Soranoha

暗黒星

あんこくせい

江戸川 乱歩

恐ろしき前兆

東京旧市内の、震災の大火にあわなかった地域には、その後発展した新しい大東京の場末などよりも、遥はるかに淋さびしい場所がいくつもある。東京のまん中に、荒れ果てた原っぱ、倒れた塀、明治時代の赤煉瓦あかれんがの建築が、廃墟はいきょのように取り残されているのだ。

麻布あざぶのK町もそういう大都会の廃墟の一つであった。震災に焼きはらわれた数十軒の家屋のあとが、一面の草原くさはらに取り囲まれるようにして、青苔あおごけの生えた煉瓦塀がつづき、その中の広い地所に、時代のために黒くくすんだ奇妙な赤煉瓦の西洋館が建っている。化けもの屋敷のように建っている。

明治時代、物好きな西洋人が住宅として建てたものであろう。普通の西洋館ではなくて、建物の一方に、やはり赤煉瓦の円塔のようなものが聳そびえているし、建物全体の感じが、明治時代の、つまり十九世紀末のものではなくて、それよりも一世紀も昔の、西洋画などでよく見る、まあお城といった方がふさわしいような感じの奇妙な建物であった。

そこは大きな屋敷ばかり並んだ町に囲まれているので、めったに通りかかる人もないような、大都会の盲点ともいうべき場所であったが、もしわれわれが道にでも迷って、その西洋館の前を通ったとすれば、突然夢の世界へはいったような感じがしたに違いない。ああ、これが東京なのかしらと、狐きつねにつままれたように思ったことであろう。それほど、その場所と建物とは、異国的で、現代ばなれがしていた。

年代をはっきりしるすことは差し控えるが、ある年の春も半ばのどんよりと曇った夜のことであった。その奇妙な赤煉瓦の建物の中に、五、六人のしめやかな集まりがもよおされていた。といっても、廃墟に巣くう盗賊などのたぐいではない。その西洋館に住む家族たちの集まりなのである。この古城のような建物には、人が住んでいたのだ。奇人資産家として人にも知られた伊志田いしだ鉄造氏一家のものが住んでいたのだ。近所の人はその伊志田氏の姓を取って、この怪西洋館を「伊志田屋敷」とも「伊志田さんのお城」とも呼んでいた。

「お城」には五、六人の家族と、三、四人の召使いとが住んでいるらしかったが、夜になれば、どの窓も明りが消えて、建物全体がまっ黒な大入道のように見えた。昼間でも、「お城」はひっそりと静まり返っていて、建物の広いせいもあったのだろうが、二階の窓に人の影の映ることも稀まれで、そとからはまるで空き家のように感じられた。時たま窓から人の顔などが覗のぞいていると、なんだか物ものの怪けのように無気味で、通りかかる付近の人を怖がらせるほどであった。

そういうお城の中の、一ばん広い客間に、五、六人の人影が、声もなく腰かけていた。電燈は消えて、まっ暗な闇やみの中に、それらの人影はほとんど身動きもせず、じっと静まり返っていた。

「兄さま、どうなすったの? 早くしなくちゃあ……」

闇の中から可愛らしい少女の声が、叱しかるような調子で響いた。

「ウン、すぐだよ。なんだか今夜は器械がいうことを聞かないんだ。よしっ、さあはじめるよ」

若々しくやさしい男の声が答えたかと思うと、突然ジーンとモーターの回転する音がして、カタカタカタと歯車が鳴り出した。そして、部屋の一方の壁が一間けん四方ほどボーッと薄明かるくなって、そこに人の姿がうごめきはじめた。

十六ミリの映写がはじまったのだ。なんでもないことなのだ。しかし、それが果たしてなんでもない映画鑑賞として終ったかどうか。その夜は何かしら家族の人たちを脅えさせるようなものが、その部屋の闇の中にたちこめていた。

十六ミリのフィルムには伊志田家の家族の人たちが写っていた。広い庭の樹立こだちを背景にして、余りはっきりしない人影が、五十歳ほどのでっぷりしたひげのある紳士や、その夫人らしい人や、二十二、三の美しい令嬢や、十六、七歳の可愛らしい女子学生や、腰の二つに折れたようになったひどい年寄りのお婆さんなどが、まるで幽霊のように、暗い樹立の前を妙にノロノロと右往左往していた。

「ほら、僕の大写しだよ」

器械をあつかっていた黒い影が、又やさしい声で言ったかと思うと、スクリーンの画面がパッと明かるくなって、一間四方一杯の大きな人の顔が現われた。まるで女のように美しい二十歳あまりの青年の顔である。長いつやつやした髪をオールバックにして、派手な縞しまのダブル・ブレストを着ている。まっ白なワイシャツの襟えり、大柄な模様のネクタイ。「僕の大写しだよ」と言ったのをみると、今映写機のそばに立って技師を勤めているのが、この美貌びぼうの持ち主に違いない。

スクリーンの美しい顔がニッコリした。睫毛まつげの長い一重瞼まぶたが夢見るように細くなって、片頬かたほおに愛らしいえくぼができて、花弁のような唇から、ニッと白い歯が覗のぞいた。だが、その笑いがまだ完成しない前に、どうしたことか、カタカタと鳴っていた歯車が、何かにつかえたように、音を止めて、同時にスクリーンの巨大な美貌が、笑いかけたままの表情で、生命を失ったかの如ごとく静止してしまった。

美青年の技師が不慣れであったせいか、咄嗟とっさの場合、映写機の電燈を消すのを忘れて、ぼんやりしていたものだから、レンズの焦点の烈しい熱が、たちまちフィルムを焼きはじめ、先まず美青年の右の眼にポッツリと黒い点が発生したかと思うと、みるみる、それがひろがって、眼全体を空虚な穴にしてしまった。美しい右の眼は内障眼そこひのように視力を失ってしまった。

一瞬にして眼球が溶けくずれ、眼窩がんかの漿液しょうえきが流れ出すように、その焼け穴は眼の下から頬にかけて、無気味にひろがって行き、愛らしいえくぼをも蔽おおいつくしてしまった。美青年の半面はいまわしい病のためにくずれるように、眼も眉まゆも口も一つに流れゆがんで行った。

「兄さま、いけないわ。早く!」

少女の甲高い声と、ほとんど同時に、カチッとスイッチを切る音がして、たちまちスクリーンが闇に蔽われ、醜い歪ゆがんだ顔の大写しは、幻のように消え去った。やっと技師が映写機の電燈を消したのである。

「電燈をつけましょうか」

これは、闇の中からの中年の婦人の声であった。

「なあに、大丈夫です。すぐ映りますよ」

そして、何かしばらく映写機をいじくっていたが、間もなくカタカタという歯車の音が起こって、スクリーンに次の場面が映りはじめた。

一分ほどは何事もなく、家族らしい人たちの動作が次々と映し出されたが、やがて、又大写しの場面がきた。今度は美青年とほとんど同年輩に見える美しいお嬢さんの顔であった。美青年の美しさを凄艶せいえんと言い得るならば、このお嬢さんの美しさは華麗であった。桃色の牡丹ぼたんの花が今咲きそめたようにあでやかであった。

だが、なんという不思議な偶然であろう。画面の大写しとなるや否や、又しても映写機の回転がピッタリと止まった。そして、人々がギョッとしたようにスクリーンを見つめているうちに、そのお嬢さんの牡丹のように美しい顔の唇の辺に、ポツリと黒点が現われたかと思うと、まるで夕立雲がひろがりでもするように、ジワジワと、しかも非常な速さで、恐ろしい焼け焦げの痕あとが唇全体を蔽い消していった。

唇のなくなったお嬢さんの巨大な顔が、眼と頬ほおだけで笑っていた。あでやかに笑っていた。だが、それがあでやかであればあるほど、溶けて流れた唇のあとが物凄ものすごく恐ろしかった。しかもその溶解は唇だけにとどまらず、ちょうど口からおびただしい液体が流れ出す感じで、みるみる下顎したあご全体を蔽い尽し、たちまち美しい笑顔の下半分を身震いするような化物の形相に変えてしまった。

一間四方の巨大な顔が、しかもそれを見物している人自身の顔が、ハッとする間に、なんともえたいの知れぬ怪物に変って行く恐ろしさ。フィルム面上の焼け焦げは、二ミリか三ミリなのだ。それがかすかな焔ほのおを発して燃えるのだ。しかし、スクリーンの上には、千倍万倍に拡大されて写される。燃えひろがる早さも、焼け焦げ独特のジワジワした感じであるが、それが千倍万倍の速さになって、顔面の皮膚を這はいひろがるのだ。溶けただれて行くように、虫に喰くわれて行くように、一瞬にしてわが相好の変って行く恐ろしさ。そのなんとも言えぬ恐怖は、自分自身の大写しの映画面が焼けて行くのを、実際に見た人でなければ、想像できないかもしれぬ。

それは、血みどろになって手術を受ける恐ろしさ、わが顔が醜悪なる怪物になって汚されてゆく無気味さ、いや、そういう現実的なものでなくて、思わずうめき声を立てるような悪夢の世界でのみ経験し得る戦慄せんりつであった。

美青年の映写技師は、今度は前よりもすばやく器械のスイッチを切ったのだが、その咄嗟とっさのあいだに、スクリーンの美しい顔は半分以上溶け流れていたのである。

「怖いわ、怖いわ、兄さま」

可愛らしい少女の声が、闇やみの中から脅えたような、甘えるような調子で聞こえた。

「よそう。もうよしましょう。僕もなんだかいやな気持になった。お母さま、電気をつけてください」

一つの黒い影が、無言で立ち上がって、壁のスイッチに近づいたかと思うと、パッと室内が明かるくなった。今までの暗さに比べて、まるで真昼のように明かるかった。

「どうして止よすんだ。つづけてやればいいじゃないか」

家族たちの一方の端に腰かけていた人物が、美青年を詰なじるように言った。その人物は、さいぜんスクリーンの中を歩いていた、あのでっぷり太った、口ひげのある五十恰好かっこうの紳士であった。この家の主人伊志田鉄造氏である。

「でも、お父さま、僕、なんだかいやあな気持なんです。恐ろしいのです」

スクリーンで見たと同じ、あの凄艶せいえんといってもよいほど美しい、ダブル・ブレストの青年が映写機のそばを離れながら、青い顔をして答えた。

「恐ろしいって?」伊志田氏は又かと言わぬばかりの苦い顔をした。「一郎、お前このごろどうかしているんじゃないのかい。病気なのじゃないのかい。妙なことばかり言っている」

「ほんとうよ。一郎さん病人みたいよ。まっ青だわ」

これも今スクリーンで見たばかりのあの美しいお嬢さんであった。この家の長女、美青年一郎の姉、綾子である。

「僕のこの気持は、なんといって説明していいかわからないのです。前兆としか考えられないのです。僕たちのこの家に、何かしら恐ろしい禍わざわいの起こる前兆としか考えられないのです。今もあの映画を写しつづければ、きっと僕とお姉さまだけでなくて、お父さまも、鞠子まりこも、大写しの顔が出るたびに、同じ事が起こったに違いないんだ。僕はちゃんとそれを知っていたんだ。あの夢で幾度も見て知っていたんだ」

青ざめた美青年は物狂わしく言い張った。

「夢って、お前、どんな夢を見ましたの?」

母夫人が心配そうに顔を曇らして、おずおずと訊たずねた。この人もスクリーンに現われた人物の一人であった。髪形や服装は主人鉄造氏の年配にふさわしい地味なものを身につけていたが、よく見れば、その頬ほおはつやつやしく、まだ四十歳には間のあるらしい、上品な美しい人であった。

「恐ろしい夢です。僕は今まで誰にも言わなかったけれど、それは口に出すさえ恐ろしかったからです」

「よしなさい。お前は本を読み過ぎたのだ。神秘宗教だとか、心霊学だとか、妙な本ばかり読みふけるものだから、つまらない夢を見るのだ。さあ、もういいから、みんなあちらの居間へ行こう」

主人がそういって立ち上がるのを、青ざめた美青年は真剣に引きとめた。

「いいえ、僕はしゃべってしまいたいんです。みんなに聞いてもらいたいのです」

「あんなに言うんだから、話させるがいいじゃないか。夢というものは、ばかにできませんよ」

一郎への助太刀のように、一同のうしろから、不明瞭ふめいりょうなしゃがれ声が聞こえてきた。そこの椅子いすに、からだを二つに折ったようにして腰かけている祖母の声であった。まっ白になった髪をオールバックのように撫なでつけた下に、歯がなくなっているのに、なぜか入歯をしていないので、ひどく平べったく見える皺しわくちゃの顔があった。細い眼で老眼鏡の上から上眼うわめ使いをしながら、歯のない口をモグモグさせて物を言う様子は、何か不思議な鳥類のように見えた。おそらく七十歳をくだらぬ老年である。

「ああ、お祖母ばあさまはわかってくれますね。僕その同じ夢を三晩もつづけて見たのです。どこだかわからない、地の下のほら穴のようなまっ暗な所なのです。そこに僕が坐すわっているのです。僕は石の像になって坐っているのです。石で造った像ですから、血も通わなければ、呼吸もしないのです。そのくせ、眼だけはハッキリ見えているのです。

そのまっ暗闇くらやみの空の方から、まるで紐ひもでも吊つり下げられでもするように、まっ逆さまになったはだかの人の姿がスーッと下へ降りてくるのです。闇の中に、その人の姿だけが、まっ白に浮き上がって、恐ろしいほどハッキリ見えるのです。

そのはだかの人がお父さまなんです。そして、お父さまの両方の眼がつぶれて、ドクドクと血が吹き出しているのです。その次にはお姉さまが、やっぱり逆さまにスーッと降りてくるのです。お姉さまは口をまっ赤にしているんです。ちょうどさっきの大写しのように口から顎あごにかけて血だらけになっていて、その口から地面まで太い毛糸のような一本の血の筋がツーッと流れているのが、闇の中にクッキリと見えるのです。それから鞠子が、鞠子も可哀そうにやっぱり眼をやられているのです。そして、綺麗きれいなはだかになって、逆さまに落ちてくるのです。いや、落ちてくるのじゃありません。ちょうど窓ガラスを雨の雫しずくがたれるように、ゆっくりゆっくり降りてくるのです。

僕は恐ろしさに叫ぼうとしても、石像ですから声を出すことができません。駈かけ寄ろうとしても、立ち上がることができません。ゆっくりゆっくり降りてくるお父さまやお姉さまや鞠子の死骸しがいを、いや、まだ死骸ではないのかもしれませんが、それを身動きもせず、じっと見ていなければならないのです。それが三晩もつづいたのです。僕がどんな気持だったか、おわかりになりますか。

それだけじゃないのです。まだ上の方から降りてくるやつがあるのです。まっ逆さまに大の字になって、右の眼が空うつろになって、その穴からタラタラとまっ赤な液体を垂らして。それが誰だと思います。僕なのです。僕自身なのです。僕はこの眼で僕の無残な姿を見たのです。

僕は夢の中でギャッと叫びました。石像は口がきけないけれど、あまりの恐ろしさに、ギャッと叫んだのです。そして眼を覚ますのがおきまりでした。びっしょり脂汗を流していました。だから、僕は三晩とも、夢の終りまで見ていないのです。降りてくるのは僕でおしまいかどうかわかりません。きっとそのあとにまだ誰かの恐ろしい姿があるのです」

一郎はそこまで言って、ピッタリ口を閉じ、物狂わしくギラギラ光る眼で、家族の人たちを見まわした。

誰も物を言わなかった。あまりの無気味さに、おてんばの鞠子でさえ、悲鳴を上げることを忘れたように、ポカンと口をあけて、青ざめた顔の中に、おびえきった眼を、大きく見ひらいているばかりであった。

夫人も綾子も、白蝋はくろうのように青ざめていた。主人も妙な顔をして、物忘れでもしたようにぼんやりしていた。気のせいか天井の電燈がひどく薄暗くなっていた。一同が眼を見かわしていると、お互いの眼の中に恐怖の青い焔ほのおがチロチロと燃えているように感じられた。

「怖い夢を見たんだね。三晩もかい。前兆だよ。何か恐ろしいことが起こる前ぶれだよ」

祖母が念仏でも唱えるように、歯のない口の中で、ブツブツ呟つぶやくのが、異様に薄気味わるく聞こえた。

「でも夢だけなれば、僕はそれほどに思わないのですが、もっと変なことがあるんです。僕はこのうちに眼に見えない魂みたいなものが忍び込んでいるんじゃないかと思うんです。そいつがいろんなことをするんです。今に僕たちをみなごろしにするんじゃないかと思うと、ゾーッとしないではいられません。

何者かがこのうちの中をうろつき廻まわっている証拠には、僕の部屋に変なことが起こったのです」

そこまで聞くと、綾子の眼の色がおびえたようになって、美しい唇からかすかな声が漏れた。

「あらっ、一郎さんのお部屋にも?」

姉と弟とは、今の先、スクリーンの上で恐ろしくくずれたあの顔を見合わせて、ギョッとしたようにお互いの眼の中を覗のぞき合った。

「じゃあお姉さまの部屋にもかい。僕の部屋では、ホラ、あのベートーヴェンのデスマスクね、あれが壁の上を独りで歩きまわるんだよ。ずっと右側の壁にかけてあったのが、朝、部屋にはいってみると左側の壁にかかっているんだ。元の場所へ直しておくと、又その翌日は反対側へ移っているんだ。誰に聞いても知らないっていうんだよ。第一、僕は部屋へ誰もはいらせない癖だろう。夜寝る時にはちゃんとドアに鍵かぎを掛けておくんだ。それにそんな妙なことが起こるんだからね。それだけなら、まだいいんだよ。けさそのデスマスクを見るとね、こちらの眼に」と彼は自分の右の眼を指し示して「ポッカリと黒い穴があいているんだよ」

人々はさいぜんの映画の恐怖を思い起こして、背筋が寒くなった。あの映画でも、一郎の美しい右の眼にゾーッとするような異変が起こったではないか。

「あたしの部屋では、机の引出しがいつもあべこべに差してあるのよ。右の引出しが左に、左の引出しが右に、別に中のものはなくならないの。鞠ちゃんのいたずらかと思ったけれど、聞いてみるとそうじゃないというし、ほかの人も誰も知らないっていうのよ。あたし、一郎さんのように、気になんかしていなかったのだけれど、あなたの部屋もそうだっていうと、おかしいわね」

「お父さま、これでも僕の読書のせいだっておっしゃるのですか」

「なるほど。それは妙だね。お前たちの思い違いじゃないのかい。自分で物の位置を変えておいて、ヒョッと胴忘れしてしまうというようなこともあるもんだよ。化物屋敷じゃあるまいし、独りで物が動くなんて、ばかなことがあるもんか。ハハハハハ」

主人はわざと気軽に笑ってみせたが、誰もそれに応じてえがおを見せるものはなかった。人々の顔は前にもまして青ざめて行くように見えた。

「むろん独りで動くはずはありません。誰かが動かすのです。眼に見えないやつがこのうちの中を勝手に歩きまわっているのです。僕はなんだか、すぐそばにそいつがいるような気がするんです。こうして話しているのを、どっかその辺で、ニヤニヤ笑いながら聞いているのじゃないかと思うのです」

一郎はそう言いながら、脅えたようにガラス窓のそとの闇やみの中を見つめた。すると、人々はその闇の木立の中に、朦朧もうろうと黒い人影が現われて、室内の様子を窺うかがっているような気さえするのであった。

悪魔の声

名探偵明智あけち小五郎は、書斎の肘掛椅子ひじかけいすにグッタリともたれこんで、無闇むやみに煙草を吹かしながら、考えごとにふけっていた。あたりには、煙草の煙が朦々もうもうと立ちこめて、部屋じゅうが靄もやに包まれているように見えた。

伊志田屋敷で無気味な映画事件があった翌々日の夕方のことである。

煙の中の明智の頭には、今、あの古城のような赤煉瓦あかれんがの建物が浮かんでいた。その奇妙な建物を背景にして、女のように美しい青年の顔が、二重写しになって頬笑ほほえんでいた。

その前日、名探偵は美青年伊志田一郎の突然の訪問を受けたのであった。そして、古城の中に起こった奇妙な出来事と、一郎の恐ろしい夢の話を聞いたのであった。

明智はこの美青年に不思議な興味を感じていた。その顔が異様に美しいためばかりではない。今の世に珍しいその性格に惹ひきつけられたのだ。彼は肉体から遊離した心霊の存在を語った。そして呪詛じゅそとか前兆とかいうものを、心の底から信じているようにみえた。

「僕は怖いのです。誰かにすがりたいのです。父は唯物論者ですから、僕のいうことなど取り上げてくれません。僕はふと先生のことを思い出したのです。これは犯罪ではないかもしれません。しかし、少なくとも僕の家族の生命に関する事件なのです。何かしら恐ろしいことが起こるに違いないのです」

美青年は応接室のアーム・チェアに腰を浮かすようにして、物に憑つかれた眼で明智を見つめながら、真剣な調子で名探偵の判断を乞こうた。

「不思議な青年だ。胸の中に冷たい美しい焔ほのおが燃えている感じだ。その焔が瞳ひとみに写って、あんなに美しくかがやいているのだ」

明智はその時の青年の異様に熱心な表情を思い浮かべて、心の中に呟つぶやいた。

「私は君の恐怖を取り止めもないものなどと言わない。何かあるのかもしれない。しかし、ただそれだけの出来事では、まだ私がどうかする時期でないように思う。このまま何事もなくすんでしまえばいいし、もしさらに何か妙なことが起こるようだったら、すぐ報告してください。その報告によって私の考えをきめることにしよう」

結局、明智はそういう意味の答えをして、青年を帰したのであった。それからついさきほどまで、ほかの事件の処理に追われて、青年のことは忘れるともなく忘れていたのだが、仕事が一段落して、アーム・チェアにもたれこみ、煙草と放心の一と時を楽しむうち、なぜか明智の頭の中に、美青年の姿とその言葉と、彼の住んでいる古城のような建物とが、異様に鮮明に浮き上がってきたのである。

探偵はわけのわからぬ不安を感じた。妙な胸騒ぎをおぼえた。あの美しい青年の上が、なぜかひどく気遣われた。

「変だぞ。こんな気持は久しく経験しなかったが……」

明智がそんなことを心に呟つぶやいて、また煙草の煙を深く吸い込んだ時であった。突然、卓上電話がけたたましく鳴り響いた。

彼はその音を聞くや否や、「ああ、やっぱりそうだったか」というような感じがした。彼にも似げなくギョッとしたのだ。

急いで受話器を耳に当てると、先方は予感の通り伊志田一郎であった。

「先生ですか。いま父も母も皆不在なのです。僕は父の書斎に一人ぼっちで留守番しているのです。先生、聞こえますか。もっと声を低くします。あいつに聞こえるといけないからです」

「えっ、あいつって、誰かそこにいるんですか」

明智が聞き返しても、先方は構わず話しつづける。例によって物に憑つかれた調子だ。

「廊下にかすかな足音がしたのです。女中などとは違います。まだ見たこともないあいつの足音です。確かにあいつです。先生っ、早くきてください。僕を助けてください。僕はもうからだがしびれたようになって、身動きができないのです。卓上電話の受話器をはずすのがやっとでした。

ああ、あいつの息の音が聞こえます。ドアの鍵穴かぎあなから覗のぞいているのです。先生、もっと声を低くしますよ」

そして、先生の声はほんとうの囁ささやきに変った。

「あ、いけない。もうだめです。先生、早く、早くきてください。ドアがひらきはじめました。少しずつ少しずつひらいているのです」

しばらく無言がつづく。

「あ、やっぱりそうです。あいつです。あいつがはいってきました。手に短刀を持っています。先生、先生……」

そこで言葉が途切れてしまったが、今駈かけつけたところで間に合うはずはないので、なお受話器を耳につけて、どんな物音も聞き逃がすまいと注意を集めていると、何か物の擦れ合う音が聞こえてきた。青年が誰かと組み合ってでもいる様子だ。烈しい息遣いさえかすかに聞こえる。

手に汗を握って聞いている身には、非常に長い時間に感じられたが、その無言の格闘はおそらく五分とはかからなかったであろう。やがて、受話器から、なんともいえぬ悲痛な呻うめき声が耳をつんざくように響いてきた。一郎の声だ。あの美青年の声に違いない。

明智は心臓をしめつけられるような気がした。青年は救いを求めたのだ。その声をまざまざと聞きながら、助けてやることができなかったのだ。確かに深傷ふかでを負っている。もしかしたら一命を失ったかもしれない。あの美しい顔はもう二度とほほえむことがないかもしれない。

だが、その時であった。放心したように握ったままの受話器から、妙なしゃがれ声が聞こえてきた。ハッとして、耳を当てると、電話の向こうで確かに誰かがしゃべっている。ついさいぜんまで一郎青年が救いを求めていたその同じ電話で何者かがしゃべっている。

「お前は明智だね。ウフフフフフ、間に合わなくて気の毒だったねえ。オイ、明智、よくこの声を聞いておくがいい。わかるかい、この声が。ウフフフフフ」

悪魔の声だ。一郎を殺害した犯人の声だ。犯人が名探偵を嘲笑ちょうしょうしているのだ。だが、それはなんという不思議な音調であったろう。男とも女とも、老人とも若者とも、まったく見当のつかぬ調子はずれの声であった。まるで九官鳥が人声をまねしているような妙に間の抜けた感じなのだ。

「おい、そこにいるのは誰だ。何が起こったのだ」

探偵はむだとは知りながらも、送話口にどなってみないではいられなかった。しかし、むろん返事のあろうはずはない。犯人は言うだけのことを言っておいて、その場を立ち去ってしまったのであろう。いくら耳をすましても、再び人の声は聞こえなかった。

ぐずぐずしている場合ではない。何はともあれ現場へ行ってみなければならぬ。明智は、急いで身支度をすると、助手の小林少年を呼んで、自動車を命じさせるのであった。

R町の探偵事務所から、K町の伊志田屋敷までは、自動車で十分とかからぬ近距離であった。

伊志田屋敷の苔こけむした煉瓦れんが塀の門前で車を降りて、玄関に駈かけつけ、呼鈴を押すと、二十歳あまりの学生服を着た青年が、ドアをひらいてノッソリと顔を出した。何事も知らぬ様子である。

明智は、その青年がこの家の書生であることを確かめた上、名を名乗って、一郎青年に会いたいと告げると、書生はそのまま奥へはいっていったが、間もなく顔色を変えて飛び出してきた。

「た、大変です。一郎さんは大怪我おおけがをして倒れていらっしゃいます。早く、早くきてください」

書生は明智の腕をとらんばかりにして、奥へ案内する。主人をはじめ家族が不在なので、初対面とはいえ、折よく来合わせた探偵にすがるほか分別もないのであろう。

「君はうちにいて、その騒ぎを少しも知らなかったのですか」

廊下を急ぎながら、明智が訊たずねると、書生は申しわけないという表情で、

「実はちょっと外出していましたので。いま帰ったところなのです。何がなんだかさっぱりわけがわかりません」

「女中さんは?」

「女中はいるはずです。それに御隠居さまもいらっしゃるのですが、一郎さんの部屋とはずっと離れていますので、まだお気づきになっていないのでしょう。ちょっとお知らせして参ります」

「いや、それはあとにした方がいいでしょう。怪我人の介抱が第一だ」

せかせかと話し合いながら、薄暗い階段を上がって、二階の廊下を少し行くと、そこが主人の書斎であった。一郎はその父の書斎で兇漢きょうかんに襲われたのである。

書生を先に書斎へはいってみると、夕暮れどきの上に、窓の少ない古風な建物なので、部屋の中は非常に薄暗かったが、その床に倒れている人の姿はたちまち眼にはいった。

薄闇うすやみの中に一郎のあの美しい顔が血に染まって浮き上がって見え、肩から胸にかけて手傷を受けたらしく、その辺を血まみれにして、身をくねらせて横たわっていた。

予感はむごたらしくも的中したのだ。恐ろしき前兆は今やそのまま現実となって現われたのだ。だが、美青年伊志田一郎はすでに息絶えたのであろうか。妖魔ようまはその第一の犠牲者を完全に屠ほふり去ったのであろうか。

明智と書生は、部屋に一歩踏み込んだまま、薄闇の中の血の色の生々しさに、犠牲者に駈けよることも忘れて、しばらくは、茫然ぼうぜんとその無残な光景を打ち眺めるばかりであった。

人間コウモリ

「一郎さん、しっかりしてください」

書生が近づいて、大声にどなっても、美青年は身動きさえしなかった。

明智はそのそばにひざまずいて、一郎の呼吸と脈搏みゃくはくを調べた。

「かすかに脈がある。大丈夫だ。君、すぐ電話をかけて医者を呼ぶんだ。あ、その卓上電話を使っちゃいけない。犯人の指紋が残っているかもしれないのだ。ほかに電話があるんだろう」

明智の注意深い指図に、書生はアタフタと廊下へ出て行った。階段を駈かけ降りる音が聞こえてくる。電話室は階下にあるのだ。

あとには、広い書斎に瀕死ひんしの負傷者と明智探偵とただ二人であった。夕闇ゆうやみは刻々に夜の色を加えて、部屋の隅々はもう見分けられぬほどとなり、負傷者の美しい顔を彩った血の色が、墨でも塗ったようにドス黒く見えてきた。

