ミス・マシュウが素人のままで女の<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>が金に換る過程をはっきり掴めたのは父親が死んだその夜だ。

父親はアルバート・ホールのオーケストラに出たことのある<ruby><rb>笛吹き</rb><rt>フリュタア</rt></ruby>だった。頽齢で楽団を辞職させられてから僅の年金では暮しに足りなくて音楽の家庭教師をした。その職業も有り無しなので娘も働きに出た。

母親はマシュウが七つの時、<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>から来た小唄うたいと駆落ちして行方が知れない。父親は死ぬとき娘にあの母親には盗癖があって、ふだん困らされたものだ。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しあの小唄うたいが今でもあの母親と同棲しているとしたら、あいつはしじゅう近所の店屋から苦情を持込まれて弁償ばかりしているに違いない。そう思うとおかしくて仕様が無いと言ってけらけらと笑って、いつも寝る時のように自分で<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>を吹き消して死んで行った。電燈は料金の不払いからとっくに止められていた。

女タイピストの週給が十<ruby><rb>志</rb><rt>シリング</rt></ruby>、デパートの<ruby><rb>店員</rb><rt>ショップアッシスタント</rt></ruby>の週給が十五志だ。何を勤めても素人女が独立して喰べられる職は無い。欧洲大戦は英国に女の戦争中の働きを感謝させて選挙権を与えさせたが代りに沢山の男を殺して英国の女に結婚の望を少くさせた。有り余る女がただ時間<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>しのためと化粧代と電車賃を得るがために僅な職業にさえ<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>の奪い合いをする。競争に疲れて骨だけになる――。ついに<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の生えた中性の老婆になって慈善病院で死んで行く――囚人の<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたレデー・メードの<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>が待っている。

ミス・マシュウは、父の死骸の傍の闇の中で鼻の下に髭の生えた泥棒姿である自分の将来を幻覚し、びっくりして表へ出た。表には<ruby><rb>鋪石</rb><rt>ペーヴメント</rt></ruby>の嵌め込み<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の広告板から突き上げ、飾窓の口から吐き、高い広告塔から浴せる光がある。それは嗅ぐべきものとしての香水、見るべきものとしての劇場、飲むべきものとしての酒をほとんど命令的に規定して相手の生活程度如何に係らず自分で自分を押しつける、すこぶるエゴイズムの光ではあるが、いま自分には一番縁の遠いものを意味する光ではあるが、光であることは有難い。闇以外のものであることが有難い。ミス・マシュウは夜の街の広告燈の最も十字光塔である街の四つ角に引き寄せられ、そこで暫らく光の串刺しの上に身体を<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>した。

斜向うの売薬店の水銀燈の光が彼女の皮膚を鼓膜のように薄くした。

青い火だ。ぬれた火だ。躍る火だ。廻旋だ。とんぼ返りだ。世の中は、ル、ララ。ル、ララだ。

彼女の頭に「男」がひらめいた。簡単に金をくれる男の姿が。――

彼女とてもいわゆるボーイ・フレンドは持っている。

紺の服の<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>に純粋な<ruby><rb>藍</rb><rt>ブルー</rt></ruby>の色の陰が出来るのを陽に当てて独りでほくそ笑んでいる<ruby><rb>倫敦児</rb><rt>ロンドナー</rt></ruby>のジャック、<ruby><rb>緑</rb><rt>グリーン</rt></ruby>の<ruby><rb>粗羅紗</rb><rt>ベーズ</rt></ruby>のエプロンを昔風に片意地に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>っている<ruby><rb>軽焼煎餅屋</rb><rt>マッフィンマン</rt></ruby>のペッツ、手製の板ボールの帽子を冠って<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>の上から赤い<ruby><rb>色刷毛</rb><rt>いろはけ</rt></ruby>で挨拶するペンキ職人のバックル――。

女店員の習慣として活動、自動車のピクニック。ダンス及びその前後の食事。こういう享楽生活の費用は大概ボーイ・フレンドに持って貰って<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>若き日を若き日らしく維持している。だが、ミス・マシュウが他の女に較べての例外はパーティのどの一人に対してでも公園の<ruby><rb>五月の花</rb><rt>メーフラワー</rt></ruby>の蔭での抜け駆けの<ruby><rb>密会</rb><rt>ランデブウ</rt></ruby>をしたことは無い。

理由はきわめて簡単なのだ。彼女は生理的にそういう青春を要求しない。彼女は思う。男と女とが半日も太陽の乾燥の下に若い肉体の切口を晒し合う。恐ろしいことだ。僅かの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いのち</span>が蒸発してしまうだろう。

