまきといふものを原もととして作つくれるならん、此ゑまきにも右の松の山の事見えたり。さて松の山の庄内に菱山といふあり、山の形三角なるゆゑの名なるべし。山にちかき処に須川すかは村川によりて名づく菖蒲しやうぶ村といふあり。此ひし山、毎年二月に入り夜中にかぎりて雪頽なだれあり、其ひゞき一二里に聞きこゆ。伝つたへていふ、白髪はくはつ白衣いの老翁らうをう幣へいをもちてなだれに乗のり下くだるといふ。また此なだれ須川村の方へ二十町余の処真直まつすぐに突つき下す年は豊作ほうさく也、菖蒲村の方へ斜なゝめにくだす年は凶作きやうさく也。其験そのしるし少すこしも違たがふ事なし。年としの豊凶ほうきやう雪頽なだれに係かゝる事此山にのみ限かぎるも一奇事いつきじといふべし。

因ちなみにいふ、余よが旧友きういう寺泊てらとまりに住すむ丸山氏の医家祖父そふは博学はくがくの聞きこえありし人なりき。余二十年前丸山氏の家に遊笻いうきようをとゞめし時、祖父が宝暦の頃の著述ちよじゆつ也とて、越後名寄なよせといふ書しよを見せられしに、三百巻自筆じひつの写本しやほん也。名寄とはあれど越後の風土記ふどきなり。一国の神社仏閣じんじやぶつかく名所旧跡めいしよきうせき山川地理さんせんちり人物じんぶつ国産薬品こくさんやくひんの類るゐまでも、部ぶを分わけ図づをいだして通暁さとしやすくしたる精撰せいせん也。此書しよに右菱山ひしやまの説せつも粗ほゞ見えたれど、さのみはとて引ず。菱山ひしやまの事をいふにつきて此書の事をおもひいだせしが、かゝる精撰大成せいせんたいせいの書しよも空むなしく秘笈ひきうにありて世よにしられざるが惜をしければこゝにいへり。

○ 秋山あきやまの古風こふう

信濃と越後の国境くにさかいに秋山といふ処あり、大秋山村といふを根元こんげんとして十五ヶ村をなべて秋山とよぶ也。秋山の中央ちゆうあうに中津川なかつかはといふありて、すゑは魚沼郡妻有つまありの庄をながれて千曲くま川に入る川也川の東西に十五ヶ村あり。東の方に在る村は●印は越後にぞくす▲印は信濃にぞくす ●清水川原しみづかはら村人家二軒あり、しかれども村の名によぶ ●三倉みくら村人家三軒 ●中なかの平たひら村二軒 ●大赤沢おほあかさは村九軒 ●天酒あまさけ村二軒 ▲小赤沢こあかさは村二十八軒 ▲上の原十三軒 ▲和山わやま五軒 西にある村 ●下結東しもけつとう村 ●逆巻さかまき村四軒 ●上結東かみけつとう村二十九軒 ●前倉まへくら村九軒 ▲大秋山村人家八軒ありて此地根元の村にて相伝の武器など持しものもありしが、天明卯年の凶年に代しろなしてかてにかえ、猶たらずして一村のこらず餓死して今は草原の地となりしときけり ▲屋敷やしき村十九軒 ▲湯本温泉あり 此地東には苗場なへば山天に聳そびえて連岳れんがくこれにつゞき、西に赤倉あかくらの高嶺かうれい雲を凌しのぎて衆山しゆうざんこれに双ならぶ。清水川原しみづかはらは越後の入り口、湯本ゆもとは信濃に越るの嶮路けんろあるのみ。一夫いつふ是これを守れば万卒ばんそつも越こえ難がたき山間幽僻さんかんいうへきの地也。里俗りぞくの伝つたへに此地は大むかし平家の人の隠かくれたる所といふ。牧之ぼくし謂おもへらく、鎮守府将軍ちんじゆふしやうぐん平の惟茂これもち四代の后胤かういん奥山おくやま太郎の孫城じやうの鬼九郎資国すけくにが嫡男ちやくなん城の太郎資長すけながの代まで越後高田の辺ほとり鳥坂とりさか山に城を構かまへ一国に威ゐを震ふるひしが、謀叛むほんの聞きこえありて鎌倉かまくらの討手うつて佐々木三郎兵衛入道西念としば〱戦たゝかひて終つひに落城らくじやうせり。此時貴族きぞくの落人おちうどなどの此秋山に隠かくれしならんか。里俗りぞくの伝つたへに平氏といへるもよしあるに似にたり。此秋山には古いにしへの風俗ふうぞくおのづから残のこれりと聞きゝしゆゑ一度は尋たづねばやとおもひ居をりしに、此地をよくしりたる案内者あんないしやを得えたりしゆゑ、偶然ふとおもひたち案内あなひが教をしへにまかせ、米味噌醤油しやうゆ鰹節かつをぶし茶ちや蝋燭らうそくまでをも用意よういして従者ずさにもたせて立いでしは文政十一年九月八日の事なりき。その日は秋山に近ちかき見玉みたま村の不動院ふどうゐんに一宿やどり、次の日桃源たうげんを尋たづぬる心地して秋山にたずね入りぬ。さて入り口に清水川原しみづがはらといふあり、こゝにいたらんとする道みちの傍かたはらに、丸木の柱はしらを建たて、注連しめを引わたし、中央に高札あり、いかなる事ぞと立よりみれば、小童こどものかきたるやうのいろは文字にて「ほふそふあるむらかたのものはこれよりいれず」としるせり。案内曰いはく、秋山の人は疱瘡はうそうをおそるゝ事死しをおそるゝが如ごとし。いかんとなれば、もしはうそうするものあれば我子わがこといへども家に居をらせず、山に仮小屋かりこやを作りて入れおき、喰物しよくもつをはこびやしなふのみ。すこし銭あるものは里さとより山伏やまぶしをたのみて祈いのらすもあり、されば九人にして十人は死しする也。此ゆゑに秋山の人他所へゆきてはうそうありとしれば、何事の用をも捨すてて逃にげかへる也。されば此地にては疱瘡はうそうする者もの甚だ稀まれ也、十年に一人あるかなしか也と語かたれり。さて清水川原の村にいたりしに家二軒あり。家居いへゐの作りさま他所にかはれり、その事は下にいふべししばしこゝにやすらひて立出しに、これよりまづ猿飛橋さるとびばしを見玉へとて案内あないは前さきへ立てゆく。此秋山の道みちはすべて所の人のかよふべきためにのみひらきたる道にて、牛馬はさらにつかはざる所なれば、ことさらに道みち狭せばく小笹をざゝなど深ふかくしてやう〱道をもとむる所しば〱なり。かくてかの中津川なかつがはの岸きしにいたれり。岸の対むかひ逆巻さかまき村にいたる所に橋はしあり、猿飛橋さるとびばしといふ橋のさまを見るに、よしや猿にても翼つばさあらざれば飛とぶべくもあらず、両岸りやうがんは絶壁ぜつへきにて屏風びやうぶをたてたるが如ごとくなれども、岸より一丈あまり下に両岸よりさしむかひたる岩の鼻はなあり、これをたよりとして橋はしを架わたしたる也。橋ある所へ下くだらん為ために梯かけはしをまうけてあり、橋は直すぐなる丸木を二本ならべにし、細木を藤蔓ふぢつるにてあみつけたるなり。渡わたりは二十間あまり、橋の広ひろさは三尺にたらず、欄杆らんかんはもとより作らず、橋を渡りて対むかひの岸に藤綱ふぢづなを岸の大木にくゝし下さげてあり。之これに縋すがりて岸にのぼるたよりとす。たゞ見るさへ危あやふければ、芭蕉ばせうが蝶も居直ゐなほる笠の上といひし木曾きその桟かけはしにもをさ〱劣おとらず。此橋を渡るにやといふに、案内がいな〱今日けふは此岸につきて東の村〱を見玉ひて小赤倉こあかくら村にいたり玉はゞ程ほどよき道なるべし、小赤倉には知る人もあれば宿やどりをもとむべしといふ。橋をわたらずときゝて心おちつき、岩にこしかけて墨斗やたてとりいだし橋を写うつしなどして四辺あたりを見わたせば、行雁かうがん峯みねを越こえて雲に字じをならべ、走猿そうゑん梢こずゑをつたひて水に画ゑを写うつす。奇樹きじゆ崖きしに横よこたはりて竜りようの眠ねふるが如ごとく、怪岩くわいがん途みちを塞ふさぎて虎とらの臥ふすに似にたり。山林さんりんは遠とほく染そめて錦にしきを布しき、礀水かんすゐは深ふかく激げきして藍あゐを流ながせり。金壁きんへき双ならび緑山りよくざん連つらなりたるさま画にもおよばざる光景くわうけい也。目かれせねばしばしやすらひたるに、農夫のうふ二人きたりおの〱褁かますを脊負せおひてかの橋をわたらんとす。岸きしにたちてこれをみれば、かの梯はしごを石壇いしだんのごとくふみくだり、橋をゆく事平地のごとく、その半なかばにいたれば橋揺々えう〱として危あやふき事いはんかたなく、見るにさへ身の毛いよだつばかり也。わたりはてゝかの藤綱ふぢづなにすがりて岸きしにのぼりしさま猿さるのごとし、はからず人のわたるを見て目を新あらたにせり。さてこゝを去さりて例れいの細道ほそみちをたどり、高たかきにのぼり低ひくきに下くだり、よほどの途みちをへてやうやく三倉みくら村にいたれり、こゝには人家じんか三軒げんあり、今朝けさ見玉みたま村より用意よういしたる弁当べんたうをひらかばやとあるいへに入りしに、老女らうぢよようちなつた*6といひつゝ木の盤ばんの上に長き草をおきて木櫛きくしのやうなるものにて掻かきて解分ときわくるさま也。いかなるものにて何なんにするぞと問とへば、山にあるいらといふ草也、これを糸にしてあみ衣きぬを作るといへり。あみ衣きぬといふ名のめづらしければ強しひてたづねければ、老女らうぢよはわらひてこたへず。案内がかたはらよりあみ衣きぬとは婆々ばゝどのゝ着きたるあれ也といふ、それを見れば㠿布さよみのやうなるを袖そでなし羽織はおりのやうにしたる物也。茶ちやを乞こひければ老女果はたしてまづ疱瘡はうそうの事を問とふ。案内がいふ、我々われ〱は塩沢しほさはより秋山を見にきたりしもの也、しほさはには去年此かたはうそうはなしといふ。老女いはく、うら己が内のものは今年は井戸蛙ゐどげへるのやうにさつかゞんで里さとへは一度ども出でなんだといひつゝくみ出いだしたる茶ちやをみれば、煤すゝを煮にだしたるやうなれば、別に白湯ゆをもとめて喰しよくしをはり、つら〱此住居すまゐを見るに、礎いしずえもすえず掘立ほりたてたる柱はしらに貫ぬきをば藤蔓ふぢづるにて縛くゝりつけ、菅すげをあみかけて壁かべとし小き窓まどあり、戸口は大木の皮かはの一枚まいなるをひらめて横よこ木をわたし、藤蔓ふぢつるにてくゝしとめ閾しきゐもなくて扉とぼそとす。茅葺かやぶきのいかにも矮屋ひきゝいへ也。たゞかりそめに作りたる草屋くさやなれど、里地さとちより雪はふかゝらんとおもへば力ちからは強つよく作りたるなるべし、家内を見れば稿筵わらむしろのちぎれたるをしきならべ稲いね麦むぎのできぬ所ゆゑわらにとぼしく、いづれのいへもふるきむしろ也納戸なんども戸棚とだなもなし、たゞ菅縄すげなはにてつくりたる棚たなあるのみ也。囲炉裏ゐろりは五尺あまり、深ふかさは灰はひまで二尺もあるべし、薪たきゞ多おほき所にて大火おほびを焼たくゆゑ也。家にかちたるものは木鉢きばちの大なるが三ツ四ツあり、所にて作るゆゑ也。薬鑵やくわん土瓶どびん雷盆すりばちなどいづれの家にもなし、秋山の人家じんかすべてこれにおなじ。今日秋山に入りこゝにいたりて家を五ツ見しが、粟あは稗ひえを刈かりこむころなれば家に居をる男を見ず。さてやすらひしうち、杤とちの実みをひろひて山よりかへりしといふ娘を見るに、髪は油気あぶらけもなくまろめつかねたるを紵をにて結ゆひ、ふるびたる手拭てのごひにて頭巻はちまきをなし、木綿袷もめんあはせの垢あかづきたるが常つねなみより一尺もみじかきに、巾はゞ二寸ばかりのもめん帯おびをうしろにむすべり。女のはちまきするとおびの巾のせばきは古画にもあまた見えたる古風也、きるものゝみじかきもいやしきものゝ古風也秋山の女みなかくの如ごとし。老女に土地とちの風俗ふうぞくなどたづねしが心かよはざればさらにわからず、物をとらせてやがて立さりけり。

〔図〕fig58400_18.png
秋山絶壁の圖、同猿飛橋の圖

○かくて中なかの平たひら村九軒天酒あまさけ村二軒大赤沢おほあかさは村九軒を歴へたる道みな嶮けはしき山行やまぶみして此日申さるの下刻さがりやう〱小赤沢にいたりぬ。こゝには人家廿八軒ありて、秋山の中二ヶ所の大村也。上結東かみけつとうは廿九軒有此村に市右エ門とて村中第一の大家あり、幸ひ案内者の知る人なれば宿やどりをもとめたち入りて見るに、四間けんに六間ほどの住居すまゐ也、主人夫婦あるじふうふは老人らうじんにて、長男せがれは廿七八、次に娘三人あり。奥おくの方に四畳よでふばかりの一間まありて、へだてには稿筵わらむしろをたれてあり。たれむしろをする事堂上だうしやうにもありて古画にもあまた見えたる古風なり勝手の方には日用の器うつはあまたとりちらしたるなかに、こゝにも木鉢きばち三ツ四ツあり、囲炉裏ゐろりはれいの大きく深ふかきの也。さて用意したる米味噌をとりいだし、今朝けさ清水河原しみづかはら村にてもとめたる舞茸まひたけにこゝの芋いもなどとりそへて、案内が料理すとて雷盆すりばちをといへば、末の娘が棚たなのすみよりとりいだしたるを見れば、常にはつかはずと見ゆるすゝけたるなり。のちにきけば此秋山にすりばちのあるは此家と此本家のみとぞ。此地にて近年豆を作りはじめて味噌をもつくれども、麹かうじを入る事をせず、ほだて汁しるにするゆゑすりばちはもたざるとぞ。さて此家にも別に竈かまどはなくみな炉ろにてものを煮にる也。やがて夜もくれければ姫小松を細く割たるを燈ともしとす、光ひかり一室いつしつをてらして蝋燭らふしよくにもまされり。案内が調てうじたるものそろはぬ碗わんにもり、山折敷やまをしきにすゑていだせり。あるじがもてなしとて、芋いもと蕪菜かぶなを味噌汁にしたるなかにいぶかしきものあり、案内がさし心えていふやう、そは秋山の名物の豆腐とうふ也といふ。豆を挽ひく事はせしが糟かすを灑こさざるゆゑ味あぢなし。喰しよくをはりて後のちあるじがいふ、茶ちやの間まの旦那だんな秋山のことばに人を敬けいして茶の間の旦那といふ、茶の間をももちし人といふ事にやどつふりに入らずといふ、此ことばさとしがたくて案内に問とへば、居風呂すえふろに入り玉へといふ事也。すゑふろをどつふり又は居をり湯ゆともいふ秋山にすゑふろ桶をもちしは此家と此本家とばかり也とぞ、此地の人たま〱は冬もかゝりゆをつかふ、そとよりかへりても足をあらふ事をせず、かのむしろのうへなれば斯かくすらんといへり。ふろに入りしにつねにかはる事なし、道のつかれもわすれてうれしく元もとの炉ろの横座よこざに皈りしゐろりはよこを上座とするは田舎のならひなりに、こゝには銅鑵やくわんもありしとて、用意の茶を従者ずさが煮たるを喫のみ、貯たくはへたる菓子くわしをかの三人の娘にもとらせければ、三人炉ろに腰こしかけて箕居ふみはだかり、足あしを灰はひのなかへふみ入れ珍めづらしがりてくわしを喰くらふ。炉ろには柱はしらにもなるべき木を惜気をしげもなく焼たきたつる火影ほかげに照てらすを見れば、末のむすめは色黒いろくろく肥太こえふとりて醜みにくし。をり〱裾すそをまくりあげて虫をひらふは見ぐるしけれど恥はぢらふさまもせず。二人の姉あねは色白くして玉を双ならべたる美人びじん也、菓子を喰くひながら顔かほ見あはして打ゑみたる面おもざし、愛形あいきやうはこぼるゝやう也。かゝる一双いつさうの玉を秋山の田夫でんぶが妻つまにせんは可憐あはれむべし、琴ことを薪たきゞとして鼈すつほんを煮にるが如ごとし。主人あるじは里地さとちの事をもよく知りて話はなしも分わかる翁おきなゆゑ所の風俗ふうぞくをたづねしに、そのもの語がたりたるあらましをこゝに記しるす。

○此地近年公税こうぜいを聞きくにいたれども、米麦を生ぜざるゆゑ僅わづかの貢みつぎをなす鐁役かんなやくといふにいたりて、信濃と越後との他たの村名主の支配をうけ、旦那寺をも定めたれど、冬は雪二丈余よもつもりて人のゆきゝもたゆるゆゑ、此時人死すれば寺に送おくる事ならざれば、此村に山田を氏とする助三郎といふものゝ家にむかしより持伝へたる黒駒くろこま太子と称しようする画軸ぐわぢく*7あり、これを借かりて死人の上を二三べんかざし、これを引導いんだうとして私わたくしに葬はうふる。寺をさだめざるいぜんはむかしよりこれにてすませたり。秋山は山田と福原の氏のみ也、右の助三郎は山田の総本家也、太子の画像といふは太子のやうに見ゆるがくろき馬にのりて雲の中にあるきぬ地のよしいへり、牧之助三郎が家にいたりかの一軸を見んとこひしが、正月七月のほかをがませずとてゆるさゞりき。

○此地の人、上食は粟あはに稗ひえ小豆をも交まぜて喰くらふ。下食は粟糠あはぬかに稗ひえ乾菜ほしななどまじえて喰ふ、又杤とちの実みを食しよくとす。

○婚姻こんいんは秋山十五ヶ村をかぎりとして他所にもとめず。婦人ふじん他所にて男をもてば親族しんぞく不通ふつうして再ふたゝび面会めんくわいせざるを、むかしよりの習ならはせとす。

○秋山中に寺院じゐんはさら也、庵室あんじつもなし。八幡の小社一ツあり。寺なきゆゑみな無筆むひつ也。たま〱心あるもの里より手本てほんを得えていろはもじをおぼえたる人をば物識ものしりとて尊敬そんきやうす。

○山中ゆゑ蚊かなし、蚊屋かやを見たるものまれ也。

○深山幽僻しんざんいうへきの地なれば蚕かひこはもとより木綿わたをも生しやうぜざるゆゑ、衣類いるゐに乏とぼしき事おしてしるべし。

○山にいらといふ草あり、その皮を製せいして麻あさに替かへて用を為なす。

○翁おきながかくかたりし時牧之ぼくしいらの形状けいじやうをくはしくきかざりしが、后のちに案あんずるにいらとは蕁麻いらくさの事なるべし、蕁麻たんまは本草に見えたる草くさの名也。麻あさの字に熟じゆくしたれば麻あさに替かへても用ふべきものなるべし。されど毒草どくさうなるよし見えたり。又山韭やまにらといふも同書どうしよに見ゆ、これも麻あさのかはりにもすべきもの也。にらをいらといふにや。草の形状かたちを聞きかざりしゆゑさだめがたし。

○秋山の人はすべて冬も着きのるまゝにて臥ふす、嘗かつて夜具やぐといふものなし。冬は終夜よもすがら炉中ろちゆうに大火をたき、その傍かたはらに眠ねふる。甚寒にいたれば他所より稿わらをもとめて作りおきたる褁かますに入りて眠る。妻つまあるものはかますをひろく作りて夫婦ふうふ一ツかますに寐ねる。

○秋山に夜具を持たる家は此翁おきなの家とほかに一軒あるのみ。それもかのいらにて織おりたるにいらのくずを入れ、布子ぬのこのすこし大なるにて宿とまり客きやくのためにするのみ也とぞ。牧之ぼくしこゝに一宿しし時此夜具に臥ふしたるが、かのいとくずもすそにおちてあはせの所がおほく身にそゆべきものにはあらず。

○稿わらにとぼしきゆゑ鞋わらじをはかず、男女徒跣はだしにて山にもはたらく也。

○人病あれば米こめの粥かゆを喰くはせて薬くすりとす。重きは山伏をむかへていのらす。病をいのらする事源氏にも見えたる古風也。

○鏡を持たる女秋山中に五人ありとぞ。松山かゞみの故事ふることおもひあたれり。

○此地の人すべて篤実温厚とくじつをんこうにして人と争あらそふことなく、色慾しきよくに薄うすく博奕ばくえきをしらず、酒屋なければ酒のむ人なし。むかしよりわら一すぢにてもぬすみしたる人なしといへり。実じつに肉食にくしよくの仙境せんきやう也。

○かくて次の日やぶつの橋*8といふをわたりて湯本に宿り、温泉をんせんに浴よくし、次の日西の村々を見て上結東かみけつとう村に宿り、猿飛橋をわたり、その日見玉村にやどりて家にかへれり。さま〲記しるすべき事あれども文多ければのせず。秋山記行二巻を編して家に蔵む。

○杤とちの本字は橡なり実みの食方しよくはう翁に聞きゝしをこゝに記して凶年きやうねんの心得こゝろえとす。杤とちの実みは八月熟じゆくして落おつるをひろひ、煮にてのち乾かはかし、手に揉もみてあらき篩ふるひにかけて渋皮しぶかはをさり、簀すに布ぬのをしきて粉こにしたるをおき、よくならし水をうちてしめらせ、しきたる布につゝみ水にひたしおく事四五日にしてとりいだし、絞しぼりて水をさりて乾ほしあぐる、その白き事雪のごとし。是これを粟稗あはひえなどにまぜ、又は杤とちばかりも食とす、又餅もちにもする也。もちにする杤は別種なりとぞ楢ならの実も喰くらふ、そのしかたは杤に似にたりとぞ。

○此秋山にるゐしたる山村さんそん他国にもあるよしを聞きゝたれば、珍めづらしからねどしたしく見たるゆゑこゝに記しるせり。

○秋山の産物、木鉢きばちまげ物るゐ山をしきすげ縄なは板るゐ也。秋山に良材りやうざい多しといへども、村中そんちゆうをながるゝ中津川屈曲まがりくねり深き所浅き所ありて筏いかだをくだしがたく、又は牛馬をつかはざれば良材りやうざいを出しがたく、財ざいをうる事難かたければ天然てんねんの貧地ひんち也。

〔図〕fig58400_19.png
畏に入りて寐る圖

○ 狐火きつねび

酉陽雑俎いうやうざつそに、狐髑髏どくろを戴いたゞき北斗ほくとを拝はいし尾を撃うちて火を出すといへり。かの国はともあれ我がまさしく見しはしからず、そは下しもにいふべし。狐は寒をおそるゝ物ゆゑ、我里にては冬は見る事稀まれ也、春にいたり雪のふりやみたるころ、つもりたる雪中食にうゑて夜中人家にちかづき、物を竊ぬすみ喰くらふ事甚はなはだ悪にくむべし。人これを知るゆゑ、かれに盗ぬすまれじとて人智を以てかまへおけども、すこしの間まに奪うばひ喰ふ、其妖術そのえうじゆつ奇々怪々き〱くわい〱いふべからず、時としてかれが来くるとこざるは鼠ねずみのごとし。狐の妖魅えうみをなす事和漢わかんめづらしからず、いふもさらなれどいふ也。我われ雪中にはあかりをとらんため、二階の窓まどのもとにて書案つくゑに倚よる。或時あるとき故人こじん鵬斎先生ばうさいせんせいより菓子一折をりを贈おくれり、その夜寝いねんとする時狐の事をおもひ、かの菓子折を紵縄をなはにて強しかと縛くゝし天井てんじやうへ高く釣つりおき、かくてはかれが術じゆつも施ほどこしがたからんと自みづから傲ほこりしに、さて朝あしたに見ればくゝしたる縄なはは依然いぜんとしてもとのごとく、菓子折は消失きえうせたるがごとし。猶なほ憎にくむべきは、くわしをりは人の置おきたるやうに書案つくゑの上にあり、ひらき見ればおほひたる紙もそのまゝにて、くわしはみなくらひ尽つくせり、その妖えうをなしし事不思議ふしぎ也。或時あるときは猫ねこの声こゑをなして猫を呼よびいだして淫いんし且かつ喰くらふ。老狐らうこは婦女ふぢよを妖ばかして淫いんするもあり、淫いんせられし女はかならず髪かみをみだし其処に臥ふして熟睡じゆくすいせるがごとし、その由よしをたづぬれども一人も仔細しさいをかたりし女なし、皆みな前後ぜんごをしらずといふ、しらざるにはあるまじけれども、事を恥はぢていはざるならん。さて狐善よく氷を聴きくと言いふ事、酉陽雑俎いうやうざつそに見ゆ。こは本朝にても今猶諏訪すはの湖水こすゐは狐渉わたりしを視みて人渉わたりはじむ、和漢わかん相同じ。狐の火を為なす説せつはさま〲あれどみな信うけがたし。我が目前に視みしは、ある夜深更しんかうの頃、例れいの二階の窓まどの隙すきに火のうつるを怪あやしみその隙間すきまより覗のぞきみれば、狐雪の掘揚の上に在ありて口より火をいだす、よくみれば呼息つくいきの燃もゆる也。その態さま口よりすこし上にもゆる事、まへにいへる寒火かんくわのごとし。おもしろければしばらくのぞきゐたりしが、火をいだす時といださゞる時あり、かれが肚中はらのなかの気きに応おうずるならん、かれが気息いき常つねに火をなさゞるは勿論もちろん也。石亭せきていが雲根志うんこんしに狐の玉のひかる事を云いひしが、狐火は玉のひかるにもあらずかし。狐の玉といふ物の光ると常に見る狐火とは別なるべし。

○ 狐を捕とる

友人いうじん曰いはく、我が親したしき者隣となり村へ夜話よばなしに往ゆきたる皈かへるさ、途みちの傍かたはらに茶鐺ちやがまありしが、頃しも夏の事也しゆゑ、農業のうげふの人の置忘おきわすれたるならん、さるにても腹はら悪あしきものは拾ひろひ隠かくさん、持皈もちかへりて主ぬしを尋たづねばやと鐺かまを手てにさげて二町ばかりあゆみしにしきりに重おもくなり、鐺かまの内に声こゑありて我をいづくへ連つれ行ゆくぞといふに胆きもを消けし鐺かまをすてゝ逃にげさりしに、狐前にはしり草の中へはしり入りしといへり。こはかれが一時いちじの戯たはむれなるべし、かゝる妖魅えうみの術はありながら人に欺あざむかれて捕とらへらるゝは如何いかん。余よ答こたへていふ、銕炮てつはうを以てするは論ろんなし、香餌よきゑさを以てするは、かれ人の欺あざむくを知しれども慾よくを捨すてて慎つゝしむ事あたはず、それとは知しりながらこれを喰くらひて反かへつて人をあざむかんとして捕とらへらるゝならんか。これ邪智じやちふかきゆゑ也。豈あに狐のみならんや、人も又是これに似にたり。邪智じやちあるものは悪㕝あくじとはしりながらかく為なさば人はしるまじと己おのれが邪智じやちをたのみ、終つひには身を亡ほろぼすにいたる。淫慾いんよくも財慾ざいよくも慾よくはいづれも身を亡ほろぼすの香餌うまきゑさ也。至善よき人は路に千金を視み、室いへに美人びじんと対たいすれども心こゝろ妄みだりに動うごかざるは、止とゞまることを知しりて定さだまる事あるゆゑ也。かゝる人は胸むねに明あきらかなる鏡かゞみありて、善悪ぜんあくを照し視みてよきあしきを知しりて其独ひとりを慎つゝしむ、之これを明徳めいとくの鏡かゞみといふ。此鏡は天道てんたうさまより誰たれにも〱与あたへおかるれども磨みがゝざればてらさずと、われ若わかかりし時ある経学者けいがくしやの教をしへに聞きゝしと、狐の話はなしにつけ大学の蹄わなにかけて風諫ふうかんせしは、問とひし人弱年としわかにてしかも身もちのくずれかゝりし者ものなればなりき。こゝには无用むようの長舌ちやうぜつなれど、おもひいだししにまかせてしるせり。さて我が里さとにて狐を捕とる術じゆつさま〲あるなかに、手を懐ふところにして捕とる術じゆつあり。その術いかんとなれば、春陽の頃はつもりし雪も昼ひるの内は軟やはらかなるゆゑ、夜な〱狐の徘徊はいくわいする所へ麦むぎなど舂杵つくきねを雪中へさし入て二ツも三ツもきねだけの穴あなを作りおけば、夜に入りて此穴あなも凍こほりて岩の穴のやうになるなり。さてかれが好すく油滓あぶらかすなどをちらしおき、かの穴にも入れおく、さて夜ふけ人静しづまりたるころ狐こゝにきたり、ちらしおきたるを喰くらひ尽つくし、猶なほたらざればかならずかの穴にあるをくらはんとし、身をしゞめ倒さかしまになりて穴に入り、いれおきたるものをくらひつくし、出いでんとするに尾をのすこしいづる程ほどに作りまうけたる穴なれば、再ふたゝびいづる事叶かなはず。雪は深夜しんやにしたがひてます〱こほり、かれがちからには穴をやぶる事もならず、いでん〱として終つひには性せいを労つからす。捕とらへんとはかりしもの、これを見て水をくみきたりてあなに入るゝ、こほりたる雪の穴なればはやくは水も漏もれず、狐は尾を振ふるはして水にくるしむ。人は辺ほとりにありてかれ将まさに死せんとする時かならず屁へをひるを避さける。狐尾を揺うごかさゞるを見て溺死おぼれしゝたるを知しり、尾を採とり大根を抜ぬくがごとくして狐を得うる。穴二ツも三ツも作りおくゆゑ、をりよき時は二疋も三疋も狐を引抜ひきぬく事あり、之これは凍こほりて岩のやうなる雪の穴なればなり。土の穴はかれが得えものなれば自在じざいをなして逃にげさるべし。されば雪国にかぎる事なれば雪のついでにしるせり。

○ 鴈がんの代見立しろみたて

我国雪盛さかんなる時は、鳥などの食すべきもの一点てんもなきゆゑ、冬は山野の鳥は稀まれ也。春にいたり雪降ふりやみし頃諸鳥を見る。二月にいたりても野山一面の雪の中に、清水ながれは水気すゐき温あたゝかなるゆゑ雪のすこし消きゆる処もあり、これ水鳥の下をりる処也。雁がんこれを見ればまづ二三羽ばこゝにをりて己おのれまづ求食あさり、さて糞ふんをのこして喰しよくある処の目しるしとす、俚言りげんにこれを雁がんの代見立しろみたてといふ。雁のかくするは友鳥ともどりを集つどひきたりて、かれにも求食あさらせんとて也。朋友ともだちに信まことある事人も恥はづべき事也、しかるを心なき徒ともがらかの糞ふんをたづねありき、代見立しろみたての糞ふんあればかならず種々しゆ〲の術じゆつを尽つくして雁のくるをまちて捕とらふ。雁もたび〱とられてこれをしるにや、人にしらせじとて糞ふんに土をかけてかくしおく也。代見立あしくさまで食なかりし処へは、ふんに土をかけずふたゝび来きたらず、その智ちある事人におなじ。人またこれらをも知しりてゆるさず、糞ふんに土をかけたるを見れば其辺そのほとりの矢頃やころよき処へ、人の入るべき程に椀わんをふせたるやうなるものを雪にて作り、後うしろに入り口をつけ内は洞ほらになし、雁のをるべき方に穴あなをつくりてそのきたるをまつ。雁は不時にはきたらず、くべき時あり、しもにいふべし雁を見ればかの穴より銕炮てつはうの銃口すぐちをいだしてうつ也、かくするを里言りげんにゆきんだうといふ、雪ゆきン堂だう也。これにもかぎらずさま〲の術あり雁の居をる処を替かふるは夕暮ゆふぐれ夜半やはん暁あかつき也、人此時をまちて種々いろ〱の工たくみを尽つくして捕とらふ。我国雪の為ためにさま〲の難義なんぎはあらまし前にいへるごとくなれども、雪の重宝ちようほうなる事もあり、第一は大小雪舟そりの便利べんり、縮ちゞみの製作せいさく○雪ゆきン堂だう○田舎芝居ゐなかしばゐの舞台ぶたい桟敷さじき花道はなみちみな雪にて作る。○辻売つじうりの居をる処売物うりものの台架だいたなもみな雪にて作る、是を里言りげんにさつやといふ。○獣狩けだものがり、追鳥おひとり。○積雪せきせつ家いへを埋うづめ却かへつて寒威かんゐを禦ふせぐ。○夏なつも山間やまあひの雪を以て魚鳥うをとりの肉にくを擁包つゝみおけば敗餒くさらず。○雪水せつすゐ江河かうがの源みなもとを養やしなふなど、此外詳つまびらかにいはゞ猶なほあるべし。是をおもへば天地の万物捨すつべきものはあるべからず、たゞ捨すつべきは人悪じんあくのみ。

〔図〕fig58400_20.png
雪ン堂の圖

○ 天の網あみ

およそ人ひと悪をなして天罰てんばつに漏もれざる事、魚うをの網あみにもれざるがごとくなるゆゑ、これをたとへて天の網あみといふめり。新潟にひがたより三里上りて赤塚あかづか村といふあり、山のところ〲に凹くぼみをなしたるあり、こゝに杙くひをたてゝ細糸ほそいとの網あみをはりて鳥をとる、これを里言に赤塚あかづかの天の網といふ。此村に潟かたあるゆゑ、水鳥潟かたを慕したひてきたり、山の凹くぼみを飛とびきたり、かならず天の網にかゝる。大抵は𪃈あぢといふ鴨かもに似にたる鳥也、美味びみなるゆゑ赤塚の冬至鳥とうじとりとて遠とほく称美しようびす。𪃈𪇊あぢかもといふべきを省はぶけるならん、あぢかもとは古哥こかにもあまたよめり。

○ 雁の総立そうだち

およそ陸鳥りくてうは夜中盲めくらとなり、水鳥すゐてうは夜中眼め明あきらか也。ことに雁がんは夜中物を見る事はなはだ明也。他国はしらず我国の雁はおほくは昼ひるは眠ねふり、夜は飛行とびありく。眠る時は人に遠とほき処にて集あつまり眠る、此時は首をあげて四方を見てゐる雁二羽あり、人これを番鳥ばんどりといふ。求食あさるにもしか也。飛とぶに列れつをなすは雁行がんかうとて兵書へいしよにもいへり、人のしる処也。されど居をるにも位列ゐれつをなして漫みだりならず。求食あさる時は衆みなあさり、遊あそぶ時はみなあそぶ。雁中がんちゆうに一雁ありて所為なすところ衆みなこれに随したがふ、大将たいしやうと士卒しそつとのごとし。人のきたるか又はあやしきを見れば、かのばん鳥とり羽はたゝきをなす、余よのとりこれをきゝ、いかに求食あさるともねぶるとも此羽たゝきをきゝあやまらず、幾羽いくはも乱みだれて飛とびあがり、さて列れつをなして去さる。里言さとことばにこれを雁の総立そうだちといふ。雁の備そなへある事軍陣ぐんぢんの如ごとし、余よの鳥とりになき事也、他国の雁もしかならん。田舎人ゐなかうどには珍めづらしからねど都会とくわいの人の話柄はなしぐさにいへり。

○ 渋海川しぶみかはざい渉わたり

しぶみ川、源みなもとは信越しんゑつの境さかひよりいで、越後ゑちごの内三十四里を流ながれて千曲川ちくまがはに伴ともなひ此海に入る。此川越後の○頸城くびき○魚沼うをぬま○三嶋○古志こしの四郡しぐんを流ながるゝゆゑ、四府見しぶみの文字もんじならんかとおもひしに僻ひが事也。古書こしよに渋海しぶみ又新浮海しぶみとも見えたり。此川屈まがり曲くねり、広狭ひろせまい言ひ尽つくすべからず。冬は一面に氷り閉とぢてその上に雪つもりたる所平地のごとし。されど急流きふりう岩に激げきして水勢すゐせい絶急はげしきところは雪もつもる事あたはず、浪を見る処もあり。渡口わたしばなどは斧をのにて氷を砕くだきてわたせども、終つひには氷こほり厚あつくなりて力およびがたく、船は陸をかに在ありて人々氷の上を渉わたる。これを里言りげんにざいわたりといふ。我国の俚言りげんにすべて物の凍こほるを、○ざい○しみる○いてなどいふ。いては古言也此川の氷り正月のすゑか二月のはじめにいたれば、陽気やうきを得えて自然しぜんと裂さけて流ながる。大なるは七八間けん、種々の形かたちをなし大小ひとしからず、川の広ひろき所と狭せまき処とにしたがふ。旦あしたに裂さけはじめて夕ゆふべにながれをはる。かならず一日あるひは一昼夜いつちうやをかぎりとして三十四里の氷こほりみなくだけながれて北海にいづる、そのひゞき千雷らいのごとく、山も震ふるふばかり也。此日川にちかき村々は慎つゝしみ居ゐて外ほかにいづる事なし。たゞ他所たしよの者は渋海川しぶみがはの氷見こほりみとて、花見のやうに酒肴しゆかうをたづさへ岸きしに彩筵はなござ毛氈まうせんなどしきてこれを見る。大小幾いく万の氷片こほりのわれ水晶すゐしようの盤石ばんじやくのごときが、藍あゐのやうなる浪に漂たゞよひながるゝは目ざましき荘観みものなり。氷を観みて楽たのしみとする事暖国だんこくにはさらにあるべからず。此川にさかべつたうといふ奇談きだんあり、次つぎの巻まきにいふべし。

北越雪譜初編巻之中 終

北越雪譜初編 巻之下

越後塩沢   鈴木牧之  編撰

江戸     京山人百樹 刪定

○ 渋海川しぶみかはさかべつたう

我国の俚言りげんに蝶てふをべつたうといふ、渋海川のほとりにてはさかべつたうといふ。蝶は諸もろ〱の虫むしの羽化うくわする所也、大なるを蝶といひ、小なるを蛾がといふ。本艸其種類そのしゆるゐはなはだ多おほし。草花さうくわも蝶に化する事本草ほんざうにも見えたり。蝶の和訓わくんをかはひらこといふは新撰字鏡しんせんじきやうにも見えたれど、さかべつたうといふ名義みやうぎは未いまだ考かんがへず。さて前まへにいへる渋海しぶみ川にて春はるの彼岸ひがんの頃ころ、幾百万の白蝶はくてふ水面すゐめんより二三尺をはなれて羽はもすれあふばかり群むらがりたるが、高たかさは一丈ぢやうあまり、両岸りやうがんを限かぎりとして川下より川上の方へ飛行とびゆく、その形状さま花のふゞきと見んはおろか也。幾里いくりともなき流ながれに霞かすみをひきたるがごとく、朝より夕べまで悉こと〲く川上へつゞきたるがそのかぎりをしらず、川水も見えざるほど也。さて日ひも暮くれなんとするにいたれば、みな水面すゐめんにおちいりて流ながれくだる、そのさま白布しらぬのをながすがごとし。其蝶の形かたちは燈蛾ひとりむしほどにて白蝶しろきてふ也。我国に大小の川々幾流いくすぢもあるなかに、此渋海川しぶみがはにのみかぎりて毎年まいねんたがはず此事あるも奇きとすべし。しかるに天明の洪水こうずゐ以来此事絶たえてなし。

○本草ほんざうを按あんずるに、石蚕せきさん一名を沙虱すなしらみといふもの山川の石上に附つきて繭まゆをなし、春夏羽化うくわして小蛾せうがとなり、水上すゐしやうに飛ぶといへり。件くだんのさかべつたうは渋海川の石蚕せきさんなるべし。其種たねを洪水こうずゐに流ながし尽つくしたるゆゑ、たえたるなるべし。他国にも石蚕せきさんを生しやうずる川あらば此蝶あらんもしるべからず。余此蝶を見ざりしゆゑ、近隣きんりんの老婦らうふ若わかきころ渋海川の辺ほとりより嫁かせし人ありしゆゑ尋たづね問とひしに、その老婦らうふの語かたりしまゝをこゝに記しるせり。

○ 鮭さけの字じの考かうがへ

新撰字鏡しんせんじきやうといふ字書じしよは、本朝の僧そう昌住しやうぢゆうといひし人、今より九百四十年あまりのむかし寛平昌泰くわんひやうしやうたいの年間ころ作りたる文字の吟味をしたる書しよ也。むかしより世の学匠がくしやうたち伝つたへ写うつして重宝ちようほうせられき。しかるを近き頃、村田春海大人はるみのうし右の書しよを京都にて購得かひえてのち、享和三年の春創はじめて板本となし、世の重宝となりてより后のちの学者がくしやの机上つくゑのうへに置おくは、実じつに春海大人はるみのうしの賜たまものなりけり。右の字鏡じきやうありて后のち二十余よ年を歴へて、源の順朝臣したがふあそんの作りたる和名類聚抄わみやうるゐじゆせうありき、是も字書じしよ也。元和の年間ころ那波道円なばだうゑん先生創はじめて板本とせられたり。後の板もありさて和名抄ありて后五百年ちかくをへて文安年中下学集かがくしふといふ字書じしよありき、これも元和三年創はじめて板本となりたり。下学集より五十三年の后のち明応めいおう五年林宗二堺の町人節用集せつようしふを作り、文亀ぶんきのころの活字本くわつじぼんあり。これいろは引節用集の権輿はじまり也。其后百八十年を歴て元禄十一年に槙嶋照武駒谷まきのしまてるたけこまがい山人が作りたる江戸の人書言字考しよげんじかう、一名合類がふるゐ節用集といふ板本あり、宗二が節用集を大成たいせいしたる物にていろは引也。平他字類抄ひやうたじるゐせうのるゐ、下に引用せざるものはこゝにあげず本朝の字書じしよのるゐ大抵たいていは件くだんのごとし。されば今俗用ぞくようする節用集は新撰字鏡しんせんじきやう和名抄わみやうせいを先祖の父母として、后のちのは皆其子孫也。是こは鮏さけの字じの事を言いはんとて童蒙わらはべの為に先いふ也けり。

○新撰字鏡魚うをの部ぶに鮭佐介さけとあり、和名抄には本字は鮏さけ俗ぞくに鮭さけの字を用ふるは非ひ也といへり。されば鮭の字を用ひしも古ふるし。同書どうしよに崔禹錫さいうせきが食経しよくきやうを引て「鮏さけ其子そのこ苺いちごに似にて赤あかく光ひかり春生うまれて年の内に死しす故ゆゑにまた年魚ねんぎよと名く」と見えたり。新撰字鏡に鮭の字を出いだしゝは鮏せいと鮭けいと字の相あひ似にたるを以て伝写でんしやの誤あやまりを伝つたへしもしるべからず。鮭けいは河豚ふぐの事なるをや。下学集かがくしふにも鮭さけ干鮭からさけと並ならべ出いだせり。宗二が文亀本ぶんきぼんの節用集にも塩引干鮭しほびきからさけとならべいだせり。これらも鮏せいと鮭けいと伝写でんしやのあやまりにや。駒谷こまがい山人が書言字考しよげんじかうには○鱖さけ○石桂魚さけ○水豚さけ○鮭さけと出いだして、注ちゆうに和名抄を引て本字は鮏さけといへり。大典てん和尚の学語編がくごへんには鱖さけの字を出されたり、鱖きはあさぢと訓よむ也。唐もろこしの字書じしよには鱖きは大口細鱗さいりんとあれば鮏にるゐせるならん。字彙じゐには鮏せいは鯹せいの本字にて魚臭なまぐさしといふ字也といへり。按あんずるに、鮏さけの鮮鱗とりたてはことさらに魚臭なまぐさきものゆゑにやあらん。鮭けいは鯸鮐こうちの一名ともいへば鮏さけにはいよ〱遠とほし。とまれかくまれ鮏せいの字を知りて俗用ぞくようには鮭けいの字を用ふべし。件くだんの如ごとく鮭けいの字も古く用ひたれば、おほかたの和文章わぶんしやうにも鮭の字を用ふべし、鮏の字は普あまねくは通じ難がたし。こゝには姑しばらく鮏に从したがふ。