一郎は眼をやられていた。右の眼であった。映画の前兆はそのまま実現したのだ。右の眼から頬ほおにかけておびただしい血潮が溢あふれていた。しかし、負傷はむろん眼だけではなかった。胸を刺されたらしく、まっ赤なワイシャツを着ているのではないかと疑われるばかりであった。ジュウタンにもドス黒い大きな斑点はんてんができていた。

無気味な生人形のように、微動もしない負傷者を眺めていると、なんだか妙な感じがした。負傷者ばかりでなく、夕闇の鼠色ねずみいろに塗りこめられた広い部屋全体が、生命を失ったように寂然と静まり返っていた。窓は一か所半開になっていたけれど、部屋の空気は少しも動いていなかった。まったく風のない日であった。

明智探偵は負傷者のそばにひざまずいたまま、しかし、眼は凝然と部屋の一方の隅を見つめていた。何かしらそこを見ないではいられないような不思議な感じがあったのだ。

そこにかすかに揺れているものがあった。まったく風のない夕闇の室内に、そよぐように揺れ動いているものがあった。壁の書棚と書棚のあいだに、何か物を入れる押入れのような箇所があって、その前に垂れた鼠色のカーテンがかすかに動いているのだ。

むろん風ではない。カーテンの蔭かげに何か生きものがいるのだ。この家には猫が飼ってあるのかしら。いや、そんな小さな動物ではない。もっと大きいものだ。おそらくは、そこに人間が隠れているのだ。

明智はさいぜん自宅で聞いた電話の声を思い出していた。男とも女とも、老人とも若者とも判じがたい無気味なしわがれ声であった。犯人なのだ。一郎を刺した殺人者なのだ。あいつがカーテンの蔭に身を潜めているのではないか。

明智はそのものに向かって、何か言葉をかけようとしたが、思いとどまった。それではこちらの負けになってしまう。だまっている方がいい。だまって相手の出ようを見守っている方がいい。

夕闇の中に、息づまるような烈しい無言の闘争がつづいた。互いにそれを知っていたのだ。そして、脂汗を流しながらだまり返っていたのだ。明智は武器を持たなかった。相手は少なくとも一とふりの短刀を持っているはずだ。探偵のがわには一段の精神力が必要であった。

睨にらみ合いは、結局、犯人の負けであった。それほど明智探偵は落ちつきを失わなかったのだ。犯人はおそらく、ただ凝然と見つめられている無気味さに堪えられなくなったのであろう。カーテンがひときわ烈しく揺れはじめた。そしてその蔭かげから、サッと黒いものが姿を現わし、風のようにドアに向かって走った。

それは巨大なコウモリのようなものであった。とっさには見分けることができなかったが、あとで考えてみると、その怪物は頭部全体に黒布を巻きつけ、両眼の部分だけに小さな二つの穴をあけていた。ダブダブのインバネスのようなもので、全身を包んでいた。その裾すそがすっかり足を隠していたのを見ると、人並よりは背の低いやつのように思われたが、もしかしたら、足を曲げて、わざと低く見せているのかもしれなかった。

それが、背中を丸くして、サッと走って行くうしろ姿に、なんともいえぬ醜怪な、兇悪きょうあくなものが感じられた。黒いインバネスの両袖そでは翅はねのようにひるがえって、ちょうどコウモリそっくりの、いやらしい姿であった。

その大コウモリの翅の中に、血に濡ぬれた短刀が隠されていることはわかっていたが、明智探偵は少しも躊躇ちゅうちょしなかった。ただちにあとを追って走り出した。

ガランとした薄暗い廊下、怪物は表階段を降りないで、奥の方へ走って行く。猫のように足音を立てない走り方だ。まるで、コウモリが宙を羽搏はばたいているような感じだ。

出発の時に、追うものと追われるもののあいだに、五、六間のひらきがあった。それが、怪物が廊下の突き当たりの狭い裏階段を駈かけ降りるころには、二、三間に縮められていた。

大コウモリは、裏階段を一とすべりに駈け降りて、階下の廊下をさらに奥へ奥へと走った。

少し行くと、廊下が鉤かぎの手になっていた。怪物はその角を曲がりながら、背を丸めて、ヒョイとこちらを振り返った。黒布の二つの切れ目が、薄闇うすやみの中にキラリと光った。その眼が、気のせいか、意味ありげに薄笑っているように見えた。

「待てっ!」

明智探偵がはじめて声をかけた。相手を射すくめるような、烈しい気合いのこもった一と声であった。

だが、怪物はひるまなかった。妙な恰好かっこうでお辞儀でもするような仕草をしたかと思うと、そのまま曲がり角の向こうに姿を消してしまった。

いうまでもなく、明智はただちにあとを追って、同じ角を曲がった。見ると、鉤の手廊下はそこが行き止まりになっていた。だが、曲者くせものは? わずか数秒おくれたばかりなのに、もうそこには人の影さえなかったではないか。

廊下の左側に窓があって、そのそとは庭園の木立であった。明智は窓に駈け寄った。ガラス戸は閉まっていた。それを引きあけて、もう暮れきった庭園を見渡したが、怪物の姿はどこにもなかった。

蒸発してしまったのだ。幽霊のように消え失せてしまったのだ。

さすがの明智も、ややうろたえて、キョロキョロとあたりを見まわした。窓のほかには、どこにも逃げ道はないのだ。しかし、廊下の右側にただ一つドアがある。誰かの部屋らしい。探偵はいきなり把手とってをひねって、そのドアをひらいた。

覗のぞき込むと、薄暗い部屋はシーンと静まり返っている。狭い控えの間があって、その奥に広い部屋があるらしい。踏み込んで、控えの間と奥との境のカーテンを引きあけた。

「おや、どなたですね」

とがめるようなしわがれ声が聞こえてきた。

よく見ると、そこは畳敷きの日本間になっていて、向こうの窓寄りに蒲団ふとんが敷いてあった。その蒲団の中にモグモグと動いているものがある。皺しわくちゃのお婆さんであった。

「あ、失礼しました。今ここへ、誰か逃げ込んできませんでしたか。黒い覆面をして、インバネスを着たやつです」

明智がドギマギして訊たずねると、老人は寝間着姿で床の上に起き上がって、あきれたようにこちらを見つめた。

「いいえ、誰もはいってきませんが、あなた、いったいどなたですね」

それは一郎の祖母であった。老年のこととて、昼間も蒲団の中にはいって、うたた寝をしていたのであろう。

明智は名を名乗って、簡単に挨拶あいさつすると、スイッチのありかを訊ねて、天井の電燈をつけた。だが、パッと明かるくなった部屋の中には、別段怪しむべき点もなかった。そこには二た棹さおの箪笥たんすと小机と鏡台が置いてあるばかり、人の隠れる場所とてもない。老人の許しを受けて、座敷に上がり、押入れをひらいてみたが、そこにも別状はなかった。

部屋の窓のそとには、庭園が見えていたが、そのガラス戸もぴったり閉めてあった。いくらうたた寝をしていたといっても、その窓が開閉されたとすれば、老人が気づかぬはずはない。

そうしているところへ、騒ぎを知って、書生や女中が駈かけつけてきたので、さらに手分けをして屋内屋外を調べてみたが、結局、大コウモリの行方はまったく不明であった。庭にもなんの足跡も残っていなかった。

写真の怪

それから二時間ほど後、危うく一命をとりとめた一郎は、医師の手当てを受けて、寝室のベッドの上に横たわり、明智の知らせによって駈けつけた、警視庁捜査課長北森氏の取調べを受けていた。人を遠ざけて、室内には一郎と捜査課長と明智探偵の三人だけであった。

主人の伊志田氏夫妻や、一郎の姉妹たちも、もう帰宅していたが、医師の手当てがすむと、別室にしりぞいたのである。

一郎の負傷は思ったよりも軽かった。胸部の傷は短刀が肋骨ろっこつの上をすべったものと見えて、肺臓には達していなかったし、右の眼も、瞼まぶたの下に裂傷を負ったばかりで、眼球そのものには別状なく、危うく失明をまぬがれていた。出血は可なりひどかったけれど、輸血を要するほどではなかった。

「どうです。話ができますか。苦しくはありませんか。苦しければもっとあとにしてもいいのですよ」

北森捜査課長は、いたわるように言いながら、ベッドの負傷者を覗のぞき込んだ。

「大丈夫です。大変楽になりました。少しくらいお話しできそうです」

一郎は低い声ではあったが、案外しっかりした口調で答えた。

胸部は繃帯ほうたいにふくれ上がり、頭部から右の眼にかけても厚ぼったく繃帯が巻きつけてあった。

「苦しいでしょうけれど、これは捜査上どうしてもお聞きしなければならないのです。なるべく正確に答えてください。あなたは犯人を知っていますか」

「わかりません。僕は犯人の顔を見なかったのです」

「覆面をしていたのですね。しかし声だとかからだの恰好かっこうだとかに、何か心当たりはなかったですか」

「少しも心当たりがありません。まったく聞いたこともない声でした」

「誰かに恨みを受けているようなことはないのですか。少しでも疑わしい人物はないのですか」

「ありません。僕はなぜこんな目に遭あったのか、まるで見当もつかないのです」

「そうですか、それで犯人は不意に書斎へはいってきたのですね」

「ええ、まったく不意でした。もっとも、僕はなんだか恐ろしい予感がしていたのです。すると、廊下を聞き覚えのない足音が近づいてきたのです。それで、明智さんにあんな電話をかけたのです」

「犯人は口をききましたか。なぜあなたを殺そうとするのか、そのわけを言わなかったですか」

「何も言いません。一と口も物を言わないで、いきなり短刀で突きかかってきたのです」

「あなたは防ぎましたか」

「ええ、死にもの狂いで防ぎました。しかし、とてもかなわなかったのです。僕はあまりの恐ろしさに、力も抜けてしまったようになって……」

「なぜそんなに恐ろしかったのです」

「あいつの姿が怖かったのです。黒い覆面の中から覗いている二つの眼が、無性に恐ろしかったのです。それに、僕の眼です。組み合っているうちに、あいつの短刀の先が、僕の右の眼ばかり狙ねらっていることを知って、ゾーッとしたのです」

「そんなに眼ばかり狙ったのですか」

「ええ、この右の眼をグイグイと突いてくるのです。私は力の限り防ぎましたが、あいつの力が少し強くて、短刀の先が、ジリジリと私の眼に迫ってきました。僕はあんな怖い思いをしたことはありません。ほかの場所ならそれほどでもないのでしょうが、眼ですからね、ほんとうに心臓が止まるような気持でした。

そして、とうとう突かれたのです。でも、あいつの狙いが狂ったのか、僕が顔をそむけたためか、幸い、眼球を傷つけられないですみましたが、僕が『アッ』と声を立てて眼をおさえたものですから、目的を達したと思ったのでしょうね、しわがれ声で、さも嬉うれしそうに、ウフウフ笑いながら、今度はとどめを刺すように、胸をついてきたのです。僕は眼をふさいでいたので、何がなんだかわかりませんでしたが、胸にはげしい痛みを感じると、ああ、もうだめだと思いました。そして、そのまま気を失ってしまったのです」

語り終って、一郎は疲れたようにグッタリと眼をふさいだ。繃帯ほうたいのあいだから見えている半面が、発熱のためにポッと赤らんで、閉じた眼の長い睫毛まつげがかすかに震えている。

明智探偵はその美しい顔に、じっと眼を注いでいた。何かしら吸い込まれるように、瞬きもせず見つめていた。

北森氏も腕組みしたまま物を言わなかった。こいつは難事件だぞと言わぬばかりに、唇を噛かんで瞑目めいもくしていた。

「明智先生、僕の予感が当たったのです。あれはたしかに前兆だったのです。あいつはやっぱり私の眼を狙いました。右の眼を狙いました。映画の通りでした。私のいつかの夢とそっくりでした」

一郎が静かな調子で、独り言のように言いながら、パッチリと左の眼をひらいた。そして、痛々しそうに頷うなずいてみせる明智の顔をじっと見ていたが、ふと視線をそのうしろの壁に注いだ。

すると、彼はビックリしたように、二、三度烈しく瞬いたが、そのまま視線が釘くぎづけになってしまった。力なくうるんでいた眼が、異様な輝きを放ち、みるみる大きく見ひらかれて行った。

「あれ、あれは、なんでしょう」

おびえた声で言いながら、その壁の上部を指さした。

捜査課長と探偵とは、思わずうしろを振り返った。

その壁には小型の額がかかっていた。額の中に一郎の美しい顔が笑っている、引伸ばし写真であった。

だが、おお、これはどうしたというのだ。その美しい写真の顔の右の眼から、まっ赤な液体が流れ出しているではないか。電燈の光をギラギラ反射しながら、今傷つけられたばかりのように、タラタラと頬ほおを流れ落ちているではないか。

死物の写真が血を流すはずはない。しかし血はまさしく流れているのだ。生々しい液体が糸を引いてしたたり落ちているのだ。

「おお、血です。右の眼から血が流れている。あいつだ。あいつが失敗を悟って、もう一度こんな眼にあわせてやるぞと、僕に知らせているのです」

一郎はベッドの上に半身を起こして、悲鳴のような叫び声を立てた。その叫び声のなんともいえぬ恐ろしさに、明智も北森警部も、思わずゾッとして顔を見合わせたほどであった。

明智はいきなりその写真の前に近づいて、眼の下に流れている血潮に指を触れてみた。

「血じゃない。赤い絵の具だ。だが、いつの間にこんないたずらをしたのだろう」

悪魔は透き通った気体のようなからだを持っていたのであろうか。いつの間にこの部屋に忍び込み、こんなお芝居気たっぷりないたずらをしたのだろう。絵の具はまだ乾きもやらず、タラタラと写真の上に糸を引いて流れていたのだ。

えたいの知れぬ犯人の、この傍若無人の振舞いには、さすがの名探偵も、捜査課長も、度胆を抜かれたように顔見合わすばかりであった。

再び大がかりな家探しがはじまった。天井から、縁の下から、庭園の樹木の茂みまで、残るところなく捜索されたが、やはり怪しい人影はどこにも発見されなかった。

妖雲よううん

犯人は一郎青年を傷つけたばかりで満足するものでないことは、よくわかっていた。もう一度ほんとうに眼をえぐりたいのだ。心臓を刺して息の根を止めたいのだ。

孤独を愛する奇人伊志田氏も、この恐怖には抗しかねたとみえ、邸内には俄にわかに屈強な書生の数がふえた。一人であった書生が五人に増した。腕に覚えの猛者もさどもが、狩り集められたのだ。その中には北森課長が推薦した刑事上がりの壮年者も二人までまじっていた。

三日間が何事もなく経過した。さすがに怪物も厳重な警戒におびえたのか、ついに姿を現わさなかった。その四日目の夜のことである。一郎青年の病室にはただ一人、ロイド眼がねと三角に刈り込んだ顎あごひげの目立つ医師が、負傷者の見とりをしていた。

「ウフフフフ、どう考えてもおかしいですよ。僕はまさかあなたにこんな看病をしていただこうとは、夢にも思いませんでした」

ベッドに横たわった一郎青年は、傷の経過もわるくないと見えて、元気な様子でクスクス笑いながら、ロイド目がねの医師を見上げるのであった。

「僕だって、こんなまねははじめてだよ。変装というようなことは好きじゃないのだが、君があんなに頼むものだからつい負けてしまったんだよ」

医師もにこやかに笑って、青年の美しい顔を覗のぞきこむようにした。

「でも、僕は安心ですよ。先生がいつも僕のそばについていてくださるんですもの。もうあいつがきたって平気ですよ」

三角ひげの医師は名探偵明智小五郎の変装姿であった。一郎青年と主人伊志田氏とのたっての頼みを拒みかね、主治医の友人というふれ込みで、有本医師と名乗って一郎の看病と護衛のために、当分、邸内に泊まり込むことになったのである。その秘密を知っているのは、当の一郎青年と伊志田氏と主治医の三人だけで、他の家族や召使いたちは明智をほんとうの医師と思いこんでいた。明智は変装嫌いではあったが、決して変装下手ではなかったからだ。

明智は負傷者一郎青年に、異様に惹きつけられていた。最初彼が探偵事務所を訪ねてきた時から、そのたぐい稀まれなる美貌びぼうと、陰火のような押し殺された情熱が、探偵の心を打った。嫌いな変装までして、伊志田邸に泊まり込むことになったのも、この美青年の不思議な牽引力けんいんりょくによるものであった。

しかし、探偵がこの異例な挙に出いでたのは、ただそれのみのためではなかった。彼は風変りな伊志田家そのものに妙な興味を抱いていた。この古風な西洋館の中には、何かしら廃頽はいたい的な、まがまがしい匂においが満ちていた。犯罪は外部からではなく、むしろ内部から発生しそうな、一つの別世界が感じられた。

「一郎君、だいぶ気分がよさそうだね。少し質問してもさしつかえないかね」

明智の有本医師は、改まった調子になって、やさしく訊たずねた。

「ええ、僕も先生に聞いてほしいことがあるんです。お訊ねになりたいというのは、もしや僕の家庭のことではありませんか」

「そうだよ、僕はあの事件が起こった時から、それを一度よく聞きたいと思っていたのだ」

「じゃあ、先生は、今度のことは、僕の家庭の内部に、何か原因があるとでもお考えなのですか」

美青年は異常にするどい神経を持っているように見えた。話し相手の言おうとしていることを、みな先廻さきまわりして言ってしまうようなところがあった。

「必ずしもそういうわけではないがね。しかし、一応君のご両親や姉妹のことを聞いておきたいのだ」

明智は乗り出している負傷者の背中へ、ソッと毛布をかけてやった。

「僕の家庭を妙にお思いになるのでしょう。こんな化物屋敷みたいな西洋館に住んで、皆が何もしないでブラブラ遊んでいるのですからね。でも、僕の父がどういう人だかは、世間の噂うわさでご存知でしょう。人嫌いの変人なんです。どのくらいあるのかよく知りませんが、僕らはお金持ちだと言われています。ですから、こんなわがままな、風変りな生活もできるのですね。

先生は、僕らの親子兄妹の関係が、どんなふうだかということをお聞きになりたいのでしょう。父は、僕の知っている限りでは、僕ら三人の兄妹のほんとうの父です。しかし母は違うのです。僕なんかと似ていないでしょう。僕ら三人とも今のお母さまの子ではないのです。僕たちのほんとうの母は、八年前になくなったのですよ」

「で、君たち三人の兄妹は皆その先せんのお母さんの子なの?」

「そうです。僕の知っている限りでは、そうです。しかし、僕たち三人は顔も気質も少しも似てないでしょう。まるでみんな別々の母のお腹なかから生れてきたようじゃありませんか」

一郎の口辺に嘲笑ちょうしょうの影のようなものが浮かんだ。

「何かそんな疑いでもあるの?」

「別に何もありません。でも、父はそういうことはまるで非常識なんです。どんな秘密があるかしれたものではありません。なくなったお母さんは、気の毒な人だったのです」

「それで、今のお母さんと、君たちとはうまく行っているの?」

「ええ、表向きは円満です。しかし、みんなの心の中はわかりません。ほんとうは誰も彼も憎み合っているのかもしれません。僕たち兄妹だって、決して仲がよくはないのです。

先生、こんな家庭ってあるでしょうか。上べはみな親しそうにしていて、腹の中では、何を考えているかわからないのです。まるで化物屋敷です。僕たちはみんな、世間の人とは違うのです。まったく別の生きものみたいな気がします。

先生、僕の思っていること言ってもいいでしょうか。先生、僕怖いんです。それを言うのが恐ろしいのです」

「いいよ。言わなくてもいいよ。そんなこと考えるもんじゃない。君はあんなことがあったので、興奮しているんだ。ありもしない幻を描いているんだ」

明智がなだめるように言うのを、一郎は押し切って、ついにそのことに触れてしまった。

「あいつは、ほんとうに外部からやってきたのでしょうか。先生、もしかしたら、あいつはこの家の中に住んでいるのじゃないでしょうか。僕らのよく知っている誰かじゃないのでしょうか」

半面を繃帯ほうたいに包んだ美青年の顔が、恐ろしいほどまっ青になっていた。毛布の中から出ている華奢きゃしゃな手首が、熱病やみのようにブルブル震えていた。

「探偵というものは、そういうことも一応は疑ってみなくてはならない。僕は今あらゆるものを疑っている。君の家庭内の人たちだって決して例外ではないのだ。しかし、僕はまだ何も掴つかんでいない。安心したまえ、まさかそんなことはないだろうと思うよ」

明智の有本医師は強しいて鈍感を装いながら、一郎青年をなぐさめようとした。

「ああ、やっぱりそうなんですね。先生も僕たち一家の誰かを疑っていらっしゃるのですね。誰です。それはいったい誰です」

一郎の顔は興奮のあまり泣き出しそうにゆがんで見えた。

「ばかな。僕がいつそんなことを言った。取り越し苦労もいい加減にしたまえ、さあ、一と眠りするんだ、そして、もっと明かるい気持になるんだ。睡眠剤を上げようか」

名探偵はまるで看護婦のようにやさしかった。一郎の毛布の肩の辺に手を置いて、母親のように子守歌でも歌い出しそうな様子に見えた。有本医師の一挙一動には、美しい負傷者へのこまやかな愛情が満ちあふれていた。

塔上の怪

しかし、一郎は眠ろうとはしなかった。眠らないばかりか、一そう大きな眼を見ひらいて、向こうのガラス窓のそとを見つめていた。何か物に憑かれたように、いつまでも同じところを見つめていた。

「どうしたんだ。何をそんなに見ているの?」

明智もその方へ眼をやった。窓のそとにはただ夜の闇やみがあるばかりであった。その闇の中に、闇よりも黒い大入道のようなものが聳そびえていた。伊志田屋敷の名物の円塔である。西洋の城郭にあるような、煉瓦れんが造りの円形の塔である。一郎の眼は、どうやらその円塔のあたりに注がれているらしいのだ。

「あれをごらんなさい。僕はゆうべもあれを見たのです。なんだか恐ろしいのです。僕の幻覚じゃないでしょうか」

「あれって、なに? どこを見ているの?」

「塔の頂上の窓です。じっと見ていてごらんなさい……ほら、あれです。先生、あの光です。先生には見えませんか」

それは決して一郎の幻覚ではなかった。円塔の頂上の部屋の窓に、ボーッと蛍火ほたるびのような光が射している。室内の電燈がついたのではない。何かもっと小さな白っぽい光だ。もしかしたら、どこか外部からの光が、ガラスに反射しているのではないかと考えたが、そうではなくて、やはり室内からの光らしい。かすかに揺れている。

「ね、見えるでしょう。さっきから光ったり消えたりしているのです。ほら、消えてしまった。きっと今にまた光りますよ」

見ていると、一秒もたたぬうちに又ボーッと光り出した。そして、光っては消え、消えては光り、まるで、その円塔の壁に、巨大な蛍がとまって息づいているような感じであった。

「懐中電燈のようだね」

「ええ、僕もそう思うのです」

二人は円塔から眼を離さず、必要以上に声を低めて囁ささやきかわした。

円塔の内部は久しく使用せず、荒れるにまかせてあった。その廃墟のような建物の中に、何者かが潜んでいるのだ。

「誰かが、ああして外部の者と秘密の通信をしているのじゃないでしょうか」

「ウン、そうかもしれない」

「このあいだ、家捜しをした時には、あの塔の中もむろん調べたのでしょうね」

「調べたのだよ。別に異状はなかった。人の隠れているようなけはいは少しもなかった」

しかし、今は確かに人がいるのだ。あいつかもしれない。黒覆面の中から眼ばかりを光らせているあの怪物かもしれない。

「待っていたまえ、ソッと塔へ行って調べてみよう」

明智の有本医師はあわただしく囁いて立ち上がり、壁のベルのボタンを押した。

「先生、大丈夫ですか。僕、なんだか心配です」

一郎青年はベッドの上に半ば起き上がって、青ざめた顔で名探偵を見上げながら、引き止めたいように両手をさし出すのであった。

「心配しなくってもいい。さあ、じっと寝ていたまえ」

有本医師は、青年の手を取って、元のように横にならせ、毛布をかけてやった。

そこへ、ベルを聞いて、書生の一人がはいってきた。北森捜査課長が世話をした、刑事上がりの男だ。

「君、少しのあいだ、この部屋にいてくれたまえ。僕が帰ってくるまで見張りを頼む。油断をしないようにね」

書生が頷うなずくのを見て、明智はもう廊下へすべり出ていた。そして、円塔の方へと足音も立てないで、風のように走り出していた。

円塔へは曲がりくねった廊下つづきになっていたが、母屋おもやを離れると、にわかに廊下が狭くなり、電燈もついていないので、まるで穴蔵へでもはいって行くような感じであった。

塔に近づくにしたがって、明智は速度をゆるめ、足音を忍ばせ、油断なく身構えしながら、前方の闇やみの中を見すかすようにして進んで行った。

塔の入口のドアはひらいたままになっていた。ほとんど手探りでそこをはいり、しばらく息を殺して様子を窺っていたが、冷たい塔の内部は墓場のように静まり返っている。

こういう時のために、常に用意している懐中電燈を取り出して、チラッとそのあたりを照らしてみた。誰もいる様子はない。部屋の右手に、埃ほこりのつもった頑丈な木製の階段が見える。明智は懐中電燈を消して、音を立てぬように注意しながら、その階段を登って行った。

円塔は三階造りになっていたので、同じような階段を二つ登らなければならなかった。第二の階段は、呼吸さえ殺すようにして、一寸ずつ一寸ずつ、虫の這はうように這い上がって行った。そして、やっと階段の頂上にたどりつき、ソッと首を出して部屋の中を覗のぞいてみた。

そこはただ一面の暗闇であった。光もなく音もなく、円塔全体が深い地の底の穴蔵ででもあるように感じられた。空気は土と黴かびとの廃墟はいきょの匂においに満ちて、古沼のように淀よどんでいた。

冒険に慣れた明智探偵にも、こんな経験は珍しかった。そこには、暗さのほかに、何かえたいの知れぬ無気味なものがあった。この世のほかの幽鬼とか怨霊おんりょうとかいうようなものが、闇の中の空気を重苦しくし、一種異様の匂いがただよっていた。

探偵は、背筋を虫が這うような悪寒を、じっと我慢しながら、闇の中を見つめていたが、やがて、眼が慣れるにつれて、窓の輪郭がほんのりと薄明かるく見分けられるようになった。そして、それと同時に、土と黴の匂いの中に、何かしらかすかな香気がただよっているのが感じられた。ヘリオトロープ。それは美しい女性を連想させるヘリオトロープの匂いであった。

この部屋には、最近、身に香料をつけた女性がはいったとしか考えられなかった。いや、最近ではない、今現にその女性はここにいるのかもしれない。あの懐中電燈を点滅していた怪人物は、女性なのかもしれない。

眼を凝らすと、窓からの、ほの明かりを受けて、その窓のそばに、幽霊のような白いものが、スーッと突っ立っていた。かすかに身動きしている。おやっ、もしかしたら、あれは洋装の女性ではないのか?