彼女のそういう体質気質が、無意識に男に反映して男の方からも誰も強いて彼女を誘おうとはしない。彼女は上品なのだ。彼の父親の専門の古典楽のように上品なのだ。という一致に衆評をまとめてしまって、この「チョコレート箱の模様の王女」はライオンの<ruby><rb>角店</rb><rt>コウナーハウス</rt></ruby>で経済的で<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>も彼の華美な晩餐を食うときにばかり招かれて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はかない</span>食卓の装飾になって貰うことに適するとされていた。この役のために彼女も彼女の平凡な勤労生活から時たま愉快な夜を拾う。切りたての花。磨きのかかったフォークやナイフ。テーブル掛けの明るい反映、漠然とした男性への飽和。ジャズは父親の淋しい古典楽に馴れた耳の鼓膜をめちゃめちゃに乱打して彼女に近代的な痛快味を打ち突ける――だが、それが彼女の生活の実質をいくらかずつでも変えてくれるかと云うに決してそうでは無い。彼女はいつまでも依然として<ruby><rb>六仙均一店</rb><rt>シキスペンスストア</rt></ruby>の売娘である。

なぜ父親は彼女に音楽をせめて食えるだけの職業として仕込んで置かなかったか？　彼女の身の上を考えるものに取ってこの問は必ず出て来る筈のものである。

ずっと前に彼女の記事が新聞に出たことがある。落魄した老音楽家の娘が六仙均一店で稼いでいる。この境遇がロマンス好きの英国の婦人読者へ報道するに価したのだ。

その記事のなかで同じ問いを記者が掲出した時、彼女はこう答えた。

「親が自分の娘の家庭教師をしていてはその生徒にも先生にも一片のパンをももたらしませんからね」

だが、実は彼女は貧血性の意地張りな上品さばかり父親から受けついで音楽の方はむしろ皆目習得する望みの無い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>に生れているのであった。

彼女はいつまでも其処に停っていた。

吐くだけで吸う息の無いサーチライト、突発事件を身体の宝石飾にして高塔の周囲を<ruby><rb>漫歩</rb><rt>プロムナード</rt></ruby>するネオンサイン――白い噴水だ。否、黒ん坊だ。青い馬だ。否、受ける盃だ。渦巻だ、違う、雨だ。サボンの泡だ。赤い星だ――広告のイルミネーションと肯定の否定の<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>き、そこに何の連絡があるだろうか。屈托や思い返しがあるだろうか。ただただ歴然たる現象のみ跳ね踊る世界――夜半だ。

事ははなはだ簡単だ。父は死んだのだ。電車賃と化粧代と職業ばかりあってパン代は無いのだ。金をくれる男が親しく思われ出したのだ。ボーイ・フレンドのジャックでもペッツでもバックルでもない。なまじ面倒なフレンドシップなんか持ち合せていない男。もっと簡単にいつでも金をくれる男が親しく思われ出したのだ。

ミス・マシュウは通りかかりの男の肩に手をかけた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けらけら</span>と笑った。男は嬉しがってキッスをした。ミス・マシュウは泣き出した。男は三<ruby><rb>志</rb><rt>シリング</rt></ruby>の銀貨をマシュウの手に握らせて闇に無くなった。ミス・マシュウの潜在意識が機会によって打発されたのだ。彼女は<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>てアメリカの或貴婦人達が慈善会の金を得る為に男達にキッスを売ったという新聞記事を憶い出したのだ。だがそれは決して彼女達の「<ruby><rb>性</rb><rt>セックス</rt></ruby>」に触れるたちのキッスでは無かった。彼女達の最も親しい儀礼を男達は幾干かの金で買ったのだ。ミス・マシュウの新職業はそれから多分に思い付いたものだが彼女はもとより何某貴婦人ではない。彼女から金で儀礼を買って尊い獲物をしたと思う男のありよう筈のないのは知れ切っていてマシュウは自分のキッスを売り初めたのだ。

一つの星が、否、女が新らしい軌道を取り出す時にいくつかの男が、否、衛星がその堕落、否、無軌道に<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して、嘆息しながら<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>もその軌道が空前絶後であればあるほど絶息するばかりの恐怖と<ruby><rb>珍奇的魅力</rb><rt>キュリオシティー</rt></ruby>の為にいよいよ其処へ<ruby><rb>聚取</rb><rt>しゅうしゅ</rt></ruby>されて行く。

ミス・マシュウは忠告するボーイ・フレンドの一団に<ruby><rb>衛</rb><rt>まも</rt></ruby>られながらやがてそれらを助手に使いながら、いよいよ街頭にキッスの販売を公然と開始した。