○ 鮏さけの食用しよくよう

腥なまにて喰しよくするは○魚軒さしみ○鱠なます○鮓すし也。○烹にる○炙やくその料理れうりによりて猶あるべし。醃しほづけにしたるを塩引しほびきまた干鮏からさけといひしも古き事、まへに引たる書しよに見えたるがごとし。延喜式えんぎしきにのせたる内子鮏は今いふ子籠ここもり鮏の事なるべし。又同書どうしよに脊腸せのはらわたをみなわたと訓よめり。丹後信濃越中越後より貢みつぎとする㕝も見えたれば、古代ふるきよは鮏さけを供御くごにも奉りたるなるべし。都みやこへ遠とほきよりみつぎたれば塩引しほびきならん。頭骨かしらのほねの澄徹すきとほるところを氷頭ひづとて鱠なますに雅が也。子を鮞はらゝごといふ、これを醃しほにしたるも美味びみ也。子あるまゝを塩引にしたるを子籠ここもりといふ、古へのすはよりといひしも是ならんか。本草に鮏さけ味あぢはひ甘うまく微温やはらか毒どくなし、主治きゝみち中うちを温あたゝめ気きを壮さかんにす、多く喰くらへば痰たんを発おこすといへり。我国にて塩引にしたるを大晦日おほつごもりの節せちには用ひざる家なし。又病人にも喰くはす。他国にて腫物できものにいむは、これになれざるゆゑにやあらん。

○ 鮏さけを出いだす所ところ

鮏は今五畿内西国には出す所を聞きかず。東北の大河の海に通つうずるには鮏あり、松前蝦夷えぞ地最もつとも多し。塩引として諸国へ通商あきなふは此地に限る。次には我が越後に多し。又信濃越中出羽陸奥也、常陸ひたちにもありときゝつ。これらの国の鮏はその所の食にあつるに足たるのみ、通商つうしやうするにたらず。江戸は利根とね川にありといへども稀まれなるゆゑ、初鮏はつさけは初鰹はつかつをの価あたひに比ひすとぞ。我国にては毎年七月二十七日、所々にある諏訪すはの祭まつりの次の日より鮏さけの漁れふをはじめ、十二月寒のあけるを漁れふの終をはりとす。古志こしの長岡魚沼ながをかうをぬまの川口あたりにて漁したる一番の初鮏はつさけを漁師れふし長岡ながをかへたてまつれば、例れいとして鮏さけ一頭ひきに一頭を一尺といふ米七俵の価あたひを賜たまふ。第五ばんまでなり、たてまつるさけには寸尺の定めあり、俵のかず下る鮏の大なるは三尺四五寸、小なるも二尺四五寸也。猶小なるもあるべし男魚をな女魚めなの名なあり、めなは子あるゆゑ、をなよりは価あたひ貴たつとし。五番まで奉りて后のちを売うる、初鮏はつさけの貴たつとき事おしてしるべし。これを賞しやうする事、江戸の初鰹魚はつかつをにをさ〱おとらず。初鮏は光り銀のごとくにして微すこし青あをみあり、肉にくの色紅べにをぬりたるが如ごとし。仲冬の頃にいたれば身みに斑まだらの錆さびいで、肉にくも紅くれなゐ薄うすし。味あぢもやゝ劣おとれり。此国にて川口長岡のあたりを流るゝ川にて捕とりたるを上品ひんとす、味あぢはひ他たに比すれば十倍ばい也。僅わづかに其地を去されば味ひ美びならず、その味ひ美なるものは北海より長江ちやうかうを泝さかのぼりて困苦こんくしたるの度どにあたれるゆゑならん。魚うを急浪きふらうに困苦くるしめば味ひかならず甘美うまきもの也。北海の魚の味ひ厚あつきと南海の魚の味ひ淡うすきの差たがひあるがごとし。

〔図〕fig58400_21.png
渋海川奇蝶之圖

○ 鮏さけの始終はじめをはり

我国の鮏は初秋より北海を出いでて千曲川ちくまかはと阿加川あかかはの両大河ふたつのだいがに泝さかのぼる、これ其子を産うまんとて也。女魚めなに男魚をな随したがふてのぼる。泝さかのぼる事およそ五十余里、河に在ある事およそ五か月あまり也。その間あひだに八、九、十、十一、十二月人に捕とらる。とられざるは海へ皈かへる故ゆゑに大小あり。子を産うみつける所はかれが心にありて一定いちぢやうならずといへども、千曲ちくまと魚野うをのの両りやう河の合がつする川口といふより沙すなに小石のまじるゆゑ、これよりをおのれが産うむ所とし、流ながれの絶急はげしからぬ清き流水りうすゐの所に産うむ也。うまんとて鮏さけの搶つれて群むらがるを漁師れふしのことばに掘ほりにつくざれにつくともいふ。沙をほるにさま〲のかたちをなすゆゑ、ざれことのざれならん女魚めな男魚をなともに尾をもて水中すゐちゆうの沙すなを掘ほる。その広ひろさ一尺あまり、深ふかさ七八寸、長さ一丈あまり、数日にしてこれを作る。つくりをはれば女魚めなそのなかへ鮞こを一粒つぶづゝ産うむ。うむを見て男魚をな己おのれが白䱊しらこを弾着ひりつけ、直すぐに女魚めな男魚をな掘ほりのけたる沙石しやせきを左右より尾鰭をひれにてすくひかけて鮞こを埋うづむ。一粒つぶも流ながさるゝ事をせず。さて此一掘ひとほりに産うみをはれば又それに並ならべて掘ほりては産うみ、うみてはほり、幾条いくすぢもならべほりて終つひには八九尺四方の沙中すなのなかへ行義ぎやうぎよく腹はらの子こをのこらず産うみをはる。或あるひは所を替かえても産うむとぞ。沙すなに小礫こじやりの交まじりたる所にあらざれば産うまずと漁師れふしがいへり。その所為しわざ人の智ちにをさ〱おとらず。産終うみをはるまでの困苦こんくのために尾鰭をひれを損そこなひ身み痩やせ労つかれ、ながれにしたがひてくだり深淵ふかきふちある所にいたればこゝに沈しづみ居ゐて労つかれを養やしなひ、もとのごとく肥太こえふとりて再ふたゝび流ながれに泝さかのぼる。掘ほりにつきたる時は漁師れふしもこれをとらず、たま〱捕とるものあれども強しひてはせぬ事也。女魚めなさへとらざれば男魚をなは其所をさらず。鮏さけの河に泝さかのぼるは子を産うまんとて也。その女魚めなに男魚をな随したがふてのぼるは子の為ために女魚めなを助たすくるならん、これも又人の心にことならず。さて奇きなる事は、河かはの広ひろき場ばにてかれ鮞こを産うみおきたる所洪水こうずゐなどにて瀬せかはりて河原かはらとなりしが幾とせたちても産うみたる子腐くさらず、ふたゝび瀬となればその子生化せいくわして鮏さけとなる。一年ひとゝせ我わが住すむ所の在ざいにて魚野うをの川のほとりに住む人、井を掘ほりしに鮞はらゝごの腥なるをほりいだせし事ありしと、友人いうじんがかたりき。鮞はらゝごの生化せいくわするを漁師れふしのことばにはやけるともみよけるともいふ。早化はやける・身みヨ化けるならんか鮞水にある事十四五日にして魚となる。形かたち糸いとの如く、たけ一二寸、腹はら裂さけて腸ちやうをなさず、ゆゑに佐介さけの名ありといひ伝つたふ。春にいたれば長じて三寸あまりになる、これをばかならず捕とらぬ事とす。此子鮏こさけ雪消ゆきげの水に随したがひて海に入る。海に入りてのち裂さけたる腹はら合がつして腸ちやうをなすと漁父ぎよふがいへり。前にもいへる如く鮏さけの漁れふは寒中を限りとす、寒あけて捕とれば祟たゝりをなすといひつたふ。我わが若かりし時水村すゐそんの一農夫のうふ、寒あけて后のち獺かはをそのとりたる鮏さけを奪うばひ、これを喰くらひて熱ねつになやみ、三日にして死たる事あり、さればたゝりあるといふ口碑かうひの説せつも誣しゆべからず。又かれが産うみおきたるはらゝごをとればその家断絶だんぜつすといひつたふ。鮏の大なるは三尺四五寸にあまるもあり、之これは年々とし〲網あみを脱のがれて長じたるならん。我が若年ぢやくねんのころは鮏あまたとれたるゆゑその価あたひもいやしかりしが、近年は捕とりうる事少すくなきゆゑ価もおのづからむかしに倍ばいせり。年々工たくみを新あらたにして漁れふするゆゑ捕減へらしたるならん。女魚めなの大なるには鮞はらゝご一升もあり、小なるは三四合にすぎず。江戸に多くもてあつかふ塩引しほびきと唱しやうするは鰺鮏あぢさけとて、越後の鮏とは一品いつひん別種べつしゆなる物なりと、或物産家あるぶつさんかのいへり。河に生うまれて海に成長せいちやうすれども、むかしより海にて網あみに入たる事なし。其始終そのしじゆうをおもふに、鮏さけは鱗族りんぞくの奇魚きぎよといふべし。

牧之ぼくし常つねにおもへらく、寒気の頃捕とれたる鮞はらゝごと男魚をなの白䱊しらことをまじへ、鮏さけ居をる川の沙石しやせきに包つゝみ、瓶かめやうのものにうつし入れ、鮏なき国くにの海に通つうずる山川の清流せいりうに、かの瓶かめにうつしたるはらゝごを沙石しやせきのまゝさけのうみつけたる如くになしおき、此川にて鮏さけいでくとも三年捕とる事を国禁こくきんあらば鮏を生しやうぜんもしるべからず。生ぜば国益こくえきともならんかし。江戸の白魚はむかしそのたねをうつし玉ひしとぞきゝつるためしもあれば也。

○ 打切うちきり並ならびにつゞ

北海ほくかい新潟にひがたの海門みなとにおつる大河だいがは阿加あか川と千曲ちくま川と也。あか川の事はこゝにいはず、千曲川一名を信濃川ともいふ、隈くまの字をも用ふ千曲川の水源すゐげんは信濃越後飛騨の大小の川々あまた流ながれ併あひて此大河をなす也。越後は妻有つまり上田の二庄しやうをながれて魚野川うをのかはの急流きふりうをなし、魚沼郡うをぬまこほり藪上やぶかみの庄川口駅えきの端はづれににいたりて信濃を流ながるゝ川と合して、古志郡こしこほり蒲原かんばら郡の中央ちゆうあうをながれて海に入る。信濃の流は濁にごり越後は清し。信水しんすゐは犀川さいかはの濁水だくすゐあるゆゑ也。鮏さけ初秋より海を出いでて此流ながれに泝さかのぼる。蒲原郡の流は底深そこふかく河かは広ひろきゆゑ大網あみを用ひて鮏さけを捕とる。かの川口駅えきより上かみ、上田妻有うへだつまりのあたりにては打切うちきりといふ事をなして鮏を捕とる。その仕方しかたは夏の末すゑより事をはじめて、岸根きしねより川中へ丸木の杭くひを建たてつらね横木よこきをそえ、これに透間すきまなく竹簀たけすをわたして墻かきのごとくになし、川の石をよせかけて力ちからとなす。長さは百間けん二百間にいたる。周囲形めぐらしかこむかたちは川の便利べんりにしたがふ。船ふねの通路つうろはこれを除のぞきて障さはりをなさず、又通船つうせんの路印みちしるしを建たて夜よるの為ためとす。さてこれにつゞといふ物を簀下すのしたへならべ、鮏さけの入るべきやうにくゝしおく也。くひありてつゞのすゑをもくゝしおく此つゞの作りやうは竹を簀にあみて末すゑをば縛くゝし、鮏の入るべき口の方には竹の尖とがりを作りかけて腮あごをなし、地につく方はひらめ上は丸くし、胴どうには彭張ふくらみあり、長さは五尺ばかり也。鮏入らんとすれば口広ひろがるやうにいかにも巧たくみに作りたるもの也。これをつゞといふは筒つゝといふべきを濁にごり訛なまれるならん。田舎言葉ゐなかことばには古言こげんのまゝをいひつたへてむかしをしのぶもあれど、言ことの清濁せいだくをとりちがへて物の名などのかはれるも多し。阿加川あかがはを所にてはあが川といふさて此打切を作るは幾ばくの費つひえある事ゆゑ、漁師れふしども語かたらひあひてする事也。打切したる岸には仮かりに小屋をつくりて、漁師れふしども昼夜ちうやこゝにありて夜も寐ねずして鮏のかゝるを待まつ也。七月より此業わざをなしはじめて十二月寒かん明あくまで、一連いちれんのものかはる〱此小屋にありて鮏をとる。此打切は川口を一番ばんとして水上みなかみへ十五番まであり。こゝはいづくの持もちとて川にその境目さかひめありてはなはだ厳重げんぢゆう也。

○さて鮏さけは川下より流ながれに泝さかのぼりて打切にいたり、船ふねのかよふべき所は流れ打切にせかれて小滝たきをなすゆゑ滝にのぼるをいとふにや、大かたは打切のよどみにいたりかの垣かきにせまり、潜くゞるべき所やあるとこゝかしこをたづね、つゞをかけたる所にいたり、くゞりいでんとしてこゝに入れば底そこあるゆゑ、いでんとするに口に尖とがりの腮あごありて出いづる事あたはず。

○さて小屋にあるものはかゝりつらんとおもふほどをはかり、はなかますといふ舟をのりいだし大木を二ツにわりてこれをくりぬきて舟にしたるもの也 ○瀬の浅き所は舟を用ひず雪下ふる寒夜にも銭ぜにの為ためにそのさむさをもいとはず、赤裸あかはだかになりて水に飛とび入りつゞをはづし、鮏さけあればつゞのまゝ舟に入れさけをいだす。大鮏は三尺あまりもあるものゝ鮁狂はねくるふゆゑ魚楑なつちといふものにて頭かしらを一打うてば立地たちまち死す。こゝに奇きなる事は、此魚楑といふもの馬の爪つめをきりたる楑つちにあらざれば死しせず。私わたくしにつくりたるつちにてはいくつ打ても升おちず。又かれが頭かしらに打べき所もありと漁夫ぎよふがいへり。鮏ある所にてはいづくにても此なつちを用ふ、みな馬の爪きるつち也とぞすけご助賈すけごなるべしとて鮏さけの仲買なかがひするもの、此小屋にきたりてさけをかふてうる也。

〔図〕fig58400_22.png
鮭の縮圖

〔図〕fig58400_23.png鮭漁簎突圖

○ 掻網かきあみ

かきあみとは攩網すくひだまなり、鮏を攩すくひ捕とるをいふ。その攩すくひ網だまの作りやうは又ある木の枝えだを曲まげあはせて飯櫃いひびつなりに作りこれに網あみの帒ふくろをつけ、長き柄えありてすくふたよりとす。岸きしの阻そばだちたる所は鮏岸きしにつきてのぼるものゆゑ、岸に身みを置おくばかりの架たなをかきて、こゝに居ゐて腰こしに魚楑なつちをさし鮏を掻探かきさぐりてすくひとるなり。岸の絶壁ぜつへきなる所は木の根に藤縄ふぢなはをくゝして架たなを鉤つり、こゝに居ゐて掻網かきあみをするも稀まれにあり。幾尋いくひろともなき深淵ふかきふちの上にこのたなをつりて身みを置おき、一条ひとすぢの縄なはに命いのちをつなぎとめてその業わざをなす事、怖おそろしともおもはざるは此事になれたるゆゑなるべし。

〔図〕fig58400_24.png
絶壁掻網の圖

〔図〕fig58400_25.png
鮭漁打切の圖

〔図〕fig58400_26.png
鮭洲を走る圖

○ 漁夫ぎよふの溺死できし

或村あるむらに不祥の事ゆゑつまびらかにいはず夫婦ふうふして母一人をやしなひ、五ツと三ツになる男女の子を持もちたる農人のうにんありけり。年毎としごとに鮏さけの時にいたればその漁れふをなして生業いとなみの助たすけとせり。此所はすべて岸きし阻そばだちたるゆゑ村のものおの〱岸にかの架たなを作りて掻網かきあみをなす。しかるに絶壁ぜつへきの所は架を作るものもなければ鮏もよくあつまるゆゑ、かの男こゝに架たなをつりおろし、一すぢの縄なはを命の綱つなとして鮏をとりけり。さて十月の頃にいたり雪降ふる日には鮏も多く獲易えやすきものゆゑ、一日あるひ降ふる雪をも厭いとはず蓑笠みのかさに身みをかため、朝より架たなにありてさけをとり、畚ふごにとりためたる時は畚ふごにも縄なはをつけおけば、おのれまづ架たなを鉤つりたる綱つなに縋すがりて絶壁ぜつへきを登のぼり、さてふごを引あぐる也。つなにすがりて登のぼり下くだりするもこれに慣なれては猿さるのごとし。物もの喰くふ時ものぼる也。此日も暮くれて雪荒ゆきあれになりければ、雪荒にはかならず鮏さけえやすきがゆゑにふたゝびかの架たなにゆかんといふを、雪荒なればとて母も妻つまもとゞめたるをきかず、炬たいまつを用意よういして架たなにありてかきあみをせしに、はたしてさけあまたえしゆゑ鵜飼うかひの謡曲うたひにうたふごとく罪つみも報むくひも后のちの世よも忘わすれはてゝ、おもしろくやゝ時をぞうつしける。

○かくてその妻つまは母も臥ふし子どもゝ寐ねかしたれば、この雪あれに夫をつとはさこそ凍こゞえ玉ふらめ、行ゆきむかへてつれ皈かへらんと、蓑みのにみの帽子ばうしをかふり、松明たいまつをてらし、ほかに二本を用意よういして腰こしにさし、かしこにいたり松明たいまつをあげてさしのぞき、遙下はるかしたにある夫をつとにこゑかけ、いかにさむからん初夜しよやもいつかすぎつらん、もはややめて皈かへり玉へ、飯まゝもあたゝかにして酒ももとめ置おきたり、いざかへり玉ヘ、たいまつもなかるべし、橇かんじきも入るやうになりしぞ、それも持来もちきたれりといふも、西おとしの雪荒ゆきあれにてよくもきこえず。猶こゑをあげていへば夫をつとこれをきゝつけ、よろこべよ鮏さけはあまたとりたるぞ、あすはうちよりてうまき酒をのむべし、今すこし捕とりてかへらん、そちはさきへかへれといふ。しからば松明たいまつはこゝにおかんとて、燈ともしたるまゝ架たなをつりとめて綱つなをくゝしたる樹きのまたにさしはさみて、別の松明たいまつに火をうつして立かへりぬ。これぞ夫婦ふうふが一世の別わかれなりける。

○さるほどに妻つまは家いへにかへり炉ろに火を焼たきたて、あたゝかなるものくはせんとさま〲にしつらへ待居まちゐたりしに、時うつれども皈かへりきたらず。まちわびてふたゝびかの所にいたりしに、かのはさみたるたいまつも見えず、持たるたいまつをかざして下を見るに、ひかりもよくはとゞかで夫をつとのすがた見えわかたず、こゑのかぎりよべどもこたへず。さては架たなにはをらぬにや、さるにてもいぶかしと心をとゞめて松明たいまつをふりてらし、登のぼりし跡あとの雪にあるやとあたりを見れば、さいぜん木のまたにさしはさみおきたる炬たいまつもえおちてあり、これに心つきて持たるたいまつにて猶なほたしかに見れば、架たなをくゝしたる命いのちのつな焼残やけのこりてあり。これを見るよりむねせまり、たいまつこゝにやけおちて綱つなをやきゝり、架たなおちて夫をつとは深淵ふかきふちに沈しづみたるにうたがひなし、いかに泳およぎをしり給ふとも闇夜くらきよの早瀬はやせにおちて手足てあし凍こゞえ助たすかり玉ふべき便よすがはあらじ。こはいかにせん〱姑しうとめにいひわけなしと泪なみだを雫しづくにふらせて哭なきけるが、我もともにと松明たいまつを川へ投なげ入れ身を投なげんとしつるが、又おもへらく、わがなきあとは老おいたる母さまと稚をさなき子こどもらを養やしなふものなく、手をひきて路上に立玉ふらん。死しぬるにも死なれざる身みには成けるかな、ゆるし玉へわがつまと雪にひれふし、やけたるつなにすがりつきこゑをあげて哭なきになきけり。かくてもあられねばなく〱焼残やけのこりたる綱つなをしるしにもち、暗くらき夜よにたいまつもなく雪荒ゆきあれに吹ふかれつゝ泪なみだもこほるばかりにてなく〱立かへりしが、夫をつとが死骸しがいさへ見えざりしと、其所に近き辺ほとりの友人いうじんが此頃このごろの事とてさきのとし物がたりせり。

○ 総滝そたき

総滝そたきとは新潟にひがたの湊みなとより四十余里の川上、千隈川ちくまかはのほとり割野わりの村にちかき所の流ながれにあり。信濃しなのの丹波島たんばじまより新潟にひがたまでを流るゝ間あひだに流ながれの滝たきをなすはこゝのみなり。その総滝そたきとは川はゞはおよそ百間けんちかくもあるべきに、大なる岩石竜がんぜきりやうの臥ふしたるごとく水中すゐちゆうにあるゆゑに、おとしくる水これに激げきして滝をなす也。鮏さけこゝにいたりて激浪げきらうにのぼりかねて猶予たゆたふゆゑ、漁師れふしども仮かりに柴橋しばはしを架かけわたし、岸きしにちかき岩いはの上の雪をほりすてこゝに居てかの掻網かきあみをなす。されど命の惜をしきにやおの〱己おのが腰こしに縄なはをつけこれを岩の尖とがりなどに縛くゝしおく。こゝに往来ゆきゝするには岩に足のかゝるべき所をわづかに作り、岩にとりつきて登のぼり下くだりをなす。若もし一あしを過あやまつ時は身みを粉こに砕くだきて滝たきにおちいるめり、その危あやふき事いはん方なし。余よ前年さきのとし江戸に在ありし時右の事を先さきの山東翁さんとうをうにかたりしに、翁をう曰いはく世路せいろの灘なだは総滝そたきよりも危からん、世は足あしもとを見て渡わたるべきにやとて笑わらへり。格言かくげんなりと耳にとゞまりしが、今偶然ふとおもひいだしたるゆゑしるせり。

○ 鮏漁さけとりの類術るゐじゆつ

○当川あてかは三角なるあみにてとるをいふ○追おひ川水中に杭くひをたてあみをはり、さほにて水をうちさけをおひこむ○四ツ手網であみ他国におなじ○金鍵かなかぎ水中のさけをかぎにかけてとる、そのしゆれん奇々妙々なり○流ながし網あみさしあみともいふ、あみの長さ二百けんあまりなり、かんばらこほりにてする事なり○簎突やすつき水中のさけを見すましやすにてつきとる、一ツものがす事なし、そのしゆれんこれもまたはなはだ妙なり○このほかあまたありといへども、詳つまびらかに解とかんは駁雑くだ〱しければその網あみをもらせり。

○ 鮏さけの洲走すばしり

さけのすばしりは雪前ゆきまへに河原かはらなどにある事也。かれあみにせめられ人にも追おはれなどして、水を飛離とびはなれて河原にのぼり、網あみある所をこえて水にとび入りてあみを退のがるゝ也。此時は大鮏さきにすゝみて水をはなるれば、よりゐたる小鮏など后あとに随したがひてのぼり、河原をはしる事四五間けんにすぎざれども、箭やのごとくして人の足もおよびがたし。さきにすゝむ大鮏、もし物にさはりて横よこに倒たふるゝ時は、あとにしたがひたる鮏もおなじくたふれてふたゝびおきず、人の捕とらふるを俟まつがごとし。はからずして手も濡ぬらさず二三頭とうのさけをうる事あり。かれ足あし無なくして地をはしり、倒たふれてふたゝび起おきざるなど、魚族ぎよぞく中比たぐふべきものなきは奇魚きぎよといふべし。

○ 垂氷つらゝ

前年さきのとし牧之ぼくし江戸に旅宿りよしゆくの頃、文墨ぶんぼくの諸名家しよめいかに謁えつして書画しよぐわを乞こひし時、前さきの山東庵には交情まじはり厚あつくなりてしば〱訪とふらひしに、京山翁当時そのころはいまだ若年なりしが、ある時雪の話はなしにつけて京山翁いへらく、今年正月友人いうじんらと梅見にゆきしかへるさ青楼せいろうにのぼり、その暁あかつき雨ふりいだししが、とみにやみけるゆゑ青楼を出いでて日本堤にさしかゝりしに、堤つゝみの下に柳二三株ぼんあり、この柳にかゝりたる雨、垂氷たるひとなりて一二寸づゝ枝毎えだごとにひしとさがりたるが、青柳あをやぎの糸に白玉をつらぬきたる如く、これに旭あさひのかゞやきたるはえもいはれざる好景かうけいなりしゆゑ、堤の茶店ちやみせにしばしやすらひてながめつゝ、はからず詩しを作りし事ありき。これ余寒よかんの暁に雨のみじかくやみたる気運きうんの機工からくりを得えてかゝる奇景きけいを見たるなりとて、珍めづらしがりてかたられしが、暖地だんちにてはめづらしくもあるべけれど、我国の垂氷つらゝに比たぐふれば水虎すゐこの一屁いつひ也と心にをかしとおもひし事ありき*9。

○そも〱我国の垂氷つらゝをいはんに、他たは姑しばらく舎おいてまづ我わが家いへの氷柱つらゝをいはん。表間口まくち九間の屋根やねの簷のきに初春の頃の氷柱つらゝ幾条いくすぢもならびさがりたる、その長短ちやうたんはひとしからねども、長きは六七尺もさがりたるが根ねの太ふとさは二尺めぐりにひらみたるもあり、水晶すゐしやうをもて𥴩子かうしをつくりたるやう也。されど我国の人は稚おさなきより目めなれたる事なればめづらしからず、垂氷つらゝを吟詠ぎんえいに入るものなし。右のつらゝ明あかりにさはるゆゑ朝毎あさごとに木鋤こすきにてみな打おとさす。又家峯やねの谷になりたる所を俚言りげんにだぎといふ、だぎは春解するやねの雪のしたゝりみなこゝにつたふゆゑ、つらゝは簷のきよりも大也、下にさはりなき所は二丈もさがる事あり。次第にふとりて大になるも物にさはらぬ所はすておきしを、いつか打砕うちくだく時は大力の男杭くひなどにてしたゝかに打て、やう〱をれおちてくだけたる四五尺なるを、童わらべらが打うちよりて手遊てあそびの雪舟そりにのせて引きありき遊あそぶもあり。これらは我家わがいへの氷柱つらゝにて珍めづらしからず、宮寺みやてらのつらゝは猶大なり、又山中のつらゝは里地さとちに比ひしがたし。

〇 笈掛岩おひかけいはの垂氷つらゝ

我が住む塩沢しほざはの巽三里余よに清水村といふあり、此村持もちの山に笈掛岩おひかけいはといふ在あり、高さ十丈あまり横よこ二十五間けんあり。下に谷川あり、登り川といふのみなもとなりその形かたち屏風びやうぶをひらきてたてまはしたるがごとし。岩の頂いたゞき反そり伏ふして川に覆おほひたる下は四五十人坐ざして狭せまからぬほどにて、やねあるがごとし。我が上かみ越後には名をよぶ奇岩きがんおほき中にこれもその一ツ也。此笈掛岩おひかけいはの氷柱つらゝこそ我が国の人すら目をおどろかすなれ。そのつらゝあまた垂たれ下さがりたるなかには、長きは十丈ばかり太さは二ふた抱かゝへもあるべし。垂たれたる形状かたちは蝋燭らふそくのながれたるやうなれど、里地さとちのつらゝとたがひて屈曲くつきよく種々しゆ〲のかたちをなして水晶すゐしやうにて工たくみに作りなしたるがごとく、玲瓏れいろうとして透徹すきとをれるが暾あさひの暉かゞやきたるはものに比たぐふべきなしと、此清水村の里正りせい阿部翁あべをうのものがたりにてきゝぬ。右のつらゝさへ我をはじめつらゝはめづらしからねば強しひて見にゆく人なし。此清水村の阿部翁はむかし世よに聞きこえたる阿部右衛門の尉じようが子孫也、世々清水越こえの関守せきもりたり。こゝに長尾伊賀守の城跡しろあとあり。

○ 滝たきの氷柱つらゝ

我が上越後は山岳さんがくつらなれば滝多し。滝ある所に夏木の大樹ありて、春にいたり枝えだにつもりし雪まづとけて葉をいださぬ木の森をなしたるに、滝の水烟すゐゑん枝えだに潤うるほひしが津しづくとなり氷柱つらゝとなりて玉簾たまのすだれをかけ周めぐらしたるやうなるは、これも又たぐふべきものなし。さてまたその滝にもしたゝる水氷柱つらゝとなり、玉簾ぎよくれんの内に滝をおとすありさま四辺あたりは乱瓊らんけい細玉さいぎよくの雪中也、かの玉を出といふ崑山こんざんもかくやとおもはる。かゝる奇景きけいも猟師れふし樵夫せうふのほか見る人稀まれ也。これを暖国だんこくの人にみせなばいかにめづらしとかおもふらん。牧之ぼくし柏崎かしはざきより妻有つまりの庄へ山越こえしたる時目前に見たる所也。

○ 雪中の寒行者かんぎやうじや

我が家に江戸に二ふたとせ居ゐたる僕ぼくあり。かれがかたりしに、江戸に寒念仏かんねんぶつとて寒行かんぎやうをする道心者だうしんじやあり、寒三十日を限かぎりて毎夜鈴が森千住ぢゆにいたり刑死けいしの回向ゑかうをなす。そのすがたは股引もゝひき草鞋わらんずにてあたゝかに着てつとむるなり。又寒中裸参はだかまゐりといふあり、家作にかゝはるすべての職人しよくにんの若人わかうどらがする事なり。そのすがたは常つねより長く作りたる挑灯てうちんに日参につさんなどの文字もじをふとくしるしたるを持もち、裸はだかにて錞れいをふりつゝとくはしりておもひ〱にこゝろざす所の神仏へまゐる也。まゐらんとする時はかならず水を浴あぶ。寒中の夜は幾人いくたりも西東へはせありくとかたれり。我国の寒行かんぎやうは、事ことはこれに似にてその行ははなはだ異こと也、我国の寒中は所として雪ならざるはなく、寒気かんきのはげしき事はまへにいへるがごとし。その雪をふみて毎夜寒念仏又は寒大神まゐりとて、寒中一七日或あるひは三七日、心々に日をかぎりておのれが志す神仏へまうづ。おほくは農人のうにんの若人わかうどら商家しやうかのめしつかひもあり、ひるは業いとなみをなして夜中にまうづる也。昼のいとなみのあひ〱日に三度づゝ水をあぶ、猶あぶるは心々也。禁きんじて身を拭のごふ事をせずぬれたるまゝにて衣服きるものを着ちやくす。坐ざするには米稿いねわらの穂ほの方をくゝしたるを扇のやうにひらきてこれに坐す、此わらは七五三しめのこゝろとぞかりにも常のごとくには居をらず。このゆゑに此束たばねたる稿わらは帯おびにはさみてはなたず。また行ぎやうの中は无言むごんにて一言ひとこともいはず、又母のほか妻たりとも女の手より物をとらず、精進潔斎しやうじんけつさいは勿論もちろん也。他の人もかれが腰こしにはさみたるわらを見て行者ぎやうじやなる事をしり、むごんなれば言語ことばをかけず人々つゝしむ事也。これはもし行者にことばをかけ、行者あやまつてことばをいだせば行破やぶれたるゆゑ、はじめより行ぎやうをしなほすゆゑ也。又无言むごんの行はせざるもあり。さて夜に入れば千垢離せんこりをとり、百度目に一遍へんづゝかしらより水をあぶるゆゑ十遍水を浴あぶ。身をのごはずきるものをあらため雪ふらずとも簑笠みのかさ也、あるひはいかなる雪荒ゆきあれにもいとふ事なく鉦かねうちならしつゝゆく。これにはかならず同行どうぎやうのものある故ゆゑ、そのかどにいたりてかねをならせば同行も家にありてかねをうちあいさつとして出いできたる。家に入らざるものは、この行者女にゆきあへば身みのけがれとして川に入り、又は井戸をこふて水をあぶる事まへのごとくして身をきよめ、さてまゐるなり。このゆゑに行者の鉦かねの音ねをきけば女はすべて門かどへはいでず、道みちにあへば遠とほくにかねのおとをきゝてかくるゝ也。行ぎやうの内人の死ししたるをきけば、たとひ二里三里ある所にても、つねにしる人しらぬ人を論ろんぜず、志願しぐわんの所にまうでたる皈かへるさなど、其家にいたりねんごろに回向ゑかうす。これをも行ぎやうの一ツとす。さるゆゑに不幸ふかうありて日のたゝぬいへにては、行者ぎやうじやのきたるをまちてものくはせんなど、いかにも清くして待まつ也。寒念仏寒大神まゐりの苦行くぎやうあらまし件くだんのごとくなれば、他国はしらず、江戸の寒念仏裸はだかまゐりに比たぐふればはなはだ異こと也。かゝる苦行くぎやうをなすゆゑにや、その利益りやくの灼然いちじるき事を次にしるしつ。苦行くぎやうして祈いのればいづれの神仏も感応かんおうある事を童蒙どうもうに示しめす。

〔図〕fig58400_27.png
寒行者威徳之圖、笈掛岩大氷柱圖

○ 寒行かんぎやうの威徳ゐとく

近来ちかごろの事なりき、我が住すむ塩沢しほざはより十町あまり西南にあたりて田中村といふあり、此村に右の寒行かんぎやうをする者ものありけり。ある日米俵たわらを脊負せおひて五六町へだてたる中村といふへゆく、その道みちは三国海道みくにかいだうなれば人あしも繁しげし。すべて雪道は人の踏ふみかためたる跡あとのみをゆきゝするゆゑ、いかなる広き所も道は一条ひとすぢにて其外そのほかをふめば腰こしをこえて雪にふみ入る也。それゆゑに重荷おもになど持たるは、たとへ武家たりとも一足ひとあし踏退ふみのきてふみのくべきあとはあり道を譲ゆづるが雪国の習ならひ也。かの田中の者一人の武士にゆきあひ重荷おもにながらもこなたより一足ふみのきたるに、武士は声こゑをあらゝげ脇わきよれといふ。今ひと足ふみのかば重荷ゆゑことさら雪におち入らんとおもふゆゑ、いかにせんとためらひしを、無礼ぶれいものめと肩かたをつきたるゆゑ俵たわらを脊負せおひていかでたまるべき、雪の中へよこさまに転まろび倒たふれしに、武士も又人に投なげられし如ごとく倒たふれければ、田中の者は早とく起おきて后あとも見ずしていそぎゆきけり。かゝるあとへおなじ田中の者こゝに来り、武士の雪中に倒たふれて起おきもあがらざるを不審いぶかり立よりて、なにぞ病やみ玉ふかといへば、武士はかなきこゑしておこしくれよといふ。その㒵色かほいろはつねならねど病人とも見えず、いざとて手を採とりて引起ひきおこさんとするに手をのばさず、抱かゝえおこさんとすれどもおきず、猶なほ力ちからのかぎりおこさんとすれども重おもき事大石の如くにて身みを動うごかさず、こは不思議ふしぎと驚おどろき怖おそるるを見て、武士しか〲の事ありしが五体ごたいすくみて動うごく事ならずといふ。田中のものこの武士が米俵を脊負せおひしものといひしをきゝて、心におぼえあればさてはと心づき、これかならず行者ぎやうじやの罰ばちならんと行者ぎやうじやたるあらましをかたりきかせ、われもかれがゆきたる中村へゆくもの也、かの行者をこゝへつれきたらん、わび玉へ、こゝよりは程ちかしまち玉へとてはせゆき、やがて行者をつれきたりければ、武士は手をすりてゆるしたまへ〱といふ。行者はいかりたる色いろもなく、なにともいはず衣服きるものを脱ぬぎてかたへの水楊かはやなぎにかけ、赤裸あかはだかになりて水を浴あみ寒かんまゐりする方をふしをがみ、武士の手をとりて引起ひきおこしければなにのくもなくおきあがり、いかにも恥はぢたるさまにて礼れいをのべて立さりけるとぞ。常に我が家に来くる田中のものがかたれり。

○ 雪中の幽霊いうれい

我が隣駅りんえき関せきといふ宿しゆくにつゞきて関山せきやまといふ村あり、此村より魚野うをの川を渡わたるべき橋はしあり。流れ急きふなれば僅わづかの出水でみづにも橋をながすゆゑ、仮かりに造つくりたる橋なれど川広ひろければはしもみじかからず。雪の頃は所のもの橋の雪を掘ほりて途みちを作れども、一夜の内に三尺も五尺もつもる事もあるゆゑに、日毎にもほらざれば橋幅はしはゞの狭せまきに雪のつもりたる上をわたるなれば、渡わたり慣なれたるものすら過あやまつて川におち入り溺死おぼれしするものも間まゝあり。

○さて此関山村のかたほとりに、独ひとり草庵さうあんを結むすびて住すむ源教げんけうといふ念仏ねんぶつの道心坊だうしんばうありけり。年は六十あまり、たゞ念仏三昧ざんまいの法師はふしにて、无学むがくなれどもその行おこなひは碩僧せきそうにもをさ〱劣おとらず。かゝる僧なれば年毎としごとに寒念仏かんねんぶつの行ぎやうをつとめ、无言むごんはせざるゆゑ夜毎よごとに念仏して鉦かね打うちならし、ものにまゐりしかへるさ二夜に一度はかの橋はしに立て年頃おぼれしゝたる者の回向ゑかうをなししに、今夜こよひは満願とてかの橋にもいたり殊更ことさらにつとめて回向ゑかうをなし鉦うちならして念仏ねんぶつしけるに、皎々けう〱たる月遽然にはかに曇くもりて朦朧まうろうたり。こはいぶかしとおもひしに、水中すゐちゆうより青あをき火閃々ひら〱ともえあがりければ、こは亡者まうじやの陰火いんくわならんと目を閉とぢてかねうちならし、しばらく念仏して目をひらきしに、橋の上二間けんばかり隔へだてて、年齢としのころ三十あまりと見ゆる女白く青ざめたる㒵に黒髪くろかみをみだしかけ、今水よりいでたりとおもふばかり濡ぬれたる袖をかきあはせて立たてり。常人つねなみのひとならば吁あといひて逃にぐべきに、さはなくてその方に身を対むけてつら〱見るに、斯かう闇くらくなりしにかゝるものゝあり〱と見ゆるもたゞ人ならじと猶よく見れば、体からだは透徹すきとほるやうにてうしろにあるものも幽かすかに見ゆ。腰こしより下はありともなしともおぼろげ也。これこそ幽霊いうれいならめとしきりに念仏しければ、移歩あゆむともなくまへにすゝみきたり、細微ほそがれたる声こゑしていふやう、わらはゝ古志郡こしこほり何村なにむら村名はもらすの菊きくと申もの也、夫つまも子こも冥途めいどにさきだて独ひとり跡あとにのこり、かそけき烟けふりさへ立かねたれば、これよりちかき五十嵐村いがらしむらに由縁ゆかりの者ものあるゆゑ助たすけを乞こはんとてこの橋をわたりかゝり、あやまちて水に入り溺死おぼれしゝたるもの也、今夜こよひは四十九日の待夜なれど、世にすてられしかなしさは誰たれありて一掬ひとすくひの水だに手向たむくる人なし。さるをおん僧そうしば〱こゝにきたりて回向ゑかうありつる功徳くどくによりてありがたき仏果ぶつくわをばえたれども、頭かしらの黒髪くろかみが障さはりとなりて閻浮えんぶに迷まよふあさましさよ。此上のねがひには此くろかみを剃そりこぼして玉はれかし、あな悲哉かなしやとて、㒵かほに袖をあてゝさめ〲と泣なきけり。源教げんけういふやう、そはいとやすき事也、されどこゝには剃そるべき物ももたざれば、あすの夜わがすむ関山せきやまの庵へきたり候へ、望をはたし申さんといひければ、さもうれしげにうなづくと見えしが烟けふりのごとく消きえうせ、月は皎々けう〱として雪を照てらせり。

○さるほどに源教げんけういほりにかへりて、朝日あけのひ人をたのみて旧来としごろ親したしき同おなじ村の紺屋こんや七兵衛をまねき、昨夜かう〱の事ありしとお菊きくが幽霊いうれいの㕝をこまかに語かたり、お菊が亡魂まうこん今夜こよひかならずきたるべし、かゝる事は仏ほとけに疎うとき人らにもかたりきかせて教化けうぐゑの便よすがともなすべくおもへども、たしかに見とゞけたりといふ証人しやうにんなければ人々空言そらこととおもふらん、和殿わどのは正直しやうぢきの聞きこえある人なれば幽霊いうれいの証人にたのみ申也、これも人の為也といふ。七兵衛も此法師とおなじとしごろにて、しかも念仏の信者しんじやなれば打うなづき、御坊ごばうのたのみとあればいかで固辞いなみ申さん、火ともすころに来くべし、何方いづくにもあれ隠かくれゐて見とゞけ申さん。さればよ仏壇ぶつだんの下こそよきかくれ所なれ、かまへて人にかたり玉ふな、かたりたらば幽霊いうれいを見んとて村の若人わかうどらが来くべきぞ。心えたるはとて立皈かへりぬ。

○斯かくてその黄昏たそがれにいたり、源教げんけうは常より心して仏に供養くやうし、そこら清きよらになし経きやうを誦ずし居ゐたり。七兵衛はやきたりぬ。誦ずしをはりて七兵衛に物などくはせ、さて日もくれければ仏壇ぶつだんの下の戸棚とだなにかくれをらせ、覗のぞくべき節孔ふしあなもあり、さて仏ほとけのともし火も家のもわざと幽かすかになし、仏のまへに新薦あらこもをしきて幽霊いうれいを居をらする所とし、入り口の戸をもすこしあけおき、研とぎたてたる剃刀かみそり二てうを用意よういし今や〱と幽霊いうれいを待居まちゐたり。此夜はしかも雪になりて、すこしあけおきたる戸口よりもふりこむ風にあかしもきえんとするゆゑ、戸をさし炉ろのはたにありて戸棚の七兵衛にいふやう、蒲団ふとんはしきおきたり、そこにありて眠ねふり玉ふな。いかでさることせん、幽霊を見んとおもへば心に念仏ねんぶつするのみ也。御坊ごばうこそくせをいだしてふねこぎ玉ふらめ、吁あ、音おとたかししづかにいへ、幽霊を見るともかまへて音をたて玉ふな、といひつゝ手作てさくとて人にもらひたる烟草たばこのあらく刻きざみたるもやゝ吸すひあきて、呻あくびに念仏ねぶつを噛かみまぜ頷おとがひ撫なでまはししが髭ひげをぬきて居たり。雪は雪簾ゆきだれにあたりてさら〱と音おとのふのみ、四隣しりんなければ寂せきとして声こゑなくやゝ時もうつりけり。

〔図〕fig58400_28.png
雪中幽霊之圖

○さて幽霊は影かげも見えず、源教げんけうは炉ろに温あたゝまりて睡眠ねふけをもよほし、居眠ゐねふりしつゝ終つひに倒れんとして目をひらきしに、お菊が幽霊いうれい何時いつか来きたりて仏ほとけに対むかひ、まうけたる新薦あらこもの上に坐すはり頭かしらを低たれてゐたり。さすがの源教げんけうも戦慄ぞつとせしが、心をしづめてよくこそきたりつれといふに、幽霊いうれいはさらにことばをいださず、すがたは昨夜よんべ見たるにたがはず。源教げんけう手てをそゝぎ盥たらいに水をくみとり剃刀かみそりをもちて立より見れば、打みだしたる髪かみつゆのたるばかりぬれてあり。されど雪ふるなかをきたりしといふしるしもなし。心におもふやう、これが髪の毛をのこしとゞめて后のちのしるしとせばやなど心して剃刀かみそりをはこばせけるに、そりおとす髪の毛糸をつけて引がごとくかれが懐ふところに入る。女なれば髪の毛を惜をしむならんと毛を指ゆびにからみて剃そりしに、自然おのづからふところに入りて手にとゞまらず。とかくして剃そりをはり、わづかすこしの毛はやうやくとりとゞめつ。幽霊いうれいは白く痩やせたる掌てを合あはせ、仏ほとけを拝をがみつゝすがた次第しだいに薄うすくなると見えしがきえうせけり。