と思ううちに、ほの白い影が、やや大きく身動きしたかと思うと、その胸のあたりから、パッと光が湧わいた。その光が窓のガラスに反射して、室内がにわかに明かるくなった。

それは白衣の婦人であった。襞ひだの多い、白っぽい絹の洋装をした若い女性であった。胸のあたりに手提げの懐中電燈をかかげて、その光線を窓のそとへ向けている。彼女が身動きするたびに、強い光がチロチロ動いて、洋装の腕や胸の辺をかすめ、影絵のように、若々しい肉体の一部が透き通って見える。

こちらからはうしろ姿しか見えないのだが、ふと気がつくと、窓ガラスに、反射光を受けた彼女の半身が、ぼんやりと映っていた。そして、明智探偵は、そこに思わずアッと叫びそうになるほど意外なものを見たのである。

深夜円塔の階上にたたずむ白衣の怪女性は、ほかならぬ伊志田綾子であった。一郎青年の姉に当たる、薔薇ばらのようにあでやかな、あのお嬢さんであった。

もしそれが見知らぬ人物であったなら、たとえ、かよわい女性であろうと、明智は躊躇ちゅうちょせず飛びかかって行ったに違いない。だが、一郎の姉さんとわかっては、迂闊うかつに手出しをするわけには行かぬ。相手は伊志田家の一員なのだ。気づかれぬよう、ソッと様子を見届けるほかはない。

それにしても、うら若い女性の身で、この無気味な場所へ、深夜ただ一人忍び込んで、いったい何をしているのであろう。さいぜんから長いあいだ、手提げ電燈を点滅しているのを見ると、誰か外部のものと、光による秘密の通信を取りかわしていたとしか考えられない。塀を越えて通信しなければならないので、邸内では一ばん高い、この塔の頂上の部屋を選んだのであろう。

ひょっとしたら、外部でこの通信を受け取っている相手というのが、例の黒覆面の怪人物ではないのか。綾子はその怪人物にあやつられて、邸内の様子を内通しているのではあるまいか。だが、もしそうだとすると、この美しいお嬢さんは、実の弟を殺害しようとした犯人の相棒を勤めているわけではないか。そんな恐ろしいことが、いったいこの世にありうるのだろうか。

手提げ電燈の合図は、今のが最後だったとみえて、部屋は再び明かるくならなかった。そして、その暗闇くらやみの中に、網膜の残像ででもあるように、異常にクッキリと浮き上がって見える白衣の女性は、もう帰るのであろう、宙をただようように、足音もなく、こちらへ近づいてくる様子だ。

明智は気づかれては大変と、大急ぎで階段を這い降りて、二階の部屋の片隅に身を潜しずめた。

白衣の人は、たびたびここに出入りしているのか、闇の階段を踏みはずしもせず、静かに降りてきた。かすかな絹ずれの音、ほのかなヘリオトロープの匂におい、そして、息を殺す明智の眼の前を、白い靄もやのようなものがスーッと通りすぎたのだが、その時、まるで胸の底から絞り出すような「ハーッ」という深い溜ため息が聞こえたのである。

明智はそれを聞くと、背筋に水をあびせられたように、ゾーッとしないではいられなかった。地獄の底から響いてくる幽鬼の歎息かと疑われるばかり、引き入れられるように陰気な溜め息であった。

想像にたがわず、この異様な西洋館には、妖気ようきがこもっているのだ。その妖気が一つに凝りかたまって、白衣の女性の姿となって、円塔の闇の中をさまよっているのではないかと怪しまれた。

明智は、しかし、気を取りなおして、忍び足に、綾子の異様な姿を追った。

白衣の人は、塔を出ると、夢遊病者のような放心状態で、暗い廊下をたどり、明かるい母屋おもやへと近づいて行く。

明智は彼女がまぶしい電燈の光の中へ現われるのを見た。そして、それがやっぱり一郎の姉綾子に違いないことを確かめた。

綾子は母屋の廊下へ一歩踏み込むと、にわかに正気づいたように、敏捷びんしょうになった。彼女は追われるけだもののような素早さで、キョロキョロとあたりを見まわし、廊下に人のいないことを確かめた上、サーッと白い風のように走って、向こうの曲がり角に消えてしまった。

急いであとを追って、その曲がり角からソッと覗のぞいて見ると、廊下にはもう人影もなくて、その中ほどのドアが、音もなく閉められているところであった。白衣の人はそのドアの中に姿を消したのに違いない。あとでわかったのだが、そこはほかならぬ綾子の寝室の入口であった。

美しき嫌疑者

一郎青年は、犯人はこの家の中にいるかもしれないという、恐ろしい疑いを明智に漏らした。明智もまたひそかにそういうことを想像しないではなかった。この奇怪な邸内に住む変り者の富豪の一族には、何かしら無気味な秘密があった。家族のものが、お互い同士で疑い合っているような、異様に気づまりな空気がただよっていた。

まさか綾子が実の弟の一郎を傷つけた殺人鬼だとは考えられない。だが、男さえ薄気味わるく思う円塔に、深夜ただ一人登って、あんな妙なことをしていたのをみると、彼女は何かしら事件に関係を持っているらしく思われる。もしかしたら共犯者ではないのか。あの黒覆面の怪人物の相棒ではないのか。

明智は彼女が自分の寝室へはいるのを見届けた上、その足で二階の主人伊志田氏の部屋を訪ねた。相手は若い娘さんなのだから、明智自身が直接詰問するよりは、お父さんに話して、おだやかに訊たずねてもらう方が穏当でもあり、有効でもあると考えたからだ。

主人はまだ起きていて、パジャマの上にナイト・ガウンを羽織って、明智を書斎に通した。一郎が怪物のために傷つけられた、あの書斎である。伊志田氏はそこを平気で使用しているのだ。

明智が綾子の異様な行動を詳しく報告すると、さすがに伊志田氏も顔色を変えて、すぐ呼び鈴を押して、書生に綾子を呼んでくるようにと命じた。

しばらくすると、ドアが静かにひらいて、あの白い洋装のままの綾子がはいってきた。あでやかな顔が少しひきしまって、心持ち青ざめているほかには、少しも取り乱した様子がない。この夜ふけになんの用事かと、けげんらしい表情さえ浮かべている。明智はそれを見て、まだうら若い綾子の名優ぶりに感嘆しないではいられなかった。

彼女はほのかなヘリオトロープの匂においを発散させながら、父のデスクのそばに近づくと、そこに立っている有本医師に軽く頭を下げて会釈した。伊志田氏と一郎青年のほかは、有本医師が明智小五郎であることを、誰もまだ知らなかったのだ。

「そこへお掛け。お前いま塔の中へはいっていたそうじゃないか。この夜ふけに、あんな所でいったい何をしていたんだね」

伊志田氏は、いきなりそれを訊ねた。彼は娘の行動を深くも疑わず、わけもなくその理由を説明して、明智探偵の疑念をはらしてくれるものと、信じこんでいる様子であった。

綾子はそれを聞くと、チラッと有本医師を眺めた。さてはこの人があれを見ていたのかと、とっさに察して、彼がただの医師でないことを疑った様子である。だが、彼女は別にうろたえることもなく、ごく自然な驚きの表情を示して、ぬけぬけと嘘うそをついた。

「えっ、塔の中へ? まあ、いやですわ、お父さま。あたしあんな気味のわるい所、昼間だって、はいってみたことさえありませんわ。どうしてそんなことをお聞きになるの?」

実に名優である。それに、この娘は父に対して、なんだか妙によそよそしい口のききかたをするではないか。

「綾子、嘘ではないだろうね。まさかお父さんに、この方の前で恥をかかせるのではあるまいね。お前は知るまいけれど、この有本先生は、実は素人探偵の明智小五郎さんなのだ。わしと一郎とでお願いして、うちの警戒に当たっていただいているのだ」

それを聞くと、綾子の美しい眼が、何かギョッとしたように、すばやく明智を盗み見た。ヘリオトロープの匂においが、一そう強く明智の鼻孔を刺戟しげきした。

「綾子、この明智さんが、お前が塔で妙なことをしているのを、ごらんになったのだよ。わしは、明智さんの前で、お前の弁明を聞かなければならない。こういう際だから、つまらないまねをすると、どんな疑いを受けるかしれないのだよ。さあ、わけを話してごらん」

綾子は聞いているうちに、だんだん青ざめて行った。心の騒ぎをそとに現わすまいと一所懸命になっている様子が、痛々しいほどであった。だが、彼女は結局その闘争に打ち勝った。あくまでしらを切ろうとしているのだ。

「まあ、あたしが塔の中で? それを有本先生がごらんになったのですって? 妙ですわねえ。あたしちっとも覚えがありません。塔なんかへ近づきもしませんわ。有本先生、いいえ、明智先生、ほんとうにあたしをごらんになりましたの?」

彼女はまた元の名優に立ち帰って、大胆にも名探偵に挑戦するかのような態度をとった。

「見たのです。まことに不作法なことですが、職務上いたしかたがなかったのです。僕はあなたが塔の三階でなすっていたことを、闇やみの中からすっかり見てしまったのです」

「まあ、三階で? あたし何をしていましたの?」

「手提げ電燈をつけたり消したりして、窓のそとの誰かへ通信をしていらっしたのです」

「まあ、思いもよらないことですわ。あたし、今晩はずっと、お部屋で本を読んでいて、どこへも出ませんでした。何かの間違いですわ。明智先生、誰かほかの人とお見違えなすったのじゃありません?」

「いいえ、僕はハッキリあなたの姿を見たのです。服装もその通りでした。そして、その人は塔を出てから、確かにあなたの部屋へはいって行ったのです」

「まあ、あたしの部屋へ?」

綾子はゾーッとしたように、ソッとうしろを見て、恐怖に耐えぬ様子をした。

「でも、あたしの部屋へは誰もはいってきませんでしたし、あたしは本をよんでいたのですから、何かの間違いですわ。そんなことがあるわけがありませんわ」

「あなたがそれほどにおっしゃるのでしたら、僕の見違いだったかもしれません。しかし、この家に、あなたと同じ服装をした、同じ背恰好せかっこうの、しかも顔まで同じ人が、ほかにいるとも思えませんし、また僕が起きながら夢を見ていたとも考えられませんからね」

明智はおだやかに反駁はんばくした。

「まあ、あたしとそっくりの人なんて……あたしはほんとうに覚えがないのですから、もしかしたら、あたしと同じ服装をした幽霊みたいなものが、うちの中をさまよっていたのじゃないでしょうか」

綾子が青ざめた顔で、オズオズとささやくようにそれを言った時には、二人のおとなもつい誘いこまれて、ふと怪談めいた恐怖を感じないではいられなかった。

綾子と寸分違わないもう一人の娘が、この広い建物のどこかに隠れているのだろうか。そして、その娘が犯人の手先となって、邸内をさまよい歩き、さまざまの奇怪な行動をしているのではないだろうか。

だが、明智はあのとき綾子の顔を見たのだ。たとえよく似た娘が変装していたのだとしても、明智ともあろうものに、その見分けがつかなかったとは考えられぬ。

「綾子、お前そんなことを言って、わしをごまかすのじゃないだろうね。ほんとうのことをいうんだよ。どんなこみ入った事情があるにもせよ、お父さんに隠し立てをしてはいけない。さあ、すっかり話してごらん」

伊志田氏は唯物論者であった。怪談を信ずることはできない。綾子は何か秘密を持っているのかもしれないと考えたのである。

綾子はそういう父の顔を、恨めしげにじっと見つめていたが、突然、恰好かっこうのよい唇の隅が、笑い出しでもするように、キューッと引きつった。

「お父さま、まだ疑っていらっしゃるの?」

烈しい口調で言ったかと思うと、悲しみにゆがんでくる顔を、ハッと両手で蔽おおい隠し、そのまま肩を震わせて泣き入るのであった。

はじめは声を噛かみ殺していたが、耐えられなくなったのか、ついには子供のように声を立てて泣き出した。顔を蔽っている両手の指がみるみる涙で濡ぬれて行く。

「あんまりだわ……あんまりだわ……あたしが、一郎さんをあんな目にあわせたやつと、ぐるだなんて……そ、そんなことが、できるとお思いになって……」

押し殺しても押し殺しても、突き上げてくる泣き声のあいだに、恨みの言葉が、ほとんど言葉をなさぬほど途切れ途切れに聞こえた。

この感情の爆発には、冷静な伊志田氏もつい慌てないではいられなかった。彼は思わず椅子から立ち上がって、綾子の背中に手を当てながら、やさしくなだめるのであった。

「何も泣く事はない。もういい。もういい。お父さんは、お前が犯罪に関係があるなんて考えたわけじゃないよ。そんなことがあるはずはない。ただ、お前がどうして、塔の中などへはいったか、訊たずねてみただけさ。さあ、もう泣くんじゃない」

「だから、だから、あたし、塔なんかへ、はいった覚えはないと言っているのに……」

綾子はあくまで冤罪えんざいの恨みごとを言い立てる。

「よしよし、それもわかった。お前のいうように、何かの間違いだろう。さあ、もう行っておやすみ。お父さんにはよくわかったのだからね。ね、さあ、部屋へお帰り」

困り果てて、だだっ子をなだめすかしているところへ、泣き声を聞きつけたのか、伊志田夫人の君代がはいってきたので、伊志田氏はそれをよい潮にして、君代に手短に仔細しさいを語り、綾子をなだめて、部屋へ連れて行くように命じるのであった。

名探偵の奇禍

結局、その夜はうやむやに終ってしまった。家庭は裁判所ではないのだし、伊志田氏も明智探偵も裁判官ではないのだから、泣き入る綾子を無慈悲に追求することはできなかった。

「とんだお騒がせをして、申しわけありません」

明智が詫わびると、伊志田氏はきまりわるそうにしながら、それを打ち消して、

「いや、大きななりをして、まるで子供です。ああ泣かれては始末にいけません。あなたが確かにごらんになったのですから、綾子には何か私に隠している秘密があるかもしれません、が、まさか共犯者というようなことはありますまい。まあ、もう少し様子を見ることにしましょう。あなたも、それとなく気をつけていてくださるようにお願いします」

と、穏当な意見であった。

明智が一郎青年の病室へ戻ると、負傷者は熱心に塔の出来事を訊たずねたが、明智は伊志田氏との約束もあったので、綾子の名は出さず、怪しい人影を見たが、つい取り逃がしてしまったとのみ答えておいた。

それから三日のあいだは、別段のこともなく過ぎ去った。綾子はあれ以来、自室にこもって神妙にしているし、塔の窓に怪しい光りもののするようなことも起こらなかった。

一郎の胸の傷も案外経過がよく、二、三日もすれば繃帯ほうたいが取れるほど肉が上がっていた。眼の下の傷はほとんど快癒して、鬱陶うっとうしい顔の繃帯はすでに取り去っていた。

もう看病の必要もなく、明智の有本医師は、この上伊志田邸に泊まり込んでいる口実がないほどであったが、しかし、探偵としての職務は終ったわけでなく、一日でも永く邸内にとどまっていたかったし、それに一郎がしきりに引きとめるので、つい滞在を延ばしているのであった。

さて、黒覆面の怪物の殺人未遂事件があってから七日目の夜のことであった。伊志田家の人は、緊張に慣れて、いくらか高をくくるような気持になっていた。五人に増した書生のうち、二人までが家庭の都合で暇を取って、七日目には、元からいた書生を合わせて三人しか残っていなかったが、人々はさして心細がるようなこともなく、主人の伊志田氏などは、騒ぎのために延ばしていた用件を果たすために、午後から外出して、夜がふけても帰らなかった。

だが、悪魔は、そういうふうに一同が気をゆるすのを待っていたのだ。そして、その夜、主人の不在を見すまして、第二の犠牲者を屠ほふるべく、再びあのいやらしい姿を現わしたのである。

明智の有本医師は、その晩もいつものように、邸内の巡回をおこたらなかった。一郎青年が眠るのを見て、自分にあてがわれた客用の寝室に引き取ったが、そのままベッドにもはいらず、十一時頃には、部屋を出て、人々の寝静まった廊下を、足音を忍ばせながら歩きまわるのであった。

階下を一巡して、洗面所にはいるために、湯殿の前を通りかかると、そのガラス窓の中に電燈がついてボチャボチャと湯を使う音が聞こえていた。家内の誰かが湯にはいっているのであろう。だが、少し遅すぎるようだなと思いながら、さして気にも止めず、洗面所にはいり、しばらくしてそこを出ると、もう湯殿のガラス窓はまっ暗になっていて、今そこのドアを出たらしい人影が、廊下を曲がって行くうしろ姿が、チラッと眼にはいった。

明智はそのうしろ姿を見て、おやっと思った。気のせいか、それは伊志田家の人ではないように感じられた。なんだかまっ黒なものを着て、その裾すそが外套がいとうのようにフワフワしていた。男とも女とも想像がつかなかった。

明智は足音を盗んで、そのあとを追った。廊下の角を曲がると、遠くの電燈の薄暗い光の中を、影のようなものが、音もなく走って行くのが見えた。おお、あいつだ。黒覆面に黒いインバネスを着たあの怪物だ。

しかし、明智はあわてて声を立てるようなことはしなかった。相手が気づいていないのを幸い、どこへ行くのか突きとめてやろうと考え、あくまでも忍びやかに追跡した。

五、六間行くと、また曲がり角があった。黒い怪物はさすがに用心深く、その角を曲がる時、ヒョイとうしろを振り返った。そして、たちまち追跡者の姿を認めてしまった。いくら機敏な探偵でも、どこに隠れる場所もない狭い廊下では、とっさの場合どうすることもできなかった。

悟られてしまったからには、もうためらっていることはない。明智は俄にわかに恐ろしい速度で駈かけ出しながら、「待てっ」とどなりつけた。

その角を曲がると、廊下は行き止まりになっていた。右側は壁、左側にはただ一つ、住む人もない空き部屋がある。追いつめられた怪物は、その空き部屋の中へ逃げこんでしまった。

明智は一と飛びにドアの前に近づきながら、ふと数日前、この建物を家捜ししたときの記憶を呼び起こした。この空き部屋の窓には確か鉄格子がはめてあった。もしその記憶が誤りでないとすれば、怪物は袋の鼠ねずみなのだ。

「しめたぞ」

思わずつぶやいて、ドアに手をかけると、中から押えている様子もなく、わけもなくひらいた。だが、部屋の中はまっ暗だ。電燈は引いてあるに違いないが、空き部屋のことだから、電球がついているかどうかわからない。入口に近い壁をさぐってみると、幸いにも、スイッチが手に触れたので、ともかくもそれを押してみた。すると、あっ、うまいぐあいに、パッと電燈がついたのである。

急いで部屋の中を見まわすと、怪物はどこへ隠れたのか姿もない。片隅にこわれかかった椅子が三脚ほうり出してあるほかに、なんの調度もないガランとした部屋だ。怪物は又しても妖術ようじゅつを使って、消え失せてしまったのであろうか。

いや、そうではない。窓の前に厚いカーテンが懸けたままになっていて、それが風もないのにかすかに揺れているではないか。隠れているのだ。あいつは窓の格子にさえぎられて、そとへ逃げ出すこともできず、カーテンの蔭かげにじっと身を潜めているのだ。明智はツカツカとその前に近づいて行った。

だが、明智は少し大胆すぎはしなかったであろうか。怪物はなぜ逃げ道もないこの部屋に隠れたのだ。これまでの手際でもわかるように、犯人はそれほど無考えなやつではない。もしかしたら、彼は逃げると見せかけて、明智をここへおびきよせたのではないだろうか。さすがの名探偵もそこまでは考え及ばなかった。怪物を追いつめた興奮に夢中になっていた。

「おい、もうだめだよ。君は袋の鼠ねずみだ。さあ、そんな所に隠れていないで、ここへ出てきたまえ」

明智はいつもの癖で、まるで友だちにでも対するようにおだやかに声をかけた。

相手は答えなかった。答える代りにカーテンの隙間すきまから、あの無気味な覆面の顔をヌーッと出して、クックッと笑った。男とも女とも、老人とも、若者とも、判断のつかぬ異様な声でクックッと笑った。

おお、なんという大胆不敵なやつだ。顔を出したばかりでなく、彼は黒マントの全身を現わして、逆に明智の方へジリジリと詰めよってきた。二人のあいだは三尺とは隔たぬ近さになった。相手の肩が呼吸のたびに静かに動いているのがわかる。

怪物はさらに一歩前進した。そして、コウモリのようなインバネスがフワリと揺れたかと思うと、おお、あの匂においが、ヘリオトロープの匂いが、ほのかに明智の鼻孔をくすぐった。

「おお、君は……」

思わず叫んで、その肩を掴つかもうとした時、インバネスの下から、チカッと光るものが覗のぞいた。そして、何か烈しい物音がして、部屋の空気が恐ろしく動揺した。

アッという叫び声と共に、倒れたのは明智の方であった。怪物は今度はピストルを用意していたのだ。そのピストルの弾丸が名探偵を倒したのだ。

明智が倒れたのを見ると、怪物はコウモリのように、マントをひるがえして、サッと部屋を飛び出して、どことも知れず逃げ去ってしまった。

やがて、ピストルの音に驚いた書生たちが駈かけつけてきた。そして、空き部屋に重傷にうめく有本医師を発見した。右手で押えた左の肩口から血があふれ、手の甲を染めて、ポタポタと床にしたたっていた。

「先生、しっかりしてください。あいつですか。あいつがまた現われたのですか」

刑事上がりの書生が、有本医師を抱き起こしながら叫んだ。

有本医師は痛手に口をきく力もないように見えた。だが、失神せんとする気力を奮い起こして、僅わずかに唇を動かした。

「湯殿を、早く、湯殿を調べてくれ」

なんの意味かわからなかったけれど、ほかの二人の書生はいきなり湯殿の方へ駈け出した。途中の廊下で、騒ぎを聞きつけて病床から起き出してきた一郎青年に出会った。

「どうしたんだ。何事が起こったんだ」

「有本先生が大変です。ピストルで打たれたので」

「えっ、有本先生が?」

一郎はさっと顔色を変えて、教えられた空き部屋の方へ飛んで行った。

二人の書生は湯殿の前に駈けつけたが、恐ろしくて、急にドアをひらく気にはなれなかった。その前に見張り番のように立ちはだかったまま、意味もない言葉争いをしながら、誰か応援者が来てくれるのを心待ちにしていた。

そうしているところへ、一郎青年が息を切らして走ってきた。やはり負傷者の指図で、恐ろしい予感におびえながら、湯殿へ駈けつけたのだ。

「君たち、何をしているんだ。早く中へはいって調べてみるんだ」

応援者に力を得て、書生の一人が思い切ってドアをあけた。三人は脱衣場になだれこんだ。一郎がスイッチを押すと、パッと電燈がついた。

だが、まだ浴場とのあいだに磨すりガラスの戸がある。ガラガラと音を立ててそれがひらかれた。そして、タイル張りの浴槽を一と眼見たかと思うと、三人の口からギョッとするような叫び声が漏れ、化石したかのように、その場に立ちすくんでしまった。

空を歩く妖怪ようかい

タイル張りの浴槽の中にはまっ赤な湯があふれていた。そして、その血の池の中に、一人の女性が屍体したいとなって浮き上がっていた。

「君たち、少し遠慮してくれたまえ。そして、お父さまや綾子姉さんにこのことを知らせ、女中たちをよこしてくれたまえ」

一郎青年は書生たちを、両手で湯殿のそとへ押し出すようにしながら叫んだ。

被害者は一郎たちの義母の君代であった。まだ三十歳を少し越したばかりの美しい君代であった。悪魔の掟おきてにしたがって、彼女もやはり眼をやられていた。そして、心臓の一と抉えぐりが、彼女の生命を完全に奪い去っていた。

やがて、父の伊志田氏と綾子と女中たちがかけつけ、美しい義母の屍体には何枚かの湯上がりタオルがまきつけられて、彼女の寝室へ運ばれた。

重傷の明智探偵は、すぐさま外科病院へ運ばなければならなかった。明智自身の希望によって、彼の友人の医学博士が経営している外科病院に電話がかけられ、時を移さずそこから寝台自動車がきて、名探偵を運んで行った。

一方警視庁にこの事が急報されたのはいうまでもない。間もなく北森捜査課長が、部下を引きつれて駈けつけ、綿密な調査をとげたが、結局犯人については、なんの手掛りを掴つかむこともできなかった。邸内の人々は一人一人取調べ、あらゆる出入口を検査したが、黒い怪物はどこから侵入し、どこから逃げ去ったのか、まったく不明であった。庭にも足跡らしいものさえ残っていなかった。

悪魔は一郎青年を傷つけ、名探偵を倒し、ついに伊志田夫人の生命を奪ったのである。主人の伊志田氏はもとより、家族のものの悲歎と恐怖とは極点に達した。

何よりも恐ろしいのは相手の正体がまったくわからぬことであった。今の世に妖怪ようかいを信じることはできないが、やはり妖怪の仕業とでも考えるほかには解釈のくだしようがなかった。頼みに思う名探偵さえ病床の人となってしまった。警察もこれという意見を立て得ない様子である。今は神仏に頼りでもするほかには、この恐怖をまぎらす手段もないような有様であった。

そういう頼るところもない不安と焦慮のうちに、三日間が過ぎ去って行った。それでも、君代の葬儀がすむまでは人の出入りも多く、邸内がざわめいていて、何かと気もまぎれていたが、それもすんでしまうと、いよいよ堪えがたいさびしさがおそってきた。古い西洋館の隅々に悪鬼の怨念おんねんが潜んでいるかと疑われ、殊にあの三階の円塔は、魑魅魍魎ちみもうりょうの棲すみかのようにさえ思われて、誰もその付近へ近よるものもない有様であった。

浴場殺人事件の翌々日に葬儀がおこなわれ、その翌日、すなわち事件から三日後の夜八時頃のことであった。一郎青年はもうすっかり床ばらいをして、二階の書斎で父の伊志田氏と、今後の邸内の警戒について、いろいろと話し合っていた。

書生は元の通り五人にふえていたし、その上、北森課長の計らいで、警視庁の腕ききの刑事が一人、邸内に泊まり込んで警戒に当たっていてくれた。それほどにしても、一郎はまだ安心はできないというのである。

「しかし、もうこれ以上、どうも仕方がないじゃないか。お前に何か名案でもあるのかね」

伊志田氏は一郎ほどは神経質でなかった。

「引越しをするんです。僕はこの陰気な広い建物がいけないと思うんです。あいつはこの古い西洋館にずっとつきまとっている何かの怨霊かもしれません。僕はこうしていても、あいつが、屋敷のどこかの隅に身を潜めて、じっと機会を狙ねらっているような気持がして仕方がないのです。お父さま、僕たちは引越しをするわけにはいかないのでしょうか」

一郎は熱心に転宅を勧めるのであった。

「ウム、それはわしも考えないではない。しかし、あんなやつ一人のために、永年住み慣れたこの家を引越すというのも、なんだかあいつに負けて逃げ出すようで、気が進まないのだよ。

お前はじき怨霊などというが、そんなものがあるはずはない。やはりあいつも人間なのだ。ただ少しわる賢い人間というだけのことだ。人間を人間の力で防げぬはずはない。

わしの気持ではね、一郎、あいつがもう一度現われるのを待っているのだよ。そして、今度こそ引っ捉とらえて眼に物見せてくれようと、それを楽しみに思っているくらいだ。わしは君代の敵かたきが討ちたいのだよ」

伊志田氏は何か心中深く決するところあるもののように、強い調子でいうのであった。

「しかし僕は……」

一郎は何か言いかけて、突然ギョッとだまり込んでしまった。そして、父と子とは、刺すような眼でお互いの顔を見つめあった。

それは銃声であった。邸内のどこかから、ピストルらしい銃声が聞こえてきたのであった。

「下のようですね」

「ウン、見てきてごらん」

短い言葉をかわして、一郎は飛ぶように部屋を出て行った。

階段を駈かけ降りて、廊下へ出ると、向こうから、一人の書生が、顔色を変えて走ってきた。

「鞠子さんが……」

「エッ、鞠子が? 撃たれたのか」

「部屋に倒れていらっしゃるのです」

鞠子の勉強部屋は姉の綾子の部屋の隣にあった。一郎は先ずその綾子の部屋のドアをひらいてみたが、彼女の姿は見えなかった。

鞠子の部屋へ飛びこむと、部屋のまん中に、女学生服の少女が、俯伏うつぶせに倒れたまま、じっと身動きもしないでいた。

「鞠ちゃん! どうしたの?」

大声で呼んで、肩に手をかけ、引き起こそうとしたが、その手がたちまち血に染まった。よく見ると、鞠子は胸の心臓のあたりを撃たれて、まったくこときれていることがわかった。

「おい、斎藤君」

一郎は廊下に立っている書生を呼んで訊たずねた。

「君はあいつを見たのか」

「いいえ、誰も見ません。廊下を見まわっていますと、突然この部屋の中でピストルの音が聞こえたのです。すぐドアをあけてはいってみましたが、鞠子さんが倒れていらっしゃるばかりで、ほかには誰もいませんでした」

書生が答えた。

「フーン、じゃあ窓から逃げたのかな」

すぐ庭に面した窓へ行って、調べてみたが、ガラス戸はちゃんと閉まっていた。その上内部から掛け金さえかけてあった。窓を除くと、その部屋には廊下にひらいているドアのほかには、まったく出入口がないのである。

「変だなあ。窓は中から閉まってるぜ。君は、その音を聞いた時、このドアの見える場所にいたのかい」

「ええ、つい一間けんほど向こうを歩いていたのです。逃げ出すやつがあれば、私の眼にはいらぬはずはなかったのです」

「ドアは閉まっていたのかい」

「そうです。ちゃんと閉まったままでした。私がここへはいるまで誰もひらいたものはないのです」

黒覆面の怪物はカーテンのうしろに姿を隠す癖があった。だが、この鞠子の部屋には、そんな大きなカーテンはなかった。机の下や箪笥たんすのうしろなども調べてみたが、どこにも怪しいところはなかった。

一郎はさらに、天井を見廻みまわしたり、ジュウタンをめくって床板を調べたりしたが、秘密の出入口があるようにも見えなかった。

伊志田氏もおくればせにはいってきて、鞠子の死骸しがいを抱き上げていた。さすがの伊志田氏も、矢つぎ早におそいかかる不幸に、すっかりうちのめされているように見えた。

「やっぱり、あいつは幽霊です。どこにも出入りした跡がないのです。窓のそとからピストルを撃ったとすれば、ガラスが割れていなければなりませんし、ほかに弾丸のはいってくるような隙間すきまはありません。これでも、あいつは骨と肉を持った人間なのでしょうか」

一郎は現実家の父を反駁はんばくするように言って、伊志田氏の青ざめた顔を見つめるのであった。

「一郎さん、ちょっと、ちょっとあれを……」

突然、書生の斎藤がささやくように言って、一郎の腕を取って、庭に面した窓のそばへつれて行った。

窓のそとにはまっ暗に庭樹が茂っていた。常夜燈の淡い光が、立木の茂みをボンヤリと照らし出していた。

書生の眼は、それらの木々の枝を越して、屋敷を囲む煉瓦れんが塀の上に注がれているように見えた。

その部分は樹木が少しまばらになって、古い煉瓦塀の一部が、黒い堤つつみかなんかのように見えすいていた。

一郎が書生の眼を追って、そこを注視すると、煉瓦塀の頂上に、何か黒い影がうごめいていた。闇夜やみよだったので、空も暗く、そのものは闇の中から闇が抜け出したような感じで動いていた。

眼が慣れるにしたがって、その黒いものが人間の形をしていることがわかった。常夜燈の光にも遠いので、非常にボンヤリした姿ではあったが、決して人間以外の生きものではなかった。