○ 関山村せきやまむらの毛塚けづか

かくて紺屋こんや七兵衛かくれゐたる戸棚とだなよりはひいで、さても怖おそろしきものを見つる事かな、いかに法師なればとてよくぞ剃刀かみそりをあて玉ひたる、たゞ見るさへおそろしかりき、独ひとりかへらんも気味きみわろし今夜こよひはこゝに宿らん。いかにもやどり玉へ、待し人の皈かへりたればもはや用なし、これ見玉へ、后のちの証しるしにせばやとてこればかりの髪の毛をやう〱のこしおきたり、幽霊いうれいも心ありてのこしつらんとて見せければ、七兵衛はさしのぞきて手にもとらず。法師は紙につゝみて仏壇ぶつだんにおき、夕間まにのみ玉ひし酒ものこりあり、肴はなくとものみ玉へとていさゝかのものとりいだして、二人ながら炉ろのはたに胡坐あぐらかきて酒のみながら七兵衛がいふやう、幽霊いうれいといふもの話はなしにはきゝつるが見しははじめて也、袖振合そでふりあはすも他生たしやうの縁えんとこそいふなれ、いたづらに見すぐさんも本意ほいなし、今夜こそ仏法ぶつほふのありがたさも身にしみつれば、あすは此いほりにて百万遍べんをなしてお菊が仏果ぶつくわのいとなみにせん。源教げんけう、そはよき功徳くどくならん、古志郡こしこほりのお菊がいうれいを見とゞけたりと人々にかたり玉へ、愚僧ぐそうもわどのを証人しやうにんとして幽霊をかたりて教化けうぐゑのたよりにせん。すでにむかしもかゝる事ありしと砂石集させきしふに見えし事など、人にきゝたるをおぼろげにおぼえて一ツ二ツかたりきかせなどして、夜もふけゝれば一ツの夜具やぐをふたりしてかづきうちふしけり。

○さてあけの日、七兵衛源教げんけうを伴ともなひて家に皈かへり、四隣あたりの人をあつめてお菊が幽霊の事をかたりければ、源教げんけう懐ふところよりかの髪の毛をとりいだして見すれば人々奇異きいのおもひをなしぬ。さて七兵衛百万遍の事をいひしに、あつまりし者ものども、それこそよき善行ぜんぎやうなれ、こよひもよほし玉へ、茶の子はこなたよりもちゆかん、御坊ごばうは茶の用意よういをし玉へ、数珠ずゝは庵あんにはなかりき、これもおてらのを借かりてもちゆかん、猶人々をもさそひあはせてゆかんといふ。七兵衛が妻つまもかたはらにありしが、夫をつとにむかひ、とてもの事に餅もちをつきたまへとすゝむ。いかにもよからんとて俄にはかにそのもよほしをなしけり。

○かくてその夜源教げんけうが草庵さうあんに人々あつまり、おしこりあひて念仏しければ、なか〱ににぎはしき仏事也けり。此事こゝかしこに伝つたへ聞きこえて話柄はなしのたねとしけるが、こゝろざしあるものゝいふやう、源教がもちしかの髪の毛を瘞うづめ石塔せきたふを建たてて供養くやうせば、お菊が幽魂いうこん黄泉地よみぢのかげにもよろこびなんといひ出いだししに、おなし心の人あまたありてその事とゝのひ、終つひに石塔を建たてんとする時にいたりて、源教いふやう、かゝる㕝の導師だうしたらんは我がおよぶ所にあらず、是こは最上山さいしやうざん関興寺くわんごうじの上人を招請せうだいあれかしといふ。人々さらばとてかしこにいたり、事のよしをつげてお菊が戒名かいみやうをもとめ、お菊が溺死おぼれしゝたる橋はしの傍かたはらに髪の毛を埋うづめ石塔せきたふを建たつる事すべて人を葬はうふるが如ごとくし、みなあつまりてねんごろに仏事ぶつじを営いとなみしに、かの紺こん屋七兵衛は此㕝より発心ほつしんして後のちに出家しゆつけしけるとぞ。こはひとむかしまへの事也ける、関山せきやまの毛塚けづかとて今に残のこれり。

○ 雪中鹿しかを追おふ

他国の人、越後はすべて大雪の国とおもふめれどさにあらず。まへにもいへる如ごとく海浜かいひんに近き所は雪浅し。雪ふかきは魚沼うをぬま・頸城くびき・古志こしの三郡ぐん、或あるひは苅羽かりは・三嶋みしまの二郡、所によりて深浅あり蒲原かんばらは大郡にて雪薄うすき所なれども東南は奥羽あううに隣となりて高嶺かうれいつらなるゆゑ、地勢によりては雪深き所あり。雪深き所は雪中牛馬を駆つかはず、いかんとなれば人は雪に便利べんりのはきものを用ふれども牛馬にはこれをほどこす事あたはず、もし雪中にこれを追おはば首くびのあたりまで雪にうづまらん、さればつかふ事ならざる也。およそ十月より歳としを越こえて四月のはじめまでは、むなしくやしなひおくのみ也。これ暖国だんこくにはなき難儀なんぎの一ツ也。さて獣けものはまへにもいへるごとく、初雪しよせつを見て山つたひに雪浅き国へ去さる、しかれども行后ゆきおくれて雪になやむもあればこれを狩かる事あり。熊の事は上巻にいへり野猪ゐのしゝは猛たけきゆゑ雪ふかくとも得えやすからず、鹿しか・羚羊くらしゝなどは弱よわきものゆゑ雪には得えやすし。鹿はことさら高脛たかはぎなるゆゑ雪にはしる事人よりおそきに似にたり。鹿は深山みやまをこのまず、おほかたは端山はやまに居をるもの也。すべて物に慣なるればその妙あり、山猟さんれふに慣なれたる者は雪の足跡あしあとを見てその獣けものをしり、またこれは今朝のあしあと、こは今ゆきしあとゝその時をもしる也。三国嶺みくにたふげより北へつゞく二居ふたゐの人たふげあるところ也の鹿おひしたるをきゝしに、いざ鹿おひにゆかんとてかたらひあはせ、おの〱雪を漕こぐべきふかき雪をゆくを里ことばにこぐといふほどに、身をかため山刀をさし、銕炮てつはう手鎗てやり又棒ぼうなど持もちて山に入り、かの足跡あしあとをたづねあとに随したがへばかならず鹿を見る。かれ人を見て逃にげんとすれども人のはしるにおよばず、鹿は深田ふかたをゆくがごとく終つひには追おひつめられてころさる。あるひは剛勇がういゆうの人などは角つのをとりてねぢふせ、山刀にて剌殺さしころすもありとぞ。これらは暖国だんこくにはなき事ならめ。

○ 泊とまり山やまの大猫おほねこ

我が隣駅りんえき関せきにちかき飯士山いひじざんに続つゞく東に、阿弥陀峯あみだぼうとて樵きこりする山あり。村々持分ンの定あり二月にいたり雪の降止ふりやみたる頃、農夫のうふら此山に樵きこりせんとて語かたらひあはせ、連日れんじつの食物しよくもつを用意よういしかの山に入り、所を見立て仮かりに小屋を作り、こゝを寐所ねどころとなし、毎日こゝかしこの木を心のまゝに伐きりとりて薪たきゞにつくり、小屋のほとりにあまた積つみおき、心に足たるほどにいたればそのまゝに積つみおきて家に皈かへる。これを泊とまり山といふ。山にとまりゐて㕝をなすゆゑ也さて夏秋にいたれば積つみおきたる薪たきゞも乾かわくゆゑ、牛馬ぎうばを駆つかひて薪たきゞを家に運はこびて用にあつる也。雪ふかき所は雪中には山に入りて樵きこりする事あたはざるゆゑの所為しわざにて、我国雪の為ために苦心くしんするの一ツ也。右にいふあみだぼうには水なく、谷川あれども山よりは数丈すぢやうの下をながる、翼つばさなければ汲くむことあたはず。こゝに年歴としへたる藤蔓ふぢづるの大木にまとひたるが谷川へ垂下たれさがりたるあり、泊とまり山やまして水汲くむもの樽たるを脊せにくゝし負おひ、此ふぢづるをたよりとして谷川へくだり、水をくみてたるの口をつめて脊せおひ、ふたゝびふぢづるに縋すがりてのぼる、雲桟くものかけはしをのぼるさま也。とまり山をするもの、このふぢづるなければ水をくむ事ならず、よしや縄なはを用ふとも此藤の強つよきにはおよぶまじ。このゆゑに泊り山するものら、此蔓つるを宝たからのごとく尊たふとぶとぞ。ひとゝせ泊り山したるものゝかたりしは、ことし二月とまり山しゝ時、連つれのもの七人こゝかしこにありて木を伐きりて居ゐたりしに、山々に響ひゞくほどの大声こゑして猫ねこの鳴なきしゆゑ、人々おそれおのゝきみな小屋にあつまり、手に〱斧をのをかまへ耳みゝをすましてきけば、その声こゑちかくにありときけば又遠とほくに鳴なき、とほしときけばちかし。あまたの猫ねこかとおもへば、其声は正しく一ツの猫也。されどすがたはさらに見せず、なきやみてのち七人のものおそる〱ちかくなきつる所にいたりて見るに、凍いてたる雪に踏ふみ入れたる猫の足跡あしあとあり、大さつねの丸盆ほどありしとかたりき。天地の造物ざうぶつかゝるものなしともいふべからず。我が友とも信州の人のかたりしは、同じ所の人千曲川ちくまかはへ夏の夜釣よづりに行ゆきしに、人の三人もをるべきほどのをりよき岩いは水より半なかばいでたるあり、よき釣場つりばなりとてこれにのぼりてつりをたれてゐたりしに、しばしありてその岩に手鞠てまりほどに光ひかるもの二ツ双ならびていできたり、こはいかにとおもふうちに、月の雲間くもまをいでたるによくみれば岩にはあらで大なる蝦蟇ひきがひるにぞありける。ひかりしものは目なりけり。此人いきたる心地もなく何なにもうちすてゝ逃にげさりしとかたりぬ。

○ 山言語やまことば

右の泊とまり山するは此地にかぎらず外ほかにもする所あり。小出嶋こいでじまといふあたり、上越後山根やまねの在々ざい〱にてもするなり。すべて深山みやまにありて事をなすには山ことばといふありてこれをつかふ。忘わすれて里のことばをつかふ時はかならず山神の祟たゝりありといひつたふ。他国はしらず、その山言語やまことばとは、○米を草くさの実み○味噌みそをつぶら○塩しほをかへなめ○焼飯やきめしをざわう○雑水ざふすゐをぞろ○天気の好よきをたかゞいゝ○風をそよ○雨も雪もそよがもふ舞といふ。○蓑みのをやち○笠をてつか○人の死をまがつた又はへねた○男根なんこんをさつたち○女陰ぢよいんを熊くまの穴あな。此余よあまたあり、さのみはとてしるさず。女陰ぢよいんを熊の穴といふをもておもふに、これらのことばは商家しやうかの符調ふてうといふものにおなじかるべし。かゝることばを山にてつかはざれば山神の祟たゝりたまふといふは信うけがたけれど、神の㕝は人慮じんりよをもてかろ〱しく誣しゆべからざる物をや。

○ 童わらべの雪遊あそび

我があたりはしば〱いへるごとく、およそ十月より翌年よくとしの三月すゑまでは歳としを越こえて半年は雪也。此なかに生うまれ、此なかに成長せいちやうするゆゑ、わらべの雪遊びをなす事さま〲ありて、暖国だんこくにはなき事多し。その中に暖国の人にはおもひもよらざるあそびあり、まづ雪を高く掘揚ほりあげおきたる上などを童わらべども打よりて手てあそびの木鋤こすきにて平らになしてふみつけ、わらべも雪中にはわらくつをはくこと雪国のつねなりさて雪をあつめて土塀とへいを作るやうによほどの囲かこみをつくりなし、その間あはひにも雪にて壁かべめく所をつくり、こゝに入り口をひらきて隣となりの家いへとし、すべての囲かこみにも入り口をひらく。此内に宮めかす所を作り、まへに階だん〱をまうけ宮の内に神の御体みすがたとも見ゆるやうにつくりすゑ、これを天神さまと称しようしゑびす大こくなどもつくる筵むしろなどしきつめ物を煮にべき所をも作る。すべてみな雪にて作りたつる也。雪をくぼめ、ぬかをしきて火をたくに、きゆる事なしこれを雪ン堂又城しろともいふ。児曹わらべども右の雪ン堂の内にあつまり物など煮にて神にもさゝげ、みなよりてうちくふ。又間あひだにへだてを作りたるはとなりの家に准なずらへ、さま〲の事をなしてたはむれ遊あそぶ。あそび倦うめば斯かう作りたるを打こぼつをもあそびとし、又他の童わらべのこれにちかくおなじさまに作りたるを城しろをおとすなどいひてうちくるふもあり、そのまゝにおくもあり。おのれ牧之ぼくしも童わらべのころはかゝるあそびの大将たいしやうをもせしが、むなしく犬馬けんばの齢よはひを歴へて今は夢ゆめのやう也けり。

〔図〕fig58400_29.png
雪窓座頭を降す圖

○ 雪に坐頭ざとうを降ふらす

まへにもいへるごとく雪のうちに春をむかふるゆゑ、歳越としこしの日などはいづれの家にてもことさらに雪を掘ほりて窻まどのあかりをとり、ほりたる雪も年越としこしの事しげきにまぎれて取除とりのけをはらず、掘揚ほりあげの屋上やねにひとしき雪道歩行あゆむにたよりあしき所もあり。ひとゝせ歳越としこしの夜よ、余よが点てんをしたる俳諧はいかいの巻まきを懐ふところにし、俳友はいいう兎角子とかくしを伴ともなひ、その巻まきの催主さいしゆのもとへいたりて巻を主あるじに遣つかはしければ、よろこびて、今夜こよひはめでたき夜なり、ゆる〱語かたり玉へとて、主人あるじの妻つま娶よめ娘むすめも打うちまじりてもてなしけり。さてさま〲の雑談ざふだんのなかにあるじのつま牧之ぼくしに、歳としこしの夜は鬼の来くるとて江戸には厄払やくはらひといふものありて鬼を追おふ事をおもしろくいひたてゝ物乞ものこひすときゝしが、むかしもさる事ありしや、鬼の来きたるといふ空言そらごとも古きつたへにやと問とふ。余よこたへて、そはあるじが持玉ふ年浪草としなみぐさに吾山があらましはしるせり、かの書を見玉へといひしに、兎角子とかくしは酒にも酔ゑひたれば戯言たはふれていふやう、鬼のくるといふ事いかでそらごとならん、女などのあつまりをる所は鬼の好このむ所也。鬼のくればこそとしこしの豆まきを鬼やらひとはいふなれ、俳諧はいかいの季きよせにも見えたりといふ。母のかたはらにゐたる十三になる娘がいふ、わぬしその鬼を見し事ありしや。見たりとも〱鬼にもさま〲あり、青鬼赤鬼は常の事也、㒵かほの白くてやさしきを白鬼といひ、黒くて肥太こえふとりたるを黒鬼といふ。おのれ江戸に在ありし時、厄払やくはらひが鬼をかいつかみて西の海へさらりと投なげたるを見たる事あり、その鬼は黒かりし。江戸の歳越としこしにさへ夜は鬼のありくなれば、こゝらのとしこしには鬼はいくらもありくべし。あかり窓まどよりのぞきやすらんとたはむれにおどせば、よめもむすめも空言そらごとのたまふなと口にはいへど、母の左右によりつきておそるゝさま也けり。かゝるをりしも人々の座すはりゐたる后うしろの方にたかきあかり窓ありしが、きびしき音ありてまどをやぶり、掘ほりあげの雪がら〱と崩くづれおちたる中に人の降ふりくだりければ、女はみな吁あといひてうつぶして愕然おびえ迷まどひ、男はみな立あがりておどろきけり。下部しもべらもこのおとにみなはせよりて、崩くづれおちたる雪にまみれたる人を見れば、此家へも常にきたる福一といふ按摩あんまとりの小座頭こざとう也けり。幸ひに疵きずもうけずあたま撫なでまはし腰こしをさする、こは福一なりとてみなわらへばおのれもわらふ。下部しもべらはおちたる雪をとりのけ窓まどをもかりにつくろひなどす。あるじの妻つまはらたてゝ、いかに福一、兎角とかくどのゝ鬼のはなししてをられしに鬼かとおもひて皆みなきもをひやせり、めでたきとしの夜に盲めくらが窓まどよりふりこみしはいまはしき事なり、とく〱いでゆけとてしたゝかにしかりければ、あるじ、さなしかり給ひぞ、福一いかにして窓よりおちいりしぞ、いためし所はなきかといふ。福一うちゑみつゝ、いためし所は候はず、今夜こよひのおめでたを申さんとてこそやどはいでたれ、なにやつのしわざにや、掘ほりあげの道きのふとはちがひてあしもとあしくしおきたれば、あやまちて転こけたるが窓まどをもおしやぶりておち入たる也、わろさにてしたるには候はずゆるし玉へといふ。娵も娘も口をそろへ、鬼にやとていみじくおびえたり、憎にくき盲めくらめと腹立はらたちていふ。あるじのつまいかりをやめず、しかもことしの吉方ゑはうにあたる窓まどをやぶり目のなきものゝ入りしは、かへす〱いまはしき事也、とく〱かへれとのゝしりければ、兎角とかくかたはらより、福一まづかへりて又こよ、そのうちにわびしておくべしといへど、福一かしらをたれものを按あんずるさまなりしが、やがて兎角とかくにむかひ、哥うた一首いつしゆよみ候かきて玉はれといふ。此福一はとしわかけれど俳諧はいかいもざれ哥をもよむものなれば、あるじ、こはおもしろしとて兎角とかくがかきたるをよませてきけば、そのうたに

吉方ゑはうから福一といふこめくら米倉が入りてしりもち餅つくはめでたし

このうたにて人々めでたし〱ときやうじ、手など抃うちていさみよろこび、ふたゝび盃さかづきをめぐらしけり。あるじもんつきの羽織はおりを娶よめにとりいださせて、哥うたのろくとて福一にとらせければ、膝ひざにのせてなでさぐり、あやまちの高名かうみやうしつとてゑみはうけてよろこびつゝ、めでたく歳越としこしにきそはじめせんとて、羽はおりきてなでさぐり、かたちをつくりて猶よろこびけり。之これが吉瑞きちずゐと成なりけん、此年此家の娶よめ初産うひざんに男子なんしをまうけ、やまひもなくておひたち、三ツのとし疱瘡はうさうもかろくして今年七ツになりぬ。福一はかゝる伶俐かしこきものなりしゆゑ、今江戸にありて宦くわんにもすゝみしと聞ぬ。目でたき事どもなりけり。

少年

画者   京水百鶴

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京水百鶴押印の図

北越雪譜初編巻之下 終 全三巻大尾

北越雪譜二編叙

北越雪譜六巻越後塩沢ノ鈴木牧之老人雪窗囲ミレ炉ヲ寒燈隠ルノレ几ニ随筆ナリ、其事出テ二実脚ニ一徒ラニ非二構ヒレ空ヲ架スルレ虚ニ之談ニ一、然ドモ翁固リ不三必シモ期二於梓行ヲ一矣、嚮者ニ郵筒シテ懇二乞ス校正ヲ一、為レ之ガ芟二刈蕪蔓ヲ一摭二擷シ菁英ヲ一先ヅ輯メ二三巻ヲ一以為シ二初編ト一、告テレ翁ニ使ム三書肆文渓堂ヲシテ刊二布レ之一、然後越雪之奇千彙万状供シテ二臥遊ノ資ニ一錦室ノ婦妾市窓ノ妻婢モ得三詳知二越䨮ヲ一、解士通人モ或ハ云フ格致之一助ナリト、爰ヲ以雪譜之名頗ル踴躍セリ、於レ是乎書肆頻リニ乞フ二嗣撰ヲ一、盖以レ知二其ノ残稿在ルヲ一也、余謂ヲモヘラク不シテハレ踏二越地ヲ一不レ可レ説ク二越事ヲ一、仍テ丁酉之夏携ヘ二児京水ヲ一越遊スルコト数十日有リ二紀行ノ作一、再採リ二数修ヲ一刪二補シテ翁之残稿ヲ一以為シ二二編ト一稿定テ将スニ三置ント二序言ヲ一焉、頃者コノコロ暁春連日放チレ晴紅酣ニ緑戦ヒ花神旺壮シテ遊心勃興ス、欲ス下詣二賽シテ成田山威怒王祠ニ一以療セント中錐毛之痾ヲ上矣、夫レ成田山香火之盛ナル世之所レ知也、凡自二江戸一到ル二成田ニ一者抵リ二小網衖橋岸ニ一買ヒ二搭船ノリアヒヲ一水路直ニ往ク二行徳ニ一、都人皆以為ス二捷径チカミチト一、盖行徳ハ一市会也、不レ必トセ二成田香火者ヲ一搭船常ニ歯二列シテ于橋岸ニ一待ツ二行客ヲ一、是以俗呼デ二茲コノ岸ヲ一云ヒ二行徳河岸ト一呼デ二茲ノ船ヲ一云フ二行徳船ト一、余モ亦臨レ此ニ搭船ス、其所ノ二供載一者多ハ是庸卑雑沓猥褻衆口喋嘈タリ、余ガ傍ラ在リ二一僧一士一商一、僧年歯六十許バカリ従フ二一童僧ヲ一、士ハ可バカリ二二十四五一誇觜軽俊殆ンド似リ二学究ニ一、商ハ半老[#左にルビ付き]懜憧市様[#左に「タナモノフウ」のルビ付き終わり]、相ヒ倶ニ接ユレ膝ヲ、余ハ箝黙シテ不三敢テ出サ二一語ヲ一、瓦屋漸尽キ両岸茅葺桜花浮ベレ雪ヲ嫰柳吐キレ烟ヲ村落ノ春景百逞如クレ画ノ頗ル水行之会心也、船既ニ過ギレ半途ヲ庸卑多ハ就キレ眠ニ嘈々自ラ罷ミ寥々可シレ悦ブ、壮士出シ二墨斗ヲ一持シテ二懐楮ヲ一覔モトムレ句ヲ、果シテ是書生也、老僧ハ以二靉靆鏡メカネヲ一披ラクレ書、士閣テレ筆ヲ曰尊者ノ所レ執ル是レ何ノ書ゾ、僧曰北越雪譜ナリ、士曰僕甞テ読ムレ之ヲ兎園ノ冊子何ゾ足ン二以閲一、僧曰貧道一タビ錫ヲ留メ二于北ニ一親シク知ル二越雪ヲ一故特ニ購レ之供ス二以読ムニ一矣、今閲ルニ二京山人ノ序ヲ一彼レ少ク識ルレ字ヲ乎カ、士曰否々不レ然、夫レ京山者文場之奴隷シモベ芸苑之[#左にルビ付き]㒜儓[#左に「マタモノ」のルビ付き終わり]也、近年随二落シテ乎稗史院本之泥中ニ一汚二塗シテ姓名ヲ一遂ニ不レ能脱スルコト二其ノ窠窟ヲ一、雖レ然彼レ自ラ為二李漁金人瑞之流亜ト一文客争イカデカ許レ之乎ヤ、僧咍然トシテ笑而不レ応ゼ、余佯睡ソラネムリシテ聞レ之ヲ、商已ヤメテレ烟タバコヲ曰鄙人書賈也能識ル二刊行之趣ヲ一、凡上梓之書ハ不レ論三編輯之荒誕与二詞章之奇雋ト一只以二多鬻ヲ一為二大著述ト一奉シテ二其作者ヲ一為二揺銭樹カネノナルキ翁ト一、雖下感二服スルノ韻士ヲ一新書ト上苦メバ二其不一レ売唾テ而不レ顧、是書肆之通義[#左にルビ付き]曹耦[#左に「ナカマ」のルビ付き終わり]之常態也、北越雪譜初編之梓一挙シテ販ス二七百余部ヲ一刷板装本スリシタテ至ルレ不ルニ二暇給一故二編ノ刻発兌当ニレ有レ近矣、士不トシテレ然二其言ヲ一調舌不レ止鼓觜頻ニ敲ク、僧手釈ステヽレ巻曰、論説ハ姑ク置ケ足下識ル二京山ヲ一乎ヤ否ヤ、士曰不レ識、僧曰我十年前与レ彼レ会二於一精舎ニ一僅ニ得タリ二一面識ヲ一、不レ為レ無二因縁一、言ヒ畢テ遽然トシテ拍シテ二余カ背ヲ一曰、京山老人醒セレ眠リヲ長兄忘レタルレ我歟カ、余愕然ビツクリトシテ不レ得レ応ルコトヲ、時ニ船着キ二行徳之岸ニ一舟中之人皆上ルレ岸、不レ得下絮二叨吐欵スルコトヲ上于茲コヽニ一矣、此夕綴リテ二其言ヲ於逆旅ノ燈下ニ一以為序云

天保十一年庚子潔月京山人百樹并書 

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京山人百樹押印の図

北越雪譜ほくゑつせつふ二編凡例はんれい

此書このしよ全部ぜんぶ六巻、牧之老人ぼくしらうじんが眠ねふりを駆かるの漫筆まんひつ、梓あづさを俟またざるの稿本かうほんシタガキなり。故ゆゑに走墨乱写そうぼくらんしやし、図づも亦また艸画さうぐわなり。老人らうじん余よに示しめして校訂かうていカンガヘタヾスを乞こふ。因よつて其駁雑トリマゼそのはくざつを刪けづり、校訂かうてい清書せいしよし、図づは豚児とんじセガレ京水に画ゑがゝしめしもの三巻、書賈しよかホンヤの請こひに応おうじ老人に告つげて梓しを許ゆるし以もつて世よに布しきしに、発販はつはんウリダシ一挙いつきよして七百余部よぶを鬻ひさげり。是これに依よりて書肆しよし後編こうへんを乞こふ。然しかれども余よが机上きしやう它たの編筆へんひつに忙せはしく屡しば〱稿かうシタガキを脱だつすデカスるの期約きやくを失うしなひしゆゑ、近日このごろ務つとめて老人が稿本かうほんの残冊ざんさつを訂ていし、以もつて其乞そのこひに授さづく。

牧之ぼくし老人は越後ゑちごの聞人ぶんじんナタカキヒトなり。甞かつてマヘカラ貞介朴実ていかいぼくじつヨキオコナヒを以もつて聞きこえ、屡しば〱県監けんかんアガタモリの褒賞はうしやうホメルを拝はいして氏の国称こくしようを許ゆるさる。生計せいけいイトナミの余暇よかイトマ風雅ふうがを以四方に交まじはる。余が亡兄ぼうけい醒斎せいさい京伝の別号翁をうも鴻書こうしよテガミの友ともなりしゆゑ、余よも亦また是これに嗣つぐ。老人余よに越遊ゑついうを奨すゝめしこと年々なり。余よ固もとより山水に耽ふけるの癖へきあり、ゆゑに遊心いうしん勃ぼつ々[#「勃々」の左に「スヽム」の注記]たれども事に紛まぎれて果はたさず。丁酉の晩夏ばんか遂つひに豚児せがれ京水を従したがへて啓行けいかうタビタチす。始はじめには越後の諸勝しよしようメイシヨを尽つくさんと思ひしが、越地ゑつちに入し後のち、年とし稍やゝ侵しんキヽンして穀価こくか貴踊きようタカクし人心穏おだやかならず、ゆゑに越地を践ふむこと僅わづかに十が一なり。しかれども旅中りよちゆうに於て耳目じもくを新あらたにせし事を挙あげて此書に増修そうしうマシイルす。百樹もゝき曰といふもの是也。

前編ぜんへんに載のせたる三国嶺みくにたふげの図づは、牧之老人が草画さうぐわに傚ならひて京山私儲わたくしして満山まんざんに松樹まつのきを画ゑがけり。余よ越遊ゑついうの時三国嶺を踰こえしに此嶺このたふげはさらなり、前後の連岳れんがくヤマ〱すべて松を見ず。此地にかぎらず越後は松の少すくなき国なり。三国嶺たふげを知る人は松を画しを笑わらふべし。是老人が本編ほんへんの誤あやまりには非あらず、京水が蛇足じやそくなり。

山川村庄さんせんそんしやうはさらなり、凡およそ物の名の訓よみかた清濁すみにごるによりて越後の里言りげんにたがひたるもあるべし。然しかれども里言は多く俗訛ぞくなまりなり、今いま姑しばらく俗に从したがふもあり。本編には音訓おんくんの仮名かなを下くださず、かなづけは余よが所為しわざなり。謬あやまりを本編に駆かること勿なかれ。

余也よや固もとより浅学せんがくにして多く書しよを不読よまず、寒家かんかヤセイヘにして書に不富とまず、少く蔵せしも屡しば〱祝融しゆくいう火ノコトに奪うばゝれて、架上かしやうタナノウヘ蕭然せうぜんサビシたり。依之増修ぞうしうの説せつに於て此事は彼かの書に見しと覚おぼえしも、其書を蔵せざれば急就きうしの用に弁べんぜず、韈癬べつせんムヅカユイするが多し。且かつ浅学せんがくなれば引漏ひきもらしたるも最いと多かるべし。

本編雪の外ほか它たの事を載のせたるは雪譜せつふの名を空むなしうするに似にたれども、姑しばらく記しるして好事かうずの話柄わへいハナシノタネに具ぐす。増修そうしうの説せつも亦また然しかり。

雪の奇状きじやう奇事きじ其大概たいがいは初編に出いだせり。猶なほ軼事てつじオチタコト有あるを以此二編に記しるす。已すでに初編に載のせたるも事の異ことなるは不舎すてずして之これを録ろくす。盖けだし刊本かんほんホリホンは流伝りうでんの広ひろきものゆゑ、初編を読よまざる者ものの為ためにするの意いあり。前後を読人よむひと其層見重出そうけんちようしゆつカサナリイヅルを詰なじること勿なかれ。

釋しやくの字じ釈に作つくるの外、澤たくを沢、驛を駅えきに作つくるは俗ぞくなり、しかれども巻中驛えき澤たくの字多し。姑しばらく俗ぞくに从したがうて駅沢に作り、以梓繁しはんホリテマを省はぶく。余よの省字せうじは皆古法こほふに从したがふ。

巻中の画、老人が稿本かうほんの艸画さうぐわを真しんにし、或あるひは京水が越地に写うつしし真景しんけい、或里人さとびとの話はなしを聞きゝて図づに作りたるもあり、其地に照てらして誤あやまりを責せむることなかれ。

老人編を嗣つぐの意いあり、ゆゑに初編二編といふ。前編後編といはず。

天保十一年庚子仲春

京山人百樹識

北越雪譜二編 巻一

越後塩沢   鈴木牧之  編撰

江戸     京山人百樹 増修

○ 越後の城下

越後の国往古わうごは出羽越中ではゑつちゆうに距またがりし事国史こくしに見ゆ。今は七郡ぐんを以て一国いつこくとす。東に岩船郡いはふねごほり古くは石いはに作る海による蒲原かんばら郡新潟にひがたの湊みなと此郡に属す西に魚沼うをぬま郡海に遠し北に三嶋みしま郡海による刈羽かりは郡海に近し南に頸城くびき郡海に近き処もあり古志こし郡海に遠し以上七郡ぐん也。城下は岩船郡いはふねこほりに村むら上内藤侯五万九千石ヨ蒲原かんばら郡に柴田しばた溝口侯五万石黒川くろかは柳沢侯一万石陣営三日市柳沢弾正侯一万石陣営三嶋郡に与板よいた井伊侯二万石刈羽かりは郡に椎谷しひや堀侯一万石陣営古志郡に長岡ながをか牧野侯七万四千石ヨ頸城くびき郡に高田たかた榊原侯十五万石糸魚川いといかは松平日向侯一万石陣営以上城下の外ほか頗すこぶる豊饒ぶねうニギハヒを為なす処ところ、魚沼うをぬま郡に小千谷をぢや、古志郡に三条さんでう、三嶋郡に寺泊てらとまり○出雲崎いづもざき、刈羽かりは郡に柏崎かしはざき、頸城くびき郡に今町いままちなり。蒲原かんばら郡の新潟にひがたは北海第一の湊みなとなれば福地たる㕝こと論ろんを俟またず。此余このよの豊境はうきやうは姑しばらく略りやくす。此地皆十月より雪降ふる、その深ふかきと浅あさきとは地勢ちせいによる。猶なほ末すゑに論ろんぜり。

○ 古哥こかある旧蹟きうせき

蒲原郡かんばらごほりの伊弥彦山いやひこさん弥一作夜伊弥彦社いやひこのやしろを当国第一の古跡こせきとす。祭まつるところの御神は饒速日命にぎはやひのみことの御子天香語山命あまのかごやまのみことなり。 元明天皇げんみやうてんわうの和銅わだう二年の垂跡すゐしやくとす。社領五百石此山さのみ高山にもあらざれども、越後の海浜かいひん八十里の中ほどに独立どくりうして山脉さんみやくいづれの山へもつゞかず。右に国上山くにかみやま、左に角田かくだ山を提攜ていけいカヽヘして一国の諸山しよざん是これに対たいして拱揖きよういふコシヲカヽメルするが如ごとく、いづれの山よりも見えて実じつに越後の鎮ちんマモリともなるべき山は是よりほかにはあらじとおもはる。さればこそ命みこともこゝに垂跡すゐしやくまし〱たれ。此御神の縁起えんぎ或あるひは灵験れいげん神宝じんはうの類るゐ記すべき㕝あまたあれども姑しばらくこゝに省はぶく。

○さて此山をよみたる古哥に万葉「いや日子ひこのおのれ神さび青雲あをくものたなびく日すら小雨こさめそぼふるよみ人しらず」又家持やかもちに「いや彦の神のふもとにけふしもかかのこやすらんかはのきぬきてつぬ角つきながら」▲長浜ながはま 頸城郡くびきごほりに在あり。三嶋郡とする説もあり家持やかもちの哥に「ゆきかへる雁かりのつばさを休やすむてふこれや名におふ浦うらの長浜ながはま」▲名立なだち 同郡西浜にしはまにあり、今は宿しゆくの名によぶ。 順徳院の御製に承久のみだれに佐渡へ遷幸の時なり「都みやこをばさすらへ出いでし今宵こよひしもうき身名立なだちの月を見る哉かな」▲直江津なほえのつ 今の高田の海浜かいひんをいふ。 同御製に「なけば聞きゝきけば都みやこのこひしきに此里このさとすぎよ山ほとゝぎす」▲越こしの湖みづうみ 蒲原かんばら郡に潟かたとよぶ処多し。里言りげんに湖みづうみを潟かたといふ。その大なるを福嶋潟ふくしまがたといふ、四方三里計ばかり。此潟かたに遠からずして五月雨山さみだれやまあり。貫之つらゆきの哥に「潮しほのぼる越こしの湖みづうみ近ちかければ蛤はまぐりもまたゆられ来きにけり」又俊成卿としなりきやうに「恨うらみてもなにゝかはせんあはでのみ越こしの湖みづうみみるめなければ」又為兼卿ためかねきやう「年としをへてつもりし越こしの湖みづうみは五月雨山さみだれやまの森の雫しづくか」▲柿崎かきざき頸城郡にある駅也 親鸞聖人しんらんしやうにんの詠よみ玉ひしとて口碑こうひに伝つたへし哥に「柿崎にしぶ〱宿やどをもとめしに主あるじの心じゆくしなりけり」按あんずるに、聖人しやうにん御名を善信ぜんしんと申て三十五歳の時讒口ざんこうに係かゝりて越後に謫ながさる、時に承元しようげん元年二月なり。後のち五年を経へて勅免ちよくめんありしかども、法ほふを弘ひろめん為ためとて越後にいまししこと五年なり、故ゆゑに聖人の旧跡きうせき越地に残のこれり。弘法ぐほふ廿五年御歳六十の時洛みやこに皈かへり玉へり。越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年也弘長こうちやう二年十一月廿八日遷化せんげ寿ことぶき九十歳。件くだんの柿崎かきざきの哥も弘法行脚ぐほふあんぎやの時ときの作なるべし。

此外▲有明ありあけの浦うら▲岩手いはでの浦うら▲勢波せばの渡わたし▲井栗ゐくりの森もり▲越こしの松原いづれも古哥あれども、他国たこくにもおなじ名所あればたしかに越後ともさだめがたし。さて今を去㕝さること天保十一子なり五百四十一年前、永仁えいにん六年戌のとし藤原為兼卿ためかねきやう佐渡へ左遷させんの時、三嶋郡寺泊てらどまりの駅えきに順風じゆんふうを待まち玉ひし間あひだ、初君はつぎみといふ遊女いうぢよをめし玉ひしに、初君が哥に「ものおもひこし路ぢの浦うらの白浪しらなみも立かへるならひありとこそきけ」此哥吉瑞きちずゐとなりてや、五年たちてのち嘉元かげん元年為兼卿皈洛きらくありて、九年の後のち正和元年玉葉集ぎよくえふしふを撰えらみの時、初君が件くだんの哥うたを入れられ玉へり、是を越後第一の逸事いつじスクレタコトとす。初君が古跡こせき今寺泊てらどまりに在あり、里俗りぞく初君屋敷やしきといふ。貞享ぢやうきやう元年釈門万元しやくもんまんげん記しるすといふ初君が哥の碑いしぶみありしが、断破かけやぶれしを享和年間きやうわねんかん里入りじん重修ちようしうツクリカヘして今に存そんせり。

○ 雪の元日

凡およそ日本国中に於て第一雪の深き国は越後なりと古昔むかしも今も人のいふ事なり。しかれども越後に於も最もつとも雪のふかきこと一丈二丈におよぶは我住わがすむ魚沼郡うをぬまごほりなり。次に古志こし郡、次に頸城くびき郡なり。其余そのよの四郡ぐんは雪のつもる㕝三郡に比ひすれば浅し。是を以論ろんずれば、我住わがすむ魚沼郡は日本第一に雪の深ふかく降ふる所なり。我その魚沼郡の塩沢しほさはに生うまれ、毎年十月の頃ころより翌年よくとしの三四月のころまで雪を視みる事已すでに六十余年、近日このごろ此雪譜せつふを作るも雪に籠居こもりをるのすさみなり。

○さて我わが塩沢しほさはは江戸を去さること僅わづかに五十五里なり、直道すぐみちを量はからばなほ近かるべし。雪なき時ならば健足たつしやの人は四日ならば江戸にいたるべし。其江戸の元日を聞きけば縉紳朱門しんしんしゆもんヲレキ〱の㕝ことはしらず、市中しちゆうは千門もん万戸こ千歳ちとせの松をかざり、直すぐなる 御代みよの竹をたて、太平の七五三しめを引たるに、新年しんねんの賀客れいしや麻上下の肩かたをつらねて往来ゆきゝするに万歳もうちまじりつ。女太夫とか鳥追とりおひの三味線さみせんにめでたき哥をうたひ、娘の児このやり羽子はご、男の児この帋鳶いかのぼり、見るもの聞きくものめでたきなかに、初日はつひ影かげ花やかにさし昇のぼりたる、実げに新玉あらたまの春とこそいふべけれ。其その元日も此雪国の元日も同おなじ元日なれども、大都会たいとくわいの繁花はんくわと辺鄙へんひの雪中と光景ありさまの替かはりたる事雲泥うんでいのちがひなり。

○そも〱我里わがさとの元日は野も山も田圃たはたも里さとも平一面ひらいちめんの雪に埋うづまり、春を知るべき庭前ていぜんの梅柳の類るゐも、去年雪の降ふらざる秋の末に雪を厭いとひて丸太など立て縄縛なはからげに遇あひたるまゝ雪の中にありて元日の春をしらず。されば人も三四月にいたらざれば梅花を不見みず、翁が句に 春も稍やゝ景色けしきとゝのふ月と梅、と吟ぎんぜしは大都会たいとくわいの正月十五日なり。また「山里は万歳遅おそし梅の花」とは辺鄙へんひの三月なるべし。門松かどまつは雪の中へ建たて、七五三しめかざりは雪の軒のきに引わたす。礼者れいしやは木屐げたをはき、従者ともは藁靴わらぐつなり。雪径みちに階級だん〱ある所にいたれば主人もわらぐつにはきかふる、此げたわらぐつは礼者にかぎらず人々皆しかり。雪全まつたく消きゆる夏のはじめにいたらざれば、草履ざうりをはく事ならず。されば元日の初日影も惟たゞ雪の銀世界せかいを照てらすのみ。一ツとして春の景色けしきを不見みず。古哥こかに「花をのみ待らん人に山里の雪間まの草の春を見せばや」とは雪浅き都みやこの事ぞかし。雪国の人は春にして春をしらざるをもつて生涯しやうがいを終をはる。これをおもへば繁栄豊腴はんえいほういゆの大都会たいとくわいに住すみて年々ねん〱歳々せい〱梅柳ばいりう媆色ぜんしよくの春を楽たのしむ事実じつに天幸てんかうの人といふべし。

○ 雪の正月

初編にもいへる如く我国の雪は鵞毛がまうをなすは稀まれなり、大かたは白砂しらすなを降ふらすが如し。冬の雪はさらに凝凍こほることなく、春にいたればこほること鉄石てつせきのごとし。冬の雪のこほらざるは湿気しめりけなく乾かわきたる沙すなのごとくなるゆゑなり。是これ暖国だんこくの雪に異処ことなるところなり。しかれどもこほりてかたくなるは雪解とけんとするのはじめなり。春にいたりても年としによりては雪の降ふること冬にかはらざれども、積つもること五六尺に過すぎず。天地に阳気やうき有あるを以なるべし。されば春の雪は解とくるもはやし、しかれども雪のふかき年は春も屋上やねのうへの雪を掘ほることあり。掘ほるとは椈ぶなの木にて作りたる木鋤こすきにて土つちを掘ほるごとくして取捨とりすつるを里言りげんに雪を掘といふ、已すでに初編にもいへり。かやうにせざれば雪の重おもきに屋いへを潰つぶすゆゑなり。されば旧冬きうとうの家毎いへごとに掘除ほりのけたる雪と春降積ふりつもりたる雪と道路みちに山をなすこと下にあらはす図づを見てもしるべし。いづれの家にても雪は家よりも高たかきゆゑ、春を迎むかふる時にいたればこゝろよく日光ひのひかりを引んために、明あかしをとる処の窗まどに遮さへぎる雪を他処へ取除とりのくるなり。然しかるに時としては一夜の間あひだに三四尺の雪に降うづめられて家内薄暗うすくらく、心も朦々まう〱として雑煮ざふにを祝いはふことあり。越後はさら也、北国の人はすべて雪の中に正月をするは毎年の事也。かゝる正月は暖国だんこくの人に見せたくぞおもはるゝ。

〔図〕fig58400_32.png
驛中の正月積雪の圖

○ 玉栗たまくり

江戸の児曹こどもが春の遊は、女児こは繍毬てまり羽子擢はごつき、男児ごは紙鴟たこを揚あげざるはなし。我国のこどもは春になりても前にいへるごとく地として雪ならざる処なければ、歩行ほかうに苦くるしく路上みちなかに遊をなす事少すくなし。こゝに玉栗たまくりといふ児戯こどもあそびあり。春にもかぎらず雪中のあそび也始はじめは雪を円成まろめて雞卵たまごの大さに握にぎりかため其上へ〱と雪を幾度もかけて足にて踏堅ふみかため、あるひは柱はしらにあてゝ圧堅おしかため、これを肥こやすといふ。さて手毬てまりの大さになりたる時他の童わらべが作りたる玉栗たまくりを庇下ひさししたなどに置おかしめ、我が玉栗を以他の玉栗にうちあつる、強つよき玉栗弱よわき玉栗を砕くだくをもつて勝負しようぶを争あらそふ。此戯このたはふれ所によりて、○コンボウ○コマ○地独楽ぢこま○雪玉いきんだま里のなまりに雪をいきといふ○ズヽゴ○玉ゴシヨ○勝合かちあひなどいふなり。此玉栗を作つくるに雪に少すこし塩しほを入るれば堅かたくなること石の如し、ゆゑに小児互たがひに塩を入るを禁きんずるなり。こゝを以てみる時は、塩しほは物を堅かたむる物なり。物を堅実けんじつにするゆゑ塩蔵しほづけにすれば肉類にくるゐも不腐くさらず、朝夕嗽くちそゝぐに塩の湯水を以すれば歯はをかためて歯の命を長くすといふ。玉栗は児戯こどもたはふれなれど、塩の物を堅かたくする証あかしとするにたれり。故にこゝに記しるせり。又童わらべのあそびに雪いきン堂だうといふ㕝あり、初編にいだせり。

○羽子擢はごつき 我里俗りぞくはねをつくといはずはねをかへすといふ、うちかへすの心なるべし

江戸に正月せし人の話はなしに、市中にて見上るばかり松竹を飾かざりたるもとに、美うつくしく粧よそほひたる娘たち彩いろどりたる羽子板はごいたを持て並ならび立て羽子をつくさま、いかにも大江戸の春なりとぞ。我里の羽子擢つきは辺鄙へんひとはいひながら、かゝる艶姿やさしきすがたにあらず。正月は奴婢しもべどもゝ少すこしは許ゆるして遊をなさしむるゆゑ、羽子はごを擢つかんとて、まづ其処を見たてゝ雪をふみかためて角力場すまうばのごとくになし、羽子は溲疏うつぎを一寸ンほど筒切になし、これに鸐雉やまどりの尾を三本さしいれる、江戸の羽子に比くらぶれば甚大なり。これを擢つくに雪を掘ほる木鋤こすきを用ふ、力にまかせて擢ゆゑに空そらにあがる㕝甚高し。かやうに大なる羽子ゆゑに童わらべはまじらず、あらくれたる男女うちまじり、はゞきわらぐつなどにて此戯このたはふれをなすなり。一ツの羽子を並ならびたちてつくゆゑに、あやまちて取落とりおとしたるものは始はじめに定ありて、あるひは雪をうちかけ、又は頭かしらより雪をあぶする。その雪襟えり懐ふところに入りて冷つめたきに耐たへざるを大勢が笑ふ、窗まどよりこれを視みるも雪中の一興いつきやうなり。京伝翁が骨董集こつとうしふに上編ノ下下学集かがくしふを引て、羽子板は文化十二年より三百七十年ばかりの前さき、文安のころありしものにて、それよりもなほさきにありし事は詳つまびらかならずといはれたり。又下学集には羽子板にハゴイタ、コギイタと両かなをつけたれば、こぎの子といふも羽子の事なりとあり。我国にも江戸の如くに児女のはねをつく所もあり。

○ 雪吹ふゞきに焼飯やきめしを売うる

雪国にて悚ふるひ懼おそるゝ物は、冬の○雪吹ふゞき○ホウラ、春の雪頽なだれなり。此奇状きじやう奇事きじ已すでに初編にもいへり、されど一奇談いつきだんを聞たるゆゑこゝにしるして暖国だんこくの話柄はなしのたねとす。

○そも〱金銭の貴たつときこと、魯氏ろしが神銭論しんせんろんに尽つくしたれば今さらいふべくもあらず。年としの凶作はもとより事に臨のぞんで餓うゑにいたる時小判を甜なめて腹はらは彭張ふくれず、餓うゑたる時の小判一枚は飯一碗わんの光をなさず。五十余年前の饑饉ききんの時、或所にて餓死がししたる人の懐に小判百両ありしときゝぬ。

○こゝに我が魚沼郡うをぬまごほり藪上やぶかみの庄の村より農夫のうふ一人柏崎かしはざきの駅えきにいたる、此路程みちのり五里計ばかりなり。途中にて一人の苧纑商人をがせあきびとに遇あひ、路伴みちづれになりて往ゆきけり。時は十二月のはじめなりしが数日の雪も此日晴はれたれば、両人肩かたをならべて心こゝろ朗のどかにはなしながら已すでに塚つかの山といふ小嶺ちひさきたふげにさしかゝりし時、雪国の恒つねとして晴天せいてん俄にはかに凍雲とううんを布しき、暴風ばうふう四方の雪を吹散ちらして白日を覆おほひ、咫尺しせきを弁べんぜず。袖襟そでえりへ雪を吹入れて全身みうち凍こゞえて息いきもつきあへず、大風四面よりふきめぐらして雪を渦うづに巻揚まきあぐる、是を雪国にて雪吹といふ。此ふゞきは不意ふいにあるものゆゑ、晴天せいてんといへども冬の他行たぎやうには必蓑笠みのかさを用ること我国の常なり。二人は橇かじきに雪を漕こぎつゝ雪にあゆむを里言にこぐといふ互たがひに声こゑをかけて助たすけあひ辛からうじて嶺たふげを逾こえけるに、商人あきひと農夫のうふにいふやう、今日の晴天に柏崎かしはざきまでは何ともおもはざりしゆゑ弁当べんたうをもたず、今空腹すきはらにおよんで寒さむさに堪たへず、かくては貴殿おみさまに伴ともなひて雪を漕こぐことならず、さいぜんの話はなしにおみさまの懐ふところに弁当べんたうありときゝぬ、夫それを我に与あたへたまふまじきや、惟たゞには貰もらふまじ、こゝに銭六百あり、死しぬか活いきるかの際きはにいたりて此銭を何にかせん、六百にて弁当を売うり玉へといふ。農夫のうふは貧乏びんぼふの者なりしゆゑ六百ときゝて大によろこび、焼飯やきめし二ツを出して六百の銭に替かへけり。商人は懐ふところにありて温あたゝまりのさめざる焼飯の大なるを二ツ食し、雪に咽のどを潤うるほして精心せいしん健すこやかになり前にすゝんで雪をこぎけり。

〔図〕fig58400_33.png
塚山嶺雪吹圖

○かくていそぐほどに雪吹ふゞきます〱甚しく、橇かじきを穿はくゆゑ道みち遅おそく日も已すでに暮くれなんとす。此時にいたりて焼飯を売たる農夫のうふは肚はら減へりて労つかれ、商人は焼飯に腹はら満みち足をすゝめて往ゆく。農夫は屡しば〱後おくるるゆゑ終つひには棄すてて独ひとり先さきの村にいたり、しるべの家に入りて炉辺ろへんに身みを温あたゝめて酒を酌くみ、始はじめて蘇生よみがへりたるおもひをなしけり。

○さてしばらくありてほうい〱と呼声よぶこゑ遠とほく聞きこゆるを家内の者きゝつけ、ふゞきにほうい〱とよぶは人にたすけを乞ふことば也、雪中の常とす雪吹倒ふゞきたふれぞ、それ助けよとて、近隣あたりとなりの人をもよび集あつめ手毎てごとに木鋤こすきを持て木鋤を持は雪に埋りし雪吹たふれの人をほりいださんため也、これも雪国の常也走行はせゆきしが、やゝありて大勢のもの一人の死骸しがいを家の土間どまへ舁かき入れしを、かの商人あきびとも立寄たちより見れば、最前さいぜん焼飯やきめしを売うりたる農夫なりしとぞ。この苧纑をがせ商人、或時あるとき余よが俳友はいいうの家に逗留とうりうの話はなしに件くだんの事を語かたり出いだし、彼時かのとき我六百の銭を惜をしみ焼飯を買かはずんば、雪吹ふゞきの中うちに餓死うゑじにせんことかの農夫のうふが如くなるべし、今日の命も銭六百のうちなりとて笑ひしと俳友はいいうが語かたれり。

○ 雪中の戯場しばゐ

五穀豊熟ごこくほうじゆくして年としの貢みつぎも心易こゝろやすく捧さゝげ、諸民しよみん鼓腹はらつゞみの春に遇あひし時、氏神の祭まつりなどに遭あひしを幸に地芝居を興行こうぎやうする㕝あり。役者は皆其処の素人しろうとあるひは近村きんそん近駅えきよりも来るなり。師匠ししやうは田舎芝居の役者やくしやを傭やとふ。始はじめに寺などへ群居よりあひて狂言をさだめてのち、それ〱の役を定む。此群居よりあひの議論ぎろん紛々ふん〱として一度にて果はたしたる㕝なし。事定りてのち寺に於て稽古けいこをはじむ、技わざ熟じゆくしてのち初日をさだめ、衣裳いしやう髢かつらのるゐは是を借かすを一ツの業なりはひとするものありて物ものの不足たらざるなし。此芝居二三月の頃ころする事あり、此時はいまだ雪の消きえざる銀世界せかいなり。されば芝居を造つくる処、此役者等らが家はさらなり、親類しんるゐ縁者えんじや朋友はういうよりも人を出し、あるひは人を傭やとひ芝居小屋場の地所の雪を平たひらかに踏ふみかため、舞台ぶたい花道はなみち楽屋がくや桟敷さじきのるゐすべて皆雪をあつめてその形かたちにつかね、なりよく造つくること下の図づを見て知るべし。此雪にて造つくりたる物、天又人工じんこうをたすけて一夜の間に凍こほりて鉄石の如くになるゆゑ、いかほど大入にてもさじきの崩くづるる気づかひなし。弥生やよひの頃ころは雪もやゝ稀まれなれば、春色しゆんしよくの空そらを見て家毎いへごとに雪囲かこひを取除とりのくるころなれば、処々より雪かこひの丸太あるひは雪垂ゆきたれとて茅かやにて幅八九尺広ひろさ二間ばかりにつくりたる簾すだれを借かりあつめてすべての日覆ひおひとなす。ぶたい花みちは雪にて作りたる上に板をならぶる、此板も一夜のうちに冰こほりつきて釘付くぎづけにしたるよりも堅かたし。暖だん国に比くらぶれば論ろんの外ほかなり。物を売うる茶屋をも作つくる、いづれの処も平一面めんの雪なれば、物を煮処にるところは雪を窪くぼめ糠ぬかをちらして火を焼たけば、雪の解とけざる事妙なり。

○さて戯場しばゐの造作ざうさく成就じやうじゆしても春の雪ふりつゞきて連日れんじつ晴はれを見ず、興行こうぎやうの初日のびる時は役者になりたる家はさら也、此しばゐを見んとて諸方に逗留とうりうの客きやく多おほく毎日空そらをながめて晴はれを待まちわび、客きやくのもてなしもしつくして殆ほとんど倦果うみはて、終つひには役者仲間なかまいひあはせ、川の冰こほりを砕くだきて水を浴あび千垢離せんごりして晴はれを祈いのるもをかし。

〔図〕fig58400_34.png
雪中演場を造圖

百樹もゝき曰いはく、余よ丁酉の夏北越ほくゑつに遊びて塩沢に在し時、近村に地芝居ありと聞きゝて京水と倶ともに至りしに、寺の門の傍かたはらに杭くひを建たてて横よこに長ながき行燈あんどんあり、是に題だいして曰いはく、当院たうゐん屋根普請やねふしん勧化くわんけの為ため本堂ほんだうに於おいて晴天せいてん七日の間芝居興行こうぎやうせしむるものなり、名題なだいは仮名手本かなでほん忠臣蔵役人替名とありて役者やくしやの名多おほくは変名へんみやうなり。寺の門内には仮店かりみせありて物を売り、人ひと群ぐんをなす。芝居には仮かりに戸板を集あつめて囲かこひたる入り口あり、こゝに守まもる者ものありて一人前まへ何程と価あたひを取とる、これ屋根普請やねふしんの勧化くわんけなり。本堂の上り段に舞台ぶたいを作り掛かけ、左に花道あり、左右の桟敷さじきは竹牀簀たけすのこ薦張こもばりなり。土間には薦こもを布しき、筵むしろをならぶ。旅たびの芝居大概たいがいはかくの如しと市川白猿が話はなしにもきゝぬ。桟敷さじきのこゝかしこに欲然もえたつやうな毛氈まうせんをかけ、うしろに彩色画さいしきゑの屏風びやうぶをたてしはけふのはれなり。四五人の婦みな綿帽子わたばうししたるは辺鄙へんびルビの「へんび」はママに古風を失うしなはざる也。観人みるひと群ぐんをなして大入なれば、猿さるの如き童わらべども樹きにのぼりてみるもあり。小娘ちひさきむすめが笊ざるを提さげて冰々こほり〱とよびて土間どまの中を売うる。笊ざるのなかへ木の青葉あをばをしき雪の冰こほりの塊かたまりをうる也。茶を売べきを氷を売るは甚めづらし、氷のこと削氷けづりひの条くだりにいふべし。

○さて口上いひ出て寺へ寄進きしんの物、あるひは役者へ贈物おくるもの、餅酒のるゐ一々人の名を挙あげ、品しなを呼よびて披露ひろうし、此処忠臣蔵七段目はじまりといひて幕まく開ひらく。おかるに扮なりしは岩井玉之丞とて田舎芝居の戯子やくしやなるよし、頗すこぶる美びなり。由良の助に扮なりしは余よが旅中りよちゆう文雅ぶんがを以もつて識しる人ひとなり、年若としわかなればかゝる戯たはふれをもなすなるべし。常にはかはりて今の坂東彦三郎に似にたり。技げいも又観みるに足たれり。寺岡平右ヱ門になりしは余よが客舎かくしやにきたる篦頭かみゆひなり、これも常にかはりて関三十郎に似て音声おんせいもまた天然てんねんと関三の如し。余よ京水と相あひ顧かへりみて感じ、京水たはふれにイヨ尾張屋と誉ほめけるが、尾張屋は関三の家号いへななる事通じがたきや、尾張屋とほむるものひとりもなし。一幕まくにてかへらんとせしに守る者木戸をいださず、便所べんじよは寺の後うしろにあり、空腹くうふくならば弁当べんたうを買かひ玉へ、取次とりつぎ申さんといふ。我のみにあらず、人も又いださず。おもふに、人ひと散ちれば演場しばゐの蕭然さみしくなるを厭いとふゆゑなるべし。いづくにか出いづる所あらんと尋たづねしに、此寺の四方垣かきをめぐらして出べきの隙ひまなし。折をりふし童わらべが外より垣をやぶりて入りたるその穴あなより両人くゞりいでしは、これも又可笑をかしき一ツにてぞありし。

○ 家内かないの氷柱つらゝ

旧冬きうとうより降積ふりつもりたる雪家の棟むねよりも高く、春になりても家内薄暗うすくらきゆゑ、高窓たかまどを埋うづめたる雪を掘ほりのけて明あかりをとること前にもいへるが如し。此屋上やねの雪は冬のうちしば〱掘のくる度々に、木鋤こすきにてはからず屋上やねを損そんずる㕝あり。我国の屋上やねおほかたは板葺いたぶきなり、屋根板は他国に比くらぶれば厚あつく広ひろし。葺たる上に算木さんぎといふ物を作つくり添そへ石を置おきて鎮おもしとし風を防ふせぐの便たよりとす。これゆゑに雪をほりのくるといへどもつくすことならず、その雪のうへに早春さうしゆんの雪ふりつもりて凍こほるゆゑ屋根のやぶれをしらず。春も稍深やゝふかくなれば雪も日あたりは解とけあるひは焼火たきびの所雪早く解とくるにいたりて、かの屋根の損そんじたる処木羽こばの下たをくゞりなどして雪水漏もるゆゑ、夜中俄に畳たゝみをとりのけ桶鉢をけはちのるゐあるかぎりをならべて漏もりをうくる。もる処を修治つくろはんとするに雪全まつたくきえざるゆゑ手をくだす㕝ならず、漏は次第にこほりて座敷ざしきの内にいくすぢも大なる氷柱つらゝを見る時あり。是暖国だんこくの人に見せたくぞおもはる。

百樹曰、余よ越遊ゑついうして大家の造つくりやうを見るに、楹はしらの太ふときこと江戸の土蔵のごとし。天井てんじやう高く欄間らんま大なり、これ雪の時明あかりをとるためなり。戸障子としやうじ骨太ほねふとくして手丈夫ぢやうぶなるゆゑ、閾しきゐ鴨柄かもゑも広ひろく厚あつし。すべて大材たいさいを用もちふる事目を駭おどろかせり、これ皆雪に潰つぶれざるの用心なりとぞ。江戸の町にいふ店下たなしたを越後に雁木がんぎ又は庇ひさしといふ、雁木の下広くして小荷駄こにだをも率ひくべきほどなり、これは雪中にこの庇ひさし下を往来ゆきゝの為ためなり。余よ越後より江戸へ皈かへる時高田の城下を通とほりしが、こゝは北越第一の市会しくわいなり。商工しやうこう軒のきをならべ百物備そなはらざることなし。両側一里余庇ひさし下つゞきたるその中を往ゆくこと、甚意快いくわいコヽロヨイなりき。文墨ぶんぼくの雅人がじんも多しときゝしが、旅中りよちゆう年としの凶きやうするに遭あひ、皈家きかを急いそぎしゆゑ剌[#「刺」の左に「テフダ」の注記]《し》を入れざりしは今に遺憾ゐかんとす。

○ 雪中歩行ほかうの用具ようぐ

雪中歩行ほかうの具ぐ初編に其図そのづを出いだししが製作せいさくを記しるさず、ふたゝびその詳つまびらかなるを示しめす。

〔図〕fig58400_35.png
雪中歩行の藁沓等の用具図

○藁わらひとたけにてあみたつる。はじめはわらのもとを丸けてあみはじめ、末にいたりてわらをまし二筋にわけ折かへし、

○をはりはまん中にて結びとむる。是雪中第一のはきもの也。童もこれをはく也。上品なるはあみはじめに白紙を用ひ、ふむ所にたゝみのおもてを切入る。

○是はうちわらにて作りあむ。常の〔「韈のつくり」の「罘-不」に代えて「冂<人」〕たびのまゝ是をはきて雪中に歩行しても、他の坐につく時足をそゝぐにおよばず。あみやうは甚むづかしきものなり、此図は大略をしるす。

○他国には革にて作りたるを見る。泥行どろみちには便なるべし。我国の雪中には途みちに泥どろある所なし、ゆゑにはき物はげたの外わらにてつくる。げたに、●駒の爪つめ●牛のつめなど、さま〲名もあり、男女の用その形もかはれど、さのみはとて図せず。

○ハツハキといふは里俗りぞくのとなへなり、すなはち裹脚はゞきなり。わらのぬきこあるひは蒲がまにても作る。雪中にはかならず用ふ、やまかせぎは常にも用ふ。作りやう図を見て大略を知るべし。やすくいへばわらのきやはんなり。わらは寒をふせぐものゆゑ、雪のはきもの大かたはわらにて作るなり。

〔図〕fig58400_36.png
雪中歩行の胸あて等の用具図

○シナ皮とて深山みやまにある木の皮にて作る、寸尺は身に応じ作る。大かたはたて二尺三寸はゞ二尺ばかりなり、胸むねあてともいふ。前より吹つくる雪をふせぐために用ふ、農業には常にも用ふ。他国にもあるなり。

○シブガラミはあみはじめの方を踵きびすへあて、左右のわらを足頭あしくびへからみて作るなり。里俗わら屑くづのやはらかなるをシビといふ。このシビにて作り、足にからみはくゆゑに、シビガラミといふべきをシブガラミと訛なまりいふなり。

○かんじきは古訓こくんなり、里俗りぞくかじきといふ。たて一尺二三寸よこ七寸五六分、形かたち図づの如くジヤガラといふ木の枝にて作る。鼻は反そらしてクマイブといふ蔓つる又はカヅラといふつるをも用ふ。山漆やまうるしの肉付の皮にて巻かたむ。是は前に図したる沓の下にはくもの也、雪にふみこまざるためなり。

○すかりはたて二尺五六寸より三尺余、横一尺二三寸、山竹をたわめて作る。○かじき○すかりの二ツは冬の雪のやはらかなる時ふみこまぬ為に用ふ。はきつけぬ人は一足もあゆみがたし。なれたる人はこれをはきて獣けものを追ふ也。右の外、男女の雪帽子ばうし雪下駄げた、其余そのよ種々雪中歩用ほようの具ぐあれども、薄はく雪の国に用ふる物に似にたるはこゝに省はぶく。

〔図〕fig58400_37.png
すかりの図

百樹もゝき曰、余よ北越に遊びて牧之老人が家に在し時、老人家僕かぼくに命めいじて雪を漕こぐ形状すがたを見せらる、京水傍かたはらにありて此図を写うつせり。穿物はくものは、○橇かんじき○縋すかりなり。戯たはふれに穿はきてみしが一歩も進すゝむことあたはず、家僕かぼくがあゆむは馬を御ぎよするがごとし。

○ 輴そり

輴そり字彙禹王うわう水を治をさめし時載のりたる物四ツあり、水には舟ふね、陸りくには車、泥どろには輴そり、山には欙かんじき。書経註しかれば此輴そりといふもの唐土もろこしの上古よりありしぞかし。彼かれは泥行でいかうの用なれば雪中に用ふるとは製作せいさく異ことなるべし。輴そりの字、○毳そり○蕝そり○橇そり○秧馬そり、諸書しよしよに散見さんけんす。或あるひは○雪車そり○雪舟そりの字を用ふるは俗用ぞくようなり。

そも〱此輴そりといふ物、雪国第一の用具。人力じんりきを助たすくる事船と車に同おなじく、且そのうへに作つくる事最易いとやすきは図づを見て知るべし。堀川百首ほりかはひやくしゆ兼昌かねまさの哥に、「初深雪はつみゆき降ふりにけらしなあらち山越こしの旅人たびびと輴そりにのるまで」この哥をもつても我国にそりをつかふの古ふるきをしるべし。前にもしば〱いへるごとく、我国の雪冬は凍こほらざるゆゑ、冬に輴そりをつかへば雪におちいりて擿ひくことならじ。輴は春の雪鉄石のごとく凍こほりたる正二三月の間に用ふべきもの也。其時にいたるを里俗りぞく輴道そりみちになりしといふ。

俳諧はいかいの季寄きよせに雪車そりを冬とするは誤あやまれり。さればとて雪中の物なれば春の季きには似気にげなし。古哥にも多くは冬によめり、実じつにはたがふとも冬として可なり。

輴そりは作り易やすき物ゆゑ、おほかたは農商のうしやう家毎いへごとに是を貯たくはふ。されば載のするものによりて大小品々あれども作りやうは皆同じやうなり、名も又おなし。只たゞ大なるを里俗に修羅しゆらといふ、大石大木をのするなり。

山々の喬木たかききも春二月のころは雪に埋うづまりたるが梢こずゑの雪は稍やゝ消きえて遠目とほめにも見ゆる也。此時薪たきゞを伐きるに易やすければ農人等のうにんらおの〱輴そりを拖ひきて山に入る、或はそりをば麓ふもとに置おくもあり。常には見上る高枝たかきえだも埋うづまりたる雪を天然てんねんの足場あしばとして心の儘まゝに伐きりとり、大かたは六把はを一人まへとするなり。さて下に三把を並ならべ、中には二把、上うへには一把、これを縄なはにて強く縛くゝし麓ふもとに臨のぞんで蹉跌すべらかすに、凍こほりたる雪の上なれば幾百丈の高も一瞬まばたきの間まにふもとにいたるを輴そりにのせて引ひきかへる。或はまた山に九曲まがりくねりあるには、件くだんのごとくに縛くゝしたる薪たきゞの輴そりに乗のり、片足かたあしをあそばせて是にて楫かぢをとり、船を走はしらすがごとくして難所なんじよを除よけて数百丈の麓ふもとにくだる、一ツも過あやまつことなし。其術そのじゆつ学まなばずして自然しぜんに得うる処奇々妙々なり。

輴そりを引て薪たきゞを伐きることいひあはせて行ゆくときは、二三人の食しよくを草にて編あみたる袋にいれて輴そりにくゝしおくことあり。山烏やまからすよくこれをしりてむらがりきたり、袋をやぶりて食しよくを喰尽くらひつくす。樵夫きこりはこれをしらず、今日の生業かせぎはこれにてたれり、いざや焼飯やきめしにせんとて打より見れば一粒つぶものこさず、烏からすどもは樹上きのうへにありて啼なく。人はむなしく烏を睨にらみて詈のゝしり、空肚へりたるはらをかゝへて輴哥そりうたもいでず、輴をひきてかへりし事もありしと、その人のかたりき。

〔図〕fig58400_38.png秋月庵牧之筆の図、輴の全図

そりをひくにはかならずうたうたふ、是を輴哥そりうたとてすなはち樵哥せうかなり。唱哥しやうがの節ふしも古雅こがなるものなり。親おやあるひは夫おつと山に入り輴そりを引てかへるに、遠く輴哥そりうたをきゝて親夫おやをつとのかへるをしり、輴そりに遇あふ処までむかへにいで、親夫をば輴に積つみたる薪たきゞに跨またがらせて、妻つまや娘むすめがこれをひきつゝ、これらも又輴哥をうたうてかへるなど、質朴しつぼくの古風こふう今目前もくぜんに存そんせり。是繁花はんくわをしらざる幽僻いうへきの地なるゆゑなり。

春もやゝ景色とゝのふといひし梅も柳も雪にうづもれて、花も緑みどりもあるかなきかにくれゆく。されど二月きさらぎの空そらはさすがにあをみわたりて、朗々のどかなる窓まどのもとに書読ふみよむをりしも遙はるかに輴哥そりうたの聞きこゆるはいかにも春めきてうれし。是は我のみにあらず、雪国の人の人情にんじやうぞかし。

百樹もゝき曰いはく、我が幼年えうねんの頃は元日のあしたより扇々と市中をうりありく声こゑ、あるひは白酒々の声も春めきて心も朗のどかなりしが此声今はなし。鳥追の声はさらなり、武家のつゞきて町に遠所には江鰶こはだの鮨すし鯛たひのすしとうる声今もあり、春めくもの也。三月は桜草うる声に花をおもひ、五月は鰹々かつを〱に白妙しろたへの垣根をしたふ。七夕の竹ヤ々々は心涼しく、師走しはすの竹ヤ〱はすゝはらふ竹うりなり聞きくに忙せはし。物皆季に応おうじて声をなし、情に入る事天然の理なり。胡笳こかの悲かなしみも又然らん。件くだんのは人の声なり、ましてや春の鶯あるひは蛙、夏の蝉、秋の初雁、鹿、虫の音ね、冬の水鵲ちどりをや。本編ほんへん輴哥そりうたをきゝ春めきてうれしとは真境実事しんきやうじつじ文客の至情なり、我是に感かんじてこゝに数言すげんを置おく。輴哥そりうたの春めくこと江戸人にはおもひもよらざる奇情なり、これに似たる事猶諸国にもあるべし。

糞こやしをのする輴哥そりあり、これをのするほどに小ちひさく作りたる物なり。二三月のころも地として雪ならざるはなく、渺々びやう〱として田圃たはたも是下このしたに在ありて持分もちぶんの境さかひもさらにわかちがたし。しかるにかの糞こやしのそりを引てこゝに来り、雪のほかに一点てんの目標めじるしもなきに雪を掘ほること井を掘が如くにして糞こやしを入るに、我田の坪にいたる事一尺をもあやまらず、これ我が農奴等のうぬらもする事なり。茫々ばう〱ヒロ〱たる雪上何を目的めあてにしてかくはするぞと問とひしに、目あてとする事はしらず、たゞ心にこゝぞとおもふ所その坪にはづれし事なしといへり。所為しわざは賤いやしけれども芸術げいじゆつの極意ごくいもこゝにあるべくぞおもはるゝゆゑに、こゝにしるして初学しよがくの人芸げいに進すゝむの一端はしを示しめす。

輴そりの大なるを里言りげんに修羅しゆらといふ事前にもいへり、これに大材木あるひは大石をのせてひくを大持だいもちといふ。ひとゝせ京都本願寺御普請の時、末口五尺あまり長さ十丈あまりの槻けやきを拖ひきし事ありき。かゝる時は修羅しゆらを二ツも三ツもかくるなり。材木は雪のふらざる秋伐きりてそのまゝ山中におき、輴そりを用ふる時にいたりてひきいだす。かゝる大材をも拖ひくをもつて雪の堅かたきをしるべし。田圃はたも平一面の雪なればひくべき所へ直道すぐみちにひきゆくゆゑ甚弁べんなり。修羅しゆらに大綱つなをつけ左右に枝綱えだつないくすぢもあり、まつさきに本願寺御用木といふ幟のぼりを二本持もつ、信心の老若男女童等わらべらまでも蟻ありの如くあつまりてこれをひく。木やり音頭取おんどとり五七人花やかなる色木綿いろもめんの衣類いるゐに彩帋いろがみの麾ざい採とりて材木の上にありて木やりをうたふ。その哥うたの一ツにハア〽うさぎ〱児兎こうさぎハアヽ〽わが耳はなぜながいハアヽ〽母の胎内たいないにいた時に笹さゝの葉はをのまれてハアア〽それで耳がながい〽大持がうかんだハアア〽花の都みやこへめりだしたいく百人同音に〽いゝとう〱〽そのこゑさまさずやつてくれ〽いゝとう〱〱。

児曹こどもらが手遊の輴そりもあり。氷柱つらゝの六七尺もあるをそりにのせて大持の学びをなし、木やりをうたひ引あるきて戯れあそぶなど、暖国だんこくにはあるまじく聞きゝもせざる事なるべし。猶輴そりに種々の話はなしあれどもさのみはとてもらせり。

○ 春寒しゆんかんの力ちから

春にいたれば寒気地中より氷結いてあがる。その力礎いしずへをあげて椽えんを反そらし、あるひは踏石ふみいしをも持あぐる。冬はいかほど寒かんずるともかゝる事なし。さればこそ雪も春は凍こほりて輴そりをもつかふなれ。屋根の雪を掘ほりのけてつみ上あげおくを、里言りげんに掘揚ほりあげといふ。前にもいへり往来ゆきゝの路みちにも掘あげありて山をなすゆゑ、春雪のこほるにいたれば、この雪の山に箱梯はこばしごのごとく階だんを作つくりて往来のたよりとす。かやうの所いづかたにもあるゆゑに下踏げたの歯はに釘くぎをならべ打うちて蹉跌すべらざる為ためとす。唐土もろこしにては是を欙るゐとて山にのぼるにすべらざる履はきものとす、欙るゐ和訓わくんカンジキとあり。

○ シガ*10

冬春にかぎらず雪の気物きものにふれて霜しものおきたるやうになる、是を里言りげんにシガといふ。戸障子としやうじの隙すきよりも雪の気入りて坐敷ざしきにシガをなす時あり、此シガ朝噋あさひの温気あたゝまりをうくる処のは解とけておつる。春の頃野山の樹木きゞの下枝えは雪にうづもれたるも稍こずゑは雪の消きえたるに、シガのつきたるは玉もて作りたる枝えだのやうにて見事なるものなり。川辺かはべなどはたらく者には髪かみの毛けにもシガのつく事あり、此シガ我が塩沢しほざはにはまれなり。おなじ郡こほりの中うち小出嶋こいでしまあたりには多し、大河に近きゆゑ水気すゐきの霜となるゆゑにやあらん。

○ 初夏しよかの雪

我国の雪里地さとちは三月のころにいたれば次第しだい々々に消きえ、朝あさ々は凍こほること鉄石の如くなれども、日中ひなかは上よりも下よりもきゆる。月末にいたれば目にも留とまるほどに昨日今日きのふけふと雪の丈け低くなり、もはや雪も降ふるまじと雪囲かこひもこゝかしこ取のけ、家のほとり庭にはなどの雪をも掘ほりすつるに、雪凍りて堅かたきゆゑ雪を大鋸おほのこぎりにて大鋸○里言に大切だいぎりといふひきわりてすつる。その四角なる雪を脊負せおひあるひは担持になひもちにするなど暖国だんこくの雪とは大に異ことなり、雪に枝えだを折れじと杉丸太をそへてしばりからげおきたる庭樹にはきなども、解ときほどけばさすがに梅は雪の中に莟つぼみをふくみて春待かほなり、これ春の末なり。此時にいたりて去年十月以来このかた暗くらかりし坐敷ざしきもやう〱明あかるくなりて、盲人まうじんの眼めのひらきたる心地せられて、雛はかざれども桃の節供は名のみにて花はまだつぼみなり。四月にいたれば田圃たはたの雪も斑まだらにきえて、去年秋の彼岸ひがんに蒔まきたる野菜やさいのるゐ雪の下に萌もえいで、梅は盛をすぐし桃桜は夏を春とす。雪に埋りたる泉水せんすゐを掘ほりいだせば、去年初雪より以来このかた二百日あまり黒闇まつくらの水のなかにありし金魚きんぎよ緋鯉ひこひなんどうれしげに浮泳うかみおよぐも言ものいはゞやれ〱うれしやといふべし。五月にいたりても人の手をつけざる日蔭ひかげの雪は依然いぜんとして山をなせり、況いはんや山林幽谷さんりんいうこくの雪は三伏の暑中にも消ざる所あり。

○ 削氷けづりひ

百樹曰、余丁酉の年の晩夏豚児せがれ京水を従したがへて北越に遊あそびし時、三国嶺みくにたふげを踰こえしは六月十五日なりしに、谷の底そこに鶯をきゝて、

足あしもとに鶯を聞く我もまた谷わたりするこし越の山ぶみ

拙作せつさくなれども実境じつきやうなれば記しるす。此嶺たふげうちこし四里山径やまみち隆崛りうくつケハシクマガルして数武すぶチトノアヒダも平坦へいたんの路を践ふまず浅貝あさかひといふ駅えきに宿やどり猶なほ○二居嶺ふたゐたふげ二リ半を越こえて三俣みつまたといふ山駅さんえきに宿し、芝原嶺しばはらたふげを下り湯沢ゆさはに抵いたらんとする途みちにて遙はるかに一楹いちえいの茶店さてんを見る。庇ひさしのもとに床ゆかありて浅き箱やうのものに白く方かくなる物を置おきたるは、遠目とほめにこれ石花菜ところてんを売ならん、口には上のぼらずとおもひながらも、山をはなれて暑もはげしく汗あせもしとゞに足もつかれたれば茶店さてんあるがうれしく、京水とともにはしりいりて腰をかけ、かの白き物を見ればところてんにはあらで雪の氷なりけり。六月に氷をみる事江戸の目には最珍いとめづらしければ立よりて熟視よくみれば、深さ五寸計ばかりの箱に水をいれその中に小ちひさき踏石ふみいしほどの雪の氷をおきけり。売茶翁ちやをうるおきなに問ば、これは山蔭やまかげの谷にあるなり、めしたまはゞすゝめんといふ。さらばとて乞こひければ翁おきな菜刀なきりはうてうを把とり、盎さらのなかへさら〱と音おとして削けづりいれ、豆の粉こをかけていだせり。氷に黄きな粉こをかけたるは江戸の目には見も慣なれず可笑をかしければ、京水と相目あひもくして笑わらひをしのびつゝ、是は価あたひをとらすべし、今ひとさらづゝ豆の粉をかけざるをとて、両掛りやうがけに用意よういしたる沙糖さたうをかけたる削氷けづりひに、歯もうくばかり暑をわすれたるは珍めづらしき事いはんかたなし。

そも〱このけづり氷ひといふ物を珍味ちんみとする事古書こしよに散見さんけんせしその中に、定家卿の明月記に曰『元久二年七月廿八日途みちより和哥所わかどころに参まゐる、家隆朝臣かりうあそん唐櫃二合からひつふたつを取寄とりよせらる、○破子わりご○瓜うり○土器かはらけ○酒等さけとうあり、又寒氷かんひやうあり自みづから刀たうを取とり氷を削けづらる、興きやうに入る事甚し』本書は漢文也件くだんの元久二年乙丑より今天保十一年まで凡六百三十余年を歴へて、古人の如く削氷けづりひを越後の山村さんそんに賞味しやうみしたる事珍ちんとすべし奇とすべし。実じつに好古こうこの肝きもを清きよくす。

〔図〕fig58400_39.png
六月賣雪図

○按あんずるにひといふは冰こほりの本訓ほんくん、こほりと訓よむは寒凝こゞえこるの義なりと士清翁が和訓栞わくんかんにいへり。氷室ひむろといふ事、俳諧の季寄きよせといふものなどにもみえたれば普あまねく人ひとの知りたる事にて、周礼にもいでたれば唐土のむかしにもありしことなり。 御国みくには仁徳紀に見えたればその古きを知るべし。延喜式えんぎしきに山城国葛城郡かつらきごほりに氷室ひむろ五ヶ所をいだせり、六月朔日氷室より氷をいだして朝庭てうていに貢献こうけんするを、諸臣しよしんにも頒賜わかちたまふ事年毎としごとの例れいなるよしなり。前に引し明月記の寒氷かんひやうは朝庭よりの古例これいの賜たまものにはあるべからず、いかんとなれば削氷けずりひを賞味せられしは七月廿八日なり、六月朔日にたまはりたる氷、七月廿八日まで消きえずやあるべき。明月記は千写しや百摹もの書なれば七は六の誤あやまりとしても氷室を出いでし六月の氷朝あしたを待まつべからず。盖けだし貢献こうけんの後氷室守ひむろもりが私に出いだすもしるべからず。

○さて氷室ひむろとは厚氷あつきこほりを山蔭などの極陰ごくいんの地中に蔵置おさめおき、屋いへを作りかけて守らす、古哥にもよめる氷室守ひむろもり是なり。其氷室ひむろは水の氷こほりををさめおくやうに諸書しよしよの注釈ちゆうしやくにも見えしが、水の氷れるは不潔ふけつなり、不潔をもつて貢献こうけんにはなすべからず。且水の冰こほりは地中に在ありても消易きえやすきものなり、是これ他たなし、水は極陰の物なるゆゑ陽に感かんじ易やすきゆゑなり。我越後に削氷けづりひを視て思おもふに、かの谷間たにあひに在ありといひしは天然てんねんの氷室なり。むかしの冰室といふは雪の氷こほりむろなるべし。極陰の地に竅あなを作り、屋を造つくり掛かけ、別に清浄しやう〲の地に垣かきをめぐらして、人に踏ふませず、鳥獣てうじうにも穢けがさせず、而しかして雪を待まち、雪ふれば此地の雪をかの竅あなに撞つきこめ埋うづめ、人是を守り、六月朔日是を開ひらき、最もつとも清浄しやう〲なる所を貢献こうけんせしならん歟か。是己おのれが臆断おくだんを以て理に就ついて古いにしへの氷室を解かいするなり。

○氷室の古哥枚挙あげつくすべからず。かの削氷を賞味し玉ひたる定家に拾遺愚艸「夏ながら秋風たちぬ氷室山こゝにぞ冬をのこすとおもへば」又源の仲正に千載集「下たさゆる氷室の山のおそ桜きえのこりたる雪かとぞ見る」この哥氷室山のおそ桜を消残きえのこりたる雪に見たてたる一首の意こゝろ、氷室は雪の氷なるべくぞおもはるゝ。今加州侯毎年六月朔日雪を献けんじ玉ふも雪の氷なり。これにても古いにしへの氷室は雪の氷なるをおもふべし。

○さてかの茶店さてんにて雪の氷をめづらしとおもひしに、その次日より塩沢しほざはの牧之ぼくし老人が家に在ありしに、日毎に氷々こほり〱とよびて売来る、山家やまがの老婆らうばなどなり。掌こぶしほどなるを三銭にうる、はじめは二三度賞味せしがのちには氷ともおもはざりき。およそ物の得えがたきは珍めづらしく、得易えやすきはめづらしからざるは人情にんじやうの恒つねなり。塩沢に居て六月の氷のめづらしからざりしをおもへば、吉野の人はよしのゝ花ともおもはず、松嶋の人は松嶋の月ともおもふまじ。たゞいつまでも飽あかざる物は孝心なる我子の顔かほと、蔵置をさめおく黄金こがねの光ひかりなるべし。

○ 雪の多少たせう

越後国南は上州に隣となる魚沼郡うをぬまごほりなり。東は奥州羽州へ隣となる蒲原郡かんばらごほり岩船いはふね郡なり。国堺くにさかひはいづれも連山波濤れんざんはたうをなすゆゑ雪多し。東北は鼠ねずみが関岩船郡の内出羽のさかひ西にしは市振いちふり頸城郡の内越中の堺に至いたるの道八十里が間都すべて北の海浜かいひんなり。海気によりて雪一丈にいたらず年によりて多少あり又消きゆるも早し。頸城くびき郡の高田は海を去さる事遠からざれども雪深し。文化のはじめ大雪の時高田の市中町のながさ一リにあまる雪に埋うづまりて闇夜あんやのごとく、昼夜ちうやをわかたざる事十余日、市中燈ともしびの油尽つきて諸人難義せしに、御領主りやうしゆより家毎に油を賜たまひし事ありき。此時我塩沢も大雪にて、夜昼をしらず家雪にうづまりて日光を見ざる事十四五日連日ふゞきなるゆゑ雪をほる事ならず家うづまりてくらきなり人気欝悶うつもんして病をなすにいたれるもありけり。

百樹曰、余牧之老人が此書の稿本かうほんに就つきて増修ぞうしうの説せつを添そへ、上梓じやうしホンニスルの為ために傭書ようしよハンシタカキへ授さづくる一本を作るをりしも、老人が寄よせたる書中に、

「当年は雪遅おそく冬至に成候ても駅中えきちゆうの雪一尺にたらず、此日次ひなみにては今年は小雪ならんと諸人一統悦び居候所に廿四日十一月なり黄昏たそがれより降ふりいだし、廿五六七八九日まで五日の間昼夜ちうやにつもる事およそ一丈四五尺にもおよび申候。毎年の事ながら不意の大雪にて廿七日より廿九日まで駅中えきちう家毎の雪掘ぼりにて混雑こんざついたし、簷外えんぐわい急たちまち玉山を築きづき戸外へもいでがたく悃こまり申候。今日も又大雪吹ふゞきに相成、家内暗くらく蝋燭らふそくにて此状をしたゝめ申候。何程可降哉ふるべくや難計はかりがたく一同心痛いたし居申候」下略是当年天保十亥とし十一月廿九日出の尺翰てがみなり。此文をもつても越後の雪を知るべし。

○余越後の夏に遇あひしに、五穀こく蔬果そくわの生育そだち少しも雪を畏おそれたる色なし。山景野色さんけいやしよくも雪ありしとはおもはれず、雪の浅き他国に同じ。五雑組ござつそに天部百草雪を畏おそれずして霜を畏る。盖けだし雪は雲に生しやうじて陽位やうゐ也、霜は露つゆに生じて陰位いんゐ也といへり。越後の夏を視みて謝肇淛しやでうせつが此説せつに伏ふくせり。

○ 浦佐うらさの堂押だうおし

我住塩沢より下しも越後の方へ二宿越こえて六日町五日町浦佐うらさといふ宿あり。こゝに普光寺ふくわうじといふ真言宗あり、寺中に七間四面の毘沙門堂びしやもんだうあり。伝つたへていふ、此堂大同二年の造営ざうえいなりとぞ。修復しゆふくの度毎たびごとに棟札むねふだあり、今猶歴然れきぜんと存そんす。毘沙門の御丈みたけ三尺五六寸、往古わうご椿沢つばきざはといふ村に椿の大樹たいじゆありしを伐て尊像そんざうを作りしとぞ。作名さくめいは伝つたはらずときゝぬ。像材ざうざい椿なるをもつて此地椿を薪たきゞとすればかならず祟たゝりあり、ゆゑに椿を植うゑず。又尊灵そんれい鳥を捕とるを忌いみ玉ふ、ゆゑに諸鳥寺内に群ぐんをなして人を怖おそれず、此地の人鳥を捕かあるひは喰くらへば立所たちどころに神罰しんばつあり。たとひ遠郷ゑんきやうへ聟むこ娵よめにゆきて年を歴へても鳥を喰しよくすれば必凶応あしきことあり、灵験れいげんの煕々あきらかたる事此一を以て知るべし。されば遠郷ゑんきやう近邑きんいう信仰しんかうの人多し。むかしより此毘沙門堂に於て毎年正月三日の夜に限かぎりて堂押だうおしといふ事あり、敢あへて祭式さいしきの礼格れいかくとするにはあらねど、むかしより有来ありきたりたる神事じんじなり。正月三日はもとより雪道なれども十里廿里より来りて此浦うら佐に一宿し、此堂押だうおしに遇あふ人もあれば近村きんそんはいふもさらなり。*11

〔図〕fig58400_40.png
佐浦詣堂押圖

○さて押おしに来きたりし男女まづ普光寺ふくわうじに入りて衣服いふくを脱了ぬぎすて、身に持たる物もみだりに置棄おきすて、婦人ふじんは浴衣ゆかたに細帯ほそおびまれにははだかもあり、男は皆裸はだかなり。燈火ともしびを点てんずるころ、かの七間四面の堂にゆかた裸はだかの男女推おし入りて、錐きりをたつるの地なし。余よも若かりしころ一度此堂押にあひしが、上へあげたる手を下へさぐる事もならざるほどに逼せまり立たちけり。押おすといふは誰たれともなくサンヨウ〱と大音だいおんに呼よばはる声こゑの下に、堂内に充満みち〱たる老若男女ヲヽサイコウサイとよばはりて北より南へどろ〱と押、又よばはりて西より東へおしもどす。此一おしにて男女倶ともに元結もとゆひおのづからきれて髪かみを乱みだす㕝甚奇きなり。七間四面の堂の内に裸はだかなる人こみいりてあげたる手もおろす事ならぬほどなれば、人の多さはかりしるべし。此諸人の気息いき正月三日の寒気ゆゑ烟けふりのごとく霧きりのごとく照てらせる神燈じんとうもこれが為ために暗くらく、人の気息いき屋根うらに露つゆとなり雨のごとくに降ふり、人気破風はふよりもれて雲の立のぼるが如し。婦人稀まれには小児を背中せなかにむすびつけて押おすも有あれども、この小児啼なくことなきも常とするの不思議ふしぎなり。況いはんや此堂押にいさゝかも怪瑕けがをうけたる者むかしより一人もなし。婦人のなかには湯具ゆぐばかりなるもあれど、闇処くらきところに噪雑わやくやして一人もみだりがましき事をせず、これおの〱毘沙門天びしやもんでんの神罰しんばつを怖おそるるゆゑなり。裸はだかなる所以ゆゑんは人気じんきにて堂内の熱ねつすること燃もゆるがごとくなるゆゑ也。願望ぐわんまうによりては一里二里の所より正月三日の雪中寒気肌はだへを射いるがごときをも厭いとはず、柱はしらのごとき氷柱つらゝを裸身はだかみに脊負せおひて堂押にきたるもあり。二タおし三おしにいたればいかなる人も熱あつきこと暑中のごときゆゑ、堂のほとりにある大なる石の盥盤てうづばちに入りて水を浴あび又押に入るもあり。一ト押おしては息いきをやすむ、七押七踊をどりにて止やむを定さだめとす。踊をどりといふも桶をけの中うちに芋いもを洗あらふがごとし。ゆゑに人みな満身みうちに汗あせをながす。第七をどり目にいたりて普光寺ふくわうじの山長やまをとこ耕夫さくをとこの長をいふ手に簓さゝらを持もち、人の手輦てぐるまに乗のりて人のなかへおし入り大音だいおんにいふ。「毘沙門さまの御前おんまへに黒雲くろくもが降さがつたモウ」 衆人おほぜい「なんだとてさがつたモウ」山男「米よねがふるとてさがつたモウ」とさゝらをすりならす。此さゝら内へ摺すれば凶作きようさくなりとて外そとへ〱とすりならす。又志願しぐわんの者兼かねて普光寺ふくわうじへ達しおきて、小桶に神酒みきを入れ盃さかづきを添そへて献けんず。山男挑燈てうちんをもたせ人をおしわくる者廿人ばかりさきにすゝみて堂に入る。此盃手に入れば幸さいはひありとて人の濤なみをなして取んとす。神酒みきは神に供くうずる状かたちして人に散ちらし、盃は人の中へ擲なぐる、これを得えたる人は宮を造つくりて祭まつる、其家かならずおもはざるの幸福あり。此てうちんをも争あらそひ奪うばふにかならず破やぶる、その骨ほね一本たりとも田の水口みなくちへさしおけば、この水のかゝる田は熟実みのりよく虫のつく事なし。神灵しんれいのあらたかなる事あまねく人の知る所なり。神事じんじをはれば人々離散りさんして普光寺に入り、初はじめ棄置すておきたる衣類いるゐ懐中くわいちゆう物を視みるに鼻帋はながみ一枚だに失うする事なし、掠かすむれば即座そくざに神罰しんばつあるゆゑなり。