そのものは、まるで綱渡りでもするように、からだで調子を取りながら、高い塀の頂上を、直立して右から左へと、ゆっくりゆっくり歩いていた。

白いはずの顔もまっ黒であった。覆面をしているのだ。着物の裾すそが広くダブダブして、足を隠しているように見えた。黒いマントを着ているのに違いない。

ああ、あいつだ。覆面の怪物だ。悪魔は第二の犠牲いけにえを屠って、闇の空をいずれへか立ち去ろうとしているのだ。

「お父さん、あいつです。おい、君たち早く!」

そこに集まっていた書生の二、三は、ためらわず窓をひらいて、庭へ飛び出して行った。警視庁からきている刑事も時を移さず庭へ出て行った。

樹木の中に懐中電燈の光が交錯し、黒い人影が右往左往するのが眺められた。いつの間にか煉瓦塀を乗り越して、そとへ出ているものもあるらしく、内とそとから呼びかわす声が無気味に聞こえた。

だが、怪物はどこをどう逃げたのか、いくら探してもその姿を捉とらえることができなかった。

刑事や書生たちがむだな捜索を打ち切って、がっかりして元の部屋に引き返し、不思議だ不思議だと言いかわしているところへ、外出姿の洋装の綾子が、どこからか帰ってきた。そして、妹の変死を知ると、いきなりその屍体にすがりついて、鞠子の名を呼びながら、むせび泣くのであった。

「姉さん、どこへ行っていたの? 夜外出なんかして物騒じゃないか」

一郎が詰問するように言うと、綾子は涙に濡れた顔を上げてじっと弟の顔を見つめたが、何も言わず、ただ一種異様の謎なぞのような微笑を浮かべるばかりであった。

壁の穴

その翌日、一郎青年は新しい出来事を報告して、今後の処置を相談するために、同じ区内の篠田外科病院に明智小五郎を訪ねていた。

明智の傷は思ったより重傷であったけれど、ベッドに寝ながら人に会うくらいの事は許されていた。一郎は看護婦を遠ざけて探偵の枕元まくらもとに腰かけ、きのうの出来事を詳しく報告した。

「ホウ、あいつが塀の上を歩いていたんだって?」

明智はなぜかひどく興味を覚えたらしく、無事な方の手で例のモジャモジャの頭をかき廻まわしながら言った。

「たぶん塀を越して逃げるところだったのでしょうが、それにしても、少なくとも一間けんか一間半は、塀の頂上を綱渡りのように歩いていたのです。なぜあんなまねをしたのか不思議で仕方がありません」

「君たちに姿を見せるためなんだよ、ほかの者がやったんじゃない、このおれがやったんだということをね。

ピストルはどこから撃ち込まれたか、まったくわからない。犯人の出入りした形跡がない。それにもかかわらず、おれはちゃんと目的を果たしたんだ。おれの腕前はどんなものだということを、君たちに見せびらかしたんだね。その後、別に発見もなかったの?」

「それですよ。先生、僕は実に驚くべきものを発見したんです。あいつの犯罪手段がわかったのです」

「えっ、君が発見したって?」

「そうです。警視庁の刑事さんではなくて、この僕が発見したんです」

一郎は得意らしく、頬ほおを赤らめて言った。

「僕は鞠子の部屋を、けさ早くから調べてみたのです。

すると、鞠子の部屋と綾子姉さんの部屋との境の壁のまん中に、小さな穴があいていることを発見しました。御承知の通り二人の部屋は隣合わせなのです。

なんのためにあけた穴かわかりませんが、以前あの家に住んでいた西洋人がそういう穴をこしらえておいたのでしょう。穴の上には、両側とも壁の装飾のように木彫りの動物の顔で蓋ふたをして、ちょっとわからないように隠してあるのです。妙な家で、どの部屋にもいろいろな彫刻がついているので。その穴隠しの彫刻も、少しも目立たないようになっているのです」

「フーン、面白いね。秘密の覗のぞき穴というわけだね。君の家はそういう仕掛けのありそうな建物だよ。綾子さんや鞠子さんはその穴のあることを知っていたのかね」

「知っていたらしいのです。姉に聞いてみると、二人はそこの蓋をあけて、電話でもかけるように、両側から話し合って遊んだことがあるというのです」

「なるほど。で、君はその穴について、どういう考え方をしたんだね」

明智は非常に熱心な面持ちで、じっと一郎の顔を見つめながら訊たずねた。

「最初は、あいつが綾子姉さんの部屋に隠れていて、その穴から鞠子を撃ったのではないかと考えました。その彫刻のある蓋というのは、上部だけ壁にとりつけてあって、一度ひらいても、手を放せば、バタンと閉まってしまうような仕掛けになっているのです。

ですから、あいつは、綾子姉さんの声をまねて、鞠子にあの穴の蓋をひらかせたのかもしれません。そして、鞠子がなにげなく例の電話遊びをするつもりで、蓋をひらいたところを、狙い撃ちにしたとも考えられます。穴の蓋は自然に閉まってしまうので、あとにはなんの痕跡こんせきも残らないのですからね」

「フン、そうも考えられるね。で、綾子さんの部屋の窓は中からしまりはしてなかったの?」

「ああ、先生、お気づきになりましたね。僕もそれを調べて、行き詰まってしまったのです。窓にはちゃんと、中から掛け金がかけてあったのです。つまり、犯人は姉の部屋の窓からも逃げ出すことはできなかったのです。

姉の部屋も、やっぱり、窓のほかには廊下のドアしか出入口はないのですが、そのドアは鞠子の部屋と同じがわの廊下にひらいているので、そこからあいつが逃げ出したとすれば、書生の斎藤が気づかぬはずがないのです」

「やっぱり密室の犯罪だね。で君はそれをどう解釈したの?」

「僕は恐ろしいことを想像したのです。口に出していうのも恐ろしいことなんです。それで、きょうここへきたのも、その僕の想像を先生に聞いていただいて、正しい判断をくだしてほしいと思ったからなのです」

「言ってごらん。君はその壁の穴の中に、何かの痕跡を発見したんじゃないのかい」

「そうです。僕はそれを見つけたのです。穴の内側に太い釘くぎを幾つも打ちつけた痕あとがあるんです。その痕の様子では何か小さなものを、穴の中へしっかり取りつけるために、釘を打ったとしか思えないのです。釘を打って針金を巻きつけて、何かを取りつけたのです」

「小型のピストルを?」

「ええ、僕もそう思うのです。そして、鞠子の部屋のがわの蓋の裏に、針金を引っぱるか何かして、鞠子がそれをひらく途端に、ピストルが発射するような仕掛けをしておいたのじゃないかと思います。穴の位置はちょうど鞠子の胸くらいなのですから、この想像は突飛なようでも、決して不可能ではないのです。

ピストルが発射して、鞠子が倒れると、蓋は元の通りふさいでしまうのですからね」

「鞠子さんの倒れていた位置は」

「ちょうどその隠し穴の前なのです」

「フーン、君の想像が当たっているかもしれないね。そういう手段で人を殺した例は、外国にもあるんだからね。で、君は誰がそれを仕掛けたかという想像を組み立てて、その想像の恐ろしさに悩まされているというのだろうね」

「そうです。僕はそれを先生にお話しするさえ怖いのです。言ってはいけないことじゃないかと思うのです。

しかし、ともかくお話ししてみます。できることなら、先生に僕の間違いを指摘していただきたいのです。

それを発見して、先ず僕が考えたのは、誰がその装置をしたかということです。そういう仕掛けを人知れず取りつけることのできる立場にいたものは、誰かということを考えたのです。

それから、鞠子に適当な時にあの蓋をひらかせるためには、前もってそのことを鞠子に言い含めておかなくてはなりませんが、そういうことのできる立場にいるもの、又その命令を鞠子が素直に承知するような立場にいるものは、いったい誰かということです」

さまざまの事情が彼の想像を裏書きしていたので、明智も一郎の説明を聞いて、その推論に同意を表しないわけにはいかなかった。

だが、この考えが正しいとすると、実に意外な人物を犯人として疑わねばならないのだ。その壁の穴に人知れずそういう仕掛けをすることができるものは、前後の事情から判断して、鞠子の隣室を居間としている綾子――被害者の実の姉の綾子――のほかになかったからである。

一郎は論理の筋道をたどって行って、結局わが姉の綾子を疑わねばならぬ窮地に立った。彼はさすがにそれと名ざして言うことはできなかったけれど、その恐ろしい結論をもたらして、敬慕する明智探偵の判断を仰ごうとしたのである。

一郎の美しい顔は今にも泣き出しそうにゆがんでいた。日頃から青白い顔がひとしお青ざめて、病人のように見えた。

「で、君はその人を真犯人と疑っているのだね」

ベッドの明智が思いやり深く、静かな声で訊たずねた。

「僕は信じられないのです。しかし、あらゆる可能性を排除して行って、あとに残ったたった一つの結論がこれなのです。僕の推理が間違っているのでしょうか。できるならば、先生にその間違いを指摘していただきたいのです」

一郎は恐ろしいほど真剣な表情であった。

「僕は君が考えているほど、決定的だとは思っていない。しかし……残念なことに、あの人にはほかにもいろいろ困った情況が揃っているのだし……」

明智はそれを言おうか言うまいかとためらっているように見えた。

「えっ、ほかにもいろいろって、それはどんなことですか」

「君にはまだ言わなかったけれど、お父さんはもうご存知のことなんだ。隠しておいても仕方がない。それよりもすっかり話し合って君の考えも聞く方がいいかも知れない。いつかの晩、君があの塔の窓に妙な光りものを見つけて、僕が塔へ調べに行ったことがあるね」

明智はその夜の異様な光景をまざまざと思い浮かべているもののように、宙を見ながら言った。

「ええ、覚えています。あのとき先生のお帰りが大へん手間どったので、何があったのかと、僕はうるさくおたずねしたのだけれど、先生はなぜかあいまいにしかお答えにならなかったのです」

「君に聞かせて興奮させては、からだにさわると思ったからだよ。実はあの時、塔の三階の窓から、屋敷のそとにいる誰かに懐中電燈で合図をしていたのは、綾子さんだった。僕は顔もみたし、その人が綾子さんの居間へはいったのも見届けた。綾子さんの愛用しているヘリオトロープの匂においが、なぜかふだんよりも強く匂っていた」

明智はそれからあとの、読者がすでにご存知の出来事を詳しく物語った。

「お父さんは綾子さんを呼びつけて、きびしく問いただされたのだが、綾子さんはまったく塔にのぼった覚えはないと言って、しまいには、ひどく泣き出してしまった。

綾子さんがあまり興奮するので、それ以上問いつめるわけにもいかず、そのままになってしまったが、僕の見たことは間違いないのだから、たとえ殺人事件に関係はないにしても、綾子さんが塔にのぼって、妙な合図をしていたという事実は動かせない」

「そうですか。姉さんがそんなことをしたんですか。でもそれは怪しい行動をしたというだけで、直接の証拠ではありませんね」

「ウン、その晩の出来事だけを言えばね」

明智は気の毒そうに一郎の美しい顔を見た。

「えっ、じゃあ、まだほかにも何かあるんですか」

「湯殿の事件の時にね、僕はあの覆面のやつを空き部屋の中へ追いつめて、面と向き合ったのだが、その時、またヘリオトロープの匂いが烈しく僕の鼻を打ったのだよ」

明智はそこで言葉を切って、じっと相手の顔を見た。一郎はギョッとしたように眼の色を変えて明智を見返した。しばらく異様な沈黙がつづいた。

ああ、それではあの覆面の怪物は最初から綾子だったのであろうか。男か女か老人か若者か、まったく見当のつかぬ声、身のたけを隠したダブダブのインバネス、あのインバネスの中には、思いもよらぬかよわい女性の肉体が包まれていたのであろうか。

この考えは、その人の弟である一郎はもとより、事に慣れた明智小五郎をさえ、慄然りつぜんとしてわが理性を疑わせるようなものであった。ああ、いかにしてかくのごときことが可能なのであろう。あの牡丹ぼたんのように美しい二十歳はたちを越したばかりの娘が、人を殺し得るのであろうか。しかもその被害者は、みな彼女の家族なのだ。弟を傷つけ、母を殺し、妹を殺す。そこにいかなる動機を想像し得るのであろうか。

「僕は信じられません、百の証拠があっても、あの人にそんな恐ろしいまねができるとは考えられません」

一郎は唇をワナワナと震わせながら、自分自身の心を説き伏せようとするかのように、強く言いはなった。

「一つ最初から考えてみよう。君はあいつの襲撃を受けてとっ組み合ったことがあるんだね。その時の手ざわりが思い出せないかね。いくら興奮していても、男の骨組と女のからだとの区別ぐらいはつくと思うが」

一郎はそれを聞いて、なぜかハッとしたように見えた。そして、少しのあいだ返事をためらっていたが、やがて力のない声で、

「妙にお思いでしょうが、まったく記憶がないのです。むろんその時は、相手が女だなんて思いもよらなかったのですが……」

とあいまいに答えた。やっぱり相手の肉体に女を感じたのかもしれない。それをそうとは言い得ない様子である。

「すると、最初の事件には、綾子さんの嫌疑をはらす積極的な証拠はないわけだね。

あの時、僕はカーテンの蔭かげの曲者くせものを発見して追いかけたが、ご隠居の部屋の前で、かき消すように姿を見失ってしまった。

僕はすぐ御老人の部屋へはいって、誰か逃げこんでこなかったかとお訊たずねしたんだが、御老人は誰もこないという御返事だった。

僕はその時、御老人が犯人を知っていて、部屋へはいってきたのを、窓から庭へでも逃がしてやって、素知らぬ顔をしていらっしゃるのじゃないかと、妙な邪推をした。君だからこんなことまで話すのだが、僕は大へん礼を失することだけれど、御老人を疑いさえした。

だが、それはただ想像にすぎない。確証があるわけではない。しかしね、もし犯人がいま僕らが問題にしている人だったとしたら、御老人は孫をかばってやろうという気持になられなかったとは言えないね。あの時の情況は綾子さんにとって決して有利ではないわけだよ。

綾子さんはおばあさんに可愛がられているのだろうね」

「ええ、僕ら兄妹のうちでは一ばん気に入りです」

そして、二人は少しのあいだ、だまったまま顔を見合わせていたが、やがて明智は又はじめる。

「第二の事件の湯殿の場合も、僕が犯人を追って、ヘリオトロープの匂においを嗅かいだのだから、これも不利な情況だ。

第三の鞠子ちゃんの場合は、君が壁の穴のからくりを発見した。そして、そういう仕掛けのできるのは、さし当たって、あの人のほかにはない。

鞠子ちゃんの事件があった時、覆面のやつが庭の煉瓦塀の上を歩いて、君たちに姿を見せた。そして、それからしばらくして綾子さんが外出から帰ってきた。ここでもアリバイは成り立たないわけだね。

そのほかに、塔の上の怪しい行動もあるのだから、もしこれが君の姉さんでなかったら、さっそく被疑者としての処置を講じなければならないのだが……」

考えるほど、綾子の嫌疑は濃厚になるばかりであった。

だが、綾子への疑いが深まれば深まるほど、この推定は化物じみたものになって行った。二十歳はたちの娘と、そんな大犯罪とを結びつけることは、どう考えてみても気違いじみていた。彼女にそれほどの大それた腕前があろうとも思えなかったし、また想像し得べき動機がまったくないと言ってもよかった。

「僕は兄妹の感情としては、微塵みじんも疑う気持にはなれません。しかし、理論はやっぱりあの人を指さしているようです。その矛盾をどう解いたらいいのでしょう。僕は外見には少しもわからない精神病というものを、ふと考えてみたのですが……」

一郎は沈んだ声で、問題にさらに新しい方向を与えた。思いあまったあげく、精神病にまで考え及んだのであろう。

「二重人格だね」

「ええ、そうとでも考えなければ、この謎なぞは解けないような気がするのです」

ああ、一郎は彼の姉にジーキル、ハイドの二重人格を想像せんとしているのだ。伊志田邸に立ちこめる悪鬼の呪のろいは、うら若き女性の心に巣喰すくうハイドであったのだろうか。昼間は世に聞こえた大学者、夜は殺人の野獣と変る、あのジーキル、ハイドの魂が、都会の盲点に隠れる中世風の建物の古塔の中へ、今や再生したのであろうか。

名探偵の盲点

「ああ、君はそこまで考えていたのか」

明智は驚いたように美しい青年の顔を見つめた。

「むろん、そういう場合も考えられないではない。しかし僕はそういうことを考える前に、まだ一つ、この謎なぞを解くいとぐちが残っていると思うのだよ。それはね、この犯罪には共犯者がなかったかということだ。いや、共犯者というよりも、一人のうら若い女性を人形として、心にもない行動を取らせた、恐るべき蔭かげの人物が存在するのではないかということだ。

綾子さんは塔の頂上から、屋敷のそとの誰かに、懐中電燈の合図をした。あれはただ一と晩のことではなくて、その前にも、その後にも、人知れず同じ合図を繰り返していたかもしれない。その合図を受けていたのはいったい何者だろう。

僕は犯人の断定をくだす前に、先ずこの秘密を探らなければならないと思うのだよ」

「ああ、そうでした。僕は塔の出来事を知らなかったので、そこまで気がつきませんでしたが、先ずそれを確かめてみなければなりませんね」

一郎は、少しでも姉の罪の軽くなることを願うかのように、やや明かるい表情になっていうのであった。

「むろん僕は塔の出来事があってから、君のうちに泊っていた三日のあいだ、毎晩それに注意していたが、三日間は何事もなかった。

それからここへ入院して、二日ほど何を考える力もなかったが、おととい、そのことを思い出して、助手のものに、毎晩君のうちをそとから見張らせてあるのだよ。もし塔の窓に合図の光を見たら、その受信者を探し出すようにね」

「そうでしたか。こんなおからだで、そこまで気を配っていてくださるとは思いもよりませんでした」

一郎は驚きの色さえ見せて、名探偵の周到な用意を感謝するのであった。

「あいつがなぜ僕を撃ったか。むろん追いつめられた苦しまぎれでもあったのだが、一つは、僕が君のうちに泊り込んでいては、思うように行動できないので、しばらく僕を遠ざけるためではないかと思うのだよ。

あいつは決してヘマをやらないやつだ。僕を殺そうと思えば充分殺せたのだ。それをわざと急所をさけて、ここを撃ったのは、僕はあいつの殺人予定表にはいっていなかったからだと思うよ。

そうして僕を遠ざけておいて、そのあいだに、あいつはすっかり予定の行動を終るつもりかもしれない。だから、僕はこうしていても気が気ではないのだよ。

君も充分身辺に注意していてくれたまえ。あいつは決して君を殺すことを諦あきらめたわけじゃないのだからね。

お父さんやおばあさんにも気をつけて上げなけりゃいけない。夜の見張りは大丈夫だろうね」

「ええ、鞠子のことがあったので、北森さんのお計らいで又うちの警戒が厳重になったようです。

僕はあんな無気味なうちにいるよりも、いっそ転宅した方がよくはないかと、父に勧めたのですけれど、父は母の敵かたきを捉とらえるまで、意地にもこのうちに頑張っているんだといって、聞かないのです」

「ウン、転宅するのも一案だが、あいつにかかっては、たとえ住まいを変えてみたって同じことかもしれない。何よりも警戒が大事だよ。そして、さし当たっては、綾子さんの行動によく注意することだ。また塔の中へはいるようなことがあったら、決して見逃がさないようにしてくれたまえ」

明智はまだ傷口が癒いえていなかったし、食慾も進まず、体力も衰えていたので、これ以上の会話は苦痛らしく見えた。それに、ちょうどその時、遠ざけてあった看護婦がはいってきたので、一郎はそれをしおに暇をつげることにした。

「それじゃお大事に」

「ウン、君もよく気をつけてね」

一郎はベッドの明智の顔の上にかがみ込むようにして、親しげに挨拶あいさつした。その様子には事件の依頼者と探偵との関係ではなくて、何かしら父と子、或いは兄と弟のようにうちとけたものが感じられた。

一郎が立ち去ると、明智は楽な姿勢に寝返りをして、一とこと二たこと看護婦に口をきいたが、そのまま眼をふさいでしまった。眠ったのではなくて、何か深い考えに沈んでいる様子である。

若い看護婦は所在なく椅子いすにかけ、雑誌を読み、明智は仰臥ぎょうがして瞑目めいもくしたまま、春の日の三十分ほどが、深い沈黙のうちに流れていった。

「あっ、そうだ。あれがおれの盲点にかかっていたんだ」

突如として、ベッドの明智の口から、譫言うわごとのような叫び声が漏れた。

「まあ、どうなすったのです。夢をごらんになったの?」

看護婦がびっくりして椅子を立ち、ベッドのそばへ寄って来た。

「ヤ、失敬失敬、なあに、夢じゃないのだよ。考えごとをしていたのさ。そしてね、大発見をしたものだから、つい口に出してしまったのさ」

「あら、そうでしたの? でも、あまり考えごとなすっちゃ、おからだにさわりますわ。少しお寝よりになっては……」

看護婦はむろん明智の盛名を聞き知っていた。

「フフフフフ、とても寝られないよ。考えごとは僕の恋人なんだからね。今すばらしい恋人を発見したというわけなんだよ。

君はいろいろな人の家庭を見ているんだから、この世の裏に通じているはずだね。裏ってもの、面白いとは思わないかい。殊に僕の仕事ではね、その裏にまた裏があるんだよ。そのもう一つ奥の裏だってあるんだよ。ハハハハハ」

明智はモジャモジャ頭を、無事な方の手で、乱暴に引っかきまわしながら、有頂天の有様であった。青白い顔が桃色に紅潮して、眼がキラキラとかがやいていた。

明智ほどの人物をこんなに興奮させる発見とは、そもそも何事であったのか。むろん伊志田家の犯罪についてであろうが、いま一郎と論じつくしたばかりのその事件に、いったいどんな新解釈が可能であったのか。

「君、すぐ電話をかけてくれないか。いや、僕のうちじゃないよ。麻布のね、二七一〇番、有明荘というアパートだ。そこの越野という人を呼び出してね、僕からだといって、すぐここへくるように頼んでくれたまえ。わかったかい。越野というのは、僕の仕事の手伝いをしてくれる男なんだよ」

看護婦ははしゃぎきっている明智の様子に面喰めんくらいながら、電話番号を暗記して、部屋を出て行った。

「ああ、おれはなぜそこへ気がつかなかったのだろう。外形にまどわされていたんだ。非常な失策だ。殺さなくてもいい人を殺してしまった。

だが、越野にうまくやれるかしら。おれが動けるといいんだが、このからだではとても外出は許されないし」

明智はさももどかしげに、一そう乱暴に髪の毛をかきまわしながら、声に出して独り言をいうのであった。

第三の銃声

お話はその翌日の夜更け、伊志田邸の塀外に移る。それまでは、同邸には別段の異変も起こっていなかった。だが、その夜、又しても新しい怪事件が突発したのである。

伊志田屋敷の裏手には、建物を取毀とりこわしたまま永いあいだ空地になっている原っぱがあった。夜更けの十一時、闇やみの原っぱの立木の茂みの蔭かげに、人の息遣いが聞こえた。

おとなではない。鳥打帽子に紺の詰襟つめえりを着た十五、六歳の可愛らしい少年である。木蔭に身を隠して、何かを待っている様子だ。時々立ち上がって、背伸びをして、伊志田邸の例の三階の円塔のあたりを、じっと見つめている。

この少年は明智探偵の助手の小林芳雄よしおであった。子供とはいえ、これまでにも明智を助けて、いろいろの手柄を立てた名助手である。病院で明智が伊志田一郎に、塔の合図の見張りをさせてあると語ったのは、この小林少年のことであった。

小林はきのうもおとといも、同じ場所に宵から夜明けまで、辛抱強い見張りをつづけていた。だが、円塔の窓にはいっこうそれらしい光も見えないのであった。

「今夜もむだな見張りをするのかしら。ああ、早く合図の光が現われてくれればいいのに」

暖かい春の夜、野外に夜を明かすのもさして苦痛ではなかったが、ちゃんと昼寝がしてあるのに、何事も起こらない退屈のあまり、ともすれば眠気がきざすのであった。

だが、その夜は睡魔に襲われなくてすんだ。夜光時計のちょうど十一時、ついに円塔に光りものがしたのである。

「おやっ、あれだなっ」

眼をこらせば、闇夜にひときわ黒く聳そびえ立った円塔の上部、三階の窓とおぼしきあたりに、チラチラと消えては光る電光があった。その点滅の仕方が確かに信号である。

あの信号は誰に向かって送られているのか。それを探り出すのが小林少年の役目なのだ。

彼は広っぱの方に向きなおって、闇の彼方をキョロキョロと探し求めた。

すると、おお、見つけたぞ。広っぱの左手の隅の一軒の家の前に、やはり懐中電燈とおぼしき光が、チカチカと点滅しているではないか。

円塔の光と、広っぱの光とは、しばらくのあいだ、相呼応して、チカチカと瞬きを送り合っていたが、やがて、パッタリとそれが消えてしまった。

小林少年は、闇の中から、じっと双方の光り物を観察していたが、両方とも「信号終り」という調子で消えてしまったので、今こそとばかり、原っぱの隅の家の方へ歩き出した。相手に見とがめられては大変なので、闇とはいえ、身をかがめ、地物ちぶつを伝うようにして、ソロソロとその方へ近づいて行った。

ところが、そうして二十歩ほども歩いた時である。突然、行く手の闇の中に、ボーッと人の姿が浮き上がってきた。誰かがこちらへ歩いてくるのだ。ひょっとしたら、電光信号を取りかわしていたやつかもしれない。こいつこそ、綾子さんの背後に潜む邪悪の張本人かもしれない。

ハッと身を伏せて窺うかがっていると、相手は小林少年には気づかなかった様子で、急ぎ足に伊志田屋敷の方へ歩いて行く。

身を伏せているつい二、三間先を通り過ぎたので、夜目ながら、その姿をおぼろに認めることができた。それはスラッと背の高い、若い男であった。背広服を着て、ソフト帽をかぶっていた。顔はよく見分けられなかったけれど、目がねはかけていないし、口ひげもなく、なんとなくノッペリした青年のように感じられた。

見ていると、その青年は、原っぱに捨ててあった毀こわれかかった荷造り用の木箱を拾い上げて、それを伊志田家の煉瓦れんが塀の下に運んで行った。そして、その木箱を踏み台にして、高い煉瓦塀に飛びつき、モガモガと足を動かしていたかと思うと、とうとう塀の頂上に登りついてしまった。

「さては、あいつ、塀を越して邸内へ忍び込むつもりだな」

小林少年は胸をドキドキさせて、その様子を見つめていたが、やがて、青年の姿が塀の中へ消えてしまうと、さて、どうしたものかとためらった。表門に廻まわって邸内の人にこの事を知らせるのも一策だ。また、そのまま青年の跡を追って塀の中へ忍び込み、彼が何をするかを見届けるのも一策だ。

やがて、小林少年は後の方の策をえらぶことにきめた。明智探偵の日頃の教訓に、怪しい人物が現われたら、急いで騒ぎ立てないで、そいつが何をするかをよく観察するがいい、という一か条があったのを思い出したからである。

そこで、少年はやはり同じ木箱を踏み台にして、塀に飛びつき、器械体操の仕ぐさでなんなく頂上に登った。頂上に腹這はらばいになって、庭を見おろすと、十間ほど向こうの木の下を、あの青年が背を丸めて忍んで行くのが見えた。

小林は塀の内側へぶら下がって、音を立てないように注意しながら、邸内に降り立った。そして、やはり木蔭こかげを伝いながら、五、六間の隔たりをおいて、怪青年のあとを追った。

しばらく行くと、眼の前にまっ黒な大入道のような円塔が現われた。青年はその円塔に向かって歩いて行く。眼をそらして塔を見ると、その一階の窓にボンヤリと白いものがうごいていた。人の姿だ。どうやら女らしい。

「さては、あれが綾子さんだな。あすこで男のくるのを待っていたんだな」

少年はさかしくも頷うなずきながら、なるべく塔に近い木の茂みをえらんで、身を隠し、じっと監視をつづけた。

青年はもうその窓の下に立っていた。かすかにささやきかわす声が聞こえてくる。むろんその意味はわからないけれど、白い人影は窓框まどがまちによりかかり、青年は背伸びをして、何かヒソヒソと話し合っていた。

二たこと三こと話し合って、しばらく声がとぎれたが、その次に聞こえてきたのは、今までとは違って、低いながらも妙に烈しい口調であった。

「おやっ、畜生っ」

ハッキリわからないが、なんだかそんなふうに聞きとれた。

そして、その次の瞬間、小林少年はいきなり脳天をうちのめされたような衝撃を感じた。

突如として、どこからか銃声のような恐ろしい音が響いたのである。ハッとして、あたりを見まわしたが、別に怪しい人影もない。ただ、窓のそとの青年がクナクナと地上にくずおれて行くのが、眺められた。