○さて堂内人散さんじて後、かの山長やまをとこ堂内に苧幹をがらをちらしおく㕝例れいなり。翌朝よくてう山長おとこ神酒みき供物くもつを備そなふ、後うしろさまに進すゝみて捧さゝぐ、正面にすゝむを神の忌いみ給ふと也。昨夜さくやちらしおきたる苧幹をがら寸断ずた〱に折をれてあり、是これ人ひと散さんじてのち諸神しよじんこゝに集あつまりて踊をどり玉ふゆゑ、をがらを踏ふみをり玉ふなりといひつたふ。神事かみごとはすべて児戯じぎに似にたること多し、しかれども凡慮ぼんりよを以て量識はかりしるべからず。此堂押に類るゐせし事他国にもあるべし、姑しばらく記しるして類るゐを示しめす。

北越雪譜二編巻之一 終

北越雪譜二編 巻二

北越   鈴木牧之  編選

江戸   京山人百樹 増修

○ 雪頽なだれに熊くまを得うる

酉陽雑俎いうやうざつそに云いふ、熊胆ゆうたん春は首くびに在あり、夏は腹はらに在り、秋は左の足にあり、冬は右の足にありといへり。余よ試こゝろみに猟師かりうどにこれを問とひしに、熊くまの胆きもは常に腹はらにありて四時しじ同じといへり。盖けだし漢土かんどの熊くまは酉陽雑俎いうやうざつその説せつのごとくにや。凡およそ猟師れふし山に入りて第一だいいちに欲ほつする処ところの物は熊なり。一熊いちゆうを得うればその皮とその胆きもと大小にもしたがへども、大おほかたは金五両以上にいたるゆゑに猟師れふしの欲ほつするなり。しかれども熊は猛たけく、且かつ智ちありて得うるに易やすからず。雪中の熊は皮かはも胆きもも常に倍ばいす、ゆゑに雪に穴居けつきよするを尋たづね捜さがし、猟師れふしども力ちからを戮あはせてこれを捕とるに種々しゆ〲の術じゆつある事初編しよへんに記しるせり。たま〱一熊いちゆうを得うるとも其儕そのともがらに価あたひを分わかつゆゑ利得りとく薄うすし、さればとて雪中の熊は一人ひとりの力ちからにては得事うること難かたしとぞ。

○茲ここに吾わが住すむ近在きんざいに后谷村ごやむらといふあり。此村の弥左ヱ門といふ農夫のうふ、老おいたる双親ふたおや年頃としごろのねがひにまかせ、秋のはじめ信州善光寺へ参詣さんけいさせけり。さてある日用ありて二里ばかりの所へゆきたる留守るす、隣家りんかの者過あやまちて火を出いだしたちまち軒のきにうつりければ、弥左ヱ門が妻つま二人ふたりの小児こどもをつれて逃去にげさり、命いのち一ツを助たすかりたるのみ、家財かざいはのこらず目前もくぜんの烟けむりとなりぬ。弥左ヱ門は村に火災くわさいありときゝて走皈はせかへりしに、今朝けさ出いでし家は灰はひとなりてたゞ妻子つまこの无㕝ぶじをよろこぶのみ。此夫婦ふうふ心こゝろ正直しやうぢきにして親おやにも孝心かうしんなる者ゆゑ、人これを憐あはれみまづしばらく我わが家に居をるべしなど奨すゝむる富農ふのうもありけるが、われ〱は奴僕ぬぼくの業わざをなしても恩おんに報むくゆべきが、双親ふたおや皈かへり来りて膝ひざを双ならべて人の家に在あらんは心も安からじとて諾うけがはず。竊ひそかに田地でんぢを分わかちて質入しちいれなしその金にて仮かりに家を作り、親も皈かへりて住すみけり。草くさを刈かる鎌かまをさへ買求かひもとむるほどなりければ、火の為ために貧まづしくなりしに家を焼やきたる隣家りんかへ対むかひて一言いちごんの恨うらみをいはず、交まじはり親したしむこと常にかはらざりけり。かくてその年もくれて翌年よくとしの二月のはじめ、此弥左ヱ門山に入いりて薪たきゞを取りしかへるさ、谷に落おちたる雪頽なだれの雪の中なかにきは〱しく黒くろき物もの有あり、遙はるかにこれを視みて、もし人のなだれにうたれ死したるにやと辛からうじて谷に下り、是これを視みれば稀有けうの大熊雪頽なだれに打殺うちころされたるなりけり。此雪頽なだれといふ事初編しよへんにもくはしく記しるしたるごとく、山に積つもりたる雪二丈にもあまるが、春の陽気やうき下したより蒸むして自然しぜんに砕くだけ落おつる事大磐石だいばんじやくを転まろばしおとすが如し。これに遇あへば人馬はさらなり、大木大石もうちおとさる。されば此熊もこれにうたれしゝたるなり。弥ざゑもんはよきものをみつけたりと大に悦よろこび、皮かはも胆きももとらんとおもひしが、日も西に傾かたぶきたれば明日あすきたらんとて人の見つけざるやうに山刀やまがたなにて熊を雪に埋うづめかくし、心に目しるしをして家にかへり親おやにもかたりてよろこばせ、次のあした皮かはを剥はぐべき用意をなしてかしこにいたりしに胆きもは常に倍ばいして大なりしゆゑ、弁当べんたうの面桶めんつうに入れて持かへりしを人ありて皮かはを金一両胆きもを九両に買かひけり。弥ざゑもんはからず十両の金を得えて質しち入れせし田地をもうけもどし、これより屡しば〱幸さいはひありてほどなく家もあらたに作りたていぜんにまさりて栄さかえけり。弥左ヱ門が雪頽なだれに熊を得たるは金一釜きんいつふを掘得ほりえたる孝子かうしにも比ひすべく、年頃としごろの孝心かうしんを天てんのあはれみ玉ひしならんと人々賞しやうしけりと友人いうじん谷鴬翁こくあうをうがかたりき。

○ 雪頽なだれの難なん

吾が住すむ塩沢しほざはは下組したぐみ六十八ヶ村の郷元がうもとなれば、郷元を与あづかり知る家には古来こらいの記録きろくも残のこれり。其旧記きうきの中なかに元文五年庚申今より百年まへ正月廿三日暁あかつき、湯沢宿ゆざはしゆくの枝えだ村掘切村ほりきりむらの后うしろの山より雪頽なだれ不意ふいに押落おしおとし、其响そのひゞき百雷らいの如く、百姓彦右ヱ門浅右ヱ門の両家りやうけなだれにうたれて家つぶれ、彦右ヱ門并に馬一疋即死そくし、妻さいと嗣息せがれは半死半生、浅右ヱ門は父子即死、妻さいは梁うつばりの下に圧おされて死にいたらず。此時 御領主より彦右ヱ門息せがれへ米五俵、浅右ヱ門妻さいへ米五俵賜たまはりし事を記しるしあり。此魚沼郡うをぬまこほりは大郡たいぐんにて 会津侯御預あづかりの地なり。元文の昔も今も 御領内ごりやうないの人民じんみんを怜あはれみ玉ふ事仰あふぐべく尊たつとむべし。そのありがたさを吾が后のちへも示しめさんとて筆ふでの序ついでにしるせり。近年は山家の人、家を作るに此雪頽なだれを避さけて地を計はかるゆゑその難なんまれなれども、山道やまみちを往来ゆきゝする時なだれにうたれ死するもの間まゝある事なり。初編しよへんにもいへるが如く、○ホウラは冬にあり、雪頽なだれは春にあり。他国の人越後に来りて山下さんかを往来わうらいせばホウラなだれを用心すべし。他国の人これに死したる石塔せきたふ今も所々にあり、おそるべし〱。

○ 雪中せつちゆうの葬式さうしき

吾が国に雪吹ふゞきといへるは、猛風まうふう不意ふいに起おこりて高山平原かうざんへいげんの雪を吹散ふきちらし、その風四方にふきめぐらして寒雪かんせつ百万の箭やを飛とばすが如く、寸隙すんげきの間あひだをも許ゆるさずふきいるゆゑ、ましてや往来ゆきゝの人は通身みうち雪に射いられて少時すこしのまに半身はんしん雪ゆきに埋うづめられて凍死こゞえしする㕝、まへにもいへるがごとし。此ふゞきは晴天せいてんにも俄にはかにおこり、二日も三日も雪あれしてふゞきなる事あり、往来ゆきゝもこれが為ためにとまること毎年なり。此時に臨のぞんで死亡しばうせしもの、雪あれのやむを待まつも程ほどのあるものゆゑ、せんかたなく雪あれを犯をかして棺くわんを出いだす事あり。施主せしゆはいかやうにもしのぶべきが他人たのひとの悃苦こまる事見るもきのどくなり、これ雪国に一ツの苦状くぢやうといふべし。我われ江戸に逗留とうりうせしころ、旅宿りよしゆくのちかきあたりに死亡ありて葬式さうしきの日大嵐あらしなるに、宿やどの主あるじもこれに往ゆくとて雨具あまぐきびしくなしながら、今日けふの仏ほとけはいかなる因果いんくわものぞや、かゝる嵐あらしに値あひて人に難義なんぎをかくるほどなればとても極楽ごくらくへはゆかるまじ、などつぶやきつゝ立いづるを見て、吾が国の雪吹ふゞきに比くらぶればいと安しとおもへり。

○ 竜燈りうとう

筑紫つくしのしらぬ火といふは古哥にもあまたよみて、むかしよりその名たかくあまねく人のしる所なり。その然もゆるさまは春暉しゆんきが西遊記さいいうき*12にしらぬ火を視みたりとて、詳つまびらかにしるせり。其しらぬ火といふも世にいふ竜燈りうとうのたぐひなるべし。我国蒲原郡かんはらこほりに鎧潟よろひがたとて里言に湖を潟と云東西一里半、南北ヘ一里の湖水こすゐあり、毎年二月の中の午の日の夜、酉の下刻より丑の刻頃まで水上に火燃もゆるを、里人は鎧潟よろひがたの万燈とて群あつまり観みる人多し。余よが友人いうじんこれをみたるをきゝしに、かの西遊記にしるしたるつくしのしらぬ火とおなじさまなり。近年湖水こすゐを北海へおとし新田となりしゆゑ、湖中こちゆうの万燈とうも今は人家じんかの億燈おくとうとなれり。又我国の八海山はつかいさんは巓いたゞきに八ツの池あり、依て山の名とす。絶頂ぜつちように八海大明神の社あり、八月朔日を縁日とし山にのぼる人多し。此夜にかぎりて竜燈りうとうあり、其来る所を見たる人なしといふ。およそ竜燈といふものおほかたは春夏秋なり。諸国にある㕝諸書にしるしたるを見るに、いづれもおなじさまにて海よりも出いで、山よりもくだる。毎年其日其刻限こくげん、定りある事甚奇異きいなり。竜神より神仏へ供くうと云いふが普通ふつうの説せつなれど、こゝに珎めづらしき竜燈りうとうの談あり、少しく竜燈を解げすべき説なれば姑しばらくしるして好事家かうずかの茶話ちやわに供きようす。

我国わがくに頸城郡くびきこほり米山よねやまの麓ふもとに医王山いわうさん米山寺べいさんじは和同年中の創草さう〱なり。山のいたゞきに薬師堂あり、山中女人を禁きんず。此米山の腰を米山嶺たふげとて越後北海の駅路えきろなり、此辺ほとり古跡こせき多し。余よ先年其古跡を尋たづねんとて下しも越後にあそびし時、新道しんだう村の長をさ飯塚知義いひつかともよしの話はなしに、一年ひとゝせ夏の頃雩あまこひの為ために村の者どもを从したがへ米山よねやまへのぼりしに、薬師やくしへ参詣の人山こもりするために御鉢おはちといふ所に小屋二ツあり、その小屋へ一宿しゝに是この日は六月十二日にて此御鉢といふ所へ竜燈りうとうのあがる夜なり。おもひまうけずして竜燈をみる事よとて人々しづまりをりしに、酉の刻とおもふ頃、いづくともなくきたりあつまりしに、大なるは手鞠てまりの如く、小なるは雞卵たまごの如し。大小ともに此御鉢はちといふあたりをさらずして、飛行ひぎやうする㕝あるひはゆるやか、あるひははしる、そのさま心ありて遊あそぶが如し。其光ひかりは螢火ほたるひの色に似にたり。つよくも光り、よはくもひかるあり。舞まひめぐりてしばらくもとゞまるはなく、あまたありてかぞへがたし。はじめより小やの入り口を閉とざし、人々ひそまりて覗のぞきゐたれば、こゝに人ありともおもはざるやうにて、大小の竜燈りうとう二ツ三ツ小屋のまへ七八間さきにすゝみきたりしを、かれがひかりにすかしみれば、形かたち鳥のやうに見えて光りは咽のどの下より放はなつやうなり。猶近なほちかくよらばかたちもたしかに視みとゞけんとおもひしに、ちかくはよらずしてゆるやかに飛めぐれり。此夜は山中さんちゆうに一宿の心得えなれば心用の為ために筒つゝをも持もたせしに、手てたれの上手しかも若ものなりしが光りを的まとにうたんとするを、老人ありてやれまてとおしとゞめ、あなもつたいなし、此竜燈は竜神より薬師如来へさゝげ玉ふなり。罰ばちあたりめと叱しかりたる声に、竜燈はおどろきたるやうにてはるか遠く飛さりしと知義ともよし語かたられき。

○ 芭蕉翁はせををうが遺墨ゐぼく

およそ越後の雪をよみたる哥うたあまたあれども、越雪こしのゆきを目前もくぜんしてよみたるはまれなり。西行さいぎやうが山家集さんかしふ、頓阿とんあが草菴集さうあんしふにも越後の雪の哥なし、此韻僧ゐんそうたちも越地の雪はしらざるべし。俊頼朝臣としよりあそんに「降雪ふるゆきに谷たにの俤おもかげうづもれて稍こずゑぞ冬の山路やまぢなりける」これらは実じつに越後の雪の真景しんけいなれども、此あそん越後にきたり玉ひしにはあらず、俗ぞくにいふ哥人かじんは居ゐながら名所めいしよをしるなり。 伊達政宗卿だてまさむねきやうの御哥に「さゝずとも誰たれかは越こえん関せきの戸とも降ふりうづめたる雪ゆきの夕暮ぐれ」又「なか〱につゞらをりなる道みち絶たえて雪に隣となりのちかき山里」此君は御名たかき哥仙かせんにておはしまししゆゑ、かゝるめでたき御哥もありて人の口碑こうひにもつたふ。雪の実境じつきやうをよみ玉ひしはしろしめす御ン国も深雪みゆきなればなり。芭蕉翁が奥おくに行脚あんぎやのかへるさ越後に入り、新潟にひがたにて「海に降ふる雨や恋こひしきうき身宿みやど」寺泊てらどまりにて「荒海あらうみや佐渡さどに横よこたふ天の川」これ夏秋の遊杖いうぢやうにて越後の雪を見ざる事必ひつせり。されば近来も越地に遊ぶ文人墨客ぶんじんぼくかくあまたあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて故郷ふるさとへ逃皈にげかへるゆゑ、越雪の詩哥しいかもなく紀行きかうもなし。稀まれには他国の人越後に雪中するも文雅ぶんがなきは筆にのこす事なし。吾が国三条の人崑崙こんろん山人、北越奇談を出板せしが六巻絵入かな本文化八年板一辞半言いちじはんげんも雪の事をしるさず。今文運ぶんうん盛さかんにして新板湧わくがごとくなれども日本第一の大雪なる越後の雪を記しるしたる書しよなし。ゆゑに吾が不学ふがくをも忘わすれて越雪ゑつせつの奇状きぢやう奇蹟きせきを記して後来こうらいに示しめし、且越地ゑつちに係かゝりし事は姑しばらく載のせて好事かうずの話柄わへいとす。

〔図〕fig58400_41.png
芭蕉翁訪凍雲圖

さて元禄の頃ころ高田の御城下に細井昌庵ほそゐしやうあんといひし医師ありけり。一に青庵といひ、俳諧はいかいを善よくして号がうを凍雲とううんといへり。ひとゝせはせを翁奥羽あんぎやのかへり凍雲とううんをたづねて「薬欄やくらんにいづれの花を草枕くさまくら」と発句ほつくしければ、凍雲とううんとりあへず「萩はぎのすだれを巻まきあぐる月」此時のはせをが肉筆にくひつ二枚ありて一枚は書損しよそんと覚しく淡墨うすゞみをもつて一抹ひとふでの痕あとあり、二枚ともに昌庵主しやうあんぬしの家につたへしを、后のちに本書しよは同所の親族しんぞく三崎屋吉兵衛の家につたへ、書損しよそんのは同所五智如来の寺にのこれり。しかるに文政のころ此地の 邦君はうくん風雅ふうがをこのみ玉ひしゆゑ、かの二枚持主もちぬしより奉りければ、吉兵ヱヘ常信つねのぶの三幅対に白銀五枚、かの寺へもあつき賜ありて、今二枚ともに 御蔵ござうとなりぬと友人葵亭きてい翁がものがたりしつ。葵亭翁は蒲原郡かんばらごほり加茂明神の修験しゆげん宮本院名は義方吐醋よしかたとさくと号がうし、又無方斎むはうさいと別号べつがうす、隠居いんきよして葵亭きていといふ。和漢わかんの博識はくしき北越の聞人なたかきひとなり。芭蕉が件くだんの句ものに見えざればしるせり。

百樹もゝき曰、芭蕉居士こじは寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩はんに生る。次男なり寛文六年歳廿四にして仕絆しはんを辞じし、京にいでゝ季吟きぎん翁の門に入り、書しよを北向雲竹きたむきうんちくに学まなぶ。はじめ宗房むねふさといへり、季吟翁の句集くしふのものにも宗房とあり。延宝えんはうのすゑはじめて江戸に来り杉風さんふうが家に寄よる、小田原町鯉屋藤左ヱ門剃髪ていはつして素宣そせんといへり、桃青たうせいは后のちの名なり。芭蕉はせをとは草庵さうあんに芭蕉を植うゑしゆゑ人よりよびたる名の后のちには自みづから号がうによべり。翁の作に芭蕉を移辞うつすことばといふ文あり、その終をはりの辞ことばに「たま〱花さくも花やかならず茎太くきふとけれども斧をのにあたらず、かの山中不材ふさいの類木るゐぼくにたぐへてその性よし。僧そう懐素くわいそは是に筆を走はしらし張横渠ちやうくわうきよは新葉しんえふを見て修学しゆがくの力ちからとせしとなり。予よその二ツをとらず。たゞ此蔭かげに遊びて風雨に破やぶれ易やすきを愛あいす「はせを野分のわきして盥たらひに雨をきく夜哉」此芭蕉庵の旧蹟きうせきは深ふか川清澄町きよすみちやう万年橋の南詰づめに対むかひたる今或侯あるこうの庭中ていちゆうに在り、古池の趾あと今に存せりとぞ。余芭蕉年表一名はせを年代記といふものを作せり、書肆しよし刻こくを乞ども考証未レ足ゆゑに刻をゆるさず翁おきな身を世外せいぐわいに置おきて四方に雲水うんすゐし、江戸に趾あとをとゞめず。終つひには元禄七年甲戊十月十二日「旅たびに病やみて夢ゆめは枯埜かれのをかけ廻めぐる」の一句をのこして浪花の花屋が旅囱りよさうに客死かくしせり。是挙世きよせいヨノナカの知る処なり。翁が臨終りんじゆうの事は江州粟津の義仲寺にのこしたる榎本其角が芭蕉終焉記しゆうえんきに目前視るが如くに記しるせり。此記を視みるに翁いさゝか菌キノコ毒きんどくにあたりて痢りとなり、九月晦日より病に臥ふし、僅わづかに十二日にして下泉かせんせり。此時病床びやうじやうの下もとにありし門人○木節もくせつ翁に薬をあたへたる医なり○去来きよらい○惟然ゐねん○正秀せいしう○之道しだう○支考しかう○呑舟どんしう○丈草ぢやうさう○乙州おつしう○伽香かかう以上十人なり。其角は此時和泉の淡あはの輪わといふ所にありしが、翁大坂にときゝて病ともしらずして十日に来り十二日の臨終りんじゆうに遇あへり、奇遇きぐうといふべし。以上終焉記を摘要す其角が終焉記の文中に此記義仲寺に施板ありて人の乞ふにあたふ、俳人はかならずみるべき書なり『義仲寺にうつして葬礼義信を尽つくし京大坂大津膳所ぜゞの連衆れんじゆう被官ひくわん従者ずさまでも此翁の情なさけを慕したへるにこそ招まねかざるに馳来はせきたる者三百余人なり。浄衣じやうえその外智月と百樹云、大津の米屋の母、翁の門人乙州が妻縫ぬひたてゝ着せまゐらす』又曰『二千余よ人の門葉辺遠もんえふへんゑんひとつに合信かつしんする因ちなみと縁えんとの不可思議ふかしぎいかにとも勘破かんはしがたし』百樹おもへらく、孔子に三千の門人ありて門に十哲てつをいだす。芭蕉に二千の門葉ありて、庵あんに十哲とよぶ門人あり。至善しぜんの大道たいだうと遊芸いうげいの小技せうぎと尊卑そんひの雲泥うんでいは論におよばざれども、孔子七十にして魯国ろこくの城北しろのきた泗上に葬はうふりて心喪こゝろのもを服ふくする弟子でし三千人、芭蕉五十二にして粟津の義仲寺に葬はうむる時招まねかざるに来る者三百余人、是以こゝをもつて人に師たるの徳ありしをおもふべし。盖けだし芭蕉の盆石ぼんせきが孔夫子の泰山たいさんに似たるをいふなり。芭蕉曾かつて駔儈そくわいウルコヽロの風ふう軽薄けいはくの習しふ少しもなかりしは吟咏ぎんえい文章ぶんしやうにてもしらる。此翁は其角がいひしごとく人の推慕すゐぼする事今に於も不可思議ふかしぎの奇人きじんなり。されば一句く一章しやうといへども人これを句碑くひに作りて不朽ふきうに伝つたふる事今猶なほ句碑くひのあらざる国なし。吟海ぎんかいの幸祥かうしやう詞林しりんの福禎ふくてい文藻ぶんさうに於て此人の右に出る者なし。されば本文にもいへるごとくかりそめにいひすてたる薬欄やくらんの一句の墨痕ぼくこんも百四十余年の后のちにいたりて文政の頃白銀の光りをはなつぞかし、論外不思議ろんぐわいふしぎといふべし。蜀山先生嘗かつて謂予よにいつて曰いはく、凡およそ文墨ぶんぼくをもつて世に遊ぶ者もの画は論せず、死後しごにいたり一字一百銭に当あてらるゝ身とならば文雅ぶんがの幸福足たるべしといはれき。此先生は今其幸福あり、一字一百銭に当あてらるゝ事嗟乎あゝ難かたいかな。

○さてまた芭蕉が行状小伝ぎやうぢやうせうでんは諸書しよしよに散見さんけんして普あまねく人の知る所なり、しかれども翁おきなの容㒵かほかたちは挙世きよせい知る人あるべからず。されば爰こゝに一証を得えたるゆゑ、此雪譜せつふに記載きさいして后来こうらいに示しめすは、かゝる瑣談さだんチヒサイハナシも世に埋冤まいゑんウヅマルせん事のをしければ、いざ然さらばとて雪に転ころばす筆の老婆心らうばしんなり。

○こゝに二代目市川団十郎初代段だん十郎のち団に改むの俳号はいがうを嗣ついで才牛といふ。后のちに柏筵はくえんとあらたむ。元文元年なり此柏筵はくえんは、○正徳○享保○元文○寛保を盛さかんに歴へたる名人なり。妻つまをおさいといひ、俳名を翠仙すゐせんといふ、夫婦ともに俳諧を能よくし文雅ぶんがを好このめり。此柏筵はくえんが日記のやうに書残かきのこしたる老おいの楽たのしみといふ随筆ずゐひつあり。二百四五十帋の自筆なり嘗かつて梱シキヰ外こんぐわいへ出いださゞりしを、狂哥堂真顔翁珎書ちんしよなれば懇望こんまうしてかの家より借りたる時余よも亡兄ばうけいとともに読よみしことありき。そのなかに芝居土用やすみのうち柏筵はくえん一蝶が引船の絵の小屏風を風入れする旁かたはらにて、人参にんじんをきざみながら此絵にむかしをおもひいだして独言ひとりごといひたるを記しるしたる文に「我れ幼年えうねんの頃ころはじめて吉原を見たる時、黒羽二重に三升の紋つけたるふり袖を着きて、右の手を一蝶にひかれ左りを其角にひかれて日本堤づゝみを往ゆきし事今に忘わすれず。此ふたりは世に名をひゞかせたれど今はなき人なり。我は幸に世にありて名もまた頗すこぶる聞きこえたり中略今日小川破笠老はりつらうまゐらる。むかしのはなしせられたるなかに、芭蕉翁はほそおもてうすいもにていろ白く小兵なり。常つねに茶のつむぎの羽織をきられ、嵐雪らんせつよ、其角が所へいてくるぞよとものしづかにいはれしとかたられたり」此文はせをを今目前に見るが如し。翁の門人惟然が作といふ翁の肖像あるひは画幅の肖像、世に流伝するものと此説とあはせ視るべし小川破笠俗称平助壮年さうねんの頃ころ放蕩はうたうにて嵐雪と倶ともに俗称服部彦兵ヱ其角が堀江町の居きよに食客しよくかくたりし事、件くだんの老おいの楽たのしみ又破笠が自記じきにも見ゆ。破笠一に笠翁また卯観ばうくわん子、夢中庵むちゆうあん等の号あり。絵ゑを一蝶に学まなび、俳諧は其角を師とす。余が蔵する画幅に延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四筆ふでとあり。描金まきゑを善よくして人の粕かすをなめず、別に一趣いつしゆの奇工きこうを為なす。破笠はりつ細工とて今に賞しやうせらる。吉原の七月創はじめて機燈からくりとうろを作りて今に其余波よはを残のこせり、伝でん詳つまびらかなれどもさのみはとてもらせり。

○ 化石渓くわせきたに

東游記とういうきに越前国大野領の山中に化石渓くわせきたにあり。何物にても半月あるひは一ヶ月此渓たにに浸ひたしおけばかならず石に化す、器物きぶつはさらなり紙一束そく藁わらにてむすびたるが石に化くわしたるを見たりとしるせり。我が越後にも化石渓あり、魚沼郡うをぬまこほり小出こいでの在ざい羽川はかはといふ渓たに水へ蚕かひこの腐くさりたるを流ながししが一夜にして石に化くわしたりと友人いうじん葵亭翁きていをうがかたられき。かの大野領の化石渓は東游記の為ために名な高たかけれども我が国の化石渓は世にしられず、又近江の石亭が雲根志うんこんし変化の部に前編人あり語云、越後国大飯郡おほひこほりに寒水滝かんすゐたきといふあり、此処深山幽谷しんさんいうこくにして沍寒こかんツヨクサムキの地なり。此滝坪つぼへ万物を投なげこめおくに百日を過すぐさずして石に化すとぞ、滝坪の近所にて諸木の枝葉又は木の実みその外生類しやうるゐまでも石に化たるを得るとぞ。予よ去る頃此滝の石を取よせし人ありて見るに、常の石にあらず全躰ぜんたい鐘乳しようにうなり、木の葉など石中にふくむ則すなはち石なり。雲林石譜うんりんせきふにいふ鐘乳しようにうの転化てんくわして石になるならん云云。牧之ぼくし案あんずるに、越後に大飯郡おほひごほりなし又寒水滝かんすゐたきの名もきかず。人あり語かたるとあれば伝聞でんぶんの誤あやまりなるべし。盖けだし北越奇談ほくゑつきだんに会津あひづに隣となる駒こまが岳たけの深谷しんこくに入ること三里にして化石渓くわせきたにと名付る処あり、虫羽ちゆうう草木といへども渓たにに入りて一年を歴ふればみな化して石となる。其その川甚苦寒くかんにして夏も渉わたるべからざるが如し。又蘇門岳そもんがたけの北下田郷しただがうの深谷しんこくにも化石渓くわせきたにあり云々。雲根志うんこんしの説せつはこれらの所を聞誤きゝあやまりたるならん。

○ 亀の化石くわせき

吾が同郡どうぐん岡をかの町まちの旧家きうか村山藤左ヱ門は余よが壻むこの兄なり。此家に先代より秘蔵ひさうする亀の化石くわせきあり、伝つたへていふ、近ちかき山間さんかんの土中より掘得ほりえしといふ、実じつに化石の奇品きひんなり、茲こゝに図づを挙あげて弄石家ろうせきかの鑒かんを俟まつ。

百樹もゝき曰、件くだんの図づを視みるに常にある亀とは形状かたち少しく異ことなるやうなり。依て案あんずるに、本草ほんざうに所謂いはゆる秦亀しんき一名筮亀ぜいきあるひは山亀といひ、俗に石亀いしがめといふ物にやあらん。秦亀しんきは山中に居をるものなり、ゆゑに呼よんで山亀といふ。春夏は渓水けいすゐに遊び秋冬は山に蔵かくる、極きはめて長寿する亀は是なりとぞ。又筮亀ぜいきと一名するは周易しうえきに亀を焼やきて占ひしも此亀なりとぞ。件くだんの亀の化石、本草家の鑒定かんていを得えて秦亀しんきならば一層そうの珎ちんを増ますべし。山にて掘ほり得えたりとあれば秦亀しんきにちかきやうなり。化石といふものあまた見しに、多は小ちひさきものにてあるひはまた体かたち全まつたきも稀まれなり。図づの化石は体かたち全まつたく且そのうへ大なり、珎ちんとすべし。

〔図〕fig58400_42.png
甲之圖

○余よ先年俗にいふ大和やまとめぐりしたるをり、半月あまり京にあそび、旧友きういうの画家春琴子しゆんきんしに就ついて諸名家しよめいかをたづねし時、鴻儒かうじゆの聞きこえ高き頼らい先生名襄、字子成、山陽と号、通称頼徳太郎へも訪とむらひ、坐談ざだん化石の事におよび、先生余よに蟹かにの化石一枚を恵めぐむ。その色枯かれずして生いけるが如く、堅硬かたきことは石なり。潜確類書せんかくるゐしよ又本草ほんざう三才図会づゑ等にいへる石蟹いしかに泥沙でいしやと倶ともに化して石になりたるなるべし。盆養ぼんやうする石菖せきしやうの下もとにおくに水中に動うごくが如し。亀の徒者おともに其図そのづを出いだす、是も今は名家の形見かたみとなりぬ。

○ 夜光玉

雲根志うんこんし灵異れいいの部に曰、予よが隣家となりに壮勇さうゆうの者あり儀兵衛といふ。或時田上谷たがみだにといふ山中に行ゆきて夜更よふけて皈かへるに、むかうなる山の澗底たにそこより青く光り虹にじの如く昇のぼりてすゑは天そらに接まじはる。此男勇漢ゆうかんなれば无む二无む三に草木を分けて山を越、谷をわたりてかの根元こんげんをさぐりみるに、たゞ何の異ことなる事もなき石なり。ひろひとりて背せに負おひ皈かへるに道すがら光ること前の如し。甚だ夜道の労らうをたすかり、暁あかつきの頃ころ我が家に着ぬ。件くだんの石を軒のきの外そとに直なほし置おき、朝飯などしたゝめて彼の石を見んとするに石なし、いかにせし事やらんとさま〲にたづねもとむれども行方しれずとなん。又本国甲賀郡かふかこほり石原いしはら潮音寺てうおんじ和尚のものがたりに、近里の農人畑はたを掘居ほりゐしに拳こぶしほどなる石をほりいだせり、此石常の石よりは甚だうつくし、よつて取りかへりぬ、夜に入りて光ること流星りうせいの如し。友のいふ、是は灵石れいせきなり、人の持ものにあらず、家にあらば必災わざはひあるべし、はやく打やぶりてすつべしと。これをきゝて斧をのをもつて打砕うちくだきしを竹やぶの中へすてたり、其夜竹林一面に光る事数万の螢火の如し。翌朝よくてう近里の人きゝつたへて集あつまり来り、竹林をたづねみるに少しのくづまでも一石も有る事なし。又筑后国ちくごのくに上妻あがつま郡の人用ありて夜中近村へ行に一ツの小川あり、かちわたりせしに、なにやらん光る物あり、拾ひとりてみれば小石なり、翌日さる方へ献ず、しばらくして失たりとぞ。以上一条全文是等これらは他国の事なり、我が越后ゑちごにも夜光の玉のありし事あり。新発田しばたより蒲原郡東北加治かぢといふ所と中条といふ所の間路みちの傍かたはら田の中に庚申塚あり、此塚の上に大さ一尺五寸ばかりの円まろき石を鎮ちんしてこれを礼まつる。此石その先農夫せんのうふ屋いへの后うしろの竹林を掃除さうぢして竹の根など掘ほるとてかの石一ツを掘得ほりえたり。その色青みありて黒く甚だなめらかなり、農夫のうふこれをもつて藁わらをうつ盤ばんとなす、其夜妻庭にはに出いでしに燦然さんぜんとして光る物あり、妻妖怪ばけものなりとして驚おどろき叫さけぶ。家主あるじ壮夫わかもの三五人を伴ともなひ来りて光る物を打うつに石なり、皆もつて怪くわいとし石を竹林に捨つ、その石夜毎よごとに光りあり、村人おそれて夜行ものなし。依て此石を庚申塚に祭り上に泥土どろを塗ぬりて光をかくす、今猶なほ苔こけむしてあり。好事かうずの人この石を乞こへども村人そんじん祟たゝりあらん㕝を惧おそれてゆるさずとぞ。又駒こまが岳たけの麓ふもと大湯村と橡尾とちを村の間を流るゝ渓たに川を佐奈志さなし川といふ、ひとゝせ渇水かつすゐせし頃水中に一点てんの光あり、螢の水にあるが如し。数日処を移うつさず、一日暴風ばううに水増まして光りし物所を失うしなふ、后のち四五町川下に光りある物螢火けいくわの如し。此地山中なれば村夫等そんふら昏愚こんぐにして夜光の玉なる事をしらず、敢あへてたづねもとむる者もなかりしに、其秋の洪水こうずゐに夜光の玉ふたゝびながれて所在しよざいを失うしなひしとぞ。以上北越奇談の説偖さて茲こゝに夜光珠やくわうのたまの実事じつじあり。我われ文政二年卯の春下しも越後を歴遊れきいうせしをり、三嶋郡に入り伊弥彦やひこ明神を拝をがみ、旧知識きうちきなれば高橋光則翁みつのりをうを尋たづねしに、翁大によろこびて一宿いつしゆくを許ゆるしぬ。此翁和哥を善よくし且かつ好古かうこの癖へきありて卓達たくたつの人なり、雅談がだん湧わくが如く、おもはず笻つゑをとゞめし事四五日なりし。一夕せき翁の語りけるは、今より四五十年以前吉田の三島郡の内なりほとり大鳥川といふ渓たに川に夜な〱光りものありとて人怖おぢて近づくものなかりしに、此川の近所に富長村といふあり、こゝに鍛冶かぢの兄弟あり、ひとりの母を養やしなふ、家最もつとも貧まづし。此兄弟剛気がうきなるものゆゑかの光り物を見きはめ、もし妖怪ばけものならば退治たいぢして村のものどもが肝きもをひしがんとて、ある夜兄弟かしこにいたりしに、をりしも秋の頃水もまさりし川面づらをみるに、月暗くらくしてたゞ水の音をきくのみ。両人炬たいまつをふりてらしてこゝかしこをみるに光るものさらになく、また怪あやしむべきをみず、さては人のいふは空言そらごとならん、いざとて皈かへらんとしけるに、水上俄にはかに光明くわうみやうを放はなつ、すはやとて両人衣服を脱ぬぎすて水に飛入り泳およぎよりて光る物を探さぐりみるに、くゝり枕ほどなる石なり、これを取得とりえて家に皈かへり、まづ灶かまどの下もとに置おきしに光り一室いつしつを照てらせり。しか〲のよし母にかたりければ、不思議ふしぎの宝たからを得えたりとて親子よろこび近隣きんりんよりも来りみるもありしが、ものしらぬ者どもなれば趙壁随珠てうへきずゐしゆともおもはずうち過すぎけり。かくて后のち弟おとゝ別家べつけする時家の物二ツに分わかちて弟に与あたへんと母のいひしに、弟は家財かざいを望のぞまず光る石を持去もちさらんといふ。兄がいはく、光る石を拾ひろひ得えしは我が企くはだてなり、汝なんぢは我が力ちからを助たすけしのみなり、光る石は親の譲ゆづりにあらず、兄が物なり。家財かざいを分わかつならばおやのゆづりをこそわかつべけれ、与あたふまじ〱。弟いな〱あの石はおれがものなり、いかんとなればおん身は光る石を拾ひろはんとの企くはだてにはあらず、妖物ばけものを退治たいぢせんとて川へいたり、おん身よりは我先われさきに川へ飛いり光りものを探さぐりあてゝかづきあげしも我なり、しかればおれがひろひしを持さらんになにかあらん。いや〱此兄がものなり、弟がのなりと口論こうろんやまず、終つひにはつかみあひうちあひしを、母やう〱におししづめ、しからば光る石を二ツに破わりて分つべしといふ。弟さらばとて明玉をとりいだし鍛冶かぢする鑕かなとこの上にのせ䤶かなつちをもて力にまかせて打ければ、をしむべし明玉砕破くだけて内に白玉を孕はらみしがそれも砕くだけ、水ありて四方あたりへ飛散とびちりけり。其夜水のかゝりし処光り暉かゝやく事螢ほたるの群むらがりたるが如くなりしに、二三夜にしてその光りも消失きえうせけりとぞ。いかに頑愚ぐわんぐの手にありしとはいひながら、稀世きせいの宝玉鄙人ひじんの一槌いつつゐをうけて亡ほろびたるは、玉も人も倶ともに不幸といふべしと語かたられき。牧之ぼくし案あんずるに、橘春暉たちばなしゆんきが著あらはしたる北囱瑣談ほくさうさだん後編の二蔵石家ざうせきかの事をいふ条くだりに曰いはく、江州山田の浦の木之内古繁こはん、伊勢の山中甚作、大坂の加嶋屋源太兵ヱ、其外にも三都の中の好事家かうずか侯国こうこくの逸人いつじん、蔵石ざうせきに名の高き人近年夥おびたゝし、余よも諸家の奇石きせきを見しに皆一家の蔵をさむる処三千五千種しゆにいたる、五日十日の日を尽つくしてやう〱眼めをふる㕝を得うるにいたる、その多き中にも格別に目をおどろかすほどの珎奇ちんきの物は无なきものなり。加嶋屋源太兵ヱものがたりに、過すぎし年とし北国より人ありて拳こぶしの大さの夜光やくわうの玉あり、よく一室しつを照てらす、よき価あたひあらば売うらんといひしかば、即座そくざに其人に托たくして曰いはく、其玉求もとめたし、暗夜あんやにその玉の入りたる箱の内ばかり白きやうに見えなば金五十両にもとむべし、又その玉にて闇夜に大なる文字一字にても読よみえられなば金百両にもとむべし、又書状しよぢやうよむほどならば三百金、いよ〱一室をてらさば吾が身上のこらずの力ちからを尽つくして求もとむべし、媒なかだちして玉はるべしといひしが、そのゝちなにの便たよりもなくてやみぬ、空言そらごとにてありしと思はる云云。此文段は天明年中蔵石ざうせきの世に流行はやりたる頃加嶋屋が話はなしをそのまゝに春暉しゆんきが后のちにしるしたるなるべし。さて又余よがかの鍛冶かぢ屋が玉のはなしをきゝしは文政二年の春なり、今より四五十年以前とあれば、鍛冶かぢが玉を砕くだきたるは安永のすゑか天明のはじめなるべし。然しかりとすれば、蔵石ざうせきの流行はやりたる頃なれば、かのかじまやが話はなしに北国の人一室いつしつをてらす玉のうりものありしといひしは、我が国の縮商人ちゞみあきびとなどがかぢやの玉の㕝をきゝつたへて商あきなひ口をいひしもはかられず。しかるに玉はくだきしときゝてかじまやへ答こたへざりしにやあらん。卞和へんくわが玉も楚王そわうを得えたればこそ世にもいでたれ、右にのせたる夜光の話はなし五ツあり、三ツは我が越後にありし事なり。いづれも世にいでず、嗟乎あゝ惜をしむべし〱。

百樹もゝき曰、五雑組ござつそ物の部に鍛冶かぢ屋がはなしに類るゐせる㕝あり。明みんの万暦ばんれきの初はじめ閩中みんちゆう連江といふ所の人蛤を剖わりて玉を得えたれども不識みしらずこれを烹にる、珠たま釜かまの中に在ありて跳躍をどりあがりして定さだまらず、火光くわくわう天そらに燭もゆ、里人さとびと火事くわじならんと驚おどろき来りてこれを救ふ。玉を烹たるもの、そのゆゑを聞きゝて釜かまの蓋ふたを啓ひらきて視みれば已すでに玉は半なかば枯かれたり。其珠たま径わたり一寸許ばかり、此これ真しんに夜光やくわう明月の珠たまなり。俗子ぞくしに厄やくせられたる事悲夫かなしきかなと記しるせり。又曰、五雑組おなじつゞき魏ぎの恵王けいわうが径わたり寸いつすんの珠たま前後車を照てらすこと十二乗じようの物はむかしの事、今天府みかどのくらにも夜光珠やくわうのたまはなしと明人みんひと謝肇淛しやてうせつが五雑組ござつそにいへり。○神異記しんいき○洞冥記とうめいきにも夜光珠やくわうしゆの㕝見えたれども孟浪うきたることに属しよくす。古今注ここんちゆうにはすぐれて大なる鯨くぢらの眼めは夜光珠を為なすといへり。卞和へんくわが玉も剖之これをわれば中うち果はたして有玉たまありといへば、石中に玉を孕はらみたる事鍛冶かぢの砕くだきたる玉卞和へんくわが玉に類るゐせり。趙てうの恵王けいわうが夜光の玉を、秦しんの照せう王が城しろ十五を以て易かへんといひしは、加嶋屋が北国の明玉めいぎよくを身上しんしやう尽つくして買かはんと約やくせしに類るゐせり。さて又癸辛雑譏続集きしんざつしきぞくしふ巻下に、機婦はたおりをんな糸を水にひたしおきたるに、夜中白く大なる蜘蛛くもきたりてその水をのむに身みに光りをはなつ、かの婦人ふじんこれを見て大にあやしみ、雞籠にはとりのかごを罩ふせてかの蜘蛛くもをとらへしに腹はらに夜光珠やくわうのたま在あり、大さ弾丸だんぐわんテツハウタマの如しとしるせり。此事を前文に牧之老人が引たる北越奇談玉の部に越後にありし事とていだせり。その事癸辛雑識に少しもちがはず、おもふに癸辛雑識は唐本にて且又容易には得がたき書なれば、北越奇談の作者俗子の目に奇をしめさんとてたはむれに越後の事としてかきくはへたるもしるべからず。しかし癸辛雑識続集は都下にすら得がたければ本書を見たるにはあるべからず、博識に伝聞したるなるべし又増一阿含経ぞういちあごんぎやう第卅三。等法品第卅九に転輪聖王てんりんじやうわうの徳にそなはりたる一尺六寸の夜光摩尼宝やくわうまにはうは彼国かのくに十二由旬ゆじゆんを照てらすとあり、文ぶん多おほければあげず。盖けだし一由旬いちゆじゆんは異国いこくの四十里なり、十二由旬ゆじゆんは日本道六十六里なり。一尺六寸の玉六十六里四方を照すは奇異きいといふべし。転輪てんりん王此玉を得えて試こゝろみに高き幢はたの頭かしらに挙著あげおきけるに、人民等じんみんら玉の光りともしらず夜の明あけたりとおもひ、おの〱家業かせぎをはじめけりと記しるせり。此事碩学せきがくの聞きこえ高たかき了阿れうあ上人の話はなしにきゝてかの経を借得かりえて読よみしが、これぞ夜光の玉の親おや玉なるべき。

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剛夫得名玉圖

○ 餅花もちばな

餅花もちはなや夜よるは鼠ねずみがよし野山一にねずみが目にはとありとは其角がれいのはずみなり。江戸などの餅花は、十二月餅搗もちつきの時もちばなを作り歳徳の神棚へさゝぐるよし、俳諧はいかいの季きには冬とす。我国の餅花は春なり。正月十四日までを大おほ正月といひ、十五日より廿日までを小こ正月といふ、是我わが里俗の習ならはせなり。さて正月十三日十四日のうちに門松しめかざりを取り払ひ、我国長岡あたりにては正月七日にかざりをとり、けづりかけを十四日までかくる餅花を作り、大神宮歳徳の神夷えびすおの〱餅花一枝えだづゝ神棚へさゝぐ。その作りやうはみづ木といふ木、あるひは川楊かはやなぎの枝えだをとり、これに餅を三角又は梅桜の花形に切たるをかの枝にさし、あるひは団子をもまじふ、これを蚕玉まゆたまといふ。稲穂いなぼ又は紙にて作りたる金銭、縮ちゞみあきびとなどはちゞみのひな形を紙にて作り、農家のうかにては木をけづりて鍬鋤すきくはのたぐひ農具のうぐを小さく作りてもちばなの枝にかくる。すべておのれ〱が家業かげふにあづかるものゝひなかたを掛る、これその業げふの福をいのるの祝事しゆくじなり。もちばなを作るはおほかたわかきものゝ手業てわざなり。祝いはひとて男女ともうちまじりて声こゑよく田植哥たうゑうたをうたふ、此こゑをきけば夏がこひしく、家の上こす雪のはやくきえよかしとおもふも雪国の人情なり。此餅花は俳諧の古き季寄きよせにもいでたれば二百年来諸国にもあるは勿論もちろんなり。ちかごろ江戸には季きによらず小児の手遊に作りあきなふときゝつ。

○ 斎さいの神勧進かみくわんじん

我が塩沢しほざは近辺きんへんの風俗に、正月十五日まへ七八歳より十三四までの男の童わらべども斎さいの神勧進くわんじんといふ事をなす。少し富家ふかの童わらべこれをなすには𣖾木ぬるでのきを上下より削けづり掛かけて鍔つばの形を作る、これを斗棒とぼうといふ。これを二本大小にさし、上下をちやくし、童僕わらべのともに一升ますをもたせ又はひもありてくびにかくるあり。その中へ五六寸ばかりの木を頭かしらばかり人形に作り、目鼻をゑがき、二ツつくりて女神男神とし、女神はかしらに綿わたをきせ、紙にて作りたる衣服に紅べににて梅の花などゑがく。男神には烏帽子をきせ、木をけづりかけて髭ひげとす。紙のいふくに若松などゑがく。此二ツをかの升の内におき、斎さいの神勧進々々かみくわんじん〱とよばゝりありく。敢あへて物ものの欲ほしきにもあらず正月あそびの一ツなり、これ一人のみにあらず、児輩こどもおの〱する事なり。これに与あたふるものは切餅あるひは銭も与あたふ。又まづしきものゝわらべらは五七人十人余よも党たうをなし、茜木綿あかねもめんの頭巾づきんにあさぎのへりをとりたるをかむり、かの斗棒とぼうを一本さし、かの二ふた神を柳こりに入れて首にかけ〽さいの神くわんじん、銭でも金でもくはつ〱とおやれ〱 と門々かど〱をおしありく。これに銭をもあたへあるひは濁にごり酒などのませ、顔に墨をぬりてわらひどよめく、これかならずするならはせなり。又長岡のほとりにてはかの斗棒のけづりかけの三尺ばかりなるに、宝づくしなどゑがきたるをさして勧進くわんじんす、これは小児にあらず、大人のいやしきがわざなり。勧進くわんじんのことばに「ぜにでもかねでもおいやれ、らいねんの春は娵よめでも聟むこでもとるやうに、泉のすみからわくやうに、すつくらすわいとおいやれ〱」かくして勧進の銭をあつめて斎さいの神を祭まつる入用とするなり。さいの神のまつり下にしるす又去年むこよめをむかへたる家の門かどに、未明みめいよりわらべども大勢あつまり、かの斗棒をもつて門戸を敲たゝき、よめをだせむこをだせと同音によばゝりたゝく。これを里俗の祝事いはひごととすればいかる家なく、小どもを入れて物などくはするもあり、かゝる俗習ぞくしふ他国にもあまたあるべし。

○さて此事たあいもなき小どものたはむれとのみおもひすぐししに、醒斎せいさい京伝翁が骨董集こつとうしふを読よみて本拠ほんきよある事を発明はつめいせり。骨董集こつとうしふ上編下、粥かゆの木の条くだりに、○粥杖かゆづゑ○祝木いはひぎ○ほいたけ棒ぼうといふ物、前にいひし斗棒とぼうに同じ。京伝翁の説せつに、粥かゆの木とは正月十五日粥を烹にたる薪たきゞを杖つゑとし、子もたぬ女のしりをうてば男子をはらむといふ祝ひ事なりとて、○枕まくらの草紙さうし○狭衣さごろも○弁内侍べんのないしの日記にきその外くさ〱の書しよを引ひきて、上代の宮裏きうり近古きんこの市中しちゆう粥杖かゆつゑの事を挙あげて、考証かうしやう甚はなはだ詳つまびらかなり。今我が郡にいふ斗棒とぼうは則すなはちいにしへの粥杖かゆつゑの遺風ゐふうなる事を発明はつめいせり、我国にも祝木いはひぎあるひは御祝棒おいはひぼうといふ所もあり。これ七八百年前より正月十五日にする事、京伝翁が引れたる書しよにてしらるゝなり。その引書いんしよの中なかにも明人の作「日本風土記」にあるはもつとも我国のによく似たり、此書しよは今より三百年ばかりいぜんの日本の風俗を明人が聞きゝつたへて書たるものなれば、今我国にて小童こどものたはむれにするも三百年ばかりさきの風俗遠境ゑんきやうにもうつりのこりたるなるべし。京伝翁が引たる日本風土記巻の二時令の部とあり、漢文のまゝを引たれどこゝにはかなをまじふに「但たゞ街道がいだう郷村きやうぞんの児童ぢどう年十五八九已上に及およぶ者もの、各おの〱柳の枝を取り皮を去さり木刀ぼくたうに彫成きざみなし、皮を以復また外ほか刀上たうしやうに纏まとひ用火ひにて焼黒やきくろめ皮を去さり以もつて黒白の花もやうを分わかつ、名づけて荷花蘭蜜こばらみといふ。再ふたゝび荊棘けいきよくの条えだを取とり香花かうくわ神前しんぜんに挿さしはさみ供くうず。次に集あつまる各童わらべども手に木刀を執とり途みちに隊閙たいだうしムレサワギ、凡すべて有婚こんれいして无子こなきの婦をんな木刀を将もつて遍身へんしん打之これをうち口に荷花蘭蜜こばらみと舎となふ。かならず此婦をんな当年このとし孕はらみ男を生うむ」我国にて児童等こどもらが人の門かどを斗棒とぼうにてたゝき、娵よめをだせ聟むこをだせとのゝしりさわぐは、右の風土記の俗習ぞくしふの遺事ゐじなるべし。

百樹もゝき案に、件くだんの風土記に再ふたゝび荊棘けいきよくの条えだを取り香花つねにいのる神前に挿さしはさむといひしは、餅花もちばなを神棚かみたなへ供くうずる事を聞て粥杖かゆつゑの事と混錯こんさくして記したるなるべし。然しかりとすれば餅花もちはなも古き祝事しゆくじなり。

○ 斎さいの神の祭まつり

吾わが国くに正月十五日に斎さいの神のまつりといふは所謂いはゆる左義長さぎちやうなり。唐土もろこしに爆竹ばくちくといふ唐人たうひと除夜ぢよやの詩しに、竹爆たけたふる千門の响ひゞき燈ともしび燃もゆる万戸明あきらかなりの句あれば、爆竹ばくちくは大晦日にする事なり。吾朝にては正月十五日、 清涼殿の御庭にて青竹を焼き正月の書始かきぞめを此火に焼て天に奉るの義ぎとす。十八日にも又竹をかざり扇を結びつけ同じ御庭にて燃もやし玉ふを祝事とせさせ玉ふ。民間みんかんにもこれを学まなびて正月十五日正月にかざりたるものをあつめて燃もやす、これ左義長さぎちやうとて昔よりする事なり。これを斎さいの神祭まつりといふも古き事なり。爆竹左義長ばくちくさぎちやうの故事ふること俳諧はいかいの季寄きよせ年浪草としなみぐさに諸書を引てくはしくいへり。

○吾が郡中ぐんちゆうにて小千谷をぢやといふ所は人家じんか千戸にあまる饒地よきとちなり、それゆゑに斎さいの神の斎あるひは幸ともまつりも盛大せいだいなり。これをまつるにその町々におの〱毎年さだめの場所ありてその所の雪をふみかため、さしわたし三間ばかりに周めぐらしたる高さ六七尺の円まろき壇を雪にて作り、これに二処ふたところの上り階だんを作る、これも雪にてする、里俗りぞく呼よんで城しろといふ。さて壇だんの中央まんなかに杉のなま木をたてゝ柱はしらとし、正月かざりたるものなにくれとなくこの柱はしらにむすびつけ又は積つみあげて、七五三しめをもつて上よりむすびめぐらして蓑みののごとくになし、かやをまじへ入れてかたちをつくる此頂いたゞきに大根注連だいこんしめといふものゝ左右に開たる扇をつけて飛鳥ひてうの状かたちを作りつける。壇だんの上には席せきをまうけて神酒みきをそなへ、此町の長たるもの礼服をつけて拝はいをなし、所繁昌の幸福をいのる。此事をはればきよめたる火を四隅よすみより移うつす、油滓あぶらかすなど火のうつり易やすきやうになしおくゆゑ煓々たん〱熾々しゝと然もえあがる、此火にて餅をやきてくらふ、病をのぞくといふ世にふるくありし事なり是これ則すなはち爆竹左義長ばくちくさぎちやうなり。他国にてもする事なり。或人あるひとの話はなしに、此事百余年前までは江戸にもありしが、火災くわさいをはゞかるために禁きん下くだりてやみたりとぞ。

○さて又おんべといふ物を作りてこの左義長に翳かざして火をうつらせ焼やくを祝事しゆくじとす、おんべは御ン幣へいの訛言くわげんナマリなり。その作りやうは白紙と色かみとを数百枚つきあはせたるを細き幣束へいそくのやうにきりさげ、すゑに扇の地紙の形をきりのこす、これを数千すせんあつめて青竹にくゝしくだす。大小長短は作る家の意にまかせ、大なるを以て人に誇ほこる。棹さをの末にひらき扇四ツをよせて扇には家の紋などいろどりゑがく、いろ紙にて作るものゆゑ甚だ美事みごとなり。これを作りてまづおのれ〱が門かどへ建たておく事五月の幟のぼりのあつかひなり。十五日にいたりてかの場所へもちゆき、左義長にかざして焼捨やきすつるを祝ひとし慰なぐさみとす。観みる人群ぐんをなすは勿論もちろん、事をはりてはこゝかしこにて喜酒よろこびざけの宴えんをひらく。これみな 国君こくくん盛徳せいとくの余沢よたくなり。他所にも左義長あれどもまづは小千谷をぢやを盛大せいだいとす。

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斉神祭事之圖

百樹もゝき曰いはく、余よ京水をしたがへて越後に遊びし時、此小千谷をぢやの人岩淵いはぶち氏牧之老人の親族なりの家に笻つゑをとゞめたる事十四日、八月なりあるじの嗣子むすこ廿四五許ばかり、号がうを岩居がんきよといふ、書しよをよくす。余よに遇ぐうせしこと甚はなはだ篤あつし。小千谷をぢやは北越ほくゑつの一市会いつしくわい、商家しやうか鱗次りんじとして百物備そなはらざることなし。海うみを去さる事僅わづかに七里ゆゑに魚類ぎよるゐに乏とぼしからず。余よ塩沢しほざはにありしは四十余日、其地海に遠くして夏は海魚に乏とぼしく、江戸者の口に魚肉ぎよにくの上のぼらざりし事四十余日、小千谷をぢやにいたりてはじめて生鯛なまたひを喰しよくせしに美味びみなりし事いふべからず。又鮏さけの時節じせつにて、小千谷をぢやの前川ぜんせんは海に朝てうするの大河なれば今捕とりしをすぐに庖丁はうちやうす。味あぢはひ江戸にまされり。一日鮏さけをてんぷらといふ物にしていだせり。余よ岩居がんきよにむかひ、これは此地にては名を何なにとよぶぞと問とひしに、岩居これはテンプラといふなり、我としごろ此物の名義めいぎ暁さとしがたく、古老こらうにたづねたれどもしる人さらになし、先生の説せつをきかんといふ。余よ答こたへてまづ食しよく終をはりてテンプラの来由らいゆを語かたるべしといひつゝ鮏さけのてんぷらを飽あくまでに喰しよくせり。

○ てんぷらの説せつ  ○ 煉羊羹ねりやうかんの起原きげん

岩居がんきよに語かたりて曰いはく、今をさる事五十余年前ぜん天明の初しよ年大阪にて家僕かぼく四五人もつかふほどの次男年とし廿七八ばかり利助といふもの、その身よりとしの二ツもうへの哥妓げいしやをつれて出奔しつほんし、江戸に下り余が家の京橋南街第一衖対むかひの裏屋うらやに住しに、一日あるひ事の序ついでによりて余が家に来りしより常に出入でいりして家僕かぼくのやうに使つかひなどさせけるに、花柳くわりうに身を果はたしたるものゆゑはなしもおもしろく才もありてよく用を弁べんずるゆゑ、をしき人に銭ぜにがなしとて亡兄ばうけいもたはむれいはれき。ある日利助いふやう、江戸には胡麻揚ごまあげの辻売つじうり多し、大阪にてはつけあげといふ魚肉ぎよにくのつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚のつけあげを夜みせにうる人なし、われこれをうらんとおもふはいかん。亡兄ばうけい京伝いはく、それはよきおもひつきなりまづこゝろむべしとて俄にはかに調てうじさせしに、いかにも美味びみなり。利助いはく、これを夜みせの辻にうらんにその行灯あんどんに魚のごまあげとしるさんもなにとやらまはりどほし、なにとか名をつけて玉はれと乞こひければ、亡兄ばうけいしばらくしあんして筆をとり天麩羅てんふらとかきてみせければ、利助不審ふしんの㒵かほをなし天麩羅てんふらとはいかなる所謂いはれにかといふ。亡兄うちゑみつゝ足下そこは今天竺浪人てんぢくらうにんなり、ぶらりと江戸へきたりて売創うりはじむる物ゆゑに天ふらなり、是これに麩羅ふらといふ字を下くだしたるは麩ふは小麦の粉にてつくる、羅らはうすものとよむ字なり。小麦の粉のうすものをかけたといふ㕝なりと戯言たはむれごと云れければ、利助も洒落しやれたる男ゆゑ、天竺浪人のぶらつきゆゑ天ふらはおもしろしと大によろこび、やがて此店みせをいたす時あんどんを持きたりて字をこひしゆゑ、余よがをさなき時天麩羅と大書たいしよして与へしに此てんぷら一ツ四銭にて毎夜うりきるゝ程なり。さて一月もたゝざるうちに近辺きんべん所々にてんぷらの夜みせいで、今は天麩羅の名油のごとく世上に伝染しみわたり、此小千谷をぢやまでもてんぷらの名をよぶ事一奇事といふべし。されども京伝翁が名づけ親にて利助が売はじめたりとはいかなる碩学鴻儒せきがくかうじゆの大先生もしるべからず。てんぷらの講釈こうしやくするは天下に我一人なりとたはむれければ、岩居がんきよも手てをうちて笑ひけり。

○先年此てんぷらの話はなしを友人静廬せいろ翁に語りしに翁は和漢の博達時鳴の聞人なり翁曰、事物紺珠じぶつかんしゆ明人黄一正作廿四巻夷食いしよくの部にてんぷらに似たる名ありきといはれしゆゑ、其書しよを借かりえてよみしに、○塔不剌たふふらとありて注ちゆうに○葱ねぎ○椒さんしよ○油○醤ひしほを熬いりつけ、後あとより鴨あひる或は雞○鵞がをいれ、慢火ぬるひにて養熟しあげるとあり。蟹かにをあぶらげにするも見えたり。

○さて天麩羅の播布はんふヒロマルに類るゐせる事あり、因ちなみに記す。○橘菴漫筆きつあんまんひつに享和元年京の田仲宣作「京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の食卓しつほくを料理して弘めける。是京師浪花おほざかに食卓しつほく料理の初とかや。嘉兵衛娘はんといへるもの老婆らうばとなりて近頃まで存命せり、則今の佐野屋祖なり。大坂にてかれこれ食卓料理あまた弘りたれど野堂のど町の貴徳斎きとくさいほど久しくつゞきたるはなし」岩居がんきよがてんぷらをふるまひたる夜その友蓉岳ようがく来り、桜屋といふ菓子や余が酒をこのまざるを聞て家製かせいなりとて煉羊羹ねりやうかんを恵めぐみぬ、味あぢはひ江戸に同じ。余よ越後にねりやうかんを賞味して大に感嘆かんたんし、岩居に謂いひて曰いはく、此ねりやうかんも近年のものなり、常のやうかんにくらぶれば味あぢはひまされり。吾わがをさなきころは常のやうかんすらいやしきものゝ口には入らざりしに、江戸をさる事遠き此地にも出来逢できあひのねりやうかんあるは実じつに大平の徳化とくくわなりといひしに、蓉岳ようがくも書画をよくし文事ぶんじもありて好事かうずものなればこれをきゝてひざをすゝめ、菓子は吾が家産かさんなり、ねりやうかんを近来のものといふ由来ゆらいを示しめし玉へといふ。余よかたりていはく、○寛政のはじめ江戸日本橋通一町目よこ町字あざなを式部小路しきぶこうぢといふ所に喜太郎とて夫婦に丁稚でつちひとりをつかひ菓子屋とは見えぬ𥴩子造かうしづくりにかんばんもかけず、此喜太郎いぜんは 貴重きちようの御菓子を調進てうしんする家の菓子杜氏とうじなるよし。奉公をやめてこゝに住し、極製こくせいの菓子ばかりをせいして茶人又は富家のみへあきなひけり。さて此者が工風とてはじめて煉羊羹ねりやうかんと名づけてうりけるに羊羹やうかん本字は羊肝やうかんなる事芸苑日鈔げいゑんにつせうにいへり喜太郎がねりやうかんとて人々めづらしがりてもてはやしぬ。しかれども一人一手にてせいするゆゑ、けふはうりきらしたりとてつかひの重箱空むなしくかへる事度々なり、これ余よが目前もくぜんしたる所なり。かくて一二年の間に菓子や二軒にて喜太郎をまねてねりやうかんをせいし、それもめづらしかりしに今は江戸の菓子やはさらなり、迫々弘り此小千谷をぢやにもあれば此国に市会しくわいをなす所にはかならずあるべく又諸国にもあるべしといひければ、蓉岳ようがくわらつて小倉羹をぐらかんもあり八重なりかんもあり、あすはまゐらすべしといへり。これらの事雪譜の名には似気にげなき弁べんなれど本文小千谷をぢやのはなしにおもひいだしたれば人の話柄わへいに記しるせり。なほ近古きんこ食類しよくるゐの起原きげんさま〲あれど余よが食物しよくもつ沿革考えんかくかうウツリカハリに上古より挙あげてしるしたればこゝにはもらせり。

○ 雪中せつちゆうの狼おほかみ

初編しよへんにもしるしたるごとく、我国の獣けもの冬にいたれば山を踰こえて雪浅あさき国へさる、これ雪ふかくして食しよくにとぼしきゆゑなり。春にいたればもとの棲すみかへかへる。されども雪いまだきえざるゆゑ食しよくにたらず、をりふしは夜中人家じんかにちかより犬などとり、又人にかゝる事もあり、これ山村さんそんの事なり。里には人多きゆゑおそれてきたらざるにや。雪中に穴居けつきよするは熊くまのみなり。熊は手に山蟻やまありをすりつけ、これをなめて穴居けつきよの食しよくとするよしいひつたふ。

〔図〕fig58400_45.png
雪中狼入人家圖

○こゝに我わが郡中ぐんちゆうの山村さんそんに不祥ふしやうのことなれば地名人名をはぶくまづしき農夫のうふありけり、老母と妻と十三の女子七ツの男子あり。此農夫性質せいしつ篤実とくじつにしてよく母につかふ。ひとゝせ二月のはじめ、用ありて二里ばかりの所へいたらんとす、みな山道やまみちなり。母いはく、山なかなれば用心なり、筒つゝをもてといふ、実げにもとて鉄炮てつはうをもちゆきけり。これは農業のうげふのかたはら猟れふをもなすゆゑに国許こくきよの筒つゝなり。かくてはからず時をうつし日も暮くれかゝる皈かへりみち、やがて吾が村へ入らんとする雪の山蔭かげに狼おほかみ物を喰くらふを見つけ、矢頃やごろにねらひより火蓋ひぶたをきりしにあやまたずうちおとしぬ。ちかよりみればくらひゐたるは人の足あしなり。農夫大におどろき、さては村ちかくきつるならんと我家わがやをきづかひ狼おほかみはそのまゝにしてはせかへりしに、家のまへの雪の白きに血ちのくれなゐをそめけり。みるよります〱おどろきはせいりければ狼二疋逃にげさりけり、あたりをみれば母はゐろりのまへにこゝかしこくひちらされ、片足かたあしはくひとられてしゝゐたり。妻つまは囱まどのもとに喰伏くひふせられあけにそみ、そのかたはらにはちゞみの糸などふみちらしたるさまなり。七ツの男の子は庭にはにありてかばね半なかば喰くはれたり。妻つまはすこしいきありて夫をつとをみるよりおきあがらんとしてちからおよばず、狼おほかみがといひしばかりにてたふれしゝけり。農夫のうふはゆめともうつゝともわきまへず鉄炮てつはうもちて立あがりしが、さるにても娘むすめはとてなきごゑによびければ、床ゆかの下よりはひいで親にすがりつきこゑをあげてなく、おやもむすめをいだきてなきけり。山家さんかは住居ぢゆうきよもこゝかしこはなれあるものゆゑ、これらの事をしるものもなかりけり。農夫のうふは時の間まに六十の母、三十の妻、七ツの子を狼の牙きばにころされ、歯はがみをなして口をしがり、親子ふたり、くりこといひつゝ声をあげてなきゐたり。村のものやう〱にきゝつけきたり此体ていをみておどろきさけびければ、おひ〱あつまりきたり娘にやうすをたづねければ、囱まどをやぶりて狼三疋はせいりしが、わしは竈かまどに火をたきてゐたりしゆゑすぐに床ゆかの下へにげ入り、ばゞさまと母さまとおと弟がなくこゑをきゝて念仏ねんぶつ申てゐたりといふ。かくて此ありさまをいふべき所へつげしらせ、次の日の夕ぐれ棺くわん一ツに妻つまと童わらべををさめ、母の棺くわんと二ツ野辺のべおくりをなしけるに涙なみだそゝがざるものはなかりけるとぞ。おもふにはゝが筒つゝをもてといひしゆゑ、母の片足かたあしを雪の山蔭かげにくらひゐたる狼おほかみをうちおとして母の敵かたきはとりたれど、二疋をもらししはいかに口惜くちをしかりけん。これよりのち此農夫のうふ家を棄すて、娘むすめをつれて順礼じゆんれいにいでけり。ちかき事なれば人のよくしれるはなしなり。

百樹もゝき曰、日本の狼は幻化ばける事をきかず、唐土もろこしの狼はばけること老狐にことならず。宋人そうひと李昉等りはうとうが太平広記畜獣ちくじうの部に四百四十二巻狼おほかみ美人びじんに幻化バケして少年わかいひとと通じ、あるひは人の母にばけて年七十になりてはじめてばけをあらはして逃にげさり、又は人の父を喰殺くひころしてその父にばけて年を歴へたるに、一日その子山に入りて桑くはを採とるに、狼おほかみきたりて人の如く立其裾そのすそを銜くはへたるゆゑ斧をのにて狼の額ひたひを斫きり、狼にげ去さりしゆゑ家にかへりしに、父の額ひたひに傷きずの痕あとあるを視みて狼なることをさとり、これを殺ころすに果はたして老狼おいたるおほかみなり。親をころしたるゆゑ自みづから県けんにいたりて事の由よしをつげたる事など○広異くわうい記○宣室志せんしつしを引てしるせり。悍悪かんあくの事に狼の字をいふもの○残忍ざんにんなるを豺狼さいらうの心といひ○声のおそろしきを狼声らうせいといひ○毒どくの甚はなはだしきを狼毒らうどくといひ○事の猥みだりなるを狼々らう〱○反相はんさうムホンある人を狼顧らうこ○義ぎ无なきを中山狼○恣ほしいまゝに食くふを狼飡らうざん○病やまひ烈はげしきを狼疾らうしつといひ○狼藉ろうぜき○狼戻らうれい○狼狽らうばいなど、皆彼かれに譬たとへて是をいふなり。文海披沙されば獣中じうぢゆう最もつとも可悪にくむべきは狼おほかみなり。余よ竊ひそかに以為おもへらく、狼は狼にして狼なれども、人にして狼なるはよく狼をかくすゆゑ、狼なるをみせず。これが為ために狼毒らうどくをうくる人あり。人の狼なるは狼の狼なるよりも可惧おそるべく可悪にくむべし。篤実とくじつを外面げめんとし、奸慾かんよくを内心ないしんとするを狼者おほかみものといひ、娵よめを悍戻いびるを狼老婆おほかみばゝといふ。巧たくみに狼心らうしんをかくすとも識者しきしやの心眼しんがんは明鏡めいきやうなり。おほかみ〱惧おそれざらんや恥はぢざらんや。

北越雪譜中巻 終

北越雪譜二編 巻三

越後塩沢   鈴木牧之  編選

江戸     京山人百樹 増修

○ 鳥追櫓とりおひやぐら

農家のうか市中しちゆう正月の行事ぎやうじに鳥追とりおひといふ事あり。此事諸国にもあれば、其なす処其国によりてさま〲なる事は諸書しよ〱に散見さんけんせり。江戸の鳥追とりおひといふは非人ひにんの婦女ふぢよ音曲おんきよくするを女太夫とて木綿もめんの衣服いふくをうつくしく着きなし、顔かほを粧よそほひ、編笠あみがさをかむり、三弦さみせんに胡弓こきうなどをあはせ、賀唱めでたきうたをおもしろくうたひ、門々かど〱に立て銭を乞こふ。此事元日よりはじめ、松の内をかぎりとす、松すぎてもありく所もありとぞ。我越後には小正月の小正月とは正月十五日以下をいふはじめ鳥追櫓とりおひやぐらとて去年きよねんより取除とりのけおきたる山なす雪の上に、雪を以て高さ八九尺あるひは一丈余にも、高さに応おうじて末すゑを広ひろく雪にて櫓やぐらを築立つきたて、これに登のぼるべき階だんをも雪にて作り、頂いたゞきを平坦たひらになし松竹を四隅すみに立、しめを張はりわたす広さは心にまかす内には居るべきやうにむしろをしきならべ、小童等こどもらこゝにありて物を喰くひなどして遊あそび、鳥追哥とりおひうたをうたふ。その一ツに「あのとり鳥や、どこ何所からおつ追てきた来、しなぬ信濃のくに国からおつてきた。なにをもつ持ておつてきた、しば柴をぬくべ束ておつてきた、しば芝のとり鳥もかば河辺のとりも、たちやがれ可立ほい〱引」おら己等がうら裏のさなへだ早苗田のとりは、おつても〱すゞめ雀すはどり鳲鳩たちやがれ可立ほい〱引」あるひはかの掘揚ほりあげ雪をすてゝ山をなす所の上に雪を以て四方しかくなる堂だうを作りたて、雪にて物をおくべき棚たなをもつくり、むしろをしきつらね、なべ・やくわん・ぜん・わん抔など此雪の棚におき、物を煮焼にたきし、濁酒にごりざけなどのみ、小童こども大勢雪の堂にいきんだうと云遊あそび、同音どうおんに鳥追哥をうたひ、終日いちにちこゝにゆきゝして遊びくらす。これ暖国だんこくにはなき正月あそびなり。此鳥追櫓とりおひやぐら宿内しゆくないにいくつとなく作つくり党とうをなしてあそぶ。

〔図〕fig58400_46.png
正月鳥追櫓之圖

○ 雪霜

前まへにもしば〱いへるごとく、北国中にして越後は第一の雪国なり。その中にも魚沼うをぬま・古志こし・頸城くびきの三郡さんぐんを大雪とす。毎年一丈以上の雪中に冬をなせども寒気かんきは江戸にさまでかはる㕝なしと、江戸に寒中せし人いへり。五雑組ござつそにいへる霜は露つゆのむすぶ所にして陰いんなり、雪は雲のなす所にして陽やうなりとはむべなり。かゝる雪中なれども夏の儲まうけに蒔まきたる野菜やさいのるゐも雪の下に萌もえいでゝ、その用をなす㕝おそきとはやきのたがひはあれども暖国だんこくにかはる㕝なし。その遅おそきとは三月にはじめて梅の花を見、五月の瓜うり・茄子なすを初物はつものとす。山中にいたりては山桜のさかり四月のすゑ五月にいたる所もあるなり。

○ 地獄谷ぢごくだにの火ひ

此書このしよの前編上の巻まき雪中の火といふ条くだりに、六日町の魚沼郡西の山手に地中ちちゆうより火の燃もゆる事をしるせしが、地獄谷の火の㕝をもらせしゆゑこゝにしるす。○およそ我わが越後に名高く七不思議なゝふしぎにかぞへいふ蒲原郡かんばらごほり如法寺村によほふじむら百姓荘さう右エ門七兵衛孫六が家にも地火ありが家にある地中より燃もゆる火は、普あまねく人の知る所なれども、其火よりも盛大せいだいなるは魚沼郡のうち、かの小千谷をぢやの在ざい地獄谷の火なり。唐土もろこしに是これを火井くわせいといふ。近来きんらい此地獄谷に家を作り、地火ちくわを以て湯ゆを燂わかし、客きやくを待まちて浴よくさしむ、夏秋のはじめまでは遊客いうかく多し。此火井他国にはきかず、たゞ越後に多し。先年蒲原郡の内或家あるいへにて井を掘ほりしに、其夜医師いし来りて井を掘し㕝を聞きゝ、家に皈かへる時挑灯てうちんを井の中へ入れそのあかしにて井を見て立さりしに、井中より俄にはかに火をいだし火勢くわせいさかんに燃もえあがりければ近隣きんりんのものども火事くわじなりとしてはせつけ、井中より火のもゆるを見て此井を掘しゆゑ此火ありとて村のものども口々に主人を罵のゝしり恨うらみければ、主人も此火をおそれて埋うづめけるとぞ。此地火一に陰火いんくわといふ。かの如法寺村によほふじむらの陰火も微風すこしのかぜの気きいづるに発燭つけぎの火をかざせば風気ふうき手てに応おうじて燃もゆる、陽火やうくわを得えざれば燃もえず。寛文くわんぶんのむかし荘さう右エ門が如法寺村庭にはにて韛ふいごをつかひたる時より燃もえはじめしとぞ。前にいふ井中の火も医者いしやが挑灯てうちんを井の中へさげしゆゑその陽火にてもえいだしたるなるべし。

●さて又頸城郡くびきごほりの海辺うみべに能生宿のうしやうしゆくといふは北陸道ほくろくだうの官路くわんろなり、此宿より山手に入る㕝二里ばかりに間瀬口ませくちといふ村あり、こゝの農家のうかに地火をいだす㕝如法寺によほふじ村の地火に同じとぞ。此ほとり用水に乏とぼしき所にては、旱ひでりのをりは山に就ついて井を横よこに掘ほりて水を得うる㕝あり、ある時井を掘て横にいたりし時穴あなの闇くらきをてらすために炬たいまつを用ひけるに、陽火やうくわを得えて陰火いんくわ忽たちまち然もえあがり、人是これが為ために焼死やけししけるとぞ。是等これらの㕝どもをおもひはかるに、越後のうちには地火をいだす火脉くわみやくの地多おほく、いまだ陽火を得えずして発はつせざるも多かるべし。

百樹もゝき曰いはく、余よ小千谷をぢやにありし時岩居がんきよ余よに地獄谷ぢごくだにの火を見せんとて、社友しやいう五人を伴ともなひ用意よういの酒食しゆしよくを奚奴しもべ二人に荷になはしめ、余与よと京水と同行どうかう十人小千谷をはなれて西の方●新保しんほ村●薮川新田やぶかはしんでんなどいふ村々を歴へて一宮いちのみやといふ村にいたる、山間やまあひの篆畦あぜみち曲節まがり〱て茲こゝに抵いたる行程みちのり一里半可ばかりなり。是日このひはことに快晴くわいせいして村落そんらくの秋景しうけい百逞ひやくてい目を奪うばふ。さて平山ひらやま一ツを踰こえて坡さかあり、則すなはち地獄谷へいたるの径みちなり。坡さかの上より目を下くだせば一ツの茅屋ばうをくあり、是これ本文ほんもんにいへる混堂ゆやなり。人々坡さかの半なかばにいたりし時、茅屋ばうをくの楼上ろうしやうに四五人の美婦びふあらはれ、おの〱檻てすりによりて、遙はるかにこの人々を指ゆびさすもあり、あるひは笑わらひ、あるひは名をよび、あるひは手をうちたゝき、あるひは手をあげてまねく。四面しめん皆みな山にて老樹らうじゆ欝然うつぜんとして翳塞おほひふさぐの中なかに個この美人びじんを見ること愕然びつくりし、是狸たぬきにあらずんばかならず狐ならんといひければ、岩居がんきよ友ともだちと相顧あひかへりみ、手てを拍うつて笑わらふ。これは小千谷の下た町といふ所の酒楼しゆろうに居をる酌採しやくとりの哥妓げいしやどもなり、岩居がんきよ朋友はういうと計はかりて竊ひそかに此こゝに招まねきおきて余よに興きやうさせん為ためとぞ。渠かれは狐にあらずして岩居がんきよに魅ばかされたるなり。已すでに地獄谷にくだり皆みな楼ろうにのぼれり。岩居は余よと京水とを伴ともなひてかの火を視みせしむ。

●そも〱茲谷このたには山桜多かりしゆゑ桜谷とよびけるを、地火あるをもつて四方四五十歩ほ六尺を歩といふをひらきて平坦たひらの地となし、地火を借かりて浴室よくしつとなし、人の遊ぶ所とせしとぞ。桜谷とよびたる処地火のために地獄ぢごくとよばるゝこと、花はさぞかし薀憤くちをしかるべし。

●さてその火を視みるに、一ツの浅き井を作りたるその井中いちゆうより火の燃もゆる事常の湯屋の火よりも盛さかんなり。上に釜かまあり一間四方の湯槽ゆぶねあり、細ほそき筧かけひありて后うしろの山の清水を引き湯槽ゆぶねにおとす。湯は槽ふねの四方に溢あぶれおつ、こゝをもつて此湯ゆ温ぬるからず熱あつからず、天工こうの地ち火くわ尽つくる時なければ人作じんさくの湯も尽つくる期ごなし、見るにも清潔せいけつなる事いふべからず。此混堂ゆやに続つゞきて厨処だいどころあり、灶かまどにも穴ありて地火を引て物を烹にること薪たきゞに同じ。次に中の間まあり、床ゆかの下より竹筩たけつゝを出し、口には一寸ばかり銅あかゞねを鉗はめて火を出いださしむ。上より自在じざいをさげ、此火に酒の燗かんをなしあるひは茶ちやを煎せんじ、夜は燈火ともしびとす。さて熟つら〱此火を視るに、筩つゝをはなるゝこと一寸ばかりの上に燃もゆる、扇にあふげば陽火やうくわのごとくに消きゆる。筩つゝの口に手をあてゝこゝろむるに少しく風をうくるのみ。発燭つけぎの火を翳かざせば忽然こつぜんとしてもゆることはじめの如し。主あるじの翁おきなが曰、この火夜は昼ひるよりも燥烈はげしく、人の顔かほ青あをくみゆるといへり。翁が妻つま水のうちよりもゆる火を見せ申さんとて、混堂ゆやのうしろに僅わづかの山田ある所にいたり、田の水の中に少し湧わくところあるにつけぎの火をかざししに、水中の火蝋燭らふそくのもゆるが如し。老婆らうばがいはく、此火のやうにもゆる処ほかにもあり、夜にいればこと〲く火をもやすゆゑ獣けものきたらずといへり。余よが江戸の目には視みる所こと〲く奇妙きめうなり。唐土もろこしには此火を火井くわせいとて、博物志はくぶつし或あるひは瑯瑘代酔らうやたいすゐに見えたる雲台山うんたいさんの火井も此地獄谷の火のごとくなれども、事の洪大こうだいなるは此谷の火に勝まさらず。唐土もろこしと日本とをおつからめて火井の最さい第一といふべし、是を見たる事越遊の一奇観きくわんなり。唐土に火井の在ある所北の蜀地しよくちに属しよくす、日の本の火井も北の越後に在り、自然しぜんの地勢ちせいによるやらん。

●さて一人の哥妓げいしや梯上はしごのうへにいでゝしきりに岩居がんきよを呼よぶ、よばれて楼ろうにのぼれり。余よは京水とゝもに此湯ゆに浴よくす、楼上ろうしやうには早はやく三弦さみせんをひゞかせり。浴ゆあみしをはりて楼にのぼれば、既すでに杯盤はいばん狼藉らうぜきたり。嬋娟哥妓うつくしきげいしや袖をつらね、素手そしゆ弄糸いとをろうし朱唇しゆしん謡曲きよくをうたふ迦陵頻伽かりやうびんがの声こゑ、外面如𦬇げめんによぼさつの色いろ興きやうを添そゆれば、地獄谷ぢごくだに遽然たちまち極楽世界ごくらくせかいとなれり。此妓ぎどもを養やしなふ主人あるじもこゝに来きたり居ゐて、従したがへたる料理人に具ぐしたる魚菜ぎよさいを調味ていみさせてさらに宴えんを開ひらく。是主人このあるじ俗中ぞくちゆうに雅がを挾さしはさんで恒つねに文人ぶんじんを推慕したふゆゑに、是この日もこゝに来きたりて余よに面識めんしきするを岩居がんきよに約やくせしとぞ。此人䶕そつはなるゆゑ自みづから双坡楼そつはろうと家号いへなす、その滑稽こつけい此一をもつて知るべし。飄逸へういつ洒落しやらくにしてよく人に愛あいせらる、家の前後に坡さかありとぞ、双坡そつはの字じ下くだし得えて妙なり。双坡楼そつはろう扇あふぎをいだして余よに句くを乞こふ、妓も持もちたる扇を出いだす。京水画をなし、余即興そくきやうを書しよす。これを見て岩居がんきよをはじめおの〱壁かべに句くを題だいし、更さらに風雅ふうがの興きやうをもなしけり。

●かくてやゝ日も傾かたふきければ帰路きろを促うながしけるに、哥妓げいしやどもは草鞋わらじにて来きたりしとてそれはわしがのなり、これはあれはとはきすてたるを争あらそふてはきいづる、みな酔興すゐきやうなれば噪閙おほさはぎして途みちを行ゆく。細流こながれある所にいたれば紅唇べに粉面おしろいの哥妓げいしや紅裩あかきゆもじを褰かゝげて渉わたる、花姿くわし柳腰りうえうの美人等びじんらわらじをはいて水をわたるなど余よが江戸の目には最いと珍めづらしく興きやうあり。酔客すゐかくぢんくをうたへば酔妓すゐぎ歩々あるきながら躍をどる。古縄ふるなはを蛇へびとし駭おどせば、おどされたる妓ぎ愕びつくりして片足かたあし泥田どろたへふみいれしを衆人みな〱辴然おほわらひす。此途みちは凡すべて農業のうげふの通路つうろなれば憇いこふべき茶店ちやみせもなく、半途はんとに至いたりて古き社やしろに入りてやすらふ。一妓ひとりのぎ社の后うしろに入りて立かへり石の水盤てうづばちの涸かれたる水を僅わづかに掬すくひ、手てを洗あらひしは私たれに去さりしならん。そのまゝ樹下きのもとに立せ玉ふ石地蔵𦬇いしのぢぞうぼさつの前まへに並ならびたちながら、懐中くわいちゆうより鏡かゞみを出いだして鉛粉おしろいのところはげたるをつくろひ、唇紅くちべになどさして粧よそほひをなす、これらの粧具しやうぐをかりに石仏せきぶつの頭かしらに置おく。外面女𦬇げめんによぼさつ内心ないしん如夜叉によやしやのいましめもあれば、𦬇ぼさつはなにとやおもひ玉ふらんともつたいなし。日ひも已すでに下晡なゝつさがりなればおの〱あしをすゝめて小千谷をぢやへかへりき。此紀行別に一本あり、吾が北越旅談にをさむ。

〔図〕fig58400_47.png
阪額野陣之圖

○ 越後の人物

板額女はんがくぢよは加治かぢ明神山の城主長をさの太郎祐森すけもりが室しつ、古志郡の産さんなり。又三歳の小児も知れる酒顛童子しゆてんどうじは蒲原郡沙子塚すなごつか村の産さん、今猶屋敷跡やしきあとあり。始はじめは雲上山うんしやうざん国上寺こくじやうじの行法印ぎやうほふいんの弟子でしなり。玄翁げんをう和尚は伊夜彦山いやひこさんの麓ふもと箭矧やはぎ村の産さんなり。近世ちかきよにいたりて徳僧とくそう高儒かうじゆ和哥書画の人なきにしもあらざれども、遠く四方に雷名らいめいせるはすくなし。画人呉俊明のち江戸にいでしゆゑ名をなせり近年相撲すまふに越海こしのうみ・鷲ヶ浜わしがはまは新潟にひがたの産さん、九紋竜くもんりゆうは高田今町の産、関戸せきのとは次第浜しだいはまの産さん也。常人たゞびとにて力士りきしの聞きこえありしは頸城くびき郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、是等これら無双ぶさうの大力にて人の知る所なり。又鎧潟よろひがたに近き横戸よこと村の長徳寺、谷根たにね村の行光寺も怪力くわいりよくのきこえたかし。此人々はいづれも独ひとりして鐘つりがねを軽かろく掛かけはづしするほどの力は有し人々なり。又孝子にはむかしは村上小次郎、新発田しばたの菊きく女、頸城くびき郡の僧そう知良、近くは三嶋郡村田村の百合ゆり女百姓伊兵衛がむすめ新発田しばた荒川あらかは村門左エ門百姓丑之介がせがれ塚原つかはらの豆腐売とうふうり春松鎌介がせがれ蒲原郡釈迦塚しやかつか村百姓新六、いづれも孝子かうしの名一国に高かりき。今存在そんざいするもありとかや。

百樹もゝき曰いはく、余よ越後にいたらば板額はんがくあるひは酒顛童子しゆてんどうしの旧跡きうせきをもたづね、新潟にひがたをも一覧なし、名の聞えたる神仏をもをがみたてまつり、寺泊てらどまりにのこる 順徳帝じゆんとくていの鳳跡おんあと、義経よしつね、夢囱国師むそうこくし、法然はうねん上人、日蓮上人、為兼卿ためかねきやう、遊女初君はつきみ等とうの古跡こせきもたづねばやとおもひしに、越後に入りてのち気運きうん順じゆんを失うしなひ、年とし稍やゝ倹けんして穀こくの価ねだん日々に躍あがり、人気じんき穏おだやかならず。心こゝろ帰家かへりたきにありて風雅ふうがをうしなひ、古跡こせきをも空むなしく過よぎり、惟たゞ平々なみ〱たる旅人りよじんとなりて、きゝおよびたる文雅ぶんがの人をも剌問たづねざりしは今に遺憾ゐかんなり。嗟乎あゝ年としの倹けんせしをいかんせん。