小林少年は何がなんだかわけがわからなかった。暗さは暗し、青年が倒れたように思ったのも、気のせいかもしれない。ただうずくまっているのかもしれない。

窓の中の人はと見ると、なぜかもう姿が見えなかった。ひっそりと静まって、ささやき声も聞こえなければ、物の動くけはいもない。

小林は不審のあまり、大胆にも隠れ場所からソロソロと這はい出して、耳をすましながら、窓の下へ近づいて行った。

すぐ眼の前に妙な恰好かっこうで倒れている青年の姿が見えた。死んだようにだまり込んで、身動きもしない。

思い切ってそのそばに這い寄り、洋服の腕にさわってみたが、なんの反応も示さない。腕から胸へと手を伸ばして行くと、たちまち生温い液体を感じた。

ハッとして、手を引いて、手についた液体の匂においをかいでみると、それはまぎれもない血の匂いであった。青年は胸を撃たれて息絶えていたのである。

小林少年はもう何を考える余裕もなく、その辺をウロウロ駈かけまわりながら、いきなり大声を立てた。邸内の人々に変事を知らせるための、かん高いわめき声を立てた。

謎なぞ又謎

「誰かいませんか。早くきてください。大変です」

叫んでいると、やがて、母屋おもやの窓にパッと光がさして、どこかの戸のひらく音がしたかと思うと、二、三人の足音があわただしく近づいてきた。先頭に立つ一人が懐中電燈を振り照らしている。屈強な書生たちだ。

「どうしたんだ。おい、君はいったい誰だ。こんなところで何をしているんだ」

刑事上がりの中年の一人が、小林少年を怪しんでどなりつけた。

「それはあとで言います。それよりも、この人が撃たれたんです。傷をしらべてください」

「えっ、撃たれた? じゃあ、今のはやっぱりピストルの音だったのか。おやっ、これは誰だ。見たこともない青年だが、どうしてここへはいってきたんだろう」

懐中電燈をさしつけて、調べてみると、心臓のあたりを撃たれていて、素人しろうと目にも、もう手のほどこしようがないことがわかった。

そこへ主人の伊志田氏も、手提げ電燈を持って飛び出してきた。

「御主人、この青年をご存知ですか」

刑事上がりの男に訊たずねられて、伊志田氏は死体を入念に観察していたが、

「いや、知らん。見たこともない男だ」

と、不思議そうに答えた。

「この子供が知らせてくれたのですが、この子供もご存知ありませんか」

「フーン、これはいったい、どうしたことだ。君はどこからはいってきたんだ。この男の仲間なのかね」

伊志田氏は二人を夜盗とでも考えたらしい口振りであった。

「いいえ、僕は明智探偵事務所のものです。小林っていうんです」

小林少年は、伊志田氏の手提げ電燈の光の中に顔をさし出して、不服らしく答えた。

「え、明智さんの? ウン、少年助手がいるということは聞いていた。だが、君がどうしてここにいるんだね。そして、いったいこの男はどうしたんだ」

伊志田氏はまだ不審がはれなかった。

小林はそこで、塀そとの見張りからの一部始終を手早く説明した。

「フーン、それじゃ、この塔の上から懐中電燈で合図をしたものがあるというんだね……おい、君、一郎と綾子を呼んでくれたまえ、今応接間の方へ帰るから、そこで待っているようにいうんだよ」

書生の一人が駈かけ出して行ったが、しばらくすると息せき切って帰ってきた。

「一郎さんもお嬢さんも、どこを探してもいらっしゃいません。ベッドは空っぽなんです。女中たちも知らないっていうんです」

「何を言っているんだ。そんなばかなことがあるもんか。それじゃ、ここは誰か一人見張り番に残って、みんな部屋へ引き上げよう。そして、警察に電話をかけるんだ。それから、一郎や綾子をもっとよく探すんだ。さあ、小林君も一緒に来たまえ」

伊志田氏は何かイライラした調子で言って、先に立って母屋の方へ歩き出した。

それから時ならぬ家捜しがはじまった。応接間で伊志田氏が小林少年になお詳しいことを質問しているあいだに、四人の書生と女中たちとが手分けをして、母屋はもちろん、円塔の中から、湯殿や手洗所まで探しまわったが、不思議なことに一郎と綾子の姿はどこにも発見されなかった。

間もなく所轄警察署から係り官がやってくる。引きつづいて警視庁の北森捜査課長が部下の刑事を伴って到着する。深夜の伊志田屋敷は、部屋という部屋に煌々こうこうと電燈が点じられ、庭には懐中電燈の光が交錯して、物々しい光景を呈した。

警察医の検診によって、怪青年は心臓を直射されて即死していることが確かめられ、屍体したいは一応邸内の空き部屋に移された。

一郎と綾子の行方は依然として、まったく不明であった。ピストルは塔の中から発射されたらしいという小林少年の証言によって、塔の内部が綿密に捜索されたが、なんの手掛りも発見できなかった。

北森課長は書生や女中を一室に集めて、厳重な取調べを行なった。一郎と綾子とが外出するのを見かけたものはないか、二人の寝室に何か怪しい物音でもしなかったかということを、雇い人たちの一人一人に当たって、入念に質問したが、誰もはっきりした答えのできるものはなかった。

二人の寝室には別に取り乱した跡もないし、玄関のドアはちゃんと内側からしまりがしてあった。しいて想像すれば、二人は窓から庭に出て、煉瓦れんが塀をのり越して外出したとでも考えるほかはないのだが、一郎にしても綾子にしても、そんなばかなまねをするはずがなかった。

一方、怪青年の身元については、小林少年の証言によって、北森課長の部下の二人の刑事が、深夜ながら、伊志田邸裏の空地に面した小住宅を訪ねまわった結果、案外たやすく、彼の自宅をつき止めることができた。

彼は付近の印刷工場の会計係を勤めている荒川庄太郎という二十五歳の青年で、年取った父母と三人でみすぼらしい長屋住いをしていた。五十歳にあまる父親は同じ工場の職工であった。

父も母も伜の奇怪な行為については、まったく何も知らぬ様子であった。庄太郎は不良青年というほどではなかったが、どこか風変りなところがあって、時々勤め先を休んでフラッとどこかへ遊びに行くことがあり、また夜遅く外出することも珍しくなかったという。家にいる時は本ばかり読んでいて、悪友というようなものもなく、これまで悪い噂うわさも立てられたことはないということであった。庄太郎の部屋の本箱を覗のぞいてみると、主としてフランス物の翻訳文学書がギッシリ詰まっていた。いわゆる文学青年型の男らしいのである。

結局その夜は、怪青年の身元がわかったほかには、これという発見もなく、翌日あらためて捜査を開始することにして、北森課長をはじめ、一同はうやむやのうちに引き上げることになったが、事件はいよいよ奇怪な相貌そうぼうを呈してきた。塔上から懐中電燈の合図をしたのは、おそらく綾子であろうが、その合図が何を意味したのか。怪青年荒川はなんの目的で邸内に忍び込んだのか、彼を撃ったのは果たして綾子であろうか、だが青年が綾子の共犯者とすれば、なぜ彼女は共犯者を無きものにしなければならなかったのか。

もし綾子が荒川を撃ったとすれば、彼女が行方をくらました理由はわかるが、しかし、若い女の身でいったいどこへ身を隠したのであろう。それよりも不思議なのは、一郎青年の行方不明であった。彼は綾子の犯行を知り、姉に同情の余り、運命を共にして家出を決行したのであろうか。だが、それは日頃の一郎の性格からはなんとなく信じがたい行動ではないか。

麻酔薬

その翌日の午後になって、ゆうべ顔見知りになっている北森捜査課長の部下の三島という古参刑事が、一人の同僚をつれて伊志田家を訪ね、もう一度あらためて邸内外の捜索をしたいと申し入れた。

伊志田氏はむろん喜んで承諾した。妻を失い、鞠子を失い、今また一郎と綾子が行方不明となって、残るは老母と伊志田氏とただ二人、さすが強情な伊志田氏も、茫然ぼうぜん自失、なすところを知らぬていであった。

三島刑事は、伊志田氏の案内によって、犯罪現場の庭から、円塔内部の各階、一郎、綾子の寝室と、順序よく調べて行ったが、ゆうべ同様、何一つ手掛りらしいものを発見することはできなかった。

「念のためにほかの部屋も一と通り見て廻まわりたいのですが」

刑事の言葉に、伊志田氏はまた先に立って、まず階下の部屋部屋を案内した。階下には大小八つの部屋があったが、七つ目までは別段の発見もなく、あとには母屋から円塔への通路に接した空き部屋が残っているばかりであった。

「ここは物置きになっているのです。不用の机や椅子などがほうり込んであるのです」

「そうでしたね。ゆうべも確かここは調べたのですが、何ぶん懐中電燈の光ですから、充分というわけにはいきませんでした」

三島刑事はそんなことを言いながら、ドアをひらいてその部屋へはいって行った。

いろいろながらくた道具がゴタゴタと並べてある一方の隅に、厚いカーテンが下がっていた。刑事はまっ先にそのカーテンに進み寄って、サッとひらいたが、ひらいたかと思うと、アッと叫んで、思わずあとじさりをした。

そのカーテンの蔭の道具類のあいだに、一人のパジャマ姿の男が、俯伏うつぶせに長々と横たわっていたからだ。

伊志田氏も刑事の叫び声に驚いて、その場に近づいてきた。そして、一と目倒れている人の姿を見ると、

「アッ、一郎だ、一郎、どうしたんだ」

と大声を立てて駈かけ寄った。

「このかたが一郎さんですか」

「そうです。やられているのかもしれない。見てやってください」

刑事も手伝って、倒れている人を仰向けにして、からだじゅうを調べてみたが、別に負傷している様子もない。

「一郎、しっかりしなさい。おい、一郎、一郎」

伊志田氏が烈しく肩を揺り動かすと、一郎は何かわけのわからぬことを呟つぶやきながら、眼をひらいて不思議そうに父の顔を見た。

「あ、気がついたな。さあ、しっかりするんだ。一体これはどうしたというのだ」

なおからだをゆすって力をつけると、一郎はやっと正気を取り戻したらしく、もそもそと身動きをして、父に助けられながら、上半身を起こした。

「このかたは?」

眼で刑事たちをさし示す。

「警察のかただよ」

それを聞くと、一郎はびっくりしたように眼を見はった。

「じゃあ、何かあったのですか……綾子姉さんはどうしました」

「なぜそんなことを聞くのだ。綾子がどうかしたのか。お前はそれを知っているのか」

伊志田氏は一郎が綾子の行方を知っているのではないかと考えた。

「いいえ、なんでもないのです。でも、姉さんに変ったことは起こらなかったのですか。今どこにいるんですか」

「それはあとで話そう。それよりも、お前はどうして、そんな妙な所に倒れていたんだ。先ずそれを思い出してごらん」

「どうしてここにいるのか、僕にもよくわからないのです。なんだか永いあいだ睡ねむっていたような気がしますが、きょうは何日いつかなんですか」

「何日といって、お前ゆうべの食事はわしと一緒にたべたじゃないか」

「そうですか。じゃあ今はあの翌日なんですね。すると僕は一と晩ここに睡っていたわけです。ゆうべの十一時少し前までのことは覚えているんだから」

「ホウ、十一時といえば、ちょうどあの事件の頃ですね」

三島刑事は思わず呟つぶやいた。

「えっ、あの事件って? じゃ、やっぱり何か事件があったんですね。それを聞かせてください。誰がやられたのです」

「ともかくもあちらの部屋へ行こう、そして、ゆっくり話そう。お前歩けるかい」

伊志田氏がやさしく訊たずねると、一郎はやっとの思いでフラフラと立ち上がった。

「なんだか眼まいがするけれど、なあに大丈夫です」

伊志田氏と三島刑事が両方から腕を支えて、応接間までたどりつき、一郎をそこの長椅子ながいすに掛けさせた。伊志田氏の指図で、女中が葡萄酒ぶどうしゅと水とを運んできた。

先ず伊志田氏から、ゆうべの出来事をかいつまんで話して聞かせると、一郎は驚きの眼をみはって聞いていたが、やがて、葡萄酒に唇を湿しながら、彼の記憶を語り出した。

「僕はゆうべ十一時少し前、僕の寝室の前を誰か通り過ぎる足音を聞いたのです。みんなもう寝たはずだし、手洗所へ行くのには、僕の部屋の前を通らなくてもいいんだし、変だなと思ったのです。足音の消えていった方角には、空き部屋か、そうでなければ塔の入口しかないのですからね。

僕は、ひょっとしたら誰か塔の中へ忍んで行くのじゃないかと思いました。綾子姉さんが、塔の三階から懐中電燈の信号をするらしいことは、明智さんに聞いていたのです。そして、それとなく姉さんの挙動を注意するように言われていたんです。

むろん、姉さんが今度の事件の犯人だなんて考えられません。そんなことはあり得ないと思うのです。誰かほかのやつが姉さんに化けていたのかもしれません。ええ、きっとそうです。でなけりゃ、あんなことができるはずはありません。姉さんがあんなことするなんて、想像できないのです」

一郎は何事か思い出したらしく、急に興奮の色を見せた。

「あんなことというのは?」

伊志田氏が不安な面持ちで聞き返した。

「それはこうなんです、その足音を不審に思ったので、僕は明智さんから言われていたことを思い出し、ベッドを降りて、音を立てないように、ソッと廊下を出てみたのです。

足音をやりすごしておいてから、廊下へ出たので、もう人の姿は見えなかったけれど、誰かが塔の方へ行ったことは確かなんです。ですから、僕も壁を伝うようにして、足音を忍ばせながら、その方へ歩いて行きました。

塔の通路には、電燈がついていないので、僕の部屋から一つ角を曲がると、突然廊下が暗くなります。僕はその暗い廊下へはいって行きました。

そして今考えてみると、あの僕の倒れていた物置き部屋の前あたりにさしかかった時に、僕は背中の方で、スーッと空気の動くのを感じたのです。誰かうしろに人がいるのです。

僕は前の方ばかり注意していたので、うしろから人が近づいてくるけはいを感じて、ギョッとしました。それで、思わず立ち止まって、うしろを振り向こうとしたのですが、それよりも先方がすばやかったのです。

僕は誰かわからないやつに、うしろからグッと抱きしめられました。それと同時に、僕の鼻と口が何か濡れた布のようなもので、ピッタリ塞ふさがれてしまったのです。

なんともいえぬいやな匂においでした。僕はその烈しい匂いを腹一ぱい吸い込んでしまったのです。すると、なんだか、からだが深い海の底へでも沈んで行くような気持がしました、今考えてみれば、麻酔剤だったのです。

それから僕は怖いような美しいような、わけのわからない夢を見つづけていたのですが、正気を失った僕は、そいつのために、あの物置き部屋のカーテンの蔭かげへ連れ込まれたのに違いありません。

これが僕の知っている全部です。綾子姉さんが僕に麻酔剤を嗅かがせるなんて考えられないことです。第一、姉さんはそんな薬を持っているはずもないのですからね」

一郎は語り終って、グッタリと長椅子に身を沈めた。

「フーン、そうでしたか。すると、犯人はあなたが邪魔をしないように、麻酔させておいて、それから塔にのぼって信号をはじめたわけですね。その信号に応じて、荒川という青年が塔の下まで忍んでくる。それを犯人が何かの理由で射殺したという順序ですね。しかし、それにしても、どうもわからないところがある。あなたもおっしゃるように、お嬢さんが、あなたを麻酔させたり、荒川を撃ったりなさるというのは、まったく想像できないことですからね」

三島刑事が眉まゆに皺しわをよせて、小首をかしげながら考え深い調子で言う。

「そうです。わたしも綾子がそんなまねをするとは、どうにも考えられない。明智さんは、綾子が塔にのぼって信号しているのを見たというのだが、何かそこに間違いがあるのじゃないかと思うのです。

その時も、綾子を呼んで、明智さんの前で、充分問いただしたのですが、綾子はまったく覚えがないというのです。自分の娘を庇かばうわけじゃありませんが、どうも綾子が嘘うそを言っているようには思われぬ。それに、第一、あの子が、母や妹を殺すなんて、そんなばかばかしいことがあるわけはないのですからね」

伊志田氏は、ゆうべそのことが小林少年の口から漏れて以来、綾子がまるで犯人のようにあつかわれているのが、忿懣ふんまんに耐えないのであった。

「いずれにしても、お嬢さんの行方を探さなければなりません。犯人がお嬢さんをどこかへ連れ去ったとすれば、一刻もぐずぐずしてはいられないわけですし、もしそうでないとしても、お嬢さんさえ探し出せば、おそらくあの荒川という不思議な青年のことも、何かわかるかもしれません。この際なにはおいても、お嬢さんの行方を突きとめるのが、第一の急務です」

「しかし、綾子がどこへ連れ去られたのか、まったく手掛りもないのですからねえ」

伊志田氏が憮然ぶぜんとして言うと、三島刑事は気の毒な父親を力づけるように、それを打ち消した。

「いや、まだ失望なさることはありません。われわれは捜査らしい捜査はしていないのです。これからですよ。それには又いろいろ手段もあるのです。

例えばですね、犯人がお嬢さんを誘拐したとすれば、いくら夜ふけでも、まさか担いで行くわけにはいきませんから、必ず乗り物を利用しているに違いありません。おそらく自動車でしょう。ですから、先ず自動車のガレージなり運転手なりを調べてみるという手段があるわけです。

それから、この付近の通行人を調べる方法もあります。夜ふけのことですから、町内の夜番とか、シナソバ屋とかですね。また付近の住宅を虱しらみつぶしに調べて行けば、まだ十二時前だったのですから、この辺を歩いていた人がないとも限りません。その中にお嬢さんをつれた怪しい人物を見かけたものでもあれば、それが出発点になって、だんだん捜索の歩を進めて行くことができるのです。

われわれはこれからすぐ、その方面の調査をはじめてみようと思うのですよ」

綾子の行方

ちょうどそのとき、書生がはいってきて、三島刑事に北森捜査課長から電話がかかってきたことを告げたので、刑事は中座して電話室へ立って行ったが、間もなく、明かるい顔になって戻ってきた。

「やっぱり僕の考えた通りでした。自動車が見つかったのですよ」

「えっ、自動車が?」

伊志田氏と一郎青年とが、ほとんど同時に、叫ぶように聞き返した。

「そうです。うまいぐあいに、向こうから名乗って出たやつがあるのです。ゆうべの事件が夕刊に出たのを見て、たったいま警視庁へ訴えてきた運転手があるんだそうです。

その運転手をここへよこしてもらうことにしました。警官がつき添って、すぐそちらへ行くからということでした」

「綾子を乗せたというんですか」

「ええ、それらしい洋装の若い女をこの付近で乗せたというんだそうです。服装もよく合っていますし、時間もちょうど十一時少し過ぎだったというのです」

「犯人に連れられていたのですか」

「それが妙なんです。その女は一人きりで、誰も連れてはいなかったと言っているのです。この点が少し腑ふに落ちませんが、しかし、ほかのことはよく符号しています」

「で、どこへ行ったのです。行く先は?」

「芝の高輪たかなわの辺だというのですが、運転手も町の名を知らないのです。もう一度行ってみればわかるだろうというのだそうです。

その女は、どこへとも言わないで、ただ品川しながわの方角へ走ってくれと命じて、高輪辺で、突然車を止めさせると、ここでいいからといって降りてしまったのだそうです。

その運転手は自分の自動車に乗って警視庁へ出頭しているというので、それじゃ、一度ここへきてもらって、われわれがその車に乗って、ゆうべ通った道をもう一度走らせてみようということになったのです」

伊志田氏父子にとって、それは吉報というよりは、むしろ凶報のように感じられた。綾子がただ一人で自動車に乗ったとすれば、想像していたような誘拐ゆうかいではなく、自由意志と見るほかはなく、したがって彼女は逃亡したということになるからであった。

ああ、やっぱり綾子は恐ろしい罪を犯していたのであろうか。その罪の発覚を恐れて身を隠す決心をしたのであろうか。

伊志田氏と一郎とは、それを口に出して言うことはできなかったが。「できなかったが。」はママ不安に耐えかねて、青ざめた顔を見かわすのであった。

それから三十分ほどのち、その運転手が、自分の車に監視の警官を乗せて、伊志田邸に到着した。

三島刑事は運転手を応接間に呼び入れ、伊志田氏に綾子の写真を借りて、それを見せると、

「その娘さんはなんだか顔を隠すようにしていたので、はっきりしたことは言えないけれど、この人とよく似ていたように思う」

との答えであった。なおいろいろ質問したが、電話で聞いていた以外には、これという新しい申し立てもなかった。

そこで、二人の刑事は、伊志田氏に暇を告げ、監視の警官と共にその自動車に乗って綾子らしい女の下車した場所を確かめるために出発した。

途中別段のこともなく、車は京浜国道を、一直線に走って、高輪を過ぎ品川に近づいていた。

「確かここいらの横町へ曲がったんです。あ、そうだ、あの薬屋の看板に見覚えがあります。あの横町でした」

運転手は半ば独りごとのように、そんなことを言って、車を横町へ乗り入れたが、ゆるゆると運転して、やや一丁ほども進んだころ、

「ここです。このポストです。ポストを越してすぐ止めよと言われたんです。ちょうどここいらだったと思います」

町のまん中に車がぴったり止まった。

「で、君はその女がどちらへ行ったか、気がつかなかったのかね」

三島刑事が訊たずねると、運転手は頭をかいて、

「さあ、それがわからないのですよ。なんでもあちらへ歩いて行ったように思うのですが、僕はガレージへ帰る時間が迫って、急いでいたものですから」

「そのころ、この辺の商店はまだ店をあけていたかね」

「おおかた閉めていました。でも、いくらかまだ戸締まりをしない店もあったようです」

「ともかく、降りてみよう。君はここで待っていてくれたまえ」

三島刑事は同僚の刑事を促うながして車を降り、その辺の商店をジロジロ眺めながら歩き出した。

「君、女はここで何をしたと思うね。一つ逃亡した娘の気持になって、考えてみようじゃないか」

「友だちの家がこの辺にあるんじゃないでしょうか。それとも宿屋かな」

若い刑事が小首をひねりながら答えた。

「この辺に宿屋はないよ。友だちの家というのも、なんとなく腑ふに落ちない。僕はもっと別のことを考えているんだよ。あの娘は何よりも先ず行方をくらまそうとしたに違いないね。それにはどんな素人しろうとでも、第一に気づくことがある。

ああ、ここだ。僕はさっきからこの店を探していたんだよ。あの娘はここへはいったに違いない」

三島刑事が立ち止まったのは、一軒の古着屋の前であった。さすがに老練な刑事は逃亡者の心理を解していた。逃亡者は何よりも彼自身の服装が気になるのだ。服装さえ変えてしまったら、人眼をくらますことができると考えるのだ。

刑事はツカツカとその店にはいって、そこに坐っている主人らしい老人に、肩書のある名刺を出した。

「少し訊たずねたいことがあるんですが、あなたのところはゆうべ十二時ごろ、まだ店をあけていましたか」

「へえ、その頃まであけていたように思いますが……」

老主人は商売がら警察の取調べには慣れているので、さして物おじするふうもなく答えた。

「たぶん十一時半から十二時までのあいだだと思うが、若い女の客はなかったでしょうか。洋装をした二十歳はたちぐらいのお嬢さん風の娘なんだが」

「ああ、あれですか。お見えになりました。わたくしも、なんだか変だと思いましたが、お客様ですから、お断わりするわけにもいきませんので……」

「その娘は何を買ったのです」

「銘仙めいせんの袷あわせと帯と、それに襦袢じゅばんから足袋たびまで一と揃そろい売りました」

「ここで着更きがえをしたのではありませんか」

「いいえ、包みにしてお持ちになりました。仮装会があるんだとかおっしゃいましてね。けさになって、上総かずさ屋というこの並びの履物屋はきものやさんに聞いたのですが、その娘さんは、手前の店を出てから、その上総屋さんで、草履ぞうりを一足買って行ったらしゅうございますよ。

わたくしも、あとになって、なんだか変だと思っていたところでございます」

三島刑事の想像は見事に的中した。やっぱり逃亡者は先ず変装のことを考えたのだ。おそらく着物と草履を買い求めた直後、どこかで、公園の闇やみの中とか、もしくはソバ屋の二階というような場所で、着更えをしたのであろう。

刑事たちは、古着屋の売ったという着物と帯の柄がらを手帳に控えて一応自動車に戻ったが、それから先の足取りを確かめるのが、また一と仕事であった。

「さて、着更えをすませた娘さんがどこへ行ったと思うね。僕は今度こそ宿屋だろうと考える。田舎娘か何かに化けて、安宿に泊まったんだね」

三島刑事は同僚に話しかける形式で、実は自問自答するのであった。

「本来なれば宿屋なんかに泊まらないで、すぐ汽車に乗って高飛びしたいところだが、東京の駅はどこへ行っても、十二時すぎに発車する汽車はない。夜の明けるのを待たなければならぬ。

夜更けに泊まって怪しまれない宿屋といえば、さしずめ駅前の旅館だ。駅前なれば、翌朝になって汽車に乗るのにも便利なわけだからね。

そこで、僕は、娘さんが目ざしたのは品川駅だと推察するんだ。ここから品川駅はすぐなんだからね。わざわざここまできて、東京駅や新宿、上野などへ戻るということは、先ず考えられない。高輪の古着屋を選んだのは、ただ品川に近いからなんだ。

どうだい、この僕の考えは、あの娘さんは品川駅のそばの安宿に泊まったのじゃないのだろうか」

「そうですね。どうもその辺が図星らしいですね」

若い刑事は先輩の想像力に感服したように合槌あいづちを打った。

「じゃ品川だ。駅の近くの旅人宿を片っぱしから調べるんだ。運転手君、迷惑ついでに品川駅までもう一と走りしてくれないか」

「ようござんす。こうなったからには、どこまでもご用をつとめますよ」

運転手は気さくな男であった。

「ホテルなんかじゃない。あの地味な和服は安ホテルにもしろ、ホテルへ泊まるというがらじゃない。やっぱり日本宿だ。なるべくみすぼらしい日本宿を探すんだ」

二人の刑事は品川駅の付近で自動車を降りると、交番の警官に聞き合わせて、次々と旅人宿を調べて行った。品川駅近くには旅館が軒を並べているというわけではないが、しかし、表通り裏通りにチラホラと点在して、十数軒の旅人宿がある。

尋ね尋ねて十一軒目、とある裏通りの、尾張おわり屋という古風な日本旅館には、玄関をはいらぬ先から、なんとなくそれらしい匂においが感じられた。

土間に立って名刺を出すと、五十あまりの番頭が、うやうやしく式台にうずくまった。三島刑事は声を低くして、綾子の人相風体を告げ、ゆうべ遅くそういう娘が泊まらなかったかと訊たずねた。

「へえ、そのお方なら、お泊まりでございますが、何か……」

番頭はニヤニヤ笑って揉もみ手をした。

「えっ、泊まっている? じゃ、まだいるんだね」

三島刑事は思わず弾む声を押えるのがやっとであった。この喜びは刑事でなくては味わえない。

「へえ、二階でお寝みでございます。お加減が悪いとおっしゃって」

「君、間違いないだろうね。確かにいま言った着物を着ていたかい」

「へえ、着物も帯もおっしゃる通りでございます」

「宿帳は?」

老番頭がさし出す宿帳には、なんだか筆蹟ひっせきを隠したようなぎごちない字で、

静岡県三島町宮川町五六、井上ふみ、二十歳

としるしてあった。

「寝ているんだね」

「へえ」

「それじゃ、一つその部屋へ案内してくれないか。少し調べたいことがあるんだ」

「へえ、それではどうぞ」

老番頭はすこしもためらわず、みずから案内に立った。二人の刑事は、靴をぬいで、足音を忍ばせるようにして、黒光りのする広い階段を、番頭のうしろから上がって行った。

狂気の家

二人の刑事は案外やすやすと目的を達した幸運を喜びながら、番頭を先に立てて、二階の綾子の部屋を襲った。

三島刑事の指図で、先ず番頭が襖ふすまをあけた。

「ごめんくださいまし」

猫撫ねこなで声で、静かに部屋へはいって行ったが、二たこと三ことなにか言っていると思ううちに、おやっという、唯ただならぬ叫び声が聞こえてきた。

「旦那、もぬけの殻です。これごらんなさい。こんなもので、まるで寝ているようにごまかしてあるんです」

刑事たちが踏み込んで調べてみると、蒲団ふとんを人の寝ているような形にふくらまし、頭のところには丸めた座蒲団を入れて、それに手拭てぬぐいをかぶせてあった。綾子の持ち物は何一と品残っていない。

さっそく係りの女中を呼んで訊たずねてみると、この部屋の客はゆうべおそく、少し加減が悪いので、朝寝坊をするから、昼頃まで起こさないようにと女中に言いつけたことがわかった。

「でも、あんまりお眼ざめにならないので、さっきから二度ばかり、襖を細目にあけて覗のぞいてみたのですけれど、向こうをむいてよくおよっていらっしゃるようでしたので、そのままにしておいたのです。まさかこんな細工がしてあるとは気がつかなかったものですから」

女中はきまりわるそうに弁解するのであった。

玄関の履き物を調べさせてみると、綾子のはいてきた草履ぞうりが、いつの間にか無くなっていることがわかった。

結局、綾子は、ゆうべおそくか、けさあけがたに、宿の者の眼を盗んで、草履を持ち出し、裏口からでも立ち去ったものとしか考えられなかった。

三島刑事は、最後の土壇場で、まんまと裏をかかれた口惜しさに、やっきとなって付近を調べまわったが、綾子らしい姿を見かけた者は一人もなかった。

足跡もなければ、遺留品もなく、付近の人にも見られていないとあっては、捜査の手段も尽きたのであるが、なお念のために品川駅の改札係などに、綾子の風体を告げて、その朝の列車に乗り込まなかったかと訊ねまわってみたが、誰一人そういう娘を記憶にとどめているものはなかった。