○ 無縫塔むほうたふ

蒲原郡かんばらごほり村松より東一里来迎らいかう村に寺あり、永谷寺えいこくじといふ曹洞宗さうどうしうなり。此寺の近くに川あり、早出川はやでがはといふ。寺より八町ばかり下に観音堂くわんおんだうあり、その下を流るゝ所を東光とうくわうが淵ふちといふ。永谷寺へ入院じゆゐんの住職じゆうしよくあれば此淵ふちへ血脉けちみやくを投なげ入るゝ事先例せんれいなり。さて此永谷寺の住職遷化せんげの前年ぜんねん、此淵ふちより墓はかの石になるべき円まるき自然石じねんせきを一ツ岸きしに出いだす、是これを無縫塔ふほうたふと名づけつたふ。此石出いづればその翌年よくねんには必かならず住職じゆうしよく病死びやうしする事むかしより今にいたりて一度も違ちがひたる事なし。此墓石はかいし大小によりて住職の心に応おうぜず淵ふちへかへせば、その夜よ淵逆浪げきらうして住職のこのむ石を淵に出したる事度々あり。先年凡僧ぼんそうこゝに住職し此石を見て死しを惧おそれ出奔しゆつほんせしに翌よく年他国たこくにありて病死せしとぞ。おもふに此淵に灵れいありて天然てんねんの死しを示しめすなるべし。友人いうじん北洋ほくやう主人蒲原郡見附の旧家、文をこのみ書をよくす件くだんの寺を覧みたる話はなしに、本堂間口まぐち十間、右に庫裏くり、左に八間けんに五間の禅堂ぜんだうあり、本堂にいたる阪さかの左りに鐘楼しゆろうあり、禅堂のうしろに蓮池れんちあり。上に坂あり、登りて住職じゆうしよくの墓所あり。かの淵ふちより出いだしたる円石まるいしを人作じんさくの石の台だいの脚あしあるにのせて墓はかとす。中央まんなかなるを開山かいさんとし、左右に次第しだいして廿三基きあり。大なるは径わたり一尺二三寸ばかり、八九寸六七寸なるもあり、大小は和尚の徳に応おうずといひつたふとぞ。台の高さはいづれも一尺ばかりなりと語られき。かの淵ふちに灵れいありといふは、むかし永光寺のほとりに貴人きにん何某なにがし住玉ひしに、その内室ないしつ色情しきじやうの妬ねたみにて夫をつとをうらみ、東光が淵に身を沈しづめ、冤魂ゑんこん悪竜あくりゆうとなりて人をなやまししを、永光寺の開山名をきゝもらせり血脉けちみやくをかの淵ふちにしづめて化度けどし玉ひしゆゑ悪竜得脱とくだつなし、その礼とてかの墓石はかいしを淵ふちにいだして死期しきを示しめす。是以こゝをもつて今にいたりても入院じゆゐんの時は淵に血脉を沈しづむと寺説じせつにつたふとぞ。

○さてまた我が隣国りんごく信濃にも無縫塔むほうたふの事あり。近江の石亭が雲根志うんこんしにいはく前編灵異之部信濃国高井郡渋湯しぶゆ村横井温泉寺の前に星河とて幅はゞ三町ばかりの大河あり、温泉寺の住僧遷化せんげの前年に、此河中へ何方いづかたよりともなく、高さ二尺ばかりなる自然石じねんせきの方かくにしてうつくしき石塔一ツ流れきたる、実まことに彫刻てうこくせるごとくにて天然てんねんの物なり。此石出いづると土民どみんども温泉寺へしらせる事なり、きはめて翌よく年住僧遷化せんげなり、則しるしに此石を立る。九代以前より始りしが代々九代の石塔、同石同様にて少しも違たがはず並ならびあり。或年あるとしの住僧此塔の出たる時天を拝していのる、我法華ほつけ千部読経どくきやうの願ぐわんあり、今一年にして満みてり、何とぞ命を今一年延のばし玉へと念じて、かの塔を川中の淵ふちに投なげこみたり。何事もなく一年すぎて千部読経どくきやうのすみし月に件くだんの石又川中にあらはるゝ、其翌年はたして遷化せんげなりと。その次の住僧塔のいでたる時何のねがひもなく淵ふちへなげこみたり、幾度なげしづめても其夜そのよにいでたり、翌年病死ありしとぞ。此辺にて是を無帽塔むはうたふと名づく。以上一条の全文越後に永光寺、信濃に温泉寺、事の相似あひにたる一奇怪きくわいといふべし。

○百樹もゝき曰、牧之老人が此草稿したがきを視みて無縫塔むほうたふの縫ほうの字義じぎ通つうじがたく誤字ごじにやとて郵示ひきやくたよりして問とひければ、無縫塔むほうたふと書伝かきつたへたるよしいひこしぬ。雲根志うんこんしには無帽塔むはうたふとあり、無帽むはうの字じも又通つうじがたし。おそらくは無望塔むばうたふにやあらん。住僧の心には死しぬがいやさに無望塔のぞみなきたふなるべし。こゝに無稽むけいの一笑いつせうを記しるして博識はくしきの確拠かくきよを竢まつ。

○ 北高和尚ほくかうわせう

魚沼郡|雲洞村うんどうむら雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の慈光寺じくわうじ、村松にあり村上の耕雲寺かううんじ、伊弥彦やひこの指月寺しげつじ、雲洞村の雲洞庵なり。十三世通天和尚つうてんわせうは、 霜台君さうたいくんの謙信けんしんの事親藉しんせきにて、高徳かうとくの聞えは今も口碑うはさにのこれり。 景勝君かげかつくんも此寺に物もの学まなび玉ひしとぞ。一国の大寺なれば古文書こもんじよ宝物等も多し、その中に火車落くわしやおとしの袈裟けさといふあり、香染かうそめの麻あさと見ゆるに血ちの痕あとのこれり。是を火車落とて宝物とする由来ゆらいは、むかし天正の頃雲洞庵十世北高和尚といひしは学徳全備がくとくぜんびの尊者にておはせり。其頃此寺にちかき三郎丸村の農家のうかに死亡しばうのものありしに、時しも冬の雪ふりつゞき雪吹ふゞきもやまざりければ、三四日は晴はれをまちて葬式さうしきをのばしけるに晴はれざりければ、強しひていとなみをなし、旦那寺だんなでらなれば北高和尚をむかへて棺くわんをいだし、親族しんぞくはさら也人々蓑笠みのかさに雪をしのぎて送おくりゆく。その雪途ゆきみちもやゝ半にいたりし時猛風まうふう俄にはかにおこり、黒雲こくうん空そらに布満しきみちて闇夜あんやのごとく、いづくともなく火の玉飛来り棺くわんの上に覆おほひかゝりし。火の中に尾はふたまたなる稀有けうの大猫ねこ牙きばをならし鼻はなをふき棺くわんを目がけてとらんとす。人々これを見て棺を捨すて、こけつまろびつ逃にげまどふ。北高和尚はすこしも惧おそるゝいろなく口に咒文じゆもんを唱となへ大声たいせい一喝いつかつし、鉄如意てつによいを挙あげて飛つく大猫の頭かしらをうち玉ひしに、かしらや破やぶれけん血ほどはしりて衣ころもをけがし、妖怪えうくわいは立地たちどころに逃去にげさりければ、風もやみ雪もはれて事なく葬式をいとなみけりと寺の旧記にのこれり。此時めしたるを火車おとしの法衣ころもとて今につたふ。

〔図〕fig58400_48.png
北高禅師勇気圖

百樹もゝき曰いはく、余よ越遊して塩沢に在し時、牧之老人に伴ともなはれて雲洞庵にいたり、塩沢より一里ばかり庵主あんしゆにも対話たいわなし、かの火車おとしの袈裟けさといふ物その外の宝物古文書こもんじよの類るゐをも一覧らんせり。いかにも大寺にて祈祷の二字を大書たいしよしたる竪額たてがくは 順徳院の震筆しんひつなりとぞ。佐渡へ遷幸のときの震筆なるべし門前に直江なほえ山城守の制札せいさつあり、放火はうくわ私伐しばつを禁きんずるの文なり。庭中ていちゆう池のほとりに智勇の良将宇佐美駿河守刃死じんしの古墳こふん在ありしを、先年牧之老人施主せしゆとして新あらたに墓碑ぼひを建たてたり。不朽ふきうの善行ぜんぎやうといふべし。本文に火車といふは所謂いはゆる夜叉やしやなるべし、夜叉の怪は唐土の書にもあまた散見せり。

○ 年賀ねんがの哥うた

余よ六十一還暦くわんれきの時年賀の書画しよぐわを集あつむ。吾国わがくにはさらなり、諸国の文人ぶんじん三都との名家めいか妓女きぢよ俳優はいいうヤクシヤ来舶清人らいはくせいひとの一絶ぜつをも得えたり。みな牧之に贈おくるといふ㕝をしるしたるなり、人より人にもとめて千余幅におよべり、帖でふとなして蔵す。ひとゝせ是を風入れするため舗みせにつゞきたる坐ざしきの障子しやうじをひらき、年賀の帖を披ひらき並ならべおきたる所へ友人いうじん来り、年賀の作意さくい書画の評ひやうなどかたりゐたるをりしも、順礼じゆんれいの夫婦ふうふ軒下のきしたに我が里言には廊下といふ立たちけり。吾が家常に草鞋わらんづをつくらせおきてかゝる者ものに施ほどこすゆゑ、それをも銭をもあたへしに、此順礼の翁おきな立さらでとりみだしたる年賀の帖を心あるさまに見いれたるが云いふやう、およばずながらわれらも順礼の腰をれを申さん、たんざく玉はれといふ。乞食こつじきのやうなるすがたには似気にげなきことばのおぼつかなしと思ひながら、短尺たんざくすゞりばこいだしければ、

三途川さんづがはわたしは先さきへ百年もゝとせも君きみがむかひをとゞめ申さん   五放舎ごはうしや

としるしたるふでのはこびも拙つたなからず。年賀にはひとふしかはりたる趣向しゆかうといひ、順礼じゆんれいに五放舎と戯たはふれたる名もおもしろく、友人と倶ともにおどろき感かんじ、宿やどを施行せぎやうせん、ゆる〱ものがたりせんなど、友人もさま〲にすゝめたれど、杖つゑをとゞめずして立さりけり。国は西国とばかりいへり、いかなるものにてやありけん。

○ 逃入村にごろむらの不思議ふしぎ

小千谷をぢやより一里あまりの山手やまてに逃入村にごろむらといふあり、にげ入りを里俗にごろとよぶ此村に大塚つか小塚とよびて大小二ツの古墳こふん双ならびあり。所の伝つたへに大なるを時平しへいの塚とし、小なるを時平の夫人ふじんの塚といふ。時平大臣夫婦の塚此地に在あるべき由縁いはれなきことは論におよばざる俗説ぞくせつなり。しかれども爰こゝに一ツの不思議あり、そのふしぎをおもへば、むかし時平にゆかりの人越後に流ながされなどして此地に終をはりたるにやあらん。その不思議といふは、昔より此逃入村の人手習てならひをすれば天満宮の祟たゝりありとて一村の人皆無筆むひつなり。他郷たきやうに身みを寄よせて手習すれば祟たゝりなし。しかれども村にかへれば日を追おひて字じを忘わすれ、終つひには無筆となる。このゆゑに文字もじの用ある時は他の村の者にたのみて書用しよようを弁べんず。又此村の子どもなど江戸土産みやげとて錦絵をもらひたる中に、天満宮の絵あればかならず神の祟たゝりの兆しるしありし事度々なりしとぞ。さればかの大塚小塚を時平大臣夫婦の古墳こふんなりと古くいひつたふるも何か由縁ゆえんある事なるべし。菅家くわんけの筑紫つくしにて薨こうじ玉ひたるは延喜えんぎ三年二月廿五日なり、今を去る事百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり九百十五年前なり。今にいたりても神灵しんれいの明々たる事おそるべし尊たうとむべし。

さて又これにるゐする事あり、南𧮾なんけいが東遊記とういうきを見るに、南𧮾東遊して津軽つがるに居たる時、六七日も風雨つゞきしうち、所の役人丹後の人や居をると旅店毎やどやごとにきびしくたづねしゆゑ、南𧮾あるじにそのゆゑを問ひければ、あるじいふやう、当国岩城いはきは人のしりたる安寿姫対王丸の生国なり、さればむかしの人此御ふたりを岩城山の神にまつりて社やしろ今に在り。此兄弟丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃苦くるしみたるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の堺さかひをいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると捜さがすなりといへりと。南𧮾子なんけいし此事に遇あひたりとて記せり。右にいふ兄弟の父岩城判官いはきはんぐわん正氏まさうぢ在京ざいきやうの時讒ざんにあひて家の亡びたるは永保年中の事なり、今をさる事およそ七百五十余年也。兄弟の怨魂ゑんこん今に消滅せうめつせざる事人知じんちを以論ずべからず。百樹曰、安寿は対王が妻なるよし塩尻廿二巻にいへり、猶考西遊記前編景清かげきよが塚つかは日向にあり、世の知る処なり。其母の塚は肥後国求麻くまの人吉の城下より五六里ほど東、切幡村きりばたむらにまつる。此所に景清が娘の墳つかもあり、一村の氏神にまつる、此村かならず盲人まうじんを忌いむ、盲人他処より入れば必祟たゝりあり、景清後のちに盲人になりしゆゑ、母の灵れい盲人めくらを嫌ふと所の人のいへりと記しるせり。これらの㕝逃入村にごろむらの不思議ふしぎに類せり。しかれども件くだんの二ツは社やしろありて丹後の人を忌いみ、墓はかありて盲人めくらをきらふなり、逃入村にごろむらは墳つかあるゆゑに天満宮の神灵しんれい此地を忌いみ玉ふならん。こゝをもつて考かんがふるに、かの古墳こふんはいよ〱時平が血脉けちみやくの人なるべし。

百樹もゝき曰いはく、余よ越遊ゑついうして小千谷をぢやに在りし時、所の人逃入にごろ村の事を語かたりて、かの古墳を見玉へ案内すべしといひしかど、菅神のいみ玉ふ所へ文墨ぶんぼくの者強しひてゆくべきにもあらねば、話はなしをきゝしのみにてゆかざりき。さて 天神様といへば三歳の小児も尊び、時平ときけば此 御神を讒言ざんげんしたる悪人なりとて、其悪千古に上下して哥舞妓かぶき狂言にも作りなし、婦女子も普あまねく知る所なれど、童稚どうち女子ぢよしはその実跡じつせきをしれるが稀まれなり。さればかゝるはかなき冊子さうしに此 御神の事を記しるすはいともかしこけれど、逃入村にごろむらの因ちなみによりてこゝに書載かきのす。

○謹つゝしんで案あんずるに、菅原すがはらの本姓は土師はじなりしが、土師はじの古人ふるひとといひしが、 光仁帝くわうにんていの御時、大和国菅原すがはらといふ所に住すみたるゆゑに土師の姓を菅原に改らる。菅神御名は道真みちざね、字あざなは三、童名を阿呼あこと申たてまつる。阿呼の御名に余が考あれども、文長ければこゝにはぶく 仁明帝にんみやうていに仕へ玉ひたる文章博士もんしやうはかせ参議さんぎ是善卿これよしきやうの第三の御子、承和じやうわ十二年に生うまれ玉へり。七歳の時紅梅こうばいを御覧じて「梅の花紅脂べにのいろにぞ似たる哉阿古あこが顔にもぬるべかりけり」十一の春斉衡二年父君より月下梅げつかのうめといふ詩しの題だいを玉ひたる時即坐そくざに「月ノ輝カヽヤクハ如シ二晴ハル、雪ノ一梅花ハ似タリ二照ル星ニ一可シレ憐ム金鏡転シテ庭上玉房馨カンバシ」御祖父清公御父是善卿の学業を受嗣うけつぎ玉ひて文芸ぶんげいはさらなり、武事にも疎うとからずまし〱けり。

○清和天皇の貞観元年御年十五にて御元服、同四年文章生もんじやうせいに挙あげられ、下野の権掾ごんのじやうにならせらる。同十四年御年廿八御母伴氏ともうぢ身まかり玉ひ、 陽成天皇やうぜいてんわうの元慶ぐわんぎやう四年八月晦日御父是善卿ぜぜんきやうも身まかり玉へり。御年六十九此時 菅神は御年四十一なり。

○寛平くわんびやう四年御年四十八類聚国史るゐじゆこくし二百巻を撰えらみ玉ふ。和哥は菅家御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻後草は筑紫にての御作なり今も世に伝ふ。大納言公任卿きんとうきやうが朗詠集らうえいしふに入れられたる菅家の詩に「送ルハレ春ヲ不レ用ヒレ動スコトヲ二舟車ヲ一唯別ル三残鴬ト与トニ二落花一若モシ使シテ二韶光ヲ一知ラシメバ二我ガ意ヲ一今𫕟旅宿在ン二詩家ニ一」此御作は 延喜帝いまだ東宮とうぐうたりし時令旨れいしありて一時ひとゝきの間に十首の詩を作り玉ひたる其一ツなり。

○さて御若年より数階すかいを歴へ給ひて後、寛平くわんびやう九年御年五十三権大納言右□将を兼かねらる。此時時平しへい大納言に任にんぜられ左□将を兼、 菅神と並び立て執政しつせいたり。此時大臣の官なかりしゆゑ、大納言にて執政たり。此年七月三日 宇多帝うだてい御位みくらゐを太子敦仁あつひと親王へ譲ゆづり玉ひ朱雀すじやく院へ入らせ玉ひ、亭子ていじ院と申奉り、御法体ほつたいありては 寛平法皇くわんびやうほふわうとぞ申奉る。 敦仁あつひと親王を 醍醐だいご天皇とも後のちよりは延喜帝とも申奉る。御年十三年号を昌泰しやうたいと改元す。同二年時平公左□臣、 菅神右□臣相倶あひともに 帝みかどを補佐ほさし奉らる、時に時平公二十七、 菅神五十四。両公左右の□臣たれども才徳さいとく年齢ねんれい双璧さうへきをなさず、故に心齟齬そごして相和くわせず。是これ 菅神の讒毒ざんどくを得え玉ふの張本ちやうぼんなり。

○そも〱時平公は大職冠九代の孫照そんせう宣ぜん公の嫡男ちやくなんにて、代々□臣の家柄いへがらなり。しかのみならず延喜帝の皇后きさきの兄あになり。このゆゑに若年にして□臣の貴重きちやうに職しよくししなり。此人の乱行らんぎやうの一ツを言いはば、叔父をぢたる大納言国経卿くにつねきやうは年老としおい、叔母をばたる北の方は年若く業平なりひらの孫女まごむすめにて絶世ぜつせいの美人びじんなり。時平是に恋々れん〱す、夫人ふじんもまた夫をつとの老おいたるを嫌きらふの心あり。時平或日あるひ国経くにつねの許もとに宴えんし、酔興すゐきやうにまぎらして夫人ふじんを貰もらはんといひしを、国経も酔ゑひたれば戯言たはぶれごととおもひてゆるしけり。さて国経が酔臥ゑひふしたるを見みて叔母をばを車にいだき入れて立かへり、此腹はらに生れたるを中納言敦忠あつたゞといふ、時平の不道ふだう此一を以て其余そのよを知しるべし。かゝる不道の人なれば、 寛平法皇の帝の御父御心には時平の任にんを除のぞき 菅神御一人に国政をまかせ玉はんとのおぼしめしありしに、延喜元年正月三日、帝みかど亭子院ていじゐんへ朝覲てうきんのをりから御内心を示しめし玉ひしに 帝もこれにしたがひ玉ひ、其日 菅神を亭子院にめして事のよしを内勅ないちよくありしに 菅神固かたく辞じしたまひしに許ゆるし玉はざりけり。同月七日従二位にすゝみ玉へり此密事みつじいかにしてか時平公の聞きゝにふれしかば、事に先さきんじて 帝に讒ざんするやうは、君の御弟斉世ときよ親王は道真みちざねの女むすめを室適しつてきオクサマして寵遇ちようぐう厚あつし。是以こゝをもつて君を廃はいして親王を立、国柄こくへいを一人の手に握にぎらんとの密謀みつぼうあり 法皇ほふわうも是に応おうじ玉ふの風説ふうせつありと言ことばを巧たくみに讒ざんしけり。時に 延喜帝御年十七なり。 皇后きさきは時平公の妹なれば内外より讒毒ざんどくを流して若帝わかみかどの御心を動うごかし奉りたるなり。

○さて時平が毒奏どくそうはやく中あたりて、同月廿五日左降さがうの宣旨せんじ下りて右□臣の職しよくを削けづり、従二位はもとのごとく太宰権帥だざいごんのそつとし文官筑紫つくしへ左遷させんに定め玉へり。 寛平くわんびやう法皇此事を聞きこしめして大におどろかせ給ひ、御車みくるまにもめし玉はず俄に御沓くつをすゝめ玉ひて清涼殿に立せ玉ひ、斯かくと申せとおほせありしかども左右の諸陣警固けいごして事を通ぜず、是も時平が讒ざんに一味する菅根の朝臣がはからひとかや。 法皇は草坐むしろにざし玉ひ終日庭上にはに御ましまし晩くれにいたりてむなしく本院へ還□《かへらせ》玉へり。

○菅神に御子二十三人おはせり。御男子四人は四方へ流ながされ玉ふ、是も時平が毒舌どくぜつによれり。姫ひめたちは都にとゞまり幼をさなきはふたり筑紫へしたがへ給へり。年頃としごろ愛めで玉ひたる梅にさへ別れををしみたまひて「東風こち吹ふかば匂ひをこせよ梅の花主あるじなしとて春な忘わすれぞ」此梅つくしへ飛とびたる事は挙世よのひとの知る処なり。又桜を「桜花主ぬしを忘わすれぬものならば吹こん風にことつてはせよ」

○斯かくて延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘をいで玉ひて、津の国須磨すまの浦に日を移うつしつくしへ抵いたりたまへり。やかたをいで玉ひてよりつくしへいたり給ひしまでの事どもを、菅神の筆記せさせ給ひたるを須麻の日記とて今も世にのこれり、一説に偽書といふ。

○筑紫つくし太宰府だざいふにて「離レテレ家ヲ三四月 落涙百千行 万事ハ皆如シレ夢ノ 時々仰アヲク二彼蒼ヒサウヲ一」御哥に「夕ざれば野にも山にも立烟りなげきよりこそもえまさりけれ」又雨の日に「雨の朝あしたかくるゝ人もなければやきてしぬれ衣きぬひるよしもなき」ぬれぎぬとは無実むじつのつみにかゝるをいふなり

○つくしにいたり玉ひては不出門行ふしつもんかうといふ詩しを作り玉ひて、寸歩すんほも門外もんのそとへいで玉はず。是朝廷てうていを尊たうとみ恐おそれ、御身の謫官てきくわんナガサレモノたるをつゝしみたもふゆゑなり。御句に「都府楼ハ纔ワズカニ看ミ二瓦ノ色ヲ一 観音寺ハ只タヾ聴ク二鐘ノ声ヲ一」

○菅神延喜元年二月朔日都を出玉ひて筑紫へいたり玉ひしは八月なり。是より前の御詩文を菅家文草といひ十二巻左遷より後のを菅家後草とて一巻今も世につたふ。後草に九月十三夜の題だいにて「去年今夜侍ジシキ二清涼ニ一 秋思ノ詩篇独リ断ツレ膓ハラワタヲ 恩賜ノ御衣今在レ此コヽニアリ 捧持サヽゲモチテ毎日拝ス二余香ヲ一」此御作に注ちゆうあり、その趣おもむきは、○去年とは昌泰しやうたい三年なり延喜元年の一年まへ其年の九月十三夜、 清涼殿に侍候じかうありし時、秋思といふ題だいを玉はりしに、詩しの意こゝろにことよせて諫いさめたてまつりしに、其いさめを容いれ玉ひよろこばせ給ひて御衣を賜ひたるを、此配所はいしよにもちくだりて毎日御衣にのこりたる余香よかうを拝はいすと、 帝みかどをしたひ御恩を忘れ玉はざる御心の誠まことを作り玉ひたるなり。此一詩をもつても無実むじつの流罪るざいに所しよして露ばかりも帝を恨うらみ玉はざりしを知るべし。朝廷てうていを怨うらみ給ひて魔道まだうに入り、雷公かみなりになり玉ひたりといふ妄説まうせつは次に弁べんずべし。

○高辻の御庭の桜枯かれたりときゝ玉ひて「梅は飛桜はかるゝ世の中に松ばかりこそつれなかりけれ」

○さて太宰府に謫居てききよし給ふ事三年みとせにして延喜三年正月の頃より 御心例れいならず、二月廿五日太宰府に薨こうじ玉へり、御年五十九。御墓はかは府にちかき四ツ辻といふ所に定め、 御棺くわんをいだしけるに途中とちうにとゞまりてうごかず、則すなはちその所に葬り奉る、今の 神庿しんべう是なり。

○延喜五年八月十九日同所安楽寺に始はじめて 菅神の神殿を建らる。味酒あぢさけの安行やすゆきといふ人是をうけたまはる。同九年神殿成る。是よりさき四人の御子配流はいるをゆるされ玉ひ、おの〱故もとの位にかへされ玉ふ。

○神かん去さり玉ひしのち水旱風雷すゐかんふうらいの天変へんしば〱ありて人の心安からず。是ぞ 菅公の祟たゝりなるらんなど風説しけるとかや。

○菅神薨去こうきよより七年にあたりて延喜九年四月、左□臣藤原時平公薨こうず、歳三十九。又一男八条の大将保忠やすたゞ、その弟中納言敦忠あつたゞおよび時平の女むすめ、延喜帝の女御なり孫の東宮までも相つゞきて薨こうぜらる。又時平の讒毒ざんどくに荷担かたんしたる菅根すがねの朝臣は延喜八年十月死す。これらの事どもをも 菅神の祟なりと世に流布るふせしは 菅公の冤謫ゑんてきムジツノナガサレを世の人哀あはれみ戚なげきたるゆゑとかや。

○延長元年三月保明やすあきら太子薨去こうきよ。時平の孫、まへに東宮といひし是也。

○同年四月廿日贈位正二位本官の右□臣に復かへし玉ふ。神さり給ひしより二十年。

○一条院の御時正暦四年五月廿一日 菅神に正一位左□臣を贈おくらる。菅神百年御忌にあたる。

○同年閏十月十九日大政□臣を贈おくらる。しかれば此 御神の御位は正一位大政□臣としるべし。後年こうねん屡しば〱神灵しんれいの赫々かく〱たる徴しるしありしによりて、 天満宮、或 自在天神の贈称さうしようあり。

○そも〱 醍醐だいご天皇は在位卅二年百廿代の御皇統くわうとうの中にも殊に御徳達とくたつたりしゆゑ、延喜の聖代せいだいと称し、御在位の久かりしゆゑ 延喜帝とも申奉る。 御若冠の時とは申ながら、賢者けんしやの聞きこえある重臣の 菅公を時平大臣おとゞが一時の讒口ざんこうを信じ玉ひて其実否をも糺たゞし玉はず、卒尓そつじに菅公を左遷させんありしは 御一代の失徳しつとくとやいふべき。しかるを 菅神の恨うらみ玉はざりしは配所の詩哥にてもしらる、 菅神はうらみ玉はずとも賢徳けんとく忠臣の冤謫ゑんてきを天のいきどほりて水旱すゐかん風雷ふうらいの異変いへん、讒者ざんしや奸人かんじんの死亡しばうありしならん。俗子ぞくしは是を 菅神の怨灵おんりやうとするは是又 菅神の賢行けんかうに瑾きずつけるなり。しかれども竊ひそかに謂おもへらく、賢者けんしやは旧悪きうあくをおもはずといふも事にこそよれ、冤謫ゑんてき懆愁さうしうのあまり讒言ざんげんの首唱しゆしやうたる時平大臣しへいのおとゞを肚中とちゆうハラノナカに深く恨み玉ひしもしるべからず。本編にいふ逃入村にごりむらを神の忌いみ玉ふも其徴しるしとするの一ツなるべし。

○神去り玉ひしより廿八年の後延長八年六月二十六日、大雷清涼殿に隕おちて藤原清貫きよつら大納言平稀世たひらのまれよ右中弁其外侍候じかうの人々雷火に即死そくしす、 延喜帝常寧殿じやうねいでんに渡御ありて雷火を避さけたまふ。是をも 菅神の祟たゝりとするはいよ〱非説ひせつなりと、安斎あんさい先生伊勢平蔵の菅像弁くわんざうべんにもいへり。

○太宰府より一里西に天拝山はいさんあり。 菅神この山にのぼりて朝廷てうていを怨うらむ告文かうぶんを天に捧さゝげて祈いのり、雷神となり玉ひしといふは、賢徳けんとくの御心をしらざる俗子ぞくしの妄説まうせつを今に伝つたへたるなり。和漢三才図会づゑにも実まことしやかに記しるしたるは、不出門行ふしつもんかうの御作に心を深ふかめざるにやあらん。

○法性坊尊意そんい叡山えいざんに在し時 菅神の幽灵いうれい来り我冤謫むしつのながされの夙懟ふるきうらみを償むくはんとす、願くは師の道力をもつて拒こばむことなかれ。尊意曰、卒土そつとは皆王民なり、我もし 皇みかどの詔みことのりをうけ玉はらば避さくるに所なし。菅神怍色はづるいろあり、適たま〱柘榴さくろを薦すゝむ、 菅神哺たべかけを吐はきて焔ほのふをなし玉ひしといふ故事ふることは、元亨釈書げんかうしやくしよの妄説まうせつに起おこる。此書は今天保十年より五百廿年前元亨二年東福寺の虎関和尚の作なりかゝる奇怪の事を記すは仏者の筆癖ふでくせなりと、安斎あんさい先生もいへり。

○白太夫といふは伊勢渡会わたらひの神職しんしよく 菅神文墨ぶんぼくに於格外の懇友こんいうなり、ゆゑに北野に祀まつりて今も社あり。此御神の事を作りたる俗曲に梅王松王桜丸の名はかの梅は飛の御哥によりてまうけたる名なり。

○北野の御社の始はじめは天慶てんきやう五年六月九日より勅命ちよくめいによりて建創たてはじむ。其起りは西の京七条に住すみたる文子あやこといふ女に神託たくありしによりてなり。北野縁起につまびらかなり。

○世に渡唐とたうの天神といひて唐服たうふくに梅花一枝いつしを持玉ふを画く。故事ふることは、仏鑑禅師ぶつかんぜんじ聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖博多はかたに住玉ひたる跡あとの地中より掘いだしたる石に 菅神の灵れい唐土もろこしへ渡り玉ひて経山寺きんざんじの無準禅師むじゆんぜんじに聖一国師の師なり法を受うけ玉ひて日本ひのもとへ帰かへり玉ひたりと、件くだんの石に彫ほりつけありしと古書こしよに見えたるを拠よりところとして、渡唐とたうの 神影しんえいを画き伝つたへたるなり。此事固もとより妄説まうせつなりと安斎先生の菅像弁くわんざうべんにいへり。菅家聖庿伝暦といふ書の附録に、沙門師嵩が菅神渡唐記あり、其説孟浪に属す。

○菅神左遷させんの実跡じつせきを載のせたるは、○日本紀略きりやく抄録に巻序を失意せり○扶桑略記ふさうりやくき巻卅三〇日本史し百卅三の列伝れつでん五十九〇菅家御伝記神統かみのみすゑ菅原陳経のぶつね朝臣御作正史によられたれば証とすべし其余そのよ虚実きよじつ混合こんがふマジリしたる古今の書籍しよじやく枚挙まいきよアゲツクスすべからず。

○本朝文粋ぶんすゐに挙あげたる大江匡衡まさひらの文に「天満自在天神或は塩二梅於天下てんかをあんばいして一輔導一人いちにんをほだうし一帝の御こと或日二月於天上てんしやうにじつげつして一照二臨万民まんみんをせうりんす一就レ中なかんづく文道之大祖ぶんだうのたいそ風月之本主ふうげつのほんしゆ也なり」云云。大江家けは 菅原家と倶ともに 朝廷てうていに累世だい〱する儒臣じゆしんなり。しかるに 菅神を崇称あがめたゝへたる事件くだんの文の如し。是以こゝをもつて凡すべて文道に関あづかる者此 御神を崇あがめざらんや、信ぜざらんや。

○およそ 菅神を祀まつる社やしろにはおほかたは雷除らいよけの護府まもりといふ物あり。此 御神雷の浮名うきなをうけ玉ひたるゆゑ、 神灵しんれい雷らいを忌いみ玉ふゆゑに此まもりかならず験しるしあるべし。

○さて如件くだんのごとく条説でうせつするは、本編にいへる逃入村にごろむらの 神灵しんれいの事に因ちなみて実跡じつせきの書どもを摘要てきえうして御神の略伝りやくでんを児曹こどもに示しめすなり。固もとより不学ふがくのすさみなれば要跡えうせきの漏もれたるも説せつの誤謬あやまりたるもあるべし。あなかしこ謹つゝしんで附記ふきす。

○再ふたゝび按あんずるに、孔子の聖せいなるもその灵れいは生いける時よりも照然せうぜんとして、その墓はか十里荊棘けいきよくムバラを生ぜず、鳥も巣すをむすばず。関羽くわんうの賢けんなるも死ししては神となりて祈いのるに応おうず。是則これすなはち生いきては形かたちを以て運めぐり、死しゝては神たましひを以て運めぐるゆゑなりとかや。文海披沙の説菅神も此論ろんに近し。逃入村にごろむらの事を以ても千年にちかき神灵しんれいの赫々かく〱たること仰あふぐべし敬うやまふべし。盖けだし冥々めい〱には年月を置おかずときけば百年も猶なほ一日の如くなるべし。菅公の神灵にるゐする事和漢に多し、さのみはとこゝにもらせり。

○ 田代たしろの七ツ釜かま

魚沼郡の官駅くわんえき十日町の南七里計ばかり、妻在庄つまりのしやうの山中此へんすべて上つまりといふに田代たしろといふ村あり。村を去さる事七八町に七ツ釜といふ所あり、里俗滝つぼを釜といふ滝七段だんあるゆゑに七ツ釜とよびきたれり。銚子てうしの口不動滝ふどうたきなどいふも七ツ釜の内にて、妙景めうけい奇状きじやう筆ふでをもつて云いふべからず。第七番目の釜の地景ちけいを爰こゝに図づするをみて其大概たいがいをしるべし。此所の絶壁ぜつへきを竪御号たておがう横御号よこおがうといふ、里俗りぞく伊勢より御師おんしの持きたるおはらひ箱をおがうさまといふ、此絶壁ぜつへきの石かの箱の状かたちに似にたるをもつて斯かくいふなり。その似にたりといふは此ぜつへきの石どもの落おちてあるを視れば、厚あつさ六七寸計ばかりにして平ひらみあり、長さは三四尺ばかり、長短はひとしからず、石工いしやの作りなしたるが如し。此石数百万を竪たてに積重つみかさねて、此数十丈の絶壁ぜつへきをなす也。頂いたゞきは山につゞきて老樹らうじゆ欝然うつぜんたり、是右の方の竪御たておがうなり。左りは此石の寸尺にたがはざる石を横に積つみかさねて数十丈をなす事右に同じ。そのさま人ありて行儀ぎやうぎよくつみあげたるごとく寸分の斜ゆがみなし、天然てんねんの奇工きこう奇々妙々不可思議ふかしぎなり。此石の落たるを此田代村たしろむらの者ものさま〲の物に用ふ、片石へんせきにても他所に用ふれば祟たゝりありし事度々なりとぞ。余よ文政三年辰七月二日此七ツ釜の奇景きけいを尋たづねて目撃もくげきミタトコロしたるを記す。天の茫ばう々たる他国にも是に似たる所あるべし、姑しばらくその類るゐを示しめす。

〔図〕fig58400_49.png
七ツ釜之圖

○百樹もゝき曰、余よ仕つかへに在し時同藩の文学関先生の話はなしに、 君侯くんこう封内ほうないの丹波笹山山に天然てんねんに磨ひきうすの状かたちしたる石をつみあげて柱はしらのやうなるを並ならべて絶壁ぜつへきをなし、満山まんざん此石ありとかたられき。又西国の山に人の作りたるやうなる磨ひきうすの状かたちの石を産する所ありと春暉しゆんきが随筆ずゐひつにて見たる事ありき、今その所をおもひいださず。

○又尾張の名古屋の人吉田重房が著あらはしたる筑紫記行つくしきかう巻の九に、但馬国たじまのくに多気郡たけこほり納屋村なやむらより川船にて但馬の温泉いでゆに抵いたる途中みちを記しるしたる条くだりに曰いはく、○猶舟にのりて行ゆく。右の方に愛宕山あたごさん、宮島みやしま村、野上のかみ村、石山いしやま地名など追続おひつゞきてあり。此石山の川岸に臨さしかゝれる所に奇めづらしき石あり、其形かたち磨磐ひきうすの如く、上下平たひらかにして周めぐりは三角四角五角八角等にして、石工いしやの切立し如く、色は青黒し。是を掘出したる跡あともありて洞ほらのごとし。天下の広ひろきには珍奇ちんきなる事おほきものなりけり云云。是も奇石きせきの一類るゐなれば筆の次ついでにしるしつ。

北越雪譜二編巻之三 終

北越雪譜二編 巻之四

越後   鈴木牧之  編選

江戸   京山人百樹 増修

○ 異獣いじう

魚沼郡堀内ほりのうちより十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の間道かんだうなり。さてある年の夏のはじめ、十日町のちゞみ問屋ほりの内の問屋へ白縮ちゞみなにほどいそぎおくるべしといひこしけるゆゑ、その日の昼ひるすぐる頃竹助といふ剛夫がうふをえらみ、荷物をおはせていだしたてけり。かくて途みちも梢々やゝ半にいたるころ、日ざしは七ツにちかし、竹助しばしとてみちのかたはらの石に腰こしかけ焼飯やきめしをくひゐたるに、谷間たにあひの根笹ねさゝをおしわけて来きたる者あり、ちかくよりたるを見れば猿さるに似にて猿にもあらず。頭かしらの毛け長く脊せにたれたるが半なかばはしろし、丈たけは常並つねなみの人よりたかく、顔かほは猿に似て赤からず、眼まなこ大にして光りあり。竹助は心剛がうなる者ゆゑ用心にさしたる山刀を提ひつさげ、よらば斬きらんと身みがまへけるに、此ものはさる気色けしきもなく、竹助が石の上におきたる焼飯やきめしに指ゆびさしくれよと乞こふさまなり。竹助こゝろえて投与なげあたへければうれしげにくひけり、是にて竹助心をゆるし又もあたへければ、ちかくよりてくひけり。竹助いふやう、我はほりの内より十日町へゆくものなり、あすはこゝをかへるべし、又やきめしをとらすべし、いそぎのつかひなればゆくぞとて、おろしおきたる荷物をせおはんとせしに、かのもの荷物をとりてかる〲とかたにかけさきに立てゆく。竹助さてはやきめしの礼にわれをたすくるならんとあとにつきてゆくに、かのものはかたにものなきがごとし。竹助は嶮岨けんその道もこれがためにやすく、およそ一里半あまりの山みちをこえて池谷村いけだにむらちかくにいたりし時、荷物をばおろし山へかけのぼる、そのはやき事風の如くなりしと、竹助が十日町の問屋にてくはしく語かたりしとて今にいひつたふ。是今より四五十年以前の事なり、その頃は山かせぎするものをり〱は此異獣いじうを見たるものもありしとぞ。

○前にいふ池谷村の者の話はなしに、我れ十四五の時村うちの娘に機はたの上手ありて問屋より名をさしてちゞみをあつらへられ、いまだ雪のきえのこりたる囱まどのもとに機はたを織おりてゐたるに、囱まどの外そとに立たちたるをみれば猿のやうにて顔かほ赤からず、かしらの毛長くたれて人よりは大なるがさしのぞきけり。此時家内の者はみな山かせぎにいでゝむすめ独ひとりなればことさらに惧おそれおどろき、逃にげんとすれど機はたにかゝりたれば腰こしにまきつけたる物ありて心にまかせず、とかくするうちかのもの立さりけり。やがてかまどのもとに立しきりに飯櫃めしびつに指ゆびさして欲ほしきさまなり、娘此異獣いじうの事をかねて聞きゝたるゆゑ、飯を握にぎりて二ツ三ツあたへければうれしげに持さりけり。そのゝち家に人なき時はをり〱来りて飯を乞こふゆゑ、後には馴なれておそろしともおもはずくはせけり。

○さて此娘、 尊用なりとて急いそぎのちゞみをおりかけしに、折をりふし月水ぐわつすゐになりて 御機屋はたやに入る事ならず。御機屋の事初編に委しく記せり手を停とゞめ居をれば日限に後おくる、娘はさらなり、双親ふたおやも此事を患うれひ歎なげきけり。月やくより三日にあたる日の夕ぐれ、家内のもの農のう業よりかへらざるをしりしにや、かのもの久しぶりにてきたれり。娘、人にものいふごとく月やくのうれひをかたりつゝ粟飯をにぎりてあたへければ、れいのごとくすぐに立さらず、しばしものおもふさましてやがてたちさりけり。さて娘は此夜より月やくはたととまりしゆゑ、不思議ふしぎとおもひながら身をきよめて御機はたを織果おりはて、その父問屋へ持去もちさり、往着ゆきつきしとおもふ頃娘時ならず俄にはかに紅潮つきやくになりしゆゑ、さては我が歎なげきしを聞きゝてかのもの我を助たすけしならんと、聞く人々も不思議のおもひをなしけりと語かたれり。そのころは山中にてたまさかに見たるものもあり、一人にても連つれある時は形かたちを見せずとぞ。又高田の藩士はんし材用にて樵夫きこりをしたがへ、黒姫くろひめ山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿に似にて猿にもあらざる物、夜中小屋に入りて焼火たきびにあたれり。たけは六尺ばかり、赤髪あかきかみ、裸身はだかみ、通身みうち灰色はいいろにて、毛けの脱ぬけたるに似にたり、腰こしより下に枯かれ草をまとふ。此物よく人のいふことにしたがひて、のちにはよく人に馴なれしと高田の人のかたりき。按あんずるに和漢わかん三才図会づゑ寓類ぐうるゐの部ぶに、飛騨美濃ひだみのあるひは西国の深山しんざんにも如件くだんのごとき異獣いじうある事をしるせり。さればいづれの深山にもあるものなるべし。

〔図〕fig58400_50.png
山中異獣の圖

○ 火浣布くわくわんふ

宝暦年中平賀鳩渓きうけい源内火浣布を創はじめて製せいし、火浣布考くわくわんふかうを著あらはし、和漢の古書を引、本朝未曾有みそうの奇工きこうに誇ほこれり。没ぼつしてのち其術そのじゆつつたはらず、好事家かうづかの憾事かんじとす。しかるに我国甞かつて火浣布くわくわんふを作つくるの石いしを産さんす、その在ある所は、○金城きんじやう山○巻機まきはた山○苗場なへば山○八海山はつかいさんその外にもあり。その石軟弱やはらかにして爪つめをもつても犯おかすべきほどの軟やはらなる石なり。いろは青く黒し、これをくだけば石綿いしわたを出いだす。此石を得えて試こゝろみしに、石中に在ある石綿いしわたといふものは、木綿もめんわたを細ほそく紬つむぎたるを二三分ほどにちぎりたるやうなるものなり。是これを紡績はうせきイトニスルするに秘術ひじゆつありて火浣布を造つくるなり、其秘術を得えば小女子も火浣布を織るべし。

○さて我わが駅中えきちゆうに稲荷屋喜右エ門といふもの、石綿を紡績はうせきする事に千思せんし万慮りよを費つひやし、竟つひに自みづからその術を得て火浣布を織いだせり。又其頃我が近村きんそん大沢村の医師黒田玄鶴げんくわくも同じく火浣布を織る術を得えたり。各々おの〱秘ひしてその術を人に伝へざるに、おなじ時おなじ村つゞきにておなじ火浣布の奇工きこうを得えたるも一奇事なり、是文政四五年の間の事なりき。此両人の説せつをきゝしに力ちからをつくせば一丈以上なるをも織おりうべし、しかれども其機工きこう容易よういならずといへり。平賀源内は織こと五六尺に過すぎずと火浣布考くわくわんふかうにいへり。また玄鶴が源内にまさりたる事は、玄鶴は火浣布の外に火浣紙くはくわんし火浣墨くはくわんぼくの二種しゆを造つくれり。火浣墨を以て火浣紙に物をかき、烈火れつくわにやけて火となりしをしづかにとりいだし、火気くわきさむれば紙も字ももとのごとし。しかれども其実用をいへば、火浣布も火浣紙も火災くわさいの供そなへには憑たのみがたし、いかんとなれば、火に遇あへば倶ともに火となり人ありて火中よりいださゞれば火と倶ともに砕くだけて形かたちをうしなふ、たゞ灰はいとならざるのみなり。翫具ぐわんぐには用うる所さま〲あるべし。源内死して奇術絶たえたりしに件くだんの両人いでゝ火浣布の機術きじゆつ再ふたゝび世にいでしに、嗚呼あゝ可惜をしむべし、此両人も術をつたへずして没ぼつしたれば火浣布ふたゝび世に絶たえたり。かの源内は江戸の饒地げうちに火浣布を織おりしゆゑ其聞きこえ高く、この両人は越後の辟境へききやうに火浣布をおりしゆゑ其名低ひくし、ゆゑにこゝにしるして好事家の一話に供きようす。