かくして、伊志田綾子は、巧みにもこの世から姿を消してしまったのである。警視庁は、東京全市はもちろん、東海道沿線の各駅の警察署に、綾子逮捕の手配をしたことはいうまでもないが、二日たち三日たっても、どこからも吉報はもたらされなかった。信じがたいことであるが、二十歳の小娘は、どんな大犯罪者も及ばぬ恐ろしい知恵を持っているように見えた。警察を出し抜き、名探偵明智小五郎を病院のベッドに呻吟しんぎんせしめ、まんまと三重の殺人を犯して、ついに気体の如く消え失せてしまったのである。

綾子の美貌びぼうはあらゆる新聞に写真版として掲げられ、この美しい娘がと、全読者を仰天させ、戦慄せんりつさせたが、世間の騒ぎもさることながら、当の伊志田家の人々の悲歎と焦慮とは、その極点に達し、あの陰々たる赤煉瓦あかれんがの建物の内部は、今やこの世ながらの地獄であった。狂気の世界であった。

さすがに強情我慢な主人の伊志田氏も、妻を失い、子を失い、しかもそれらの殺人の下手人が綾子であったと聞かされ、確証を見せつけられ、その綾子は今どことも知れぬ他国の空に、ジリジリと狭まってくる警察の網の中に、ただ一人身を悶もだえているのかと思うと、何をどう考えていいのだか、物思う力も尽きはて、ただ茫然ぼうぜんと、狂気の一歩手前に踏みとどまっているばかりであった。

七十八歳の祖母は今やまったく狂人であった。彼女は何を思ったのか、古い白無垢しろむくの着物を着て、昼も夜も仏間に坐すわりつづけていた。

仏壇の扉を左右にあけ放ち、なん本となくロウソクを立てつらねて、一心不乱に経文を読誦とくしょうしながら、絶え間なく伏せ鉦がねを叩たたきつづけ、誰が言葉をかけても、憑つきものがしたように振り向きもしなかった。

一郎青年は、一郎青年で、負傷がやっとなおったかと思うと、麻酔薬に倒れて、一夜を物置きにすごした疲労から、ほとんど放心状態で、昼もベッドに横たわっていた。

だが、伊志田一家の不幸はそれで終ったわけではない。綾子が尾張屋を抜け出したことが確かめられてから三日目の夜、又しても恐ろしい呪のろいの影が、取り残された三人の上におそいかかってきた。

その夜八時頃、伊志田氏の書斎の卓上電話のベルがけたたましく鳴り響いた。居合わせた伊志田氏が受話器を取ると、突然、妙にしゃがれた笑い声が聞こえてきた。

「伊志田さん、お前さんが今どんな気持でいるか、おれにはよくわかるよ。ハハハハハ、おれは愉快でたまらないんだ。もう少しでおれの目的がすっかり果たせるのだからね。というのはね、つまりおれの仕事は――お前さんの不幸はまだ終っていないという意味だよ。ハハハハハ、想像がつくかね。おれのほんとうの相手はお前さんなんだよ。これまでの仕事は、いわばその前奏曲みたいなものさ、ハハハハハ、せいぜい用心するがいいぜ」

切れぎれにそんな意味のことを言って、声が途絶えてしまった。ひどくしゃがれた声で、男とも、女とも、老人とも、青年とも、見当がつかなかった。

伊志田氏はそれを聞くと、ほんとうに気が違いそうになった。殺人犯人から電話がかかってきたのだ。しかも、その犯人というのは娘の綾子としか思われないのだ。ああ、なんということだ。たとえあの娘に地獄の悪鬼が憑ついているにしても、正気を失って、悪鬼の命ずるままに行動しているにしても、こんな恐ろしいことが世にあり得るのだろうか。伊志田氏は、自分の頭がどうかして、ほんとうの声ではなくて、幻聴におびやかされているのだとしか考えられなかった。

だが、それが幻聴でなかった証拠には、その同じ夜、伊志田氏は悪魔の声の主ぬしを見たのである。例の影のような黒覆面の人物をまざまざと見たのである。

九時半ごろであった。伊志田氏は就寝前に入浴する習わしだったので、その夜も湯殿のタイルの浴槽に浸っていた。充分洗い清めたとはいえ、亡妻の血を流したあの浴槽である。別に湯殿を造るつもりではあったが、重なる不祥事ふしょうじのために、まだその暇がなかったのだ。

廊下には書生が見張り番を勤めていた。窓のそとの庭も、ほかの書生が巡廻じゅんかいをおこたらなかった。

伊志田氏は浴槽に浸って、ガラス窓のそとの闇やみを見つめていた。今しがた書生の姿が、その前を歩いていったばかりだ。怪しい者が、いるはずはない。だが、そう信じながらも、おびえた眼を闇に向けないではいられなかった。

すると、いま立ち去ったばかりの書生の黒い影が、窓のそとへ戻ってくるのが見えた。どうしたのかと眺めていると、その黒い影は必要以上に窓に接近してきた。接近するにつれて、浴室の電燈の光で、そのものの姿がだんだんハッキリした。

「おやっ、あいつ、気でも違ったのじゃないか」

伊志田氏は吹き出したくなった。どういうわけか腹の底から、おかしさがこみ上げてきた。

書生はインバネスのようなものを羽織って、黒い布で頭を包んでいた。そして、その布の中から眼だけを出して、じっとこっちを見つめながら近づいてきた。

伊志田氏の顔から笑いの影が消えて行った。そして、なんとも言いようのない恐怖の色が浮かんだ。

覆面の人物は鼻の頭がガラスに着くほど、窓のそとに接近していた。黒布をくり抜いた二つの穴から、誰かの眼が、瞬きもせず伊志田氏を睨にらみつけていた。

さきほど電話をかけたやつが姿を現わしたのだ。では、このガラス窓にくっついているまっ黒な怪物が、あの「綾子」なのであろうか。伊志田氏がとっさにそれを考えたことはいうまでもない。

父は浴槽に首だけを出し、娘は覆面に顔を包んでガラスのそとから父を覗のぞいている。この気違いめいた、怪談めいた事実が、伊志田氏を極度に惑乱させた。

恐ろしいけれど、叫んでいいのかどうかわからない。書生が来て怪物を捕えてくれることが望ましいようにも思われ、絶対にそんなことがあってはならないようにも思われた。

だが、ガラスのそとにいるやつは、人情を解しないのだ。何か途方もないものに憑つかれているのだ。だまっていたら、いきなりピストルを発射するかもしれない。

「そこにいるのは綾子じゃないのか!」

伊志田氏は熱病にうなされているような声で、気違いめいたことを叫んだ。

相手はだまっていた。ただ黒布の穴の両眼が異様に光っているばかりであった。

たっぷり一分間ほど、異様な睨み合いがつづいた。覆面の人物の気持は推察の限りではないが、伊志田氏の方は、その一分間に、四、五日分の思考力を一気に使い尽したような感じで、たちまちゲッソリと痩せ衰えるほどの疲労を覚えた。

伊志田氏は湯の中に浸ったまま、身動きもできないでいたが、いよいよ思い切って、浴槽から飛び出そうと考えた。だが、彼が、それを実行する前に、窓のそとの怪物が、突然妙な声で笑い出した。内証話のようなかすれ声で、嘲あざけるがごとく、憐あわれむがごとく、ともすれば泣いているのではないかと思われるような不思議な声で、笑いつづけた。

伊志田氏は、怪物がたとえわが娘にもせよ、この人でなしの笑い声の恐ろしさに、慄ふるえ上がった。彼は、いきなり大声に救いを求めながら、浴槽から飛び上がり、裸体のまま、廊下の方へ走り出さないではいられなかった。

たちまち書生たちが駈かけつけてきた。庭にも書生の叫ぶ声が聞こえた。そして騒がしい怪物追跡がはじまったが、覆面の人物は、いつの間に、どこをどうして逃げ去ったのか、庭じゅうを探しまわっても、ついにその姿を発見することができなかった。

伊志田家の娘としての綾子は、行方をくらましてしまった。そして、再び帰ってきた時には、まったく悪魔と化身していた。いまわしい覆面の怪物として、邸内をさまよった。

彼女はなぜ家出したのか。それは一切の人界の絆きずなを断ち切って、悪魔になりきってしまうためではなかったか。そういう考えが、伊志田氏は元より、一郎青年を恐怖と悲歎のどん底におとしいれた。

翌朝、このことが警視庁に報ぜられたのはいうまでもない。そして、北森捜査課長の計らいで、伊志田家の警戒はさらに一そう強化されたが、黒い怪物は、物質界の法則を無視するかのごとく、思いもよらぬ時、思いもよらぬ場所へ、その無気味な姿を現わした。

ある時は、着替えをするために、洋服の戸棚をひらくと、かけ並べた洋服にまじって黒い釣鐘インバネスが下がっていた。よく見ると、それには黒い頭部があり、くり抜いた二つの眼が光っていた。そして、あの内証話のような笑い声を立てた。

しかし、伊志田氏はその怪物を捉とらえることができなかった。

黒いやつはピストルをつきつけて、老人のような笑い声を立てながら、立ちすくむ伊志田氏を尻目しりめに、悠々と部屋のそとへ姿を消してしまった。そして、書生たちが現場に駈かけつけたころには、例によって、怪物は蒸発したかのごとく影も形も見せないのであった。

ある夜ふけ、伊志田氏が何か妙な物音に、ふと眼を覚ますと、寝ているベッドの下から、黒い影のようなものが、スーッと這はい出してきて、覆面の頭をこちらに向けて、嘲あざけるような笑い声を立てた。

またある時は、伊志田氏の書斎の入口の、ドアの上の通風窓に、黒い人影が猿のようによじのぼって、そこからじっと部屋の中を見おろしていた。

一郎青年はたまらなくなって、ある日、病院の明智小五郎に電話をかけた。

「先生、助けてください。僕はもうどうしていいかわからなくなりました」

彼は電話口で悲鳴を上げた。その声には何かしら狂気の前兆のようなものが感じられた。

「あいつがまた戻ってきたんだろう」

明智の静かな声が聞こえた。傷もほとんど癒いえて、もう電話をかけられるようになっていたのだ。

「そうです。先生もお聞きになったのですか」

「ウン、北森君が知らせてくれた。だが、知らせてくれなくても、僕にはわかっていたのだよ。なぜといって、あいつは僕の所へも電話をかけてきたんだからね」

「えっ、先生に電話を?」

「ウン、例の老人とも、若者とも判断のつかない変な声でね。いよいよ悪魔の事業の最後の段階にはいったのだと知らせてきたよ」

「最後の段階ですって? それは……」

「それは多分、一家の中心である君のお父さんと、それから君自身への危害を意味するのだろうと思う」

「そうです。そうに違いないのです。先生、助けてください。あなたはいつ退院なさるのですか」

「あさってあたりお許しが出そうだよ。そうすれば、すぐ君のところへ行ってあげる」

「あさってですって。そんなに待てるでしょうか。僕はなんだか、あしたまでも生きていられないような気がします」

「充分用心していたまえ。きょうとあすと二日間、君が自分で身を守りさえすれば、その次の日には、僕が必ず犯人を捕えてみせる。君に約束しておいてもいい、今度こそ間違いないよ」

明智が子供らしいことを言った。日頃の彼の調子ではない。一体なにを考えているのであろう。

「それはどういう意味でしょうか。なにかお考えがあるのですか」

「ウン、少し考えていることがあるんだよ」

「しかし、先生、僕は犯人が捕えられることを喜んでいいんだか、悲しんでいいんだかわからないのです。犯人が誰だかということは、もう間違いないのですからね」

「君はそれを少しも疑わないのかい。確信しているのかい」

「ええ、できるなら信じたくないのですけれど、こんなに不利な証拠が揃そろっちゃ、もう疑うわけにはいかなくなりました」

一郎は悲しげに溜ため息をついた。

「しかし、僕はまだ信じてやしないんだよ。そんなことは人間の世界には起こり得ないと思うんだ。神が許さないと思うんだ。どこかに非常な錯誤がある。僕は必ずその錯誤を発見してみせるつもりだよ。ああ、早く病院を出たいもんだなあ」

「先生、それを聞いて僕はなんだか、少し明かるくなったような気がします。でも、あさってというのは待ち遠しいですね。僕たちはそれまで無事でいられるでしょうか」

「多分大丈夫だろうと思うよ。なぜといって、今度は、あいつはただ姿を見せるだけで、少しも危害を加えようとしないじゃないか。あいつはしばらくのあいだ、君たちの恐怖を楽しむつもりなんだよ」

「そういえば、そうですね。しかし、いつ気が変らないとも限りませんし……」

「だから、充分用心するんだ。書生たちのほかに、警視庁からも人が行っているんだろう」

「ええ、それは、物々しすぎるくらいです」

「じゃ、君たちはいつもその人たちをそばへおくようにするんだ。お父さんにしろ、君にしろ、一分間も一人きりにならないようにするんだ。なあに心配することはないよ。僕の考えが間違っていなければ、きょうあすのうちには、何事も起こらないはずだ。僕が請合って上げてもいい」

明智は何か頼むところあるもののごとく、きっぱりと言いきるのであった。

この電話による奇妙な会話は、冷静な第三者には、なんとなく腑ふに落ちぬところがあった。この重大な事柄を電話などで話し合う一郎も非常識であったが、それに応じて、退院の日取りだとかそのほか大切なことを、軽々しく口にするというのは、日頃の明智に似ぬ軽率な態度であった。

だが、名探偵の言動にはいつも裏がある。この一見軽率に感じられる会話にも、何か深い裏の意味がこもっていたのではなかろうか。

最後の犯罪

さて、その翌朝八時頃のことである。

伊志田氏の寝室の前の廊下に、一脚の肘掛椅子ひじかけいすが置かれ、そこに書生の中では最年長者の刑事上がりの男が、グッタリと腰かけて、正体もなく眠っていた。

彼は徹夜して主人の部屋を守護する役目であったが、それがまるで酒にでも酔いつぶれたように、鼾いびきさえかいて眠っているというのは、なんとも変なことであった。

そこへ、階段に足音がして、別の書生が、交代のためにやってきたが、一と眼そのありさまを見ると、びっくりして肘掛椅子に駈かけ寄った。

「おい、どうしたんだ。起きたまえ。もう八時だよ」

肩を小突かれて、年長の書生は何かわけのわからないことをムニャムニャ言いながら、眼をひらいた。

「おい、しっかりしたまえ。何を寝ぼけているんだ。ゆうべは別状なかったのかい」

なおも小突きまわすと、やっと正気づいたらしく、

「おや、朝だね。いつの間に眠ったんだろう。変だなあ」

寝言のようにつぶやくのを、一方はたしなめるようにどなりつける。

「おい、君、大丈夫かい。ご主人は別状ないのか」

「変だな。頭がズキズキ痛むんだ。どうしたんだろう。君すまないが、ご主人の様子を見てくれ。なんだか、おかしなあんばいなんだ」

これは唯事でないと感じたので、あとからきた書生は、いきなり主人の部屋のドアをノックして、ソッとそれをひらいてみた。

「おい、ベッドは空っぽだぜ」

「えっ、ご主人がいないのか」

フラフラと立ち上がって、部屋の中へはいってみたが、伊志田氏の姿はどこにも見えなかった。

騒ぎを聞きつけて、ほかの書生や刑事なども集まってきた。一同で手分けをして、書斎その他の主人のいそうな部屋部屋、手洗所から湯殿まで探しまわったが、伊志田氏はまるで神隠しにされたように、どこにも姿を見せないのであった。

ところが、この椿事ちんじを一郎に知らせようと、その部屋の前へ行った書生が、そこの見張り番もグッタリと眠り込んでいるのを発見したので、騒ぎは一そう大袈裟おおげさになった。

一郎の部屋にはいってみると、そのベッドも空っぽであることがわかった。主人ばかりでなく一郎青年まで、神隠しにされてしまったのだ。

残る家族といっては、七十八歳の祖母ただ一人、あの人もやられているのではないかと、急いでその部屋へ行ってみたが、ここの見張り番はちゃんと起きていて、老人は無事であることがわかった。

隠しておこうと思ったのだけれど、この騒ぎを隠しおおせるものでなく、老人は間もなく二人の神隠しを気づいてしまった。そして、半ば狂せるがごとき彼女は、泣き悲しむかわりに、一そう、神ががりのようになって、銀髪を逆立て、眼を血走らせながら、例の仏間に駈け込んで、わけのわからぬ経文を高々と読誦とくしょうしはじめるのであった。

あらためて屋敷内外の大捜索が開始された。前に物置きに一郎が倒れていた例もあるので、部屋という部屋は、残らず、隅々までも探しまわり、三階の円塔の内部はいうまでもなく、母家の縁の下まで調べ、広い庭園も草を分けるようにして捜索したが、二人の姿はもちろん、足跡その他手掛りになるようなものは何も発見されなかった。

主人の寝室にも一郎の寝室にも、ゆうべ十一時ごろまでは、なんの異状もなかった。というのは、そのころまで、二人の部屋の見張り番が正気でいたからである。二人が一度はベッドに寝たことも、シーツの乱れなどから明白であった。

だが、見張りの書生は二人とも、十一時ころから朝までのことをまったく知らなかった。その少し前、女中の運んでくれた紅茶を飲んだのだが、どうやらその中に眠り薬がはいっていたらしいのである。

女中が取調べられたことは言うまでもないが、彼女は伊志田家に二年も勤めている素性のよくわかった女で、黒覆面の共犯者とは考えられなかった。眠り薬を入れたものはほかにあって、彼女は何もしらず、ただそれを運んだばかりのように察せられた。

では、眠り薬を入れたのは何者であったか。台所へは誰でも出入りできるのだから、家内の者すべて疑えば疑えぬことはなかったが、さしずめ三人の女中が厳重な取調べを受けた。しかし、女中たちはこれといって疑わしい点もないように見えた。

女中をのぞくと、あとは祖母と書生たちであったが、老人には何を訊たずねても、ただ一心不乱に経文をつぶやくのみで、まったく要領を得なかったし、書生たちのうちに犯人がいようとも思えなかった。

次には二人がどこから出て行ったか、或いは連れ去られたかという点が問題になったが、不思議なことに、玄関も裏口も出入りのできる場所はすべて、内部から戸じまりがしてあって、書生や女中が起きるまでは、どこにも異状がなかったことが確かめられた。

すると窓からでも出たのであろうか。なるほど、階下に寝室のある一郎は窓から出ることもできたであろうが、二階の伊志田氏が、高い窓から飛び降りたとは、ちょっと想像できないことであった。

つまり、二人は一夜のあいだに、蒸発し或いは溶解してしまったかのような感じであった。

見張り番が眠り薬を飲まされていた点から考えても、むろんこれは例の怪物の仕業に違いなかった。だが、あの黒覆面の曲者くせものが、二人の大の男を、少しも物音も立てず、やすやすどこかへ連れ去ったとは、いったいどんな手段によったのであろう。第一、出入口すらもわからないのである。怪物は人間界の法則を無視した妖術ようじゅつを心得ていたのであろうか。

その黒覆面の怪物とは何者であったか。その正体は二十歳を越したばかりの美しい娘ではなかったか。人々はそれに思い当たると、慄然りつぜんとして肌の寒くなるのを感じないではいられなかった。

彼女は父親と弟とを盗み去ったのだ。なんの目的で? いうまでもない、これまでの例でもわかるように、その生命を奪うためである。ああ、かくのごときことが、果たして人間界に起こり得るのであろうか。もしかしたら、これは現実の出来事ではなくて、伊志田屋敷の異様な建物の妖気が、人々を一場の悪夢に誘いこんでいるのではあるまいか。

だが、これらの取調べには、主として警視庁から出張していた刑事たちが当たったので、書生たちはまだ未練らしく庭のあちこち、木の茂みなどを覗のぞき歩いていたのだが、そうして歩きまわっているうちに、書生の一人が、ふと妙な顔をして立ち止まった。

「おい、どうしたんだ」

「シーッ、静かにしたまえ……君、あれが聞こえないか。ほら、なんだか人の声のようじゃないか」

言われて聞き耳を立てると、いかにも遠くから人の叫び声のようなものが聞こえていた。

「誰かきてくれって言ってるようだね。救いを求めているのだ。だが、いったいどこだろう。ひどく遠いようだが、塀のそとじゃないだろうか」

「いや、塀のそとじゃない。どこかこの辺だ。地の底から聞こえてくるような気がする」

「えっ、地の底だって?」

二人はそんなことを言いながら、少しずつ声のする方へ近づいて行った。

「あっ、そうだ。あれかもしれない。君、きたまえ」

一人が何を考えたのか、やにわに走りだした。わからぬながらついて走って行くと、林のようになった立木のあいだにはいって、一面の雑草と灌木かんぼくの茂みの中に立ち止まった。

そこに一つの古井戸が口をひらいていた。四角に石を畳んだ井戸がわに一面に青苔あおごけが生えている。書生はいきなりその石に手をついて、井戸の中を覗のぞきこんだ。

「誰だ。君は誰だ」

すると深い底から、陰にこもった声がのぼってきた。

「僕だよ。一郎だよ。早く助けてくれたまえ」

底は暗くて、人の姿もよくは見えぬが、その声は一郎青年に違いなかった。

「アッ、一郎さんだ。待ってください。いま縄を持ってきますからね。しっかりしていらっしゃい」

どなっておいて駈け出して行ったが、やがて、ほかの書生たちといっしょに、長い麻縄を用意して戻ってきた。

仔細しさいを訊たずねている余裕はない。ともかく助け出さなければならぬ。四人の書生が手分けをして、一郎救い出しの作業がはじまった。そして、二十分ほどかかって、グッタリとなったパジャマ姿の一郎を、ようやく井戸がわのそとへ引き上げることができた。

古井戸の底には、膝から下ほどの水が溜たまっているばかりで、溺おぼれる心配はなかったが、しかし、一郎はなぜか、息も絶えだえに疲れはてていた。

四人で抱きかかえて、彼の寝室へ運び、飲みものを与えて介抱するうち、一郎はやや元気を回復して、少しずつ話ができるようになった。

寝室へは刑事たちも集まってきたし、ちょうどそのころ、急報を受けて駈けつけた北森捜査課長や三島刑事などの一団も到着して、すぐさま一郎の寝室へはいった。

それらの人々の質問に答えて、一郎青年が語ったところを、かいつまんでしるせば……

ゆうべ二時ごろ、ふと眼をさますと、枕もとに例の覆面の怪物が立っていた。ハッとして、ベッドを飛び降りようとしたが、怪物は恐ろしいすばやさで、彼の上にのしかかり、布を丸めたようなものを、いきなり口と鼻の上におしつけた。このあいだと同じ匂いの麻酔剤であった。

一所懸命もがいているうちに、気が遠くなって、それからどんなことが起こったのか、少しも記憶しないが、つい今しがた、悪夢から醒さめるように気がつくと、暗い穴の底の水の中に浸っていたので、びっくりしたが、どうやら井戸の底らしいので、もしや自宅の庭の古井戸ではないかと考え、ともかく救いを求めるために、大声に叫び出したということであった。

「で、あなたは一人だったのですね。お父さんのことはご存知ないのですね」

北森課長が訊たずねた。

「えっ、父がどうかしたのですか」

一郎はサッと不安の色を浮かべて、叫ぶように聞き返した。

「隠しておくわけにもいくまいから、お話ししますがね。お父さんも同じような目に遭われたのです」

「えっ、父も? で、どこにいたのです」

「いや、まだそれがわからないのです。一同で充分探したらしいのですが、どこにも姿が見えないというのです。しかし、あなたの落ちていた古井戸を見逃がしていたくらいですから、もっとよく探せば、どこかお屋敷の中にいらっしゃるかもしれません。もう一度、捜索させてみることにします」

「ええ、是非そうさしてください。しかし、父は生きているでしょうか。もしや……」

一郎は父の無残な死体をまざまざと眼に浮かべたかのように、まっ青になって、唇を震わせながら、不安の言葉をつぶやくのであった。

それから、新たに老練な三島刑事を加えて、再び邸内外の大捜索が開始されたが、やがて三十分ほどもたったころ、一人の刑事が、一郎の部屋にいる捜査課長のところへ、息せき切って飛びこんできた。

「おお、伊志田さんが見つかったのか」

北森氏が思わず立ち上がって訊たずねると、刑事は手を振りながら、

「そうじゃありません。犯人らしいやつを見つけたのです。すぐお出いでください。廊下をウロウロしているところを引っ捕えたのです」

と叫ぶように答えた。

闇やみを這はうもの

北森課長はそれを聞いてなんとなく腑ふに落ちぬような感じがした。あれほど手を尽した捜索の網に、一度もかからなかった魔法使いのような曲者くせものが、こんなにやすやすと捕えられるというのは、ほとんど信じがたいことであった。

しかし、いくら信じがたいにせよ、稀代きだいの殺人鬼が、刑事たちの包囲を受けているとあっては、捨てておくわけにはいかぬ。北森氏は直ちに一郎の部屋を出て現場にかけつけた。

あとに一人取り残された一郎青年は、その騒ぎを少しも知らないで、鼾いびきの音さえ立てながら、熟睡していた。いくら疲労していたとはいえ、この無神経な熟睡はなんとなくただごとではなかった。これには何かわけがあるのではないだろうか。悪魔は又しても、一郎青年の上に人知れぬ陰謀をめぐらしているのではあるまいか。

それはともかく、北森捜査課長が、刑事の案内で現場にかけつけてみると、一郎の祖母の部屋に近い廊下に、まっ黒な怪物が、三人の刑事に追いつめられて立ちすくんでいるのが見えた。

刑事たちはジリジリと怪物の方へつめよっていた。曲者くせものはもう逃げ場もなく、廊下の壁に、ピッタリと身をつけて、ただじっとしているばかりであった。

北森氏と刑事とが加わったので、こちらは総勢五人となった。いかな怪物もいよいよ運のつきである。刑事たちが相手に組みつくことをためらっていたのは、飛び道具を恐れていたからであったが、曲者はなぜかピストルを取り出す様子も見えなかった。

「諸君、なにを、ぐずぐずしているんだ。早く組み伏せたまえ」

北森課長はみずから曲者に飛びかかりかねぬ勢いで、叱しかりつけるように叫んだ。その声に勇気づけられた刑事たちは、もうためらってはいられなかった。口々に何か叫びながら、怪物めがけて突進して行った。

だが、それよりも、曲者の動作はさらに敏捷びんしょうであった。何か恐ろしい物音がしたかと思うと、黒い怪物の姿は、アッと言う間に、刑事たちの鼻の先から消え失せていた。

ちょうど曲者の立ちすくんでいたうしろの板壁に、物置きの押入れのひらき戸があった。彼はとっさに、その板戸をひらいて、サッと押入れの中に身を隠し、ピッシャリと戸を閉めてしまったのだ。

刑事たちは相手の考えを理解することができなかった。自分で押入れの中へはいりこむなんて、少しも逃げ出す意味にはならない、逆に捕縛を容易にするようなものではないか。さすがの怪物も血迷ったのであろうか。だが、相手の考えがどうあろうと、今はただ、その袋の鼠ねずみを捕えさえすればよいのだ。

先に立った刑事は、すぐさまその板戸に手をかけてひらこうとしたが、曲者は中からしんばり棒でもかったのか、ゴトゴトいうばかりで、なかなかひらかない。

「構わない、その戸をぶち破りたまえ」

課長の指図に、刑事は勢いこめてからだごと板戸にぶつかって行った。二度繰り返すまでもなく、バリバリと恐ろしい音を立てて、板戸は押入れの中へ倒れ込んだ。

「おや、どうしたんだ。誰もいないぜ」

そのあとから押入れの中へ首を突っ込んだ刑事が頓狂とんきょうな声を立てた。

刑事たちはつぎつぎとその中を覗のぞきこんだが、皆あっけにとられたように無言で顔を見合わすばかりであった。

押入れの中には、いろいろな道具類が置いてあったが、人間一人隠れるほど大きなものは何もなかった。それにもかかわらず、今逃げこんだばかりの曲者の姿は、まるで溶けてでもしまったように、影も形も見えないのだ。

「変だなあ。いったいどうしたっていうんだろう」

何かゾッとしたように、一人の刑事がつぶやいた。

怪物は又しても得意の魔法によって人々の眼をくらましたのであろうか。だが、今の世に怪談は許されない。いくら怪物でも物理学の法則を破ることはできない。これには何かカラクリがあるのだ。ひょっとしたら、この押入れの中に秘密の抜け道でもあるのではないだろうか。なにしろ奇人の建てた古い建物だから、そういうものもないとはいえぬ。

北森課長はふとそこへ気づいたので、みずから押入れの中へはいって、壁や床板をあちこちと調べてみたが、間もなく薄笑いを浮かべながらそとに出てきた。

「やっぱりそうだ。抜け穴があるんだよ。誰か懐中電燈を持ってきたまえ。どこへ通じる抜け穴かわからないが、ともかく、調べてみなくちゃ」

やがて刑事の持ってきた懐中電燈を受け取ると、「三島君、君も一緒にきたまえ」と言いながら、課長は先に立って、押入れの中へはいった。

その中は三方とも板壁になっているのだが、一方の隅に高さ三尺ほどの小さな隠し戸がついていて、それが向こう側へひらいている。その奥は深さも知れぬ闇やみだ。おそらくここは地下道の入口なのであろう。

「やっこさん、よっぽどあわてたとみえて、隠し戸の締まりを忘れて行ったのだよ。ちょっと手で押してみると、なんの造作もなくひらいたのだ。

君、用心したまえ、相手は気ちがいだからね。僕は幸いピストルを持ち合わせているから、いざといえばひけは取らないつもりだが、君は空手なんだからね。僕のうしろからついてきたまえ」

北森氏は懐中電燈をうしろの三島刑事に持たせ、自分はピストルを握って、大胆にも闇の地下道へと這はいこんで行った。

懐中電燈で照らしてみると、上下左右とも石で畳んだ細い地下道で、余ほど年代のたったものとみえ、石畳はところどころくずれているし、一面に黴かびとも苔こけともつかぬものが生え、なんともいえぬしめっぽい土の匂においが鼻をつく。

北森氏の想像にたがわず、これは最初この建物を建てた西洋人が、物好きからか、或いは何かの秘密の用途のためにか、こしらえておいた地下道に違いない。それを犯人が発見して、隠れ場所に使用しているのだ。覆面の怪物はこの邸内をまるでわが家のように、自由自在に歩きまわり、しかも、幾度追いつめられても、かき消すように姿をくらましていたのだが、こんな抜け穴があるのでは、なんの不思議もないことであった。あの神変不可思議の魔法の種はここにあったのだ。

北森氏はその冷たい石の上を這いながら、ふと、今自分は誰を追っているのかということを考えた。そしてなんとも言えぬ変な気持になった。これまでの情況証拠はすべて伊志田綾子を指さしていた。伊志田家の家族の一員であるあの美しい娘さんが、恐るべき殺人犯人と目されていた。すると、この冷たい暗い地下道の中を、四つん這いになって逃げて行く覆面の怪物は、やはりその美しい綾子でなければならない。ああ、そんなことがあり得るのだろうか。

用心に用心をしながら這い進んで行くと、ふと懐中電燈の淡い光が、一間ほど向こうにうごめいている黒いものの姿を照らし出した。怪物のマントであった。足を隠すほど長いインバネスの裾すそが、石畳の上をすって、ズンズン向こうへ這って行く。

「待てっ!」

声をかけても、ひるむ様子はなかった。ここまでお出でといわぬばかりに、速度を早めて遠ざかって行く。

その黒い怪物が、かよわい、二十歳の娘なのかと考えると、現実家の北森氏も三島刑事も、地底の冷たい風が運んでくる一種異様の鬼気に、慄然りつぜんとしないではいられなかった。

地底の磔刑はりつけ

地下道は案外短く、四、五間けんも進むと、突然天井も左右の壁も遠ざかって、大きな部屋のような場所に出た。

北森氏はピストルの引金に指をかけて、まっ暗な広間に立った。三島刑事もそれにつづいて眼の前の闇やみに懐中電燈の光を向けた。

その丸い光の中に、黒いものがこちらを向いてスックと立っているのが見えた。黒覆面の二つの穴から、ギラギラ光る眼が覗のぞいていた。さては、曲者くせものは二人をここまでおびき寄せておいて、手向いするつもりなのであろうか。

「手を上げろッ! でないと……」

北森氏は相手の権幕に驚いて、機先を制するために、いきなりピストルをつきつけながら、恐ろしい勢いでどなりつけた。

すると、突然、実に意外なことが起こった。覆面の曲者が爆発するように笑い出したのである。はっきりした男の声で、さも快活に笑いだしたのである。

こちらの二人は、この気違いめいた出来事に、あっけにとられて立ちすくんでいると、曲者は悠然として、顔の覆面を取りはずし、マントを脱ぎ捨てた。

その下から現われたのは、若い娘であったか。それとも、凶悪無残の野獣のような男子であったか。いや、そこには一人の背広姿の瀟洒しょうしゃな紳士が立っていた。

「あっ、君は……」

「明智です。びっくりさせて申しわけありません」

その紳士は明智小五郎であった。北森氏とは親しい間柄の私立探偵であった。

ああ、これはどうしたというのだ。覆面の怪物の正体は明智探偵であったのか。すると、伊志田家の殺人事件の真犯人も彼なのであろうか。いや、そんなばかなことがあるはずはない。世に聞こえた名探偵の明智が、意味もない人殺しをする道理がない。しかし、それにしては、彼はなぜ覆面をしたりインバネスを着たりしていたのであろう。そして、二人を、こんな地下道などへおびきよせたのであろう。

北森氏はこの奇々怪々の出来事をどう解釈していいのか、まったく途方にくれてしまった。そんなことはあり得ないと打ち消す一方から、ムクムクと恐ろしい疑惑が湧わきあがってきた。

「これは一体どうしたのです。明智君、君はまだ病院に寝ていたはずじゃありませんか」

なじるように言って、じっと相手の顔を見つめた。

「いや、これには複雑な事情があるのです。あなた方を驚かせたのは申しわけありませんが、どうしてもこうしなければならない必要があったのです。あなた方をここへ連れ込む必要があったのです」

明智の弁明はまだ不充分であった。

「それなら何も覆面なんかしないでも、ソッと僕に言ってくれればいいじゃありませんか」

「いや、それができない事情があったのです。ここのうちのものに、僕がきたことを知られたくなかったのです。僕はまだ病院にいると思いこませておく必要があったのです」

「それにしても、君は一体、その覆面や外套がいとうをどこで手に入れたのですか。まさかわざわざ新しく作らせたのではありますまい」

「この地下道の入口にあったのです。ご想像の通り、ここが犯人の隠れがなんです。ここに一切の秘密があるのです。変装用具もむろんここに置いてあったのです。僕はちょっとそれを拝借したまでですよ。

この事件の最初、一郎君が曲者くせものに刺された時、僕はあいつをさっきの廊下へ追いつめたのですが、曲者は煙のように消え失せてしまった。そこで僕は、後日あの廊下の辺を充分に調べたのです。何かカラクリがあるに違いないと考えて、隅から隅まで調べたのです。すると、あの押入れの中の秘密戸を発見した。そして、この地下室を見つけてしまったのです。

実にうまい隠れ場所があったものだ。この家を建てた外人が、こんな風変りな穴蔵なんかこしらえておくものだから、今度のような犯罪も起こることになったのです。これがなければ、いくら賢い犯人でも、ああまで出没自在に振舞うことはできませんからね」

「そうでしたか。いつもながら君の手腕には敬服です」

北森氏はホッとしたように、私立探偵をほめたが、何かまだ腑ふに落ちぬ点があるらしく、

「君は今、ここのうちのものに見られたくないと言いましたね。すると、犯人の同類が、邸内にいるとでもいうのですか」

と訊たずねる。

「そうです。同類がいるかどうかはわかりませんが、なにしろ犯人自身がこのうちのものですからね」

「じゃあ、やっぱりあの綾子という娘が……」

「いや、その事はあとでゆっくりお話ししましょう。今はそれよりも、もっと急を要することがあるのです」

「エッ、急を要するとは?」

「ちょっと、その懐中電燈をお貸しください」

明智は三島刑事のさし出す電燈を受け取ると、それを振り照らしながら、穴蔵の奥へ進んで行った。

「ごらんなさい、あれを」

懐中電燈の光がコンクリートの壁を照らしていた。そこに十字架上のキリストのように、磔刑はりつけになっている人の姿があった。

シャツ一枚のはだかにむかれて、大の字にひらいた両の手首と足首を、石壁にとりつけた太い鎖に縛られて、グッタリと頭を垂れている人の姿があった。

明智はそこへ駈かけよって、電燈の光で調べていたが、

「大丈夫、まだ死んではいません」

と安堵あんどの声を漏らした。

「いったいそれは誰です」

「ごらんなさい。この家の主人です」

下からの光で、うなだれた顔を見ると、意外にもそれは伊志田鉄造氏であった。苦痛の余りほとんど失神状態となっていたが、人々の声と、まぶしい光に眼を見ひらいて、なぜか烈しい恐怖の表情を示した。口には猿ぐつわをはめられていて、物をいうこともできないのだ。

伊志田氏の磔刑になっていたのは、足先が地上から三尺も離れているほど高い場所なので、何か台がなければ助けおろすこともできなかったが、幸い、すぐそばにキャタツがほうり出してあるのを見つけたので、三人はそれを立てて、いろいろ骨を折って伊志田氏を地上におろし、猿ぐつわもはずしてやった。

伊志田氏は明智に助けられたことは充分意識している様子であったが、立っている気力もなく、グッタリと地上に倒れて、何かわけのわからないことをつぶやきながら、力ない手で、しきりと穴蔵の一方を指さすのであった。

明智は、伊志田氏が何か言おうとしているのかを確かめるために、その指先の示す方角へ、懐中電燈を振り照らした。

「おやっ、あすこにもなんだか人がいるんじゃありませんか」

北森氏が目早くそれを見つけて、あっけにとられたように叫んだ。伊志田氏の縛られていた反対がわの壁に、もう一人の人物が磔刑にされている姿が、電燈の丸い光の中に、もうろうと浮き上がっていた。

狂人の幻想

そこに磔刑になっていたのは、男ではなくて、洋装をした若い女であった。猿ぐつわをはめられ、両手両足を鉄の鎖で縛られ、乱髪の頭を垂れて、死人のようにグッタリとなっていた。

人々はアッと声を立てて、その女の前に駈け寄り、電燈の光を顔に当てた。

「やっぱりそうだ。これは綾子さんだ。綾子さんは最初からここに監禁されていたんだ」

明智は当たり前のことのようにつぶやいたが、北森氏と三島刑事は驚きを隠すことができなかった。

殊に三島刑事は、逃亡した綾子の跡を追って、あの品川駅前の旅人宿に踏み込んだ当人なのだから、そのまま行方不明になったと信じきっていた綾子が、伊志田邸の穴蔵の中に磔刑になっていようなどとは、思いもよらぬことであった。

綾子は犯人ではなかったのだ。犯人どころか被害者の一人であったのだ。

人々は今の今まで、この綾子こそ、伊志田家殺人事件の真犯人に違いないと思い込んでいた。あらゆる事情が彼女を指さしていたばかりか、彼女が家出をして、いかにも犯罪者らしい方法で行方ゆくえをくらましてしまったことが、その有罪を確証しているかのように見えた。

ところが、家出をしたとばかり思い込んでいた綾子が、ここに監禁され、奇怪な磔刑に処せられていたのである。

人々はまた大急ぎで綾子を磔刑から助けおろさねばならなかった。彼女は父の伊志田氏より一そう憔悴しょうすいしていた。もし彼女が家出をしたと信じられている日から、ここに監禁されていたとすれば、一週間の日数がたっているのだから、この疲労はもっともの事であった。

いろいろ訊たずねたいのだけれど、とても答える力はないので、何よりも先ず二人を介抱しなければならなかった。三島刑事が北森課長の旨を受けて、二人をそとへ運び出す手伝いを呼ぶために、急いで地下道を引っ返して行った。

「それにしても、犯人はこんなまねをして、一体どうするつもりだったのかな。餓うえ死にするのを待つというのは少し気の永い話だが」

北森氏は、なんとなく腑ふに落ちぬ様子でつぶやいた。

「いや、犯人は餓え死によりも、もっと恐ろしいことを考えていたのです。ごらんなさい、これです」

明智は穴蔵の隅へ歩いて行って、壁の隅を照らしてみせた。そこには直径一寸以上もある瓦斯ガス管のような太い鉛の管が、穴蔵の天井を伝って、床の近くまで、鼠色ねずみいろの蛇のように這はい降りていた。

「おやっ、鉛管ですね。それじゃそこから瓦斯を送るつもりだったのだね」

北森氏がいよいよ驚きを深くして叫んだ。

「いや、瓦斯よりももっと恐ろしいものです」

「えっ、瓦斯よりも恐ろしい?」

「僕は負傷する前に、この穴蔵を発見して、よく調べておいたのですが、この鉛管はその時からここに取りつけてあったのです。昔からこんなものがあったわけではありません。犯人が、わざわざとりつけたのです。ごらんなさい。この鉛管はまだ新しく、ピカピカ光っています。僕も最初は殺人の瓦斯を送る仕掛けではないかと疑いましたが、調べてみると、この鉛管の向こうの端は瓦斯管につながっているのではなくて、この家の庭にある撤水車さんすいしゃの水道管につながっていることがわかりました。その水道管は真夏のほかは使用しないもので、雑草に蔽おおわれて、ちょっと誰も気のつかないような場所にあるのです」

「フーン、すると水責めにしようと考えたのですか」

「そうです。瓦斯よりも一そう残酷な方法です。この穴蔵に流れこむ水が、一寸ずつ一寸ずつ水面を高くしてくるのです。足から腰、腹から胸へと、徐々に水が増して、刻々に死期の近づくのを、眼の前に眺めながら、どうすることもできないのです。何が恐ろしいといって、刻一刻、時計のように正確に、まったく逃がれるすべのない死が近づいてくるのを、じっと見ていなければならないほど恐ろしいことが、この世にあるでしょうか。犯人はこの二人に、その恐怖を味わわせようとしたのです。

いや、そればかりではありません。犯人はもっと恐ろしいことを考えていたのです。北森さん、あなたはそれに気がつきましたか。綾子さんの縛られていた位置は、床に足が着くほど低いのに比べて、伊志田さんの縛られていたのは、それより二尺も高い位置です。これは偶然でしょうか。もし偶然でなければ何を意味するのでしょう。

僕はたった今、そこへ気がついて、犯人の着想の恐ろしさにゾーッとしたのですよ」

捜査課長は、明智の言葉の意味を悟りかねて、いぶかしげに相手の顔を見つめた。明智は無残な推理をつづける。

「これはつまり、二人の被害者の絶命する時間を、同時でなくするために違いないのです。伊志田さんの方が、水面が二尺高まるあいだだけ、あとで絶命するように、高い場所に縛りつけておいたのです」

「フーン、そうか。恐ろしいことを考えついたものですね。つまり、娘の苦しむ有様を父親に見せつけようというわけですね」

北森氏はやっとそこへ気づいて、深い溜ため息をもらした。

「そうです。父親は可愛い娘がもだえ苦しんで、まったく息が絶えてしまうまで、じっと見ていなければならないのです。そして、その生々しい印象を刻みつけられたまま、自分もやがて、同じ苦悶くもんをくりかえして、絶命しなければならないのです。

狂人の幻想です。真の悪魔でなくては考え出せない陰謀です。これまでの殺人事件は、すべてこの最後の段階に達する予備行為にすぎなかったのです。一人一人家族をなきものにして、苦痛の限りを味わわせた上、最後には、もっとも愛する娘の惨死を眺め、その上自分も同じ死に方をしなければならないということを、水面が二尺高まるあいだ、繰り返し繰り返し考えさせようというのです。なんという執念でしょう。これがまともな人間の知恵で考え出せることでしょうか」

「では、あなたは、この犯罪の動機は復讐ふくしゅうだというのですか」

「そうです。そのことはあとでゆっくりお話しします、何もかも。しかし、今は先ずこの二人をそとに運び出さなければなりません」

やがて、三島刑事を先頭に、三人の刑事が穴蔵にはいってきた。そして、北森課長と明智の指図にしたがって、伊志田と綾子さんを、地底から運び出し、階下の来客用の寝室にベッドを二つ並べて、一と先ずそこへ休ませ、飲み物を与えて介抱をしたのであるが、明智はそのさ中に、何を思ったのか、あわただしく伊志田氏の老母の部屋をおとずれていた。

ドアをひらくと、襖ふすまの向こうの日本間から、陰気な読経の声が聞こえて来た。この数日来、老人は仏壇の前に坐すわりつづけて、狂気のように念仏を唱えているのだ。明智は控えの間を通り抜けて、襖のそとに立ち、しばらく様子を窺うかがっていたが、やがて、ソッと襖をひらいて、部屋の中を覗のぞきこんだ。

そこには立派な金ピカの仏壇が安置され、あけ放った扉の前には、妙な形のロウソク立てになん十本という小ロウソクが、チロチロと赤い焔ほのおをゆるがしていた。

老人は祈祷者きとうしゃかなんぞのような白衣を着て、仏壇に向かって端坐し、数珠じゅずをつまぐりながら、歯のない口を無意味に動かして、襖のひらいたのも知らぬげに、一心不乱に経文を読誦とくしょうしていた。

なでつけにした銀髪が、長く手入れもしないのか、モジャモジャと乱れて、青ざめた皺しわくちゃの顔の中に、目がねの中の落ちくぼんだ両眼だけが、異様にするどく、気違いめいた光を放っていた。

この八十歳にも近い老人は、何をかくまで熱心に祈っているのであろう。うちつづく不幸に心も乱れて、せめては残る家族の無事を念じて、このように一心不乱になっているのであろうが、この部屋の異様に陰気な気違いめいた雰囲気は、ともすれば、その逆に、何かしら無気味な呪のろいとでもいうようなものを連想せしめた。

明智はその様子を、細目にひらいた襖の隙すきから、ソッと覗いていたが、老人がさいぜんからの騒ぎに少しも気づいていないらしいことを確かめると、別に言葉をかけるでもなく、そのまま又音のせぬように襖を閉めて、廊下に出た。そして、廊下の向こうを通りかかった書生を手招きし、その耳に妙なことをささやいたのである。

「君、このドアの前でね、ご老人の見張りをしていてくれたまえ。少しのあいだ、地下室の出来事をご老人に知らせたくないのだ。もし部屋を出られるようなことがあったら、あとをつけて、あちらの僕たちのいる部屋へこられないように計らってくれたまえ。そして、もし何か変ったことがあったら、すぐ僕に知らせるんだ。わかったかね」

書生が頷うなずくのを見て、明智はそこを立ち去ったが、次には、廊下の別の端にある一郎青年の寝室に急いで、ソッとドアをひらき、部屋の中を覗きこんだ。

見ると、一郎はベッドの上に、軽い鼾いびきを立てて熟睡していた。永い時間、古井戸の底に水びたしになっていた疲労のためとはいえ、昼日中この熟睡は、なんとなくただごとでないように思われたが、明智は別に怪しむ様子もなく、彼が何も知らないで眠っているのを確かめると、そのままドアを閉めて、伊志田氏と、綾子さんの運ばれた部屋へ引き返した。

誰が犯人か

一室にベッドを並べて横たわっていた伊志田氏と綾子さんは、それから一時間ほどのちには、いくらか元気を取り戻して、少しずつ人々の問いに答えられるようになっていた。

北森課長と明智とは、二人の枕元まくらもとに腰かけて、からだにさわらぬ程度に、要点だけを質問して行った。

その結果判明したところによると、先ず綾子さんの方は、あの怪青年荒川正太郎変死事件のあった日、すなわち綾子さんが家出をしたと信じられている日以来、例の覆面の怪物のために、あの地下室に押しこめられ、きのうまではただ手足を縛られ、猿ぐつわをはめられて、逃亡の自由を奪われていたばかりであったが、ゆうべ、伊志田氏が同じ穴蔵へ連れ込まれると同時に、あの恐ろしい磔刑はりつけの姿で、壁に縛りつけられたというのである。

一週間の監禁中、ゆうべまでは、一日二度ぐらいずつ、覆面の怪物自身で、パンと飲み物を運んでくれ、その都度、猿ぐつわをはずして手の縄をといてくれたので、飢渇に耐えぬというほどではなかった。それよりも、一体この先どんな恐ろしい目に遭わされるのかと思うと、食事どころではなく、まったく生きた空はなかったという。

父の伊志田氏の方は、ゆうべ、まったく知らぬまに、地下室へつれこまれ、ふと気がつくと、いつの間にか磔刑はりつけの形で壁に縛られていた。おそらく犯人が何かの飲み物の中に麻酔薬を混ぜておいたものであろう。そしてその昏睡こんすい中の伊志田氏を地下室に担ぎ込み、目醒めぬあいだに、壁に縛りつけてしまったものに違いない。

彼は仕合わせにも、まだ水責めの陰謀には気づいていなかったので、それほどの恐怖は感じなかったが、しかし、眼の前に娘の綾子が、同じように縛られているのを見ながら、助けてやることも、声をかけることさえできない苦しさを、目醒めてから今まで、七、八時間も味わわされたのであった。

「一郎はどうしているのでしょう。あれもどうかされたのじゃありませんか。なぜここへきてくれないのでしょう」

伊志田氏は一と通り問答がすんだあとで、キョロキョロとあたりを見まわしながら、気遣わしげに訊ねた。

「いや、一郎君には別状ありません。御安心ください。ちょっと僕が行って呼んできましょう」

明智はなにげなく答えて立ち上ると、そのまま部屋を出て、一郎の寝室へ急いだ。

一郎の部屋の前には、三島刑事が腕組みをして立っていたが、明智を見ると、腑ふに落ちぬ様子で声をかけた。

「まだ寝つづけているんですよ。どうしたんでしょう。いくら疲れているといっても、少し変じゃありませんか」

「いや、心配したことはないでしょう。僕が起こしてやりますよ」

明智は気軽に言って、部屋にはいり、ベッドに近づくと、いきなり一郎を揺り起こした。

「一郎君、起きたまえ。僕だよ。僕だよ」

幾度も同じことを繰り返しているうちに、一郎はやっと眼を醒まして、ボンヤリした顔でキョロキョロとあたりを見まわしていたが、明智の顔を意識すると、びっくりしたように、ベッドの上に起きなおった。

「おやっ、明智先生じゃありませんか。いついらっしたのです。僕すっかり寝すごしちゃって、失礼しました。きょうは幾日なんだろう。変だな。僕、先生は病院にいらっしゃるとばかり思っていたのですよ。退院はあすじゃなかったのですか」

「一日繰り上げて、けさ退院させてもらったのだよ。君のことが気になったものだからね」

「えっ、僕のことが?」

「君は井戸へほうりこまれていたっていうじゃないか。僕が病院に寝ているあいだに、いろいろなことが起こったね。でも、怪我がなくってよかった。起きられるかい。実は君を喜ばせることがあるんだよ」

「ええ、起きられます。でも、僕を喜ばせることって?」

一郎は疲労のために青ざめた顔に、強いて微笑を浮かべながら聞き返した。

「お父さんがご無事だったのだよ」

「えっ、父が?」

「そればかりじゃない。綾子さんも見つかったんだ」

「えっ、姉さんも?」

一郎はいきなりベッドを飛び降りて、ドアの方へ駈かけ出しながら、

「どこです。どこにいるんです。早く会わせてください」

と狂気のように叫ぶのであった。

「そんなにあわてることはない。二人ともあちらの部屋のベッドにいるんだよ。しかし、非常に疲労しているから、あまり騒ぎ立ててはいけない。お父さんたちの無事な姿を一と眼見たら、またこの部屋に帰って、今後の捜査についてよく相談することにしよう。さあ、僕と一緒にきたまえ」

一郎は明智に助けられて、よろめきながら、父と綾子の横たわっている部屋にたどりついた。彼もまだ普通のからだではなく、それだけ歩くのにも、ハッハッと息を切らしていた。

父と子と姉と弟とは、手を取り合わんばかりにして、互いの無事を喜び合った。だが一郎はほんの二、三分しかその部屋にどどまることができなかった。伊志田氏はそれほどでもなかったが、綾子が非常に疲労して神経過敏になっているので、激情的な会話をつづけることは差し控えなければならなかった。明智は無理に一郎を引き離すようにして、再び彼の寝室へ連れ戻った。

それから一郎に飲み物などを与えて、激情が静まるのを待って、北森捜査課長と明智と三島刑事とが、一郎青年の部屋に落ち合い、ゆうべの出来事について、ゆっくり互いの意見を交換することになった。

一郎はベッドに腰かけ、小卓を隔てて北森氏と明智とが椅子に着き、三島刑事は同僚と共にそのうしろにたたずんでいた。

先ず明智の口から、地下室発見の次第、伊志田氏と綾子さんを助け出した顛末てんまつを、かいつまんで物語ったが、一郎青年は聞くごとに顔色を変えて、悪魔の残虐を呪のろった。

「それにしても、なんという恐ろしい犯罪事件でしょう。僕たち一家のものが、最後の一人まで害を受けていながら、しかも犯人が何者だか少しも見当がつかないなんて」

彼は皮肉まじりに、やり場のない忿懣ふんまんを漏らすのであった。

「この事件には常識がないのだ。狂人の執念なんだ。だから正面からぶつかったのでは、とてもあいつの尻尾しっぽを掴つかむことはできない。狂人のくせに、何から何まで考えに考え抜いて、少しの手落ちもなくやっているんだからね」

明智は一郎と北森氏の顔を交互に見ながら、彼の意見を述べはじめた。

「例えば綾子さんを犯人に仕立て上げたやり口一つを見ても、あいつの気違いじみた頭の働き方がよくわかるのですよ。心理的にまったく不可能なことを、どうしてもそうと信じないではいられぬように、種々さまざまの証拠を作り上げて行くんですからね。常識はずれの、悪魔の知恵とでもいうのでしょうね。警察はもちろん、弟の一郎君までが、綾子さんを犯人だと思っていた。血を分けた姉弟きょうだいにそういう考えを持たせるというのはよくよくのことですよ。のっぴきならぬ証拠が揃そろいすぎるほど揃っていたのです。そして最後にはあの奇妙な家出という大芝居を打ってみせたのですからね。

しかし、僕は最初から、あの人を真犯人とは考えなかった。それは一つは、あのうら若い女性が実の弟を傷つけたり、実の妹を惨殺したりすることは非常に不自然だという、常識判断に基づくのですが、もう一つは、ちょっとしたごくつまらないことから、犯人のトリックを見破ったのです。それはね、あのヘリオトロープの匂においですよ。

一郎君はよく覚えているだろう。僕が覆面の怪物を物置き部屋に追いつめて、ピストルで撃たれた時、非常に強いヘリオトロープの匂いがしたということを。その匂いが強すぎたんだよ。綾子さんが日頃ヘリオトロープを使っていることは誰でも知っているのだから、大切な犯行の際に、その特徴のある香水を、あんなに強く匂わせているというのは、犯人の心理に反するじゃないか。不思議なことに、最初君が傷つけられた時、カーテンの蔭かげに隠れていた曲者くせものをおっかけた折には、少しもヘリオトロープの匂いなんかしなかったのだ。その時には、犯人が匂いのことまで、まだ気をくばっていなかったのだよ。そして、あとになって、僕が綾子さんがヘリオトロープを使っていることを知るようになってから、さっそくあの匂いを利用して、誤った判断におとしいれることを考えついたのだ」

「だが明智君、綾子さんが塔の三階で、怪しげな信号をしていたことは間違いないのでしょう。君の眼でその姿を見たのでしょう」

北森氏が急所を突くような言葉をはさんだ。

「そうです。あれは確かに綾子さんでした。はっきり顔を見たのです。そして、その時はじめて、あの人がヘリオトロープを使っていることを気づいたのですよ。

あれは綾子さんに違いなかったのです。犯人はあの綾子さんの不思議な行為を知って、巧みにそれを手品の種に利用したのですよ。僕もこの眼で見たのだから、はじめのあいだは、綾子さんを疑わないわけにはいかなかった。しかし、僕が病院にいるあいだに突発した、あの荒川という青年の変死事件のお蔭かげで、僕は一つのまったく別な想像を組み立てることができたのです。

伊志田さんにしろ、一郎君にしろ、どうしてそこへ気がつかなかったかと不思議に思うほどですよ。至極簡単な事柄です。恋愛なのです。綾子さんはあの職工の息子と秘かに恋におちいっていたのではないかと気づいたのです。

そこで、僕は病院のベッドから指図をして、懇意な青年を死んだ荒川の友だちらしく装わせ、ついこの裏の荒川の家を訪問させたのですよ。そして、母親をうまくくどき落として、荒川の大切にしていた日記帳を手に入れたのです。

その日記帳には、綾子さんとのひそかな恋愛の顛末てんまつが細々としたためてありました。なぜ母親がその日記の記事に気づかなかったかといいますとね、それは全文ローマ字で書いてあったからですよ。

塔の三階から荒川の家の窓が見えるのです。綾子さんは恋人と信号をかわしていたにすぎないのです。荒川の方でもやはり、懐中電燈でそれに答えていました。ただ恋の言葉を送り合う場合もあったでしょう。又、信号によって荒川を邸内に呼び寄せる場合もあったでしょう。荒川が変死をとげたのは、その後の方の場合だったのです。

綾子さんが、なぜそんな不自由なまねをしていたか。それは相手がわるかったのです。相手が職工の息子で、しかも文学青年というのでは、頑固な伊志田さんが、許すはずはありません。二人は最初から親の許しを受けることは諦あきらめていたのです。それに、綾子さんにしては、物語にあるような古塔の上から、胸おどらせながら秘密の通信を取りかわすという冒険的な恋愛に、人知れぬ喜びを味わっていたことでしょう。

ですから、荒川青年を撃ったのは、むろん綾子さんではありません。あの夜、小林が見たという塔の窓の白い人影も、綾子さんではなくて、犯人がそういう服装をして待ち構えていたのでしょう。荒川を信号でそこへ呼び寄せたのも、おそらく真犯人の仕業ですよ。