○ 弘智法印こうちはふいん

弘智法印は児玉氏下総国山桑村やまくはむらの人なり。高野山にありて蜜教みつきやうを学び、後のち生国に皈かへり大浦の蓮花寺に住し、行脚あんぎやして越後に来り、三嶋郡野積村のづみむら里言のぞみ海雲山西生寺の東、岩坂といふ所に錫しやくをとゞめて草庵をむすびしに、貞治二年癸卯十月二日此庵に寂じやくせり。辞世じせいとて口碑こうひにつたふる哥に「岩坂の主ぬしを誰たれぞと人ひと問とはば墨絵すみゑに書かきし松風の音」遺言ゐげんなりとて死骸なきからを不埋うづめず、今天保九をさる事四百七十七年にいたりて枯骸こがい生いけるが如し。是を越後廿四奇の一に数かぞふ。此事雑書ざつしよに散見さんけんすれども図づをのせたるものなし、ゆゑに図をこゝにいだす。此図は余よ先年下しも越後にあそびし時目撃もくげきしたる所なり。見る所たゞ面部ぶのみ、手足は見えず。寺法なりとて近く観みる事をゆるさず、閉眼めをとぢ皺しわありて眠ねふりたるが如し。頭巾づきん法衣ころもはむかしのまゝにはあらざるなるべし。是、他国には聞ざる越後の一奇跡きせきなり。

〔図〕fig58400_51.png
弘智法印枯骸之圖

百樹もゝき曰、唐土もろこしにも弘智こうちに似にたる事あり。唐の世の僧義存ぎそん没ぼつしてのち尸しかばねを函中はこのなかに置おき、毎月其徒でしこれをいだし爪髪つめかみの長のびたるを剪薙はさみきるを常つねとす。百余年を経へても廃はいせざりしが、後のち国くにのみだれたるに因よりてこれを火葬くわさうせしとぞ。又宋人そうひと彭乗はうじやうが作さく墨客揮犀ぼくかくきさいに鄂州がくしうの僧そう无夢むむも尸しかばねを不埋うづめず、爪髪つめかみの長のびたる義存ぎぞんに同じかりしが、婦人の手に摸なでられしより爪髪のびざりしとぞ。事は五雑組ござつそに記しるして枯骸こがいの確論かくろんあれども、釈氏しやくしを詰なじるに似にたる説せつなればこゝに贅ぜいせず。○高僧伝に義存が㕝ありしかと覚しが、さのみはとて詳究せず。

○ 土中どちゆうの舟ふね

蒲原郡五泉の在ざい一里ばかりに下新田しもしんでんといふ村あり。或年此村の者ども㕝ありて阿加川の岸きしを掘ほりしに、土中どちゆうより長さ三間ばかりの船を掘いだせり。全体ぜんたい少しも腐くさらず、形かたち今の船に異ことなるのみならず、金具かなぐを用うべき処みな鯨くぢらの髭ひげを用ひて寸鉄すんでつをもほどこしたる処なし。木もまた何の木なるを弁べんずる者なく、おそらくは異国いこくの船ならんといへりとぞ。余よ下しも越後に遊びし時、杉田村小野佐五右エ門が家にてかの船の木にて作りたる硯箱を見しに、木質もくしつ漢産かんさんともおもはれき。上古漂流の夷船いせんにやあらん。

○ 白烏しろからす

前にもいへる如く雪譜と題だいするものに他事をいふは哥にいふ落題らくだいなれど、雪はまた末にいふべし、姑しばらくおもひいだすにまかす。

○天保三年辰四月、我が住すむ塩沢の中町なかまちに鍵屋某が家のほとりに喬木たかききあり。此樹きに烏からす巣すをむすび、雛ひな梢々やゝ頭かしらをいだすころ、巣のうちに白き頭かしらの鳥を見る。主人怪あやしみ人をして是を捕とらへしめしに、全身ぜんしんは烏からすにして白く、觜くちばし眼まなこ足あしは赤き烏からすの雛ひななり、人々奇きとして集あつまり観みる。主人俄にはかに籠を作らせ心を尽つくして養やしなひ、やゝ長じて鳴音なくこゑも烏からすに異ことならず、我が近隣きんりんなれば朝夕これを観みたり。奇鳥なれば乞こふ人も多く、江戸へ出いだして観物みせものにせんなどいひしも有しが、主人をしみてゆるさず。かくて其冬雪中にいたり、山の鼬いたち狐など餌ゑに乏とぼしく人家にきたりて食をぬすむ事雪中の常なれば、此ものゝ所為しわざにや、籠かごはやぶれて白烏しろからすは羽はねばかり椽ゑんの下にありしときゝし。初編に白熊しろくまの事を載のせたるゆゑ、白烏しろからすもまたこゝに記しるしぬ。

○ 両頭りやうとうの蛇へび

文政十年亥の八月廿日隣駅六日町の在ざい、余川よかは村の農人太左エ門の軒端のきばに、両頭の蛇いでたるを捕とらふ。長さ一尺にたらず、その頭かしら二ツ並ならびて枝をなすのみ。いろもかたちも常の蛇にかはらず。あるにまかせて古き箱にいれ、餌ゑもいれおきしに、二三日すぎていつ逃にげゆきしやあたりをたづねしかどをらざりしとぞ。

○ 浮嶋うきしま

小千谷をぢやより西一里に芳谷よしたに村といふあり、こゝに郡殿こほりとのの池いけとて四方二三町斗の池ありて浮嶋うきしま十三あり。晴天風なき時日出いづれば十三の小嶋おの〱離散りさんして池中に遊ぶが如し、日入れば池の正中まんなかにあつまりて一ツの嶋となる。此池に種々の奇異きゐあれども文ぶん多おほければしるさず。羽州の浮嶋はものにも記しるして人の知る処なれど、此うきしまはしる人まれなり。

○ 石打いしうち明神

小千谷の内農人某なにがしの地面に小社あり石打明神といふ。昔より祀まつる処ところ也、その縁起ゑんぎは聞きゝもらせり。贅肉いぼあるもの此神をいのり、小石をもつていぼを撫なで、社の椽えんの下の𥴩子かうしの内へ投なげいれおくに、日あらずしていぼのおつる事奇妙なり。さてなげいれたる小石、いかなる形なりともいつとなく人の円まるめたるごとく円石まるきいしとなるも又奇妙ふしぎなり。されば社のえんの下に大小の円石まるいし満みちみちたり。

○百樹曰、余よも小千谷に遊びし時、此石を視みて話柄はなしのたねに一ツ持帰もちかへらんとせしに、所の人のいふやう、此神是石このいしを惜をしみ玉ふといひつたふときゝて取たるをもとの処へかへし、つら〱視みたるに数万の石人の磨すりなしたる玉のごとし。凡すべて神妙じんめうは肉知にくちを以て測はかるべからず。

○ 美人びじん

百樹曰、小千谷をぢやの因ちなみにいふ、余よ小千谷の岩居がんきよが家に旅宿せし時天保七年八月或日あるひ筆ふでを採とるに倦うみ、山水の秋景しうけいを観みばやとて独ひとり歩たちいで、小千谷の前に流るゝ川に臨岡のぞむをかにのぼり、用意したる書しよをかく。毛氈まうせんを老樹らうじゆの下もとにしき烟たばこくゆらせつゝ眺望みわたせば、引舟は浪に遡さかのぼりてうごかざるが如く、下くだる舟は流ながれに順したがふて飛とぶに似にたり。行雁かうがん字をならべ帰樵きせう画をひらく。群木ぐんぼくは少すこしく霜を染そめて紅々あかく、連山れんざんは僅わづかに雪を載のせて白々しろし。寒国かんこくの秋景しうけい江戸の眼を新あらたになし、おもはず一絶いちぜつを得えなどしてしばしながめゐたるをりしも、十六七の娘三人おの〱柴籠しばかごをせおひ山をのぼりてこゝにやすらひ、なにやらんものいひかはしてわらふをきく。余よは山水に目を奪うばはれたるに「火をかしなされ」とて烟管きせるさしよせたる顔かほを見れば、蓬髪みだれがみ素面すがほにて天質うまれつきの艶色えんしよく花ともいふべく玉にも比ひすべし。百結つぎ〱の鶉衣つゞれ此趙璧てうへきを羅つゝむ。余よ愕然びつくりし山水を棄すてて此娘を視るに一揖おじぎして去さり、樹きの下もとの草に坐ざしてあしをなげだし、きせるの火をうつしてむすめ三人ひとしく吹烟たばこのむ。双無塩ふたりのあくぢよ独ひとりの西施せいしと語かたるは蒹葭けんが玉樹ぎよくじゆによるが如く、皓歯しろきは燦爛ひか〱としてわらふは白芙蓉はくふようの水をいでゝ微風びふうに揺うごくがごとし。嗟乎あゝ惜をしむべし、かゝる美人びじんも是この辺鄙へんひに生うまれ、昏庸頑夫こんようぐわんふバカナヤラウの妻となり、巧妻こうさい常つねに拙夫せつふに伴ともなはれて眠ねふり、荊棘けいきよくと倶ともに腐くさらん事憐あはれむに堪たえたり。若もし江戸にいださば朱門しゆもんオヤシキに解語かいごモノイフの花を開さかせ、あるひは又青楼せいろうヨシハラに揺泉樹えうせんじゆカネノナルキの栄さかえをなし、此隣国りんごく出羽に生うまれたる小野の小町が如く美人びじんの名をもなすべきに、此美人を此僻地へきちに出いだすは天公てんこう事を解げさゞるに似たりと独ひとり歎息たんそくしつゝ言ものいはんとししに、娘は去来いざとてふたゝび柴籠をせおひうちつれて立さりけり。目送みおくりて顧おもへらく、越後には美人びじん多しと人の口実くちにいふもうべなり、是無他ほかでなし、水によるゆゑなり。されば織物おりものの清白なる越後の白縮しろちゞみに勝まされるはなし、ことさら此辺は白縮しろちゞみを産さんする所なり、以て其水の至清しせいなるをしるべし。江河こうが潔清けつせいなれば女に佳麗かれい多しと謝肇淛しやてうせつがいひしも理ことはりなりとおもひつゝ旅宿りよしゆくに帰かへり、云々しか〲の事にて美人びじんを視みたりと岩居がんきよに語りければ、岩居いふやう、渠かれは人の知る美女なり、先生せんせいを他国の人と眼解みてとり欺あざむきてたばこの火を借かりたるならん、可憎々々にくむべし〱「否々いや〱にくむべからず、吾われたばこの火を借かして美人にえん烟縁をむすびし」と戯言たはふれければ、岩居手てを拍て大に笑ひ、先生誤あやまてり、かれは屠者ゑたの娘なりと聞きゝて再ふたゝび愕然がくぜんビツクリたり。糞壌ふんじやう妖花えうくわを出すとはかゝる事にぞいひしなるべし。

○再ふたゝび按あんずるに、小野の小町は羽州うしうの郡司ぐんじ小野の良実よしざねの女むすめなり、楊貴妃やうきひは蜀州しよくしうの司戸しこ元玉が女むすめなり、和漢倶ともに北国の田舎娘世に美人の名をつたふ。北方に佳人かじんありといひしも、北は陰位いんゐなれば女に美麗びれいを出すにやあらん。二代目の高尾は万治野州に生うまれ、初代の薄雲うすぐもは信州に産さんして、ともに北廓ほくかくに名をなせり。されば越後に件くだんの美人を見しも北国なればなるべし。

○ 蛾眉山下橋柱がびさんかのはしばしら

文政八年乙酉十二月、苅羽郡かりはこほり越後椎谷しひやの漁人ぎよじん椎谷は堀侯の御封内なりある日椎谷の海上に漁すなどりして一木の流れ漂たゞよふを見て薪にせばやとて拾ひろひ取て家にかへり、水を乾かわかさんとて庇ひさしに立寄おきしを、椎谷の好事家通りかゝり、是を見てたゞならぬ木とおもひ熟視よく〱みるに、蛾眉山下〔木/喬〕がびさんかのはしといふ五大字刻しありしをもつてかの国の物とおもひ、漁人ぎよじんには薪たきゞを与あたへて乞こひうけけるとぞ。さて余よが旧友きういう観励くわんれい上人は椎谷ざい田沢村浄土宗祐光寺強学きやうがくの聞きこえあり、甞かつて好事かうずの癖へきあるを以てかの橋柱はしばしらの文字を双鈎刊刻さうこうかんこくカゴジホルして同好どうこうにおくり且橋柱はしばしらに題だいする吟詠ぎんえいをこひ、是も又梓あづさにして世に布しかんとせられしが、故ゆゑありていまだ不果はたさず。かの橋柱は後のちに御領主ごりやうしゆの御蔵ごぞうとなりしとぞ。椎谷しひやは余よが同国どうこくなれども幾里を隔へだてたれば其真物しんぶつを不見みず、今に遺憾ゐかんとす。姑しばらく伝写でんしやの図づを以てこゝに載のせつ。○百樹曰、牧之翁が此草稿にのせたる図を見るに少しくおもふ所有しゆゑ、其実説を詳究せし事左の如し。

百樹もゝき曰、了阿れうあ上人が和哥の友相場氏は 椎谷侯しひやこうの殿人とのびとときゝて、上人の紹介せうかいをもつて相場氏に対面して件くだんの橋柱はしばしらの事を尋たづねしに、余よに謂いはれしは、橋柱にはあらず標準みちしるべなりとて、俗に書翰帒しよかんぶくろといふ物に作りたるを出して其図そのづを示さる。余が友の画人千春ちはる子が真物しんぶつを傍かたはらにおきて縮図しゆくづなし、蛾眉山下〔木/喬〕がびさんかのはしといふ五字は相場氏みづから心を深ふかめてうつされしとぞ。下に図するこれなり彫きざみたる人の頭かしらを左りに顧むかせ、その下しもに五字を彫ほりつけしは、是より左り蛾眉山下橋がびさんかのはしなりと人にをしゆる標準みちしるべなりとかたられき。是にて義理ぎり渙然くわんぜんワカルたり。今俗に指ゆびさすをゑがきてそのしたにをしゆる所を記しるしたるを間まゝみる事あり、和漢の俗情おなじ事なり。

○さて此標準へうじゆんを得えたる実事じつじをきゝしに、北海はいづれの所も冬にいたれば常に北風烈はげしく礒いそへ物をうちよする、椎谷しひやはたきものにとぼしき所ゆゑ貧民ひんみん拾ひ取りて薪たきゞとなす事常なり。しかるに文政八酉の十二月、例れいの如く薪を拾ひに出しに、物ありて柱はしらのごとく浪に漂たゞよふをみれば人の頭かしらとみゆる物にて甚兇悪きやうあくなり。貧民等ひんみんら惧おそれてたちさり、ものゝかげより見居たるに、此もの竟つひに礒いそにうちあげられしを見て人々立よりみたるに、文字はあれども読者よむものなく、是は何ものならんとさま〲評ひやうし居ゐたるをりしも、こゝに近ちかき西禅院さいぜんゐんの童僧どうそう通とほりかゝり、唐詩選たうしせんにておぼえたる蛾眉山がびさんの文字を読よみ、これは唐土からの物なりときゝて貧民ひんみん拾ひろひて持かへり、さすがに唐土からの物ときゝて薪たきゞにもせざりしに、此事閧伝こうでんマチノウハサして竟つひに主君しゆくんの蔵ざうとなりしと語かたられき。

〔図〕fig58400_52.png縮図しゆくづ左のごとし。丈たけ一丈余、周めぐり二尺五寸余。木質弁名きはなにともなづくべからず。

縮図しゆくづ左のごとし。丈たけ一丈余、周めぐり二尺五寸余。木質弁名きはなにともなづくべからず。

○按あんずるに、蛾眉山は唐土の北に在ある峻岳じゆんがくにて、富士にもくらぶべき高山なり。絶頂ぜつてうの峯みね双立ならびたちて八字をなすゆゑ、蛾眉山がびさんといふなり。此山の標準みちしるべ、日本ひのもとの北海へながれきたりたる其水路すゐろを詳究しやうきゆうツマヒラカニキハムルせんとて「唐土もろこし歴代れきだい州郡しうぐん沿革地図えんかくちづ」に拠よりて清国いまのからの道程みちのり図中づちゆうを撿けんアラタムルするに、蛾眉山は清朝いまのからの都みやこを距へだつこと日本道四百里許ばかりの北に在り、此山に遠からずして一条ひとすぢの大河東に流ながる。蛾眉山の麓ふもとの河々皆此大河に入る。此大河瀘州ろじうを流れ三峡けふのふもとを過すぎ、江漢こうかんに至いたり荊州けいじうに入り、○洞庭湖とうていこ○赤壁せきへき○潯陽江じんやうこう○楊子江やうしこうの四大江こうに通つうじて江南こうなんを流湎ながれめぐりて東海に入る。是水路このすゐろ日本道五百里ばかりなり。さて件くだんの標準みちしるべ洪水こうずゐにてや水に入りけん、○洞庭とうてい○赤壁せきへき○潯陽じんやう○楊子やうしの海の如き四大江だいこうを蕩漾周流たうやうしうりうナガレシダイメグリナガレして朽沈くちしづまず。滔々たう〱たる水路すゐろ五百余里よりを流ながれて東海に入り、巨濤こたうオホナミに千倒たうし風波に万顛てんすれども断折だんせつヲレル砕粉さいふんクダケルせず、直身ちよくしんソノミ挺然ていぜんソノマヽとして我国の洋中おきなかに漂たゞよひ、北海の地方に近ちかより、椎谷しひやの貧民ひんみんに拾ひろはれて始はじめて水を辞はなれ、既すでに一燼じんの薪となるべきを、幸に字じを識しる者に遇あひひて死灰しくわいをのがれ、韻客ゐんかくの為ために題詠だいえいの美言びげんをうけたるのみならず、竟つひには 椎谷侯しひやこうの愛あいを奉ほうじて身を宝庫ほうこに安んじ、万古不朽ばんこふきうの洪福こうふくを保たもつ㕝奇妙不思議ふしぎの天幸なれば、実じつに稀世きせいの珍物ちんぶつなり。

按ずるに、蛾蛾同韻ががどうゐん五何反なれば相通あひつうじて往々わう〱書見しよけんす。橋きやうを〔木/喬〕きやうに作る頗すこぶる異体ゐていなり。依よつて明人みんひと黄元立くわうげんりつが〔字考正誤じかうせいご、清人せいひと顧炎武こえんぶが亭林遺書中ていりんゐしよちゆうに在ある〔金石文字記あるひは〔碑文摘奇ひぶんてきき藤花亭十種之一あるひは楊霖竹菴やうりんちくあんが〔古今釈疑しやくぎ中の字体じていの部ぶなど通巻つうくわん一遍へん捜索さうさくサガスしたれども〔木/喬〕きやうの字なし。蛾眉山がびさんのある蜀しよくの地ちは都を去さる事遠とほき僻境へききやうなり。推量すゐりやうするに、田舎ゐなかの標準みちしるべなれば学者がくしやの書かきしにもあるべからず、俗子ぞくしの筆なるべし。されば我わが今の俗ぞく竹を〔にんべん+竹のつくり〕と亻にんべんに誤あやまるの類るゐか、猶なほ博識はくしきの説せつを俟まつ。

○ 苗場山なへばやま

苗場山は越後第一の高山なり、魚沼郡にあり登り二里といふ。絶頂ぜつてうに天然てんねんの苗田なへたあり、依て昔より山の名に呼よぶなり。峻岳じゆんがくの巓いたゞきに苗田ある事甚奇なり。余よ其奇跡を尋んとおもふ事年としありしに、文化八年七月偶ふとおもひたちて友人四人●嘯斎●擷斎●扇舎●物九斎従僕等じゆぼくらに食類其外用意の物をもたせ、同月五日未明にたちいで、其日は三ツ俣またといふ駅えきに宿り、次日暁を侵おかして此山の神職にいたり、おの〱祓はらひをなし案内者を傭やとふ。案内は白衣に幣へいを捧さゝげて先にすゝむ。清津きよつ川を渉わたりやがて麓ふもとにいたれり。巉道さんだうを踏ふみ嶮路けんろに登るに、掬樹ぶなのき森列しんれつして日を遮さへぎり、山篠やまさゝ生おひ茂しげりて径みちを塞ふさぐ。枯かれたる老樹折れて路みちに横よこたはりたるを踰こゆるは臥竜を踏がごとし。一条ひとすぢの渓河たにかはを渉わたり猶登る事半里許ばかり、右に折れてすゝみ左りに曲まがりてのぼる。奇木きぼく怪石くわいせき千態せんたい万状じやう筆を以ていひがたし。已すでに半途はんとにいたれば鳥の声をもきかず、殆ほとんど東西を弁べんじがたく道なきがごとし。案内者はよく知りてさきへすゝみ、山篠やまさゝをおしわけ幣へいをさゝげてみちを示しめす。藤蔓ふぢかつら笠にまとひ、樷竹しげるたけ身を隠かくし、石高くして径みち狭せまく、一歩も平坦たひらのみちをふまず。やう〱午すぐる頃山の半にいたり、僅わづかの平地を得えて用意したる臥座ぐわざを木蔭こかげにしきて食をなし、暫しばらく憇やすらひてまたのぼり〱て神楽岡かぐらがをかといふ所にいたれり。これより他木さらになく、俗に唐松といふもの風にたけをのばさゞるが稍こずゑは雪霜にや枯からされけん、低ひくき森をなしてこゝかしこにあり。またのぼり少しくだりて御花圃はなばたけといふ所、山桜盛さかりにひらき、百合・桔梗・石竹の花などそのさま人の植うゑやしなひしに似にたり。名なをしらざる異草いさうもあまたあり、案内者に問へば薬草なりといへり。またのぼりゆき〱て桟齴かけはしのやうなる道にあたり、岩にとりつき竹の根を力草ちからくさとし、一歩に一声を発はつしつゝ気を張り汗あせをながし、千辛しん万苦くしのぼりつくして馬の背せといふ所にいたる。左右は千丈の谷なり、ふむ所僅わづかに二三尺、一脚ひとあしをあやまつ時は身を粉砕こなになすべし。おの〱忙怕おづ〱あゆみて竟つひに絶頂ぜつてうにいたりつきぬ。

〔図〕fig58400_53.png
登苗場山之圖

○偖さて同行十二人、まづ草に坐ざして憇いこふ時、已すでに下晡なゝつさがりなり。はじめ案内者のいひしは登り二里の険道けんだうなれば、一日に往来ゆきゝすることあたはず、絶頂ぜつてうに小屋在、こゝにのぼる人必その小屋に一宿する事なりといへり。今その小屋をみれば木の枝えだ、山さゝ、枯草かれくさなど取りあつめ、ふぢかつらにて匍匐はひ入るばかりに作りたるは、野非人のひにんのをるべきさまなり。こゝを今夜のやどりにさだめたるもはかなしとて、みな〱笑ふ。僕ぼくどもは枯枝かれえだをひろひ石をあつめて仮かりに灶かまどをなし、もたせたる食物を調てうぜんとし、あるひは水をたづねて茶を烹にれば、上戸は酒の燗かんをいそぐもをかし。さて眺望みわたせば越後はさら也、浅間あさまの烟けふりをはじめ、信濃の連山みな眼下がんかに波濤はたうす。千隈ちくま川は白き糸をひき、佐渡は青き盆石ぼんせきをおく。能登の洲崎すさきは蛾眉がびをなし、越前の遠山は青黛せいたいをのこせり。こゝに眼めを拭ぬぐひて扶桑ふさう第一の富士を視みいだせり、そのさま雪の一握ひとにぎりを置おくが如し。人々手を拍うち、奇なりと呼よび妙なりと称讃しようさんす。千勝しよう万景けい応接おうせふするに遑いとまあらず。雲くも脚下あしもとに起おこるかとみれば、忽たちまち晴はれて日光ひのひかり眼めを射ゐる、身は天外に在が如し。是この絶頂は周めぐり一里といふ。莽々まう〱ノヒロキたる平蕪へいぶ高低たかひくの所を不見みず、山の名によぶ苗場なへばといふ所こゝかしこにあり。そのさま人のつくりたる田の如き中に、人の植うゑたるやうに苗に似にたる草生おひたり、苗代なはしろを半なかばとりのこしたるやうなる所もあり。これを奇なりとおもふに、此田の中に蛙かへる蛗螽いなごもありて常の田にかはる事なし、又いかなる日てりにも田水てんすゐ枯かれずとぞ。二里の巓いたゞきに此奇跡きせきを観みること甚不思議ふしぎの灵山れいざんなり。案内者いはく、御花圃はなはたけよりまへにいひたる所別に径みちありて竜岩窟りうがんくつといふ所あり、窟いはやの内に一条ひとすぢの清水ながれそのほとりに古銭多く、鰐口わにくち二ツ掛りありて神を祀まつる。むかしより如斯かくのごとしといひつたふ。このみち今は草木に塞ふさがれてもとめがたしといへり。絶頂ぜつてうにも石に刻こくして苗場大権現なへばだいごんげんとあり、案内者は此石人作にあらず、天然の物といへり。俗伝なるべし。こゝかしこ見めぐるうち日すでにくれて小屋に入り、内には挑燈てうちんをさげてあかりとし、外には火を焼てふたゝび食をとゝのへ、ものくひて酒を酌くむ。六日の月皎々かう〱とてらして空そらもちかきやうにて、桂かつらの枝えだもをるべきこゝちしつ。人々詩しを賦ふし哥をよみ、俳句の吟興ぎんきやうもありてやゝ時をうつしたるに、寒気次第に烈はげしく、用意の綿入にもしのぎかねて終夜よもすがら焼火にあたりて夢ゆめもむすばず、しのゝめのそらまちわびしに、はれわたりたればいざや御来迎らいかうを拝をがみたまへと案内がいふにまかせ、拝所をがむところにいたり日の昇のぼるを拝はいし、したくとゝのへて山をくだれり。別に紀行あり、こゝには其略をいふのみ。

○百樹もゝき曰いはく、余よ越遊ゑついうしたる時、牧之ぼくし老人に此山の地勢を委しくきゝ真景しんけいの図づをも視みたるに、巓いたゞきの平坦たひらなる苗場なへばの奇異きゐ、竜岩窟りうがんくつの古跡こせきなど水にも自在の山なれば、おそらくは上古人ありて此山をひらき、絶頂ぜつてうを平坦たひらになし、馬の背せの天険てんけんをたのみてこゝに住居し耕作かうさくをもしたるが、亡ほろびてのち其灵魂れいこんこゝにとゞまりて苗場なへばの奇異きゐをもなすにやと思おもへり。国史こくしを捜究さうきうサガシキハムせば其徴しるしする端はしをも得うべくや、博達はくたつの説せつを聞きかん。

○ 三四月の雪

我国冬はさらなり、春になりても二月頃までは雨あめ降ふる事なし、雪のふるゆゑなるべし。春の半なかばにいたれば小雨ふる日あり、此時にいたれば晴天はもとより、雨にも風にも去年より積雪つもりたるゆきしだい〱に消きゆるなり。されども家居いへゐなどは乾いぬゐに北東の間あたる方はきゆる事おそし。山々の雪は里地さとちよりもきゆる㕝おそけれども、春陽しゆんやうの天然てんねんにつれて雪解ゆきげに水増まして川々に水難すゐなんの患うれひある事年々なり。春のすゑにいたれば、人の住すむあたりの雪は自然しぜんにきゆるをまたずして家毎いへごとに雪を取捨とりすつるに、あるひは雪を籠にいれてすつるもあり、あるひは鋸のこぎりにて雪を挽割ひきわりてすてもし、又は日向ひむきの所へ材木ざいもくのごとくつみかさねておくもあり。かやうにすればきゆることはやきゆゑなり。少しの雪は土をかけ又は灰をかくればはやくきゆそも〱去年冬のはじめより雪のふらざる日も空そら曇くもりて快こゝろよく晴はれたるそらを見るは稀まれにて、雪に家居いへゐを降埋ふりうづめられ手もとさへいとくらし。是に生うまれ是に慣なれて、年々の㕝なれども雪にこもりをるはおのづから朦然まうぜんとして心たのしからず。しかるに春の半にいたり雪囲ゆきかこひを取除とりのくれば、日光明々としてはじめて人間世界にんげんせかいへいでたるこゝちぞせらる。一年ひとゝせ夏の頃、江戸より来りたる行脚あんぎやの俳人はいじんを停とゞめおきしに、謂いふやう、此国の所々にいたり見るに富家ふかの庭にはには手をつくしたるもあれど、垣かきはいづれも粗略そりやくにて仮初かりそめに作りたるやうなり、いかなるゆゑにやといふ。答こたへていふ、いぶかり給ふもことはりなり、かりそめに作りおくは雪のゆゑなり。いかんとなればいかほどつよく作るとも一丈のうへこす雪におし崩くづさるゝゆゑ、かろくつくりおきて雪のはじめには此垣をとりのくるなりと語りし事ありき。されば三月の末にいたれば我さきにと此垣を作る事なり。さて又雪中は馬足ばそくもたゝず耕作かうさくもせざれば、馬は空むなしく厩うまやにあそばせおく事凡およそ百日あまり也。我国に牛のみつかふ所もあり雪きゆるの時にいたれば馬もよくしりてしきりに嘶いなゝき路みちにいでんとする心あり、人も又久しくちゞめたる足をのばさせんとて厩むまやをひきいだせばよろこびてはねあがりなどするを、胴縄どうなはばかりの躶馬はだかうまに跨またがり雪消の所にはしらす。此馬冬こもりの飼かひやうによりて痩やせると肥こえるありて、やせたるは馬主ぬしの貧まづしさもしるゝものなり。馬のみにあらず、童わらべどもゝ雪のはじめより外遊そとあそびする事ならざりしに、夏のはじめにいたりてやう〱冬履ふゆげた稿沓わらくつをすてゝ草履ざうりせつたになり、凧いかのぼりなどにかけはしるはさもこそとうれしさうなれ。桃桜も此ころをさかりにて雪に世外せぐわいの花を視みるなり。

〔図〕fig58400_54.png
市中四月雪解圖

○ 鶴つる恩おんに報むくゆ

天保七年丙申の春、我が郡中ぐんちゆう小千谷をぢやの縮ちゞみ商人芳沢屋よしさはや東五郎俳号はいがうを二松といふもの、商ひの為ため西国にいたり或ある城下に逗留とうりうの間、旅宿の主あるじがはなしに、此近在の農人のうにんおのれが田地のうちに病鶴やめるつるありて死しにいたらんとするを見つけ、貯たくはへたる人参にんじんにて鶴の病を養やしなひしに、日あらず病やまひ癒いえて飛去りけり。さて翌年の十月鶴二羽かの農人のうにんが家の庭にはちかく舞まひくだり、稲二茎けいを落おとし一声こゑづゝ鳴なきて飛さりけり。主人あるじ拾ひろひとりて見るにその丈たけ六尺にあまり、穂ほも是につれて長く、穂ほの一枝えだに稲四五百粒あり。主人おもへらく、さては去年の病鶴びやうかく恩おんに報むくはんため異国ゐこくより咥くはえきたりしならん、何にもあれいとめづらしき稲なりとて領主りやうしゆに奉たてまつりけるに、しばらくとゞめおかれしのちそのまゝ主あるじにたまはり、よくやしなへとおほせによりて苗なへのころにいたり心をつくして植うゑつけけるに、鶴があたへしにかはらずよく生おひいでければ、国くにの守かみへも奉りしとかたれり。東五郎猶その村その人をも尋たづねきけば、鶴を助たすけたる人は東五郎が縮ちゞみを売たる家なれば、すぐさまその家にいたり猶なほ委くはしく聞て、さて国の土産みやげにせん、穀もみを一二粒賜たまはれかしと乞こひければ、あるじ越後は米のよき国ときけばことさらに生おひなんとて、もみ五六十粒与あたへたるを国へ持かへりて事の来由よしを申て 邦君はうくんに奉りしを、 御城内に植しめ玉ひ、東五郎へ 御褒賞はうしやうなど在しと小千谷の人その頃ころ物がたれり。おもふに余よがごとき賤農せんのうもかゝるめでたき 御代みよに生れたればこそ安居あんきよしてかゝる筆も採とるなれ。されば千年の昌平しやうへいをいのりて鶴の話はなしに筆をとゞめつ。猶雪の奇談きだん他事たじの珎説ちんせつこゝに漏もらしたるも最いと多おほければ、生産せいさんの暇いとまふたゝび編へんを嗣つぐべし。

通巻画図京水  岩瀬百鶴 筆 

〔図〕fig58400_55.png
京水岩瀬百鶴の押印の図

北越雪譜二編 四巻大尾

註解

*1 「許鹿君」古河の城主土井大炊頭利位トシツラの号、利位は下総古河藩第十世の藩主である。寛政六年(一七八九)土井利徳の男として生れた。文政五年に養父利厚の職を襲ぎ大炊頭に任ぜられた。同八年に社寺奉行となり、同十二年に病の為め職を免ぜられた。天保二年に再任し、同五年に大阪城代となつた。天保八年には京都所司代となり、翌年には老中となつた。弘化元年に病の為め老中を免ぜられ雁間席を命ぜられた。嘉永元年(一八四八)卒去した。利位はその臣鷹見忠常と共に雪華を詳細に検鏡し、天保三年には雪華図説を、天保十一年には続雪華図説を著はし、手版として刊行した。

*2 「用意したる所の雪を尺をもつて量りしに」の雪と尺との間の『を』字は誤まつて挿入したものと思ふ。即ち「用意したる所の雪尺をもつて量りしに」とあるべきかと思はれる。

*3 「妙法寺の火」妙法寺村は如法寺ニヨホフジ村のことである。本書二五九頁に「蒲原郡如法寺村」とある。同村では天然のメタン瓦斯が地中より吹き出すところがあつて、之を竹管で室内に導き、炉の一隅に置いてある石臼の孔から吹き出さし、夫れに点火して炭火の代用とする。石臼の孔には細い竹管を挿み、夫れから瓦斯が出る様にしたものである。越後では如法寺村に限らず諸所に同様の天然瓦斯の出るところがあり、また之を利用してゐる。

*4 「破目山ワレメキ」は「ワリメキ」と云ふのが正しい。

*5 「二万四千四百八十四度」は二万四千八百四十度の誤算。

*6 「ようちなつた」は「よう来なすつた」と云ふこと、「能くお出でなさつた」の意。

*7 「黒駒太子と称する画軸」は聖徳太子が黒馬に跨がり、雲に乗つて昇天するのを、曾我の馬子等が見上げてゐる図の画幅。

*8 「やぶつの橋」は矢櫃橋のこと。

*9 京山翁の雨の氷りて垂氷ツララとなつた談は、気象学上から判断すれば、「雨氷」と云ふ現象であると思ふ。雨氷は過冷却をした雨滴が降り、氷点以下に冷えてる樹枝や地物に当つて氷り着いたものに外ならない。垂氷と現象は似てゐるが成因は全く異なつてゐる、漢籍には「雨淞」とある。仏語の verglas、英語の glazed frost に当る。

*10 「シガ」は気象学で云ふ「霧氷」のことである。多くの場合過冷却せる霧なぞがこれも寒冷な樹枝や地物に吹き附けて氷り着いたものである。「シガ」は遼東あたりでは「樹掛」と云ふから、夫れから転じたものと思ふ。仏語の givre、英語の silver thaw に当る。

*11 「佐浦詣堂押図」とあるは「浦佐詣堂押図」の誤記。

*12 「春暉の西遊記」とある春暉は橘春暉のことである。本名は宮川春暉。南谿はその号。宝暦四年生る。伊勢の人、同国久居の藤堂氏に仕へた。南谿は医を業としたが、修業と行遊との為め諸国を遊歴し、寛政七年より同十二年に亙る間、東遊記及西遊記を著述した。又文政八年に北窓瑣談を著した。文化三年歿す。享年五十三であつた。京都黒谷の光明寺に葬むつた。

この註解を書くに当り、理学博士朝比奈貞一君が「天気と気候」の昭和十一年刊に連載せられた「北越雪譜を読みて」と題する名篇に負ふところが多い。記して感謝の意を表はす。

(岡田武松)

解説

鈴木牧之翁略伝  本書の著作者鈴木牧之ボクシ翁は、明和七年正月七日に、越後の国の塩沢に生れた、塩沢は今日の新潟県南魚沼郡塩沢町である、幼時は弥太郎と云つたが、大きくなつてから、儀三治と改めた、翁の父は、質屋と縮布の仲買を営んでゐた、さうして渡世の傍に、俳諧に遊び、周月庵牧水と号してゐた、翁の牧之と云ふ号は、父の牧水の一字を採つたのである、牧之翁は幼時から英敏であつた、大運寺の快運法師に師事して経書を学び、詩は徳昌寺の虎斑禅師に就て学んだ、翁はまた幼時より画を狩野梅笑に学んで、凡んど画師に近いまでの腕前になつてゐた、北越雪譜の挿画の如きは、原図は大部分翁自ら画いたものである、壮年の頃から、既に風流韻事を解し、諸芸百般に通じてゐたから、交遊は甚だ広かつた、殊に当時の一流の文士であつた馬琴、真顔、六樹園、蜀山人、京伝、京山、一九、三馬、玉山なぞと親交あり、漢学者の鵬斎なぞとも交を訂し、画家では文晁、北斎なぞとも懇意であつた、その外に、名優団十郎、名妓花扇とも往復をしてゐた、元来北越の田舎に多く在住し、商用にて時折上京し、寸𭧴を割いては是等の名流を訪れたのである、然し交通の不便な時代にさう頻繁に上京は出来なかつたから、多くは書簡の往復での交りが多かつた、翁はその往復の書簡を丁寧に蒐集して「筆かゞみ」と名づけて珍蔵して居られた。

翁も代々の家業であつた質屋を渡世とし、且つ縮の仲買をしてゐたが、文雅の士であつたにも関はらず商法には非常に熱心で勤倹力行大に家道を興こされた、平生東照公や楽翁公の為人を景慕し、専ら堪忍を旨として居られた、平生は粗衣粗食に甘じ、寸𭧴を惜み大小となく雅俗の用事を果された、壮年の頃から禁酒をされて、永眠されるまで酒杯を手にされなかつた、翁はまた頗る器用な質であつて、書画の表装から家具の繕ひまで皆な自分でやり、敢て専門の職を煩はすことは凡んどなかつた、現に翁の生家には翁が自画の軸物を自ら表装されたものが残つてゐる、夫を見ると全く経師職の手に成つたとしか思へない様に巧に出来てゐる、翁はまた無駄なことをするのが大嫌ひであつた、紙片と雖も棄てず、詩歌俳句の類の稿案には之を用ゐた、さうかと云つて翁は無暗に財蓄一方の人ではなかつた、私財を公共の事業に投ずることが、屡〻あつたので、官から度々その篤行を賞せられた。

翁の著作は少くないが、天保六年に北越雪譜の初編を刊行し、天保十一年に二編を刊行した、文政年間には庚申帳と秋山紀行を著述し、文政四年には秋月庵発句集を、文政十三年には広大寺踊を、天保四年には夜職草を著述した、特に庚申帳は、庚申の宵待ちに集まつた人々の談話を記るしたもので、当時の風俗習慣等があり〱と描かれてあるのだが、今日では巻秩が逸散して、完全に保存されてゐないのは甚だ惜しい。

牧之翁は、知命の頃に、耳疾を患ひ、殆んど聾となり、螺貝を耳に当て、聴声器としてゐた、翁の戯号の螺耳はこれから来てゐる、耳の悪るいと云ふ外には老年になつて中風の気があり、天保七年の夏中風再発して、湯治なぞ種々治療につとめられたが、遂に天保十三年五月十五日に病の為めに、永眠された、享年七十三である、郷里の長恩寺に葬られてゐる、法号は金誉志剛性温居士と云ふ、本書の口絵は、井口喜夫氏作の翁の木像の写真である、この木像は現に長恩寺に安置してある、翁の後は勘右衛門、文太郎、常平の三氏を経て現戸主雄太郎氏に至つてゐる。

北越雪譜の著作  北越雪譜は、初編上中下三冊、二編春夏秋冬四冊都合七冊から成つてゐる、翁は三編以下も編述するつもりであつたことは、二編に載つてゐる京山の序文からも窺はれるが、翁は遂にその志を果さずして逝かれたのだ、雪譜の初編の上巻は天保六年の刊行で、下巻は七年九月の発兌である、発行の書肆は江戸文渓堂であつた、翁は稿本の刪作を山東京山に依頼し、挿画は翁が自筆のものを京山の子の京水が画き直したものだと云ふ、又雪譜の二編の春の巻は天保十一年に刊行し、冬の巻は天保十三年に発行した、板元は初編のときと同様である、明治の初年に多少の刪補を加へたものが東京市麻布区飯倉五丁目の山口屋書店より出版になつてゐる、本文庫に収むるものは天保の初版に拠れるものである、只巻中俗字を用ゐてあるを少しく正し、二之巻とあつたり巻之二とあつたりするのを一つに統一した、その他は全く原著の忠実なる翻刻である、尤も巻中にある句読点は皆な新たに附けたものである。

北越雪譜の著作とその出版に就ては、大正十年七・八月に北越新報紙上に二十五回に亙り連載せられたる春城学人市島謙吉先生の随筆「京山と牧之」に詳細に出てゐるから、茲には述べる必要がない、昭和二年早稲田大学出版部から出た随筆春城六種には、この北越新報に掲げられたものが大に点刪せられて「北越雪譜の出版さるゝまで」といふ題で載つてゐる。

此解説は畏友泉末雄氏の手記を資料として書き下したものである、同氏は老生の依頼によつて親しく牧之翁の生家を訪れ土地の博識家に示教を請ひ、就中鈴木家の現主雄太郎氏、塩沢町役場助役田村伝三郎氏、塩沢町誌編纂委員原沢米吉氏等の高説を総合し、南魚沼郡誌、北越名流遺芳等の書物を参考とせられたところが非常に多い、牧之翁の遠孫である鈴木卯三郎氏は種々の参考文献を貸与せられ、岩波書店編輯部の長谷川覚氏は本書の句点を附けるのにお骨折り下され、又参考資料をお集め下だすつた、茲に由来を記るして是等諸君士に厚く感謝の意を表はす。

昭和十年十一月二十九日夜

岡田武松

しるす

底本 / Source edition

底本:「北越雪譜」ワイド版岩波文庫、岩波書店
1991(平成3)年12月5日第1刷発行
2013(平成25)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「北越雪譜」岩波文庫、岩波書店
1978(昭和53)年3月16日第22刷改訂発行
初出:北越雪譜叙「北越雪譜 初編」文渓堂
1836(天保7)年
北越雪譜初編「北越雪譜 初編」文渓堂
1836(天保7)年
北越雪譜二編叙「北越雪譜二編四巻」文溪堂
1841(天保12)年11月
北越雪譜二編凡例「北越雪譜二編四巻」文溪堂
1841(天保12)年11月
北越雪譜二編「北越雪譜二編四巻」文溪堂
1841(天保12)年11月
註解「北越雪譜」岩波文庫、岩波書店
1936(昭和11)年1月10日第1刷発行
解説「北越雪譜」岩波文庫、岩波書店
1936(昭和11)年1月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「シテ」の合字は、仮名にあらためました。
※「鈴木牧之  編撰」と「鈴木牧之  編選」の混在は、底本通りです。
※「上騰」にかかるルビの「のぼり」と「のぼる」、「温気」にかかるルビの「あたゝかなるき」と「をんき」、「呼吸」にかかるルビの「こきふ」と「こきう」、「生育」にかかるルビの「そだつる」と「せいいく」と「そだつ」、「微温」にかかるルビの「ぬるき」と「やはらか」、「粒珠」にかかるルビの「つぶだつ」と「つぶ」、「雪花」にかかるルビの「ゆき」と「せつくわ」、「験微鏡《むしめがね》」と「顕微鏡《むしめがね》」、「六出」にかかるルビの「りくしゆつ」と「むつかど」、「活動」にかかるルビの「はたらき」と「はたらく」、「円形」にかかるルビの「まろきかたち」と「ゑんけい」、「形状」にかかるルビの「かたち」と「けいじやう」と「さま」、「念仏」にかかるルビの「ねんぶつ」と「ねぶつ」、「垂氷」にかかるルビの「つらゝ」「たるひ」、「逃入村」にかかるルビの「にごろむら」と「にごりむら」、「義存」にかかるルビの「「ぎそん」と「ぎぞん」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の「註解」では、参照元として頁数を示していますが、本テキストでは「*番号」(番号は註の何番目の項目かを示す)を載せました。
※初編の初出の発行年は底本の奥付によりますが、実際に発売されたのは翌年の1837(天保8)年秋といわれています。
入力:富田晶子
校正:雪森、きゅうり
2019年8月31日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/058400_001930/

鈴木 牧之、山東 京山「北越雪譜──03 北越雪譜初編」(新字旧仮名)、底本『北越雪譜』ワイド版岩波文庫、岩波書店、1991年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 058400_001930, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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