犯人は一応綾子さんに嫌疑をかけることに成功したものの、いつ綾子さんが、ほんとのことをしゃべらないとも限らぬ。殺人犯人と疑われるよりは、いくら恥かしくても、恋愛を打ちあける方がましですからね。犯人はそれを恐れたのです。

そこで綾子さんを家出させ、行方不明にしてしまうことを考えついた。しかし、綾子さんを隠してしまっても、相手の荒川が生きていては、あの青年の口から秘密がばれないとも限らないので、先ず、荒川をおびき寄せて殺害した上、綾子さんを地下室へ監禁しておいて、綾子さんの替玉を作り、変装用の古着を買わせたり、品川駅前の安宿に泊まらせたり、いろいろな証拠を残して、品川駅前から汽車に乗って遠くへ逃亡したように見せかけたのです。

一方庭に残された荒川の死体は、この事件の怪奇性を一そう深める役にも立ったわけです。まったく見知らぬ男が夜のあいだに死体になって邸内に倒れているなんて、実に申し分のない煽情せんじょう的な光景ですからね」

明智はそこでちょっと言葉を切ると、北森氏は感に堪えたように口をはさんだ。

「なるほど、そうだったのか。そう聞いてみれば、よく筋道が立っていますね。恋愛問題とは、誰も気がつかなかった。われわれは怪談ばかりに気をとられて、色っぽい方のことはすっかり忘れていたのですね。

しかも、その発見の手掛りが、たった一冊のローマ字の日記帳だったとは面白い。あなたそれをお持ちですか。あとでゆっくり拝見したいものですね」

北森氏は思わず笑い声を立てたが、すぐ思いなおしたようにまじめな顔になって、もっとも重要な点に触れて行った。

「それで、綾子さんが犯人でないことはよくわかったのですが、すると真犯人はいったい何者でしょう。僕はなんだか、いよいよ迷路の中に追い込まれたような気がするんだが、明智君、君はこの点についても、何かわれわれの知らない材料を握っているんじゃありませんか」

すると、明智小五郎は、モジャモジャの頭の毛を指でかきまわしながら、ニッコリ笑って答えた。

「お察しの通りです。僕は実に非常な材料を握っているのです。病院のベッドの中でそれを手に入れたのです」

「えっ、ベッドの中?」

北森氏も一郎青年も、びっくりしたように明智の顔を見つめた。

「ええ、ベッドの中で、それを手に入れる手段を思いついたのです。そして、ある腹心のものを使って、うまくその貴重な材料を掴つかむことができました。

犯人が僕を撃って重傷を負わせたのは、一時僕をこのうちから遠ざけるためでした。そして、僕のいないあいだに、彼の計画を完了するためでした。ところが、それがかえって僕には仕合わせだったのです。病院で静かに寝ていたからこそ、その貴重な資料に気がついたのですからね。

もし僕が無事で、このうちに見張りをつづけていたら、或いは伊志田さんや綾子さんが穴蔵の中へ監禁されるようなことはなくてすんだかもしれませんが、その代りにあの重大な資料は手に入れることができなかったでしょう。そして、真犯人は永久に発見し得なかったかもしれません。その資料というのは、それほど決定的な証拠物件なのです」

「すると、つまり、君は真犯人はもう発見したと言われるのですか」

北森氏が聞き捨てにならぬという面持ちで詰めよった。

「そうです。僕は真犯人をつきとめたのです」

明智はきっぱり言い切った。

「もしそれがほんとうとすれば、われわれはこんな雑談に時をついやしている場合ではないじゃありませんか。君は、その犯人の居所を知っているのですか」

「むろん知っています。そして、犯人はもう逃亡できないような手配がしてあるのです。少しもご心配には及びません」

北森捜査課長は、真向から一本打ち込まれたような気がして、思わず顔を赤らめた。

「では、すぐ部下をやって、逮捕しましょう。さあ案内してください。犯人は一体どこに潜伏しているのです。そしてそいつは何者です」

やっきとなる北森氏を制して、明智は静かに答えた。

「どこへも行く必要はありません、その犯人はこの家の中にいるのです」

暗黒星

「えっ、犯人がここにいる? それに、君はどうしてそんなに落ちついているのです。一体そいつは何者です?」

北森捜査課長は、もどかしげに、明智の顔を見つめた。

「しばらくお待ちください。その犯人を指摘する前に、少し説明しなければならない点があるのです。今すぐ犯人の名を言っても、皆さんはおそらく信じられないだろうと思うからです」

名探偵は例の落ちつき払った調子で語りはじめた。

「犯人が伊志田一家の全滅を企てていたことは、これまでの事件の経過によって明らかです。しかし、よく考えてみると、犯人はまだその計画の半分もなしとげていない。ご主人の伊志田氏と綾子さんとは、今一歩という危うい場合を救い出すことができたのですし、一郎君は、度々危害を加えられたけれど、幸いにその都度命拾いをしている。ですから、犯人が完全にその目的を果たしたのは、夫人の君代さんと、小さい鞠子さんと、ただ二人であったということになります。

しかし、二人にもせよ犠牲者を出したことは、最初からこの事件に関係している僕としては、実に申しわけないことで、この点は依頼者の一郎君にも、深くお詫わびしなければなりません。君代さんの場合は、まったく僕の手落ちといってもいい。僕がここに泊まり込んでいて、あんなことが起こったのですからね。その時、僕自身も犯人のピストルによって重傷を負ったというくらいでは、申しわけにならないことはよく知っています。

また鞠子さんの場合も、たとえ僕の入院中の出来事であったとはいえ、適当な手配をしておけば、未然に防ぎ得たかもしれないのです。これについても、僕は充分責任を感じています。

そういう手落ちがあったのですから、僕としては、その申しわけのためにも、是が非でも犯人を捕えなければならない。そうして二人の犠牲者の霊にお詫びをしなければならないと、病院にいても、ただそればかりを考えていた。そして、とうとうこの地獄の謎なぞを解く鍵を発見したのです」

聞き手は、この長い前置きをもどかしく思った。犯人は誰か。今どこにいるのか。それを早く聞きたいと思った。だが、明智は、犯人はもう監視を受けているという安心のためか、それとも何かほかに事情があったのか、結論はあと廻まわしにして、先ず彼の推理の経過を語るのであった。

「今度の事件をよく考えてみると、同じ伊志田家の家族中でも、犯人の襲撃のしかたがまちまちであったことに気づきます。もっとも際立っているのは、一郎君のお祖母ばあさんだ。あの方はまったく一度も害をこうむっていない。非常なお年よりだから、犯人が問題にしなかったのかもしれないが、まるであの方だけ家族の一員でないかのような取扱いを受けている。

一方、これとは逆に、もっともしばしば犯人に狙ねらわれたのは一郎君、君だ。まっ先に短刀で刺されたのも君だし、その後も、麻酔剤を嗅かがされて一と晩じゅう物置き部屋にころがっていたり、そうかと思うと、ゆうべは古井戸の底に投げ込まれていた。そのほか、君の写真の眼から血が流れたり、犯人から電話がかかってきたり、犯人はいつも君をもっとも憎んでいるように見えた。綾子さんは、恐ろしい嫌疑をかけられ、この事件では重要な役目を勤めているのだけれど、ほんとうに殺人鬼に襲われたのは、今度がはじめてなんだからね。

だが、君は幸運にも、死をまぬがれることができた。いや、君は幸運だったというよりも、犯人の方が不手際だった。例えば君に麻酔薬を嗅がせて、一晩空き部屋へほうり込んでおくというようなやり方は、僕にはまったく理解できないことだ。そのひまに、君の命を奪おうと思えば、いつだって目的をとげることができたはずだからね。

犯人は君をおもちゃにしていたのだろうか。一と思いに殺すのはもったいないので、何度でもひどい目にあわせてやれというつもりだったのだろうか」

明智はそこで口を切って、じっと一郎青年の顔を見つめた。一郎は無表情な顔で、別に言葉をはさもうとはしなかった。

「探偵という仕事は、どんなに不可能に見えることでも、一応疑ってみなければならない。僕はこの犯人の変なやり口に興味を感じた。それを底まで研究してみようと思った。

僕はかつて、アメリカのある非常に聡明そうめいな殺人犯人の話を読んだことがある。その犯人は嫌疑をまぬがれるために、自分自身をピストルで撃って、重傷を負ったのだ。そして、ある名探偵に、みずから進んで事件の捜査を依頼した。つまり彼は逆手を打ったのだ。危険のまっ唯中に身をさらすことが、かえって安全だという論理を知っていたのだ。そして、名探偵に対して知恵くらべを挑んだのだ。ある種の性格にとって、こういう知識的なスリルは、何にもまして魅力があるものだからね。

で、そのアメリカの犯罪事件では、さすがの名探偵も、永いあいだ犯人の捨て身の戦法に欺あざむかれていたのだが、しかし、結局勝負はついた。犯罪者が法律に勝つなんてことはあり得ないのだ。その探偵は、幾人かの生命を犠牲にしたが、最後には真犯人を捕えたのだよ」

「ちょっと待ってください。それはどういう意味なのですか。その聡明な犯人というのは、外形上、今度の僕の立場となんだか似ているようですが……先生に最初事件をお願いしたのも僕なんだし……」

一郎青年はびっくりしたような顔をして、探偵を見つめた。

「外形ばかりじゃない。実質的にも似ているんだよ」

「えっ、それじゃ……ハハハハハ、何をおっしゃるのです。こんな際につまらない冗談はよしてください」

一郎はとうとう腹を立てたらしく、烈しい口調で言った。だが、明智は別に失言を取消すでもなく、また妙な譬たとえ話をはじめた。

「どこかの天文学者が、暗黒星という天体を想像したことがある。星というものは必ず自分で発光するか、他の天体の光を反射するかして、明かるく光っているものだが、暗黒星というのは、まったく光のない星なんだ。宇宙にはそういう眼に見えない小さな星があって、それが或る場合に地球に接近してくるというのだ。接近するばかりじゃない、非常に小さい星なので、地球の引力に負けて、衝突することもあり得るというのだ。

これは怖い話だ。すぐそばまで近づいていても、まったく眼に見えない星、夜、空を見ていて、そういう星を考えるとゾーッとすることがある。小さいと言っても、やはり独立の星なんだから、地球に接近すれば、空全体を蔽おおってしまうほどの体積を持っているに違いない。

僕は今度の事件を考えていて、ふとその暗黒星の話を思い出した。今度の犯人は、つい眼の前にいるようで、正体が掴つかめない。まったく光を持たない星、いわば邪悪の星だね。だから、僕は心のうちで、この事件の犯人を、暗黒星と名づけていたのだよ」

「で、その暗黒星は何者だとおっしゃるのですか」

明智のもどかしい話し方を、我慢ができないというように、一郎青年がどなった。美しい顔が腹立たしそうにパッと赤らんでいた。

「君が考えている通りさ」

「えっ、僕が考えている?」

「ウン、君が一ばんよく知っていると思うんだ。君自身のことだからね」

「えっ、それじゃ。やっぱり先生は、僕が犯人だと……」

「何か異議があるのかい」

明智は少しも声の調子を変えないで言った。

論争

「ハハハハハ、何をおっしゃるのです。もしそれが冗談でないとしたら、先生はきょうはどうかなすっているのですよ。まだからだのぐあいがよくないのじゃありませんか。そんなつまらない邪推なんか、弁解するのもばかばかしいくらいです。

僕が真実の父や姉を殺そうとしたとおっしゃるのですか。真実の妹を殺したとおっしゃるのですか。母はほんとうの母じゃありませんでしたが、あのやさしいお母さんに、なんの恨みがありましょう。僕は気ちがいでもない限り、そんな無意味な殺人罪など犯す道理がないじゃありませんか。それとも、先生は僕を殺人狂だとでもおっしゃるのですか。

また、たとえ僕に殺人の動機があったとしてもです。現実の反証がいくらだってあります。先生はもうお忘れになったのですか。最初僕がやられた時、先生は電話で、あいつと僕との格闘の音をお聞きになったじゃありませんか。そして、駈かけつけてくだすって、僕を介抱していてくださる時に、犯人はカーテンのうしろに隠れていて、先生の眼の前を逃げ出して行ったじゃありませんか。あの時僕と真犯人とは同時に先生の前にいたのです。僕が犯人だとすれば分身の魔法でも使わない限り、そういうことは起こり得ないじゃありませんか。

犯人が庭の塀の上を歩いた時だってそうです。僕は皆と一緒に鞠子の部屋の窓からそれを見ていたのです。そのことは書生にお聞きくだされば、はっきりわかるはずです」

一郎は明智の疑いを一挙に粉砕してみせた。彼の論拠はことごとく動かすことのできないものばかりのように見えた。

「電話の声なんか、少しお芝居気があれば、どんなまねだってできる。それは問題ではないが、君のいうように、君と犯人とが同時に人の前に現われたことが幾度かある。この見事なトリックが、最初のあいだ、僕をだましていたのだ。

君は実に用意周到だったね。みずから傷ついてみせ、みずから井戸の底に落ちこんでみせ、その上、君自身が僕に犯人捜査を依頼するというトリックだけではまだ危ないと思ったのだ。そこで君は、君と一緒にあの覆面の怪物を現わしてみせたのだ。むろんあれは君の替玉だった。実際の犯行の場合には、君があの覆面をつけ、インバネスを着たのだが、犯人はこの通りほかにいるという証拠を作るために、二度ばかり替玉を使った。覆面と外套がいとうで顔もからだも隠しているのだから、この替玉は少しの疑いも受けることはなかった」

「ハハハハハ、替玉ですって? うまい考えですね。僕は一体どこから、そんな替玉を雇ってくることができたのです。先生があくまでそれを主張されるのでしたら、一つその替玉に使われた男を、ここへ連れてきて、見せていただきたいものですね」

一郎青年は少しもひるまず抗弁した。

「残念ながらその男を連れてくることはできない。なぜといって、その替玉の人物も君が殺してしまったからだ。実に君の注意は隅から隅まで行き届いていた。替玉に使われた男というのは、綾子さんの恋人の荒川庄太郎なのだ。

君は荒川と綾子さんの秘密を知って、これを二重に利用しようと計画した。一方では綾子さんの恋愛のための異様な挙動を、綾子さんが犯人であるために、そういうそぶりをするのだと、人々に思い込ませ、一方では荒川を脅迫して、君の替玉を勤めさせた。

荒川は殺人事件のことは知っていたに違いない。しかし、まさか君が犯人だとは気づかなかった。気の毒な被害者だと信じていた。だから、君が二人の関係をお父さんに告げるといって脅迫すれば、ただ恋人綾子さんにことなかれと願う心から、前後の考えもなく、妙な役目を引き受けたに違いない。むしろ犯人の替玉だなどとは、少しも知らなかったのだ。

これは僕の想像ではない。例のローマ字の日記帳が教えてくれたのだ。ほんの一行か二行の簡単な記事から、僕は一切の事情を悟ったのだ。あれほど用意周到の君が、荒川青年の秘密の日記帳に気がつかないなんて、千慮の一失というべきだね。

そして、君はその荒川をなんの躊躇ちゅうちょもなく撃ち殺してしまった。あの時小林君が見た、塔の窓の白い姿は、むろん君だった。君が綾子さんに変装していたのだ。なぜ荒川を殺さねばならなかったのか。ここにも二重の意味があった。一つは綾子さんの塔の上からの信号を、いつまでも犯罪の合図であったと見せかけておく必要からだ。信号の真の意味が荒川の口から漏れては、すべての計画がだめになってしまうのだからね。もう一つは、いうまでもなく、君の替玉に使ったことを口外させないためだ。

そして、君は綾子さんが殺害したかの如く装い、綾子さんを秘密の地下室へ監禁しておいて、君自身姉さんに化けて家出をしてみせたのだ。君はからだも華奢きゃしゃだし、女のように美しい顔をしている。カツラをかぶって女装をすれば、夜の人眼を欺あざむくぐらい、さしてむずかしいことではない。

君はその女装で、なるべく人の注意を惹ひくようにして、品川駅前の旅館に泊まり、そのまま裏口から逃げ出して、大急ぎでここへ帰ってきた。そして、あの物置き部屋にはいって、誰かが見つけてくれるまで、無意識をよそおってころがっていたのだ。麻酔剤のために前後不覚に眠っていたといえば、充分アリバイが成り立つわけだからね。

君はお母さんと鞠子さんの命を奪ったばかりではない。なんの恨みもない荒川を殺した。この僕に重傷を負わせたのも、むろん君だ。君は僕を殺す意志はなかった。好敵手の命を絶っては、折角のスリルがなくなってしまうからね。ただ重傷を負わせて数日のあいだ、僕をこの家から遠ざけさえすればよかったのだ。そのあいだに一切の計画を完了して、僕が病院を出るのを待って、ざまを見ろとあざ笑うつもりだったのだ。

だから、君は絶えず病院を訪ねて、僕の心のうちを探ろうとした。いや、そればかりではない。綾子さんに嫌疑をかけるための、巧みな推理を組み立てて、僕に同意させようとさえした。あの綾子さんと鞠子さんの部屋の境の壁にしかけてあったピストル装置も、むろん君の仕業だ。二人の留守の折に、どちらかの部屋へはいって、あの仕掛けをするのは、わけのないことだからね。そして、君自身仕掛けておいた装置を、さも手柄らしく発見してみせたのだ。

僕は、あの時、君の推理を聞いているあいだに、はじめて君を疑う心が起こった。それまでは、君の美貌びぼうにあざむかれて、こんな若い美しい青年に、人殺しができるなどとは夢にも考えなかったのだ。あの時まで、僕は心から君の友だちだった。しかし、君のまことしやかな推理を聞いて以来、僕は君の敵になった。君を犯人と仮想してあらゆる関係を考察した。そして、君こそ犯人だという結論に達したのだ。

そこで、僕はちょっとしたトリックを用いて、君を油断させた。きのう君が病院へ電話をかけてきた時、僕はあす退院するといった。それまではどうしても君のうちへ行くことはできないから、充分気をつけて身を守るようにといった。そういって君を油断させておいて、一日早く、きょう僕はここへやってきた。君はそれをまったく予期していなかった。あすまでは大丈夫だと、たかをくくっていたのだ。

僕はここへ着くとすぐ、書生が君のところへ運ぶ紅茶の中へ、多量の眠り薬をまぜて、しばらく君を眠らせておいた。君が地下室の発見されたことを気づいて、逃げ出すようなことがあってはいけないからだ」

その時、突然、ドアにノックの音がして書生が名刺を持ってはいってきたので、明智は話を中絶して、それを見なければならなかった。明智への来客らしく、彼は書生に「ちょっと待たせておいてくれたまえ」と答えて、追い出すように部屋を去らせた。

すると、相手の言葉の途切れるのを待ち構えていた一郎が、その機をとらえて、恐ろしい勢いで抗弁をはじめた。

「面白いお考えです。小説としては実に面白いと思います。しかし、確証が一つもないじゃありませんか。ローマ字の日記帳とやらをのぞいては、ことごとくあなたの空想にすぎないじゃありませんか。また、その日記帳にしても、それを書いた男は、文学青年なのですからね。文学青年の頭には現実と空想のけじめがないのです。そこに何が書いてあったにしても、そんなものは、取るに足らぬ幻想です。なんの確実性もないのです。

それに、あなたは先ほど僕の言った、もう一つの重大な点に、まだ少しも触れないじゃありませんか。それは動機です。狂人でもない僕が、なぜ真実の父や姉を殺そうとし、真実の妹を殺害しなければならなかったかという、その理由です。動機がまったく不可能とすれば、そのほかの点がいかにまことしやかに説明されても、そんなものは一顧の価値もありません。僕には殺人の動機がまったく欠けているのです。絶対に不可能なのです」

「それが君の最後の城郭だね。そういう言い抜けの道があればこそ、君はさっきから、少しも不安を感じなかったのだ。お父さんや綾子さんが救い出されたのを見ても、平然としてこの捜査会議の席に列することができたのだ。

しかし、一郎君、僕が動機を確かめないで、こんなことを言い出すと思うかね。僕はそれほどぼんくらではないつもりだ」

「では、この僕が、あの可愛い血を分けた妹を、殺したとおっしゃるのですか」

「ところが、君は鞠子さんの兄ではないのだ。伊志田さんの子でもなければ、綾子さんの弟でもないのだ」

明智は実に驚くべき言葉を、ズバリと言ってのけた。

執念の子

「えっ、なんですって? あなたはいったい、正気でそんなことをおっしゃるのですか。僕が伊志田の子でないなんて、もしそうだとすれば、父がそれを知っているはずです。姉がそれを知っているはずです。あなたは父や姉にそれを確かめてごらんになったのですか」

一郎は憤怒に青ざめて、声を震わせて叫んだ。

「いや、お父さんや綾子さんは、そのことを少しもご存知ないのだ」

「えっ、父が知らないんですって。ハハハハハ、僕が父の子でないことを、父自身が知らないのですって? ハハハハハ、これはおかしい。いったいそんなことが世の中にあるもんでしょうか」

「それでは、いま君に確かな証拠を見せて上げよう」

明智はツカツカと立って行って、ドアをひらき、廊下に居合わせた一人の書生に、別室に待たせてあったさっきの客を、ここへ連れてくるようにと命じた。

しばらくすると、書生に案内されて、三十四、五歳の背広を着た会社員風の男が、彼より十歳ほど年上の質素な身なりをした女を伴って、はいってきた。

「これは僕の手伝いをしていてくれる越野こしの君です。こちらの婦人は今から二十年以前、区内の近藤産科病院の看護婦を勤めていた宮本せい子さんです」

明智は一同に両人を引き合わせた。読者はかつて明智が、病院のベッドの上で、捜査の端緒を掴つかんだといって狂喜したことを記憶されるであろう。その時、看護婦に電話をかけさせて、病院へ呼びよせたのが、今ここにいる越野であった。

「僕はこの越野君に重大な資料の収集を依頼したのですが、越野君は実に申し分なくやってくれました。

越野君は、先ず伊志田一郎がどこで産れたかを調べたのですが、それは簡単にわかりました。伊志田鉄造氏の前夫人は、区内の近藤産科病院に入院して、一郎を産んだのです。いや、一郎ではなくて、今はどこにいるとも知れぬ、夫人のほんとうの子を産んだのです。という意味は、やはり同じ病院で、三日ばかり前に産れた別の赤ん坊と、伊志田夫人の赤ん坊とが、秘かに取り替えられたのです。その不正の手先をはたらいたのが、ここにいる宮本さんでした。越野君は、この宮本さんを、ずいぶん骨を折って探し出してくれたのです。

僕は宮本さんに、詳しく当時の様子を聞いているのですが、僕の言葉がでたらめでないことを証するために、宮本さん自身の口から、簡単にそれを話してもらうことにします。

宮本さん、あなたは後に伊志田一郎という名をつけられた赤ちゃんを知っているでしょうね。その赤ちゃんは、ほんとうは誰の子だったのですか」

宮本せい子は、ドアの前に小腰をかがめて、おずおずしながら答えた。

「わたくし、ほんとうに申しわけないことをいたしました。今ではどんなにか後悔いたしておりますが、そのころはまだ、はたちを越したばかりの世間知らずで、ついお金に眼がくれまして……」

「で、その、あんたに頼んだ人というのは?」

「はい、瀬下せじも……瀬下良一とかいうかたでございました。ちょうどそのかたの奥さんが、同じ病院でお産をなさいまして、その赤ちゃんを伊志田さんの奥さんの赤ちゃんと、こっそり取りかえてくれたら、これこれのお礼をするからとおっしゃって、莫大な金を見せられたものですから、つい魔がさしまして……」

宮本せい子がそこまでしゃべった時、恐ろしい叫び声が部屋じゅうに響きわたった。

「もういい。わかった。わかった。もうたくさんだ。その先は僕が言う。僕に言わしてください。僕は親の意思を半分しか果たせなかった。だが、やれるだけやったのだ……そして負けたのだ」

一郎青年が見るも無残な形相で、ベッドの前に立ちはだかっていた。

「僕は明智小五郎をみくびっていた。青二才のくせに天下の名探偵を軽蔑したのが間違いだった。この秘密だけは絶対に漏れるはずはないと安心しきっていた。それを明智さんは、すっかり調べ上げてしまった。僕は負けたんだ。もう隠しだてなんかしない。最初から命は投げ出しているんだ。完全に目的を果たさなかったのは残念だが、全力を尽して負けたんだから、地獄にいる僕の父も許してくれるだろう。

皆さん、僕は悪魔の子なんだ。復讐ふくしゅうの一念に凝りかたまった悪魔の子なんだ。瀬下良一というのは僕のほんとうの父です。僕はその父の呪のろいの血を受けて、復讐の器械としてこの世に生れてきた人外の生きものです。

父は命がけで愛していた恋人を伊志田鉄造のために奪われた。その恋人というのが、僕の前の母、伊志田の先夫人です。

父は恋人を奪われたばかりではない。商売敵の伊志田氏のために、事業を奪われ、財産を奪われ、ついに人の軒下に立つ乞食にまで零落してしまった。

父はその乞食姿で、恨み重なる伊志田家の門前に立たなければならなかった。かたきの憐あわれみを乞うほかに、まったく思案が尽きてしまったのです。その可哀そうな父を、伊志田は虫けらのように取り扱った。父の昔の恋人の前で侮辱の限りを尽した。

父は伊志田家の門前で自殺をするか、復讐の鬼となるか、二つに一つを選ばなければならなかったのです。そして、くやしさの歯ぎしりで、口を血だらけにしながら、復讐の鬼となることを誓ったのです。

ただ相手を殺すくらいではあきたりない。自分が受けた十層倍も辛い苦しい思いをさせてやらなければ気がすまぬ。そこで父は復讐の資金を得るために、或る手段を採った。その金で家を持ち、妻を娶めとった。その妻となった僕の母はやはり伊志田の悪辣あくらつな搾取に遭って、家を亡ぼした人の娘だった。父はそういう娘を探し出して娶ったのだ。そして二人の呪いを一つにして、私という執念の子を産んだのだ。

父は絶えず伊志田家の動静を探っていたから、伊志田夫人が妊娠したということも、すぐにわかった。ところが、不思議なことに、ちょうど同じ時、僕の母も僕を身ごもっていた。その偶然の一致が、父に悪魔の計略を授けた。伊志田夫人の入院した病院へ私の母も入院した。そして、父は泥棒した金で、一人の看護婦を買収したのだ。人知れず赤ん坊のすり替えが行なわれたのだ。

僕は伊志田家で育ったが、僕の父と、父が探し出してきた悪魔の申し子のような小娘とによって、絶えず秘かに、復讐の教育を受けていた。父はその小娘を、手を廻まわして、伊志田家の女中に住み込ませた。僕とその女中とはすぐ仲よしになった。そして、小娘は毎日のように僕を遊ばせにつれ出して、ある場所で、僕のほんとうの父に会わせていた。僕は父から、僕の使命を聞かされ、あらゆる悪魔の知恵を授かった。

そうして、僕は大きくなったのだ。学校へ通うようになると、その往き帰りには必ず或る場所で父に会った。僕は父が気の毒だった。父のためならどんなことをしてもいいと思った。その父は、今から五年前になくなったが、臨終の床で、血を吐きながら僕の手をくだけるほど握りしめて、復讐ふくしゅうの誓いを立てさせた。その時、父の執念が、そのまま僕に乗り移ってしまったのだ。

僕はそれからの五年間、今度の復讐の計画を立てるために、夜の眼も寝ないで考えた。考えに考え抜いた計画だった。

だが、僕は自分の年齢を忘れていた。いくら考え抜いても、子供の知恵は子供の知恵にすぎないことを忘れていた。明智探偵に挑戦するなんて、身のほどを知らぬ虚栄心だった。そして、負けたのだ。見事に負けたのだ。

もう逃げたって、逃げおおせないことはよく知っている。父の分と一緒に、お仕置を受けるまでだ。そして、早く地獄へ行って、父の顔が見たいばかりだ……」

一郎は血走った眼で狂気のように叫びつづけたが、そこで言葉が途切れたかと思うと、ガバとベッドの上に身を投げて、はげしく泣き出した。まるで、四、五歳の幼児のように、ワーワーと声を立てて止めどもなく泣きつづけた。

「僕はすっかり面くらってしまった。明智さん、君の明察にも驚きましたが、この青年の告白には一そう面くらいました。

永い警察生活のあいだにも、珍しい例です。人間がこういう心持になるというのは、僕らにはほとんど理解の及ばないところですね」

北森捜査課長は、あきれ果てたという様子で、明智の顔を眺めた。

「われわれの知っている人間とはまったく別物のようですね。さっき自分でも言っていた通り、この青年は執念の子に違いありません。親子二代にまたがる邪念の結晶です」

さすがの明智小五郎も、言うすべを知らぬかのように、憮然ぶぜんとして腕をこまぬくのであった。

底本 / Source edition

底本:「暗黒星」角川ホラー文庫、角川書店
1994(平成6)年4月10日改訂初版発行
底本の親本:「暗黒星」角川文庫、角川書店
1975(昭和50)年11月
初出:「講談倶楽部」
1939(昭和14)年1月号~12月号
入力:入江幹夫
校正:大久保ゆう
2022年9月26日作成
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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江戸川 乱歩「暗黒星」(新字新仮名)、底本『暗黒星』角川ホラー文庫、角川書店、1994年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 058333_001779, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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